ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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ナナシノハナシ 3

 「俺、ヤクザの金庫番だったの」
 電灯が寂しく照らす公園の片隅、ブランコに腰掛けたナナシが過去を告白する。
 「二年前……まだたった二年しかたってないのか。不思議だなあ、十年くらいたった気がすんのに」
 ナナシがくつくつ笑う。
 深夜の公園を静寂が包む。
 空は書割のように低く、箱庭のように四角く区切られている。
 コンクリート丘の横に電灯が建ち、黄みがかった光がおぼろに夜を染め抜く。
 いつしかナナシとのあいだにぼんやりした絆めいたものができあがっていた。
 どっかの詩人は万有引力とは引き合う孤独の力だと言った。
 俺もナナシもひとりぼっちで心のどこかでお互い話を聞いてくれる人をさがし求めていた、磁石のように孤独な波長が呼び合った。
 夜の公園には不思議な磁場が生まれる。
 現実と地続きの非日常がそこにある。
 「ほんの何年か前まで、俺、経理畑のサラリーマンだったのよ」
 「経理?」
 「見えねーだろ」
 「ゴミ清掃の作業員って言われたら信じたけど」
 「……そんなにスーツ似合わねえか」
 「うん」
 ナナシががっくりうなだれる。話の先を促す。
 「で、自称平凡なサラリーマンがどうしてホームレスに?」
 「よくある話、博打にはまったんだ。トモダチに初めて連れてかれた競馬で大穴あてて、ずっぽり。それまで趣味らしい趣味もなかったんだ。酒もてんでダメで、飲み会とか行けなくて、地味でネクラでつまんないやつだなあって職場で陰口叩かれてた。昔っからそうなんだよ、要領悪いんだ。どこ行ってもいつのまにか孤立しちまう。俺の歩く速度とまわりが歩く速度がちがうの。俺さ、よくキャッチセールスにひっかかんの。ほかにもティシュ配りとか、街頭アンケートとか、宗教の勧誘とか……一度なんか占い師見習いのおねーさんにただで手相見てあげるってしつこくされて断りきれず変な壷買わされそうになったし……ローン払いで」
 「ははっ」
 「笑い事じゃねえっつの。とにかくさ、とろかったんだよ昔から。俺がのろくさ歩いてる間にまわりは凄いスピードで流れてって、気付いたらぽつんと置いてかれてる。まわりの連中はベルトコンベアーでらくらく運ばれてンのに、俺だけ必死こいて走ってるみたいな理不尽を感じた。そんな時、競馬に出会った。面白かった。馬が一斉にスタート切ってまっしぐらにゴールめざす姿見て、久しぶりに体が熱くなった。どの馬もみんな置いてかれまいって懸命に走る姿が自分と重なって、声だして応援した」
 自嘲的に口角を吊り上げる。
 「大穴一点賭けって言えばかっこいいけどさ、単に自分と似た馬応援してただけ。一番ドンくさい、遅い、ああ、こいつ絶対だめだろうって馬に賭けるんだ。普通勝てないだろ?でもな、そいつがごくたまにすっげー走りを見せる。コース終盤でスパートかけて他をぬく、引き離す、一位に躍り出る。痛快だった。やった、見返してやったぞーって。俺の事をばかにしてる連中、いばった上司、イヤな同僚、無視する後輩、そういうヤツらの鼻を明かしてやったって」
 「馬に自己投影してたわけ?」
 「そう……そうだな、言っちまえば」
 「ばっかみてえ」
 真面目に地味に生きてきた人間ほど博打にはまると怖いという。
 限度を知らず、たやすく自制を失う。ナナシもまたその典型だった。
 酸化した鎖を握り、ブランコを軽く揺らし、正面の暗闇に虚ろな視線を放って続ける。
 「会社を早引けして競馬場に通い詰めてんのがばれて上にきつく注意された。職場じゃますます孤立した。もうだれも話しかけてこなくなった、毎日毎日無視された。ストレス解消に給料の殆どを競馬に注ぎこんで、でも足りなくて……サラ金に手を出した。そっからは典型的な転落ルート。借金が嵩んで、サラ金に手を出したのと競馬と手が切れてないのがわかって、あっさりクビ。次の就職口さがしもせず、競馬場とパチンコ屋往復するうちにどんどん借金かさんで、利息が膨大に膨れ上がって……」
 「目先の借金返すためにもっと悪質で悪徳なサラ金から借りる。あり地獄ルート」
 「とうとうまともなとこはどこも貸してくれなくなった。最後に泣きついたのが、あそこ」
 ナナシが挙げた会社は非常識な暴利と過酷な取り立てで過去何人も自殺者をだした悪名高い街金で、ヤクザの後ろ盾が噂されている。
 「半殺しにされたよ」
 笑いながらあっさり言う。
 「内臓抜かれるか東京湾に沈められるかってびくついたけど、半殺しですんだんだから、ついてるほうだよな。だけどな、それも罠だったんだ。もともと経理畑で数字が強い俺に目をつけて、借金ちゃらにしたいなら事務所に来いって系列のヤクザにスカウトされた。俺は口が堅い、命を担保に入れてるから逆らえない、借金の弱み握られてるから言う事聞くっきゃない。それからずっとヤクザの事務所の金庫番、裏金の出納係。おっかないヤーさんに灰皿片付けてない履物そろえてないだの難癖つけられ日々小突かれつつ、しこしこ帳簿をつけていた。……つーかさ、そいつは舎弟の仕事だろ?俺の仕事じゃねえっつの。ついでにお茶汲み雑用までやらされてさあ……言うなりゃただ働きのドレイだよ」
 「だから逃げたのか」
 「………魔がさしたんだよ」 
 陳腐な返答。
 ナナシは煙草を口に運びつつ、遠い目をする。
 「いい加減うんざりだった。来る日も来る日もヤクザの恫喝と暴力に怯えながら後ろ暗い金を管理する仕事につかれきった。もともと小心者だからさ、胃がさきに音を上げた。従順なうちは生かしてもらえる、だけど利用価値がなくなったら、俺より役に立つヤツを拾ったら……どうなる?用済みは始末される。俺の命は安い。毎日毎日、神経をすり減らしてたよ。自業自得だけどな……はは。で、キレた」
 二年前のある夜、事務所に一人居残り帳簿をつけていたナナシは、吐血した。
 「神経性胃炎患ってたんだよ。ストレスが原因の」
 自分の両手と事務所の床に飛び散った赤い血を見た途端、ナナシは壊れた。
 「どのみちここにいたら殺される。体の内側からヤられるか、外からヤられるか、それだけの違いだ」
 ナナシの体と精神は限界を訴えていた。
 二年前、ナナシは事務所の金庫から現金三千万を奪って逃走した。
 前髪に隠れて目は見えねど、ナナシは紫煙まとわりつく口元だけで不敵に笑う。
 「どうせいつか殺されるなら、その前に逃げ出してやる」
 「逃亡資金か」
 「まあ、そんなとこ」
 「なんで帰ってきたんだ?」
 「………」
 「詫びいれて、また雇ってもらうつもりか。虫がよすぎ」
 「……逃げるの、疲れちまった」
 節くれだった手に煙草を預け、紫煙を吐く。横顔はひどく老け込んで見えた。
 「どこへ逃げてもやつらが追ってくる、見張られてる気がする、視線を感じる。いつドアをぶち破って殴りこんでくるかびくびくしてホテルにも泊まれねえ。実際何度もニアミスした、悪運頼みで間一髪逃げ切ってきた。金を詰めたバックを肌身離さず抱いて、この二年、ホームレスに混じって息をひそめて暮らしてきた。四六時中神経が張り詰めて、眠りも浅い。熟睡できた試しがねえ。ちょっとした物音でもすぐ目が覚める、誰かが忍び寄ってる気配がして悲鳴を上げる。本当、笑っちまうくらい神経細い小心者なんだよ、俺って。犯罪にむいてねーの。金庫破る前にわかりゃよかったんだけど、手遅れで……後の祭り。ホームレスに混じって暮らしたら暮らしたらで、隣のジジィがバック狙ってる気がして。実際盗まれかけた事あったし……そん時、俺さ、どうしたと思う?金入れたバッグ持って逃げたジジィを追っかけて、引きずり倒して」
 「……いいよ、もう」
 「じいさんだってバックの中身知らなかった、三千万が入ってるなんて夢にも思わなかった。ただ、俺が大事にしてたから、寝るときもクソするときも肌身はなさず持ってたから、ひょっとしたら貴重品が入ってるんじゃないかって勘ぐって、そんで……すっかり油断してた。そのじいさん、気さくなヤツでさ。流れ者の俺にお近づきのしるしだって発泡酒一口分けてくれたり、かちかちのスルメくれたり、色々世話んなった……バッグ持って逃げる後ろ姿見たとたん、頭が真っ白ンなって。カッときて、殴り倒した」
 「むりすんな」
 手の震えが煙草に伝わり、灰がぱらぱら落ちる。
 膝の上で両手を握り締め芯から発する震えをおさえこむ、俯き加減に呼吸を整えかすれた声を絞り出す。
 「気付いたら、手、真っ赤で、傷だらけで。じいさん真っ赤で、倒れてて。……怖かった、自分が。手加減とか、考えもしなかった。これまでの人生、半殺しの目にあった事は何度かあるけど、自分が加害者の側に立つなんて思ってもなくて、ああ、ダメだ、このままだったら俺いつか人殺しちまう、こんな重たい、不釣合いなもん持ってっから……」
 ナナシにとって、罪悪感を吸ってふやけた三千万は重すぎた。
 「俺は逃げた。じいさんの生死を確かめもせず、バッグを取り戻して、逃げた。それからもおんなじことの繰り返しで……誰も信用できなくって、不眠症になって。親切ごかして話しかけてくるホームレスのじいさんやおっさんにも、誰にも心を開けなくて、秘密が重くて苦しくて、何度もこんなもん捨てちまえっておもったけど結局手放せなくて。足がつくのいやで、使いきる度胸もなくて」
 「……結局、舞い戻った」
 どこまで馬鹿なんだろうナナシは。
 ヤクザに飼われる生活がいやで逃げ出したくせに、逃亡先でも安息を得られず、すごすごと帰ってきた。
 どうしようもない小心者。
 泥棒しても人は殺せず、ホームレスを殴り殺してしまったと勘違いして罪悪感に頭を抱えこむような男。
 「三千万もあるんなら海外に高飛びすりゃよかったんだ」
 「パスポートもってねえもん」
 煙草を口先にくわえぶらつかせ、あっけらかんとのたまう。
 俺はため息をつき、さっきから気になってたことを聞く。
 「今どんくらい残ってんだ」
 「百万しか使ってねえよ」 
 「二年で百万きゃ使ってねーの?節約家だな」
 「穴の開いた下着取り替えたり、電車の切符買ったり、煙草や弁当買ったり……出費なんていったらせいぜいそんくらい。移動も殆ど歩きだし」
 「余らしてんなら人に煙草たかるなよ」
 「いいじゃんか、ケチケチすんなよ。ここで会ったのも何かの縁だろ」
 「腐れ縁な」
 なれなれしいナナシにあきれる。
 説教もばかばかしくなり、景気よく地面の砂を蹴り上げてブランコをこぐ。
 「大事な運用資金、砂場に埋めといていいのか」
 「俺みたいなホームレスが後生大事にバッグなんか持ってたら目立つだろう。公園から出ない限り安全だ、近付くヤツいたらすぐわかるし」
 「一日中見張ってんの」
 「肌身離さず持ってんの疲れた。……なんかさ、もーいいやって。砂場に埋めて、忘れられるもんなら忘れちまおうって。重たすぎんだよ、あれ」
 うっそりと倦怠感漂う目で砂場を見つめ、呟く。
 接近の気配を感じさせぬ神出鬼没の静けさで忍び寄った猫が一匹、手ぶらの俺を無視してナナシの足元にまとわりつく。唐十郎だ。
 「悪いな。今日はないんだ」
 詫びの代わりに頭をなでようと手をかざすも、唐十郎はさっと通り抜けていってしまう。
 お預けをくらった手を持て余し、薄情な猫の後ろ姿を見送り、哀愁誘うため息をつく。
 「あり地獄できねえかな。さらさらと砂が崩れてって、底なしの穴に飲み込まれて……そうなりゃ諦めがつく」
 ナナシは腰抜けで臆病者だ。
 あてのない逃走に疲れ切って、使い切れなかった三千万を抱いて舞い戻ったはいいが、それを持て余し、かといって捨てる決心もつかず、目の届く範囲に埋めて監視を続けている。
 中途半端な放任。あるいは肌身離さず持ってると襲われた時に危険だと踏んだのか……後者の推理のほうが現実的だ。
 一方で、手放したいのに手放せない二律背反の葛藤に苦しんでるのも事実だろう。
 「……どうすんの?警察に届ける?」
 義務のように惰性のように寝ずの番をするナナシを、意地悪な質問で試す。
 ナナシは眉間に皺を寄せ少し悩む素振りをしてから、小さく首を横に振る。
 「根堀り葉堀り聞かれて色々面倒な事になるし……」
 「刑務所ぶちこまれんの怖い?」
 「それもあるけど。……警察に捕まったら家族に連絡行くし。今の姿、見せたくねえ」
 落ちぶれきった今の姿を家族に見せるのは嫌だと渋る。
 道化にも見栄がある。家族を思う心がある。
 俺には、そんなもの、ない。
 「……いまさらこんなのが息子ですって名乗りでたら、困るよな」
 家族に迷惑かけるのが嫌で警察に行けないナナシ。
 せっかく帰ってきたのに、踏ん切りつかず、ずるずる公園に居つくナナシ。
 「……ナンギなオトナ……」
 「なあ、司。一緒に逃げないか。あれ持って」
 砂場に顎をしゃくり、腰を浮かす。
 逃避行の提案に耳を疑う。
 ナナシは身を乗り出すや、前髪のすだれごしに、思い詰めたまなざしを向けてくる。
 「金に困ってんだろ?アパートの家賃滞納してるって言ったよな、今の仕事うんざりしてるんだよな、変態に鞭でぶっ叩かれて体中傷だらけで……だったらさ、なあ、一緒に逃げようぜ。金持って。金はまだたっぷり残ってる、俺一人じゃ使い切れなかった、でもお前が一緒ならさ……」
 「駆け落ち?」
 新しい煙草に火をつける。
 ナナシが口を開いたまま硬直、含羞と困惑が入り混じった顔で俺をうかがう。
 どこまでめでたいヤツなんだろう。あきれを通り越し、いっそ笑えてくる。
 「……どこでも、お前が好きなとこ行こうぜ。こんなくそったれな街捨てて、もっといいとこへ……海外だっていい」
 「パスポートはどうすんだよ」
 「密航だよ。タンカーに隠れてさ」
 「一人じゃ怖くてできねーけど二人なら船にも乗れる」
 「行き先はどこでもいい、お前が好きなところへ行こう。東南アジアで海賊になるか、ロシアでタクシー転がすか、タイで美人局やるか?俺がポン引きでお前がぼったくり、二人で間抜けな客から金奪ってトンズラこくの。楽しいぜ、きっと……それとも、そうだ、せっかく三千万もってんだからぱーっと使わなきゃな。マカオのカジノでルーレット一点賭け、孔雀羽の扇子もったチャイナ服の美女侍らせて……なんて、はは、似合わねーよなあ!いっそ福建で畑でも耕すか?」
 「あんた、一緒に逃げてくれるヤツをさがしに戻ってきたのか」
 お生憎様。
 口元を歪め吐き捨てた声音の非情な冷たさに、ナナシが黙りこむ。
 「あんたの人生に巻き込まれるなんて冗談じゃねえ、自分のケツくらい自分で拭けよ。戻ってきたんだろ?自分のクソのまわりをぐるぐる回る犬みてえに、あんただって、結局この街にもどってきたんじゃねえか。逃げ回るのに疲れ切って、もうどうなってもいいやって自暴自棄で元の場所に戻ってきたくせに、そこで偶然会ったガキにちょっと優しくされたからって、今度はふたりで、まーたおんなじ失敗くりかえすのか?なんだよ、あんた、わけわかんねえよ。自分がやってることに筋通せよ、俺を巻き込むなよ。ぶっちゃけナナシさん、あんたがどうなろうが興味ないんだ。俺の人生にはなーんも支障ないんだ。たまたま夜の公園で知り合ってくだらねえ世間話するだけのあいだがら、本名も知らねーホームレスがヤクザのリンチでのたれ死のうが、刑務所で首吊ろうが構わない。あんたのくだらない、くそったれたどん底人生に、俺を引きずり込むな」
 腹の底で真っ赤に燃え立つ怒りと激情が荒れ狂う。
 俺は怒っていた、ナナシの人生に。内省と無縁な楽観的性格に。
 ナナシは普通の家庭に生まれた普通の男で、平凡だが堅実なサラリーマンで、本当なら俺と出会うはずもないヤツで、こいつが道を誤ったのは他のだれでもないこいつ自身のせいで、だからこんなヤツ同情にも友誼にも値しない。
 ヤクザの事務所から三千万持ち逃げして追われる羽目になって逃亡生活で神経すり減らして戻ってきたくせに警察に行くのも腰が引けてヤクザに見つかるの怖くて公園に隠れ潜んで、だけどそこにたまたま俺が現れて、人恋しさからすりよって、ちょっと優しくしてやったらつけあがって、俺と一緒なら今度こそ本当に逃げ切れるかもしれないと身の程知らずな夢を見て
 「心中相手さがしてんならお断りだ、他あたれ」
 「司」
 たじろぐナナシにぎらつく敵意むき出しのまなざしを叩きつける。
 「あんたはただの負け犬だ、行く場所ないから戻ってきた、三千万の重みに耐え切れなくなって一度捨てた街に舞い戻った。それで?どうしたいんだよ?縁が切れたダチに泣きつくか、ヤクザに詫びいれてまた飼ってもらうか、十歳も下の売り専のガキを泣き落として囲ってもらうか?」
 「ちがう司、俺は」
 「あんたがやってること意味不明だ、ぜんぶ自業自得じゃねえか、あんたの人生がどん底なのはあんたが考えなしの底なし馬鹿なせいだ、ちゃんと仕事あったんだろ、少ないけど心配してくれるヤツがいたんだろ、迷惑かけたくないって思える家族がいるんだろ、なのに何であんた自身はそんなクズなんだよ!?」
 俺とナナシは違う。ナナシがこうなったのは、どこまでも自業自得でしかありえない。
 一緒に逃げるかという誘いは甘えだ。
 一人で逃げるのに疲れたから今度は二人でという安易で短絡的な発想を憎む。
 ナナシはただもたれかかる相手が欲しいだけで俺じゃなくてもいい俺である必要なんかこれっぽっちもない、たまたまあの日あの夜俺が公園にいたから、たまたま煙草をくれてやったから俺に目をつけただけで、あの日あそこに現れたのが俺じゃなかったらそいつを慕ったはずだ。なあお願いだから一緒に逃げてくれと、頃合を見て切り出したはずだ。

 隙なんか見せるからつけこまれる。
 裏切られて、痛い目に遭う。

 「違う司、お前を利用しようとしてるわけじゃない、金で釣って逃避行に付き合わせようってんじゃない、いやならそれでいい、ただ」
 「ただ何だよ、俺は」

 夜の公園でほんのひととき煙草を分かち合い、くだらない世間話をするだけで満足だったのに。
 その時だけは、自分がひとりぼっちだって事を忘れられたのに。
 ナナシの隣で馬鹿笑いできたのに。

 「……身の上話で同情引いて、金の話持ち出して……最初からそういう魂胆だったんだ」

 ナナシの身の上話なんて聞きたくなかった。
 俺の隣では、ただのナナシでいてほしかった。

 「俺なら、すぐとびつくだろうって?四畳半のアパート住まいで、サドの変態に死ぬほどぶっ叩かれて、ケツは擦り切れて、病気持ちかもしんなくて……そんなヤツに金ちらつかせたら今の生活から抜け出したい一心でよだれをたらしてしゃぶりついてくるに違いない、二つ返事で駆け落ち承諾してくれるだろうって?安く見られたもんだな」
 自分と一緒に死んでくれる相手をさがしに舞い戻ってきたのか、自分と一緒に破滅してくれるヤツを求めていたのか。
 俺はナナシになめられていた、馬鹿にされていた。
 信頼なんて欺瞞だ、絆なんて嘘だ、親もない金もないないない尽くしのガキなら二つ返事で逃避行に乗ってくれるだろうと踏んだ、金欲しさに目が眩んで心中に付き合ってくれるだろうって決めつけられた、ナナシはただ手っ取り早く寂しさを埋め合わせる相手をさがしてただけだ、場繋ぎの心中相手を募集してた。
 裏切られた。
 そうだろう、これが裏切りじゃなくて何だ、ナナシと逃げたところですぐつかまる、どん詰まりだ、こいつはそんなこともわからない馬鹿なのか、俺をおとりにしてまんまと逃げのびる気か?
 幻滅する。疑心暗鬼が苛む。
 これまで見てきたナナシと今のナナシにずれが生じる。
 今の今まで芝居を打ってたのか、俺を騙し続けたのか、ナナシの正体は狡猾な横領犯でガキ一人騙すのなんて朝飯前だって今も腹ん中でほくそえんでやがるのか……
 「死ぬなら勝手に死ね、どこへでも行け」
 ブランコからとびおりて絶縁状を叩きつける。 
 誰かに依存するのもされるのもごめんだ、誰かに執着するのもされるのもお断りだ、ナナシの不幸に引きずり込まれちゃたまらない、今だってどん底なのにさらに地獄に落ちたくない、俺の靴には滑り止めなんて上等なもん付いちゃない、だから手遅れになる前に逃げる、ナナシと手を切る、突き放す。
 「待てよ司、ちがう、話聞けよ!なにキレてんだよ、なんか気に障ること言ったか!?」
 ナナシが泡を食いブランコから転げ落ちる、地面を這って砂を掴んで俺を仰ぐ、言動がいちいち癪に障る、憤りの内圧が高まりついに沸点に達する、みっともなく地面に這いつくばるナナシを見ているとおもいきり蹴り上げてしまいそうで自制が利かなくなりそうで背を向ける、公園を駆け出る……
 足首に激痛が響く。
 「!痛ッ、」
 「司っ、これ!」
 体重をかけると同時に各務に鞭で打たれた裂傷に激痛が走り足首を押さえてその場にへたりこむ、背後でナナシが動く、砂場の方へ駆けていく姿が視界の隅にちらつく、衣擦れの音、砂の積もる鈍い音、なにをしてるのか気になって脂汗が流れ込み滲む目で行動を追う、砂場に突っ伏したナナシが切羽詰った剣幕で両手で砂を掘る、砂を掘って掘り進めて引きずり出したナイロンの鞄のチャックを開けて一掴み掴みだしたのは……札束。
 頭が空白になる。思考停止。
 息を切らし立ちはだかったナナシが、無造作に鷲掴んだ札束を突き出す。
 「……持ってけ。薬買え」
 「……これもあんたの言う見返りかよ」
 狂的な笑いがこみ上げて断続的に喉を震わす。ナナシはむっつりと戻ってきて、地面にへたりこんだ俺の手に、さらっぴんの万札をむりやり握らせる。
 「……こないだ、世話んなったな」
 「金ならたっぷりあるよ。あんたと最初に会った日だって、ほんとは持ってたんだ。小遣いも含めて、たっぷり貰って……体を売って稼いだ金、今日だって………」
 「自己満足だから気にすんな。お前にその金を使わせたくない、俺のわがままだよ」
 どこまでコケにすれば気が済むんだ。
 俺が体を売って稼いだ金は汚い金だと、今の行為で代弁したとも気付かずに、ナナシはぼんやりそこに突っ立ってる。
 不機嫌そうに。心配そうに。優しさとずるさを取り違えて。
 「……俺が稼いだ金は汚くて、これは違うのか」
 指の関節が白く強張る。
 ナナシに手渡された万札をくしゃくしゃに握り潰す。
 顔が痙攣するように醜く歪み、劣等感にこりかたまった卑屈な笑みが浮かぶ。
 「俺がウリで稼いだ金は汚くて、あんたが盗んで手をつけなかった金は上等か。恵んでくださってありがとうって、感謝すりゃご満足か」
 ヤクザの金庫に眠ってたピン札と、俺が体をすり減らして稼いだ金とじゃ、価値が違うのか。 

 哀れみと蔑みはよく似ている。
 ナナシはそうやって、無神経な善意でもって、俺の生き方を否定する。
 俺を救うふりをして、どん底に突き落とす。

 「………なんだ………」
 そういうことか。
 そういうことだったんだ。
 前髪に顔を隠した俺の呟きを聞きとがめ、ナナシが怪訝な顔をする。
 咄嗟に引っ込めようとしたその手を逆に掴み、引き寄せ、もう一方の手でナナシの股間をまさぐる。 
 「俺に『してほしい』んなら、はっきりそう言やいいのに」
 「!なっ、」
 ナナシの顔に動揺が走る。
 仰け反り、腰が引け、慌てて俺を押し返そうとするも股間をまさぐる淫猥な手の動きに膝から崩れてへたりこむ。
 「……随分溜まってんね。ひょっとして、二年間、ずっとご無沙汰だった?金があんなら風俗いきゃいいのに」
 「司、やめろ」
 狼狽しきった声で制す、俺の肩に手を置き押し返そうとするのを邪魔っけに振り払う、ブランコの手前のポールに背中からぶつかる、ナナシが苦痛に顔を顰めた隙にベルトのバックルをいじってズボンを引き摺り下ろす。
 「汚いからやめろ、病気でも伝染ったら大変……」
 「へえ、心当たりでもあんの?」
 自嘲的に笑って茶化す。ナナシが抵抗する、だけどその手は力が入らない、男にしても痩せて非力な腕が嗜虐心を刺激する。
 下着ごとズボンを引き摺り下ろし下半身をむき出しにする、小便の匂いが鼻をつく、慣れてるからどうということもない。
 「汚いからやめろ、くさいだろ……」
 「毎日洗ってんだろ、水のみ場で。じゃあ大丈夫」
 「お前だっていやだろ、小便の匂いすんのしゃぶるのなんて!」
 ポールを背に、行き止まりに追い詰められたナナシが金切り声で叫ぶのに、萎えたペニスを捧げ持ちながら鷹揚に返す。
 「俺、小便飲まされた事もあるんだぜ?」
 ナナシが愕然と目を剥く。抵抗がやんだ隙にそっと口をつけ、先端を含む。両手をゆるやかに動かし、竿をしごく。
 不潔だとか不衛生だとかいう抵抗意識や嫌悪感は殆どなかった。逆にナナシを征服してるみたいで、嗜虐心が疼く。ナナシは抗う、俺を引き離そうと細く筋張った腕に懸命に力を込める、俺は負けじと攻める、ナナシの股間に顔を埋めペニスを咥える、わざと唾液を捏ねる音をたててやればナナシの顔が羞恥に染まる。
 男にされるのは初めてなのだろう。
 さまざまな技巧を凝らし舌を使う。
 透明な先走りでぬめる亀頭を唇で捏ねて愛撫し、鈴口に舌を踊らせ割れ目をほじり、竿をなめ、裏筋をなであげ、緩急強弱つけて喉の奥まで吸引する。
 「うぁっ……」
 熱く湿った吐息と一緒に切ない声を漏らし、俺に凭れる。肩にしがみつく手が震える。
 口の中でペニスが質量を増す。喉の奥を犯す異物感に息苦しさを覚える。
 「やめろ、ちがう、そういう意味じゃない、こんなことさせたかったんじゃ……」
 「俺は『こんな事』で稼いでるんだけど?いい加減わかれよ」
 理解の鈍いナナシにいらついて毒づく。
 電灯が照らす深夜の公園に、卑猥な水音と衣擦れの音、劣情の息遣いだけが響く。
 「……いつおれが笑わせてくれって頼んだ」
 「うあ、はっ……ぅ」
 「あんたがくだらない嘘ついて、自分痛めつけて、それを見て俺が笑ったからって、結局ぜんぶ自己満足じゃねえか」
 誠実なものか。これほど不誠実な男は見た事がない。こいつの優しさはいつだって自己本位な欺瞞と偽善にいろどられている。
 こいつはその無神経で、人を傷つける。
 「見返りだよ。あんたが教えてくれたんだよ、ナナシさん。貰った分は……きっちり返さなきゃって」
 次第に息が上擦り始めたナナシに対し、どす黒い憎悪が膨れ上がる。
 器用に舌を使いナナシを追い上げ責め立てる。ペニスを深々くわえこみ、歯を立てず亀頭を食み、舌先をちろちろ挑発的に躍らせる。
 唾液に溶けた苦い先走りを飲みながら、心は冷めてく一方だ。ナナシと俺は違う。絶対にわかりあえない。仲間だとおもったのは間違いだった。
 「気持ちいい、ナナシさん」
 「……司っ……」
 「気持ちいいんだ。ひくひくしてる」
 結局、各務の同類か。俺を買った男たちの同類か。
 口ではどんなに偉そうなこと言って偽善を気取ったところで、フェラチオですっかりイイ気分になって、俺の頭にしがみついてくるじゃないか。
 無意識だろうナナシが俺の頭を両手で抱えて股間に押しつける、各務や他の客の手を思い出す、そいつらとどこも違わない、俺の髪に手を通し力を込める、奉仕を強制する、もっともっととねだる。上目遣いに見上げたナナシは弛緩しきった口元から熱い息を吐き、頬は淫蕩に上気して、俺の口の中でペニスはますます怒張する。
 「うあっ……」
 ナナシが絶頂に達する。苦い粘液が喉を打つ。
 ザーメンを音たて飲み干し、手の甲で口を拭う。
 ナナシは肩を喘がせつつ後ろ手にポールに縋り、虚脱しきった表情で俺を見つめる。 
 自分が男に、それもはるか年下のガキなんかにイかされた事が信じられないといった反応。
 貧弱な胸を浅く上下させ、萎んだ股間を出しっぱなしにしたまま、ポールに寄りかかって辛うじて立つナナシから離れ、呟く。
 「毎度あり。またのご利用お待ちしてます」
 どっかのAТMみたいに平板な口調で言い、ナナシから渡された万札を、無造作にジーパンに突っ込む。
 あとはもう振り返らず、大股に歩き出す。ナナシが俺を追いかけ呼び止めようとするも、途中で力尽きる。公園を突っ切って、通りに出て、アパートをめざす。
 尻ポケットに突っ込んだ万札がやけに重くて、それはきっとナナシが逃亡と懺悔に費やした二年間の重みで、今すぐ破り捨てたい衝動を辛うじて抑え、携帯をとりだす。短縮を押せば、すぐに相手が出る。
 「各務さん、次の土曜いつものホテルで会えませんか。話したいことがあるんです」
 各務に電話をかけながら、俺の脳裏では、泣くのを我慢するかのように快感を堪えるナナシの顔がちらついていた。
 俺にフェラチオされながら、ちがう、ちがうとくりかし抗う悲痛な表情が脳裏にこびりついてとうとう離れなかった。



 
 「うあっ、あう、ああっ!」
 ざらつく男の手が裸の背をなで尻をまさぐる。
 シーツを掻き毟って乱暴な挿入に耐える、押し潰された喉からくぐもった呻きが漏れる。
 けばい壁紙の安ホテルの一室、むせ返る人いきれと饐えた体臭、濃厚なザーメンの匂い。
 「―っ、やっぱ女と具合が違うな、みちみち肉にめりこんでく……ははっ、たまんねえやこりゃ。そっちはどうだ?」
 俺を犬のように四つんばいにさせ後ろから貫きながら若いヤクザが言う。
 「上々。女よか上手いくらいだ。やっぱ男だと男のいいとこわかってんのかな?信じらんないくらい奥まで吸い込みやがる……」
 俺の前髪を掴み、無理矢理こじ開けた口に指をひっかけ伸ばし広げ、怒張したペニスを突っ込む。
 後ろを貫かれ揺さぶられながら、こみ上げる吐き気を抑え、口に突っ込まれたペニスに舌を這わせる。
 夢中でペニスを吸いつつ腰振る俺を、各務は舌なめずりしそうな顔で眺めている。
 自分の犬に余興として芸を披露させ、その成果に甚くご満足といったゲスな笑み。
 時々、四つんばいにされた俺の股に手をやっていじくりまわす。各務に股ぐらをまさぐられる度腰が跳ね、舌使いがおろそかになり、それを理由にこっぴどくどやしつけられる。
 「でも各務さん、ほんとにいいんすか?こいつ、各務さんのコレなんでしょう」
 「いいんだよ。いっつも同じプレイばっかじゃ飽きるし……たまには刺激が欲しいよな、司。お前は一本じゃ足りねえ淫乱だから、前にも後ろにもぎっちり二本くわえこめて嬉しいよな?」
 各務が嘲る。朦朧としながら太い笑い声を聞く。
 シーツにしがみついて前から後ろからの激しい責めに耐える。
 事の発端は各務の舎弟の他愛ない好奇心、各務が男娼を囲ってると知って一回男で試したいと申し出た馬鹿がいた、各務はそいつらに俺を貸した、そして俺は今前から後ろから突っ込まれ揺さぶられて死んだほうなマシな目にあってる。
 「ああっ、あっ、ふう……」
 「こないだの傷、もう殆ど治りかけてら。若いってなあいいな、うらやましい」
 嗜虐の愉悦に酔った嘲弄が耳裏の産毛をなぞり、まだ痛む背中のみみず腫れをひとつひとつ指でたどっていく。
 「痛あっ……」
 閉じかけた傷口に爪を立て抉られる痛みに背中が反り、肌の表面を大量の汗が伝う。
 火照りを帯びたみみず腫れをうっそりと指がなぞるたび、嗜虐に慣らされた体がそれさえ快感に昇華し、絶頂が近付く。
 「女みたいな声上げるんすねえ、ホントに」
 「まだ気絶すんなよ、坊主。目え閉じんのはイかせてからだ」
 平手で頬を叩かれ起こされ、ふやけた頭を叱咤し、涎と先走りでねとつくペニスを貪欲にしゃぶる。
 「かはっ」
 舎弟ふたりが出すもん出しきって、そこからさらに前後交代して満足するのを待ってから、煙草を持った各務がやってくる。
 「お前の方から呼び出すなんて珍しいじゃんか。話したい事ってなんだ」
 口をきくのがだるい。瞬きするのも億劫だ。
 全身ザーメンに塗れて、ベッドに横たわったまま、無気力に各務を仰ぐ。
 シーツを握り締め、上体をひきずりおこす。今さっきまで俺を犯してたヤクザふたりは下着だけ身につけた姿で、荒く息つく俺を下劣ににやつき眺める。
 頭の中で報告する内容を整理する。
 虚ろな目で各務を見つめ、縺れる舌でたどたどしく告げる。
 「……こないだの話……金庫番……見つけました」
 各務の表情が豹変、空気が瞬時に硬化。半裸で寛いでいた舎弟ふたりも途端に怖い顔になる。
 一瞬、ナナシの顔が浮かんで消える。
 後悔と罪悪感が綯い交ぜとなった暗い沼が胸に広がる。
 あれからナナシと会ってない、公園には寄り道してない、ナナシが今どうしてるかは知らないし知りたくもない。もう、俺には関係ない事だ。
 灰皿で煙草をもみ消した各務が大股ににじり寄り顔を突き出す。
 「どこで会った?」
 「近所の公園で……ホームレスやってました……偶然知り合って、話すようになって……写真もらって、照らし合わせて、同一人物だってわかったんです」
 嘘を吐く。ナナシは自分から素性をばらしたのだ。
 おそらくは、俺を、俺なんかを信頼して。
 「同一人物で間違いねえんだろうな。人違いでしたじゃ済まされねえぞ」
 「金ほしさにでたらめ言ってんじゃないっすか、このガキ」
 舎弟ふたりが半信半疑の視線をむけてくる。各務も懐疑的に念を押す。俺は何度も首を縦に振る。
 「間違いないです、髪は伸びてだいぶ人相変わってたけど……口元、おなじでした。それに、それとなく探りいれたら、二年ぶりに街にもどってきたって」
 俺はナナシを売った。
 胸なんか痛まないはずなのに。もう関係ないのに。ナナシはトモダチでもなんでもないはずなのに、どうしてこんな惨めな気分になる?
 ナナシはいまだに三千万持ってる。三千万がありゃ何でもできる、美味いもんたらふく食えてイイ女抱けてどこへでもいける、なのにわざわざ戻ってくるなんてばかだ、見付かったら殺されるってわかりきってんのに。
 俺は、金が欲しい。
 金のためならなんでもする、どんな汚い真似もする、たった三百万ぽっちのためにナナシを売る。
 ナナシは二年前チャンスを手にした、大金を手にして一から人生をやり直すチャンスだ、それを自ら舞い戻ってふいにした。
 俺ならそんなヘマはしない、絶対にチャンスをものにする、どん底から這い上がってみせる。ナナシとおなじ過ちはおかさない。

 『一緒に逃げよう、司』

 「でかした、お手柄じゃねえか、司!」
 各務が歓声を上げ俺の肩を叩く。馬鹿力で痛い。心が麻痺したように何も感じない、虚無が身の内を蝕んであり地獄が生まれる、電灯に浮かび上がる砂場のイメージとともにさらさらと砂が崩れる幻聴がする。
 狂喜した各務が俺の髪をわしゃわしゃかきまぜる、各務は俺を気まぐれにペットか子供のように扱う、大の大人が相好を崩し有頂天にはしゃぐ様に奇妙な感じを抱く、乱暴に頭を揺り動かされ眩暈が襲う。
 仕方ないだろうとその必要もないのに自分に言い訳する、こうするしかなかった、仮にナナシのばかげた提案に乗ったところで待ち受けるのは破滅、すぐさま追っ手がかかってリンチを受けた上処分される。俺は死にたくない、まだまだ生きていたい、ナナシと心中するのはごめんだ……

 でももし、本当に逃げられるのなら
 あの時、ナナシの手をとっていたなら

 「で、そいつはちゃんと三千万もってんだろうな」
 「……たぶん……」
 「まあいいさ、隠し場所は吐かせりゃいい」
 各務が舌打ちひとつ、俺の肩を突き放して服を放る。
 舎弟ふたりに連絡をまわせと指示をとばしてから改めて向き直り、低い声で聞く。
 「金庫番とはどの程度親しいんだ?」
 唐突な質問にたじろぎ、答えに詰まるも、威圧の質量を乗せた眼光に気圧され躊躇いがちに口を開く。
 「親しいってほどじゃないです、公園で顔あわせてちょっとしゃべるくらいで……」
 言い訳じみた台詞に少しばかりの自己嫌悪が疼く。
 「ヤッたのか?」
 「まさか。相手はホームレスですよ」
 「お前には気を許してんだろ」
 「…………ちょっとは……」
 「だろうな。そうだよな。俺たちが血眼でさがしてもしっぽ掴ませなかったはしっこい金庫番が、二年ぶりだなんてうっかり口滑らす位だもんな」
 一人納得したように頷く。いやな予感が騒ぐ。
 各務が何を考えてるのかわからず漠然と不安が募る。
 「お前にチャンスをやる」
 各務が肩を掴む。
 「一生ケチな男娼で終わりたくないだろう。このヤマが成功すりゃ俺の口利きで盃分けてやる」
 俺の肩を掴んで詰め寄る各務を見返す。歪んだ笑みを湛えた醜悪な顔。眼光は爛々とぎらついて、引き伸ばされた口元から犬歯が覗く。
 「何をさせたいんですか」
 喉が異常に渇く。激しい動悸が襲う。ナナシの笑顔が瞼の裏を過ぎり、声が上擦る。
 「お前なら怪しまれる事なくぎりぎりまであいつに近づけるだろう。あいつは鼻がきく。これまであともう一歩のところで取り逃してきたんだ。今度こそふんづかまえる、失敗は許されねえ、念には念を……な。手引きしてくれりゃあ心強い」
 「冗談だろ……」
 「冗談なもんか。なあ司、今までよく偵察の役目をはたしてくれたよ。情にほだされず、ちゃんと報告してくれた。見直したんだよ、お前を。お前だってちんけな男娼で一生終わる気ないだろう、ここらで一皮剥けて一人前の男になりたいだろう。もうすぐ十八だよな、確か。いい加減ガキじゃねえんだ、わかれよ。俺はな、お前に目えかけてるんだ。こすっからく頭も回るし年の割に度胸が据わってる、単なる男娼で終わらせンのは惜しい。今後の働き次第じゃ俺の右腕にしてやってもいい」
 嘘だ。各務は俺を利用しようとしている。本当に目をかけているならもう少し大事に扱うだろう。
 だけど、逆らえない。
 肩を掴む手が強く食い込み、迫る顔は鬼気を湛え、雄弁な眼光が反論を封じる。
 「ここらで一発男を上げて、まわりを見返してやれよ」 
 嫌だ。
 悲鳴を上げる心と裏腹に、ごくかすかに頷く。
 底冷えする眼光に促され、催眠術にかかったように、我知らず首肯していた。

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