ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十四話

 「何を話していた?」
 「ジークムント・フロイト著『夢判断』の考察。低脳に話しても理解できないから説明は省く」
 鋭く探りを入れてくるサムライの目は見ず、本のページをめくりながら嘘をつく。
 観察される居心地の悪さに眼鏡のブリッジを押さえ表情を隠し、読書に没頭するふりをする。
 サムライは至近距離でじっと僕の横顔を窺っている。
 不躾な凝視。
 僕は何事もなかったように平静を装いページを繰る。
 場所は医務室前の廊下、時刻は強制労働終了後の自由時間。
 東西南北四つの棟の囚人が交差するこの場所は、談話室もとい図書室と医務室への通り道ということもあり賑わっている。
 忙しく行き交う通行人の大半は医務室か図書室のどちらかへ吸い込まれる。
 図書室を訪ねる目的が必ずしも読書と限らないのが東京プリズンの囚人の嘆かわしいところだ。
 三階まで吹き抜けの広壮な空間に大人数で囲める幅広のテーブルが担ぎ込まれ、目隠しの役割を成す巨大な書架で埋め尽くされた図書室は気の合う友人同士が馬鹿話に興じるのに最適の環境が整っている。また本棚の影に隠れて売春を行なう不埒な輩も少なからず存在し、東京プリズンの秩序を著しく害している。
 今僕の手の中にある本も図書室で借りてきたものだ。  
 目は口ほどに物を言う。
 物言いたげな視線を無視し、淡々とページを繰る。
 澄まし顔で読書を続ける僕をサムライが訝しげに探り見る。
 僕が隠し事をしてないか怪しんでるふうだ。
 胡乱な眼差しで僕を見詰めるサムライ、その視線を表紙を立て遮る。
 サムライが諦めて嘆息する。
 「相変わらず強情だな」
 「『汝自身を知れ』だ」
 「?」
 サムライの顔に疑問符が浮かぶ。
 眉をひそめたサムライに本を閉じ向き直り、噛み砕いて説明してやる。
 「君にはいささか難解すぎたか。よろしい、意訳してやる。『人のことをとやかく言う前に己を省みろ』、以上だ」
 「俺が強情だと?」
 「今もって自覚がないとは驚きだ」
 むきになるサムライに追い討ちをかける。
 神経を逆撫でする皮肉な笑みを浮かべ腕を組む。
 「つまらない嫉妬はやめろ。僕と斉藤が医務室で何やらよからぬ行為に及んだと妄想を逞しくているなら下衆の勘繰りというものだ。僕はただ斉藤と個人的な話があっただけだ。そう、オーストリアが誇る偉大な精神科医にして心理学の始祖ジークムント・フロイトの有名な著書、『夢判断』の解釈をめぐる高尚な学術談義に熱中していたのだ」
 「じーくむんと・ふろいと?」
 鸚鵡返しに発音するも、サムライはますます首を傾げ当惑を深める。サムライの中ではいまだに鎖国が続いてるらしいと再確認、余計な詮索を招くのを忌避し一方的に話を打ち切る。
 「斉藤はあれでなかなかどうして優秀な精神科医らしい。カウンセリングの腕も一流だ。『夢判断』の解釈についても非常に有益な議論を交わすことができ知識欲が大いに満たされた。それとも何か?君が斉藤の代わりに議論に付き合ってくれるとでも?」
 無理だ。無理に決まっている。
 嘲りが顔に出たのか、負けじと僕を見返したサムライがせめてもの威厳を保とうと顎を引く。
 「……俺の愛読書は宮本武蔵著『五輪之書』だ」
 「だから?武士道の発祥過程について二千字以内で述べろと?」
 斉藤に対抗心を燃やしているのはわかるが、どうも方向性がずれている。
 どうやらサムライは僕が斉藤に興味を持ったことを不快に思ってるらしい。本当に独占欲の強い男だ。僕が斉藤に関心を示したのをきっかけで日頃の冷静沈着さが崩れたものか、ただでさえ近寄り難い目つきは更に険しさを増し、不機嫌も露わな眉間の皺と一文字に引き結んだ口元がその気もないのにまわりを威圧する。
 全身から剣呑なオーラを発するサムライを見詰め、口を開く。
 「……僕を疑っているのか?」
 声を落として訊ねる。
 苛立ちを口調に滲ませて刺々しく問えば、サムライがぷいと顔を背け、ぶっきらぼうに呟く。
 「……斉藤は信用できない」
 「根拠は?」
 「笑顔が胡散臭い」
 胸を反らし自信をもって断言するサムライに脱力する。
 眼鏡の弦に触れ気を取り直し、冷静に反論を試みる。
 「斉藤が胡散臭いことは主観的事実として僕も認めるが、人を容姿で判断するのはいただけない。君はもう少し公明正大な男と評価していたのだがな」
 「斉藤と話したあと、医務室から出てきたお前の様子は明らかに平生と違った」
 サムライが言葉を切る。僕は口を噤む。
 互いの真意を推し量る沈黙がおちる。
 「何があった?直」
 「………何も」
 「斉藤に何を言われた」
 「ジークムント・フロイトは優れた精神科医で後世に偉大な功績を残したが、夢の中の現象をすべてセックスと結び付ける発想は短絡的かつ偏っている。夢に表出する凸凹のうち凸はすべて男性器を、凹はすべて女性器を象徴するというのはいさかか乱暴すぎる見解だ。フロイト自身のトラウマに基づく偏見という解釈に同感……」
 「とぼけるな」
 サムライが一歩詰め寄り、気迫を込めて顔を覗き込んでくる。
 虚勢を張りサムライを見返そうとして、意志が挫け力なく俯く。
 サムライはどこまでも一途に真実を追求するつもりでいる。
 愚直と言い換えてもいい強情さにさすがに辟易するも、サムライがこうして僕を問い詰めるのは僕の身に起きた出来事を憂えているからだと一方で痛感し、切なく温かい感情が胸に込み上げる。

 だがしかし、真実を話すわけにはいかない。
 僕には恵の名誉の為にも守り抜かねばいけない秘密がある。 

 愛する妹の面影を瞼の裏に想起する。
 恵。僕の妹。
 血の繋がらない義理の妹、鍵屋崎夫妻のあいだに生まれた実の娘。
 鍵屋崎の家で家族と呼べるのは恵だけだった。
 鍵屋崎の家にいた頃も今も恵の存在は僕にとってかけがえのないものだった、心の支えだった。
 実の両親にも見捨てられた恵を愛し守ることだけが僕の存在意義であり存在価値だった。僕に天才以外の付加価値があるとするならそれは恵の兄であるという一点に尽きる。
 いたいけな笑顔が瞼裏に甦る。
 『おにいちゃん』 
 僕を兄と呼び無邪気に慕う可愛い妹。
 僕は恵を守るためにここにきた、東京プリズンにきた、自ら望んで東京プリズンにやってきた。
 選択に悔いはない。
 恵は僕のすべてだった。
 恵さえ幸せになってくれるならそれでよかった。
 他に望むことはなにもなかった。
 『何を隠してるんだい』
 先ほどの斉藤の声が耳に響く。
 緊張をほぐしリラックスさせる穏和な声音はしかし、真実を探求する冷徹さでもって僕の心を抉る。
 退室間際の斉藤の様子を回想する。
 斉藤は寛大なポーズで椅子に腰掛け僕を見送った。
 話したいことがあればいつでもきていいよとさりげなく告げ、虹彩の茶色い目に限りない包容力を湛え、じっとこちらを見る。
 いつその唇が動き核心にふれるか、逃げるように身を翻してからも僕は怯え続けていた。
 『誰を庇ってるんだい』
 詰問というにはあまりに優しく、尋問というにはあまりに礼儀正しく、あくまで節度を保ち引き際を心得て、それでも斉藤は僕のいちばん触れられたくない部分に踏み込んできた。

 ダレヲ カバッテルンダイ?

 何もかも見通すような眼差しが追いかけてくるようで、扉を閉じ廊下に出てからも手が汗ばむほどに緊張していた。
 木刀片手に佇むサムライを見た時、腰が砕けるような安堵を感じた。
 「直」 
 サムライが僕の名を呼ぶ。
 戸惑い揺れる僕を現実に引き戻し繋ぎ止めるように、静かに、強く。
 ひたとサムライを見上げる。 
 もとから頬骨の高く精悍な顔だちのサムライはこざっぱりした短髪がよく似合う。さながら清爽な武士といった風情だ。
 サムライの顔から視線を外し、長袖に包まれた肩から肘、手首に至る体の輪郭を辿る。
 僕は知っている、長袖の下の至る所に醜く焼け爛れた傷痕が残っている事を。
 サムライは僕を助けるために炎の中に飛び込み火傷を負った。
 その時の必死な形相を思い出し、不意になにもかもサムライに打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。
 サムライがすっと目を伏せる。
 「……俺では力になれぬか」
 「当たり前だ。僕の高尚なる苦悩が君ごとき凡人に理解されてたまるか。『若きウェルテルの悩み』でも読んで出直してこい」
 自責の色を双眸に浮かべるサムライに毒舌を返し、僕もまた顔を背ける。自分のプライドの高さがこの時ほど憎くなったことはない。
 サムライはきっと、僕の力になれない自分を責めるだろう。
 僕に頼りにされない自分の不甲斐なさを呪うだろう。
 わかっている、わかっているんだ。
 僕が好きになった男はそういう男だ、サムライは愚直なまでに誠実で心優しい男だ。

 だからこそ、苦しめたくない。
 僕が担うべき重荷を負わせたくない。

 すまない、サムライ。
 だが、これは僕の問題だ。
 目を閉じ心の中で謝罪する。
 再び目を開き、挑むようにサムライを見据える。
 今の僕にはこれしか言えない。
 「僕としたことが、宮本武蔵は未読だ。今度『五輪之書』を借りてくるから、宮本流武士道に対する君の見解を聞きたい」
 サムライが一瞬目を見張り、僕の気持ちを汲んだものか、「仕方ない」とでも言いたげに苦笑する。
 「心して待つ」
 サムライの優しさが胸に染み入り、秘密をもつことに対し抱き続けていた罪悪感がほの少しだけ薄まる。
 サムライに釣り込まれるように頬を緩めた僕だが、その瞬間ー……
 凄まじい轟音が響く。
 「!?何事だっ」
 サムライが素早く反応し木刀を構える。
 音源は医務室だ。
 最前とは人が変わったように鋭い目で扉を凝視し、僕を庇うように立ち位置を移動したサムライの眼前で、突如扉が開け放たれる。
 「凱だ、凱が暴れてる!」
 「だれか早く看守を呼んこい、死人がでねえうちにっ……」
 「おい、腕もって押さえろ!ひとりが無理ならふたり、ふたりが無理ならさんにん……畜生なんて馬鹿力だ、五人がかりでもたちうちできねーぞ、本当にくたばりぞこないの怪我人かコイツ!?」
 体のそこかしこに包帯を巻いた囚人たちがこけつまろびつ溢れ出し、注射器やら消毒液の瓶やら衝立やらパイプ椅子やらが畳み掛けるように投げ出される。
 骨折で入院中の囚人がギプスを嵌めた足をひきずり這い出し、点滴に寄りかかるようにして敷居を跨いだ囚人がその場にしゃがみこみ吐血する。
 何十人もの収容患者が我も我もと助けを求めて大挙したせいで、たまたま居合わせた通行人も巻き込み、廊下は大混乱に陥る。
 サムライの決断は早かった。
 もはやこの騒ぎに収拾つけられるのは自分しか居ないと判断し木刀をひったくり、殺気立った人ごみに逆流するように室内に駆け込む。
 「直、離れるな!」
 「君から離れたら圧死する!」
 ひしと背中にしがみつき叫び返す。
 殺到する人ごみに押し流されまいと必死に踏ん張りつつ、僕自身に何があろうとも本だけは無傷で守りぬくと胸に抱きこむ。
 点滴と注射器と瓶と椅子が飛び交う中、割れた注射器や漏れた消毒液やら歪曲した椅子やらが散乱する惨状を呈した室内を一陣の疾風の如く突っ切り、サムライが怒鳴る。
 「何があった!?」
 「凱が、凱さんがいきなり暴れだしたんだよ!」
 頭を抱えて床に這いつくばった囚人が半泣きで叫ぶ。
 「凱が?」
 一週間前、道了によって喉を切り裂かれ声帯を損傷した凱は今だ入院中のはず。   
 一週間も寝たきりだった凱が目覚めるなり手負いの猛獣のように暴れだしたと聞き、まだそんな体力が残っていたのかと単純に驚く。
 「何とかしてくれよサムライ、俺たちじゃ歯がたたねーんだよ、凱さんときたら目ェ覚ますなり狂ったように暴れだしてわけわかんねーこと喚き散らして……」
 道了に下克上されてからも凱の傍らにあり甲斐甲斐しく世話を続けたのだろう囚人の要請に、サムライは義理堅く頷く。
 「累が及ばぬよう隠れていろ。凱は俺が止める」
 「謝謝、恩に着るぜ!」
 サムライが顔を引き締め、硝子の破片を重々しく踏み砕いて凱のベッドがあると思しく方向へ突き進んでいく。
 あたりを見回し斉藤をさがす。
 室内に姿が見当たらないが、患者を放って逃げたのではないだろうな。
 「斉藤、この緊急時に職務放棄とは貴様それでも医者か!?」
 「肉体労働は苦手なのさ」
 予期せぬ方向から声がした。
 その場にしゃがみこみベッドの下の暗がりを覗けばちゃっかり斉藤が隠れていた。あまりに情けない有り様に叱責するより先に呆れ、続けかけた言葉を飲み下す。まじまじと斉藤の顔を見れば、一応は凱を取り押さえようとしたらしく、力及ばず反撃されたあかしの擦り傷があった。

 「ぐるあああああああああああぁああああああああァっ、あッ、あッ!!!」
 濁りに濁った咆哮が大気を震わせる。
 人間の声帯から発せられたとは信じがたい、とてもじゃないが言葉の体を成さない、醜くひび割れた太い咆哮。

 「今のが、凱の?」
 むりやり唾を嚥下し、漸くそれだけ訊く。
 僕が覚えている凱の声もお世辞にも美声とは言い難かったが、今のは獣の吠え声にしか聞こえない。
 輪郭の割れた醜い声、耳に入って不快感をかきたてる不協和音の集合体、声というよりは剥き出しの音のかたまり。
 あれが凱の声だって?
 悪い冗談だと思いたかったが、斉藤の顔は至って真剣だ。
 「ひょっとして、凱は……」
 その先の予想を続けるのがためらわれる。口にしたそばから現実になりそうな予感が舌を鈍らせる。
 沈痛に押し黙った僕の前で、ベッドの下から這い出した斉藤が立ち上がり、気取った手つきで白衣の埃をはたきおとす。
 「……発声訓練を続ければ、ある程度は言葉を取り戻すことはできる。だが声の本質は変わらない。彼はこのまま一生……」
 「凱は声を失ってしまったのか、もはや永遠に娘の名を呼べないと!?」 
 「残念だけど」
 そんな。
 そんなことが。
 僕と斉藤が話しているあいだも獣じみた咆哮はやまず椅子やら点滴やらが投げ飛ばされてくる。床に落下した椅子ががしゃんとけたたましい音たて滑り、瓶が割れ砕けて液体が一面にぶちまけられ包帯姿の囚人が逃げ惑う。 
 僕は凱が嫌いだった。
 下品で下劣で乱暴で、暇さえあれば僕やロンを追い掛け回す凱を心底嫌っていた。
 一命を取り留めたならいいじゃないか。
 声を失ったくらいで済んでよかったじゃないか。
 凱を嫌うもう一人の僕が頭の片隅で囁くも、もう一人の僕は凱のベッドがある方向を呆然と見詰めたまま硬直している。
 食堂の椅子にふんぞりかえり飯粒をとばし下品な笑い声をたてる凱、あたりはばからぬ大声で猥褻な冗談をとばす凱、自分の娘は世界一可愛いと誇らしげに自慢する凱……
 それらの声が一斉に共鳴し甦る。
 「おでは、おではっ、まげてない……だおだにまげでないっ……」
 狂おしい咆哮に哀切な嗚咽が混じる。
 凱が泣いている。
 あの凱が泣いている。
 人前で涙など見せたことのない凱が、東棟三百人の頂点たる腕自慢の凱が、道了に敗北した悔しさのあまり衝立の向こうでシーツを掴み泣き伏せる。
 衝立に遮られて姿は見えないが、衝立に映る影が、ベッドに突っ伏して身も世もなく泣き叫ぶ情けなくも痛々しく滑稽な姿を想像させる。
 「ぢぐじょう、ぢぐじょう……ごんなごえじゃ、むずめのなまえだっでよべねえ。むずめにだってこわがられぢまう。ぐぞ、のどがおがじい、棒ぎれでもづっかがってるみでえだ……みっどもでえ、みっどもでえよお……」
 手当たり次第点滴を突き倒し椅子をぶん投げ瓶を落とし戸棚を叩き割り、すっかり体力を消耗しきった凱が喉絞るように啜り泣く。
 「麻酔銃のほうが効くかもね」
 斉藤が肩を竦め、ポケットから注射器をとりだす。凱に鎮静剤を打つつもりらしい。衝立の向こう、凱の枕元に佇む影はサムライだろう。
 苦虫を噛み潰したような仏頂面で立ち尽くすサムライを思い、そちらに足を踏み出し……
 ふと視線を感じて振り向く。
 開け放たれたドアの向こうにひとりの少年がいた。
 その少年は僕と目が合うなり露骨に「やばい」という顔をし、ぱっと踵を返して逃げ去っていく。
 「!待て、」
 僕ともあろうものが、あれこれ考えるより先に体が動いていた。
 見覚えのある顔だった。
 見覚えのある少年だった。
 暴れ狂う凱に恐れをなして入室をためらっていたのか、野次馬に紛れて偵察にきたのか真意は判らねど、彼があの場に居合わせたのがただの偶然であるはずない。
 「直!」
 サムライの声が追いかけてきたが振り向かずに走る。
 足を交互に繰り出し床を蹴り速度を増し標的を追い詰める。
 すぐに息が乱れて汗が噴き出し眩暈を覚えるも、おいていかれてなるものかと意地で食い下がる。
 対象と距離が縮まる。
 十メートル、五メートル、三メートル……もうすぐそこだ。
 どうやら僕でも追いつけるくらいに動きが鈍いらしく、1メートル先を駆ける少年は激しく肩を上下させ疲労困憊の相を呈している。
 走りながら背中に手を伸ばす。肩に手をかけ強引に振り向かせる。
 少年がぎょっとする。
 これといって特徴のない平凡な顔に視線を突き刺し、記憶の襞をまさぐる。
 彼の名前はそう、確かー……
 「逃げるな、マオ!!」
 少年が怯えたように目を見開く。今だ。
 肩にかけた手を引き、すぐ横の路地にマオを押し込む。
 僕につかまった時点で諦めたのか、マオはこちらが拍子抜けするほどあっけなく命令に従った。
 肩を浅く上下させ不規則に乱れた息を整え、マオに続いて路地に分け入る。
 路地の出口を塞ぐように立った僕の前、薄汚れた壁に背中を凭せるようにしてずりおちたマオが、膝の間に頭を突っ込み苦しげに呼吸する。
 「何を企んでいるか説明してもらおうか」
 僕の前にいるのは残虐兄弟の片割れ、マオだ。
 今を去ること一週間前、凱の敗北をきっかけに兄弟揃って道了へと乗り換えたマオが何故医務室の前に?
 一見したところ服から露出した部位に外傷はなく治療を受けにきたとも思えない。僕にバレた際の挙動不審な様子からして凱の容態を見にきたとするのが妥当だ。
 「道了に言われてとどめでもさしにきたのか。強姦未遂か?」
 「……凱さんのケツ狙ったりなんかしねーよ。抜け駆けは絶対禁止、強姦する時は二人一緒にってのが残虐兄弟の掟だ」
 荒い息の狭間からマオが零す。
 そういえば兄の姿が見当たらないなと今頃気付く。
 かつて一度ならず襲われた事があるにも関わらず、人通りのない路地にマオを連れ込んだ僕も大概無防備で不注意と責められてしかるべしだが、マオとユエがふたり揃って残虐兄弟を名乗らない限りは脅威を感じないのが皮肉な現状だ。
 深呼吸しマオと向き合い、ひややかに吐き捨てる。
 「よくもあそこに顔を出せたものだな、卑劣な裏切り者の分際で」
 マオが膝を抱えたままびくりとする。 
 萎縮しきったマオへの軽蔑を隠さず、淡々と言葉を重ねる。 
 「君たち兄弟は凱を裏切り道了に寝返った。今からたった一週間前のことだ。今まで凱の庇護のもと好き放題していたくせに、凱の敗北を目の当たりにした途端立場が悪くなるのを恐れて道了に乗り換えた。喉を裂かれ大量の血を流し苦しみもがく凱を無慈悲に切り捨て、自分たちの利益と保身を最優先し、レイジにもまさる尻の軽さでほいほい道了についていったんだ」
 「あ……、」
 「凱は用済みだ。役立たずだ。仲間を失い声も失い希望と闘志すら失った死に損ないだ。そんな凱に今更何の用だ?嗤いにきたのか。かつて自分をこき使った男の末路をいい気味だと嗤いにきたのか、上の命令でとどめをさしにきたのか、さあどうなんだ」
 マオが弱々しく首を振り、縋るように僕を仰ぐ。
 潤んだ目で何かを必死に伝えようとするも、つれなくあしらう。
 「道了に報告しろ。凱は声を失い絶望し暴れ狂っていると見たままを報告し道了を満足させろ。凱はもはや人語を話せぬ獣に退化した。よかったじゃないか、全部君の望みどおりー………」
 「ちがわい!!」
 その声にハッとする。
 子供のように背中を丸め膝を抱き、マオがたどたどしく弁解する。
 「あン時はあんちゃんと離れたくない一心で、あんちゃんがああ言うから俺もついその気になってノリと勢いで言っちまっただけで、凱さんを裏切る気なんか本当はこれっぽっちもなかったんだよ。ほんとうだよ。嘘じゃねーよ。凱さんとは娑婆の頃からの知り合いで、俺たち兄弟とはケツの青い頃からの知り合いで、凱さんにはマジで数え切れないくらい世話になってんだから。警察にヤサばれそうになった時は匿ってくれたし、一緒に食い逃げしたし強姦したし強盗したし、ガキん頃から貧しくて旧正月の祭りでもろくなもん買えなかった俺ら兄弟のために駄賃くれて、『これで好きなもん買ってこい』って笑って言ってくれたのも凱さんなんだよ!」
 膝に顔を突っ伏し、我慢の糸が切れたようにマオが泣き始める。
 頼りなく肩を震わせくぐもった嗚咽を零し、マオが言い募る。
 「凱さんはずっと俺たちの兄貴で親父代わりだったんだ。娑婆でもここに来てからもずっとそうだったんだ。兄ちゃんはどうか知らねーけど、俺は、俺は……」
 漸く僕は気付いた。
 マオが医務室を訪れたのは偵察が目的ではなく、純粋に凱を心配していたからだと。
 喉裂かれて入院中の凱が気がかりで、自ら危険を犯してまで様子を見にきたのだと。
 マオは自分の身を守るよう膝を抱え泣いている。
 残虐兄弟の悪名にはふさわしくない鼻水と涙にしとどに塗れた泣き顔をさらし、選択を誤ったことで激しい後悔の念に苛まれ、ひどく遠回りしながら、袂を分かった凱への偽りない気持ちを吐露する。
 「凱さんが好きなんだよ………」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050330062712 | 編集
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