ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十五話

 腕の中で息を止める。
 「俺と一緒に逃げろ、ロン」
 道了は俺の胸に頭を凭せかけ微動だにしない。
 不思議と安らいだ表情でことりと額を預け、俺の胸の鼓動を聞いている。 

 抱擁の力が強まる。
 俺を抱く手に縋るような力が篭もる。
 切迫した呟きに動揺する。
 
 こんなよわよわしい道了は初めてだ。
 殺戮兵器の強さを示威する不死身の假面として池袋最凶の武闘派チーム月天心に君臨した男が、比類なく悪名高き月天心の首魁が、今は俺を抱きしめて動かない。

 今夜の道了はやけに表情豊かだ。
 麻痺した顔筋は相変わらずでも、半眼に瞼を落とした双眸を過ぎる悲哀の光が起伏に乏しい表情に影めいたものを添え、輪郭の彫りを深くする。
 顔の造作を浮き彫りにする影は奇妙にのっぺりとした無表情に人間味を付与し、掴み所ない印象の中から胸に迫る真実を抉り出す。

 助けを求めるような声だった。
 手を伸ばしてやらなきゃと思わせる声だった。

 暗闇に溶けてただよう匂いがここがどこか思い出させる。
 仕切りのカーテン越しに盛大な鼾と歯軋り、呂律の回らない寝言が聞こえる。
 ふたつ向こうの囚人が寝返りを打つのにあわせベッドが軋み、びくりとする。
 道了の腕の中で金縛りにあったように硬直し、あっちこっちへとっちらかった思考をまとめにかかる。

 『我輩は現在、サーシャ君を虐待放置し医師を殺害遺棄した犯人を匿っています』

 閉じた瞼の裏側に昼間の情景が鮮明に蘇る。
 隣のベッドの傍らで繰り広げられた会話の一部始終を細部に至るまで鮮明に思い出す。
 冬枯れの白樺を思わせる厳粛な佇まいの銀髪の軍人と対峙したホセが、嬲るような調子で誘惑を持ちかける。
 黒縁眼鏡の奥の柔和な双眸が弦月の如く細まり、邪悪な姦計を孕む。

 『レイジ君が我輩の房にいることはいずればれます、早ければ今日中にも情報が流れるよう手筈を整えています。そうなる前に我輩はレイジ君を逃がします。どこへ?』
 『身を隠すにはもってこいの場所があるではないですか!東京プリズン地下、都心まで繋がると噂の下水道。ミノタウロスの迷宮の如く複雑怪奇に入り組み枝葉が分かれた下水道に逃げ込めばいかに執念深い看守とて簡単には追ってこれまい、追跡は難航すること必至。我輩はそうレイジ君を説得し彼を伴い地下に向かいます』

 きざったらしく眼鏡の弦に指を添え、尊大に顎引き断言。

 『そこで彼を貴方に引き渡す』

 極力抑えたつもりらしいバリトンが絶望的な宣告をくだす。
 一瞬耳を疑う。
 けれど目を閉じても現実にホセと軍人はいて、耳をふさいだところで聞いた会話を忘れ去るのは無理だ。
 ホセは善人じゃない。
 ペア戦じゃさんざん世話になったが、だからといって信頼には足り得ない。
 ホセの言動には偽善を匂わせた欺瞞が含まれる。
 選び抜かれた言葉のひとつひとつ、意味深な目配せひとつひとつに罠が仕組まれている。
 ホセは駆け引きの天才だ。
 利用できるもんは何だって利用する非情さはリョウなんか足元にも及ばねえ。
 ホセは交渉の玄人だ。
 決して真意を悟らせず巧みな話術で相手を誘導し陥穽に落とし込む。
 日頃笑みを絶やさぬ隠者もまた目的のためなら手段を選ばねえ危険な男だって事実をひしひし痛感する。
 ホセの目的?
 知るか。ホセの考えてることなんざこれっぽっちもわかりゃしねえ、だけど今現実にレイジが追い込まれてるってのはわかる、めちゃくちゃやばい立場だってのはいやってほどわかる。

 ホセはレイジを売り渡す気だ。

 銀髪の軍人はどうやらサーシャの兄貴らしい。
 そういや横顔に面影がある。
 サーシャから尊大さをとって謙虚を足せば兄貴が出来上がる。
 なんでサーシャの兄貴がここにいるのか事情は不明だが、レイジがサーシャにした仕打ちが本当なら、たった一人の弟を廃人にされた兄貴が復讐にのりだしてもおかしくない。

 取引は今夜。
 ぐずぐずしてたらレイジの命はない。

 最悪の想像が急激に膨らみ、不安の影が胸を蝕む。
 逃げ道を教えると騙され下水道に連れて行かれるレイジ、先導しながらほくそ笑むホセ。
 すべて隠者の思惑通りに事が進む。
 青白く病的な光が朧に照らす闇の中、そこだけ仄白く霜が下りたような透徹した光を放ち軍人が立ち尽くす。
 撞球のキューを構える動作に似た洗練さで銃を持ち上げ、ひどく満足げに口角を吊り上げる。

 『貴方が受けた屈辱は、臣下たる私めが晴らします』

 狂気の上澄みの微笑が、とんでもなく不吉な予感に拍車をかける。
 手遅れになる前に、止めなきゃ。

 じたばたもがいて何とか道了から身をひっぺがす。
 腕の中で暴れる俺を癇癪もちの猫かなにかのように不思議そうに見下ろす道了をきっと見返す。
 生唾飲んで見詰め合う。
 闇の中に仄白く浮かび上がる顔はいっそ非人間的なまでに整い、肉薄で切れの長い酷薄な印象を強める。
 精巧な人形のように微動せず、瞬きすら忘れたかのように静止する道了をまっすぐ見据え、言う。
 「………わかった。いいぜ、一緒に行ってやる」
 道了がかすかに目を見張る。
 意外とばかりの反応に逆にこっちが戸惑い、うしろめたくなる。
 うしろめたい?
 お袋と梅花を殺したやつ相手に、うしろめたく思うことなんかありゃしねえ。
 道了が怪訝な顔で俺を覗き込む。
 唇がふれるほど間近に顔が来る。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐり、やましさを煽る。
 徐徐に膨らみ始めた罪悪感を吹っ切るように早口で言い切る。
 「なに目えまんまるくしてんだよ。一緒に逃げてやるって言ってんだよ」
 「………ロン」
 懐疑の視線を拒んでそっぽを向く。
 ぐちゃぐちゃに乱れ込み入ったシーツの皺に目をやり、なげやりに吐き捨てる。
 「どうせ俺にはなにもない。レイジは俺に愛想尽かして消えた、お袋と梅花はもういねえ。なら、しかたねーだろ」
 大丈夫、一度はできたんだ。
 二度目だってちゃんとできる。
 覚悟さえありゃ絶対できる、上手くいく、成功する。
 上手くごまかせるようにと念じながら、荒みきった目つきで卑屈に笑う。

 「鍵屋崎もサムライも、こんな淫売とは付き合いたくねーとさ。ダチを裏切って天敵に抱かれるようなヤツは勝手にのたれ死ねって感じで……東棟には居場所はない。東京プリズンのどこにも居場所がない。お前のせいだ、道了。お前がきたせいで全部かわっちまった、くるっちまった。もう後には戻れねえ。俺はお前に抱かれた。何度も、何度も、何度も……自分の頭で物を考えられないふりして実際なにも考えられなくくらい、気持ち悪いを通り越して気持ちよくなるまで。いまさら房に帰れっかよ、何もなかったふりで食堂いけるかよ、鍵屋崎やサムライと顔あわせられっかよ。
鍵屋崎もサムライも俺を軽蔑してる、裏切り者の淫売たあ口も利きたくねえって口には出さなくても目がそう言ってる。レイジだって……、」

 レイジだって。
 語尾が途切れる。
 続きを吐き出すのに苦痛がともなう。
 シーツを掴んで俯く。伏せた顔に道了の視線を感じる。
 固く目を瞑る。
 身の内で吹きすさぶ激情を抑え込もうと、何度も何度も息をする。
 罪悪感を覚える必要なんて、ねえ。
 うしろめたさを覚える事なんてねえ。
 道了は取り返しの付かない事をした。
 お袋と梅花を殺した。
 俺の大事な人間を殺した。
 わけわかんねえ自己本位な理由で、スラムの片隅で必死に生きてた二人の女をゴミのように嬲り殺した。
 俺を酷く抱いた。
 汚いもんを舐めさせてケツの穴かっぽじってぶちこんで腰ぬけるまでがくがく揺さぶって、本当に死ぬかと思った。
 こんなやつ同情に値しない。
 道了がここに来るためにお袋と梅花を利用したのなら、今度は俺が利用する。
 自己本位な理由で利用して、ゴミのように捨ててやる。 
 極悪非道な假面が自業自得な末路を辿ったところで、痛快に笑い飛ばしこそすれ同情には値しねえ。

 腹を括れ。
 覚悟を決めろ。
 俺に足りないのは、どん底まで堕ちる覚悟だ。
 良心の痛みをうっちゃって、とことん最低になる覚悟。
 しみったれた考えをかなぐり捨て、とことん最悪になる覚悟。

 深呼吸で冷静さを吸い込み、下顎にへばりついた舌をひっぺがし、諦念を未練で割った辛気くさい声音を絞る。
 「……レイジだって、戻ってこない」
 口に出したそばから胸を抉るような痛みが走る。
 「なら、お前といくしかねーじゃねーか」
 その痛みに静かに蓋をし、気力が失せて抵抗の意志が萎えた素振りでしおらしく項垂れる。

 ここにいるのは辛い。
 レイジを思い出すのはひどく苦しい。
 俺にはもう、お前の隣しか居場所がない。

 気弱な嘘を塗り重ねて本心を隠す。
 胸の痛みに目を瞑り、そんなものはなからないふりをし、喉元まで込み上げる熱いなにかを抑え込む。

 俺には時間がない。
 ぐずぐずしてたらレイジの命がない。

 俺は今、危険な橋を渡ろうとしている。
 道了を利用して、医務室を抜け出そうとしている。
 隠者が俺やレイジをそうしたように、道了を便利な手駒として扱っている。
 これは、賭けだ。
 勝率の低い賭けに打って出る崖っぷちの気分で顎をしゃくる。

 「連れてけよ、どこへなりとも」
 おもむろに手を伸ばし、道了の腕を掴み、ゆする。
 無反応の腕をゆすりながら、駄々を捏ねるガキのように催促する。
 「こうなりゃとことん付き合ってやる。そうすりゃ満足なんだろ?それがお前の望みなんだろ?そうするために東京プリズンにきたんだろ?だったらそうしろよ、俺の手をとってむりやりにでもどこかへ連れ出せよ。誰も追ってこないところへ、お前の頭ン中で蝿が騒がないとこへ……」
 頭蓋骨を震わし脳を攪拌する不快なノイズに苦しめられ、道了が顔を顰める。
 貪欲なる蝿の王が脳みそを食い荒らす。 
 頭蓋骨の裏側で唸るような重低音を伴い羽ばたき始めた蝿を想像、その不気味さにぞっとする。
 苦悶の皺を眉間に刻んだ道了が右耳を塞ぎ、もう片方の手で俺の手首を掴み、ベッドから引きずりおろす。
 ノイズの波状攻撃に苦しみ抗う道了、夜目にもはっきりわかる青白い顔にふつふつ浮かんだ汗の量は尋常じゃない。 
 慌ててスニーカーをつっかける。
 俺がスニーカーを履くのを待たず道了が歩き出す。
 焦燥に駆られた大股で寝静まった室内を突っ切る。
 スニーカーの踵を踏み潰し、情けなく縺れる足取りで道了に付いていく。
 居眠りする看守の背後を堂々と突っ切り、一切躊躇せずノブを捻る。

 視界が漂白される。
 蛍光灯の明るさに一瞬目が眩む。

 闇に慣れた目が光に適応するのも待たず、いや、機械仕掛けの人形にはそんな事大した問題じゃないのか、廊下を直進する道了の足取りは迷いない。
 「どこへ行くんだ?」
 「下水道だ」
 にべもなく言い放ち、ついでのように続ける。
 「……旧下水道は都心に繋がっていると聞いた。上手くすればここを出られる。ただ歩き続ければいい」
 簡単に言うが、丸一昼夜歩き続けるのは非常な体力を要する。
 しかも道了はなんら前準備をしてない。
 防寒具も非常食も持たない手ぶらの状態で下水道を歩き通そうなんてただの馬鹿だ。
 落盤の瓦礫に通せんぼされた挙句、帰り道がわからずに凍死か餓死が関の山だ。

 行くならひとりで行け。
 勝手にのたれ死ね。
 俺はお前を利用する。
 お前がお袋を梅花を利用したように、お前を利用して目的を遂げる。
 お前は下水道までの案内役、媚薬が後を引いて一人じゃろくに歩けない俺の手を引っ張って歩いてくれる補助係だ。

 役目が終わったら即刻手を切ってやる。

 道了への憎悪を飼い殺し、身も焼かれんばかり焦慮に苛まれ、一心に念じる。

 間に合ってくれ。

 荒い息を吐き、祈る。
 ホセは時間を指定しなかった。
 最悪の可能性がにわかに現実味を帯びて迫ってくる。
 ホセはとっくに待ち合わせの場所に辿り着いてレイジを引き渡し、レイジはあの軍人に殺されているのかもしれない。

 畜生、そんな事あってたまるか。
 俺は必ずレイジを助ける。
 命はもとよりこれ以上レイジの体に傷を付けさせてたまるか。
 仲直りもしねえうちに死なせるもんか。
 諦めてたまるか。
 簡単に諦めきれるほどこの想いは安くない、レイジと泣いて笑って暮らした一年数ヶ月は軽くない。
 今からそれを証明にいく。
 俺とレイジの間にあるものを、目に見えない触れないけれども確かに存在するものをたぐりよせ、必ずあいつのもとへ辿り着く。

 道了の手に掴まり、へっぴり腰で床を這いずる。
 体がだるい。
 腰が立たない。
 シャツと擦れた皮膚がこそばゆい。
 血管を流れる血が砂になったように体が重く、足裏で自重を運ぶのに苦労する。
 停留場までの道のりをひどく長く感じ、ひりつくような焦燥に苛まれる。
 繋いだ手からたしかな熱が伝わってくる。
 俺の汗と道了の汗が交じり合って熱を発する。
 人形みたいに澄ましてるくせに手だけはちゃんとあたたかいんだ、コイツ。
 まだ媚薬の効果が切れてないのだろうか、ちょっと歩いただけで息が切れて発汗する。
 微熱を帯びたように体がけだるい。
 早く早くと急いて焦れて、けれども一向に停留場は近付かない。
 ぐるりと尾っぽを咥えた蛇の胴内を歩いてるようだ。
 わざと遠回りしてるんじゃねえかと訝るも道了がそんな事する理由がない。
 俺の企みに勘付いてるならともかく……
 いや、まさか。それはない。
 道了が知ってて知らないふりをしてる疑心暗鬼に苛まれ、ただでさえ遅れがちな足取りを鈍らせるのは得策じゃない。
 蛍光灯が冷え冷えと廊下を照らす。
 青白い光が目に痛い。
 靴裏がコンクリ床に吸い付き剥がれる気の抜けた音が耳障りだ。

 「梅花と会った」
 「え?」

 唐突な呟きに顔を上げる。
 驚いて道了の背を見る。
 先頭に立って黙々と歩きながら、道了は淡々と続ける。

 「房に来た。医務室へむかうあいだもずっとついてきた。ここに来てから毎晩だ。毎晩俺の夢に現れる。夢だけじゃない、現実にも現れる。目を閉じても開けても梅花がいる。ベッドの脇に立ってじっと俺を見下ろしている。例の寂しげな微笑を浮かべて、しつこくじっとこっちを見つめている」

 蛍光灯の無機質な光に照らされた道了からは、さっきの不安げな様子が払拭されていた。
 俺に凭れて弱音を漏らした男とは別人の如く、透徹した眼差で虚空を射抜く。
 
 「死んでもまだ勘違いしている。俺が本当は優しい男だと、俺が可哀想だと思い込んでいる。都合のいい思い違いだ。梅花は言った。假面の俺は俺じゃないと、自分が好きなのはただの道了だと、俺が俺でなくなってしまうのがいやで月天心を潰そうとしたと、今にも消え入りそうなか細い声でずっと俺の耳元でずっと囁き続けた」

 軽蔑もあらわに道了が吐き捨てる。
 「馬鹿な女だ」

 絡んだ指がほどける。
 繋いだ手が離れる。
 掌がすり抜け、威風あたりを払う大股の歩調に合わせて背中が遠のく。

 「梅花を悪く言うな」 

 喉が渇く。
 得体の知れない漣が胸に広がる。
 脳裏を過ぎる梅花の面影が、この世の不幸を一身に背負って殉じようとしているかのような懺悔の翳りを帯びる。

 「梅花はなんも悪くないだろ。梅花はただ、お前にそばにいてほしかっただけだ。お前をひきとめておきたかったんだ」

 道了は答えない。
 俺を廊下のど真ん中に残したままどんどん先にいく。
 忍耐力の限界、衝動が爆発。
 一散に走り出し、道了の前に回りこんで行く手を塞ぐ。
 道了が立ち止まる。
 正面から対峙、まともに目を合わせる。
 左右で色違いの目が憐憫の色を湛え、しげしげと俺を見る。

 憐憫?
 なんで、俺を哀れむんだ?

 煌々と輝く蛍光灯が闇を駆逐し事物の輪郭をはっきりと暴き出す廊下のど真ん中、俺と向き合った道了が低く命じる。
 「どけ」
 天心壊滅の原因が梅花だとしたら、梅花が果たした役割はなんだ?
 あんな大人しくて優しい女が、廃工場の片隅に蹲って俺の話し相手になってくれた女が、月天心崩壊の引き金を引くような大それた真似するもんか。
 梅花はただ、沢山の手榴弾の中にたった一個のはずれをまぜただけだ。
 栓を抜かれるまでは何の害もないはずれを混ぜただけだ。
 たまたまそれがくじ運のない俺の手に渡り、大惨事を招いただけだ。

 梅花。
 俺が惚れた女。初恋の女。
 最初の一回が最後の一回になった。
 初めて抱かせてもらった体はどこも柔らかく丸みを帯びて、甘酸っぱい汗の匂いと香水が混じった体臭が鼻を突いた。
 大好きだった。
 女らしく儚くて、守ってやらなきゃって気負いが決して苦にならなかった。
 俺を呼ぶ間延びした声が、微笑ましく俺を見る目が、優しく包帯を巻いてはだけた裾を慎ましく直す手が、華奢な膝小僧とすんなり伸びた足が大好きだった。

 梅花を汚すのは許さない。

 「いいか、勘違いするなよ。月天心を潰したのは、俺だ」

 廊下に殷々と声が反響する。
 たゆたう残響が鼓膜に染みる。
 しっかりと足を開いて立ち、逃げも隠れもせず道了と向き合う。

 俺は、俺がしたことから逃げない。
 手榴弾の栓を抜いて力任せに投擲した事で招いた流血の惨事は今でもくっきりと目に焼き付いて、阿鼻叫喚の地獄絵図と鉄錆びた血臭とぺちゃりと頬に跳ねた肉片の粘り気と口の中に広がる砂利の違和感と味とを五感がリアルに復元する。

 あれをやったのは、俺だ。
 俺以外の何者でもねえ。
 月天心を潰したのは、俺だ。
 梅花のせいになんかさせてたまるか。

 「月天心を潰したのは俺だ。納得するまで何度でも言ってやる。いいか、お前の大事な月天心をめちゃくちゃにしたのは目の前のこの俺、仲間内で除け者にされてた薄汚い半々のガキだ。普段除け者にされてる仕返しにしめたとばかり手榴弾の栓抜いて、味方もろともに吹っ飛ばした。そのせいでやむなし解散に追い込まれたんだろ?なら俺を憎めよ、梅花にあたるなよ!梅花は何も悪くねーだろが、ただお前を心配してただけだろーが、梅花は本当はお前と家族になりたくて……俺だって……」

 挑むように道了を見据える。
 お袋と梅花を殺した憎い男を視線で焼き滅ぼすのが可能ならと狂わんばかりに願いながら、譲れぬ眼差しを叩き付ける。

 「俺が惚れた女を馬鹿にすんな。お前が憎んでいいのは俺だけだ」

 道了がふいに歩みを再開する。
 殴られる?
 冷徹に一瞥され戦慄が走る。
 衝撃を予期し目を閉じる。

 次の瞬間。

 ふわりと軽い感触が癖っ毛を撫でる。
 繋ぎ合った手の熱が残ってるせいか、わずかに汗で湿った掌が、無造作に跳ねた髪をしっとり撫で付ける。
 どこかレイジの手つきに似ていた。
 自分でもままならぬ衝動を慰撫し、飼い馴らすような手つきだった。
 俺の頭に手を置いて見下ろし、道了は呟く。

 醒めた双眸に一抹の感傷を含んだ表情は乾いた悲哀を感じさせ、俺がこれまで見た中で一番人間くさい。
 「馬鹿なやつだな」
 
 硬質な靴音が再開、床の上を影が移動する。
 ちょっと目を離した隙に道了は俺の横をすり抜け、遥か向こうへ遠ざかっていた。
 肩透かしを食った俺は、啖呵が相手にされなかった気恥ずかしさをごまかすため、駆け足で追い付いて愚痴を零す。
 「………ばかにしてんのかよ」
 「先を急いでるだけだ。朝になればまた捜索が始まる、看守どもとはちあわせしたくない」
 「斉藤の死体捜しか」
 暗鬱に声が沈む。
 道了が探るようにこちらを見やる。
 推量の視線を避けて俯き、惰性で繰り出すスニーカーの爪先を見る。
 「…………マジでレイジがやったのかな」
 レイジが犯人とは思いたくない。
 だが、医務室の囚人どもはそう噂している。
 暇を持て余した医務室の住人どもだけじゃない、東京プリズン中がレイジが犯人だと決め付けている。
 暴君化したレイジの乱行は周知の事実、たまたま運悪く不機嫌の絶頂のレイジと行き合った斉藤が犠牲になったってのがもっぱらの見解だ。
 考え出すと際限なく気が重くなる。
 暴君ならやりかねないと思う反面、レイジがそんな事するはずねえと頑固に否定する自分がいる。

 別れ際の台詞が耳に響く。
 『Good luck.』
 暴君は晴れがましく笑っていた。

 追われる事を楽しんでいるかのように嬉嬉として、まるそれが最高の娯楽であるかのような快活さで、棒立ちの俺と鍵屋崎に別れを告げた。
 レイジが斉藤を殺したなんて信じたくねえ、嘘であってほしい。何かの間違いであってほしい。けど、俺は実際にこの目で見てる。ヤクでボロボロになったサーシャを、壁に手を付かされた裸の鍵屋崎を、媚薬の作用で苦しむ俺を冷ややかにせせらわらう暴君を。

 どっちを信じればいい?
 暴君か、レイジか?

 胸の奥で苦汁が煮える。
 信じたくて信じ切れなくて、胸が苦しい。
 無意識に耳朶を掴みしつこくピアスをいじくる。 
 もう片方の手で鎖をたぐりシャツの内側から十字架を取り出し、固く握り締める。
 こうしてると少しは不安が和らぐ。
 肌身離さず持ち歩くものから伝わる余熱が指先を通じて全身に広がり、安堵感に包み込まれる。

 余熱は幻痛と似ている。
 そこにあると思い込む事で、初めて存在を許される儚い残像。

 「もうすぐだ」
 道了が言葉短く告げ、心臓がごとりと音を立てる。
 階段を下りてひたすら進むうち、コンクリ床がゆるやかに傾斜し、なだらかな下り坂になり始めた。

 突然視界が拓ける。

 狭苦しい通路の終点、矩形に切り取られた出口から一歩踏み出せば、とほうもなくだだっ広い空間が広がっていた。
 深夜の地下停留場には人気がなく、静寂に包まれてる。
 壁に設置された青白い照明のせいか、とほうもない広さ故に払いきれぬ闇が沈殿しているせいか、深海の浸透圧が鼓膜を塞ぐ。
 「看守はいない……のか?」 
 念のため視線であたりを走査する。
 暗闇に目を凝らしても不審な影は確認できない。
 「さすがに冷え込むから死体捜しは一時中断ってわけか。こんな寒い日に下水道なんかにおりたら凍死しちまうよ、何時間も水に浸かりなんかしたら腰から下がキンカキンになって一生使い物にならなくなる」 
 それか、回収作業が打ち切られたかだ。
 伊達に長く入ってない俺には上の考えが漠然とわかる。
 上はもうこの件から手を引きたがってる。
 東京プリズンで殺人事件がおきた事実なんてはなからなかったことにして知らんぷり決め込むはらだ、知らぬ存ぜぬで通すつもりだ。
 斉藤の死は十中八九隠蔽される。
 不都合な事実は穴を掘って埋めるのがここのやりかただ。
 臭いものにゃ蓋をするに限る。
 部外者の死が醜聞の露見を招く可能性が否定できない現状では、早い段階で捜索を打ち切って、事後処理に専念したほうが無難だ。
 「今頃きっと書類を改ざんしてるんだ。斉藤が辞めた証拠を捏造して、世間サマに対して言い逃れするはらだ」
 憤懣やるかたない俺の独白には応じず、道了はだだっ広い停留場を突っ切る。
 長い足を怠惰に繰り出し、青白い光を受けた顔に倦み疲れた色を漂わせ、単調な靴音を響かせる。
 おもむろに屈みこみ、床に穿たれたマンホールの検分にあたる。
 安全な経路を事前に読み取るが如く、無機物の微細な振動を介して気配を読み、軽く首肯して行動に出る。
 躊躇なくマンホールを抱え込み、造作なくずらす。
 鉄蓋を除いた下からまん丸い空洞がぽっかりと口を開ける。
 下方から吹き付ける湿り気を帯びた風に顔を顰める。
 風に乗じ漂い出す混濁した異臭に気後れする。
 「行くぞ」
 言うが早く、敏捷な身ごなしで闇に滑り込む。 
 道了は後ろ向きになり巧みに梯子を下りていく。
 下から吹く風にも怖じる事なく、無尽蔵に湧き出る暗黒にも恐れをなさず、最小限の身ごなしで効率的に梯子を下りていく。

 意を決し後に続く。
 ぎゅっと手すりを掴む。
 手すりにかけた手を下に滑らし、スニーカーの爪先をたらし、さぐり、一段下に足をかける。
 鉄筋製の梯子は冷たく、びっしりと結露している。
 ふれたそばから掌がひっつき、皮膚が破けぬようひっぺがすのに細心の注意を払う。
 五段、十段、十五段……数を数えて集中力を高める。
 暗闇と高所の相乗の恐怖に煽られておかしくなりそうだ。

 必死に数を数え雑念を払う。
 手で手すりを掴み、靴裏で横棒を踏み、慎重に自重をずりおろす。
 繰り返すうちに次第に要領が掴めてきたが気は抜けない。
 油断した途端にまっさかさまだ。
 頭から滝壺に落っこちる恐怖と懸命に戦いつつ、何とか最後の一段を下りる。
 靴裏が踏みしめた地面の固さに心強さを得て、緊張の糸が切れる。
 長々と安堵の息を吐く俺の隣に立ち、退屈を持て余した道了が言う。

 「遅かったな」
 「……まっさかさまにおっこちてお前とごっつんこしたら困るだろうが。額の皿が砕けたらぱちんて嵌めこむの手伝ってくれっか?」
 先に立って歩き出した道了を追い、俺もまた歩き出す。
 下水道は停留場よりさらに暗く視界が利かない。
 壁の照明は殆どが割れて使い物にならない。
 おまけに足元は苔でぬめり最悪。
 闇を手探り、勘を頼りにおっかなびっくり進む俺をよそに、裏腹に道了の足取りは澱みない。
 最初から目的地がわかってるような断固たる足取りで歩き続ける道了を追っかけるうち、胸の内に疑問が湧き始める。

 「なあ、道了。さっきの続きだけど」

 語尾が途切れて宙に浮く。
 続けるかどうしようか迷い、時間稼ぎに視線を伏せる。

 前行く背中を制そうとして、何故だが舌が凍る。
 これ以上刺激するなと頭の片隅に踏みとどまった理性がうるさく警鐘を鳴らすも、とうとう誘惑に負け、口を開く。
 「月天心はやっぱり、俺のせいで潰れたんだよ」
 うしろめたさを隠し切れず俯く。探るような視線の先で道了が立ち止まる。 
 孤高の背中に凝視を注ぐ。
 青白い照明に浮かび上がる背中は、否定も肯定もせず無感動な沈黙を守り続ける。
 一歩詰め寄る。
 梅花の面影を追いかけ道了の背中ににじりより、切迫した声を出す。
 「月天心を潰したのは俺だろ?だったらもう十分じゃねーか」
 地下に殷々と声が反響する。
 切実な余韻を帯びたその声は自分の物と思えないほど震えていて、俺は俺が動揺している事実をいまさらながら思い知り、うちのめされる。
 「だからお前、ここに来たんだよな。月天心を潰した俺を殺すためにわざわざここに乗り込んできたんだよな。ほら、梅花もお袋も関係ねー。お前が憎いのはあくまで俺一人だ、そうだろなあ、答えろよ。ふたりを殺す大義名分なんてどっこにもなかったんだ。そうだよな、俺ひとりを殺せれば満足なんだよな?だったらなんでひと思いに殺っちまわないんだ、こんなまどろっこしいまねするんだ。俺を生かして連れまわすようなふざけたまねするんだよ」
 「ロン」
 静かに言葉を遮り、緩慢な動作で振り向く。
 道了と目が合う。
 道了の目には寂寞とした色が浮かんでいた。
 俺を見詰める左右色違いの目は、道了らしくもない哀切な情感を湛えていた。
 孤独な顔。
 「ロン………」
 舌の上で転がすように名を呼び、緩慢な動作で腕をさしのべる。
 俺を呼び招くような素振りに戸惑い、あとじさる。
 「俺がここに来たのは」
 道了が呟く。
 呟きながら俺に向かって歩を踏み出す。
 己の爪先で弾けた雫を一顧だにせず、感情の暴走に苦しみ引き裂かれた名伏しがたく奇妙な表情で、かすかに唇を動かす。
 「東京プリズンに来たのは、お前を」
 続きは聞けなかった。

 「君がサーシャを壊したのか」

 酷く冷えた声がした。
 酷薄に徹した声音が仮初のおだやかさで確認をとる。
 それに応じるは、不敵な笑みを添えた挑発。

 「サーシャ?ああ、俺が抱き潰したロシア製の愛玩人形か。剥いて剥いて剥き尽くしたマトリョーショカの事か」

 レイジの声だ。
 刹那、勝手に体が動く。
 俺は転ぶのも恐れず床を蹴り走り出す、声が響いてくる方向をめざし暗闇の中を突っ走る。 今ここにレイジがいる、レイジがいる、漸く会える!
 レイジの事で頭が一杯、胸が一杯になる。
 いつのまにか道了を追い越していたのにも気付かなかった。
 俺は走る、ひたすら走る。
 ぼろぼろにくたびれて今にも底が抜けそうなスニーカーでおもいっきり地面を蹴り付け、反動でぐんと体を前に押し出す。
 加速に次ぐ加速で限界を突破、沸騰せんばかりに高鳴る心臓に急きたてられ、声がわんわん壁に跳ね返って響いてきた脇道へ転がり込む。

 名を、呼ぶ。

 「レイジっ!!!!」

 脇道に踊りこんだ俺の目に、ホセと軍人が映る。
 下水道の真ん中、正面切って対峙したホセと軍人。
 ホセの隣に突っ立つ懐かしい背中に泣きたくなる。
 涙腺がふやける。
 鼻がつんとする。
 忘れもしない干し藁の髪、均整取れた背中と申し分なく長い足、ポケットに指を引っ掛けだらけきった姿勢……
 レイジが、いた。
 それだけで泣きたくなった。泣きたくなるほど安心した。
 もう暴君だって構うもんか。
 レイジの名を連呼しつつ水飛沫をはねとばし一散に駆け出す、水溜りに突っ込んでスニーカーがびしょぬれになって中までふやけても構わず心臓の限界に挑む勢いで疾走する。

 レイジがゆっくりと振り向く。
 俺を認めた顔に驚愕が走り、無言のまま口が開かれる。 

 「ロ、」

 俺は見た。
 レイジの肩越しに銃を構える軍人の姿を、
 無防備な背中を晒したレイジを狙い、今まさに引き金を引こうとしている姿を。

 凄まじい葛藤に引き歪んだその顔は
 憤怒にかき乱されたその顔は
 血をもって血に報いる復讐者の憤怒を剥き出し、純粋悪に染まる。

 銀髪の軍人が微笑む。
 アイスブルーの目に狂気と殺意が交錯、薄氷に亀裂が走り地獄の底の業火が燃え上がる。
 地獄の氷が溶ける。
 一度は冷えて固めた憎悪を、苛烈に身を灼く青白い炎にして解放する。
 狂気を孕んでざわめく銀髪の奥、不吉な輝きを増し闇を貫通するアイスブルーの瞳を細め、白皙の美貌を堕天の悦楽に染める。
 聖性に祝福された天使の化けの皮が剥がれて悪魔の本性が暴かれる。
 地獄の氷が溶けだし、氷漬けにした感情が堰を切って流れ出す。
 清冽な微笑みの内に限りない殺意を秘めた軍人が、引き金においた指をぎりぎり撓めて引き絞る。

 『Сам накликал на себя беду.』

 俺が思い描いた通りの気品に満ちた優雅さで引き金が引かれ、乾いた銃声が響き渡った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050218030350 | 編集
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