ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十七話

 「鍵屋崎、少しいいか」
 振り向けば壮年の男がいた。
 仕立てのよいスーツに隙なく身を包んだ場違いな男だ。

 安田。
 東京少年刑務所副所長の地位にある若きエリート。

 「少しで済めばいいがな」
 皮肉を同意にかえて応じれば、安田があたりを見回し提案。
 「………ここでは何だから場所を変えよう」
 バス待ちの囚人が興味津々こちらを窺う。
 下卑た好奇心の餌食になりはてるのは願い下げだ。
 目配せで確認をとり、安田が踵を返す。
 ついてこいの意思表示に大人しく従う。
 ざく、ざく。
 靴裏が砂を噛む音と感触がひどく神経を苛立たせる。
 背中に視線を感じる。
 安田に伴われ歩き出した僕を取り残された囚人が熱心に見送る。
 飛び交う憶測、乱れ飛ぶ野次。
 無関心を決め込みしばらく歩けばざわめきも遠ざかり、風の音に紛れて消える。
 僕は殊勝らしく押し黙り安田の背中を見詰めていた。
 暗色のスーツで覆われた細身の背中は暴力の気配と無縁の非の打ち所ないエリートのものだ。
 こうして安田の背中を見つめるのは何度目だろうとふとどうでもいいことを考える。
 安田の背中を見るたび不思議な感慨が浮かぶ。
 理由はわからねど、安田の背中を見るたび自己撞着に似た親近感を覚える。
 僕の視線にも気付かず、否、気付いていてもあえて無視し突き進む安田の歩みには迷いがない。
 ざく、ざく。
 なだらかな斜面を登る安田のあとについていく。
 ざく、ざく。
 柔らかな砂地に二対の靴跡が穿たれる。
 靴跡の窪みを正確になぞり、砂丘の裾野から中腹へと、時に転びそうになりながら手足を使い這い登る。
 ざく、ざく。
 円滑に足を繰り出し、一定の歩幅で進む。
 一見場違いなエリートでも、崩れやすい足場をものともせず障害を克服する歩き方が豊富な経験を代弁する。

 安田は僕が来る前からここにいた。
 東京プリズンにいた。
 その当たり前の事実を痛感する。

 リンチとレイプが横行する砂漠の中心の刑務所にて、無能な所長に代わり実務をこなし、少しでも環境を向上させようと抗い続けてきたのだ。
 安田の歩き方はクーラーの利いた執務室で涼んでいた人間のそれではなく、汗水惜しまず砂を噛み、自分の足で障害を乗り越えてきたもののそれだ。
 数分を費やし砂丘の頂点に辿り着く。
 辿り着いた時には息が切れていた。安田は涼しい顔だ。
 見かけによらず体力があるのかもしれない。
 もしくはただの強がりか?
 囚人に弱みを見せたくないという矜持が虚勢を張らせているのだろうか。

 沈黙が落ちる。

 呼吸を整えてようやく顔を上げた時、安田はあらぬ方向を眺めていた。
 緩慢な動作で安田の視線を追う。
 安田の視線の先には寄せては返す波頭にも似て単調な起伏を経て連なる砂丘と蟻塚の如く無数に点在する穴、濁った泉があった。

 今さら驚くにも値しない荒涼たる砂漠の風景だ。

 草一本生えぬ不毛の砂漠を礫を巻き上げ吹き抜ける乾燥した風。
 彼方より吹いた風が髪をなぶり瑣末な砂利が顔に打ちつけ、眼球を守ろうと反射的に目を閉じる。

 「ここも変わった」 

 感慨深い独白に薄目を開ける。
 いつのまにか隣に立った安田が眼鏡越しの双眸を細め、茫漠たる広がりを見せる眼下の眺望を評する。

 「私が赴任した当初は本当に不毛の地だった。見渡す限り砂漠で水などどこにも湧いてなかった。脱水症状を呈し倒れる囚人が後を絶たず、医務室は常に満員の状態で衛生面もひどいものだった。私は何度も所長にかけあった。イエローワークの労働環境を改善したいと、無意味な穴掘りなど止めてもっと生産的な仕事に就かせるべきだと、そうしたほうが意欲も向上し死者が減ると、若者らしい情熱に駆られて上申した」

 安田の横顔に見入る。
 外気に晒された横顔には長年に及ぶ葛藤の名残りと燃焼の残滓が刻まれていた。
 感傷に流される事なく淡々と言葉を紡ぐも、乾いた声色が一層悲哀を際立たせる。

 「だが、上は承知しなかった。改善を求める申請は却下され、私はいつしか諦念と馴染んでいた」
 「中間管理職の悲哀をくどくどしく語り聞かせるのが僕を呼び出した目的か?」
 辛辣な皮肉に安田の表情が和む。
 折から吹いた風に乱れる前髪を片手で押さえ、無造作に顎をしゃくる。  
 「見たまえ」
 安田の視線を追う。
 下方、泥水を湛えたすり鉢状の泉が視界に入る。
 「あの泉ができて随分変わった。君とロンの功績だ」
 「飲料水としてはとても飲めたものではない。サルモネラ菌・ボツリヌス菌をはじめに十三種の菌の生息が予想される食中毒の泉だ」
 「よく見たまえ」
 安田が促す。
 眼鏡の位置を直し、泉の周辺に目を凝らす。
 「あ」
 安田の満足げな顔が視界の端を過ぎる。

 今初めて気付いたが、泉の周辺に僅かな変化が起きている。
 ほんのわずか、よくよく注意しなければ見逃してしまいそうな変化だ。
 泉の周辺、水を吸ってぬかるんだ地面にまばらに草が生えている。
 ひょろ長く黄ばんだ葉を伸ばし風に揺れる名もなき雑草は、見かけによらぬ強靭な生命力でもってしっかりと根を張っている。   
 強風が吹けば根こそぎ薙ぎ倒されそうな貧弱な雑草は、しぶとくしたたかに地にしがみつき、ふてぶてしく根をはびこらせ野放図に勢力範囲を広げつつある。
 ゆるやかに、だが確実に。
 砂漠の生態系が変貌を遂げつつある。

 「砂漠にも草が生える。ここは決して不毛の地ではない」

 オアシスを中心に草が芽吹き始めた砂漠を一望、安田は私見を述べる。
 あらゆる災厄を封じたパンドラの箱の底には希望があった。
 かつて僕とロンが掘りあてた泉は今や貴重な憩いの場となり、尽きぬ水で砂漠を潤し、周縁には緑が萌え始めている。
 かつて僕とロンが掌の豆を潰し血だらけにして掘りあてた泉は、気の遠くなるような時間をかけ、不毛の砂漠を肥沃な土地に変えようとしている。
 何十年何百年先かはわからないが、おそらくそれは実現する。
 踏み潰されてもへし折られても根さえ抜かれなければ懲りずに立ち上がる雑草は、いつか必ず砂漠を蘇らせる。

 「決して、終焉の地などではない」

 砂漠に根付いた強靭な生命に見とれる。
 泉のまわりだけ色が違うのはまばらに草が生えているからだ。
 茶に緑を足して混ぜ合わせた斑が自然の配列で点々と散らばり、所々みすぼらしく禿げた地面が覗いている。
 ここ数日イエローワークの業務も上の空だった。
 ただただ機械的惰性的に手足を動かし、現実と乖離した忘我の境地で仕事をこなしていたから気付かなかった。
 自分の足元すら見落としていたのだ、僕は。

 「鍵屋崎」

 安田が名を呼ぶ。
 ゆっくりと振り返る。
 安田と目があう。
 真っ直ぐに僕を見詰め、安田が口を開く。

 「先日、下水道で斉藤の死体が発見されたのは知っているな」 
 「ああ」

 軽く頷く。
 僕の表情を油断なくさぐりながら安田は続ける。

 「死体は四肢をばらばらにされ下水道に捨てられていた。第一発見者は早朝仕事に降りたブルーワークの囚人だ。ただちに回収班が結成されたが損傷が激しく、いまだに見付からない部位がある。だが体格と着衣から判断し、まずもって斉藤で間違いない。死体は白衣を羽織っていた。白衣のポケットからは斉藤の所持品が出た。周囲に散らばっていた毛髪は鳶色だ」
 「顔は損傷が激しく見分けがつかなかったと聞いているが……」

 安田が一呼吸おく。
 眼鏡のブリッジを押さえ表情を隠し、感情を削ぎ落とした声で補足する。

 「顔面はひどく損傷していて本人か否か特定できなかった。後日検死解剖を行う予定だが、体の大部分が未発見の状態ではそれもむずかしい」
 「嘘だな」

 曖昧に言いよどむ安田を面と向かって嘲り、欺瞞で上塗りした真実を看破する。
 怪訝な表情の安田を冷ややかに眺め、僕の推理を披露する。

 「それは単なる建前だ。本来早急に行われてしかるべし検死解剖が遅れている原因は、事件を公けにしたくない政府の意向が絡んでいるからだ。おそらく政府は事件を内々に処理したいと考えている。検死解剖を行い身元が特定されば騒ぎになる、東京プリズンに赴任した医者が一ヶ月も絶たずバラバラ死体となって発見されたとあっては世間の注目を招く。腐敗しきった隠蔽体質と保身を優先する秘密主義が絡み、責任のなすり合いが繰り広げられ、解剖がのばしのばしになっているのが現状と見たが…異存はあるか?」

 沈黙は肯定の証。
 確信を強め、皮肉げに続ける。

 「さらに妄想する。政府は今頃事件を隠蔽にかかっているのかもしれない、斉藤が東京プリズンにいた事実そのものを消そうと隠蔽工作を図っているのだ。もっとも斉藤が東京プリズンに来た事実自体は消しようがない、仙台の同僚にも話しているだろうしな。ならば『東京プリズンで殺された』事だけを消せばいいのだ、巧妙に。斉藤は確かに東京プリズンに来た、しかし一ヶ月と経たず退職または転職した。のちの消息は不明。もしくは斉藤のその後を適当に捏造し、同僚や別れた妻子を騙せばいい。国家権力を使えば人一人を合法的に消すなど造作もない。斉藤は優秀さを買われ海外の病院にスカウトされたかNGОに参加した事にでもすればいい……国境なき医師団で活動する斉藤など考えただけで笑えるが」

 刑務所で殺人事件がおきるなど前代未聞の不祥事だ。
 しかも被害者は外からやってきた医者。
 東京プリズンの劣悪な実態が暴かれ、世論の非難をこうむるのは政府だ。
 ならば事件そのものを隠蔽しようという動きがあってもおかしくない、もとより東京プリズンは現行の法が適用されない辺境の地だ。
 東京プリズンの看守はよそで問題をおこし左遷された者ばかり、いわばここは世捨て人の吹き溜まり。
 東京プリズンで働きたい人間など世間から見れば物好きか厭世観を強めて自棄に走ったかのどちらかだ。
 斉藤もまた東京プリズンに来た時点で世間に背を向けたに等しく、世間と交渉を絶った人間がその後行方知れずになろうが余程親しくない限り深入りして捜そうという奇特な人間はいない。
 その点斉藤なら安心だ。
 妻子と別れ仙台を離れわざわざ東京プリズンにやってきた斉藤には安田を除いて知己もなく、姿を消しても怪しまれぬ条件が揃っている。

 「このまま事件をうやむやにするのが政府の方針だ。東京プリズンにおける人死には珍しくない、それこそ日常茶飯事だ。看守による虐待死、囚人間のリンチ、強制労働中の事故死……数えあげればきりがない。上が案じるのは部外者の死が引き金となり東京プリズンの杜撰な実態が露見する事、ならば内々に処理してしまった方が余程いい」 
 思わせぶりに言葉を切り、皮肉な笑みを添えて断言。
 「東京プリズンで死んだ医者などいなかったんだ」
 「背後の百人の死を隠すためなら一人の死など容易に握り潰す、か」
 苦りきった様子でひとりごち、良心を引き裂かれた溜め息をつく。
 「………君の推理は正しい。上は斉藤の死を握り潰そうとしている」
 「僕の時と同じだ」
 自嘲的に口元を歪ませる。
 安田が怪訝な顔で向き直る。
 構わず続ける。
 鬱屈した心を持て余し、憤りよりもむしろ諦めが滲んだ口調で、僕がここに送られた経緯に今回の事件の顛末を重ね合わせる。

 「ここは秘密の墓場だ。世間に晒したくないもの、晒されると不都合なものを後腐れなく捨て去る場所だ。僕は鍵屋崎優と由香利を殺しここに捨てられた、世間には遺伝子工学の世界的権威たる学者夫妻を長男が殺害したとしか公表されなかった、その他の事実はすべてなかったことにされた。僕が政府の実験で生まれた事も、遺伝子を操作されている事も、鍵屋崎夫妻が単なる養育者にすぎなかった事も伏せられた。当たり前だ、いかに遺伝子工学の分野が発達したとはいえ政府主導で倫理規範に反する実験が行われたとあっては国際的非難を浴びるのは避けがたい。だから僕はここに送られた。鍵屋崎夫妻殺害事件を単なる尊属殺人にするために、間違っても政府の関与など疑わせない為にここに放り込まれたんだ」

 痛みを堪えるように厳粛な沈黙を守る安田に向き合い、挑むように目を見据える。  
 安田と対峙した僕は、現在のみじめな境遇に対する鬱屈を飼い馴らされた従順さの内に秘めて吐露する。

 「一度入ったら出られない。東京プリズンに捨て去られた秘密は、文字通り墓まで持ってくしかない」 

 空が急激に暮れていく。
 風が次第に冷たくなる。

 夕闇迫り始めた空の下、広大な砂漠を見下ろす砂丘の頂にて、数呼吸の沈黙を挟んだ末に安田が口を開く。
 「斉藤は君と別れた直後に消息を絶っている。それは間違いないな」
 「間違いない」
 「状況を詳しく」
 無感動に詳細を求められ、何を話し何を伏せるべきか脳裏で検討する。
 思考時間は一秒にみたなかった。
 安田と目を合さぬよう注意し、太陽が沈みゆく地平線に視線を固定し、動揺など微塵も覗かせぬ声色で話し始める。
 「一昨日の朝、食堂を終え廊下を歩いている僕に斉藤が声をかけ話したい事があると言った。強制労働免除許可はとってあると言った。僕は斉藤の案内で図書室に行き、数十分ほど面談をもった。斉藤とは図書室の前で別れたきりだ」
 「証明するものは」
 「図書室に行く道すがらすれ違った囚人と看守だ」
 眼鏡越しの目の温度が冷え込む。
 安田が冷ややかに僕を見やる。
 証言の信憑性をシビアに推し量る視線に居心地が悪くなる。
 洞察力と観察力に優れた安田は、既に勘付いているのかもしれない。
 勘付きながらも平静を装い、自白を引き出す重圧をかけているのだ。
 安田一流の尋問術に嵌まらないよう気を引き締め、やましいところはないと宣言するかのように昂然と顔を上げる。
 僕の不敵な態度に何を思ったか、安田が眼鏡の弦に触れる。 
 「行くまでの確認はとれている。問題は帰りだ。行きは何十人もが目撃していたが帰りを目撃した人間は君だけだ、鍵屋崎」
 「何が言いたいんだ?」
 尊大に腕を組み挑発。
 地平線に沈みゆく太陽が眩い残照を投げかける。
 足元に穿たれた影が奇妙に引き伸ばされ、実物の何倍もの背丈を備える。
 「斉藤が図書室を出たと証言するのは君だけだ、鍵屋崎」
 「僕を疑っているのか」
 極力平静を保ったつもりだが成功したかは甚だ疑わしい。
 シャツの下で心臓がじっとり汗をかく。
 情動を控えた無表情に徹し安田を見返す。
 神経を逆なでする不敵な笑みより余分な物を削ぎ落とした無表情の方が、より本心を読まれにくいと踏んだからだ。
 顔筋が痙攣し笑みが強張りでもしたらおしまいだ。
 ならば無表情で通した方がいい。
 「斉藤を最後に見たのは君だ。不審な点に気付かなかったか」
 「そう漠然と言われても困る。抽象的な質問には抽象的な答えしか返せない」
 「真面目に答えろ」
 「不審な点などこれといって気付かなかった。僕はただ図書室を出た斉藤を見送っただけだ」
 「斉藤はどちらへ行った?この後だれかと会うともらしてなかったか」
 「勘違いするな。僕はただ扉から出て行く斉藤を見送っただけでその後の行き先も消息も知らない、別段関心もなかったからな」
 「斉藤と何を話していた」
 「関係ないだろう」
 そっけなく突き放す。
 無意識にブリッジに指をもっていきそうになり動揺した時の癖を自覚、体の脇で手を握り込み自制する。
 「図書室で話した事柄が事件に関係するというなら話すが、プライバシーに関わる問題をなにもかもがうやむやな現状で話したくない。俗な好奇心の餌食に成り果てるなどぞっとする」
 「強制労働免除許可をとってまで個人面談を持った事からも、余程重要な件だったと推測するが……」
 「詮索はやめろ。憶測は慎め」
 図書室で話した事など思い出したくもない。  
 極力声を抑え制する僕を安田は無表情に見詰めていたが、何事かにふと思い至り、沈痛な色を湛え双眸を細める。
 「……妹か?」
 その哀れむような物言いが、僕のプライドを傷付ける。
 深呼吸し、傲然と顔を上げる。
 傷付けられたプライドを回復するため、卑屈に俯くのではなく傲然と顔を上げる道を選ぶ。

 虚勢だと笑うがいい、嘲るがいい、蔑むがいい。
 僕はこれで押し通す。
 恵を守るためならなんだってする。

 「………斉藤は恵の病状について詳しく語った、僕には知る権利と義務があるといった。仙台の病院で恵がどうしていたか、暗い部屋に閉じこもり折れるまでクレヨンで絵を描き殴り悪夢にうなされ悲鳴を発し飛び起き点滴を倒し徘徊し、いまだに僕がフラッシュバックに悩まされ頭皮を引き剥ぐ勢いで掻きむしる恵の今を教えてくれた」

 言いながら目を閉じる。
 嘘を吐いたわけじゃない、少なくともそれも真実に含まれる。 
 
 歪んだ鏡に映したように太陽が引き伸ばされる。
 賢者の石を練成する錬金術師の炉の如く、銅から淦へ、淦から朱へと濃淡に富む複雑な光線の紗を織り成し、最果ての空が燃える。
 光の乱反射が見せる現象だとわかっていても、鮮烈な朱を刷く斜陽の美しさに魅了される。
  
 「理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない、か………」
 「何?」

 安田の呟きを風が運び去る。
 風に吹きちぎられた呟きに当惑した僕に、安田が説明する。

 「斉藤の信条だ。学生時代からずっと変わらない」

 学生時代を思い返しているのか、虚空に向けた目が追憶の光を孕む。
 安田の上を十五年の歳月が流れ去る。
 口元にあるかなしかの笑みを浮かべ、眼鏡越しの双眸を和ませる。

 「斉藤は大学の同期だ。私に唯一友人と呼べる人間がいたとしたらそれは斉藤だ。最初は嫌っていた。軽薄な言動を軽蔑し、こんな男とは口も利きたくないと思った。不快が極まり生理的嫌悪に近い感情さえ抱いた。思えば第一印象から最悪だった、握手を拒んだだけで人格を全否定されたこちらの身になってみろ。まったくあの男はひとの神経を逆なでする天才だった。そのくせ要領がいいからムードメイカーとして重宝される。取り柄ときたらコーヒーを淹れるのが上手いことだけ、他人がいれる砂糖の数まで把握してると知ったときは呆れるを通り越し感心したものだ。世渡りの上手さとコーヒーの淹れ方にはなるほど相関性があるんだな」

 背広の内側をさぐり慣れた手さばきで煙草とライターをとりだす。
 喫煙を咎める気は不思議と起きなかった。
 僕が見ている前で煙草を咥え、掌で囲うようにして風から庇い点火。
 煙草は猛毒だ。
 長期にわたる喫煙は死期を早める。
 三千八百種に及ぶ化学物質、うち二百種は人体に悪影響を及ぼす有害物質を含む煙草をしかし安田はとても美味そうに吸う。
 見ているこちらがれ惚れするほどあざやかな手つきでもって指の股にのせ口から抜き取り、斜め上方に深々と有害物質を吐息。

 暮れなずむ空に紫煙が立ち上る。 
 僕にはそれが死者を悼む送り火に見える。
 燻りを持て余す安田自身のようにも。

 喫煙は緩慢な自殺だ。
 安田には潜在的な自殺願望があるのかもしれない。
 右手の指の間に煙草を預け、放心しているかのような風情で虚空を眺めやり、紫煙に交えて吐息をつく。

 「馬鹿な男だった。十五年経ってもまだ友情が続いていると思い込む神経の図太さには呆れるしかない」 
 「同感だ。斉藤は馬鹿だ。とるにたらない低脳がひとり死んだところで嘆くには値しない。贖う価値もないものを贖おうとして墓穴を掘ったんだ、自業自得だ」
 「優しい男だった」

 不意打ちのように呟く。
 右手に煙草を預けた安田が、僕の方は見ずに呟く。
 誰に語りかけているのかわからない。
 他愛ない独り言かもしれない。
 残照に照り映える顔を地平線のはるか向こうにむけ、寂寥とした声色で述懐する。

 「軽薄なふりをしていても心の底に優しさを秘めていた。それに気付くのに時間がかかった。斉藤はひどく屈折していた。成分の八割が意地悪で二割が思いやりだった。私が研究室にこもり徹夜で資料を読んでいた時はコーヒーを出してくれた。貧血をおこせば支えてくれた。椅子に座ったまま眠り込めば毛布をかけてくれた。カラマーゾフの兄弟が愛読書だった。イワンの思想に共感すると言った。だが本当は」
 俯く。
 続く言葉をためらい、答えを求めるように宙に視線を泳がせる。
 「この世界がそんなに酷い所のはずがないと、救済の価値のない涙など存在しないと、誰よりひたむきに信じたがっていた」

 安田にとって斉藤がどれだけ大事な人物だったか
 安田の中でどれだけ重要な位置を占めていたか

 漸くわかった。
 救いがたいほどに、わかった。

 安田は乾いていた。
 目も、声も。
 癒せぬ傷口の如く乾ききっていた。
 斉藤との過去を語る間も決して取り乱さず、至って抑揚なく平板な口調で、斉藤がどんな人間だったかを選び抜かれた言葉でもって端的に語る。
 一切の無駄を省いたそっけない語り口は、自分に麻酔を打ち、痛覚を麻痺させたもののそれ。

 「馬鹿な男だ」

 無感動に繰り返す。
 右手の指の間に挟まった煙草が穂先を灰にして焦げ付いていく。
 穂先に点った橙色の光点が、かすかな音をたてながら指の股にむかい遡っていく。
 しかし安田は動かない。
 醒め切った目で煙草の穂先を見下ろし、断罪するように唾棄する。   

 「馬鹿な男だ、私は」

 燃え尽きかけた煙草を捨てる。
 落下するが早いか靴裏で踏みにじり入念に砂をかける。

 「斉藤の死に際になにもできなかった。こんな無能で無力な男が副所長を名乗っていいものか、名乗る資格があるものか。私はなにをしていた?ただひとりの友人の死に際になにができたというんだ」

 自責の言葉を連ね、何度も繰り返し吸殻に砂をかけ踏み躙る。
 そうする事で自分の心を踏み躙るように、
 自分を罰するように。

 「友人ひとり助けられなかった。大勢の囚人を見殺しにしてきた。看守による虐待死も囚人間のリンチもすべて不問に伏し表沙汰にならないよう処理してきた、イエローワークの囚人が度々脱水症状を呈し息絶えようが看守に両手足を折られた囚人が一昼夜放置されようが君が売春班に送られ性的な奉仕を強要されようがずっと目を瞑ってきたのはこの私だ。私は卑怯者だ。副所長の地位を追われたくないばかりに多くの囚人を犠牲にしてきた、多くの囚人を殺してきた。自分の手も汚さず」

 五指を開き掌を見下ろす。

 「ずっと言い訳してきた。多数を救うため少数の犠牲はやむをえないと、私が副所長の地位にあり続ける事で現に救われている人間がいると、副所長の職を退けばさらに環境が悪化し死傷者が増えると自分に言い聞かせ、囚人を見殺しにする痛みに目を瞑り続けた。確かにそうだ、私が副所長でいるからこそ看守の暴走を防げる節がある。私が職を退けば看守の横暴はさらにひどくなる。それがどうした?それで囚人を見殺しにした事実が帳消しになるとでも?売春班の存続を許したのはこの私だ、イエローワークの過酷な実態を黙認し続けたのはこの私だ、看守に嬲り殺された何十何百人もの囚人を最初からいないように扱いデータの削除を命じたのはこの私だ」

 開いた手を握りこみ、掠れた声を絞り出す。

 「……誰も救えなかった」 

 残照を浴び項垂れる。
 疲れきって肩を落とした安田の姿は、実体を持った影に見える。
 逆光で塗り潰された表情は判じかねるが、その声ははっきり聞こえた。
 胸を抉る、声。

 「救えなかったのが罪じゃない。救おうとしなかったのが罪だ」

 限界だった。

 「あんな男が死んだからといってそこまで哀しむ必要はない」

 安田が緩やかにこちらを向く。
 砂を跳ね飛ばし詰め寄る。 
 正面から安田と対峙、激情を抑圧し押し殺した声を出す。

 「斉藤など死んで当然だ、生きるに値しない男だ。心理学者気取りで人の心を解剖し悦に入る最低の男だ彼は、人の過去をほじくりだしトラウマを刺激するのを楽しむサディスティックな変態だ、あんな男が死んだからといって深刻に気に病む必要は一切ない。斉藤を殺したのは彼の精神分析を受け逆上した囚人だ、斉藤はいつもあの調子で人を見下しトラウマを暴いては喜んでいた、それが裏目にでたんだ。バラバラにされても自業自得だ、人の心をバラバラにした男がバラバラにされても同情の余地はない。貴方ほどの人が何故彼の死を哀しむ、あんなとるにたらない俗物の死を嘆く?まるで普通の男みたいだ、そこらへんにいる惰弱な人間みたいだ。
 そんな弱弱しく掠れた声を出すな、そんな顔をするな、そんなふうに弱みを晒すな!
 僕が知る貴方はそんな人間じゃない、旧知の医者一人が死んだからといって自分の過ちをくどくど詫びるような女々しい男じゃない」

 斉藤を罵り、安田をなじる。
 やり切れない想いに苛まれ、身の内を席巻する激情に突き動かされ、相変わらず項垂れた安田にあらん限りの侮蔑をこめ罵倒を浴びせる。
 僕は安田を憎む。
 斉藤の死を嘆き悲しみ、ただの腑抜けに成り下がったこの男を心の底より憎悪する。
 「斉藤など死んで当然だ。誰だか知らないが殺してくれた者に感謝する」
 毒々しい嗤笑が顔から滴る。
 どす黒く邪悪な念が胸の内を蝕む。
 斉藤、斉藤、斉藤……誰も彼も斉藤斉藤とうるさい。
 そんなにあの男を殺した犯人を知りたいか?
 斉藤を殺したのは僕だと発作的に暴露したい衝動に駆られる。
 今ここで重荷を下ろしてしまいたい。
 僕が斉藤を殺した、この手で殴り殺した。
 安田はどんな顔をする、どんな反応を示す?
 嫌悪、動揺、侮蔑、悲嘆……
 そのどれも釈然としない。試してみるのも悪くないと好奇心がもたげる。
 ああそうだ、僕が殺した。
 この手で殴り殺した。

 どうだ、安田。
 これでもまだ僕を庇うか?
 友人を殺した囚人を庇えるのか?

 「斉藤が死んでせいせいした。もとから東京プリズンになど来るべきじゃなかったんだ、彼は。そうだ、彼は自殺にきたんだ。妻子と別れ自暴自棄になり、自殺願望を抱いて東京プリズンにやってきたんだ。自殺する勇気のない臆病者はいっそ誰かに殺してもらうことを望む、自分の手を汚すのはいやでも他人の手を汚すのには頓着しない想像力の欠落した男が死んだからといって貴方が気に病む必要は……」
 「鍵屋崎」
 饒舌に捲くし立てる僕を言葉静かに遮る。
 弾かれたように安田を見上げる。
 地平線に沈みゆく夕日が大気を紅蓮に染める。
 奇跡を練成する炉の如く何色とも形容できぬ魔術的な色彩を織り成し、神々しいばかりに燃え輝く空の下、安田が呟く。
 「君の父親がだれか、知りたくないか」 
 心臓が止まる。
 真剣な声音にも増して虚をつく問いかけに戸惑う。
 「………僕の父は鍵屋崎優だ」
 安田は何を言おうとしている?
 シャツの下で心臓が跳ねる。
 曖昧な胸騒ぎが広がる。
 安田が間合いを詰める。真に迫る率直な眼差しに動揺が広がる。
 眼鏡の奥の双眸に孤高の決意を湛え、安田が口を開く。
 「本当の父親についてだ」
 「……精子提供者を知ってるのか?」
 生唾を飲み、驚きをおさえて問い返す。
 何故安田が僕の父親について知り得る?
 刑務所の副所長如きが国家機密相当の情報を掴んでいるはずがない、そんな事は不可能だ。
 待て、何か忘れている。
 いつだったか、安田が重大な事を言いかけたような……

 脳裏を映像が過ぎる。
 売春班廃止後、荒廃した闇に包まれた地下廊下で偶然行き会った安田が語った話を思い出す。
 当時の状況が鮮明に蘇る。
 右手に煙草を預けた安田が闇と向き合い、過去に焦点を凝らした目で記憶をなぞる。

 『若い頃、大学生だった私が参加したある実験の話だ。その実験では優秀な男女の精子と卵子を必要としていた、私はある縁故からその実験に精子を提供することになった……』

 まさか、
 あの続きを語ろうというのか。

 地面がぐらりと揺れる。
 錯覚だ。
 実際に揺れたのは僕自身だ。
 どうして忘れていたのだ、こんな重大な事を。
 否、あまりにショックが強すぎて自ら記憶を封じ込めていたのだ。
 酷いショックを受けた人間には往々にしてそういう事が起こり得る。
 衝撃から心を守るため脳の自衛機構が働いたのだ。

 動転する僕をよそに、安田は本題に入る。
 煙草の力を借りて気を紛らわせようとはせず、真摯な面持ちで痛みを引き受け、秘められし過去を打ち明ける。
 「十五年前、私が東大生だった頃の話だ。私はある実験に参加した。政府と共同で行われた実験の略号はISP……正式名称はインテリジェンスシードプロジェクト。私は後見人をかねる恩師に声をかけられその実験に携わった」

 地平線が燃える。
 太陽に翳して透ける血管の色に
 生命を濃縮して溶かし込んだ血の色に
 僕と安田を繋ぐ忌むべき色に。

 「優秀な精子と卵子をかけあわせ、遺伝子調整を施した天才児を作るのが実験の目的だった。最高責任者は当時から遺伝子工学の権威として知られていた鍵屋崎教授夫妻と勅使河原教授。政府は有用な人材を欲していた。インテリジェンスシードプロジェクトとはすなわち神の庭から知恵の実を簒奪する企て。実験が成功し最低限のコストで人工天才児の生産が可能となり次第率先して彼らを登用し、日本をたてなおす計画だった」
 安田の声が低く流れる。 
 「私は実験の中枢にいた。精子提供者についても知っている」
 安田が真っ直ぐ僕を見る。
 逃げも隠れもせず、どんな苛烈な糾弾と弾劾をも受け止める覚悟でもって僕と向き合う。
 安田が核心に入ろうとするのを遮り、嘲りを含んだ口調で激しく唾棄する。
 「……『生産』か。まるきり物扱いだな」

 まるで、物だ。
 結局のところ僕は量産品の天才、その試作品第一号に過ぎなかったわけだ。
 それも早々に廃棄された欠陥品だ。
 安田はずっと黙っていた。
 十五年前の実験に参加した事を隠し通し、上辺は公正なエリートを装い、生ぬるい同情の目で僕を見守っていたのだ。
 見守るふりをして、自らが手がけたモルモットの生態を観察していたのだ。
 反吐が出る。
 入所当初から親身に接してくれた理由が判明した。
 十五年前の実験に関わった罪悪感から、嘘に嘘を上塗りし偽善を働いていたのだ。

 結局自分のためか。

 僕に優しくすれば罪悪感が中和される。
 安田はその為に、その為だけに僕によくしていたのだ。

 僕の体調を気にかけ僕と立ち話をしペア戦会場で身を挺し僕を守り、それもこれも全部十五年前の秘密を抱え込んだ苦しさを紛らわせるために、僕に対するうしろめたさから発した自己犠牲的な代償行為に過ぎないのに、僕はいつしか安田に心を許し親しく口を利く間柄にまでなっていた。

 欺瞞。
 偽善。

 僕を贔屓するのが安田の贖罪だった。
 醜悪な真実が露見し、濁りに濁った感情が猛烈な勢いで噴き上げる。 
 
 「直、君の父親は」
 「屑だ」
 安田の顔が強張る。

 地平線に夕日が没する。
 全方位に撒き散らされた光線が萎み、不吉な闇が冷え冷えとあたりを覆い始める。

 敵愾心を冷やして固めた態度でもって安田と向き合い、落ち着き払った声音を紡ぐ。

 「精子だけ提供して黙殺を決め込んだ男など屑以外の何者でもない。十五年前、僕のもととなる精子を提供した男はただそれだけの存在だ。決して父親などと偉そうに名乗れる存在ではない、その資格もなければ権利もない。誰だか知らない男は、顔も名前も知らない無責任なその男は、採取した精子を提供したあとは一切僕に関与せず、産まれた嬰児が鍵屋崎夫妻に引き渡される時もなんら異を唱えなかった。実験に参加していたのならあの二人がどんな人間かよくわかっていたはずだ、わかっていながら僕を引き渡した、血を分けた息子が人の親にふさわしくない人間に物のように引き渡されるのを黙って見ていたんだ」

 安田の顔色が変わりゆくのを捉える。
 饒舌に捲くし立てる僕に異論を挟む余地もなく押し黙る安田、瘡蓋をむりやり剥がされ傷口を抉られる痛みに悲愴に顔が歪む。
 痛みに耐える安田を冷ややかに観察、容赦なくその傷口に指を突っ込み、ささくれた骨の欠片をかきだしにかかる。

 「実に最低の人間だ。鍵屋崎夫妻よりまだ劣る。彼らは人格にこそ大いに問題あるが、衣食住に不自由しない環境を与えてくれた。遺伝上の父親はなにをした?箸の持ち方を教えてくれたか、ボタンのとめ方を教えてくれたか、ごく初歩的な足し算を教えてくれたか、掛け算を教えてくれたか、因数分解を教えてくれたか?転んだ時に助け起こしてくれたか、本を読むときは栞を挟むと教えてくれたか?なにかひとつでもいい、どうでもいいことを教えてくれたか?
 鍵屋崎優と由香利の方がまだマシだ、少なくとも彼らは知識を授けてくれた、最高の知識と教養を一杯に詰め込んでくれた。精子提供者は何をもって父親を名乗る、ただ精子を提供しただけの男が父親を称しいばる理由などない、勘違いも甚だしい。それとも僕が、この僕が、ただ精子を提供しただけの男を『父さん』と呼んで理想化するほど不幸な境遇だったと言うのか?生憎僕はそれほど不幸じゃない、恵がいたからな」

 「彼には君と接触できない理由があったんだ。実験の口外は禁止されていた、君との接触は情緒面に与える影響から固く禁じられていた」
 「精子提供者を父親と思った事は一度もない、顔も名前も知らない他人に親子の情を抱けるはずがない」
 「彼は君を大切に思っていた、」
 二人称に反発を抱き、卑屈な笑みを漏らす。
 「見殺しにしたのに?」
 眼鏡の奥の目が驚愕に見開かれる。
 表情を喪失し愕然と立ち尽くす安田に向かい、淡々と否定の言葉を重ねる。
 「父親、か。さぞかしくだらない人間だったんだろうな。精子を提供しておきながら産まれた子をモルモットと見なし他人の手に渡るのを承諾するような男がまともなはずがない、さぞかし倫理の狂った男だったんだろうな。鍵屋崎夫妻の同類というわけだ。そんな男が僕の父親だと思うとぞっとする、反吐が出るの定義を身を持って知れ。いや、鍵屋崎夫妻よりもっとずっとたちが悪い。おそらくその男は十五年間僕の事を忘れていたのだ、実験の記憶を抹消しようと自らに言い聞かせ半ば成功していたに違いない。おそらく精子提供者は実験の関与と引き換えに将来を約束され、順調に出世を続けていたはずだ。精子の売却と引き換えに出世するなど柵の中で飼い殺しにされる種馬の生き様じゃないか!!」

 感情が爆発する。
 よろめき距離をとり薙ぎ払い、こちらに歩み寄りかけた安田を拒む。

 「そんな男、僕の父親にはふさわしくない」

 死ねばいいのだ。
 そんな男、死んでしまえばいいのだ。
 罪悪感に苦しみ抜いて死ねばいい。

 「顔も見たくない」

 今さら名乗り出るな。迷惑だ。不快でしかない。
 込み上げる吐き気を堪え、どす黒い憎悪に隈取られた呪詛を搾り出す。

 「そんな男、天才の父親にはふさわしくない。父親とも呼びたくない。呼べば舌が腐る」

 重苦しい沈黙の末、麻痺した舌を叱咤してのろのろと安田が話し出す。

 「……その通りだ。彼は君が言うとおりの人間だ」

 礫まじりの風が容赦なく吹き付け髪を乱す。
 なびく前髪を片手で押さえ、おもてを伏せる。

 「彼は最低の人間だ。才能を驕り、平然と他者を見下して憚らなかった。選ばれた人間であると自負し、周囲の人間を嘲り蔑み、友達といえば一人しかいなかった。父親を名乗る資格がない父親だ。なにもかも君の言う通りだ、鍵屋崎。彼はくずだ。精子を提供した後は君の事を極力忘れるように努め、十五年かけて半ば成功した。自分が関わった実験を忘れ、良心の痛みも忘れ、君の存在すら忘れようとしていた」

 吹き散らされた前髪の間から、虚ろな眼差しを投げる。

 「だが、できなかった」

 額からそっと手をどける。
 風に蹂躙されたオールバックは跡形なく乱れ、癖のない前髪が風圧を孕んで額にかかる。

 ああ。
 どうして気付かなかったんだろう。

 前髪を下ろした安田は、僕と酷似していた。

 「それだけはできなかった、どうしても」

 安田はもう額を覆いもしない。 
 僕との酷似を隠しもせず素顔を曝け出し、冷たさを増す風に吹かれている。

 「どうしても君を忘れられなかった。ずっと、ずっと。十五年間ずっと忘れられなかった」
 「モルモットの行く末を懸念したのか」

 僕は平静だ。
 麻痺した心は何も感じない。
 悲哀も絶望も、安田が抱え込んだ十五年間の重みさえも、今の僕にはまるで無意味な事柄に感じられる。
 昨日房でサムライを首を絞めたとき、
 サムライを殺す一歩手前まで行った時、僕の一部は死んでしまったのだ。 
 怒りや哀しみを司る部位が麻痺し、上手く感情表現ができなくなってしまったのだ。

 もうどうでもいい。
 自暴自棄な気分に陥り、のろのろと眼鏡をかけ直す。

 「その男に伝えてくれ。貴様など父親ではないと」

 そこで言葉を切り、改めて安田と見つめ合う。

 「僕の前に現れるな。僕の父親はこの手で殺した鍵屋崎優ただ一人。ただ精子を提供しただけの男が鍵屋崎優より上であるかのような勘違いをするな。鍵屋崎優は救いようない俗物だが、精子を提供し養育を放棄した男よりよほど父親を称すにふさわしい」

 安田は一言も弁解せず唇を噛む。
 直した眼鏡越しに安田を凝視、終止符を打つ。

 「僕の父さんは鍵屋崎優ただ一人だ」

 空気に亀裂が生じる。
 その瞬間安田の顔に走ったのは、はかりしれず深い絶望。
 
 逆光の作用で安田の姿が翳る。

 反論を待たず踵を返し、大股に斜面をおりる。
 安田が追いかけてくるかと警戒したが杞憂だった。
 麓から頂上を仰げば、安田は孤独が人の形をとったように立ち尽くしたまま、その姿は刻々と忍び寄る夕闇に呑まれ始めていた。
 夕闇に溶け込み始めた安田をその場に残し、急ぎ足でバス停に戻る。
 足早に立ち去る僕に触手を伸ばし闇が迫り来る。
 夕日は完全に沈んだ。
 あとにはただ、闇があるばかり。
 足が棒のようだ。
 蓄積された疲労が一気にのしかかってくる。  
 
 『直、君の父親は』
 安田の切迫した顔を思い出す。
 何か言いかけ口を閉じ、逡巡する様子を思い返す。
 
 僕を助け出せない父親などいらない。
 恵を救えない父親などいらない。
 
 他人を頼ろうとした僕が愚かだった。
 安田もサムライも信用できない。
 恵を守れるのは世界にただひとり、僕だけだ。

 ステップに足をかけバスに乗り込む。
 吊り革に掴まり振動に耐える。
 車内に充満する饐えた体臭も猥雑な騒がしさも気にならなかった。

 安田は僕を疑っている。
 サムライも僕を疑っている。
 ふたりとも斉藤を殺したのは僕だと思っている。

 房には帰れない。
 帰れば必然サムライと顔を合わせる。
 サムライは僕の顔色から異変を察し、なにがあったかを執拗に問い詰める。  

 話せるわけがない。

 安田が精子提供者かもしれないと、
 僕の父親かもしれないと、
 そんな事、話せるわけがない。

 口に出して確認するのが怖い。
 音を付与した言葉が真実に迫るのが怖い。 

 まわりは敵ばかりだ。だれも信用できない。安田さえ信用できない。
 あんな重大な秘密を一年以上も隠し続けた男を信用できるわけがない。
 安田が一介の囚人でしかない僕に便宜を図り続けたのが公私混同の極みに過ぎないと判明した今、彼に縋るのはプライドが許さない。

 頭が混乱する。
 心が麻痺する。

 気分は悪い。最悪だ。二本足で立つだけで気力体力の限界だ。 
 思考が空転しまともにものを考えられない。
 昨夜の出来事と最前の告白の衝撃が、抗し難い荒々しさでもって僕の心を現実から引き剥がしてしまったのだ。  
 バスが止まったのにも気付かなかった。
 スロープをくぐったバスが地下停留場に停車、前方のドアから一斉に囚人が吐き出される。
 僕は最後まで車内に居残り、大挙して出口に殺到する囚人を見守っていた。
 最後の一人がステップを飛び降りて駆け去り、バスが回送の準備に入り始める頃、吊り革から手を引き剥がして前方へ進む。
 僕の顔を見た運転手が当惑する。
 「まだ残ってたのか。もうみんな降りちまったぜ、夕飯に間に合わねーんじゃねーか」
 「家畜の飼料は口に合わない」
 運転手が処置なしと首を振る。
 ステップを下り、コンクリ床を踏む。
 排気音とともにドアが閉まり、回送表示を出したバスが動き出す。
 ラッシュ時は混み合う地下停留場も今の時間帯は閑散としている。
 どうやら今下りたのが最終便らしい。
 囚人は殆ど棟に帰り、そろそろ食堂に向かい始める時刻。
 広大な地下停留場を見回し、足を引きずるようにして歩き始める。
 東棟には帰りたくない。サムライがいる房には帰りたくない。
 だが、そこ以外に行き場がない。
 一歩進むごとに忌避の念が募り、足が鈍る。
 サムライの顔を見るのが苦痛だ。
 五指を開き掌を見下ろす。 
 この手が昨日した事を思い出し、愕然とする。
 昨夜、熟睡中のサムライの首を絞めた。
 手にはまだ生々しい感触が残っている。
 解剖学的な正確さで気道を圧迫、苦痛に喘ぐサムライの青黒い顔が鮮明に蘇り、忌まわしい感触を打ち消そうと痛いほどに指を握りこむ。

 殺したくない。
 殺したくない。
 なのに何故、内から溢れ出る衝動を抑制できない?

 「ぶざまだな、鍵屋崎直。殺意を抑制できず、何が天才だ」
 このままではきっと、サムライを殺してしまう。
 彼が手に入らない苦しみに負け、殺してしまう。
  
 等間隔に照明が点る停留場を歩き、上の空で東棟へと向かっていた僕の視界が突如暗くなる。
 「!?なっ、」
 「しーっ」
 脇から伸びた手に目隠しされたと悟るより早く、強引な力でもって非常口の物陰に引きずり込まれる。
 目隠しがはずされる。
 壁に背中を預け呼吸を整える僕に被さっていたのは、胡散臭い笑みを湛えた黒い肌の囚人……ホセだ。
 牛乳瓶底眼鏡の奥の眼に稚気の光を閃かせたホセは、僕が見ている前で思わぬ行動をとる。
 壁に背中を預け警戒する僕の前に跪き、深々と頭を垂れる。
 フードを纏っていればさぞかし様になるだろう隠者の振り付けで片膝付き、瓶底眼鏡の奥の目に底知れず不気味な光を湛え、うっそりと口を開く。
 「突然のご無礼をばお許しください。暴君の命にて、南の隠者じきじきにお迎えに上がりました」
 「レイジの?」
 真意の読めない笑みを口元に湛えホセが首肯する。
 骨まで噛み砕く貪欲な獣の眼光に気圧されるも、僕は薄々この時を予期し、心の底では待ち望んでさえいた。
 十字の烙印を刻まれた背中が疼く。
 シャワーで跡形なく洗い流された十字架が、復活の熱を帯びて肌を焼く。
 敏感になった背中が上着と擦れ、淫蕩な熱を孕んだむず痒い感覚を伝えてくる。
 『忘れるなよキーストア、今日からお前は俺の奴隷だ』
 暴君が呼んでいる。
 僕をめちゃくちゃに嬲って壊すために、欲望の捌け口にするために、わざわざ隠者をさしむけて。
 そうだ。
 僕が欲しい熱は、彼が与えてくれる。
 壊れるほどにくるおしい熱を与え、何も考えられないほどに激しい快楽を注ぎ込んでくれる。
 サムライが求めに応じないなら
 「…………いいだろう」
 応じてくれる人間に身を委ねるまでだ。
 サムライを巻き込み破滅するくらいなら、僕一人で破滅したほうがましだ。
 暴君ならきっと、僕の望むものを与えてくれる。
 倒錯した快楽で、身も心も焼き滅ぼしてくれる。
 目を閉じて瞼裏の闇に自我を没し、完全なる冷静さを保って瞼を上げる。
 間近に迫ったホセが浮かべる謎めく笑みを睨み、不敵に宣言。

 「暴君のもとに案内しろ」

 今なら何でも言う事を聞いてやるぞ、暴君。
 彼に手をかける前に、どうか僕を殺してくれ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050217004947 | 編集
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