ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集
七十話

 均衡を破ったのは一発の銃声。
 「ヨンイル!!」
 ヨンイルが吹っ飛ぶ。たった一瞬の出来事がスローモーションのように脳裏に投影される。
 体感時間はひどく間延びしていた。実際にはヨンイルが吹っ飛ばされて床に倒れるまで三秒にも足らなかった。
 両腕を虚空に差し伸べて後ろ向きに倒れゆくヨンイルの視界に最後に何が映ったのかはわからない。
 ロンの頭を押さえこんでリングに伏せった僕の眼前、手を伸ばせば届く距離でヨンイルは最初から死を覚悟していた。
 遅かった。間に合わなかった。
 「認めないぞこんな展開!」
 ヨンイルの死に際して僕が何もできなかったなんて嘘だ。僕は天才なのに、IQ180の優秀な頭脳を持つ天才なのに、むざむざヨンイルを見殺しにしてしまった。
 ヨンイル。西の道化、図書室のヌシ。
 漫画を読んだことない僕に手塚治虫の素晴らしさを教えてくれた、半ば強引にブラックジャックを貸してくれた。図々しくてなれなれしくて不愉快な男。そうだ、僕はヨンイルのことが嫌いだった。彼のことを常々不愉快に思っていた。饒舌でバイタリティに溢れて、僕のことを事もあろうにちゃん付けして、たかが低脳の分際で天才を愚弄するにも程があると不満を抱いていた。
 だが僕は、いつのまにか彼に親近感を抱き始めていて。
 『ブラックジャックは最高やろ直ちゃん。手塚治虫晩年の傑作や。名エピソードには事欠かないけど俺的ベスト3挙げるなら「コルシカの兄弟」と「勘当息子」と「サギ師志願」で……』
 ヨンイル。
 『ええ加減素直になったらどや直ちゃん。漫画おもろいやろ?新しい世界が拓けたろ。世の中にはまだまだぎょうさんおもろい漫画が埋もれとるんや。俺の野望はな、古今東西の漫画ぜーんぶ読み尽くすことなんや。当面の目標は手塚治虫の著作全冊制覇!東京プリズンに来てから毎日たのしいで、嘘ちゃう、ホンマや。暇な一日漫画読み放題で幸せ噛みしめとる。いつか俺が死ぬときは本に埋もれて大往生したいなあ……』
 「笑わせる」
 ヨンイルが死ぬわけない。こんな現実は認めない。僕はヨンイルの死を全否定する、たとえどれほど可能性が低くても望みが薄くてもヨンイルの生存を祈る。
 弾かれたように跳ね起き、床を蹴る。
 「「鍵屋崎!?」」
 全速力で駆け出した僕をロンとサムライが同時に呼ぶ。だが、止まらない。僕にはヨンイルしか見えていなかった、まわりの光景など見えていなかった。両手に銃を構えて放心した五十嵐の足元、仰向けに寝そべったヨンイルの傍らに屈みこむ。
 「起きろ、道化!」
 ヨンイルは瞼を閉じていた。顔には血飛沫が散っていた。耳元で呼びかけても反応はなく、指一本動かない。額にかけたゴーグルにも血痕が付着していた。死。即死。そんなまさか。そんなことがあってたまるか。ヨンイルの頭を抱えて膝に乗せ、青褪めた顔を覗きこむ。ヨンイルの四肢はだらりと弛緩して無造作に投げ出されて、揃えた膝に頭を抱え上げても瞼はぴくりとも動かなくて。
 「ヨンイル、君は以前言ったな?君の野望は本に埋もれて死ぬことだと、大往生を遂げることだと!ならこんな所で死ぬな、ここは図書室じゃないぞ、君の死に場所じゃないぞ!野望はどうしたんだ、世の中に溢れる古今東西の漫画を読み尽くすという壮大に馬鹿げた野望を放棄していいのか!?」
 「そんな、ヨンイルさんが……畜生、こんなことって!まだ俺ヨンイルさんに恩返ししてないのに!」
 ヨンイル突然の死に西の囚人がどよめく。中には号泣する者もいる。ワンフーが力なく金網に凭れてくずおれる。ヨンイルの死が与えた衝撃で気力が折れた囚人が膝から崩れ落ちる。
 ヨンイルは人望あるトップだった、面倒見がよい性格から西の囚人皆に慕われていた。東西南北のトップでは最も人望と信頼を勝ち得ていた。レイジよりもサーシャよりもホセよりも自棟の囚人に慕われていた親しみやすいトップだった。
 「俺、ヨンイルさんに尻拭いさせてばっかで、何ひとつ返すことできなくて……ヨンイルさんは言ってくれたんだ、俺が出来心で安田の銃スッて、それがバレて落ちこんでるときに背中叩いて励ましてくれたんだ。
 『過ぎたことくよくよ気にすんな。お前の気持ちはわからんでもない、俺かてとおりすがりの古本屋に82年初版ガムガムパンチがおいてあって、手持ちの金足りんかったらスッてまうわ』って……ヨンイルさんらしい微妙な慰め方だけどそれでも嬉しかったんだよ、凛々にも愛想尽かされたどうしようもない俺のこと見捨てないでくれて最高に嬉しかったんだよ!!」
 ワンフーが金網を殴る。最前列に詰めかけた西の囚人が金網にしがみ付き、口々にヨンイルに訴えかける。

 「ヨンイルさん!」
 「ヨンイルさん!」
 「しっかりしてください、こんなオチなしっスよ、ヨンイルさんいつも言ってたじゃないっスか死にオチと夢オチはご法度だって」
 「読者に希望と夢を与えるオチじゃなきゃ俺は認めんて豪語してたじゃないすか」
 「復活してくださいよ」
 「主人公は不死身ってのが漫画のお約束でしょう」
 「一見死んだように見えて実は死んだふりしてるとか、よくある展開じゃないすか」……

 「聞こえるかヨンイル。こんな展開、読者は望んでないぞ」
 声が震える。僕に膝枕されたヨンイルは瞼を開けようともしない。
 ヨンイルは死んだ。
 もう、手遅れだ。
 「あれが、あんなのが遺言か?他にもっと言うことはないのか。君は最期の最後の瞬間まで手塚に未練を残して、自棟の人間のことや僕のことは何も考えてなかったというのか。遺される人間の心情を考慮しなかったというのか?
 なんて配慮の足りない、デリカシーに欠けた人間なんだ。社会不適合者の典型症例だな。現実と漫画を混同するのは君の悪い癖だ。君にとって漫画は現実逃避の手段だった、君は架空の世界に没入することで過去に犯して罪から目を背けた」
 頼む起きてくれヨンイル。
 ヨンイルの肩に手をかけ、最初は弱く、次第に激しく揺り動かす。自問自答は虚しい。君の声が聞けないと寂しい。図書室に君がいないと物足りない。僕はまた君と漫画の話がしたい、手塚治虫について討論したい。
 胸が熱くなる。手が震える。
 ヨンイルの肩を揺さぶり、懸命に呼びかける。
 「また逃げるのか君は?それで罪を償ったつもりか、二千人を殺した罪を龍に着せて自分だけ逃れたつもりか。なんて卑劣な人間なんだ!僕は認めない、死と引き換えた贖罪など欺瞞だ、ただの自己陶酔の自己満足だ!いいかよく聞けヨンイル、君は過去爆弾で二千人を殺した大量殺戮犯だ。
 僕は綺麗事が嫌いだから率直に言う、この世には確かに死んだほうがいい人間がいる、死んだほうが無害な人間が確実に存在する。
 それはおそらく僕で、おそらく君だ。過去二千人を殺した君も、IQ180という恵まれた頭脳を持ちながら両親を殺害した僕も、その他大勢の幸福を望むなら死んだほうがマシな人間には違いないんだ」
 そうだ、僕は死んだほうがいい人間だ。
 恵も僕の死を願っている、僕の死を望んでいる。
 だが僕は、それでも生きていたい。たとえ恵に憎まれても、恵に死ねと言われても、生への執着を捨てきれない。
 死にたくない。死ぬのは怖い。死は未曾有の虚無だ。理解を拒む虚無だ。
 自我が分解される圧倒的な恐怖、想像すら及ばない未知の恐怖。
 いや、違う。僕が死を恐れるのはそんな漠然とした理由だけじゃない、もっと具体的な理由がある。
 「聞け、ヨンイル。僕には友人がいる、仲間がいる。サムライがいてレイジがいてロンがいる。なるほどここは確かに地獄だ。けど、地獄にだって救いはある。一握りの希望がある。僕はそれを信じる!」
 だから目を開けろ。息を吹き返せ。
 ヨンイルの頭をかき抱き、胸に埋める。
 僕は神を信じないが、ヨンイルが心酔する漫画の神なら信じてもいい。

 「手塚治虫の著作を全冊制覇せず逝くなんて、道化の名が廃るぞ!!」

 ブラックジャックを庇って死ぬなんて、ヨンイルらしい死に方かもしれない。道化に似合いの最期、あっけない幕切れ。だが僕はまだヨンイルに死んでほしくない、ヨンイルを失いたくない。僕はヨンイルに親近感を抱き始めたばかりで、これからもっと彼と語り合いたいことがあって……
 ヨンイル。何故死んだ。何故こんなことになった。
 「!………っ」  
 膝に乗せたヨンイルの頭を抱きしめる。ヨンイルの死に顔は眠ってるように安らかだった。いつ瞼を開けてもおかしくないほどに……
 「…………う、」
 「!」
 懐でうめき声がした。驚愕、はっと顔を上げる。僕の腕に抱かれたヨンイルが緩慢に瞼を開ける。芒洋と薄目を開けたヨンイルの眉間を一筋血が伝う。ヨンイルの鼻梁に沿って顎先から滴り落ちた血……
 奇跡が起きた。ヨンイルはまだ死んでいなかった。鼻腔に手を翳して呼吸の有無を確認、シャツに手をおけば胸郭が浅く上下していた。生命反応は微弱だが、ヨンイルはまだ息があった。 
 そして、いくらか冷静さを取り戻した僕は気付いた。
 額のゴーグルに弾痕が穿たれて亀裂が入っていた。ヨンイルの眉間から流れ出した血は、着弾の衝撃で飛び散ったゴーグルの破片が額に刺さったものだった。ヨンイルの頭を膝に置いてゴーグルを毟り取れば、眉間を貫通して一面に血と脳漿を撒き散らすはずだった銃弾は、額に浅くめりこんで薄皮を裂いただけだった。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。それに加えてゴーグルが防壁となってヨンイルは即死を免れた。凄まじい強運……いや、違う。これは偶然などではない。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。
 「くそっ、くそおっ」
 今にも泣きそうに惨めな顔で、五十嵐が銃を構えている。失神したヨンイルにまっすぐ銃口を向け、震える指で引き金を掻いている。
 指で引き金を弾く音が虚しく響く。
 この場の誰より五十嵐自身が動揺していた。明確な殺意を込めて引き金を引いたはずが、ほんの一瞬の躊躇が指を鈍らせて銃口がずれたのだ。 
 「なんでだよ、なんで外れるんだよ、こんな大事な時に!漸く五年越しの復讐が果たせるってのに、リカの仇をとれるって肝心な時になんで指が言うこと聞かねえんだよ畜生!?」
 目元を神経質に痙攣させながら五十嵐が吠える。口汚く悪態を吐いてやり場のない怒りをぶちまける五十嵐の姿はどこまでも惨めで滑稽で同情を誘った。引き金から指が滑った事実を認めたくないばかりに、失神したヨンイルに銃口を向けて喚き散らす五十嵐に満場の注目が集まる。
 畏怖、当惑、敬遠……つい先日まで五十嵐に無邪気に懐いていた囚人が今はよそよそしく距離をとり、正視に耐えない醜態を晒す五十嵐を遠巻きに包囲している。五十嵐と囚人の間には不可視の壁が出来ていた。
 嫌悪に顔を強張らせ、畏怖の色を目に宿した囚人たちを睥睨し、五十嵐が絶叫する。

 「なんで……なんでそんな目で俺を見るんだよ、畜生が、どいつもこいつも畜生めが!俺は五年間死んだように生きてきたんだ、リカがいなくなってから何もかもうまくいかなくなって、何をする意欲もなくなって……俺の人生はこいつに台無しにされたんだ、俺たち家族はこいつに滅茶苦茶にされたんだ!
 こいつが遊び半分の手慰みに作った爆弾のせいでリカは細切れの肉片になった、かき集めるのも大変な肉片になって路上に散らばった!
 こいつは人殺しだ、くそったれだ、こいつが生きてるだけで俺は苦しいんだ、憎しみで窒息しそうなんだ!リカを殺したくせに不幸にしたくせになんだってお前はまだ生きてるんだヨンイル、図々しく生き長らえてやがるんだ、そんなこと誰も望んでねえのによ!?
 そうだ、お前が肉片になりゃあよかったんだ、自分が作った爆弾で自爆すりゃあよかったんだ、そうすりゃ因果応報の自業自得だって無理矢理にでも納得することができたのに……リカのいない人生になんとか折り合いつけて生きてくことができたのに!!」

 五十嵐は泣いていた。
 心の底に長年かけて蓄積された怒り哀しみ憎しみ、それら全部が涙に溶けて澱のように流れ出した。目尻から零れた涙が滂沱と頬を濡らして、点々と床に沁みた。
 右手で銃を構え、左手でそっと胸に触れる。 
 看守服の胸ポケットにしまってあるのは……亡き娘の写真を挟んだ免許証入れ。いつだったか、照れ臭げに笑いながら娘の写真を見せてくれた。「カミさんに似て美人なんだ」とまんざらでもなく惚気ながら、色褪せた写真を見せてくれた。ほんの数ヶ月前のことがやけに遠く懐かしく思い起こされる。
 あれから僕は変わってしまった。五十嵐も変わってしまった。どうしようもなく変わってしまった。

 もう、取り返しがつかないのか?

 『ああ。かわいいだろ、カミさん似だ』
 嬉しそうに。
 『「生きていれば」お前と同じ位だ」』
 寂しそうに。
 僕は、五十嵐を裁けない。五十嵐の行動を非難できない。五十嵐にはヨンイルを殺す動機がある、ヨンイルは殺されても仕方のない人間だ。僕だって恵が殺されたらどんな手を使っても犯人に復讐する、恵の無念と苦痛を犯人に味あわせて生への執着に足掻く姿を眺めながら徹底的に嬲り殺してやる。

 五十嵐と五十嵐の娘の人生を滅茶苦茶に破壊して。
 二千人の人生を滅茶苦茶に破壊して。

 ヨンイルは、殺されても仕方がない。
 人を殺したものは、いつか人に殺されても仕方がない。
 胸に手をやったまま、五十嵐が瞼を閉じる。手のひらに感じる心臓の鼓動とぬくもり。五十嵐の中で今もたしかに生き続ける娘の息吹。
 「次は外さねえ。これで最後だ」
 再び銃口を掲げ、呼吸を整える。
 おしまいだ。手足の先から絶望が沁みてくる。五十嵐の目は救い難い悲哀を帯びて翳っていた。これからヨンイルを殺そうというのにまるで自分のほうが痛みを感じてるような、ヨンイルを射殺することで自分の心をも撃ち抜こうとしてるかのような、悲愴な決意を映した顔だった。
 ただただ、痛々しい姿だった。
 「どけ、鍵屋崎。そんな奴を庇って死ぬつもりか?娑婆に妹がいるんだろう。生きてここを出たいだろう。なら、そこをどけ。道化が脳漿ぶちまける瞬間を大人しく見物してろ。ヨンイルが死ぬとこ見たくなけりゃほんのちょっとだけ目を閉じてりゃいい。三秒もかからねえさ」
 僕は、どうする?銃口で脅されて、五十嵐の命令通り素直に場所を空ける?
 ヨンイルの頭を胸に抱き、焦燥に焼かれて目を閉じる。
 五十嵐。僕に手紙を届けてくれた。僕がいちばん苦しくて辛い時に希望を運んでくれた。僕が今ここに在るのは五十嵐がいたからだ、僕は五十嵐に救われたのだ。
 その五十嵐が、ヨンイルを殺したいという。
 ヨンイルを殺して娘の仇をとりたいという。
 「…………」
 いいじゃないか。五十嵐が殺したいと言うならそうすればいい。
 五十嵐の復讐は正当なものだ。ヨンイルが作った爆弾でかつて二千人の人間が殺された。ただパレードを見にきただけの市民が大規模なテロの巻き添えで殺された。こんな奴、生かしておく意味などない。ヨンイルは過去二千人を殺した大量殺戮犯で、倫理観の欠落した犯罪者で……
 そうだ。ヨンイルこそ本当の意味で、死んだほうがマシな人間だ。
 ヨンイルが死ねば五十嵐が救われる。五十嵐は僕の恩人だ。ヨンイルを殺して五十嵐が救われるなら、それでいいじゃないか。なにを迷うことがある、ためらうことがある、鍵屋崎直?ヨンイルは僕の友人でもなんでもない、東と西に分かれて敵対する立場の人間じゃないか。 
 瞼を開け、ヨンイルの寝顔を覗きこむ。安らかとさえ表現してもいいだろう寝顔。 
 
 かつて二千人を殺しておきながら、僕の膝で呑気に寝てるヨンイルなど死ねばいい。
 死んだほうがいい。
 それで五十嵐が救われるならば、それはいいことなのだ。

 『直ちゃんは図書室のヌシのダチで、西の道化の敵。
 今の俺は、道化や』 
 いいことなのだ。  
 『さあ拝め。有り難う目に焼き付けろ。こいつが俺の体に棲んどる龍、道化の身の内に宿る人食い龍や』
 いいことのはずなんだ。
 『おおきに』
 いいこと……

 「………はずが、ない」
 いいことの、はずがない。
 「…………なんだと」
 五十嵐がうろんげに眉をひそめる。気色ばんだ問いに顔を上げ、五十嵐を正視。
 「僕はどかない。ここをどくわけにいかない。僕がどいたら、貴方は確実にヨンイルを殺す。僕はヨンイルの死を望んでない。彼に生きて欲しいと願っている。だから命令に従うわけにはいかない、絶対に」
 命令を拒否した僕の眼前、五十嵐の顔に怒気が滾る。
 「―っ、お前も殺してやる!!!」
 怒りに駆られてまわりの状況が見えなくなった五十嵐が咆哮、力一杯腕を振り上げる。撃たれる。そう直感し、ヨンイルの頭を抱いて目を閉じる。
 サムライ。ロン。レイジ。安田。恵。脳裏を過ぎる複数の顔…

 「鍵屋崎!!!」

 悲鳴じみた絶叫が耳を貫く。そんなに叫んで喉が嗄れないか?誰かがこちらに駆けてくる。誰だ?一人じゃない。二人、三人……
 「………お、まえらは、なんなんだよ」
 うろたえきった五十嵐の声が鼓膜を頼りなく叩く。用心深く薄目を開ける。ヨンイルを胸に庇った僕の右側にサムライが、左側にロンが、背後に安田がいた。サムライとロンは床に片膝つき、両側から僕を支えていた。重傷の安田は荒い息を零しつつ、僕が倒れないよう肩を掴んでくれた。

 ヨンイルを守りたいのは、僕一人じゃない。

 サムライも、ロンも、安田も。怪我でぼろぼろで、体力も気力も尽きて果てそうなのに。二本の足で立てるのが奇跡に近い体調なのに、僕とヨンイルを庇うように弾道に身を曝している。
 強い意志を双眸に宿した、真剣な顔で。
 「なんなんだよ…………なんなんだよおっ!!お前らみんな死にたがりかよ、どうしてしゃしゃりでてくんだよ、銃が怖くねえのかよ!どうしてこんなやつのためにそこまでするんだ、ヨンイルなんか死んだっていいじゃないか、お前らが命捨てて盾になる意味ねえじゃねえか!」
 五十嵐が身を灼かれて悲鳴をあげる。僕らの行動が理解できないといった戦慄の表情。安田の手に重ねて僕の右肩に手をおいたサムライが、今一度自らと向き合うように目を閉じる。 
 再び瞼を上げた時、サムライの目には強靭な意志と崇高な矜持が宿っていた。
 「俺は直を守る。直が守りたい人間も守る。ヨンイルが死ねば直が泣く。俺は直が泣くのを望まない、これ以上直が嘆き哀しむ姿を見たくない」
 眼光鋭く、まっすぐに五十嵐を射抜くサムライの双眸に一片たりとも迷いはなかった。サムライの眼光に気圧された五十嵐が、ロンへと矛先を転じる。
 「ヨンイルはレイジのダチだ。ヨンイルがくたばれば、レイジが哀しむ」
 僕の左肩に縋り、ロンが微笑む。
 「……それに、ヨンイルは俺に漫画をもってきてくれたんだ。入院中の俺が退屈してると思って、足の踏み場もねえくらい沢山の漫画を土産にさ。馬鹿だよな、こいつ。死ぬほど漫画が大好きで、手塚治虫が大好きで……そうだ、前にこんなことがあったんだ。俺が明日のジョー夢中で読み耽ってたら、近くにいたコイツがネタバレして、力石とジョーの対決の行方とかジョーの最期とか全部ぶちまけちまって。
 マジで腹立ったよ、あの時は。
 とんでもねえよ、コイツ。先のたのしみ奪いやがって畜生、漫画好きの風上にもおけねえって……けどさ。やっぱり、こいつがいなくなるの嫌だ。寂しい。図書室にコイツの姿がないと、なんだか落ち着かねえんだ。コイツの笑い声が聞こえないと物足りねーんだ。静かになって、かえっていいはずなのにな。おかしいよな」
 折れた肋骨が痛むのか、苦しげに顔をしかめながら、それでも身を乗り出してロンが言う。言い残すことを恐れるように、五十嵐に必死に訴える。
 「俺さ、結構コイツのこと好きなんだ。だから、殺さないでくれよ」
 一つ言葉を絞りだすのにも胸が軋んで激痛に襲われて、僕の肩に凭れて呼吸を整えて、それでも続ける。
 「ヨンイル死んだら、寂しいよ。すっげえ寂しいよ」
 「…………っ、」
 追い詰められた五十嵐が助けを乞うように安田に視線を投げる。  
 「……私は、なにも偉そうなことを言えない。今回の不祥事はすべて私の責任だ。私の不注意で銃が紛失して、こんなことになった。私は君を説得する言葉すら持たない、既に副所長の資格を失くした人間だ。東京少年刑務所に本来いるべきでない人間だ」
 片手で肩を押さえた安田が、複雑な色を湛えた目で五十嵐を見る。
 「……正直、君のしてることが間違っていると断罪できない。テロの巻き添えで子供を亡くした父親の心情を十分に理解してるとは言えない。でも、おそらく。これは仮定だが、私が君の立場でも同じ事をする。不条理な理由で子供を奪われたら、目的の為なら手段を問わずに犯人に復讐したいと思う」
 激しい葛藤に揺れ動きながら、安田が何故か僕を見る。
 いつもきっちり撫で付けたオールバックが乱れ、憔悴の色濃い顔に落ちかかる。一房額にたれた前髪をもはやかきあげる気力もなく、苦渋に満ちて吐き捨てる。
 「……子供には、幸せになってほしかったのに」
 「なら!!あんたならわかるだろう俺の気持ちが、俺の身になって考えることができるあんたなら引き金を引かせてくれるだろう!?俺はずっとヨンイルを殺したくて殺したくてたまらなかった、リカの仇をとりたくてしかたなかったんだよ!リカを不幸にした代償を払わせたくて、リカの父親として最後に誇れることをしたくて」
 「これが誇れることか!?」
 安田が激昂する。
 鞭打つように叱責された五十嵐が慄然と立ち竦む。
 「人殺しが誇れることか、五十嵐看守?君は本当にそう思っているのか。君を父親のように慕う囚人の信頼を裏切り、私怨で銃をとることが誇れると?君がなりたかったのは、そんな父親か。正義を語って騙って、殺人を正当化するのが理想の父親だとでもいうのか」
 「知ったふうな口を利くな、俺たちの五年間を知らないくせに!!」
 発狂したように叫ぶ。口角泡をとばして首を巡らせて、世界を全部敵に回したように恐怖を剥き出して安田を罵る。檻の外側にも内側にも五十嵐の居場所はない。五十嵐の居場所はもはや東京プリズンの何処にもない。手の震えが銃に伝わり、照準が激しくブレる。
 僕、サムライ、ロン、安田を順繰りに巡った銃口をヨンイルに固定して、嗚咽まじりの悲鳴をあげる。

 「俺たち家族の五年間を知らないくせに、知ったかぶりをするなよ!子供がいねえあんたに何がわかる、わからないだろう子供を亡くした父親の気持ちなんて、父親でいられなくなった父親の気持ちなんて!俺はずっとリカの父親でいたかったんだよ、リカに『お父さん』て呼んでほしかったんだ。将来彼氏連れてきたら普通の父親がそうしてるみたいにヤキモチ焼いて、あいつの結婚式じゃどもりながらスピーチして、いつかは孫をあやして抱いて……何ひとつ高望みなんかしなかった、家内とリカがいりゃそれでよかった。
 リカが死んでからもっとああすりゃよかったこうすりゃよかったって毎日毎晩自分を責めたよ。あいつが小遣い上げてくれてって頼んできたとき聞いてやりゃよかったとか、修学旅行の前の夜に洗濯物畳んでたとき、もっと他に言うことあったんじゃねえかって……リカはブラックジャックが初恋だったんだよ。ブラックジャックと結婚したいって言ってたんだよ。俺は笑いながらそれを聞いてた、今はこんなこと言ってるけどリカはすぐにでかくなって他の男のもんになっちまうだろうなって寂しく思いながら……
 ところがどうだよ。リカは死んじまった。くだらねえテロに巻き込まれて殺されちまった。畜生、なんであの時止めなかったんだよ!こうなるってわかってりゃ止めたのに、リカが泣こうが喚こうが絶縁されようが行かせなかったのに逝かせなかったのに!!」

 五十嵐が怒鳴る。
 サムライもロンも安田も五十嵐に対する反発と共感を等分に抱いて沈痛に黙りこんでいた。 
 五十嵐は泣いていた。自制の箍が外れて感情の堰が決壊して、泣きたくても泣けずにいた五年分の涙を流しているようだった。沈黙の内に自分を見守る観客の視線を薙ぎ切るようにかぶりを振り、両腕をまっすぐに伸ばして銃を構え直す。
 「お願いだよ、殺させてくれよ。こいつ殺せば終わるんだ、自分を許せるんだ。ラクになれるんだ」
 「できない」
 僕は首を振る。
 「なんでだよ!!?」
 五十嵐が叫ぶ。
 「……五十嵐。こんなことをして、天国の娘が喜ぶと思うか」
 平板な口調で問いかければ、五十嵐が自嘲の笑みを吐く。
 「ガキのくせに、お前まで俺にお説教垂れるつもりかよ?その台詞は聞き飽きたぜ。そんなことをしてなんになる、正気に戻れ五十嵐、今のお前を見て天国のリカちゃんが喜ぶと思うか?
 はっ、くだらねえ。リカが天国にいるってなんでわかるんだよ、大体どこにあるんだよ天国って。行って見てきたわけでもねえくせに、死んだリカが今でも生きてるみてえに脅しかけて、それで復讐思いとどまらせようなんざ反吐がでるほど卑劣なやり口だと思わねえか。偽善臭がぷんぷん匂うぜ。
 いいか?リカはもういねえんだ。死んじまったんだ。もうとっくにこの世にいねえ人間が、この世から消された人間が、哀しんだり喜んだり泣いたり笑ったりできるわけねだろ。生きてる人間が当たり前にやってることを、当たり前にできるわけねえだろ。
 『こんなことをして死んだリカが喜ぶと思うか』だと?くそくらえだ。どうやったらリカが喜べるんだよ。リカは死んだんだぜ。哀しいとか悔しいとか嬉しいとか楽しいとか、暑いとか寒いとか痛いとか苦しいとか、一切合財感じることできなくなったんだぜ。さっぱり無くなっちまったんだぜ」
 「その通りだ」
 あっさり肯定すれば、五十嵐が大仰に目を剥く。
 サムライもロンも安田も、僕の正気を疑うようにこちらを見つめている。 
 「くだらない。実際口にしてみて痛感したが、偽善の集大成の薄っぺらい言葉もあったものだ。今すぐ口をすすぎたい。
 『こんなことをして死んだ人間が喜ぶと思うか』?倫理破綻した、矛盾した言葉だ。古今東西で最も卑劣極まる、最低の説得方法だな。人は死ねば蛋白質の塊になるだけだ、思考停止した蛋白質の塊が喜怒哀楽を感じるわけがない。僕は無神論者だ。神も霊魂も天国も信じない。人は死ねば無くなる、自我が分解されて消えてしまう、それだけだ」
 僕にはわかる。
 五十嵐は娘の為ではなく、自分の為にヨンイルを殺すのだ。
 「ヨンイルを殺したところで娘は帰ってこないとわかっていながら引き金を引くのは、娘の無念を晴らすという大義名分があるからじゃない。 
 そんなものはどこにもない、どこを探したところで見当たらない。死者を代弁した復讐など、自分が罪を負いたくない卑怯者がやることだ。自分で罪を負う覚悟がない偽善者がやることだ。
 五十嵐、今貴様がしてることは正義でもなければ大義でもない。そんな偽善はどこにもない、貴様はただ単純に純粋にヨンイルが憎くて引き金を引こうとしてる。僕は貴様を裁けない。僕は人殺しだ、親殺しだ。この手で鍵屋崎優と由佳利を、僕を十五年間育てた両親を殺害したんだ」
 二人を刺した時の感触はまだ手に残ってる。一生かかっても拭えない。
 瞼の裏側に甦る鍵屋崎優の顔、由佳利の顔。僕は恵を守る為に彼らを殺した、殺さなければならなかった。

 父さん、母さん。

 「僕は人殺しだから、これから人殺しになろうという貴様を裁けない。憎ければ人を殺す、それが人間本来の在り方ならヨンイルを殺すのは正しい!僕だって恵が殺されたら同じことをする、哀しくて悔しくてやりきれなくて、足掻いて足掻いてみっともなく足掻き続けて、恵が味わったのと同じだけの苦しみを、いや、それに倍する苦しみを犯人に与えてやる!!救われないとわかっていてもそうせずにはいられない、恵を殺した人間が目の前で自然に生きて笑っていて、僕だってきっとそんな現実には耐えられない!」

 僕がしたことには取り返しがつかない。
 父さんと母さんは戻ってこない。

 わかってる、そんなこと。わかってるに決まってるじゃないか。僕を誰だと思っている、IQ180の天才鍵屋崎直、鍵屋崎優と由佳利の自慢の息子だぞ。 
 両親を殺してしまった僕が、ヨンイルの同類の人殺しの僕が、五十嵐に何を言える?テロの巻き添えで子供を亡くした父親の絶望の深さを測れる?
 五十嵐に言うべき言葉など何ひとつ持たない僕が、五十嵐に言えることはただひとつ……
 「だからこれは、僕のわがままだ」 
 五十嵐リカを引き合いにだしてヨンイルを殺すなとは言えない。そんな卑劣なこと、口にできない。死者を代弁する脅迫は偽善の骨頂だ。だから僕は言う、僕の腕の中で眠るヨンイルを守りたい一心で本音を言う。

 「ヨンイルが死んだら僕が哀しむ。頼む、ヨンイルを殺さないでくれ!!!」 
 
 ヨンイルが死んで哀しむのは五十嵐リカではなく、この僕だ。ロンであり、サムライであり、レイジであり、西の囚人たちだ。
 「……………そう、だ」
 檻の外で固唾を飲んで事の成り行きを見守っていたワンフーが、呟く。
 「ヨンイルさんが死んだら俺が哀しい、俺が泣く!ヨンイルさんがいなくなったらつまんねえよ、いやだよ、殺さないでくれよ!ヨンイルさんは確かに阿呆で馬鹿で無神経なとこあるけど、俺と一緒に鍵屋崎に謝ってくれたんだ!俺の分まで鍵屋崎に頭下げてくれたんだ、安田の拳銃スッたのは俺なのに、そんな俺のこと最後まで面倒見てくれたんだよ!『しゃあない奴っちゃなあ』って笑いながら!」
 「五十嵐、ヨンイルさん殺さないでくれ!どうしてもって言うなら俺がヨンイルさんの代わりに撃たれるから、ちょっと痛えくらい我慢するから、それで勘弁してくれよ!ヨンイルさんがあんたの娘の仇だってのはよくわかったよ、俺にも外に残してきたガキいるから気持ちわかるよ、でも俺ヨンイルさんのこと好きなんだ、時々しょうもねえトップだけど……俺が東京プリズンで今日まで生き残れたのはヨンイルさんのおかげなんだよ、ヨンイルさんは恩人なんだよ!」
 「ヨンイルさんが死ぬのはいやだ!」
 「笑かし騒がし役の道化がいなきゃ毎日しんきくさて息が詰まっちまうよ!」
 「ヨンイルさん!」
 西の囚人たちが金網に縋り付き、懸命に叫ぶ。ヨンイルの無事を祈る声は次第に大きくなり、遂には会場中に行き渡る。
 「…………うっ、くぅ……」
 五十嵐の口からひび割れた嗚咽が漏れ、だらりと腕がたれさがる。床に膝を屈した五十嵐の胸ポケットから、黒革の免許証入れが落ちる。免許証入れが開き、古い写真が現れる。
 五十嵐リカは泣きながら笑っていた。
 そう見えたのは、床に手を付いてうなだれた五十嵐の涙が写真に落ちたからだ。
 あとから、あとから、とめどなく。

 終わった。

 「……拳銃をとってくる」
 「怪我は大丈夫ですか」
 低く呟き、腰を上げた安田を目で追う。
 「これは私の役目だ。他人に任せるわけにはいかない」
 前だけ見て毅然と言い放った安田は、既に人を寄せ付けないエリートに戻っていた。肩を片手で庇い、慎重に五十嵐に歩み寄る。そんな安田の背中を、僕はサムライに抱かれて無言で見送っていた。
 「よくやった、直」
 サムライが耳元で囁く。
 「すごい奴だよ、お前」
 ロンが僕の肩に凭れかかる。
 限界値まで張り詰めた緊張の糸が切れてその場にへたりみ、ため息まじりに言う。
 「低脳に称賛されると侮辱された気分にな、」

 視界の隅で何かが動く。

 「!!」
 そちらを向いた僕は見た。這う這うの体のタジマが懐から手錠を取り出すところを、投げるところを。
 タジマが力一杯投げた手錠は狙い違わず五十嵐の手首を直撃、拳銃を弾き飛ばす。
 「俺だけのけ者にして大団円なんて認めねえ、どうせもう俺はおしまいだ、だが俺だけじゃねえ、親殺しも半々もエリート気取りの若造もお前ら全員道連れにしてやらあああっああっあっあ!!!!」
 拳銃が高く高く浮上する。
 僕たちの頭上を越え、放物線を描き、檻の外側に落下しつつある拳銃にタジマがとびかかる―……
 
 「タジマに銃をとらせるな!」
 「心得た!」
 「駄目だ、間に合わねえ!!」
 
 サムライがタジマの背に駆け寄る、僕とロンも駆け寄る。
 タジマが金網に激突、自重で金網が倒れる。振動、衝撃。濛々と舞いあがる埃。銃はどうなった、誰の手に渡った?埃にむせながら顔を上げた僕の前にいたのは―……
 『Really!?』
 両手で銃を抱えたリョウだった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050721154658 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。