ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十一話

 『ごめんなさい、道了。……あなたを縛りつけようとした罰ね、これは』
 女の声がする。
 どこかで聞いた声だ。
 あるかなしかの郷愁を刺激し俺の記憶に訴えかけるその声は、哀切な余韻を帯びて響く。
 女は謝罪する。繰り返し謝罪する。
 悲哀に濡れた目を伏せ、諦念の笑みを唇の端に溜め、悄然とうなだれて。
 その手はわずかに丸みを帯びた腹部を愛情深くさすっている。
 母性本能の塊のような女。
 顔はよくわからない。そこだけ靄がかかったように不透明だ。
 目鼻立ちすらはっきりしない女だが、虐げられるのに慣れた薄幸な雰囲気が全身から漂っている。
 肩にかかり背に流れる黒髪が楚々とした風情を醸す。
 地味で内気で控えめ、なんら目立つところのない平凡な女。
 しかしその声はしっとりと艶があり、まどろむような抑揚を紡ぐ。
 限りなく増殖する癌のような赤が網膜を蝕む。
 荒れ狂う炎が視界を席巻する。
 灼熱の炎が轟々と渦巻き横殴りに火の粉がすさぶ中、炎に巻かれた瓦礫が盛大な音をたて瓦解する。
 破滅を告げる崩壊の音が連鎖し、灼熱の炎に包囲され逃げ場をなくした女が寂しげに微笑む。

 『私が好きなのは道了。
 假面じゃない。
 月天心があるかぎり道了は假面をやめられない。
 私が好きなのはとても寂しい目をした普通の人間、鉄のような無表情で人を殴り殺す人形じゃない。
 道了が好き。
 月天心にとられたくない。
 だから私はー……』

 呪縛のような、声。
 永久に俺を束縛し独占しようとする声。
 見返りを求めず独り語りにふける間も腹をさする手はとめない。
 そこに新しい命が宿っている。
 産声を上げる事なく自分と心中する命を哀れむように、いとおしむように、万感の想いをこめた手つきで腹をさする。
 腹の中に俺の分身がいる。
 決して殴らず裏切らない、俺であって俺じゃない分身が女の腹を褥に成長を続けている。
 ようやく俺を手に入れた女はひどく満足げだ。
 腹のふくらみを庇う思いやり深い手つきに幸福が滲む。
 女の腹に俺がいる。
 念願叶って俺と同化した女は、自分の中に俺の存在を感じながら死ねるなら本望だとそう言っている。
 殴られ蹴られ髪を毟られてもどこまでも献身的に尽くし、直接俺の手にかかる事に一抹の救いを見出し、俺の手で子供もろとも命を絶たれるなら本望だと慈愛に満ち溢れ透き通る微笑を湛える。
 許容と諦念のはざまに儚く消えゆく聖母の微笑みが、泡沫の夢のような笑みが、轟々と唸りを上げ迫り来る炎をも圧して網膜に焼き付く。
 なぜ思い出せない?
 眼球に疼痛、ちりちりと視神経が燻る。
 顔にかかる靄が邪魔だ。
 女の顔を見定めようと目を凝らすも一向に靄は晴れない。
 執拗な凝視で靄を払おうとするも報われない。
 思い出そうとすると酷く目が痛む。
 視神経が焼き切れそうな痛みに思わず悲鳴を上げかける。
 俺の頭はどうなっている?
 何故こんな当たり前の事が思い出せない?
 今に始まったことじゃない、ずっと前からだ。
 家族の顔も名前もはっきりとは思い出せない。
 月天心を結成する前の日々は空白、思い出そうとすれば猛烈な頭痛に襲われた。思い出すのを脳が拒否しているのかと思うほど激烈な痛みは薬を飲んだところで癒えやしない。そして俺はいつしか自分のルーツを辿るのをやめた。 
 俺は俺だ。
 過去もなく未来もない、今ここに在る俺が俺だ。
 過去も未来も必要ない、俺に在るのは今だけだ。
 過去を探るのをやめ未来を求めるのをやめた時から、心は茫漠たる虚無に支配された。
 抗争に明け暮れ女を抱いても本当の意味では決して満ち足りることがなかった。
 すべてがむなしかった。
 なにもかもがくだらなかった。
 おもねる連中も媚びる女も歯向かう敵もなにもかもが等しく無意味で無価値だった。
 だれもなにももたらさなかった。
 無味乾燥に過ぎゆく日々は俺から感情を削り取っていった。
 倦怠と虚無に覆われた灰色の日々の中、俺は惰性で呼吸する人形だった。
 あいつに会うまでは。

 『…………金、銀?』 
 チン、イン。

 寒い雨の日の荒廃した倉庫街。雨水滴る軒先に蹲ったガキが驚愕の面持ちで呟く。
 癖のある黒髪、薄汚れた小造りの顔。
 人慣れぬ野良猫を思わせる三白眼が気の強そうな光を放つ。
 荒みきった目つきと裏腹に顔だちは痛々しいほどあどけない。
 俺が突如変貌し襲い掛かってくるとでもいうように油断なく腰を浮かせ、いつでも相手になってやるという気概を込め、しとどに濡れそぼった黒髪から雫をたらしている。
 こんな目で俺を見る人間は初めてだった。
 苛烈なまでに意志を叩きつけてくる眼差しがひりひりと心地よい。
 小柄な体格に似合わず態度のでかいガキに興味を持つ。
 怯えも媚びも恐れもせず虚勢を張り、得体の知れぬ俺を対等な人間と認め対峙するガキに長らく忘れていた好奇心が疼く。
 あの時、俺の世界に光が射した。
 卑屈に意志を曲げず畏怖にひれ伏さず真っ直ぐ切り込んできた眼差しが、倦怠に淀んだ俺の内部に僅かな変化をもたらした。
 ガキを中心に鮮烈に世界が色づく。
 ガキの輪郭だけがくっきりと切り取られ浮かび上がる。

 『可哀想に』

 ガキはそう言った。
 可哀想にと憐憫を垂れた。
 客観的に判断して自分の方がよっぽど可哀想な状態におかれているくせに、髪も顔も服も全身びしょ濡れで風邪をひきくしゃみを連発、膝を抱え震えている自分の方が余程みじめでみすぼらしく映るのにもかかわらず、事もあろうにこの俺を、月天心の首領として崇められるこの俺に憐憫の目をむけた。
 あんなガキ、初めてだった。
 だから俺は、こう聞かずにいられなかった。

 『名前は』

 ガキが口を開くも、続く言葉は急激に増した雨音にかき消される。 
 お前の名前は?
 雨音に耳を澄ます。
 ガキの口が無音で動く。
 しかしガキが発したはずの言葉は雨音にかき消され届かず、底が抜けたように勢いを増す雨に遮られ次第に姿がぼやけていく。
 散弾の如き雨がアスファルトを穿つ。
 空気に溶け込むように輪郭が薄れガキの姿が消えていく。
 フィルムが劣化するように世界が褪せていく。
 俺はただ立ち尽くしそれを眺める。
 お前も消えてしまうのか。
 俺の前からいなくなってしまうのか。
 俺を残して行ってしまうのか。
 名前も顔も忘れたあの女のように俺ひとりを色のない世界に残し、感情の欠片を俺に投げ与えたまま消えてしまうのか。
 行くな。
 雨煙に包まれ次第に不鮮明になりつつあるガキに水飛沫をとばし歩み寄る。
 水溜りを蹴散らし歩み寄った俺が手を伸ばすより早くガキの姿が完全に消失、あとにはただ静寂を際立てる雨音だけが響き渡る。
 まだお前の名前を聞いてない。
 行くな。
 もう遅い。消えてしまった。俺の声は届かない。
 伸ばした指が目標を失い、惑い、虚空を掴んで垂れ下がる。
 皆消えてしまった。
 いなくなってしまった。
 この手は結局何も掴めなかった。
 吹きすさぶ暴威をまとって人や物を破壊する拳も、肝心な時に役立たないのでは意味がない。

 世界から色が消える。
 世界から音が消える。
 そして俺は虚無の裂け目に閉じ込められる。

 頭が痛い。割れるように痛い。
 この痛みだけが本物だ、この痛みだけが俺を俺足らしめる現実だ。
 外部から来る刺激には疎くとも内部で発生する痛みは波紋となりて殷々と反響する。
 鼓膜の裏側でぶんぶんと蝿が唸る。
 蝿の羽ばたきは空気を攪拌し次第に大きくなる。
 ああ、五月蝿い。五月蝿い蝿め。
 鼓膜を震わす羽ばたきが間断なく俺を責め苛む。
 耳鳴りが酷い。
 頭蓋骨の裏に巣食う蝿の王は貪欲に肥大し神経に障る羽音で間断なく俺を苛む。

 発狂せんばかりの拷問。
 俺はもがく、もがいて苦しむ。
 頭の中に巣食う蝿から逃れるためもがいてもがいてもがいて
 『残念ながら手の施しようがない』
 もがいてもがいてもがいて
 『ケチなヤブ医者が運営するチンケな診療所じゃどうしようもないよ』
 もがいてもがいてもがいてもがいて
 『頭を開き破片をぬきとるのは難しい手術だし金がかかる。何よりワシみたいなしがない闇医者にそんな大掛かりな手術できっこない。……まあ刺さってる部位が部位だけにどんな天才外科医だって手こずるだろうがね』
 もがいて、溺れ。
 『この子は頭に爆弾を抱えてる。どうせ長くは保たんさ』
 泡と消える。

 声が、する。
 老若男女様々な声が猥雑に交錯する。
 しかしどれひとつとして特定できない、どれひとつとして声の主を思い出せない。
 記憶は日々劣化していく。
 俺の脳には重大な欠陥がある。
 俺の頭はとっくの昔に壊れていて医者も匙を投げその医者は誰だ思い出せないだが俺は壊れている壊れていると診断された、ならそれは覆し難い事実で俺はきっとどうしようもなく壊れているのだろう。
 頭に爆弾を抱えている。
 医者がそう言った。
 ならそれは真実だ。
 頭に埋め込まれた爆弾はいつ爆発するかわからず爆発したら周囲の人間を巻き添えに死に至らしめる。俺は俺と死ぬ人間を求め月天心を結成した。生きていても死んでいても変わりないような、否、死んだほうがマシな連中ばかりを集め月天心を作った。
 時が来れば月天心と心中するつもりだった。

 あいつを月天心に引き入れたのは、何故だ?

 脳裏に疑問が浮かぶ。
 ガキを月天心に招き入れる事で俺はなにを期待した?
 今となってはわからない。
 あのガキが月天心に入れば何か変わるのではないかと、虚無と倦怠に倦んだ俺の心が人間らしい痛みを思い出すのではないかと思ったのかもしれない。

 今となっては、遅い。
 今の俺は死に損ないですらない壊れ損ないの人形だ。
 けれども俺は、壊れ損ないの体をひきずってここにいる。
 いつガタがきてもおかしくない壊れ損ないの体をひきずってここにきた。
 あいつがいるここへ
 月天心の生き残りがいるここへ
 この東京プリズンに。

 「……………………」

 ああ、そうだ。
 俺が今いる場所は東京プリズン、砂漠のど真ん中の監獄。
 全く、俺の死に場所にはふさわしい。 
 闇の底からゆっくりと意識が浮上、気だるく目を開ける。
 まどろみから覚めた意識が最初に捉えたのは、配管剥き出しの殺風景な天井。
 裸電球の消えた暗闇にひとり、壁際のベッドに横たわった俺は慎重に上体を起こす。
 無意識に隣をまさぐる。
 昨日まで人がいた形跡が残っているが、そこに求めた体温が得られず戸惑う。
 「……………そうか。いないのか」
 汗を吸いしどけなく乱れた形跡をとどめるシーツに手を這わせ、呟く。
 昨日まで俺の隣で寝息を立てていたガキは、もういない。
 隣から消えてしまった。
 房は暗闇と静寂に沈んでいる。
 廊下にも人気はなく、物音ひとつしない。  
 昨日まで見張りに立たせていたガキもいない。

 『し、知らなかったんだよ嘘ついてるなんて!俺は悪くない、半々に騙されたんだ、あいつにロープを渡したのだって道了さんがほしがってるからだって言われてまさか芝居なんて……悪いのは俺じゃねえ全部あの半々だ、俺にあたるのは筋違いってもんですよ道了さん、あの半々ときたら道了に突っ込まれて死ぬほどよがりくるってたくせに裏切りやがって最低のくずだ、さんざんいい思いしやがったのに恩をあだで返しやがって……道了さんもいい加減目え覚めたでしょ、騙されたんですよあいつに、くそったれ半々に!』

 口車に乗せられロープを渡した見張りに俺は罰を与えた。
 他の連中が見ている前で思うさま暴行を加え、血反吐を吐いて悶絶するさまを冷ややかに眺めた。
 たしか考賢という名の囚人は泣き叫び喚き漏らすの見苦しい醜態を呈し折れた前歯の間から喘鳴をもらしながら何度もくりかえし俺に許しを請い、それでも解放されないと知るや自暴自棄に走り、狂気に侵された目を極限まで剥き、口の端から血泡を噴き罵倒を浴びせ始める。

 『陰であんたがなんて呼ばれてっか知ってるか?知らねえ?なら教えてやるよ、感謝しろよ假面!半々に骨抜きにされた台湾人の面汚し、壊れ損ないのキリングドール、タイペイワイフ!一日中房にひきこもってばこばこお楽しみでいいご身分だよなあうらやましいぜ、どうせなら俺らもまぜてくれよ、てめぇだけお楽しみってのはずるいぜ!俺らだってロンを犯したくて犯したくてたまんねーんだ、あのクソ生意気な半々を思うさま組み敷いてしゃぶらせるとこ考えただけでおっ勃ちまうよ!!』

 あらん限りの憎しみを込め俺を睨みながら卑語を口走る考賢の前髪を掴み、力任せに壁に強打。
 腕を遡る衝撃、鼻が顔にめりこむ鈍い音。
 続けざまに壁に叩き付けながら耳元で囁く。
 『覗き見は知っていた。見逃してやったんだ』
 ざらついた壁面に血をなする。
 鼻が歪み前歯が抜け落ち、醜悪に変形した鼻血まみれの顔の考賢の脂ぎった髪の間に手を通し、恐怖を煽るやさしさで地肌をまさぐる。
 戦慄に固まる考賢の耳朶に口を運び、宣言。
 『ツケを払え』
 考賢の絶叫は長く長く響いた。
 あれから考賢がどうなったかは知らない。興味もない。
 ようやく気が済んで放り出した時には手足がでたらめに痙攣していた。
 考賢など死のうが生きようがどうでもいい。
 俺はただ、本来なら俺が独占したはずのロンの痴態を横から掠め取った男にツケを払わせたまでだ。

 ロン。
 そうだ、ロンだ。
 あいつの名前はロンだ。

 「……………っ………」
 割れるように頭が痛む。
 反射的にこめかみを覆う。
 漸く思い出した、名前を。
 生意気な面した三白眼のガキが脳裏に浮かぶ。
 ロン。
 それが、名前。昨日まで俺の隣にいたガキの名前。
 皺だらけのシーツをさする手が止まる。
 手をどかし、あらためてからっぽの房を見回す。
 暗闇に沈んだ房に俺以外の人間はいない。

 『もうはなさねーよ』

 静かな決意に満ちた言葉が耳に蘇る。
 昨日の情景が網膜に像を結ぶ。
 レイジが去り看守が大挙して駆け抜けた廊下の片隅、壁に寄りかかるように座り込んだロンが、後生大事に十字架を抱きしめる。

 『追いかけっこで俺に勝てると思ってんのか?上等だよ、命がけで見付けてやる』

 十字架を胸に抱きしめ、誓う。
 前髪の隙間から覗く目は透徹した意志を湛えていた。
 苛烈なまでに意志を貫き通す真剣な顔が、俺が拳を振り上げるたび梅花を庇った面影と重なり目を奪う。

 昨日の時点でロンは房を出た。
 俺に背を向け廊下を歩いていった。   

 「………………ロン」

 そんなにその男がいいか。
 レイジと俺と、どう違う。

 「お前はレイジを選ぶのか。俺に抱かれて汚されても、それでも諦めきれないか。お前と友人を並べて犯そうとしたあの男を、笑顔で淫売と言い放ったあの男を、お前の手を無残に踏みにじり口汚く罵倒したあの男を、それでも求め続けるのか」

 蝿の羽音が大きくなる。
 蝿の王が俺に命じる。
 ロンを追いかけ取り戻せと、今度こそ完全に奪って自分の物にしてしまえと。  
 俺に残された時間は少ない。こうしている今も俺はどんどん壊れていく。全身の間接がぎしぎしに錆び付いて永久に停止するまでもうあまり時間は残されてない、時が来れば俺は完全に動作を停止する、壊れきってしまう。
 そうなる前にしなければいけないことがある。
 体がまだ動くうちに、俺がまだ俺でいられるうちに、あいつを俺の物にする。

 記憶は日々欠けていく。
 世界は日々褪せていく。
 俺がまだ俺でいられるうちに、ロンを俺の物にする。

 ベッドから腰を上げる。
 殺風景な房を突っ切り扉に向かう。
 扉を開け廊下に出る。
 蛍光灯が冷え冷えした光を投じる廊下に等身大の影が揺らめく。
 硬質な靴音を響かせながら廊下を歩き角を曲がり渡り廊下を経て中央棟へ、静寂に溶け込み目的地をめざす。

 『愛してるわ、道了』 

 ふくらみ始めた腹を抱え女が微笑む。
 纏わり付く呪詛のような声。

 『どんなに痛くされても構わない。殴られても蹴られても我慢する。だから道了、私を見て。私を捨てないで。あなたに捨てられたら生きていけない、寂しくて哀しくてきっと死んでしまう。道了、私の道了。本当は優しい人。あなたは気付いてないだけ、本当の自分に』

 「賢しげに俺を語るな」
 『気付いてないの?私を殴る時とても哀しい目をしてる。人を殴ることで自分も痛みを感じてる、その事に気付かないだけ。あなたは冷たくなんかない、無慈悲でもない。あなたは人形なんかじゃない、ちゃんとした人間よ。人形はそんな目をしないもの』
 「お前になにがわかる、自分が見たいものしか見ない愚かな女が」

 女の呪詛を断ち切ろうと歩調を速め靴音を高める。
 硬質な靴音が壁に反響、静寂が深まる。
 蛍光灯の青白い光が照らす廊下を影を曳き歩く俺に、女の声はどこまでも付き纏う。

 『捨てないで』
 『愛してるわ』
 『この子と一緒に』
 『あなたになら殺されても』
 『それであなたが救われるなら』

 五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
 鼓膜の裏側で羽音が膨らむ。
 蝿の王が蠕動する。
 五月蝿くて五月蝿くて死んでしまいそうだ。
 こんな状態には耐えられない。
 ここに来てから頭痛は日増しに酷くなり耳鳴りはやまず、俺は俺が刻一刻と壊れていくのを痛感する。
 どこへ行けば逃れ切れる、どこへ行けば断ち切れる?
 俺は自ら望んでここへきた、ロンに会う目的を果たすために。
 目的は既に達した、いつまでもここにいる理由はない。
 檻に閉じ込められた俺の頭に閉じ込められた蝿はどんどんどんどん成長する、二重に閉じ込められた蝿の王が早く出たいと訴える。

 蝿の王が俺に命令する。
 早くここを出ろと命令する。

 錆びて動かなくなる前にロンを連れてここを出ろと狂った羽音で急き立てる。
 こんな場所にロンをおいていくわけにはいかない。
 残していけばロンは俺の事など忘れてしまう、俺を忘れて身も心もレイジの物になってしまう。
 先に出会ったのは俺だ。後から会った男にロンを渡すものか。
 靴音を響かせ廊下を歩く。
 前方に扉が現れる。
 等間隔に連なる蛍光灯の光に照らされながら一定の歩幅で足をくりだし、停止。
 扉の前に立つ。ノブに手をかける。
 軋み音をたてぬよう慎重に扉を押す。
 当直の医者は不在、代わりに看守が一人机に突っ伏して鼾をかいていた。
 侵入者の気配に気付かず涎をたらし眠りこける看守の後ろを通過、寝静まった医務室を横断する。
 端から端までベッドが並んでいる。
 その殆どはカーテンを開け放したまま、大の字に熟睡する患者が丸見えだ。
 両側に並ぶベッドにひとつひとつ目を配り奥へと進む。
 闇に慣れた目が患者の寝顔を捉える。
 違う、これも違う。
 端からひとつずつ確認するもロンはいない。
 闇と同化する足運びで奥へと進む。
 そして、気付く。
 一番奥とその手前のベッドだけカーテンが締め切られている。
 本能的な違和感を察知、若干歩調を速め一直線にベッドに近付く。
 手前のベッドは違うと直感、素通りする。
 一番奥のベッドの前で立ち止まる。 
 意識を研ぎ澄まし内側の様子をさぐる。
 内側から何の反応もないのを確かめ、カーテンを掴んだ刹那。
 声がした。
 喜びに弾む、無邪気な声。
 「ひっかかったな、ばーか!!」
 俺が動く前にシャッとカーテンが捲られる。
 勢い良くカーテンを開き身を乗り出したのは紛れもなくロン、昨日別れた時そのままのロン。俺より一瞬早くカーテンを開き、いかにも慌てふためいた様子でスニーカーをつっかけ小走りに躍り出たロンは、満面に歓喜と驚きを湛え、興奮に駆られた早口で捲くし立てる。
 「同じ手を食うかよばか、舐めんのも大概にしやがれ!大人しく寝たふりしてたからまんまと油断しがやったな、まさか寝たふりとは思わねーだろ、ったくツメがあめーんだよお前は!どうせまた闇にまぎれてこっそり謝りにきたんだろ、わかってんだよお前の考えそうな事は、だてに相棒やってねーっての。勘違いすんなよ、いくら暴君に乗っ取られてたからって俺と鍵屋崎にやったこと許したわけじゃね……」
 その顔から急速に感情が剥げ落ちる。
 カーテンを掴んだ手から力がぬけ、ぱたりと体の脇におちる。
 「……たお、りゃん……」
 歓喜が失望に取って代わる。
 そして俺は理解する、寝惚けたロンが俺とレイジを間違えた事実を。
 レイジを待ち焦がれるあまりカーテンに映った影を本人と見誤り、藁にも縋る思いで飛び出したと、失意に打ちのめされた顔がありあり物語る。
 そうか。
 俺とレイジを間違えたのか。
 間違えたからこそ、あんなにも喜んだのか。
 あんなにも嬉しげに生き生きと、俺といた時はついぞ見せた事ない顔でカーテンを開け放ったのか。
 『我叫道了。你知道假面嗎?』
 わかるか、俺が。
 ロンの顔が強張る。恐怖、戦慄。
 慌てて俺から放れようするのを許さず肘を掴みベッドに押し倒す、ロンが抵抗するのを軽くいなしもう片方の手でカーテンを閉ざす。
 「なん、の用だよ道了……天下に名だたる月天心首領が夜這いたあおちぶれたもんだなお前も!!消えろよ、消えろ!さんざん抱かせてやったのにまだたりねーのかよ、とっとと俺の前から消えろ、さもねーと……」
 ロンが歯軋りする。憎しみにぎらつく目がまっすぐに俺を刺す。
 「……この場でお袋と梅花の仇をとってやる」
 「まだ諦めてないのか」
 「当たり前だ」  
 ロンにのしかかりたやすく押さえ込む。
 二人分の体重で耳障りにベッドが軋む。
 暗闇の中、組み敷かれたロンの目が凶暴にぎらつく。
 あらん限りの憎悪を剥き出す苛烈な眼差しが、忘却の海に沈みかけた記憶を一粒すくいあげる。
 まじりけない憎しみが奔騰する目に、いつだったか抱いた女の面影が重なる。
 ロンとうりふたつの女の名前は
 何度頬を張られても決して挫ける事なく、切れた唇に血を滲ませ、挑むようにこちらを睨みつけた女の名前は。
 「香華の目に似ている」
 「!……………っ、………」
 母親の名にロンの顔が悲痛に歪む。
 抵抗が緩んだ隙に付け入り声が漏れぬようにとその口を塞ぐ。
 途端に首振り激しく暴れ出すロン、俺の手を払いのけようと右に左に千切れんばかりに首振り狂ったようにシーツを蹴る姿を目の当たりに蝿の羽音が耐え難く膨らむ。
 頭が、痛い。
 割れるように響く。
 瞼の裏で蛍光色の環が点滅、ロンの抵抗が激しくなるにつれ頭痛と耳鳴りも酷くなり全身の毛穴から脂汗が噴き出す。

 殺セ。
 殺セ。
 殺シテシマエ。
 逆ラウヤツハ首ヲへシ折リ殺シテシマエ。

 蝿の王が命令する、ロンを殺せとけしかける。
 耳鳴りがますます酷くなる。
 高音域の金属音がキンと鼓膜を貫き脳髄を串刺し体内に波紋を広げ反響、血管中の血液が沸騰動悸が速まり頭蓋骨の裏側に巣食う蝿が暴れ狂い脳を攪拌。
 視界の軸が歪む。
 現実が歪曲する。
 俺の下で相変わらずロンは手足を振り乱し必死に抵抗を続け拒絶の意志を体現する。

 今ココデ殺セバ俺ノ物二ナル。
 ロンハモウ、レイジヲ見ナイ。

 「………っ……く…………」
 抗し難い誘惑に駆られロンの首に手をかける。
 細い首だ。弛んだ襟ぐりから露出した鎖骨は痛々しいほどに華奢だ。
 首をへし折るのは簡単だ、少し力を込めればいい。
 苦しむことなくすぐに死ねる、俺にしては慈悲深い殺し方だ。
 ロンが大きく目を見開く。
 恐怖が凝った目に俺が映る。
 ロンの目に映り込む俺は平板な無表情に徹し、眠たくなるような緩慢さでその首を締め上げている。 

 『私が好きなのは道了。
 假面じゃない。
 月天心があるかぎり道了は假面をやめられない。
 私が好きなのはとても寂しい目をした普通の人間、鉄のような無表情で人を殴り殺す人形じゃない。
 道了が好き。
 月天心にとられたくない。
 だから私はー……』

 思い出した。
 俺に首を絞められながら微笑んだ女の名前は、梅花。
 あの時梅花もこんな目をした、こんな目で俺を見た。
 首を締められる苦しみに喘ぎながら、逆に哀れむような目で俺を見上げた。

 「っあ……ぐ………ぅ……!!」
 極限の苦痛に歪むロンの顔に梅花の面影が溶け合い殺意が萎え、腕から急速に力が抜けていく。
 シーツを蹴って苦しみあがくロンの首からあっけなく手を放す。
 軌道を圧迫する苦しみから解放されたロンが激しく咳き込む。
 「げほっがほっ!」
 喉を押さえ激しく咳き込むロン、しめやかに涙が張った目が不安げに虚空をさまようのを捉えた瞬間、腹の底で衝動が爆ぜる。
 ぐったり横たわるロンを片腕で支え起こし、わけもわからず抱きしめる。
 出来るだけ優しくロンを抱擁する。
 力を入れすぎて壊さないように細心の注意を払い、俺に比べてあまりに小さなロンの体を抱く。  

 懐に熱を感じる。
 性急な鼓動を打つ心臓の熱がじかに伝わる。

 「はな、せよ……おふくろと、めいふぁをころした手で、さわん、な……お前に抱かれると、虫唾が走る……最初からずっと、そうだったよ……お前に突っ込まれて感じたのは嘘だ、あんなの全部芝居だ、お前をだまくらかすための演技だよ……お前に突っ込まれてもぜんぜん良くなかった、痛いだけだった……ろくにならしもせず突っ込まれて……ケツが裂けて……内臓でんぐりがえって………レイジのがよっぽど……」
 俺を引き剥がそうと懸命に身をよじり暴れながら、獣じみて荒い息のはざまから言葉を紡ぐ。
 汗に濡れそぼった前髪に表情を隠し、その名を口にする事で覚える痛みを堪え、吐き捨てる。
 「レイジのがよっぽど、優しかった」
 息も絶え絶えに俺を罵るロンを腕に抱き、頭に顔を埋める。
 耳の奥で蝿の羽音が鳴り響く。
 じきに終わりが来る。蝿の王が終焉を告げる。
 それまではロンとともにいたい。
 「ロン」
 突き放す力もなく項垂れるロンを抱擁、冷え切った内部に人肌の熱を取り込もうと目を閉じる。
 くしゃくしゃに乱れた髪が頬をくすぐる心地よさにひたり、
 とうの昔に捨て去った甘やかな安らぎにひたり、
 言う。
 「俺と一緒に逃げろ」 
 梅花の亡霊も蝿の王も俺達の邪魔をするものが誰もいない場所へ、誰も追ってこないほど遠くへ、お前を独占できる場所へ。
 東京プリズンを捨て。  

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050221050035 | 編集
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