ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十五話

 「ちくしょーいてえよ」
 レイジが苦痛に眉をしかめる。
 「自業自得だ、我慢しろ。あとで泣き言を漏らすくらいなら医務室で素直に手当てをうけておけばよかったんだ。ロンに弱みを晒すのがいやで虚勢を張ったツケが回ってきたんだ、余裕ぶって退室した途端に痛い痛いと弱音を吐いて情けない男だな。本当に東京プリズン最強の男、無敵の王様か?」
 決勝戦を間近に控えた地下停留場に繋がる通路の一本にて、僕は今レイジの治療にあたっている。コンクリ壁に背中を凭せたレイジは自分の手首に純白の包帯が巻かれてゆくさまを眺めながら「いてえよ、もっと愛をこめて丁寧にやってくれよキーストア。白衣の天使になったつもりでさあ」などと戯言をほざいていたが相手にせず、少々手荒に包帯を巻いて傷口を覆ってゆく。
 医務室で手当てをうけるのはいやだとレイジが駄々をこねるものだから、人目を避けてここまで引っ張ってきて処置を施しているのだが、まったく何故僕が医者の真似事をと腹立たしくなる。たしかに僕は幼少期から医学書を読みあさり広範囲の医学知識に精通してる自負があるが、だからといって赤の他人の怪我の手当てを経験したことなど殆どない。唯一の例は恵が転んで膝を擦りむいた時に消毒してバンソウコウを貼ったくらいだ。
 膝の痛みを訴えて涙ぐむ恵をなだめながら、消毒液を含ませた綿で傷口の汚れを拭った記憶を反芻する。
 幸せな思い出に浸っていた僕に水をさしたのはレイジの絶叫。
 「痛いキーストア痛えって、お前サドかよ!?俺が痛いってさんざん訴えてんだから耳あんなら無視せず聞けよ、もうちょっとお手柔らかに包帯巻いてくれよ!そんなぎゅうぎゅう絞め付けたら手首の傷にさわんだろうが、男に縛られて悦ぶ趣味はねえんだよ俺はっ」
 「注文の多い患者だな。痛みには慣れてるんじゃなかったのか」
 目にうっすら涙まで浮かべて僕を非難するレイジにあきれる。レイジときたら僕が傷口を消毒して薬を塗るあいだにもさかんにかぶりを振るわ暴れるわで処置しにくいことこの上ない。涙目で僕を睨みつけるレイジを嘲るように鼻を鳴らし、刺々しく吐き捨てる。
 「君はロンの前で格好つけすぎだ。ロンを心配させたくない気持ちは殊勝だが、君が意地を張るたび手を焼く僕の身にもなってみろ。いい迷惑だ」
 だいたい拷問部屋ではサーシャに縛られ嬲られていたくせに「縛られる趣味はない」などと主張しても説得力に乏しい。衝立越しの会話でも「縛られ慣れている」などと言っていたではないか。
 思っていることが顔にでたのか、レイジが不服げに口を尖らせる。
 「縛られ慣れてるってのは拷問や訓練でだよ、好きで縛られるわけねえだろ!俺は尻軽で無節操で男でも女でも体の相性よけりゃおかまいなしのタラシだけどSMは嫌いなんだよ、ガキの頃に死ぬほど痛い思い味わったから懲り懲りで飽き飽きなんだよもう。今は愛のあるセックスっきゃしたくないね」
 「サーシャとのセックスにも愛があったのか。ロンが聞いたらどう思うだろうな」
 「サーシャとのセックスにあったのはむしろ愛憎。愛憎から愛をとったら残るは憎しみだけってな。ちょっと上手くね、これ?」 
 「君のセックス論はどうでもいい。とりあえず動くな、包帯が巻けない」
 そっけなく釘をさせば、「自分から聞いたくせに」とレイジが不満げに黙りこむ。レイジが大人しくなった隙を逃さず、二重三重に包帯を巻いて手早くテープで留める。
 これでよし。
 処置が完了した僕は安堵のため息をつき、ふてくされたレイジに向き直る。
 「治療は完了したが、念の為あとで医務室へ行き怪我の具合を診てもらえ。あの医者は食えない性格をしてるが、意外と腕はいい。素人の僕が慣れない手つきで包帯を巻くよりよほど信頼が」
 「いや、お前の腕は確かだったぜ」
 世辞にしてはあっさりとレイジが称賛する。
 「……おだてても無駄だ。いいか、これは命令だ。君より僕のほうが数倍医学知識に通じてる、天才の言うことは素直に聞いておけ」
 「さすがブラックジャックの弟子は違う」
 「漫画の登場人物、二次元の存在に弟子入りできるわけがないじゃないか。君は頭がどうかしてしまったのか?持ち上げても駄目だ。君がロンの前で弱みを晒したくない気持ちはわかる、話が進まないから一応わかったことにしておく。だがそれでも言わせてもらう、くだらないプライドや見栄より治療を優先しなければそのうち手首が腐って爛れてもげ落ちて」
 「グロイ想像すんなよ」
 「事実を述べたまでだ。
 二度と手が使えなくなったら不便だろう、ただでさえ右腕に重傷を負ってるのに」  
 眼鏡のブリッジを押し上げ、袖に隠されたレイジの右腕を一瞥する。袖をめくりあげればレイジの右腕には包帯が巻かれている。一週間の独居房生活で見る影なく汚れきった包帯を取り替えたのは他ならぬ僕なのだから間違いない。自分で言うのも何だが僕は献身的すぎるほどにレイジに尽くしていると思う。レイジが医務室で治療を受けたくないと拒めば、医者から包帯を貰ってこうしてロンの目の届かない場所で手当てをしてやった。怪我人の願いを無碍にできないとはいえ、最近僕はレイジのわがままに付き合わされてばかりだ。否、正しくは振り回されてばかりと言うべきか。
 当のレイジは、袖の上から右腕をさすりながら眉をしかめている。目の下には憔悴の隈が浮き、頬もやつれていたが、そんな表情は妙に艶っぽい。眉間に苦悩の皺を刻んだレイジに束の間見惚れていたら、王様が憮然と呟く。
 「ロンのことだけじゃねえよ。前にあの医者にこっぴどい目にあわされたんだ」
 「ひどい目?」
 初耳だ。あの医者は存外したたかで食えない性格をしているが、囚人にひどいことをしたという噂は聞いたことがない。まあ、武士の意地だか見栄だからくだらない理由で麻酔を拒んだサムライの傷口を平然と縫ったりはしたが。  
 疑問の眼差しを投げかける僕をキッと睨み付け、当時の恐怖が甦ったらしいレイジが食ってかかる。
 「信じられるか、あの医者俺が前に怪我して医務室行ったとき傷口にドバって赤チンぶっかけたんだぜ!加減あやまって一瓶まるごとさ!その理由聞いて驚け、たまたま老眼鏡忘れて治療にあたって手元がよく見えなかったんだと!あん時は床に転がって悶絶したよ、染みて染みて染みて思い出しただけでも全身が鳥肌立つ。脳天まで突き抜けるような激痛だった。つーかイマドキ赤チンだぜ赤チン、それもやけに染みるなあと思って涙目でラベルに目を凝らしたら使用期限が十年も前に切れてる赤チン!で、頭にきて問い詰めたらあの老いぼれ何て言いやがったと思う?」
 「『老眼鏡がなくてわからなかった』」
 「そうだよそう言ったんだよ、老眼鏡忘れたせいでラベル見えなくて使用期限切れてるのわかんなかったんだと!『気の毒に、運が悪かったね』なんて悪びれもせずのたまいやがって、あんなヤブ医者信用できるかっつの!素人だろうが自称天才だろうがお前のがよっぽど信頼できるぜ」
 「だが僕は医師免許をもってないぞ」
 「ブラックジャックは無免許だけど腕がいい。だろ?」
 レイジが悪戯っぽく僕へと笑いかける。自信に満ち溢れた不敵な笑顔は僕の見慣れた王様のそれ。 
 「…………漫画と現実を混同するなんてヨンイルの病気が伝染ったんじゃないか?」
 なんとなく気恥ずかしくなり、レイジから目を逸らして包帯を片付ける。包帯を回収してからふとあることに思い至り、疑惑の眼差しをレイジに注ぐ。
 「……まさか君が今までロンの見舞いにも行かず医務室を避けつづけていたのは、医者と顔を合わせるのがいやだったからか?」 
 「お前馬鹿だな」
 レイジがあきれたふうに首を振る。馬鹿に馬鹿呼ばわりされる筋合いはないぞこの低能めと叫び出したいのをぐっとこらえ、平静を装い続きを待つ。怪我人相手に大人げなく取り乱すのはみっともない。
 右腕を抱えたレイジが、おのれの内面に沈みこむように深い眼差しで微笑する。
 「そんなくだらない理由なら、俺は真っ先にロンに会いにいってたよ。迷うことなくあいつをおもいきり抱きしめにいってた。俺にとってロンは、俺自身より百万倍大事で守りたいヤツだから」
 「のろけか」
 「のろけだよ。羨ましいか?」
 「理解不能だ」
 「お前もサムライのことのろけていいぜ」
 「意味不明だ」
 『Child dish』
 むっとする。
 ため息まじりにレイジが呟いた英語は、「子供っぽい」を意味する揶揄。つまり僕は「お子様だな」と言われたことになる。たしかに僕はレイジより年下だが、人に怪我の手当てまでさせておいて侮辱するとはとんでもない男だとおおいに憤慨する。表情を険しくした僕を見上げ、レイジが笑う。
 「まあいいや。サムライのそばにいりゃそのうちわかるよ」
 そして、光射す通路の出入り口を振り向く。
 「もうすぐはじまるんだな」
 「ああ」
 何がとは訊かなかった。訊かなくてもわかる。あと三十分後には決勝戦がはじまる、あと三十分後にはレイジがリングに立たなければならない。百人抜きを達成して僕とロンを売春班から自由にするため、レイジは満身創痍で死闘に臨もうとしている。
 本当にこれでいいのか?
 胸裏で膨れ上がる不安と葛藤。憔悴の色濃いレイジの横顔を注意深く盗み見る。一週間の独居房生活を経た直後に試合に臨むのだ、レイジの疲労は既に極限に達している。試合が始まる前から体も心も限界だ。レイジにこれ以上無理をさせたら命に関わる、それはよくわかっている。最悪の場合、リングに上がった途端に倒れてしまうかもしれない。
 僕になにができるだろう?
 レイジが独居房に入れられてからただそれだけをずっと考えていた。苦悩と葛藤の日々。僕にもできることが必ずあるはずだ、僕でも役に立てることが必ずどこかにあるはずだ。僕は医務室で安静を余儀なくされたサムライとロンの分も頑張らねばならない、彼らの分までレイジを補佐して戦わねばならない。
 金網越しの安全圏で、ただレイジを応援するだけでいいのか?
 僕はロンと共に参戦表明をした時を除いて一度もリングに上がってない。ロンは立派に凱と戦い、取り巻きの妨害にもめげず逆転勝利をおさめた。サムライは渡り廊下で僕を守り重傷を負ったが、それまでの戦いで十分すぎるほどに責務を果たした。
 僕はなにをした?
 彼らのために、僕自身のために、なにをしてきた?
 このままでいいのか本当に、レイジだけに戦わせていいのか?レイジは僕の仲間だ。レイジだけではない、サムライとロンも僕の仲間だ。今の僕を支える大事な仲間たちだ。
 僕の成すべきことは、金網越しの安全圏からレイジを応援することではない。
 今にも倒れそうなレイジを支えて、リングに上がることではないか?
 その疑問がずっと脳裏に纏わりついて離れない。今日独居房から出されたレイジの顔を見た瞬間から胸に覆い被さる不吉な予感。今日レイジをリングに上らせたら二度とは下りられない予感がする、そんな気がしてしかたがない。一時は考えすぎだと自己暗示をかけてごまかそうとしたが、レイジの笑顔を見るたび名伏しがたい不安が膨れ上がり、不吉な予感は最悪の確信へと形を変える。
 レイジをひとりで行かせてはならない、絶対に。
 レイジをひとりで行かせたら、もう戻っては来ない。
 サムライ、僕はどうしたらいい?
 目を閉じ、今も医務室で決勝戦にでれないおのれの不甲斐なさを呪っているだろう友人に問いかける。刻々と試合開始時間が迫り、焦燥に駆られているのはサムライだけではない。僕も彼とおなじ気持ちだ。重傷を負ってベッドでの安静を強いられるサムライよりも、レイジのそばにいながらにして何もできない僕のほうがより心境は複雑だ。
 サムライ、僕はなにをしたらいい?
 レイジを失わないために、ようやくできた仲間を失わないために、なにをすべきなんだ?
 「よ、お二人さん。しんきくさい面並べてどないしたん、通夜みたいやで」
 底抜けに明るい声が通路に響き渡る。
 背後から声をかけ、なれなれしく僕の肩を抱いた少年は額にゴーグルをかけていた。ヨンイルだ。
 「神出鬼没な道化だな。なれなれしくさわるんじゃない、敵と馴れ合う趣味はないんだ」
 「えっ、こないだネタバレしたんにまだ敵扱い?なおちゃんつれへんなあ、傷つくわーホンマ。俺は試合前によろしくやろて挨拶しにきただけや、そんなぴりぴりせんでも笑顔で迎えてくれたらええやん。なあレイジ」
 『Please disappear in front of me. Here is not the place where you should be. Come back in a circus』 
 レイジが爽やかな笑顔で言い放つ。 
 「なんちゅーたの、今」
 「無知で無教養な貴様のために特別に翻訳してやる。『俺の前から消え失せろ。ここはお前にふさわしくない、道化はサーカスに帰りやがれ』だそうだ」
 英語で悪態を吐いたということは相当怒ってるらしい。まあ狂言とはいえホセとヨンイルに最悪のタイミングで裏切られたことを踏まえれば無理もない。レイジはいまだに誤解したままだ。
 腰に手をあてたヨンイルが大袈裟にかぶりを振る。
 「大人げないなあ、過ぎたことをいつまでも根に持って。王様やったらもっと太っ腹に裏切りのひとつやふたつ笑い飛ばすくらいの度量もてや。そんなんやからロンロンといつもええとこまでいくのに本懐遂げられへんのやで、情けない」
 「くたばれ道化」
 「おお怖」 
 ヨンイルが肩を竦める。その背後から颯爽と歩み出たのは、艶のある黒髪をきっちり七三に撫でつけたホセ。二人同時に登場すればレイジの神経を逆撫でするだけと予測して、ヨンイルの背後に隠れてタイミングをはかっていたものらしい。相変わらず計算高い。
 僕を手招きしたヨンイルが、耳元でそっと囁く。
 『直ちゃん、俺らが決勝戦にでるホンマの理由レイジに教えてへんのやな』 
 『教えたほうがよかったか』
 『いや、このままでええ』
 そう訊き返せば、意味ありげにほくそえんだヨンイルが即座に否定する。
 『レイジにいらん前知識与えんなや、おたがい本気だせへんようになるやろ。レイジに手加減されて勝っても嬉しゅうないわ、レイジのアホには勘違いさせたままにしとこ。そっちのがおもいきり戦えて勝うたとき気分ええわ』
 ヨンイルはとんだ食わせ者だとその笑顔で痛感する。
 『ホセもおなじ気持ちや。レイジが独居房に送られてから一週間一日たりともリハビリ欠かかさんで、無事な片腕でサンドバッグ殴り続けて体力キープ。ベストの状態で試合に臨む気や、おっそろしい』
 「聞こえてますよヨンイルくん」
 黒縁眼鏡の奥の目は柔和な笑みを溜めている。皮肉げな笑顔で腕を組んだレイジと向き合ったホセが、ズボンの腰で片手を拭い、友好の握手を求める。
 「今日の試合では過去の遺恨は水に流しおたがい最善を尽くしましょう。ああ、吾輩のワイフがこの場にいないのが残念です。いればきっと東京プリズンの歴史に残る試合に涙を流して感激したことでしょう、吾輩はせめてワイフの分までリングの照明を浴びて頑張らねば」
 「お前のワイフは今ごろ違う男の下で腰振ってるぜ」
 「…………大人げないですよレイジくん。そのお綺麗な顔をすりつぶされたいですか」
 レイジの大人げない対応にホセが声を低め、険悪な雰囲気が漂いはじめる。
 尊大に腕を組んで握手を拒み続けるレイジにあきれたか、スッと片手をおろしたホセが、苦笑しつつ眼鏡のブリッジに人さし指をあてる。
 「君がそのつもりなら容赦はいたしません。一週間前に君に刺された片腕はまだ若干痛みますが、たゆまぬ特訓の成果か無事な片腕だけでほらこのとおり」 
 友好的な笑顔は絶やさず洗練された動作で片腕を振り上げ、そして。
 通路が震動した。
 ホセが水平に掲げた腕が、砲弾の勢いで壁を直撃。衝撃が天井に伝わり蛍光灯がはげしく揺れ、大量の埃が降ってくる。笑みを絶やさず壁を殴り付けたホセがこぶしを抜けば、壁には亀裂が走り、濛々と粉塵が舞いあがる。
 「頭の悪さまるだしのパフォーマンス。恥ずかしくね?」
 レイジが口笛を吹けば、丁寧な動作でこぶしを拭ったホセがおだやかに付け加える。
 「勘違いしないでください。君が一週間前、吾輩の不意をついてナイフを投げたことに関して罪悪感を抱いているのなら申し訳ないなと思い、リングではくれぐれも手加減せぬようご忠告しただけです」
 「手加減しなくていいのか?死ぬぜ」
 「ご冗談を」
 ホセがにっこり微笑む。
 「死ぬのは君のほうです、愚者の王」 
 ……ホセがレイジを裏切ったのは、本当に目くらましの狂言なのだろうか。
 ふたりのやりとりを傍観してるととてもそうは思えない。気のせいかヨンイルも引いている。両者口元に笑みを湛えたまま、威圧的な眼光で睨み合うレイジとホセを正気に戻したのは、地下停留場の大歓声。
 通路に殷殷と反響する大歓声は、主役の登場を今か今かと心待ちにし、時間の経過とともに盛り上がる観客の期待感を代弁してるようだ。
 「さあ、ファンの皆様がお待ちかねです。これ以上待たせては可哀想だ、そろそろ行きましょう」
 黒縁眼鏡の弦に触れたホセが、分厚いレンズの奥で剣呑な眼光を放つ。
 「ワイフを侮辱した人間には死あるのみです。覚悟はよろしいですね、レイジくん」
 「お前を倒してからお前のワイフを抱いてやるよ。隠者がのろけるくらいなんだからさぞかしイイ女なんだろ?」
 「おや、ロンくんのいないところでそんなことを言っていいのですか?それとも女性は浮気の勘定にいれないとでも」
 「浮気は別腹だよ」
 「……全然反省の色がないな。腕の傷口を縫うまえにそのよく動く舌と口を縫合してもらったらどうだ、先が思いやられる」
 あきれかえった僕の視線の先、ホセと肩を並べたレイジが優雅な大股で歩き出す。しなやかなネコ科の肉食獣をおもわせる歩みで地下停留場へと赴くレイジの背後、ヨンイルが僕の肩をつつく。
 振り向けば、ヨンイルが人懐こく笑いながら片手を突き出していた。
 「何の真似だ?」
 「なにて握手や握手。正々堂々全力尽くして戦いましょうってな」
 「僕は潔癖症なのだが、それを承知で言ってるのか?漫画の読みすぎでインクで汚れたこの手を握れとそう強要しているのか?どこまで図々しいんだ君は、その無神経極まる言動はいっそ犯罪だぞ」
 「つれないなあ直ちゃん。それとも」
 ヨンイルがにやりと笑う。体の奥底から闘志が湧き上がるような挑戦的な笑み。  
 「道化と殺りあうのが怖いんか」
 頬をぶたれた気がした。 
 あらためてヨンイルの片手を見下ろす。握手を求めて僕の眼前に無防備に突き出された右手。この手を取るも払いのけるのもすべては僕個人の判断にかかっている。
 決断を下すのは僕だ。
 決めるのは僕だ。
 ヨンイルの手を握ればもう後戻りはできない。生唾を嚥下し、ヨンイルの片手を凝視。微動だにせず立ち竦んだ僕の脳裏をさまざまな映像が過ぎる。
 レイジ、ロン、そしてサムライ。僕の仲間たちの顔。

 このままでいいはずがない。 
 いつまでも自分の無力に甘んじて逃げ続けていいはずがない。
 
 サムライは言った、「あまりひとりで抱え込むな、直。お前は十分よくやっている」と。だが僕は納得しない、他のだれもがそう言っても他でもないこの僕自身が納得できない。現状では不十分だと、こんな僕では満足できないと、こんな僕ではサムライの友人を名乗れずレイジとロンの仲間を名乗れないという衝動がこみあげてくるのだ。
 もう逃げ続けるのはやめだ。
 僕はレイジひとりに戦わせたくない、彼ひとりに重荷を背負わせたくない。僕はレイジの相棒だ、レイジの仲間だ。ロンとサムライが怪我をして動けない分までレイジを助けなくて仲間を名乗れるわけがない。
 さまざまな苦悩から脱し、毅然と顔を上げ、まっすぐにヨンイルを見つめる。
 慎重に片手を上げ、ヨンイルの手をとり、握る。
 ヨンイルの手のひらはほのかに汗ばんでいた。人肌の不快さに顔をしかめたいのをぐっとこらえ、できるだけ平静を装い、しずかに宣言する。
 「君の相手は僕だ」  
 ヨンイルと戦うのは、この僕だ。
 揺るぎない決意をこめて断言すれば、ヨンイルが会心の笑顔で僕の手を握る。
 手を通して何かを受け渡すように強い力をこめて。
 「よろしゅうな。直」
 道化に呼び捨てにされたのは、これが初めてだ。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050825102632 | 編集
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