ロールシャッハテストB

since2006/6/17

心斎橋ストラット 第十二話

(1992/12/19)
 心斎橋界隈は風俗の規制がゆるい。
 騒音の渦中にありながら自分の半径1メートル外には無関心にパンツ丸出しで地べたにしゃがみこみ携帯をいじくる女子高生、戎橋の上でナンパに精を出す茶髪に金髪の若者たち。片っ端から女に声をかけては玉砕し道頓堀の藻屑と散る彼らに冥福あれ。
 頭上にはビルの聳える青い空、地上には卑近な喧騒。
 げに世は事もなしとはいかないようだと達観し、今井晃は戎橋の欄干から行き交う雑踏を眺めていた。
 腕時計を見る。
 そろそろ指定された時刻。
 そうと知られないよう平静を装い周囲に鋭く目を配る。
 老若男女で構成される統一性のない人ごみの中に目的の人物を探す。
 ナンパ橋の異名をとる戎橋付近には精力的にナンパをこなす若者の姿が目につく。
 真昼間から学校にも行かず女をひっかけて無為に時間を潰す若者たちに松竹座へ向かう主婦連が姦しく混じり合い、ブルゾンを着込んだうだの上がらない中年男が俯き加減に歩み去る。
 緩慢な人の流れに目を凝らす。
 いた。
 今しも雑踏に紛れ無防備に歩いてくるユニクロのジャージ姿の男。
 橋の真ん中あたりで歩調をゆるめ立ち止まる。
 息を詰め一挙手一投足を観察する。
 全身から漂う不精で怠惰な雰囲気。目が濁って血走っている。頬の肉が削げて不健康な影を作っている。痩せて骨張った体がジャージの中で泳ぐ。
 頭のてっぺんから爪先までざっとさらい情報と照合、背格好の合致から同一人物と特定する。
 ビンゴ。
 間違いない、彼だ。
 電話で告げられた特徴と細部まで一致する。
 悪戯電話じゃなかった。一時間余りに及ぶ張り込みの甲斐ありというものだ。
 無駄働きにならず安堵する一方、これからおこる事を予期し石ころでも呑んだように不安で胃が重くなる。
 ユニクロの出現を確認した今井は、手中の携帯を操作し、車で待機中の同僚に繋ぐ。
 視線は片時もユニクロから外さない。
 ユニクロは眠たげだ。
 さっきからあくびを連発している。
 目が血走っているのは寝不足が原因か?
 だらしない身なり。
 のろくさとした一挙手一投足に退廃的な倦怠感が漂う。
 腑抜けた横顔からは一切の覇気が感じられない。
 しまりのない口元から黄ばんだ歯が覗く。
 廃人一歩手前という荒んだ印象にくたびれたナイキのスニーカーが拍車をかける。
 ひょっとして、彼も薬を?
 ありえる。
 その可能性が高い。
 覚せい剤の売人の九割は自身も薬物を常習していると統計データが出てる。
 となると、目が充血してるのも肌と髪が傷んでいるのも寝不足ばかりが原因とは限らない。
 今井が思考を働かせる間、ユニクロは欄干に肘を付き、太陽を照り返す道頓堀を漫然と眺める。
 完全に背中を向けたタイミングを見計らい、片手に持った携帯を耳に当てる。
 「来ました。たれこみどおりユニクロのジャージを着てます」 
 『でかした。そのまま見張っとれ』
 小声で報告する。携帯越しに指示が返る。
 緊張が強まる。プレッシャーで胃酸が分泌される。
 ユニクロの背中が雑踏に見え隠れする。
 今井は息を詰めそれを見守る。
 ユニクロに接近する人間に細心の注意を払う。
 違う、これも違う。
 次々と候補を挙げては却下。
 ユニクロの半径1メートル内に踏み込んだ人間が歩調をおとさずそのまま歩き去るのを見送り、安堵と落胆を同時に抱く。
 難波署生活安全課少年事件係にタレコミの電話があったのはつい先日。
 相手は名前も明かさず、一方的に覚せい剤取引の日時と場所、売人の外見特徴を告げて切れた。
 奇妙な電話だが一抹の信憑性はあった。
 だから今井は今ここにいる。
 覚せい剤取引の現場を押さえ、売人と客を現行犯逮捕する使命を帯びて、既に一時間余りも人ごみに紛れて張っているのだ。
 どうして僕なんですか?
 一般人に擬態するのはお前がいちばんうまい。
 先輩の答えにがくりと肩の力が抜けた。
 少年事件係の同僚の顔を回想し、それも一理あると半ば強引に自分を納得させる。
 刑事は基本的に人相が悪い。
 ヤクザと見紛う傷持ちの強面も多く、一般人に混じれば必然浮いてしまう。
 その点今井ならば安心安全、一般人に混ざれば空気のように目立たないこと請け合い。良くも悪くも個性的な面相の刑事の中から自分が尾行役に選ばれたのは妥当といえよう。
 そういえばと今井は思い出す。
 大学一年の時の合コンで偶然隣に座ったちょっと可愛い女の子が、今井の横顔をまじまじと見詰めていた。
 今井はどぎまぎした。
 慣れない合コンで緊張し、正座でかしこまってちびちびとウーロンハイに口をつける今井の横顔をひどく真面目ぶって見詰め、彼女は呟く。
 『今井くんてあれに似てる』
 『あれ?』  
 心臓が跳ねる。
 アルコールのせいばかりでなく顔が上気する。
 芸能人に似てるのかなと期待が芽生え、おもわず声が上擦る。
 『柴犬!』
 彼女に悪気はなかったと断言できる。
 だからこそショックは深刻だった。
 その日以来、鏡を覗き込んでは柴犬との共通点をさがすのが癖になった。
 いつしかそれは自分がいかに柴犬に似ているか確認する行為となり、今井は鏡を覗き込むたび、自分の前世は犬に違いないという確信をそこはかとなく強めていった。
 柴犬。
 たしかに似ている。いや、似ているなんてもんじゃない、そっくりだ。たまたま隣に座った女の子に指摘され初めて気付いたのも間抜けな話だが、今井は実に柴犬に似ていた。情けなく垂れた目尻、丸っこい鼻、しまりのない口元。全体の線が柔らかい。童顔。体毛は薄く、肌はすべすべしている。威厳がない。迫力がない。どう力んだところで刑事には見えない、せいぜいが学級崩壊に悩むカウンセラー通いの小学校教師というところ。
 今井なら長時間橋の上に立っていても不審がられる心配はない。「あ、振られたんやな」となまぬるい同情の目で見られこそすれ。
 傍目には待ちぼうけを食わされた気の毒な男としか映らぬ己の境遇に感傷の溜め息ひとつ、気持ちを奮い立たせ顔を上げる。
 それとなく周囲を見渡し人員の配置を確認。
 橋の袂には比較的人相の穏やかな私服刑事が待機中。どちらも今井の同僚だ。
 両者とも橋の両岸を固めている事がバレないようにとの配慮から十分な距離をとっている。
 一人は風俗の立て看板に隠れすぱすぱ喫煙し、もう一人は喫茶店の窓際の席から戎橋の雑多な賑わいを臨む。さらには尾行のフォロー役が半径100メートル内に分散、犯人逃亡時に備え携帯で逐一連絡をとりあい万全の体勢を敷く。
 刑事は通常二人一組で行動する。
 何故今井が戎橋のど真ん中、最も標的に近い危険区域に単独で張り込んでいるのかといえばそれもまた上の判断、今井ならばぎりぎりまで標的に近付いても不審がられないと見込まれての大抜擢。
 カップルならまだしも、むさ苦しい男二人がいつまでも橋の上にいたら目立ってしょうがない。
 無用な注目はなるべく避けたい。
 標的に気付かれるのは論外。
 長時間の監視が発覚する事なく、平凡な容姿故に一般人に偽装して自然に雑踏に紛れることができ、安全に尾行を続けられる人間といえば主に外見上の理由から限られてくる。
 以上の条件から、不本意ながら今井晃は尾行役に任命された。
 自分には荷が重いとつくづく思う。
 どうしてこう損な役回りばっかなんだろ、僕。
 心の中で愚痴をこぼしつつも、生来の責任感の強さから生真面目に監視に取り組む。
 客はまだ来ない。
 売人が生あくびをする。
 「あ」
 『どないした』
 携帯を握る手に力がこもる。
 囁く声が興奮を孕む。
 「きました、客と思しき人物が。十代後半の少女です」
 雑踏に紛れ足早に歩いてきた少女に注目。
 どぎつい化粧、派手な服装。ぽってり厚い唇がてらてら艶かしく光っている。
 プラダのバックを小脇に下げ無造作に歩いてきた少女が売人と1メートルの距離で言葉を交わす。話の内容は周囲の喧騒に遮られて聞こえない。
 売人が欄干からゆっくり身を起こす。
 少女が高飛車に何か言う。
 売人が気だるく首を振る。
 会話の内容を想像する。
 アレは?あんの?ちゃんと持ってきたで。はよちょうだい。ここじゃあかん、場所変えよ。 
 ズボンのポケットに指をひっかけた売人が濁って血走った目であたりを見回す。
 今井は慌てて顔を伏せる。
 交渉成立。少女と売人が連れ立って歩き出す。
 「動きがありました。取引場所に向かうようです」
 『追え。気ィ付けてな』
 「はい」
 興奮を抑えて返事をし、繋いだままの携帯を片手に歩き出す。
 一定の距離を保って二人を追う。
 売人が先頭に立つ。少女があとに続く。会話を交わす様子はない。
 初対面に近い間柄だろうことがよそよそしい雰囲気から見てとれる。
 売人と少女は1メートルの間をとり、今井はそれからさらに八メートルの距離をとり、標的を見失わないように緩急付けて尾行する。
 足をゆるめ、また速める。
 歩幅に呼吸が同調する。
 巧妙に雑踏に紛れ、路上に置かれた看板を回避し、時折腕時計を見やって入社一年目の社会人らしくスケジュールに追われてるふりをする。
 移動中も無言。
 傍目にはたまたま近くを歩いてる他人に見える素っ気なさ。
 完全に油断しきり、あたりに注意を払わず目的地に向かう二人を追う。
 橋の上は人通りが多く取引に向かない。覚せい剤を渡すのは別の場所だ。
 今井の推理は的中する。
 売人と少女は猥雑な人ごみをかいくぐり雑居ビルの谷間の薄暗い路地へと吸い込まれていく。
 横幅3メートル足らずの小狭な路地は、路上に置かれた看板や自動販売機が障壁となり、表から見えにくい条件が揃っている。
 恐喝に脅迫、いかがわしい取引に最適の場所。
 中腰で屈みこみ、自動販売機の陰からそっと路地を覗き込む。薄暗い。ゴミが散らかっている。
 荒廃した路地にて向き合う二人は互いを値踏みするように目を見交わす。
 「ホンマにもっとるん?」
 「もちろん」
 「はよだして」
 「ワンパッケ三万」
 「え?」
 少女が虚を衝かれる。
 空白の表情から一転、怒りを含んだ声で少女が言い返す。
 「ちょ、聞いてへんで。話ちゃうやん。電話じゃ一袋二万て言うとったのに……」
 「値上がりしたんや」
 「詐欺やん!」
 少女はあからさまに不機嫌になる。 
 リップクリームを塗りたくった光沢ある唇を尖らし、厚底サンダルで憤然と路面を蹴り付ける。
 「ええやろ別に。二万も三万も大して変わらん。いるんか、いらんのか、どっちや」
 眉間に皺を寄せて思案する女の子を淡々とプレッシャーをかける。
 「…………」
 「いやなら別にええで。他の売人あたれや」
 「待って!」
 売人が片手を振り身を翻すのを必死に制し、ヤケ気味にプラダのバッグを漁る。
 焦慮の手つきで財布を抜き取るやぱちんと口を開け、逡巡を吹っ切るように紙幣を三枚掴み取る。
 「………払う、払えばええんでしょ」
 「背に腹はかえられんてか」
 売人が嗤う。少女がむくれる。
 売人の手に紙幣が渡る。
 サンダルの厚底が苛立たしげに地面を叩く。
 売人が紙幣をズボンのポケットに突っ込み、もう片方のポケットから素早く何かを取り出す。
 何か。
 急激に喉が渇く。
 「売人が少女に接触。ズボンから何か……取り出しました」
 極力声をひそめ、汗ばむ手に持った携帯に報告を入れる。
 心臓が早鐘を打つ。
 喉元に汗が滲み出す。
 犯罪の現場に現在進行形で直面しているという事実が、今井から次第に冷静さを奪っていく。
 自動販売機に手を付き、油断ない目で路地の暗がりを走査し、売人の手に焦点を絞る。
 残像を引いて少女に向かう手に握られているのは、透明な袋。 
 セロハンの包みの中に白い粉末が入っているのを視認、心臓が強く鼓動を打つ。
 指先が触れる。
 セロハンの包みが少女に渡る。
 取引成立の決定的瞬間を目撃し、それまで今井を支えていた冷静さが激しくぐらつき、武者震いがおきる。
 少女の手に包みが渡ったのを確認後、今井は口元を手で覆い、自販機に隠れてしゃがみこむ。
 「覚せい剤が渡りました。現行犯です」
 少女の目が狂喜し、恍惚と顔が蕩け、だらしなく弛んだ口からシンナーで溶けた歯が覗く。
 単独行動はダメだ、仲間がくるまで待て。
 ともすれば衝動的に飛び出しそうな自分をおさえこみ、ひりつく焦燥に焼かれて仲間の到着を待つ。
 ダメだ、受け取っちゃだめだ。心の中でくりかえしむなしく叫ぶ。
 今井の中の正しい部分が勃然と煮え滾り、沈黙を強いられた良心を苛む。
 今すぐ飛び出して少女の手から覚せい剤をはたきおとしたい本音を堪え、黙って見ていることしかできない自分に激しい苛立ちを覚える。
 どうしてだれもこない、なにをぐずぐずしてるんだ。
 早くしないと二人とも行ってしまう、逃がしてしまうー
 「現行犯逮捕や!!」
 路地の暗がりに威勢良い大喝が爆ぜる。 
 「!」
 慌てて跳ね起きた今井の視線の先、反対側から路地に踊り込んできたのは見覚えある男……戎橋近辺で待ち伏せていた同僚だ。
 「!?な、なんやねんお前ら……」
 「警察じゃ!!」
 ああ、やっときた!
 安堵のあまりへたりこみそうになった今井の背中をドンとだれかがどつく。
 「よ。おつとめごくろうさん」
 「おそいですよ鹿島さん!」
 背後から現れたのは胡麻塩頭の初老の男。
 皺の付いた背広をずぼらに着崩した男は、地黒の厳つい顔に鷹揚な笑みを広げ、路地の方へくいと顎をしゃくる。
 「大袈裟なやっちゃなあ。お前も刑事ンなって一年、そろそろ現場の仕事に慣れなあかん頃やで。尾行くらいでいちいちびくついてちゃこの先苦労する………」
 「鹿島はん、今井!」
 路地の反対側から投じられた警告に顔を上げた今井を衝撃が襲う。
 「!?きゃっ、」
 「わっ!?」 
 何かが凄まじい勢いでぶつかってきた。
 体当たりの衝撃によろけるも、背後の自動販売機にぶつかって何とか転倒を免れる。
 反射的に伸ばした腕の中に誰かが倒れ込み、思わず抱え込む。
 けたたましい落下音が連鎖、今井の足に固いものが当たる。
 続く金属音の重なりは小銭がぶちまけられる音。
 通り狭しとばら撒かれた小銭が四方八方へ転がり通行人の靴に当たり、さらに遠くへと蹴散らされ、業突く張りが「金や!」「小銭や!」と歓声を発してそれを追いかける。
 腕の中で華奢な肩が震えている。
 スーツの胸に当たる柔らかな膨らみが乳房だと気付いた今井は赤面し、彼女の肩を掴んで引き剥がす。
 「大丈夫ですか?」
 今井の方へ倒れ込んできたのは、あの少女。
 少女の肩を支え慌てて路地を振り仰ぐ。
 いない。
 売人の姿がない。
 自分が少女と縺れ合っているすきにまんまと逃げ出したのだ。
 弾かれたように通りを見やれば、ジャージの後ろ姿が雑踏に紛れ遠ざかっていくところだ。途中で鹿島と合流した刑事二・三人が指示を受け散開しジャージを追い始める。
 鹿島が血気盛んに叫び、腕を激しく振って部下に指示をとばす。
 絶対逃がすな、ひっつかまえろ……
 そうか。
 自分が逃げる為に、彼女をおとりにしたのか。
 おもいっきり突き飛ばして。僕にぶつけて。まるで物みたいに。
 腕の中で少女は震えている。
 覚せい剤購入の現場を押さえられた事実にくわえ、売人に見捨てられ酷くショックを受けている。驚いた顔。信じられないという表情。無防備に目を見開き、呆けたように口を半開きにし、バッグの内容物を拾い集めるのも忘れて棒立ちになっている。
 まるきり思考が働いてない。
 放心した顔つきが痛ましい。
 自分が置かれた状況もわからず混乱する少女に声をかけようとした今井は、その肩がかすかに震えているのに気付き、安心させようと背中に手を回し……
 背中の上の方に、くっきり鮮明に手形が付いていた。   
 強い力を込めて押されたあとだ。
 少女はキャミソールを着ていた。五指を開いた手形は背中の上部にあった。余程強い力で押されたのだろう。少女を襲った衝撃がいかほどのものか容易に想像できる。男の力で、ドンと、容赦なく。跡になるほど。
 針金のように痩せた体に。
 本来、守ってあげなきゃいけない相手に。
 許せない。
 許しちゃいけない、絶対に。
 「おい今井、大丈夫か?おっかない顔して、変なとこ打ったんちゃうか。心配せんでも被疑者は鹿島さんらが追っとる、三十分内には連行できるわな。責任感じることは……」
 「佐伯さん、彼女をお願いします」
 こちら側へ歩いてきた同僚に放心状態の少女を預ける。
 同僚は面食らいながらも今井の剣幕に気圧され少女の身柄を保護する。
 「お前はどないすんねや」
 「追います」
 不安げに自分を見上げてくる少女と同僚にきっぱり言い放ち、制止の声には振り返らず、表通りに走り出す。
 売人はまだそう遠くへ行ってない、全力を出せば自分の足でも追い付けるはず。
 捕まえてやる。
 腹の奥底で闘志を燃やす。
 名伏しがたい衝動に駆り立てられ、頭を低め、スタートを切る。
 猛然と雑踏を突っ切る。
 路上の障害物を不器用に回避、肘振りでリズムをとりゴミを蹴散らし風と一体化しさらに加速、早鐘を打つ心臓と干上がる肺とに荒く浅い呼吸で酸素を送り込み人ごみに見え隠れするジャージに急接近。
 背広の裾がはためく。シャツの胸元もはためく。
 酸素が不足する。
 心臓がどくどく痛いほど脈打つ。
 必死の形相で全力疾走、頭が空白になるまでしゃにむに足を繰り出し標的との距離を詰める。
 売人が逃げる。
 振り返る。こちらに気付く。顔に驚愕が走る。
 口が動く。
 口汚く罵倒する。
 いつのまにか背後十五メートルにまで迫っていた今井を巻こうと路駐行列の自転車を蹴り倒せば、先頭から後方へと自転車が折り重なって、凄まじい騒音を伴いドミノ倒しが発生する。
 通行人が悲鳴を上げる。 
 間一髪自転車の直撃を避けた今井だが、背広の端がひっかかり見事に裂ける。
 「諦めませんからっ!」
 誰にともなく宣言し、へっぴり腰に鞭打って追跡再開。
 折り重なった自転車を危なっかしく飛び越えて売人を追う今井に鹿島が併走、隣にぴたり寄り添い耳元で囁きかける。
 「挟み撃ちにすんで」
 息を切らす今井の二十メートル前方、鹿島の指示で散開した部下が売人に挟み撃ちをかける。
 三方向から追い詰められた売人は殺気だって活路を模索し雑居ビル側面の非常階段を全速力で駆け上がる。
 残された逃げ道は上しかない。 
 挟み撃ちにより退路を断たれた売人は、地上を捨てビルに登るという自殺行為を選ぶ。
 「アホなやっちゃな。袋のネズミやで」
 「わざわざ追わんでもじき降りてくる」
 「お前は向こう側の出口に回れ、俺はこっちをおさえおく。ビルの出入り口は二つしかない、屋上からとばんかぎり逃げ場は……おい、今井!?」
 非常階段の入り口にたむろし、冗談めかし談笑する同僚を振り払い、脇目もふらず階段を駆け上る。
 ビル側面に沿ってジグザグに曲がる階段を手摺りに縋り三段飛ばしで疾駆すれば、靴裏に震動が伝わり脆くも錆びが剥落する。
 一階、二階、三階。
 酷使に干上がる心肺の限界に挑戦しラストスパートをかける。
 三階分の距離を全力疾走し、追跡にも増して著しく体力を消耗した今井だが、売人に遅れること五十秒ようやく屋上に踊り込む。
 コンクリ剥き出しの殺風景な屋上は猫の額ほどの面積しかない。
 金網で遮られた向こうには猥雑に立て込んだ心斎橋界隈の景色が広がる。
 安っぽいラブホテル、けばけばしい看板、みすぼらしく塗装が剥げたビル、延々と続く路上駐車の列。  
 地上のざわめきが空気感染しここまで押し寄せてくる。
 屋上に出てふらりと三歩進む。
 「げんこうはん、たいほだ」
 胸が苦しい。
 心臓が爆発しそうだ。
 舌が縺れる。目に汗が入り視界がぼやける。膝に手を付き呼吸を整える。
 もっとカッコよくぴしっといきたい。くそ、思い描いてたのと全然ちがう。
 深く深く息を吸う。
 胸郭が上下する。
 呼吸がおさまるのを待ち、情けなく掠れた言葉を搾り出す。
 「現金と引き換えに覚せい剤を渡す現場を見た。相手は未成年だ。署にきてもらう」
 「なんで取引場所がわかった?」
 「守秘義務があるんだ」
 背水の陣の売人はアドレナリンが匂うほどこちらを警戒している。
 苦渋に歪む顔から手にとるように焦燥が伝わる。こんなはずじゃなかったのにと心の声がする。
 退路を断たれてビルの屋上に出たのは失敗だった。
 ビル周辺は完全に刑事が包囲している。
 出口はただ一箇所、たった今上ってきた非常階段だけ。
 しかしその非常階段も今井が塞ぎ、後続の刑事が悠長な靴音を響かせのぼってくるところだ。
 屋上から飛びでもしない限り逃げる方法はないが、2メートル近い金網に遮られて物理的に不可能のみならず、実行すれば無難に墜落死が待ち受ける。
 選択の愚かさを呪い金網を背に追い詰められた売人へと歩み寄る。 
 「誰かチクったんやな。そやろ」
 「その件は署でゆっくり話そう」
 「その手にはのらん」
 「君が心斎橋界隈の中高生をメインターゲットに覚せい剤をばらまいてるのはわかってるんだ。言い逃れはできない」
 売人の背中が衝突しがしゃんと金網が鳴る。
 膝に付いた手を放し、顎を伝う汗を拭い、今井はできるかぎり落ち着き払って売人との対決に臨む。
 「署では君の背後にいる組織について話してもらう。ここ三ヶ月、心斎橋界隈では未成年の薬物所持・使用にまつわる検挙数が急増している。警察は裏にヤクザが絡んでると見てる」
 「知らん」
 売人は頑なに首を振るも、恐怖に引き攣った顔がありありと真実を代弁する。
 今井は一歩詰める。
 売人が首を振り平行移動、寄りかかった金網に肩や背や肘が当たり騒々しい音が鳴る。
 がしゃがしゃ金網を鳴らし移動する売人を追い、今井は使命感に駆り立てられ言い募る。
 「怖がらなくていい、身柄は警察が保護する。ヤクザの報復は恐れるにおよばない。君が話してくれれば多くの少年少女を救える、さっきの女の子だって薬と手を切って普通の高校生にもどれ……」
 油断した。
 ジャージの上着を捲り、ズボンに突っ込まれていたナイフを抜き取る。
 折りたたみ式ナイフの刃がパチンと飛び出す。
 鋭利で硬質な刃が日光を弾き返す。
 「おしゃべりに夢中で手元に気付かんかったか?」
 売人が嘲弄を放ち、今井は硬直する。
 売人が翳したナイフに目が釘付けになる。
 「どないした、今井、応答せえ!」
 「売人はどうしとる、もう手錠かけたんか、何とか言え!」
 階下から同僚の声がする。
 靴音の群れが階段を軋ませ雪崩れの如く押し寄せる。
 今井は答えない。
 舌が棒のように突っ張って言葉を発する事ができない。
 ナイフを取り上げなければ。
 頭でわかっていても優柔不断が邪魔して行動に移せない。 
 「びびっとるんか?今にも漏らしそうなツラしとる」
 売人がせせら嗤う。
 今井は唇を噛む。
 隙を狙いナイフを奪い取ろうと試みるも万一刺されたらと怯えが先に立ち、どうしても腰が引けてしまう。
 逡巡。躊躇。
 凶器を持った相手を前に冷静な判断力が麻痺し、ともすれば動揺で声が上擦りそうになる。
 「ナイフを渡すんだ。そんな事しても無駄だ、自分の立場を悪くするだけだ。すぐに僕の仲間がくる」
 「ならあんたを人質に切り抜けるまでや」
 いつしか立場が逆転していた。
 ナイフに注意を奪われ動きのとれない今井をなぶるように売人が大胆に歩を詰めてくる。
 ナイフの切っ先が今井を狙う。
 全身の汗が冷えていく。
 地上の雑音が潮騒のように遠ざかる。
 視界が急激に窄まっていく。
 売人が腰を落とす。
 見せ付けるように手中のナイフを弄ぶ。
 嗜虐的に目が光り、毒々しく開き直った笑みが顔に浮かぶ。  
 殺される。
 理屈抜きにそう直感し、脊髄から脳天にかけ痺れるような恐怖が貫く。 
 足が動かない。肝心な時に動かない。
 本能的な恐怖と刑事の使命感とがせめぎあい、ナイフで脅され危機に瀕した焦燥が葛藤を生む。
 瞼の裏に少女の顔が浮かぶ。
 腕の中でかすかに震えていた少女の顔が、不安げな目が、半開きの唇が、背中の痛々しい手形が。
 今井を走らせる原動力となった残像の断片が次々鮮明に浮かび上がり、瞼の裏で弾けて消えてゆく。
 「謝れ」
 「あん?」
 「彼女に謝るんだ」
 口が勝手に動く。
 「君が突き飛ばした彼女に謝るんだ。おとりにした彼女に謝るんだ。女の子にあんなことするもんじゃない。あんなふうに突き飛ばすなんて、」
 慎重に慎重を期し平行移動、身を挺して階段を塞ぐ。
 依然ナイフを持ったまま理解不能というふうな売人をきっかり見据え、断固として言い切る。
 「男が腐ったような卑怯者だ」
 許せなかった。
 大の男が単なる時間稼ぎで女の子を突き飛ばす行為を。
 くっきり残る、背中の手形を見てしまったから。
 それが今井晃の正義。
 一刑事の信念に鑑みて許されざる行為と判断し、気付けば仲間の制止を振り切り、衝動的に犯人を追っていた。
 売人が高らかに哄笑する。
 「…………は、ははははっ!こらおもろい、傑作や!あんな歯ぁ溶けかけのジャンキー女に肩入れするんかあんさん、けったいな趣味してはるなあ。あれは別におれ悪かないで、通行の邪魔さかいちぃと突き飛ばしたら勝手によろけたんや、自業自得じゃ。単にあの女の反射神経が鈍かっただけ。避けもせんとぼうっと突っ立って、『きゃあ!』とか男の気を引こて下心見え見えの大袈裟な悲鳴あげよって……」
 おもむろに屋上を蹴り、ナイフを腰だめに抱え走り出す。
 特攻の先駆けよろしく強行突破の構え。
 「俺の道を塞ぐから悪いんじゃ!!」
 今井めがけ殺気と罵倒を叩き付け、無軌道にナイフを振るう。 
 「!っ、」
 売人が振るったナイフが斜めに空を薙ぐ。
 今井は寸手でナイフを避ける。
 自暴自棄と化した相手を刺激するのは逆効果。
 何とか傷付けずナイフを奪えれば……
 こんな時だというのに被疑者の身の安全を第一に考えてしまうのは悪い癖だ。自身が絶体絶命のピンチにおかれてるというのに犯人の身の安全を考慮し、それ故動きが鈍くなる今井へと鋭利な残像を引いてナイフが襲いかかる。
 肩口を掠るようにして向こうへ抜けたナイフを目だけで追い、自暴自棄に駆られた売人の懐に飛び込もうと決死の覚悟で膝を撓めた今井の耳に、階段の最後の数段を上る音が響く。
 カンカン。
 固い靴底が階段の鉄板を叩き、屋上の入り口に立つ。
 「どいとれ」
 ぶっきらぼうな言葉を投げ掛けるや、屋上に現れた第三の男は今井の襟首を掴んでぐいと横に放り投げる。
 よろけて尻餅ついた今井が仰ぐ先に、がっしりと大柄な体躯の男が立ちはだかる。

 威風あたりを払う堂々たる立ち姿。
 猛虎に匹敵する猛々しい存在感。
 ぞんざいに着崩したダークスーツが肩の張ったごつい体格に異様に似合う。
 肩幅に踏まえた立ち姿は蛮勇引力とでもいうべき人をねじ伏せる強烈なオーラを放ち、逆光で翳った男を気位高く巨大に見せ、磐石の威厳を誇示する。 
  
 「六甲おろしに颯爽と 蒼天翔ける日輪の 青春の覇気麗しく………」

 呑気な鼻歌を口ずさみつつ、大型肉食獣を彷彿とさせるしなやかな大股で間合いを詰める。
 一挙手一投足が筋肉とバネの連動した躍動を感じさせる。
 獲物を狩りに赴く虎の如き獰猛な気配を身に纏い、肩聳やかせ交互に無造作に足繰り出し、底冷えする凄味を孕む眼光で売人を射抜く。
 「ど、どけ!ホンマに刺すど!!」
 めちゃくちゃにナイフを振りかざし虚勢を張って威嚇するも、男はそれを風切る肩で受け流し、こぶしを利かせて唄い続ける。

 「輝く我が名ぞ阪神タイガース  
 オウ オウ オウオウ 
 阪神タイガース  フレ フレフレフレ………」

 阪神タイガース応援歌、六甲おろし。
 精力的に太い眉、剣呑な奥二重の目、格闘技経験者特有の頑丈で威圧的な体格。
 野生を匂わせるストイックな顔立ちに非情な色を浮かべ、怯えきった売人を無慈悲に見下ろす。
 殺気走った眼光に射竦められ、売人の膝がぶざまに笑い出す。
 裾のくたびれた背広をはためかせ、低い鼻歌とともに屋上に見参した男へナイフの切っ先が向く。
 「死ね!!」 
 殺意を込めた切っ先がぎらつく。
 脳天から奇声を発し、飛ぶように地を蹴り肉薄する売人の手中で、鳩尾を狙うナイフが物騒な光を放つ。  
 歌声は途切れない。
 でたらめな鼻歌で間奏しつつ唐竹割りの踵落としで手首を痛打、売人の手から弾き飛ばされたナイフが日光を反射し長大な弧を描く。
 歌声は途切れない。
 極限まで目を剥く売人と相対した男は、空高く舞ったナイフが屋上に落下するまでのあいだに一気に決着をつけにかかる。

 「闘志溌剌 起つや今
 熱血既に敵を衝く
 獣王の意気高らかに」

 売人の顔に影が射す。
 眼光炯炯と流れるように前傾し肉薄、コンクリを蹴った反動で猛然と靴を跳ね上げる。
 ナイフを失った売人の腹に一発二発、続けざまに蹴りを抉り込む。
 売人の体が跳ねるのを容赦なく取り押さえさらに膝蹴りを一発、二発。
 男の動作には迷いがない、容赦がない。 
 圧倒的な強さ。
 背筋も凍る畏怖。
 暴力の達人。
 蹴りひとつとっても素人を百馬身引き離して余りある威力を凝縮しているのが膝の角度の切れ味でわかる。
 低く凱歌を吟じつつジャージの襟ぐりをむんずと掴み、倦怠感ただよう無表情のままに連続で蹴りを見舞う。
 「無敵の我等ぞ阪神タイガース」
 「ぐはっ」
 一発
 「オウ」
 「がはっ」
 二発
 「 オウ」
 「げふぅっ」
 三発
 「オウオウ」
 「ひぅぐっ」
 四発、五発。
 「阪神タイガース  フレ  フレフレフレ……」
 あまりにも苛烈で圧倒的故、威風堂々と暴力を振るう姿は虎の咆哮に似て惚れ惚れするほど美しい。
 破竹の快進撃はとどまるところを知らず売人が胃液をぶちまける。
 微塵の躊躇もなく、一抹の容赦もなく、歌の拍子をとるように鳩尾を捏ねる蹴りを叩き込むやぐったりしたその襟首をひっ掴み大きく振りかぶる。
 腕一本の力で軽々ぶん投げられた売人が背中から金網に激突、白目を剥いてずりおちる。
 「三番が肝なのに寝るなや、ヘタレが」 
 金網に背中を預け四肢を投げ出す売人のもとへ近付き、ジャージの胸ぐらを掴んで強引に顔を上げさせる。
 相変わらずその顔は冷めている。退屈げと言っていい。
 白目を剥いた売人に額をつきつけ平手で頬を張る。無反応。
 舌打ちして体を起こす。
 ジャージの胸ぐらを片腕で吊り下げたまま尻餅付いた今井を振り返る。
 「アンコールどや」
 野生的な顔立ちに似合いの男臭い笑み浮かべ振り返った男に、腰が抜けた今井はすっかり萎縮して首を振る。
 「………遠慮しときます、剣菱さん」 
【心斎橋ストラット】
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