ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十六話

 ロンが消え三日がたった。
 三日前、道了から母を殺したと衝撃の告白を聞かされたロンは完全に精神の均衡を失った。
 つきつけられた現実の重さにロンの脆い心は耐え切れず崩壊し幼児へと退行した。
 現在の擦れて荒んだ、良い意味でも悪い意味でも図太くしたたかに逆境を乗り越える強さをもつロンしか知らない僕は、その変貌ぶりに驚愕に打たれた。
 床に膝を折り呆然としゃがみこんだロンは、無垢な童心を湛え澄み切った目の焦点を頼りなげに虚空に彷徨わせ、白痴めいて弛緩した表情に親の庇護に甘えるいたいけな色と不安を均等に浮かべ、半開きの唇からだらしなく涎を垂らしていた。
 虚脱しきった様子でしゃがみこんだまま立ち上がる気力もないロンを、あっさり抱き上げ連れ帰ったのは假面だ。
 ロン本人の意志など無視し、否、はなからそんなものはないかのように無碍に扱って道了は放心状態のロンを担ぐように支えて帰途を辿った。
 ロンは何ら抵抗しなかった。
 全身から力が抜けていた。
 道了に寄りかからなければ立ち上がれないような有り様だった。
 僕は咄嗟に口を開き遠ざかるロンの背に声をかけようとした、道了と共に廊下の奥へ消えようとしているロンを名伏しがたい焦燥と不安に駆り立てられ呼び止めようとした。
 それを思いとどまらせたのはロンの顔だ。
 ぐったりと無防備に道了に凭れかかったロンが、道了に腰を抱かれるがまま一歩また一歩と危なっかしい足取りで来た道を戻るロンが、とても幸せそうに笑っていたからだ。
 ロンらしくもない素直な微笑だった。
 道了と寄り添い体温を共有することで限りない安堵を感じ、道了に対する信頼を一歩ごとに確固たるものとし、放心した無表情にやがて薄っすらと笑みが広がっていく。
 無邪気な子供そのものの笑み。
 その笑みは現在十三歳の世間擦れした少年が浮かべてはいけない類のものだった。成長した容姿との乖離を感じさせる不安定な笑みが、口を開き今まさに声を上げようとした僕をためらわせたのだ。
 『ロンっ……、待て、行くな!』
 漸く我に返った僕が追いすがるのを鋭利な眼光で射止め、道了が余裕をもって顎をしゃくる。
 反応は迅速だった。道了が顎をしゃくると同時に廊下に散らばっていた囚人どもが抜群の連携を見せ布陣を敷く。
 囚人どもの連携により進路を阻まれた僕は、刻一刻と確実に遠ざかりつつあるロンの背に焦りを感じながら、傍らに立つレイジにむなしく叫ぶ。
 『レイジ、このままロンを行かせていいのか?ロンは今精神の均衡を崩している、母親殺害の真相を道了の口から利かされ一時的に幼児に退行してるんだ!今のロンは現実認識を失っている、何もわからない子供も同然だ、あの様子だとそうロンの精神年齢わずか六歳と推定される、今のロンを道了とふたりきりにするのはあまりに危険……』
 ふいに向き直り、レイジの横顔に絶句する。
 レイジは道了と共に遠ざかりつつあるロンの背に狂的な凝視を注いでいた。
 黒革の眼帯で隠された左目の隣、唯一無事に残った右目の瞳孔が愕然と開ききる。
 虚無。
 真空。
 何もない。
 完全なるゼロ。
 『レイジ、しっかりしろ!』 
 背後で怒声が爆ぜる。レイジの腑抜けぶりに業を煮やしたサムライが乱暴に肩を掴み正気を揺り起こさんとするも、レイジは体の脇にだらりと手を垂らし睦まじく寄り添うロンと道了を見詰めるばかり。徐徐に距離が開いていく。ロンと道了二人分の靴音が寒々しい廊下に殷々とこだまする。
 レイジはロンを追おうともせず、心をかなぐり捨てたような虚無的な表情でもってその背を見送る。
 レイジの唇が動き、不明瞭にくぐもった単語が発せられる。
 異常を察しレイジを注視する。レイジは凝然と正面を向いたまま、何かに憑かれたような異常な早さの英語でもって譫言を口走る。
 『……神は私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する神子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって私たちは願いすなわち罪の許しを得ています。御子はすべての見えない神のかたちであり造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら万物は御子にあって造られからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威もすべて御子によって造られたからです』
 狂気に憑かれた早口に悪寒が走る。
 英語がわからないサムライは不審顔だが僕はそれが暴発の兆候だとちゃんとわかっていた。ペア戦の時もそうだった。聖書の言葉は暴君解放時の呪文だ。あの時僕と対峙したレイジもまたこんな目でこんな顔でこんな声で世界すべてを喜んで敵に回していた。僕は咄嗟にレイジに縋り付く、レイジの腕を掴んでこちら側に引き戻そうとする。
 レイジは腕を掴まれたのにも気付かず饒舌に聖句を暗唱する。
 『神は光であって神のうちには暗いところが少しもない。これが私たちがキリストから聞いてあなたがたに伝える知らせです。もし私たちが神と交わっていながらしかも闇の中を歩んでいるなら私たちは憤りを言っているのであって真理を行なってはいません』
 切れかけの蛍光灯が点滅し道了とロンを闇に隠す。
 仲良く寄り添い闇の中を歩むロンと道了、もはや自分など見向きもせず闇のほうへ暗がりのほうへと二人して消えようとしているロンと道了の姿がレイジの奥底に秘められた暗い衝動を刺激し暴君の覚醒を促す。

 狂気と正気のはざまで心が揺れる。
 暴君の狂気が急激にレイジを蝕んでいく。

 こうしている今もレイジがまじりけない憎しみに染まっていく。
 掴んだ腕からはっきりと脈動が伝わってきた、堰を壊して感情が流入してきた。
 まずい、危険な兆候だ。
 再び暴君が覚醒したら最後僕とサムライを含めたこの場の誰も生きて帰ることはできない。生還は絶望的。これ以上レイジの手を血に染めたくない、レイジを狂気の淵に追いやりたくない。
 廊下が殺戮の現場と化すのを防ぐために僕はレイジの腕をとり……
 
 甲高く乾いた音が爆ぜる。

 『正気に戻れレイジ、腑抜けに成り下がったお前など見たくはない!』 
 激昂したサムライがしたたかにレイジをぶったのだ。
 平手で頬をぶたれたレイジは朦朧と視線を泳がせサムライを仰ぐ。
 ぶたれた頬が薄赤く腫れ始める。
 サムライは肩で息をしながら沈痛な面持ちでレイジと対峙する。
 レイジに対する心配が伝わってくる真摯な表情だった。
 炯炯と眼光鋭く厳しく顔を引き締め、しかし同情を禁じえぬ様子でじっと自分を見守るサムライをのろのろ仰ぎ、レイジは再びロンへと視線を投げ掛ける。

 『なんでそっちなんだよ?』
 憎しみも何もかも、感情そのものが消え失せた空虚な声。
 ただ純粋な疑問から発する問いかけ。
 裏切られた悲哀すら一滴たりとも漏らさず、どこまでも透明な表情でもってレイジが続ける。
 『なんでそっちにいくんだよ。約束したじゃねーかよ。ずっと一緒だって、何があっても俺のところに帰ってくるって……俺は』

 続く言葉を喪失し語尾が宙吊りになる。
 何を言おうとしたか忘れたかのようにレイジが力なくうなだれる。
 『守りきれなかったのか?お前の体に傷ひとつ付けないとかでかい口叩いたくせに、指一本触れさせないとか啖呵切ったくせに、牌より脆く砕けやすいお前の心すら守りきれなかったってのかよ』
 レイジの独白にサムライが顔を歪める。
 弱々しい様子を見るに忍びなく僕は俯く。
 『追いかけろ、レイジ。まだ間に合う』
 サムライが断固たる調子で促すも、レイジは床に根ざしたように立ち竦んだまま指一本動かせずにいる。
 『行くんだ、レイジ。お前にとってロンは大事な人間、他の何者にも代え難い存在なのだろう?ならば追え、追って連れ戻してこい。神頼みなどしている暇があるなら今こそ自分の足で走るべきだ』
 静かに抑えた声音にしかし尋常ならざる情熱を込めサムライが再度けしかける。レイジの表情が揺れる。暴君に乗っ取られかけた体がびくりと震え、その一瞬だけ元のレイジの表情を取り戻す。ほんの一瞬だけ覗いたレイジの素顔には純粋な恐怖の色がたゆたっていた。
 好意をもった人間に拒まれるのを何より恐れ怯える臆病な子供の顔。
 レイジの身の内で暴君と王とがせめぎあう。
 自制できないまでに膨れ上がった狂気の衝動が捌け口をもとめ暴れ狂う。
 サムライに叱咤されてもまだ決心がつかず、既に廊下奥の暗やみに没しかけたロンを振り仰ぎ、レイジが悲痛に叫ぶ。
 『待ってくれ!』
 捨てないでくれ。
 心の叫びが聞こえた気がした。
 その一瞬暴君に打ち克ったレイジが体の制御権を取り戻し遅ればせながらロンを追い走り出す。
 豹じみた瞬発力で床を蹴るレイジ、その前に道了の指示をうけた囚人どもが立ち塞がる。
 『俺に任せて先に行け、露払いもまた武士のつとめだ』
 サムライが腰から木刀を抜き放ち正眼に構える。隙など少しもない、ため息が出るほどに完璧な構え。
 レイジのがいざ行かんとする道を守ろうと多数の囚人を相手どり、凛々しく木刀を構えたサムライがさりげなく立ち位置を移動し僕を庇う。
 『決して離れるなよ、直。常に俺と肌が触れ合う距離にいろ。俺の後ろがお前の居場所だ』
 『思考が古い。亭主関白の典型だ。僕に三歩下がってついてこいと?』
 サムライの肩に手をおく。
 肩からぬくもりが伝わってくる。
 全身に抑制した殺気を漲らせたサムライに寄り添い立ち、彼の言葉に反感と同程度のくすぐったさを感じ、不敵にほくそ笑む。
 『前言訂正を求める。僕の居場所は君の「隣」だ』
 『空気も読まずに乳繰りあってんじゃねーよ、うぜえサムライと親殺しだな』
 『道了さんの命令だ……お前らをこっから先に通すわけにゃいかねえ、せいぜいいたぶって殺してやる』
 好戦的に鼻息を荒くした囚人どもが一斉にサムライにとびかかる。
 右から左から前から後ろから僕らを完全包囲した囚人たちがそれぞれ拳と得物を振り翳し脳天から抜ける奇声を発する。
 濁声の咆哮を上げる囚人らと相対したサムライは多勢にも無勢でも余裕を失わず冷静にこれに対処する。
 正眼に構えた木刀が流麗な残像を曳いて右上方にすべり、間近に迫った囚人の額をかち割り血をしぶかせる。
 絶叫して倒れた囚人を一顧だにせず、今度は左上方から鳩尾を狙って拳を抉りこんできた囚人を軽い体捌きでいなし均衡を崩したところにすかさず足払いをかける。足元を木刀で薙ぎ払われた囚人は前方につんのめり壁に激突、盛大に鼻血を噴いて沈没する。
 『雑魚どもめ。退屈しのぎにもならん』
 サムライが倦怠の色すら浮かべ吐き捨てる。
 サムライの強さに驚嘆を禁じえない。
 多勢に無勢でも引けをとるどころか互角以上に立ち回るサムライ、素早い体捌きで敵を翻弄し舞い踊るように木刀を振り翳し、あらゆる方向から己に挑みかかる囚人らを神速で斬り捨てていく。
 息をもつかせぬ攻防に目を奪われた僕の足首に激痛が走る。
 『っ!?』
 おもむろに引き倒される。
 視界ががくんと揺れ次の瞬間したたかに床に打ち付けられる。
 先ほどサムライに額を割られた囚人が床を這いずり執念深くも僕を道連れにしようとしたのだ。
 『直っ!』
 サムライが焦りもあらわに振り向く。
 僕自身背後の注意が疎かになっていたのが災いした、天才一生の不覚だ。額からだらだら血を垂れ流した囚人が僕に覆い被さる。
 肘を付き上体を起こす。
 床に転んだ痛みを堪え、意識的に不敵な笑みを拵える。
 『風通しがよくなったな。額の穴から直接酸素を吸えば少しは脳の回転がよくなるだろう』
 『くそったれ親殺しの分際で生意気だ、サムライの背中に隠れてるっきゃ脳がねえ癖にすかした目でこっちを見やがって……細首ねじきってやる!』
 挑発に逆上した囚人が衝動的に僕の首に手をかける。
 気道を塞がれる苦しみに弓なりに体が仰け反る。
 手の力が強まるにしたがい朦朧と目が霞み水面下から見上げた世界のように事物が歪曲される。囚人が下劣な笑みを満面に湛え何事か口汚い悪態を吐いている、僕の顔に大量の唾を浴びせ馬乗りになりぐいぐい首を締めつけー……
 
 『没事儿!!』
 意識が途切れる寸前、重量級の衝撃が囚人を襲い吹っ飛ばす。

 何者かに殴り飛ばされ錐揉みしながら宙を飛んだ囚人が声にならない絶叫を上げ壁に激突、額の血を壁になすりながら突っ伏し今度は完全に沈黙する。ひりひり痛む喉をさすり激しく咳き込み頭上を仰ぐ。
 涙が薄れた視界が捉える巨大な巌の如き影……
 凱。
 『ひよわなもやしっこがしゃしゃりでてくるんじゃねえよ、喧嘩のやりかたもろくに知らねえくせに』
 さも憎憎しげに毒づき、ぶっきらぼうに僕の鼻先に手を突き出す。
 『……どういう気まぐれだ?君が僕を助けるなんて』
 『成り行き上な……そっちの男にゃマオを助けてもらったからな。借りはきっちり返すぜ』
 僕がどうしようか迷っていると、凱は苛立たしげに舌打ちし乱暴に僕の手首を引っ掴み引っ張り起こす。
 察するにマオがナイフで自殺を図ろうとしサムライの機転の一投で救われたところを目撃し恩義を感じていたのだろう。
 存外義理堅い男だとなと新たな発見に苦笑したくなる。
 『親殺しはひっこんでな。荒事は俺の専門だ。青竜刀があろうがなかろうが俺様が最強で無敵なことに変わりねえって中国人の面汚しどもに叩き込んでやる』
 凱を裏切り道了へ走った囚人どもはひとり残らずかつての首領の強さを体感してるらしく歯の根も合わぬほどおののいている。
 既に逃げ腰のかつての子分どもをざっと見渡し、傲然と胸を張る。
 『覚悟はいいか野郎ども。凱大哥の復讐合戦のはじまりだ』
 潰れた喉が発する声はがらがらと濁っていたが、それだけにいっそう迫力があった。
 濁った咆哮を上げ自分に迫り来る囚人どものまっただなかに飛び込む凱、ゴツゴツした鉄拳があたるを幸い顔を砕き凄まじい速さで敵を屠っていく。
 凱の快進撃にあっけにとられた僕の背後に衣擦れの音が忍び寄る。
 『立てるか、直。怪我はないか』
 『そっちは終わったのか、サムライ』
 『あらかたな』
 木刀をおさめぐるりを見回す。
 サムライにつられ視線を巡らせば廊下の至る所に前後不覚に陥った囚人たちが倒れ伏していた。
 壁や床に血が飛び散った目も覆わんばかりの惨状にも増して不安を掻き立てるのは、レイジの行方だ。
 『レイジはどうした、ロンは連れ戻せたのか?』
 思わずサムライに取りすがる。
 良い返事を期待して一心に顔を覗き込めば、サムライが気まずげに視線をそらす。
 何故こちらを見ない?無性に不安と苛立ちを覚え、サムライの腕を強く揺さぶりかけ……
 『……遅かった』
 サムライが沈痛に呟く。嫌な予感が現実になる。
 サムライが顎をしゃくった方角に向き直った僕は、蛍光灯が切れた暗やみの中に立ち尽くすレイジを目撃する。 

 通路には既にロンと道了の姿がない。
 二人はレイジを置き去りに消えてしまった。

 間に合わなかった。
 間に合わなかったのだ。

 『………そんな』
 続く言葉をなくす。
 まだそこらにロンの残滓が漂っているのではないかと虚しい期待を抱き、のろのろとサムライのそばを離れレイジのもとへ向かう。
 レイジは僕を振り向きもせず、だらりと垂らした手に血染めの十字架を握っている。
 十字架の先からぽたぽたと鮮血が滴る。

 『……はは、ははっ。俺っていっつも、本当にいっつも、肝心な時にびびって遅れちまうんだよな。笑えるだろ?俺がだぜ。憎しみを名にもつこの俺がだぜ?だってさ、足が動かなかったんだ。竦んじまったんだ。アイツと一緒のロンが笑顔浮かべてるのに気付いて、その顔が本当に幸せそうで、隣にいるのが俺じゃなくても全然平気で……はは、なんだよこれ、なにがどうなってるんだよ?俺はどうしちまったんだよ、なんで足が竦んじまったんだよ、なんで今更暗やみなんか怖がるんだ道了とロンがいる暗やみにびびって足が竦むなんて言い訳だよそうだろ何で今頃になってもうとっくに克服したはずなのに、ああ畜生恨むぜ神様呪ってやる永遠に地上からあんたの面に唾吐きかけてやる、そんなに嫌いなのかよ俺が俺を俺はー……』

 廊下に血なまぐさい風が吹き抜ける。
 最後の一人の胸ぐらを掴み顔が腫れあがるまで拳を打ち込んでいた凱も、木刀を携えたサムライも、すぐ近くにいる僕さえも。
 レイジが放つその異様な雰囲気に圧倒される。
 『……過ぎたことを悔やむのは不毛だ。ひとまず東棟に帰ろう、房に帰ってロンを取り返す作戦を練ろう。道了と一緒ならロンもまた東棟に帰ったはず。道了は君に貫かれ手を怪我している、あの手でロンに暴行を働くとは考えにくい、とりあえずロンの身の安全は保証されたとみるべき……』
 
 鋭利な刃物の如き烈風が頬を掠め去る。
 頬の薄皮一枚切り裂いて僕を通り越した物体が、鈍い黄金の光を放ちながら壁に激突し宙高く跳ね返る。

 大きく腕振り被り投擲した風圧で前髪が捲れ上がり、爛々と狂気に輝く右目が外気に晒される。

 『I do not need God. I do not demand the help.I do not ask for the permission.
 Because because I am alone.』

 私に神は要らない。
 神に助けを求めない。
 神に許しを乞わない。
 何故なら私は永遠にひとりだから。

 母親から贈られた十字架を自ら壁に投げ付ける奇行に走ったレイジは、そのことを悔やみ慌てて取りに戻るでもなく、僕の足元に転がった十字架をそのまま捨て置いて大股に歩み去る。
 僕は愕然とその背を見送る。
 サムライも凱もまた驚愕に打たれ言葉を失う。
 レイジの背はあらゆるものを拒絶していた。
 否、あれはもはやレイジではない。
 レイジならば母から貰った十字架を壁に投げ付けたりなどしない。
 犬に噛まれしとどに涎にまみれ小便をかけられ更には所長に踏み躙られぼろぼろになった十字架さえ肌身離さず持ち歩いていたレイジが、愛しげに口づけさえしたレイジがあんな振る舞いに及ぶわけがない。

 あれは暴君だ。
 神に反逆する暴君だ。

 もはや完全に僕らの前にこの地上に降臨した暴君は、レイジの体を乗っ取りその魂までをも毒し、地獄の彼方へ連れ去ろうとしている。
 『ーっ!』 
 暴君の背を追って一歩踏み出すも、その瞬間感電したように痺れが走る。
 もはや近寄ることも許されない。
 凄まじい殺気と威風で障害物を薙ぎ払い、自分に触れるものには誰だろうが容赦しないと声なき主張をし、暴君が静かに暗やみに溶け込んでいく。
 その場に取り残された僕は中腰の姿勢となり、足元の十字架を拾い上げる。
 疵だらけの十字架に僕の顔が映りこむ。
 眼鏡の奥の目に悲痛な光を宿す、世にも情けない僕の顔。
 そんな自分を奮い立たせるように十字架を強く握り込み、根拠のない自信を振り絞り断言する。
 『………取り戻してやるとも』
 ロンも暴君も、ふたりとも。

 彼ら二人だけを暗闇に追放したりはしない。
 その時は僕も暗闇にとびこみ彼らの腕を掴みむりやりにでも連れ戻す。
 彼らが僕にそうしてくれたように、
 サムライが今もそうしてくれているように。

 掌の十字架に視線をおとす。
 隅々まで十字架を観察する。
 光沢の褪せた表面に指を這わせば、透徹した金属の冷たさが染みてくる。 
 決意を込め十字架を胸に抱く僕の隣にいつのまにかサムライが寄り添い、僕を挟むように凱もやってくる。
 凱がごろごろと喉を鳴らす。
 何を言ってるのか聞き取れはしなかったが、唇の動きではっきり読みとることはできた。
 
 勝ち逃げは許さねーぞ、レイジ。
 お前をぶっ倒して東のトップになるのが俺の夢だ。暴君だかなんだか知んねーがしゃしゃりでてくんじゃねーよ。
 こっちが全快し次第、首ねっこ引っ掴んで引きずり戻してやらわあ。

 『……気持ちは同じだ。レイジとロンをこのまま捨て置くは友の名折れだ。武士の誇りに賭けても二人を取り戻すと誓う』
 真剣な光を双眸に閃かせ、レイジが消えた方角をひたと睨み据えサムライが宣誓する。
 サムライの体温を感じる距離に立ち手の中の十字架に視線を注げばレイジとロンの笑顔が浮かび上がってくる。 
 食堂でくだらない冗談をとばし行儀悪く箸をふりかざし笑い転げるレイジを頬に飯粒をつけ注意するロンの姿がまざまざとよみがえり胸が痛む。
 ひとつ深呼吸し、胸に抱いた十字架にむかって呟く。
 『君が戻る日まで預かっておく』
 ゆっくりと慎重に、儀式めいて神聖な心持ちでもって顔の前に十字架を掲げる。
 神を信じぬ僕らしくなく敬虔な気持ちで十字架と向き合う。
 ゆっくりと十字架に顔を埋める。
 ひやりとした温度が唇に染みる。
 冷たい金属の味が唾に溶け徐徐に舌の上に広がっていく。
 数呼吸の永遠。
 十字架に接吻し、顔を上げる。
 強く強く折れ砕けそうに十字架を握り込み、傍らのサムライとかけがえのない何かを共有しようと仰ぎ見る。
 『これが僕の決意だ』
 『ならばこれが俺の決意だ』
 僕の言葉を受けたサムライが不意に顔を和ませ、十字架を掴んだ僕の手に手を重ねる。

 不思議と動揺はなかった。
 狼狽もしなかった。
 迷いはなく恐れもなかった。
 心のどこかで僕はずっとこの瞬間を待ち焦がれていたのかもしれない。

 僕の手に手を重ね置いたサムライが、ゆっくりと慎重に顔を傾げ僕へと顔を寄せてくる。
 サムライの呼気が睫毛を揺らす。
 生温かな呼気が顔にかかる。
 急激に心臓の鼓動が高鳴りゆく。全身の血がさざめき頬に血が上る。
 静かに目を瞑る。
 憎しみに凍て付く十字架に冷やされた唇に、柔らかく熱い唇が触れる。
 触れ合う唇にサムライの全存在を感じる。
 衣擦れの音抑えた息遣い高鳴る鼓動、それらすべてが触れた唇を介し僕と共有されるような不思議な感覚。

 唇が離れると同時に薄目を開けてみれば、サムライがこの上もなく優しく哀しい目でこちらを見詰めていた。
 失った幸せと引き換えに得た幸せもあるのだと、その当たり前に残酷な現実に打ちひしがれながらも二本の足で毅然と立ち続けようとする、どこまでも強くひたむきで嘘の吐けない男がそこにいた。

 たった今重ねたばかりの僕の唇に指を触れ、サムライは寛恕と微笑む。
 『……黄金の味がする』
 
 唇を触れ合わせる行為が決して不快なばかりじゃないと気付いたのはこの時だ。
 唇のぬくもりは三日間去らなかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050318180116 | 編集
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