ロールシャッハテストB

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月別_2006年05月
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十五話

(2006/05/31)
 浮揚感、につぐ衝撃。
 腰骨を強打したが、下が柔らかい砂だったため大事には至らなかった。地に膝をついてぺっぺっと砂を吐き出す俺の横、メガネのレンズに砂粒が付着した鍵屋崎がなげかわしげに目を細める。
 「僕の有益な助言を聞かないからだ。前方に穴があると指摘しようとしたのに」
 「無駄な知識ひけらかすしか能のねえお前がたまに有益なアドバイス混ぜてもわかんねえんだよ、俺を含むその他大勢には!」
 「無駄?僕の知識のどこが無駄なんだ、君のような粗野な人間にはわからないかもしれないが知識を積み上げ教養を深めることによってのみ、人は高尚な精神世界に到達でき……」
 鍵屋崎の無駄口を丸投げして上を見上げる。
 前方不注意で俺が転げ落ちたのは高さ2メートル、直径1メートルの穴だ。おそらく井戸の沸く地点にあたりをつけて発掘してたのが見込みなしと放棄され、埋めなおす手間を惜しんだ連中によってそのまま捨て置かれたのだろう。鍵屋崎への苛立ちを抑えつつ斜面に爪を立ててよじのぼろうとした俺の顔面を大量の砂が叩く。
 「!?」
 目に砂が入った。激痛。明滅する視界を掠め去ったのはシャベルの残像。俺と鍵屋崎が落ちた穴の周りを囲んでいるのはシャベルを持った凱と取り巻き一同。俺たちが穴に落ちて足止め喰らってる間に追いつかれたらしい。
 ザッザッザッ。
 俺の目が眩んでいる間に不吉な音が連続する。見なくても何をしてるのかわかった。

 埋められる!

 砂にシャベルを突き立てた取り巻きが大量の砂を穴底に撒き、俺たちの踝までを埋めていく。瞬きして砂を追い出しながら頭上に目を凝らした俺の視界にとびこんできたのは、憤怒の形相の凱。
 卑猥に分厚い唇をゆがめた凱は、筋骨隆々たる逞しい腕をせっせと振りかざし、一塊の砂をハイペースで俺たちの頭上にこそげ落としてくる。あらたな砂が投げ落とされるより前に速攻で斜面をよじのぼろうとしたが、穴の縁にかけた手の甲に激痛。穴の縁にかけた手をシャベルで強打され、バランスを崩した俺はふたたび底へと落下。背後の鍵屋崎も同様、四つん這いのみっともない格好で斜面を這い上がろうと奮闘しているが穴の縁に立った取り巻きに指を踏まれ、手といわず腕といわず肩といわずシャベルで叩かれて落下する。
 「生き埋めなんて洒落になんねえぞ!」
 かすれた声で凱を非難するがそれこそ敵の思う壺。機械的にシャベルを上下させる取り巻き連中を顎で指揮しつつ、穴の頂点に立ちはだかった凱が野太い声で鳴く。
 「ああ、洒落のつもりはねえ。おあつらえむけに墓穴もある、ここをお前らの墓場にしてやる」
 「看守に知られたらどうすんだよ、作業中に勝手なことして……」
 「自分の立場がわかってねえようだな、レイジの腰ぎんちゃくの半半ロン」
 小気味良さそうにせせら笑う凱。
 「イーストファームの主任看守はタジマだ。タジマといえばお前の天敵。タジマはお前のことを毛嫌いしてる。そこのメガネは囚人環視の点呼時にタジマに反抗した馬鹿でタジマ秘蔵のブラックリストに追記されたのは必至。そんな問題児ふたりが蟻地獄に嵌まったところで焦った看守が駆けてつけてくるとおもうか?」
 読めた。
 「―タジマの差し金だな?」
 息を殺して問いかける。全部読めた。凱の含みありげな口調と、作業をサボって勝手なことをしているにも関わらず一人の看守もこちらに駆けてこない理由が。鍵屋崎は今朝の点呼でタジマに反抗した。問いに答えなかった、ただそれだけがタジマから見れば重大な不敬罪、ひいては反逆罪に分類されるのだ。反抗的な目つきをした、自分にそのつもりがなくてもタジマが「睨んだ」と受け取ったならもう自己弁明の余地など与えられない。タジマの息のかかった連中に「作業中の不慮の事故」に見せかけて嬲り殺される末路は目に見えている。
 タジマは自分で囚人を嬲り殺すのも好きだが、自分の気に食わないガキが看守の被支配下にある連中に嬲り殺されるのを見物するのも好きだ。そうでも考えなければいかに賄賂を渡したところで、作業を放棄して好き勝手やってる凱たちがその他の看守にまで見過ごされるわけがない。
 おそらく根性腐れのタジマが言い含めているのだろう、凱たちの暴走行為を黙殺するようにと。
 「どうだかなあ」
 凱が笑い、取り巻きたちが追従笑い。「そうだ」と言ってるようなものだ。モノクロフィルムの安い悪役を地で行く凱たちだが、その間もシャベルを振り下ろす手は止まらない。俺と鍵屋崎の頭上にザッザッと砂を投げ落としながら、得意絶頂の声でいななく。
 「真相は地獄の閻魔様にでも聞いてみろよ!」
  
 東京プリズンは地獄だ。
 ここより深い地獄に落ちるのはごめんだ。

 「鍵屋崎、生きてるか?」
 「い、きて、はいる」
 途切れ途切れに鍵屋崎が言う。無理もない、ひっきりなしに砂を投げ落とされ、既に腰まで埋もれているのだ。このままじゃ凱とタジマの目論見どおり、砂漠の墓穴に鍵屋崎とふたり埋められてしまう。冗談じゃねえ、なんでこんな理屈屋メガネと。一日始めの食堂で仏心をだしてからケチのつきっぱなしだ。こんな疫病神に関わるんじゃなかった、畜生。顔面に叩きつけられた砂を払い落とそうと腕を伸ばすしたそばから滝の如き波涛を打ち、脳天からつま先までズザザッと流れ落ちる。
 「だが、彼らが砂を投げ落とすペースとこの穴の深度を計算すれば三分と五十秒後には確実に窒息死するだろう」
 「自分の死因を冷静に分析する余裕があるなら窒息せずに済む方法を考えろ!!」
 こんな時までクソ冷静な鍵屋崎を一喝した俺も相当ヤキが回ってた。腰まで砂に埋もれ身動きも苦しくなってきた俺は、無我夢中で穴の縁へと手をさしのべる。
 プライドをかなぐり捨てて自分たちに助けを乞うつもりか、ふたたび穴をよじのぼろうと画策したか。おそらくその両方にとった凱が、残虐な喜びに打ち震え一気呵成にシャベルを振り下ろす。
 今だ!
 「!?なっ、」
 シャベルの先端が頭蓋骨を砕く間際、凱の足首を掴み、全力で引く。シャベルの軌道が狂い、凱の顔がブレる。もんどり打って斜面を転げ落ちてきた凱を踏み台にし、跳ぶ。これを見た鍵屋崎がうつ伏せに失神した凱の巨体に乗って高さを稼ぎ、おなじく生還。
 「凱さん!」
 「はやく穴の底に下りるんだ!残りは奴らを追え!」
 臨機応変、やるべきことを分担した取り巻き連中の一方が俺たちを追いかけてくる。一心不乱に走りながら口の中にもぐりこんだ砂を吐き出す。砂の混じった唾が次から次へとこみあげてくる。服の中にまぎれこんだ砂がざらざらと肌を擦る不快な感触が神経を苛立たせ、焦燥を煽る。
 「どこへ逃げるんだ?どう足掻いても檻の外には逃げられないだろう」
 育ちのよさが窺える上品な素振りで服の裾をつまみ、中の砂を振り落としている鍵屋崎。服の中に手をつっこんで乱暴に砂をはたき落とす育ちの悪い俺。
 「お前は死にたいのか?俺は死にたくねえ、だから逃げる」
 「正論だ。人間に限らず、すべての生物には生存欲求が備わっているからな」
 納得したように鍵屋崎が頷く。やっぱりこいつ頭がおかしい。
 「だが運良くこの場を逃げおおせたところで、僕らがおかれた状況が好転する見込みはないだろう?一時的に危機を脱してもその後は保障できない。いや、この場を逃げおおせた反動でもっと酷い目に遭わされるかもしれない。死亡予定日は今夜か明日か明後日か……はたして僕や昨日入所した囚人たちは、五体満足で東京プリズンを生き抜けるだろうか?」
 「未来の危機より目先の危機を考えろ」
 鍵屋崎と前後して走る俺の背後に凱の手下が殺到してくる。くそっ、無駄口叩いてる間に追いつかれた!勝手に世を儚んで浸ってる鍵屋崎なんか放っておいて、横っちょに放置されてたリヤカーの柄を持ち上げる。 
 「!?ひっ、」
 背後でうろたえた声。腹を蹴って加速させたリヤカーが一塊の追っ手に突っ込んでいったのだ。陣形を乱してリヤカーのために道を空けた手下たちの何人かは足や腕を車輪に轢かれ、悲鳴に近い叫び声をあげる。
 「くそっ、殺してやるぜ半半!」
 「あのドス汚ねえ半半と屁理屈メガネをふんづかまえて目ん玉砂で洗ってやる!」
 「ケツひんむいて俺たちのモンをぶちこんでやる!」 
 「ヤれるもんならヤってみやがれ、凱のおこぼれ舐めるしか能のねえサル山の猿がいきがるな!」
 リヤカーを避けて追いかけてきた何人かに中指を突き立てて応酬。隣の鍵屋崎がなげかわしげに首を振る。
 「君に品性を期待するのはもうやめた」
 「俺もお前との意思疎通あきらめるよ」
 まったくなんでこんなことになったんだ、と走りながら考える。
 考えるまでもない、あれもこれもそれも全部俺の隣を走るお高くとまった日本人のせいだ。どんな目にあわされようが無視して放っておけばよかったんだ、こんなやつ。コイツが先住者に絡まれる原因の八割はコイツ自身の言動にある。早い話自業自得じゃねえか。
 すべてにおいて自業自得のコイツを見捨てられなかった理由なんてのは単純だ。それは……
 「それにつけても」
 横顔に注がれる鍵屋崎のあきれたまなざし。
 「縁もゆかりもない赤の他人であるこの僕を我が身を挺してまで助けて、今もこうして一緒に逃げているとは……」
 走りながら鍵屋崎へと向き直る。眼鏡の奥の目を怪訝そうに細め、皮膚で光合成する新人類でも見たように鍵屋崎が言う。
 「まったく君は、人がいいな」
 「『いい人だな』だろ、日本人なら正確な日本語をしゃべれ!!」
 「僕は今の心情に最もふさわしい形容をしたつもりだが、生粋の日本人ではない君には意味がとりにくかったのか?」
 「俺がお前を助けたのは、」
 言葉を続けるのを迷う。鍵屋崎が妙な顔をする。
 「なんだ?」

 言えるか。ほんの少し共感したからなんて。

 勘違いしないでほしいが、俺が鍵屋崎に共感したのは「親を殺したい」と思った一点のみだ。鍵屋崎は大胆不敵にも親殺しを実行してこうして東京プリズン送りになったわけだが、俺は結局想像するだけで実行に至れなかった。
 今更それを悔いているわけではない。だが、もし―……もし俺が鍵屋崎のように親を殺していたらどうだったのだろう。
 俺と鍵屋崎はたぶん理由は違えど、殺したいほど親を憎んでいたというその一点のみが共通している。
 ただその一点だけが、俺が鍵屋崎を気にする理由だ。

 憮然と口をつぐんだ俺を鍵屋崎が不思議そうに眺める。鍵屋崎の注視がうざったかったので一喝しようとした、その時。
 鍵屋崎が消えた。
 「!?な、」
 横から消えた鍵屋崎の姿に動転し、あわてて振り返る。うつ伏せに倒れた鍵屋崎が苦悶に呻いている。わずか3メートルの距離に迫った手下がおもいきり投擲したシャベルが、鍵屋崎の踵をかすめて砂地に突き刺さったのだ。連動して倒れた柄がしたたかに背を打ち据え、バランスを崩して地に転げた鍵屋崎の顔から衝撃で眼鏡がはじけとぶ。
 1メートル離れた地点に落ちた眼鏡を手探りでさがし、膝這いになった鍵屋崎が「めがねめがね……」と当惑を深める。こんな時に!歯噛みしたい心境で回れ右し、鍵屋崎の頭上にシャベルを振りかざした手下の一人に突進する。
 「逃げろ!!」
 「逃がすか!!」
 俺の声と手下の声が交錯し、ぼんやりした目の鍵屋崎がうろたえる。手下の腹にタックルの姿勢で突進、勢いに乗じて押し倒す。俺に馬乗りになられた手下は怒り狂ってシャベルを振り回し、金属の鋭い先端がザクリと頬をかすめる。頬の皮が裂けて血が滴り、囚人服と血に黒点が染みる。
 「この野郎っ、」
 仲間に馬乗りになった俺を二人がかりで引きはがしにかかる手下、残りの一人が魚雷のように鍵屋崎にむかって疾駆。砂地に膝をつき四つん這いになった鍵屋崎はあぶなっかしい手つきで地面を探り、「めがね、めがね」としきりに呟いている。
 あんの馬鹿っ、どうして逃げねえんだよ!?
 俺の疑問はすぐに解消された。実際は逃げたくても逃げられなかったのだ。視力が悪い鍵屋崎は自分めがけて全力疾走してくるガキに気付くのが遅れ、気付いた時には既に背を蹴られて地に突っ伏し、されるがままに組み伏せられていたのだから。
 「獲った!」
 「でかした、凱さんを呼んでこ……」
 「その必要はねえ」
 地に組み伏せられた俺の鼻先にぬっと影がさす。目を細めて見上げる。逆光を背に立ちはだかっていたのは2メートルに近い巨体の男。肩までめくりあげた袖からは針のような剛毛に覆われた二の腕が剥き出され、その先の手には砂がこびりついたシャベルが握られている。
 凱は笑っていた。この時を待ち望んでいたと快哉を叫ぶ、歓喜滴る満面の笑顔。
 凱が口を尖らし、ぺっと唾を吐く。宙を飛んだ唾は狙い違わず俺の顔面に付着し、まわりを取り囲んだ取り巻き連中が爆笑する。
 「いいツラだな、半半」
 「そうやって腕を極められて地に這いつくばってんのがくそったれ台湾との混血にゃお似合いだ」
 「台湾人は犬の飯を食って犬とヤる鬼畜だから、犬の血が流れてるお前には犬の格好がいちばん似合うよ」
 「凱さんの唾で顔を洗って『中国万歳』って三回叫べば尻は見逃してやってもいいぜ」
 「口は頂戴するけどな」
 四囲から浴びせられる下品な嘲笑と下劣な野次にカッと体の芯が燃える。勝利の愉悦に酔ったけたたましい哄笑が抜けるような蒼天に響き渡り、俺の内側の温度が急速に冷えてゆく。
 「―じゃねえ」
 「あん?」
 余裕の笑みをたくわえたままうろんげに聞き返した周囲の連中に、俺はせいぜいふてぶてしく言ってやる。
 「俺の名前は半半じゃねえ、ロンだ。了解、頭可憐中國人?(わかったか、頭の可哀相な中国人)」
 凱の顔色が豹変する。
 「……請再説一次(もう一度言ってみろよ)」 
 開脚姿勢で屈みこんだ凱が鼻毛が一本一本数えられる距離にまで顔を近づける。
 「スラングでかなり崩れているが、さすがに発音は正確だな」
 凱に襟首を締め上げられた俺の言葉を横からひっさっらったのは、うつ伏せで押さえ込まれていた鍵屋崎。倍も体積がある肥満のガキに跨られ、四肢をもがれた芋虫のように無力に蠕動するしかない鍵屋崎を獰猛な眼光で射抜き、凱がおもむろに腰を上げる。凱の五指から襟首がすり抜け、窒息寸前で気道が開放された俺ははげしく咳き込む。ゆらりゆらりと高圧的に体を揺らしながら鍵屋崎へと歩み寄った凱は、優位を誇示しようって魂胆なのかズボンのポケットに手をつっこんだままの余裕ぶった風体。
 と、意外なことが起きた。
 手下たちが見守る中、鍵屋崎の鼻先をスッと素通りする凱。どこへいくんだ?いぶかしんだ俺の視線の先で凱が屈み、なにかを拾い上げる。凱が拾い上げたのは、アレはー……転んだ拍子にはじけとんだ、鍵屋崎のメガネだ。凱は妙に丁寧な手つきでレンズにこびりついた砂を拭うと、慈悲深いと見える笑みさえ浮かべてゆっくりと鍵屋崎に歩み寄る。

 嫌な、壮絶に嫌な予感がした。

 鍵屋崎の前で立ち止まった凱が、にたりと笑う。
 「なあ眼鏡、お前さっき言ったよな?ここの連中がなんでそんなに眼鏡のことを気にするのかって」
 鍵屋崎は黙りこくったままだ。妙になれなれしく変化した凱の声色に俺と同じ―…いや、それ以上の不安を感じているのだろう。素手でも十分人を殺害する凶器たりえるゴツゴツした手に眼鏡を握り締めた凱が、芝居がかった動作であたりを見回す。
 「まわりを見回して気付かなかったか?おまえのほかに眼鏡をかけた奴がいるか?いねえだろ」
 「…………」
 「ワケは簡単だ。東京プリズンじゃ眼鏡も凶器になるからな」
 どういう意味だ、とはさすがの鍵屋崎も聞けなかったようだ。眼前に迫った凱の迫力に完全に呑まれている。腰を落とした凱が無抵抗の鍵屋崎をぬっと覗きこむ。鍵屋崎を押さえ込んでいる手下に顎をしゃくり、後ろ手に封じていた鍵屋崎の手の一方を砂地に水平に固定させる。
 「顔は勘弁してやる。お前のそこそこ見られるツラをレンズの破片でミンチにするのは、俺たち全員お前のケツと口でたのしんでからでいいだろ」
 鍵屋崎の五指をこじ開けた凱が口笛でも吹きかねない嬉嬉とした様子で眼鏡を握らせ、上から強引に握りこみ、どんどん握力を加えてゆく。
 凱がなにをする気かわかった。くそっ、わかっちまった!
 「!やめ、……」

 絶叫。

 鍵屋崎の声だった。冷静沈着に落ち着き払った声か知性の深さを匂わせる皮肉っぽい言い回ししか知らない俺には、それが鍵屋崎の声だとは俄かには信じ難かった。獣の絶叫。理性が蒸発し、度を越した激痛に自制心を根こそぎもってかれた本能の叫び。
 凱の手下に押さえ込まれた俺が成す術なく見てる前で、鍵屋崎の指の間からボタボタと血が滴り落ちた。凱に握り締められた五指の内側で眼鏡の弦がひん曲がりレンズが粉々に砕け、細かく分裂した鋭い破片が皮膚を傷つけたのだ。
 これはまだほんの序の口。
 鍵屋崎の拳めがけ、勢いよく足を踏みおろし、全体重をかけた足裏で容赦なく五指を踏み砕く。鍵屋崎の絶叫が高まる。蒼白の顔面に浮いているのはおびただしい脂汗だ。鍵屋崎の指の骨が軋む音がここまで聞こえてきた。耳を塞ぎたいが、指も自由にならないこの体勢じゃ無理。せめて顔を背けたかったが、目を逸らそうとしたそばから俺に馬乗りになったガキに前髪を掴んで引き起こされる。
 砂に埋もれた拳をぎりぎりと念入りに踏みにじる。凱の足裏の摩擦熱で景色が歪みそうな錯覚に襲われ、目を凝らす。鍵屋崎は絶叫をあげつづけていた。助けを乞う余裕もないらしく、海老反りに反った体を手下が必死に押さえつけている。初対面の時から鍵屋崎が身にまとわせていた取り澄ました雰囲気なんてとうに別の次元に吹っ飛んでいた。砂まみれになって足掻く鍵屋崎の悲痛な姿に心痛める奴はここにはいない、いるのは大袈裟に手を叩いて笑い転げる奴らと砂に染みた血の匂いを嗅いで闘争本能に火がつき、やんやと拳を突き上げて凱をけしかける奴らだけ。
 「指を折ってやれ!」
 「右手が使えなくても不便はねえだろ!」
 「いや、大問題だぜ。夜の遊び相手がいなくなる」
 「ちげえねえ、こいつは最高の悲劇だ!」
 なにが最高の悲劇だ。これは最低のお遊戯だ。
 鍵屋崎の拳の上からそっと足がどかされる。叫びつかれたか、蒼白の顔で荒い息をつく鍵屋崎。そのてのひらには無数のガラス片が食い込み、べったりと擦ったように血が流れていた。てのひらの肉深くもぐりこんだガラス片を取り除くのはピンセットでも至難の業だ。青息吐息で肩を上下させる鍵屋崎をこの上なく愉快げに見下ろしていた凱が、またなにやらよからぬことを思いつく。
 「可哀相に、おててが傷だらけだなあ。消毒してやるよ」
 何かを企んだ笑顔で凱がうそぶき、鍵屋崎が力なく顔を起こす。その目は虚ろに宙をさまよっている。娑婆で暮らしてればそう味わうこともそうないだろう激痛に苛まれて意識が朦朧としているらしい。ぐったり憔悴した鍵屋崎に何を思ったか、凱が一気のシャツのズボンをおろす。
 ジャーッ、という音と共に黄色い液体がほとばしる。
 「!」
 地べたに張り付けられた俺の目の前で、凱が鍵屋崎の手に小便をかけている。出すものを出して気分爽快の凱が満足げにズボンを上げる。小便に洗い流された血が砂地に黒い染みを作る。ガラス片が食い込んだてのひらに小便が染みたのか、殆ど意識を失いかけていた鍵屋崎が億劫そうに顔をしかめた。
 自分がなにをされてるかアイツには見えているのだろうか?
 いくら眼鏡をしてないからといっても、自分の目と鼻の先で行われてる光景がわからないはずない。
 刹那、頭の中で何かがぶちぎれる音がした。
 「―調子に乗るなよ」
 意図せず低い声がした。臓腑が煮えたぎるような怒りに駆られた俺が、押さえ込まれたまま声を発したことが意外だったか、方向転換した凱が他の仲間を引き連れてこちらにやってくる。
 俺の背に馬乗りになったガキに無遠慮な手で後頭部を掴まれたまま、さらに続ける。
 「凱、お前らさんざんおれのこと半半だって罵ってくれたよな?台湾人の血がまじってる奴は犬ともまじわるだなんだ嘲笑してくれたよな?ああそうだ、たしかに俺は半半の混血だ。お前らの先祖だか親類縁者だかを殺した台湾人の血が流れてるよ、半分な。じゃ、お前らはなんだ?純血だよな。純血の、骨の髄まで立派な中国人だよな」
 後半になるにつれ聞き取りづらい早口になるのを抑えられない。俺の心の深いところに楔を刺していた理性が激情の奔流に引き抜かれ、怒涛の水圧に押し流される。
 自然と唇の端がひきつり、笑みに似たものを形作る。笑みに似た、不自然な痙攣。
 「骨の髄まで立派な―……中国人の面汚しだ」
 俺は地雷を踏んだ。そうとわかっていながら、ためらいなく踏んだ。
 びくともしなくなった鍵屋崎に砂を蹴りかけて遊んでいた凱の後方の仲間も、左右に腹心の部下を従えた凱自身も紙を洗ったような無表情になる。ここは炎天下の砂漠だというのに、凱の半径5メートル以内だけ極寒の氷室のような沈黙が落ちた。
 俺はなにも恥じることはない、と腹を括った。
 中国人の血を半分引いてる俺には、国の良心に代わってコイツらを罵る権利があるだろう。  
 「―血の濁った雑種に侮辱されるいわれはねえ」
 ざくざくと砂を踏み鳴らして大股に寄って来た凱が、ぎらぎらと血走った目で形相で凄む。毛細血管の浮いた白目の凄まじさに圧倒される暇もなく、顎が砕けたかと思うほどの衝撃、激痛。
 凱に顎を蹴り上げられたショックで舌を噛み、口腔に鉄錆びた味が広がる。続けざまにこめかみと肩と背を蹴られる。凱じゃなく奴の手下にだ。凱は東棟で最大規模を誇る中国系派閥のボスだから、「国の面汚し」呼ばわりされるのは生粋の中国人を両親にもつ他の連中にとっても最大級の侮辱だろう。
 そうとわかってて言ってやったんだ。ざまあみろ。
 どしゃっと砂にくずおれた俺の頭や肩や腹や背中や腰や太腿に蹴りをくれている連中は知らないだろうが、半半にも半半の意地があるのだ。

【少年プリズン】
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十六話

(2006/05/30)
 ズシャッ。
 顔に蹴りかけられた砂が目に入る。涙腺が焼ききれるかと思うほどの激痛。勝手に沸いてきた涙が砂で汚れた頬を洗い流して汚い染みを作る。黄土色に溶けた砂を頬にこびりつかせた俺の耳を地鳴りに似た音響が痺れさせる。
 なんだ、なんの音だ?
 空を突き上げるように浴びせられる輪郭の割れた大合唱、熱狂の歓声。鼓膜をわんわん震わせ三半規管を酔わす音の正体は、作業を放り出して我先にと飛んできた物見高い野次馬どもの罵声と怒声。騒ぎを聞きつけた囚人たちがふくれあがある好奇心を抑えきれず、看守の制止を振り切り俺と鍵屋崎がリンチされてる現場へと殺到したのだ。看守の許可もとらず作業を放棄してきた囚人どもは、警棒の罰が怖くないのかとか罰点くらうのが怖くないのかとかそんな常識的な脅しが通用する精神状態じゃない。もともと最凶最悪の少年犯罪者ばかりがぶちこまれた東京プリズンでも、イエローワークはとくにタチの悪い連中の溜まり場と噂される。砂漠での肉体労働にあてられているのは喧嘩っ早い問題児ばかり、そんな奴らが遠めに巻き起こった喧嘩の現場を目撃しておとなしく鍬を振り続けられるわけがないのだ。
 「こらっ、勝手に持ち場をはなれるな!」「貴様、だれの許可を得て……」「うるせえ、政府の犬はひっこんでろ!」「半半のロンと新入りのクソ生意気メガネがいたぶられてるなんて、こんな面白い現場見逃す手はねえ!」「夕飯のネタになるな」「たるい作業なんてやってる場合じゃねえ」「ぐずぐずしてたら終わっちまう」「はやくはやく……」くそっ、好き勝手言ってやがる。砂埃を蹴立てて駆けつけてきた囚人たちは円陣を組んで俺と凱と取り巻き連中をとりかこんでいる。
 「殺っちまえ凱!中国人の底力を見せてやれ!」
 「そんな裏切り者の半半なんて髪の毛一本残らず毟って坊主にしちまえ!」
 「砂漠の直射日光に坊主はつれえだろ」
 「おい、負けんな半半」
 「半半は気に入らねえけど凱はもっと気にくわねえから特別に応援してやる」
 「負けは覆せなくても凱のアレを食いちぎってみるくらいの意地は見せろよー」
 暴力衝動に酔った凱たちをさらにいい気にさせる殺気だった野次に混ざるのは二割に満たない俺への応援。やる気のない声でなげやりに応援されてもちっとも嬉しかねえ。
 いわれなくても、と俺は覚悟を決める。
 「!!ひぎぇっ、」
 食用蛙の潰れたようなうめき声を発して、俺の鳩尾に蹴りを食らわせようとしていたガキの一人が顔を覆う。胴に馬乗りになられているため手を使って直接殴りつけることはできないが、踵を蹴り上げて砂埃を起こすことはできる。俺が蹴り上げた砂は何人かの取り巻きの目を直撃、たまらず顔を覆ってあとじさったガキどもに溜飲をさげる。俺の上に跨った奴も例外ではなく、目に不意打ちを喰らって涙を流して悶絶していた。
 今だ!
 相手が油断した隙にはげしく身を捩ってガキを振り落とし、拘束から抜け出す。砂に手をついてゴロゴロ転がり、死角をとられぬよう素早く起き上がる。砂にまみれた囚人服を悠長にはたき清めている暇などない、俺はそばに倒れている鍵屋崎を襟首掴んで引き起こす。
 意識朦朧とした鍵屋崎の口に耳を近づけ、確かめる。
 「呼吸してるな」
 当たり前だ。激痛は激痛だが、あれ位で死ぬはずねえ。試しに鍵屋崎の眼前で手を振ってみる。焦点を失っていた鍵屋崎の視線が俺の掌へと収束し、脂汗にまみれた額に不可解な皺が寄る。
 「………三葉虫が何故現代に?今僕が見ているものが現実なら生物学と考古学の根本が覆される異常事態だ」
 「あん?」
 メガネを壊され、視力を失い混乱しているらしい。俺はまじまじと自分のてのひらを見下ろした。どう見ても三葉虫には見えない。「学界に報告しなければ、いや、その前にマサチューセッツ大学に保管されている三葉虫の化石を取り寄せてその形状が今ぼくが見ている固体と同様のものか確認しなければ」とブツブツうわ言を呟いている鍵屋崎の頬をおもいきり平手で叩いて正気に戻す。
 荒療治も少しは功を奏したようで、鍵屋崎は億劫そうに瞬きした。三度目に閉じた瞼が開いた時、鍵屋崎の目に理性の光が戻ってきた。と同時に右手の激痛を再認識したようで、鍵屋崎がぐっと歯を食いしばる。
 悲痛な顔をした鍵屋崎を冷ややかに眺め、俺は言ってやる。
 「顔じゃなくてよかったな」
 凱の言い分は正しい。
 東京プリズンじゃメガネも立派な凶器になる。もし鍵屋崎が顔にメガネをかけたまま凱の拳の一撃を受けていれば、鼻骨は陥没し額は割れ目は鬱血し、二目とつかない容貌に様変わりしてただろう。下手したらメガネの破片が目に刺さって失明してたかもしれない。伊達なら妙なしゃれっ気だすのはやめて外しておけと忠告してやりたかったのだが。
 ―いや、顔の方がまだマシだったか。改めて鍵屋崎の右手を見下ろす。細分化したメガネの破片が突き刺さった掌は酷い有り様。血と砂と尿が混ざって赤黒い泥濘に変化している。これじゃ当分シャベルは握れないだろう。おまけに凱の小便の悪臭がぷんぷんと匂ってくる。
 「―手を洗いたい」
 「すべてが終わってからな」
 すべてが終わった時は俺たちが死ぬ時だと思えなくもないが。
 鍵屋崎と背中合わせに追いつめられた俺は焦燥にかられてまわりを見回す。馬乗りになったガキを振り落としたところで、俺と鍵屋崎が凱たちの包囲網から抜け出せたわけではない。袋の中のネズミの窮状には変わりない。事実、俺たちを中心に二重になった輪の前列には凱とその取り巻きたちが立ちはだかっている。外側の輪を築いているのは暇な野次馬たち。
 「殺っちまえ凱!裏切り者を殺せ!」
 「先祖の仇だ!俺のばあちゃんは台湾人の兵隊に殺されたんだ、ガツンと仇をとってやってくれ!」
 「昨日入ったばっかの新入りに世間の、いや、東京プリズンの厳しさってもんを叩き込んでやれ!」
 「おれたちを見下してるクソ日本人の取り澄ましたツラに小便ひっかけてクソなすりつけてやれ!」
 「殺せ殺せ殺せ!」
 「犯れ犯れ犯れ!」
 イカレてやがる。
 辟易した俺の目におもいがけないものが飛び込んできた。
 野次馬の輪をくぐりぬけ、前列の輪を築いた取り巻きの一人の股下からひょいと顔をだしたのは見覚えのある面。くるくるカールした天然の赤毛の下、稚気を閃かせたアーモンド型の目。潰れた鼻に散ったそばかすが愛嬌満点の童顔に道化た風情を足している。
  
 売春夫のリョウだ。コイツまではるばる見物に来たのか。
 
 「犯れ犯れ犯れ!姦れ姦れ姦れ!」
 無邪気な笑みを湛えて華奢な拳を振り回すリョウの姿は、ぬいぐるみの芝居を見てはしゃいでるガキみたいに幼い。が、叫んでる内容は十分物騒だ。頭が瞬間沸騰した俺は取り巻きの股の下から顔を覗かせたリョウを一喝する。
 「勝手なことほざいてんじゃねえ、しまいにはヤるぞガキ!」
 「えー。ぼくお金もらわないと興奮しないタチなんだけど」
 「そっちの『犯る』じゃねえ、『殺る』だ!だいたいお前ビニールハウス担当だろ、勝手に砂漠に沸いてきていいのかよ!?」
 「勝手に沸いてきたわけじゃないよ、ちゃんと許可もらってる。ビニールハウスのスプリンクラーの調子がおかしくてさ、こっちの砂漠にいる技術者を呼びに来たんだ。そしたらなんか面白いことやってるからさ、ついでに覗いとこうって」
 話の片手間にリョウがぱくぱく摘んでいるのは、掌に盛った採れたて新鮮な苺。俺の視線を辿ったリョウがにっこりとほほえむ。
 「ああ、これ?ビニールハウスでとれたんだ。時期外れだからちょっと酸っぱいのが難だなあ、ショートケーキならちょうどいいんだけど」
 リョウが看守、ひいては男全般に取り入るのが上手いことは知ってたが、贔屓もここまでくるとアラブの石油王並のVIP待遇だ。ふと、鍵屋崎とリョウの目が合う。瞬間の表情からふたりが顔見知りだとわかった。
 「そこの身長140cm台後半、白色人種の外見特徴を有した赤毛翠眼の少年」
 「リョウだよ」
 「リョウ、君に質問がある」
 鍵屋崎が続けようとしたその時、凱の仲間の拳が唸りをあげて飛んでくる。
 「!」
 咄嗟に鍵屋崎を突き飛ばし、反対側の方角に転げる。俺と鍵屋崎の中間をむなしく穿った拳の行方を見定める暇もなく、導火線に火がついた連中が一斉に押しかけてくる。はじかれるように体勢を変え、砂を蹴立てて駆け出す。鍵屋崎の安否をたしかめる余裕はない。
 逃げる俺の背中越しに、妙なやりとりが聞こえてくる。
 「リョウ、昨日の『アレ』を持っているか」
 「アレってあれ?」
 「そう、君の商売道具だ」
 「たしかポケットに……あった!」
 快哉をあげるリョウに応じたのは淡白に冷め切った声。
 「………これはコンドームだろう」
 「ぼくの商売道具だよ」
 「君の性生活には全く関心がないし知りたくもないがこのコンドームは生地が薄い南米産だから、エイズや性病感染を防ぎたいなら安全性の保障された国産品を買え」
 「くわしいね。ひょっとして使ったことある?」
 「話を戻す」
 リョウの興味をすげなく一蹴し、右手の激痛に荒い息を零しながら鍵屋崎が言う。
 「僕が言ってるのはもうひとつの商売道具のことだ」
 「あー、もうひとつのほうね」
 ぽんと手を打ったリョウがごそごそとズボンのポケットを探り、何かを取り出す。
 それが何かを確かめる前に、凱たちに背を向けて走っていた俺の襟首に抵抗、衝撃。襟首を掴んで後ろざまに引き倒された俺は、無力に砂の斜面を転げ落ちる。俺の腰の上に跨っているのは不潔なニキビ面のガキ。膿んだニキビがぽつぽつと顔に散った脂ぎった面に下劣な笑みを湛え、うつ伏せに組み敷いた俺の後頭部を見下ろしている。
 「王手だな。雑種の野良犬は逃げ足はやくて苦労したぜ」
 「そりゃ保健所職員の気持ちがよくわかる貴重な体験だ」
 「屁理屈ぬかすな」
 軽口に軽口で答えたら肩を殴られた。俺の耳朶に後ろから口を寄せ、ガキが囁く。 
 「俺の父親と叔父貴はな、お前ら台湾のクソったれ軍隊に殺されたんだ。兄貴はまだ赤ん坊の頃に爆弾喰らって腰椎ヤラれて今じゃ下半身不随、勃つもんも勃たねえ寝たきりの身の上だ。可哀相だろ?親父が死んでから、お袋はガキ養うために日本に渡ってきた。ドブ浚いでも内職でもなんでもやって俺を育ててくれたけど、自分じゃ飯も食えねえ寝たきり兄貴の介護もあるし、毎日が血反吐吐くほど大変だった。兄貴はそんな状態で働けねえし他の兄弟はまだガキだったし、お袋ひとりで頑張ってたけど遂に限界がきてぽっくり過労死しちまった。俺は14で家を出てスラムで凌いできた。生きてくためなら殺しも盗みもなんでもやった、おかげで今こうして東京プリズンにいるわけさ、お前ら台湾人のおかげでな!」
 言いがかりとしか思えない粘着質な囁きにカッとして、おもわず言い返す。
 「それが俺に何の関係があんだよ?」
 「なに?」
 上に乗ったガキの顔が憤怒に染まる。胸が淀むような不条理な衝動に突き動かされ、きっとガキの目を見据える。
 「俺はお前の親父を殺した罪で東京プリズンにぶちこまれたわけでもお前の兄貴を下半身不随にさせたせいでぶちこまれたわけでもねえ、お前が俺が殺した連中の親類だってゆーんなら大人しく殺されてやってもかまわねえさ、いや、かまうけど納得できるよ!けどお前の親父を殺したのは俺じゃねえ、見ず知らずの赤の他人だ。おなじ台湾の血が流れてるってだけで何で赤の他人の罪までおっかぶらなきゃなんねーんだよ、ふざけんな!!復讐したけりゃてめえの兄貴を寝たきりにした張本人を見つけ出してこい、手近な俺で間に合わせるんじゃねえ!」
 一息にぶちまけた俺の前でみるみるガキの顔色が変わってゆく。頬に血が昇り、目が充血してゆく。激怒したガキに後頭部の毛を掴まれ、そのまま手荒く揺さぶられる。頭皮から毛が剥がれる激痛に口から苦鳴が漏れる。焼き鏝をおしつけられたように疼く頭皮に視線の熱を感じる。俺の後頭部を見下ろしているに違いないガキが、声色に邪悪な笑みを含ませて呟く。
 「―決めた」
 「!ーっ、」
 背中にひやりとした感触。囚人服の裾からもぐりこんだ手が無遠慮に背中をまさぐり、腰骨の起伏を揉む。淫猥な手つきに嫌な予感が沸き起こる。
 「野次馬どもの目の前でお前のケツを犯してやる」
 「な………」
 なんでそういう話になるんだ!?
 「ケツ犯されるのは野郎にとって最高の屈辱だろ?しかもこんだけギャラリーがいるんだ、お前が今ここでケツにぶちこまれてひんひん吠える姿見た奴らが夜房に帰ってから、今日のお前の姿思い出してマスかくんだぜ?考えただけで楽しくて楽しくてイッちまいそう」
 「ひとりで逝ってろ!」
 躍起になって暴れる俺を体重をかけて押さえ込み、下へ下へと手を這わせてゆく。汗でべとついた手の感触が不快すぎて気が遠くなる。
 「親父は台湾海峡に沈んだきり、二度とお袋と寝れねえ。親父が無事帰ってきてたら俺には弟か妹ができてたかもしれねえのに。兄貴は一生寝たきりで女とヤれずじまい、死ぬまで童貞のままだ」
 濁った狂気に濡れた目でぶつぶつと呟くガキ。砂でざらついた手が腰をさすり、愛撫というには激しすぎる動作で下肢をしごく。
 「その無念のひとかけらでもお前に味わってもらわなきゃ、親父と兄貴がむくわれねえ」
 快感よりも痛みを与えてくる容赦ない手つきに顔をしかめた俺の横でどしゃっと鈍い音がし、盛大に砂埃が舞い上がる。おもいきり砂埃を吸い込んだ俺がげほげほやってるさなか、砂に投げ倒されたのは案の定鍵屋崎だった。俺と同様逃げ回っていたようだが遂に命運尽きたらしく、すっかり諦念したまなざしで上に跨ったガキを仰ぎ見ている。
 「おう静安、たのしいことしてんじゃねえか」
 鍵屋崎の上に跨ったガキが、企み顔で俺に跨ったガキに耳打ち。
 「どうせなら二人同時にキックボールといこうぜ。どっちが速くイカせるか競争だ」
 ぞっとする提案をしかし、俺の上のガキは気前よく了承する。
 「のぞむところだ」
 獣的な欲望に濡れた視線と欲情に湿った吐息が肌に感じられ、目の前が絶望で暮れてゆく。冗談だと思いたかったが、生憎ここは東京プリズン。俺と鍵屋崎の上に跨った奴らは本気だし、俺と鍵屋崎の上に跨った奴らをけしかけてるギャラリーも本気だ。
 「殺ってから犯る、犯ってから殺る、どっちだ!?」
 「俺に死体愛好癖はねえ、犯ってから殺るに決まってる!」
 「死体のあそこは死後硬直できついからオススメできねえ」
 「おお、経験者は語る。お前経験あんの?」
 「娑婆でな、加減間違えて殺しちまった女を仲間でマワしたんだ。死後硬直がとけてからヤればかよかったんだがどいつもこいつも忍耐知らずの馬鹿どもで、力任せにねじこんだはいいけどアレが抜けねえ抜けねえってしまいにゃ泣き出す始末」
 「なっさけねえー」
 けたたましく爆笑するギャラリーの輪の中央で俺は尻まで剥かれていた。俺の膝までズボンをさげおろしたガキが舌なめずりしてる。隣、仰向けに組み敷かれた鍵屋崎は両手を地に投げ出したまま頭上を仰いでいる。鍵屋崎に跨ったガキが奴のズボンをひっぺがしにかかる。自分の上で動いているガキの死角で鍵屋崎の左手が動き、なにかを握りこむ。何だ?鍵屋崎の左手に目を凝らす。
 鍵屋崎の左手に握られている、あれはー……

 刹那。
 鍵屋崎が勢いよく腕を振り上げる。銀の弧を描いた先端がガキの顔面に吸い込まれるように消えた、その時。

 ―「ぎゃあああああああああああああああああああああ!!!!」―

 「「!」」
 愛撫の手がぴたりと止む。至近距離からの悲鳴にびくっと硬直したガキの下で、俺も固まっていた。
 鍵屋崎に馬乗りになったガキが、両手で顔面を覆って苦悶に身を捩っている。その指の間から流れ出しているのは、粘液質の赤い血とトロリと濁った水晶体。指の間から滴り落ちた朱と白濁がぼたぼたと砂に染みてゆくのを見て、鍵屋崎の上から転げ落ちたガキは意味不明の絶叫をあげつづけていた。
 肝が縮むような絶叫を平然と聞き流し、ゆるやかに立ち上がる鍵屋崎。不敵に落ち着き払った動作で膝にこびりついた砂をはたき落とし、囚人服の裾の乱れを整えてから、ゆっくりと足元を見下ろす。鍵屋崎の足元に尻餅ついたガキは、涙と鼻水と涎と血と砂まみれになった悲惨なツラで嗚咽をあげていた。
 ひしと片目を覆ったまま。
 「悪いな、目測を見誤った」
 鍵屋崎の左手につかまれていたのは、先端が凶悪に尖った針金。手中に隠し持ってた針金をガキの目玉に突き刺し自分の上からどかせた鍵屋崎は、最前まで自分の上に跨ってた無礼者の面相をたしかめようとうろんげに目を細める。が、途中で諦めたようだ。手中の針金を剣呑に光らせたまま、軽蔑しきったように周囲のギャラリーを見渡す。
 「本当は腕か肩を刺すつもりだったんだが……裸眼だと距離が測りにくいな」
 空気が冷えた。
 最前まで蝗の大群さながら騒がしかったギャラリーも、あまりの凄惨な光景にさすがに腰が引けたらしい。俺たちが犯されるところを高見の見物と腕組みしていた凱とその取り巻き、俺に馬乗りになったガキでさえごくりと生唾を呑み下す。
 「あっ、」
 放心状態のガキを胴から振り落とし、膝立ちで上体を起こし、鍵屋崎のそばへ行く。目から出血したガキが七転八倒してるのを発狂したモルモットでも観察するかのように冷ややかに見下し、氷点下の怒りを沈めた口調で鍵屋崎が述べる。
 「汚い手で触れるな。汚い顔を近づけるな。汚い言葉を吐くな。君たちの下劣さにはいい加減うんざりだ。どうして君らはそう低脳で短絡的な行動しかできないんだ?ネコにも犬にも発情期の周期があるのに、君らは一年中さかっているのか?自分の遺伝子を後世に残すためでもなく、ただ快楽のためだけに同性を襲うなんて家畜の豚にも劣る浅ましさだな。いや、豚と比べては失礼だ。豚はイスラム教徒以外の人類の食卓を支えるタンパク質豊富な栄養源だからな。察するにー……」
 既視感。反射的に鍵屋崎の口を塞ごうとしたが、俺の指が口にかかる前に鍵屋崎は自信たっぷりに断言していた。
 「君達は豚以下だ。君たちに相応しい死に場所は火葬場じゃなく屠殺場だろう。豚と違って君たちの死体に使い道はなさそうだが……ああ、そうだ。大学の医学部に解剖用の死体でも献体したらどうだ?臓器移植という手もあるな。下品なスラングしか吐けない声帯や条件反射で人を視姦する眼球、その他心臓や横隔膜や大腸や小腸や肝臓や腎臓や膀胱。檻の中に放り込まれて人類の発展に寄与しない君らにそんな物は必要ないだろう、難病に苦しんでる子供たち、不幸な患者たちに分けてやったらどうだ?」
 鍵屋崎の口角がつりあがり、自嘲と諧謔の入り混じった笑みをこしらえる。
 「僕らと違って、彼らには前途があるのだから」
 
 俺も断言したい。鍵屋崎は大馬鹿野郎だ。

 「俺たちが豚以下だと……?」
 凱の声はいっそ静かだった。だが、平板な声の底で胎動しているのはいつ爆発するかわからない、荒ぶる溶岩流の如く激烈な怒り。喉仏をひくつかせた凱とその一党を見比べ、鍵屋崎はしずかに言った。
 「ああ、豚以下だ」

 揶揄でも皮肉でもなく、ただ、ありのままに。

 凱が大股に歩みだす。手下が後からついてくる。砂に膝を屈したまま、目を押さえて嗚咽をあげているガキの横を無関心に通り過ぎ、鍵屋崎の前に立つ。凱の厚い胸板に視界を阻まれても、鍵屋崎に怯んだ様子はない。今だ血が滴る右手とは逆の手に握った針金を、いつでも振りかざせるよう注意して腰元にひきつけている。
 凱が無造作に一歩を詰め、鍵屋崎が針金を振りかざす。が、これは予想の範囲内だった。鍵屋崎が振り上げた手首は凱の脇から伸びた手に掴まれ、がっちりと宙に固定された。鍵屋崎がはっとしたが、遅い。
 鍵屋崎はやっぱり甘い。甘さが抜けきってない。一度敵に見せた手札が二度目も通じる確率はかぎりなく低い。
 羽交い締めにされた鍵屋崎の前に立ちはだかった凱が、後方のガキへと顎をしゃくり、なにかを命じる。阿吽の呼吸で心得たガキが恭しく捧げもってきたのは、そこらへんに転がってたシャベル。シャベルの柄を手中に握りこみ重さを確かめつつ、ぞっとするような笑みを浮かべる。
 このままじゃ確実に、鍵屋崎は頭蓋骨をかち割られて死ぬだろう。
 鍵屋崎の脳漿が飛び散るところなんて見たくなかった俺は必死に周囲に目を走らせる。あった!地に倒れたシャベルを拾い上げ、後ろ手に隠す。凱がシャベルを振り上げる。日光を照り返し鋭く輝くシャベルの先端に、鍵屋崎が目を細める。

 ―「じゃあ、豚以下に殺されるお前は豚以下の以下だな!!」―

 ガツン!
 鈍い音、手首が痺れる鈍い手応え。シャベルの先端は狙い違わず標的の後頭部を殴打した。
 凱の後頭部を。
 「……………そんなに」
 鈍重な動作で振り向いた凱の目には殺意の炎が燃えていた。その目を直視した途端、手首から力が抜け、膝が萎えてゆくのがわかる。
 「そんなに死にたいのかよ、半半!!!」
 凱が吠えた。
 風切る唸りをあげて宙を薙いだシャベルが二の腕を掠め、遥か後方へと飛び去ってゆく。一歩横にずれるのがあとコンマ一秒遅れていれば、今頃俺の二の腕から下はシャベルと一緒に宙を舞ってただろう。
 凱が力任せに投擲したシャベルは一直線に野次馬の輪に突っ込み、不幸なギャラリーが三人巻き添えになって倒れた。
 「なにしやがる、凱!」
 「このノーコンが!!」
 「キムチくせえ韓国人は黙ってろ!!」
 「―んだとこら?」
 「やめとけよ、中国人にコントロール能力期待するほうが無駄だ。あの国の国民はてめえらじゃ全然自覚なしに共産主義にコントロールされてっから、コントロールする方はからっきしダメなんだ」
 野次馬の中でもとくに喧嘩っ早い連中が一塊となり、輪の中央に歩みだしてくる。的中すれば即死は免れない勢いでシャベルを投げつけられて怒り心頭に発しているのだろう、凱一党と対峙した連中は矢継ぎ早に言う。
 「頭くんだよ、お前ら」
 「東棟で幅効かしてる連中だかなんだか知らねえけど、中国万歳みてえなめでてえツラしやがって。時代遅れの中華思想なんて便所に流しちまえ」
 「台湾人は犬の飯を食って犬とヤるだ?作業中でもちゃんと聞こえてたぜ」
 「じゃあてめえらはなんだ、人肉食って人肉峠で人肉饅頭売るゲテモノ食いじゃねえか」
 語調荒く詰め寄られた凱は浅く呼吸しながら自分と対峙した連中を見比べていたが、やがて押し殺した声で聞く。
 「―お前、台湾人か?」
 野次馬の最前列、「ゲテモノ食い」発言のガキが「それがどうしたってんだ」と挑戦的に開き直り、豪速の拳を顔面に食らった。

 大乱闘の幕開けだった。 

【少年プリズン】
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十七話

(2006/05/29)
 凱に殴り飛ばされたガキが6メートル後方のガキと接触しそこでまた小競り合いが勃発、敵を殴ろうと振りかざした肘が横のガキの頬げたに入り、瞬き三回後には取っ組み合いの様相を呈する。どさくさ紛れに乱闘圏内から脱しようとした俺の足をだれかが踏み、別のだれかが脇腹に肘鉄を食らわす。
 カッとした。
 反射的に横の奴を殴り返し、足を踏み返す。「痛えっ、」「この野郎!」語彙の乏しい悪態とともに浴びせられるのは鉄拳と蹴りの嵐、拳が鳩尾に入り、胃袋が圧縮される。口腔にこみあげてきた酸っぱい胃液をその場に吐き、片手で腹を庇った俺の中で何かが切れた。
 常識者は馬鹿を見る。俺はいつも損ばかりしてる。
 頼まれもしねえのにクソ生意気な鍵屋崎を助けて凱にとっつかまって殴られるわ蹴られるわ髪の毛毟られるわ強姦されそうになるわ、今もこうしてボロ雑巾のように揉みくちゃにされてる。
 「……―没有意思東京監獄(メイヨウイ―スートンチンチエンユィ)」
 「何?」
 俺の隣、おなじく乱闘の巻き添えになって髪やシャツを揉みくちゃにされながら鍵屋崎が聞く。
 俺と凱の発音を正確に聞き取れる鍵屋崎がわざわざ問い直したのは、罵声と騒音にかき消されて発言の内容がとらえにくかっただろう。
 だから俺は言ってやった。深呼吸して、この場のだれの耳にもしっかり届くような大声で。
 「東京プリズンはつまんねえところだって言ったんだよ!!」
 言いざま、俺の正面にいた奴に頭突きを食らわす。鼻血を噴きながらよろめいた相手が怒号を発して拳をふるう。いいさ、もうヤケだ。ここが東京プリズンなら東京プリズンの流儀に乗っ取って暴れてやろうじゃねえか。常識者が損を見るのが世の常ならそんな常識なんか便所に流して捨ててやる。
 人が変わったように暴れ出した俺を見て鍵屋崎が一瞬目を見張ったが、その背にどんと誰かがぶつかる。メガネを失い平衡感覚が狂っていた鍵屋崎はかくんと地に膝をつく。起き上がろうとしたそばから「邪魔だ!」と手の甲を踏まれ太腿を蹴られぐしゃりと地に突っ伏す。 
 ガキどもの足元に沈んだ鍵屋崎を慮り、取って返すような愚は今度こそ犯さなかった。
 鍵屋崎がどうなろうが知ったことか。
 やるだけやってやったんだからあとは自分でなんとかしやがれ、軟弱な日本人め。 
 「何をやってる、貴様ら!」
 「即刻持ち場に戻れ、さもないと独居房送りにするぞ!」
 砂埃の中でもつれあっていた俺たちの元に、遅ればせながら看守が仲裁に入る。が、単純な力勝負なら腕っ節の強い囚人に利がある。看守の多くは日頃権威を嵩にきて威張り散らしているが、その実態は腰抜けのエリート揃い。威嚇の警棒と胸のバッジがなければ囚人を呼び捨てにもできないタマナシどもだ。
 そして頭に血が昇ったガキの大群の前じゃ、警棒もバッジもまったくの無力だ。
 過激に潰しあう囚人どもの渦中に身を投じた看守の何人かは、どさくさ紛れに日頃の恨みを晴らそうという悪意ある意図によりリンチの制裁を受けていた。タコ殴りにされた看守が鼻血を流しながら遁走し、恐怖で腰が抜けた看守がシャベルを盾に縮こまっている。
 視界の隅を赤毛が過ぎる。リョウだ。最前列にいたリョウは不可効力で乱闘に巻き込まれたらしく、苺を手に抱いたまま右往左往していたが、だれかにどんとぶつかられた衝撃で苺を落としてしまった。砂にまみれ、めまぐるしく立ち位置を入れ替える囚人どもの足裏にすりつぶされた苺を見下ろし、リョウがぽつんと呟く。
 「―ぼくの苺」
 「文句あんのか赤毛チビ」
 苺をすり潰した囚人が悪びれたふうもなく聞き、リョウがにっこりと笑う。
 テレビの中から笑顔を広めにきた、天真爛漫な子役のほほえみ。
 「大ありだよこの××××野郎」
 スラングに慣れ親しんだ俺すらぎょっとするような悪態をつき、リョウが手首を一閃。次の瞬間、リョウの苺を台無しにした奴がどしゃりと膝をついてくずおれる。白濁した泡を口角に噴き、痴呆じみた面で虚空を見つめてる囚人を見下ろすリョウの手には、ポケットに仕込まれていたのだろう注射器が握られていた。
 あの注射器の中身がなにか知りたくない。
 「よそ見すんな!」
 「!?ちっ、」
 VS野次馬の死地を突破し、単身沸いてでた凱が俺の頬げためがけて拳を繰り出す。素早さにかけては自信がある俺はさっと身をかわし、軌道をいなす。と、拳に気をとられてる隙に凱の膝が鳩尾に叩き込まれる。これは効いた。仰向けに倒れた俺の上に凱がのしかかり留めの一発を放とうと腕を振り上げたが、間髪入れずその鼻面に頭突きを見舞う。ただでさえ醜い凱の面が鼻血でさらに醜くなる。
 「殺してやる。お前の死体をレイジに送りつけてやる」
 「死体の腹の中に防腐剤仕込むの忘れんなよ」
 凱の神経を逆撫でするとわかっていながら、レイジを真似てふてぶてしく笑ってやる。凱のこめかみの血管が膨張し、首に回された手に力がこもる。気道が圧迫され酸素が詰まる。苦しい、洒落にならねえ。凱の腹に蹴りを見舞おうとしたがひょいとかわされ、ますます手に力がこもる。
 視界がちかちかと明滅し、薄ら笑いを浮かべた凱の顔が急速にぼやけてゆく。 
 周囲の喧騒が遠ざかってゆく中、頭蓋骨の中に懐かしい声がこだまする。

 『あんたなんか死んじまえばいいのに!!』
 女の金切り声。頭蓋骨の中の暗闇にぼうっと浮かび上がるのは、俺に背を見せて泣きじゃくる女。なにがそんなに哀しいのか腹立たしいのか、寝台の真ん中にしどけなく横座りした女はドンドンとマットレスを叩いている。白い拳をめちゃくちゃに上下させてベッドに八つ当たりする女の姿は正視に耐えないほど痛々しく、そして、常なる神経の持ち主の理解を拒むほどに美しかった。
 薄い肩を嗚咽のリズムで上下させながら、女はベッドをたたき続けていた。女がベッドを殴りつけるたびにただでさえ傷んでるスプリングが軋み、粗末な寝台が撓む。
 ベッドに身を投げ出した女は、息子の代わりにベッドを殴りながら延延と呟いていた。
 『あんたがいなければ、あんたがいなければ私だって台湾に帰れるのに……』 
 いつか見た光景。いつか聞いた台詞。
 実際お袋はベッドより俺本人を殴ってることのほうが遥かに多かったが、この時の俺はおそらくお袋の目の届かない場所―たとえばクローゼットの中とかーにいたんだろう。ガキの頃の記憶だから心許ないが、お袋の折檻を恐れて逃げこんだクローゼットの扉の隙間から見たのは、俺の知らないお袋の悲願。故郷に帰りたいという弱音。
 その時俺は、生まれて初めてお袋をかわいそうだと思った。
 ただ単純に純粋に、寝台の上で泣いてる女が哀れだった。自分が折檻されてる時は痛みを堪えるのに必死でそれどころじゃないか、クローゼットの中の安全圏から客観的に見てみると、寝台の上で背を丸めてヒステリックに泣きじゃくっている女は、風が吹かなければはばたくこともできない、観賞用の美しさだけが取り得の無力な蝶のように見えたのだ。
 風が吹かなければ海を越えられない。海のむこうにある故郷に帰れない。
 俺という枷がなくなればお袋は台湾に帰れるだろうか。お袋のための風が吹くだろうか。
 俺の上に跨った凱の顔がだんだんと見えなくなり、頭蓋骨の中にこだましてたお袋の声も消えてゆく。喉が破裂しそうな息苦しさをおぼえながら、俺は心の中でこのくそったれた地獄に別れを告げた。

 再見東京監獄。地獄からおさらばした先がまた地獄なんてぞっとしねえけど。

 ところが俺は、またしても地獄の一歩手前で引き戻されてしまったようだ。
 突如乱入してきた足音と、一発の銃声によって。

 しんとした。
 砂埃が晴れるまでの間に完全な沈黙が落ちる。囚人服をしわくちゃにして取っ組み合ったガキどもが敵に馬乗りになったりなられたりした体勢で、銃声がした方角を凝視する。虚を衝かれたガキどもの耳に届いたのは足音。ザッザッザッと砂を踏み鳴らす律動的な足音が徐徐に近づいてくるにつれ、威圧感が増大する。
 「幼稚なお遊戯はそこまでだ」
 砂丘を踏み越えて登場したのは、一筋の反乱も許さず撫で付けたオールバックの男―安田だ。顔を見るのは一年ぶりだがよく覚えていた。三つ揃いのスーツを一分の隙なく着こなしたスマートな風体は、俺やその他の囚人が毛嫌いしてる奢り高ぶったエリートの典型だ。
 安田が天に翳していたのは一挺の拳銃。銃口からは今だ硝煙がたちのぼっている。
 天へ向けて発砲した安田は、銀縁眼鏡の奥の双眸をスッと細めて砂漠の惨状を見渡した。眼下にはタコのようにもつれあった囚人と看守、武器に代用されたシャベルや鍬や警棒が一面に散らばった戦場の光景。
 予想外の闖入者に、凱の五指から力が抜けてゆく。緩んだ五指から襟首がすりぬけ、俺の後頭部が砂に没する。窒息寸前で気道を解放された俺は身を二つに折って激しく咳き込む。涙でぼやけた視界に映ったのは逆光にぬりつぶされた安田の姿。
 砂丘の頂に立った安田は感情の窺えない目でぐるりを見回していたが、やがて静かに口を開く。
 「この地区の責任者はだれだ?」
 感情の水漏れしない平板な口調で、問う。回答者を指定したわけでもないだろうが、安田のいちばん近くに這いつくばっていた看守が「タ、タジマはんれす」と半泣きで訴える。囚人に殴られて鼻骨を折ったらしく、顔面は血まみれだった。
 「それで、タジマはどこにいる」
 冷然と問いを重ねた安田の目が、遥か遠方へと馳せられる。地に転げ伏した囚人と看守もつられてそちらを仰ぎ見る。50メートル後方からこけつまろびつ駆けてきたのは肥満体の看守―タジマだ。腰にさげた警棒がベルトの金具と触れ合ってカチャカチャと音をたてている。その音が次第に大きくなり、みっともなく息を喘がせたタジマが安田の足元へと馳せつける。
 「これはこれは安田さん、ようこそ……視察の一環ですか?毎度ご苦労さまです」
 にぎにぎと揉み手しながら挨拶するタジマ。卑屈に媚びへつらった態度からは囚人に対した時に見せる横柄な振る舞いなど消し飛んでいた。他の多くの看守がそうであるように、下には当り散らしても上には絶対服従を誓うのが東京プリズンの悪しき体制なのだ。
 タジマの愛想笑いを冷然と見返し、安田が聞く。
 「そのつもりだったんだが……この惨状はなんだ?」
 銃をスーツの懐におさめた安田の言葉に、タジマの笑みがひきつる。無理もない、この状況では言い逃れできないだろう。イーストファームAの2番地でこそ絶対的権力をふるう主任看守のタジマだが、安田はタジマの上司にあたる。一部の囚人の暴走行為を放任していたのが上にバレてしまったら最後、厳重な処罰が下るのは免れない。
 さらにタジマにとってやばいのは。
 「酒臭いな」
 安田がかすかに不快げに眉をしかめ、タジマの肩がぎくっと強張る。よく注意してみてみればタジマの顔はほんのり紅潮し、息にはアルコール臭が混じっていた。ここまで匂ってきたタジマの息の臭さに鼻をつまんだ俺をよそに、安田が淡々と続ける。
 「但馬看守、職務中の飲酒は規律に反する。後に署長に報告し、厳重な処罰を下してもらう。まず減棒は免れないだろうな」
 「ご、誤解ですよ安田さん。俺の顔が赤いのは風邪気味だからで、息がアルコール臭いのはさっき呑んだクスリのせいです。俺は病身を押して職務にあたったんですがコイツら粗野で野蛮な囚人どもときたら、いつのまにか作業をほっぽりだして喧嘩をおっぱじめて……監視が行き届かなかった部下の失態は認めます、こらっ、てめえのせいで安田さんがお怒りになられただろうが!土下座して謝れ!!」
 逆上したタジマが横に跪いていた若い看守を蹴り倒す。部下に非をなすりつけようって魂胆か、腐った奴め。
 取り乱したタジマを無視し、安田がサクサクと砂丘を降りてくる。その一挙手一投足が国会議事堂に登庁するエリート官僚のように洗練されている。他者を圧する高潔な存在感に、その場に居合わせた全員が看守・囚人の別なく距離をとる。
 「看守一同に命じる、この乱闘の首謀者をすみやかに拘束、独居房に送致しろ」
 「「は、はい!」」
 安田の命令で我に返った看守らが迅速に行動を開始する。腰にさげた警棒を構え、この騒ぎの核にいた連中を次々に組み伏せひっ捕らえてゆく。抵抗する囚人はいなかった。署長につぐ権限をもつ安田が出張ってきた以上、抵抗は無意味だ。凱だけは今だ怒り冷めらやらぬらしく、警棒で背を殴打されても暴れるのをやめなかった。
 「さわるな政府の犬、もうちょっとでコイツの息の根止められたのに、畜生っ!!」
 太い手足を振って発狂したように暴れる凱を大柄な看守が二人がかりで押さえ込み、後ろ手に手錠を嵌めて連行してゆく。看守に挟まれて砂漠を遠ざかってゆく凱と振り向きざまに目があった。

 『下一個殺(シアイーガ、シャー)』 

 凱の唇が無言で動く。「次は殺す」―無音の殺人予告だ。
 安田の介入により、周囲は俄かに慌しくなった。騒ぎの主犯格たる凱一党がもれなく警棒の連打を食らい、手錠を嵌められて強制連行されてゆく。巻き添えになった囚人の何人かも看守に殴られ、がっちり羽交い締めにされて拉致られてゆく。目に痣をつくり頬を腫らし肘を擦りむいたガキどもが、砂漠に幾条もの尾をひいて砂丘を引きずられてゆく大移動の光景をぼけっと見送っていた俺の肩に衝撃。
 よろけた俺の背に全体重をかけてのしかかってきたのはタジマだ。安田の前で失態を演じたタジマは、その怒りの矛先を俺へと向けてきたらしい。隣では鍵屋崎が別の看守に押し倒されていた。
 「なに澄ました面してんだ、てめえらも独居房行きだ!」
 「!なっ……、」
 目の前が暗くなる。
 独居房行き。窓がひとつもないコンクリートの房に拘束着を着せられて放置される罰。便所なんて上等なもんはそこにはない。三畳もないコンクリートの密室には便所なんて上等なもんはなく、尿意をもよおしたら拘束着の尻に開いた穴から糞便を垂れ流すしかない。糞尿の悪臭たちこめるコンクリートの棺の中に四肢を拘束されて監禁される罰の期間は最低三日、最高一週間。
 だが、最短三日で独居房からでてきた奴は全員人が変わっちまってる。変わらないのはよほど神経が図太い奴か最初から頭がいかれてる奴の二種類だ。独居房行きを喰らった人間はまず人と話さなくなり人の目を見なくなり暗闇を異常に怖がるようになり、仕事中と食事中以外は房の隅っこで膝を抱えて鬱々と塞ぎこんでるようになる。そして人と口をきかなくなるかわりに、だれもいない虚空にむかってブツブツ話しかけるようになる。
 一週間後に出てきた奴は―……大概、その足で首を吊りにいく。出される前に房の中で死んでる奴も多いが。
 「先にふっかけてきたのは凱たちで俺らは関係ねえだろ、言いがかりもいい加減にしやがれ!」
 「騒ぎを拡大したお前らも同罪だ!」
 無茶な。抗議しようとした俺の手首にがちゃりと手錠が嵌められる。鍵屋崎の手首にも銀の光沢の手錠が輝いている。俺の腕を掴んで強引に引っ立てたタジマが、耳朶に熱い吐息を吹きかける。
 『安心しろ、あとで独居房に見舞いに行ってやるよ。黒くて堅いプレゼントもってな』
 タジマの意図を察し、肌が粟立つ。
 手錠から逃れようと半狂乱で身を捩りだした俺を連れてゆくようタジマが命じ―……
 「待て」
 俺と鍵屋崎を拘束した看守を制したのは、意外にも安田だった。涼しげなまなざしで俺と鍵屋崎を見比べ、安田が指示する。
 「彼の言葉に嘘はない。手錠を解いてやれ」
 「しかし……、」
 「ロン。君は中国・台湾のハーフだったな?」
 突然質問を向けられ、狼狽を隠して俺は頷く。眼鏡のブリッジを押し上げながら、安田が淡々と指摘する。
 「さっき連行されていったのは東棟で最大規模を誇る中国系派閥のボスの凱とその一党だ。少なくとも六人いたな。対して、こちらは昨日入所したばかりの新人と刑務所内で孤立してる台中の混血児。どちらが喧嘩を吹っかけたかは明らかだろう。職務に私情を挟むのは感心しないな、但馬看守」
 眼鏡の奥の双眸がタジマの愚鈍さを哀れむように侮蔑をこめて細められる。体の脇で拳を握りこんだタジマが屈辱に歯噛みし、部下に命じて手錠を外させる。手錠を外され、どんと背を突かれて安田の前へとよろばいでた俺と鍵屋崎を見下し、安田が聞く。
 「鍵屋崎、眼鏡はどうした?」
 「壊されました」
 鍵屋崎が敬語を使うのを初めて聞いた。周囲の人間全てを見下してるような傲慢なコイツでも、安田には一目おいてるらしい。ただ、次に鍵屋崎が発したのは副署長に対するものとはとてもおもえない不敬きわまる暴言だった。
 「僕は今まで重大な勘違いを犯してました。僕は今まで日本は法治国家だと認識してたのですが、どうやらこの刑務所内では司法が適用されないようですね。まがりなりにも彼らは看守だ、六法全書の精神を学んで試験を通ったはずなのにその実態は唾棄すべき低劣さ。主任看守は職務中に飲酒をし囚人間のリンチを黙認し、所内では大手を振って賄賂がまかり通っている。待遇の優劣が賄賂によって左右されるなんて、拝金主義の政治家たちが国民の血税をつぎこんで無益な応酬を繰り広げる国会と変わりないじゃないか。貴方も副署長の自負があるなら刑務所の体制改革に乗り出したらどうですか?世界最大の規模と収容人数を誇る東京少年刑務所の実態が世間に知れれば、顕示欲旺盛な人権保護団体が騒ぎ出しますよ。国連の監査が入ったら面倒だ、日本の恥が露呈することになる。ただでさえ……」
 そこで言葉を切り、鍵屋崎が笑みを浮かべる。怜悧というより冷徹、コイツには人肌の体温がないんじゃないかと疑わせる氷点下の笑み。
 「ただでさえ、日本最高の頭脳の持ち主をこんな劣悪な環境下に放りこんだことで貴方がた政府の正気が疑われてるんだから」
 「なっ……、こっ……、」
 タジマの顔色が赤から白、しまいには青へとめまぐるしく変わる。鍵屋崎の頭上に警棒を振り上げたタジマを片手で制し、安田が顎を引く。
 「君の言うことも一理あるな。私も環境改善にむけて一応の努力はする」
 「まずは日本国憲法を看守に暗唱させてください。第11条 国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。ここの看守はそれすら知らない低脳揃いだ。小学校とはいわない、卵子と精子の結合の段階からやりなおしたらどうだ?」
 「鍵屋崎、君は憲法第十八条を知ってるか?」
 眼鏡の奥の目に試すような色を覗かせ、安田が言う。
 「第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 「…………馬鹿にするな。それ位知っている」
 むっとした鍵屋崎を冷ややかに見下し、当たり前の口調で安田が告げる。
 「君たちが今強いられているのは、『犯罪に拠る処罰の一環の苦役』だ。憲法に反してはないだろう?」
 たしかに、建前じゃ反してない。
 腑に落ちないものを感じながらも憮然と押し黙った俺の視線が、安田の目から隠すよう体の脇にたらされた鍵屋崎の右手に吸い寄せられる。無数のガラス片が埋まったてのひらは出血こそ止んでいたものの、ぱっくりと開いた傷口からは赤い生肉が覗き、その痛々しさといったらなかった。相当痛いだろうに平然とした風を装ってる鍵屋崎の、異常なまでのプライドの高さにあきれる。
 こうまで強がるのもしんどそうだ。
 「君たちも怪我をしているな。作業はいいから、とりあえず医務室へ行け。そんな手じゃシャベルも握れないだろう」
 あっさりと怪我を見抜かれ、鍵屋崎がひどくばつの悪そうな顔をする。言うだけ言って立ち去った安田を見送り、俺は胸を撫で下ろす。
 とりあえず、今日も死なずにすんだようだ。凱たちにリンチされて全身腫れ上がった俺の死体が、井戸掘りにかこつけて砂漠のど真ん中に埋められるのは正直ぞっとしない。
 隣の鍵屋崎がどこへやら歩き出す。ざくざくと歩き出した鍵屋崎の肩を掴んで制止したのは、タジマ。
 「どこへ行く?作業を再開するぞ、とっとと持ち場に戻れ」
 「医務室へ行けと安田に言われた」
 鍵屋崎が不審そうな顔をする。甘い。甘すぎる。
 案の定、なぶり甲斐のある獲物を手中に掴んだようにタジマが嘲笑う。
 「『あとで』な。今は作業中で、責任者は俺だ。安田の若造なんか関係ねえ、お前ら囚人は俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだ」
 鍵屋崎がなにか言おうと口を開き、また閉じた。唇を引き結んだ鍵屋崎はほんの一瞬苦渋に満ちた表情を昇らせたが、すぐにポーカーフェイスの虚勢を取り戻す。もうタジマの方は見ずに自分の作業場へと戻ってゆく鍵屋崎に追いつき、耳打ち。
 「お前、効き手は?」
 「右だ」
 てのひらに刺さったガラス片を苦心惨憺取り除きながら、鍵屋崎が吐き捨てる。ピンセットでも困難な作業が指でできるわけがない。ガラス片の大半はてのひらに埋まったまま、微細な傷口からはじくじくと新しい血が染み出している。
 「……ご愁傷様だな」
 聞いているのかいないのか、上の空の鍵屋崎はしつこいほどに右手の甲をズボンの腰にこすりつけていた。凱の小便の匂いがまだとれないらしい。手の甲が赤く擦れてもまだ止めようとしない。
 「吐き気がする。手を洗いたい、一刻も早く」
 「井戸が沸いたら洗えるよ」
 「井戸はいつ沸くんだ?百年後か?僕はたぶん死んでるな」
 「たぶん俺も死んでるよ。………おい、どこ行くんだ?」
 あさっての方角にふらふら歩いてゆく鍵屋崎を呼び止める。ふと立ち止まった鍵屋崎がうろんげに振り向く。
 「お前6班だろ?6班の持ち場はこっちだ」
 俺の指示に従い、鍵屋崎が方向転換。どこか覚束ない足取りでこっちに歩いてきたが、小高い砂丘の中腹でどしゃりと膝をつく。
 砂丘の半ばで力尽きた鍵屋崎を見て、奴の視力が途方もなく悪かったことを思い出す。それこそ、歩行に代表される日常生活にさしつかえるほどに。
 死ぬほど面倒くさかったし鍵屋崎を放り出して持ち場に戻りたいのが掛け値なしの本音だったが、一緒に死にかけたよしみでとりあえず声をかけてやる。
 「目が見えねーなら手でも引っ張ってってやろうか、日本人」
 「我自己來(自分でやれる)」
 何度もつまずき転倒し、脳天からつま先まで汚れ放題になっても手で砂を掻いて立ち上がり、一歩ずつ着実に足を運んでゆく鍵屋崎の姿を遠めに眺め、俺はため息をついた。

 俺の生き方も決して器用とはいえないが、アイツの生き方ほどじゃない。

【少年プリズン】
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十八話

(2006/05/28)
 「竜巻にでも巻き込まれたのか」
 サムライが表情を動かさずに聞く。
 古ぼけた豆電球が天井から釣り下がった照度の低い房の中、自分のベッドに腰掛けた僕は目だけ動かしてサムライを見る。
 「天災ではなく人災だ」
 声が不機嫌になるのが自分でもわかった。顎を動かした途端、鋭い痛みが走って顔をしかめる。今日殴られたあとは痣になっている。
 服の下ならともかく、顔を隠すのは不可能だ。然るに、サムライの要らぬ詮索を招く事態は避けられなかった。
 強制労働を終えて房に帰還したサムライは静かに鉄扉を閉じると、僕の視線には頓着しない淡々とした足取りで自分のベッドへと向かい、腰掛ける。サムライの自重で錆びたスプリングが軋み、耳障りな音が鳴る。
 サムライより一足早く房に帰還していた僕は、右手に巻いた包帯を忌々しげに見下ろす。
 初日の強制労働はさんざんだった。思い出すだけで不愉快だ。
 詳しく説明したくもないが、要約すれば野蛮で低俗で下劣な連中に酷い目に遭わされたということになる。主犯格は凱だった。昨晩僕を強姦しにきた少年とその一味が、そのリベンジとばかりに短絡的な行動をとり、作業中の僕を強引に用具置き場へと連れこんだ。慣れない肉体労働でただでさえ体力を消費していたというのに、知能指数の低い因縁をつけられてさんざん殴られ追いまわされた。まったく辟易する。
 賄賂を受け取って事態を傍観していた看守の無能さにも腹が立つが、何より屈辱的なのは……
 「眼鏡はどうした?」
 「壊された」 
 サムライのうろんげな声に、叩きつけるように返す。神経が苛立ってるのが自分でもわかる。落ち着け鍵屋崎直、観察対象の前で取り乱すなんてみっともない。これでは僕が観察されるほうじゃないか。包帯を巻いた中指を鼻梁にもっていこうとして、はたと気付く。
 そうだ、今は眼鏡をしてないんだった。
 間抜けな行動を自覚して喉の奥に苦汁がこみあげる。宙に立てた中指をおろし、足元の床に視線を放る。眼鏡のブリッジを押し上げるのが癖になっている僕は、今も無意識に眼鏡のポジションを正そうとしていた。サムライの前で失態を演じた自分が腹立たしい。
 対岸のベッドに座したサムライの目が、僕の右手に注がれているのに気付く。サムライの目から庇うように右手を移動させた僕に、感情の窺えない声が投げかけられる。
 「凱たちか?」
 「鋭いじゃないか。まあ昨日の光景を目撃した手前、二等辺三角形の面積を求める公式よりたやすい解だと言えなくもないが」
 口の端に自嘲の笑みを昇らせた僕をちらりと流し見て、サムライが腰を上げる。定規で測ったように正確な歩幅でこちらに歩み寄ってくるサムライを挑戦的に見上げる。なにをする気だ?僕の前の床に直接腰をおろし、囚人服の懐を探るサムライ。取り出したのは昨晩読経していた般若心境の経文だ。
 訝しげな僕の前で手際よく経文を広げたサムライが、字が記されている面をこちらに向ける。
 「読めるか?」
 「馬鹿にするな、これくらい……」
 言いかけて絶句する。
 視界がぼやけて歪んでいる。わずか50センチの距離に翳された経文の文字が、墨が滲んで溶け出したような有り様に変形している。
 極力目を細め、焦点を凝らす。
 「―観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。最後まで読むか?」
 完全に棒読みだった。内心の動揺を悟られないために、わざと感情の欠落した言い方をしたのだ。
 「……一応目は見えてるようだな。眼鏡がなくても日常生活に支障はないか」
 経文をおろしたサムライが呟くのが耳に入り、優越感をおぼえた僕は余計な一言を付け足す。
 「なんなら平家物語序文も暗唱してみせるが?」
 「暗唱だったのか?」

 ……迂闊だった。

 墓穴を掘った僕はサムライの顔が直視できない。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。東京プリズンに収監されてから僕の脳は確実に退化している気がする。朱にまじわれば赤くなるの諺どおり周囲の環境に汚染されてきたのだろうか。サムライに弱味を見せるのが癪なあまり、さも目が見えるよう演技した僕へと注がれるのは訝しげなまなざし。
 「本当は見えないんだな?」
 「………僕の視力は0.03だ。自慢じゃないがわずか70センチの距離にある君の顔だってパブロ・ピカソみたいに歪んで見える」
 実際こうして房に帰り着けたのも奇跡に近い。
 強制労働を終えてバスに乗り込み地下停留場で降りてから、看守に医務室の場所を聞いて中央棟に寄ってきたわけだが、壁伝いに歩むのは五里夢中の峠を越えるかのように困難だった。途中何人か人にぶつかって殴られた。苦心1時間かけて医務室に辿り着いた時はさらに怪我が増えていた。僕が声をかけた看守がたまたま親切に医務室の場所を教えてくれたからよかったものの、今日イーストファームで会ったタジマのような看守だったらと考えると、今こうして何事もなくサムライと話せてるのが夢のように思える。
 折り目正しく畳んだ経文を膝の横脇においたサムライは、しげしげと僕の右手を見つめていた。

 なんとなく、弱味を見られたようでばつが悪い。

 「触れていいか?」
 冗談じゃない。
 即座にそういい返そうとしたが、途中で思い直したのは禁欲的に細められた双眸に真剣な色があったからだ。
 逡巡する。
 人にさわられると吐き気がするのが本音だが、包帯越しなら汗や垢などの汚物が付着する恐れもないだろうし得体の知れぬ黴菌が感染する心配もないだろう。それに僕は疲れていた。今日一日でいろんなことがあった。砂漠での肉体労働で体力を極限まで消耗し、指一本動かすのも億劫なのが現状だ。口を開くのも面倒くさかったし、サムライの妙な申し出を退ける気力もなかった。往復ニ時間かけてやっと房に帰り着いた安心感があったのも否定できない。
 ―否、そうじゃない。本当は怖かったのだ、サムライの目が。清水ですすいだ日本刀の切っ先をおもわせる鋭い眼光を向けられた僕は、馬鹿な話だが「断ったら斬られる」と錯覚したのだ。根拠なんてどこにもない。冷静に考えればサムライが所有している木刀で人が斬れるわけがない。
 それでもなお、強靭に鍛鉄されたサムライのまなざしを跳ねつけるのは僕には不可能だった。
 「…………勝手にしろ」
 自分じゃ指一本動かす気もないが、したいというなら好きにすればいい。
 僕の意を汲んだのか、半歩膝を進めたサムライがそっと僕の右手をとる。包帯の巻かれた手首を支え、節くれだった親指で白い布に覆われたてのひらを注意深く探る。見た目の無骨さを裏切る繊細な手つきで僕の指を軽く折り曲げ、サムライがぼそりと呟く。
 「骨は折れてないが、ヒビが入っているな」
 「ヒビが?」
 そんな馬鹿な。医務室で僕を診た医師は「たいした怪我じゃないから一週間で完治する」と保障していたのに。僕の驚きを見抜いたサムライがごく淡白な口調で補足説明する。
 「イエローワークは慢性的に人が不足している。骨折やヒビが入った位の怪我で作業を抜けられてはたまらないと、診断書をごまかすよう看守が言い含めていることがある」
 「―腐ってるな、どいつもこいつも」
 どうりでと納得する。医務室で僕を診た医師の様子がどこかおかしかったのだ。僕の手をためつすがめつしながらサムライが述懐する。
 「こんな手じゃシャベルも握れないだろう。明日からの作業は辛いぞ」
 「だからなんだ?休んで寝てろとでも言いたいのか。有益な助言をありがとう、それを実行したら僕は看守にリンチされて死ぬがな」
 自然と言い方が皮肉げになる。サムライに罪はないと理性ではわかっていても、なにもかもを諦念して受け入れたようなサムライを見ていると反感が募るのだから仕方ない。
 こまやかな手つきで僕の指をさぐっていたサムライ、その指が包帯の表面からすべりおち、弧を描いて自らの首へと戻る。首に巻いていた手ぬぐいを素早く抜き取り、僕に背を向けて自分のベッドの下へと上体を潜らせる。サムライが取り出したのは一振りの木刀。僕が唖然と見ている前で、サムライは予想外の行動にでた。手ぬぐいの一端を口にくわえて器用に引き絞り、自らの手首に木刀の柄を巻きつける。
 ぎゅっぎゅっと手ぬぐいを引き絞り、飴色に輝く木刀を己が手首へと縛りつけたサムライがおもむろに立ち上がり、木刀の上部分を左手で掴んで固定する。
 「指が使えなければ手首を使え。シャベルの柄を手首に縛り付け、左手を添えて動かすんだ。そうすればなんとか作業は続行できる」
 「……なるほど」
 少しサムライを見直した。
 「思ったほど頭が悪くないな、君は。知能指数90くらいか?」
 「東京プリズンで生活する上の知恵だ」
 手ぬぐいをほどいたサムライが床に腰をおろし、木刀を膝へと乗せる。そして、汚れた手ぬぐいをこちらへと放る。僕の膝へと舞い落ちた手ぬぐいを興味なさそうに一瞥し、平坦な声でサムライが告げる。
 「貸してやる。手首は自分で結べるな」
 「子ども扱いするな」
 複雑な心境で膝へと落ちた手ぬぐいを見下ろす。サムライの汗と泥が染みた手ぬぐいはお世辞にも清潔とはいえなかったが、背に腹は変えられない。あとでよく洗って使おう。
 不自然な沈黙が落ちた。
 「………慰めが要るか?」
 「なに?」
 聞きなおす。木刀の表面に自らの顔を映したサムライが、同情とは縁遠い口調でたたみかける。
 「強制労働を体験した新人は大抵ぐったりと憔悴して弱音を吐く。懲役が終わるまでこんな日々が続くのならひと思いに首を吊ったほうがマシだとか自分はなんて不憫なんだとか、どれも似たような内容だ。中には有言実行、翌日の強制労働が始まる前に囚人服を縒って作った縄で首を吊る者もいる。鍵屋崎、お前がなにを考えてるかはわからないがこの房で縊死者がでるのは気分がよくない。死体の始末をさせられるのは同房の囚人だ。もしお前が首を吊りたいと考えているなら、それを思い止まらせるための言葉でもニ・三かけてやるべきなのか」
 「……さっきまでそんな気は毛頭なかったが、今は君への嫌がらせで首を吊りたい気分だ」
 「ならば」
 サムライが浅く息を吸き、木刀の切っ先を僕へと向ける。サムライの目が直線で僕をとらえる。
 「首を吊りたくなったら外に思い残した人間のことを考えろ。その顔を思い出し、言葉を肝に銘じろ。東京プリズンにいる限り外に残してきた想い人とふたたび相見える確率はかぎりなく低いが、冥府へと旅立てば生者と再会する可能性は完全に断たれる。外へと繋がる可能性が絶無でない限り、お前の未来にはわずかながらの希望が残されている」

 希望。
 恵。

 『おにいちゃん』
 そうだ。僕が今死んだら恵のことはだれが守る?だれが恵を守ってやれるんだ?恵が生きている限り、僕は死ぬわけにはいかない。東京プリズンに収監された僕は恵の身に万一のことが起きても駆けつけることができない無力な立場だが、今ぼくがリンチの犠牲になって死ぬか発作的に首を吊るかしたら、恵は本当に独りぼっちになってしまうのだ。
 鍵屋崎の家にいた時のような思いを、二度と恵にさせたくない。
 僕の胸に擬された切っ先が引かれ、サムライの手中へと戻る。今の自分がどんな顔をしてるのかわからない。どんな顔をしたらいいかもわからない。とにかくサムライに顔を見られるのが嫌で下を向き、はたと思い当たる。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「君にもいるのか?」
 サムライがうろんげにこちらを向く。薄ぼやけたサムライの顔に焦点を絞り、低く押し殺した声で聞く。
 「外に思い残してきた人間が君にもいるのか?」
 重たい沈黙。永遠にひとしい間をおいてから、サムライはぽつりと呟いた。  
 「………いや」
 その時、サムライがどんな顔をしていたのか僕にはわからない。眼鏡をかけてない僕にはサムライの表情がわからない。わからなくてよかったと思う。きっとサムライは今の僕と鏡に映すが如く同じ顔をしているはずだから。
 「俺が逢いたい人は、既にこの世にない」
 心の虚から吹いてきた風のように寂然とした声だった。
 サムライが逢いたい人間の顔を上手く思い描くことができない。
 僕はこの男について知らないことが多すぎる。親と門下生を斬殺して東京少年刑務所に収監された大量殺人犯であり、般若神経の読経と写経が日課という以外、サムライについて何も知らないのだ。昨日出会ったばかりなのだからそれが当然だろうと嘲る気持ちも一方にはある。しかしもう一方では、この男について何も知らないことがとてつもなく歯痒かった。

 観察対象のくせに、なんでこの男は土足で人の心に上がりこんでくる。
 なんでこの男の言動すべてがこんなにも気に障るんだ。
 僕の頭脳を持ってすればわからないことなどないはずなのに、この男については考えれば考えるほど謎が深まる。

 「どこへ行くんだ鍵屋崎?」
 サムライの声に背を向け、ベッドから腰を上げた僕はそのまま房を横切る。ノブを握り締めた背中越しにぴしゃりと言い返す。
 「君は僕の保護者か?いちいち人の行動を詮索しないでくれ、プライバシーの侵害だ」
 刑務所でプライバシーもなにもあったものじゃない。自分でも支離滅裂なことを言っているとわかっているが、この場を切り抜ける上手い言い訳が思いつかない。サムライの独白を聞いた時から僕の舌先は鉛のように鈍っている。
 これ以上サムライと同じ空気を吸ってるのが耐えられない、彼と同じ空間を共有しているのが我慢できない。
 逃げるように房を出た僕は、背後で扉が閉まる音を聞く。珍しく廊下は無人だった。行く当てもなく、ただサムライのいる房から少しでも遠く離れたい一心で足を速めた僕の脳裏で恒星が爆発した。
 ずきずき疼く額を片手で支えて顔を上げると、正面にコンクリートの壁があった。廊下の曲がり角にきたのに気付かず直進した結果、行き止まりの壁に激突したらしい。眼鏡がないと距離感が掴みにくい。これは事故だ、僕に過失はない。眼鏡をかけてればこんな間の抜けた失態は犯さなかった、決して。
 ぽんぽんと肩を叩かれ、ぎょっと振り向く。
 「メガネをかけてないメガネくんに忠告しておくけど、この壁には通り抜けフープなんてないよ」
 この声は聞き覚えがある。リョウだ。
 「そんなことは知っている、僕は有事の場合に備えて壁の硬度を確かめていたんだ。この壁の材質は1メートルの厚みのある鉄筋コンクリートだな。鉄筋コンクリートとはコンクリートの中に鉄筋を入れ,圧縮にも引張りにも強い部材を作る構造になっていてその特徴をラーメン構造と……」
 「きみほんとに目が悪いんだねえ」
 屈めた膝の上に頬杖ついたリョウが、この上もなく楽しそうに僕の顔を覗きこむ。非常に不愉快だ。
 「で、何の用だ?行き止まりとも知らずに直進して壁に激突したぶざまな僕を笑いにきたのか」
 「商売道具を返してもらいにきたのさ」
 僕の前に片手を突き出すリョウ。壁を支えにして立ち上がった僕は、無事な左手を使ってズボンのポケットから例のものを取り出す。先端のねじれた針金を受け取ったリョウはすぐにしまおうとはせず、自分の頭上に翳してためつすがめつしていたが、やがて口を開く。
 「これ、ちゃんと洗った?」
 「ああ。血がついたままだと錆びると思ってな」
 「そう」
 僕の言葉を聞いたリョウが手中の針金を回転させる。砂漠での騒動を思い出す。僕の上に馬乗りになった少年をどかせるためやむをえず実力行使したが、できればあんな野蛮な手は使いたくなかった。ただ、あれ以上砂と汗でまみれた汚い手で素肌をまさぐられるのに我慢できなかったのだ。看守に連行されていった囚人の中に片目を押さえた少年が混ざっているのを見たから、応急処置が的確ならば失明は免れるだろう。その点に関しては医師の腕を信用するしかない。
 「砂漠のアレ、すごかったね。メガネくんてばそんなおとなしそうな顔してためらいなく目玉を刺すんだもん、みんなびびってたよ」
 手中の針金から僕の顔へと上目遣いの視線を転じ、リョウが無邪気に笑う。
 「パパとママを殺したときもあんなかんじだったの?」
 いまさら驚かなかった。噂の出回る速度は速い。
 「……質問の意図が不明だ。凶器のことを言ってるならば全然違う。僕が両親を刺殺したときに使用したのは刃渡り20センチのナイフで、針金とは殺傷能力が比べ物にならない。刺した箇所も全然違う。砂漠でのしかかられた時は腕か肩を狙ったつもりがたまたま目測が狂って目玉を刺したが、両親を刺すときは確実に致命傷を狙った。母親の場合は心臓、父親の場合は右肺。大動脈を掠れば失血性ショックで心臓が停止すると医学書で読んだことがあったからな」
 ぽんぽんと針金を投げ上げていたリョウの手が虚空で止まり、声から不謹慎な笑みがひっこむ。
 「―それを冷静に説明する君って、やっぱイカれてるよ」
 リョウがどんな表情をしてるか漠然と予想できる。嫌悪と好奇心が等分に入り混じった空恐ろしげな顔。
 眼鏡が壊れていて確かめられないのが残念だ。
 僕の思考を読んだのかふっと空気が変わり、リョウがまた笑顔を浮かべたのがわかる。
 「まあいいや。実際すかっとしたしね、君が凱たちに一矢報いてくれて」
 「?どういう意味だ」
 いぶかしんだ僕の目の前へリョウが顔を突き出す。至近距離に浮かんだリョウの笑顔、その前歯が一本抜けていることを知る。
 「僕の本業は鍵屋じゃなくてウリ。刑務所内の看守や囚人を相手に性欲解消のお手伝いしてあげてんだけど、中には礼儀のなってない客がいてね。殴りながらヤるのが好きだとか複数プレイが好きだとか、そういう乱暴で暴力的な連中ね。ちゃんと料金払ってくれればいんだよ、それでも。けどね、凱の手下ときたらそろいもそろって屑揃いで……僕の前歯を折ったくせに慰謝料払わないわ料金ごまかすわで、いい加減頭にきてたんだ」
 「だから僕に針金を貸したのか?」
 「ほんとはアイツらのペニスを串刺しにしてほしかったんだけど、贅沢は言えないね」
 おどけて肩をすくめたリョウが興味深そうに僕を見る。
 「ところで眼鏡はどうするの。壊れたまんまだと日常生活にさしつかえるんじゃない?」
 無意識にズボンのポケットに手をやる。弦がひしゃげてレンズが粉微塵に割れた眼鏡を拾ってきたはいいが、知識はともかく技術がない僕がいちから修理するのはむずかしい。ただでさえ今現在僕の右手は使い物にならないのだ。不自然にふくらんだポケットにじっと目を注ぎ、リョウが口を開く。
 「僕が直してあげよっか」
 え?
 「直せるのか?」
 かすかな驚きをこめて聞き返すと、「僕ならね」と得意げに首肯された。是が非でもない申し出だった。人と関わりをもつのは極力避けたいという気持ちも捨てきれないが、裸眼では確実に日常生活に支障がでる。至近距離にいるリョウの顔さえこうしてぼやける始末なのだ。背に腹は変えられないと苦渋の決断を下した僕は、ポケットから取り出した眼鏡をリョウの手に乗せようとする。
 「交換条件がある」
 「交換条件?」
 レンズが割れてフレームだけになった眼鏡をリョウに握らそうとして、思いとどまる。リョウはにこにこと笑っていた。
 食えない笑顔。
 ネコのような動作で僕の肩へと半身をすりよせたリョウが、吐息の下から囁く。
 『レイジの弱味を探ってきて』
 「なんだって?」
 なんでレイジの名前がでてくるんだと当惑した僕を上目遣いに見上げ、リョウが笑みを深める。
 「新入りの君なら警戒されないだろうし昨日の食堂の一件もあるし、実に適役だと思うんだよね。いい取引だと思わない?君はレイジの友達になって彼の弱味を掴んでくればいい。そしてレイジの弱味を僕に報告すれば、それと引き換えに元通りレンズの嵌まった眼鏡が手元に戻ってくるってわけ。悪い話じゃないでしょ」
 僕の手から奪い取った眼鏡を目にあてがい、ひきつれるように喉を鳴らすリョウに違和感を覚える。
 「どうしてレイジの弱味を知りたいんだ?どうして僕を指名する?レイジの弱味を知りたいならば彼と同房の住人に聞けばいい。たとえば昨日彼の隣に座ってたロンとか、身近にいる彼のほうがよほど適役だと思うが」
 「ロンはだめだよ、アイツ妙に鋭いから。それに根がいい奴だから、口ではどんなに嫌っててもレイジを裏切るような真似はできない」
 「裏切る?」
 「てゆーかさ、メガネくん。君そんなに他人に関心ある人だっけ?」
 リョウの口調ががらりと変わる。どこかとぼけた雰囲気から、人の神経を逆撫でするような挑戦的な響きを帯びる。弦の曲がったメガネを手中でもてあそびながら、腹をすかせた雌猫のようにしたたかな笑みを浮かべるリョウ。
 「自分以外はどうでもいいんじゃないの?周囲に関心ないんじゃないの?程度の低い周りの連中がなにしようがどうしようが僕には関係ないって、エリート崩れの日本人らしく冷めたスタイル気取ってるんじゃなかったの?それとも……」
 リョウが間合いに踏み込んでくる。リョウに押されるかたちであとじさった僕の背中が固いものに当たり、肩に激痛が走る。強制労働中に警棒で殴打された肩を壁にぶつけ、痣に埋めこまれた火種が爆ぜる。
 肩を庇って頭上を仰いだ僕の顎を親指で支え起こし、リョウが続ける。
 「たった一日でサムライに感化されちゃったわけ?刑務所内で浮いてる親殺しふたり、囚人間でも後ろ指さされる負け犬同士がぴちゃぴちゃ傷なめあってなぐさめあってんの?反吐が出るほど美しい友情だね。鳥肌立ちそう、別の意味で」
 瞬間、理性が蒸発した。
 「―気色悪い妄想をふくらませるな」
 リョウの手を振り払い、肩の痛みを堪えて立ち上がる。
 「サムライは僕の観察対象だ。レイジもそうだ。この世に存在する全ての人間は僕にとってただの観察対象に過ぎない。君は顕微鏡の中のミトコンドリアと友情を築けるか?赤血球に恋愛感情がもてるか?そんなことは不可能だ、絶対に」

 そうだ、この世に存在するすべての人間は僕にとってただの観察対象。
 サムライもレイジも例外ではない。
 例外はただ一人ー……恵だけで十分だ。異物がまぎれこむ余地はない。
 そうだろ、鍵屋崎直。恵さえいればお前は十分だろ?

 「……いいだろう。甚だ理解できないし不条理ではあるが、君の条件を呑む」 
 唾棄するように吐き捨てた僕の前で、リョウが跳び上がって喜ぶ。
 「そうこなくっちゃ!」
 「ただし、こちらも条件がある」   
 有頂天のリョウをさえぎり、断固として念を押す。
 「眼鏡は先に直してくれ、なるべく早く。これ以上一日だってメガネのない生活は考えられない」
 僕にとって眼鏡とは自分の頭脳と妹の恵の次に大事なものだ。眼鏡がなければ生きていけない。眼鏡をしてなければ目の前に落とし穴があっても気付かず落ちてしまうだろう。まわりの風景がよく見えないというのは途方もなく不安で心許なく、こうして話している今もリョウの視線が僕のどこに向けられてるのかわからず、一向に落ち着かない。
 リョウは眼鏡の弦を口にくわえて思案していたが、僕の焦燥が本物だと見抜いたのか、やがて鷹揚に頷く。
 「……まあいいや。レイジの弱味をもってくる前に、君が壁にごっつんこして事故死しちゃったら困るしね」
 言うなりぱっと踵を返しその場から走り去ったリョウが、廊下の奥で立ち止まり片手を振る。
 「じゃあよろしくねメガネくんー。君の分析力に期待してるからねー」
 声と足音が遠ざかり、大気に溶けて完全に消滅する。
 無人の廊下にとり残された僕は、囚人服の背中が汗でぐっしょり湿っていることに気付いた。

 眼鏡の代償は高くつくかもしれない。  

【少年プリズン】
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十九話

(2006/05/27)
 「輪姦でもされたのか?」
 鉄扉を開けたレイジが開口一番最も痛いところをつく。癇に障るにやにや笑いさえなければレイジの疑問は至極真っ当なものだ、実際今の俺は酷い有り様だ。凱のシャベルが掠めた頬にはバンソウコウが貼られ、囚人服の下には他にもあちこちに包帯が巻かれている。手厚い看護といえば聞こえはいいが、どんなに怪我をしても明日の強制労働は休めないのだがら大袈裟な包帯にもあまり意味はない。
 「お前の頭の中でどんなゲスな妄想が広がってるか知らねえがこれだけは言っておく。未遂だ」
 胸糞悪い薄笑いを浮かべたレイジが鉄扉を閉じる音を聞きながら、腹立たしげに吐き捨てる。囚人服の袖の下、二の腕に巻かれた包帯を撫でながらそっぽを向いた俺を横目で眺め、自分のベッドに腰掛けるレイジ。コンクリ床に足を放り、交差させた膝の上で手を組んだレイジは、色素の薄い茶色の目に悪戯っぽい光をちらつかせる。
 「犯人あててやろうか?」
 小首を傾げ、俺の視線を絡めとってレイジが聞く。レイジが首を傾げると金鎖のネックレスが鎖骨の窪みに沿って流れ、涼やかな音を奏でた。願わくばあのネックレスでレイジを絞め殺したいと夢想する。
 依頼人と対面した名探偵のように気障なしぐさで膝を組んだレイジが意味ありげな笑みを浮かべる。
 「凱だろ」
 「それ以外にだれがいるってんだ?」
 「台湾系派閥と中国系派閥、さらには看守にも睨まれてるお前ならどこのだれに襲われてもおかしくないだろ」
 名推理を鼻で笑われたレイジがさも心外そうに眉をはねあげる。しれっと言ってのけたレイジの面に怒りが沸騰し、俺は語気荒く叩きつける。
 「他人事みたいに言うな。俺がケツおっかけまわされたり砂漠で生き埋めにされかけた原因の八割はお前にあるんだぜ、レイジ」
 「人気者は辛いね。一人を選ぶと百人から恨まれる。女の嫉妬も怖いが野郎の嫉妬は酸っぱい」
 野郎、わかっててわざとやってるな。
 憤慨した俺を笑みを含ませた目で挑発し、膝の上で頬杖ついたレイジがさらに癇に障る言葉をたたみかける。
 「まあいいじゃねえか、今日も五体満足で強制労働から生還できて。神様に感謝しとかねーとな」
 「神様なんていてたまるか」
 「お前道教だっけ?それか儒教か仏教か」
 「肌の色で判断すんな。根っからの無信仰だよ」
 「そうか。じゃあ神様を信じてないお前のかわりに俺が神様に感謝しとこう、ロンちゃんの顔を崩さずに房に帰してくれてありがとう。アーメン」
 胸の前で十字を切ったレイジを殺したい衝動にかられる。殺意をこめて拳を握り固めた俺を上目遣いに眺め、レイジが腰を上げる。
 「二目と見られないほどに崩れちゃないけど無傷ってわけにもいかなかったみたいだな」
 房を横切って俺の方へとよってきたレイジが図々しく手をさしだす。頬の傷に触れる前にレイジの手をはたき落とす。レイジがふたたび手を伸ばしてくるのを前より強くはたき落とす。しつこく伸びてくるレイジの手を振り払ういたちごっこを続けてるうちに腕の包帯がほどけ、もつれる。
 蝿を追い払うように邪険にされたレイジが、薄赤く腫れた手の甲をさすりながら口を尖らす。
 「なんだよケチ、怪我の具合診てやろうとしてんのに」
 「お前の目つきと手つきからは触診のホラ吹いて女の下着を脱がす藪医者の意図が透けて見える」
 「勘繰りすぎだよ。入所来一年付き合って俺の誠実さがよくわかっただろ?」
 「お前の言う誠実さってのは『あれは悪い夢だったんじゃないか、きっとそうだ、そうにちがいない』と自己暗示かけられるよう完全に相手が寝入ってから夜這いをかけるとか、『それ以上顔が変形すると娑婆で待ってるおふくろさんが息子を見分けられないだろうから』って理由で腹を殴って内蔵破裂させることか」
 「それは俺から満ち溢れる誠実さのごく一部だ」
 レイジとは会話が成立しない。
 「少しはサムライを見習えよ」
 「お国に尽くすサムライが誠実なのは当たり前だろ?」
 「サムライを見習って禁欲しろってことだよ」
 「そこまで枯れてないね」
 俺の皮肉を爽やかに受け流し、レイジがふと真顔になる。笑みを消した目で直視され居心地が悪い。いつもへらへら笑ってるレイジが床に胡坐をかき、軽薄な表情をひっこめて下から俺を見上げてくる。
 「なあロン」
 「なんだよ」
 手首からびろんとたれた包帯を口にくわえて巻きなおしつつ、生返事で答える。
 「殺してやろうか」
 耳を疑った。
 口にくわえた包帯をぽろりと取り落とし、みっともなく動揺してレイジを見る。コンクリ床に胡坐をかいたレイジは膝の上で頬杖ついた怠惰な姿勢で俺を見上げていた。その口元に漂っているのは冗談とも本気ともつかない愉快犯の笑み。
 色素の薄いガラス玉の目が狼狽した俺の顔を鮮明にとりこんでいる。
 「凱を殺してやろうか」
 「……馬鹿言えよ」
 苦労して生唾を飲み下す。喉をおりてゆく一塊の唾液が鉛のように重たく胃袋にこごる。
 レイジは頬杖ついたままミステリアスな笑みを深める。
 「大マジだよ俺は。安心しろ、お前には迷惑かかんないよう気をつけてさっくり殺るから。アイツが独りになったとこ見計らって物陰つれこんで頚動脈でも切れば万事解決、お前は凱とその取り巻き連中にケツおっかけまわされることも半半だなんだ罵られることもなく、平穏無事なムショライフを懲役終了まで満喫することができる」
 観客を抱擁する舞台役者のように大仰に両手を広げたレイジの言葉に、背筋を冷や汗がすべりおちてゆく感覚を味わう。
 コイツなら本当にやる。断言できる。
 俺が冗談のつもりで「よろしく頼む」と一言言えば次の日には「ほらよ」と凱の生首持ってきかねない奴なのだ、レイジは。
 四六時中凱とその取り巻き連中に目をつけられことあるごとに因縁ふっかけられて腹に据えかねているのも事実だが、俺の不用意な一言が引き金となって凱が頚動脈かき切られては寝覚めがよくない。
 レイジのおそろしい提案を却下しようと口を開きかけた俺の眼前にずいと顔を突き出し、にんまりと笑う。
 「それとも俺が半殺しにしてやるからとどめは自分で刺すか?なに、遠慮することはない。蹴るも殴るも焼くも燃やすも抉るも刺すもお望みどおり好きにしな。なんなら凱のケツひんむいてシャベル突っ込んでやれよ、今までのお返しに。俺も見たいしさ、シャベルつっこまれて柘榴みたいに割れたケツさらした凱がひんひん泣きながら這いずりまわる姿。すげえ笑える」
 自分の言葉に笑いのツボを刺激されたレイジが腹を抱えて笑い転げる。壊れたハーモニカの如く人の心をかき乱す躁的な笑い声に神経がささくれだつ。舌打ちして囚人服の袖をおろした俺は、極大の嫌悪感をこめてレイジを睨む。
 「ひとりで笑ってろよ。お前が凱を殺すのは勝手だけど俺の為だとか気色悪い理屈こねだしたら殺すぞ」
 「なんでだよ?お前だって凱に消えてほしいって思ってんだろ、腹ん中では」
 人の心の奥底まで覗きこんでくるかのようなレイジの目に咄嗟に反論できなかった。
 たしかに凱が消えてくれれば万万歳だ。廊下ですれ違うときにわざと肩をぶつけられるような古臭い嫌がらや強制労働中の事故に見せかけてシャベルを脛にぶつけられて足を腫らすような人災の数々と縁を切れるし、東京プリズンでの俺の生活もだいぶマシになるだろう。俺の生活向上のために凱には一日も早く出所するかリンチで死ぬか作業中の事故で死ぬかしてもらいたいが、レイジが「お前のために」とか恩着せがましい理由をこじつけて手を下すのはまた別だ。
 見返りになに要求されるかわかったもんじゃないし。
 不審と警戒の入り混じった複雑な視線を飄々と受け止め、レイジがくくっと喉を鳴らす。
 「凱を殺せばお前の貞操は保障されるし俺は目の上のたんこぶが消えてハッピー。悪い話じゃないだろ」
 「お前はただ人を殺したいだけ、人を殺す大義名分が欲しいだけだろ」
 「ったく頑固だなあ」
 頭の後ろで手を組んだレイジがあきれたような声をあげる。どっちが頑固なんだ。執拗に首肯を迫るレイジを苦々しげに一瞥、唇の端をねじって吐き捨てる。
 「大体、見返りになに要求されるかわかったもんじゃねえ」
 「たいしたもんじゃねえよ。同房の奴の頼みなら格安で聞いてやるさ」
 「ちなみになに要求する気だった?」
 「お前の貞操」
 そうか、俺の貞操はたいしたもんじゃない上に格安なのか。
 「睨むなよ、冗談だって。本当はフェラ……」
 「その先続けたら噛みちぎるぞレイジ」
 「うそうそ冗談」
 高速で手を振って前言を打ち消したレイジが意味ありげに目を細め、自信過剰な口ぶりでささやく。
 「ロンは特別、『愛してる』三回で引き受けてやる」
 「死ね死ね死ね。三回言った、さあ死ね」   
 レイジのたわけた提案をすげなく一蹴する。「つれねえなあ」と傷心のため息に暮れるレイジを小気味よく見下ろしていた俺の耳に、ガキっぽく拗ねた呟きがもぐりこむ。
 「俺を頼ればラクなのに、もったいねえ」
 レイジに借りを作るのはぞっとしない。いつか上乗せして利子を回収されそうだ。不毛な議論を打ち切ってふたたび包帯を巻きなおすのに集中しはじめた俺をよそに、退屈をもてあましたレイジは一人で勝手に話を続ける。
 「そういえばさ、例のメガネもイエローワーク配属になったんだって?すげえ速さで噂出回ってるぜ、強制労働初日だってのに凱やタジマ相手にどえらく派手にやらかしたって。見かけに寄らず図太いタマだよな、アイツ。自分を無理矢理ヤろうとした奴の目ん玉刺したんだろ、針金でぶすって。うっわー痛そう、俺なんか想像しただけでちびっちゃうね」
 「見かけおとなしい奴ほどキレたら怖い。エリート崩れの日本人ならなおさらだ」
 自分を犯そうとしたガキの目玉に迷いなく針金を突き刺した鍵屋崎を思い出す。効き手は右だという話だが、振り上げた左手には一切躊躇がなかった。怒りと屈辱が頂点に達した上での発作的な行動かもしれないが、あの時の鍵屋崎の様子には遠巻きに眺めてる奴らをぞっとさせるものがあった。
 親を殺したときもあんなかんじだったのだろうか。
 鍵屋崎と俺とを比べる。俺だったらどうだろう。寝台で男とまじわってるおふくろの無防備な背中にナイフを刺せるだろうか。逆にナイフを奪われてお袋に逆襲されそうな予感がするが。
 見かけはいつ首を吊ってもおかしくないヒヨワな日本人の典型だが、レイジの言う通り鍵屋崎はいいタマで図太い神経の持ち主だ。鍵屋崎が何年懲役喰らって東京プリズンにぶちこまれたか知らないが、そこそこの年月なら東京プリズンで生き残れるかもしれない。
 「アイツ、なにやってぶちこまれたんだろうな」
 「………」
 「知ってるかロン?」
 「知ってても言いたくない」
 好奇心丸出しのレイジの質問をぴしゃりとはねつける。鍵屋崎の噂はすでに出回ってる。アイツが親を殺して東京プリズン送りになったことがほぼ全員の囚人に知れ渡るまであと三日もかからないだろう。お互い天敵同士の台湾・中国の間に生を受けた俺も肩身が狭いが、鍵屋崎はこれから俺以上の居心地の悪さを味わうことになるだろう。まさしく針のムシロだ。今日一日さんざん迷惑をかけられまくった手前、同情する気はこれっぽっちも起きないが。
 「―メガネくんがどこまで保つか見ものだな」
 俺の胸中を見透かしたようにレイジが薄く笑みを浮かべる。悪魔のようにきれいなツラに反吐が出る。俺は話題を変える。
 「人の心配より自分の心配しろ。聞いたぜ、今度西棟の奴とあたるんだってな」
 「ああ」
 「なんだ、そのことか」と一気に関心が薄れたレイジがおざなりに頷く。
 「仕事中に班の奴らが話してたぜ、お前の勝率」
 「参考までに聞くけど、どんなもん?」
 「六対四か七対三だとよ」
 「だれが顔も見たことない他人の評価聞きたがるってんだ」
 レイジが鼻白む。俺は怪訝な顔をする。
 「俺が聞きたいのはいちばん近くにいていちばんよく俺を見てるお前の評価だよ、ロン」
 気のない素振りを装っていても俺の評価は気になるらしく、胡坐の上に頬杖ついたレイジが明るい薄茶の目に隠しきれない興味を覗かせる。二の腕に巻いた包帯を袖の上から撫でながら俺はちょっと考えこむ。
 「五対五」
 「マジかよ!?」
 レイジが電気ショックを受けたように大声を張り上げる。いい気味だ。心の中で笑いながらさらにたたみかける。
 「東棟の王様だからって調子に乗るなよ、レイジ。王様の時代は長くは続かねえって相場が決まってんだ。そろそろ革命される時期がきたんじゃねえか?」
 「ずいぶん安く見られたもんだな俺も」
 「王様のくせに言動安いからだよ」
 なげかわしげにかぶりを振るレイジ。レイジが頭を振るたびに後ろで括った茶髪が跳ね、裸電球の明かりを反射して金に輝く。こうなるとわかっていたから俺は評価を偽った。九対一の本音を言ってレイジを調子づかせるのは癪だ。知らぬ存ぜぬで釘をさしておくのもいいだろう。
 「博愛主義で平和主義、下々にフレンドリーな王様で売ってきたつもりなのに……ぼちぼち宗旨替えの時期かな」
 一人で勝手におちこんでるレイジが愉快すぎてこみあげてくる笑いを抑えるのに苦労する。
 「で?昇厘とはいつあたるんだ」
 「二日後の夜」
 「賭け金張ってるギャラリーの前で裸の王様に成り下がらないよう鍛えとくんだな」
 「愚民め、だれに口をきいてるんだ?」
 無駄な贅肉を殺ぎ落とされた猫科の肉食獣をおもわせる剽悍な笑みを浮かべ、レイジが宣言する。
 「キングがポーンに負けたら盤面がひっくり返されちまう。俺はまだ王座を譲る気はねえよ」
 たいした自信だとあきれる。が、レイジの実力を知ってればあながち大言壮語とも言いきれない。二日後の試合については絶大な自信を誇るレイジの顔が少し曇る。
 「二日後の試合はどうでもいい。おっかないのは一週間後」
 「一週間後、だれとあたるんだ?」
 「北のロシア皇帝」
 東西南北の棟はそれぞれ独立して自治区を運営してるから顔を見たことない奴や名前を聞いたことがない奴がいても不思議じゃないが、北棟を牛耳るロシア皇帝の風評はちらっと小耳にかじったことがある。入所わずか三年で北棟を制覇して下克上を達成したとんでもなく強いロシア系がいるっていう物騒な噂だ。悪魔に魂を売り渡したレイジが負けることはないとは思うが、対戦相手を聞いて俄かに不安が増す。
 「ま、俺が無事勝ち進んで相手も無事勝ち進んだら当たるだろうって前提だけど」
 頭の後ろで手を組んだレイジが飄々とうそぶき、俺の疑念を煽る。
 「やけに余裕じゃねえか、おっかないとか殊勝なこと言ったくせに」
 「おっかないのはな」
 レイジが言葉を切り、妙な沈黙が落ちる。俺はレイジを見つめる。レイジの顔は相変わらず笑っていたが、その顔が限りなく無表情に近く見えたのは気のせいだろうか。
 「俺が手加減できなくなりそうだからだ」
 しれっと言ってのけたレイジに、肌が粟立つ感覚をおぼえる。手加減できなくなったレイジ。想像するだに恐ろしい。
 「そんなわけで一週間後は応援にきてくれよ、ロン」
 「冗談じゃねえ。くだらねえお遊戯に付き合うのはまっぴらだ」
 「たまには試合観戦して賭け金張ってストレス発散しろよ。その為に俺らブラックワークが汚れ仕事引き受けてんだぜ?」
 「お前らブラックワークは戦闘狂の変態揃いだから趣味と実益を兼ねて楽しく殺しあえてちょうどいいだろ。本当に可哀相なのは、」
 「可哀相なのは?」
 余計なことを言っちまったと後悔するが、遅い。顔を背け、続ける。
 「……お前らブラックワークの底辺にいる奴らだよ」
 ブラックワークの底辺にいる連中は悲惨だ。地獄の最下層だってああまで悲惨じゃないだろう。先を競って首を吊りたくなるのも無理ない。最も、俺だって他人事のように澄ましてられる立場じゃない。看守ウケがよくない俺はいつブラックワークにまわされるかわからないのだ。
 「お前が応援にきてくれりゃ勝てる気がするんだけどな。余裕で」
 白い歯を光らせてレイジが笑う。刑務所にいるのになんだってコイツの歯は白いんだ、洗剤で漂白してるのか?ぼんやりそんなことを考えながらレイジの笑顔を眺め、ドスを効かせた声を絞り出す。
 「俺は行かない。ガキどもが主役の公開スナッフフィルムをわざわざ見に行くような悪趣味な趣味はねえ」
 「一週間後には気まぐれ起こしてるように神様にでも祈っとくよ」
 首を竦めたレイジが観念したように苦笑する。苦い成分が混ざったレイジの笑顔を見て、心の中で反駁する。

 神様なんかいない。いないもんに願かけしても希みが叶うわけがねえ。

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二十話

(2006/05/26)
 だれかがピアノを弾いている。
 つっかえつっかえ一生懸命に、ひたむきに一心に、小さな指を鍵盤から鍵盤へと移ろわせている様子が瞼の裏側に浮かぶ。
 どこからか流れてきた音符を辿り、飴色に輝く廊下を歩く。隅々まで掃除が行き届き、塵ひとつ埃ひとつ落ちてない廊下。通いの家政婦は勤勉だ。病的に神経質で少なからず潔癖症の気がある主人の叱責を回避するために、手抜かりなく廊下の隅々まで掃き清めてワックスをかけている。
 光沢のある木材の床を歩いていた僕はひとつのドアの前で立ち止まる。音符はこの部屋から漏れてきた。ノブに指紋がついてないか確かめてから慎重にドアを開ける。我が家の家政婦は勤勉だ、雇い主とその息子が病的に神経質で潔癖な性質を有していると知っていて、絶対に指紋など残さぬよう念入りにノブを拭いている。彼女だってノブの指紋を見落とした咎で高給の職を失うのは嫌だろう。そんな感慨を覚えながら、ピアノを弾いている人物の集中力を妨げぬよう少しずつドアを開ける。
 
 ピアノがあるだけの殺風景な部屋だった。 

 木目調の美しい木材の床は飴色の光沢を纏い、天然の鏡のように艶々と輝いている。塵ひとつ見逃さずに掃除された床を四つ脚で踏んでいるのは、練習用のアップライトピアノ。床と同じく丁寧に磨かれたピアノの表面は眩く輝き、蓋を上げた鍵盤には整然と白と黒が配置されていた。美しく調和した黒鍵と白鍵の連なりをうつむき加減に見下ろしているのは幼い少女。こちらに背を向け、ひどく生真面目にピアノを弾いている少女の背後へと足音を忍ばせて歩み寄る。少女の手が跳ねる度に肩に垂らしたおさげが小気味よく揺れ、独特の拍子を刻む。小さな後頭部に続くのは色白のうなじ、うなじの下に連なる背中はノースリーブのワンピースに隠されているが、少女が半身をずらして遠くの鍵盤へと手を伸ばすたびに華奢な肩甲骨が上下する。
 演奏に没頭する少女を驚かせぬようその背後で立ち止まり、しばらくピアノ曲に耳を傾ける。
 少女の演奏はお世辞にも流暢とはいえなかった。バイエルを卒業したばかりの少女には、ずらりと左右に整列した鍵盤の数が手に余るのだ。それでも少女は一生懸命だった。見ているこちらがいじらしくなるほどに練習に練習を重ね、自分の技量を向上させようと努力していた。その努力が実を結び、最近でははっきりとその上達具合がわかるようになった。以前手つきは危なっかしいし自由自在に鍵盤を操れているとはとてもいえないが楽譜に打たれた音符を取りこぼすことは殆どなくなり、聞いている方も大分安心して音に身を任せられるようになった。
 
 演奏が終了した。
 同時に、僕は拍手をした。

 『!』
 おさげを振り回し、はじかれたように振り向く少女。子供らしい丸みをおびた頬がうっすらと上気しているのは演奏を終えた昂揚感のためか、それとも練習曲の一部始終を僕に聴かれた羞恥のためだろうか。おそらくそのどちらでもあるのだろう、僕を見た少女の顔がいたずらの現場をおさえられたお転婆娘のように気まずげになる。
 『いたのおにいちゃん』
 『曲が終了する一分二十五秒前からな』
 拍手をやめて少女の隣の椅子に腰掛ける。少女は拗ねたように口を尖らし、ぷいとそっぽを向いた。 
 『それなら声をかけてよ』
 『恵の演奏に余計な夾雑物をはさみこみたくなかった』
 『きょうざつぶつ?』
 恵がきょとんとする。リスに似た黒目がちの目が不思議そうに僕を見つめ、我知らず苦笑がこみあげる。
 『おにいちゃん、きょうざつぶつってなに?』
 『夾雑物とは端的に言えば「不要なもの」だ。恵の演奏に無粋な話し声や物音は要らないだろう?』
 『それより黙ってうしろで見てられるほうがはずかしいよ』
 鍵盤に手をおいた恵が今だ不満げに呟く。正面に掲げられた楽譜に目をやる。恵が弾いていたのはショパン作子犬のワルツだ。鍵盤の上で子犬がじゃれているような無邪気で軽やかな曲は恵によく似合う。恵は僕の方を見ようとはせず、落ち着かないしぐさで肩に垂れたおさげをいじくっていた。僕に演奏を聴かれていたのが相当恥ずかしかったようだ。
 正直、なにをそんなに恥ずかしがるのか理解できない。だから僕は話題を変えた。
 『ずいぶん上手くなったじゃないか、恵』
 『ほんとう?』
 おさげの穂先をしごきながら疑わしげまなざしで僕を見る恵に、力強く頷き返す。途端、恵の顔が明るく輝く。
 『おにいちゃん、うそついてない?恵、ほんとうに上手になった?』
 『なんで僕が嘘をつくんだ。誓って言うが、僕は恵以外の人間すべてを騙しても恵にだけは嘘をつかないぞ』
 本心から言ったのに、恵は完全には疑念を捨て切れてないようだ。兄に対するこの信用のなさはなんだ。正面に立てた楽譜を重ねて角をそろえながら、下目遣いの恵がぽつりと呟く。
 『………だっておにいちゃん、なんでもできるから』
 恵の言葉に虚を衝かれる。
 恵の横顔は意気消沈していた。白く強張った頬はあどけない笑みを頑なに封じこめ、下を向いた顎の線はひどく思いつめたように硬直していた。楽譜をそろえるのに集中する演技を続けながら、今にも消え入りそうな声で恵が続ける。 
 『なんでもできるから、なんにもできない恵のことかわいそうがってるんじゃないかって』
 一瞬、言葉に詰まった。
 『………そんな』
 そして、悔やむ。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。今の間は決定的なミスだった。案の定、僕の言葉に欺瞞の匂いを嗅ぎ取ったらしい恵が唇を噛み締めてだまりこむ。
 恵にこんな顔をさせた自分を殺したい。
 自分で自分の首を締めたくなるような後悔に苛まれがら、僕は恵の誤解を解こうとしてさらに墓穴を掘る。
 『なにを言ってるんだ恵、それは思い過ごしというか長子に対する次子コンプレックスの心理作用というか、その、つまり』
 『もういい』
 よくない。
 事実、恵は目を潤ませているじゃないか。楽譜をおさらいするフリをして涙をこらえる恵のいじらしい様子に胸が痛み、無力な言い訳を重ねようとした僕の目の前にスッと楽譜がさしだされる。
 物問いたげに目をあげる。椅子に座ったまま半身をこちらに傾けた恵が、いやに切羽詰った顔で僕を見つめている。
 『おにいちゃん、弾いてみて』
 おねがい、といよりは命令に近い頑固な口調だった。僕はどうやら本格的に恵の機嫌を損ねてしまったようだ。しかし、これは……どういうことだ?戸惑いつつも、恵のまなざしに促されるがままさしだされた楽譜を受け取る。手の中の楽譜を不審げに見下ろす僕の耳に静かな声が響く。
 『ピアノ、弾いてみて』
 恵の声は落ち着いていたが、その声の底でかすかに漣立っているのは不安定な揺らぎ。何が何だかわからぬまま、それでも恵をこれ以上不機嫌にさせるのが嫌でぎこちなく鍵盤に手をおく。恵がじっと僕の手元を見つめているのがわかるが、僕は鍵盤を見つめたまま硬直していた。膝の上に広げた楽譜と鍵盤を見比べた僕は、次の一言を発したものかどうか逡巡するが、さきほど恵の前で嘘はつけないと誓った手前素直に白状するしかないだろう。
 『……恵』
 『なあにおにいちゃん』
 『なにをどうしたらいいかわからない』
 内心忸怩たるものを感じながら、吐き捨てるように言う。知識と教養には自信がある僕も、ピアノに触れるのは今日がはじめてだ。実際恵に促されなければ一生ピアノに触れずに生涯を終えていただろう。そんな僕がすらすらとピアノを弾きこなさせるわけがない。自慢じゃないが楽譜に何が書いてあるのかさっぱりわからない。いや、誤解しないでくれ。それぞれの音楽記号が何を示すかは完璧に理解できるし説明することもできる。ピアノは弱く、メゾピアノはやや弱く、ピアニッシモはごく弱く、ピアニッシッシモはできるだけ弱く……
 『おにいちゃんにもできないことあったんだ』
 メゾピアノのささやきに振り向く。安心したように呟いた恵の顔には嬉しさを噛み殺すような笑みが浮かんでいた。
 『誤解するな恵、僕はピアノが弾けないわけじゃない。僕を世間の凡人どもと一緒にするな、練習すればすぐに……』
 『でも今は弾けないんでしょ?』
 『知ってるか恵、子犬のワルツの作曲者ショパンの本名はフレデリック・フランソワ・ショパン、1810年にポーランドで生まれた。ロマン派を代表する作曲家で39年の短い生涯のほとんどをピアノ曲の作曲に捧げ、その旋律の美しさから「ピアノの詩人」と呼ばれている。ほかにもワルツ第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲」やワルツ第2番変イ長調Op.34-1などの代表作が……』
 『弾けないんだね』
 恵は僕の話を聞いてないようだ。先刻までの落胆ぶりが嘘のように快活な様子でふたたびピアノを弾き始めた恵、肩にたらしたおさげを元気に振りながらはずむような口調で言う。
 『おにいちゃんにもできないことがあってよかった』
 できないんじゃない、今までやろうとしてこなかっただけだ。天才に不可能はない。
 心の中で反駁したが、はにかむように笑った恵に反論する気力も失せる。でも、恵の笑顔を見ているうちにどうでもよかった。恵の考えていることはよくわからないが、僕にもできないことがあると知った恵が安心感を得られるならそれに越したことはない。

 恵が嬉しいなら僕も嬉しい。
 恵が喜ぶなら僕も喜ぶ。
 僕には恵しかいないのだから、恵がしあわせなら僕もしあわせだ。

 この上なく充足した気持ちで恵の演奏に耳傾けていた僕は、リラックスしすぎたせいで足音の接近に反応するのが遅れた。廊下を蹴るような勢いで近づいてきた苛立たしげな足音が僕たちがいる部屋の前に到達し、乱暴にドアを開け放つ。
 ―『静かにしろ!』―
 恵の演奏をぶち壊しにした無粋きわまる張本人の正体は、認めたくはないが……僕の父親だった。
 『!』 
 恵がびくりとする。鍵盤においた手が硬直する。恵の演奏を妨害した男は足音荒く部屋の中に踏み入ると、威圧的な歩幅でこちらへと接近してきた。恵を庇うように位置を移動した僕は、不機嫌も絶頂の男と面と向き合う形となる。
 虐げられた小動物の目をした恵が僕の背に隠れて男を盗み見る。男は憎々しげにピアノを一瞥すると、ついで僕の肩越しに恵を睨みつける。
 『私は今、次の学界で発表する資料を整理しているところなんだ。雑音が侵入してくると集中力が乱れる。演奏はやめなさい』

 「雑音」。
 この男はたしかにそう言った。吐き捨てるように、軽蔑するように。

 『……………』
 恵の目にみるみる大粒の涙が盛り上がる。僕の背中のシャツを握り締めてうつむいた恵に憐憫の情をもよおすでもなく、僕の顔へと目を転じた男が感情のこもらぬ声で告げる。
 『直、お前はどうしてここにいる?お前に頼んでいた資料の収集は終わったのか』
 『とっくに終わらせて貴方の机の上に置いておきましたよ』