ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三話

 東京少年刑務所上空に飛来した機影はロシア軍籍のヘリコプターだった。

 「事情を聞かせてもらおう」
 ロシア軍籍のヘリから降り立った軍人三名は来客の応接間を兼ねる所長室に通された。
 艶々と光沢をまとう高級ソファーに腰掛けているのは、祖国を牽引する矜持輝くロシアンブルーの軍服に身を包んだ二十代後半の青年。
 霜柱のような銀髪に縁取られた美貌にもまして魅力を付与するのは一挙手一投足から漂うえもいわれぬ気品だ。
 
 優美に湾曲した柄を摘み、軽く縁を傾げ紅色に澄んだ美しい紅茶を喉に流し込む。
 形良い唇に白磁が接吻、仄白い湯気とともに立ち上る芳香を吸い込み心ゆくまで吟味する。
 舌の表裏で余韻を反芻するが如く安らい目を閉じる。
 茶の渋みが紅茶本来の持ち味を引き立てる。

 白磁の茶器を机上に戻し青年が顔を上げる。
 青年の向かいに座るのは副所長の安田、愛犬を失い情緒不安定となった所長の代理として東京少年刑務所を取り仕切る有能なエリート官吏だ。 
 安田の隣には中年の所長が座り神経質に爪噛み膝を揺すっている。
 正面きって来意を問われた青年は、微塵も取り乱すことなく誠意をもって応じる。
 「まずは突然の訪問の無礼をお詫びします。私はアルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ、ロシア軍部の人間で階級は大佐です」
 「その年で大佐とはエリートだな。出世と引き換えに賄賂を送ったかコネで取り入ったのかね」
 膝に骨壷をのせた所長が殆ど反射的に嫌味を言う。
 アルセニーは穏やかな微笑みで受け流す。
 アルセニーの両隣には屈強な軍人が控える。
 おそらくは護衛の任を仰せつかった部下だろう、所長が不審な行動をとれば力づくでねじ伏せるとばかりこちらを警戒している。
 安田は相手の表情を洞察し僅かな変化も逃さぬよう努めながら最大の疑問点をつく。
 「ロシアの軍人が東京少年刑務所に何の用だ。しかも事前連絡もなく唐突に……上はこの事を知ってるのか」
 懸念を示す安田にアルセニーは膝の上で五指を組み弁明をはかる。
 「領空侵犯の愚は犯しません、祖国の不利益になりますしね。政府には一応話を通したのですが不手際で情報下達が遅れたようです。どこの国の政府も内情が杜撰なのに変わりはない……つまるところごく初歩的なミス、連絡の行き違いです」
 話し方に説得力がある。
 安田は釈然としないながらもアルセニーの語り口に信憑性を感じ追及の手を緩める。
 アルセニーは再びカップを取り上げ音もたてず一口含む。
 品良く紅茶を啜るアルセニーに視線が集中する。
 こちらを焦らそうという巧妙かつ狡猾な意図か純粋に紅茶を味わっているのか推し量りがたい。
 高価な調度で纏められた室内に重苦しい沈黙が被さる。
 カチャリと音たて受け皿にカップを置く。
 改めて安田と向き合い、薄氷の瞳に真剣な色を映しアルセニーが口を開く。
 「率直に申し上げます」  
 威儀を正したアルセニーにつられ安田もまた緊張を意識し背筋を正す。
 部屋の空気が張り詰める。
 アルセニーは膝の上で五指を組みしばらくこちらを試すような視線を向けていたが、一呼吸おいて話し始める。
 「私がここを訪れた目的はひとつ、当刑務所に収監されているロシアの囚人の返還を求めるためです」
 「何を馬鹿な!!」
 間に挟んだ机に振動が走る。
 激昂した所長が思わず腰を浮かし両拳で机を殴打したのだ。
 拳での殴打による衝撃でけたたましい音たて紅茶がひっくり返り紅色の液体を盛大にぶちまける。
 机上をぬらし端から滴りおちた紅茶が絨毯を染め替えるさまを一瞥してなおアルセニーは表情をくずさず姿勢をくずさない。依然落ち着き払った態度でソファーに腰掛けたまま、紅茶の飛沫が軍服の胸元に飛んで染みを作っても顔色ひとつ変えず静観を決め込む。
 「大佐、お怪我はありませんか?」
 「ええ」
 両隣の部下が腰を上げるのを言葉少なく制し、興奮のあまりソファーから立ち上がり不規則に肩を上下させる所長に視線を転じる。

 「囚人の返還を求めるだと?何を馬鹿な、どの国の人間だろうと一度この刑務所に入ったら刑期を終えるまで二度と出られない決まりになっていると知らないのか貴様は!現在東京少年刑務所には日本で犯罪を犯した二十歳以下の少年らが収監されている、もちろんその中には日本に密入国した外国人の子孫も多数含まれる、しかし日本で犯罪を犯したからには日本の法律で裁かれ日本の刑務所に入るのが当たり前だ、それを今更『返せ』などと超法規的措置をのぞむのも大概にしろ!!」

 カッとひん剥いた双眸をぎらつく光にぬめらし、語気荒く大量の唾飛ばしアルセニーを糾弾する。
 今にもアルセニーの胸ぐら掴まんばかりの常軌を逸した剣幕でさらに捲くし立てんとする所長を安田が机上から引き剥がし元通り座らせる。
 憤激のあまり過呼吸の発作を起こしかけた所長を冷ややかに一瞥、東京少年刑務所の副所長は同じくらいの冷ややかさでもってロシアからの客人を促す。
 「具体的に話をうかがいたい」
 副所長とアルセニーの間で殺気が交流、相手の目から真意を読み取ろうとするかのように怜悧な眼光が交錯する。
 アルセニーは紅茶の染みができた胸元を部下がさしだすハンカチで拭いもせず、眼鏡の奥から尖った眼光を突き刺す安田に詳細を説く。

 清涼に銀髪が流れ、湖水の透明度の瞳にかかる。
 繊細な前髪のあいだに見え隠れする双眸に悲壮な決意をやどし、膝の上で組む指に僅かに力を込め、アルセニーは真摯に語りかける。

 「当刑務所にロシア系の囚人が少なからず収監されていることは政府の調べで以前から判明していました。しかし政府は日本と衝突するのを避け見て見ぬふりを決め込み、海を挟んだ異国の地に収監された少年らの存在を黙殺し続けてました。現在当刑務所に収監されているロシア系の囚人には祖国を捨て日本に密航した者やその子孫が含まれる。彼らの処遇は極めてデリケートな問題故に政府の方針が定まらず、長いあいだうやむやの状態のまま放置されていました。しかしこのほど政府の方針が定まり、ロシア国籍をもつ囚人らを祖国に送還し、ロシアの法律で裁き直すことになったのです」
 そこで一呼吸おき、苦渋の滲んだ顔と声で独白する。
 「当年刑務所にはいまだ成人に達さないロシアの少年たちが多くいる、彼らを見殺しにするのはあまりに酷だと上も考えを改めたのです。私は政府の決定を伝えるため国の代表としてこちらにやってきました。本来ならば政府高官が直接挨拶にうかがうべきですが、実際には今だ何もかもが仮決定の状態で……」
 「相手方の偵察もかねて軍人をさしむけたというわけか」
 安田が皮肉げに指摘し、アルセニーは曖昧に苦笑するよりほかない。
 流暢に語り終えたアルセニーの語尾に被さるように陰にこもる呪詛が流れてくる。
 「許さん、許さんぞ……」

 所長が骨壷をしっかり抱きしめ呟き始める。
 その目は血走り唇はわななきとても正気とは思えない。
 ハルの遺骨をおさめた壷をひしと抱きしめ、極度の興奮に駆り立てられアルセニーの方に身を乗り出すや猛然と抗議を申し立てる。
 
 「東京少年刑務所にいる囚人は皆私の物だ私の家畜だ私の許可なく連れ去るのは断じて許さん、ロシア人も中国人も韓国人もさらにはフィリピン人も知ったことではない!日本の法律を犯したら日本の法律で裁かれるのが道理だ、それをなぜ今頃しゃしゃりで奪還せんとする、従順な家畜に生まれ変わらせるべく再洗脳再教育を施している最中の囚人を取り返しすべてを台無しにしようとするのだ!?」 

 完全に恐慌をきたした所長を看守が取り押さえにかかるも既に遅く理性をかなぐり捨てた所長の暴走はとどまるところを知らず、机に勢い良く倒れこみ受け皿までも叩き落とし暴れ狂う。

 「ひとりたりとも返すものか渡すものか絶対に!!ロシアに帰れ軍人めがが、ここは貴様ら如きが来るところではない、ここは東京少年刑務所という名の私の王国だ、私の王国を侵犯するものには死あるのみだ!第一この刑務所にはハルを殺した犯人がいる、ハルを殺した真犯人を突き止めハルが味わったのと同じかそれ以上の苦痛を味あわせるまで一人たりとも囚人を釈放するわけにはいかない、たとえ国際問題に発展しロシアが日本に核ミサイルを撃ち込みそれがきっかけでハルマゲドンが起ころうともハルを殺した疑いのある身を放逐するなどもっての他!!!」
 第三次世界大戦も辞さずと怒り狂う所長を看守が二人がかりで取り押さえにかかる。
 ハルの亡霊が乗り移ったように見苦しくばたつく所長に同情し、アルセニーが呟く。
 「……仕方がない」
 苦い諦念が滲んだ口調でひとりごち、アルセニーは目を閉じる。
 「もとより簡単に賛同が得られるとは思いません。しかしこちらもやすやすと引き下がるわけにはいきません……東京少年刑務所の実態を調査し上に報告するためにも暫くの間滞在を許可願います」
 「こちらに拒否権はないのか」
 「何か困ることでも?」
 アルセニーが優雅に微笑む。
 拒否すれば国際問題に発展すると脅しをかける笑顔にさすがの安田も不承不承頷くよりほかない。
 看守の拘束を振り払い今にもとびかからんと獰猛に歯軋りする所長の面前、部下ふたりを伴いアルセニーが腰を上げる。
 話し合い終了の合図。
 「では失礼します」
 片手をさしだすアルセニーに安田は距離を置く。
 「ひとつ聞きたいのだが」 
 「なんでしょう」
 握手を求めるアルセニーに怪訝な目を向ける。
 「あなたはサーシャを知っているのか」
 サーシャ。
 その名を発した瞬間アルセニーの顔に翳りがさしたのを見逃さない。
 優雅に長い睫毛がためらいがちに震える。
 大気に溶けて消え入りそうに儚い横顔が心痛を代弁する。
 アルセニーの動揺を見抜いた安田はすぐさま畳み掛ける。
 「あなたがヘリコプターから降りて真っ先に歩み寄った囚人の名だ。初対面にしてはどうにも様子がおかしかった。サーシャはあなたを見た瞬間驚愕に目を見開き大いに取り乱し、一方あなたはとても他人とは思えぬ笑みを浮かべサーシャに手を差し伸べ『陛下』と……」
 アルセニーがゆるやかに顔を上げ、安田が息を呑む。
 深沈と静まったアイスブルーの瞳がこちらを見つめる。
 ほんの一瞬アルセニーの横顔を過ぎった哀切な影は跡形もなく消え去り、今や穏やかな笑みの下に完全に動揺を封じ込め平静を取り戻したアルセニーは、凪のような目で安田を見据え逆に質問する。
 「彼の本当の名をご存知ですか?」
 虚を衝かれ安田はたじろぐ。
 質問の意図が掴めず困惑する安田に対し、いつまでたってもとられぬまま宙にさしのべた手をゆっくりと垂れ下げ、アルセニーは小さく吐息をつく。
 過ぎ去りし日々を投影するが如く天井を仰ぎ、体の脇に下げた手を再び持ち上げ顔に翳す。 
 繊細な指が頬を這い眦にふれる。
 その時安田は初めて気付く。
 アルセニーの目の色が片方微妙に違うこと、片方の色素が若干濁っていること。
 よくよく注意せねば気付かないほどわずかな違いだが、片方が冴えた湖水の透明度を誇っているのに残る片方は一滴ミルクを垂らしたような濁りを見せている。
 神々しい光沢を放つ白銀の髪と玲瓏と澄んだ薄氷の瞳、ロシアンブルーの軍服に映える白磁の肌は安田のよく知る人物に酷似している。
 「……いや、知らない。データベースには『サーシャ』とだけ記載されていたが」
 「彼はロシアを出る時本当の名を捨てたんです。過去と決別するために」
 同じ白銀の髪と薄氷の瞳をもつ囚人に思い当たり、『まさか』と胸中で反駁する。
 アルセニーは濁った目を手で覆う。
 濁った目を恥じて隠すのではなく兄弟の絆として慈しみ、残る片目を郷愁に誘われ虚空に馳せる。
 「彼の本当の名はアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ……」
 前髪の奥から見え隠れする目が恍惚とぬれ光る。
 アルセニーはしばしその場に立ち尽くし感傷に耽っていたが、片目に添えた手を下ろすと同時に軽く握り込み宣言。
 「私の愛する弟です」
 再び外気に晒された目に氷結した炎の如く激情の迸りを覗かせ、アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフは言った。



 漸くここに来た。
 長かった。
 本当に長かった。

 
 硬質な靴音を響かせ軍人らしく規則正しい歩調で廊下を行く三人の先頭に立ち、アルセニーは述懐する。
 アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ。
 ロシア軍情報機関にて特殊任務に就く軍人。
 階級は大佐。
 二十九歳の若さにしてこの地位に上り詰めるために色々な手を使った。異例の出世にまつわる嫉妬まじりの陰口は後を経たず、しかしその一部は紛れもなく真実を穿つ。
 アルセニーは秘めたる目的を果たすため一刻も早く今の地位を得る必要があった。
 陰謀と打算が絡み合う軍部で若輩の身が成り上がるには綺麗事だけでは済まず、時としてプライドを踏み躙られる屈辱にも耐えねばならなかった。
 『その年で大佐とはエリートだな。出世と引き換えに賄賂を送ったか、コネで取り入ったのかね』
 先ほどここの所長だという男から投げ掛けられた揶揄を反芻する。
 アルセニーが二十代で大佐の地位にまで上り詰めることができた最大の理由は、無論本人の功績と資質が認められたからだ。

 アルセニーは優秀な軍人だった。
 しかし能力の高さだけで出世が見込めるほど軍は綺麗な世界ではない。
 一刻も早く今の地位を得る必要があったアルセニーは時として自尊心に唾する行いも辞さず卑劣な策を弄し競争相手を蹴落とし上官に取り入った。
 俗物の所長の言う通りだ。
 自分は決して聖人君子などではないとアルセニーは痛感している。
 今の自分を見てはたしてサーシャは幻滅するだろうか、理想の兄が俗物に成り下がったことを哀しみ憂い裏切られたと絶叫するだろうか。

 それでもアルセニーは後悔しない。

 「すっげえ、本物の軍人だ」
 「しかも極上の玉だ!」
 「ロシアの軍服ってはじめてみたけどすっげー派手派手だな~。よくあんなん着て出歩けるよな、正気を疑うぜ」

 所長室から出て内部視察に赴いたアルセニーらを好奇の眼差しと躁的なざわめきが取り巻く。
 東京プリズンには本物の軍人を目撃するのが初めてという囚人が少なくない。
 日本の自衛隊は第二次ベトナム戦争の関係で現地に赴き、日本に居残っているのは戦地にすら駆り出されず銃火器の横流しで小遣いを稼ぐ米軍のおちこぼればかりで、そんな彼らはをあくまで薄汚れた迷彩服をまとった「兵隊」であって「軍人」ではない。
 生まれて初めて本物の軍人を目の当たりにした囚人らは訓練慣れした一挙手一投足に露骨な注視を注ぐ。

 「何しにプリズンにきたんだろな?」
 「ロシアの重犯罪者を移送しにきたんじゃねーか」
 「馬鹿かお前。なんでわざわざ日本にくんだよ、ロシアにだって刑務所くらいあんだろーが」
 「ロシアにおいとけねーくらい凶暴な犯罪者なんだよきっと、あっちで200人くらい惨殺した大量殺戮犯かそれとも第二の社会主義革命を志した思想犯か……とにかくロシアにおいとくと何かとまずいから臭い物に蓋ではるばる海渡って捨てにきたんだよ」
 「で、その大量殺戮犯はどこにいんだよ?あん中に軍服着て紛れ込んでるとか言うなよな」

 さまざまな憶測が野次馬の間を乱れ飛ぶ。
 アルセニーはあくまで冷静沈着に周囲のざわめきも意に介さず通路を進む。
 周囲に群がるのは未成年とはいえ凶悪な犯罪者ばかり、中にはアルセニーに向かい口笛をふくもの中指を立てるもの股間をしごくまねをするものもいる。
 「おいマトリョーショカ、来日記念に一発ヤらせてくれよ!」
 「あんたご自慢の軍服にザーメンぶっかけ水玉模様にしてやる!」
 「連れの二人はあんたのコレか?ケツ貸してやってんのか?」
 アルセニーに向かい卑猥な野次がとび下卑た哄笑が爆ぜる。
 「大佐にむかって何たる口を利く!」
 腹に据えかねた部下のひとりが飛び出しかけるのを制し、アルセニーは軽く首を振る。 
 「子供相手に大人げない。ロシアの恥だ」
 暴言を吐かれても少しも怒りを表に出さず、反対に部下の先走りを戒める。
 品よく眉をひそめたアルセニーの注意に部下は恐縮、羞恥に頬を染めて俯く。
 自省する部下にちらりと苦笑を送るアルセニーにもう一人の部下、こちらはまだ若い少佐が遠慮がちに声をかける。
 「しかし大佐、先ほどはひやひやしました。ここの所長ですがどう見ても普通ではありません、頭がおかしいです。こちらはただロシア国籍の囚人を送還してほしいと言ってるだけなのに何故ああもむきになって拒むんでしょうね?」
 「彼には彼の理由があるんだろう」
 「交渉難航の原因は政府の不手際ですよ。事前に連絡が行ってればまだしも話し合いの余地があったのに、結果的にこちらがいきなり乗り込んできた形で……心証最悪です。上にはなんと報告します?」
 「しばらくのあいだ滞在し様子を見ると伝えてくれ。東京少年刑務所の実態を暴く良い機会だ、私も独自に調査を進めてみる。上には随時連絡を入れる」
 「こちらには何日ほど滞在する予定ですか」
 「具体的には決めてない。しかし調査の進展具合によっては一ヶ月以上……」
 部下と会話しながら歩んでいたアルセニーが鞭打たれたように硬直。
 野次馬のざわめきが凶兆を孕むどよめきへと変化、アルセニーらに注がれていた視線が反転し新しく現れた人物がこの場の注目をさらう。
 廊下の角から大胆不敵な大股で歩み出た人物の視線が行く手を薙ぎ払うや、刷毛でひとなでするように瞬時に空気が塗り変わる。
 嵐の脅威に根こそぎ打ち伏せる葦のごとく危険を感じあとじさる囚人たち、壁にへばりつくよう二手に分かれ道を空けた彼らが畏怖の眼差しで仰ぐ先に悠然と立つ一人の青年。

 干し藁の髪のはざまから覗く隻眼が硝子じみた脆さと危うさを感じさせる。
 精緻な装飾を施した黒革の眼帯が左目を覆う。
 精悍さと甘さとが黄金率で溶け合った野生的な容貌は絶世の美形と評すにふさわしく、艶めかしい褐色肌から発情期の豹のごとく過剰なフェロモンが匂い立つ。
 威風あたりを払う立ち姿は百万の愚民を従える暴君のそれ。
 精緻な装飾を凝らした眼帯が野生的な美貌に蛮勇好む雄雄しさを添える。 
 アルセニーらの行く手を遮りあまたの囚人を傅かせ、暴君の権威でまわりを威圧し、青年が第一声を放つ。

 『Очень рад Познакомиться.』
 お会いできて光栄だ。 

 青年の口から流暢にロシア語が紡がれる。
 甘く掠れた独特の響きをもつ美声が酩酊を誘う。
 突如眼前に現れた青年に対し中尉と少尉は警戒心もあらわにアルセニーを庇う。
 自分を守るよう立ち位置を移動し、相手が危害を加えようとすればすぐにでも軍服の懐から銃を抜き放てるよう身構える部下ふたりを視線で制し、改めて青年と対峙する。
 コンクリ打ち放しの殺風景な通路に異様な緊迫感がのしかかる。
 沈黙の重圧に固唾を呑む囚人らを無きに等しく扱い、青年は片頬笑む。
 「話には聞いてたけど実際見るのは初めてだ。なるほどサーシャに似てるな、色が白くて背の高い典型的ロシア美人ってか。コサックダンスはどうですかお嬢さん」
 「遠慮するよ」
 野卑に口笛をふく青年の申し出をアルセニーは丁重に辞退する。
 限界まで引き絞られた弦のようにあたりの空気が撓み張り詰める。
 距離にしておよそ十メートルと離れてないにも拘わらず足元に押し寄せてくるこの威圧感はどうしたことだ?
 アルセニーは努めて平静を装い褐色の青年を窺う。
 褐色の青年は無防備なまでにリラックスした体勢で立ち尽くしているが、藁色の髪の奥から垣間見える右目には蛇の舌のごとく残虐な光が踊り、口元にはうっすらと酷薄な笑みがたゆたう。
 僅か十メートルの距離が万里に値するような錯覚に眩暈が襲う。
 「先ほどサーシャと一緒にいたね」
 気色ばむ部下を諌めアルセニーが問う。
 青年は質問の矛先を逸らすように軽薄に肩を竦める。
 「彼とはどんな関係なんだい?よければ聞かせてもらおうか」
 「よろしくないから聞かさねーって言ったら?」
 青年が悪戯っぽく笑う。右目に嗜虐の色が浮かぶ。アルセニーをからかうのが楽しくて楽しくてしかたがないといった放埓さだ。
 アルセニーは小さく溜め息をつき足元に視線を落とす。
 乾いたガムがへばりつき吸殻が転々としゴミが散乱する汚い床が視界を占める。
 不衛生な惨状を呈す床に視線を投じ思考に没頭する。
 先刻の光景が脳裏に蘇り平常心をかき乱す。
 ヘリコプターを降り立ったアルセニーが直後に目撃した光景は思い出すのも忌まわしいものだ。
  
 『寄るな!』
 拒絶の言葉が叩きつけられる。
 
 凍り付いた表情のサーシャが愕然と目を見開き、大胆にはだけた軍服から痣だらけの肌を零し死に物狂いにあとじさる。
 『いやだ……寄るな、来るな、近付くな……今更何をしにきたもう遅いすべて手遅れだ!こんな私を見るな、頼むから見ないでくれ、こんな惨めでぶざまな私を見ないでくれ……もはや私の威厳は失墜した私は王座を追われ犬に成り下がった。私はロマノフの血を継ぐ偉大なる皇帝などではない、サーカスの淫売が股から産み落とした薄汚い私生児にすぎなかったのだ!そうだ本当はわかっていたずっと昔からわかっていたのだ、私は最初からサバーカに身を堕とし男のものをしゃぶり尻を犯され飼い殺しにされる運命だったのだ!!』
 ぐちゃぐちゃに縺れ絡まった銀髪を振り乱しめちゃくちゃに首を振り頭を抱え込むサーシャ、背骨もへし折れんばかりに仰け反ったその喉から絶叫が迸り余韻を引く。
 『「私は選ばれし人間なのだ、ロシアで最も偉く賢い皇帝なのだ、誰もが私を褒め称え万歳と唱和する。ほら聞こえるだろうツァー・ウーラツァー・ウーラ、ツァー・ウーラ・ハラショー・サーシャ……』
 ぎざぎざに割れた爪でコンクリートを掻き毟り絶望を煮詰めた呪詛を吐く。希望の枯れた目にしめやかに涙の膜が張り顔が溶け崩れる。

 ツァー・ウーラツァーウーラと自らを讃えるうわ言を連綿くりかえすサーシャを思い出しアルセニーは瞠目する。

 「……君はサーシャの恋人なのか?」
 胸の痛みを伴う回想を強引に断ち切り、青年に向き直る。
 「あっはははははははははははははっはははははははははははははははははははははははっ!!!」
 この問いがさも意外とばかり青年がけたたましく笑いだす。
 よく撓る弓のように背中が床に接するほど仰け反ったかとおもいきや次の瞬間には額が床にぶつかるほど前屈みになり甲高い笑い声を破裂させ派手に手を叩き徹底的にアルセニーの発想を茶化しのめす。
 精神の変調を疑いざるを得ない豹変ぶりに部下はおろか周囲の囚人たちまでも青褪め身を引く。
 狂気と正気のあいだで揺れる振り子のような振幅の激しい笑い声が喘鳴にまぎれ徐徐に収束していき、やがて終息。
 笑いの余韻で口端をひくつかせ、目尻に滲んだ涙を人差し指で拭い青年がこちらを窺う。
 「恋人?あんたの目は節穴か?まあ地上五十メートルから見下ろしたんじゃ現場の状況なんざろくにわかるわきゃねーし勘違いするのも無理ないけどさ、にしても恋人はねーだろ恋人は。第一発見時のサーシャの状況覚えてるか?服装は、顔は?どうだ、正直ひでーもんだったろ。いかにもレイプされましたってかんじで顔中に白濁ちってたろ。顔じゃけねえ、髪も服もあちこちべとべとで目はどんより濁って口は物欲しげな半開きでマジウケ……」
 「知ってるかい、ロシア軍正式採用のトカレフに安全装置が付いてないのは何故か」
 先刻のサーシャを微にいり細を穿ち克明に描写する青年を遮り、アルセニーが話題を変える。
 青年が怪訝な顔をする。
 周囲の囚人たちが一様に不安な面持ちで凝視を注ぐ。
 背後の部下が異常を察しうろたえる気配が伝わるも、アルセニーはあえて取り合わず青年のみを見詰め続ける。
 身の内から噴き上げる殺気がさらりと銀髪を揺らす。
 清涼な旋律奏で光撒き散らしながれる銀髪の奥、清冽なアイスブルーの目が狂気の上澄みを映し透徹した輝きを放つ。
 「トカレフの生みの親はソ連国営トゥーラ造兵廠の銃器設計者フョードル・バシーレヴィチ・トカレフ、ロシア軍に正式採用されたのは1930年。トカレフ最大の特徴は当時としては画期的な安全装置の省略にあった。安全装置を排した理由は第一に生産性を高めるため、第二に極寒の季節に部品凍結等で発射不能になるリスクを少しでも減らすためだ」
 「社会主義のお国柄を反映した銃か」
 青年が皮肉げに微笑む。
 その笑みさえ良心を手懐ける悪魔のように美しい。
 『Да』
 飲み込みの早い生徒を褒め軍服の懐にすっと手を入れる。
 「!?大佐っ、」
 部下が制止の声をあげる。
 周囲の囚人がどよめき波打つ。
 廊下の中央、十メートルの距離をおいて青年と対峙したアルセニーは軍服の懐から一挺の銃をとりだす。
 空気を弾き硬質に黒光りする細身の銃の照準をまよわず青年に合わせる。
 一連の動作はひどく手馴れていた。
 アルセニーが銃の扱いに慣れているのは一目瞭然。
 脅しというにはあまりに静かに、予めこの事態を想定していたが如く落ち着き払った物腰でアルセニーは言う。
 「故にトカレフは暴発させないよう扱えるものが持つのを前提としていた」
 「玄人向けの銃ってわけだ。安全装置がねーのは軍人の度胸試し?」
 銃口の延長線上の青年が茶化すのに答えず、腕を水平にのばした端正な姿勢で静止する。
 「危地に臨んでは己の命ではなく軍人の覚悟を優先し祖国に尽くせ。当時の軍人はそう胸に刻んでいた」
 「とっくの昔に生産終了したレア物だぜ。ひょっとしてレプリカ?」
 銃口を向けられても慌てる素振りもなく青年は飄々と軽口を叩く。
 万一銃弾が放れてもかわす自信があるといわんばかりに余裕を匂わす態度。
 銃口の奥に広がる無機質な闇を覗き込み、残る右目が冷え冷えと虚無を湛える。
 「トカレフの貫通力は高い。身をもって試してみるかい」
 霜柱が縁取る目の温度が一層冷え込む。
 青年は銃口とアルセニーとを見比べ謎めく笑みを浮かべる。
 固唾を呑んで動静を見守る囚人たち、アルセニーの背後の部下ふたりは上官の暴走を止めんと緊張の汗をかき引き金に指が沈むさまを凝視する。
 芝居か本気か判じかねる現状で上官に意見するのに抵抗を感じるのは事実、しかしぐずぐずしていたら弾丸が発射され手遅れになってしまう。
 ロシアの軍人が日本の刑務所で発砲したとなれば大問題になる。
 アルセニーに限りそんな軽はずみな行動をとるはずがない絶大なる信頼を抱き、部下ふたりは焦慮に苛まれながらも事態を静観する道を選ぶ。
 いつはてるともない膠着状態。
 空気が帯電したように殺気を帯びる。
 「…………失礼」
 先に折れたのはアルセニーだった。
 引き金にかけた指を緩めゆっくりと腕を下ろし、本気とも冗談ともつかぬ口調で形ばかり謝罪する。
 「銃口を向けた非礼を詫びる。君の下品な言動につい平常心を乱してしまった」
 アルセニーが銃を下ろすとともに空気が弛緩し囚人が安堵の息をつく。
 藁色の髪もつ青年は腰に手を添えアルセニーをじろじろ不躾に眺めていたが、ふいにその唇が不敵な弧を描く。
 「あんたの弟は淫売の露出狂だ。俺の下で腰振り悦ぶメスのサバーカだ」
 紛れもない挑発、悪意を込めた嘲弄。
 アルセニーの顔に再びさざなみが走る。
 今だ銃を握ったままの手が微弱な反応を示す。
 周囲にただよう険悪な雰囲気を意に介さず、驚異的な長さを誇る睫毛の奥の目を邪悪な悦びでぬらした青年が、おもむろに宙に腕をさしのべる。
 優雅に宙を薙ぐ腕に視線が吸い寄せられる。
 一身に注目を集めご満悦の青年が軽快に指を弾き、芝居がかった素振りであたりを見回してみせる。

 『OK, come here. It‘s  a play time!』
 陽気な声が薄暗い廊下に響き渡る。

 廊下に反響したその声が大気に溶けて消えるのを待たず、青年の背後から角を曲がりあらたな囚人が現れる。
 その姿を一目見るなりアルセニーは凍り付く。
 「サーシャ………」
 覚束ない足取りでやってきたのは、病み衰えた瘴気纏う不健全にやつれた囚人。
 先刻中庭で意にそまぬ奉仕を強いられ飲み干しきれない精液で顔と服をしとどに染めた青年が、精液が乾いて所々膠のように固まった銀髪を垂らし、理性が蒸発した虚ろな目から朦朧と視線をさまよわせ、覚醒剤の常習で頬の肉が削げ落ちた陰惨な死相を呈し、今にも倒れそうな足をひきずり己の主人のもとへ歩み寄る。

 サーシャ。
 サーシャ。

 心の中で狂おしく名を呼ぶ。
 喉元で泡沫と帰した叫びの代わりにアルセニーは銃をもたぬ方の手を虚空に伸ばしサーシャを導かんとするが、サーシャはアルセニーの招きに応じず主人の背後で止まる。
 大量の精液に汚れたまま服を替える事も許されず放置されたサーシャの顎を掴み正面に固定、優越感に酔い痴れ青年が……

 否。
 暴君が宣言する。

 「こいつはサーシャ。俺の言うことならなんでも聞く可愛いサバーカだ。俺が命じりゃ夢中でペニスをしゃぶり俺が跪けといえばそのとおりにし俺が尻を貸せといえば嬉し涙をながし感謝を捧げる偉大なるロシアが生んだ最高の犬だ。どうだ、いい毛並みだろ?極上の絹みてーにさらっさらの銀髪だ。見ろよこの目、冬空映した湖水みてーに綺麗な青だろ」
 嗜虐の愉悦を堪能し舌なめずり、茫洋と弛緩した表情をさらすサーシャの顎に手をかけ強引に自分の方に引き寄せる。
 「サーシャ、お前はああやって皆の前でいたぶられるのが好きなんだよな。物好きな連中にじろじろ視姦されながら一枚ずつ服脱いで裸んなってくのがいいんだよな、最っ高に興奮すんだよな。熱っぽい視線が肌に纏わりつくのがたまんなく刺激的で股間はびんびん勃ちっぱなし、乳首も痛いほど尖りきってコリコリ指の腹にあたってたぜ」
 『……Да、Да』
 万力じみた力で顎を締め上げられる苦痛にサーシャの顔が歪む。
 暴君はサーシャの頬に自分の頬を密着させその顔が歪む様を至近距離で堪能し溜飲を下げる。
 暴君の執拗な言葉責めにサーシャは呂律の回らぬ舌でロシア語の『はい』を繰り返す。
 幼児的に舌もたつかせロシア語で肯定の返事を意味する「ダー」を発音する様は正視にたえぬほど痛々しい半面とても滑稽で、それがなおさらグロテスクな落差を引き立てる。
 「お前はああやって大勢の前で嬲られるのが大好きな真性マゾの雌犬だ。なあそうだろサーシャ、お前はああやって寒空の下脱がされて俺の物口いっぱいに頬張るのが好きなんだよな、大勢の前で半裸に剥かれてケツをぐちゃぐちゃかきまぜられるのがイイんだよな、じゃないとイケないんだよなロシアが生んだ素晴らしき皇帝サマは!美味かったろ俺が出したもんは?遠慮せず一滴残さず飲み干してよかったんだぜ、粉薬ばっかじゃ喉が渇いてしかたねーだろ、地べたに這い蹲って俺が出したもん啜るのがサバーカにゃお似合いだよ」
 『Да、Да』
 粘着な唾液の糸引く舌を緩慢に操りサーシャが狂ったように頷く。
 アルセニーは固まる。
 暴君の腕の中でサーシャは淫らに頬染め喘ぎ始める、荒い息遣いの間から掠れた声が漏れその声が必死に哀願する。
 「レイジ……レイジ……餌をくれ……」
 レイジと呼ばれた少年の服を掴み今にも萎えて崩れ落ちそうな膝を辛うじて支えサーシャが懇願する。
 レイジは自分に縋り付くサーシャを冷ややかに見下ろし邪悪に嗤う。
 底知れず邪悪に邪悪に邪悪に、この世のあらゆる邪悪をかき集め具現したような見ているだけで吐き気をもよおす笑み。
 人間の最も醜悪な部分を剥き出し容赦なく突きつける笑み。
 「またか」
 焦らすように突き放すレイジの服を震える手で掻き毟りサーシャが首を振る、首振りは急激に速度を上げ呼吸は喘息じみて不自然に間延びし全身が痙攣の発作にかかったように不規則に震えだす。
 もはや膝で自重を支えることができず暴君の服を掴んだまま床にへたりこんだサーシャの眼球がみるみる迫り出し夥しく毛細血管が走り狂気の相を呈す。
 「お願いだから早く餌をくれ白い粉をくれ舌の上で蕩ける忘却の粉を嫌なことをすべて忘れさせてくれる粉をくれ!苦しい苦しいのだ、体の中も外もからからに乾ききり狂おしく苦しいのだこんな生き地獄もう耐えられぬ私をこの苦しみから救えるのはお前だけお前が与えてくれる粉だけ、頼むなんでも言う事を聞くここでしゃぶれというなら悦んで奉仕する淫らなサバーカの如く尻を振ってやる、だからあれをっ………」
 レイジが何も言わぬそばから震える手でズボンを脱がしにかかる。
 皇帝の威厳も人間の尊厳も跡形なく剥奪され、覚醒剤の代償の性的奉仕にいそしむサーシャの姿に衝撃が走る。
 指一本動かさず侮蔑的にレイジに構わず、主人を満足させられれば薬にありつけると思い込んだ愚かな犬はまだ完全にズボンを脱がしきらぬうちから口を窄め下着の上からペニスにしゃぶりつく。
 「いいのかサーシャ、兄貴が見てるぜ」
 ズボンに涎染みをつけるサーシャの後頭部に手をおきレイジが指摘する。
 一瞬サーシャの動きが止まる。
 レイジの足元に屈みこみ今まさにフェラチオを始めようとしたサーシャ、その背中が悲愴に強張る。
 床に手を付き項垂れるサーシャの前、ポケットから袋を取り出したレイジがそれを噛み裂き上に向けた掌に粉末を振りかける。
 「ああ、あぁ………!!」
 褐色の掌とあざやかな対をなし舞い落ちる白い結晶を認め、か細く震える歓喜の呻きを漏らす。
 恍惚の吐息に紛れ歓喜の声を上げるや最後の一滴が降り積むのを待たず自制心の箍が弾けとび、飢えた犬のように浅ましい体勢でレイジが差し伸べた掌に顔を埋める。
 「んっあ、ふっく……はふっ、あふっ……」
 交尾中の雌犬のように尻を突き出し、ぐちゃぐちゃと唾液を捏ねる音も淫らに褐色の掌をすみずみまで貪欲に舐め尽くす。
 褐色の指のあいだで唾液が糸引き繋がる。
 サーシャはレイジの指の股のあいだまで綺麗に舐め尽くしそれでもまだ物足りげ掌にしゃぶりつく。
 艶めかしく蠢く舌をてのひらにねっとり這わす。
 五本の指に沿って舌を這わせ唾液に薄められた粉末を啜る。
 顔中涎だらけにして這う皇帝の変貌ぶりに、一時の驚愕から冷めた囚人らが一斉に揶揄を浴びせ始める。
 「ありゃあまるで犬だな」
 「見ろよ、幸せそうに目ぇ細めてレイジの手啜ってやがる」
 「エロい舌遣いだなおい、フェラ売りにしても立派に稼げるんじゃねーか」
 「おいレイジ、飽きたらそいつ俺に回してくれよ!」
 「お手とちんちん仕込んで払い下げてくれたら最高だな」
 あるものは口の横に手をあて拡声しあるものは中指を立てる卑猥なポーズをとりまたあるものは顔じゅういやらしくべとつかせたサーシャを盗み見囁き合う。
 多幸的に潤んだ目をさまよわせるサーシャの後頭部に手を添え行為を中断し、同じ視線の高さに屈み込み、耳の裏側で囁く。
 「アルセニーに挨拶してこい」
 熱い吐息が耳朶を湿らす。
 手を舐めるのをぴたり止めたサーシャが一瞬何を言われてるかわからないといった空白の表情で不思議そうにレイジを仰ぐ。
 「アルセニー……?」
 濁り曇ったアイスブルーの目に理性の光がともる。
 レイジは無造作に顎をしゃくり遥か前方アルセニーがいる場所を示す。
 「久しぶりに会ったんだ。挨拶くらいしてこいよ」
 サーシャの顔が凄まじい葛藤を映し悲痛に歪む。
 しかしレイジは命令を撤回せず、従わなければ酷い折檻をすると無言の内に脅し、床に手をつきうなだれるサーシャに重圧をかける。

 おもむろにサーシャが立ち上がる。
 一瞬たりとも安定せぬ足取りで右へ左へ蛇行しつつ遅遅と接近するサーシャを、右手に拳銃を預けたままのアルセニーが呆然と見つめる。

 「会ったら話したいことが沢山あったんだ、サーシャ」
 アルセニーが心ここにあらずといった口ぶりで呟く。
 一瞬立ち止まるもすぐに歩行を再開、伸びた前髪に表情を隠し早くも上がり始めた息も苦しげに一歩また一歩着実にアルセニーとの距離を詰める。
 無防備に身を晒しサーシャに優しい眼差しを向けるアルセニー。
 慈愛に満ちた笑顔で包み込むように傷付き疲れ果てた弟を出迎え、奇妙に抑揚を欠いた口調で続ける。
 「聞きたいことも沢山ある。私と別れてからここに来るまでどうしていたのか、ここではどんなことをして過ごしたのか、その目はどうしたのか、今でも私が贈ったナイフを持っててくれてるのかー………」

 長い歳月を経て邂逅した兄弟のはざまに鋭利な銀光が閃く。
 二人の絆を断ち切るように。
 
 「……………………サーシャ」
 接近を拒むように爪先にナイフが突き立つ。
 鋭利な光を閃かせアルセニーの爪先すれすれのコンクリ床に突き立ったナイフには見覚えがある。
 サーシャの誕生日に贈ったナイフ。
 今やアルセニーから三メートルと離れてない近距離に迫ったサーシャが腰の後ろからナイフを引き抜き、肉眼では捉えぬれぬ早業で腕振りかぶり投擲したのだ。
 高度な技量を発揮し爪先を掠める形でナイフを突き立て動きを牽制、アルセニーの正面で立ち止まったサーシャが鈍重に顔を起こす。
 靴音の残響を虚空が吸い込む。
 精液が乾いて膠のように固まった銀髪が重たく揺れ、徐徐に顔が起き上がるにつれ黒革の眼帯と荒みきった左目が外気に晒される。
 至近距離でサーシャと対峙しアルセニーは絶句する。
 狂乱の痕跡をとどめおどろに波打つ銀髪が纏わる顔にアルセニーが知るサーシャの面影はない。
 頬骨の尖りが目立つ顔には病的な印象ばかりが際立ち、かさかさに罅割れた唇の隙間から今にも死に絶えそうにか細い吐息が漏れる。 
 身に纏うナチスの軍服には至る所染みがつき淫らな行為の痕跡を残し複雑に皺が寄り全身から精液を煮詰めた臭気が放散される。

 髪といわず顔といわず服といわずサーシャの全身に染み付く濃厚な精液の匂い。

 「会いたかったよ、サーシャ」
 汚物の塊と化た弟へアルセニーは躊躇わず手を差し伸べる。
 サーシャの髪を梳かそうと伸ばされたその指先は、しかしむなしく空を切る。

 陰惨な表情をたゆたわせ罅割れた唇を開くサーシャ、その目を間近で覗き込んだアルセニーはその奥にコキュートスの幻影を見る。
 神曲に由来する地獄の第九層、同心の四円に区切られ最も重い罪を犯した者が永遠に氷漬けにされる地獄の光景が陰火すさぶ洞の奥にはてなく広がる。

 その罪とは裏切り。
 コキュートスは裏切り者を苛む地獄である。
 
 裏切者は首まで氷に漬かり涙も凍る寒さに歯を鳴らすと言われる地獄をサーシャの左目に幻視し、アルセニーは苦い諦念を噛み締める。
 裏切り者を永遠に断罪するコキュートスの具現者が、ロシアからはるばる自分を迎えに来た兄に決別を告げる。 
 「軍の犬に用はない。ロシアに帰れ」
 
 ああ。
 コキュートスは、私にこそふさわしい地獄だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050311235352 | 編集
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