ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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凡夫危うきに近寄り、喰われる7

 「そうだ、中華を食おう」
 帰り支度をしているさなか、隣のデスクの羽鳥がうきうき誘う。
 「お前も来い、久住。同期のよしみでおごっちゃる」
 「まっすぐ家に帰んねーとまた嫁さんに叱られるぜ」
 「このあと用事入ってんのか?」
 「ねえけど……」
 つい素直に答えちまう。
 「だろ?部屋帰ってコンビニ弁当かカップヌードルで独りみじめにしこしこ夕飯だろ?たまにはパアッとはじけようぜ」
 「今日はどうした、えらい太っ腹じゃねえか」
 「臨時収入があったんだよ、ネットオークションに出品した自転車のサドルがいい値で売れてさあ。日頃世話んなってるお礼に頼れる同僚の久住ちゃんにご馳走してやろうってわけよ」
 「親切の無理強いはありがた迷惑。……つうか自転車そのものじゃなくてサドル単品?よく売れたな、誰が何の目的と用途で買ったんだよ」
 「サドルフェチがいるんじゃね?」
 「んなもんよくネットオークションにかける気になったな」
 「きょうびネットに出せば売れないもんなど皆無な世の中ですよ!お前愛用の眼鏡だって……」
 極端に顔を近付けにじり寄る羽鳥から距離をとる。
 「あれ?眼鏡変えた?」
 「とっくだよ、今週はずっとこれ」
 「悪い悪い気づかなかった、だって野郎の顔なんてじろじろ見ねえからさあー。美人の顔ならいつまで見てたった飽きねえんだけど……あ、美人といえばさ、千代橋。最近急に色っぽくなったな」
 ぎくりとする。こいつは時々心臓に悪い。
 俺の動揺を見抜いたか意地悪く目を細め、悪乗りして肘でつつく。
 「心あたりあるんじゃねえか?その事についてもたっぷり締め上げてやる」
 「お断りだ。……っていうかなんで中華?」
 「俺が食べたいからだ!」
 「これ以上体脂肪率増やすとさすがにやばいぜ」
 「炭水化物上等、点心と杏仁豆腐が俺を呼んでいる!」
 鈍感なのか装ってるだけなのか判断つきかねる言動にまごつき、新しい眼鏡を庇ってそっぽを向く。
 羽鳥は悪いヤツじゃないが噂好きで詮索好き、社内一の情報通を自称して営業の誰それと誰それが交際してるだの破局しただの人事の課長が経理の女の子と不倫してるだのをメールで流してるって疑惑もあるくらいだ。
 野郎どもの視線をひとりじめにするうちの課一番の美人が俺みたいなシケた平社員とデキてるなんてバレたら面倒くさい、てきとうにごまかそう。
 「どうやって千代橋を落としたか吐くまで帰さねえぜ」
 ……手遅れか。
 「どこで仕入れた」
 「仕入れたもなにも噂になってるぜ、カリカリ眼鏡の久住が課で一番の美人を射落としたってな」
 「猫のエサみたく言うな」
 「バレてねえと思ったのかよ、毎日待ち合わせて一緒に帰ってるくせに」
 返す言葉を失う。十分気をつけてたつもりだが、やっぱりばれてたらしい。
 「その眼鏡だって千代橋に選んでもらったんだろ?うん?オフレコにしとくから白状しちゃえ」
 「お前に話したら下は掃除のおばちゃんから上は社長まで一日で広がる」
 構わず椅子を引き帰ろうとするや、がっしり肩を組んでひっついてくる。
 鬱陶しい上に、体積的な意味で暑苦しい。
 「信用ねえなあ。ちょっとは同期を信用しろよ、お前を飲みに誘う物好きなんて俺だけよ?」
 「本人の前で言っちまう無神経さに乾杯。じゃあな」
 立ち去りかけたところを肘を掴んで引き戻され、しつこさキレる。険悪な三白眼で苛立ちあらわに睨みつける。 
 「なんだよ?」
 「今日は梓ちゃんは?」
 「友達と飲みに行くんだとさ」
 「そうかそうか。そうだよなー、友達付き合いも大事にしなきゃなー、たまには女同士で盛り上がりたいよなー。うんうんわかる、彼氏ばっか優先してたらやっかまれちまうし。女の嫉妬は怖えぞ~」
 知ったふうな軽口を叩いたあと、ふと真顔になる。
 「よかったな」
 「は?」
 「調子もどったみてえじゃん。マシな顔色になった」
 いつもは鈍いふりをしてるが、羽鳥はそこまで鈍感じゃない。隣同士で仕事してりゃいやでも変化に気づくだろう。 
 俺を見詰めるまなざしは友情と勘違いしちまいそうに優しく、和んだ表情から安堵の気配が伝わる。
 ひょっとして、心配してくれてたのだろうか。
 今日の誘いも、俺への気遣いで?
 「新しい彼女ができた祝いだ、ぱあっといこう」
 「中華って……どうせバーミヤンだろ」
 「王将のビールとギョーザもつける」
 ばしばし背中を叩かれよろめく。
 思い返せば世話んなった。
 無愛想で付き合い下手な俺をことあるごとに飲みに連れて行ったのが新人研修で組まされたこいつだった。
 千代橋との関係を尋問したいというのは建前で今回の誘いは俺の快気祝いを兼ねているのだろう。
 今の俺に友達と呼べるやつがいるとしたらそれは羽鳥だろう。
 社会人になってから学生時代の友人とはめっきり疎遠になっちまって年賀状のやりとりだけ惰性で続けてるやつも多い。
 だからこそ、身近な同僚の親切が倍嬉しい。
 案外と俺は幸せ者かもしれない。
 椅子の背に掛けた背広をとり、承諾。
 「―わかった」
 「そうこなくっちゃ!」
 「ワリカンな」
 「気にすんな、大船にのったつもりでいろ」
 「破船はこりごりだ。嫁さんに紐握られてすかんぴんの財布に頼るほどおちぶれてねえ」
 「親しき仲にも礼儀あり、おごられるのを嫌う、か。変わってねえな、むかしっから」
 「貸しを作って高く取り立てられるのがいやなんだよ。守銭奴なんだ、俺は」
 「自分こそ高利貸しみてえなツラしてさあー。眼鏡似合ってんぞ」
 このところ空回りしていた毒舌が復調する。
 こいつを憎むのはむずかしい。
 時々、世の中をすいすい泳いで渡ってくのは羽鳥みたいなやつらじゃないかと思う。いわゆるムードメイカーと呼ばれる人種だ。優等生の後輩には反感を持つ俺でさえ、三枚目の羽鳥は憎みきれない。
 椅子から腰を浮かすと同時に、残務処理をしていた亀田と目が合う。
 一瞬の膠着。
 先にそらしたのは亀田、俺の目つきの悪さの勝利。というのは冗談にしても、トイレでの一件以来ちょっかいかけてくることなく不気味な静寂を保っている。
 今みたいに視線がぶつかればさっと俯いちまうも、恨みつらみをこめた目つきに理不尽なものを感じる。
 「……ガあキ」
 「俺?」
 「お前じゃねえよ」
 俺もじゅうぶんガキだ。
 こないだはやりすぎだと反省している、一歩間違えば溺死させていた。大人の対応としては謝るべきだろう。それはそれとして、なかなかきっかけが掴めない。トイレでのトラブルからこっち露骨に避けられて口もきけない状態だ。いまだ俺に含むところがあるのだろう。
 予定の営業にはぎりぎり間に合った。ふたりともびしょ濡れで先方にあやしまれたが、来る途中花屋の店先でホースの水をぶっかけられたと苦しい言い訳を通した。
 営業先の上司がいい人で、スーツを台無しにしながらやってきた俺たちにえらく感激していた。
 結果よければすべてよし。
 まんまふてくされたガキな亀田にはあきれるが千代橋のお灸がきいたんだろう、俺と千里の関係をふれまわってる様子もねえしとりあえずは静観が吉か。
 人間関係って面倒くせえ。
 今ならあいつの、千里の苦労がわかる。
 誰にでも分け隔てなく接するのは簡単なようでいてすごく難しい。
 それを完璧にこなしてたあいつは実はすごいヤツなのかもと今頃評価を改める。
 「そういえばこないだ嫁さんと喧嘩したって言ってたのどうなった」
 「心配すんな、仲直り済み!お前のアドバイスのおかげ」
 「俺?なんか言ったっけ」
 「トイレ入ったら必ず便座をおろせ」
 「……そんなこと言ったか?え、俺が?」
 「言った言った。親しき仲にも礼儀あり、互いを尊敬し尊重しあってこその夫婦だって。そういう日常のちょっとした気配りが夫婦の絆を強めるって力説したの忘れたのかよ。それと火種を撒くエロゲは捨てるか嫁の目にふれねえところにしまえって……」
 ……なんでこいつと付き合ってるんだろう。謎だ。
 羽鳥に相槌を打ちつつ玄関をでたところで爆音が耳を劈く。
 「!?なっ、」
 「うわっ、」
 そろって立ち竦む。
 何だ一体?
 非常識な爆音を撒き散らし、道路のはるか彼方から彗星の如く登場したのはおそろしく値の張りそうな一台のオープンカー。メタリックな光沢を帯びた情熱の赤の車体、優雅さと野蛮さを併せ持つ流線形のフォルム。
 「ラ、ランボルギーニディアボロ……!」
 「ディアボロ?」
 「馬鹿っ、イタリア産の超高級車だよ名前くらい聞いたことあんだろ!?」
 「し、知ってるっつのそんくらい。痔の薬に似てるけど似て非なるもんだろ?」
 「非なるどころか全然ちがうよ世界の名車ランボルギーニだぜ!?」
 伊達にミニカーコレクションをしてねえ、もちろん知ってる。
 運転席のドアを開け放ち、スリットから覗く魅惑の脚線を見せつけるように女が降りてくる。
 一台でサラリーマンの年収が吹っ飛ぶ超高級車に乗っていたのは、車のお株を奪うすこぶるつきの上玉だった。
 シルク織りだろう山吹色のチャイナドレスで砂時計さながらメリハリのついた肢体を強調し、香水匂いたつ豪奢な巻き毛を振って降り立つ美女を見て、羽鳥がごくんと生唾を飲む。
 「ニ、ニーハオ……」
 「中国人じゃねえ」
 車から降りてきた女の顔にはいやというほど見覚えがある。
 できるなら一日も早く忘れたい顔だ。 
 「ご無沙汰ねクズミ」
 「……何の用だよ」
 「そうつんけんしないで、今日は晩餐のお誘いにきたの」
 ボンネットに腰掛けるや、悩ましげな媚態を演じてすらりと長い足を組む。
 手の甲で豪奢な巻き髪をかきあげ、嫣然と笑う。
 自分の魅力を熟知し男を喰らう女の悪魔的な笑み。
 「中華を食べに行きましょう。おごるわよ」
 「断る。お前と食べに行く義理がねえ。どうせまた何か企んでるんだろ」 
 「おい久住、だれだよこちらの美しい方は」
 「申し遅れたわ」
 ボンネットの玉座に腰掛けた朱里がでれでれ鼻の下をのばしきった羽鳥に濡れた流し目をおくり、名刺を弾く。
 地面に落ちたそれを這い蹲って素早く囲い込み、落雷に打たれたが如く叫ぶ。
 「SM嬢……!うわあ、実物初めて見た!俺ってば健全志向の風俗っきゃ行ったことねえから」
 「営業か?暇なんだな」
 「随分な挨拶ね、迎えにきてあげたのに。ランボルギーニの乗り心地を体験したくない?」
 「お前の運転はぞっとしねえな」
 圧倒的な存在感を放つ朱里の眼前をつれなく素通りし、腑抜けた同僚を急かす。
 「おいてくぞ」
 「え?いいのかよこんな美人ほっといて……つうかお前とどういう関係、そっから聞かせろよ!畜生梓ちゃんといういい子がいながらSM嬢にまで手えだすなんてムッツリすけべめ、清純派と女王様の二股なんて無節操だぞ!」
 「勘違いすんな、こいつはただの痴女だ。つきまとわれて迷惑してる」
 朱里の出現により少なからず動揺している自分を懸命に欺く。
 「最高級の満開全席をご馳走するわ」
 「残念だが先約が入ってる。今日はこれから同僚に中華をおごってもらう予定だ」
 「ワリカンじゃなかったのか?」
 「どうせバーミヤンか王将でしょ。こっちはちゃんとテーブルが回る店よ」
 「俺の庶民舌には合ってんだよ」
 「そう……」
 明里が思案げに俯く。
 長い睫毛が覆う目に狡猾な光がともり、次の瞬間、掲げた指をぱちんと弾く。
 「張」
 「御意」
 車の後部シートに身を伏せていた男が迅速に捕獲行動に移り、バネ仕掛けの如く飛びかかるや羽交い絞めにする。
 「うわっ!?危ないだろもうすぐ赤に―……ってまたお前かよ!」
 「言うこと聞くねクズミ、朱里さん怒らしたら怖い怖いよ、ディアボロで轢かれるよ」
 「放せ、放せって!羽鳥お前も手伝えひっぺがせ」
 アイドリングしていたエンジンが再始動、大気を切り裂く爆音とともに凄まじい烈風が吹きつける。
 朱里がハンドルを握りキーで命を吹き込むや猛獣の如く嘶き、青から黄へ、黄から赤へと忙しく点滅する横断歩道のど真ん中でもつれ合う俺たちのほうへと一直線に突っ込んでくる。
 「ちっ」
 「ほわちゃ!」
 せめてこいつだけでもとでかいケツを蹴っとばす。
 バンザイのポーズで倒れこむ羽鳥と入れ代わりしな猛然と疾走してきた車が視界を覆い、間一髪きわどい所で身をひねりかわすも、張ともども絡み縺れ合いドアの縁を乗り上げシートでバウンド。
 やたらふかふかなシートが緩衝材を果たしたくれたおかげで擦り傷ひとつ負わずにすんだが、一歩間違えばタイヤの下敷きになっていた。
 「―ふ、ふざけんな、一般道路だぞここ!?もう少しで会社員中国人と心中って新聞に載るとこだったじゃねえか!!」
 「だまるねクズミ、しゃべると舌噛むね」
 倒れこんだはずみに後ろになでつけた髪がみだれて眼鏡がずれ、運転席の方へと身を乗り出して叫べば、張が裾を引いて注意する。
 今にも開け放たんとドアにしがみつき、向かい風に吹き散らされぬよう怒号を張り上げる。
 「スピード落とせ、帰る、付き合ってられっか」
 「走行中に飛び降りるの?削れて死ぬわよ」
 朱里の声は奔放に弾んでいる。
 豪奢な巻き髪を疾風になびかせ颯爽と車を駆る姿は、爛々とぎらつく生命力に満ちている。
 「黙れ、誘拐犯。拉致犯のがお気に召すか。今度という今度は堪忍袋の緒が切れた、被害届けだすぞ」
 「ご自由に。正々堂々捻り潰すわ」
 冗談ともつかぬ口ぶりであっさり言い放ち、バックミラーを覗いて不敵に笑う。
 そうこうしてるうちに高速道路に乗り、ますます加速がつく。
 オープンカーのせいでまともに風を浴び、せっかくセットした髪が崩れる。
 朱里は鼻歌を口ずさみつつハンドルを回し、張は隣にひっついて俺が妙な行動をとらないよう監視している。
 どうなってんだ?
 混乱した頭でひとつずつ状況を整理する。
 会社を出るやいなやディアボロで待ち伏せしていた朱里に拉致られた。
 車は俺の意志に背いて高速をかっとばしどこかへ向かっている。
 どこへ?
 判断力を回復した頭にまっとうな疑問が浮かび、目的地をあれこれ手探りで検討し始める。
 「中華街にでも行く気か?」
 「残念、六本木。庶民のポケットマネーで行きにくい店よ、喜びなさい」
 「そりゃどうも。おろせ」
 「い・や」
 「テングのおさめ時ねクズミ、朱里さんに逆らうあとでおしおきよ、滑車で吊られるいやなら文句言うない」
 俺をつっつき、一向に上達しない日本語で張が言う。
 「……なんなんだよ、あんたらは。どうしてほっといてくれないんだ」

 結局のところ、どうあがいたって逃げ切れないのか。
 一生こいつら兄弟につきまとわれおもちゃにされる運命なのか。

 逃走は諦め、自暴自棄でシートにふんぞりかえる。
 バックミラーごしに顔色をさぐりつつ、新色の口紅を試すさりげなさで運転手が言い放つ。
 「バンリがお見合いするの」
 朱里の唇から零れたその言葉は、冷たく凍えた俺の胸に落ちて、仮初の均衡を保つ薄氷を割る。
 「…………めでてえじゃんか」
 だいぶ間をおいて搾り出すように返す。
 虚勢でもなんでもなく他に言葉が見つからない。
 どうしたんだろう、世界が急激に色を失っていく。
 耳朶を切り裂くエンジン音と走行音が急速に現実感を失っていく。
 「見合いって……女と、だよな」
 「あたりまえでしょ?同性で見合いしたって意味ないわ」
 「でもあいつ……ホモじゃねえか。本人は承諾したのか?」
 「知らない」
 「知らねえって、弟だろ?」
 「私も人づてに聞いたのよ。まあ、どうせユウリにむり言われたんでしょ。お相手は取引先の社長令嬢だし」
 あいつが見合い?結婚?……くそ、頭がこんがらがっちまう。だってあいつは同性愛者で、今頃は兄貴の秘書として持ち前の有能さを発揮してばりばり働いてるはずで、二年後輩でまだ若くて、なのにいきなり結婚なんて
 「はっきり言え、おためごかしはうんざりだ。俺に何をさせたい、乗り込んでって見合いをぶち壊しゃいいのか」
 荒れ狂う憤懣を運転席の背にぶつける。
 「生憎とご期待に添えそうもない。喫茶店でも言ったけど今はほかに付き合ってる女が……」
 「ねえ、自分で気付いてる?バンリが見合いするって聞かされて、さっきあなた傷ついた顔したわよ」 
 華麗にハンドルを切って高速を降りる。
 もう引き返せない。
 六本木から吉祥寺までタクシーで帰るにしても金がかかる。
 「関係ないならいいじゃない。これはお詫びのしるし、不肖の弟があなたに迷惑かけたお詫びに美味しい中華をおごるわ」
 「食べ物で釣る気か。安く見られたもんだな、俺も」
 「バンリはどうでもいいんでしょ?じゃあ近くに座ってたって気にしないわよね」
 どうしたい。どうすればいい。すべきことはわかりきってる、今すぐ車を降りて帰るんだ、千代橋が好きならそうしろ。
 タイヤが路面を噛んで止まる。
 「……………」
 心がぐらつく。決断に迷う。
 目を瞑り千代橋を追憶するも、それはやがて千里の面影に取り代わる。
 車から降り立つ朱里に首輪つきの忠犬さながらいそいそ張が続く。
 シートに深々身を沈めネオンを浴びつつ、結んだ手をじっと睨みつける。
 「……行くっきゃねえだろう」
 ため息ひとつ、堂々巡りの葛藤にけりをつけロックを解除。
 赤と金をちりばめた中華風の装飾を凝らした店構えは豪奢で格調高く、壺だの絵だの調度を飾った中をチャイナドレスの女給が案内してくれる。
 俺たちが案内されたのは店の中央寄り、格子の衝立で区切られたテーブルだ。
 「謝謝」
 流麗な抑揚の発音で謝辞を述べ、指に挟んだ紙幣を洗練された仕草で女給に渡す。
 「マカオのカジノか、ここは」
 「有り余る富は有意義に使わなきゃ」
 外国でもあるまいに、椅子を引かれただけでチップを切る日本人にゃ初めて会う。
 朱里から手渡された紙幣を懐にしまい、丁寧に一礼し去っていく女給に張が鼻の下をのばしているのはご愛嬌だ。
 広い円卓を三人で囲む。
 正面に朱里、横手に張の位置関係だ。
 「どうぞ召し上がれ。烏龍茶と小龍包が美味しいのよ、ここ」
 こういう店ははじめてで落ち着かない。通路ですれちがうのはいかにも金持ちそうな連中ばかりで、安背広の会社員は場違いだ。
 朱里は香り立つ烏龍茶に舌鼓を打ち、張はきょろきょろあたりを見回している。
 「……よく来るのか、この店」
 「お客さんと一緒にね」
 「パトロン囲ってんのか」
 「職業に貴賎はないわ。でしょ?仕事帰りはおなかが空いて脂っこいものたらふく食べたくなるのよ」
 「女がたらふくとか言うな」
 「下品かしら?」
 こいつの相手をすると体力を奪われる。逐一自制心を試されてるようだ。
 前もって手配していたのだろう、じきに料理が運ばれてくる。
 「さ、食べましょ」 
 「好吃!」
 蒸篭の蓋を開けるや濛々と湯気が立ち、張の眼鏡が滑稽に曇る。
 箸をとって旺盛に食べ始める朱里と張につられ空腹を意識し、とりあえず食い物に罪はねえと箸でつまんで点心をぱくつく。
 口にほうりこんで噛むや肉汁が滲み出し、驚く。
 「美味いな」
 セレブ育ちで舌の肥えた朱里が太鼓判を押すだけある。
 しばらく目的も忘れ夢中で点心をがっつき、久しぶりの中華を堪能する。こっちもなかなか、うん、こっちも……一流店の評判は伊達じゃない。腰を浮かし甘辛い酢豚を小皿に取り分けるや、向かいの朱里が囁く。
 「彼女の手料理とどっちが美味しい?」
 「………梓」
 「素直じゃないわね」
 声を出さずに笑うさまが癪だ。
 むっつり黙り込み、じょぼじょぼと猪口に烏龍茶を注いで一気に干す。
 馥郁たる芳香が湯気に乗じ鼻腔に抜け、芳醇かつ奥深い渋みと甘みが引き立つ。
 悔しいが、美味い。ついついお代わりしちまう。
 「ヤケウーロンあるか?」
 「ひっかけてやろうか」
 「あいやーもったいない、そのウーロン一杯三千円よ?」
 危なく吹きだしかける。
 含んだ茶が変なところに入り込んでむせるも、鷹揚な中年の声が意識を現実に引き戻す。
 「ようこそ、お待ちしてました」
 衝立の中央は翼を広げた鳳凰の形にくりぬかれており、そこから隣の様子が覗ける。
 声は隣のテーブルからだ。席を立つ物音に続き、互いの紹介が始まる。
 「遅れてごめんなさいね」
 上品な女性の声がおっとり謝罪する。単にマナーに添ったただけであんまり悪いと思ってなさげだ。
 「こちらが万里くんですか。いや、写真で見るよりよっぽど……」
 「童顔で驚きました?」
 「とんでもない!立派な青年で感心しました」

 万里。
 千里?

 「!―っ、」
 仕組まれていた。
 涼しい顔で茶を啜る朱里を射殺さんばかりに睨みつける。
 無視しよう、意識しないようにと努めても隣り合ったテーブルからもろに会話が聞こえてくる。主導権を握った男は見合い相手の父親だろうか地声がでかく、耳をふさいでテーブルの下に避難するかただちに離席しない限り、聞きたくもねえ会話が聞こえてくる。
 「こちら、娘の美月です。ほら美月、ご挨拶なさい」
 押しの強い父親に促され、はにかみがちに頭を下げる若い女。内気そうな可愛らしい声。
 「はじめまして、祖父江美月です。よろしくおねがいします」
 「千里万里です。こちらこそ、お願いします」
 心臓が強く速く脈を乱して鼓動を打つ。
 いま隣にあいつがいる。衝立を挟んですぐ隣に座っている。
 俺と同じように猪口を掴んで茶を飲んで和気藹々としゃべり始める。
 一体どういうつもりだ、ホモのくせに見合いなんてなに考える、兄貴の命令ならなんでも聞くのか、嗜好や信念を捻じ曲げるのか?
 「万里くんは慶応大卒ですか。優秀ですね」
 「美月さんこそ、欧華大出なんてすごいですよ」
 「うちのは大したことありませんよ。文学部なんて潰しのきかない学部に入って、結果就職できず家にいますからな」
 「仕方ないですよ、出版業界は厳しいから……」
 「大学を出てからずっとお兄さんの秘書を?」
 「いえ、一回別の会社に就職して兄の秘書になったのはつい最近です。知らないことだらけで新鮮ですね」

 どうしてそんな他人行儀に語る?
 お前の中では過去形で処理されてるのか?

 わかっていたはずなのに、裏切りに似た喪失感に眩暈が襲う。
 俺のことも会社のこともあいつにとっちゃ過去の事でとっくに清算済みで未練なんてさらさらねえのに、俺一人立ち止まったまま前に進めずにいる。
 俺の心はまだ、あのホテルの部屋に監禁されている。
 あそこに置き去りにされたまま、もどってこない千里を呼び求めている。
 「聞いてよろしいですかな。どうして別の会社に就職を?」
 「社会勉強の為です。親族経営の会社に入ったらもう一生出れない、そうなる前に経験を積んでおきたくて……自分の実力を試したいというはねっかえりの気持ちがあったのは否定しません」
 「行動力があるんだね。頼もしい」
 「恐れ入ります」
 胸を切り刻まれるようだ。
 窓を見る勇気はどうしても湧かない。もし目が合ったら、俺がここにいるのがばれたらと想像するだけで不整脈を発し冷や汗がふきでる。
 針のむしろだ。早く帰りたい。どうしてのこのこついてきちまったんだ?死ぬほどみじめな気分を味わう。衝立越しの会話は弾む。千里と見合い相手の趣味は合う。
 嫉妬ともつかぬ燻りが焦げついていく。
 今話題に上ってる本は面白いから読めよと俺が貸してやった、千里はそれをさも自分が発見したように語る、どうしてそうも無神経になれる、悪気はないとわかってる、けれどもダシにされるために本を貸したんじゃない、あの日見舞いにきたお前が熱心に本棚を見てたから……
 「万里くんはどういう人が好みなんですか?」 
 「……帰る」
 猪口に残った茶をぐいと呷り、椅子を引く。
 茶番に付き合わされるはこりごりだ、お詫びの言葉を真に受けてのこのこやってきて俺がどうかしてた。
 今日の事は忘れよう、なにもかも。無理でもダメでも忘れるんだ、立ち直るにはそれっきゃない、久しぶりに声を聞いて心が揺れた、せっかく克服しかけたトラウマをまたぞろほじくりかえされ自分をセーブできない、好みの異性を聞かれてどう返すか想像つく、先方の機嫌を損ねないよう優しくて家庭的な人が好きだとか見合い相手を喜ばす模範的な答えを返すに決まって……
 「年上ですね」
 椅子を引きかけた手がとまる。
 「クールで仕事がデキて眼鏡が似合う。目つきはきつい。痩せ型でスーツが似合う。曲がったことが大嫌いで少し息苦しいほど生真面目、だけど本当はすごく優しい、気配りができるひと。口は悪い方がいいです。足は速いほうがいいです。僕に構わずすたすた歩いて行ってほしい」
 待てよ。
 「知的な女性が好みなのか」
 「まるで意中の人がいるみたいですね」
 取り消せよ、早く。
 いまなら間に合う、冗談だって笑い飛ばせ、自分から見合いをぶち壊す気か、じゃあなんで出席したんだよ?
 自意識過剰だろうか。
 たった今千里がすらすらと口にした好みのだれかに、うんざりするほど、いやになるほど、心当たりがある。
 いつも早足ですたすた歩く、後輩がちゃんとついてきてるかどうか確認しようともしない自分勝手、怒りっぽくて無愛想で人あたりがきつくていいところなんてひとつもない、なあそうだろう
 「そうなんです」
 席を立つ。
 「だから、申し訳ありません。この話はなかったことに」
 馬鹿野郎。
 予想外の成り行きに衝立を挟んだ隣がざわつく。靴音が次第に近付きつつある。
 衝立を出て、ちょうど俺の後ろを通りかかった靴音がとまり、かすかな驚きの気配が空気を縫い伝う。
 「どうして……」
 呆然と立ち尽くす気配を背後に感じ、それまで堪えに堪えていたものが堰を切って突き上げる。
 腹立ちに任せ箸を叩きつけ、椅子をがたつかせ立ち上がる。
 「……立場が逆だよな。どうして俺が勝手に行方くらました後輩を追っかけなきゃいけねーんだよ」
 「久住さん……」
 シューマイを狙う張の手をはたき、椅子の背に掛けた背広をひっ掴んで振り返る。
 「なんでここに?」
 「お待ちなさい万里さん、どうしたんですか急に」
 久しぶりに会う千里は、目を丸くして驚いてるせいか、なんだかひどくあどけなく見えた。
 千里を追ってきた和服の中年女性が俺を見て怪訝な顔をし、円卓で食事を続ける痴女に気付く。
 「朱里さん?」
 「ひさしぶりね母さん」
 「あなた、どうしてここに……」
 「私はここのお得意さんよ?小龍包が絶品なのよね、ここ。母さんも食べた?」
 「ええ、大変美味でした」
 「そう、それはよかった」
 「よくありません。なんですかその格好は、はしたない」
 柳眉をひそめる女ににこりと笑いかけ、スリットから覗く脚線もあらわに赴く。
 「母さんこそ、中華料理を食べに行くのに和服ってどういうセンス?郷に入れば郷に従えっていうでしょ」
 「ここは日本です」
 「中華街は租界?」
 「屁理屈はいいから足を隠しなさい。ご一緒の方はお友達?」
 一連のやりとりから推理するに和服の女性は朱里の実母、万里の継母か。和服の着こなしが凛と様になっている。腰高に巻いた帯に手を添え、あくまで品よく、かつ胡散臭そうな目つきで娘の連れを値踏みする。
 加齢の衰えを感じさせぬ秀麗な容貌でつまらなそうに人を観察する癖が息子を彷彿とさせる。
 円卓に手をつき、もう片方の腕を乳房の下に巻いたしどけないポーズで娘が口を開く。
 「いい機会だし紹介するわ。彼等は私の下僕」
 「彼ら……っておい!?」
 「腹ごしらえもすんだし3Pにいきましょうか。吊って叩いて縛ってあげる」
 「あなたって人は……どうしてそう下品なの?万里さんのお見合いの日よ、少しは自重していただかないと」
 「知らないわそんなの、たまたま私が食事してる横でお見合いしてたのよ。ジャマしないからお好きにどうぞ」
 反発し合う母娘の間で空気が凍りつく。
 かたやド派手なチャイナドレスが似合う小股の切れ上がったいい女、かたや隙のない和装の熟女。
 タイプは違えどともに迫力ある美貌の女が睨み合うさまは極妻対決さながらひりつく緊迫感に溢れ、通路を歩く給仕や客が物見高く垣根を築く。
 「ひとの服装にケチつけるまえに自分の服を見直したらどう、母さん。どこへ行くにも和服なんていまどき流行らないわ」
 「和服は正装です。あなたこそ、露出狂ですか?どうしてお食事を食べにいくのに肌を過剰に露出する必要があるんです」
 「食事ついでに男の目を愉しませるのが生きがいだから」
 「下品な格好。お父さんが知ったらお嘆きになります」
 「そうやってすぐ父さんを引き合いにだすのが母さんのずるいところよ、たまには自分の言葉で反論したらどうなの」
 「じゃあ言わせてもらいますけどね、三十路をすぎた女性が太股むき出しで歩いたところで痛々しいだけですよ。あなたがそんな恥知らずだから縁談の話が来ないんです、この先ずっと独身でいるおつもりですか」
 「いい、母さん」
 すっと卓上に手をのばし猪口をひったくるや、烏龍茶で喉を湿す。
 「私が好きな言葉は乱交、調教、陵辱。もし将来日本の法律が改正されて重婚可になったら奴隷兼愛人として男を囲ってやってもいいけど、病めるときも健やかなるときもたった一人に縛りつけられるなんて冗談じゃないわ。男のアレの形や長さがさまざまなようにセックスにも色んなやりかたがあるの、母さんみたいに死ぬまで一人の男しか知らないなんてせっかく女に生まれたのにもったいないじゃない」
 口論は次第にエスカレートしていく。まわりの連中は面白がってるだけで頼りにならない。
 張に至っては注意がそれたのをこれ幸いと、俺や朱里の分まで点心の残りを手掴みで頬張ってる。
 「お前な、母親に向かってその言い方は……」
 ぐいと腕を掴まれる。
 「!?っ、」
 後ろから肘を掴まれたと思いきや、次の瞬間にはもう人だかりを追い散らして廊下を歩き出す。
 人だかりの頭越しに浮きつ沈みつうかがうも、当事者および周囲の連中全員が因縁の母娘対決に注意を奪われ、廊下を連行されていく俺に気付かない。咄嗟に振り払おうかと思ったが、華奢な細腕のくせに秘めた力は強く、抗いきれぬまま突き当たりの扉の中へとほうりこまれる。
 背中を突かれ、手近の個室へとよろめき入る。
 後ろ手にドアを閉じ、間違っても誰も入ってこないようロックする。
 「まだ答えを聞いてませんよ。どうしてあなたがここにいるんですか、いつのまに食事するほど張や姉さんと仲良くなったんですか」
 こみ上げ荒れ狂うものを必死に抑圧するような無感情な声音で聞かれ、反感を持つ。
 「……無理矢理つれてこられたんだよ」
 「隣でお見合いしてるって知ってたんですか」
 「………」
 「聞かされて知ってたんでしょ」
 「………」
 「……だんまりですか。らしくないな。いつから無口キャラになったんですか」
 千里の顔をまともに見れない。今顔を上げたら思ってることを全て読まれちまいそうだ。
 「俺だって来たくなかったよ、あいつらが無理矢理……」
 「人のせいにするんですか。往生際が悪い」
 「~っ、実際どうしようもねえだろ、車で拉致られたんだぜ?」
 「本気でいやなら飛び降りればよかったのに」
 「高速で?殺す気か」
 「携帯なりなんなりで助けを呼べばよかった」
 「んな恥さらしなまねできるか」
 「プライドが高い」
 「どうも」
 距離が近い。心臓の音がうるさい。千里がひっそりとため息をつく。
 「……驚いた。姉さんと知り合いだなんて知らなかったな」 
 「こないだ街歩いてる時に声かけられたんだ。お前の姉貴だって知ってぶったまげた」
 「エキセントリックな人でしょ」
 苦笑いする。
 ふいに真顔になり、少しばつが悪そうにだまりこむ。
 どうしてと、声を伴わず唇が動く。俺がここにいる理由を問うたようにも、独白じみた後悔の台詞にも聞こえた。
 頼りなくしょげた姿を前に、声をかけてやらなきゃいけない義務感に駆られ口を開く。
 「……千里、」


 「鬱陶しい」


 毛根に激痛が走る。 
 「!?痛っ、」
 俺の前髪をひっ掴み、腕ごと薙ぎ払って背後の壁にぶつける。
 鈍い轟音と振動が壁を伝い、背中に衝撃が走る。
 「ストーカーですかあなたは。僕の行く先行く先付いて回ってなにをしたいんだ」
 元後輩の豹変にたじろぐ。
 温厚な後輩から暴力の行使も厭わぬ男へと一変、合気道で鍛えた腕力で前髪を掴んで痛みを与えつつ冷めた顔を近づける。
 「ホテルで言った事忘れたんですか、あなたとぼくはもう関係ない、清算したんだ。今の僕は千里有里の秘書、千里万里。あなたの後輩でもなんでもない、もうあなたが知ってる僕じゃないってまだわからないんですか。いまだに先輩づらしてチサトチサト呼び捨てるしつこさにはうんざりだ」
 「言いがかりだ……」
 前髪を引っ張る手に悪意と力がこもり、焼けつくような痛みに呻く。
 「勘違いしないでください。遊びのつもりの相手にずるずるつきまとわれるの迷惑なんです」
 落ち着き払って放つ言葉ひとつひとつが、鈍い衝撃を伴い心をうちのめす。
 「兄さんが言ったでしょう、あなたとの事は遊びだったって。そうです、ゲームだったんですよ最初から。本気になるはずじゃないか。久住さん、あなたは口が悪くて無愛想でイヤな先輩だった。しじゅうイライラして怒りっぽくてたびたび僕にやつあたりした、そんな狭量な人に惚れるわけないって常識で考えればわかるでしょ。わかんないんですか?馬鹿ですね、ホント」
 「―っ、放せ……」
 「弱ったな……こんな粘着質な人だって知ってれば手をださなかった、えもの選びには慎重になったのに。どうしてしつこく追いかけてくるんですか?後ろで酔うセックスにはまっちゃったとか?」
 「馬鹿言え、気持ち悪い」
 「気持ち悪い?僕に突っ込まれて前からだらだら汁たらしてた人がどの口で?」
 前髪を掴み、もう片方の手をネクタイに絡めぐいと引っ張る。
 「またしてもらいたくて追いかけてきたんですか」
 「違う、朱里から話聞いてお前ともう一度ちゃんと話し合いたくて」
 「姉さんから?」
 まずい。
 失言を悔やんでそっぽをむくもネクタイの根元を締め上げ、強引に前を向かす。
 「何を聞かされたんですか?」
 「……色々」
 「バンリはかわいそうな子だから助けてあげてとでも吹き込まれましたか」
 言えるわけがない。
 本当のことをしゃべればこいつを傷つけ追い込んじまう、こいつがずっと兄貴にされてきたことを姉貴に聞かされたなんてそんな残酷なこと言えるか。
 必死に顔を背けて黙秘すればネクタイに圧力がかかり首が締まり行く。
 「放せ、苦しい……」
 「弱弱しく喘いだってダメですよ。こうしてほしかったんでしょ、ずっと」
 顔が接近、体が密着する。
 首がきつい。苦しい。
 壁際に追い詰められ身じろぐ俺に迫り、不躾に顔を見つめる。
 「その眼鏡、新しい彼女に買ってもらったんですか」
 体の芯が恐怖で冷える。
 しばらく忘れていた千里への恐怖、俺を無理矢理犯し脅迫し続けた張本人への本能的な警戒心が痛烈に甦る。
 顔色で合点したのだろう、唇の端を吊り上げ冷笑するやネクタイから一旦手をはずす。
 安堵も束の間、鋭く手が撓う。
 乾いた音が爆ぜ、頬に走った衝撃が一呼吸おいて熱と痛みへと変わり行く。 
 「似合いません」 
 唾棄するように言い捨て、鼻梁にずれた眼鏡を毟り取り、触れたそばから手が腐る汚物の如く床に捨てる。
 「なにすんだ、千代橋がせっかく―……!」
 「センス悪いですね。前の方がよかった」
 かちゃんと間抜けな音をたてタイルの上で跳ねた眼鏡を追う。
 朦朧と歪む視界の中、新しい眼鏡を貶しつつ忍び寄った影がしゅるりとネクタイを抜き、慣れた手つきで襟元を寛げていく。
 靴に当たった眼鏡をわざと遠くへ蹴っ飛ばし、眼鏡なんかなくても顔が分かる距離にまで迫り、俺のシャツのボタンをひとつずつはずしていく。
 自分勝手さに怒りに火がつく。
 「てめえ調子のんのも大概に、―!んっ」
 襟をふたつに割り開かれ晒された肌をひりつきが苛む。
 鎖骨のふくらみを噛まれ、首の根元にくちづけられ、下半身で蠢く手ががちゃつくベルトを器用にはずしズボンを脱がせる。
 熱い吐息に睫毛が湿る。
 火照りを帯びた手のひらで抗う意志を封じ、眼鏡を奪われたせいでろくに利かない視界に難渋する耳元で囁く。
 「あなたの望みどおりにしてあげますよ」 

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リーマン×リーマン | コメント(-) | 20010419225106 | 編集
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