ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十七話

 「それで?」
 膝の上で手を組み続きを促す。
 社交的な笑顔と落ち着いた物腰は深い教養と知性を感じさせるも、鳶色の髪を真ん中で分けた軽薄な髪形と三十路にして学生の域を抜けきらない童顔がそこはかとない胡散臭さを醸す。
 聞き心地よく穏やかな声はおのずと患者の心開かせる親愛の情に溢れているも僕はまだ彼に対する警戒心を捨て去れず、こうして相対し椅子に座っている今も油断ならぬ懐疑の目ですみずみを探り見てしまう。
 斉藤はあくまで対等に患者に接する。
 それが職業上の欺瞞か否かは僕の観察眼をもってしても見抜けない。 深刻な悩みを抱え訪ね来る患者に対し、自分の持てる最大限の力で余さず応じるも、人の心を土足で踏み荒らす押しつけがましさは微塵もなくその語り口はとても柔和だ。
 患者はおろか看護婦からも好感を持たれる聞き上手な青年医というのが第一印象だ。
 目の前の「患者」がただの「訪問客」にすぎないといった気さくさな態度は、精神科医に偏見をもつ多くの囚人に意外性を与える好ましいものだ。
 親密さを感じさせる笑顔に騙されぬよう気を引き締める。
 斉藤は相手にそうと気付かせず会話の主導権を握る術に長けている。
 斉藤のペースに惑わされぬよう注意深く距離を保ち先制球を放つ。
 「貴方は精神科医だろう」
 当たり前の事を聞かれ斉藤が軽く頷く。肯定の証。
 我知らず吐息を漏らす。語り終えた安堵より徒労感の方が大きい僕は、ぐっつたりと肩の力を抜き椅子に凭れる。

 ロンが道了のもとへ去り三日が経った。

 ロンはこの三日間一度として強制労働にも食堂にも顔を出さず道了の房に軟禁されているらしかった。
 ロンが現在どうしているかもわからぬまま、遂に痺れを切らした僕は三日目にしてプライドを投げ捨て医務室のドアを叩いた。
 強制労働後の自由時間、いつもは図書室で借りる本を選んでいる頃合だ。
 サムライはブルーワークの残業で不在だ。
 数ヶ月前レッドワークに降格処分になったサムライだが、相も変らぬ精勤ぶりが報われこの程晴れて元の部署に戻されることになった。
 廃人同然の所長の代理として人事を取り仕切る安田の配慮だ。
 砂漠で働くイエローワークや溶鉱炉を稼動させるレッドワークの囚人はそれぞれの持ち場にバスで運ばれることになるが、ブルーワークの業務はおもに東京プリズン地下に発達した下水道の二層三層を管轄とするため、地下停留場のマンホールから直接梯子を伝いおりるだけで移動の手間が省けるので比較的時間外も拘束されることが多い。
 この三日間地下でなにやら異変が起きているらしく、ブルーワーク担当のサムライは残業を課されている。
 もとより寡黙なサムライは下水道の異変に関しても残業の内容に関しても口を噤んでいるが、今の僕はむりやり聞きだそうという気になれない。
 地下で起きていることよりもまず身近な問題を解決するのが先決だ。
 「経緯は今話したとおりだ。洞察力に富んだ医師なら先の説明から訪問の用件を容易に推察しそうなものだがな……買いかぶりすぎていたか。この天才が最初から最後まで一部始終すっかり噛み砕いて易しく話してやらねば今日の訪問の用件すら推察できないと言うなら僕はどうやら貴方の医師としての能力を過信していたようだ。話し合いを可能な限り手短にかつ円滑に進めるため僕はロンが幼児退行に至った経緯を細部にいたるまで詳細に述べたわけだが、理解力に乏しく愚鈍な貴方はこの上更に説明を求め僕の貴重な時間を浪費させるのか?」
 眼鏡越しに辛辣な眼差しを突き刺す。
 尊大に顎を引いた僕にも気分を害する様子なく斉藤はしばし思案げに沈黙していたが、やがて身を起こし椅子を傾がせ机の方に向き直る。
 机上には数枚のカルテが重ね置かれボールペンが転がっていた。カルテの右上端には錘代わりのマグカップが置かれ淹れたての湯気を立ち上らせている。
 コーヒーの香ばしい芳香が鼻腔をくすぐる。
 斉藤が思案顔で唇をなぞるあいだ手持ち無沙汰の僕は見るともなく机上の物を観察し位置を把握する。
 机上に並ぶ本はすべて斉藤が持ち込んだ物だ。精神医学の大家フロイトやユングの著書にまじり数冊の文庫本が立て掛けられている。
 中の一冊の背表紙に目を走らせ、意外性に打たれ呟く。
 「カラマーゾフの兄弟を読むのか」
 フロイトとユングに挟まれていたのは僕の愛読書のひとつ、ロシアの文豪ドストエフスキーの古典的名作「カラマーゾフの兄弟」だった。
 意図せず漏らした独白に斉藤は素早く反応し親しげな笑みを零す。
 「ああ。カラマーゾフの兄弟は心理学見地からいってもなかなか興味深い作品だからね」
 「エディプスコンプレックスの端的な症例というところか」
 「それはちょっと露骨すぎるかな。気難しがり屋で有名なフロイトがカラマーゾフの兄弟を絶賛したのは事実だけどね」
 斉藤が手を伸ばし文庫を抜き取り僕の前でぱらぱらめくってみせる。 余程読み込んでいると見えページの端はところどころ折れ表紙は傷んでいた。
 優秀な精神科医である斉藤がカラマーゾフの兄弟についてどのような感想を持ったのか、神は在か不在かの永遠の命題にどのような結論を出すか個人的にも気になるところで議論を交わしたいという知識欲が頭をもたげてきたが今はそれどころではないと自分を戒める。
 斉藤は僕の複雑な心境などかえりみずぱらぱらと手早くページをめくる。
 懐かしげに目を細め文面を読み取るさまに学生時代の面影が垣間見える。
 所在なく椅子に座り込んだ僕は、焦らされる苛立ちと時間を不毛に費やす焦りに苛まれながらも、斉藤が意識をこちらに戻すまで辛抱強く自制して待つ。
 結論を先延ばしにされる苛立ちと焦りに貧乏揺すりしたくなるのを懸命に自制する僕をちらり挑発的な上目遣いに見上げ、斉藤がおもむろに言う。
 「『僕は神の創った世界、神の世界を承認しない。どうしても甘んじて承認するわけにはいかないのだ』」
 「『何故ならそれは理不尽に痛めつけられた無垢な子供の涙が贖われないからだ』」
 「お見事」
 「馬鹿にするな。大審問官を含むイワンの反逆論はこの作品の思想的根幹を成す目玉だ、暗記せず天才を名乗れるか。……僕自身イワンの思想には大変感銘を受けたからな。既に二十回は読み返したと思う。まったく、あまりに膨大すぎる記憶力も考えものだな。おかげで今では特に好きな第五編プロとコントラは一字一句漏らさず諳んじられる……」
 違う、こんな事を言いにきたのではない。
 僕は斉藤と古典談義をするために強制労働後の疲れた体を押してわざわざ医務室を訪ねたわけじゃない、斉藤のペースに流されてどうする。
 咳払いし改めて斉藤と向き合う。
 僕の記憶力を手放しで称賛した斉藤はといえば、相変わらずマイペースにページをめくりつつ気に入った箇所を反芻している。
 徹頭徹尾マイペースな斉藤に怒りを通り越し疲労を覚える。
 「僕もイワンに同感だ」
 唐突に、言う。
 斉藤の発言に不意をつかれる。
 反射的に顔を上げればこちらを覗きこむ斉藤とまともに目が合う。
 本を閉じ膝に置いた斉藤がいわく表現しがたい目で僕を見る。
 表層にとどまらず核心にメスを入れ、膿んだ真実を暴き出さんとする苛烈で冷徹な眼。
 「理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない。それが医師としての僕の信条でね」
 たかだか囚人の一人にすぎない僕を相手に斉藤は本音を語る、小説の記述を引用し自らの信念を語る。
 斉藤の言葉にロンを思い出す。
 幼児退行したロンの無垢なる微笑みと庇護をもとめて道了に縋り付くさまを思い出し胸裏に苦汁が滲む。

 理不尽に痛め付けられ粉微塵に心を打ち砕かれたロンの涙が報われないで終わるなど断じて認めない。
 報われないで済まされるなど絶対に許さない。
 必ずロンを取り戻す。
 ロンをこの手に取り戻す。
 ロンのいるべき場所はレイジの隣であって、道了の膝元ではない。

 ロン奪還の決意も新たに膝の上の手を強く握り込む。
 道了に対する憤りが胸の内で燃え盛る。
 深呼吸で自分を落ち着かせ真っ直ぐに斉藤を見る。
 斉藤はひどく落ち着き払って僕の視線を迎え入れる。
 その目で直感した。
 僕自身の口から用件を切り出させるために斉藤はわざと焦らすような真似をしたのだ、僕の真意をさぐり本気を確かめ覚悟を問うためにあえてこのような回りくどい手法を用いたのだ。
 まったく、この上ない愚劣なやりかただ。
 緊張に乾いた唇を舐める。沈黙の重圧に挫けず顎を上げ前を見る。
 眼鏡越しにしっかり斉藤を見据える。
 膝の上で握り込んだ手がじっとり汗ばむ。
 目を閉じる。
 瞼裏の闇を過ぎる三日前の出来事、ロンが道了とともに闇に消えるのを見送り愕然と立ち尽くすレイジ、絶望に見開かれたその目、忍び寄る虚無に侵食されたその顔、暴君の目覚めー……

 自らを励まし指に力を込める。
 小さく息を吐き斉藤と向き合う。

 「ロンを取り返すために知恵を貸してほしい。……彼は僕の、大事な友人だ」
 口にしたそばから頬が上気する。
 前言撤回したくなるも既に遅い、一度口に出した言葉は取り返しがつかない。
 羞恥に苛まれ俯く僕を微笑ましげに見やる斉藤が鬱陶しい。
 なんだその目は、見世物じゃないぞ。
 そんなに赤くなる僕が珍しいのかと抗議したくなるのをぐっと堪える。
 僕が今日斉藤を訪ねたのは、ロン奪還に際し斉藤の知恵を借りるためだ。
 IQ180の比類なき天才たる僕が知能の劣る他人を頼るなどあるまじき事態だが、現在幼児退行を起こし極めて情緒不安定な状態にあるロンを無傷で取り返すためにはやはり専門家の意見を無視できない。
 最善を期すためにどうしても斉藤の助言を乞う必要があった、優秀な精神科医であり有能な心理学者であり私情に入れ込みすぎず客観的なアドバイスをしてくれる存在が必要だった。
 思い当たる人物は斉藤しかいなかった。
 精神科医として数多の患者と向き合い治療してきた斉藤ならきっと精神年齢六歳の幼児に退行したロンを元に戻すヒントを教えてくれるはずだ。

 「貴方は優秀な精神科医だ。日本でもっとも評価の高い児童精神科病棟に籍をおいていたのなら傷ついた子供の心がよくわかるはずだ。今のロンは子供同然だ、精神年齢六歳の幼児と同じだ。あんな彼は見たことがない、東京プリズン入所以来一度して彼のあんな無邪気な微笑みを無垢に透き通った目を見た事がなかった。あの時廊下にしゃがみこんだロンは母をもとめ顔を巡らし舌足らずに『媽媽』を呼んだ、いつも突っ張って憎まれ口を叩き殴られたら殴り返すロンはそこにいなかった、あんな素直なロンはロンじゃない、あれはあの目は赤ん坊と同じだ、まるきり知性が備わってない赤ん坊と同じだ、あれはー……」

 『媽媽』
 『おにいちゃん』

 「恵と同じだ」
 中国語で「母さん」を意味する呼び名に懐かしい声が重なる。
 語尾を引きずるような舌足らずな口調まで恵とまったく一緒だ。
 ロンの面影と恵の面影が脳裏でひとつに溶け合う。
 胸を刺し貫く鋭い痛み……今またロンをも失ってしまう恐怖が激しく僕を責め苛み倦厭の念を喚起する。
 無意識に額に手をやる。
 急速に体の力が抜けていく。
 脱力し椅子に沈み込んだ僕の口から熱っぽい譫言が迸る。
 「……恵もそうだった。あんなふうに無垢な目で僕を見た。僕は恵の傷付きやすい無垢さを守りたかった、けれども守りきれなかった。同じ過ちを繰り返すのは嫌だ、自分の無力を呪うのは嫌だ、僕が無力なばかりに恵はー……」
 ハッと口を噤む。
 椅子に腰掛けた斉藤が聡明な眼差しで包み込むように僕を見る。
 続きを促しもしない、告白を強要しない。
 配慮に富む成熟した大人の物腰が僕の中の暗い情動を揺り起こす。
 斉藤は包容力溢れる静謐な目で決して急かさず焦らさず僕の挙動を見守っている……観察している。
 あくまで自発的な告白を待つ理解者ぶった態度に猛烈な反発が湧く。 眼鏡のブリッジに触れ心を落ち着かせる。
 しっかりしろ、鍵屋崎直。この程度で動揺してどうする。
 長々と息を吐き身を引く。
 感情を抑制し、ブリッジから指をどけ再び正面に向き直る。
 「命令だ。僕の期待に応えろ」
 気迫を込めた視線を受けた斉藤が思わせぶりに推測を組み立てる。
 「実際に診てみないと何とも言えない。そのロン君て子が本当に幼児退行してるのかどうか君の話だけでは断定する根拠に欠ける。君が受けた印象ではなるほどロン君は子供返りしてるらしい、喋り方もたどたどしく表情も心許なげで普段の彼とは正反対だったと君は言う。しかし……」
 「しかし?」
 言葉尻を捉え反駁する。
 椅子を軋ませ天井を仰いだ斉藤が慎重に私見を述べる。
 「……いや、結論は保留しよう。とにかく実際に本人を連れてきてもらわないと断言できない。もし本当にロン君が幼児退行してるのだとしたらなるべく早く適切な治療を施さなければ手遅れになるかもしれない」
 「手遅れ?」
 嫌な予感が過ぎる。
 心臓の動悸が速まり不快な汗が滲み出す。
 素早く聞き返した僕に複雑な顔を向け、斉藤が続ける。
 「……現在ロン君は道了君とともにいる。事件から既に三日経った。ロン君に異常な独占欲を抱く彼が何もしないでいるとは思えない」
 「だが道了は手を怪我している、レイジに十字架で貫かれ深手を負っている。あんな手でロンに乱暴できるはず……」
 「道了はおそらく無痛症だ」
 絶句する。
 道了が痛みを感じないだと?
 何故斉藤がそんなことを知っている?
 ショックを受けた僕に同情したか、斉藤の顔が痛ましげな色を帯びる。
 「道了の痛覚は麻痺している。手を怪我していても関係ない、そんなことはささいなことだ。ロン君の体と心を一日も早く完全に征服することこそ重要だ、ロン君に決して消えない印をつけ永遠に自分の玩弄物とするのが東京プリズンに来た目的そのものだとしたらもはや一日一刻の猶予もない」
 慎重な物言いが不安を煽る。
 膝の上で拳を握り込む僕を気遣わしげに覗き込み、斉藤が質問する。
 「で、ロン君の相棒のレイジ君は何をしてるんだい?君の話によると二人はとても親しい間柄でいつも一緒にいたというから、今この瞬間だってとてもじっとしていられず一人で救出に向かったんじゃ……」

 レイジ。
 憎しみ。

 一瞬答えをためらう。
 三日前、ロンが消えた暗闇に自身もまた身を投じた暴君の姿が瞼の裏に像を結ぶ。
 あれから三日が経った。
 レイジは今や完全なる暴君と化した。 
 恐怖と暴虐により東棟を支配する憎しみの具現化した存在にー…… 
 「レイジは今、」

 扉を隔てた廊下の遠方で轟音と悲鳴が炸裂したのはその時だ。

 「!?」
 異変を察した斉藤が腰を浮かし僕も即座に立ち上がる。
 ベッドに伏せっていた患者たちが連鎖的にカーテンを引き「なんだなんだ?」と身を乗り出す。
 好奇心の塊と化した患者たちが興奮にさざめき注視を注ぐ扉の向こうから不吉な気配が殺到する。
 野太い怒声、ヒステリックな悲鳴、何かが盛大に割れ砕ける音、肉と肉がぶつかる鈍い音……大気を震わす絶叫。
 扉の向こうに広がる流血の地獄絵図を想像し、長い入院に飽き飽きした囚人たちが不謹慎に色めきだつ。

 「今のすっげえ声だったけど何があったんだろうな、な?」
 「ただごとじゃねーぜありゃきっと、タマでも食いちぎられたかケツの穴にビール瓶捻じ込まれたとしか思えねー声じゃねーか」
 「ふたつみっつ修羅場をくぐりぬけてんのが入所に際する最低条件のプリズンの囚人があんなすっげー声出すなんてよ、きっと余っ程のことがあったんだぜ。何があったか予想してみねーか?犯人当てクイズってやつさ」
 「凱に三万賭けるぜ。あの肉達磨ときたら喉切り裂かれて派手に血ィしぶかせてこりゃ絶対死んだざまーみろって思ったのによ、蓋ァ開けてみりゃあ頚動脈に皮一枚とどかずで命に別状なかったっていうじゃねーか!喉の皮が角質化してて一命をとりとめたとかそりゃもう人間じゃなくてステゴザウルスだろ、つまり凱は面の皮だけじゃなく喉の皮まで分厚かったわけだ!んで本人は一週間寝込んでやがったと思ったら三日前に突然跳ね起きて退院しちまいやがって、今もきっと自分を裏切って道了に走った中国人の面汚しどもを青竜刀で叩っ斬ってるに決まってら」

 なんで入院しているのか謎なほど元気の良い囚人たちが、ドアの向こう側で発生した事態をあれこれ予想し喧々囂々議論を戦わせる。
 カーテンを引っ掴んだ囚人たちが好奇心に駆り立てられベッドから転落しそうなほど身を乗り出すのを諌めもせず、かすかな驚きと興奮をもってドアを凝視する斉藤の脇を駆け抜ける。
 「直くん!?」
 ドアを開け放ち廊下にとびだし音源めざし全速力で疾走する。
 僕を駆り立てるのは膨大な不安と直感、あの悲鳴には僕が知る人物が関係しているに違いないという電撃的な直感だ。
 背後で斉藤が何か叫ぶのを無視し息を切らし全力疾走、角を曲がりしな制動をかける。
 現場に辿り着いたは何が起こっているか把握できぬまま集まり始めた野次馬を掻き分け先へ進む。
 「何が起きたんだ、さっきの悲鳴は何だ?詳しいことを知っている者はだれかいないのか、これだけ多くの囚人が群れたかっていながら証言能力をもつ目撃者が一人もいないとは何たるていたらくだ」
 「俺だって今来たばっかで知んねーよそんなこた!」
 「こっちのほうからすっげえ音と叫び声がしたから房から出てみりゃあちこちに蛍光灯の破片が散らばってて、血が飛び散って、それで……」
 房から湧き出た囚人たちが僕の剣幕に怖じてしどろもどろに言い訳する。
 まったく使えない連中だと舌打ちし行く手を塞ぐ囚人を邪険に押しのける。
 振り返りざま殴り飛ばされるのを覚悟で肩を押すも、ちょうど僕の前に突っ立った囚人は顔面蒼白の放心状態で前方を見据えたまま、ろくに抵抗もせず横へよろけ僕に場所を譲る。
 無抵抗の囚人に代わって最前列に躍り出た僕は、彼が目にした光景に直面し同じく唖然とする。

 床一面に無秩序に散乱する蛍光灯の破片。
 散らばっているのは粉微塵に割れ砕けた蛍光灯の破片だけではない。先が尖った危険物の破片に混じってあたり一面に散らばる安っぽいプラスチックの麻雀牌……極めつけはおびただしい血痕。
 破片と血痕と牌とを一緒くたにぶち撒けた惨状にさらに酸鼻な趣きを添えるのは、僕の3メートル前方に腹を下にして転がる囚人だ。

 「『ロン、我是勝利!』って叫んだよ」

 ハッと振り向く。
 僕の後ろに位置する囚人が仲間と小声で話している。
 どうやらその囚人は事件が起こったまさにその現場に居合わせ一部始終を目撃したらしく、血の気の失せた顔にさも恐ろしげな表情を浮かべ口早に説明する。
 「廊下で麻雀やってたんだよ。俺はそばで冷やかしながらそれ見てた。したらたまたま通りかかったレイジがいきなり……」

 背筋に戦慄が走る。

 レイジ。予感が的中した。
 僕が息を呑み見守る前で目撃者は大仰に両手を広げ、聴衆にむかい臨場感たっぷりに当時の状況を再現してみせる。
 「あそこで倒れてるやつはホンイーソー、その名のとおり混一色が十八番の東棟一の麻雀好き。いっつもああして房の外に座り込んで対戦相手募ってたんだけど、そこにたまたまレイジが通りかかって……俺はさ、飯まで特にやることねーしでぼうっと麻雀やってるの眺めてたんだ。仲間に加わろうにも元手がねーし、仮に元手があったところで混一色のイカサマにかかってケツの毛が毟られちまうのはたまんねーから今日のところは冷やかすだけにしとこうって……今日の混一色はどえらいつきまくってた、おっかないくらいに。得意の混一色を連発してトントン拍子に上がって本人絶好調、有頂天になって牌ひっくりかえしてさっきの台詞を叫んだ途端だよ、レイジが首ねっこ引っ掴んで壁めがけて投げ飛ばしたのは!あの蛍光灯はそん時落ちたんだよ、宙高く舞った混一色の手が蛍光灯にぶつかって!」
 ひょいと何かを摘み上げる仕草をし、それから思い切り腕を振り被りその何かを壁に叩きつける真似をする。
 周囲に息を呑む気配が伝播する。
 瞼の裏にありありとその光景が立ち現れる。
 たまたま通りかかったレイジが麻雀に興じる囚人が「ロン!」と叫ぶのを耳にし立ち止まり緩慢に振り向く、優雅に前髪が流れ眼帯が晒され剣呑な光を帯びた右目が覗く。
 近くおのれに訪れる運命も知らず勝利の嬉しさに「ロン!」と快哉をあげた混一色の首ねっこに手がかかる。

 ロンの名を叫んだばっかりに、
 ただそれだけで。

 その瞬間混一色の運命は決定した。
 レイジの接近に気付かず不用意に「ロン!」と叫び万歳したせいで暴君の逆鱗にふれた混一色は、おのれの首に手がかかったまさにその時も満面に歓喜を滴らせ勝利の愉悦に酔っていたのだろう。
 暴君は情け容赦なく勝利に浮かれる囚人を壁めがけ投げ飛ばした。鋭く呼気吐き腕振りかぶり残る左目にぎらぎらと狂気の光を湛え、襟刳り引きちぎれる勢いで哀れな犠牲者を壁に叩き付けたのだ。

 パン生地をこねるように、
 いともたやすく。

 「……レイジはどこだ?」
 話に夢中の囚人たちが一斉に振り返り奇異な眼差しを浴びせる。
 僕の姿を見た途端好奇の目が親殺しを蔑む冷たい目に変わるも今の僕はそれどころじゃない、今現在廊下に姿の見えないレイジがどこへ行ったのかたった一言「ロン!」と叫んだ囚人を壁に投げ付け額をかち割ったあとにどこへ消えたのか肝心の行方を知りたい一心で我を忘れ証言者の肩を掴む。
 「汚ねえ手で触んな親殺し。売春班上がりにべたべたさわられたら性病伝染るだろうが」
 「見ていたなら知ってるだろう、レイジがどこへ行ったか。さあ話せ今すぐ教えろぐずぐずるな、いかに頭の回転が鈍い凡人でも舌の回転は鈍くはないはずだ、さっきまでさも得意げに一部始終すっかり目撃した優越感に酔いながら事のあらましを話していたじゃないか、だがその話には肝心な部分が抜けている、結びの部分が抜け落ちている!被害者の現在などどうでもいい大事なのは今もって徘徊中の加害者の消息だ教えろレイジはどこへ消えた」
 「俺とふれあいたきゃコンドームもってこい。そしたらいくらでもひっついてやるからさ」
 下劣な笑みを剥き出した囚人が追いすがる僕を邪険に振り払う。
 乱暴に振り払われよろける僕を指さし周囲の囚人がけたたましく笑う。だが僕はそれどころではない、彼らはまだ知らないのだレイジの中の暴君の覚醒を、今さっき囚人を投げ飛ばし気絶させたのがレイジでなく暴君だということを。
 僕が声を荒げるのを待たず、次なる惨劇が起きる。

 「ひぎゃああああああっあああああああああああああああああああっあああああああ!?」

 喉破れんばかりに凄まじい絶叫が掠れた尾を引き大気に溶ける。
 全員一斉にその方向を仰ぐ。
 突然の悲鳴に固まる囚人たちよりほんの一秒だけ早く体の自由を得て僕は走り出す。
 にやつきながら取り囲む囚人らを肘で押しのけ輪の外に出れば、階段の下方へむかい血の足跡が続いていた。
 足跡を辿り階段を駆け下り踊り場の展望台へ躍り出る。
 床に刻印された靴跡は窓枠を跨ぎこし展望台の地面にも赤い血をなすっていた。
 レイジの足跡だ。
 考えるより先に体が動く。
 窓枠を乗り越えると同時に眩い残照が目を射り視界が炎上、あたり一面が紅蓮に染まる。
 溶鉱炉の上に吊るされ炎に炙られた悪夢が鮮明によみがえる。
 激しくかぶりを振り悪夢を払い、固く瞼を閉じ呼吸を整えてから意を決し目を開ける。

 刹那、予想外の光景にでくわす。

 「わる、悪かったよ……でもわかってくれよ仕方なかったんだこっちにだって事情があったんだよ、なああんたならわかってくれるだろ東棟の王様、あんただって道了がどんだけイカレてるか実際戦ってみてわかったろ!?あの時ゃああするしか他なかったんだ、道了の言うこと聞かなきゃマオの二の舞になるってわかってたからだから俺いやいや足止めに回ったんだよ道了さんが顎しゃくってそうしろって命令したから、レイジを寄せ付けんなって指示したから!お願いだから許してくれ命だけは助けてくれ見逃してくれ、あんたはわかってくれるだろ優しい王様だから道了と違って慈悲深くて仲間思いだから謝れば許してくれるよな、あんたと道了じゃ器が違うもんなあんたこそ東棟の真のトップ無敵の王様だよその王様がたかだか一介の囚人相手にマジギレするわきゃねーよな、こうやって地面に額すりつけて謝ってんだからさあ……!」

 哀願の声を振り絞り地面に這い蹲り懸命に許しを請うのは、三日前、道了が去り際レイジの足止めを命じた手下のひとり。
 胸の前でひしと手を組みプライドも恥も外聞も一切合財をかなぐり捨て、ただただ命欲しさに情けを乞う世にも情けない囚人の前に伸びる影は……

 暴君がいた。

 展望台の床にそれすら端正な影を曳き、真紅の夕日に映える横顔に掴み所ない笑みを浮かべ、音痴な歌を口ずさんでいる。
 十八番のストレンジフルーツ。
 暴君が軽く足踏みを始める。
 風に吹き流れる鼻歌にあわせ足拍子をとりはじめる。
 軽快にテンポ良く愉快げに足裏で地を叩きながら鼻歌を口ずさみ続ける暴君、どんな哀訴にも耳を貸さずおのれの膝に縋り付く囚人の顔が歪めば歪むほど楽しげにうっとりと目を細める。
 「頼むから殺さないでくれよ娑婆に待たせてる女がいるんだ生きてここを出るたまにゃ強いやつにひっつくのが一番なんだよ、俺本当はロンのこと可哀想って思ってたんだよずっと薄汚い混血の半々でもそれロンのせいじゃないもんな節操なしの親のせいだもんな、けどしかたねーだろ実際、青くせー正義感発揮してロン庇ってこっちが標的になんのも馬鹿らしいし……そう、プリズン流処世術ってやつだよ!ロンは要領が悪かったんだ、自分より弱い奴めっけたら助けるより庇うより先に蹴落とすのがここの常識なのにあいつときたらほとほとお人よしな甘ちゃんで、だからあいつは中国人からも台湾人からもストレス発散のいじめの標的にされるんだよ!」
 雄大な砂漠をはるか彼方に望む展望台の上で、追い詰められた囚人が非道な暴君に一片の慈悲を乞うかのように仰々しくひれ伏す。
 「三日前のことなら謝るよ、俺が悪かったよ。ほんと悪かったなって思ってたんだやっぱ東棟の王様はお前だよお前がいちばんトップにふさわしい人間だよレイジ、ほんと言うと前からそう思ってたんだけど仲間の手前なかなか言い出せなかったんだ!三日前のことはずっと反省してた、混一色と麻雀してるあいだもずっと胸痛めてたんだよ、おかげでツキが逃げちまって三連敗で賭け金ごっそり巻き上げられて……」
 媚びへつらいの醜い笑みを顔全体に貼り付けた囚人が饒舌に自己弁護をはかる。
 囚人の言葉で僕はすべてを察する。
 三日前自分の行く手を阻んだ囚人の顔をレイジはしっかりと細部まで覚えていた、自分に楯突いた愚か者の顔を決して忘れず心の内で憎悪を育んでいた。
 自分を妨げた囚人が廊下で麻雀に興じている姿を目撃し、暴君は怒りに任せその本領を発揮した。
 まずは麻雀仲間を再起不能にし恐怖を煽ってから展望台に追い詰め裁きを下す、それが暴君の計画だ。
 三日前自分の行く手を邪魔しロンと引き離した囚人が楽しげに麻雀に興じる姿を目撃し、暴君は怒り狂っている。
 「悪かったよ、謝るよ、このとおりだ。でもさ、俺なんてまだ可愛いもんじゃねーか。お前のまわりをうろちょろしてただけの蝿みてーなもんさ。ウーフェイは廊下のど真ん中にしゃしゃりでて中指おっ立てたじゃねーか、リャンパオはナイフ抜いてしゃにむに挑みかかったじゃねーか、イェンレンはお前の足に組み付いて8メートルも引きずられたじゃねーか!ほら、今挙げた奴らのが俺よりよっぽど罪が重いぜ。俺はただうろちょろしてただけだけどあいつらはお前を本気で……」
 「お前で最後なんだよ」
 「え?」
 暴君が低く凄味を帯びた声を発する。
 仲間を売り渡してでも生き延びようとした囚人が、半笑いに弛緩した顔で逆光に塗り潰された暴君を仰ぐ。
 展望台の真ん中に仁王立ちした暴君がうっそりと口を開く。
 「三日前、俺の行く手を阻んだ連中には罪の重い順から『代償』を払わせてきた。お前が最後だ」
 意味深な台詞を口にした暴君、だらけた仕草でポケットに突っ込んだその手が錆びた缶切り握っているのに気付いたのはその時だ。
 ベッド下に貯蔵する非常食の缶詰を食す時に用いる缶切りを何故か携えた暴君は、哀れな囚人の頭上にゆっくりと凶器を翳す。
 既にして多くの犠牲者の血を吸った缶切り。

 「報いを受けろ」
 缶切りが残照を反射し赤熱する。

 あの缶切りでどうする気だ?
 何をする気だ?

 脳裏に疑問が渦巻く。
 喉が異常に乾き心臓が壊れそうに高鳴り血が音たて逆流する。
 残照を浴びて燦然と輝く缶切り。
 「お前で最後だ」と暴君は言った。
 栓抜きは既に血ぬれている。
 あの缶切りは本来の用途とは別に拷問具として使われたのだ、レイジは身のまわりにあるありとあらゆるものを武器に転じ敵を葬り去るよう仕込まれている、本来は無害な物すらレイジの手にかかれば油断ならぬ殺傷能力をもつ凶器と化す。
 缶切りは凶悪な形状をしている。
 先がぎざぎざに尖っていて責め具として最適だ。
 鮫の歯のようにギザギザに尖った先端は実に効率よく人に苦痛を与え得るもので汎用性の高い拷問具としても優れー……
 暴君があの缶きりで何をしてきたか、これから何をするつもりなのか、察するにあまりある。 
 残照を跳ね返し赤く不吉な光を放つ缶切りから目が放せない。
 展望台の真ん中に佇んだ暴君は、足元に深々頭を垂れた囚人を無感動に醒めた目で見下ろす。
 「お前は人形の下僕だ。人形の王に媚びへつらい庇護をもとめ『俺』の居ぬ間に領土を練り歩いた反逆者の残党だ」
 「お前がいない間にって……何言ってんだよレイジ、お前あの時あそこにいたじゃねーか。俺らが行く手邪魔して通せんぼしたのはっきり見てたじゃねーか。だからそんなに怒ってるんだろ、俺らが間に立ってロン追っかけるの邪魔したから……」
 萎縮しきった様子で地にひれ伏す囚人を見下ろす目はどこまでも冷たく傲慢でレイジらしい稚気が一片残らず消し飛んでいる。
 口角が不自然に痙攣し卑屈な笑みが怪訝な表情へ変わる。
 訝しげな顔が徐徐に恐怖の色を帯びていき、レイジを仰ぐその瞳が信じられぬものでも見たかの如く凝結する。

 「あんた、だれ?」
 背筋に悪寒が走る。
 刹那、空気が凍り付く。
 一際輝きを増した夕日が視界を鮮烈な朱に染める。   

 恐慌に陥った囚人が声なき悲鳴をあげ姿勢を崩し、床に尻餅付いた不恰好な体勢のまま暴君から必死にあとじさる。
 肘とつま先で床を掻き毟り、少しでも遠くできるだけ早く自分から逃れようと文字通り足掻き苦しむ囚人を暴君は絶対的優位を誇示し悠然と追いつめる。

 獲物を捕食する豹のように、
 威風あたりを払うしなやかな大股の歩み。

 「なんだありゃ、地べたに這いつくばってるあいつは道了の腰巾着の台湾人で……確かケニーとか言ったっけ……」
 「右はレイジだろ?こんなところで何やってんだよ。ブラックワークの試合にも出ず三日間房に引きこもってたと思ったら今日になっていきなり……」
 「ロンほったらかして展望台デートたあ王様も隅におけねーな、相変わらずの色男っぷりだ」
 「待てよ、様子が変だぜ。地べたに這い蹲ってるほうなんか今にも小便ちびっちまいそうな有り様じゃんか」
 「レイジもなんかいつもと雰囲気違くねーか?なんつーかうまく言えねーけど、こう……別人みたいで……」
 「悪魔にでもとりつかれたってのか?」
 「十字架と聖水もってきてお祓いしてやれよ」
 「馬鹿言え、こちとら先祖代々由緒正しい道教の信奉者だっての。耶蘇に魂売り渡して一族に泥塗るのはごめんだぜ」
 「馬鹿はてめーだ馬鹿、プリズンぶちこまれた時点で一族末代飼い犬および来世の嫁にまで泥塗ってるっつの」
 背後がうるさくざわめく。
 騒ぎを聞き付けた野次馬が展望台に殺到する。
 野次と嘲笑と罵声を交えたどよめきが膨れ上がるも最前列に立ち竦んだ僕には雑音の集合体としか認識されない。
 慄然と立ち竦み、徐徐に距離が狭まりつつある二人に凝視を注ぐ。
 ささくれ乾いた風が咆哮を上げ吹き荒び、展望台が処刑場と化す。
 「ゆる、ゆるしてくれ……頼むよなあ勘弁してくれよいいじゃねーかこんなに謝ってんだからさ、頼むから命だけは見逃してくれよ見逃してくれたらなんでも言うこと聞くよもうあんたの気に障ることなにもしねーよ、ロン苛めたりしねーしちゃらけた尻軽だって陰口も叩かねーし食堂で席譲るし……ブラックワークの試合では毎回お前を応援するよ、毎回お前に賭けるって約束するよ!!命さえ助けてくれりゃあ何でもするからケツの穴舐めて糞拭いてやるからだからんな物騒なもんしまってくれよ……っ!!」
 発狂せんばかりの恐怖に駆り立てられ、恥も外聞もかなぐり捨て見苦しく泣き喚き命乞いをするケニー。
 既に足腰立たず尻で床を擦るようにあとじさるケニーの正面、ぴたりと歩みを止めた暴君が静かに問う。 
 「何でも?」
 次の瞬間。
 最高に面白い遊びを閃いたといわんばかりの笑みが顔じゅうに広がる。
 おぞましいの一言に尽きる微笑。
 絶世の美形だからこそ醜悪さが際立つ笑み。
 「何でも、何でもするっ……」
 一縷の希望に縋るように叫ぶケニーの眼前で、暴君が思いがけぬ行動をとる。
 「足を舐めろ」
 ケニーが固まる。
 レイジは薄っすらと笑っている。
 「手足をつき四つん這いになれ。尻を高く掲げろ。だらしなく舌をたれて一本ずつ指をしゃぶれ」
 「……………っ、」
 「やれよ」
 屈辱に撓むケニーの顎を足で突き上げる。
 葛藤の脂汗を額に浮かべ逡巡するケニーがどう出るか野次馬が固唾を呑んで見守る。  
 展望台に詰め掛けた群衆の前で四つん這いになりレイジの足を舐めるなど、プライドをドブに捨てるも同然の屈辱的行為だ。
 よしんばこの場を切り抜けたとしても、明日からケニーが「暴君の足の指をしゃぶって命を買った腰抜けのタマなし」の汚名を被り、かつての仲間を含む東棟の囚人から迫害される身となるのは避け得ぬ事態だ。

 「どうした?所詮口先だけか?それともやりかたがわからないのかよ。お前はよっぽどこの缶切りが恋しいらしいな。知ってるか?缶詰の蓋開けるにもちょっとしたコツがいれるんだぜ。力加減がむずかしいんだ。力を入れすぎるとぎこぎこ変な音がするし、かといって力を抜くとそこで詰まっちまうし、缶詰の蓋を剥くのは案外むずかしいもんなんだ。その点人間を壊すのは簡単だよ、そりゃもう笑っちまうくれえ簡単だ。お前が望むなら今すぐにその目玉を抉り出してやってもいいんだぜ、その爪剥いで肉を露出させてやっていいんだぜ。お前の仲間も今頃自分の房でのたうちまわってるだろうさ、缶切りの新しい使い道を発見してな」

 脅すように缶切りを振りながらケニーと視線を合わせる。
 哀願の眼差しを曲解し、暴君が砕顔する。
 「見本を見せてやる」 

 前触れなくこちらに向き直り、腕を掲げて合図する。
 背後の人垣が割れて不穏などよめきが巻き起こる。
 異変を察して振り向きかけた僕の横をさっと人影がすり抜ける。 
 すれ違いざま神々しい輝きの白銀の髪が泳ぎ、危うい光を孕む薄氷の瞳が覗く。
 「サーシャ?」
 予想だにせぬ人物の登場にたじろぐ。 
 呼び止める暇もなく展望台に乗り込んだサーシャは、僕に背を向け暴君と対峙する。
 サーシャと面と向かった暴君は余裕を失わず不遜に顎をしゃくる。
 「お前の弟犬だ。おしゃぶりのやりかた教えてやれ」
 何を、言っているんだ?
 眼前の光景に目を疑う。
 他ならぬレイジの口から発された台詞の意味を咀嚼するのに数十秒を要する。

 展望台に群れ集った囚人らも予測不能の展開に息を呑む。
 野次が途絶えた展望台を静寂の帳が包む。

 レイジが、否暴君が、サーシャに……足の指を舐めろと、命じた?
 あのプライドの高いサーシャに敵地の観衆が好奇の眼差しを注ぐ中ひれ伏し自分の足を舐めろと言ったのか?
 馬鹿な。
 こんな陰険なやり口レイジらしくない第一サーシャが従うはずがないサーシャは自分を偉大なるロシア皇帝と信じて疑わぬ誇大妄想狂で異常に高いプライドの持ち主であるからしてレイジの命令に従うはずー……
 今度こそ、だれもの予想を裏切る事態が生じた。
 東棟の群集が異常な関心を込め食い入るように見つめる中、レイジの前に恭しく、どこか覚束ない足取りで歩み出たサーシャが従順に跪く。
 「っ、は……あうく……」
 謹直に顔を伏せているためその表情は陰になり窺い知れぬが、地に片膝付いたサーシャの様子が変だ。
 息遣いは荒く苦しげで額に汗が滲み、肩は浅く上下し始めている。
 相変わらずナチスの軍服に身を包んでいるが悄然とうなだれた様子には一切の覇気が感じられず、普段との落差がかえって痛々しい。
 一体サーシャの身に何が起こっている?
 体調の悪いらしいサーシャと暴君とを見比べる。
 力尽き膝を屈したサーシャを暴君は傲然と見下す。
 普段と立場が逆転した構図に途方もない違和感が疼く。

 かつて監視塔で起きた出来事を回想する。
 あの時と配役を逆にし同じことが再現される。

 暴君が優雅に腰を屈め、片手をサーシャの後頭部に回し抱き寄せる。
 サーシャを自分の胸に抱き寄せ、暴君がうっとりと呟く。
 「いい子だサーシャ。俺の言ったこと、ちゃんとできるな。幻滅させるなよ。呆けた顔で座り込んでるこいつに見本を見せてやるんだ。お前もそろそろらくになりたいだろ?解放してほしいだろ?……聞き分けいい子は好きだぜ。お前は上等のロシア産サバーカだよ」
 愛撫するような手つきでもってサーシャの後頭部をなでさする。
 しっとり汗ばんだ髪の間に褐色の指が滑り込む。
 「っあ、ふくっ……ひあ、あうぐ、あっ……」
 レイジの指が触れただけで絶頂に達してしまったかのようにサーシャの肩が不規則に痙攣する。 
 地に両手をつき上体を支えるサーシャの顎先から大粒の汗が滴る。
 陶酔した面持ちでサーシャの髪をもてあそび捧げ持った一房に接吻を授け、嗜虐の愉悦に酔った暴君が命じる。
 「始めろ」
 サーシャが緩慢に顔を上げる。
 しどけなく縺れた前髪の奥、湖水の透明度を誇る薄氷の目が淫蕩な熱に濁り始める。

 言われるがままサーシャが身を屈め暴君の靴に接吻する。
 まず最初におずおずと唇をふれ泥を拭い、物欲しげに息を弾ませ唾液の糸引く舌を出し爪先を洗う。
 サーシャは四つん這いになる。
 軍服の肘と膝が汚れるのも構わず砂利が不快な音をたてるのも構わず四つん這いになり、顎の角度をこまめに調整し右へ左へ顔を傾がせ、フェラチオに似た技巧を駆使しレイジの靴にねっとりと舌を這わしていく。
 眼前の光景に数ヶ月前の記憶がまざまざ蘇る。
 数ヶ月前ロンを人質にとられたレイジが監視塔に呼び出された時サーシャはレイジに靴舐めを命じレイジはそれを実行し、恍惚としたサーシャの表情があの時のレイジの表情に重なり溶け合いひとつになる。
 あの時僕を襲った性的興奮が今また疼き始める。

 「ふあ、あふ、んぐぅ………」
 「美味いかサーシャ?遠慮せずもっと食べていいんだぜ、奥までずっぽり咥えこんじゃっていいんだぜ。俺の靴をよだれでぐしょ濡れにするのが好きだもんなお前は。何を隠そうロシアが誇る偉大なる皇帝の正体は靴に興奮する変態だ、さあサーシャ遠慮せずもっと奥まで咥え込めよお前のよだれでぬるぬるのコイツを口一杯頬張って溶かしてくれよ、お前は本当いい犬だなサーシャ、俺に組み敷かれ鳴いて俺になぶられて喘いで最高に可愛いサバーカだよお前は、アルセニーに捨てられたのが信じらんないくらいにさ」
 「あふ、ふっ……苦しい……レイジ……レイジ……アルセニー……もっと奥まで…………奥まで……頂戴……」
 「いいぜ、もっと食えよ。全部食っちまっていいんだぜ。どんな味がするか聞かせてくれよ」
 「……あふ……泥の、味……革の味……」
 「うまいか」
 「もっと欲しい……全部欲しい……奥まで捻じ込んでくれ……突き破ってくれ……みじめで浅ましい犬の飢えを満たしてくれ……」
 狂おしく髪振り乱し顔じゅうよだれでべとべとにしながら靴を貪り吸う。戦慄に打たれた観衆の視線など気にする素振りもなく、かつての威厳を跡形もなく粉砕された北の皇帝が東の王の靴をすみずみまで舐め尽くす。しとどに涎をおとし舌でのばし靴の裏も表も横もすっかり綺麗にしてしまう。
 「ひ、あ……あ……靴を、舐め……サーシャが……なんで……だってお前ら敵同士………殺し合いだってしたのに……?!」
 夢中で靴をむしゃぶるサーシャの狂態に傍らのケニーは生理的嫌悪と本能的恐怖を隠せず竦み上がる。
 「今のお前をアルセニーに見せてやりたいよ」
 アルセニーとは誰だ?  
 僕の疑問をよそにレイジは嬉々としてサーシャを言葉でなぶる。
 靴裏で顔面を摩り下ろし泥まみれの足跡を刻印しぐりぐりと踏みにじり、砂塵を運ぶ強風に前髪をはためかせ暴君が哄笑を上げる。

 「薄汚れた黄色い毛並みの雑種のサバーカ?上等だよサーシャ、どっちが生まれついてのサバーカかたっぷりその体に教えてやる、身の程の違いってやつを髄まで叩き込んでやる。北の皇帝の座はお前にふさわしくない、お前は俺の下であがき続けるのがお似合いのみじめなサバーカだよ、決して手に入らない兄貴への思慕に苦しみ焦がれて誇大妄想に逃げた腰抜けは腰立たなくなるまで遊んでやるよ。俺に裂かれた背中の疵が疼くだろ?疼いて疼いてしかたないだろ?
 ……ああ、最高にイイ顔だ。イイ声だ。
 この靴をアルセニーだと思って舐めろよ。愛しい愛しい兄さんの顔をすみずみまで舐めて綺麗にするつもりでべちゃべちゃにしてみろよ。ほら想像しただけで勃ってきた、わかってるんだよちゃんとアルセニーの名前出しだけでお前がびんびんに勃っちまうってことはさ、俺の靴舐めながらペニスから汁垂らしてケツの穴物欲しげにひくつかせて……お前は本当にいやらしいサバーカだよ!!」

 激した暴君が乱暴にサーシャを蹴倒す。
 靴裏で顎を蹴り上げられた衝撃にサーシャがよろめき力なく転がる。
 奉仕の余韻冷め遣らず息を喘がせ朦朧と目をさまよわせるサーシャに夕日を背負った暴君が忍び寄る。
 紅に染まる暴君を認めた途端、薄く涙の張った薄氷の目に欲望の光が灯る。
 「はっ……レイジ、レぃジぃ………欲しい……欲しいのだっ……早くあれをくれ、飢えを満たしてくれ、奉仕の褒美を……餌をくれっ……もう耐えられぬこんな責め苦には、体の中が熱くて蕩けてしまいそうだ、何もかもが溶け出してしまいそうだ……気が狂ってしまう……助けてくれレイジ、早くあれを……哀れで愚かなサバーカに慈悲をくれ……サバーカの卑しい尻の穴に火掻き棒をくべてくれ……」
 悩ましく腰をくねらせ暴君の膝に縋るサーシャに観衆は言葉をなくす。
 僕もまたあまりに変わり果てた皇帝の醜態に動揺を隠せない。
 威厳も誇りも粉微塵に打ち砕かれ彼を彼たらしめる傲慢さを根こそぎ奪い去られ、ナチスの軍服を砂利に塗れさせぐちゃぐちゃに銀髪を乱し、暴君のズボンを引っ掴んで訴える今のサーシャは北棟のトップとしてながらく治世を敷いた皇帝ではなく四つん這いで喘ぐ犬にすぎない。
 もはや完全に犬と成り果てたサーシャを満足げに眺めやり、余裕の笑みを浮かべた暴君がポケットからセロハンの袋を取り出す。
 「ご褒美だ」
 優しく慈悲深くさえ見える微笑の裏で底知れぬ悪意が蠢く。 
 暴君が袋を口に咥え噛み裂く。
 眩い残照が袋を透かす。
 中に入っていたのは白い結晶……おそらくは覚醒剤の粉。
 まさか、
 「!!やめろっ、」
 サーシャの顔の上で袋を逆さにする。
 破れた袋からぱらぱらと白い結晶が舞い落ちる。
 自身の顔へと降り注いだ白い粉末にサーシャは狂喜する、限界まで舌を伸ばし一粒漏らさず残さず粉末を舐め取るもそれだけではまだ足りず地べたに這い蹲り目を更にし零れた結晶を舐め尽くす。
 浅ましく貪欲に、砂利と混ざって区別がつかなくなった覚醒剤の結晶を必死に舐めとるサーシャに暴君が囁きかける。
 「……そろそろ限界だろ?イっていいぜ。俺が許してやるよ」
 耳朶の裏を吐息でくすぐり、寛恕と笑む。
 「………やめ、ろ……東の猿どもが勢ぞろいする前で痴態を晒すなど私の誇りが断じて許さん……」
 「飢えが癒えた途端強気になったか。けどなサーシャ、『もう限界だ』って顔に書いてあるぜ。一刻も早く戒めを解き放ってしごいてもらいてえってだらしなく口半開きにしてよだれ垂れ流したそのツラが言ってるぜ。さあ、こっちに来い。今らくにしてやる」
 「来る、な……やめろ……来ないでくれ……頼むから……」
 理性の最後の一片が蒸発し、サーシャの顔にまじりけない恐怖が凝結する。
 意味なく両手を掲げ暴君の接近を阻もうとするも、暴君はあらかじめこれを予期し大股に迂回しサーシャの腕を掴んでやすやすねじ伏せる。
 「あがっ!」
 上体が突っ伏す。
 暴君に腕を締められ組み伏せられたサーシャ、その顔が苦痛と恥辱に歪む。上体を沈め尻を突き上げたサーシャに覆い被さり暴君が抵抗をものともせずズボンを脱がしていく。
 「東棟のやつらがこっちを見てるぜ。北の皇帝サマが悩ましく喘いでズボンを脱がされるところを見てペニスをおっ勃ててる」
 「っは……ぁぐ……んんっ……」
 尻から下着ごとズボンを引き剥がしサーシャの下半身を露出させる。 後ろ手に戒められたサーシャは覚醒剤の効果で酩酊状態にあり四肢が弛緩したためろくに抵抗できず暴君にされるがまま屈辱を耐え忍ぶしかない。

 快感に翻弄され仰け反った拍子にぱさりとズボンが滑り落ちる。
 
 僕は見た。
 見てしまった。

 ズボンと下着を奪い去られたサーシャの股間、今にも張ち切れんばかりに赤黒く怒張したペニスの根元が縛られている。
 遠目では判別しにくいが、どうやらコックバンドの類らしい。
 売春班の経験があるから、わかる。
 僕も使われたことがある性玩具。
 
 「…………あ、うぐ………」
 胃袋が収縮し猛烈な吐き気が込み上げてくる。 
 無意識に口元を押さえあとじさる。
 サーシャの様子がおかしかったわけがやっとわかった。
 サーシャはずっと、展望台に来る前からずっとペニスが勃起したままの状態で栓を締められていたのだ。
 射精できない内圧的痛みに苛まれながら、いっそ発狂したほうがマシな快感に絶え間なく苦しみながら、サーシャは一刻も早く戒めから解き放されたい一心でレイジの命令に従い靴を舐めたのだ。
 歩くだけでも拷問に等しい苦痛が伴うのは想像に難くない、ましてや前屈みに四つん這いになりなどしたらますます戒めが強く食い込み血流が塞き止められるのだ。
 「飼い犬には鎖をつけなきゃな」
 悪びれたふうもなく暴君が笑いペニスの根元に手を添える。
 「いあっ、ああああああああううっ痛っひあああああああああ!?」
 SM用コックバンドでぎりぎり締め上げられたペニスの根元をゆるりと擦られ、達せない苦しみにサーシャが悶絶する。
 束縛の苦しみに憔悴し、剥き出しのペニスに脈打つ毛細血管も醜悪に、暴君に背後から抱かれたサーシャは一刻も早くこの苦しみから解放されたい拷問から解放されたいもうそれしか考えられない早く栓を抜いてほしい外してほしいペニスの根元に嵌まったこの奇怪な責め具を外してほしいとめちゃくちゃに身をよじり暴れ狂う。
 根元から先端にかけゆるゆるとペニスをしごく。 
 仰け反り悶えるサーシャの痴態が観衆の目に晒される。
 「イきたいときはなんて言うんだ?サーシャ」
 「はっ、あう、あが……」
 「呻いてばかりいちゃわからねーだろ。ずっとこのままにしてほしいのか」
 「……か、せろ………」
 褐色の手が赤黒いペニスを乱暴にしごく。
 コックバンドを嵌められたまま、もうこれ以上大きくならないほど怒張したペニスを摩り下ろされたサーシャが理性の蒸発した目から滂沱の涙を流し、しかしペニスの根元を縛られて強制的に勃起を継続させられているために気絶もできない周到な責め苦に生殺しの蛇の如くのたうちまわる。
 
 『Say once again.』 
 皆によく見えるようペニスを掌握し向きを変えこの上なく優しく促す。
 残照に映える藁色の髪の下、残された右目を酷薄に細め、自らの下でよがり狂うサーシャの痴態を冷ややかに嘲り。

 「イ、く……イかせて、くれ……頼む、このままでは死んでしまう……熱に煮殺され狂い死んでしまうっ……後生だからレイジ、助けてくれ……私の根元に嵌まった醜悪な性具を外してくれ、精を放たせてくれ、愚かな私に慈悲をたれてくれ……」
 下半身を不自然にがくがく揺らし、怒張したペニスに汗を滲ませ、もはや人よりも動物に近く欲望剥き出しの顔でサーシャが卑屈に懇願する。
 薄氷の目を淫蕩な熱に濁らせたサーシャの訴えに、暴君は勝ち誇った笑みを浮かべペニスの根元に指をやる。
 
 「ひあひっ、あああああああああっああああああああっあぁっあああああああっ……!!」

 戒めを解き放たれると同時に大量の白濁が弧を描く。
 先端の孔から粘ついた精液が迸り、足元に滴る。
 用済みのコックバンドが地で跳ねる。
 漸く射精したサーシャ、ながらく堰き止められていたぶんその快感は強烈でびくびくとペニスが痙攣する。
 腰砕けにしゃがみこんだサーシャの背後。
 白濁に塗れた指を口元に運び、舌ですくいとりながら暴君がちらと目を上げる。
 青苦い精液にぬれた指を口に含み、甘美で背徳的な快楽の余韻を味わい、邪悪に笑む。
 「東棟の連中の前で射精した気分はどうだよ、皇帝サマ」 

 底知れず邪悪に、
 そこはかとなく享楽的に。

 神なきソドムに生まれ落ちた悪魔のように。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050317043252 | 編集
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