ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十一話

 「その顔はどうした?」
 安田が不審げに眉をひそめる。
 「患者に殴り倒された」
 長椅子に腰掛けた斉藤が嘆かわしげに首を振り、いかにも痛そうに腫れた頬をさする。よく見れば白衣の至る所が埃と足跡と乱闘の形跡に塗れ薄汚れ、いつも綺麗に整えている髪もあちこち転げまわったようにぼさぼさだ。
 乱れた頭髪を丁寧に撫で付け、斉藤は一口コーヒーを含む。
 「安田くんが炒れたコーヒーが飲みたい」
 「お断りだ」
 斉藤の提案は隣に立つ人物により即座に却下された。
 1メートル空けた壁に凭れ、時折思い出したようにインスタントのコーヒーを含んでいるのは、十数年ぶりに再会した同窓の友だ。
 糊の利いた背広を一分の隙なく着こなし、若々しい黒髪を一筋の反乱を許さぬ潔癖さでオールバックに撫で付けた様は非の打ち所ないエリートといった厳正な雰囲気を漂わせるも、ふとした折に覗く表情が学生時代の面影と重なり懐かしさを隠せない。
 東京少年刑務所に医者として赴任以来、適当な口実を作ってはこうして安田を呼び出し近況を報告し合うのが斉藤の日課となりつつある。しかし安田の態度は概してそっけない。冷淡といえるほどだ。斉藤に対しては常に必要以外の事は告げず必要以上の接触をもたずどうでもいい事務報告だけをし、こんな茶番は時間の浪費だという本音を前面にだす苦りきった顔をし、不機嫌極まりない様子で眉を顰め紙コップのコーヒーを一口ずつ嚥下する。
 必要最低限の事務報告だけに留まる安田の口を何とか割らせようとあの手この手で画策するも、斉藤の意に反し残念ながらあまり効果はない。
 随分嫌われたものだなと心の中で苦笑する。
 看守用の更衣室、その更衣室と扉一枚隔てて繋がる休憩室には壁際に長椅子が配置され飲食物の自販機が設置されている。
 コーヒー・紅茶・炭酸飲料にミネラルウォーターなどその種類は充実している。各種インスタントラーメンにレトルトフードまでもが自動販売機で売られているのは自炊のできない独身看守が多いためだ。
 囚人の房がある棟とは指紋照合及び角膜照合でしか開かない電脳の防壁で区切られているため、職員用の施設がある区域に囚人がやってくることは皆無と言っていい。
 「……医者のロッカーは別にあるだろう。何故わざわざここを選ぶ」
 漸く安田が言葉を発する。
 安田から話しかけてくれたことを嬉しく思い、自然な笑みで斉藤は説明する。
 「今の時間は人がいない。君とじっくり話ができると前もって調べ済みさ。付け加えるなら、僕ごとき一介の医者が実質上東京プリズンのトップたる副所長殿の執務室にお呼ばれしてるところをだれかに見られたりしたらよからぬ噂が立つからね。暇人どもにわざわざスキャンダルのネタをくれてやることもない。僕なりに外聞を気にしてるんだよ」
 「東京少年刑務所の看守は一日三交代勤務だ。中にはタジマのように一日中精力的に動き回ってる者もいるがな」
 口にするのも不愉快とばかり顔を歪め安田が吐き捨てる。
 タジマ。名前だけは聞いたことがある。
 斉藤は記憶の襞をなぞる。
 現所長但馬冬樹の実弟にしてかつて東京少年刑務所の主任看守の身分にありながら囚人に対し数々の暴行傷害を働いたとんでもない男。賄賂にどっぷりつかりきり平然と囚人を贔屓し東京プリズンの治安と秩序を乱すのにおおいに貢献した男。不慮の事故に遭い休職中と聞くが、自分が来る前のことなので詳細は知らない。しかし安田の口ぶりでタジマに対し好感情を抱いてないことだけは確信した。安田の口調に混ざっていたのは明確な軽蔑と嫌悪、平素より取り澄ました無表情の安田がごくかすかに顔を歪めたということはそれ程までに品性卑しい男だった端的事実を示す。
 「いい身分だな、斉藤。冷暖房完備の医務室で暇な一日椅子に座っているだけで給料が得られるのだから」
 痛烈な嫌味にも斉藤は表情を変えずコーヒーを啜る。
 「カウンセラーも大変な仕事だよ。なんたってこことここを使う」
 右手にコーヒーを預け自らのこめかみと胸を順番に指さす。
 頭と心。
 斉藤が思うところを正確に理解した安田が眼鏡のブリッジに触れる。
 「……失言だった。貴様も苦労してるのだな、そう見えないだけで」
 こういうところは昔から変わらない、余計な一言を付け加える癖までも。
 「君こそ一日中仕事に追われてるみたいじゃないか。さすがに副所長の要職にある人間はやること沢山で忙しいみたいだね」
 「まあな」
 そっけなく応じる。
 伏目がちに俯く安田の顔には疲労の色が濃く蟠り、心なし以前よりも頬がこけて見える。ただでさえ痩せている安田がこれ以上細くなってしまわないか杞憂を感じながら斉藤は更にお節介を焼く。
 「悩み事ならいつでも相談にのるよ。こう見えてもプロだしね」
 「心の病専門の医者か」
 「信じてないねその顔は」
 「別に。ただ意外だっただけだ、お前が心療内科の道にいくとはな。学生時代は免疫学を志していたように記憶してるが」
 「『病は気から』って言うだろ?実は心理学にも興味があったのさ、専攻は免疫学だったけどね。切ったり縫ったりで体を治しても事故や事件のショックで傷付いた心が癒えなければ真に全快したとは言えない。心の病巣は僕が思っていたよりずっと複雑で難解だった。安易に薬に依存したところで解決しない、心の回復には根気強いカウンセリングと的確なアドバイスが必要だって気付いたんだ。ま、学生時代に一通り覚えた外科の技術が役立つこともある。といっても気休め程度の処置しかできないけどね、正しい捻挫の治療や骨の接ぎ方は教わってる。東京プリズンに採用されたのだって外科と心療内科両方の心得がある経歴を買われたからだしね。それとも君が推薦してくれたのかな」
 「うぬぼれるな」
 いかにも人好きのする茶目っけたっぷりの笑顔を見せた斉藤にひややかに釘をさす。
 冗談めかした物言いで人を煙に巻く斉藤に苛立ちながら、不機嫌な表情に一抹の憂慮を宿し、安田は重たい口を開く。
 「……物好きにも程がある。何故わざわざ自分から望んでこんな危険な場所にやってきた?」
 「安田くんに会いたくて」
 さらりと答える斉藤を無言で睨みつける。
 斉藤はてんで懲りた様子もなく笑っている。
 甘い顔だちに似合いの爽やかな笑顔が曲者だと安田はよく知っている。
 学生時代から斉藤はこの爽やかな笑顔と要領のよさで教授を丸め込み異性を口説き友人を増やしていったのだ。当時と変わらぬ涼しげな横顔を睨みつけ、安田は言い逃れできない証拠をつきつける。
 「提出書類を読んだ。ここに来る前は仙台の病院に勤めていたそうだな。若くして優秀な精神科医で人あたりも良く同僚・看護婦・患者に好かれ上司の受けもよかった。なのに何故申し分ない環境の職場を蹴ってこんな場所にやってきた?ただの物好きでは済まされない、まさしく気が狂ったとしか思えない所業だ。私とて無知ではない。ここが外の人間になんて呼ばれてるかぐらい知っている。暴力と略奪が横行する史上最低の監獄、リンチとレイプが横行するこの世の地獄、一度入ったら二度と出てこれない鉄の牢獄……通称東京プリズン。東京プリズンの看守はよそで問題を起こし左遷されたものばかり、おおよそ仕事に対する意欲が感じられず囚人を虐げ憂さを晴らす連中ばかりだ。代表が先ほど話したタジマだ」
 安田はひとつ溜め息をつき、胸ポケットから清潔なハンカチをとりだし眼鏡の曇りをとる。
 「前任者が入院した時ただちに臨時の医者を募った。だがしかし東京プリズンに赴任したいという奇特な医者はひとりもいなかった、ただのひとりもだ。私は早急に代理の医者をさがす手配をしたが、世間の医者は皆東京プリズンの悪評に恐れをなし血相かえて辞退した。しかしいつまでも医者不在でおいておくわけにはいかない。東京プリズンは毎日のように怪我人と病人がでる、彼らの様態をこれ以上悪化させぬためにも早急に医者が必要だった」
 「僕は適任だったわけだ」
 「……貴様は医者として一流だ」
 「お褒めに預かり光栄だね」
 「褒めてはない。ごく一部を認めたにすぎない」 
 安田は不愉快げに首を振る。斉藤を褒めているととられたのが余程屈辱らしく顰めた眉間に苦渋が滲む。
 「お前は外科の技術を持っている、怪我人の治療もできる。囚人の心と体双方のケアができる医者を私はながらく探していた」
 「感謝してるなら態度で表してほしいね」
 軽口を叩く斉藤に安田は目を細める。
 「頭を下げろと?」
 長椅子に座った斉藤がにこりと感じよく微笑む。学生時代から変わらぬ若作りに胸が詰まる。
 湯気だつ紙コップを両手に包み、長椅子に座った姿勢から首を捻り安田を仰ぎ、斉藤が不意に真顔になる。
 「安田くん手ずから美味しいコーヒーを淹れてほしい。今の君の味が知りたいんだ」 
 安田はこの申し出に虚をつかれる。
 何故そうまでして自分の淹れる珈琲にこだわるのか理解に苦しみ当惑顔で斉藤を見下ろす。
 「そんなに私のコーヒーが飲みたいのか?自分で言うのも何だが特別美味くもないぞ。ごく普通の味だ」
 「違う。安田くんのコーヒーがいちばん舌に合う、僕はディスカッション中に安田くんが淹れてくれるコーヒーが大好きだった」
 斉藤は安田を真っ直ぐ見詰めたまま決して目を逸らそうとしない。
 嘘偽りのない真摯な眼差しが胸の奥深くを抉り当時の記憶を鮮明に呼び覚ます。
 安田がとうに忘れ去ったはずの日々、捨て去ったはずの記憶が痛切な感傷を伴い蘇る。

 斉藤も自分も若かった。
 白衣を着ていた。
 二人は同じ教授を師と仰ぎ同じ実験に参加していた。
 最高学府と政府の共同のもと、秘密裏に行なわれたその実験とは……

 首を振り感傷を追い払う。
 強く目を瞑り回想を断ち切った安田は、自分に過去を思い出させた斉藤に対する逆恨みじみた怒りと苛立ちを禁じ得ず、今にも紙コップを握り潰さんばかりに力を込める。
 沈着な表情が固く強張り、眼鏡の奥の双眸が牽制の鋭さを帯びる。
 眼鏡の奥から針の眼光を突き刺す安田に対し、斉藤は悪びれず首を竦めてみせる。
 「……ごめん、禁句だったね。口が滑っちゃった」
 今いち誠意の感じられない謝罪に怒りがいや増す。
 二股を詰られた色男のように軽薄に詫びた斉藤は、先ほどまでの朗らかな笑顔とは一転、不実な翳りを含んだ大人の笑顔で続ける。
 「僕はただ君のコーヒーが飲みたかっただけなんだ。この十数年間、君の味を思い出さない日は一日もなかった。妻の淹れたコーヒーも悪くないけど、一度君の味を覚えた舌はなかなか満足しなくてね。どんな美味しいコーヒーを出されても君の味と比べてしまうんだ。君が淹れてくれたコーヒーは実にちょうどいい温度と苦味で、僕が徹夜続きのレポート地獄を乗り切れたのも君が息抜きにコーヒーをさしだしてくれたからなんだよ」
 「……自分の分のついでだ。他意はない。コーヒーが余ってしまってはもったいないからな。淹れてから一日たった珈琲など苦く煮詰められてとても呑めたものではない、ならばお前に毒味させたほうがマシだ」
 仏頂面の安田に声たてて笑い斉藤もまたコーヒーに口をつける。
 微妙な沈黙がおちる。
 「安田くん」
 斉藤が不意に名を呼ぶ。
 その声音がやけに真剣だったので、安田もまた物腰を改める。
 斉藤は体ごと安田に向き直るや、理性的で穏やかな口調はそのままに、仕事に対する真摯な姿勢が窺える厳しい顔つきで本題を切り出す。
 「何人か気になってる囚人がいるんだ」
 学生時代の面影を残す若作りが、年相応の経験と知識を有する成熟した大人のそれへと変貌する。
 容易に歳月を飛び越す斉藤の変化を目の当たりにした安田もまた今の立場を自覚し、監獄の秩序を守る重責を己に課した副所長の顔で問う。
 「心と体どちらだ?」
 「……両方だね」
 斉藤が慎重に私見を述べる。
 真剣な面持ちで沈思黙考しつつ紙コップを包む手を休みなく動かす。
 考え事の最中に指を動かすのは斉藤の癖だ。学生時代から変わってないところをまたひとつ発見し、安田は自分でも意外なことに満足感と嬉しさを覚える。
 あの日廊下で斉藤と遭遇した時は夢だと思った。
 一目で斉藤だとわかった。学生時代とまるで変わってなかった。否、よくよく注意してみれば変わっているところは多々あったが再会時の状況では殆どわからなかった。斉藤は学生時代のまま白衣を羽織り現代にやってきたような錯覚を安田にもたらした。
 あの時。
 囚人の暴動に巻き込まれ気絶した安田を抱き上げたのは斉藤だった。
 朦朧と薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞り瞼を上げた安田は、自分を抱えている男が斉藤だと認識した瞬間その手を振り払おうとした。

 斉藤。
 何故今頃になって現れた。
 私がすっかり変わってしまった今になって。

 十数年前とは何もかもが変わってしまった。
 二人の関係も立場も何もかもが。
 以前と変わらず友人でいられるわけがない。
 安田は十数年前の愚かで傲慢な自分を許してない。
 十数年がたった今でも安田は自責の念に苦しみ罪の意識に苛まれ夜毎悪夢にうなされ飛び起きる繰り返しだ。
 それすべて十数年前のあの実験に起因しているのだ。
 鍵屋崎直を生み出すことになったあの実験に。
 斉藤は当時の事情を知っている。
 当時の安田がいかに傲慢で愚かな人間だったか知っているのだ。
 十五年前、若く才能に溢れた安田は自らの能力を過信するあまり非合法な実験に参加し本来人が手を出してはいけない領域にまで踏み込んだ。
 人が人を作り神に成り代わるという最大の禁忌を犯してしまった。
 不完全な人の身でありながら完全な人間を作ろうとした代償は大きく、安田は今もって罪悪感に苦しみ続けている。

 鍵屋崎直に生まれながらに原罪を背負わせてしまった。
 「作られた人間」であるということ。
 「人工の天才」であるということ。

 試験管の中の受精卵を母胎に移植しやがてそれは胎児の形をなしこの世に生まれ出るも、その事実を知った直は自分がはたして人と呼べる存在なのか、誰ともしれない男女の精子と卵子を試験管の中で結合させ遺伝子を操作し設計図どおりに作り上げた「実験体」たる己の存在に、その自我の在り所に根源的な疑問を抱き続けることになった。
 安田の驕りが直に原罪を背負わせてしまったのだ。
 本来罪を担うべきは自分であるはずなのに。
 「まずは道了君だ」
 「道了?一ヶ月ほど前に東棟に配属された囚人か。ロンと同じ池袋スラム出身の台湾人だったな」
 「さすが副所長、囚人の身元把握は完璧だね」
 「茶化すな。道了がどうした」
 「その道了君だけど……」
 斉藤が言いにくそうに口を噤み、間をもたそうとコーヒーに口を付ける。つられて安田も一口含むも、珈琲はぬるくなっている。
 紙コップのふちに唇を付けたまま斉藤は何やら思案していたが、唐突に口を開く。
 「彼、脳に異常があるんじゃないかな」
 「何?」
 思わぬ指摘に安田は目を見張る。
 斉藤は三分の一ほど減ったコーヒーを持て余すように紙コップを揺らしながら推察を述べる。
 「ちゃんと診察したわけじゃないから断言できないけど、僕の見た限りどうも脳に障害があるとしか思えないんだ。日常の言動がおかしいのもそのせいだ。それに彼、多分色盲だ。目にカラーコンタクトを入れてるのもカムフラージュだ」
 「何故わかる?」
 安田が胡乱げに聞く。
 いかに医師として優秀といえど斉藤の専門は精神医学だ、全色盲かどうかなどわかるわけがない。しかも斉藤と道了は一週間前の暴動以降まったく面識がない。頭を打って朦朧としていた安田は当時の状況をよく思い出せないが、暴動の関係者とされた道了は三日の謹慎処分をうけ懲罰房に監禁された。道了と顔を合わすのはおろか直接言葉を交わすことさえ稀だった斉藤が、何故これほど自信を持って道了の異常を指摘できるのだ?
 懐疑的に横顔を探り見る安田に苦笑を返し、手にした紙コップをほんの少しだけ傾けコーヒーを一滴たらす事で斉藤は回答を示す。
 「血に対する情動の低さ」
 「血?」
 紙コップのふちからたれた雫が床で弾ける。
 床に染みを作った一滴のコーヒーを見下ろし、文献でも読み上げるように流暢な口調で斉藤は述べる。
 「『赤』は古来より人間にとって特別な色だ。脈々と人の体に流れる血の色、神聖な炎の色、始原の太陽の色。闘牛ショウで使われるのは真紅のマント。そう、赤は強烈な視覚刺激をもたらす危険な色ともいえる。試しに赤いものを連想してみなよ。近付きすぎると火傷する炎、警告の赤信号、救急車やパトカーのランプ、傷口から溢れ出す真っ赤な血……赤イコール危険は切っても切り離せない視覚的イメージとなり網膜に浸透する。そして人は赤を畏怖する。少量の血を見て卒倒するひとがいるくらいだからいかに視覚からくるイメージが重大か想像がつくだろ?日常生活を営む中で人がもっとも頼りきっているのはダントツ視覚だ。他の器官と比べ目から入る情報量は格段に多い。ひとは視覚に頼りきって生活してるといっても過言じゃない」
 「前置きが長い。免疫学の教授にレポートがくどいと言われなかったか?」
 「字数稼ぎの改行は見苦しいからやめろと言われた」
 一瞬ばつ悪げに黙りこむも、すぐに気を取り直し話を続ける。
 「話を戻す。一週間前暴動が起きた時、囚人の多くが怪我をしていた。喉を裂かれた囚人もいて床には大量の血痕がのこっていた。けれども道了君は血だまりを見ても表情ひとつかえず完全なる無反応だった。これは変だ。いかに出血に慣れた人間でもあれだけ大量の血を見れば何らかの反応を示す。僕は違和感を感じた。あれだけ大量の血を見ていながら何故あそこまで平静を保っていられるのかと疑問を感じた。そしてある推論に達した、この囚人はひょっとしたら色盲なんじゃないかって。それなら辻褄が合う。金と銀のカラーコンタクトは色盲を隠すカムフラージュだ。本格的なカラーコンタクトは虹彩の部分のみならず全体が着色されていて普通の人間は酔っちゃうけど、道了くんはあのカラーコンタクトを嵌めたまま平然と振る舞っている。色盲ならカラーコンタクトでも関係ない、彼の世界には最初から色がないのだから」
 一息に話し終え、コーヒーで唇に湿り気を与える。
 安田は黙って斉藤の横顔を見詰める。
 頬に貼ったガーゼも痛々しい斉藤が実直に提案する。
 「一度脳波を調べたい。僕なりに資料をあさってみたけれど、精神鑑定の結果がどうもひっかかってね……もし本当に脳に異常があるならちゃんとした検査と手術が必要、」
 「検討すると言いたいところだが」
 熱心に言いかけた斉藤を遮り、安田が眼鏡を外す。
 眉間をつまみ目頭を揉む。
 目の下には不眠と疲労の隈ができている。
 仕事に忙殺されここ数日間ろくに寝てないのだ、無理もない。
 片手に眼鏡を預け瞼を揉みほぐす安田を斉藤は黙って見守る。
 老けたなと単純に思う。
 最初は髪形のせいかと思ったが、今は人を寄せ付けぬしかめ面のせいだと思う。学生時代の安田は前髪を下ろしセルフレームの眼鏡をかけていた。いかにも知的で理論肌の青年といった風情で、自分を特別な存在と信じて疑わぬ孤高の空気と冷え冷えと人を拒絶する意志を発していた。
 壮年の安田に青年の頃の面影を探そうとし、斉藤は目を細める。
 斉藤の思惑など知らぬ安田は瞼を指で押さえ、疲労を散らすように緩くかぶりを振りつつ結論を述べる。
 「残念だが設備がない。提案は却下だ」 
 「どうにからならないのかい」
 「簡単に言ってくれる。予算は限られてるんだぞ」
 「ならもっと設備が整った刑務所に移すとか、一時的にでも病院に移すとか……」
 「馬鹿な」
 食い下がる斉藤を鼻で笑い眼鏡をかける。
 再び冷徹な副所長へと戻り、諦め悪い斉藤に追い討ちをかける。
 「東京少年刑務所に送られてくるのは更正不可能の烙印をおされ社会的に抹殺された凶悪犯ばかり、どこの刑務所も受け入れたがらない前科のあるものばかりだ。病院に入れる?それこそ冗談じゃない。東京少年刑務所に収監された囚人は何があろうが刑期を終えるまで決してここを出られない決まりだ、いかなる理由があろうとも囚人を外に出すなというのが法を司る上の方針だ。斉藤、貴様は東京少年刑務所を何だと思ってる?慈善でやっている厚生施設とはわけが違う、むしろ隔離施設と言うべきだ。多くの人間を騙し殺し犯し傷付けた危険因子を世間から隔離し隠蔽する場所、法治国家として国際社会を牽引する日本最大の暗部にして恥部。東京プリズンに入った時点で戸籍と人権は抹消される。東京プリズンを出るには刑期を終えるか死体になるかどちらかひとつしかない」
 面に苦渋が滲む。安田とて本心から言っているのではないのは、葛藤に引き結ばれた口元と眉間に寄った苦悩の皺からわかる。
 すべての責任を抱え込もうとする沈痛な面差しを見上げ、斉藤はぽつりと零す。
 「……随分辛い生き方をしてる」
 「私の生き方に口出しするな」
 同情を突っぱねる安田の腕を人肌のぬくもりが包む。
 背広の上から安田の腕にふれ、強い意志を込めて斉藤が言う。
 「口出しが駄目なら手出しさせてもらう」  
 譲れぬ決意を込めた眼差しがどこまでも率直に安田を射抜く。
 長椅子から腰を浮かしにじり寄った斉藤は安田の腕を掴んで引き戻し、眼鏡の内に隠された目の表情を正確に読み取る。  
 「安田くん、僕は今でも君の友達でありたいと思ってる。君の力になりたいと思っている。君に頼られる人間でありたいと思ってる」
 「思いあがるな」
 「思いあがるよ。なんたって僕は安田くんがコーヒーを淹れてくれた最初で最後の人間だ。君が淹れたコーヒーは格別だ」
 「コーヒーなどだれが淹れても同じだ。それほど好きなら妻に淹れてもらえばいいだろう……ああ、既に離婚したんだったな」
 やや乱暴な動作で腕を振り払われた斉藤ががくりとうなだれる。
 「離婚の原因は何だ」
 「傷口に塩をすり込むなんてサディストだね。書類を読んだなら書いてあったろ?仕事にかまけて家庭をかえりみなかったせいで妻子に愛想を尽かされたのさ」
 意気消沈した様子で力なく笑う。
 苦味の勝った自嘲の笑みを浮かべ、手持ち無沙汰に紙コップをさする斉藤を無関心に眺め、飲み干した紙コップをゴミ箱に放る。底に残滓が蟠った紙コップは弧を描いてゴミ箱に吸い込まれ乾いた音をたてる。
 口腔に残るカフェインの苦味を中和しようと背広の胸ポケットから一本煙草を摘む。
 「マルボロミディアム。銘柄も変わってない」
 斉藤が懐かしげに目を細める。
 学生時代からヘビースモーカーだった安田はばつ悪げな顔をする。
 斉藤を無視して煙草に火をつける。
 穂先に橙色の光点が生じる。
 満足げに紫煙を燻らす安田を斉藤も同じく満足げに見守る。
 安田は壁に凭れ虚空に視線を投じ煙草をふかす。
 カフェインの苦味とニコチンの苦味が溶け混ざり口の中に染み渡る。
 虚空に漂う紫煙を目で追いながら斉藤が呟く。
 「もう一人の囚人だけど……誰のことか薄々察しがついてるんじゃないか」 
 安田は答えを保留する。煙草を灰にする作業に没頭するかつての友人にちらりと一瞥くれ、斉藤は重々しくその名を口にする。
 「鍵屋崎 直」
 その名が安田に何らかの影響をもたらすと確信しているように。
 しかし予想に反し安田はまったく動揺を示さなかった。
 煙草を口にくわえたまま、真意の読めない無表情で思考に没頭している。
 壁に凭れ煙草を吸う安田の顔色を窺いながら、斉藤は精神科医として数多の患者と接して鍛えた観察眼と洞察力でもって安田の内部に探りを入れる。残り少ないコーヒーの紙コップを手の中で弄びながら、口元に謎めく笑みを浮かべ目には油断ならぬ光を宿して策を練る。
 成熟した男性と茶目っ気ある少年が同居する魅力的な笑みで斉藤は報告する。
 「ここに来る前、僕は仙台の児童心療内科に勤めていた。鍵屋崎直の妹、鍵屋崎恵がいた病棟だ。事件後叔母夫妻に引き取られた鍵屋崎恵はしかし深刻なPTSDを発症し、長期的カウンセリングを視野にいれ入院の措置をとることになった」
 「……鍵屋崎恵の様子はどうだ」
 紫煙たちのぼる煙草を指の間に預け、本人は相変わらず虚空を見詰めたまま、努めてさりげなく訊く。
 安田の注意を引いたことに満足感を覚えながら斉藤は証言する。
 「今は落ち着いてる。入院初期こそ精神的ショックが激しく会話もままならない状態だったけれど、根気良くカウンセリングを続けるうちに心身ともだいぶ回復してきた。一時的な失語症、夢遊病による深夜徘徊、現実逃避による幼児退行と夜尿症と突発性ヒステリー……最初は食べ物も受け付けずむりに食べてもすぐ吐いてしまい仕方なく点滴で栄養を注入していた。わずか十歳の少女が目の前で両親を殺されたんだ、自分を取り巻く過酷な現実を全否定したくなっても無理はない。しかも犯人は兄だ。鍵屋崎夫妻は人の親としてはあまりに冷淡で子供に対する愛情が不足していた。幼い恵ちゃんは直くんを唯一の庇護者として慕い依存し、直くんもまた義理の妹の恵ちゃんを異常なほど溺愛していた。なのに突然大好きな兄が両親を殺し引き離されたのだからたまらない」
 斉藤が顔を伏せる。
 「……最初はそう思っていたよ」
 「どういうことだ?」
 すかさず安田が聞く。壁から背を起こし身を乗り出した安田は見ず、手中の紙コップに視線を固定し、独白じみた口調で自分の考えを整理する。
 「何かがおかしいんだ、ひっかかるんだ。恵ちゃんのカウンセリングを続けるうちに僕はあるひとつの仮説に辿り着いた、その仮説を確かめるために自ら東京プリズンにやってきた。もしその仮説が事実だとすれば……」
 斉藤が意味深に言葉を切る。
 続く言葉に興味を示し安田が接近する。
 斉藤と腕が接する距離にまで近付いた安田は、眼鏡越しの双眸に精力と気迫を漲らせ先を促す。
 威厳溢れる副所長の眼光に急かされ、決断を下すが如く紙コップを逆さにし最後の一滴までも残滓を飲み下し、改めて安田に向き直る。
 視線が衝突する。
 互いの真意を推し量る沈黙。
 帯電したように緊張を孕んだ空気が休憩室に張り詰める。
 軽薄な笑みをかき消し、精神科医の領分として真実を追究する姿勢を貫き、斉藤は厳かに言う。
 「鍵屋崎直は冤罪の可能性がある」
 安田が息を呑む。
 斉藤は安田から目を離さず、じっとその表情を窺っている。観察。鋭利なメスを思わせる冷徹な眼差しに心が寒くなる。安田の指の間でジジジと煙草が燻る。零れた灰が袖口を焦がしても熱さを感じず、魂を抜かれたように呆然と斉藤を注視する。
 「……直が、だれかを庇ってるというのか」
 漸く言葉を発する。たったそれだけを言うのに大変な気力を消耗しているような掠れ声。
 空の紙コップを手首に捻りを利かせゴミ箱に放る。
 斉藤が投げた紙コップはゴミ箱の縁に弾かれコロコロと床を転がる。足元まで戻ってきた紙コップを情けない顔で拾い上げ、斉藤はため息を吐く。
 「気付いてなかったとは言わせない。君は僕よりずっと近くでずっと親身に鍵屋崎直に接していた。ならば自ずとわかるはずだ。彼がだれかを庇っていると、鍵屋崎夫妻殺害事件の犯人は別にいると。僕は真実を知りにここへ来た。鍵屋崎直と鍵屋崎恵は互いが互いを補完する関係だ。鍵屋崎直が無実なら、犯人は……」
 続けるのをためらうように言葉を切り、斉藤が首を振る。
 「……事件の真相がわかったところでどうなる」
 その声に顔を向ける。苦りきった顔をした安田が搾り出すように言葉を紡ぐ。一言一言に多大な苦痛が伴うように、その顔が辛辣に歪む。
 「直は既に東京プリズンに来てしまった。両親を殺したのは自分だと裁判で認め更正不可能の烙印をおされ戸籍と人権を剥奪されここへ来てしまった。私はどうしたらいい?無責任な言い分だとわかっている、しかしそれでも直には幸せになってもらいたかった、こんな所へ来てほしくなかった。だがもう遅い。直はここへ来てしまった、東京プリズンに来てしまった。冤罪が立証されたところで今更引き返せない、すべてが遅すぎる!」
 歪む顔を覆い隠し、長椅子に崩れ落ちる。
 息子の幸せを望むもその願いを打ち砕かれた一人の父親が、自身の無力を呪い後悔の念に打ちひしがれる。
 自分を気遣う斉藤のほうは見ず、安田が訥々と心中を吐露する。
 「……私は最低だ。最低の副所長だ。自分の職場をこんな所呼ばわりし、自分の息子には間違ってもこんな所にきてほしくなかったと嘆く最低の男だ。幻滅したか」
 「安心したよ」
 意外な返事に安田が顔を上げる。
 指の間に預けた煙草はそろそろ燃え尽きようとしている。
 完璧に整えたオールバックがしどけなく乱れ、聡明に秀でた額に一房二房とおちかかるのも構わず、無防備に放心した表情で斉藤を仰ぐ。
 殺風景な灰色に塗り込められた休憩室には場違いな白衣を身に纏った男は、憔悴した安田の腕を掴み、優しく撫でる。
 「僕を頼ってくれて」
 「……斉藤、私は」
 「うん?」
 「お前が嫌いだ」
 「知ってる」
 「なら放せ。なれなれしくさわるな。貴様にさわられてると思うとぞっとする」
 「放さない」
 斉藤が安田の手首を掴む。
 既視感。いつかこれと同じことがあった。
 今より若い斉藤の顔が鮮明に蘇り、階段教室の半ば、立ち去ろうと背中を向けた途端に手首を掴まれた事を思い出す。手首を引っ張られバランスを崩し段差から危うく転げ落ちそうになった安田を斉藤が抱きとめる。
 全面ガラス張りの窓から射し込む茜色の残照に癖なく流れる鳶色の髪が映える。
 茜色に染まる横顔に魅入られる。
 段差から足を滑らせた拍子に小脇に抱えたレポートの束が盛大に散らばる。
 宙に乱舞するレポートが茜色の夕日に染まる。
 鳩の群れの如き紙吹雪の中、動転した安田に斉藤がのしかかり……
 「今度は放さない」
 当時の目が今の目に重なる。   
 斉藤は当時と同じ目で安田を見る。当時と少しも変わらぬ率直さで安田と向き合い、袖口が焦げた安田の腕を強く引く。
 指の間から煙草が零れ落ちる。
 床に落下した煙草がじゅっと音をたて燃え尽きる。

 避ける暇もなく
 拒む力もなく

 斉藤は安田の唇を奪った。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050323122203 | 編集
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