ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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二十話

 寒い雨の日だった。
 吐く息が白く曇る。濡れ髪から滴る雫がうざったい。
 びしょ濡れの髪をかきあげ、猫のようにかぶりを振って水滴を払う。
 湿り気を帯びた体をいつもより重たく感じる。
 たっぷり水気を含んだ薄手のジャンパーが青褪めた肌にへばりついて皮膚の色を透かす。
 このままじゃ風邪をひいちまう。
 どこかで乾かさなきゃと至極真っ当な事を考えるも肝心のあてがない。さっぱりない。
 俺は途方に暮れてプレハブの庇から滴る雫を眺めていた。
 みすぼらしくペンキの剥げた庇から滴る雫が、アスファルトの路面に波紋を投じる。
 側溝には轟々と唸りをあげて濁流が氾濫していた。
 季節は梅雨。
 毎日のように降る雨がスラムの輪郭を滲ませる。
 排気ガスやら産廃の煙やらの有害物質をこれでもかと含んだ雨は心なし薄汚れて見え、当然ながら人体に悪影響を及ぼす。
 頭のまともな人間は雨の日に出歩かないし、よしんば出歩くにしても雨よけの傘とコートは必需品で、できるだけすばやく用事を済まして屋根の下に引っ込むのがスラムの常識だ。
 スラムに降る雨は住民の命にかかわる。
 おまけにこの雨ときたら排気ガスやら産廃の煙やらを攪拌し蒸留した有害物質のフルコースの上に腐食性の酸性雨ときてる。
 酸性雨といっても肌にふれたそばからじゅっと肉を溶かす硫酸並みに危険なものではなく、直接肌に触れても多少ひりひりする程度の弱酸性のものだが、それでも長時間浴び続けるのはよろしくない。一時間も浴びつづければ軽度の火傷に似た様相を呈し皮膚が炎症を起こす。
 半日となると目もあてられない。硫酸並という表現が大袈裟じゃなくなる。自慢の肌が焼け爛れるのが嫌なら雨の日は出歩かないのが無難だ。
 2030年頃から急激に増え始めた雨アレルギー発症者は、直接雨にふれただけでも全身に発疹がひろがり、猛烈な痒みと痛みに悩まされた挙げ句肌がひどくかぶれてしまうのだそうだ。酷い場合はショック症状で死に至るともいうからおちおち外も出歩けやしない。

 分厚い雲を一面に敷き詰めた空から透明な糸引き雨が滴る。
 無数の雨糸で天と地が繋がる。
 雨がプレハブの庇を叩く小気味良い旋律に聞くともなく耳を傾け、いつやむともしれない雨を無為に眺め続ける。
 見ているだけで気が滅入る陰鬱な空。
 誰かの心のように濁りきった空。
 俺の心のように。

 庇を叩く雨音が次第に間隔を狭め激しくなる。
 庇を乱打する雨音がうるさくて顔を顰める。
 寒い。体が芯から凍える。
 さっきから震えが止まらない。ずっとぬれた服のままでいるのはまずいとわかっていてもここで脱ぐのは抵抗あるし着替えもない。
 八方塞りの現状に何度目か数えるのも飽いた溜め息を吐く。
 昼だというのに雲に覆われた空は薄暗く、あたりに人けはない。
 安普請のアパートが乱雑に建ち並ぶスラムの片隅、不況の煽りを食って閉鎖された工場街。
 その一角の無個性な倉庫の前。
 俺は今そこにいる。
 シャッターを下ろした倉庫の正面に所在なく座り込んでいる。
 雨の勢いは一向に衰えない。
 ざあざあと音がする。
 天から降り注ぐ雨が巨大な廃墟と化したスラム全体を包み込んで、黒一色の濃淡で描いた墨絵のようにすべてを模糊とぼやかしていく。
 薄ぼやけた紗幕が視界を閉ざす。
 水煙が立ちそうに紗がかった視界の中、幾重にも波紋が生じる路面の水溜りに空き缶が浮かんでる。
 雨に打たれるがまま錆びていく空き缶に何かを投影する。
 たとえば俺自身とか。
 近い将来惨めに野たれ死ぬしかないガキの末路とか。
 寒い。黙ってるだけで手がかじかむ。指の震えがとまらない。尻を接した地べたから冷気が這い上り尾てい骨を冷やしていく。
 ぎゅっと指を握り込むも、殆ど握力が失せている事に狼狽する。
 寒さと飢えと疲労と今日の寝床すらない心細さが容赦なく気力と体力を奪い去る。
 諦めてこぶしをほどき、間接が白く強張った指を見下ろす。

 水が絞れるジャンパーじゃさっぱり暖まりゃしないが、ないよりゃマシだ。
 ジャンパーを脱いだ下は薄汚れた半袖シャツ一枚と半ズボンだけだ。
 ジャンパーを羽織っていたほうがまだしも気休めになる。

 『ちょうどいい洗濯になったぜ。垢がとれてよかったよ』
 誰にともなく呟く。虚しい独り言。当然返事はない。
 あたりに響き渡る雨音が静寂を際立たせる。
 雨の散弾に穿たれた空き缶が右へ左へ揺れ動く。
 路地の峡谷の底から狭苦しい空を見上げる。

 都下最大スラム、池袋。
 土地の狭さに反比例し人口が膨れ上がったここでは貧困層のアパートは何階層も寄せ集まり、更なる高みをめざして上へ上へと発展していく。
 日陰の雑草と同じだ。
 日陰の雑草は長く長く茎を伸ばし少しでも太陽に近付こうと悪あがきをする。
 地べたに這いつくばって生きるっきゃない貧乏人も同じだ。明るい方へ明るい方へと競って背伸びした結果がこれだ、肩寄せ合って窮屈そうに地上に犇くアパートの群れだ。慢性的人口過密状態のスラムには高さと引き換えに安全性を放棄した今にも倒れそうなビル群が密集し、互いに寄りかかる事で辛うじて均衡を保ち、それらが合体した巨大な影が地上をすっぽり覆い尽くしてる。貧乏人には日照権なんざ当然ない。

 俺が育った街。
 何の愛着もわかない。
 嫌な思い出しかない。

 生まれてから十二年と少し、お袋と暮らしたオンボロアパートは猥雑な町並みに埋もれてここからじゃ見えない。
 その事に安堵すると同時に残念がる矛盾を抱えた自分を不思議に思う。
 俺のお袋は母親としてはおよそ最低な部類だった。
 育児の義務を放棄し家事はさぼりガキが小さかろうが空腹だろうがお構いなしに男を引き込み、そのくせ躾だけは厳しく鬱憤晴らしの折檻を伴った。
 十二年におよぶお袋との暮らしを回想し、目を閉じて自分の本心をさぐる。
 一抹の未練もない、はずだ。
 そりゃそうだ、未練なんかあるわけねえ。
 あの売女が酒の飲みすぎで肝臓癌になろうが腹上死しようが痴情のもつれで刺されようがどうでもいい。自業自得因果応報。もう関係ないんだと自分に言い聞かせて平静を保とうとするも、いまだ断ち切れない何かが胸の奥底でうねり、鉄筋階段が軋むボロアパートへと記憶を引き戻す。
 親子の情愛とか未練とか名付けるのは死ぬほど癪だが、けれどもそう名付けるしかない俺とお袋を繋ぐ目に見えない何か。
 あるいは一方的な執着。
 
 勢いに任せて廊下に転がり出る。
 般若の形相のお袋が、蛍光灯の薄黄色い光を背に立ちはだかる。
 お袋は下着姿だった。鴉の濡れ羽色の髪が乱れて肩に流れていた。
 三十路を過ぎても形が崩れず張りを失わない乳房が安っぽいブラを押し上げ存在を主張していた。化粧が剥げた顔には生活の荒れを忍ばせる年相応の小皺にくわえ計算高さと驕慢さとが折り合った婀娜っぽい表情が浮かび、お袋がいかに性悪な女かを雄弁に物語っていた。

 どぎつい口紅を塗った唇を憎憎しげに歪め、ねじり、甲高い声で怒鳴る。
 俺への呪詛。お決まりの罵詈雑言。

 もう帰ってくるなごくつぶし厄介者疫病神、あんたがいなくなりゃせいせいする、ガキに遠慮することなく仕事に精を出せる、もう二度とそのむかつくツラを見せるな、あんたの親父と同じようにどこへなりとも消えて二度と目の前に現れるな、再見、いや、二度と会いたくない相手に「再見」なんて別れの文句はおかしい、ああくそこんな時台湾語は不便だわ、ちょうどいい言葉が見当たらないなんて!!

 口汚く毒づくお袋の醜く歪んだ顔を思い出し、俺もまた顔を歪める。
 今の俺はきっと、別れ際のお袋によく似た醜い顔をしてる。
 皮膚の下で脈打つ憎悪を滾らせた、どうにも抑えがたい憤怒の形相。

 『再見なんざこっちから願い下げだ。男に跨って腰ふるのが仕事の売女の分際で偉そうな口きくな。男のモンしゃぶってイかせて突っ込ませてまたイかせて、その繰り返しで稼いだ金で十二年も養われてたのかと思うとぞっとする。寄せて上げて乳こしらえてる年増がいばんなよ。全部こっちの台詞だ。
 あんたとおさらばできてせいせいする。ヒモと乳繰り合ってるとこ見せ付けられンのはうんざりだ。あんたがしゃぶってるとこ見るたび吐き気がした。喉の奥までずっぽりアレ咥え込んだ間抜け顔、あんた一度も鏡に映したことないだろ?相当笑えるぜ』

 お袋を口汚く罵り怒りをなだめようとするも、瞼裏に懐かしい面影が過ぎるのに合わせて舌鋒が鈍り、若干の後ろめたさを覚える。
 なんで?俺が後ろめたく思う必要なんかない、これっぽっちもない。
 激しくかぶりを振ってお袋の面影を追い払おうと努める。たっぷり水気を含んだジャンパーが毛穴を塞ぐのが何とも鬱陶しく息苦しい。
 胸が、痛い。
 とうに捨て去ったはずのくだらない感傷が胸を締め付ける。
 今頃お袋はどうしてる?俺がいてもいなくてもいつもどおり男を引っ張り込んでよろしくやってるのだろうか、かわらず元気でいるのだろうか。
 『再見なんざ言うもんか』
 俺はそれしか別れの挨拶を知らない。
 再会を期した別れの挨拶しか俺の国にはない。
 俺はあの時お袋を罵倒し背を向けた。別れの言葉は言わなかった。お袋もまた「再見」は言わなかった。鉄筋階段を踏み鳴らしけたたましく駆け下りる俺の背中に投げ掛けられたのは、「二度と帰ってくるな中国人の落としだね、あんたの行き先は刑務所か地獄かどっちかよ」という勝ち誇った声だった。

 わざわざ振り返らなくてもどんな顔をしてるか容易に目に浮かぶ。
 紅潮した目尻をきっと吊り上げ、ただでさえきつい顔立ちに尖った険を浮かべ、高飛車に腕を組み
 『あんたの行き先は刑務所か地獄かどっちかよ』
 俺の運命を予言する、声。

 廊下のど真ん中、淡く滲んだ蛍光灯のあかりで剥き出しの肩を照り光らせ仁王立つお袋を思い出す。
 別れ際に見たお袋の姿。
 決して俺を許さないときつく口元を引き結び、爛々と白目を光らせた般若の顔には、峻烈な拒絶の意志が漲っていた。

 『…………冷』 
 寒い。体の芯まで冷気が染みこんでくる。
 今の俺には行く所がない。帰る所がない。どこにも居場所がない。
 お袋のアパートをとびだしてから数ヶ月は路上で暮らした。
 けれども路上にも縄張りがあった。
 俺はどこでも目の敵にされた。
 どいつもこいつもが躍起になって俺を追っ払おうとした。
 温風を吐き出す排気口近くの寝床を死守するために、新鮮な生ゴミが供される食堂の裏口に俺を近寄らせないために、ガキどもは始終警戒を怠らず徒党を組んで俺に石を投げた。
 すばしっこいのだけが取り得の俺はそれでもしばらくは上手く立ち回っていた。
 ガキどもの目を盗み隙をつきゴミ袋かっさばいて残飯をかすめとり、使用済みコンドームと折れた注射針が散乱する幅二メートルの小路でも反吐の真横でも文句をたれずに寝た。公園の便所で寝たこともある。
人目なんか気にしてられない。最低限雨風しのげて凍え死にさえしなけりゃどこでもよかった。
 寝心地の良さなどどうでもいい。
 一夜限りの安全と安心が保証されればそれでいい。
 けれど野宿にも限界がある。他のガキどもに目の敵にされたんじゃ尚更だ。過酷な路上暮らしは容赦なく俺の気力と体力を削り取っていった。  

 そして梅雨が訪れた。
 俺は相変わらず居場所がなかった。
 一箇所に長く留まるは危険なために、三日ごとに街を徘徊して寝床をかえねばならなかった。
 三日以上同じ場所にいると、路地を縄張りとする路上生活孤児どもに否応なく叩き出されるはめになるからだ。
 俺は転々と寝床をかえた。
 けどそろそろ限界だった。
 体力はとうに底を尽きていた。足は棒のように突っ張って一歩進むにも己を駆り立てねばならなかった。追い討ちをかけるようにこの雨だ。泣きっ面にはち。悪い事はとことん重なるものだ。
 もう立ち上がる気力もなかった。
 物凄い勢いで降りしきる雨がアスファルトを濡らしていく。アスファルトで固めた平坦な街路に水溜りが出来て、やがてその水溜りは大河となり渦巻き白濁した飛沫を上げて轟々と排水溝へ注ぐ。
 何もかもが色褪せくすんでいた。
 毎日のように降り続く雨が街の活力と色彩を奪っていた。
 鼻がむずがゆい。
 『へっぐじ!』
 盛大にくしゃみをする。鼻水が垂れる。
 上着の胸にたれおちた鼻水をずずっと啜り上げ、鼻を擦る。
 悪寒がする。
 ぞくぞくする。
 体の表面は鳥肌立つほど冷えているのに奥が妙に熱っぽい。
 『感冒了?』
 風邪ひいたか?
 背筋沿いに込み上げる不安と寒さをごまかそうと二の腕を擦る。
 背筋を悪寒が駆ける。鼻がむずむずする。啜り上げたそばから性懲りなく鼻水が垂れてきてどうにも情けない。
 無造作にジャンパーの裾をたくし上げ、勢い良く鼻を噛む。
 鼻水を拭いたジャンパーの裾はかぴかぴ安っぽくてかっている。
 『畜生、腹減った。中からあったまりてえ。給我一杯粥』
 鼻をぐずつかせながら愚痴る。
 医者にかかる金も保険証もねえ路上生活者にゃただの風邪も命取りなる。肺炎にかかるのだきゃごめんだ。
 シャッターに背中をもたせる。
 少しでも体温が失われるのを防ごうと身を丸め膝を抱え込む。
 裸の膝に顔を埋める。
 雨の音が一層大きくなる。
 最低に惨めな気分。最悪の気分。
 間断なく身を苛む寒さとひもじさに耐えかねてかじかむ手で肩を抱く。水滴が顔に跳ねる。路面で跳ねた水飛沫が手といわず顔といず霧を吹いたように濡らしていく。
 どす黒く濡れたアスファルトの路面には荒廃を物語るように大小の亀裂が生じている。
 雨を避けて紛れ込んだ工場街はモノトーンの静寂に支配されていた。
 ここなら人目を気にせず雨宿りができると苦渋の選択をして倉庫の軒先を借りているのだが、こんなに静かだとかえって薄気味悪い。
 全体に漂う裏寂れた雰囲気が何とも気を滅入らせる。
 見渡す限り続く廃墟。両扉を閉ざした工場から機械の駆動音も聞こえず、無個性な倉庫群にはシャッターが下ろされて野良猫一匹たりともいれるものかと拒絶の意志を表している。

 工場の中に入れりゃちょっとはマシなのに、畜生。

 舌打ちし、シャッターの隙間がないかと視線を走らせる。
 俺はちびだがらシャッターの隙間に潜り込むことだってできる。
 屋根の下にいりゃ水飛沫がとぶこともないしこれ以上体が冷える事もないし、第一だれにも脅かされずぐっすり眠ることができる。
 お袋のアパートを飛び出してから屋根の下で寝た数わずか五回、抹香臭い廟の軒先と公園のトイレと廃墟のビルと地下鉄のホームとスクラップ置き場の廃車の中。
 あとは全部野宿。
 ああ、屋根の下が恋しい。固い床が恋しい。
 体を平らにすることができるなら寝返りの度あちこち痣ができる固い床だって文句は言わない。
 上手く工場内に忍び込みゃ今夜の寝床は……
 『!?誰だっ、』
 声が尖る。反射的に腰を浮かせ、シャッターに縋って立ち上がる。
 悄然と水煙が立ち上る視界の中、水飛沫を弾かせて何者かがこちらに歩いてくる。
 いつのまに現れたのか全然気付かなかった。
 迂闊だった。俺としたことが、物思いに沈んでいて敵の接近に気付くのが遅れたらしい。
 いや、まだ敵と決め付けるのは早い。
 神経を尖らせて何者かの接近を待つ。
 この距離からじゃ雨に邪魔されて顔も視認できない。
 背格好から察するに俺より二つ三つ年上らしいが、均整とれた長身の癖にどことなく歩き方がぎこちない。機械仕掛けの人形のようにぎくしゃくした歩みに違和感を覚え、煙る紗幕の向こうに目を凝らす。

 動悸が速まる。
 耳の中で鼓動が膨らむ。
 高鳴る鼓動にざぁざぁと雨音が被さる。
 全身を巡る血流かそれとも雨の音か、小豆を磨ぐようにざぁざぁいう音が体の内と外どちらのものか境界が溶け出してじきに区別がつかなくなる。 

 『…………っ』
 なけなしの気力を奮い立たそうときつく唇を噛む。
 自重を支えられず、今にも膝が萎えて崩れ落ちてしまいそうだ。
 ひどく苦労して唾を飲み下す。唾が喉にひっかかる。緊張で顔が強張る。体の脇でこぶしを構える。いつどの距離から殴りかかってきてもいいように覚悟を決める。
 
 そして、そいつは俺の前に現れた。
 
 『…………金、銀?』 
 チン、イン。
 突如目の前に現れた男は、人ならざる魔性の証の金の右目と銀の左目を持っていた。
 強靭な眼光。
 その眼光の冷徹さに気圧されて無意識にあとじさる。
 ガシャン、背中に衝撃。間抜けにもシャッターに激突したらしい。
 能面じみて無表情な顔の中、静謐な金属の瞳がじっとこちらを窺っている。観察している。俺とそうかわらない年齢だってのにただらぬ威圧感を発している。
 ところどころ銀のメッシュを入れた短髪が濡れそぼって額に貼り付いてる。細く刈り込んだ眉と涼しげな切れ長の双眸、肉の薄い繊細な鼻梁と酷薄そうな薄い唇、神経過敏気味に尖った顎。端正と評していい顔だちだが、如何せん表情が欠落してるために初対面の人間にとんでもない違和感と不気味さを与える。
 男はびしょ濡れだった。
 踝まで届く黒革のレザーコートは一目でわかる高価な物で、爬虫類の皮膜のようにのっぺり照り輝いて水を弾いていた。
 だれとも馴染むつもりはないといわんばかりに。 
 眼底まで射抜くような冷徹な眼差しに気圧されつつも、弱味を見せたら負けただと己を叱咤し虚勢を張り、対抗心に燃えて顎を引く。
 そぼふる雨の中に微動せず立ち尽くす男を不可視のオーラが取り巻く。

 近寄り難い雰囲気。威圧感。孤高。

 男は醒めた瞳で俺を眺めていた。
 ひどく退屈げな様子だった。
 たとえばそう、俺がさっきまで何の目的も意味もなく空き缶を眺めていたみたいに、雨の散弾が空き缶を貫通するその瞬間をさほど熱心でもなく単なる退屈しのぎで眺めていたみたいに。
 重苦しい沈黙。激しい雨音が残響を帯びて静寂を満たしていく。
 唇を湿らし、何を言おうか迷う。
 俺は少なからず動揺していた。突然目の前に現れた正体不明のオッドアイ男にとてつもない不審感を募らせていた。
 なんだコイツ?正気か。人間か。人間なら何か言えよ。なんで一言も発さず黙りこくってやがんだよ、不気味なヤツだぜ。ほら、オハヨウゴザイマシタとでも言ってみろ。初顔合わせの挨拶は人間関係の基本だろ。  
 どしゃ降りも意に介さず目の前に立ち続ける男が人間の皮を被った機械のような錯覚に囚われ、耐え切れず声を上げる。
 『お前、頭がおかしいのか』
 単刀直入に疑問をぶつける。男がほんのかすか怪訝な顔をする。
 初めて反応が返ってきた事に内心安堵し、どうやら人間らしいと判断を下す。
 人間なら話が通じるはずだ、理屈が兼ね合うはずだ。
 いつまでも立っているのがアホらしくなり、シャッターに背中をもたせてそのまま力なくずりおちる。
 元通りへたりこみ、呆れ顔でオッドアイの男を仰ぐ。
 『こんな雨の中をほっつき歩く命知らずの物好きがいるたァ驚きだ。ヤクの打ち過ぎで頭のネジがとんでじゃねーの?いくら上等なコートを羽織ってたってどしゃ降りの中を歩くのはおすすめしねーな、自慢のコートに穴が開くのはお前だって願い下げだろうが。つかさ、せめて傘ぐらいさしとけよ。その年でハゲちまうのはイヤだろお洒落さん。酸性雨で髪の毛溶かされて残り一生丸坊主で過ごすなんざ、せっかくカラコン嵌めてめかしこんでても台無しだっつの。瞳の色隠してハゲ隠さず。ま、あんたがハゲようがどうなろうが知ったこっちゃねーし関係ねーけど……』
 くしゃみをする。
 二回目。今度は続けざまに三回目、四回目、五回目がくる。
 『くそ、うざってえ。どうにかなんねーかな、これ。むずがゆいっちゃありゃしねえ』
 手の甲で赤くなるまで鼻をこする。
 レザーコートの男は銀の左目だけを器用に眇める。
 見ず知らずの他人にくしゃみと独り言を見られたばつの悪さに、レザーコートの男に怒りの矛先を転じる。
 『ぼうっと突っ立ってんなよ。見世物じゃねーよ。いや、この際見世物でいいから金か食い物恵んでくれよ』
 催促して手のひらを突き出す。
 男は無言、無表情。俺にものを恵む気は毛頭ないと見える。
 薄情なヤツだと邪険に舌打ち、腹を立てそっぽを向く。
 再び沈黙。
 さりげなさを装いちらちら男を盗み見る。
 どうにも居心地が悪い。
 男は雨の中に突っ立っている。
 濁った空を背景に水が氾濫する路上に立ち尽くす姿は不吉の象徴に見え、無視できない存在感でもって否応なく俺を惹き付ける。
 男は動かない。雨がどれだけ激しくなろうともそこを動かず、全身濡れるがままに立ち尽くす姿は異様な迫力を伴う。
 頭をかきむしり、何度目かわからない舌打ちをくりだす。 
 『入れよ』
 男が俺を見る。
 眼底まで射抜くような透徹した眼差しに心臓が凍る。
 『そのまま雨ん中に突っ立ってたら風邪ひいちまう。隣に来いよ。雨があたんねーだけちょっとはマシだろ。それとも何か、お前は肺炎で死ぬのを望む自殺志願者か?どうでもいいが俺の前で雨に打たれるのはやめろ、気になってしょうがねえ。だいいち目障りだ。やるならどっか他のとこに行ってくれ。ここから消えるつもりがないならまともな人間らしく雨を避けるふりくらいはしてくれ。頭のイカレた人間とツラ突き合わせてだんまり決め込んでると気分が暗くなる』
 尻をずらして端に寄る。肩に雨がかかるが気にしない。
 しかしせっかく場所を空けてやったのに、それでも男は動こうとしない。ただ少しだけ奇妙な顔をしてこちらに一瞥くれただけだ。
 なんだそのひとの親切を足蹴にする態度は。いい度胸じゃねーか。
 『まさかお前、本当に機械だって言うんじゃねーだろうな。寒さも痛みも感じねえってぬかすんじゃねーだろな』
 冗談だった。
 さっきから人を無視しつづけるむかつく男を皮肉ったつもりだった。
 ところが。
 『感じない』
 初めて聞いた男の声はひどく平板だった。
 一滴の感情も篭もらぬ乾いた声。
 抑揚なく呟いた男は、その瞬間も表情を崩さなかった。
 端正な顔の中、唇だけがかすかに動く。
 腹話術みたいだなと妙に感心する。
 短い音節を発した唇が再び閉ざされ、冷え冷えとした眼差しが俺の顔におりてくる。
 我知らず言葉を返していた。 
 『そりゃよかったな』
 その瞬間の男の顔をどう形容すればいいか……金銀の双眸が一瞬だけ見開かれ、躊躇いの波紋が生じる。俺の言ったことが本気で解せないといった当惑の様子、不可解な表情。
 男が小首を傾げる。
 その様が妙に子供っぽくて、笑いを堪えるのに苦労する。
 耳を聾する雨音が俺たちを外界から隔絶する。
 人形じみて端正なオッドアイの男と対峙した俺は、不敵な笑みを添えて得意の憎まれ口を叩く。
 『寒さや痛みを感じないってことはお前は人間じゃない、機械だ。お前の気管は鉄パイプ製だ。内蔵はさぞかしメタリックな銀色に輝いてることだろうさ。ネジとゼンマイとポンプがお前の腹ん中に入ってるもんでガソリンがお前の原動力さ。よかったじゃねーか、風邪ひく心配なくて。肺炎にかかる心配なくて。けどさ、いくら機械だからっていつまでも雨ん中に突っ立ってたら間接錆び付いちまうぜ。お前だって道のど真ん中で故障すんのはイヤだろ?いいからこっち来いよ、お人形さん。俺の隣で行儀よくお座りしとけ』
 軽く男を手招く。
 男は胡乱げに目を細めたまま一歩たりとも動こうとしない。
 とことん強情だ。意志のない人形の癖に頑固なヤツだ。
 諦めて手を下ろす。そんなに雨の中のいるのが好きなら放っとけ、好きにさせとけという投げやりな気分で説得をやめる。
 人の話も聞かず雨に濡れる男をほとほと呆れて眺めやり、ぽつりと本音を吐露する。
 『可哀想に』
 男が緩慢な動作で首をおこし顔を上げる。
 たいして大きな呟きじゃなかったのに雨音にかき消されず耳に届いたらしい。正面を向いた男は相変わらずの無表情で、左右色違いの金属の瞳が人を寄せ付けない孤高の光を放っている。

 前髪から鼻の先端から尖った顎先から雫が滴る。
 全身びしょ濡れの悲惨な風体がそう見せたのだろうか。
 同じ無表情であるにもかかわらず、その時その瞬間の男が途方に暮れた子供のように見え、自然に言葉を紡いでいた。 

 『寒さや痛みやすきっ腹を感じないのは羨ましいけど、きっとそれ以外のもんも感じてねーだろ。可哀想だよ、お前』
 生まれてから一度も笑ったことのないような無表情が、ほんの少しだけ動く。
 能面じみた顔を過ぎるのは、驚きとも怒りとも付かぬ激情のさざなみ。
 俺は会ったばかりで名前も知らない男に同情と共感を覚え始めていた。

 こいつは可哀想だ。
 ずぶ濡れのびしょ濡れで全身からぽたぽた雫をたらして、けどそんな事関係なく雨の中に立ち続けて、その事にも何ら目的と意味はなく、「風邪をひくぞ」と声をかけてくれるヤツなんか俺の他にひとりもいなくて。
 自分が可哀想だってことに気付かないのは可哀想だ。
 俺よりずっと可哀想だ。

 こいつも俺と同じどこにも居場所がない人間だと直感した。
 どこにも居場所がないからこうして雨の中に佇むしかないのだと思った。
 『……意味が不明だ』
 不意に男が呟く。初めて聞いた言葉を単調に繰り返し、理解できないといった風情で首を捻る。
 レザーコートの裾から滝のように水が滴る。
 渦巻く濁流に翻弄され足元に空き缶が流れてくる。
 男がおもむろに足を振り上げる。
 レザーコートの端が捲れ、自重をかけて振り下ろされた足がぐしゃりと空き缶を潰す。 
 無残にへこんだ空き缶を見下ろす事もなく、底冷えする殺意を宿した目でこちらを睨み据える男を真っ直ぐ見返す。
 不思議と恐怖はなかった。俺もこいつも根っこは同じだ。
 ささいな言葉に逆上して殺気をぶつけてくること自体感情が死んでない証拠だ。
 『気にすんな。お前きっと誰からも「可哀想」なんて言われたことねーだろ。だから言ってやったまでさ。強いやつが弱くないなんて誰が決めたよ。見たところお前はそこそこいい身なりしてるし強そうだけど、そんなの関係なくちゃんと笑えなかったり泣けなかったりするのは可哀想だ』
 一息に言い、足元に顎をしゃくる。
 俺に促されて足元を見下ろした男が無残にひしゃげた空き缶に眉をひそめる。
 薄っぺらく潰れた空き缶を指先でそっと摘み上げ、これ見よがしに息を吹きかける。
 『すげーぺらぺら。痩せて見えるけど体重重いんだな、お前。サイボーグらしく銃火器搭載してんのか?何トンだよ』
 『…………』  
 『笑えよ』
 男を笑わせようという目論みは見事失敗したようだ。
 薄っぺらく伸ばされた空き缶を腕の側溝に放り捨てる。途端に空き缶は濁流に呑まれて見えなくなる。
 男は俺の言葉を咀嚼反芻するように長いこと沈黙を守っていた。伏目がちに顔に複雑な感情が去来し、心なし悲哀を帯びて見える。
 前髪から鼻から顎先からレザーコートから雫をたらして物思いに耽っていた男が、唐突に顔を上げる。
 男が口を開く。
 『名前は』
 『ロン』 
 あっさりと名乗る。
 ひとに名前を聞く前に自分が名乗れと反発しないでもなかったが、嫌味の通じない相手に噛み付くのも馬鹿らしい。
 『台湾人か』
 『どう見えるんだよ』
 口の端に自嘲の笑みを刻む。喉の奥で卑屈な笑いを泡立てる。
 俺の名前を聞いたヤツは次に必ず台湾人かどうかを聞く、そうやって信頼できる相手がどうかを試す。生憎正直に話して信頼された試しはない、一度もない。当たり前だ。憎い中国人の血が半分流れるガキをだれが仲間と認めるもんか、仲間として迎え入れるもんか。
 深呼吸で腹立ちをしずめ、挑むように男を見据える。
 冷静沈着ぶって取り澄ました無表情が、俺に火を付ける。
 『お袋は台湾人で父親は中国人、すなわち半々。憎い仇同士がつがって生まれた薄汚い混血だ。どうだ、この答えはお気に召したかよ?どいつもこいつも台湾人かどうかしつこく聞きやがって畜生、行方知れずの親父が中国人だから何だってんだ、台湾語しゃべって台湾料理食って台湾系スラムで育った俺が台湾人以外の何かになれるなんら教えてくれよなあ、ここ以外に俺が生きてく場所ありゃ喜んでそっちに乗り換えてやるよ。けれども覚えとけよ。俺の半分が中国人だろうがそこらの野良犬だろうが俺が俺であることにゃかわりねーし俺のプライドはお前らに唾吐かれるほど安くもなけりゃ堕ちてもねーんだよ!!』
 今までの人生が走馬灯のように脳裏を飛び去る。
 近所のガキどもには後ろ指さされお袋には叩かれ足蹴にされ客には殴られた。
 俺は俺の半分に流れる血のせいでどこへ行っても邪魔者だった。
 アパートを追い出されてからも苦難の連続で俺はどこにも居場所がなくてどこにも帰れなくてもうこんな日々には本当うんざりで、

 『一緒にくるか』
 うんざりで。
 『え?』
 耳を疑う。次に目を疑う。
 オッドアイの男が俺の前に手をさしだす。

 『…………』
 ごくりと生唾を呑み、男の顔と手とを見比べる。
 真意の読めない無表情からは何の感情も汲み取れず、さしだされた手が冗談なのか本気なのかすらわからない。
 前髪から雫を滴らせた男が、その端正なおもての中でひときわ印象的な双眸を至極ゆっくりと瞬かせる。
 潮が引くように雑音が消える。
 心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。
 この手をとるべきか否か逡巡する。
 さまざまな考えがめまぐるしく脳裏を駆け巡る。

 信用していいのか?
 信用できるのか?
 名前も知らない初対面の男についていっていいのか?

 食い入るように手のひらを見詰める。
 雨にぬれた手のひらには暴力の痕跡が刻まれていた。
 中指の第二間接が白っぽく見えるのは疵が浮いてるからで、親指の付け根の肉は深く抉り取られていて、その他にも至る所に醜悪な傷痕がちらばっていた。
 
 どうする?

 わからない。どうするのがいちばんいいかわからない。
 誰も教えてくれるやつがいないなら自分で決めるしかない。
 そしてとうとう決断を下す。
 俺は疲れていた。疲れ切っていた。
 数ヶ月に渡る過酷な路上生活で心身ともに疲労困憊して、雨にぬれた体は芯まで冷え切って、とにかく誰かに縋りたくて縋りたくてしょうがなかった。
 雨にぬれない寝床が欲しい。
 腹一杯食いたい。
 それさえ叶えてくれるなら、目の前の男が誰だろうが構うもんか。

 深呼吸で決断を下し、男の方へと慎重に手を伸ばす。

 最初に指がふれる。
 ためらう。
 ふれた指先から伝わる体温の低さに怖気づく。

 逡巡しつつ男の顔色を窺う。
 男は動じない。
 俺がどうするか見極めようと金と銀の瞳を冷徹に光らせている。  
 金と銀の光沢の目に俺が映る。
 中腰の姿勢で硬直し、男に手を伸ばした間抜けな格好のまま後に引けずにいる情けないガキが。 
 『ーっ、』
 男の目から視線を引き剥がし、今度はしっかりとその手を握る。
 冷たく骨ばった手が痛みを感じるほど強く握り返してくる。
 とんでもない力だ。思わず上げかけた悲鳴をぐっと堪える。
 どうにか踏み止まった俺の正面、能面じみた無表情を保った男が静かに宣言する。
 『俺は假面。お前を月天心に歓迎する』
 月天心。
 その名に計り知れない衝撃を受ける。
 月天心といえば池袋では知らぬ者ない押しも押されぬ武闘派の愚連隊。
 その頂点に君臨する路上のカリスマこそ、「假面」の異称で恐れられる卓越した戦闘力の持ち主……  

 確か、名前は。

 『たおりゃん?』
 たどたどしく名前を呼ぶ。
 恐怖だか緊張だかでみっともなく声が震える。
 まさか目の前のこいつが、さっきまで普通にしゃべってたこいつがあの有名な道了だなんて予想だにしない展開に頭が追いつかず混乱し眩暈を覚える。
 道了の手を握ったまま動転する俺は、いつのまにか雨音が遠のき、急速に空が晴れ始めたのにも気付かなかった。
 最後の一滴が路面で弾ける。
 どす黒くぬれたアスファルトの上で、全身びしょ濡れの俺と道了は互いの手を取り合い対峙する。
 灰色の雲間から眩い陽光が射し、燦燦と地上を照らす。
 雲間から射した一条の陽光が道了の顔を横切る。   
 光の見せた錯覚だろうか。
 能面じみた表情がその一瞬だけ和らぎ、双眸が凪ぐ。
 その一瞬かすかに笑みに似たものを浮かべ、道了はどこか切実な声音で言った。 
 『我想了解弥、更多一点』
 俺のことをもっと知りたいと、そう言った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050403220609 | 編集
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