ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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十七話

 第一印象はイワンだった。
 
 「私の助手としてプロジェクトに参加することになった斉藤君だ。東大医学部の三年生で免疫学を専攻している」
 人生の大半を研究に捧げ最高学府で教鞭をとり続けた男が、熟成された教養を感じさせる深みある口上を述べる。
 一点の染み汚れない清潔な白衣は切れそうに糊が利き、几帳面な襟の折り返しには今回のプロジェクトに携わるもの全員に配布されたネームプレートが最高責任者の威光を代弁するかの如く誇らしげに輝いている。

 東大医学部生理学科名誉教授・勅使河原隆 ISP最高責任者。

 年は五十代後半。頭髪には白髪がまじり加齢で弛んだ頬と目元に皺が寄っているが、冷徹な頭脳の冴えを実証する深沈たる瞳の輝きはいささかも衰えてない。
 初老の教授が鷹揚な笑みで傍らを振り仰ぐ。
 斉藤の正面、教授の真横に微動だにせず立っていたのは同じく白衣を纏った青年。
 年の頃は二十歳前後、教授と並ぶと親子のようにも見える似通った雰囲気。
 が、教授が社交的な笑みを絶やさず物腰柔らかに話すのに比べ無言の内に人を圧する空気を発している。
 純粋な興味に駆られ冷静な目で青年を観察する。
 卸したての白衣は一点の染み汚れもない清潔なもの、サイズは合っているはずだが運動や労働と縁がない華奢な体躯が錯覚を及ぼすらしくどうにも着られている感が否めない。
 教授と並んでいるからそう見えるのか……東京大学名誉教授の職に君臨する医学会の重鎮と着こなしの洗練度を比べては酷というものだ、二十歳やそこらの若造が生理学の権威にかなうはずもない。

 礼を失しない程度に観察を続ける。

 真新しい白衣を纏った青年は、額におろした前髪の下からお世辞にも友好的とは言いがたい眼差しを向けてくる。
 怜悧な知性と冷徹な理性を映す切れ長の双眸、肉の薄い繊細な鼻梁、酷薄そうな薄い口元と神経質に尖った顎。視力が悪いらしく銀縁眼鏡をかけている。
 表情はないに等しく心中読めないにも関わらず、怒りや蔑みといった負の感情ばかりが剃刀の如く剣呑に光る目は眼鏡を隔てても一切緩和される事なく容赦なく研磨された硬度でもって相手に突き刺さる。
 笑うところが想像できなかった。
 感情を一切覗かせぬ無表情の青年に対峙、白衣の胸元を一瞥する。

 安田 順、それが彼の名前だった。

 「彼は法学部の安田君、今回のプロジェクトに私含む教授陣の推薦と政府の承認を得て特別に参加することになった。聞いて驚きたまえ、彼は入学以来ずっと首席を保持し続けている。一度も敗れた事がない前代未聞の新記録、東大設立以来の快挙と教授陣が色めきだつのも無理はない。君にとっては煩わしいかもしれないがね」
 最後の言葉は安田に向け冗談めかして苦笑する。
 親しみと皮肉を絶妙な配分で調合した微笑を浮かべる教授に、安田は生真面目に応じる。
 「僕はただ与えられた能力を発揮するだけです。周囲の雑音に惑わされ道を誤るような失態は犯しませんのでご安心を」
 東大を代表する教授陣の絶賛の声を「雑音」の一言でそっけなく片付け、冷ややかに取り澄まして前に向き直る。
 慇懃無礼の事例として載せたいような鼻もちならない態度。
 冗談を解する柔軟性がさらさらないといった事が今の一件で証明された。
 苦味の勝った微笑を浮かべた教授がとりなすように安田の肩に手をおき斉藤に目配せを送る。
 目配せの意を正しく読み取り、すかさず前に出る。
 一歩二歩と距離が縮まる。
 急接近する斉藤に対し不審と警戒の入り混じった嫌悪感を露骨に表明する安田、眼鏡越しの視線が冷たさと硬度を増す。
 硬質な靴音が透徹した反響をもって響く。
 白い床に靴の踵があたり軽快な音律を生む。
 とげとげしく張り詰めた空気をなんとか和らげようと、その優秀さを認められ助手として引き抜かれた学生二人を教授が熱っぽく激励する。
 「君らの働きには教授陣も期待している。君たち二人は当大学が誇る秀才だ、在籍中に発表した論文もとても二十歳前後の若者とは思えぬ完成度と各地で賞賛の声が上がっている。安田君は法学部に所属しているが他の学部の講義にも顔を出すほど勉強熱心で、趣味で書いた論文の優秀さが認められ今年に入ってからネイチャーとその姉妹誌に三回取り上げられた。ネイチャー、ネイチャーバイオテクノロジー、ネイチャーメデデシン……大御所サイエンスからも執筆依頼が来ている、世界中の学者が彼の動向に注目しているのだ」
 互いに今日が初対面の学生二人が不均衡な沈黙を守り対峙する。
 三歩空けて停止した斉藤と所定の位置から動かぬ安田の視線が衝突する。
 安田が胡乱な眼差しを向けてくる。
 安田の功績を我が事のように誇らしげに自己投影の優越感に酔いしれ饒舌に捲くし立てる教授の傍ら、行動の予測が成り立たない初対面の人間に適切な距離で向き合った二人の間にストイックな沈黙が交流する。
 教授が緊張の面持ちで黙り込む。
 安田の気難しさを知っているのか、二人を見比べる顔に憂慮がにじむ。
 斉藤は三歩離れた地点からじっくり安田と向き合う。
 額におろした髪は一度も染めた事がない生粋の黒、銀縁眼鏡の奥から覗く目には傲慢な驕りが透けている。周囲に対し無関心で冷淡、徹底して他者との交わりを避ける傾向にある孤高のエリート。
 「斉藤文貴です。教授の助手として今回の実験に参加が許可されました。足を引っ張らないよう頑張るのでよろしく」
 「そう願いたいものだな」
 嘲りも露に安田が吐き捨て、教授が「安田君」と注意を飛ばす。
 非友好的な安田の態度にもめげず、親密に歩み寄った斉藤がすかさず手をさしだす。
 握手を求める斉藤に返されたのは胡乱げな視線。安田は文明錬度が低い蛮族の風習でも目撃したかのようにゆっくりと一回瞬きし斉藤の顔を見、改めて掌を凝視。
 その顔には明らかな戸惑いと警戒が揺れている。
 斉藤はにこやかに畳み掛ける。
 「お噂はかねがね。お会いできて光栄です」
 さらに数秒がすぎる。
 安田はさしだされた手を無視し斉藤を見つめ、表情ひとつ変えず辛辣な台詞を放つ。
 「ある人間を判断するには言葉によるよりむしろ行動から判断したほうがいい。行動はよくないが言葉が素晴らしい人間が多くいるから」
 斉藤が面食らう。斉藤が眉をひそめる。
 怪訝な顔の二人を切れ長の目で素早く一瞥、眼鏡のブリッジに指を添え押し上げる。
 「ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスの格言だ。彼の人を見る目は確かだったようだ、でなければ治世者も為政者どまりだ」
 いかにも格言の主を知っていて当然とばかりのそっけない口調で補足し、直した眼鏡の奥で倦厭の色も露に目を細める。

 「君の場合発言だけでなく行動も軽率だ、なれなれしくて実に不愉快だ。初対面の人間になれなれしくされるのは僕の最も嫌うところだ。行動は知性の鏡だ。君は初対面にもかかわらず弛緩した笑みを浮かべ押し付けがましく歩み寄った、挨拶の際は五歩の距離を空けるのが最低限の礼儀だというのにそれを無視した。実に無思慮な愚行だ。のみならずぬけぬけと握手などとデリカシーの欠如も甚だしい、相手が潔癖症の場合を考慮せず形式通りの振る舞いを押し通そうとするのは自分の頭で考える訓練を受けてこず他人に思想を依存する愚か者のすることだ。
 握手の概念は既に形骸化して久しく強迫観念に縛られた蛮習と化している。
 だいたい体の皮膚の一部を触れ合わせるなど気色悪い行為だれが積極的に望む?汗や垢などの老廃物が絶えず毛穴から分泌されているのに平気で手を握る神経を疑う、最前までなにを触っていたかわからない手を握るなんてぞっとする。君はここに来る前トイレの個室でマスターベーションに耽ったかもしれない、解剖実習で腑分けされた臓器にふれたかもしれない、不特定多数の指紋がべたべた残る手すりを何ら抵抗なく掴んだかもしれない。ありとあらゆる感染の可能性が考えられる現状で握手など冗談じゃない、セックスを公開するに等しい恥ずべき愚行と知れ」

 沸々と込み上げる激情を理性の働きで封じ込めた安田が一方的に言い切る。
 教授が呆気にとられる。理性が支配する完璧な無表情を保ち糾弾を終えた安田がブリッジに触れる。
 安田が弁舌を振るうあいだ傍観に回った斉藤は、しばし思案顔でおのれの手を見詰め口の中で呟く。
 「………初対面じゃないんだけどな」
 独白。
 その声はあまりに小さく安田にも聞こえない。
 気の毒にも険悪な二人に挟まれた形となった教授が狼狽する。
 「失礼じゃないか安田くん、これから一緒にやっていく仲間に……謝りたまえ」
 「謝意のない謝罪は不誠実です」
 安田の失言をフォローしようにも本人に反省する気が全くないため効果がない。
 悪びれた所がない安田の態度に教授も閉口する。
 初っ端からこれではと成り行きを案じる憂い顔の教授をよそに毒舌を浴びせ掛けられた斉藤はといえば、憤激に駆り立てられることも屈辱に頬を染めることもなく、どことなく楽しげに微笑んでいる。
 「ひとつ質問していいかい」
 「なんだ」
 「神様はいると思う?」
 斉藤の質問が余程意外だったらしく教授が驚く。
 安田も訝しげな顔をする。
 この場に全く関係ない、前後の脈絡なく唐突な感の否めない質問を放った斉藤は至って真剣だ。
 口調こそあっけらかんとしたものだが目にはどこまでも率直に物事の本質を捉えようとする探究の光がある。
 照明に漂白された通路を冷え冷えした沈黙が覆う。
 くだらないと一蹴されるかと思いきや予想に反し安田は検討しだす。
 考えるの時の癖だろうか、細く長い指で顎先を摘む。
 安田の癖をひとつ発見し自らが招いた状況を忘れ得意になる。
 質問の意図を読む打算と先鋭な知的好奇心が綯い交ぜとなった表情で思案すること三秒、安田が毅然と顔を上げる。
 「百歩譲って神の存在を認めても、神の創った世界は認められないな」
 絶大な自信と高潔な知性に支えられた断言。
 安田は挑むように斉藤を見据えはっきり言い切った。
 神への反逆ともとれる発言に、しかし斉藤はますますもって相好を崩す。
 人を見る目が間違ってなかったと確信した人間特有の満足の色が双眸の奥に閃き、瞬き一回で消える。
 青白い効果の照明が壁と床の白さを際立たせる。
 白衣の映える青年が不審げにこちらを窺う。
 彼に対する第一印象が間違ってないと確信に至り、陶然と吐息をつく。
 「やっぱりね」
 神の創った世界を認めないからこそ、世界に属する人間と親しめないのだ。
 彼はイワンだった。
 どこまでも、斉藤が思ったとおりに。



 自分は異性愛者だと思っていた。
 世界には様々な肌色の人種がいる。
 性的嗜好も同様で、世界人口の大半を占めるのが異性を恋愛と性欲の対象とするヘテロセクシャルであっても一定の割合を同性愛者が閉める。
 否、そもそも異性愛者が人口の大半を占めるという認識自体が先入観でない保証はどこにある?
 多数派が少数派を差別弾圧するのは世の習いだが、過去の研究では同性愛者の割合は五十人に一人と発表された。
 五十人に一人異分子が存在するというこのデータを単純に信用するなら、ただ通りすがっただけの人間の中にもかなりの割合で同性愛者が含まれることになる。
 階段教室でたまたま隣に座った人間、キャンパスですれ違った時おとしたレポートをわざわざ拾ってくれた青年、女性を口説く時は必ず斉藤を誘う友人。
 もし研究データが事実なら日常なにげなく接していた彼らの中に同性愛者が含まれる可能性は大いにあり得るが、斉藤が見た限り彼らの中に同性愛の性向をもったものは皆無で統計の信憑性は怪しまれる。
 五十人に一人の割合が事実に即しているのか誇張が含まれているのか判断し難いが、フロイトを祖とする心理学の功罪を知るものとしては懐疑的にならざる得ない。

 東大総合図書館は西欧の古城じみた伝統を感じさせる重厚な石壁の外観が威容を誇る知識の殿堂である。
 蔵書数109万冊の膨大な質量を誇示する館内は四階に渡り、各階を繋ぐ階段すべてに幅広の赤絨毯が敷かれている。
 外観が与えるイメージに忠実に即し随所の柱に美しい彫刻が見受けられ荘厳な雰囲気を醸す。関東大震災で一度崩壊し再建されたこの図書館は、窓が少ない前時代的な石造りなせいか昼でも薄暗く採光を意識してるとはお世辞にも言いがたい。

 しかしこの暗さと静寂を好む人種も少なからず生息する。
 斉藤もまた、俗世の喧騒と隔絶された図書館の静寂を快く思う人種だ。

 現在、斉藤は三階閲覧室にいる。
 張り出し窓に面した机の片隅にひとり腰掛け、窓から射し込む柔和な光に横顔を照らしレポート執筆の資料を引いているところだ。
 周囲に人けはない。
 斉藤を除き僅かに五・六人、それもかなりの距離を保ちそれぞれ書架の間の通路を散策し資料を探したり離れた机で本を読んだりしている。
 東大生とはいえ頻繁に図書館を訪れる者は少ない。
 そもそも図書館と賑わいは矛盾する。
 レポート執筆に必要な文献を狩りに来る学生もたまに見受けるが教授・助教授以下院生の姿のほうが遥かに目に付く。昨今の学生は身近に図書館があってもインターネットで資料収集を済ませてしまうのだ。少数派の学生は肩身の狭いを思いをしている。
 斉藤は知り合いと滅多に顔を合わせることないこの場所が気に入っていた。
 ただ当たり前のようにそこに在り、長い歴史による不動の地位を占める静寂に居心地よさを感じていた。
 ここでは静寂が最上位だ。
 人間が静寂に配慮し、静寂が空間に貢献する完璧な共存の図。数学のように美しい論理の帰結。互いを尊重し調和を築く理想的な空間。
 窓の手前には黒檀の長机が等間隔に配置され、シャンデリアを模した間接照明と窓から降り注ぐ柔らかな陽光とが縒り合い艶を消した表面を照らす。
 整然と片付いた机の片隅、斉藤の半径50センチ内だけが雑然と散らかっている。両横には分厚い本が何冊も積み上げられ今にも崩れそうに微妙な均衡を維持する。今この本が崩れたら窒息死は確実だな、とキーを叩く手は止めず自嘲する。

 大窓から射し込む昼下がりの陽光がドイツ人の祖父から受け継いだ鳶色の髪を梳る。
 甘く端正な顔だちもまた祖父の血の濃さを証明する。
 気のせいか肌の色素も日本人と比べ薄く白みがかっている。
 鳶色の髪と虹彩は生まれつきで何ら手を加えてない。
 どうやら祖父の血は父より孫の自分の上に顕著に表出したようだ。
 白人の血が混ざっていると明らかな外見的特徴に劣等感を抱いた経験は殆どなくその点
恵まれていると思う。
 「三代遡って日本人でなければ公的な国民と認めない」という法律が制定される以前に日本に帰化した祖父はその対象から除外され、子孫たる斉藤も差別や迫害を受けることなく安穏と暮らしてこれた。

 祖父の英断に感謝すると同時に、その幸運を手放しで喜べぬ負い目がある。

 「帰化のタイミングが一年遅れていたら、今頃ここにいなかった」
 運命の悪戯、偶然の皮肉。祖父の帰化があと一年遅れていたら斉藤もまた国家の庇護を受けられず国民として扱われなかった。
 スラムの子供の中には初等教育すら受けられず犯罪に手を染める者がいる、暴力と貧困の中最低限の保障すら受けられず身を滅ぼすものがいる。
 スラムの現状をどうしても他人事とは思えない、関係ないと割り切れない。
 自分も一歩間違えばあちら側にいた、あちら側の人間なのだ。
 自分が今ここにいるのはたまたま幸運だったから、どうしてもその思いが拭えない。

 その時はさして重要とも思えぬささいな選択が運命を分かつ。
 自分がこちら側にいて彼らがあちら側にいる、そんな不条理が果たして神の居る世界に許されるのだろうか?

 斉藤は生まれた時から何の疑問もなくこちら側で充足を享受し、空腹は知っていても飢えは知らず、大した努力も要さず生きてきた。
 彼らはどれほど努力した所で貧困のどん底から這い上がれず、みずからを日本人と自負する単なる人々の蔑視に晒され社会の最底辺で這いずり回る。
 差別、迫害、偏見。
 近年凄まじい勢いで外国人が流入し混血児が増加の一途を辿る中、純粋な日本人は彼らのおかれた悲惨な境遇を自分と無関係と考えるか日本の治安が悪化した原因は彼らにあると毛嫌いしており、外国人狩り、または彼ら称するところの雑種狩り……日本生まれの二世三世の混血児に集団暴行を加え死に至らしめる事件が近年多発している。
 上を見るよりも人を貶めて自分より弱い人間がいると思ったほうが簡単だ。
 そうやって常に他人を貶め自分の地位を底上げし卑小な優越感を持続させないと存在の不安に耐えられぬ惰弱な人々には、軽蔑を通り越し哀れみすら催す。
 一方、自分もまた彼らの同類であると顧みて加害者よりなお卑劣な傍観者の罪の意識に苦しむ悪循環だ。
 友人にも打ち明けられぬ鬱屈を抱え込み、懊悩の翳りが射す顔をゆるく振る。
 「………駄目だな、スランプなせいかどうしてもネガティブな方向に思考が流れてしまう」
 斉藤はひとり図書館に来たことを後悔し始めていた。
 わざわざ友人らの誘いを断りレポートを書き上げにきたが先刻から作業がはかどらず疲労ばかりが募る。
 レポートに行き詰ると思考がネガティブに傾くのが自分の悪い癖だ。 
 「よし」
 おもいきり伸びをし、関節をほぐして椅子から腰を上げる。
 長時間座っていたせいで尻が痛い。
 文書を保存してから電源を切りノートパソコンの蓋を閉じる。
 大窓から降り注ぐ日差しが柔らかに流れる鳶色の髪を透かす。
 机上に手をつき広壮な天井を仰ぐ。
 深呼吸、瞑想。
 おそらくは堆積した知性と歴史と埃の匂いだろう懐かしい匂いを鼻腔に吸い込む。
 「一時休憩」
 最前まで座っていた椅子はそのままに机の群れに背を向け、書架の間の通路を歩き出す。
 気分転換に散策を始めた斉藤は、興味深げな目で断崖の如く屹立した書架を見上げ、ひとつひとつ丁寧に本の背表紙を辿っていく。
 レポートに煮詰まると斉藤は決まってこれをする。
 整然と並んだ書架の間を目的もなく練り歩き、ちらりと背表紙に目をやっては食指をそそられた本を気まぐれに抜き取り、適当なページを開いてぱらぱらと飛ばし見ていく。
 傍目には退屈を持て余しているようだが本人は至って充実しており、本に触れるごとにささくれた心が慰撫されていくのがわかる。

 以前、君にとって読書はなにかと問われた事がある。
 斉藤は答えた。
 「読書は棘抜きです」

 質問者の顔も前後の状況も忘れたが、その答えだけは今でも鮮明に覚えている。
 上手い事を言ったものだと当時の自分に感心する。 
 読書は棘抜きだ。心に刺さった棘をひとつひとつ抜く行為だ。
 本を読むという行為は一種の治療を意味する。
 本に触れているだけで心が落ち着く。
 黴臭い匂いが好ましい、かさついた紙の感触が楽しい、ページの羽ばたきに心が安らぐ。
 胸の奥で萌芽した怒りが沈静化していく。
 やり場のない鬱屈が浄化される。
 ピンセットで指の薄皮に刺さった棘を抜くような慎重さでもって一冊ずつ背表紙に触れていく。
 人さし指を背表紙に滑らせ感触を楽しむ。
 陶然とした表情で端から背表紙を追い、口には出さずタイトルを読み、気まぐれに一冊を抜き取りはぱらぱらとページをめくる。
 友人たちには決して見せない素顔を、斜角に切り込んだ光が淡く照らす。
 合コンが開かれるたび女性陣の気を引くため引っ張っていかれる斉藤とは別人のように物憂げで静かな表情。
 やっかみ半分に斉藤を「口説き要員」と呼ぶ友人が見たらさぞかし戸惑うだろうが、己の全存在をもって本と対話する斉藤の脳裏に彼の居場所はない。
 本と自分だけが世界に存在する至福のひととき、書きかけのレポートも友人らも彼女も忘れ去って本にのめりこむ斉藤を昼下がりの陽射しが暖かく包む。

 「どうしてだめなんですか?」
 突然、物音がする。

 静寂を破った物音に即応、顔を上げる。
 音源は斉藤がいる場所から本棚を隔てた向かいだ。
 精一杯抑えてはいるが、声には強迫的ともいえる切実さが滲んでいた。
 女性の声だ。それもまだ若い。
 ともすれば激情に流され上擦る声を精一杯自制しようとしているが、その非難の響きまでは隠し切れない。
 ヒステリックに詰りたいのを場所柄を考え必死に堪えているかのような声色に好奇心が刺激され、手にした本を戻し足音をたてぬよう歩き出す。

 駄目?
 なにがだめなんだ、責められているのはだれだ?

 声の主は学生らしいが、敬語を使っていることから察するに相手は教授だろうか。
 レポートのだめだしを食らったお仲間かもしれない。
 さして深刻に考えず軽い気持ちで本棚を迂回する。
 採点の辛い教授につっかかる女子学生といった場面を想像し書架から顔を覗かせた斉藤は、視線の先の光景に虚を衝かれる。
 片方は女子学生だった。知的な美人だ。
 彼女を一目見るなり斉藤は「学生が教授に泣き落としにかかる図」を撤回した。
 彼女ならば泣き落としなど卑劣な技を使わずとも、言葉の駆け引きだけで相手を懐柔してしまうはず。生来の美貌を最大限引き立てる知性の輝き、受けた教育の高さを感じさせる凛とした姿勢。
 状況が緊迫してさえなければ、高い所にある本を取ってやる大義名分でお近付きになれたかもしれない。

 問題はその相手だ。

 小刻みに肩を震わす女性の正面、書架を背にして立っているのは眼鏡をかけた無表情な青年。
 敬語を使われてるから学年は上なのだろうが、恥辱に頬を染め俯く女性を見下ろす眼差しはどこまでも冷ややかだ。
 「先輩、こないだ言いましたよね。今付き合ってる人はいないって。なら少しくらい考えてくれてもいいじゃないですか」
 その言葉でおおよその事情を悟る、よくある男女の愁嘆場だ。
 品行方正が規則の図書館で口論を始めるとは非常識だが、よほど切羽詰った事情があるのだろうとタイプの異性には点が甘い斉藤は解釈する。
 女性は下腹部で手を組み俯いていたが毅然と顔を上げ、挑むような眼差しで男を直視する。
 「ずっと先輩が好きでした。一目ぼれでした。ちょうどここです、この棚です」
 何かを思い出すように感傷的な眼差しを虚空に投げる。
 斜め上方に視線を逸らした女性を男は黙って見詰める。
 眼鏡の奥の双眸にはいかなる感興も湧かず、徹底して表情を欠いた顔は端正でこそあるが整った造作が逆に近寄りがたさを与える。
 女がすっと息を吸い込む。
 「大学に入って三ヶ月目です。レポートの資料をさがしにここに来て、行ったりきたりさんざん探しても見付からなくて……締め切りの期限は短いし、どうしても資料が必要なのにどうしようって困ってたんです。今時紙媒体の資料に頼るなんて馬鹿みたいって友達には笑われたけど、私、紙の方が好きなんです。ちゃんと本の形になってるもののほうが安心できるんです。変ですか?変ですよね」
 問わず語りに続ける。
 質問に沈黙で報いられるのをおそれるあまり自分の問いに自分で答え、ますますもってみじめさを噛み締める。
 形良い唇をきゅっと結ぶ。
 「どうしても落とせない講義だからすごく困って。書架に凭れて途方にくれてる私に声をかけてくれたのが先輩でした。それまで自分のほかに人が居るのは気付いてました。私が行ったりきたりするのを見向きもせず本を読んでましたよね。その時はむっとしました。手伝ってくれなんて言えないけど、人が必死に歩き回ってる間中本から顔も上げないなんて……勝手な言い分だけど、他人に八つ当たりでもしないとやってられない心境だったんです。先輩はつかつかこっちにやってくるなり『タイトルはなんだ』と聞きました。前置き抜きです。びっくりしました。鸚鵡返しにタイトルを言ったら、先輩はつかつか奥の棚に歩いていって……私が探してた本をとって戻ってきました。今度こそ本当にびっくりしました、その棚は何度も探したのに……」
 斉藤は知らず女性の語りに引き込まれていた。
 興奮に浮かされた女性は普段の落ち着きをすっかりなくし、ところどころつかえながら、彼女なりの一生懸命さでもって当時の状況を鮮明に語り起こそうと努める。
 髪に隠れた頬が紅潮しているのが斉藤の位置からでもわかる。
 下腹部で手を組みうなだれるさまは叱責を受ける子供のよう。
 軽く息を吸い込みながら話し続ける女性を男は無言で眺める。
 「先輩は本を渡すとサッと行ってしまって、あれからずっと先輩の事が忘れられませんでした」
 下腹部で組んだ手がうっすら汗をかく。力を入れ握り締めてるせいで間接が白く強張る。
 「先輩の噂を聞きました、東大始まって以来の天才だって。在学中に書いた論文が高く評価されてるって。教授は皆先輩を褒めてます。知ってます?先輩、女限定で学生に人気あるんですよ。私の友達にもファンが多いです。告白して振られたって人が私の知っているだけで六人います。でも不思議だったんです、なんで先輩みたいに格好良くて頭の良い人がキャンパス歩く時独りきりなのかなって……先輩がだれかと一緒にキャンパス歩いてるの見た事ないです。あ、勅使河原教授と歩いてたところは何度か見たけど………」
 話が脱線している事に気付いたか、含羞に頬を染め口元を覆う。
 「……彼女がいないなら、私が彼女になりたいと思ったんです。お願いします、付き合ってください。先輩にふさわしい女性になりますから」
 「勘違いだ」
 「え?」
 女性が戸惑う。
 当惑顔の女性の対面、それまで腕を組み書架に凭れていた青年がゆったりと身を起こす。
 腕組みを解き、あらん限りの軽蔑をこめ吐き捨てる。
 「僕の予想は間違っていた。君は僕の予想を遥かに上回る鈍感な生き物だな、脳に血が通っているのか切り開いて見てみたい」
 突然の暴言を脳が処理できず固まる。
 ショックに目を見開いた表情がみるみる悲痛に青ざめていく。
 多少の皮肉は覚悟していたが、一大決心で告白した男に「脳を切り開きたい」と言われるなどよもや想像しなかったらしい。
 ショックに青ざめる女性に淡々と追い討ちをかける。
 「あの日の事は一刻も早く消し去りたい不快な体験として記憶に残っている。僕は静かに本を読んでいたのに背後で君がうろうろするものだから邪魔で堪らなかった、全くいい迷惑だ。読書中に視界の端をうろつかれるのは目障りだ、忙しく行き来する靴音もとてつもなく耳障りだった。僕は一秒でも早く君にどこかへ消えて欲しかった、目的を果たし蒸発してほしかった。だから聞いたんだ、本のタイトルを」

 そこで初めて青年の目に感情らしきものが過ぎる。

 「あきれた。茶番もいいところだ。本のタイトルを聞いてすぐ直感した、君が発見できなかったその理由を。つまるところ君は物事の表層しか見ぬ浅い観察眼の持ち主で物事を上辺だけで判断する愚かな人間、自分の足でさがし手でとり目で確認する過程をなまけて怠った報いを受けたんだ。いいか、あの時君が探していたのはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの『純粋理性批判の再批判』 。しかしヘルダーの棚に問題の本は見当たらなかった。
 さて、哲学者に同じファーストネームが多いのは有名だ。
 フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとフリードリヒ・シュレーゲル、カール・レオンハルト・ラインホルトとカール・アドルフ・エッシェンマイヤー とカール・クリスティアン・クラウゼ……数えあげればきりがない、当時の人名はレパートリーが少なかったようだな。
 君が探し求めていた『純粋理性批判の再批判』だが、実はヘルダーとおなじドイツ観念論の哲学者にヨハン・ゴットリープ・フィヒテがいる。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、なんとミドルネームの半ばまで同じだ。しかも二人の著作は同じドイツ観念論の哲学書を集めた棚の極めて近しい場所に収められている。もうわかっただろう本が見つからなかったわけが、どこかの低脳がヨハン違いの場所に本を返したわけだ。その際棚が満杯だったので本の上に投げ置いたのが勢い余って落下してしまったらしい。ヘルダーとフィヒテを間違えるなど東大生とは思えぬ初歩的なミスだがおそらく裏金を使って不正入学したのだろう、少子化による定員割れの弊害だ。最高学府も地に堕ちたものだな」
 「でも私ちゃんとさがして、」
 「思い込みだ。事実君は前列の本をどかす面倒を避け確認を怠ったではないか。本の移動は女性には重労働という言い訳は聞かない。いかに物事の表層を浅くつつき仮初の成果に酔っているか自省しろ。それとも哀れっぽく書架に凭れて項垂れていえば他人が同情して助けてくれると思ったか、手間を惜しんで善意の他者に面倒を押し付ける気だったのか。そうやって他者に依存し成果だけ掠め取るのが君の流儀か」
 言いすぎだ。
 制止せんと斉藤が書棚から飛び出しかけるのと、女性が丁寧に頭を下げるのは同時。
 「…………失礼しました。貴重なお時間を邪魔してすいません、私の事はお気になさらずどうぞ続きを」
 肩を大きく上下させ呼吸を整え、恥辱と憤怒の入り混じった激情を無表情の虚勢で抑え込み、靴音高く未練を断ち切るように踵を返す。  
 拒絶の意志も露に男に背中を向け、矛盾する想いに引き裂かれた台詞を吐く。
 「もうこないので、安心してください」
 語尾が屈辱に震える。 
 返されたのはたった一言。
 「そうしてくれると助かる」
 鞭打たれたように女の肩がびくんと跳ね、背中が強張る。
 書架に凭れた男は醒めた目で女の行動を眺める。
 冷徹無慈悲な観察者の目。
 女性に暴言を吐いたところでしくしく痛むような惰弱な良心は持ち合わせてないらしい。
 肩を落とし巨大な書架の狭間に立ち尽くす女はとてもに小さく頼りなく見える。
 女はしばらく通路の真ん中に佇んでいたが、何ら感傷を伴わぬ冷ややかな視線に晒されるのにか細く張り詰めた神経が耐えかね小走りに駆け出す。
 靴音が性急に床を叩く。
 靴音が大きくなり、女がこちらに近付いてくる。
 「!」
 書架の陰に頭を引っ込めようとしたが、遅い。
 書架の陰に隠れた斉藤に飛び出してきた女が気付く。
 一瞬目が合う。
 肩の辺りまである髪が後方に吹き流れ横顔が暴かれる。
 目尻が仄赤く上気し瞳が潤んでいる。
 女が物凄い目で斉藤を睨む。
 手酷く傷付けられ自分の価値を信じられなくなった女に胸が痛む。
 しかも失恋のショック冷め遣らぬうちに書架の陰からこっそりこちらを覗いていた無神経な男によりにもよって泣き顔を見られてしまったのだ。
 彼女を支えるプライドが折れ砕け、耐え難い恥辱と憤怒がその美しい顔を染めてもしかたあるまい。
 涙の膜が張った目で睨まれ、柄にもなくうろたえる。
 斉藤が声をかけるより早く女はさらに歩調を速め走り去ってしまった。
 一瞬絡んだ視線がむりやり引き剥がされ顔を伏せた女が通路を後にする。

 靴音の残響が殷々と内耳に浸透する。

 巨大な書架が左右に聳え立つ峡谷にひとり取り残された斉藤は、己の失態を呪い舌打ちする。
 「………いやなもの見ちゃったな」
 盗み見を反省したところで遅い。
 去り際の泣き顔が網膜に焼き付く。
 斉藤は溜め息を吐き引き返そうとして一本挟んで物音の絶えた通路が気になり、良心が咎めながらも好奇心に負けて顔を出す。
 彼はまだあそこにいるのか?
 手ひどく振っておきながらぐずぐず居残って何をしてるんだ、追いかけなくていいのか?
 慰めの言葉ひとつくらいかけていいのに……あまりに冷淡な青年に反発を覚える。
 女性には常に優しく紳士的に接するのが信条の斉藤には最前の青年の言動は到底考えられないものだ。
 向こうの通路は窓の延長線上から逸れているため薄暗く、青年の顔がよく見えなかった。
 女が感情的に捲くし立てるあいだも尊大に腕組していたのは覚えているが、あと印象に残っているのは眼鏡くらいだ。
 顔の動きは殆どなく、表情は欠落していた。
 もしくは眼鏡が邪魔して表情が読めなかったのか……
 ふいに青年の顔を見たい欲求が高まり、気配を消して書架から顔を出す。

 男は、いた。
 最前と同じ場所にいた。女を見送った場所から一歩たりとも動いてない。
 唯一の違いといえば体の向きを変え本棚を正面にしていた点だ。
 斉藤は存在を悟られぬよう注意し、良識に反する胸の動悸と後ろめたい興奮を覚えながら青年の横顔に凝視を注ぐ。
 端正な顔だ。
 理知的な切れ長の目は涼しげで肉の薄い繊細な鼻梁はバランスが取れている。
 薄い唇と華奢に尖った顎が神経質な印象を与える。
 痩せ型。華奢と言っていい線の細い体躯。
 中肉中背の斉藤と並べばだいぶ弱弱しく見える。

 サナトリウムが似合いそうだな。

 硝子じみて硬質な横顔が明治時代の結核病患者の如き薄命な雰囲気を与える。
 彼はごく自然に静謐に溶け込んでいた。
 甲高い声で叫ぶ女が消え去り、漸く戻ってきた静寂に陶然と身を浸している。
 心身ともにリラックスしているのが先刻と一転弛緩した空気から伝わってくる。

 その横顔から目を逸らせない。
 端正な横顔が斉藤を惹き付けてやまない。

 何故かはわからない。
 顔だちは端正だが美形と評する程ではない、どちらかといえば地味な部類。
 身に付けているものは簡素なシャツとスラックスで洒落っ気は皆無、しかしアースカラーのシャツと黒に近いグレイのスラックスの取り合わせは色調抑えめの図書館に馴染んでいる。
 気取らない服装にセンスの良さを感じた。

 斉藤は興味を持って青年を眺める。

 青年は斉藤の存在に気付かず目の位置の棚に手をやり洗練された動作で一冊抜き取る。
 しなやかな指先がページを繰る。
 ページが擦れる音がごくささやかに耳朶をくすぐる。
 青年は本棚に向かいうなだれ手元の本に視線を落とす。
 視線が右から左へ素早く動き、凄まじい速さで読んでいく。
 直感記憶、瞬間把握の速読。
 斉藤は声には出さず感嘆する。
 青年は0.5秒もたたず新たなページを繰り、眼鏡越しの目に鋭敏な頭脳の働きを映す怜悧な光を溜め、貪欲なまでに活字を吸収していく。
 眼鏡越しの真剣な眼差しに圧倒される。
 青年は己の全存在をもって本と対話する。
 本もまた青年の求めに応じ快く体を開く。
 献身な愛撫により無機物と意志を疎通する官能的な光景。
 男にしておくのが惜しいほど細い指がさっとページをなぞるたび紙の表面が悦びに震えページが自ら捲れていく。
 男の愛撫はそっけなくも思いやりに満ちていた。
 無機物の紙に対を丁寧に扱い、長らく開かれた事ない本に埃が付着していれば袖口が汚れるのも厭わずそれを払ってやる。

 『そうしてくれると助かる』
 生身の人間にああも冷淡にふるまう男が、無機物の本にこうも優しくなれるなんて。

 様々な矛盾を内包する男に強く惹き付けられる。
 最前女を拒んだ時とは別人の如く本に触れる仕草は優しい。
 心なし視線も角が取れている。
 柔和な表情で本と向き合う青年を眺めるうちに斉藤の内面に思いも寄らぬ変化が起きる。
 同心円状の波紋を描き徐徐に広がりゆく動揺の漣、麻薬的な陶酔。
 自身の内面に生じた変化に戸惑うも、強烈な磁力を放つ横顔に魅入られ呆けたようにその場に立ち尽くす。

 太陽の位置が変わる。
 光線の角度が傾ぐ。
 突如通路に射しこんできた陽射しが床を掃き青年の横顔を清浄に照らす。
 薄暗い通路から青年の周囲だけ浮き上がり大気中に循環する埃が透ける。
 埃の円環が青年を取り巻く。
 昼下がりの陽射しを半身に浴びた青年はひどく満ち足りた顔をしてる。
 
 自分は異性愛者だ。
 この時この瞬間までそう思っていた。
 急に確信が持てなくなった。

 青年から目が離せない。
 はらりと捲れた袖口から覗く骨の尖りが目立つ手首と皮膚の生白さも、
 一番上まで釦を留めたアースカラーのシャツも、
 痛々しいほど華奢な首筋と鋭く尖った喉仏も、
 眼鏡越しに注がれる透徹した視線も。
 
 彼の存在そのものが心を占め、今この瞬間の映像が切り取られ脳に保存される。
 通路に射し込んだ光が照らす情景の神聖さに打たれる。
 戦慄に似た感動が背筋を走る。

 彼は自分と同じ側の人間だ。
 同じ静寂を好み同じ本を愛する人種だ。
 そうすることによって孤独を癒しあう同士だ。

 彼に共感する。
 共感は時経ず好感に変わる。
 彼に近付きたい、話しかけたい欲求が高まる。
 これまで女性に不自由したことはなかった、時に不実な台詞を用い異性を口説く行為に抵抗はなかった。
 異性に好意を持たれるのは悪い気がしない、交際は楽しい、セックスもそれなりに。
 斉藤は何事もソツなくこなしてきた、異性との交際も同性との交流も半ば条件反射の社交的な笑みと機知に富む弁舌でもってこなしてきた。

 だが、その誰とも一線を引いて付き合ってきた。

 斉藤は人の悩みを聞くのが上手い。
 相槌と助言の天才であり、異性も同性も何かあればすぐ斉藤に相談を持ちかける。
 しかし、斉藤自身が悩みを話した事は一回もない。
 先刻抱いたようなネガティブな思考を他人に漏らした事はただの一度としてなく、また漏らした所で理解も共感も得られないとの絶望に近い諦念が他人との間に見えざる一線を引かせていた。
 自分の人あたりよさは上辺だけだと斉藤は知っている。
 そんな自分に吐き気を覚える。
 心の底では誰も信頼してないのに、嫌われるのが嫌で、孤立するのが嫌で笑みを絶やさないようにしている。
 自分は卑怯者だ、異分子だ。
 本来ここにいてはいけない人間だ、こちら側にいるのがそもそも間違っているのだという違和感が終始付き纏って離れず集団に埋没しても居心地の悪さを拭えない。

 彼もまた、同じなんじゃないか。
 世界との違和感に苦しんでるんじゃないか?

 青年の手が止まる。
 斜角の陽射しが横顔と手元を淡く照らす。
 埃の粒子が緩慢に舞う中、巨大な書架に挟まれた空間に立ち竦む青年の唇が無音で動く。
 音のない唇の動きに魅了される。
 周囲から完全に音が消える。
 急速に現実感が褪せ、完結した世界に自分と彼とふたりしかいない錯覚に陥る。   

 僕と彼は孤立している。
 僕も彼もは孤独だ。
 彼は孤高だ。
 酷く儚く脆いものを内に秘めながらも、傲慢なまでのプライドの高さ故に孤高を守る。

 青年の中に理想の幻影を見る。
 青年はかつて斉藤がこう在りたいと思った理想を体現している。
 青年に憧憬を投影する。
 俯きがちの顔と伏し目がちの視線、高い鼻梁が彫り深い影をおとすさまを固唾を呑んで見守る。 

 均衡は突如破られた。

 青年がおもむろに本を閉じ棚に返し、断固たる足取りでこちらに歩いてくる。
 一抹の未練も躊躇もない足取りに覗きがバレたのかと緊張するも杞憂に終わる。
 青年は書架に手をかけ立ち尽くす斉藤に一瞥も注意を払わず、彼の背後をスッと素通りしてしまった。
 一瞬の邂逅、再びの別離。
 あまりにあっけない幕切れに斉藤は言葉を失い、呆けたように青年の背を見送るより他ない。
 甲高い靴音の残響が書架の峡谷にこだまする。
 青年は斉藤に気付きもせず、視界に入っていても意識野では取り合わず図書館を辞してしまった。  
 ひとり取り残された斉藤は束の間その場に立ち尽くし網膜に焼き付いた残像と気配の残滓を反芻、意を決し最前まで青年がいた書架の前に歩み出る。
 青年が見ていた書架を舐めるように見る。
 彼が見ていたものが知りたくて、関心を奪った対象を突き止めたい一心で視線の高さを合わせる。
 青年の目の位置にあたる棚に収められていた本を見て、我知らず呟く。
 「カラマーゾフの兄弟、か」
 本を返すときに一瞬題名が見えた。
 カラマーゾフの兄弟は前に一度読んだことがある。
 当時はまだ幼く内容を完璧に理解できたとは言いがたいが、それでも印象の残った箇所は多い。
 青年が指を添えていた位置を想起、あたりを付けページを開く。
 「ああ、そうか」
 青年が読んでいた箇所に目を通し、吐息まじりの嘆声を零す。 
 それは有名な「大審問官」の序文、「反逆」の箇所だった。
 登場人物の一人で主人公の兄でもある冷徹な知性人イワンが神の創った世界を認めない根拠を滔々と挙げ連ねる、作中もっとも斉藤が感銘を受けたくだりだ。
 イワンは百歩譲って神の存在を認めても神の創った世界は認められないと説く、何故ならこの世界はとてつもなく不条理だから、力持たざる子供が虐げられていても神はその涙を贖わないからだ。
 当時、斉藤はイワンに共感を覚えた。
 弱者が虐げられ子供が犠牲となる不条理な世界に対する怒りは、ずっと斉藤の中にある。一歩間違えば自分もまた虐げられる側だったという皮肉、にも拘らず今ここに居る幸運に対する罪の意識。斉藤はずっとイワンと同じ事を考えイワンと同じ不条理に怒っていた、なぜ世界がこんな風にできているのかわからず苦悩していた。何が加害者と被害者を分ける、何が弱者と強者を分ける、なぜ人間は殺しあう、憎まずにいられない?

 ずっと不思議だった。
 ずっとわかってくれる人を探していた。
 
 理解は幻想だ、ただ概念としてそこに存在する。
 理解は神だ。
 だれも実物を見たことないが、その概念は疑うべくもなく素晴らしいものと信じられている。
 人間が真に互いの本質を理解する事などありえない、なぜなら孤独は人間の本質だからだ。だがしかし共感は可能だ、理解は神のように空虚でも共感は身近にある。
 自分はイワンに共感した、自分が長年抱いていた世界との違和感を不条理な世界に対する怒りをイワンはこの上なく的確に代弁してくれたのだ。
 「彼もイワンだ」
 先刻までここにいた青年の手触りを反芻し、丁寧に表紙をなでる。
 この本に彼が触れたと思うと特別な感慨が湧き上がる。
 青年の指の動きを辿り、乾いた紙に指を滑らす。
 青年の手の残像を愛撫する。
 丁寧に心を込め、手の残像を上から包み込み、優しくさする。
 本から幻の体温が伝わる。
 青年の残像と実体が重なりひとつに溶け合っていく。

 イワンにはアリョーシャがいた。
 だから彼は救われた。

 「………君にはだれがいるんだ?」
 本をなでる手は止めず記憶の中の横顔に問う。
 青年は答えず本と向き合っている。
 自ら孤立を深め孤独に安息を見出すかのようなかたくなな拒絶。
 彼の事が知りたい、彼と話してみたい。
 これまで周囲の人間に感じた事ない渇望に似た執着に駆られ、青年の手がかりとして唯一残された本を強く握り締める。

 イワン。
 冷徹な知性に支えられた無神論者、神の創った世界の不条理を憎む男。
 人類を見放した神を強く憎みながらも、心の底では神の創った世界の可能性を信じたがっている男。
 そのイメージが先刻の青年と重なる。
 現実にイワンがいれば彼のような外見をしているのだろうな、と考え頬を緩める。

 『ずっと先輩が好きでした。一目ぼれでした』
 自分は異性愛者だと思っていた。
 しかしこの感情を、「一目惚れ」以外のなんと呼べばいい?

 「……………参ったな」
 苦味の滲んだ口調と裏腹に顔は笑っていた。
 理性の反発をよそに感情を許容する諦念の笑み。
 目を閉じれば瞼の裏の暗闇に彼が浮かぶ。
 名前も知らない、学年も学部も知らない。
 ただ図書館で行き合っただけ、一方的に顔を知っているだけの存在だ。
 再び会える見込みは低いが、斉藤は既にこの時どんな手を使っても彼を見付けだす決意を固めていた。
 通路に射し込んだ陽射しに照らされた青年の横顔には、神をも恐れぬ孤独が焼き付いていた。
 眼鏡越しに注がれる思い詰めた眼差しは、世界の不条理を憎みながらもただ一人の理解者を求め、最愛の弟にのみ抑圧された本音を吐露するイワンそのものだった。
 丁寧に埃を払い、「カラマーゾフの兄弟」を棚に返す。
 戻す時にそっと背表紙にふれる。
 いとおしむかのように。
 「友達になりたい」
 飾らぬ本音を零し手をおろしてから、ある可能性に思い至りうっそりと自嘲する。
 自分が抱いていた世界と馴染めない違和感の源は、ひょっとしたら別な所にあったんじゃないか。
 異性愛者だと思い込んでいた自分に潜在する同性愛傾向が、長年の違和感の正体だとしたら? 
 この時この瞬間それを自覚するも「まさか」と苦笑して首を振りその場を離れる。  
 
 初邂逅だった。


 「『カラマーゾフの兄弟』だね」
 斉藤が指摘すれば、安田の顔にほんの僅か感心したふうな色が去来する。
 「………思ったほど無知ではないらしいな」
 「愛読書だから。もう何度も読み返したよ」
 何度も読み返した。
 図書館で安田を見かけて以来、安田の顔を、声を、視線の動きや指遣いに至るまで細部を反芻し読みふけった。  
 あれから数ヶ月、斉藤は今こうしてここにいる。
 安田は学内では有名人だった。
 いわく東大始まって以来の天才、在学中に発表した論文は学会で絶賛され各界から注目を受けているという。噂ではIQ130を数え在籍する法学部のほかに医学部・文学部の講義を受けてるらしい。友人は皆無らしく、キャンパスで遠くから見かける彼はいつも一人だった。あの性格では無理もない。

 再会は偶然だった。
 二ヶ月前、安田が政府との共同プロジェクトに参加するとの噂が広がった。
 学生の身でありながら優秀な頭脳を評価され助手に抜擢されたらしい。
 自分には関係ないと思っていた。
 政府と共同で進められる国家の威信を賭けたプロジェクトに自分如き一介の学生が関われるはずがないとシビアに割り切り今まで通り講義を受けレポートに追われ息抜きに友人と遊ぶ日常を送っていた。
 懇意にしていた勅使河原教授からお呼びがかかったのはそんな時だ。
 安田を除く助手は皆院生から選ばれる事になっていたが、うち一人が急病となり枠に空きができた。君さえよければ助手として働いてみないかと教授自ら持ちかけてきたのだ。
 安田と比べれば劣るにしても斉藤も十分優秀な学生であり、研究助手として不足はないと判断したらしい。

 斉藤はプロジェクトの本拠地たる医学部教育研究棟の地下にて安田と正式な顔合わせを果たした。
 研究棟の地下は天井も壁も床も無菌の白で統一され眩いばかりの衛生さを誇っている。
 色調抑えめの図書館とはなにもかも違うが、安田から受ける印象はあの時と少しも変わらない。
 再会の喜びと緊張とが入り混じる複雑な感慨に駆られつつ、斉藤は微笑む。
 「僕もイワンに同感だ。世界の不条理を憎む気持ちはよくわかる、彼の怒りは正しいと思う」
 再び手をさしだす。
 安田が胡乱に見返す。
 教授が冷や冷やと二人を見比べる。
 斉藤は軽く息を吸い込み、まっすぐに安田を見る。
 「僕らはこれから同じプロジェトに携わる仲間だ。握手が嫌いなのはわかったけど、最低限の礼儀を守る柔軟性も持ち合わせないなんて正直見損なったよ。ルールを守るだけじゃ大人とはいえない、社交上のマナーもまた大人の必須条件だ。握手とは人間関係を円滑化するための初歩の初歩だ、これを怠ればその後ずっと禍根を残す事になる。君が個人的にぼくと親しくなりたくないというならそもれいい、けれどもこれは君一人の問題じゃ済まされない、チームワークの円滑化はプロジェクトの成否を左右する大前提だ。個人的な好悪の感情はひとまずおいといて、最初の最初くらい社交上のマナーを守るべきだと思うけど」
 教授が唖然とする。
 安田が目を見張る。
 斉藤はどこ吹く風と涼しげな顔で安田の視線を受け流し、挑発するようにさしだした手をひらひら動かす。
 重苦しい沈黙が落ちる。
 先に動いたのは安田だった。
 愉快げな含み笑いを浮かべた斉藤に毅然と歩み寄るや、白衣のポケットから几帳面に折り畳まれたハンカチをとりだし、それを片手にもつ。
 ハンカチを巻いた手が一瞬斉藤に触れ、そっけなく離れる。
 「満足か」
 最大限の譲歩、最大限の妥協。
 不快げに顔をしかめ、斉藤の手に触れたハンカチを汚物を始末するような動作でもって隅のゴミ箱に捨てる。
 「安田君!」
 ハンカチ越しでも菌が感染した疑惑を捨て切れず、掌を執拗に白衣の裾に擦り付け感触を拭う。
 白衣の裾でもって強迫的に手を拭う安田に教授が叱責を飛ばし、斉藤が口の端に微苦笑を上らす。
 「…………僕は本以下か」  
 「?」
 安田から教授に視線を転じ頭を下げる。
 「これで失礼します。この後研究の概要を説明したいからと鍵屋崎教授に呼ばれてるので」
 「あ、ああ……気を悪くせんでくれたまえよ斉藤君、彼は少し気難しい男なんだ。プロジェクトが本格始動すれば彼と共にさまざまな雑務をこなすことになるだろうが、どうか堪えてくれたまえ」
 丁寧に辞去を申し出た斉藤に教授が嘆かわしげに首を振る。
 政府との折衝役として気苦労の絶えぬ教授の激励に誠意を込めた頷きを返し、語気強く請け負う。
 「わかっています」
 「足手まといは可及的すみやかに消えてほしい。研究の邪魔だ」
 「!安田ッ、」
 背中に突き刺さる視線を感じながらすみやかにその場を去る。白い天井と壁に靴音が高く響き、残響が内耳を震わす。
 安田の視線を強く意識しながら慎重にその場を離れる。
 たった一瞬触れ合った手の感触、ハンカチを隔てもわかるしなやかな指の関節が忘れられない。

 漸く辿り着いた、ここに。
 漸く辿り着いた、彼に。

 白衣のポケットに入れた手を無意識に握り込む。
 安田が触れた本からぬくもりを奪うように、ハンカチ越しの感触を握り込むように。
 白衣の胸元では真新しいネームプレートが誇らしげに輝いている。
 安田の胸にもあったネームプレートには研究員ナンバーとともに氏名が記され、斉藤が参加する事になったプロジェクトの略号が刻まれている。
 
 ISP。
 正式名称は Intelligence Seed Project。
 「『知恵の実計画』か。なかなか洒落てるじゃないか」
 
 実験の詳細は知らない。
 それをこれから勅使河原教授と並ぶ最高責任者の鍵屋崎教授が説明してくれるという。ただしそこで明かされるのはあくまで概要のみで、具体的な研究内容は本格始動まで極秘裏に伏されるという。

 アダムとイヴは知恵の実を齧って楽園を追放された。
 自分がアダムとイヴをそそのかす蛇の役回りになったような気になり、だんだんと愉快な心持になる。

 神の創った世界を認めぬ自分にはふさわしい役回りかもしれないと自嘲、安田もまた自分と同じく神への反逆心からプロジェクトへの参加を決めたのではないかと邪推する。
 安田に対し一種の共犯じみた連帯感が芽生え、胸の内で湧き立つ興奮に浮かされ、斉藤は呟く。
 「神の庭から知恵の実を簒奪する計画なんて考えただけでわくわくする」

 なあ、そうだろイワン?
 僕らはいい共犯になれるはずだ。

 既にして友人に対する口ぶりで、イワンの面影をやどす男に呼びかける。
 悪魔に魂を売った笑みがその顔に広がる。
 あまりに若く愚かな斉藤は、安田と近付きになりたい動機から参加したプロジェクトが自分の一生を左右するなど想像だにしなかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050225171303 | 編集
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