ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
十八話

 控えめに扉をノックする。
 固唾を呑んで応答を待つ。
 混雑した廊下に立ち竦む僕に通行人が邪険に舌打ち、わざと肩や肘をぶつけてくる。
 「ぼうっと突っ立ってんなよ暇人」
 「牛にひかれるぞ」
 「モー辛抱たまんねえってな」
 甚だ不可解で不条理な罵声を浴びせ通りすがりざまに肘打ちをくれる低脳どもを無表情にやり過ごし、殺風景なドアを見詰めること無為な数秒が過ぎる。
 「入っていいよ」
 反応があった。少しは緊張が解れるかと思ったが、聡明に落ち着き払ったその声がもたらしたのはまた別種の緊張感だった。
 若干警戒しつつ、指紋が付着したノブを握ってドアを開けようとして思いとどまる。
 不潔だ。
 眼鏡越しの目を細め、眉間に皺を刻む。
 手垢に塗れたノブを微動せず見下ろし眉間の皺で不快感を表明、ノブに触れようとした指をさっと引く。
 危ないところだった。こんな不潔なものに触れて菌に感染したら堪ったものじゃない。
 上着の裾で丁寧にノブを拭い、綺麗に指紋を拭き取る。
 銀の光沢を取り戻したノブを見下ろし首肯する。
 これでよし。完璧だ。改めてノブに手を置く。握る。
 寸刻の躊躇、逡巡。
 振り切るようにノブを掴み、回す。
 滑らかに扉が開く。
 眩しいほど白い空間が眼前に広がる。
 天井も壁も床も白一色で統一された空間に等間隔にベッドが配置され衝立で区切られている。
 入り口に立ち室内を見渡す。
 これといって変わったところはない。
 異状なしと確認後、それでも警戒は怠らず慎重に中へと進む。
 左右の壁際に並んだベッドはすべて埋まってる。
 ベッドの上でうんうん唸っているのは手足に包帯を巻いた重傷患者だが、呻く元気があるならまだマシなほうで、中には点滴の管を繋がれてぐったり臥せってる病人もいる。
 毎度見慣れた医務室の光景だ。
 ひとたび急患が運び込まれれば医師と看護師不足が恒常化した野戦病院じみた様相を呈するも、現状は落ち着いているようだ。
 「やあ。こんばんわ」
 呑気な挨拶に向き直る。
 キャスター付きの椅子に腰掛けた若い男に視線を定める。
 染み一つない清潔な白衣を纏った軽薄な風貌の優男だ。
 何分の一か西洋の血が流れているらしく目の色素が薄く光彩が茶色い。柔らかな癖がついた鳶色の髪を額の真ん中で分けて耳の後ろに流した髪形が年甲斐もなく似合う。見ようにようってはとうの立った学生にも見えるが、成熟した物腰と言動は最低でも三十歳をこえていると窺わせる。
 キャスター付きの椅子に腰掛けてカルテに何やら書き込んでいた男が、友好的な笑顔で僕に声をかける。
 「貴様の話は聞いた。老医師の代理として新たに赴任した医者だな」
 彼の事は既に噂になっている。
 この一週間というもの医務室には彼見たさの野次馬が大勢詰め掛けていたのだ。
 僕が訪れたのは一週間を経て騒ぎが下火になった頃だ。
 野次馬の妨害に遭ってはたまらないとわざわざ人がいない時間帯、彼とゆっくり話せる時間帯を選んで訪ねてきたのだ。
 「安田の調子はどうだ」
 開口一番、もっとも気になっていたことを切り出す。
 安田の様態はずっと気にかかっていた。
 この一週間、一度も安田と会っていない。
 実際それどころじゃなかったのだ。
 一週間前の道了対レイジの戦闘からこちら、東棟はおろか東京プリズン全体を異様な興奮が包み、誰も彼もが東棟のトップを巡る争いに非常な関心をもち、どの勢力に属すればいちばん得をするかを念頭に駆け引きを演じてきた。
 凱は倒れた。
 レイジは引き分けだった。
 道了の絶対的強さは暴威となりて東棟を席巻した。
 凱はともかく、あのレイジすら道了に勝てなかった。
 僕は先のペア戦でレイジの強さを痛感したが、幼少の頃より過酷な戦闘訓練を積み上げて非常識な強さを獲得したレイジすら道了に地を舐めさせることはできなかった。
 東京プリズン最強の囚人、無敵無敗のブラックワーク覇者の呼び声高いレイジと互角に渡り合えただけでも道了の実力は脅威に値する。
 仮にレイジが拘禁疲れのハンデを背負っていたとしても道了の戦闘力がずばぬけているのは否定し難い事実だ。
 この一週間というもの、サムライは特に身辺に敏感になっていた。
 それもすべて僕を守るためだ。
 これまで凱が台頭していた東棟に革命をもたらした道了は、本来憎み合う立場の中国人すらその圧倒的な強さとカリスマ性で魅了し、凱傘下の囚人の殆どを味方につけてしまった。
 凱の腹心と名高い残虐兄弟すらあっさりと道了に乗り換えた。いまや道了はレイジに匹敵する東棟の有名人、路上から成り上がった鉄面皮のカリスマとして一部の囚人たちに熱烈に崇拝されている。
 はやばやと道了に乗り換えた囚人と凱派の囚人が睨み合う日々が続き、あちらこちらで小競り合いが勃発し、一週間で多くの血が流れた。
 暴力の悪循環。
 いかに暴力が娯楽化した東京プリズンとはいえ戒厳令が出た戦時下ではなし、廊下を歩くたび乱闘がおきて死傷者がでるこの状態は異常だ。
 騒ぎが一段落した今日、漸くこうして医務室を訪ねることができた。
 誓って安田の事を忘れていたわけじゃない。
 最低一週間待たなければ医務室に辿り着くことができないほど東棟の状勢は緊張してるのだ。

 道中同伴しようと言い出したサムライは、渡り廊下の前で睨みを利かせている。
 医務室まで一緒についてこなかったのは僕がかたくなに断ったからだ。
 『何故俺がいてはいけない?』
 仏頂面で腕を組むサムライに指を突きつけ、僕ははっきりと言ってやる。
 『いいか?僕はこれから個人的な話し合いにいくんだ。新任医師には個人的に聞きたいことがいくつかある。第三者がいると話に集中できない』
 『第三者とは誰だ』
 まったく心当たりがないといった様子でサムライが眉根を寄せる。
 なんて察しの悪い男だと内心呆れつつ、丁寧に説明してやる。
 『君だ。貴様だ。僕の眼前に突っ立ってる赤の他人だ。いや、待て、何も言うな。君が言いたいことはわかっている。確かに君は僕の友人だ、常に僕の身を心配しどこへ行く時もついてまわる過干渉気味の鬱陶しい男だ。しかしそろそろ空気を読め。謙譲は武士の美徳だ』
 『単刀直入にいえ』
 何か言いたげなサムライを手を翳しおしとどめれば、本人が不機嫌もあらわに促し、僕は深呼吸で意を決する。
 ならば望みどおり一刀両断してやろうじゃないか。
 低脳にもわかるよう話を噛み砕くのに徒労感が募り、眼鏡のブリッジを押し上げるふりで顔を伏せる。
 『三角関係はごめんだ。面倒くさい』
 やや乱暴に、きっぱりと話を纏める。
 前出の発言に他意はない。サムライが何故かやたらと安田を意識し敵視してるのには気付いていた。
 サムライがいると纏まる話も纏まらなくなると危惧し、予防線を張る。
 拒絶されたサムライはショックを受け押し黙るも、このままではいけないと焦って口を開く。
 反駁を紡ごうとしたサムライに先んじて、付け入る暇を与えず続ける。
 『君が僕を心配してることはわかる。痛い程わかる。だが迷惑だ。これ以上はプライバシーの侵害だ』
 『横文字はわからん』
 『たまには僕の意志を尊重しろ。君はここで帰りを待て。君は話し合いの邪魔だ、君が視界に入ると話を円滑に進められない、僕は君から目がはなせない。この場は自重しろ』
 高圧的に申し渡せば、僕の強硬な態度に何か言いたげに押し黙ったサムライが熟慮の末に諦念のため息を吐く。 
 『……わかった。ここで待っている』
 遂にサムライが折れた。
 渋々首肯したサムライを渡り廊下の入り口に残し、僕は単身医務室に向かった。角を曲がるまで背中にずっとサムライの視線を感じていた。サムライが僕を心配してるのは十分わかる、痛いほどわかる……が、迷惑だ。
 たまには自分の信念ではなく僕の意志を尊重しろ。
  
 「安田くんの様態を聞きに来たのかい」
 「!」
 深い知性を感じさせる穏和な声が回想を遮る。
 反射的に顔を上げる。名も知らぬ若い医師が微笑してこちらを眺めている。どことなく食えない笑み。三十路そこそこの若さの癖に人の深層心理を知り尽くしたとでもいいたげな透明な眼差しに反発を覚える。
 「座りなよ。今ちょうど診療待ちの患者もいないし」
 砕けた口調で促され手前の椅子に座ろうかどうか迷うも、立ったまま話を続けるのも何だと思いなおして素直に座る。
 天井の蛍光灯が無菌に漂白された光を投じる中、椅子に腰掛けて医師と向かい合う。
 「できればコーヒーでもご馳走したいんだけど、生憎コーヒーメーカーを持ち込んでなくてさ。君はブラック派?それとも砂糖をいれる?」
 「味覚の詮索はよせ。僕の嗜好はどうでもいい。聞きたいのは安田の様態だ」
 何故こいつはこんなにもリラックスしてるんだ、ここをどこだと思っているんだ?次々と疑問が浮かび、憤懣やるかたなく医師を睨み付ける。目の前の医師は年齢にそぐわぬ落ち着きようで椅子に深く身を沈めている。悪名高い砂漠の監獄にとばされてきたのだから余程の変わり者だろうと邪推していたが、どうやらその通りのようだ。
 不審感に凝り固まった気持ちをほぐそうとでもいうように、努めて物柔らかに医師が語りかけてくる。
 「君と安田くんはどういう関係?」
 「ただの副所長と囚人だ。それ以上でも以下でもない」
 「ただの囚人が副所長の様態をたずねにわざわざここへ?強制労働終了後の疲れた体をひきずって?へえ」
 医師がさも意外げに目を見張る。
 道化を演じて不安を取り除こうという人心掌握術の常套だが、馬鹿にされているようで腹が立つ。
 いや、実際馬鹿にしているのかもしれない。
 ……不条理だ。なぜIQ180の天才たる僕が鳶色の若作りに馬鹿にされねばならない?理解に苦しむ。身の程を知れ凡人が。
 屈辱を堪えて俯く僕の耳に、優しく凪いだ声が届く。
 「思った通り優しい子だ。手紙を読んで想像していた通りだ」
 「?」
 何?
 怪訝な表情で向かいの医師を見る。機を得たりと医師が相好を崩す。
 本当に嬉しそうな顔……患者の回復を喜ぶ医者よりむしろ子供の成長を喜ぶ父親に近い。
 医師が前のめりに身を乗り出し僕に顔を近付ける。
 「安心して。安田くんは無事だ。今はもう心身ともに健康をとりもどし職務に復帰した。一週間前のアレは極度のストレスと疲労からくる症状で、きちんと睡眠と栄養をとって療養すれば問題はない。……やれやれ。自己管理をおろそかにする癖は治ってないね、彼も」
 医師が苦笑する。安心感とぬくもりを与える笑み。昔を懐かしむようにその目が遠くなる。
 「安田と以前にも面識が?」
 「大学の同期で古い友人さ。あっちはそうは思ってないけどね」
 椅子を軋ませ上体を起こし、医師が髪をかく。
 整髪料の匂いがかすかに鼻腔を衝く。
 「本当に大丈夫なのか、体に異常はないか?彼は事件が起こる直前まで、その……」
 曖昧に言葉を濁す。医師が疑問の目を向ける。
 もどかしく唇を噛む。
 新任の医師がどこまで東京プリズンの内情を把握してるか量りがたい。所長の横暴と非道な行為の数々を暴露していいものか、かえって混乱するだけではないか?
 まさか事件の直前まで所長に拘禁されていたとは言えず黙秘すれば、医師が自信ありげに保証する。
 「これからは大丈夫だ」
 医師の目を見詰める。
 少し引いて顔を見る。
 真摯な眼差し、真剣な顔。
 何も知らず適当なことを言ってるようには見えない誠実な態度。
 薄く茶色がかった瞳に決意の光を宿し、身を乗り出しがちにかき口説く。
 「これからは僕がいる。大丈夫だ。自己管理のできない安田くんに代わって僕が体調を管理する。決して無理はさせない。信じてほしい」 
 「初対面の人間を簡単に信じられるわけがない」
 「確かに初対面だ。しかし僕は君のことをよく知ってる」
 「?さっきから何を言ってるんだ。IQ180の天才にして円周率五千桁の驚異的な記憶力を誇る僕は一度会った人間の顔を絶対に忘れない、にもかかわらず貴様の顔が記憶にないということは正真正銘赤の他人の鳶色の若作り……」
 「鍵屋崎 スグルくん」
 久しぶりに本名を呼ばれた。僕自身すら忘れかけていた名前を。
 背筋に電流が走る。
 言葉を喪失し医師の目を見返す。
 人の心の奥底まで覗き込む深い目。
 すべてを受け入れる眼差し。
 鳶色の医師が白衣の懐をまさぐりはじめる。
 耳障りな衣擦れの音に紙の鳴る音が重なる。
 白衣の懐から何か白い物が覗く。手元に注目する。
 手紙だ。手紙の束だ。
 神経質な右上がりの筆跡に目が釘づけになる。
 まさかそんな、何故彼がこれをもっている?
 僕が宛てた手紙をもっている?
 脳裏で疑問符が膨らむ。
 輪郭を結ぶ予感に心臓の鼓動が高鳴る。
 瞬きを忘れる。眼球が乾く。
 それでも医師の掌中の手紙から目をそらせない……放せない。
 半ば椅子から腰を浮かしかけた不自然な姿勢で硬直した僕を見上げ、医師は言った。
 「実際に会うのは初めてだね。僕の名前は斉藤……本名は斉藤文貴。ここにくるまえは仙台十文字大学病院の小児精神科病棟にいた精神科医さ。君の妹の鍵屋崎恵さんを担当していた」

 恵。
 僕の妹。
 久しぶりに名前を聞いた。

 『おにいちゃん』
 舌たらずな呼び声が耳によみがえる。
 瞼の裏をあどけない笑みが占める。
 みつあみを揺らして振り返る少女……はにかむような微笑み。
 瞼裏に浮かぶ最愛の妹の面影が激情を呼び起こす。別離の歳月を経て薄まるどころかくっきりと輪郭を際立たせ鮮明さを増す恵の姿が、その笑顔が失われて久しい今だからこそ救い難い悲哀を帯びて胸に迫る。
 恵を忘れたことはただの一度もない。
 恵は僕のすべてだ。大事な家族、生きる拠り所、希望の象徴だ。僕の希望そのものだ。僕の生きる意味そのものだ。僕は恵がいたからこれまで生きてこれたしこれからも生きていける、恵は今も今でも僕の生きる意義そのものだ。
 斉藤の声が遠く聞こえる。
 「君とは何通も手紙のやりとりをして互いの近況を報告しあった。僕は恵さんの経過を詳細に書き送り、君もまた監獄の日常と恵さんを想う胸の内を手紙に綴った。ずっと君に会いたかった。新聞の写真ではなく実際にこうして会って目を見て話したかった。本当の君が知りたかった」
 勝手に口が動く。声が遅れて聞こえる。
 現実感が希薄になる。
 前後の見境を喪失し、自分がいる場所がどこかもわからなくなる。
 混乱の渦中の耳に懐かしい呼び声が響く。
 『おにいちゃん』 
 『おにいちゃん』
 『人殺し』
 『お父さんとお母さんを返して』
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 心の奥底に抑圧し封印した感情と記憶が堰を切って逆流する。
 激情の濁流が理性を押し流す。
 「君に会えて良かった。君に会うために僕はここにやってきた。その甲斐はあった、十分に」
 斉藤が微笑む。目尻が垂れて柔和な印象になる。
 本心から喜ばしげに僕との出会いを言祝ぐ斉藤、無造作に手を伸ばしその胸ぐらを掴む。
 「本当に斉藤か?あの斉藤か?僕に手紙を送り付けた恵の担当医師の斉藤か?」
 白衣に縋り付いて疑い深く念を押せば、斉藤が冗談めかして首を傾げる。
 「そうだとも、僕が斉藤本人さ。筆跡鑑定でもしてみるかい」
 「斉藤は女性じゃないのか!?」
 甲高く声が尖る。正面から非難を浴びた斉藤が痛そうに耳を押さえる。
 「手紙で性別を明かした覚えはない。要らぬ誤解を与えてしまったなら謝るよ」
 殊勝らしく頭を下げた斉藤になお掴みかかり我を忘れて吠える。
 瞬時に理性が蒸発する。衝動に歯止めが利かない。
 今目の前にいるのは斉藤、あの斉藤なのだ。
 最愛の妹恵の近況を知る唯一の人物恵の近況を知る手がかり証人恵の恵の……

 恵。
 恵がどうしているか知りたい。

 「恵はどうしている、元気でいるのか、病気はしてないか?それにそうだ、みつあみはひとりで結えているのか?みつあみを結ぶのはあれで結構難しいんだ、恵はいつもみつあみが上手く結えず泣いていた、今の恵にそばでみつあみを編んでくれる人物はいるのか?いや待てみつあみのことより恵だ、恵は今どうしている、事件の後遺症は……PTSDは完治したのか?貴様担当医師のくせに何故ここにいる職務と恵を放棄してこんな僻地にやってきた、恵をひとり残して砂漠のど真ん中のリンチとレイプと性病が横行する劣悪な監獄に自ら望んで来たとそう言ったのか、恵の治療を放棄してこんな最悪の地獄の監獄に!?」
 突然の事態に動転し惑乱する。
 手加減を忘れ白衣に掴みかかり容赦なく罵詈雑言を浴びせるも、恵の元担当医師を名乗る斉藤は掴み所なく飄々と僕の追及をかわして笑っている。
 「心配しなくても恵ちゃんは着実に改善にむかってる。精神状態もだいぶ落ち着いてきた。この頃では看護婦とも打ち解けておしゃべりするようになってきたし……ああそうだ、恵ちゃんの髪は看護婦の安西さんが結ってくれてるよ。安西さんには六歳になる娘さんがいてね、毎朝娘さんの髪を編んでいるからみつあみはお手の物で恵ちゃんも大層喜んで……」
 「人の話はどうでもいいが天才の話は聞け斉藤、恵は無事なのか、僕の大事な妹に手を出してはないだろうな!?万が一恵に劣情を抱いて不埒なまねをしたらいかに担当医師といえど容赦せず天才の尊厳にかけて社会的に抹殺してやる、あらゆる手段を使って戸籍を抹消してやる、恵の視界はもとより人類の生存を許さない大気圏外に永久追放してやる!!」     
 「本当に恵ちゃんが好きなんだ」
 「当たり前だ、恵はぼくのすべてだ!」
 漸く恵の近況を知る人物に巡り会えた、手がかりを掴めた。
 知らず手に力がこもり縋るように白衣を締め上げる。
 斉藤がふいに真顔になる。
 顔の表層に漂っていた軽薄な笑みがかき消え、推し量るように細めた双眸に思慮深い光が宿る。
 「よく聞いて直くん」
 周囲のカーテンが連鎖的に開け放たれ、激しく言い争う声を聞いた患者たちが好奇心旺盛に身を乗り出す。  
 「なんだなんだ、痴話げんかか」
 「東棟の親殺しが安田を巡って鳶色の若作りと三角関係で直談判?」
 「おもしれえ、寝てばっかですることなくて退屈してたんだ」
 「消毒液で目潰しか注射器刺すか包帯で絞め殺すか……どんな離れ技がとびだすか見ものだぜ」
 医務室がにわかにざわつきはじめる。
 ベッドに膝立ちになった患者が見守る中、斉藤と対峙した僕は期待と相半ばする不安に胸高鳴らせていた。
 恵。
 僕の恵。最愛の妹。
 恵の近況を知るただひとりの人物が僕の前にいる。
 目の前にいる。
 渇望が身を苛む。
 恵がどうしているか知りたい、元気でいるか知りたい、健やかであるか知りたい。酷い目に遭ってないか寂しい思いをしてないか悪夢にうなされてはないか知りたいという願望が膨れ上がり葛藤の域に達し焦燥に塗れ自分の意志で制御できなくなる。
 「恵はどうしているんだ」

 恵。
 『おにいちゃんがいたせいで愛してもらえなかった』  
 恵。
 『お兄ちゃんがお父さんとお母さんを独占していたから私は愛情をもらえなかった』
 違うんだ恵、そうじゃない、誤解だ。
 激しくかぶりを振り心の中で反駁し否定する、僕は鍵屋崎の夫妻と血の繋がりのない養子にすぎず恵は実子で、だがしかし僕が鍵屋崎夫妻に関心を持たれていたのが恵には不当な差別に映りそして

 そしてあの日

 耳の奥でざあざあと水が流れる。
 激しい雨の音。
 幻の雨音が鮮明に記憶を呼び起こす。
 雨音が記憶を洗い出す。
 恵がいる。窓辺に佇んでいる。
 床一面の血だまりに中年の男女がふたり倒れている。
 机の引き出しの中身がぶちまけられてあたり一面に散らかっている。僕はそこにいた、書斎にいた、事件現場となった書斎にいた。恵のすぐそばにいた。
 雨滴が伝う窓に自失した横顔を映し、恵が呟く。
 『おにいちゃんが殺したんだ』
 違う恵、そうじゃない。
 『おにいちゃんがお母さんとお父さんを殺したんだ。恵からふたりを奪ったんだ』
 違う違うと心の中で虚しく叫び何度も何度でも否定する、
 しかし恵には届かないもとより聞き届けない恵は頑なに自閉して決して僕を受け入れずそして
 恵が緩やかに振り返る。頬に散った返り血があどけない顔を禍々しく際立たす。窓ガラスを幾筋も雨が伝う。
 血の海に佇んだ恵が虚ろに僕を見据える。
 ふっくらした唇が残酷な言葉を紡ぐ。
 『あんたが死ねばいいのに』 

 「貴様はここにいるべきじゃない恵のそばにいるべきだ恵を保護すべき人間だ、患者を守るのが医師の義務で使命だそうだろう異論はあるかないだろうならば戻れ、今すぐ砂漠を引き返し飛行機に乗り仙台に帰れ大至急だ、交通費はあとで全額所長に請求すればいい問題はない、恵の担当医師なら最後までちゃんと責任を果たし役目をまっとうしろ、可哀想な恵を見捨てるなんてそんな真似僕が許さな……」
 「鍵屋崎 直」
 大人の手が肩を掴む。痛みを感じる。
 斉藤が僕の肩を掴み、中腰の姿勢で視線の高さを合わせる。
 手のひらから熱い体温が伝わる。 
 「落ち着いて直くん。僕は君に話したいことが沢山ある。恵ちゃんのことも勿論だが、それよりも知りたいのは……君が隠してる真実だ」
 心臓が跳ね上がる。息が止まる。
 驚愕に目を剥き斉藤を見る。

 斉藤医師はさっきとは別人のように厳しい表情で僕を見詰めている。
 射抜くような目。視線。
 患部を容赦なく抉り出す冷徹な輝きと真実の鋭さを帯びた、ブラックジャックのメスのようなー……

 「本来精神科医たる僕は自ら希望をだして砂漠のど真ん中の不便きわまる場所に赴いたのは恵ちゃんの治療のために、何より君の未来のために事件の真相が知りたかったからだ。君の名前は鍵屋崎直。遺伝子工学の世界的権威鍵屋崎夫妻の長男として生まれ英才教育を施された天才児、IQ180の優れた頭脳の持ち主。五歳下の妹を溺愛する兄。そして十五年ものあいだ自分を養育した両親を殺害した罪で服役中の犯罪者」
 「その通り、僕はIQ180の天才で恵を溺愛する兄で汚らしい親殺し……」
 「プラシーボ効果だ」
 「は?」
 唐突に何を言い出す?
 怪訝な顔で続きを促す。
 斉藤が僕の手を掴み指をこじ開け優しく白衣から引き剥がす。
 斉藤の顔に複雑な感情が過ぎる。
 哀れむような憂うような、沈痛な色。
 「プラシーボ効果を知ってるかい」
 いきなり話題を振られて鼻白むも、質問に沈黙を返すのは天才のプライドが許さないと気を取り直し淀みなく答える。
 眼鏡のブリッジを押し上げ、反抗的な視線を突き刺す。
 「プラシーボの語源はラテン語の「I shallplease」、「私は喜ばせる」に由来している。そこから転じ患者を喜ばせることを目的とした薬理作用のない薬のことを指すようになった。医学の世界では通常乳糖や澱粉、生理食塩水が使われる。従ってプラシーボ効果はこのような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことを言う。たとえば痛みによく効くとさしだされた乳糖を飲んで痛みがなくなることがある。この場合プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果が起こる原因には暗示効果、条件付け、自然治癒力などが挙げられ……」
 「記憶の改竄とプラシーボ効果は似ている。自己暗示の重複により実際にはなかったことをあったと思い込むんだ、心的外傷の回復の為に」
 語尾が不自然に途切れる。重苦しい沈黙が被さる。
 自身の心臓の鼓動ばかりが激しく響き渡る。 
 斉藤医師が僕の肩を手で包む。男にしては細い指が、華奢な造りにふさわしくない力強さで僕の肩を抱く。

 現実の鼓動に幻聴の雨音が重なる。
 記憶の洪水が理性を押し流す。
 記憶が現実を侵食し明と暗が反転する。
 視軸が歪曲し、眩暈に酔う。

 「プラシーボ効果は悪い意味にも用いらる。一般にはあまり知られてないがプラシーボ効果には良いこと悪いことの両面がある。嘘を本当と思いこむことにより回復する場合もあれば悪化する場合もある。君たちの場合は後者だ。そして僕は精神科医だ。患者に暗示をかけ、また暗示を解くのが仕事だ」
 斉藤が率直に目を覗き込んでくる。
 奥底まで見透かすような眼差しに心が不穏にざわめき、思い出したくもない記憶が封印を破ろうと脳の奥で胎動する。
 違うあんなことはなかったんだ『おにいちゃん』現実じゃない『おにいちゃん』現実であるものか『おにいちゃん』絶対に認めない『おにいちゃん』認めたら僕自身が崩壊する僕と恵の関係が崩壊する恵の自我が崩壊してしまう、それだけは何としても防がなければ、僕がもてるすべてを犠牲しても恵を守らねば……
 斉藤がぐっと肩を握る。
 決意の固さを表明するように、決して諦めないと宣言するように僕の肩を握りしめ、斉藤は言った。
 「君の暗示を解きにきたよ」
 僕と斉藤の互いのもてるすべてを賭けた戦いが始まった。
 守るべきものととものために。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050405030002 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天