ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
十一話

 問題の房を臨む一角が緊迫する。
 「いいか、敵はブラックワーク万年一位の王者だ。油断するなよ。のこのこ出てったら喉首かっき切られてもうひとつの口で唄うことになるぜ」
 鉄扉に面した廊下で殺気立った囁き声が交わされる。
 死角となる壁に身を潜め鉄扉の向こうの様子を窺う看守の顔には一様に緊張と興奮が漲るも目には一抹の怯惰がある。
 強制労働中のため他の囚人はみな出払っている。
 腕に自信のある屈強な体躯の看守たちが固唾を呑み動静を窺うのは一見何の変哲もない無個性な鉄扉。
 上部には格子窓が設けられ中の様子が覗けるようになっているが、裸電球が消された房は暗闇に沈み、看守らの位置と距離からでは人がいるかどうかすら判別つかない。
 格子窓の奥によくよく目を凝らしても暗闇に沈むベッドの輪郭がおぼろに浮かび上がるばかりで、凶器を持った敵が扉を開けたすぐそこの床に腹這いになっていたとしても全くわからない。
 「……やけに静かだな。本当にいるのか」
 一人が疑問の声を上げる。
 看守たちは完璧な布陣を敷き、極力物音をたてぬように押し殺した息遣いと慎重な歩幅でもって扉にじりじり接近する。
 細心の注意を払って扉に忍び寄る看守らの視線は油断なく格子窓の奥に注がれている。
 檻の中の猛獣を警戒するようなぴりぴりした殺気があたりに張り詰める。
 そう、檻だ。
 これは檻だ。
 血に飢えた猛獣を閉じ込めておくための檻。
 しかし檻があるからといって必ずしも安全とは言えない、その気になりさえすれば鉄格子をへし折り扉をぶち抜いて飛び出してくるとも限らない。
 「用心しろよ。のこのこ近寄って首と胴が泣き分かれすんのはやだろ」
 「大げさだな。相手は人間だろ」
 「いや、人食い豹だ」
 先頭の看守が断言する。仲間を率いて扉と間合いを詰めながらその看守は静かに言う。
 「ブラックワークでの暴れっぷりを知らないとは言わせねーぜ。だてに東京プリズンに来てからこっち王座を譲らずブラックワーク一位で居続けたわけじゃねえ。いいか、よく肝に銘じておけよ。これから俺らが踏み込もうとしてるのはな、猛獣の檻だ。情け知らずの暴君の領土だ。どんなトラップが仕掛けられてるかもわかんねーんだ、突入は重々慎重にいかねーと」
 警棒にかけた手に力を込める。
 左右の看守はそれぞれ手錠とスタンロッドを構えている。
 本来スタンロッドの使用は許可されてないが、事態が事態だけに特別に所有許可がおりた。この場に集ったのはいずれも凶悪犯との格闘経験を有する精鋭ばかり、頻繁に暴動が起き囚人が反乱を起こす東京プリズンでそこそこの年月を務め上げ手荒い対処法が身に付いた連中だ。
 彼らは斉藤の指示を受けここにいる。
 彼らの標的は現在鉄扉の奥にいる。
 ベッドに横たわり惰眠を貪っているのか?
 ……否、それにしては物音ひとつしないのはおかしい。
 眠っているにしても衣擦れの音くらいはするはず。異様な静けさを訝しみながらも鎮圧部隊は互いに目配せで意志疎通し鉄扉を取り巻いて包囲網を作る。退路を塞ぐ形で展開した看守らの目は片時も離れず格子窓に注がれている。
 五メートル、三メートル、一メートル……
 緩慢に距離が縮まる。
 徐徐に巨大化する鉄扉が視界を占める。
 無骨な鋼鉄の表面が鼻先まで来ると同時に全員が膝を撓め準備を整える。
 リーダーの指示が出れば即座に扉をぶち破り突入する構え。
 看守たちはもう言葉を交わさない。
 至近距離で言葉を発すれば敵に聞かれる恐れがある。
 何せ相手は地獄耳だ、分厚い鉄扉を隔てていても油断できない。
 扉を囲み扇形に展開した看守らの視線が素早く交錯、互いの顔に極限まで高まった緊張と高揚を見てとる。
 先頭の看守が重々しく頷き腰の鍵束を手に取る。
 ちゃり、と鍵の束が触れ合う。
 中の一本を手探りし錆びた鍵穴に挿しこむ。
 錆びた鍵穴に鍵が突っかかり糸鋸を引くような軋み音がもれる。
 全員ぎょっとする。
 今の音が聞かれたのではないかと動揺し格子窓の内を窺うも反応はなく、依然闇が漂っているだけ。
 弛緩した空気があたりに漂う。
 どうやら敵は眠っているようだ。
 カチ。
 かすかな音をたて鍵が嵌まる。
 『いくぜ』
 目配せで総意を確認、全員が頷く。
 各自獲物に手をかけた看守らが禍々しい気配ただよう鉄扉を剣呑な目で凝視する。先頭の看守がノブに手をかける。力を込める。回すー……
 「今だ!!」
 抵抗なくノブが回り一気に扉が開くと同時に怒涛を打って看守の大群が雪崩れ込む。
 扉が爆発せんばかりの勢いで殺到した看守らが靴音も猛々しく房に踏み込む。
 床には靴跡が重なり激突の衝撃でベッドの位置が大幅に変わり振動が壁から天井に抜け裸電球が激しく揺れる。
 裸電球の傘から降り注ぐ埃に看守が咳き込み天井を覆う配管が軋み錆の薄片がぱらぱら落剥する。
 看守の一人がベッドに歩み寄り乱暴に毛布を剥ぎ取る、一人が洗面台に近付き中腰の姿勢で排水溝を覗き込む、一人が壁を殴って隠し通路がないか確かめる、一人が床を這ってベッドの下に頭を突っ込む。
 総勢八名もの看守が全員突入したせいでただでさえ手狭な房はおそろしく窮屈になり少し体を動かすだけで肩や肘がとぶつかり怒号が炸裂、しかし怒り狂った看守たちが房じゅう隈なく探し回っても敵の姿は見当たらず大量の埃が舞い上がるのみ。
 「こっちにゃいねえ!」
 「ベッドもからだ!」
 「畜生、あいつどこへ消えやがった!?」
 殺気だった怒声と罵声が交錯し一触即発の危険な空気が満ちる。
 血相変えた看守らは手近な壁を拳や警棒で殴りベッドを足蹴にし、床から天井に至るまで人が隠れられそうな所は僅かな隙間も残さず容赦なく暴き立てたが求める人物は一向に現れない。
 もともと狭い房だ、人が隠れる場所など限られている。
 意気さかんに飛び込んだ看守全員の顔を紛れもない失望と幾ばくかの安堵が覆う。
 「一杯食わされたぜ」
 突入の指揮をした看守が憤懣やるかたなくベッドにふんぞり返り、スプリングが悲鳴を上げる。
 「くそっ、行き違いか!レイジの奴おれらが来ることに勘付いてやがったのか」
 「あり得る。あいつ恐ろしく勘がいいからな」 
 「野生の勘か」
 「俺らの突入を読んでトンズラこいたのさ」
 口々に罵詈雑言を吐きながら腹立ち紛れに床を蹴り付け壁を殴りベッドをひっくり返しの暴挙に走る看守たち、その顔に焦燥の色が浮かぶ。
 ベッドに腰掛けた看守は手を組んで同僚の暴走を眺めやり、皮肉な笑みを刻んで吐き捨てる。
 「檻から逃げたってわけだ」
 一足違いで標的を逃す失態を演じ、腹に据えかねた看守たちが獰猛な唸り声を発する。
 彼らが精を出し荒らし回った房は今や略奪と暴行が行われたが如く酷い有様だ。
 ベッドは転覆し脚を天井に向け毛布は剥ぎ取られ床一面に累々と缶詰が転がっている。
 この缶詰はよもやベッドの下に潜んでいないかと疑い改めた看守が掘り出したもので種類に富んでいる。  
 床を滑り足元に転がってきた缶詰を拾う。
 「コンビーフか」
 力づくで蓋をむしり、太い指を突っ込みじかにコンビーフをほじる。
 たっぷりと指に付着したコンビーフをそのまま口に運ぶ。
 コンビーフを一口咀嚼し終え、大きく腕を振りかぶる。 
 缶詰が砲弾の如く一直線に飛び壁に激突。
 天井高く跳ね上がった缶詰が裸電球の光を弾いてぎらりと輝き甲高い音たて床に落下、再び足元に転がってきたのを容赦なく踏み潰す。
 「捕まえろ。まだそう遠くには行ってねえはずだ」
 獰猛極まる笑みを剥き出し看守が宣言、靴裏に体重をかけ缶を入念に踏み潰す。
 靴裏に塗られたコンビーフで拭き踵を返す看守に仲間が付き従い房を出ていく。
 へこんだ缶詰と縦横無尽に交錯する靴跡とベッドの脚が引っかいた痕跡とが生々しく残る陵辱の跡を一顧だにせず廊下に出た看守らの背後で轟音たて鉄扉が閉じる。
 大気中に残響を漂わせ閉じた鉄扉を背に、コンビーフの脂で下品にぎとつく唇をふてぶてしくひん曲げ、憎しみにぎらつく顔で看守が言い放つ。
 「楽しみにしてろよ、レイジ。両手ふんじばってたらふくコンビーフ食わせてやる」
 鉄扉が閉まる音は 地獄の閂が下りる音にも似ていた。

 殺風景なコンクリ壁に軍靴の音が跳ね返る。 
 アルセニーはひとり通路を歩いていた。
 部下には副所長のもとにて待機を命じた。
 「一人では危険です」とくどく言い募る部下の同行を拒んで単独視察を望んだのは確固たる目的があったからだ。
 結局は上官の意向を尊重し部下が折れた。
 囚人が強制労働に出払う日中なら危険もなし、万一の場合にそなえ護身用の銃を持っているから心配ないと穏やかに説き伏せたのが功を奏したらしい。アルセニーの人柄に心酔しまた彼の能力を高く評価してもいる部下は、それ以上の反論を諦め大人しく引き下がった。
 部下がアルセニーの意見を呑んだのは上官の態度に有無を言わせぬものを感じたからだ。
 軍人社会における上下関係は絶対だ。
 上官が自由行動を望むなら部下に抗うすべはない。
 そしてアルセニーはどうしても今この時一人になる必要があった、部下とも副所長とも離れた場所で内密に片付けるべき用件があった。
 第三者の目がないところで可及的速やかに処理すべき案件を秘めたアルセニーは、軍靴の音も高らかに事前に取り決めた待ち合わせ場所に向かう。
 カツン、カツン、カツン。
 時を刻む秒針のように規則正しく靴音が響く。
 一定の歩幅で足を繰り出しながらアルセニーは見るともなく周囲を窺い感慨を覚える。
 漆喰の剥げ落ちたみすぼらしいコンクリ壁、等間隔に並ぶ無骨な鉄扉、汚物だらけの床。目も覆わんばかりに不衛生な惨状を呈する通路の蛍光灯は切れかけ不規則に瞬いている。

 ここにサーシャがいる。
 サーシャが暮らしている。

 『軍の犬に用はない。ロシアに帰れ』
 正気の弟が開口一番放った台詞には、冷ややかな侮蔑と決別の響きが込められていた。
 サーシャはアルセニーをはっきり見詰めそう言った。
 お前にはもう用がないと迎えに来てなどくれなくても結構だと数年ぶりに会った実の兄を拒絶した。
 ひび割れ色の失せた唇を憎憎しげに歪め兄弟で受け継いだ薄氷の瞳にぎらつく光をやどしアルセニーを「軍の犬」と罵った、自分の知るかつての兄と今の兄のあまりの落差に打ちのめされ底知れぬ失望に襲われ「ロシアに帰れ」と命じた。

 幻滅されても仕方がない。
 軽蔑されて当然だ。
 自分は決して聖人君子などではないのだから。

 「私は軍の犬だ」
 自虐を承知で口に出す。
 予想に反し特に何も感じなかった。
 ただ当たり前の事実として殊勝に受け止めただけだ。
 私は軍の犬、国の利益の為に信念を捧げ忠義に死す犬だ。
 自分は決してサーシャの思うような聖人君子ではない、美徳をすべて兼ね備えた高潔な人間ではない、サーシャがそうあってほしいと願う理想の兄ではない。
 サーシャの願いとアルセニーの今はかけ離れている。
 鏡を挟んだ虚像と実像が相容れないのと同じくサーシャの理想とアルセニーの実態は乖離しているのだと、けれども直接本人に告げる勇気はない。

 自分は卑怯者だ。何より自分自身が承知している。
 自分は偽善者だ。何より自分自身が承知している。
 言い訳はしない。
 許されようとは思わない。
 許してくれとは言えない。

 『陛下を愛してます。心の底から』
 『貴方は次代ロシアを導く偉大なる皇帝として生を受けたロマノフの末裔です。自分を卑下なさらず常に誇り高くあるよう進言します』
 『国民は皆貴方が好きです。貴方に期待しています。貴方は皇帝です、貴方は我々の希望です。だかららどうか陛下、そんな哀しいことは言わないでください。自分が誰からも必要とされてないなどと嘆くのはおやめください。貴方はロシアの誇りなのですから』

 冬枯れの広場で霜焼けに爛れた小さな手をさすりアルセニーは言い聞かせた。
 サーシャは悄然と項垂れアルセニーの語りを聞いていた。
 アルセニーは罪作りだとわかっていながら幼いサーシャに希望の種を植え付けた。
 酒浸りの団長に鞭打たれ気ままに足蹴にされ生傷と痣の耐えぬ過酷な生活を送る異母弟を哀れみ、彼が前向きになってくれるならと、少しでもこの辛い現実を忘れ微笑んでくれるならと忠実な臣下を演じ続けた。
 初めて出会ったときのみすぼらしい身なりはアルセニーに衝撃を与えた。
 彼が安らぎを見出す手伝いができるならと、アルセニーは青年らしい浅はかな情熱に浮かされ荒唐無稽な空想に付き合い続けた。

 それがどんな結果を生むかなど考えもせず、
 わかっていても見ないふりをし。

 「……………」
 今さら迎えにきても遅い。
 許しを請うのは卑怯だ。
 自分がこれまでサーシャにしてきた仕打ちを考えれば拒まれても当然だ。しかしこれ以上サーシャをここにおいてくわけにはいかない、薬物中毒の症状が深刻化したサーシャを放置するわけにはいかない。
 一刻も早く国に連れ帰り適切な治療を受けさせねば命にかかわる。

 サーシャを失いたくない。絶対に。

 体の脇で決意を表し拳を握りこむ。
 苦悩の翳りがさす美貌を伏せて歩いていたアルセニーは、いつのまにか南棟への渡り廊下にさしかかったのにも気付かない。
 「ようこそ日本へ。待ちくたびれましたよ」
 底知れぬ凄みをおびたバリトンが鼓膜を叩く。
 反射的に顔を上げる。
 靴音が唐突に止む。
 渡り廊下の中央で立ち止まったアルセニーは、前からやってくる人影に胡乱な目を凝らす。
 廊下奥の暗がりから大股に歩み出る影を蛍光灯が暴きだす。
 不規則に点滅する蛍光灯が束の間暴き出したのは分厚い眼鏡をかけた胡散臭い七三分けの囚人。
 柔和な垂れ目を裏切るようにその視線は鋭く立ち居振る舞いに隙はない。
 上着越しに存在を主張する鍛え上げた肉体が威圧感を放つ。
 廊下の奥から姿を現した囚人は、嫌味ったらしい仕草で眼鏡の弦に触れ位置を上げてから、いかにもとってつけたような笑みでアルセニーを労う。
 「部下の方々を巻くのに苦労されたのでは?」
 「どこかの囚人と違って聞き分けがよくて助かった」
 囚人が低く笑う。
 アルセニーは無言で微笑む。
 空気が帯電したような沈黙。
 さも愉快げに喉を鳴らす囚人と十メートルの距離を保ち対峙したアルセニーは、前もって準備していた言葉を投げかける。
 「ロシア軍情報局にあの映像を送信したのは君だね」
 「何を証拠に?」
 口元にだけ笑みを浮かべ試すように言う。
 アルセニーは小さく息をつき、自分が祖国ロシアを離れここへ来ることになったそもそもの発端を話しだす。
 「……数日前、ロシア軍部情報局のマスターサーバーがある映像を受信した。発信源は日本だ。ロシア軍部情報局のサーバーは重要機密を守るため外部からの侵入者に対し厳重なプロテクトをかけていたのだが、こともあろうにそれが破られた。サーバーをハッキングした相手は情報局にのみ開かれた回線を通じある映像と文書を送り付けた」
 「どんな映像ですか」
 「囚人虐待映像といえば察しがつくだろう」
 多くは語りたくないといった口調でアルセニーが苦々しく呟く。
 ロシア軍部情報局のパソコンに表示された数々の衝撃的な映像の中には、肩で切りそろえた銀髪の青年が群集の前で犯される動画も含まれていた。
 あの時の衝撃、憤怒、悲嘆が生々しく蘇り視界が真紅に染まる。
 数年ぶりに見た弟はパソコンの四角い画面の中で見知らぬ男に陵辱されていた、コンクリート造りの展望台らしき場所で大勢の囚人に囲まれ下卑た野次と嘲笑を浴びせられ性器を暴かれ痴態を晒していた。

 あの時の怒りと絶望がアルセニーに決断を促した。
 日本に来る決断を。

 「同時に添付されていた文書には東京少年刑務所の杜撰な実態や看守の非人道的仕打ちの数々が列挙されており、今現在東京少年刑務所に収監中のロシア国籍の囚人がリストアップされていた……看過するわけにはいかなかった。これまで東京少年刑務所にロシアの未成年が収監されていることを知りながら見て見ぬふりをしていた政府も、ロシア軍部のサーバーに直接届いた匿名の告発文書には重い腰を上げざるをえなかった。証拠画像も添付されていたしね。だから私が今ここにいる」
 「なぜ我輩が犯人だと?」
 食えない笑みではぐらかす囚人を冷ややかに見つめアルセニーは言う。
 「公けにはされてないが、我が国のサーバーに侵入した何者かはもうひとつ重大な置き土産を残していってね。政府が重要視するのはむしろそちらだ。囚人の送還は我々をここに送り込むための建前に過ぎない」

 再び沈黙がおちる。
 蛍光灯が点滅する。 

 光と闇とが交錯する渡り廊下の中央にて対峙する軍人と囚人、互いの真意を推し量る視線が交錯する。
 沈黙を破ったのは、南の隠者……ホセだ。
 「貴方はきっとここに来ると思いましたよ。弟さんが囚われた場所へね」
 カツン、カツン。
 点滅する蛍光灯の下、真意の読めない笑みを浮かべたホセが嗜虐的に目を細めアルセニーに歩み寄る。
 自分の優位を微塵も疑わない歩みはいっそ威圧的でさえある。
 アルセニーは無言でホセを待ち受ける。
 距離が徐徐に縮まる。
 五メートル、三メートル、一メートル……停止。
 靴音が止む。
 残響が大気に溶ける。
 南棟へと通じる渡り廊下のほぼ中央にて、互いに密命を帯びた南の隠者と軍人が対峙する。
 「データベースに侵入し調書を読んだ時からサーシャ君に目を付けていました。彼に軍人の兄が知ると知ったときからね」
 ホセが微笑みを深める。何もかも自分の思惑通りに運んでるといった優越感を込め、淡々と語りだす。
 「サーシャ君を所長に近付けたのも計算のうちです。我輩はこうなるのを予期していました。当初はサーシャ君を操り所長を暗殺させようとしたのですが、いくつか不測の事態が起こりシナリオの変更を余儀なくされました。サーシャ君が所長を暗殺した場合はその事実を盾にとり貴方をおびきだすつもりでいました。サーシャ君を大事に思う貴方は何をおいても駆け付けてくるはずです」
 「私をおびきだすのが狙いだったのか」
 「ロシア軍部を動かすのが狙いでした」
 落ち着き払って応じるホセにアルセニーは眉をひそめ不審と不快を表明する。
 「まあ結果よければすべてよしです。我輩の告げ口が功を奏し貴方はすぐさま飛んできた。できればもっと早くお目にかかりたかったのですが…情報局に送り付けた映像の大半は所内に設置されている監視カメラからの流用です。なかなか見ごたえがあったでしょう?お気に召していただければ嬉しいのですが……あれの一部は国連にも送りました。ロシアが隠蔽工作を図った場合に備えてね」
 「我が国の体質をよく理解してるじゃないか」
 「ソビエト時代から秘密主義のお国柄ですからね。国連の監視下におかれれば嫌でも査察に来ざるを得ない」
 ホセがおもむろに手を掲げる。
 左手薬指の指輪が蛍光灯を反射し鈍い光沢を放つ。
 眼鏡を取り外したホセがアルセニーに素顔を向ける。
 分厚い眼鏡をはずした顔からおもねるような胡散臭い笑みが一掃され、彼本来の凶暴性を秘めた笑みが猛獣の牙の如く閃く。
 「君の目的は何だ?」
 「貴方と同じ……否、貴方をさしむけた国と同じですよ」
 強靭な体躯が放つ威圧感に喉が渇く。
 軍服の胸元に伸びトカレフを探ろうとする手を意志の力でねじ伏せ努めて平静を装う。
 野蛮な笑みを閃かせたホセが靴音も高らかに距離をつめアルセニーの眼前に来る。胸を接する距離にまで迫ったホセがアルセニーの耳朶に口を寄せる。
 「地下に眠る物を掘り出したいのです」
 湿った吐息が耳朶をくすぐり悪寒が走る。
 蛍光灯の点滅の間隔が狭まる。
 闇に呑まれたホセが笑みを浮かべてるか否か目視できず得体の知れぬ不安が襲う。
 蛍光灯が点く。
 消える。
 点く。
 消える。
 半身を闇に蝕まれたホセがそこはかとなく不気味な笑みを浮かべアルセニーを眺める。
 「君の正体は?」
 蛍光灯の光が指輪をすべる。
 ゆったりと優雅な動作で顔面に手を翳したホセが指輪の輝きに魅了されたかの如く恍惚と目を細める。
 追憶に浸るかの如く柔和な光にぬれた目と仄かな笑みを浮かべる口元に何故だか怖気を感じる。
 頭上に翳した左手を角度を変え翻しとくと眺め、蛍光灯を反射して眩くきらめく指輪に魅入られ、ここならざる彼方に心を飛ばす。
 「我輩はカルメンのしもべ、不滅の愛に殉じるドン・ホセです」
 黒い肌と冴え冴えと対照をなす白い歯が眩い。
 ホセが厳粛に面を伏せ左手薬指に口付ける。
 指輪の表面に唇が触れる。
 永遠の愛を誓う儀式にも似て神聖な接吻を済ますと、挑戦的なまなざしをアルセニーに叩きつける。
 「我輩のすべてはカルメンの心のままに。カルメンの願いが我輩の望み。カルメンの願いを叶えるためなら我輩手段を選びません」
 「私は……」
 私は何だ?
 語尾が途切れる。
 アルセニーは戸惑う。
 ホセは小馬鹿にした顔つきでアルセニーを見下す。
 アルセニーは体の脇で拳を握りこみ苦悩の色濃く瞼を閉ざす。
 自分は軍人として任務を遂行しにきたのか兄としてサーシャを迎えにきたのか、はたしてそのどちらだ?

 『軍の犬に用はない。国に帰れ』

 軍の犬に成り下がった兄に用はないとサーシャは冷たく吐き捨てた。
 サーシャを案じる気持ちと職務を優先する気持ちの狭間で引き裂かれるアルセニー、その葛藤をどこまでも冷徹に見抜きホセが憫笑する。
 「サーシャ君も可哀想だ。大好きなお兄さんがやっと迎えに来てくれたと思ったら、ただ国の命令で動く軍の犬に成り下がっていたなんてね。鎖に繋がれている間もうなされながらずっと貴方を呼んでいたのに」
 「何?」
 アルセニーがさっと顔を上げる。
 顔強張らせたアルセニーに対し、あっさりとホセは言う。
 「ああ、おっしゃいませんでした?サーシャ君を所長のもとに送り込んだのは我輩です。ですが薬物中毒者のままでは使い物になりません、一時的にでも彼を正気に戻す必要があった。クスリを抜くために少々手荒い方法も用いました。暴れる彼を鎖で縛ってベッドに繋いで何日間もー……」
 愉快げに愉快げにホセは言う、アルセニーの表情の変化を心ゆくまで楽しみ残酷な愉悦に酔って調教の細部を物語る。
 アルセニーの顔から表情がかき消える。
 銀糸がかかる薄氷の目が不穏に波立つ。 
 不吉なものを孕む沈黙があたりを覆うのをよそに、アルセニーを精神的に追い詰める行為に倒錯した快楽を見出したホセは嬉々として続ける。
 「サーシャ君は無力な子供に戻り毎日毎晩泣いていました、声枯れて喉から血が迸るまであなたを呼び泣き喚きました。兄さん迎えにきて兄さんどうして来てくれないの僕を捨てたの、ここは冷たくて暗くてひとりぼっち、お願い迎えにきて抱きしめてアルセニーここから救い出してよと……」
 「やめろ」
 声が軋む。
 ホセを睨む目に激情が爆ぜる。
 しかしホセはやめない。
 鎖に縛られベッドに繋がれたサーシャがいかに狂乱を呈し醜態を晒したか、糞尿に塗れ銀髪を振り乱し滂沱の涙を流し暴れ狂ったかを微に入り細を穿ち描写する。
 「可哀想なサーシャくんはベッドに繋がれ毎日毎晩ひっきりなしにあなたを呼んでいました、覚せい剤の禁断症状に苛まれながら唯一の幸福な記憶に縋り愛する兄の名を呼びました。しかしあなたは来なかった、あなたはとうとう来なかった。あなたとサーシャ君の間に何が起きたか聞きました、サーシャ君がすべて話してくれました。飢えと乾きに苛まれ我を失ったサーシャ君が口走った断片を繋ぎ合わせ真実を知りました、貴方はかつてサーシャ君と……」
 ホセが爛々と目を輝かせ饒舌にしゃべるあいだアルセニーは痛みを堪えるように沈黙を保っていたがそれも限界、心の裂け目から記憶の洪水とともに激情が噴き上げて理性が沸騰しアルセニーはかつて自分たち兄弟の間に起きた忌まわしい過ちを別離のきっかけとなった事件を思い出す。

 『兄さんは何もわかってない』 
 耳の奥で蘇るサーシャの悲鳴じみた声、服が引き裂かれる甲高い音、押し倒されたベッドの弾み、胸板を性急に這い回る熱い手。
 抗おうにも弛緩した体に力が入らずアルセニーはされるがままサーシャの愛撫に乱され、そしてー……

 「大尉ッ!」
 慌しい靴音が急を知らせる。
 
 現実に引き戻されたアルセニーの背後に尋常ならざる靴音が迫る。
 振り向いたアルセニーはこちらにむかって息せききって駆けてくる部下を見る。
 「何事だ?」 
 「大変です大尉、たった今副所長のもとに連絡があって、その、北棟の囚人が……大尉がヘリを下りて最初に会った囚人が……」
 皆まで言わせずアルセニーは走り出す。
 『北棟の囚人』『ヘリを下りて最初に会った人物』……
 それらの単語がさす特定の人物が閃き言い尽くせぬ不安に駆り立てられる。
 部下を引き連れ駆け出したアルセニーを渡り廊下の中央に立ったまま見送り、ホセが呟く。
 「お行きなさい、軍の犬」
 ホセの嘲弄すら風を切って猛然と走るアルセニーの耳には届かない。
 床を蹴るアルセニーの脳裏にあらゆる最悪な想像が浮かぶ。
 アルセニーはサーシャの無事を一心に祈り長い長い気の遠くなるように長い通路を経て漸く北棟への渡り廊下に達する。
 迷わず北棟に渡る。
 北棟に渡ると同時にあたりを看守が行き交い数名の囚人が連行されていく。
 罵声と怒声が交錯し騒然とする周囲を見回し、焦燥に駆られサーシャをさがす。
 人だかりに見知った人物を発見したアルセニーは毅然とした足取りでそちらへ向かう。
 「何があったんです」
 副所長が居た。アルセニーの接近に気付いて向き直った副所長の顔に沈痛な色が浮かんでいるのを見て取り、胸に凝る得体の知れぬ不安が徐徐に現実のものへと変わっていく。
 副所長は一瞬言葉に迷い下を向くも、アルセニーに隠し立ては通じないと決心し、再び顔を上げる。
 「……北棟の囚人が複数で一名を輪姦した。本来この時間帯は囚人全員が強制労働に出払ってるはずだが、看守に賄賂を渡し労働を免除された数名が居残っていたんだ。彼らは裸同然で放置されていた被害者を見つけ、そして……」
 心臓が強く鼓動を打つ。
 「………サーシャ………」
 まだ何か言いたげな副所長に背を向け人だかりに分け入るアルセニー、看守に組み伏せられ激しく抵抗する囚人は無視し一直線に事件現場へ向かう。
 硬質な靴音を響かせ突如現れた銀髪の軍人、その全身から立ち上る抑制された怒りの波動に床に這い蹲った囚人はおろか看守までもが息を呑む。
 毅然たる足取りで事件現場に踏み込んだアルセニーは、眼前に広がる惨状に絶句する。
 サーシャがいた。
 一糸纏わぬ全裸で廊下の真ん中にうつ伏せていた。
 彼の身に何が起きたか一目瞭然だ。
 肩で切り揃えた髪は無残にほつれて方々に散らばり、剥き出しの肩にも背中にも腿にも全身至る所に大量の精液が付着していた。
 精液だけではなく傷口からの出血も混じっていた。
 一体何人に犯されたのか、肛門が裂けて出血しているのだ。
 変わり果てた弟の姿にアルセニーは言葉を失い、傍らに膝をつく。
 サーシャは廊下の真ん中にうつ伏せたまま完全に意識を失い動かない。
 裂けた肛門からはゆるりと内腿を伝い血が流れ続けている。
 アルセニーはしばし呆然と弟を見下ろしていたが、やおら手を伸ばし頭をなでる。
 生渇きの白濁がこびりつきごわついた髪を、微塵も躊躇うことなく一抹の嫌悪も覗かせず、限りない慈しみをもって撫でる。
 周囲の看守と囚人は一瞬動きを止めアルセニーの背中を凝視する。
 「私が運ぶ」
 誰にともなくアルセニーが言い、サーシャの体を慎重に表返す。
 くたりと力なく萎れた膝裏をしっかりと手で支え、もう一方の手を肩にあてがう。
 サーシャを横抱きに抱えたアルセニーが歩き出すのをその場の全員が呆然と見送る。
 アルセニーは無言で腕の中を見下ろす。
 アルセニーの腕に抱えられたサーシャは青ざめた瞼をおろし疲労と憔悴の色濃くまどろんでいる。
 髪には白濁が絡み十数人もに代わる代わる奉仕を強要された口の端は裂けて血が滲み全身の皮膚が青や黒や黄褐色の濃淡にとんだ痣に蝕まれている。体を覆う端切れひとつとてなく、コンクリ剥き出しの寒々しい通路に放置されていた弟を優しく抱き上げたアルセニーは、少しでもぬくもりが伝わるようにと軽い体を胸に凭せる。

 冬枯れの空の下で、幼いサーシャにそうしたように。
 冷たく骨ばった体をぎゅっと抱きしめる。

 『………………Я виноват.』
 裏切りの代償は、あまりに重い。


にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050303135000 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天