ロールシャッハテストB

since2006/6/17

心斎橋ストラット 第十三話

(1992/12/18)
 白昼の逃走劇はあっけなく閉幕し雑居ビル周辺に野次馬とパトカーが集まる。
 老朽化した非常階段から刑事に挟まれ降りてきた売人をざわめきが包みこむ。
 頭髪は格闘の痕跡を留めぼさぼさに乱れ、吐寫物で汚れたジャージからふんぷんたる悪臭匂い立つ売人は、脱げかけのスニーカーでカンカンと錆びた鉄板を叩き、ふてくされた顔つきで喧騒渦巻く地上に降り立つ。
 逮捕の瞬間に居合わせた人々が躁的に私語を叩き現場は騒然とする。
 「何?事件?」
 「俺見たで、戎橋からこっちずっと追いかけっこしとった」
 「何したんあの人」
 「だれか死んだん?」
 「クスリの売人やて。女子高生ひっかけて路地に連れ込んだとこ捕まったらしいで」
 「なーんや、しょぼいの」
 「なになに、どないしたん?」
 「路地に女の子連れ込んで悪戯しようとしたんやて」
 「うわ最低!男のクズ!逝ってよし!」
 たまたま通りかかった老若男女が手錠をかけられた売人に珍獣でも見るかのような眼差しを送り、虚実入り混じる興味本位な憶測がかまびすしく飛び交う。
 ぎらつく好奇心剥き出しに身を乗り出す野次馬に売人が殺気だつ。
 「なにガンつけとんじゃこら、見せもんちゃうで、いてもうたるど!」
 姿を晒すと同時に唾とばし毒づけば、最前列の聴衆がびくりと仰け反る。
 過敏な反応に溜飲をさげ、怯えた顔でこちらを窺う人々にさらに嵩に来た悪態を吐こうとした売人の頭に平手が振り下ろされる。
 「こっちの台詞じゃ」
 ぱぁんと乾いた音が天に抜ける。
 「やっぱ中身が詰まってへんとええ音するなあ」
 後頭部をはたくついでに背中に浴びせ掛けられた哄笑に怒気が膨らむ。
 敵愾心あらわに振り返りしな凍り付く。
 背後で上背のある男が呵呵大笑しているが、骨の髄まで叩き込まれた恐怖が反撃を思いとどまらせる。
 「やりすぎやで、剣菱」
 地黒の顔に皺深い年輪を刻んだ鹿島がため息まじりに諌めるも、本人に反省の色は微塵もない。
 難波署生活安全課少年事件係所属、階級は巡査部長。
 貫禄ある三十路男の名は剣菱保。
 骨太で荒削りな風貌、殺伐たる奥二重の双眸。
 全身から放たれる天衝く闘気は鋭い爪と牙もつ猛獣に似ている。
 難波署少年課きっての暴力刑事と悪名轟かせる剣菱に、入署以来十数年の付き合いにおよび、彼に手綱をかけられる唯一の人物と目される最年長の鹿島がやんわり口を挟む。
 「あんまやりすぎると上がうるさいしほどほどにしとけよ。始末書と徹夜で格闘するのは嫌やろお前かて」
 「加減は心得てますよ」
 剣菱がかったるげに肩を回す。
 「さてな」
 処置なしと肩を竦め煙草に火をつける。
 のんびり煙草をふかす鹿島の前を売人が引っ張られていく。
 誰彼構わず悪態をつき、刑事の手を振り払おうともがき、見苦しい抵抗を示して醜態をさらす被疑者に同情の目を向ける。
 往生際が悪い。もうちょっと殊勝らしくしてれば可愛げがあるもんを。
 パトカーに押し込まれる時にまた一騒動持ち上がる。
 暴れ出した売人にやれやれと重たい腰を上げ剣菱がパトカーに近付く。
 売人はパトカーに押し込まれる間際でスニーカーの底が抜けるほど踏ん張り、ドアに手をついて必死に抗う。
 「ちょい待てや、なんで俺がしょっぴかれなあかんねん、冗談ちゃうわ!権力の横暴やで、市民権の剥奪や!」
 ドラマで聞きかじった台詞をここぞと並べ立て抗議する売人に衆目が集まる。
 焦燥に顔を歪めた売人は二人がかりでパトカーの後部席に押し込まれそうになりながら、髪振り乱しドアにしがみつき金切り声で喚き散らす。
 「一体俺がなにしたっちゅーねや、言うてみんかい!警察に連れてかれるよな事なんもしてへんで、女の子路地裏に連れこんでちょいしゃべっとっただけやろが、なのにむりやりパトカーに詰め込んで……」
 「覚せい剤売ったろ」
 「見間違えじゃ!」
 あくまでシラを切りとおすつもりらしい。
 パトカーのドアをガンガン蹴りまくって罵声を放つ売人の襟ぐりを摘み上げ、ぐるりとひっくり返す。
 至近距離で売人と向き合う。
 底冷えする凄味を孕んだ眼光に射竦められ腰が萎える。
 パトカーに凭れずり落ちた売人の胸ぐらを引っ掴み、正面きって額をつきつける。
 極道な男前がその気で凄めば失禁ものの迫力がある。
 額が触れ合う距離にて対峙した剣菱は、不穏当な陰影がついた顔で膝から震える売人を押さえ込み、低い声で囁く。
 「ネタは割れとんのじゃ」
 咄嗟に逃げ出そうとした売人を上背と膂力を利して組み伏せ、腰に手を這わせポケットをまさぐる。
 ひっくり返す。
 底を剥ぐ。
 男らしく無骨な手が優しさとは縁遠い荒々しさでもって腰を揉む。
 「!なっ…………、」
 売人が狼狽する。
 パトカーと男の間の狭い空間で窮屈げに身をよじり、何とか追及から逃れようと足掻くも非情な眼光がそれを許さない。
 性急な衣擦れの音がちりちりと焦燥を炙る。
 膝と膝がぶつかる。
 肘の先で小突き合う。
 絶体絶命の窮地に追い込まれ売人の息が上擦る。
 「………はな、せや………」
 恥辱に顔を染める売人に膝で詰め寄り、ジャージに包まれた痩せた胸を痛みを伴う荒々しさで擦り上げる。
 ジャージのだぶついた生地越しに伝わる手触りを確かめ、胸板に浮いた肋骨を薄い肉ごと掴み取り、極悪な笑みを吐く。
 「あばらが浮いとる。栄養失調やな」
 「ほっとけ」
 「腕見せてみぃ」
 遠慮をかなぐり捨てた手つきでもって図々しく体をまさぐり、鶏ガラを扱うように腰骨の突起を揉みしだき、衆人環視の中身体検査を実施して安いプライドを容赦なくひん剥く。
 胸と胸が押し合う。
 売人が焦る。
 慌てる。
 動揺が露呈する。
 「べたべたさわんなや気色悪い、おどれホモか。暴力刑事の上にホモなんて救いようないな」
 「さかっとんのはお前やろ、犬みたく息荒げよって」
 負け惜しみの揶揄に嘲笑を吹っかけ、唇の端をニヒルに捲る。
 「ただでさえ不細工な顔が二目と付かんようになるのを哀れんでボディーに入れたったんや、感謝せえ」
 恩着せがましく返し、酷薄な薄笑いさえ浮かべて抉り込むように膝をこじ開ける。
 パトカーを背に押さえこまれた売人がよわよわしく抗うのを鼻で一蹴、ジャージの長袖を掴んで肘まで一気にひん剥く。
 外気に晒された注射痕を見て物思わしげにひとりごつ。
 「当たりか」
 静脈の浮いた腕をがさつく掌で揉む。
 売人が恐怖にわななく。
 剣菱を見る目に紛れもない怯えが走ったのは獲って食われるとでも思ったのかもしれない。
 腱の張った腕を乱暴にしごけば、やすりがけされた皮膚が赤く染まる。
 肘から手首まで入念に摩り下ろし血色を良くし手首を指圧する。
 「尿検査の必要ないな」
 屋上の時と同じだ。
 情けない話、呆然と口半開きにして剣菱の暴挙を眺めているしかない。
 過剰な暴力は人権を踏み躙る行為、止めなければ頭では理解していても痺れたように体が動かない。
 いかに被疑者が反抗的でも暴力はダメだ。
 今井はそう思う。一刑事の信念に照らしみて暴力反対を掲げる。
 しかし目の前で容認すべからぬ暴力行為が行われているのに、いざとなれば指一本動かせず、ぺたりと尻餅付いて始まりから終わりまで見ているだけだった。
 圧倒される。
 格の違いをひしひしと肌で痛感する。
 剣菱はあらゆる意味で規格外の男だ。
 まず体格が大きい。度胸がある。存在感がある。雑魚を薙ぎ払う威風と人を喰らう猛虎の貫禄が予め身に備わっている。
 難波署少年課きっての暴力刑事の風聞は伊達じゃない。
 剣菱は容赦なく苛烈に暴力を振るう。
 相手がヤクザでも未成年でも利害は二の次で暴力を行使する。
 報復など恐れない。市民からの苦情もなんのその。
 今井が被疑者の身の安全を考慮しぐずぐずしてるのとは対照的に、凶器を奪うためなら手段を選ばず骨の一本や二本平気でへし折ってしまう。 
 優柔不断で万事につけくよくよ悩みがちな自分とはあまりにかけ離れた存在故今だに接し方がわからず、こういう状況では忸怩たるものを感じつつも傍観者に徹してしまう。
 「凄い」と「怖い」が同義の剣菱に対しどうしても萎縮してしまう小心な自分を恥じ、これではいけないと最大限の勇気を振り絞る。
 「剣菱さん、それくらいに……」
 「あった」
 剣菱がポケットから手を抜く。
 売人があっと叫ぶ。
 「なんじゃ、これは。おどれのポケットに入っとった白い粉が何か説明してもらおか」
 ポケットから毟り取った覚せい剤で売人の頬を叩く。
 屈辱の往復ビンタに売人が押し黙る。
 剣菱が前かがみになる。
 覚せい剤の袋で売人の頬を叩き、もう片方の手を背広のポケットにひっかけ、下から顔を覗き込む。
 「ここ三ヶ月、ずうっと横這いやった心斎橋界隈での薬物流通量が急に増え出しとる。けったいな話やで。ここらは昭和の昔から榊組の縄張り、せやけど最近は歌舞伎町みたく中国・韓国のマフィアが出入りしてかっちり一枚岩でもなくなっとる。見ぃひん顔やなお前。榊組の舎弟ちゃうな。あそこのもんとは殆ど顔見知りなんじゃ、俺は。どの組織がバックに付いとるか知らんけど榊組のシマに手え出すなんてとんだ命知らずもおったもんじゃ」
 剣菱が彼一流のあくどい笑みを浮かべる。
 邪悪に片頬笑む剣菱に怯んだか、保身の沈黙を守る売人の顔が急激に蒼ざめていく。
 「俺は……俺は、」
 「大人しくついてきたほうが利口やで。榊組にヤキ入れられるより拘置所の檻の中にいたほうがマシやろが」
 覚せい剤の袋を掲げてみせ、うってかわって従順になった売人を回れ右させパトカーに乗せる。
 剣菱の脅しが利いたらしい。
 保身を秤にかけて損得勘定が働き、悄然と肩を落とした売人がパトカーに乗り込むのを待ち、叩き付けるようにドアを閉める。
 「今井!」
 名を呼ばれ振り返れば、同僚の佐伯が小走りに駆けてくるのに出くわす。
 「佐伯さん」
 「ご苦労さん。聞いたで、白昼の決闘イン屋上。どこも怪我ないか」
 「あ、はい、僕はこの通りなんですが……彼の方が」
 責任を感じて語尾が萎む。
 パトカーの向こうをちらりと見やり佐伯が苦笑する。
 「相変わらずやな剣菱は。キレると手が付けられん。さすがは元浪速のサーベルタイガー」
 「サーベルタイガー?」
 きょとんとする今井を手招きしぼそぼそ耳打ち。
 「名字が剣菱さかいサーベルタイガー。やつの大昔の二つ名や、若い頃からやんちゃし放題で知られとったらしいで。工業高校時代の武勇伝数え上げればきりがない。二百人から成る暴走族をたった一人で壊滅させたとか、ヤクザの組事務所に殴り込んで壊滅させたとか、千日前で千人斬りの偉業を成し遂げたとか…その手の噂が引きもきらん」
 「まさか」
 いくらなんでもと笑い飛ばそうとしたが、佐伯の顔つきが真剣なために微妙な半笑いで固まる。
 けれんみたっぷりの口吻に似合いのおどろおどろしい表情であたり憚り声を落とし、今井の肩を引き寄せた佐伯は、剣菱の悪名を確固たるものにした挿話を吹き込む。
 「これ聞けばお前にもやつの凄さがわかる。剣菱はな、前々回の阪神タイガース優勝時に道頓堀にとんでもないもん投げ込んだんや」
 「食い倒れ太郎ですか?」
 前口上につりこまれた今井に佐伯は賢しげに首をふる。
 「前府知事」
 「横山ノック!?」
 「声大きい」
 反射的に口を塞ぐ。
 剣菱に気付かれた節がないのを確認、顔を見合わせ安堵の息を吐く。
 改めて気を取り直し、無知な後輩に心斎橋界隈で語り継がれる伝説を懇々と教え諭す。
 「浪速の剣虎といや関西近郊の不良の間で伝説的存在や。引退して十年以上経っても武勇伝がひとり歩きしとる。お前、剣菱と一緒に歩いとって気付かんかったか?すれちがうヤクザもんがこぞって道の脇に避けて挨拶するやろ、地面に頭突きせん勢いで」
 思い当たる節がある。
 剣菱と二人で出歩くと柄シャツヤクザの舎弟から道端にたむろする学ランの不良に至るまで、ぴしっと背筋を伸ばして敬礼するのだ。
 あの時はただ純粋に「すごいなあ先輩、一目置かれてるんだなあ」と感動したのだが、佐伯の話によると違う意味で恐れられていたらしい。
 佐伯がぽんと今井の背中を叩く。
 「ま、折角コンビ組んどるんやからぎょうさん教えを乞うこっちゃ。お前も少しは剣菱見習うてびしっと決めぃ、そない弱腰やから被疑者に坊ボン扱いされるんやで」
 「びしっ、とですか……」
 これでも頑張ってるつもりなんだけどなあと心の中だけで付け加える。
 なんとはなし剣菱と自分を比較ししみじみ劣等感を噛み締める今井だが、ふと大事な事を思い出し顔を上げる。
 「そういえば佐伯さん、さっきの女の子は?」
 「ああ、あの子か。別のパトにのせて署に連れてく、常習犯らしいし話も聞かな」 
 「様子はどうですか」
 「今は落ち着いてる。顔色は悪いけどな。いきなりこない人相の悪いおっちゃんらに囲まれたらそらびびるやろ」
 佐伯が決まり悪げに頬を掻く。
 「『親にだけは知らせんといてほしい』て泣いて拝まれたけど、そういうわけにもいかんしなあ……自業自得はいえ難儀なもんやでホンマに」
 少女が泣いて縋る愁嘆場が容易に想像でき暗澹と気分が落ち込む。
 少女の背中についた痛々しい手形が瞼の裏に浮かび、胸が痛む。
 「取り調べするか」
 「え?」
 佐伯の言葉に感傷から立ち直る。
 間抜けな顔で返答する今井にあきれつつも、不器用な気遣いを見せてくりかえす。
 「お前が相手ならあの子も警戒せんでしゃべれるやろ。どや、取り調べにあたってみんか。売人の方は俺らにまかしとき」
 「は、はい!」
 急いで返事をし、気負っているのが見え見えで恥ずかしいと赤面する。
 「ま、頑張りなはれ」
 意気込みは十分伝わったらしく佐伯が微笑ましげに目を細める。
 いたたまれない。
 佐伯に一礼して慌しく踵を返す。
 彼女の様子を見に行こう。
 野次馬が群れる周囲を見回す。
 もう一台のパトカーが路傍に停まってる。
 後部座席を見る。
 例の少女が婦警に付き添われ俯いているのが窓に映る。
 大人びていてもまだ子供だ、僕たちがしっかりしなきゃ。
 使命感も新たに現場のざわめきを突っ切ってパトカーに歩きかけた今井の懐で振動が発生。
 懐の振動に素早く反応、勤務中の原則としてマナーモードにした携帯をとりだし相手をチェック。
 途端、なんとも形容しがたい表情が浮かぶ。
 無視しようかとも考えたが携帯はしつこく震え続ける。出ろ出ろと催促されてるようで落ち着かない。同僚がうるさいと咎め立てる視線を向けてくる。
 針のむしろの焦燥に駆られ縋るようにあたりを見回す。
 ああもう、こんな時に!
 だがしかし切る勇気がない。
 無視すればしたで後々面倒な事になる。
 意を決し、震え続ける携帯を手に持ったまま雑踏に紛れ移動する。
 同僚の詮索の目を逃れ路地に退避、通話をオンの状態に切り替える。
 『おせーよ、いつまで待たせんだよ』
 のっけから噴飯ものの台詞が飛び出す。
 思わず携帯を耳から遠のけ顔を顰める。
 路地から通りの様子を窺い用心しいしい耳を近づける。
 「仕事中にかけてこないでくださいっていつも言ってるじゃないですか、先輩」
 『お前が仕事中かどうか何で離れててわかんだよ』
 「多少想像力があればわかりますよ。というか、普通に常識的に考えてくださいよ。平日の真っ昼間に仕事をしてない心身ともに健康な二十三歳以上の国民が何割占めると思ってるんですか、税金はおろか年金も払えない国民失格社会人脱落気味のフリーターとニートは除く」
 『こちとら常識外の少数派だ』
 「ええ、ええ、そうでしょうとも」
 まったく、なんだってこんなに威張ってるんだ。
 非常識な相手に常識を説いた自分が馬鹿だったと反省した今井は、これまでの経験から次の言葉を予想し先手を打つ。
 「お金なら貸しませんよ」
 『金じゃねーよ、今日は』
 「ちがうんですか?」
 肩透かしを食う。てっきりそうとばかり思い込んでいた。第一この人が金の貸し借り以外で携帯にかけてくるなどめったにない。
 半信半疑な今井に携帯越しの人物は弾んだ声で宣言する。
 『喜べ、再就職が決まった!』
 「えっ、おめでとうございます!」
 『前祝いだ。お前も来い』
 むちゃくちゃだ。
 「そんな……突然言われても困りますって、僕にもスケジュールってもんがあるんですから!この後取り調べも控えてるし定時に上がれるかどうかも怪しいのに」
 『冷てーヤツ。色々よくしてやった恩を忘れたのか?』
 「それとこれとは話が別です。先輩には今でも感謝してるけど頻繁に借金申し込みの電話をよこされちゃ困りますって、控えめに言って大迷惑です、公務執行妨害です」
 口元を手で覆い口早に反論する。
 携帯の向こうから険悪な空気が伝わる。通話相手が機嫌を損ね始めている。
 『現場を離れたらそんなもんか。昔あんだけ良くしてやったのにもう俺のことなんてどうでもいいってのかよ。キャリア組は人情薄いって本当だな、どーせ所轄は腰掛けぐらいにしか思ってねーんだろ、血も涙もねえ慶応卒め。覚えてるか今井、お前が入りたての頃万引きで大量補導した中坊集団がお礼参りにきたろ。俺がちょっと煙草買いにいってる隙にお前が拉致られてよー、あんときゃ必死こいて探し回ったぜ。御堂筋を西から東へ、間一髪間に合ったけどあと少し遅れてたら身包み剥がれてロフトのど真ん前に放置プレイ……』
 「わかったわかりました行きますよ!!」
 過去の恥を蒸し返されヤケ気味に吠え立てれば、今井の取り乱しぶりに溜飲をさげた相手が一方的に告げる。
 『六時にいつものファミレスな』
 携帯を切る。脱力する。
 ほとんど会話の体裁をなしていなかった。
 相手は今井の弱みに付け込み一方的に言いたいことだけ言って通話を終えた。
 手の中の携帯を恨めしげに見つめ溜め息をつく。
 「………なんて人だ、本当に……」
 思わず愚痴がついてでる。
 「浅井か」
 「!」
 弾かれたように顔を上げる。
 路地の入り口に剣菱が立ち塞がっていた。
 現場の喧騒を背に仁王立つガタイに気圧され冷や汗をかく。
 「剣菱さん……すいません、勤務中に。すぐ戻りますから」
 「かまへんかまへん。あとは輸送するだけやし、一息いれてもばちあたらんやろ」
 平身低頭する今井に気楽に手を振って路地に分け入る。
 命の恩人かつ憧憬と畏怖の対象とふたりきりになり緊張を覚える。
 そういえばまだ助けてもらったお礼も言ってなかった。
 もう何度目かになる己の失態を悔やみ、携帯を持ったまま礼儀正しく頭を下げる。
 「さっきはありがとうございました。僕がしっかりしてないせいで、ご迷惑おかけしてすいません。被疑者がナイフを抜くのを見過ごしてしまったのは単純に僕のミスです、本当ならあの時点で応援を呼ぶべきだったのに……」
 歯痒げに体の脇で拳を握り込む。
 「つまらんこと気にすな。テンパるのは新人にありがちなこっちゃ。お前がずっと携帯の電源入れっぱなしにしとったおかげで生中継してもろたし、逆に助こうたで」
 ひたすら恐縮する今井を鷹揚にいなし、手の中に一瞥くれる。
 勤務を抜け出してまで今井が電話する相手に思い至り、無骨な顔に苦笑が浮かぶ。
 「相変わらずか、あいつは」 
 「全然変わってませんよ」
 携帯を背広の懐にしまう。
 嘆かわしげに首を振る今井に笑いを堪え懐かしげに目を細める。
 「豹輔とはまだ続いとるんか」
 「まだ続いてますよ、奇跡的に。異性でも同性でも先輩と一ヶ月以上一つ屋根の下で暮らせるなんて快挙ですよ」
 「そら凄い、三日で喧嘩別れするんがオチやて高括っとったのに」
 剣菱の賞賛に今井も不承不承頷く。
 「何とか上手くやってるみたいですよ今のところは。例の面白い名前の…豹輔くんがしっかりしてるんでしょうね。先輩一人じゃ保ちませんよ、正直。あんなだらしない人そうそういませんて。現役時代からちっとも変わってないんだから驚きますよ、部屋なんか散らかし放題でゴミの分別もしてなくて台所ときたらアオカビの天下ですから。人が住める環境じゃない。腐海ですよ、腐海。カップラーメンの残り汁が蒸発して酸の海ができて、王蟲だってそりゃ赤くもなりますよ。炊事洗濯全滅、先輩の生活能力の低さときたら異常です。おまけに職探しに出たその足で競馬場に直行するかパチンコ屋に居座るかして万札スるのが日課なんですから、いまだに独身で彼女の一人も出来ないのが説得力ありすぎです。本人は再就職決まったって自分一人の手柄みたくはしゃいでますけど、きっと豹輔くんに蹴飛ばされるか人間のクズ働けヒモと罵られるかして、いやいや不承不承しかたなくハローワークの行列に並んだんですよ」
 腹立ち紛れにさんざんにこき下ろす今井を向かいから眺めやり、剣菱が背広から煙草をとりだし火をつける。
 「豹輔はしっかりしとるさかいに」
 口ぶりに一抹の感慨がにじむ。
 旧懐の念ともいえるそれが意識にひっかかり、今井は遠慮がちに質問する。
 「豹輔くんとは知り合いなんですよね」
 「古い知り合いや。あいつが小坊の頃から知っとる。かれこれ十年近くになるな」
 腰のあたりで手を水平に行き来させる。豹輔の背丈がそれ位の頃からの付き合いだと言いたいらしい。
 「小学生の頃から……長いですね。そんな小さい頃からしっかりしてたんですか」
 「しっかりしすぎて逆に心配やったけどな」
 剣菱が複雑そうに笑う。
 自覚はないが豹輔について語るとき、難波署きっての暴力刑事と悪名高い男の口ぶりはしみじみと柔らかくなり、横顔の険も若干とれる。
 日頃非情さの陰に隠れた面倒見のよさが表面化し、落差の上澄みがやけに新鮮に映る。
 この人でもこんなふうに笑うんだな。
 年の離れた弟の事でも語るような口ぶりに知られざる一面を垣間見る思いがし、今井はほんの好奇心から聞いていた。
 「じゃあ、……心配じゃありませんか」
 「どういうこっちゃ」
 「あんなダメ人間の見本みたいな人と暮らしてたら生活面で多大な悪影響があると思います」
 我知らず拳を握り力説する。
 「先輩と一緒に暮らしてて得する事なんてせいぜいが馬券の買い方を覚える位、しかもそれ生きていく上でないほうがいっそマシな知識ですし、豹輔君がこれ以上先輩の悪影響を受けて道を踏み外す前にどうにかしたいと思いませんか?僕も顔合わせるたび説得してるんだけど全然聞いてくれなくて……豹輔くんも絶対その方がいいと思うんですよ。便利屋だかなんだか知らないけど二人で組んで危険な仕事するより、各々バイト見付けるなり就職するなりして稼いだ方が絶対効率いいじゃないですか。彼みたいに経済観念が発達した少年が先輩の博打三昧に付き合って若き身空で破滅を急ぐのは少年課の刑事として心が痛………ぶ!?」
 熱弁ふるう今井の顔面に紫煙を吹きかける。
 「なにするんですか剣菱さんっ、人が真面目に話してるのにひどいですよっ」
 涙目で咳き込む今井にすまんすまんと詫び、煙草を咥え直すついでにほくそ笑む。 
 「お前、浅井が好きやろ」
 悪戯っぽく茶化す剣菱を軽く睨みつけ、あたりに立ち込める紫煙を手で払い考えあぐねる。
 きっかり三秒後、降参したように肩を落とす。
 「…………嫌いじゃないですよ。不器用な人ですから」
 どちらとも即答できず曖昧に答えを濁す。
 仄白く紫煙たゆとう路地に沈黙が落ちる。
 剣菱も同じ事を考えているのだろうことが乾いた横顔から読み取れる。
 今井は俯く。
 どうにも整理できない感情を持て余し、どうにも割り切れない不条理を苦く苦く反芻する。
 浅井が警察を辞めるきっかけになったあの事件。
 一年近くが経過してもなお三人に禍根を残す、あの―……
 「………行くで」 
 回想を断ち切るように剣菱が身を翻す。
 我に返った今井がそれに続く。
 気まずい雰囲気を引きずったまま路地を出たところで、おもむろに剣菱が口を開く。
 「むしろ安心しとる」
 「?」
 路地の出入り口に立った剣菱は、口に咥えた煙草をはずし、ビルが林立する空の向こうに遠い目を投げ掛ける。
 「豹輔の隣に人が立てるようになったんはタイガース優勝以来の快挙やで」
 大袈裟なたとえに耳を疑う今井をちょいちょいと鉤の字にした指で招き寄せ、あたりを憚る小声で囁く。
 「辰と豹。相性ええやろ」
 「はあ?」
 それを言うなら龍と虎じゃと疑念が根ざすも、賢明にも口に出さず堪えた今井に豪快に笑いかけ、財布から気前よく紙幣をとりだす。
 「再就職祝いじゃ。もっとけ」
 「えっそんな、一万円札なんて受け取れませっ……」
 肉食獣を彷彿とさせる大股でパトカーの方へ歩み去った剣菱を見送り、男気あふるる背中に憧れを抱く今井だが、ふと手中を見下ろし。
 野口英世と対面した。
【心斎橋ストラット】
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