ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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三十七話

 なんだこの展開は。
 何故僕はサムライに抱きしめられているんだ、同性愛者でもないのに。頭が混乱して思考がまとまらない、背後から腕ごと抱きすくめられ身動きとれず当惑する。サムライは一体何を考えているんだ、これまで同性愛者と疑いをかけるたびに「俺は男色ではない」と断固否定してきたのにあれは嘘か?だが不思議と不快感はなかった、タジマや他の人間にさわられたときのような生理的嫌悪とは無縁のぬくもりだけが腕から伝わってきた。
 サムライとの接触は不快じゃない、居心地良い。
 瞼を閉じ、以前風邪をひいたとき恵がずっと手を握ってくれた記憶を反芻する。心を許した人間との接触は心地よいものだ。誰かに守られてると実感できる、誰かがずっとそばにいてくれると安心できる。
 安心?僕が安心などしていいのか?
 僕は両親を殺害し東京プリズンに来た、人間の屑と唾棄され蔑まれる親殺しだ。僕が両親を殺したせいで恵は心のバランスを崩し精神病院に収容されたというのに僕が安心などしていいのか、人のぬくもりに甘えていいのか?
 サムライが何を考えてるかはわからないが、僕に性欲を感じてるわけではないと断言できる。サムライは不器用でやさしい男だ。挙動不審な僕を落ち着かせるために、自分に何ができるかを考えて実行に移したのだろう。サムライは僕より背が高く肩幅もあり体格がしっかりしている。僕を抱きすくめた腕は逞しく、僕の胸の前で交差した指は無骨に骨ばっている。闇の中で目を凝らして観察してみれば、サムライの手は僕よりひとまわりも大きく骨の造りがしっかりしていた。幼少時から刀を握り、日々ひたすら研鑚を重ねた手だ。手の平には深い刀傷がある。
 同性に抱擁されても嬉しくはないが、心休まるのは事実だ。二本の腕から伝わる安心感と心強い包容力、誰かに守られているという実感、重なる心音と体温の交流。ちょうど僕の心臓の位置にサムライの胸が来て、背中と胸とが重なり心臓の鼓動が同じ拍子を刻む。
 振りほどくことでもきたはずだ。そうしなければならなかった。
 僕が安心していいはずがない、誰かに心を許していいはずがないと誰かが頭の片隅で囁く。僕にそんな資格はない。僕は人殺しで親殺しの最低の人間なのだから、恵を見捨てたひどい兄なのだから、タジマに殴る蹴るされ嬲り者にされるのがあたりまえだと誰かが囁く。僕は恵を守り抜けなかった情けない兄だ、最愛の妹をすべての人間から守りきると誓ったくせに何もできなかった。僕がしたことは全部裏目にでて、僕は恵を傷付けてばかりで、今や鍵屋崎優と由佳里を殺した意味さえ失われた。
 妹の絵さえ守りきれなかった。友人との約束さえ守り通せなかった。
 泣けばラクになるのだろうか?わからない。泣いて何かが解決すれば苦労しない、涙で苦悩を洗い流すことができれば言葉など必要ないではないかと頭の片隅は冷め、心は空虚に乾いていた。今の僕は泣けない。胸が苦しくて息もできなくて、いっそ泣いてしまえばラクになると弱い自分に誘惑されてもプライドが邪魔をして一線をこえられない。
 僕は弱い人間だから、一線をこえれば引き返せなくなる。
 自分の惰弱さに甘えて涙に酔い痴れ自己憐憫にひたり、それで何が解決する?何も解決しない、何も改善しない。泣けば自分の弱さを肯定することになる、自分が今どうしようもなくみじめな境遇にあると認めざるえなくなる。  
 いやだ、絶対に。
 自分の惰弱さを肯定し、自分の卑劣さに甘え、現実から目を背ける人間にはなりたくない。
 そんなことをすれば、僕は僕自身を否定することになる。東京プリズンに来てからの半年と少しを自ら否定することになる。
 サムライと出会い成長した、この数ヶ月を。
 「……手をはなせ。僕は同性愛者じゃない、男に抱擁されても気色わるいだけだ」
 虚勢を張り、肩を強張らせ、呟く。口では反抗しても声はよわよわしく、自分の耳にさえそらぞらしく響いた。サムライは手の力を緩めることなく、背後から僕を抱きすくめ、放そうとしない。
 まるで、今手を放せば二度と僕にふれることができないみたいに。
 僕がサムライの手の届かない遠くへ行ってしまうのをおそれるように。
 「おい、まさかこの姿勢で寝たのか?いい加減に」
 「昔話をしていいか」
 唐突だった。
 サムライに抱かれたまま身動ぎし、首を動かして頭上を仰ぐ。僕に口を挟むのをためらわせる深刻に思い詰めた表情でサムライが口を開く。
 「昔……俺がまだ子供の頃の話だ。苗はその頃から俺の屋敷にいた。物心ついた時から共に育った。苗は気立てがよい娘で、俺が怪我をしたら真っ先に介抱してくれた。子供のつたない手つきで俺を井戸端につれていき傷を洗い流し、包帯を巻いてくれた」
 これは、サムライの子供の頃の話だ。まだ苗がいた頃、ふたりが子供だった時の懐かしい記憶。
 苗の思い出を語るサムライの目は柔和に凪いでいた。芽吹くことなく枯れた苗、芽吹けばさぞ美しい花を咲かせただろう苗。僕が知らないサムライの愛した女性、僕が知らないサムライを愛した女性、今はもういないサムライの想い人。
 下水道で聞いた、サムライの過去を回想する。リョウの説明では、サムライは仙台の名門道場の長男として、跡取りとしての期待を一身に負い、幼い頃から真剣を握らされてきた。サムライの祖父は人間国宝で、父親もまた優秀な剣の使い手だった。厳格な父親は幼い息子にも容赦なく剣を仕込み、過酷な修行に弱音を吐けば頭から井戸の水を浴びせ木刀で打ちのめし非情な折檻をしたらい。
 サムライの幼少期もまた幸福なものではなかったが、苗がいたから救いがあった。 
 「苗は優しかった。いつでも俺の身を真摯に案じてくれ、叱責を覚悟の上で父にかけあったりもした……苗には父が俺を理不尽に折檻してるように映ったのだろうな。父は使用人に容赦ない厳格な当主で、幼い苗とて意見すれば分相応なと怒鳴られ、時には殴られることもあった。苗は気丈だから俺の前では涙を見せなかったが、影ではよく泣いていた」
 君はどうなのだ、と少し気になったが口を挟むのは憚られた。幼い頃のサムライが折檻に耐えられず泣いたかなんて、人の心に踏みこむ無遠慮な質問だと自粛する。僕がサムライの涙を見たのは一度きりだ。売春最後の夜、僕を押し倒して涙を流したサムライの表情がぼんやり霞んでいるのは眼鏡をしてなかったせいだ。
 サムライもきっと、人前では泣けない子供だった。
 「……俺の遊び相手は苗だけだった。剣しか知らない俺に、苗はさまざまな遊びを教えてくれた。かくれんぼ、鬼ごっこ、お手玉、おはじき」
 「時代錯誤だな。それにお手玉におはじきなんて女の子の遊びじゃないか、恵でさえ興味を示さないぞ」
 「仕方ないだろう、時代錯誤な環境で育ったのだから」
 サムライが憮然とする。お手玉やおはじきをするサムライがうまく想像できないが、ぎこちない手つきで苗の遊びに付き合う子供の頃のサムライに思い馳せれば微笑ましい光景に自然と頬がゆるむ。家が絶えてからは市の観光名所として保存された日本庭園を擁する仙台の名門道場、時代に逆行するかのごとく閉塞的な環境で育ったサムライには使用人の苗が唯一の遊び相手だったのだな、と再認識する。
 ゆるく手を組んで僕を抱いたまま、耳に心地よい低音で昔語りを続ける。 
 「ある日、修行中に庭に犬が迷いこんできた。毛並みの荒れた野犬で腹を空かせていた。ちょうど父が離席していて、その場には俺と苗ふたりきりだった。苗は優しいから、こっそり台所に忍びこみ残飯を持ってきて手ずから与えた。危ないからやめろと言っても聞かなかった」
 「その頃からお節介だったんだな」
 「……不愉快なことに、苗は俺が怖がってると誤解した。野犬などべつに怖くはなかったが、苗に誤解されたままでは武士の名に恥じると決心してなでてみた。見た目は凶暴だが、意外と人に慣れていた。元は飼い犬だったのかもしれん。俺と苗は屋敷の者に内緒でその犬を飼うことにした。ちょうど屋敷の裏手に桜の老木があり、四方に立派な枝を広げていた。ここなら屋敷の人間の視界を枝がさえぎってくれるし、犬一匹くらい飼ってもばれないだろうと子供の浅知恵で考えて……苗は犬を可愛がった。名前もつけた」
 「なんて名前だ」
 「フセ」
 「滝沢馬琴の南総里見八犬伝か。作中人物は犬ではなく姫だが」
 「俺は正宗がよかった」
 「……伊達か?正直そのネーミングセンスは問題だ、致命的欠陥がある。レイジといい勝負だ」
 「レイジと比べるのはよせ、沽券に関わる……話を戻す。俺たちは犬を可愛がった。苗はとくによく面倒を見て、草履の鼻緒を細工した紐の首輪をつけてやった。俺も修行の合間を見ては犬の様子を見に行った。動物を飼うのははじめてで、子供心に嬉しかった。苗がいないところで正宗と呼んでみたが反応は今ひとつだった。あの犬はメスだな」
 「性別を確認したのか?」
 「いや。でも正宗のほうが格好いいだろう、それでも反応しないということはメスとしか考えられん」
 「……わかった、もう質問しないから続けてくれ」
 「使用人のすきを盗んで餌をはこんだり、芸を仕込んだり、一緒にじゃれあったり……そんな日々がしばらく続いた。平和な、たのしい日々だった。でも長くは続かなかった」
 一呼吸おき、サムライが表情を改める。過去を懐かしむ柔和に凪いだ表情から一変、思い出したくもない忌まわしい記憶を反芻する苦渋の面持ちに。
 「犬を飼っていたことが、父に発覚した」
 サムライの腕に無意識に力がこもる。本人は気付いてないだろうわずかな変化。これから語ることを忌避するように、畏怖するように、一抹の諦念とともに瞼をおろしてサムライが続ける。
 「ある日、俺の前に一匹の犬がひきだされた。見慣れた毛並みの犬で、首には赤い首輪があった。苗が手ずから作った首輪だ。フセだった。父は庭の裏手でこの犬を見つけたと行った。勝手に人の家の庭に忍びこんだ行儀の悪い野犬だ、餌漁りにきたにちがいないと言って、この犬を斬り殺せと俺の手に真剣を握らせた。父は全部承知だった、使用人に聞かされていた。全部承知の上で犬を斬れと命じたのだ」
 言葉を失った。
 実際には見てもいないその光景が、鮮明に脳裏に甦る。手に余る真剣を握った幼いサムライ。表情は硬く強張り、目には畏怖と恐怖を湛えている。サムライの傍らには父親が立ち、じっと様子を見守っている。
 そして、サムライの眼前には犬がいる。逃げ場を失い、狂犬病にかかったように興奮しヨダレをたらした犬が。もしくはサムライのことを信頼しきり、無邪気に尻尾を振る犬が。
 サムライと苗が一生懸命世話をし、可愛がった犬が。
 「……俺は斬った。苗が名前をつけた犬を、ふたりで世話した犬を。今際の鳴き声が今も耳にこびりついてはなれない。悲痛な吠え声だった。犬が言葉を話せたなら、きっと『裏切り者』と叫んだにちがいなかった。父は満足した。情に流されず躊躇なく犬を斬り伏せたことで、また一歩武士に近付いたと言われた。犬の返り血がひどいから井戸でよく洗っておけと言って父は立ち去り、あとには犬の死骸と俺だけが残された。やがて苗が来た。犬に餌をもってきたが裏庭に姿が見当たらずに表に回り、そして変わり果てたフセを発見した。何が起きたかは一目瞭然だった。俺は返り血にぬれて、真剣をさげたままで、犬はすでに息絶えていた」
 小石に足をとられながら、息を切らし、犬の死骸に駆け寄る苗。犬の死骸にすがりつき、懸命に揺り起こそうとする苗。傍らには心が麻痺したように呆然と立ち尽くすサムライ。その手には返り血にぬれた一本の刀。あまりに凄惨で悲惨な光景。
 「苗は一言も責めなかった。ただ、泣いていた。犬にすがりついて嗚咽をこぼしていた。俺たちはふたりで犬の死骸をひきずり、桜の根元に埋め、石をおいて墓をつくった。苗は黙って手をあわせ、俺も真似た。何故怒らないのかと聞けば、苗は哀しげに笑った」
 サムライが力なく苦笑する。後悔と慙愧とに苛まれた、儚い笑み。
 「苗は言った。俺は優しいから、悪戯に苦しませず犬を殺したんだと。そんな俺に感謝こそすれ責められないと」
 サムライの声はひどく心細げだ。僕を抱くふりで抱かれたがっているような、人間らしく疲れきった素顔が一瞬覗いた。サムライの双眸を翳らせたのが苗への哀惜の念か犬への贖罪の念かわからないが、物憂げな面持ちで黙り込んだサムライは僕を守り庇護する大人の男ではなく、僕とそう変わらない年齢のただの少年のように見えた。
 「……それから、犬の墓がある桜の木が俺たちの秘密の場所になった。何か哀しいことがあれば桜の木を見に行った。それがいつからか、苗に会いたい時に行くようになった。苗の顔が見たいとき、苗と話したいとき、俺は桜の木へ行った。苗も同じだと言った。恋仲になるのに時間はかからなかった」
 深々と息を吐き、しめやかに話をしめくくる。
 サムライの腕の中で、僕はどんな表情をしたらいいものやら逡巡する。
 「……第三者に苗との馴れ初めを聞かせてどうする気だ。のろけか?」
 嫌味にもいつもの冴えがない。サムライと苗の絆の深さを痛感し、苗への想いの深さを実感し、僕は気後れしていた。サムライの腕の中にいるべきなのは本来僕じゃない、サムライに抱かれる資格があるのは僕じゃない。僕がサムライに抱かれていいはずがない、それは苗の役目だという違和感が拭い去れず無口になれば、僕を抱きすくめたサムライが付け足す。
 「ひとつ、後悔していることがある」
 「なんだ」
 互いの顔も見えない闇の中、腕から伝わるだけがすべての闇の中に声が響く。
 耳に馴染んだ芳醇な低音、サムライの声。
 「犬を斬ったことか」
 「ちがう」
 「苗を救えなかったことか」
 「それは元より」
 「じゃあなんだ」
 サムライが覚悟を決めたように息を吸い、吐き、僕を抱く腕に力をこめる。
 おなじ過ちは二度とくりかえさないと己を律するように。
 「あの時、犬の死を悼んで泣く苗を抱きしめられなかったことだ」
 予想外の返答に目を見開く。 
 「犬を斬った俺が苗にふれていいものかと、ずっとそればかり考えて躊躇した。血ぬれた手で苗にふれれば汚してしまうと、ずっとそればかり悩んでいた。……馬鹿だな俺は。苗を泣かしたのは俺なのに、それでも苗を抱きたくて抱きたくて仕方がなかった。苗をなぐさめたくて仕方なかったんだ。ひどい男だ。正宗、いやフセに恨まれても仕方ない。あれから苗は滅多に泣かなくなって、とうとう苗をなぐさめる機会を永遠に逃してしまった。ずっと後悔していた。何故あの時我慢したんだ、遠慮したんだと己の意気地のなさを悔いた。あの時俺に苗を抱きしめる度胸があれば、苗は俺の胸の中で本音を吐露したのではないかと、俺が俺自身をそうしたように本音で責めてくれたのではないかと……それが、一生の悔いだ」
 サムライの気持ちがわかる。わかる気が、する。
 優しい言葉に甘えるより、いっそ責めてもらうほうが救われる時もある。サムライは犬を殺した自分が許せなかった、誰かに罰してほしかった。でもサムライの身をいちばんに気遣い案じる苗にはそれができなかった、苗はとうとうサムライを責める言葉を一言も発さず、気丈な微笑みを浮かべ続けた。
 そしてサムライは、泣く機会を失った。
 大切な者を悼み、大切な者に謝罪する機会を逸してしまった。
 サムライが僕の後ろに顔を埋める。親愛の表現ではない、性欲の発露でもない、ただそうせずにはいられないという切羽詰った情動に駆られて僕の首の後ろに顔を埋め、血を吐くように叫ぶ。
 「俺はもう二度と後悔しないと決意した。大切な誰かを抱きしめるのに躊躇しないと、大切な誰かを一生失うくらいなら抱きしめたまま手放すものかと。あんな思いはもう二度と味わいたくない、耐えられない。大切な人間が哀しんでいるときにはそばにいたい、頼ってほしい。手遅れになるまえに泣いてほしい、俺に非があれば責めてほしい」 
 こんな気弱なサムライを見たのは、売春班最後の夜以来だ。
 すがりつくように腕に力をこめ、背後から僕を抱きすくめ、かすれた声音で切々と心情を吐露する。感情表現が下手なサムライは、不器用なりに一生懸命、哀しくなるほど一生懸命僕に何かを伝えようとしている。声の響きは懇願に近く、おそろしく切迫したものを抱えていた。
 腕の力は強く、痛いほどだ。
 視界に覆い被さる暗闇の帳のむこうで、サムライの息遣いを耳朶に感じる。サムライの吐息が首の産毛をぬらす感覚も、二人の心音が重なり体温が交わる安堵感も、すべてを自分の一部のように身近に感じる。

 僕は人間のクズの親殺し、妹にも見捨てられた情けない兄、だれにも待ち望まれてない要らない人間。 
 違う。そうじゃない。
 それが事実なら、今僕を抱きしめている男はなんだ?
 もう二度と手放さないと悲愴な決意をこめ、腕に力をこめる男は?
 サムライは僕を必要としている。
 僕は、必要とされている。

 「ひとりで抱え込むな、直。泣くのを堪えるな。泣くのを堪えすぎて泣けなくなった人間は俺ひとりで十分だ」

 鍵屋崎直が今、ここにこうしていることには意味がある。
 無意味なことなんて何もない。サムライとの出会いには意味があった、サムライと共に過ごした数ヶ月には意味があった、僕のこれまでとこれからには意味がある。
 僕は無意味じゃない、要らない人間じゃない。辛い時、どうしようもない時、抱きしめてくれる人間がいる。泣いてもいいとさとしてくれる人間がいる。  
 僕にはサムライがいる。
 独りじゃない。

 「………この痣は、タジマにつけられたんだ」
 限界だった。
 哀しみが胸を食い破り、言葉が氾濫した。あとからあとから。
 「今日、君の留守中にタジマが来た。僕のベッドに座っていた。僕は手招きされて、逆らえなかった。僕が拒めばロンを犯すと言われて……ロンの身代わりになろうとしたわけじゃないが、僕は初めてじゃないし耐えきれると、売春班での日々に比べればマシだと自分に言い訳してごまかして、約束を忘れたふりをした」
 喉がひきつる。ここで泣いたらおしまいだ。色褪せるほどに唇を噛み、堪える。胎児のように膝を折り曲げ身を縮め、自分の肩に腕を回し自分を抱く。
 胸が熱い。涙腺が熱い。喉の奥が塩辛い。
 「タジマは僕の服を脱がせて裸にして、君のベッドに押し倒した。友達のベッドで犯してやるから感謝しろと笑っていた。抵抗すれば上着で手首を縛られた。顔を殴られた……言えないこともされた」
 「言えないこと?」
 「頼むから聞かないでくれ、説明したくない。でも、でも僕は毛布を汚したんだ、毛布だけじゃない、シーツにも染みた。タジマの、あんな男の手で」
 肩を強張らせた僕の反応ですべてを悟ったサムライが大丈夫だからと励ますように、先を促すように徐徐に徐徐に腕に力をこめる。
 「廊下に逃げれば追いかけてきた。肩の痣は、逆上したタジマに警棒を投げられたあとだ。タジマは恵の絵を食べた。信じられないあの男、本当にどうかしてる、気が狂ってる!絵を、紙を食べたんだぞ?咀嚼して嚥下して胃で消化したんだぞ!」
 「直」
 「恵が描いた絵なのに、たった一枚の家族の絵なのに、僕にはあれしかなかったのに!廊下に逃げたら追いかけてきて、僕を押し倒して、君の木刀で足を開かせた。褒美だと言われた。死にたいくらい恥ずかしかった、自分の無力が死ぬほど悔しかった」
 なんでこんなことを言ってるんだ、やめろ止まれ、こんな話サムライに聞かせたくない。僕がますますみじめになるだけじゃないか。プライドがあるなら沈黙しろ。
 いやだ、ひとりで抱え込むのはもう限界だ。憎悪や憤怒や恥辱や劣等感や自己嫌悪や、鬱屈した感情が汚泥のように沸騰し、胸を燻して血が燃える。激情の捌け口を求めて体を裏返し、腕の中で身を捩り、顔をあげる。
 「軽蔑したろう?僕は約束を破った、信頼を裏切った、友人でいる資格を失った。放してくれ、もう気が済んだろう放してくれ、君以外の男に体をさわらせないと約束したくせによりにもよってタジマなんかに抱かれようとしたんだ、怒って当然だ。責められるのは僕だ、罵られるのは僕だ、この鍵屋崎直だ!」
 突然、今までにない力でサムライに抱きしめられた。
 渾身の力をこめた両腕に抱きしめられ、必然、サムライの胸に顔を埋める格好になる。熱く鼓動を打つ胸に顔を伏せる、早鐘を打つ心音が耳の奥に響き渡る。苦しい、窒息しそうだ。息苦しさに腕の中で暴れる、苦鳴をもらし身を捩り惰力の抵抗をする。が、すぐに肩の力を抜き、こぶしを掲げた手をおろす。憑き物が落ちたように大人しくなった背中で腕がゆるみ、呼吸がしやすくなる。
 こぶしをほどき、五指を開き、サムライの上着の胸を掴む。何故そうしたのかわからなかった。何か縋るものが欲しかった、何かに掴まってないと奔騰した激情に辛うじて残ってる理性の最後の一片が押し流され、自分が何をしでかすかわからなかった。
 たまたま掴んだのがサムライの上着の胸だった、それだけだ。
 ただそれだけだ。
 最初は弱く、徐徐に力をこめ、上着の胸を掴む。力を入れすぎた指の関節が白く強張る。サムライの胸に顔を埋めた今なら表情を覗かれる心配はない。サムライに抱かれ、胸に顔を埋め、五指で上着に縋りつき、口を開く。
 最初は声がでなかった。一回閉じ、また開く。興奮に乾いた唇を何度も舐め、湿らせ、唾を嚥下して喉を潤す。体がばらばらになりそうだ、心がばらばらになりそうだ。プライドの芯が脆くも折れて、僕が僕じゃなくなってしまいそうだ。
 喘ぐように口を開き、また閉じる。それを何回もくりかえし、漸くかすれた声がでた。
 「……み、に」
 サムライが肩を抱く手を強める、僕が独りじゃないと思い知らせるように。サムライは何も言わず、僕が口を開くまで身動ぎせず、辛抱強く待ちつづけた。上着を掴む手に渾身の力をこめ、熱い胸に顔をすりよせ、心臓の鼓動に身を委ねる。
 「恵に」
 心臓の鼓動が強まる。サムライの胸に縋りつき、今にも蒸発しそうなプライドの最後の一片を握り締め、嗚咽にかき消されないはっきりした声をだす。

 「恵に会わせてほしい」

 限界だ。
 それまで僕を支えていた脆い糸がはじけ、心に亀裂が入り激情の堰が決壊した。喉の奥から嗚咽が漏れた。上着の胸に顔を伏せ、表情を暴かれるのを拒み、嗚咽をあげる。恵に会いたい、会って抱きしめたい。ひとりぼっちにして悪かったと謝りたい、絵を守れなくて悪かったと謝りたい。
 妹に会いたい。会わせてほしい。
 「会えるとも、必ず」
 サムライが力強く請け負った。何の根拠もないのに勝手なことを言うなと反論したかったが、嗚咽にまぎれて言葉にならなかった。目尻からあふれ頬を滴って涙が上着に落ち、点々と染みる。
 「タジマを殺してやる」
 心の底からそう思い、声が震えた。 
 タジマへの殺意を紛らわすため、憎悪を押さえこむため、無理して苦笑する。
 「紙を食べたんだ、今ごろ消化不良を起こしてるに違いない」
 「いい気味だな」
 涙で曇った視界ではよく見えなかったが、サムライも苦笑する。サムライの笑顔を見たら安心し虚勢が剥がれ落ち、視界が涙で滲んで何も、何も見えなくなった。サムライの上着を掴み、肩を上下させしゃくりあげる間じゅう、ずっと肩にぬくもりを感じていた。毛布がなくても冷えないよう僕の体と心を抱きすくめ、サムライが耳元で囁く。
 熱い吐息が耳朶を湿らせ、冷徹な声音が鼓膜を貫く。
 よく鍛えた鋼の真剣に似た、表面は冷たく、核心では灼熱の憎悪が流動する声。
 「タジマは俺が殺す。あんな下司、お前が手を汚す価値もない」   
 そしてサムライは、強く強く僕を抱きしめた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051022022855 | 編集
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