ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集
二十話

 「かはっ!」
 胸ぐら掴んで投げ飛ばされて壁に激突、背骨がへし折れるような衝撃が襲う。壁に背中を凭せてずり落ち、腹を抱えて咳き込む俺の前にはおっかない顔の看守が五人いる。五人の看守に順番にガンつけて咳がおさまるのをじっと待つ、腹筋の激痛にただひたすら耐える。
 体を二つに折って咳き込んでるうちに生理的な涙が目に滲んで視界が白濁。口の端から垂れた涎を拭い、呼吸を整えるのに集中する。
 
 レイジ。

 看守に羽交い絞めにされたレイジの顔を思い出す。
 東京プリズン最強の男が、ペア戦を制した無敵の王様がタジマの兄を名乗る新所長には手も足もでなかった。屈強な看守に数人がかりで取り押さえられて、胸から取り上げられた十字架が犬の餌食になるさまを愕然と見守るしかなかった。
 犬の涎でべちゃべちゃになった十字架。
 獣くさい息を吐かれて小便ひっかけられて貶められた十字架。
 レイジがガキの頃お袋から貰った大事な宝物、レイジが肌身離さず身に付けてことあるごとにキスしてたお守りが汚れてくさまを俺はただ見てるしかなかった。始まりから終わりまでの一部始終を看守にとっつかまってただ見てるしかなかったのだ。
 所長の足で蹴り転がされた十字架には無数の傷が付いていた。
 壊れた人形みたく首を項垂れたレイジの横を所長が通りすぎた時、俺の中で何かがぶちぎれた。
 『あのバカ犬殺してやる、舌引っこ抜いて金玉毟りとって食わしてやる!!よくもレイジの十字架を、お袋から貰った大事な宝物を……タジマの兄貴のくそったれ、ぜってえ許さねえ、ぶち殺してやる!!』
 看守の脛を思いきり蹴り上げて魂切る悲鳴をあげさせて、バカ犬連れて遠ざかる所長の背中に罵詈雑言浴びせた。スラングの語彙を総ざらいして口汚い呪詛を吐いて所長を振り向かせようと試みたが、既に所長は俺の絶叫さえ届かない距離に遠ざかっていて歩みを止めることさえかなわなかった。
 犬の涎にしとどに濡れて、砂利にまみれて地面に転がった十字架を目にした瞬間に頭の血管が二三本音たててぶち切れて理性が一片残らず蒸発した。
 犬をけしかけて十字架噛ませた所長も、俺とレイジを後ろ手に締め上げた看守も、レイジの十字架が犬の餌食になるさまをぼけっと見てた囚人も全員を殴り飛ばしたかった。
 十字架が踏みにじられるさまを、指くわえて放置してた奴ら全員を殴り飛ばしたかった。
 俺はレイジがどんなに十字架を大事にしてたか知ってる。
 無意識の癖で十字架握りしめて安息を得てたか知ってる。
 お袋から貰った唯一つの宝物、目に見える形で残されたマリアとの絆。
 それが文字通り土足で踏みにじられた。
 我慢できなかった。
 俺はまた何もできなかった、レイジの十字架が犬に食われて所長に踏みにじられるさまを見過ごした?手を伸ばせば届く距離に十字架があったのに掬い上げることもできなくて、十字架が汚れてくさまを、レイジの心が壊れてくさまをすぐそばで見ていながら、唾飛ばして叫ぶ以外には何ひとつできなかった。
 憤激に駆られた俺に手こずった看守が応援を請うて、数人がかりで俺を拉致ったとこまで覚えてる。中庭を離れる間際に見たのは地面に片膝付いてのろのろ玉をかき集めるレイジの背中だった。
 俺の声はレイジに届かなかった。名前を呼んでも届かなかった、顔すら上げなかった。レイジが俺の声にも反応しないなんて前代未聞だ。前髪の隙間から覗いた虚ろな目は、地面に散らばった無数の玉しか映してなかった。悪魔に魂を売り渡したように虚ろな動作に、一気にレイジが遠ざかったような不安に襲われた。
 首振りで回想を断ち切り、あたりを見まわして今現在自分がおかれた状況を再確認。
 ここは、どこかの通路らしい。薄暗くじめじめとした陰気な場所だ。
 こういう場所ではリンチやレイプが行われるお約束だ。
 「さっきはよくも、囚人の分際で看守に恥かかせてくれたな」
 正面の看守がドスの利いた声で凄み、合点がいく。察するに、新所長の前で恥かかされた腹いせに俺にヤキ入れるつもりらしい。
 尻に嫌な感触。床に溜まった汚水が、じわじわとズボンの尻に染み込んでるのだ。蝿の死骸が浮いた水溜まりにへたりこんだ俺の鼓膜を野太い声がどやしつける。
 「今日だきゃあ俺たちもボロでねえよう大人しくしてようって決めてたのに、お前らのせいでケナゲな努力がパアだぜ。お前ら囚人がどこでカマ掘り合おうが興味ねえが、俺たちに迷惑かかるとなりゃ話は別だ。囚人のしつけなってねえって新所長殿にお叱り受けるのは現場の俺たちなんだよ」
 顔に吐息がかかる。看守の手が上着の胸ぐらを掴んで軽々と引き上げる。
 首が絞まる苦痛に顔を顰め、宙吊りの体勢で通路の出入り口を振り仰ぐ。
 この通路は引っ込んだところにあって、奥でリンチが行われてても気付かれにくい。最悪俺が殺されたところで三日が経過して腐敗臭が漂い出すまで誰も気付かない。
 俺は自暴自棄になっていた。どうせ看守五人が相手じゃ勝ち目はない、煮るなり焼くなり好きにしろと腹を括る。
 「知るかよ。汚い手えはなせゲス野郎」
 反抗的な目つきで睨み返せば看守の顔が不快げに歪む。くる。奥歯を食い縛り衝撃に備える暇もなく横っ面を張り飛ばされ、目の奥で火花が爆ぜた。口の中が切れてぬるりとした。足元に唾を吐けば血が溶けて薄赤く滲んでいた。
 「懲りねえ奴だな。相棒があんだけ虐められても口のきき方直らねえか」
 看守があきれたふうに言い一転ゲスな笑顔に変じる。
 胸ぐらを掴む手に握力を込め、俺を背中から壁に叩き付ける。
 「俺たちのモン一本ずつしゃぶらせて口のきき方矯正してやろうか?」
 狭苦しい通路で哄笑が弾ける。看守が腹を抱えて笑ってる。
 くそ、東京プリズンの看守はろくな奴がいねえ。
 手の甲で顎を拭いながら俺は五十嵐を思った。とぼとぼ足ひきずって歩いてたとこに声かけて麻雀牌を恵んでくれた五十嵐、東京プリズンでいちばん親切な看守。俺は今さらながら、五十嵐がいなくなることを哀しんでる自分に気付いた。五十嵐が辞めれば東京プリズンにゃマトモな看守が一人もいなくなるのだ、お先真っ暗で気分も滅入るってもんだ。 
 「耳の垢かっぽじってよく聞けよ」
 哄笑が止む。額で鈍い音が鳴る。看守が俺の額に額をぶつけたのだ。
 「俺たちゃ他の刑務所でおいたが過ぎてここに流されてきた言うなりゃ左遷された身の上だ。もうここより他に行くとこねんだよ、せいぜい上の顔色窺ってご機嫌損ねえようにしなきゃな」
 「上にへこへこしたストレスは下にぶつけて発散する、それが処世術ってもんさ」
 「新所長殿はご立派なエリートさまさまで俺たち低学歴の看守なんか鼻にもかけねえ、同じ人間だって思ってねえんだよ。くそむかつくぜ。政府から直々に派遣されたとか大上段の演説ぶちかましたけど、要は体のいい左遷だろ。じゃなきゃこんな砂漠くんだりに飛ばされてくるはずねえ」
 「くそっ、このさき締め付け厳しくなると考えると鬱だぜ。聞いたかよ?新所長殿、マジで綱紀粛正の目標掲げてるらしいぜ。看守の勤務態度改めて軍隊並に矯正するんだと。そのうち中庭で行進させられるんじゃねえか?どうせならこの趣味わりィ看守服のデザイン変えてほしいぜ、ナチスの軍服みたいによ!」
 「東京プリズンが炭焼き死体積み上げた強制収容所になるのか。洒落になんねえな、それ」
 頭突きを食わされた額が焼けるように疼き、涙が込み上げる。
 てんで勝手なことを口々に喚く看守たちを見まわしてるうちに脳裏に所長の顔が浮かぶ。嬉々として十字架踏みにじった残忍な眼光の男……タジマの血を分けた兄貴。あいつはなんで東京プリズンに来たんだ?看守の言う通り不祥事やらかして左遷されてきたのか。

 あいつが来なけりゃ東京プリズンは平和だったのに。
 レイジは苦しまなくて済んだのに。

 「なん、で。なんであいつ、東京プリズンに来たんだよ」
 我知らず口を開き、反駁する。看守が示し合せたように俺を見る。気付けば俺は激情に駆られるがまま看守の胸ぐらを逆に掴み返していた。
 脳裏に過ぎる先刻の光景。陰険な眼光と酷薄な笑みを湛えた口元。
 舐めるようにレイジを見る目つき。
 レイジの胸に輝く十字架を奪い取り、犬に食わせて、蹴り飛ばして。
 あれはまだ序の口だと胸が騒ぎ、不吉な予感が根ざす。今日のあれで完全にレイジは目をつけられた。陰険陰湿極まりない但馬所長が身代わりの十字架を傷だらけにしただけで事足りるはずがない。かつてタジマが病的なしつこさで俺や鍵屋崎に付き纏ったように、レイジに異常な執着心をもつに違いない。
 どうなっちまうんだよ、レイジは?
 俺のレイジをどうする気だよ?

 「タジマの兄貴なんだろあいつ、どうしてだよ、どうしてせっかくタジマがいなくなってみんな安心してたのにあいつがやってくんだよ!?タジマと関わり合いになるのはもうこりごりなんだよ、弟だろうが兄だろうが関係ねえよ、タジマと名のつくやつが東京プリズンにいるだけで迷惑なんだよ!!
 弟の復讐に乗り込んできたのか、弟怪我させた真犯人突き止めるためか?突き止めてどうすんだよ、『上』に突き出すのか、私刑くわえんのか?
 どうなっちまうんだよレイジは、タジマ怪我させた真犯人だってわかる前から目えつけられて、この上真相バレたらあいつ、あいつ……くそっ、どうにかしろよ!?お前ら看守だろ、東京プリズンを取り締まる立場だろ?ならあいつなんとかしろよ、リコールとかできねえのかよ!デモでもなんでもしてあいつ追い返してくれよ、追っ払ってくれよ、嫌なんだよもうタジマに怯えて眠れねえ夜過ごすのは!」

 怒髪天の剣幕に気圧されて看守がたじろぐ。俺は我忘れて看守につっかかっる、看守の胸ぐらを逆に掴んで盛大に唾飛ばして罵倒する。
 看守の目に映った顔は焦燥に焼かれて歪んでいた。
 必死に取り縋る俺の肩を力づくで引き剥がし、言い訳がましく看守が吠える。
 「俺たちだって詳しく知らねえよ、前所長の退任だって直前まで知らされてなかったんだよ!新しく所長がくるってのもつい二日前に教えられたばっかで……」
 「新所長殿が言うには重大な使命を帯びてるらしいがな」
 「重大な使命?」
 鸚鵡返しに呟いた俺の足裏が汚水で滑り、バランスを崩して転倒。待て、と手を伸ばした時には既に遅く看守は背を向けていた。真実を知りたい欲求に促されてこけつまろびつ追いすがれば看守がそっけなく手を振る。
 これにて終了、打ち止めの合図。
 「ま、そのうち明らかになるだろうさ。但馬所長殿がなに企んでるんだかわかんねえが、相手は腐ってもエリート様だ。所長に睨まれてクビにされちゃたまんねえ。今度俺たちに恥かかせたらその時はマジで殺すからな、覚えとけ」
 「二度と無駄口聞けねえようにペニス突っ込んで鼻からザーメン吹かせてやるよ」
 最後に下卑た揶揄を投げて、爆笑しながら通路を遠ざかっていく看守をむなしく見送る。野太い哄笑がコンクリ壁に跳ね返り殷殷と鼓膜に沁みる。看守を追おうと発作的に飛び出してみたものの、途中まで走って急速に膝が萎える。口の中が苦い。
 他の囚人は食堂に行ってるせいか、周囲に人けはない。
 食堂に行かなきゃ、と弛緩した頭で考えて踵を返す。何があっても強制労働は休めないのが東京プリズンの掟だ。食欲は湧かないが無理でも食っとかなきゃ強制労働中にぶっ倒れて生き埋めにされる。
 鉛のように重たい足を引きずって食堂に向かいながら、中庭に寄ろうかどうか迷って、やめた。
 レイジの玉拾いを手伝ってやりたいのが本音だったが、中庭にひとりしゃがみこんだ王様を目のあたりにして、平静さを保ってられる自信がなかったから。あいつが麻痺した分まで泣いて取り乱してもっと惨めにしちまうとわかっていたから。
 レイジもきっと、俺に見られるのは嫌だろう。いつも大胆不敵で自信と余裕に満ち溢れた王様が、だれもいない中庭にひとりしゃがみこんで玉を拾い集めてる光景を想像し、口の中の苦味が増す。
 自己嫌悪の味だ。  

 強制労働中もレイジのことばかり考えていた。
 今日は鍵屋崎と会わなかった。いや、俺の方から顔を合わすのを避けていたのだ。鍵屋崎も当然、中庭を埋めた群集に紛れて今朝の光景を目撃したはずだ。地面に這いつくばったレイジがひとり黙々と玉を拾い集める光景を見たはずだ。俺は鍵屋崎と顔合わせて、なに話せばいいかわからなかった。あれからレイジがどうしたか聞かれるのが怖くてあいつを避け続けた。
 鍵屋崎とはもともと違う班だし、汗水たらして労働に専念すればそうしょっちゅう顔を合わせるわけもない。手に豆作ってシャベルを上げ下げしてるうちに太陽が中天にかかり、容赦ない直射日光が頭皮を炙る。脱水症状を呈して囚人が何人かぶっ倒れて、そのうち何人かが砂かけられる途中で好運にも息吹き返して、からくも生き埋めの運命を免れた。

 手の豆が潰れて皮が剥ける頃に、ようやく強制労働が終了した。

 すし詰め状態のバスに揺られて監獄に帰り、疲れた足をひきずり房へと戻る。行きも帰りも鍵屋崎と顔を合わさなくて密かに安堵した。正直、今の俺は人と口をきくのもしんどい精神状態だった。それがたとえ心を許した奴でも頼りになる奴でも、口を開くと同時にあとからあとから自責の言葉が飛び出してきそうで、ますますもって気分が滅入りそうだった。
 憂鬱に塞ぎこんだ気分でとぼとぼ通路を歩き、賑やかに談笑する囚人とすれ違い、房に辿り着く。
 ノブに手をかけ回そうとして、思い止まる。
 レイジはもう房に帰ってるだろうか。中庭に姿がなかったから房にいるはずだ。レイジと顔合わせてなんて声をかけよう、なんて励まそう?ノブに手をおいたまま逡巡する。
 扉を開ける決心がつくまで十秒を要した。深呼吸で覚悟を決め、緊張に汗ばむ手でノブを捻る。できるだけさりげなく、いつもどおりを心がけて扉を開け放つ。蝶番が軋り、後引く悲鳴をあげる。
 房に足を踏み入れようとして、止まる。
 「レイジ、いるのか」
 房の中が暗い。裸電球も点いてない。違和感を感じて声をかけるが、反応はない。音をたてないよう慎重に扉を閉めて、生唾を嚥下して足を踏み出す。一歩、また一歩と注意深く中へ進むうちに暗闇に目が慣れて奥の洗面台に屈み込んだレイジを発見する。
 レイジは洗面台に手を突っ込んで、蛇口を捻り、無心に十字架を洗っていた。
 小便と砂利にまみれた十字架の汚れを水で洗い流して、両手でくりかえし擦って磨いて、俺が声かけたのにも気付かず集中していた。薄暗いの房の奥、洗面台と向き合い必死に十字架を洗うレイジの横顔にはいつもの調子で声をかけるのを阻む何かがあって、背後に佇んだ俺は気後れした。
 唇を舐めて湿らし、おそるおそる名前を呼ぶ。
 「レイジ」
 「あ。おかえり、ロン」
 遠慮がちに声をかければ、拍子抜けするほどあっけなくレイジが振り向く。
 能天気を装った、明るい笑顔。
 「そーっと入ってくんなよ、びっくりすんじゃねえか。帰ってきたんなら『ただいま』くらい言えよ」
 「言ったよ」
 「そっか。聞こえなかった」
 「お前大丈夫かよ」
 「ロンってば優しいな、俺のこと心配してくれたの?全然大丈夫だよ、いつも通りだっつの。あれしきのことで落ち込むはずねえじゃん。玉拾い集めるのに苦労したし小便の匂いおちねえのには閉口したけど、何回も洗ってるうちにほら、輝き戻ってきたろ。匂いもしなくなったし、ぴかぴかの新品同然……ってわけにゃいかねえか。細かい傷いっぱいついちまったし。まあいいさ、こうして無事手元に戻ってきたんだし」
 レイジの言葉はどこか上の空。心ここにあらずといった感じに上滑りしてて、急激に不安が増す。
 「無理すんなよ。今日のお前ヘンだよ」
 「俺はいつもヘンだよ。よく考えてみろ、俺がマトモでいた試しなんかねえだろ。いちばん身近のお前がいちばんよく知ってるだろ。俺はいつだってこんな調子、無敵に素敵にマイペースな王様で絶賛売り出し中なんだよ。なんなら唄ってみせようか」
 「はあ?」
 俺が答えるより早く、十字架を洗う手を止めずにレイジが唄い出す。黄昏の暗闇に侵された房に甘く掠れた独特の響きの声が流れる。レイジ十八番のストレンジ・フルーツ。リンチで殺された黒人がポプラの木に吊るされてる、それはまるで奇妙な果実のよう……歌詞は陰惨だがメロディーは哀切で甘ったるい。
 俺はただ黙ってレイジの背中を見つめていた。ストレンジ・フルーツが低く流れる房に慄然と立ち竦み、奇妙な胸騒ぎを覚えながら暗闇に身を浸していた。格子窓の向こうの喧騒が別世界の出来事のようにまるで現実感を伴わない。
 この房だけが廊下の喧騒から隔離されたような静寂に支配されて、いつまでも耳に残る甘い歌声だけが暗闇に響いているのだ。
 ふいに歌声が途切れ、重苦しい静寂が鼓膜に覆い被さる。蛇口から水が流れる音が量感をもって響く。
 「な?いつもどおり音痴だろ」
 察するに、俺を安心させるために即興で唄ったらしい。いつも通り音痴な歌声を披露して自分は平気だとアピールするつもりだったらしいが王様の目論みは裏目にでた。レイジは意外と虚勢を張るのが下手なのだ。
 「大丈夫じゃねーだろ。いつも以上に音程外れまくってるよ」
 とても聞いちゃられない。いつも以上に音程狂いまくり外れまくりの酷い歌声だった。大股にレイジに歩み寄り、手元を覗きこむ。何分何時間洗ってたのか十字架の汚れはすっかり落ちてもう匂いもしなかった。ただ、表面に付いた無数の傷だけはどれだけ洗ったところで落ちない。
 レイジの十字架は、もう決して元通りにならない。
 「もうやめろよ、手がふやけちまうよ」
 顔も上げずに十字架を洗い続けるレイジが無性にやりきれなくなり、無造作に手を伸ばして蛇口を締める。水が止まり、蛇口から点々と水滴がしたたる。レイジは伸びた前髪の隙間から不思議そうに俺を見返した。光のない虚ろな目、物問いたげな表情。なんで邪魔をするのかと純粋な疑問を抱いた表情。
 見ちゃられない。こんなレイジ、らしくない。
 相棒の痛々しい姿から顔を背け、早口で言い募る。
 「その十字架、そんなに大事なもんだったのかよ。ならどっか適当な場所に隠しとけよ、壁の穴でも洗面台の鏡の裏でもマットレスの裂け目でもいいから。首から下げてシャツの内側に隠しるだけじゃすぐ見つかっちまうよ、はい取り上げてくださいって宣伝してるようなもんだろが。バカかお前、そんくらいわかれよ。いくらお袋から貰ったお守りだからって、いや、だったらなおさらー……」
 「ガキの頃さ」
 語尾を遮るように口を開いたレイジの横顔を注視。  
 レイジは俯き、蛇口に手を伸ばして栓を緩める。今度は水を小出しにし、透明な糸のように蛇口から落ちる水に十字架を翳す。十字架の表面を水が流れ落ちるさまを眺め、レイジは淡々と呟いた。
 俺の知らない過去を。マリアに十字架貰ったときの話を。

 「ガキの頃、逃げようとしたことがあったんだ。毎日毎日人殺しの訓練ばっかでうんざりで、銃で的撃ったりナイフで実践したりそんなんばっか飽き飽きで、マリアと二人でどっか行って普通に……幸せに暮らしたくて。人殺ししか知らない俺に他になにができるかわかんないけど、少なくともそん時はなんでもやるつもりだった。軍人相手にコーラ売ったり絵葉書売ったり……靴磨きもイケるかな。ドブさらいでもよかった。とにかくなんでもやって金稼いで外で生きてくつもりだった。外に出たらまず教会頼って、教会がダメならマニラのスモ―キーマウンテン行ってバラック建ててとか、ガキの浅知恵で真面目に考えてたんだよ。あのままあそこにいたんじゃ俺にもマリアにも将来ねーし、組織見切って逃げる準備してたんだ」

 レイジが自分から過去を話すなんて珍しい。医務室を訪ねた夜以来だ。
 俺は息するのも忘れてレイジの過去語りに耳を傾けていた。
 レイジは愛情こめた手つきで水に濡れた十字架を撫で、親指で水滴を弾き、伏し目がちに独白する。
 「でも、あっさりつかまっちまった。甘かったんだよ俺が」    
 前髪に遮られた隻眼に歳月を経た悲哀が宿る。
 「……それで、どうなったんだ?」
 聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが激しくせめぎあうも、好奇心を抑えきれず先を促す。逃げようとして捕まって、それでただで済むはずがない。組織を裏切って「外」に逃げようとしたレイジが無事で済むはずがないと心のどこかで予感していた。この先にはきっと最悪の展開が待ちうけてる、最悪の結末が待ちうけてると予感しながらそれでも俺はレイジの過去に踏み込まずにはいられなかった。
 「罰を与えるからどっちか選べって言われた」
 一呼吸おいて十字架を握りしめ、胸に抱き、目を瞑る。
 目に見えぬ神に慈悲を乞うように胸に十字架をあて、レイジはおぞましい、恐るべきことを口にした。
   
 「マリアの目の前で犯されるかマリアが目の前で犯されるか」

 俺の想像を絶する地獄があった。
 両手で耳を塞ぎたかった。聞いたことを後悔した。でも、逃げられなかった。十字架を胸にあてて首項垂れて、救い難く悲惨な過去を回想するレイジを置き去りに逃げられなかった。暗闇に包まれた房に立ち竦んだレイジの姿は酷く儚げで、大気に溶けて消えちまいそうな輪郭を掴む為に声をあげる。
 「どっちを、選んだんだ」
 やめろ聞きたくない聞くんじゃないと心が軋んで悲鳴をあげても口が勝手に動いた。心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。全身の血が逆流する感覚に襲われて酷い耳鳴りがして平衡感覚が揺れ動く。
 レイジは十字架を掴んで放心していた。
 首を項垂れて十字架を抱いた姿には、一縷に信仰に縋ることで狂気紙一重の正気を保ってるようなアンバランスな危なっかしさが付き纏った。
 「どっちも選びたくなかったのが本音。でもダメだった、どっちか絶対に選ばなきゃいけなかった。拒めば殺されるだけ。俺とマリアが生き延びるためには選択を許容するしかなかった。しかたないから選んだよ。マリアの泣き顔は見たくなかった、マリアが犯されるくらいなら俺が犯されるほうがマシだった」
 「じゃあ」
 「ロンってば単純。すぐ騙されるのな」
 レイジがちらりと笑顔を見せる。どんなに頑張っても泣けないから仕方なく笑ってるような顔。
 「俺がどっち選んでも逆になる予定だったんだよ。前者を選べば後者、後者を選べば後者って具合に。そっちのほうがより効くだろ、懲りるだろ。効果覿面の痛みを伴う罰になるだろ。俺バカだから裏が読めなくて、考えて考えて自分がマシだって思う方選んで、だから」
 「言うな」
 「マリアは犯された。俺のせいで」
 『不一様!!』
 台湾語で「違う」と叫ぶが、レイジは頑固に首を振り、指が軋むほどに十字架を握りしめる。
 五指に十字架が食い込み、前髪が顔にかかり、表情を隠す。
 「俺のせいなんだよ」
 暗闇の房に鈍い音が響く。 
 力任せに壁を殴り付けたが、怒りに翻弄されてるせいか痛みは感じない。
 「お前のせいじゃねえよ、悪いのは二つに一つのどっち選んでも逃げ道与えなかった性根の腐りきったゲリラどもだろ!!?そんな最悪な、最低な……ちきしょう、ありかよそんなのって!お前が逃げたくなって当たり前だ、どっち選んだって地獄じゃねえか、あがいてもあがいても地獄から抜けだせねえじゃんか!」
 逃げ道なんて用意されてなかったんだ、最初から。レイジが組織から逃げられずに嫌々人殺しをしてたのはマリアを人質にとられてたからで、自分が逃走企てたせいでマリアが犯された重い十字架背負い続けてきたからでそんなことがあったらだれだって壊れちまう。
 狂気と正気の境目がなくなる。
 激情に翻弄される俺をよそにレイジは穏やかに笑っていた。
 過去を振り返っても心が麻痺してもはや痛みは感じず、暗闇と境を曖昧にする空虚な笑みを浮かべて。
 「この十字架はマリアがくれたんだ。全部終わって、悪魔みたいな男どもがいなくなって、あとには服引き裂かれたマリアと俺が残されて……マリアが犯されたのは俺のせいだ、俺が逃げようとしたからこんなことになったんだってめそめそ自分責めてたら、マリアが膝でこっちに寄ってきた。また殴られるんだと思った。殴られてもいいと思った。でも違った。俺が目を閉じたら、そっとコレかけてくれたんだ。自分の首にかけてた十字架を外して、俺にくれたんだ」
 瞼裏にありありとその光景が浮かぶ。 
 膝を抱え込んで嗚咽をあげるレイジに膝で這い寄り、乳房の合間に輝いていた十字架を外して、そっと首にかけてやるマリア……聖母と同じ名前のレイジを産んだ女。
 マリアの肌でぬくもった十字架が、レイジの首にかかり、胸にぶらさがる。
 そうしてレイジは許された。
 「あなたを許す」と「愛してる」は、レイジの中で多分、同じ重さをもつ言葉なのだ。
 レイジとマリアを繋ぐ絆であり許しの証でもある十字架は、今、傷だらけでレイジの手におさまってる。
 「俺の首に十字架をかけて、頭を撫でて抱きしめて、『神のご加護があるように』って……『幸せになって』って言ったんだよ」
 一息に言い終えたレイジが深呼吸する。
 「最低だな、俺。またマリアのこと見殺しにしちまった」
 俺はようやく理解した。何故レイジがこんなに落ち込んでるのか、こんなに参っちまったのか、その本当のワケを。
 但馬に十字架を踏みにじられた時、レイジはガキの頃を思い出したのだ。
 看守数人がかりで押さえ込まれて十字架を陵辱される光景が、男たちに押さえ込まれて母親が強姦される地獄に重なったのだ。
 「……………っ、」
 瞼がじんわり熱を帯びる。喉がつかえてうまく呼吸できない。但馬に抱いた憎悪が激烈な殺意に昇華、傷だらけの十字架を未練がましく握りしめるレイジをどうにかしたくて衝動的に押し倒す。
 視界が反転、上下が逆転。床に仰向けに寝転んだレイジの腰に跨り、胸ぐらを掴んで顔を起こす。 
 転倒の際に背中を打ったのか、苦痛に顔を顰めたレイジを睨みつけ、命令する。
 「お前、俺を抱け」
 「はあ!?」
 レイジが脳天から声を発する。俺の正気を疑ってるみたいな反応だが、構うもんかと開き直る。これ以外に慰め方思いつかないんだから仕方ねえ。俺はただレイジに元気を取り戻してほしかった、今日は無理でも明日にはいつも通りのレイジでいてほしかった。
 無茶言ってる自覚がある、目の前で十字架無茶苦茶にされて傷だらけにされてショック受けてるのもわかってる。でももうこれ以上しょげたレイジを見るのは耐えられない、こんな痛々しい笑顔に耐えられそうにない。レイジが元通り笑ってくれるなら、くだらない冗談言って笑ってくれるならなんでもする。
 だから。
 「いいから抱けよ、好きにしていいよ。だからそんな痛い笑顔すんなよ、無理して笑うなよ」
 「無理なんかしてねえよ、これが地顔なんだよ」
 「嘘つけ。全部吐き出しちまえよ、溜め込むなよ。俺を捌け口にしろよ。俺のこと抱きたいんだろ?なら抱けよ、好きなだけ。正直ケツ痛えけど我慢するよ、してやるよ。お前がシケたツラしてると調子狂うんだよ、張り合いねえんだよ。十字架がちょっと傷ついたくらいでこの世の終わりみてえな顔すんなよ。十字架がぼろぼろになったって思い出は残るんだ。マリアがお前に言ったことは絶対傷付かない真実で、お前が忘れねえ限り十字架が朽ちて塵に帰ろうが永遠に真実であり続けるんだよ!!」
 前髪の向こうに隠れた隻眼に光が戻り、徐々に生気が甦る。
 レイジの胸ぐらを掴み、力尽きたように首を垂れ、額を預ける。
 こつんと軽い音が鳴る。俺の額とレイジの額がふれあう音。
 「十字架がぼろぼろになっても、俺が覚えててやる。マリアがお前に愛してるって言ったって保証してやる。だから元気だせよ。らしくねえよ、王様。今にも泣きそうな顔して笑ってんじゃねえよ。いつもの余裕はどこにやった?俺の腰抱いてつまんねえ冗談とばすくらいの余裕見せてみろよ」
 格子窓の向こうの喧騒が遠のき、房に静寂が満ちる。
 黄昏の暗闇が淀んだ房で、互いの鼓動が聞こえる距離に接して茶色の虹彩を捉える。
 「いいのかよ、俺の尻に敷かれたまんまで。このままヤッちまうぜ?」 
 口角を吊り上げて挑発すれば、つられたようにレイジが笑う。さっきまでのどこか無理した痛々しい笑顔じゃない。いつもよりちょっと元気ないけど、見慣れた王様の笑顔だ。
 「色気ねえ誘惑。俺のこと誘ってんなら大人のキスのひとつもしてくれよ」
 白い歯を見せて笑ったレイジに泣きたくなるような安堵を覚え、胸ぐらの手を緩め、格子窓の向こうを窺う。今なら大丈夫、誰も気付いてない。よし。
 「いつまでも上でいられると思うなよ、王様」
 素早く唇を重ねる。唇の隙間からおずおずと舌を潜らせ、歯をなぞる。自分から舌を入れるのは初めてだなとどうでもいいこと考えながら舌先で口腔を探っていたら、突然レイジが跳ね起きて、肩に手をかけられ押し倒される。
 「ん、ぐ!?」
 なにしやがる、舌噛むとこだったじゃねえかと抗議する代わりにこぶしを振り上げれば、手首を掴まれ床に固定される。キスの途中でちゃっかり体位を入れ替えて俺に馬乗りになったレイジが目だけで笑う。
 「んっ、ふっぐ、ふ……」
 レイジの手が上着の裾に滑りこみ、体をまさぐる。舌を抜きたくても抜けない。最初は俺がリードしてたのにいつのまにか形勢逆転、レイジに舌を貪られて唾液に溺れる。飲み干しきれない唾液が溢れて首筋をしたたる。よわよわしく首を振り呼吸できない苦しみを訴えれば、透明な糸を引いて唇が離れる。間一髪息を吹き返した俺は、快感に頬を上気させて格子窓の向こうを見る。
 さすがに先を続けるのはやばい。声が漏れたらと考えると顔から火がでそうだ。
 「ちょ、ちょっと待て!お前元気になったんだろ、そうかそりゃよかった、じゃあ今日はこれでおしまいだ!ほら、もうすぐ夕飯だし早くいかねーと席なくなっちまうし続きはまた……」
 「慰めてくれるんだろ?」
 レイジが悪戯っぽく笑い、俺のズボンに手を入れようとして何かに気付き、一瞬動きを止める。
 なんだと訝しんだ俺の前で素早く十字架を手に取り、キスをする。その仕草があんまり自然だったもんであっけにとられたが、我に返った俺はあれこれ考えるより先にレイジの手首を掴んで引き寄せて、レイジがキスした中心に唇を押しあてた。
 レイジの唇がふれたばかりのせいか、金属の十字架はほのかに温かかった。
 十字架から顔をあげ、不敵な笑みを添えて俺は言った。
 「匂いしねーな」
 十字架の向こうでレイジが笑った。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050629011004 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。