ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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五十七話

 レイジの野郎、速攻約束破りやがって。
 無事帰ってこいって言ったじゃねえかよ、さんざん言い聞かせたじゃねえかよ、くどいほど念を押したじゃねえかよ。
 俺はレイジが心配だ。心配で心配でいてもたってもいられない。
 レイジは自分の価値を安く見積もり過ぎだ。自分の命を安く見積もり過ぎだ。俺を守り抜くためなら自分がどれだけ傷付いてもかまわないと、たとえ自分が死にかけたところで一片の悔いもないと、あいつは腹の中じゃそう思ってる。今でも思い続けている。
 俺はレイジの相棒だ。だからあいつの考えてることはよくわかる、他のだれよりレイジの身近にいてレイジの表情を読むのに長けた俺だからこそレイジが口には出さない本音がわかっちまう。
 結果、レイジは敵に背中を見せるという致命的なミスをおかした。
 サーシャは最初から全部見ぬいていた。レイジから隙を引き出したければレイジ本人ではなく俺を攻撃すればいい。そうすればレイジは冷静な判断力を失い、俺を助けることを何より優先して無防備になるに決まってるのだ。
 サーシャはレイジの弱みにつけこんだ。レイジの弱みは俺だ。俺はまたレイジの足を引っ張っちまった。
 「くそっ……!」
 俺はどうしてこう役立たずなんだ、レイジの足を引っ張ってばかりなんだ?なんですぐに避けなかった、逃げなかった。
 折れた骨折がうずいてとっさに後退できなかった。
 体の怪我を言い訳にするつもりか?
 情けない。
 自分が情けない。
 レイジのために何もしてやれない自分が情けない、無力が歯痒い。
 今の俺に何ができる?相棒ただひとりをリングに上がらせて自分は金網越しに指くわえて見てるだけ、傍観者の立場に甘んじてるだけ。
 俺にはただレイジを応援することしかできないのか、無責任に「頑張れ」とほざくことしかできないのか。
 レイジは今だって十分すぎるほどに頑張ってるのに、片腕の激痛を堪えて頑張りすぎるほどに頑張ってるのにこの上まだ無理を強いるつもりなのか。
 「自分のことを足手まといだとでも思っているのか。自己憐憫に酔っている余裕があるならちゃんと顔を上げて現実を直視したらどうだ」
 冷淡な声にはじかれるように顔を上げ、隣を見る。鍵屋崎は身動ぎせず立ち竦んでリングを見つめていた。
 眼鏡越しの双眸を思慮深く細めてリングを凝視していた。息を詰め、鍵屋崎の様子を窺う。努めて平静を装っているが、完全には動揺を封じ込められてない証拠に体の脇でこぶしを握りしめていた。
 深刻な面持ち。
 金網越しの安全圏にありながら、自分もまたリングに上がってレイジとともに闘っているような厳しい表情だった。眼鏡のブリッジに人さし指を添えて俺へと向き直った鍵屋崎は、感情の窺えない低い声で淡々と畳みかける。
 「逃げるな、甘えるな、目を逸らすな。自分の無力を呪うのは後回しだ。
 今君がすべきことはそんなくだらないことか、自身の無力を呪い自身の非力を憎み自己憐憫に溺れて自虐的な快感に浸ることか?そうやって首をうなだれて金網に寄りかかって現実逃避することか?違うだろう、そんなわけがない」
 鍵屋崎の言葉は厳しかった。叱咤よりも叱責に近かった。物静かな口調でありながら鞭打つような響きがあった。どこまでも率直に俺を奮い立たせる言葉。
 片方割れたレンズの奥で目を細め、レイジに共感するように一瞬痛ましげな表情を覗かせた鍵屋崎が、すぐまた無表情に戻って続ける。
 「君は無力で非力だ。とるにたらない存在だ。だから何だ、それがどうした、君が無力で非力なことがレイジを見捨てる免罪符になるのか?
 ちゃんと顔を上げろロン、目を閉じるんじゃない、レイジの唯一無二の相棒として義務と責任を完遂しろ。自己嫌悪など振りきれ、くだらない。自己憐憫から脱却しろ、くだらない。いいかロン」
 鍵屋崎が吐息のかかる距離に顔を寄せる。鍵屋崎の背後にはサムライがいた。金網に背中を立て掛けて疲労困憊の様子で荒い息を零していた。
 血が乾いたズボンを足の付け根までまくりあげ、剥き出しの太股に真新しい包帯を巻いていた。
 サムライは無言で鍵屋崎の背中を見守り、鍵屋崎と対峙する俺とを見比べていた。包容力に溢れた力強い眼差し。油断ならぬ猛禽の眼光を宿した双眸が鍵屋崎の背中に注がれる時だけは角がとれて柔和に凪いだ。
 正面から俺の目を覗きこみ、極力抑えた口調で鍵屋崎が言う。
 「自信をもて。君は無力で非力でとるにたらない凡人だが、それでもレイジの相棒だ。僕にとってサムライがかけがえのない相棒であるように、レイジにとっては君が他の何物にも替え難いかけがえのない存在なんだ。
 レイジを暗闇から引きずり出したのは君だろうロン。僕にはレイジを助けることができなかった、レイジを暗闇から連れ出すことができなかった。
 しかし君はたった一晩でそれを成し遂げたじゃないか、レイジの手をあやまたずに掴んだじゃないか。君はもっと誇っていいんだ、正当に自負していいんだ。君自身に特別な価値を見出していいんだ」
 あっけにとられた俺を前に急に気恥ずかしくなったのか、わざとらしく咳払いした鍵屋崎が体ごと金網に向き直り、死闘が繰り広げられるリングに視線を投じる。
 とりつくしまもない無愛想な横顔はそれ以上の詮索を拒絶していたが、鍵屋崎が不器用なりに俺を気遣ってくれてることはよくわかった。
 「……雑談はおしまいだ。くだらないお喋りに時間をとられて大事な試合を見逃しては本末転倒だ。前を向けロン、まだ試合は終わりじゃない。レイジの闘志は依然衰えてない。相棒の君が真っ先にレイジの敗北を確信してどうする?王様が知ったら憤慨するぞ」
 「……けっ。お前に説教されなくてもわかってるっつの」  
 鍵屋崎の毒舌で元気がでてくるなんて俺もやきが回った。
 今ならわかる、鍵屋崎は鍵屋崎なりの不器用なやり方で俺に発破をかけたんだろう。
 平手で頬を叩いて喝を入れる。いい音が鳴った。
 そうだ、鍵屋崎の言うとおりだ。レイジの相棒の俺が、だれよりも今いちばんにレイジを信じてやらなきゃいけない俺が真っ先に勝負を投げてどうする?
 鍵屋崎のお説教で目が覚めた。
 ポケットに手を潜らせ、手探りで牌を掴み、握りしめる。この牌だけが唯一俺とレイジを繋ぐもの、絆の形。レイジもこれとおなじ牌をポケットの中に持っている。手のひらに牌を握り、一心に念じる。
 レイジの勝利と生還を。
 「優しいな」
 牌に願掛けする俺の耳朶にふれたのは、笑みを含んだ呟き。
 振り返ればサムライが微笑んでいた。サムライの笑顔なんか滅多に見れないからあ然とした。何のことを言ってるんだろうと不審がった俺の隣、ひどく気分を害したらしい鍵屋崎が不機嫌に吐き捨てる。
 「侮辱するな」
 プライドを傷付けられたといわんばかりの言い草だった。
 胸の前に持ってきた手の中で牌を温め、再びリングを睨む。サーシャに腕の包帯を切り裂かれたレイジだが、すぐに腰から下の安定を取り戻して防御に徹する。幸いナイフは包帯を掠めただけらしく安堵したが、腕に包帯を絡めてサーシャの猛攻をかわすレイジの動きが鈍りはじめたのは明らか。
 「スタミナ切れか。無理もない、腕に重傷を負っているのに激しい運動を続ければいずれこうなるとわかりきっていた」
 寸評を挟む鍵屋崎の顔も苦い。サムライの顔には物憂げな翳りがあった。レイジは次第にサーシャに追い詰められていた。切り裂かれてばらけた包帯の下からは、鋭利な刃物でざっくりやられた傷口が覗いていた。痛そうだった。
 包帯がはだけて外気に晒された傷口が疼くのか、動体視力の限界に迫る速さで繰り出されるナイフを間一髪避けつつレイジが顔をしかめる。
 化膿した傷口に外気が染みる。息が上がる。
 苦痛と焦燥とが綯い交ぜとなった表情、眉間に刻まれる被虐の皺。
 「どうした、息が上がっているではないか。私の下で淫らに喘いでいたときの威勢はどうした?」
 サーシャの嘲弄が冷たく響く。銀の軌跡を曳いて虚空を薙ぎ切る刃の残像。
 「『淫らに喘いでいた』とか普通に言っちゃうなよ恥ずかしい」
 「事実を言ったまでだ」
 レイジの軽口など問題にせず鼻で笑い捨てサーシャが狂ったようにナイフを振るう。冴えに冴え渡るナイフの切れ味。レイジはすれすれでナイフをかわしているが、次第にそれも難しくなってきた。
 鋭利な刃があざやかにひるがえり、滑降し、レイジの脇腹を擦り抜ける。
 「!痛っ、」
 切り裂かれたシャツの下の素肌に淡く血が滲む。ナイフが擦過したあと。
 続けてサーシャがナイフを振るう、一瞬たりとも手を止めず緩めず、レイジの体力が回復するのを待たずに。毒牙を剥いた蛇のように変則的な手の動き、腕の関節など無いかのような柔軟かつ奇怪な動き。
 毒蛇が呼気を吐くような風切る唸りをあげて襲い来る刃がレイジのシャツを掠め皮膚を裂き血を滲ませる。
 殆ど一方的といっていい攻撃にレイジは歯向かう術をもたない、反撃の機が掴めない。そもそもサーシャが反撃の隙を与えないのだ。
 胸の内側で感情が沸騰する。
 俺の目の前でレイジが成す術なく追い詰められている。
 いつも不敵に余裕ぶっこいた無敵の王様が、あろうことかサーシャごときに追い詰められて絶体絶命の窮地に立たされてる。
 悪い冗談だ。おかしいだろこんなのって、ありえないだろ。
 「レイジなにちんたらやってんだよ、お前らしくねえよこんなの、いつもみたく余裕で終わらせよ!」 
 俺は無茶を言ってる、頭ではわかってる、ちゃんとわかってる。
 レイジは一杯一杯なんだ、腕の傷口は化膿してじくじく疼いて理性も吹っ飛びそうな激痛に絶え間無く襲われて、レイジは今二本足で立ってるだけで精一杯なんだ本当は。わかってるよそんなこたあ畜生、でもじゃあどうするんだよ、このままサーシャにやられっぱなしで終わっちまうのかよ!!
 「くそったれが!!」
 「え?」
 叫んだのは俺じゃない。癇癪を起こして金網を蹴り上げたのも俺じゃない。いつのまにか俺の隣にやってきていた凱だ。怒りに真っ赤に充血した顔の凱をきょとんと振り仰ぐ。
 「お前なんでこんなとこに、」
 言葉は続かなかった。唐突に凱に胸ぐら掴まれて、足裏が浮くまで吊られたのだ。
 「なんでこんなとこにだあ、お前が俺をパシらせたからに決まってるじゃねえかよ!!俺のケツ蹴飛ばして地下停留場までパシらせたくせに礼ひとつ言わず乗り捨てて無視か、ド忘れか?てめえ何様だこの半々が、用済みになった途端にひとのこと綺麗さっぱり忘れやがって!!」
 「うっせえな、こちとらそれどころじゃねえんだよ!運賃要求すんならあとにしやがれ、今はレイジの試合中だ、他のことなんか考えてらんねえよ!試合終わったら気が済むまで付き合ってやるよ、約束どおり気が済むまで俺のこと殴って蹴ってめためたにすりゃいいだろうが!」
 売り言葉に買い言葉で威勢よく吠える。実際今の俺には凱に関わりあってる余裕がなかった、あたりまえだ、相棒の一大事に凱の相手してやるほどお人よしじゃない。
 俺の胸ぐら掴んだ凱の手をこじ開け、やり場のない衝動に駆り立てられて咆哮する。
 「とっとと手え離せよ親馬鹿暴れ牛が、俺は最後までレイジに付き合う覚悟決めたんだ、何もできなくても役立たずでもレイジのそばにいてやるって決めたんだよ!」
 「半々のくせに、」
 舌打ちした凱の横顔にぴたりと木刀がつきつけられる。
 「そこまでだ」
 凱の背後、木刀を携えて立ちあがったサムライが鬼気迫る眼光を放つ。 
 「レイジの試合中に無粋な真似をするな。失せろ」
 静かな怒りを漲らせたサムライが言葉少なに命じ、鍵屋崎が同感だと隣に並ぶ。この場の全員から不興を買った凱が、非難の眼差しを跳ね返すようにふてぶてしく唇を捻じる。
 「……は、この俺様をみくびってもらっちゃあ困るぜ。口の減らねえ半々を痛めつけるのは後回しだ。
 そういう約束だからな」
 「だったらなんで、」
 「気に入らねえんだよ、試合の成り行きが」
 足元の床に唾を吐いた凱が、忌々しげにリングを睨む。金網の向こう側ではサーシャの猛攻により劣勢に追い込まれたレイジが、体前に翳したナイフで凶刃を弾きつつ肩を喘がせていた。
 「ふざけんなよ糞が。あれが東棟の王様かよ、東棟のナンバー1かよ、東京プリズン最強の男かよ。俺が何度喧嘩ふっかけても鼻歌まじりに返り討ちにしてくれた無敵の男かよ。なんだよあのザマは情けねえ、サーシャにやられっぱなしで手も足もでねえじゃねえか!なあロン、これは一体なんの冗談だ?ありゃ本当に俺の知ってるレイジと同一人物か、片腕の怪我くらいで音をあげる根性なしが!?」
 凱は激怒していた。地団駄を踏み、何度も金網を蹴り付ける。レイジの注意を引こうとでもいうように、図体でかい子供が駄々をこねるように。鍵屋崎はぽかんとしていた。サムライの殺気は霧散していた。
 「畜生が、あんな腑抜けが東棟の王様だなんて認めねえ、天地がひっくりかえっても認めてたまるかよ!!どうしたレイジやり返してみろ、鼻歌まじりに俺たち蹴散らしたときみてえにサーシャぶちのめせよ!レイジをトップの座から引きずりおろすのは他のだれでもねえこの俺様だ、サーシャに見せ場横取りされてたまるかよ!俺はいつかレイジの顔を擦りつぶして東京プリズンの天下とるって決めたんだよ、それが夢だったんだよ!!」 
 眼中にない俺を突き飛ばして金網を揺すりたて、悲愴な形相で怒鳴る。
 『加油、不要客気!!』 
 レイジ遠慮はいらねえ、やっちまえ。
 頑張れ。
 凱の心からの叫び。偽り無い本音。その時俺は腑に落ちた。凱が俺を目の敵にしてしつこくちょっかいかけてきた本当の理由が、最大の動機が。
 それは俺が台湾と中国の混血だからじゃなくて、薄汚い淫売の股から産まれた半々だからじゃなくて、レイジに反感を抱いてたからだ。
 レイジとサムライがいるかぎり凱はいつまでたってもナンバー3どまりで、どんだけ手下集めて数を嵩にきても王様にはかなわなくて。
 凱にとってレイジは決して超えられない目標で。
 でも、いつか超えたい目標で。
 「俺以外の奴に負けたら承知しねえぞ、王様!!」
 凱も心の底では、密かにレイジを認めてたのだ。子分どもの手前おおっぴらにできなくとも嫉妬と羨望の入り混じった複雑な感情をレイジに抱き、小突きやすい俺をその捌け口にしていたのだ。
 自分以外の男にレイジが倒されることなどあっちゃならない絶対に。
 『……加油』
 口が勝手に動いていた。「頑張れ」。頑張れ負けるな、レイジ。
 こぶしに握りこんだ牌を胸にあてがい、凱の巨体をおしのけるようにその腋の下に割り込む。腋の下に潜りこんだ俺にぎょっとした凱が大口開けて罵倒を浴びせかけたが、すかさず抗議を封じて叫ぶ。
 手のぬくもりをおびた牌に全身全霊で祈りを捧げ、レイジに想いが届けと。
 『加油、我祈祷弥的勝利!!』
 頑張れ、勝利を祈ってる。
 レイジがびっくりしたようにこっちを向く。無理もない、犬猿の仲の凱と二人一緒に応援してるんだからおったまげるはずだ。だが、すぐさま驚きから覚めたレイジの顔に広がったのは……場違いに晴れやかな笑顔。
 次にレイジがとった行動は予想外のものだった。
 レイジが人さし指と中指を唇にあて、宙に投げ放つ。
 「投げキッスって……あのやろう時と場所考えてふざけろよ!?」
 かなり深刻に頭を抱え込みたくなった。一瞬、レイジに告白したことを後悔した。鍵屋崎とサムライもあきれ顔だった。ああ、顔から火がでそうに恥ずかしい。満場から注がれる好奇の視線にいたたまれなくなり、レイジとは他人のふりで顔を俯けた俺の耳朶にどよめきが押し寄せる。
 はっと顔を上げた。
 「……首を刎ねてやる」
 双眸に憎悪を滾らせたサーシャが獲物にとびかかる獣のように腰を低め、跳弾の瞬発力で床を蹴る。助走、加速。サーシャの腕が俊敏に半弧を描き、ナイフの表面が照明を反射してぎらりと輝く。
 虚空に銀弧を描いた凶刃が凄まじい速度で振り上げられ振り下ろされ、レイジが体前に掲げた刃と衝突して火花を散らす。
 甲高い軋り音。金属質の残響。
 虚空に振りあげた腕が滑降の軌道上で加速、舌先の割れた蛇の如く幾条もの銀の鞭がレイジの体を撫で斬る。
 嬲り者。あるいは見世物。
 レイジの防御は殆ど意味を成さなかった。致命傷を防ぐだけで精一杯。ナイフが耳朶を掠めて血が飛び散る、ナイフが肩口を掠めて服が裂ける。
 裂傷裂傷裂傷……無数の裂傷。
 レイジの四肢が、全身の皮膚が切り裂かれて赤い線がひかれる。
 圧倒的なサーシャの優勢。
 序盤は互角だった。しかし、今や完全に立場が逆転した。
 時間が経てば経つほど持久力が切れたレイジは不利になる。
 「首を刎ねろ!」
 「首を刎ねろ!」
 「革命を起こせ、王を処刑台に送れ、暴君を血祭りにあげろ!」
 「一片の慈悲もなく微塵の容赦もなく些末な憐憫もなく!」
 「革命を起こせ!」
 「革命を起こせ!」
 「我らが求めるは出自卑しき雑種の王にあらず、正当ロシアの末裔、偉大なる皇帝サーシャ様!」
 「サーシャ様万歳!サーシャ様万歳!」
 「万歳!万歳!」
 狂気に伝染した北の囚人たちが次々と腕を突き上げ歓呼の声をあげる。異常な熱狂と興奮。統率された軍隊の動きで波涛を生み出した北の囚人たちがウーラン……ロシア語の万歳をただひたすらにくりかえす。
 「てめえら黙れよくそが、馬鹿のひとつおぼえみたいにウラウラウララくりかえしやがって!!」
 凱が癇癪を爆発させるが効果は薄い。リング上では歓声に後押しされたサーシャが一方的にレイジを追い詰めている。レイジの服はあちこち切り裂かれて肌が覗いていた。
 「淫らな恰好だな」
 サーシャが生唾を呑みこむ。包帯がひっかかった片腕を庇い、金網に背中を預け、肩で息をするレイジ。すごい汗だ。ひどい顔色だ。浅く浮き沈みする肩も広い胸板もよく引き締まった脇腹も申し分なく長い足も、レイジの体でナイフに舐められてない場所などどこにもなかった。
 皮膚が切り裂かれて血を滲ませてない場所など皆無だった。囚人服はボロ切れ同然で体を隠す役に立たなかった。
 無残に切り刻まれた囚人服の裂け目からしっとり汗ばんだ褐色の肌が覗く。
 扇情的な光景。
 「だからその『淫らな』って多用すんのやめろよ、聞いてるこっちが恥ずかしいっつの」
 片腕を抱えて苦しげに笑うレイジのこめかみを汗が一筋滴り落ちる。 
 「相変わらずの減らず口だな。そんなに口枷が恋しいのなら私の物でも咥えるか?大衆の面前だからとためらうことはない。この試合が終わればお前は私の飼い犬となる、皇帝手ずから首輪を嵌められ所有物となる。第一、私のもとにいた時もさんざん奉仕したではないか。私の足元に跪き私の前に頭を垂れて、去勢された犬のように従順に私に奉仕したではないか」
 サーシャが喉を仰け反らせて哄笑する。
 間違いない。サーシャは俺に聞かせるために、俺を意識してわざと周囲に聞こえる声で言ったのだ。いい性格してやがる。囚人服の十数個所を切り裂かれ、傷口を外気に晒し、金網に背中を預けたレイジが喉の奥でくぐもった笑いを泡立てる。
 「さあ、犬に戻れレイジ。私の物になれ。お前は飼うよりも飼われるほうがふさわしい。猫など捨てろ。待遇は保証する。鉄の鎖に繋いで気まぐれに鞭をくれて可愛がってやる」
 サーシャが芝居くさい動作で片腕を広げてレイジを迎え入れる体勢をとる。声音優しく招かれたレイジが前髪の隙間から虚ろな視線を返す。そして……
 口の端に指をひっかけ、歯茎を剥き出す。
 サーシャの眉間に皺が刻まれたのを確認し、口から指を抜いたレイジがしてやったりとほくそ笑む。
 「ほざいてろよサ―シャ。俺はお前のような変態と違って愛あるセックスじゃねえと興奮しねえタチなんだよ。俺が今抱きたい奴はロンだけだ。それ以外の奴に突っ込まれるのも突っ込むのもお断りだね。ロンはああ見えてやきもち焼きだから、今度浮気したら本格的に愛想尽かされちまうよ」
 金網に寄りかかるように上体をずり起こしたレイジが宣言する。

 「ぶっちゃけ、お前とヤるよかロンの応援のが百倍勃つよ」
 サーシャの膝がレイジの鳩尾にめりこんだのは、次の瞬間だった。

 「かはっ……」
 体を二つに折ってはげしく咳き込むレイジのもとへ、片手にナイフをひっさげ優雅に歩み寄るサーシャ。金網に背中を預け、腹を抱えて床に座りこんだレイジの髪を一束手荒く鷲掴み、顔を起こす。胃袋を吐き戻す勢いで咳き込むレイジの目には生理的な涙が浮かんでいた。額には脂汗が滲み、顔にはおくれ毛がはりついていた。
 「命乞いの機会を与えてやったのだがな」
 酷薄な笑顔でサーシャが言い放ち、前髪を毟る手に力をこめる。
 頭皮ごと引き剥がす激痛にレイジが堪えようもなく苦鳴を漏らすが握力は緩めない。興奮に乾いた唇を舌で舐め、尊大に顎を引き、目を細める。
 瀕死の獲物を嬲る蛇の視線がレイジの四肢に纏わりつく。
 苦痛の皺を刻んだ眉間、目尻に涙を溜めた双眸、倒錯した官能を引き起こす被虐の表情。服の裂け目から露出した皮膚には十数箇所もの切り傷ができていた。
 傷物の肢体。
 じっくり時間をかけてレイジの全身を舐め尽くしたサーシャが、レイジの首の後ろに手を回し、そっとうなじをなで上げる。
 「………ふっ……、」
 「感じているのか」
 レイジの耳朶で囁く。
 その間も愛撫はやまず、レイジの首の後ろをくすぐる。
 「ロン、どこへ行くんだ!?」
 勝手に体が動いていた。発作的に飛び出そうとした俺の肘を後ろから掴み、鍵屋崎が制止する。
 「うるせえよ、サーシャの好き勝手にさせてたまるかよ、忘れたのかよ渡り廊下のこと!?サーシャはマジでいかれてる、マジでレイジを殺そうとしてる!このままじゃあいつ……、」
 「君が飛び出していけばレイジは即失格だぞ、冷静になれ!」
 「じゃあこのまま見て見ぬふりしろってのかよ、俺の相棒がサーシャに犯されて殺されても指くわえて見てろってのかよ!?」
 頭に血がのぼる。リング上じゃサーシャが好き勝手やってる、好き放題にレイジの体を弄んでいる。レイジの首の後ろに指をすべらせ、耳朶をつねり、揉み、しまいにはシャツの内側に手を潜らせる。
 「公衆の面前で犯る気かよ?露出趣味ねえんだけど、俺……痛あ!」
 レイジの語尾が悲鳴に変わる。鍵屋崎と同時にリングに向き直り、慄然と立ち竦む。レイジの服の裾をはだけて脇腹に手を潜りこませたサーシャが、ナイフが裂いた皮膚に爪を立て、ぎりぎりと抉る。
 「二度とその減らず口をきけないようにしてやる」
 首を仰け反らせて苦悶に喘ぐレイジの懐から手を抜き、サーシャが偉そうに宣言。ナイフを表返し、逆の手でポケットから取り出した透明な袋を口へと運び、犬歯を突き立て、噛み千切る。
 透明な袋。白い粉末。あれは……サーシャが常用してる覚せい剤の粉。
 何をする気だ?背筋を悪寒が駆ける。
 袋を逆さにし、ナイフの表面に白い粉末をふりかける。
 サーシャは嬉嬉としていた。目は爛々と輝いていた。
 覚せい剤の粉末をナイフの表面に塗ったサーシャが、片手でレイジの前髪を掴み、自分の足元へと跪かせる。不可抗力でサーシャに膝を屈したレイジの鼻先へと突き出されたのは、ナイフ。
 「舐めろ。お前の餌だ」
 サーシャは何を言ってる?覚せい剤を塗ったナイフを舐めろとレイジに強制してるのか、ナイフに付着した粉末を犬みたいに舌を出して舐め取れと強要してるのか?レイジが黙ってままでいることに機嫌を損ねたサーシャが、中腰の姿勢からレイジの顔へと手をのばして口をこじ開けにかかる。
 「どうした、また口移しでのませてほしいのか。生憎だが、今の私はおまえに優しくしてやる寛容さは持ち合わせてない。躾の悪い雑種が無礼を働いて気分を害しているのだ。これ以上痛い目に遭いたくなければ命令に従え、ナイフを舐めて飼い犬になると誓え、従順に運命を受け容れろ。
 そうだ、これは儀式だ。お前が私の物になる儀式、私に絶対忠誠を誓う儀式!私に奉仕する心がけで丁寧にナイフを舐めろ、お前は舐めるのが得意だろう、さんざん仕込んでやったからな」
 サーシャは狂喜していた。
 熱に浮かされたように饒舌にまくしたてつつ、唾液にまみれた指でレイジの口腔を蹂躙する。畜生なにやってんだよレイジやられっぱなしになってんじゃねえ、立てよ、立ちあがれよ!

 ―『站!!』―
 立てよ!!

 ガリッ、と音がした。実際にはこの距離から聞こえるはずもないが、俺にはたしかに聞こえた。レイジがサーシャの指を噛む音。
 「……!!」
 動揺したサーシャが力一杯レイジを突き飛ばして口腔から指を引きぬく。レイジが背中から金網に激突、振動。だらけきった姿勢で金網に寄りかかり、手の甲で顎を拭い、顔を起こす。
 口の端を滴る血をひと舐め、レイジが中指を立てる。
 『Lick my ass, if I want me to lick a knife』
 俺に舐めてほしけりゃケツの穴を舐めろよ。 
 「それが答えか」
 「これが答えだ」
 サーシャの目が急激に冷えこんでゆく。危険な兆候。烈火の如き怒りではない、むしろその真逆、氷結地獄の怒り。サーシャを中心に霜を降らせて絶対凍土を広げる怒り。周囲の気温が急速に低下してゆくような錯覚に襲われたのはサーシャから放たれる闘気が凍気へと変わったせいだ。
 鳥肌をしずめようと無意識に二の腕を抱いた俺の視線の先、冷ややかにレイジを見下したサーシャが高々と片足を振り上げ……
 「!レ、」
 サーシャが無造作にレイジの片腕を蹴り上げ、靴裏に体重をかけて執拗に踏み躙る。
 腕の骨が軋む音がここまで聞こえてきそうだった。
 サーシャが情け容赦なく踏み躙ったのは、レイジが怪我したほうの腕だった。
 「!!!っ、ああっぐ、う」
 尖ったつま先が傷口を抉る。踵が腕にめりこむ。レイジが悲痛に身悶えて上体を突っ伏す。激痛なんて言葉が生易しく聞こえる壮絶な痛み。首を仰け反らせ、うなだれる。レイジは必死にもがいていた、化膿した傷口を踏みにじるサーシャの足をどけようと泥溜めのミミズのように這いずりまわっていた。 
 だが、膝が立たない。肘を起こせない。無様な四つん這いからどうしても上体を起こすことができない。干した藁束に似た明るい茶髪は汗でぐっしょり濡れそぼり、朦朧と濁った目にはうっすらと涙の膜が張り、口角には白濁した唾液の泡が付着していた。
 「もう、いい」
 もうたくさんだ、おしまいにしてくれ。金網を両手で掴み、力任せに揺さぶる。こんな光景、これ以上見たくない。レイジから離れろサーシャ、俺のレイジから離れろくそったれ!!
 「もういいレイジ、我慢すんな!もう負けでいいよ、お前のそんな姿見たくねえよ、王様にそんな恰好似合わねえよ!だから、」
 だからなんだ?はいそうですかと負けを認めて俺のもとに帰ってこい?
 喉が詰まる。言葉が詰まる。喉に吸い込んだ途端に空気が砂になったようだ。どうして?レイジは無敵の王様じゃなかったのか、東京プリズン最強の男じゃなかったのか、それがなんでどうしてこんなことに俺のせいか俺が悪いのか俺がレイジを行かせたから物分りよくリングに送り出したから?
 俺が止めなかったから?
 「ひっ、い……ぐ……あ!」
 「そうだ、もっといい声で鳴け、もっともっと泣き叫べ。眉間に眉を寄せて苦痛に抗え、首を仰け反らせて慟哭しろ、私の足元にひれ伏してもがき苦しめ!ははははははははっ、いい顔だなレイジよ、私はずっとその顔が見たかったんだ!!お前の自信を突き崩し余裕を奪い去りプライドを引き裂き、恥辱の泥濘に這いずり回らせてみたかった!覚えているかレイジよ、私の背中を切り刻んだ日のことを?
 私は片時たりとも忘れたことがない、あの日私は心に誓った、必ずや東京プリズンの頂点に立ちお前に復讐してやると!お前が私にそうしたようにお前にも生涯癒えぬ烙印をくれてやると!!」
 漸く足をどけたサーシャがレイジの手首を踏みつけて床に固定する。
 「体の一部を失うならどこがいい。目を抉り取るか、耳を殺ぎ落とすか、それとも……」
 ナイフの刃を水平に寝かせる。
 「腕か」
 「……腕、は勘弁してくれよ。ロン、との約束が、守れなくなる」
 息も絶え絶えにレイジが口を挟む。瞼を押し上げるのも億劫らしく目は瞑ったまま。サーシャに踏み躙られた腕は泥と血にまみれてひどい有り様だった。傷口はぱっくり開いていた。いや、サーシャに無理矢理こじ開けられたというべきか。
 化膿した傷口をつま先で抉られ、体重かけて踵を捻じ込まれ、失神してもおかしくない激痛を味わって。
 それでもレイジがリングが下りないのは、俺がいるからだ。
 俺が。俺のせいで。
 「この試合が終わったら、抱いてやるって約束したんだよ」
 いい夢を見てるように口元に微笑を浮かべ、コンクリ床に頬を付ける。指の感覚も失せているのか、握力が入らずにそれまで辛うじて握っていたナイフを取りこぼしてしまう。レイジの手から落下したナイフがコンクリ床で跳ねて澄んだ音をたてる。
 終焉の合図。
 「そうか」
 満足げに首肯したサーシャがレイジの腕を裏返し、手術の執刀にあたる外科医のようにナイフをふりかざす。
 化膿した傷口を今まさににナイフで押し広げんと鋭利な切っ先を添え、サーシャが独りごちる。
 「犬と抱擁する趣味はない」   
 麻酔代わりの麻薬を表面に塗布したナイフが腕を舐めて血膿でぬかるんだ傷口に粉末が溶けこむ。
 斜めに開いた傷口に刃をなすりつけて粉末をぬりこみながらサーシャが呟く。
 何でもないことのように、至極あっさりと。
 「ならば、この腕は無用だな」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050803213207 | 編集
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