ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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八話

 「この絵をどう思う?」
 血の海に立つ一人の少女、血の海に横たわる二人の男女。
 ただそれだけの絵。
 にもかかわらず目を逸らしがたい不吉な予兆と邪悪さを孕んだ絵。
 こちらに背を向け呆然と立ち尽くす少女の手には血が滴るナイフらしきものが握られてる。
 少女の顔はわからない。
 しかし肩に届く三つ編みとところどころ返り血が跳ねた純白のワンピースはその少女がだれであるか雄弁に物語る。
 振り返ればきっと清潔で質素なワンピースが似合わしい可憐な顔があるはず、僕はそれをよく知っている。
 しかし少女は振りかえらない。
 己の手になる惨状を凝視したまま微動せず背後から注がれる視線に気付きもしない。
 画用紙に描かれている人物は少女と男女の三人のみ、そのうち床に倒れ伏した男女からは血とともに生命の最後の一滴までも流れ出し惨状を広げている。 
 瞬きすら忘れ、少女の後ろ姿を食い入るように見詰める。
 「………恵が描いたのか?」
 速まる動悸を意識しつつ生唾を飲み下し、危うい均衡で冷静を保つ。
 ぎくしゃくとした動作で顔を上げ正面の斉藤に鋭い視線を投げる。
 机を挟み対峙した斉藤は両手を組み合わせ、どんなささやかな変化も見逃さぬよう怜悧に細めた双眸でこちらの表情を窺う。
 内心の動揺が表情の変化をもたらさぬよう注意深く無表情を装う。
 内面と連動し顔が引き攣ってはまずい、この場は無表情を保つのが無難な選択だ。
 間違っても取り乱してはならない、動揺を悟られてはならない。
 斉藤は優れた洞察力の持ち主だ、唇の端が痙攣したり瞬きが多くなっただけでこちらの異変に勘付いてしまうおそれがある。
 重々警戒しつつ探るような上目遣いで斉藤の顔色を窺う。
 表情を消した斉藤と机上の画用紙とを見比べる。
 「そうだ、この絵を描いたのは恵ちゃんだ。君に見せようと思って持ってきたんだ」
 斉藤が慎重な口ぶりで呟き、画用紙に手を添え説明を始める。
 「僕がいた精神科では児童に対し絵画療法を奨励していてね、恵ちゃんも例に漏れずいわゆる精神鑑定をかねて何度か絵を描かされたんだ」
 ひどく淡々とした口ぶりだった。
 鍵屋崎夫妻の殺害現場を容易に連想させる絵を当事者たる僕の眼前に提出し甚大な衝撃を与えておきながら……否、だからこそ事務的なまでに淡々とした態度を装いこちらの反応を探り出そうとしているのか?
 画用紙の上に再現された鍵屋崎夫妻殺害現場を衝撃に麻痺した心で見下ろす。

 斉藤の声に激しい雨音が被さる。
 一向にやむことなく降り続ける雨が滝のごとく窓硝子を洗う。

 灰色の景色の中、冷ややかな空気たゆたう書斎の中央に立ち尽くす僕。床に倒れ伏す両親の亡骸。
 十五年間僕を養育しあらゆる知識を注ぎ込んだ当事者たる鍵屋崎優と由香利が変わり果てた姿で四肢を投げ出し横たわっている。
 死後硬直はまだ始まってない。
 驚愕と恐怖、断末魔の苦痛に剥かれた瞳孔に白濁した膜が落ち始めている。弛緩した口の端には涎まじりの血泡が付着している。あたり一面には書架から落下した大量の蔵書とぶちまけられた机の引き出しの中身とが無秩序に散乱し乱闘の痕跡を留め、夫妻が死ぬ前に諍いがあったと沈黙の内に証言する。
 僕はナイフを握っている。生渇きの血がべったり貼り付いた骨董物のナイフ。僕はこのナイフで両親を刺し結果鍵屋崎優と由香利は死骸と化し床に横たわりもはや瞬きもせず何も言わず開ききった瞳孔で天井を見上げるのみー……

 「入院初期に恵ちゃんが描いた絵は黒や灰色など暗い色で塗り潰されたものがほとんどだった」
 斉藤の声が追憶に沈む僕を現実に戻す。
 生気の失せた緩慢さで斉藤を見上げる。
 斉藤は机上の絵をちらりと一瞥、複雑な表情で一呼吸おく。
 「戦争を体験した難民の子供などPТSDが深刻なものほど明るい色を避け暗い色を用いたがる。恵ちゃんの場合もこれに該当する。けれども時が経ち情緒が安定するにつれ恵ちゃんは黒以外の色を使うようになり、その点は僕も安堵した。患者の心身が順調に回復にむかってると楽観してね」
 「快方にむかってたわけじゃないのか」
 婉曲な物言いが語られぬ真実を暗喩する。
 斉藤は首肯する。
 「恵ちゃんは薄暗い病室に閉じこもり一日中絵を描き続けるようになった。床にクレヨンを散らばらせ思い詰めた顔で画用紙に向き合い思う存分絵を描き殴った、看護婦が止めても聞かず食事もろくにとらずに黙々と、切羽詰った感じに。僕が仙台を発つ前もそうだった。恵ちゃんはその頃殆ど人と口を利かずになっていた。以前には親しく口を利いていた看護婦が何度呼びかけても無視し、何かに憑かれたように一日中絵を描きまくっていたよ。世界に自分と画用紙しか存在しないような没頭ぶりで傍で見ていても空恐ろしさを感じた。……恵ちゃんには多分看護婦の声が聞こえてなかったんだと思う。眼前の対象にのめりこむあまり聴覚が自分の内側に閉じてたんだろう」
 「そんなこと手紙には書いてなかったじゃないか!」
 思わず椅子から腰を浮かし抗議の声を上げる。
 斉藤とは数ヶ月間文通を続けているが、最近の手紙の内容を反芻してもそんな事は一言も書いてなかった。
 語気荒く詰られた斉藤は苦りきった顔でうなだれる。
 「………悪かった」
 「僕に気を遣ったのか?同情したのか?それで恵が快方に向かったと嘘を書いたのか?」
 素直に謝罪した斉藤に対し猛烈な反感と激しい怒りが込み上げる。
 この数ヶ月間斉藤と交わした手紙は何だったんだ、僕は斉藤の手紙を恵の現状を知る唯一の手がかりとして待ち望んでいたのにその手紙に少なからぬ嘘が含まれていたとしたら何を信じればいいんだ、僕がこれまで信じてきたものはなんだったんだ?
 「偽善者め」
 唇を捻じ曲げ荒々しく唾棄する。
 僕を安心させたいあまり斉藤は恵が快方にむかっていると嘘を吐いた、真実を巧妙に隠蔽し嘘で塗り固めた希望を僕に与えたのだ。
 椅子から腰を浮かし机上に両手を付き前傾姿勢をとる。
 斉藤に殴りかかりたい衝動を辛うじて自制し、憤怒で赤く染まる視界に斉藤を捉える。怒りが血流に乗じ全身に巡りドーパミンが過剰分泌され、上体を支える両腕が小刻みに震えだす。
 「僕は貴様を信用していた。顔を見たこともない貴様だが僕にとっては貴様がくれる手紙が今の恵を知る唯一の手紙で希望の糸口だった、しかし貴様は僕に半端な同情するあまり記述を偽り恵が快方にむかっていると虚偽の証言をした、実際には恵は快方にむかっているどころか薄暗い病室で一日中絵を描きまくっているのに僕にあてた手紙では『恵ちゃんは大丈夫』と何度も繰り返し欺いたじゃないか」
 薄暗い病室でひとり絵を描き続ける恵を連想する。
 床には色とりどりのクレヨンが散らばり描き散らした画用紙が放射線状に散らばり、恵は無数の画用紙の輪の中央でただただ無心に画用紙と向き合い汚れた手にクレヨンを握り絵を描き耽る。
 その目は自分の内側に深く逃避し決して現実を映さず、扉をしつこくノックされても一切顔を上げず反応を示さず、クレヨンが磨り減ってもはや描けなくなっても衝動の赴くまま指を動かし続けるのだ。

 恵。
 恵。
 そんな暗い所に閉じこもって、どんなにか寂しかったか。
 どんなにか怖かったか。

 『おにいちゃん』

 僕を呼ぶ恵の声が甘く儚く鼓膜に浸透する。
 小鳥の囀りに似て無邪気で可憐、硝子の鈴に似てか細く清冽な声。
 続いて恵の顔が瞼の裏を占める。 
 離れ離れの期間が長くても瞼を閉じれば即座に思い描く事ができる、はにかむような微笑み。
 僕は馬鹿だ。
 どうして斉藤の手紙を鵜呑みにして疑わなかった、恵が快方にむかっていうという都合よい話を頭から信じ込んだ?
 僕の行為が恵に与えたショックを計るなら回復には今後何年もかかるはずなのに、そう簡単に傷が塞がるはずがないのに、恵が僕を許してくれるはずがないのに、僕は遠く仙台の病院にいる妹が苦しんでいるとは思いたくないあまり、言うなれば自責の念に押し潰されそうな己の心が偽りの救済を得るために斉藤の手紙の内容を何から何まで鵜呑みにしてしまったのだ。

 自分自身が救われたいがために、
 慰めを得たいがために。

 僕は卑怯者だ。
 最低の兄だ。

 恵が病室にこもり一人クレヨンを握っていた時、僕は独りじゃなかったのだから。
 サムライがいたのだから。

 大切な人が孤独な時に自分が孤独でないのは最大の裏切りだ。

 「………この絵は僕が仙台を発つ前に恵ちゃんが描いたものだ」
 自己嫌悪に苛まれ深々項垂れる僕に斉藤が例の絵をさしだす。
 「この絵が何を意味するか僕は考えた。暇さえあればこの絵と向き合い恵ちゃんと君の顔を思い浮かべ診断書と調書を読み比べ君たち兄妹の間に何があったのか想像をめぐらした」
 緊迫を孕んだ静けさが押し被さる。
 僕は斉藤の目を見ることができず僅かに面を上げその口元に注意する。
 机上で手を組んだ斉藤は淡々と語りながら自分でも考えを纏めているようで一言一言を噛み砕き反芻するような間が挟まれる。  
 体重が移動し椅子の脚が軋む。
 斉藤が重心を傾げおもむろに身を乗り出す。
 俯いた僕を下から覗き込むような視線が焦燥を煽り立てる。
 発作的に椅子から立ち上がったまま戻ることもできず、机に両手を付いて上体を支える僕の耳に抑揚を欠いた声が流れ込む。
 人さし指がすっと伸び、画用紙に描かれた少女をつつく。
 「これは恵ちゃんだ。床に倒れているのは外見的特徴から察するに鍵屋崎夫妻と見るのが妥当だ。実際に鍵屋崎夫妻を殺したのは兄である君なのにこの絵では何故か恵ちゃんがナイフを握っている、恵ちゃんだけが殺害現場にいる」
 「恵が殺害現場にいるのは何も不自然じゃない、あの時恵はあそこにいたのだから」
 自嘲的に口の端を歪め挑むように斉藤を睨み据える。
 「恵は僕が両親を殺すところを部屋の隅でじっと見詰めていた、僕が行なった殺人行為の一部始終を目撃したんだ。殺害現場に恵がいること自体は何も不自然じゃない、恵はただありのままの真実を描いたにすぎない」
 「『ありのままの真実』をね」
 斉藤が含みありげに混ぜ返し不快感が蠢く。
 今度ははっきりと嫌悪を顔に出し冷ややかな侮蔑の眼差しを叩き付ける。
 僕に睨まれても斉藤はいささかたりとも動じず、思案げに下唇を舐め白衣の懐に手をやり書類の束を抜き取る。
 「調書のコピーを読ませてもらった。君は事件時の状況についてこう証言している、『殺害現場となった書斎には両親と自分のほかに妹がいた、彼女は書架の影に隠れ一部始終を目撃していた』と。当然警察は唯一の目撃者たる恵ちゃんにも事情聴取をしたが、事件のショックで心神喪失状態に陥っていた恵ちゃんからは何ら有力な証言を引き出せなかった。しかし現場の状況を検証するに犯人は君しかおらず、また君の自白も得られたためにその時点で捜査は打ち切られた」
 「不満か?」
 画用紙の横に調書のコピーを重ね置く。 
 「さすが精神科医、深読みが得意だと感嘆してやれば満足か?生憎この事件に裏などない、あるのはただ一面的事実のみだ。それとも今ここで殺害当時の状況を改めて詳細に述べさせるつもりか、両親を殺した動機を精神科医の威信にかけ追求する気か?いいか斉藤、既にこの事件は終わってるんだ。加害者は鍵屋崎直、被害者は鍵屋崎優と由香利、裁判官は世間だ。恵はただ巻き込まれただけの傍観者であり無垢なる被害者だ、貴様が何を考えているかは知らないし知りたくもないが恵を侮辱する発言は慎め」
 「加害者と被害者の線引きはどの辺り?」
 唐突な質問に面食らう。
 虚を衝かれ正面を見据える。
 斉藤の顔から完全に笑みが消える。
 「僕はこう思う。加害者を擁護するわけじゃない、しかしその加害者に以前被害者が酷いことをしたしたらどうだろう?人間の尊厳を踏み躙るような非道な行いをしておきながら反省も謝罪もなく酷く傷付いた被害者が燃え上がる復讐心に駆られ加害者に転じたとしたら、はたして彼は……または彼女は加害者か被害者か?真に非難されるべきはどちらだ?」
 「詭弁だ。加害者は加害者だ。被害者はその生命を奪われ人生に終止符を打たれた時点で完全なる被害者となり他方生き残った人間は加害者となる、これが自然の摂理だ」
 「僕はね、人を殺すのと人の心を殺すのは同等の罪だと思う」
 ひどく静かな言葉が透徹した真理を伴い胸を貫く。
 斉藤が優しげな手つきで画用紙をなでる。
 赤一色で塗りたくられた稚拙な絵の上で傷口を慰撫するように掌を滑らせる。 
 「現行の法律では裁かれないけれど、やはりそれはどうしようもなく許されざる罪だ」
 斉藤が真っ直ぐ僕を見る。
 崇高な眼差しに圧倒される。
 先ほど画用紙に手を重ね置いた斉藤に裁判官を連想しかつて法廷に立った時の記憶がまざまざと蘇ったが、今この時は被告を苛烈に断罪する裁判官ではなく、目に見えない罪をも被害者の傷の深さで裁かんとする審問官に見える。
 「僕はずっと考えていた。鍵屋崎直が両親を殺した理由、鍵屋崎恵がこの絵を描いた理由、動機なき殺人と目撃者の失語の真相……直くん、君は両親を殺した動機についてずっと黙秘を続けていたね。警察と法廷でどれだけ執拗に追究されようと明確な動機は述べず、ただ『鍵屋崎優と由香利は唾棄すべき俗物だった、彼らと同じ空気を吸って暮らすのが絶えられなかったから殺した』と言ったね。自分より知能の劣る両親を軽蔑していたとも」
 「そうだ。僕は鍵屋崎優と由香利を軽蔑していた。彼らは僕の養育者として相応しくない人間だった、これ以上彼らのもとで暮らしても得られるものは何もないと達観しすみやかに処理しようと思った。彼から貰えるものはすべて貰った。知識も教養もすべて吸い尽くし、この上鍵屋崎優と由香利の監視下におかれる必要性が見出せなかった」
 亡き両親を回想する。乾いた心をさらってみてもひとかけたらの感慨すら浮かばない。鍵屋崎優と由香利に対し僕はなんら親愛の情を抱いてない。

 『お前も直を見習え』
 『もっとも血が繋がってないのでは無理か』

 声が、鍵屋崎優の声が忘却の彼方から殷殷と響き渡る。

 「以前手紙に同封した絵を覚えているかい」
 斉藤が話題を変える。
 すぐに思い出す、手紙に同封されていた恵の絵を。
 恵を真ん中に家族三人仲良く手を繋いだ絵。
 僕など最初から存在しなかったように抹消されていた絵。
 鍵屋崎夫妻に挟まれた少女の無邪気な笑顔を思い出し、僕がいなくても十分満ち足りたその絵に胸の痛みを覚えながら返答する。
 「細部まで覚えているとも。あの絵には鍵屋崎夫妻と恵が描かれていて僕の姿はどこにもなかった、恵が僕を許してないからだ。両親を殺した僕を憎むあまり僕の存在を排除し殺人者の兄など必要ないと通告してきたんだ」 
 「それは違う」
 厳然たる否定。
 罪悪感に打ちひしがれた僕は、鼻梁にずれた眼鏡越しに斉藤を見上げる。
 斉藤は哀しみと怒りが綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべていた。
 「君はあの絵を見てそんなふうに感じたのか?僕が君を絶望に追い込むためにわざとあの絵を同封したと?」
 「………どういうことだ?」
 少しばかり心外そうな、込み上げる怒りを抑制した口吻に戸惑う。
 「あの絵に描かれているのが何か僕にも理解できた。あの絵には鍵屋崎夫妻と実子の恵ちゃんだけが描かれていてなるほど君の姿はどこにもなかった。あの絵を見た君がショックを受けるのは予想できた、しかし僕はあえてあの絵を同封した、数ある絵の中から悪意を感じさせるあの絵を選んだんだ」
 斉藤の言葉を聞くうちに、もやもやと拡散していた違和感が急激に形をとっていく。

 確かにおかしい。
 言われてみれば不自然だ。

 手紙の文面から斉藤が適切な配慮と分別を兼ね備えた人物だと伝わってきたのにその彼が数多の絵の中からわざわざあの一枚を選択したというのはどうにも不自然だ。
 あの絵が何を意味するか、僕に与える衝撃がどれほどのものかわからぬほど人の心理に疎くはない斉藤らしからぬ無神経な行為だ。
 長々と溜め息ひとつ、組んだ手を固く強張らせ斉藤が言う。
 「直くん、落ち着いて聞いてくれ。これまで恵ちゃんが描いた絵に君が登場したことは一度たりともない、まったくない。恵ちゃんが夢中で描き散らす絵にはどれも自分と両親が描かれていて君の姿はどこにも見当たらない、恵ちゃんの絵からは君の存在が完全に消去されてるんだ」
 「僕が恵を傷つけたから、」
 「違う」
 斉藤の声が冷え込む。目つきが鋭さを増す。
 おもむろに立ち上がった斉藤が机上を平手で叩き注意を引き付ける。
 「いいかい直くん、よく聞いてくれ。恵ちゃんは君を『無視』してるんだ」
 理性で激情を押さえ込んだ静かな声と反比例し顔が凄味を増す。
 「この絵のどこにも君はいない、ナイフを握っているのは恵ちゃんだ。恵ちゃんはどこまでもかたくなに君を無視している、君など最初からいなかったように扱っている。何故だ?事件前はとても兄妹仲がよかった、君は恵ちゃんに優しくし恵ちゃんも君を慕っていた、いかに両親を殺されたとはいえ君がこれまで恵ちゃんに優しくしてくれた事実や恵ちゃんを支えてきた事実までなくなるわけじゃない」
 理性が蒸発し椅子を蹴倒し立ち上がる、床に激突した椅子が甲高い音を奏でる。
 「恵が僕を無視するのは当たり前だ、僕は恵にそれだけの事をした、あんなに両親に愛されたがっていた恵から両親を奪い去ったんだ!恵が僕を憎むのは当たり前だ、両親ではなく僕が死ねばよかったのにと思うのは当たり前だ、僕は恵に無視されて当たり前ー……」

 「君に無視されたから、無視しかえしてるんだよ」

 衝撃に頭が空白になる。

 「なん、だって?」
 不規則に弾む息遣いのはざまから喘ぐように反駁する。
 高鳴りゆく鼓動が体じゅうに響き渡る。
 愕然と目を剥き答えを仰ぐように斉藤を見る。

 『おにいちゃん、恵のピアノ聴いて』 
 恵。
 『どう?ちょっとは上手くなった?』
 恵。
 『もっと頑張ればお父さんとお母さんも褒めてくれるかなあ』
 恵。
 『おにいちゃんはすごいね、なんでも知ってるんだね。恵もおにいちゃんみたいになりたい、そうしたらお父さんとお母さんもきっと……』
 恵。

 脳裏に映像の断片が吹き荒れる。
 かつて世田谷の家で過ごした十五年間の記憶が、恵が生まれてからの十年間がめまぐるしく瞼裏に去来する。
 記憶の濁流に理性が押し流される。
 乳児の恵に手を伸ばせば僕の人さし指で足りる掌がぎゅっと指を握りひとりで歩けるようになった恵が転ばぬよう論文を放棄しあとを追いかけピアノを習いたいと言い出し演奏が始まり僕がその隣に座りたどたどしく子犬のワルツが流れー……

 恵。
 僕の恵。
 恵がいなければ生きていけないのに、僕がいつ、なぜ無視したというんだ?
 
 恵を無視したことなど一度もない、円周率五千桁を暗記する記憶力にかけて誓う。
 僕はいつもいつでも恵のことだけを恵の将来と幸福だけを考えて生きてきたんだ、恵さえ幸せなら僕などどうなっても構わないとあの時も茫然自失した恵の手からナイフをひったくり恵が一度刺した傷口をもう一度深く抉り目撃者の由香利を殺し恵の安全が完全に保証されるようにー……
 
 『恵など生むんじゃなかった』

 聞き覚えのある声が耳の裏側に響く。
 傲慢なまでに威圧的なバリトン……冷ややかな侮蔑を滲ませた声音。

 『人工受精児と自然分娩児を同じ環境で育てることにより両者を比較しデータを採取する試みだった』
 『避妊を怠った結果偶然できた?ああ、あれは嘘だ。あんなでまかせを鵜呑みにしたのか、全く……そもそも私たちがそんなミスをするはずないだろう。恵の出生は予め計算の内、十五年前に行なわれた実験の一環だったのだ。直、お前の優秀さを証明するためのな』
 『お前の有用性を検証するには比較材料が必要だ。同じ環境で同じように自然分娩児を育てればお前がどれだけ優れているかが誰の目にもわかる、なんら遺伝子に調整を施さぬまま従来の出産を経た恵をそばにおけば天才と凡人の格差がはっきりする』

 今までいた図書室がいつのまにか書斎へと変貌し、こちらに背を向け書架から資料を選び出しながら鍵屋崎優が言う。
 中腰の姿勢で屈んだ父の背後に慄然と立ち竦むのは、僕だ。
 あの日は雨が降っていた。
 湿気が高く不快な気温だった。
 本を借りに書斎を訪ねた僕は、父が何らかの資料を纏めている現場に出くわしてしまった。
 机上に几帳面に重ね置かれた資料になにげなく目をやり飛び込んできた文字に凍り付く。

 一番上の紙面には「鍵屋崎 恵 RH+A型 遺伝子調整児との性能比較実験における全データ」と硬質なゴシック体が印字されていた。

 僕はこれは何だと父を問い詰めた。
 普段滅多に感情を覗かせぬ僕が激昂したことをいぶかしみながらも父は真相を話してくれた、既にデータ収集を終えており実験の実態を知られても問題ないと判断したためらしい。

 父は言った。
 恵の存在は僕の有能性を証明するための比較材料にすぎないと、
 遺伝子調整を施され天才児として生を受けた僕がどれだけ優れているかを強調するために敢えて平凡な実子を生み出したと、
 『天才』と『凡人』の落差を印象付けるために恵もまた故意に作り出された存在であると。
 
 父はそう言った。
 僕を振り返りもせず本を選びながら、もののついでのようにあっさりと、執着なく。
 恵の存在に対し今や完全に興味を失ったように。
 鍵屋崎優は淡白な口ぶりで続ける。 

 『実子とはいえ恵には失望させられた。恵の養育にかけた十年とデータの有益性が釣り合わない、お前の能力を際立たせるための比較材料としての役割は存分に果たしてくれたが……しかし、やはり無駄だ。十年間に及ぶ労力を研究に注ぎ込めば遥かに価値ある成果が望めたというのに』

 父の言葉に衝撃を受け心が麻痺した僕は、書斎の扉が音もなく開き、僅かな隙間から誰かが覗き見ていることにも気付かなかった。
 雨の音が息遣いと衣擦れの音、ごくかすかに蝶番が軋む音をかき消す。
 小さな人影が足音もたてずひそやかに書斎に侵入、壁に沿うように遠回りし机に近付く。

 『まあ、お前の情操教育には好影響を及ぼしたようだがな。それだけでも恵を産んだ甲斐はあったというものだ』
 『やめろ』

 父は気付かない。
 僕も気付かない。
 本棚に沿って僕の背後に回りこみ、奥の机に到達した人影が震える手で引き出しを引く。あさる。

 『由香利も了承の上だ。これまで十年間恵を育ててきたのは実験のためだ』

 実験のため。実験の。
 恵は僕と比較されるためだけに生まれた。
 僕と比較され貶められるためだけに生まれた。

 『まったく……調整を施してないとはいえ私たち二人の遺伝子を受け継いだ恵にはそれなりに期待していたのだがな。恵ときたら騒々しい雑音を撒き散らし私の邪魔をするだけで何ら際立った能力を発揮しない』

 鍵屋崎優は恵が一生懸命弾くピアノを雑音と呼んだ。
 鍵屋崎優と由香利夫妻にとって、両親に好かれたい一心で恵が弾くピアノは神経を苛立たせる雑音にすぎなかったのだ。

 『あれは出来損ないだ』 

 そして漸く僕は気付く、書斎に忍び込んだ第三者の存在に。
 机の引き出しをあさる何者かの存在に。
 僕の背後の人物は物音をたて書斎の机をあさり奥にしまわれていたナイフを掴みとる、振り返った拍子にその瞬間を目撃した僕は「彼女」が考えている事を瞬時に直感し制止に走るー……
 
 鍵屋崎優だけは気付かない。
 本選びに集中するあまり心ここにあらず、上の空でこう付け足す。

 『恵はもう要らない。一通りデータを採り終えた事だし子供がいなくて寂しいと嘆いていた妹夫婦に預け』
 ー『あぁあああああああああああああああああぁああああああああああああああああっ!!!』ー

 言葉にならぬ絶叫が大気を震わす。
 机の引き出しが抜け落ち床に激突し中身をぶちまける、インク壷が黒い筋ひき床を転がり万年筆が跳ね机上の書類が虚空に舞い飛ぶ。
 腰だめにナイフを構えた人影があらん限りの憎悪をむき出しみつあみを振り乱し猛然とこちらにやってくる、床を蹴り風を切り一直線にー……


 鍵屋崎優めがけ。
 


 「鍵屋崎優殺害事件の犯人は鍵屋崎恵だ」
 
 鍵屋崎優の胸にナイフが吸い込まれる。
 異変を察し振り返った時にはもう間近まで迫っていて避けることもかわすこともできなかった。
 鍵屋崎優の手から分厚い本が滑り落ち床で開きページに血が滴る。
 
 『あんたなんか死んでしまえ!!』

 嗚咽まじりの悲痛な叫びが鼓膜を貫く。
 固く強張った手でナイフの柄を握り締めた恵が絶望に剥いた目に鍵屋崎優の苦悶を映す。
  
 恵は精一杯手を伸ばし鍵屋崎優の胸を衝いた、十歳平均にもみたぬ小柄な恵はしかしそれでも腹や腿ではなく確実に急所を狙い胸を刺した。
 しかし子供の細腕ではそれ以上ナイフは進まず致命傷には至らない。
 まずい、と咄嗟に判断。
 まだ息がある鍵屋崎優が憤怒に顔を朱に染め一切の加減容赦なく恵を突き飛ばす、恵は悲鳴をあげ床に転ぶ、ナイフが抜けた拍子に出血する胸を抑えて鍵屋崎優は低く唸る。

 そして、言った。
 恵の心を完全に撃ち砕く一言を。

 『まったくお前は、人を殺すこともできないのか!!』

 僕の中で何かが壊れた。
 鍵屋崎優に対し抱いていた仄かな尊敬の念や憧憬やそういったもの一切合財が消し飛び極限まで憎悪が膨れ上がり破裂、恵の手からナイフをひったくり彼自身が言った通りの場所を言った通りのやりかたで深々刺し貫く。
 脂肪の層を裂き肉に達し大動脈を断つ感触が吐き気を催すリアルさで手に伝わってくる。
 視界の端を慄然とした恵が掠め、その唇が音もなく動くー……

 「証拠はあるのか?」
 喉の奥から苦労して搾り出した声は、ひどく掠れていた。
 机を隔てて座った斉藤は静かに首を振る。
 「妄想だな。ばかばかしい。犯人が僕ではなく恵だと?たった十歳の女の子が両親を刺殺したと?体力的に無理があるだろうさすがに」
 「証拠はないが不審な点は多々ある。鍵屋崎優の解剖初見を読んで奇妙に思ったことが」
 今や僕は追い詰められる側に回った。
 斉藤は疲労と悲哀とが入り混じった顔で矛盾点を指摘する。
 「鍵屋崎優は二度胸を刺されてる。一度目は浅く、二度目は深く。一度目の傷口を隠蔽するように。恵ちゃんが犯人だと仮定するとこの謎はすんなり解ける。握力の足りない子供がナイフを押し進めるのは大変な労力が伴う、どうしたって浅い部分で止まってしまう。よって一番最初に刺したのは恵ちゃん、二度目に刺したのは君という推測が成り立つ」
 「問題にすべきは致命傷となった二度目の傷だ」
 「そうとも言えない。確かに二度目は深く心臓に達していたが、一度目の傷も大動脈を掠めていたためどちらにしろ出血多量で死に至るのは避けられなかった」
 「恵は殺してない」
 「彼女が殺した。君は真実を隠蔽しようとした。君がしたのは鍵屋崎優の死を速めることだけだ」
 唐突な拍手が静寂を破る。
 斉藤によく見えるよう胸の前で手を叩いた僕は、拍手の余韻が大気に溶け込むのを待ち皮肉な笑みを刻む。
 「暇つぶしにはなった。問題は今の名推理をどこのだれが真に受けるのかということだ。僕の弁護人を気取り警察に再審を要求するか?恵が犯人だと糾弾するか?ばかばかしい、既に捜査は打ち切られ事件は終わってるんだ。終わった事件を蒸し返したところで何も変わらない、僕は既に戸籍を剥奪され後八十年余り東京プリズンに収監されることが決定した。法律上の大前提として戸籍のない人間に裁判を受ける権利はない」
 胸の内に歓喜が沸き立つ。
 拍手の形に手を重ね勝利の余韻に酔い痴れ、優越感を滲ませ宣言する。
 「犯人は僕だ。遺憾ながらな」
 「恵ちゃんを無視するのか」
 「何?」
 斉藤の言動をいぶかしみ目を細める。
 向かいに座った斉藤が厳しい面持ちで画用紙を覗き込み、ナイフをもった少女の後ろ姿を哀しげに見詰める。 
 「恵ちゃんは両親を殺すことで二人に認められようとした。両親が自分を無視できないよう仕向けるつもりだった」
 
 『まったくお前は、人を殺すこともできないのか!』
 鍵屋崎に暴言を浴びせ掛けられ絶望に打ちひしがれた恵の顔、
 極限まで見開かれた目と悲鳴を飲み込んだ唇。

 「鍵屋崎夫妻は十年間ずっと実子の鍵屋崎恵を無視してきた、まるでいないかのように扱ってきた。恵ちゃんは遂にそれに耐え切れなくなり両親に自分の存在を認めさせるため行動を起こした。きっかけが何かはわからない、知る術もない。僕はただ想像するだけだ」

 『ピアノが上手くなったらお父さんとお母さん褒めてくれるかな』 
 『こっちを見てくれるかな』

 「鍵屋崎恵は加害者となることで両親に存在を認めさせようとした、被害者は加害者を意識せずにはいられないからだ」

 『お前は人を殺すこともできないのか』
 鍵屋崎優が冷ややかに恵を見下す。
 『上手く殺したら褒めてくれる?』
 『認めてくれる?』 
 一抹の期待を込め、縋るように恵が囁く。

 「ところが、ここで鍵屋崎恵にとっては不測の事態が起きる。君が彼女の手からナイフをひったくり鍵屋崎優を刺したんだ。あまつさえ君は事件現場を目撃し恵が真犯人と知る由香利までも殺し隠蔽工作を計った、君からすれば妹を世間の非難から守るためのあの場における最良の判断で最善の対処だった。しかし恵ちゃんはどう思う、両親を殺すことで二人に認められようとした恵ちゃんは?」

 『どうして横取りするの?』
 『どうして無視するの?』  

 すべてが終わったあとで虚ろに僕を見上げる目を思い出す。
 裏切られたと、その顔に書いてあった。 

 「君は恵ちゃんを庇い罪を被った、そうすることで恵ちゃんの存在を消してしまった。恵ちゃんが父を殺し母をも殺そうとした事実はなくなり、真犯人でありながら存在を無視された形となった恵ちゃんは絶望に打ちのめされた」

 僕が犯人を名乗ったことで、恵は両親に認めてもらう機会を永遠に失った。
 
 恵はいつも無視されてきた。
 取材を受ければ写真から除外され鍵屋崎夫妻と僕が研究に関する話をしている時はひとりピアノを奏で寂しさを紛らわせてきた。
 漸く、今になって漸く、恵だけが僕を省いた家族の肖像を描いた真意を理解する。

 無視されたから無視を仕返す。
 子供っぽい仕返し。
 
 恵はただ、僕にされたことをそのまま返しただけだ。
 僕が今も犯人を名乗り恵の存在を否定し続けるなら、自分もまた報復としてかたくなに否定し続ける。

 どうか無視しないでと祈りながら、
 縋りながら。

 斉藤がなにかしゃべっている。
 しかし一言たりとも頭に入らず脳が理解を拒絶する。
 僕は何も感じない。
 何も。
 心は空虚に乾いている。空洞を絶望が蝕む。目から入る光景耳から入る音肌にふれる服の感触、それら全てから現実感が剥離していく。

 これまでやってきたことが全部無駄だった。
 恵を傷付けただけだった。

 恵は僕に庇ってほしくなどなかった、将来などどうでもよかった。
 両親に認めてもらうのがすべてだったのだ。

 机上に放置された絵が僕を告発する。
 僕の偽善と欺瞞を容赦なく暴き立てる。

 遠近法を無視し網膜一杯に像を結ぶ画用紙の少女、その後頭部が肩が腰が手がナイフが拡大されクレヨンの掠れた赤が視界を占める。
 「今の推理を副所長に話す」
 安田くんではなく副所長と改まって呼び方で旧友をなざし、斉藤が毅然と結論をくだす。
 「副所長も以前から君の事件に不審を抱いていた。仮に妹を庇っているのだとしたら刑期は軽減される、努力次第では再審の実現も夢じゃない」
 再審。
 不吉な言葉が炸薬となり最悪の想像が過ぎる。
 斉藤の言う通り再審が行なわれたとしたら?
 斉藤と安田が僕の事件を洗い直し証拠をかき集め恵の罪を暴き立てたら恵はどうなる、ただでさえ精神の均衡を欠き精神病院の暗い部屋に閉じこもっている恵はどうなる、真相が明るみに出たら恵も無事ではすまず罪に問われる恵はもう十一歳で現行の少年法が適応される。

 尊属殺人の罪は重く刑罰は重く今度は僕の代わりに恵が一生閉じ込められることにー……

 恵が刑務所に?
 僕と同じ目に?

 東京プリズンに来てからこれまでの記憶が堰を切り濁流のように迸り激情が身の内を席巻する。気温四十度にも達する灼熱の砂漠で頭皮を炙られ湧きもしない井戸を掘り続け豆が潰れ手が血まみれになる、何度も何度も強姦されかけ痣だらけ生傷だらけの日々、届いた手紙は破られ炙られ燃やされ売春班では倒錯した性行為を強いられ心身ともにぼろぼろになりしまいには誰も信用できなくなりまわり全部が敵となりリュウホウのように首を吊るー……

 僕が第一発見者となったリュウホウの死体。
 天井からぶらさがった死体がレイジがよく口ずさむ奇妙な果実のごとく緩慢な動きで不規則に揺れる。縊死した際に漏らした糞尿でズボンが汚れ房には凄まじい悪臭が立ち込めていた、リュウホウは口の端に血泡をため薄っすらと微笑みを浮かべー……

 リュウホウの死に顔に恵のそれが重なる。

 この地獄に、恵が来る?
 僕と同じ目にあう?
 親殺しと蔑まれ殴られ蹴られ髪を毟られ床に吐いた唾を四つん這いで舐めさせられる?
 
 「副所長も君のことを心配している。漠然とだが、君がだれかを庇っていると勘付いている節がある。安田くんはああ見えて警察上層部にコネがあるエリート中のエリートだ、ある程度の確証さえ揃えば再捜査の圧力をかけるのも不可能じゃない」
 斉藤に気付かれぬよう浅く腰を屈め床に倒れた椅子を起こす。
 全身が一個の心臓になったように鼓動の音が最大限増幅される。
 汗でぬめる手でしっかりと椅子の背凭れを掴み胸郭を上下させ深呼吸、意を決し顎を引く。
 隣の椅子に足をかけ机に飛び乗る。
 運動音痴の僕らしくもない軽快な動作で机に降り立つや、今後の展望を語るのに夢中なあまり僕の奇行に即座に対処できず面食らう斉藤めがけ、非力な腕を叱咤し椅子を振り上げる。

 頭上にさした影で異状を悟るも、遅い。
 驚愕に打たれこちらを仰ぐ斉藤に、一切の感情を排した声で告げる。

 「偽善者が真実を騙るな」

 この男を殺さなければ、
 口を封じなければ。
 真実を知る人間を生かして帰すわけにはいかない、絶対に。

 斉藤の唇が動き言葉を発するのを待たず、鋭い呼気とともに目一杯の力を込め、その頭部に椅子を振り下ろす。
 
 『頼むから頼ってくれ、直。今ここで頼ってもらえなければ、俺はもう友人でいる資格がない』

 振り上げた瞬間に思い出したのはサムライの顔

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

 振り下ろした瞬間に去来したのは恵の顔。

 椅子が床を叩く騒々しい音とともに割れた頭から大量の血を流し斉藤が倒れ伏したのは次の瞬間だった。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050306101822 | 編集
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