ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十八話

 視界はさすがに暗い。
 照明の大半は割れている。
 自然に割れるはずはないから誰かが割ったのだろう。
 抜歯のように破壊された照明が、閉塞した闇に荒廃を播種する。
 わずかに生き残った照明が放つ青白く病的な冷光はあまりに儚く、またそれぞれの間隔が離れているために無辺の闇の排斥には至らず、異端のカタコンベに通じる廃墟の回廊じみた景観を際立たせる。
 梯子を下りてから数十分ひたずら歩き続ける。 
 吐く息が白く溶ける。寒い。酷寒と言っていい。
 上着越しに二の腕を抱き擦って温めるもむなしい抵抗でしかない。
 傍らには常に水が流れている。通路に沿うようにして設けられた水路はいつはてるともなく続き、あるいは道の分岐に伴い二股に、または三叉に別れ、見通しが利かない闇の底へと轟々と流れ込んでいく。
 闇の隧道で先頭に立つのはホセ。
 ホセは僕に五歩先行し、心許ない照明を頼りに闇の中を闊達な足取りで進んでいく。
 予め目的地がわかっているような断固たる足取りは追尾者の不安を払拭し余りある自信に満ち溢れている。
 だが、僕はといえば内から懇々と湧き上がる猜疑心を抑え切れない。自然、ホセの背中に注ぐ眼差しは懐疑的なものとなる。 
 ホセは目的地に関し何も告げない。
 僕はあえて詮索せず、唯々諾々として従った。
 ホセは密命を負った使者にして秘密を孕む間者だった。
 だが、構わなかった。
 僕がどうなろうがもう構わなかった。
 もとから房に帰りたくないと鈍っていた足はホセの先導に従って即座に方向転換し、自暴自棄な開き直りを見せ、隠者があらかじめ目星を付けていたらしいマンホールへ直行した。
 隠者に続き暗渠に下った。
 掴んだ梯子はひやりと冷たく、皮膚が癒着するような恐怖があった。
 酷寒の大気に冷やされた梯子にはびっしりと露が付着し、足場の悪さに拍車をかけていた。
 一段一段、細心の注意を払い梯子を下りた。
 スニーカーの靴裏に横棒を噛ませ、肩越しに振り返り遥か下の地面を見、目測で距離を割り出しては一喜一憂、表面上は努めて平静を保ちながらも多大なる心理的圧迫を感じていた。
 過剰なストレスに晒されながらも梯子を下りきり、固い地面を踏んだ時は心底安堵した。
 とっくに下りて僕を待っていたホセは一言、「高所恐怖症ですか?」と笑った。
 余計なお世話だ。

 隠者の道案内で下水道を歩く。
 僕達以外に人影はなく、異常に静まり返っている。非日常の静けさだ。
 ブルーワークの囚人の姿も見当たらなかった。
 大半の囚人は帰棟したとはいえ、残業している囚人が一人もいないのに不審を抱く。

 「………やけに静かだな」
 数十分ぶりに口を開く。
 地下では声が反響する。
 そんなに大声を出したつもりはないのに、大気の震えが波紋となって鼓膜を打った。
 ホセは歩みを止めずのんびり応じる。
 「ブルーワークの囚人全員に帰棟命令が出ました。死体発見現場の惨状の血なまぐささが褪せないうちから人体収集に励んでいたのですが、どうやら上の意向が代わった模様です。一般の囚人は下水道から退去を命じられ、ここは一時的に封鎖されている状態です」
 「本格的に証拠隠滅に乗り出したか」
 皮肉げな口調でひとりごちてからふと矛盾に気付く。
 「待てよ、おかしいじゃないか。それなら何故君は、いや、僕達は平然とここを歩いている?マンホールも封鎖されてなかったし……」
 「開放されているのはあれひとつだけです。事前に細工しておいたのです。緊急用の出入り口は確保しておかねばね」
 抜け目なさにほとほと感心する。
 つまるところここは現在、完全な密室というわけだ。
 ブルーワークの囚人は早々に退却し、今は僕達しかいない。
 僕とホセと、長大な下水道のどこかに潜伏している暴君以外は。
 にわかに体を包む闇が重量と粘り気を増す。
 それ自体意志を持った生き物のようにしつこく肌に纏わり付く。
 払っても払っても払いきらぬ暗黒の触手を伸ばし足に絡み歩みを妨害、体中の穴という穴、口は勿論のこと自閉の不可能な鼻腔耳孔のたぐい、全身の毛穴ひとつひとつに至るまで流動する闇が忍び込んでくる。
 
 とっぷりと闇に溺れる。
 本能が咆哮する。
 原始的な恐怖が理性を蝕む。

 体が、重い。
 体に纏わり付く闇が重たい。
 何重にも手足に絡み付いて粘着する闇が呼吸によって取り込まれ、徐徐に体内にまで浸透してくる。 
 わざと靴音を立てる。
 カツン、カツン……
 尖った靴音が曇りかけた理性を呼び覚ます。
 闇の腑に呑み込まれる不安を解消するため、とにかく声さえ出していれば闇に埋没してないと確認できる、自分の輪郭が闇と融合し自我が消滅してないと確認できると一縷の希望に縋り、現時点における最大の懸念事項を述べる。
 「どこに向かってるんだ?」
 ずっと気がかりだった事を聞く。 
 質問に、しかし返されたのは嘲笑。
 「ついてくればおのずとわかります。我輩お楽しみは最後までとっておく人種ですので」
 のらくりくらりはぐらかすように言い、答えをぼかす。
 余計に不安が募り、猜疑心がかきたてられる。
 ホセはいまだ目的地を明かさない。
 ということは、まだ遠いのか?
 体感時間では長いが、複雑に交差し分岐し際限なく増殖する道が遠近感を狂わせるせいで、実はそんなに距離が稼げてないのかもしれない。
 同じ所をぐるぐる回っているだけ?
 迷宮にでも迷い込んだような錯覚が襲う。
 等間隔に並んだ照明、今にもおちてきそうに低い天井、傍らに沿う水路の単調な流れ。
 変化に乏しい光景が延々と続く。
 平坦な通路が延々と続く。
 頭がおかしくなりそうだ。
 一体僕はどこにいるんだ?
 現在地が全く把握できない。
 あるいはそれがホセの作戦か?迷子にさせる魂胆なのか?
 帰り道をわからなくさせるために、故意に迂遠なルートをとっているのだろうか。
 疑いだせばきりがない、相手は東京プリズン一の策士だ。
 油断せぬよう気を引き締め、緊張で乾いた唇を湿らし、再び口を開く。
 「ホセ」
 「なんでしょう」
 「君の目的はなんだ」
 単刀直入核心をつくも、動揺を引き出すには至らない。
 代わりに返ってきたのは、愉快げな笑い声。
 「なぜ笑う?」
 馬鹿にされてると直感、筆舌尽くしがたく不愉快になる。
 低めた声で追及すれば、振り向きもせず、しかし笑いを堪えているのは前のめりの肩の不規則な痙攣で一目瞭然のホセが言う。

 闇そのものが笑っているようだ。
 視界が利かないせいで、笑いが大気の震えとして伝わってくる。
 体を覆った皮膚が闇の震えに呼応する。
 音は振動だ。高低差のある波長だ。
 視覚を奪われた分敏感になった皮膚が、大気を媒介にした音の振動を体感する。
 不可視の手触りの音の愛撫。

 「これは失敬。なんと申しますか、IQ180の頭脳を誇る天才少年の割には率直な聞き方をするものだと感心した次第です」
 「能力が上の者が相手のレベルに合わせてやるのが円滑な人間関係の秘訣だ。普段なら低脳のレベルまで質問の難度を落としたりはしないが、僕としてもこのよくわからない事態に困惑している。いい加減目的地もわからず連れまわされるのはうんざりだ。それに」
 ホセの背に鋭い視線を向ける。
 「同行こそしたが、君の事は信用できない。謎が多すぎる。例の図書室での邂逅以来、僕は君を警戒している。災厄を呼ぶ者として」
 「災厄を呼ぶ者ですか。恐れ多いですね。我輩はただの隠者、闇に紛れて慎ましやかに生きるシャイな囚人ですよ。特徴といえばぺったり撫で付けた七三分けとださいと評判の瓶底眼鏡、左手薬指に嵌めた指輪だけ。なんら面白みのない平凡な男です。取り得といえばワイフに捧げる愛の深さくらいです」
 「平凡な男がこんな場所にいるか?」
 おもわず皮肉な笑みが漏れる。
 「さもありなん。我輩は平凡な範疇から外れるようです」
 ホセが同調する。
 ホセの顔にもきっと僕と同じ冷笑が浮かんでいることだろう……あるいは自嘲の笑みか。
 「髪も笑みもフェイクだ。敵を油断させるための陳腐な小細工にすぎない。何より許せないのはその眼鏡だ。眼鏡は第一に実用性が備わってこそ機能と形状の調和が至高の芸術性を生み出す画期的発明になり得るのに、目が悪くないのに眼鏡をかけるなどといった本末転倒な行為はそもそも眼鏡を愚弄している。単に眼鏡を利用しているにすぎない、日常生活に不可欠な補助具として敬意を払われるべき眼鏡に対する最大の侮辱だ」
 「眼鏡は人類が利用するために生み出したのでは?ならば我輩がこうしてかけるのも理に叶っているでしょうに」
 「却下。眼鏡を詐欺の手段に用いるなど外道の所業だ、真実それ以外のなにものでもない唾棄すべき行為だ。度の入ってない眼鏡など底の抜けたコップと同じだ。度の入ってない眼鏡をかけていかにもうさんくさいセールスマンを装って人を騙すなど、騙される人間は単純に馬鹿だとしても、眼鏡に対し申し訳ないとは思わないのか」
 弁舌に熱が入る。
 度の入ってない眼鏡などそもそも眼鏡の在り方に反する、目が悪くないのに眼鏡をかけるといったホセの倒錯は視力補助の道具ーそれも人類が叡智を結集し生み出せる限りの洗練の極みの道具ーとして広く出回った眼鏡に大いなる誤解を付与する。

 「君には眼鏡の発祥と歴史から教える必要があるな。眼鏡の深淵にふれて蒙をひらけ。歴史の真実を知って眼鏡に対する見方を改めろ、単なる補助具以上の必需品として敬意を払え。眼鏡の発明者や発明の年代ははっきりとしないが、1306年2月23日水曜日朝にサンタ・マリア・ノヴェーラのフィレンツェ教会において行われた説教の中で、修道士フラ・ジョルダーノ・ディ・リヴァルトが 「この20年以内の発明である」とふれているから少なくとも13世紀末のイタリアでは製作されていたことが分かる。当初の眼鏡はもっぱら老眼の矯正に用いられた。中世において眼鏡は知識と教養の象徴であり聖人の肖像には発明以前の人物であっても眼鏡が描き加えられ……」

 突然ホセが振り向く。
 興奮に浮かされ熱っぽく饒舌に捲くし立てていた僕と向き合い、不敵な笑みをこしらえる。

 「よろしい、眼鏡に対する君の愛は本物だと認めましょう。しかしワイフに対する我輩の愛も負けませんよ?」
 牙を剥いた野獣に類する凄まじい威圧感が放たれ、絶句。
 ……眼鏡の素晴らしさを憑かれたように語る僕に、どうやら対抗心を刺激されたらしい。
 深く深く息を吸い込んだホセが、夢見るように潤んだ瞳を眼鏡越しの虚空に馳せ、陶酔しきった素振りで胸に手をおく。
 次の瞬間、凱旋の銅鑼の音に似た大音声が爆発。
 「おお麗しのカルメン情熱の化身、世の男を破滅に導くファム・ファタール、凄艶なる美貌と妖艶なる媚態にて世の男を虜にする魔性の女!我が最愛のワイフに比べたら眼鏡の美など塵芥に等しい、ひとたびカルメンが微笑めば世界が官能に震え涕涙を流し宇宙は爆発、カルメンの瞳には千の星屑が散り瞬きその輝きときたら千カラットのダイヤをもしのぐ神秘の賜物!奇跡の衣を纏いて具現した偉大なる宇宙の意志そのもの、それがカルメン、それが我がとこしえのワイフ、生血滴る新鮮な心臓を供物に求める無慈悲な夜の女王!!」
 暴力的な大音量がびりびり空気を震わし破れんばかりに鼓膜を打つ。  
 咄嗟に耳を塞ぐ。
 ホセは感極まった様子で両手を組み、おそらくは恋人の面影に熱烈な祈りを捧げる。
 一点の曇りもない忠誠に裏打ちされた堂々たる宣言。
 恋人に死ねと命じられれば即座に死ぬ、火の中に飛び込めと命じられれば即座に火だるまになってみせると、悪魔に魂を売り渡しぎらぎらぎらつく目が雄弁に物語る。
 「何か文句がおありですか?おありなら聞きますが」
 宣言の余韻が消え入り静寂が戻る頃、うってかわって落ち着き払った声音でホセが促す。憑き物がおちたような変わりぶりで、その顔は慈愛ふかい笑みさえ浮かべている……
 が、油断はできない。
 ホセを刺激するのは控えるのが無難だと結論を下し、鼻梁にずりおちた眼鏡を直す。
 「なるほど、君の愛の深さもなかなかのものだな」
 空々しく同調してみせれば、ホセが深く深く首肯する。
 カルメンに対する愛情はもはや崇敬の域に達しているらしく、眼鏡越しの双眸は恍惚と潤み、顔全体がだらしなく笑み崩れる。
 「ワイフは我輩の命です。ワイフの為なら世界だって手に入れてみせます」
 あながち冗談に聞こえない口ぶりで断言、何事もなかったように歩を再開。ため息をつきそれに従う。
 歩きながら周囲を仔細に観察、壁の亀裂や照明の位置や音の響き方の違いなど僅かな変化を把握、道順を頭に叩き込む。
 道順?
 馬鹿な。愚かな発想に顔が歪む。
 道順を覚えてどうなるんだ、いまさら。役に立つのか、それが?
 いまさら地上に帰る気などないというのに、いつのまにか習性として帰り道をさぐっていた。
 一年と数ヶ月間の間に幾多もの危機に直面し修羅場をくぐりぬけ覚醒した本能が、自覚なきまま潜在していた生きたいという意志が、ここに来て無意識的に帰り道を模索し始めたのだ。

 未練があるのか、僕は。
 執着を捨てきれないのか。

 かぶりを振って記憶の残像を振り切る。
 歩いている間も離れなかったサムライの面影を意識から閉め出しにかかる。

 サムライは今頃どうしている?
 僕がいない房で、僕の帰りを待っているのか?
 帰りの遅い僕を心配し、落ち着きなく房内を歩き回っているのだろうか。腕を組みベッドに腰掛けて瞑想に耽っているのだろうか。図書室に捜しに行った?展望台を覗きに行った?否、そんなところに僕はいない。僕がいるのは遥か地下、彼の足元、サムライが思いもよらぬ場所だ。 

 「馬鹿な。期待してるのか、僕は」
 迎えに来てくれるかもしれないと思っているのか?
 僕の不在がサムライから平常心を奪い僕をさがしに地下停留場にやってこないかと、地下を移動する僕を追ってきはしないかと、浅ましい期待を抱いているのか?
 くだらない。
 何の為にここに来たんだ、僕は。
 サムライと顔を合わせたくないからだ。会えばまた、殺そうとするからだ。

 サムライとは一緒にいられない。
 いつか僕は、彼を殺してしまう。

 僕を抱いてくれない彼を憎み、呪い、殺意を抱き、手に入らないならいっそと殺してしまう。
 サムライの首に残る青黒い痣を思い出す。はっきりと僕の指形に浮いた鬱血の痣。
 サムライは何も、何も言わなかった。
 洗顔時に当然鏡に映ったはずなのに、これ以上なくはっきりとした殺人未遂の証拠があるのに、あえて見てみぬふりをした。
 僕を慮って見ないふりをした。
 何も尋ねなかった。
 詰問も追及もせず首の痣に関してはそれきり忘れた素振りで、淡々といつもどおりに行動した。何故だ?気付いてないはずがない。昨夜サムライは覚醒した。もう少し力を込めれば息絶えるその寸前に目を開けてしっかりと僕を認めたじゃないか、この殺人者の顔を、手を、認めたじゃないか。

 サムライははっきり見たはずだ。
 冷静沈着な無表情を、自分の首を力の限り締め付ける手を、闇を背にのしかかった僕を。

 何故何も言わない?
 何故問い詰めたい?
 俺を殺そうとしたのかと、声を荒げて罵倒しない?
 何故そうまで実直に、君を殺そうとした僕を許そうとする?

 房に帰る勇気はない。東棟には帰れない。
 僕の居場所はどこにもない。
 この広い東京プリズンのどこにも、ない。
 それは今や厳然たる事実だ。
 僕は僕の孤独をひしひし痛感する。
 救い難い孤独。救いを欲していない故に救われない孤独。

 サムライは僕を拒絶し、僕はサムライを拒絶する。
 互いに拒絶しあうしかない不毛な関係。
 そんなものは要らない。
 そんなものはこちらから捨ててやる、断ち切ってやる。

 共食いしてもますます飢えが深まるばかりだと気付いたのだ。
 僕は決して満たされない、サムライは決して癒されない。孤独を共食いする関係ほど不毛なものはない。サムライの優しさは僕を満たさず傷付けるばかり、僕の誘いはサムライを癒せず過去の傷を抉るばかり。

 サムライは優しいから僕を抱けない。
 その優しさは、残酷だ。僕にとっての生殺しの責め苦だ。 
 互いに得るものがなにもないのに一緒に居続けるのは不毛だ。
 需要と供給は成立せず、互いに消耗するだけだ。 
 ならばいっそ、僕のほうから彼を見限る。
 彼を見限り、暴君のもとへ行く。

 「ここです」
 思考を妨げたのはホセの呟き。
 「!」
 反射的に顔を上げる。
 ホセの肩越しに目の当たりにしたのは、何の変哲もない老朽化した壁。
 「ただの壁じゃないか」
 声に非難の響きが混じる。ホセが肩を竦める。
 ホセを押しのけて前に出、仔細に壁の検分を始める。
 ただの壁?いや、違う。闇に切れ目を入れる僅かな明かりを頼りに目を凝らす。
 青白い光が怪しく照らす壁に、おぼろげな線が浮かび上がる。
 「………ただの壁じゃない」
 直接壁に触れようとしてためらう。
 目の前に絶妙のタイミングでハンカチがさしだされる。
 「どうぞ。お貸しします」
 紳士的な物腰でホセが促す。
 隠者から物を借りるのは癪だ。
 不愉快に払いのけようとするも、問答無用で握らされ憮然とするしかない。
 仕方なくホセに持たされたハンカチで手を包み、壁のあちこちを叩いて反応を探る。
 何か変だ。
 違和感が脳の奥で膨らむ。
 叩いた手に返る反応が他の部分と明らかに趣を異にする。
 壁向こうの空洞の存在を感じとる。
 「教えろ隠者、この向こうには何がある」
 中腰の姿勢でホセを振り返る。ホセが一歩前に出、おもむろにー

 『Hola!』
 声を発する。
 メキシコ訛りのあるスペイン語に、間髪いれず壁の向こうから応答が返る。
 『Amigos』 

 オラ。
 アミーゴーズ。
 「ヘイ」「ようこそ我が友よ」の応酬の一瞬後、驚天動地の現象が発生。
 何かを蹴り付ける音とともに目の前の壁が石を削る音たて反転、矩形の空洞が生まれる。
 最前まで壁であった場所が壁でなくなり、今はぽっかりと口を開けている。暗渠だ。
 中から漏れ出す明かりが目を射り、反射的に瞼を閉ざす。
 慎重に薄目を開ける。壁の向こうには狭い部屋があった。
 今しも切り込みの入った壁を蹴り開けたのは、ランプの光を受けて横顔に不吉な陰影を刻んだ青年。
 闇の中で焦げ茶に見えた髪が、ランプの光を受けて黄金にきらめきわたる。
 干し藁の前髪の奥、黒革の眼帯で覆われた左目と硝子じみた透明度の右目が外気に晒される。
 ランプの光がちらつき愛でる肌は野生的な褐色、絶世の美形と評すべき顔にはあるかなしかの皮肉な笑みが浮かんでいる。
 レイジ。
 「この合言葉やめねー?ださいよ」
 暴君。 
 「すぐばれる日本語と英語を避けてひねってみたのですが、不評のようで残念です」
 ホセが中に入る。暴君はこれを通す。
 一瞬ためらうも、意を決し後へ続く。
 横を通過する際に視線を感じた。 
 横顔に注がれる焼け付くような視線の主は、暴君。
 欲望の火照りを孕んだ視線で僕の頬を嬲り、腹をすかせた豹のように上唇を舐める表情は、煌々たるランプの光を受けておそろしく艶っぽい。
 背後で鈍い音たて扉が閉じる。
 「……隠し部屋があったなんて知らなかった」
 淡い驚きとともに素朴な感想を述べる。
 「この下水道が造られた当時から存在していた部屋です。当時は資材置き場だったようですね。地上から搬入したセメントを蓄える倉庫だったんでしょう。証拠に、ほら」
 ホセが顎をしゃくったほうを見やる。
 部屋の片隅に半ば崩れかかったセメント袋が乱雑に積み上げられていた。
 周囲には石灰のたぐいが散乱している。
 そういえば空気がいがらっぽい。
 おもわず顔を顰め口を覆う。
 そんな僕には構わずどこか得意げな口調でホセが続ける。
 「地上の人間に知られていないだけで似たような部屋は無数に存在します。照明点検用に造られた部屋、水質調査用の部屋、単純な設計ミスで出来た掘削の副産物の部屋……なにしろ大工事でしたからね、用途に応じて使い分けていたわけです。眉唾ですが、なにせこの下水道はとほうもなく広い。どうかすると東京プリズンの敷地に倍する長大さです。最前線の作業員はあまりに遠くに行き過ぎたため地上に帰ることが出来ず、これらの小部屋に寝袋を持ち込み仮眠した逸話があるくらいです。本当かどうか知りませんがね」
 「詳しいな」
 「事情通ですから」
 わざとらしく眼鏡の弦を押し上げる。
 知識量を誇示する事で優越感を覚えているらしく、ホセの顔が弛む。
 物珍しさに駆られ注意深く周囲を見回す。
 下水道にはリョウに呼び出されて潜った事があったが、こんな部屋が存在するなどついぞ知らなかった。
 なるほど、ホセの説明は説得力がある。
 東京プリズン地下の下水道がどれほど無縫な広がりを見せているか、迷宮の如き複雑さを内包しているか、ここに来るまでの道のりで十分わかった。
 作業員の中に遭難者がでたという笑い話が笑い話にならないほど広いのだ。
 最前線の作業員がこれらの部屋で寝袋に包まり夜を明かしたとしてもむべなるかな、だ。
 住環境はお世辞にも良いとはいえないが、一日二日泊まるくらいなら何とか我慢できないことはない……最も僕はごめんだが。
 「当時の作業員は寝ているあいだにネズミに齧られたんじゃないか?」
 「小指を噛み千切られた作業員もいたそうです」
 「笑えないな」
 床に直接ランプが置かれている。
 この部屋唯一の光源だ。
 しかし、明るい。外と比べてもまだ明るい。部屋の全貌を暴くに十分な光量がある。
 ランプの光が部屋に行き渡る。コンクリートの天井と壁と床、隅に積み上げられたセメント袋、あたりに散らばった白い石灰……
 「………な、」
 そして、気付く。
 僕たち以外に人がいる。予期せぬ四番目の人物が。
 部屋の隅、もっともランプから遠い場所に蹲っていたせいで最初は気付かなかった。
 背格好からして成人男性。
 ぐったりと身を丸めるようにして縮こまった姿勢からは一切の覇気が感じられない。
 「……死んでいるのか?」
 「一応生きてはいますが、少々手荒い処置をしてしまったのでね」
 ホセがうっそり笑う。背筋がおぞけだつような微笑。
 部屋の隅、セメント袋を積んだ陰に蹲ったその人物はランプの光に艶やかに映える銀髪をしていた。着ている物は青い軍服だ。

 脳裏で数日前の衝撃が爆ぜる。
 突如轟音を響かせ空から下りきたヘリコプター、中庭に着陸したヘリから降りた軍人の先頭にいた人物……

 「サーシャの兄が、なんでこんなところにいるんだ?」
 「おや、ご存知でしたか」
 「当たり前だ、東京プリズン中に噂が広まってるぞ。ロシアから派遣された軍人の一人がサーシャの実兄だと知らない者はいない。そんなことはどうでもいい、何故彼がここにいるんだ?あんなふうにぐったりしてるんだ?ここに呼び出されたのは僕だけじゃないのか」
 「妬くなよキーストア」
 「妬いてない、疑ってるんだ!!」
 ヒステリックに声が割れる。なれなれしく肩に置かれた手を振り払う。
 いつのまにかとなりにレイジがいた。
 僕の動転憔悴ぶりをさも愉快げに目を細め見物し、いたぶるように暴君が囁く。
 「サービスだよ」
 「何?」
 「お楽しみの前にゲリラ仕込みの拷問ショーを見せてやろうと思ってさ。腐ってもダチだろ?俺たち」
 器用に片目を瞑る。元のレイジと酷似したしぐさに嫌悪を禁じえない。
 頭が混乱する。状況がさっぱり掴めず焦燥が募る。
 「何を企んでるんだ、ホセ。彼はロシアの軍人だ。ロシアの軍人を一囚人が拉致などしたら当然騒ぎになる、所長に知られたらどうなるか……君の目的は何だ?身代金でも要求する気か?身代金代わりにあの大仰なヘリコプターを乗っ取って脱獄するか?」
 「とんでもない。ノミの心臓の我輩にそんな大それたこととてもとても」
 ホセがさかしげに首を振る。
 緩慢に首を振りながら靴音高く隅に接近、昏睡状態の軍人の正面に片膝付く。 
 「そろそろ起きていただきましょうか」
 声音はあくまで優しく冷静、しかしぞっとするものを孕んでいる。闇の触手のようだ。
 固唾を呑みホセの行動を見詰める。隣ではレイジがにやついている。  
 ホセの呼びかけにも軍人は反応せず、顔を上げようともしない。依然眠りは深い。
 はからずも無視された形となったホセは、鉄化面じみた笑みを貼り付けて、無造作に片手を振り上げる。
 「起きなさい」
 甲高く乾いた音が爆ぜる。
 無防備な頬に平手打ちが炸裂、大きく顔が仰け反る。
 打擲された頬がみるみる赤く腫れる。
 がくんと上下に首を振った軍人が、半睡の靄がかかった目をそろそろと開ける。
 朦朧たるアイスブルーの瞳。
 霜の如き銀髪に彩られた眼差しは現実と夢の境を茫洋とさまよい、いまだ帰還する様子がない。
 数呼吸おいて返答が返る。
 「………ここは、どこだ」
 「下水道の奥の奥、ひっそり存在する秘密の部屋です。昨晩取引を行った地点からさらに深部へと移動した場所。たとえるならー……」
 人知預からぬ企みを秘めた隠者が怪しく微笑む。
 黒い肌をランプの光が照らし、彫り深い顔を奇怪な陰影が隈取る。
 「隠者の領土といったところでしょうか」
 「単純に拷問部屋って言えよ」
 「風情がないですね、レイジ君は」
 「秘密基地ってのはどうだ?雰囲気でんだろ」
 暴君の横槍にホセが溜め息をつくも、すぐに表情が変わる。
 すなわち、優位を確信した者特有の鷹揚な笑み。
 「……言いえて妙かもしれませんね。人目にふれさせたくない戦利品をしまっておくにはふさわしい部屋だ」
 「私を拉致してどうするつもりだ?身代金でも要求する気か」
 「直君と同じ事を言うんですね。あまり馬鹿にしないでもらいたいものです」
 頬を赤く染めた軍人の問いにホセは首を振り、哀れむような目で見る。
 「一個人と軍隊の取引が成立すると本気で思うほど馬鹿なんですか、貴方は。軍隊と取引する前提なら、我輩の背景にもまた組織が存在する。でなければ力の均衡が明らかに不釣合い、よって対等な取引は成立しません。そうですね、我輩は……世界中に散らばった『死の商人』の代表だと思っていただければ話が早い」
 軍人の顔色が豹変する。
 白磁の肌が一瞬で青ざめ、痛ましいほどの驚愕の相を呈する。
 戦慄に打たれ硬直した軍人が、初めて合点がいったとばかり呟く。
 「………そうか。だから『あれ』を狙っていたのか」
 「理解が早くて助かります。早速教えてもらいましょうか、あれのありかを。正確な位置はもちろんわかってるんでしょう?」
 軍人が沈黙。
 殉教者めいて禁欲的な面持ちで口を閉ざした軍人をじっと見据え、ホセが笑みを深める。
 「過去を暴露したことを怒っているのですか」
 反射的に目を見開く。アイスブルーの目に憎悪が漣立つ。
 美しい顔を醜悪に歪め、それでも沈黙を守り続ける軍人を冷え冷えと見下ろし、獲物を罠に追い込む周到さで畳み掛ける。
 「廃人化したサーシャ君に尽くすため、軍人としての出世の一切を諦めると言ったのも所詮は嘘ですか。やはり未練は断ち切れませんか、出世が恋しいですか、軍での栄達が望みですか、異母弟の人生と引き換えて己の将来を手放すのはいやですか」
 「……『死の商人』などに、あれを渡してなるものか。祖国に対する義務が、私にはある」
 「忠誠の義務?服従の義務?まさか献身の義務ですか、その中に殉死も入ってるんですか?」
 嬲るように声を高める。
 軍人は高潔な居住まいでホセを見返す。
 銀の紗のかかった眼差しはゆるぎなく、どこまでも気高い。
 崇高な意志をやどした眼差しでホセを射止め、玲瓏たる面差しに峻厳な色を浮かべ、よく響く声で宣言する。
 「私には誇りがある。死の商人にあれを渡すくらいなら、一切の秘密を守って死んだほうがましだ」 
 「サーシャ君ひとりをおいて?」
 「………」
 「またサーシャ君をひとりぼっちにするのですか?迎えにきておきながら突き放すのですか?数年前とおなじ過ちを繰り返すのですか?まったく酷い兄だ、貴方はとんだ偽善者だ!仮初の優しさで欲望を覆い隠し人を不幸にする天才だ、貴方はそうして数年前と同じ過ちをなし数年前と同じ悲劇に彼を放り込む!サーシャ君は想いが報われぬ苦しみにまけて薬に溺れたというのにあなたは真の原因から目を逸らしレイジ君にすべての罪を被せ殺そうとした最低の偽善者だ、なんと卑劣な男だ、こんな卑劣漢は軍人にふさわしくない!!」
 熾烈な糾弾に苦悩の翳りがさすも、軍人の意志は固い。
 祖国を売り渡すくらいなら機密と心中した方がましと沈黙、絶命の瞬間に備え目を閉じる。
 芝居がかった大声が次第にトーンダウンし、異様な静けさがあたりを包む。

 ランプが煌々と輝く。
 床に、壁に、光が踊る。陰が踊る。

 「……………仕方ありませんね」
 僕は身動きを忘れホセを見詰めていた。
 正確にはその背中を凝視していた。
 傍らの暴君は相変わらずにやにやしている。
 高揚がこちらにも伝わってくるような、沸々と滾り立つ笑み。
 ホセがズボンを探り何かを取り出す。
 なんだ?暗くてよく見えない。
 ランプの光を頼りに手元に目を凝らす。
 ホセが取り出したものがおぼろげに浮かび上がる。
 注射器。
 ホセが手に持ったのはシンプルな注射器、なんとも場違いな医療器具。
 一体それをどうするんだ?まさか……
 鼓動が高鳴る。
 喉が異常に渇く。
 嫌な汗がじっとり体をぬらし服を貼り付かせる。
 緊迫する空気の中、ホセが忌まわしいほどに慣れた手つきでもって注射器のポンプを押し込む。
 虚空に透明な弧を描いて迸ったのは、あらかじめ注入されていた液体。水銀めいた光沢の薬液。
 「ロシアでは真実の血清というんでしたっけ」
 既知の名称が不安を現実化する。
 ロシアでいう真実の血清とは自白剤をさす。
 自白剤の開発は第一次世界大戦の頃から始まり冷戦時代には多くの研究がなされた。
 共産主義が席巻した当時のロシアでもまた総力を尽くし自白剤の開発がなされるも、そのうち何種類かは大脳上皮を麻痺させる以上の作用を及ぼし、被験者を廃人にするほどの中毒性でおそれられた。

 ホセの笑みが凝固する。
 仮面に開いた穴のように虚ろな目、仮面の切り込みのような口。
 おぞましさを禁じ得ない空洞の笑み。

 「吐いてもらいますよ」
 「やめろ」
 かすれた声が迸る。
 僕の声だ。
 暴君が止める気配はない、僕以外に制止する人間はいない。
 暴君もホセも明らかにこの状況を楽しんでいる、止める気など毛頭ない。
 ホセは僕の言葉には一切耳を貸さず、軍人の腕をとり袖を捲り上げ、銀色に光る鋭利な針先を静脈に近づける。
 ランプの光を弾いた先端が銀朱に光る。
 「やめ、ろ………」
 軍人の唇がわななく。
 ホセは無慈悲に懇願を一蹴、ますますもって狂気の笑みを深め静脈に針をあてがう。
 青ざめた皮膚の上を銀の針が滑っていく。 
 わざと恐怖を煽るような緩慢さでもって破れぬ程度に皮膚をつつき、若い弾力を楽しむ。
 美しい顔が悲哀に歪む。
 アイスブルーの双眸に悲痛な光が走る。
 咄嗟に身をよじり抵抗する軍人だが、背後に回されたその手が手錠に拘束されていることに漸く気付き、さらに動転。
 壁に背中を付け、もはや瞬きもできぬほどに戦慄した軍人の腕をぐいと掴み、盛り上がった静脈を針先で愛撫する。
 低いバリトンが死刑よりもなお屈辱的な拷問の開始を告げる。
 清廉な殉教者に薄汚い売国奴への宗旨替えを迫る恐ろしい拷問。
 薬物を用いて人の尊厳を剥奪し動物にまで貶める悪魔の所業。
 「サーシャ君とお揃いにしてあげます」
 「やめろっ!!」
 咄嗟に走り出そうとしたが、間に合わない。
 僕の腕は背後から暴君に掴まれ引き戻され、暴君に拘束された僕の視線の先で針は皮膚と静脈を突き破りポンプがゆっくりと押し込まれ一滴残らず中身が注入される。
 仰向いた軍人の顔に苦痛が閃く。
 けれども苦痛の色はすぐに引き、続く変化が襲う。
 注射器が名残惜しげに離れると同時に電気ショックの被験者のように不規則に体が痙攣、眼球がぐるりと反転、瞼の下で上下左右でたらめに動き回る。
 痙攣は止まらない。
 静脈に打たれた自白剤はまたたくまに血流に乗じ血に溶け全身を巡り、理性に靄をかける。
 「ひあっ、あ、ぃあっ………」
 軍人の表情から理性が霧散、後に残るは茫漠たる虚無。
 弛緩した口の端から透明な糸引き涎がたれ重心を失った体は壁によりかかり何とか姿勢を維持、その間もでたらめな痙攣はやまず突っ張った手足がびくびくと跳ね続ける。陸揚げされた魚のように生きがよい。だがその痙攣も次第によわよわしくなり、やがて完全に静止。
 自律しない赤ん坊のように首を項垂れた軍人の至近距離、濡れ光る注射針を脅すようにつきつけホセが言う。
 「さあ、『あれ』の隠し場所を教えてください」
 「『あれ』……『あれ』は………」
 「ロシアが総力挙げて回収しようとしているあれです。長年奪回の手段を模索していたあれです。忌まわしい冷戦の遺産です。あなたがここに来た目的そのものです」
 「目的……………さ、しゃ…………さしゃ、もくて、き………」
 眼鏡越しの目に激情が炸裂、突如として凶暴性を剥き出したホセが引き毟らんばかりに前髪を掴む。
 「違うでしょう、そうじゃないでしょう。あなたが祖国より任されたやくめはちがうでしょう、サーシャ君より先にやるべきことがあるでしょう。公私の区別もつかないんですか、貴方は。とんだ落ちこぼれ軍人だ」
 掴んだ髪を乱暴にゆする。毛髪が束で抜ける。
 力づくで顔を上げさせられた軍人の顔に苦痛とそれ以外のものが去来、追憶の光にぬれた双眸が朦朧と虚空をさまよう。
 弛緩した口から涎と一緒に垂れ流されるのは、たどたどしい言葉。
 「さしゃ……むかえに、きた………やっと……帰れる………約束を、守りに……」
 「とんだ役立たずだ」
 ホセの口ぶりが苦味をます。
 見当違いも甚だしいといった渋面を作り、前にも増して激しく髪を揺さぶる。
 分厚いレンズの奥で双眸がぎらつきをます。
 口元の笑みはそのままに目は完全に笑いを捨て去って本性を剥きだしにし、野獣が咆哮を上げる如き荒々しさでもって軍人の銀髪を引き抜き蹂躙し、脳震盪を起こす勢いで上下に激しく揺さぶりつつ容赦ない詰問を浴びせる。 
 「貴方はサーシャ君をどう思ってるんですか?ただの弟としか思ってないならきっぱり突き放しておあげないさい、その方が彼のためだ。いいですか、アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ。サーシャ君はあなたの偽善と欺瞞の犠牲になったのです、あなたの自己満足の犠牲になったのです。まずはそれを自覚なさい、懺悔なさい、天地神明に誓って!サーシャ君の妄想が悪化したのは誰のせいですか、サーシャ君が薬に溺れたのは誰のせいですか?レイジ君ではありません、あなたです、あなたのせいです!まったくあなたときたら唾棄すべき偽善者だ、聖人君子の仮面を剥いでみればただの卑劣漢だ、サーシャ君はあなたに狂わされたも同然だ!!」
 「そのへんにしとけよホセ、はげちまうよ」
 暴君が呆れて口を挟む。
 僕は、眼前の光景に圧倒されていた。恐怖で体が硬直し、止めに入る事すらできなかった。
 軍人は意味をなさないうわ言を呟くばかりで、ホセが期待したまともな会話は成立しそうにない。
 千々に乱れた頭髪は既に銀雪の名残りを留めず、めちゃくちゃに踏み荒らされたあとの悲惨を呈し、所々頭皮に血が滲んでいる。
 朦朧としたアイスブルーの目は既に現実を見ていない。 
 床に撒かれた石灰の上にむりやり引き毟られた天使の羽毛の如く銀髪が舞い散る。
 煌々たるランプの光が、情け容赦ない蹂躙の痕跡を暴く。
 凄惨でありながら、凄絶に美しい光景に魅了される。
 軍人の前髪を掴み、ぐいと顔を仰向かせ、ランプの光を受けた白痴の表情を真上から覗き込んで隠者が囁く。
 「いい子だから教えてください、『あれ』のありかを。そうすれば愛しのサーシャ君のもとに帰してあげますよ。会いたいでしょう、サーシャ君に。数年ぶりに再会が叶った弟だ、半分しか血が繋がっていないからこそ愛情は二倍深い。『あれ』のありかをこっそり耳打ちしてくれれば五体満足で地上に送り届けてあげます、好きなだけサーシャ君で人形ごっこをするといい。だから今は……」
 『Можешь рассчитывать на меня …………Ты знаешь, я всегда рядом、Ты не одна.не волнуйся』
 
 モージェシ ラスチーティヴァチ ナ ミニャ。
 ティ ズナーィシ、ヤー フスィグダー りャーダム。
 ティ ニ アドゥナー。
 ニ ヴァルヌーィスィヤ

 私を頼っていい。
 私はいつもそばにいる。
 君はひとりじゃない。
 なにも心配いらない。

 軍人は繰り返しそう言っている。
 みずからが作り出した幻覚に向かいひたすらそう繰り返す。
 銀の紗のかかった薄氷の双眸に溶け滲むのは、紛れもない愛情。
 半分血を分けた弟に対する、限りない愛情。
 壊れてしまったからこそ純粋さを保ち続ける、心。
 壊れてしまったからこそ美しい虚ろな器と心の残骸。

 「……リョウ君から仕入れたのですが、安物でしたか」
 あっさりと髪を放す。
 支えを失った首が折れ、背骨がふやけたようにセメント袋の山に倒れこんで崩壊を招く。
 濛々と石灰の煙が上がる。
 視界を閉ざした白煙の向こう、玩具に飽きた子供の無関心さで軍人を解放した隠者が徒労感もあらわに吐息をつく。
 「仕方ないですね。君の番ですよ、レイジ君」
 「待ってました」
 セメント袋に倒れこんでぴくりとも動かない軍人のもとへ軽い足取りで暴君が歩いていく。もちろん僕を引きずったままだ。
 白煙を吸い込み咳き込む。
 セメント袋に倒れ込み服も顔も髪も純白に染めた軍人の姿は、まっさらな雪原で行き倒れたかのようにも見える。
 このまま雪に埋もれて消えてしまいそうだ。
 「生きてんのか?これ」
 いっそ無邪気な疑問を発し、動かぬ頭を爪先で小突く。
 今度は少し力を込めて小突く。蹴る。
 「う……く………」
 微弱な反応と目覚める気配があった。
 安堵した僕をよそに、暴君が浮かべた微笑はこちらの不安を煽る程に邪悪なものだ。
 「よかった。まだ使えんな」
 「役に立たない駒に興味はありません。好きにしてください」
 暴君のはしゃぎぶりに微笑ましげに目を細め、ついでのように付け足す。
 「地獄を見れば気が変わるかもしれませんし、ね」
 暴君と交代で壁際に下がり、無責任な傍観者と化す。
 暴君は嬉嬉として軍人の髪を引っ張り腰を踏み尻を蹴りと全身をいじくりまわしていたが、背後で硬直した僕の存在を漸く思い出したらしく振り向く、驚くべき命令を発する。
 「キーストア。お前、こいつを犯せ」
 耳を疑う。
 とどまるところをしらない狂気に打たれ、反射的に首を振り、全身を強張らせて拒否する。
 しかし暴君は動じない。この提案に大乗り気で、僕の腕を掴んでむりやり引き寄せるや思い切り肩を突く。
 「!っ、」
 バランスが崩れる。視界が揺らぐ。強い力で押され、受身をとる暇もなくセメント袋の上に倒れこむ。
 濛々と石灰の煙が立ち上る。涙腺に染み気管にもぐり口の中がざらつく。
 僕の下に軍人がいる。うつぶせに倒れこみびくともしない。
 軍人と折り重なった体を引き離そうとすれば、何者かによってぐいと頭を押さえ込まれる。
 わざわざ振り向かなくてもわかる。暴君だ。
 肘に圧力をかけ僕の頭を押さえ込み前傾させ、むりやり軍人の背に埋める格好をとらせる。
 「どうした?いやか?売春班じゃさんざん男どもの慰み者になってケツの穴に咥え込んだくせに、自分でヤるのは抵抗あるってか?遠慮すんなよ、どうせさんざっぱら上官に耕された後だ。軍じゃ男同士でヤるのが常識だもんな。この若さで大尉の地位に上り詰めるにゃそりゃ体を売って見返りをえたんだろうさ、どうりで肌が艶々してっと思ったぜ、たらふく男の精気を吸ってたんだからよ!」
 高笑いが炸裂する。暴君が仰け反るようにして笑い出す。
 ランプの光が濃淡にとむ陰影を投げ掛ける部屋に、おぞけだつ哄笑が殷々とこだまする。
 狂気走った哄笑を上げながらますますぐいぐいと力を強め、僕の頭を押さえ込む。
 「どうした、ヤれよ。サムライに相手にされなくてさんざんたまってるぶんコイツにぶちまけちまえ、きっとすっきりすんぜ。上官に耕やされていいかんじにこなれまくってる尻を楽しめるんだからラッキーだろ、ええ?ま、開拓されまくって痔で腫れふさがってるかもしんねーけど」
 「いやだ」
 「なんだって?」
 桁外れの膂力に抗い、軍人の背からどうにか顔を引き剥がす。
 頭に重石がのった苦しい体勢からぎこちなく首を回し、暴君を仰ぐ。
 「犯したいなら、僕を犯れ」
 暴君が虚を衝かれる。
 隅に控えたホセが愉快げにほくそ笑む。
 かっきりと暴君を見据える。
 シャツの下で高鳴る鼓動と全身を巡る血を意識、憤怒とも反発ともつかぬ激烈な感情の暴発に身を委ね、石灰に突っ込んで白く汚れレンズにまで粉が付着した滑稽な顔で必死に食い下がる。
 「こんな茶番に付き合う気はない。僕はレイジ、君が会いたがってると聞いてここに来たんだ。読書に使えば何十倍にも有意義に過ごせたはずの時間をわざわざ君の為にあてたんだ。ならそれ相応の見返りがほしい、それに見合った快楽がほしい。僕に快楽をくれ、レイジ。君しか与えられないものをくれ。僕の体は受身に調教されている、挿入で快楽をえるのは不可能でないにしろ時間がかかる。僕はもっと直接的な快楽が欲しい、めちゃくちゃに抱かれ貪られ搾取されてからっぽになりたい、何も考えられない位からっぽになりたい、君の玩弄物になりたい!」
 あっけにとられた暴君の腕を掴み、今度はこちらから引き寄せ縋り付く。
 腕を頼りに這うようにして暴君の下半身に顔を埋め、湿った吐息と一緒に囁く。

 プライドを擲ち、自尊心を踏み付け。
 サムライを忘れるために、永遠に忘れ去るために最短の方法を採る。
 めちゃくちゃに嬲られ壊されたいといった被虐の願望に駆り立てられ、欲望の昂ぶりを抑えきれず、暴君の腰に石灰に塗れた顔をすりつける。 
 快楽を貪る一匹の獣に堕して髪をぐちゃぐちゃに乱し、なりふり構わず暴君の腰にしがみつく。

 そして、言う、
 深奥から搾り出す。

 決定的な台詞を、
 決定的な裏切りの言葉を。

 サムライに求め報われなかった行為を、極限の飢えと乾きに苛まれた者の浅ましさで目の前の男にねだる。

 「抱いてくれ、レイジ」

 僕は、裏切り者だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050214050933 | 編集
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