日常と非日常のはざまの公園に、ぽつんと佇む影ひとつ。
電灯の黄ばんだ光に落ちぶれた背中を晒し、悄然とうなだれる男。
俯き加減の表情は手入れの形跡もなく伸び放題の前髪に隠れ窺い知れないが、力なく鎖を握る様から落胆の気配が漂う。
「ナナシさん」
声をかけると同時に顔を上げる。
「司!」
トレンチコートの裾を翻し、底がぱくつくボロ靴で地を蹴り弾んでやってくる。
ブランコから転げ落ちるなり、ようやく拾ってもらえた捨て犬のように駆けて来るナナシを逆光に表情を隠し、待つ。
ナナシが失速しやがてゆるやかに立ち止まる。
電灯が灯台のような光を投げかける孤島の公園にて、対峙する。
「………ひさしぶりだな。もう来ねえかとおもった」
「待ってたの、俺んこと」
「お前がこなきゃ煙草が喫えねえ」
「ケチくさ」
本気とも冗談ともつかぬ軽口の応酬。愚にもつかぬやりとりが、やけに懐かしい。
祈りを捧げる姿勢で頭をたれたナナシはやけに神聖で、侵しがたい静寂に満ちて、乞食に身を窶した聖者にも見えた。
しょんぼり鎖を握ってうなだれていた姿とはうってかわって、はにかむように目を細めて言う。
「もう一度きてくれるようにって、毎日祈ってた」
「愛想尽かされた理由わかった?」
ジーパンのポケットに手をやり煙草をとりだす。
百円ライターで火をつけ、吸う。
穂先にオレンジ色の光点が点り、退廃した紫煙が漂う。
ナナシが口元を引き結ぶ。
懊悩と逡巡の表情。前髪のすだれ越しに俺を見据え、口の中でぼそぼそと呟く。
「正直……俺、ばかで鈍感だから、なんであの時お前がキレたのかよくわかんなくって。でもさ、俺が原因だよな、きっと。司、俺さ……ずっと謝んなきゃって」
ゆっくりと深呼吸し、表情を改める。
一歩間合いを詰め、冗談言ってばっかの道化と同一人物とは思えぬ真剣な声音で続ける。
「だけど、これだけは言っとく。あんな事の為に金を渡したんじゃない」
「その『あんな事』で俺は稼いでるんだよって、この前言わなかったか」
ぐっと黙り込み、しかしそこで引き下がらず一歩前に出る。
「あれはお前の金だ、お前が働いて稼いだ金だ、大事にとっとくべきだ……こっぱずかしくて言えなかったけど……俺がお前に金を渡したのは同情なんかじゃなくて、なんていうか……バックん中で腐ってた札束がお前の役に立つんなら、俺の二年間もちょっとは報われるかなって」
ヤクザの事務所からかっぱらった三千万を懐に抱いてさすらった二年間の辛酸を反芻し、前髪に見え隠れする双眸に複雑な色を乗せる。
「俺が持ってたってどうしようもねえ金だ。汚いキレイで言ったらあの三千万のがよっぽど汚ねえ、人の怨嗟と血と涙を吸ったヤクザの金だ。俺はそれを泥棒した、色んな人間の手から手に渡って際限ない欲に塗れた汚い金だ」
「俺が稼いだ金だって似たようなもんさ。汗とかザーメンとか、人の体から出る色んなもので汚れきってる」
静かに口を開く。
年下のガキに諭されてもナナシは動じず、毅然と顎を上げる。
「自己満足って言ったろ?お前、ひとりで突っ走りすぎ。ちょっと前まで膝枕でいい雰囲気だったのに、キレて騒いでついてけねえよ。あげく勝手に勘ぐって、下心あるって決めつけてさ……たまんねえよ」
「キスまでしたくせに?」
「―っ、それとは別」
ナナシが頬を染める。素直な反応に失笑。
「俺の口ん中でイッたくせに」
「……不可抗力だよ。上手すぎお前」
「あんがと。ナナシさんは持久力ねーな」
「確かに気持ちよかったけど、反則」
笑う俺につられ、ナナシもまた照れ隠しに笑う。温度差のある笑みを交わし合う。
「………どーせ使い道ねえ金だ、くれてやるさ。そうしたかったんだ、俺が」
「自己満足か」
「……馬鹿にするつもりじゃなかった」
俺の為に何かしたい一念で砂だらけになってバッグを掘り出して、札束を掴んだ。
そうだ、落ち着いて考えりゃすぐわかるじゃないか。
ナナシはあの時俺のために何かしたくて、その一心で今の自分にできる範囲で最大の奉仕をしたのだ。
下心なんか、あるはずない。
ナナシは純粋に俺を心配して、ぼろぼろの俺に走りよって、薬を買えと札束を握らせたのだ。
「………悪かった………傷つけて」
ナナシは俺のためになにかしたい一心で二年間片時もはなさずにいた金をくれた、謝る必要なんかこれっぽっちもない、謝るべきは俺だ、勝手に誤解して思い込んで偽善者と決めつけ拒絶した。
わかってるよそんなこた。
本当はあの時だってわかっていた、札束掴んで走り寄ってくるナナシを見た途端頭が真っ白になった、心臓がどくんどくん高鳴った、金を受け取ったら俺とナナシの間に生まれ始めていた何かが壊れちまう、そうとわかってながら受け取った、突き返せなかった、金に目が眩んだ。
思い出す俺だけ一品多かったおかずエビフライ、いつ頃か金を出す人間を憎む習性が身についた、ナナシが俺に金を渡した瞬間に友達でいられなくなった、変な理屈だ、理不尽だ、わかってる
「役に立ちたかった」
電灯の光を浴びて、地面に黒々と懺悔の影引くナナシ。
「…………」
俺は、汚れてる。
体も心も汚れきってる。
他でもない俺自身が、優しさを受けるに値しない人間だと諦観しきってる。
ナナシの優しさをとことん疑った、偽善と決めつけた、下心を勘ぐった。
俺はそういう人間だ。
自分がそうだから他人もそうだろうという仮定で行動する、俺自身が他人の善意を額面どおり受け取れないひねくれた人間だからナナシもそうだろうという前提で行動した。
公園に来なくなって数日経つ。
少し会わない間に心なしかやつれたナナシが、訥々と切実な調子で言う。
「余計な事だったか?おせっかいだったか?俺なんかが手をさしのべるなんて、おこがましいか」
葛藤に顔が歪む。体の脇で握り締めたこぶしが震える。
公園のど真ん中でナナシと対峙する。
俺に思いの丈をぶつけるナナシを冷ややかに突き放し、穂先から立ち上る紫煙を目で追う。
「同情?」
「わかんねえよ、同情だとか偽善だとか頭でぐだぐだ考える前に体が動いたんだ。お前の力になりたかった、どん底で出会った友達だ、大事な奴だ、まともに人と話すの二年ぶりなんだ。二年間あちこち逃げまくって誰にも心を開けなくてホームレス仲間にも身元偽って嘘吐いて、身ばれすんのがイヤでだんまり通して、おかげで喋り方忘れそうになって、自分の声どんなだか忘れかけてた時にお前と会った」
激情に突き動かされ叫ぶ、失くしたもの捨てたもの手元に取り戻せないものすべてを俺の中に投影してナナシが叫ぶ、擦り切れた人間性を回復するように全身全霊渾身で叫ぶ。
「仲間だって……口にしたらくせえけど、そう思った。あの夜、ぽつんとブランコに腰掛けたお前見て」
「同類の匂いがした?」
「お前は知らないだろうけど司、これまで何人か公園に来た人間に話しかけたんだ。煙草くんないかって、いっつも芸なしの同じ台詞で。お前のほかは全員、口をきいてもくんなかった。俺の事見なかったふりで、イヤな匂い嗅いだみたいな顔してスッといなくなっちまった。お前はちゃんと俺を見た、いやだって言った、嬉しかった、すっげえ嬉しかったんだ。俺を無視しなかった、面倒くさそうに、だけどちゃんと相手してくれた。俺がここにいるって認めてくれるヤツがいてどんだけ救われたか」
ナナシは必死に言う、切羽詰った剣幕で俺に詰め寄る。
二年間ホームレスに混じって暮らした男は身も心もぼろぼろに擦り切れ汚れ切って臭くて下着は小便のしみができて、真っ当な人間なら近寄るのすら耐え難い。
まともに人と話すのは二年ぶりだと告白するナナシの孤独はどれほど深いのだろう。返事を貰えた驚き、喜び、初対面で這いつくばって吸殻を拾い上げる所作が瞼の裏に浮かぶ。
「すっげえ嬉しかった」
いまさらそんなこと言ったって、遅いんだよ。
感謝をこめて俺を仰ぐナナシに歩み寄り、無表情に誘う。
「―それがホントならさ、俺を連れて逃げてよ」
ナナシの顔に当惑が広がる。俺の唐突な発言に戸惑い、目を剥く。
ナナシに無造作に歩み寄り、電灯の光を浴びて片手を広げ、続けざまに畳み掛ける。
「こないだ言ったじゃん、一緒に逃げようって。なあナナシさん、あん時俺連れてどこへ逃げるつもりだったの。今でも気持ち変わらない?」
俺の平板な声音とただならぬ雰囲気に一瞬気圧されるも、きっぱり首肯する。
長く伸びた前髪越しに電灯の光を照り返す率直な瞳、決意はまだ変わってないと雄弁に語る立ち姿。
「行き先は?」
「どこでもいい。マカオでもタイでもロシアでも中国でも世界中どこでも、お前が行きたいところへいこう」
「施設育ちの男娼くずれに夢と自由を恵んでくれンの、ナナシごときが」
「……怒らせるのを承知で言うけど、司。俺に買われてくんねえ?」
「慈善?」
「投資」
「ものは言いようだ」
冗談だろと、笑い飛ばせばよかったのか。そうできたらよかったのに。
冗談のつもりで口にしたんだろう提案に俺が過剰反応したから後に引けなくなった、冗談のつもりの提案さえ真に受けて激昂するほど俺が追い詰められてると知ってナナシは腹をくくった。
嘘から出たまこと。
返事をくれた、無視しなかった。
たったそれだけの理由で、信じるに値しない俺に、自分の夢と三千万を賭ける。
「また気に障るかもしんねえけど、俺……やっぱ、お前をここにおいてくの、いやだ。体も心もぼろぼろになってくの黙って見てらんねえよ、だってお前笑ったじゃん、俺のくだらない嘘真に受けて、ばかばかしい冗談で腹抱えて……こんなつまんねえ、どうしようもねえ俺の話で笑ってくれたの、お前が初めてなんだ」
どこまでも自分を卑下し依存する。
友情と愛情の境界線もさだかじゃない執着に突き動かされ、しどろもどろ弁解する。
「変なヤツだって思うだろ?ひ、引くだろ。わかってんだよ、んなの……一人で逃げンのが怖いだけだろとか、そう言われちゃ返す言葉ねえけど、それはそうだけど、それだけじゃなくて、お前じゃなかったらきっと三千万のこと言い出せなくて……お前が頼ってくれたから」
ナナシの膝枕で泣いたのは、ついこないだのことで。
痩せて骨ばった膝の寝心地悪さを、まだ覚えてる。
「俺は、俺を必要としてくれるヤツと一緒にいたい……」
含羞に負け、消え入りそうな声音で呟く。
出会いは偶然だった。
夜の公園でなれなれしく話しかけてきたホームレスをたまたま相手してやった、それだけ。無視したってよかったんだ、本当は。
口をきかずブランコを立って、アパートに帰ったってよかったのに。
どうして振り向いちまったんだろうと、自分の馬鹿さ加減を呪う。
四角く区切られた暗い夜空に一筋紫煙が立ち昇っていく。
空に吸い込まれて、やがて見えなくなる。
「………そっか。ナナシさん、ぞっこん俺に惚れてんだね。フェラ、そんなによかった?」
口から煙草を放し、寂寞と乾いた声で笑う。
「気付かなかった?囲まれてんの」
俺が手配した。俺がチクった。
何も知らないナナシをひっかけた。
「とんだやつにひっかかったな、金庫番。司はな、金のためなら平気で男と寝てケツにぶっといバイブくわえて吊られてよがり狂うくせに、事が終わるとけろっとして次のカモをひっかけるしたたかなガキなんだよ」
公衆トイレの裏に隠れていた各務が、舎弟ふたりを率いてこっちにやってくる。
あたりに漂う闇に殺気走った重圧が加わる。
地面を蹴りつけやってきた各務が、俺の隣に立つ。
口を開き、また閉じ、極限まで剥いた目に驚愕を映す。
「各務……さん」
「まださん付けで呼んでくれんのか」
俺の肩を抱いて引き寄せ、ほお擦りし、棒立ちのナナシに見せつける。
「まだわからねえか?はめられたんだよ。こいつは俺の愛人、おもちゃ。兼スパイ」
「……嘘だろう……」
「お前をさがしてあっちこっち、大変だったぜ。まさかホームレスに紛れてるとはな……気付かねえわけだ、盲点だった。手持ちの三千万があるなら高飛びするか、そうじゃなくてもかなりの距離移動すんだろうって網張ったんだが、案外近場をぐるぐるしてたんだな」
「………」
「二年ぶりか?やつれたじゃねえか。胃の調子はどうだ。ホームレスなんざしてるとろくろく医者にもかかれねえ、よくなるはずねえな、そりゃ。で……金は?」
「…………」
各務が放つ暴力慣れした威圧に怖じて、すり足で後退を余儀なくされるナナシを、間合いを詰めた舎弟が乱暴に突き飛ばす。
「返せ」
「………」
「懲りずにだんまりか?」
ナナシの頬を脂汗が伝う。突破口をさがし前後左右を眺め見るも包囲網に隙はなく、中央に追い詰められ血の気が失せるほど唇を噛む。
絶体絶命窮地に立たされたナナシから腕の中の俺へと視線を切り替え、各務がご機嫌に砕顔する。
「ともあれ、一番乗りできたのはお前のおかげだ。利口だよ司は、どっかのだれかと違って世の中上手くタチ回るコツを知ってらあ。どっかのバカがちらつかせる三千万と絶対手に入る目先の三百万なら後者を選ぶ、さすが俺の見込んだ男だ、そうこなくっちゃ!あいつと逃げたって破滅は目に見えてら、俺をとったお前は賢い。しかし笑える話だよなあ公園でたまたま出会ったガキと駆け落ちなんざ夢見て挙句ふられて、なんだよそんなに二年ぽっちの逃亡生活がこたえたのかよ、胃袋にどでかい穴開いちまうほど罪悪感に苦しんだってか、ははっ、俺らはなあお前がクソ往生際悪く逃げ回った二年間上にどやされながら必死こいて行方を追っかけたんだよ、てめえがぶんどった三千万がどんな意味持つかわかってんのか!?」
上機嫌から一転憤激、怒りに充血した顔に目を剥いて唾をとばす。
ナナシは目を閉じて浅く跳ね回る呼吸を整えていたが、汗でぬめる手のひらを拭いて落ち着きを取り戻す。
「……ヤクザが一箇所に大金おいとくはずねえ、何箇所かに小分けするのが常識だ。それがあの日、あのときに限って、金庫ン中に一緒にしまってあった」
各務の顔から激情が失せ、眇めた双眸が狷介な眼光を放つ。
「……右翼か……警察か……もっと上の政治家……」
「だまれ」
「献金……賄賂……ちょうど選挙の時期だったしな。表に出たら困る金だろう。必死にさがしまわるわけだ」
「だまれってんだよ」
「ケツに火がついたんだろ?バカにしてた金庫番にまんまと三千万もってかれた、幹部の面目丸潰れだよな、しっぽ掴んで目に物見せねえと。盗んだ俺ももちろんやばいが、まんまと持ってかれたあんたらの方こそ身内の笑いもんだ」
ナナシがざらついた哄笑を上げる、夜の公園に殷々と響き渡る場違いな笑い声、絶体絶命死と隣り合わせの窮地に立たされ理性が崩壊したか天を仰いでだらしなく口かっぴろげ爆笑する、笑いすぎて涙を流しひくひく痙攣しそれでも止まらず千鳥足で電灯に激突、今度は電灯によりかかって肩を浮き沈みさせ過呼吸の発作でも起こしたような甲高く間延びした声で笑い続ける。
「二年間なにやってたんだあんたら、遊んでただけか、俺から一銭も取り戻せねーで」
「うるせえ」
「図体ばっかでかくてオツムからっぽか、居場所突き止めるのに何年かかってんだ、ははっ、なんだよおいばかばかしい、お前ら十人束になっても司一人の狡賢さにかなわねえのかよ!?」
え?
「お前らよか司のよっぽど優秀だ、ずっとずっと頭がいい、ははっ全然気付かなかったぜはめられてたなんて、すげえや見事な芝居、ガキだと思って油断したぜ、でもそれ差し引いたってすげえよお前、最高、俺の方が嘘吐かれてたんだ……そっか、はは」
電灯の支柱に後頭部と背中を預けずりおちつつ、どこか満足げに目を閉じて息を吐く。
「………うん。お互いさまだな」
どうしてこの状況で、そんな事が言える。
殺されるかもしれないのに
裏切られたのに。
「嘘の見返りに嘘をもらったから、おあいこだな」
どうしてそんな、優しい顔で笑える?
「うるせえ黙れ、誰のせいで笑いもんになったと思ってやがる、お前が変な気おこさず大人しく飼い殺されてりゃ今頃俺は!!」
ポールに背を預けへたりこんだナナシをヤクザたちが各務の指示に従い取り囲む、各務が怒号を飛ばす、凄絶な私刑の火蓋が切って落とされる、殴る蹴るの過酷で過激な暴行、暴力沙汰に慣れたヤクザたちがナナシに向かい足を振り上げ振り下ろし鉄拳をたたきこむ、ナナシの痩身が右に左に揺らいで吹っ飛ん地面に激突仰け反って吐血、中の一人がナナシの顔を跨いで前髪を両手で掴み持ち上げ乱暴に揺する、髪が束になって毟れ頭皮に血が滲む、暴力の嵐に翻弄され右へ左へ独楽のように錐揉みもんどりうつナナシをヤクザたちが蹴り上げ笑いのめす……
予想していた光景だ、覚悟してここに来た、どうして今さら心が揺れる、心臓が責めるように鼓動を打つ?
たった三百万ぽっちと引き換えにナナシを売った居場所をちくった各務にほめられたよく出来たお前はいい犬だお利口さんだと、嬉しい?嬉しいわけない、屈辱だった、自分に反吐が出た、だけど仕方ない割り切って割り切るしかない、一緒に逃げようと誘うナナシのはにかむような笑みがフラッシュバックで苛む、俺はこんな生き方しかできない、俺に金をくれる相手は決まってこっぴどく俺を痛めつける、要求される見返りはいつだってばか高い、そんなものは払えやしない
「がっ!!」
苦痛に濁った悲鳴が、物思いに沈んだ俺を現実に引き戻す。
知らず、無意識に、足が一歩前に出る。
ナナシは酷い顔酷い有様、瞼は倍ほども腫れあがって目を塞いで唇の端は切れてどす黒い血が付着する。
さんざん殴られ蹴られた顔は腫瘍に目鼻をつけたような醜悪な相へ成り果て、髪を毟られた頭皮は斑に血に染まる。舎弟の一人がナナシの前髪を掴み吊り上げ無防備なみぞおちに爪先を抉りこむ、ナナシがえびぞりに跳ねる、口から泡を吹いて痙攣する。
「金はどこだ」
「知る……知らねえ、げあっ!」
喉が潰れたような呻きと共に血塊を嘔吐。各務がナナシの腹に重点的に攻撃を加える、イタリア製の本革高級品だと自慢していた靴でナナシの腹を抉る、体重かけて踏みにじる、貧弱に薄い胸板を踏めば乾いた音が鳴る。肋骨が折れた。
二年にわたる逃亡生活で肉体が衰えきったナナシに逆らう術などあろうはずない。
「もって、るんだろ、お前が。吐けよ、どこにやった。こいつに渡したんだろ、小遣いめぐんでやったんだろ司に、なあそうだろ司お前こいつのしゃぶったんだろ、どうだった二年ものの垢の味は!?」
爛々と狂気に目をぎらつかせ各務が恫喝するもナナシは頑として口を割らない、靴裏にゆっくり全体重かけて一本ずつ肋骨へし折る拷問に脂汗をかいて耐え抜く、貧相な胸が陥没する、血のこびりついた顔が胸を圧迫される苦痛に歪むのをサディストの本領発揮とばかり嬉々としてねめつける。
「吐けよ言えよネタは割れてんだよ金庫番、さっき言ったじゃねえかまだたっぷり残ってるって、この公園のどっか隠してんのか、小心者のお前のこった肌身はなさず抱いて寝てんだろどうせ、お前の財産っていったら三千万だけだもんな、肋骨全部へし折れる前に言っちまえよ」
「がっ………」
「しぶといですね、ぜんぜん口割りません」
「半殺しじゃ足りないんすかね」
各務を筆頭に群れ集まった舎弟たちが、胸板を踏まれ息も絶え絶えのナナシを覗き込み、言いたい放題憶測する。
本来凪いでるはずの夜の公園の空気が暴力の余熱をはらんでひりつき、膨れ上がった舌が喉にはりついて言葉を奪う。
満身創痍瀕死の状態で秘密を守り続けるナナシに痺れを切らし、各務が振り向く。
「おい司あ、お前知ってんじゃねえか、金のありか」
知ってるといえば、ナナシは助かるのか。
口を開き、凍りつく。
視殺せんばかりの眼光に晒され金縛りに遭う、喉が渇く、心臓が狂ったように鼓動を打つ。
ナナシと目が合う、視線が絡む、舎弟どもに嬲り者にされ仰向けに大の字に寝転がるナナシ、自分の意志ではもう指一本動かせず糸目を開けてるだけでやっとで視力も殆ど喪失してる、ナナシの目に映る俺はきっとぼやけてだれだかわからない、今さら?今さら後悔したって遅いだろう、裏切り者が土下座で謝ったってどん詰まりの運命は変わらない。
俺はナナシを売った、俺は各務の飼い犬だ、ナナシは一緒に逃げようと手をさしのべたがそもそもの初めから破綻した計画に乗るのは破滅を意味する。
俺はナナシが好きだった。
「………知りません」
だれかを好きということは、そのだれかを裏切らないという確約には必ずしもなり得ない。
好きも嫌いも生きていく上でのおまけだろう?
やっとの思いで唇からしぼりだした声は、自分のものかと疑うほどに、酷くかすれていた。
「嘘ついてんじゃねえだろうな。お前、こいつとヤッたんだろ?手に手をとって駆け落ちしようって浮かれてたんだろ」
「聞いてません、金のありかなんて。駆け落ちなんて寝言、真に受けるわけない」
砂場に視線が行かないよう足元に縫いつけ自制する、各務が俺の顔をねちっこくのぞきこむ、ひりつく視線を浴びて首筋の産毛が逆立つ。
おもむろに手がのび、胸ぐらを掴む。首が締まる衝撃に足がぐらつく。
腕一本の膂力で俺を引き寄せ、吐息を絡めるようにして囁く。
「こいつと俺どっちが好きだ?」
「各務さんです」
「嘘ふきやがったら一緒に埋めんぞ。お前の代わりなんていくらでも」
「な、い……」
各務の脅迫を遮り、地を這いずるようにして湧き上がる、かすかな声。
衣擦れと喘鳴に紛れ今にもかき消えそうなその声をたどれば、ナナシが胸郭を上下させつつ、さばさばした調子で言い放つ。
「……関係ねえ……なんも知んね……聞いたってむだだよ……あの金は、血反吐吐いて守り抜いた三千万は、一緒に地獄にもってく………」
遺言のように途切れ途切れの調子の声と、不釣合いに清清しい笑顔とが、得体の知れぬ不安を煽る。
「事務所に運びますか」
「……どのみちもたねえよ。やりすぎちまった」
各務が舌を打つ。片腕を振って舎弟をさがらせるや、背広の懐に手を突っ込み、なにかを取り出す。
「!」
息を呑む。
各務がうっそりと倦怠感漂う動作で懐から抜き出したのは、一丁の拳銃。おそらく足がつかない外国製だろう。
「……二年もろくに治療せずほっといたんじゃ、胃、ぼろぼろだろ」
「…………」
「どす黒い血反吐が証拠だよ。ほっといたってじきに死ぬ。俺たちに殺されるか、公園で行き倒れるかの違いだけだ。なあ金庫番、お前だってそうだろ、自分の死期を悟って最後の余力をふりしぼって罪滅ぼしに戻ってきたんだろ?じらすなよ、忙しい中縫って回収にきてやったのに」
ナナシに銃口をむけ、恐怖を煽って自白を引き出すような計算され尽くした緩慢さで引き金を絞る。
背中を電灯の支柱に立てかけ、無気力に手足を投げ出したナナシが、生命力の枯渇した虚ろな眼窩で夜の闇よりなお黒い銃口の奥を見返す。
「金はどこだ」
恫喝。ナナシは無反応。ずたずたに引き裂かれたトレンチコートは不吉なカラスの羽の如く舞い広がって、不気味さが引き立つ。
全てを諦めきったように体を弛緩させ、軽く目を閉じたナナシの顔に、初対面でニヒルを気取った笑顔が重なる。
部屋に帰るのいやさに公園で無為に過ごした日々はナナシとの出会いで変わった、退屈な夜が新鮮な色合いを帯びた、念入りにシャワーを浴びてもまだとれぬザーメンのべとつきを風に当たって乾かすあいだ軽口叩いた、身の上話をした、俺の身の上話をナナシは黙って聞いてくれた、受け入れてくれた……
「あ………」
ナナシには、ただのナナシでいてほしかったなんて。
最初に俺が話したからこそ、せめて対等な見返りをと、秘密を打ち明けてくれたのに。
勝手にキレて怒って振り払って、ばかで鈍感でわけわかんないのはどっちだ。
「やめろ」
売ったくせに、裏切ったくせに、ナナシが殺されるのはいやだと心が叫ぶ。
「ホームレス狩りに見せかけるなら銃は使わねえほうがいい。ここ、意外と音響くし、銃声聞かれたらまずいし」
できるだけ軽薄な芝居を打つ。ナナシの身の安全ではなく、あくまで自分の保身にこだわっているかの如くふるまう。
死んでほしくないと土壇場で寝返りを打つ、どうしちまったんだ俺は、さっきから言動矛盾しまくりだ、支離滅裂でいっそ笑えてくる、ナナシが額のど真ん中撃ち抜かれてゆっくり後ろに倒れこんで白濁した脳漿ぶちまける映像が鮮明にフラッシュバック、ほんの数秒後に訪れるかもしれない光景を想像しただけで足が震えてとまらない。
「……人、くると困るし。警察いるかもしんないし、事務所に連れて帰ってゆっくり……」
「だれが来ンだよ、こんな寂れた公園に。よぅく見回してみろ、まわりのビルだって全部電気落ちてんだろ。目撃者がどこにいるって?」
猥雑な都会の死角、誰からも存在を忘れ去られたこぢんまりした公園。麻薬取り引きにしろ人殺しにしろ、犯罪を行うにもってこいの場所。
「びびったのか、友達が目の前で殺されそうになって。てめえが売ったのに今さら仏心だすなよ」
各務が喉震わせ笑えば、周囲に屯う舎弟どもも各務の機嫌を損ねたくない打算が働いて下卑た哄笑を上げる。
公園狭しと太い哄笑が渦を巻く、音に変換された悪意の波動がびりびり鼓膜を叩いて痺れさせる。
「銃なんか使ったら面倒くさい事になりますよ、絶対。それにまだ金の場所聞き出してねえし、今殺さなくたっていいじゃないすか」
「やけに庇うじゃねえか。お前に言われなくたってその辺は手を打ってあるさ、口出しすんな。所轄が上手く処理してくれる予定だ」
「警察が……?」
脅しをかね銃をぶらつかせつつ、細い目を陰湿な光にぬめらせ、興奮に乾いた唇をしつこく舐める。
「ナナシのホームレスが公園で変死した。だから?社会の片隅に寄生するダニが一匹死んだだけだろ。税金で食わせてもらってる警察が税金払わず人のお情けで生きてるクズの殺しを真面目に捜査するか?」
前もって、警察と話をつけてるのか。
ナナシの命は、とてつもなく安い。
ナナシは腫れ上がった悲惨な顔で各務を仰ぐ、腫れ塞がった目に浮かぶ感情は命乞いか諦観か闇に紛れて判別しがたい。
「ころはないでくれ……」
「命乞いか?」
折れた歯を吐き、肘で地面を這いずって、各務の足に縋りつく。
血のこびりついた前髪が鼻梁にそって流れ、大粒の涙をためて潤みを帯びた目が、電灯の光を照り返す。
「日本語で命乞いしろ」
「ころひゃないで、しにはふない……ゆるしへくらはい……あやまる、金の事、つい出来心で……魔が差して……あの日俺、事務所に一人だったから、手が届く場所に金庫があったから……番号知ってたし……他のヤツら、席外してたし、チャンスらって……人生変える……やり直す……さいごの」
「最後のチャンスを最期に生かせねえんじゃどうしようもねえぜ、ははっ!」
猛然と顎を蹴り上げる、鼻血の弧を描いて仰け反ったはずみに砂場の方へ転がるナナシ、トレンチコートの血が接着剤の役目を果たし大量の砂が吸い付く。各務が笑う、喉ひくつかせさもおかしそうに笑う、こいつは人を嬲る時本当に心底楽しそうに哄笑する、そいつが惨めなら惨めなほど正視に堪えぬ醜態を晒せば晒すほどサディスティックな傾向に拍車がかかる、今も暴力に陶酔し顔全体を凶悪に引き攣らせ苛烈な拳と蹴りを浴びせ瀕死の獲物を嬲る、舎弟はだれも止めようとしない、各務の圧倒的に一方的な理不尽で無慈悲な暴力に恐れをなしてだんまり、このままじゃナナシが殺されちまう、死んじまう……
『遅せえよ司、待ってたぜ!もー腹ぺこ、早くくれ、弁当!賞味期限?んなの関係ねえって!』
関係ねえわけあるかよ、胃を壊してたくせに。
そのくせ、俺が買ってきた弁当を、本当に嬉しそうにがっついたっけ。
がっつきすぎて、たびたび喉詰まらせて、俺からひったくったミネラルウォーターを一気に呷っちゃ息吹き返しふたりで笑い合って
『俺、くさくねえかな。毎日ちゃんと洗ってんだけどさ、そこの便所で』
『夏場はさ、便所じゃなくて水のみ場で素っ裸になってシャワー浴びるんだ。蛇口を逆さにしてさ、頭っから……生き返るぜー』
俺は知ってる。
ブランコに腰掛けて弁当を食う時は足元にすりよってきた野良猫にからあげをこっそりひとつ分けてやる、俺がくれてやった煙草を一口ずつ感謝するように吸う、ナナシが羽織るトレンチコートは前に知り合ったホームレスの爺さんから形見分けに譲り受けたもので
「司」
犬のように名前を呼ばれる。
各務が俺を振り返り、無造作に銃を放り投げる。電灯の光を浴びて金属質に輝く銃を思わず受け取ってしまってから、じっと見返す。
「けりをつけろ」
「……………え?」
ナナシをさんざん殴りつけ裂けた手の甲を舐め、電灯が照らす顔に闇と溶け合う冷酷な陰影をつけ、各務が言い放つ。
「そいつを殺したら、現金で百万やるよ」