ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十話

 「そんなことがあったのか」
 サムライが慨嘆する。
 「そんなことがあった」
 僕は疲労のため息をつく。
 衝立に仕切られたベッドの傍ら、見舞い客用の折り畳み椅子に腰掛け今日の出来事をサムライに相談する。
 ヨンイルは結局、怪我の手当てを拒んで西棟に帰ってしまった。僕は五十嵐に殴られ怪我をしたヨンイルを医務室に担ぎこもうとしのだが、ヨンイルときたら「かすり傷やから心配すな」とやんわり拒んで人の好意を無駄にしてくれた。僕に心配かけまいと強気に振る舞っていたのか本当に気にしてないのか、快活な笑顔からはわからなかった。 
 僕はどうしたらいいんだ?
 ヨンイルを見る五十嵐の目。
 あの目を昔どこかで見た。
 見覚えがあるはずだ。ヨンイルを見る五十嵐の目は、あの日窓ガラスに映った僕の目とおなじ色を湛えていた。両親を刺殺した直後、自分がしたことの恐ろしさに愕然と立ち竦む僕が緩慢に振り向けば、雨滴の伝う窓ガラスに自分の顔が映っていた。鮮血にぬれたナイフを片手にさげ、放心した眼差しを窓ガラスに投げかける僕の双眸には、ヨンイルにのしかかった五十嵐とおなじさまざまな感情が渦巻いていた。
 激情に翻弄されヨンイルに暴力を振るう五十嵐の姿に、僕は戦慄した。本当は止めなければいけなかった。しかし僕は、ヨンイルが五十嵐を暴行する現場に居合わせながら止めにも入らず立ち尽くしていた。
 自分の無力に甘んじるのはいやだとあれほど言っていたくせに、肝心な時に体が動かなかった。
 五十嵐の怒りはそれほど衝動的で、五十嵐の憎しみはそれほど圧倒的で、情けないことに恐怖に足が竦んだ僕は五十嵐に近寄ることさえできなかった。
 「口先だけで共感するのは卑怯者だが、少なくとも僕には、五十嵐の気持ちが想像できる」
 伏し目がちに続ける。
 「五十嵐にとってヨンイルは憎い娘の仇だ。最愛の娘をテロで不条理に奪われた五十嵐の絶望ははかりしれない。気持ちが整理できなくて当然だ。一生かかったって整理できるはずがないんだ。僕が五十嵐の立場でもたぶん同じ行動をとる。想像したくもないがもし恵がそんな死に方をしたら、恵が死亡する原因を作った人間と日常的に顔を合わせるような環境にいたら、僕はどんな手を使ってもその人間を殺す」
 淡々とした告白。
 ベッドに上体を起こしたサムライは思慮深げな面持ちで僕の言葉に耳を傾けていた。非難も賛同もせず、ただ耳を傾けてくれる姿勢が有り難かった。サムライになら僕は本音で話せる、自分の奥底の汚い部分や卑劣な部分を率直に曝け出すことができる。サムライは僕を裁かない、罰しない。理解しない、共感しない。あくまで冷静に客観的に、僕の話が終わるまでじっと耳を傾けてくれるのだ。
 冷徹な無表情が、淡白すぎる態度が、どれだけ僕を救っているか知れない。
 サムライがただ聴いてくれるから、僕は自分でも気付かずにいた自分の本音と逃げずに向き合うことができるのだ。これまで目を背け続けてきた現実を直視することができるのだ。
 「……だが、僕は何故だかヨンイルを憎めない。手塚治虫が好きな人間に悪い人間はいないと安直に結論づけたりはしないが、手塚治虫の話をするときのヨンイルは本当に無邪気で心の底から楽しそうで。いつからか僕は、彼と手塚治虫の著作について意見を交わすのを楽しみにしてる自分に気付いた」
 サムライが真摯な眼差しでこちらを見つめている。
 サムライはこんな時でも惚れ惚れするほど姿勢がよい。ベッドに背中を起こして凛と背筋をのばして、端然と座した姿には清冽な気品すら漂っているかのようだ。触れれば切れる刃物のような緊張感のある男、というのがサムライの第一印象だった。それは今も変わらない。
 だが今のサムライは、冷徹な無表情を装ってはいても、不器用な気遣いの色を隠せないでいる。
 サムライは不器用な男だ。
 本当は、だれより優しい男だ。
 「だから僕は、どうしたらいいかわからないんだ」
 こんな情けないこと言いたくはなかった。
 どうしたらいいかわからないなんて無能の常套句じゃないか。自分の頭を使って解決策を練ることができない無能の言い訳じゃないかと僕はずっと心の中で嘲笑してきたのに、今は僕自身がその台詞を口にしている。堕ちたな天才、ぶざまだな鍵屋崎直。自分で自分に吐き気がする。
 膝の上でこぶしを握りしめ、唇を噛む。
 「サムライ知ってるだろう?僕はIQ180の天才だ、遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎優と由佳利の長男で将来有望な後継者だった人間だ。それなのに僕は東京プリズンに来てから自分の無力にうちのめされ屈辱を味わってばかりいる。今だってそうだ、IQ180の優秀な頭脳があれば僕には不可能なことなど何もないと思いこんでいたのに現実はそうじゃない。
 ペア戦では僕は常に足手まといで君たちの負担になってばかりいる。それだけじゃない、自信過剰な物言いで安田の銃さがしを請け負ったくせに今だに問題を解決できず結果をだせないでいる。僕は安田の信頼を裏切り期待を裏切った最低の人間だ、自分が言ったこと約束したことを何ひとつ実行できないのがその証明だ。
 今日だってそうだ、僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っていた。その理由も十分わかっていた。にも拘わらず、ヨンイルを殴る前に止めることもできなかった。知っているだけじゃ駄目なんだ、力が伴わなければ東京プリズンでは駄目なんだ。僕が君みたいにレイジみたいに強ければ、体を張って五十嵐を止めることもできたはずなんだ。五十嵐とヨンイルを力づくで引き離すこともできたはずなんだ、それなのに!」
 屈辱を噛み締め、深々と俯く。
 僕は五十嵐にもヨンイルにも傷付いてほしくない。五十嵐は僕に優しく接してくれる面倒見のよい看守で、恵への手紙をちゃんと届けてくれた。僕は彼にとても一言では言い表せないほど感謝している。数週間前のペア戦ではタジマに脅されて不承不承見張り役を引き受けていたが、僕は五十嵐の人間的な弱さを軽蔑しこそすれ完全には嫌いになれなかった。
 今でも覚えている、ボイラー室のドア越しに交わした会話を。照れ臭げに娘の自慢をする五十嵐を。
 僕はあの時、ほんの少しだけ五十嵐の娘を羨ましく思った。五十嵐みたいな父親がいる子供は幸せだと、鍵屋崎優に五十嵐の五十分の一でも父親としての愛情があれば恵は寂しい思いをせずにすんだのにと、僕たち兄妹の境遇と比較して淡い羨望を抱いた。恵がまともに人の目を見れず自己主張もできない卑屈な性格になったのは実の両親の無関心が原因で、もし鍵屋崎優と由佳利が五十嵐のように子供に愛情を注いでいたのならあんな結果にはならなかった。
 今なら言える。僕は五十嵐の中に理想の父親を見ていた。
 こうあってほしかった、鍵屋崎優の幻影を。
 僕が五十嵐を憎めないのは、五十嵐の中に鍵屋崎優の幻影を追い求めているからだ。僕は無意識に鍵屋崎優と五十嵐を混同していたのだ。僕は物心ついた時から両親に甘えたことがなく、両親と親しくふれあった記憶もなく、鍵屋崎優に対しては父親というより厳格な教師にして研究者という認識が強かった。
 だから父親というものに対して、未熟で幼稚な憧れを抱いていたのかもしれない。五十嵐がもし恵の父親だったら、今は亡き娘にそうしたように恵を愛してくれたらと想像したのはきっとその延長だ。
 「サムライ、笑うなよ」
 「笑わない」
 疑い深く念を押した僕に、サムライがきっぱりと断言する。
 力強く請け負ったサムライの表情を注意深くさぐりながら、吶々と呟く。
 「僕はその、自分でも意外なのだが……五十嵐のことがそれほど嫌いではないみたいなんだ」  
 サムライは笑わなかった。
 僕のまわりくどい言いまわしに当惑しただけだった。
 三秒ほど僕の言葉を咀嚼してからようやく腑に落ちたようで、切れ長の双眸に理解の光がともる。先を促すように頷いたサムライから視線をそらし、眼鏡のブリッジに軽く触れる。
 「五十嵐だけじゃない。ヨンイルのこともそれほど嫌いではないみたいなんだ」
 「………」
 「何故黙りこむ」
 おかしなサムライだ、五十嵐のときはとくに反応しなかったのに。
 憮然と押し黙ったサムライに当惑する。不愉快そうに瞼を閉じて腕を組んだ姿はどこか近寄りがたい。
 「君が不機嫌になる理由がわからない、理解不能だ。嫌いではないと言っても好きに直結するわけじゃない、もとより同性に恋愛感情を抱くわけがない。誤解しないでくれないか。ただ僕は、彼らのことがそれほど嫌いではないと最近自覚しはじめてそれで」
 「それで?」
 おかしい、なんだこの空気は。何故僕がうしろめたくならねばならない。言い募る口調も自然言い訳がましくなる。腕を組んだサムライに冷たく一瞥された僕は、小さく呟く。
 「………五十嵐とヨンイルが互いに傷つけ合う姿など見たくない」
 今回は決定的な破綻は避けられたが、五十嵐が爆発するのは時間の問題だ。
 もうあまり時間はない。それがどんな形で訪れるかわからないが、おそらく最悪の形だろう。五十嵐はヨンイルのことを殺したいほど憎んでいる。もし次に五十嵐とヨンイルが直接顔を合わせることがあれば……
 五十嵐の指で顔に血をなすられたヨンイルを思い出し、ぞっとした。
 「僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っている、その理由も知っている。だがヨンイルは何も知らない、何故自分が五十嵐に憎まれているのかその肝心なところをちっとも理解していない想像力の欠如した人間だ。サムライ、僕はどうしたらいい?ヨンイルに真実を話すべきか。五十嵐に憎まれている理由を教えて注意を促すべきか、それが来るべきる破綻を避ける最善の方法なのか!?」
 衝動的に椅子を蹴倒し、相手が怪我人だということも忘れ、語気荒くサムライに詰め寄る。 
 ヨンイルは何も知らない。自分が五十嵐に憎まれている本当の理由を、自分が五十嵐の娘の仇だという残酷な事実を。だからあれほど無邪気に無防備に振るまえる、深刻に思い詰めた五十嵐を逆上させるような真似ができる。破綻を回避するために、ヨンイルが事実に直面する事態は避けて通れない。
 だが、それでいいのか?
 本当にそれでいいのか?
 真実を知ったヨンイルがショックを受けたら、それが原因でヨンイルの笑顔が失われてしまったら?
 ヨンイルの笑い声が図書室から消えたら?
 僕の決断が誤まっていたらもう取り返しがつかないのだ。知らずにすむことなら知らせずにおきたいという消極的な考えを僕は完全には否定できない。ヨンイルはたしかに人殺しだ。ヨンイルの作った爆弾で二千人以上の人間が死んだ。だがそれはヨンイルひとりの責任か、ヨンイルひとりの罪か?偽善ぶってヨンイルを糾弾し贖罪の人生を生きろと迫る資格が人殺しで親殺しの僕にあるのか? 
 僕には重すぎる決断だ。
 だから迷う、迷ってしまう。
 どうしても迷ってしまう。僕の一言がきっかけでヨンイルが変わってしまうことが、何より怖い。
 真実を知ることに耐えられない人間は、少なからずいる。
 僕もその一人だから、わかる。
 痛いほどわかってしまう。
 「……馬鹿だな僕は。サムライ命令だ、今言ったことは全部忘れてくれ。君に相談してもどうしようもないのに頼らずにいられないなんて惰弱さの証明だな、自分の情けなさに反吐がでる。IQ180の天才のくせに、僕は現在抱えた問題をひとつも処理できず悪化するまま看過している。全身に転移した末期の癌細胞を放置しているようなものだ。ブラックジャックに軽蔑されるな」
 ブラックジャックは関係ない。どうやら僕も精神的にだいぶ参ってるようだ。
 自嘲の笑みを口元に浮かべた僕をサムライは物言いたげに眺めていたが、ふとその眉間に皺が寄る。
 「直」
 「?」
 唐突に名を呼ばれ、顔を上げる。

 「脱げ」

 「………は?」
 有無を言わせぬ命令口調だった。
 サムライは真剣だった。冗談を言ってるような感じではない。
 「……解熱剤を飲むか?通常は食後に二錠服用だが遠慮することはない、十五錠でも二十錠でも飲んでくれ、ただし命の保証はできない」
 「ごまかすな。肩のあたりに怪我をしているだろう」
 何故わかったんだ?
 動揺が顔にでたらしい。僕が肩甲骨に怪我をしたことを見ぬいたサムライが、眉間に剣呑な皺を刻んで首を振る。
 「ここに来た時から歩き方が変で気になっていた。右の肩甲骨を庇うようなぎこちない歩き方を妙に思わないほうがどうかしている」
 僕としたことが失態だった。図書室で五十嵐に応急処置を受けたが、彫刻刀で削られた肩が疼いて、必然ぎこちない歩き方になってしまったのだ。鈍感そうでいて洞察力の鋭いサムライは僕の変化をたちどころに見抜いてしまった。 
 言い逃れ許さじと怖い顔をしたサムライに、そっけなく言い訳する。
 「たいした怪我じゃない。君に見せるほどのことはない」
 「見せるほどのことがあるか否かは俺が決める。お前が判断することではない。お前は強情だからどれほど痛くてもひとりで我慢して平気なふりをしているとも考えられる」
 「邪推だ、僕が大丈夫だと言ってるんだから少しは信用しろ。心配しなくてもちゃんと消毒してガーゼを貼ってあるから黴菌が入ることもない。それにサムライ、わざわざ君に見せたところでその行為に何の意味があるというんだ!?僕は露出狂じゃないぞ、人前で服を脱ぐなど冗談じゃない。第一風邪をひいたらどうする?」
 「ならば脱がせるまでだ」
 ……サムライは熱があるのではないだろうか。
 そんなに僕の背中が見たいのか怪我の具合が気になるのか、一度言い出したらきかないサムライが僕の方へと手を伸ばしてくる。
 なんだこの展開は。サムライときたら強引にもほどがある。
 混乱した僕ははげしくかぶりを振りサムライの手から逃れながらも、それが時間稼ぎにしかならないことを悟り、ヤケ気味に叫ぶ。
 「強情だな君は!わかった脱げばいいんだろう、それで納得するんだな!?僕が自分でやるから怪我人はベッドで安静にしていろ、同性の服を脱がそうとしてベッドから転落なんて醜態を晒したくなければな!」
 人の手で脱がされるくらいなら自分で脱いだほうがマシだ。
 何故サムライがそれほど僕の背中にこだわるのか理解できない。いや、僕の背中に執着しているわけではなく傷の程度を自分の目で確かめたいのだと頭ではわかっているが不愉快なことに変わりはない。 
 サムライに背中を向け、憤然と上着の裾に手をかけ、一瞬躊躇する。
 背中にサムライの視線を感じる。
 サムライが小揺るぎもせず僕の背中を凝視している。上着越しでも視線の熱を感じるようだ。
 はげしくかぶりを振り、サムライの視線を断ち切り、上着の裾を掴む。この行為に特別な意味はない、相手は同性の友人だ。サムライが僕に欲情するわけがない、これでも一応サムライに信頼をおいているのだ。
 時間をかけて、ゆるやかに上着をめくりあげる。
 まずは細い腰、そして生白い腹部、続く胸板と鎖骨が覗く。もとから小食なせいか筋肉がつきにくい体質なのか、背は伸びても体格は一向に逞しくならず、四肢は貧弱なままだ。劣等感の塊でもある華奢な手足が目に入らぬよう肘を動かし、上着を頭から抜く。
 ひどく緩慢な動作で上着を脱げば、生傷と青痣の絶えない裸の上半身があらわになる。
 売春班で受けた傷は殆どが癒えたが、先日のペア戦でできた切り傷や残虐兄弟との格闘で負ったかすり傷が、裸身のあちこちに新旧大小の痣と混ざって穿たれている。
 上着から頭を抜き、袖に腕を入れたまま、サムライに背中を向け立ち尽くす。
 醜い烙印めいた痣と生傷だらけの裸身を、いかに同性の友人にとはいえ無防備に曝け出すのは落ち着かない。貧弱な手足は劣等感の塊だ。イエローワークの強制労働では少々日焼けしたが、売春班に移ってからは以前にも増して肌が漂白された。 

 サムライは何も言わず、ただじっと僕の背中を見つめていた。

 熱心な視線が右の肩甲骨に集中しているのが、肌が粟立つ感覚でわかる。
 傷口に貼られたガーゼの上に、サムライの視線を感じる。
 「触れていいか?」
 サムライが低く問い、体が強張る。何故さわる必要がある、と抗議しようかとも思ったが、サムライの声音があまりに思い詰めていたので言葉を呑むしかなかった。
 「痛くするなよ」
 サムライがさわりたいならさわればいい。
 僕は半分ヤケになっていた。一刻も早くこんな馬鹿らしい意味のないことは終えたかった。 
 背後で衣擦れの音、サムライが動く気配。膝這いににじり寄ったサムライが、そっと、右の肩甲骨に手をおく。
 ガーゼの上に優しく包むようにおかれた手からぬくもりが広がり、徐徐に緊張がほどけてゆく。
 サムライの手が触れた個所から癒されてゆくようだった。
 無骨に節くれだった指が、慎重な動作で肩甲骨を撫でる。ほのかなぬくもりが何よりも心地よく、安堵の吐息がもれる。
 「なにがあったんだ?」
 サムライに嘘をついてもすぐばれてしまう。仕方ないと観念した僕は、そっけなく呟く。
 「図書室で凱の仲間に絡まれた。残虐兄弟とかいう悪趣味な通り名の二人組だ。頼んでもないのに僕の背中に刺青を彫ってやると言い出して彫刻刀で」
 サムライの指がぴくりと震える。
 「心配には及ばない、たいした怪我じゃない。もうほとんど痛くない、このぶんなら二・三日中には完治するだろう。悪趣味な刺青を彫られずに済んで本当に安堵した。彼等のような低脳に刺青を彫らせたら字を間違われるに決まっている。『虐』の七の下がヨになる確率が高いとみた」
 「直、ひとりで大丈夫か?俺とロンは入院中、レイジは独居房。現在東棟にはお前しか残っていない。飯時はどうしている?ひとりで食べているのか」
 「それがどうかしたか?生憎僕は集団で馴れ合わなければ食事も喉を通らないほど繊細な神経の持ち主じゃない、これでも多少は東京プリズンで鍛えられたんだ。まあ肘をぶつけられたり足を踏まれたり味噌汁をかけられたりする程度のいやがらせは受けているが」
 「……程度か?」
 「もう慣れたからな」
 「そうか」
 僕の肩に手をおいたままサムライが黙りこむ。
 そして。
 「守ってやれなくて、すまん」
 深い悔恨に満ちた声音で、謝罪した。
 肩越しに振り向けば、慙愧に耐えずに俯いたサムライがいた。
 悄然と肩を落とし、一文字に唇を噛み締めるサムライに絶句する。その双眸は暗く翳り、眉間には苦悩の縦皺が刻まれ、普段から厳しい顔がさらに険しい形相へと変じていた。
 おのれの無力を全身全霊で恥じているような、潔い姿だった。
 「馬鹿を言うな、怪我人に守ってもらうほど僕は落ちぶれてないぞ。君は余計なことを考えず怪我の治療に専念しろ」
 「しかし」
 「君が早く退院してくれないと毒舌を吐く相手がいなくてストレスがたまる。精神衛生上悪い」
 何か言いかけたサムライを遮り、素早く服を着る。 
 サムライが変なことを言い出すから急に気恥ずかしくなった。羞恥心をかきたてられ、恥辱に頬を熱くし、慌てて腕に袖を通し裾をさげおろす。
 そんな僕をよそに首をうなだれてベッドに正座したサムライが、顔に苦渋を滲ませ吐き捨てる。
 「俺がいないあいだにお前の体に傷がつくのは耐えられん。この上は切腹も辞さん」
 「木刀で裂けるものなら裂いてみろ。物理的に不可能だ」
 本気のサムライにそっけなく切り返せば怖い目で睨まれた。
 サムライに顎をしゃくられ、ため息まじりにベッドに腰掛ける。まだ何か言いたいことがあるのか?もうすぐ消灯次間がきて自由時間が終了するというのに。うんざりした僕に体ごと向き直ったサムライが、枕元の木刀をひったくり、なかば強引に僕の胸へと押しつけてくる。
 「持っていろ」
 「は?唐突に何を言い出すんだ、これは君の木刀だろう。武士の命も同然の刀だろう」
 「いいから持っていろ。身を守る役には立つ」
 サムライは一度言い出したら聞かない頑固者だ。
 サムライに説得されて、しぶしぶ木刀を受け取る。慣れない手つきで木刀を持つ僕の正面、膝の上でこぶしを固めたサムライが深く俯く。
 僕を守れないおのれの不甲斐なさを呪うように唇を噛み、屈辱にこぶしを震わせるサムライの姿はどこまでも高潔に信念を貫く武士そのもので。
 縋るように僕を見上げる眼差しには、切迫した一念がこめられていて。  
 「俺がいないだ、せめて俺の代わりとしてそばにおかせてくれ」
 サムライは血を吐くように言った。
 「お前と離れているのが、辛いんだ。俺の目の届かぬ場所でお前の体に他の男が触れていると思うと夜も眠れん。本音を言えば俺自身が今すぐ退院したいのだがそれが叶わぬ望みなら致し方ない。直、お前に武士の命を預ける。俺の半身を委ねる。だからどうか」
 そこで言葉を切り、うっすらと頬を染める。
 「……どうかこれ以上、俺を惑わさないでくれ。お前の無防備さは、危険だ」
 そしてサムライは、頭を下げた。
 挨拶の見本のような非の打ち所のない動作。いかにサムライが幼少期から厳しく躾られていたかわかろうというものだ。サムライから木刀を預かった僕は一瞬躊躇した後、苦笑する。
 「心配性だな。わかった、いいだろう。それで君が満足するというなら一時的に木刀を預かってやる。僕もなるべく危険な目に遭わないよう身辺には注意するから、君は安心して将棋でもしていろ」
 木刀を預かったところで剣道の心得がない僕がとっさに反撃できる自信はないが、サムライの気持ちを無駄にしたくはない本心を隠して頷く。
 さて、もうすぐ消灯次間だ。そろそろ医務室を出なければ。
 「待て」
 木刀を片手にさげてベッドから腰を上げた僕を、サムライが呼びとめる。
 まだ何かあるのかと露骨に不愉快な顔で振り向けば、ベッドにきちんと膝をそろえて座したサムライが、
この上なく重大なことでも伝えようとするかのように真剣な面持ちで口を開く。
 「あまりひとりで抱え込むな、直。お前は十分よくやっている」   
 膝の上でこぶしを握り固め、僕の方へと身を乗り出し、サムライは無骨に微笑んだ。
 「自分では気付いてないかもしれないが、お前は優しすぎるくらいに優しい俺の自慢の友だ」
 「……寝る前に解熱剤の服用をすすめておく。脳炎になりたくなければ、十錠二十錠といわず一瓶飲み干しておけ」
 最後に皮肉を言い、乱暴にカーテンを閉じる。
 まったく。改まって何を言い出すかと思えば、そんなくだらないことで人を呼びとめるんじゃない。サムライがおもむろに変なことを言い出すものだから、僕にまで風邪が伝染ってしまったじゃないか。
 顔が火照っているのは熱のせいだ、きっと。
 房に戻ろうと踵を返した僕は、足元の床に奇妙な物体を発見する。
 中腰に屈んで拾い上げ、しげしげと手の中の物体を観察する。
 「何故こんなところにいちごが……」
 反射的に隣のベッドを見る。
 「ロン、いるのか?」
 いちごが落ちていた場所はロンのベッド寄りの位置だ。奇妙に思いながらカーテンを引き開けてベッドを除けば、ロンが両手でひしと耳を塞いでベッドに突っ伏していた。
 「どうしたんだ君まで。顔が赤いが、熱でもあるのか?サムライの風邪が伝染ったんじゃないか」
 枕から顔を起こしたロンがきっと僕を睨みつけ、とんでもない暴言を吐く。
 「この鈍感野郎、乳繰り合うなら人の耳がないところでやりやがれ!」
 ……わけがわからない。
 これだから低脳は。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050830102031 | 編集
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