ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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侍とネコ

 陰鬱な灰色の街に沛然と雨が降る。
 「風邪をひいたか」
 水溜りを蹴散らし歩く。
 雨で煙る視界に立つ電柱を捉える。
 電柱の脇にちんまりダンボール箱が置かれている。
 密閉された箱から今にも息絶えそうな細い鳴き声が漏れる。
 ただならぬ予感に駆り立てられ、無骨な指に似つかわしからぬ繊細な手つきで蓋を開く。
 箱の内側に一匹の子猫が蹲っていた。
 凛と利発そうな目をした猫だ。
 血統書つきだろうか。
 漆黒に艶めく毛並みはさらさらと湿気を含みなお綺麗な光沢を放ち、いかにも撫で心地がよさそうだ。
 「にー」
 一人と一匹の出会いだった。

 帯刀貢はそぼ降る雨の中家路を急いでいた。
 雨が降ると過去に拵えた古傷やまだ癒えぬ打ち身の生傷が痛む。
 加えて風邪の引きはじめの悪寒がやまず、不摂生からなる不養生に、知らず拳を握り締める。
 「精進が足りん」
 帯刀道場の跡取りが風邪をひくなどけしからん。なんたる軟弱な。
 師範を父と仰ぎ武士道一筋に身を捧げて十八年、稽古は一日も欠かした事がない。
 武士道は一日にしてならず峻烈な峰に挑むが如したゆまぬ努力の積み重ねが技を磨くのだ。
 無口無愛想で近寄りがたく思われる貢だが、人並みに喜怒哀楽の情はあり、怪我をすれば痛みを感じる。持ち前の鉄面皮が人に敬遠される一因だが、既に顔の一部と化した眉間の皺はいかんともしがたい。
 背筋に添う寒気と古傷の疼きに耐え、傘を握り締める手に力をこめる。
 「俺はまだ甘い」
 帯刀家の跡取りとして一身に期待を負う貢は、武士にあるまじき不甲斐なさを痛恨の思いと共に噛み締める。
 一人暮らしを始めてはや一年。
 親元を離れ安アパートで暮らし始めたのは、武士道一筋に十八年を生き、恋人はおろか同性の友人さえ持たぬ己の在り方に疑問を抱いたからだ。
 帯刀の姓の呪縛から逃れ、自分と向き合う時間がほしかった。
 道場を継ぐのが使命だと心得ている。父母の育ての恩に報いるため、一族の悲願をはたすため、自分は剣を修めて道場を継がねばならない。
 時代の趨勢に伴い門下生が離れ、廃れた武士道を復権させる。
 離散した門下生を呼び戻し、傾きかけた道場を立て直すのが使命だと心得、物心つくかつかぬかの頃より努力を重ねてきたが、武士道一筋に捧げた十八年に時折漠然とした虚しさを感じる。
 父を師範と仰ぎ、幼き頃より他の趣味もろくろく知らず厳しい稽古にうちこみ、気付けば冗談ひとつも言えぬ朴念仁ができあがっていた。
 黙然と手を見下ろす。
 ただひたすら刀をふるってきたこの手には他にできることがあるのではないか、他に掴めるものがあるのではないか。
 古い刀傷を刻む掌を見下ろすたび、節くれだった武骨な指を見下ろすたび、胸の内を複雑な想念が過ぎる。
 思春期特有の葛藤と片付けるにはあまりに根深く、帯刀貢の存在の根幹に関わる命題だった。
 傘にあたった雨粒が単調な旋律を奏で、アスファルトに当たって弾けた雨滴が同心円状の波紋を生む。
 「こんな日は湯船で熱燗に限る」
 使い込んだ防具を入れた袋を担ぎ、足早に歩く。
 アパートと道場の往復で日々は漫然と過ぎてゆく。
 友人も恋人もいない孤独で平坦な生活に変化の訪れはなく、今では狭い風呂で嗜む熱燗だけがささやかな贅沢となった。 
 酒は万病に効く。熱燗を呷れば風邪も癒える。手に提げたビニール袋の中には発泡酒とスルメが入っている。
 もうすぐアパートだ。
 角を曲がった途端、電柱の脇にダンボールが置かれているのに気付く。
 無視して通り過ぎようとするも、不自然な箱が意識の隅にひっかかり、無意識に歩調をおとす。
 「にー」 
 密閉された箱の中から弱弱しい声が漏れ、立ち止まる。
 ダンボール箱へと歩み寄り、蓋を開く。
 ダンボールの中にちんまり蹲っていたのは、一匹の猫。艶々と輝く黒い毛並み、利発そうに尖った耳、悠揚と垂れた尾。居住まいにどことなく品がある。両親か、少なくとも片親が血統書付きと見て間違いない。
 蓋を開いた手が止まる。
 猫と目を合わせ、貢は困惑する。
 「捨て猫か」
 厄介なものに関わってしまったというのが第一印象。
 無視して通り過ぎればよかった。何故わざわざ蓋を開けてしまったのかと呪う。
 単調な雨音が沈黙を埋める。
 陰鬱な曇り空の下、幾重にも水溜りがさざなみだつ道路の片隅で、箱入り猫と向き合う。
 「新月の夜のような毛艶だな」 
 美しいと素朴な感嘆が湧く。悪戯に撫でてみたい衝動が湧くも、辛うじて自制する。
 武士たるものが軟弱なと己を叱咤し、誘惑に疼く手を苦労して引っ込める。
 猫はじっと貢を見返している。
 見知らぬ人間に覗き込まれて慌てるでも怯えるでもなく、いっそ無感動に落ち着き払い、ガラス玉のような目に貢の困惑顔を映す。
 猫の目に映った眉間の皺がますます深くなる。
 アパートでは動物を飼えない。
 内緒で飼っているのがばれれば大家に追い出される。
 「武士に情けは無用」
 自分に言い聞かすように低く呟き、未練を断ち切るようにすっくと立ち、その場を離れる。
 「にー」
 猫が貢を見上げる。
 無表情な顔、観察対象に注ぐような冷静な視線になぜか心が痛む。
 空腹を訴えるでもない、人の好意に甘えない、ただただ本能に忠実な平板な鳴き声が一音高く響く。
 俺に生き物を飼う資格はない。
 ましてや猫など。
 刀をふるって人を傷付けることしかできぬ手に、こんな小さく弱く、あたたかで柔らかな生き物を抱けるはずがない。
 傘を握りなおし、アパート目指し歩を再開する。
 猫はダンボールの中に大人しく座し、傘さし遠ざかる貢の背中を深沈たるガラスの目で見送る。
 前脚を行儀よく揃え、眼鏡の向こうの双眸に冷めた達観を宿し、自分を見捨て立ち去る人間へと淡白な視線を放る。
 大股に歩き出した貢は、ダンボールから数歩離れ、不吉なブレーキ音を聞く。
 「!!」
 咄嗟に振り返り、駆け出す。
 嫌な予感に突き動かされ、条件反射で身を翻した貢の正面、非常識なスピードで突っ走ってきた車が盛大に水溜りを蹴立てる。
 雨に煙る視界の中、タイヤがまともに水溜りに突っ込んで瀑布を巻き上げる。
 電柱横の猫の存在など気付きもせず。
 「いかん!」
 手を放れた傘が放物線を描いて宙を舞い、路面に激突する。
 車が完全に走り去るのを待ち、懐に抱いたダンボールから顔を上げる。
 「無事か」
 貢が身を挺し庇った猫は、無事だった。
 守りきった生命の温かみに触れ、安堵の息を漏らす。
 急に駆られ口に出してから、猫が言葉を話せない事に気付き苦笑する。 
 ずぶぬれの前髪からぽたぽた雫が滴る。
 たっぷり泥水を被った髪と服が張り付き、悪寒がますます酷くなる。
 「………にー」
 別段感謝するでもなく、平板に猫が鳴く。
 余計なお世話だと言わんばかりの可愛げない態度が、しかし、この猫には似合う。
 眼鏡の向こうに怪訝な色を浮かべた猫は、しばらく無言で貢を見返していたが、おもむろに動き出す。
 間近で覗き込む貢に近付き、薄桃色の舌を出し、頬の泥汚れを舐めとる。
 ざらついた舌の感触がくすぐったく、胸の内で複雑に絡まった想念を紐解いてゆく。
 見栄と矜持をはき違え、もう少しで助けられるものをむざむざ見殺しにするところだった。
 醜い手を恥じるより、手の届く範囲で助けを乞うものに報いろう。
 泥を舐め取った舌を前脚で擦り、不愉快げな渋面を浮かべる様と仕草の愛らしさに頬がゆるむ。
 「潔癖症の猫とは変わってる」 
 ぎこちない手つきですくい上げ、胸に抱く。
 規則正しい心音となめらかな毛皮の感触、温かい体温が伝わる。 
 「ともに来るか」
 不器用に問えば、ツンと澄ましてそっぽをむく。
 是か否か問えば完全に否の態度だが、手放してしまうには、すっぽり胸におさまる体温はあまりに愛しい。
 せめて悪寒がやむまでの間だけでも、こうしていたい。
 見て見ぬふりはもうできない。一度抱いてしまえば、その瞬間にえにしができる。
 武士に情けは無用だが、今だ未熟な自分は、どうしても甘さが抜け切らない。
 サムライに抱かれた猫は抵抗せず、迷惑そうな顔をしている。
 人間の不潔な手に触られるのは我慢できないが、雨の屋外に放置され凍死するよりましだと妥協したらしい。
 大人しく抱かれるままの猫を腕に乗せ、激しさを増す雨音にかき消されそうな声で呟く。
 「……体が冷えた。せめて一晩、お前の毛皮で暖めてくれ」
 一人と一匹はアパートへの帰路を辿った。
 
 貢が住むアパートは築十八年。
 安普請の壁は薄く生活音が筒抜けでプライバシーなどあったものではないが、もとより欲が薄い貢は余り不便を感じない。
 時代錯誤な慣習が今なお生きる帯刀家には、電子レンジやテレビが代表する文明の利器もなく、炊事や掃除に当たり前の如く人手を使っていた。
 生家での暮らしを考えれば、アパートでの一人暮らしは自由を満喫できるだけ気が楽だ。
 もっとも、自由と孤独が同義と気付いたのはいつ頃か。
 親の監視の目が届かぬゆえ自分の采配で一切合財を取り仕切るのは人の手を煩わさずにすみむしろ気楽だが、友人はおろか恋人も持たぬ貢にとって、アパートでの一人暮らしは日常の孤独を再確認するに等しい行為。
 「帰参した」
 返事がないのはわかっていて、つい口に出してしまう。
 物心ついた頃より父母に厳しく躾けられた。
 殊に母は行儀にうるさく、挨拶は欠かさぬようにと教えた。
 刷り込みの威力は絶大で、稽古を終えアパートに帰宅した際も、貢は必ず口に出し帰還を報告する。
 ドアの向こうに広がるは無味乾燥な部屋。
 六畳四畳半の質素な部屋は妙に寒々としている。隅にきちんと畳んだ布団とちゃぶ台と小さな箪笥のほかに家具は見当たらず、貢の几帳面がすぎて堅苦しい性格を物語る。
 ドアを閉め施錠する。土間に脱いだ靴を揃え、畳に上がる。
 「………………」
 無言のまま台所へ行き、屈んで冷蔵庫の扉を空け、めぼしいものを物色する。
 「…………ない、な」
 眉間に困惑の皺が寄る。
 貢が気難しい顔で見詰める冷蔵庫の中は見事にがらんとして、タッパー入りの佃煮のほかにできあいの料理は見当たらない。
 「に」
 煌々と点る冷蔵庫の中を覗き込み、思案する貢の足元で猫が鳴き、貢を真似て眉間に皺を刻む。
 悩んだ末手を突っ込み、タッパーの蓋を捲る。
 「こんなものしかないが、よいか」
 蓋を剥いだタッパーを床に置く。
 おそるおそる歩み寄った猫が、さも不思議そうな顔をし、小鼻をひくつかせ匂いをかぐ。
 「に?」
 「佃煮は初めてか」
 はたしてこれは食べ物か、口にして危険はないかと猜疑の眼差しを向ける猫に、無愛想に呟く。
 「安心しろ。毒ではない。苗の佃煮は絶品だ」
 それでもまだ口を付けず、半信半疑で固まる猫の背を、片膝たて不器用になでる。
 「苗は料理が得意で、俺の食生活を案じて時折惣菜をさしいれてくれるのだ。きっと良い嫁になる」
 貢の幼馴染の苗は、帯刀家に住み込みで働く女中だ。
 一人暮らしを始めた貢を案じ、時々様子を窺いに来ては、実の姉のような口調で生活態度を嗜める。
 苗は貢の初恋だった。
 しかし当時の貢は淡い恋心を打ち明ける勇気を持たず、成長するにつれ身分差を意識し、以前のように会話できなくなってしまった。
 初恋の人のたおやかな笑顔を追憶し、小さくかぶりをふって未練を断ち切る。
 「遠慮せず食え。味は保証する」
 「にゃあ」
 「猫の餌はおいてないのだ。カツオブシでもあればよいのだが……気がきかず、あいすまん」
 律儀に頭を下げれば、誠意が伝わったのか猫がしぶしぶと承服する。
 一人と一匹しかいない台所で真剣に猫を説得する貢の姿はこの場に第三者がいればさぞかし滑稽に映ったろうが、幸いにして自覚はない。
 優しく促す貢を見上げ、猫がもどかしげに前脚を擦り合わせる。
 「にゃう、にゃぐ、にゃぁ」
 「?何をしたいのだ」
 「にゃ、にゃぐ、にゃが」
 必死に何かを伝えんと、猫がもごもごとしゃべる。
 前脚をしきりと擦り合わす動作をくりかえし、背後の流しに意味深な視線をくれる猫を訝しむも、はたと気付く。 
 「手を洗いたいのか」
 「にゃ」
 漸く理解したか、この低脳めがと尊大に頷く。 
 「……………猫が、手を?」
 「にゃ」
 悪いかと眼光鋭く、猫。
 どうやら間違いない。しかし、食前の手洗いを所望するとは畜生の分際で変わってる。実に礼儀正しい。 
 はたして手洗いを希望する猫などいるものか、しかし現実に目の前にいる以上、こじれぬうちに手を貸すほうが無難だ。 
 そう判断し、軽々と猫を抱き上げてステンレスの流しに向かい、蛇口を捻る。
 「石鹸は入用か」
 「にゃ」
 勿論と首肯する猫の前脚を軽く掴み、石鹸をとって泡立てる。
 そこから先は猫ひとり、否、一匹で出来る。
 貢に両手で支えられた猫は、流しの方へと身を乗り出し、眼鏡の奥の目に真剣な色を宿し、執拗に前脚を洗う。
 「………潔癖症だな」
 貢の呟きを無視し、手を洗い終えた猫が満足げな顔で蛇口を締めようとする。
 が、締まらない。猫の手ではうまく蛇口が回らず、苦戦する。
 「にゃ、にゃぐ、にゃウ」
 ぬれた蛇口と格闘する猫の顔に焦りが浮かぶ。
 見かねた貢が蛇口を締めてやれば、余計なお世話とばかり手から抜け出し床に着地、いざ佃煮を食べようとして……
 「待て。せっかく綺麗に洗っても、四つ脚で着地しては元の木阿弥ではないか」
 素朴な疑問を発した貢の視線の先、猫が口にくわえた佃煮がぽとりと落ちる。
 愕然とした猫を苦笑気味にとりなす。
 「こうすればいい」
 背後から這いより、湿気を含んでしっとりぬれた黒い塊を抱きかかえ、懐から出した手拭いで丁寧に前脚を擦ってやる。
 猫はひどく憮然とした様子でされるがまま手を拭かれていたが、終了と同時に貢から飛び離れ、改めて佃煮をくわえる。
 味に異変があればすぐ吐き出せるよう慎重に咀嚼するも、じきにその目が輝き出し、食べる勢いが僅かに加速する。
 「………行儀が良いな」
 決してがっつかず、食べかすを零すことなく、一口ずつ控えめに佃煮を齧る猫に感心する。
 よほど良い家で飼われていたらしく、食べ方に品がある。
 「………眼鏡が邪魔ではないか?」
 はて、眼鏡をかけた猫とは面妖な。
 前の飼い主の酔狂だろうか、と首を傾げる。
 どうでもよい。
 猫が腹を満たす間に着替えを済まそうと立ち上がり、畳の間へ向かう。
 濡れて肌にはりついた服の不快さに顔を顰め、シャツの裾に手をかけ、一気に脱ぎ払う。
 立会い稽古で出来た青痣が艶めき乱れ咲く体は、細身だが鞭のように引き締まっており、脆弱さとは無縁。
 強靭な鞭の如く引き締まった上半身を外気に晒せば、悪化した寒気が氷柱の如く背筋を貫く。
 「…………まずは、湯浴みだ」
 早く体をあたためなければ本格的に風邪をひいてしまう。
 風邪をひくなど不摂生の証拠だ。
 足早に居間を抜け、台所を突っ切り、風呂へ通じる板戸を引く。
 アパートに備え付けの浴槽は狭く、貢が膝を屈め漸く入れるほどの容積しかないが、この際文句は言えない。
 手早く蛇口を捻り、湯を溜める。
 蛇口から迸る湯が栓を嵌めた浴槽に溜まっていくのを待つも、奇妙な視線を感じ振り返る。
 板戸の隙間で瞳孔の細い目が爛々と光る。
 食事を終えた猫が、板戸の隙間から遠慮がちにこちらを窺っているのを察し、その体をそっと抱き上げる。
 「外は冷えただろう。ともに入るか」  
 湯が浴槽の縁近くまで溜まるのを待ち、白い湯気が立つ中、タイル貼りの床へと猫をおろす。
 下穿きと一緒に下着を脱ぎ、脱衣籠へと入れる。
 一糸纏わぬ姿となった貢を濛々と湯気が包む。
 貢は再び猫を抱き、タイルを踏みしめて浴槽に向かい、まずは右足を入れる。
 なみなみと汲まれた湯がたぷんと波打ち、次いで左足を入れ下半身を沈めれば、脱力伴う安堵感が冷え切った体を芯から溶かしていく。
 「極楽、極楽」
 恍惚の溜め息を漏らし、爺むさく唸る。
 下から次第に身を沈め、しまいに肩まで浸かり、たゆたう湯の至福にしばし瞑目する。
 「次はお前の番だ」
 「にゃあ」
 「風呂は初めてか?怖がる事はない、すぐすむ」
 「にゃ、にゃウぅうううううゥぐ、にゃがごご!!」
 猫がぐるぐると喉を鳴らし、抗議とも制止ともつかぬ奇声を放つも、貢は構わず手を下げていく。
 「気持ちはわかるが、オスなら試練を克服する度胸も大事だ。俺も幼少の頃は父上によく禊の行を課されたが、水責めより湯責めのほうがまし……」
 「にゃがゥ、にゅぎゅ、にゃああああああああぁぐうううううううううゥるゥううううううう!!」
 唐突に猫が暴れだす。
 前脚後ろ脚を突っ張り振り回し、貢の手を逃れようと暴れ狂う激しい剣幕に戸惑い、つるりと手が滑る。
 「!?不覚っ、」
 ある意味自業自得と言えよう。
 猫が身もがき暴れたせいで支える手がすべり、哀れ猫は抵抗むなしく落下、盛大な湯柱を立て沈没。
 「大丈夫かっ、猫!」
 水面に大量の泡が浮かんでは消える。
 底まで沈没した猫を救わんとおもむろに立ち上がった貢、前を隠すのも忘れ浴室どころか薄い壁突き抜け隣室まで届く声を張り上げれば

 「立派な殺人未遂だ」 

 「!?」
 呼吸の泡噴き上げる水面が割れ、大量の湯を浴槽の縁から零して何者かが飛び出す。
 手探りで木刀を求めるも見付からず混乱を深める貢の正面、曇った眼鏡をかけた全裸の少年が場違いに淡々と言う。

 「犯した失態を数え上げればきりがないが、他を差し引いてもこれだけは許せない」

 浴槽の中、膝突き合わす距離に対座した少年の傲慢な物言いに、貢は驚愕を通り越し絶句する。
 前を隠すのも忘れ愕然と仁王立つ貢の股間を一瞥、軽んじるように鼻を鳴らし、びっしりと水滴伝う眼鏡をとる。
 露になった白皙の顔は熱い湯に浸かり上気し、水滴がやどる睫毛の意外な長さに貢の心臓は早鐘を打ち始める。

 「入浴の際は眼鏡をとるのが通例の常識だ。猫の言語も理解できないとは大脳新皮質がくらげの死体なみにゼラチン化してるぞ」
 猫が人間に変身した。

 怪異だ。
 「化かされたのか……」
 堂々前をさらし仁王立ち、呆然と呟く。
 年経た畜生は変化の術を身につけるという。
 この猫も物の怪のたぐいだろうか。
 可愛い姿と鳴き声で人を騙し懐に入り、とって食うのが本性か。
 「君は弁慶か」
 「何?」
 さすが物の怪、胡乱なことを言う。
 驚きと困惑に固まる貢の顔、深く刻まれた眉間の皺を見やり、猫から人へと変化した少年が小馬鹿にしたように言う。
 「武蔵坊弁慶も知らないのか、無知め。日本史の授業では熟睡してたくちか」
 見知らぬ少年と全裸で向き合い、羞恥と困惑が募る。
 しっとり濡れてはりつく髪の先で玉を結び、薄く端正な鼻梁に添って雫が滴る。
 少年の肌は白くなめらかで、肋骨が薄く浮く貧相な胸板を水滴が伝うさまは艶かしく、扇情的な細腰が放つ色香に思わず喉が鳴る。
 生唾を嚥下する貢をさておき、眼鏡に指を当てた少年は淡々と話し始める。
 「武蔵坊弁慶といえば、源義経の腹心として知られた怪僧だ。弁慶の死因には諸説あるが、もっとも有名なのは義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされる、いわゆる弁慶の立ち往生だ。そして弁慶の泣き所とはここをさす」
 古傷だらけの貢の脛を突く。
 「向こう脛は皮膚のすぐ下、骨のすぐ上を神経が通っているため、非常に痛みの強い急所であり、弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる。アキレス腱とともに急所の代名詞としても用いられる。また、中指の第一関節から先の部分も弁慶の泣き所と呼ばれている。これは、指の第一関節を伸ばしたまま第二関節だけを曲げると第一関節に力が入らなくなることから、あの強力無双の弁慶ですら力を入れる事ができない泣き所の意味でこう呼ばれるんだ」
 「ふんどし、ふんどし……」
 「聞いてるか、人の話を」
 「猫だろうお前は」 
 不愉快げな少年の非難を一蹴し、手探りで下着を探すも、脱衣籠は板戸の向こうだ。
 速攻取りに戻るべきか迷うも、今湯船から立つのは非常にまずい。
 腰から下が湯に浸かっているからまだしも、今立ち上がれば、一糸まとわぬ生まれたままの姿をさらしてしまう。
 究極の選択に煩悶する貢を冷ややかに見返し、少年が嘆かわしげに首を振る。
 「……やれやれ。僕の拾い主が、弁慶の泣き所の由来も知らない低脳とはな。先が思いやられる」
 「そういうお前は何者だ、いきなり人の家の湯船に現れて……破廉恥な。出歯亀のたぐいか」
 動揺しつつも言われっぱなしは癪と反骨心がもたげ、油断なく問う。
 「その言葉、侮辱と受け取るぞ」
 「ならば、猫又か」
 最前まで、湯船におとすまで、たしかに猫だった。
 しっとりぬれた毛皮の感触をまざまざと覚えている。胸に抱いた時のぬくもりと筋肉のうねり、こちらを見上げる黒曜石の瞳の利発な輝きも、鮮明に記憶している。
 少年は貢の頭の悪さを哀れむよう嘆息し、気取った仕草で眼鏡をとる。
 「君の頭の中には明治維新が訪れてないようだな。猫又などという非科学的な存在、科学全盛の現代に実在するわけがない。僕はただ、湯を被ると人に変身する特殊体質の猫というだけだ」 
 レンズを覆う水滴を指でしつこく拭う仕草にあわせ、頭部の猫耳がひょこりと揺れる。
 尻から生えたしっぽが水面下で藻の如く妖しく揺れる。優雅な動きが目を奪う。 
 落ち着け、帯刀貢。武士ともあろうものが悪戯に取り乱すな、物の怪一匹退治できず何が侍か。
 もとはといえば自分のせい、情けに負けて猫を拾った自分が悪い。拾った猫が物の怪とはついぞ気付かなかったが、自分の咎は自分で負おう。
 湯船の中できちんと正座をし、深々と吐息する。
 猛禽の如き峻険な双眸に炯炯たる眼光やどし、言う。
 「して、物の怪」
 「物の怪ではない」
 「何と呼べばいい?」
 「直と」
 「直か。よい名だ。直ぐ刃を連想させる」
 素朴に思ったままを言えば、直と名乗る物の怪の耳がぴんと張り、くすぐったげに上下する。
 本人は冷淡な無表情のまま、耳だけ感情豊かに動くさまが微笑ましいと、場違いな感想が胸に湧く。
 いかん。物の怪の策にのせられるな。
 「して、直。お前の目的はなんだ。俺に取り憑いて喰らう気か」
 「どうしても僕を物の怪に分類したいらしいな」
 直が憮然と腕を組む。
 「僕が君を食うなど物理的に不可能だ、体積を考えればすぐわかるだろう。人など食べたら消化不良をおこす」
 「ならば……」
 「恩返しだ」
 迷惑な、と言わんばかりに吐き捨てる。 
 「認めたくはないが、君は僕を助けた。のみならず家に連れ帰り、奇妙な餌を振る舞い、風呂に入れた」
 「奇妙な餌とは失敬な、苗の手作りの佃煮だ」
 「変な味がした」
 「嬉しそうに食べていたではないか」
 「空腹は最高の調味料だ」
 しれっと言い放ち、湯浴みで上気した顔に眼鏡をかけ直す。 
 「僕としても不本意だが、以上の理由から君を恩人と認定し、これより恩返しを敢行する」
 「恩返しだと?」
 妙な雲行きになってきた。
 性急な展開に混乱する貢をよそに、直は湯から上がり、浴槽の縁に手をかけ外に出る。
 湯が伝う素足でタイルを踏み、華奢な背中をさらし、台座の後ろに跪く。
 「来い」
 顎で命じられ、よくわからないまま渋々腰を上げる。
 貢が出たはずみに水面が大きく波打ち、縁から溢れ出した湯がタイルを浸す。
 「恩返しなど、気を遣わなくてもよい。俺が勝手にしたことで、お前が義務を感じる事はない」
 手近の手ぬぐいをとり、前を隠す。
 「同感だ。僕を拾って餌を振る舞い湯に入れたのも全部君の独断、君が勝手にした事だ。もちろん恩義など感じないが、それでも義務は発生する。厄介な体質に生まれたものだな、僕も」
 自嘲的に笑い、貢が台座に腰掛けるのを待ち、手のひらで石鹸を泡立てる。
 「何をする気だ」
 「黙ってろ」
 手拭いで前を覆った貢の背中に、手のひらがひたりと吸い付く。 
 「…………!…………」
 濡れて敏感になった肌を、泡でぬめる手のひらが緩慢に円を描き滑っていく。
 「心配するな、人間のオスの性感帯は熟知している。すぐ気持ちよくさせてやる」
 不穏な単語が焦燥をかきたてる。
 傲慢に言い放ち、直はひどく手馴れた様子で筋肉の張った逞しい背中を洗っていく。
 石鹸でぬるつく手で入念に首筋を擦り、背筋にそって往復し、絶妙な力加減で肩を揉み、肩甲骨をなでる。
 「傷だらけだな」
 直の手を、じかに感じる。
 石鹸で粘る手が、緊張に強張った筋肉を丹念に解きほぐし、火照った指が古傷をひとつずつ辿っていく。 
 「……稽古の痕だ」  
 一呼吸おき、吐息ごと搾り出すように言う。 
 「跡取りだからな。俺は。幼少のころより鍛えられた」
 前に回った手が、太股をなぞる。
 「刀傷か」
 人に触れられた事などない部位を無遠慮に触られ、むずがゆさと紙一重の曖昧な快感が湧き起こる。
 ぬれた手が太股を辿る。
 太股の古傷を繰り返しなぞられるうち、皮膚が毛羽立つような錯覚が襲う。
 「触るな」
 「体はそう言ってない」
 頑として制すも聞く耳もたず、足の付け根までさかのぼった手が、股間を隠す手拭いの端を軽く引く。
 「戯れもいい加減に……」
 「僕が好きでやってると思うか?」
 貢の背中に密着し、前に回した手で手拭いを引き、冷笑する。
 「童貞か、君は?」
 「!なっ………、」
 「手拭いが不自然に膨らんでる」
 貢が絶句した隙に素早く手拭いを引き抜く。
 外気に晒された股間は雄雄しく屹立し、残忍な手に痴態を暴かれ、貢の顔は恥辱に染まる。
 「無礼なっ………」
 台座から腰を上げ振り向こうとして、後ろから押し倒される。
 そのまま台座から転げ落ち、したたか腰を打ち仰向けになる。
 タイルを滑った台座が派手にひっくりかえり、反転した視界に直の淫らな姿態が覆い被さる。
 「まさか、手淫も初めてなんていうんじゃないだろうな」
 「悪ふざけはやめろ、猫の分際で人を茶化すなど無礼千万……」
 膂力と体格に利し押しのけようとするも、直が動くほうが早い。
 手拭いで貢の手首をひとつに縛り、自由を奪う。
 両手を縛られ仰向けに転がされた貢に馬乗り、眼鏡の奥の双眸を冷徹に細める。
 「不本意だが、しかたない」
 「…………っ、は………!?」
 喉の奥で罵倒が霧散する。
 おもむろに胸板に顔を埋め、右の乳首を含む。
 ざらついた舌が乳首をなめ、口の中で転がし、今まで体験した事もない感覚に貢は戸惑う。
 右の乳首をねぶりながら、手を使い左の乳首を捏ね回す。
 直の頭が上下するたび尖った猫耳が顎に触れくすぐったい。
 直の尻から生えたしっぽが柔軟にしなり、貢の分身に絡む。
 「や、め………」
 毛で覆われた尾が股間にそそりたつ分身をなで上げ、しごき、根元を締める。
 手と口としっぽで貢をなぶりつつ、固い胸板に耳をつけ、満足げに言う。
 「心拍数が平常値より上昇している。呼吸も荒く、顔が紅潮している。つまり……性的刺激を受け、取り乱すまいとする意思とは無関係に浅ましく興奮している」
 手拭いも千切れよと必死に暴れるも、胴にまたがった直はせせら笑いを浮かべるばかりで、貢の上からどこうとしない。
 「猫に犯される気分はどうだ、人間」
 貢は童貞だ。
 乳首を口に含まれた事はもちろん、こんな卑猥な言葉をかけられたことも、他人に分身を慰められたこともない。
 自慰さえめったにしない。自慰に耽るのは欲望を制御できない証拠だと、ずっと己をいましめてきた。
 しかし。
 「………っ……猫のくせに、なぜ……」
 直の愛撫は、驚くほど巧みに貢を翻弄する。
 眼鏡の奥の双眸を嘲りに細め、直が薄く笑む。
 「禁欲も度をこすと体に毒だ」
 貢の乳首を執拗にねぶり、精緻な指遣いで煽り立てるように性感を高め、固さを増した分身をしっぽで擦る。
 ぬれタイルが背中に吸い付く。 
 手拭いが手首に食い込む。
 屈辱に呻く貢の腰に尻を据え、屹立した分身をしっぽでゆるゆると締め上げ、呟く。
 「頃合だな」
 醒めた無表情のまま、しかしかすかに呼気を荒げ、慎重に腰を浮かす。
 直がしようとしていることを悟り、貢は大いに狼狽する。
 「これは断じて恩返しではない、恩を仇で返す所業と心得よ!!」
 貢の抗議など無視し、屹立した肉棒に己をあてがい、苦痛に顔を顰め、ゆっくりと腰を沈めー

 暴れる貢の肘が蛇口にぶつかり大量の水が噴出。

 「みぎゃっ……」
 蛇口から噴出した水を頭からまともに浴び、悲鳴を発し転げ落ちた直の姿が、みるみる縮んでいく。
 緩んだ手拭いを振りほどき、息を荒げ上体をおこした貢の視線の先、ぬれそぼった毛玉が縮かみ震えている。

 人畜無害な猫に戻った直が、そこにいた。

 「よし」
 押入れから出した布団を敷き、座禅を組み、習慣の読経を始める。
 眉間に厳しい皺を刻み一心に般若心経を唱えながらも集中力は乱れがちで、視線はどうしても隅に丸まる毛玉へと吸い寄せられてしまう。
 胸の前で組んだ手をほどき、座禅を崩し、いつ賊が押し入ってもいいよう枕元に木刀を置く。
 きびきびと就寝準備を整える貢を部屋の片隅で疑い深く光る目が監視する。
 「………今宵は冷えるぞ」 
 勇をふりしぼり声をかけるも返事は返らない。
 根気強く促す。
 「意地を張らずここへ来い。せっかく熱い風呂に入っても、一晩そこにいれば風邪をひく」 
 半ば布団に入りながらのサムライの薦めを猫は無視し、取り澄ましてそっぽを向く。
 可愛げない態度にサムライもまた気分を害し、意地になる。
 「ならばよい。勝手にしろ」
 手狭な部屋はちゃぶ台をどかし布団を敷けば一杯になってしまう。
 電気を消す。
 闇が部屋を包み込む。
 布団に潜り込み、枕に頭をのせる。
 目を閉じ、無我の闇に没する。
 尖った猫耳と尻からはえたしっぽが誘うように動き、眼鏡の奥の双眸が嘲りの光を宿す。
 『童貞か、貴様?』
 揶揄するような声が甦り、恥辱で体が火照りだす。
 武士を愚弄するなど無礼千万、時代が時代なら無礼討ちされてもしかたない。
 しかし、人の理を解さぬ畜生相手にむきになるのも馬鹿らしい。
 布団にもぐりながら悶々とする。
 体にはまだ悩ましい感触が残っている。
 眼裏の闇にまざまざと残像が浮かぶ。
 煩悩から発した妄想にしては細部までいちいち鮮明で淫らで、感触の再現さえ伴う生々しい痴態の追憶は、色事に疎いなりに人なみの性欲をもつ貢をちりちりと炙り苛む。
 猫から人へと変化した直の白い肌、湯気に巻かれうっすら上気する細い首筋、雫が伝う貧相な胸板とそれに続く痩せた腹筋が次々と眼裏に甦り、欲情をそそる。
 俺に衆道の気はないし男色の趣味もない。
 そう断言し力強く否定するも、網膜に焼き付いて離れない直の裸身に鉄壁の意志が揺らぐ。 
 相手は猫だ。しかもオスだというのに、何故、こうも狼狽する?
 男同士が風呂に入ってもふしぎはない。
 俺とて幼い頃は従兄弟の静流と風呂に入った。
 静流は俺をよく湯船に沈めて遊び、それ故一時期風呂恐怖症になった。
 しかし、それも過去のこと。風呂恐怖症を克服した今の貢なら、猫耳しっぽが付随した物の怪と混浴したところで取り乱しはしない……はず。
 人に仇なす物の怪なら斬り捨てればよい、経を唱えて退散を願う選択肢もあった。
 が、サムライはそうせず、まだ直を部屋においている。
 あんな忌まわしい事があった後というのに。
 「…………………」
 不甲斐なさに唇を噛む。
 武士の分際で刀がなくば何もできないとは情けない。
 風呂場で襲われた時も咄嗟に反応できず、手を縛られ転がされ好き放題に弄くられる醜態をさらしてしまった。
 肝心の木刀は脱衣所におきっぱなしで役に立たなかった。賊が侵入したときのためにと常に身に帯びていたが、入浴中ばかりは油断した。
 しかたない、アパートの風呂はただでさえ狭いのだ。ひとり入れば満杯になってしまう浴室に木刀など持ち込めば邪魔になるのみならず、壁や床や浴槽の内にぶつけて疵をつけてしまう。壁や床ならまだいいが、膝や脛は痛恨の極みだ。
 失策を真剣に悔やみ反省する一方、他人の手により導かれた体の変化に戸惑い、うろたえる。   
 石鹸に泡立つ手が体を這い、栓するように乳首を抓るたび、生まれて初めて体験する淫靡な感覚に翻弄された。
 ぬるつく手が表面をすべり、体の疵ひとつひとつをじゃれるようになぞっていくたび、腰の奥の熾火をかきたてられた。
 他人の、それも男の手に体を弄ばれる屈辱は筆舌尽くしがたいが、直の愛撫はおそろしく巧みで、あのまま続いていれば最後まであらがいきる自信はなかった。
 細い指先が鎖骨を辿り、胸の真ん中を割って縦断した時の背筋に電流が通るような戦慄は……快感、あるいは性感と呼んでさしつかえない。
 一貫して、技巧を凝らした愛撫に翻弄された。手首に食い込む手拭いの擦れ具合がもどかしい刺激となり悦楽の波紋を広げた。
 『猫に犯される気分はどうだ』 
 眼鏡の奥で意地悪く、嗤う。
 「……………っ………………」
 艶かしく上気した顔とさめきった目の取り合わせが、倒錯した劣情を煽り、生唾を飲む。
 巧みに責め立てる細指と、誘うような細腰。
 濡れそぼった黒髪をへばりつかせ、観察対象に注ぐような無機質無感動な視線を眼鏡の奥から注ぎ、独立して動くしっぽでゆるゆると貢自身を擦る。
 しっぽで分身を擦られる感触はくすぐったさと痒みを伴い、しっぽの毛羽立ちが敏感な肉を摩擦するごと、前が角度をもたげていくのがわかった。
 手が、前に伸びる。 
 ズボンの内へ潜り込んだ手が、さらに下着の中へと入り、無造作に己を掴む。
 予想どおり、熱を持ち猛っていた。
 充血した棒を手のひらに包み、軽く動かせば、矢の如く鋭い性感が芽生える。
 自然と息が上がる。
 油断すると声が漏れそうになるのを奥歯をかみしばり堪え、最初は緩やかに、次第に勢いをまし、己を浅ましく擦りたてる。
 「はっ………、は………、」
 手が勝手に動く。
 目を固く閉じる。
 瞼裏に浮かぶのは初恋の苗の微笑みではなく、風呂場で目撃した直の淫蕩な裸身と放埓な痴態。 
 なんたる浅ましさ。恥を知れ、帯刀貢。
 苗への淡い慕情が直接的な愛撫に打ち消され、苗の素朴な微笑みが直の薄笑いに取り代わり、己をしごく手がますます加速する。
 布団に顔を突っ伏し、呻きを押し殺す貢の耳に、磐石の威厳を備えた声が甦る。

 『武士にいちばん必要なものはなんだ、貢』

 いつだったか、道場で向かい合った父が言った。
 父・莞爾は、貢が幼児の頃から真剣を持たせ、帯刀の跡取りにふさわしい人間足るようにと厳しい稽古を課してきた。
 一段高い床の間に座す父に対峙し、凛々しく背筋をのばし、貢は即答する。
 『は。忍耐かと』
 『そうだ』
 我が意を得たりと首肯し、おもむろに父が動く。
 床の間から腰を浮かしたかとおもいきや脇の鞘から刀を抜き放ち一閃、白銀に光る刃の先を、息子の顔面にひたと突き付ける。 
 貢は瞬きひとつせずこれを受けた。
 姿勢ひとつくずさず、顔色さえ変えず、斬と空を切って鼻先に静止した刃を見詰める。
 あと一寸目測がくるっていれば、額が断ち割れていた。
 緊迫した静寂の中、片膝立ちの構えから刀を抜いた莞爾の闘気を練り上げた眼光と、貢の沈着な眼光とが斬り結ぶ。
 『これが忍耐だ。剣圧を耐え瞬きを忍び、肉を斬らし骨を断つ極意こそ、侍が侍たるあかしよ』
 刃を引き、床の間に腰を据え、莞爾が訓戒を垂れる。
 『黙して動かず、己が身を危険にさらし、刀の筋をぎりぎりまで見極める忍耐こそ武士に必要なもの。仮に今、お前の額が断ち割れたとして……額の薄皮一枚と引き換えに、敵の隙に付け込めるなら安いもの。反撃が間に合わなくば、間に合うよう抜き放つ修練をつめばいい。飛燕の如く速くしなやかに、額を裂いた太刀が頭蓋を割るまえに、相手を斬り払うのだ』
 忍耐。
 今の自分に足りないもの。
 父の声に罪悪感と不覚の念が募る。今の貢を見たら莞爾は激怒する。
 これまでは自制できた、耐えていられた。
 身分違いの苗への恋情も、心許せる相手をもたぬ孤独も、鉄面皮の下に隠し恬淡と生きてこれた。しかし今、堰を切ったようにあふれ出した感情の奔流が身の内を席巻し、擦れ合う手から発した熱が、早鐘の鼓動と共に脈打ち広がっていく。
 「………ふ……、っ…………」
 こめかみを伝う汗が点々と布団に染みる。
 噛み締めた唇が切れ、口の中に血の味が広がる。
 四つんばいになり、不器用に腰を浮かせ、股に突っ込んだ手で充血した棒を擦り立てる。
 一度付いた火はなかなか消えず、燎原のように燃え広がるばかり。
 父の厳格な言葉が、冷徹な眼差しが、侮蔑に歪んだ口元が貢の至らなさを責める。
 しかし、若い昂ぶりを持て余した貢は衝動に駆り立てられるがまま無骨な手付きで己を慰め、擦り、粘液を指にすくっては塗りこめ、拙いながら技巧を使い、快楽を貪り得んとする。
 捌け口をもとめ疼く体、火照る肌。
 異様に喉が渇き、全身の汗を吸った寝巻きが鬱陶しく纏わる。
 ばらけた髪が額に濡れ被さり、瀕死の獣のような息が乾いた唇から漏れ、布団に埋めた顔を苦痛と恍惚が綯い交ぜとなった官能の波がさらう。
 手の中で固さ太さを増した棒を夢中でしごき、乱れた呼気のはざまから、掠れた声を絞り出す。
 「俺、は。武士の風上にも、おけん」
 体が熱い。
 布団は大量の汗を吸ってしっとり湿り、手の中で屹立した肉棒はずくんずくんと疼き、眉間に煩悶の皺が寄る。
 余った手で布団の端を掴み、腰を浮かせた貢は、衣擦れの音も性急に、自慰の経験など数えるほどしかない不器量な手付きで慰めるよりは痛め付けるように己を鑢がける。
 直の様子が気になり、最前までいた場所を無意識に目でさがすも、黒猫は闇に同化して完全に気配を消している。
 消えた戸惑いより、醜態を見られずにすんだ安堵がまさる。
 「……はっ………」
 猫の不在を疑問に思うも手は休めず、欲望に挫けた己を罰するように、擦り剥けるほど力をこめ上下する。
 摩羅の先端がびくんと痙攣し、根元まで張り詰める。
 絶頂が近いと悟り、喉の奥で低く呻くー

 「醜態だな。僕ならもっと、強烈な性感を与えてやるが」

 高慢な声とともに、貢の体になにかがのしかかる。
 驚き、手が止まる。
 行為を中断した貢の枕元に、直がいた。
 何をしていると声を上げるより早く、猫特有の敏捷性を発揮し、貢にじゃれかかる。
 四つんばいになった貢を布団に転がし、腹の上に座るや、眼鏡越しの双眸を酷薄に細める。
 モルモットの交尾を観察する科学者さながら、熱のない目。
 「ずっと見ていた。口では抗っても所詮は染色体XY型人間のオス、生理現象には逆らえないか。僕の優秀なる頭脳が計算した巧みな刺激によって限界まで勃起しているようだがー……」
 直が騎乗位で不敵に笑む。
 最初からこうなると予想していたと言わんばかりに勝ち誇った笑みで、宣言。
 「助けはいるか?」

 前髪が風を孕み、一瞬舞ってから額に落ちる。
 「俺に二度乗るとは、命が惜しくないと断じてよいな」
 備えあれば憂いなし。
 枕元の木刀を咄嗟に抜き放ち額に突き付ける。
 「こりずに寝込みを襲うとは、一宿一飯の恩義を仇で返す色猫め。いつ人に化けた」
 「……凄いな。小数点以下の速度だ。眼鏡で視力補助した目でも捉えきれなかった、瞬発力と反射神経は猫をも上回る」  
 貢の上に跨ったまま直が感心する。
 隙を見せぬよう肘つき上体をおこし台所に目を走らせるも湯を沸かした形跡はない。
 いぶかしむ貢にあっさり正答を与える。
 「一人暮らしの盲点をついた。風呂の栓を抜き忘れていたぞ」
 「あ」
 不覚。
 姿が見えないと思ったら、風呂の残り湯に飛び込んで再び化けたらしい。 
 「いいからそこを退け。重くて寝れん。漬物石がのっているかと思ったぞ」
 力尽くで退かすのも考えたが、なるべく暴力はふるいたくない。この期に及んでも貢は甘い。
 「いいのか、この状態で退いても。苦しいんじゃないか」
 あざわらう態度に血が上る。
 木刀の切っ先に力をこめ、猛禽の双眸に威圧の光をやどし、沸々と込み上げる怒気を抑制して低い声を出す。
 「退くか、去るか、斬られるか。ひとつ選べ」
 極限まで引き絞った弓弦の如く殺気を放つも、非情に徹しきれぬ惰弱な心の一部が迷う。
 無益な殺生は好まぬ。黙って退くならそれでいい。しかし、あくまで拒むなら、実力行使も辞さぬ。
 そう意気込んでみた所で、そぼ降る雨の中鳴いていた猫を拾い上げたのはこの自分。ならば今の状況とても自業自得だ。
 瞳の奥の揺らぎを見抜いたか、直が高飛車に腕を組む。 
 「良い機会だ。無知な人間に教えてやる」
 退く気はないようだ。
 いつまでも見下ろされるのも腹が立つ。
 が、下手に動けば硬直が擦れて固さを増し、密着した部位からもどかしい熱感が広がるため膠着する。
 額に脂汗を滲ませ、腰が引け気味に木刀を構える貢に対し、直はレンズにふれる。
 「フレーメン反応を知ってるか」
 「ふれ、めん……剣道か」
 虚を衝かれた貢の無知を哀れむようにため息ひとつ、講義口調で話し始める。
 「猫はフェロモンを感じる器官が口内の上顎にあり、これをヤコブソン器官または鋤鼻器官という。猫はフェロモンを感じると口を半開きにし、目を半分閉じて笑っているような表情をするが、これはフェロモンを分析している行動である。これによりネコがどういう状態にあるかを分析する。マタタビの果実やイヌハッカの匂いを嗅ぐと、ネコは恍惚として身悶えるような反応を示す。これは匂いに含まれるマタタビラクトンやネペタラクトンなどの物質にヤコブソン器官が反応し、ネコに陶酔感をもたらすためと言われている」
 「それがどうした」
 困惑して問えば、わからないのかとばかり侮蔑の眼差しを放たれる。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、眠たげな半眼で言う。
 「僕は今、君にフレーメン反応を示している」
 まじまじと直を見詰める。
 瞼を半分おろし、笑いたいのを堪えているかのような奇妙な表情に、どう反応したらいいか困る。
 解釈に苦しむ貢に、こめかみをつつき言葉を選ぶ。
 「比喩表現を用いれば、君は僕のマタタビということだ」
 ますますもって戸惑う貢にさじを投げ、直裁に言う。
 「読解力のまずい無知な人間のため意訳すると、簡潔に発情しているという事だ」
 落ち着き払った様子からはとてもそうは見えないが、自己申告されては事実と認めるほかない。
 「待て。お前が発情してるのはわかった、猫ならばそれもしかたない。しかし、俺にその気はない。断じてその気はない」
 「浴場で欲情したのにか」
 「あれは不可抗力だ」
 「布団の中でマスターベーションに耽っていたのに」
 「畜生相手にさかるなど人道にもとる!」
 声を荒げる貢の上に座し、一瞬思案顔を見せるも、吐き捨てる。   
 「武士の癖に情けない。所詮口先だけか」 
 「何?」
 暴言に気色ばむ。
 「武士は忍耐が信条だというが、要するに僕のテクニックに耐え切る自信がないから、理由をこじ付けて逃げているんだ。違うか。僕のテクニックに翻弄され痴態を晒すのが恥ずかしくて、凶器で脅して退散を強要する卑劣な策に出るとは、武士の誇りはどこへやった?」
 「馬鹿なっ……畜生の分際で恥をしれ!」
 「都合が悪くなるとすぐ種族差を持ち出す。呆れた男だな。その畜生のテクニックでみっともなく股間を腫らしたのはどこの誰だ?そう貴様だ。そうして抗うのも、ふたたび醜態を演じるのがいやだからだろう。つまり君はすでに敗北を認めてるんだ。人間のメスと性交渉をもつ以前に僕によって快楽を教え込まれ、そんな自分に動揺し、今またしっぽと肉球を駆使しためくるめくテクニックを体験すれば今度こそ堤防が決壊すると危惧し逃げを打つ……」
 「畜生如きの戯れに取り乱す俺ではない!」
 挑発に乗じ豪語すれば、直の口元が不敵な弧を描く。
 「言質はとったぞ」
 まずい。
 武士の矜持に泥を塗られ喝を飛ばした己の愚を悟るも、直は腰をずらし下へ下へと移動を始める。
 やめろ、と叫びたいのを自制心を総動員し堪える。
 武士たるもの、一度口にした事は撤回できぬ。
 木刀を掴んだまま、しかし振り下ろす先を失い動揺する貢の股間を覗き込み、直が冷めた口調で批評する。
 「平均よりやや大きめ。口に入れるのは少し苦しそうだな」
 言うなり無遠慮に手を触れる。
 「!」
 根元を持った手が先端にかけゆるゆると動き、脊髄から背筋へと微電流が走る。
 「………っ、…………は…………」
 「声を出せ。我慢は体に悪い」
 両手に持ち、指を器用に動かし、薄皮をむくようにもどかしい快感を伝達する。 
 直の手から伝わる熱と感触が、敏感な部分に血を集め、噛み締めた歯の間からかすれた吐息が漏れる。
 自分でするのと人にされるのと、こうもちがうものか。
 木刀に指が食い込む。
 額に脂汗がにじむ。
 恥辱と憤りで目がくらみ、早鐘をうつ鼓動にあわせこめかみが生き物のように脈打つ。
 布団に汗じみができるのを気にする余裕もない。
 力任せに己をしごくときとはまったくちがう精巧な指遣いが生み出す快感は遠回りしてもどかしく、性感帯を知ってるからこそ核心を避け、じらし、勃起の硬度と射精の瞬間を調節する手つきに呻きが漏れる。
 「この程度………で、……声など出す、ものか」
 貢の股間に抵抗なく顔を埋め、苦い上澄みを吸い上げる。
 「頑固な男だな」
 手と口を同時に使い、硬直に舌を絡ませ、顎の角度をこまめにかえ唾液を塗りたくる。
 木刀を持たぬ方の手で直の頭を押さえ込む。
 股間に押さえ込まれても抗議せず、猥褻な行為に没頭する。
 引き剥がそうとしたのか促そうとしたのか、後頭部を覆う手に圧力がかかるも、直は素知らぬふりで硬直を口に含み、唾液を泡立てる水音も卑猥に抜き差しする。
 「一回り大きくなった。感度も良好だな」
 「………………ぐ……………、」
 「苦しいなら、だれか別の人間のことを考えろ。僕は代替品だ。君はただ、快楽に身をまかせればいい」
 どこか自嘲的な台詞に、その一瞬だけ、貢は正気に返る。 
 「ならん」
 「何故だ」
 直の言葉に誘われ去来した苗の面影に妄想が膨らみ、想像の中の苗もまた服をはだけ、艶かしい姿態を見せる。
 初恋の女、貢が接してきた数少ない異性の中で一際優しい女の面影を否定し、脂汗が流れ込みぼやける目で、まっすぐ直を見据える。
 「お前に、失礼だ」
 直の動きが止まる。
 「……お前に、含まれながら、別の女の事を、考えるのは………苗にも、お前にも、失礼だ……」
 直を、想い報われぬ相手の身代わりにはしたくない。
 たとえ本人が希望しても。
 それでいいと言っても、貢は否と言う。
 この行為が貢の望んだ事ではなくても。
 貢の意志に反し、武士の意地に付け込む形で一方的に行われているとしても、直に含まれながら別の人間に想い馳せるのは、最低の不義だ。 
 「………面白いじゃないか」
 皮肉げに呟く。
 「僕を代替品に使わなかったのは君が初めてだ。前の拾い主もその前の拾い主も僕の舌と手と粘膜だけ利用して、別の人間の事を考えていたのに」
 一瞬、直の瞳に乾ききった寂寥感が過ぎったのは気のせいか。
 レンズの向こうで観察するふうに目を細め、さっきまでとはどこか違う、細心の手つきで貢のそれを持つ。
 「なら、僕の事だけを考えろ。他の人間のことなど考えるな。全神経を集中し、僕の手と舌の動きを感じろ」
 深々と貢を銜える。
 口一杯を満たすそれに懸命に舌を絡ませ、それぞれが連動して技巧を凝らす手指を根元に這わせ、絶頂へと導いて行く。
 「頃合だな」
 ひとりごち、唾液に塗れたそれを口から抜く。
 射精寸前で塞き止められ、胸を浅く上下させ、物問いたげに直を見る。
 口から引き抜いたそれを片手で支え、慎重に腰を浮かし、自らの尻へとあてがう。
 楔穿つ苦痛に顔歪め腰を沈めつつ、どこまでも傲慢に宣言する。
 「感謝しろ。特別に僕の中で射精に至るのを許可する」
 
 堪忍袋の緒が切れる。
 「俺をなめるな」
 高慢な言い草が逆鱗に触れる。
 レンズの奥、怜悧な知性を帯びた切れ長の目に動揺の波紋が広がる。
 低く剣呑な声で威圧すれば、触れ合う部位からかすかな震えが伝わる。
 今だ。
 素早く体を入れ替え組み敷く。
 貢の奥で荒々しい獣性が目覚める。
 今まで必死に抑制してきた男の本能、抑圧してきた雄の欲望に憤怒の火が点く。
 腰にのられ好き放題いじくりまわされ醜態を演じ、武士の矜持に泥を塗られた。
 辱められた腹立ちが暴発し、直の華奢な肩を押し倒し、剣で鍛えた膂力に利して布団に縫いとめる。
 無抵抗に倒れこみ、布団と接触した拍子に眼鏡が鼻梁にずりおちる。
 背中から倒れこんだ直にのしかかり、形よい耳朶に口をつけ、獣じみて荒い息を吐く。
 「いつまでもされるがままとおもうな」
 直の舌使いによって勃起した男根が外気に晒され敏感にひくつく。
 口腔の熱い温度と潤いの感触に同化した肉棒は、粘着な唾液に塗れ淫猥に濡れ光り、先端から透明な汁を分泌する。 
 技巧を凝らした舌使いにより、外気に晒されただけで反応するほど過敏に仕上げられたそれは、下腹の翳りから勇猛に屹立する。
 「犯る気になったか?」
 相変わらず人を食った顔と口調で直が言う。
 挑発的な眼光と皮肉な笑みの取り合わせがぞくりとする色香を醸し、脊髄が官能に震える。
 これは、俺の望んだことではない。こんなつもりで、直を拾ったわけではない。
 ただ俺は。そぼ降る雨の中、ダンボール箱に捨て置かれた子猫に、情にほだされ手をさしのべただけだ。
 家に連れ帰り、佃煮をふるまって。
 風呂に入れ、布団を敷き。
 人に懐かぬ猫だった。
 気位の高い猫だった。
 ツンと取り澄まし、しっぽをたれ、観察するような無感動な目でしずかにこちらを見詰めていた。
 人慣れぬ猫に愛着を感じた。
 身の内に飼う孤独が共鳴した。
 人を敬遠し敬遠され、意地でも孤高を貫き通す直が愛しかった。
 拾った猫におのれを投影していた。
 行儀よく佃煮をつまむ姿は微笑ましく、風呂をいやがり暴れる様はたいそう滑稽で、一緒にすごす時間が長引くほど愛着が増した。
 貢は孤独だった。
 自分が孤独であると、それがわからないほど長く孤独と折り合ってきた。
 無味乾燥に片付いた殺風景な部屋。
 ちゃぶ台と冷蔵庫、箪笥があるきりの、寂とした隠居の住まい。
 訪ねる友人知人もなく、道場と往復する以外出かける用もなく、褪せた天井からぶら下がる豆電球の下、手慰みに俳句をひねり経を読むごとに寂寞とした感情が募った。
 貢は人と触れ合うのが不器用だ。
 苗に想いを打ち明けることもできず、思春期に入ると身分差を意識し、自然と距離をとってしまった。
 不甲斐ない。意気地がない。情けない。俺は、武士の風上にもおけん。こんな惰弱な心、武士にふさわしくない。
 心のどこかで虚しさを感じていた。武士の理想に近付けぬ自身の弱さを恥じて憎んでいた。

 俺の心は、どうしてこうも揺れやすい。
 無愛想無表情で近寄りがたい印象の貢だが、その心は存外脆く、些細なきっかけで感情の堰が決壊しそうになる。

 今も。
 押し倒した直を至近で見詰め、貢はみっともなく狼狽していた。
 異常に喉が渇く。口の中が干上がっていく。
 直はひどく落ち着き払ってこちらを見上げている。
 相変わらず冷ややかな無表情で、傲然たる自信を漂わせ、冷徹な観察者の視線で反応を探っている。
 貢は服をはだけ、鍛え抜かれた上半身を晒している。
 細身だが柳の鞭のように引き締まった体。
 直の肩を戒める鉤手には、殺気じみた握力がこもっている。
 「どうするんだ?」
 抑揚なく、直が聞く。
 頭に生えた耳の片方を動かし、酷薄に目を細める。
 「代替品にするのか。抱けない異性の代わりに、性交するのか」
 自分で「抱け」と命令したくせに、その声は、懐疑と嫌悪を孕んでいた。
 「ちがう」
 苗の身代わりに直を抱くのは、どちらにも無礼にあたる。
 断固として首を振る貢をいぶかしげに見上げる。
 長い睫毛が縁取る切れ長の目が、薄墨に一滴水を落としたような不審の色を浮かべる。
 自身の心臓の鼓動が鼓膜に反響する。
 体内を巡る血流が勢いを増し、直の肩を抱く手が悩ましく火照る。
 「俺は、お前を抱く」
 口に出した途端、急激に膨れ上がった欲望を自覚する。
 苗の、だれかの身代わりとしてではない。
 貢は他の誰でもない、目の前のこの少年に劣情を催していた。
 風呂で目撃した裸身が網膜に焼き付き、残像が理性を苛む。
 貧弱に薄い胸板も、上品な鎖骨の窪みも、体の表面をゆるやかに伝う水滴も。
 濡れそぼって額に纏わる黒髪も、湯浴みで上気した目尻も、秀麗な鼻筋も、繊細に尖った顎も。
 湯船で膝突き合う距離にいた直の裸身が頭にこびりつき、振り払おうとすればするほどつきまとい、貢が修行の邪魔と奥底に蓋をして抑え続けてきた雄の欲望を炙りたてる。
 直の存在自体が、毒だ。
 もともと色事には淡白な貢さえも、手と口の技巧を駆使した大胆な誘惑にはかたなしだった。
 この感情をどう説明したらいい。
 溶岩のようにうねり荒れ狂う、激情を。
 苗への優しい慕情とはちがう、目の前の少年を組み敷いて犯したいという強烈な征服と陵辱の衝動を、なんと呼べばいい。

 「俺はつまらん男だ」

 しぼりだすような独白に、ばらけた前髪の向こうで、直が問いたげな目を向ける。

 「口下手で空気も読めん無粋な男だ。ろくに友もいない。もちろん、恋人もいない。物心ついた頃から剣の道一筋に生きてきて、他に誇れるものもない。……今も。どうすればお前を楽しませることができるか、見当がつかん」
 「楽しませるだと?」

 虚を衝かれた直に律儀に頷き、生白い頬にそっと手を添え、ぎこちなくさする。 
 どうしようもなく不器用だが、限りない優しさの伝わる手つき。

 「お前を拾ったとき。生き物を飼う資格があるのかと、自問自答した。無粋な男の独り暮らしで、仮に連れ帰っても、不自由な思いをさせるかもしれん。もっと他に、俺の後に通りかかった人間が拾ってくれるのではないかと……そう思った。こんな面白みのない男に拾われて、猫も迷惑するだろうと」

 貢の手は骨ばっていた。
 物心付いた頃より剣を握り続けた手は節くれだち、本来柔らかいはずの掌は鞣革に変化し、深々と刀傷が穿たれている。 
 繊細さのかけらもない手。
 人に触れようとすれば、忌避される手だ。
 しかしその手は、これまで彼を拾った誰より誠実に、直の頬をさする。
 疵だらけの無骨な指から染みる体温が、凍えた体をあたためていく。

 「だが、拾ってしまった」

 冷えた頬を手で包み、切実な心情を吐露する。

 「冷たい雨の中に、どうしても捨て置けず」

 どうしても、黙って通り過ぎることができなかった。見ないふりで歩み去ることができなかった。
 あの必死な鳴き声が、貢の心の奥、どれだけ鍛え上げても変わらぬ惰弱な本質に触れたのだ。
 あの時、無視できなかった己の弱さが今の事態を招いたのなら。
 貢には、最後まで直の面倒を見る義務がある。

 「…………眼鏡は、とらないのか」
 「これがないと見えない」
 「そうか」

 短い応酬の後、唇を奪う。  
 突然の行為に直が目を見開くも、反射的に跳ね上がった両手首を掴み、布団に押さえ込み、ますます深く口付ける。
 舌がもつれる激しさに前歯がかちあう。絡んだ舌から二人分の唾液がまじりあう。
 手加減など、できるわけがない。そもそも手加減のしかたなど知らない。
 性急な接吻で酸素を奪い、舌で口腔を蹂躙する。
 唾液で潤った口腔をかきまぜこね回し、歯列をたどり、上下前後左右奥まで貪り尽くす。

 「ふっ、ぁ、ぅく」

 直が目を潤ませ切なく喘ぐ。
 無表情が崩れ、苦痛と恍惚が綯い交ぜとなった陶酔の表情が覗く。
 猫耳がピクンと跳ね、尻からはえたしっぽが敏感に逆立ち、さかんに布団を掻く。

 「……こ、の……低脳、めっ……そんなふうに、したら、息が吸えない、じゃないか……僕を窒息死させたいのか?屍姦が趣味か?」

 荒い呼吸の狭間から、切れ切れに憎まれ口を叩く。
 酸欠に陥る寸前、舌を抜く。
 唾液の糸で繋がった直を見下ろし、手の甲で顎を拭いがてら謝罪する。

 「すまん。我を忘れた」

 なにか言い返そうと口を開きかけ、諦めて閉じる。
 憮然と押し黙る直の顔は淫蕩に上気し、苦しげな呼吸に合わせ浮沈する肩の頼りなさが、征服欲をかきたてる。

 「……本当に不器用だな。歯があたったぞ。口の中が切れたらどうする?口内炎ができたらなめてなおしてもらう」

 不満を言いつつ腕をさしだし貢にすがりつく。
 静謐な闇に包まれた部屋の中、一枚の布団の上で、半裸の直と密着する。
 皮膚の体温が交わり、心臓の鼓動がひとつに溶けていく。
 他人の胸に耳を傾け聴く鼓動が安心感を与えるものだと初めて知った。
 人肌触れ合うぬくもりは決して不快じゃない。
 一方的に責め立てられた時は屈辱感と嫌悪感が勝っていたが、自分が主導権を握ってみれば高揚感と快感がより勝る。

 「辛いならはやくいれたらどうだ。外で射精してしまうぞ」  

 貢の変調を見抜いたか、直が指摘する。

 「慣らすのが先だ」
 「なに?」

 直にかかる負担を懸念し、慎重な手つきで肩を遠ざけ、下へと移動する。

 「……俺ばかりよくなっては、面目が立たん」

 直は言葉を失い、自分の下腹へと顔を埋める男を凝視する。 
 今まで拾い主のだれも、そこまで気遣ってはくれなかった。
 誰もが代替品の性処理道具として直を抱き、自分の欲望を満たすのにだけ夢中になり、抱かれる側の負担など一切顧みなかった。ろくに慣らしもせず、閉じた窄まりに強引に突き入れられ、苦痛の呻きを上げた事も一度や二度じゃない。
 直は常に奉仕する側、相手は常に快楽を享受する側。
 中にはわざと乱暴に抱くものもいたが、諾々と受け入れてきた。
 その事にこれまで疑問を持たなかった。不満もなかった。
 拾い主への最大の恩返しが性行為なら、直はためらわず、体をさしだす。

 「……余計な事はしなくていい。僕などどうなっても構わない、これは僕の義務だから。君は一方的に欲望を満たせばいい、心配しなくても男を受け入れるのには慣れ」
 「俺が嫌だ」 

 ひたむきな眼差しで願う。

 「肌を重ねる相手とは心も通い合わせたい。……お前に不要な痛みを与えたくない。他の拾い主のことは知らん。これまでお前がどう扱われてきたのかも、知らん。だが、俺は」

 目を閉じ、風呂場での一件を反芻する。
 直をあそこまで過激な行為に走らせるに至った経緯を想像し、胸中に苦汁が込み上げる。

 「……お前にも。俺が感じたように感じてもらいたい」

 どもりがちに告白し、含羞に頬を染める。
 直はあっけにとられた風情で貢を見返していたが、唐突にその顔が歪み、崩れ、なんとも形容しがたい表情になる。
 泣けばいいのか笑えばいいのか判断できず、そのどちらをも選択したような、心もとない顔。

 「馬鹿だな、君は」
 「馬鹿で結構」

 毒気の抜けた直の独白に照れ隠しの仏頂面を作り、その下腹に顔を埋め、ややためらいがちに性器を口に含む。

 「ー!!ぃ、ぁ」

 切ない声を発し、直がのけぞる。
 性器を口に含むのはもちろん初めてだが、直も同じ事をしたのだと思えば、不思議と抵抗はなかった。
 細い腰を抱き、もう片方の手を根元に添え、含んだ性器にぎこちなく舌を絡める。
 見よう見まね、直のテクニックには及ぶべくもないが、少しでも気持ちよくさせたい一心で舐め上げる。

 「………っ………ぁ、ふ……あ………」

 直が切なく声を漏らす。
 貢の口腔は蕩けそうに熱く、不器用な舌使いは微妙にツボをそれていたが、そのもどかしさがかえって性感を煽り、額に汗が滲む。
 悩ましげに眉間に皺を刻み、きつく目を閉じ、貢の舌に弄ばれ徐徐に硬度を増していく体の中心に全神経を集中する。
 貢の肩に指を食い込ませ、首を振り、ちりちりと皮膚が毛羽立つ熱に炙られ朦朧と呟く。

 「口は消化管の最前端、食物を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、鼻腔と並んで呼吸器の末端ともなる……っあ、ふく……人を代表する地上脊椎動物に限らず、消化器官系の初端であり、栄養素摂取等に用いられる。多く動物の口には付属器官があり、舌や歯、外分泌器等を備え、歯による咀嚼の様な食餌の補助に限らず、外敵に対抗し身を守る手段として利用され、ぅ……」

 語尾が上擦り、途切れ、腰が浮く。

 「敏感だな」

 口の中で転がしつつからかえば、理性に逆らう腰の動きから顔を背け、くぐもる声で直が言う。

 「じれっ、たいんだ、貴様は。性感帯を逸れている。僕が感じるのはもっと下の……」

 まだるっこしい刺激に腰を揺する直を制し、窄めた舌先で尿道をくすぐる。
 技巧は直に劣るが、その稚拙で緩慢な舌使いは、尿意にも似た排泄の感覚を下腹に生じさせる。
 猫耳の先端が小刻みに動き、感電したように毛羽立つしっぽが、貢の腕に巻きつく。
 熱く蕩けた口腔が性器を包み、舌が尿道をくすぐり、唾液で浸す。
 自身が吐く息で眼鏡のレンズが曇り、生理的な涙で視界がぼやけていく。
 貢の肩を掴む手に無意識に力がこもり、腰の動きが速くなり、そしてー……

 「ふあ、ぅくっ……あっ、あ、ああっ!!」

 理性が爆ぜる。
 硬直、弛緩。
 不器用な舌使い。技巧もなにもあったものじゃない。
 ただただ必死で、ただただ誠実で。
 常に奉仕する側だった直は、こんなふうに男に奉仕された事など一度もなかった。
 辱めるためでも嬲るためでもなく、貢は直にも自分が味わったのと同じ快楽を分け与えんとしたのだ。
 射精の寸前、口から性器を引き抜いたせいで、直の下腹と太股には白濁が飛び散っていた。
 既に困憊の色濃く、布団に顔を倒して息を吐く直。
 しどけなく横たえた体に滴る白濁が倒錯的で、生唾を嚥下する。
 下腹に飛んだ白濁をすくいとり、指の間で糸引かせ、双丘の間へと忍ばせる。
 「………大丈夫か?」
 「気に、するな。僕が出したものを……潤滑油にして……慣らすんだ」
 ここまできてやめられない。
 強い決意を宿した目で促す直。
 貢はひとつ頷き、ぬれそぼつ手を双丘の間に沈め、窄まりを探り当てる。
 「!んっ………」
 初めて触れたそこはきつく閉じ、指を拒む。
 少しためらうも、意を決し、指をねじこむ。
 最初の圧迫を通過すれば、潤滑油を塗布した指はずるりと奥へすべりこみ、内壁の収縮をじかに感じる。
 「きついか」
 案じる貢の耳朶に熱く湿った吐息がかかる。 
 「足りない」
 片腕を貢の首に回し、布団に半身を起こした直が、ずれたレンズの向こうから羞恥に僅かに伏せた瞳を注ぐ。
 快感の微熱と行為への期待に潤む目の淫靡さに心臓が強く鼓動を打つ。
 理性と本能が葛藤する瞳の激しさに撃ち抜かれ、貢は息を呑む。
 「聞こえなかったか?指一本じゃ足りないと言ってるんだ……もっと……」
 体を動かすたび内に咥えこんだ指の角度が変わるのか、前立腺には届かぬ刺激にもどかしく腰を揺すり、貢を抱く。
 人外の証の猫耳としっぽをきゅっと伏せ、降参と服従を示し、貢の裸の胸にすべてを委ねる。
 
 「君が欲しい」

 人間に好意をもつのは生まれてはじめてだった。


 
 強く強く抱きしめ縋りつく手に無性に愛しさがこみあげる。
 身の内で暴風のように劣情と激情が荒れ狂う。
 欲情に翻弄され理性が千々に乱れて吹き惑う。
 「いくぞ」
 抱く手に力が篭もる。少し力を込めればたちどころに砕けてしまいそうな華奢で繊細な体躯。貧弱に薄い胸板が浅く荒く波打つ。
 「……前置きはいい……」
 「お前の饒舌が伝染ったのだ」
 「謝罪か揶揄かどっちだそれは?」
 「軽口を叩く余裕はない……俺とて緊張してるのだ」
 言葉に嘘はない。直の発情した姿態を前に理性は吹っ切れ、忍耐は限界に達した。股間の物は雄雄しく猛り、赤黒い肉がそそりたつ。
 指で押し広げた孔に慎重に己自身をあてがう。直の身がびくりと竦み、しっぽが逆立つ。
 「………っ………、」
 渦巻く恐怖と恐慌を堪えるように毛皮が覆う耳を伏せ、唇を噛む。
 尊大な口をきいてもやはり本番が迫ると怖いのか、行為を重ねれど緊張は解けないのか。
 直の心情を慮るように言う。
 「辛い目にあってきたのだな……」 
 「同情は結構だ。早く挿入しろ。……それほど柔じゃない」
 「後悔はないか」
 頷く直。
 背中を往復する手に癒されたか、徐徐に震えがおさまっていく。
 愛しさに胸が詰まる。こんな激しい感情が己のどこに眠っていたのかといぶかしむ。
 貢は直の体にできるだけ障らぬよう、ともすれば欲望に先走りそうな己に手綱をかけ懸命に自制し、骨の尖りが痛々しくも嗜虐を煽る細腰を抱え持つ。
 ほぐした孔に肉の先端を添え、慎重に腰を進める。
 「ぅあ……」
 虚勢を張っていても辛いのか、津波にさらわれ溺れるものの必死さで、貢の背に爪を立てる。
 切ない喘ぎをもらしつつ背を掻く直の内へ飲み込まれゆく貢もまた、初めて体験する感覚に目もくらむような快楽を覚えていた。
 直の内側は溶けそうに熱く、充血した襞の収縮が猛りきった肉に波及し、脊髄ごと引き抜かれそうに腰が疼く。
 「……っ………辛いか……」
 「ふぁ……童貞に心配されたくない」
 「減らず口を叩くな」
 ようやくひとつに繋がれた。どうやっていいかは体が知ってる。わざわざ教えを乞うまでもない。
 これまでさんざん直に嘲られ蔑まれてきた仕返しとばかり、華奢な体を力強く抱き寄せ、貪るように唇を吸う。
 挿入の痛みを紛らわすため唇を貪りながら腰を使い、徐徐に奥へと進めていく。
 無駄口を叩く余裕はない。
 我を忘れ直の体に溺れる、唇にむしゃぶりつく。
 直もまた接吻に応え、最初はおずおずと、次第に大胆に舌を絡めてくる。唇を割ってもぐりこんだ舌先が歯の表面をなぞり、裏をなぶる。恍惚と潤んだ目にうっすらと涙の膜が張る。口の中、一際敏感な粘膜が湧いた唾液に潤む。名残惜しげに唾液の糸引く唇を放し、貢は言う。
 「さすが猫、しっぽと耳で感情表現するのだな」
 「人間の分際で僕を観察対象にするな……あっ……」
 抉りこむように打ち込まれた腰に悲鳴を上げる。
 昂ぶる欲望と本能ままに荒々しく腰を使う。
 「あっ、あっ、あっ、あっ!」
 腰使いに合わせ喘ぎ声が弾む。
 内から巻き起こる快感が貫かれる激痛を上回る。それは貢とて同じこと。
 漸く繋がれた歓喜が砂漠の慈雨の如く胸の空虚を潤していく。直の体温と鼓動が寒々しい孤独を癒していく。
 ようやく手に入れたこのぬくもりを二度と手放したくない。出会いは偶然で必然だった。貢は無意識にぬくもりを求めた。自分と同じ孤独な境遇の猫と一目で惹かれ合った。種族の壁をこえ共鳴した孤独が、一人と一匹を結び付けた。冷え切った肌に肌を重ねれば双方の熱が交流し自然と温まりゆく。
 「俺は、お前を求めていたのか」
 欲望と願望を自覚する。
 貢の奥深くに根ざした孤独が求めるもの、その在り処を突き止める。
 一人と一匹が出会えばそれはもう独りじゃない。
 一度結ばれた縁は絆を紡ぐ。
 今日一日、色んな事があった。沛然と雨降る陰気な街をひとり傘さし歩く貢に密閉された箱の中からか細い声が呼びかけた時から運命は始まっていた。
 「あっ、ふ、あくっ、も、奥、に……」
 貢に組み敷かれ喘ぐ直、官能の吐息に儚く震える睫毛、快感に潤み陶然と濡れる目、半開きに弛緩した唇から漏れる喘ぎ……
 「お前の声はどうしてこんなに甘く響く?」
 「発情、してる、からだっ」
 「なるほど。……あいわかった」
 理性など蒸発してしまえ。
 本能に身を委ねろ。
 押し倒した直の唇に唇を重ね、舌を結び、唾液を啜る。
 「俺もさかっている。けだものの如く」
 頭部より生えた耳が伏せられ、震えて快感を示す。
 汗で塗れた前髪のむこう、涙を溜めた目が一途に貢を仰ぎ、懇願する。
 「名前を呼んでくれ」
 「直」
 「もっと」
 「直」
 「もっとだ」
 「直、直、直」
 「人間の分際で……、っは、この僕を、呼び捨てにするとは……」
 「愛してる」
 抵抗なく言葉が滑り出る。色恋沙汰につきものの軟弱さを厭う武士が、こんな気障な台詞を吐く日がくるとは、ついぞ思わなかった。  
 口下手で不器用な貢は、愚直で一途な言葉に精一杯の思いを込める。
 冷え切った肌は重ねることで熱を持ち、快楽は二乗になる。
 「ああっ、あっ、みつ、ぐ、みつ、ぐ……!」
 背中を爪が抉る。汗ばむ額に前髪が散らばる。絶頂が近い。火照った肌から匂い立つ甘いフェロモンが鼻腔をくすぐる。
 憎まれ口も忘れ快楽に翻弄される直を力強く抱きしめ、貢もまた、炎に身を投じる。
 「直………」 
 肉の楔で繋がれた直の内側が痙攣し、淫靡な襞が精を絞りきるように収縮する。
 二人同時に絶頂に達した。貢が射精に達すると同時に直もまた前から白濁を放ち、内腿に艶めかしい斑を施す。
 背に回した腕から急激に力が抜ける。
 脱力した体を気遣い、優しく布団に横たえる。
 「はっ、はっ、は………」
 汗に濡れそぼった前髪に指を絡め、ゆるやかにかきあげ、額に接吻をおとす。
 溺れる寸前に岸辺に打ち上げられたような虚脱の体を晒す直を見詰めるうち、禁句としてきた言葉が、唇から零れる。
 「これからも添ってくれるか」
 一糸纏わぬ裸身を互いにさらし、共に絶頂に達した今だからこそ、矜持の虚飾を剥いだ本音を打ち明けられる。
 皺の畝を作り波打つ布団に横たわり、肩で息する直の前髪をかきあげつつ、行為の余韻に僅かに上擦る声で貢は乞う。 
 「……そんなに僕の体は良かったか?」
 「そうではない」
 「よくなかったのか、けもののように貪っておいて」
 「誤解するな、もちろんその、そちらも良かった。練り絹のような肌だった。だが俺が言いたいのはそういう意味ではなくて、添い遂げるとは、その……わかるだろう、皆まで言わずとも」
 言外にここまで言わせるかと非難をこめ、羞恥に頬を染め、俯く。
 不面目そうに項垂れた貢の腕の中、怜悧な切れ長の目に疑問を浮かべた直が、さそわれるように指を虚空にさしのべる。
 人さし指の先端が貢の頬に触れる。
 恐怖心と潔癖症から人間との接触を頑なに拒み続けた直が、貢に体を許し、自分から手をさしのべている。
 「………興味深い人間、愚かな男だな」
 笑みに似て歪む唇が嘲弄を吐く。
 貢の頬を手で包み、冷笑する直の肌から、麝香を焚いたような甘美で官能的な匂いがたちのぼる。
 「………これ、は……」
 「猫の恩返しは一晩限り。そう契約で決まってるんだ。行為が終わり次第、僕はすみやかに消えねばならない」
 「消える……だと……」
 「特定の人間に束縛されるわけにはいかない。これは奉仕活動の一環だ。……僕の事は忘れてくれ」
 馬鹿な。
 続けようとした言葉は声にならず、鼻腔からもぐりこんだ匂いが脳に回り、眩暈が襲う。
 鼻腔の粘膜を刺激し、頭を甘美に酩酊させるその匂いは抗い難く貢を眠りに誘い、伸ばした手の先で身を起こした直を捕まえるに至らない。
 「直……どこへ……」
 「次の飼い主のところだ」
 行くな。
 声にならぬ声で叫び、必死に追い縋り手を伸ばす。
 無様を承知で抗い、無謀を承知でもがきあがき、無体に去りゆく直を呼び止める。
 直の体に変化が兆す。
 不健全に生白い素肌に漆黒に艶めく毛が生え、裸身が毛皮に覆われ、頭身が縮み、手の指が退化して丸まり肉球になる。
 猫の姿に戻った直が、布団に突っ伏した貢の鼻先で踵を返し、極端に物が少なく片付いた殺風景な和室を横切っていく。
 「な……お………」
 余力を振り絞って呼ぶ声に、もはや人語は返らない。
 退化した声帯は人語の発音が不可能だ。
 畳を軽やかに踏んで玄関に降り立ち跳躍、前脚で器用に鍵を開け、体で押してドアを開ける。
 薄く開いたドアの隙間にしなやかに身を滑りこませ、宙を泳ぐしっぽも艶やかに外へ出て行く。
 最後に一声、猫が鳴いた。
 別れを告げるようにも、謝罪するようにも聞こえた。
 閉まり行くドアのむこうで一瞬振り向いた黒瞳は冷徹な知性の輝きを宿し、畳を這って追い縋る貢を突き放す。
 伸ばした手の先でドアが無慈悲に閉じると同時に、貢の意識は失せ、無明の闇に呑まれた。
 
 翌朝、貢はからっぽの部屋で目覚めた。
 一度は夢かと疑ったが、体は情事の余韻をひきずって気だるく、布団には生々しい交接のあとが残されていた。
 夢と割り切るにはあまりに抱擁の感触は温かく、現実と信じきるにはあまりに儚い一夜の邂逅だった。
 そして直は再び貢の生活から姿を消した。
 人語を解し湯を被ると人に化ける奇妙な猫との生活は、たった一日で打ち切られた。
 喪失感に打ちひしがれる暇もなく日々は多忙にすぎる。
 貢は直との別離の虚無を埋めるため前にも増して稽古に励み、直の面影を振り切るため、座禅を組み読経に夜を徹した。
 たった一日一緒にいただけだった。相手は猫だ。それも物の怪だ。そう己に言い聞かせてみても、未練は断ち切れない。
 この手で直を抱いた。この唇で接吻した。この肉で繋がった。
 『名前を呼んでくれ』
 「直」
 刀傷が刻まれた無骨な手を握る。失ったものの尾をたどり取り戻そうとするかのように、強く、強く。
 直は猫だ。猫は薄情で無関心、人に懐かぬ気まぐれな生き物だ。人慣れず自由に生きる孤高の生き物だ。
 直は一夜限り貢の孤独を癒し、次の飼い主をもとめ、またどこかをさまよっているのだろう。
 「風邪をひいてなければよいが」
 気まぐれに直を拾ったあの日以来、冷蔵庫にはタッパに詰めた佃煮が詰まっている。
 今度来たら振る舞おうとありもせぬ想像に耽り、直の好みそうな佃煮を取り揃える貢を見て、苗は「佃煮ばかりじゃあれだし、煮物か、何か温かい物でも作りましょうか」と願い出るも、貢は「いや、いい」と断った。
 「猫舌だから、熱いものは食えん」
 月が巡り年をこえまた雨の日が巡ってきた。


 陰鬱な灰色の街に沛然と雨が降る。
 「風邪をひいたか」
 水溜りを蹴散らし歩く。
 雨で煙る視界に立つ電柱を捉える。
 電柱の脇にちんまりダンボール箱が置かれている。
 密閉された箱から今にも息絶えそうな細い鳴き声が漏れる。
 ただならぬ予感に駆り立てられ、無骨な指に似つかわしからぬ細心の手つきで蓋を開く。
 箱の内側に一匹の子猫が蹲っていた。
 凛と利発そうな目をした猫だ。
 血統書つきだろうか。
 漆黒に艶めく毛並みはさらさらと湿気を含みなお綺麗な光沢を放ち、いかにも撫で心地がよさそうだ。
 「にー」
 一人と一匹の再会だった。
 

 帯刀貢はそぼ降る雨の中家路を急いでいた。
 雨が降ると過去に拵えた古傷やまだ癒えぬ打ち身の生傷が痛む。
 加えて風邪の引きはじめの悪寒がやまず、不摂生からなる不養生に、知らず拳を握り締める。
 「精進が足りん」
 帯刀道場の跡取りが風邪をひくなどけしからん。なんたる軟弱な。
 師範を父と仰ぎ武士道一筋に身を捧げて十八年、稽古は一日も欠かした事がない。
 武士道は一日にしてならず峻烈な峰に挑むが如したゆまぬ努力の積み重ねが技を磨くのだ。
 無口無愛想で近寄りがたく思われる貢だが、人並みに喜怒哀楽の情はあり、怪我をすれば痛みを感じる。
 持ち前の鉄面皮が人に敬遠される一因だが、既に顔の一部と化した眉間の皺はいかんともしがたい。
 背筋に添う寒気と古傷の疼きに耐え、傘を握り締める手に力をこめる。
 「まだ甘い」
 帯刀家の跡取りとして一身に期待を負う貢は、武士にあるまじき不甲斐なさを痛恨の思いと共に噛み締める。
 一人暮らしを始めてもう二年。
 親元を離れての一人暮らしも慣れた。この頃は人当たりが柔らかくなったとよく言われ、門下生とも口をきくようになった。根が不器用なたちゆえ饒舌とはいかぬまでも、持ち前の誠実さ実直さで話してみれば、貢の人柄に好感を持った同年代の門下生は、意外と気安く打ち解けてくれた。
 今ならわかる。
 友がいなかったのは、俺が壁を作っていたからだと。
 眉間と同化した厳しい縦皺は消せずとも、誠意をもって接すれば、相手もまた誠意を返してくれる。 
 貢の中で何かが確実に変化していた。おそらくは良い方向へ。
 傘をさしそぼ降る雨の中家路をいそぐ貢は、途中、曲がり角の電柱のところまで来ると極端に歩調をおとす。
 癖なのだ。毎度ここにくるたび期待しては裏切られるくりかえしだが、それでもやめられない。もしかしたらと夢を見てしまう。
 雨に煙る視界に立つ電柱を捉える。
 いつもの癖で電柱の横に目を凝らし、ダンボール箱を見つけ、知らず駆け出す。
 まさか。夢か。夢を見ているのか。電柱の横に駆け寄り、無骨な指に似つかわしからぬ繊細な手つきで蓋を開く。
 「にゃあ」
 蓋の隙間からか細い声が漏れる。
 箱の中にちんまり前脚を揃え、一匹の猫が蹲っていた。
 一年前、初めて出会った時と同じ、知性をやどした利発そうな目がこちらを見上げる。
 偶然か、必然か。どちらでもよい、こうして会えたのだから。
 しかし待たされたぶん、憎まれ口もききたくなるのが人情というものだ。
 「また捨てられたのか」 
 ダンボールに傘を立てかけ、両手をさしのべ、湿気を含んだ猫の体を抱き上げる。
 「にゃああ」と抗議とも肯定ともつかず鳴く猫を大事そうに胸に抱き温め、傘を拾う。
 「相合傘と洒落こむか」
 「にゃあ」
 「お前の好きな佃煮もある」
 「にゃあぁああ……」
 胸の中で猫がもがく。
 貢の腕の中で毬藻の如く丸まった毛玉は、拗ねて背中を向けているようで微笑ましい。
 さて、拗ねた猫をなだめる方法はと思案をめぐらせ、ふと悪戯を思い付く。
 さんざん待たされた意趣返し、それもいいだろう。
 腕の中で丸まる猫に自分の方を向かせ、傘を肩に預け、鼻の先端を擦り合わせ唇を奪う。
 天と地を縫い付ける白糸が単調な旋律で傘を打つ。
 刹那、猫に変化が起きる。毛皮で覆われた獣耳が引っ込み、体毛が薄れ、素肌が覗き、漆黒の毛皮が捲れた下から肢体が生まれる。
 「!?ぶ、」
 突如胸にのしかかった重りに足を滑らせ、そのまま相手を庇い転倒する。
 相手の背中に手を回し道端に転倒したはずみに、傘が放物線を描き宙高く舞う。
 「貴様は変質者か。道端で卑猥な真似をして、僕に恥をかかせて楽しいか」
 水浸しの路上にうつ伏せた貢と胸を接し、眼鏡をかけた少年が皮肉を言う。
 「湯を被らなければ人になれないのでは……」
 「例外はある。……僕が特定の人間に発情した時、体内に特殊なフェロモンが生成され、その影響で変身を促進する」
 目を伏せがちに呟く直の頬は何故か赤い。
 風邪の引き始めだといけないと慌てて傘を手にとり被せ、目のやり場に困る全裸で蹲る直を雨から庇い、脱いだコートを着せる。
 「一緒に風呂に入るか」
 「………君が望むなら」
 余った袖を垂らし、コートに着られるようにして立ち竦み、不服そうに呟く。
 もう言葉はいらない。
 二人一緒に相合傘でアパートへの帰り道を辿る。
 猫耳としっぽの少年と長身痩躯の青年は寄り添い、歩調を合わせて同じ道を行く。

 一人と一匹の物語が始まる。

                                             END

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113855 | 編集
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