ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム
凡夫危うきに近寄り、喰われる9

 「狭苦しいところですがどうぞ」
 「……片付いてるな」
 「部屋に来るの初めてでしたっけ」
 「そうだ」
 「誘うたび袖にされた」
 「お前の部屋なんかきたらなにされるかわかったもんじゃねえ」
 「今日はその覚悟があってきたんですね?」
 揚げ足とりやがって。
 挑発に見せかけた揶揄に反発し荒々しい大股で室内を探索、インテリアにしちゃ本格的な存在感を示すリビングの水槽に歩み寄る。
 水槽の表面が背後に忍び寄る影を映し、警戒心が露骨に顔に出る。
 ちらつく魚影に重なる男が俺の怯えを和らげるように苦笑する。
 「……びくびくしないでください。コーヒー淹れますね、今」
 「異物混入すんな」
 「信用ないですね」
 「前科があるからな」
 「生憎とタバスコは切らしてます」
 口の減らない後輩だ……もう後輩じゃねえか。
 無機質に青みがかった照明に浮かび上がる水槽の中では、グッピーの群れが虹色の光沢を帯びた背びれを翻し、法則性のない動きで泳ぎ回る。
 好き勝手ばらばらに泳いでるように見えるが、注意深く観察するうちに対となって寄り添うペアに気付く。
 先頭の一匹が方向転換すれば脊髄反射だろうかそれを追うように後尾もついてまわるのが面白い。待て、グッピーに脊髄ってあったっけ?
 「よ、俺」
 こいつ、もとい、こいつらの名前はヒロズミだ。
 前に遊びに来た千里が室内飼いしてるグッピーに俺の名前をつけ愛でてると教えてくれた時は正直いい気持ちがしなかった。勝手に俺の名前をつけるなと怒鳴りたかったが商標登録してるわけでもねえし、命名権の自由を主張されたらぐっと黙り込むしかない。
 ……正確には少しこそばゆかったのだ。
 中腰の姿勢で水槽に向き合い覗きこむ。
 犬や猫と違い特徴の把握が困難で固体識別はほぼ不可能に近い。魚に名前をつけて可愛がってるやつの話を聞かないのは多分そのせいだ、一匹ずつ見分けがつかなきゃ愛着だって湧きにくいだろう。とするとそれを平然と実践してるこいつは良く言えば発想が柔軟、悪く言や相当のひねくれものって事になる。俺?後者に一票。
 眼鏡を奪われた視界はピンぼけし、執念深く目を凝らさねば素早く泳ぎ回るグッピーとおそらく餌の残滓だろう微小な浮遊物の区別もつかねえ。
 いざ実物と対面すると名前が同じというだけで親近感を覚えちまうんだから我ながら調子がいい。
 優雅に旋回するグッピーを振り向かせたくてこつんとガラスをつつく。
 音に反応したグッピーがそろってこっちを向く。なかなか笑える間抜け顔だ。
 「……可愛いじゃんか」
 「びっくりするからやめてください」
 振り向く。
 湯気だつカップをふたつ持ち歩いてきた千里が悪戯を咎める口調で注意する。
 「水は音を反響させます。爪が当たって表面に傷がつくし指紋がくっついて汚れる」
 「悪い」
 テーブルの横に立ち、中腰で水槽と向き合う俺を微笑ましげに見つめつつからかう。
 「食いつきそうな目で見てましたね」
 「近づかなきゃ見えねーんだよ」
 「カルシウム足りてないからって食べないでくださいよ」
 「殆ど骨ねーだろ」
 「気に入りましたかヒロズミーズは」
 「人懐こいな」
 「餌をまくと一斉によってきますよ。意地汚いところは誰かさんにそっくりですね」
 「うるせえな」
 「気に入ったなら一匹あげましょうか」
 「え?だって設備とかいるんだろ」
 「グッピーは丈夫で長生きしますから」
 「……この水槽いくら位するんだ?」
 「八万円です」
 却下。平社員の安月給じゃとても手が届かねえ。
 密生した水草の間を泳ぎ抜けるグッピーを鑑賞してると心が癒されるのは確かだが、設備の維持費が半端ねえ。
 空気清浄機が単調な音をたてる水槽に背を向け、テーブルに備え付けの椅子を引く。
 タイミング良く俺の前にコーヒーを置く。
 「熱帯魚観賞たあネクラな趣味だな。まさかグッピー相手にただいまといってきます言ってんじゃねえだろうな」
 「言いますよ、もちろん」
 「マジかよ」
 出がけに熱帯魚に語りかける千里の姿を想像し、つい吹き出しちまう。
 対面に掛けた千里は涼しい顔で俺を見つめ、いつもそう語りかけているのだろう耳朶をくすぐる甘い声で囁く。
 「ヒロズミ、ただいま。ヒロズミ、いってきます。ヒロズミ、可愛い」
 「…………」
 にんまり笑う。
 憮然としてカップに口をつける。
 「ヒロズミは今日も元気だなあ。あっちに行ったりこっちに行ったりメスの尻追いかけてばっかで落ち着きがない、一年中発情期」
 「おい」
 「しつこすぎて振られてばっかですけどね。深追いすればするほど逃げられるってわからないのかな、まったく駆け引き下手なんだからヒロズミは……」
 いちいち付き合いよく反応して調子に乗らせるのも癪なので、代わりにずずっと音たてコーヒーを飲む。
 話したいことはたくさんあるのに切り出すきっかけが掴めない。
 時間ばかり残酷に過ぎていく。
 無防備に顔を上げれば正面の千里と視線が絡み、心の準備ができず不覚にも舌が縺れちまう。
 目のやり場に困り、テーブルの天板に視線を固定する。
 びびってるのか、千里に。元後輩に。情けねえ。
 カフェインを濃縮した苦味が舌にこびりつく。
 「豆から挽いたんですけど粉っぽくありませんか」
 「美味い。すごく」
 「よかった。インスタントのほうが口に合うかとおもったんだけど買い置きないし、今から買いに行くのも面倒ですしね」
 「さりげなく馬鹿にしてるな庶民舌を」
 「わかります?」
 「インスタントだって丁寧に淹れりゃコクがでるんだよ」
 俺の反論に千里は朗らかに笑い、はにかみがちに伏せた目に郷愁の光を滲ませる。
 「こういう他愛ないやりとり久しぶりだな。久住さんの毒舌聞けないと張り合いがなくて」 
 「毒舌浴びないと調子でねえなんてマゾかよ、お前」
 気持ちが入ってない笑顔につきまとう翳りが心をざわつかせる。
 「………会社を辞めた理由を聞かせてくれ」
 辟易してため息を吐く。
 「またその話ですか。何回も話したでしょう、いい加減納得してください。あの会社には最初から腰掛けのつもりで」
 「嘘吐け、楽しんでたじゃねえか」
 「兄さんが帰ってきたらどのみち戻される予定だった。社会見学って言ったらアレですけど、その前に他の会社で働いてみたくて……」
 「お前が頑張ってたことは知ってる。兄貴が帰ってこなかったらずっと会社にいたはずだ」
 「気持ち悪いな。褒めないでください。どういう風の吹き回しですか?」
 俺の口から褒め言葉を聞いたことが不吉の前触れとばかり、大袈裟に顔を顰めてみせる。
 「あなたの口から僕に対する称賛がでるなんてね。ずっと僕のことを嫌ってたでしょう、どこでも行く先々につきまとううざくてしつこい後輩だって。愛想がよくて誰にでも好かれる僕を妬んで嫉んで疎んじた大人げない人はだれですか、あなたでしょう久住さん。あなたにいつどう罵られたかひとつも忘れてませんから」
 「執念深いな」
 「顔に似合わず根に持つタイプなんで」
 「自分で言うなっつの」
 「僕がいなくて寂しいですか」
 「せいせいしてる」
 「じゃあなんでしつこく追いかけてくるんですか?今の久住さんまるでストーカーですよ。未練をひきずってるのはどっちだか……」
 「話をそらすな」
 薄っすらと微笑みつつカップを置いて問う。
 「忘れられないのは僕ですか。僕の体ですか」
 「…………っ」
 「昔のあなたはこんな度し難い淫乱じゃなかった、ちょっと怒りっぽいけどクールでドライで仕事がデキる憧れの先輩だった。そんなあなたが今じゃ女を抱くだけじゃ満足できない体になってしまった、新しい彼女ができても普通に抱くだけじゃ満足できずイけない体になって男を求めて彷徨い歩くようになってしまった。そういうふうに調教したのは僕ですからできる範囲で責任はとりたいと思います」
 「誰がさまよい歩いてるんだよ、俺の目的はお前」
 「僕が欲しいんでしょう」
 墓穴を掘った。
 俺の沈黙を肯定の証と解釈したか、テーブルに手をつき席を立つや、鞭打つような容赦なさをおっとりした敬語に秘めて命じる。
 「脱いでください」
 耳を疑う。
 硬直して見詰め返せば、いつまでたっても慣れない俺の反応を嘲笑うように唇の端をねじる。
 「そのつもりで誘ったくせに」
 「あれは……ああでもしなきゃトイレでおっ始めそうだったから仕方なく」
 「背に腹は代えられず?よく言う、期待してたくせに」
 テーブルを迂回し、わざとらしく靴音響かせ俺のほうへやってくる。
 自分の手も千里の顔もよく見えない状況に焦燥が積もり行く。
 眼鏡を壊されたのはつくづく痛手だ。歩み寄る影の輪郭がブレて不安を誘う。
 靴音を従えた影が背後に回り、椅子の背に手を添えて前方へ身を傾げる。
 「自分の手でひとつずつボタンを外してシャツを脱いでください」
 「千里………」
 「僕が手伝ってくれると期待したとか?まさか。あなたを甘やかすのはもうやめました、いまさら恥ずかしがることないでしょう、さあ、自分で脱いでください。言うこと聞けたらご褒美あげますから」
 こんなつもりで来たんじゃない。
 だけど手は千里の言葉に導かれ小刻みに震えながら上からボタンを外していく。
 頭が正常に働かない。
 視線を感じるほどに火のついた羞恥心が昂ぶり、ボタンをいじくる指先が滑りもたつく。
 爪とボタンとがぶつかりあってかつかつ音が鳴る。
 二番目のボタンまで外した時、手首をきつく掴まれる。
 「これ……」
 息を呑む気配。
 「兄さんが?」
 千里が何を見てるのかわかった。
 俺の手首に残る傷跡、手錠の溝。
 今では薄っすら白い線が皮膚の上に残るだけで痛みもないそれを瞬きもせず、食い入るように凝視している。
 咄嗟に振りほどこうとした。
 できない。 
 千里は俺の手をしっかり捕まえている。
 「………お前のせいじゃねえよ」
 千里は否定も肯定もせず佇むばかりで俺の声が聞こえてるのかどうかも判断しかねる。
 近距離でも顔は見えない。
 視界が霧を吹いたように曇って輪郭が歪み出す。
 重苦しく不安定な沈黙が張り詰める。
 千里が手を掴んでるせいでボタンを全部はずしきれず、ワイシャツの前を中途半端に開けて貧弱な腹を晒したまま、落ち着かず視線を彷徨わせる。
 正面に回り跪く。
 俺の手首を両手で捧げ持ち、袖をたくしあげ、皮膚に薄く浮く傷痕に唇を乗せる。
 手首を囲む溝をしっとり辿っていく。
 「よせ……」
 熱く柔らかい唇がなぞるつど甘美な痺れが駆け抜ける。
 正面に跪き、俺の手首を両手で支え、裏返した手首の腱に沿ってなぞるだけの接吻を落としていく。
 傷つけるのを厭う臆病さと傷つけても構わないから自分のものにしたい欲望とが錯綜し、執着心が比例して深まるほどに唇の愛撫はぬるく上滑りし、余熱を持て余した肌が疼く。
 それはまるで有里に犯された記憶を上塗りしていくような執拗さで
 「やめろ」
 狂的な執着と紙一重の盲目的な愛情を注がれていると錯覚を来たすような
 「ぅく」
 嬲り殺しのような生殺しで体の中から煮殺す限りなく優しい愛撫。
 極端な緩慢さで傷痕を這い伝う唇に魅入られる。
 ついばむ。
 吸いつく。
 慈しむ。
 膿を吸い出す。
 癒えても残る痕に唇を当て、有里が俺の体内に播種した残滓を、白濁した膿を、もうとっくに吸収されトラウマなんて使い古された言葉が安っぽく聞こえる悪夢となって根ざしちまったものを一滴残らず吸いだそうとする。
 「離れろ、いい加減に……」
 唇での愛撫で芽生えた官能をさらに刺激され、ちりちりと燻る熱を孕んだ皮膚のきめひとつひとつが毛羽立ち、たまりかねて叫ぶ。
 「やめろ!」
 
 さっきは我慢できたのにどうして今はできないんだ。

 顔を覆って俯く。
 恥をかき捨て告白する。
 「お前にさわられるだけでいっぱいいっぱいなんだ………」

 胸が詰まる。声が詰まる。
 それでも、続ける。
 言い残すのを恐れる強迫観念と遣り切れない衝動に駆り立てられ、前髪をくしゃりと手で握り潰し、苦悩に歪む顔を隠す。 
 「どうかしちまいそうなんだ」
 口が勝手に動く。
 発狂しそうだ。もう一歩手前まで追い込まれてる。
 今だけ眼鏡がないことに感謝する、視界が利いてる状態でちゃんと千里と向き合ってこんな死ぬほど恥ずかしい台詞吐けるわけない、一体いつのまにここまで追い込まれ絆された、ちょっとさわられた位でしどろもどろおかしくなっちまうほどハマっていた?
 「頼むから……そんなふうに……優しくしないでくれ」
 途切れ途切れに乞う。
 じらされるのはたくさんだ、限界の理性がもちそうにない。俺には千代橋がいる、なにが待ち受けるかわかっていながら車に乗って部屋にやってきたのは俺を信じて待つ千代橋への裏切り行為じゃないか、話し合いが目的なんて建前で本当はこいつに抱かれたくてやってきたんじゃないのか?

 酷くされるより優しくされるほうがずっとこたえる。
 ずっとずっと惨めで遣り切れない気分になる。

 それはきっと与えられる一方の優しさに嘘を吐いて逃げ続ける自分がどれだけ卑劣な人間か思い知らされるからで、千代橋と付き合いだしてからもこいつを忘れられず千代橋を抱きながら違う面影を追う自分が許せなくて
 「久住さん……?」
 心配そうな声。

 限界だ。
 決壊しそうだ。

 「なんなんだよ、お前は。わけわかんねえ。俺の人生めちゃくちゃにひっかきまわして何が楽しいんだよ」
 前髪を掴んでかき上げる。
 「忘れられたら苦労しねえよ」
 忘れたいと念じながら本能がどこまでも激しく貪欲に追い求める。
 「勝手に抱いて、勝手にいなくなって、はいそうですかって納得できっかよ」
 「あなたはそれを望んでたんじゃないですか?ずっと自由になりたがってたでしょう、僕に消えてほしいと願ってたでしょう。現実になってよかったじゃないですか。僕にはね、もうあなたに構ってる余裕がないんです。ぜんぶ遊びだったんです」
 「兄貴がそう言えって言ったのか?」
 「わからない人だな……」
 千里がいらだつ。
 そう、その調子。
 もっともっと挑発してペースに巻き込め、本性をひきずりだせ。
 「さっき言ったよな、好きなタイプは眼鏡の年上だって」
 「は?まさか自分の事だと思ってるんですか?自意識過剰ですよ……というか、盗み聞きは下品です」
 「俺の自慢は地獄耳だ。あれは俺じゃないのか?眼鏡が似合う仕事がデキる年上で早足ですたすた歩く、俺のことじゃないのかよ」
 「眼鏡が似合って仕事がデキる年上なんてどこにでもいますよ」
 「俺が嫌いなのか?」
 「嫌いです」
 「俺の目を見て言え」
 「嫌いです」
 「もっとでかい声で」
 「大嫌いです」
 「俺もだよ」
 売り言葉に買い言葉で椅子を蹴立て立ち上がり、ぶち抜かんばかりの勢いでテーブルを叩く。
 「お前は腹黒で性悪で変態でサドで猫かぶりだ、あっちの方はねちっこくて体がいくつあっても足りなかった、好きでこんな関係になったんじゃない嵌められんだ俺は被害者だ、写メを撮られて逆らえずいやいや言う事聞いてやった、しつこく抱かせろっていうから涙を呑んで抱かせてやった、明日仕事があるのに無茶ばっかさせられてどっかの馬鹿が性懲りなく中出ししやがったのをシャワールームで掻きだしてから這うようにしてタクシー捕まえて帰る気持ちがお前にわかるか!?」
 「酷く抱かれながら悦んでたくせに被害者ぶるのはやめてください、そうやって自分ひとり潔癖なふりをするのが不愉快なんです。僕の存在が生理的に我慢できないなら周りに訴え出ればよかった、僕を名指しして同性愛者だと暴露して職場から追い出せばよかった、それをせず従う道を選んだのはあなた自身だ。あなたにはマゾの素質があったんですよ、だから僕の調教に悦んで腰振った、会社のトイレでも駅のトイレでもどこでも僕が望めば形ばかり嫌がって最後は必ず身を任せた、ドアの向こうに人がいようがお構いなしに受け入れたくせに」
 無気力に立ち上がる千里と対峙する。
 一点に凝らしても視力の落ちた裸眼では表情を捉えきれず、しかし今は冷たく笑ってるんだろうと察しがつく。
 「どっちが変態だか。あなたには幻滅しましたよ、久住さん。後ろに突っ込んでぐちゃぐちゃかきまわしてくれるなら僕じゃなくても、兄さんでもいいんでしょう?いや、生身の人間である必要さえないか。ディルドやバイブで嬲られてもイケる体ですもんね」
 慄然と立ち竦む。
 「どうして知ってんだよ……」
 「兄さんが嬉々として話してくれましたから」
 何気ない口調で投下された爆弾に顔から血の気が引いていく。
 あの日、ホテルに監禁された俺が何をされたか千里は事細かに知っているのか?
 「……手首の傷痕がどうしてできたかも知ってますよ。懲りずに暴れたんでしょ、切れるわけないのに」
 ぼやけた視界の向こうでかすかに顔が歪む。
 「傷付くだけだってわかりきってるのにどうしてそう馬鹿なんですか。悪あがきばっかり……全然進歩しない」
 空のカップを持って台所に向かいがてら言う。
 「大嫌いな僕の顔なんて見ていたくないでしょう。帰ってください」
 「待てよ」
 「ぎゃんぎゃん吠えられて興醒めしました。やっぱり家になんか呼ぶんじゃなかった……」
 俺の方なんか振り向きもせず台所へ歩いていく千里を追う、後先なんか考えず肘を掴んで強引に振り向かせる、揉みあう、けつまずく、あっと思う間もなく視界がぐらついて倒れこむ。
 咄嗟に腕を入れて激突の衝撃から千里の後頭部を守る。
 シャツに包まれた胸がくっつき心臓の位置が重なり合い、跳ね回る鼓動が直接流れこむ。
 「俺も知ってるんだぞ、千里」
 「……なにをですか」
 「お前と有里の間にあったこと」
 知らず千里を押し倒す格好になる。
 顔の横に手をついて見下ろせば、驚愕に剥かれた目に怯えの色が走る。
 「姉さんから聞いたんですか?」
 さすがに頭の回転が速い。
 もっとよく見ようと極端に顔を近付け迫り、怯え強張った顔めがけ早口で罵倒する。
 「らしくねえよ、全然。俺の前じゃあんなに自信満々イヤミたっぷりに振る舞ってたくせに兄貴にびびりまくって言いなりか、ころころキャラ変えんじゃねえよ、シュリから聞いたんだよあいつに怯える理由、ガキの頃からずっと虐げられてたって……」
 千里が目をそらす。
 顎を掴んで正面に固定し、続ける。
 「会社を辞めたのもあいつに言われたからなんだろ?そうだって言えよ、もうネタは割れてんだよ、隠す必要も庇う必要もねえよ、お前一人が抱え込む事ねえっていい加減わかれよ!」
 「何も知らないくせに」 
 「何も言わないのにわかるわけね、」
 そこまで言いかけ、突然すべてを理解する。 
 どうして千里は会社を辞めた、どうして俺を遠ざけようとする、どうして俺に暴言を浴びせ冷たく振る舞いどうして


 「俺のせいか……?」


 呆然と呟く。
 どうして気付かなかったのか。
 俺を守る為に、俺の前から消えたのか。
 有里の注意を俺から逸らし、一身に引き受け続ける道を選んだのか。
 思えば有里の言動はおかしかった、違和感を感じて当たり前だ、どうしてわざわざ電話をかけてきた写真を送りつけた存在を匂わせた千里の密会現場に俺を呼び寄せた、有里が俺を狙ってたのなら辻褄が合う、暇つぶし退屈しのぎ遊び半分つまみ食い、呼び名はどうだっていい、千里のついでのつもりで俺に目をつけたなら……
 別にありえた人生を捨てて有里のもとへ戻ったのは俺を守る為、俺から有里を引き離しておくために自分を犠牲にしたのか、俺はずっとずっといなくなった千里に守られ続けていたのか、俺がこの数ヶ月有里に怯えず千代橋と付き合い笑いたまに羽鳥と呑みに行く平和な日々を過ごせたのは影でこいつが犠牲になっていたから?
 ずっとずっと俺の身代わりになってたのか?

 「それが自意識過剰だっていうんです」
 すぐさま否定する。
 俺をまっすぐ見詰め、断固としてくりかえす。
 「僕が自分で考えて決めた事です」
 信じない。
 信じられるもんか。
 それじゃあなぜ、こんなに辛そうな顔をしてる?
 「どうして………」

 どうして足掻かず諦める。
 物分りよく手を引っ込める。
 どうして助けてと言わない。
 どうして頼らない。
 俺はそんなに頼りないか、そんなにあてにならないか、そんなに信用がないか。
 どんなに目を凝らしても巧みに偽装された本心が見えない。
 一番見たいものが見えないなら眼鏡なんてなくても同じだ。

 「どうして頼らない」
 どうして何も言ってくれない、相談してくれない?
 「巻き込みたくないなんて詭弁はうんざりだ、事の始まりの最初っからお前のエゴに巻き込まれてた、巻き込みたくないとか今さらだろ……」
 有里がしたことにこいつが責任を負う義務はない。
 「どうして肝心な時に頼らないんだよ……」
 こいつがやってることはめちゃくちゃだ。
 俺を甘やかすのはやめたと言いながら手首の傷痕に優しくキスをして、大嫌いだと言いつつ身を挺して守る。
 発言と行動が矛盾してる。

 どっちが本当なんだ?
 どっちを信じればいいんだ?
 なら俺は、信じたいほうを信じる。

 「どいてください。もう帰らないと明日の仕事に支障が出ます。……千代橋さんだって心配してるんじゃないですか」
 「ちゃんと話聞くまで帰らねえ」
 「むちゃくちゃだな……話をする体勢じゃないですよ?」
 ふたり縺れあうようにして床に這う。
 千里の顔が目と鼻の先に迫る。
 事情を知らないヤツが踏み込んだら俺が押し倒してると誤解されるだろう。構うもんか。どうとでもなれ。深呼吸し、ネクタイの根元を掴んで顔ごと引き寄せる。
 ぼやける焦点を苦労して合わせ、きっかりと目の奥を見据え、一言。
 「かっこつけんな、ばあーか」
 虚を衝かれ空白の表情を晒す。
 「身代わりで守ってやってるって何様だよお前、そこまで落ちぶれてねえよ俺は、後輩にやなこと全部おっかぶせてケツまくって女といちゃついてああ幸せなんて冗談じゃねえよ、誰かの不幸の上に胡坐をかいてめでたしめでたしか。有里が俺にちょっかいかけてくるの見越して会社を辞めた?ふざけんな、勝手に決めやがって、俺がいつ頼んだよ?お前信じてるのかよあいつの言う事、有里が約束守るような誠実キャラか、辞めようが辞めまいが離れようが離れまいがえげつねえいやがらせしてくるに決まってんだろ?」
 「会社にいたらもっと酷い事に」
 「殴るぞ」
 ああ畜生すっかり洗脳済みか、調教済みか。
 ガキの頃から何年も虐待され続け兄貴の影響力にがんじがらめに縛られている、兄貴の言い分は絶対だと信じきってる。
 あんなやつ、こいつがびびる価値もねえのに。
 「あいつはクズだ。最高にえげつねえやりかたでお前をいじめてにやついてる根性曲がりのサド野郎だ、あいつと俺どっちがいいんだ、俺よりあいつのハッタリを信じるのか?」
 「ハッタリじゃない……あなたは兄さんの怖さを知らないから」
 「俺にわかるのはお前が有里じゃなくて有里の後ろを見てるってことだ!」
 胸ぐらを鷲掴む手に切迫した力がこもる。
 こいつを正気づかせたい一心で、目を覚まさせたい一心で激情にひりつく声を振り絞る。
 「俺とあいつどっちが好きなんだ、どっちを信じるんだ。答えろ千里、お前はどうしたいんだ。本当は辞めたくなかったんだろ会社、ずっと働きたかったんだろ?」
 車中職場の近況を熱心に聞く横顔を思い出す、元同僚の噂話に相槌を打ちながら生き生きと笑っていた、笑いながら未練と諦念が滲む寂しげな影は消せなかった。
 「戻りたいんだろ?」
 「まさか。僕は今の生活が気に入ってます、兄さんの秘書として充実した毎日を送ってる、外回りで足を棒にして指紋が擦り切れるほど名刺を交換して嫌な相手にぺこぺこするような毎日にはうんざりだ、あんな会社二度と戻りたくない……」
 「俺がいるのに?」
 「あなたがいるからです」
 「俺が嫌いなのか」
 「……何度言わせれば気が済むんだ……」
 下方の顔が救いがたい悲哀に歪む。
 どうかもう許してくれと声なき声で絶叫するように、せめぎあう絶望と渇望に苛まれ、一途に思い詰めた目で俺を仰ぐ。
 「大嫌いだあなたなんか。ただの遊びだった、賭けのネタだった、最初から本気じゃなかった。職場で一番落としにくそうな人を選んだだけだ、そのほうが難易度上がって楽しいから……神経質で生真面目で怒りっぽくて入社してから何回何十回怒鳴られたかわかりゃしない、歩くのが遅い置いてくぞ、横に立つな、挨拶は大きな声でしっかりと、子供じゃないんだからそんなこと言われなくたってわかってる!」
 「ガキだよお前は!」
 「鬱陶しいんですよ、うざいんです、ほっといてください。どうして構うんですか、あれだけ言われたのにまだ懲りないんですか、僕が追いかけたら逃げるくせに逃げたら追いかけてくる、どうしてそう天邪鬼な」
 続けさせたくなくて噛みつくように唇を奪う。
 「!―んっ、む」
 反射的に閉じようとした唇を無理矢理こじあけ舌を入れる、生温かい粘膜を貪る、引っ込もうとした舌に吸い付く、床で身もがき逃れようとする千里を顔に顔を被せ体を密着させ全身で押さえ込み抵抗を封じる、肘がぶつかりあう、揉み合う、四肢が絡み合う、暴れる程に着衣が乱れ皺が増え息が上がっていく、口内の酸素をすべて奪い尽くす勢いで深く濃厚なキスをしながらきつく目を瞑る。
 千代橋、悪い。
 心の中で詫び、酸欠に陥る一歩手前で唇を放す。
 息を吹き返す千里に向かい、顎を拭いつつ吐き捨てる。
 「……しかたねえだろ」
 「何が……」
 「べそかく寸前みてえな情けねえツラで意地張ってるヤツをほっとけるか」

 はじまりは最悪だった。
 自分を強姦した相手を好きになるなんざあり得ないとそう思っていた。
 愛とか恋とか名付けるにはしょっぱくて、同情や憐憫と呼ぶには感情移入しすぎて、憎んでも憎み足りないはずの相手を憎みきれなくて、俺の中はぐちゃぐちゃのどろどろで整理なんかつかなくて、だけどこいつの事を考えるだけでもどかしくて苦しくて千代橋といて満ち足りてるはずの時間でも何かが欠けていて

 「……街で似た背格好のヤツとすれちがうたび、目が、勝手に追いかけちまうんだ」
 顔の横に手をつき挫けそうな気力と体を支え、切々と吐露する。
 「こないだ千代橋と街に出かけた時……似た背格好のヤツとすれちがって……全然別人なのに、頭じゃ分かってるのにお前かもしれないって……目が放せなくなって……赤信号なのにふらふら行っちまいそうになった」

 本当はいつだってどこだって捜してた
 すれ違う人ごみに追いつけない面影を追い求めて交差点のど真ん中で立ち尽くして

 「行き帰りホームに立つ時も……外回りで電車乗る時も……似た背格好のヤツ無意識にさがしちまう癖がついて、ドアの段差でこけそうになって、ボンヤリしすぎだって羽鳥に笑われた」
 こいつがいなくなって日常は狂いだした。
 注意力が散漫になって、集中力が欠如して、始終ボンヤリしてることが多くなって、ちょっとでも似た背格好のヤツや雰囲気が似たヤツや声のトーンが似たヤツがいれば千里じゃないかと勘ぐって、追いかけて肩掴み振り向かせたい衝動に駆られて、実際何度も手を伸ばしかけては指を握りこんで耐えた。
 「黙って消えるなよ……」

 会いたかった。
 ずっとずっと、会いたかった。

 「最後にもう一度だけ聞く。これっきりだ。正直に言ってくれ」
 挑むような眼差しで見詰め、道を見失い迷う心にけじめをつけるために問いを重ねる。
 「俺が嫌いなのか?二度とツラなんか見たくないか?会わないほうがいいのか」
 選択を委ね、決断を託す。
 俺はイカれた兄貴から千里を取り戻したいと思ってる。
 それが余計なお世話ならきっぱり言ってくれ、諦めるきっかけをくれ。
 息を詰めて答えを待つ。
 どちらの答えを望むか自分でもわからないままに、沈黙の重圧が神経を削り取る苦痛な時間の終わりを待ち望む。
 「僕は……」
 ためらいがちに頬に触れる。
 俺の頬を片手で包んで導き目を見据え、微笑もうとして失敗した表情で静かに唇を開く。
 
 「俺のいない間に男を引き込んでお楽しみか?」
 
 「!」
 リビングのドアが開き、ホスト風のスーツを着た端正な風貌の男が颯爽たる大股で踏み込んでくる。
 「………なんで、」
 今一番会いたくないヤツがそこにいた。
 「なんで兄さんがここにいるんですか、今日は仕事でこれないって……」
 「母さんから連絡があった、見合いを抜けて先に帰って来たそうじゃないか。ダメだぞ、言う事を聞けない悪い子にはおしおきだ」
 床で縺れ合う俺たちを冷え冷え眺め、今にも享楽に溺れた哄笑を放ちそうな愉快げな笑みを形作る。
 「クズミとは切れたんじゃなかったのか?どうして上に乗っかってるんだ?見合いをすっぽかして俺に恥をかかせた上にマンションで逢引か。はは、そうか、クズミとはずっと続いてたのか、知らなかったのは俺だけか!!」
 「帰ってください、早く!」
 俺にはそれが逃げてくださいと聞こえた。
 上に被さる俺を力づくで押しのけるや声を荒げて追い払う、有里の登場に動転し硬直する、いつからそこにいた?聞かれていた?記憶の洪水がフラッシュバック、数ヶ月前のおぞましい体験が次々畳み掛けるように襲い掛かって吐き気を憶える。
 「誤解ですよ兄さん、この人は勝手に押しかけてきたんだ。今追い返そうと思ってたんです、もう顔も見たくない……」
 俺の肘を痣になるほど掴んで玄関のほうへ引っ張っていこうとする千里、行く手に長身の影が立ち塞がる。
 「……どいてください」
 「気分が悪そうだぞ」
 「僕は別に……」
 「違う、クズミの方だ」
 俺を背に庇うようにしてあとじさる千里と距離を詰め、横から回りこむ。
 「俺が怖いか?」 
 「……怖くねえ。死ぬほど胸糞悪ぃだけだ」
 「また会えて減らず口が聞けて嬉しいよ。プレゼントは気に入ってくれたようだな」
 プレゼント。あの悪趣味な写真。俺の痴態や結合部を写した何十枚もの……
 こめかみの血管が怒りに膨らみ脈打つ。おもいっきり腕を振りかぶり拳を放つも、有里はボクサーのような身ごなしでそれをかわし、逆に俺の肘を掴んで自分の方へと抱き寄せる。
 「……ネガを返せ」
 「データはパソコンの中だ」
 「本体ごとぶっ壊してやる」
 「いきがいいな。退屈しない」
 こいつに触られるだけで虫唾が走る、死に物狂いで身をよじり必死に振りほどき逃れようとする、しかし嫌がれば嫌がるほど逆効果で腕を捻り上げられ激痛が走る、格闘技でもやってんのか?優男風の細身のくせに膂力が凄まじい、腕の急所を締め上げられ激痛に呻く、そのまま廊下を引きずられどこかへ連れられていく……
 「兄さん!!」
 焦燥した千里の声―狂気の哄笑―開け放たれたドアの向こうに暗闇、廊下から射した明かりが照らす寝室、一人用にしちゃでかく余裕のあるベッドに無造作に投げ出され背中が弾む、勢いで脱げた靴が放物線を描いて飛ぶ。
 「そんなに俺『たち』に遊んでもらいたいのか?あの夜が忘れられないか?あの夜を上回る刺激が欲しいのか?」
 「期待にこたえなきゃな」と含み笑い、逆光を背に陰影に塗り潰された男がジャケットを脱ぐ。
 「お望みどおりバンリと挟んで嬲ってやる」

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

リーマン×リーマン | コメント(-) | 20010419225104 | 編集
ブログ内検索
     © 2017 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天