ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
十八話

 斉藤は死んだ。
 「前代未聞の不祥事だ」
 深刻な面持ちで所長が悲嘆に暮れる。
 いつも清潔な身なりを心がけている所長らしくもなく油染みた髪はぺたりと頭皮に被さり、切り立った峰の如く険の深い眉間には懊悩の皺が刻まれている。
 狂気に蝕まれぎらつく光を放つ双眸の迫力にもまして精神の失調を物語るのは目尻と口端の神経症的痙攣、連動する顔筋の収縮。
 落ち窪んだ眼窩にはどす黒い隈ができ、全身に忌まわしい程の瘴気がみなぎっている。
 机の中心、手を伸ばせば届く距離に安置されているのは白磁の骨壷。
 ハルの骨壷に視線を定め、所長は苦りきった口調で呟く。
 「刑務所内で殺人事件が起こるなど許しがたい事態だ。それも殺されたのは医者で犯人は囚人ときた」
 「囚人とは決まってません」
 すかさず異議を唱えたのは執務机の前に不動の姿勢を保ち起立する副所長の安田。
 斉藤死亡の報を受けても一分の隙なく身なりを整えた安田は、眼鏡の奥に表情を隠して胡乱な視線を跳ね返す。
 折り目正しく着こなした三つ揃いのスーツとくすむ事ない光沢の革靴は非の打ち所ないエリートの証、髪はいつもどおり後ろに撫で付け聡明に秀でた額を強調する。
 「看守が犯人だというのか?馬鹿も休み休み言いたまえ」
 口にするのも汚らわしいと吐き捨てる。
 机上に提出された始末書を一瞥、辟易した表情で首を振る。
 気のない素振りで始末書を束ね安田に確認をとる。
 「下水道で発見されたバラバラ死体は斉藤医師で間違いないのだな」
 「………検屍解剖の結果待ちです。しかし体格と服装から見て彼で間違いないと……」
 「曖昧な言い方だな。何かあるのかね」
 所長が不審げに眉をひそめる。
 安田は表情を読まれるのを避け面を伏せ、努めて感情を消した声で述べる。
 「死体は四肢が切断されていました。のみならず損傷が激しく人間だと判別するのがやっとの状態、顔は完全に潰されていたそうです」
 「隠蔽工作か。馬鹿め、身元の特定を遅らせようと顔を潰すのは常套だが白衣を着せたままでは医者だと丸わかりではないか。待てよ、それ以外の理由もあるか。怨恨による殺人だとしたら死ぬ前に拷問を加えられた可能性もある、ここには嗜虐性と暴力性にとんだ囚人が大勢いるからな……死ぬ前にバラバラにされたか死んだ後にバラバラにされたかそれはわかっているのか?」
 「断言できませんが、死後の模様です」
 「遺体を実際に見てないのかね?」
 断定を避け、語尾を濁して告げる安田に苛立ちを隠せず所長が言う。
 「………すいません。前述通り遺体の損傷が激しく、散らばった部位をかき集める作業が予想外に難航していて……現在看守と一部囚人が下水道にて死体回収に向かっていますがもうしばらく時間がかかりそうです」
 「立ち会わなくて良いのかね?被害者は学生時代からの友人なんだろう」
 安田はブリッジを押し上げるふりで表情を遮る。
 「他に優先すべき仕事がありますから」
 神経質な手つきで眼鏡の位置を直す。
 一筋の反乱も許さず櫛を通し撫で付けたオールバックの下、聡明に秀でた額に苦悩の皺が寄る。
 安田は厳正なエリートの仮面で表情を鎧い、いついかなる時も崩さぬ冷静沈着な物腰で所長と対峙する。
 「冷たい男だな、君は。斉藤医師は友人なんだろう?凶行を防げなかったならせめても死体回収に立ち会うのが義理じゃないかね」
 「私が行ったところで斉藤は戻りませんから」
 所長の嫌味をそっけなく一蹴、極めて冷静な口調で反駁する。
 所長がふんと鼻を鳴らし背凭れにふんぞり返る。
 体重を預けた椅子が軋む。
 「事件経過を報告します」
 安田が威儀を正し申し述べる。
 所長の顔が引き締まる。
 安田は机上の書類を一瞥もせず頭の中で推敲し完全に記憶した文面を、音声機能搭載のコンピュータの如き正確さでもって淡々と読み上げる。  
 「事件発生は昨日と思われます。斉藤は東棟の囚人、鍵屋崎直と個人的な話を持ちたいと強制労働免除許可を申請しました。私は許可しました。斉藤はその後東棟に向かい鍵屋崎と対面、彼を伴い図書室に向かうところを看守と囚人数名が目撃しています。斉藤の消息はそこで途絶えます」
 「鍵屋崎が犯人だ、即刻捕まえろ」
 「いえ、彼に斉藤殺害は無理です。あらゆる状況証拠が彼の無実を示しています」
 「なぜだ?他の囚人は皆強制労働に出払っていてアリバイが成立しない、アリバイがないのは鍵屋崎だけだ。両親殺害の件に関し斉藤に嫌な事でも言われ思わずカッとなって殺したのだろう、そうに違いない」
 「鍵屋崎にはこの後事情聴取を行う予定です」
 「何を愚図愚図してるんだ、鍵屋崎が犯人に決まってる」
 「落ち着いてください。確かに鍵屋崎は斉藤と図書室に向かいましたが、話を終えてから別れたと証言しているそうです。鍵屋崎は図書室から去る斉藤を見送った後レイジ・ロン・道了と合流したそうです。図書室を出てからの斉藤の足取りは掴めませんが、最後に会ったのが鍵屋崎というだけで犯人と決め付けるのは時期尚早です。鍵屋崎と別れた直後斉藤の身に何かが起こった可能性も否定できない……調べたところ昨日東京プリズンに残っていた囚人は八十名、そのいずれもが看守に賄賂を送るなど巧妙な手口で強制労働をサボりうろついてました」
 「嘆かわしい事態だな。それで?」
 「内分けは東棟が二十五名、西棟が十八名、南棟が二十名、北棟が十七名です。斉藤失踪とほぼ同時刻に北棟で囚人一名が輪姦される事件が起こり看守が出動、私も現場に立ち会いました。中央棟の某廊下でレイジを看守が発見、みすみす逃亡を許したのも同時刻。昨日の昼の時点で東京プリズンには囚人八十名と看守五十名が残っていた、極論してしまえば彼ら全員に斉藤殺害のチャンスがあった。人間を解体するのは非常な重労働、共犯者がいなければまず不可能です。斉藤と別れた直後にロン達と合流した鍵屋崎はロンを医務室に連れていってからずっと付き添っていたと入院患者が証言しています。強制労働を終えたサムライが迎えに来てからはずっと一緒にいた、彼のアリバイは立証された」
 「だが完全に疑惑が晴れたわけではない」
 所長が意地悪く目を光らせ念を押す。安田は無表情を保つ。
 「鍵屋崎は生きている斉藤と接触した最後の人物、ならば十分に容疑者の圏内だ。君の説はなかなか面白いが、かといって鍵屋崎が犯行不可能と決め付けるのは偏見だ。説得力に欠ける」
 「彼は非力です。斉藤は下水道で発見されました。房と下水道はかなり離れている、成人男性を下水道に運ぶのは鍵屋崎には無理です」
 「協力者がいたとしたら?」
 「協力者?」
 「同房の囚人だ」
 「サムライですか?……まさか、彼が手を貸す理由がない」
 「彼は随分鍵屋崎に入れ込んでるからな。仮に鍵屋崎が発作的な衝動に駆られ斉藤を殺したとする、後始末に困った鍵屋崎はサムライに泣き付く。情にほだされた彼は喜んで鍵屋崎に手を貸す。刃物の扱いに慣れている彼なら死体を輪切りにするのもわけはない。それとも……」
 所長が野卑な笑みを刻む。
 眼鏡越しの目が陰湿な光に濡れ、捲れた上唇をちろりと舌先で舐める。
 嗜虐心の燻りが覗く表情に背筋が寒くなる。
 相対したものに生理的嫌悪を抱かせずにはおかない爬虫類的に陰険な表情。否、所長に比べればまだしも蛇やトカゲなどのほうが無害で可愛らしい。
 あらゆる手管を用い人をいたぶる行為に倒錯した快感を覚えるのは兄弟共通の性向らしく、そんな表情はタジマに酷似している。
 「体を委ねるのを条件に共犯者として引き込んだか。売春班上がりなら十分ありうることだ、鍵屋崎は頭が回るからな」
 安田の表情は動かない。激情荒れ狂う内心とは裏腹に鉄のような無表情を保つ。
 感情の制御に慣れた完璧なエリートがここにいる。
 あからさまな侮辱にも顔色ひとつ変えず平静を保ち軌道修正を図る。 
 「………鍵屋崎の件はまず保留しましょう。彼を庇うわけではないが、現状で結論を急ぐのは愚かです」
 「急がずにおれるものかッッ!!」
 所長が激怒する。
 憤激に駆り立てられ乱暴に椅子を蹴倒し立ち上がるや平手で思い切り机を叩く。
 バンと衝撃音が炸裂、脳天から発された怒号がびりびりと大気を震わせる。
 衝撃で机全体が振動し骨壷が揺れる。
 バランスを崩し大きく傾いだ骨壷が転落する間際サッと手を伸ばし後生大事に腕に抱く。
 「よーしよし、ハル、怖かったなあ。私としたことがてっきり頭に血が上ってしまった、驚かせてすまなかった、許してくれたまえよ……」
 腕に抱えた骨壷を甲斐甲斐しくなで、宥め、愛おしげに頬ずりする。
 一瞬の憤激は嘘のようにおさまる。
 上司の暴発に慣れた安田は淡々と言葉を続ける。
 「………鍵屋崎は図書室で別れたきり斉藤には会ってないと証言してます。その後斉藤の姿を見たものはだれもいない、という事は斉藤は何者かに下水道に呼び出され殺された可能性があります。現状では誰もが等しく怪しい灰色の嫌疑内です」
 「下水道に呼び出した……目的は何だね」
 骨壷に頬をすり寄せた所長が珍しく鋭い指摘をする。
 安田は一瞬たじろぐも、すぐに冷静さを繕い返答する。
 「わかりません。おそらく斉藤と個人的な話があったのでしょう。他のものに聞かれたくない話をする場合東京プリズン内で唯一監視カメラがない下水道は好都合です、これまでも多数の囚人が看守の目をかいくぐり下水道に出入りしていました」
 「何者かが斉藤と内密な話をするため下水道に呼び出したと?しかし君の説明だと矛盾が生じる、図書室で別れたあと誰も斉藤の姿を見てないのは不自然だ。話が済んだならその足で医務室に帰ればいいのに、死体となって発見されるまで斉藤医師はどこをうろついていたのだね」
 「わかりません。……彼が何を考えていたか、私はいまだにわからない」
 口調にかすかな自嘲が滲む。あるいは自虐。
 ブリッジに指を添え顔を伏せる。
 伏せた面が苦渋に歪む。
 閉じた瞼の裏に斉藤の面影が去来する。
 安田はとうとう斉藤が理解できなかった。

 『でも共感はできる。そうだろう』
 忘却の淵から内耳に響く斉藤の声。

 斉藤は言葉遊びが好きだった。
 言葉をこねくり回し韻を踏むのを楽しんでいた。
 理解と共感の違いは安田も漠然と理解しているが、斉藤の定義する「理解」と「共感」がはたして安田のそれと同じものか否か、議論する機会はとうとう巡ってこなかった。
 もう永遠に巡ってこないのだ。
 無意識に唇に触れる。先日斉藤に奪われた唇を人さし指でなぞる。
 自分に何故キスをしたのかとうとう聞けずじまいだった。
 十五年前と同じだ。
 斉藤は安田を翻弄するだけして突然いなくなってしまった、安田の心を好きなだけかき回して忽然と消えてしまった。

 十年五年後のキスは苦いコーヒーの味がした。
 十五年前のキスと同じ味。
 味覚への刺激が記憶を喚起する。
 十五年前、残照射し込む階段教室での出来事があざやかに蘇る。
 階段教室の途中で安田を捕まえ振り向かせた斉藤、肘を掴まれ半ば強引に振り向かされた安田が抗議の声を発する間もなく斉藤がのしかかり顔が被さり唇が重なっていた。
 レポートの束が舞う。
 大窓から射し込んだ残照が視界を真紅に染め上げる。
 燃え上がる階段教室の途中、上の段差から自分を見下ろした斉藤は、悲哀と葛藤が入り混じった複雑な顔をしていた。
 込み上げる衝動を必死に抑圧し、苦しいまでに思い詰めた目で自分を見詰めるその顔。

 あるいは斉藤は、十五年前に残されたままなのかもしれない。
 もしかしたら、自分も。
 十五年前のあの時あの瞬間に囚われたまま、無為な年月を重ねてきたのかもしれない。

 無意識に唇の膨らみをなぞる。
 さする。
 指の腹に吸いつく唇の湿り気を反芻する。

 あの時キスを介し斉藤が伝えたかった事、十五年前の真実、十五年間の想い。それらすべてを手遅れになった今になって解きほぐそうと物憂く指を這わせるー……
 「私の話を聞いてるのかね」
 ガタンと音がする。
 鞭打たれたように即応、すかさず前を向く。
 所長が険深い目で安田をねめつける。
 陰険な視線が蛇の舌の如く脳天から爪先まで執拗に舐め回す。
 「副所長、君の上司はだれだ」 
 「所長です」
 「フルネームで言え」
 「但馬冬樹所長です」
 「君の主人はだれだ」
 「……但馬冬樹所長です」
 「貴様は犬だ。命令には絶対服従だ。主人の前でよそ見など言語道断だ。主人の前で物思いに耽るなど許しがたい背信行為だ。いやらしく唇に触れて何を思い返していた、死んだ男の残り香でも反芻していたのか。君とあの男はそういう関係なのか、既にして肉体関係を持っていたのか」
 酩酊した足取りで所長が歩いてくる。
 安田と斉藤の関係を詮索しいかがわしい妄想を膨らませ、興奮に鼻息荒く顔をぎとつかせ、忌まわしい程の瘴気を発散し。
 安田は唇を噛む。
 「……斉藤はただの知人です。十五年間も会っていませんでした。過去の男です」
 「本当かどうかあやしい。本当は今でも付き合ってるんじゃないか」
 「私は同性愛者じゃありません、過去に同性と関係を持った事など……」
 「ないと言い切れるかね?」
 所長が挑発する。
 顔全体に広がる下卑た笑みが強烈に既視感に訴えかける。
 既視感を刺激してやまないその笑みはどこまでもタジマと酷似していた、異常なまでに。
 醜悪この上ない笑みを病み衰えた顔に浮かべた所長が嬉嬉として安田のもとへやってくる。 靴音は絨毯に吸い込まれ聞こえないが、そのぶん興奮に荒げた呼気が耳障りだ。
 「彼が死んで哀しいかね」
 安田の耳元で所長が囁く。
 「斉藤は君の友人だった。哀しくないはずがない。違うかね?ハルが死んだ時は生きながら身を引き裂かれる思いだった、あの時私の魂の半分もまた死んでしまった、ハルは私の半身だったのだ。ハルとは身も心も深く繋がっていた、私達は種族の壁をこえた高尚な愛で繋がれていたのだ。私はいまだにハルの夢を見る、ハルの声を聞く。私の手をよだれでべちゃべちゃにする愛しいハルを夢に見て滂沱の涙を流す、はっはっと息荒く股間にしゃぶりつくけなげなハルを思い出し勃起する。君もそうなんだろう?隠す事はない。さあ言ってしまえ、友人を亡くして寂しいと、慰めてくれる相手がいなくなって寂しいと」
 所長がなれなれしく肩に手をおく。
 スーツの肩に怖気だつ指の感触を感じる。
 絡み合う蛇の如くじゃれつく手が淫靡な暗喩を孕む。
 ねちっこく肩を揉むほぐす所長を努めて無視、深呼吸で冷静さを吸い込み抑揚を欠いた声を出す。
 「あんな男、死んでせいせいする」
 甲高く乾いた音が鳴る。
 頬に衝撃が炸裂、熱は一呼吸おき痺れるような痛みに変じる。
 所長に平手打ちされたのだと気付いた時には既にネクタイを掴まれ引き寄せられていた。 
 「嘘をつけ」
 口の端が異様に吊り上った邪悪な笑顔、細めた双眸に嗜虐の炎が燃え上がる。
 安田は頬の痛みもよそに鼻の先端が接する至近距離に迫った所長に揺るがぬ凝視を注ぐ。
 「痩せ我慢は悪い癖だ。君と斉藤は深い仲だった、ただならぬ関係だった。わかっているんだよちゃんと、調査済みだ。君と斉藤は大学の同期生だった、同じプロジェクトに参加していた。私に隠し事をすると為にならんぞ、斉藤とふたり何を企んでいた、鍵屋崎の脱獄計画でも練っていたのか?君はやけにあの囚人に肩入れしてるからな」
 「……誤解です、彼とはそんな関係では……」
 ネクタイを引く力が増す。
 首が絞まり息苦しくなる。
 苦痛に歪む安田の顔を堪能しつつ背後に回り後ろ手を締め上げる。
 机に突っ伏した安田の額がじっとり汗ばむ。
 安田の背中に腹を密着させ顔の前に手を持っていく。
 苦痛の呻きを漏らす安田の顔前に手を翳し、そっと眼鏡の弦を持ち上げる。
 耳から浮かせた弦の先端を口に含み舌を絡める。
 眼鏡の弦をしゃぶる奇行に走った所長を成すすべなく見守る安田、その耳孔に生温かい吐息が忍び込む。
 「君が殺したんじゃないかね」
 「何?」
 耳を疑う。
 「斉藤だよ。君が殺したんじゃないかと聞いてるんだ、副所長。そもそも彼が今頃になって東京プリズンに現れるのがおかしい、何か目的があったはずだ。彼がここに来たのが君と会うためだとしたら?君が忘れられずにここにやってきたのだとしたら?殺害動機は過去の清算だ。副所長の地位にある君の呼び出しを蹴るわけにはいかない、君はのこのここ下水道にやってきた斉藤を殺す、これにて完全犯罪成立だ!!斉藤を毛嫌いしていた君ならやりかねない、いやまったくおそろしい男だ、副所長の地位を守るため友人すら手にかけるとはとんでもない冷血漢……」

 理性が爆ぜる。
 全身の血が逆流する。
 弾かれたように上体を起こす。
 不意をつかれた所長が転倒、勢い余って絨毯に転がる。
 その際宙に泳いだ腕が机に激突、今度こそバランスを崩した骨壷が落下。
  一連の光景を目撃した所長が口を楕円にしたムンクの形相で絶叫する。

 「ハルーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 身を挺し宙の骨壷にとびつくも加速がついて机に激突、机上の書類が盛大に雪崩れる。
 書類の山に埋もれた所長を醒めた目で見据え、ネクタイの位置を一分の隙なく直し襟元の乱れを整え鼻梁にずれた眼鏡を押し上げる。
 「お戯れはほどほどに」
 「……国連の査察団が来ている時に事件が起こるのは、非常にまずい」
 打ち所が悪かったのか、骨壷を抱え書類の山から這い出た所長が放心状態で呟く。
 「今回の事件は隠蔽する。ロシアの軍人どもに知られたら私の進退問題に発展する、のみならず刑務所の存続にも関わる。調査は極秘裏に進めろ」
 「了解しました」
 「行きたまえ」
 所長が威儀を正し椅子に座り直す。
 安田は深く頭を下げるも、辞去の挨拶もそこそこに補足事項を思い出す。
 「もうひとつ、所長の判断を仰ぎたい事態が発生したのですが」
 「まだ何かあるのかね」 
 辟易した表情を隠しもせず所長が促す。
 安田は言う。
 「現在、レイジが行方不明です。昨日捕獲命令を出したのですがあと一歩のところでとり逃してしまいまして」
 「犯人はレイジだ」
 所長が断定する。
 顔色を豹変させた所長が語気荒げ罵倒を浴びせる。
 「全く君は無能な男だな安田、それを先に言え!斉藤を殺した犯人は現在行方知れずのレイジに決まっている、ゲリラにて特殊な訓練を積んだレイジはあらゆる拷問に通じ人間の解体も造作なくやってのける!そうだ、そうだ、何故こんな簡単な事に気付かなかったのだレイジならば理由はいらない動機もないただ楽しいからと殺人をやってのける犯人はレイジだそうとわかれば話は早い看守を総動員しレイジ捕縛に向かわせろッ!!!」
 椅子が倒れ床と激突、興奮した所長が机を連続で叩く。
 骨壷が弾む。
 眼鏡の奥の目を極限まで剥き出し大量の唾とばす所長に安田はもう一度頭を下げる。
 「………わかりました、すぐ手配します」
 「いいか、犯人はレイジだ。くれぐれも奴と軍人がはち合わせする前に捕獲しろ。この際生死は問わん、抵抗する場合は射殺も許可する」
 所長の声を背に受け踵を返す。
 絨毯を踏み扉へと向かう安田に机にふんぞり返った所長が追い討ちをかける。
 「友人の仇をとってやれ」
 机上で手を組んだ所長がどんな顔をしているか、わざわざ振り向かずともわかる。
 扉を閉じる。
 所長の視線から解放され安堵する。
 少しでも所長と距離をおきたいとの想いに駆られ足早に廊下を去る。
 きびきびした足取りで廊下を歩きながら眼鏡をはずす。
 背広の胸ポケットから几帳面に畳んだハンカチをとりだし、神経質に弦を拭う。
 唾液に濡れ光る弦をハンカチで包み執拗に拭ってから再び顔にかける。
 「……………っ…………」
 口の中がぬるりとする。
 ハンカチを唇に押し当て唾液を染みこませる。
 殴られた際に口の中が切れたらしく唾液で薄まった血がハンカチに付着する。
 感情の爆発に伴う不条理な暴力にも安田は慣れている。
 顔色一つ変えず、元通り折り畳んだハンカチを胸ポケットに戻す。
 眼鏡と口を洗いたいのを我慢し歩調を速める。
 通りすがりの看守の会釈に目礼を返し、靴音高く目的地に急ぐ。

 目指すは職員用の宿舎だ。
 職員用宿舎は囚人の房がある区画とはいくつもの障壁で隔てられている。
 障壁に埋め込まれた液晶画面に手を翳せば0.1秒で指紋と角膜が読み取られ扉が作動する仕組みになっている。
 切れ目ない障壁の中心に線が入り、両岸に分断され道を空ける。
 それを三回ほど繰り返し、至る所に設置された監視カメラにあらゆる角度からあらゆる部位を映され目的地に到着。
 「……………」
 安田の前に一枚の扉がある。
 何の変哲もない白い扉。
 衝撃耐性が強い鉄扉と違い極めてシンプルな構造だが、見るものが見れば最先端の警備システムを組み込んでいるのは明白。
 扉横の液晶画面の前に立てば自動的に指紋と角膜が読み取られ承認後に扉が開く仕組みになっている。
 「あれ、副所長じゃないですか。なにしてるんですかこんなところで」
 背後に近付く軽い足音に振り向く。
 「君は……鈴木看守」
 安田の背後、膝に手をついて息を整える若い看守。
 寒くもないのに震えてばかりいる仔犬を連想させる気弱そうな顔だちの看守は、駆けてきたのが大した距離でもないのに息を切らした挙句咳き込んでいる。
 漸く咳がおさまった鈴木看守がおどおどした上目遣いで安田を窺う。
 「そこ斉藤先生の部屋ですよね。ひょっとして現場検証……」
 「いや、部屋の片付けにきただけだ。持ち主が死んだからにはこのままにしておくわけにはいかない、遺族に引き渡す品を整理せねば」
 安田の口ぶりで初めて二人が知り合いだと思い出したらしい鈴木看守が同情する。
 「今回の事は本当ご愁傷様です。なんて言ったらいいかわからないけど、でも……げ、元気出してくださいね……」
 「何故私が落ち込む」
 「え?だって副所長と先生は大学の友達だって聞きましたよ」
 鈴木看守が目をしばたたく。
 安田は溜め息を吐く。 
 「確かに斉藤とは大学の動機だが、特に親しかったわけではない。余計な気遣いは無用だ、それより君の職務を果たせ」
 「は、はい、すいません……僕てっきり、ふたりは仲良しだと勘違いして……ごめんなさい……」
 語尾が萎む。鈴木看守がしおらしく項垂れる。
 今にも泣きそうに目を潤ませた鈴木看守に再度溜め息、安田は話題を変える。
 「君こそこんな所でなにをしている、下水道の検証は終わったのか」
 「た、たった今同僚と交代してきた所です。僕はほら、このとおり汚れちゃったから部屋に帰ってシャワーを浴びようかなって……」
 「どもらずしゃべれないのか君は」
 緊張すればするほど気合が空回り舌が縺れるらしきたどたどしい物言いに安田は呆れる。
 なるほど鈴木看守の全身からは下水の異臭がした。
 紺の看守服は泥で汚れて見る影もなく、下水に潜り死体をかき集めた苦労がしのばれる。
 「回収作業の方はどうだ。はかどっているか」
 「そ、それがその……まだ見付からない箇所がありまして……大体は見付かったんですがその……なにぶん損傷がひどくて……顔とかもうぐちゃぐちゃであんなんじゃ誰だかわからないし、手足の傷口なんかワニに齧られたみたいで……うぷ」
 鈴木看守が慌てて口を覆う。
 現場の惨状を鮮明に思い出し顔面蒼白の鈴木看守に安田は命じる。
 「わかった、もういい。部屋で休んでいろ」
 「だ、だだ大丈夫です!正直下水道では滑って転んで泥被って足手まといでしたが陸に上がればへっちゃらです!それに斉藤先生にはお世話になったし恩を返したいです、部屋の後片付けなら任せてください、副所長こそ他に大事な仕事が……」
 「私がやる」
 思いがけず鋭い声を発する。
 鈴木看守がびくりとする。
 「斉藤は大学の同期だ。これは私の務めだ。下がりたまえ」
 威圧的な表情と語気の強さに怯えたかのように鈴木看守があとじさる。
 そのまま五メートル摺り足で後退した鈴木看守が体の脇に手をつけ直立、定規で測ったように九十度の角度でお辞儀をする。
 「失礼しました!」
 辞去の挨拶だけはどもらず、しかし涙を堪えてるのが丸わかりの鼻声でぴしりと言い、素早く身を翻し廊下を駆けていく。
 いかにも鈍臭い様子で危なげに足縺れさせ廊下を駆けていく看守を見送り扉に向き直る。 
 扉横の液晶画面に右手を翳す。
 「…………副所長の安田だ。本人死亡の緊急時につき、声紋確認を要請する」  
 液晶画面に組み込まれたスピーカーが警備システムの中枢に声を送る。
 間をおかず扉が解除される。
 音もなく開いた扉から中に足を踏み入れる。
 明かりが消えた室内は薄暗く、調度の輪郭が闇に沈んでいる。
 壁のスイッチを押し電気を点ける。

 「…………ここが斉藤の部屋か」
 思わず独り言が出る。

 部屋は綺麗に片付いていた。
 スレートグレイを基調とした室内は調度こそ少ないが決して殺風景ではなく、システムラックやキャビネットが独り身の広さを持て余すことなく配され快適にリラックスできた。
 生活感の希薄さよりも趣味のよさを感じさせる内装だ。
 奥の机の周りだけが他と比べ雑然としている。
 仕事に使った形跡がある机上には数冊の本と資料とともにノートパソコンが置かれている。
 斉藤自身によく似た部屋だ。
 靴を脱ぐのも忘れ立ち尽くす安田の鼻腔を懐かしい匂いが掠める。

 ほろ苦いコーヒーの匂い。
 生前斉藤が好んだ匂い。
 初めてのキスの味。

 「………相変わらずコーヒー党か」
 匂いの出所はすぐ判明した。机上に放置された空のカップだ。
 斉藤はああ見えて意外とずぼらなところがある、大方すぐ帰ってくるつもりでカップを洗わず放置していたのだろう。
 靴を脱ぎ室内に上がる。
 改めて室内を見回す。
 本棚にはさすがに心理学関連の書籍が多い。
 他にもベストセラーから純文学に至るまで様々な書籍が取り出しやすいよう整頓され並べられている。
 ふと、キャビネットの上に立て掛けられた写真立てが目に留まる。
 斉藤の妻と子供だと一目でわかる。
 何気なく写真たてをとり凝視する。
 子供ふたりは妻に似ていた。
 上が男の子で下は女の子、僅かに茶色がかった頭髪は斉藤譲り。
 ピアノの発表会で撮った一枚らしく、舞台に据え置かれたグランドピアノを背景にお洒落をした女の子が花束を抱いて笑っている。
 女の子の隣にはサスペンダーでよそ行きの半ズボンを吊った男の子、その二人を間に挟んで右に斉藤、左に妻が居る。

 綺麗な女性だった。
 生来の美貌を最大限引き立てる知性の輝きが内面から発露し、成熟した女性の魅力に磨きをかける。
 脳の奥で既視感が疼く。

 『どうしてだめなんですか?』
 写真たてを手にうなだれ立ち尽くす安田の脳裏で、在りし日の声が殷々と響き渡る。
 過去からの声を呼び水に鮮明に記憶が蘇る。
 記憶の中の顔が写真の顔に重なる。
 『お願いします、付き合ってください。先輩にふさわしい女性になりますから』
 思い詰めた目、切実な懇願。

 「あの時の」
 驚きを隠せず呟く。
 そうだ、確かに彼女だ。
 もう十五年以上前、安田がまだ学生だった頃に振った女性だ。
 記憶が蘇る。
 罪悪感に胸が痛む。
 安田は当時自分を慕ってくれた女性を酷く傷付けた。
 当時の安田は才能を奢りまわりを見下していた、だからこそ平然とあんな台詞が吐けたのだ。
 小刻みに肩震わせ走り去る後ろ姿を思い出す。
 その後ろ姿を突き放すように冷ややかに見送る自分も。
 「彼女だったのか」
 結婚したのは風の噂で知っていたが、相手がまさか彼女とは。
 「皮肉だな」
 努力すれば名前を思い出せたかもしれないが、今はそうしたくなかった。
 写真たてを元の位置に戻す。
 幸福な家族の肖像に背を向け、机に歩み寄る。
 早速後片付けにとりかかる。

 斉藤は死んだ。
 もういない。
 いつまでも部屋をこのままにしておくわけにはいかない。
 遺族と連絡をとり早急に遺品を引き払わねば。

 遺品整理など本来副所長の仕事ではない、看守に任せておけばいい。
 しかし安田はこうせずにはいられなかった、とにかく何かしていなければ落ち着かなかった、休まず手を動かしてなければ今にも発狂してしまいそうだった。
 だからこうして斉藤の部屋に来た、副所長自ら斉藤の痕跡を消しに来たのだ。

 何をしてるんだ自分は?
 他にもすべきことはたくさんあるのに。

 斉藤が東京プリズンにいた事実を裏付ける痕跡を確実に消去せねば安心できない、そうだ、斉藤など最初からいなかったことにしてしまえ。
 斉藤はここへはこなかった、斉藤なんて人間は最初からいなかった。
 自分と彼の間には何もなかった、何もおきなかった、十五年前も今もー……

 『物好きにも程がある。何故わざわざ自分から望んでこんな危険な場所にやってきた?』
 『安田くんに会いたくて』
 「馬鹿な」
 『安心したよ、僕を頼ってくれて』
 「馬鹿だ、貴様は」
 『今度は放さない』

 あの時安田はそう言った、安田の手首を掴み安田の目をまっすぐ見つめ真剣な声で誓いをたてた。
 そして、約束を破った。

 「貴様の痕跡などすべて消してやる、東京プリズンに来た事実など無かったことにしてやる。お前と私の間には何もなかった、何も存在しなかった。貴様など友人ではない、出会った時からずっと貴様の存在が不快だった、貴様の姿が視界に入ると胸がむかついてしかたなかった。お前ときたら何事も要領よく立ち回る不純異性交遊の常習犯で暇さえあれば私をからかい振り回して、こちらは大迷惑だった。大学を出てお前と縁が切れてせいせいしたというのに、どうしてまた戻ってきた」

 ここに来なければ、死ぬ事はなかった。
 会いになどこなければよかったのに、
 忘れていればよかったのに。

 「私はとっくに忘れていた。十五年前貴様との間にあったなにもかも封印しとっくに忘れ去っていたのに、どうしてまた傷口を抉るようなまねをする?私の十五年間を無に帰すようなまねをする?答えろ、斉藤。私はお前など要らない。妻と子供と別れ家庭を捨ててまでここに来る必要などなかった、お前を本当に必要としている人間を振り払ってまでお前を望まぬ私のもとへ来る事などなかった」

 何故来た。
 何故死んだ。
 私ひとりを残して

 「私ひとりを残して死ぬような男は、友人ではない」
 独白を吸い込み静寂が深みを増す。
 書架から取り出した本を厚いものから順にダンボールに詰めていく。
 一人では荷が重い重労働だが、誰にも手伝わせる気はない。
 斉藤の私物を他の人間に触れさせたくない。
 安田は黙々と作業に没頭する。
 書架から取り出した本は結構な量でダンボール箱二箱分に及ぶ。
 上から二段目の棚の本を片付けている時、ふと思い出深いタイトルが目に入る。

 カラマーゾフの兄弟。
 安田の愛読書。

 「…………」
 懐かしさに惹かれ手を伸ばす。
 背表紙に指をひっかけ本をとりだす。
 書架の二段目一番端、あえて目立たぬ位置にしまいこまれていたその文庫本は何年もくりかえし読み込まれ傷みが激しかった。
 他の本が綺麗に保存されているからなおのこと十数年の歳月を経た傷みが目立った。 
 「……斉藤め、本は丁寧に扱えとあれほど言ったのに」
 書架と向き合いなにげなく本を開く。
 指に促され抵抗なく本が開き、開き癖の付いた中盤のページが外気に晒される。    
 
 本の中盤に色あせた写真が一枚、栞代わりに挟まっていた。
 眼鏡をかけた青年と、鳶色の髪の青年が肩を並べた写真。 

 「………………」
 学生時代の安田と斉藤の写真だった。
 写真の二人は肩を並べていた。
 二人とも今より若く白衣を着ていた。
 場所は東大のキャンパス、背後に初夏の日差しを斑に透かす楠の大樹が映り込んでいる。
 歳月が一気に巻き戻され、十五年前の自分と邂逅する。 
 「まだ持っていたのか、こんなものを」
 斉藤と写した写真はこれ一枚きりだ。
 斉藤はその貴重な一枚を本に挟んで大事に保管していた、自分以外の誰にも触れさせず。
 時を忘れ写真に見入る。
 写真の中の安田は昔も今と変わらず不機嫌そうな顔をしているが、眼鏡越しの視線は若干角がとれ、隣の斉藤に辟易した表情も嫌悪よりむしろ諦念じみた許容が勝っている。
 楠の大樹の陰で斉藤は今と変わらず微笑んでいる。
 今でこそ三十路の若作りだが、当時は実際に若く精気に満ち溢れていた。
 束の間追憶に浸る。
 斉藤ともに過ごした歳月の記憶が切実な実感と郷愁を伴い胸に迫る。
 第一印象は最悪だった。こんな男とは口も利きたくないと思った。
 しかし斉藤はつれなくされてもめげずに付き纏い、春が過ぎて夏が来る頃にはもう安田の隣にいるのが当たり前になっていた。

 いるのが当たり前になっていた。
 いなくなるなど、想像も付かなかった。

 「……………くだらない感傷だ」
 写真に向かい吐き捨てる。
 手がかすかに震えているのに気付き舌打ちを堪える。
 手の震えを恥じるように本を閉じようとして、なにげなく写真を裏返す。
 行為自体に意味はなかった。
 勝手に手が動いた。
 
 『2067/6 
 東大のキャンパスで親友と』       

 親友と、書いてあった。
 かつて安田が「止め跳ねがいい加減でいらいらする」と指摘した十五年前の斉藤の筆跡で、そう書いてあった。
 ただの友達ではなく、親友と。
 たったそれだけの、短い言葉。
 たったそれだけの、そっけない覚書。
 
 写真の裏面に記されていたのは飾らぬ本音だ。
 誰かに読まれる事を想定しないそっけなさでもって、褪せて読めなくなりかけた鉛筆の字でもって、白紙の裏面にはそう記されていた。

 親友。
 忘れえぬ人を定義する言葉。
 
 「親友なものか」
 哀しみではない、純粋な怒りで手が震える。
 これ以上見ていると握り潰したい衝動を抑えきれず、すみやかに本を閉じる。 
 斉藤はずっとこの写真を持っていた。
 家族にも誰にも内緒でひそかに本に挟み保管していたのだ、十五年もの間。
 安田は写真を撮った事すら覚えていなかった、今の今まで完全に忘れていた、実物を見るまで意識の外に追い出していた。

 斉藤は、こんな薄情な自分を親友だと思っていた。 
 親友と思ってくれていた。
 十五年間も。

 「貴様など、親友なものか。十五年前からそうだ、貴様は一方的に私に付き纏い不愉快にさせた、頼んでもいないのに貧血で倒れた私を運び介抱した、研究チームの面々と衝突するたび間に入り仲裁を買って出た、私が独りでいると実にどうでもいいくだらないことを話しかけてきた。貴様には何度も酷い目に遭わされた、一度などコーヒーに砂糖と騙され塩を入れられた、以来私は貴様の淹れたコーヒーだけは飲まないと決めた。そうだ、貴様にコーヒーを淹れるようになったのはただのついでだ、自分の分を淹れるついでにでがらしの残りを淹れてやったまでだ、あの時の意趣返しに………」

 どうしてここへ来た。
 どうして放っておいてくれなかった。
 どうして惑わせる。
 どうして苦しめる。

 なぜ、忘れさせてくれない?

 十五年前の記憶が洪水のように逆流し理性を翻弄する。
 『斉藤文貴です。教授の助手として今回の実験に参加が許可されました。足を引っ張らないよう頑張るのでよろしく』
 『僕らはこれから同じプロジェトに携わる仲間だ。握手が嫌いなのはわかったけど、最低限の礼儀を守る柔軟性も持ち合わせないなんて正直見損なったよ』

 初めて出会ったときの胡散臭い笑顔
 ハンカチ越しの握手の感触。

 『どうしてほしい?』

 貧血で倒れた安田を運んでくれた。
 長椅子に寝かせ介抱してくれた。
 起きるまでずっと付き添ってくれた。
 頼みもしないのに。 

 『そろそろ起きる頃だと思ってたよ』
 『もう十分、いや、五分でもいいから横になっていたほうがいい。医学生の忠告には従ったほうがいい』

 人に優しくされるのは久しぶりだった。
 利害抜きで優しくされるまで、自分が人に優しくするのを忘れていた事にも気付かなかった。
 人に優しくされた事がない人間は人に優しくできない。
 そんな当たり前の事実も忘れていた。
 他人に優しい言葉をかけられるまで、
 斉藤の思いやりにふれるまで。
 
 何故放っておいてくれなかった?
 何故私に優しくした?
 何故、優しくしたまま置き去りにする?
 
 「なんて身勝手な男だ。勘違いするな斉藤、私はお前の親友じゃない、親友になどなれるものか。そんな資格、私にはない。お前の為に涙を流すと思ったら大間違いだ。調子に乗るな。お前の為に流す涙など一滴たりとも持ち合わせない、くだらない感傷ごと切り捨ててやる」
  
 『2067/6 
 東大のキャンパスで親友と』 

 写真の裏面に走り書きされた文字が本を閉じてなお網膜に焼き付いて離れない。
 写真の中の二人は肩を並べていた。
 隣に斉藤が居る、それが当たり前だった。
 安田は斉藤の存在を当たり前に受け入れ、斉藤がいなくなる日がくるなど考えもしなかった。

 こんなにも唐突に
 こんなにも救いのない不条理な形で。

 下水道での死体回収作業に立ち会わなかったのは、変わり果てた斉藤を見てなお平静を保つ自信がなかったからだ。
 多くの看守が立ち働く間中、斉藤の四肢が転がる惨状で副所長の威厳を保つ自信がなかったからだ。
 下水道で発狂してしまう恐怖があった。
 多くの看守が見ている前で、あたり一面に人間の四肢と血と肉片が飛び散った惨状の中を這いずり回る醜態を呈す自分がありあり想像できたからだ。

 だから安田は逃げた。
 斉藤を襲った現実から逃れるためここへやってきた。
 面影を求め、体温を求め、残り香を求め。
 斉藤の残滓が一番強く残るここへ、この部屋へやってきた。
 遺品整理など建前だ。
 安田はただ逃げたかったのだ、斉藤のいない現実から。
 斉藤のぬくもりを確かめるため、斉藤が身近に存在した事実を確かめるため、無意識にその痕跡を求めてここにやってきたのが何よりの証拠だ。
 
 本を閉じた時、既に手の震えは止まっていた。
 閉じた本を元通り棚に戻し、確かめるように呟く。

 「本当に、いないんだな」
 斉藤の不在を痛感する。
 生前の痕跡を数える行為が不在を浮き彫りにする事になると、最初にわからなかった自分が愚かだった。
 机上に放置された空のカップの底にはコーヒーの残滓が凝っている。
 机上には数冊のファイルと資料が雑然と散らかり、あまり芳しくない仕事の進捗状況を物語る。
 部屋の至る所に生前の痕跡が残っているが持ち主の体温は跡形なく失せている。
 斉藤の私物をひとつずつ手に持ち重さを確認しダンボール箱にしまった安田の行為は、結局持ち主の不在を際立たせただけに終わった。 

 「………すべて裏目にでたわけか。愚かだな、君も僕も」

 一人称が昔に戻った事にも気付かず、すっと本棚から離れる。
 室内を横断し造り付けのシンクタンクに歩み寄る。
 清潔に磨き抜かれた台所には本格式コーヒーメーカーが設置されている。
 コーヒー好きの斉藤らしいなと心中苦笑し作業を開始。
 どこに何があるかわからず手間取り棚の扉を開け、漸くコーヒーの袋を見付ける。
 「もっとわかりやすい所に入れておけ」
 舌打ちが出る。
 改めてコーヒーメーカーをセットし湯を沸かす。
 じきに湯が沸騰する。
 口から湯気吹くケトルを取り上げ、漏斗に適量注ぐ。
 「ペーパードリップは日本で最も普及しているコーヒーの淹れ方だ。ドリッパにフィルタをセットし粉を入れ適量の湯を注ぐ、30秒程度蒸らした後に抽出を開始する。ドリッパの湯が完全に切れる前に外すと雑味の無いコーヒーとなる」
 漏斗に湯を注ぎながら呟く。
 「斉藤、お前が好きな飲み方だ」
 三十秒程度蒸らしてから抽出を開始する。
 フィルタで漉されたコーヒーが砂時計型に括れた漏斗の底部におちてくる。

 一滴、一滴。
 ふたりが重ねた歳月に匹敵する、気の遠くなるような時を刻み。

 抽出が終わる。
 手元に十分気を遣い、一滴も零さぬ慎重さでもってカップにコーヒーを注ぐ。
 コポコポと黒い液体がカップを満たしていく。
 ほろ苦い香りが湯気と一緒にあたりに立ち込める。
 コーヒーを注ぎ終え一息吐く。
 カップを手にシンクに背を向け歩き出す。
 学生時代、斉藤と二人きりの時そうしていたように気取らぬ足取りで室内を横切りノートパソコンが主役の机に歩み寄る。

 机に向かう椅子は無人だ。
 部屋の主は二度と帰ってこない。
 二度とパソコンのキーを叩くことなく、本棚から本を抜き出し眺めることもない。
 カラマーゾフの兄弟が再び開かれることはない。
 あの写真が再び眺められることはない。
 あの写真は朽ちて塵に帰るまで、永遠に本の中に封印される。
 椅子に座り机に向かう部屋の主を想起する。
 無人の椅子に斉藤の幻影を重ねる。

 学生時代、何度もこうして斉藤にコーヒーを淹れてやった。
 斉藤は毎回欠かさず礼を述べた。
 たった一杯のコーヒーに忘れず感謝を込めてありがとうを言った。
 習慣としておざなりにせず、必ずありがとうを言った。  
 それがどんなにか簡単そうでいて難しいことか人を使う立場になった安田にはよくわかる。 
 
 もう、ありがとうを聞けない。
 コーヒーの感想を聞くことが出来ない。
 自分が淹れたコーヒーが美味いか不味いか本人に聞くこともできないのだ。

 机の傍らで立ち止まりからっぽの椅子を無表情に見下ろす。
 胸は乾いていた。
 涙は出なかった、一滴も。
 斉藤の為に涙を流すのは卑怯だと思った。
 泣いて生き返るわけでもないのに自己憐憫の涙に溺れるのは生者の義務を怠ることだ。 
 斉藤の為に涙を流すべき人間は他にいる。
 キャビネットの上の写真立て、幸福な家族の肖像を振り返る。
 自分が涙など流すのは卑怯だ。
 斉藤の為の涙は、斉藤を一番想っている人間が流すべきだ。
 私などが、横取りしていいものではない。

 安田は泣かなかった。
 乾いた無表情のまま空いた片手で机をなで、静かにカップをおく。
 ブラックの表面から仄白くたなびきながら立ち上る湯気を見つめ、安田は言う。

 「君にコーヒーを淹れるのは、これが最後だ」

 乾いた声で注げ、机に背を向ける。  
 玄関で靴を履く。
 壁に手を伸ばし電気を消そうか躊躇い、思いとどまる。
 部屋から完全にぬくもりが失せてしまうのを恐れるように、
 心のどこかでまだ部屋の主が帰ってくるのを期待し、未練を断ち切れず。
 部屋の明かりはそのままにして液晶画面に手を翳し扉を解除する。
 安田はもう二度と振り向かない。
 再び扉が閉じる。
 硬質な靴音がたちまち通路を遠ざかっていく。
 あとにはただ煌々たる明かりに照らされ殺風景際立つ部屋と、あるじの帰りを待ち湯気たてるコーヒーだけが残された。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050224004801 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天