ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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九話

 椅子の背凭れが床を叩く。
 足元に血溜まりが広がる。
 床の木目を染めてつま先に触手を伸ばす血を虚ろに辿る。
 鈍重に視線を上げる。
 足元の床に白衣を着た男がうつ伏せている。
 後頭部には裂傷ができ大量の血が流出している。
 髪の合間をぬらし床に溜まる大量の血にあの時の光景がフラッシュバックする。
 雨音がこもる書斎にて父に走り寄る小柄な影。
 父が足音を聞きつけ振り向くと同時に子供の細腕が空を薙ぎその手に握られたナイフが鋭利に閃きそしてー……

 自分がした事の恐ろしさに凍りつく恵。
 ナイフを染める鮮やかに赤い血。

 激しくかぶりを振り不吉なイメージを追い払う。
 雑念に囚われている暇はない、優先順位を履き違えるな。
 今にも萎えて崩れ落ちそうな膝を気力のみで支え胸郭を上下させ深く息を吸い込む。
 心臓の鼓動が速まり殆ど一音に聞こえる。
 一瞬の狂乱が過ぎ去ったあとに訪れたのは、自分がしてしまった事に対する衝撃と混乱。
 僕は何をした?
 何をしてしまった?
 脳裏で疑問が吹き荒れる。
 答えは目の前に提示されているも硬直した脳が現実を拒否する。
 現実感が希薄になる。
 心と体が分裂する。
 脳が命令を飛ばしても指先はすぐには動かず反応を示すまでに半透膜の中を泳ぐような時差がある。
 今立っている場所がどこか分からずどうしてここにいるのか前後関係が空白になり不安に襲われる。

 自分の存在が虚無に呑まれて消えそうな不安。
 自我が空白に蝕まれ理性が食い荒らされていく本能的恐怖。

 一時的な心神喪失から回復するのに数秒の時間を要する。
 放心状態から醒めた僕は改めて足元の床と血だまりと意識を失くした白衣の男を見比べ自分がしてしまった事の重大さを痛感する。
 僕は斉藤を殺した。
 この手で殺した。
 その事実が全方位から空間を撓ませ圧力をかけてくる。
 呆然と掌を開く。
 手にはまだまざまざと感触が残っている、斉藤を殴り殺した時の感触が。
 僕は斉藤の熱弁を遮り机に飛び乗り思い切り椅子を振り上げた。
 一切の手加減なく即死を狙い力任せに頭部を殴打した。
 椅子の固い脚が頭蓋骨に激突し手首にずんと衝撃が伝わった。
 手首が折れるかと思うほどの衝撃だった。
 風切る唸りとともに振り上げた椅子は狙い過たず斉藤の頭部を直撃し、椅子の脚で頭を強打された斉藤はその時点で完全に意識を断ち無防備に身を投げ出した。
 重心の統制を失った体が床に叩きつけられるまでの数秒間がこまおとしのフィルムのように網膜に焼き付く。
 「―はあっ、はあっ、あ………」
 指先が痺れる。
 掌が震える。
 震えを握り潰すように五指を固く閉じる。
 覚悟、していたはずだった。この結果は事前に予期していたはずだ。それでも手の痺れはおさまらずまるでそれは罪の証のように……馬鹿な。
 抗い難い力に引き寄せられ一歩を踏み出す。
 スニーカーにぴちゃりと血が跳ねる。
 二歩目、三歩目……ぴちゃり、ぴちゃり。雨だれのように血が跳ねる。
 血塗れた靴裏をひきずり慎重に死体に歩み寄る。
 歩いたあとにできる足跡をかえりみる余裕もない。
 今すぐ踵を返し逃げ出したい衝動を自制心を総動員し押さえ込み死体の至近に立つ。

 生死を確かめなければ。

 唐突にその考えが閃く。
 そうだ、まだ死んだと決まったわけじゃない、気を失っただけの可能性もありうる。
 その仮定に恐怖よりむしろ安堵した事実を否定できない。
 白衣の肩に手を伸ばし上向かせようとしてためらう。
 もし死んでいたら?
 即死だったら?
 恐怖と苦痛に彩られた凄まじい死に顔を連想し手が迷う。
 カッと剥かれた瞳孔、弛緩した口、永遠に凍りついた表情……
 胡散臭い医師のイメージとはかけ離れた死者の面相。

 確かめなければ。

 「…………」
 手にぐっと力を込める。
 斉藤の肩を掴み一息に裏返す。
 一瞬視界が白く翳ったと思いきや、白衣に包まれた腕が顎先を撫で去って床におちる。
 糊の利いた白衣が顎先を撫でる感触はひんやりした刃物を突きつけられるのに似ていた。
 天井を仰いで微動しない斉藤の顔を真上から覗き込む。
 斉藤は青白い瞼を閉ざし唇の隙間から弱々しい呼気を吐いている。
 生きている、辛うじて。
 安堵とも失望ともつかぬ虚脱感が僕を襲う。
 僕は斉藤の傍らに屈み込み念の為首筋に指をあて脈拍をとる。
 弱いが確かに脈がある。
 ぐっしょり血を吸った髪の毛が額に覆い被さる。
 血に塗れた鳶色の髪は所々こげ茶に変色している。
 息を殺しにじり寄り頭部の裂傷を観察する。
 頭部の裂傷はパイプ椅子で殴打された際にできたもので直径8センチはある。早急に縫う必要があると結論、無意識に延命の可能性を探っている自分に気付き愕然とする。

 とどめをささなければ。
 延命の選択肢をむりやり横にどけ殺意を奮い立たせる。

 床に手を這わせ再び椅子を掴む。
 椅子の冷たさが手に伝わり悪寒が走る。
 さあ早くとどめをさすんだ、意識を取り戻し犯人の名を叫ぶ前に。
 使命感と義務感に駆り立てられ椅子を振り上げる。
 再び斉藤の前に椅子を持ってきて停止する。
 斉藤は現在意識を失っている。
 とどめをさすなら今だ、今しかない。 
 一回で死なないなら二回、二回でだめなら三回、三回でだめなら四回。五回、六回、七回、八回、九回、十回……何度でも。
 斉藤が完全に息絶えるまで折れ砕けた頭蓋骨の欠片が脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜるまで何度でも繰り返しやってやる、椅子を振り上げ振り下ろし腕がくたびれてもやめず原形を留めなくなるまで叩き潰してやる。
 さあやるんだ。
 こんな偽善者死んで当然だ、恵を危険に晒す人間を葬り去るのは正しい事だ。理性が必死に今の行為を正当化する、さっきしたこともこれからする事も間違ってないと思考の土台を欺瞞で補強する。
 僕は人殺しだ。
 一人殺すも二人殺すも同じだ、今さら何をためらうことがある?
 さあやれ、やるんだ。
 ぐったり横たわる斉藤の顔に椅子の影が落ちる。
 唇の隙間からか細く息を吐く姿が痛々しい。
 今斉藤を殺すのは簡単だ、逆に言えばチャンスは今しかない。
 斉藤の頭上に椅子を掲げたままの姿勢で停止する。
 椅子を振り下ろす事はいつでもできる。
 抹殺の準備は万端だ、あとは決断のみだ。
 静寂に包まれた図書室の片隅にて、僕は頭上に椅子を振り上げた不自然な体勢で凍りつき、顔面蒼白の斉藤が床で死に瀕している。
 やれ、と心の片隅でもう一人の自分がけしかける。
 けれども手は動かず棒の如く宙に突き立ったまま永遠とも思えるあいだ静止している。
 恵の面影が脳裏に去来する。
 サムライの面影が殺意を鈍らせる。
 恵が僕を促しサムライが僕を引きとめ僕はその間で脂汗を流し葛藤する。
 振り上げたものを振り下ろす、たったそれだけの動作にこれほどまでに勇気がいるのは何故?
 人を殺害するには非常な決断力を要する。
 衝動的な殺人は別として、明確な殺意を抱き誰かを殺そうとすれば終始ためらいが付き纏う。
 戦争など大量殺戮が栄誉の前提となる異常な状況下ならいざ知らず、社会秩序を守る上で殺害は最大の禁忌だ。人を殺せばストレスがかかる。社会通念に縛られた罪の意識や道徳上の自責の念それらを一切を感じずにすむ人間がいるならお目にかかりたいものだ。同胞殺しを禁じる理由は単純だ、殺害に伴うストレスが心を壊すほどに甚大だからだ。誰も自ら好んでストレスを抱え込みたいとは思わない、そんなマゾヒスト滅多にいない。

 だから恵は壊れた。
 自分が犯した罪の重さに耐え切れず、頑なに心を閉ざして現実から逃避した。

 「…………っ…………」
 真実を知る者は斉藤だけだ、斉藤がいなければすべて丸くおさまる。
 なのにどうしても決心がつかない、もう一度椅子を振り下ろす決心が。
 ただ手に持ったものを振り下ろせばいい、そうすれば重力に従って腕がおちて今度こそ完全に頭が潰れる。
 僕にはその光景が幻視できる、一秒先の未来のように細部にいたるまで鮮明に。
 いい加減腕が疲れてきた。
 今すぐ椅子を振り下ろし重責から解放されたい誘惑が心の隙間に忍び込む。
 それを阻むのは脳裏を過ぎ去る斉藤の顔、三ヶ月ごとに欠かさず送られてきた手紙の文面。
 斉藤はいつでも真剣に僕の話を聞いてくれた、馬鹿にしたり茶化したりせず真っ直ぐ目を見つめ僕の告白を聞いてくれた。
 『僕もイワンに同感だ』
 柔和な声が耳に蘇る。
 『理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない。それが医師としての僕の信条でね』
 はにかむような笑みが蘇る。
 期せずして本音を喋った事を照れてごまかすような笑みだった。
 あの時こそ僕は斉藤を身近に感じた、彼なら信用できると思った。
 彼が信頼に足る男だと確信を得たのはあの時だ、理不尽に痛め付けられたものたちの代弁者として信条を吐露したあの時だ。
 僕はいつのまにか斉藤に心を許し始めていた、警戒を緩め彼の言葉に耳を傾け始めていた。
 迂闊だった。
 斉藤など信用するんじゃなかった、図書室になどついてくるんじゃなかった、斉藤に相談などしなければよかった。
 今さら後悔しても遅い。
 僕は僕自身の手で決着をつけねばならない、斉藤を殺して口を封じなければー……
 笑みの残像が瞼裏にちらつく。
 医務室の椅子に腰掛け囚人の相談を受ける斉藤を思い出す。
 安田と二人何やら話してる時の親しげな横顔を、膝の上で緩やかに五指を組み僕を覗き込む顔を、机上のブックエンドに立て掛けられていた文庫本を思い出す。 

 カラマーゾフの兄弟。
 僕の愛読書。
 僕が好きな本を、斉藤も好きだと言った。
 僕と同じ箇所が好きだと言った。

 「………だから何だ?」
 ただ同じ本が好きだけじゃないか。
 同じ記述に刺激を受けたからといってそれがどうした、それだけじゃないか。殺しを思いとどまる理由にはならない。
 安田の顔が脳裏に浮かぶ。
 斉藤が死んだら安田は哀しむだろうか?……安田は今関係ない、目の前の案件に集中しろ。しかし頭が勝手に想像してしまう、斉藤の死を哀しむ安田を想像してしまう。
 二人は十年来の友人だった。
 斉藤はおそらく安田にとって数少ない友達で、斉藤の殺害は安田から数少ない友達を奪い去る事でもあり、僕は僕の隣から永遠にサムライが消えてしまったらと想像し言い尽くせぬ絶望に打ちひしがれる。
 医務室から斉藤が消える。
 安田の隣から斉藤が消える。
 斉藤の不在に喪失感を抱く。
 斉藤は東京プリズンに来て一週間で自分の居場所を確立していた、医務室の机の前に安田の隣にいなければならぬ人物として周囲に認識されるようになっていた。
 僕が斉藤を殺せば安田はどうなる、斉藤を必要とする心を病んだ囚人たちといまだ治療中の患者たちは?
 「他人のことなどどうでもいい、恵さえ無事ならそれでいい」
 多少なりとも自己暗示の効果を期待したのだが、口に出した途端に言葉は薄っぺらくなる。
 斉藤は恵の事を本当に心配していた。
 恵と僕の事を真剣に気遣い深刻に憂慮し僕たちを救う方法を模索していた。
 理不尽に痛めつけられたものの涙は贖われなければならない。
 斉藤は自分なりのやり方でそれを証明しようとした、性急なのは否めずとも根底を貫くのは医師の信条で人間の信念だった。

 『変わってないな斉藤。そのふざけた性格も』
 やめろ。
 『ヤブはヤブだけどマシな方だぜ。気休めの治療もしてくれるし』 
 やめろ。
 『見た目は軽いけど案外話がわかるやつだぜ。俺たちのこと馬鹿にしねーのが気に入った』
 やめろ。

 これ以上僕を惑わすな躊躇させるな抑止するな、僕はもう引き返せないのだから、引き返すわけにはいかないのだから。
 もう一度振り下ろせばすべてが終わる、とどこおりなく片が付く。
 シャツの下で狂ったように心臓が跳ね回る。
 椅子を握る手が緊張に汗ばむ。
 床に倒れ伏せた斉藤は脂汗に塗れた苦悶の相を浮かべている。
 命乞いも弁解もせずさあ殺してくれと言わんばかりに四肢を投げ出し……
 
 『Hоld up』

 胸を撃ち抜かれた気がした。
 声がした方を反射的に振り仰ぐ。
 声は頭上から降ってきた……二階だ。
 たった今まで無人だと思いこんでいた図書室に突如振ってわいた声の主を見極めようと鼻梁にずれた眼鏡越しに手摺の向こうを走査する。
 問題の人物は怠惰に手摺に凭れていた。
 手摺に上体をもたせて頬杖ついたその人物は、明るい藁色の髪を奥の目を意地悪そうに細め、一抹の好奇心を覗かせこちらを眺めている。

 レイジ。
 否、暴君。

 いつのまに。
 驚きのあまり声が出ない。
 虚しく口を開けた僕を無視し暴君が思いがけぬ行動をとる。 
 僕の視線を受けた暴君はしなやかに腰を捻り、豹の跳躍を彷彿とさせる俊敏な身ごなしで手摺を飛び越える。
 手摺を支点に虚空に身を投げ出した暴君は重力の法則に従い垂直に落下する。
 風切り落下する暴君の髪が華麗になびき、風を孕み舞い上がった前髪の奥の隻眼が外気に晒される。
 暴君は少しも慌てふためく様子もなく膝を僅かに撓め重心を調節し、瞬き一回のちには着地の靴音も軽快に一階に降り立っていた。
 落下の衝撃を膝の屈伸で減殺し、最小限の動きで二階からの飛び降りという無謀を成功させた暴君は、肉食獣を思わせる獰猛な貫禄ただよう大股でこちらにやってくる。
 「……いつからそこにいた?」
 喉にひっかかった言葉を釣り上げる。
 暴君は道化た仕草で肩を竦める。
 「最初からだよ。お前が気付かなかっただけだ」
 暴君は気配を消す術に長けている。
 靴音も高らかに暴君がこちらにやってくる。
 一歩距離が縮まるごとに威圧感が膨らむ。
 僕は椅子を掴んだまま棒立ちで暴君を待ち受ける。
 乾いた唇を湿らし慎重に問う。
 「全部見ていたのか?」
 「お前と斉藤の話し合いからお前がド派手なパフォーマンスで斉藤をぶん殴るとこまで全部。青白い坊やに椅子を持ち上げる腕力があったとは驚きだ」
 暴君が笑う。本当に楽しそうに笑う。
 背中を汗が伝う。椅子を掴んだ手が強張る。
 全部見られていた。
 目撃者がいた。
 ガン、重たい音がする。何事かと視線をおとせば僕の手から滑り落ちた椅子が床に転がっていた。僕の正面わずか1メートルで暴君が立ち止まり、わざとらしく首を伸ばし斉藤の様子を窺いはじめる。
 「……今の話を聞いていたのか」
 自然と声が低まる。暴君は自分の耳を指さし言う。
 「俺が地獄耳だって忘れたのか。その気になりゃ100メートル先の本のページをめくる音だって聞こえるさ」
 暴君は僕と斉藤の会話すべてを聞いていた、事件の真相も何もかも。
 おしまいだ。
 「サーシャはどうした、一緒じゃないのか」
 衝撃に麻痺した心が現実逃避の質問を舌にのせる。
 サーシャの名を聞いた暴君はかすかに眉をひそめる。
 そんな名前の人物は知らないといった要領を得ない反応に違和感が疼くもすぐに眉間の皺は晴れ、「思い出した」といわんばかりに明るい笑みが浮かぶ。
 「飽きたから捨てた。どのみち壊れちまったし」
 「壊れちまった」の意味を深く追求してみる気は毛頭なかった。
 僕は暴君から注意深く距離をとり、斉藤を背中に隠す。
 斉藤を背に隠す僕に意味深な視線を向け、暴君が囁く。
 「ー助けてやろうか?」
 「なんだって?」
 耳を疑う。
 僕の正面に立ち塞がった暴君は気負ったふうもなく相変わらず薄い笑みを浮かべ僕の動向を窺っている。
 僕の背後の斉藤と床の血痕と慄然とする僕とを見比べこの上なく愉快そうな笑みを浮かべる暴君、その顔はこの上なく悪魔的だ。
 「助けてやるって言ったんだよ」
 暴君が無造作に足を踏み出す。
 ぴちゃりと音をたて靴裏が血だまりに没するのも気にせず、スニーカーに跳ねた血痕にもたじろがず、悠然とこっちにやってくる。
 「衝動的に殺っちまったものの後始末に困ってるんだろ?わかるよ、顔にそう書いてある。よーくあたりを見回してみな。床は血だらけで斉藤はぶっ倒れてお前は椅子を握り締めたまんまだ、今ここに看守が踏み込んだら何があったか一目瞭然だぜ。お前は独居房送り確定だ」
 唄うような抑揚で言い斉藤の傍らに屈みこむ。
 慣れた手つきで斉藤の髪をかきわけ傷口と出血量を検分し、首筋に指をあて脈をとる。
 「スカトロ趣味がねー奴に糞尿垂れ流しの独居房はすすめねーよ。けどま、素人が一から十まで死体を始末すんのは無茶な話だ。その点俺なら安心だ、戦場生まれの戦場育ちで死体の後始末はばっちり心得てる。どうだ?俺に任せた方が上策だろ」
 すっと指を引っ込め試すように僕を見る。
 心の奥底まで見透かす透徹した目に戦慄を禁じえない。
 「僕を助ける理由は?」
 芯から震えるような恐怖を押し殺し最大の疑問をぶつける。  
 「暇つぶし」  
 暴君があっさり答える。
 「どうする?どっちでもいいぜ。俺の誘いを蹴ってひとりで頑張ってみるのもいい、あんよが出るのを承知でな。天才お得意の机上の空論が死体の始末に役立つとは思えねーけどな。床の血を拭くにしたって一人じゃ手に余る、死体を運んで隠すのだって一人じゃ大変だ。お前ひとりでこれ全部片付けるのは骨が折れるぜ。ぐずぐずしてたらじきに看守がやってくる、椅子が転がって血が飛び散って斉藤がぶっ倒れた惨状を見るなりぶったまげてお前は独居房直通コースだ。ムショ内で医者相手に傷害事件を起こしたとなりゃ最低でも一週間食らい込むのは確実、お前にとっちゃそれ以上まずいことに……」
 暴君が膝を伸ばし立ち上がる。
 褐色の指が泳ぎ僕の頬を包む。
 拒む暇もない早業。
 暴君の顔が間近に来る。
 吐息が交わる距離に、睫毛が縺れる距離に。
 僕の頬を片手で包んだ暴君が優雅に長い睫毛の淵に憐憫の情を閃かせる。
 「意識を取り戻した斉藤が真相をしゃべったら?」
 魅惑の抑揚をもつ声が強烈な媚薬のように脳髄を痺れさせ思考力を奪う。
 暴君の声に、瞳に魅了される。
 暴君は僕の頬に手をあてたまま唇が触れそうで触れない微妙な距離に顔を持ってくる。
 熱く湿った吐息が顔にかかる。
 肉食獣のフェロモンにも似た野生的な汗の匂いが官能の熾火を煽り立てる。
 「舌は災厄の器官だ」
 唇が耳朶に近付く。
 耳朶に纏わる吐息が酩酊を誘う。
 体の脇で手を握り込み顎を引き暴君を見返す。
 「地獄におちるのは僕一人で十分だ」
 恵を引きずり込んでなるものか、絶対に。
 恵を守る為ならなんだってする、人殺しも厭わない。
 決意も新たに暴君を睨みつければ、その言葉に狂喜したかのように箍が外れた哄笑が炸裂する。
 「ははははははははっ、言うと思ったぜ!これじゃどっちが偽善者だかわかりゃしねーな、お前が世界で一番大好きな妹はお前に庇われることなんかちっとも望んじゃないのにお前はただ自分がそうしたいからそうするんだ、妹を守る為とか屁理屈こねながらいつだって自分の欲望を優先するお前は立派な偽善者だよ、イエス・キリストも真っ青のジューダス・プリーストだ!」
 大袈裟に上体を反らせ狂気じみた哄笑を発する暴君の言葉がひとつひとつ楔を打ち込むように心を穿つ。

 僕は偽善者だ。
 恵は庇われることなど望んでないのに、それでもまだ恵を守ろうとする。

 「…………上等だ」
 憎々しく唇をねじり吐き捨てる。
 哄笑がぴたりと止む。
 「偽善者で結構だ。そうとも、僕は偽善者だ。恵の意志より僕自身の願望を優先する偽善者だ。これまでしてきたこともこれからすることもすべて僕の欺瞞に過ぎない。恵の為というのは自分を納得させるための建前でその実僕は自己満足に生きていたのだ」
 恵にとって最善な方法が今の僕にはわからない、わからないがそれは僕と同じ地獄に来る事じゃない、僕が味わったのと同じ地獄を追体験する事じゃない。
 誰にも恵を親殺しなどと呼ばせたくない、恵の苦しみを何ひとつ理解できずしようともしない連中に妹を親殺しなどと呼ばせたくない。
 その為なら、悪魔に魂を売る。
 事件の真相が明るみに出れば恵は世間から糾弾される、罪を裁かれ女子用の厚生施設に送られる。
 尊属殺人の刑は重い。
 心を病んだ恵が檻の中で過ごす歳月がどれだけ過酷なものか僕には容易に想像できる。
 親殺しに人権はない、親殺しに尊厳はない。
 周囲の囚人に迫害され罵倒され差別される辛い日々の中でいつしか自ら死を望むようになる。
 世界中すべてが敵の環境で誰も信用できず身も心もぼろぼろになっていく恵など見たくはない、既に十分すぎるほど傷ついた恵がこれ以上傷つくさだめを容認できない。

 最後まで恵を守る。
 彼女がそれを望まなくても。

 彼女が妹で、僕が兄である限り。

 「後始末を頼む。彼を処理してくれ」
 努めて表情を殺し斉藤に顎をしゃくる。
 「OK」 
 暴君が不敵に笑う。
 斉藤の脇に屈みこんだ暴君が白衣の裾を引き裂き即席の止血帯を作り裂傷を覆う。
 「血止めだよ。このままじゃどこ運ぶにしてもあと残っちまうし」
 床の血痕に顎をしゃくり、らくらくと斉藤を担ぎ上げる。
 そのまま方向転換した暴君の後についていく。  
 「どこにいくんだ、二階にはヨンイルが……」
 「あいつはいねーよ。好都合にな」
 暴君が軽快な足取りで階段を上る。
 僕は息を切らし後を追う。
 成人男性を負ったハンデなど感じさせぬ剽悍さで階段を上がりきった暴君は書架の間を抜け奥をめざす。
 漫画が並んだ書架の間を歩きながら暴君の肩からだらりとぶらさがった斉藤の足を見詰める。
 「ちょうどいい隠し場所がある」
 なぞめいた言葉をいぶかしむまもなく最奥に到達。
 行く手を塞ぐ移動式書架を見上げ暴君が横手のハンドルを回す。
 埃と軋み音を上げながらレールに沿って書架が移動し人一が通れる隙間が生じる。
 埃臭い闇の中に悠然と踏み込んだ暴君を追い僕もまたためらいを振り切り書架と書架のあいだに潜り込む。
 どさり、鈍い音をたて斉藤の体がおちる。
 行き止まりの書架に背中を預けて斉藤が深々項垂れる。
 「普通の奴はここまで入ってこねえ。入り口閉ざしちまえば時間が稼げる」
 「ヨンイルにばれるぞ」
 「こねーよ」
 「なぜ言い切れる?」
 「勘」
 「そんな不確かなもの信用できない」
 「くどいな」
 暴君がわずらわしげに顔を顰める。
 肌に刺さる殺気を警戒し半歩あとじさる。
 こんな狭い通路で襲われたら万に一つも勝機はない。
 油断なく暴君との距離をはかる僕にちらりと醒めた視線を投げ、ついで足元に顎をしゃくる。 
 暴君の視線を辿って下を向けば、たった今踏み込んだ僕と暴君以外にもうひとつこちらはうっすらと埃が積もった靴跡が点々と続いている。
 「漫画以外に面白いこと見つけてしばらく寄ってないみたいだな。靴跡に埃が積もってんのが証拠だ」
 ポケットに指をひっかけた暴君が飄々と戻ってくる。
 暴君の肩越しに斉藤を窺う。
 斉藤はいまだ意識を取り戻す気配もなくがっくり首を項垂れていて僕の位置からでは生死も定かではない。
 瀕死の斉藤をひとり残して書架を閉ざす事に抵抗を感じるも、緩やかに首を振って未練を断ち切り外に出る。
 「長くは隠しておけない。いつヨンイルが帰ってくるかわからないし、図書室の利用者が斉藤の呻き声を聞かないとも限らない」
 「今日中に別の隠し場所を考えとくさ。今ここでとどめを刺しちまえば呻き声が漏れる心配ねーけど」
 「駄目だ」
 暴君の提案を語気強く遮る。
 暴君が不服げな半眼でこちらを見る。
 胡乱げな眼差しを受けた僕は、内心の動揺をひた隠し眼鏡の弦にふれる。
 「………どのみちあの出血では助からない。呻き声を上げる体力もない死に損ないは放置しておけばいい」
 先刻あれほどまでに自分を奮い立たせとどめをさそうとしたのに暴君の提案を容認できかねるものとして却下したのは、今の彼なら良心の呵責とは無縁に即座にとどめをさすだろう確信をもったからだ。

 僕は斉藤の死を願ってるのか?
 心の底では助かって欲しいと思っているのか?

 「………生殺しか。いい趣味してるぜ」 
 暴君が皮肉に嗤いハンドルを回し入り口を閉ざす。
 重たい音をたて入り口が閉ざされ、通路の奥に蹲る斉藤の姿が視界から消える。 
 斉藤が視界から消えると同時に安堵の息を吐き脱力する。
 たった今閉ざされたばかりの書架に凭れ、面を伏せた僕の横を掌が突く。
 目の前に暴君がいた。
 至近距離からこちらを覗き込み唇の端をふてぶてしく捻り、伸びた前髪の奥の左目を嗜虐の悦びに濡れ光らせる。
 心臓が強く鼓動を打つ。
 口の中が異様に渇く。
 からからに渇ききった口の中には唾ひとつ湧いてこず、視線に呪縛されたように暴君を見返す。
 「忘れるなよキーストア。俺とお前は共犯だ」
 顔の横で開いた五指に力が篭もる。
 五指が軋んで書架が鳴る。
 「俺から逃げようったって無駄だ。お前は一生俺から逃げられない」
 耳の孔に流れ込む毒の滲んだ呪詛……唇をなぞる指。
 「お前は俺の奴隷、死ぬまで一生憎しみの奴隷だ」
 唄うような抑揚でうっとりと呟きながらしつこく僕の唇をなぞる。
 褐色の人さし指がゆるゆると上唇をなで下唇のふくらみに沿いなで上げる。
 指の表面で味わうような淫らな動きに快感に似た悪寒が走る。 
 その手を振り払うこともできた。
 突き飛ばすこともできたはずだ。
 脱兎の如くその場から逃げ出すことも。
 けれどもそうしなかった。
 褐色の指が唇をなぞるたび抵抗の意志が弱まり漣の如く甘美な快感が紡ぎ出され、僕は背中を書架に密着させたまま唇への愛撫を受けていた。
 ポケットの中で涼やかな音が鳴る。
 ズボンに隠していた十字架の鎖が擦れる音。
 暴君が胸板が接する距離ににじり寄る。
 重なり合った胸から鼓動が流れ込む。
 サムライに触れられた時の感覚とは違う背信の棘を含む危険な熱が唇を中心に散り咲いていく。
 おが屑じみて煙る甘苦い背徳の味、
 燻る快感。
 褐色の指が触れた部位に火花が爆ぜる。
 褐色の指が焦らすように唇を辿ったかと思いきや、暴君が僕の肩に顎をのせ前傾し耳元で囁く。
 「忘れるなよキーストア。俺もお前も人殺しだ」
 胸に楔を打ち込まれたような衝撃。
 冷徹に真実を抉り出した暴君が唐突に僕の顎を掴み、次の瞬間ー
 「!?んっ、」
 唇に熱が爆ぜる。
 熱は間をおいて痛みに変じ、暴君に唇を噛み切られたと悟る。
 キスと言うには乱暴に、生贄の儀式の如く崇高なる野蛮さでもって僕の唇を奪った暴君の喉仏が艶めかしく嚥下する。
 僕の血をさも美味そうに飲み下し、次に僕の上着の裾を掴み胸板を晒し、僕の唇に指をひたし素早く血をすくいとる。  
 褐色の指先が艶めかしい朱に染まる。
 「後ろを向け」
 有無を言わせぬ声で暴君が命じる。
 僕はのろのろと命令に従う。
 「書架に手を突け」
 自分が何をしてるかわからない。
 僕はただ暴君の言葉通りに、不可抗力の言霊が宿る命令に従い反転し書架に手を突く。
 暴君が乱暴な手つきで上着を捲り上げ完全に背中を暴く。
 僕は冷たい書架に顔を埋め背中に暴君の視線を感じながら、何故暴君の言葉に逆らえないのかその理由を朦朧と考えていた。
 暴君は僕の弱味を握っている、優位に立っている。
 暴君に逆らえば真実が露呈する僕が斉藤を殴打したとふれまわる、それが怖くて彼にされるがまま従順に頭を垂れているのかー……?
 真実が明るみに出て、サムライとの関係が壊れるのが怖くて。
 「!ひあっ………」
 生温かいものが肩甲骨の間にふれる。 
 肩甲骨の間から垂直にすべりおりた指が、肩甲骨の下から縦棒を貫き水平に線を引く。
 ブラックワーク決勝戦の忌まわしい光景が脳裏に蘇る。
 火で炙ったナイフでレイジの背中に十字架を刻むサーシャを思い出す。   
 血で湿した指で僕の背中に烙印を施し、暴君が満足げに首肯する。
 「これでお揃いだ」
 自分と同じ十字架を僕に背負わせ、最後の仕上げに血塗れた指を僕の頬になすりつけ五本の線を引き、暴君が悠然と勝ち誇る。

 『You are a slave of the rage.
  You can‘t get away from my hand』

 この日を境に僕と暴君は運命共同体の鎖で繋がれた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050305214307 | 編集
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