ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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凡夫危うきに近寄り、喰われる12

 「なんの真似だバンリ」
 「見てわかりませんか。下克上です」
 擦り剥いた手の甲が痛い。
 生まれて初めて全力で人を殴った。
 耳に注ぎ込まれた言葉が燃え滾る硫黄のように理性を溶かし、発作的な暴力衝動に身を委ねた。
 先輩に手を出した痴漢を撃退した時でさえ間一髪のところで無意識にセーブが働いた、線路に蹴落として轢き殺そうとしたのは事実だから説得力はないけど蹴倒した時点では致命傷を与えないよう自制していたのだ。
 その枷が外れた。
 「ちさと……?」
 億劫げに片目を開き、状況を把握しようと濁った眼球を右に左に動かす。
 大量の汗を吸って変色したシーツの上、後ろ手縛り上げられた不自然な姿勢で突っ伏した先輩が息を荒げつつこちらを見る。
 酷い顔色だ。
 追い詰めたのは、僕と兄さんだ。
 「………馬鹿を言え。そこをどけ」
 「どきません」
 腰を浮かしよたつく。顔を覆った手の隙間から大量の鼻血が垂れて点々と床を叩く。美形が台無しの出血量だ。
 視界から先輩の痴態を遮るようにして片手を広げ、鋭い威嚇をとばす。
 「動くな」
 立ち止まる。怪訝そうな顔。
 当惑する兄さんと対峙し、強い決意を込めて言う。
 「それ以上近寄るな。この人には指一本触れさせない」
 「……何をいまさら。博愛主義者を気取るか?平和主義者か?さっきまで俺と一緒にのりのりでそいつを嬲ってたのはだれか、バックから犯して貫いて揺さぶって笑ってたじゃないか」
 「否定はしません、事実ですから。僕はあなたと同じかそれ以下の……最低の人間です」
 唇の片端を歪め自嘲する。しかし自虐ではない。そんな泥沼に足をとられてる場合じゃない。
 ベッドに膝立ち兄さんと向き合う。
 先輩の肌が、顔が。
 髪一筋たりとも兄さんに目で犯され穢れないよう体を張って守り抜く。
 「憧れの人の信頼を裏切り続けた、誠意ある言葉を無視し続けた。何度も何度も裏切ってひどく傷つけた、いまさらこんなことをしたって偽善でしかない」
 久住宏澄は僕の憧れの人だ。
 会社に入ってからずっとずっと憧れていた、優しくないフリをしても本当は優しく頼りになる輩だった、好きなところを数え上げたらきりがない。
 僕は彼に救われていた、彼が自覚しなくても様々な局面で彼は僕の支えだった、彼がいたから毎日楽しかった、兄さんの抑圧や家の束縛を離れ少しの間でも自分の人生を生きることができた。
 兄さんを睨みすえたまま深呼吸し、自らの内側を透徹した眼差しで見据え、いくつも沈んだ理由をさがす。

 「ぶっきらぼうな物言い、意地っ張りなところ、まっすぐな性根、女子供に優しいところ」

 眉が左右非対称に跳ね上がる。疑問の表情。
 突然何を言い出したのかと訝しむ兄さんをよそに、静かに目を瞑り、自らの底から浮かび上がってきた無数の理由を継ぎはぎする。

 「クールぶってるけど実は子供っぽくて負けず嫌いなところ、勝負に熱くなる性格、趣味にも全力投球で休み時間も将棋の解説本を読んでる」
 「バンリ……?」
 「なんにでも程ほどに手を抜くことができない要領の悪さ、そのせいで彼女に振られても自分を曲げられない不器用さ、恋人に対して誠実であろうとする姿勢、自分をフッた女性の幸せを笑って祈ることができる強さ、その裏に隠れた脆さと弱さ、インテリぶってるけど実は短気で口が悪くてすぐ手が出る、足が遅いとか何分かかってるとかつまらない理由ですぐはたく、人付き合いが下手で飲み会にも来なくってけれども本当はだれより思いやりが深い、毎日廊下で会う掃除のおばさんにも挨拶する、コンビニで買い物する時も必ずありがとうを言う、電車の中でなるべく立つようにしてるのは弱者を優先するからだ」

 おもてだって口にすることもない数々の理由、口にしたらしたらで本人が怒るとわかっていたから今まで改めて言葉にすることなく伏せてきたいくつもの理由、久住宏澄という一人の人間をどうしようもなく好きになってしまった理由を次に持ち越す機会がないのなら未練など残すものかと一息にまくしたてる。
 目を閉じると必ず浮かぶ面影がある。
 
 「彼ほど仕事熱心な人はいない、彼ほど心の優しい人はいない、彼ほど面倒見がいいお人よしな先輩はどこにもいない。自分の仕事に誇りを持ってる、他人の仕事に敬意を払う。他人にも自分にも厳しく女子供にだけ甘い、怒るとおっかないけどごくまれに見せる笑顔はすごく素敵だ、レンズのむこうで切れの長い目が細まってすごく優しい顔で笑うんだ、惚れ直さずにいられないような」

 口の端に何かを成し遂げた微笑がほのめき、落ち着き払って宣言。
 「納得していただけましたか、僕が久住宏澄に惚れこんでいるという事実を」 
 「俺に逆らうのか?」
 「はい」
 威圧を孕んで低まる声に無表情で返す。兄さんが手の甲で鼻血を拭きこっちにやってくる。
 ショックの後引く覚束ない足取り。兄さんは権力を愛するが、暴力には免疫がない。実生活で人に殴られた事はおろか殴った経験もない。プレイの一環として虐待する場合は相手を拘束し自由を奪うのを好む。しかも相手はこれまで従順に服従し続けた腹違いの弟ときた、直前まで反抗の気配すら見せず傅いていた人間に下克上された怒りはひとしおだろう。
 不安定な足取りで接近しつつある兄さんから目をはなさず、痛めつけられて弱りきった先輩を庇う。
 「反抗期か」
 いやらしく眇めた目がぎらつく眼光を放つ。口元が歪に曲がる。
 電気を消した暗い部屋の中、ぶつかりあう視線が火花を散らす。
 「だめじゃないかバンリ、俺に噛みつくようなまねをしちゃ。お行儀が悪い。これまでよくしてやった恩を忘れたのか」
 「忘れました。優しくされた期間より虐げられていた期間が長いですから」
 どうする?距離感を把握、次の対策を練る。先輩は弱りきってる、体調が回復するまで時間を稼げ。兄さんから視線を切らぬまま横這いに移動し、シーツを纏ってぐったりする先輩に囁く。
 「今ほどきます」
 「っは………やく……」
 後ろにまわりこんで素早く戒めを解く。背中に回され自らのシャツできつく縛り上げられた腕を解き放つ。シーツの上で苦しげにのたうちつつたまりかねてかぶりを振る。
 「……そ、っちじゃねえ……」
 「え?」
 虚を衝かれ聞き返す。瞬き一回、一呼吸遅れて気付く。ざんばらにばらけた前髪に見え隠れする双眸は苦痛と快感がごた混ぜとなった恍惚に潤み、唾液に濡れて光る半開きの唇でか細く喘ぎ、僕に何か重要な事を伝えようとしきりに顎をしゃくる。シーツに肘をつき、もう片方の手を股間へと持っていくも、小刻みに震える指は先走りに濡れそぼったペニスを悪戯に上滑りするばかり。
 「っあ、うぐ、あ」
 きつく食いこむハンカチを解こうにも解けず、怒りと屈辱と情けなさとで赤面する姿がこれでもかと嗜虐的に倒錯した劣情を煽り立て、とどまるところを知らない欲望に火をつける。
 「先輩……」
 「ちさ、と、何」
 「一人じゃムリなんでしょ。手伝いますよ……」
 ぎこちなく自らを慰める彼を背後から抱く。抱きすくめる。
 鈴口から分泌された大量の粘液、射精の快感とはかけ離れた焼けつくような尿道の掻痒感にもがく先輩を抱擁し、縛られた前に手を回す。
 「責任をとらせてください」
 「!っ、やめ、ひ」
 「力抜いて」
 ハンカチをしゅるりとほどく。
 しとどにぬれそぼった布を捨て、屹立したペニスをじかに掴めば鼓動に合わせて脈動が伝わる。
 放精の予感に震え、生命の鼓動を伝える一部を大切に包み、耳元で囁く。
 「イかせてあげます」
 おもいっきり手を動かす。
 「―!!っああああ、あっ、あう、ああっ」
 びくんびくん、今までで最大の痙攣が襲う。
 手に持つペニスが白濁を放出、シーツに粘りが飛び散る。
 塞き止められてた分精液は濃縮され大量だ。
 ようやく射精を迎えた先輩が口の端から一筋涎をたらし精魂果てて首を折る。
 一回イッただけじゃ足りず断続的に残滓を吐き出す。
 「ちさと………」
 「はい」
 「ほんとにちさとか」
 「そうです。ぼくです」
 優しく返事をし、あやすようになだめるように、何回も裸の背中をさする。
 背中に覆い被さる体温と鼓動が伝わったのか、射精の直後で口を利く体力さえ使い果たしただろうに掠れた憎まれ口を叩く。
 「……遅えんだよ、ばか………何ヶ月待たせりゃ気がすむんだ……」
 たまらなく懐かしい。
 「……言い訳はあとでします」
 うなじにひとつキスし、突っ伏した背中を再びシーツで覆う。改めて兄さんに立ち向かう。
 「見せつけてくれるじゃないか」
 「羨ましいですか?仲間に入れてあげませんよ」
 兄さんが笑う。僕も笑う。研ぎ澄ました眼光がぶつかりあう。危うい均衡の上に成り立つ緊迫を破ったのは汚泥が煮立つような笑い声。
 「俺に組み敷かれて泣いてた子供が成長したじゃないか。褒めてやる」
 「………どうも」
 「初めてのフェラチオでえづいてたっけ。あの時のお前の泣き顔ときたら傑作だった、みじめでぶざまで最高にそそったよ」
 狂気に酔った抑揚をつけじくじくとトラウマを抉る。嗜虐的に笑いつつ、スーツから取り出した携帯を開き、耳に当てる。短縮を押す。
 まずい。
 「椎名か?……俺だ。トラブルが起きた。バンリが反抗期に突入したんだ……至急来い」
 「!っ、」
 鋭く舌打ち、携帯を奪い取ろうとベッドを蹴ってとびつく。
 兄さんの秘書兼ボディーガードの椎名は武道の達人、空手と柔道の有段者たる椎名が相手では所詮は護身術の域をでない僕の合気道も通じず勝ち目がない。兄さんに体当たり、勢い良く縺れて床に転がる。視界が反転、暗転、上になり下になり回転するにつれ体のそこかしこを打ち付けて痛みが爆ぜる。兄さんの手を掴んで強引に指をこじ開け通話中の携帯を振り落とす、椎名の名前を液晶に表示した携帯が目と鼻の先の床を滑ってベッドの下へ吸い込まれていく。

 さあ今のうちに
 「逃げてください久住さん!」
 決死の形相で叫ぶ。

 「千里……?」
 「なにぐずぐずしてるんですか、逃げてください!」
 「だけど俺素っ裸……まっぱでタクシー乗れってのか、乗車拒否されんのがおちだ!?」
 「~っ、服なんてあとでいいでしょう持って出てくださいよ、どうせこんな時間だ住人とすれちがわない、股間さえ隠してれば十分です!いいからぐずぐずしない、さっさと行ってください、これ以上ここにいたって変態の寝言に付き合わされるだけ時間の無駄です!」
 必死に急きたてる、早く行けさあ行ってしまえと声を限りに促す。
 僕が兄さんの気を引いてるうちに足止めしてるうちに椎名が来る前に逃げてくれできるだけ遠くへ、追跡できないほど遠くへ、未練の鎖を断ち切るほど遠くへ逃げ延びてくれ。あなたが無事ならそれでいい、罪滅ぼしなんて都合のいいことは言わない、これはただの自己満足だ。僕はエゴの塊のような人間だ、なら最後の最後まで意地でもエゴを貫き通す。
 胸の痛みを押し殺し、己を欺き本音を偽り叫ぶ。
 「千代橋さんの所へ帰れ!!」

 それがあなたの幸せだから。
 正しい道だから。
 僕が狂わせてしまった貴方の人生の、おそらく最善にして最良の方向だから。

 鞭打たれたように竦む先輩の顔が視界の隅にちらつく。千代橋さんの名が引き出した反応は劇的で、僕の方へと這いよりかけた姿勢で停止する。激しく揉み合い兄さんを押し返し、掠れた声で続ける。
 「あなたは……もっと欲張っていい人だ……」
 千代橋さんならきっと、あなたをしあわせにしてくれる。
 「もっとしあわせになっていい人だ……」
 安子さんの何倍も何十倍も……ぼくなんかとは比較するのも愚かしい。
 「もうあなたが傷つくのを見たくない、だれかに傷つけられるところを見たくない、うんざりなんだ」
 「詭弁だバンリ、さっきまで自分がしてたことを思い出せ、嬉嬉としてクズミを犯してたじゃないか!」
 兄さんが勝ち誇ったように哄笑する、僕の肩を掴んで床に固定し頬を張る、甲高く乾いた音と衝撃が炸裂し激痛が爆ぜる、唇が切れて鉄錆びた味が広がる、兄さんに逆らい抗う、切れた唇がしゃべるたび疼くも我慢する。
 「他人があなたを傷つけるのは許せない……だけど一番許せないのは、兄さんごときに怯えてあなたを傷つけてしまう僕自身だ……!」

 『お前が見てるのは有里じゃねえ、有里の後ろだ!』

 傷つけたくないのに傷つけてしまう、優しくしたいのに酷くしてしまう、この人がまっすぐぶつかってくるから耐えきれくなる。久住宏澄の潔癖さに照らされ自分がどれだけ汚れきった人間か思い知らされ、この人に僕を受け入れさせるには同じところまで引きずり下ろすしかないと過ちを繰り返してしまう。

 言えるものか、同じくらい汚れてほしいなんて。
 僕が好きになったのは汚れてないこの人なのに。

 「早く逃げてください……」
 繰り返し念じる、途切れ途切れに乞う。
 完全にマウントポジションをとられた。
 兄さんが僕に馬乗りになり頬を平手で叩く。瞼の裏で火花が散る。
 「いい子だバンリ、クズミを庇って逃がすのか。だけど悪い子だお前は、お前の主は俺だけだ、そうだろう?」
 両頬を往復で打たれるごと鼓膜に衝撃が響く。
 平手が炸裂した頬が火照る。
 気を抜くと気が遠くなる。
 兄さんをひっぺがそうにも腕が上がらない、何回も平手打ちをくらううちに脳震盪を起こしでもしたのだろうか?首を圧迫、呼吸を妨害。兄さんが両手を添えて僕の首を軽く絞め、徐徐に力を加えていく。
 「いまさらいい子ぶったってだめだ、クズミは許さないぞ。例のハメ撮り写真をネタにオナニーしたくせに」
 僕が犯した罪を嬉々として暴露する。
 闇に沈んだ天井に壁に哄笑が響く。僕の首をゆっくりと絞めながら、先輩にも聞こえるよう大声で続ける。
 「よく聞けクズミ、こいつはお前の写真に欲情したんだ。お前が俺にフェラチオを強制されてる写真を物欲しげに見つめていた、後ろにバイブ突っ込まれてよがりまくってる写真を食い入るように凝視した、そうしながらテーブルの下でびんびんに勃起してた、俺にいたぶられるお前の姿にどうしようもなく興奮してたんだ!」
 やめろ。耳を塞ぎたい。それが無理なら殺したい、目の前のこの男をこの世から葬り去りたい。
 「ちがう、あれは」
 よく動く口を黙らせようと身をよじり暴れるも横っ面をはたかれ意識がとぶ。
 「ちがう?ちがうもんか何も、クズミの写真でオナニーしたのはだれだ、床に這いつくばって夢中でペニスをしごきたてて……ははっ、羨ましかったんだろう俺が!クズミを犯してるのが自分ならいいと想像したんだろう、俺に成り代わってクズミをめちゃくちゃに犯してるつもりだったんだ、クズミのエロい姿を妄想しながらペニスをしごきまくって腰振って後ろにまで突っ込んで」
 「うるさい、黙れ、黙れ!!」
 「クズミの写真にぶっかけたのはわざとか」
 永遠に隠蔽しておきたかった恥部を洗いざらい暴露され、絶望にうちのめされる。
 「っ………」
 先輩にだけは知られたくなかった。
 軽蔑か憎悪か憤怒か、先輩の方を見る勇気が湧かない。
 「ちょうどいい、二度と勘違いしないようクズミの前で犯してやる」
 兄さんは僕が一番いやがることをする。
 人の弱みを探り当てる嗅覚は天才的だ。
 言い放つが早いか力づくでシャツを引き裂き、胸板を舐め始める。なまぬるい舌の感触。荒い息遣い。兄さんの頭越しに見上げる天井はやけに遠く距離感が狂う、追い上げる愛撫は酩酊を誘う、抵抗しなければと頭ではわかっている、だけど力が出ない、先輩にすべてを知られてしまった、軽蔑された、とことん汚い人間だ千里万里は……
 「自分ひとりだけしあわせになるつもりだったのか、許さないぞバンリ、償いは終わってない」
 後頭部が床にぶつかる。
 鈍い音、激痛。
 唇が胸板を這う、鎖骨で舌が踊る、脇腹を引っ掻く。脇腹の柔肉に爪が食い込む痛みが薄れかけた意識を覚醒させる。
 「償いって……なんですか……」 
 どうして僕が?
 兄さんは何故こうも僕を憎悪する?
 潤んだ目で腹の上で蠢く男を窺う。兄さんは、有里は、鼻血で赤く染まった顔に愛憎入り混じった狂的な笑みを湛えていたが、僕荒い呼吸の隙間から細く紡いだ疑問を聞きとがめるや、その笑みが引き歪む。
 「忘れてるのか、お前は」
 「なんのこと……ですか……本当に知らない……」
 力なく首を振る。理由があるなら教えて欲しい。
 最後の力を振り絞って片手を持ち上げ、首にかかる手に重ねる。
 「どうして……なんでもできて憧れてたのに」
 視界が曖昧に歪む。
 目に映る光景が奇妙に歪み、僕の首を絞める男の姿が、聡明で快活だったかつての兄とだぶる。
 「あの頃僕は泣き虫で弱虫で、学校でいじめられて泣いて帰って犬小屋に逃げ込めば真っ先に見つけてくれた」

 『見ろ隆文、こいつ口がきけないみたいなんだ』

 「意地悪で。いばり屋で。ときどき無茶苦茶言うけど、内気で引っ込み思案な僕をいつも椎名さんと率先して引っ張ってくれた」
 兄さんと椎名と、三人一緒に遊んだ幸福な子供時代を回想する。
 もうとっくになくしてしまった、過去形で語るしかない時代。

 胸が痛い。
 痛くて痛くて遣り切れない。

 「失語状態から回復できたのは兄さんのおかげだ、あなたが励ましてくれたから声を取り戻せた、家と学校での孤立から救ってくれた」
 「わんと言ったな」

 郷愁の光に濡れた双眸を虚空へ向けた様子に一抹の希望を繋ぐ。
 説得が効いたのかと。
 呼びかけに応じて昔の兄さんに戻ってくれるんじゃないかと。
 この人にも心があるなら、感情があるなら、しあわせだった頃を思い出してくれるんじゃないかと

 「身の程をよく弁えてると感心した」
 呟かれたその一言で、希望は粉々に打ち砕かれる。
 首を締める手に悪意が乗る。
 気道を塞がれ窒息の苦しみに視界が溶暗し狭窄していく。
 じわじわと嬲り殺すつもりか?
 首を絞める傍ら、もう片方の手を裾の下にもぐりこませてベルトのバックルをがちゃつかせ犬歯を剥いて笑う。
 「勘違いするな。お前は飼い犬だ、いや飼い犬以下の存在だ、飼い犬にも劣る愛人の子だ。子供心にそれを自覚してたからわんと言った、犬の真似をしたんだ、そうだろう?ガキの癖に俺に気に入られたくて媚びた、むかしからお前のそういう卑屈なところが大嫌いだった、しっぽを振って媚びれば優しくしてくれるとでも勘違いしたのか、手のひらを舐めればご褒美をもらえるって?」
 致死量の毒を孕む揶揄がライターの火でネガを炙るように思い出を浸蝕していく。
 「いいことを教えてやろうバンリ」
 やわく耳朶を食み、蛇のように体を重ね合う。
 狂気と嗜虐に濡れた瞳が至近で微笑み、艶やかな唇が綻ぶ。
 「あの犬を殺したのは俺だ」
 衝撃。
 「な………」
 慄然と凍りつく。
 愕然と目を剥く。
 信じたくなくて、否定してほしくて、縋るように兄さんを見つめる。
 「嘘だ……」
 「本当だ。お前がむかし可愛がってた犬に毒を盛って殺した。面白かったぞ、白い泡を噴いてのたうちまわって」
 僕の心の拠り所だった犬。
 ふかふかした毛並み、人懐こい顔。泣き疲れた僕に寄り添って頬に跡をつけた乾いた塩を舐めてくれた。 
 「どうして………」
 舌が縺れる。顔がひくつく。
 表情筋が不自然に痙攣し、泣き笑いに似た絶望の表情が間近に迫った瞳に映りこむ。
 悲哀に歪む僕の顔を間近で堪能し、陶酔したように安らかに微笑んで頬に指をじゃれつかせる。
 「そう、その顔だ。イイ顔、イイ声だ」
 麻酔を打たれたように全身から力が抜けて抵抗の意志をなくす。
 このままここで死ぬのか僕は、兄さんの狂気と心中するのか?先輩は僕を許さない、許せるわけがない、僕は最大の裏切りを犯した、陵辱される彼の姿に性的興奮を覚えて自慰をした、兄さんに命令されてやったから強制された行為だから、だからなんだ?言い訳になるのかそれが、ならないだろ、彼が苦しんでる姿に欲情して勃起して射精したのは事実だ。
 「―っ……」
 諦めるな。諦める前にやることがあるだろ。
 下着の内にもぐりこもうとする手に逆らって膝を折り曲げ、少しでも間を保たそう、時間を稼ごうとがむしゃらにしがみつく。僕がむかし憧れてた兄さんはもうどこにもいない、いや最初からいなかったのか、自分に都合よい虚像の幻想を盲信してただけだったのか。
 「僕が何をしたっていうんだ……!」
 「知りたいか?」

 僕が抱かれてる間に逃げてくれれば
 

 「投了!!」
 飛び蹴りをくらい横ざまに吹っ飛ぶ。


 「え?」
 視界を影が横切り、旋風が前髪を薙ぐ。
 吹っ飛んだのは僕じゃない、兄さんだ。
 何が起こったのかわからず呆然とする。僕の胴に跨って体をまさぐっていた兄さんに誰かが体重を乗せた蹴りを入れたのだ。横から襲った衝撃に油断しきった兄さんはろくに受け身もとれず錐揉み転がる。  
 兄さんと入れ代わり転げ落ちるようにして床に着地した男がシャツを羽織って深呼吸、ふらりと立ち上がる。
 足元は怪しい。
 片方の膝が抜け、危うく転びそうになのを気力頼みで支え、むこうに倒れた兄さんを見下す。
 「お前ばかか」 
 「な……」
 「俺の写真でオナニーしたって?『おあいこ』だよ」
 シャツに袖を通す。
 下着を拾い、トランクスを引き上げて足を通す。
 「俺だってこいつのえげつねーやり口思い出して一人でヌいたんだ、お互い様だ。大体こいつはなあ、俺のケツにローター突っ込んで会議中ずっと耐えさせるような根性ひん曲がったド変態なんだよ!!そのド変態が写真をオカズにしごきまくったからっていまさら幻滅するか、株価はとっくに底突いてるんだよ!!」
 下はトランクス、上は裸にシャツを羽織った格好で仁王立ち、片手を腰に当てた先輩が気炎を上げて毅然と言い放つ。
 「かほっ……こほ」
 手の圧迫が消え、酸素を貪って咳き込む。
 喉に手を添え起き上がるや、目の前にすっと手がさしだされる。
 
 手の先に先輩がいた。
 眼鏡のない双眸で真っ直ぐに僕を見て、ワイシャツの裾から腿がちらつくだらしないのかセクシーなのか判断しかねる格好を恥じもせず、最高におっかない顔して怒鳴る。

 「来い!!」

 一喝され、まるで催眠術にかけられたようにその手をとりかけ、指先が触れるか触れないかという紙一重で怯む。
 
 どうした千里万里。
 諦めるんじゃなかったのか。
 未練を断ち切るんじゃなかったのか。
 僕に関わっても不幸になるだけだ、それがわかってるなら無視をしろ、一時の感情に流されず正しい選択をしろ。
 先輩は女性と幸せになれる人だ、現に千代橋梓という素敵な彼女がいる、今ここにこうしているのだって元をただせば僕らの兄弟喧嘩に巻き込まれたからにすぎない。
 この手を取ったら、また巻き込んでしまう。
 
 「………っ、……」
 掴もうとした手を凝視、逡巡、躊躇。
 一刹那に錯綜する様々な感情、錯綜する愛憎、葛藤と苦悩。
 触れかけた指をひっこめ、握り締め、また開き、もどかしさにたまりかね、音が伴わぬ唇で喘ぐ。
 身の内から湧き上がる衝動を自制心を総動員して抑圧、一度はのばしかけた指を断念するよう強く握り締め、おもてを伏せて呟く。
 「できません………」
 前に見かけた光景が瞼の裏に像を結ぶ。
 千代橋さんと寄り添い笑い合う、どこまでも平凡でしあわせそうな姿がちらつく。
 
 僕の恋はこの人を不幸にする。
 この人のしあわせを壊してしまう。

 徹底して抱き潰して諦めさせるつもりだった、今度こそ想いを絶つつもりだった。
 この人はまぶしすぎる、近づけば焼かれてしまう、灰になってしまう。
 この人に触れるたび太陽を抱きしめるようだった、この人を抱くたび火傷するようだった。
 「僕は、」
 さあ言え、一緒には行けないと。
 もう諦めてくださいと。
 来てくれてありがとうございます、だけど行けません、やめてください、迷惑なんです。

 突き放しても突き放しても追いかけてくる。
 逃げても逃げてもつきまとわれる。

 床に座り込んだ姿勢から極端な緩慢さで虚空に腕を泳がす。
 唇を開きまた閉じる。
 それをくりかえすごと真っ白に燃え尽きた灰が胸に降り積もっていく。灰の底ではまだ熾き火が燻っている。
 指先が触れそうで触れない距離にまで近付き逸れてしまう。

 「僕は、あなたと行く資格がない」

 たくさん、酷いことを、した。
 許されるわけがない。
 彼の顔は闇に沈んで見えない。
 僕を見下ろす顔がいかなる表情を浮かべてるのか判断しかねる。
 軽蔑か嫌悪か憎悪か憐憫か怒りかそのどれもか、しずかに立ち尽くす姿は激情によって燃やし尽くされた灰の柱のようで、迂闊に触れたとたん跡形なく崩れ去ってしまいそうな恐怖に縛られて、本能と欲望に従って今すぐ掴みたい誘惑を一握りの理性で制す。

 「忘れたんですか、薬を飲ませて強姦したこと。縛って無理矢理犯したこと。嫌がるあなたを机に押し倒して、言葉でさんざん辱めて」

 しゃべりながら胸がつかえて何度も挫折しそうになる。
 ドアの隙間から一条射す光が境界線となって彼と僕とを隔てる、境界線をこえる勇気がどこをさがしても出てこない、自分が犯した罪の重さと向き合うだけで心が壊れてしまいそうだ、先輩の顔が見えないのがせめてもの救いだ、これまで彼にしてきたことを後悔と懺悔の念荒れ狂う中回想し膨れ上がる一方の自己嫌悪に発狂一歩手前まで追い詰められて殆ど錯乱を来たしたように叫ぶ。

 「ローターを突っ込んで会議に出させた、たびたび気絶するまで揺さぶった、恥ずかしい写真をネタに脅迫した、ビジネスホテルに呼び出して何回も何回も欲望の赴くまま求めてむさぼった、明日のことなんかちっとも考えなかった、あなたが欲しくてたまらなくてそれで頭がいっぱいだった、僕はどこまでも自分のことしか考えない最低に身勝手な人間だ!駅のトイレで迫った、兄弟喧嘩に巻き込んだ、僕のせいで兄さんに目をつけられ拉致された、僕はあなたを見捨てて一人で」


 「俺とあいつどっちが好きだ!?」
 「あなたに決まってるじゃないか!!」


 我慢の限界だ。
 無我夢中で手を伸ばし彼の手を掴む、指の股に指を掛けてしっかり握り合えば人肌のぬくもりがながれこみ次の瞬間奇跡が起きる。
 「世話焼かせんな」
 先輩が、笑う。
 僕がこれまでに見た中で一番優しい顔で、夢にまで見た顔で、よくやったとまるで褒めるように
 懐かしい匂いに包まれる。一瞬の抱擁。錯覚かと疑う速さで笑顔が消え、厳しい顔に戻った先輩に向かい、口を開く。
 「あ………」
 何を言おうとしたのだろう。
 わからない。
 胸がいっぱいで。手をとってしまった後悔と手をとれた幸福感とは表裏一体だ。とんでもない過ちを犯したのか、あるいは人生で初めて正しい選択をしたのか、いずれにしろそれが自分の意志でなしたことであるのは確かで、くしゃりと情けなく顔が歪む。
 どうしてこんなにかっこいいんだろうこの人は。
 どうしてこんなふうに、笑っちゃうほどあっさりと、ぼくができなかったことをしてしまうんだろう。
 眼前の先輩に完全に意識を奪われて背後に忍び寄る気配と物音に気付くのが遅れた。
 「千里!!」
 先輩の驚愕、焦燥。振り向く前に頭を伏せたのは本能的な判断だが、結果的に幸運が働いた。
 僕の後頭部を狙うも、逸れたペーパーウェイトが自重に振り回され床を穿つ。
 「……俺は注目されたがりでな。無視されるのが一番嫌いなんだ」
 無意識に先輩を背に庇い後退する。
 撲殺に使う鈍器代わりにペーパーウェイトを利き手に構え迫り来る兄さんに警戒を払いつつ、室内に視線をめぐらし突破口をさがす。
 背後のドアまでは距離がある。駆け寄ろうと身を翻せばがら空きの背中を晒して思うツボだ。
 「くそっ、あいついつのまに物騒なもんを……」
 「先輩のプロポーズに夢中で気付かなかった」
 「プロポーズじゃねえ説教だ!!」
 「そうですね、のろけはあとにしましょう」
 軽口の叩き合いが気に障ったか、兄さんが口の端をひん曲げて悪魔に魂を売り渡した邪悪な笑みを刻み、扉の隙間から射す光を反射して凶悪に輝くペーパーウェイトをひねくりまわす。
 「さあ来い、クズミ、バンリ。足を潰して閉じ込めていちから調教のやりなおし……」

 『天不怕、地不怕、最怕没架打的張世玉!』
 爆発と紛う勢いでドアが蹴破られ、廊下に立つ人物が快哉を叫びつつ消火器を噴射。
 
 「ぶっ!?」
 「うわ、げほ、なんだいきなりっ……」
 視界を覆う大量の粉塵に狼狽、吸い込んで激しく咽る僕と先輩をどこかで聞いた声が鞭打つ。
 開け放ったドアのむこう、消火器を腰だめに構え仁王立ち、ノズルをこちらに向けて全開で噴射する男には見覚えがある。 
 「張……!?」
 「なにぼさとしてるあるか早く逃げるある張の労力ないだしにする気かこのへタレ!!」
 「お前にだけは言われたくねえし第一鍵はどうし」
 狼狽しきった先輩が言い終わるのを待たず、底を突いた消火器を抱えて、きな臭さ漂う笑みを剥きだす。
 「張の本職忘れたか、天才ピッキング犯よ。鍵のひとつふたつ朝メシ前ね。変態のアジトに長居無用ね、さあついてくるよろし」
 「変態のアジトって……ここ僕のマンションなんですが」
 「まごうかたなき変態のアジトある」
 納得したように頷く。……なんかすごく腑に落ちないけど、隣で先輩もやけにしみじみ頷いてるし。
 問答無用の消火器噴射で兄さんを足止めし、大量の粉が大気に混ざって濛々充満する中を小悪党の見本さながら颯爽たる忍び足で逃げていく張を、疲労困憊でふらつく先輩に肩を貸して追う。
 「いいって、一人で歩ける。俺のことより自分の心配しろ……」
 「眼鏡がなきゃなにも見えないでしょう、意地張らないでください」
 「~誰が壊したと思ってやがる……」
 「弁償しますよ」
 「痴話げんかあとね!」
 苦りきって呟く先輩に苦笑し、ずりおちそうな体を腰に手を回してしっかり抱き支え、撒かれた粉でざらつく廊下を踏み、張の誘導に従って玄関へ急ぐ。
 ドアを背に玄関に立つ影を視認、膠着。
 「椎名………」
 まずい、さっきの電話か。
 張のあとから乗り込んだのだろう椎名は、粉に塗れて着衣を乱した僕と先輩の様子で事の全貌を把握し、サングラスの奥に隠れた双眸に複雑な色を浮かべる。
 「万里さま……」
 「そこをどいてください」
 無言の威圧を放つ椎名に対し一歩も引かず睨み合う。
 靴のまま上がりこもうとした椎名を警戒し、僕が犠牲になってでも先輩だけは逃がそうと重心を低め腰を撓める……
 『不是我的対手!!』
 先頭を走る張がカッと目を剥いて絶叫、空の消火器を頭上に高々と抱え上げ全力で投擲。
 「!?くっ、」
 横隔膜から素っ頓狂な奇声を発しつつ跳躍した張が投げつけた消火器は、椎名が今しも踏み出そうとした床に轟音たて落下し、制御を離れたノズルが反乱を起こして蛇の如く波打つ。
 「今です!!」
 「!?待て千里おれトランクス一丁、」
 椎名が消火器に気を取られた隙に頭を低めぎりぎり這うようにして玄関まで一直線に疾走、鍵が壊されたドアを体当たりでぶち開け廊下に転げ出る、バランスを崩し転倒するも即座に跳ね起きてタイミングよく到着したエレベーターにとびこむ、後ろで椎名がなにかを叫ぶも耳は貸さず閉じたドアに凭れて呼吸を整える。
 エレベーターが下に着くまでに先回りされたら?
 椎名の脚力ならあながち不可能と断定できない。ドアが開くと同時に先輩を担いで転げ出る、足が縺れてけつまずくもすぐ姿勢を回復、ホールを全速力で突っ切って自動ドアから外へ。
 「靴、靴もねえし!畜生こっからどうやって吉祥寺に帰るんだ、もう終電でちまってるし!!」
 「いざとなればおんぶして帰りますよ」
 「ざけんな!」
 「お姫様だっこのがいいですか?」
 「何のろのろしてるの、乗りなさい」
 魅惑的なハスキーボイスが飛んできた方向に顔を向ければ、深夜で人けのない道路のど真ん中に赤い車がとまっていた。
 「姉さん……?」
 「あらいやだ、すごいかっこうね。セクシーだわ」
 「シュリさん早く出すね、張こいつら助けだすためにピッキングしたよ、つかまるのイヤね!」
 僕と先輩をさしおきずうずうしく助手席に乗り込む張。
 運転席でハンドルを握る姉さんが香水匂いたつ髪を優雅にかきあげ、マンションの正面玄関にてシャツの裾から寒々しく素足をむき出し立ち尽くす先輩と、首に痣をつけてシャツの前を広げた僕とに流し目を送る。
 「乗るの?乗らないの?」
 「乗ります!」
 「じゃあ後ろね」
 エンジンが低い唸りを上げ再始動、僕と先輩が後部シートに転げ込むのとほぼ同時に旋風を巻いて急発進。
 どうして姉さんと張がここに?
 オープンカーの後ろで酷い運転に悪酔いつつ、状況を整理しようと頭を高速回転させる。
 昼間ならさぞかし悪目立ちするだろう赤いディアボロは颯爽と風を切り、信号とて抑止力を成さぬ傍若無人さで道路を疾駆する。
 「おい、これ制限速度余裕で突破してねえか……?」
 「いいのよ、どうせ人いないし。今は逃げ切るのが肝心でしょ」
 先輩の不安げな問いを鼻であしらい、豪奢な巻き髪を風に遊ばせる姉さんへと問いを放つ。
 「どうしてマンションに?先輩と兄さんが来てるって知ってたんですか」
 「情報提供者がいたの」
 「情報提供者?」
 「あなたもよく知ってるひとよ、バンリ」
 はぐらかしハンドルを切る。したたかな悪女の笑みが横顔に閃く。
 僕が知ってる人?
 反射的に浮かんだ候補をまさかそんなはずないと打ち消す。
 ついさっき玄関先で遭遇した男の姿が瞼の裏に浮かんで消え、ため息をつく。
 「最悪……ズボンと靴とネクタイおいてきた」
 隣で先輩がぼやく。すっかり疲れきってシートに沈み、その体勢からさらにだらしなくずりおちて足を投げ出す。 
 いつもきちんと撫でつけている髪をぐちゃぐちゃに乱し、眠たげに瞬きする先輩を満ち足りて見守る。
 「僕はもっと大事なものを置いてきましたよ」 
 「なんだよ」
 「過去です」
 先輩が黙る。こっちを見る。
 きっと今しか言えない。
 姉さんや張が盗み聞きしてても構うものか。
 髪を風になぶられながら深く息を吐いてシートに凭れ、一晩で得たものと失ったもの、それらを改めて反芻し目を閉じる。
 「……好きになったきっかけ話しましたっけ」
 静寂が漂う。車の走行音の他はなにも聞こえない。姉さんはハンドルを切りながら前を見て運転し、張もまたいつになく大人しくドアに肘を掛けてよそを見ている。
 僕の告白に対する気遣いだというのは買いかぶりだろうか。
 ふたりの好意に甘え、くじけそうな意志を叱咤し、膝においた手を握りこむ。
 「覚えてますか、新人歓迎会。むりやり飲まされてトイレで酔い潰れた僕を最初に発見したのが久住さんだった」
 「……あったな、そんなこと」
 「ありました」
 ちゃんと覚えていてくれた。
 それだけで励まされる、続ける気力が湧く。
 膝においたこぶしをますます握りこみ、俯く。
 「トイレに消えた僕を心配してわざわざ追いかけてくれた。とんでもないお人よしがいる職場だって最初はあきれました。だってそうでしょ、飲み会が最高に盛り上がってる時にだれがわざわざトイレで吐いてるヤツを気にするんですか。気付きもしないのが普通なのに……真っ先に駆けてきて、喉に指突っ込んで、吐き方まで教えてくれた」
 「……飲み会って苦手なんだよ。酔っ払いの世話は抜け出るいい口実」
 「何回も何回も背中をさすってくれた、大丈夫かって聞いてくれた、真剣に心配してくれた」
 思い出す、背中を往復する手のぬくもり。
 眼鏡を掛けた生真面目そうな顔に心配げな表情をたたえ、便器に突っ伏して嘔吐する新人をてきぱき介抱する。
 「むりしなくていいって、言ってくれた」
 「当たり前だろ?無理してこられちゃこっちが困る、後始末する身になれってあの時も言ったぞ俺は」
 忘れたのかと三白眼で睨みを利かす、その顔さえひどく愛しい。
 涙が出るほどに愛しい。
 「……初めてだったんです……」
 膝においた手が小刻みに震え、虚勢がぼろぼろと剥がれ落ちて、嗚咽を堪えてるせいで妙に切羽詰まってくぐもった声が漏れる。
 
 『さき行ってるから。無理して来なくていいぞ』
 『みんな待ってるから早く来いじゃないんですね』
 『当たり前だろ?無理して来られちゃこっちが困る、後始末する身になれ』

 たったそれだけのやりとりで、好きになるにはじゅうぶんだった。
 じゅうぶんすぎるほどだ。

 「……子供の頃からずっと言われてきたんです、兄さんに。あの人はひとの都合なんか考えないから……僕が体を壊してもお構いなしだった。酷く抱かれて熱を出しても夜になればベッドにやってきた。犬が死んだ次の日も……次の日も……毎晩、毎晩」

 おぞましいフラッシュバックに膝においた手が震える。
 先輩は黙って耳を傾ける。
 僕が途中で躓き遅れてもそこを動かず待っててくれる。

 「怖かった。逆らえなかった。兄さんはいつだってそうだ、僕の意志なんてどうでもいいんだ、あの人は引き立て役としてぼくを連れまわすのを好んだ、体調が悪くたって……一日も休ませてくれなかった。色んなパーティーに連れて行かれた。いろんな、犬の集まりにだって」

 先輩が息を呑む。
 軽蔑されるのは慣れた。
 嫌われるのも覚悟してる。
 覚悟してても痛みが消えてなくなるわけじゃない。

 「兄さんが留学してやっとマンションを借りてひとり立ちする決心がついた。だけど本当はいつ帰ってくるか、呼び戻されるかずっと不安だった。兄さんはいないのに、怖いって気持ちが全然減ってくれないんだ。忘れたふりをしてもふとしたきっかけでよみがえって引き戻される……執行猶予を貰ったって余生と宣告された人生を楽しめるわけがない」

 兄さんの束縛を吹っ切るため実家とは関係ない会社に就職した。
 そこで運命の人に出会った。
 
 『さき行ってるから。無理して来なくていいぞ』

 「あなたに言われて、どれだけムリしてたか初めて気付いたんです」
 
 『当たり前だろ?無理して来られちゃこっちが困る、後始末する身になれ』

 「もう頑張らなくていいんだって、わかったんです」
 
 ずっとだれかにそう言ってほしかった。
 いい加減らくになったっていいんだぞと、ぽんと肩を叩いて欲しかった。

 「肩の力を抜いて生きていいんだって言ってほしかった」
  
 僕が僕として生きることを誰かに許して欲しかった。
 吐き気がおさまるまでずっと背中をさすってくれた優しい手に、縋ってしまった。

 「好きになってすいません」

 深く深く息を吐き尽くすように最後の一言を言い終えて、どこまでも身勝手で醜悪なエゴの塊の本性をさらしきってシートに沈みこむ。
 重苦しい沈黙を破ったのは、風に乗じた走行音に紛れて消えそうなごくかすかな衣擦れの音。

 「おかえりバンリ」
  
 顔を上げ、目にとびこんできた光景に絶句。
 見間違いじゃない。
 先輩が笑ってる。
 唇をひん曲げるアクの強い笑みじゃない、はにかむように、手のかかる後輩をその面倒くささも含めて許すように、僕がこれまで見てきた中で最高の、とびっきりの、百回惚れ直したって足りないような笑顔を見せる。

 ずっとずっと微笑みかけてほしかった。
 
 胸から喉にこみ上げる塊を飲み下し、心臓を焼き焦がすような愛しさを耐え抜き、運転席の姉さんと助手席の張がとんでもない惚気に付き合わされたといった感じで苦笑するのもどうでもよくて、今この瞬間たしかにぼくだけに向けられている先輩の笑顔に言葉を返す。

 泣き笑いに似た最高にかっこ悪い顔で。

 「ただいま、宏澄」

 優しく透明な笑みを浮かべ身を乗り出し、ごくゆっくりとシートをずれて移動し、僕の頬を掠めるようにして手のひらを掲げ……
 ぎりぎりまで撓めた人さし指を打ち出し、手加減なしで額を弾く。
 「!?痛ッ……」
 「調子にのんな」
 元の仏頂面にもどって呟く先輩に、たぶん百一回目の恋をした。

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