ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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十八話

 タジマが東京プリズンに凱旋した。
 僕が見たものは幻覚ではなく現実だった、生身の肉体を持って現実に存在する人間だった。ただしそれはタジマとよく似た別人、タジマの実兄だった。
 タジマの兄を名乗る新所長は囚人への顔見せとなる今朝の集会で、東西南北全囚人が固唾を呑んで凝視する中、生贄を召喚して見せしめの儀を執り行った。
 生贄の胸に輝く十字架を取り上げ犬の餌食にして徹底的に貶めた。
 レイジが拠り所にしていた十字架は汚された。
 犬の涎にまみれた挙句に放尿された十字架は彼の手の中で悪臭を放つ汚物に成り果てた。レイジの胸で輝いていた頃の名残りは留めず、犬に噛まれたあとがへこみ、地面に叩き付けられた際に擦れた表面には細かい傷が付いていた。
 強制労働開始の時刻が迫っていた。
 中庭に居残る囚人に業を煮やした看守が警棒を振り上げ、野次馬を散らしにかかる。警棒に追い立てられて中庭を後にする囚人に混ざり、僕もまた踵を返した。いかなる理由があろうと強制労働は休めない。遅刻者には厳罰が下る。立ち去り際に振り向けば、レイジはのろのろと腕を伸ばして方々に散らばった玉を集めていた。

 自我を持たない人形めいて空虚で緩慢な動作。
 前髪の隙間から覗いた隻眼には光がなく、ただ虚ろだった。

 レイジは一つ一つ丁寧に周囲に散らばった玉をつまみ上げ、掌に載せていった。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉は、林立する足の間をすりぬけて肉眼では捉えきれぬ広範囲に散逸してしまった。全部を拾い集めるには丸一日を費やすことになるだろう。いや、一日で足りるかどうか……想像しただけで気が遠くなる。全部拾い集めるには膨大な手間と時間がかかる。はっきり言って、全部を拾い集めるなど不可能だ。しかしレイジは中庭を動かず、諦めに似た倦怠を漂わせ、手近な玉から一つ一つ拾い上げていく。
 僕は、声をかけられなかった。サムライも同様だ。ロンは後ろ手の拘束を振りほどこうと必死に暴れたが、結局力づくで連れ去られてしまった。今のタイミングでロンを解放すれば大変なことになると危惧したためらしい。実際ロンは理性をかなぐり捨てて暴れていた、看守の手に噛みついて脛を蹴り上げて口汚い罵声を浴びせていた。
 『あのバカ犬殺してやる、舌引っこ抜いて金玉毟りとって食わしてやる!!よくもレイジの十字架を、お袋から貰った大事な宝物を……タジマの兄貴のくそったれ、ぜってえ許さねえ、ぶち殺してやる!!』
 狂乱をきたしたロンの声も届かぬのか、レイジは顔すら上げず、無言で玉を拾い集めていた。
 いつも大胆不敵で自信と余裕に溢れた王様らしからぬ意気消沈ぶりだった。
 イエローワークの強制労働が始まってからも僕は今朝のことを考えていた。考え続けていた。タジマの実兄の到来、異常な言動が際立つ就任演説、生贄に選ばれた二人……ロンとレイジ。
 但馬所長は自分の存在を強く印象付ける為に見せしめの生贄を欲した。自分の地位をより確固たるものにするために、彼言うところの「愚鈍な家畜」である囚人たちを服従させるために。
 そして、多くの囚人の中からロンとレイジが選ばれた。
 なんて陰湿な男だ、陰湿なやりくちだ。思い出すだに背筋が冷える戦慄を覚える。
 結果、何から何まで所長の目論見通りなった。東京プリズン最強の男、いつ何が起きても余裕を失わない大胆不敵な王様が所長の前では手も足も出なかった。所長は看守数人に命じてレイジを後ろ手に戒めたあとで十字架を取り上げ、レイジは言うに及ばず、全囚人と看守が息を詰めて見ているのを意識しつつ満足いくまで十字架を嬲った。かくして新所長は前任者のように看守に軽んじられ囚人に舐められる前に、自分の存在を強く印象付け、畏怖の念を植え付ける演出に成功した。
 恐ろしい男だ。そして頭がいい。中庭を埋めた数多くの囚人の中からレイジを指名したのは直感か、あるいは彼こそが最も影響力を持つ男だと見ぬいたからか。但馬は洞察力と観察力に優れた強敵だと今朝の一件で痛感した。
 レイジは今頃どうしてるだろう?中庭にひとり座り込んで玉をかき集めているのだろうか。
 最後に見たレイジの姿を思い出し、気が滅入る。
 前髪の隙間から覗く虚無に呑まれた隻眼。
 僕は、但馬所長を許せない。二週間前に東京プリズンを去ったタジマは僕の天敵で、僕を何度も犯して苦しめた最低の男だ。殺意を覚えたことも一度や二度じゃない。だが、タジマはもういない。代わりにタジマの兄が所長として赴任した。悪夢の再来。シャベルを持つ手が震える。
 こんなのはまだ序の口だ、とどこかで囁く声がする―……
 「ちんたらやってんじゃねえよ、親殺し!」
 「!?っ、」
 突然、砂を蹴りかけられた。目に砂が入って涙が滲んだ。
 シャベルに取り縋って蹲った僕は、足元に射した影で数人の少年に取り囲まれたと悟る。僕を取り囲んだひとりは、昨日、僕を襲った同僚だと声でわかった。全く、度し難い低能どもだ。彼らの考えることなどお見通しだ、昨日静流に倒された復讐にやってきたのだろう。付け加えるならば、彼らを倒したのは静流であって僕ではない。僕は無関係だと主張しようとしたが、反論する暇もなくシャベルが振り下ろされる。
 「昨日の借りだ、死ねっ!」
 一方的な死刑宣告に条件反射で体が反応、迅速にシャベルを構える。鈍い金属音、腕に伝わるに衝撃。咄嗟に翳したシャベルで脳天を防御、両腕に力を込めて均衡を維持。涙で砂を洗い流して正面に目を凝らせばやがて輪郭が定まり、憤怒の形相の少年が出現。やはり昨日の少年、売春班初日に僕を犯した同僚だ。
 「労働放棄は感心しないな。君がサボった分まで仕事が増える」
 「ひとの心配する暇あんなら自分の心配しろ!昨日は舐めた真似してくれたじゃねえか、あんな強え相棒いるなんて反則だ、親殺しのくせにいっちょまえにダチ作りやがって!」
 「意味不明なことを言うな。僕は新入りに請われて刑務所内を案内してただけだ、友人などではない。第一君たちが性懲りなく僕に襲撃をかけてきたから静流に倒される羽目になったんだろう、自業自得じゃないか。君たちの記憶は三秒しか保たないのか、そういう病気なのか?学習能力のなさは視床下部の萎縮が原因か?一度精密な脳検査を勧める、少なくとも六割脳細胞が壊死してる可能性が」
 「うるせえ!!」
 少年が激昂、腕に渾身の力を込めてシャベルを押し込む。ありのままの事実を指摘しただけだというのに……責任転嫁も甚だしいと内心嘆息する。低脳には付き合いきれない。
 シャベルに圧力がかかる。自慢ではないが、僕は腕力がない。貧弱な細腕を叱咤してみたところで、シャベルを受け止めるだけで精一杯で跳ね返すことなど不可能。わざわざ持ち場を離れて因縁をつけにくるなと罵倒、乏しい腕力を振り絞る。力と力が拮抗、危うい均衡を維持するも次第にシャベルが重みを増して―……

 「そこ、何をしている!!」 

 「やべっ、副所長だ!」
 鋭い叱責が飛ぶ。腕に掛かる圧力が取り除かれ安堵したのも束の間、耳朶を震わすエンジンの重低音に胸騒ぎが再発。音がした方を振り返った僕は、重厚なジープを下りてこちらにやってきた人物に息を呑む。
 安田と但馬……所長。
 いや、表記する順番は逆だ。実際には但馬所長が安田を従わせて歩いてきたのだから。安田が視察に来たのはわかる。だが、何故所長も一緒に?勿論所長が視察にきたとて何の不思議もない、いや、それが本来あるべき姿なのだ。暑い盛りの時間帯、副所長がジープに乗って各地の視察に赴いてるのに所長が涼んでいるのは不公平だ。
 勤勉と怠慢。
 かつて副所長と所長を対比するキーワードがそれだった。有能と無能に置き換えてもいい。僕が前所長に面会したのは一度きり、東京プリズンに来た初日のみだが、彼に抱いた印象は「俗物」の一言に尽きた。実務は副所長の安田に任せきりにして、自分は決して表に出ず事なかれ主義の保身に腐心していた。所長を名乗るにはあまりに無責任かつ無関心な職務姿勢に反感を募らせていた看守も多いと聞く。
 ならば、副所長と共に視察に赴く所長の姿は健全といえるのではないか。安田を同伴して歩いてきた但馬所長は、用水路を覗きこみ、「ほう」と嘆声を発した。感心したような、面白がってるような声。 
 「随分原始的な用水路だ。水を流せば崩れてしまうんじゃないか」
 所長が嘲笑する。安田は短く答える。
 「そうならないように土嚢を積ませて補強しています」
 「しかし、作業ははかどってないと見える」
 縁なし眼鏡の奥の双眸を細めて所長が言い、安田の顔が渋くなる。確かに、作業は沈滞してる。土嚢を積む囚人は疲労で動きが鈍くなっている。脱水症状を呈してシャベルに寄りかかっている者も少なくない。
 所長の目には、シャベルに凭れて休む囚人の姿が怠慢と映ったようだ。
 「嘆かわしい。なんと怠惰な家畜どもだ。畑を耕さない牛馬に生きる資格はないというのに……君たちは肥溜めで溺死したほうが社会に貢献するな」
 辛辣な毒舌を吐き、侮蔑の笑みを浮かべる。
 用水路を建設していた囚人がその言葉に反応、いつ手の中のシャベルが凶器に変わるともしれない殺気が充満する。僕に襲いかかった同僚たちも所長に怒りの矛先を転じたらしく一気に険悪な形相になる。
 「所長、いたずらに囚人を刺激する真似は控えてください。彼らはストレスをためています、不用意な一言が引き金となって暴発する危険性が」
 「私に意見する気かね?」
 たまらず口を挟んだ安田を牽制する。安田が歯痒げに押し黙る。所長は暫く用水路を覗きこんでいたが、やがて、名案を閃いたとばかりに嬉々とする。
 「そうだ。競争させよう」
 競争だと?
 囚人が不安げに顔を見合わせる。
 探り合うように視線を交わす囚人たちを眺めて悦に入った所長が背広の懐に手を忍ばせ、宣言。
 「注目したまえ、諸君!」
 注意を促された囚人が次々に鍬やシャベルを振るう手を止める。これから何が始まるのかと闖入者を注視するイエローワークの囚人たち。帯電したような緊迫感。
 縁なし眼鏡の奥の双眸を陰湿に光らせ、砂漠に散った囚人たちを睥睨する所長。
 「諸君らに良い知らせだ。今週いちばんよく働いた者に一日休みを与える」
 「!……な、」
 頭を殴られたような衝撃。
 所長自ら強制労働の視察に赴いて休みを言い渡すなど前代未聞だ。何があっても強制労働だけは休めないのが鉄の掟なのに所長自らその取り決めを破るのか?極端な話風邪をこじらせて肺炎を併発しても、強制労働は休めないのが東京プリズンの掟なのに……半信半疑でざわめく囚人たちを冷ややかに見渡し、所長は大袈裟に首を振る。
 「私の話が信用できないか。所長自ら宣言しても疑いを捨てきれないか。私の言葉に嘘はない、功労者には休みを与える。さあ、競え。効率向上には競争が一番だ。隣人に負けるな、汗水流して必死にシャベルを振るって用水路を築け、死に物狂いでノルマを果たせ!休みを獲得できるのはただ一人だ。褒美が欲しくば牛馬のように働いてライバルを蹴落とし抜きん出ろ」
 「所長!」
 安田が声を荒げて非難する。
 「勝手なことをしないでください。強制労働は囚人に課された義務だ、義務の放棄は許されない怠慢だ。休みで釣って競争させるなど卑劣な!」
 「黙りたまえ副所長、誰に口を利いている。ここのトップは誰だ?私に意見できる立場か」
 安田の意見に耳を貸さず開き直った所長が再び命じる。
 「休みが欲しいなら働け。過酷な強制労働を続ければやがては体を壊して使い物にならなくなる。諸君らは休みを渇望している、一日中ベッドに寝転んでいられるならそれに越したことはないと思っている。ならば要望を受け入れよう。ただしその代わりに三日後までに用水路を完成させるんだ。もし一日でも完成が遅れた場合は今ここにいる者全員を連帯責任で処分する」
 「連帯責任だって?冗談じゃねえ」
 「お前らとまとめて独居房に入れられちゃたまんねえよ!」
 悲鳴じみた声が連鎖し、僕を除く囚人が狂ったようにシャベルや鍬を振るい出す。脇目もふらずに砂掘りを再開した囚人たちの顔には焦慮に揉まれて切迫した表情が浮かんでいた。
 飴と鞭は家畜をしつける常套手段だ。
 弛緩した倦怠感が漂っていた現場が一転、異様な熱気に包まれた。盛大に砂を跳ね散らかして鍬やらシャベルやらを振るう囚人たちを見まわして所長は満足げに頷いた。
 おかしい。
 絶対に間違っている。
 「副所長、話があります」
 極力抑えた声で安田に呼びかけ、シャベルを投げ捨てる。
 土嚢が段段に積まれた斜面を上り、砂まみれになりつつ安田の足元に手をかける。これは、こんなの絶対おかしい。但馬所長のやりかたは根本的に間違っている。
 休みで釣って競争させ、労働意欲を煽る。
 それに関してはまあいい、効率的なやり方だと感心しなくもない。だが、三日で用水路を完成させるなど無茶だ。無謀だ。事実用水路はまだ三分の一も出来あがってない状態で、僕らがどんなに頑張ったところで完成には最低一週間はかかる。にも拘わらず、期限は三日。三日後までに用水路を完成させることができなければ連体責任で処分するという。
 所長は、僕らに死ねというのか?
 あまりに理不尽な命令に反発が込み上げ、安田の行く手を阻むように立ち塞がる。
 「三日以内に用水路を完成させるなど無茶だ、明らかに超過労働だ。今のペースで働き続ければ遠からず死者がでる、少なく見積もっても十人が過労死する。ここは屠殺場か?僕らに死ねというのか!?一体どうしてしまったんだ、貴方はそんな非人道的な命令を承認する人間ではなかったはずだ。僕の尊敬する副所長ならこんな馬鹿げた命令断固拒否するはずだ!」
 「誰だ君は?」
 但馬所長がうろんげに僕を見る。安田は唇を噛んで俯いている。
 無性に悔しさが込み上げてやり場のない怒りを感じた。
 何故黙っているんだ安田、僕を納得させる反論をしてみろ、副所長の威厳をそなえた毅然たる態度で説得してみろ。どうした出来ないのか、一体どうしてしまったんだ。脳裏で疑問符が増殖する。安田に裏切られた思いで愕然と立ち竦む。正直、安田には幻滅した。所長の暴走を止められるのは副所長だけなのに、肝心の安田は全く頼りにならないどころか、苦渋に満ちた顔つきで下を向き現状を黙認しているのだ。
 所長の存在を無視して副所長と対峙した僕は、現状に傍観を決め込む情けない安田を否定しにかかる。
 「何故なにも言わずに現状を放置している黙認している!?貴方は副所長だ、所長に次ぐ権力の持ち主だ!僕が知る安田ならこんな無茶な命令即刻却下するはずだ、僕らの生命を軽く扱ったりしないはずだ!」
 安田に対する信頼が音をたてて崩れていく。
 僕は所長よりむしろ安田に怒りを覚えていた。何故安田は反論しない、所長に逆らわない?何か弱みを握られているのか。自分よりに地位が上の人間には逆らえない中間管理職の宿命か。
 僕は安田を評価していた。安田は高潔な人格者だと思っていた。僕らの生命が危うくなれば命がけで守ってくれるはずと絶対の信頼を置いていたのに……

 僕は。
 僕らは安田に見捨てられたのか。見殺しにされたのか。 
 
 今まで信じてきたものが根幹から揺らいで眩暈を覚えた。
 安田は僕に責められ詰られても唇を噛んで耐えている。自分には反論する資格がないとでもいうふうに沈痛な面差しを伏せている。糾弾に耐えて自己憐憫に酔うつもりか卑怯者め。体の脇でこぶしを結んだ僕は砂を蹴散らして憤然と安田に接近、怒号を発する。
 「貴様には幻滅した。僕は貴様を過大評価していたようだ、人間不信の僕ともあろう者が貴様に一定の信頼を置いて最近では好感めいたものまで抱き始めていた。危うく騙されるところだった!貴様は所詮その程度の人間だ、保身に固執する俗物だ!少しでも貴様に心を許したことを恥じる、人生最大の汚点、一生の不覚、天才にあるまじき失態だ!!」
 視界の端で所長が不快げに顔を歪めるのが映った。安田を押しのけて身を乗り出した所長が、僕に何かを言いかける。それを遮るように顔を上げた安田が、銀縁眼鏡の奥の目に悲痛な色を湛える。
 弱り果てた凝視に耐えられず、思い詰めた眼差しに耐えきれず、僕は叫んだ。
 「人格者を装った俗物より俗物らしい俗物のほうが余程マシだ、偽善に満ちた人格者より欺瞞に満ちた父親のほうがマシだ。貴様に比べれば鍵屋崎優のほうが上等だ!!」
 頬に衝撃が爆ぜる。
 空高く乾いた音が吸い込まれて周囲の囚人が一斉にこちらを向く。
 衝撃はすぐに熱をもった痛みに変じた。安田が大仰に手を振り上げて僕の頬をぶったのだ。殴られた衝撃で眼鏡がずれて視界がブレた。
 反射的に頬を庇い、放心状態で安田を仰ぐ。
 「……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ」
 低い声で安田が言う。腫れた頬に手をやり、のろのろと顔を上げた僕は、皮肉げに口角を吊り上げる。
 「所長の犬に成り下がったか。見下げ果てた男だ」
 「鍵屋崎……そうか、君が例の!」
 それまで興味本位に成り行きを見守っていた所長が、じろじろと僕の顔を眺める。
 「遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎夫妻の一人息子で、両親を殺害した凶悪犯か。そういえばそんな事件があったな、十ヶ月も前に。君の噂はかねがねうかがっていたが、どうしてなかなか……」
 思わせぶりに言葉を切り、安田に微笑みかける。
 「しつけ甲斐のありそうな、反抗的な家畜じゃないか」
 「……ええ」
 安田が神経質にブリッジを押し上げる。
 「持ち場に戻れ、鍵屋崎。労働放棄を認めた覚えはない。これ以上ここに留まれば処罰する」
 「飴と鞭か。新所長の方針に従って宗旨がえか。意外と影響されやすい性格なんだな」
 安田に皮肉を言う。だが、本人は顔を上げもしない。
 安田と対峙するのが耐えきれなくなり、逃げるように踵を返す。安田はもう以前の安田ではない。僕が知る安田はいなくなった。あそこにいるのは但馬の犬に成り下がった男だ。
 シャベルを拾い上げて振り返れば、安田を従えた所長がジープへ戻っていくところだった。
 二人の会話が切れ切れに耳に届いた。
 「君は少し甘すぎるんじゃないか。たかが家畜にあんな生意気な口をきかせて放逐か?どちらが立場が上かはっきり思い知らせる必要があるんじゃないか」
 「ご心配には及びません。私には私の考えがあります」
 「ふん、頑固だ。しかし有能な人間は嫌いじゃない。私は君の能力を高く評価してる」
 「はい」
 「くれぐれも私の期待を裏切らないでくれたまえよ」 
 さくさくと砂を踏みジープに接近、すかさず前方に回り込んだ安田が後部座席の扉を開く。慇懃に頭を垂れて、主人の為に扉を支える安田は忠実な執事のようだった。車に乗り込む一瞬、舐めるようにいやらしい目つきで安田の顔を眺めた所長が、おもむろに手を伸ばし、安田のネクタイを掴んで引き寄せる。
 顔を密着させ、囁く。
 「これからたっぷりと飼い殺してやる」
 ネクタイを締め上げる苦痛と屈辱に安田の顔が青ざめる。小馬鹿にするように鼻を鳴らしてネクタイを突き放した所長がジープに乗り込むのを確認、扉を閉めた安田が唐突に振り向く。
 僕と目が合った。
 安田がばつ悪げな表情を浮かべた。いちばん見られたくない人物にいちばん見られたくない場面を見られた失望の表情。多分、僕も同じ顔をしてるはずだ。
 安田はもはや完全に、但馬の犬に成り下がったのだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050701002149 | 編集
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