ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 浮揚感、につぐ衝撃。
 腰骨を強打したが、下が柔らかい砂だったため大事には至らなかった。地に膝をついてぺっぺっと砂を吐き出す俺の横、メガネのレンズに砂粒が付着した鍵屋崎がなげかわしげに目を細める。
 「僕の有益な助言を聞かないからだ。前方に穴があると指摘しようとしたのに」
 「無駄な知識ひけらかすしか能のねえお前がたまに有益なアドバイス混ぜてもわかんねえんだよ、俺を含むその他大勢には!」
 「無駄?僕の知識のどこが無駄なんだ、君のような粗野な人間にはわからないかもしれないが知識を積み上げ教養を深めることによってのみ、人は高尚な精神世界に到達でき……」
 鍵屋崎の無駄口を丸投げして上を見上げる。
 前方不注意で俺が転げ落ちたのは高さ2メートル、直径1メートルの穴だ。おそらく井戸の沸く地点にあたりをつけて発掘してたのが見込みなしと放棄され、埋めなおす手間を惜しんだ連中によってそのまま捨て置かれたのだろう。鍵屋崎への苛立ちを抑えつつ斜面に爪を立ててよじのぼろうとした俺の顔面を大量の砂が叩く。
 「!?」
 目に砂が入った。激痛。明滅する視界を掠め去ったのはシャベルの残像。俺と鍵屋崎が落ちた穴の周りを囲んでいるのはシャベルを持った凱と取り巻き一同。俺たちが穴に落ちて足止め喰らってる間に追いつかれたらしい。
 ザッザッザッ。
 俺の目が眩んでいる間に不吉な音が連続する。見なくても何をしてるのかわかった。

 埋められる!

 砂にシャベルを突き立てた取り巻きが大量の砂を穴底に撒き、俺たちの踝までを埋めていく。瞬きして砂を追い出しながら頭上に目を凝らした俺の視界にとびこんできたのは、憤怒の形相の凱。
 卑猥に分厚い唇をゆがめた凱は、筋骨隆々たる逞しい腕をせっせと振りかざし、一塊の砂をハイペースで俺たちの頭上にこそげ落としてくる。あらたな砂が投げ落とされるより前に速攻で斜面をよじのぼろうとしたが、穴の縁にかけた手の甲に激痛。穴の縁にかけた手をシャベルで強打され、バランスを崩した俺はふたたび底へと落下。背後の鍵屋崎も同様、四つん這いのみっともない格好で斜面を這い上がろうと奮闘しているが穴の縁に立った取り巻きに指を踏まれ、手といわず腕といわず肩といわずシャベルで叩かれて落下する。
 「生き埋めなんて洒落になんねえぞ!」
 かすれた声で凱を非難するがそれこそ敵の思う壺。機械的にシャベルを上下させる取り巻き連中を顎で指揮しつつ、穴の頂点に立ちはだかった凱が野太い声で鳴く。
 「ああ、洒落のつもりはねえ。おあつらえむけに墓穴もある、ここをお前らの墓場にしてやる」
 「看守に知られたらどうすんだよ、作業中に勝手なことして……」
 「自分の立場がわかってねえようだな、レイジの腰ぎんちゃくの半半ロン」
 小気味良さそうにせせら笑う凱。
 「イーストファームの主任看守はタジマだ。タジマといえばお前の天敵。タジマはお前のことを毛嫌いしてる。そこのメガネは囚人環視の点呼時にタジマに反抗した馬鹿でタジマ秘蔵のブラックリストに追記されたのは必至。そんな問題児ふたりが蟻地獄に嵌まったところで焦った看守が駆けてつけてくるとおもうか?」
 読めた。
 「―タジマの差し金だな?」
 息を殺して問いかける。全部読めた。凱の含みありげな口調と、作業をサボって勝手なことをしているにも関わらず一人の看守もこちらに駆けてこない理由が。鍵屋崎は今朝の点呼でタジマに反抗した。問いに答えなかった、ただそれだけがタジマから見れば重大な不敬罪、ひいては反逆罪に分類されるのだ。反抗的な目つきをした、自分にそのつもりがなくてもタジマが「睨んだ」と受け取ったならもう自己弁明の余地など与えられない。タジマの息のかかった連中に「作業中の不慮の事故」に見せかけて嬲り殺される末路は目に見えている。
 タジマは自分で囚人を嬲り殺すのも好きだが、自分の気に食わないガキが看守の被支配下にある連中に嬲り殺されるのを見物するのも好きだ。そうでも考えなければいかに賄賂を渡したところで、作業を放棄して好き勝手やってる凱たちがその他の看守にまで見過ごされるわけがない。
 おそらく根性腐れのタジマが言い含めているのだろう、凱たちの暴走行為を黙殺するようにと。
 「どうだかなあ」
 凱が笑い、取り巻きたちが追従笑い。「そうだ」と言ってるようなものだ。モノクロフィルムの安い悪役を地で行く凱たちだが、その間もシャベルを振り下ろす手は止まらない。俺と鍵屋崎の頭上にザッザッと砂を投げ落としながら、得意絶頂の声でいななく。
 「真相は地獄の閻魔様にでも聞いてみろよ!」
  
 東京プリズンは地獄だ。
 ここより深い地獄に落ちるのはごめんだ。

 「鍵屋崎、生きてるか?」
 「い、きて、はいる」
 途切れ途切れに鍵屋崎が言う。無理もない、ひっきりなしに砂を投げ落とされ、既に腰まで埋もれているのだ。このままじゃ凱とタジマの目論見どおり、砂漠の墓穴に鍵屋崎とふたり埋められてしまう。冗談じゃねえ、なんでこんな理屈屋メガネと。一日始めの食堂で仏心をだしてからケチのつきっぱなしだ。こんな疫病神に関わるんじゃなかった、畜生。顔面に叩きつけられた砂を払い落とそうと腕を伸ばすしたそばから滝の如き波涛を打ち、脳天からつま先までズザザッと流れ落ちる。
 「だが、彼らが砂を投げ落とすペースとこの穴の深度を計算すれば三分と五十秒後には確実に窒息死するだろう」
 「自分の死因を冷静に分析する余裕があるなら窒息せずに済む方法を考えろ!!」
 こんな時までクソ冷静な鍵屋崎を一喝した俺も相当ヤキが回ってた。腰まで砂に埋もれ身動きも苦しくなってきた俺は、無我夢中で穴の縁へと手をさしのべる。
 プライドをかなぐり捨てて自分たちに助けを乞うつもりか、ふたたび穴をよじのぼろうと画策したか。おそらくその両方にとった凱が、残虐な喜びに打ち震え一気呵成にシャベルを振り下ろす。
 今だ!
 「!?なっ、」
 シャベルの先端が頭蓋骨を砕く間際、凱の足首を掴み、全力で引く。シャベルの軌道が狂い、凱の顔がブレる。もんどり打って斜面を転げ落ちてきた凱を踏み台にし、跳ぶ。これを見た鍵屋崎がうつ伏せに失神した凱の巨体に乗って高さを稼ぎ、おなじく生還。
 「凱さん!」
 「はやく穴の底に下りるんだ!残りは奴らを追え!」
 臨機応変、やるべきことを分担した取り巻き連中の一方が俺たちを追いかけてくる。一心不乱に走りながら口の中にもぐりこんだ砂を吐き出す。砂の混じった唾が次から次へとこみあげてくる。服の中にまぎれこんだ砂がざらざらと肌を擦る不快な感触が神経を苛立たせ、焦燥を煽る。
 「どこへ逃げるんだ?どう足掻いても檻の外には逃げられないだろう」
 育ちのよさが窺える上品な素振りで服の裾をつまみ、中の砂を振り落としている鍵屋崎。服の中に手をつっこんで乱暴に砂をはたき落とす育ちの悪い俺。
 「お前は死にたいのか?俺は死にたくねえ、だから逃げる」
 「正論だ。人間に限らず、すべての生物には生存欲求が備わっているからな」
 納得したように鍵屋崎が頷く。やっぱりこいつ頭がおかしい。
 「だが運良くこの場を逃げおおせたところで、僕らがおかれた状況が好転する見込みはないだろう?一時的に危機を脱してもその後は保障できない。いや、この場を逃げおおせた反動でもっと酷い目に遭わされるかもしれない。死亡予定日は今夜か明日か明後日か……はたして僕や昨日入所した囚人たちは、五体満足で東京プリズンを生き抜けるだろうか?」
 「未来の危機より目先の危機を考えろ」
 鍵屋崎と前後して走る俺の背後に凱の手下が殺到してくる。くそっ、無駄口叩いてる間に追いつかれた!勝手に世を儚んで浸ってる鍵屋崎なんか放っておいて、横っちょに放置されてたリヤカーの柄を持ち上げる。 
 「!?ひっ、」
 背後でうろたえた声。腹を蹴って加速させたリヤカーが一塊の追っ手に突っ込んでいったのだ。陣形を乱してリヤカーのために道を空けた手下たちの何人かは足や腕を車輪に轢かれ、悲鳴に近い叫び声をあげる。
 「くそっ、殺してやるぜ半半!」
 「あのドス汚ねえ半半と屁理屈メガネをふんづかまえて目ん玉砂で洗ってやる!」
 「ケツひんむいて俺たちのモンをぶちこんでやる!」 
 「ヤれるもんならヤってみやがれ、凱のおこぼれ舐めるしか能のねえサル山の猿がいきがるな!」
 リヤカーを避けて追いかけてきた何人かに中指を突き立てて応酬。隣の鍵屋崎がなげかわしげに首を振る。
 「君に品性を期待するのはもうやめた」
 「俺もお前との意思疎通あきらめるよ」
 まったくなんでこんなことになったんだ、と走りながら考える。
 考えるまでもない、あれもこれもそれも全部俺の隣を走るお高くとまった日本人のせいだ。どんな目にあわされようが無視して放っておけばよかったんだ、こんなやつ。コイツが先住者に絡まれる原因の八割はコイツ自身の言動にある。早い話自業自得じゃねえか。
 すべてにおいて自業自得のコイツを見捨てられなかった理由なんてのは単純だ。それは……
 「それにつけても」
 横顔に注がれる鍵屋崎のあきれたまなざし。
 「縁もゆかりもない赤の他人であるこの僕を我が身を挺してまで助けて、今もこうして一緒に逃げているとは……」
 走りながら鍵屋崎へと向き直る。眼鏡の奥の目を怪訝そうに細め、皮膚で光合成する新人類でも見たように鍵屋崎が言う。
 「まったく君は、人がいいな」
 「『いい人だな』だろ、日本人なら正確な日本語をしゃべれ!!」
 「僕は今の心情に最もふさわしい形容をしたつもりだが、生粋の日本人ではない君には意味がとりにくかったのか?」
 「俺がお前を助けたのは、」
 言葉を続けるのを迷う。鍵屋崎が妙な顔をする。
 「なんだ?」

 言えるか。ほんの少し共感したからなんて。

 勘違いしないでほしいが、俺が鍵屋崎に共感したのは「親を殺したい」と思った一点のみだ。鍵屋崎は大胆不敵にも親殺しを実行してこうして東京プリズン送りになったわけだが、俺は結局想像するだけで実行に至れなかった。
 今更それを悔いているわけではない。だが、もし―……もし俺が鍵屋崎のように親を殺していたらどうだったのだろう。
 俺と鍵屋崎はたぶん理由は違えど、殺したいほど親を憎んでいたというその一点のみが共通している。
 ただその一点だけが、俺が鍵屋崎を気にする理由だ。

 憮然と口をつぐんだ俺を鍵屋崎が不思議そうに眺める。鍵屋崎の注視がうざったかったので一喝しようとした、その時。
 鍵屋崎が消えた。
 「!?な、」
 横から消えた鍵屋崎の姿に動転し、あわてて振り返る。うつ伏せに倒れた鍵屋崎が苦悶に呻いている。わずか3メートルの距離に迫った手下がおもいきり投擲したシャベルが、鍵屋崎の踵をかすめて砂地に突き刺さったのだ。連動して倒れた柄がしたたかに背を打ち据え、バランスを崩して地に転げた鍵屋崎の顔から衝撃で眼鏡がはじけとぶ。
 1メートル離れた地点に落ちた眼鏡を手探りでさがし、膝這いになった鍵屋崎が「めがねめがね……」と当惑を深める。こんな時に!歯噛みしたい心境で回れ右し、鍵屋崎の頭上にシャベルを振りかざした手下の一人に突進する。
 「逃げろ!!」
 「逃がすか!!」
 俺の声と手下の声が交錯し、ぼんやりした目の鍵屋崎がうろたえる。手下の腹にタックルの姿勢で突進、勢いに乗じて押し倒す。俺に馬乗りになられた手下は怒り狂ってシャベルを振り回し、金属の鋭い先端がザクリと頬をかすめる。頬の皮が裂けて血が滴り、囚人服と血に黒点が染みる。
 「この野郎っ、」
 仲間に馬乗りになった俺を二人がかりで引きはがしにかかる手下、残りの一人が魚雷のように鍵屋崎にむかって疾駆。砂地に膝をつき四つん這いになった鍵屋崎はあぶなっかしい手つきで地面を探り、「めがね、めがね」としきりに呟いている。
 あんの馬鹿っ、どうして逃げねえんだよ!?
 俺の疑問はすぐに解消された。実際は逃げたくても逃げられなかったのだ。視力が悪い鍵屋崎は自分めがけて全力疾走してくるガキに気付くのが遅れ、気付いた時には既に背を蹴られて地に突っ伏し、されるがままに組み伏せられていたのだから。
 「獲った!」
 「でかした、凱さんを呼んでこ……」
 「その必要はねえ」
 地に組み伏せられた俺の鼻先にぬっと影がさす。目を細めて見上げる。逆光を背に立ちはだかっていたのは2メートルに近い巨体の男。肩までめくりあげた袖からは針のような剛毛に覆われた二の腕が剥き出され、その先の手には砂がこびりついたシャベルが握られている。
 凱は笑っていた。この時を待ち望んでいたと快哉を叫ぶ、歓喜滴る満面の笑顔。
 凱が口を尖らし、ぺっと唾を吐く。宙を飛んだ唾は狙い違わず俺の顔面に付着し、まわりを取り囲んだ取り巻き連中が爆笑する。
 「いいツラだな、半半」
 「そうやって腕を極められて地に這いつくばってんのがくそったれ台湾との混血にゃお似合いだ」
 「台湾人は犬の飯を食って犬とヤる鬼畜だから、犬の血が流れてるお前には犬の格好がいちばん似合うよ」
 「凱さんの唾で顔を洗って『中国万歳』って三回叫べば尻は見逃してやってもいいぜ」
 「口は頂戴するけどな」
 四囲から浴びせられる下品な嘲笑と下劣な野次にカッと体の芯が燃える。勝利の愉悦に酔ったけたたましい哄笑が抜けるような蒼天に響き渡り、俺の内側の温度が急速に冷えてゆく。
 「―じゃねえ」
 「あん?」
 余裕の笑みをたくわえたままうろんげに聞き返した周囲の連中に、俺はせいぜいふてぶてしく言ってやる。
 「俺の名前は半半じゃねえ、ロンだ。了解、頭可憐中國人?(わかったか、頭の可哀相な中国人)」
 凱の顔色が豹変する。
 「……請再説一次(もう一度言ってみろよ)」 
 開脚姿勢で屈みこんだ凱が鼻毛が一本一本数えられる距離にまで顔を近づける。
 「スラングでかなり崩れているが、さすがに発音は正確だな」
 凱に襟首を締め上げられた俺の言葉を横からひっさっらったのは、うつ伏せで押さえ込まれていた鍵屋崎。倍も体積がある肥満のガキに跨られ、四肢をもがれた芋虫のように無力に蠕動するしかない鍵屋崎を獰猛な眼光で射抜き、凱がおもむろに腰を上げる。凱の五指から襟首がすり抜け、窒息寸前で気道が開放された俺ははげしく咳き込む。ゆらりゆらりと高圧的に体を揺らしながら鍵屋崎へと歩み寄った凱は、優位を誇示しようって魂胆なのかズボンのポケットに手をつっこんだままの余裕ぶった風体。
 と、意外なことが起きた。
 手下たちが見守る中、鍵屋崎の鼻先をスッと素通りする凱。どこへいくんだ?いぶかしんだ俺の視線の先で凱が屈み、なにかを拾い上げる。凱が拾い上げたのは、アレはー……転んだ拍子にはじけとんだ、鍵屋崎のメガネだ。凱は妙に丁寧な手つきでレンズにこびりついた砂を拭うと、慈悲深いと見える笑みさえ浮かべてゆっくりと鍵屋崎に歩み寄る。

 嫌な、壮絶に嫌な予感がした。

 鍵屋崎の前で立ち止まった凱が、にたりと笑う。
 「なあ眼鏡、お前さっき言ったよな?ここの連中がなんでそんなに眼鏡のことを気にするのかって」
 鍵屋崎は黙りこくったままだ。妙になれなれしく変化した凱の声色に俺と同じ―…いや、それ以上の不安を感じているのだろう。素手でも十分人を殺害する凶器たりえるゴツゴツした手に眼鏡を握り締めた凱が、芝居がかった動作であたりを見回す。
 「まわりを見回して気付かなかったか?おまえのほかに眼鏡をかけた奴がいるか?いねえだろ」
 「…………」
 「ワケは簡単だ。東京プリズンじゃ眼鏡も凶器になるからな」
 どういう意味だ、とはさすがの鍵屋崎も聞けなかったようだ。眼前に迫った凱の迫力に完全に呑まれている。腰を落とした凱が無抵抗の鍵屋崎をぬっと覗きこむ。鍵屋崎を押さえ込んでいる手下に顎をしゃくり、後ろ手に封じていた鍵屋崎の手の一方を砂地に水平に固定させる。
 「顔は勘弁してやる。お前のそこそこ見られるツラをレンズの破片でミンチにするのは、俺たち全員お前のケツと口でたのしんでからでいいだろ」
 鍵屋崎の五指をこじ開けた凱が口笛でも吹きかねない嬉嬉とした様子で眼鏡を握らせ、上から強引に握りこみ、どんどん握力を加えてゆく。
 凱がなにをする気かわかった。くそっ、わかっちまった!
 「!やめ、……」

 絶叫。

 鍵屋崎の声だった。冷静沈着に落ち着き払った声か知性の深さを匂わせる皮肉っぽい言い回ししか知らない俺には、それが鍵屋崎の声だとは俄かには信じ難かった。獣の絶叫。理性が蒸発し、度を越した激痛に自制心を根こそぎもってかれた本能の叫び。
 凱の手下に押さえ込まれた俺が成す術なく見てる前で、鍵屋崎の指の間からボタボタと血が滴り落ちた。凱に握り締められた五指の内側で眼鏡の弦がひん曲がりレンズが粉々に砕け、細かく分裂した鋭い破片が皮膚を傷つけたのだ。
 これはまだほんの序の口。
 鍵屋崎の拳めがけ、勢いよく足を踏みおろし、全体重をかけた足裏で容赦なく五指を踏み砕く。鍵屋崎の絶叫が高まる。蒼白の顔面に浮いているのはおびただしい脂汗だ。鍵屋崎の指の骨が軋む音がここまで聞こえてきた。耳を塞ぎたいが、指も自由にならないこの体勢じゃ無理。せめて顔を背けたかったが、目を逸らそうとしたそばから俺に馬乗りになったガキに前髪を掴んで引き起こされる。
 砂に埋もれた拳をぎりぎりと念入りに踏みにじる。凱の足裏の摩擦熱で景色が歪みそうな錯覚に襲われ、目を凝らす。鍵屋崎は絶叫をあげつづけていた。助けを乞う余裕もないらしく、海老反りに反った体を手下が必死に押さえつけている。初対面の時から鍵屋崎が身にまとわせていた取り澄ました雰囲気なんてとうに別の次元に吹っ飛んでいた。砂まみれになって足掻く鍵屋崎の悲痛な姿に心痛める奴はここにはいない、いるのは大袈裟に手を叩いて笑い転げる奴らと砂に染みた血の匂いを嗅いで闘争本能に火がつき、やんやと拳を突き上げて凱をけしかける奴らだけ。
 「指を折ってやれ!」
 「右手が使えなくても不便はねえだろ!」
 「いや、大問題だぜ。夜の遊び相手がいなくなる」
 「ちげえねえ、こいつは最高の悲劇だ!」
 なにが最高の悲劇だ。これは最低のお遊戯だ。
 鍵屋崎の拳の上からそっと足がどかされる。叫びつかれたか、蒼白の顔で荒い息をつく鍵屋崎。そのてのひらには無数のガラス片が食い込み、べったりと擦ったように血が流れていた。てのひらの肉深くもぐりこんだガラス片を取り除くのはピンセットでも至難の業だ。青息吐息で肩を上下させる鍵屋崎をこの上なく愉快げに見下ろしていた凱が、またなにやらよからぬことを思いつく。
 「可哀相に、おててが傷だらけだなあ。消毒してやるよ」
 何かを企んだ笑顔で凱がうそぶき、鍵屋崎が力なく顔を起こす。その目は虚ろに宙をさまよっている。娑婆で暮らしてればそう味わうこともそうないだろう激痛に苛まれて意識が朦朧としているらしい。ぐったり憔悴した鍵屋崎に何を思ったか、凱が一気のシャツのズボンをおろす。
 ジャーッ、という音と共に黄色い液体がほとばしる。
 「!」
 地べたに張り付けられた俺の目の前で、凱が鍵屋崎の手に小便をかけている。出すものを出して気分爽快の凱が満足げにズボンを上げる。小便に洗い流された血が砂地に黒い染みを作る。ガラス片が食い込んだてのひらに小便が染みたのか、殆ど意識を失いかけていた鍵屋崎が億劫そうに顔をしかめた。
 自分がなにをされてるかアイツには見えているのだろうか?
 いくら眼鏡をしてないからといっても、自分の目と鼻の先で行われてる光景がわからないはずない。
 刹那、頭の中で何かがぶちぎれる音がした。
 「―調子に乗るなよ」
 意図せず低い声がした。臓腑が煮えたぎるような怒りに駆られた俺が、押さえ込まれたまま声を発したことが意外だったか、方向転換した凱が他の仲間を引き連れてこちらにやってくる。
 俺の背に馬乗りになったガキに無遠慮な手で後頭部を掴まれたまま、さらに続ける。
 「凱、お前らさんざんおれのこと半半だって罵ってくれたよな?台湾人の血がまじってる奴は犬ともまじわるだなんだ嘲笑してくれたよな?ああそうだ、たしかに俺は半半の混血だ。お前らの先祖だか親類縁者だかを殺した台湾人の血が流れてるよ、半分な。じゃ、お前らはなんだ?純血だよな。純血の、骨の髄まで立派な中国人だよな」
 後半になるにつれ聞き取りづらい早口になるのを抑えられない。俺の心の深いところに楔を刺していた理性が激情の奔流に引き抜かれ、怒涛の水圧に押し流される。
 自然と唇の端がひきつり、笑みに似たものを形作る。笑みに似た、不自然な痙攣。
 「骨の髄まで立派な―……中国人の面汚しだ」
 俺は地雷を踏んだ。そうとわかっていながら、ためらいなく踏んだ。
 びくともしなくなった鍵屋崎に砂を蹴りかけて遊んでいた凱の後方の仲間も、左右に腹心の部下を従えた凱自身も紙を洗ったような無表情になる。ここは炎天下の砂漠だというのに、凱の半径5メートル以内だけ極寒の氷室のような沈黙が落ちた。
 俺はなにも恥じることはない、と腹を括った。
 中国人の血を半分引いてる俺には、国の良心に代わってコイツらを罵る権利があるだろう。  
 「―血の濁った雑種に侮辱されるいわれはねえ」
 ざくざくと砂を踏み鳴らして大股に寄って来た凱が、ぎらぎらと血走った目で形相で凄む。毛細血管の浮いた白目の凄まじさに圧倒される暇もなく、顎が砕けたかと思うほどの衝撃、激痛。
 凱に顎を蹴り上げられたショックで舌を噛み、口腔に鉄錆びた味が広がる。続けざまにこめかみと肩と背を蹴られる。凱じゃなく奴の手下にだ。凱は東棟で最大規模を誇る中国系派閥のボスだから、「国の面汚し」呼ばわりされるのは生粋の中国人を両親にもつ他の連中にとっても最大級の侮辱だろう。
 そうとわかってて言ってやったんだ。ざまあみろ。
 どしゃっと砂にくずおれた俺の頭や肩や腹や背中や腰や太腿に蹴りをくれている連中は知らないだろうが、半半にも半半の意地があるのだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060531104440 | 編集

 ズシャッ。
 顔に蹴りかけられた砂が目に入る。涙腺が焼ききれるかと思うほどの激痛。勝手に沸いてきた涙が砂で汚れた頬を洗い流して汚い染みを作る。黄土色に溶けた砂を頬にこびりつかせた俺の耳を地鳴りに似た音響が痺れさせる。
 なんだ、なんの音だ?
 空を突き上げるように浴びせられる輪郭の割れた大合唱、熱狂の歓声。鼓膜をわんわん震わせ三半規管を酔わす音の正体は、作業を放り出して我先にと飛んできた物見高い野次馬どもの罵声と怒声。騒ぎを聞きつけた囚人たちがふくれあがある好奇心を抑えきれず、看守の制止を振り切り俺と鍵屋崎がリンチされてる現場へと殺到したのだ。看守の許可もとらず作業を放棄してきた囚人どもは、警棒の罰が怖くないのかとか罰点くらうのが怖くないのかとかそんな常識的な脅しが通用する精神状態じゃない。もともと最凶最悪の少年犯罪者ばかりがぶちこまれた東京プリズンでも、イエローワークはとくにタチの悪い連中の溜まり場と噂される。砂漠での肉体労働にあてられているのは喧嘩っ早い問題児ばかり、そんな奴らが遠めに巻き起こった喧嘩の現場を目撃しておとなしく鍬を振り続けられるわけがないのだ。
 「こらっ、勝手に持ち場をはなれるな!」「貴様、だれの許可を得て……」「うるせえ、政府の犬はひっこんでろ!」「半半のロンと新入りのクソ生意気メガネがいたぶられてるなんて、こんな面白い現場見逃す手はねえ!」「夕飯のネタになるな」「たるい作業なんてやってる場合じゃねえ」「ぐずぐずしてたら終わっちまう」「はやくはやく……」くそっ、好き勝手言ってやがる。砂埃を蹴立てて駆けつけてきた囚人たちは円陣を組んで俺と凱と取り巻き連中をとりかこんでいる。
 「殺っちまえ凱!中国人の底力を見せてやれ!」
 「そんな裏切り者の半半なんて髪の毛一本残らず毟って坊主にしちまえ!」
 「砂漠の直射日光に坊主はつれえだろ」
 「おい、負けんな半半」
 「半半は気に入らねえけど凱はもっと気にくわねえから特別に応援してやる」
 「負けは覆せなくても凱のアレを食いちぎってみるくらいの意地は見せろよー」
 暴力衝動に酔った凱たちをさらにいい気にさせる殺気だった野次に混ざるのは二割に満たない俺への応援。やる気のない声でなげやりに応援されてもちっとも嬉しかねえ。
 いわれなくても、と俺は覚悟を決める。
 「!!ひぎぇっ、」
 食用蛙の潰れたようなうめき声を発して、俺の鳩尾に蹴りを食らわせようとしていたガキの一人が顔を覆う。胴に馬乗りになられているため手を使って直接殴りつけることはできないが、踵を蹴り上げて砂埃を起こすことはできる。俺が蹴り上げた砂は何人かの取り巻きの目を直撃、たまらず顔を覆ってあとじさったガキどもに溜飲をさげる。俺の上に跨った奴も例外ではなく、目に不意打ちを喰らって涙を流して悶絶していた。
 今だ!
 相手が油断した隙にはげしく身を捩ってガキを振り落とし、拘束から抜け出す。砂に手をついてゴロゴロ転がり、死角をとられぬよう素早く起き上がる。砂にまみれた囚人服を悠長にはたき清めている暇などない、俺はそばに倒れている鍵屋崎を襟首掴んで引き起こす。
 意識朦朧とした鍵屋崎の口に耳を近づけ、確かめる。
 「呼吸してるな」
 当たり前だ。激痛は激痛だが、あれ位で死ぬはずねえ。試しに鍵屋崎の眼前で手を振ってみる。焦点を失っていた鍵屋崎の視線が俺の掌へと収束し、脂汗にまみれた額に不可解な皺が寄る。
 「………三葉虫が何故現代に?今僕が見ているものが現実なら生物学と考古学の根本が覆される異常事態だ」
 「あん?」
 メガネを壊され、視力を失い混乱しているらしい。俺はまじまじと自分のてのひらを見下ろした。どう見ても三葉虫には見えない。「学界に報告しなければ、いや、その前にマサチューセッツ大学に保管されている三葉虫の化石を取り寄せてその形状が今ぼくが見ている固体と同様のものか確認しなければ」とブツブツうわ言を呟いている鍵屋崎の頬をおもいきり平手で叩いて正気に戻す。
 荒療治も少しは功を奏したようで、鍵屋崎は億劫そうに瞬きした。三度目に閉じた瞼が開いた時、鍵屋崎の目に理性の光が戻ってきた。と同時に右手の激痛を再認識したようで、鍵屋崎がぐっと歯を食いしばる。
 悲痛な顔をした鍵屋崎を冷ややかに眺め、俺は言ってやる。
 「顔じゃなくてよかったな」
 凱の言い分は正しい。
 東京プリズンじゃメガネも立派な凶器になる。もし鍵屋崎が顔にメガネをかけたまま凱の拳の一撃を受けていれば、鼻骨は陥没し額は割れ目は鬱血し、二目とつかない容貌に様変わりしてただろう。下手したらメガネの破片が目に刺さって失明してたかもしれない。伊達なら妙なしゃれっ気だすのはやめて外しておけと忠告してやりたかったのだが。
 ―いや、顔の方がまだマシだったか。改めて鍵屋崎の右手を見下ろす。細分化したメガネの破片が突き刺さった掌は酷い有り様。血と砂と尿が混ざって赤黒い泥濘に変化している。これじゃ当分シャベルは握れないだろう。おまけに凱の小便の悪臭がぷんぷんと匂ってくる。
 「―手を洗いたい」
 「すべてが終わってからな」
 すべてが終わった時は俺たちが死ぬ時だと思えなくもないが。
 鍵屋崎と背中合わせに追いつめられた俺は焦燥にかられてまわりを見回す。馬乗りになったガキを振り落としたところで、俺と鍵屋崎が凱たちの包囲網から抜け出せたわけではない。袋の中のネズミの窮状には変わりない。事実、俺たちを中心に二重になった輪の前列には凱とその取り巻きたちが立ちはだかっている。外側の輪を築いているのは暇な野次馬たち。
 「殺っちまえ凱!裏切り者を殺せ!」
 「先祖の仇だ!俺のばあちゃんは台湾人の兵隊に殺されたんだ、ガツンと仇をとってやってくれ!」
 「昨日入ったばっかの新入りに世間の、いや、東京プリズンの厳しさってもんを叩き込んでやれ!」
 「おれたちを見下してるクソ日本人の取り澄ましたツラに小便ひっかけてクソなすりつけてやれ!」
 「殺せ殺せ殺せ!」
 「犯れ犯れ犯れ!」
 イカレてやがる。
 辟易した俺の目におもいがけないものが飛び込んできた。
 野次馬の輪をくぐりぬけ、前列の輪を築いた取り巻きの一人の股下からひょいと顔をだしたのは見覚えのある面。くるくるカールした天然の赤毛の下、稚気を閃かせたアーモンド型の目。潰れた鼻に散ったそばかすが愛嬌満点の童顔に道化た風情を足している。
  
 売春夫のリョウだ。コイツまではるばる見物に来たのか。
 
 「犯れ犯れ犯れ!姦れ姦れ姦れ!」
 無邪気な笑みを湛えて華奢な拳を振り回すリョウの姿は、ぬいぐるみの芝居を見てはしゃいでるガキみたいに幼い。が、叫んでる内容は十分物騒だ。頭が瞬間沸騰した俺は取り巻きの股の下から顔を覗かせたリョウを一喝する。
 「勝手なことほざいてんじゃねえ、しまいにはヤるぞガキ!」
 「えー。ぼくお金もらわないと興奮しないタチなんだけど」
 「そっちの『犯る』じゃねえ、『殺る』だ!だいたいお前ビニールハウス担当だろ、勝手に砂漠に沸いてきていいのかよ!?」
 「勝手に沸いてきたわけじゃないよ、ちゃんと許可もらってる。ビニールハウスのスプリンクラーの調子がおかしくてさ、こっちの砂漠にいる技術者を呼びに来たんだ。そしたらなんか面白いことやってるからさ、ついでに覗いとこうって」
 話の片手間にリョウがぱくぱく摘んでいるのは、掌に盛った採れたて新鮮な苺。俺の視線を辿ったリョウがにっこりとほほえむ。
 「ああ、これ?ビニールハウスでとれたんだ。時期外れだからちょっと酸っぱいのが難だなあ、ショートケーキならちょうどいいんだけど」
 リョウが看守、ひいては男全般に取り入るのが上手いことは知ってたが、贔屓もここまでくるとアラブの石油王並のVIP待遇だ。ふと、鍵屋崎とリョウの目が合う。瞬間の表情からふたりが顔見知りだとわかった。
 「そこの身長140cm台後半、白色人種の外見特徴を有した赤毛翠眼の少年」
 「リョウだよ」
 「リョウ、君に質問がある」
 鍵屋崎が続けようとしたその時、凱の仲間の拳が唸りをあげて飛んでくる。
 「!」
 咄嗟に鍵屋崎を突き飛ばし、反対側の方角に転げる。俺と鍵屋崎の中間をむなしく穿った拳の行方を見定める暇もなく、導火線に火がついた連中が一斉に押しかけてくる。はじかれるように体勢を変え、砂を蹴立てて駆け出す。鍵屋崎の安否をたしかめる余裕はない。
 逃げる俺の背中越しに、妙なやりとりが聞こえてくる。
 「リョウ、昨日の『アレ』を持っているか」
 「アレってあれ?」
 「そう、君の商売道具だ」
 「たしかポケットに……あった!」
 快哉をあげるリョウに応じたのは淡白に冷め切った声。
 「………これはコンドームだろう」
 「ぼくの商売道具だよ」
 「君の性生活には全く関心がないし知りたくもないがこのコンドームは生地が薄い南米産だから、エイズや性病感染を防ぎたいなら安全性の保障された国産品を買え」
 「くわしいね。ひょっとして使ったことある?」
 「話を戻す」
 リョウの興味をすげなく一蹴し、右手の激痛に荒い息を零しながら鍵屋崎が言う。
 「僕が言ってるのはもうひとつの商売道具のことだ」
 「あー、もうひとつのほうね」
 ぽんと手を打ったリョウがごそごそとズボンのポケットを探り、何かを取り出す。
 それが何かを確かめる前に、凱たちに背を向けて走っていた俺の襟首に抵抗、衝撃。襟首を掴んで後ろざまに引き倒された俺は、無力に砂の斜面を転げ落ちる。俺の腰の上に跨っているのは不潔なニキビ面のガキ。膿んだニキビがぽつぽつと顔に散った脂ぎった面に下劣な笑みを湛え、うつ伏せに組み敷いた俺の後頭部を見下ろしている。
 「王手だな。雑種の野良犬は逃げ足はやくて苦労したぜ」
 「そりゃ保健所職員の気持ちがよくわかる貴重な体験だ」
 「屁理屈ぬかすな」
 軽口に軽口で答えたら肩を殴られた。俺の耳朶に後ろから口を寄せ、ガキが囁く。 
 「俺の父親と叔父貴はな、お前ら台湾のクソったれ軍隊に殺されたんだ。兄貴はまだ赤ん坊の頃に爆弾喰らって腰椎ヤラれて今じゃ下半身不随、勃つもんも勃たねえ寝たきりの身の上だ。可哀相だろ?親父が死んでから、お袋はガキ養うために日本に渡ってきた。ドブ浚いでも内職でもなんでもやって俺を育ててくれたけど、自分じゃ飯も食えねえ寝たきり兄貴の介護もあるし、毎日が血反吐吐くほど大変だった。兄貴はそんな状態で働けねえし他の兄弟はまだガキだったし、お袋ひとりで頑張ってたけど遂に限界がきてぽっくり過労死しちまった。俺は14で家を出てスラムで凌いできた。生きてくためなら殺しも盗みもなんでもやった、おかげで今こうして東京プリズンにいるわけさ、お前ら台湾人のおかげでな!」
 言いがかりとしか思えない粘着質な囁きにカッとして、おもわず言い返す。
 「それが俺に何の関係があんだよ?」
 「なに?」
 上に乗ったガキの顔が憤怒に染まる。胸が淀むような不条理な衝動に突き動かされ、きっとガキの目を見据える。
 「俺はお前の親父を殺した罪で東京プリズンにぶちこまれたわけでもお前の兄貴を下半身不随にさせたせいでぶちこまれたわけでもねえ、お前が俺が殺した連中の親類だってゆーんなら大人しく殺されてやってもかまわねえさ、いや、かまうけど納得できるよ!けどお前の親父を殺したのは俺じゃねえ、見ず知らずの赤の他人だ。おなじ台湾の血が流れてるってだけで何で赤の他人の罪までおっかぶらなきゃなんねーんだよ、ふざけんな!!復讐したけりゃてめえの兄貴を寝たきりにした張本人を見つけ出してこい、手近な俺で間に合わせるんじゃねえ!」
 一息にぶちまけた俺の前でみるみるガキの顔色が変わってゆく。頬に血が昇り、目が充血してゆく。激怒したガキに後頭部の毛を掴まれ、そのまま手荒く揺さぶられる。頭皮から毛が剥がれる激痛に口から苦鳴が漏れる。焼き鏝をおしつけられたように疼く頭皮に視線の熱を感じる。俺の後頭部を見下ろしているに違いないガキが、声色に邪悪な笑みを含ませて呟く。
 「―決めた」
 「!ーっ、」
 背中にひやりとした感触。囚人服の裾からもぐりこんだ手が無遠慮に背中をまさぐり、腰骨の起伏を揉む。淫猥な手つきに嫌な予感が沸き起こる。
 「野次馬どもの目の前でお前のケツを犯してやる」
 「な………」
 なんでそういう話になるんだ!?
 「ケツ犯されるのは野郎にとって最高の屈辱だろ?しかもこんだけギャラリーがいるんだ、お前が今ここでケツにぶちこまれてひんひん吠える姿見た奴らが夜房に帰ってから、今日のお前の姿思い出してマスかくんだぜ?考えただけで楽しくて楽しくてイッちまいそう」
 「ひとりで逝ってろ!」
 躍起になって暴れる俺を体重をかけて押さえ込み、下へ下へと手を這わせてゆく。汗でべとついた手の感触が不快すぎて気が遠くなる。
 「親父は台湾海峡に沈んだきり、二度とお袋と寝れねえ。親父が無事帰ってきてたら俺には弟か妹ができてたかもしれねえのに。兄貴は一生寝たきりで女とヤれずじまい、死ぬまで童貞のままだ」
 濁った狂気に濡れた目でぶつぶつと呟くガキ。砂でざらついた手が腰をさすり、愛撫というには激しすぎる動作で下肢をしごく。
 「その無念のひとかけらでもお前に味わってもらわなきゃ、親父と兄貴がむくわれねえ」
 快感よりも痛みを与えてくる容赦ない手つきに顔をしかめた俺の横でどしゃっと鈍い音がし、盛大に砂埃が舞い上がる。おもいきり砂埃を吸い込んだ俺がげほげほやってるさなか、砂に投げ倒されたのは案の定鍵屋崎だった。俺と同様逃げ回っていたようだが遂に命運尽きたらしく、すっかり諦念したまなざしで上に跨ったガキを仰ぎ見ている。
 「おう静安、たのしいことしてんじゃねえか」
 鍵屋崎の上に跨ったガキが、企み顔で俺に跨ったガキに耳打ち。
 「どうせなら二人同時にキックボールといこうぜ。どっちが速くイカせるか競争だ」
 ぞっとする提案をしかし、俺の上のガキは気前よく了承する。
 「のぞむところだ」
 獣的な欲望に濡れた視線と欲情に湿った吐息が肌に感じられ、目の前が絶望で暮れてゆく。冗談だと思いたかったが、生憎ここは東京プリズン。俺と鍵屋崎の上に跨った奴らは本気だし、俺と鍵屋崎の上に跨った奴らをけしかけてるギャラリーも本気だ。
 「殺ってから犯る、犯ってから殺る、どっちだ!?」
 「俺に死体愛好癖はねえ、犯ってから殺るに決まってる!」
 「死体のあそこは死後硬直できついからオススメできねえ」
 「おお、経験者は語る。お前経験あんの?」
 「娑婆でな、加減間違えて殺しちまった女を仲間でマワしたんだ。死後硬直がとけてからヤればかよかったんだがどいつもこいつも忍耐知らずの馬鹿どもで、力任せにねじこんだはいいけどアレが抜けねえ抜けねえってしまいにゃ泣き出す始末」
 「なっさけねえー」
 けたたましく爆笑するギャラリーの輪の中央で俺は尻まで剥かれていた。俺の膝までズボンをさげおろしたガキが舌なめずりしてる。隣、仰向けに組み敷かれた鍵屋崎は両手を地に投げ出したまま頭上を仰いでいる。鍵屋崎に跨ったガキが奴のズボンをひっぺがしにかかる。自分の上で動いているガキの死角で鍵屋崎の左手が動き、なにかを握りこむ。何だ?鍵屋崎の左手に目を凝らす。
 鍵屋崎の左手に握られている、あれはー……

 刹那。
 鍵屋崎が勢いよく腕を振り上げる。銀の弧を描いた先端がガキの顔面に吸い込まれるように消えた、その時。

 ―「ぎゃあああああああああああああああああああああ!!!!」―

 「「!」」
 愛撫の手がぴたりと止む。至近距離からの悲鳴にびくっと硬直したガキの下で、俺も固まっていた。
 鍵屋崎に馬乗りになったガキが、両手で顔面を覆って苦悶に身を捩っている。その指の間から流れ出しているのは、粘液質の赤い血とトロリと濁った水晶体。指の間から滴り落ちた朱と白濁がぼたぼたと砂に染みてゆくのを見て、鍵屋崎の上から転げ落ちたガキは意味不明の絶叫をあげつづけていた。
 肝が縮むような絶叫を平然と聞き流し、ゆるやかに立ち上がる鍵屋崎。不敵に落ち着き払った動作で膝にこびりついた砂をはたき落とし、囚人服の裾の乱れを整えてから、ゆっくりと足元を見下ろす。鍵屋崎の足元に尻餅ついたガキは、涙と鼻水と涎と血と砂まみれになった悲惨なツラで嗚咽をあげていた。
 ひしと片目を覆ったまま。
 「悪いな、目測を見誤った」
 鍵屋崎の左手につかまれていたのは、先端が凶悪に尖った針金。手中に隠し持ってた針金をガキの目玉に突き刺し自分の上からどかせた鍵屋崎は、最前まで自分の上に跨ってた無礼者の面相をたしかめようとうろんげに目を細める。が、途中で諦めたようだ。手中の針金を剣呑に光らせたまま、軽蔑しきったように周囲のギャラリーを見渡す。
 「本当は腕か肩を刺すつもりだったんだが……裸眼だと距離が測りにくいな」
 空気が冷えた。
 最前まで蝗の大群さながら騒がしかったギャラリーも、あまりの凄惨な光景にさすがに腰が引けたらしい。俺たちが犯されるところを高見の見物と腕組みしていた凱とその取り巻き、俺に馬乗りになったガキでさえごくりと生唾を呑み下す。
 「あっ、」
 放心状態のガキを胴から振り落とし、膝立ちで上体を起こし、鍵屋崎のそばへ行く。目から出血したガキが七転八倒してるのを発狂したモルモットでも観察するかのように冷ややかに見下し、氷点下の怒りを沈めた口調で鍵屋崎が述べる。
 「汚い手で触れるな。汚い顔を近づけるな。汚い言葉を吐くな。君たちの下劣さにはいい加減うんざりだ。どうして君らはそう低脳で短絡的な行動しかできないんだ?ネコにも犬にも発情期の周期があるのに、君らは一年中さかっているのか?自分の遺伝子を後世に残すためでもなく、ただ快楽のためだけに同性を襲うなんて家畜の豚にも劣る浅ましさだな。いや、豚と比べては失礼だ。豚はイスラム教徒以外の人類の食卓を支えるタンパク質豊富な栄養源だからな。察するにー……」
 既視感。反射的に鍵屋崎の口を塞ごうとしたが、俺の指が口にかかる前に鍵屋崎は自信たっぷりに断言していた。
 「君達は豚以下だ。君たちに相応しい死に場所は火葬場じゃなく屠殺場だろう。豚と違って君たちの死体に使い道はなさそうだが……ああ、そうだ。大学の医学部に解剖用の死体でも献体したらどうだ?臓器移植という手もあるな。下品なスラングしか吐けない声帯や条件反射で人を視姦する眼球、その他心臓や横隔膜や大腸や小腸や肝臓や腎臓や膀胱。檻の中に放り込まれて人類の発展に寄与しない君らにそんな物は必要ないだろう、難病に苦しんでる子供たち、不幸な患者たちに分けてやったらどうだ?」
 鍵屋崎の口角がつりあがり、自嘲と諧謔の入り混じった笑みをこしらえる。
 「僕らと違って、彼らには前途があるのだから」
 
 俺も断言したい。鍵屋崎は大馬鹿野郎だ。

 「俺たちが豚以下だと……?」
 凱の声はいっそ静かだった。だが、平板な声の底で胎動しているのはいつ爆発するかわからない、荒ぶる溶岩流の如く激烈な怒り。喉仏をひくつかせた凱とその一党を見比べ、鍵屋崎はしずかに言った。
 「ああ、豚以下だ」

 揶揄でも皮肉でもなく、ただ、ありのままに。

 凱が大股に歩みだす。手下が後からついてくる。砂に膝を屈したまま、目を押さえて嗚咽をあげているガキの横を無関心に通り過ぎ、鍵屋崎の前に立つ。凱の厚い胸板に視界を阻まれても、鍵屋崎に怯んだ様子はない。今だ血が滴る右手とは逆の手に握った針金を、いつでも振りかざせるよう注意して腰元にひきつけている。
 凱が無造作に一歩を詰め、鍵屋崎が針金を振りかざす。が、これは予想の範囲内だった。鍵屋崎が振り上げた手首は凱の脇から伸びた手に掴まれ、がっちりと宙に固定された。鍵屋崎がはっとしたが、遅い。
 鍵屋崎はやっぱり甘い。甘さが抜けきってない。一度敵に見せた手札が二度目も通じる確率はかぎりなく低い。
 羽交い締めにされた鍵屋崎の前に立ちはだかった凱が、後方のガキへと顎をしゃくり、なにかを命じる。阿吽の呼吸で心得たガキが恭しく捧げもってきたのは、そこらへんに転がってたシャベル。シャベルの柄を手中に握りこみ重さを確かめつつ、ぞっとするような笑みを浮かべる。
 このままじゃ確実に、鍵屋崎は頭蓋骨をかち割られて死ぬだろう。
 鍵屋崎の脳漿が飛び散るところなんて見たくなかった俺は必死に周囲に目を走らせる。あった!地に倒れたシャベルを拾い上げ、後ろ手に隠す。凱がシャベルを振り上げる。日光を照り返し鋭く輝くシャベルの先端に、鍵屋崎が目を細める。

 ―「じゃあ、豚以下に殺されるお前は豚以下の以下だな!!」―

 ガツン!
 鈍い音、手首が痺れる鈍い手応え。シャベルの先端は狙い違わず標的の後頭部を殴打した。
 凱の後頭部を。
 「……………そんなに」
 鈍重な動作で振り向いた凱の目には殺意の炎が燃えていた。その目を直視した途端、手首から力が抜け、膝が萎えてゆくのがわかる。
 「そんなに死にたいのかよ、半半!!!」
 凱が吠えた。
 風切る唸りをあげて宙を薙いだシャベルが二の腕を掠め、遥か後方へと飛び去ってゆく。一歩横にずれるのがあとコンマ一秒遅れていれば、今頃俺の二の腕から下はシャベルと一緒に宙を舞ってただろう。
 凱が力任せに投擲したシャベルは一直線に野次馬の輪に突っ込み、不幸なギャラリーが三人巻き添えになって倒れた。
 「なにしやがる、凱!」
 「このノーコンが!!」
 「キムチくせえ韓国人は黙ってろ!!」
 「―んだとこら?」
 「やめとけよ、中国人にコントロール能力期待するほうが無駄だ。あの国の国民はてめえらじゃ全然自覚なしに共産主義にコントロールされてっから、コントロールする方はからっきしダメなんだ」
 野次馬の中でもとくに喧嘩っ早い連中が一塊となり、輪の中央に歩みだしてくる。的中すれば即死は免れない勢いでシャベルを投げつけられて怒り心頭に発しているのだろう、凱一党と対峙した連中は矢継ぎ早に言う。
 「頭くんだよ、お前ら」
 「東棟で幅効かしてる連中だかなんだか知らねえけど、中国万歳みてえなめでてえツラしやがって。時代遅れの中華思想なんて便所に流しちまえ」
 「台湾人は犬の飯を食って犬とヤるだ?作業中でもちゃんと聞こえてたぜ」
 「じゃあてめえらはなんだ、人肉食って人肉峠で人肉饅頭売るゲテモノ食いじゃねえか」
 語調荒く詰め寄られた凱は浅く呼吸しながら自分と対峙した連中を見比べていたが、やがて押し殺した声で聞く。
 「―お前、台湾人か?」
 野次馬の最前列、「ゲテモノ食い」発言のガキが「それがどうしたってんだ」と挑戦的に開き直り、豪速の拳を顔面に食らった。

 大乱闘の幕開けだった。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060530104833 | 編集

 凱に殴り飛ばされたガキが6メートル後方のガキと接触しそこでまた小競り合いが勃発、敵を殴ろうと振りかざした肘が横のガキの頬げたに入り、瞬き三回後には取っ組み合いの様相を呈する。どさくさ紛れに乱闘圏内から脱しようとした俺の足をだれかが踏み、別のだれかが脇腹に肘鉄を食らわす。
 カッとした。
 反射的に横の奴を殴り返し、足を踏み返す。「痛えっ、」「この野郎!」語彙の乏しい悪態とともに浴びせられるのは鉄拳と蹴りの嵐、拳が鳩尾に入り、胃袋が圧縮される。口腔にこみあげてきた酸っぱい胃液をその場に吐き、片手で腹を庇った俺の中で何かが切れた。
 常識者は馬鹿を見る。俺はいつも損ばかりしてる。
 頼まれもしねえのにクソ生意気な鍵屋崎を助けて凱にとっつかまって殴られるわ蹴られるわ髪の毛毟られるわ強姦されそうになるわ、今もこうしてボロ雑巾のように揉みくちゃにされてる。
 「……―没有意思東京監獄(メイヨウイ―スートンチンチエンユィ)」
 「何?」
 俺の隣、おなじく乱闘の巻き添えになって髪やシャツを揉みくちゃにされながら鍵屋崎が聞く。
 俺と凱の発音を正確に聞き取れる鍵屋崎がわざわざ問い直したのは、罵声と騒音にかき消されて発言の内容がとらえにくかっただろう。
 だから俺は言ってやった。深呼吸して、この場のだれの耳にもしっかり届くような大声で。
 「東京プリズンはつまんねえところだって言ったんだよ!!」
 言いざま、俺の正面にいた奴に頭突きを食らわす。鼻血を噴きながらよろめいた相手が怒号を発して拳をふるう。いいさ、もうヤケだ。ここが東京プリズンなら東京プリズンの流儀に乗っ取って暴れてやろうじゃねえか。常識者が損を見るのが世の常ならそんな常識なんか便所に流して捨ててやる。
 人が変わったように暴れ出した俺を見て鍵屋崎が一瞬目を見張ったが、その背にどんと誰かがぶつかる。メガネを失い平衡感覚が狂っていた鍵屋崎はかくんと地に膝をつく。起き上がろうとしたそばから「邪魔だ!」と手の甲を踏まれ太腿を蹴られぐしゃりと地に突っ伏す。 
 ガキどもの足元に沈んだ鍵屋崎を慮り、取って返すような愚は今度こそ犯さなかった。
 鍵屋崎がどうなろうが知ったことか。
 やるだけやってやったんだからあとは自分でなんとかしやがれ、軟弱な日本人め。 
 「何をやってる、貴様ら!」
 「即刻持ち場に戻れ、さもないと独居房送りにするぞ!」
 砂埃の中でもつれあっていた俺たちの元に、遅ればせながら看守が仲裁に入る。が、単純な力勝負なら腕っ節の強い囚人に利がある。看守の多くは日頃権威を嵩にきて威張り散らしているが、その実態は腰抜けのエリート揃い。威嚇の警棒と胸のバッジがなければ囚人を呼び捨てにもできないタマナシどもだ。
 そして頭に血が昇ったガキの大群の前じゃ、警棒もバッジもまったくの無力だ。
 過激に潰しあう囚人どもの渦中に身を投じた看守の何人かは、どさくさ紛れに日頃の恨みを晴らそうという悪意ある意図によりリンチの制裁を受けていた。タコ殴りにされた看守が鼻血を流しながら遁走し、恐怖で腰が抜けた看守がシャベルを盾に縮こまっている。
 視界の隅を赤毛が過ぎる。リョウだ。最前列にいたリョウは不可効力で乱闘に巻き込まれたらしく、苺を手に抱いたまま右往左往していたが、だれかにどんとぶつかられた衝撃で苺を落としてしまった。砂にまみれ、めまぐるしく立ち位置を入れ替える囚人どもの足裏にすりつぶされた苺を見下ろし、リョウがぽつんと呟く。
 「―ぼくの苺」
 「文句あんのか赤毛チビ」
 苺をすり潰した囚人が悪びれたふうもなく聞き、リョウがにっこりと笑う。
 テレビの中から笑顔を広めにきた、天真爛漫な子役のほほえみ。
 「大ありだよこの××××野郎」
 スラングに慣れ親しんだ俺すらぎょっとするような悪態をつき、リョウが手首を一閃。次の瞬間、リョウの苺を台無しにした奴がどしゃりと膝をついてくずおれる。白濁した泡を口角に噴き、痴呆じみた面で虚空を見つめてる囚人を見下ろすリョウの手には、ポケットに仕込まれていたのだろう注射器が握られていた。
 あの注射器の中身がなにか知りたくない。
 「よそ見すんな!」
 「!?ちっ、」
 VS野次馬の死地を突破し、単身沸いてでた凱が俺の頬げためがけて拳を繰り出す。素早さにかけては自信がある俺はさっと身をかわし、軌道をいなす。と、拳に気をとられてる隙に凱の膝が鳩尾に叩き込まれる。これは効いた。仰向けに倒れた俺の上に凱がのしかかり留めの一発を放とうと腕を振り上げたが、間髪入れずその鼻面に頭突きを見舞う。ただでさえ醜い凱の面が鼻血でさらに醜くなる。
 「殺してやる。お前の死体をレイジに送りつけてやる」
 「死体の腹の中に防腐剤仕込むの忘れんなよ」
 凱の神経を逆撫でするとわかっていながら、レイジを真似てふてぶてしく笑ってやる。凱のこめかみの血管が膨張し、首に回された手に力がこもる。気道が圧迫され酸素が詰まる。苦しい、洒落にならねえ。凱の腹に蹴りを見舞おうとしたがひょいとかわされ、ますます手に力がこもる。
 視界がちかちかと明滅し、薄ら笑いを浮かべた凱の顔が急速にぼやけてゆく。 
 周囲の喧騒が遠ざかってゆく中、頭蓋骨の中に懐かしい声がこだまする。

 『あんたなんか死んじまえばいいのに!!』
 女の金切り声。頭蓋骨の中の暗闇にぼうっと浮かび上がるのは、俺に背を見せて泣きじゃくる女。なにがそんなに哀しいのか腹立たしいのか、寝台の真ん中にしどけなく横座りした女はドンドンとマットレスを叩いている。白い拳をめちゃくちゃに上下させてベッドに八つ当たりする女の姿は正視に耐えないほど痛々しく、そして、常なる神経の持ち主の理解を拒むほどに美しかった。
 薄い肩を嗚咽のリズムで上下させながら、女はベッドをたたき続けていた。女がベッドを殴りつけるたびにただでさえ傷んでるスプリングが軋み、粗末な寝台が撓む。
 ベッドに身を投げ出した女は、息子の代わりにベッドを殴りながら延延と呟いていた。
 『あんたがいなければ、あんたがいなければ私だって台湾に帰れるのに……』 
 いつか見た光景。いつか聞いた台詞。
 実際お袋はベッドより俺本人を殴ってることのほうが遥かに多かったが、この時の俺はおそらくお袋の目の届かない場所―たとえばクローゼットの中とかーにいたんだろう。ガキの頃の記憶だから心許ないが、お袋の折檻を恐れて逃げこんだクローゼットの扉の隙間から見たのは、俺の知らないお袋の悲願。故郷に帰りたいという弱音。
 その時俺は、生まれて初めてお袋をかわいそうだと思った。
 ただ単純に純粋に、寝台の上で泣いてる女が哀れだった。自分が折檻されてる時は痛みを堪えるのに必死でそれどころじゃないか、クローゼットの中の安全圏から客観的に見てみると、寝台の上で背を丸めてヒステリックに泣きじゃくっている女は、風が吹かなければはばたくこともできない、観賞用の美しさだけが取り得の無力な蝶のように見えたのだ。
 風が吹かなければ海を越えられない。海のむこうにある故郷に帰れない。
 俺という枷がなくなればお袋は台湾に帰れるだろうか。お袋のための風が吹くだろうか。
 俺の上に跨った凱の顔がだんだんと見えなくなり、頭蓋骨の中にこだましてたお袋の声も消えてゆく。喉が破裂しそうな息苦しさをおぼえながら、俺は心の中でこのくそったれた地獄に別れを告げた。

 再見東京監獄。地獄からおさらばした先がまた地獄なんてぞっとしねえけど。

 ところが俺は、またしても地獄の一歩手前で引き戻されてしまったようだ。
 突如乱入してきた足音と、一発の銃声によって。

 しんとした。
 砂埃が晴れるまでの間に完全な沈黙が落ちる。囚人服をしわくちゃにして取っ組み合ったガキどもが敵に馬乗りになったりなられたりした体勢で、銃声がした方角を凝視する。虚を衝かれたガキどもの耳に届いたのは足音。ザッザッザッと砂を踏み鳴らす律動的な足音が徐徐に近づいてくるにつれ、威圧感が増大する。
 「幼稚なお遊戯はそこまでだ」
 砂丘を踏み越えて登場したのは、一筋の反乱も許さず撫で付けたオールバックの男―安田だ。顔を見るのは一年ぶりだがよく覚えていた。三つ揃いのスーツを一分の隙なく着こなしたスマートな風体は、俺やその他の囚人が毛嫌いしてる奢り高ぶったエリートの典型だ。
 安田が天に翳していたのは一挺の拳銃。銃口からは今だ硝煙がたちのぼっている。
 天へ向けて発砲した安田は、銀縁眼鏡の奥の双眸をスッと細めて砂漠の惨状を見渡した。眼下にはタコのようにもつれあった囚人と看守、武器に代用されたシャベルや鍬や警棒が一面に散らばった戦場の光景。
 予想外の闖入者に、凱の五指から力が抜けてゆく。緩んだ五指から襟首がすりぬけ、俺の後頭部が砂に没する。窒息寸前で気道を解放された俺は身を二つに折って激しく咳き込む。涙でぼやけた視界に映ったのは逆光にぬりつぶされた安田の姿。
 砂丘の頂に立った安田は感情の窺えない目でぐるりを見回していたが、やがて静かに口を開く。
 「この地区の責任者はだれだ?」
 感情の水漏れしない平板な口調で、問う。回答者を指定したわけでもないだろうが、安田のいちばん近くに這いつくばっていた看守が「タ、タジマはんれす」と半泣きで訴える。囚人に殴られて鼻骨を折ったらしく、顔面は血まみれだった。
 「それで、タジマはどこにいる」
 冷然と問いを重ねた安田の目が、遥か遠方へと馳せられる。地に転げ伏した囚人と看守もつられてそちらを仰ぎ見る。50メートル後方からこけつまろびつ駆けてきたのは肥満体の看守―タジマだ。腰にさげた警棒がベルトの金具と触れ合ってカチャカチャと音をたてている。その音が次第に大きくなり、みっともなく息を喘がせたタジマが安田の足元へと馳せつける。
 「これはこれは安田さん、ようこそ……視察の一環ですか?毎度ご苦労さまです」
 にぎにぎと揉み手しながら挨拶するタジマ。卑屈に媚びへつらった態度からは囚人に対した時に見せる横柄な振る舞いなど消し飛んでいた。他の多くの看守がそうであるように、下には当り散らしても上には絶対服従を誓うのが東京プリズンの悪しき体制なのだ。
 タジマの愛想笑いを冷然と見返し、安田が聞く。
 「そのつもりだったんだが……この惨状はなんだ?」
 銃をスーツの懐におさめた安田の言葉に、タジマの笑みがひきつる。無理もない、この状況では言い逃れできないだろう。イーストファームAの2番地でこそ絶対的権力をふるう主任看守のタジマだが、安田はタジマの上司にあたる。一部の囚人の暴走行為を放任していたのが上にバレてしまったら最後、厳重な処罰が下るのは免れない。
 さらにタジマにとってやばいのは。
 「酒臭いな」
 安田がかすかに不快げに眉をしかめ、タジマの肩がぎくっと強張る。よく注意してみてみればタジマの顔はほんのり紅潮し、息にはアルコール臭が混じっていた。ここまで匂ってきたタジマの息の臭さに鼻をつまんだ俺をよそに、安田が淡々と続ける。
 「但馬看守、職務中の飲酒は規律に反する。後に署長に報告し、厳重な処罰を下してもらう。まず減棒は免れないだろうな」
 「ご、誤解ですよ安田さん。俺の顔が赤いのは風邪気味だからで、息がアルコール臭いのはさっき呑んだクスリのせいです。俺は病身を押して職務にあたったんですがコイツら粗野で野蛮な囚人どもときたら、いつのまにか作業をほっぽりだして喧嘩をおっぱじめて……監視が行き届かなかった部下の失態は認めます、こらっ、てめえのせいで安田さんがお怒りになられただろうが!土下座して謝れ!!」
 逆上したタジマが横に跪いていた若い看守を蹴り倒す。部下に非をなすりつけようって魂胆か、腐った奴め。
 取り乱したタジマを無視し、安田がサクサクと砂丘を降りてくる。その一挙手一投足が国会議事堂に登庁するエリート官僚のように洗練されている。他者を圧する高潔な存在感に、その場に居合わせた全員が看守・囚人の別なく距離をとる。
 「看守一同に命じる、この乱闘の首謀者をすみやかに拘束、独居房に送致しろ」
 「「は、はい!」」
 安田の命令で我に返った看守らが迅速に行動を開始する。腰にさげた警棒を構え、この騒ぎの核にいた連中を次々に組み伏せひっ捕らえてゆく。抵抗する囚人はいなかった。署長につぐ権限をもつ安田が出張ってきた以上、抵抗は無意味だ。凱だけは今だ怒り冷めらやらぬらしく、警棒で背を殴打されても暴れるのをやめなかった。
 「さわるな政府の犬、もうちょっとでコイツの息の根止められたのに、畜生っ!!」
 太い手足を振って発狂したように暴れる凱を大柄な看守が二人がかりで押さえ込み、後ろ手に手錠を嵌めて連行してゆく。看守に挟まれて砂漠を遠ざかってゆく凱と振り向きざまに目があった。

 『下一個殺(シアイーガ、シャー)』 

 凱の唇が無言で動く。「次は殺す」―無音の殺人予告だ。
 安田の介入により、周囲は俄かに慌しくなった。騒ぎの主犯格たる凱一党がもれなく警棒の連打を食らい、手錠を嵌められて強制連行されてゆく。巻き添えになった囚人の何人かも看守に殴られ、がっちり羽交い締めにされて拉致られてゆく。目に痣をつくり頬を腫らし肘を擦りむいたガキどもが、砂漠に幾条もの尾をひいて砂丘を引きずられてゆく大移動の光景をぼけっと見送っていた俺の肩に衝撃。
 よろけた俺の背に全体重をかけてのしかかってきたのはタジマだ。安田の前で失態を演じたタジマは、その怒りの矛先を俺へと向けてきたらしい。隣では鍵屋崎が別の看守に押し倒されていた。
 「なに澄ました面してんだ、てめえらも独居房行きだ!」
 「!なっ……、」
 目の前が暗くなる。
 独居房行き。窓がひとつもないコンクリートの房に拘束着を着せられて放置される罰。便所なんて上等なもんはそこにはない。三畳もないコンクリートの密室には便所なんて上等なもんはなく、尿意をもよおしたら拘束着の尻に開いた穴から糞便を垂れ流すしかない。糞尿の悪臭たちこめるコンクリートの棺の中に四肢を拘束されて監禁される罰の期間は最低三日、最高一週間。
 だが、最短三日で独居房からでてきた奴は全員人が変わっちまってる。変わらないのはよほど神経が図太い奴か最初から頭がいかれてる奴の二種類だ。独居房行きを喰らった人間はまず人と話さなくなり人の目を見なくなり暗闇を異常に怖がるようになり、仕事中と食事中以外は房の隅っこで膝を抱えて鬱々と塞ぎこんでるようになる。そして人と口をきかなくなるかわりに、だれもいない虚空にむかってブツブツ話しかけるようになる。
 一週間後に出てきた奴は―……大概、その足で首を吊りにいく。出される前に房の中で死んでる奴も多いが。
 「先にふっかけてきたのは凱たちで俺らは関係ねえだろ、言いがかりもいい加減にしやがれ!」
 「騒ぎを拡大したお前らも同罪だ!」
 無茶な。抗議しようとした俺の手首にがちゃりと手錠が嵌められる。鍵屋崎の手首にも銀の光沢の手錠が輝いている。俺の腕を掴んで強引に引っ立てたタジマが、耳朶に熱い吐息を吹きかける。
 『安心しろ、あとで独居房に見舞いに行ってやるよ。黒くて堅いプレゼントもってな』
 タジマの意図を察し、肌が粟立つ。
 手錠から逃れようと半狂乱で身を捩りだした俺を連れてゆくようタジマが命じ―……
 「待て」
 俺と鍵屋崎を拘束した看守を制したのは、意外にも安田だった。涼しげなまなざしで俺と鍵屋崎を見比べ、安田が指示する。
 「彼の言葉に嘘はない。手錠を解いてやれ」
 「しかし……、」
 「ロン。君は中国・台湾のハーフだったな?」
 突然質問を向けられ、狼狽を隠して俺は頷く。眼鏡のブリッジを押し上げながら、安田が淡々と指摘する。
 「さっき連行されていったのは東棟で最大規模を誇る中国系派閥のボスの凱とその一党だ。少なくとも六人いたな。対して、こちらは昨日入所したばかりの新人と刑務所内で孤立してる台中の混血児。どちらが喧嘩を吹っかけたかは明らかだろう。職務に私情を挟むのは感心しないな、但馬看守」
 眼鏡の奥の双眸がタジマの愚鈍さを哀れむように侮蔑をこめて細められる。体の脇で拳を握りこんだタジマが屈辱に歯噛みし、部下に命じて手錠を外させる。手錠を外され、どんと背を突かれて安田の前へとよろばいでた俺と鍵屋崎を見下し、安田が聞く。
 「鍵屋崎、眼鏡はどうした?」
 「壊されました」
 鍵屋崎が敬語を使うのを初めて聞いた。周囲の人間全てを見下してるような傲慢なコイツでも、安田には一目おいてるらしい。ただ、次に鍵屋崎が発したのは副署長に対するものとはとてもおもえない不敬きわまる暴言だった。
 「僕は今まで重大な勘違いを犯してました。僕は今まで日本は法治国家だと認識してたのですが、どうやらこの刑務所内では司法が適用されないようですね。まがりなりにも彼らは看守だ、六法全書の精神を学んで試験を通ったはずなのにその実態は唾棄すべき低劣さ。主任看守は職務中に飲酒をし囚人間のリンチを黙認し、所内では大手を振って賄賂がまかり通っている。待遇の優劣が賄賂によって左右されるなんて、拝金主義の政治家たちが国民の血税をつぎこんで無益な応酬を繰り広げる国会と変わりないじゃないか。貴方も副署長の自負があるなら刑務所の体制改革に乗り出したらどうですか?世界最大の規模と収容人数を誇る東京少年刑務所の実態が世間に知れれば、顕示欲旺盛な人権保護団体が騒ぎ出しますよ。国連の監査が入ったら面倒だ、日本の恥が露呈することになる。ただでさえ……」
 そこで言葉を切り、鍵屋崎が笑みを浮かべる。怜悧というより冷徹、コイツには人肌の体温がないんじゃないかと疑わせる氷点下の笑み。
 「ただでさえ、日本最高の頭脳の持ち主をこんな劣悪な環境下に放りこんだことで貴方がた政府の正気が疑われてるんだから」
 「なっ……、こっ……、」
 タジマの顔色が赤から白、しまいには青へとめまぐるしく変わる。鍵屋崎の頭上に警棒を振り上げたタジマを片手で制し、安田が顎を引く。
 「君の言うことも一理あるな。私も環境改善にむけて一応の努力はする」
 「まずは日本国憲法を看守に暗唱させてください。第11条 国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。ここの看守はそれすら知らない低脳揃いだ。小学校とはいわない、卵子と精子の結合の段階からやりなおしたらどうだ?」
 「鍵屋崎、君は憲法第十八条を知ってるか?」
 眼鏡の奥の目に試すような色を覗かせ、安田が言う。
 「第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 「…………馬鹿にするな。それ位知っている」
 むっとした鍵屋崎を冷ややかに見下し、当たり前の口調で安田が告げる。
 「君たちが今強いられているのは、『犯罪に拠る処罰の一環の苦役』だ。憲法に反してはないだろう?」
 たしかに、建前じゃ反してない。
 腑に落ちないものを感じながらも憮然と押し黙った俺の視線が、安田の目から隠すよう体の脇にたらされた鍵屋崎の右手に吸い寄せられる。無数のガラス片が埋まったてのひらは出血こそ止んでいたものの、ぱっくりと開いた傷口からは赤い生肉が覗き、その痛々しさといったらなかった。相当痛いだろうに平然とした風を装ってる鍵屋崎の、異常なまでのプライドの高さにあきれる。
 こうまで強がるのもしんどそうだ。
 「君たちも怪我をしているな。作業はいいから、とりあえず医務室へ行け。そんな手じゃシャベルも握れないだろう」
 あっさりと怪我を見抜かれ、鍵屋崎がひどくばつの悪そうな顔をする。言うだけ言って立ち去った安田を見送り、俺は胸を撫で下ろす。
 とりあえず、今日も死なずにすんだようだ。凱たちにリンチされて全身腫れ上がった俺の死体が、井戸掘りにかこつけて砂漠のど真ん中に埋められるのは正直ぞっとしない。
 隣の鍵屋崎がどこへやら歩き出す。ざくざくと歩き出した鍵屋崎の肩を掴んで制止したのは、タジマ。
 「どこへ行く?作業を再開するぞ、とっとと持ち場に戻れ」
 「医務室へ行けと安田に言われた」
 鍵屋崎が不審そうな顔をする。甘い。甘すぎる。
 案の定、なぶり甲斐のある獲物を手中に掴んだようにタジマが嘲笑う。
 「『あとで』な。今は作業中で、責任者は俺だ。安田の若造なんか関係ねえ、お前ら囚人は俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだ」
 鍵屋崎がなにか言おうと口を開き、また閉じた。唇を引き結んだ鍵屋崎はほんの一瞬苦渋に満ちた表情を昇らせたが、すぐにポーカーフェイスの虚勢を取り戻す。もうタジマの方は見ずに自分の作業場へと戻ってゆく鍵屋崎に追いつき、耳打ち。
 「お前、効き手は?」
 「右だ」
 てのひらに刺さったガラス片を苦心惨憺取り除きながら、鍵屋崎が吐き捨てる。ピンセットでも困難な作業が指でできるわけがない。ガラス片の大半はてのひらに埋まったまま、微細な傷口からはじくじくと新しい血が染み出している。
 「……ご愁傷様だな」
 聞いているのかいないのか、上の空の鍵屋崎はしつこいほどに右手の甲をズボンの腰にこすりつけていた。凱の小便の匂いがまだとれないらしい。手の甲が赤く擦れてもまだ止めようとしない。
 「吐き気がする。手を洗いたい、一刻も早く」
 「井戸が沸いたら洗えるよ」
 「井戸はいつ沸くんだ?百年後か?僕はたぶん死んでるな」
 「たぶん俺も死んでるよ。………おい、どこ行くんだ?」
 あさっての方角にふらふら歩いてゆく鍵屋崎を呼び止める。ふと立ち止まった鍵屋崎がうろんげに振り向く。
 「お前6班だろ?6班の持ち場はこっちだ」
 俺の指示に従い、鍵屋崎が方向転換。どこか覚束ない足取りでこっちに歩いてきたが、小高い砂丘の中腹でどしゃりと膝をつく。
 砂丘の半ばで力尽きた鍵屋崎を見て、奴の視力が途方もなく悪かったことを思い出す。それこそ、歩行に代表される日常生活にさしつかえるほどに。
 死ぬほど面倒くさかったし鍵屋崎を放り出して持ち場に戻りたいのが掛け値なしの本音だったが、一緒に死にかけたよしみでとりあえず声をかけてやる。
 「目が見えねーなら手でも引っ張ってってやろうか、日本人」
 「我自己來(自分でやれる)」
 何度もつまずき転倒し、脳天からつま先まで汚れ放題になっても手で砂を掻いて立ち上がり、一歩ずつ着実に足を運んでゆく鍵屋崎の姿を遠めに眺め、俺はため息をついた。

 俺の生き方も決して器用とはいえないが、アイツの生き方ほどじゃない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060529105003 | 編集

 「竜巻にでも巻き込まれたのか」
 サムライが表情を動かさずに聞く。
 古ぼけた豆電球が天井から釣り下がった照度の低い房の中、自分のベッドに腰掛けた僕は目だけ動かしてサムライを見る。
 「天災ではなく人災だ」
 声が不機嫌になるのが自分でもわかった。顎を動かした途端、鋭い痛みが走って顔をしかめる。今日殴られたあとは痣になっている。
 服の下ならともかく、顔を隠すのは不可能だ。然るに、サムライの要らぬ詮索を招く事態は避けられなかった。
 強制労働を終えて房に帰還したサムライは静かに鉄扉を閉じると、僕の視線には頓着しない淡々とした足取りで自分のベッドへと向かい、腰掛ける。サムライの自重で錆びたスプリングが軋み、耳障りな音が鳴る。
 サムライより一足早く房に帰還していた僕は、右手に巻いた包帯を忌々しげに見下ろす。
 初日の強制労働はさんざんだった。思い出すだけで不愉快だ。
 詳しく説明したくもないが、要約すれば野蛮で低俗で下劣な連中に酷い目に遭わされたということになる。主犯格は凱だった。昨晩僕を強姦しにきた少年とその一味が、そのリベンジとばかりに短絡的な行動をとり、作業中の僕を強引に用具置き場へと連れこんだ。慣れない肉体労働でただでさえ体力を消費していたというのに、知能指数の低い因縁をつけられてさんざん殴られ追いまわされた。まったく辟易する。
 賄賂を受け取って事態を傍観していた看守の無能さにも腹が立つが、何より屈辱的なのは……
 「眼鏡はどうした?」
 「壊された」 
 サムライのうろんげな声に、叩きつけるように返す。神経が苛立ってるのが自分でもわかる。落ち着け鍵屋崎直、観察対象の前で取り乱すなんてみっともない。これでは僕が観察されるほうじゃないか。包帯を巻いた中指を鼻梁にもっていこうとして、はたと気付く。
 そうだ、今は眼鏡をしてないんだった。
 間抜けな行動を自覚して喉の奥に苦汁がこみあげる。宙に立てた中指をおろし、足元の床に視線を放る。眼鏡のブリッジを押し上げるのが癖になっている僕は、今も無意識に眼鏡のポジションを正そうとしていた。サムライの前で失態を演じた自分が腹立たしい。
 対岸のベッドに座したサムライの目が、僕の右手に注がれているのに気付く。サムライの目から庇うように右手を移動させた僕に、感情の窺えない声が投げかけられる。
 「凱たちか?」
 「鋭いじゃないか。まあ昨日の光景を目撃した手前、二等辺三角形の面積を求める公式よりたやすい解だと言えなくもないが」
 口の端に自嘲の笑みを昇らせた僕をちらりと流し見て、サムライが腰を上げる。定規で測ったように正確な歩幅でこちらに歩み寄ってくるサムライを挑戦的に見上げる。なにをする気だ?僕の前の床に直接腰をおろし、囚人服の懐を探るサムライ。取り出したのは昨晩読経していた般若心境の経文だ。
 訝しげな僕の前で手際よく経文を広げたサムライが、字が記されている面をこちらに向ける。
 「読めるか?」
 「馬鹿にするな、これくらい……」
 言いかけて絶句する。
 視界がぼやけて歪んでいる。わずか50センチの距離に翳された経文の文字が、墨が滲んで溶け出したような有り様に変形している。
 極力目を細め、焦点を凝らす。
 「―観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。最後まで読むか?」
 完全に棒読みだった。内心の動揺を悟られないために、わざと感情の欠落した言い方をしたのだ。
 「……一応目は見えてるようだな。眼鏡がなくても日常生活に支障はないか」
 経文をおろしたサムライが呟くのが耳に入り、優越感をおぼえた僕は余計な一言を付け足す。
 「なんなら平家物語序文も暗唱してみせるが?」
 「暗唱だったのか?」

 ……迂闊だった。

 墓穴を掘った僕はサムライの顔が直視できない。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。東京プリズンに収監されてから僕の脳は確実に退化している気がする。朱にまじわれば赤くなるの諺どおり周囲の環境に汚染されてきたのだろうか。サムライに弱味を見せるのが癪なあまり、さも目が見えるよう演技した僕へと注がれるのは訝しげなまなざし。
 「本当は見えないんだな?」
 「………僕の視力は0.03だ。自慢じゃないがわずか70センチの距離にある君の顔だってパブロ・ピカソみたいに歪んで見える」
 実際こうして房に帰り着けたのも奇跡に近い。
 強制労働を終えてバスに乗り込み地下停留場で降りてから、看守に医務室の場所を聞いて中央棟に寄ってきたわけだが、壁伝いに歩むのは五里夢中の峠を越えるかのように困難だった。途中何人か人にぶつかって殴られた。苦心1時間かけて医務室に辿り着いた時はさらに怪我が増えていた。僕が声をかけた看守がたまたま親切に医務室の場所を教えてくれたからよかったものの、今日イーストファームで会ったタジマのような看守だったらと考えると、今こうして何事もなくサムライと話せてるのが夢のように思える。
 折り目正しく畳んだ経文を膝の横脇においたサムライは、しげしげと僕の右手を見つめていた。

 なんとなく、弱味を見られたようでばつが悪い。

 「触れていいか?」
 冗談じゃない。
 即座にそういい返そうとしたが、途中で思い直したのは禁欲的に細められた双眸に真剣な色があったからだ。
 逡巡する。
 人にさわられると吐き気がするのが本音だが、包帯越しなら汗や垢などの汚物が付着する恐れもないだろうし得体の知れぬ黴菌が感染する心配もないだろう。それに僕は疲れていた。今日一日でいろんなことがあった。砂漠での肉体労働で体力を極限まで消耗し、指一本動かすのも億劫なのが現状だ。口を開くのも面倒くさかったし、サムライの妙な申し出を退ける気力もなかった。往復ニ時間かけてやっと房に帰り着いた安心感があったのも否定できない。
 ―否、そうじゃない。本当は怖かったのだ、サムライの目が。清水ですすいだ日本刀の切っ先をおもわせる鋭い眼光を向けられた僕は、馬鹿な話だが「断ったら斬られる」と錯覚したのだ。根拠なんてどこにもない。冷静に考えればサムライが所有している木刀で人が斬れるわけがない。
 それでもなお、強靭に鍛鉄されたサムライのまなざしを跳ねつけるのは僕には不可能だった。
 「…………勝手にしろ」
 自分じゃ指一本動かす気もないが、したいというなら好きにすればいい。
 僕の意を汲んだのか、半歩膝を進めたサムライがそっと僕の右手をとる。包帯の巻かれた手首を支え、節くれだった親指で白い布に覆われたてのひらを注意深く探る。見た目の無骨さを裏切る繊細な手つきで僕の指を軽く折り曲げ、サムライがぼそりと呟く。
 「骨は折れてないが、ヒビが入っているな」
 「ヒビが?」
 そんな馬鹿な。医務室で僕を診た医師は「たいした怪我じゃないから一週間で完治する」と保障していたのに。僕の驚きを見抜いたサムライがごく淡白な口調で補足説明する。
 「イエローワークは慢性的に人が不足している。骨折やヒビが入った位の怪我で作業を抜けられてはたまらないと、診断書をごまかすよう看守が言い含めていることがある」
 「―腐ってるな、どいつもこいつも」
 どうりでと納得する。医務室で僕を診た医師の様子がどこかおかしかったのだ。僕の手をためつすがめつしながらサムライが述懐する。
 「こんな手じゃシャベルも握れないだろう。明日からの作業は辛いぞ」
 「だからなんだ?休んで寝てろとでも言いたいのか。有益な助言をありがとう、それを実行したら僕は看守にリンチされて死ぬがな」
 自然と言い方が皮肉げになる。サムライに罪はないと理性ではわかっていても、なにもかもを諦念して受け入れたようなサムライを見ていると反感が募るのだから仕方ない。
 こまやかな手つきで僕の指をさぐっていたサムライ、その指が包帯の表面からすべりおち、弧を描いて自らの首へと戻る。首に巻いていた手ぬぐいを素早く抜き取り、僕に背を向けて自分のベッドの下へと上体を潜らせる。サムライが取り出したのは一振りの木刀。僕が唖然と見ている前で、サムライは予想外の行動にでた。手ぬぐいの一端を口にくわえて器用に引き絞り、自らの手首に木刀の柄を巻きつける。
 ぎゅっぎゅっと手ぬぐいを引き絞り、飴色に輝く木刀を己が手首へと縛りつけたサムライがおもむろに立ち上がり、木刀の上部分を左手で掴んで固定する。
 「指が使えなければ手首を使え。シャベルの柄を手首に縛り付け、左手を添えて動かすんだ。そうすればなんとか作業は続行できる」
 「……なるほど」
 少しサムライを見直した。
 「思ったほど頭が悪くないな、君は。知能指数90くらいか?」
 「東京プリズンで生活する上の知恵だ」
 手ぬぐいをほどいたサムライが床に腰をおろし、木刀を膝へと乗せる。そして、汚れた手ぬぐいをこちらへと放る。僕の膝へと舞い落ちた手ぬぐいを興味なさそうに一瞥し、平坦な声でサムライが告げる。
 「貸してやる。手首は自分で結べるな」
 「子ども扱いするな」
 複雑な心境で膝へと落ちた手ぬぐいを見下ろす。サムライの汗と泥が染みた手ぬぐいはお世辞にも清潔とはいえなかったが、背に腹は変えられない。あとでよく洗って使おう。
 不自然な沈黙が落ちた。
 「………慰めが要るか?」
 「なに?」
 聞きなおす。木刀の表面に自らの顔を映したサムライが、同情とは縁遠い口調でたたみかける。
 「強制労働を体験した新人は大抵ぐったりと憔悴して弱音を吐く。懲役が終わるまでこんな日々が続くのならひと思いに首を吊ったほうがマシだとか自分はなんて不憫なんだとか、どれも似たような内容だ。中には有言実行、翌日の強制労働が始まる前に囚人服を縒って作った縄で首を吊る者もいる。鍵屋崎、お前がなにを考えてるかはわからないがこの房で縊死者がでるのは気分がよくない。死体の始末をさせられるのは同房の囚人だ。もしお前が首を吊りたいと考えているなら、それを思い止まらせるための言葉でもニ・三かけてやるべきなのか」
 「……さっきまでそんな気は毛頭なかったが、今は君への嫌がらせで首を吊りたい気分だ」
 「ならば」
 サムライが浅く息を吸き、木刀の切っ先を僕へと向ける。サムライの目が直線で僕をとらえる。
 「首を吊りたくなったら外に思い残した人間のことを考えろ。その顔を思い出し、言葉を肝に銘じろ。東京プリズンにいる限り外に残してきた想い人とふたたび相見える確率はかぎりなく低いが、冥府へと旅立てば生者と再会する可能性は完全に断たれる。外へと繋がる可能性が絶無でない限り、お前の未来にはわずかながらの希望が残されている」

 希望。
 恵。

 『おにいちゃん』
 そうだ。僕が今死んだら恵のことはだれが守る?だれが恵を守ってやれるんだ?恵が生きている限り、僕は死ぬわけにはいかない。東京プリズンに収監された僕は恵の身に万一のことが起きても駆けつけることができない無力な立場だが、今ぼくがリンチの犠牲になって死ぬか発作的に首を吊るかしたら、恵は本当に独りぼっちになってしまうのだ。
 鍵屋崎の家にいた時のような思いを、二度と恵にさせたくない。
 僕の胸に擬された切っ先が引かれ、サムライの手中へと戻る。今の自分がどんな顔をしてるのかわからない。どんな顔をしたらいいかもわからない。とにかくサムライに顔を見られるのが嫌で下を向き、はたと思い当たる。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「君にもいるのか?」
 サムライがうろんげにこちらを向く。薄ぼやけたサムライの顔に焦点を絞り、低く押し殺した声で聞く。
 「外に思い残してきた人間が君にもいるのか?」
 重たい沈黙。永遠にひとしい間をおいてから、サムライはぽつりと呟いた。  
 「………いや」
 その時、サムライがどんな顔をしていたのか僕にはわからない。眼鏡をかけてない僕にはサムライの表情がわからない。わからなくてよかったと思う。きっとサムライは今の僕と鏡に映すが如く同じ顔をしているはずだから。
 「俺が逢いたい人は、既にこの世にない」
 心の虚から吹いてきた風のように寂然とした声だった。
 サムライが逢いたい人間の顔を上手く思い描くことができない。
 僕はこの男について知らないことが多すぎる。親と門下生を斬殺して東京少年刑務所に収監された大量殺人犯であり、般若神経の読経と写経が日課という以外、サムライについて何も知らないのだ。昨日出会ったばかりなのだからそれが当然だろうと嘲る気持ちも一方にはある。しかしもう一方では、この男について何も知らないことがとてつもなく歯痒かった。

 観察対象のくせに、なんでこの男は土足で人の心に上がりこんでくる。
 なんでこの男の言動すべてがこんなにも気に障るんだ。
 僕の頭脳を持ってすればわからないことなどないはずなのに、この男については考えれば考えるほど謎が深まる。

 「どこへ行くんだ鍵屋崎?」
 サムライの声に背を向け、ベッドから腰を上げた僕はそのまま房を横切る。ノブを握り締めた背中越しにぴしゃりと言い返す。
 「君は僕の保護者か?いちいち人の行動を詮索しないでくれ、プライバシーの侵害だ」
 刑務所でプライバシーもなにもあったものじゃない。自分でも支離滅裂なことを言っているとわかっているが、この場を切り抜ける上手い言い訳が思いつかない。サムライの独白を聞いた時から僕の舌先は鉛のように鈍っている。
 これ以上サムライと同じ空気を吸ってるのが耐えられない、彼と同じ空間を共有しているのが我慢できない。
 逃げるように房を出た僕は、背後で扉が閉まる音を聞く。珍しく廊下は無人だった。行く当てもなく、ただサムライのいる房から少しでも遠く離れたい一心で足を速めた僕の脳裏で恒星が爆発した。
 ずきずき疼く額を片手で支えて顔を上げると、正面にコンクリートの壁があった。廊下の曲がり角にきたのに気付かず直進した結果、行き止まりの壁に激突したらしい。眼鏡がないと距離感が掴みにくい。これは事故だ、僕に過失はない。眼鏡をかけてればこんな間の抜けた失態は犯さなかった、決して。
 ぽんぽんと肩を叩かれ、ぎょっと振り向く。
 「メガネをかけてないメガネくんに忠告しておくけど、この壁には通り抜けフープなんてないよ」
 この声は聞き覚えがある。リョウだ。
 「そんなことは知っている、僕は有事の場合に備えて壁の硬度を確かめていたんだ。この壁の材質は1メートルの厚みのある鉄筋コンクリートだな。鉄筋コンクリートとはコンクリートの中に鉄筋を入れ,圧縮にも引張りにも強い部材を作る構造になっていてその特徴をラーメン構造と……」
 「きみほんとに目が悪いんだねえ」
 屈めた膝の上に頬杖ついたリョウが、この上もなく楽しそうに僕の顔を覗きこむ。非常に不愉快だ。
 「で、何の用だ?行き止まりとも知らずに直進して壁に激突したぶざまな僕を笑いにきたのか」
 「商売道具を返してもらいにきたのさ」
 僕の前に片手を突き出すリョウ。壁を支えにして立ち上がった僕は、無事な左手を使ってズボンのポケットから例のものを取り出す。先端のねじれた針金を受け取ったリョウはすぐにしまおうとはせず、自分の頭上に翳してためつすがめつしていたが、やがて口を開く。
 「これ、ちゃんと洗った?」
 「ああ。血がついたままだと錆びると思ってな」
 「そう」
 僕の言葉を聞いたリョウが手中の針金を回転させる。砂漠での騒動を思い出す。僕の上に馬乗りになった少年をどかせるためやむをえず実力行使したが、できればあんな野蛮な手は使いたくなかった。ただ、あれ以上砂と汗でまみれた汚い手で素肌をまさぐられるのに我慢できなかったのだ。看守に連行されていった囚人の中に片目を押さえた少年が混ざっているのを見たから、応急処置が的確ならば失明は免れるだろう。その点に関しては医師の腕を信用するしかない。
 「砂漠のアレ、すごかったね。メガネくんてばそんなおとなしそうな顔してためらいなく目玉を刺すんだもん、みんなびびってたよ」
 手中の針金から僕の顔へと上目遣いの視線を転じ、リョウが無邪気に笑う。
 「パパとママを殺したときもあんなかんじだったの?」
 いまさら驚かなかった。噂の出回る速度は速い。
 「……質問の意図が不明だ。凶器のことを言ってるならば全然違う。僕が両親を刺殺したときに使用したのは刃渡り20センチのナイフで、針金とは殺傷能力が比べ物にならない。刺した箇所も全然違う。砂漠でのしかかられた時は腕か肩を狙ったつもりがたまたま目測が狂って目玉を刺したが、両親を刺すときは確実に致命傷を狙った。母親の場合は心臓、父親の場合は右肺。大動脈を掠れば失血性ショックで心臓が停止すると医学書で読んだことがあったからな」
 ぽんぽんと針金を投げ上げていたリョウの手が虚空で止まり、声から不謹慎な笑みがひっこむ。
 「―それを冷静に説明する君って、やっぱイカれてるよ」
 リョウがどんな表情をしてるか漠然と予想できる。嫌悪と好奇心が等分に入り混じった空恐ろしげな顔。
 眼鏡が壊れていて確かめられないのが残念だ。
 僕の思考を読んだのかふっと空気が変わり、リョウがまた笑顔を浮かべたのがわかる。
 「まあいいや。実際すかっとしたしね、君が凱たちに一矢報いてくれて」
 「?どういう意味だ」
 いぶかしんだ僕の目の前へリョウが顔を突き出す。至近距離に浮かんだリョウの笑顔、その前歯が一本抜けていることを知る。
 「僕の本業は鍵屋じゃなくてウリ。刑務所内の看守や囚人を相手に性欲解消のお手伝いしてあげてんだけど、中には礼儀のなってない客がいてね。殴りながらヤるのが好きだとか複数プレイが好きだとか、そういう乱暴で暴力的な連中ね。ちゃんと料金払ってくれればいんだよ、それでも。けどね、凱の手下ときたらそろいもそろって屑揃いで……僕の前歯を折ったくせに慰謝料払わないわ料金ごまかすわで、いい加減頭にきてたんだ」
 「だから僕に針金を貸したのか?」
 「ほんとはアイツらのペニスを串刺しにしてほしかったんだけど、贅沢は言えないね」
 おどけて肩をすくめたリョウが興味深そうに僕を見る。
 「ところで眼鏡はどうするの。壊れたまんまだと日常生活にさしつかえるんじゃない?」
 無意識にズボンのポケットに手をやる。弦がひしゃげてレンズが粉微塵に割れた眼鏡を拾ってきたはいいが、知識はともかく技術がない僕がいちから修理するのはむずかしい。ただでさえ今現在僕の右手は使い物にならないのだ。不自然にふくらんだポケットにじっと目を注ぎ、リョウが口を開く。
 「僕が直してあげよっか」
 え?
 「直せるのか?」
 かすかな驚きをこめて聞き返すと、「僕ならね」と得意げに首肯された。是が非でもない申し出だった。人と関わりをもつのは極力避けたいという気持ちも捨てきれないが、裸眼では確実に日常生活に支障がでる。至近距離にいるリョウの顔さえこうしてぼやける始末なのだ。背に腹は変えられないと苦渋の決断を下した僕は、ポケットから取り出した眼鏡をリョウの手に乗せようとする。
 「交換条件がある」
 「交換条件?」
 レンズが割れてフレームだけになった眼鏡をリョウに握らそうとして、思いとどまる。リョウはにこにこと笑っていた。
 食えない笑顔。
 ネコのような動作で僕の肩へと半身をすりよせたリョウが、吐息の下から囁く。
 『レイジの弱味を探ってきて』
 「なんだって?」
 なんでレイジの名前がでてくるんだと当惑した僕を上目遣いに見上げ、リョウが笑みを深める。
 「新入りの君なら警戒されないだろうし昨日の食堂の一件もあるし、実に適役だと思うんだよね。いい取引だと思わない?君はレイジの友達になって彼の弱味を掴んでくればいい。そしてレイジの弱味を僕に報告すれば、それと引き換えに元通りレンズの嵌まった眼鏡が手元に戻ってくるってわけ。悪い話じゃないでしょ」
 僕の手から奪い取った眼鏡を目にあてがい、ひきつれるように喉を鳴らすリョウに違和感を覚える。
 「どうしてレイジの弱味を知りたいんだ?どうして僕を指名する?レイジの弱味を知りたいならば彼と同房の住人に聞けばいい。たとえば昨日彼の隣に座ってたロンとか、身近にいる彼のほうがよほど適役だと思うが」
 「ロンはだめだよ、アイツ妙に鋭いから。それに根がいい奴だから、口ではどんなに嫌っててもレイジを裏切るような真似はできない」
 「裏切る?」
 「てゆーかさ、メガネくん。君そんなに他人に関心ある人だっけ?」
 リョウの口調ががらりと変わる。どこかとぼけた雰囲気から、人の神経を逆撫でするような挑戦的な響きを帯びる。弦の曲がったメガネを手中でもてあそびながら、腹をすかせた雌猫のようにしたたかな笑みを浮かべるリョウ。
 「自分以外はどうでもいいんじゃないの?周囲に関心ないんじゃないの?程度の低い周りの連中がなにしようがどうしようが僕には関係ないって、エリート崩れの日本人らしく冷めたスタイル気取ってるんじゃなかったの?それとも……」
 リョウが間合いに踏み込んでくる。リョウに押されるかたちであとじさった僕の背中が固いものに当たり、肩に激痛が走る。強制労働中に警棒で殴打された肩を壁にぶつけ、痣に埋めこまれた火種が爆ぜる。
 肩を庇って頭上を仰いだ僕の顎を親指で支え起こし、リョウが続ける。
 「たった一日でサムライに感化されちゃったわけ?刑務所内で浮いてる親殺しふたり、囚人間でも後ろ指さされる負け犬同士がぴちゃぴちゃ傷なめあってなぐさめあってんの?反吐が出るほど美しい友情だね。鳥肌立ちそう、別の意味で」
 瞬間、理性が蒸発した。
 「―気色悪い妄想をふくらませるな」
 リョウの手を振り払い、肩の痛みを堪えて立ち上がる。
 「サムライは僕の観察対象だ。レイジもそうだ。この世に存在する全ての人間は僕にとってただの観察対象に過ぎない。君は顕微鏡の中のミトコンドリアと友情を築けるか?赤血球に恋愛感情がもてるか?そんなことは不可能だ、絶対に」

 そうだ、この世に存在するすべての人間は僕にとってただの観察対象。
 サムライもレイジも例外ではない。
 例外はただ一人ー……恵だけで十分だ。異物がまぎれこむ余地はない。
 そうだろ、鍵屋崎直。恵さえいればお前は十分だろ?

 「……いいだろう。甚だ理解できないし不条理ではあるが、君の条件を呑む」 
 唾棄するように吐き捨てた僕の前で、リョウが跳び上がって喜ぶ。
 「そうこなくっちゃ!」
 「ただし、こちらも条件がある」   
 有頂天のリョウをさえぎり、断固として念を押す。
 「眼鏡は先に直してくれ、なるべく早く。これ以上一日だってメガネのない生活は考えられない」
 僕にとって眼鏡とは自分の頭脳と妹の恵の次に大事なものだ。眼鏡がなければ生きていけない。眼鏡をしてなければ目の前に落とし穴があっても気付かず落ちてしまうだろう。まわりの風景がよく見えないというのは途方もなく不安で心許なく、こうして話している今もリョウの視線が僕のどこに向けられてるのかわからず、一向に落ち着かない。
 リョウは眼鏡の弦を口にくわえて思案していたが、僕の焦燥が本物だと見抜いたのか、やがて鷹揚に頷く。
 「……まあいいや。レイジの弱味をもってくる前に、君が壁にごっつんこして事故死しちゃったら困るしね」
 言うなりぱっと踵を返しその場から走り去ったリョウが、廊下の奥で立ち止まり片手を振る。
 「じゃあよろしくねメガネくんー。君の分析力に期待してるからねー」
 声と足音が遠ざかり、大気に溶けて完全に消滅する。
 無人の廊下にとり残された僕は、囚人服の背中が汗でぐっしょり湿っていることに気付いた。

 眼鏡の代償は高くつくかもしれない。  

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060528105128 | 編集

 「輪姦でもされたのか?」
 鉄扉を開けたレイジが開口一番最も痛いところをつく。癇に障るにやにや笑いさえなければレイジの疑問は至極真っ当なものだ、実際今の俺は酷い有り様だ。凱のシャベルが掠めた頬にはバンソウコウが貼られ、囚人服の下には他にもあちこちに包帯が巻かれている。手厚い看護といえば聞こえはいいが、どんなに怪我をしても明日の強制労働は休めないのだがら大袈裟な包帯にもあまり意味はない。
 「お前の頭の中でどんなゲスな妄想が広がってるか知らねえがこれだけは言っておく。未遂だ」
 胸糞悪い薄笑いを浮かべたレイジが鉄扉を閉じる音を聞きながら、腹立たしげに吐き捨てる。囚人服の袖の下、二の腕に巻かれた包帯を撫でながらそっぽを向いた俺を横目で眺め、自分のベッドに腰掛けるレイジ。コンクリ床に足を放り、交差させた膝の上で手を組んだレイジは、色素の薄い茶色の目に悪戯っぽい光をちらつかせる。
 「犯人あててやろうか?」
 小首を傾げ、俺の視線を絡めとってレイジが聞く。レイジが首を傾げると金鎖のネックレスが鎖骨の窪みに沿って流れ、涼やかな音を奏でた。願わくばあのネックレスでレイジを絞め殺したいと夢想する。
 依頼人と対面した名探偵のように気障なしぐさで膝を組んだレイジが意味ありげな笑みを浮かべる。
 「凱だろ」
 「それ以外にだれがいるってんだ?」
 「台湾系派閥と中国系派閥、さらには看守にも睨まれてるお前ならどこのだれに襲われてもおかしくないだろ」
 名推理を鼻で笑われたレイジがさも心外そうに眉をはねあげる。しれっと言ってのけたレイジの面に怒りが沸騰し、俺は語気荒く叩きつける。
 「他人事みたいに言うな。俺がケツおっかけまわされたり砂漠で生き埋めにされかけた原因の八割はお前にあるんだぜ、レイジ」
 「人気者は辛いね。一人を選ぶと百人から恨まれる。女の嫉妬も怖いが野郎の嫉妬は酸っぱい」
 野郎、わかっててわざとやってるな。
 憤慨した俺を笑みを含ませた目で挑発し、膝の上で頬杖ついたレイジがさらに癇に障る言葉をたたみかける。
 「まあいいじゃねえか、今日も五体満足で強制労働から生還できて。神様に感謝しとかねーとな」
 「神様なんていてたまるか」
 「お前道教だっけ?それか儒教か仏教か」
 「肌の色で判断すんな。根っからの無信仰だよ」
 「そうか。じゃあ神様を信じてないお前のかわりに俺が神様に感謝しとこう、ロンちゃんの顔を崩さずに房に帰してくれてありがとう。アーメン」
 胸の前で十字を切ったレイジを殺したい衝動にかられる。殺意をこめて拳を握り固めた俺を上目遣いに眺め、レイジが腰を上げる。
 「二目と見られないほどに崩れちゃないけど無傷ってわけにもいかなかったみたいだな」
 房を横切って俺の方へとよってきたレイジが図々しく手をさしだす。頬の傷に触れる前にレイジの手をはたき落とす。レイジがふたたび手を伸ばしてくるのを前より強くはたき落とす。しつこく伸びてくるレイジの手を振り払ういたちごっこを続けてるうちに腕の包帯がほどけ、もつれる。
 蝿を追い払うように邪険にされたレイジが、薄赤く腫れた手の甲をさすりながら口を尖らす。
 「なんだよケチ、怪我の具合診てやろうとしてんのに」
 「お前の目つきと手つきからは触診のホラ吹いて女の下着を脱がす藪医者の意図が透けて見える」
 「勘繰りすぎだよ。入所来一年付き合って俺の誠実さがよくわかっただろ?」
 「お前の言う誠実さってのは『あれは悪い夢だったんじゃないか、きっとそうだ、そうにちがいない』と自己暗示かけられるよう完全に相手が寝入ってから夜這いをかけるとか、『それ以上顔が変形すると娑婆で待ってるおふくろさんが息子を見分けられないだろうから』って理由で腹を殴って内蔵破裂させることか」
 「それは俺から満ち溢れる誠実さのごく一部だ」
 レイジとは会話が成立しない。
 「少しはサムライを見習えよ」
 「お国に尽くすサムライが誠実なのは当たり前だろ?」
 「サムライを見習って禁欲しろってことだよ」
 「そこまで枯れてないね」
 俺の皮肉を爽やかに受け流し、レイジがふと真顔になる。笑みを消した目で直視され居心地が悪い。いつもへらへら笑ってるレイジが床に胡坐をかき、軽薄な表情をひっこめて下から俺を見上げてくる。
 「なあロン」
 「なんだよ」
 手首からびろんとたれた包帯を口にくわえて巻きなおしつつ、生返事で答える。
 「殺してやろうか」
 耳を疑った。
 口にくわえた包帯をぽろりと取り落とし、みっともなく動揺してレイジを見る。コンクリ床に胡坐をかいたレイジは膝の上で頬杖ついた怠惰な姿勢で俺を見上げていた。その口元に漂っているのは冗談とも本気ともつかない愉快犯の笑み。
 色素の薄いガラス玉の目が狼狽した俺の顔を鮮明にとりこんでいる。
 「凱を殺してやろうか」
 「……馬鹿言えよ」
 苦労して生唾を飲み下す。喉をおりてゆく一塊の唾液が鉛のように重たく胃袋にこごる。
 レイジは頬杖ついたままミステリアスな笑みを深める。
 「大マジだよ俺は。安心しろ、お前には迷惑かかんないよう気をつけてさっくり殺るから。アイツが独りになったとこ見計らって物陰つれこんで頚動脈でも切れば万事解決、お前は凱とその取り巻き連中にケツおっかけまわされることも半半だなんだ罵られることもなく、平穏無事なムショライフを懲役終了まで満喫することができる」
 観客を抱擁する舞台役者のように大仰に両手を広げたレイジの言葉に、背筋を冷や汗がすべりおちてゆく感覚を味わう。
 コイツなら本当にやる。断言できる。
 俺が冗談のつもりで「よろしく頼む」と一言言えば次の日には「ほらよ」と凱の生首持ってきかねない奴なのだ、レイジは。
 四六時中凱とその取り巻き連中に目をつけられことあるごとに因縁ふっかけられて腹に据えかねているのも事実だが、俺の不用意な一言が引き金となって凱が頚動脈かき切られては寝覚めがよくない。
 レイジのおそろしい提案を却下しようと口を開きかけた俺の眼前にずいと顔を突き出し、にんまりと笑う。
 「それとも俺が半殺しにしてやるからとどめは自分で刺すか?なに、遠慮することはない。蹴るも殴るも焼くも燃やすも抉るも刺すもお望みどおり好きにしな。なんなら凱のケツひんむいてシャベル突っ込んでやれよ、今までのお返しに。俺も見たいしさ、シャベルつっこまれて柘榴みたいに割れたケツさらした凱がひんひん泣きながら這いずりまわる姿。すげえ笑える」
 自分の言葉に笑いのツボを刺激されたレイジが腹を抱えて笑い転げる。壊れたハーモニカの如く人の心をかき乱す躁的な笑い声に神経がささくれだつ。舌打ちして囚人服の袖をおろした俺は、極大の嫌悪感をこめてレイジを睨む。
 「ひとりで笑ってろよ。お前が凱を殺すのは勝手だけど俺の為だとか気色悪い理屈こねだしたら殺すぞ」
 「なんでだよ?お前だって凱に消えてほしいって思ってんだろ、腹ん中では」
 人の心の奥底まで覗きこんでくるかのようなレイジの目に咄嗟に反論できなかった。
 たしかに凱が消えてくれれば万万歳だ。廊下ですれ違うときにわざと肩をぶつけられるような古臭い嫌がらや強制労働中の事故に見せかけてシャベルを脛にぶつけられて足を腫らすような人災の数々と縁を切れるし、東京プリズンでの俺の生活もだいぶマシになるだろう。俺の生活向上のために凱には一日も早く出所するかリンチで死ぬか作業中の事故で死ぬかしてもらいたいが、レイジが「お前のために」とか恩着せがましい理由をこじつけて手を下すのはまた別だ。
 見返りになに要求されるかわかったもんじゃないし。
 不審と警戒の入り混じった複雑な視線を飄々と受け止め、レイジがくくっと喉を鳴らす。
 「凱を殺せばお前の貞操は保障されるし俺は目の上のたんこぶが消えてハッピー。悪い話じゃないだろ」
 「お前はただ人を殺したいだけ、人を殺す大義名分が欲しいだけだろ」
 「ったく頑固だなあ」
 頭の後ろで手を組んだレイジがあきれたような声をあげる。どっちが頑固なんだ。執拗に首肯を迫るレイジを苦々しげに一瞥、唇の端をねじって吐き捨てる。
 「大体、見返りになに要求されるかわかったもんじゃねえ」
 「たいしたもんじゃねえよ。同房の奴の頼みなら格安で聞いてやるさ」
 「ちなみになに要求する気だった?」
 「お前の貞操」
 そうか、俺の貞操はたいしたもんじゃない上に格安なのか。
 「睨むなよ、冗談だって。本当はフェラ……」
 「その先続けたら噛みちぎるぞレイジ」
 「うそうそ冗談」
 高速で手を振って前言を打ち消したレイジが意味ありげに目を細め、自信過剰な口ぶりでささやく。
 「ロンは特別、『愛してる』三回で引き受けてやる」
 「死ね死ね死ね。三回言った、さあ死ね」   
 レイジのたわけた提案をすげなく一蹴する。「つれねえなあ」と傷心のため息に暮れるレイジを小気味よく見下ろしていた俺の耳に、ガキっぽく拗ねた呟きがもぐりこむ。
 「俺を頼ればラクなのに、もったいねえ」
 レイジに借りを作るのはぞっとしない。いつか上乗せして利子を回収されそうだ。不毛な議論を打ち切ってふたたび包帯を巻きなおすのに集中しはじめた俺をよそに、退屈をもてあましたレイジは一人で勝手に話を続ける。
 「そういえばさ、例のメガネもイエローワーク配属になったんだって?すげえ速さで噂出回ってるぜ、強制労働初日だってのに凱やタジマ相手にどえらく派手にやらかしたって。見かけに寄らず図太いタマだよな、アイツ。自分を無理矢理ヤろうとした奴の目ん玉刺したんだろ、針金でぶすって。うっわー痛そう、俺なんか想像しただけでちびっちゃうね」
 「見かけおとなしい奴ほどキレたら怖い。エリート崩れの日本人ならなおさらだ」
 自分を犯そうとしたガキの目玉に迷いなく針金を突き刺した鍵屋崎を思い出す。効き手は右だという話だが、振り上げた左手には一切躊躇がなかった。怒りと屈辱が頂点に達した上での発作的な行動かもしれないが、あの時の鍵屋崎の様子には遠巻きに眺めてる奴らをぞっとさせるものがあった。
 親を殺したときもあんなかんじだったのだろうか。
 鍵屋崎と俺とを比べる。俺だったらどうだろう。寝台で男とまじわってるおふくろの無防備な背中にナイフを刺せるだろうか。逆にナイフを奪われてお袋に逆襲されそうな予感がするが。
 見かけはいつ首を吊ってもおかしくないヒヨワな日本人の典型だが、レイジの言う通り鍵屋崎はいいタマで図太い神経の持ち主だ。鍵屋崎が何年懲役喰らって東京プリズンにぶちこまれたか知らないが、そこそこの年月なら東京プリズンで生き残れるかもしれない。
 「アイツ、なにやってぶちこまれたんだろうな」
 「………」
 「知ってるかロン?」
 「知ってても言いたくない」
 好奇心丸出しのレイジの質問をぴしゃりとはねつける。鍵屋崎の噂はすでに出回ってる。アイツが親を殺して東京プリズン送りになったことがほぼ全員の囚人に知れ渡るまであと三日もかからないだろう。お互い天敵同士の台湾・中国の間に生を受けた俺も肩身が狭いが、鍵屋崎はこれから俺以上の居心地の悪さを味わうことになるだろう。まさしく針のムシロだ。今日一日さんざん迷惑をかけられまくった手前、同情する気はこれっぽっちも起きないが。
 「―メガネくんがどこまで保つか見ものだな」
 俺の胸中を見透かしたようにレイジが薄く笑みを浮かべる。悪魔のようにきれいなツラに反吐が出る。俺は話題を変える。
 「人の心配より自分の心配しろ。聞いたぜ、今度西棟の奴とあたるんだってな」
 「ああ」
 「なんだ、そのことか」と一気に関心が薄れたレイジがおざなりに頷く。
 「仕事中に班の奴らが話してたぜ、お前の勝率」
 「参考までに聞くけど、どんなもん?」
 「六対四か七対三だとよ」
 「だれが顔も見たことない他人の評価聞きたがるってんだ」
 レイジが鼻白む。俺は怪訝な顔をする。
 「俺が聞きたいのはいちばん近くにいていちばんよく俺を見てるお前の評価だよ、ロン」
 気のない素振りを装っていても俺の評価は気になるらしく、胡坐の上に頬杖ついたレイジが明るい薄茶の目に隠しきれない興味を覗かせる。二の腕に巻いた包帯を袖の上から撫でながら俺はちょっと考えこむ。
 「五対五」
 「マジかよ!?」
 レイジが電気ショックを受けたように大声を張り上げる。いい気味だ。心の中で笑いながらさらにたたみかける。
 「東棟の王様だからって調子に乗るなよ、レイジ。王様の時代は長くは続かねえって相場が決まってんだ。そろそろ革命される時期がきたんじゃねえか?」
 「ずいぶん安く見られたもんだな俺も」
 「王様のくせに言動安いからだよ」
 なげかわしげにかぶりを振るレイジ。レイジが頭を振るたびに後ろで括った茶髪が跳ね、裸電球の明かりを反射して金に輝く。こうなるとわかっていたから俺は評価を偽った。九対一の本音を言ってレイジを調子づかせるのは癪だ。知らぬ存ぜぬで釘をさしておくのもいいだろう。
 「博愛主義で平和主義、下々にフレンドリーな王様で売ってきたつもりなのに……ぼちぼち宗旨替えの時期かな」
 一人で勝手におちこんでるレイジが愉快すぎてこみあげてくる笑いを抑えるのに苦労する。
 「で?昇厘とはいつあたるんだ」
 「二日後の夜」
 「賭け金張ってるギャラリーの前で裸の王様に成り下がらないよう鍛えとくんだな」
 「愚民め、だれに口をきいてるんだ?」
 無駄な贅肉を殺ぎ落とされた猫科の肉食獣をおもわせる剽悍な笑みを浮かべ、レイジが宣言する。
 「キングがポーンに負けたら盤面がひっくり返されちまう。俺はまだ王座を譲る気はねえよ」
 たいした自信だとあきれる。が、レイジの実力を知ってればあながち大言壮語とも言いきれない。二日後の試合については絶大な自信を誇るレイジの顔が少し曇る。
 「二日後の試合はどうでもいい。おっかないのは一週間後」
 「一週間後、だれとあたるんだ?」
 「北のロシア皇帝」
 東西南北の棟はそれぞれ独立して自治区を運営してるから顔を見たことない奴や名前を聞いたことがない奴がいても不思議じゃないが、北棟を牛耳るロシア皇帝の風評はちらっと小耳にかじったことがある。入所わずか三年で北棟を制覇して下克上を達成したとんでもなく強いロシア系がいるっていう物騒な噂だ。悪魔に魂を売り渡したレイジが負けることはないとは思うが、対戦相手を聞いて俄かに不安が増す。
 「ま、俺が無事勝ち進んで相手も無事勝ち進んだら当たるだろうって前提だけど」
 頭の後ろで手を組んだレイジが飄々とうそぶき、俺の疑念を煽る。
 「やけに余裕じゃねえか、おっかないとか殊勝なこと言ったくせに」
 「おっかないのはな」
 レイジが言葉を切り、妙な沈黙が落ちる。俺はレイジを見つめる。レイジの顔は相変わらず笑っていたが、その顔が限りなく無表情に近く見えたのは気のせいだろうか。
 「俺が手加減できなくなりそうだからだ」
 しれっと言ってのけたレイジに、肌が粟立つ感覚をおぼえる。手加減できなくなったレイジ。想像するだに恐ろしい。
 「そんなわけで一週間後は応援にきてくれよ、ロン」
 「冗談じゃねえ。くだらねえお遊戯に付き合うのはまっぴらだ」
 「たまには試合観戦して賭け金張ってストレス発散しろよ。その為に俺らブラックワークが汚れ仕事引き受けてんだぜ?」
 「お前らブラックワークは戦闘狂の変態揃いだから趣味と実益を兼ねて楽しく殺しあえてちょうどいいだろ。本当に可哀相なのは、」
 「可哀相なのは?」
 余計なことを言っちまったと後悔するが、遅い。顔を背け、続ける。
 「……お前らブラックワークの底辺にいる奴らだよ」
 ブラックワークの底辺にいる連中は悲惨だ。地獄の最下層だってああまで悲惨じゃないだろう。先を競って首を吊りたくなるのも無理ない。最も、俺だって他人事のように澄ましてられる立場じゃない。看守ウケがよくない俺はいつブラックワークにまわされるかわからないのだ。
 「お前が応援にきてくれりゃ勝てる気がするんだけどな。余裕で」
 白い歯を光らせてレイジが笑う。刑務所にいるのになんだってコイツの歯は白いんだ、洗剤で漂白してるのか?ぼんやりそんなことを考えながらレイジの笑顔を眺め、ドスを効かせた声を絞り出す。
 「俺は行かない。ガキどもが主役の公開スナッフフィルムをわざわざ見に行くような悪趣味な趣味はねえ」
 「一週間後には気まぐれ起こしてるように神様にでも祈っとくよ」
 首を竦めたレイジが観念したように苦笑する。苦い成分が混ざったレイジの笑顔を見て、心の中で反駁する。

 神様なんかいない。いないもんに願かけしても希みが叶うわけがねえ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060527105419 | 編集

 だれかがピアノを弾いている。
 つっかえつっかえ一生懸命に、ひたむきに一心に、小さな指を鍵盤から鍵盤へと移ろわせている様子が瞼の裏側に浮かぶ。
 どこからか流れてきた音符を辿り、飴色に輝く廊下を歩く。隅々まで掃除が行き届き、塵ひとつ埃ひとつ落ちてない廊下。通いの家政婦は勤勉だ。病的に神経質で少なからず潔癖症の気がある主人の叱責を回避するために、手抜かりなく廊下の隅々まで掃き清めてワックスをかけている。
 光沢のある木材の床を歩いていた僕はひとつのドアの前で立ち止まる。音符はこの部屋から漏れてきた。ノブに指紋がついてないか確かめてから慎重にドアを開ける。我が家の家政婦は勤勉だ、雇い主とその息子が病的に神経質で潔癖な性質を有していると知っていて、絶対に指紋など残さぬよう念入りにノブを拭いている。彼女だってノブの指紋を見落とした咎で高給の職を失うのは嫌だろう。そんな感慨を覚えながら、ピアノを弾いている人物の集中力を妨げぬよう少しずつドアを開ける。
 
 ピアノがあるだけの殺風景な部屋だった。 

 木目調の美しい木材の床は飴色の光沢を纏い、天然の鏡のように艶々と輝いている。塵ひとつ見逃さずに掃除された床を四つ脚で踏んでいるのは、練習用のアップライトピアノ。床と同じく丁寧に磨かれたピアノの表面は眩く輝き、蓋を上げた鍵盤には整然と白と黒が配置されていた。美しく調和した黒鍵と白鍵の連なりをうつむき加減に見下ろしているのは幼い少女。こちらに背を向け、ひどく生真面目にピアノを弾いている少女の背後へと足音を忍ばせて歩み寄る。少女の手が跳ねる度に肩に垂らしたおさげが小気味よく揺れ、独特の拍子を刻む。小さな後頭部に続くのは色白のうなじ、うなじの下に連なる背中はノースリーブのワンピースに隠されているが、少女が半身をずらして遠くの鍵盤へと手を伸ばすたびに華奢な肩甲骨が上下する。
 演奏に没頭する少女を驚かせぬようその背後で立ち止まり、しばらくピアノ曲に耳を傾ける。
 少女の演奏はお世辞にも流暢とはいえなかった。バイエルを卒業したばかりの少女には、ずらりと左右に整列した鍵盤の数が手に余るのだ。それでも少女は一生懸命だった。見ているこちらがいじらしくなるほどに練習に練習を重ね、自分の技量を向上させようと努力していた。その努力が実を結び、最近でははっきりとその上達具合がわかるようになった。以前手つきは危なっかしいし自由自在に鍵盤を操れているとはとてもいえないが楽譜に打たれた音符を取りこぼすことは殆どなくなり、聞いている方も大分安心して音に身を任せられるようになった。
 
 演奏が終了した。
 同時に、僕は拍手をした。

 『!』
 おさげを振り回し、はじかれたように振り向く少女。子供らしい丸みをおびた頬がうっすらと上気しているのは演奏を終えた昂揚感のためか、それとも練習曲の一部始終を僕に聴かれた羞恥のためだろうか。おそらくそのどちらでもあるのだろう、僕を見た少女の顔がいたずらの現場をおさえられたお転婆娘のように気まずげになる。
 『いたのおにいちゃん』
 『曲が終了する一分二十五秒前からな』
 拍手をやめて少女の隣の椅子に腰掛ける。少女は拗ねたように口を尖らし、ぷいとそっぽを向いた。 
 『それなら声をかけてよ』
 『恵の演奏に余計な夾雑物をはさみこみたくなかった』
 『きょうざつぶつ?』
 恵がきょとんとする。リスに似た黒目がちの目が不思議そうに僕を見つめ、我知らず苦笑がこみあげる。
 『おにいちゃん、きょうざつぶつってなに?』
 『夾雑物とは端的に言えば「不要なもの」だ。恵の演奏に無粋な話し声や物音は要らないだろう?』
 『それより黙ってうしろで見てられるほうがはずかしいよ』
 鍵盤に手をおいた恵が今だ不満げに呟く。正面に掲げられた楽譜に目をやる。恵が弾いていたのはショパン作子犬のワルツだ。鍵盤の上で子犬がじゃれているような無邪気で軽やかな曲は恵によく似合う。恵は僕の方を見ようとはせず、落ち着かないしぐさで肩に垂れたおさげをいじくっていた。僕に演奏を聴かれていたのが相当恥ずかしかったようだ。
 正直、なにをそんなに恥ずかしがるのか理解できない。だから僕は話題を変えた。
 『ずいぶん上手くなったじゃないか、恵』
 『ほんとう?』
 おさげの穂先をしごきながら疑わしげまなざしで僕を見る恵に、力強く頷き返す。途端、恵の顔が明るく輝く。
 『おにいちゃん、うそついてない?恵、ほんとうに上手になった?』
 『なんで僕が嘘をつくんだ。誓って言うが、僕は恵以外の人間すべてを騙しても恵にだけは嘘をつかないぞ』
 本心から言ったのに、恵は完全には疑念を捨て切れてないようだ。兄に対するこの信用のなさはなんだ。正面に立てた楽譜を重ねて角をそろえながら、下目遣いの恵がぽつりと呟く。
 『………だっておにいちゃん、なんでもできるから』
 恵の言葉に虚を衝かれる。
 恵の横顔は意気消沈していた。白く強張った頬はあどけない笑みを頑なに封じこめ、下を向いた顎の線はひどく思いつめたように硬直していた。楽譜をそろえるのに集中する演技を続けながら、今にも消え入りそうな声で恵が続ける。 
 『なんでもできるから、なんにもできない恵のことかわいそうがってるんじゃないかって』
 一瞬、言葉に詰まった。
 『………そんな』
 そして、悔やむ。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。今の間は決定的なミスだった。案の定、僕の言葉に欺瞞の匂いを嗅ぎ取ったらしい恵が唇を噛み締めてだまりこむ。
 恵にこんな顔をさせた自分を殺したい。
 自分で自分の首を締めたくなるような後悔に苛まれがら、僕は恵の誤解を解こうとしてさらに墓穴を掘る。
 『なにを言ってるんだ恵、それは思い過ごしというか長子に対する次子コンプレックスの心理作用というか、その、つまり』
 『もういい』
 よくない。
 事実、恵は目を潤ませているじゃないか。楽譜をおさらいするフリをして涙をこらえる恵のいじらしい様子に胸が痛み、無力な言い訳を重ねようとした僕の目の前にスッと楽譜がさしだされる。
 物問いたげに目をあげる。椅子に座ったまま半身をこちらに傾けた恵が、いやに切羽詰った顔で僕を見つめている。
 『おにいちゃん、弾いてみて』
 おねがい、といよりは命令に近い頑固な口調だった。僕はどうやら本格的に恵の機嫌を損ねてしまったようだ。しかし、これは……どういうことだ?戸惑いつつも、恵のまなざしに促されるがままさしだされた楽譜を受け取る。手の中の楽譜を不審げに見下ろす僕の耳に静かな声が響く。
 『ピアノ、弾いてみて』
 恵の声は落ち着いていたが、その声の底でかすかに漣立っているのは不安定な揺らぎ。何が何だかわからぬまま、それでも恵をこれ以上不機嫌にさせるのが嫌でぎこちなく鍵盤に手をおく。恵がじっと僕の手元を見つめているのがわかるが、僕は鍵盤を見つめたまま硬直していた。膝の上に広げた楽譜と鍵盤を見比べた僕は、次の一言を発したものかどうか逡巡するが、さきほど恵の前で嘘はつけないと誓った手前素直に白状するしかないだろう。
 『……恵』
 『なあにおにいちゃん』
 『なにをどうしたらいいかわからない』
 内心忸怩たるものを感じながら、吐き捨てるように言う。知識と教養には自信がある僕も、ピアノに触れるのは今日がはじめてだ。実際恵に促されなければ一生ピアノに触れずに生涯を終えていただろう。そんな僕がすらすらとピアノを弾きこなさせるわけがない。自慢じゃないが楽譜に何が書いてあるのかさっぱりわからない。いや、誤解しないでくれ。それぞれの音楽記号が何を示すかは完璧に理解できるし説明することもできる。ピアノは弱く、メゾピアノはやや弱く、ピアニッシモはごく弱く、ピアニッシッシモはできるだけ弱く……
 『おにいちゃんにもできないことあったんだ』
 メゾピアノのささやきに振り向く。安心したように呟いた恵の顔には嬉しさを噛み殺すような笑みが浮かんでいた。
 『誤解するな恵、僕はピアノが弾けないわけじゃない。僕を世間の凡人どもと一緒にするな、練習すればすぐに……』
 『でも今は弾けないんでしょ?』
 『知ってるか恵、子犬のワルツの作曲者ショパンの本名はフレデリック・フランソワ・ショパン、1810年にポーランドで生まれた。ロマン派を代表する作曲家で39年の短い生涯のほとんどをピアノ曲の作曲に捧げ、その旋律の美しさから「ピアノの詩人」と呼ばれている。ほかにもワルツ第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲」やワルツ第2番変イ長調Op.34-1などの代表作が……』
 『弾けないんだね』
 恵は僕の話を聞いてないようだ。先刻までの落胆ぶりが嘘のように快活な様子でふたたびピアノを弾き始めた恵、肩にたらしたおさげを元気に振りながらはずむような口調で言う。
 『おにいちゃんにもできないことがあってよかった』
 できないんじゃない、今までやろうとしてこなかっただけだ。天才に不可能はない。
 心の中で反駁したが、はにかむように笑った恵に反論する気力も失せる。でも、恵の笑顔を見ているうちにどうでもよかった。恵の考えていることはよくわからないが、僕にもできないことがあると知った恵が安心感を得られるならそれに越したことはない。

 恵が嬉しいなら僕も嬉しい。
 恵が喜ぶなら僕も喜ぶ。
 僕には恵しかいないのだから、恵がしあわせなら僕もしあわせだ。

 この上なく充足した気持ちで恵の演奏に耳傾けていた僕は、リラックスしすぎたせいで足音の接近に反応するのが遅れた。廊下を蹴るような勢いで近づいてきた苛立たしげな足音が僕たちがいる部屋の前に到達し、乱暴にドアを開け放つ。
 ―『静かにしろ!』―
 恵の演奏をぶち壊しにした無粋きわまる張本人の正体は、認めたくはないが……僕の父親だった。
 『!』 
 恵がびくりとする。鍵盤においた手が硬直する。恵の演奏を妨害した男は足音荒く部屋の中に踏み入ると、威圧的な歩幅でこちらへと接近してきた。恵を庇うように位置を移動した僕は、不機嫌も絶頂の男と面と向き合う形となる。
 虐げられた小動物の目をした恵が僕の背に隠れて男を盗み見る。男は憎々しげにピアノを一瞥すると、ついで僕の肩越しに恵を睨みつける。
 『私は今、次の学界で発表する資料を整理しているところなんだ。雑音が侵入してくると集中力が乱れる。演奏はやめなさい』

 「雑音」。
 この男はたしかにそう言った。吐き捨てるように、軽蔑するように。

 『……………』
 恵の目にみるみる大粒の涙が盛り上がる。僕の背中のシャツを握り締めてうつむいた恵に憐憫の情をもよおすでもなく、僕の顔へと目を転じた男が感情のこもらぬ声で告げる。
 『直、お前はどうしてここにいる?お前に頼んでいた資料の収集は終わったのか』
 『とっくに終わらせて貴方の机の上に置いておきましたよ』
 『そうか……お前は仕事が早くて助かる。カナダの研究室から届いた論文には目を通しておいたか?』
 『いえ、まだ。モンゴロイドの遺伝的近縁性についての研究論文ですよね。幾つか疑問点を挙げておいたから後でもう一度まとめなおして、カナダの大学にメールします』
 『頼んだぞ』
 満足げに首肯した男が最後にちらりと娘を一瞥し、苦渋と揶揄が等分に滲んだ口調で独りごちる。
 『おなじ兄妹でどうしてこうも違うんだろうな』
 『…………』
 僕のシャツを掴む手に握力がこめられるのがわかる。指が軋むほどにシャツを握り締め、僕の肩へと顔を埋めた恵からかすかな震えが伝わってきて、それまで黙って聞き流していた僕の理性は瞬間的に蒸発した。
 体ごと男へと向き直った僕は、頬を皮肉げに歪めて挑発的な笑みを形作る。
 『当たり前じゃないですか。僕は貴方がたにそう「作られた」んだから』
 痛烈な皮肉を投げつけられても男は動じない。そればかりか、僕の言うことが最もだとばかり寛容な笑みを湛えてみせる。
 『私たちの設計図に狂いはなかったようだな』
 物分りのいい慈父の演技にでも酔っているのだろうか、この俗物は。
 興醒めした僕に背を向けて部屋をでてゆく男に白けた一瞥をくれ、恵へと向き直る。ドアが閉まる音を背中で聞きながら、恵は依然僕のシャツを握り締めていた。静脈が浮き上がるほどに力がこめられた手を見下ろし、恵の様子がおかしいことに気付く。
 『恵……?』
 『ずるい』
 僕の肩に顔をうつむけた恵が、聞き取りにくい、陰にこもった声で呟く。恵の言葉を一語一句聞き逃すことなく拾い上げようと、彼女の頬に頬を近づける。頬に生えた産毛の感触がくすぐったい。
 恵の口元へと耳を近づけた僕に聞こえてのは、吐息に紛れて消えそうな震え声。
 『おにいちゃんは「てんさい」なんだから、恵よりよくできてあたりまえじゃない』
 返す言葉がなかった。
 恵をかばおうとしたつもりが逆に恵を傷つけてしまったらしい僕は、救いようなく愚かな自分を噛み締めて暗澹たる気持ちになる。恵は僕のシャツを掴んだまま、目にためた涙がこぼれないようけなげに唇を食いしばっている。このぶんでは表面張力の均衡が弾けて涙が頬を伝うまで二秒とかからないだろう。
 妹を泣かせたら兄として失格だ。
 人間失格なら別にかまわないが、恵の兄たる自分に失格の烙印をおされるのはプライドが許さない。
 数瞬の逡巡の末に決断した僕は、顔をあげてピアノと向き合う。我ながらぎこちない手つきで左右の鍵盤に手をおき、膝に広げた楽譜と見比べる。

 深呼吸。そして、不協和音。

 『!?』
 おもわず両手で耳を塞いだ恵が、驚きと狼狽を全面におしだして僕を凝視する。びっくりしたように目を見張った恵の存在を背中越しに意識しつつ、僕は衝動が赴くままに手を動かした。―早い話が思いつくまま、無茶苦茶に弾いた。事実に即して言えば無茶苦茶にしか弾けなかったというのが正解だ。楽譜と鍵盤を見比べながらなんとか恵が先刻弾いていた「子犬のワルツ」を再現しようと最善を尽くしたが、とうとう無理だった。
 音楽記号が読めてもピアノが弾けるとは限らない。
 認めたくはないが、自分で体現してしまった事実なら真摯に受け止めざるを得ないだろう。
 『恵、ここだけの話だが』 
 大きく息を吐いて鍵盤から手を退けた僕は、膝の上の楽譜をトントンと整理してから恵に返す。反射的に楽譜を受け取った恵は、瞬きするのも忘れて僕の顔を見つめている。恵に楽譜を手渡した僕は、喉の奥にこみあげてくる苦汁を飲み下そうと努力しながら口を開く。
 『僕がなんでもできるというのは大きな勘違いだ。実は僕はピアノが弾けない』
 それを聞いた恵はじっと僕の顔の中心を見つめていたが、やがて白黒の鍵盤をさらしたままのピアノへと目を転じる。胸に楽譜を抱いた恵は何か言いたげにピアノを見つめていたが、改めて僕へと向き直ると、とっておきの秘密を打ち明けられたとでもいうように優越感に満ちた笑みを昇らせる。
 恵の笑顔を前にすると、僕の口はごく自然に動いた。
 『恵はピアノが弾けてすごいな』
 心からの賞賛だった。たとえそれが妹でも、僕が心から他人を賞賛するのは生まれて初めてだった。ピアノの正面に楽譜をおいた恵が背筋を伸ばして椅子に座りなおし、ふたたび鍵盤と向き合う。そのどこまでも一途で真剣なまなざしに圧倒される。すうと深呼吸し、最初の一音を押しこむ。耳に心地よい音の連なりに身を委ねながら、僕はこの時がずっと続けばいいのにと思っていた。
 正直な所恵の演奏は稚拙だったが、僕はどんな高尚な天才が弾くピアノよりも恵の弾く曲が好きだった。
 
 恵のピアノが聞けなくなった今でも、それは変わらない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060526223643 | 編集

  目覚めると視界が歪んでいた。
 水面下から見上げた世界のように歪み軋んだ事物の輪郭に眩暈をおぼえながら、身に染み付いた習性で無意識に枕元を探る。求めた感触が得られず不審げに手をひっこめた僕は、そこで初めて痛恨の失態を演じたことに気付く。
 
 眼鏡は壊れていたんだ。

 眼鏡の修理をリョウに頼んでから今日で三日が経つ。それなのに長年刷り込まれた習性とはおそろしいもので、覚醒の浅い僕は全く無意識に眼鏡を求めて枕元を探っていたのだ。ぶざまな自分を呪いつつ、背凭れのパイプを握り締めて片足を下ろす。ひたり、コンクリ剥き出しの冷ややかな床が素足に吸い付く不快な感触。ゴキブリやネズミが走り回る床にはどこからか漏れてきた汚水の路が引かれ、お世辞にも清潔とは言い難い。即座に足をどけたくなるのを自制しながらもう片方の足を降ろし、立つ。頭の芯にはまだ乳白色の靄がまとわりついていた。

 なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。夢の中で懐かしい音を聴いた気がする。

 頭の底に沈殿した夢の残滓をかぶりを振って散らし、洗面台へと向かう。夢とは日頃抑圧している願望が無意識下で昇華したものだと心理学の本で読んだ。それならば僕が見た夢は、僕が今最も欲しているものが虚構の世界で仮初の像を結んだ姿なのだろう。
 足をひきずるように洗面台に辿り着き、蛇口を捻る。勢いよく迸った水流をてのひらですくい、顔を洗う。頬が水を弾く感触に背筋が伸びる。洗顔を終えた僕はタオルをさがして振り向く。
 僕のベッドの上、枕元に放置されている手ぬぐいが目にとまる。
 ベッドに取って返した僕は枕元に投げ置かれていた手ぬぐいを手にとると、できるだけ汚れの少ない部分を表面にして念入りに顔を拭いた。三日前にサムライから借り受けた手ぬぐいだ。正直、この手ぬぐいのおかげで随分と助かっている。サムライから伝授された方法で手首を固定すれば、ヒビの入った薬指を動かさずともなんとか作業が続行できる。砂漠での強制労働は容赦なく人体の水分を蒸発させるが、要領さえ掴んでしまえば初日ほど苦ではない。
 手ぬぐいで顔を拭き終えた僕はようやく人心地ついてあたりを見回す。無表情なコンクリ壁を晒した四囲から隣のベッドへと視線を転じる。
 サムライは不在だった。
 どこへ行ったのだろう、といぶかしみはしなかった。僕が起床する時刻には決まってサムライは房を留守にしている。不在の理由が気にならないといえば嘘になるが、本人に直接聞くのはためらわれた。サムライは僕の観察対象だが、僕が彼に興味を持っていることを本人に気付かれたくはない。サムライが僕の観察対象であることは僕と彼が共同生活を続けている限り本人には伏せなければならないのだ。
 鉄扉が開き、サムライが戻ってきた。
 無造作に房へと足を踏み入れたサムライが手挟んでいるのは一振りの木刀だ。彼がベッドの下に秘匿している年季の入った木刀は今この瞬間も手入れのよさを誇るように艶光りし、コンクリ床に一条の影を刻んでいる。
 「起きたのか」
 「今な」
 「そうか」
 サムライとの会話、終了。
 彼と同房にいれられて三日になるが、僕とサムライはごくわずかしか会話を交わしてない。事実、ほんの二・三言の単語の応酬でなにもかもが済んでしまうのだ。サムライは本当に寡黙な男だ。護送中のジープで僕と一緒になったダイスケのように低脳丸出しの会話をしかけてこないだけ遥かにマシではあるが。
 端正な所作で房の床に座したサムライが懐から経典をとりだし、膝の上に広げる。
 ほら、始まるぞ。
 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色……」
 連綿と流れ始めた読経の声に気分が滅入る。うんざりした色を隠そうともせず傍らに突っ立ってる僕には一瞥もくれず、経典に目を落としたサムライはひどく真面目くさって般若心経を唱え始める。白州の茣蓙の上で切腹に臨む武士のように鬼気迫る真剣味をおびたサムライの横顔に気圧された僕は、このまま立っていても間抜けさを増長するだけだと気付いてベッドに腰をおろす。 
 「受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識」
 読経している間もサムライの顔筋は必要最低限しか動かなかった。僕だって人のことを言えた義理じゃないが、なんと表情に乏しい男だろう。陰にこもった声が独特の抑揚をつけて房の大気に溶けてゆくのをすることもなく傍観していた僕は、ふとサムライに声をかける。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「君は仏教徒なのか?」
 読経を止めたサムライが怪訝そうにこちらを向く。サムライの注視を受けた僕は淡々と疑問を述べる。
 「僕が東京プリズンに入所してからというもの、君は毎朝毎晩欠かさず般若心境を唱え続けている。そんなに熱心な仏教徒なのか?宗派はなんだ」
 「いや」
 朝の儀式を滞りなく終えたサムライが手早く経典を畳み、サッと膝を払って立ち上がる。端正な所作で立ち上がったサムライは体ごと僕に向き直ると、ひどく格式張った実直な口調で答える。
 「俺はとくに仏教を信仰しているわけではない。実家は浄土真宗だったが俺個人には関係ない」
 「じゃあなんで毎朝毎晩般若心経を唱えるんだ?」
 自分でも口調が粘着質になるのがわかる。自分が苛立ってる原因もよくわかる。僕と相対したサムライの鉄板の如き無表情を見ていると、理性では御しがたい反発が沸々とこみあげてくるのだ。
 ベッドに腰掛けた僕は挑発的な角度に顎を傾げ、皮肉げな笑みを塗った顔でサムライを仰ぐ。
 「まさかとは思うが、それで罪滅ぼしをしてるつもりか?」
 サムライの表情に変化はなかった。
 経典をしまった懐を片手でおさえ、無言で僕を見返している。その瞳は明鏡止水の四字熟語を体現するが如く深沈と静まり、清濁併せ呑んだあるがままの現実をまるごと映しこんでいる。
 もしサムライが自らの手で葬り去った人間のために般若心経を唱えていたのなら、僕は彼に対する興味を失ったかもしれない。僕はそんな当たり前の回答に興味はない。もしサムライが自分の犯した罪を心底から悔い、自分が殺めた人間の冥福を祈る名目で般若心経を唱えているのなら「見苦しい偽善はやめろ」とでも吐き捨てていたかもしれない。
 いかにサムライが罪を悔いて死者の成仏を祈ったところで自分のしたことには取り返しがつかないのだから、読経も写経も全部無意味だ。そんなのは所詮自分の罪悪感を紛らわすためのみじめたらしい自慰行為にほかならない。
 「………罪滅ぼしか」
 間をおいて僕の言葉を反駁したサムライの顔には、表情の片鱗すら浮かんでこなかった。その目は凪の深淵のように寂と静まり返り、たやすく近寄りがたいものを感じさせた。
 「鍵屋崎」
 静かに名を呼ばれ、顔をあげる。サムライは感情の読めない目で僕を見返し、淡々と言う。
 「滅ぼせる罪などこの世にありはしない。たとえ俺が頭を剃って仏門に入ったところで、罪は夢うつつの境を越えて俺にまとわりついてくる。いいか」
 そこで一呼吸おき、サムライはひたと僕を直視する。
 「償える罪などこの世にありはしない。たとえ俺が般若心経を百万遍唱えたところで罪が浄化されるわけがない。それよりはむしろ、俺は……自分の犯した罪の核を骨の髄にまで刻みこむために般若心経を唱えているのだ。償うことはできずとも、罪と一生涯寄り添って心中することはできるからな」
 「…………」
 僕は口を開け、また閉じた。サムライと対峙しているうちに、刃物のように尖った全身から放たれる尋常ならざる威圧感に呑まれてしまったようだ。むなしく口を噤んだ僕を顧みることなく、ベッドの下へと木刀を収納したサムライが虚空に目を馳せる。
 「くる」
 なにがくるのかはわかっていた。
 凄まじいベルが鳴り響いた。
 「朝餉の刻限だ」
 方向転換したサムライがいつなんどきも乱れることない歩幅で鉄扉に歩み寄り、ノブを握る。その背に続いて立ち上がった僕は、サムライの言葉になにひとつ反論できなかった自分にひそかに絶望していた。
 沈んだ面持ちの僕を背にしたサムライは、錆びたノブを握ったまま天井と平行に伸びる廊下を見回した。早くも廊下は人でごった返していた。朝食開始のベルを聞いて一斉に房からとびだしてきた囚人たちが白と黒の濁流となり、同一方向めざして怒涛の勢いで移動してゆく。絶えず流動する囚人の列にまざり、慣れた様子で食堂へ向かうサムライ。
 僕もはやく食堂へ行かなければ、席を確保することもできない。最悪、朝食にもありつけないだろう。
 サムライの背を追って房からよろばいだした僕の鼻面が、なにか、固い物に激突する。
 これは……人間の後頭部だ。
 「なにすんだよウスノロ!!」
 頭上に浴びせられる罵声に言葉を返す暇もなく、肩を小突かれて後ろによろめく。その衝撃で、今度は真後ろの人物と接触。「頭のうしろに目ん玉つけとけ!」という不条理きわまりない罵倒とともに肩を殴られ、そばの壁に激突する。
 まったく、ここの連中ときたら程度の低い悪態しかつけない野蛮人ばかりだ。 
 壁に手をついて上体を起こした僕は、濁流の如き勢いでうねる雑踏に目を凝らす。囚人たちが着ている白黒格子縞のシャツが歪み、溶け合い、シマウマの大群が砂埃を蹴立てて大移動しているサバンナの幻がぼんやり浮上してくる。
 手の甲で目を擦り、瞬き。
 状況が改善される気配はない。焦点は依然ぼやけたまま、シマウマの個体数はますます増えてゆくばかり。ウマ目・ウマ科シマウマの個体識別を諦めた僕は、肩で壁を擦るようにして一歩ずつ歩き出す。遠近法の狂った天井が今にも落ちてくるんじゃないかという錯覚にとらわれつつ、注意深く歩を運んでいた僕の前にひょろ高い影がそびえる。
 僕の進行方向に立っていたのは、周囲の囚人から頭ひとつ分抜けたサムライだった。
 「……なんだ?僕は食堂に行く途中なんだ、そこをどいてくれ」
 「―鍵屋崎。忠告しておくが、眼鏡をしてない状態のお前が食堂に辿り着く頃には朝飯はあらかた食い尽くされ、米一粒だって残っている保証はないぞ」
 「忠告には感謝する。だからどけ」
 僕の進行方向に立ったサムライは相変わらず感情の読めない目でぼくを見下ろしていたが、やがて、突拍子もないことを命じる。
 「俺の背中を掴め」 
 言うが早いかこちらに背を向けたサムライをしげしげと観察し、僕は一つの結論に達する。
 この場合は無視だ、無視。
 サムライの脇を足早に素通りしようとした僕だが、サムライを追い越して二歩もいかないうちに前を横切った囚人を接触しかけ、あとじさった拍子にバランスを崩して蹴つまずく。あわや後ろ向きに転倒しかけた僕の片肘を掴んで支え起こしたのは、存在感を消して背後に控えていたサムライだった。
 ほとんど空気と同化していたサムライが肘を掴んだまま僕を見下ろし、口を開くのも煩わしげに言葉を追加する。
 「イエローワークの作業はきつい。朝の栄養補給を怠れば倒れても仕方ない。お前が作業中に倒れても俺は関与しないが、今この場で転んで頭を割られてはさすがに気が咎める」
 「なれなれしくさわるな」
 サムライの肘を力づくで振り払い、正面から睨みつける。サムライは動じない。同房の住人が廊下で転倒して頭を割らないかと案じているかどうかも定かではない鉄壁の無表情だ。サムライに掴まれた肘を囚人服の脇腹にこすりつけて拭いながら逡巡する。他人にさわられるのはごめんだ、吐き気がする。しかしサムライは「手をつなげ」と言ってるわけじゃない。掴むのは背中だ、シャツだ。
 背に腹は変えられない。
 苦渋の決断を下した僕はサムライの背後に回りこむと、ためらいがちに彼の背中へと手を伸ばす。葛藤せめぎあう僕の胸中を汲んだわけでもないだろうが、サムライは長い間こちらを向こうとしなかった。サムライの背中に触れる寸前、土壇場で決心が鈍る。
 他人に同情されるのはごめんだ。他人の手を借りるのもごめんだ。
 他人の助けなどなくても僕にはこの頭脳がある。世間一般の凡人ともとは一線を画したこの頭脳さえあれば、どんな過酷な窮地も切り抜けられるはずだ。そうだ、こんな得体の知れない男に頼らなくても食堂に辿り着くことくらい造作もな……
 背中に衝撃。
 「ボケッと突っ立ってんじゃねえ、ボーリングのピンかお前は!ガーターさせるぞ!」
 後ろからやってきた囚人におもいきりぶつかられ、前方へと泳いだ手が縋るものをさがしてサムライのシャツを掴む。意に反してサムライのシャツを握り締めた僕は苦々しげにうつむく。
 これは事故だ、過失だ。僕の意志じゃない。
 サムライが歩き出す。一度握り締めたシャツをいまさら手放すのもわざとらしく、不承不承僕も歩き出す。 
 「―今だけだからな」
 なにが今だけなんだ、わけがわからない。文脈の陥穽に嵌まった僕が気まずく押し黙ったのを背に感じ、サムライが重々しく答える。
 「心得た」


 食堂は活況を呈していた。
 全速力で食堂になだれこんだ囚人たちが床や卓上で乱闘を演じ、腕づく力づくで先客をねじ伏せてゆく。席の確保に出遅れ、トレイを抱えて徘徊している囚人も一人や二人ではない。せわしないにも程がある朝の食事風景だ。うんざりしながらカウンターの列に並び、変わりばえのしないメニューをトレイに受け取る。今朝の献立はワカメの味噌汁とかぶの漬物、白米と焼き魚という純和食。人種の坩堝たる東京プリズンの食堂では、洋食と和食が交互に巡ってくる。隔日で交替するメニューだが、味気なさでは同格だ。どこの給食センターで作られているのか定かではないが、東京プリズンにおける日々の献立は質素倹約を旨とした粗末なもので、育ち盛りの少年らが心ゆくまで満足いくものとはとても言えない。
 それでも空腹を満たすため、半日に及ぶ強制労働に備えて栄養をたくわえるため、食堂におしかけた囚人たちは押し合いへし合いの大騒動の末にカウンターの前列に割りこみ、給仕の看守を脅してアルミの椀に山盛りの白米をよそらせている。野蛮な振る舞いが好かない僕とサムライは大人しく列の最後尾に並び、順番どおりに列が進むのを待った。結果、僕とサムライが前後してトレイを受け取ってカウンターを辞した頃には食堂の席は八割方埋まっていた。
 「…………席がないな」
 「見ればわかることを口にだすな、自分の頭の悪さを露呈することになるぞ」
 辛辣に切りかえしたが、サムライが遅れた責任の一端は僕にあるのだ。僕の歩調にあわせたせいで食堂に到着するのが遅れたサムライは、胸の前にトレイを掲げたまま、長方形のテーブルが等間隔に配置された食堂を漫然と見回した。
 同じくトレイを抱えてサムライの隣に突っ立っていた僕の肘にだれかがぶつかる。
 
 あっというまのことだった。

 接触の衝撃でトレイに乗っていた椀が傾ぎ、宙で中身をぶちまけて床へと転げ落ちた。床に落下したアルミ皿が甲高い騒音を奏で、周囲のテーブルに着席していた囚人たちと真横のサムライの注意を僕へと向ける。トレイの半面積を占めていたアルミ皿が床にひっくりかえり、ワカメを浮かべた味噌汁が靴裏を濡らしてゆくさまを呆然と眺めていた僕の耳に、だれかがささやく。
 「わっりい、当たっちまった。わざとじゃねえんだけどよー」
 わざととしか思えない口調で弁明したのは、まったく面識のない少年だった。カウンターで僕の後ろに並んでいたらしい少年は、自分のトレイを持ったままへらへらと笑っていた。しまりのない笑顔の少年はご丁寧に床に落ちたアルミ皿を蹴飛ばすと、床一面にこぼれた味噌汁の飛沫をはね散らかして、連れが陣取っているらしきテーブルへと向かう。
 「もったいねえから四つん這いになって舐めたらどうだ?犬畜生にも劣る親殺しにはお似合いの格好だろうが」
 反論する気力はなかった。
 大股に去ってゆく少年を一瞥、僕へと目を転じたサムライが平板な口調で感想を述べる。
 「災難だったな」
 「…………この刑務所の人間は看守も囚人も愚劣な低脳揃いだな。言動の全てがあまりにも短絡的だ。今の行動に至った心理的背景も容易に推察できる。少しは複雑な過程を踏んで思考を成立させたらどうだ、それが霊長類ヒト科ホモサピエンスの特権かつ条件だろう?」
 この三日で、僕が両親を刺殺した一件は東棟ほぼすべての人間にとって周知の事実となった。
 最も、彼らが知っているのは「僕が両親を殺した」というその一点のみでそれに至る動機はおろか、僕がどういう家庭環境で育ったかも知らない連中ばかりだろう。「親殺し」の事実が先行して出回っている現状に、むしろ僕は感謝しなければならない。
 僕が知られたくないのは白日の下に曝された事実ではなく、その裏にひそむ真実だ。
 僕が親殺しだと知った連中の中には、今の少年のように露骨ないやがらせをしかけてくる者もいる。今や日常の一部となったさまざまないやらがせに、いちいち腹を立てていてもきりがない。
 味噌汁のこぼれたトレイを抱えて立ち尽くして僕のもとに落ち着きのない足音が近づいてくる。聞いたことのある足音だ。ふと顔をあげた僕の目に映ったのは、同じジープに乗せられて東京プリズンに護送されてきたリュウホウ。
 僕の足元を浸した味噌汁とひっくり返った椀を見てすべてを察したらしいリュウホウが、おどおどと口を開く。
 「……これ、あげる」
 何?
 床から拾い上げたアルミ皿を僕のトレイに乗せ、自分の器を傾けて味噌汁を半分ほど注ぐ。味噌汁の最後の一滴を注ぎ終えたリュウホウが、何かを期待するような物欲しげな目でちらりと僕を見る。
 「…………同情してくれるのか?」
 自然、口調が皮肉げになる。リュウホウがぎくりとする。
 「ちが、ちがう……そういうわけじゃなくて……」 
 へどもど弁解したリュウホウを冷ややかに流し見、彼を迂回して食堂の真ん中へと歩みだした僕を性急な足音が追いかけてくる。振り向かなくてもわかる、追ってきたのはリュウホウだった。
 なんなんだ一体?
 辟易した僕に半身をすりよせるようにして同行し、ひどく思いつめた目でリュウホウが言う。
 「席、一緒していいかな……」
 返事を保留し、サムライの姿を求めて食堂に視線を馳せる。サムライの姿はどこにもなかった。神出鬼没のあの男は、リュウホウにまとわりつかれてる僕を捨て置いて単身席を捜しにでもいってしまったんだろう。舌打ちしたい衝動をこらえ、憔悴しきったリュウホウの顔を観察する。別れてからたった三日だというのに、リュウホウの容貌は十年の時を経たように様変わりしていた。ただし、よい変化ではなく悪い兆候だ。病的にこけた頬には頬骨の尖りが目立ち始め、血の気の失せた唇は嘔吐をこらえるように固く引き結ばれたまま。 
 トレイを支えた手はこうしている今もカタカタと震え、味噌汁の水面が微弱に漣立っている。
 いつもの僕なら一蹴したはずだ。友達扱いされるのは迷惑だと冷淡に背を向けていたはずだ。
 だが、どうしたことか―この時の僕は、リュウホウの様子にただならぬものを感じ、彼の申し出を断るタイミングを逸してしまった。
 涙で潤んだリュウホウのまなざしに、いつかの恵のまなざしが重なったためかもしれない。
 僕の沈黙を肯定と受け取ったらしいリュウホウが、食事を終えた囚人と入れ違いに席に座る。今しがた席を立った囚人と連れ立ち、リュウホウの隣の席がこれ以上ないタイミングで空く。
 仕方がない。
 ジープに同乗した縁で一方的な親近感を抱かれるのは困りものだが、席が空いたのには素直に感謝したい。直接床に座って食事するなんて冗談じゃない。仏頂面で椅子を引き、リュウホウの隣に腰掛け、箸をとる。無言で食事を開始した僕の横顔をちらちらと盗み見ながら申し訳程度に白米をつまんでいたリュウホウだが、先刻から箸が進んでいないのはだれの目にも明らかだ。
 「成人男性が一日に摂取するべきカロリーの目安は2000kcalだ」
 リュウホウが振り向く。味噌汁を啜りながら僕は続ける。
 「君の身長体重及び年齢から導き出したカロリー摂取量は一日2,550kcalだ。午前中のエネルギー源となる朝食はとくに重要だな。君がどこの部署に配属されたかは知らないが、もしイエローワークなら朝食を抜くのは命取りにもなりうる」
 イエローワークの過酷さは骨身に染みている。朝食の重要性も身をもって思い知った。
 僕の賢明な指摘にしかし、リュウホウは前より暗い顔でだまりこむ。手中の椀をトレイへと戻し、膝に手をおいてうつむいてしまったリュウホウになにげなく聞いてみる。
 「君はどこの部署に配属されたんだ?」
 「………ブラックワーク」
 箸が止まる。
 僕はさぞ不審げな顔をしていたことだろう。何故なら、リュウホウが配属された部署がまったくの初耳だったからだ。「ブラックワーク」なんて聞いたことがない。ロンの説明が正しいなら、東京プリズンに存在するのは「イエローワーク」「ブルーワーク」「レッドワーク」の三種類ではないのか?いや、待て。何かがひっかかる。
 あの時、ロンはこう言ったのではなかったか?   
 『残るひとつは、東京プリズンにいりゃそのうちわかる』
 そうだ。あの時、ロンは故意に答えなかったのだ。その存在を知っていながら、意図的に説明を省いたのだ。 

 残る一つ………ブラックワークとはなんだ?


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060525224205 | 編集

 「リュウホウ、君に聞きたいことがある」
 完全に箸を止めてうつむいてしまったリュウホウへと声をかける。リュウホウがびくりと顔をあげる。
 「ブラックワークとはなんだ?」
 わからないことがあると気持ちが悪い。ロンが説明を伏せた理由も気になる。今後の生活に関わってくることなら知っておいて損はないはずだ。これでも僕はわからないことは率直に聞くよう心がけているのだ、天才は時に謙虚にならなければならない。
 しかし僕の直截な質問に、リュウホウは劇的な変化で応じた。
 ズボンの膝を握り締めた手が痙攣の発作のように震えだし、リュウホウの顔から急速に血の気がひいてゆく。青ざめた顔のリュウホウは僕の視線を避けるように足元の床を凝視していたが、やがて、色の失せた唇の隙間からかすれた声を絞り出す。
 「ブ、ブラックワークは………」
 リュウホウの呼吸が浅く不規則になる。呼吸のリズムで浮沈する肩、静脈が透けた貧弱な手が膝に爪痕を残すほど強くズボンに食いこむ。今にも発狂しかねない危うげな様子で椅子に身を沈めたリュウホウが、真っ赤に充血した目を苦痛に歪める。
 「い、今は食事中だし……ここで話すようなことじゃない……」
 荒い吐息の狭間からこぼれたのは、語尾が萎えた拒絶の言葉。安田に同行を命じられるがまま唯々諾々と従っていた入所初日のリュウホウを知る僕にはにわかに信じ難いことだが、食事を放棄したリュウホウは今や全身で「ブラックワーク」の内容説明を拒んでいた。
 戦慄に身を強張らせ、硬直した手を膝におき、不可視の負荷に耐えるように背を丸めたリュウホウの姿を視界から排除し、僕は食事を続ける。薬指を負傷したせいで箸が握りにくい。通常の持ち方ではヒビの入った薬指に響くため、箸の持ち方をおぼえたばかりの幼児のような不恰好な按配になってしまう。鷲掴みに近いかたちで不器用に箸を傾け、左手に持った椀から白米を口へと運ぶ。試行錯誤しながら白米をつまんでいる僕の方をちらちらと窺い、リュウホウが言葉を絞り出す。
 「き、君はどこの担当?」
 「イエローワーク」
 食事中に会話するのは行儀が悪い。それでなくても、以前の僕には食事中に私語を交わす習慣がなかった。僕の家ではひとりで食事をとるのが日常だった。東京プリズンに収監された今も可能ならほかに人目のない房で食事をとりたいのが本音だが、そんな自己中心的な振る舞いは檻の中では許可されない。
 集団生活とはなんて不合理なものだろう。
 僕の配属先を聞いたリュウホウの顔に同情らしき感情の波紋が浮かぶ。彼も知っているのだろう、イエローワークの実態がどれほど過酷なものか。珍しくどもることなく、リュウホウが感慨深げに呟く。
 「たいへんだね……」
 「そうだな」
 興味なさそうに僕は呟き、不自由な右手で焼き魚を正確に四等分してゆく。包帯を巻いた薬指に障らぬよう、注意深く箸を操っている僕の顔を怯えた目で窺い、リュウホウが不思議そうに聞く。
 「たいへんじゃないの?」
 「君の耳は節穴か?ほんの三秒前に『そうだ』と僕は肯定しただろう」
 同じことを反復して聞き返すという時間の浪費としか思えない愚行を皮肉れば、リュウホウは「ご、ごめん」と舌を噛みかねない慌てようで謝罪して申し訳なさそうにうつむいてしまった。そして、弁解がましい口調で付け足す。
 「でも、あんまりたいへんそうに聞こえなかったから……」
 僕の言い方に問題がある、と迂遠に暗喩しているかのような言い草だ。自分の理解力が乏しいのを僕に責任転嫁しないでほしい。自分から誘ったくせに僕と目を合わせるのを避けている消極的なリュウホウは、それでも吶々と言葉を続ける。
 「仕事のことだけじゃなく、ほら、ほかの囚人のこととか……さっきみたいなこと、いっぱいあるんじゃないかな、って」
 「ああ」
 リュウホウが示唆しているのは先刻、僕が後ろに並んでいた囚人に肘をぶつけられて味噌汁の器を床にぶちまけた一件だろう。リュウホウは僕が東京プリズンに収監された理由を知っている。ここに連れてこられる途中のジープの上で看守から聞かされたのだ。一見人畜無害な容姿をしているが、リュウホウだって放火八十件の凶悪罪で東京プリズンに収監された前歴の持ち主だ。
 一つ屋根の下で暮らした身内を殺害した者が東京プリズンでどのように扱われるかの知識は当然持ち合わせているだろう。
 同類相憐れむようなリュウホウのまなざしが鬱陶しかったので、トレイに箸をおいて食事を中断し、彼のほうへと向き直る。
 小さく息を吐いた僕は、なにか誤解しているらしいリュウホウに嘘偽りない真理を説いてやる。
 「馬鹿を相手にすると馬鹿が伝染る。具体的にはシナプスの枝葉が消滅する。語彙に乏しい悪態も下品で下劣なスラングもすぐに手をだし足をだす野蛮な振る舞いの数々もすべては知能指数70以下、猿以上人未満の低脳の特徴だ。知能指数180の僕が彼らみたいな低脳相手にムキになるのは大学生に1+1を解かせるような愚行だと思わないか?」
 檻の中のチンパンジーに唾を吐かれても観光客は「不運な事故だ」と諦めがつく。僕の身に現在進行形で起きていることも要はそれと同じことだ。唯一にして最大の相違点は、観察者を自認する僕も同じ檻の中に入っているという境遇の程度の差か。 
 淡々とした講義口調で説明を終えた僕に相対したリュウホウの顔が空白になり、それか二呼吸おいてなんとも形容しがたい崩れ方をする。感心したようなあきれたような、そして、ほんのわずかばかりの羨望が含有された複雑なまなざしを僕へと向け、胃酸とともに染み出してきた苦汁を噛み締めるようにリュウホウが呟く。
 「きみは強いんだね」
 どのような思考過程を踏んでそんな解が導き出されたのか謎だ。
 「………不可解だな。僕は人間と猿の間に言語による意思疎通は成立しないという文化人類学の基本原則を述べただけだぞ?」
 「うん」
 理解しているのかいないのか、曖昧に首肯したリュウホウがおざなりに箸をとる。緩慢な顎の上下運動、必要以上の時間をかけて咀嚼された白米が喉を通過して食道をすべりおちてゆく様子を眺め、味噌汁を飲み干した僕は四等分した焼き魚を口へと運ぶ。
 「ぼくはだめだ」
 唐突に、リュウホウが呟く。まったく脂の乗ってない、苦味ばかりが勝った不味い焼き魚を半ばまで口にいれかけていた僕は、その間抜けな姿で一時停止を余儀なくされる。とりあえず口腔の内容物を飲み下すのを優先し、右手に箸を預けてリュウホウを振り仰ぐ。
 リュウホウはこの世の終わりのような顔で自分の膝を見つめていた。
 「ぼくはもう、やっていけそうにない」
 どこまでも消極的で自滅的な台詞に、しかし、僕はとっさに言葉を返せなかった。先刻と比べてリュウホウの口調はむしろ落ち着いていた。まるで、嵐の前の静けさ。許容量を超えた激情が理性の堰を決壊させ、今しもリュウホウを飲み込もうとしているかのような不吉な冷静沈着さ。リュウホウの目は焦点があっていない。
 これは、精神から壊死していく過程の人間の目だ。
 救いがたい絶望にむしばまれたリュウホウの目の暗さに引き込まれそうな錯覚をおぼえ、その負の磁力に抵抗するかのように目を背ける。薬指が痛むのを承知で箸を握る手に力をこめ、吐き捨てるように僕は言う。
 「まだ三日だぞ」
 リュウホウがこちらを向く。目には半透明の皮膜が張ったまま、相変わらず違う次元を彷徨しているかのようだ。精神と肉体が半ば遊離したリュウホウの姿に胸焼けによく似た不快感を覚え、三分の一ほど減った白米を前に急激に食欲が失せてゆく。
 「君の懲役は十六年だろう?三日の段階で弱音を吐いてどうする、まだまだ先は長いぞ」
 懲役八十年の僕が懲役十六年のリュウホウを説教する奇妙な絵面は、客観的視点で俯瞰すればさぞかし諧謔味のある喜劇に分類されただろう。しかし、当事者の僕にとっては笑い事ではない。僕より懲役は短いが僕より精神が惰弱なリュウホウにとっても同様。
 リュウホウはもうなにも答えなかった。無言でうつむいてしまった横顔からは完全に表情が消失していた。力尽きたようにうなだれたリュウホウにいい加減嫌気がさし、トレイを持ち上げた僕は荒々しく席を立つ。そのままリュウホウには一瞥もくれずにカウンターに向かおうとした僕の背を、消え入るような声が追いかけてくる。
 「………ごめん」
 椅子に身を縮こめたリュウホウが、前髪に隠れた目でじっとトレイを見下ろしている。トレイの食事にはほとんど手をつけてないようだ。ブラックワークの仕事内容は知らないが、ほとんど朝食を摂取せずに一日が保つのだろうか?リュウホウから視線を転じ、手中のトレイを見下ろす。焼き魚と味噌汁は無理矢理にでも胃につめこんだが、アルミ椀にはまだ三分の一ほど白米が残っている。リュウホウの話を聞いていると口にいれた白米が砂を噛むように味気なくなり、口内で分泌されたアミノ酸を主成分とする唾液が穀類のデンプンを溶かしてゆく時間までひどく耐え難くなる。

 まったく、こんな悲観的な人間と隣り合わせで食事するなんて冗談じゃない。
 僕はひとりでゆっくりと食事をとりたいのだ。

 足音荒くリュウホウのそばに取って返した僕は、手つかずで放置されていた彼のトレイに食べ残しの白米を押し付ける。トレイの端に割り込んできたアルミ椀を見て、はじかれるようにリュウホウが顔をあげる。都合のよい勘違いを防ぐため、物問いたげなまなざしのリュウホウが口を開く前に先手を打つ。
 「別に君がどうなろうが知ったことじゃないし興味もないが、朝食は残さず摂取しておいたほうがいいぞ。これは僕自身の体験談だが、強制労働中に倒れても医務室送りになる確率は低い。最悪そのまま放置か、体力を消耗して抵抗できないほど弱ったところに目をつけられてリンチされる恐れがある。仕事場で倒れてイエローワークの砂漠に埋められるのが嫌なら必要最低限のカロリーは摂取しておけ」
 淘淘とまくし立てた僕とトレイに追加されたアルミ椀とを見比べ、リュウホウがかろうじて頷く。相変わらず顔色は冴えなかったが、箸を握り直す気力は戻ったらしい。緩慢にではあるが食事に手をつけ始めたリュウホウに背を向け、今度こそ僕は歩き出す。「食べ残しを押し付けて!」という抗議はついに聞かれなかった。当たり前だ、東京プリズンの囚人はそんな贅沢な文句を吐ける立場にないのだ。特にリュウホウはあの通り貧弱な見た目と卑屈で内向的な性格が災いして、凱を代表する先住民たちのいじめの標的と化している。初日のように独りぽつねんとテーブルの隅に座っているところを大群で取り囲まれて食器を強奪される繰り返しで、今日までろくに食事にありつけなかったはずだ。
 別に彼の境遇に同情したわけではない。凱やその他の囚人たちによる陰険ないやがらせに日々曝されているのは僕も同じだ。
 僕はただ、借りを返しただけだ。別にまったくリュウホウになど興味はないし一方的な親近感を抱かれるのは辟易するが、彼が僕に味噌汁を分け与えたのは事実だし、等価交換に食べ残しの白米を譲るのは妥当だろう。一方的に押し付けられた借りとはいえ、善意の利子がふくれあがるのは迷惑だ。「味噌汁あげたんだから友達になってくれ」とでも恩着せがましく言い寄られるのはさらに迷惑だ。

 低脳に友達扱いされるのは本当の本当に迷惑だ。

 ほとんど箸をつけてない白米をリュウホウに押し付けてカウンターへと向かった僕を「おーい」と軽薄な声が呼び止める。声の出所をさがして食堂を見回す。囚人たちで賑わった食堂の中央に見知った顔を見つける。明るい茶髪を襟足で一括りにした、おそろしく整った顔だちの青年がひらひらと手を振っている。
 レイジだ。
 「キーストア、ひとり?サムライと一緒じゃないの?」
 椅子に上体を預けたレイジが、わざと周囲に聞こえるような声で言う。レイジと僕とを往復する複数の視線、その大半は無害な好奇心故のものだが、残り三割は敵意をむきだした剣呑なものだ。レイジが陣取ったテーブルの周囲には凱の取り巻きも少なからず散らばっているのだろう。強制労働初日のように、レイジと関わったせいで凱に追いかけ回されるような事態は避けたい。
 しかし、レイジの視線と声は明らかにこの場の僕に向けられたものだ。今さら無視するのはわざとらしいしかえって聴衆の好奇心を煽ってしまう。仕方なく、僕は答える。
 「『コーンウォ―ル』を『とうもろこしの壁』と愚直に英訳する中1レベルの呼称はやめてくれ。あまりにも頭が悪すぎて眩暈がする」
 「サムライと痴話喧嘩?」
 僕の正当な抗議を聞き入れる気はないようだ。
 手庇を作ったレイジが僕の隣に不在のサムライをさがし、きょろきょろと食堂を見回す。レイジに感化されたわけではないが、食堂で別れたサムライの行方が気になり、トレイを持ったままの僕も前後左右に視線を馳せる。しかし、途中で諦めた。無個性な囚人服を着こんだ囚人が一堂に会した食堂で特定の人間を見つけだすなど、普通どれだけ視力がよくても困難だ。第一、今の僕は眼鏡をしていない。今だってレイジに声をかけられなければ気付かずに素通りしていただろう。
 「勘違いされては困る。僕とサムライは友人でもなんでもない、食堂の席まで相席する理由はないだろう?」
 「ここにくるまであんなに仲良しだったのに?」
 …………見られていたのか。
 「……あれは危急の措置だ。他に代替案がなかったからいやいや仕方なく不承不承選択したまでだ。それ以上の理由はない、下衆な勘繰りをするな」 
 「あんなにしっかりサムライのシャツを掴んでたのにねえ。迷子の三歳児が漸く再会したお母さんの背中を掴んでるみたいだったぜ」
 自堕落な姿勢で頬杖ついたレイジの隣、仏頂面で箸を握っていた人物が目にとまる。
 「ロン」
 平板な声で名を呼ばれ、苦々しげにレイジを眺めていたロンが顔を上げる。僕は直線のまなざしでレイジをとらえると、氷点下にまで冷えこんだ声で今現在のレイジに対する偽らざる評価を告げる。
 「君の隣の人物は真性の『下衆野郎』だな」
 「俺もそう思う」
 したり顔で頷いたロンと虚を衝かれて頬杖を崩したレイジに踵を返し、不毛な議論を打ち切る。背後で「ダチを裏切るなよ!」「だって事実だし。あとダチじゃねーし」という温度差のはげしいやりとりが聞こえてきたが無視する。カウンターにトレイを返却し、強制労働開始のベルが鳴り響く前に地下のバス停へと向かおうと食堂をよこぎる。
 「とった!」
 変声期の途上のしわがれ声に振り向く。僕が一つテーブルを挟んだ通路を通り過ぎようとしたまさにその瞬間、先刻と同じ席に腰掛けていたリュウホウが五・六人の囚人に取り囲まれ、僕が食べ残したアルミ椀を取り上げられていた。
 多分こうなるだろうと九割九分九厘予想していた。
 別段驚かなかった。囚人たちに小突かれて涙をためているリュウホウを哀れにも思わなかった。僕が哀れんだのはリュウホウを包囲して口々に囃し立てている連中の程度の低さだ。人の残飯を強奪して腹を満たそうなんて卑しい奴らだ。彼らの口なんて不要な器官は一刻も早く退化して消滅したほうがいい。
 なんとも嫌な後味を胃に抱えて食堂を後にした僕は、廊下にでたところで突然声をかけられる。
 「君って二種類しか表情ないね」
 「?」
 鈴を振るように朗らかな響きを宿した、陽気なボーイソプラノ。
 眼鏡が壊れてからというもの、僕は視覚にたよらず聴覚を介して個人識別をするようになった。今も不明瞭な視界より先に、声から人物を特定した。
 案の定、僕の前にいるのはリョウだった。
 「怒ってるか無表情か、そのどっちかだ。喜怒哀楽の喜と哀と楽はどこにいっちゃったわけ?」
 後ろ手に手を組んだリョウが小器用に角度を変え、不躾に僕の顔を覗きこんでくる。至近距離に突き出された顔に反射的に身を引き、感情を殺ぎ落とした口調で注意する。
 「顔をどけろ。僕はこれからバス停にいくんだ」
 進路を譲れと告げたはずだが、僕の指示にリョウが従う気配はない。それどころか囚人服の袖の上から僕の肘を掴むと、無理矢理廊下を曲がった死角へと引きずりこんでゆくではないか。リョウの手を振り払おうと身をよじりかけたが、視界が利かない今の状態ではリョウの手をはたき落としたはずみで転倒しかねない。その危険性を考慮した結果、この場はおとなしくリョウに従ったほうがいいという解答が導き出された。
 廊下の曲がり角へと僕を連れ込んだリョウは、なにやらゴソゴソとズボンのポケットを探り出す。リョウの奇行を訝しげに眺めていた僕の鼻先へ、円筒形を二つ並べた物体が突き出される。
 「はい、あがり」
 すこぶる上機嫌なリョウに促されて顔をあげた僕の手に、楕円形を二つ並べた物体が乗せられる。
 この感触は間違いない。 
 手にした物体を頭上に翳し、あらゆる角度でためつすがめつしてから、平行に伸びた弦を左右の耳殻へとひっかける。
 拭われたように視界が明瞭になった。
 「どう?」
 後ろ手に手を組んだリョウがにこにこと笑っている。その前歯が一本抜けていることまで明確にわかる。三日ぶりに明瞭な視界を取り戻した僕は、本心から賞賛の言葉を発する。
 「すごいな」
 凱に握りつぶされたフレームも不恰好な間接が増えた弦も粉微塵に割れたレンズも、すべてが完璧に修復され、元通りの姿形を取り戻していた。原型を留めなぬまでに破壊された眼鏡が完璧な姿で手元に戻ってきたことに安堵した僕は、リョウに対する評価を少しだけ改める気になった。
 その矢先だ。
 「で、そっちのほうは進んでるかな?」
 「なに?」
 「とぼけないでよ、眼鏡と引き換える代金のことだよ」
 不審げに反駁した僕を前に、リョウが唇を尖らせる。もちろん忘れていたわけではない。だが……
 「……いや。まだ何も進んでない」
 「あっちゃー」
 リョウが天を仰いで嘆く。もちろん忘れていたわけではない。ただ、放置していただけだ。実際レイジと口をきいたのでさえ、今日が三日ぶりなのだ。
 「僕言ったよね?眼鏡を直す代わりにレイジの弱味を探ってきてって、しっかりちゃっかり頼んだよね」
 「仕方ないだろ、僕とレイジはとくに親しい間柄じゃない。入所初日に彼の気まぐれでからかわれただけの希薄な関係だ。そんな人間相手にどうやって弱味を掴めばいいんだ?」
 僕の正論に怖じたふうもなく、リョウは処置なしと肩を竦めた。
 「そこは頭の使いようっしょ。メガネが戻ったメガネくん、君頭がいいんだから何かいい案考えてよ」
 「僕の頭はそんなくだらないことに使うためにあるわけじゃない」
 リョウは深いため息をつくと、わずかに鋭くなった目で僕を見つめる。
 「メガネくん、君が今やろうとしてるのはおいしいとこどりのヤリ逃げと一緒だよ。僕は約束どおり速攻メガネを直してあげたのに、肝心の君はまだなんにもやってないって言う。レイジの弱味を掴むどころか、レイジと接触してもないって言う。なにそれ?君、ハナから料金ごまかしてトンズラするつもりだったわけ」
 「そうは言ってないが、」
 「ダメだよそんなの」
 天真爛漫な子役の笑顔から腹黒い商人の笑みへと豹変したリョウが、僕の心の奥底を覗き込むようなまなざしを向けてくる。
 「東京プリズンではそんなの効かない。いいかい、これは取引なんだ。一度取引の制約を破った者がどうなるか、知りたい?」
 「………どうなるんだ?」
 不吉な胸騒ぎを感じながら聞き返す。
 「そのメガネ、裏っ返してよ~く見てごらん。弦に超小型爆弾が仕込まれてるの気付いた?」
 「!」
 ぞっとしてメガネを外した僕は、弦に仕掛けられているという超小型爆弾を判別しようと手中に目を凝らし…… 
 「うっそー」
 ………そのまま硬直した。
 「……メガネのレンズに埃が付着していた」
 囚人服の裾でメガネのレンズを拭うフリをしながら付け加えた僕を1メートル離れた壁際から眺め、笑いを堪えてリョウが続ける。
 「まあ今のは冗談だけど。僕には囚人・看守問わず何人かのパトロンがいてね、僕のおねがいならなんでも聞いてくれるんだ。メガネくんに裏切られた~って目薬さして泣きつけば、僕にぞっこんホレてる彼らがどんな極端な行動にでるかわからないよ?」
 「恐喝か」
 「脅迫とも言うね」
 壁から背を起こしたリョウがスキップするような足取りで僕の方へと歩いてくる。
 「期限はあと四日。四日後までにレイジの弱点を掴んできて」
 耳朶に吐息を絡めてリョウがささやき、鼻歌まじりの軽い足取りで廊下を去ってゆく。
 リョウの尋問から解放された僕は背骨を引き抜かれたような脱力感に襲われ、ぐったりと背面の壁にもたれる。

 あと四日。四日後に一体何があるというんだ? 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060524224341 | 編集

 その日一日は特に事件も起きず、平穏に過ぎた。

 これを平穏と表現していいのだろうか―……凱やその他の囚人に言いがかりをつけられることなく、看守の警棒を頂戴せずに一日が過ぎたのだから平穏と形容してもさしつかえないだろう。
 東京プリズンでは一日警棒で殴られることなく過ごせただけでも奇跡に近いのだ。
 朝食をおえた僕はその足で地下停留所に降り、単身バスに乗りこんでイエローワークの部署に向かった。三日前のように痴漢に遭遇することこそなかったが、バスの車内は相変わらず人口密度が高く、呼吸するのも苦しいほど人と人との間隔が狭まっていた。
 立錐の余地もないバスから降りた僕の前に広がっていたのは荒涼たる砂漠、草一本とて生えてない不毛の荒野。
 バスから降りた囚人たちを眼前に整列させ、酒焼けした濁声をはりあげて点呼をとるタジマ。直立不動の姿勢をとった囚人たちが遅滞なく返事をし、タジマに目をつけられた不運な囚人が二・三人ほど警棒の洗礼を受ける。警棒の連打を浴びた囚人が地に伏したのを顧みることなく、後ろ手に手を組んだタジマが居丈高に顎を振り点呼の終了を告げる。
 タジマの顎の一振りで蜘蛛の子を散らすように解散した囚人たちが気の合う仲間と私語を交わしつつ持ち場へ向かうのに混じり、歩度を速めて六班の持ち場へと赴く。 

 イエローワークの仕事は単調で過酷な肉体労働だ。

 僕が所属する六班の仕事は甚だ非効率的な井戸掘りだ。
 シャベルの切っ先が数十メートル地下の水脈を掘り起こすのを期待して延延穴を掘り続けるだけの単純作業。地下水脈が沸くと予測された地点を中心に班のメンバーが散り、黙々とシャベルを上下させては直径5メートルはある巨大な穴の周縁に小高い砂の砦を築いているが、半日シャベルを振り続けても一向に水が湧き出す兆候はない。
 穴の上を行き過ぎる看守は赤ペンでチェックした地図をこれみよがしに広げているが、あれはポーズだろう。僕らが額に汗して必死に捜している地下水脈の存在には捏造疑惑を挟まずにいられない。これは見渡す限り不毛の砂漠でひたすら穴を掘り続けるという、極限まで囚人の体力と精神力を搾取する新手の拷問なのだ。
 作業中、僕は一言も班のメンバーと口をきかなかった。
 無駄な会話に時間を割けばただでさえ悪い作業効率がさらに低下し、看守の叱責を浴びる羽目になる。最も、僕が配属された班の連中は誰ひとりとして僕に積極的に話しかけてこなかったし、僕の周囲の空気が私語が発生するほど和やかじゃなかったのは認めるが。
 遠巻きに僕を眺めてシャベルをふるっている囚人たちの目には、拭いがたい嫌悪感とそれを上回る露骨な好奇心が含まれていた。
 僕が両親を刺殺して東京プリズンに収監された経緯はわずか三日で班の全員に知れ渡ることになった。
 強制労働初日、イーストファームの囚人が全員集合した点呼時にタジマに暴露されたのだから今だ耳に届いてないほうが不自然だ。
 僕と同じ班の囚人たちは、作業中も僕を敬遠して決して半径1メートル以内に寄ってこようとしなかった。
 たいした警戒ぶりだ、と内心苦笑する。
 こうまであからさまに避けられると自分が不治の感染病を患った身であるかのような錯覚に襲われる。
 あれはたしか三日前だったか。バスで同乗したロンが、黄色人種の外見特徴を有した中国系の囚人にこう言われていた。

 『お前のような混血の半々にさわらたらバイキンが伝染る。あとで消毒しとかないと、俺まで台湾人の血の毒素に感染しちまう』

 ひどく非科学的な、何の根拠もない侮蔑の言葉だ。
 肌に触れただけで血の毒素が感染するわけもなければ、人殺しの遺伝子が感染するわけもない。台湾系と中国系の確執は三日前の凱の一件でいやというほど思い知らされたが、外ではこれほど極端に対立が表面化することもなかった。
 おそらく刑務所という閉塞的な環境がそうさせているのだろう。
 台湾系と中国系が厳然と住み分かれている外では、死人が二桁に上るほどの大規模な争いは年に一度や二度しか起きない。
 戦争の記憶生々しい両者の間には十五年を経た今でもさまざまな禍根が残されているのだろう。ロンは僕より年下のはずだ。
 台中戦争発生時にはまだ産まれてもなかった彼が長じて刑務所に入り、中国系・台湾系双方の派閥から睨まれることになるのは甚だ不条理で理解に苦しむ事態だ。
 とにかく、僕と同じ班の連中が黴菌を避けるように神経質かつ過敏な対応をしてくれたおかげで、右手の激痛を除けば気分よく作業を終えることができた。
 他人と関わるのが苦痛でしかない僕にとっては変に馴れ馴れしく話しかけてくる囚人の存在など、絶えず内耳に雑音をおくりこんでくる五月蝿いハエに等しい。
 シャベルの上下運動に没頭しているとあっというまに時間が過ぎ、作業終了時刻が訪れた。
 「いち」
 「に」
 「さん」
 どこかの軍隊のように直立不動の姿勢を保った囚人たちが、声を張り上げて番号を名乗る。
 「勅使河原 順」
 「ジャスパー」
 「陳賢」
 打てば響くような点呼がつつがなく終了し、手元のリストをボールペンでチェックしながらタジマが言う。
 「よし、解散だ」
 タジマが記入していたのは、イエローワークに配属された囚人の名前と個人番号がびっしりと印字出力されたリストだった。
 囚人の出欠をとり終えたタジマがぞんざいに命じるが早いか、軍隊式に整列していた囚人たちが砂埃を蹴立て、全速力でその場を走り去る。顔に砂埃をかぶったタジマがわずかに顔を歪め小さく咳をしたが、彼の手が腰の警棒に伸びる頃には既に囚人の姿は見当たらなくなっていた。 
 憎々しげに舌打ちしたタジマが警棒を腰に戻すさまを振り返り、ふたたび正面を向く。
 ぐずぐずしてはいられない、もうすぐバスが到着する。
 バスに乗り遅れたら極寒の砂漠で夜を明かさなければならない。
 最悪凍死だ。
 バス停へと向かいながら、右手首に巻いた手ぬぐいにそっと触れる。サムライから借りた手ぬぐいだ。砂埃と汗が染みた手ぬぐいは黄土色に変色していたが、この手拭いのおかげで大分助かったのも事実だ。
 ヒビの入った薬指が動かせないかわりに手拭いで間接を補助し、シャベルの柄がすべりおちないようしっかり固定する。
 サムライから伝授された方法論を採用すれば薬指の症状が悪化するのも防げるし、看守に見咎められるほど作業効率も落ちない。無意識に手ぬぐいを探りながらサムライの顔を思い出す。
 現在進行形であの男の助けを借りているのは非常に腹立たしいが、時にはプライドを挫いても優先しなければならない事がある。
 それが合理主義というものだ。
 不潔な手ぬぐいをほどき、乱暴にズボンのポケットに押し込む。ズボンのポケットに手ぬぐいをつめこんでから、少し考えてまた取り出す。皺だらけになった手ぬぐいを水平にし、掌でならして丁寧に畳んでゆく。四つ折にした手ぬぐいをポケットへと返した僕は、帰路を辿る人波に乗じてバス停へと急ぐ。
 自分でも神経質を通り越して異常だとは思うが、こういうのはきちんとしてないと生理的に落ち着かないのだ。
 バス停にはバスが到着していた。我先にとバスに乗り込む囚人たちの最後尾、矩形の口へと吸い込まれてゆく囚人服の背中を見送ってからステップを上る。どうやら僕で最後だったらしく、背中でバスの扉が閉じた。
 不景気なエンジン音をたててバスが出発する。
 「聞いたか、レイジが昇厘に勝ったって」
 「三分でKO勝ちだろ?やるね」
 「昇厘の奴、靴に鉄板までしこんでたってのにいいザマだ。どのツラさげて西棟に帰ってったんだろうな」
 「負け犬の吠えヅラに決まってんだろ?」
 下劣な笑い声が弾けた方角を振り向く。バスの運転席に程近い前方に四・五人の囚人が群れていた。どれも見覚えのない顔だ。
 僕が反応したのはレイジの名前だ。
 「まったくレイジさまさまだ、連戦連勝のキングが東京プリズンに君臨してくれてるおかげでこちとら大儲けで笑いがとまらねぜ」
 中の一人、バスの天井から床まで垂直に穿たれた鉄の手摺を掴んだ少年が盛大に唾をとばして笑う。その隣、吊り革を掴んでいた少年が顔前に手を掲げて唾を避け、迷惑そうに続ける。
 「大穴狙いの俺は毎回残念賞だよ。実際反則だろレイジは、アイツ強すぎ」
 「あそこまで強いといっそ化け物の領域だよなあ」
 「知ってるか?レイジは本で人を殺せるんだぜ」
 「角で?」
 「角でおもいきり殴るの?」
 少年の言葉に興味を示した仲間たちが一斉に身を乗り出し、同方向に重心が片寄ったせいで気のせいか車体が傾いだ気がした。
 不吉な軋り音とエンジンの不発音を合図に、周囲の囚人に睨まれた少年らが慌てて元の席に戻る。瞬時に身を引いた仲間たちを得意満面で見回し、吊り革の少年が偉そうに吹聴する。
 「さあな、よく知んねーけど……聞いたか?レイジが前に頭のイカれたガキとやりあったときの話。レイジの奴、ヒス起こしてナイフ振り回してるガキ相手に聖書一冊で立ち向かってったって話だぜ。で、瞬き一回の間にKO勝ち」
 「エクソシストかよ」
 「作ってんじゃねえのお前」
 「マジ、マジだって。おめーら三ヶ月だから知らねえだろうけど、一年以上前から東京プリズンにいる奴らの間じゃ有名な話だぜ」
 「てゆーか伝説の域だろ、そりゃ」
 座席の背凭れに反り返って爆笑する少年たちの声が僕のいる場所まで届く。僕は彼らの声がさらによく聞けるよう、聴覚を研ぎ澄ませて身を乗り出す。
 「四日後の一戦がミモノだぜ。東棟の王様VS北棟の皇帝のガチンコ対決。どっちが死んでも不思議じゃねえ」
 「北の皇帝ってロシアの純血だろ?俺見たことねーんだけど、どんな奴?」
 「イカレてるよ」
 「レイジといい勝負だ」
 「ツラはどっちが上だ?」
 「決まってんだろ、東だ東」 
 「もったいねーよなあ。あんなキレイなツラしてんだから物陰にでもつれこんで一発ヤりたいのが本音だけど、レイジ相手に変な気起こしたらキンタマ潰されるしな」
 「そこらの女よかよっぽど上玉なのに、東棟の王様相手じゃだれも手をだせないってか」
 少年達の関心が下半身の話題に移行しかけたところでバスが停まる。 僕が背にしていた扉が開き、イーストファームAの1番地の囚人たちが乗り込んでくる。囚人を収容して再び扉が閉じた時に振り返れば、前方席の少年達の話題は僕の預かり知らぬ内容に脱線していた。
 「あーあ、ほんともったいねーよ。レイジならブラックワーク「中」でもいちばんの稼ぎ頭になるのに」
 「お前馬鹿か、「上」で稼いでるからそんな必要ねーんだよ」
 「でもさ、痛くて苦しい思いして「上」のトップに君臨し続けるよか「中」で気持ちいいことして稼いだほうが幸せじゃん?いいぜえ「中」は、世の為囚人の為東京プリズンの秩序安寧に貢献する素晴らしいお仕事だ」
 「痛くて苦しいのが好きなんだろ、レイジは。早い話が真性のマゾ」
 「趣味と実益を兼ねてるわけだな」
 したり顔で議論を戦わせる囚人たちを横目に眺め、首を捻る。
 彼らの会話中に頻出する「ブラックワーク」「中」「上」やらの単語は一体何を示してるんだ?今朝食堂で相席したリュウホウも「ブラックワーク」に配属されたと言っていたが、レイジもリュウホウと同じ部署なのか?それにしてはリュウホウの返答は歯切れ悪かったが……
 能天気なレイジと気弱なリュウホウが同じ仕事場で顔をつき合わせている絵ははっきり言って想像しにくい。
 待て、今の話を総合するとレイジは「ブラックワーク」の「上」に属しているらしい。

 ブラックワークが「上」と「中」に区分されてるのなら、レイジとリュウホウが同じ部署だとは限らないんじゃないか?

 「ま、「下」よりゃマシだよな」
 声の方に目をやる。
 前方、右列のシートにふんぞり返った大柄な少年が片手を振って笑っている。そのなんとも形容しがたい笑みにつられるかのように、周りの席の仲間が厳粛な面持ちで頷く。
 「知ってるか?ブラックワークの自殺者は「下」がいちばん多いんだぜ。鬱病発生率も「下」がダントツ。まあ、「中」はちがう病気がはびこってるけどな」
 「「下」は入れ替えはげしいからな……今月入った新人も三割ブラックワークに回されたんだろ?」
 「イエローワークにまわされた新人はまだ幸せなほうだぜ」
 一斉に同感の意を表した囚人らのグループから目を逸らし、ふたたび思考に没頭する。
 リュウホウが配属されたブラックワークは、その内部でも「上」「中」「下」に三分類されるそうだ。仕事内容も違うらしい。今朝、食堂で隣の席に腰掛けたリュウホウの顔が脳裏に浮かぶ。
 手中の箸の存在も忘れてうなだれたリュウホウ、その目は救いがたい暗さを秘めていた。僕らが入所してたった三日ー……たった三日だというのに、あの憔悴ぶりは尋常ではない。一体リュウホウの身に何が起こったんだ?

 リュウホウの異変にはブラックワークが関係してるのか?

 がくんとバスが揺れ、車内に立っていた囚人たちが慣性の法則にしたがってバスの前方へと押し寄せる。
 僕が思考をめぐらせているうちに地下停留所に到着したらしい。緩やかに傾斜したスロープを下り、コンクリ剥き出しの広大な空間へと飲み込まれてゆくバス。人工的な闇が車窓を塗りつぶし、黒い表面に自分の顔が映る。
 車窓に映った僕は眉間に苦悩の皺を刻み、気難しそうに唇を引き結んでいた。目にかけたメガネは完璧に元通り、修復の跡さえ判別するのが難しいほどだ。
 眼鏡の弦へと手をやった僕の脳裏で、聖歌隊にスカウトされてもおかしくない澄んだボーイソプラノが響き渡る。
 『期限はあと四日。四日後までにレイジの弱点を掴んできて』
 頭蓋骨の裏側にこだまするリョウの宣告。なにかがひっかかる。眼鏡の弦に手をおいたまま、眉間の裏側に意識を集中して目を閉じる。 
 そして、違和感の正体を突き止めた。
 『四日後の一戦がミモノだぜ。東棟の王様VS北棟の皇帝のガチンコ対決。どっちが死んでも不思議じゃねえ』
 先刻、前方席に陣取った少年が口にした言葉だ。
 リョウは四日後までにレイジの弱味を掴んで来いと僕に命じた。そして件のレイジは、ちょうど四日後に「北棟の皇帝」なる人物と対決するらしい。奇妙な符号の一致を、しかしただの偶然で片付けるほど僕の頭は悪くない。脳内検索を終えた僕はもっと詳しい話を聞こうと前方席の少年に接近を図ったが、決意の一歩を踏み出したところでバスが停まり、慣性の法則に従って前のめりにバランスを崩した。
 あわや転倒寸前の前傾姿勢で横の吊り革に掴まりことなきを得たが、一息つくひまもなく後方から囚人の大群が押し寄せてくる。
 バスの扉が開き、ぞろぞろと囚人たちが降りてゆく。
 むなしく手をのばした僕が声をかけるより先に、前方席に陣取っていた少年は仲間と連れ立ってバスを降りてしまった。
 今から追っても囚人服の雑踏に紛れて見分けがつかないだろうし、諦めるしかない。後ろから押し出されるかたちでバスから降りた僕は、コンクリートの地面を踏んで重たい息を吐く。

 もう少しで僕を苛立たせている謎の一つが解明できそうだったのに、くそ。

 バスから吐き出された囚人たちであふれた地下停留場で、僕はただ一人暗澹たる絶望感に打ちのめされていた。
 一日の労働を終えてまだなお余力を残した囚人たちが、頭からシャワーを浴びて体に染み付いた汗と汚れを洗い流そうと各棟へ駆け戻ってゆく。ブルーワークならともかく、砂漠での肉体労働主体のイエローワークでは最低でも一日おきにシャワーを浴びなければ鼻がもげて落ちてしまう。東京プリズンの規則では「イエローワークに配属された者は隔日でシャワーを浴びるべし」と義務付けられているらしい。
 シャワーの数にも限りがあるし、レッドワークやブルーワークなど他の部署との交代制なので、毎日欠かさずシャワーを浴びるのは不可能だ。
 看守に気に入られた囚人の中には優先的にシャワーを使用できる者もいるらしいが、真相はわからない。
 非常に残念だが、僕は昨日シャワーを浴びたから今日はこのまま房に戻るしかない。本当ならバスを降りたこの足でシャワー室に寄って垢や汗などの老廃物及び皮膚にこびりついた砂を洗い落としたかったが、入所間もない今の段階で大胆不敵にも規則を破ったら見せしめとして独居房送りになりかねない。
 囚人服の裾に付着した砂埃をはたき落としながら歩いていた僕は、地下停留場から東棟地下一階へと上がるコンクリートの通路でふと足を止める。コンクリートの空間を埋めた囚人服の群れから一人壁際へと逸れ、あたりを見回す。今、たしかに聞き覚えのある声がした。
 ほんのかすかだが、たしかに僕の鼓膜に大気を介した音の振動が伝わってきた。眼鏡なしで生活している間、視覚を代替していた聴覚がいまだ過敏な冴えを残していたのかもしれない。
 壁に沿って進むとますます声が大きくなる。
 やはり聞き間違いではない、たしかにこちらの方角から聞こえてくる。
 東棟上階に設置された房へと帰還してゆく囚人達の本流を外れ、コンクリートの通路を左折する。通路正面のエレベーターに乗り込めば自然と東棟地下一階で吐き出される仕組みなので、見当違いの左の通路にはまったく人気がなかった。
 いや……そのはずだった。
 「うう、う……」
 「?」
 どこからか呻き声が漏れてくる。
 ひどく聞き取りづらい、こもった声だ。
 何故かこの先には進まない方がいいような気がしたが、結局僕は足を止めることができなかった。左折した廊下の先に半開きのドアがあった。つんと鼻孔をつく消毒液の刺激臭と、ドアの横に表示された絵文字で見当がつく。
 ここはトイレだ。
 一応それぞれの房に便器が設置されているが、下水管理が行き届いてない東京プリズンではたびたび水詰まりを起こして使用不可になる。そのような緊急時に備えて、各棟に共同トイレが設置されていると安田から教えられた覚えがあるが……
 トイレから呻き声が聞こえてくるなんて、そんな馬鹿な。半世紀前に流行った学校の七不思議でもあるまいし。
 「………」
 足音をひそめてドアへと歩み寄り、隙間から中を覗き見る。

 危うく声を出すところだった。

 トイレの床に人が倒れていた。
 うつ伏せに倒れた人物は、下半身に何も穿いてなかった。
 ズボンはおろか下着も身につけてない。それらは踝までひきずりおろされていて、発育不良の足首と鳥肌が浮いた太腿、薄く青白い少年の尻が無残なまでに露骨に外気にさらされていた。貧弱な臀部を露出してトイレの床に寝転がった少年は、「うう、うう……」と不明瞭な声で呻いていた。
 僕は見てしまった。
 少年の太腿に血痕が散っているのを。
 少年の周囲に四人の人間が散らばっているのを。
 トイレの床に横臥した少年がよわよわしく顔を傾げ、こちらを見た。無意識の動作には違いないだろうが、少年の顔を見た瞬間、僕はここに来たことを後悔した。
 少年はリュウホウだった。
 そして、リュウホウの身になにが起きたかは明白だ。リュウホウを囲んだ少年四人のうち、二人までがズボンと下着を脱いでいるのも見てしまった。局部を露出した少年二人はにやにやと笑っていた。嗜虐的な笑みを浮かべた四人を順繰りに仰ぎ、涙と鼻水と唾液とそれ以外の粘液で顔を濡れ光らせたリュウホウが哀れっぽく懇願する。
 「ゆ、ゆふしてくらはい……もう、房にかえらへて」
 肘で這ってトイレの床を進み、自分を見下ろした少年の膝へとすがりつくリュウホウ。発音が不明瞭なのは歯が何本か折れているせいかもしれない。弛緩した口から血の溶けた唾液を垂れ流したリュウホウの必死の懇願に、眼前の少年がすっとんきょうな声をあげる。
 「おいおい、全部の棒しゃぶってからじゃねえと帰してやらねえって言っただろ?」
 「まだ二本しかしゃぶってねえぜ」
 「手を抜くのはいただけねえな」
 「正確には舌を抜く?」
 「シタはシタでも下半身だろ」
 「ちげーねえ!」
 少年たちの間で哄笑がはじけ、リュウホウが悲愴な顔をする。
 怯えたように身をひいたリュウホウの前髪を乱暴に掴み、強引に顔を起こす。中腰に屈んだ少年が平手でリュウホウの顔を叩きつつ、容赦ない口調で命じる。
 「お前言ったよな、殴られるのとヤられるのどっちがいいかって聞いたとき。ヤられるほうがいいって」
 「だからこうしてヤッてやってるんじゃねえか、なあ、俺たち優しくしてやっただろ?」
 「お前の口こじあけるのにちょっと力いれすぎたせいで歯が何本か折れたけど、別に歯の二本や三本なくたって飯は食えんだろ?」
 「野郎のもんしゃぶって生きてくなら歯なんて物騒なもんは全部抜いたほうがトクだぜ?」
 「途中で噛みちぎられる心配もねえしな」 
 おもいおもいにリュウホウを小突き、蹴り、殴りながら少年たちが高笑いする。
 リュウホウの裸の尻を平手で叩いて立ち直らせようとしている者もいる。それでもリュウホウは立とうとはせず、屈辱に歯を食いしばり嗚咽を殺していた。見かけによらず頑固で強情なリュウホウに逆上したか、リュウホウの前に立っていた少年がぐいと前髪を掴んで便器の方へと引きずってゆく。タイルの床を膝で擦りながら便器の方へと引きずられていったリュウホウの顔が絶望に青ざめる。
 便器には排泄物が放置されたまま、二匹の蝿がたかっていた。
 小動物に備わっている自衛の本能で何をされるか直感したリュウホウが、嫌々するように首を振る。
 「や、やだ……やだあああああああああ!!」
 「うるせえ、はやくこい!!」
 リュウホウの前髪を掴んだ少年が手首に渾身の力をこめ、背後に回った別の少年が裸の尻を蹴って追い立てられる。
 保健所に連行されてゆく犬を見ているような残虐な光景に、ドアに隠れて傍観していた僕の全身から血がひいてゆくのがわかる。抵抗むなしく便器の前に連れて来られたリュウホウの顔を覗きこみ、前髪を掴んだ少年が冷血に笑う。
 「これを食えばしゃぶらなくても許してやるよ」
 歯の根ががちがちと震える音がここまで聞こえてくる。四つん這いの姿勢のリュウホウはタイルの枠に爪をひっかけて最後の最後まで抵抗したが、四人が相手では多勢に無勢、まったくの無力で非力だった。
 「!」
 リュウホウの顔が強引に便器へと押しこまれる。
 水の飛沫が跳ねる音、長い長い苦鳴。
 「東京プリズン名物生スカトロショウだ!」
 「ギャラリー呼んでこいよ、金とって儲けようぜ」
 「クソの味はどうだ、クソッたれ。クソがクソ食うなんて共食いだな」
 「俺たちのモンよか美味いか不味いか、窒息する前にどっちか感想聞かせてくれよ?」
 揶揄、嘲笑、侮蔑、憫笑。
 変声期を終えた少年たちの低く野太い笑い声がトイレの天井に殷殷と反響し、僕の鼓膜を打つ。
 『ぼくはだめだ』
 『ぼくはもう、やっていけそうにない』
 際限なく膨張する笑い声に重なるのは今朝食堂で聞いたリュウホウの気弱げな声、気弱げな台詞。
 あの時、リュウホウは僕に助けを求めていたのか?同じジープで護送されてきただけの間柄の僕を一方的に友達だと勘違いして、この苦境から救い出してくれと暗に懇願していたのか?
 
 低脳に友達扱いされるのは本当の本当に迷惑だ。
 その考えに変わりはない。変わりはないが―……

 僕が両親を刺殺したとジープの荷台で看守に暴露されたときも、リュウホウは僕を軽蔑する台詞など一個も吐かなかった。三日前、東棟の廊下で別れたときには後ろ髪をひかれるように僕のほうを振り向いていた。あの時僕はリュウホウになにも答えなかったし、これから先もなにも答える気はない。

 今、この場だけ。これっきりだ。

 そして僕は、ごく単調にトイレのドアをノックした。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060523232957 | 編集

 硬質なノックが響く。
 リュウホウを中心にした少年たちが一斉に振り向く。タイルの床を踏んでトイレへと足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉める。完全には閉めない。万一の場合に備えてつま先半歩分の隙間を残すのを忘れない。単身密室に乗りこんで我が身を危険に曝すような愚は避けたいからだ。
 「なんだあ、お前は?」
 中のひとり、リュウホウの背中を蹴っていた汚れた金髪の少年が目を眇める。巻き舌の恫喝を無視し、トイレの中央へと進み出た僕の四肢にその場の全員の視線が粘着質に絡みつく。一挙手一投足を監視される居心地の悪さにも増して僕の動悸を上昇させたのは、便器に顔を突っ込んだまま微動だにしないリュウホウの姿だった。
 「君たちは愚鈍だな」
 等間隔に蛇口が並んだ洗面台を背にした僕は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げて位置を正し、トイレに居合わせた少年たちの顔を順番に見つめる。
 「トイレを訪ねるのに用を足す以外の目的があるか?ないだろう。そんな人間の生理上当たり前の常識も知らないなんて、君たちの前頭葉はどこまで退化してるんだ?そんな役に立たない前頭葉は手術で除去するのを勧める、君たち凡人のピンク色の脳細胞でも標本としての価値なら幾らかあるだろう」
 喉にわだかまる鬱屈した感情が僕の口調を異常に早め、それに比例して少年たちの顔が険悪になる。中の一人、集団の代表格らしい大柄な少年がリュウホウの前髪を乱暴に突き放してこちらへと歩み寄ってくる。
 「どこのどいつだか知らねえがお楽しみの最中に水をさしてくれたじゃねえか」
 タイルの床を蹴るように近づいてきた少年がおもむろに腕を振り上げ、無造作に僕の襟首を鷲掴む。憤怒で朱に染まった少年の顔を正面から見返し、洗面台に凭れた僕はうんざりとかぶりを振る。
 「誤解してもらっては困る。トイレは排泄するための場所だぞ、その場所でそれ以外の行為に及んでる君たちこそどうかしてるんじゃないか?ああ、それとも……」
 僕より遥かに上背のある少年の顔を挑発的に目を細めて見上げ、意識して唇の端をつりあげる。
 「発情期の猿にも劣る羞恥心しか持ち合わせてない君たちはさかるのに時と場所を選ばないのか?本能の赴くまま、性的衝動の赴くままに同性をレイプするのが猿にも劣る君たちの習性なのか?」
 「なっ……、」
 怒りに絶句した少年を冷ややかに見返し、とどめの一言を放つ。
 「自分の容姿が原因で『外』の異性に相手にされなかったからと言って、その鬱憤をここで晴らすのはよせ。傍目にも非常に見苦しい」
 僕の襟首を掴んだ手がわなわなと震えている。僕と対峙した少年の後ろに控えた囚人たちも、得体の知れない闖入者にお楽しみを妨害されて不機嫌も絶頂という顔をしている。肌を刺すような非友好的な視線に取り巻かれた僕は表情でこそ普段どおりの平常心を取り繕っていたが、その実必死に頭を働かせていた。
 相手は四人、こちらは一人。リュウホウは当然戦力から除外するとして、僕一人で彼らと争ってもまったく勝ち目はない。
 彼らより僕が勝っているものといえばただ一つ……。
 「…………」
 無意識に頭に手をやった僕の襟首が、驚異的な力で締め上げられる。僕の顔面に生臭い息を吐きかけながら、正面の少年が吠える。
 「俺らのお楽しみを邪魔してくれた代償は高くつくぜ」
 「ーっ、」
 どんと突き飛ばされ、半弧を描いてせり出した洗面台の縁で背中を打ち、腰骨から背骨まで震動が伝わってくる。洗面台を背にして追いつめられた僕は、少年たちの死角になるよう計算して背後へとまわした手をゆっくりと蛇口へと伸ばす。本来効き手ではない左手で蛇口を掴んだ僕の脇腹に無遠慮な手が触れる。本能的な危機感に駆られて顔をあげると、目の前に少年の顔があった。
 「なあ、わざわざコトをおっぱじめてる最中にトイレにとびこんできたってことはさ、そいつも俺たちの遊びに混ぜてほしかったんじゃねえか?」
 「そうだ、そうに決まってる」
 「大歓迎だぜ俺は」
 頭上を飛び交うのは喧しい揶揄と悪意の波動を孕んだ嘲笑。半円の陣を敷いた少年たちが追いつめられた獲物をなぶるように緩慢な足取りで間合いを詰め、僕の襟首を掴んだ少年がもう片方の手を脇腹に沿って下降させる。囚人服の生地越しでも脇腹をまさぐる無遠慮な手の感触は無視できず、あまりの気色悪さに声が漏れかけるのを唇を引き結んで防ぐ。僕の腰骨の上をまさぐっていた手が焦らすように脇を移動してやがて囚人服の内へともぐりこむ。許可も得ずに裾の内側ともぐりこんだ手が貪欲に蠢いているさまを見下ろし、その手をはたき落としたくなる衝動をかろうじて制し、きっとリュウホウに向き直る。
 「!」
 タイルの床にうつぶせたリュウホウが肘で這って緩慢に移動する。アメーバのように鈍重な動きで、それでも着実にトイレの出口めざして進み始めたリュウホウを目の端で確認し、正面の少年へと視線を戻す。
 蛇口を掴んだ手が焦慮に汗ばむのがわかる。
 僕を取り囲んだ少年たちの息は浅く弾み、充血した目にはこれから起こる行為に対する露骨なまでの期待の色があった。異常なまでに興奮した少年たちの手がいつ体へと伸びてくるか気が気ではない。異常な興奮状態にある少年たちの中でも最も行為に夢中になっているのは、僕の反応などおかまいなしで一方的な愛撫を続けている代表格の少年だ。
 垢や砂などの汚物の溜まった不潔な爪で肌をひっかかれ鮮明な痛みが生じる。快感を与えるよりはむしろ苦痛を与えるのを目的にしてるかのような容赦ない愛撫に、僕の自制心もそろそろ限界に達する。
 腰骨の起伏を揉みほぐす手から逃れるように洗面台の縁に沿って半歩移動、蛇口に添えた左手に力をこめる。
 「逃げるなよ、気持ちよくしてやるから―」
 「さ」の形に固定された少年の口、及びその顔面を大量の水飛沫が叩く。
 後ろ手に捻った蛇口から勢いよく迸りでたのは苛烈な水流。全開にした蛇口から噴出した水は正面の少年だけではなく周囲の仲間たちにも大量に降り注ぎ囚人服をどす黒く染めかえてゆく。
 水流の弧の下をくぐり抜け、全速力でトイレの出口へと退去した僕の耳に聞こえる複数の足音。水圧に翻弄され、恐慌状態に陥った少年らの怒号とタイルの床を叩く水音を聞きつけた物見高い野次馬たちが、わざわざ通路を変更して「なんだ」「なんだ」とトイレに殺到する。トイレのドア越しに中を覗き見る囚人たちに紛れ無事廊下へと脱した僕は、少年たちの怒号が追いかけてこない距離にまでもつれる足を叱咤して走り抜ける。
 コンクリート打ち放しの無機質な廊下を走っていると前方にエレベーターの両扉が見えてきた。今まさに閉まろうとしている扉の隙間に滑りこんだ僕の背に、「待ちやがれ、殺してやる!」という芸のない悪態が叩きつけられる。少年たちが追ってきたのかと憂慮したが折よくドアが閉じ、地下の喧騒が遮断される。
 エレベーターがすべるように上昇を開始する。
 蜂の羽音に似たエレベーターの稼働音を聞きながら、安堵で全身を弛緩させて背後の扉に凭れる。上手くいってよかった。いや、上手くいって当たり前だ。天才の計算に1ミリたりとも狂いや誤差が生じるわけがない。蛇口の水が直撃する距離にまで少年たちを誘導するのは骨が折れたが……。
 そこまで考えてふと顔を上げる。エレベーターの内部に人の気配がした。
 顎を伝う水滴を拭い、エレベーターの隅に目をやる。
 僕の対角線上、こちらに背を向けて震えているのはリュウホウだった。逃げるのに必死でズボンをたくしあげる暇もなかったのだろうか、下着を身につけるだけで精一杯だったらしく、ブリーフで覆われた貧相な臀部をこちらに向けていた。
 本来純白のはずのブリーフに点々と血痕が散っているのを目撃し、見てはいけないものを見た気分で顔を背ける。
 重苦しい沈黙がたちこめた電動の棺の中に、やがて響き始めたのは悲痛な啜り泣き。エレベーターの隅に胎児の姿勢で身を縮こめたリュウホウが、膝に食いこむほど強く爪を立てて嗚咽をこぼしている。
 僕は口を開き、また閉じた。何を言おうとしたのか自分でもわからない。間抜けな話だが、何て声をかけようとしたのか自分でも本当にわからないのだ。励まし?慰め?叱責?そのどれとも違う、胸苦しいまでに奔騰した感情が喉までこみあげてくる。
 
 一過性の慰めや生温い励まし。そんな無意味な言葉の羅列が何の役に立つ?
 「がんばれ」「負けるな」「だいじょうぶか」。
 手垢にまみれた叱咤激励の台詞、親身になったフリ。
 そんな偽善的な応酬でだれが救われるんだ?だれも救えやしない。
 僕が言葉をかけたところでリュウホウのみじめな境遇には変わりはないし、同じジープの荷台に揺られて東京プリズンにやってきた僕らの暗澹たる未来予測は覆らない。リュウホウだって充分すぎるほどにわかっているだろう。弱い者は徹底的に虐げられ搾取されるのが東京プリズンの鉄の掟なのだ。ピラミッドの最底辺に位置するリュウホウは、腕力でも能力でも自分に勝算がないことを自覚している。
 自覚しているが故に、なにもかもを諦念して受け入れざるをえないのだ。
 それがたとえ自分の意志に叶っていなくても、懲役が無事終了するまで東京プリズンで生き残りたいなら掟に従うしかないのだ。

 屈辱、羞恥、苦痛、悲哀、晦渋。
 それらが渾然一体となった感情に支配されて打ち震えるしかないリュウホウにいたたまれない気持ちになり、神経質に折りたたまれた手ぬぐいを取り出す。  
 「リュウホウ」
 エレベーターの隅で膝を抱えていたリュウホウがびくりと反応する。糞便と鼻水と涙で汚れた顔をあげたリュウホウめがけ、手中の手ぬぐいを放る。エレベーターの天井を舞った手ぬぐいは楕円の弧を描いてリュウホウの手元へと落ちた。
 「泣くな」
 不機嫌な口調で釘をさす。所在なさげに手中の手ぬぐいを見下ろしているリュウホウから顔を背け、続ける。
 「僕がいちばん嫌いな雑音は人の泣き声だ。だから泣くな」
 虚をつかれたような表情で僕を仰いでいたリュウホウの顔が悲哀に歪み、やがて泣き崩れる。目尻から滴り落ちた涙が手ぬぐいへと染みてゆくさまを眺め、僕は早口で付け足す。
 「房に帰ったらよく顔を洗え。刑務所の便器なんてどんな菌が付着してるかわからないからな、顔の傷口から感染したら大変だ」
 何故だか口調が言い訳がましくなった。
 ひどくばつの悪い思いを味わってだまりこんだ僕をよそに、不器用な手つきでタオルを広げ顔を拭いだすリュウホウ。サムライから借りた手ぬぐいだが、場合が場合だし今は仕方ない。後日リュウホウの房を訪ねて綺麗に洗ったものを返してもらえばいいだろう。
 チン、と軽やかな鈴の音が響き、エレベーターが停止する。
 一階に到着したエレベーターから廊下へと足を踏み出した僕と入れ違いに、数人の囚人が乗りこんでくる。別の階に房があるリュウホウはエレベーターの中に留まったまま、無言で僕を見送っていたが、僕が背を向ける間際に喘ぐように口を開く。  「あ……」
 「『あ』?」
 おもわず聞きかえした僕の視線の先で、手ぬぐいを握り締めたリュウホウが気恥ずかしげに俯く。
 「ありがと、」
 『う』と同時にエレベーターの扉が閉まった。
 エレベーターが上階へと去ってゆくのを見送り、その場から踵を返す。別に礼を言われるようなことをしたつもりはない。僕はリュウホウの友人でもなんでもないのだから勘違いしないでほしい。
 ただ、泣き声を聞いていたくなかっただけだ。
 今の気持ちを説明する適当な言葉が見つからない。今の心理状態を形容するのに相応しい言葉が見つからない。当惑した僕がとるべき行動は一つだ。
 房に戻ろう。
 すれ違う囚人になど委細注意を払わず、無気力な足取りで帰路を辿る。サムライはもう帰っているだろうか?今の心理状態を引きずったまま妙に勘の鋭いサムライと顔を合わせるのは抵抗があったが、他に帰る場所も行くところもない。結局僕は房に戻るしかないのだ。
 おそらく娯楽室か中庭にでも向かうのだろう囚人の群れに逆行し、ひとり黙々と歩いていると、ふいに声がかかる。
 「よー、キーストア」
 声がした方角に向き直る。
 ポケットに指をひっかけて房の鉄扉に凭れているのはレイジだ。明るい茶髪を襟足で括った髪形が軽薄な外見をより際立たせている。
 「どうしたの、暗い顔して。サムライと痴話喧嘩続行中?」
 「……ここが君の房か?」
 「まあね」
 自分が凭れている扉を振り返り、レイジが笑う。外見は非の打ち所がないのに、その性格面はといえば精神科医が手におえないほど屈折している。この男もサムライと同様興味深い観察対象には違いないが、正直、僕は疲れていた。著しく消耗した今の状態で、この何を考えてるのかよくわからない男の主体性のない会話に付き合わされるのはごめんだった。
 レイジの前を素通りしようとした僕は、瞬間、リョウの言葉を思い出す。
 『期限はあと四日。四日後までにレイジの弱点を掴んできて』
 ………まったく、どうかしてる。
 「レイジ」
 レイジの正面で足を止め、単刀直入に聞く。
 「君の弱点はなんだ?」
 「あん?」
 余計な手間を省いて端的に質問したつもりだが、凡人の域を脱してないレイジには真意が伝わりにくかったようだ。不審げに腕組みしたレイジと対峙した僕は、幼児に1+1の解を噛み含める要領で辛抱強く繰り返す。
 「君の弱点はなんだと聞いている。端的に、かつ早急に答えてくれ」
 今だ釈然としない表情でだまりこんでいたレイジの顔に悪戯っぽい笑みが浮上する。
 「俺の弱点なんて決まってるっしょ」
 「なんだそれは?」
 「美人のおねーさまと年下のカワイコちゃん、早い話が女性全般と俺好みの男の一部」
 「……君は何歳から何歳までを美人と定義してるんだ?それ以上の年齢層も含めなければ『女性全般』とは断言できないだろう」
 「何言ってんだ、俺は博愛主義者だぜ?愛さえあれば年の差なんて関係ねーよ」    会話が噛み合ってない。
 整合性のない会話に脱力感をおぼえながら、それでも僕は義務的に繰り返す。
 「君の弱点は異性なのか?そんな抽象的なものが弱点で本当にいいのか?」
 詰問口調でレイジに確認をとったが本人は至って泰然自若としたもので、風に吹かれるように涼しげな顔をしている。
 「キーストア、お前だれにもの言ってんの?俺は素敵に無敵なレイジ様だぜ。俺の弱点は女、だけど東京プリズンに女はいない、だから俺は怖いもんなしってわけ。アンダスタン?」
 「君の英語の発音は最低だな、正確にはunderstandだ。アクセントはuにつけろ」
 「仕方ないじゃん、俺フィリピン生まれだし」
 「フィリピンは英語圏のはずだが?」
 「こまかいこと気にすんな。それともなにか、神経質キャラが売りなのか、眼鏡くんは」
 よほど今の台詞が面白かったと見えて、腹を抱えて笑い出すレイジ。どこに笑える要素があったのか僕にはさっぱり理解できない。周囲の囚人がぎょっとするほどの大声で爆笑するレイジからやや離れ、うんざり気味に続ける。
 「たしかに異性が唯一にして最大の弱点なら、今の君は無敵だろうな」
 「いや、そうでもねえぜ?」
 自分で自分の発言を覆すかのような矛盾ある言葉に僕は眉をひそめる。目尻に浮いた涙を人さし指ですくって笑いおさめたレイジは、形よい口元を笑みの余韻で痙攣させて言葉を紡ぐ。
 「今思い出した。たしかに俺の弱点は女だけどさ、可愛い奴なら男でも女でも関係ねえってのが本音だし。その線でいけば俺の弱味ってロンになるわけよ、いまんとこ」
 「ロンが?」
 「そう。アイツかわいーじゃん」
 同意を求められ、どうしたものかと逡巡する。生憎と僕は同性をかわいいと褒めたたえる特殊な感性を持ち合わせてない。もとより僕の感想には興味がなかったらしく、レイジが小首を傾げる。
 「でもさ、なんだっていきなりんなピンポイントなこと聞くわけ?」
 「ただの好奇心だ。他意はない」
 納得したのかしてないのか、レイジは「ふ~ん」と気のない返事をしただけだ。腕組みをして扉にもたれたレイジが探るような目で僕を眺め、居心地の悪さのあまり回れ右したくなるのをこらえて踏みとどまった僕は、次の言葉にぎくりとする。
 「俺は誰かのスパイかと思ったよ」
 反射的にレイジを仰ぐ。レイジは薄く笑みを浮かべていた。人の心の奥底を覗きこむように酷薄な半月の笑みだ。眼鏡のブリッジを押し上げるフリで動揺を糊塗した僕は、バスの中から抱いていた疑問を直接レイジにぶつけてみる。
 「レイジ、もうひとつ君に聞きたいことがあるんだが」
 「どうぞ」
 下唇を湿らし、声を厳粛に改め、核心に触れる。
 「ブラックワークとはなんだ?」
 レイジの顔色に特に変化はなかった。
 ただ、意外な人物の口から意外な言葉を聞いたとでもいう風に器用に片眉をはねあげてみせただけだ。顔の表面に笑みを貼りつけたレイジが体をずらして僕の顔を覗きこみ、挑発的に口角をつりあげる。
 「キーストアは知らなかったんだ?まあ無理ねえか、まだ入所して一週間もたってねえし。部署違いの新人の中には知らない奴もいるよな、トーゼン」
 嘲笑うかのような口調に反発を煽られるが、低脳の挑発に乗って取り乱すのは愚の骨頂だ。僕が知らないことを自分は熟知しているという、その一点のみで優位に立ったレイジに冷ややかなまなざしを注いでやると、当の本人は降参を表明するかのように両手を掲げてみせた。
 「わかった、教えてやるよ。ブラックワークってのは簡単に言えば……東京プリズンのエンターティナーだな」
 「エンターティナー?」
 「もっとわかりやすくいえば囚人どものストレス発散係だ」
 顔の前に挙げた両手をひらひら振りながらレイジが笑い、ますます困惑が深まる。レイジの言ってることは奇怪だ。刑務所にエンターティナーが存在するなど聞いたことがない。囚人たちのストレス発散係という頭の悪い名称が示すものはなんだ?
 もつれ絡まった思考が脳裏で交錯し、一時停止状態に陥っていた僕を現実に戻したのはレイジの声だった。
 「くわしく知りたきゃサムライにでも聞けよ」
 「なんでサムライなんだ?」
 ひょっとして、まさかとは思うが、レイジまで僕とサムライが友人関係にあるというとんでもない誤解をしているのか?と不安になる。
 「俺の口から説明してやってもいいけどさあ」
 レイジは肩を竦めた。
 「真相を知ったお前が絶望して首を吊らないとでも限らないし。そうなったら俺が殺したみたいで寝覚め悪いじゃん」
 まただ。食事中に口に昇らせる話題じゃない、真相を知ったら首を吊りかねない。ブラックワークの実態とはそんなに口にするのが憚られるものなのか?ブラックワークとはそんなに恐ろしい、忌まわしい部署なのか?
 眉間に皺を刻んだ僕の前で優雅に背を翻し、廊下を去ってゆくレイジ。その背におもわず声をかける。
 「どこへ行くんだ?」
 「図書室」
 肩越しに手を振りながらレイジが答える。東京プリズンに図書室があるなど初耳だった。入所初日に安田から案内されたのは医務室やシャワー室など必要最低限生活に関わってくる場所ばかりで、僕は今の今まで図書室の存在も知らなかった。見た目は完全無欠のエリートだが存外安田は不親切だ。それとも、必要最低限のことだけは教えてやるから後は自分で勝手に学べというのが東京プリズン上層部の方針なのか。
 図書室があるなら覗いてみたかったのが本音だが、レイジと同行するのはお断りだ。
 この場は大人しく立ち去るのが賢明だろうと判断を下した僕は、早足で自分の房へと急ぐ。
 「鍵屋崎」
 唐突に名を呼ばれ、意思に反して足が止まる。
 振り向く。廊下の中央で立ち止まったレイジが、薄笑いを浮かべてこちらを見つめている。
 「お前を顎で使ってる奴に進言しとけ。『王様は無敵だ』って」
 「………失敬だな。僕は僕の意志で行動してるんだ、今だかつて他人に顎で使われた覚えなどない」
 一呼吸おいて言い返すと、レイジはさもおかしそうに喉を鳴らした。それきり二度と振り返らずレイジは廊下を去っていった。曲がり角に消えたレイジの背中を見送り、大きく息を吐く。
 僕には遥かに劣るが、レイジの頭はそれほど悪くない。僕に「弱味を探ってこい」と指示したのがリョウだと見抜いているかどうかは定かではないが、僕がだれかに命令されて動いてると会話の前半から勘付いていたはずだ。
 逡巡を振り切るように足を速めて廊下を歩く。トイレでさわられた箇所が今頃痒くなってきた。鳥肌立った肌を乱暴に擦り、おぞましい感触を打ち消そうと努める。何度擦っても、不快感は消えるどころかますます増すばかり。囚人服を雑巾代わりにして執拗に脇腹を拭う。

 何度も何度も何度も、肌が擦りきれるほどに。 

 早く房に帰りたい。シャワーが使えないならせめて房の洗面台で体を洗いたい。
 不潔な手でまさぐられた不快な感触を洗い流したい。耳にこびりついて離れないリュウホウの悲痛な嗚咽も瞼の裏側にちらついて離れないレイジの薄笑いも、全部全部洗い流してしまいたい。

 そこにサムライがいてももうかまわない。

 とにかく僕は一刻も早く房に帰って水を使いたいのだ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060522233321 | 編集

 翌日、僕は東棟三階二号房を訪れた。

 控えめに扉をノックする。
 内側から聞こえてきたのは「は~い」という間延びした声、体重の軽い足音。錠が外れる音についでノブが半回転し、癖の強い赤毛が覗く。鉄扉の内側から無防備に顔を覗かせたその人物は、廊下に立ち尽くしている僕を視界に入れると、上の前歯が一本欠けた童顔でにっこり笑った。
 「よく僕の房がわかったね。サムライに聞いたの?」
 「それ以外にどんな情報入手手段がある」
 半身を傾けて脇にしりぞき、僕を迎え入れる体勢をとったリョウの前を無関心に通り過ぎ、三階二号房へと足を踏み入れる。他人の房に足を踏み入れるのはこれがはじめてだ。純粋に興味をひかれてあたりを見回してみるがとくに新鮮な発見も異質な差異もない。房に足を踏み入れた時からつきまとっているのは奇妙な既視感だ。コンクリート打ち放しの殺風景な天井には錆びた配水管が幾何学的に這いまわり、接合部から滴った汚水が暗色の壁をスクリーンに見立てて奇怪な抽象画を描き出している。壁際に並んでいるのは廃品寸前のパイプベッドが一対。マットレスの裂け目から無残に綿のはらわたがはみだしたベッド、その一方の枕元にちょこんと置かれているものに目がとまる。
 
 汚れたテディベアだった。

 「HEY,welcome!」
 声がした方を振り向く。
 テディベアが枕元に据えられたベッドの隣、向かいの壁際に設置されたベッドに腰掛けていたのは陽気な笑顔の黒人少年だ。年は僕と同じ位だろうか。底抜けに明るい笑顔を湛えた少年は大袈裟な動作で両手を広げ、全身で歓迎の意を表現する。コールタールの肌とは対照的に白い歯を光らせベッドを立った少年は、踊るような足取りで僕へと近づいてくるや、スッと片手をさしだした。
 その動作が意味しているところを事前に悟った僕は、速やかに回避行動をとる。
 「!?」
 図々しくも僕と握手しようとした少年、その手が僕の手を掴む前に無造作に腕を振りかぶる。友好の証たる握手を無下に拒絶された少年は一瞬きょとんとしたが、次に彼が浮かべたのは僕の予想を裏切る表情だった。
 「なるほど……潔癖症ってのはマジだったんスね!」
 空白の表情から一転、はずむような笑顔を湛えて無邪気に事実を確認した少年に僕のほうが当惑する。彼の舌からつむがれたのが流暢な日本語だったことにも。鉄扉を閉めて戻ってきたリョウが苦笑して僕と少年の間に割り込む。
 「ビバリー、新人くんをあんまりからかわないでよ。君のテンションについてける囚人なんて同房の僕くらいだよ?」
 「からかうなんて人聞き悪いっス、ただ僕はフレンドリーな外人のフリしてコトの真相を確かめてみただけっス!新入りの鍵屋崎はとにかく人にさわられるのを嫌がる、鍵屋崎を剥こうとした凱の手下なんて針金で目ん玉刺されて失明寸前までいったらしいとか、あることないこと噂が流布してるし……どこまで本当だか体を張って確かめてみただけっス、グレテイストでソウルフルなチャレンジ精神を褒めてくださいよ」
 ビバリーと呼ばれた少年は我が身の潔白を訴えるように両手を広げると、演技過剰のコメディアンを彷彿とさせる動作で大袈裟に肩をすくめた。大仰な身振り手振りをまじえ、熱っぽい口調で釈明するビバリーを背にしたリョウは、親指の腹で騒がしい同居人を示して続ける。
 「紹介が遅れたね。コイツ僕の同房の住人でビバリーっての」
 「ビバリー……本名か?」
 「違います!」
 リョウの背からとび出したビバリーが得意げに鼻の穴をふくらませ、自らのあだ名の由来を語りだす。
 「僕のグランパは黒人ではじめてビバリ―ヒルズに豪邸を構えたアメリカンドリームの実現者なんっス!だから孫の僕もビバリーって呼ばれてるんス!」
 僕の反応を期待するかのように爛々と目を輝かせたビバリーに水をさしたのは、肩をひくつかせて笑いを噛み殺してるリョウだった。
 「コイツの言うコト本気にしないほうがいいよ。八割ガセだからさ」
 「ガセじゃないっす、本当っス!いくらリョウさんでもマイグランパとマイファミリーを馬鹿にしたら許さないっスよ!?」
 「はいはい、じゃあそういうことにしといてあげるよ」
 「マジで僕はビバリ―ヒルズ出身なんです、ビバリ―ヒルズの実家ではかわいい妹のロザンナが僕の帰りを待ってるんス!兄の出所の日を待ち望んで僕の好物のママレードパイを焼いてるロザンナの姿が目に浮かびます……」
 胸の前で五指を組み合わせ陶然と妄想にひたっているビバリーを一瞥、ある疑惑が脳裏に浮上した僕は小声でリョウに訊ねる。
 「彼はクスリをやっているのか?」
 「あれがノーマルなテンションだよ。脳内麻薬を生成できるからわざわざクスリを打つ必要ないのさ」
 自分のベッドへと退散したビバリーから改めて僕へと向き直ったリョウは、「で?」と斜め四十五度の角度に小首を傾げる。
 「そろそろ用件を聞こうか。なんで僕の房に来たの?」
 普段から使用しているのだろう、左側のベッドに腰掛けたリョウがあっけらかんと聞く。ベッドには特に座れとも勧められなかったし、床に直接座るのは抵抗がある。立ったまま会話を続行することにした僕は、胸の位置にあるリョウの顔を高圧的に見下ろして口を開く。
 「僕が別段親しくもない君の房を訊ねる目的など一つしかない。君に命じられた件を処理しにきたんだ」
 「へえ」
 媚を売るような上目遣いで僕を仰ぎ、リョウが笑う。無邪気な子猫の皮をかぶった、したたかで貪欲な雌猫の笑み。極端な二面性のある笑みを浮かべたリョウは緩慢な動作で足を組みかえ、甘ったるい猫撫で声で促す。 
 「それなら話は早い。レイジの弱点て、なに」
 赤い舌で下唇を湿らし、リョウがささやく。男を誘惑する娼婦のように淫猥なしぐさに、僕はとくに何の感慨も抱かない。ただ、僕が知りえたありのままの事実を報告するだけだ。
 「レイジの弱点は……」
 興味津々、リョウが身を乗り出す。背後のベッドではビバリーが息をつめてことの成り行きを見守っているらしく、房の空気が緊迫する。張りつめた空気を肌に感じながら、僕は端的に簡潔にレイジの弱点を告げた。
 「ロンだ」
 「「…………………………は?」」
 リョウとビバリーがテンポのずれた声で唱和する。 
 頬杖をくずしたリョウが、不自然な体勢で僕を仰ぐ。超常現象にでも立ち会ったかのように不可解な表情のリョウが不審げに問い返す。
 「……今ロンって言った?」
 「言ったが」
 「それ、レイジと同房のロンのこと?」
 「東京プリズンに他のロンがいるかどうかは知らないが、僕が面識のあるロンはレイジと同房の彼だけだな。よくある名前なのは確かだが、レイジの会話中にでてきたロンはまず彼と確定していいだろう」
 実際、中国系の囚人に石を投げれば当たる確率で「ロン」という名前は存在するだろう。だがレイジが言及していたのは正真正銘、彼と同房の住人であるロンだけだ。三日前、自身には何の利益もないにも関わらず凱たちに目をつけられた僕をフォローしてくれた少年。自身が不利益を被ってまで他人を助けようとする行為は僕には理解しがたく非効率的な愚の骨頂だが、不思議とロンの行動からは偽善臭がしなかった。
 どうやらロンは僕にある種のシンパシーを感じていたらしいが、そのシンパシーの根拠が何であるかはわからない。
 「……えーとメガネくん、イチから説明してほしいんだけど。一体なにをどうしてどんな根拠があってロンがレイジの弱点だって結論に辿り着いたのかな?僕、まったく意味不明なんだけど」
 表面だけの愛想笑いを浮かべたリョウの疑問に、言葉少なに僕は答える。
 「レイジ本人がそう言っていた」
 「…………レイジに聞いたんだ?」
 「聞いたが、なにか不都合でもあるのか?」
 驚愕をとおりこして絶句したリョウの口が力なく閉じられ、表情を拭ったように愛想笑いがかき消える。かわりに貼り付いたのは僕の愚かさを嘆いて呪うようなあきれかえった表情だ。自らの膝の間にがっくりと頭をたれたリョウが、深い深いため息をつく。
 「あのさメガネくん。僕言ったよね、『レイジの弱味を探ってきてくれ』って。君がしたことは秘密裏に『探った』んじゃなくて直接『聞いてきた』だけでしょ?」
 「過程はちがうが結論は同じだ。僕は結果論を重視する」
 「過程が大事なんだよ」
 リョウが辛抱強く繰り返す。膝の間に頭を抱えこんだリョウは恨めしげな上目遣いで僕をねめつけると、のろのろと緩慢な動作で上体を起こす。上体を立て直したリョウはなげやりに両手を後ろにつくと、もうお手上げだといわんばかりにかぶりを振る。
 「君に頼んだのが失敗だったよ。てゆーかメガネくん、そのメガネ伊達じゃないの?頭いいふりしてるだけじゃないのホントは。ホントに頭いいならそのへんの呼吸わかるっしょ、暗黙の了解ってゆーかお約束ってゆーかさ。なんで本人前にして直接聞くのさ。もう全部おしまい、君が余計なことしてくれたせいでなにもかもおしまい。ジ・エンド。へたしたらレイジにスパイの存在勘付かれたかもしれないし……」
 「スパイ?」
 「こっちのこと」
 顔の前に手を掲げて僕の追及を遮ったリョウが、助けを乞うように向かいのベッドに声をかける。
 「ビバリーなんとかしてよ、僕このままじゃサーシャに殺されちゃう」
 「僕は関係ないっすよ、てめえのケツぐらいてめえで拭いてくださいリョウさん」
 背後のベッドに腰掛けたビバリーがトラブルに巻き込まれるのを避け、我関せずと高速で首を振る。動体視力の限界のスピードで首を振り続ける同居人を苦々しげに睨み、唇を引き結んで正面を向くリョウ。
 なにがなんだかわからない。僕はリョウに言われたとおり、レイジの弱点を探って報告しにきただけだ。何故こんな恨みがましい目つきで見られなければならない?
 「―僕は言われたことを果たしにきただけだ。やることは済ませたしもう君とは関係ないだろう、帰らせてもらう」
 用は済んだ。これ以上ここに居残っている理由はない。
 我が身の行く末を悲観しているリョウに踵を返し、すみやかにその場を立ち去ろうとした僕の首筋にひやりとした金属の感触。
 「帰さない」 
 いつのまに動いたのだろうか。
 僕の背後に立ったリョウが、いつかの針金を僕の首筋に擬してほくそ笑んでいる。鋭利に研磨された針金の切っ先が首の薄皮一枚越しに頚動脈を撫でてゆく感触に心臓の動悸が速まる。
 僕の背中にぴたりと薄い腹を密着させたリョウが、なげかわしげにかぶりを振りながら愚痴を連ねる。
 「まったく……君が余計なことしてくれたせいで僕までピンチじゃないか。レイジに警戒されてない新入りなら彼に近づくのはラクだろうなとか高をくくってたけど、君ときたら全然ダメ。役立たず。最低。君よりそこらを這いずりまわってるゴキブリのがよっぽど役に立つね、だってゴキブリはいざってときの非常食になるもん。それに比べてどう?君ときたら頭の中身がどんだけ優秀かしらないけど、東京プリズンじゃ人に尻拭いしてもらってばっかり、自分じゃなんにもできないお荷物で役立たずで無力で非力なモヤシじゃないか」
 向かいのベッドのビバリーが片ひざ立ちになり、固唾を呑んでこちらの状況を見守っている。首の真後ろに針金をつきつけられた僕は目線でビバリーを制すと、首の皮膚に切っ先が食い込まないよう用心して首を捻り、肩越しにリョウと目をあわせる。
 「たしかに一理ある。ここでの僕は非力で無力、他人に助けられてばかりのゴキブリにも劣る存在だな」
 熱のない声で肯定する。首の後ろに擬された針金が怯み、リョウの目に困惑の波紋が浮かぶ。
 「非常に不愉快かつ不本意だが、君の言うことは正論だと認めるざるをえない。……一部だけな」
 首の後ろに鋭い痛みが走る。針金の切っ先が2ミリほど食い込んだらしいが、この程度ならたいした出血もないだろうと計算して振り向く。片手に針金を握り締めたリョウが、気圧されたように僕の目の奥を覗きこむ。
 リョウの緑の目に映った僕は、彼に「二種類しかない」と評された表情のうち一つを選択していた。
 人を人ともおもわない、冷血で傲慢な無表情。
 「誤解されては困る。僕は尻拭いしてくれと彼らに泣きついたわけじゃない。傲慢に聞こえるかもしれないが、サムライもロンも彼らが一方的に僕を補佐しただけだ。僕はむしろそれを不愉快に感じている。僕だって東京プリズンに収監された時点でひと通りの覚悟はできている。他人に触られるのはたしかに不愉快だ、吐き気がするほどおぞましい。だからといっていつまでも避けていられるわけがない。……結論からいえば」
 こめかみを指さし、続ける。
 「僕はこの中身さえ無事なら、下半身不随の重傷を負ってもいいと思っている。レイプでもリンチでもしたければすればいい、頭の中身さえ致命的な損傷を負わなければ僕は別にかまわない」

 そうだ、僕は本当に別にかまわないのだ。
 凱やその他の囚人に襲われたときはタイミングよくサムライが助けに入りことなきを得たが、いつまでもそんな幸運が続くとは現実的に考えられない。僕がいまだに輪姦も強姦もされず、右手の薬指の他は日常生活に差し障る怪我もなく過ごしてこれたのは単なる偶然の連続で産物にすぎない。
 そんな都合のいい状況がいつまでも続くはずがない。
 サムライが助けに入らず、ロンが我が身の保身を優先して凱たちにからまれている僕を放置することだってこの先あるだろう。たとえ彼らが自己の保身と安全を優先して結果的に僕が被害を被っても、それを非難する気は毛頭ない。
 何故ならそれが東京プリズンの「日常」で、最も賢い選択なのだから。
 僕が昨日リュウホウにしたのは特例だ。べつにリュウホウに同情を寄せたわけでも、不遇な立場のリュウホウに対し慈悲をかけることで安い優越感に浸ろうとしたわけでもない。あの時はああするより仕方なかった。動くエレベーターの中という逃げ場のない状況でリュウホウの嗚咽を聞かされるのが本当にたまらなかったのだ。

 泣き声を聞くと恵を思い出す。
 僕が思い出すのは恵の泣き顔ばかりだ。鍵屋崎の家での恵はいつも泣いていた。だから僕は人の泣き声が嫌いだ。それだけなのだ。

 「……ば、かじゃないの」
 リョウがたじろいだ。卑屈な笑みを口角にはりつけ、不均衡な嘲弄の表情を作る。 
 「レイプでもリンチでもしたけりゃ勝手にすればいいって、それ、誘ってるようにしか聞こえないんだけど」
 「誘ってるわけじゃない。諦めてるだけだ」
 そうだ。僕はもうすべてを諦めた。恵以外のすべてを。
 今の僕ならおそらく、何人にレイプされようが何人にリンチされようが「仕方ない」の一言で片付けてしまえる。不運な事故だと諦念して受容することができる。痛くも痒くもないというわけではない。多分、僕の想像を軽く絶するほどその行為は苦痛をともなうだろう。
 だからなんだ?それがここの日常ならいやでも慣れるしかないじゃないか。
 僕は冷めた目でリョウを観察した。貧弱で小柄な体躯のリョウに針金で人が殺せるとは思えないが、鋭利な先端を首に刺さればそれなりの出血は覚悟しなければならない。針金の切っ先が頚動脈まで達した場合、失血性ショックを起こし死に至る危険性もないとは言えない。
 だから僕は忠告してやった。
 「針金をあと3ミリ右にずらせ。正確に頚動脈の上を狙うんだ。君の手元が狂ったせいで長く苦しむのはぞっとしないからな」
 「…………」
 か細い息を吐いて腕をおろしたとき、リョウの顔はぐったりと弛緩しきっていた。
 「―冗談だよ、冗談。お茶目な悪ふざけ。この前のレイジを真似てみただけさ」
 唇の端に不敵な笑みをためたリョウが、手中の針金をぽんと放り上げる。天井近くまで浮上した針金は半弧を描いてまたリョウの手へと戻ってきた。背後のベッドでは片ひざ立ちの姿勢で食い入るように事態を静観していたビバリーが安堵に胸撫で下ろしていた。
 「リョウさん、タチの悪いイタズラやめてくださいっス。この房はあんたひとりのもんじゃないんだから、血の海を雑巾がけさせられる同居人のことも考えてくださいっス!」
 「ごめんごめん」
 「ごめんじゃ済まないっスよ、もう。頚動脈切ったら天井まで血が飛ぶんすから……あんなとこまで手が届きませんて」
 「あとでフェラしてあげるから許してビバリー」
 「お断りします、僕はノーマルなんっす!」
 ちろりと舌先を覗かせたリョウの謝罪にビバリーは憤然と拳を振り上げて反論したが、リョウ本人に反省の色はない。手中の針金を囚人服のズボンにさしこむと、思案げに眉根を寄せて僕の顔を覗きこむ。僕から三歩距離をとって思考に没頭していたリョウがふと何事か思いついたように顔をあげる。
 「メガネくん、悪いんだけどちょっと、ちょっと出てってくれる?」
 「何?」
 急きこんで歩み寄ってきたリョウに肩を押され後退を余儀なくされた僕は、リョウの勢いに押されるかたちで房から追い出される。後ろ向きに廊下へと押し出された僕はリョウの豹変ぶりにわけもわからずたじろぐ。
 「何だ急に。用が済んだのなら僕はもう帰っていいだろう?」
 「STOP!すぐ終わるからそこで待ってて!!」
 僕の首筋に針金をつきつけていたときとは別人のような慌てぶりで、興奮気味にまくし立てたリョウが乱暴に扉を閉じる。ドングリ集めに奔走するリスさながら扉の内側でごそごそと動き回っている気配がしたが、メガネの修理を承る代わりに課された役目を終えたぼくに彼の言葉を遵守する義務はないだろう。自分の房へ帰還しようと歩き出した僕の背後で勢いよく扉が開き、ぱたぱたとせわしない足音が追いかけてくる。
 「メガネくん、ご苦労様。今回はレイジの弱味を掴んできてくれてありがとう」
 意外な言葉に振り向く。
 息を切らして立ち止まったリョウが、あどけない頬を上気させてにこにこと笑っている。満面に笑顔を湛えて僕の労をねぎらったリョウは、害意などかけらもない単調な足取りで間合いを詰めると、混乱している僕の胸に一通の封筒を押し付けた。
 「で、ついでなんだけど……これ、レイジの奴に渡してきてくんない?」
 「?なんで僕がそんなことをしなければならない」
 「いいじゃん、減るもんじゃないし。君の命の次に大事なメガネを直してあげたんだから刑務所内のメッセンジャーくらい引き受けてくれてもいいっしょ?」 
 「『命と妹の次に大事なメガネ』だ、正確には」
 僕の手に手紙を握らせたリョウは「そうこなくっちゃ」と笑う。しぶしぶ手紙を受け取った―正確には受け取らされた―僕の前で軽快に背を翻し、自分の房へと今きた廊下を駆け戻ってゆくリョウ。はずむような足取りで去ってゆくリョウから手中の手紙へと目を戻した僕は、ふいに胸騒ぎをおぼえる。
 胸騒ぎの原因は、今、僕の手の中にあるこの手紙だった。
 馬鹿な。胸騒ぎなんてそんな非科学的なものに惑わされるなんて、僕らしくもない。 
 ともすると手紙を破り捨てたくなる衝動をかろうじて抑えつつ、ズボンのポケットへとしまいこむ。この手紙をレイジに渡せば晴れて僕の役目は終わりだ。リョウともレイジともさっぱり縁が切れ、他人に煩わされることなく今より少しはマシな日々を送れるようになるだろう。

 今より少しはマシな日々なんてものが東京プリズンに存在すればの話だが。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060521233726 | 編集

 扉をノックする。
 廊下に群れる囚人の視線が僕へと注がれる。露骨な好奇心と微量の畏怖がいりまじった不快な目つき。昨日レイジと立ち話したときにも感じた肌に微電流をとおされる感覚がよみがえり、嫌な汗がてのひらに滲む。
 思い過ごしだ。ここにきてから他人の視線に過敏になっているだけだ。
 そう自己暗示をかけて気分を落ち着けようとしたが無駄だった。廊下にじかに胡坐をかいて賭けポーカーに興じている囚人も卑猥なスラングが殴り書きされた壁にもたれて談笑している囚人も鉄扉に穿たれた矩形の窓に顔を密着させてこちらを窺っている囚人も、たしかに現実に呼吸して存在しているのだから。
 露骨な好奇心と微量の畏怖、そして極大の嫌悪を表出させた目の囚人たちがレイジの房の前に立った僕を遠巻きに眺めている。
 カードをさばく手を止めた囚人たちが顔を見合わせ、ひそひそと後ろ暗いささやきを交わす。
 「アイツ三階の鍵屋崎だろ?サムライと同房の」
 「なんで一階にいるんだよ」
 「てゆーかアレ、レイジの房だろ」
 「新入りの親殺しがレイジのヤサたずねて何しようってんだ」
 「お前馬鹿だろ。有名だぜ、レイジが鍵屋崎の額にフォークつきつけて脅した話。大方それを根に持って復讐にきたんだよ」
 「執念深い奴だなおい」
 「てめえの親をぐさっと殺しちまうような外道だぜ。血のつながりもねえ他人の命なんて鼻くそほどにも思ってねえよ」
 先刻まで卑猥な軽口を連発し互いの肩を小突きあっていた二人組が僕の横顔を盗み見て、聞こえよがしに言う。
 「あれが鍵屋崎?おとなしそうなツラしてんじゃねえか」
 「ツラだけだろ。中身は平気で親殺しちまうような下衆野郎だぜ、おれたちとは違う生き物だよ」
 「そうだな、そりゃおれたちは人のもん盗むしチームの抗争でガキ殺ったりはしたけど一つ屋根の下で暮らしてるてめえの親殺すような見下げ果てた真似しなかったもんな」
 「アイツよりおれたちのが遥かにマシだ」
 「ああ、遥かに上等だ」
 扉の手前につめかけた囚人が窓の鉄格子に顔を寄せ、息を殺してこちらを見つめている。
 「レイジの房に何の用だろうな」
 「王様に媚売りにきたんじゃねーか」
 「ケツ売りにきたんだろ」
 「いいねえ、あのケツなら俺高く買うよ。二千円くらい?」
 「そんな金持ってんのかよ、この前ハデにスッたくせに」
 悪意滴る下劣な嘲笑と下衆な野次、廊下の四方から押し寄せる不躾な視線に値踏みされて辟易した僕の前で扉が開き、明るい茶髪を襟足で一つに縛った青年が眠たそうな顔を覗かせる。
 レイジの登場と同時に、あれだけ騒がしかった廊下に劇的な変化が起きた。
 潮が引くように嘲笑と野次が大気に溶けて消滅し、廊下に群れていた囚人たちがよそよそしく顔を逸らしてりにわかに忙しげに立ち上がり自らの房へと帰ってゆく。膝に広げていたカードを束に纏めて輪ゴムをかけた少年が足早に廊下をよこぎり、壁際にふたり並んで僕を観察していた囚人がうしろめたそうに顔を背けて退散してゆく。鉄扉の内側からこちらを盗み見ているらしい人影は相変わらずそこにいたが、レイジが寝ぼけ眼で廊下を見渡すと同時にすばらしい反応速度でさっと奥にひっこんだ。
 皆が皆、レイジと関わり合いになるのを忌避するかのように。
 潮が引くように囚人が失せた廊下にただ二人立ち尽くしているのは僕とレイジだ。閑散としたコンクリートの廊下をぼんやり見渡していたレイジの目が正面の僕の顔へと戻ってくる。
 「……あれ、キーストア。何か用?」
 別段僕が房を訪れたことに驚く様子も見せず、平素とまったく変わらぬ様子でレイジが聞く。あくびを噛み殺したレイジの問いにそっけなく僕は答える。
 「用がなければ友人でもない君の房を訪れる理由がないだろう?当たり前のことを聞くな」
 「お前、天然で喧嘩売ってる自覚ある?」
 半ば感心したようにレイジが苦笑する。喉元まででかけたあくびを飲みこんだレイジの顔を睨み、早急に用を済ませようとズボンのポケットに手をさしいれる。
 「ま、入れよ」
 何を勘違いしたのか、レイジが鉄扉の脇へとしりぞいて僕を通す道を作る。レイジに手紙を渡して自分の房に直帰する予定を立てていた僕はこの予想外の行動に戸惑う。
 「―妙なことを言うな。大体僕が君の房に足を踏み入れる理由がないだろう?用件は今ここで済む、わざわざ余計な手間と時間をかける意味も利益もない」
 「お前がそう言うならいいけど」
 鉄扉の表面にもたれたレイジが薄笑いを浮かべ、意味ありげな視線を廊下に流す。レイジにつられて廊下をかえりみた僕は、左右の壁に等間隔に並んだ鉄扉の内側で幾つもの影が怪しくうごめいているのを目撃する。
 「囚人環視の状態でおしゃべりすんのは精神的に落ち着かねえんじゃないか?俺には視姦プレイの趣味ないし。それとも」
 鉄扉に片手をついて前傾姿勢をとったレイジが虚をつかれた僕へと顔を近づけ、甘い声でささやく。
 「キーストアは見られてたほうが感じるの?」
 「……馬鹿を言うな。僕は不感症だ」
 肩で押すようにしてレイジの顔を回避し、三歩後退。彼の意図したところを悟り、大人しくその言葉に従う。背に注がれる何対もの視線を過剰に意識しつつ、ぎくしゃくした足運びでレイジが待つ鉄扉の内側へと足を踏み入れる。
 背後で金属と金属が擦れる音が鳴り、それまで僕の四肢を束縛していた粘着質な視線が遮蔽された。
 レイジの房へと初めて足を踏み入れた僕は内心の緊張を紛らわすように視線を巡らす。僕の房と同じ、リョウの房とも殆ど変わらない殺風景な内観。コンクリート打ち放しの天井と壁と床は陰鬱な石肌をさらしていた。壁際に位置するパイプベッドの錆びれ具合まで僕にはよく見慣れたものだ。
 洗面台と便器、ベッドの配置にいたるまでなにからなにまで寸分たがわぬ無個性な内観を眺め終えた僕は、背後に人の気配を感じて振り向く。
 「面白いもんでもあったか?」
 「―あった」
 毛羽立った毛布がだらしなくめくれたベッドの片方、行儀悪く寝乱れたシーツには汗と垢と糞尿、そして精液の異臭が染み付いていたが、僕の注意をひいたのはその枕元に投げ置かれた一冊の本。

 聖書だ。

 「このベッドの持ち主はロンか?」
 「俺だよ」
 レイジがさらりと明言し、不覚にも僕は驚く。意外に思った僕の胸中を見抜いたのか、自分のベッドに腰掛けたレイジが屈託なく笑う。
 「おどろいただろ?俺みたいにパッと見人種不明な奴がイエス・キリストのホラ話を読んでるから」
 「君はキリスト教なのか?念のため指摘しておくが、キリスト教では同性愛はタブーだぞ」
 「いんや、無宗教」
 ひょいと枕元の本を拾い上げ、両の手でお手玉をはじめるレイジ。傷んで擦り切れた皮表紙の本がめまぐるしくレイジの両の手を渡る。左右の手の間を投げ渡される本の残像を無意識に目で追いながら、僕は疑り深く問いを重ねる。
 「下品で下劣で軽薄な言動が日常化している君が聖書を読んでるなんて意外だな。サムライの写経とおなじで、聖書を読んで罪滅ぼしでもしてるつもりなのか?もしそうなら」
 一呼吸おく。優雅に膝を組んだレイジの手中、だれかのプライドのように無残に擦り切れた皮表紙の聖書を一瞥して唾棄する。
 「君の良心はずいぶん安いんだな」
 「そうだな。日本円で80円くらいだ」
 右手で聖書を受け止めたレイジがさもおかしげに声をたてて笑う。鋭く尖った喉仏を上下させてけたたましく笑うレイジにうんざりし、僕は話題を変える。
 「ロンはどこにいる?」
 「シャワーだよ」
 なるほど。僕と同じで、ロンも今日がシャワーの日だったのか。納得した僕をよそに、レイジは深々とため息をつく。
 「まったく、アイツってばつれないんだぜ?一緒にシャワー浴びようぜって誘ったらこれだ」
 レイジが左手の甲を掲げる。おもいきりつねられたらしく、手の甲の中央部が赤く腫れていた。蜂にさされたように痛々しく腫れ上がった患部に哀れっぽく吐息をふきかけ、伏し目がちにレイジが愚痴をこぼす。
 「男同士なんだし照れることねーじゃんか。ああ、それともアイツまだ剥けてないのかな。だから俺と入るのいやがったとか。どう思うキーストア?」
 「悪いが君たちの下半身には一切興味がない。どちらかというとその手の話題には不快感を禁じえない」
 「つれねえなあ、お前もロンも。俺たち同じ穴のムジナじゃねーか、仲良くやろうぜ」
 膝に聖書を投げ置き、ベッドに後ろ手をついた怠惰な姿勢でコンクリートの天井を仰ぎ、レイジが大仰に嘆く。ふと疑問に思った僕は何が起きても迅速に対処できる安全圏に自分の身をおいたまま、ベッドに腰掛けたレイジに質問する。
 「レイジ、君はいつでも自由にシャワーが使えるのか?」
 「いまさらだな」
 愚問だといわんばかりに含み笑ったレイジ、その自信家然とした態度にどこか空恐ろしいものを感じる。ペンキの剥げたパイプベッドを粗末な玉座に見立てて後ろ手をついたレイジが、見る者すべてを魅了するカリスマの笑顔を浮かべる。
 「俺は東棟の王様だ。王様には特権が与えられる。王様権限でシャワーでも何でもパスだ」
 特別待遇というわけか。
 どうやら看守に気に入られたごく一部の囚人に限り、シャワーなどの設備を優先的に使用できるというのは本当だったらしい。好待遇のレイジに嫉妬したわけでもないが、僕はもう一刻もこの房に留まっているのがいやになった。悠悠自適な身分のレイジは優雅に暇をもてあましているらしいが、炎天下での強制労働を終えた僕は心身ともに疲れきっており、用を終えたらさっさと房に直帰してベッドに倒れこみたいのが本音だった。
 ズボンのポケットに片手をもぐりこませ、手紙をとる。ベッドに腰掛けたレイジの鼻先に手紙をつきつけ、言う。
 「君にだ」
 レイジが瞬きした。当然「だれから?」と誰何されると思ったが、予想に反してレイジは疑義を挟まなかった。ただ、押し付けられるがままに鼻先につきつけられた手紙を受け取ると、神妙に片目を眇めてあらゆる角度からためつすがめつしてみせる。それこそ一流鑑定士の細心さで手紙を頭上に翳して検分していたレイジの顔に不可解な笑みが浮かぶ。
 レイジが奇妙な行動にでた。
 僕は当然口から開けると予想していたのだが、レイジは手中の手紙を逆さにするや、封筒の後部を一直線に破り捨てたではないか。封筒の尻の部分を一気に破り捨てたレイジは、ぎりぎりまで片目を細めて封筒の中をのぞきこむ。
 「あたり」
 唇の端に二ッと笑みをためたレイジが悪戯っぽく僕を仰ぎ、足元の床の上で封筒を逆さにする。
 軽く振られた封筒の中からすべり落ちてきたのは、鋭利な銀の輝き。封筒の傾斜をすべってきた銀の刃はあっけなく床に落下するや、カチャンとむなしい音を奏でた。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げて床の落下物に焦点を凝らした僕は、銀の光沢をまとう薄片の剣呑な正体に気付く。
 「剃刀の刃だ」
 口にしてからある疑惑を思い浮かべてハッとした。はじかれるようにレイジを見る。レイジは笑っていた。すべてを見通すような深淵の微笑を湛え、進退窮まって躊躇する僕の動向を探っていた。
 この状況は非常にまずい。剃刀の刃を仕込んだのは僕ではないと弁解しなければ。
 「これはー……」
 レイジの眼光に圧されて口を開いた僕をさえぎったのは、褐色のてのひら。皆まで言うなと僕を押しとどめたのは、何を隠そうレイジ本人だった。
 「わかってる。このえげつなさはリョウだ。あのガキ、トゥシューズに画鋲しこむ黎明期の少女漫画かっての」
 自分が口にしようとした事実を先回りされて言葉を喪失した僕は、眉間に皺を刻んでレイジを凝視する。何故ぼくが手紙のさしだし人を告げる前からリョウだとわかったのか?などと脳裏で疑問符が増殖してゆくが、答えを求めて仰いだレイジは相変わらず笑みを浮かべたまま、再度手中の封筒を傾げる。
 剃刀の刃が仕掛けられていた逆方向からレイジのてのひらへと滑りおちたのは、一枚の紙片―否、違う。今のは見間違いだ。レイジの右手にあるのは紙ではなく、トイレットペーパーの切れ端だ。端がびりびりにちぎれたトイレットペーパーの裏面にかすかに字が透けて見える。僕は極限まで目を細めてトイレットペーパーの裏面に浮き出た文字を読み取ろうとしたが、レイジが全文に目を通すほうが早かった。
 
 一瞬、レイジの笑みが深まったように見えたのは気のせいだろうか。

 おもむろに席を立ったレイジが僕の横を通り過ぎ、大股に便器へと向かう。無意識にレイジのあとを追った僕の目の前で、自分が手にしたトイレットペーパーの切れ端を一抹の未練なく便器へと流す。ザアア。勢いよく水が迸り、ポンプを押しこむ一動作で証拠隠滅したレイジが爽やかに振り向く。
 「さんきゅうキーストア。お前の用は済んだ、もう帰っていいぞ」
 「帰っていい」と促されたのは理解できたが、床の表面に足裏が接着されたような心地がするのはあまりにも腑に落ちないことが多すぎるからだろう。音痴な口笛を吹きつつ僕のもとへと戻ってきたレイジ、その耳元でささやく。
 「今のトイレットペーパーには何が書かれていた?何か、重大な用件じゃないのか」
 「気になるか?自分が運んできた爆弾の正体が」
 「爆弾?僕は爆弾か、それに類する危険物を知らず知らずのうちに運ばされたというのか?」
 「悪い、物騒なたとえだったな。メガネくんには刺激が強すぎたか」
 レイジがけたけた笑いながらベッドに尻を落とし、その衝撃でスプリングが軋み、マットレスが弾む。

 レイジの目を直線で覗いて気付いた。
 レイジの口元はたしかに笑っていた。それが不正確な表現なら、たしかに笑みに類似する表情を形作っていた。
 だが、悪魔のように吊り上がった口角と収縮した顔筋の上に嵌め込まれたおそろしく透明度の高い薄茶の瞳に浮かんだ表情は、笑みというにはあまりにも。
 
 「強いて言えば、招待状だな」
 あまりにも。
 好戦的で攻撃的。
 野蛮な娯楽ではなく、生命維持欲求の必然で獲物を捕食する動物のように血なまぐさい笑み。
 笑みに分類できない笑みを満面に湛えたレイジはさも愉快げに喉を鳴らすと、ひどくおもわせぶりに僕を一瞥する。
 「俺はこの城の王様だから、玉座の脚をかじるのが大好きなシマシマのネズミたちから素敵な招待状をもらうこともあるのさ」
 
 ぞっとした。

 リョウに針金をつきつけられたときでもここまで本能的な危機感はおぼえなかった。全身の肌が粟立つ感覚、背骨を貫く氷柱の戦慄。たった今ぼくの目の前でトイレットペーパーの招待状を千々に破り捨てたレイジは、何がたのしいのか全く理解できない笑みを浮かべ、唄うように続ける。
 「俺もおちおちできねえな。北国生まれのネズミは永久凍土も噛み砕ける歯が自慢だから、呑気に舞踏会の日を待ってたら全部の脚を齧られて王座が転覆しちまう。今晩、予行演習に出向くのも悪かねえな」
 まったく意味不明の独り言を饒舌に述べ立てるレイジから半歩ずつあとじさり、充分な距離がひらいたところで方向転換。ひとおもいに鉄扉を開け放ち、廊下へと飛び出す。
 廊下にたむろっていた囚人と肩がぶつかり、背中に怒号が浴びせられる。矢継ぎ早に浴びせられる怒号を追い風にして足を速め、ただ一刻も早くレイジのいる房から逃れたい一心で床を蹴る。途中、何人もの囚人にぶつかった。何度も肩や腕や脛をぶつけた。
 しかし、一度も立ち止まらなかった。一度も立ち止まらずに廊下を全力疾走し、入所初日にあてがわられた自分の房へと帰還した僕はノブに片手をかけた時点で力尽き、とんと廊下に膝をついた。
 房の中で動く気配があった。
 カチャリとノブが半回転し、鈍い響きを伴って鉄扉が開く。侵入者を警戒して薄く開かれた鉄扉の隙間から無愛想な顔を覗かせたのはサムライだった。
 「羅刹でも見た顔をしてるな」
 「………らせつ?」
 「大丈夫か」などという生ぬるい言葉を期待していたわけではないが、この一言には面食らった。とっさに漢字を思いつけなかったのは失態だ。いくら気が動転してたとはいえ、僕はここにいる低脳どもとは違う天才なのだから。

 そして、なぜ鍵屋崎 直ともあろう者がこのような見苦しいまでの恐慌状態に陥ったのだろうかと首を捻る。

 僕はいつでも冷静沈着に物事に対処していたはずだ。東京プリズンにきてからずっとそうだったじゃないか。対象を観察し、分析する。
 僕は他の人間に対してしてるのと同じ行為をレイジにしようとしただけだ。
 それなのに、このザマはなんだ?

 「暴悪で恐ろしい意の梵語の音訳」
 サムライの呟きにぎょっと顔をあげる。僕の体が入りこめるだけ鉄扉を開けた用心深いサムライが、抑揚のない声で繰り返す。
 「空中を飛行し、人を食うといわれる鬼のことだ。羅刹とは」
 「―そんなことは貴様に教授されなくても知っている。馬鹿にするな」
 サムライを押しのけて房へと足を踏み入れた僕は、覚束ない足取りで自分のベッドへと向かう。膝から下が崩れ落ちるようにベッドに腰掛けた僕の耳に鉄扉の閉じる音が響く。房内へと帰ってきたサムライがじかに床に胡坐をかき、手前に伏せられていた経文を手にとる。どうやら読経の最中だったらしい。無表情に読経を再開したサムライの横顔をすることもなく眺めているうちに動悸が鎮まってきた。
 読経が終了した。
 僕の心拍数も平常値に戻った。
 経文をきちんと折りたたんで懐へと戻したサムライが、平時でも細い目をさらに細めてこちらを振り向く。
 「鍵屋崎、お前も読経の習慣をつけてはどうだ?」
 「は?」
 おもわず反駁した僕に向き直り、サムライが淡々と解説する。
 「今のお前は羅刹が人を喰らうところを目撃したようなひどい顔色をしてる。魔除けの効果までは保証しないが、気休めぐらいにはなるぞ。般若心境は」
 「……そんな無意味な言葉の羅列にご利益があるとは思えないし、僕は非科学的な物を一切信じない主義だ。第一、僕が見たのは羅刹とかいう名の架空のインド神じゃない」
 「なにを見たんだ?」
 興味なさそうにサムライが聞き、レイジの笑顔を思い出した僕はこう言うしかなかった。
 「暴君だ」
 なぜレイジが東棟の王様を自称するのかわからない。
 東棟の囚人がレイジを恐れる理由も、レイジが特別待遇を受けている理由もわからない。
 わからない―理解できない。
 レイジの笑顔は、レイジの存在は、まったく僕の理解の範疇外にあるのだ。僕の知らないものを見て僕の知らないものを飲み食いし僕の知らない空気を呼吸した生物だけが浮かべることができる、異質な笑顔。
 価値観が相容れないとか、そんな次元の問題ではないのだ。極端な話、さっきの僕の動揺は……こちらが観察者だと思って顕微鏡を覗いていたら、観察対象のミトコンドリアが突然しゃべりだしたような超常の恐怖。それまでこちらが完璧に優位に立っていると信じて疑わなかったのに、あちらはいつでも使い捨てがきく観察対象のひとりに過ぎなかったのに、一瞬で立場が逆転したのだ。
 
 十五年生きてきたが、あんな気持ち悪い笑顔を浮かべる人間には初めて出会った。
 あれは人間が浮かべる笑みじゃない。もっと動物的な、むきだしの攻撃本能が昇華した笑み。

 生理的嫌悪などというなまやさしい感情じゃない、もっと凶暴で攻撃的な感情が一挙に押し寄せてきて胃が縮む。猛烈な吐き気をおぼえて口元に手をやった僕を目の端でとらえ、サムライがぽつりと呟く。
 「吐きたいなら俺はよそを向いてるが?」

 見抜かれていた。

 片手で口を覆ったまま、殺意をこめてサムライを睨む。有言実行のサムライは平然とした顔で壁の方を向く。奥歯を食いしばってなんとか吐き気を飲み下した僕は、無関心を気取ったサムライの背中に刺々しい皮肉を叩きつける。
 「君と同房にいれられてから吐き気が止まない。こんな換気の悪い房で赤の他人と同じ空気を吸ってるのかとおもうと気分が悪くなる。―簡潔に言えば、ここで吐いたら止まらなくなるぞ。いいのか」
 「よくはない」
 背中越しにサムライが答える。大きく深呼吸して気分を落ち着かせた僕の鼓膜を、深沈と静まった声が叩く。
 「ただ、それ以上にー……そうやってしなくていい無理をしているお前の姿は見苦しい」
 頭をうしろから殴られたような衝撃。
 サムライは依然壁と向き合ったまま、ぴんと背筋を伸ばして瞑想に耽っている。その背を罵倒しようとしたが、途中で舌が萎える。
 「…………」
 荒々しく毛布を羽織り、壁の方を向いてベッドに横たわる。僕は強制労働で疲れていた。明日に備えて一分一秒でも泥のような眠りを貪りたい。この男の意味不明な戯言に付き合って貴重な睡眠時間を削るのは馬鹿らしすぎる。
 
 目を閉じる前に見たサムライの背中が、瞼の裏の暗闇に浮上する。
 強い意志を感じさせる不動の背中。自分を支える芯が中心に備わっている人間だけが持つ安定した存在感。

 見苦しいのはどちらだ。
 シャワーもろくに浴びてないような、髪もフケだらけの貴様に言われたくない。
 そんな台詞は自分の身なりを鏡に映してから言え。

 そう言おうとした。しかし、言えなかった。何故なら心の底の底で、僕は「サムライが見苦しい」と言い切れなかったから。
 はたして、この男が見苦しく見えるだろうか?
 身なりの問題ではない。もっと本質的な部分で、この男が見苦しく見えるだろうか?

 答えは既にでていた。僕の頭は悪くない。正解など、眠りにおちるまでのごく短時間で見つけてしまった。

 そして僕は、サムライと共に過ごす今日この夜ほど自分の頭のよさを呪ったことはない。
 だから僕は嘘をついた。
 ほかの誰に対してでもない、自分に対しての嘘。
 「……見苦しいのは貴様のほうだ、サムライ」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060520234028 | 編集

 覚醒と微睡の間を移ろうごく浅いレム睡眠。
 羊水の海にたゆたう胎児のごとく、なめらかな水の皮膜につつまれた意識がゆっくりと瞼の裏側に浮上し、薄目を開ける。
 視界に映ったのは闇に沈んだ天井。墨汁を流したように濃縮された闇が、唯一の光源たる豆電球の明かりが消された房を覆っている。
 房には時計がないため正確な時間はわからないが、規律で定められた就寝時刻はとうに過ぎているらしく、見回りの看守も絶えた廊下はしんと静まり返っている。
 鼓膜に浸透してくる静寂。
 その底に混ざるのは分厚い壁を隔てた隣の房からかすかに聞こえてくる囚人のいびきと耳障りな衣擦れの音、寝返りを打つたびにパイプベッドが軋む音。時折混じるのは姿の見えないネズミの鳴き声だろうか。
 東京プリズンにどれだけの個体数のネズミが生息しているかはさだかではないが、僕がこの房に収監されてからベッドの足もとを素早い影が通り過ぎたのは一度や二度ではない。
 掌大の小さな影は灰色の残像を残してどこへともなく消え、僕は遂に彼らの住処を見つけることができなかった。
 いや、東京プリズンにはネズミよりもっと恐ろしい生き物がいる。
 「…………」
 ベッドに上体を起こした僕は息を殺し、注意深く周囲の気配を探る。この房に収容されてから何度眠りを妨げられたか知らない不快音がしないかと暗闇に耳を澄ましたが、幸いにも奴らの気配はない。
 ほっとして枕元に手を伸ばす。就寝時、枕元に置いた眼鏡を装着して改めて正面の闇へと目を凝らす。
 房の暗さに目が慣れるにつれ、部屋の輪郭が浮き彫りになる。
 壁際に位置するパイプベッドの形状とその正面に穿たれた鉄扉の輪郭線、四面に迫った壁の重量。ひとしきり視線を巡らして自分がおかれた状況を把握しようと努めていた僕は、ある異常に気付いて眉をひそめる。
 
 変だ。
 寝息が聞こえない。

 無事な左手で毛布を握り締めたまま、隣のベッドへと視線を転じる。サムライが寝ているはずのベッドはからだった。どうりで寝息も衣擦れの音も聞こえないわけだ。どれだけサムライが日頃気配を抑制しているからと言って、肺呼吸で生命維持活動をする生き物である前提からは逃れられない。就寝中でも呼吸くらいはするだろう。
 
 しかし、こんな時間にどこへ行ったんだ?あの男は。

 不在のベッドをじっと見つめる。毛布は寝乱れた跡さえなく端正に整えられていた。サムライの律儀すぎる性格を表しているようで興味深い……呑気に状況分析している場合ではない。肝心の本人はどこへ行ったんだ?就寝時刻を過ぎたあとで囚人が出歩くのは厳禁とされている。
 看守に見つかったら体罰を受けるのではないか?
 「―関係ない」
 そうだ、あの男が体罰を受けようが関係ない。
 こんな夜中にどこを出歩いてるか知らないが、あの男の行く先など僕にはまったくもって関係ない。たとえあの無礼な男が看守に見つかって夜間外出を咎められ東京プリズン中の囚人から恐れられる独居房送りになったとしても、僕は痛くも痒くもないのだ。いい気味じゃないか。何もわかってないくせして、あんな愚鈍な男に僕を非難する資格があるのか?賢しげに僕を批判する権利があるのか?
 アイツも少しは思い知ればいいんだ。
 そう結論した僕はふたたび毛布を羽織ってベッドに横たわったが、一度去った眠気は二度と訪れなかった。中途半端な時刻に起きたせいか目は異常に冴えていた。寝返りを打つ。壁の方を向く。眠れない。寝返りを打つ。サムライのベッドの方を向く。
 
 ―くそ。僕が眠れないのはアイツのせいだ。気になってしょうがないじゃないか。

 荒々しく舌打ちして跳ね起きた僕は、悪臭の染み付いた毛布を払いのけて床へと足裏をおろす。忌々しげにからのベッドを睨む。べつにアイツのことを心配してるわけじゃない。気色悪い誤解をしないでくれ、僕にはレイジのような同性愛の特殊嗜好はない。ただ、不条理が当然のごとくまかりとおる東京プリズンでは同房の囚人が規則を破った連帯責任でぼくまで被害を被る恐れがあると思い至ったまでだ。
 そろそろと足を進め房をよこぎり、鉄扉へと辿り着く。音がしないよう慎重にノブを回す。薄く開けた鉄扉の隙間から天井と平行に延びた廊下を盗み見る。

 人気はない。
 等間隔に設置された蛍光灯の明かりが薄ら寒く廊下を照らしているだけだ。

 おもいきって扉を開ける。音がしないよう、静かに閉じる。無人の廊下に立った僕はもう一度左右を見回し、看守の姿がないことを確認する。サムライの姿を見つけてすぐに房に戻れば、僕まで規律違反したことはばれないだろう。サムライだってそんなに遠くに行ったはずがない。この階のどこかー……もしくは、この東棟のどこかにいるはずだ。
 そう推理してひんやりした廊下を歩き出す。天井に並んだ蛍光灯が青白く発光し、どこか病的な感じのする人工の光を投じて長い廊下を漂白している。左右の壁に並んでいるのはどれも同様の形状の重厚な鉄扉。さすがにこの時間ともなればほとんどの囚人はぐっすり寝入ってるらしく、僕と同じように出歩いてる物好きなご同類とすれ違うことはなかった。
 歩きながら、就寝前にサムライに言われた言葉を反芻する。
 『それ以上に、そうやってしなくていい無理をしているお前の姿は見苦しい』
 見苦しい?
 この僕が? 
 そんなことは認めない。そんなことがあってたまるか。
 僕は普通に生まれた普通の凡人どもとは違うんだ。あらかじめそう設計されて、緻密に計算されて、天才として生を受けた鍵屋崎 直なんだ。
 その僕が、選ばれたこの僕が、サムライのような凡人の目には普通の凡人以下の見苦しい人間に見えるのか? 
 『それがあなたの本性よ、鍵屋崎 直』
 頭蓋骨の裏側で殷殷と反響するのは、鈴を振るように朗らかな声。
 『あなたの本性は見るもおぞましい怪物……わたしとはちがう、わたしたちとはちがう。そう、生まれた時から。いえ、生まれる前からあなたは人と違っていた。生まれる前からあなたは異常だった。異常な生まれ方をしたあなたが平常な人生を歩めるはずがないじゃない』
 無邪気に僕を見下す声の持ち主は、おさげを肩にたらした少女―恵。
 この世でだれより大切な、僕自身より遥かに大切な、僕の妹。ただひとりの家族。
 なんであんな夢を見たんだ?恵があんなことを言うわけがない。恵はあんなに僕に懐いていたじゃないか、殺伐とした空気がただよう息苦しい家で実の両親よりもだれよりも僕を一途に慕ってくれたじゃないか。

 僕の恵は絶対にあんなことは言わない。あんなことを言うはずがない。
 心の中の声から逃れるように早足になる。しかし、引き離そうとすればするほど実体のない声は執念深く追いかけてくる。

 『お前は見苦しい』
 『それがあなたの本性よ』
 『しなくていい無理をしている』
 『異常な生まれ方をしたあなたが平常な人生を歩めるわけがないじゃない』
 『それ以上に……』
 『そう、生まれた時から……』  

 ―「うるさい!」― 
 廊下に怒鳴り声が響いた。
 それが自分の声だという事実に打ちのめされ、ほかならぬ自分の正気を疑う。自分の声で我に返った僕は、包帯を巻いた右手を片耳に押しつけていたことに気付く。純白の包帯が目に入った途端、条件反射でリュウホウのことを思い出す。
 エレベーターの中で嗚咽をこらえていたリュウホウの姿がよみがえり、胸焼けに似た不快感が沸々とこみあげてくる。
 リュウホウの泣き顔に恵の泣き顔が被さる。
 僕の記憶の中の恵はいつも哀しい顔でうつむいている。僕は恵にそんな顔をさせた原因を心の底から憎んでいたし、恵を守るためならどんな手段も厭わなかった。それなのに、原因を排除したあとも僕の記憶の中の恵の顔は晴れない。相変わらず哀しい顔のまま、僕のほうさえ見ずにうつむいているのだ。
 
 そんな顔をする必要はないだろう、お前を哀しませてる原因は排除したんだから。
 だから、笑ってくれ。恵。
 またピアノを聞かせてくれ。
 現実に会うのが不可能なら、せめて、束の間の夢の中でも……

 ズル。

 「?」
 廊下の中央で立ち止まり、あたりを見回す。

 ズル。

 まただ。気のせいではない。なにかを引きずるような重たい音がどこからか聞こえてくる。そのまま音をさかのぼって廊下を歩いていると、十五メートル前方に岐路が見えてくる。そのまま直線方向に進む道と右へと別れるコンクリートの通路の二者択一。岐路の手前で立ち止まった僕は、壁に片手をついて薄暗い右通路をのぞきこんでみる。
 階段があった。
 エレベーター代わりに囚人たちが使用している階段は別の場所にある。こんなわかりにくくて目立たない場所に普段は使用されてない階段があるなんて初めて知った。まるで、人目から隠すように……
 この階段は故意に隠蔽されていた?まさか。隠蔽する理由が思いつかないとかぶりを振りかけた僕の脳裏でリュウホウの言葉が閃く。
 『ブ、ブラックワークは………、今は食事中だし……ここで話すようなことじゃない……』
 この秘密の階段は、ブラックワークの仕事と関連してるのか?
 根拠のない直感に突き動かされるがまま暗闇に沈んだ階段の方へと歩を踏み出した僕は、ふと足もとに目をやって点々と床におちている染みに気付く。眼鏡のブリッジを押し上げ、中腰の姿勢で床を染めたしずくを観察する。
 
 正規の通路からわずかに漏れ入ってくる蛍光灯の明かりに照らされ、仄かに浮かび上がった液体の正体は……
 血だった。
 
 「なんでこんなところに……」
 東京プリズンに収監されてからいやというほど血には免疫ができた。床に滴った血痕を見つけたぐらいではいまさら驚かない。僕の疑問は何故こんな所に血が、その一点に尽きる。夜間、看守の目を盗んで自分たちの房を抜け出した囚人たちが人目につかない階段の踊り場でリンチでもしているのかと思ったが、その割には静かすぎる。
 この状況、なにもかもが不自然だ。
 ずる。
 階段の下方から重たい音が響いてきた。柔らかく固い物体と床がこすれる音だ。まるで、人間を引きずってるかのような……そこまで考えて、階段の最上段に足を伸せる。錆びてペンキが落剥した手摺にすがり、足を踏み外さぬよう注意して一段ずつ階段を降りる。時間をかけて踊り場へと到達した僕は、目下の階段でのろのろとうごめく影を発見する。
 その影は二人だった。
 二体の影の中間に挟まれているのは、ちょうど僕と同じ位の背格好の袋だ。形状からしてゴルフバッグに近いそれは奇妙にふくらんでおり、一人が頭の方を持ち、もう一人が足を抱えこむ格好で不器用に運搬されていた。僕が最前から耳にしていたなにかを引きずるような音の正体は、あのゴルフバッグが段差を引きずられる音だったのだ。
 「う、うう」
 奇妙な声がした。
 「うううううう」
 不明瞭な声、獣じみた唸り声。どす黒い恐怖にむしばまれて狂乱する一歩手前の、精神的に極限まで追いつめられた声。しかし僕が戦慄したのは、夜気を震わせて鼓膜に届いたうなり声にたしかに聞き覚えがあることだった。
 これは、この気弱そうに震える語尾は……
 「う、ふうう、う」
 「うるせえっ、しずかにしろっ!」
 ゴルフバッグの頭の方を抱え持っていた人影が自制心を切らして怒鳴るが、ゴルフバッグの足を抱え持った人影の震えはやまない。痩せ細った背中を胎児のように丸めた影は、小刻みに嗚咽をもらしていた。
 エレベーターの中で見たリュウホウの泣き顔が、吃音の嗚咽を漏らす背中に重なる。
 僕は確信した。ゴルフバッグを運搬している片方の影の正体は、リュウホウだ。
 「いやだ、もうこんなのいやだ………」
 「だまれ」
 「うちに帰りたい……」
 「だまれっつってんだろ」
 「お父さん……」
 「次言ったら殺すかんな」
 「おかあさ、」
 予告どおり、ゴルフバッグの頭を抱え持っていた少年が激発した。
 「!!」
 乱暴に突き飛ばされたリュウホウが勢いを殺せず階段の段差に尻餅をつき、そのはずみでゴルフバッグを取り落とす。階段に叩きつけられたゴルフバッグが鈍い音をたて、頭側に立っていた少年が唾をとばして怒鳴り散らす。
 「ったく、うぜーんだよお前!めそめそめそめそ泣きやがって、俺だって好き好んでこんな汚れ仕事やってんじゃねえ!今期の配置換えでブラックワークになったから仕方なくやってんだよ!じゃなきゃだれがお前みてえな玉ナシのオカマ野郎と一緒にいるかってんだ!!」
 頭に血がのぼった少年が尻餅をついたままのリュウホウに容赦なく蹴りを入れる。腹を蹴られたリュウホウが体を二つに追って反吐を撒き散らし、足に杜寫物がかかった少年がさらに怒り狂う。
 「きたねえよ!!」
 「ごめ、」
 「便所でそのなさけねえツラ洗ってこいよ、聞いたぜ、地下のトイレで瞬英たちにケツ掘られたって!そうやってなよなよして謝るしか脳がねえから目えつけられるんだよ、自業自得だこの蛆虫。てめえみてえにうじうじした奴と同じ空気吸ってると俺のはらわたにまで蛆が沸いちまう、くそ、想像したら気持ち悪くなったじゃねえか!」
 「ごめんな、」
 涙と鼻水と唾液で顔面をしとどに濡らしたリュウホウが頭を抱え込んで慈悲を乞い、リュウホウを蹴倒した少年が最後の留めとばかりに引導を渡す。
 「俺はもう帰る!あとはお前ひとりでやれ!」
 リュウホウの顔が青ざめた。
 「そ、んな」
 這い這いの姿勢で少年へと歩み寄り、その足にすがりついたリュウホウだが力の限り蹴飛ばされてその場に打ち伏せる。
 リュウホウを蹴倒した少年が踊り場へと登ってくる前に隠れる場所はないかと視線を巡らすが、狭隘な踊り場には姿を隠すに都合のいい遮蔽物など見当たらない。
 しかし、紀憂だった。怒りに我を忘れた少年は壁に背中を密着させた僕の前を気付かずに通過し、上の階段をのぼっていった。
 蛍光灯の光も届かない暗闇が功を奏したのだろう。
 警戒を解いた僕は、階段の中腹でべそをかいているリュウホウへと目をやりその対処に困る。
 そんな僕の逡巡をよそに立ち上がったリュウホウはよろよろと立ち上がるや、たった一人でゴルフバッグを引きずりはじめた。不安定な腰で体重を支え、階段の下へ下へとゴルフバッグを引きずってゆく頼りない姿に自分でも説明できない苛立ちをおぼえ、おもわず声をかける。
 「なにをしてるんだ?」
 「!」
 リュウホウの反応は顕著だった。
 背後から声をかけられた驚愕のあまり、両手に引きずっていたゴルフバッグを取り落としてしまう。リュウホウの手を放れたゴルフバッグは怒涛の勢いで階段の傾斜を滑り落ちると、耳を聾する轟音をたてて階段直下の床へと落下した。
 落下の衝撃でジッパーが開き、ゴルフバッグの中身が外気にさらされる。
 
 それを見て、僕は声を失った。
 ゴルフバッグの中につめこまれていたのは、死体だった。

 ただの死体ではない―赤黒く青黒く顔が膨れ上がった、正常な神経の持ち主なら吐き気をもよおすほど醜い面相の死体。いびつにめくれた唇の端には乾いた血泡がこびりつき、腫れがあった瞼で半ばほどふさがれた目は白濁している。軟骨が折れているらしく、鼻が変な方向を向いていた。前髪は毟られて血の滲んだ頭皮が露出し、右手の爪は全部剥がされて生々しい肉の断面が外気に触れていた。
 だが、僕が驚いたのは死体の惨状を目にしたからではない。
 二目とつかないほど変わり果てた死体の面相に、ごくわずかながら生前の面影があったからだ。
 僕と同じジープの荷台に揺られ東京プリズンに移送されてきた、自分を純血種と吹聴する少年の顔が。
 『強盗だよ。スラムの奴らを標的にしてたからアガリは大したことなかったけどな……これでも七人殺ってるんだぜ、おれ』
 「ダイスケ………」
 こわばった舌で名を呼ぶ。
 当然、反応はない。相手は一目でわかる死体だ。心停止した死体に呼びかけるという愚を犯した僕は、その行為が示すとおり完全に気が動転していた。

 なんでダイスケが死んでるんだ?
 なんでダイスケの死体をリュウホウが運んでるんだ?
 これはどういうことだ、一体??

 「あ……」
 階段の中腹に立ち尽くしたリュウホウは恐怖に見開かれた目でゴルフバッグを凝視していたが、やがてその目が僕へと向けられる。おずおずと僕を振り仰いだリュウホウが必死の弁解を試みようと唇を開いたのをさえぎり、叫ぶ。
 「君が」
 心臓が早鐘を打つ。異常に血の巡りが早くなり、現実感が失せてゆく。全身の毛穴から汗が噴き出し、急速に水分が失われてゆく。
 「君が殺ったのか?」
 その瞬間のリュウホウの表情を、どう表現したらいいのだろう。
 一瞬空白になった表情が反転し、信じがたいものでも見るかのような目で僕を凝視する。裏切られた―それが一番近いのかもしれない。
 絶望に暮れた目で僕を仰いだリュウホウは、縮んだ舌根を奮い立たせて彼にしては力強く反論を試みようとした。
 「ちが、聞いて……」
 僕の方へと手をのばして階段に足をかけたリュウホウ、その必死な形相を目にした刹那、僕の中で何かが切れた。感情の許容量を超えた堰が決壊し、暴風に翻弄される木の葉のように理性が押し流される。
 全身が鳥肌立つような本能的な恐怖に襲われ、僕は絶叫した。
 「近寄るな!」
 「!」
 リュウホウがびくりと立ち止まる。僕と三段隔てた距離で立ち止まったリュウホウは、人間として当然備わっているべきあらゆる感情が蒸発した空洞の目で僕を見つめていた。僕はそれどころではなかった。リュウホウの変化に注意する余裕などこれっぽっちもなかった。
 呆然と僕を見つめるリュウホウの目を威圧的に見返す。
 「……僕にさわるな」
 呼吸の狭間からこぼれたのは、哀願。
 僕の目に映るのはリュウホウの遥か背後、階段の真下に横たわるゴルフバッグ、不自然な方向に手足を折り曲げられてその中につめこまれたダイスケの死体。
 喉の奥に酸っぱい胃液がこみあげてきて気分が悪くなる。僕の目の前にかざされたリュウホウの手、その皺のひとつひとつまで判別できる距離にリュウホウがいるという事実に耐えきれず、顔を背ける。
 リュウホウは、あの手でダイスケの死体に触れたんだ。
 「頼むから、僕にさわらないでくれ」
 汚い。
 「頼むから……」
 汚い汚い汚い。一刻も早く、僕の前から消えてくれ。消え失せてくれ。
 リュウホウは魂を抜かれたかのようにその場に立ち竦んでいたが、やっと僕の語尾を汲み取ったらしく、のろのろと踵を返す。元きた道を戻って階段を降り、ふたたびゴルフバッグを抱えなおしたリュウホウの背中を見送っていた僕は、全身の筋肉が弛緩するような脱力感を味わう。
 壁に背中を付けて呼吸を整えるのに集中していた僕に、冷静な思考力が戻ってくる。
 馬鹿な。リュウホウにダイスケが殺せるはずがない。
 あの非力なリュウホウがダイスケを殴り殺せるはずがないじゃないか。今だってあの少し力をこめたら折れそうな細腕で、ダイスケの死体をつめたゴルフバッグを引きずっているじゃないか。
 自分の愚かさに忸怩たるものを感じつつ顔をあげた僕は、リュウホウの尻ポケットから垂れ下がっている白い布に気付く。
 エレベーターの中でリュウホウに貸した手ぬぐいだった。
 
 『ありがとう』

 エレベーターの扉が閉まる直前、酸欠の金魚のようにぱくぱく口蓋を開閉したリュウホウの顔が浮かぶ。
 たどたどしく、つたない言葉。自分の気持ちを他人に伝えるのに慣れてない、滑稽なまでに必死な口調。
 でも、あの時のリュウホウに嘘はなかった。そして今も、リュウホウは嘘をつこうとしたわけではない。自分は無実だと、ダイスケを殺してはいないと、ありのままの真実を僕にわかってもらおうと貧困な語彙を駆使して弁解しようとしただけじゃないか。
 その時の僕がなんでリュウホウを追ったのか、自分でもわからない。
 どれくらい茫然自失してしたのかも正確にはわからない。気付いた時にはリュウホウの姿は見えなくなっていた。謝罪しようとしたわけではないのは確かだが、このままリュウホウを行かせてはまずいと直感が働いたのだ。
 何か、とてつもなく不吉な直感が。
 階段を転げるように駆け下りた僕は、床に滴った血痕を辿って扉を見つける。階段の下、目立たない場所に設置された半開きのドア。リュウホウはここから出ていった。冷静な判断ができなくなった僕は、周囲の状況もよく確かめずにドアから駆け出る。階段下のドアは東棟の裏手に通じていた。コンクリート敷きの地面にはところどころ亀裂が生じて雑草が生えていた。

 リュウホウはどこだ?

 「!?―っ、」
 突然、背後から伸びてきた腕に抱きとめられ、身動きを封じられる。つんと鼻をつく刺激臭に、昔嗅いだ薬品の記憶がよみがえる。
 薬物名、クロロフォルム。 
 吸入した際は頭痛、眩暈、倦怠、悪心、嘔吐等の後症状を起こすことがあり、稀に死亡、黄疸、高度貧 血、肺炎、気管支肺炎、虚脱を起こすこともある。□本品による吸入麻酔死亡率1/2655、エーテルとの混合麻酔で1/8014、ヒト(経口)致死量約10-15mL、ヒト(吸入)40mL、大気中許容量10ppm(50mg/m3)。
症状は□麻酔作用、皮膚粘膜腐食、低血圧、呼吸抑制、ついで意識消……

 失。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060519234244 | 編集

 頭痛がした。
 重力に抗って瞼をこじ開ける。眠気に塞がれた瞼を薄く開けると眼鏡のレンズに闇が映った。当然だ。意識を失う前、僕は屋外をうろついていた。時間帯は夜、それも深夜に近い時刻だろう。
 手首に違和感を感じる。
 不自由な半身を捻り、後ろに回された手首に目をやる。腰の後ろで一本にまとめられた手首に手錠が嵌められていた。手錠の鎖を辿り、背中合わせにうずくまった人物の後頭部を確認する。
 方々に跳ねた癖の強い黒髪、僕より5センチほど低い身長。
 この後姿は……
 「……ロン?」
 「よう」
 束縛された手首を捻り肩越しに振り返ったロンが、ばつが悪そうに挨拶する。ロンの手首と僕の手首はつながれているから、必然的に僕の手首にも抵抗が生じることになる。左手首に伝わったた震動が薬指の骨に響き、苦痛の信号に顔をしかめる。
 「どういうことだ?」
 率直に疑問を述べる。
 現在自分がおかれた状況がまったく理解できない。ここはどこだ?どうして隣にロンがいる?極めつけは手錠だ。なぜ僕がこんな家畜同様の扱いを受けなければいけない。いかに客観的に見た僕がいかなる心の痛みもおぼえず両親を刺殺した危険人物とはいえど、檻の中でまでこんな理不尽な仕打ちを受けるとは思わなかった。その他の連中はどうだか知らないが、僕はできるだけ暴力的な行為とは無縁でいきたいのだ。手錠で厳重に束縛されなければならないような野蛮なふるまいに及んだことはない―他に有益な解決策が見つからなかった場合を除いては。
 「知るか」
 僕に背中を向けたロンが吐き捨てる。
 「数時間前、俺はシャワーを浴びに房をでた。俺のケツを狙ってしつこくまとわりついてくるレイジを全力で振り切って、長い廊下を歩いてシャワー室に向かった。で、ひとっ風呂浴びてさっぱりして廊下にでたら……」
 思わせぶりに言葉を切ったロンが「これだ」と自らの手首に視線を落とす。ロンの手首に嵌まっていたのは夜目にも銀に輝く光沢の手錠。背中越しに僕と手錠を共有したロンが、いまいましげに舌打ちする。
 立腹したロンの横顔を観察しながら、僕は口を開く。
 「ロン。君は廊下にでたとき甘い匂いを嗅がなかったか?」
 「なに?」
 脳裏を過ぎったひとつの可能性が現実の確信に変わるのにそう時間はかからなかった。眉間に縦皺を刻んで当時の状況を回想していたロンが「した」と慎重に答える。
 「まて、思い出してきた。あの時、後ろから足音がしたんだ。後ろからだれかが近づいてきた。顔は見てないけど、そいつが俺のほうに手を伸ばして……柔らかいものを口におしつけられて、何かわからないけど、甘い匂いが鼻に抜けた」
 「クロロフォルムだな」
 断言する。おそらくロンを拉致した犯人は僕を気絶させたのと同じ手段を使ったのだろう。
 「クロロフォルムは数種類の化合物の総称で、吸引した際は睡眠作用を起こすのが特徴だ。どうやら僕と君を拉致した犯人はクロロフォルムを染みこませた布を使用し、気を失わせてここまで運んできたらしいな」
 「よくわかるな」
 「わからない君がどうかしてる」
 本当にあきれた。少し頭を使えばわかる単純なことだ。ありのままの事実を指摘しただけだと言うのに、ロンは憮然とした表情で僕の横顔を睨みつけている。
 これだから馬鹿は手におえない。
 化学と薬学の知識がない人間相手にこれ以上クロロフォルムの成分解析を連ねても時間を浪費するだけで何の益もないので、さりげなく話題を変える。
 「推理を続ける。僕と君をさらった犯人は単独犯じゃない……最低でも三人の複数犯だ」
 「根拠はなんだよ?」
 先刻の意趣返しとばかり、言葉尻に噛みついてきたロンに肩を竦める。もし手が自由に使えたなら、眼鏡のブリッジを押し上げるふりで彼の救いようない愚鈍さに対する憐憫と軽蔑の表情を隠すことができたのに。
 「自分の体重を考えろ。身長との相対比から導きだした君の体重は52キロ、対して僕は54キロ。君の証言に信憑性をおくならば、犯人は刑務所の屋内で君を気絶させてここまで運んできたことになる。断言はできないが、気絶する前に僕がいた場所もここから最低100メートルは離れてると推測される。意識を喪失した人間の体は重い。周囲にリヤカーなどの運搬器具が見当たらないことから、犯人は気を失わせた僕らを自力でここまで運んできたと仮定する。当然ひとりでは無理だ、合理的帰結として複数犯だと考えるのが妥当だ」
 できるだけ噛み砕いて説明したつもりだが、ロンが完全に理解するのには正確に5.5秒ほど思考時間を要した。僕の説明が終わって一呼吸おいてから、ようやく言わんとしていることを察したらしいロンがまじまじと僕を見つめる。
 「……お前、頭いいんだな」
 「そうだろう」
 当たり前のことを言われても別に嬉しくない。水棲の魚類が「えら呼吸できるんですね」と言われたようなものだ。ひととおり説明を終えた僕は、今一度ロンの格好を見てごく素朴に指摘する。
 「それで君は、なんでそんな格好をしてるんだ?寒くないのか」
 「こんな寒空の下に下着一枚で出て寒くない奴はロシア育ちのアホだけだろ」 
 本人も述べたとおり、今のロンは上半身に薄地のシャツを身につけただけのそっけない格好をしていた。ズボンは穿いていたが、上半身が薄地の肌着だけという格好は見るだに寒々しい。
 お誂え向きにしゃみをしてから、いまいましげに顔を歪めてロンが愚痴る。
 「シャワーを浴びた直後に拉致られたって言ったろ?上を着る暇がなかったんだよ、このままここにいたら風邪ひいちまう」
 「明日の強制労働にさしつかえるな」
 砂漠の気温は寒暖差がはげしい。日中は40度を超える炎暑でも夜には急速に気温が低下する。砂漠の真ん中に位置する東京プリズンも例外ではなく、囚人服の上着を着ている僕でさえじわじわ忍び寄ってくる夜気の肌寒さに鳥肌立つのを防げなかった。下着一枚のロンはさぞかしこたえていることだろう。
 などと呑気な会話をしている最中に、脳裏を閃光が走る。気絶する直前の自分が何をしようとしていたか、だれを追おうとしていたか、まったく唐突に思い出したのだ。 
 「ロン、質問がある。リュウホウを見なかったか?」
 「?だれだそれ」
 詰問口調で訊ねられ、ロンが怪訝な顔をする。そうだ、ロンはリュウホウのことを知らない。不吉な胸騒ぎが復活した僕は、舌を噛みそうになりながら続ける。
 「身長150センチ前後、推定体重45キロ。細身で貧弱な体躯。気弱そうな細面で歩き方がどこかおぼつかない囚人をこの周囲で見かけなかったか?」
 「そんな奴東京プリズンには腐るほどいるぜ。それにお前、大事なこと忘れてねえか?俺はお前と同じでたった今目覚めたばかりなんだ、最初からここにいたわけじゃねえ。そんな不審な囚人が通りかかったとしても気付くわきゃねえだろ」
 ロンの言い分は正しい。疑義を挟む余地もない正論だ。僕は黙って引き下がるしかなかった。そして頭を働かせ、優先順位を決定する。リュウホウの行方ももちろん気になるが、この状況で最優先されるべきなのは僕の身の安全だ。どうしてこうなったかという前後の状況は不明だが、現在ぼくはロンと同じ手錠でつながれて逃走を妨げられている状態だ。
 前述したとおり、砂漠の寒暖差ははげしい。夜は氷点下まで冷え込むのが砂漠の自然現象だ。このまま屋外に放置され、凍死するのはぞっとしない。
 「―こうして手錠でつながれたまま僕と君の死体が発見されたら、文字通りの手鎖心中だな」
 「手錠でつながれて野郎と無理心中なんて酸っぱすぎて反吐がでてくるぜ」
 ロンは日本の伝統芸能に造詣が深くないらしく、僕の皮肉を額面どおり受け取ってしまったようだ。まあ、その点に関してはまったく同感なので反論する気はないが。
 「じゃあひと思いに殺してあげよっか」
 「!」
 驚いて顔をあげる。
 目の前で足音が止む。ズボンのポケットに指をひっかけて正面の闇にたたずんだ小柄な少年は、底抜けに無邪気な口調で唄うように続ける。
 「僕、いいクスリ持ってるよ。安楽死なら任せてよ、打ってぽっくり覚めたら天国ってね」
 ようやく暗闇に慣れた目に赤毛で童顔の少年が映る。
 リョウだった。
 「―お前が俺たちを拉致ったのか?」
 リョウの姿を認めたロンが押し殺した声で唸る。
 「そんな馬鹿な、不可能だ。腕力で劣る君が意識を失った僕たち二人をここまで運べるはずがない」
 脳裏でふくらんだ疑問をそのまま音声化する。リョウはにこにこと笑いながら答えを明かす。
 「半分正解、半分不正解ってところかな。実行犯は別にいるけど、クロロフォルムを貸したのはまぎれもなく僕だし。君たちをここまで運んできたのは別人」
 「どこだ、そいつら。ぶっとばしてやんねえと気が済まない」
 「できるの?その格好で」
 ポケットに手をつっこんだまま、上体を前傾させて忍び笑うリョウ。手錠で拘束されたロンの顔が怒りに紅潮する。好奇心旺盛な猫のような足取りで僕らのもとへと歩み寄ったリョウは、底意地の悪い笑みを含んだ目でしげしげと僕らを見比べる。
 「―どうして僕らをさらったんだ?」
 冷静さを欠いたロンが暴発する前に、動揺を糊塗した口調でリョウの真意を問いただす。リョウは謎めいた笑みを浮かべたまま、膝を軽く屈めた中腰の姿勢で僕の目を覗きこむ。
 表向きは人に媚びているが、その本性は損得の打算で動く商人以外の何者でもないシビアな目。
 「メガネくんが教えてくれたんじゃないか、レイジの弱点はロンだって」
 ちらりとロンの方に流し目を送り、リョウが笑みを広げる。驚いたロンが僕の横顔を凝視する。「どういうことだ」と小声で耳打ちしてきたロンを無視し、いくつかの思考過程を踏んで明解な結論に辿り着く。
 僕らが拉致された件には主原因としてレイジが関わっているらしい。
 詳細を問いただそうと口を開きかけた僕をさえぎったのは、こちらへと殺到してくる大勢の人間の気配。全体重をかけた足裏で砂利をすり潰す耳障りな足音、夜気を震動させて三半規管に伝播された片言のざわめき。リョウの後方20メートルでうごめいているのは黒山の人だかり。集団で接近してきた彼らの姿を目の当たりにし、ロンが絶句する。
 「リョウ、お前……」
 リョウの背後へと押し寄せてきた集団を見つめ、叫ぶ。
 「北棟のスパイだったのか!」
 ぼくらを包囲するように半円の陣を敷いたのは、肌の色と瞳の色からして異なる人種の少年たち。その殆どが病的に白い肌と日本人離れして彫り深い顔をしている。総じて肌の色素が淡白なのは日照時間が短い地域で生活を営んでいた祖先の遺伝だろう。
 「スパイってひどいなあ。彼らは単にぼくのお客さんだよ」
 悪びれたふうもなく肩をすくめたリョウがおどけた顔で笑い、すぐうしろを振り返る。
 リョウの背後にいたのは、癖のない銀髪を肩で切り揃えた均整のとれた体躯の少年。否、少年というより青年と言ったほうが正確だろう。過不足なく引き締まった長身は抜群にスタイルがよく、揃いの囚人服を着た無個性な集団の中に埋没しても真っ先に人目を引く。夜闇に紛れて顔の造作までは把握できないが、爬虫類めいた瞳の冷たさが心を寒くさせる。
 「ねえ、サーシャ」
 「その通り。このアバズレは金さえ払えばブタのケツの穴でもなめる根っからの守銭奴だ。私はこのアバズレを利用して、分不相応な地位に君臨しているあのいやらしい混血児を排斥しようとしたまでだ」
 甘ったるい猫なで声で機嫌をとったリョウの頭を撫でながら、サーシャと呼ばれた少年がこちらを見る。
 
 先刻僕はレイジを指して「暴君」と表現したが、あれは間違いだ。訂正しよう。

 本当の暴君とは、今僕の目の前にいるこの男のことだ。
 薬物使用の常習犯なのだろうか、頬骨ばかりが尖って肉がそげおちた頬には病的な死臭が漂い、神経質そうに尖った顎はすべての人間を見下しているかのように傲慢な印象を与える。
 彼の祖先は類人猿ではなく、爬虫類ではないだろうか?
 そんな馬鹿げた妄想を抱かせるほど、銀髪の男は冷たく無機質なアイスブルーの目をしていた。ネズミを狩った猫を褒めるかのように、洗練された手つきでリョウの赤毛を撫で付けていたサーシャが改めてこちらを見る。
 僕とロンを等分に見比べていた視線がやがてロンの顔へと固定され、感情の窺えない声でサーシャが呟く。
 「お前があのいやらしい混血児の友人か?」
 「―いやらしいいやらしいって、俺も混血児なんだけど」
 挑発的な口調でロンが返す。サーシャは薄い唇の端をめくりあげ、「なるほど」とひとりごちた。
 「どうりで下品な顔をしてるわけだ」
 「下品」と斬り捨てられたロンがあからさまに気分を悪くする。手錠で拘束されていなければ後先も考えずサーシャに殴りかかっていたことだろう。サーシャがこちらを向き、落ち着き払った声で誰何する。
 「お前も混血児か?」
 「―さあな。戸籍上は両親ともに日本人と記載されているが、詳しいことはわからない」
 回りくどい言い方にロンが眉をひそめる。サーシャはしげしげと僕の顔を眺めると、ごく当たり前の口調で結論する。
 「日本人か。それではお前の血も汚れているな」
 なんだこの男は。
 さらりと銀髪を揺らして振り向いたサーシャが、演説台に立ったカリスマ政治家さながら両手を広げ、淘淘と自らの主張を述べる。
 「この世界でいちばん優れた人種はだれだ?この世界でいちばん美しく気高い人間はだれだ?第二次世界大戦でユダヤ人を迫害したゲルマン民族か?違う。四千年の中華思想に支えられた黄色い肌の猿どもか?違う。第二次ベトナム戦争にのりだして国の予算をひたすら浪費しているプロテスタントの道化どもか?もちろん違う」
 おそらく、サーシャが率いる集団の構成員には一人残らず大国ロシアの血が流れているのだろう。いずれ劣らぬ白い肌をした少年たちを従者のように侍らせたサーシャが、恍惚と潤んだ目を虚空に馳せて宣言する。
 「この世界で最も気高く美しく優れた人種……それは、ロシア人だ」
 そして、一転して屑でも見るように辛辣な目で僕とロンを射殺する。
 「それ以外は屑だ。地球の食糧事情を悪化させるだけの害虫にひとしい存在は今すぐ死に絶えるべきだ、それが何かの間違いでこの世に生を受けた下賎で卑しいお前ら混血児の義務で宿命だ」
 たしかにこの傲慢さは、北の大国の皇帝が生まれ持つものだろう。 
 僕がその場からはなれることはおろか耳すらふさげないのを百も承知で、悪意と偏見に満ち満ちたいちじるく偏った思想を垂れ流されて辟易する。サーシャの周りの少年たちが彼の言葉に心酔しているらしいのも不愉快だ。
 従順な聴衆に気をよくしたらしいサーシャがさらに過激な主張を展開しようとするのを強引にさえぎり、矛盾点をつく。
 「君の言葉には矛盾があるな。君は今『混血児は今すぐ死に絶えるべきだ』と独善的に断言したが、混血嫌いを自認する君のグループに日露の混血児が複数含まれているように見受けられるのは何故だ?」
 「愚問だな」
 サーシャが笑った。背筋が寒くなるような笑みだ。
 「そこの黒髪」
 「は、ハイ!」
 サーシャが指を鳴らして従者のひとりを呼ぶ。犬のように駆けてきたのは特徴のない顔をした黒髪の少年。周囲の囚人と比べ肌の色が黄色人種に近く、目と髪が黒いことから東洋の血が混ざっているのは明白。息を弾ませて駆けてきた黒髪の少年を興味なさそうに一瞥し、淡々とサーシャが言う。
 「1763年に即位したロシア皇帝ピョートル三世は大変な愛犬家として知られた。いや、愛犬家という言葉は正しくないな。彼は多くの犬を飼っていたが、その犬を狭い部屋に閉じこめ餌もろくに与えず虐待していたという」
 「?」
 前後の文脈をまったく無視した知識を披露され、僕とロンは顔を見合わせた。主人を恐れる飼い犬のように卑屈な目をした少年が愛想笑いで口を開く。
 「何の用で、」
 「すか」と言い終えることはできなかった。 
 拳を受けた少年の顔が大きく仰け反り、歯が飛んだからだ。 
 「!」
 唖然とした僕らの前で、黒髪の少年が二・三歩よろめき、倒れる。蒙蒙と砂埃を舞い上げて転倒した少年の上に浴びせられるのは容赦ない蹴り。
 「妻のエカテリーナに頭のあがらないロシア皇帝のささやかな趣味は飼い犬を鞭打つことだった」
 僕は見た。
 地面にうつぶせた黒髪の少年を残虐に痛めつけるサーシャの口の端が、不自然に歪んだのを。
 表情筋の動かし方を知らない、爬虫類の笑顔。
 「私の趣味は汚らしい混血の犬をなぶって憂さを晴らすことだ。これらはその為だけに私の身の周りに侍らせてる無知な愛玩動物だ」
 サーシャは異常だ。
 レイジもサムライも異常だが、サーシャの嗜好はほとんど変態の域に達してる。折れた歯の間から大量の血を垂れ流した少年の顔を無造作にふみつけ、地面へと押し戻してからサーシャが顔をあげる。何の非もない仲間が痛めつけられているというのに、周囲の少年たちはだれ一人助けに入ろうとしない。何の行動も起こさず、ただ、彫り深い顔に微量の恐怖と圧倒的な畏怖を浮かべ、慄然と立ち竦んでいるだけだ。
 「いかれてやがる」
 ロンの声に振り向く。
 サーシャの仲間のように、恐怖に打ち負かされたわけではない。ロンの目にはただ、嫌悪感だけがあった。
 「―何?」
 酷薄な口元に笑みの残滓を漂わせ、ゆったりと振り向くサーシャ。狂気渦巻くサーシャの目を直線で捕らえ、ロンが言う。
 「レイジもいかれてるが、お前よりずっとマシだ。いいか、よく聞けよ北棟の皇帝気取り」
 手錠の鎖を引っぱって片ひざ立ったロンが、語気はげしく唾棄する。
 「あのやることなすことテキト―でいつもへらへら笑ってるクソったれたホモ野郎のが、お前の百兆倍人間として上等だ」
 心底軽蔑しきった表情で自分を睨みつけるロンに何を思ったか、それまでなぶっていた少年に急速に興味を喪失したサーシャがゆっくりとこちらにやってくる。緋毛氈を歩む皇帝の如く悠然たる足取りで間合いを詰めてきたサーシャに危機感が増幅、背中を冷や汗が流れる。
 「君は真性の馬鹿か?よく状況を見て相手を挑発しろ、へたしたら死ぬぞ」
 「お前こそ真性の馬鹿だな、日本人。挑発ってのは口が勝手に動くことだ、頭で考えてる暇なんかねえ」
 「人間なら理性で押さえろ、怒りを自制しろ。たしかに彼は不愉快きわまる最低の人間だが今この場で『君は不愉快きわまる最低の人間だ、一秒でもはやく蒸発して消えてくれ』と嘘偽らざる本音を吐露したところで状況が好転するのか?悪化するだけだろう」
 そう、悪化するだけだ。
 それを予測できない僕ではないのに、今の発言を至近距離まで迫ったサーシャに一語一句逃さず聞かれてしまったのは失態だった。
 「下賎な混血児の分際で私を愚弄する気か?」
 「下賎な混血児の分際でお前を愚弄する気だよ、エセ皇帝」
 僕が合理的説得を試みる前にロンが余計な一言を口にし、サーシャの瞳が氷点下で凍る。
 ロンの頭上に右腕を持ち上げるサーシャ。
 サーシャの袖口からすべりでたのは古風な鞘のナイフ。細緻な模様が彫りこまれた見るからに高給そうな代物で、油を染みこませたハンカチでよく磨きこまれているらしき鞘は輝かしい色艶をおびていた。手首を軽く撓らせ、ナイフを一閃。虚空を舞ったナイフを五指に握りこむと同時に流れるような動作で鞘を抜き放ち、鋭利な刃をさらす。
 手首が撓って返ってくるまでの一動作で鞘から抜刀したサーシャは、抜き身のナイフをロンの頬に這わせ、ささやく。
 「首を刎ねられたいか?反逆者」
 「レイジに対抗して皇帝名乗ってんならギロチンくらい用意しとけよ」
 この期に及んでもロンはまだ平静を装っていた。頬に固定されたナイフの感触に命の危険を感じているのは確かなようだが、皇帝という名の独裁者として権勢をふるうサーシャへの反発が一時的に死の恐怖を凌駕しているのだろう。
 永久凍土の目をした男がナイフに握力をこめ、ナイフの刃がロンの頬に沈んでゆく。
 「やめなよ」
 ナイフの背が1ミリほど皮膚に食いこんだところで、リョウがおっとりと声をかける。
 「そいつらは大事な人質だ、人質ってのは無傷で五体満足だからこそ脅迫材料になるんでしょ。ま、夜中ほっつき歩いててまきこまれたメガネ君は災難だけどしかたない。これからはじまるブトウ会を看守にチクられでもしたら、僕ら全員独居房送りだもんね」
 
 ブトウ会?
 リョウははっきりとそう口にした。舞踏会。ごく最近、その単語を聞いたことがある。

 『俺もおちおちできねえな。北国生まれのネズミは永久凍土も噛み砕ける歯が自慢だから、呑気に舞踏会の日を待ってたら全部の脚を齧られて王座が転覆しちまう。今晩、予行演習に出向くのも悪かねえな』

 呑気に舞踏会の日を待っていたら、全部の脚をネズミに齧られて王座が転覆する。
 だから、今晩予行演習に赴くのも悪くない。

 レイジは確かにそう明言した。―今晩なにかが起こる、と。
 
 「―招待状はたしかにレイジの手に渡ったんだな?」
 リョウに注意され、不承不承ナイフの刃をおさめたサーシャが無感動に聞く。頬を圧迫していたナイフの刃が取り除かれ、手錠でつながれた背中越しにロンが安堵した気配が伝わってくる。リョウは「もちろん」と大きく頷く。
 「かぼちゃの馬車が遅れてるのかな?エンペラーお待ちかねのシンデレラはそろそろ到着するはずだよ……ほら、きた」
 小走りに僕の横を駆け抜けたリョウがコンクリートの塀から身を乗り出す。反射的に立ち上がり、リョウと並んで下界を睥睨した僕の目にとびこんできたのは―……

 夜空を背にして単身こちらに歩いてくる、レイジの姿だった。
 
 レイジはいつもどおり笑っていた。いつもどおり、真意の読めない笑顔……
 「やばい」
 ロンが呟く。頬にナイフを押し当てられたときも揺るぎなかったその声が、恐怖にかすれて聞こえたのは気のせいだろうか。ごくりと生唾を嚥下したロンが、極限まで見開かれた目で眼下のレイジを凝視し、うわ言のように繰り返す。
 「レイジの奴、キレてる」
 僕にはわからない。レイジの笑顔は気持ち悪いが、それだけだ。過剰に殺気立っているわけでもない。こめかみに冷や汗を浮かべたロンの隣、コンクリート塀から身を乗り出した僕は、レイジが何か四角い物体を小脇に抱えていることに気付く。
 レイジの脇腹に目を凝らす。
 レイジが小脇に抱えていたのは、彼の房を訪ねたときベッドの上に投げおかれていた―……
 装丁の傷んだ、聖書。

 『知ってるか?レイジは本で人を殺せるんだぜ』

 バスの中で小耳に挟んだ無責任な憶測が、現実になろうとしている。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060518234358 | 編集

 「おーいリョウ。今の言葉にはちょっと矛盾があるんじゃねえか?」
 それがレイジの第一声だった。
 「は?」
 名指しされたリョウが自分の顔をゆびさして首を傾げる。聖書を小脇に手挟んだレイジは、闇を円く切り抜くサーチライトを背にし、にこやかに叫び返す。
 「12時過ぎても帰ってこねえ囚われのシンデレラは、俺じゃなくてロンだろう」
 驚愕した。
 レイジのいる場所と僕らが今いる場所とでは単純な直線距離にして30メートルは離れてる。これだけの距離を維持していながらさほど大きくもない声でなされた先刻の会話を正確に聞き取れるとは、殆ど人間の範疇を超えた地獄耳だ。
 胸までの高さのあるコンクリート塀から身を乗り出した僕は顔を傾げて四方を見渡し、改めて自分のおかれた状況を確認する。今僕がいるのは、何かの建物の屋上らしい。  
 そしてその建造物の全方位には、コンクリートを敷き詰めた矩形の空間が広がっている。
 東西南北、見渡すかぎりをコンクリートで固められた無機質な空間を視界におさめ、確信する。
 ここは東棟の中庭だ。
 東棟の中庭は自由時間ともなれば囚人たちに開放され、昼間には団体で球技に興じる囚人の姿も数多く見受けられるが、とっくに就寝時刻をすぎた今となっては人けもなく、四隅の高所に設置されたサーチライトだけが煌煌と輝いている。
 僕らが現在囚われた建造物は、日中、中庭で遊ぶ囚人たちが度を越したふるまいに及ばないよう看守が監督するための監視塔だった。中庭の中央に位置する監視塔は、前後左右を余すところなく見渡せる絶好の立地にある。僕らが今手をおいているコンクリート塀は非常に頑丈な造りをしており、目に見える範囲で囚人が暴動を起こしたり喧嘩を始めたりした時に銃床を固定して威嚇射撃するための砲台も兼ねる。
 東棟の敷地内を歩いているときに遠目に眺めたことはあったが、実際登ってみたのは初めてだ。
 最も、自発的に登ったというより強制的に登らされたと表現したほうが正確か。
 静寂の帳がおちた中庭に一人立ち尽くしたレイジが、コンクリート塀に顔をならべた集団の中から銀髪の男を選び、ほほえむ。
 「今宵は舞踏会にお招きいただいてありがとう、北の皇帝」
 「歓迎しよう、東の王」
 優雅に挨拶したレイジに返されたのは、慇懃無礼な労いの言葉。コンクリート塀に手をかけたサーシャは高飛車に顎を反らすや、深海の鮫のように殺気を凍らせたアイスブルーの目で傲然とレイジを見下す。そして、勝ち誇ったように口を開く。
 「噂どおり、東の王には人望がないようだな」
 「あん?」
 「今日この場に招かれた用件はわかっているだろう。それなのに仲間の助力を乞わず、単身戦場に出向いてくるとは……」
 サーシャの口角が痙攣するようにひきつり、笑みというにはあまりにも酷薄な表情が浮かび上がる。
 「噂どおり、東の王は痴れ者だな」
 「痴れ者はお前だろ、永久凍土の皇帝」
 「なに?」
 サーシャが気色ばむ。ただ一人下界に立ったレイジは相変わらず微笑んだまま……だが、その身にまとう空気が一瞬で変質する。
 サーチライトの照明を受け、闇から切り離されたレイジは、積木が散乱した絨毯を極上の緋毛氈だと勘違いした幼稚な皇帝に世の常識を説くが如く、辛抱強い口調で宣言する。

 「ロンは俺の女だ」

 空気が氷結した。
 その時、その場に居合わせた一同の表情をどう形容すればいいだろう―理解不能、というのがいちばん正しいかもしれない。
 東京プリズンの公用語は日本語だ。それは親の出身国はさておき、物心ついた時から日本で生まれ育った二世・三世、または混血児が圧倒的多数を占めるからだが、国別に分かれた派閥内ではその国の言葉が日常語として使われている。たとえば、凱が仕切っている中国系派閥では福建なまりの中国語が幅を利かせているし、サーシャとその手下が僕らの目を盗んで私語を交わしたときにも聞こえてきたのはロシア語だ。
 しかし今レイジが発したのは、完璧な日本語だ。
 サーシャたちが意味を理解できなかったはずがない。レイジの言葉は一言一句正確にサーシャたちに伝わったはずだが、その全員が自分たちの立場を忘失したかのような腑抜けた表情をさらしているのは何故だろう。
 「あの野郎……」
 隣から不穏な気配が漂ってくる。
 ロンがありたけの殺意をこめた三白眼でレイジを睨んでいた。本気で頭にきているらしく、コンクリートの手摺を掴んで墜落せんばかりに身を乗り出す。
 「おいレイジ、人が好きに動けねえからってなに勝手なことほざいてんだ!ありもしねえ事実を素面で捏造するんじゃねえ、今の台詞取り消せ!」
 憤怒で満面を紅潮させたロンが拳を振って前言撤回を要求し、手錠でつながれたロンにひきずられるかたちでコンクリートの手摺に衝突した僕は、その衝撃でずれた眼鏡を中指で押し上げる。鼻梁にずり落ちてきた眼鏡を中指で押し上げ、定位置に戻す。
 眼鏡のレンズに映ったレイジは、あまり懲りた様子もなく首を竦めた。
 「間違えた」
 そして、深呼吸して言い直す。
 満場に響く、よく透る声で。

 「ロンは俺の物だ」

 ロンがコンクリートの手摺で額を強打した。
 僕らの周囲に陣を敷いて展開していたサーシャとその仲間たちは、またコイツ何を言い出すんだと不審な目でレイジを見つめている。
 自分に危害が及ばない安全圏の高所から檻の中の珍獣を観察するかの如き視線の集中砲火にもレイジはめげず、躁病的な早口で続ける。
 「こう見えて俺は嫉妬深い男でね、自分の物に横からちょっかいかけられるのが大っ嫌いなんだ。まあ、俺の目の届かないところや俺の知らないところならまだ諦めがつくさ。その場に俺がいなかったんじゃしかたない、運が悪かった、いけずな神様のいたずらだって言い聞かせて納得することもできるさ。それで俺の物に多少の傷がついたとしたらものすげえ腹が立つし、犯人には殺意が沸くさ。でも逆に考えてみりゃ、チキンハートの腰抜け連中は俺がそばにいりゃあ絶対俺の持ち物には手をださないってことだろ?だったら俺がいつでもそばにいりゃいいだけの話。クソする時も寝る時もシャワー浴びる時も片時もはなれず俺の持ち物のそばにぴたりとくっついて目を光らせてりゃ、それで絶対の安全が保証されるってんだからお安いもんさ」
 額にかかった前髪を鬱陶しそうにかきあげるレイジ。
 サーチライトの光を吸い込んだ薄茶の目に、初めて淡い波紋が生じる。
 レイジの目に波紋を投じた感情の名は―……怒り。
 笑顔の仮面の下で灼熱の溶岩流の如くうごめく、激しい怒り。
 「ところがだ。お前らはご丁寧にも、招待状を送りつけてくれた」
 レイジの口角が急角度で吊りあがり、意外に尖った犬歯が覗く。唇の両端からせりだした犬歯は、彼が普段抑圧している獣性の象徴であるが如くサーチライトの光を反射して剣呑に輝いていた。
 「ロンを人質にとって、俺を中庭に呼び出して、罠をかけて待ち構えて。俺の女を横からかっさらって、人の許可なく手錠をかけて、見晴らしのいい台につないでくれちゃって。それをわざわざ俺に見せ付けるために、リョウに招待状書かせるなんて手のこんだことをして。なに、そんなに王座が欲しいわけ?今度の試合で勝ちたいわけ?不戦勝でも勝ちは勝ち、手足を折って頭蓋骨を割ってブラックワークで使い物にならなくさせたいわけか?」
 掴み所のない笑顔はそのままに、監視塔の上に整列したサーシャたちを超然と睥睨するレイジ。
 「素で聞く。お前ら、何様のつもりだ?」
 「貴様こそ何様のつもりだ、薄汚い混血の分際で」
 コンクリートの塀を王座の肘掛けに見立てて優雅に手をおいたサーシャが、冷厳と言い返す。
 サーチライトの明かりを一身に受けたレイジは、舞台中央で単身脚光を浴びた役者のように大袈裟に両手を広げるや、なんの気負いもないあっけらかんとした口調で宣言する。
 「王様のつもりだ」
 「―王が聞いてあきれる」 
 サーシャのまなざしに霜が降りる。凍てつく氷河のまなざしを広場のレイジから真隣のロンへと移したサーシャは、黄金の錫杖を打ち振り勅命を発する皇帝の如く腕を振りかぶるや、まったく油断していたロンの前髪を雑草を毟るかの如く無造作に掴む。
 「!?痛っ、」
 前髪を一房掴まれてサーシャのほうへと引き寄せられたロンの顔が苦痛に歪み、手錠を共有した僕の体が傾ぐ。さかんに身を捩って抵抗するロンの顎をギロチンに固定する要領でコンクリートの手摺に押しつけ、抑揚を欠いた声で告げるサーシャ。
 ロンの後頭部を覆った手に全体重をかけ、コンクリートの手摺に圧搾された頭蓋骨が不吉に軋む音に恍惚と酔いしれながら、爬虫類の目をした皇帝が薄く冷笑する。
 「ブラックワークの暫定覇者に少しでも警戒していた私が愚かだった。東の王の実体はただの腑抜けで色惚けの混血児ではないか。女を人質にとったという招待状を鵜呑みにして、命令どおりたった一人で出向いてくるとは……王の座にありながら騎士を気取ったのが仇になったな」
 「っ、ぐ……」
 憑かれたように呪詛を口走るサーシャの手の下で、ロンの顔が苦悶に歪む。サーシャが手に力をこめるにつれコンクリートの角が頬へと食いこみ皮膚を削り、ざりっ、と砂を噛む異音が生じる。
 己が手の中のロンを見下ろすサーシャは、実に生き生きとしていた。
 相変わらず表情には乏しいが、鋭角的にそげた頬には混血の手下をなぶっていた時にも垣間見られた嗜虐の笑みが浮かび、レイジの無表情とロンの悲痛な顔とを等分に視野にいれたアイスブルーの目は陰湿な光に濡れ輝いている。
 骸骨のように骨ばった五指に満腔の悪意と渾身の膂力とをこめ、息も絶え絶えのロンの頬へとなぶるように吐息を吹きかけ、狂える皇帝が提案する。
 「東の王ご執心の雑種を先に殺してから、飼い主の息の根をとめるのも一興だな」
 致死量の毒を含んだ挑発にかえされたのは、緊迫感に欠けるのどかなあくび。
 驚いて眼下を見る。視線の集中砲火を浴びたレイジは眠たげに目をしょぼつかせ、あくびを噛み殺すふりで口に手をあてる。
 そして……
 「なあサーシャ。お前童貞だろ」
 耳を疑った。
 退屈そうな顔をしたレイジが、腰に手をあててサーシャを仰ぎ見ている。サーシャは愕然としてその場に立ち竦んだ。レイジの発言はもしサーシャが本物の皇帝と仮定するなら不敬罪が適用されてもおかしくない無礼きわまるものだったが、続く言葉はさらに聴衆の理解を超越していた。
 「前戯が長すぎ。ギャラリーが退屈してんのわかんないの?お前のうしろのガキなんてほら、貧乏揺すりしてるじゃねーか。その隣の奴は小便我慢して股間おさえてるし……いいか?本番前に長々と演説ぶつのは自信のなさの裏返し、単純にテクだけで相手を逝かせる自信のねえ腰抜けの予防策だ。要するにだ、前戯が長すぎるうえにねちっこすぎて女に愛想尽かされる典型だよお前」
 サーシャの顔から笑みが消え、蝋のように白い無表情がおりてくる。
 怒り。
 有機物も無機物も、森羅万象を平等に凍てつかせる氷点下の怒りが、絶対零度の冷気に変じてサーシャの全身から放射される。
 「―よかろう」
 興味が失せたようにロンの後頭部を突き放し、威風堂々と歩み出るサーシャ。前髪を開放されたロンの体がよろめき、僕の肩にぶつかる。期せずしてロンを支える格好となった僕の目の前で、事態は急速な展開を見せる。
 「自分に注意を向けさせて友を救おうという魂胆は見え見えだが、お前のつまらん試みにあえて乗ってやろうではないか」
 「さっすが皇帝、話がわかるう」
 尻に手をあてた姿勢で上体を仰け反らせ、真っ向からサーシャの視線を受け止めて不敵に笑むレイジ。その過剰に余裕ぶった態度が気に食わなかったのか、夜風に銀髪を泳がせたサーシャが横柄に顎をしゃくる。
 サーシャがロンを痛めつけている間に、首領の意を汲んで眼下の広場に移動していたロシア系の少年たちが、絶妙の連携でレイジを取り囲み、輪の中央に追いつめる。
 レイジは尻に手をあてた余裕の体勢で殺気走った少年らを見渡し、1・2・3と口の中で数を数えながら、おもむろにレイジが言う。
 「―サーシャ。ひとついいか」
 「なんだ」
 「いくら自分が直接手の届かない安全圏にいるからって、三分の二の戦力をこっちに割くのは……」

 一閃。
 レイジの腕が俊敏な弧を描き、よく撓った腕から投擲された円筒形の瓶がサーシャの脳天へと急降下する。

 「『命取り』だって、よーく覚えときな」
 
 瓶が爆発した。
 サーシャが燃えた。

 「!」
 凄まじい破裂音に鼓膜が麻痺し、平衡感覚が狂ってその場に転倒する。ロンを巻き添えにしてコンクリートの地面に突っ伏した僕の視界が赤く染まり、火の粉が弾ける。
 ずれた眼鏡を直してあたりを見回す。
 目の前でサーシャの背中が炎上していた。
 火にくるまれたサーシャは野太い絶叫をあげて激痛を訴え、左右に侍っていた少年ふたりが慌てふためいて囚人服を脱がそうと試みる。サーシャの後ろでぽかんと突っ立っていた少年たちがようやく自らの成すべきことに思い当たり、サーシャの服を脱がすのに苦戦していた仲間に加勢する。
 火が燃え広がり、背中一面が無残に焼け焦げた囚人服を苦労して脱がしたときには、サーシャは地に膝を屈して荒い息を吐いていた。その額には無数の玉のように脂汗が浮かび、夜目にも白い背中からは今だ焦げ臭い臭気がたちのぼっていた。
 対処が早かったため大事は免れたが、軽度の火傷を負ったのは事実だ。
 「大丈夫ですか、サーシャ様!」
 「お怪我はございませんか、皇帝!」
 「案ずるな、忠臣よ。大事はない」
 自らの肩におかれた手をなだめるように外し、ゆっくりと上体を起こすサーシャ。コンクリートの地面には粉々に砕けた瓶の破片と無数の火の粉が散乱していた。
 「―今のは爆弾か?」
 「正確には火炎瓶だ」
 ロンの独白に、頼まれてもいない注釈を付け加える。
 レイジが投擲したのは手製の火炎瓶だ。
 レイジが投げた火炎瓶はサーシャと接触すると同時に炸裂、彼の目論見どおりにサーシャを炎上させた。
 しかし………
 「なぜだ?」
 自分の声が上擦っているのがわかる。いまだ名残惜しげに地面で燻っている火の粉から僕の横顔へと目を転じたロンが、訝しげに眉をひそめる。
 「なぜ、危険物の持ちこみが厳重に禁止されてる刑務所内で爆弾が作れる?あの男はどうやって、人ひとり火だるまにできる威力の火炎瓶を作ったんだ?」
 「火炎瓶ってのは身の周りにあるもので意外と簡単にできるもんなんだぜ」
 ズボンの膝にふりかかった火の粉を払い落とし、手錠を引いて立ち上がるロン。鎖に引かれ、強制的に立ち上がらされた僕のほうは見ずにロンが口を開く。
 「俺の場合は横流し品の手榴弾だったけど、取り調べんときにサツから聞いた話じゃ中はずいぶん雑な構造をしてたらしい。一歩間違えば、肉片になって吹っ飛んでたのは俺のほうだった」
 そう語るロンの目は、韜晦した口調とは調とは裏腹に救いがたい暗さと厳しさを秘めていた。
 臣下に両脇を支えられ、下界を一望できる特等席へと導かれてゆくサーシャの歩みから、コンクリート塀の向こうの戦場へと目を転じ、空恐ろしげに眉をひそめてロンがささやく。
 「ましてや『あの』レイジだ。火炎瓶でも爆弾でも、鼻歌うたいながら仕上げちまうだろうさ」
 僕はただただ呆然とそう断言するロンの横顔を凝視するしかない。
 
 いったい、レイジは何者なんだ?
 鼻歌まじりで火炎瓶を作り、なんのためらいもなくそれを投げ、人ひとりを炎上させるなんて、どういう精神構造をしてるんだ?
 
 本気でレイジに怯えているらしいロンのこわばった表情と、間接が白くなるほどに握り締められた拳とを見比べ、僕が首を捻った時だ。
 「!」
 ロンと同時に振り向き、コンクリート塀から身を乗り出す。
 到底これが人間の喉と声帯から生み出されたとはおもえない、濁りに濁った絶叫が聞こえてきたからだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060517234542 | 編集

 身も凍る絶叫を発したのは、レイジと対峙していた少年だった。
 その額が割れ、血飛沫が噴き出している。
 血飛沫の幕の向こう側で笑っているのは、聖書を水平に翳したレイジ。
 理解した。
 レイジは火炎瓶を投げて身の周りの少年らの注意を逸らしている間に、最も至近距離にいた少年の額に電光石火の速さで聖書を打ちこんだのだ。
 「ああああああああああっ、あっ、」
 縦に割れた額を覆って膝を屈した少年の背後から、新手がとびだしてくる。自分めがけて三方から突撃してきた少年たちを見回し、レイジは軽くステップを踏んで後退。鼻先をかすめて振りかぶられた拳を顎先を反らして回避、死角から突っ込んできた少年が両腕をのばしてレイジを抱きすくめようとするも、その手が脇腹へと達する前に右足を軸に半回転、巧みな体捌きで敵手の軌道上から脱する。
 レイジが踵を返して拳を避けたとき、彼の首元でなにかが光った。
 レイジの首元へと目を凝らす。
 シャツの内側にぶらさげていた金鎖のネックレスがはげしい運動の余波で宙へと泳ぎ、金鎖の先に括られていた十字架がサーチライトの光を反射して、鈍くきらめいたのだ。
 胸に十字架をさげ、片手に聖書をたずさえた国籍不明の外見の男は、小さく唇を動かしながら次々に襲いくる少年らを翻弄していた。
 レイジの唇に目を凝らし、その動きを読み取ろうと全神経を集中する。
 五人まとめてかかってきた少年たちを、ゆったりリラックスした動作で両手を体の脇にたらし、悠然と待ち構えるレイジ。

 『―ほふり場につれていかれる羊のように』

 瞬間。
 僕の耳朶をかすめたのは、独特の韻律を帯びたかすれ声。
 甘くかすれた独特の響きがある、高純度のコカインのように三半規管を酔わせる、抗いがたい依存性のある声。
 
 僕が見ている前でレイジの手首が撓り、宙高く放り上げられた聖書が頭上で旋回する。一回、二回、二回半。中空で回転した聖書の残像がレイジの右手へと収束した刹那、レイジまであと三歩の距離に迫っていた少年の喉首を横に寝かせた聖書の背表紙が痛打する。
 『ほふり場につれていかれる羊のように また、黙々として毛を刈る者の前に立つ子羊のように、彼は口を開かなかった』
 水平に寝かせた聖書で人体の急所、喉仏の上に位置する突起を一撃され、先頭にいた少年があっけなく膝を折る。喉を押さえて悶絶する少年の横から後ろから、奇声を発して攻めてきた後続の集団と衝突し、淡々とレイジが続ける。
 『彼は卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、誰が話すことができようか』
 返す刀で腕を一閃。
 風切る唸りをあげて宙を薙いだ腕の先、分厚い本の角で敵集団の先頭にいた少年の目を殴る。抉るような一撃にたまらず絶叫し、鬱血した目を覆って膝から崩れ落ちた仲間は捨て置き、二番手につけていた別の少年がレイジに襲いかかる。
 懲りずに攻めてくる少年らに冷笑的な表情を閃かせ、肉眼では把握できぬ速度で右足を振り上げるレイジ。
 『彼の命は地上から取り去られたのである』
 残像をひいて宙へと蹴り上げられた右膝が敵の鳩尾を容赦なく抉り、凶悪な角度で振り下ろされた聖書の背表紙が別の少年の鼻骨を粉砕する。
 「……ロン、聞いていいか」
 「……俺に答えられることなら」
 「レイジが手に持っているあれは、100%天然パルプの聖書に間違いないのか?」
 「ああ」
 「本当に?中に鉄でも仕込んであるんじゃないのか」
 そうとでも仮定しなければ、100%天然パルプ―水に漬ければふやけるし火をつければ燃えるただの紙だ―の聖書で、遥かに数で勝る敵相手に互角以上の戦闘を演じられるはずがない。おまけに、聖書で殴打された少年たちは皆額から血を流し、鬱血して倍ほどに膨れあがった瞼をおさえ、痛恨の一撃を喰らった喉をかきむしって地獄の責め苦を味わっているではないか。
 聖書を武器にするなんて、なんて罰当たりな戦い方なんだ。
 ロンは表情の漂白された横顔で孤軍奮闘するレイジに見入っていたが、鼻歌まじりに聖書の詩句を口ずさみながら敵を屠ってゆくその姿に背筋を寒くさせる狂気を感じたのだろう。
 楽しくて楽しくて仕方がないと笑みを浮かべ、息継ぐ間もなく襲いかかってくる敵集団を聖書ひとつで迎え撃つレイジを見下ろし、心ここにあらずといった虚ろな口調で呟く。
 「レイジの名前の由来知ってるか?」
 「?」
 脈絡のない問いかけに面食らうが、素直に答える。
 「知らないが、外見にそぐわない日本的な名前だな」
 最も、名前に関しては他人のことは言えないが。僕だってあの男がつけたセンスの悪い名前を自分の本名だとは絶対に認めたくない。
 「日本語じゃねえ」
 眼下の光景に見入ったまま、ロンが否定する。指の関節が白くなるほどコンクリートの手摺を握り締め、苦いものを吐き出すようにロンが言う。
 「レイジの名前は英語なんだ」
 ロンの視線を追い、眼下へと目をやる。北の皇帝に絶対忠誠を誓う十五名近い少年たちを相手に、無駄のないしなやかな動きで確実に戦力を削ってゆくレイジ。無造作に振りかぶった腕で水平に喉を直撃、その反動で浮上した肘を斜めに跳ね上げ、別の少年の下顎にうちこむ。コンクリートを削って蹴り上げた踵で後ろ向きに敵の股間を抉り、その反動で前方へと返ってきた膝を垂直に立て、必死の形相で殴りかかってきた正面の敵の股間を抉る。
 流れるようにスピーディーかつ芸術的なまでに美しい、実戦に特化した一連の動き。
 確実な波及効果が見込める人体の中心線に狙い定めて凶器を振るうレイジの顔には、終始笑みが浮かんでいた。

 狂気と正気の狭間を振り子のように揺れ動く、危うい均衡の上に成り立つ笑顔。
 じっと見ていると吐き気さえ催させる、人を酔わして堕落させる麻薬のような笑顔。

 「Rage……英語の『憎しみ』だ」

 おそらく、僕と同様の不快感を感じているのだろう。
 ロンは忌まわしいものでも見るかのように顔をしかめたが、それでも強力な磁力のあるレイジの笑顔から目を放せなかった。放心状態の僕らの目の前で、憎しみの名を持つ男は楽しげに楽しげに次々とせめてくる敵を屠っていた。
 「おかしいだろう……」
 言葉の途中で、てのひらがびっしょりと汗をかいていることに気付いた。
 冷や汗。
 レイジは完全に僕の予想の範疇を超えている、僕の理解の及ばない存在だ。
 尋常ではない強さ。すべてのものを圧倒する怪物のような強さ。
 人体の急所を余す所なく知り尽くし、その時その場の状況に応じて、最も効果的な一撃を最小限の動きで繰り出すことのできる人間。
 『主よ。どうか彼らのことばを混乱させ、分裂させてください』
 恍惚とした笑顔を浮かべ、聖書を振り上げるレイジ。
 唇から紡がれるのは、戦いの興奮を鎮静させる、信仰の熱をともなわない単なる音の連なり。
 『私はこの町の中に暴虐と争いを見ています。彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩き回り、町の真中には罪悪と害毒があります』
 それは聖書におさめられた架空の挿話ではなく、東京プリズンの現実だ。
 「神への冒涜」。
 自己暗示をかけるようにぶつぶつ呟いている当の本人は、悪魔のように綺麗な顔でにっこりとほほえむ。
 『破滅は町の真中にあり、虐待と詐欺とは、その市場から離れません』
 狂える呪文を連ねて笑みを深めたレイジは、まったく無造作に、一気に腕を加速させて聖書を振り下ろす。
 レイジの手前にいた少年の右耳に水平に寝かせた聖書が激突、鼓膜が破れて血が滴り落ち、耳小骨が砕けて乾いた音が鳴る。
 「サ、サーシャさまあああああああっ」
 一方的な殺戮の様相を呈してきた下界から、背後のサーシャへと目を転じる。
 サーシャはどこまでも冷徹な爬虫類の目で死屍累々たる眼下の惨状を睥睨していたが、妙に堅苦しく格式張った口調で嘆く。
 「誇り高きロシアの末裔たる者が、混血の害虫一匹に駆逐されるとは情けない」
 大儀そうにかぶりを振ったサーシャが仰々しく腕を振りかざし、腰のポケットから一本のナイフを召喚する。
 芸術的な装飾の施された鞘を抜き放ち、抜き身のナイフを手に握る。
 静脈が浮いた手にナイフを握り締めたサーシャは無表情にそれを一閃、弱音を吐いた少年のもとへと投擲する。コンクリートの地面を穿ち、鋭く突き刺さった銀の刃に、流血した耳をおさえて尻餅ついた少年が「ひっ!?」とあとじさる。蒼白の顔で後退した少年に無慈悲な一瞥をくれ、奢り高ぶったサーシャが非情な宣告を下す。
 「北棟の恥さらし、ロシアの面汚しが。潔く頚動脈をかき切って自害しろ。恥辱を拭うには誇り高い自死しかない」
 自分の下した命令で戦い傷ついたというのに、同胞にかける憐憫の情など一片たりとも持ち合わせてないらしいサーシャは終始冷たい目をしていた。恐怖のあまり失禁し、ズボンの股間を湿らした少年のもとに歩いてきたのは、あらかた敵を始末し終えたレイジ。
 コンクリートの地面に刺さったナイフ、その柄を勢いよく踏み込み、器用に宙に蹴り上げる。
 柄に力をくわえられた反動で地面から跳ね上がったナイフは縦方向にくるくる旋回しつつ、狙い定めたようにレイジの手の中にすべりこむ。
 「おりてこいよ皇帝。決着つけようぜ」
 聖書とは逆の手にナイフを構えたレイジが叫び、上半身裸のサーシャが叫び返す。
 「私は王座から動かない。そちらが上がってくるのが筋というものだろう」
 「階段に罠があるかもしれねえからな」
 レイジが肩をすくめる。最も、その台詞がまったくの冗談ではないという証に目は笑ってない。
 「―罠を恐れる東の王ではないと思うがな。買いかぶりだったか」
 嘲りを含んだ台詞に、レイジの笑みが深まる。抜き身のナイフを腰にさし、聖書を抱え直したレイジが「いいだろう」とふてぶてしく歩き出す。死屍累々、額を割られ鳩尾を蹴られ鼓膜を破られ鼻骨を砕かれ、杜寫物と血にまみれて悶え苦しむ少年らには一瞥もくれず、悠々と監視塔に通じる階段をのぼりはじめる。
 カツン、カツン。
 サーチライトが照らす暗闇に響く、のびのびした靴音。自信と矜持に満ち溢れた、絶対無敵を誇る王者の歩幅。
 傾斜が急な階段をのぼり、ようやく屋上へと辿り着いたレイジは、コンクリート塀にもたれたロンを見つけるや否や返り血を浴びた顔でにっこりと微笑む。 
 「門限すぎても帰ってこねえから心配したぜ」
 「煩死了(おまえにはうんざりだ)」
 台湾語がでたということは、本当に怒ってる証拠だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060516234723 | 編集

 「重畳なり、東の王よ」
 どこか侵しがたい威厳をおびた陰鬱な声が、コンクリートの屋上に殷殷と響く。
 その場に集った者たちの視線を独占し、緋毛氈の上を歩むが如く洗練された足取りで降臨したのは、左右に臣下を侍らした北の皇帝。
 サーシャ。
 肩で切り揃えた銀髪がサーチライトの照り返しを受けて白蛇のように輝いている。足音すら殆どたてずに屋上を歩いてきたサーシャの上半身に自然と目がひきつけられる。火炎瓶の火が引火してたちどころに燃え滓となった上着を脱ぎ捨てたサーシャ、一糸まとわぬ上半身を惜しげもなく外気にさらしたその姿は、神の造形物のように神々しくサーチライトの明かりに浮かび上がっている。
 しかし注意してよく見れば、白磁と見紛うきめ細かさの肌には無数の古傷が刻まれている。
 縦横斜めに交差した傷の大半は鋭利な刃物で皮膚を切り裂かれてできたとおぼしきもので、四方から浴びせられるサーチライトの光におびただしい襞を浮かび上がらせている。胸板から脇腹から腹筋にいたるまで、おびただしい数の傷が刻印された裸身を何かの勲章の如く人目にさらしたサーシャが十メートルを隔ててレイジと対峙する。
 肌に痛いほどに空気がはりつめる。
 「俺の物を取り返しにきたぜ」
 「だれがお前の物だ」
 噛みつくように吠え返したロンが激情にかられて身をのりだした際に、手錠でつながった僕の体が前方に傾ぐ。ロンがはげしく体を動かすたびに手錠でつながった僕にまで被害が及ぶ。辟易した僕はロンから顔を背けて抗議する。
 「痴話喧嘩はよそでやってくれないか」
 「……喧嘩売ってんのかお前?買うぞ」
 ロンのこめかみがぴくりと脈打つ。頭に血が昇りやすいタイプの人間の扱いには本当に手こずる。今はそんな場合ではないというのに、物事の優先順位もろくにつけられないのだろうか。
 「生憎、僕は腕力に自信がない。君と喧嘩しても勝てる確率はかぎりなく低い。労多くして得るものがない無益な争いはしたくないな」
 「サムライみてーなこと言うんだな」
 「何?」
 小馬鹿にしたように鼻を鳴らしてそっぽを向いたロンの方へと我知らず身を乗り出し問い詰める。今ロンはとんでもないことを口走らなかったか?試すような流し目で僕を挑発したロンが、嫌味たらしくつけくわえる。
 「同じ穴のムジナってゆーだろ。サムライとおんなじ房になっておんなじ空気吸ってるうちに感化されちまったんじゃねえか?」
 「……馬鹿なことを言うな。なんで僕があんな男に影響されなければならない?あんな不潔で無口で不気味な男に感化されてころころ変わるほど僕の価値観は安くないぞ」
 「サムライは無益な殺生を好まねえ、お前も無益な争いを好まねえ。腰抜けの日本人同士気が合うんじゃねえか」
 「僕の場合は効率論の問題だ。君たち知能指数の低い野蛮な連中は育ちが悪いせいかすぐに物事を腕力で解決しようとするが、そんな短絡的かつ直情的な手段に訴えずとも頭を使えば大概の問題は片がつく。むしろ僕は理解に苦しむな、なぜ君たちは頭を使わずにすぐに手をだすんだ?そんなに無駄な体力が有り余っているのか?うらやましいな」
 「喧嘩のときはちゃんと頭使ってるぜ、頭突きで目潰し」
 いけしゃあしゃあと言い放ったロンに議論を続ける気力が萎える。いかに熱心に訴えても、当の本人に吸収する頭がなければ空気を相手に問答するのにひとしいむなしい愚行だ。しかし、サムライと同じ枠で括られるのは非常に不愉快だ。だれがサムライと似ているというんだ、気色の悪い誤解はやめてほしい。僕はあんな得体の知れない男に一切感化されてもなければこれから感化されるつもりもない、研究対象のモルモットに感情移入したら実験自体が続けられないじゃないか。本末転倒だ。
 ―じゃあ、なんで僕はサムライをさがしに外にでたんだ?
 そもそもの疑問の原点に立ち返り、自分の行動原理がわからなくなる。夜中に目覚めたらサムライが不在だった。サムライの行方が気になって僕は廊下にでて、あてどもなく刑務所内を歩き回っているうちにリュウホウと遭遇、リュウホウを追って屋外にでたところで薬物で気を失わされて今に至る。
 元を辿れば、すべての原因はサムライにある。
 元を辿ればあの男がすべての元凶なのだ。夜中目覚めた時にサムライがちゃんと隣のベッドにいれば僕はあいつを捜しに外にでなくてもよかったし、レイジとサーシャの因縁対決に巻き込まれて拉致られずに済んだはずだ。僕が不慮のトラブルに巻き込まれた原因はすべてあの男にある。
 「そうか、わかったぞ」
 「あん?」
 思ったことが口にでていたようだ。聞かせるつもりのなかった独り言を耳ざとく拾い上げたロンが眉根を寄せる。
 「東京プリズンにきてからの僕の不幸は、全部サムライに起因している」
 ロンがあ然とする。
 「すげえ責任転嫁」
 「責任転嫁ではない、さまざまな根拠に基づいて導き出された合理的結論だ」
 ロンはどこか同情的なまなざしを僕に注いでいたが、疲れたようにため息をついて投げやりに付け足す。
 「反省しろよ、お前」
 「?なんで僕が反省しなければならない」
 奇妙なことを言う。
 眉をひそめて反駁した僕へとあきれかえった一瞥をくれ、なげかわしげにかぶりを振るロン。
 「鍵屋崎。お前、頭いいけど馬鹿だ」
 やけにしみじみと呟かれ、本気で困惑する。なにがなんでどうして僕が馬鹿だという結論に到達したんだ?ロンの中でどのような思考過程が踏まれてそんな事実とは百八十度異なる結論に帰結したのか理解しがたい。
 とにもかくにも前言撤回をもとめようと口を開きかけた僕をさえぎったのは、屋上に響いた陰険な声。
 「舞踏会の幕開けだ」
 大袈裟に両手を広げて舞踏会の第二幕を告げたサーシャに、レイジがまた笑いの発作を起こす。
 「下僕のネズミどもを踊り狂わせただけじゃ飽きたらず、誇り高い皇帝自らコサックダンスを披露してくれるってか?」
 「王は踊り疲れたのか?」
 「まさか」   
 右手に握り締めたナイフを軽々と放り上げ、宙で一回転させてふたたびキャッチしたレイジが不敵に笑う。
 「前戯がぬるくて退屈してたんだ。今夜は一緒に踊ろうぜ」
 「ダンスの作法もろくに知らない下賎な混血児と踊るのは、貴様の汚い足で靴を踏まれそうでぞっとしない」
 生理的嫌悪に顔を歪めるサーシャ。腐乱死体を食い荒らす蛆虫でも見るかの如く侮蔑をこめたまなざしを叩きつけられても、レイジの笑顔は崩れなかった。鉄壁の笑顔で守りを固めたレイジがナイフを握り締めた手首の角度を調整し、大胆不敵かつ油断も隙もない肉食獣の大股でサーシャとの間合いを詰めてゆく。二十歩、十五歩、十歩。焦らすように縮まってゆく距離。徐徐に確実に接近しつつあるレイジを前に、サーシャは指一本動かすことなく屋上の中心に立ちはだかっていた。
 レイジとの距離が十歩まで狭まったとき、サーシャの目がこちらを向いた。
 冷血な爬虫類のように、体温を凍結させた流氷の目。
 「連れてこい」
 サーシャが顎をしゃくり、サーシャが伴っていた臣下とは少し離れた距離に待機していた別の三人がこちらへと歩き出す。コンクリートの屋上をよこぎりこちらへと駆けつけてきた少年らに、壮絶に嫌な予感が募る。
 「さわんなよっ、」
 「垢とフケで爪が黒ずんだ不潔な手でさわるな、最低三十回は石鹸で洗ってこい」
 背後に回りこんだ少年らに羽交い絞めにされたロンがカッとして叫び、腕を掴まれて強制的に立ち上がらされた僕も不機嫌げに抗議する。抗議内容はおなじなのに何故だか僕のほうが不興を買って邪険に扱われた。釈然としない。
 膝を蹴られて前のめりによろばいでた僕の前で、レイジとサーシャは互いに微動だにせず向き合っていた。サーシャの息のかかった少年らに完全包囲されて連行されてきた僕らを見て、レイジがかすかに訝しげな顔をする。
 レイジとサーシャの中間、両者からひとしく五歩の距離を隔てた場所へと引き出された僕は、これから何が起こるのか予測できずロンと顔を見合わせる。
 どうせろくでもないことがおきるのだとは思うが。
 「―何の真似だ?」
 うっすらと笑みを浮かべたままの軽薄な表情とは裏腹に、氷塊を沈めた口調でレイジが問う。
 「愚かな王だな」
 僕たちを挟んでレイジと対峙したサーシャが、哀れみ深いまなざしで憫笑する。
 「なぜ私がリョウから薬を借りてまでこの薄汚い台湾人を拉致したと思う?答えは明白―……『これ』がお前の唯一にして最大の弱味だからだ。そうだな、リョウ?」
 癖のない銀髪を揺らして振り向いたサーシャの視線の先、コンクリート塀に腰掛けて舞踏会を見物と決めこんでいたリョウが頷く。
 「少なくとも僕はそう聞いたよ、彼から」
 リョウが陽気にウィンクを飛ばし、その場に参集した全員の視線が見えない重圧となって僕へと注がれる。
 「おまえが噛んでたのか……」
 背中越しに恨めしい呟き。手錠を鳴らして振り向いたロンが忌々しげに僕を睨む。
 「………仕方ないだろう。眼鏡を盾にとられたんだ」
 「さっきの言葉そっくり返すぜ。こうなったのも全部お前のせいだ」
 ひどい言いがかりだ。公平に見て、僕には二割の責任しかない。残り八割の責任はリョウとリョウのうしろで陰謀の糸をひいていたサーシャにあるだろう。
 僕はひとつため息をついて眼鏡のブリッジを押し上げると、屋上に参集したサーシャとその手下を見回し、淡々と言う。
 「僕はレイジ本人からそう聞いた」
 「キーストアの言う通り」
 手首に小気味良いスナップを効かせてナイフを上下させつつ、なんでもないような口調であっさり肯定するレイジ。
 「俺は嘘は言ってない。それがどうかしたか?」
 「―ならば」
 サーシャが顎をしゃくる。主君の意図は心得たとばかり、迅速に間合いをつめてくる少年たち。強引に肩を掴まれ背中を蹴倒され、家畜のようにその場に這わされる。ひんやりした温度を保ったコンクリートの感触が、転倒を防ぐために反射的についたてのひらへとじかに伝わってくる。屋上に膝を屈した僕の隣、三人がかりで押さえこまれたロンの拳が力任せにこじ開けられ、間接ぎりぎりまで広げられた五指がしっかりと地に固定される。
 「なんのつもりだよ?」
 抵抗は無意味だ。いかに愚かなロンだって十分理解しているだろう。レイジがどれだけ怪物的な強さを誇っても、僕らはそうじゃない。 身体能力面では凡人の域を脱してない僕らがつまらないプライドから抵抗してみせたところで体に痣が増えるだけ、賢い選択とはいえない。
 だから僕は、黙ってその光景を見ていた。傍観者の視点で観察していた。
 見せびらかすように緩慢な動作でポケットへと手をもぐりこませるサーシャ、指揮棒を振るかの如く半弧を描いて返ってきたその手にあったのは三本目のナイフ。念入りに磨きこまれて飴色に輝く鞘には、氷の結晶を模した六角形の紋様が彫りこまれていた。君主から剣を授与される騎士の如く、恭しく腰を折ってサーシャの手からナイフを受け取った少年がこちらへと引き返してくる。
 歩きながら鞘を抜き放ち、銀に輝くナイフをサーチライトの光に翳す。
 サーチライトの光を反射したナイフが剣呑に輝き、鋭利な表面にロンの顔が映る。
 ロンの前で立ち止まった少年が無造作に腕を振りかぶり、ナイフの切っ先をコンクリートに突き立てる。ロンの中指と薬指をかすめてその股を抉ったナイフに視線を定め、サーシャがうっそりと口を開く。
 「純血のロシア人たる私は本当の本当に混血が嫌いだ」
 そして、続ける。
 「とくにアジアの血が混ざった混血がな。奴ら黄色い猿どもの血が混ざった連中ときたら図々しいにもほどがある、とくに中国人は最低だ。地球の人口の実に五人に一人が奴らで占められる。我がロシアと国土を接していながら、文化も言語も料理もなにもかもが奴らはあまりに下品すぎる。非常に目障りだ。私が『外』にいたときに知り合ったさる中国人は、我がロシアが誇る伝統料理ボルシチよりチゲ鍋のほうが数倍辛くて美味だと主張して決して自説を曲げなかった。ボルシチなどブタの血をまぜて赤く見せただけの子供だましの料理だと」
 ロンの指の間からナイフを引き抜かせ、サーシャが笑う。残忍な笑み。
 「私はその中国人の舌を根元から切りとり、じっくり煮込んでボルシチを作った。とてもとても美味だった」
 呼吸も止まらんばかりに驚倒したロンの手をふたたび寝かせ、ナイフを手にした少年が嗜虐的に笑う。サーシャに洗脳されているのか、それとも自発的な意志でサーシャに従っているということは彼らもまた過激な国粋主義者でロシア人至上主義者なのか。ロンの手首を踏んで地面に固定した少年が、なにかをせがむようにサーシャを仰ぐ。陰湿な狂気で目をぎらつかせた少年たちを落ち着き払って睥睨し、ふたたびロンへと視線を向けるサーシャ。
 「お前は中国人の血が混ざってる。ボルシチを愚弄してロシアを侮辱した中国人の血が」
 「……またか」
 手首を踏まれた激痛に声を震わせ、前髪で表情を隠したロンが吐き捨てる。
 「中国人だったり台湾人だったり、てめえらの都合でころころ変えやがって。もううんざりだ」
 「真実だろう?お前は台湾と中国の混血で、いずれ劣らぬ下賎な血の末裔だ」
 ロンの呪詛を言下に斬り捨て、傲慢にサーシャが命じる。
 「小指を切り落とせ」
 「!」
 はじかれるようにサーシャを仰いだロンの顔から血の気がひいてゆく。
 サーチライトの逆光を背に、不気味な陰影に隈取られたサーシャが両腕を広げて叫ぶ。
 「リビョ―ナクのように泣き叫べ。サバーカのように吠えろ。ああ、薄汚い中国人のクローフィが見たくて見たくてたまらない」
 『赤ん坊のように泣き叫べ。犬のように吠えろ。ああ、薄汚い中国人の血が見たくて見たくてたまらない』
 サーシャの演説を翻訳すると、こうだ。
 サーシャの許しを得た少年が汗ばんだ手でナイフを握りなおし、今まさに自らの手で演出しようとしている惨劇の興奮に吐息を上擦らせながらロンへと向き直る。三人がかりで押さえこまれたロンの顔が恐怖にひきつり、少年が一気にナイフを振り下ろし―
 「北の皇帝はあまり物を知らないようだな」
 風切る唸りをあげて振り下ろされたナイフが、コンクリートを穿って静止する。
 途中でぼくが言葉を挟んだせいで手元が狂ったらしき少年が、ありたけの憎悪と殺意をこめてこちらを睨んでくる。大気の密度が百倍にも膨張したかのような殺気が一挙に押し寄せてきて、呼吸するのも苦しくなる。
 「―どういう意味だ?」
 「チゲ鍋は韓国料理だ。中華料理じゃない」
 間一髪、小指を切り落とされるのを免れたロンが荒い息をこぼしながらこちらを見上げてくる。蒼白の顔にびっしょりと脂汗をかいたロンを冷ややかに見返し、平板な口調で付け足す。
 「あと、彼の指を切り落とすのは手錠をはずしてからにしてくれないか?他人の返り血を浴びるのはぞっとしない」
 鎖をぶらさげた手首をじゃらりと持ち上げ、できるだけ穏便に訴える。コンクリートの地面に組み敷かれたロンが信じがたいものでも目撃したかのように目を見張る。
 「裏切り者」―そうなじられている気がした。しかし僕はロンの友人ではないし、金輪際だれとも友情を築くつもりがない。
 裏切りとは信頼を前提にしているからこそ生じる行為だ。もともと信頼も信用もされてない僕が我が身の保身を優先したところで、裏切り者となじられるいわれはない。
 「そうか、韓国料理か。それは知らなかった」
 感心したような、その実これっぽっちも感謝はしてない口調でサーシャがくりかえす。
 手首を突き出して訴えた僕は無視し、虚空に片手をさしのべて件の少年からナイフを受け取る。絶対君主の手に恭しくナイフを献上し後退した少年のほうは一顧だにせずに、ざりざりと砂利を踏みしめて僕へと接近。
 「お前ら黄色い猿どもの口にする餌など私からすれば中国も韓国も日本も変わらん。胸の悪くなるような腐臭をはなつ残飯にすぎんからな」
 交互の手にナイフを投げ渡しながら歩を運ぶサーシャ、その距離が縮まるにつれ全身に冷や汗が滲み出してくる。コンクリートを蹴ってあとじさったが、鎖の長さが尽きる。じゃらりと耳障りな音を鳴らし、ぎりぎりまで鎖をひきずってその場に尻餅をついた僕の頭上でナイフが翻る。

 視界が赤く染まった。

 大量の血が左目に流れこんできた。痛みは一呼吸遅れてやってきた。焼けるように疼く瞼を眼鏡の上から押さえ、赤く歪んだ視界でサーシャを仰ぐ。
 赤く歪んだサーシャの笑顔とその手に握り締められたナイフとを交互にとらえ、顔の前にもってきたてのひらへと目を落とす。
 てのひらには大量の血が付着していた。
 赤く染まったてのひらを見下ろし、激痛に痺れてきた頭で漠然と考える。
 瞼や目の上を切り裂かれた際の出血は意外と多く見えるが、これは目の周縁に毛細血管が集中しているためだ。薄く皮膚を切り裂かれただけでも大量の血を失ったように見えるから大抵の人間は動揺するが、流血がハデなだけで怪我はごく浅い場合がほとんどだ。僕の場合もたいしたことはない、しばらく焦点を凝らしていたら赤い霧が晴れて視界が正常に戻ったし失明の心配もないだろう。  
 
 ただ、二回目は保証できないが。

 「血の汚れた日本人の分際で誇り高きロシアの末裔たる私に意見する気か。その勇気は褒めてやろう」
 血の付着したナイフの切っ先をさも美味そうに舐め上げ、サーシャが無表情に笑う。
 無表情に笑うー矛盾した表現だとわかっているが、そう形容するのが最もふさわしい冷淡な表情。
 「ただー……その勇気には、愚者の烙印が押されるがな」
 ナイフの刃に舌を這わせて恍惚の余韻に浸っていたサーシャが、ふたたび腕を振り上げる。反射的に目を閉じた僕の脳裏に恵の顔が浮かぶ。

 これで最期なのか?
 これでもう恵に会えなくなるのか?
 最期の最後の瞬間まで恵は笑ってくれないのか?
 最期の最後の瞬間まで僕を許してくれないのか?

 めぐ、み―――― 
  
 ガキン、と鈍い音が響いた。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060515234912 | 編集

 目を開く。
 足もとにナイフが落ちていた。
 ナイフの横に落ちていたのは酷使が祟り、背表紙が剥がれかけた血染めの聖書。
 返り血を吸って赤黒く膨張した聖書のページが開き、指の間から滴りおちた血が褪色した活字に染みる。
 『どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐が横行しています』
 インクと血が溶けてまざりあい、その一行が不吉に浮かび上がる。

 地の暗い所―ここだ。
 暴虐が横行する所―ここだ。東京プリズンだ。

 何かの啓示のように鮮明に目に焼きついた詩篇の警句から顔をあげ、振り返る。
 聖書を投げてサーシャの手からナイフを弾き飛ばした張本人は、細緻な装飾が施されたナイフを腰にさし、手ぶらの状態で笑っていた。
 「サーシャ。お前、ほんとうに陰険」
 一歩ひいて聖書を投擲した姿勢を立て直し、余裕ぶって体の脇に両手をたらしたレイジが笑う。笑みより苦味が勝った笑顔だ。興をそがれたサーシャは僕にはもう関心を失ったように腰を曲げてナイフを拾い上げるや、凍えた目でレイジを一瞥する。
 「東の王の名は伊達ではない、ということか」
 独白じみた呟きには、複雑な感慨がこもっていた。肉の薄い手でナイフを弄びながらレイジへと向き直ったサーシャは抑揚を欠いた口調で続ける。
 「東棟の人間を盾にとられれば、いかなお前といえど手をだせないだろう。この中国人がお前の弱味だとはリョウから聞いていたが、それだけでは心許ない。念のためにもう一人人質を確保しておいてよかった」
 「まあ、メガネくんが夜中にふらふらほっつき歩いてるとこにでくわしたのは偶然だったけどね。結果オーライってやつ?ぼくの機転に感謝してほしいな、なんてね」
 コンクリート塀に腰掛けて片ひざを抱いたリョウが悪戯っぽく片目を瞑る。媚びたウィンクを投げかけられてもサーシャは表情を変えない。親指の腹でナイフの柄を擦りながら、興味なさそうに言い放っただけだ。
 「お前の働きには相応の褒美で報いよう」
 「やった」
 無邪気な歓声をあげて指を弾いたリョウの体が後方へとバランスを崩し、あわや屋上から墜落しかける。慌しく両手を上下させて間一髪重心の均衡を取り戻したリョウが長々と安堵の息を吐く。
 「ぶっちゃけ、そいつがどうなってもかまわないんだけどさあ」
 間延びした声で横槍をいれたのは、屋上の中央に立つレイジ。気だるげに肩を揉みほぐしながら、迷惑そうに僕を一瞥する。
 「べつに俺そいつとダチじゃねーし、同じ棟の人間だからってだけじゃ助ける動機にもなんねーし。さっきそいつがロンを見捨てようとしたのと同じこと。わざわざしなくていい苦労してまでダチでもねー人間助ける物好きはいねーだろ。鍵屋崎はからかいがいのある面白い奴だけど、そんだけだ」
 淡々と、あくまで淡々と。
 レイジは真実を語る。
 「ロンと違って、俺はそこまで鍵屋崎に執着してない。早い話がタイプじゃない」
 「では、なぜ助けた?」
 「それはな」
 レイジはとぼけた。おどけたように首を竦め、放心状態でうずくまっているロンへといたずらっぽく笑いかける。
 「ロンの顔をほかの男の血で汚すのが嫌だったから、かな」
 つまり、僕と同じ理由だ。レイジの場合はどこまで本気かわからないつまらない独占欲だが。
 この一連の過程でレイジへと注意が向き、四肢を押さえこんでいた少年らの手が緩んだ隙に、ロンが僕の元へと張ってくる。薄く裂けた瞼を押さえ、血が止まるのを待っていた僕の元へと這ってきたロンはしばらく何か言いたげにこちらを睨んでいたが、やがて舌打ちしてそっぽを向く。
 言葉よりも雄弁な、万感の恨みをこめた目つきだった。
 「唾つけときゃなおる」
 どうやら怒らせてしまったようだ。当たり前のことを言っただけなのに、何をそこまで怒るのか理解に苦しむ。赤く濡れそぼった五指で辛抱強く瞼を押さえていると、ようやく血が止まってきた。眼鏡のレンズに跳ねた血の飛沫を親指で拭い、かけ直す。
 レンズの向こう側では、此岸と彼岸に匹敵する十歩の距離を隔てて王と皇帝が対峙していた。
 サーチライトの光を等分に背負い、コンクリートの直線上に立った二人の青年は、百八十度異なる表情で互いを凝視していた。
 レイジは人心を魅了するカリスマの笑みを浮かべて。
 サーシャは人心を掌握する独裁者の厳格さで。
 「で?北の皇帝は俺になにをさせたいわけかな」 
 きざっぽく肩をすくめ、冗談めかしてレイジが笑う。
 「跪いて靴でも舐めてもらいたいわけ?」
 「そうしてもらおうか」
 サーシャの返答は簡潔かつ迅速だった。だが、霜が張ったように凍えたまなざしと人間として当然備わっているべき何かが欠落した平板な口調からは、決して冗談の類を言っているのではないことが窺い知れた。
 「マジで?」
 レイジは笑った。笑っていた。最高の冗談を聞いたとでもいうふうに頬をひきつらせ、彫ったように形よい喉仏を断続的に震わせ、囚人服の肩を上下させて必死に笑いの発作をこらえているレイジとは対照的に、サーシャは冷酷な表情を保ったままだった。ロシアの大地が生んだ凍土の皇帝は声を荒げて命令するでも強制するでもなく、ただ、酷薄な冷笑を閃かせただけだ。
 「できないのか」
 レイジの笑みが薄まり、比例して眼光が鋭くなる。剣呑な光を帯びた双眸が音速でサーシャを射抜く。  
 「だ・れ・が、できないと言ったよ?」
 レイジが一歩を踏み出す。運命の女神を味方につけて地雷原を直進する兵士の如く、この期に及んでもなお己の自信と優位を周囲に誇示することが習性となった王者の歩みで。
 九歩、八歩、七歩。
 「…………まさか」
 手錠の鎖が擦れて耳障りな音をたてた。
 振り向く。僕の隣で食い入るようにその光景を見つめていたロンが、ごくりと生唾を嚥下する。
 「本気じゃねーだろうな?」
 「どちらがだ?」
 「なに?」
 「レイジとサーシャ、どちらがだ」
 冷静に反駁した僕へと眼光鋭い一瞥をくれ、ふたたび正面に向き直ったロンが軋り音が鳴るほどに奥歯をくいしばる。
 「両方だよ、畜生」
 六歩、五歩。
 「止まれ」
 サーシャがおもむろに沈黙を破り、前方に手を掲げてレイジの歩みを制止する。唐突に歩みを妨げられたレイジは、形よい眉をひそめてサーシャを見る。静かに腕をおろしたサーシャが、ちらりとレイジの腰に目をやり命じる。
 「頚動脈をかき切られる前に腰のものを返してもらおうか」
 腰にさしたナイフの柄に片手を添え、惜しいと舌打ちするレイジ。 
 「ぬかりねえな、さすがに」
 手負いの獣によく似た笑みを口の端に昇らせたレイジが、一抹の未練なく手の中のナイフを放る。カチャン。乾いた音をたてて自分の足もとへと投げ返されたナイフを感情の窺えない目で見下ろし、サーシャが顎をしゃくる。僕らの周囲に控えていた少年らが先を競って駆け出し、サーシャの足もとに落下したナイフを後生大事に拾い上げる。
 手際よくナイフを回収して外野に退いた少年らにはもはや一瞥もくれず、レイジに向き直るサーシャ。煌々と輝くサーチライトの光につつまれたその姿は、永久凍土の大地に君臨する皇帝にふさわしい崇高な威厳をおびていた。
 四歩、三歩、二歩。
 ズボンのポケットに手をつっこみ、野生の豹のように獰猛な品をおびた動作で交互に足を繰り出してサーシャのもとへ馳せ参じたレイジは、足を肩幅に開いた無防備なポーズでゆっくりと立ち止まる。
 「サーシャ」
 「なんだ」
 「警告しとくが、俺があんたの足の親指を食いちぎらないって保証はどこにもない」
 サーチライトに透けた睫毛の下でレイジが目を細め、サーシャも目を細める。
 「貴様の喉を私の足の親指が下る間に、あの中国人は手首を切り落とされ、あの日本人は両の目を抉りだされるだろうな」
 サーシャの脅迫に驚異的な反応速度で応じ、僕の背後に回りこんだ少年が鞘からナイフを抜き出す。鞘から抜刀されたナイフが頬に接着され、鋭利な切っ先が眼球に刺さりそうになる。
 「………僕は関係ないだろう」
 「………もうおそい。最後まで付き合え」
 たぶん、今の僕は苦りきった顔をしていることだろう。隣のロンとおなじく。
 レイジが天を仰いだ。
 大気の汚れた空には星など見えず、サーチライトで円く切り抜かれた闇の帳がおちているだけ。
 覚悟を決める時間を稼いでいるのかと遠目に訝しんだ僕の視線の先で、レイジが動く。
 腰を落とし、片ひざをつき、コンクリートの地面にゆっくりと五指の先端をおく。
 恭順の意志を示す角度で首を折り、非の打ち所なく尖った顎先を沈め、衣擦れの音さえ殆どたてぬ用心深さでゆっくりと上体を伏せてゆく。
 サーシャの靴裏に左手をもぐらせ、踝に右手を添え、奥ゆかしく捧げ持つ。
 レイジの唇が靴の先端に触れた。
 遠目に眺めているぶんには何の葛藤も抵抗も感じさせない、流れるように優雅な一連の動作。
 靴の先端に控えめに触れるだけの接吻をしたレイジの横顔がサーチライトに照り映え、襟足で括った茶髪が人工の光線に透ける。
 
 綺麗だ。
    
 サーチライトの照り返しを受けた彫り深い横顔には、どこか聖性をおびた飽和した微笑すら浮かんでいた。襟足で一本に括った茶髪が乱れ、うなじにはりついた鬢のおくれ毛が妙になまめかしい。
 僕とロンを見張っていた少年らが、屋上の中央で繰り広げられる静謐な光景にごくりと生唾を飲みこむ。レイジから目を離せない―逸らせない。サーシャを凌ぐ存在感を持ったこの男から目を逸らせない。
 皇帝が、王に食われようとしている。

 「―――――」
 足の先端から食われる、という本能的危機感に襲われたわけでもないだろうが、サーシャの表情が目に見えて強張ったのは事実だ。それまで誰の目にも絶対的な優位を誇示していたサーシャの顔に激情が芽生え、ひび割れた唇から呪詛が迸る。
 「誠意の程度が知れるな」 
 鈍い音がした。
 「………!」
 レイジの手を邪険に振りほどいたサーシャの足がその頭上に振り上げられたと見るや―容赦なく、顎を蹴り上げる。蹴られた衝撃で大きく仰け反ったレイジだが、後ろ向きに転倒しかけたところでコンクリートに手をつき、難を逃れる。あと一秒反応が遅れていればコンクリートの地面で無防備な後頭部を強打していたレイジは切れた唇を手の甲で拭い、唾を吐く。
 唾には血が混ざっていた。
 「キスしろなどと一言も言ってない―『舐めろ』と言ったんだ」
 血の滲んだ唇をろくに拭う暇も与えず、サーシャが連続して足を振り下ろす。至近距離からの攻撃を避けることもできたはずなのに、レイジは甘んじてそれを受けた。見張りの少年らに脇を固められ、首にナイフを回されたロンが視線の先にいたからだ。
 「……………!」
 今にもとびだしていきかねない勢いで片ひざを立てたロン、その拳が強く強く握り締められている。
 間接が白く強張るほどに力をこめて握り締められた拳に目をやり、忠告する。
 「今動けば死ぬぞ」
 「―今動かなくてもどうせ死ぬだろ」
 最もだ。しかし、僕にも言い分がある。
 「忘れるな。僕と君は手錠でつながれた一心同体、運命共同体だ。君の軽率な行動次第では僕まで命を落としかねない」
 恵に会うまで死ねない。ロンと心中するのはごめんだ。
 「………………っ、」
 やり場のない怒りをこめた拳でコンクリートを殴るロンから、一方的にレイジをいたぶるサーシャへと目を転じる。勝ち誇ってレイジの顔面を踏みつけたサーシャが小刻みに息を切らし、狂気渦巻く双眸で命じる。
 「舐めろ。サバーカのように」
 「……………………………」
 レイジは命令に従った。 
 地に膝をついて上体を倒し、四つん這いに這う。獣のような四つ脚の姿勢でサーシャに接近、靴の先端へと顔を寄せる。切れて腫れ上がった唇が痛むのか、サーシャの靴の先端に触れようとした顔が不自然に歪む。しかし、サーシャは容赦しない。靴の横腹をレイジの顔に押し付け捻じ込み、さらに苦痛を増長させる。靴底で蹂躙され泥だらけになった顔のレイジは、それでも四つん這いの姿勢で体を支え、唇を割った舌の先端を靴の表面に触れさせる。
 唾液の糸をひいた舌が、発情した蛭のように貪欲な動きで靴の表面を這いまわる。
 ぴちゃぴちゃと唾液を捏ねる淫猥な音がやけに耳につき、耐えきれずにロンが顔を背ける。コンクリートの地面に手足をついたレイジは器用に顎の角度を変え、盲目的なまでの一途さでサーシャに奉仕していた。
 ある時は喉の奥深くまで靴の先端をくわえこむように。
 ある時は舌の長さが尽きるまで表裏を舐め上げ。
 交尾を強いられ跪かされた雌犬のように屈辱的な体勢にも増して行為の淫らさを強調しているのは唾液に濡れそぼった靴の光沢、そして。
 コンクリートに五指を広げ、口蓋に先端を押し付けられるたびに苦しげに顔をしかめ、それでも従順にひたすらに、飢えに似た殺気すらともなう必死さで靴を舐め続けるレイジの姿。
 物欲しげに喉を鳴らし、忘我の境地でレイジとサーシャに見入った少年たちの足もとで戦慄する。
 
 僕は不感症だ。
 異性との性交渉を経験したときも何の快感も得られなかったし、全裸の異性を前にしたときだって何もー何も思わなかった。何も感じなかった。
 それなのに。

 今目の前で繰り広げられているこの光景が、どんな刺激的な情事や扇情的なフィルムにも増してセクシャルに映るのは何故だ。

 とうとう僕まで頭がおかしくなってしまったのか?
 東京プリズンにいれられた人間に狂気が伝染するのは不可抗力なのか?

 認めたくない。
 認めたくない。

 僕が―僕がこの光景に欲情してるなんてことが、あってたまるか。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060514005114 | 編集

 僕は変人かもしれないが、変態じゃない。
 今までそう信じてきたし、事実そうだったはずだ。世間の九割を占めている凡人どもの中で、僕の言動が一般の価値観から外れている自覚はある。脳の造りからして違う天才の考えは所詮凡人には理解できないのだ。
 しかし、くどいようだが、僕は変態じゃない。リンチとレイプが横行する悪名高い東京プリズンに収監されてからも同性に性的興味を抱いたことはないと自信をもって断言できる。
 サムライ?まさか。冗談じゃない。
 女でも男でも好みにあえば性別は問わないと声高に吹聴してはばからないレイジのような節操なしでもないし、どちらかといえば同性愛への偏見はないほうだが皆無というわけでもない。
 否、正確には、僕はもともと妹以外の女性に興味がない。恵以外の人間に関心がない。
 まったく関心のない他人が個人の嗜好で同性を好きになろうが異性を好きになろうがどうでもいい、僕の目の届かないところでやってくれればそれでいい。しかし、東京プリズンではそうもいかない。東京プリズンに収監されているのは十代前半から後半までの最も性欲旺盛な時期の少年たちばかり、そんな彼らが性的対象となる異性のいない環境でどうにか正気を保っていくためには仮性的同性愛に走るのはやむをえない。僕が昔読んだ心理学の本にも同じ事例が記載されていた。男女が半半に存在する外の世界ではごく普通に女性と性交渉して家庭を持っていた男性が犯罪を犯して刑務所に収容される。見渡すかぎり男ばかりの異常な環境下でも性欲が減退するわけではない。むしろ、厳しい規律に支配された束縛の多い刑務所生活の中ではストレスとともに性欲もたまる一方。この二つを同時に解消するためには服役囚への集団レイプや強姦などは非常に効率的な手段でもある。だからといって彼が真性の同性愛者になったわけではない―中にはそういう者もいるだろうが、大半の囚人は出所と同時に元の生活に戻り、以前と変わりなく何の抵抗もなく女性とベッドをともにするようになる。

 発狂するのを防ぐための苦渋の選択、異常な環境への一時的な適応。 

 俗な言い方をすれば、女がいなければ男で手を打つしかない。刑務所で集団レイプが横行するのはそういうわけだが、彼らだって刑期を終えて俗世間に戻れば何も好き好んで同性と寝ようなどと酔狂に試みたりはしないだろう。 
 
 僕はまともだ。頭がおかしくなんてない。

 今の今までそう信じていたし、今この瞬間まで疑ってみたことすらなかった強固な確信がはげしく揺らいでいる。僕の目の前では相変わらずレイジが靴を舐め続けている。犬のように這いつくばりコンクリートに手足をついた屈辱的な姿勢で、一心不乱ともいえる愚直さで顔に押し付けられた靴の表裏に舌を這わせるレイジの表情はこの距離からでは窺えないが、彼が顎を傾げるたびに聞こえてくる衣擦れの音と不規則に乱れた息遣いが背徳的な光景を際立たせている。
 いや、この距離までレイジの息遣いが聞こえてくるわけはない。興奮に吐息を弾ませ、頬を紅潮させて屋上中央の光景を凝視しているのは僕の周囲の少年たちだ。彼らも僕と同様か、それ以上の動揺と戦慄を感じているのは一目瞭然だ。
 サーシャはなぶるような薄笑いを浮かべて四つん這いにさせたレイジに靴を舐めさせていた。既に何分たったかは定かではないが、行為が始まってから最低でも三分は経過しているだろう。その間サーシャはレイジに一呼吸つく間も与えず、体を支える肘が萎えてレイジの上体がくずおれそうになるたびに脇にもぐらせたつま先を蹴り上げて力づくで起こし、顎が靴の先端からすべりおちそうになるたびにそんな怠慢は許さないとばかりにぐいと持ち上げる。
 サーシャの陰湿さにも閉口したが、レイジの耐久力は凄まじかった。
 相当疲労しているだろうに、弱音ひとつ吐かずに意に染まぬ行為を続行している。気を抜けばすぐに口腔につっこまれてくる靴裏で舌を押さえられ、減らず口を叩く間も与えられないというのが本当のところだ。
 「茶色の毛並みの雑種のサバーカ」
 唇の端をめくりあげ、弦月の笑みを刻んだサーシャが唄うように揶揄してレイジの頭上へと手をのばす。夜目にも透けるように白い腕が宙を泳ぎ、サーシャの足もとに跪いたレイジの頭頂部を掌握する。
 「お前は従順でいい犬だ。東の王を名乗るより私の愛犬として靴を磨くほうが、汚らしい雑種のお前にはふさわしい」
 狂気に憑かれた双眸でサーシャが嘲笑し、レイジの脳天を掌握した手に力をこめる。撫でる、というより頭蓋骨を軋ませ痛みを与えるのを目的としているかのような剣呑な握力にレイジの肘が屈しかけるが、顎が地面に接する前になんとか体勢を立て直し、短く咳き込んでからふたたび靴を舐め始める。
 サーシャは無表情に笑っていた。
 口元の笑みを裏切るように体温の低い目で恍惚とレイジを眺め、見下し、頭頂においたてのひらをゆっくりと往復させる。
 「どうだ?私の犬にならないか。待遇は保証するぞ」
 行為に没頭しているレイジの耳朶に唇をよせ、情事の後の睦言のようにいやらしく囁く。
 隣で変化があった。
 「―止めても無駄だ」
 片ひざ立ったまま硬直し、今にも堰を壊して迸り出んとしている激情を自制心を振り絞って抑圧していたロンが、低い声で言った。僕と彼の間にたらされた鎖が、楕円の輪を触れ合わせてかすかに鳴っている。耳障りな音の源はロンの拳だ。色が白く変わるほどに握り締められた拳が小刻みに震え、そのわずかな震動が鎖を遡って手錠を共有する僕のもとにまで伝わってきたのだ。
 「なにをする気だ」
 八割方予想できていたが、ロンの暴発を防ぐために声量を落として確認する。
 「もう辛包できねえ」
 ロンの目は本気だった。
 強靭な意志を宿した双眸がじっとサーシャとレイジを見つめている。握り締めた五指に骨が砕けそうな力がこもり、手錠の震えが大きくなる。危険な兆候だ。このままではロンが後先も考えずにサーシャに殴りかかり、巻き添えになった僕までサーシャの仲間たちにリンチされて死に至らしめられる最悪の結末は回避できない。
 しかし、これ以上ロンを止めるのは無理だ。僕の説得は火に油を注ぎ、状況をさらに悪化させるだけだ。
 どうにかこの窮地を切り抜ける奇策はないものか―……
 打開策をさがしてあたりを見回していた僕の目にとびこんできたのは、先刻サーシャが脱ぎ捨てた囚人服の上着。レイジが投げた火炎瓶が直撃して炎上し半ば以上燃え滓となった囚人服の布地にはまだ火の粉が燻っていた。
 そして、灰となりかけた囚人服より少し離れた場所には、レイジの手を離れて僕の窮地を救ったぼろぼろの聖書が。
 道が拓けた。
 「ロン」
 「人怒らせるしか能のない減らず口は閉じとけ」
 「いいか、これは助言だ。僕は今から君とレイジを助けるために口を開く」
 今しもコンクリートを蹴り、全力で駆け出そうとしていたロンがうろんげに振り向く。ロンの眼光に射抜かれた僕はその耳元に口をよせ、小声でささやく。ロンの目に理解の明かりが点り、驚きの表情が一転して疑わしげな色に染まる。
 「勝算はあるのか?」
 「僕の計算では75%確実だ」
 「それは確実といわねえ」
 「悪くない賭けだろう。少なくとも、素手でサーシャに殴りかかるよりはずっと」
 ロンが思案していた時間は決して長くなかったが、体感時間では永遠にひとしく感じられた。思考を絡めとろうとする逡巡を振り切って顔を上げたロンの目には峻厳な決意の色があった。
 「お前は馬鹿だけど頭はいい。今はお前を信じる」
 「―生憎と」
 口元に自嘲の笑みが浮かぶのがわかった。こんな状況だというのにまだ笑える自分には、若干の余裕が残っていることに気付く。
 「信頼には足らないが、信用には足る自信がある」
 「よし」
 ロンがさりげなさを装って正面を向き、僕から視線を逸らす。悪くない演技だ。事実、周囲の少年らはだれひとりとしてこちらの動きに気付いてない。彼らの注意が屋上中央へと向けられている今がチャンスだ。コンクリートと鎖が擦れて鳴らないよう、少しずつ少しずつ尻で地面を擦り遅々として移動。コンクリートの地面に放置されていた聖書を手に取り、顔を上げる。聖書の落下地点より50センチ離れた場所にサーシャの上着が落ちている。いまだ火種が燻る上着へと手を伸ばしてさっと引き寄せる。ページの端、血が付着してない乾燥した箇所を選んでサーシャの上着で爆ぜる火の粉へと近づける。
 まだ生きていた火の粉が紙へと燃え移り、ちりちりと音をあげて見る間に大きくなる。
 「?なんか焦げ臭くないか」
 「そういえば……」
 大気にまざりはじめた焦げ臭い異臭にようやく違和を察した鈍感な少年たちが、鼻孔を上向けてあたりを見回し始め、そして、僕の手の中で燃え始めた本に気付く。
 「!なっ…………、」
 泡を食ってこちらを指さした少年めがけ、この瞬間を待っていたかの如く勢いよく炎上した聖書を投げる。夜闇に鮮やかに炎を踊らせた聖書は狙い違わず少年めがけて飛んでいき、反射的に手を突き出して払いのけようとした少年の上着に引火して一気に燃え上がらす。
 たまたま近くにいた少年の上着が盛大に燃え上がり、耳を刺し貫くような絶叫が屋上狭しと響いた。
 「ぎゃあああああああああああああああっ!!」
 「火を消せっ、水、水!」
 「馬鹿、脱がせるのが先だ!」
 「あばれんなよ、脱げねーよ!」
 目の前で炎上した仲間に、周囲の少年らは完全に理性を失っていた。熱と激痛に苛まれて手足を振り乱し、一生耳にこびりついて離れないような尾を引く絶叫をまきちらして苦悶する少年の服をどうにかこうにか脱がそうと、動揺した少年たち全員の注意がそちらに向く。
 今だ。
 「―せっ、」
 短い呼気を吐いたロンが、僕の手首を掴んで走り出す。炎上した少年を取り囲み、素手でその背中を叩いて火を消そうと努めていた見張り役が「あっ」と声をあげて追ってくる構えを見せたが、立ち止まっている暇はない。走りながら振り返ってみれば、聖書から引火した炎に包まれた少年は無数の火の粉をまとわせた両腕を高々と夜空に突き上げ、死に物狂いで見えない星を掴もうとしていた。
 屋上中央でレイジを跪かせたサーシャが接近の気配に気付き、ゆるやかに振り向く。
 衝撃。
 一気に加速してサーシャに激突したロンが、そのままサーシャを巻き添えにしてコンクリートの地面に四肢を投げ出す。当然、手錠でつながれた僕もロンとおなじ運命を辿る。後ろ向きに転倒したサーシャは後頭部を強打したと見え、こめかみを押さえて上体を起こしたその手の間から一筋の血が滴っていた。
 「―――クローフィの臭い雑種が」
 憤怒の形相を浮かべたサーシャが憎々しげに唇を捻り、骸骨のように痩せさらばえた手を夜空に突き上げる。快哉をあげるように突き上げた腕へと銀の円弧を描いて夜空を滑ってきたのは、見張りの少年が投擲したナイフ。白い五指がナイフの柄を掴んで目にもとまらぬ速さで振り下ろす、その軌跡の延長線上には、今まさにコンクリートから上体を起こそうとしていたロンの首筋が。 
 「!ロ、」
 ロンの頚動脈が裂かれ、噴水のように鮮血が噴き出す幻を見た僕の目の前を影がよこぎる。
 錯覚かと思った。動体視力すら追いつかない超人的な速度でコンクリートを蹴り跳躍した影は、自分を狙う凶刃には気付いてないロンを突き飛ばし、彼を守るように懐に抱えこんで1メートル向こうの地面に転げる。ロンと一心同体の僕も必然的に巻き添えを食い、勢いよく突き飛ばされて地を転げる羽目になる。
 視界が二回反転し、殺風景なコンクリートの地面と大気の汚れた夜空が交互におりてくる。連続横転し、なんとか回転が止んだ視界に映ったのはサーチライトの光を透かして金に輝く茶髪。目を凝らしてみれば僕に背を向けて屈みこんだレイジの後姿だ。
 「生きてるか?生きてるな」
 「生きてるよ」
 ロンの首の後ろに腕をさしいれて頭を支え起こしたレイジが、不敵に笑う。
 「上出来だ」
 無敵の笑顔。
 「キーストアも無事か?」
 「非常に不本意だがな」
 ついでのように聞かれ、表情が渋くなるのを押さえられない。不機嫌な声で応酬した僕に笑み返したレイジの頭上に影がさす。
 「!」
 今度の窮地を救ったのはロンだった。
 レイジの名を呼ぶ間も惜しかったらしく、何も言わずに彼を押し倒して上体を伏せさせる。レイジの前髪を掠めて過ぎ去ったのは、ナイフ。サーチライトの光が屋上の闇を斜めに轢断して眩く降り注ぐ中、押し倒された風圧でふわりと舞い上がったレイジの前髪がナイフに切断されて宙に散る。
 スローモーションのような一連の光景を演出したのは、体前にナイフを構えて立ちはだかるサーシャ。
 肋骨の形がはっきりと浮き上がった上半身を惜しげもなくサーチライトの光に曝け出し、静脈の拍動がはっきりと見極められるほど痩せさらばえた右手にナイフを握り、絹の光沢のある白蛇のように美しい銀髪を燦然と輝かせたサーシャは、わずかに息を喘がせてレイジを凝視している。
 その目に宿っているのは、純然たる殺意の結晶。
 「血の汚れた雑種のくせに同胞を庇うとは、上等な真似をしてくれる」
 こめかみを押さえた左五指から滴った血が点々とコンクリートに染み、サーシャの声が憎悪に軋る。憤怒を漲らせたアイスブルーの双眸が膝をはたいて立ち上がったレイジを射抜く。
 「先刻まで私の足もとに四つ脚ついて這いつくばり靴を舐め、強者には節操なく媚びへつらう雑種の本性を露呈していたくせに……」 
 嘲弄の響きがこもった挑発に顔を上げ、見せつけるように緩慢な動作で顎をさすりながらレイジが笑う。
 「顎がこったぜ」
 不敵な角度に顎を傾げ、鼻先で笑い捨てたレイジにサーシャの表情が一変する。まとう空気を氷点下に豹変させ、酷寒の憎悪を双眸にこめたサーシャが機械的に唇の端をつりあげる。
 「躾のなってない犬の末路はふたつ……」
 殺意を凝縮した切っ先をサーチライトに反射させ、隙のない構えでナイフを体前に翳し、爬虫類の皇帝が邪悪に笑む。
 「去勢か屠殺だ」
 レイジはやる気なさそうに耳の穴をほじりながらサーシャの演説に耳を傾けていたが、ひとさし指に付着した耳垢をふっと吹き散らすや、目にした者すべてを貪欲に飲みこむブラックホールのように底知れない笑みを湛える。
 「いいか?今から当たり前のことを言うから耳の穴かっぽじってよおく聞け」
 底知れない、底冷えする笑顔。
 「I am not a dog. You are a goddamn guy.俺は犬じゃないし、あんたはクソ野郎だ)」
 本当に―本当の本当に、コイツの笑顔は吐き気がする。
 サーシャは黙ってレイジを見つめていた。サーチライトの光を吸い込んだアイスブルーの目にレイジの顔が映りこむ。大理石の彫像のように白い裸身を曝して立ち竦んでいたサーシャの唇から吐息が漏れ、アイスブルーの目に激情の波紋が生じる。
 「北棟の威信に賭けて今晩お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「そんな大義名分じゃなく、皇帝の本音が聞きたいね」
 興醒めしたように肩をすくめたレイジをちらりと流し見て、サーシャが言葉少なく付け加える。
 「私自身の名誉に賭けて、お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「ああ、それなら―」
 完璧な角度に尖った顎先を反らし、サーシャをさし招くレイジ。
 「それならいいぜ。踊ってやるよ」
 そして、舞踏会の終幕を飾る王と皇帝の対決が始まった。
 戦いの火蓋を切って落としたのはサーシャだった。腰だめにナイフを構えて突進してきたサーシャの軌道からひらりと半身をかわして脱したレイジ、弧を描いて返ってきたナイフがその胸板をかすめ生地を切り裂く。一直線にシャツの胸を切り裂いたナイフがふたたび返ってきてレイジの頚動脈を狙うが、首を左方に倒して紙一重の差で回避。風切る唸りをあげて腕を引いたサーシャが三歩後退、レイジと距離をとりナイフを構えなおす。
 空気が撓み、はりつめる。
 ちりちりと産毛がこげてゆく音が聞こえそうなほどの凄まじい緊迫感に、僕の横で王と皇帝の対決を見守っていたロンが生唾を嚥下する。こちらに駆け付けてくるタイミングを逸した少年らも、茫然自失の体でこの対決に見入っている。炎に絡みつかれて七転八倒しながらも上着を脱ぐことに成功した少年が、肩から腕にかけて生じた火傷に苦悶の呻きを漏らしつつ、それでも目を逸らすことができないジレンマで屋上中央を仰ぎ見ている。
 呼吸するのも憚られる殺伐とした沈黙を破ったのは、サーシャの嘲弄。
 「どうした?逃げてばかりだな」
 「あのな……」
 ナイフを弄びつつのサーシャの台詞に、レイジはあきれたふうに首を振る。
 「ずるいと思わないかこの状況?お前はナイフを持ってるのに俺はこのとおり手ぶら。アンフェアもいいところだよ」
 「無敵の王を称すなら徒手で勝利を奪いとれ」
 「んな無茶な」
 あきれを通りこし嘆きの境地に入ったレイジが大袈裟に両手を広げる。
 「お前はそれで勝って満足なのか?誇り高い北の皇帝サマともあろうお方が自分だけナイフ持って対戦相手にはなにひとつ武器を与えずに勝利したとあっちゃ、かえって他の棟の連中に馬鹿にされるぜ」
 「なぜ私が馬鹿にされなければならない」
 レイジの訴えを鼻で笑って一蹴し、サーシャが続ける。
 「奇妙なことを言うな。自分の胸に手をあてて考えて見ろ……お前は収監以来無敗を誇るブラックワークの覇者であらゆる武器の扱いに通じている。ナイフ?聖書で人を廃人にできるお前には無用の長物だ。私はこの目で見たぞ、お前が聖書ひとつで枯れ草のように敵を薙ぎ倒してゆくさまを」
 「今は手ぶらなんだけど」
 レイジの言う通り、聖書は燃えた。正確には僕が燃やした。現在の彼が手にする武器はない。
 「優しく誇り高い皇帝さまは勝負の公平を期すためにナイフを貸し与えてくれたりは―……」
 「案ずるな、そんな気は毛頭ない」
 「……ケチ」
 すごすごと両手をおろし、レイジがため息をつく。
 「ケチとかそういう次元の問題ではないだろう。彼は馬鹿か?」
 「お前ほどじゃねーよ」
 「?どういう意味だ」
 「それよりなんか武器になるもの持ってねーか?先がとがってるものとか、固いものとか」
 サーシャとその仲間たちの注意が逸れている隙に、僕の脇腹へと体をすり寄せてきたロンが耳打ちする。肩口ににじり寄ってきたロンから自然に距離をとり、首を振る。
 「僕が今身につけているのは眼鏡だけだ」
 「その優秀な頭脳を絞って眼鏡を使った有効な戦い方を考えろ。いますぐ」
 「さっき君は僕のことを馬鹿と言ったろ?前言と矛盾してるな」
 「根にもってんのか日本人」
 「万一眼鏡を使った有効な戦い方を思いついたとしても、僕の大事な眼鏡をそんなくだらないことのために渡したくない」
 「~~真的愚蠢ッ!!」
 お前本当に馬鹿だと叫んだロンに怒り任せに突き飛ばされ、よろめいたとき。
 僕とロンの中間めがけ、ナイフがおちてきた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060513010506 | 編集

 「「!!」」
 咄嗟の判断だった。
 僕ともあろうものが考えるより先に体が動いた。
 いや、僕の判断というよりロンの判断というほうが正しい。手錠でつながれた手首が僕の意志に反して天へと翳され、僕とロンがそれぞれ逆の方向に退避したために中間の鎖が極限まではりつめる。
 サーチライトの光を鋭利な切っ先に留めて急転直下してきたナイフが、逆向きに引かれた鎖の中央部を穿ち、火花散る音が鳴る。
 間一髪、頭上を急襲したナイフを鎖を盾代わりにして避けた僕とロンはどちらからともなく息を吐く。
 「あぶねえなレイジっ、どこに蹴ってんだよ!」
 「わりィわりィ」
 全然反省の色のない素振りでレイジが頭を掻く。察するに、サーシャの掌中のナイフがレイジに蹴とばされてここまでとんできたものらしい。
 「事故に見せかけて殺す気じゃねえだろうな、アイツ」
 疑念を捨てきれない口調でロンが呟き、疑心暗鬼にかられた三白眼で飄々と笑ってるレイジをねめつける。
 「信用ないな、彼は」
 「信用する要素がないからな」
 「その割には彼のことを気にかけてるようだが」
 コンクリートの地面に落ちたナイフから視線をひきはがし、ぎょっとしたように目を見張ってこちらに向き直るロン。驚愕の相を浮かべたロンから顔を背け、囚人服の袖で瞼の上にこびりついた血を拭う。
 「本当は彼のことが好きなのか?」
 「~~~どこからそういう発想沸いてくんだよ、日本人は全員お前みたいに頭イカレてんのか?」
 僕と議論する気力が尽きたのか、苦りきった表情でそっぽを向いたロンを目の端で一瞥して考える。自覚はないようだが、ロンはレイジのことを心配している。その関係を友情と称していいのかどうか、僕にはわからない。ただ、レイジが我が身を呈して命の危険に曝されたロンを庇い、ロンが手錠された不自由な身ながらレイジを救おうとしたのは事実だ。
 僕の目に映るロンとレイジ、その関係は友情などという既存枠では括れない刹那的な「何か」を感じさせる。
 相互依存という言葉がいちばん近いだろうか。ロンはレイジをはげしく嫌悪しているが、その半面レイジを意識せずにはいられない矛盾に苛まれている。レイジはというと、多勢に無勢で不利な状況は先刻承知の上で人質にとられたロンを助けにきたことからも窺えるとおり、半ば以上本気でロンに執着しているのだろう。事実、サーシャの足もとに膝を屈して犬の真似をしてまで、レイジはロンに危害が及ぶのを避けようとしたではないか。
 僕には考えられない。恵以外のだれかのために、我が身を犠牲にしてまで尽くそうとするなんて。
 「……認める認めないは自由だが、君はレイジにとって大切な人間らしい」
 「……迷惑だよ」
 ふてくされたように呟いたロンの目に複雑な色が浮かぶ。辟易したような表情を装っているが、その目を過ぎったのはむしろ逡巡。レイジがなぜ自分のためにそこまでするのかと本気で疑問に思っていることが傍から見てもまざまざと窺える、わかりやすい当惑の表情。
 「そうだな」
 同感の言葉が唇から漏れた。ロンがうろんげに振り向く。ロンの注視を顔の右側面に浴びながら、おおいなる共感をこめて頷く。
 「自分が好きでもない人間に好かれるのは迷惑だな」
 思ったままを口にしただけなのに、瞬間ロンの目を過ぎった非難がましい眼光はなんなのだろう。抗議にかえた視線の硬度で僕を突き刺したロンがこちらへと膝を進め、何事か口を開きかけたその時。
 「Shit!」
 舌打ちとともに聞こえてきたのはスラング。
  反射的に顔をあげた僕の目にとびこんできたのは疾風の速度でコンクリートを蹴り、こちらへと疾走してくるサーシャ。レイジが蹴飛ばしたナイフをふたたび手にしようと全力疾走してきたサーシャ、骸骨のように痩せさらばえた五指がざらついたコンクリートの表面を這いまわり、焦れたように僕の下半身へと伸びる。僕の足の間に転がっていたナイフを掴もうと加速してすべりこんできたサーシャ、その形相のあまりの凄まじさに息を呑む。
 爬虫類のように冷血な眼光が陰湿な輝きを増し、蛇のように細い舌がひび割れた下唇を舐める。
 食われる―呑まれる。
 蛇に睨まれた蛙の戦慄を味わった僕は、次の瞬間狂ったように踵を跳ね上げる。
 「!」
 僕の踵にあたってはね飛ばされたナイフが、サーシャの頬をかすめて遠方の地面に落ちる。咄嗟の行動だった。計算なんてなにもない、合理的思考を成立させる暇もなかった。
 「―小ざかしいイポーニャめ」
 アイスブルーの双眸に怒気が迸り、頬骨の尖った陰惨な顔が極大の憎悪に歪む。背筋が凍る感覚を味わった僕はサーシャにくびり殺される未来を予期して体を強張らせたが、北の賢帝は私怨に端を発する制裁よりも勝負の趨勢を左右する武器の確保を優先したらしい。千匹の白蛇の如く光沢のある銀髪を振り乱して颯爽と方向転換するや、後方5メートルの地点に落ちたナイフめがけて前傾姿勢で肉薄する。
 「そうはっ、」
 僕の横を一陣の疾風が走り抜ける。
 ロンだった。随行者の意志などまったく無視し、足をもつれさせた僕を強引にひきずる形で走り出したロン、その眼前に迫り来るのは肩甲骨の形が浮いたサーシャの背中。
 嫌な予感がする。それも現在進行形で。
 「ロ、」
 隣を走るロンに呼びかけようとしたが、肝心の本人に一切聞く気がないようだ。
 僕に口を挟む間を与えない速度で一気に屋上を突っ切ったロンがガクンと高度を落とし、頭を前方に突き出す姿勢で上体を伏せる。
 ロンが地を蹴り、視界が反転した。
 今度は二回どころではすまなかった。一回、二回、三回……四回。サーチライトの光を冠した夜空が遠ざかり近くなりを繰り返し、三半規管がはげしく揺さぶられて気分が悪くなる。胃袋がひっくりかえったような嘔吐感が喉奥まで突き上げてきて、なんとか上体を支え起こした肘が危うくすべりそうになる。
 なにが起きたかは理解できる。ロンが前方を走っていたサーシャの足に突撃し、全体重をかけて押し倒したのだ。そこまでは確かに見ていた。それで、それから―……どうなったんだ?慌ててあたりを見回して異変に気付く。顔に手をやって違和感の正体を突き止める。
 眼鏡がない。
 「めがね、めがね……」
 無意識に口中で呟きながらコンクリートの地面に手を這わせ、眼鏡をさがす。不用意にコンクリートに手をおいたせいで右の薬指に激痛が走り、体を支える肘が萎えて顔面からその場に突っ伏しそうになる。
 あった。
 ようやく左手に掴んだ眼鏡の弦を持ち上げ耳にかけようとしたところで、どこか皮肉げな抑揚の英語が聞こえてくる。

 「Lick my shoes, and it is the emperor.」
 『今度はお前が俺の靴を舐める番だぜ、皇帝』

 非の打ち所がない完璧な発音。皮肉げな笑みをまぶしたレイジの声。 
 眼鏡をかけた僕の前に広がっていたのは、先刻とはまるきり逆の光景。
 右手にナイフを構えたレイジが、四つん這いになったサーシャを悠然と跪かせている。
 僕が眼鏡をさがしてる間に何が起きたんだ?
 時間にして五秒もなかったはずだ―その五秒で、レイジは一体なにをしたんだ?
 地面に四つ脚ついたサーシャはこれがあの誇り高い皇帝とは思えない様子でごほごほ咳き込んでいた。両手で喉を掻き毟り、口から泡を噴いて苦悶するサーシャの様子は尋常じゃない。しかし、一瞥した限りでは目立つ外傷もないようだ。
 レイジは軽く手首を撓らせて掌中のナイフを天高く放ると、サーチライトの光に銀弧を描くナイフの回転数を数えながら口を開く。
 「とっくに12時過ぎた。舞踏会はおしまいだ」
 二回、三回、三回半。
 あざやかに旋回して手の中へと納まったナイフからおのれの足もとに這いつくばっているサーシャへと目を転じ、レイジが笑う。
 「お姫様は返してもらうぜ」
 「~~~だれが姫だ」
 悪ふざけも大概にしやがれと毒づきながら僕の隣で上体を起こしたのは、転倒の衝撃であちこち擦りむいた悲惨な風体のロン。ただでさえ癖の強い髪をぐちゃぐちゃに乱し、不機嫌も絶頂と鼻面に皺を寄せたロンをこの上なく愛しいものでも見るかのように目を細めて眺め、さらに彼を激昂させる台詞を吐くレイジ。
 「我が身を挺して俺を助けてくれたのは愛してるからだろ?いい加減素直になれよ」
 「いいか、よく聞けよ。俺があちこり擦りむきながらもサーシャを足止めしたのはな……」
 「うん?」
 微笑ましげにロンの述懐に耳を傾けているレイジの足元、今だ喉を押さえてもがき苦しんでいるサーシャを冷ややかに見下し、続ける。
 「下賎で卑しい混血児の底力ってやつを、奢り高ぶったロシアの皇帝気取りに見せつけてやりたかったからだ。それだけだ。断じてお前のためじゃねえ」
 「つれねえなあ」
 ロンの強情さにあきれたように首を振り、レイジが苦笑する。その手に納まっているナイフから目が離せないのは、先刻サーシャがレイジに強いた行為を鮮明に覚えているからだろう。
 「どうするんだ?」
 他愛ない雑談に興じていたふたりの注意が僕に向く。
 言葉を発したことで今初めて僕がここにいることに気付いたとばかり、毒気をぬかれた視線を向けてくるふたりを等分に見比べ、僕らの足もとに崩れ落ちたサーシャを見下す。
 「Lick my shoes, and it is the emperor.さっきの発言が本気なら、ちょうどいいじゃないか。お誂え向きに彼は這いつくばっている。靴でもなんでも舐めさせて復讐したらどうだ?」
 わざとレイジの発音を真似、彼自身が言い放った台詞を忠実に再現してみせる。自分の声が予想以上に冷え込んでいるのがわかった。すべてが終わった今頃になって、僕は猛烈に腹を立てていた。サーシャに?レイジに?おそらくその両方だ。ひいては否応なく僕を巻き込んで不快にさせた一連の流れ自体に。
 なにより腹立たしいのはサーシャの靴を舐めさせられるレイジを見て一時の気の迷いか悪夢か知らないが、ほんの少しでもその光景にセクシャルなものを感じてしまった自分だ。常々僕は不感症だと思っていたしその事実に間違いないのは実証済みなのに、なんでよりにもよってこんな男に……口にするのもおぞましいし腹立たしい。
 ほんの少しでも同性にセクシャルなものを感じてみっともなく狼狽してしまったなんて、僕の帰りを健気に待ち続けている恵が知ったらどう……
 おしまいだ。恵に軽蔑されたら生きていけない。
 「…………」
 しなやかに手首を振り、ナイフの刃先で軽快なリズミを刻むレイジ。その顔からはいつもの笑みが消えていた。変わりに浮かび上がったのは何かを逡巡するかのような、彼らしくもない真面目ぶった表情。
 「―どうするんだよ」
 声をかけたロンにしても止める気はないようだ。乗り気じゃないのは確かだが、レイジがやる気なら邪魔するつもりもないとばかり微妙な距離をおいてことの成り行きを静観している。先刻の光景を見たものなら口をはさむのもためらわれるだろう、サーシャはそれだけの屈辱をレイジに舐めさせたのだ。優位に立ったレイジが同様の行為をサーシャに強制したところで、彼を責められる者はいまい。
 「…………」
 レイジは無言でサーシャを見つめていた。
 喉をかきむしって苦悶するサーシャを見つめる目に複雑な色を湛え、片ひざをつく。
 レイジの表情が一変する。
 どこかためらいを捨てきれない面持を厳粛に改め、傲慢に顎を引いて直上からサーシャを覗きこむ。それこそ緋毛氈の絨毯に反逆者を跪かせた暴君の如く、余裕あふれるもったいぶった所作でサーシャの頭上に手を翳すや、煌々と明るいサーチライトの光にナイフの刃を閃かす。
 「!サーシャ様っ、」
 屋上の隅で一塊となり、固唾を呑んでこちらを見つめていた少年らに緊張が走る。
 盲目的に崇拝する皇帝の窮地に勇んで駆けつけようとした少年たちを制したのは……目に見えない「何か」。臣下の上奏に耳傾けるが如く優雅に片ひざをついたレイジが、キスする角度に顎を傾げてサーシャの顔を覗きこむ。
 「サーシャ。お前さっき、俺のことをなんて言った?」
 レイジがにっこりと笑う。狂気の片鱗を覗かせた深淵の笑み、目にした者がひとり残らず後悔するような純粋な邪悪の象徴。
 「クローフィの臭い雑種のサバーカ、茶色い毛並みのメス犬、えーとあとは……お前はいい犬だから皇帝サマの家来にしてやってもいい、だっけ」
 「……殺すならさっさと殺せ」
 しわがれた獣じみた声でサーシャが唸る。
 「北を制する皇帝が東の王に頭をたれるなど最大の屈辱、最大の侮辱。なぜ誇り高きロシアの大地の末裔たる私が、お前のような下等な雑種に膝を屈さねばならない?私は名誉ある死を望む。さあ、お前の手にしたナイフでひと思いに頚動脈をかき切れ」
 レイジが苦笑する。
 「雑種ねえ。まあ、たしかに俺は雑種だよ。それは認める」
 顔を歪めるように笑った際に、切れた唇が痛んだのだろう。ナイフを握ったのとは逆の手で唇を拭うと、親指の腹に付着した血痕をまじまじと見つめる。
 「ロン、お前これ何色に見える?」
 親指を仔細に観察しながらの問いに、やぶからぼうになにを言い出すんだコイツという顔でロンが即答する。
 「赤だろ」
 「鍵屋崎は?」
 「赤だな」
 当たり前だ。
 「俺にもそう見える」
 感情の窺えない目で親指を見下ろしながら、正面にむかって尋ねる。
 「お前はどうだ、サーシャ」
 「……クラースヌイ」
 赤、とサーシャは答えた。間延びした喘鳴を漏らしながら。
 おもむろにレイジが右手を振り上げる。サーチライトの光を反射したナイフがぎらりと輝き、一条の閃光が僕の目を射る。
 白銀の軌跡を描いてサーシャの手に振り下ろされたナイフ、左手の甲を穿った刃の下から懇々と鮮血が滲み出してくる。
 「………っ、ぐ」
 サーシャは声をあげなかった。
 屋上の隅で慄然とこちらを凝視している忠臣らの前で醜態を曝すことを是としない皇帝は、その異常なまでのプライドの高さでもって必死に悲鳴を噛み殺していた。だが、額に浮いたおびただしい脂汗と悲愴な形相は断じて演技などではありえない。
 「お前の血は赤い。俺の血も赤い。混ざっちまえばわからねえ」
 手の甲を貫いてコンクリートに縫い止めたナイフを無造作に引き抜き、鮮血滴る切っ先を興味なさげに一瞥。  
 「色も味も匂いもおんなじ、なにも変わらねえ。これでもまだ雑種とか純血とかにこだわんのか?」
 試しにナイフの刃先に舌を這わせ、ぺろりと舐めとる。
 「まじィ」
 まずそうに顔をしかめ、血が滴るナイフの先端をすっかり蒼ざめて変色したサーシャの唇へと近づけるレイジ。
 「舐めてみるか?俺の親指とおんなじ味だ」
 「…………」
 究極の選択を迫られたサーシャは凝然と目を見張ってレイジとその手の中のナイフとを見比べていたが、力尽きたようにがくんと首を折る。四つ足ついてうなだれたサーシャをそのままに、ナイフを一閃させて刃をひっこめ、身軽に立ち上がるレイジ。
 「いいのか?」
 おもわず声をかけたのは、あまりにあっさりしていたからだ。
 東京プリズン入所以来、僕の価値観もだいぶ害されてきたのかもしれない。
 レイジのこのやり方が生ぬるく感じられるなんて。
 「陰険なマネは好かないタチでね」
 気取ったしぐさで肩をすくめたレイジが、軽薄な笑顔でロンを振り仰ぐ。
 「俺はロンが無事ならそれでいいし、俺の一部をしゃぶらせたいのもロンだけだ」
 「死ね。本当に死ね。てめえのお粗末なモンと一緒にその下ネタ舌も根っこから切り落とせ」」
 口汚い罵倒の文句とは裏腹に、レイジの復讐がこの程度で済んだことに内心安堵しているらしいロンの表情は柔らかい。
 とんだ茶番に付き合わされた。
 膝の埃を払って立ち上がった僕は、深く深くため息をつく。
 明日も強制労働があるというのに、ロンに付き合わされて無駄な体力を浪費してしまったではないか。もうサムライなどどうでもいい、一刻も早く房に戻ろうと階段をおりかけた僕は今だロンと手錠でつながれたままなのに気付く。
 「手錠の鍵はどこだ?」
 「あそこに突っ立ってるギャラリーのだれかが持ってんだろ」
 ロンが顎を振り、屋上の隅で固まっていた少年らを促す。一気に徒労感が募った。彼らのもとまで歩くのも億劫だがいざ仕方ないと諦め、ロンを伴って歩き出そうとした僕の背後で何かが動く気配、続く衣擦れの音。
 
 完全に振り向く猶予は与えられず、中途半端な姿勢で固まった視界に黒い人影が降ってきた。

 なにがおきたか理解する間もなく切れ味鋭い突風がこめかみをかすめ、眼鏡がはじけとんだ。
 ガキン―硬い物と硬い物が火花を散らす金属音がすぐ間近で聞こえ、僕の鼻先を塞ぐ形で背中が出現し、眼鏡を失いよろめいた僕は我知らず支えを欲して背中に手を触れる。 
 背筋のぴんと伸びた、左右対称に肩甲骨が張った、引き締まった背中。
 この背中の感触は、手が覚えてる。
 「―サムライ?」
 「無論だ」
 おもわず名を呼んだ僕に返されたのは、ぶっきらぼうな呟きだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060512010714 | 編集

 なにが無論だ、だ。
 「全部貴様のせいだぞ」
 瞬間口をついてでたのは、僕らしくもなく感情的な台詞。黙然と僕に背を向けたサムライが訝しげな視線を向けてくるのが気配でわかったが無視し、溜まりに溜まった怒りを一息にぶちまける。
 「夜起きたら君が隣にいなかったから何事かと思って捜しにでてみたら、とんだ目に遭った。まったく馬鹿馬鹿しい、理解できない、ナンセンスだ。なんだって君と何の関係もない僕がこんな目にあわなきゃならない、低脳で粗野で愚鈍な連中の馬鹿騒ぎにまきこまれて貴重な睡眠時間を削らなければならないんだ?わけがわからない、なんなんだここは、この刑務所は!」
 話しながら興奮してきた。
 らしくもないと自制心を総動員して語気を静めようとしたが一旦堰を切った怒りは凪ぐことなく、巌のように沈黙したサムライの背中めがけ息継ぐ間もなく罵倒の礫をぶつける。拳を振って一歩を踏み出した僕に応じたサムライの声はいつもと同じく……
 否、いつも以上に落ち着き払っていた。
 「東京プリズンだ」
 「そ、」
 そんなことはわかっていると激怒して反論しようとした僕を黙らせたのは、曇った視界を占めたサムライの背中から放たれる威圧感。
 空気がおかしい。
 僕とサムライを中心にした半径10メートル内に押し寄せてきたのは、さざなみ立つような殺気。コンクリートに霜を降らせて足裏から伝わってきた冷気が体温を低下させる。
 「……何が起きているんだ?」
 唾を飲み下し、訊く。
 僕には今の状況が見えない。
 折から吹いた突風に眼鏡を飛ばされ、視界を奪われた無防備な状態の僕には現在進行形で何が起きているかわからない。僕の問いに耳を貸したサムライがおのが右手を腰にと引き寄せ、いつでも迎撃に備えられるよう半歩足を開く。
 「鍵屋崎」
 「?」
 サムライが何かを右手に握っている。じっと目を凝らす。―木刀だ。しなやかに反った形状の木刀がサムライの手の中で輝いている。
 「死にたくなければ俺のそばを離れるな」
 「どういうことだ?」
 偉そうな物言いに反発したくなるのを堪え、冷静を保って聞き返す。答えはない。かわりに耳孔にもぐりこんできたのは、足裏が砂利を踏む耳障りな音。半円を描くようにコンクリートの地面に足先をすべらしたサムライが、木刀の柄を握る五指に力をこめる。
 「じきにわかる」
 意味深な台詞が終わるが早いか、僕は否が応でも自分がおかれた状況を思い知らされることになる。
 「!」
 凄まじい勢いで殺気が膨れ上がり、一点に収束。
 屋上の中央に立った僕らめがけて殺到してきたのは大地を震動させて砂利を踏み砕く足音の大群、奇声を発して突進してくる大勢の人間の気配。咆哮、怒号、罵声。狂乱の坩堝と化した屋上の中心に立ち尽くした僕に、背中越しのサムライが短く命じる。
 「つかまっていろ」
 異論を挟む余地はなかった。
 「!」
 それまで支えを欲して無意識に触れていたサムライの背中が前触れなく右へと移動し、おもわず転倒しそうになるのを囚人服の背を掴んで防ぐ。残像をひいて右へと傾いだ視界を過ぎったのは半弧の軌跡。
 サムライが一閃した木刀が眼前に肉薄した敵の脛を打ち据えたのだ。
 視力を奪われても聴覚は生きている。
 硬い峰が骨を打つ鈍い音が連続し、重たく鼓膜に響く。
 それまで屋上の隅で息を殺していた北棟の残党が、こちらが隙を見せた機に乗じ、多勢の利を生かして逆襲に転じたのだ。
 そう理解した時にはすでに遅く、逆襲の機を窺っていたサーシャの腹心らが次々と攻めてくる。
 おそらくロシア語だろうが、早すぎて何を言ってるかは聞き取れない獣じみた咆哮に被さるのは風鳴りの音。サムライの右手があざやかに翻り、踊り、舞う。右手の延長の木刀がサーチライトを反射してつややかに輝き、脛や膝などの急所に打ちこまれてゆく。
 風雅かつ俊敏な身のこなし。
 猛々しい歌舞音曲の拍子に身を委ねるかのように、はげしく律動的な体捌き。
 野性的なまでに研ぎ澄まされた勘の鋭さで敵の接近の気配を嗅ぎとるや、正面の空を木刀で薙ぎ払い後ろに跳躍。目論見どおりに間抜けな敵を間合いに誘いこみ、袈裟懸けに木刀を振り下ろす。肩を強打されたロシア人の少年が地に膝を屈するのを見届けゆったりと背筋を伸ばしたサムライが、右手に木刀をさげた姿勢で肩越しに振り向く。
 「そちらはどうだ、レイジ」
 「生きてるよ」
 ロンを背にかばったレイジが苦笑する。
 「参ったね。お約束の展開ってやつか?」
 「敵に情けをかければつけこまれると相場が決まっている」
 にべもなく斬り捨てたサムライがふたたび木刀の柄を握り、臨戦体勢に入る。僕とロンを間に挟み、サムライの背中越しに位置したレイジが屋上の隅に視線を放る。
 「リョウ!お前、サーシャになにか弱味でも握られてんのかよ?そこまで義理立てする理由ってやつを教えてほしーな、二百字程度で」
 片手でサムライのシャツを握り、もう片手で地面を撫でる。あった。このへんに落ちたと予測していたとおりだ。屋上に転がっていた眼鏡を拾い上げ、レンズに付着した砂利を拭ってかけ直す。拭われたように晴れた視界に映ったのは、足元に落ちたナイフ。
 理解した。先刻僕の頬を掠めた風圧の正体は、このナイフだ。眼鏡を吹き飛ばされながらも聴覚が拾い上げたあの金属音は、サムライが一閃した木刀が僕へと投擲されたナイフを弾く音だったのだ。
 間一髪、サムライの到着が遅れていれば。
 否、サムライが腕を振るのが遅れていれば。
 そこまで考えて、全身から汗が引く。サムライが咄嗟の機転を利かせて軌道を逸らしていなければ、このナイフは僕の顔面を抉っていたことだろう。
 片ひざを抱えてコンクリート塀に腰掛けたリョウは、悪びれたふうもなく無邪気に笑っている。
 「二百字もいらないね」
 懐に抱き寄せた膝の上に小さな顎を乗せ、いたずらっぽく含み笑うリョウ。
 「サーシャは上客だ。僕はまだ彼から報酬をもらってない。このまま君たちを帰せば永遠に報酬がもらえなくなるー……」
 「アフターケアは万全ってか」
 「レイジさ、誤解してない?野郎の下で股開くのだけが僕の仕事じゃないんだよ」
 あきたれたような顔をしたリョウが淡々と解説をつけくわえる。
 「サーシャは君のことを憎んでる。そりゃもう手段を問わず亡き者にしたいほどに。そりゃそうだよね、サーシャの混血嫌いは有名だもん。とくにアジアの血が混ざった奴なんて人間として認めてないね、家畜以上犬以下ってかんじ。そんなサーシャにとって東棟の王様は目の上のたんこぶなわけよ、君がいる限りブラックワークの覇者になることはできないもんね」
 リョウが四本指を立て、続ける。
 「北棟・南棟・東棟・西棟……東京プリズンを構成する四つの棟にはそれぞれトップがいて、東西南北それぞれの棟をシメてる四人+その四人に継ぐ腕自慢の実力者のみが栄えあるブラックワークのリングにあがれるわけだけど」
 「よっ」と反動をつけてとびおりたリョウがポケットに腕をつっこみ、コンクリート塀にもたれる。
 「レイジ……君が入所してからというもの、殆ど番狂わせが起きなくてみんな退屈してるんだ。そりゃ下位グループはめまぐるしく変動してるけど、上位陣の顔ぶれは毎回ほぼおなじ。下克上こそブラックワークの醍醐味っしょ?負けた奴はトップの座から退き、首領の座を譲る。それが東京プリズンの暗黙の掟なのに君ときたら何年一位を独占すれば気が済むのかな?さすがにちょーっと図々しすぎない?」
斜め四十五度の角度に小首を傾げたリョウが猫のような足取りでこちらに歩いてくる。
 「サーシャがキレても無理ないよ」 
 「どうでもいいけどリョウ」
 すれちがう間際、耳朶を噛むようにささやかれたリョウの台詞にレイジは肩を竦める。
 「二百字超えてる」
 「……うっわー、やな性格」
 半笑いになったリョウが不敵な笑みを湛えたレイジから身を引く。ポケットに手をつっこんで五歩あとじさったリョウが芝居がかったしぐさで首を振る。
 「ハイ、時間稼ぎおしまい。復活の時間だよ、皇帝」
 「「!」」
 やる気なさそうに手を叩いたリョウに、僕とロンが同時に振り返る。それより一呼吸ばかり遅れ、サムライとレイジが振り向く。
 よろめく膝を叱咤したのろのろと上体を起こしたのは、左手と頭部から流血したサーシャ。
 その右手に握られているのは―……
 先刻、レイジがサーシャから奪いその左手を貫いたナイフ。
 「―しぶといね、本当」
 サーシャの左手を貫いた後は興味を失ったように投げ捨てたのが仇になった。さすがにうんざりしたようにレイジが顔をしかめる。必殺の武器を手中に取り戻したサーシャの双眸には殺意と闘志が蘇り、ふたたび立ち上がったその背からはなみなみならぬ殺気が迸っている。
 「下賎な雑種に慈悲をかけられるなど、北の皇帝の名誉にかけて断じて許せん」
 「命の恩人に感謝するフリくらいはしろよ」 
 「恩人?」
 サーシャの唇が侮蔑に歪み、アイスブルーの双眸に嘲るような色が覗く。
 「これはたとえ話だが……一匹の犬がいたとする。血の汚れた雑種だ。その犬が飼い主に噛み付いたとする。それがたまたま喉笛でなく足首だった。さて、飼い主は『喉笛ではなく足首に噛み付いてくれてありがとう、お前は本当にやさしい良い犬だ』と感謝すると思うか」
 サーチライトを背負い、屋上中央の舞台で頭から血を流しながらも饒舌に詠じたサーシャを見上げ、レイジがため息をつく。
 「Oh my god」
 僕は神を信じてないが、レイジが神に助けを乞いたくなる気持ちはよくわかる。
 「レイジ」
 手元の鎖が鳴る。
 僕の隣からおもむろに歩み出したロンが二歩進んで腰を屈め、無造作にナイフを拾い上げる。先刻僕の頬をかすめたあのナイフだ。
 レイジの手にナイフを押し付け、ロンが言う。
 「もういい、めんどくさい。決着つけろ」
 ロンの吐息には疲労が滲んでいた。
 ロンから手渡されたナイフをまじまじと見つめ、細緻な装飾の施された柄を危うげない慣れた手つきでもてあそぶ。サーチライトの光を顔の右側面に浴び、顔の左側面を闇に沈めたレイジが薄く笑みを浮かべて念を押す。
 「いいのか?お前、俺がとどめ刺さなくて安心したんじゃねえの」
 「お前らのような殺人狂と一緒にすんな、今だって血なんか見たくねえよ……けど、むこうに引き下がる気がないならケリつける方法はこれっきゃねえだろ」
 隈の浮いた目を眠たそうにしばたたき、喉元まででかけたあくびを噛み殺してロンが付け足す。
 「第一、俺は眠いんだ。明日も強制労働がある。お前らブラックワークの特権階級は試合日以外やりたい放題好きに過ごせていいだろうけど、こちとら庶民階級はそうはいかねえ」
 眠気にふさがりかけた三白眼に挑発的な光を宿し、語気を強めて断言するロン。 
 「東京プリズンでラクできるのは王様だけだ。俺は庶民だから、睡眠時間削ってまで王様の茶番に付き合わされるのはこりごりだ」
 たしかにいい迷惑だ。ロンもいい迷惑だが、僕のほうがもっといい迷惑だ。
 「後腐れなく今この場で、一対一で決着つけろ。でも、できれば殺すな」
 ロンに渡されたナイフを五指に握り締め、レイジが顔をあげる。レイジの視線の先にはサーシャが待機している。準備万全、全身に闘志をみなぎらせて足腰を支えた皇帝の勇姿を見守っているのは北棟の少年たち。屋上中央で対峙したレイジとサーシャを取り囲む形で僕とサムライとロン、その僕らをさらに取り囲む形で生き残りの少年らが展開している。
 二重の円の中心で対峙したサーシャとレイジは、しばし神聖な儀式に臨む者特有の厳粛な沈黙を守っていたが、同時に目が見開かれた時に両者の双眸に宿っていたのは。

 「OK, let's fight(殺るか、皇帝)」
 純粋な殺意と。
 「望むところだ、サバーカ」
 狂気。

 「さて、こっちはこっちで殺ろうか」
 ポケットに指をひっかけたリラックスした姿勢で振り向いたリョウが、仕切り直しとばかり笑みを広げる。
 リョウの背後から歩み出たのはサーシャ配下の少年たち。一連のやりとりの間にサムライの太刀の打撃から回復したらしく、したたかに打ち据えられた脛の激痛と僕らへの殺意をむきだしにして包囲網を敷く。
 じりじりと間合いを詰めてくる敵の気配に圧倒されあとじさりながら、背中越しに追い詰められたロンへと囁く。
 「いい加減君との腐れ縁を解消したいな」
 「同感だ」
 思えば強制労働初日に凱に追われた時もロンと一緒だった。僕とロンはお互い顔を合わせるたびにトラブルに巻き込まれている気がする。うんざり気味に吐き捨てた僕の耳朶を打ったのは、低い声。
 「縁は切れないが、鎖は切れる」
 一瞬の早業だった。
 それこそ神速に迫る勢いで振り下ろされた木刀が、僕とロンとの間の手錠を叩きのめしたのだ。
 そして、信じられないことが起きた。
 木刀の一撃を受けた鎖が糸もたやすくちぎれとび、鋭い切り口を見せた金属の破片となって宙を舞う。どちらからも等距離にあたる中間で鎖を両断され、手錠の輪だけを手首にぶらさげた僕らは愕然としてサムライを見上げる。
 「その木刀は木刀に見えるだけで、本当は鉄なのか?」
 おもわず声が懐疑的になる。しかし、答えは至って淡白なものだった。
 「玩具の手錠を切るなど造作もない芸当。……それに、最初からひびが入っていた」 
 思い出す。先刻、頭上に降ってきたナイフをふたり同時に掲げた鎖で受け止めたことを。察するにあの時、鎖にひびが入ったのだ。 
 ともあれこれで自由になったと安堵する暇もなく、手首をさすっていた僕にサムライが声をかける。
 「鍵屋崎、目は見えるか」
 「眼鏡をしてるからな」
 なにをいまさらとあきれかえって返事をした僕に背を向け、木刀を上段に構えるサムライ。
 「それならば、俺の背を掴まなくても自分の身くらいは守れるな」 

 え?

 ちょっと待てと呼び止めようとしたが遅かった。上段に構えた木刀を鋭い呼気とともに振り下ろしたサムライ、その切っ先が敵を屠るのを見届ける間もなく、奇声を発してとびかかってきた少年に全体重をかけて殴り倒される。
 結論。東京プリズンの囚人は人の話を最後まで聞かない。
 サムライがいい例だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060511010850 | 編集

 背中からコンクリートに激突する。
 どうにか首を起こして後頭部を守ったが、すかさず胴に馬乗りになられて拳をうちこまれる。頬を殴られて視界が明滅、みたび眼鏡がはじけとびそうになる。
 コンクリートに仰臥した僕のそばでは、サムライが一振りの木刀を武器に敵をさばいていた。
 垢染みた囚人服を羽織っていても、一切の無駄が殺ぎ落とされた緩慢かつ流麗な立ち居振舞はあざやかに目を引く。電光石火の速度でサムライが木刀を振るうたびに彼に掴みかかろうと大群で押し寄せてきた少年らが濁った苦鳴を発し、痛打された脛や膝や肩をかばってコンクリートに転倒する。
 ガツン、と硬い音が鳴る。正眼に構えた木刀を素早く敵にうちこむ。先頭を切ってサムライへととびかかった少年は息を呑む間もなく右肩を殴打され、それでもなんとかサムライの襟首をとらえようと虚勢を強いて宙をかきむしった右手を峰で弾かれバランスを崩す。膝から下が崩れ落ちるようにその場に屈した少年のあとからコンクリートを蹴って跳躍、左右からとびかかってきた少年ふたりを等分に見比べ、掌中の柄を握りなおすサムライ。
 「南無三」
 口中で短く呟き、風切る唸りをあげて木刀を振り下ろす。
 大気を両断して振り下ろされた木刀は風を巻き上げ、少年らの前髪をはためかせてから上腕部を撫で斬る。上腕部をかすめた木刀がサムライの手へと戻ると同時に、だらりと弛緩した腕をかばって少年らが膝をつく。
 的確な一撃、正確無比な攻撃。
 その一振り一振りが、必殺の硬度をひめた凶刃に変じて少年らを屠ってゆく。おそろしく荒々しく、野性的なまでに精悍でありながら歌舞音曲の囃子に乗じるかのように流麗な身のこなし。
 「よそ見してると顔砕くぞっ」
 品のない恫喝に頭上を仰ぐ。
 仰向けに寝転がった僕の上に跨っているのは金髪の少年。サーシャの服が炎上した際に真っ先に駆けつけた忠臣である。体格に利して僕を組み敷いた少年が右腕を振り上げ、僕の顔面に拳をうちこもうとする。

 眼鏡が割れる。

 木っ端微塵に砕け散った眼鏡のレンズが眼球に刺さる大惨事が脳裏をよぎり、強制労働初日の悪夢がまざまざと蘇る。流血した僕の右手、てのひらの柔らかい肉にくいこんだレンズの破片。
 忌まわしい体験に起因する既視感を追い払い、近く予期される大惨事を避ける行動をとる。
 「!!」
 組み敷かれた下肢に渾身の力をこめ、一気に跳ね上げる。
 突然跳ね上がった下肢にバランスを崩し、拳を掲げた姿勢で僕の上から転げ落ちる少年。無様な体勢で転落した少年が頬に朱を昇らせて激昂し、「この野郎!」ととびかかってくるのを冷静に眺め、コンクリート塀を背にして後退。敵を罠に誘いこむ。
 コンクリートを蹴って加速した少年が大きく腕を振りかぶり、一直線に拳が迫る。
 一歩、二歩、三歩……今だ。
 真っ向からむかってきた少年と接触する寸前、頭を低めてその懐にもぐりこむ。予想外の行動に虚をつかれた少年、そのガードが緩んだ隙にコンクリートの手摺に背中を預け、二本の腕と頭とで無防備な腹を突き上げる。
 「ぎゃああっ!?」
 懐からおもいきり突き上げられた少年は勢いを殺せずコンクリートの手摺に乗り上げ、そしてその体はコンクリート塀を越え。
 僕が振り向いた時には凄惨な悲鳴の尾をひいて、コンクリート塀の外へと落ちていった。
 顎に滴る汗を拭う間も惜しくコンクリート塀に駆けつけ、眼下を覗きこむ。この高さから落ちても死ぬことはないと思うが……いた。腰を強打したらしく、産後間もない仔牛のように四つん這いでうめいている。
 腰の骨くらいは折ったかもしれない。
 「慣性の法則だ」
 捨て台詞のかわりに、感情を欠いた声で呟く。
 「力がはたらくと物体の運動のようすが変わる。逆にいうと、運動のようすが変わった物体は必ず力を受けたことになる。要するに力がはたらかないときは速さや向きが変わらない、ということだ」
 僕はこの理論を逆に応用したまでだ。一直線に走ってきた敵に死角からの力を加えてその軌道を修正しただけで、別段説明するほどのことでもない。
 などと悠長にしてる場合ではないと、次の瞬間思い知らされた。
 「鍵屋崎!」
 名を呼ばれて振り向いた時には、すでに僕の顔面めがけて拳が迫っていた。
 もちろん目の錯覚だろうか、その拳は音速に迫る勢いで接近してくるかに見えた。
 顔を守らなければ。
 無意識な動作で腕を掲げたのが幸いした。ほとんど反射的に頭上で交差させた腕、その手首にぶらさがっていた鎖の切れ端が宙を薙ぎ、至近距離に迫っていた敵の目をしたたかにぶつ。
 「!?ぐあっ、」
 鎖に潰された目をかばって中腰に崩れた少年、その間合いから離脱。肩で息をしながら後退していた僕の隣に寄ってきたのはロン。
 「ほんと反射神経鈍いよ、お前。日本人はいいもん食って肥えてるから動きが鈍くなるんだ」
 偏見に満ち満ちたロンの指摘に声を低めて反論する。
 「それは違う、僕は世田谷の実家ではサプリメントと野菜中心の食生活をしていた。塩分・糖分の過剰摂取は脳に重大な機能障害をもたらす」
 「じゃあ鈍いのは生まれつきか」
 嘲りを含んだ台詞に抗弁しようとしたが、言い返す台詞が見つからず愕然とする。馬鹿にしたように僕を一瞥したロンが腰を落とし、臨戦体勢に入る。
 「世田谷出身か。どうりで平和ボケしてるわけだ」
 感心した、というよりはあきれたような感慨が滲んだ独白を呟きながら、5メートル前方に迫ったロシア人少年を凝視するロン。大股に接近してくるロシア人少年の足もとに着目し、口の中で間合いをはかりながら言う。
 「池袋育ちの喧嘩を見せてやるよ」
 池袋には東京最大の亜細亜系スラムがあり、その治安は都下最悪とささやかれてることを今になって思い出す。
 眼光鋭く三白眼を細めたロンが腹腔にためた呼気を吐き、あと二歩の距離まで迫った少年の鳩尾を蹴る。急所を蹴られて後ろによろめいた少年だがなんとか持ちこたえ、苦痛と憤怒の形相を歪めて渾身の右ストレートを放つ。ついと顎先を逸らし、上体を仰け反らせて拳を回避。猫じみた俊敏さを発揮して少年の右死角に回りこんだロンが、首の側面めがけて手刀を打ちこむ。
 「!っが、」
 気道にくわえられた打撃に喉を詰まらせ、もがき苦しみながら膝を折る少年。その場に突っ伏した少年を捨て置き、あらたに立ち向かってきた茶髪の少年と対峙するロン。
 レイジには及ぶべくもないが、ロンは喧嘩慣れしている。ストリートの実戦をくぐり抜けてきたのだから、二・三人の少人数が相手ならばなんとか切り抜けられるだろう。
 問題は僕だ。自慢じゃないが僕は腕力に自信がない。サムライがいなければ無難に死ぬ。
 二人目の敵と取っ組み合っているロンから、孤高に戦うサムライへと焦慮に揉まれた視線を転じる。疾風迅雷の速度で木刀を操り、電光石火の早業で北棟の少年たちに天誅を下してゆくサムライ。
 そのあざやかすぎる手並みに魅入られ、サムライに声をかけようと口を開きかけ―止まる。
 
 僕は今なにをする気だった?
 みっともなくプライドを投げうって、サムライに助けをもとめる気だったのか?
 まさか。冗談じゃない。人から同情を買うのはお断りだ。なぜ友人でもない彼に泣いて助けを乞わなければならない?
 そんなことをしたら、僕は僕自身を軽蔑する。
 他人に依存しなければ生きていけないような情けない人間に成り下がるのはごめんだ。

 「………」
 歯痒げに空気を噛み、唇を引き結ぶ。
 サムライに頼るまでもない。僕は鍵屋崎直だ。僕にはこの頭脳がある。この頭脳を武器に、どんな窮地だって自力で乗り切ってやる。
 先刻サムライに斬り捨てられた少年が、屋上の片隅で孤立している僕めがけしぶとく突進してくる。避けるか?この距離では無理だ。半歩ずつ後退しながら間合いをはかる。仲間の大半が倒されて激昂しているのか、策も何もなく殴りかかってきた少年の拳が擦るように瞼をかすめ、こめかみを過ぎ去る。拳との摩擦熱でこめかみが燃え、瞼からふたたび血が滴りだす。
 目尻に流れこんだ血のせいで視界が赤く煙る。周囲の景色がよく見えない、次はどこから来る?焦燥にかられながらあとじさった足もとをすくわれ、受け身もろくにとれずに転ぶ。僕を転ばせた張本人は会心の笑みを浮かべて僕の上に馬乗りになるや、捕虜に苦痛を与える目的で襟首を締め上げる。
 「東棟の虚弱メガネが、手間かけさせやがって」
 不規則に乱れた息の狭間から罵倒される。襟首を締められ、窒息の苦しみに顔が歪む。
 「サーシャ様を呼ぶまでもねえ……今、殺してやるからな」
 陰湿な快感に酔いしれた少年は僕の襟首を片手で締め上げ、見せつけるようにもう片方の拳をふりあげる。サーチライトに照らされた拳が眩しく、目を細める。
 その時だ。
 コンクリートに寝かせた左手に何かが触れる。何か、パサパサしたもの―……そうか。これは。
 コンクリートをひっかくように左五指を折り曲げ、ぱさぱさと頼りない感触の「それ」を握り締める。
 「脳漿ぶちまけてやる!!」
 凶器の拳が振り下ろされる寸前、左手に掴んだ「もの」を少年の顔面になげつける。
 「!?ぶあっ、」
 少年の顔面にぶちまけられたのは、灰。
 一掴みの灰を顔面に浴びた少年はまったく油断していたと見え、拳の軌道を狂わせて体勢を崩す。今だ。目に入りこみ口に入りこんだ灰に吐き出そうと悪戦苦闘している少年を押し倒し、体位を入れ替える。そのまま互いの襟首を掴み、上下逆転しながらコンクリートを転げ回る。 
 「親殺しのクズのくせに生意気なんだよ!」
 唾のかかる距離で罵られ、僕の中の何かが決壊する。
 「僕はたしかに親殺しでクズだが、プライドがある!」   
 「どうせ娑婆にでてもいいことねえんだからおとなしくここで死んどけ、くそったれの親殺しに帰る場所なんかねーだろうが!」
 「そんなことはない、僕には恵がいる、妹がいる!恵のために家に帰るんだ、絶対に生きてここを出るんだ!!」
 砂利まみれになりながら、喉が痛くなるほどに叫び返す。
 恵。
 大事な妹、ただ一人の家族、かけがえのない存在。僕は恵のために、生きて恵に再会するためにここを出るんだ。
 生きて恵に会って―……許しをもらうために。
 まだ僕が生きていてもいいと、恵のそばにいてもいいと許しをもらうために。
 「だから、こんなところで遊んでる暇はない!」
 ガツン、鈍い衝撃が腕に伝わってきた。
 ちょうど上下が入れ替わった隙に、膝下に組み敷いた少年の後頭部をコンクリートに打ち付ける。硬い地面で後頭部を強打した少年が白目を剥いて失神すると同時に、力の抜けた五指からシャツの生地がすべりおちる。力のいれすぎで白く強張った左五指をぎこちなく開閉し、骨に異常がないことを確かめる。
 長々と息を吐いた僕の目にとびこんできたのは、コンクリートの地面で燃え尽き、灰と化した聖書。
 わずかに原形を留めた聖書の残骸を見下ろし、皮肉げに唇の端をつりあげる。
 僕を救ったのは神への祈りなどではなく、僕自身の手で火をつけて灰にした聖書だった。神への祈りなど実質無力だ。こうなることを予知して聖書を燃やしたわけではないが、結果的に僕の命を救ってくれたのは聖書が遺した灰だ。
 灰の余熱をおび、真っ白に煤けた指に目をやり、ありがたくもない教訓を頭の片隅に刻む。
 神様は役に立たないが、聖書は役に立つ。
 聖書を武器に用いたレイジの判断は正しかった。
 目先の敵を倒し、一段落ついた僕は改めてあたりを見回す。
 屋上には累々と人が倒れていた。サムライが一掃した残党、格闘の末にロンが倒した少年たち―総勢十二名はいるだろうか。北棟の残党は全員戦闘不能に陥ったらしく、芋虫のように屋上に寝転がり苦鳴をもらすばかり。
 木刀の切っ先をおろし、戦闘中とは別人のように気配を抑制したサムライが、うろんげに細めた目で僕を一瞥する。
 「俺の背を掴まずとも凌げたではないか、鍵屋崎」
 「……当たり前だ、僕を誰だと思ってる。天才の鍵屋崎 直だぞ」
 貴様らのような凡人とはDNAの設計段階で違うんだ。
 額の汗を拭って立ち上がった僕の手に、生温い液体が付着する。顔の前にもってきた手は赤く染まっていた。血だ。あちこち転げ回るはげしい運動をしたせいでせっかくふさがりかけていた傷口が開いたらしい。
 切れた瞼を覆って顔をあげた僕の目に映ったのは、屋上の片隅、僕と同様傷だらけの砂利まみれになりながらも中腰の姿勢で持ちこたえ、食い入るように屋上中央を凝視しているロンの姿。
 その表情に鬼気迫るものをおぼえ、対角線上のサムライを仰ぐ。
 朽ち果てた卒塔婆のように、ただ黙然とその場に佇むサムライ。その手の中には戦闘による酷使に耐えた木刀が納まっているが、切っ先が上がる気配はない。おのれの義務は遂げたとばかり静かに立ち尽くすサムライの視線を追い、屋上中央を見る。

 屋上中央では今だレイジとサーシャが対峙していた。
 
 この馬鹿馬鹿しい夜を締めくくる、最後の戦いの幕が上がろうとしている。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060510011003 | 編集

 時が止まったかのような静寂、風すら通るのを避けるような静謐。
 片手に大振りのナイフを預けた中腰の臨戦態勢はそのままに、サーチライトを浴びて佇むその姿は一対の彫刻のように微動だにしない。かっきりと弧を描いた凛々しい眉と端正な鼻梁、酷薄そうなラインの唇とを半面闇に沈めたレイジ。
 レイジの正面、10メートルの距離を隔てて対峙したサーシャはいつレイジが攻撃してきても対応できるよう抜かりなくくナイフの柄を握り締めていた。火傷の痕も痛々しい背中がサーチライトに暴かれ、きめ細かい白磁の肌との対比を際立たせる。
 どちらが先に動くか―
 固唾を呑んで勝負の行方を見守っている僕らの関心事はその一点に尽きる。ロンもサムライも一歩たりともその場を動かず、凝然と立ち竦んだまま。
 東の王と北の皇帝。
 この戦いに第三者が介入することはできない。
 口を開いたのはレイジが最初だった。
 「北のガキどもは全滅だ」
 屋上の死屍累々たる惨状を見渡し、唇の端をふてぶてしくつりあげて挑発する。
 「お前も降参したらどうだ、皇帝」
 「痴れ者が」
 これに応えたのは、侮蔑を隠そうともしないサーシャの台詞。アイスブルーの双眸に冷酷な光を湛えたサーシャがナイフを掲げ、一歩を踏み出す。
 「その口に私の靴を舐める以外の用途は認めん。愚にもつかん戯言は聞き飽きた」
 「舐めるより舐めさせるほうが好きだな、俺は」
 レイジの軽口を聞き流し、無表情に歩を進める。サーチライトに導かれて大股に歩を詰めるサーシャ、微塵の躊躇もないその歩き方には北の少年たちから戦々恐々と畏怖される暴君の奢りが感じられた。
 威厳と気品が調和した優雅な歩みで接近してくるサーシャを待ち受けるは、ナイフを握った右手を揺らしながらにこやかに微笑み続けるレイジ。
 恐怖とも死とも無縁な、無敵の笑顔。
 一歩、二歩、三歩。大股にコンクリートを渡ってくるサーシャの歩数をナイフを揺らしてカウントしながら、倦み果てた口調でレイジが忠告する。
 「べつにここで決着つけなくても、二日だか三日後には正規のリングで片がつくんだぜ」
 「ブラックワークのリングで、満場の囚人が見守る中で、か?」
 サーシャの唇が皮肉げな笑みを刻む。嘲笑。
 「お前のような血の汚れた男を神聖なリングにのぼらせるなど、考えただけで虫唾が走る。あまつさえ、お前のように下等な猿の血が流れた男と同じリングで戦えと?褐色にくすんだ肌と薄汚れた茶の髪のいやらしい混血児と同じリングの上で戦い、自ずから囚人の見せ物になれと?反吐がでる提案だな」
 「一対一で俺に勝つ自信がねえから、客の前でみじめに吠え面かくのがいやだから、試合前に集団リンチなんて卑怯な手使ったんじゃねえの?」
 ナイフをもてあそびながら笑みを深めるレイジ。サーチライトの光を吸いこんだ茶色の目が獰猛に輝き、形よい唇が皮肉げな角度にめくれ上がる。
 「お前とおなじリングに上がるなど、満場の客の前で野犬と交尾しろと言われているようなものだ」
 「皇帝のプライドが許さないってか」
 「そうだ」
 「だから試合がおこなわれる前に俺を亡き者にして不戦勝しよーとしたワケか。OK?」
 サーシャとレイジの距離が縮まり、サーシャが手にしたナイフがサーチライトを反射して鋭くきらめく。
 「賢い犬だ」
 大気を裂く音が耳朶をかすめる。
 銀髪をなびかせ急速に間合いを詰めたサーシャが右腕を一閃、大きく振りかぶられた右腕が後方にとびのいたレイジの前髪をかすめ、髪の毛を数本宙に散らす。鼻梁を跨ぐように半弧を描いたナイフが音速に迫る勢いで軌道を修正、今度は心臓を狙って迫り来る。
 金属質の音が火花を散らす。
 心臓を狙って直線の軌道を描いたナイフを受け止めたのは、素晴らしい反応速度でレイジが突き出したナイフの刃。ナイフでナイフを受け止めたレイジは、口の片端にシニカルな笑みをためて吐き捨てる。
 「犬じゃねえっつの」
 膂力に利してナイフを押しこんでくるサーシャにこれもまた右腕一本の力で対抗しつつ、一言一句アクセントをつけてレイジが復唱する。
 「R(アール)」
 巻き舌の発音をさえぎるようにナイフの切っ先がくりだされ、レイジの右頬をかすめる。
 頬の薄皮を裂いて後方へと流れたナイフの切っ先を目で追う愚を避け横に跳躍、二撃目を回避。
 「A(エー)」
 右腕を切り裂こうと斜め上方から急襲してきたナイフを刃の背で弾き、流れに乗じて頭を低め、サーシャの懐に巧みにもぐりこむ。
 「G(ジィー)」
 死角からナイフを跳ね上げる。不意をつかれたサーシャの下顎をナイフがかすめ、裂けた皮膚から一筋の血が迸る。
 「E(イー)」
 完璧な発音。文句のつけようがない抑揚、非の打ち所のない強弱。
 先日、刑務所の廊下でレイジと立ち話したことを思い出す。あの時は英語の発音のへたさにあきれたものだったが、今の発音を聞いたかぎりではとてもあれが素だとは思えない。入所して日が浅く何も知らない僕をからかう目的だったのか真意は不明だが、レイジの英語はおそらく幼少期から身に染みついたネイティブなものだ。
 この男はどこまで本気でどこまでが冗談なんだ。
 まったく理解不能だ。狂ってる。戦闘中だって片時も絶やさないあの笑顔がいい証拠じゃないか。
 僕の理解を拒絶する笑顔を浮かべた男は、北の皇帝の異名をとるサーシャを相手に壮絶なナイフさばきを見せていた。戦況は互角、両者一歩もひけをとらない熾烈な接戦。
 サーチライトの光の中、野生の豹のようにしなやかな身のこなしでサーシャの猛追をかわしながらレイジが言う。
 「RAGE……レイジ。それが俺の名前だ、おぼえとけ」 
 白銀に輝くナイフがサーシャの心臓を狙う。
 あと0.3秒反応が遅れていれば、レイジがくりだしたナイフは狙い違わずサーシャの心臓を抉っていたことだろう。ところがそうはならなかった。一歩後ろに退いたサーシャが手の向きを逆にし、逆手にしたナイフの柄を横に流す。ナイフの柄がレイジの手を直撃し、心臓に擬された切っ先を大幅に狂わす。ナイフの軌道を狂わされたレイジが体勢を立て直し持ち直すまでのわずかな一瞬、その一瞬の隙をつき、無防備な頭上にナイフをかざすサーシャ。
 体勢を崩し、上体を泳がせたレイジの頭上にかざされたナイフが物騒に輝くのを見咎め、血相をかえてロンが叫ぶ。
 「看上部!(上だ!)」
 以心伝心。レイジは即座に反応した。
 ナイフを盾にして防御するのが無理と悟るや、前に泳いだ上体はそのままに前転の姿勢にもっていき、これを回避。懐に頭をかばう姿勢で前転して距離と時間を稼ぐや、猫科の猛獣じみた足腰のバネを発揮してとびおきる。
 前転寸前、コンクリートの地面に投げたナイフを素早く拾い上げる。
 ナイフを手に起き上がったレイジを見て、緊張にこわばっていたロンの顔が安堵に緩む。
 「愛してるぜロン!」
 「前を見ろ!!」
 ロンの指摘にレイジが正面を向いたときには、すでに眼前までサーシャが迫っていた。
 狂気に取り憑かれたアイスブルーの双眸がサーチライトの光に輝き、下顎から滴った鮮血が点々とコンクリートを染めてゆく。自らの顎から滴り落ちた血が裸の胸を真紅に染め抜くのもかまわず、陰惨に痩せこけた容貌を飾るには不似合いに美しい銀髪を千々に乱してレイジに肉薄する。
 「私は認めん」
 走りながらサーシャが呟く。
 「お前のような下賎な混血児が私の上に君臨するなど、断じて認めん」
 狂熱の野心に身を灼かれ、妄想に取り憑かれたサーシャ。
 アイスブルーの目に燃えているのは、氷点下の殺意。骨まで焦がして灰にする青白い炎がサーシャの目で燃えている。
 ふと、レイジが顔を伏せる。うつむき加減に顔を伏せたレイジの唇が動き、なにかを口ずさむ。
 なんだ?唇の動きに目をこらし、衣擦れの音にかき消されそうにかすかな呟きに耳を澄ます。
 レイジが目を閉じる。
 長く優雅な睫毛が伏せられ、綺麗な弧を描いた瞼が落ち、色素の薄い瞳を隠す。
 『主よ。王をお救いください。私が呼ぶときに私に答えてください』
 瞼を縁取る睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がる。
 まどろみから覚めるようにゆっくりと見開かれた瞳には、明晰な光が宿っていた。
 『Amen』
 「王よ、みじめに死ね」
 祈りの言葉に風切り音が重なる。
 膝を屈め、前傾姿勢をとり、ナイフをくりだすサーシャ。白銀の軌跡をひいてレイジの首筋へと吸いこまれたナイフの刃にロンが絶句し、サムライの眼光が鋭くなる。
 レイジの頚動脈が裂かれ、噴水の如く鮮血が噴き出す。
 それは一瞬後に確定された未来のはずだったが、予想は覆された。ほかならぬ、レイジ本人によって。
 紙一重よりさらにきわどい僅差で首を倒し、ナイフを避けたレイジ。首の薄皮を裂いたナイフが背後に流れ、夜空に何かきらきらしたものが舞う。
 黄金の粒子―レイジが首にさげていた金鎖のネックレスの切れ端が、ナイフに裂かれて宙を舞う。
 ナイフに切断され、空高く舞い上がった黄金の十字架がサーチライトの光を反射し、眩く輝く。
 その光線がサーシャの目を射抜き、一瞬の隙をつくる。
 殆ど反射的に手庇をつくり、強烈な光から顔をかばったサーシャへと接近、ナイフを投げ捨て夜空に手をのばすレイジ。レイジの手が金鎖を掴み、ふたたび顔の前へと舞い戻る。
 瞬きの後に視力が回復したサーシャの目に映ったのは、サーチライトがあたる角度によって天使の微笑にも悪魔の憫笑にも変化する、とらえどころのないレイジの笑顔。
 「あばよ、皇帝」
 「……………!」
 サーシャが何か言おうとした。しかし、言葉にならなかった。サーシャが口にしようとした言葉は、喉の半ばで濁った泡沫となって潰えた。サーシャの首に金鎖のネックレスが巻かれていたからだ。
 サーシャの首の後ろで腕を交差させ、金鎖のネックレスで締め上げていたのはレイジ。気道を圧迫され、呼吸を止められたサーシャの顔がみるみる充血し、後に蒼白になってゆく。それでもレイジは喉にくいこんだ金鎖の圧力を緩めず、瀕死の状態のサーシャにほほえみかける。
 「お前の敗因を教えてやるよ」
 血がでるまで喉をかきむしり、窒息の苦悶に身をよじるサーシャ。その耳元に慈悲深くささやく。
 「ひとつ、ナイフの扱いに長けてるのはお前だけじゃない。ふたつ、俺は身につけてるものこの場にあるもの、すべてを武器にできる。みっつめ……これが決定打だ」
 一呼吸おき、レイジは笑みを深めた。向かうところ敵なしの勝者の笑顔。
 「お前はアマチュアで、俺はプロだ」
 口角泡を噴いたサーシャ、懸命に喉をかきむしっていた五指から力がぬけ、ぐるりと眼球が裏返る。
 「レイジ!」
 サーシャの異常を悟ったロンが慌てて駆け出すのと、レイジがサーシャを解放するのは同時だった。首から金鎖が外れ、支えを失ったサーシャの体が鈍い音をたててその場に崩れ落ちる。ロンに遅れること数秒、木刀を引っさげて駆け出したサムライに続き、僕も我に返る。
 小走りに現場に駆けつけた僕の目にとびこんできたのは、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かないサーシャ。
 「……死んだのか?」
 念のため、確認する。
 「いや、息がある」
 サーシャの脇に屈みこんだロンが、ほっと息を吐く。どうやら気絶してるだけのようだ。紛らわしいことこの上ないと横目でレイジを睨むと、レイジは涼しい顔で金鎖の先の十字架に口づけていた。
 「愛してるぜ神様」
 どこまで本気かわからない笑みを浮かべ、ぬけぬけとそう言い放つレイジに脱力する。
 わけがわからない。
 この男は僕の理解を超えている。
 手におえないと匙を投げた僕は屋上の中心に立ち、あらためて周囲の惨状を見渡す。北棟の少年たちは全滅、肝心のサーシャは意識不明。要するに、レイジに襲撃をしかけた全員が手酷く返り討ちにされた結果と相成ったわけだ。
 いったい今夜の馬鹿騒ぎはなんだったんだ。
 死屍累々たる惨状を見回し、自問する。答えはない。思考の迷宮に入りこんだ僕の脳裏に、一条の光明がさす。
 「―ひとつわかったことがある」
 ロンとレイジが振り向く。怪訝そうな顔のふたりを見比べ、抑揚のない声で指摘する。
 「ブラックワークについてだ」
 なぜリュウホウはブラックワークの仕事内容を説明するのに抵抗したのか。
 なぜレイジはわざと気を持たせるような言動で僕を煙に巻き、ブラックワークの実態を明かすのを避けたのか。
 その謎がようやく解けた。
 眼鏡のブリッジを押し上げるふりで嫌悪に歪む表情を隠し、吐き捨てる。
 「サーシャ及び北棟の少年たちの言動、レイジ―すなわち君の言動を総合した結果、導き出される結論はひとつ」
 気分が悪い。
 この先を言わずに済むものなら言わずに済ませたい、という気弱な考えがちらりと脳裏を過ぎるが、無視して続ける。
 「ブラックワークとは東京プリズンの暗部―おそらくレイジ、君が担当しているブラックワークは囚人たちに息抜きの娯楽を提供するのが目的の部署。リョウの言葉から推測すれば、東西南北四つの棟のトップとそれに継ぐ腕自慢の実力者だけがこのブラックワークに配属されるらしい。つまり……」
 「バトルロワイヤルさ」
 突如割り込んできたのは、場違いに陽気な声。
 それまでコンクリート塀に腰掛け、サーシャ及び北棟の少年たちが倒されてゆくのを見物していたとおぼしきリョウがにこにこ笑いながら説明を引き取る。
 「よっ」とコンクリートにとび降りたリョウが、後ろ手を組みながらぶらぶらと歩いてくる。
 「さすがだね眼鏡くん、その眼鏡が伊達じゃないってのも今なら頷けるよ。君の言うとおり、ブラックワークの存在理由は囚人どものガス抜き、東京プリズンのエンターテイメント担当、これに尽きる」
 「なぜだ?なぜ刑務所にそんなものが……」
 「眼鏡くん忘れてない?ここはただの刑務所じゃない、最低最悪のブタ箱と名高い東京プリズンだよ」
 大袈裟に両手を広げ、コケットリーに肩をすくめるリョウ。
 「とうぜん収容人数だって他に類を見ず、日本全国から集められてる札つきのワルばかり。そんな連中が日々の強制労働でストレスためてぷっつんきて暴動起こしちゃったらどうする?上からの圧力で抑えるにも限界があるっしょ。だいたい数が半端じゃないからね、万一そういう事態が起こったときに看守と囚人の力差が逆転しないともかぎらない」
 絶句した僕を振り返り、リョウがウィンクする。
 「だから上は一計を案じたわけさ。囚人にも娯楽が必要だろう、適度な息抜きが必要だろうって。それで設置されたのがブラックワーク。三度の飯より喧嘩が好きで、それが高じて刑務所にぶちこまれたオツムの悪いガキどもにはうってつけのショウってわけ。ルールはなんでもありのバトルロワイヤル、どんな手を使っても勝てばいいってのが公然とまかりとおってる共通認識。で、日頃うっぷんをためこんでる囚人どもはブラックワークの試合観戦で憂さを晴らしてせいせいして房に戻ってゆく、とまあこーゆーわけ」
 「そのわりにはリンチやレイプが横行してるみたいだが」
 口調が皮肉げになるのが否めない僕に、愉快そうに含み笑うリョウ。
 「こうは考えられないかな?ブラックワークがあるから『この程度』で済んでるんだ、と」
 小悪魔的な笑顔のリョウから顔を背け、レイジに答えを仰ぐ。僕の視線を受け、レイジは肩を竦める。コンクリートの地面に倒れたサーシャをちらりと一瞥し、口を開く。 
 「ブラックワークがなかったら、今頃キーストアなんて手足の健切られてケツ掘られて捨てられてる頃だぜ。お前が今日まで生き残ってこれたのはブラックワークのおかげだ」
 「ブラックワークは上・中・下の三つに分けられると聞いた」
 「そこまで知ってんのか」
 レイジがかすかに驚きの表情を浮かべる。隣のロンも似たような顔をしていた。ただ一人サムライだけが、我関せずと淡白な表情を保っている。
 「『上』はわかった。『中』と『下』はなんだ」
 いや、『下』はわかる。さっきこの目で見たではないか。
 泣きながらゴルフバッグを引きずるリュウホウ。ゴルフバッグの中にはー
 中には。
 突然、僕の手の中に薄っぺらい物体がとびこんでくる。反射的に手を出し受け取ってみたところで、おそるおそる五指を開く。
 僕の左手が握りしめていたのは―安っぽい、外国産のコンドーム。
 「『中』は売春」
 僕の手の中へとコンドームを放り投げたリョウは、悪びれたふうもなく笑っている。
 信じられない。
 「刑務所の中で公認売春が行われているというのか?」
 自然、声が上擦る。リョウは動じたふうもなく続ける。
 「そう、公認売春―まさにそれだ。上だってもちろんこのことは知ってる。いいかい、ブラックワークは必要悪なんだよ。闘技観戦でストレスを発散し、公認売春で性欲を解消する。そうすれば看守の目の届かないところで行われるリンチやレイプも多少は減るし、犯られるほうだって持ち回りの義務だとおもえば諦めがつくっしょ。念のため言っとくけど、今日まできみが処女を守りとおせたのはブラックワークの売春夫たちの存在あってこそだよ。彼らがいれば、囚人の大半は腕づくで新入りを犯そうなんて気は起こさない。抵抗してくれなきゃ燃えない、反抗してくれなきゃ燃えないって、はねっかえりの新入りのケツばっか追っかけてる凱みたいな物好きもなかにはいるけどさ」
 凱の名前がでるとロンが渋い顔をした。試すような上目遣いで僕を仰ぎ、下唇を舐めるリョウ。 
 「で、『下』だけど」
 「―もう、いい」
 絞り出すように、ため息をつく。
 わかった。わかってしまったのだ。なんでリュウホウが囚人が寝静まった深夜に、死体を運んでたのか。
 その理由がわかってしまったのだ。
 瞼の上から滴り落ちた血が目にながれこみ、視界が赤く煙る。
 興味本位でのぞきこんでくるリョウから顔を背け、瞼をおさえる。
 「『下』の仕事は死体処理だろう」
 リョウの顔に意外そうな表情が浮かぶが、すぐにそれはこの上もなく愉快げな笑みにとってかわられた。
 「ご名答」
 血はいつまでたっても止まらなかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060509011158 | 編集

 「ブラックワーク『下』のお仕事は看守や囚人のリンチで死亡した囚人の死体を処理すること」
 ぴんと人さし指をたてたリョウが、話の内容とは裏腹に明るい声で言う。明日の天気でも話題にしてるかのような屈託ない口調に嫌悪感が増す。僕の表情が歪むのを愉快げに観察しつつ、リョウが一呼吸おく。
 「リンチやレイプが当たり前の日常と化した東京プリズンでは毎日死人がでる。かわいそうなイケニエの子羊たち。お尻に断罪の杭を打たれてめえめえ鳴いてる子羊さんたち。三階層に分かれてるブラックワークの中でも『下』が最も嫌われて忌まれてるのはこういうワケ。だれだって醜く顔が変形して腐臭をはなちはじめた死体をずるずる引きずってくのはいやでしょう」
 リュウホウはそれをしていた。
 弱い立場のリュウホウは文句も言えず、不平不満も言えず、逃げることは許されず。みっともなく泣きべそをかきながら、同じジープの荷台に揺られて東京プリズンに運ばれてきたダイスケの死体を引きずっていた。指の関節を白くこわばらせ、爪が剥がれかねない力をこめて、今にも萎えてくずれおちそうな膝を叱咤して、ひっそりとした深夜の刑務所を歩いていたのだ。
 リュウホウ。
 リュウホウはどこだ。
 自分の身の安全が保証された今になって、当初の目的を思い出す。そもそも僕が屋外にでたのは、死体運搬中のリュウホウを追ってきたからではないか。リュウホウをつかまえて誤解を解こうと、さっきのあれは現場の状況を俯瞰した先入観からくる思いこみでなにも本気でリュウホウがダイスケを殺したと思ったわけではないと弁解しなければ。
 ……まて、弁解?なんで僕がそんなみっともない真似をしなければならない?
 脳裏に疑問が過ぎる。そもそも僕がリュウホウに弁解する必要なんてこれっぽっちもないだろう。リュウホウは僕の友人でもなんでもないのだから、リュウホウがなにをどう誤解しようがあちらの勝手で自由裁量だ。なぜ僕がリュウホウに弁解をはからなければいけない?自分に関係のない他人がどうなろうが知ったことではないのに、たとえ僕の不用意な一言が原因で赤の他人が哀しい顔をしようが、それが恵でさえなければどうでもいいのに。
 苦々しい葛藤が胸にこみあげてくる。そうだ、なぜ僕が何の関係もないリュウホウのために深夜の刑務所を奔走しなければならない?馬鹿げている。自分の身をわざわざ危険にさらしてまで、なぜこうもリュウホウの誤解をとこうと躍起になってるんだ?自分で自分の行動原理が理解できない、不可解きわまりない。
 いや、それ以上に、不愉快だ。
 「大丈夫か?」
 その声からは、心配という響きが感じられなかった。
 ただ事実を確認しただけのようなぶっきらぼうの声の主は、僕の隣に立っていたサムライだった。リョウの説明の間、平板な横顔を向けて沈黙していたサムライが、腰の木刀に片手をおいて興味なさそうにこちらを見つめている。
 サムライに指摘され、瞼をおさえた五指の間から今だ血が滴っていることを思い出す。思考に沈んでいた間は忘れていたが、僕の指の間から滴り落ちた血痕は点々とコンクリートを叩いている。意外と傷が深かったのだろうか?失明の危険性はなさそうだが、とりあえず止血したほうがよさそうだ。しかし僕の手の中にあるのはリョウから投げ渡されたコンドームのみ、バンソウコウなどどこにも見当たらない。
 衣擦れの音。
 ふと顔をあげる。目の前にサムライがいた。僕よりかなり上背があるサムライが前に立つと見上げる格好になり、癇にさわる。前に立つなと声を荒げて抗議しようとして、口を開きかけ、止まる。
 サムライの指が虚空にのばされる。
 よく鍛えられた、骨ばった指。日々の鍛錬と過酷な強制労働を耐え抜いてきた手は健康的に日焼けし、とても未成年のものとはおもえない強靭さを感じさせた。あちこちにこまかな傷がついた無骨な手が、患部を覆った手の上からそっと瞼に触れる。
 「!痛っ、」
 おもわず声がでた。不覚だ。
 サムライが素早く手をはなす。声を低め、淡々と言う。
 「傷は浅い、たいしたことはない。しばらく押さえていればそのうち止まる」
 そして僕が見ている前で、おもわぬ行動にでた。
 囚人服の片袖を口にくわえ、八重歯をおもいきり食いしばるサムライ。布が裂ける乾いた音。破けた袖の切れ端を手際よくしごき、即席の止血帯にして有無を言わせず僕の瞼にあてがう。
 払いのける暇もなかった。
 あぜんとしてサムライの横顔を見つめる。僕の方は向かずにサムライが呟く。
 「応急処置だ」
 「さっすがサムライ、切り傷の処置はお手のものってか」
 レイジが口笛を吹いて茶々をいれる。その言葉にサムライの手を見る。体の影になって見にくいが、サムライのてのひらには深々と刀傷が刻まれていた。
 僕は知っている。真剣を鞘から抜くとき、刀の扱いが初歩の段階にある者はてのひらを傷つけてしまうことがある。サムライのてのひらにある傷はおそらく幼少期、はじめて刀に触れた時の名残りだろう。
 凱の話に嘘はない。サムライはおそらく物心つく前から容赦なく肉を断ち骨を切る真剣を握らされていたのだ。
 「この場に手ぬぐいがあればよかったのだがな」
 ただそのほうが便利だったと、独り言に近い口吻で呟くサムライに先刻階段の踊り場で見た光景がフラッシュバックする。絶望に暮れた顔で僕から逃げ去るリュウホウ、その尻ポケットからぶらさがっていたのは……サムライから借りて僕がリュウホウに貸した、手ぬぐい。
 「どこ行くんだ、キーストア」 
 あくびまじりの気のない声でレイジが呼び止める。屋上に背を向けて歩きだした僕は、感情のない声で吐き捨てる。
 「リュウホウをさがしにいく」
 「リュウホウ?だれだそれ」
 答えをもとめるようにロンを見るが、レイジと顔を見合わせたロンは「さあな」とてのひらを返しただけ。怪訝そうな顔の一同を無視して歩き出した僕の脳裏には、泣き笑いに似たリュウホウの表情がはじけては結ぶ泡沫のように繰り返し浮かび上がっていた。
 僕がレイジとサーシャの決闘に巻き込まれたのは深夜ひとりで房を抜け出したサムライのせいであって、リュウホウのせいではない。リュウホウは職務に忠実に―否、自分の意志とは裏腹に強制的にブラックワークの職務に就かされていただけだ。彼に非はない。それにリュウホウは、僕のことを一度も「親殺し」とは呼ばなかった。おどおどした上目遣いでこちらを盗み見ることはあったが、ダイスケのように僕を口汚く罵ったりはしなかった。
 リュウホウは僕の友人ではないが、少なくともリュウホウは僕に友情めいたものか、それに近い感情を抱いているらしい。
 東京プリズンで唯一の友人と認識している僕に「ダイスケを殺した」と誤解され糾弾され、裏切られたと思いこんだリュウホウがどんな極端な行動にでるか―
 「明日にしたら?」
 頭の後ろで手を組みながら声をかけたのはリョウだ。
 振り向く。にこやかな笑みを絶やさずにリョウは続ける。
 「だいたいキミ、その―リュウホウだっけ―の房わかるの?」
 「…………………いや」
 「東棟だけで何個の房があると思ってんの?百は軽く超えるよ。それをひとつひとつ当たってゆくわけ、囚人がぐっすり寝静まったこの真夜中に。とんだ近所迷惑だね、僕なら枕なげて追い返すよ」
 悪戯っぽく含み笑ったリョウからレイジ、ロン、サムライへと視線を移す。
 「リョウの言うとおりだ」
 囚人服の胸にたれた十字架を褐色の指先で弄いながら、レイジが肩を竦める。
 「おまえみたいに青白くてひょろひょろした奴が深夜にのこのこ訪ねてってみろ、貴重な眠りを邪魔されて頭にきてる囚人どもに押さえこまれてヤられるのがオチだぜ。一応東棟の王様として忠告しとく」
 「その『一応』は王様と忠告、どっちにかかってるんだ?」
 「どっちもだよ」
 ロンの的を射た指摘を食えない笑みではぐらかすレイジ。
 「俺もたのしく踊ったあとでいいかんじに眠たくなってきたし、そろそろ房に戻るとすっか」
 なれなれしくロンの肩を叩いて踵を返しかけたレイジだが、肩においた手を邪険に振り落とされて演技ではなく哀しそうな顔をする。世にも滑稽な顔をしたレイジをよそにぐるりを見回し、うんざりしたようにロンがため息をつく。 
 「こいつらはどうするんだ?」
 「ほうっとけよ」
 死屍累々と屋上に倒れ伏した北棟の少年たちをちらりと流し見て、あっけらかんとレイジが提案する。その楽天的な口調に猜疑心をかきたてられ、ロンが眉をひそめる。
 「凍死しちまったらどうする?」
 「凍死する前に見回りにきた看守が気付くだろうさ。で、俺たちはその頃には房でぐっすりトンズラってわけ」
 ごく軽い口調で冗談めかしてレイジが言い、見かけによらず常識人のロンがその語尾に噛みつこうとしたがくしゃみで潰える。派手にくしゃみしたロンを心配そうに見下ろし、レイジが訊く。
 「大丈夫?」
 「大丈夫じゃねえよ、砂漠の夜にシャツ一枚で放りだされてみろ。よくて風邪、運が悪けりゃ凍死だ」
 鳥肌だった二の腕をさすりながら恨めしげにロンが唸る。実質八つ当たりに近い抗議の目で睨まれてもレイジは動じず、自分の囚人服を脱ぐ。ぎょっとしたロンへとたった今脱いだ囚人服を投げる。おもわず手を前に突き出して上着を受け取ったロンに、並びの良い歯を覗かせて子供っぽく笑いかけるレイジ。 
 「着てろ。王様命令だ」
 「―お前の汗と体臭が染み付いたシャツなんてぞっとしねえな」
 「贅沢言うな」
 笑いながら釘をさしたレイジから顔を背け、それ以上の文句は言わずに上着に袖を通す。囚人服の上着を着終えたロンは、心なしばつが悪そうな顔で黙りこむ。
 レイジとロンの関係はまったく理解できない。ふたりの関係には興味が尽きない。
 ふと見回せばリョウの姿がなかった。レイジに気をとられてる間に屋上を後にしたものらしい。元を辿れば、僕の災難はサムライだけでなくリョウにも起因している。リョウがレイジ宛の手紙の運び屋に僕を任命しなければ今夜のような馬鹿騒ぎに巻きこまれることもなく、今頃は自分にあてがわれた房でぐっすり睡眠を貪っていられたはずなのだ。
 瞼の上の止血帯を押さえ、短く嘆息する。
 血は止まってきた。このぶんなら夜が明けるのを待って医務室に行くまでもないだろう。レイジもロンもサムライも多少のかすり傷は負っているようだが、僕と同様たいしたことはない。たいしたことがないというのは明日の強制労働を休んで医務室にかかるまでもない度合いの怪我だということだ。
 最も東京プリズンでは、右手の薬指にひびが入っても「たいしたことがない」と判をおされるらしいが。
 「…………」
 どうしようか逡巡する。僕は疲れていた。それ以上に眠たかった。今ベッドにもぐりこんでも睡眠時間は限られている。夜明けまで四時間、いや、三時間もないのだ。しかしこの足でリュウホウをさがしにいったところで、運良く彼をつかまえられる確証はどこにもない。クロロフォルムで意識を失わされていた僕にはリュウホウの行く先も彼が寝にかえる房の場所も皆目見当がつかないのだ。
 非効率的な行動で、明日の強制労働のために温存していた体力を浪費する愚は避けたい。
 無意識にサムライを仰ぐ。サムライはすぐそばにいる僕の存在など忘却したかのように屋上の闇を凝視していた。とりつくしまもないその様子に一気に徒労感が募る。心許ない気分で瞼にあてた袖の切れ端を押さえ、しぶしぶ結論する。
 「房に帰る」
 それしかないだろう。それ以外にどんな選択肢がある?
 リュウホウのことは気になるし彼を追いたい気持ちも捨てきれないが、僕は自分の睡眠時間を削ってまで赤の他人の消息を気に病むような偽善者でも愚か者でもない。結局僕は自分の身がかわいい。べつに恥じることではない、我が身の保身を最優先するのが原初から人間に備わった生き残るための本能ではないか。
 そうだ、恥じることではない。僕はこの場で最も合理的かつ効率的な判断をくだしたまでだ。
 自分に恥じるような行いはなにもしてない、なのに。 
 「顔色がすぐれないな」
 サムライに向き直る。
 相変わらず僕の方は見ず、きょとんとしたロンとレイジの方も見ず、ただ墨汁を流したような闇の一点だけを凝視している。
 「本当にそれでいいのか?」 
 「……いいもなにも」
 なんで。
 なんでこの男は、この場で最も聞きたくない台詞を平然と口にするんだ。
 無理を強いて唇の端をつりあげ、挑発的な笑みを形作る。自分で自分の顔を見ることは不可能だが、きっと今の僕は
 「他人がどうなろうが僕の知ったことじゃない。僕は自分と恵だけがかわいい、同じジープで運ばれてきただけのなれなれしい他人がどうなったところで―」
 リュウホウ。
 刑務所につれてこられた初日。別れる間際にうしろめたげに僕を振り返っていた。
 だだっ広い食堂の片隅で肩身が狭そうに身を縮こめ、凱たちに小突かれながらのろのろと箸を操っていたうしろ姿。
 エレベーターの中、扉が閉まる直前に僕へと向けた今にも泣き崩れそうな微妙な均衡の笑顔。
 そして。
 「同じジープでつれてこられただけの何の関わりもない赤の他人がリンチされようがレイプされようが首を吊ろうが」
 脱兎の如く逃げ去ってゆくリュウホウの尻ポケットではためく、白い手ぬぐい。
 「関係ない」
 「―そうか」
 サムライは頷きもしなかった。
 ただ、事実を事実として肯定しただけだ。それ以上は根掘り葉掘り詮索せず、無慈悲に背をひるがえして歩き出す。監視塔から降りる階段へと歩を向けたサムライに続き、のろのろと歩き出す。足が重たい。なぜだろう。当たり前のことを当たり前に言っただけなのに、なぜ自分に言い訳してるような気になるのだろう。
 両親を刺殺した時だって罪悪感を感じなかったこの僕が、なぜ、罪悪感に似た胸苦しさに苛まれているのだろう。
 暗闇に沈んだ階段に目を落としながら一段一段慎重に降りていた僕の正面に、サムライの背中がある。いつでもぴんと伸びた背筋、おのれに恥じることなどなにもないと宣言しているかのような。
 「サムライ」
 「なんだ」
 僕が房をでたそもそもの理由を思い出す。
 「なんで房にいなかったんだ?」
 サムライが隣のベッドにいなかったから、サムライが房を不在にしていたから、それが気になって僕は寝付けなかったというのに。
 問いをぶつけた当の本人は、あっさりとこう答えた。
 「お前が寝ていたからだ」
 「は?」
 口から間抜けな声が漏れた。
 「なぜ僕が寝ていたらきみが房を出なければいけない?明解な説明をもとめる」
 こちらを振り返りもしないサムライに小走りに追いつき、冷静沈着に取り澄ました横顔を睨みつける。サムライは日本人の典型たる切れ長の一重でちらりとこちらを見たが、すぐに興味なさそうに前を向き、付け足す。
 「お前の眠りを妨げては悪いと思い、外で稽古をしていた」
 「………………………………………………」
 腰の木刀に目をやる。歳月の酷使に耐え、手垢が染みこむほどに鍛え抜かれた一振りの木刀。たしかにこの木刀を就寝中に振り回されては、風切り音や衣擦れの音やサムライが息を乱す音やらでたまったものではないだろう。 
 いや……戦闘中も息ひとつ乱さなかったサムライなら、一挙手一投足にともなう生活音も最小限におさえられるだろうが。
 一応彼なりに同居人の眠りに配慮してくれたのだろうが、そんな紛らわしい配慮はいらない。
 「………これからは何も言わずにいなくなるなよ」
 檻から逃げ出したモルモットをさがしあぐねて、息を乱して駈けずりまわるのはこりごりだ。
 声を低めて念を押した僕に相変わらず涼しげな横顔を向けたまま、サムライは言った。
 「心得た」
 
                               +



 昨夜はいろいろなことがあった。ありすぎた。
 心身ともに極限まで疲労していたせいか、寝つきはよかった。三時間にも満たない短い睡眠だが悪夢も見ずにぐっすり眠れた気がする。房に帰り着いてベッドに倒れこんでからの記憶が綺麗さっぱりとんでいる。こんなによく眠れたのは東京プリズンにきてから初めてかもしれない。 
 毛羽立った毛布を畳み、ベッドから抜け出す。サムライは既に房を留守にしていた。洗顔を終え、一足先に食堂に行ったのだろう。僕だっていつもサムライと行動を共にしているわけじゃない。
 昨夜の一件を思い出す。今朝起きてサムライと顔をあわせるのは気まずかったから、彼が先に房をでていてちょうどよかったかもしれない。……待て、なぜなにも悪いことをしてない僕が気まずい思いを味わなければいけない?もとはといえばあのやることなすこと紛らわしい男が余計な気をきかせたのが昨夜のトラブルの原因なのに。
 蛇口を締める。
 洗顔を終えた僕はさっぱりした気分で房を出る。今ここにいないサムライに対する不満の数々は排水口にすいこまれてゆく水と一緒に洗い流したことにする。洗い流したいといえば、昨夜の僕がレイジにセクシャルなものを感じた忌まわしい記憶も抹消したい。あれは一時の気の迷いだ。極度の緊張状態における前頭葉の錯乱、アドレナリンの大量分泌による異常な興奮状態が誘発したニセの感情、幻覚で錯覚だ。だいたい恵以外の人間に興味がない僕が赤の他人の、それもあろうことか同性に性的興奮をおぼえるはずがない。
 ―よし、忘れた。
 記憶の一部消去が完了した僕は、起きぬけの囚人でごったがえした早朝の廊下をひとりで歩く。仲間と連れ立って食堂へと向かう囚人も多いが、中には一足先に食事を終えて強制労働開始までのわずかな時間を雑談に興じる者もいる。僕みたいにひとりで歩いてる囚人は少ない―僕もサムライと一緒に食堂へ行くことが多い。べつに好き好んで彼と行動をともにしているわけではないが、同房のため必然的に起床時間が重なり、それ故日常生活における行動のあらゆる面が重なってしまうのだ。
 黒と白の人ごみを避けて歩きながら、昨夜、別れ際に目撃したリュウホウの顔を思い浮かべる。 
 リュウホウは食堂にいるだろうか。先にテーブルに着いて朝食をとっているだろうか。 くだらない話に時間を割きながら他人と食事をとるのはうっとうしいが、今日だけは別だ。食堂でリュウホウを見つけ次第、話さなければならない。彼の誤解をとかなければならない。
 そう決意して廊下の角を曲がった僕の目にとびこんできたのは、黒山の人だかり。
 「?」
 廊下の前方が騒がしい。等間隔に壁に並んだ無個性な鉄扉のひとつが開け放たれ、その周囲に押しかけた囚人たちが二重三重の垣根を作っているのだ。好奇心に負け、物見高い野次馬たちの最後列から房の中を覗きこむ。
 よく見えない。上背の高い囚人が視界をさえぎっているのだ。まったくこれだから、本来脳にまわすべき栄養分を体にまわしてる低脳どもは手におえない。うんざりしつつ、その場から立ち去ろうとした僕を矢のような単語が刺し貫く。
 「クビツリ?」
 「またかよ。今度はだれだ」
 「このまえきた新入りの、リュウなんとかってやつ」
 「知ってる、ブラックワークにまわされたやつだ」
 「中、下?」 
 「下だよ、下」
 「ああ、蝿がたかって蛆の沸いた死体をずるずる引きずって死体運搬用トラックまで持ってくやつ」
 「そんな仕事続けてたらそりゃ死にたくなるよなあ」
 「まともな神経なら一ヶ月ももたねえよ」
 瞬間、僕は我を忘れて視界を阻む囚人を突き飛ばしていた。
 「痛だっ、なにするんだてめえ!?」
 背後で炸裂した怒声も聞こえない、耳に届かない。壮絶に嫌な予感は一歩足を進めるごとに確信に変わりつつある。野次馬の囚人を片端から突き飛ばしどけてゆく。力押しで野次馬の包囲網を抜けた僕は、たたらを踏んで最前列にまろびでる。
 喉が鳴った。
 「…………」
 僕の目の前に、縊死死体がある。
 天井の中央に設置された豆電球、その豆電球が吊られた鉤に細長い手ぬぐいを巻きつけ、手ぬぐいの輪の中に首をつっこんで絶命している死体。
 興奮したざわめきに背を向け、野次馬たちの注視に背を向け―
 猫背気味に丸まった背中を開け放たれた出口に向け、つま先を宙にたらして揺れているのは。
 「………………う」
 りゅうほう。
 りゅうほう―リュウホウ?
 鉤に結びつけた手ぬぐいが軋み、天井からぶらさがった死体がゆっくりとこちらを向く。宙にたらしたつま先が弧を描き、房の奥をむいていた体が百八十度回転してくる。
 口の端から泡を噴き、細首に手ぬぐいを巻きつけたその顔は紛れもなくリュウホウだった。
 その時になり、はじめて房内に耐え難い悪臭がたちこめているのを嗅覚がとらえた。知っている。首吊り自殺をはかった場合、首を締められた衝撃で括約筋が弛緩し、脱糞するのだ。
 排泄物の悪臭が芬芬とたちこめた息苦しい房の中央で、リュウホウの体は揺れていた。首に手ぬぐいを巻きつけたまま。
 昨夜、リュウホウの尻ポケットではためいていた手ぬぐい。涙を拭うようにとエレベーターの中で僕が貸し、リュウホウに感謝されたあの手ぬぐい。

 あれは。  
 あの手ぬぐいは、僕が貸したものだ。

 『ありがとう』
 あの時は最後まで聞き取れなかったリュウホウの礼が、今頃になって鼓膜で再生される。
 瞼の裏側に浮かび上がったリュウホウは、晴れやかな笑顔を浮かべていた。東京プリズンにきてからこのかた、いや、砂漠を走るジープの荷台でだって僕が目にしたこともないような何の苦悩もない幸福そうな笑顔。
 この世の地獄から解放され、あらゆる苦しみから解放され、無防備に安心しきった笑顔。

 膝から力が抜けてゆく。
 リュウホウの首に巻きつき、その命を奪った手ぬぐいの白さが目に焼きつく。

 僕は……僕は「また」、人を殺したのか。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060508011316 | 編集

 ディープキスってさ、息が続かないよね。もって三分が限界。
 試してみるといいよ、口で口を塞いで舌を絡めてお互いの前歯がぶつかるくらいやってごらんよ。呼吸困難に陥るから。
 でも素人ならともかく、僕の場合ディープキスの上手い下手ってのは商売の本質に関わってくるから。自分で言うのもなんだけど、僕はディープキスひとつで男を骨抜きにできる自信がある。経験値ってやつ?それがちがうから。伊達に六歳から小遣い稼ぎで体売ってないよ。ごたぶんに漏れず僕んちは母子家庭で貧乏だったからとうぜんお小遣いなんてもらえなかったし、そしたら自分の欲しいものは自分で稼いだ金で買うしかないっしょ?オヤジにケツの穴貸してそれでお小遣いはずんでもらえるなら万万歳。まあ、最初はちょっと(かなり?)痛かった気がするけどむかしむかしのことだし殆ど覚えてないんで結果オーライ。
 今じゃ単純に純粋に気持いいよ。よっぽどプレイが荒っぽいか愛撫がへたな奴はべつとして。
 で、今僕の上にまたがってる奴はどっちかというと前者かな。
 囚人服を脱いでベッドに横たわった僕の上に座っているのは、上半身裸の囚人。天井中央から吊り下がった仄明るいランプを受け、光の輪を冠した銀髪がもぞもぞとうごめいている。女も羨むような白い肌は大理石のようになめらかできめこまやかだけど、裸の上半身のいたるところに刻まれているのは無残な傷痕。ナイフで切り裂かれたとおぼしき無数の傷痕が、ランプの光を受けておぼろげに浮かび上がっている。
 さらさらの銀髪となめらかな肌でとんでもない美形を期待しちゃったひとはお生憎様。
 僕の上で連続して腰を動かしてる男はお世辞にも美形とはいえない。頬骨がとがってせりだした鋭角的な顔に嵌めこまれているのは、ぞっとするほど冷たいアイスブルーの双眸。肉の薄い神経質な鼻梁と口角のさがった酷薄そうな唇。げっそり痩せこけた頬はクスリをやってる証、どす黒い隈がおちた目はどこか狂信的な光をたたえている。
 死神のフードを剥いでみたら案外こんな顔がでてくるのかもしれない。皮が朽ち果てて骨になってゆく途中段階の人間の顔。
 骸骨と寝るなんてぞっとしないね。けど、お金のためお金のためと念じて耐える。
 「うっ」
 僕の上にのっかっていた男が低く呻いて果てた。
 銀髪を乱し、僕のおなかに上体を突っ伏して荒い息を吐いている男にあっけない気分で見下ろす。はやっ、もう?プレイが自己中な上に早漏だなんてすくわれない。銀髪を乱し、裸の背中におびおただしい玉の汗を浮かべた男をものたりなく感じつつ、そっと上体を起こす。
 「気持よかった、サーシャ?」
 あでやかな笑顔を浮かべて、聞く。
 緩慢な動作で上体を起こしたサーシャが、殺意を秘めた目で僕を睨む。サーシャは呼び捨てされるのに慣れてないのだ。サーシャに傅いている少年たちはいつも彼のことを「サーシャ様」と呼んで恐れ奉っている。北の皇帝をなれなれしくも呼び捨てにした僕は不敬罪に問われてギロチンにかけられてもおかしくない。
 けど。
 サーシャは指ぱっちんで手下を呼び、ギロチンをもってこさせようとはしなかった。
 情事で乱れた呼吸を整えながら、アイスブルーの双眸に氷点下の殺意を閃かせただけだ。 
 「―ああ」
 やがて、息がおさまったサーシャの口から感情の欠落した声がもれる。
 寝乱れて皺になったシーツから体を起こし、上半身の汗が乾いてゆくのを待ちながら、淡々とサーシャが言う。
 「お前は薄汚い私生児の混血だが、舌使いのうまい良い犬だ。役に立つ犬は嫌いじゃない」
 わあ、さすが皇帝。こんな時まで無駄に偉そうで堅苦しい物言いだ。
 苦笑したくなるのをこらえながら、床におちていた囚人服を拾い上げてささっと身につける。汗と垢の染みついた囚人服の袖に腕をとおしながら、ベッドに腰掛けて虚空に目を馳せているサーシャをちらりと流し見る。
 「で?ヤる前に聞いたけど、もっかい確認していいかな」
 上着の裾をおろしてへそを隠した僕は、乱れた髪を軽くかきあげる一動作の間に非の打ち所ない接客スマイルをこしらえる。
 「きみたち北棟の連中は本気でレイジを潰す気なんだね」
 「ああ」 
 言葉少なくサーシャは頷いたが、その目に荒れ狂っているのは長年王座を独占し続ける東の王に対する憎悪。おびただしい傷痕が刻まれた裸の上半身をランプの光にさらしたまま、口の端をかすかに歪めて吐き捨てる。
 「もうこれ以上、あの薄汚い混血児に私の上に居座られるのは我慢ならん。あの男を王座からひきずりおろして敗北と屈辱を舐めさせるためなら手段は問わん」
 「ブラックワークのリングで正々堂々戦って勝利しようとは思わないのかな」
 「痴れたことを」
 口にするのも汚らわしいと、サーシャの表情が一段と険しくなる。
 「あの男とおなじ空気を吸うのさえ汚らわしいというのに、私に同じ舞台を踏めと?軽佻浮薄な混血の王気取りと同じ舞台にあがって満場の観衆の見せ物になれと?正統ロシアの血をひく皇帝と、どこの淫売の股から産み落とされたかもわからん混血めが東西南北の愚民どもの前でともに王座を競えと?」
 サーシャの目には狂熱的な野心が輝いていた。
 まったく、コイツはいかれてる。サーシャに悟られないよう、こっそりため息をつく。サーシャのプライドの高さは異常だ。ほとんど病気といっていい。サーシャに目をつけられたレイジにちょっぴり同情。
 大上段に大義名分をふりかざしてはいるけれど、サーシャはレイジとの力の差を自覚している。入所以来不敗の王として東西南北トップに君臨してるレイジと正規試合でぶつかった場合、一対一ではサーシャに勝ち目がない。だから正規試合が行われる前に北棟のガキどもに召集かけて、目の上のたんこぶであるレイジを再起不能にしようという魂胆なんだろう。
 サーシャの陰険な策略にうんざりしつつ、そんな内心はおくびにも出さず、続ける。
 「はいはいわかりました、ジ・エンペラー。皇帝の犬の役目はレイジの弱味を嗅ぎ出してご主人様にご報告すること」
 「賢い犬は好きだ」
 サーシャが顔筋を痙攣させる。ひょっとして笑ってるのかなこれ?
 爬虫類の笑顔を訝りつつ、サーシャの隣に腰掛ける。片ひざを折り、懐に抱えこむ。抱き寄せた膝の上に顎を乗せ、小首を傾げる。
 「でもさ、一斉攻撃しかけるのに遠まわしに弱味なんて探って意味あるの?まだるっこしくない、それ」
  「不満か?」
 「いいえ全然!」
 眼光鋭くサーシャに睨まれ、ぶんぶんと首を振る。
 「『念には念を』と日本語の言い回しにもあるだろう」
 正面の壁へと視線を戻したサーシャが、もったいぶってつけくわえる。
 「北を率いる皇帝たるもの、戦争を仕掛ける前の情報収集は必至。敵のことをよく知らなければ全力で叩き潰すことはできん」
 サーシャがなにかを握りつぶすように拳を握る。
 「奴の弱味を掴めばさまざまな趣向が凝らせる。可能なかぎり奴の苦痛を長引かせ、最大級の屈辱を舐めさせる方法がな」 
 後半が本音とみたね。
 おもむろにサーシャが腰をあげる。手前の床におちていた囚人服を拾い上げ、手早く身につける。洗練された手つきで上着の裾をおろしたサーシャが、首だけ捻って僕へと向き直る。
 「皇帝直々に北の間者に任命されたことを光栄に思え、赤毛の犬」
 「報酬は?」
 「働き次第だな」
 そうきたか。予想はしてたけどね。
 ぴょんと身軽にベッドからとびおり、身支度を終えたサーシャが優雅な歩みで房をでてゆくのを見送る。小走りにサーシャの前にまわりこみ、皇帝の御手がふれるより早くノブを握り、恭しく鉄扉を開ける。鉄扉の脇にしりぞいた僕を満足げに一瞥し、感じ入ったようにサーシャが呟く。
 「本当によくできた犬だ」
 「お褒めにあずかり光栄です」
 ふざけてお辞儀してみせたけど、サーシャはこれを本気と受け取ったようでますます頭に乗る。廊下にでる間際、僕とすれ違いざまに赤毛に手を乗せてぽんぽんと叩く。しっぽを振って骨をとってきた愛玩犬にするみたいな、ありありと優越感がうかがえる動作。
 バタンと鉄扉が閉じる。
 格子窓の向こうをきびきびした大股で去ってゆくサーシャに、僕はおもわず叫んでいた。
 「チップはくれないの!?」
 なんだよ、わざわざ先回りして扉を開けてやって損した。
 サーシャに撫でられた頭が途端に汚らわしくなってわしゃわしゃと乱暴にかきまわす。これでよし。前よりひどく逆立った赤毛をひとふりし、ぷりぷりしながら房の中に戻る。
 と、僕とサーシャが話してたベッドの向かい側、もう一対のベッドの下で何かがごそごそしてるのが目に入った。ゴキブリにしては大きすぎる。あれは……
 「ぷはあっ!」
 ベッドの下から息を吹き返したのは、天然パーマの黒髪に黒い肌、いつもなにかに驚いてるようなまん丸の目の組み合わせの男の子。
 「いやー暑くて暗くて死ぬかと思いましたよ、ゴキブリまで沸いてきて危なく叫び声あげるところでしたよ!」
 ハイテンションな早口でまくしたてる男の子のそばにしゃがみこみ、その顔を覗きこむ。
 「デバガメなんていい趣味してるね、ビバリー」
 「人聞き悪いこといわないでくださいっス、リョウさん!」
 きっとして僕を見上げた男の子の名はビバリー。もちろん本名じゃない。本人がビバリーヒルズ出身と主張して譲らないところからこのあだ名がついたけど、なんでビバリ―ヒルズの高級住宅街でお上品に育った坊っちゃんがこんな極東の刑務所にぶちこまれてるのか不明。たぶん九割九部九厘の確率で嘘だ。
 「デバガメじゃないならなにさ、盗撮?」
 「だれがヤロウとヤロウが乳くりあってる現場好き好んで盗撮するんすか、だいたい東京プリズンじゃ盗撮なんてしなくても薄暗いとこ通りかかればヤロウがヤロウ犯ってる現場拝めますから売れませんよ!」
 「失敬だね、そんじょそこらの素人と僕のセックスを一緒にしないでよ」
 僕は十四年間「コレ」で食ってきたんだから、そんじょそこらの素人と一緒くたにされちゃあプライドが傷つく。
 「リョウさんが床上手なのはよーっくわかりましたから……さすが渋谷最大の広域売春組織のリーダーです、あっぱれです、万歳!」
 「馬鹿にしてるわけビバリー。なんなら今ここで試してみる、僕のテク?三秒で天国にイカしてあげるよ」
 「お断りしまス、再三言ってますが僕はノーマルなんス!上も下もおことわりです!」
 上着の裾に手をかけて脱ぐ真似をしたら、とうとうビバリーは半泣きになった。可哀相だし、これくらいにしといてやるか。
 「僕はたんに逃げるタイミングを逃しただけです、リョウさんとお客人が廊下を歩いてきたと気付いた時にはもう時間的な余裕がなかったんス……」
 「だからベッドの下に頭つっこんで覗き見してたわけね」
 哀れっぽい声で釈明するビバリーを愉快げに観察してた僕の脳裏に、疑惑の暗雲がたちこめる。
 「―ということはビバリー、僕とサーシャの話聞いてたの?」
 「え、まあはあ、最初から最後までばっちりと。喘ぎ声こみで」
 まずったなこりゃ。
 考えてることがもろに顔に出たみたいで、ビバリーが慌てて首を振る。
 「大丈夫っスよリョウさん、このことはだれにも言いませんから!リョウさんが北のスパイでレイジさんをハメようとしてるだなんてそんな恐ろしいことはキング牧師に誓って僕の胸の中だけにしまっておきまス!」
 首と手を振って必死に訴えるビバリーをしばらく疑り深く観察してたけど、長々と息を吐いて彼の言い分を認める。べつにビバリーの人柄を信頼したわけじゃない。ビバリーだって危ないヤマは踏みたくないだろう。もし何かの間違いで僕が北のスパイだってことがバレて同房の彼に危害が及んだ場合も「知らぬ存ぜぬ」で通すつもりなんだ、きっと。
 「しっかしリョウさん、危ない橋渡ってますねえ」
 他人事みたいな口ぶりでビバリーが感心する。
 「リョウさん今だってイエローワーク外の副業で稼いでるじゃないスか。この上まだお小遣いが欲しいんスか?」
 「欲しいよ。お金ダイスキ」
 刑務所で貨幣が流通してるってのも妙な話だけど。今ぼくが話題にしてるお金ってのは、看守が横流ししてるエロ本や煙草やチョコレートやガムやその他嗜好品―どうかするとイケナイおくすりなんかもあるね―とか、全部こみの名称。東京プリズンでは物々交換が主流だけど、資本主義社会の荒波の余波ってのは刑務所内にだってちゃーんと波紋をおこしてる。
 まあ、僕の場合はそれだけじゃないんだけどね。もちろんお金は好きだけど、囚人相手に体売ってるのは趣味みたいなもんだし。趣味が実益を兼ねてたらこりゃもう言うことなしっしょ?違う?まあ東京プリズンにはタチの悪い性病が蔓延してるから、その点はしっかり予防してるけど。
 『君の性生活には全く関心がないし知りたくもないがこのコンドームは生地が薄い南米産だから、エイズや性病感染を防ぎたいなら安全性の保障された国産品を買え』
 ズボンのポケットに手をやり、ごわごわしたふくらみを確かめる。
 鍵屋崎の言葉が脳裏に響く。苦労知らずの日本人のくせに偉そうに知ったかぶって……気に入らない。僕だって自分が使ってるコンドームがいまいち安全性が心許ない安物だってのはよく知ってる。でも、看守が卸してくれるのは不良品のコンドームっきゃないんだから仕方ないじゃないか。生地が薄くてぺらぺらに頼りない安物でもないよりマシだ。
 「ところでリョウさん、聞きましたよ。例の親殺しがイエローワークでどえらいことやらかしたって!」
 「さっすがビバリー、情報早いね」
 好奇心むきだしで顔を輝かせたビバリーに苦笑する。僕がベッドに腰掛けて話を聞く体勢を整えるまでに、ビバリーは唾をとばして続ける。
 「大人しそうな顔してるくせにやるじゃないっスか、彼。えーと……ヤギ?」
 「カギヤザキ ナオ」
 「そうそうカギヤザキ!ったく日本人てなんでこんな覚えにくい名前してるんでしょうね、早口言葉みたいだ。で、そのカギヤザキが何ですか、仕事中に自分のケツおっかけてきた凱の一味を針金でぐさっとやったって!」
 「その針金ぼくが貸したんだよ」
 「マジですか!?え、てことはリョウさんがいつも持ってるあの……?」
 「そう、僕の大事な商売道具。まいったよ、ちゃんと洗って返してほしいよね」
 冗談めかして首をすくめてみせる。僕が鍵屋崎の件に関係してたと知ったビバリーは俄然興味津々と身を乗り出してくる。
 「リョウさん、現場に居合わせたんならそうと言ってくださいよ!水くさいじゃないスか!」
 「唾とばさないでよ汚いなあ。たしかに居合わせたけど、べつになにも言うことないよ。凱に追いまわされてぷっつんキレた日本人がぼくから借りた針金でガキの目ん玉ぐさっとやっただけ。で、台湾・中国その他の国々入り乱れての大乱闘にケリつけたのは安田の銃声一発」
 人さし指でピストルを撃つ真似をしてみせる。興奮した面持ちで僕の話に耳を傾けていたビバリーが、頬を上気させて感嘆の声を発する。
 「すっげえ!日本人怒らしたら怖いっスねー」
 「そうだね。特にメガネは怒らせたら怖い」
 偶然かもしれないけど、鍵屋崎も安田もメガネをかけてる。なんとなく、顔と雰囲気も似てる。……あっと、そうだ。
 「どこ行くんですかリョウさん?」
 ベッドから立ち上がって鉄扉へと向かいかけた僕を見て、ビバリーが目をしばたたく。ノブに手をかけて振り向いた僕は、含みありげにウィンクする。
 「東棟で話題沸騰中のメガネくんから商売道具を返してもらいにいくのさ」
 僕はイエローワーク担当の囚人だけど、ほかにいくつかの副業をもっている。娼夫、ドラッグストア、北のスパイ。
 そして数ある副業の中で、売春の次に需要があるのは……
 key store、だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060507011443 | 編集

 鍵屋崎の房は知ってる。サムライとおんなじだ。
 東京プリズンに収監された囚人はアトランダムに東西南北の棟に振り分けられる決まりだけど、必然的に誤差というか偏りが生じてしまう。たとえばサーシャがシメる北棟はロシア系の白色人種を中心に構成されるし、レイジがトップに君臨してる東棟はアジア系が大半を占める。残りふたつ、西棟はおなじアジア圏でも韓国系主流で南棟はアフリカ系主流。 
 レイジは入所以来ブラックワークのトップを維持してるし、当分王座は覆されないってのが囚人間じゃもっぱらの噂だけど、どうしてどうして残る三人だって一筋縄じゃいかないツワモノ揃い。
 ロシア人至上主義で激烈な人種差別主義者であるサーシャは言うに及ばず、問題は西の道化と南の隠者。この二人はサーシャほど性格がねじくれてないけど、何を考えてるかわからないって点じゃレイジといい勝負の不気味な奴ら。表面的には愛想が良いレイジがトップに立ってる現在は微妙な均衡が保たれてるけど、今のトップに代替わりする前は東西南北各棟の間で紛争が絶えなかったらしい。東西南北で睨み合ってる四つの棟の仲は最悪の状態で、水面下ではまだ火種がくすぶっているのだ。
 で、僕のヤサがある東棟だけど。前述したとおり主流になってるのはアジア系、その内わけは中国系が三割・台湾系が二割・その他東南アジア系が四割ってとこ。僕は残り一割に満たない白人で英国系二世。父親はたぶん日本人。「たぶん」て曖昧な仮定形を使ったのは顔を見たことがないからだ。つまり私生児ね。
 日本人はといえば、これまた少ない。東棟じゃ十人ちょっとっきゃいないんじゃないかな。台中戦争やら第二次ベトナム戦争やらで故郷を追われた難民や食い詰めた密入国者やらがわんさか流入してきて無国籍のスラム化及び混血が進んで、気付いてみたら純血の日本人は絶滅危惧種並に少なくなってた。純粋な日本人の人口なんてとっくに一億きってるよ。で、サムライと鍵屋崎は東京プリズンはおろか日本全体でもかなり珍しい生粋の日本人てやつで、偶然にも同じ刑務所の同じ房をわりあてられた。
 偶然?まさか。僕の予想だと裏に安田あたりが絡んでるとみたね。東京プリズン上層部の人間がサムライと鍵屋崎が同房になるよう采配したにちがいない。たとえ犯罪を起こして悪名高い刑務所にぶちこまれたとしても絶滅寸前の日本人は監視下において保護しなきゃって。過保護だよね、笑っちゃう。
 と、つらつら考えながら廊下を歩いてたら前方に鍵屋崎発見。房を訪ねるまでもなかったね、こんな時間にふらふら廊下をほっつき歩いてるなんて危ない危ない。物陰につれこまれてレイプしても知らないよ、と喉まででかけた忠告を飲み込んで鍵屋崎の後姿に目を凝らす。
 ふらふら危なっかしい足取りで歩いてる鍵屋崎の目と鼻の先に壁がある。鍵屋崎は気付いてないみたいだ。二足歩行をおぼえたばかりの赤ん坊みたいな覚束ない足取りで一歩、二歩、三歩……
 鈍い音がした。
 壁と正面衝突した鍵屋崎が低くうめいてその場にしゃがみこむ。強打した額を両手で押さえ、声を殺して悶絶する鍵屋崎。
 すごいや、イマドキこんな古典的ギャグを実践する奴がいたなんて。
 新鮮な感動に打たれて足を速める。気配を殺して背後に接近、廊下にうずくまった鍵屋崎の肩をぽんぽんと叩く。
 「メガネをかけてないメガネくんに忠告しておくけど、この壁には通り抜けフープなんてないよ」
 鍵屋崎が振り向く。額が赤くなってて痛そうだ。
 「そんなことは知っている、僕は有事の場合に備えて壁の硬度を確かめていたんだ。この壁の材質は1メートルの厚みのある鉄筋コンクリートだな。鉄筋コンクリートとはコンクリートの中に鉄筋を入れ,圧縮にも引張りにも強い部材を作る構造になっていてその特徴をラーメン構造と……」
 打ち所が悪かったらしい、かわいそうに。
 意味不明なことをのべつまくなしにまくしたてる鍵屋崎をたっぷり同情をこめて一瞥、おもわず感心してしまう。
 「きみほんとに目が悪いんだねえ」
 「で、何の用だ?行き止まりとも知らずに直進して壁に激突したぶざまな僕を笑いにきたのか」
 自意識過剰だなコイツ。
 「商売道具を返してもらいにきたのさ」
 鍵屋崎の前に片手を突き出す。何を意味してるのかすぐ悟ったようで、鍵屋崎がポケットをまさぐり針金をとりだす。これこれ、僕の大事な商売道具。鍵屋崎から受け取った針金を手の中でじっくり検分し、血がついてないか確認する。
 「これ、ちゃんと洗った?」
 「ああ。血がついたままだと錆びると思ってな」
 「そう」
 頭上にかざした針金をためつすがめつしながら、砂漠での騒動を思い出す。あの時、イエローワークの温室でいちごを摘んでた僕もたまたま現場に居合わせたけど……鍵屋崎は鋭く尖ったこの先端で、白昼堂々自分を襲おうとしたガキの眼球を刺したわけだ。まったく躊躇ない、的確な一撃。傍で見ていた僕もちょっとちびりそうになった。
 鍵屋崎に眼球を刺されたガキは医務室に運ばれたはずだけど、その後どうなったかは聞いてない。まあ、潰れたのがキンタマじゃなくて目ん玉でよかったねぐらいしか慰めの言葉が見つからない。
 「砂漠のアレ、すごかったね。メガネくんてばそんなおとなしそうな顔してためらいなく目玉を刺すんだもん、みんなびびってたよ」
 ほんの冗談のつもりで、軽い口調で言う。
 「パパとママを殺したときもあんなかんじだったの?」
 鍵屋崎の顔色はほとんど変わらなかった。ただ、「その質問は聞き飽きた」とばかりに煩わしげに眉をひそめただけだ。
 「……質問の意図が不明だ。凶器のことを言ってるならば全然違う。僕が両親を刺殺したときに使用したのは刃渡り20センチのナイフで、針金とは殺傷能力が比べ物にならない。刺した箇所も全然違う。砂漠でのしかかられた時は腕か肩を狙ったつもりがたまたま目測が狂って目玉を刺したが、両親を刺すときは確実に致命傷を狙った。母親の場合は心臓、父親の場合は右肺。大動脈を掠れば失血性ショックで心臓が停止すると医学書で読んだことがあったからな」
 鍵屋崎の説明はきわめて正確で的確で、そして、いちじるしく感情を欠いていた。
 医学書でも読み上げてるかのような淡々とした口調、抑揚のない声。自分の両親を殺したとそう言ってるのに、良心の痛みとか罪悪感とかそんなものは一片たりとも感じられない。
 「…………」
 薄気味悪くなった。
 やっぱり鍵屋崎は普通じゃない。東京プリズンには普通の奴なんてひとりもいないけど、鍵屋崎は正真正銘異常だ。当たり前だ、自分のパパとママをぐさりと刺し殺すような人間のクズなんだから。
 僕だったら考えられない。自分のママを殺すなんて。
 『リョウちゃん』
 今もまざまざと顔を思い浮かべることができる。舌ったらずな甘ったるい声も。
 覚えてる。ママの甘い香水の匂い、僕の頭をやさしく撫でる手の感触。ママ譲りの赤毛は僕の自慢、ママは僕のいちばん大切な人。
 なんでママとパパを殺すことができるの?
 百歩譲ってパパは殺すことができても、ママを殺すことはできないでしょう。
 「それを冷静に説明する君って、やっぱイカれてるよ」
 顔がはげしく歪むのをおさえられなかった。目の前の鍵屋崎は冷静沈着に落ち着き払ってる。眼鏡がなくて目もろくに見えないはずなのに、僕の表情をつぶさに観察してるような……人を見下した顔。
 いつまでこうして睨みあってても仕方ないと気分を変えて、僕はことさら明るい声で話題を変えた。
 「まあいいや。実際すかっとしたしね、君が凱たちに一矢報いてくれて」
 「?どういう意味だ」
 訝しげな顔の鍵屋崎の前に顔を突き出し、にこっと笑う。
 「僕の本業は鍵屋じゃなくてウリ。刑務所内の看守や囚人を相手に性欲解消のお手伝いしてあげてんだけど、中には礼儀のなってない客がいてね。殴りながらヤるのが好きだとか複数プレイが好きだとか、そういう乱暴で暴力的な連中ね。ちゃんと料金払ってくれればいんだよ、それでも。けどね、凱の手下ときたらそろいもそろって屑揃いで……僕の前歯を折ったくせに慰謝料払わないわ料金ごまかすわで、いい加減頭にきてたんだ」
 「だから僕に針金を貸したのか?」
 「ほんとはアイツらのペニスを串刺しにしてほしかったんだけど、贅沢は言えないね」笑うと前歯がすうすうする。凱に殴られて折れた前歯の穴だ。凱は暴力的な奴で、逆らわないエモノは物足りないらしい。ブラックワーク「中」には売春夫がぞろぞろいるのに趣味で娼夫をやってる僕をわざわざ買うのは、僕のほうが生きが良くて性病の心配がないからってだけじゃない。ブラックワークの売春夫はみんな疲れきって諦めきってて、どんなにひどく扱われようが抵抗する気概なんてこれっぽっちも示さないのだ。
 それじゃつまらないよね、凱には。
 「ところで眼鏡はどうするの。壊れたまんまだと日常生活にさしつかえるんじゃない?」
 なんとなく、聞いてみる。深い理由があったわけじゃない。ただ、眼鏡をかけてる顔を見慣れてるから眼鏡をしてない鍵屋崎に違和感をおぼえただけだ。鍵屋崎は唇を引き結んでしばらく考えこんでたけど、修理するあてはないらしく途方に暮れてる様子がありありと窺えた。
 その時だ。僕の脳裏に名案が閃いたのは。
 「僕が直してあげよっか」
 後ろ手を組み、鍵屋崎の顔を覗きこむ。鍵屋崎が驚いたように僕を見る。
 「直せるのか?」
 釣れた。
 内心ほくそ笑みながら、すかさずつけたす。
 「交換条件がある」
 「交換条件?」
 ポケットからとりだした眼鏡を僕に手渡そうとした姿勢のまま、鍵屋崎が動きを止める。警戒心と不信感が入り混じった目つき。
 不自然な姿勢で停止した鍵屋崎の脇にすりより、耳元にささやく。
 『レイジの弱味を探ってきて』
 「なんだって?」
 当惑しきった鍵屋崎ににっこりと笑み返し、一息に続ける。
 「新入りの君なら警戒されないだろうし昨日の食堂の一件もあるし、実に適役だと思うんだよね。いい取引だと思わない?君はレイジの友達になって彼の弱味を掴んでくればいい。そしてレイジの弱味を僕に報告すれば、それと引き換えに元通りレンズの嵌まった眼鏡が手元に戻ってくるってわけ。悪い話じゃないでしょ」
 鍵屋崎はしばらく何か言いたげに僕を見つめていたが、やがて、矢継ぎ早に探りを入れてくる。
 「どうしてレイジの弱味を知りたいんだ?どうして僕を指名する?レイジの弱味を知りたいならば彼と同房の住人に聞けばいい。たとえば昨日彼の隣に座ってたロンとか、身近にいる彼のほうがよほど適役だと思うが」
 なるほどおっしゃるとおり。でも、そうはいかない事情がある。
 「ロンはだめだよ、アイツ妙に鋭いから。それに根がいい奴だから、口ではどんなに嫌っててもレイジを裏切るような真似はできない」
 「裏切る?」
 ああもう、しつこいなあ。世間知らずの日本人のくせに人の揚げ足とるのだけはうまいんだから。
 苛立ちをおさえながら鍵屋崎の顔を覗きこむ。
 「てゆーかさ、メガネくん。君そんなに他人に関心ある人だっけ?」
 鍵屋崎の顔をじっと見てると抗いがたい衝動に襲われる。
 コイツのポーカーフェイスを崩したい、顔を歪めさせてみたいという残虐な衝動。サディスティックな欲求。
 「自分以外はどうでもいいんじゃないの?周囲に関心ないんじゃないの?程度の低い周りの連中がなにしようがどうしようが僕には関係ないって、エリート崩れの日本人らしく冷めたスタイル気取ってるんじゃなかったの?それとも……」
 鍵屋崎の耳孔に粘着質なささやきを注ぎこむ。鍵屋崎が狼狽するのが手にとるようにわかり、嗜虐心がくすぐられる。僕に気圧されるようにあとじさった鍵屋崎が壁にぶつかり、痛そうに肩を押さえて上体を屈める。
 眉間に寄った皺がちょっと色っぽい、とか考えちゃった僕もサーシャのことは言えない。相当ヘンタイだ。 
 鍵屋崎のパーソナルスペースに大股に踏みこみ、壁際に追いつめて退路を断つ。鍵屋崎は肩を庇った姿勢で、キッと僕を睨む。人を人とも思わない傲慢な無表情が歪み、崩れ、虚勢を張って強がってるただのガキの顔が覗く。
 やばい、楽しい。コイツいじめるとすごい楽しい。
 ちょっとぞくぞくしながら、さらに追い討ちをかける。
 「たった一日でサムライに感化されちゃったわけ?刑務所内で浮いてる親殺しふたり、囚人間でも後ろ指さされる負け犬同士がぴちゃぴちゃ傷なめあってなぐさめあってんの?反吐が出るほど美しい友情だね。鳥肌立ちそう、別の意味で」
 思ったとおりだ。 
 サムライの名前をだした途端、そりゃもうあざやかに鍵屋崎の顔色が変化した。屈辱にあおざめた顔から漂白されるように感情が抜け落ち、もとのポーカーフェイスが戻ってくる。
 「―気色悪い妄想をふくらませるな」
 僕の手を払いのけ、鍵屋崎が立ち上がる。
 「サムライは僕の観察対象だ。レイジもそうだ。この世に存在する全ての人間は僕にとってただの観察対象に過ぎない。君は顕微鏡の中のミトコンドリアと友情を築けるか?赤血球に恋愛感情がもてるか?そんなことは不可能だ、絶対に」
 刺々しい主張を述べた鍵屋崎がなにかにケリをつけるようにため息をつき、顔をあげる。
 「……いいだろう。甚だ理解できないし不条理ではあるが、君の条件を呑む」 
 「そうこなくっちゃ!」
 万歳してとびあがる。「ただし」と、宙に浮いた足裏が床を踏むまでの間に鍵屋崎が口を開く。
 「こちらも条件がある。眼鏡は先に直してくれ、なるべく早く。これ以上一日だってメガネのない生活は考えられない」
 鍵屋崎の提案に少し考える。 
 たしかに眼鏡がなきゃ不便だろう。鍵屋崎はほんとに視力が悪いみたいだし、裸眼じゃ日常生活もままならないはずだ。こうしてる今だって僕の顔はろくに見えてないと保証する。
 「……まあいいや。レイジの弱味をもってくる前に、君が壁にごっつんこして事故死しちゃったら困るしね」
 僕はサービス精神旺盛な売春夫なのさ。感謝してよメガネくん。
 さて用は済んだとくるりと踵を返し、廊下を駆ける。10メートルほど走ってから、ぽつんと廊下にとり残された鍵屋崎に手を振る。
 「じゃあよろしくねメガネくんー。君の分析力に期待してるからねー」
 あぜんとした鍵屋崎にぱっと背を向け、自分の房へと続く廊下を小走りに駆ける。
 さてと。僕の任務はレイジの弱味を探ること。でもむべなるかな、僕はレイジに警戒されてる。なにぶん前科があるからね、警戒されてもしかたないのさ。僕が娼夫兼情報屋まがいのことして荒稼ぎしてるのも東の王様はちゃんと知ってるし、いまさらごまかすことはできない。へらへら笑いながら僕が近づいてったところで「北か南か西か、どこのスパイだ?」と怪しまれるのがオチだ。
 じゃあどうするか?身代わりを用意すればいいじゃん。
 怪しまれない、アウトオブ眼中の身代わり。入所したてで何も知らない新入りをおいしい餌をちらつかせて篭絡して、スパイのスパイに仕立て上げればいい。鍵屋崎はなにも知らなくていい、なにも知らせる必要がない。鍵屋崎ならレイジに警戒されるおそれもない、昨日今日入所したての新人が懐に凶器仕込ませてるとかまさか考えないでしょ?
 問題はメガネくんが僕の思いどおりに動いてくれるかどうか、その一点。 
 「…………頭は悪くないと思うけど、要領が悪いんだよなあアイツ」
 ズボンのポケットに手をやり、鍵屋崎から預かった眼鏡の感触を確かめる。レンズが割れて弦がひしゃげて到底素人の手には負えなくなった眼鏡。いくら手癖が悪い―もとい、ご機嫌そこねた扉をあやすのが得意な僕でも、眼鏡を修理できるほど器用じゃない。
 ポケットで弾む眼鏡を片手でおさえながら、ある人物の顔を脳裏に思い浮かべる。
 アルコールで濁った目と顎に散った無精髭、年がら年じゅう不景気なツラした中年男の顔を。
 「ラッシーに頼むっきゃないか」


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060506011612 | 編集

 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 赤毛をポニーテールに結わえた若い女が部屋の真ん中で泣いている。
 しどけなく膝を崩してすわりこんだ女の手には、毛のほつれたテディベアが。
 この後ろ姿、知ってる。
 幸薄そうななで肩、肉の薄い背中。とても子供ひとり産んだとはおもえない、スレンダーな体。
 『ママがジャンキーだから、しょうもない女だから、ママを見て育ったリョウちゃんも悪い子になっちゃったの』
 めそめそ泣きながら、手に握り締めたテディベアに顔を擦りつける女。
 僕はこの人を知ってる。
 世界でいちばんダイスキな人。世界でいちばんタイセツな人。
 僕が世界でいちばんダイスキな人は、鼻にかかった甘ったるい声で嗚咽をあげている。膝に抱いたテディベアを時折思い出したように撫でながら、目尻からあふれた涙でメイクが溶け流れるのもかまわず小さい女の子のように泣いている。
 『ちゃんとリョウちゃんの手の届かないところに鍵をしまって、リョウちゃんが手を出せない引き出しのいちばん上にお薬しまっておいたのに』
 どう見ても二十代前半にしか見えない童顔の中、涙で潤んだ垂れ目をしばたたきながら、その人は繰り返す。
 哀しげに哀しげに。おなかを痛めて産んだ子供ひとりちゃんと育てられなかった自分の非をなじるように。
 『なんで引き出しがからなの?なんで注射器が消えてるの?』
 それはね、ママ。僕が自力で開けたからだよ。
 こう、針金の先にちょっと細工してね、引き出しの鍵穴にさしこんで手首を回すんだ。最初はうまくいかなかったけど、何度もやってるうちにコツが掴めてきてね。やっぱり手首の角度と集中力が大事なんだ。コツさえ掴めちゃえばあとは簡単、引き出しのいちばん上の隠し場所からバレないように注射器とお薬をちょうだいするだけ。
 ……バレないようにやったはずなんだけどなあ。
 部屋の真ん中で泣きべそかいてるのは、僕が世界でいちばんダイスキな人。テディベアに頬擦りして涙を拭いて、いやいやするように首を振る。
 『ママがこんなんだから、リョウちゃんもジャンキーになっちゃったんだ。ママがフシダラなばっかりにリョウちゃんまで……』
 僕がふしだらなのはママのせいじゃないよ。そりゃ家庭環境とかも要因のひとつにはあったけどさ、僕がふしだらなのは天性の素質というか……うまくいえないけど、とにかくママのせいじゃないよ。
 そう声をかけてあげたいのに、ママは僕の言葉に耳を貸さない。僕の存在そのものに気付いてないのか、ぐすぐすとすすり泣くばかり。 僕はママのことがダイスキだし、女手ひとつで僕を育ててくれたことにも感謝してる。
 たしかにママは娼婦でジャンキーで毎晩男に殴られて青痣作って帰ってきてもへらへら笑ってるような頭の足りない人だったけど寝る前には必ずおやすみなさいのキスをしてくれたし、それに……
 ママの膝の上にちょこんと座ってるのは、テディベア。
 小さい頃、独り寝を嫌がって駄々をこねた僕のためにママからプレゼントされたテディベア。
 『ごめんねリョウちゃん』
 膝の上に乗せたテディベアに向け、ぼんやり放心した横顔で語りかけるママ。
 『ママがもっといいおかあさんだったら、リョウちゃんも―……』
 リョウちゃんも?
 その先は聞こえなかった。僕の瞼の裏に鮮明に焼きついたのは、膝の上のテディベアに向け、純粋で愚直な子供のように真剣に語りかける女の横顔。
 
 儚い横顔は、泡沫のようにはじけて消えて。

                                + 


 絶叫。
 もんどり打ってベッドから転げ落ちたのは、僕と同房のビバリー。
 寝ぼけ眼をこすり、毛布を剥いで上体を起こす。床に転げ落ちたビバリーが両手で口を押さえ、涙目で悶絶している。
 「Good morning」
 さわやかに挨拶する。
 「グッモーニングじゃねえっス、朝っぱらから何さらすんですリョウさん、舌、舌、したあああ!?」
 「目の前にいるのが悪いんだよ。つい条件反射でフレンチキスしちゃったじゃないか」
 床に足裏をおろす。
 外にいた時のくせで、目の前に顔があるとつい条件反射でフレンチキスしてしまう。外にいた時は隣で人が寝てるのが当たり前の生活をしてたから、当時の習慣がまだぬけないらしい。うーんとのびをしてふと見ると、洗面台にかじりついたビバリーががらがらとうがいしてた。しつこいくらいくりかえしくりかえし。
 「やなかんじ。いいじゃん唇くらい、減るもんじゃないし」
 入念に口をすすぎ終えたビバリーが、恨めしげに僕を振り返る。
 「……あれ嘘っスね、体は売ってもキスはしないのが娼婦の鉄則っての」
 「娼婦はどうだか知らないけど僕は娼夫だから」
 青ざめた顔で洗面台にもたれてるビバリーを邪険にけりどけ蛇口を奪い、洗顔を済ます。タオルで顔を拭いて振り返った僕の足もとで、ビバリーは膝を抱えておちこんでいた。
 「童貞奪われた気分だ……」
 「じゃ、僕がビバリーの初めての人だね」
 ふざけてまぜっかえすと「気色悪いこといわないでくださいっス!」と噛みつかれた。やれやれ、冗談なのに。ビバリーは僕より二ヶ月後輩のはずだけど、ちょっとばかし見目のいい囚人や生白くて線の細い囚人ならレイプされるのがもはや年中行事と化してる東京プリズンの環境にいまだに染まらないでいるなんて珍しい。そろそろ免疫ができてもいい頃合なのに口に舌いれられたぐらいでぎゃあぎゃあ騒ぐなんてとんだ腰抜けだ。
 「それで?なんでビバリーくんは朝っぱらから僕の上にまたがってたのかな、シュチェーション的に誤解されてもしかたないと思うんだけどー」
 膝と膝の間に頭をたれて悲嘆に暮れているビバリーの上にタオルを被せ、肩に手をまわしてささやいてやる。本気でショックを受けてるのか、僕の腕を勢いよく振り払ったビバリーが陰気に打ち沈んだ声で呟く。
 「リョウさんところにお客さんがきたから起こそうとしただけっス」
 「お客さん?」
 緩慢に顔を起こしたビバリー、その視線を辿って正面を向く。開け放たれた鉄扉の向こう側に立っていたのは。
 「ラッシー!」
 「その呼び方はやめろ」
 大手を振って房からとびだした僕を見て、ラッシ―こと五十嵐看守は泣く子も黙る渋面を作った。手入れされてない無精髭とくたびれた制服、アルコールの過剰摂取で黄色く濁った覇気のない目。年は三十路半ばくらいに見えるけど、髭を剃ったらもっと若いかもしれない。
 東京プリズンの看守にはタジマを筆頭にろくな奴がいないけど、例外は存在する。その数少ない例外に分類されるのが僕の目の前のラッシ―こと五十嵐だ。
 ラッシーはタジマのように暴力で囚人をおさえつけようとしない稀有なる人種だけど、まるっきりの聖人てわけでもない。その証拠にアル中だ。十年来連れ添ってきた奥さんとの痴話喧嘩が絶えなくて精神的に参ってるらしく近頃寝つきがよくないと、看守間の噂を聞きつけて僕のところに睡眠薬をもらいにきたのが縁でお近づきになった。
 身も蓋もない言い方をすれば、人間失格一歩手前のアル中のダメ看守だ。 
 「ほら、約束のブツだ」
 看守服の尻ポケットをまさぐり、なにかを取り出すラッシー。ラッシ―の手にぶらさがってるものを見て、快哉をあげる。
 「ありがとうラッシ―!」
 ラッシ―の指先につままれていたのは、鍵屋崎から預かっていた例の眼鏡。レンズが粉微塵に割れて弦がひしゃげてフレームが変形したあの眼鏡がいまやもとどおり、いや、前以上に完璧な姿かたちを得て僕の手元に戻ってきたではないか。
 「俺が直したわけじゃねえ。眼鏡屋の腕がいいんだろ」
 興味もなさそうな口ぶりでラッシ―がつけたし、あくびを噛み殺す。ラッシ―に修理を頼んで正解だった。仮にも僕は囚人だし、外界との連絡手段はごく限られてる。鍵屋崎のメガネは一見修復不能に見えたし、素人には手におえない。それだと専門の職種に頼むっきゃ方法はない。
 「やっさしーね五十嵐さん、僕のおねがい聞いてくれたんだ」
 ラッシ―はアル中のダメ看守だけど、強面の見かけによらず人がいい。ラッシ―の手を介して「外」に修理にだされた眼鏡も無事戻ってきたことだし、鍵屋崎が提示した交換条件は消化済み。あとはナオくんの頑張りに期待ってね。
 すこぶる上機嫌の僕の前にずいと手が突き出される。紺の長袖につつまれた腕をさかのぼると、五十嵐の仏頂面に行き当たった。
 「見返りは?」
 ……そつがないなあ。
 「しかたないなあ、特別サービスだよ」
 眼鏡をズボンの尻ポケットにすべりこませ、五十嵐にすりよる。五十嵐の顎に手をかけ、唇をー
 「なに考えてんだよこのませガキ!!」
 「ご褒美のキス」
 怒髪天をついた五十嵐に突き飛ばされ、壁に衝突して肩を痛める。ビバリーといい五十嵐といい冗談が通じないんだからやんなっちゃう。僕をくびり殺そうと一歩を踏み出した五十嵐に、やれやれと肩をすくめてみせる。
 「ジョーダンだってジョーダン、マジになんないでよラッシ―てば。ほら、約束のブツ」 
 あらかじめ用意していた錠剤のシートをぽいと五十嵐に投げる。反射的に腕を突き出してシートを受け取った五十嵐がほっとする。五十嵐に突き飛ばされて痛めた肩をさすりながら、一応、使用上の注意ってやつをつけくわえる。
 「念のため言っとくけど。その睡眠薬は日本じゃとっくに使用禁止になった奴だから、バレないように持ち歩いてね。ウィスキーとか強いアルコール類といっしょに飲むのはご法度、死ぬ危険性もある。一度に三錠以上服用するのは絶対ダメ、心臓止まるから」
 「でも、効くんだろ」
 それが一番重要だといわんばかりに、五十嵐が太いため息をつく。
 「ばっちり」
 「ならいい」
 錠剤のシートをいそいそとしまいこみ、用は済んだと踵を返す五十嵐。
 「今夜はぐっすり眠れるといいね」
 「ああ」
 肩越しに手を振って廊下を去ってゆく五十嵐、その背中に目を細め、わざと大きな声で叫ぶ。
 「ラッシ―の奥さん」
 ぴたりとラッシ―が立ち止まる。
 廊下の半ばで立ち止まったラッシ―が、やがて、やり場のない怒りをこめて吐き捨てる。
 「………クソガキが」
 憎々しげに顔を歪めたラッシ―に軽く手を振ってやる。荒く舌打ちしたラッシ―はそれきり振り向かずに廊下を去っていった。
 不眠症で悩んでるのは五十嵐じゃない、五十嵐の奥さんだ。
 そんなこととっくに知ってる。知っててわざと黙ってたんだ。精神的にひどく参ってて、アルコールに頼らなきゃ生きていけない奥さんのために恥を忍んでクスリをもらいにくる五十嵐を観察するのが楽しかったから。
 「……性格悪いっすねえ、リョウさん」
 いつのまにか背後にきていたビバリーが、あきれたようにささやく。
 ポケットを叩いて眼鏡の感触をたしかめた僕は、いちばん笑顔が映える斜め四十五度の角度に小首を傾げる。
 「小悪魔っていってよ」
 僕は笑顔で人を殺すレイジみたいな悪魔にはなりきれない。小悪魔がせいぜいだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060505011826 | 編集

 食堂は賑やかだった。
 腹をすかせた囚人たちが一同に会してるんだからそりゃ賑やかなのは当たり前、喧嘩と罵詈雑言は日常茶飯事。長方形のテーブルの上で食器をひっくりかえして取っ組み合ってる喧嘩っ早い囚人、見晴らしのよい二階の特等席を陣取って他の囚人から飯を強奪してるのは凱の一党だろうか。手摺でさえぎられた一階まで濁声の高笑いが聞こえてくる。
 頭上で飛び交うフォークの嵐の中を足早にカウンターに駆け寄りトレイを手に取る。アルミの食器をぱぱっと並べた上に見た目にも栄養的にもお粗末な朝食が盛られていく。
 「前から思ってたんだけどさあ」
 おとなしく列に並んだ僕の後ろ、「なんスか?」とトレイを抱えたビバリーが身を乗り出してくる。
 「署長以下上層部は囚人の食費をこれ幸いと懐にためこんでるんじゃない?じゃなきゃおかしいって、こんなまずしい献立」
 東京プリズンの献立は和食と洋食が一日おきと決められてるけどどっちも内容的には褒められたもんじゃない。今日の献立はワカメの味噌汁とかぶの漬物、白米と焼き魚という純和食。正直いって僕の口にはあわない。
 「フィッシュアンドチップスが食べたいなあ」
 素直な願望が口をついてでる。後ろでビバリーもため息をつく。
 「僕はジャンクフードが食べたいっす、油でべとべとの体に悪そうなポテトとハンバーガー。最高っすね」
 「むかしむかしの話だけど」
 カウンターの列が移動する。アルミの受け皿にワカメの味噌汁が注がれるのを気のない目で眺めながら説明する。
 「アメリカのマクドナルドでさ、シェイクが馬鹿売れしたことあったんだ。くる客くる客みんなシェイクシェイクでシェイクばっか飛ぶように売れたの。なんでだと思う?」
 「さあ?」
 まったくご存じないですと首を振るビバリーを振り返りにっこり笑う。他人が知らないことを自分が知ってると実に気分がいい。
 「シェイクについてる先割れプラスチックスプーンが覚醒剤の粉を吸うのにちょうどいいからだって。スプーンの先っぽに粉を乗せて炙って吸うんだ。ま、それがバレてプラスチックスプーンは廃棄されたわけだけど」
 「さっすがリョウさん、ジャンキーは物知りっすねえ」
 目をまんまるくしたビバリーが感心したように唸る。トレイを片手に預けた僕はもう一方の手で注射器を打つ真似をする。
 「クスリのことなら任せといてよ、だてにドラッグストアを名乗っちゃいない。強壮剤から催淫剤までなんでもござれだ」
 「リョウさんは朝飯代わりに錠剤噛み砕いてたほうがいいんじゃないスかね」
 ビバリーが首を振って給仕の看守から皿を受け取る。朝の献立を受けとってカウンターを離れた僕らは空いてる席をさがして食堂をさまよう。
 「今朝やってきたあの看守もリョウさんの噂聞きつけてクスリもらにきたんでしょ?」
 「ああ、ラッシ―ね。クスリが必要なのはラッシ―じゃなくて正確には彼の奥さんだけど」
 したり顔で頷く。
 いつも高圧的に威張り散らしてる看守のゴシップは窮屈な生活を送ってる囚人たちにとって格好の餌。それに男娼兼情報屋まがいの副業をしてれば自然といろんな噂が入ってくるのだ。
 「ラッシ―んとこは夫婦仲が悪くて、家じゃ毎日喧嘩してるの。で、精神的においつめられたラッシ―の奥さんは重度の不眠症からアルコールに逃げるようになって……でも最近じゃ免疫ができちゃってアルコールもきかないらしい、市販の睡眠薬なんてぜんぜん」
 「だからリョウさんとこに睡眠薬もらいにくるんすか」
 「そう、僕が持ってるクスリなら一発で天国にイケるから」
 ビバリーが薄気味悪そうに距離をとる。
 「冗談だよ。僕が売ってる薬だって無茶な飲み方しなきゃ安全さ、たぶん」
 ラッシ―が事故に見せかけた睡眠薬の誤飲で奥さん殺そうとしてるなら別だけど、そこまで責任もてない。疑り深げな目つきのビバリーをてきとーにはぐらかしてきょろきょろとあたりを見回す。周囲の席は全部先客で埋まってる。出遅れたと舌打ち。このぶんじゃ立ったままご飯を食べなきゃならなくなる。
 食器が床を打つかん高い音が響いた。
 「!」
 何事かと思い振り向く。僕の目線の先、テーブルとテーブルの間の通路に突っ立っているのは見覚えのある顔―鍵屋崎だ。鍵屋崎の足もとには食器が落ちて一面に味噌汁がぶちまけられている。鍵屋崎のそばにいた囚人がにやにやと笑ってる。
 一瞬で状況が理解できた。
 「わっりい、当たっちまった。わざとじゃねえんだけどよー」
 思ったとおり、その囚人はへらへら笑いながら言った。言葉とはうらはらに反省してる様子はこれっぽっちもない。絶対100%確実にわざとの確信犯だ。
 「もったいねえから四つん這いになって舐めたらどうだ?犬畜生にも劣る親殺しにはお似合いの格好だろうが」
 呆然と立ち尽くした鍵屋崎の前を声高に笑いながら通り過ぎ、仲間が陣取っているテーブルへと向かう。真ん中の席に腰を落ち着けた囚人を左右の仲間が「よくやったな!」と肩を叩いてねぎらう。
 「あちゃー。インケンですねえ」
 「避ければいいんだよ」
 眉をひそめたビバリーの方は向かず、冷めた声で呟く。
 「ほんとうトロいんだから、日本人は」
 鍵屋崎はなにも反論しなかった。
 わざとぶつかってきた男を追おうともせず、ただ黙って通路の真ん中に立ち尽くしていたが、疲れたようにため息をついてサムライと二言三言交わす。声が小さすぎてこの距離からでは何を話してるか聞き取れないけど、たった数日でまあずいぶんと仲良くなったものだ。
 と、鍵屋崎のところにだれかが足早に近づいてきた。小柄で痩せた囚人だ。その囚人は鍵屋崎と顔見知りらしく、床にぶちまけられた味噌汁と彼の顔とを見比べながらおどおどとなにかを申し出る。鍵屋崎が躊躇してあたりを見回す。サムライをさがしてるんだ。僕もサムライをさがして視線を巡らす。
 いた。
 サムライの姿はカウンターにあった。給仕の看守に何事か話しかけ、雑巾を受け取って会釈する。サムライがなにをしようとしてるか察しがついた。おおかた、鍵屋崎が床にこぼした味噌汁の後始末をする気なんだろう。
 律儀なサムライ。
 そうとは知らず鍵屋崎は、痩せた囚人と一緒に通路を歩み去ってゆく。
 「トモダチっすかねえ」
 「鍵屋崎の?物好きだね」
 「どっちが?」
 「両方」
 鍵屋崎は絶対に友人に欲しくないタイプだし、鍵屋崎と一緒に歩いてる囚人にしてもとても友人が多そうなタイプには見えない。刑務所内で孤立してる囚人の間に妙な連帯感が芽生えたという可能性も捨てきれないけど。
 なんとなく目で追ってた僕の視線の先で、鍵屋崎とその友人(?)は空いてる席に座った。ふたり、ぼそぼそと会話しながら箸を手にとり食事をはじめる。
 「あっ、リョウさん空きましたよ!」
 鍵屋崎の口元に注目してた僕の袖を引っぱって注意を促すビバリー。はやばやと食事を終えた囚人がふたり席を立ち、カウンターへとトレイを返却しにいく。しめた。急いで空いた席に座る。立ったまま食事をとらずに済んでほっとした僕の隣、ビバリーが小手をかざして叫ぶ。
 「おお、拭いてる拭いてる」 
 通路にしゃがみこんでもぞもぞと動いてる長身痩躯―サムライだ。鍵屋崎がこぼした味噌汁をきびきびした動作で拭き取っている。
 「こぼれた味噌汁とか牛乳とか放っとけないタチなんでしょうねえ」
 「イカレてるよ日本人」
 感動に打たれたように箸を握り締めて放心するビバリーに、率直な感想を述べる。箸を握り締めて食器を手に取る。外にいた時はトーストにスクランブルエッグ、それに紅茶のイングリッシュブレックファーストに慣れてたからいまだに箸の扱いに慣れない。不器用につまんだご飯を一口なげこみ、もぞもぞと顎を動かす。こんがり焼いたシナモントーストが恋しいなあ。
 「あ、そうだ」
 ご飯を半分ほど食べたところでふと思いつき、ビバリーを見る。
 「あとでお願いしたいことがあるんだけど、ビバリー」
 「オネガイ?」
 僕と同様、不器用に焼き魚を開いて骨をとりのぞいていたビバリーがものすごく嫌な顔をする。
 「僕、注射器なんて持ったことないから動脈と静脈間違えちゃうかもしれませんよ」
 「だれがきみにクスリ打ってほしいなんて言ったのさ、自分でやるよ」
 「え?ついにヤクが末端神経に回って指先の震えが止まらなくなったんじゃないスか、リョウさん」
 「ちがくて」
 箸を握り締めたままビバリーの方に身を乗り出し、そっと耳元でささやく。
 『きみのハッキング能力を信用して頼みたいことがあるの。あとで東京プリズンの個人情報データ―ベースにしのびこんでくれない?』
 『は!?犯罪っスよ!』
 仰天したビバリーに「なにをいまさら」と苦笑いする。
 『いまさらひとつふたつ犯罪歴ついたところでどうってことないでしょ。それに僕知ってるんだよ、檻の中にぶちこまれた今でも暇さえあればきみがパソコンいじってること』
 『……バレてたんすか?』
 『夜中に隠れてこそこそやってりゃ嫌でも目につくよ』
 気の毒なほど青ざめたビバリーに両手をすりあわせ、かわいくお願いする。
 『please!同房のよしみで、相方を助けると思ってさ。ね?』
 ビバリーはまじまじと僕を見つめていたけど、やがて周囲の耳目を推し量るように落ち着きなさげにあたりを見回し、声を低めて探りを入れてくる。
 『なにを企んでるんスか、リョウさん』
 『僕は北のスパイだよ』
 察しの悪いビバリーの鼻の頭を箸でちょんとつつき、笑う。
 『標的とその関連人物の情報収集はスパイのお約束でしょう』
 自分がなにをさせられるか悟ったビバリーが反駁しかけたが、翻意させようと手を尽くすだけ無駄だと諦観の境地に達したのだろう。賢い。ふるふると首を振りつつ箸を握りなおし、気乗りしない様子で焼き魚を口に運ぶビバリー。と、ビバリーの頭の向こうで鍵屋崎が席を立った。例の囚人をひとり残してテーブルを去った鍵屋崎は足早に通路を抜け、食堂をでていこうとする。
 やばい。
 鍵屋崎の姿を人ごみに見失う前に一気にご飯をかっこみ、味噌汁を飲み干す。からになった食器を叩きつけるようにトレイに置き、テーブルを平手で叩いて立ち上がる。
 「ごちそうさま、あとよろしくビバリー!」
 「よろしくって……自分で片付けてくださいよ!?」
 トレイを放置して通路を走り出した僕の背にビバリーの声がかかったけど、足を速めて無視。ビバリーはあれで気のいい奴だから僕のぶんまでトレイを返しといてくれるだろう。それで強制労働に遅刻したらちょっとかわいそうだけど。
 フェラで許してくれるかな?だめか、ノーマルだもんね。
 食堂をでたところで鍵屋崎に追いついた。食堂をでる際、レイジに呼び止められて時間が稼げたらしい。さいわい周囲に人影はない。なぜか怒ったような顔をした鍵屋崎の背後に歩み寄り、唐突に声をかける。
 「君って二種類しか表情ないね」
 鍵屋崎が振り返る。眉間には不可解な皺が刻まれている。
 その憮然とした表情を眺めていると、素朴な疑問をぶつけずにはいられない。
 「怒ってるか無表情か、そのどっちかだ。喜怒哀楽の喜と哀と楽はどこにいっちゃったわけ?」
 「顔をどけろ。僕はこれからバス停にいくんだ」
 顔を突き出した僕を邪険に振り払い、地下駐車場へ向かおうとする鍵屋崎。つれないなあ。すれちがう間際、鍵屋崎の片腕を掴み、人目を避けて廊下の死角に連れこむ。
 不愉快そうに顔をしかめた鍵屋崎が口を開くよりはやくポケットを探り、彼の手に眼鏡を預ける。
 「はい、あがり」
 手に握らされた眼鏡に鍵屋崎が驚く。なんだか新鮮な反応だ。おそるおそる眼鏡をかけた鍵屋崎が、ちゃんと焦点のあった目で正面の僕を見る。
 「どう?」
 「すごいな」
 本当に感心してるらしく、声には素直な響きがあった。
 それはよかった。でも、僕だってタダで眼鏡を直したわけじゃない。見返りがなきゃね。
 「で、そっちのほうは進んでるかな?」
 「なに?」
 「とぼけないでよ、眼鏡と引き換える代金のことだよ」
 一瞬の間があった。
 「……いや。まだ何も進んでない」
 「あっちゃー」
 そんなこったろうと思ったけどね。
 額を叩いて廊下の壁にもたれる。食堂をでるときレイジと話してたからなにか進展あったかなと期待して追ってきたのに、とんだ骨折り損だ。がっくりした。自然、口調も恨みがましくなる。
 「僕言ったよね?眼鏡を直す代わりにレイジの弱味を探ってきてって、しっかりちゃっかり頼んだよね」
 「仕方ないだろ、僕とレイジはとくに親しい間柄じゃない。入所初日に彼の気まぐれでからかわれただけの希薄な関係だ。そんな人間相手にどうやって弱味を掴めばいいんだ?」
 「そこは頭の使いようっしょ。メガネが戻ったメガネくん、君頭がいいんだから何かいい案考えてよ」
 「僕の頭はそんなくだらないことに使うためにあるわけじゃない」
 堂堂巡り。
 さすがにむかついてきた。なんだよ、僕は鍵屋崎の交換条件とやらを呑んで速攻眼鏡をなおしてあげたのに肝心の鍵屋崎はまだなにも情報を掴んでないという。にも関わらず、こんなでかい口を叩く。
 何様?ファッキンジャップのくせに。 
 大股に鍵屋崎に歩み寄り、試すように目を細めて可愛げないツラを見上げる。 
 「メガネくん、君が今やろうとしてるのはおいしいとこどりのヤリ逃げと一緒だよ。僕は約束どおり速攻メガネを直してあげたのに、肝心の君はまだなんにもやってないって言う。レイジの弱味を掴むどころか、レイジと接触してもないって言う。なにそれ?君、ハナから料金ごまかしてトンズラするつもりだったわけ」
 「そうは言ってないが、」
 「ダメだよそんなの」
 先回りしてきっぱり断言する。
 「東京プリズンではそんなの効かない。いいかい、これは取引なんだ。一度取引の制約を破った者がどうなるか、知りたい?」
 「………どうなるんだ?」
 慎重に聞き返した鍵屋崎にイタズラ心を刺激され、笑いながら言う。
 「そのメガネ、裏っ返してよ~く見てごらん。弦に超小型爆弾が仕込まれてるの気付いた?」
 「!」
 はじかれるように眼鏡をはずした鍵屋崎が、爆弾を解除する専門家の手つきでフレームをいじくりだす。 
 「うっそー」
 鍵屋崎が硬直した。
 「……メガネのレンズに埃が付着していた」
 ポーカーフェイスを装い、囚人服の裾でレンズを拭う。苦しい、苦しすぎその言い訳。笑いを噛み殺すのに苦労しながら、続ける。
 「まあ今のは冗談だけど。僕には囚人・看守問わず何人かのパトロンがいてね、僕のおねがいならなんでも聞いてくれるんだ。メガネくんに裏切られた~って目薬さして泣きつけば、僕にぞっこんホレてる彼らがどんな極端な行動にでるかわからないよ?」
 「恐喝か」
 「脅迫とも言うね」
 壁から背を起こし、スキップしながら鍵屋崎の前を通り過ぎる。
 「期限はあと四日。四日後までにレイジの弱点を掴んできて」
 そう、四日。あと四日までにレイジの弱味を掴んでサーシャに報告しなきゃ、僕はおいしいご褒美にありつけない。
 メガネくんの視線を背中に感じながら、鼻歌まじりにスキップを踏む。
 とはいえ、鍵屋崎ひとりに任せておくのは不安だ。
 サーシャじゃないけれど、念には念をいれておく必要がある。
 そこで登場するのが僕の心強い味方、天才ハッカーのビバリーくんだ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060504012036 | 編集

 「で、君がベッドの下に隠してるそのデカブツはどっからかっぱらってきたわけ」
 「人聞き悪いこと言わないでくださいス、フェアプレイで手に入れたんス」
 ふざけ半分で聞いた僕に、ビバリーが毅然と胸を張る。ひどく真剣な瞳でディスプレイの初期画面を立ち上げながら指を動かす。いちいちキーを確認したりはしない、奇跡の早業のブラインドタッチ。
 「フェアプレイ?看守と寝たんじゃないの」
 「リョウさんは下品なことしか考えないんスね」
 あきれたような僕らしいとでも言うような嘆かわしげな表情でビバリーがかぶりを振り、手の速度を速める。
 「これはれっきとした取引っす。えーと、たとえばですよ。東京プリズンにヤキモチ焼きの看守がいたとします。その看守が奥さんの浮気を疑ってるとします」
 「ふむふむ」
 「奥さんの浮気を疑った看守が浮気現場の証拠を掴もうとある囚人に泣きついたとします」
 「その内容は?」
 「監視カメラっすよ。いや、盗撮カメラが正しいかな」
 青白く発光するディスプレイを上下に流れてゆく数字の羅列を眺めながら、ビバリーがにやりと笑う。
 「市販の防犯カメラじゃ盗撮には不都合なんすよね、耳の感度がいい人の中にはカメラの作動音を聞き分けちゃう人もいるし解像度も悪い。だからその囚人は特別に看守の頼みを聞いてやったわけです。ちょくっと回線をいじくって解像度を上げて、ね」
 「やっるー」
 「いやあ、それほどでも」
 ひゅうと口笛を吹いてやる。頭をかきながら照れ笑いするビバリー。いちおう実名は伏せていてもコロリと変わった態度だけでだれのことを言ってるかはお見通しってね。
 「で、このパソコンはそん時の戦利品ってわけっス」
 鼻高々に言いきり、かちゃかちゃとキーを押しこむ。パソコンからかん高い音が鳴る。エラー音かといぶかしんだが、違った。ハッキング終了の合図らしい。
 「さて、リョウさんはだれのデータを覗き見したいんスか?」
 最初こそ嫌なふりをしてみせたけど、その実久々のハッキングで興奮しているらしく、嬉嬉とした様子で指を鳴らすビバリー。その右肩に顎をのせて淡く発光するディスプレイを覗きこみ、頭の中で優先順位をおさらいする。
 「トップはサーシャだ」
 敵を知る前に味方から。常識だ。最も僕がサーシャを味方と思ったことは一度もないけど。ディスプレイの光に顔を青く染め、ビバリーが頷く。
 「了解」
 ビバリーの対応は迅速だった。
 魔法使いは杖の一振りで奇跡を起こすけど、ビバリーに杖なんていらない。指一本で十分だ。
 「でた」
 ビバリーが短く呟く。それに応じて画面に表示されたのは、東京プリズンのデータベースに厳重に保管されている囚人のデータ。個人のプライバシーに関わる事柄のため上層部の人間しか閲覧不可となっているが、そんなことは関係ない。自分の保身のために使えるモノならなんでも利用する、それが終始一貫した僕のスタンス。たとえそれが同房のビバリーだって変わらない。
 画面に表示されたデータを声にだして読み上げる。
 「囚人番号11923、サーシャ。年齢18歳、血液型O。生年月日2065年12月30日。ロシア出身。ロシアンマフィアの重鎮の愛人の子として生まれ表向きの幼少期をモスクワのサーカスで過ごすが、その裏では父に命じられ敵対組織の要人の暗殺をこなす。ロシアンマフィアの勢力圏を広げようと画策した父により14歳で日本に送りこまれ、組織拡張の障害となる広域指定暴力団の要人を八名殺害。東京プリズン送致が決定する。罪状・殺人、暴行、傷害致死、その他諸々。懲役30年」
 「ナイフの扱いはサーカス仕込みっすか」
 「だろうね」
 ディスプレイの右上に表示されているのはサーシャの顔写真。むっつり不機嫌そうに黙りこんでこちらを睨みついているその顔は屍蝋のようにあおざめてこそいるが、いまほど痩せこけてはいない。この頃はまだ覚醒剤中毒の初期段階でそんなにヤク中が進行してなかったのだろう。つまりまだ、心がけ次第でヤクから足を洗って真人間に後戻りできた頃だ。今じゃ手遅れ、お気の毒さま。
 「次、レイジと同じ房のムジナ、ロン」
 「合点」
 かちゃかちゃとキーの鳴る音だけが無機質に響き、画面が切り替わる。
 画面右上に表示されているのはロンの仏頂面。逮捕直後に撮られたのだろう、半袖シャツからつきでた手足の至る所に擦り傷が生じている。
 「囚人番号11960、ロン。年齢13歳、血液型B。生年月日2070年6月15日、豊島区池袋台湾系スラム出身。台湾人の母親と母子家庭で育つ。父親は中国人だがロンの生後間もなく失踪、以降音沙汰なし。物心ついた時から親子仲は険悪でアルコール依存症で情緒不安定な母からたびたび虐待を受けてきたが、11歳の時母親の情夫を刺して家を出、池袋を中心に十代の少年たちで構成される武闘派チーム『月天心』に所属。対立チームとの抗争に明け暮れる日々を送るが、投擲した手榴弾により敵チームの構成員八名が死傷。うち三名が即死、二名が脊髄と腰椎を損傷する重傷、残り三名が軽傷を負い東京プリズン送致が決定する。罪状・傷害致死。懲役18年」
 「手榴弾すかー。ハデにやりましたね」
 口笛を吹くかたちに唇をすぼめ、ビバリーが呑気に感心する。ビバリーの肩によりかかった姿勢でロンのデータを読みながら、少し得意げにマメ知識を披露する。
 「最近は第二次ベト戦の横流し品が大量に流出してるからねー。しかも不良品。一歩まちがえば爆発にまきこまれて自分自身までボン!さ」
 実際手榴弾を手に入れること自体はそうむずかしいことじゃない。治安の悪いスラムには米軍の横流し品が大量に出回ってるのが現状だ。日本政府は日本人にさえ危害が及ばなければいいやと放任主義をきめこんでるからスラムの治安は一向に改善されず、手榴弾ほか危険物の取り締まりはお世辞にも徹底してるとはいえず、ぶっちゃけ野放しでスルーの状態だ。
 結局この国は日本人「だけ」がかわいいんだね。むかつく。
 たとえ日本で生まれ育ってようが僕みたいな赤毛のガキやロンみたいな台中混血児はやつらの眼中にない、日本人じゃないからだ。かってに日本にきてかってに繁殖して増殖した連中で殺し合おうがなにしようが善良な日本人に危害が及ばなければそれでいいと、凶悪犯罪を犯したガキどもを片っ端から東京プリズンにぶちこんでるのがいい証拠じゃないか。
 ま、そんな個人の感情はおいといて、と。
 「お次はサムライ」
 「レイジさんじゃないんすか?」
 キーに手をおいたまま、怪訝な顔で振り返るビバリー。ちっちっちっと舌打ちし、リズミカルに指を振る僕。
 「あせんないでよ、時間はたっぷりあるんだ。せっかく東京プリズンデータベースにアクセスしたことだし、謎に包まれたサムライの実体を暴いてもバチはあたんないでしょう。それに」
 「それに?」
 「東棟でレイジと対等に渡り合えるのはサムライだけだ」
 半歩膝を進め、ビバリーに近寄る。おもわせぶりにビバリーの顔を覗きこみ、続ける。
 「ロンは―…アイツは対等というより、レイジに気に入られて遊ばれてるから別格として。レイジと互角に渡り合える数少ない人間なんだ、いざって時のために弱味のひとつやふたつ掴んでおいて損はないでしょう」
 「脱線してますよリョウさん」
 いやそうに顔をしかめたビバリーに両手を打ち合わせておねがいする。
 「おねがいビバリー!このとおり!」
 自分でも脱線してる自覚はあるけど東京プリズンのデータベースにアクセスできるなんてまたとない機会だし、この機を逃したらサムライの秘密なんて一生知ることができない気がする。ちょっとくらい欲をだしたっていいよね。
 「しかたないっすね……」
 90度方向転換し、しぶしぶパソコンに向き直るビバリー。やった、なんだかんだ言いつつ甘いんだから。死角でこっそりとほくそ笑み、ビバリーの肩越しにディスプレイを覗きこむ。目にもとまらない速度でキーを操っていた指が、突然動きを止める。
 「どうしたのビバリー?」 
 「リョウさん」
 くるりと振り返ったビバリーの眉間に難解な皺が刻まれている。
 「サムライさんの本名、なんでしたっけ?」
 「………………さあ」
 ビバリーが長く長く息を吐く。
 「勘弁してくださいよ、本名わかんなきゃ個人ファイルにアクセスできないじゃないスか」
 「あ」 
 忘れてた。
 脱力したビバリーに愛想笑いを浮かべ、微妙な沈黙をとりなす。
 「ま、まあいいさ!次、次いこう!」
 結局サムライの本名は謎のまんまか、ちぇ。期待はずれに終わって内心舌打ちしつつ、ぐったり気落ちしたビバリーの背中を叩いて次を促す。うんざりとかぶりを振りつつパソコンと向き合い手をおどらせるビバリー、その耳朶に吐息をふきかける。
 「次は鍵屋崎」
 「鍵屋崎っスか?」
 またまた理解不能と目を見張ったビバリーの肩に甘えるように腕をもたせかけ、斜め四十五度の角度を計算して小首を傾げる。
 「スパイのスパイの身上調査。他意はないよ」
 「どこまで本気でどこまで興味本位なんだか……」
 ビバリーの指摘はあたってる。鍵屋崎とサムライに関しては、スパイの職務より個人の興味が先行してるのは否定できない。だって気になるじゃないか、鍵屋崎とサムライは生粋の日本人、ぼくらと違ってちゃんと国籍を所持してる日本に認められた日本人だ。それなのになぜ好き好んで犯罪を犯してこんな砂漠のど真ん中にある刑務所にぶちこまれたのか、その理由がどうしても知りたい。
 まあ、本人だけしか知らない出生の秘密や隠された過去やらを知って優越感に浸りたいってのもあるけど。
 「カギヤザキ ナオ、カギヤザキ ナオ……あれ?何度やってもエラーになっちゃいますよ」
 「なんで?」
 「さあ……」
 本気で困惑した様子のビバリーの耳元でアドバイスする。
 「苗字だけで検索してみたら?」
 「あ、でました!」
 快哉を叫んだビバリーの隣に強引に割りこみ、食い入るようにディスプレイにかぶりついて文面を読み上げる。
 「囚人番号12321、鍵屋崎直。年齢15歳、血液型AB、生年月日2068年11月15日、世田谷区成城出身。父親は東京大学の名誉教授で遺伝子工学の権威でもある鍵屋崎 優(まさる)、母親はコロンビア大学を首席で卒業した才媛・鍵屋崎(旧姓・相楽)由佳利。両親ともに遺伝子工学の分野で数々の業績を成しえたエリート中のエリート。夫妻の長男として生まれた直も例外ではなく、四歳の時の知能検査でIQ180という非常に高い数値を記録。幼少期から父の手による高度な英才教育を施され、非公式の助手として両親の研究を手伝ってきた。しかし十五歳の六月、自宅にて両親を刺殺。動機については完全黙秘したため、東京プリズン送致が決定する。罪状尊属殺人。懲役……」
 「80年!?うわ、重いっスね」
 ビバリーが絶句する。たしかに重い。たとえ両親といえど、ふたりの人間を殺したくらいの罪じゃせいぜい懲役15年から20年前後が相場だ。鍵屋崎の80年は例外中の例外といえる。でも……
 「パパとママを殺したんだもん。それくらいは当然っしょ」
 冷たく取り澄ました鍵屋崎の顔写真に向け、苦々しく吐き捨てる。自分のパパとママをぐさりと殺っちゃうような狂人は80年といわず死ぬまで一生檻の中に閉じこめとくに限る。ビバリーが軽くキーを押し、添付ファイルを開く。新たな窓が開く。
 ディスプレイの中央に現れたのは一枚の画像データ、大きくとりこまれた写真。
 写真に写っているのはパリッとスーツを着こなした紳士然とした中年男性、その隣には目尻に神経質そうな小皺が寄った、どこかヒステリーな印象を与える顔だちの中年女性。中年男女に挟まれて立っている聡明そうな顔だちの少年は、今より少しあどけない鍵屋崎。
 鍵屋崎の隣にいるのは……
 「眼鏡より大事にしてる妹、か」
 鍵屋崎の隣に寄りそうように立っているのは、簡素なワンピース姿の女の子。これといって特徴のない平凡な顔だちだが、虐待された兎のようにいたいけに怯えた目が印象的だ。おさげに結んだ髪を肩にたらし、どこかびくついた様子でこちらを窺い見ている。
 「兄妹なのに似てないね」
 「鍵屋崎はだれとも似てないっスよ」
 たしかに家族のだれとも似てない。これなら安田と鍵屋崎のがよっぽどよく似てる。じっくりと家族写真を見つめ、素朴な感想を抱く。
 「イヤミな一家だねえ」
 「そうっすねえ。典型的日本人家庭ってかんじ?父親も母親も超のつくエリートで本人も天才児で高級住宅街に住んで……なにが不満だったんでしょうね」
 鍵屋崎は幸せだったはずだ。
 飢えることもなく寒さに震えることもなく、社会的にも認知された立派な両親に庇護されてエリート中のエリートとしての出世街道を約束されてたのに、何が不満で殺人なんて物騒な真似を?わけがわからない。最も、ヘンタイの考えてることなんて知りたくないけどネ。
 ただ、これは僕の感想だけど。
 最初にこの写真を見たとき、妙な違和感をおぼえたんだ。異物がまぎれこんでるみたいな、そんな感じ。じっくりと写真の隅々まで見渡して、ようやくその違和感の原因をつきとめた。
 妹だ。
 鍵屋崎の妹―データによると恵という名前らしいーは、おどおどした目つきでこちらを窺っている。両親と兄が高圧的な無表情でカメラを見つめているのに、彼女だけが自分の存在を詫びるようにうなだれて写っている。
 これはただの勘だけど。鍵屋崎がパパとママを殺した背景には妹の存在が関わってるんじゃないかな。
 さておき、これだけは言える。
 「僕のママのほうが美人だ」
 「はいはい」
 鍵屋崎のママの顔を見つめて得意げに断言した僕におざなりに応じ、画面をスクロールさせるビバリー。ついでとばかり、囚人ナンバーが鍵屋崎と連番になるふたりのデータを呼び出す。
 鍵屋崎の前、囚人番号12320は見覚えのある顔。昨日、食堂で鍵屋崎に話しかけていたあの囚人。
 「囚人番号12320、リュウホウ。年齢14歳、血液型A、生年月日2069年1月3日、豊島区中国系スラム出身。典型的崩壊家庭に育つ。両親ともに重度の覚醒剤中毒で幼い頃からたびたび息子に暴力をふるっていた。9歳のとき最初の放火事件を起こして警察に補導されるが、その時は未遂ですんだため釈放。だがこの一年後にふたたび放火事件を起こしアパート一軒を全焼させ、五名の死傷者をだす。以後犯行はエスカレート、わずか四年の間に八十件の放火事件を起こし逮捕される。なお犯行の背景には両親の虐待によるストレスの蓄積、自分を注目してほしいという過度の欲求が潜在していたものと見られる」
 「だろうね。殺しなんて犯すタマには見えなかったし……腰抜けでも簡単にできる犯罪、それが放火。腕力に自信がない青白い奴でもパッとマッチを擦って火をつければOK、あとは風任せ炎任せで火がめらめら燃え広がってくとこ見物してればいい。知ってる?放火ってのはね、自分を見てほしい、こっちを振り向いてほしいって願望の現われなんだ。炎が燃えれば燃えるほど注目度は上がる、パパやママその他大勢の人たちが自分の存在に気付いてくれる、承認してくれる。おおかたこのリュウホウって奴はだれもかれもから無視されて寂しい人生送ってきたんだろうね」
 「おっと、コイツも日本人だ」
 「どれ?」
 ビバリーの肩を掴み、身を乗り出す。
 「囚人番号12319、石動ダイスケ。年齢16歳、血液型B、生年月日2067年8月8日、練馬区出身。罪状強盗傷害十三件、強盗殺人二件。懲役二十年……うおっと」
 データを流し見て、ビバリーが大袈裟にのけぞる。嫌悪に顔をしかめたビバリーの横ですっと目を細め、呟く。
 「へえ、コイツ『モンスター』なんだ」
 「『モンスター』っすね。きっと殺されますよ」
 「またブラックワークの仕事が増えるね」
 しみじみと言葉を交わしていた僕らの背後でコンコンとノック音が響く。ビバリーに目配せし、素早く腰を上げる。ビバリーがベッド下にパソコンをしまうのを目の端で確認し、ぱたぱたと扉に駆け寄る。くそ、いいところだったのにだれだよ。不満渦巻く胸中などおくびにも出さず、愛嬌満点の笑顔で扉を開ける。
 「は~い」
 愛想よいかけ声とともに扉を開けた僕は、廊下に立っていた人物に目をまるくする。
 今さっき見た写真とおなじ、いや、あの写真より大人びた眼鏡の少年がそこにいた。
 鍵屋崎だ。
 「よく僕の房がわかったね。サムライに聞いたの?」
 「それ以外にどんな情報入手手段がある」
 ―どうしてこう日本人ってこうむかつくのかなあ、あはは。
 当たり前のことを聞くなといわんばかりに僕の房に踏みこむ鍵屋崎をよそに扉を閉じる。背後に気配を感じて振り返ると、鍵屋崎がじっと僕のベッドの上のテディベアを凝視していた。
 視線で汚れるから、鍵屋崎に見られたくない。
 鍵屋崎の視線からテディベアを隠そうと駆け出した僕の耳に、明朗快活な挨拶が響く。
 「HEY,welcome!」
 両手を広げて鍵屋崎に歩み寄ったビバリーが奴の手をとり握手しようとしたが、事前に回避される。反射神経は鈍いくせにこんな時ばっか異常に素早い。
 「なるほど……潔癖症ってのはマジだったんスね!」
 「ビバリー、新人くんをあんまりからかわないでよ。君のテンションについてける囚人なんて同房の僕くらいだよ?」
 わざとらしく感激するビバリーにあきれる。
 「からかうなんて人聞き悪いっス、ただ僕はフレンドリーな外人のフリしてコトの真相を確かめてみただけっス!新入りの鍵屋崎はとにかく人にさわられるのを嫌がる、鍵屋崎を剥こうとした凱の手下なんて針金で目ん玉刺されて失明寸前までいったらしいとか、あることないこと噂が流布してるし……どこまで本当だか体を張って確かめてみただけっス、グレテイストでソウルフルなチャレンジ精神を褒めてくださいよ」
 「紹介が遅れたね。コイツ僕の同房の住人でビバリーっての」
 「ビバリー……本名か?」
 「違います!」
 ビバリーが鼻の穴をふくらませてあだ名の由来を語りだす。
 「僕のグランパは黒人ではじめてビバリ―ヒルズに豪邸を構えたアメリカンドリームの実現者なんっス!だから孫の僕もビバリーって呼ばれてるんス!」
 ビバリーの嘘八百に笑いの発作を起こす。よっく言うよ、このハッカーは。
 「コイツの言うコト本気にしないほうがいいよ。八割ガセだからさ」
 「ガセじゃないっす、本当っス!いくらリョウさんでもマイグランパとマイファミリーを馬鹿にしたら許さないっスよ!?」
 「はいはい、じゃあそういうことにしといてあげるよ」
 「マジで僕はビバリ―ヒルズ出身なんです、ビバリ―ヒルズの実家ではかわいい妹のロザンナが僕の帰りを待ってるんス!兄の出所の日を待ち望んで僕の好物のママレードパイを焼いてるロザンナの姿が目に浮かびます……」
 なーにがロザンナだ。さっき聞いたけど、ロザンナってのはビバリーがマイパソコンにつけてる名前じゃないか。パソコンに愛称つけるのもどうかしてると思うけどさ。
 「彼はクスリをやっているのか?」
 「あれがノーマルなテンションだよ。脳内麻薬を生成できるからわざわざクスリを打つ必要ないのさ」
 鍵屋崎の問いに答え、小首を傾げて切り出す。
 「そろそろ用件を聞こうか。なんで僕の房に来たの?」
 自分のベッドに腰掛け、鍵屋崎と向き合う。「となりに座れ」とすすめなかったのは鍵屋崎に対するささやかなる意趣返し、不快感の表明ってやつ。僕のいやがらせが通じてるのかいないのか、傍目にはわからないポーカーフェイスで鍵屋崎が口を開く。
 「僕が別段親しくもない君の房を訊ねる目的など一つしかない。君に命じられた件を処理しにきたんだ」
 「へえ」
 驚く。もうレイジの弱味を掴んだっていうの、この眼鏡は。食堂前の廊下で言い含めてからまだ一日っきゃたってないのに、意外と使えるじゃん。
 少しだけ鍵屋崎を見直し、わくわくしながら身を乗り出す。
 「それなら話は早い。レイジの弱点て、なに」
 「レイジの弱点は……」
 鍵屋崎がおもわせぶりに言葉を切る。続く展開を期待して、ぐっと身を乗り出した僕は危うくこけそうになった。
 「ロンだ」
 「…………………………は?」
 前言撤回。
 やっぱ鍵屋崎はバカだ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060503012142 | 編集

 「……今ロンって言った?」
 鍵屋崎はしれっと言う。
 「言ったが」
 「それ、レイジと同房のロンのこと?」
 「東京プリズンに他のロンがいるかどうかは知らないが、僕が面識のあるロンはレイジと同房の彼だけだな。よくある名前なのは確かだが、レイジの会話中にでてきたロンはまず彼と確定していいだろう」
 まてまて、どうしてそういうしょっぱいオチになる。 
 仮にも東棟の王様の弱点が同房の相方でしかも男だなんてちょっとしょっぱすぎないかいこの展開はねえ。
 こめかみを指でおさえて考えをまとめてから、猫なで声で先を促す。
 「……えーとメガネくん、イチから説明してほしいんだけど。一体なにをどうしてどんな根拠があってロンがレイジの弱点だって結論に辿り着いたのかな?僕、まったく意味不明なんだけど」
 「レイジ本人がそう言っていた」
 徹底的に無駄を省いた簡潔な答え。
 「…………レイジに聞いたんだ?」
 「聞いたが、なにか不都合でもあるのか?」
 おおありだよこのバカ。
 「あのさメガネくん。僕言ったよね、『レイジの弱味を探ってきてくれ』って。君がしたことは秘密裏に『探った』んじゃなくて直接『聞いてきた』だけでしょ?」
 「過程はちがうが結論は同じだ。僕は結果論を重視する」
 「過程が大事なんだよ」
 ああもう処置なしだ、これからどうしよう。ぐったり頭を抱えこんだ僕はこの頭でっかちで理屈屋の日本人をどう説得したものかと思案する。 
 「君に頼んだのが失敗だったよ。てゆーかメガネくん、そのメガネ伊達じゃないの?頭いいふりしてるだけじゃないのホントは。ホントに頭いいならそのへんの呼吸わかるっしょ、暗黙の了解ってゆーかお約束ってゆーかさ。なんで本人前にして直接聞くのさ。もう全部おしまい、君が余計なことしてくれたせいでなにもかもおしまい。ジ・エンド。へたしたらレイジにスパイの存在勘付かれたかもしれないし……」
 「スパイ?」
 「こっちのこと」
 やばい、口を滑らせた。まあいい、鍵屋崎にはなんのことかわからないだろう。軽く手を振ってごまかした僕は、哀れっぽい顔で向かいのベッドを仰ぐ。
 「ビバリーなんとかしてよ、僕このままじゃサーシャに殺されちゃう」
 「僕は関係ないっすよ、てめえのケツぐらいてめえで拭いてくださいリョウさん」
 向かいのベッドに腰掛けたビバリーは自業自得だといわんばかりの様子で僕を眺めている。恨むよビバリー。サーシャのナイフで切り裂かれて中庭に撒かれてカラスの餌にされる自分を思い浮かべて気分が悪くなった僕を眼鏡の奥で冷たく光る目でしげしげと観察していた鍵屋崎だが、ふいに興味を失ったように目を細める。
 「―僕は言われたことを果たしにきただけだ。やることは済ませたしもう君とは関係ないだろう、帰らせてもらう」
 用は済んだとあっさり踵を返した鍵屋崎が鉄扉へと向かいかける。無防備に背中をさらす格好になった鍵屋崎を眺めていると目の前が赤く染まるような怒りにかられ、理性が吹っ飛ぶ。
 コイツが余計なことをしてくれたせいで、レイジにスパイの存在が悟られたかもしれない。野性的なまでに勘の鋭いレイジのことだ、鍵屋崎を裏で操ってるのが僕だとすでに見当をつけているのかもしれない。今後レイジが僕と鍵屋崎を警戒して動くようになれば、僕はサーシャから命じられた目的を果たせず北の皇帝から見捨てられる。だけではなく、冷酷無慈悲な氷の皇帝として恐れられるサーシャにどんなひどい目にあわされるかわかったもんじゃない。
 それもこれも全部目の前のメガネのせいだ。
 そしてその馬鹿メガネは絶体絶命ピンチの僕をおいて、ひとりで勝手に房を出て行こうとしている。
 頭きた。
 「帰さない」 
 ポケットに片手をつっこみ針金の感触をたしかめる。針金の下方を握り、振り上げる。異変を察した鍵屋崎が振り向くより早く、その首の後ろに針金の切っ先をつきつける。
 鍵屋崎は動かなかった。少しでも身動ぎしたら針金の鋭い先端が皮膚を突き破り血が流れると、憎たらしいほど冷静に予想していたのだろう。背後からでは表情の窺えない鍵屋崎に、憎々しげに愚痴をこぼす。
 「まったく……君が余計なことしてくれたせいで僕までピンチじゃないか。レイジに警戒されてない新入りなら彼に近づくのはラクだろうなとか高をくくってたけど、君ときたら全然ダメ。役立たず。最低。君よりそこらを這いずりまわってるゴキブリのがよっぽど役に立つね、だってゴキブリはいざってときの非常食になるもん。それに比べてどう?君ときたら頭の中身がどんだけ優秀かしらないけど、東京プリズンじゃ人に尻拭いしてもらってばっかり、自分じゃなんにもできないお荷物で役立たずで無力で非力なモヤシじゃないか」
 まったく鍵屋崎ときたら僕が嫌いな、いや、囚人の大半が毛嫌いしている典型的日本人じゃないか。自分の身を守る術を持ち周囲に敵を作るほど自己主張をせずに物静かに暮らしてるサムライはべつとして、自分の身を守る術なんてなにひとつ身につけてないくせに平然とデカイ口を叩く。
 身の程知らずも甚だしい。弱肉強食がここの掟なのに、狩られる側にいる当の本人が全然恐怖を感じてないばかりか狩る側の囚人たちを見下してるなんてありえない。
 いっそ本当に刺してやろうか、という物騒な考えがちらりと脳裏をかすめる。
 それもいいだろう、こいつが生きてたところでだれも得をしない。損得の打算で動く僕みたいな人間には利用価値がない人間だと、さっき証明してみせたばかりじゃないか。
 リンチされて殺される前に、絶望して首を吊る前に、ここでひと思いに刺してやったほうが―
 「たしかに一理ある。ここでの僕は非力で無力、他人に助けられてばかりのゴキブリにも劣る存在だな」
 針金の先を進めようとしていた腕がびくりと止まり、はじかれたように顔を上げる。
 首を捻って振り向いた鍵屋崎が、じっと僕を見つめている。
 「非常に不愉快かつ不本意だが、君の言うことは正論だと認めるざるをえない。……一部だけな」
 首の皮膚に針金が食いこむのも構わず、痛覚が存在しない人間のように機械的に振り向いた鍵屋崎は完璧な無表情だった。
 ディスプレイに表示された写真とおなじ、いや、あれ以上の―
 「誤解されては困る。僕は尻拭いしてくれと彼らに泣きついたわけじゃない。傲慢に聞こえるかもしれないが、サムライもロンも彼らが一方的に僕を補佐しただけだ。僕はむしろそれを不愉快に感じている。僕だって東京プリズンに収監された時点でひと通りの覚悟はできている。他人に触られるのはたしかに不愉快だ、吐き気がするほどおぞましい。だからといっていつまでも避けていられるわけがない。……結論からいえば」
 こめかみを指さし、続ける。
 「僕はこの中身さえ無事なら、下半身不随の重傷を負ってもいいと思っている。レイプでもリンチでもしたければすればいい、頭の中身さえ致命的な損傷を負わなければ僕は別にかまわない」
 コイツは本気だ。
 目を見ればわかる。コイツは一言だって嘘を言ってない。本当に頭の中身「だけ」が大事で、脳味噌さえ無事ならあとがどうなろうがかまわないと思っているんだ。
 そんな人間いるか、普通。
 「……ば、かじゃないの」
 口元がひきつり、笑みに似たものを浮かべた。なにもおかしくない、むしろ恐怖してたのに、恐怖が臨界点を突破すると顔筋が痙攣して笑顔を作るもんなんだなあと頭の片隅の冷めた理性で妙に感心する。
 「レイプでもリンチでもしたけりゃ勝手にすればいいって、それ、誘ってるようにしか聞こえないんだけど」
 「誘ってるわけじゃない。諦めてるだけだ。針金をあと3ミリ右にずらせ。正確に頚動脈の上を狙うんだ。君の手元が狂ったせいで長く苦しむのはぞっとしないからな」
 「…………」
 か細い息を吐いて腕をおろしたとき、僕は疲れきっていた。
 「―冗談だよ、冗談。お茶目な悪ふざけ。この前のレイジを真似てみただけさ」
 イカレてる。まったく最高にイカレてるよ。東京プリズンじゃイカレてない奴なんてひとりもいないけど、その中でもかなりキてるね。
 針金をぽんと投げてお茶目な冗談にしようとした僕を、鍵屋崎は無言で見つめていた。上段に立って人を観察してるような、冷静沈着な科学者の目。
 「リョウさん、タチの悪いイタズラやめてくださいっス。この房はあんたひとりのもんじゃないんだから、血の海を雑巾がけさせられる同居人のことも考えてくださいっス!」
 隣のベッドで事の成り行きを見守っていたビバリーが、大袈裟に胸をおさえて抗議する。
 「ごめんごめん」
 「ごめんじゃ済まないっスよ、もう。頚動脈切ったら天井まで血が飛ぶんすから……あんなとこまで手が届きませんて」
 「あとでフェラしてあげるから許してビバリー」
 「お断りします、僕はノーマルなんっす!」
 その時だ、唐突に名案が閃いたのは。
 「メガネくん、悪いんだけどちょっと、ちょっと出てってくれる?」
 「何だ急に。用が済んだのなら僕はもう帰っていいだろう?」
 「STOP!すぐ終わるからそこで待ってて!!」
 訝しげに眉をひそめた鍵屋崎の背中を押して無理矢理に房の外へと追い出す。バタンと鉄扉を閉じて鍵屋崎の視界を隔てた僕は一散に房に駆け戻るや、自分のベッドの下に頭をつっこんで封筒とボールペンをとりだす。
 「うっひょー怖かったっスね、今の見ましたか?首に針金をつきつけられてるってのに瞬きひとつしないなんてたいしたタマですよ、アイツ。僕なんかちびっちゃいそうでした……て、なにしてるんスかリョウさん」
 「お手紙書くの」
 「白ヤギさんからお手紙着いた黒ヤギさんたら読まずに食べた~の、あのお手紙っスか?」
 「読まずに食べられちゃ困るね」
 無地の封筒を片手に、もう片手にインクが残り少なくなったボールペンを持ってにっこり笑う。 
 「その封筒、代議士のパトロンと文通するときに使ってるやつでしょ?いいんスか、無駄づかいして」
 「いーのいーの……あ、便箋きらしてるや。どうしよう」
 「だれに手紙書くか知りませんがトイレットペーパーでいいんじゃないすかね。ここには男っきゃいないんだし、ファンシー便箋が欲しいと駄々こねるような気色悪い奴はいないと思いますが」 
 なるほど、名案だ。トイレットペーパーをちぎり、ボールペンで文字を書き付け、綺麗に折って封筒の中にしまう。床に胡坐をかき、ポケットの底に忍ばせてある剃刀の刃をとりだす。廊下の角にひそんでた囚人に襲われたり、ヤってる最中、フラッシュバックに襲われた囚人が僕の首を締めたりした時の護身用に持ち歩いてる剃刀の刃だけどそれ以外でも役に立つとは思わなかった。封筒の内側に剃刀の刃を接着し、細工の跡が残らないよう注意する。
 準備完了。 
 封筒を手にした僕は、勢いよく扉を開ける。
 「メガネくん、ご苦労様。今回はレイジの弱味を掴んできてくれてありがとう」
 半ばまで廊下を去りかけてた鍵屋崎が虚をつかれたように振り向く。
 このヤロウ、あれほど待てって念を押したのにさっさと帰りかけてたな。
 「で、ついでなんだけど……これ、レイジの奴に渡してきてくんない?」
 警戒を抱かせない笑顔で鍵屋崎に歩み寄り、その胸に一通の封筒を押し付ける。
 「?なんで僕がそんなことをしなければならない」
 「いいじゃん、減るもんじゃないし。君の命の次に大事なメガネを直してあげたんだから刑務所内のメッセンジャーくらい引き受けてくれてもいいっしょ?」 
 「『命と妹の次に大事なメガネ』だ、正確には」
 口ではいやがりつつも、しぶしぶ手紙を受け取る。妹の次に大事なメガネを持ち出されると強くはでれないらしい。手紙を受け取って廊下を去ってゆく鍵屋崎を見届け、バタンと扉を閉ざす。
 房の中でひとり待っていたビバリーが、もう我慢できないとばかりに目を輝かせて食いついてくる。
 「リョウさん、なんだったんすかあの手紙?」
 「レイジへの果たし状。メガネくんにメッセンジャーを頼んだよ」
 「なんですって!?」
 ひっくりかえらんばかりのオーバーリアクションで驚愕したビバリーをよそに、すたすた歩いて自分のベッドに腰掛ける。
 「決闘日時は今夜。場所は中庭監視塔。送り主はサーシャ」
 「サーシャさんに許可もとらずに果たし状だなんて、そんな勝手な真似していいんすか?」
 怯えたビバリーを上目遣いに見上げ、枕元のテディベアをひょいと膝の上に乗せる。
 「僕がわざわざ果たし状なんて書かなくても、今夜あたりサーシャたちは襲撃しかけたはずさ。試合まであんまり日にちないしね、殺るなら今夜っきゃチャンスはない。僕はただ演出しただけさ、北の皇帝VS東棟の王様の決戦にふさわしい舞台ってやつを」
 テディベアの手を持ってふりまわしながらの説明にビバリーは釈然としない顔でだまりこんだが、一拍おき、おそるおそるといったかんじで身を乗り出す。
 「―それだけっスか?」
 「それだけじゃないけどねえ。あんまり多くを知っちゃうと君だって無関係ってわけにはいかなくなるよ、ビバリー」
 「やめときます」
 降参と両手を挙げたビバリーの前で、頭上にテディベアを抱き上げ、頬擦りする。ママの残り香が染み付いたテディベアに顔を埋め、ちょっとホームシックになる。
 「おっと、そうだ。メガネくんが邪魔に入ったせいで最後のひとりのデータを見逃してたね」
 「レイジさんっすね」
 テディベアを抱いたまま、膝這いで床を這いビバリーのベッドの下をのぞきこむ。ベッド下に頭をつっこんで埃をかぶったパソコンを引っ張りだしたビバリーがかちゃかちゃとキーをいじくりだす。ベッド下の薄暗がりで額をつきあわせ、青白く発光するディスプレイを食い入るように凝視していた僕とビバリーの前に、予想外のデータが表示される。 
 パッと画面が切り替わる。
 ディスプレイに現れたのは、今より少し髪の短いレイジの顔写真。現在は襟足で結んでいる髪をうなじにかかるかかからないかという長さで流している。推定年齢は14歳か15歳。精巧なガラス玉を彷彿とさせる色素の薄い瞳、しなやかな猫科の獣のように男女問わず魅了するエキゾチックな容姿。耳のピアスの数は今と変わってない。
 ところが。
 レイジのファイルにアクセスした途端、間断なく響きだしたエラー音。
 「なんじゃこりゃあ!?」
 泡を食ったビバリーが両手の指を総動員してキーを操作するけど間に合わない。ディスプレイに表示されたレイジの顔写真が「×」で塗りつぶされ、個人情報が羅列されるスペースに注意と警告を促す赤い文字が浮かび上がる。
 
 『NO DATA』

 「ノ-データ………資料がない、だって」
 お互い顔を見合わせる。僕は困惑していた。東京プリズンのデータベースには、何十万という膨大な数にのぼる囚人の個人データが文章化されて記録・保管されているはずだ。東京プリズンが設立されてから現在にいたるまで、過去と未来を網羅した個人情報データベースにアクセスすれば大抵の囚人のプライバシーが覗けるはずだ。
 なのに、『NO DATA』の一文がでてきたということは。
 「考えられるのはふたつ」
 ビバリーが二本指を立てる。
 「文字どおり、レイジさんのデータはなんらかの理由で紛失、もしくはこの地上から抹消されたか。もうひとつは……」
 「『上』の人間が故意に隠蔽してるか」
 「正解」
 画面を端から端まで占めた『NO DATA』の一文を複雑な気分で見つめていた僕だけど、あることに気付いてはっとする。
 「懲役は書いてない?」
 「ありました!」
 画面をスクロールさせたビバリーが勝利したように叫ぶが、一秒後にはその顔色がさあっと青ざめる。テディベアを抱いたままディスプレイをのぞきこんだ僕は、そこに記された年数を見てひきつけを起こしかける。
 「「懲役110年!?」」
 テディベアを抱く手に力がこもる。僕とビバリーは無言で顔を見合わせた。ビバリーの瞳に浮かんでいるのは、見てはいけないものを見てしまったという呵責と後悔、謎に謎が上塗りされたレイジに対する純粋な畏怖とそれを超える恐怖の念。
 ディスプレイの右上、四角い枠の中では相変わらずレイジが笑っている。
 今と全然変わらない、表面的には何も考えてないように見える能天気な笑顔の男を見つめ、おそるおそる呟く。
 「懲役110年て、アイツ一体なにしたのさ……」
 写真の男は答えない。
 ただ、笑ってるだけ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060502012432 | 編集
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