ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十六話

 「ふおっ!?」
 側面から轟音唸らせ尾が突貫する。
 襲撃者の姿は闇に紛れ認識できない。
 宙に吹っ飛ばされたヨンイルは慌てず騒がず、修羅場慣れした肝っ玉の太さで即座に落ち着きを取り戻し、適当な足場をさがす。
 見つけた。 
 撓めた腹腔から鋭い呼気を吐く。
 風切る落下の途中で手近の壁を蹴り反動をつける。
 強靭なバネを駆使し壁を一蹴り軌道を変更、重力の法則を逆手にとりあざやかに宙返り。
 「セーラームーンサルト!」
 道化の面目躍如とばかり曲芸じみた軽やかさで身を翻し、落下の速度に任せ四肢を折り畳み危うげなく着地。
 生まれ持った体の柔らかさに加え東京プリズンで体得した身体操作術はこれまでいくたびもヨンイルの窮地を救ってきた。
 それこそまさに道化が持てる最大の強み。
 格闘センスでは王に劣り腕力では隠者に劣りナイフの扱いでは皇帝に劣る道化が東京プリズンの一角をしめるゆえん。
 道化は空を制し地を覆す無重力の落とし子だ。
 重力を従わせ見事な着地を決めたヨンイルは、自分を襲った敵と改めて対面する。
 闇にうっすら浮上する小山の輪郭に目を凝らす。
 敵は床に這っていた。
 固い鱗で覆われた長大な尾と巨体に奇形じみて短い四肢を備え、裂けた口腔から剣山の如く生え揃った牙を覗かせる。
 白濁した黄金の眼は貪欲な捕食者のそれ。
 肉を噛み裂くのに適した牙は飢え狂った輝きを放ち執念深くヨンイルをつけ狙う。
 闇に蹲るものと対峙したヨンイルは、ニッと犬歯を覗かせ不敵な笑みを湛える。
 ヨンイルの顔を最も快活に引き立てる悪ガキじみた表情。
 人を惹き込まずにはいられない八重歯の似合うやんちゃな笑顔。
 「おどれか、俺に尾を上げたんは」
 ヨンイルの足元にひれ伏すのは悠に2メートルはあろうかという巨大生物。 
 苔でぬめる地面に腹這いになり、長大な尾をうねらせ、鱗でびっしり覆われた胴体を運ぶ異形の生物の目は不気味な黄金。
 無感動を通り越して無機質な黄金の目の凝視にも、ヨンイルはいっかな動じず余裕綽々と構えている。
 きゅっきゅっと小気味良い音を鳴らしゴーグルの位置を微調整、バンドを引っ張って額の真ん中に装着。
 九死に一生を得た証の弾痕も誇らしいゴーグルを額に掲げ、しばし思案顔を決め込む。
 顎を揉みつつ首を傾げ、まじまじと闇の底を這う敵を見る。
 「お見受けしたところ、あんさんはワニやな」
 いともあっけなくあっさりと、下水に潜む謎の怪物の正体を看破する。
 不躾すぎる好奇の眼差しに晒されても当然ワニは怯まない。
 それをいいことにヨンイルはますます図に乗り、隙あらばつつかんばかりに間合いのぎりぎりまで詰め寄り、生まれて初めて遭遇したワニをためつすがめつする。
 腕白小僧の本領発揮、意気揚々と腕まくりして肘まで剥き出すやいなや、ずっしりと地にひきずられた尾をなでようとする。
 「おっと」
 ヨンイルが手を触れる寸前、ワニが蝿でも叩き落とすかに尻尾を振る。
 まともにぶち当たっていたら跳ね飛ばされること確実の衝撃を、しかしヨンイルは難なく受け流す。
 咄嗟に手をのけて間合いを脱したヨンイルに反省の色はおろか深刻な危機感もなく、あと一歩のところでしっぽにさわれたのにと舌を打つ。 
 「つれへんなあ。握手は異文化交流の第一歩やろ、あんさんの場合手足が短いから尾っぽのが便利かと思うたのに」
 「な、なーにやってるんスかヨンイルさん!?」
 うろたえきった声にのんびり振り向く。
 ビバリーが血相変えて駆けつけてくる。
 異常を察し大慌ててで駆けて来たビバリーだが、当のヨンイルがぴんぴんしてることに安堵するのも束の間、その足元に蹲っているワニを一瞥、卒倒せんばかりに白目を剥く。
 「アンビリーバボー!!」
 仰天するビバリーをよそに、ヨンイルは恐ろしく場違いに砕顔する。
 「おお、ビバリーええとこきた。やっぱワニかこいつ」  
 中腰の姿勢から気さくにビバリーを手招きするも、そばには見るからに不機嫌なワニが、床と同化し無機物と化したが如く横たわっている。
 異様な光景に戦慄を禁じえず腰が引けるも、喉にひっかかる生唾を何とか飲み下し、顔面蒼白のビバリーは出来る限り冷静であろうと努める。
 「ヨンイルさんはなはなはな離れて、危ねっス危険っスそいつは雑食っス、インディ・ジョーンズの天敵っス!?」
 決意は口を開いた瞬間に霧散した。
 動揺のあまり舌は縺れ絡まり混乱は深まる一方、あわあわ泡ふくビバリーとは対照的にヨンイルは落ち着き払っている。
 度胸が据わっているのか単なる天然馬鹿なのか、人肉喰らうワニへの恐怖よりも好奇心が先行し、怖いもの知らずにもワニの方に手をさしのべ舌を鳴らしあやしにかかる。
 「そうか、やっぱりワニか。いや、俺も一目でワニやて直感したんやけどなにぶん見るの初めてやし自信がなくてな~。ワニなんて漫画でしか見たことあらへんし、あ、ワニといえばカイジの作者が描いた『ワニの初恋』は知られざる傑作やで!カイジの影に隠れて知名度低いのが惜しいけど表紙のキャバレーヤングエロのとほほ感も絶妙やし、三丁目の夕日系列でもうちょい評価されてええとおもうやけどな~。福本和行の下手っくそな絵と顎の張り出しがまたええ味だしとって……」
 「二次元ワニ語りはいいからヨンイルさん現実から目を背けないで、それワニすっから本物の!」
 痺れを切らしたビバリーが声を荒げ訴える。
 ビバリーの脳内スクリーンに今まさに豹変したワニがくわっと口を開きヨンイルの頭にかぶりつく衝撃の光景が投影される。
 頭に牙が食い込みだらだらと血を流しながらも噛まれた事に気付きもせず漫画語りを続けるヨンイルが容易に想像でき、もとよりスプラッタが苦手なビバリーは失禁寸前の恐怖の頂に達する。
 ただでさえB級スプラッタホラーの舞台装置は整いすぎているのだ。
 照明の破損した暗闇には無念の死を遂げた犠牲者の阿鼻叫喚の残響がたゆたっているようで、ビバリーはひしと耳を塞ぎ怨霊の幻聴を閉めだす。
 ビバリーの脳裏で繰り広げられる流血の惨事を透視かなわぬヨンイルは、危うく殺されかけたことさえ水に流し、ワニを手懐けようと夢中。
 片膝付いて屈みこんだヨンイルが構えば構うほど、気のせいかワニの目がぎらつく輝きを増し険しくなってくる。
 「ヨンイルさん気をつけて!怒ってるからそいつ!」
 「平気平気、タンノくんは噛んだりせえへんもん」
 「勝手に変な名前つけちゃ駄目っす、ほら、ますます目が逆三角に!」
 「イトウくんのがええんか。両生類やで」
 「そういう問題じゃねっス、ヨンイルさんあんたちょっとは空気読む能力身に付けてくださいっス!」  
 「空気は読むもんやなくて吸うもんやで」
 駄目だ、話が通じない。
 突っ込み疲れでぜいぜい息切れするビバリーをよそにヨンイルはちんまり座り込み右に左に首を傾げワニを覗き込む。
 眼前で手を振り下から見上げ上から見下ろし横から注視、逐一熱心に反応をさぐる。
 下水から上がりしなヨンイルを獲物と定め襲ったワニは、どうしたことか微動だにしない。
 獲物と定めた人間が一切怯えず騒がず纏わり付いてきて調子がくるうのか、ヨンイルが堂々としているせいで一度は獲物と認識した相手の実力を測りかね身動きとれずにいるのか、その心中は推し量るほかない。
 「だってヨンイルさん、そいつ明らかにこの惨状の犯人っスよ。そこかしこに転がってるスプラッタな肉塊とずたずたの端切れがあんたには見えないんスか、可哀想にここに迷い込んだ哀れな囚人どもはワニの餌食になっちゃったんス、ワニの胃の中で溶けてく運命で二度と地上に帰れねっス、とおからず僕たちもそうなるっス!」
 一向に耳を貸す気配のないヨンイルにビバリーは泣き笑いに似て哀れを誘う表情となり、手振り身振りで周囲の惨状を指し示す。
 照明もろくにない下水の暗がりに散乱する赤黒い肉塊と引き裂かれた端切れは、囚人たちが何者かによって食い散らかされた証拠。
 酸鼻を極めた惨殺現場すなわちワニの餌場と判明した今、ビバリーはひしひしと我が身の危機を痛感する。ヨンイルは全くもって気付いてないが、いつビバリーに標的が移るか予測不能で油断ができない。
 二の腕抱きしめ地団駄踏むビバリーは無視し、感心したふうにヨンイルがひとりごちる。
 「あの噂はホンマやったんな」
 「噂?」
 「東京プリズン七不思議のひとつや」
 ワニの頭をなでようと手を伸ばしてはまた引っ込め、微妙な駆け引きをしながらヨンイルは説明する。
 「むかしむかし、東京プリズンにワニ飼っとる囚人がおったんや。ちゅーてもこ~んなちっちゃい子供のワニやけどな。その囚人てのが大の爬虫類マニアで、看守に多額の賄賂を払ってペットのワニを譲り受けたんや。もちろん房でこっそり飼っとったんやけどすぐに図体がでこうなって、しまいには隠しきれんようになって、始末に困ったあげく便所にながしてもうた」
 「……マジっスかそれ」
 「俺が来た時からある古い話。ちゅーことはつまり、こいつは少なくとも七歳はイッとるわけや。ワニの平均寿命は知らんけど長生きなほうちゃうか?実際こんな環境でよくもまあしぶとく生き延びたもんやで」
 感心しきりに頷くヨンイルを疑り深い半眼で眺めるも、ふいに徒労を感じ長々と息を吐く。
 「とにかくヨンイルさん、ワニがじっとしてる今のうちに逃げ……」
 抜き足差し足忍び足。
 背負ったナップザックが揺れぬよう最大限の注意を払いその場を離れかけたビバリーだが、ヨンイルが一向に付いてこないことを不審がり、最大級の嫌な予感を胸にぎくしゃくした動作で振り返る。
 絶句。
 ヨンイルはワニに跨っていた。
 「あんた馬鹿だーーーーーーーーー!!!」
 ワニを刺激せぬよう極力物音をたてずにいたことも忘れ絶叫する。
 大胆不敵にも「よっこいせ」の掛け声とともにワニに跨ったヨンイルは、しれっとした顔で向き直る。
 「いや、ワニに乗ってひとっぱしりすれば速いやろ」  
 「無難に死にますよ!なんすかその調教に対する絶対的な自信!」
 「心配すな、二人乗りするスペースあるから。お前はケツにのっかれ」
 「あんたのケツにのる趣味はねっス!」
 「せやからワニに」
 「冗談じゃねっス!体張ってボケかますのも大概にしろっス関西人!」
 「俺韓国人やで」 
 「でも関西人っス!」
 「そりゃ否定せん。じっちゃんは生まれも育ちも大阪のコリアンジャパニーズでボケかます時は体張れ、突っ込みは命がけが家訓やし」
 「なんちゅーバイオレンスな家訓すか」
 とぼけた受け答えにほとほと疲れ果てたビバリーの眼前で、下克上が起きる。
 「あ」
 ワニが逆上した。
 それまでヨンイルにされるがままに徹していたワニが、獲物が無防備に乗っかった機に乗じ、長大な尾を撓らせ反撃にでる。
 ワニはこの時を待っていたのだ。
 愚かな獲物が図々しくも背中に跨り完全に油断する瞬間を。
 形勢逆転の好機を。
 激しく身を波打たせ獲物を振り落としにかかるワニ、その背に跨ったヨンイルは不意を衝かれ受身をとる暇もなく転落。 
 「いわんこっちゃない!」
 人の話を聞かないからだと内心毒づきながらも、底抜けにお人よしなビバリーは咄嗟にヨンイルを助けに走る。
 ほとんど条件反射、考える前に体が動いた。
 百害あって一利なし、損な体質というしかない。
 走りながら背負ったナップサックをはずし中身をあさり、ワニ撃退に役立ちそうなものをさがす。
 乾パンにハーシーのチョコレートにロープ、下水探検の必需品に混ざるのは迷子のリョウの為に持参した愛用の私物。
 ナップザックに手を突っ込みかきまぜるうちに、ふかふかしたものを鷲掴む。
 やたらふかふかした正体を察し、名案が閃く。
 ナップザックを抱えて疾走するビバリーの視線の先ではヨンイルが絶体絶命の窮地に直面している。
 「どあ、タンノ君てちょ、やめい、そんな大胆な!?」
 地に振り落とされまともに背中を打ったヨンイルの上にワニの巨体がのしかかる。
 ワニの頭を掴み懸命に押しのけようとするヨンイルだが、奮闘むなしくワニの頭は徐徐に下がり、口は限界まで開かれ、生臭い匂いただよう喉奥をさらす。
 ヨンイルとワニは激しく揉み合い上下入れ替わり輾転反側。
 ワニの頭を押しのけようと腕に力を込め精一杯あらがうも、天性の柔軟性に恵まれた道化もワニの怪力に押され刻々と劣勢に追い込まれつつある。
 強靭な顎が開いてぞろりと生え揃った牙が覗く。
 裂けた口腔に沿って並んだ牙はいずれも剣呑な代物で、ヨンイルの喉首をごっそり抉り取って咀嚼し嚥下する図が、ビバリーの脳裏に三秒後の未来として結像する。
 ワニがヨンイルにかぶりつかんとしたまさにその時。
 「アウチフライフライ!」
 懇々と湧き上がる恐怖に打ち克とうと呪文を唱え、ぬいぐるみのはらわたに手を突っ込む。
 綿に埋もれた手がプラスチックの筒を掴む。
 綿の中から引っ張り出した手が握るのは注射器、銀の針先を勢い良く振りかざし勇を鼓し突進。
 ヨンイルを押し倒し、その喉首を強靭な顎で抉り取ろうとしていたワニが、無粋な闖入者に気胡乱な目を向ける。
 無感動を通り越し無機質な瞳に見詰められ、飽食を知らぬ捕食者に対する本能的な恐怖に圧倒されかけながらも、ワニの下敷きとなり床に倒れ伏したヨンイルの姿が目に飛び込むなり、ビバリーは逡巡を吹っ切る。
 ヨンイルを救えるのは自分しかいない。
 がむしゃらに走りながら力一杯注射器を振り下ろす。
 ビバリーが掴んだ注射器は狙い違わずワニの甲殻を貫く。
 否。
 手に衝撃が伝わる。
 驚愕の面差しで固まるビバリーの眼前、彼が手にした注射器の針が甲殻にあたりへし折れる。
 「嘘ッ!?」
 甲殻の硬度に負けた注射針は弧を描いて闇に吸い込まれ、床で跳ねる。
 ワニの全身をおおう鱗はそれ自体鎧となり、あらゆる衝撃から身を守る役目を果たす。
 唯一といえる手持ちの武器を失ったビバリーは折れた注射器を片手にあとじさるも時既に遅し、ヨンイルからビバリーへと狙いを変えたワニが怒りも露に牙を剥く。
 食事を邪魔した行為が文字通り逆鱗にふれたのだ。
 「ぼ、僕なんか食っても美味しくねっスよ……ヨンイルさんのほうが引き締まっててお口にあうとおもいますよ……」
 とりあえずこの場に一番ふさわしい台詞を言い、とってつけたように笑う。
 ヨンイルを助け危地に飛び込むも、己が絶体絶命のピンチに立たされたと悟るや、底抜けのお人よしもさすがに自業自得の道化の身より自分の命を優先する。
 踵が水溜りに突っ込み飛沫がちる。
 ぎこちない半笑いであとじさるビバリー、折れた注射器では到底勝ち目がないと諦めて両手を挙げて降参の意を表明するも、怒り狂ったワニにジェスチャーの意味が伝わるはずもない。
 長大な尻尾がのたうつ。
 短い四肢が床を掻く。
 固体の実力差を嗅ぎ分けたか、ヨンイルよりビバリーの方が御しやすいと踏んだワニが、瞳孔の細い黄金の瞳に異様な光を湛える。
 ぬめり輝く目の脅威にも増してビバリーを畏怖させるのは、夢中でワニに襲い掛かった時には眼中になかった死屍累々の惨状だ。
 周囲はバラバラ殺人展覧会の様相を呈している。
 ビバリーが期せずして踏み込んだワニの縄張りには獲物の成れの果てが転がっている。
 端切れを纏い辛うじて人の形を留めているものはまだマシな方で、中には原形がわからぬほど引き裂かれ喰いちぎられ、腐敗が進み蛆の温床の挽肉と化しているものがある。
 頭と別れ別れになった胴体はさらに四等分され、暴かれた内臓は腐臭を発し、おびただしいネズミをおびきよせている。
 酸鼻な光景に込み上げる吐き気を必死で堪えつつも、遠からず自分もその仲間入りをするのだと思い至り、戦慄が走る。
 「ひっ、ひっ、ひあ………」
 水溜りを踏んで退避するビバリーをワニは周到に追い込む。
 ビバリーが一歩遠ざかるごとに一歩間合いを詰め常に等距離を保ち、いよいよ壁際に追い詰めたとみるや、口が裂けているせいでもとより笑っているかに見える顔を邪悪に歪めてみせる。
 「オーマイゴッ……ヘルプミー……」
 壁を背に追い詰められたビバリーは、リョウの匂いが染みこんだテディベアを抱きしめ、祈る。 
 ワニに襲われ食われようがこれだけは手放さないと意を決し、我が身を挺しテディを守ろうと深々抱え込む。
 テディベアに顔を埋め震えるビバリーのもとへ、水溜りを弾く足音が忍び寄る。
 「俺 参上」
 反射的に目を開ける。
 テディベアから顔をはがし正面を向く。
 瘴気を発し迫り来るワニの向こうにすっくと立った影が、五指に挟んだ癇癪玉を翳す。
 ゴーグルの下に不敵な笑みが浮かぶ。
 「消えるでぇ」
 ヨンイルが癇癪玉を投擲した次の瞬間、凄まじい爆音とともに濛々たる白煙があたりを押し包む。
 きな臭い匂いが立ち込める中、白く染まる視界に往生するビバリーの腕をヨンイルが掴んで走り出す。
 いつのまにかゴーグルを装着し煙避けの予防策を講じたヨンイルは、激しく咳き込むビバリーを強引に引っ張り、水溜りが点在する通路を猛然と走り抜ける。
 「残っとってよかったな、煙玉」
 「二度も同じ手使うのはどうなんすか!?」
 「道化の目くらましは三度まで有効さかい。て、ブッタが言うとる」
 「マンネリ化は少年誌における最大の禁忌っすよ!」
 友情努力勝利の合言葉を胸に、水溜りを跳ね飛ばし雫をきらめかせ疾走する。
 青春の素晴らしさを体現する活力漲る走りを見せるヨンイルとは裏腹に、ビバリーは既に疲れ気味で息を切らしている。
 爽快に笑うヨンイルに抗議するビバリーだが、何か重たいものをひきずる音……たとえるならぬれた砂袋を引きずるような、生理的不快感を煽り立てる音が背後に忍び寄り、嫌な予感がむくむく膨張する。
 「ヨンイルさん」
 「なんや」
 「……ワニって案外、はやく走るんすね」
 煙幕を突き破り、ワニが躍り出る。
 不恰好に短い足からは想像できぬ素早さでもって瞬く間に距離を詰め、正確にヨンイルとビバリーの後を追尾する。
 駆けるよりもむしろ這うほうが速い。
 疾駆に適さぬ短足は、しかしひとたび腹這いとなれば、自重を前に押し出す強靭な櫂となる。 
 「振り向くな。死ぬで」
 「現在進行形で死へのカウントダウン五十秒前ってかんじっすが」
 全身に冷や汗が流れる。背後で水溜りが氾濫し飛沫がとぶ。
 ヨンイルと並んで逃げながらビバリーは死に物狂いで出口を模索する、とりあえずワニを巻くのが先決と適当な小路をさがし右へ左へ顔を傾げる。
 「そうだ、こんな時こそゲームボーイを……」
 白い息を弾ませながら懐をまさぐるビバリーの隣、疲労など微塵も感じさせぬ軽快な足取りで飛ばしながら、ヨンイルは神妙に呟く。
 「………まずいな、こりゃ。タンノくんキレとるで」
 不吉な予言は一秒後に現実となる。
 「どわっ!?」
 烈風が頭上をなぎ払う。
 ヨンイルがビバリーにとびかかりむりやり頭を押さえ込んでいなければ、まともに後頭部に直撃していた。
 頭上を掠め去った烈風はワニの尾の一振り。
 太り肉の尾を勢い良く撓らせ、刈り込むような一撃を加えるも間一髪かわされ、無力と決め込んだ獲物の予想外のしぶとさにワニが猛りくるう。
 いよいよ捕食者の本性を剥き出したワニが猛然と尾をふるう。
 足をすくわんと地を打擲、しかしヨンイルは縄跳びの要領でこれを軽快に跨いで回避、つられたビバリーもまた縺れる足取りで危なっかしく尾を跨ぐ。
 目標を逸した尾は圧力を増し二人を狙う。
 特大の鞭の如く撓ってやみくもに地を乱打、次から次へと放たれる尾の追撃をしかしヨンイルは鮮やかにかわす。
 照明もろくにない暗闇で、地面は水溜りが点在し足場が最悪だというのに、踝をかすめるように、または踵を削るようにして地を穿つ鞭を、交互の足に重心を移しひょいひょい回避。
 跨ぎ、飛び越し、翻る。
 シャツの裾がはためき、引き締まった腹筋に龍がうねる。
 愉快げに跳んで跳ねてを繰り返すヨンイルとは対照的にビバリーは疲労困憊、絶望的な顔で弱音を吐く。
 「ヨンイルさん僕そろそろ死にそうっス……ワニに食われておだぶつしそうっす……」
 「がんばりやー。ゴールはすぐそこやー」
 間延びした声援のせいでさらに脱力。
 へとへとのビバリーに根拠のない励ましを送るヨンイルだが、ふとまわりを見回し疑問を抱く。
 「せやけどなんやまわりの様子がかわってきたな。今どのあたりかわからんけど……道がさらにこんがらがって……気のせいか水位も嵩んどるし」
 ワニから一心不乱で逃げ回っているうちに、周囲の光景はもう一段階変化を遂げる。
 さっきまでちらほらと見かけた照明は既にどこにも見当たらず視界は最悪、道幅はさらに狭まり、通路に沿って設けられた水路はその分面積と水量を増す。
 マンホールを降りた時点では腰までだった水位が今や目測で首のあたりまでとなり、水の勢いも怒涛を打って激しく、転落したらひとたまりもない不安を抱かせる。
 どうやら周囲の水路から水が合流しているらしい。
 注意して見渡せば、壁に設けられた排水溝から絶え間なく新たな水が注ぎ込まれている。
 「ミュータントタートルズがおりそうやな」
 「はいはいおりそうですね、ピザ頼んでそうっすね」
 深刻さのかけらもなく呑気な感想を口にするヨンイルにもはや突っ込む気力もないビバリーの膝を、衝撃が襲う。
 「え」
 油断した。
 息ひとつ乱さぬヨンイルの軽口に素で返した一瞬の隙に、膝裏に豪速の尾を叩き込まれた。
 体がぐらりと揺れる。
 ビバリーの膝裏を見舞った衝撃の威力は絶大で、そのまま膝を折りバランスを崩したビバリーの体は、真横を走る水路に倒れこむ。 
 水音に続く水柱。
 体がぐらりと揺れ浮遊感に包まれ天井とヨンイルが遠ざかり、ビバリーは自分の身に起きた出来事を正確に把握する暇もなく、突如として気管に流れ込んできた大量の水にむせかえるはめになる。
 柔軟な水の皮膜が幾重にも体を包み毛穴の呼吸を妨げる。
 背中に当たって砕けた水面は瞬く間にビバリーを吸い込み服をぬらしへばりつかせる。
 「ちょ、あぶ、水、みずがっ、ぶは、たすけ、ちょ………」
 口から出る声は半ば泡となって消える。
 水面に浮上した瞬間に助けを求めるも、水圧に負けて再び押し流される。
 開けた口に水が流れ込む。
 さしのべた手がむなしく宙をかく。
 水の流れは予想以上に速く激しい。
 壁に設けられた排水溝から続々と新たな水が注ぎ込まれるせいで、ビバリーは一向に岸に這い上がることはおろか近寄ることすらできず、その体は荒波に揉まれめまぐるしく錐揉み回転しながら遠くへ運び去られる。
 一瞬たりともとどまらず水流に乗じ移動を続けるビバリー。
 耳の穴に水圧が蓋をして音が歪曲する。
 膜の張った耳が叫びをとらえる。
 「ロープ投げい!」
 ヨンイルだ。
 落ちるぎりぎり水路に沿って走りながらビバリーの方へと目一杯手を伸ばし、ロープを投げろと催促する。
 ロープ。
 そうだ、ロープだ。命綱さえあれば岸に上がれる。
 ヨンイルに叱咤され、一縷の希望に縋ってナップザックを探る。
 しかし濁流に揉まれ流される途上のビバリーにナップサックからロープをとりだせというのは無理な相談だ。ビバリーは到底それどころではない、少しでもながく水上に顔を出し時間が許す限り酸素を貪るのに必死でそれ以外の事を考える余裕がない。
 次から次へと水が殺到し、逆巻き渦巻き荒れ狂ってはビバリーを翻弄する現状では、最低限生命維持に必要な分の空気を貪るだけで精一杯なのだ。
 ビバリーは死に物狂いでもがく。
 両手両足をばたつかせ水をかき、あるいは蹴り、どうにかして水面に出ようと悪戦苦闘する。そうこうしている間にも水の重圧は増し、ビバリーの手足を絡め取る縛鎖となる。
 ヨンイルの顔が初めて焦燥に歪む。  
 「しゃあないなあ」
 ぐいとゴーグルを下げおろし顔を覆い、胸郭を上下させおもいきり息を吸い込む。
 肺を酸素で膨らますや、ヨンイルは軽やかに地を蹴る。 
 タン、と靴音も軽快に、次の瞬間派手な水音と水柱とともにヨンイルは水中に没する。予め息を止め両手を開閉し水をかき分け進めば、ほどなくして前方に溺れかけたビバリーを発見。もはや手足をばたつかせる元気もなく、水に沈んだまま浮き上がらずにいるビバリーへ水を蹴って近寄り、片腕を担いで抱き上げる。
 爪先が水底を蹴る。
 反動を利用し急浮上、ビバリーを伴い水面に顔を突き出す。 
 「しっかりせえビバリー、こんなところで溺れ死んだらロザンナが泣……きはせんけど、フリーズするで」
 ビバリーの首の後ろに手刀を入れる。
 とんとんと首の後ろを叩かれたビバリーは、肺から大量の水を吐き出し、息を吹き返す。
 「げほっごほがほっ!」
 激しく咳き込むビバリーが腕に抱えているびしょぬれのぬいぐるみを一瞥、ヨンイルがあきれたふうに笑う。
 「そんなに大事なもんなんか、それ」
 「リョウさんの友達っすから」 
 青白い顔のビバリーを抱え直し、彼が背負うナップザックを開き、素早く中身を選り分けロープを掴みとる。
 「ヨンイルさん、ワニはどうしたんすか?水の中まで追ってきたりしませんよね?水の中は独壇場っすよ」
 「タンノくんはどっか消えてもた。一難去ってまた一難や」
 心なし残念そうにヨンイルが言う。
 排水溝から吐き出される水が砕けて結ぶ波頭を絶えず二人に被せる。
 ビバリーを抱えた不自由な体勢から片腕でロープを手繰り、互いの体に巻いてしっかり固定する。
 しおれた髪の先から大粒の雫を滴らせヨンイルが言い聞かせる。
 「ぶっちゃけ今離れ離れになったらおわりや。お前はゲームボーイもっとるからまだええけど、俺はさっぱりお手上げの状態で帰り道もわからん。二人ともはなれんようにするんが肝心や」
 「溺れ死んだらおもりになりません?」
 「阿呆なこと言うな」
 「足手まといっすよ、僕」
 「それ以上言うたら怒るで」
 「さっきだってヨンイルさんひとりならタンノくんから簡単に逃げられたのに……」
 「こらっ!!」 
 耳元で大喝が爆ぜる。
 至近距離で怒鳴られ耳がキーンとする。
 水圧の膜を破って鼓膜を貫いた怒鳴り声の主は、珍しく怖い顔のヨンイルだ。
 水に飛び込んだ際に頭といわず服といわずびっしょりぬれそぼり、普段ヤマアラシのように立っている髪が弾力と硬度を失い垂れ下がり額を覆い、さらに幼い顔立ちになったヨンイルがゴーグルの奥で目を細める。
 「お前には貸しがある」
 「貸し?」
 きょとんとするビバリーの団子鼻にひとさし指をつきつけ、歯切れ良く啖呵を切る。 
 「こないだ借りた手塚治虫のブッタ五巻、まだ返してへんやろ。きちんと図書室のもとの場所に返すまで死ぬんは許さへんで。何度も何度もお前らの房たずねて家捜しするんはお断りじゃボケ、たまには自分の足で歩いて返しにこい」
 骨の髄まで漫画を愛する道化の喝に、ビバリーはもう笑って従うしかない。
 「は、はは…………」
 力なく笑いながらビバリーの意識は急速に遠のいていく。
 先ほど水を飲みすぎたらしい。
 長時間下水道を歩き回った末に濁流に揉まれ体力は底を尽きている。犬掻き程度しかできぬビバリーが岸に這い上がるのは不可能、ビバリーと腰を繋いだヨンイルもまた激しい濁流に抗い岸に辿り着くのは至難の業。
 なお悪い事に、水深は今や1メートルを悠にこす。
 どうやらこの水路は徐徐に傾斜してるらしく、先にいくに従いますます深くなっていくことが予想される。
 「くそっ、俺がバタアシ金魚のカオルならこんな流れソノコ会いたさにらくらく渡ってゆけるのに……!負けるな俺、ここで巻けたらあかん、向こうにスクール水着の二次元美少女がおると思い込むんや、飛び込み台の上でスクール水着の美少女があはーんうふーんしとると思え、スクール水着といえばあのぱっつんぱっつん感がたまらんな、特に6ー2とか名札はってあるとええかんじや、平泳ぎできん女の子がプールサイドでひとりぽつねんとバタ足しとる絵なんか想像しただけで辛抱たまらんっ、可愛いあんよと小ぶりな尻にむしゃぶりつきたい、俺もうブラックロリータ団の首魁でええ……」
 「ヨンイルさん遺言にしちゃ長いっスよ……」
 「そんな冷たい目で見んといてや直ちゃん……」
 「せめて五十字以内にまとめてくださいっス……」
 「スクール水着万歳……」
 「遺言がそれでいいんスか……」
 轟々たる水音が耳を聾する。
 鼻の穴耳の穴口から水が流れ込み、ビバリーの意識はふっつり途切れる。
 意識を失い重荷と化したビバリーを腰に繋いだヨンイルは、スクール水着万歳と呟きながら岸に泳ぎ着こうとしたが、流れが速く一向に距離が縮まらない。
 四肢にからみつく水が容赦なく体力を奪う。
 体は芯まで冷え切っている。
 おまけにビバリーは重く腕にずっしりこたえる。
 片手をビバリーに塞がれた状態で岸に泳ぎ着くのは困難を極める。
 歯を食い縛り余力を振り絞るも、その体は濁流に揉みくちゃにされ岸から遠ざかるばかりで、水圧にあらがう腕が次第にだるくなってくる。
 いよいよ力尽きる時が来た。
 ビバリーを引きずり懸命に岸に泳ぎ着こうとしたヨンイルだが、志なかばにして体力の限界に達し、視界の明度が急激に落ち始める。 
 あとからあとから襲いくる波が背中を打擲、ヨンイルの思惑とは真逆の方向へと彼らを運び去る。
 先刻まで見えていたプールサイドではしゃぐ美少女達の幻が、よく知る少年の姿に取って代わる。
 頭から水をかぶってせわしく浮沈しつつ、妄想と願望が綯い交ぜとなった朦朧たる表情でヨンイルは呟く。
 「直ちゃんのスクール水着万歳……」 
 夢見る遺言を残し、ヨンイルの意識もまた途切れた。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050207045802 | 編集
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