ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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ハルモニア(篠田節子)



 G線開放弦の太い音が楽器の胴体を震わせ、その振動が東野の体にまで伝わってきた。
 そのとたん由希は小さく体を震わせた。春を感じて、小さく羽を動かす鳥の動作に似ていた。
 淡く血の色の透けたような紅色の唇が小さく開いた。
 驚きを含んだ歓びの表情が見える。
 音が、彼女の心に届いた。


 この世には真実の音があるという。
 ハルモニア。
 それはまるで世界をすべる黄金率にも似た調べ。
 神聖で崇高な侵しがたい神の旋律。
 凡庸なチェリスト東野は音楽療法のスタッフとして通った高原の精神医療施設で、凄まじい才能を数奇な運命を秘めた一人の患者と巡り会う。
 浅羽由希。
 脳に障害を持ちながら、欠損を補って余りある音楽的才能をもった美しい少女。
 大脳の言語感覚を司る部分が退縮し、会話の成立はおろか意思の疎通も不可能かに見えた彼女は、豊穣な音楽の世界に生きていた。
 東野はどうにかして彼女の秘めたる才能を引き出そうと悪戦苦闘の個人レッスンを開始するが……

 超感覚ホラー。
 サスペンス。
 人間ドラマ。
 この小説を飾る言葉はあまたあれど、一番しっくりくるのはやっぱり音楽小説だろう。
 そう言うととかく高尚なものを思い浮かべがちだが、登場人物の苦悩や懊悩、葛藤が非常に生々しくリアルに迫ってくるせいで、どっぷりのめりこんでしまう。
 血肉が通った饒舌でありながら流麗な描写は、とくに演奏シーンでその本領を発揮し、光の渦を巻いて読者をめくるめく翻弄する。
 二十年間音楽に人生と情熱を注ぎ続けたチェリストでありながら、凡庸な秀才の域をでぬ東野は、重い障害を持ちながらけっして自分が叶いえぬ「天才」由希に激しい羨望と劣等感を抱く。
 が。由希は紛れもなく音楽の天才でありながら、同時にコミュニケーション不全で、東野とも殆ど交流が成り立たない。
 困惑する東野だが、一対一のレッスンを辛抱強く続けるうち、言葉よりも多弁な音楽を通して二人は次第に互いへの信頼を深めていく。
 迷子になった由希が東野と再会し笑みかけた時。
 寒い中東野を待ち、手を握ったとき。
 帰りの電車で水鳥のように頭を預けたとき。
 普段の由希が何を考えてるかわからない不可解なベールで包まれているからこそ、東野にだけ見せる希薄な表情が特別な意味を持つ。

 リーダビリティは登場人物の魅力によるところが大きい。
 主人公・東野は三十代前半、とある楽団に所属するチェリストだが凡庸な彼は演奏だけでは食べていけず音大をめざす受験生を教えてレッスン料を稼いでいた。
 日本を代表する一握りのチェリストの中には絶対入れないと自嘲しつつも、一方では自分では教師ではなく演奏家であると自負する。
 自分の能力の限界を突き詰め悟ってしまっても、否、だからこそ血が滲む研鑽をやめられない。
 そんな彼にとって由希がどれだけ輝かしく見えたことだろう。
 由希と関わるうちに彼女の豊かな音楽性に感化され、彼女に「自分の音楽」を発見させることこそ命題にしつつあった東野の前に立ち塞がった障害は、衝撃的な死を遂げた世界的チェリストルーシー・メイの亡霊だった。
 とにかく演奏シーンが圧巻。
 よく映像が目に浮かぶような描写といいますが、この小説の場合本来なら聞こえないはずの音が聞こえてくる。
 

 東野は実直で誠実で生真面目、だけどひたすら報われず不幸な男。
 彼は由希に対しても誠実に接し続け、けっして彼女を性的な欲望の対象としては見ないのですが、時折由紀を異性として意識する瞬間があって、その瞬間の慌てぶりが可愛くてたまりません。直立不動とか!由希も由希で東野だけを信頼し、あるかなしかのごく淡い微笑を浮かべるものだから二人の絆の強さが感じられたまりません。まあそれさえも読み手の願望に基づく幻想に思えるあたりに寂寥を感じますね……
 
 ハルモニアはハーモニーの語源。
 ハーモニーとは
 
 ハーモニー [harmony]
 (1)音楽で「和声(わせい)」に同じ。
 (2)和音。特によく協和する音。
 「美しい―を奏でる」→和声
 (3)調和。
 「絵に―がある」

 とのこと。
 人間の脳は無限の可能性を秘めている。
 需要と供給、欠損と補填は結びついて、喪失の定義は反転し獲得と同義となる。
 盲人の指先には視神経に似た細胞が育つという。彼らは見えない目の代わりに指で字を読むのだ。
 由希もまた退化した言語能力の代わりに音楽的才能を得た。
 しかし、その代償はあまりに大きい。
 由希自身はおろかまわりの人さえ巻き込み破壊してしまう制御不能の力。
 
 音は暴力である。
 超音波は大気を媒介にして音叉に干渉する。 
 一点に集音させれば硬質なガラスをも微塵に砕く。
 その音を用い自らを不快にさせた人々、自らに危害を加えようとした人々に容赦ない攻撃を加える由希に、献身的に彼女を見守ってきた心理士・深谷もやがては畏れを抱く。

 速度は電気を生む。
 人間の思考は恐るべき速さでシナプスを媒介し神経系統に接続する。
 脳は常に活動し微弱に放電してるといっていい。
 由希が起こす超常現象の数々は、本来の機能を停止した代わりに普段休眠してるという90パーセントのいずれかが異常励起した脳の放電現象であるというのは穿ちすぎだろうか。

 久しぶりに冒頭から引き込まれる作品に出会いました。
 凄い、とにかく凄い。
 音楽という神にして悪魔に魅入られ破滅した男女の物語にもとれるのですが、由希を背負って砂浜を歩く東野の姿には、「ハルモニア」を聞いた者だけが得る至福を感じられ、二人にとってどうするのが一番よかったのか、これでよかったのか、なにが幸せでなにがふしあわせだったのかわからなくなります……。

 天才と凡才。
 聖と俗。
 虚構と真実。

 さまざまに反発し対立する要素が絡み合って重層的な構造を生み出す物語の結末は、ぜひあなたの目で確かめて下さい。

 願わくば砂浜を行く二人の耳に、今もハルモニアが聞こえんことを。

一緒に読みたい本

精神病院を舞台に患者の少女と医師の交流を描く。構造が似てる。ミステリー的なオチは弱いけど多重人格に興味ある人におすすめ。

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