ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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十八話

 そこにいたのは安田だった。
 蛍光灯が白白と輝く廊下の真ん中に図書室の扉を背にして佇んでいる。皺ひとつないダークグレーのスーツを隙なく着込み、シャツの白さを際立たせるアクセントとして濃い暗色のネクタイを結んでいる。無機質かつ無彩色かつ無表情の三拍子が揃った容姿から漂いだしているのは、選良のプライドに根付いた威圧的なオーラ。銀縁眼鏡がよく似合う理知的な細面は端正だが無個性で、規範を逸脱することを何より嫌うエリートの典型ともいえる面白みのない容姿の中、剃刀のような知性を帯びた双眸だけが強い印象を与えた。
 「手を放したまえ」
 冷たい声で安田が命じ、僕を組み伏せていた凱が言われたとおりにする。行為に水をさした招かれざる闖入者、それも東京プリズン副所長の地位にある人間に命令されては従わぬわけにいかない。荒い舌打ちとともに僕の肩を突き飛ばして立ちあがった凱が仲間に顎をしゃくって後方に下がらせる。
 安田と目が合う。
 床に座りこんだ僕は酷い状態をしていた。上着の裾は胸まではだけられて臍が露出し、ズボンは下着が覗くまで引き下げられていた。これから何をされようとしていたのか一目瞭然の状況だ。上着の裾をおろし、丁寧に皺を伸ばしてからズボンを穿く。服に付着した埃をはたき落としながら腰を上げれば、安田が落ち着いた声で凱たちを問い詰めていた。
 「こんな時間に何をしている?消灯時間過ぎてからの外出は規則で禁止されてるはずだが」
 「すいません、ちょっと外の空気を吸いたくなったもんで……な、そうだろみんな?」
 「そうそう」
 「凱さんの言うとおり」
 「眠れなかったからちょっとそこまで散歩に出かけただけです、なーんも悪いことなんかしてませんよ」
 反省の素振りもなく凱とその取り巻きたちが身の潔白を訴える。凱に追従して次々に声をあげる少年たちを冷ややかに一瞥、その視線が僕の顔へと降りてくる。
 「彼に何をしたんだ?」
 「ちょっと遊んでただけですよ」
 腰に手を当てた凱がおどけたふりで肩を竦める。
 「この親殺し、おっともとい、ネクラ眼鏡が夜中ひとりでほっつき歩いてたもんだから注意してやろうと思いましてね。夜中にひとりで出歩くなんて自殺行為だ、他の囚人に襲われてケツ剥かれても文句言えねえ。一回痛い目見たらもうこんな馬鹿な真似しないでしょう。はは、親切だよな俺たち」
 「凱さんは優しいから」
 「ほうっとけないんですよ、危なっかしい奴が」
 「貧弱で生っ白いくせして、自分がどんだけ男誘惑する犯ってくださいオーラ撒き散らしてるか自覚もなくほっつき歩いてるようなガキがね」
 「自業自得だよ」
 「そうだ、自業自得だ。ここをどこだと思ってんだ、リンチとレイプが年中行事の東京プリズンだぜ?深夜に出歩くのがどんだけ危険かわかってんのかよ、狼の群れに襲われて内蔵食い散らかされても知らねえぜ」
 「よかったな、俺たちが心優しいオオカミさんでよ」
 「黙れ」
 その一声で廊下に渦巻いていた野次と嘲笑がぴたりと止む。廊下の真ん中に立ち、体格はそう変わらないどころか自分より筋骨逞しい凱を含めた九人の少年と対峙した安田が底光りするレンズの奥から命じる。
 「独居房送りにされるのが嫌なら今すぐ自分の房に帰れ。今ならまだ見逃してやる」
 「独居房」の脅しは効果抜群だった。
 安田が介入してもなお人を食った態度を改めなかった凱たちの間にざわめきが走り、全員が怯えたようにを見合わせる。一列に並んだ少年たちを眼光鋭く睥睨した安田が、内心の恐怖を押し殺し、先頭に仁王立ちしていた凱を視線で射竦める。
 前出以外の選択肢を許さない強圧的な眼差し、無言の脅迫。
 「……ちっ。お前ら、帰るぞ」
 横柄に顎をしゃっくり、取り巻きたちを率いて踵を返した凱がすれ違いざま僕の耳元で囁く。
 「レイジとサムライに伝えとけ。東棟最大勢力を率いるこの俺様が必ずお前らを殺してやるってな」
 「伝えるのはかまわないが、無意味だな」
 「なんだと?」
 気色ばんだ凱に体ごと向き直り、泥で汚れた顔に笑みを浮かべる。
 「無知な君のために教えてやるが、脅迫とは強者が弱者にするからこそ効力を発揮するんだ」
 「…………屁理屈メガネが。俺に押し倒されて抵抗ひとつしなかったくせによ」
 口汚く毒づいた凱がいやな笑みを浮かべる。
 「俺がレイジを倒して東棟のトップになったらさっきみたいに四つん這いにして飼ってやるよ。たのしみにしてな」
 安田には聞こえない声で囁いた凱がすばやく尻を撫でて去ってゆく。廊下に響き渡る濁った哄笑もやがて消え、再び耳が痛くなるような静寂が降り積もる。蛍光灯の信管が爆ぜる耳障りな音が、目には見えない蝿の羽音のように鼓膜に付き纏っている。哄笑の余韻が今だたゆたってるような不均衡な静寂の中、安田と二人きりで廊下に取り残された僕は俯き加減に上着の裾を払っていた。廊下に押し倒されたときに埃やら泥やらが付着して酷い有様だ。こんな風体で帰ったらサムライに怪しまれてしまう。
 顔を伏せて立ち尽くしていた僕に安田が声をかけてくる。
 「君は何をしてるんだ?深夜の外出は規則違反だぞ」
 「何をしてるんでしょうね」
 鸚鵡返しの嫌味ではなく本当に疑問だった。何故自分がここにいるのかわからない。夢遊病者のように無意識に出歩いて気付いたらここにいましたなんて言えない。気まずく押し黙った僕になにを思ったか、安田がため息をついてそばの壁に凭れる。  
 「……彼らの肩を持つわけではないが、消灯時間過ぎてから廊下をふらついてたら危険に遭遇しても仕方ない。自己責任だ。もう少し自分を大事にしたらどうだ」
 「自分を大事にしろなんて偉そうに説教する前に刑務所の治安を改善してください。仮にも副所長なんでしょう」
 「……私も努力はしている」
 「口だけならなんとでも言える」
 前にもおなじやりとりをした。つい数日前、サムライが僕を庇って右手を捻ったときだ。サムライが医務室で診療を受けてるあいだ、こうして廊下に立ち、今とおなじように二人並んで壁に凭れかかって立ち話をした。ほんの数日前のことをやけに懐かしく感じながら足元の床を見下ろす。
 「何故抵抗しなかったんだ」
 「どこから見ていたんですか?」
 「君が上着を脱がされかけたところから」
 「……抵抗しても疲れるだけだ。それにあの人数では僕に勝ち目はない。相手は凱を含めて九人、全員が喧嘩慣れしていて僕など比較にならないほどに体格と腕力に恵まれてる。抵抗したら余分に殴られるだけだ、そんな非効率的なことはしたくない。大人しく抱かせてやれば彼らもじきに飽きるだろう」
 「投げやりだな」
 「東京プリズンの常識です」
 そっけなく返し、ふいに笑い出したくなる。入所たった半年で東京プリズンの常識を語れるほど馴染んでしまったのか、僕は。東京プリズンの劣悪な環境に感化されて一般社会で通じる倫理観が破壊されてしまったのだとしたら本末転倒だ。
 自嘲的に含み笑いした横顔に体温の低い視線を感じる。安田がじっと僕を見つめている。言いたいことがあるなら直接口にだせばいいのにまわりくどい男だ、と辟易しながら気付かぬふりで無視を決め込めば隣から衣擦れの音。スーツの背広を探り、安田が取り出したのは綺麗に折り畳まれた濃紺のハンカチ。皺ひとつない清潔なハンカチを手に持った安田をちらりと一瞥すれば、おもむろに手を掲げ、ハンカチを僕の頬に押し当てようと―

 手。
 体を這い回る手。

 「!―っ、」
 力一杯手を払われた衝撃でハンカチが床に落ちる。僕の眼前に手を翳したまま、安田は顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
 「さわるな。吐き気がする」
 僕を覗きこんだ安田の顔に一瞬悲痛な色が浮かぶ。おそらく今の僕は、生理的嫌悪と恐怖とが綯い交ぜになったさぞ醜い顔をしてることだろう。よそよそしく視線を外し、足元を見る。安田に触れられると直感した瞬間一斉に肌が粟立ち、冷静沈着な僕らしからぬ激烈な拒絶反応を示してしまった。僕の頬に付着した泥汚れを拭おうとして手厳しく拒絶された安田が中腰に屈み、軽く払ってからハンカチを拾い上げ、背広に戻す。
 「ひとに触れられるのはまだ怖いか」
 「怖いんじゃない。虫唾が走るほど不快なだけだ」
 落ち着け、動揺のあまり敬語を忘れてるじゃないか。深呼吸して気持ちを落ち着けてから服の袖で頬を拭い、泥汚れを落とす。
 「今夜の君は普段にも増して不安定だな。何かあったのか?」
 「……副所長ともあろう立場の人間がただの囚人に興味をもちすぎです。そんなに面白いですか、かつてはIQ180の天才児ともてはやされ将来を嘱望された僕が人間の屑の親殺しとして虐げられるさまを観察するのが。いい具合に倒錯した趣味をしてますね」
 「ひねくれてるな相変わらず」
 安田がかすかに苦笑する気配が伝わってきた。安田と話してると「同族嫌悪」という言葉を連想する。それからしばらく二人無言で壁に背中を預けていたが、五分が経過した頃に前を向いたまま安田が口を開く。
 「今の君は自暴自棄になっている。危険な兆候だ。辛いことがあるなら友人を頼ればいい」
 「友人とはサムライのことですか」
 「それ以外にだれがいる?」
 「だれもいません」
 「ひとりで抱え込むには限界がある。心が壊れるまえに友人に相談したらどうだ」
 「副所長」
 これ以上安田の賢しげな助言を聞くに自制心を消耗し、体ごと安田に向き直る。名前ではなく役職名で呼ばれた安田がかすかに意外げに目を見張る。等間隔に並んだ蛍光灯の下、青白く発光する信管に濃く焼き付けられた影が廊下にのびている。
 足元の影を踏んで安田と対峙し、眼鏡の奥から反抗的な目つきで睨みつける。
 「あなたは独身ですか」
 「……ああ。今現在は未婚だが」
 脈絡ない質問に当惑しながら安田が否定する。体の芯で燻っていた怒りが凍結、双眸の温度と比例して急速に声が冷えてゆくのがわかる。
 「既婚歴も離婚歴もない?」
 「ああ」
 「兄弟はいますか?」
 「いや」
 「家族に『死ね』と言われたことは?」
 続く言葉を喪失し、安田が黙りこむ。僕の頭の中では夕闇の房で見た一枚の絵が焼き付いてる。恵が描いた絵。拙い家族の肖像。僕だけがいない家族の絵。あれが恵が理想とした家族なら、恵が長い間欲しがってた家族の姿だというなら僕がこれまでしてきたことは何だったんだ?すべて無意味じゃないか。
 伯母夫婦のもとで恵が幸せになってくれるならそれで良かった。 
 鍵屋崎夫妻が与えてくれなかった愛情を注がれ、健やかに穏やかに育ってくれるならそれでよかったのだ。恵が幸せにある代償として僕が東京プリズンに送られたのなら何の不満もない。伯母夫婦のもとで愛情を注がれ、無邪気に笑ってるだろう恵を心の支えにすれば過酷な強制労働にも不味い食事にも幼稚ないやがらせにも耐えられたのだ。
 ところがどうだ?
 結局僕がしたことで恵は不幸になってしまったじゃないか。恵が渇望していた「家族」を永遠に葬り去ってしまったじゃないか。精神病院送りにされ白い部屋の中で奇声を発して暴れてベルトでベッドに拘束されて、食事さえまともに受けつけずに点滴のチューブを抜いて暴れて……恵をそこまで追い詰めたのは僕だ、すべて僕が悪い。何が天才だ、何が兄だ。結局僕は恵のためになにもできなかったじゃないか、恵を以前よりさらに、各段に不幸にしただけで終わってしまったじゃないか。どんなに知能指数が高くても知力が優れていても何の役にも立たない、幼い妹ひとり救えない無力でぶざまで最低な人間なのだ鍵屋崎直は。
 何故鍵屋崎優と恵が死んで、ふたりを殺した僕がのうのうと生きてるんだろう。
 そんなこと恵はちっとも望んでないのに。
 「……鍵屋崎優と由香利を身近に感じたことは一度もない。彼らは僕のことを後継者として見ていたから教育には熱心でもその他のことには徹底的に無関心だった。彼らを家族と思ったことは一度もない、一つ屋根の下に暮らしてる他人だと思っていた」
 僕の家族は恵ただひとりだった。
 恵を守るためならなんでもした。両親だって殺せた。恵にとっての僕はただの「おにいちゃん」で、僕が天才だろうがそうでなかろうがその呼び方はきっと変わらなくて。
 ただそれだけが嬉しかった。
 「以前こんなことがありました。4・5年前、鍵屋崎夫妻が遺伝子工学の分野で画期的理論を構築して、一躍有名になりマスコミから取材を受けたときです。僕は10歳かそこらで恵は5歳でした。父の研究に関与していた僕も両親と一緒に取材を受け、その写真が紙面に掲載されることになりました。恵は呼ばれませんでした。何故恵だけ抜かしたのかと父に聞けばこう返されました」
 目を閉じる。まだ鮮明に覚えている、あの時鍵屋崎優がそっけなく口にした言葉を。侮蔑的な眼差しを。
 「『恵は必要ないからだ』と」
 そうだ、鍵屋崎優は「必要ない」と言ったんだ。聞き間違えようもなくはっきりと、当たり前のことを諭すように僕にむかって。
 「恵は研究に一切関与してないから呼ぶ意味がないと、彼はそう言いました。そんなこともわからないのかと嘆かわしげな顔をして。僕は頼みました、次に取材がきたときは恵も混ぜてくれと。家族全員で写真を撮らせてあげてくれと」
 鍵屋崎優は言う通りにした。普段自己主張しない僕が必死に頼んだのが効いたらしい、次回から渋々恵を呼んでくれるようになった。
 「でも、新聞に掲載された写真では恵はいつも申し訳そうな顔をしてました」
 自分がここにいるのが場違いだといわんばかりにしおらしく俯いたその姿。自分が必要とされてないことを空気で感じ取り、すまなそうにうなだれた姿。
 僕がよかれと思ってしたことはいつも裏目にでて恵を哀しませてばかりいる。今だってそうだ、恵の為に、恵を守る為に両親を刺殺したことで恵がどれだけ傷ついて心を閉ざしてしまったか……
 恵と僕には血のつながりがない。恵は鍵屋崎夫妻の実子で、僕は違う。でも僕は鍵屋崎夫妻に必要とされていた、自分達が老いた将来研究を継がせる人材として優秀な後継者として彼らは僕を養育した。
 彼らが必要としたのは僕の天才としての「能力」で、「鍵屋崎直」という一人の人間じゃない。
 それなら名前なんて必要ない。本名など無意味だ。「鍵屋崎直」は便宜上の記号にすぎない。研究を継がせるため、試験管の中で精子と卵子を結合させ人工的に創造した天才児だから僕は「直」と名づけられた。
 ユズルの次にくるのはスグル。何の願いも夢もこめられてない語呂合せの産物。
 ただの人材。
 「馬鹿な、今の状態じゃ需要と供給が成立しない。僕はだれかを必要とするばかりでだれからも必要とされない、たった一人の妹にだって必要とされてないのが現状で。僕は恵を守ることで恵に必要とされたかったのに、恵に必要な人間になりたかったのに、その結果がこれか?どうしてだ、なんでこうなってしまうんだ。両親を殺害したときもまったく後悔はしなかった、恵を軽んじた両親など死んで当然だとさえ思っていた。鍵屋崎優と由香利を殺せば恵が二度と無神経な言動に傷つくことがないと、自分が身代わりになって妹を守り通した気にさえなって」      
 遠くから聞こえる雨の音、雨の音にかき消される悲鳴。
 血が滴るナイフを片手にさげ、薄暗い書斎に立ち尽くす僕。部屋の隅に追い詰められた恵。恐怖に硬直した表情。うつ伏せに倒れ伏せ、徐徐に体温と血を失いつつある両親の遺体―……
 「僕のしたことは全部無駄だった。恵にとっても、サムライにとっても」
 僕が助けなど求めなければサムライが死地に赴くこともなく利き手を痛めることもなかったのだ。どうしてこんなことになったんだ、恵もサムライも傷つけたくなどなかったのに―……
 僕がしたことは全部無駄だった。もう、疲れた。 
 「鍵屋崎 直」
 名前を呼ばれ、顔を上げる。
 安田がまっすぐにこちらを見ていた。逃げを許さない眼差しで。
 「君がしたことが迷惑だと、サムライがそう言ったのか?」
 「………いいえ」
 「なら、ひとりで決めつけるのはよせ。友人に対して失礼だろう」
 叱りつけるような声だった。  
 安田がゆっくりとこちらに向き直る。眼鏡越しの目には僕の心をざわつかせる透徹した光。
 「君が傷ついたら哀しむ人間がいることを忘れるな。自分を粗末にしたら怒る人間がいると肝に銘じておけ。君は一人だが独りじゃない、君のために泣いてくれる人間がいるかぎりは」
 安田の言葉に記憶がよみがえる。
 売春班の仕事場に僕を訪ねてきたサムライの涙を。眼鏡をかけてないせいで顔はよく見えなかったが、あの時、彼はたしかに泣いていた。頬に落ちた涙が熱かった。堪えても堪えきれずに声が震えていた。
 
 ああ、そうか。
 自分のために泣けない僕の代わりに、サムライが泣いてくれるのか。  
 
 目は乾いていた。涙はでなかった。
 でも、少しだけ、ほんの少しだけ救われた心地になった。心の空洞を埋めるように温かいものが胸を満たし、恵の絵に僕がいなくても泣かずにすんだのはそばにサムライがいたからだと気付いた。
 「泣くのが下手な人間のそばには代わりに泣いてくれる人間がいるはずだ。必ず」
 「あなたのそばにもそんな奇特な人間がいるんですか?物好きな」
 「皮肉を言う元気がでてきたみたいじゃないか」
 何故か嬉しそうに微笑んだ安田が背広のポケットに手をさしいれ、何かを取り出す。てのひらには一粒の錠剤。
 「さっき医務室でもらってきた睡眠薬だ。どうしても眠れない場合はこれを服用しろ」
 驚いた。
 「いいんですか、副所長が勝手なことして。貴方に処方された薬でしょう」
 「私には残りがある。それに東京プリズンの不眠症患者は君だけではない、自分が犯した罪の重さに苛まれて眠れない囚人は他にもたくさんいる。そんな囚人から『睡眠薬を処方してくれ』と要望がでてな、近々重度の不眠症に苦しんでる囚人にかぎり睡眠薬を処方する懸案がでてる。いい機会だ、君には試験体一号になってほしい」
 咎めるような目をした僕の手に錠剤を乗せ、悪びれたふうもなく安田が言う。 
 「くれぐれも睡眠薬の服用自殺など図るなよ」
 「副所長は自殺幇助の疑いで更迭されますね」
 「おい」
 気色ばんだ安田を無視し、手渡された錠剤をズボンのポケットにしまいこむ。
 「冗談です。この僕が自殺なんて無様な真似するわけない。見損ないでくれますか」
 睡眠薬を受け取り、踵を返す。夜が更けて本格的に寒くなってきた、これ以上立ち話してたら凍死してしまう。サムライが異変に気付く前に房に戻らなければ……安田とすれちがいざま、彼が小脇に抱えてる本に目がとまる。腰の後ろに隠していたせいで今まで全然気付かなかった。
 「なんですかそれ」
 「え?」
 いついかなるときも冷静沈着な安田に似つかわしくないうろたえた声だった。
 安田の小脇に目を凝らし、目を見張る。
 以前ヨンイルが紛失したと騒いでいたブラックジャック九巻だった。
 「犯人は貴方だったんですか!?」
 意外すぎる事実が発覚し、廊下中に響き渡る大声で叫んでしまった。片手に隠し持っていた本を見咎められた安田がついぞ僕が見たことのない表情で焦る。
 「ああ。囚人間で面白いと評判だし、その、少し興味がでてな……一巻から八巻までは図書室で読んだのだがこの巻には興味深いエピソードがあってじっくり読みたくて」
 「何故正規の手続きを踏んで借りなかったんですか、盗みは犯罪でもないと思ってるんですか」
 追及する声にも怒りがこもる。落ち着け、冷静になれと理性が命じるが僕が読みたくて探していた九巻をよりにもよって副所長の安田が持ち出したと発覚した今じゃ無理な相談だ。九巻が見つからなかったせいで僕がどれほど苦労したか、書架の端から端まで一日かけて探して頭から埃にまみれて……
 「……正規の手続きで借りたら図書カードに名前が残ってしまうだろう」
 合点がいった。
 正規の手続きで借りたら図書カードに名前が記録され、次に借りる人物に知られてしまう。副所長の見栄だかエリートの矜持だか知らないが、それに気後れした安田は無許可で本を持ち出したのだろう。
 「……あきれた男だな。もはや敬語を使う価値すら見出せない、図書カードに記入せず無断で本を持ち出すなど最低の犯罪行為だ。僕個人の法的見地から述べさせてもらえば器物破損より罪が重い」
 「反省している」
 一介の囚人が副所長を叱責する、という立場逆転の図を第三者に目撃されたら問題に発展したかもしれない。素直に謝罪した安田が図書室の扉の前に立ち、背広のポケットから鍵束をとりだし、中のひとつを鍵穴にさしこむ。僕が凱たちに犯されようとしてる現場に通りかかったのも、人目がない時間帯を選んでこそこそ本を返しにきたからだろう。
 「副所長」
 両開きの扉を開け、図書室の中に足を踏み入れようとしていた安田が振りかえる。
 まだ何かあるのだろうか、と眼鏡越しの双眸を細めた安田と対峙し、できるだけ平静を装い眼鏡のブリッジを押し上げる。  
 「……読み終わったのなら僕に貸してください」
 戻ってくるのをずっと待っていたのだから、これくらい言う権利はあるだろう。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051228220414 | 編集
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