ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集
三十二話

 「逃げたらとって喰うぞい」
 雨合羽を羽織った謎のおばあちゃんは背後にでんと踏み構えて退路を塞ぐ。
 「悪い魔女に生け捕りにされた可憐な処女二人ってかんじね」
 「君オトメじゃないし僕処女じゃないから」
 ぶりっこして耳打ちする貞子に釘をさす。 
 漆黒の雨合羽が魔女装束めいて似合いすぎる謎の老婆は僕らのやりとりを聞いてるのかいないのか泰然たる態度を崩さない。
 先頭の女の子ー確か梅花って名前だーが一段上に足をかけるたびに「大丈夫かい?」とはらはら気を揉んでる。
 そんな姿はまるっきり孫娘の体調を心配する世話好きばあちゃんだけど騙されちゃいけない、僕はまだ二人への警戒を解いてない。
 油断は禁物だ。
 なんたって僕が今いる場所はちょっと前まで存在すら明かされなかった未知未踏の領域、東京プリズン地下に広がる旧下水道奥の魔窟。
 魔窟。
 はからずもその表現は的を射てる。
 足裏に体重を乗せれば階段が不吉に軋む。
 よくよく注意して目を凝らせば壁も階段も傷んでいる。
 少なくとも築三十年は経過した老朽建築だ。
 壁に穿たれた換気用の窓から覗けば壮観の一語に尽きる混沌たる光景が広がってる。
 家々の窓から縦横無尽に張り巡らされたロープにひっかかった洗濯物が視界を埋め尽くし、上から下へ右から左へあるいは斜めに、幾何学的に交錯した梯子が住民の交流を助ける道の役割をなす。
 あえて似た光景を挙げるなら九龍城が近い。
 前世紀香港に存在したっていうスラムをそのまま移植してさらに無国籍にしたら街の景観が出来上がる。
 「なんなんだろーね、ここ……プリズンの下に街があるなんて初耳だよ?」 
 「私だって驚き桃の木ナッキーはつむじ風よう。こんなでっかい街があってなおかつ人が住んでるなら地上に雑音が聞こえてきてもよさそうなものなのに今の今まで全ッ然気付かなかったわ」
 しゃなりしゃなり腰をくねらせ練り歩きがてら貞子が頬に手をあて慨嘆。
 「同感。あんだけ人がいてよく気付かなかったもんさ。特にイエローワークの連中、あんだけ地面を穴ぼこだらけにしてんなら何か気付いてもよさそうなもんだけどよっぽど鈍感揃いなんだね。ロンはじめ」 
 イエローワークの顔ぶれを考えれば頷ける。
 ロンも凱もまさか自分の足元に一個の街があるなんて想像だにしないだろう。馬鹿だからね、あいつら。
 僕はといえば同じイエローワークでも特別待遇の温室組でかんかん照りの砂漠に出る事なんて滅多になかったし(だって自慢のすべすべお肌が焼けちゃうっしょ?)足元で起きてる異変にも気付きようなかったのだ。
 僕がビニールハウスで水播きしたり卑猥に曲がったキュウリやたわわに熟れたイチゴを収穫してる時も、足元で刻々と街が構築されてた事実を自覚、不思議な感慨を覚える。
 妙な気分に浸りながら急傾斜の階段を上る。
 「にしても長い階段だね、万里の長城並じゃん。ね~まだなのゴールは?」
 舌ったらずに甘えた口調で不満を訴える。
 「文句があるなら帰るがよろしい」
 すげなく一蹴され首を竦める。
 「んなこと言ったって無理だって、も手遅れってかんじ。大体帰り道なんかわかんないし、途中にはあの分厚い壁が立ち塞がってるし、いくら僕がインディ・ジョーンズ並の冒険家でも地上に生還するのは不可能だよ」
 「物分りのよい童じゃて」
 間延びした声で老婆が笑う……やな感じ。むかつく。人の不幸を嗤うなってママから教わんなかったの?
 呑気な老婆に反感を覚えながらも帰り道もわからぬ現状ではむかうのは不利と判断、不承不承つきしたがう。
 階段では声がこもって聞こえる。
 ここの住居は不思議な造りをしてる、みな壁の内部に埋め込まれているのだ。
 壁を掘り抜いた階段を黙々と上る。
 壁には落書きがあったり番地を示す札が貼られていたりと色彩にとんで賑やか。
 今何階だろ?……わかんない。
 途中ドアを見かけた。
 かなり古いタイプの合板のドアで横手にポストが埋め込まれてるけど需要あんのかなと疑問が過ぎる。ドアや壁の至る所にべたべたお札が貼られてる。
 なんのおまじないさ、これ?
 書いてある文字は意味不明、漢字を達筆に崩したような霊験あらたかっぽい札がおどろおどろしい瘴気を放って掲げられるさまはいっそ壮観。
 中の一枚に顔をくっつけしげしげと眺めやる。
 白地に抽象的な縁取りを施した朱文字が踊る短冊。
 「砕邪符じゃよ」
 「はじゃふ?」
 「簡単に言えば魔よけの札じゃ」
 おっかなびっくりお札をつつく。……反応なし。
 なーんだ、ちょっとどきどきして損した。
 「めっ。ばちあたりよ」
 貞子が怖い顔をする。
 「はあーい」とお利口さんに返事、指を引っ込める。
 にしても厳重な結界だ。
 こんだけ大量のお札が貼られてるならさぞかしご利益あるだろうなと呆れる。
 なんというか、がめつい。
 苦しい時の神頼みっていうけど欲張りすぎじゃないかなとひっかかる。
 第一気味が悪い。あちらこちら見渡す限りにお札が貼ってあるせいで魑魅魍魎が跋扈する魔窟めいて不吉な雰囲気に拍車がかかる。
 物珍しくあたりを見回しながら階段を上る。
 そろそろ息が切れてきた。
 もともと僕は体力がない。ちょっと走っただけで息切れする有様だ。
 覚せい剤のやりすぎ?……うるさい。
 とにもかくにも血の代わりにコカインが流れてる僕は、運動能力が殆ど絶望的で、終点に辿り着く前に階段の半ばでぶっ倒れそうな疲労困憊の相を呈する。
 「やーねーリョウちゃん、行き倒れたらおいてくわよ?」
 「貞子冷たい」
 「おんぶしたげよっか」
 「……やっぱ捨てといて」
 くわばらくわばら、どこに連れ込まれるかわかったもんじゃない。
 妊婦を水先案内人にした縦一列の行進は唐突に止まる。 
 「ここよ」
 三畳しかない踊り場に立ち、梅花ちゃんがおなかを庇って振り返る。
 飾り気けない笑顔に不覚にもどきっとする……長年の刑務所暮らしで異性に対する免疫力が思いがけず低下してたらしい。

 ああもう、しゃんとしろ。

 自分を叱咤し気を引き締めて顔を上げる。
 梅花ちゃんが立ってるのは一個のドアの前。
 他のドアと同じくやっぱりお札が貼られてる。
 達筆すぎて解読不能な漢字が連鎖する短冊を表札代わりに掲げたドアは、歳月を経てペンキが剥落しみすぼらしい地金を晒してる。
 ドアだけで中の様子が推察できる典型的な貧乏人の住まい。
 「……僕とママが暮らしてたアパートだってもうちょっとマシだよ」
 あちこち陥没して隙間風吹き抜けるドアに軽く引く。
 僕とママも決してお金持ちとはいえない生活だったけど、さすがにここまで酷くない。
 下には下がいるもんだなあと感心、処世訓を得る。
 梅花ちゃんは笑みを絶やさず僕と貞子を見比べ、ノブを握る。
 「どうぞ。遠慮せずに上がって」
 ノブを捻ると同時に抵抗なくドアが開く。
 「鍵かけてないの?物騒だね」
 「盗られるもんもなし警戒には及ばんよ。第一ワシの家に盗みに入る命知らずがおるもんかね」
 東太后を名乗る老婆がそれにふさわしい態度のでかさで僕と貞子を押しのけ前に歩み出る。
 脇に控えた梅花ちゃんを促し続いて自分も入室、框で長靴を脱ぐ。
 どうしよう?
 貞子と顔を見合わせる。
 入室の許可をもらってもいざ上がるとなると躊躇われるもんがある。
 「一番貞子いきまーす」
 「いくの!?」
 ……躊躇ってたのは僕だけだったらしい。
 遠慮会釈とは無縁の大胆さでもって貞子がちゃっかり入室、礼儀正しく靴を脱いで揃える。
 甲斐甲斐しく靴をそろえるさまを見ていい奥さんになりそうだなと普通に思うあたりだいぶ毒されてるね、僕。
 いつまでこうしてても埒が明かないと意を決しえいやっとドアをくぐりぬける。
 敷居を越えた途端、空気に溶けてただよう独特の匂いが鼻腔を突く。

 意外にも室内はこざっぱり片付いていた。
 間口が狭い部屋の中は薄暗く、うらぶれた薬局を連想する饐えた匂いがこもってる。
 四人入れば満員になっちゃう六畳半の狭い部屋に、整然と区切られた小箱やら分類札を貼られたガラス瓶やらが並んでる。
 匂いの正体はこれだと直感、好奇心が赴くまま靴を脱いで近寄ってみる。
 干からびた甘薯や乾燥した根っこのたぐいが犇く瓶のラベルに目を走らせる。
 胃風湯、胃苓湯、柴陥湯、柴胡加龍骨牡蠣湯………ちぇっ、むずかしくて読めないや。
 「漢方薬がそんなに珍しいかい、わっぱ」
 中腰の姿勢で振り向く。老婆がにこにこと笑ってる。
 ただでさえ皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにした笑顔は愛矯たっぷりで好々婆なんて造語を付与したくなる。
 「どうりで変な匂いがすると思ったらこのせいか」
 「変な匂いとは失礼じゃね、由緒正しい効き目がある中国四千年の知恵にむかって」
 「東太后は租界の皆に頼りにされる漢方医よ。私も随分お世話になったわ。おかげでつわりもすっかりよくなったし」
 憤慨する老婆を梅花ちゃんがなだめる。
 よくできた娘さんだ。
 「ところでその東太后って本名?私とおなじ源氏名?」
 貞子が対抗心剥き出しで尋ねる。老婆はそれには答えず近場の円椅子に腰掛ける。
 立ちっぱなしも何なので僕と貞子もそれにならい椅子に座、ろうと思ったらないから仕方なく板張りの床に座る。
 梅花ちゃんが台所に立ちなにやら作業を始める。
 てきぱきと慣れた手つきで瓶の蓋を開け立ち働く梅花ちゃんを本物の孫みたく慈愛溢れる目で一瞥、老婆がこっちに向き直る。 
 「あだ名みたいなもんじゃ。本名はさて、長らく呼ばれることがないから忘れてもうたわい」
 声色に感傷の翳りは微塵もなくあっけらかんと開き直る。いっそ清清しいまでの吹っ切りよう。
 「聞きたい事は山ほどあるんだけどなにから聞いたらいいかしらね……」
 「隠し立てせん。なんでも聞いとくれ」
 「じゃあお言葉に甘えて」
 貞子が深呼吸し、機関銃の如く言葉を発する。
 「『九龍租界』ってなんなの?この街はなに?ここに住んでる人たちはいつどこから沸いてでたの、おばあさんあなたは一体何なの?」
 飛び交う疑問符、放たれる猜疑の眼差し。
 迫力満点身を乗り出した貞子の詰問にも老婆は一切動じず、優雅な動作で窓枠にのせた煙管をとるや長閑に燻らす。

 華奢な煙管からゆぅるり紫煙がたなびく。
 堂に入ったじらしぶりについ引き込まれる。
 話術の一環だとしたらかなり憎い演出。 
 椅子に腰掛けた老婆が窓の向こうに視線を馳せる。
 窓の向こうに広がるのは空中で交錯する無数のロープと洗濯物、市が立つ鉄橋。
 物売りの呼び込みや通行人の話し声に子供の歓声など猥雑な喧騒が流れてくる。

 活発に走り回る子供たちの姿に目を細め、骨の尖りがめだつ痩せさらばえた首を伸ばし、深々一服。
 ついで紡がれた声は、半世紀におよぶ歳月に怒りも哀しみもあらゆる感情が風化して砂塵の如く乾ききっていた。

 「棄民政策じゃよ」
 「え?」

 窓枠で煙管を叩き灰を落とす。
 相変わらず窓の向こうの喧騒に目をやったまま、滅びた王朝の后と同じ名をもつ老婆は淡々と語り始める。
 「おぬしらは半世紀前の新都市計画についてどれくらい知っとる?」
 「えーと……パソコンで調べたから大体は。たしか移民や難民で日本の国土がいっぱいになっちゃって、困った政府が都心の地下にゲットーを作ろうとしたんだよね?」
 「そういうことになっとるのかい」 
 口の端を皮肉に歪める。
 削げた喉を震わせ飄げた笑いをたてる老婆に鬼気迫るものを感じる。
 煙草を蓮っ葉に咥える仕草が妙に絵になる老婆が、婀娜っぽい笑みを覗かせる。
 往年の美貌を彷彿とさせる、枯れてはいても艶かしい笑み。
 「ぬしらに葬り去られた歴史の真実とやらを教えやるぞい。この国はなんでも臭いものに蓋主義じゃからの」
 若かりし頃の美貌を彷彿とさせる妖艶な笑みを浮かべ、不敵な弧を描く唇から煙管を遠のける。 
 「今から半世紀前の話じゃ。おぬしらが生まれてくるずっと前の昔話じゃよ。その頃からこの国は増え続ける移民と難民に悩まされておった。中国台湾韓国を筆頭に東南アジアに至るまで、治安の悪化を逃れた移民難民が大挙して日本に流れ込んできたのじゃ。新天地を求めてな。ところが日本の国土は狭く、とてもじゃないが逃れてきた外国人全員を受け入れる度量はない。そこで持ち上がったのが例の計画じゃよ」
 「東京アンダーグラウンド計画ね」
 「そうじゃ」
 貞子の相槌に我が意を得たりと首肯、煙管を一服。
 「地上はもう満杯だから地下にお引越し願おうって計画じゃ。要は住み分けじゃよ。純血の日本人は地上に、ネズミのように繁殖し続ける外国人は地下に押し込めて治安と景観をよくしようと思ったんかね。ワシが日本に来たのはその頃じゃ。
 ワシの父祖は何を隠そう今はなき本場九龍城の出でね、けれども九龍城が建て壊されてからはにっちもさっちもいかなくて、下町の物売りで糊口をしのいどったんじゃよ。あの頃はどこもそうだけど、香港の治安も悪くてねえ。北朝鮮さんにすわ武力介入かって気運が盛り上がって空気がぴりぴりして、脱北者の取締りはさらに厳しくなって、地元民のワシらにまで警察が四の五の言いだすようになったんじゃ。ワシが日本に来たのはね、旦那が死んだからじゃよ」
 「旦那さんが?」
 「そう。こいつがまた要領の悪い男でね、下町の屋台引きの分際で刑事と揉め事をおこしちまってね……この刑事ってのがとんだワルで、賄賂を渡さないなら縄張りから出てけって脅迫したんだよ。旦那は断った。そしたら両腕を折られてドブに放置され、丸一昼夜経って発見された頃にはもう冷たくなっとったよ」
 「ひどい……」
 貞子が眉をひそめる。
 東太后は諦念を滲ませ首を振る。
 「さて、困ったのはワシじゃ。稼ぎ頭を失って、育ち盛りの子供を三人抱えたワシは貧窮した。旦那の後を継いで屋台を引こうにも警察に目を付けられてるし、一番下は赤ん坊で目が放せないしねえ……悩んだ挙句、親戚を頼って日本に渡ることにした。けれどもいざ来てみればとてもじゃないがお前たちの面倒を見る余裕はないと言われる。困りきったところに降って湧いたのが、政府の募集じゃよ」
 「募集?」
 「『都心地下に外国人居住区新設予定。つきましては入植者第一団を募集します』」

 シャツの下で心臓が跳ねる。

 「第一団って……だって、データベースにはそんな事一言も」
 「そりゃそうじゃ。地震のどさまぎで消された歴史だからの」
 思わず抗うも泰然自若と受け流される。
 「その時点ではもう入植者の第一群が出発しとったんじゃよ。五十人から百人の小規模だけどね、道は貫通しとったし基礎の基礎の部分の工事は終わっとった。住み心地を聞くって建前で、年寄りと女子供ばかり優先的に集めた先遣隊が送り込まれたんじゃ。その中にワシもいた。子連れでちゃっかり紛れこんどった。これで漸く安住の地に着けると楽観して、お天道様が拝めなくても人並の生活が出来るならと……」

 椅子が軋む。
 東太后が姿勢を変えこちらに向き直る。
 皺に埋もれた眼窩の奥、強い光を宿した目が僕を射抜く。
 手練の女衒じみて玄人っぽく窄めた口から吹いた紫煙で輪っかを描き、ゆるゆるとかぶりを振りながら東太后は嘆じる。

 「ところがあの地震じゃ。あの地震で計画はパアになった」
 「おばあさん達はまさか……生き埋めにされて、残されたの?このドブくさい真っ暗闇に?『なかった』ことにされて?」
 追及には応じず悠揚と煙管を吹かし、語られる内容とは裏腹にのんびりした調子で言ってのける。
 「ワシらにとって幸いだったのはそれでも街の根幹の部分はできとった点じゃ。食糧と飲料水も何か月分かは支給されとったしの」
 「だってそんな……政府は助けようとしなかったの?地下に人がいるのはわかってたでしょうに」
 「生存を絶望視されたか、もしくは……」
 「もしくは?」
 「はなから見殺しにするつもりだったか。なにせあの地震じゃ日本人にも大量の死傷者がでたからの、地下に送り込んだ外国人の救出が後回しされてもしかたない。自国の一大事に勝手な理想を抱いて大挙した移民難民の尻拭いまで出来るもんかい。それでも何割かのしぶとい連中が生き残った。落盤で道が塞がれて地上への帰還は絶望的、ワシらは地中暮らしをよぎなくされた。先にも言ったが数か月分の食糧は蓄えられとったし、生きのびれんこともない。待っとればそのうち『上』が助けにくるかもしれんしの」    
 「こなかったのね」
 「こなかったからここにおる」

 東太后は挑戦的に瞳を輝かせる。
 不撓の精神力を感じさせる瞳の輝きに圧倒される。

 僕にはわかる。
 これは、修羅場を見てきた人間の目だ。

 「本格的に捨てられたと気付いたのは半年が過ぎた頃じゃ。一部の連中はパニくって暴動をおこしたが大半は落ち着き払っとったね。達観してた。もとより死にぞこないのジジババと外に出たっておまんま稼ぐ手立てのない女子供ばっかだからね、上でも下でも大して状況はかわらん。助けがこないなら仕方ない、開き直ってここで暮らすしかない。それからじゃよ、大変だったのは。食糧はじき尽きる。飲料水の確保も課題さね。ない頭を集めて捻って必死に考えたよ、生活の知恵ってやつを」
 「地下暮らしの知恵?」
 東太后が頷き、驚き続きの僕に悪戯っぽい流し目を送る。
 「幸いだったのは、ワシらが移住した時点で最低限の住環境は整えられとった点じゃね。汚水から飲み水を醸造する設備も自給自足の術もお粗末ながらあるにはあったんじゃ。先遣隊の中には二・三技術者もおったから、ちょちょっと改善を加えるだけで大分暮らし向きがらくになったよ。地下育ちのモヤシはひょろひょろと青白いけどね、一応ビニールハウスだってあるんじゃよ?」
 「ーてことは、五十年間も閉じ込められてたの?!」
 明かされた新事実に衝撃を受ける。
 まさかこんな下水道の深部で五十年間も人が暮らしてたなんて……
 ひとつの街を形成し、しぶとくしたたかに生き延びていたなんて。
 素っ頓狂な声を脳天から発し驚倒する僕を愉快げに眺めやる東太后に食い下がる。
 「でもでもさ、おばあさんたちが地下に引っ越したのは五十年前で東京プリズンが上に出来たのは半世紀前で……あれ、てことは殆ど同時期にできたの?まあそれはいいとして、東京プリズン地下の下水道とここは繋がってるわけで、そしたら何とかして助けをもとめる方法あったんじゃないの?」 
 興奮の面持ちで饒舌に捲くし立てる僕を押しとどめ、東太后が溜め息をつく。
 「問題はそこじゃよ」
 「お茶が入りましたよ」
 梅花ちゃんの飛び入りで話が中断。 
 湯気だつ茶碗を盆にのせて運んできた梅花ちゃんを「ご苦労じゃったね」とねぎらい、素早く自分の分を取り上げる。
 「あら綺麗な色。いただきます」
 貞子がいそいそ手を伸ばしお茶碗をもつ。
 「ウエッジウッドのダージリンがよかったな~」
 口では不満をこぼしつつも有り難くいただく。
 覗き込めばあ、ほんとに綺麗な色。
 黄色く澄んだ表面からえもいえぬ芳香がただよい鼻孔に抜ける。
 「「いただきまーす」」
 貞子と声を揃えて同時に口を付ける。
 「ぶっ!!」
 噴き出す。
 「げほがほっごほっ……な、なにこれ!?オキシドールの味がする!!」
 「ワシが手ずから調合した薬膳茶にむかって失礼な」  
 容赦なく舌を突き刺す珍妙奇天烈な味に動転。
 慌てて茶碗をのけて激しく咳き込む僕をよそに、貞子は至福の笑みさえ浮かべ怪奇な液体を啜っている。 
 「結構なお手前ねえ。梅花ちゃんあなたお茶淹れるの上手ね、いい奥さんになれるわよ。あ、もう予約済みかしら?」
 口に手を添えてほのめかすように笑う。
 マッチョなオカマがやるとなんとも違和感ばりばりな仕草だなこれ。
 ぽこんと出っ張ったおなかを意味深に眺めながらの貞子の余計なお世話に、けれども梅花ちゃんは哀しげに首を振る。
 「ううん。解約済み」
 大きなおなかをなでながら呟く。
 顔こそ笑みを浮かべていたが、表情は暗い。
 畳に正座した梅花ちゃんをじっと見詰める。 
 老婆の話にのめりこんでいてたった今まで存在を忘れてたけど、こうして面と向き合うと、老婆が五十年間も地下で生き延びられたことより梅花ちゃんが今ここにいる理由が気になってくる。
 梅花ちゃんは道了の元恋人でロンとも顔見知りらしい。
 ということは最初からここにいたわけじゃない、最近になってここにやってきたことになる。
 どうやって?
 ホワイホワット?
 梅花ちゃんが今ここにいる理由が猛烈に気になり始め、道了との別離から老婆との出会いに至る経緯を知りたい欲求が高まる。
 「あのさ、梅花ちゃん。さっき言ってたのどういうこと?」
 名前を呼ばれた梅花ちゃんが虚を衝かれ顔を上げる。
 おなかをなでるのに夢中で上の空だったらしい。
 「道了とロンに会いたいって……梅花ちゃんはむかし月天心にいたんだよね?道了の恋人だったんでしょ?おなかの子の父親が道了だってのはわかったけど、どうやってここにきたの?おばあさんの話を鵜呑みにするなら、ここに来るまでの道のりは落盤でふさがれてるはず……」
 「抜け道があったの」
 梅花ちゃんがこともなげに言う。
 華奢な膝を揃えちょこんと座した梅花ちゃんはおなかを抱え視線を虚空に投げる。
 何から話そうか順番を整理してるらしく目の焦点がぼやける。 
 おなかをなでる手は赤ん坊をあやすみたいに優しく、心ここにあらずといった顔つきで話し始める。
 「月天心解散後、私と道了を待っていたのは残党狩りとの追いかけっこ。月天心のメンバーは皆散り散りになって、怪我も治りきらないまま病院を脱走した道了にも賞金がかけられた。私達は逃げた。道了は頭に包帯を巻いたまま、私は妊娠が判明したばっかりで、頼れる人も行くあてもなかったけど生き延びたい一心でひたすら逃げ続けたわ。毎日大変だった。けれども幸せだった。こんな事言ったら変かもしれないけど、でもね、やっぱり幸せだったの。道了と一緒にいるだけで幸せを感じた。道了が生きているだけで私にとっては幸せだったの。ろくに体も洗えない毎日だったけど、道了がどこへも行かずそばにいてくれるだけで救われてた」

 語りかける間もおなかをさする手はとまらない。
 そこに宿る命のぬくもりを慈しみ母性愛に溢れた包容力を発する。
 顔は全然似てないしママのが美人だけど梅花ちゃんの雰囲気はどこかママと似通ってる。ふっとした表情やさりげない仕草がママを思い出させてどきりとする。
 薄幸な風情を漂わせながらも気丈な笑みを絶やさずでっかいおなかを抱える姿に憧憬が募る。

 会いたいよ、ママ。

 鼻の奥がつんとする。
 潤んだ目を悟られないように慌てて俯く。
 変なの。こんな涙もろいキャラじゃなかったのに、僕。
 ママと離れ離れの期間が長くてナーバスになってるのかもと自己分析、親しみと照れとが入り混じった複雑な気持ちで梅花ちゃんを上目遣いにうかがう。
 梅花ちゃんは僕の視線に気付かず、寂しげな翳りを含んだ顔で訥々と続ける。

 「私と道了は池袋中を転々と渡り歩いた。残党狩りの追跡は熾烈を極めた。捕まれば命はなかった。私達は必死に逃げたわ。けれどもどこへ行っても追っ手がうようよしてて……追い詰められた挙句、地下に潜ることにしたの」
 「地下?」
 「かつての地下街。私達が昔住んでた場所」
 梅花ちゃんの表情が心なし和み、あるかなしかの懐古の笑みが浮かぶ。
 細めた双眸が追憶の光にぬれる。
 笑うと寂しげな印象がいやます。
 肩にかかる黒髪をしなやかに手を翻しかきあげ、唐突に言う。
 「難民には二種類いる。知ってる?」
 目で僕と貞子に問う。
 僕は素直に首を振る。
 生憎と僕は戦争難民じゃない、ママンはイギリス系だけど戦争で国を追われたんじゃなく出稼ぎにきて居着いちゃった部類だ。
 梅花ちゃんは僕の無知を嘲るでも哀れむでもなく親切に教えてくれる。
 「台中戦争の難民は二種類。戦前日本に渡った人たちと戦後に渡ってきた人たち。初期に日本に渡ってきた人たちは、既に池袋や渋谷に固まってスラムを築いていた。困ったのは後から来た人たち。命からがら戦争から逃れてきても、めぼしい土地は全部先住者が陣取ってる。早いもの勝ちよ。初期の難民と後期の難民の間にはいさかいが持ち上がった。初期の難民は住む場所を奪われてなるものかと後者を追い出しにかかり、後から来た人たちも今さら国に帰るわけにはいかず、排斥されても迫害されてもしぶとく居座り続けた。その結果生まれたのが難民用の地下街。同胞に排斥され居場所をなくした難民達は、旧地下鉄のホームと商店街跡を利用してしたたかに暮らし始めた。その中に私もいたの。私と、私の家族が」

 家族の面影を回想するように瞳を閉じる。

 「私の一家は台中戦争末期に日本に渡ってきた。両親と妹と私。同胞から見放された私達は、地下街に移り住んで新しい生活を始めた。まわりにいるのは同じ境遇の貧乏人ばかり。故国を捨てて命からがら逃れてきた弱い人たちばかり。同じ難民の中でも差別があった。私達は差別される側。地上に家をもてるのは初期の難民、私達はモグラみたいに地中に隠れて暮らさなきゃならない。ただでさえ日本は狭くて住める土地が限られてる、彼らが私達を敵視するのもしかたないのよ」

 一呼吸おく。 

 「けれども不満はなかった。地下街では皆協力し合って暮らした。皆貧しくて、けれども穏やかで……自警団があった。食堂があった。床屋さんがあった。お医者さんがいた。上となにも変わらなかった。私はそこで子供時代を過ごしたの、八歳になるまでね」
 「八歳まで?」
 「十年前に毒ガス騒ぎがおこって住民に一斉退去が命じられたの。それからは……あんまり話したくないわ。暗くなっちゃうから。簡単に言うと一家離散。追い出されても行くあてはないし頼れる親戚もない、国に帰るお金もない。そんな状況で家族一緒に暮らしてくのは無理。両親は三年後に消えちゃった。私と妹を残して煙みたいに蒸発しちゃったの」
 さばさばと言い放つも、辛酸を舐めた笑顔は苦い。
 梅花ちゃんは訥々と控えめに身の上を語る。
 路上にごろごろ転がってる、いまどき珍しくもない悲惨な身の上を物語る。 
 「私はまだ小さい妹をやしなうため娼婦になった。それしか売るものがなかったの。たくさん働いた。たくさん男の人に抱かれた。中には怖い人もいたし酷いことをする人もいた。けれども妹とふたり、なんとか食べていけるだけのお金は稼げた。そんな生活が二年ばかり続いて……妹は死んだ。結核だった。変な咳をしてるのに気付いてたけど、ふたり食べてくだけでやっとで、お医者さんにかかるお金がなくて……アパートに帰ったら、もう手遅れの状態で」
 「よくある話だね」
 スラムではふとした不注意が命取りになる。
 結核は不治の病じゃない。
 きちんと医者に見せ、最低限の栄養を摂らせれば死ぬ事はなかった。
 でも、スラムの住民の中には医者にかかるお金を持たない人がいる。
 最低限の治療さえ受けられず、治るはずの病気でむざむざ死んでく人がいる。
 「私が殺したの」
 梅花ちゃんがぽつんと呟く。
 死んだ妹の事を思っているのか、自分達を捨てた両親の事を考えているのか、その顔は深い物思いに沈んでいる。
 「両親は消えた。妹は死んだ。ひとりぼっちになった。……死のうと思った。死ねなかった。そんな時よ、道了に再会したのは」
 「再会?」
 梅花ちゃんに笑顔が戻る。
 いまにも泣き崩れそうに弱々しい笑顔で、けれども存外にしっかりした口ぶりで断言。
 「幼馴染なの、私達。地下街にいた頃の」  
 「へえ、梅花ちゃんて幼馴染キャラなの。いかにもそんな感じ」
 茶をしばきながら貞子が目をぱちくり感心。
 僕はここに来て明かされた事実にあっけにとられる。
 「じゃあ梅花ちゃん、子供の頃から道了を知ってるの?道了の子供の頃ってなんだか想像できないしあんな子供がいたらマジ怖いんだけど」
 目の前のいかにも儚げな女の子が、あの道了と幼馴染だった事実にとまどう。
 懐疑的な眼差しで探りを入れれば、梅花ちゃんが落ち着き払って答える。
 「道了は私達と同じ時期に地下街に流れ着いたの。道了のお父さんはとても酒癖が悪くて、いつもお母さんや道了に当り散らしてた。道了はいつも頭に包帯を巻いていた。お父さんにやられたんだと思ってたけど、そうじゃなかった。台湾にいた頃に爆弾の破片で怪我したらしいの。お母さんに手を引かれ戦火から逃げる途中に背後で爆弾が爆発してね。私は道了のことをよく知ってた。地下街で暮らしてた頃、うちの隣に闇医者がいたの。道了はそこに通ってたから……」
 「道了にもママとパパがいたんだ」
 道了に親がいたという当たり前の事実に違和感を禁じ得ない。
 そもそも道了に子供時代があったということさえ信じがたい心地なのだ。
 「再会は十年ぶり。地下街を追い出されてから十年経ってたけど、すぐにあの子だってわかった。目つきが変わってなかったもの。孤立を恐れない強い目、孤高の目……私がずっと憧れていた目。それからずっと道了と一緒だった。なんだか危なっかしくて目が放せなかった。道了が月天心を結成した時も隣にいたわ。私達はずっと、ずっと一緒だった………」
 噛み締めるようにひとりごち、悲痛に顔を歪める。
 「……残党狩りから逃れる最中に思い付いた隠れ家が、そこ。毒ガス騒ぎで立ち退きを命じられた地下街。私たちは地下に潜伏した。道了はほとんど何も覚えてなかったけど、私は嬉しかった。瓦礫に染み付いた匂いが懐かしかった。壊れた棚が、割れた硝子が、からっぽの薬瓶がとても懐かしかった。道了と出会ったばかりの頃を思い出して……」 
 「でも見付かった?」
 梅花ちゃんがこくんと頷く。
 「遂に隠れ家を突き止めれた。道了は追っ手を巻くために火を放って……私は……私は……」
 おなかを抱いた手がかすかに震えてるのに気付く。
 痛みを堪えるように下唇を噛み、何度も何度も息を吸い、吐く。
 「道了と心中するつもりだった」
 物騒な言葉に耳を疑う。
 貞子の目つきが鋭さをます。
 東太后が溜め息をつく。
 梅花ちゃんは自分が発した言葉の重みに打ちのめされ、全身で懺悔するかの如く悄然と肩を落とす。
 「あれ……でもさ、今ここにこうしてるってことは結局失敗したんだよね?その、心中は」
 口にしていいもんか迷い、おずおず指摘。
 梅花ちゃんは直接答えず、清冽な目でひたと僕を見据える。
 「道了は私を殺そうとしたわ。実際殺す一歩手前までいったの。あのまま何もおきなかったらきっと死んでたでしょうね」
 「なにも?」
 「落盤。火事の熱で瓦礫が崩落して、もうひとつの通路が露出したの。地下街の下を通る暗渠が」
 「ははーん、読めてきたわ。その通路がここと繋がってたわけね」
 貞子が名探偵ぶってぴんと人さし指を立てる。梅花ちゃんは申し訳なさそうに苦笑する。
 「多分そう……だと思うけど、残念ながら詳しいことは覚えてないの」
 「え?」
 「落盤の余波で下の通路におっこちた時はほとんど気を失ってたから……何がおこったかわからなかったわ。体がふわっと軽くなって、ふっと吸い込まれるのがわかって、咄嗟におなかをかばって……覚えてるのは上の通路に立ってこっちを見下ろす道了。背後で轟々と炎が燃え狂って、道了の顔を赤く染めて……すごく、綺麗で」

 言葉を切る。
 目を閉じる。
 閉じた瞼の裏側に真紅の炎に照り映える道了の顔を思い浮かべ、当時の心情を吐露する。

 「遠ざかる靴音で道了が立ち去るのがわかった。ああ、行っちゃうんだなって。けれども体が動かなかった。なんだかとっても眠かった。道了がこれからどうするのか、どうなるのかわかんなくて……不安で……道了は強いからひとりでも生きていけるけど、私は……私は弱くて卑怯だから、自分の事しか考えられないから……道了の言うとおり、馬鹿な女だから……道了に依存して、負担になってるのはわかったけど、でもやっぱり離れたくなくて。離れられなくて。月天心なんかどうなってもいいから、ずっと一緒にいたくて……」
 「この娘はの、ずっと下水道を歩いとったんじゃよ。地下街の下の暗渠を、半世紀も前に廃止されて存在自体忘れ去られた下水道を歩いて歩いて歩き通して、ひたすらに目的地をめざしとったんじゃ。まったく、見かけによらず無茶な小娘じゃよ。行き倒れてるところをたまたま遠出した租界の人間が見付けたからよかったようなもんで……」
 「東京プリズンに行けばロンがいる。ロンがいるなら道了にも会えると思ったの、真実を知ったら絶対ロンに会いに行くってわかったから」

 東太后が椅子から腰を上げ気遣わしげに梅花ちゃんの背中に手を添える。
 癇癪もちの子供をなだめるように優しく背中を叩き、動揺甚だしい梅花ちゃんを落ち着かせる。 

 「出入り口は瓦礫でふさがって、どのみち地上への帰還は絶望的。なら下水道を歩くしかない。とにかく歩き続けてれば出口が見付かるかもって……意識が回復してから、呑まず食わずで何日間歩き続けたわからない。とにかく歩いた。足が棒になるまで歩いたわ。地下街の暗渠は古くて、あちこちボロボロで、人が出入りした形跡がなくて……現在使われてる下水道とはまったく別物なんだって気付いた。気付いた時には手遅れ。見渡す限り闇の中、帰り道もわからない。迷子になって、行き倒れて、それで……」

 当時の恐怖と飢餓感とが蘇ったか、梅花ちゃんが顔面蒼白で震え出す。
 腕を交差させ華奢な肩を抱きしめ、切迫した眼差しで訴えかける。

 「あなた、道了の知り合いなんでしょ?道了は今どうしてる、元気でやってる?ロンは、ロンはどう?私、わたし謝らなきゃ……ロンに酷いことしたの、裏切り者の濡れ衣を着せたの、ロンはなんにも悪くないのにロンひとりに罪を被せたの。謝りたい。どうしても。ロンに会って目を見て謝らなきゃこれから生きてけない、この子と一緒に生きてく資格がない。ロンにちゃんと謝らない限りこの子に誇れる母親になんてなれるわけない、それに道了、道了が今どうしてるか気がかりで……道了がロンに酷いことするなんて思いたくない、思いたくないけど……でも」

 東太后に支えられた梅花ちゃんが腕を伸ばし僕に縋り付く。 
 ひどく思い詰め潤んだ目が僕を覗き込み、懇願する。

 「道了が心配なの。こうしてる今も道了は刻一刻と私を忘れてく、刻一刻と記憶を取りこぼしてく。私の事やロンの事、この子の事だって……もう自分の両親の事だって覚えてないのよ、地下街にいた事も覚えてないのよ、じきに私とロンの事だって忘れちゃう、だって道了は……」

 続く言葉は、予想外のもの。
 「道了は、壊れてるから。頭の破片のせいで、長く生きられないから」

 道了が、長生きできない?
 衝撃に打たれ硬直する僕に必死な形相で縋りつき、か細く震える声を吐き出す。

 「お願い、ふたりに会わせて。この子を産む前に、母親になる前に、しなくちゃいけないことがあるの」
 熱い吐息が胸に染みる。
 肩から流れ落ちた黒髪からいい匂いが立ち上る。
 貞子は同情こめて僕を見守るも手は貸さず、東太后もまた沈痛な面差しで梅花ちゃんの背を見詰めるばかり。

 すべての判断は、僕に委ねられる。

 『我迷路了、我想去東京監獄………!』

 ここにいるのは迷子の女の子。 
 母親になる為の試練に全身全霊で立ち向かおうとしている、決して弱いだけじゃない女の子だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050210024628 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。