ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十話

 直が帰ってこない。
 「……………遅い」
 囚人が続々と帰棟し廊下は賑わい始める。
 活況を呈す廊下とは裏腹に、片隅の房には陰気な気配が立ち込めていた。
 格子窓から漏れ出す瘴気じみて陰鬱な雰囲気に行き交う囚人が一様に迂回路をとる。
 房の主は一人ベッドに腰掛けていた。
 もはや顔と同化した眉間の皺もいつもより深く、一文字に引き結んだ口元から立腹が伝わる。
 泣く子も黙る仏頂面の青年は一人ベッドに腰掛け、何をするでもなく虚空を睨む。
 正確にはその視線は対岸のベッドに投じられている。
 いまだあるじの帰らぬからっぽのベッドだ。
 ペンキが剥げ落ちて錆びた鉄格子を晒した中古のベッド。
 使い古しの毛布はきちんと畳まれ、枕は頂点に置かれている。
 神経質なまでに完璧な整頓ぶりが持ち主の几帳面な性格を物語る。
 青年は寡黙に腕を組み、あるじ不在のベッドに苛立った視線を注ぐ。
 見慣れた房の風景がどことなく物寂しいのは、いつもいる人間がいないからだ。
 この時間帯は対岸のベッドに腰掛けて大人しく本を読むか、洗面台に立って靴を洗っているはずの同居人の姿が今日はない。
 どこにもない。
 わずかに残る痕跡は枕元に残された読みかけの本と、使用の痕跡を一切残さぬ程に整頓の行き届いたベッドのみ。
 直のベッドはいつも失踪準備は万端といったふうによそよそしく整っている。
 極度の潔癖症にして病的な神経質、何事も完璧にこなさければ気がすまぬ直は毎日ベッドの手入れを怠らない。
 起床してすぐに毛布を畳み平手で細心の注意を払いシーツの皺を伸ばし仰臥の際に後頭部が来る場所に枕を置く。
 毎朝行われる朝の儀式は一年と半年を経て習慣となった。

 直が帰らない。
 ベッドは依然からのままだ。

 「どこをほっつき歩いておるのだ、あいつは」
 憤懣やるかたないといった様子で押し黙り、帰りを待つ時間は刻々と過ぎ、明鏡止水の心に一雫の波紋を投じる。 
 波紋は次第に大きくなり、不吉な予兆を孕んで水面がさざなみだつ。

 動揺している?この俺が?
 まさか。

 自問自答に自嘲する。
 心頭滅却すれば火もまた涼しが真実であるとサムライは誰よりもよく知っている。
 物心ついた頃より過酷な精神鍛錬を積み上げ忘我の境地を会得し、いつしか平常心を乱すことはなくなった。
 少なくとも自分ではそう思っていたのだ、ほんの一年と半年前までは。

 直が来てすべてが変わった。
 直との出会いがすべてを変えた。

 サムライは一人ベッドに座る。
 竹のようにすっきりと背筋を伸ばし、端然たる居住まいで座り続ける。 
 裸電球は点けない。
 日はとっくに沈み、房の中は薄暗い。
 対岸のベッドはおろか自分の手元さえも影に沈んでいる。
 それでもサムライは明かりをつけに立たず、排他的なまでに片付いたベッドを放心の体で見詰め続ける。
 「直」
 名を、呼ぶ。
 胸が痛む。
 ながらく忘れていた痛みだ。
 こんな痛みがまだ自分にあったとはと恥じる。
 苗が死んだ時に振り切ったはずの痛みが、再び甦ってこようとしている。
 惰弱なおのれを憎んで否定し超克したはずの感傷的な痛みが、今再び胸を内側から食い荒らして茫漠たる空洞を広げていく。

 固く目を閉じる。
 瞼裏の闇に自我を没し、深く深く潜水する。

 閉じた瞼の裏側に昨夜の情景が浮かぶ。
 湯気に覆われたシャワー室、水溜りを跳ね散らかし駆け付けたサムライの眼前に現れた直。自暴自棄に開き直った醜悪な笑み、一片残らずプライドをかなぐり捨て腕を伸ばしてきた時の戸惑いと怒り。
 シャワーにうっすらと上気した肌の淫らさから必死で目を放し誘惑を拒むも、直は積極的にサムライの上にのり、慣れた手つきで股間をまさぐるまねまでしてみせた。
 悩ましい媚態に煽られ、技巧を凝らした手管により使い物に足る状態に仕立て上げられた性器は、今にもはち切れんばかりに雫を滴らせていた。

 熟した男根にしっとりぬれた手がふれる。
 艶かしい手つきで男根をこすり、まさぐり、ふぐりを揉みほぐし。

 そうして直は、サムライの知らない顔で笑った。
 理性を飲み込むおぞましい顔で笑った。

 「…………いかん」
 湯気が晴れれば房にいた。
 かぶりを振って回想を断ち切る。
 現実に帰還したサムライは、自分が今座るベッドを見下ろし、昨夜の名残りを求めるようにシーツをなでる。
 「あれは夢だったのか」 
 夢ではない。
 夢ではない証拠にくっきりと痣が残っている。
 無意識に首に手をやり軽くさする。
 火傷の痕も痛々しい首筋に鬱血の痣ができている。
 今朝鏡で確かめた時は、まだ夢を見ている心地がした。
 現実と夢の境があやふやとなって、夢の中で与えられた痣を現実まで持ってきてしまったような錯覚が襲った。

 昨夜の眠りはやけに重苦しかった。
 胸に重しがのしかかっているようで呼吸ができず、もがけばもがくほどに沼の深みに嵌まりこむ悪夢にうなされた。
 息ができぬ苦しさに一瞬目を開ける。
 苦痛にぼやけた視界に捉えたのは、直。
 その時は夢と現実の区別がつかなかった。
 なぜ直が自分の上にのっかっているのか、前後関係が皆目把握できなかった。
 あるいは幻覚だろうか。
 直に欲情しながらも決して抱けぬ矛盾に苦しめられ、信念故に求めに応じられぬ葛藤に苛まれあんな夢を見たのかもしれない。

 その時はそう思った。

 直の手は首にかかっていた。
 こちらを見下ろす目はひどく冷たく、あらゆる感情が欠落していた。
 首に食い込む指が容赦なく気道を圧迫、呼吸を妨げる。
 これは夢だろうか。
 夢にしてはやけに生々しい。
 酸欠で朦朧とした頭でサムライは考える、つらつらと考えながらも手を払いのける気は一切おきなかった。
 自業自得だ。当然の報いだ。
 耳に呪詛の余韻が残っている。
 サムライは最初から抵抗せず直の手に身を委ねた。
 容赦なく喉を締め上げられ顔が充血する。
 直はそのさまをじっと観察している。
 冷ややかな眼差しでもってサムライが酸欠に陥りゆく過程を観察、首に回した手の力を強める。
 昔に戻ってしまったような無表情に胸が疼く。
 出会ったばかりの頃の直とまるで同じ顔だ。人を人とも思わず、あくまでモルモットとして接していた頃の傲慢な色が眼鏡越しの目に浮かんでいる。
 とても、痛々しかった。
 直は極限まで追い込まれていた。
 直を追い込んだのは俺だ、とサムライは自覚する。
 啓示に打たれたように自覚する。
 なぜ抱かない?本当は抱きたいくせに。
 甘い誘惑が無防備な耳孔に溶けた鉛のように流し込まれる。

 シャワー室で直を拒絶した。
 抱いてくれと懇願する直を、おもいきり突き飛ばした。
 シャワーに打たれ蹲る直をその場にひとり残し逃げるようにシャワー室を後にした。
 扉を後ろ手に閉めた途端、あのままでは風邪をひいてしまわないかと憂慮するも、意志の力で未練を断ち切って足早に立ち去った。
 否、断ち切れなかった。
 憤然たる大股で廊下を歩きながらずるずると未練を引きずり、今ならまだ遅くはない、今ならまだ引き返せると頭の片隅で囁く声を意固地にねじ伏せた。
 直に対し怒りを抱いてもいた。裏切られたと思ってもいた。
 自分を粗末にするなとあれだけ言ったのに聞いてなかったのかと、俺の言葉は届いてなかったのかと、自暴自棄な振る舞いに幻滅した。哀しかった。口惜しかった。
 様々な感情が混沌と湧き立ち、胸がざわめく。

 どうしてわかってくれないんだ、直。
 お前を傷付けたくないという俺の気持ちを。

 絶望的な怒りが胸を蚕食する。
 大胆に跨った全裸の直を思い出し、耐え難い恥辱に体が火照る。

 直は売春班でさんざん男の慰み者にされた。
 汚れた欲望の捌け口にされ、壊れる寸前までいったのだ。

 どうしてそんな直を抱ける?
 いまだに売春班のトラウマが癒えず、毎晩悪夢にうなされる直を抱くことができる?

 直自身は気付いてない。
 気付いていないのかもしれない。
 売春班の悪夢にうなされている間中自分が口走っていた言葉を、脂汗にぐっしょり濡れそぼち叫んだ言葉を。

 「………許してくれ……もう入らない……もうできない……やめてくれ、やめてくれ……股関節が脱臼する……下肢が裂ける……寝かせてくれ……頼む、眠らせてくれ……三十分、いや十分、五分でいい……目を、閉じさせてくれ……目を閉じるのを許してくれ……眠りたい、ただそれだけだ……起きたらまた続きをやる、だから今だけは……」

 直は夢の中でも眠れない。
 束の間の夢の中でさえ、安息をえることができない。
 眠りながら眠りを欲し、虚空に向かって掠れた声を紡ぎ、忌まわしい悪夢に溺れてシーツを掻き毟る。 

 売春班では睡眠さえろくに与えられなかった。
 何人何十人もの男を相手にし心身ともに疲れきっていても更なる奉仕を強制された。
 サムライは何度も目撃した。
 直がうなされるところを。 
 眠りたい眠りたい眠らせてくれと憑かれたように懇願し、夢の中でさえ眠る事を許されず体を酷使し心をすり減らし、きつく閉じた目の下に憔悴の隈を作っていた。

 眠りに飢える直を前に、どれだけおのれの無力を呪ったことか。 
 顔もわからない名前もわからない定できない、それでも直を犯した囚人全員を見つけ出し殺したい、ペア戦のリング上でタジマにしたように滅多打ちにしたい。
 何度木刀を手に駆け出しかけたか。
 深夜の廊下を駆け回り房の扉を片端から乱打し、寝惚け眼をこすってのろのろ出てきた囚人をひっぱりだしてお前が直を抱いたのかと詰問し、首肯すれば即座に殴り殺す。
 武士の信念も矜持もこの激烈な殺意を抑える事はできない。
 直を傷付けたもの全員に対する、直を守れなかった不甲斐ないおのれに対する、業火のような殺意。

 眠りながら眠りに飢え憔悴していく直。
 痛々しいほどに蒼ざめた顔に手をさしのべる。
 汗を拭うのに使った手ぬぐいは絞れるまでにぐっしょり濡れそぼった。
 サムライは直の手をとり、額に押し付けて願う。 

 「俺がついているから大丈夫だ。安心して、眠れ」

 耳元で優しく宥め、冷えきった手を擦って温める。
 何度も、何度も。
 額に押し当てた手に体温が移り、次第に温かくなってくる。
 直の上から悪夢が去るまでサムライは毎晩そうした。
 傍らに跪き手をとり、額に押し付けて安眠を念じた。
 サムライが暗示をかければ直の寝顔は不思議と安らかになり、苦しげな呻きもなりをひそめ、規則正しい呼吸が回復した。
 汗で濡れそぼった前髪が額にかかる寝顔は、虚勢がすべて剥がれ落ちてひどく幼かった。

 直が愛しい。
 この手を放したくない。
  
 直を守りたかった。
 直はサムライにとって何をおいても守り抜く対象だった。
 サムライが愛した女は死んだ。自ら首を吊り黄泉へと旅立った。
 苗を殺したのは、俺だ。
 俺の無知が苗をそこまで追い込んだんだ。
 苗を死に追い込んだ自分の無神経をどれほど呪った事だろう、憎んだ事だろう。
 苗はひとり苦しみに耐えて耐え抜いて耐え切れずに死んだ。

 俺が抱いたから、苗は死んだ。
 同じ過ちは犯したくない。

 「…………結局この手は、人殺しの役にしか立たんのか」
 深々と刀傷が穿たれた掌を見下ろし、口の端を歪め自嘲する。
 俺は人殺しだ。
 武士だなんだと美名で飾っても、突き詰めればただの人殺しだ。
 既に肉親をふたり殺している。
 目を閉じる。盲目の闇に愛憎半ばする肉親の面影が去来する。
 苗の優しく淑やかな微笑み、静流の艶かしい笑み。
 似て非なるふたつの微笑みは胡蝶の見た夢の如く、泡沫の如く消える。 

 「俺が抱いた人間は、皆死ぬ」

 俺を残して死ぬ。
 苗も静流もそうだった。
 サムライが肌を重ねた人間はいずれも非業の死を遂げた。
 苗は禁忌を犯した罪に苦しみ首を吊り、静流は夜叉の如く狂い果て業火に身を投じ。
 人を守る為に剣を磨いてきたつもりが、いつしか人殺しの剣を身に付けていた。
 人殺しの剣をとる手も知らぬまに瘴気に冒され、抱いた人間を死に誘った。

 こんな不浄な手で、直を抱けるか。
 こんな不吉な手で、直を抱けるか。

 愛した人間の命を奪ってきた手で、血と瘴気に毒された忌まわしい人殺しの手で、直を抱けるはずがない。
 俺が触れた人間は命をおとす。
 苗も静流も逝ってしまった。
 一族のほぼすべてが滅んだ今、帯刀家が何百年と背負ってきた人殺しの業は唯一の生き残りにして正統な後継者たる帯刀貢の上に収斂し、災厄の因果を編んであらたな犠牲者を生み出そうとしている。

 これ以上愛したものを失いたくない。
 不用意に抱いて、失いたくない。

 まんじりともせず掌を凝視する。
 直の柔肌とは異なるなめし革のように強靭な手。
 左掌には幼少のみぎりの刀傷がくっきりと残っている。
 納刀の際にできた傷痕だ。
 ごつごつと節くれだった手はお世辞にも綺麗とは言えず、至る所に新旧大小の傷痕が刻まれている。
 木刀の振りすぎでできた豆は固く、何回も皮が捲れて肉が露出した掌は角質化している。 
 「…………無骨な手だ」
 長年の修行の跡が刻まれた手を見詰めて慨嘆する。

 人をいつくしむより人を殺すのが似合う手だ。
 直を抱くにはふさわしくない。

 直はまだ帰らない。
 廊下の人波も引き始めている。
 そろそろ食堂への移動を開始する時刻だ。
 おかしい。
 胸のうちに蟠る不安が現実に孵化しようとしている。
 「……図書室に寄り道しているにしても帰りが遅すぎる」
 不安を言葉にすれば不吉な予感がさらにいやます。
 なぜ帰らない、直?
 ここにはいない同房者に問いかける。
 裸電球も点けぬ暗闇にひとり残されたサムライは、首筋の痣をなで、沈痛に面を伏せる。
 「…………そんなに俺と会うのがいやか」
 直が帰ってこない理由はおのずと察しがつく。
 昨夜の事を気に病んでいるのだ。
 プライドの高い直はサムライと顔を合わすのを避け、強制労働が終わっても房に直帰せず、どこかで時間を潰しているのだ。

 サムライは直の面目を潰した。
 シャワー室で仕掛けられた誘惑を一蹴、ひややかに突き放した。
 頭を冷やせと無慈悲に言い捨て、頭からシャワーの水を浴びせ掛けた。
 プライドを完膚なく蹂躙するに等しい所業だ。
 サムライとてわかっている、直が極限まで追い込まれとった行動だと熟知している。
 どうにもならない衝動を持て余し、優柔不断なサムライに対する不満を爆発させたのだとわかっている。

 わかっていてなお、目を瞑った。
 直を全裸で放置して逃げ出したのだ。 

 首の痣は、罰だ。
 昨夜目が覚めた時、直が上にのっているのを見ても驚かなかったのは心の片隅で漠然と成り行きを予知していたからだ。

 心はひどく落ち着いていた。
 静かだった。
 明晰な諦観が心を支配する。
 直に殺されるならそれもいいと
 俺を殺して直が満足するならそれもいいと、思った。 

 俺は直を抱けない。
 抱きたくても抱けない。
 直はそれで苦しんでいる。
 直をここまで追い詰めたのは、俺だ。
 ならば自業自得だ。絞め殺されるのは当然の報いだ。

 頭は朦朧としていた。
 系統だった思考を紡ぐのは不可能だが、漠然たる印象の断片が過ぎり、サムライはその時点で死を覚悟した。
 ただひとつ、直の頬がひどく蒼ざめているのだけが気がかりだった。
 闇の中に一際くっきりと浮かび上がる頬は冷たく強張り、一切の感情を封じ込めていた。 
 シャワー室に置き去りにした事を悔やむ。
 あれから何時間シャワーに打たれていたのか、外気に晒した頬はすっかり凍えている。
 体をベッドに横たえたまま、最後の力を振り絞って直へと腕をさしのべる。

 指先が頬にふれる。
 思ったとおり冷たい。
 指先から伝わる冷気が芯にまで浸透し、苦しい息の狭間から掠れた声を搾り出す。

 「………冷えてないか?」

 純粋に心配だった。
 それだけだった。
 打算も何もない、死に瀕しての本音。
 頬の冷たさに懸念を示せば直の顔が悲痛に歪み、急激に霞みゆく意識の彼方で首に巻かれた手がずるりと抜けるのがわかった。  
 死への恐怖や生への執着この世への未練、それらすべてをさしおいて咄嗟に出た言葉は、直の身を案じる腑抜けた言葉だった。
 目を閉じる間際に視界を占めたのは、絶望的な直の顔。

 「卑怯だ」

 ぽつんと闇に落ちた、力ない呟き。
 虚脱したようにベッドに座り込んだ直が、降参したように苦い笑みを浮かべる。

 「あくまで僕ひとりを破滅させる気か。まったく、友人甲斐のない男だ」

 首から手がはずれると同時に極限まで引き絞られた弦が弾けるように意識は途切れ、目覚めたら朝になっていた。 
 夢とも現実ともつかない奇妙な体験だが、首にくっきりと残る鬱血の痕が、あれは夢ではないとひりつく痛みを伴い訴えかける。
 今日は一言も直と言葉を交わしてない。
 互いに目が合うのを避けて房を出た。
 食事中も無言だった。 
 サムライの接し方は一線引いてよそよそしく、直の挙動は輪をかけて不審だった。
 直との間の距離が開いていくのがわかった。
 一年と半年かけて縮まった距離が、たった一日の間に取り返しが付かないほど開いてしまった。 
 直を捕まえ真偽を問いただそうにも、直はまるでサムライがそこにいないかのように扱い、現実が一切目に入ってないかのように虚ろな様子だった。 
 食事中も上の空で、箸の上げ下げにしろ惰性で動いてるような違和感がつきまとう。

 直、お前は。
 俺を、殺そうとしたのか?

 たった一言、その一言が重い。どうしても口にできない。
 口にしようとすれば心が挫け、疑心暗鬼に苛まれる。
 目に映る現実が不信の色に彩られ、これまで直と過ごした年月さえもが虚構じみて色褪せ、友と自負した直の事がわからなくなる。

 「………俺は優しくなどない。卑劣なだけだ」
 胸に凝る鬱屈を苦い吐息にのせ吐き出す。 
 俺は卑怯者だ。
 直の誘いに怯み背を向けた、どうしようもない臆病者だ。 
 濃厚な闇が忍び寄る。
 近隣の囚人は全員食堂に移動したらしく、廊下は物音ひとつなく静まり返っている。 
 隣り合った房の鉄扉が開け閉めされるのにも気付かなかった。
 物思いに耽っているまに時間は駆け足で飛び去ったらしい。
 直はいまだ帰らない。
 サムライは直を待ち続ける。
 廊下では煌々と蛍光灯が輝く。
 格子窓から射し込む光が剥き出しの床に線を刷く。 
 「………直」
 拳を額にあてがう。
 固く目を閉じ、藪蚊が沸くように立ち上る雑念を払拭にかかる。
 蚊柱が立つようにあとからあとから沸き立つ雑念を、額に強く拳を押し込んで封じ込む。
 懇々と込み上げる不安を押し殺そうと小声で般若心経を唱えるも効果はなく、神経が焼ききれんばかりの焦燥に悩まされる。
 明鏡止水の心が不穏にさざなみだつ。
 目を閉じれば昨日の残像が浮かぶ。
 シャワー室で目撃した直の裸身が、湯浴みで艶かしく上気した肌が鮮烈に思い浮かぶ。
 濡れそぼった髪が額にしどけなく纏わり、鼻梁に添って滑りおちた雫が顎先からしたたる。
 濡れ髪の隙間から覗いた切れ長の目がこちらをひたと見据える。
 『本当はこうしたかったんだろう。わざわざシャワー室にきておきながら、何もしたくないわけがないじゃないか』
 猫のように細めた目に媚態が宿る。
 「………………ちがう、俺は………」
 『劣情剥き出しの至近距離で僕の裸を視姦しておきながらいまさら聖人ぶるのか、君は。それとも何か、キスはいいのにそれ以外の体の接触は駄目だと?舐めるように僕の裸を見ておきながら自分だけは潔癖と言い張るつもりか』
 回想の中で直が嗤う。
 サムライの意気地のなさを嗤い下肢に這い上がってくる。
 勃つ。
 自身の体の変化に愕然とするサムライを、直は売春班仕込みの手管で翻弄する。
 『固くなってきたぞ』
 「……………………………っ」
 現実の体が、幻の愛撫に反応を示す。
 忘れようにも忘れられない、意志の力で断とうにも振り払えない記憶の残像が、サムライに取り憑いて彼の体を弄ぶ。 
 男根が急速にもたげ始める。
 意志の力でねじ伏せようにも禁欲に飢えた体は正直で、回想の直が淫らに嗤い、ズボンの上から慣れた手つきで股間をしごくたび男根が固くなる。
 固くしこった男根は、今やズボンの前をはち切れんばかりに突き上げている。 
 自制心を総動員し必死に抗っても、一度催した劣情は嵐のように身の内を席巻し、捌け口を求めて容赦なく下半身を責め立てる。

 男根が屹立する。
 ズボンの前がはっきりと隆起する。
 体が悩ましく火照りだす。
 額にふつふつと汗が滲む。
 閉じた瞼をも塩辛い汗がぬらす。
 脈拍が速くなる。
 心臓の鼓動が足並みを崩し、一瞬遅れたかと思えば速くなり、なにかがつかえたような乱拍子を刻む。

 「………………………直………」

 体が熱い。
 ズボンの前がきつい。
 手が無意識に伸びる。
 一瞬迷い、急いた手で下着ごとズボンを引きずりおろし下肢を露出。
 熱く脈打つ男根に外気がふれてひやりとする。
 赤黒い肉の色をした男根はしなやかな弾力を備え、腹に付かんばかりに雄雄しく反り返っている。
 苦痛の皺を眉間に刻み、懐から出した手ぬぐいを噛む。
 下顎に力を込めて噛み縛り、左手を根元に添え、右手で竿を握り、感覚を思い出すように軽くしごく。

 「………っう……」

 苦悶とも快楽ともつかぬ呻きが、噛み締めた歯の間からか細い吐息となって抜ける。
 少ししごいただけで電撃のような快感が脊椎を貫く。
 何をしてるんだ、俺は。
 朦朧と霞がかった頭で自問するも、手は止まるどころかさらに勢いを増し、直の手管を真似て緩慢に男根をしごきだす。
 直の手の動きを反芻、それをなぞるように分身を擦る。
 やすりがけるように根元から先端にかけ性急に摩擦、鈴口に滲んだ透明な汁を潤滑油にして掌にのばし、性感帯の隠れた裏筋を不器用になで上げる。

 噛んだ手ぬぐいが吐息と唾液で湿る。
 乾いた布の味が口腔に広がる。
 額にふつふつと汗が浮かぶ。
 顔には快楽よりむしろ苦痛の色が濃く、相反する葛藤に引き裂かれ沈鬱に歪む。

 『これでも欲情してないと言い張る気か』

 嘲笑が耳朶を突き刺す。
 きつく閉じた瞼の裏に直の笑みが蘇る。
 湯浴みで上気した肌は壮絶な色香を発し淫奔に男を誘い、濡れ髪のかかる切れ長の目は挑発の媚態を孕みサムライを傲然と見下ろす。
 しっとりぬれた手があやしく股間をまさぐる。
 淫猥な手つきに怖気をふるうも、同時に凄まじい快感が突き上げる。
 直の手を反芻し、直の息遣いを反芻し、自制を忘れて先走る手つきで男根をしごく。
 呼吸が荒く浅くなる。
 獣じみた息遣いのままに手の動きを速める。
 「………っぐ、ぅう……」
 思い出すのは直の顔、直の肌、直の声、直の匂い。
 眼鏡の似合う涼しげな顔も眼鏡を外した無防備な素顔も、きめ細かく滑らかな肌から匂い立つ清潔な石鹸の香りも、シャワー室で襲ってきたときの絶望的な顔までもが細部まで克明に輪郭を際立たせる。
 腕の中で小刻みに震える細い体を思い出す、華奢な肩と薄い胸板を思い出す、冴え冴えと白く脆弱な首筋を思い出す。

 欲望が燻る。
 直に、欲情する。
 心の底から直を欲する。
 苛烈な飢えにも似た欲望が容赦なくはらわたを締め上げる。
 しっとりぬれた直の声を、艶かしい唇の動きを連想する。

 『生殺しは辛いだろう』
 辛い。
 筆舌尽くしがたく、辛い。

 手は止まらない。
 即刻やめろと頭の片隅に一握り居残った理性が命令を発しても、飢えが苛んだ本能は逆走し、ますますもって刺激を強める。

 直の顔が、声が、匂いが、手触りが。
 指の隙間をすべる癖のない髪の感触が、上気した肌から立ち上る石鹸の香りが、腕の中で頼りなく震える体が。 
 すべてが愛しい。
 すべてが欲しい。
 抱きたい。抱きたくない。
 相反する気持ちが葛藤を生む。
 抱けば不幸になる。
 抱かなくても不幸にする。
 どちらを選んでも直は不幸になる。
 苗のように。
 静流のように。
 俺が抱いた人間は、皆死ぬ。

 瞼の裏に直の顔を想起し、一層強く剥き出しの男根を擦り上げる。
 ベッドがぎしぎしと鳴る。
 生臭い匂いが立ち込める暗闇に一人、ベッドに腰掛けたサムライは手拭いを噛み締め、若い精を持て余した自分を擦り切れんばかりに慰める。
 眉間の皺が深く深くなる。
 苦痛と快楽のはざまで無残に引き裂かれた顔は、嗜虐の欲望をそそるほどに蒸れた色気を醸す。
 喉仏をゆるやかに伝う汗さえ艶かしく煩悶し、禁欲的な忍苦の表情を一抹の恍惚にぬらし、根元から先端にかけ熱した掌で研磨する。
 「………はっ……………あ、ふ………直っ……………!!」
 脳裏で閃光が爆ぜる。
 押し寄せる高波に背中が反る。
 手の中の男根が不規則に痙攣し、先端の穴から白濁した精液が飛び散る。
 朦朧とした思考が明確に焦点を結ぶ。
 虚脱状態から醒めてみればそこは相変わらず薄暗い房で、向かいのベッドはそっけなく片付いている。  
 精を吐き出した男根はくたりと萎れ、手には粘ついた白濁が絡む。
 肩を上下させ呼吸を整える。
 白濁に汚れた手を虚ろな半眼で見下ろす。
 「……………………直」
 俺を、軽蔑してくれ。
 飢えに似た熱情が去れば、後に残るは倦怠感と罪悪感のみ。
 萎れた股間をそのままに悄然と項垂れる。
 手拭いで白濁を拭い、妄想の中で直を汚した慙愧と自責の念に打たれて深々頭を抱え込む。
 「俺は臆病者だ」
 声は暗闇に吸い込まれ消滅する。
 そのままどれくらいそうしていたかはっきりとはわからない。
 「南棟で暴動だ!囚人が武器もって暴れてるらしいぜ!!」
 暴動。
 反射的に立ち上がり、窓が穿たれた鉄扉を注視。
 慌しい足音が交錯、殺気だった看守たちが戦々恐々叫び交わす。   
 「マジかよそりゃ?どの程度の規模なんだ」
 「はっきりとはわかんねーけどかなりでかいらしいぜ。南棟はそれこそひっくり返るような騒ぎで、後先見ずに飛び込んだ看守が何人かやられたって噂だ。ただちに応援にこいとさ」
 「くそっ、ホセは何してんだ!?南のトップはあいつだろうが、ちゃんと手綱しめとけってんだ」
 「どうでもいいから早く、ぐずぐずしてたら全棟に飛び火するぜ!」
 看守らしき人影が怒髪天の勢いで警棒を振りかざし、格子窓の向こうを競って駆け抜けていく。
 看守の足音が絶えて暫くして、暗闇に凝然と立ち尽くしたサムライが言葉を発する。
 「……………暴動だと?」
 南棟で暴動が発生した。
 直はまだ帰らない。
 先刻から続く胸騒ぎが決定打をえる。
 一切の逡巡を吹っ切り、決断を下す。
 ズボンを引き上げベッドの下を探り木刀をとりだすや、焦燥がけしかけるがままに鉄扉を開け放ち、一陣の疾風と化して廊下を駆け抜ける。
 南棟の暴動と直の失踪に因果関係があるのか確信は持てぬが、直の身になにかがおきたのは事実だと直感する。
 直の帰りを待ち房で過ごした無為な時間が呪わしい。
 もっと早く行動すればよかったと判断の遅滞を悔やむ。
 「間に合ってくれ」 
 声にして念じ、飛燕の如き敏速で疾駆。
 自分の中に直と顔を合わせるのを忌避する気持ちがあったのを否定できない。
 昨夜の出来事を経た気まずさからあえて捜しにいかず、待っていればじきに帰ってくるだろうと高を括っていたのだ。
 「………俺は馬鹿だ。つまらぬ意地を張ってる場合ではないというのに」
 口惜しさにぎりぎりと歯噛みする。
 目指す場所もわからず、いてもたってもいられぬ衝動に駆り立てられて廊下を走り続けるサムライの眼前に、図抜けて巨大な影が立ち塞がる。
 「どけっ!!」
 さらに加速して声を荒げるも、相手が退く気配はない。 
 強行突破もやむなしと頭を低め前傾したサムライの耳朶を、そっくり同じ声が打つ。

 「レイジのところに案内しやがれ」
 「って凱さんが言ってる」 

 足首に抵抗を感じる。
 次の瞬間視界が反転、体が浮遊感に包まれる。
 均衡を失った体は前のめりに宙を滑り、あわや床と顔面接触と思いきや、素早く受身をとって床を転がる。
 振り返る。
 廊下にロープが張られていた。
 これに蹴つまずいたのだ。
 「油断大敵足元不注意っと」
 ロープの両端を持ってサムライを待ち構えていた囚人がのっそりと歩み出る。
 物陰から歩み出てサムライを挟み撃ちにした囚人にはいやというほど見覚えがある。
 残虐兄弟マオとユエ。
 勝ち誇ったような笑みを浮かべる二人の背後、剣呑な威圧感を発して歩み出た囚人は、分厚い筋肉で鎧われた体を怒気で倍ほどに膨らませ、暴虐の限りを尽くし街を踏み荒らす怪獣の如く、暴威を振りかざして咆哮を上げる。

 「ぎゃあああああああああああああああああああああああああす!!!」

 凱だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050212175224 | 編集
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