ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十七話

 「はあっ、はあっ、は……」
 静寂に研がれ聴覚が過敏になる。
 体感する時間は流れ去らずコーヒーの底のざらめみたく濃密に凝る。
 下水道の時はうっそり沈滞してる。
 今が昼か夜かもわからない。
 日付変更線をこしてるかどうか判断する手立てはない。
 闇を手探りでかきわけ進むめくらのモグラの気分。
 穴ぐらの暗がりで生まれて死ぬモグラの目は必要ないから退化しちまった。
 俺の目もいつか退化しちまうのだろうか。
 終わりのない闇をあてどなく彷徨い歩くうちに、いつしか目ん玉が溶けて消えちまうのだろうか。
 ぞっとしねえ想像に悪寒が走る。
 俺はモグラじゃない。生まれ変わるとしてもモグラはごめんだ。
 真っ暗い穴ぐらをあっちこっちさ迷い歩いて死ぬまで時間を潰すなんざ今やってることとまったくおんなじだ。
 ……あれ。
 何考えてんだ、俺。
 モグラがどうしたこうしたとかどうだっていいじゃないか、それって今考えるべきことか、他に考えるべきことがあるんじゃねーか?
 ……当然。
 俺が真っ先に考えなきゃいけないこと。
 脱出路。生き延びる方法。空腹を満たす方法。
 来世がどうしたこうしたなんてのは現実逃避だ。
 今があんまり辛くて苦しいから脳が勝手に夢見てやがんだ、ありもしねえ来世ってやつを。ランナーズハイやクライマーズハイがあるならウォーキングハイがあってもよさそうなもんだ。きっとそれだ。心と体をふわふわ浮つかせる脳内麻薬が分泌されてるんだ。
 体内で麻薬を精製できるなんて便利だな、ヤク中垂涎じゃねーか。サーシャやリョウが羨ましがるだろうな。
 お生憎様。
 「はっ、はっ、は………」
 足の裏の皮が分厚くなったようだ。
 何重にもガムテープを巻かれてるような違和感が地面を遠くする。
 靴ん中でふやけて感覚がなくなってる。
 靴ん中じゃぱんぱんに腫れあがっているだろうが痛みが麻痺したのは嬉しい。
 何時間歩き続けたのかわからない。
 確認する術もない。
 俺は歩いた。
 ぼろっちいスニーカーで歩いて歩いて歩き続けた。
 目的なんかない。
 本能と衝動に駆り立てられ、立ち止まる怖さから逃れ、己を奮い立たせるようにがむしゃらに歩き続けた。
 弱音をはくな、泣き言をこぼすな。んな暇あるなら歩け、出口をさがせ。
 俺の目的。生きてここを出ること。生き延びること。出口を見付けること。
 最初は目的があった。
 俺は一心不乱に目的にしがみ付いていた。
 生きてもう一度お天道様を拝みたい一心で、地上の新鮮な空気をおもいっきり吸いてえ一心で、何かに憑かれたように脇目もふらず歩き続けた。
 けれども途中から頭はからっぽになって、目的とか希望とかそういうものは千歩目あたりで落っことしちまって、そっから先はずっと漠然とした意識に突き動かされていた。
 決して積極的な感情じゃない。
 立ち止まれば死ぬ。
 そっから一歩も動けなくなる。
 体のあちこちをネズミに齧りとられて目ん玉ほじくられておっ死ぬ。
 下水の奥の奥で人知れずミイラになるのはごめんだ。
 せっせと歩いてりゃ死体と勘違いされなくてすむ。
 行く手にたむろするネズミを蹴散らし追い払い、物欲しげにこっちを見詰めるネズミどもの餌食にならないために、俺は恐怖に尻を叩かれ夜通し歩き続けた。
 立ち止まれば死ぬ。
 体のあちこちをネズミに齧りとられて。
 最悪じゃないが最悪に近い死に方だ。
 太陽の光がささない下水道のどん底で、ネズミどもに骨の髄まで齧られてすっからかんになって死ぬなんてのは、自分が吐いたものを喉に詰めて窒息死するアル中の次くれえに悲惨な最期だ。
 臆病風に吹かれて俺は逃げた。
 ネズミの姿を借りた死の誘惑をしゃにむに吹っ切って足早に歩き続けた。
 ネズミはうじゃうじゃしてやがる。
 東京プリズンのどこにこんな沢山ひそんでたんだと目を疑うも、すぐに慣れる。
 いや、麻痺する。
 異常と正常の境目とか、日常と非日常の境目とか、俺の中にきっかり線引きされてたもんが取っ払われて徒労感を覚える。
 俺はただ死にたくないから歩く。
 ちょっとでも隙をみせりゃ付け込まれる。
 腹ぺこネズミが踝にかじりつく。
 この踝はおれのもんだ、お前の餌じゃねえ。
 生まれときから俺のもんだった踝をネズミに摘み食いさせてたまっか畜生。
 お袋の腹の中から一緒だった大事な踝、可愛い可愛い踝だ。
 なんか変なこと言ってるか、俺?……まあいい、見逃せ。今の俺は普通じゃないんだ、きっと。
 俺は踝を守る。
 今までぞんざいに扱ってきた踝を、脛を、膝を、貪欲なネズミどもから守りぬくって決めた。
 踝なんか別になくても困んねーじゃんか?頭の片隅でごもっともなご意見。だれが囁いたんだ?知るか。俺の頭の中に住んでる良識ぶっただれかさんだろ。ったく、鍵屋崎みてーにヤなヤツだ。必要不必要困る困らねえの問題じゃねえ、俺の踝は俺のものだから俺が守るって理屈になにか文句あっか?だいたい踝を齧られてよろこぶ人間がいるか?
 しかも相手はネズミだ。
 ネズミに齧られるのはいやだ。
 やつら、ひとつ許せばますますずにのって付け上がる。
 踝を一口かじらせりゃお次は脛、脛をカリカリかじったあとは膝と、遂には頭のてっぺんまでネズミに埋もれちまう。
 ネズミの執念壁をも開ける。
 分厚いコンクリート塀さえちまちま齧ってトンネル開通させるネズミどもを、なめてかかったら痛い目見る。
 「………は………」
 なに言ってんだ俺?
 ネズミなんかどうでもいいじゃねーか。
 靴裏が地面を踏んでる感じがしない。
 靴音が虚構じみた反響を伴う。
 地面ってこんな嘘っぽかったっけ。
 俺って今、本当に立ってんのかな。
 本当に立って歩いてんのかな。
 自分の意志で体を前に運んでる気がしない。
 地面が固いのか柔らかいかすらわからねえ。
 靴ん中で足がふやけて膨張してるのがわかる。
 ためしに足の指をちょいと曲げてみる。
 右足の親指を引っ込め、ぴょこんとだす。
 一応動く。
 まだ大丈夫。
 痛覚と触覚は麻痺したけど運動神経はちゃんと生きてる。
 親指が動くのを確かめ安堵する。
 俺の体は俺のものだ。すみずみまで俺のものだ。
 俺を生かすもころすも俺次第だ。
 どっちか選べといわれたりゃ生きたいに決まってる。
 腫れて感覚のなくなった足を緩慢にひきずる。
 今の俺はほとんど壁に縋って立ってる有様だ。
 おまけに服も靴もぼろぼろ、髪はめちゃくちゃに跳ね放題、顔と体は泥と擦り傷だらけときてやがる。
 かっこ悪ィ。女にゃ絶対見せたくねえ姿だ。
 水溜りに突っ込んで、転んで、壁に寄りかかって。
 下水道のあちこちにぶつかってよろばい歩くうちに、肩に泥をなすりスニーカーは泥水を吸い、全身に垢と汚れが濃淡の斑となりこびりついた。
 おまけにくせえ。今の俺は歩く体臭の塊だ。
 何日間も洗ってないシャツがぷんぷん匂う。
 いっそ鼻も麻痺すりゃいいのに。
 奪われた視覚を補おうと他の感覚が鋭くなる。
 俺にまとわりつく鉄臭の出所は肩に寄りかかった図体のでけえ男。
 「俺に歩かせてらくばっかしてねーでたまにゃ自分の足で歩けよ道了。しゃんとしねーと假面の通り名が泣くぜ」
 背中にめりこむ体重がしんどい。
 道了は俺の肩に寄りかかってされるがままずるずるひきずられている。
 右肩は鮮血に染まってる。
 シャツを裂いて応急処置を施したがお世辞にも完璧とはいえない。
 そもそも俺に器用さと細心さを求めるほうが間違ってる。
 雑な応急処置でどこまで体力がもつかは本人次第。
 こうやって何とか歩いてるだけでも奇跡だろう。
 普通なら麻酔も打たず銃創を抉られた時点で想像絶する激痛に悶絶失神してる。
 道了の歩みはのろい。じれったいほどに。
 半ば俺の肩に寄りかかるようにして、靴裏で床を擦り、水溜りに突っ込む。
 「………っ………ふ………」
 伏せた額に沸々と脂汗が滲む。
 顔は蝋みたいに白く、すっかり血の気がうせている。
 もとから人形じみて端正なツラしてやがるからなおさら気味悪ィ。
 一歩ごとに体力を剥ぎ取られてるらしく、俺にひきずられて一歩進むごとに迷惑にも体が重くなる。
 血と一緒に命が漏れ出してるのがわかる。
 こんな状態の怪我人を歩かせちゃだめだって勿論わかってる。
 道了にゃ安静が必要だ。
 だけど、今ここで足を止めるて壁に寄りかかるのは諸刃の剣。
 そのままこっから動きたくなくなるに決まってる。
 壁に寄りかかってるうちにうとうとまどろんで、死のように底なしの眠りに落ち込んで、這い上がってこれなくなる。
 「寝るな。寝たら死ぬぞ」
 背中からずりおちかけた道了を叱咤し、腋の下に肩をあてがい抱え直す。
 道了は答えない。
 口を利く体力も枯渇してる。
 何か言おうと口を開きかけるも、にぶった舌が縺れて絡まり、言葉はくぐもった呻きになる。 俺は何度目かの決心をし、お荷物でしかねえ道了をぞんざいに背負い直す。
 何度捨てようとおもったか知らねえ。
 道了は俺にとっちゃ足手まといでしかねえ、のみならず梅花とお袋の敵だ、俺の惚れた女を手前勝手な理由で殺した最悪の男だ。
 こんな男死んで当然だ。
 臭くて汚い下水道の片隅で野たれ死んでネズミの餌食になるのがお誂えの死に様だ。
 ほら見ろ、道了の死期を嗅ぎ取ったネズミどもがうじゃうじゃ湧いてきやがる。
 下水の壁の穴から袋小路から天井から、神経に障る甲高い鳴き声を発して、道了がぽっくり逝くのを今か今かと待ち構えてる。
 餌認定された道了はといえば、自分がネズミどもから熱烈な注視を受けてるのも一向お構いなく、大人しく俺の肩口に額を預けてる。
 道了は痛々しくびっこをひく。
 小さい俺がでっかい道了をひきずって歩くのは傍目にも滑稽だが、ネズミしかいねえのに気にしたってしょうがない。
 歩き方はアンバランスで今にもけっつまずきそう。
 こけるなら道了ひとりだ。
 俺はひとりで先にいく。
 ここまで介助してやっただけでも有り難く思え。
 本当ならコイツを助ける義理なんかこれっぽっちもない、肩に銃弾めりこんだまま血の海で溺れりゃよかった。

 なんだって道了を助けたんだ、俺は。
 今でも心の底から憎んでる男を。
 お袋と梅花を殺したやつを。

 朦朧とした頭で自問する。
 正直、今の俺に道了を気遣う余裕はない。
 荒い息遣いと大量の汗、右肩に開いた銃創の出血から道了の様態が最悪だってのは十分わかるが、こっちも疲労と空腹と不眠でへとへとで、いつぶっ倒れても不思議はねえ。
 不眠不休で歩き続けること半日以上、下水道はいつまでたっても終わらない。
 長すぎる。
 広すぎる。
 東京プリズンの地下は異世界に繋がってるんじゃねーかと錯覚する。
 地獄と隣り合わせの無限迷宮の住人は俺と道了とネズミだけ。
 本道の近くじゃ壁に照明がぶらさがってたが、ブルーワークの持ち場を離れるにつれ景観は荒廃の一途を辿り、破損した照明はただのお飾りからネズミの遊び道具、はては晒し首の刑じみて恐怖を煽る舞台装置へと印象をかえる。
 道は徐徐に傾斜し、下へ下へもっと下へと自動的に俺たちを運んでいく。
 平衡感覚がくるう。
 ここじゃ自分が拠って立つ地面が真っ直ぐなんて常識は通用しない。
 息を吸うたびべとつく闇が喉にはりつく。
 足元を掠めてネズミの大群が走り去る。
 爪先を掠めて壁の穴へと消えた数匹のネズミを惰性で目で追う。 
 ぽつんと疑問を呟く。
 「ネズミって煮たり焼いたりすりゃ食えんのかな。ナマはさすがに腹こわしそうだけど」
 道了が俺の顔を熱心に見詰めてるのに気付き間抜けな発言を後悔。 
 「……本気じゃねーよ。見んなよ。言ってみただけだっつの。腹へってんだよ、俺は。図体でかい野郎をおぶさってるせいでよ」
 気恥ずかしさから早口で言い訳しそっぽをむく。
 頬にさした赤みを目敏く見て取った道了が、おもむろに断言。 
 「………俺は食える」
 「はあ?」
 本気とも冗談とも付かねえ無表情をまじまじ見返す。
 見た目じゃわかんねーけど、道了も相当腹がへってるんだろうか。
 ネズミが物欲しげにこっちを見てるのとおなじくらい、道了も物欲しげな目でネズミを見てるんだろうか。
 俺達の足元にちょろちょろ這い寄ってきたネズミがなぜかぎくりとし、素晴らしいはしっこさで逃げていく。
 「………ネズミ食うのか、お前。主食は乾電池じゃねーのか」
 内心の戸惑いをひた隠し、冗談めかして軽口を叩く。
 「ネズミの方がマシだ」
 道了の返答はそっけない。
 道了ならネズミでも電池でも手当たり次第にがりがりやっちまいそうだ、鉄板の無表情で。
 その光景をありあり想像し、とうとう我慢できずに吹き出す。
 まだ笑う元気が残ってたなんてと自分に感嘆。
 肩揺らし喉ひくつかせ笑う俺をよそに、道了は不自由な手でズボンのポケットをさぐる。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 肩の銃創が痛むのか、わずかに顔を顰める。
 不自由な手を何とか動かしポケットからとりだしたものに目を疑う。
 ポケットから抜かれた手にあったのは、くしゃくしゃの包装紙に包まれた台湾名物の焼き菓子……鳳梨酥(オンライソー)。
 破けた包装紙に「郭元益」の銘柄が記されていた。
 道了とチョコの取り合わせがあんまりにも似つかわしくなく、ムショでも滅多にお目にかかれねえ本場台湾菓子がこいつの懐からあっさり出てきた事実におったまげ、ぽかんとする。
 「郭元益」は俺も知ってる。
 もとは台湾土産で有名な菓子メーカーだ。
 遡れば清の時代から続く老舗らしい。
 日本にゃ五十年前に進出してきた。
 まん丸の口を閉じるのも忘れ、ついでに瞬きも忘れ、餓鬼のごとき執念深さで鳳梨酥を見詰める俺に道了が命じる。
 「食え」
 「え」
 我に返る。菓子から道了に目を転じる。
 道了が問答無用で手を突き出し、俺に鳳梨酥を押し付ける。
 ごくりと喉が鳴る。
 口の中に生唾が湧く。
 皺だらけの折り目が付いた銀紙に包まれた鳳梨酥から、果実のいい匂いが立ち上る。
 「だって……お前のだろ、これ。お前が食えよ。腹へってるくせに痩せ我慢すんなよ」
 痩せ我慢してるのは俺だ。
 かぶりつきたい衝動を必死に自制し、せいぜい取り澄まして申し出をつっぱねる。
 つまらない意地と見栄から大人ぶって毅然とした態度をよそおうも、目はちらちらと落ち着きなく道了と菓子をうかがい、口の中の唾はとめどなくわいてくる。
 ぶっちゃけ腹は減っていた。
 腹と背中がくっついて薄っぺらい平面になっちまいそうだ。
 だがそれでも、道了の申し出を呑むのは癪だ。
 だれがお袋と梅花を殺した男の手から菓子を受けとるか。
 今ここで道了の手からほいほい菓子をうけとったら、俺は身内の情けより食い気に負けた最低野郎の烙印を押される。

 ふざけんな。
 俺にだって意地がある、プライドがある。
 道了に同情されるくらいなら潔く飢え死にしてやる。

 「俺はいい。腹は減ってない。お前が食え」
 「いらねーよそんなもん。お袋と梅花を殺した手にのった菓子なんか食えっか。俺を餌付けする気か、お前。菓子ひとつで俺がほいほいなびくとでも思ったか。なめるのも大概にしやがれ」
 「虚勢を張るな」
 「こっちの台詞だ。だいたいなんで都合よくポケットにしまってあるんだよ。お前が甘いもの好きなんて知らなかったぜ」
 「別に好きじゃない」
 「じゃあなんで持ってるんだ」
 「…………お前に」
 「あ?」
 ポケットに手を突っ込み大股に詰め寄る。
 まるきり喧嘩腰、因縁ふっかけるようにして詰め寄ってきた俺を迎えうち、道了があっさり述べる。
 「お前が、好きだと言った」
 思考停止。
 予想外の返答に毒気をぬかれる。
 道了は相変わらず無表情で、しかし途方にくれた様子で立ち尽くしている。
 自分は好きでもない手の中の菓子を持て余し、金と銀の目に茫漠たる虚無を湛える。
 道了の顔と手を見比べ記憶の襞をなぞる。
 脳の奥が疼き、おぼろげな記憶がよみがえる。
 道了は淡々と語りだす。
 「月天心にいた頃、梅花がチームの全員にこれを買って来た。お前は梅花からこれを受け取って、好きだと言った。そして笑った。お前のあんな笑顔、初めて見た。俺は遠くからそれを眺め、記憶にとめた。お前は忘れているだろうが、俺は忘れなかった。なぜかずっと心に残っていた」
 事実をそのまま指摘する平板な声音が、過去に埋もれた記憶を呼び覚ます。

 確かにそんなことがあった。
 梅花は月天心の使い走りとして食糧調達も引き受けていた。
 ある日、仕事帰りの梅花が紙袋を抱いてもどってきた。
 ガキどもは歓声を上げた。
 紙袋の中身は菓子だった。全員分あった。当然俺の分も。
 半々の俺を無視しないのは梅花だけだった。
 梅花はいさんで袋の中身を配って回った。
 俺は努めて平静を装い梅花の手から菓子をうけとった。
 梅花の手に触れた瞬間、心臓が鳴った。
 俺は梅花の目をまっすぐ見て、好きだと言った。
 初めて告白した。二重の意味の告白だった。
 だけど梅花はそれにはふれず、俺の気持ちをわかっていながら気付かぬふりをし、前者の真実だけを受け取った。

 俺の手を優しく握り返し、私も好きよと囁いた。
 死んだ妹が好きだったお菓子なのよ、と小声で付け加えた。
 俺の気持ちは報われなかった。

 菓子の味と一緒に当時の甘酸っぱい気持ちがじわじわよみがえり、いっそ死にたいほど恥ずかしくなる。  
 同時に道了が覚えていたことを意外に思う。
 俺と梅花の事なんかどうでもいいって感じで実際ぞんさいに扱っていたのに、そんな細かいとこまで見てたのかとこいつに対する評価をちょっとだけ改める。
 あくまでちょっとだけ。
 道了は俺が梅花の手から菓子を受け取った事を覚えていた。
 俺と梅花の間に流れる微妙な空気は読み取らず、否、読み取っても無視し、好きだと言った言葉と表情だけを心に焼き付けた。
 あの時俺はどんな顔をしてたんだろう。
 きっと自分が見たら殺したくなるくらいだらしなくにやけた顔か、童貞丸出しの真っ赤な顔だろう。
 「遠慮せず食え。鳳梨酥が好きなことは知っている。あの時も喉に詰まる勢いでがっついてたからな。飢えた豚のような食いっぷりだった」 
 「もうちょっとマシなたとえねーのかよ」
 「がりがりの野良猫みたいな食いっぷりだった」
 道了が凪いだ眼差しを向ける。
 こいつでもこんな優しい顔ができるんだな、と思う。
 廃工場のアジト、スプリングの壊れたソファーにふんぞりかえっていた頃とは別人みたいだ。 全盛期と比べ覇気を抜かれて腑抜け同然に成り下がってる。
 梅花の手のぬくもりと甘酸っぱい匂いに惹かれ、警戒しつつ手を伸ばす。
 決心がぐらつく。
 お袋と梅花を殺した男から情けを受けるかと豪語したそばから、俺はそのぬくもりの残滓にひかれ、未練がましく手を伸ばしている。
 今はもういない女、道了に殺された女から貰った好意を残像に重ねて反芻、哀切が苛む。
 網膜に去来する梅花の面影に負け、何より空腹に負け、鳳梨酥をひったくる。
 
 銀紙を毟り取る。
 大口開けてかぶりつく。
 餡に練りこまれたパイナップルの甘みと酸味が口の中に広がる。
 ぱさぱさした皮と歯ごたえのある餡が絶妙の食感を生む。
 好吃。
 悔しいけどうめえじゃねえか畜生。
 脇目もふらずがっつき喉に詰めんばかりに頬張る。
 パイナップルの甘酸っぱさと餡と皮が口の中で互いを引き立て合いゆるやかにほどける。

 鳳梨酥を夢中でがっつく俺を道了は黙って見詰める。
 傍らに突っ立つ道了の存在も忘れ、ひたすら顎を酷使し咀嚼と嚥下にはげむ。
 鼻腔の奥がツンとする。
 うっかり油断すると視界が曇る。
 美味すぎて泣きが入るなんて売春班にいた時さしいれされた缶詰以来の体験。
 鉄扉の隙間からこっそり忍び込んできた褐色の手を思い出す。
 レイジ。
 レイジは今どうしてるんだろう。
 ちゃんと食ってるんだろうか、空腹でへばってないだろうか。
 缶詰でもなんでもいいからちゃんと食えよ。
 よく味わって食わなきゃもったいないと思いつつ拍車がかかり、たった三口でたいらげちまう。
 最後の一口をごくんと飲み下す。
 口の中を丹念に舐め、口のまわりにこびりついた菓子屑まで意地汚くこそぎおとす。
 一本ずつ指をしゃぶりひとかけらも残さず舐め尽くす。

 『吃飽了』

 道了がきょとんとする。
 ……しまった、いつもの癖でついやっちまった。
 唾で湿した指をズボンで拭いてる最中に道了が聞く。
 「………美味かったか」
 「ああ。……まあまあだ」
 答えてから何となく癪で言い直す。
 口ん中にはまだ味が残ってる。
 ごしごしと顎を拭き、剥ぎ取った銀紙をくしゃくしゃにしてポケットに突っ込む。
 腹にものをためて空腹をごまかし、さっきからずっと喉の奥にひっかかっていた疑問を釣り上げる。
 「あのさ、聞いていいか。ずっと持ち歩いてたんなら、なんでもっとはやく出さなかったんだ。なにもこんな行き倒れ寸前のタイミングで出さなくてもいいだろ。俺がだんだんへばってくの楽しんでたのかよ、悪趣味だなおい。大体鳳梨酥なんて日本人が名前もしらねーよーな菓子、ムショで手に入れるだけでも大変だろ。看守を使ってわざわざ取り寄せたんだろ。お前、なんでそこまで……」
 優しいのか酷いのか、わからなくなっちまった。
 「渡しそびれていた」 
 「なんだよ、そりゃ。答えになってねーよ」
 道了に真面目な答えを期待した俺が馬鹿だった。所詮人形に言葉は通じねえ。
 憤然と歩行を再開、乱暴に腕をとり道了を抱え直す。
 道了の腋の下に肩をあてがい歩き出せば、掠れた呼気に紛れて神妙な呟きが落ちる。 
 「俺の手から渡されてお前が喜ぶかどうか、わからなかった」
 立ち止まる。
 思わずまじまじと横顔を凝視。道了は俯きがちに俺の視線を避ける。
 柄にもなく殊勝な物言いをしたことに自身でも戸惑っているように見えた。
 さっきより若干優しく丁寧に、怪我に障らないようできるだけ注意し道了を担ぎ、慎重な歩幅で歩き出す。
 道了の方は見ずに呟く。
 「……思ったほど鈍くないんだな、お前」
 梅花に告げた言葉の隠された意味を、道了はちゃんと嗅ぎ取っていた。嗅ぎ取ったからこそ迷っていた。
 せっかく取り寄せたはいいものの自分の手から渡しても俺が喜ばないと知って、決断をためらっていたのだ。 
 ざまーねえな、假面。
 笑いたいような泣きたいような複雑な心境で道了を引きずり歩く。
 ネズミどもがちぃちぃと寄ってくる。
 道了の放つ死臭にひかれてるのだろう。
 胃にものを入れて少しは気分がマシになった。
 我ながら単純だと笑う。
 笑う元気がありゃ上々だ。
 派手に水溜りに突っ込む。
 既にぐしょぬれのスニーカーに水が染みる。
 出口に近付いてるのか離れてるのかさっぱりわかんねえ。
 同じところをぐるぐる回ってる気がする。
 今の俺はめくらのもぐらだ。
 下水道は巨大な迷路で、鯨の胃の中みたいにどんより腐臭が漂ってる。
 時々ネズミの死骸を見かける。
 どのネズミも体毛が白い。アルビノだ。
 生まれてから死ぬまで一回も太陽に当たった事がないネズミに同情するのは、俺の勝手な感傷だ。地上の生活がありゃ地下の生活もある、それだけの話だ。ネズミは自分達が不幸だなんて思いやしないだろう。
 かえって太陽のぎらつく光の下で暮らさなきゃいけない生き物を憐れんでるかもしれない。 

 だけど俺は、砂漠のぎらつく太陽が恋しい。
 再び地上に戻りたい。
 レイジと二人寝起きした房に帰りたい。 
 サムライや鍵屋崎と一緒に食堂で馬鹿話したい。

 望郷の念は離れて久しいスラムにとぶ。
 お袋とふたり暮らしたボロアパートの細長い廊下、錆び付いた鉄筋階段、ゴミ溜めと化した路地を回想する。
 「ここを出たら何がしたい」
 唐突な質問に、心を見抜かれたかと緊張する。
 疑心暗鬼に隣を見れば、顔面蒼白の道了が、簾のように垂れ下がった髪の奥から透徹した瞳を向けていた。
 『ここ』が下水道をさすんじゃないとわかっていた。道了が言ってんのは東京プリズンの事だ。
 娑婆に出たら何をしたいか問うているのだ。
 「三番目からだ」
 道了が訝しげに眉を寄せる。
 怪訝な表情の道了を無視、足を繰り出しがてら三本指をおったて一方的に話を続ける。
 「三。屋台でほっかほかの肉粽を買う。歯を立てた途端にじゅわっと肉汁でてくるやつだ。肉はケチらずぎゅっと詰まってるのがいい。紙袋一杯買って満腹になるまで食べる。もちろん独り占めだ。頼まれたってやるもんか」 
 右足の次に左足を繰り出す。
 行く手にたむろっていたネズミどもが、蹴とばされるのをおそれ散り散りに逃げる。
 「二。女を抱く。抱いて抱いて抱きまくる。ペニスがふやけて使い物にならなくなるまで。もうひとりしこしこマスかくのはこりごりだ。おもいっきり女の匂いを吸い込んで、あったかくてやわっこい体をさわりまくる。あてはねーけどどうにかする。娼婦を買うのは好きじゃねーけど、それも検討する。背に腹はかえられねえ。ムショにいた間ずっと女のことばっか考えて悶々としてた。俺はまだ十四で、不能になるにゃ若すぎる。一番したいことは……」
 「なんだ」
 「一番は、もうかなわねえ」
 「なぜだ」
 腹の底で殺意が燻る。
 憤りが身を燃やす。
 蹴り付けるように靴裏を叩き付け、苦悩の吐息を搾り出す。
 今はもういない女の顔が脳裏に浮かぶ。
 切れ長の涼しい目と肉の薄い鼻梁、艶かしい唇。
 俺とよく似た女が、生前と同じ冷ややかな顔でこっちを眺めてやがる。
 お前を産んで体の線が崩れたと嘆きこそすれ、どれだけ望めどお前がいてくれてよかったと言った試しのない唇は、いかにも不愉快げに引き結ばれている。
 脳裏につきまとう不機嫌な女の顔を吹っ切ろうと足をはやめ、やり場のない激情に駆られて吐き捨てる。
 「笑っちまうほどくだらねーこと。この年になって言うようなことじゃねえ。つくづく甘ちゃんだってお前は嘲るだろうさ」
 「俺は笑わない」
 「どうだか」
 口の端が皮肉に歪む。道了は真剣な顔で俺を見る。
 俺が口を開くのをじっと待ち、今だ聞こえぬ言葉に耳を澄ましている。
 道了の凝視がいい加減うざくなり、やつあたりぎみに水溜りを蹴散らす。
 飛沫を被ったネズミどもが甲高い奇声を発し瞬時に逃げ去る。
 いい気味。
 卑屈な笑みを貼り付けた俺を、道了は間近で物言わず見詰める。
 人形のように静かに無表情に、俺が吐露するのを待つ。 
 透徹した凝視の居心地の悪さに辟易、目の前にちらつく女の面影を激しく憎んで振り払う。
 あんたなんか大嫌いだ。
 ガキの前で平気で男と寝るアル中の淫売。
 ぐでんぐでんに酔っ払っちゃ俺を叩きのめし寒空の下に放り出す育児放棄の鬼ババ。
 数え切れないほど喰らったベルトの味は忘れられない。
 骨身にしっかり刻まれてる。
 大嫌いな女。
 三十路近い割にゃ若く見えたけど、しまりのねえ生活としまりのねえ股で台無しだった。
 感傷を吹っ切るように足早に歩きがてら俺は言う。
 「お袋に回來了喔を言いたかった」
 俺を産んで育てた女に、ただいまを言いたかった。 
 一番の願いはそれだ。
 一番の望みはそれだ。
 肉粽を買い込むより女を抱くより何よりお袋に会って言いたかった、ただいまを言いたかった。もう決して叶わない夢。
 俺は所詮甘ちゃんだ。
 乳離れできねえ甘ったれのガキだ。
 今でもお袋のことが忘れられない、今でも面影を切り捨てられない。
 ただいまを言いたかった。
 会いたかった。
 錆びついた階段を駆け上って細長い廊下を駆け抜けて一散に、ペンキの剥落したみすぼらしいドアを蹴破ってとびこみたかった。

 手遅れだ。
 からっぽのアパートに未練はねえ。
 お袋はもうどこにもいねえ。
 さがしたってどこにもいねえ。

 「…………満足したかよ、道了。俺ががっかりしたとこ見て、溜飲さげたかよ」
 静まりかけていた怒りがぶりかえし、道了を支える手に必要以上の力がこもる。
 腕を締め上げる痛みに眉をしかめ、増した握力から伝わる殺意の波動に耐え、道了はゆっくりと口を開く。
 「香華は……」
 道了がぐらつき水溜りに踏み込む。
 膝の位置まで水がはねる。
 何か言いかけた道了の口元に耳を近づける。
 額に夥しい脂汗を浮かべた道了は呼吸を整えるのに必死で、最前言いかけた言葉の代わりに苦鳴が漏れ、がっくり膝を折りそうになる。
 「おい!?」
 どうやら限界らしい。
 ここまで保ったのが奇跡のようなもんだ。
 疲労困憊、衰弱はなはだしい道了を一旦休める場所はないかとあたりを見回す。
 死臭を嗅ぎ付けてネズミどもがやってくる。
 道了の膝をのぼるネズミを咄嗟にはたきおとすもきりがねえ。
 ぐったりした道了をひきずり下水を進む。
 どれくらい歩いたのか、過敏になった耳がこの場にふさわしくない物音を捉える。
 甲高く爆ぜ、重く鈍く響く剣戟の音。
 下水には場違いな物音に胸が騒ぎ、嫌な予感が膨らむ。
 壁に反響する剣戟の音をたどり、曲がりくねった小道に踏み込む。
 ところどころネズミの死骸が転がり干からびた胸糞悪い眺めを我慢し、肘や肩が壁にぶつかる痛みを堪え、耳と勘だけを頼りに音源をめざす。
 音は次第に近付いてくる。
 接近に伴い反響の仕方が変化する。
 心臓が高鳴る。
 緊張に喉が渇く。
 地面は湿ってる。
 苔が生えて滑りやすい。
 ところどころネズミが死んでる。
 仲間が死骸に群がり容赦なく歯を立て肉を暴く。
 凄惨な共食いの図。両側から壁が迫り出して息苦しい。
 天井は異様に低い。
 脳天かち割らないよう用心しいしい這い進む。
 道了と密着する。道了の体温と鼓動が流れ込み存在の境目があやふやになる。
 「さっきの続きだ」
 ふいに道了が口を開く。
 今にも死にそうな顔色で、目は半眼で濁って、吐血するように掠れた声を搾る。
 「俺は、香華に……」
 シェンホア。
 お袋の名前。
 「お袋がどうしたんだよ?」
 鼓動が速くなる。
 口の中の菓子屑がざらつく。
 心を落ち着かせようと歯の裏側を舐め、隣の男に思い詰めた視線を注ぐ。
 時が静止する。ネズミの鳴き声すら完全にやむ。
 あらゆるものが共同戦線を組んだ異様な静けさの中、蝋人形じみて端正な容貌の男が、酷薄な唇を動かす。 
 「香華は、お前に伝えて欲しい事があると言った」
 「お袋が、俺に伝えたいこと?」
 お袋が俺に伝えたい事。想像できねえ。
 死に瀕して漸く母性が目覚めたか?
 いまさら謝ろうってのか?
 ひねくれた感想が浮かび、毒々しく顔が歪む。
 今まで放ったらかしてきたくせに今さら伝えたいことがあるだって?
 ふざけんな。
 どこまでも身勝手なお袋に反発を抱く。
 死んでからもなお俺を呪縛する女に猛烈な憤りを感じる。

 「今さら伝えたいことってなんだよそりゃ。絶対失敗しねえ避妊のやりかたか、三こすりで男をイかせる方法か?死に際になってやっと自分がガキ産んだこと思い出したってわけか、いつもいつも俺のこと無視していないも同然に扱ってやがったのに死ぬ直前にようやっと親心が目覚めたってわけか、自分が苦しい時ばっか頼って縋って命乞いか。腐れ売女の泣き言なんざ聞きたくねーよ。改心するならもっと早くしろよ、手遅れだよ。十一年も一緒だったくせにその間ずっと無視しやがって、俺がいなくなってから伝えたい事があるって、皺が増えて男に捨てられた年増がいかにも言いそうなこった」

 憎悪むき出しの顔で唾飛ばし口汚く罵る。  
 怒りで勝手に体が震える。
 きつく握り込んだ拳がわななく。
 今さら俺に伝えたい事があるだって?
 馬鹿にしやがって。
 ならもっと早く言え、生きてるうちに言え。
 よりにもよって道了なんかに、てめえを殺した男に言伝頼むんじゃねえよ。

 『許してくれ』?
 『悪かった』?

 般若の形相で俺を痛め付けてた女が死に際に親の情けをもよおしたからって俺には関係ねえし興味もねえ、最期の最後に母親ぶんな、縋るな、頼るな、巻き込むな!
 俺はもうあんたの人生とはすっぱり関係ねえ、そうさ俺は自由さあんたの呪縛から解放されて刑務所で気の合ったダチとよろしくやってる、だからもう俺にかまうな見返りをもとめるなしみったれた泣き言で愛情釣るんじゃねえ!!

 道了の腕を振り払い衝動的に駆け出そうとする。
 死してなお執拗に纏わり付くお袋の亡霊から逃げ出したくなる。
 身の内で激情が荒れ狂う。
 憎んでも憎み足りねえお袋の事を完全に吹っ切れない自分に苛立つ。
 遺言を聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちがせめぎあい心を苛む。
 不安と期待と恐怖と欲求と愛憎と、色んなものがごった混ぜになって沸騰する。
 「売女の遺言なんか聞きたくねえ。もういねえ女の残した言葉なんか聞いても意味ねーだろ」
 見えない手を伸ばしひっついてくるお袋の亡霊を引き離したい一心で足を速め水溜りをぶち撒けネズミを蹴散らし剣戟の方角へ進む。
 剣戟の音が次第に高まり、人の気配が濃厚になる。
 ずっしり背中に食い込む道了を支え、麻痺した足をみじめにひきずり、もう片方の手を壁に突いて体を前に運ぶ。

 トンネルを抜ける。
 視界が開く。
 頭上に被さっていた天井と両側の壁が切れ、閉所の圧迫から解き放たれる。

 「!?っ、」
 壁が途切れてがくんと膝が砕ける。
 危うくすっ転びかけ慌てて体勢をたてなおす。
 道了の下敷きになりかけて息も絶え絶え顔を上げるや、眼前の光景に固まる。
 そこは広い空間だった。下水道の奥の奥、突如出現した闘技場だ。
 全部で五本の通路が放射線状に合流する中央には、直径20メートル程の円形の舞台が設えられている。
 俺がたった今くぐってきたのはその中の一本、地下闘技場に通じる控えの道。
 そこに見慣れたやつがいた。
 放射線状に通路が伸びたど真ん中、俺が出てきた通路の一本隣を背に、ざんばら髪の男が息を切らしている。
 「サムライ!?お前なんでここに……」
 サムライがいた。 
 ブルーワークの持ち場から離れたこんな場所でまさかお目にかかるとは思わず、仰天する。
 声に反応し向き直り、俺を認め驚愕の相を刻む。
 「ロン、お前……医務室にいるはずでは」
 「生憎ぴんぴんしてるよ。足が棒になるまで耐久徒歩できるくれーな」
 サムライは木刀を構えている。
 囚人服は泥だらけ、見ればあちこち傷だらけだ。
 精悍な面差しに緊迫の色を湛え、常から鋭い双眸はぎらつく険を孕み、荒んだ光を発している。
 汗と泥と血に塗れ悲惨な様相を呈すサムライの視線の先、背景の闇を従え悠然と人影が立つ。

 『その言葉は全地に響き渡り、そのことばは地のはてまで届いた』

 サムライの延長線上に対峙する長身の影に目を凝らす。
 闇に沈んだ男は、肺で膨らまし喉で豊潤に練った声を朗々と響かせる。 

 『主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下さってきました』

 体内の矢の場所を指し示すように太股におかれた掌が、下肢にそって艶かしく滑る。

 『あなたの憤りのため私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません』

 天上から舞い降りるような声に聞き惚れる。
 闇をまといて歩み出た影が、柔らかにかかる麦藁の髪の下、硝子じみた隻眼に底光りする狂気を宿す。

 『私の咎が私の頭を越え、重荷のように私には重すぎるからです。私の傷は悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。私はかがみ、深くうなだれ、一日中嘆いて歩いてます。私の腰はやけどで覆い尽くされ、私の肉には完全なところがありません』

 しなやかな大股の歩みにはえもいえぬ品が漂い、隙のない身ごなしが実力の程を明かす。
 猫科の猛獣じみた獰猛さを内に秘め、魅惑的な優雅さを醸し、思わせぶりな素振りで闇と戯れ、俺の前に立つ。
 前髪が清冽に流れ、眼帯の封印と神聖な微笑みを浮かべた素顔が暴かれる。
 狂気の底をのたうちまわった痕が刻まれた顔は、俺が知るレイジとは厳然たる隔たりがある。
 上辺は神聖さを装いながらも隠し切れぬ邪悪さが滲み出し、唇が裂けて歪んだ笑みを形作る。

 『私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています』

 暴君だった。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050206222552 | 編集
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