ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 中庭に到着。
 時間に正確な皇帝は先にきていた。北の連中を侍らして監視塔の真ん中に佇んでいたサーシャに片手を挙げて挨拶する。
 「お早いお着きで。僕に言われたとおりやった?」
 「だれに口をきいているこの淫売」
 サーチライトの後光を背負ったサーシャが冷たく顎をしゃくる。監視塔の隅でぐっすり眠りこけてるロンを見て、下世話な疑惑が脳裏を過ぎる。
 「北の連中はずいぶんとたまってるみたいだね」
 「?」
 訝しげな顔をしたロシア系少年たちの間をスキップするように歩き、ロンの前で止まる。あどけない寝顔をのぞきこみ、言う。
 「ロンが眠ってる間に服脱がせてイタズラしたんじゃないの」
 「!なっ……、」
 僕の一言で気色ばんだ少年たちが殴りかかってこようとするのを目で制し、無表情にサーシャが説明する。 
 「お前らしい下品な誤解だな。生憎と私の配下はアジアの犬畜生に手をだすほど落ちぶれていない、この薄汚い混血児がシャツ一枚なのはシャワー室をでたところを拉致したからだ」
 「なんだ、つまんないの」
 もちろん本気だったわけじゃない、ご主人さまに似ず血気さかんなサーシャの子分をからかってみただけだ。ロンに顔を近づけてちゃんと寝てるか確かめる。クロロフォルムがよく効いてるらしくまだ当分目覚めそうにない。
 今ぼくがキスしても気付かないだろうと思うと、ちょっと試してみたくなる。
 イタズラ心が疼きだした僕に待ったをかけたのは、冷え冷えしたサーシャの声。
 「本当にレイジは来るのか」
 「来るんじゃない?」
 適当に返事をしたらサーシャの子分に肩を小突かれた。ポーカーフェイスの皇帝は意外と気が短い。ちゃんとサーシャに向き直り、矛先をそらすように肩をすくめてみせる。
 「僕の調査によればレイジの弱味はコイツ、かわいい顔してぐっすり寝込んでる同房のロンちゃん。なんだか知らないけどレイジはロンにご執心で暇さえあればちょっかいだしてるし、ご飯食べるときもいつも一緒。さすがにシャワー室まではご一緒しないだろうけど、ベッドの中は……どうだろうね?」
 後半はたんなる想像だ。とはいえ、根拠がないわけではない。鍵屋崎の言い分を全面的に信用するわけじゃない、僕が信用するのはこれまで自分の目で見てきた事実だ。東京プリズンを構成する東西南北四つの棟に君臨してるのはいずれ劣らぬ変人揃い、はっきり言って一般の囚人から避けられてるような奴ばかりで友人といえる人間は皆無なのが現状。現に今目の前にいるサーシャだって五十名を超える子分がいても友人と呼べるほど気安い間柄の人間はひとりもいないだろう。
 ところが、東の王様のレイジだけは例外。なんとなんと、同房のロンと友情めいた生ぬるい関係を築いてるみたいじゃないか。
 友人のピンチにレイジがどうでるかは予測不可能。レイジがどの程度ロンを大事に思ってるかによる。実際自分の身に危害が及ぶとわかっていながらエセ果たし状の挑発に乗ってのこのこ出向いてくるなんて愚の骨頂、本当にレイジが現れたら頭がおかしいんじゃないかと思う。
 でも、確信がある。レイジはきっとここに来る。
 アイツの頭がおかしいことは東京プリズンの全員がよく知ってる。
 「指定した刻限までどれ位ある?」
 「一時間です」
 サーシャの隣にいた少年が恭しく腕時計を示す。おおかた看守の横流し品か賭けの対象として巻き上げたものだろう、皮ベルトは傷んで擦り切れて文字盤のガラスは割れていたが秒針は正確に時を刻んでいた。
 ふと思い出す。ブラックワーク「下」の仕事は死体の運搬と処理。死体はなまものだから腐る、腐る前に処理しなきゃいけないからとにかく迅速な対応がもとめられる。今頃ブラックワーク「下」を担当する囚人は心地よい睡眠から叩き起こされ、二人一組でダイスケの死体を運びにいかされているのだろう。
 お気の毒サマ。かわいそうで涙がでるよ、嘘だけど。
 「時間どおりやってくるといいけどねー。ルーズな見た目してるからわかんないね、アイツ」  
 ひょいとコンクリート塀に腰掛け、からっぽの中庭を見下ろす。自由時間はバスケットボールやバレーボールに興じる囚人たちで賑わっている中庭も今は無人、サーチライトだけが煌々と点る殺風景な矩形の空間。今頃ビバリーは自分のベッドでいい夢見てる頃だろう、うやらましい。
 枕元においてきたテディは寂しがってないかな、心配だな。
 コンクリート塀からたらした足で虚空を蹴りながら暇をつぶしていると、背後に接近する気配。振り向くとサーシャが立っていた。
 「何か用?」
 眼前に片手を突き出すサーシャ。言いたいことはわかるし、ちゃんと持ってきてもいる。渋々ポケットを探りながらため息をつく。
 「常連さんのよしみで忠告しとくけど、ドーピングは体に悪いよ」
 「忠臣たちの前で私に指図するとは、男の下で喘ぐしか能のない売女の分際で北の皇帝の顔に泥をぬる気か?」
 僕のアドバイスを聞き入れる気はまったくこれっぽっちもないようで、サーシャは皮肉げに頬を歪めただけだ。サーシャの笑顔は飢えた爬虫類に似ている。ひんやりした笑顔でこちらを見つめるサーシャの手に、覚醒剤の粉末入りパックと注射器を献上する。
 背後に控えていた忠臣にサーシャが顎をしゃくる。慇懃な物腰で前に進み出た少年が注射器を手に取り、恭しくサーシャの袖をまくりあげる。あらわれたのは大理石のように白い肌。一見細く見えるが、筋金のような筋肉が脈動しているのがわかる鍛えられた腕には無数の斑点が散っていた。
 注射針の跡だ。
 ひどく緊張した面持ちでサーシャの腕をささげもち、静脈の上に注射器の先端をあてがう少年。ごくりと生唾を飲み、覚醒剤を溶かした注射器のポンプを押しこんでゆくー……
 乾いた音が鳴る。
 「!!」
 「ど、どうかしたのですかサーシャ様!?」
 「なにかお気にさわることでも!?」
 サーシャを中心に散らばっていた少年たちの間に動揺が走る。
 自分の腕に注射を打とうとした少年の顔に裏拳を見舞い、注射器を地面に落として転倒したそのツラを無慈悲に踏みにじるサーシャ。その目に燃えているのは青白い赫怒の炎。
 「この男は『下手くそ』だ」
 憎々しげに唇を歪め、足元に土下座した少年の顔を蹴り上げる。屋上の傾斜をカラカラと転がり、僕の足の先で注射器が止まる。
 「最も痛点が集中する箇所に打とうとしたぞ、度し難い馬鹿だ。皇帝に対する反逆罪だ、こんな愚か者は即刻ギロチンにかけろ」
 「そのへんにしといてあげなよ」
 「ごめんなさいごめんなさい許してくださいなんでもしますから」とうわ言を呟く少年を哀れに思い、気のない声で仲裁に入る。片手に注射器を拾い上げ、にっこりとほほえむ。
 「僕が気持ちよくさせてあげるからさ」
 「…………」
 サーシャの目に渦巻いていた怒りのオーラがすっと薄れ、アイスブルーの瞳が理性を取り戻す。踵を返し、僕のもとへとやってくるサーシャ。サーシャの一挙手一投足にびくつきながらその背中を見守る北棟の少年たち。
 無造作に突き出された手首をとり、見下ろす。
 痩せさらばえて静脈の浮いた腕を斑に染め上げているのは、赤黒く変色した無数の点。サーシャの腕を持ち上げ、静脈の位置を測る。むきだしの上腕に指をすべらせ、静脈を揉む。サーシャは抵抗するでもなく、僕のしたいようにさせていた。サーシャの視線を顔の片側に感じながら静脈を揉みほぐし、どの血管がいちばん太く、注射器をさすのに適しているか探る。
 見つけた。
 「天国にイカせてあげるね」
 興奮してきた。
 深呼吸し、指の震えを止める。相手は皇帝だ。失敗は許されない、即ギロチン送りだ。
 注射器を握りなおし、静脈の上にあてがう。痛いほどサーシャの視線を感じながら、ゆっくりゆっくりと注射器のポンプをおしこんでゆく。
 サーシャの目が恍惚と曇り、確実に覚醒剤が効いてゆく。
 「お前は本当に良い犬だ」
 「お褒めにあずかり光栄です、皇帝サマ」
 緊張がとけ、ふーっと息を吐く。無事役目を終えて一気に脱力した僕は、上着の裾で軽く注射針を拭ってポケットにしまう。ほんとはハンカチとか綺麗な布で拭いたほうがいいんだけどそんな上等なもんここにはないから仕方ない、応急処置ってやつだ…ちょっと違うかな。
 ここだけの話、僕がサーシャに重宝がられてるのはイカせるテクが上手いからだけじゃない。もちろんそれもあるけど、それよりはむしろ注射を打つのが上手いからだ。注射器の扱いに習熟した僕なら最小限の苦痛でサーシャを天国にイカせることができる。
 売女だのアバズレだのと口汚く罵りつつも、サーシャが僕を手放せないわけがわかってもらえたかな?
 レイジがここに来る頃にはちょうどいい具合にクスリが全身にまわって、サーシャもハイになってるだろう。
 「それはそうと、人少なくない?この頭数でレイジを迎え撃つわけ」  
 注射器をポケットに戻し、きょろきょろと屋上を見回す。屋上に集合しているのはサーシャを含めて十名弱。他のやつならともかく、相手は東棟の王様だ。1対10でも勝てるかどうか疑わしいのに……
 「残りは見回りに行かせた。王との直接対決が実現する前に看守にぶち壊されてはたまらないからな」
 袖をおろし、注射の痕を隠したサーシャが心ここにあらずといったかんじで呟く。その目がふと僕を見て、予想外の台詞を口走る。
 「お前も行け」
 「はあ!?なんでぼくが……」
 「不満か飼い犬」
 「全然」
 眼光鋭く睨まれ、降参する。主人サマのおっしゃるとおり、飼い犬に拒否権はない。たぶんサーシャなりに考えがあるのだろう……ヨダレたらしてラリってる姿を東棟の人間で彼が毛嫌いするところの薄汚い混血児の僕に見られたくないとか、そんなしょーもない理由だったらやだな。
 しぶしぶサーシャを離れ、階段を降りる。サーシャの言ったことは事実のようで、よく見れば中庭のあちこちに目立たぬよう人影がうごめいていた。彼らとおなじところを見回ってもしょうがないしと、中庭をぐるりと迂回して東棟の裏手にでる。
 東棟の裏手は閑散としていた。
 五百を超す囚人を収容してる東棟はコンクリート製の巨大な建造物だけど、さすが監獄だけあって味も素っ気もないつまんない外観だ。コンクリートの威容を右手に仰ぎ見つつ、ぶらぶらと歩いていた僕の目をチカッとライトが射る。
 光の方角に目を向けると、一台のジープがとまっていた。
 ジープの荷台に積まれているのは、人一人余裕で入れる大きさのゴルフバッグ。
 「うわ、霊柩車見ちゃったよ。不吉だな」
 恐怖を紛らわすため、おどけた独り言を口走る。ジープの荷台に積まれたゴルフバッグの中身は人間ー正確には生前人間だったモノだ。看守や囚人によるリンチで死亡した囚人は、深夜、皆が寝静まった頃に人目を盗んで外へと運び出される。死体を運搬するのはブラックワークの最下層、弱肉強食の最底辺に位置する囚人。外へと運び出された死体はジープの荷台に乗せられどこへともなく連れ去られる。
 行く先は知らないが、おそらく砂漠か焼却炉か。
 レッドワークの巨大焼却炉なら骨まで灰にできるだろうし、東京プリズンは周囲を砂漠に囲まれてる。死体を捨てる場所には困らないはずだ。
 待てよ、あそこに霊柩車が停まってるってことは死体を運んできた奴がまだこのへんに……いた。
 小手をかざしてぐるりを見回した僕は、東棟の外壁に沿い、よろよろ歩いてる人影を発見する。ジープのヘッドライトに浮かび上がったその顔はー……わお。
 「ビンゴ。またまた鍵屋崎の知り合いか」
 死人のように青ざめたその顔は、食堂で鍵屋崎に話しかけてた囚人。八十件の放火事件を起こして東京プリズンに収監された少年、リュウホウ。亡霊のような足取りでさまよい歩いてるリュウホウに小走りに接近、後ろから声をかける。
 「わっ」
 「!」
 ひきつけを起こしたように全身を強張らせ、リュウホウが振り向く。完全に血の気がひいた顔。
 「ごめんごめん、驚いちゃった?そりゃ驚くよねー、こんな真夜中に後ろから声かけられちゃ」
 「き、きみは……?」
 「あ、そか。きみは僕のこと知らないんだ。僕はきみのことよーく知ってるけどね、放火のプロのリュウホウくん」
 「放火」の一言に、リュウホウは過敏に反応する。極限まで目を見開いたリュウホウに歩み寄り、耳元でささやく。
 「ねえ、教えてよ。ひとんちに火をつけるのってどんな気持ち?」
 「ち、がう……そんなつもりじゃなかったんだ」
 よわよわしく首を振り、リュウホウが抗弁する。
 「僕はただ、火をつけるのが楽しくて……いちばん最初の放火は、お父さんのライターを盗んだのがきっかけだったんだ。ライターがなくなれば煙草が吸えなくなる、煙草が吸えなくなればぼくに火を押し付けることもできなくなるから、ただそれだけで……ライターの処分に困って歩いてる途中、燃えやすそうな紙屑が目に入ったんだ。それで……これ、本当に燃えるのかなって。僕みたいな奴でも火をつけることができるのかなって、無性に試してみたくなって」
 吶々と語りだしたリュウホウの目は僕を通り越し、遠い遠い過去を見ているかのように虚ろだ。リュウホウはきっと、9歳の頃の自分を見ているのだろう。家には帰るに帰れず、盗んだライターを握り締めたまま、ひとりぼっちで町をさまよい歩く子供の姿を。
 「本当に出来心だったんだ。人が死ぬなんて思わなかった」
 「でも、死んだ。君の出来心のせいで、何人も人が死んだ。熱い熱い炎の中で苦しみながら焼け死んだんだ」
 それ以上聞きたくないとリュウホウが両手で耳を塞ぐ。
 「いいかげん認めなよ、今も昔もきみはひとりぼっち。たとえ火をつけてもだれもきみを見たりしない。どんなに注目してほしくてもだれも振り向いたりはしない。なんでか知りたい?」
 リュウホウの手首を掴み、強引に耳から引きはがす。
 「きみに注目する価値がないからだよ」
 だれかに依存することでしか自分の存在を確かめられない人間、だれかの価値観にすがらなけりゃ生きてけない人間は反吐が出る。
 僕のように徹底して人を利用して蹴落とすか、鍵屋崎のように無関心を決めこんで人を無視するならまだわかる。僕がいちばんむかつくのはリュウホウみたいに、だれも助けてくれないのに「助けて」と叫ぶのをやめない人間だ。根本的に甘えが抜けきってないガキだ。いい加減現実を認めて腹をくくればいいのに、リュウホウときたらぐすぐす泣きべそかいてどこからか助けがくるのを待っている。
 そんな都合のいい奴現れるわけないのに。
 単純な現実、自分の味方は自分しかいないという当たり前の事実を受け入れるのがそんなに嫌なのか?
 「鍵屋崎がきみのことなんて言ってるか知ってる?」
 だから僕は嘘をついた。
 今だにママのおっぱいを恋しがってめそめそしてるリュウホウに、救いのない現実を思い知らせるための嘘を。
 「と、ともだちなの……?」
 鍵屋崎の名前をだした途端、リュウホウの表情に劇的な変化がおきた。助けを乞うような、救いの手を期待するような、一途に縋るような目で僕を見上げてくるリュウホウに親しげにほほえんでやる。
 「ああ、トモダチだよ。そのトモダチが、きみに迷惑してるんだって」
 リュウホウが固まった。
 「うっとうしくて迷惑してるから、かわりに追い払ってほしいって頼まれちゃった」
 「う、そだ……」
 「近くによられると鼻水がくっつきそうで鳥肌だつんだって。男のくせになよなよべたべたひっついてきて気持ち悪いんだって。それと、きみが近くにくると焦げ臭いにおいがして耐えきれないって……」
 絶叫。
 なんて叫んだのかはわからなかった。意味不明な奇声を発して僕を突き飛ばしたリュウホウが、肩で息をしながら愕然と立ち尽くす。戦慄の表情で立ち竦んだリュウホウが、目に映る現実を全否定するように頑固に首を振る。
 「嘘だ、そんなわけない、ぼくらは同じジープに乗せられてやってきたのに……」
 「友情は一歩通行じゃ成立しないんだよ」
 往生際の悪いリュウホウにため息まじりに諭してやる。 
 「いい加減認めなよ。今も昔も、きみの味方なんてひとりもいやしないんだ」
 リュウホウがよろよろと歩き出す。今にも倒れそうな足取りで東棟の裏をよこぎり、どこかへと向かうリュウホウ。その背を見送りながら舌をだす。
 鍵屋崎に言われたなんて真っ赤な嘘だ。そもそも僕と鍵屋崎はトモダチでもなんでもない。ただ、リュウホウみたいにうじうじしてる奴を見るとむしょーにいじめたくなるだけだ。僕も相当性格が悪い。
 ふらつきながら歩み去ってゆくリュウホウの尻ポケットからぶらさがっている白い手ぬぐいがヘッドライトに映え、小さく揺れる。
 白旗を振るのが敗北の証なら、白い手ぬぐいをふるのにはどんな意味があるんだろう。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060430012710 | 編集

 くしゃみをした。
 「砂漠の夜は寒いなあ。風邪ひいちゃうよ」
 囚人服の二の腕を抱いて身震いする。砂漠の夜は冷えこむ。このままここにいたら風邪をひいてしまいそうだ。適当に引き上げようと踵を返しかけた僕の目にとびこんできたのは一体の人影。東棟の外壁、目立たない場所に設置された死体搬送用のドアからさまよい出てきたその影はきょろきょろとあたりを見回してから、落ち着きない足取りでコンクリート敷きの地面を歩き出す。
 こんな時間に看守の目を盗んで散歩なんて度胸あるね。それとも逢引かな?
 後者の可能性のほうが高いと予想してなにげなく目を凝らした僕は危なく口笛を吹きかける。そこにいたのが鍵屋崎だったからだ。なんて偶然。今さっき奴と連番になる囚人ふたりとお目にかかったばかりなのに今度は当の本人とバッタリ遭遇だなんて。いや、ひょっとして偶然じゃないのかな?衝動的にリュウホウを追ってきたらしく、落ち着きなくあたりを見回している鍵屋崎は死角の僕に気付いていない。目先の関心事にとらわれて、はるか背後まで気が回らないのだ。
 こんな夜中にリュウホウと待ち合わせてデートの約束でもしてたのかな。
 本人の知らぬ存ぜぬところで鍵屋崎を観察しながらそんな想像をめぐらしていた僕は、なにげなくポケットに手をやってそのふくらみを確認する。ズボンのポケットに入っていたのはサーシャの手下から回収したクロロフォルムの小瓶。
 ポケットに手をすべりこませ、茶褐色の小瓶を握り締める。
 手の中の小瓶と15メートル先の鍵屋崎とを見比べ、ちょっとしたイタズラを思いつく。
 二十歩、十五歩、十歩。
 闇に乗じて背後に接近、クロロフォルムを数滴しみこませた袖口で鍵屋崎の口を塞ぐ。
 突然すぎて、叫ぶ暇もなかったようだ。
 鍵屋崎の体から見る間に力がぬけ、がっくりとその場に膝をつく。糸が切れたように昏倒した鍵屋崎の寝顔をのぞきこみ、こみあげてきた笑いを噛み殺す。
 「こんな時間にほっつき歩いてるきみが悪いんだよ、メガネくん。悪い狼さんに食べられちゃってもしらないから」
 さて、どうしよう。
 ぐっすり寝込んだ鍵屋崎を屋外に放置して凍死させるか風邪をひかせるかしてもいいんだけど、それじゃちょっと芸がない。掌中でクロロフォルムの小瓶をもてあそびながら思案する。僕は僕で鍵屋崎を眠らせてみたものの、いつまでもこいつにかかずりあってるわけにはいかない。監視塔ではサーシャ様がお待ちかねだし、もうすぐしたらレイジがきてしまう。
 ん?レイジ?
 その手があったかたと閃く。
 「おーい、ちょっとそこ行くサーシャの犬くん一号二号」
 折りよく視界の彼方をとおりかかった見回り役の少年ふたりに声をかける。何事かと互いに顔を見合わせながら駆け寄ってきた少年ふたりは、コンクリートの地面に倒れている鍵屋崎を見て顔に疑問符を浮かべる。
 「コイツ運ぶの手伝ってくれない?」
 「だれだよコイツ」
 当然、ふたりは不思議な顔をする。そりゃそうだ、いきなりそんなこと言われてもわけがわからないしスパイといえど東棟の人間であるにことには変わりない僕に命令されたとしても、はいそうですかと従うわけにはいかないだろう。
 だから僕はこう言ってやった。
 「サーシャをハメようとしてた東のスパイさ」
 「な……!?」
 雷に打たれたように少年たちが驚愕する。しめしめと内心ほくそ笑みながら、表面的には深刻ぶって続ける。
 「コイツ、レイジに言われてサーシャの周り探ってたんだよ。気付かなかった?ニブイね君たち。サーシャがレイジを敵視してるようにレイジも次の対戦相手のサーシャのこと警戒してたのさ。まあ、でも安心してよ。僕が機転を効かせてクロロフォルム嗅がせたから、これ以上余計な邪魔は入らない。東のスパイは始末したから、皇帝サマも思う存分レイジと殺しあえるだろうさ」
 さも自分の手柄のような飄々とした口ぶりで言い、少年たちの反応を確かめる。
 「このままココに放っといてもいいけど、どうせならレイジとサーシャの対決をコイツにも見せてやりたいと思わない?サーシャの裏をかこうとして派遣したスパイが愛しのロンちゃんとつながれてるのを見た時のレイジの顔、見モノだよ」
 僕の誘惑に心動かされたのだろう、少年たちの顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。サーシャをだしぬこうという企てが失敗し、みじめに幻滅したレイジの顔を見たいという欲求に屈したのだろう。鍵屋崎の腕を双方の肩に担いで歩き出した少年たちを追いながら、声を殺して笑う。 
 意外なゲストも現れたことだし、今晩の舞踏会は盛り上がりそうだ。

                              +

 
 意識を失った鍵屋崎と、睡眠中のロンに手錠をかける。
 これでふたりは逃げられない、運命共同体になったわけだ。
 ふたりがよく寝入っているのを確認して、20メートル離れた場所に立っているサーシャのもとへと急ぐ。サーシャは腕組みして目を閉じていた。癖のない銀髪が夜風にさやと揺れ、青ざめた唇から低い低い声がもれる。
 「私が下位に甘んじることなどあってはならない」 
 鋭く尖ったおとがいを持ち上げ、星のない夜空に話しかけるように頭上を仰ぐ。
 「東の王だけではない」
 サーシャがぐるりを見渡す。サーシャを中心に輪を作っていたのは、まじりけない白い肌の少年たち。金髪、茶髪、ブルネット。色素の薄い瞳と肌の色は彼らが育った大地と同じく、人を寄せ付けない冷え冷えした印象を与える。自分を取り囲んだ忠実なる家臣らを順繰りに見つめ、サーシャが大きく深呼吸する。
 「ゆくゆくは西の道化と南の隠者を屠り、この極東の地に第二のロシア帝国を築く」
 大気を震わせ殷殷と響いた悪霊じみた声に至く感銘を受けたらしく、少年たちの中には目尻にうっすらと涙を浮かべている者さえいた。狂える皇帝は自分の演説が与えたもうた効果をはかるようにたっぷり間をおいたあと、気違いじみたおたけびを上げる。
 『ハラショー 露西亜!』
 血走った目を極限まで見開き、天へと拳を突き上げるサーシャ。
 『ハラショー 露西亜!!』
 それに呼応したのは、円陣を組んでいた少年たち。一糸の乱れもなくサーシャに唱和して高々と拳を突き上げる。興奮に頬を上気させ、なにかに取り憑かれたように爛々と目を輝かせたその顔からは、サーシャの掲げる崇高なる理想にとことん心酔している様子が窺いしれた。
 『ハラショーサーシャ!』
 『ハラショーサーシャ!』
 『ハラショー露西亜!』
 『ハラショー露西亜!』
 コンクリートの屋上に熱気が渦巻く。
 熱狂して唾をとばし、狂乱の坩堝へと身をおき、興奮の絶頂で我を忘れて東京プリズンの小皇帝サーシャと祖国ロシアを讃える少年たちを遠目に眺めてうんざりする。
 西の道化と南の隠者を殺すなんて、誇大妄想もいいところだ。
 西棟と南棟のトップはある意味レイジ以上の曲者だ。そんな連中相手にサーシャがいくら策をめぐらしたところで容易に勝てるとは思えない。反省しないのは馬鹿の特徴だが、レイジを倒せば東京プリズンの全棟ひっくるめてトップに立てると楽天的に考えてるならサーシャは真性の馬鹿だ。レイジを倒したところで上にはまだふたり強敵が残っている。ロシア系が大半を占める北棟で「のみ」絶大な権力を誇る偽りの皇帝サーシャが東と西と南を制し、真の王座に着くまでの道程ははてしなく遠い。  
 まあ、常習してる覚醒剤が脳に回って「レイジを倒す=トップに立てる」と短絡的に刷り込まれてる可能性が高いけど。
 少し離れた場所でサーシャとその愉快な仲間たちのハラショーコールを見物していた僕の背後で衣擦れの音。鍵屋崎とロンが起き出したらしく、ぼそぼそと話し声がする。踊るような足取りで方向転換、ふたりに接近。なにを話してるのかと聞き耳を立てたら、物騒な単語が耳にとびこんできた。
 「―こうして手錠でつながれたまま僕と君の死体が発見されたら、文字通りの手鎖心中だな」
 「手錠でつながれて野郎と無理心中なんて酸っぱすぎて反吐がでてくるぜ」
 「じゃあ、ひと思いに殺してあげよっか」
 はっとして顔をあげたふたりを見比べ、底抜けに明るい口調で続ける。
 「僕、いいクスリ持ってるよ。安楽死なら任せてよ、打ってぽっくり覚めたら天国ってね」
 「―お前が俺たちを拉致ったのか?」
 唸るように歯を剥いたロンの語尾を奪うように疑義を呈したのは、隣の鍵屋崎。
 「そんな馬鹿な、不可能だ。腕力で劣る君が意識を失った僕たち二人をここまで運べるはずがない」
 信じられないといった顔の鍵屋崎を気分よく見下ろし、おおいにもったいぶって正解を与えてやる。
 「半分正解、半分不正解ってところかな。実行犯は別にいるけど、クロロフォルムを貸したのはまぎれもなく僕だし。君たちをここまで運んできたのは別人」
 「どこだ、そいつら。ぶっとばしてやんねえと気が済まない」
 「できるの?その格好で」
 威勢がよいロンに笑いながら水をさす。自分の手首に嵌まった輪っかを見下ろし、悔しげに歯軋りするロン。
 「―どうして僕らをさらったんだ?」
 ロンがキレる前に質問を挟んだのは、こんな時だというのに憎たらしいほど落ち着き払っている鍵屋崎だ。理性的な声と口調で、単刀直入に核心をつく。
 「メガネくんが教えてくれたんじゃないか、レイジの弱点はロンだって」
 肩をすくめた僕の背後へと目をやり、ロンの顔がこわばる。ロンの視線の先にはサーシャがいた。
 「リョウ、お前……北棟のスパイだったのか!」
 「スパイってひどいなあ。彼らは単にぼくのお客さんだよ、ねえ、サーシャ」
 家臣をひきつれて威風堂々コンクリートの絨毯を歩んできたサーシャが、ゴミでも見るみたいに無関心な目で傍らの僕を一瞥する。 
 「その通り。このアバズレは金さえ払えばブタのケツの穴でもなめる根っからの守銭奴だ。私はこのアバズレを利用して、分不相応な地位に君臨しているあのいやらしい混血児を排斥しようとしたまでだ」
 愛玩犬にするように僕の赤毛をかきまわしながら、うっそりとサーシャが述べる。
 「お前があのいやらしい混血児の友人か?」
 「―いやらしいいやらしいって、俺も混血児なんだけど」
 「どうりで下品な顔をしてるわけだ」
 挑発的な口調で返したロンに薄く笑みを浮かべ、言下に斬り捨てるサーシャ。気分を悪くしたロンから隣で沈黙している鍵屋崎へとなにげなく目をやり、質問を続ける。
 「お前も混血児か?」
 「―さあな。戸籍上は両親ともに日本人と記載されているが、詳しいことはわからない」
 「日本人か。それではお前の血も汚れているな」
 胸を上下させて深呼吸したサーシャが、一拍おいて口火を切る。 
 「この世界でいちばん優れた人種はだれだ?この世界でいちばん美しく気高い人間はだれだ?第二次世界大戦でユダヤ人を迫害したゲルマン民族か?違う。四千年の中華思想に支えられた黄色い肌の猿どもか?違う。第二次ベトナム戦争にのりだして国の予算をひたすら浪費しているプロテスタントの道化どもか?もちろん違う」
 熱に浮かされたように饒舌にまくし立てたサーシャが、恍惚と濡れた目で夜空を仰ぐ。
 「この世界で最も気高く美しく優れた人種……それは、ロシア人だ」
 そして、一転して屑でも見るように辛辣な目で鍵屋崎とロンを視殺する。
 「それ以外は屑だ。地球の食糧事情を悪化させるだけの害虫にひとしい存在は今すぐ死に絶えるべきだ、それが何かの間違いでこの世に生を受けた下賎で卑しいお前ら混血児の義務で宿命だ」
 それまで身動ぎもせず、黙ってサーシャの言葉を聞いていた鍵屋崎がスッと目を細める。
 「君の言葉には矛盾があるな。君は今『混血児は今すぐ死に絶えるべきだ』と独善的に断言したが、混血嫌いを自認する君のグループに日露の混血児が複数含まれているように見受けられるのは何故だ?」
 「愚問だな」
 サーシャが笑った。背筋が寒くなるような笑み。
 「そこの黒髪」
 「は、ハイ!」
 ぞんざいに招かれた少年が、尻尾をふらんばかりの慌てぶりで彼のもとへと駆け寄る。
 「1763年に即位したロシア皇帝ピョートル三世は大変な愛犬家として知られた。いや、愛犬家という言葉は正しくないな。彼は多くの犬を飼っていたが、その犬を狭い部屋に閉じこめ餌もろくに与えず虐待していたという」
 「何の用で、」
 「すか」と言い終える前に、少年の顔面にサーシャの拳が炸裂した。 
 呆然とした鍵屋崎とロンは無視し、よろめき倒れた少年を無慈悲に蹴り上げるサーシャ。
 「妻のエカテリーナに頭のあがらないロシア皇帝のささやかな趣味は飼い犬を鞭打つことだった。私の趣味は汚らしい混血の犬をなぶって憂さを晴らすことだ。これらはその為だけに私の身の周りに侍らせてる無知な愛玩動物だ」
 「いかれてやがる」
 笑みに分類できない笑みを浮かべて淡々と少年を痛めつけるサーシャに嫌悪感を隠せずロンが呟く。
 「―何?」
 「レイジもいかれてるが、お前よりずっとマシだ。いいか、よく聞けよ北棟の皇帝気取り」
 ロンの目は据わっていた。よっぽど腹に据えかねてる証拠だ。
 「あのやることなすことテキト―でいつもへらへら笑ってるクソったれたホモ野郎のが、お前の百兆倍人間として上等だ」
 「君は真性の馬鹿か?よく状況を見て相手を挑発しろ、へたしたら死ぬぞ」
 「お前こそ真性の馬鹿だな、日本人。挑発ってのは口が勝手に動くことだ、頭で考えてる暇なんかねえ」
 「人間なら理性で押さえろ、怒りを自制しろ。たしかに彼は不愉快きわまる最低の人間だが今この場で『君は不愉快きわまる最低の人間だ、一秒でもはやく蒸発して消えてくれ』と嘘偽らざる本音を吐露したところで状況が好転するのか?悪化するだけだろう」
 身の程と状況もわきまえずにサーシャを挑発したロンをすかさず制止した鍵屋崎だが、きみそれフォローになってないって。悪化させてるだけだって。
 天然で状況を悪化させてる鍵屋崎に僕がつっこむより早く、サーシャの口角が不自然に痙攣する。 
 「下賎な混血児の分際で私を愚弄する気か?」
 「下賎な混血児の分際でお前を愚弄する気だよ、エセ皇帝」
 そう言いきったロンの頭上に右腕を持ち上げるサーシャ。
 サーシャの袖口からすべりでたのは古風な鞘のナイフ。手首が撓って返ってくるまでの一動作で鞘から抜刀したサーシャは、抜き身のナイフをロンの頬に這わせ、ささやく。
 「首を刎ねられたいか?反逆者」
 「レイジに対抗して皇帝名乗ってんならギロチンくらい用意しとけよ」
 場が緊迫する。
 一歩も譲らず睨み合うサーシャとロンの間に割って入り、おっとりと口を開く。
 「やめなよ」
 ナイフの背が1ミリほどロンの顔の皮膚に食いこんだところで、サーシャが停止する。
 「そいつらは大事な人質だ、人質ってのは無傷で五体満足だからこそ脅迫材料になるんでしょ。ま、夜中ほっつき歩いててまきこまれたメガネ君は災難だけどしかたない。これからはじまるブトウ会を看守にチクられでもしたら、僕ら全員独居房送りだもんね」
 「招待状はたしかにレイジの手に渡ったんだな?」
 説得が功を奏したようで、一掴みの理性を取り戻したサーシャがパチンと刃を閉じる。
 「かぼちゃの馬車が遅れてるのかな?エンペラーお待ちかねのシンデレラはそろそろ到着するはずだよ」
 遠くから聞こえてくるのは、足音。
 闇を渡り、だんだんと近づいてくる王様の足音。
 「ほら、きた」
 なにがなんだかわからず当惑してる鍵屋崎とロンの横を抜け、コンクリートの手摺に身を乗り出す。サーチライトに照らされた中庭、その中央を不敵に突き進んでくるのはひとりの男。明るい藁束のような茶髪を襟足で結い、垢染みた囚人服を洒脱に着こなし、綺麗な顔に笑みを浮かべてこっちに歩いてくる男の名はー……
 「やばい。レイジの奴、キレてる」
 彼の名前はレイジ。笑いながら怒れる奇特な男だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060429012824 | 編集

 「おーいリョウ。今の言葉にはちょっと矛盾があるんじゃねえか?」
 それがレイジの第一声だった。
 「は?」
 ぼく?自分の顔を指さして当惑した僕に笑顔を向け、レイジが訂正する。
 「12時過ぎても帰ってこねえ囚われのシンデレラは、俺じゃなくてロンだろう」
 おどろいた、こんなに離れてるのにそう大きくない僕の呟きが聞き取れたらしい。単純な直線距離にしても監視塔から中庭までは30メートル離れてる。
 目を丸くした僕の隣、王座の肘掛けに預けるように手摺に手をおいたサーシャとレイジの視線が虚空で衝突する。
 「今宵は舞踏会にお招きいただいてありがとう、北の皇帝」
 「歓迎しよう、東の王」
 深海の鮫のようなアイスブルーの目と、超然とした笑みを浮かべた茶色の目が火花を散らす。
 サーシャはちょっと口を噤んでレイジを見下ろしていたが、やがてその唇から嘲るような呟きがもれる。
 「噂どおり、東の王には人望がないようだな」
 「あん?」
 「今日この場に招かれた用件はわかっているだろう。それなのに仲間の助力を乞わず、単身戦場に出向いてくるとは……噂どおり、東の王は痴れ者だな」
 「痴れ者はお前だろ、永久凍土の皇帝」
 「なに?」
 サーシャの眉が動く。サーチライトの脚光を浴び、中庭の舞台に上がったレイジは微笑んだまま、断固として言い切る。
 「ロンは俺の女だ」
 はい?なんですと?
 「あの野郎……」
 ぽかんとした沈黙。全員口を半開きにしてその場に立ち尽くした北棟の少年たちはよそに、手摺から身を乗り出したロンが激烈な反応を示す。
 「おいレイジ、人が好きに動けねえからってなに勝手なことほざいてんだ!ありもしねえ事実を素面で捏造するんじゃねえ、今の台詞取り消せ!」
 瞬間沸騰したロンが噛みつかんばかりの勢いでレイジに食ってかかるが、中庭のレイジは平然としている。ロンの怒声を浴びておどけたように首をすくめるや、「間違えた」と深呼吸する。
 そして、再び。
 「ロンは俺の物だ」
 鈍い音がした。ロンがコンクリートの手摺に額をぶつけたのだ、おもいきり。
 コイツ何を言い出すんだとあきれかえった顔を並べている北の少年たちをひとりずつ見つめ、ごく静かにレイジが口を開く。
 「こう見えて俺は嫉妬深い男でね、自分の物に横からちょっかいかけられるのが大っ嫌いなんだ。まあ、俺の目の届かないところや俺の知らないところならまだ諦めがつくさ。その場に俺がいなかったんじゃしかたない、運が悪かった、いけずな神様のいたずらだって言い聞かせて納得することもできるさ。それで俺の物に多少の傷がついたとしたらものすげえ腹が立つし、犯人には殺意が沸くさ。でも逆に考えてみりゃ、チキンハートの腰抜け連中は俺がそばにいりゃあ絶対俺の持ち物には手をださないってことだろ?だったら俺がいつでもそばにいりゃいいだけの話。クソする時も寝る時もシャワー浴びる時も片時もはなれず俺の持ち物のそばにぴたりとくっついて目を光らせてりゃ、それで絶対の安全が保証されるってんだからお安いもんさ」
 額におちた前髪を鬱陶しそうにかきあげ、芝居がかったため息をつく。手と前髪の奥、印象的な造形の切れ長の目で火花が散ったように見えたのは気のせいだろうか。
 「ところがだ。お前らはご丁寧にも、招待状を送りつけてくれた。ロンを人質にとって、俺を中庭に呼び出して、罠をかけて待ち構えて。俺の女を横からかっさらって、人の許可なく手錠をかけて、見晴らしのいい台につないでくれちゃって。それをわざわざ俺に見せ付けるために、リョウに招待状書かせるなんて手のこんだことをして。なに、そんなに王座が欲しいわけ?今度の試合で勝ちたいわけ?不戦勝でも勝ちは勝ち、手足を折って頭蓋骨を割ってブラックワークで使い物にならなくさせたいわけか?」
 笑顔は笑顔のままに、人を威圧する目の光だけを何倍にも強めてレイジが問う。
 「素で聞く。お前ら、何様のつもりだ?」
 ただひとつ間違ってるのは、僕はサーシャに命じられて招待状を書いたわけじゃない。自発的に書いてサーシャに事後承諾をとりつけたんだけど、最高に頭にきてるらしいレイジの前で得意げにそのことを吹聴して恨みを買いたくないから黙っとく。
 鍵屋崎は無表情で怒るけどレイジは笑いながら怒る。 
 「貴様こそ何様のつもりだ、薄汚い混血の分際で」
 「王様のつもりだ」
 「―王が聞いてあきれる」 
 まったく油断していたロンの後頭部を掴み、コンクリートの手摺に押し付けるサーシャ。
 「!?痛っ、」
 「ブラックワークの暫定覇者に少しでも警戒していた私が愚かだった。東の王の実体はただの腑抜けで色惚けの混血児ではないか。女を人質にとったという招待状を鵜呑みにして、命令どおりたった一人で出向いてくるとは……王の座にありながら騎士を気取ったのが仇になったな」
 サーシャの手の下でロンの顔が苦痛に歪み、額に脂汗が滲む。細い腕してなんて怪力だ、コイツ。化け物じみてる。
 「東の王ご執心の雑種を先に殺してから、飼い主の息の根をとめるのも一興だな」
 挑戦的に言い放ったサーシャがますます腕の力を強め、ロンの苦鳴が一音階高くなる。手摺と手とに挟まれたロンの顔が無残に削られてゆくのを予想した僕はおもわず顔をしかめかけたけど、実際その必要はなかった。
 ロンの顔が醜く潰れる前に、レイジがやんわりと仲裁に入ったからだ。
 「なあサーシャ。お前童貞だろ」
 前後の脈絡がない結論に、サーシャの動きがぴたりと止む。
 「前戯が長すぎ。ギャラリーが退屈してんのわかんないの?お前のうしろのガキなんてほら、貧乏揺すりしてるじゃねーか。その隣の奴は小便我慢して股間おさえてるし……いいか?本番前に長々と演説ぶつのは自信のなさの裏返し、単純にテクだけで相手を逝かせる自信のねえ腰抜けの予防策だ。要するにだ、前戯が長すぎるうえにねちっこすぎて女に愛想尽かされる典型だよお前」
 「―よかろう」
 興味が失せたようにロンの後頭部を突き放し、威風堂々と歩み出るサーシャ。前髪を開放されたロンの体がよろめき、鍵屋崎の肩にぶつかる。肩で息をするロンから、険悪に睨み合うサーシャとレイジへと視線を転じる。
 「自分に注意を向けさせて友を救おうという魂胆は見え見えだが、お前のつまらん試みにあえて乗ってやろうではないか」
 「さっすが皇帝、話がわかるう」
 ふざけて口笛を吹く真似をしたレイジがサーシャの手下に取り囲まれる。レイジの注意がサーシャに向いている間に地上に移動していたのだろう少年たちは、全身に血早ぶる闘志をみなぎらせてレイジを追い詰める。
 輪の中央のレイジは薄く笑みを浮かべたまま、口の中で何かブツブツ言っている。
 「―サーシャ。ひとついいか」
 「なんだ」
 「いくら自分が直接手の届かない安全圏にいるからって、三分の二の戦力をこっちに割くのは……」

 一閃。
 レイジの腕が弓のように撓り、高々と投擲された瓶が夜空に弧を描いてサーシャの脳天へと急降下する。

 「『命取り』だって、よーく覚えときな」
 瓶の割れる音は、勢いよく燃え上がった炎の轟音に打ち消された。
 「!!」
 顔を炙る炎の熱からとんで逃れた僕の眼前で、サーシャがはげしく身悶えしている。獣じみた咆哮をあげ、炎に巻かれて苦悶するサーシャのもとへと駆け寄った少年たちが迅速に上着を脱がし消火活動に努める。
 「大丈夫ですか、サーシャ様!」
 「お怪我はございませんか、皇帝!」
 「案ずるな、忠臣よ。大事はない」
 片手を挙げて家臣を制したサーシャだが、強がりなのは一目瞭然。額に玉のような汗が浮かんでる。
 レイジの奴、マジでいかれてる。火炎瓶なんて用意してたのかよ。
 用意周到なレイジに感心半分あきれ半分、囚人服の胸をおさえて動悸がおさまるのを待っていた僕の耳を貫く絶叫。音源は「下」だ。
 手摺から身を乗り出した僕の目に映ったのは、蟻の軍勢を相手どったスズメバチの如く北の少年たちを翻弄するレイジの姿。シャープで無駄のない体捌きから繰り出される電光石火の蹴りは並の動体視力では避けることはおろかとらえることもできず、冗談のような速さとあざやかさで北の少年たちを倒してゆく。
 戦闘中、レイジはずっと何かを呟いていた。妙に厳かな低音で何を呟いているのか聞き取ろうとしたが、ダメだ。レイジに吹っ飛ばされた少年たちが折り重なって倒れてゆく死屍累々の現状のほうが気にかかって、とても唇の動きまで読み取れない。
 「サ、サーシャさまあああああああっ」
 耳から血を流して地面に膝をついた少年がサーシャに助けを求め、不興を買う。 
 「誇り高きロシアの末裔たる者が、混血の害虫一匹に駆逐されるとは情けない」
 大儀そうにかぶりを振ったサーシャが仰々しく腕を振りかざし、ズボンのポケットから一本のナイフをとりだす。
 芸術的な装飾の施された鞘を抜き放ち、抜き身のナイフを手に握る。
 「ひっ!」
 サーシャの投擲したナイフが白銀の弧を描いて足もとに刺さり、少年が驚倒する。
 「北棟の恥さらし、ロシアの面汚しが。潔く頚動脈をかき切って自害しろ。恥辱を拭うには誇り高い自死しかない」
 恐怖に失禁した少年の背後から真打ち登場と歩み出たレイジがおもいきり柄を踏みこみ、造作なくナイフをキャッチする。
 「おりてこいよ皇帝。決着つけようぜ」
 「私は王座から動かない。そちらが上がってくるのが筋というものだろう」
 「階段に罠があるかもしれねえからな」
 「罠を恐れる東の王ではないと思うがな。買いかぶりだったか」
 この言葉に、レイジの笑みが変化する。
 笑みというよりは、笑みの形をした歪みと形容するのが正しい素顔が一瞬覗き、抜き身のナイフを腰にさしたレイジが優雅な足取りで階段へと向かう。カツン、カツン。硬質な靴音が響き、やがて監視塔の屋上にレイジが姿を現す。
 なにかをさがすように監視塔を見回したレイジ、その視線がロンの上でとまる。 
 「門限すぎても帰ってこねえから心配したぜ」
 「煩死了(おまえにはうんざりだ)」
 痴話喧嘩か夫婦漫才に発展しかけた二人の間に割りこんできたのは、重々しいバリトン。 
 「重畳なり、東の王よ」
 振り向く。
 背中に火傷を負ったサーシャが冷たいアイスブルーの目でレイジを見下している。裸の上半身の至る所に刻まれているのは夥しい傷痕。
 のっそりと現れたサーシャと相対し、余裕っぽくレイジが微笑む。
 「俺の物を取り返しにきたぜ」
 「だれがお前の物だ」
 「痴話喧嘩はよそでやってくれないか」
 「……喧嘩売ってんのかお前?買うぞ」
 間髪いれず抗議したロンに注意した鍵屋崎、険悪な雰囲気。ひそひそ声で口論しはじめた鍵屋崎とロンはさておき、こちらはこちらで本番開始。此岸と彼岸の距離を隔てて向かい合うサーシャとレイジ、最初に口を開いたのは北の皇帝。
 「舞踏会の幕開けだ」
 大袈裟に両手を広げて舞踏会の開始を告げたサーシャに、レイジがまた笑いの発作を起こす。
 「下僕のネズミどもを踊り狂わせただけじゃ飽きたらず、誇り高い皇帝自らコサックダンスを披露してくれるってか?」
 「王は踊り疲れたのか?」
 「まさか。前戯がぬるくて退屈してたんだ、今夜は一緒に踊ろうぜ」
 「ダンスの作法もろくに知らない下賎な混血児と踊るのは、貴様の汚い足で靴を踏まれそうでぞっとしない」
 互いに歩みだしたレイジとの距離が十歩まで狭まったとき、「連れてこい」と家臣に指示を下すサーシャ。忠実なる家臣に引き立てられた鍵屋崎とロンがこっちへと連れてこられるのに目を細め、うっすらとレイジが笑う。 
 「何の真似だ?」
 「愚かな王だな。なぜ私がリョウから薬を借りてまでこの薄汚い台湾人を拉致したと思う?答えは明白―……『これ』がお前の唯一にして最大の弱味だからだ。そうだな、リョウ?」
 「少なくとも僕はそう聞いたよ、彼から」
 笑いながら鍵屋崎に顎をしゃくってやる。突然水を向けられた鍵屋崎がハッとする。
 「おまえが噛んでたのか……」
 「………仕方ないだろう。眼鏡を盾にとられたんだ」
 「さっきの言葉そっくり返すぜ。こうなったのも全部お前のせいだ」
 ロンが正しい。僕も九割九部九厘鍵屋崎が悪いと思う。 
 「僕はレイジ本人からそう聞いた」
 「キーストアの言う通り、俺は嘘は言ってない。それがどうかしたか?」
 「―ならば」
 サーシャが顎をしゃくり、ロンの五指をめいっぱいに広げさせる。 
 「なんのつもりだよ?」
 ポケットから三本目のナイフを取り出し、家臣の手に渡す。ナイフを受け取って戻ってきた少年が仲間に目配せしてロンを取り押さえ、身動きを封じる。そして、いっそ無造作ともおもえる動作で腕を振り上げ、ロンの指の間にナイフの切っ先を突き立てる。
 「純血のロシア人たる私は本当の本当に混血が嫌いだ。とくにアジアの血が混ざった混血がな。奴ら黄色い猿どもの血が混ざった連中ときたら図々しいにもほどがある、とくに中国人は最低だ。地球の人口の実に五人に一人が奴らで占められる。我がロシアと国土を接していながら、文化も言語も料理もなにもかもが奴らはあまりに下品すぎる。非常に目障りだ。私が『外』にいたときに知り合ったさる中国人は、我がロシアが誇る伝統料理ボルシチよりチゲ鍋のほうが数倍辛くて美味だと主張して決して自説を曲げなかった。ボルシチなどブタの血をまぜて赤く見せただけの子供だましの料理だと」
 祖国の味を侮辱した男の顔を思い出しているのか、サーシャが残忍に笑う。
 「私はその中国人の舌を根元から切りとり、じっくり煮込んでボルシチを作った。とてもとても美味だった」
 とてもつっこめる雰囲気じゃないけど、舌を煮込んだのならボルシチじゃなくてタンシチューだとおもう。
 そんな僕をよそに、ふたたびロンの手を寝かせて指を押し広げる。
 「お前は中国人の血が混ざってる。ボルシチを愚弄してロシアを侮辱した中国人の血が」
 「……またか。中国人だったり台湾人だったり、てめえらの都合でころころ変えやがって。もううんざりだ」
 「真実だろう?お前は台湾と中国の混血で、いずれ劣らぬ下賎な血の末裔だ」
 とりつくしまもない判決を下してから、冷酷な声音でサーシャが命じる。 
 「小指を切り落とせ」
 「!」
 ロンの顔が恐怖に強張る。戦慄の表情を浮かべたロンを組み敷き、加虐の興奮に息を荒げながらその小指にナイフの刃をあてがう少年。 研ぎ澄まされたナイフの刃が、サーチライトの光を反射して鋭くきらめく。 
 「リビョ―ナクのように泣き叫べ。サバーカのように吠えろ。ああ、薄汚い中国人のクローフィが見たくて見たくてたまらない」
 ナイフが振り上げられ、ロンの小指が切り落とされ―
 「北の皇帝はあまり物を知らないようだな」
 ガチン、鈍い音がした。
 コンクリートの地面を穿ったナイフを見つめ、ロンが固まる。間一髪手元が狂い、目測を見誤った少年が驚愕に目を丸くする。少年の手元を狂わせたのは、それまで沈黙を守っていた鍵屋崎の意外に大きな声。
 「―どういう意味だ?」
 無表情に聞き返したサーシャを一瞥し、感情の欠落した声で鍵屋崎が答える。
 「チゲ鍋は韓国料理だ。中華料理じゃない」
 そして。メガネの奥で冷たく光る切れ長の目でちらりとロンを見やり、心底いやそうに付け加える。
 「あと、彼の指を切り落とすのは手錠をはずしてからにしてくれないか?他人の返り血を浴びるのはぞっとしない」
 「そうか、韓国料理か。それは知らなかった。お前ら黄色い猿どもの口にする餌など私からすれば中国も韓国も日本も変わらん。胸の悪くなるような腐臭をはなつ残飯にすぎんからな」
 例の少年に目配せしてナイフを取り戻したサーシャが鍵屋崎に接近、その頭上にナイフを翳す。
 地面に血が散った。
 切り裂かれた瞼から大量の血が滴り、メガネのレンズが赤く煙る。さすがに痛そうに顔をしかめた鍵屋崎の前で見せ付けるようにナイフを舐め上げ、うっとりとサーシャが笑う。
 「血の汚れた日本人の分際で誇り高きロシアの末裔たる私に意見する気か、その勇気は褒めてやろう」
 サーシャが再び腕を振り上げ、片手で瞼をおさえた鍵屋崎の顔に不穏な影がさす。 
 「ただー……その勇気には、愚者の烙印が押されるがな」
 サーチライトを浴びたナイフがぎらりと輝き、鍵屋崎の頚動脈へと迫り―
 惜しいところでそれを妨害したのは、視界の外からとんできた聖書だった。
 「!」
 狙い違わずサーシャの手を直撃し、遠方にナイフをはじきとばす。全員、揃ったように聖書がとんできた方角に目をやる。
 今更説明するまでもないが、そこにいたのはレイジだった。
 「サーシャ。お前、ほんとうに陰険」
 「東の王の名は伊達ではない、ということか」
 苦笑いしたレイジへと体ごと向き直り、拾い上げたナイフをもてあそびつつ、感心したふうにサーシャが呟く。
 「東棟の人間を盾にとられれば、いかなお前といえど手をだせないだろう。この中国人がお前の弱味だとはリョウから聞いていたが、それだけでは心許ない。念のためにもう一人人質を確保しておいてよかった」
 「まあ、メガネくんが夜中にふらふらほっつき歩いてるとこにでくわしたのは偶然だったけどね。結果オーライってやつ?ぼくの機転に感謝してほしいな、なんてね」
 鍵屋崎が東のスパイだと吹き込んだのが効いたらしく、あんまりオツムのよろしくない皇帝さまは僕のことを高く評価してくれてるらしい。ボロをださないよう、せいぜいお芝居しなくちゃ。
 「お前の働きには相応の褒美で報いよう」
 「やった」
 わざとらしく歓声をあげ、指を弾く。おっと、危ない!?危うくバランスを崩しかけ、それまで腰掛けていた手摺から墜落しかける。
 「ぶっちゃけ、そいつがどうなってもかまわないんだけどさあ」
 両手をばたばたさせて均衡を取り戻した僕が長々と息を吐いてる間、レイジは気だるげに肩を揉みほぐしていた。
 「べつに俺そいつとダチじゃねーし、同じ棟の人間だからってだけじゃ助ける動機にもなんねーし。さっきそいつがロンを見捨てようとしたのと同じこと。わざわざしなくていい苦労してまでダチでもねー人間助ける物好きはいねーだろ。鍵屋崎はからかいがいのある面白い奴だけど、そんだけだ。ロンと違って、俺はそこまで鍵屋崎に執着してない。早い話がタイプじゃない」
 「では、なぜ助けた?」
 「ロンの顔をほかの男の血で汚すのが嫌だったから、かな」
 驚いた、皆から恐れられる東の王様がそこまでロンにご執心だったとは。
 「で?北の皇帝は俺になにをさせたいわけかな。跪いて靴でも舐めてもらいたいわけ?」
 「そうしてもらおうか」
 冗談のつもりで言った一言をあっさり肯定され、レイジが大袈裟に仰け反る。
 「マジで?」
 「できないのか」
 所詮その程度の男なのかと言外に挑発を含めたサーシャに触発されたか、「だ・れ・が、できないと言ったよ?」とレイジが返す。そのまま無造作に足を踏み出し、しなやかな豹のように間合いを詰める。互いの距離が五歩まで狭まった時、おもむろにサーシャが片手を挙げる。
 「止まれ。頚動脈をかき切られる前に腰のものを返してもらおうか」
 サーシャの目が油断なく光る。レイジは舌打ちした。
 「ぬかりねえな、さすがに」
 言葉とは裏腹に、腰にさしたナイフを一抹の未練なくサーシャの足もとに投げ捨てる。乾いた音をたてて足もとに転がったナイフから正面のレイジへと目を戻し、沈黙。四歩、三歩、二歩。
 ついにサーシャの手前で立ち止まったレイジが、おだやかに口を開く。
 「サーシャ」
 「なんだ」
 「警告しとくが、俺があんたの足の親指を食いちぎらないって保証はどこにもない」
 「貴様の喉を私の足の親指が下る間に、あの中国人は手首を切り落とされ、あの日本人は両の目を抉りだされるだろうな」
 やれやれとレイジがため息をつく。最初からわかっていたが、一応言ってみただけだという諦観のポーズ。しばし夜空を見上げて物思いに耽っているかに見えたレイジがまずはサーシャを見、そして、ゆっくりとその場に跪く。
 サーシャの靴裏を支え、踝に片手を添える。
 そして、靴の先端に口付けする。上唇で触れるだけの、ごく軽い接吻。
 領主に宣誓する騎士のように厳粛な雰囲気、いにしえの儀式めいて神聖な光景にその場の全員が息を呑む。

 綺麗だ。

 その一挙手一投足が、サーチライトに照り映えたシャープな横顔が、とても綺麗だ。
 他人の靴にキスする姿がこんなに絵になる男も珍しいと妙な感慨にとらわれていた僕を現実に戻したのは、ガリッという耳障りな音。
 サーシャが憎々しげに奥歯を噛む音。
 「誠意の程度が知れるな」 
 激怒したサーシャが一息にレイジの頭上に足裏を振り上げ、振り下ろす。顔面を踏まれて地面に沈められたレイジの顔が苦痛に歪む間もなく、形よく尖った顎を蹴り上げて大きく仰け反らせる。後ろ向きに転倒しかけたレイジだが、咄嗟に手をつきことなきをえる。
 レイジの吐いた唾には血が混じっていた。
 「キスしろなどと一言も言ってない―『舐めろ』と言ったんだ」
 連続して足を振り下ろすサーシャ。されるがままに耐えながらコンクリートを掻いてサーシャに這いより、靴の先端を舐めようと舌を出す。飢えた犬のようにみじめな四つん這いの姿勢をとらされたレイジの視線の先には、首にナイフをつきつけられて身動きできずにいるロンがいた。
 お熱い友情に涙がでるよ、まったく。かってにトモダチごっこに酔ってりゃいいんだ。
 「舐めろ。サバーカのように」
 「……………………………」
 非情に追い討ちをかけたサーシャに従順に従い、地面に四肢をつき、なりふりかまわずサーシャの靴を舐めはじめる。満足げに微笑したサーシャの足もとに膝を屈し、時に顎を傾げて靴の先端をくわえこみ、時に不自由そうに首を伸縮させ、泥汚れを舐めとるように粘着質なまでに丁寧な舌づかいで靴の全体を舐める。
 一方的な奉仕の光景、強制と屈従の縮図。
 遠目に見ていた僕は、表面的にはポーカーフェイスを保ってるサーシャの息が上擦っていることに気付く。サーシャだけじゃない、屋上に居合わせた北の少年たち全員が熱に浮かされたように頬を上気させ、食い入るようにレイジを凝視しているのだ。
 鍵屋崎はどうだろうと好奇心から目をやればぎょっとするような顔をしていた。自分の目に映るものが信じられない、信じたくないという葛藤がありありと透けて見える慄然と固まった表情。
 と、なると。この場で純粋に怒りをおぼえてるのはただ一人。
 「―止めても無駄だ」
 唸るように吐き捨てたロンだけだろう。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060428013150 | 編集

 「茶色の毛並みの雑種のサバーカ」
 薄い唇をめくりあげ、爬虫類の笑みを刻んだサーシャが優位を誇るようにゆったりとレイジの頭上に手を伸ばす。
 「お前は従順でいい犬だ。東の王を名乗るより私の愛犬として靴を磨くほうが汚らしい雑種のお前にはふさわしい。どうだ?私の犬にならないか。待遇は保証するぞ」
 あはは、笑っちゃうほど陰湿だ。サーシャってばいい性格してるね。
 一方レイジはサーシャの靴を舐める行為に夢中で憎まれ口を叩き返す余裕もないらしく、戯れに髪をかきまわされても反応しようとしない。レイジの無抵抗・無反応を従順な忠誠の証ととったか、表情に乏しい顔に喜色を覗かせてサーシャが笑う。
 「―止めても無駄だ」
 力強い声が聞こえてきた。
 鍵屋崎の隣、今にもとびだしていきかねない形相で片ひざついたロンの目にはまっすぐな怒りが燃えていた。もう一分一秒たりともこんな胸糞悪い光景は見てられないと息巻いたロンを小声で制したのは鍵屋崎だ。
 「なにをする気だ」
 「もう辛包できねえ」
 ロンの目は真剣だった。
 さらになにか言い募ろうとした鍵屋崎が何かに気付いたようにはっとし、そのまま小声で話し出す。最初は驚き、次に理解。ロンの顔に去来した表情を正確に読み取った僕は、声がよく聞こえるようにとコンクリートの手摺から身を乗り出しかけ……
 「うわっと!?」
 あぶない!
 お尻をずらした拍子にまたも手摺から転落しかけ、虚空で腕をばたばたさせる。間一髪、後ろ向きに転落する前に手足を振ってバランスを取り戻した僕はほっと胸を撫で下ろす。下はコンクリートの固い地面だ、落ちたら骨折は免れないだろう。最悪即死だ。九死に一生をえた僕の鼻孔になにか焦げ臭い匂いがもぐりこむ。
 何の匂いだろう?それにこの、ぱちぱちと鼓膜を炙る乾いた音は。
 異臭の源をさがしてぐるり視線を巡らした僕の目の前を、炎の帯を描いてよこぎったのは一冊の本。レイジが武器として携帯し、先刻鍵屋崎のピンチを救ったまま存在を忘れ去られていた世界一のベストセラー……聖書。
 赤々と燃えながら宙を飛んだ聖書はロンと鍵屋崎をとりおさえていた少年のひとりにぶつかり、瞬く間にパッと燃え上がった。
 「ぎゃあああああああああ!」
 炎に巻かれて絶叫する少年を手をつかねて取り巻く仲間たち、拘束が緩んだ隙をついて示し合わせたように駆け出すロンと鍵屋崎。
 一直線に加速したロンが頭からサーシャの腰に激突、そのまま腕を前に突き出して押し倒す。もんどり打って地面に突っ伏したサーシャがこめかみを押さえて上体を起こす。
 白い五指の間から滴っていたのは、一筋の血。
 「―――クローフィの臭い雑種が」
 死を招く骸骨のような手を夜空にさしのべ、サーシャが咆哮する。その手にすべりこんできたのは一振りのナイフ。家臣が投げたナイフを宙でキャッチしたサーシャが腕を一閃、地面から上体を起こそうとしていたロンの頭上に凶刃が迫る。
 「ロ、」
 鍵屋崎が叫び、風が起こる。
 裂帛の疾風を起こして屋上を駆け抜けたレイジが間一髪ロンを押し倒し、唸りをあげて迫りきたナイフの軌道から救出する。錐揉み状に転げながら3メートル向こうで停止したレイジは、自分の腕の下で目を回しているロンを心配そうに覗きこむ。
 「生きてるか?生きてるな」
 「生きてるよ」
 「上出来だ」
 ふてくされたように吐き捨てたロンに極上の笑顔を湛え、ひとり蚊屋の外におかれていた鍵屋崎へと向き直るレイジ。
 「キーストアも無事か?」
 「非常に不本意だがな」
 やれやれ、のんきに歓談してる場合じゃないでしょうに。王様は余裕だね。
 「!」
 はじかれたようにレイジを押し倒すロン。ロンの反応があと一瞬遅れていれば、レイジの前髪をかすめたナイフは狙い違わず彼の頚動脈を切り裂いていたことだろう。助けたり助けられたり相互扶助の精神ってやつですか?美しい友情だね。
 スローモーションのように緩慢な動きで立ち上がったサーシャが掌中のナイフをぎりぎりと握り締め、呪詛を吐く。
 「血の汚れた雑種のくせに同胞を庇うとは上等な真似をしてくれる。先刻まで私の足もとに四つ脚ついて這いつくばり靴を舐め、強者には節操なく媚びへつらう雑種の本性を露呈していたくせに……」 
 「顎がこったぜ」
 わざとらしく顎を撫でながらのレイジの挑発に、サーシャの目に殺意が宿る。
 「躾のなってない犬の末路はふたつ……去勢か屠殺だ」
 「いいか?今から当たり前のことを言うから耳の穴かっぽじってよおく聞け」
 芝居がかったため息をつき、レイジが言う。 
 「I am not a dog. You are a goddamn guy.」
 綺麗な発音だった。なめらかで非の打ち所がない。
 僕みたいな日本生まれ日本育ちの英国系にはイヤミにしか聞こえないほどネイティブな発音だけど、ここで問題にすべきはその内容。生粋ロシア人のサーシャにもレイジが言わんとしていることが汲み取れたようで、その目に氷点下の火花が散る。
 「北棟の威信に賭けて今晩お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「そんな大義名分じゃなく、皇帝の本音が聞きたいね」
 「私自身の名誉に賭けて、お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「ああ、それならいいぜ。踊ってやるよ」
 余裕たっぷりにサーシャの挑戦を受けたレイジへと腰だめにナイフを構えて突進してゆくサーシャ、コンクリートを踏み割らんばかりの気迫がびりびりと大気を震わせ、鼓膜が破れそうな錯覚に襲われる。死角から巧みに浴びせられる斬撃をひらりひらりとかわし、赤子の手をひねるようにサーシャを翻弄するレイジだが弧を描いて戻ってきたナイフがそのシャツを切り裂く。
 一進一退のすさまじい攻防戦。
 一瞬でも隙を見せたら負け、敗北、死だ。
 皇帝と王の対決を金縛りにあったように見つめる北の少年たち、人間ばなれしたブラックワーク上位陣の実力に度肝をぬかれた彼らの目の前で熾烈な死闘を繰り広げながらサーシャが呟く。
 「どうした?逃げてばかりだな」
 「あのな……」
 ナイフを弄びつつのサーシャの台詞に、レイジはあきれたふうに首を振る。
 「ずるいと思わないかこの状況?お前はナイフを持ってるのに俺はこのとおり手ぶら。アンフェアもいいところだよ」
 「無敵の王を称すなら徒手で勝利を奪いとれ」
 「お前はそれで勝って満足なのか?誇り高い北の皇帝サマともあろうお方が自分だけナイフ持って対戦相手にはなにひとつ武器を与えずに勝利したとあっちゃ、かえって他の棟の連中に馬鹿にされるぜ」
 「なぜ私が馬鹿にされなければならない、奇妙なことを言うな。自分の胸に手をあてて考えて見ろ……お前は収監以来無敗を誇るブラックワークの覇者であらゆる武器の扱いに通じている。ナイフ?聖書で人を廃人にできるお前には無用の長物だ。私はこの目で見たぞ、お前が聖書ひとつで枯れ草のように敵を薙ぎ倒してゆくさまを」
 「今は手ぶらなんだけど、優しく誇り高い皇帝さまは勝負の公平を期すためにナイフを貸し与えてくれたりは―……」
 「案ずるな、そんな気は毛頭ない」
 「……ケチ」
 唇をとがらしてぼやいたレイジだが、僕にはどうしてもレイジが敗北する図が想像できない。
 たしかにレイジは手ぶらで、現時点では分が悪い。息継ぐ間もなく繰り出されるサーシャの刺突に後手後手にまわり、防御に専念しているのが現状だ。でも、どうしてもレイジが負ける気がしないのだ。
 根拠はあの笑顔だ。
 戦闘中でもレイジは微笑みを絶やさなかった。一方のサーシャがさすがに息を乱してレイジを追い詰めているというのに、追い詰められてる側のレイジの笑みは片時も薄れない。
 まるで、こうなるのを計算してたといわんばかりの―
 レイジがサーシャの腕を蹴り、天高くはじかれたナイフがロンと鍵屋崎の頭上に落ちてくる。ロンはともかく反射神経の鈍い鍵屋崎のことだ、避けられるはずがない。
 でも、僕の予想はまたしても裏切られた。手錠でつながれてたのが幸いしたらしく、ロンの反応が早かったおかげで鍵屋崎も危地を脱することができた。同時に手をかざし、手錠の鎖でナイフを撃ち落とす。サーシャが舌打ちし、かちゃんと地面に落ちたナイフめがけて突撃を試みる。
 サーシャの目の前でナイフが蹴りとばされ、さらに遠方に転がる。
 「―小ざかしいイポーニャめ」
 蹴り上げた張本人の鍵屋崎は自分がしたことが信じられないという驚きの表情をしていた。本当なら鍵屋崎を殺したいところだがナイフを拾い上げるのが先だと優先順位をつけたサーシャが踵を返し、鞭打たれたように跳ね起きたロンがその背を追う。
 鍵屋崎を道連れにして。
 「そうはさせるか!」
 捨て身でサーシャの足にとびつき、転ばせる。
 鍵屋崎を巻き添えにして勢いよく転んだロン、その下でうめくサーシャ。転んだ衝撃で意識が朦朧としてるのだろう、サーシャに隙ができたのを見逃さずにその場に現れたレイジが素早くナイフを拾い上げる。
 「Lick my shoes, and it is the emperor.(今度はお前が俺の靴を舐める番だぜ、皇帝)」
 王者の貫禄でサーシャを跪かせたレイジが、のろのろとサーシャの上からどいたロンを振り向き、さわやかに言う。
 「とっくに12時過ぎた、舞踏会はおしまいだ。お姫様はかえしてもらうぜ」
 「~~~だれが姫だ」
 「我が身を挺して俺を助けてくれたのは愛してるからだろ?いい加減素直になれよ」
 「いいか、よく聞けよ。俺があちこり擦りむきながらもサーシャを足止めしたのはな……」
 「うん?」
 怒りをおさえこむように深呼吸したロンが忌々しげにレイジを睨む。
 「下賎で卑しい混血児の底力ってやつを、奢り高ぶったロシアの皇帝気取りに見せつけてやりたかったからだ。それだけだ。断じてお前のためじゃねえ」
 「つれねえなあ」
 そこがいいんだけどと苦笑するレイジ。なまぬるい痴話喧嘩と大団円ぽい雰囲気を手摺の特等席に腰掛けて眺め、やれやれとため息をつく。今宵の舞踏会はこれで幕切れ、かな。招待状まで書いていろいろ手配したのにサーシャの敗北で幕を閉じるなんて、骨折り損のくたびれもうけもいいところじゃないか。第一、頭のいかれたサーシャのことだ。意識を取り戻し次第「レイジに負けたのはお前のせいだ」とかわけわからない根拠不明の言いがかりをつけて僕に八つ当たりしかねない。
 サーシャは僕の味方じゃない。サーシャにとっての僕は薄汚い東の犬、それだけだ。レイジのまわりを嗅ぎ回せるには便利だけどそれ以上の価値はない。北の皇帝が東の王に負けた今、サーシャの怒りの矛先が東棟の人間である僕に向かないという保証はどこにもないのだ。
 まいっちゃうよね。スパイはコウモリ、コウモリは嫌われ者。
 ネズミでもなけりゃ鳥でもない、両陣営から憎まれて使い捨てにされるのが宿命。
 まあ、僕もそれを承知でサーシャにくっついてたんだから仕方ない。計算外だったのはサーシャの敗北。たしかにレイジはでたらめに強いけど、北の人間数十名でかかっても倒せないほどじゃないと高をくくってたのだ。
 ああもう、なにもかも台無しだ。こんなしらけた幕切れアリかよ。
 なんだか腹がたってきた。レイジが勝ったせいで僕の立場は一気に悪くなる。北のスパイとして動き回ってた僕はこれからどうしたらいい?サーシャの信用を失えば甘い汁が吸えなくなるじゃないか。
 屋上中央で雑談してる三人に目をやる。レイジ、ロン、鍵屋崎。
 和やかな雰囲気がムカツク。そりゃレイジは気分いいだろう、自分が勝利したんだから。ロンだってまんざらじゃないはずだ、口では文句言ってても自分のピンチも顧みずにレイジが助けにきてくれたのだ。今回の一件でちょっとはレイジを見直しただろう。
 そして、ふたりと自然に話してる鍵屋崎。そもそも僕が巻き込んだんだけど、アイツの顔を見てると無性にむしゃくしゃしてくる。ちょっとは怯えるか泣くかすればまだ可愛げがあるのに、ナイフをつきつけられた時も平然と取り澄ました顔して気に入らない。
 アイツには怖いものがないのか?
 そんな人間いるわけない。だれにだってひとつやふたつ怖いものがあるはずだ。
 僕には怖いものがたくさんある。
 人に殴られるのは怖い、殺されるのも怖い。だからそうならないために人を利用することにした。にこにこ人懐こくしてれば人に嫌われることもない、憎まれることもない、無闇やたらと殴りつけられることもない。僕は利己的な人間だから人を蹴落とすことなんてなんとも思わない。良心だって痛まない。そうしないと生きてこれなかったからだ。
 そして今、僕がいちばん怖いのはサーシャだ。
 正確にはサーシャの庇護を失った後のここでの生活だ。次のパトロンをみつけるまでにかかる時間に思い馳せると気が重い。人格とか人間性はさておき、金払いに関してはサーシャは最高に気前がいい上客だったのに……
 むかむかしながらふと足もとを見下ろすとナイフが転がっていた。サーシャの四次元ポケットからでてきたナイフの一本だろう。なにげなくナイフを手にとり、屋上中央の三人の顔と見比べる。
 レイジ、ロン、鍵屋崎。
 「まったく、大損だよ」
 全部お前らのせいだ。
 いつもへらへら笑ってるレイジも感じの悪い仏頂面のロンも気に食わないけど、いちばん気に入らないのはアイツだ。ちゃんとパパとママが揃った家庭に生まれたにも関わらずパパとママを殺してわざわざこんなくそったれた刑務所にきたアイツ、飢えることも殴られることもなく裕福な家庭でぬくぬく育てられた日本人、世の中のなにも怖くないって顔で人を見下してるイエローモンキー。
 お前だよ鍵屋崎。
 気付いたとき、僕はナイフの柄をぎゅっと握り締めていた。見えないなにかを握りつぶそうとでもいうように指に力をこめ、おもむろに腕を振り上げる。僕の視線の先にはレイジとロンと鍵屋崎がいた。
 笑ってるのはレイジひとりだけど遠くから見ると友達同士に見えなくもない輪を作った、三人の少年。
 その中のひとりに狙いをつけ、高く高くナイフを放る。
 さよならメガネくん。
 たった今気付いたけど、僕、きみのことが大嫌いだったらしい。自分で思ってたよりずっと。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060427013315 | 編集

 空高く舞い上がったナイフが鍵屋崎の死角に急降下する。
 鍵屋崎は気付かない。サーチライトを反射したナイフがぎらりと輝き、無防備な頭上を急襲しても―
 ん?違和感を感じ目を細める。鍵屋崎の背後で何かが動いてる。長身痩躯の人影だ。闇に紛れて忽然と鍵屋崎の背後に現れたそいつが腕を一閃、ぼーっと突っ立ってる鍵屋崎のこめかみを掠めるように木刀が撓る。
 ガキン、耳底を揺する鈍い音と同時にメガネとナイフが弾け飛ぶ。
 鍵屋崎を背に庇い仁王立ちしたその人物は……
 「サムライ?」
 「無論だ」
 意外そうに叫んだ鍵屋崎に応じたのは無愛想な返事。仏頂面のサムライが隙なく木刀を構え、闇の帳越しにこちらを睨みつけている。ちぇっ、残念。もう少しでジャマな日本人を消せたのに。
 まあいいや、時間稼ぎはできた。
 コンクリートの手摺に腰掛けた僕の視界の端々に退避し、闇に紛れて敵の動向を窺っていたのは北棟の生き残り、狂える皇帝サーシャの忠実なる家臣たち。レイジに膝を屈したサーシャの姿を目の当たりにして怒り心頭に発した彼らがじりじりと屋上中央に固まった四人との間合いを詰めてゆく。
 攻撃は唐突だった。
 獣じみた咆哮を皮切りに、怒涛をうってレイジたちへと突撃してゆく北棟の生き残り。北から南から東から西から前後左右から、全方位の視界を塞いで一斉に攻めてきた少年たちに足取り軽く応戦するレイジとサムライ。それぞれがロンと鍵屋崎を背に庇うかたちで相対した敵を屠ってゆく。よどみない動作で木刀を振り、的確に急所をついてゆくサムライ。人体の中心線を狙い、柔軟に蹴りをはなつレイジ。たった二人、たった二人の男に数では倍に比する少年たちが圧倒されている。
 攻撃が緩んだすきに摺り足で移動、互いの死角を補うために背中合わせに立ったレイジとサムライの傍らで危うげに地面を探っていたのは鍵屋崎。木刀にはじかれたメガネを見つけ、いそいそと拾い上げる。ふたたびメガネをかけた鍵屋崎と偶然目が合い、おかしさがこみあげてくる。
 「リョウ!お前、サーシャになにか弱味でも握られてんのかよ?そこまで義理立てする理由ってやつを教えてほしーな、二百字程度で」
 「二百字もいらないね。サーシャは上客だ。僕はまだ彼から報酬をもらってない。このまま君たちを帰せば永遠に報酬がもらえなくなるー……」
 すうと深呼吸した僕を見て、馬鹿にするようにレイジが笑う。
 「アフターケアは万全ってか」
 「レイジさ、誤解してない?野郎の下で股開くのだけが僕の仕事じゃないんだよ」
 心外だ。囚人・看守相手の売春は僕が数多く持ってる顔のひとつにすぎない。もったいぶって四本指をたて、続ける。
 「サーシャは君のことを憎んでる。そりゃもう手段を問わず亡き者にしたいほどに。そりゃそうだよね、サーシャの混血嫌いは有名だもん。とくにアジアの血が混ざった奴なんて人間として認めてないね、家畜以上犬以下ってかんじ。そんなサーシャにとって東棟の王様は目の上のたんこぶなわけよ、君がいる限りブラックワークの覇者になることはできないもんね。北棟・南棟・東棟・西棟……東京プリズンを構成する四つの棟にはそれぞれトップがいて、東西南北それぞれの棟をシメてる四人+その四人に継ぐ腕自慢の実力者のみが栄えあるブラックワークのリングにあがれるわけだけど」
 「よっ」と反動をつけて手摺からとびおり、ぶらぶらと屋上を歩く。
 「レイジ……君が入所してからというもの、殆ど番狂わせが起きなくてみんな退屈してるんだ。そりゃ下位グループはめまぐるしく変動してるけど、上位陣の顔ぶれは毎回ほぼおなじ。下克上こそブラックワークの醍醐味っしょ?負けた奴はトップの座から退き、首領の座を譲る。それが東京プリズンの暗黙の掟なのに君ときたら何年一位を独占すれば気が済むのかな?さすがにちょーっと図々しすぎない?」
 屋上中央で歩みを止め、挑発的にレイジを覗きこむ。
 「サーシャがキレても無理ないよ」 
 「どうでもいいけどリョウ」
 すれ違う間際、吐息に絡めてささやいた台詞にかえされたのは不敵な笑み。
 「二百字超えてる」
 「……うっわー、やな性格」
 顔がひきつるのはおさえられなかった。
 ポケットに手をつっこみ、スキップするように後退。視界の端で銀の頭が起き上がるのを確認し、声をはりあげる。 
 「ハイ、時間稼ぎおしまい。復活の時間だよ、皇帝」
 「「!」」
 ナイフを手に立ち上がったサーシャに一同の視線が注がれる。
 「―しぶといね、本当」
 自分が投げ捨てたナイフを握り締め、幽鬼じみた瘴気をまとって復活したサーシャにレイジがうんざりと顔をしかめる。
 「下賎な雑種に慈悲をかけられるなど、北の皇帝の名誉にかけて断じて許せん」
 「命の恩人に感謝するフリくらいはしろよ」 
 「恩人?これはたとえ話だが……一匹の犬がいたとする。血の汚れた雑種だ。その犬が飼い主に噛み付いたとする。それがたまたま喉笛でなく足首だった。さて、飼い主は『喉笛ではなく足首に噛み付いてくれてありがとう、お前は本当にやさしい良い犬だ』と感謝すると思うか」
 「Oh my god」
 情けない声をだしたレイジに歩み寄ったロンが、地面に落ちていたナイフを拾い上げる。さっき僕が投げたあのナイフだ。
 「レイジ。もういい、めんどくさい。決着つけろ」
 「いいのか?お前、俺がとどめ刺さなくて安心したんじゃねえの」
 「お前らのような殺人狂と一緒にすんな、今だって血なんか見たくねえよ……けど、むこうに引き下がる気がないならケリつける方法はこれっきゃねえだろ。第一、俺は眠いんだ。明日も強制労働がある。お前らブラックワークの特権階級は試合日以外やりたい放題好きに過ごせていいだろうけど、こちとら庶民階級はそうはいかねえ。東京プリズンでラクできるのは王様だけだ。俺は庶民だから、睡眠時間削ってまで王様の茶番に付き合わされるのはこりごりだ」
 手渡されたナイフをもてあそびながら眠たげな顔のロンを見つめていたレイジの口元が綻び、好戦的な眼光が強まる。生き生きとした顔のレイジをあきれたように眺め、釘をさす。
 「後腐れなく今この場で、一対一で決着つけろ。でも、できれば殺すな」
 ロンから手渡されたナイフをじっくりと見下ろし、サーシャへと向き直る。手にしたナイフを握りなおし、臨戦態勢に入るサーシャ。
 四隅にサーチライトが輝くコロシアムで、王と皇帝の頂上決戦が始まろうとしている。

 「OK, let's fight(殺るか、皇帝)」
 「望むところだ、サバーカ」
 
 「さて、こっちはこっちで殺ろうか」
 どっちが勝つのか見届けたい気持もあるけど、こっちはこっちで後腐れなく決着つけとかなきゃね。
 ポケットに指をひっかけて振り向く。サムライ、ロン、鍵屋崎。北棟の残党に取り囲まれ、身動きできずに追いつめられた三人を少し距離をおいて眺め、口の中だけで呟く。
 「Fack Faight」
 まず動いたのはサムライだ。
 サムライが腕を一薙ぎし、木刀が虚空を走る。打ち下ろされた木刀が鎖を叩いた刹那、輪だけ残して脆くも壊れてちぎれとぶ手錠。
 卓抜した手品のようにあざやかな光景にあんぐり口をあけたロン、驚きに目を見張った鍵屋崎から周囲を取り巻いた敵へと視線を流し、サムライが言う。
 「鍵屋崎、目は見えるか」
 「眼鏡をしてるからな」
 なにを当たり前のことを、と完璧ひとを見下した調子でかえした鍵屋崎の方は見ず、サムライが断言する。
 「それならば、俺の背を掴まなくても自分の身くらいは守れるな」 
 サムライが木刀を振り下ろすのと、鍵屋崎が殴り倒されるのは同時だった。
 二人同時にとびかかってきた少年を難なくさばきながら間合いをとるサムライ、奇声を発して殴りかかってきた少年の脇腹に鋭く蹴りを入れるロン。腕に覚えがある二人は問題ないとして、暴力沙汰とは縁のない環境でぬくぬく育ってきた鍵屋崎はなかなかダメージを回復できず、コンクリートに仰向けた姿勢で苦しげにもがいていたが、顔面めがけて今まさに拳がうちこまれんとした瞬間に膝を跳ね上げ、胴にまたがっていた少年を振り落とす。逆上した少年が突進してくるのにあわせて後退、手摺を背にして待ち受けると見せかけておもいきり頭を屈め、前傾姿勢をとる。
 「ぎゃああああああああああ!?」
 手摺を乗り上げた少年の悲鳴が夜闇に響き渡る。
 「慣性の法則だ」
 手摺のむこうを見下ろし、鍵屋崎が捨て台詞を吐く。
 「力がはたらくと物体の運動のようすが変わる。逆にいうと、運動のようすが変わった物体は必ず力を受けたことになる。要するに力がはたらかないときは速さや向きが変わらない、ということだ」
 わけがわからない。
 息をきらして駆けつけてきたロンと二言・三言交わし、再び敵とまみえる。なんだアイツ、ひよわな日本人だとバカにしてたらなかなかやるじゃん。八割は偶然の産物だろうけど。
 なかなかどうして健闘してる鍵屋崎からサーシャたちへと視線を戻すと、こちらはこちらで白熱していた。
 最も、ふたりが動く気配はない。互いに互いを見つめたまま、微動だにせずその場に立ち竦んでいるのだ。隙をついて攻撃しようにも隙がなくて動くに動けない、そんなかんじ。 
 ただ、二人を取り囲む空気の密度だけが何十倍にも膨張したかのような錯覚を受ける。
 重苦しい沈黙を破ったのはレイジだった。
 「北のガキどもは全滅だ。お前も降参したらどうだ、皇帝」
 「痴れ者が。その口に私の靴を舐める以外の用途は認めん、愚にもつかん戯言は聞き飽きた」
 「舐めるより舐めさせるほうが好きだな、俺は」
 軽口の応酬を済ませ、相対する王と皇帝。サーチライトに導かれて大股に歩を詰めるサーシャをリラックスして待ち受けるレイジ、その顔には終始ひとを食ったような笑みが浮かんでいる。
 「べつにここで決着つけなくても、二日だか三日後には正規のリングで片がつくんだぜ」
 「ブラックワークのリングで、満場の囚人が見守る中で、か?お前のような血の汚れた男を神聖なリングにのぼらせるなど、考えただけで虫唾が走る。あまつさえ、お前のように下等な猿の血が流れた男と同じリングで戦えと?褐色にくすんだ肌と薄汚れた茶の髪のいやらしい混血児と同じリングの上で戦い、自ずから囚人の見せ物になれと?反吐がでる提案だな」
 「一対一で俺に勝つ自信がねえから、客の前でみじめに吠え面かくのがいやだから、試合前に集団リンチなんて卑怯な手使ったんじゃねえの?」
 「お前とおなじリングに上がるなど、満場の客の前で野犬と交尾しろと言われているようなものだ」
 「皇帝のプライドが許さないってか」
 「賢い犬だ」
 接触の寸前、ナイフが大気を裂いた。
 レイジの前髪をかすめたナイフが白銀の弧を描いて戻ってくるのを待たず、続けざまに攻撃を繰り出すサーシャ。一直線に心臓を狙って繰り出されたナイフを体前に掲げたナイフの刃で受け止め、レイジが笑う。
 「犬じゃねえっつの」
 細い腕の下でねじりあわされた筋金の筋肉に物を言わせ、力づくでナイフをおしこんでくるサーシャに右腕一本で対抗しつつ、レイジが口を開く。
 「R(アール)」
 サーシャのナイフが頬の薄皮を裂く。
 「A(エー)」
 右腕を切り裂こうと斜め上方から振り下ろされたナイフをナイフの背で弾き、サーシャの懐にもぐりこむ。
 「G(ジィー)」
 サーシャに後退する間を与えずにナイフを跳ね上げる。下顎が切り裂かれ、血が飛び散る。
 「E(イー)……レイジ。それが俺の名前だ、おぼえとけ」
 狂気にくまどられた微笑を浮かべたレイジがサーシャの防御が綻んだ隙に鋭くきりこみ、その心臓を抉るべく電光石火の速度でナイフを突き出す。サーシャは素早くこれに反応した。あざやかに手を翻し、ナイフの柄でレイジの手の甲を叩く。レイジの腰が前に泳いだその瞬間、無防備な頭上めがけてナイフを投げ上げる。
 「看上部!(上だ!)」
 ロンの声を拾い上げ、流れるように前転の姿勢に移る。前転から起き上がり、コンクリートの地面に投げたナイフを掴む。
 「愛してるぜロン!」
 「前を見ろ!!」
 レイジが正面を向いた時にはわずか1メートルの距離にまでサーシャが迫っていた。
 「私は認めん。お前のような下賎な混血児が私の上に君臨するなど、断じて認めん」
 うわ言のようにぶつぶつ呟きながら疾走してきたサーシャの目は完全にイッていた。僕が打ったクスリが全身にまわり、現実と妄想の境がつかなくなってるらしい。アイスブルーの目に狂気を宿し、飛ぶようにコンクリートを蹴って迫りきたサーシャと対峙し、レイジが目を瞑る。
 こんな時に目を瞑るなんてなにを考えてるんだ、ぼくらの王様は。まさか、勝負を投げたのか?
 そういぶかしんだ僕の目の前、瞼を下ろして瞳を隠し、レイジが呟く。
 『主よ。王をお救いください。私が呼ぶときに私に答えてください』
 今度はぼくにもはっきり聞こえた。
 『Amen』
 「王よ、みじめに死ね」
 祈りの文句に被さったのは風鳴りの音と非情な宣告。綺麗な弧を描いてレイジの首筋へと吸いこまれたナイフの刃に目を奪われる。レイジの頚動脈が断ち切られて噴水の如く血が噴き出すまぼろしを見た気がしたけど、かわりに夜空を舞ったのは何かきらきらしたもの。
 サーチライトが眩く照らす中、紺青の夜空に舞った黄金の粒子の正体はレイジの首からちぎれとんだ金鎖のかけら。紙一重でナイフを避けた拍子に首からさげていた金鎖が切断され、金鎖の先にぶらさげていた十字架ともども宙に旋回する。
 傍目には偶然としかおもえない奇跡が起こった。
 空中にてサーチライトの光を反射した十字架が眩く輝き、その光線が今まさにレイジの息の根をとめようとしていたサーシャの目を射る。たまらず目を覆って後退したサーシャへと肉薄、頭上に片手を上げて金鎖の切れ端を掴み、レイジが勝ち誇る。
 「あばよ、皇帝」
 サーシャの首に金鎖が巻きつき、極限まで剥かれた目におびただしい毛細血管が浮かぶ。静脈が浮いた首を掻き毟り、くぐもった呻き声を漏らしたサーシャの体がやがてぐったりと弛緩し、コンクリートの地面に膝をついてその場にくずおれる。
 「お前の敗因を教えてやるよ」
 自分の足もとに倒れこんだサーシャを見下ろし、哀れみ深くレイジが諭す。
 「ひとつ、ナイフの扱いに長けてるのはお前だけじゃない。ふたつ、俺は身につけてるものこの場にあるもの、すべてを武器にできる。みっつめ……これが決定打だ。お前はアマチュアで、俺はプロだ」
 サーシャはアマチュアで、レイジはプロ。
 どういう意味だかよくわからなかったけど、これだけは言える。僕はこの目でばっちり見ていた。頚動脈を狙ってくりだされたナイフを避けたとき、レイジが首からさげていたネックレスの金鎖がちぎれとんだのは決して偶然などではない。ナイフの方向、速度、位置、法則。それらを全部踏まえた上でサーシャのナイフが金鎖を切り裂くよう計算し、レイジは首を倒したのだ。
 サーシャの完敗だ。
 「レイジ!」
 手をつかねて傍観していたギャラリーがはじかれたように駆け寄ってくる。レイジを無視してサーシャの脇に屈みこみ、息があることを確認したロンがあからさまにホッとする。失神したサーシャを取り囲むように集まりだした四人を眺め、コンクリートの屋上を見回す。周囲には死屍累々と北の少年たちが倒れていた。皆意識を失っているだけで息はあるようだ。
 「―ひとつわかったことがある。ブラックワークについてだ」
 視線の先で鍵屋崎が口を開く。
 「サーシャ及び北棟の少年たちの言動、レイジ―すなわち君の言動を総合した結果、導き出される結論はひとつ。ブラックワークとは東京プリズンの暗部―おそらくレイジ、君が担当しているブラックワークは囚人たちに息抜きの娯楽を提供するのが目的の部署。リョウの言葉から推測すれば、東西南北四つの棟のトップとそれに継ぐ腕自慢の実力者だけがこのブラックワークに配属されるらしい。つまり……」
 「バトルロワイヤルさ」
 鍵屋崎の語尾を奪ってネタバレ。四人の視線が僕に向くのを待ち、ひょいと手摺からおりて屋上中央へと歩み寄る。
 「さすがだね眼鏡くん、その眼鏡が伊達じゃないってのも今なら頷けるよ。君の言うとおり、ブラックワークの存在理由は囚人どものガス抜き、東京プリズンのエンターテイメント担当、これに尽きる」
 「なぜだ?なぜ刑務所にそんなものが……」
 理解に苦しむという顔つきの鍵屋崎を哀れみたっぷりに見つめ、わざとらしく両手を広げてみせる。
 「眼鏡くん忘れてない?ここはただの刑務所じゃない、最低最悪のブタ箱と名高い東京プリズンだよ。とうぜん収容人数だって他に類を見ず、日本全国から集められてる札つきのワルばかり。そんな連中が日々の強制労働でストレスためてぷっつんきて暴動起こしちゃったらどうする?上からの圧力で抑えるにも限界があるっしょ。だいたい数が半端じゃないからね、万一そういう事態が起こったときに看守と囚人の力差が逆転しないともかぎらない。だから上は一計を案じたわけさ。囚人にも娯楽が必要だろう、適度な息抜きが必要だろうって。それで設置されたのがブラックワーク。三度の飯より喧嘩が好きで、それが高じて刑務所にぶちこまれたオツムの悪いガキどもにはうってつけのショウってわけ。ルールはなんでもありのバトルロワイヤル、どんな手を使っても勝てばいいってのが公然とまかりとおってる共通認識。で、日頃うっぷんをためこんでる囚人どもはブラックワークの試合観戦で憂さを晴らしてせいせいして房に戻ってゆく、とまあこーゆーわけ」
 「そのわりにはリンチやレイプが横行してるみたいだが」
 やれやれ、飲み込みが悪い。さっきも言ったじゃないか、「ここをどこだと思ってるの?」と。懐疑的な口調で指摘した鍵屋崎に苦笑いし、僕は続ける。
 「こうは考えられないかな?ブラックワークがあるから『この程度』で済んでるんだ、と」
 後は頼んだよとレイジに視線で乞うと、我らが王様は親切にも説明を引き取ってくれた。  
 「ブラックワークがなかったら、今頃キーストアなんて手足の健切られてケツ掘られて捨てられてる頃だぜ。お前が今日まで生き残ってこれたのはブラックワークのおかげだ」
 「ブラックワークは上・中・下の三つに分けられると聞いた」
 「そこまで知ってんのか」
 レイジが驚きの表情を浮かべるのを無視し、鍵屋崎が繰り返す。
 「『上』はわかった。『中』と『下』はなんだ」
 世の中にはしらないほうがいいことがたくさんある。わざわざ好き好んで開かずの扉を開けることもないのに。 
 詮索好きな鍵屋崎に内心あきれつつポケットを探り、一枚のコンドームを握り締める。鍵屋崎の隙を狙い、手の中のコンドームをぽいと投げる。
 「『中』は売春」
 反射的にコンドームを受け取った鍵屋崎が目を丸くする。
 「刑務所の中で公認売春が行われているというのか?」
 上擦った声で叫んだ鍵屋崎に首を竦め、食えない笑みをたたえる。
 「そう、公認売春―まさにそれだ。上だってもちろんこのことは知ってる。いいかい、ブラックワークは必要悪なんだよ。闘技観戦でストレスを発散し、公認売春で性欲を解消する。そうすれば看守の目の届かないところで行われるリンチやレイプも多少は減るし、犯られるほうだって持ち回りの義務だとおもえば諦めがつくっしょ。念のため言っとくけど、今日まできみが処女を守りとおせたのはブラックワークの売春夫たちの存在あってこそだよ。彼らがいれば、囚人の大半は腕づくで新入りを犯そうなんて気は起こさない。抵抗してくれなきゃ燃えない、反抗してくれなきゃ燃えないって、はねっかえりの新入りのケツばっか追っかけてる凱みたいな物好きもなかにはいるけどさ。で、『下』だけど」
 「―もう、いい」
 さらに続けようとした僕をさえぎり、鍵屋崎がうなだれる。言わなくても察しがついていたのだろう、唇を引き結んでうつむいた鍵屋崎の顔には形容しがたく複雑な表情が浮かんでいた。
 「『下』の仕事は死体処理だろう」
 絞りだすように呟いた鍵屋崎を見て、にっこりとほほえむ。
 「ご名答」
 きみの言う通り、ブラックワーク『下』のお仕事は死体の運搬と処理だ。
 さっき東棟の裏手で目撃したリュウホウも、おそらくブラックワーク『下』に属しているのだろう。僕には半ば察しがついていた。凱たちにリンチされたダイスケの死体を見回りにきた看守が見つけ、ブラックワーク『下』の囚人を叩き起こす。ダイスケの死体がほかの囚人に見つかって騒ぎになる前に、腐敗して蝿がたかりだす前に密やかにここから運び出すようにと命じられたリュウホウはその言葉に従い、二人一組で組まされた囚人と協力してダイスケの死体をゴルフバッグにつめこむ。
 なぜ二人一組で行動するのが原則の『下』のリュウホウがあんな時間にひとりでほっつき歩いてたのか謎だけど、おおかたうじうじじめじめした性格が災いし、相棒と喧嘩して放り出されるかしたんだろう。
 同じジープで運ばれてきた囚人のうちひとりは死亡、もうひとりは東京プリズンでも最悪の任に就かされて。
 右手薬指と瞼の上を怪我しただけで済んだ鍵屋崎は、三分の一の確率で自分が生き残ったという自覚があるのだろうか。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060426025811 | 編集

 「で、どうなったんスか」
 「どうなったもこうなったも」
 まん丸の目を好奇心に満たし、右手に握り締めたフォークの存在も忘れて身を乗り出したビバリーをじらすようにため息をつく。
 「僕が今話したとおりさ。北の皇帝VS東の王様のシークレット決勝戦は東の王様の圧勝、北の皇帝とその一味はレイジたちが去った三時間後に看守に発見されて房に強制送還。主犯格のサーシャ以下何人かは独居房送り」
 「うへえ、独居房っすか!悲惨っすね」
 大袈裟に目を剥いたビバリーをよそに箸を操り、アルミ皿によそられたマッシュポテトをつつく。味気ないマッシュポテトを口に運びながらぶつくさとぼやく。
 「まったく、巻き込まれなくてよかったよ。サーシャたちが起き出す前に退散しといて正解だった」
 「ずいぶん余裕っすね、リョウさん。今回の件で立場が悪くなかったんじゃないんすか」
 今晩の夕食はマッシュポテトとコンソメスープとサラダという毎度変わり映えしない粗食。ほとんど味のついてないぱさぱさしたマッシュポテトを飲みこみながら、やっぱりこれも殆ど味のないコンソメスープを口に含む。サラダのレタスは黄色く褪せていてウサギでさえ吐き出しそうに傷んでいる。乾燥したレタスを口につめこみながら疑惑の目を向けてきたビバリーにフォークを振って続ける。
 「確かにサーシャが負けたせいで僕の立場は悪くなった、北のスパイだってことがレイジたちにバレちゃったしね。東棟で生きにくくなるよ」
 「その割には上機嫌っすね」
 テーブルの向かい席でやる気なさそうにレタスをつついていたビバリーがうろんげに目を細める。
 「なにを隠してるんすか?」
 「隠してるなんて人聞き悪い」
 フォークを口にくわえてにっこり笑う。
 「ただ、予想以上に儲けがあって懐があったかくなっただけさ」
 不可解そうに眉をひそめたビバリーに意味深な笑みを向けて体をよじり、椅子に座った姿勢でごそごそとポケットを探る。とりだしたのは紙幣が三枚とバラバラの小銭、その他煙草やキャラメルやガムなどのこまかい戦利品。サーシャの手下が身につけていた腕時計もこの中に含まれる。
 テーブルの上に置かれた紙幣と小銭その他もろもろを覗きこんだビバリーがごくりと生唾をのみこみ、なにか言いたげな上目遣いでぼくを見る。ビバリーの考えていることを見抜き、彼の勘のよさに敬意を表してタネを明かす。
 「サーシャの手下がのびてる間にちょーっとポケットから拝借したんだ。報復が怖いからサーシャのポケットには手をださなかったけどね」
 「抜け目ないっすね」
 あきれたように天井を仰ぐビバリー。
 せっかく僕が裏で動いてお膳立てしてやったにも関わらず、北の皇帝VS東の王の対決はしまらない結果に終わった。いかにナイフの名手たるサーシャでもなんでもありのおきて破り、存在自体が反則気味なレイジの強さにはかなわなかったのだ。サーシャが負ければ僕に矛先が向くのは容易に予測できる。当然、僕に払われるはずの報酬は無効になる。くたびれ損の骨折り儲けなんてとんでもない、骨を折ったぶんの報酬はどんな汚い手を使ってでももぎとるのが僕の流儀だ。
 だから僕は一計を案じた。
 レイジがサーシャを倒した後なにやら深刻に話しこんでる彼らのもとを離れ、死屍累々と屋上に散らばった北の少年たちのポケットを漁った。片っ端から金目のものを頂戴したあとはそっこー退散したからレイジたちにはバレてないはずだ。
 収穫はあった。独居房送りにされたサーシャとその子分が戻ってくるまでにはまだ一週間もある。その頃までには幾分か僕のほとぼりも冷めているだろう。サーシャたちが帰ってくるまでに腕時計などの小物は他の囚人及びコネのある看守に売りつけ裏市場に流して証拠隠滅、僕の手元にはアガリだけが入ってくるという寸法だ。商売の極意ってヤツね。
 「僕が寝てる間にそんなたのしいことが起きてたなんて、まったく迂闊でした」
 「なに言ってんのビバリー、巻き込まれるのいやがってたじゃん」
 不満げに口を尖らし、八つ当たりのようにフォークの先端でレタスに穴を開けてゆくビバリーに苦笑して椅子の背もたれに寄りかかる。 
 「そりゃーそうですけど、房出るときになにか一声かけてくれてもいいようなもんじゃないスか!長いこと同じ房で寝起きしてんのにトモダチ甲斐ねえっスよ、リョウさん」
 見かけによらず根に持つタイプらしく、あれから三週間も経つのにビバリーはまだいじけてる。やれやれ、面倒くさいなあ。分厚い唇をとがらせてふてくされたビバリーを猫なで声でなだめようと身を乗り出した僕の耳に、階下からすっとんきょうな声がとびこんでくる。
 「オーマイガッ」
 いやに聞き覚えのある声に二階席の手摺から身を乗り出し、狭い間隔でテーブルが並んだ一階を見渡す。いた。ちょうど手摺の真下に位置するテーブルに座っているのは見覚えのある顔。明るい藁束のような茶髪を襟足で括った男が頭を抱えこんで唸っている。
 レイジだ。
 「マジで納得できねえ、なんで俺がこんな目に!?俺わるくねーじゃん、全部キーストアのせいじゃん!」
 いつもへらへら笑ってるレイジには珍しく世を儚んでいるご様子だ。一体なにがどうしたのだろうとビバリーと顔を見合わせ下を覗き込む。レイジの隣にはロンが、向かい席にはサムライが座っていた。鍵屋崎の姿はない。
 「みっともねーからやめろよ、食堂中に聞こえてるぞ」
 さすがに恥ずかしくなったのか、隣席のロンが声をひそめて注意する。が、レイジに懲りた様子はない。綺麗にたいらげた皿ごとトレイを隅におしやり、テーブルの上に上体を突っ伏して呪詛を吐いている。
 「くそっ、キーストアのせいだ……アイツが聖書燃やしたからイエスのバチがあたったんだ、マリアが怒ったんだ、そうに決まってる」
 「マリアに『様』つけろよ、お前の女じゃねえんだから」
 無視をきめこんでマッシュポテトをつつきだしたロンに、その襟首を掴まんばかりの勢いでレイジが言い募る。
 「だってよーあんまりじゃねえか……本燃やしたの俺じゃねえんだぜ、灰にしたのはキーストアだぜ!?それがなんで俺がブラックリスト入り!?むこう一ヶ月図書室立ち入り禁止の憂き目みなきゃなんねーんだよ!」
 釈然としない面持ちで不平不満を上げ連ね、せわしげに両手を振ってここにはいないだれかに抗議するレイジに好奇のまなざしが注がれる。ご乱心の王様を腫れ物にさわるかのように遠巻きにする囚人たちを見回し、いやいやロンが口を開く。
 「一ヶ月ぐらい我慢しろよ、永久に禁止されなくてよかったじゃねーか。てゆーか何でそんなに本にこだわるんだよ、本なんてどこがいいんだかわかりゃしねえ」
 「俺みたいに長くここにいるといやでも活字の有り難さが身に染みんだよ、ほかの娯楽はあらかたやり尽くしたし」
 リンチやレイプは娯楽の内に入るのだろうか?レイジに聞いてみたい気分だ。
 「キーストアもキーストアだ、なにも燃やさなくても……聖書に対する冒涜だぜ」
 「鍵屋崎も聖書でガキぶっとばしてた奴にだけは言われたくないだろうな」 
 未練たらたらに愚痴るレイジにつれなく釘をさし、不作法に音をたててコンソメスープを啜るロンの向かい席、しゃんと背筋をのばして座っているのはサムライだ。箸の扱いはお手の物でも洋食の作法はどうだろうと手元に注目してみれば、とくに淀むことなく器用にフォークを操っていた。刀に限らず刃物の扱いは得意ってわけか。
 「しかたねーだろ。アレがいちばん加減しやすいんだ」
 のろのろと頭を起こしたレイジが言い訳がましく付け加える。
 「本ならおもいきり殴ってもまず死ぬことはない。急所が集中する体の中心線に狙い定めて打ちこめば本だって十分凶器になる、ちょっとしたコツさえありゃな。たとえば」
 上体を起こしたレイジがすでに食べ終えたフォークを手に取り、ロンの額にぴたりとあてがう。そのまま息を飲んだロンの鼻梁から上唇を縦断し、喉仏の上あたりで一直線に下降した先端を止める。
 「ここだ。喉仏の上にちょっと出っ張ったところがあるだろ、ここが人体の急所のひとつ。敵の動きを止めたいならここを殴るだけでオッケー、まず一発で窒息する」
 「人にフォーク向けんなって母親から教わらなかったのか」
 不機嫌そうにレイジの手を払いのけてフォークをどかしたロンだが、根がわかりやすいため内心の動揺は隠せない。自分にフォークを向けた相手がレイジでさえなければよくある悪ふざけの延長線上ともとれたろうが、今隣に座ってるのは本気と冗談の境界線がはっきりしない東棟の王様なのだ。ロンが肝を冷やしたのも頷ける。
 「覚えといて損ねえぜ。今度凱にケツ剥かれたときに試してみろ」
 「俺には本借りる習慣も肌身はなさずフォーク持ち歩く習慣もねえ。拳ひとつでじゅーぶんだ」
 「いきがんなよ」
 あざやかに手首を翻してフォークを旋回させたレイジが意味ありげに笑い、これにロンが反発する。
 「相手が二・三人なら俺だって互角にやれる。腐ってもお前みたいな化け物と一緒にされたくねーけどな」
 「ダチを化け物よばわりはひどくねーか?ちょっと傷ついたぜ、俺」
 「化け物だろ、北のガキどもを殆どひとりで倒したくせして」
 なれなれしく肩に手をまわそうとしてきたレイジを憤然とつっぱね、そっぽを向くロン。毎度見慣れた痴話喧嘩の光景だ。ロンにつれなくされて一瞬本当に哀しげな顔をしたレイジだが、瞬きひとつ後には元の笑顔が戻る。
 「そりゃそーと件のキーストアは?最近見かけねーけど元気してる?」
 それまで無表情にコンソメスープを啜っていたサムライの手が虚空で止まり、また動きだす。  
 「……さあな」
 「さあなって」
 言葉少なく応じたサムライに怪訝な顔を見合わせるレイジとロン。目配せして互いの表情を探り、代表してレイジが口を開く。
 「お前の同房だろ。わかんないの?」
 アルミの椀を手に持ち、殆ど音をたてずに一滴残らずスープを啜り終えたサムライが改めて正面を向く。
 次にサムライの口からでたのは、驚くべき答え。
 「わからない。一週間口をきいてないからな」
 あんぐりと口を開けたレイジの隣で、ロンが大きく目を見張る。手摺に顎を乗せて三人のやりとりを見物していた僕も大いに驚く。一週間ということは、サーシャとレイジが死闘を演じたあの夜からサムライと鍵屋崎は口をきいてないことになるのだろうか?
 能面のように起伏に乏しいサムライの顔をしげしげと眺め、脱力したように椅子の背凭れにもたれたレイジが嘆じる。
 「……倦怠期にはちょーっと早すぎねーか?」  
 「マジで、あれから一言も口きいてねえの?」
 半信半疑な口調と眼差しで念を押したロンをちらりと一瞥し、一滴残らず飲み干したアルミ椀を静かにトレイに置く。
 「ああ」
 「噂をすれば」
 陰気にだまりこんだサムライをよそにおもむろに席を立ち、「キーストア!」と叫んだレイジの視線の先には鍵屋崎がいた。
 トレイを抱えてさまよっている自分に声をかけ、こちらに手招こうとしたレイジの好意を一蹴するかのように踵を返して去ってゆく鍵屋崎の背中をロンがぽかんと見送る。食堂中に響き渡る大声で鍵屋崎を呼んだレイジは満場の注目を浴びていることに気付き、さすがにバツが悪そうに席に戻る。
 足早にレイジたちのもとを離れた鍵屋崎は隅の空席に腰掛けるや、周囲の喧騒にも無関心にフォークと食器を手に取り、淡々と夕食を食べ始める。周囲の喧騒も聞こえないかのような自閉的な沈黙を守り、俯きがちにマッシュポテトを口に運び始めた鍵屋崎の様子からは一切の覇気が感じられない。
 まるでー……
 「リュウホウみたいだ」
 「だれっスか、リュウホウって」
 僕の呟きを聞きとがめ、ビバリーが変な顔をする。
 「んー。鍵屋崎のトモダチだった子、かな」
 過去形で言ったのにはちゃんとわけがある。リュウホウは死んだのだ。
 一週間前のあの夜、東棟の裏手ですれちがったリュウホウの様子を思い出す。落ちぶれたなで肩と猫背気味の背中、亡者のような足取り。今の鍵屋崎はあの夜のリュウホウに似ている。一週間前までは全然別人だったのに、今じゃリュウホウの霊が乗り移ってしまったみたい……想像したら怖くなった。
 食堂の片隅でひとりきり、だれとも馴れ合わず、一言も会話をせずに孤独に食事を終えた鍵屋崎がさっと立ち上がる。なにげなくトレイの上を見る。遠めにも酷い顔色をしてたから食欲もないだろうと思ったら、そんなことはない。マッシュポテトが三分の一ほど残ってたけど、あとは綺麗にたいらげていた。
 でも、その割には……
 「キーストア、痩せた?」
 手摺の下をのぞきこむ。僕とおなじく、なにげなく鍵屋崎を目で追っていたレイジが小手をかざして呟く。
 「あれは痩せたんじゃなくてやつれたって言うんだよ」
 レイジの隣、おなじく鍵屋崎を目で追っていたロンが心配そうに訂正する。ただ一人サムライだけが後ろを振り返るような愚は犯さず、淡々と食事をとっていた。六つテーブルを隔てた通路を歩き、カウンターにトレイを返却して食堂をでようとした鍵屋崎。その背中が手摺越しの視界から消える前に素早く席を立ち、ビバリーに別れを告げる。
 「お先」
 ビバリーをひとりテーブルに残し、階段を駆け下りる。等間隔にテーブルが並んだ階下をよこぎり、カウンターにトレイを返却。人ごみに埋もれかけた鍵屋崎をさがして食堂を見渡す。いた。今まさに食堂をでて、廊下へと足を踏み出しかけた鍵屋崎の背後に小走りに接近。
 一瞬声をかけようか迷うが、レイジたちが見ている危険性を考慮して思いとどまる。たよりない足取りで廊下に出た鍵屋崎は、自分の房に向かおうとふらふら歩き出す。そのままつかずはなれずの距離で鍵屋崎を尾行する。
 「よう親殺し、ひどい顔色だな」
 「わりぃもんでも食ったのかよ」
 「俺が腹殴って吐かせてやるよ」
 「食後の運動はどうだ?俺の上で腰振れよ、いい汗かかせてやるからさ」
 「かかせるんじゃなく、いいもんかけてやるの間違いじゃねーか?」
 「言えてらあ!」
 廊下にたむろっていた囚人たちに下卑た野次を投げられても動じず、顔もあげずにその前をよこぎる。囚人たちの爆笑を背中に聞きながら廊下を歩いていた鍵屋崎がふいに角を曲がる。囚人服の背中を見失わないよう、足を速めて角を曲がる。それから三回角を曲がる。角を曲がるごとに雑談に興じる囚人の姿が減り、遂にはひとりもいなくなった。
 わざと囚人が入りこまないような路地を選んで進んでいるのだと、僕も途中から気付いていた。
 低い天井と平行にのびた長い長い廊下に点っているのは、蛍の葬列のような蛍光灯。
 頭上に押し迫った天井の下、肩を落として歩いていた鍵屋崎がぴたりと止まる。僕ら以外はまったく人けのない廊下の半ば、物思いに耽るかのようにうなだれた鍵屋崎の口から押し殺した声が漏れる。
 「何の用だ」
 「バレてたのか」
 拍子抜けする。
 「僕以外の足音が響いてるのに気付かないと思ったのか」 
 静か過ぎたのが災いしたらしい。冷静に指摘され、お手上げだといわんばかりに両手を開く。
 「目が悪いぶん耳はいいんだね」
 「僕の耳は頭の次に性能がいい」
 たいした自信だ。内心苦笑しながらポケットに手をもぐらせ、鍵屋崎に接近する。
 「それならさっきレイジが呼んだのにも気付いてたでしょ。どうして無視したの」
 鍵屋崎は答えない。
 正面の虚空を見据えたまま、強張った背中を僕に向けている。
 「煩わしかったからだ」
 鍵屋崎の背中から三歩の距離で立ち止まる。
 「食事くらいひとりで静かにとりたい。他人と関わりたくない。放っておいてほしい」
 その声がどこか切羽詰ってるように聞こえたのは気のせいだろうか。
 嘆願に近い響きで吐き捨てた鍵屋崎の拳が、体の脇で固く握られていることに気付く。試しに一歩踏み出し、意識して靴音を響かせる。
 鍵屋崎の肩がびくりと過敏に反応した。
 確信した。鍵屋崎は僕に近づかれるのを怖がってる。
 僕の気配を背中に感じつつ、それでも頑固に正面を向いたまま、鍵屋崎が虚ろに呟く。
 「人がものを咀嚼する際、頬の内壁から唾液を分泌してこれを消化する。口腔とは消化器官の初めの部分で、舌には味を感じる味蕾という組織がある。本来舌とは咀嚼したものを食道に送りやすくするのが役目で、食事中の会話はこの本来の働きを妨げることになる。早急な消化を望む僕は、物を咀嚼する以外の目的に舌を使いたくないからレイジたちとの同席を避けただけだ」
 なにかに追い立てられるような異常な早口でそう言い切り、苦々しげに絞り出す。
 「それだけだ」
 「こっち向きなよ」
 すぐ後ろから声をかける。鍵屋崎は無言だ。僕の声が聞こえてないはずないのに、凝然とその場に立ち竦んで微動だにしない。鍵屋崎の耳の後ろに口を近づけ、やさしくささやく。
 「人の目を見て話せってママに教わらなかったの」
 「教わらなかったな」
 そのまま僕を振り切り、強引に歩を進めようとした鍵屋崎の腕を掴んで引き止め―
 「さわるな!!」
 おもいきり肩を突き飛ばされた。
 よろけるようにあとじさった僕の目の前には、壁に背中を付けて荒い息をしている鍵屋崎がいた。 
 ひどい顔色だ。
 今にも貧血を起こさんばかりの青白い顔色に脂汗を浮かべ、壁に片手をついてふたたび歩き出す。一歩、二歩、三歩、四歩……五歩進むのがやっとらしい。残り僅かな気力を振り絞り、プライドだけを支えに六歩目を踏み出そうとした鍵屋崎に笑いながら追い討ちをかける。
 「抗鬱剤あげようか」
 その瞬間の目は一生忘れられない。
 ぞっとするような目。
 たぶん両親を殺したときもコイツはこんな目をしていたのだろう、まじりけなしの憎しみの目。本当ならびびってこの場から逃げ出すのが正しかったんだろうけど、その目を見た瞬間僕の脳裏に浮かんだのは全く別次元の呑気な感想。
 コイツ、こんな人間らしい顔もできるんじゃないか。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060425030034 | 編集

 「なぜ僕にかまうんだ」
 本当に体調が悪そうだ。
 一言一言しゃべるのも苦しそうに荒い息をつきながら鍵屋崎が疑問を呈する。
 「君に頼まれた用はもう済んだ、一週間前にやり終えたはずだ。この上まだ僕に粘着するのか?相当な暇人だな、君は」
 話しているうちに興奮してきたのだろう、いつもの冷静さを欠いていることを自覚した鍵屋崎が恥じるように眼鏡のブリッジに手をやる。ブリッジを押し上げるふりで表情を隠し、嘲りをこめて吐き捨てる。
 「それとも、期待してるのか」
 「期待?」
 何を言ってるんだかわからないと無邪気に小首を傾げてやる。壁に片手をついて体を支えた鍵屋崎は冷ややかな針の眼差しで僕の顔を突き刺す。
 「生憎と僕に同性愛の趣味はない、性病病みの囚人を買って性欲処理するような低脳どもと一緒にしないでくれ。自分を売り込みたいなら他の客を捜せ」
 不自由な体勢からポケットに手をつっこんだ鍵屋崎が鋭く腕を撓らせる。低い天井に放物線を描いて僕の胸に投げ返されたのは一週間前のあの夜、鍵屋崎に手渡したコンドーム。胸の前に片手をだしてコンドームを受け取る。
 「他人に寄生しなければ生きていけないような惰弱な人間は軽蔑する。サーシャの寵愛を失った君のこれからの身の振り方になどさっぱり興味がないが、その媚びた笑顔とテクニックを駆使すれば次のパトロンなんてすぐに見つけられるだろう。きみに利用されて使い捨てられる馬鹿な男にも同情はしない、それがきみの生き方なら口を挟むつもりもない。ただひとつ言わせてもらうなら」
 「なに?」
 どうしても今この場で言わなきゃならない台詞じゃないが、この際ついでだから言わせてもらおう。鍵屋崎にとってはおそらく言っても言わなくても変わりない、その程度の価値しかないささやかな皮肉だったんだろう。
 けど。次に彼の口からでた一言は、僕の理性を奪うのに十分だった。  
 「きみは最低の人間だな、リョウ。サナダムシだってもう少し遠慮して人に寄生するー……」
 レンズ越しに僕を正視した目にあったのは、軽蔑。
 「早い話、きみはサナダムシ以下だ」
 サナダムシ以下。
 サナダムシってあれでしょ、人の腸とかに寄生して5メートルだかにまで成長するってゆー気色悪い寄生虫でしょ。そんなグロテスクな生き物に例えられたんじゃさすがの僕だって頭にくる。
 言うだけ言って満足したらしい鍵屋崎は一方的に話を切り上げ、肩で壁を擦るようにして人けのない廊下を歩き出す。完全に僕を無視して房へと向かいかけた鍵屋崎の背中にわざと声をはりあげて呼びかける。
 「トモダチを見殺しにするような人間は最低じゃないってゆーの?」
 鍵屋崎が立ち止まる。
 コンクリートの空間では面白いように声がこだまする。殷殷と余韻を残す反響をたのしみながら、廊下の半ばで硬直した鍵屋崎の背中へと忍び寄る。尾行がバレたんだがら靴音を殺す必要も気配を消す必然もない。後ろ手を組んで足を踏み出し、唄うように続ける。
 「あの晩きみが捜してた囚人―リュウホウだっけー首吊り死体で発見されたんでしょ。知ってるよ、東棟中の噂になってるからね。連番の囚人が一晩で立て続けに死んだんだ、唯一の生き残りの感想を聞きたいね」
 鼻歌まじりに接近してきた僕の視界の真ん中で鍵屋崎は微動だにしない。逃げようとおもえば逃げられたはずなのに、耳を塞ごうとおもえば塞げたはずなのに、異常なまでに高いプライドがこの場で最も賢い選択を阻んでいるのだ。
 まったく、頭がいいんだかバカなんだかわかりゃしない。
 あきれるほど強情な日本人に苦笑しながら軽快に靴音を響かせてその背に歩み寄る。鍵屋崎は動かない、石化したように固まっている。でも僕は気付いていた、リュウホウの名を出した途端敏感な変化が起きたことを。表情を読まれるのを避けて俯いた頬は白く強張り、深くうなだれているため平素は襟に隠れているうなじが露出している。イエローワークの強制労働で少しは日に焼けたみたいだけどもとが生白いことに変わりない、囚人服の襟に隠れたうなじから下と日焼けした部分とのコントラストが妙になまめかしい。
 厚ぼったい囚人服を着ているから遠目にはわかりにくいが、この距離まで接近した僕は改めて驚かされる。コイツ、この一週間で本当に痩せた。削いだように細い首筋といい骨ばった手首といい、ダイエットの悪い見本例としてマニュアルに載せたいくらい痛々しく不健康な痩せ方だ。鍵屋崎に限ってクスリに手をだすようなことはないと思うけど、人は見かけじゃわからないからな。
 「親殺しの疫病神」
 鍵屋崎の真後ろで立ち止まり、耳元でそっとささやく。
 「みんながそう言ってる。きみとおなじジープで運ばれてきたお仲間は二人とも死んだ。ひとりはリンチでひとりは自殺。死因はちがうけどゴルフバッグにつめられちゃえば辿る末路は似たようなもんさ」
 そこで世の不条理を嘆くように首を振り、両手を広げる。
 「惜しかったね。あの晩寝る間を惜しんでリュウホウをさがしにいってれば自殺を食い止められたかもしれないのに」
 なんてね。心の中で舌を出す。あの晩「もう遅いから明日にしたら」と鍵屋崎を誘惑したのはほかならぬ僕だ。
 なぜ鍵屋崎に東棟の裏をぶらついてたリュウホウのことを教えてやらなかったのかって?答えは簡単、そんなことをしても僕にはなんの得もないからだ。タダで人にモノを教えるほど僕は善人じゃない。
 いや、そんなのは詭弁だ。最もらしい建前だ。
 僕がリュウホウなんて名前の囚人これっぽっちもご存知ないですと白々しい嘘をついたのは極論しちゃえばこの一言に尽きる。
 鍵屋崎が気に食わなかったから。
 せっかくだからタネ明かししちゃおう。あの晩初めてリュウホウと見た時から彼の様子がおかしいことには気付いていた。焦点の定まらない目、ブツブツと独り言を垂れ流す癖、夢遊病者のようにうわついた足取り。リュウホウの精神状態は既にあの時点で手がつけられないほど悪化していた。かなり鬱が進行していて、放っといてもあと一ヶ月以内に首を吊るか発狂するかするかは目に見えていた。
 断崖絶壁の崖っぷちをよろよろ歩いていたリュウホウの背中を押して奈落の底に突き落としたのは僕だけど、僕が何もしなくてもどうせリュウホウの命のタイムリミットは残りわずかだった。僕はあの手の囚人を何人も見てきたから知っている。それこそ何人も何人も、僕が東京プリズンに収監されてからのそう長くない間に両手両足の数じゃ足りない囚人が首を吊ってきたのだ。
 あの晩のリュウホウには自殺の兆候があった。
 脱兎の如く逃げ去るリュウホウの尻ポケットではためく手ぬぐいを見た時から、僕は漠然と彼の運命を予測していたのだ。
 わかっていながら放置したのは、心のどこかで「一日も早く首を吊ったほうが彼自身のためだ」と客観視していたからだろうか。
 生き残る奴と生き残れない奴。蹴落とせる奴と蹴落とせない奴。
 リュウホウにはハナから生き残ろうという意志がなかった。ただ生き延びたいと欲して、自分ではなんの手も打たず努力もせずにだれかが都合よく助けにきてくれるのをひたすらべそをかいて待ち続けていただけだ。
 それじゃだめなんだよ、ここでは。
 生き延びたいと願うだけじゃ無力にひとしい。生き延びたいと欲するだけじゃ生き残れない。
 どんな手を使っても最後に生き残った者が勝ち、一日でも長く生き延びたいなら泣くのをやめて考えろ、頭を使え、他人のおこぼれを期待するのはやめて自分の頭で考えろ。
 それが東京プリズンの掟だ。脱落者がでたところでだれも同情なんてしない、明日は我が身だと刷り込まれているからだ。
 嫌になるほど。
 「自分のパパとママをぐさりとやっちゃうような極悪人でもトモダチの死はさすがにショックなのかな」
 無反応の鍵屋崎を少し物足りなく感じながら揶揄すると、ようやく返答があった。
 「きみの想像力の豊かさには脱帽するな」
 皮肉げな声とともに振り向いた鍵屋崎は他人を拒絶するかのような冷ややかな表情をしていたが、虚勢の綻びから垣間見えたのは隠しきれない動揺。
 「何度否定したのか数えてないから記憶にないが、改めて言わせてもらう。リュウホウは僕の友人じゃない、僕はリュウホウに何の関心もない。同じジープで護送されてきたというただそれだけの偶発的要因を友情と勘違いされて一方的にまとわりつかれて、彼には迷惑していたくらいだ」
 どこまで本気なんだか。
 僕から顔を背けて言い捨てた鍵屋崎の背中は、脚本を棒読みするかの如く平板な口調とは裏腹に何かに耐えるように頑なで、自分以外の他人はおろか自分を取り巻く環境すべてを拒絶してるかのように孤独に見えた。
 救いがたいほどの孤独。
 「じゃあ」
 人を怒らせるのは簡単だ。本心を暴くのも簡単だ。
 そいつが最も言われたくないことを言って、まだかさぶたにもなってない傷口を抉ればいい。
 「リュウホウが死んで嬉しいでしょ」
 
 風が吹いた。

 「薬指が腫れてる」
 鍵屋崎の拳を受け止めるのなんて、ハエをつかまえるよりラクだった。
 腕の振りが甘いし拳にキレがないし、人を殴り慣れてないのは一目瞭然だ。それでもこれが鍵屋崎の全力で、精一杯の感情表現だったのだろう。言葉なんて間に合わない、感情に理性がおいつかない。考えるよりさきに体が動いたのは僕の言葉が鍵屋崎の最も痛いところを突いた証だ。
 「安静にしてないと使い物にならなくなるよ、右手」 
 怪我した右手をかばおうという冷静な判断すら咄嗟にできなくなっていたのだろう。
 僕に覆いかぶさるような姿勢で俯いた鍵屋崎の表情は前髪の陰になってわからないが、その口元から落ちた声は耳障りに軋んでいた。
 「……ろう」
 「なに?」
 鍵屋崎の手首を握り締めたまま、いっそ無邪気に聞こえるほど明るく先を促してやる。
 下から覗きこんだ鍵屋崎の唇は嗚咽を殺すように固く引き結ばれていたが、そこからこぼれおちた呟きには感情が欠落していた。
 「嬉しいはずが、ないだろう」
 一言。
 その一言を絞りだすのにどれだけ精神力を消耗しているか、どれだけ自制心を振り絞っているか。手首に巻いた五指にかすかな震えが伝わってくる。顔から右手へと目を移し、鍵屋崎の拳が小刻みに震えていることに気付く。
 泣いてるのかな。
 眼鏡の奥の目に浮かんだ表情はわからない。僕に右拳を掴まれた鍵屋崎は前傾姿勢をとり、僕の胸に顔を埋めるような格好をしていた。この位置からじゃ顔が見えない。泣いてるのかどうか無性に確かめたくなった僕は、サディスティックな欲求に突き動かされるがままポケットに片手を忍ばせて二粒錠剤を掴む。鍵屋崎が気付いてないのをいいことにそろそろと手を動かし、口に錠剤を含む。
 錠剤が溶け出して苦い後味が口腔に広がるより前にと鍵屋崎の両手を掴んで肩幅に広げさせる。
 はっとして顔をあげた鍵屋崎の背中が背後の壁にぶつかったその弾みに、噛みつくように唇を奪う。
 「―っ、」
 口から口へと錠剤を移す。
 喉仏がなまめかしく嚥下するのを確かめ、満足して体を離す。
 改めて顔を起こし、至近距離から鍵屋崎の顔をのぞきこむ。乾いた目を見開き、酸素を欲するかのように上唇と下唇との間を僅かに開いた驚愕の相。
 処女みたいな反応だ。
 「なんだ、泣いてたんじゃないのか」
 がっかりだ、せっかく顔を上げさせたのに。乾いた目をしばたたき、のろのろと顔を起こした鍵屋崎が信じられないものでも見るかのように僕を見る。
 「何、の真似だ」
 気が動転しているのだろう、神経質なほど何度も何度も唇を拭いながら聞きかえした鍵屋崎と向かい合い、にこやかに訊ねる。
 「ひょっとしてファーストキスだった?」
 「……口腔粘膜を接触させて唾液を交換するのに何の意味がある、と聞いてるんだ。僕に恋愛感情を抱いていたわけじゃないだろう」
 囚人服の袖口でしつこいほど唇を拭いながら警戒心むきだしであとじさった鍵屋崎の言葉を噛み砕き、僕なりに解釈する。
 鍵屋崎の言葉を翻訳するとこうだ。「なんで僕にキスしたんだ?」
 「なんだか落ち込んでるみたいだったから元気になるクスリを飲ませてあげたのさ。直接口にいれなきゃどこかそのへんにポイッて捨てられそうだったからね」
 「何を飲ませたんだ?」
 目に見えて青ざめた鍵屋崎にカラの両手を振って、にっこりと微笑みかける。
 「いかがわしいクスリじゃないから安心して。ただの抗鬱剤だよ」
 僕の言葉を信用してるのかしてないのか、おそらく後者の可能性が高いだろう鍵屋崎が壁に背中をあずけてずり落ちる。壁に背中を付けて力なく崩れ落ちた鍵屋崎を前に後ろ手を組み、過剰に愛想よい営業スマイルを浮かべる。
 「食堂からふらりと出てった君をおっかけてきた理由なんてひとつっきゃない、営業だよ。ひどい顔色してたからね、どこか具合悪いんじゃないかと思って……でも安心してよ、そんな時はこの僕ドラッグストアをご利用すればモーマンタイでノープロブレム。睡眠薬・抗鬱剤・その他向精神薬からドラッグ・コカインに至るまで僕に用意できないクスリはない。ラクになりたいときは無理せずクスリに頼るのがいちばんさ。だろ?」
 同意と共感をもとめて鍵屋崎を見下ろしたけど、当の本人は相変わらず青白い顔色のまま、どんよりした目で僕を仰ぎ見ただけだ。反応の鈍い鍵屋崎の前に屈みこんで目線を合わせ、辛抱強くかき口説く。
 「扉が開かなくなったとき、クスリが欲しくなったときは東棟三階二号房にウェルカム。メガネくんならサービスするからさ?」
 放心状態で壁際にうずくまった鍵屋崎の手を最後に握り締め、用は済んだと立ち上がる。ぶらぶらと廊下を立ち去りかけた僕は、ふとあることを思い出して振り向く。
 「ねえ、メガネくん」
 僕の視線の先では壁にすがって立ち上がった鍵屋崎が反対側へと歩き出していた。しんどそうな様子で僕の声に振り返った鍵屋崎、その目をまっすぐに見つめる。
 「カギヤザキ スグルって知ってる?」
 鍵屋崎の表情は変わらなかった。
 リュウホウの名前を出したときはあれだけわかりやすく変化した表情が、今度は何の感慨も浮かべない。
 ただ、記憶の襞をなぞるように眼鏡の奥の目を細め、こう言い捨てただけだ。
 「……知らないな。だれだそれは」
 それきり僕など一瞥もせず、よろめきながら自分の房へと向かいだした鍵屋崎を見送って反対側の廊下を歩く。カギヤザキ スグルの件に関しては期待した反応は得られなかったけど、「あの」鍵屋崎を怒らせただけで成果はじゅうぶん。その後何人かの囚人とすれちがい、談笑中の顔見知りに挨拶しながら房へと戻る。コンコンとノックするともうビバリーは帰っていたようで、「は~い」と陽気な返事が返ってきた。
 勢いよく開いたドアの隙間にすべりこんだ僕の背後でバタンと扉が閉じる。ビバリーのベッドの上には電源オン状態のパソコンが乗っていた。僕のいない間にネットサーフィンかハッキングに興じていたらしいビバリーが訝しげに声をかけてくる。
 「遅かったっすね、リョウさん。僕よりさきに食堂でたはずなのにどこで油売ってたんスか?」
 「んー。営業」
 「鍵屋と男娼とドラッグストア、どれですか?」
 「全部」
 明かりがついたパソコン画面を覗きこむ。ビバリーが閲覧していたのは東京プリズンの囚人情報データベースらしい。一週間前、情報収集の目的でデータベースへのハッキングを依頼したのは僕だけどあれ以来ビバリーは囚人のプライバシーを覗き見るのに凝っているらしい。今ディスプレイに表示されているのは僕が見たことない囚人のデータだ。猥褻物陳列罪でつかまったらしいけど、べつに興味もないから画面をスクロールさせ……
 「ちょっと、かってにいじくんないでくださいよ!」
 「なんだよケチ、ぼくとビバリーの仲じゃんか」
 血相かえてとんできたビバリーに突き飛ばされて場所を奪われた僕は胡坐をかいてむくれる。恋人を抱擁するかのようにパソコンを抱えこんだビバリーが長々とため息をつく。
 「見たいサイトがあるなら僕に言ってください、リョウさんにキーを愛撫されたらロザンナが浮気心起こしそうで落ち着きません」
 「ほんと?やった」
 小さく歓声をあげ、ビバリーの好意に甘えることにする。
 「じゃ、もういっかい鍵屋崎のデータ見せてくれない?」
 「またナオくんっすか?好きっスね、ほんと」
 あきれ顔のビバリーがかちゃかちゃとキーを操作するとパッと画面が切り替わり、囚人番号12321、鍵屋崎のファイルが開かれる。
 「だめだよビバリー、ちゃんと本名で呼んであげなきゃ」
 「ふえ?」
 ビバリーの脇腹をつついて画面に注意を促す。画面右上に配置された顔写真の下には、『鍵屋崎 直』の文字と生年月日が記載されていたが、僕が指さしたのは姓名の上にふられた読み仮名。
 以前鍵屋崎のデータを呼び出そうとしたとき、画面がエラーになった理由をずっと考えていた。考えに考えて違和感の源を突き止めた。 エラーになったのは「カギヤザキ ナオ」で検索をかけたからだ。名字で検索したら鍵屋崎のデータはすぐに表示された。
 そう、実際と異なっていたのは名前のほうだ。
 『鍵屋崎 直』の本当の読み方は……

 『KAGIYAZAKI SUGURU』

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060424030158 | 編集

 どうやって房に帰り着いたか覚えてない。
 鉄扉を開け、中にすべりこみ、素早く扉を閉めて施錠。薄暗い房内を見回し、人気がないことを確かめる。サムライはまだ帰ってないらしい。そのことに深く安堵しながら豆電球の下を通り過ぎ、奥の洗面台へと向かう。わざわざ明かりをつけて輪郭を明確にするまでもない、ほとんど十歩で歩みきれてしまう狭い房だ。どこになにがあるかなんて感覚でわかる。
 足音をたてずに暗闇の中を横切り、洗面台の前で立ち止まる。
 「げほっ、」
 吐く。くりかえし吐く。
 食道をさかのぼり喉にこみあげてきたものを全部吐く。たった今食べたものを残らず全部吐き尽くしてもまだ吐き気は止まず、苦い胃液しかでなくなっても胃の痙攣は止まらない。口腔にわだかまった胃液の酸味が不快だ。体を二つに折り、洗面台に顔を突っ込んで繰り返し嘔吐していると無理な体勢が祟ったのか背骨が軋む。手をさまよわせて蛇口を捻る。蛇口を掴んで呼吸が鎮まるのを待つ無為な時間に脳裏に去来するのは先刻の廊下の光景、僕の耳の後ろでささやかれた言葉。
 『リュウホウが死んで嬉しいでしょ』 
 瞬間、理性が蒸発した。気がついたらリョウに殴りかかっていた。
 どうかしている。僕は理性的な人間だったはずだ。たとえどんな状況でも冷静な判断に基づいて行動する人間だったはずだ。そんな僕があんな一言でみっともなく動揺して我を忘れるなんて、なんてザマだ。
 無様だな。
 蛇口を握り締めた前傾姿勢で自嘲する。耳に響くのは流しにたまった水が排水溝へと吸い込まれてゆく音だ。視覚の働かない暗闇では聴覚が異常に冴える。遠い廊下を歩く囚人たちの足音から衣擦れの音、扉の向こうで弾ける笑い声を別世界の雑音のように朦朧と聞きながら嘔吐を伴う胸焼けと必死に戦う。
 「あの日」から何も喉を通らない。連日の強制労働で体は疲れているのに、空腹の絶頂のはずなのに、一切の固形物を胃が受け付けないのだ。食道では人目を避けて隅に座り、ひとりで食事をとる。食事を終えたら房に直帰し、その足で洗面台に直行し、胃がからになるまで吐き続ける。ちゃんと夕食をとらなければいけないと頭ではわかっている。理解している。東京プリズンの食事は朝と夜の二食、一食でも抜いたら強制労働に支障がでる貴重な栄養源なのだ。でも、明日の強制労働を念頭において無理矢理口につめこんでも胃で消化される前に全部吐いてしまうのだ。
 昔、ここに来る前、心理学の本で摂食障害の女性の事例を読んだことがある。
 摂食障害とは主に若い女性によく見られる症状で食事の摂取を拒む拒食症と食べても食べても満たされない過食症に分類できるが、この二つを併発してる患者が最も多い。すなわち、暴飲暴食を繰り返しては延延と吐き続けるという悪循環に陥っている患者が占める割合が最も多いのだ。
 摂食障害の原因としては歪んだマザーコンプレックスから来る成熟の拒否などが挙げられる。食事をとるということは成長することだ。食事をとれば太る、女性の場合は体の線がまるくふくよかになり厚い脂肪層は端的に母性を象徴するようになる。若い女性が食事を拒んで嘔吐を繰り返すのは自分が嫌悪する母親に近づきたくない、母親のように子供が産める体になりたくないという無意識の叫びだと一説にはある。
 もう一つ仮説がある。
 摂食障害の患者が食べては吐く、食べては吐くという不毛な行為を繰り返すのは嘔吐に伴う苦しみによって自分を罰しているからだそうだ。この仮説には二通りの解釈がある。本当に罰したい相手はべつにいるが、その相手に危害をくわえるのが難しい場合に懲罰の対象を自己に転化するのが一つ。もう一つはもっと単純に駄目な自分、周囲の期待に応えられない未熟な自分に罪悪感を感じ、そんな自分を罰するためにひたすら吐き続けるというものだ。
 罪悪感。
 なぜ僕がそんな不条理な感情に苛まれなければならない?なぜ僕が罪悪感を感じて自分で自分を罰しなければならない?
 リョウに言ったことは嘘じゃない。僕は一方的にまとわりついてくるリュウホウに迷惑していた。彼が視界から消えてくれるのを心の底から祈っていた。それが現実になっただけじゃないか、直接手を下したわけでもない僕が罪悪感を感じる必要はどこにもないだろう。 
 リュウホウに迷惑してたのは本当だ。誓って真実だ。一方的に友達扱いされて親近感を持たれて僕は迷惑していたのだ。人前での自慰を慎むぶん猿より少しマシな羞恥心しか持ち合わせてない低脳どもと馴れ合って自分の知能指数を低下させるのはお断りだ、たとえ東京プリズンに収監されて輝かしい未来への希望が断たれたとしても最低限のプライドだけは失わずにいきたい。
 そうだ。
 他人が首を吊ろうがどうしようが、僕には関係ないはずじゃないか。恵以外の人間がどんなくだらない理由で自殺しようが自滅しようが僕にはまったく興味がない、僕がこの世界で大事なのは妹の恵だけだ。あとの人間はいてもいなくても同じとるにたらない存在だ。どうでもいい人間が首を吊ったところで、だから何だと言うのだ。
 リュウホウ。
 彼の死は僕自身に何の影響も及ぼさないはずだ。僕はこうして生きている、これからも生き続ける。リュウホウとダイスケは死んで僕は生き残った。それはただの偶然だ、神の采配でもなんでもない。だが、僕はこの偶然に感謝する。僕には東京プリズンを出て外に残してきた恵と再会するという目的がある。この目的を達するまではリンチされようがレイプされようがみじめに死ぬわけにはいかないのだ。
 わかってる。頭ではわかっている。
 何度も何度も自分に言い聞かせて忘れようとした。頭から抹消しようとした、リュウホウのことを。強制労働中も頭に浮かぶのはリュウホウのこと、うっすらと笑みを浮かべた安らかな死顔と生前のおどおどした表情、エレベーターのドアが閉まる直前に見た気弱げな笑顔と「ありがとう」と動いた唇。
 一週間前、リュウホウの首吊り現場に立ち会ってからの記憶はひどく曖昧で飛び飛びに抜け落ちている。僕はたしかにあの場に居合わせて、ブラックワークの囚人たちの手によりリュウホウの死体がおろされる一部始終を目撃していたはずだ。看守に指揮されててきぱきと死体をおろし、ゴルフバッグを開いてまだ死後硬直の始まってない死体の間接を曲げてゆく。死後硬直が始まってないということは、リュウホウが死んでからまだそんなに時間が経過してないということだ。
 リュウホウが首を吊ったのは夜明け前だ。
 夜明け前ということは、あの時リュウホウを追っていれば自殺を防げたはずなのだ。あの時、レイジとサーシャの対決に第三者として立ち会った僕がリョウやレイジの制止を無視してリュウホウを捜しに行ってればもしかしたら彼は死ななくても済んだかもしれない。あの晩リュウホウを掴まえて彼の誤解を解くことができれば自ら命を断つという最悪の道を選ばせずにすんだかもしれない。
 直接的に手を下したのは僕じゃないが、間接的に手を下したのは僕だ。
 リュウホウは殺されたんだ。他のだれでもない、この僕に。
 『きみが殺したのか』 
 暗闇に包まれた階段の踊り場、段差を経て向かい合ったリュウホウの顔が蘇る。
 僕に拒絶されたリュウホウは絶望したまま死んだ。友達だと思っていた僕に裏切られたショックから発作的に首を吊ったのだ。僕が殺したも同然だ。僕がリュウホウを追いつめたんだ。あの時手ぬぐいなんか貸さなければ、リュウホウを期待させるようなことをしなければ良かったのに。
 他人に興味がないなら興味がないままでいればよかった。中途半端に関心を持って、介入した結果がこれだ。
 あの時、僕はなにをしたかったんだろう。わからない。一週間前のあの晩、リュウホウを追いかけて掴まえて何をしたかったんだろう。
 寝ても覚めてもそのことばかり考えている。夢の中でも考えている。浅い眠りの中で自問自答しても答えは見えない。毎晩のように訪れる悪夢の中、僕に背中を向けて天井からぶらさがっているのはリュウホウの首吊り死体だ。僕が貸した手ぬぐいを輪に括って、その間に首を突っ込んで前後に体を揺らしている。
 引き寄せられるようにリュウホウに近づいてゆくうちに手ぬぐいが軋み、リュウホウの体がゆっくりとこちらに向く。ぎこちなくこちらを向いたリュウホウの顔は安らかな笑みさえ浮かべー
 その顔が、いつのまにか恵に変わっている。
 『おにいちゃん、なんで殺したの』 
 違う。
 『なんで恵を殺したの』
 僕が殺したのは恵じゃない。僕が恵を殺すわけがない。たった一人の大事な妹だ。たとえ血がつながってなくても、たった一人の大事な家族だ。恵を殺したら僕はひとりきりになってしまう。僕にはだれもいなくなってしまう。
 僕が、僕が殺したのは―
 恵の顔にリュウホウの顔が重なる。今、僕の目の前で首を吊ったのはリュウホウなのか?恵なのか?混乱する。
 『なんでぼくを殺したの』
 声のトーンが変わり、はっと顔をあげる。底なしの絶望を塗りこめた、救いがたい悲哀の目をしたリュウホウが僕を見下ろしている。声を荒げて責めるでも詰るでもなく、ただただ哀しげな黒い目で僕を見つめている。
 『『なんで殺したの?』』
 声と声が重なり、顔と顔が溶け合う。恵とリュウホウが完全に一体化し、どこまでも純粋に問いかけてくる。
 違う。殺したくて殺したわけじゃない、あの二人のときとは違うんだ。僕はリュウホウが憎かったわけじゃない、殺したいほど憎かったわけじゃない。むしろ―
 何と言おうとしたんだ?
 悪夢の沼へと落ち込んでいた思考をすくいあげたのは衣擦れの音、廊下を叩く足音。洗面台にもたれたまままどろんでいた僕は、廊下を接近してくる何者かの気配に弾かれたように振り向く。瞼を閉じていたほんの短い間にひどくうなされていたらしく、全身に嫌な汗をかいていた。鋭敏に冴えた聴覚で廊下を歩いてくる足音を拾い上げ、腕を支えにして体を起こす。膝から下の力が抜け、バランスを崩す。洗面台の縁を掴んで立ち上がり一歩ずつ足をひきずるように歩き出す。途中、眩暈に襲われた。熱に浮かされたように歪む視界の中、自分のベッド目指して足を運ぶ。そう離れてないベッドまでの距離がはてしなく遠く思えた。
 こんな情けない姿、アイツにだけは見せるわけにいかない。
 それだけを一心に念じ、鉛のように重たい足を運ぶ。ようやくベッドに辿り着き、固く湿ったマットレスの上に倒れこむ。黴臭い匂いが鼻腔にもぐりこむ。毛羽立った毛布を掴み、頭の上まで引き上げる。
 視界に闇の帳がおりるのと、房に光が射すのは同時だった。
 鉄扉が軋み、だれかが入ってくる気配。見なくてもだれが入ってきたのかはわかっていた。房の合鍵を持ってるのはひとりしかいない。
 サムライだ。
 毛布越しの暗闇にドアの閉じる音が響く。そのまま房を横切り、豆電球を捻って明かりをつけるかと予想していたがいつまでたってもサムライが歩き出す気配はない。不審に思い、耳をそばだてていると―
 「鍵屋崎」
 ふいに名を呼ばれ、心臓が大きく鼓動を打った。
 勘の鋭いサムライのことだ、なにか気付いたのかもしれない。サムライの視線が僕の上に注がれているのがわかる。頭から毛布をかぶり息をひそめ、身動ぎひとつせずに沈黙した僕をしばらく凝視し、サムライが続ける。
 「寝ているのか」
 「………………」
 馬鹿な男だ。本当に寝ているならどのみちその質問には答えられないだろう。
 サムライの視線が早く逸れてくれるのを祈り、毛布の下で息を殺す。心臓の動悸が速まり、喉が異常に渇く。何が言いたいんだ?なんで僕に声をかけたんだ?脳裏で膨れ上がる疑問符。この一週間、僕は徹底してサムライを無視してきた。もし一言でも口をきけば、異常に勘の鋭いサムライに体調が悪いことを悟られてしまう危険性がある。
 よりにもよってこの男に、観察対象のモルモットに体の不調を悟られるなんて、僕のプライドが許さない。
 不均衡な沈黙。
 それ以降サムライは一言も発することなく、黙って僕を見つめていた。こうして毛布の下で身を縮めていても、サムライの存在感は無視できない。意識しないよう努めれば努めるほど、その圧倒的な存在感が大気を伝播してひしひしと伝わってくるのだ。
 自己暗示も役に立たない。サムライを無視するのは不可能だ。
 いつまでこの気詰まりな沈黙が続くのかと叫びだしたい衝動にかられた僕の耳朶に衣擦れの音が届く。サムライが踵を返し、房をでてゆく気配。ドアが閉じる音が素っ気なく響き、闇に沈んだ房に重たい余韻を残す。
 サムライの足音が廊下を遠ざかるのを待ち、胸郭にためていた息を吐き出す。毛布の下で寝返りを打ち、壁と向き合う。サムライが消えてくれてよかったと安堵した次の瞬間、僕にとってはいやな、非常に不愉快な想像が頭に浮かぶがはげしくかぶりを振って打ち消す。
 サムライが僕に気を遣って出ていったんじゃないかなんて、馬鹿らしいにも程がある。
 再びひとりきりで取り残された僕の耳に、あの声が響きだす。
 『なんで殺したの』
 問いかけているのは恵だろうか、リュウホウだろうか。瞼の裏側に浮かび上がった顔は曖昧にぼやけ、どちらとも判別しがたい。
 『リュウホウが死んで嬉しい?』
 混沌とした色彩の渦の中から浮かび上がってきたのはリョウの顔だ。リョウに呑まされたクスリはさっき食べたものと一緒に吐き出したから胃洗浄の必要はないだろうと頭の片隅で他人事のように考える。まだ唇の感触が残ってるようで気持が悪い。手首で唇を擦る。擦る。唇の皮が破けそうになるまで。
 『嬉しいはずがない』
 これは僕の声だ。あの時僕は我を忘れてリョウに殴りかかっていた。嬉しいはずがない。当たり前だ、僕はリュウホウに死んで欲しくなどなかった。
 リュウホウを死なせたくなんて、なかった。
 枕の下に手をさしいれ、布の切れ端を掴む。毛布の下に引き入れたのは例の手ぬぐいだ。リュウホウの命を奪ったあの手ぬぐい。リュウホウの死体がおろされたとき、この手ぬぐいもはらりと床に落ちた。リュウホウの死体が運び出され、野次馬が散り、房が無人になった。閑散とした死体発見現場にひとりとり残された僕は、気付いたらその手ぬぐいを拾い上げ、角と角を1ミリの狂いもなく重ね合わせてポケットにしまっていた。
 なぜそんな行動をとったのかわからない。死体の首に巻きついていた手ぬぐいなんて常識で考えれば触れるのも厭わしい、汚らわしいものなのに。
 なぜ僕は、一週間たった今も手ぬぐいを握り締めているんだ?
 薄く瞼を閉じる。急速に眠気が押し寄せてきた。強制労働で体はぐったり疲れていた。今は何も考えずに眠りたい、悪夢も見ずに眠りたい。リュウホウのことを忘れ、自分が殺した人間のことを忘れ、自分の本当の名前も忘れ。
 僕が覚えていたいのはただ一つ、恵のことだけだ。恵さえいれば十分だ、他に何も要らない。
 だから、笑ってくれ、恵。
 せめて夢の中で、途切れがちな浅い夢の中で、はにかむように笑いかけてくれ。
 それ以外は何もいらないから。

 今だけでいいから、僕を許してくれ。
 頼む。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060423030317 | 編集

 『めぐみの字が書けないの』
 今にも泣き出しそうに目を潤ませた恵が言った。
 『?どういうことだ』
 それまで読んでいた本を机上に伏せ、回転椅子を傾げて恵に向き直る。遠慮がちに僕の書斎に入室した恵はおどおどした目つきで部屋の隅々に視線を馳せてから、唇を噛んでうつむいてしまう。
 ちょうど父から依頼された論文が一段落し、手が空いた時間に趣味の読書をしていたのだが恵の方が大事だ。服の裾をいじりながらうつむいた恵は切り出すのがためらわれるかのように戸惑いがちな上目遣いで僕を見上げていたが、決心して口を開く。
 『学校でバカにされたの』
 おさげに結った髪を肩に垂らし、目に悲痛な色を浮かべて恵が呟く。
 『今日学校でテストがあったの。国語のテスト。おにいちゃん、テストしたことある?』
 『いや』
 正直、僕にはひとつの教室に机を並べてテストを行うという光景が上手く想像できない。第一、手狭な教室につめこまれた男女二十名から成る生徒をただ一人の教師が相手にして授業を行うなんて効率的にも割があわない、授業の進行速度についていけない子も当然でてくるだろう。これでも少子化による生徒数の減少でずいぶん改善されたというが、フォローが万全とはいえない。教師も負担になるだろう。  
 僕は就学経験がない。物心ついた時、厳密には三歳の後半から父から直接に英才教育を受けてきた。学校には行く必要がないというのが父の持論だ。義務教育で学ぶより遥かに高等な知識と教養を自ら息子に与えることができるのだから、最も前頭葉の発達いちじるしい成長期の九年間をわざわざ学校に通わせて浪費する意義が見出せないというのが彼の言い分だ。
 それならば何故長女の恵は区立の小学校に通わせているのかというのが長年の疑問だったのだが、折を見て訊ねてみたら素っ気ない答えが返ってきた。
 『恵にはそれで十分だからだ』
 『テストをはじめる前に答案用紙がくばられるんだけど、その右上に名前を書く場所があるの』
 物思いから覚めた僕の前では、たどたどしく恵が喋っている。
 左右の指で長方形を作り、答案用紙の右上にあるという名前の記入欄を表現する。
 『でね、クラスのみんながそこに名前を書かなきゃいけない決まりなんだけど……めぐみの名字むずかしいでしょ。カギヤザキなんて珍しい名前、ほかにないでしょう。だからいつもひらがなで書いて先生にテイシュツしてたんだけど』
 舌を噛みそうな早口で言いきり、沈黙をおく。悔しげに唇を噛み締めた恵が、丸い頬を羞恥に染めて顔を背ける。
 『答案を返すとき、先生に言われたの。みんなの前で』
 『なんて?』
 一対一で人の話に耳を傾けるには最適な前傾姿勢をとり、赤面した恵を下から覗きこみ、辛抱強く促してやる。
 『めぐみのお父さんとお母さんは頭がいいのに、立派な人なのに、その子供のめぐみが四年生にもなって、自分の名前も漢字で書けないんじゃおかしいって』
 恵の目に涙が滲む。
 『すごく、恥ずかしかった』
 恵の心境は察するにあまりある。
 もとが内気で引っ込み思案な恵のことだ、クラスメイトの前でとるにたらないささいな失点を指摘されてどれだけ恥ずかしい、身の置き所のない思いをしたことだろう。
 『訴訟を起こすか』
 『え』
 驚きのあまり涙をひっこめ、はじかれたように顔をあげた恵にいちから説明する。
 『その教師がしたことは刑法第231条侮辱罪に該当する立派な犯罪だ、訴訟を起こせば確実に勝てる、いや、どんな手を使っても勝たせる。その他大勢のクラスメイトの前で恵を侮辱するなんて許せない、教師失格どころか人間失格、今まで教育委員会の監査が入らなかったのが信じられない。校長はこの事実を知らないのか?教頭は?侮辱罪の場合、事実を摘示しなくても公然と人を侮辱した者は拘留又は科料に処されるから答案返却時の録音テープや記録画像はなくてもいいが、もしその教師に前科があって以前にも恵を貶めるような発言をしたのなら文部科学省の上層部に直接』
 『おにちゃ、』
 『恵、安心しろ。もうそんな学校に行かなくていい、僕が手を打つ。恵にも自宅で授業を受けさせるよう父さんに頼んでみる、恵を不当に扱うような程度の低い学校はこちらから願い下げだ。円周率を三桁しか覚えてないような低脳教師より五千桁覚えてる僕のほうがよっぽど頭がいい、国語も算数も理科も社会も恵に必要な知識は全部僕が教える』
 恵を侮辱するなんて許せない、教え子に自信喪失させるような問題教師には法的措置をとってしかるべきだろう。
 本気で腹を立てた僕は早速椅子を戻して机に向き直り、パソコンの蓋を開いて初期画面を起動、文部科学省にメールを打とうとしたがキーに指をすべらせた時点でうろたえきった恵に介入される。
 『ちがうの、おにいちゃん、そうじゃないの!恵のためにそんなことしてくれなくていいの、恵がしてほしいのは……』
 ひしと僕の腕にしがみついた恵を見下ろして眉根を寄せる。僕の片腕に顔を埋める格好になった恵はしばらく唇を噛んで逡巡していたが、やがて、何か決心したようにつぶらな目に意志の光を宿して顔を上げる。
 『めぐみを漢字でなんて書くか教えてほしいの。名字はむずかしくて無理だけど、下の名前くらい漢字で書けなきゃ恥ずかしいなって、先生に言われて、そう思ったから……』
 だんだんと語尾が萎んでゆくにしたがい、恵の顔も俯きがちになる。まるで、なにか申し訳ないことでもしてるかのように所在なげに身を竦めた恵に背中を向けて机の引き出しをあさる。あった。シャープペンシル二本と新品のノートが一冊。シャープペンシルの片方をきょとんとした恵に手渡し、もう片方を手にとりノートを開く。
 『めぐみの名前はこう書くんだ』
 白紙の1ページ目にさらさらとペンを走らせ、一文字の漢字を記入する。「恵」。椅子を半回転させ、ノートのページを恵に向ける。中腰の姿勢でノートをのぞきこんだ恵は、小動物めいて庇護欲をくすぐる黒目がちの瞳を好奇心旺盛に輝かしていたが、まっさらなノートに記入された字と僕の顔とを見比べて無邪気に聞いてくる。
 『「恵」ってどういう意味?』 
 辞書をひくまでもない。答えはすらすらと口をついてでた。
 『恵。めぐまれる。必要なものが十分にあって不平不満を感じない状態にある。幸いに巡りあわせる、よい状態を与えられる。恵の雨と言うだろう?あれは日照りや不作に苦しんでいた農民が田を潤して稲を育ててくれる雨に感謝を捧げて名付けた言葉だ』
 恵はじっとノートを見つめていた。正確にはノートの冒頭に記入された「恵」の文字を。
 『いい意味?』
 『ああ』
 『いい名前?』
 『ああ』
 どこまでも一途に、見ている方が微笑ましくなるほど熱心にノートを凝視し、口の中で「めぐみ」の三文字を反芻する。小さく唇を動かし、自分で納得するまで「恵」の意味と語感を噛み締めた恵がくすぐったそうにほほえむ。
 『お父さんとお母さんはめぐみのことが好きだから、めぐみにしあわせになってほしいからこの名前をつけたんだね』
 この上もなく大事なことを確認するように、一途な同意をもとめて僕を仰いだ恵に「ああ」と力強く頷き返す。頷き返した僕自身、恵の名前の由来は知らない。戸籍上の両親がなにを思って自分たちの長女に「恵」と命名したのかは本人たちしかわからないが、決して悪い意味じゃないだろう。なにより恵が笑ってくれるならそれにこしたことはない。
 恵が笑えば僕も嬉しい。恵が幸せなら僕も幸せだ。
 微笑ましい気分に浸っていた僕を現実に戻したのは、恵のささやかな疑問だった。
 『おにいちゃんの名前、へんだよね』
 僕から奪い取ったノートにくりかえし「恵」の漢字を書き込みながら、ふと思い出したように恵が呟く。
 『「直」って壊れたものを元に戻すとか修理するとか、そういう意味の漢字でしょう。先生が言ってたよ。なんでスグルって読むの?』
 『さあな』 
 自分の名前の由来なんて気にしたことがなかった。
 恵にとっての僕は「おにいちゃん」で、そう呼ばれるときがいちばん心地よかった。両親が僕を呼ぶときは「スグル」だが、後者には別段思い入れがない。何かの機会に書類に記入された自分の名前を見たときは「おかしな名前だな」とひっかかりを覚えたこともある。「直」、振り仮名がなければ「ナオ」と読むのが普通だろう。「直」と書いて「スグル」と読ませるなんて当て字もいいところだ、ひねくれているにも程がある。
 まあ、あの男らしい屈折したネーミングだと評せなくもないが。
 『おにいちゃんの名前にもなにか意味があるのかな』
 返事に詰まった僕をシャープペンシル片手に仰いだ恵の顔には、彼女を最も好ましく見せるはにかむような笑みが浮かんでいた。
 『もしそうなら、恵とおそろいだね』
 恵とおそろい。真実はどうあれ、その響きだけは悪くなかった。 
 扉が控えめにノックされた。
 『どうぞ』
 『失礼します』
 椅子に腰掛けたまま入室を許可する。扉を開けたのは通いの家政婦だった。恰幅のよい体格と人の良さそうな目鼻だちのその家政婦は真っ先に僕を見て、ついで椅子の脇に突っ立っている恵から机上へと視線を移す。
 『旦那さまが来月提出する論文を書いてらっしゃるんですが、書斎にお探しの本が見つからないそうで、ひょっとしたらこちらに…』
 皆まで言わせずに本を手に取り、椅子から腰を上げる。
 『いい、僕が持っていく』 
 廊下と書斎との境界線を越えて僕の個人空間を侵犯しようとした家政婦を鋭く制し、エプロンを腰に巻いた肥満体をおしのけるように廊下にでる。無人の椅子の傍ら、胸にノートを抱きしめて所在なげにとり残された恵を振り返る。
 『すぐに戻るから座って練習してていいぞ』
 恵が心細げに頷くのを確認し、静かにドアを閉ざす。台所に洗い物を残してるらしい家政婦に引き下がるよう命じ、隅々まで雑巾がけが行き届いた綺麗な廊下を歩く。飴色の光沢の表面をスリッパの裏で踏みながら角を曲がり、父の書斎へと通じるドアの前に立つ。
 無意識に息を吸い、吐く。もはや日常の習慣となった儀式。
 『失礼します』
 慇懃にドアをノックし、応答を待つ。
 『入れ』
 張りのあるバリトンが響く。ノブを捻り、ドアを開ける。正面の窓を除き、三面の壁を巨大な本棚で塞がれた書斎が目の前に広がる。三面の壁を占めた本棚には一分の隙なく蔵書がつめこまれ、病的なまでの整理整頓ぶりに息苦しい圧迫感さえおぼえる。重厚な造りの樫の机には分厚い本が何冊も広げられ、本の谷間に埋もれるように青白く発光するパソコンが存在していた。
 パソコンの手前に重ねて敷かれているのは、消しゴムのカスを散りばめた原稿用紙だ。
 執筆に煮詰まっているらしく、原稿用紙の三分の一ほど升目を埋めた時点で愛用の万年筆が放置されている。机上にむなしく転がった万年筆から革張りの椅子に腰掛けた男へと目をやる。僕となんら共通点のない目鼻だちの、気難しそうな雰囲気の壮年男性。まず初対面の人間に好感を持たれることはないだろう威圧的な雰囲気のその男は大儀そうに椅子を立つや、不機嫌そうに唇を歪めてこちらに歩いてくる。
 彼の名前は鍵屋崎優。世間的には僕の父親ということになっている男だ。
 『やっぱりお前が持ってたのか』
 『すいません、無断で』
 『いや』
 僕から受け取った本を意味なく開き、中身を改め、閉じる。納得したように重々しく頷き踵を返しかけた男、不機嫌を絵に描いたようなその背中を眺めているうちに、先刻の恵の言葉が脳裏によみがえる。
 おにいちゃんの名前にもなにか意味があるの?
 『聞いていいですか』
 『ほかに借りたい本があるなら好きに持っていけ。ただし右から二番目の本棚の中段以外、あの棚の本は今書いてる論文の参照資料だからな』
 無表情な背中に呼びかけたらとりつくしまもない答えが返ってきた。スランプに陥っていて僕にかまっている精神的余裕がないのだろう、苛々した様子で椅子に腰掛け、たった今取り戻した本のページを繰り出した男にたたみかける。
 『本に載ってることなら自分で調べます。本に載ってないことだから、直接本人に聞きたいんです』
 『簡潔に言え』 
 本から顔もあげずに促した男の表情を眼鏡越しに観察しつつ、恵から伝染した疑問を舌に乗せる。
 『なぜ僕に「直」と名付けたんですか』
 常人離れした集中力を注入してページを繰っていた手が止まる。うろんげに振り向いた男は、理解不能といった表情をしていた。
 『それを聞いてどうする?』
 『べつに。好奇心です』
 それ以外に言いようがない。ただ、一度関心を持ったことは徹底して追及せずにはいられない。たとえそれがとるにたらないことでも、彼からしたらくだらないことでも、本人の口から明確な答えを貰うまでは引き下がれない。 
 怪訝そうに僕を凝視していた視線を壁を迂回して本へと戻し、緩慢にページをめくりながら男が口を開く。
 『私の父……つまりお前の祖父にあたる人物の名前は鍵屋崎 譲という』
 カギヤザキ ユズル。
 『知ってます。東京大学文学部の教授をしていた、仏語翻訳者としても有名な……』
 鍵屋崎は学者の家系だ。さかのぼれば明治初期から有名大学の教壇に立つ優秀な人材を輩出し続けている。名前しか知らない祖父もまた学部は違えど父と同じ大学で教鞭を執っていたのだ。よろしいと寛容に頷き、目は本の記述に馳せたまま、続ける。
 『私は人に優る人間になるよう父からまさると名付けられた。鍵屋崎の長男は皆最後がルで韻を踏んでいる。ユズルにマサル、そしてスグル。語呂がいいだろう』
 手垢のついた公式でも解くかのように退屈そうな口調で説明し終えた男に虚をつかれ、おもわず反駁する。
 『それだけですか』
 『それだけだ』
 そうか。それだけか。
 思い返せば一目瞭然だ、これほどわかりやすい名前もほかにない。祖父がユズル、父がマサル、息子がスグル。一目で親子だとわかる。
 おにいちゃんの名前にもなにか意味があるの?
 自分の名前の由来を知り、誇らしげに訊ねた恵の顔が脳裏に去来する。
 『失礼しました』
 立ち去りがたい思いに見切りをつけるように頭を下げ、ドアを閉める。足早に廊下を歩きながら自嘲する。単純な、あまりに単純すぎる。子供の韻遊びを彷彿とさせるネーミングだ。わざわざ掘り返すほど深い由来があったわけじゃない、鍵屋崎夫妻の長男として戸籍に記入された時点で既に僕の名前は決まっていたのだ。
 だからなんだ?たかが名前だ。名前で人生が左右されてはたまらない。
 足早に廊下を歩いて自分の書斎へと帰る途中、ふと父の書斎から本を借りてくればよかったと気付く。今執筆中の論文に必要な資料、その背表紙が父の本棚に在ったのが無意識の働きで脳に刷りこまれていたのだ。
 廊下を回れ右し、父の書斎へ引き返す。ふたたびノブに手をかけたところで、ドアの向こうから話し声が響いてくる。落ち着きのあるバリトンと神経質そうな振幅を孕んだ声―両親の話し声だ。
 僕と入れ替わりに書斎に来たのだろう母親が、父の背後に立って話しかけている絵が頭に浮かぶ。
 『論文は進んでます?締め切り近いんでしょう』 
 『まだ一ヶ月ある』
 憮然と呟いた男が「そういえば」と続ける。
 『さっき直に妙なことを聞かれたぞ』
 『あの子にですか?』
 『名前の由来を聞かれたからありのままに答えた』
 『お義父さまがユズルで貴方がマサル、長男がスグル。判で捺したようにつまらない由来ですね』 
 ドア越しに苦笑の気配が届く。
 『もっとひねった答えのほうがよかったかな』
 『そうですよ。東京大学の最年少名誉教授兼遺伝子工学の世界的権威でもある天才にしちゃバカみたいな答えだわ、それが本当だとしても』
 単純に自分の発想の貧しさを悔いているかのような口ぶりで男がぼやき、女が相槌をうつ。
 『最初、読み方はナオにしようかと思ったんだ』 
 『ナオですか?なんでまたそんな……』
 言わなくてもわかる。なんでまたそんな女の子みたいな名前を?怪訝そうに訊ねた女の声に応じたのは、誇らしげな声。
 『辞書をひいてみろ。直。なおす。具合の悪いところに手を入れて望ましい状態に改める。病気をなおす、誤りを訂正する。違った観点・方法で新たな位置付けをしたり違った体系に置き換える』
 ドアの向こうから聞こえてきたのは、自分が与えたものを誇る傲慢な父親の声。
 『遺伝子に手をくわえて具合の悪いところを直したんだ、私達の子供にぴったりの名前だろう。どうだ?さっきの答えよりはマシだし、ひねりも効いてる』
 『冗談にしても悪趣味ですよ、家政婦に聞かれたらどうします』 
 『なに、家政婦なんかにわからんさ』
 
 オニイチャンノナマエニハナニカイミガアルノ?

 夫婦の会話が弾んでるふたりに悟られないよう、足音をたてないように注意してドアの前を去る。直。なおす。それが本当の名前。ふたりの声が届かないところまでドアを離れた廊下の途中で、こらえきれずに笑い出す。低く、低く、くぐもった声で。
 スグルなんて無理矢理にこじつけた名前より、ナオのほうがよほど僕にふさわしい。
 
 遺伝子に手を加えて具合の悪いところを修正した人間、人工の天才児―直。ナオ。
 それが僕の名前だ。

 ひたすら廊下を歩き、恵を残してきた書斎の前に立つ。深呼吸し、ノブに手をかける。今の僕はどんな顔をしているだろう、いつもと同じ顔をしているだろうか。廊下に鏡があれば確かめられるのにと残念に思いながらノブを捻り、小さく隙間を開ける。隙間は徐徐に大きくなり、書斎の全景が視界に映りこむ。
 部屋の壁際、机に覆い被さるようにして名前の書き取りをしていた恵が素早くこちらを向く。
 『おにいちゃん、おかえりなさい』
 そうだ、名前なんかたいしたことじゃない。ナオでもスグルでもどうでもいい、僕が恵の兄であることに変わりはないのだ。
 それだけで十分だ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060422030604 | 編集

 夢の中でも自分の名前は忘れられなかった。
 「……………」
 まだほんの数ヶ月前の出来事なのに何年も昔のことのように思える。僕が両親を刺殺する数ヶ月前……半年前だろうか、あれは。
 薄暗がりの房を見渡す。
 時間の感覚が狂っている。今はいつだろう。夜?朝?豆電球を消した房の中は寂と静まり返っている。隣のベッドに目をやる。いつのまに帰ってきたのか、毛布が人型に盛り上がっている。就寝中のサムライを起こさないよう慎重にベッドから降り、ひんやりした床を歩いて洗面台に向かう。眼鏡を外し、畳み、洗面台の縁に置く。錆びた蛇口を捻ると鉄臭い水が迸る。両手で水を受けてしずかに顔を洗う。よく冷えた水が小気味良く顔を叩き、頭の芯にまとわりついていた靄の残滓が晴れてゆく。
 眼鏡をはずした視界はぼんやりとぼやけていた。至近距離の鏡に映る自分の顔さえはっきりとは見定められない獏とした不安感に苛まれ、乱暴に蛇口を閉める。蛇口から滴り落ちた雫の一滴が排水口へとすべり落ちてゆくのを確認し、眼鏡を手に取り、かける。
 視界が拭われたように明瞭になり、矩形の鏡に映しこまれた自分の顔がはっきりと視認できた。
 『君は鍵屋崎夫妻のどちらとも似てないな』
 ここに来た最初の日、安田に言われた言葉が記憶野によみがえる。似てないはずだ。僕は鍵屋崎優と由佳利の子供だが、あの二人と血縁上の繋がりがあるわけではない。両親双方の遺伝子を受け継いでないのに容姿に類似性があったらそちらの方が不可解だ。
 洗面台の縁に両手をつき、じっと排水口を見つめる。排水口の奥の暗渠から何かが浮かび上がってきそうな錯覚にとらわれ、目がはなせない。何か―油性の光沢をまとった、黒い水泡。
 『きみは強いね』
 排水口から沸いてきた黒い水泡の表面に映しだされたのは、リュウホウの顔。僕とは決して目を合わせず、気弱そうな笑みを浮かべた顔が黒い水泡の表面に浮かんでいる。
 歪に膨らんだ水泡の表面に映し出されたリュウホウの顔の角度が変わり、どこかよそよそしい声が聞こえてくる。
 『きみは強いからひとりでも大丈夫でしょう』
 パチン。
 水泡が弾け、無数の水滴が散る。リュウホウの顔も消える。これは―これは幻覚なのか?リョウに飲まされたクスリの副作用があとを引いているのかもしれない。飲んですぐに吐き出したとはいえ楽観できない。あれは本当に抗鬱剤だったのだろうか。それにしては症状が悪化してるように感じられてならない。気休めのコカインかドラッグか、不純物の多い覚醒剤の可能性もある。
 悪夢と現実の境界線が朦朧と溶け合っているせいで何が幻覚でそうじゃないのか、自信を持って断言できない。こんな状態がもう一週間も続いている。気分は最悪だ。目を閉じても開いても状況は一向に改善されない。重油で澱んだ沼の中を泳いでいるような重苦しい圧迫感が寝ても覚めても胸にのしかかってくる。
 キミハ強イカラ一人デモ大丈夫デショウ。
 リュウホウの言う通りだ。僕は強い、少なくともリュウホウよりは。僕にはこの天才的な頭脳がある、これがあればこれからもずっと生き残れるはずだ。リュウホウの二の舞にはならない、ダイスケと同じ轍は踏まない。
 僕が死んだらだれがこれからさき恵を守るんだ?
 気だるい足をひきずってベッドに戻り、腰をおろす。めくれた毛布の下から覗いているのは昨夜握り締めたまま眠ってしまったあの手ぬぐいだ。手ぬぐいを掴み、眺める。サムライから借りてリュウホウに貸した手ぬぐい。ただひとつ手元に残ったリュウホウの形見。   
 形見?
 その連想に自然、口元に自嘲の笑みが浮かぶ。これはただの手ぬぐいだ、棉素材の布きれだ。薄っぺらい布きれをリュウホウの形見と称して感傷に耽るような湿っぽい趣味は僕にはない。
 じゃあ、なんで僕はこの手ぬぐいをいまだ手放さないでいるんだ?
 リュウホウの死から一週間が経過した現在でも手ぬぐいを握り締めているのはなぜだ?なにかに縋るように手ぬぐいを握り締めているのはなぜだ?わからない。「わからない」は無敵の免罪符だ。「わからない」とさえ言えばそれ以上考えずに済む、本当はすぐ近くにある答えから目を背け続けていられるからだ。
 思考停止状態に陥った僕は無意識に手ぬぐいをもてあそびながら様々なことを思い起こす。
 リュウホウ。ダイスケ。安田。レイジ。ロン。リョウ。サムライ。両親。恵。これまで出会ってきた全ての人々の顔が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。十五年の人生は長いだろうか、短いだろうか。日本人の平均寿命が八十歳とすれば短いだろうがもう八十年分生きた気がする。東京プリズンにきてからもう何十年も経った気がする。このままこの檻の中で朽ち果ててゆくのならいっそ―……
 いっそ、なんだ?どうするつもりだ?
 「……」
 愕然として膝においた手ぬぐいを見下ろす。膝においた左手がしっかりと手ぬぐいの端を握り締めていた。強張った指をこじ開け、手ぬぐいを放す。思考が空転する。自分が何をするつもりだったのか、何をしようとしていたのかわからなくなる。
 いや、わからなかったはずがない。
 僕は天才だ。天才にわからないことなどあるはずがない。
 本当はわかっていた。わかっていたが、認めるわけにはいかない。そんなこと認められるわけがない。もし認めてしまえば僕は―

 静寂を突き破り、大音量のベルが鳴り響いた。

 「!」
 反射的に手ぬぐいを握り締め、腰を浮かす。房の中を見渡すと大気が薄らと青みをおびていた。鉄扉に設けられた格子窓から射しこんだ光が房の中をよこぎっているのだ。いつのまにか夜が明けていたらしく、朝食を報せるベルに叩き起こされた囚人たちが廊下にわきだし、にわかに外が騒がしなくなる。
 隣のベッドで動きがあった。
 殆ど条件反射で手ぬぐいを後ろ手に隠し、腰を上げる。隣のベッドで起き上がったサムライが緩慢な動作で首を巡らし、自分が寝起きする房に異常がないか確かめる。壁を迂回した視線が僕を通過してからまた戻ってくる。
 「………早いな。起きてたのか」
 寝ぼけ眼というには鋭すぎる双眸で僕を一瞥し、毛布を持ち上げるサムライ。衣擦れの音も殆どない、もはや日常の習慣となった忍び足で床に降り立つや、無関心に僕の前を通り過ぎて洗面台に向かう。蛇口を捻り、顔を洗う。水音だけが響く房で息を詰めてサムライの背中を見つめる。
 顔を洗い終えたサムライの背筋がすっきりと伸び、顔を拭くものをさがしてきょろきょろとあたりを見回す。肩越しに振り向いた視線が僕の背後、正確には僕が後ろ手に隠した手ぬぐいに注がれているのに気付く。
 サムライと目が合う。射抜くような双眸。
 「これはだめだ」
 だめもなにも元々サムライの持ち物だと口にしてから気付き、非常にばつの悪い思いをする。僕に拒絶されたサムライはとくに文句を言うでもなく、囚人服の上着を掴んで無造作に顔を拭いた。ベルの音が大きくなる。耳小骨を震動させる大音量のベルに急き立てられ、一足先に食堂に行こうとしたサムライがノブに手をかけた姿勢で呟く。
 「手ぬぐいを持っているのはかまわないが」
 何を言い出す気だ?
 心臓が跳ね上がり、動悸が速まる。
 「俺の貸した手ぬぐいで首を吊るなよ」
 「……………、」
 反論するよりはやく鉄扉が閉じ、サムライの姿が視界から消える。格子窓の隙間を覗きこむ。きびきびした大股で廊下を去ってゆくサムライの言葉が耳の奥で反響する。
 僕が首を吊ろうとしていただって?どこからそんな発想がわいてくるんだ、アイツの思考回路は理解できない。
 大股に去り行くサムライを見送って嘲笑しようとしたが、顔筋がうまく動かず失敗する。事実、僕の手の中には手ぬぐいがある。サムライから借りた手ぬぐい、リュウホウの命を奪った手ぬぐいが。
 手の中の手ぬぐいを今一度見下ろし、角と角を一ミリの狂いなく重ね合わせ、神経質に畳んでポケットにしまう。
 思い返せばサムライと言葉を交わすのは一週間ぶりだ。これまでは話しかけられても徹底して無視してきた。会話らしい会話とはとても言えない無意味な応酬だが、それでも。
 サムライの態度がいつもと変わりなく素っ気ないことに安堵している自分がいることもまた、否定できない。
 同情されるのはごめんだ。へたに気を遣われるのも嫌だ。気付かないふりをしてくれるのがいちばんいい。

 サムライは気付いているのだろうか。
 見抜いているのだろうか。
 どこまで?

 「僕が首を吊ろうが、貴様に関係ない」
 ノブに手をかけて苦々しく吐き捨てる。
 僕が首を吊ろうがどうしようがサムライには関係ない。関係ないはずだ。そうだろう?
 惰性で呼吸している今だって互いを空気のように無視してるのだから。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060421030721 | 編集

 エレベーターの扉が開き、堰を切ったように囚人がなだれだす。
 白と黒の囚人服の波に呑まれて歩きながらイエローワーク、イーストファーム行バス停13番の標識をさがす。あった。円い標識の中央に無表情な英数字で「13」のナンバーが記されている。コンクリートを打たれた地面を歩いて13番の標識へと近寄り、長蛇の列をなした囚人の最後尾に並ぶ。
 周囲の囚人の顔の青白さを悟られないよう顔を伏せ、こみあげてくる吐き気に耐える。 
 気分が悪い。ここにくる前に房に寄って吐いてきたがまだ胃が重い。鉛を飲み込んだように喉が詰まり、息を吐き出すのさえ辛くなる。こんな調子で今日一日を切り抜けられるだろうか?確証はない。イエローワークの仕事場で倒れても医務室送りは望めないだろう。炎天下の砂漠で昏倒したらそのまま放置されて熱中症にかかるか、僕が弱ったところに目につけた凱やその他の囚人たちの手により最悪生き埋めにされるだろう。僕が両親を刺殺して東京プリズンに収監されたことは今や東棟はおろか他の棟の囚人にまで知れ渡るようになった。僕に反感を抱いてる囚人は何十何百人といる。強制労働中も気を抜けない、弱みをみせたらつけこまれる。
 「よ」
 唇を噛んで吐き気を堪えていた僕の背後に人の気配。軽い挨拶に振り向くと面識のある囚人がいた。ロンだ。生死をともにした一週間前の晩から会話を交わしてないから顔を見るのがやけに久しぶりな気がする。
 「…………」
 「無視するなよ」
 口をきくのも億劫だった。ロンを無視して正面を向いたら不機嫌な声が返ってきた。仕方なく、口を開く。
 「レイジは勝ったのか」
 「?」
 前置きもなく、単刀直入に最大の関心事を訊ねるとロンが不審げな顔をした。三秒たち、ようやく僕の意を正確に汲み取る。
 「ああ、ブラックワークのことか」
 一週間前、深夜の監視塔でレイジとサーシャが対決した。レイジの桁外れの強さの前には華麗にナイフを扱うサーシャも形無しでレイジは見事勝利したが、その後の経緯は聞いてない。実際それどころじゃなかったのだ、翌日発見されたリュウホウの死体のことで僕の頭は占められていたから。
 「不戦勝だよ」
 ロンは「なにをいまさら」と言わんばかりのあきれた顔をしていた。
 「サーシャが再起不能になって対戦者がいなくなったからレイジの不戦勝、レイジは暫定一位を保持。聞いてなかったのか?囚人どもが噂してるだろ」
 「僕の耳には届かなかったな」
 「目だけじゃなくて耳もわりいのか?」
 「心外だな、下品なスラングが聞こえないようにできてるだけだ」
 「そりゃまたずいぶんと都合のいい耳で」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らしたロンがふいに眉をひそめ、ポケットに手を突っ込んで肘を張った姿勢で僕を覗きこむ。
 「……大丈夫か?」
 「大丈夫じゃなく見えるのか?」
 逆に聞き返す。虚をつかれたように数回瞬きしたロンは僕の返しが皮肉だと理解するや否や、いまいましげな目つきで睨んでくる。
 「口は達者みたいでよかったぜ。二度と減らず口たたけなくなるよう舌ぬいとけ」
 不機嫌そうにそっぽを向いたロンに背を向ける。バスはまだ来ない。気の短い囚人たちが苛立ちはじめ、列の前後で口汚い罵倒が飛び交う。野卑なスラングと下卑た哄笑が鼓膜を満たし喧騒がふくらむ。僕とロンのまわりだけが殺伐とした沈黙を守っていたが……
 「一週間前に首吊ったの、お前のダチだったんだな」 
 半身を傾け、視線を背後に流す。すぐ背後に立ったロンが言いにくそうな顔でコンクリートの地面を蹴っている。磨り減ったゴム底が沈黙に陥りがちな気まずさをごまかすようにコンクリートを蹴りつける音が奇妙に耳に残る。
 何が言いたいんだろう。
 眼鏡のレンズ越しにロンの表情を観察する。続けようかどうしようか躊躇して目を伏せ、他にどうしようもなくコンクリートの地面を蹴り続けている姿は何か気に入らないことがあってふてくされているようにも見える。
 束の間の逡巡の末、人さし指で頬を掻きながらちらりとロンがこちらを盗み見る。
 「……気の毒だったな」
 不器用な労わりの言葉よりなお雄弁に、ロンの目を翳らせていたのは同情の色。返す言葉をなくしてむなしく立ち尽くした僕になにを勘違いしたのか、どこか言い訳がましく焦りながらロンが付け足す。
 「一週間前にお前がさがしてた囚人だったんだろ、そいつ。あの時お前が捜しに行くの止めなけりゃひょっとしたら首吊らせずにすんだかもしれねーし……だから」
 「連帯責任か」
 「え?」
 ロンが眉をひそめる。小さく息を吸い、舌の使い方を忘れてないことを確かめる。他人と会話するのは久しぶりだ、内心の動揺を暴かれないよう最小限の言葉で、なおかつ端的に主旨を伝えることができるか心許ない。
 「言っておくが、リュウホウの死についてきみが責任を感じる必要はないぞ。もちろん僕も」
 下唇を舐め、時間を稼ぐ。自分がこれから言おうとしていることを口の中で反芻し、その正否を自問してから、くだらない逡巡を断ち切るように一気に。
 「もちろん僕も、一片たりとも責任なんて感じてない。リュウホウは弱いから死んだ、それだけだ」
 胸に暗い沼のような感情が広がる。底なし沼のような澱みに投影されるのはリュウホウの憂い顔、時間の経過にともない薄れてゆく面影。それきり口を噤んで会話を拒否した僕へと一歩つめより、ロンが叫ぶ。
 「お前の友達だろ?」
 「他人だ」
 抗議口調のロンを冷ややかに牽制する。僕はいまどんな表情をしているのだろう、平素と同じく無表情を保ててればいいが。眼鏡のブリッジを押し上げるふりで表情をさえぎった僕を納得できない様子で見つめていたロンが、苛立たしげに地面を蹴る。
 やり場のない感情をこめ、八つ当たりするように蹴る。
 「じゃあ、なんでそんな情けないツラしてんだよ」
 今の僕はなさけない顔をしてるのか。
 第三者の感想めいた軽い驚きのあとに訪れたのは羞恥と屈辱が半半に入りまじった、何とも形容しがたく面映い、複雑な感情。眼鏡のブリッジを押さえていた指をおろし、力の抜けた腕を体の脇にたらす。地面を蹴りながら僕を盗み見ていたロンがあきれたようにかぶりを振る。
 「しんどかったらサムライを頼れよ」
 なんでここであの男の名前がでてくるんだ?
 僕がいまいちばん聞きたくない男の名前をさらりと口にしたロンは、風邪をひいたら医者にかかれとでもいわんばかりに気負わず続ける。
 「いい奴だぜ、アイツ。無愛想でパッと見とっきにくいけど、ほんとにしんどいときには力になってくれる」
 周囲を取り巻いていた喧騒がにわかに遠のき、さりげなく吐かれたロンの助言が殷殷と脳裏にこだまする。
 「ロン」
 ロンが顔をあげる。うろんげにこちらを向いたロンの顔を挑むように直視し、叩きつけるように言う。
 「では聞くが、きみはなにか困ったことがあればレイジに泣きつくのか?何か困ったことが起きるたびに他人に泣きついて他人に依存して恥も外聞もなく助けを乞う、それが東京プリズンにおけるきみの処世法なのか」
 一度堰を切った言葉は止まらず、血を吐くように喉から迸る。
 昨晩リョウに含まされたクスリのせいだろうか。悪夢の色彩をおびた眩暈に襲われ、理性が砕け散る。目の前が赤く染まる錯覚にかぶさるのは天井からぶらさがったリュウホウの幻覚。
 排泄物にまみれた下半身とだらりと弛緩した四肢、人間の尊厳などかけらもないみじめな死に様。
 「そんなプライドのない真似は死んでもごめんだ」
 「プライド貫いて死ぬつもりか、おまえ。言っとくけどそれはプライドじゃねえ、駄々こねるしか能のねえガキじみた意地だ」
 ロンは引き下がらない。
 最後に強く地面を蹴ると、ポケットから手を抜いて僕と向き合う。嘘のない、強い眼光。
 「お前のプライドは命と引き換える価値があるもんなのか?」
 排気ガスの煙が大気を白く染め、減速したバスがすべりこんでくる。 
 横腹で列を擦るようにバス停にすべりこんだバスの扉が開き、最前列の囚人がけたたましく靴底を踏み鳴らしてステップを駆け上る。「おっせーよ」「何分待たせんだよ」「蟻地獄にでもつっこんだのかよ」口々に悪態をつきながら不揃いな足並みでバスへと乗りこんでゆく囚人たちをよそに僕とロンは睨み合っていたが、ロンの後ろに並んだ囚人が「はやくしろよ」と肩を小突き、前のめりに崩れる。
 ロンの手が肩に触れるまえに後退する。支えを失ったロンがたたらを踏んで持ちこたえ、背後の囚人と正面の僕とをいましましげに見比べる。
 『咒(呪ってやる)』
 舌打ちに紛れる悪態をつき、僕をおしのけるように歩き出す。憤然とロンに追い抜かされた僕はこれ以上遅れをとってなるものかと足早に後を追う。ステップを踏んでバスに乗り込む間際、手摺を掴んでなにげなく振り返り、列の後ろの方に癖の強い赤毛を発見する。
 リョウだ。
 にっこり笑って僕へと手を振ったリョウに、昨夜の忌まわしい記憶と生々しい唇の感触がまざまざとよみがえり耐え切れないほど気分が悪くなる。上着の胸を掴んで深呼吸し、喉に逆流してきた苦い胃液を飲み下す。
 いったい僕になにを飲ませたんだ?
 今すぐステップを駆け下りてリョウを詰問したいのが本音だが後がつかえている。後列の不興を買うのをおそれ、不承不承バスに乗り込む。僕に続く三人を収容してバスの扉が閉じる。息苦しく密閉された矩形の空間に熱気が充満し、不快指数が加速度的に上昇する。ガラスの扉にもたれるように密着した僕の足もとに重低音を伴う震動が伝わり、エンジンがかかる。ゆっくりと動き出した車窓のガラス越しに見えたのは人当たりよいリョウの笑顔。
 リョウの唇の動きに目を凝らす。
 『い』
 『る?』
 錠剤のシートを車窓越しに掲げ、いたずらっぽく小首を傾げたリョウの顔を見た瞬間目の裏側で閃光が爆ぜた。
 
 何かを蹴る鈍い音、足裏に衝撃。

 周囲の囚人がぎょっとし、運良く席を確保した囚人が何事かと目を見張る。扉の内側には泥が付着していた。
 僕の靴跡。
 気付いた時にはおもいきり扉を蹴っていた。扉の向こうではリョウが笑っている、檻の中の動物でも眺めるように密やかな優越感に満ちた目で眺められて凄まじく不愉快だ。
 速度をあげてバスが動き出す。リョウの顔が見えなくなったとたん頭に昇っていた血がすっと降り、呼吸がラクになる。吊り革を掴んだ囚人がじろじろと好奇の眼差しを向けてくる、突発的な奇行を目撃して僕の気がおかしくなったのではないかと疑念を抱いたらしいがそんなことはない。ありえない。あったとしても認めない。
 僕はまだ冷静だ。怪我した効き手ではなく、足で蹴ったのがなによりの証拠だ。

                             +


 イエローワークの強制労働が始まった。                            
 穴を掘る、砂を運ぶ、穴を掘る、延延とその繰り返しで時間が過ぎてゆく過酷で単調な肉体労働。中天に輝いた太陽が頭皮を焦がして後から後から毛穴から噴き出す汗を蒸発させ、容赦なく水分を搾りとる。暑いというより熱い、苦しい。頭が茹だり正常な思考活動ができなくなる。シャベルによりかかるようにして休んでいたら背中に一塊の砂を浴びせられた。
 反射的に顔をあげる。逆光を背に穴の底を覗きこんだ少年の顔は影に塗りつぶされてよく見えないが、その声には嘲弄の響きがあった。
 「このシャベルあっちに持ってけ」
 言うが早いか、砂のこびりついたシャベルがどさどさと降って来る。一本、二本、三本……四本。計四本だ。僕ひとりでか?などと今更聞き返さなかった。班で最底辺の扱いに不満を唱える気もない。抗弁するだけエネルギーの無駄だ、ここは素直に従うのが賢い。
 要するに僕は最低の親殺しで、彼らからすれば最下等の人間なのだ。凶悪な罪を犯して東京プリズンに収監されて強制労働に就かされている境遇は一緒でも彼らに僕は理解できない。
 ズボンの膝を砂だらけにし、穴の側面を掻いてよじのぼりながら彼らに命令されるぶんには全然プライドが傷つかない理由をぼんやり考えた。結論、あんまりにもレベルが違いすぎるからだ。いちいち相手にして怒る価値もない、その程度の存在なのだ。
 じゃあサムライは?
 堂堂巡りする思考を一旦放棄し、穴の底に腕をのばしてシャベルを持ち上げる。一本、二本、三本目で腕が吊りかけた。額に滲み出した汗が瞼を滴り落ちて目に染みる。一週間前、サーシャに切り裂かれた瞼の傷はもう塞がった。二・三日でも顔を洗うのを控えれば染みることもなかったのだろうが不潔に過ごすのは耐えられない。瞼に染みるのを我慢して顔を洗った。今ではうっすらと痕が残っている程度だ、至近距離でじっくり観察されでもしないかぎり見分けられることはないだろう。
 四本目までなんとか持ちこたえ、穴の上に引き上げる。危うく吊りかけた腕の筋肉を揉み解し、腰を上げる。どうせ引き上げるのだからわざわざシャベルを投げ落とさずともそこら辺に放置しておけばいいだろうと思うが、これは嫌がらせなのだ。いちいちいらついていてもきりがない。
 まわりを見回す。同じ班の人間は皆忙しげに立ち働くふりをしながら、その実にやにや笑いを浮かべて僕の反応を楽しんでいた。陰湿かつ粘着質な視線がまとわりついてきて気持ちが悪い。早くこの場を立ち去ろうとシャベルを両方の手で二本のシャベルを掴んだが、刹那、右手の薬指に激痛が走っておもわず柄を放す。砂に倒れたシャベルの柄を見下ろしてると舌打ちを禁じえない心地になる。
 薬指の腫れはだいぶひいてきたが完治にはまだ時間がかかりそうだ。一瞬ズボンのポケットに挟んだ手ぬぐいに思い馳せるが、小さくかぶりを振って打ち消す。
 リュウホウの首に巻きついていた手ぬぐいで指を添え木するのはためらわれた。
 仕方ない、一本ずつ持ってゆくしかないだろう。
 左脇にシャベルを持ち抱え、砂に足をとられながら歩き出す。のろのろと砂丘の斜面をよじのぼる途中、何度もつまずいて膝をついた。平衡感覚がおかしい、三半規管が酔っている。リョウに呑まされたクスリの副作用だとしたら相当タチの悪い覚醒剤にちがいない。砂丘を三分の一ほど登ったところではげしい息切れを起こし、シャベルを放り出してその場に四肢をつく。
 一週間ろくなものを食べてないせいで、もともとない体力がいちじるしく落ちている。
 いつまでもこうしていたらサボりだと誤解されて目敏く看守が走ってくる。萎えた膝を支えて立ち上がった僕の視界がぐらりと傾ぎ、後ろ向きにバランスを崩しかける。
 
 墜落。

 無重力の浮揚感の一瞬後に訪れるのは落下の速度と砂の地面の感触だろう。そう予期して反射的に目を閉じたが、後ろに倒れかけた体は重心を保ったままだ。不審に思いつつ薄目を開ける。灼熱の陽射しが降り注ぐ中、僕の腕を掴んでいるのは―

 安田。

 「なんでここにいるんですか」
 「見回りの一環だ」
 「はなしてください」
 安田の腕を払い、二本の足で立つ。重心が安定した。安田の後ろに目をやる。砂丘の彼方に平坦な道が延び、中央にジープが一台停まっている。あそこから降りて歩いてきたらしい。背広の胸に目をやる。
 「心配しなくても撃ちはしない」
 「いつも拳銃を持ち歩いてるんですか」
 「護身用兼威嚇用だ。人にむけて発砲したりはしない」
 事実なのか嘘なのか、端正だが表情に乏しい顔から推測するのはむずかしい。砂漠に三つ揃えのスーツという場違いに洗練された出で立ちの安田は、銀縁眼鏡の奥の双眸を細め、何か言いたげに僕を見る。
 「瞼に怪我をしてるな。右の薬指にも。その手でシャベルを運ぶのは大変じゃないか?」
 親切心からでた忠告ではなく、見たとおりの感想を述べたにすぎない冷淡な口調。
 「仕事ですから」
 無関心に指摘した安田にそっけなく答え、シャベルを持ち直す。シャベルの刃先で斜面をひきずりながら砂丘をのぼりかけた背中でさくさくと足音を聞く。振り向かなくても安田がついてくるのがわかる。
 「何か用ですか」
 「顔色が優れないようだが」
 「眼鏡が曇ってるんじゃないですか?僕の顔色は普通です」
 「体調が優れないなら医務室へ行けばいい」
 シャベルの刃先が砂を抉り、細い溝を作ってゆく。
 「看守の許可がでればぜひそうしたいですね」
 たまに視察にくるだけの安田がイエローワークの現状についてどの程度把握してるかは知らないが、先の台詞を口にしたということは殆ど何もわかってないか、わかりすぎるほどわかっていて見過ごしているのだろう。倒れた囚人を医務室へ運ぶ手間を考えれば穴を掘って埋めるほうが断然手軽だ、お誂えむきなことに井戸掘りが頓挫して放置されている穴が無数にある。
 人工の墓穴だ。
 背後の足音が止むのと、シャベルを抱えて歩いていた僕が蹴つまずいて斜面に膝をつくのは同時だった。
 「少し休んでいかないか」
 幻聴が聞こえた。
 ズボンの膝を払って立ち上がりかけ、振り向く。膝を払う手を止めて探るように安田を見る。
 今のが幻聴でないのだとしたら安田はいったい何を企んでるんだ?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060420030829 | 編集

 「座ったらどうだ」
 安田が背広の内ポケットを探る。シャベルを放棄して突っ立ったままでいると不審げな目で一瞥された。安田の命令にしたがうのは癪だが容赦なく照りつける太陽と砂漠の熱気に音をあげ、砂丘の中腹に腰をおろす。銀縁眼鏡越しの視線を眼下に一巡させつつ内ポケットから煙草の箱を取り出す。男にしておくのが惜しいような細長い指に煙草を摘み、見るからに高価そうな銀の光沢のライターを押しこもうとして僕を振り向く。
 「なにを見ている?」
 「煙草吸うんですね」
 意外だ。潔癖な印象の安田に喫煙の習慣があるなんて。 
 軽い驚きとともに安田の手元を見つめている僕の視線にばつの悪さをもよおしたのか、神経質な手つきでライターをもてあそびながら安田が言う。
 「きみも吸うか」
 正気かこの男。
 よりにもよって強制労働中に副署長の立場にある人間が囚人に喫煙をもちかけてくるなんて規律違反もはなはだしい。東京プリズン入所初日に出会った安田はなにより規律を重視する厳格なエリートに見えたが買いかぶりだったのだろうか?自然、咎めるような目つきをしていたらしい。僕の方へとライターをさしむけた安田が何事もなかったように煙草に火をつける。
 「冗談だ」
 真顔で冗談を言うな。
 という言葉が喉まで出かけるがぐっと飲み込む。煙草の穂先に橙色の光点がともる。風に吹かれた紫煙が顔の方に流れてきて小さく咳き込む。デリカシーのない人間はこれだから困る、いや、囚人を同等の人間と認めてないからこそ堂々とエチケット違反ができるのだろうか。顔の前に漂ってきた紫煙を手で払い、シャベルを手にして腰を上げる。シャベルをひきずって安田を迂回、紫煙の流れてこない風上へと移動する。よし。
 安田は何も言わず煙草を吸っていた。背後に腰をおろした僕を振り向く気配もなく、砂丘の中腹に佇んで荒涼たる眺望を見下ろしている。乾燥した風が気まぐれに吹きすさび、黄土色の砂を舞い上げてゆく。砂に穿たれた無数の穴の周縁で不規則に立ち働いているのは芥子粒のような人影。手に手にシャベルや鍬をふるい、怒声をはりあげる看守の指示の下、ふたりがかりでリヤカーを押している。
 ジオラマのような砂漠の遥か彼方に目を馳せる。
 砂漠の遥か彼方、地平線と空が接するあたりに浮かんでいるのは廃墟のような高層ビル群。蜃気楼だろうか?蜃気楼の出現条件がそろえば日本の東京でも見えなくはない。網膜に像を結んだ映像が蜃気楼か現実か、目を細めて確かめようとした矢先に安田が呟く。
 「新宿だな」
 いつのまにか安田もぼくと同じ方向を向いていた。
 たしかに、距離と方角から目測してあのビル群は新宿にあるのだろう。現実だったのか、この光景は。それにしてはいやに現実感が希薄だ。無国籍スラム化した都心には地震で崩壊したまま手付かずで放置されているビルが多数存在するというが、僕が見ているのもその一部だろう。
 「ちなみに世田谷はあちらだ」
 形よい顎を振り、あさっての方角を向く安田。
 「聞いてません」 
 調書を読んだのなら僕の家の所在地を知っててもおかしくはないが、だれも教えてくれなんて頼んでない。余計なお世話だ。第一、僕が十五年を暮らした世田谷の家には現在だれもいないのだ。僕が両親を殺して逮捕されたあと恵は叔母の家に預けられることになった。
 恵のいない家になど何の未練もない。
 「ここでの生活には慣れたか」
 熱のない口調で世間話を振ってきた安田に不信感がいや増す。なにを企んでるんだこの男は、刑務所上層部の人間が一介の囚人にすぎない僕に接触してきた理由はなんだ?
 「慣れなければ今頃首を吊ってたでしょうね」
 リュウホウのように。
 「安易な選択は勧めない」
 紫煙の向こう側で安田が言う。
 「きみは両親を刺殺して東京少年刑務所に収監される運びになったが一日一日を真面目に務め上げれば明けない懲役などない。それがたとえどんな環境であっても慣れるのはいいことだ、慣れれば考える時間もでてくる。自分が犯した罪を反省して悔やむ余裕も」
 「悔やむ?」
 鸚鵡返しに声をあげる。
 「この刑務所の連中が本気で罪を悔やんでると、そう考えてるんですか」
 笑い声でもあげたい気分だ。もし本気でそう考えているのなら僕は安田に対する評価を下方修正しなければらない。
 「悔やまない者もいるだろうが、悔やむ者もいる」
 否定とも肯定ともつかない意見を述べた安田の目が少しだけ光る。罪を犯した人間の本心を暴きたてんとする司法の犬の目。
 「きみはどうだ?両親を殺したことを悔やんでいるか」
 口先だけでも「はい」と言うべきなんだろうか。それが正しいのだろう、正しかったのだろう。
 「いいえ」
 安田の表情が若干厳しくなる。
 「きみはIQ180の天才児なんだろう、嘘でもいいから『はい』と答えたほうが穏便におさまるとは考えなかったのか」
 「貴方に嘘をつくのは賢いとは言えない」
 錆の浮いたシャベルを見下ろしながら淡々と説明する。
 「もうほとんど見分けがつかなくなってる瞼の傷を目敏く指摘するような洞察力の持ち主たる貴方のことだ、もし僕が『はい』と答えたとしてもごく些細な表情の変化や目線の向きから本心を悟られる危険がある。『反省してるか』の問いに『はい』と即答してそれが心にもない嘘だとばれれば心証はなおさら悪くなる。それよりは率直に本心を述べたほうがいくらかマシだ」
 今の僕の体調は万全とはいえない、完璧に嘘をつきとおせる自信もない。だから効率論を重視した安全策をとった、それだけだ。
 「どうでもいいが」
 事務的にしゃべっていた安田が初めて感情を覗かせる。あきれを通り越して感心に至ったような、複雑な感慨が滲んだ口ぶり。
 「きみは敬語のほうがより人を馬鹿にしてるように聞こえるな」 
 舌打ち。
 説明の途中で敬語を忘れかけていたことに気付く。物心ついたときから父には敬語を使っていた、敬語を使いながら心の中では馬鹿にしていた。その時のクセがいまだに抜けないのだ。
 安田は背広のポケットに手をもぐらせ、ピルケースに似た銀の円盤をとりだした。円盤の蓋をあける。何かと思えば携帯用の灰皿だった。神経質な手つきで煙草を揉み消し、手首を撓らせて蓋を閉じる。
 剃刀のような知性を宿した目で何百人もの囚人が立ち働く砂漠をみまわし、ひとりごちる。
 「東京プリズンは必要悪だ」
 続きを促すように安田を見上げる。
 「未成年による犯罪発生件数は年々増加するばかり、需要があるからこそ供給もある。今をさかのぼること半世紀前には少年院制度の廃止に対する抗議の声も聞かれたというが、それも難民が増えて治安が悪化し、都心が無国籍スラム化するにつれ薄れていった。日本人は日本人の安全を最重要視して異分子を排除する、異分子は脅威だからだ。だからこの刑務所ができた」
 「この刑務所の創立者はアドルフ・ヒトラーのような人物なんでしょうね」
 「『我が闘争』は読んだか」
 「読まされました」
 「?」
 安田が妙な顔をする。仕方なく説明する、あまり愉快ではない思い出を。
 「八歳の時に『我が闘争』を読んでアドルフ・ヒトラーの天才性とその狂気に至る心理についての論文を書くようにと父に言われて」
 それはそれで興味深くはあったが。
 「………鍵屋崎 優は変わった男だな」
 言われなくても知ってる。十五年そばで見たきたのだから。
 しげしげと僕の顔を眺めていた安田が、ふいに呟く。
 「異分子の中の異分子」
 「?」
 「きみのことだ、鍵屋崎 直」
 二本目の煙草の穂先で僕をさし、ライターに点火する。リラックスした様子で周囲をみまわす。
 「きみの立場は理解している。日本人で親殺しで天才児、最悪の三拍子だ。そのすべてが他の囚人にとって嫌悪と憎悪の対象になる」
 安田が促すように足もとを見下ろす。安田の足もとに倒れていたのは僕がここまで引きずってきた砂のこびりついたシャベル。
 「私はこれまで多くの囚人を見てきた。生き残れた者も生き残れなかった者も、生きてここを出ていった者も死んでここに埋められた者も」
 「なにが言いたいんですか」
 「生き残る秘訣を教えてやろうか」
 体温の低い目がなにか、重大なことを問いかけるように僕の目の奥を覗きこむ。
 「友人を作れ」 
 耳を疑った。
 「そして、頼れ」
 安田は真顔だった。
 眼鏡の奥の目はどこまでも真剣で。
 「ひとりでいる者は狙われる、よってたかって虐げられる。それがここの、いや世界の掟だ。肉食動物や草食動物が群れで行動するのはそれがいちばん効率的だからだ。群れで行動すれば被害も分散される、群れで逃げれば敵を攪乱することができる。人間も同じだ、彼らが群れて行動するのは自分の身を守るためだ。鍵屋崎」
 やめろ。
 その先を言うな。 
 心の中で叫ぶ。耳を塞ぎたいが、金縛りにあったように体が動かない。これもクスリの副作用か?
 僕の心の叫びを無視し、煙草を指の間にあずけた安田が言う。
 「きみは自分で思ってるほど強くない、弱い人間だ」
 目の前が赤く染まるような憎悪。
 「……かってに決めるな」
 僕の価値は僕が決める。
 貴様になにがわかる。
 砂を蹴散らして腰をあげ、乱暴にシャベルの柄を掴む。急に立ち上がったせいで立ち眩みに襲われたが、耐える。シャベルをひきずってその場を立ち去りかけた僕の脳裏に恵の顔が浮かぶ。
 僕は安田が嫌いだ。
 今この瞬間に、サムライの次に嫌いになった。でも。
 「聞いていいですか」
 「なんだ」
 次に安田と会えるのがいつになるかわからない。それならば今、聞いておかなければ。
 「恵は、妹は、叔母の家で元気にしてますか」
 僕の調書を読んだのなら当然恵のことは知ってるはずだ。両親と兄を一度に失った恵のその後についても。シャベルを脇に抱えて振り向いた僕を安田は訝しげな顔で見つめていたが、やがてその口からため息ともつかない声が漏れる。
 「知らなかったのか」
 何?
 「知らなかったって、なにをですか」
 「知らなかったのか」という驚きの呟きに含まれた同情の念に急激に不安になる。恵について安田が知っていて僕が知らないことがあるとでもいうのか。おもわず詰問口調になった僕から目を逸らし、携帯灰皿で煙草を揉み消す安田。
 「そろそろ仕事に戻ったほうがいい。看守が呼びにくるぞ」
 一方的に小休止を切り上げた安田が砂丘を踏み越えて去ってゆく。その背に追いすがろうとした僕の背中を濁声が叩く。
 「そこの囚人、許可なくサボるんじゃねえ!腕と足の骨折って独居房に送るぞ!」
 転げるように砂丘を駆けてきた看守の警棒が振り下ろされるまえに、足もとに落ちたシャベルを拾い上げ、息せき切って走り出す。
 頭の中では安田の言葉が回っている。
 『知らなかったのか』
 安田に聞きそびれたことを心の底から後悔する。去り際の態度がわざとらしかったのも気になる。いったい安田はなにを隠してるんだ?
 瞼の裏側でフラッシュバックするのは現実との境目があやふやな悪夢の光景。
 天井からぶらさがったリュウホウの体が傾ぎながらこちらを向き、奇妙に安らかな死に顔に恵の面影がかぶさる。
 『おにいちゃん、ありがとう』
 壮絶に、壮絶に嫌な予感がする。全身から嫌な汗が噴き出し、砂に足をとられかける。足掻いても足掻いても抜け出せない蟻地獄に嵌まりかけ、途中で力尽きて転倒する。砂にまみれて四肢をついた僕の耳に聞こえるのは自身の荒い息遣いだけ。前髪から滴った汗が地面にぽたぽたと染みてゆく。前髪をかきあげて汗を拭おうとして、後方の地面に白い布きれが落ちているのに気付く。
 走ってるあいだにポケットから落ちた、あの手ぬぐい。
 膝這いになって戻り、手ぬぐいを掴む。リュウホウの命を奪った手ぬぐい、夢の中で恵の命を奪った手ぬぐい。
 わからない。
 安田はなにを言おうとしたんだ?

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060419031000 | 編集

 錆びた夕日が砂漠に沈む。
 強制労働を終えた囚人がバスに飲み込まれてゆく。僕もその他大勢の囚人に紛れてステップをのぼりバスに乗りこみ吊り革を掴んでいたが、頭の中では安田の言葉がぐるぐると回っていた。
 『知らなかったのか』 
 なにを?
 『知らなかったのか』 
 なんのことだ?
 哀れむような呟きが耳にこびりついてはなれない。僕の愚かさを嘆いているようにも聞こえた。恵について安田が知っていて僕が知らないこと、それはなんだ。そんなことが存在するのか。僕は恵の兄なのに、両親が死んだ今は恵を守れる唯一の存在なのに、いや、両親が生存していた頃から恵を守れる人間は世界に僕ひとりしかいなかった。恵は僕がいなきゃなにもできない、僕が守ってやらなきゃなにもできない。内気で引っ込み思案で寂しがり屋でかよわい恵、そんな恵をひとりぼっちでこの世界に放り出すわけにはいかない。
 恵に危害をくわえる人間は僕が許さない、絶対に。だから両親を殺して崩壊寸前の恵の自尊心を保とうとしたのに、なんで僕は今ここにいるんだ。恵と離れ離れになってこんな汗臭いバスの中につめこまれているんだ。
 思考が分裂している。危険な兆候だ。気分は最悪で眩暈がする。吊り革を掴んで吐き気を耐える。足裏に伝わってくるのは断続的なエンジンの震動、車窓を流れるのは変化に乏しい砂丘の連なり。
 視界が突然暗くなった。
 はじかれたように顔をあげる。車窓に闇の帳がおりていた。緩やかな勾配のスロープを下ったバスが地下停留場の闇に吸い込まれたのだ。途方もなく巨大なコンクリの空間を深海魚のように回遊しているのは、それぞれの部署から囚人を乗せて運んできた何十台ものバス。
 不景気なエンジン音が止み、バスがとまる。
 「あー肩がこった」
 「シャツん中に砂が入って気持わりい、飯の前にシャワーだシャワー」
 「ばか言え、シャワーの時間は決まってんだろ。ひとり三分な、あとがつかえてんだよ」
 「三分で体の裏も表もケツの穴も洗えるかよ」
 「おまえの貧相なモンもよーっく洗っといたほうがいいぜ、ブラックワークの売り専に砂かませたら恨まれる」
 下卑た軽口の合間に挟まれるのは品のない哄笑、大口あけて笑いながらステップを降りてゆく囚人に続いて停留場のコンクリ床を踏む。シャツの中にまぎれこんだ砂が肌を擦るざらついた感触が気持ち悪い。一秒でもはやくシャワーを浴びたいが今日は僕の番じゃない、このまま房に帰るしかないだろう。僕も一日二日シャワーを浴びなくてもなんとも思わないここの囚人のように神経が図太くできてればよかったのに。
 囚人服の袖をつまみ、中に入りこんだ砂を落としながら上階の房へと通じるエレベーターの方向に歩いていると酒焼けした濁声が鼓膜を叩く。
 「安田の若造にも困ったもんだ」
 安田の名前に振り向く。
 トイレがあった。
 リュウホウが以前リンチされていたあのトイレだ。聞き覚えのある声だが、だれだったか思い出せない。エレベーターの方角へと流れる波を外れ、吸い寄せられるように廊下を進む。だれだったかは覚えてないが話し声は二人以上、会話中に安田の名前がでてきたということは安田のことについて話しているにちがいない。
 「抜き打ちで視察にくるせいでおちおち飲酒もできねえよ」
 「ビールぐれえ飲まなきゃ砂漠で監視なんてやってらんねえよな、生き地獄だ」
 「気取りやがってむかつくぜ、出世街道はずれたエリートがよ。いくら威張ったところでこんな砂漠のど真ん中の刑務所に左遷されてきた時点でオワリだろうが、所詮は副署長どまりのくせに……」
 「まあ、俺たちヒラの看守は副署長サマサマに媚売んなきゃこれ以上の出世ものぞめねーけどな」
 「アイツこそガキどもに殴り殺されて埋められちまえばいいんだ、幸い墓穴にはことかかねえ」
 ノブに手をかけた時点で止まる。中の人物は小用をたしながら雑談しているらしく、勢いよい水音が響いてくる。会話から察するに中にいるのはイエローワーク担当の看守らしいが、排尿中を覗くのはさすがに抵抗がある。このまま引き返したほうが無難か、という考えが頭をかすめるが理性が命じるところに反して足が動かない。
 安田について、恵について、知りたい。安田の話題に触れたのならひょっとして―
 「そういえば、見たか」
 「なにをだよ」
 「安田のやつ、砂漠で煙草ふかしてたぜ」
 「なんだと!?俺たちには飲酒も喫煙も禁じたくせに自分だけすぱすぱやってたのか、ふてえやろうだ」
 「で、休憩中の安田の隣に座ってたのが例の親殺しだ」
 「親殺し……ああ、例のアレか。くそかわいげねーメガネの」
 「そうそうメガネの」
 「ふたりで何か話してたみてえだけど、なに話してたんだかな」
 「一介の囚人と副署長が仕事中にも関わらずプライベートな会話をねえ…由々しき事態だな、これは。あとでとっちめてやらねえと」
 「どっちをだ?」
 「決まってるだろ」
 気持ちよさそうな水音が止む。ベルトのバックルが擦れるカチャカチャという金属音にくぐもった笑い声がかぶさる。
 「あのガキも馬鹿だよなあ。エリート日本人の親もって裕福な家庭に生まれて何の不自由もなく育っておまけにIQ180の天才児。このままいけば末は学者か大臣か、どっちにしろ出世街道まっしぐらって決まってたのに。なにをわざわざ親を殺してこんなくそったれた刑務所にくるかねえ」
 「動機はわかんねえんだろ」
 「完全黙秘だってよ、取調べん時も強情だったらしい」
 「鍵屋崎っていやナンタラの世界的権威の学者夫妻だろ、事件起きる前から何度も新聞の一面に顔がでてきたぜ。優秀すぎる親に対するコンプレックスとか愛情の欠損における人格の歪みやら世間じゃいろいろ言われてるけど、俺に言わせりゃガキが親殺す理由なんて有史以前からこれに尽きる。頭が狂ってたからだ」
 「かわいそうなのは妹だよなあ」
 「いもうと?」
 恵。心臓が凍る。
 「妹がいたろ。鍵屋崎夫妻の長女で十歳の…名前は忘れちまったけど。兄貴が両親殺して刑務所行きで小学生の身空でひとりぼっちだ」
 「思い出した、妹か。まてよ、後日談知ってるぜ」
 「後日談?」
 「新聞は自制してるけどネットじゃプライバシー無視で垂れ流し状態だからな……言いたい放題書かれてるけど俺が聞いたのはたしかな情報だ。なんせ被害者遺族のPTSDケアにおけるその後の身上調査書が出所だからな」
 「そんなの勝手に覗いていいのかよ」
 水を切る音、あきれたような声。
 「当直の暇潰しに事務局のパソコン端末いじってたらでてきたんだよ」
 心臓が破裂しそうに高鳴り、全身の血が沸騰して駆け巡る。今この中に入れば恵の現在について聞ける、問いただすことができる、安田が伏せた真実を暴くことができる―
 カチャリと金属が噛み合う音を合図に金縛りが解けたときには既に遅く、目の前のドアが開いた。
 「それでその妹は―」
 トイレから出てきたのは不摂生な肥満体の看守だ。脂肪をたっぷりたくわえた下腹を大儀そうに揺らしてでてきた看守、その糸のような目が「ん?」と僕を見つめる。脂肪に埋もれた目をしばたたいた看守がトイレの奥へと声をかける。
 「ネズミがいるぜ、タジマ」
 タジマ―但馬。
 どうりでどこかで聞いた声だと思った。トイレの奥、白亜の便器と向かい合っていたのは囚人間で毛嫌いされている看守の但馬だ。ベルトのバックルをかちゃかちゃ鳴らしながら大股に近づいてきた但馬が同僚をおしのけるように身を乗り出してくる。
 「噂をすれば、だ」
 耳の奥でけたたましく警報が鳴り響く。
 ヤニ臭い歯をむいてにたりと笑ったタジマの腕がこちらに伸び、腕を掴んで中へとひきずりこむ。水で濡れたタイルに足をとられ滑りそうにながら、勢いあまってタジマの腹に激突した僕の背後でため息が聞こえる。
 「ネズミをいたぶるのもほどほどにしとけよ、バレてクビになっても知らねーからな」
 「バレなきゃいいんだよ」
 処置なしと首を振り、面倒に巻き込まれるのを恐れてか足早に立ち去る看守の背中が閉まりゆくドアの向こうに消えバタンと音が響く。
 「サボりの次は盗み聞きか」
 タジマの声が冷える。危険な兆候だ。次に訪れる展開がいやというほど予想できる。
 「仕置きが必要だな」
 分厚い唇の間から黄ばんだ歯が覗き、口臭くさい息が顔に吐きかけられる。タジマの腕をふりほどこうとしたが腕力がちがいすぎる。痣になるほど腕をつかまれ力づくでトイレの個室へとひきずりこまれる。乱暴に扉を閉じ、僕を壁際においつめて後ろ手に施錠したタジマがいやらしく目を光らせる。
 狭い密室にふたりきり。扉はタジマがおさえている、逃げ場はない。
 退路を絶たれた僕はむなしく前後左右を見回すが、四囲は白い板に隔てられている。ドアを超えて逃げようにも背丈が足りない、また、目の前のタジマがそうさせてはくれないだろう。
 自分が窮地に立たされていることは十分すぎるほどわかっていた。わかっていたが、僕の頭の中は全く別のことで占められていた。タジマの会話中にでてきた断片、安田、恵、その後の身上調査。
 「恵は」
 「あん?」
 「恵が今どうしてるか、知ってるんですか」 
 緊張に縮んだ舌を不器用に操り、聞く。背中に密着したタイルのひんやりした温度が伝わり、毛穴から噴き出した汗が瞬く間に冷やされていく。巨体でドアを塞いだタジマはしばらく訝しげな顔をしていたが、「恵」が僕の妹の名だと思い出し、密室での絶対的優位を隠そうともしない笑みを浮かべる。
 「ああ、知ってるよ」
 「教えてください」
 押し殺した声で叫ぶ。すがるように。
 「それがひとにものを頼む態度か?」
 タジマの眉間に反感の皺が刻まれ、腰の警棒に手がのびる。
 「おねがいします」
 警棒で口を殴られて前歯が折れる前に、まだ普通に口がきけるうちに懇願する。僕は必死だった。恵の消息が聞けるなら土下座でもなんでもする、なんでもタジマの命令を聞いて言う通りにする。だから、だから―
 「なんでもするんだな」
 確認するように嬲るように、肉厚の唇を湿らせてタジマがささやく。発情した蛭のように淫猥にうごめく唇から目を逸らし、タイルの床に視線を固定し、喉の奥の苦い塊を吐き出す。
 「なんでもします」
 恵が今どうしてるか知りたい、叔母の家で元気にしてるかどうか、ひとりぼっちで寂しがってないか、それだけでいいから教えてほしい。その為ならなんでもすると決断し、間接が白く強張るほど指を握り締めた僕の肩が強い力で掴まれ、強引に顔を起こされる。
 鼻の先端が接する距離でタジマがのぞきこんでいた。
 「壁に手をつけ」
 息を荒げ、早くも興奮に上気した顔でタジマが命じる。言われるがまま、後ろを向いて壁に手をつく。右の薬指に負担がかからないよう用心して壁に五指をひろげた僕の背中に下腹を密着させてタジマが覆い被さり、見せ付けるようにゆっくりとベルトを外す。ベルトの金具が擦れる金属音が神経に障る。片手でベルトをゆるめにかかりながら、もう一方の手を囚人服の裾にもぐりこませる。ざらついてかわいたてのひらの感触が不快で吐き気がこみあげてくるが、行為中に嘔吐したらタジマを怒らせるのは目に見えている。恵の消息を聞くまでは我慢するしかない。肩甲骨の突起をたしかめるように動いていたてのひらが背骨にそっておりてくる。タジマの性格そのままに無遠慮で厚かましい手つきだ、手に性格がでるというのは本当だったらしい。熱をむさぼるように体の裏表をまさぐっていたてのひらが性感帯をさぐるように前にまわり、鳥肌立った太腿をなでさする。
 「棒きれみてえだ」
 タジマが生唾を飲み下し、火照ったてのひらが蛇腹めいた動きで太腿を這いまわる。
 「ここも」
 太腿に飽きた手が前へと達する。
 「こっちも」
 固く固く目を閉じ瞼の裏側の暗闇に自我を没する。ぼくはなにも感じてないなにも感じてない不感症だからなにも感じるはずがないただ壮絶に気持ちが悪いだけだ今にも自制心が崩壊して理性が蒸発してしまいそうなだけだ。早く早く終わってくれ、早く飽きて教えてくれ、恵がどうしているか叔母の家で元気に暮らしているかどうか僕が知りたいのはそれだけだそれさえわかればこんな頭のいかれた少年愛好者の変態に用はない。
 違う、違うことを考えろ。気を紛らわせ、雑念を散らせ、思考を矯正しろ。そうだ、円周率だ。円周率を唱えて忘れろ、無限に続く数字の羅列の中にかさついた手の感触も肌を這いまわる手の不快感も全部埋めて葬り去ってしまえ。
円周率は3.14159265358979323846 2643383279 5028841971 69399375105820974944 5923078164…………
 「お前の妹な」
 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095
 「精神病院にいるぞ」
 5058223172……え?
 「………………なん、」
 粘着質な指づかいも熱く湿った息もはだけたシャツからあらわになった肌にまとわりつくタジマの視線もなにもかも、なにもかもがその瞬間から意味をなさなくなる。
 「そ、だ」
 嘘だ。
 なんで恵が精神病院にいるんだ。
 喉から変な声が漏れた。喘ぎ声?ちがう、これは―喘鳴だ。酸欠状態に陥ったように呼吸を弾ませ、唸る。
 「うそをつくな」
 「嘘じゃねえさ。お前の逮捕後、一度に家族を失ったかわいそうな妹は親戚の家に預けられたんだがそこで情緒不安定になって一切大人としゃべらずに心を閉ざして、もうどうしようもないと判断した親戚の手で仙台の小児精神病棟に―」
 ―「でたらめを言うな!!」―
 絶叫。
 振り向きざまにタジマの襟首を掴む。突然振り向かれて狼狽したタジマが腰砕けによろけて後退、背中からドアに激突して密室が軋む。 「でたらめを言うんじゃないそんなことがあるもんかあるはずがない言い直せ訂正しろ真実を話せ!!」
 「おいやめろやめ押すんじゃねえこらっ、どわっ!?」
 後ろ手で開錠したタジマが濡れたタイルの上に派手に転ぶ、その襟首を鷲掴んで胴にまたがる。
 「そんなはずがない恵は叔母の家にいるはずだ、叔母の家で僕の帰りを待ってるはずだ!」
 「はな、はなひぇ……」
 白濁した泡を噴いて宙を掻いたタジマの襟首をますます握力をこめて締め上げる、その後頭部を何度も何度もタイルの床にぶつける。頭蓋骨がタイルにあたる鈍い音が連続し鼓膜に足音の大群が押し寄せてくる。トイレのドアを蹴破ってなだれこんできた囚人がタイルの床の上で取っ組み合った僕とタジマを目撃して騒然となる。
 「はなひぇって言っひぇんだろう!」
 衝撃。
 軽々と殴り飛ばされ背中からトイレのドアに激突する。亡者のように立ち上がったタジマが痕になった首をさすりながら毒づく。
 「こちとらヤッてる最中に首締められて興奮する変態的な趣味はねえんだよ。ちっ、興醒めだぜ」
 タイルの床に手をつく。光沢のある平面に映しだされたのは眼鏡越しの瞳に絶望を焼き付けた自分の顔。物見高い囚人を荒らしく突き飛ばして出ていきかけたタジマにすがりつくように叫ぶ。
 「嘘だろう」
 嘘だと言ってくれ。
 脳裏を占めるのは恵の顔、無邪気に僕を慕う恵の笑顔。僕がこの世界で唯一心を許した―
 「お前の妹。引き取られた親戚んちじゃだれとも口をきかず部屋に閉じこもって過ごして、一日中こう呟いてたそうだぜ」
 囚人を突き飛ばして憤然と突き進みかけたタジマが痣になった首をさすりつつ、最後の置き土産とばかりに振り返る。

 「おにいちゃんが死ねばよかったのに、ってな」
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに!』

 どこかで聞いた台詞だ。
 どこかで聞いた声だ。
 度外れして甲高いタジマの声真似じゃない、これは―……これは、現実の恵の声だ。
 引き離される際に僕へとぶつけられた、恵の最後の言葉。

 思い出した。
 思い出してしまった。

 あの日、恵は泣きながらこう言ったんだ。お父さんとお母さんのかわりにおにいちゃんが死ねばよかったのに、と。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060418031203 | 編集

 雨の音が聞こえる。
 風が窓を叩く律動的な音と水滴が地に滴る単調な旋律が二重に奏でられる中、薄暗い部屋の真ん中に立ち竦む。
 広い部屋だ。
 正面の窓のほかは三面の壁すべてが巨大な本棚で塞がれている。天井まで達する威容の本棚には熟成された教養と該博な知識を誇示するかの如く隙間なく蔵書が詰められている。三面の壁を占めた本棚が息苦しい圧迫感を与えてくる薄暗い書斎の中央にただ独り立ち竦んだ僕の足もとにはふたりの人間が倒れている。革張りの椅子を蹴倒して横たわっているのは四十代半ばの男、その隣には眼鏡をかけた同年代の女が。
 部屋の中は蒸し暑かった。
 日本の梅雨は湿度が高い。本棚で圧迫された書斎は換気が十全に機能せず、不快な湿気がこもっている。波状を描いて押し寄せてくる雨の音に聞くともなく身を委ねながら窓の外に転じていた視線を手元に戻す。
 右手が握り締めていたのは装飾用のナイフ。以前父親が海外の大学に招かれたときに当地の知人から贈られたという代物で銀の柄に精緻な細工を象ったかなり凝った造りをしており、指にこたえるような重量感がある。刃渡りは20センチほど、殺傷能力は十分すぎるほどに秘めている。
 このナイフがあったのは机の引き出しの右端、いちばん上。論文や小説、その他文書を作成するときはパソコンに字を入力して出力するのが主流になった現代でも一部の好事家や偏屈な作家はレトロな万年筆を愛用している。樫の書斎机の右端、いちばん上の引き出しには父が愛用している黒い光沢の万年筆とインク壷とともに気まぐれで購入したまま日の目を見ずにいる海外土産がしまわれているがこのナイフも例外ではない。知人の好意で贈られたはいいものも本に埋もれた書斎には飾る場所もなく、いちばん上の引き出しの奥、目立たない薄暗がりにひっそりと秘されていたのだろう。
 僕がこのナイフの存在を知ったのは今日が初めてだ。それまで鍵屋崎優の机にナイフがしまわれているなんて思いもしなかった。床一面に散乱しているのはひっくり返ったインク壷と万年筆、黒い斑点の散った原稿用紙の束。ぶちまけられた引き出しの中身。
 父の背中に覆い被さった原稿用紙に目を凝らす。黒い染みに混じって浮き出た赤い模様は……血痕だ。死体の傷口から染み出した大量の血が床を浸し、まっさらな原稿用紙を赤く染め替えているのだ。 
 その時はじめて、それまで耳に聞こえていた雨音の正体に気付く。ちがう、これは……僕が聴いているのはしとしとと降りしきる雨音などではない。
 血だ。
 ナイフの切っ先から滴った血の雫がぽたぽたと床に落ちてゆく。ナイフを握り締めた手に目を落とす。力を入れすぎたせいで間接が白く強張っているが、手首まで染めているこの赤は―
 「!」
 強張った五指をこじ開けナイフを投げ捨てる。おもいきりなげつけたナイフは床で跳ね、両親の遺体の向こう側に転がった。放心状態から覚醒し、ようやく現実感が芽生えてくる。早鐘を打つ心臓をシャツの上から掴みあらためて遺体を見下ろす。瞳孔が開き、焦点を失い、白い膜が落ち始めた虚ろな目。半開きの唇からは血の気がひき、床板と接した頬は屍蝋の如く青ざめている。
 監察医が死体を検分するような、奇妙に冷めた心地で死体の隅々を観察する。
 手前に伏せた中年男の名は鍵屋崎優、僕の父親だった男だ。注釈をつけくわえるなら「戸籍上の父親」に過ぎない希薄な存在だったが、自分の手で十五年間ともに暮らした父親を葬ったのだからなにかしらの感慨があってもいいはずだ。しかし、時間の経過につれて殺人の興奮がさめてしまえばどこまでも冷静な自分がいた。平常心。どころか、心の片隅では奇妙な安堵感すらおぼえている。
 これで恵を害する存在はこの世にいなくなった。
 男の隣で絶命しているのは目尻にヒステリックな小皺が寄った中年女性だ。床に転倒した衝撃で顔から眼鏡がおちかけている。彼女の名は鍵屋崎由佳里、戸籍上の僕の母親だ。死ぬ間際まで自分が目にしているものが信じられず、恐怖に理性を浸食される間もなく死に至った顔にはただ純粋な驚愕の相だけがある。間接を無理な方向にねじまげられた人形のように不自然に四肢をねじり、床に仰向けた女へと足音を殺して忍び寄る。頭上から女を覗きこむ。後悔とか自責とか、そんな不条理な感情はいっさい湧いてこなかった。僕は僕がやらなければならないことをやっただけだ、それだけだ。
 でも、彼女のことは殺したいほど憎いわけではなかった。
 結果的にこうなってしまったとはいえ、なんともいえない後味の悪さがある。戸籍上の両親に対し、親愛の情を抱いたことは一度もない。両親も両親で、世間一般の親が子供にむけるような平均的な愛情を僕に対して抱いたことは一度もないだろう。新種のモルモットかよくできた作品か、それだけ。僕は彼らにとってそれ以上でも以下でもない存在だった。
 息絶えた女の頭上に屈みこみ、顔の前に手をかざし、そっと瞼を閉じさせる。父には明確な殺意を抱いていたが母にはそれほど強烈な憎悪は抱いてなかった。
 でも、仕方なかった。仕方なかったのだ。なぜなら―
 『おとうさん……?』
 背後で呟かれた声に振り向く。
 か細い声を吐いたのは、書斎の隅に身を寄せていた女の子だった。本棚の影に隠れるように身をひそめていた女の子が、今目撃した光景が信じられないとばかりに目を見開いてこちらを見つめている。 
 『おかあさん』 
 ふらりと足を踏み出し、こちらに歩いてくる女の子。足裏で踏まれた原稿用紙がぐしゃりとつぶれ、白い靴下に血がとぶ。物言わぬタンパク質のカタマリとなった両親を前に慄然と立ち尽くしているのは……
 
 恵。僕が守ろうとした妹。

 『安心しろ、恵』
 恵の肩がびくりと跳ね上がり、おさげが揺れる。
 『もう何も怖くない、お前にとって不要なものは排除した。お前に危害をくわえようとした人間は排除した、だからもう何も怖がること―』
 
 絶叫は言葉の体をなしてなかった。

 追いつめられた獣の喉から迸りでたような血を吐くような叫びが大気を震わせ、書斎の壁にこだまする。
 半狂乱で両親の死体にすがりつく恵、父親の肩を揺さぶり母親の腕にしがみつき懸命にふたりを起こそうと試みるがすべてが無駄だ、無駄でしかない。なぜなら二人はもう死んでいるから、そうだ、僕が殺したんだ恵のために。おさげを振り乱して死体にとりすがった恵あ号泣しながらなにかを叫んでいる。なにを叫んでいるんだ?その言葉に耳を澄まし―
 『なんで!』
 恵が叫ぶ。
 『なんでこんなこと……ひどい、ひどいひどいよおにいちゃん、あんまりだよ。こんなこと頼んでない、頼んでないのに』 
 いやいやするように首を振り、すっかり冷たくなった父親の体に涙にぬれた頬を擦りつける。しかし、父親は生き返らない。心臓を刺されたんだ、どんなに応急処置が早くても助かる見込みは無に等しかっただろう。胸の傷口から流れ出した血はすでに床一面に海を作っている。血の海の真ん中にうずくまった恵は小さな拳で床を叩き、狂ったように吠えている。獣のような声で。

 近寄ろうとした。
 でも、できなかった。

 恵を慰めなければいけない、抱きしめなければならない。両親は死んだが恵には僕がいるんだから大丈夫だと、僕がいつもそばについててやるから大丈夫だと、本当はそう言いたかったのだ。
 でも、はげしくしゃくりあげる恵の肩にのばした手は途中で止まる。
 僕の手は血に汚れていた。
 両親の血を吸った手、人殺しの手。こんな汚い手で触れては服を汚してしまう、と躊躇して立ち竦んだ僕をまえぶれなく振り向き、恵の唇が動く。
 『……に』
 に?  
 恵が何を言おうとしたのか聞き取ろうと身をのりだした僕の背後で慌しい足音が響き、爆ぜるような勢いで書斎の扉が開け放たれる。悲鳴、さらなる足音。
 『なんてことだ、鍵屋崎教授!』
 『息はあるのか?』
 『救急車、いや、もう手遅れだ……警察を!』
 『ああ、奥様まで……どうしてこんなひどい』
 両手で顔を覆った家政婦をおしのけて部屋に入ってきたのは見覚えのある顔の男たちが三人。彼らは父の研究室の助手で、今日は執筆中の論文について父に相談したいと打診していた。そうだ、思い出した。その論文のテーマには僕も関心を持って資料を集めていたから、助手との話し合いの場に同席するよう父に書斎に呼ばれて―
 白衣を羽織った男たちが二人がかりで死体の状況をたしかめ、残るひとりが僕を羽交い締めにする。しっかりしろ、と耳元で叱咤された気がしたがよくわからない。きみがやったのか、きみが鍵屋崎教授を殺したのか?おい、しっかりしろ……聞こえない。僕の視線の先では床に膝をついた白衣の男がふたり、母と父の脈をとって絶望的な顔を見合わせている。
 窓の外でずっと続いていた雨音が、遠くから近づいてきた騒音にかき消される。大音量のサイレンを鳴り響かせて大挙してきたパトカーの赤色灯が窓越しに顔を照らし、床を赤く染める。放心状態で窓辺に突っ立っていた恵の顔が赤色灯のあかりに晧晧と照り映える。
 血の赤。
 ふいに強い力で肩をつかまれ、痛みに顔をしかめる。
 『しっかりしろ、あそこで倒れているのはきみのお父さんとお母さんだろう!?』
 『ちがう』
否定の言葉は思いのほか強く、はげしく。
 『あそこに倒れているのは鍵屋崎優と由佳利だ』
 そういう名前の他人だ。
 背後の研究員が言葉を失う。絶句した研究員の後ろ、長い廊下の奥から響いてきたのは複数の足音。家政婦によって玄関の鍵があけられ門前にパトカーを停めた刑事たちが騒々しく乗りこんできたのだ。鑑識が死体を囲み、気が動転した家政婦と呆然とした研究員、放心状態の恵が一箇所に集められる。
 『鍵屋崎 直くんだね』
 気味悪い猫なで声で名を呼ばれた。振り返る。研究員と立ちかわり、いつのまにか背後に控えていた中年の私服刑事が背広の胸ポケットから黒革の手帳をのぞかせる。
 『あそこに倒れているのはきみの両親の鍵屋崎優と由佳利さん。そうだね』
 『はい』
 正確にはそういう名前の他人だが、この場で逆らうのは得策じゃないと考え、素直に頷く。
 『きみが殺したのかね』
 『はい』
 胸ポケットに手帳を戻しながらの問いに即答する。僕の手は血で汚れている。手だけじゃない、服も足も腕も全部が血に汚れている。ナイフの柄からは僕の指紋が検出されるだろうし言い逃れはできないだろう。するつもりもないが。
 中年刑事が若い刑事に目くばせし、顎をしゃくる。若い刑事がポケットからとりだしたのは銀の光沢の手錠。本物を見るのは初めてだ、せっかくの機会だしよく観察しておこう。こうして見るとずいぶん安っぽい、映画にでてくる偽物とほとんど区別がつかないじゃないか。
 ぼんやりと眺めている前で手錠の輪がはずれ、若い刑事が神妙な面持ちで歩み出る。確認をとるように僕を一瞥して覚悟を決めたか、ごくりと生唾を飲み下す。
 金属の噛み合う音がした。
 『署まで同行してくれるね?』
 薄気味悪い笑顔を浮かべて聞いてきた中年刑事を見上げ、ため息をつく。
 『日本語の使い方がまちがってる。僕が断ろうがどうしようが強制的に署に連行するつもりなら命令形で言うべきだ、被疑者の機嫌をとる必要はない』
 刑事の顔から表面だけの愛想笑いがかき消え、能面のような無表情に切り替わる。
 『じゃあ訂正しよう。私と一緒に来い』
 『はい』
 中年刑事が先行して廊下を歩き、若い刑事が背後を歩いて逃走を防ぐ。ふたりの刑事に前後を挟まれて廊下を歩き、玄関で靴を履き、外にでる。頬に水滴が付着する。降りはだいぶ弱くなったが、まだ雨が続いている。重苦しい曇り空からきりなく降りしきる雨はそれだけでひどく気分を滅入らせる。
 門前で待機していたパトカーの扉がひらく。刑事に挟まれてパトカーに乗り込む間際、最後に恵の顔を見ようと玄関を振り返る。息を飲んでこちらを見守っている研究員と家政婦、その最前列に恵は立ち尽くしていた。
 凝然と見開かれた目、半開きの唇。
 『めぐみー』

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

 耳を疑った。
 降りしきる雨音に紛れた幻聴かと思った。しかし、そうではない。これは現実の恵の口からでた現実の言葉だ。僕の目の前で動いている唇がなによりの証拠だ。
 雨音が増す。 
 異常なまでの静けさの中、パトカーの頂上に設置された赤色灯だけがあざやかな明かりを投じている。パトカーの赤色灯に顔の半面を照らされながら、泣き笑いに似た表情で恵が呟く。
 『おとうさんとおかあさんの代わりにおにいちゃんがいなくなればよかったのに』
 
 どうして。
 どうしてそんなことを言うんだ?
 
 自分を取り巻く情景から急速に現実感が失せてゆく。白黒フィルムのように色褪せた景色の中、パトカーの赤色灯だけが晧晧と色づいている。僕の手を染めた両親の血と同じ色、僕の服に染み付いた忌まわしい色、人殺しの烙印……拭えない血の赤。
 
 目で恵に訴えかける。どうしてそんなことを言うんだ、僕は恵のためにあのふたりを殺したのに。恵の目に宿っていたのは容赦なく僕を裁く断罪の光と拒絶の意志、そして、なにより痛々しい悲哀の色。
 恵に駆け寄ろうとした。肩をつかまれ食い止められる。振り向く。例の刑事がいた。言い聞かせるように首を振る刑事に理性が音をたてて崩壊する。
 『はなしてくれ!』 
 刑事を突き飛ばして恵に駆け寄ろうとしたが、背後から肩を掴まれ引き戻される。そのままパトカーの後部座席に押しこめられ、バタンとドアが閉じられる。運転席にすべりこんだ若い刑事が頷き、エンジンがかかり車が動き出す。ゆっくりとすべりだしたパトカーの車窓の向こう、重苦しい曇天の下に立ち竦んだ恵の頬を滴り落ちているのは雨だろうか涙だろうか。
 恵、恵、めぐみー……何度も名を呼ぶ。実際に声にだしてたのか心の中でなのか、おそらくその両方だろう。手錠を嵌めた拳でむなしく窓ガラスを叩き続けたが、恵は瞬きひとつしない全くの無反応。
 車窓の彼方に恵が去り、窓ガラスを叩いていた拳からすっと力が抜け落ちる。頭が混乱して考えがまとまらない。なぜ、なぜ、なぜー……疑問符ばかりが膨張して増殖してゆく。別れ際の恵の顔が脳裏にこびりついてはなれない、意志のない人形のように表情が漂白された絶望の顔。
 『仕方ないだろう』
 隣で声がした。
 のろのろと顔をあげる。例の中年刑事が慣れた手つきで背広の胸ポケットを探り、煙草の箱をとりだす。煙草を一本つまみ、ライターで火をつけ、紫煙を吐く。
 『きみは人殺しなんだから妹さんにああ言われても仕方がない』
 紫煙が煙い。気分が悪い。眩暈がする。
 車内に充満しはじめた紫煙を避けてうつむいた僕の耳に聞こえるのはいつ止むとも知れず降り続ける憂鬱な雨音だけ。鼓膜に浸透してくる雨音に身を委ね、目を閉じる。
 目が覚めたら夢であってほしい、そこに恵の笑顔があればそれ以上はなにも望まない。
 それにしてもこの雨はいつ止むんだろう、間断なく降り注ぐ雨、間断なく鼓膜を叩く……

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060417031323 | 編集

 雨の音じゃない。
 「……………」
 のろのろと目を開ける。霞がかった視界にぼんやり映るのは灰色の風景、コンクリートに四囲を塞がれた殺風景な部屋。圧迫感を与える低い天井と汚水の流れた床の狭間、洗面台にもたれて膝をついているのは僕だ。
 栓を開放した蛇口から水滴が滴り落ちている。雨音の正体はこれだ。
 思い出した。すべて思い出した。
 なんで今まで忘れていたんだろうという自嘲の念が意識の表層に浮上するが、すぐに答えはでた。忘れたかったからだ。人は都合よい生き物だ、あまりに負担となる記憶や苦痛となる体験を蓄積すると大脳の自己防衛機構が働き、自分でもそうとは知らず過去が書き換えられてしまうことがある。僕の身の上に起こったのもそれだ。まったく人間とは便利にできている、忘れたいと強く念じたことは速攻で忘れられるのだから。
 でも思い出してしまった。タジマの一言が引き金となり、あの日のことを隅々まで鮮明に。
 あの日、玄関で別れた恵はたしかに僕にむかってああ言ったんだ。おにいちゃんが死ねばよかったのに、おとうさんとおかあさんじゃなくておにいちゃんが死ねばよかったのに。意志薄弱な人形のように無表情に、目には底知れぬ絶望を焼き付けて。
 恵に拒絶されたという厳然たる事実が、腐臭漂う下水のように体の隅々まで染みてくる。
 今まで僕は何を勘違いしてたのだろう。
 自分が恵に必要とされてると、恵にとっていなくちゃならない存在だと何の根拠もなく信じこんで思い上がっていたが、そう思っていたのは僕だけだった。無理もない、僕は恵の目の前で両親にとどめをさしたのだから。怯えて口もきけない状態の恵の前で返り血を浴びながら両親を刺し殺したのだから。
 そんな僕のことを、恵が以前のように無邪気に慕ってくれるわけがないじゃないか。
 当たり前のことだ、考えるまでもないことだ。パトカーの中で刑事に言われたとおり、僕は薄汚い人殺しだ。人間として最下等の部類に入る最低の親殺しだ。それがたとえどんな両親でも、どんなに酷い両親であったとしても恵にとってはこの世にただふたりのかけがえのない親だ。そして、そのかけがえのない両親を無力に立ち尽くした恵の前で刺し殺したのは僕なのだ。
 僕なんだ。
 『お前の妹な、精神病院にいるぞ』
 嘘であってほしいという願いはまだ捨てきれないが、心のどこかではそれが愚かなことだとわかりきっている。たぶん、恵は本当に仙台の小児精神病棟にいるのだろう。確証はない、タジマの口からきいたことだけがすべてだが直感的にわかった。タチの悪い嘘をついて僕をなぶろうとしてるんじゃないか、そう信じきれたらどれだけラクだったろう。救われただろう。
 でも、わかってしまった。恵に関することならだれが嘘を言おうが真実を言おうが直感的にわかってしまうのだ。
 『お前の妹。引き取られた親戚んちじゃだれとも口をきかず部屋に閉じこもって過ごして、一日中こう呟いてたそうだぜ』
 タジマのにやにや笑いが脳裏に浮かぶ。その顔がぐにゃりと熔け崩れ、歪み、恵の顔に変貌する。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 僕のせいだ。
 僕のせいで恵はだれとも口がきけなくなった、精神病院にいれられた。僕のせいで恵はひとりぼっちになった。
 そうだ。恵をひとりぼっちにしたのは僕なのだ。
 ちがう、ちがうんだ。僕は妹を守りたかっただけだ、無神経で俗物の両親から、自分たちの遺伝子を受け継いだ実の子供でさえ優劣でしか判断しないいかれた両親から恵を守り抜きたかっただけだ。だからあの場で最も適した行動をとった、あの場で最も適した判断をくだした。
 僕の判断はまちがってない、すべては恵を守るために選択した結果だ。恵の人生を、妹の将来を守るために選択した結果。
 僕は今でも自信をもって断言できる、あの時自分がした行為は決して間違っていなかったと。
 
 でも、正しかったのだろうか。
 間違ってないということが正しいということになるのだろうか。

 僕の選択は本当に正しかったのだろうか。
 あの時も今もこれからも正しいのだろうか、正しかったのだろうか。今まで自分のしたことに疑問を持ったことなど一度もなかった、でも今は……わからない。僕は恵を守ることを最優先して両親を刺殺したのに現状では恵を守れてない。ばかりか、僕が両親を刺し殺す現場を目撃した恵は精神の安定を崩して病院に送られたという。
 どこで間違えたんだ、どこで判断を誤ったんだ、どこで計算が狂ったんだ?
 あの日書斎に足を踏み入れたとき、革張りの椅子に座った父の背後に立ったとき、書斎に恵がやってきたとき、そして……引き出しが落下する音、ひっくりかえったインク壷と万年筆、ばらばらに舞い散る原稿用紙。怒鳴り声、悲鳴、泣き声―恵の泣き声。床に落ちたナイフを掴む小さな手、だめだ、行くな、そっちに行くなー
 どこで計算が狂ったんだ。あの時、恵を止めようとしたときか?間に合わなかったときか?どこまで引き返せばやりなおせる、軌道修正できる。何をどうすればやりなおせるんだ、教えてくれ。
 教えてくれ?僕はだれに教えを乞うてるんだ?
 この刑務所にIQでぼくに優る者などひとりもいない、僕より高性能な頭脳を持つ者などひとりもいない。だれも教えてくれなどしない。僕は選ばれた人間、優れた人間のはずだ。そういうふうに設計されて完成されて生まれてきた人間なんだ、群れるしか脳のない低脳の凡人どもとは違うんだ。
 なのに、どうしてわからないんだ。いちばん肝心なことが考えても考えてもわからないなら頭なんていらないじゃないか、こんな脳みそいらないじゃないか。でも、僕から脳みそをとったら何が残る?恵を失った今の僕になにが残る?なにも残らない、残りはしない。
 まてよ、そもそもなんで脳みそが必要だったんだ。人より良くできた優秀な脳みそ、完成度された遺伝子。そうだ、思い出した。腕力に自信がない僕がこの刑務所で生き残るためには頭を使うしかない、僕を搾取しようとよってくる人間の常に先手を読んで行動しなければならない。でも、なんでそうまでして生き残りたかったんだろう。
 恵。
 外には恵がいる、大事な妹がいる。僕のかわいい妹、大事な家族。一日でもはやくこの刑務所をでて恵に会いたい、恵のそばにいきたい、恵を守ってやりたい。ただそれだけを目的に今日まで必死に生きてきたのに……
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 恵は僕がでてくることを望んでない、僕を待ってなどいない。それどころか、僕に死んでほしいと願っている。
 じゃあ、そうまでして生き残る意味なんてどこにもないじゃないか。頭を働かせて吐き気を我慢して苦しい思いをして寝不足になりながら、ほかの囚人に蔑まれ罵られ虐げられ、そんな思いまでして生きつづける意味なんてどこにも存在しないじゃないか。
 『ありがとう』
 リュウホウの死に顔は安らかだった。うっすらと笑みさえ浮かべているように見えたのは目の錯覚だろうか。僕は死後の世界など信じない、死んだら人間はタンパク質のカタマリになるだけだ。自殺したリュウホウが天国に行けたはずがない、リュウホウはタンパク質のカタマリになっただけだ。
 無。
 僕のせいで恵はひとりぼっりになり、リュウホウは死んだ。それなのに僕だけがのうのうと生き残っている、生きながらえている。僕が生き残ることなんてだれも望んでないのに、だれも喜んでないのに。

 だれのために生きてるんだ?
 なんのために生きてるんだ?

 だれからも歓迎されないのに、だれからも必要とされないのに、これ以上呼吸しつづける意味があるんだろうか。存在しつづける意味があるのだろうか。

 無い。
 なにも無い。

 恵に必要とされることだけが僕の生き甲斐だった、恵を守ることだけが僕の存在意義だった。生き甲斐と存在意義を同時に失った今の僕には何もない、だれもいない。

 友人はいなくても生きていける。でも、家族がいなければ生きていけない。

 恵がいたから今まで生きてこれた、恵がいたからこそ今まで生き残れた。
 でも。
 『こんなこと頼んでないのに!』
 恵が泣きじゃくる声が耳にこびりついてはなれない。悲痛な嗚咽。恵を泣かせたのは僕だ、恵の両親を奪ったのは僕だ、恵の家族を奪ったのは僕なのだ。
 僕は恵の家族じゃなかった。一方的にそう思いこんでいただけで、恵から見れば家族じゃなかった。
 恵からすれば僕が、僕のほうこそ、一つ屋根の下で暮らしている他人だったのだ。
 
 友人に必要とされなくても生きていける、でも、家族に必要とされなければ生きていけない。

 少なくとも僕はそうだ。恵に必要とされてこそ僕の存在はあった、今日この日まで生き続けてこれた。恵に拒絶された今、僕の居場所はどこにもない。刑務所の外にも恵の隣にも他の所にもない、この刑務所にだってそんなものは存在しない。この房だってぼくの居場所じゃない。
 「結局、僕の居場所は試験管の中だけだったな」
 十五年前も、今も。
 もっと早く気付けばよかった。そうすれば恵を苦しませずに済んだのに、恵を傷つけずに済んだのに。なにが天才だ、こんな頭脳なんの役にも立たないじゃないか。妹ひとり幸せにできなかったじゃないか。
 『シネバヨカッタノニ』
 そう叫んだのは恵だろうか、リュウホウだろうか。どっちでもかまわない。後ろに手をまわし、手ぬぐいを抜き取る。もっと早くこうすればよかったのだ。洗面台の縁に掴まり、なんとか体を支えて立ち上がる。

 そうか、死ねばよかったんだ。

 この手ぬぐいで首を締めるだけで済む、簡単なことじゃないか。手ぬぐいを首にまわし、首の後ろで交差させる。目を閉じる。虚無。静謐。暗闇。手ぬぐいを握り締めた手に徐徐に力をこめてゆく。
 首に手ぬぐいが食いこみ、気道が圧迫され、呼吸が苦しくなり……

 暗闇に閃光が爆ぜた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060416031427 | 編集

 手ぬぐいが落ちた。
 「……………」
 僕の手をすりぬけて床へと落ちた手ぬぐいに目をやる。無意識な動作で首に手へと持ってゆき、さすり、はげしく咳き込む。瞼の裏側で爆ぜた光は豆電球の光芒。そこで初めて房に明かりが点っていることに気付いた。
 酸素が不足すると毛細血管が充血して瞼の裏側が赤く染まるんだな。
 妙なことに感心しながら顔を起こし、上方へと目を転じる。僕の前に立っていたのは長身痩躯の影。豆電球の逆光に塗りつぶされて判然としなかった表情が一歩を踏み出した途端に鮮明に暴かれる。

 サムライ。

 「なにをしようとしていた」
 平静な声音で問うたサムライの片手の先、僕の顔の横に突き立てられたのはよく使いこんだ木刀。僕の手から手ぬぐいをはじいた突風の正体はこれだ。入ってきたことにも気付かなかった、扉の開く音さえ聞こえなかった。足音どころか気配すら抑制して房へと入ってきたサムライは、切れ長の奥二重を底光りさせていた。
 「俺の手ぬぐいで首を吊るなと言っただろう」
 サムライの声にかすかに苦いものが混じる。
 開け放たれた扉の外がざわめいている。騒ぎを聞きつけた囚人たちが大挙して廊下に押し寄せてきたのだ。押し合いへし合いながら房の中を覗きこむ囚人たちを完全無視し、僕の目だけをまっすぐに見つめるサムライ。
 揺るぎない眼光。
 「首を吊ろうとしてたわけじゃない」
 「ではなんだ」 
 「首を吊ったらどんな気分がするか、試してみただけだ」
 半分本当で半分嘘だ。
 自分で自分の首を締めるのは不可能だ。首が絞まりきる前に手の力が緩んでしまうのが実状で、とても窒息には至らない。今のはただの準備に過ぎない、なにごとにも準備は欠かせない。自殺に踏みきる前段階、どの程度の握力なら窒息に至るか、どの程度の長さの布なら首を吊るのにちょうどいいか試していただけだ。
 本当に首を吊るときは裸電球が下がっている鉤に手ぬぐいを括って死ぬ、あの日のリュウホウのように。
 「命を粗末にする悪ふざけはよせ」
 サムライの説教臭い台詞に失笑する。
 「他人の命は粗末にしても自分の命は大事にしろと?人殺しの論理だな」
 そうだ。もう引き返せない、どうせ僕は人殺しなんだ。
 恵から軽蔑され世間から忌避される人殺しなのだからいっそのこと―
 「なんの騒ぎだ?」
 「サムライの房だ」
 「例の親殺しだよ」
 「どうやら首吊ろうとしたらしいぜ」
 「マジかよ、見たかった!」
 「まだ吊ってねえよ、これからだよ」
 廊下にたむろった野次馬が下卑た好奇心をあらわにして身を乗り出してくる。不躾な注視にさらされながら立ち尽くした僕の耳に響いてきたのは、窮屈な刑務所暮らしで刺激に飢えた囚人が一斉に手を叩いて囃し立てる声。
 「「吊れ!吊れ!」」
 「「吊れ!吊れ!」」
 「生きてたってなにもねえんだ、最低最悪の親殺しが生きてけるような場所はここにもどこにもねえ」
 「一日でもはやく首吊っちまうのがお前のためだ、お前のため」
 「処女奪われるまえに綺麗なケツのまま死ねよ」
 「そうだ死ね死ね」
 「あっさり死ね」
 「今この場で首を吊れ」
 「「吊れ!吊れ!」」
 「「吊れ!吊れ!吊れ」」
 吊れ吊れ吊れ……ふくれあがる濁声の合唱、かまびすしく手を打ち鳴らす音。猟奇的な興奮に目をぎらつかせ、顔を上気させた囚人の大群から目を逸らし、のろのろと床に手をのばし手ぬぐいを拾い上げる。手ぬぐいに付着した埃を軽く払い、もう一回……

 鋭い風が吹いた。

 「散れ」
 サムライが木刀を一閃しただけで、風に薙がれた葦のように場がしずまりかえった。境界線を超えて房の中にまで押し寄せようとしていた野次馬の先頭が木刀の切っ先をむけられ、気圧されたようにあとじさる。顔面蒼白であとじさった囚人が壁際まで下がるのを確認し、素早く扉を閉じる。
 扉の閉まる音はやけに重々しかった。
 扉の向こう側がら轟々たる非難の声が聞こえてくるが、サムライはどこ吹く風という顔をしている。常と変わらぬ能面のような無表情にどこか厳粛な翳りがさしているように見えたのは気のせいだろうか。
 力なく木刀をさげおろしたサムライはふたたび僕と向き合い、口を開く。
 「一週間前に死んだリュウホウという名の囚人が原因か」
 リュウホウ。
 「ちがう」
 思いがけず強くはげしく否定する。リュウホウは関係ない、僕はリュウホウの死に責任を感じて自殺するわけじゃない。自分で首を吊ろうと判断して行動にうつしたまでだ、リュウホウなんて関係ない。
 「僕は僕の死を自己決定しただけだ。リュウホウなんか関係ないだれがなんといおうが関係ない、僕はリュウホウの死に関してなんの罪悪感も責任も感じてない、彼は友人でもなんでもないただの他人だったんだから当たり前だそうだそれが当たり前だ」
 僕は悪くない。
 リュウホウが勝手に死んだんだ、勝手に首を吊ったんだ。
 それなのに、叫べば叫ぶほどむなしくなるのはどうしてただろう。叫べば叫ぶほど「ちがう」と胸の中でだれかが呟くのはなぜだろう。悪くない悪くない悪くない、延延と自己暗示をかけて鈍りがちな舌を動かす。僕は悪くない、僕はリュウホウを殺してなんか―……
 「では、なぜ謝る」
 「謝る?」 
 なにを言ってるんだこの男は。
 鸚鵡返しにサムライの言葉をくりかえし、当惑する。僕は口に出してリュウホウに謝罪したことなど一度もない、彼が生きてるときも死んでからもそんな真似したことがない。
 虚をつかれたような僕の顔を見て何かを悟ったらしく、サムライの表情にかすかな驚きが浮かぶ。
 「気付いてなかったのか」
 いや……これは、驚きというよりも。
 「なんでそんな顔をするんだ」
 一瞬にも満たない一刹那、サムライの目をかすめた淡い波紋は憐憫。なぜこの僕が、天才たるこの僕が、無教養なサムライに哀れまれなければならない?
 「謝っているんだ、鍵屋崎。おまえ自身が預かり知らぬところで、何度も何度も」
 「どういう……」
 「寝言だ」
 サムライが言う。
 「毎晩ひどくうなされながら謝っているんだ。悪かったとくりかえし、一週間前からずっと」
 寝言。
 夢の中でひどくうなされながら僕が謝っている?リュウホウに対して?何回も何回もくりかえし?
 「うそだ」
 「うそではない」
 「認めない」
 「まことだ」
 「アイツが勝手に首を吊ったんだ」
 房の床がぐにゃりと歪み、平衡感覚が狂う。嘘だ、そんなことがあるはずない。僕が夢の中でリュウホウに謝っているだって?プライドをまるごと投げ捨ててリュウホウに謝罪しているというのか?無意識の領域でうわ言を口走ろうが僕にはまったく覚えがないし記憶にない、そんなのはサムライの捏造だ、ぼくを動揺させて反応を楽しもうという意地の悪い試みの詭弁だ。そうだ、そうに違いない。
 「僕は殺しちゃいない」
 リュウホウは勝手に首を吊ったんだ、僕が殺したわけじゃない。僕が止める間もなく、僕が見つけ出すよりさきに、僕に弁解の余地も与えず。
 今でもおもいだす。寝ても覚めても脳裏にまざまざと浮かび上がる。
 排泄物の悪臭がたちこめた房の真ん中、本来なら裸電球がぶらさがっているはずの鉤に手ぬぐいを結び首を括ったリュウホウの死体。
 なにもかもから許し許されたような安らかな死に顔。
 「僕が殺したんじゃないそんなつもりで手ぬぐいを渡したんじゃないアイツが、アイツが勝手に―」
 「でも悪いと思ってるんだろう!?」
 ふいに肩を掴まれた。鼓膜が痺れるような悲痛な叫びに打たれたように顔をあげる。
 サムライは初めて見る顔をしていた。
 僕に初めて見せる顔、僕が初めて見る顔―こらえきれないものをこらえるかのような、生身の人間らしい、感情をあらわにした顔。唇を一文字に引き結び、能面らしい無表情をかなぐりすて、眉間に苦悩の皺を刻んだその顔はいつも見慣れた無精ひげのサムライより遥かに若く見えた。
 サムライの目がまっすぐに僕をのぞきこむ。
 目の奥の奥の本心まで暴き立てるような、一点の曇りない真剣をおもわせる揺るぎない眼光。
 「そう、だ」
 唇がひとりでに動く。
 「僕が悪いんだ」
 本当はわかっていた。ただ認めたくなかっただけだ。認めてしまえば今の僕を支えているプライドが崩壊し、二本の足で立ちつづけることさえむずかしくなる。無意識の領域では嘘がつけない、おそらく僕はひどく寝苦しい悪夢にさいなまれながらくりかえしくりかえしリュウホウに謝罪していたのだろう。
 悪かった。悪かった、リュウホウ。
 口の中で舌を動かしてみてもまるで実感がわかない。僕じゃないだれかがしゃべっているかのようだ。でもこれは現実だ、まぎれもない現実だ。
 僕はリュウホウを殺して両親を殺し、最愛の妹をひとりぼっちにさせた。
 みんなぼくが悪い。
 「リュウホウを殺したのも両親を殺したのも」
 父にとどめを刺したのはぼくだ、母を刺し殺したのはぼくだ。
 「恵をひとりぼっちにしたのも」
 お前だ、カギヤザキスグル。
 「すべての原因と責任は、ぼくにある」
 名前は偽れても本性までは偽れない。僕の本性は親殺しの人殺しだ、頭の狂った失敗作だ。僕さえいなければリュウホウは死ななくてすんだ、恵はしあわせになれた。だからいま僕がいなくなればリュウホウを生き返らせることはできなくてもせめて恵だけは―……
 「鍵屋崎」
 強い力で肩を掴まれ、顔を起こされる。頭ふたつぶん高いところにサムライの顔があった。
 裸電球の光を背負ったサムライが、辛抱強く言い聞かせるように口を開く。
 「思う存分悔やんだら自分を責めるのはよせ」
 のろのろと顔をあげ、サムライの目を見る。揺るぎない眼光を少しだけやわらげ、表情をゆるめる。サムライの目をぬくめた光の正体は厳しさと表裏一体の優しさに似たもの、あるいは……
 力強く肩を握り締め、まっすぐに僕の目をのぞきこみ、サムライが断言する。
 「俺はお前を責めない。だからお前も自分を責めるな」
 そして今、僕が最も欲していた言葉を呟く。彼らしく、そっけなく。
 
 「お前は正しくないが、間違っても無い」 
 
 『間違ってない』
 そのとき初めて僕は、鼓膜よりさきに胸に染みる言葉が存在することを知った。
 ずっと悩んでいた、気が狂いそうになるほど考えつづけていた。
 僕はいつどこで間違えたのだろうか、いつに戻ればやりなおせるのだろうか。リュウホウが首を吊る前、ジープの荷台から降りる前、パトカーに乗りこむ前、恵の手からナイフを奪い取る前。試験管の中の受精卵の段階まで戻ればすべてがまるくおさまるのだろうか、こんなふうな結果にはならなかったのだろうか。
 いつどこで判断を誤ったのだろう、選択をまちがえたのだろう。
 ずっとそればかり考え続けていた。僕は天才だ、天才の僕が判断を誤るはずがない。おろかな過信。
 僕は間違っていた、さまざまなことを間違いすぎてなにを間違えたのか気付かないほどに間違え続けてきた。ここにきてからもそうだ、あの時リョウとレイジの制止をふりきってリュウホウを追っていれば彼を助けられたはずなのにそうしなかった。
 
 でも、恵を守ろうとした自分の気持だけは間違ってると思いたくない。
 リュウホウを助けようとした自分の気持だけは間違ってると思いたくない。

 たとえそれが実現できなくても逆の結果に終わってしまったとしても、恵を守りたかったのは本当だ。恵を守り通したかったのは本当なのだ。僕は本当にリュウホウを助けたかった、彼にまとわりつかれて迷惑していたのも本音だが放っておけなかったのも事実なのだ。

 恵もリュウホウも助けたかった。救いたかった。
 そしてそれ以上に、彼らを救うことで自分が救われたかった。

 「………」
 胸が詰まる。
 息ができない。
 物心ついてから僕は泣いたことがない。出生時、受精卵を移植されてから十ヶ月が経過して母胎の体外にでたときは肺に酸素をとりいれるために産声をあげて泣いたはずだ。でも、その時のことは覚えてない。だから僕は一度も泣いたことがないのだ、自分が覚えているかぎりは、幼少時からずっと。
 わからない。泣きたくなるのはどういう時なのか、その時どういう気持なのか。
 だから今もうまく泣けない。目は乾いて涙はでてこない。ただ、サムライに肩をつかまれたままうつむいただけだ。
 ふいに、全身から力がぬけてゆく。
 ぐったり弛緩した体を背後の壁にあずけてずり落ちる。目ににとまったのは足もとに落ちた手ぬぐい、もう必要がなくなった手ぬぐい。
 床に尻餅をついた僕の前にぶっきらぼうにさしだされたのは一本の手。
 手を辿ってすべらせると、無愛想なサムライがいた。
 急かさず促さず、放っておけばいつまでもそうして手を突き出しているだろうサムライをよわよわしく仰ぎ、呟く。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「きみはぼくの友達か?」
 『生き残りたければ友人をつくれ』
 安田の声と顔を思い出す。彼はたしかにそう言った。僕は友人の作り方など知らないし、目の前の男がそうだとはこれっぽっちも思わない。けど……
 僕の声は不明瞭にかすれて相当聞き取りにくかったはずだ。しかしサムライは眉ひとつひそめるでもなく、億劫そうな様子などみじんも見せず、凪のような目で僕を見つめている。
 「お前が決めろ」
 どこまでもそっけない声だった。
 壁に背中をあずけて考えこむ。今度こそ、今度という今度こそ選択を間違ってはいけない。後悔するような選択をしてはいけない。自虐と自責をはきちがえて自分を苦しめるような愚の骨頂をくりかえしてはいけない。

 そして決断した。
 リュウホウのためでも恵のためでもなく、自分のために。

 宙にのばしかけ、ためらい、ひっこめかけて止める。今度は迷わなかった。袖の上からしっかりとサムライの手首を掴み、立ち上がる。
 僕の判断は正しいんだろうか、間違っているんだろうか。
 今はわからなくてもこのさききっとわかるはずだ、判断の正否は常に結果がでてからでないとわからないのだ。
 「サムライ」
 サムライの手をはなし、下を向く。
 「なんだ」
 「昨日、僕が寝ているのを見て房をでていったのは芝居を見抜いていたからか。それとも寝言が耳に入らないようにという配慮か」
 サムライは心なしばつが悪そうな顔をした。
 「前者だ」
 ぶっきらぼうに言い添えた横顔を見て、ひとつ発見する。
 サムライは案外うそがへただ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060415031558 | 編集

 あーそう、やっぱこうなるわけね。
 「………安っぽいソープオペラ」
 くちゃくちゃガムを噛みながら失笑する。鉄扉にもたれてうずくまった僕は中の様子に聞き耳を立てていたが、事態はおもわぬ方向に転がったらしい。強制労働を終えて房に帰る途中サムライの房で騒ぎが持ち上がったと小耳に挟み、どれどれと様子窺いに出向いてきたんだけどとんだ茶番だった。房から締め出された口汚く毒づきながら去っていったあともただひとり廊下に残り、鉄扉に耳を付けて痴話喧嘩を盗み聞きいてたんだけど……
 こんな安っぽいソープオペラいまどき流行らないよ。鍵屋崎も鍵屋崎だ、やっぱり日本人は腰抜けだ。サムライの檄にびびって首吊るのをやめるなんて肩透かしにもほどがある。鍵屋崎が首吊る瞬間をこの目でばっちり見届けようとわくわくしながら格子窓の内側を覗いていたのにさ、ちぇっ。
 舌でこねたガムに空気をいれ、風船のようにふくらます。白い膜が膨張し、最高点でぱちんとはじける。あっけない。この刑務所じゃガムだってひそかに横流しされてる垂涎の的の嗜好品だ、僕が今噛んでるガムはパトロンの看守からもらったものだ。名前は忘れた、平凡な顔だちの冴えない中年男だけどどうやら僕にご執心のようで、口うるさい同僚やほかの囚人の隙を盗み見てはたびたびプレゼントをくれる。
 下唇にへばりついたガムを指でひきはがしにかかりながら考える。
 友達?ばっかみたい。
 友達なんて足手まといになるだけじゃないか、鍵屋崎にとってのリュウホウしかり。友達なんていなくても僕は生きていける、どんな手をつかっても生き残ってみせる。他人をだまし蹴落とし利用し、今の今までそうやって生きてきたんだから僕は。
 まあ、「きみは僕の友達か?」の問いにサムライが「YES」と答えなくてよかったと思うよ。鍵屋崎の性格じゃそれこそ反感をおぼえてサムライの手を払いのけかねない。ほんと損な性分だね、あいつ。ひねくれてるにもほどがある。
 でも結果的に、サムライは賭けに勝った。僕がとことんまで追いつめた鍵屋崎に自殺をおもいとどらせて少しでも前向きな方向に軌道修正したんだからたいしたもんだ。あっぱれお見事、さすがサムライ。僕はつまんないけどね、首を吊る鍵屋崎が見れなくて。
 さて、いつまでも油を売ってるわけにはいかない。これ以上おもしろいことは起こりそうにないし看守やその他の囚人に不審がられるまえに退散するにかぎる。尻を払って立ち上がり、スキップを踏むような足取りで廊下を去りかけた僕のうしろで鉄扉が軋り、開き、低い声がする。
 「待て」
 でたらめな鼻歌をやめてぴたりと立ち止まる。
 廊下の真ん中で停止した僕の背に押し寄せてきたのは抑制された殺気と凄まじい存在感。振り向くまでもなくわかる、背後に佇んでる人物がだれか。
 「盗み聞きしてたのばれちゃったか」
 お茶目に舌をだして振り向く。背後にサムライがいた。右手には木刀をさげている。
 「いつから気付いてた、外に僕がいるって」
 「最初からだ」
 「最初から?」
 目をまんまるくし、大袈裟に驚いてやる。
 「最初から僕に聞かせるつもりであんなクサイ痴話喧嘩演じてたわけ?ごちそうさま」
 皮肉げな口調で揶揄してやるがサムライは動じない。声を荒げて怒るでも羞恥に顔を染めるでもなく、右手に握り締めた木刀の先端をぴくりと動かしただけだ。
 キチガイに刃物、サムライに木刀。ぞっとしない組み合わせだ。
 「勘違いしないでよ」
 いつ木刀の切っ先が跳ね上がって僕を急襲しても対処できるように警戒しながら口を開く。
 「僕は盗み聞きだけが目的でわざわざ出張してくるような暇人じゃない」
 「ではなんだ?」
 「鍵の使い心地が聞きたかったのさ」
 肩をすくめる。
 「どう、僕が工夫した鍵はうまく使えてる?けっこー苦労したんだよアレ、鍵穴にあわせるのにさ。先端をこうちょいちょいと捻ってヤスリで削って、けっこー時間かかってるんだ」
 僕の言い分は100%ウソじゃない。たしかにサムライの房に足を向けたのは鍵屋崎の自殺騒ぎに野次馬根性をかきたてられたからだが、残り20%か15%くらいはこのまえサムライに渡した即席の合鍵がちゃんと機能してるか気になっていたのだ。片手をポケットにもぐらせ、先端がねじれた細長い針金をとりだすサムライ。
 「申し分ない」
 「そうか、それはよかった」
 感情を欠いたサムライの賞賛に会心の笑みを浮かべる。もちろん、囚人に合鍵が配布されるわけがない。房の鍵は内側からのみかけられるようになっていて、外から開けるのは僕みたいな特殊技能の持ち主でもないかぎり不可能だ。各房の鍵の束を腰にぶらげた看守以外、外側から房の鍵を開けることはできない。仮に同房の囚人がさきに帰還して内側から鍵をかけたとしたら、残るひとりは中の囚人が気付くか目覚めるかするまでずっと待ち惚けをくらわされる羽目になる。だから僕みたいな商売が儲かるわけだけどね。
 「しっかしやさしいね、サムライは。それよか過保護って言ったほうがいいかな」
 挑発的な口調で皮肉ってやると、サムライの眉間にうろんげな皺が刻まれた。怪訝な顔をしたサムライを愉快な気分で眺め、続ける。
 「鍵屋崎が寝てるなら扉をガンガン叩いて起こせばいいのに、あえてそうせずにこっそり僕から借りた鍵でドアを開けて房に入るなんてやさしすぎ」
 僕がサムライに頼まれて鍵をつくってやったのは一週間前だ。強制労働後は真っ先に房に帰り着いていることが多い鍵屋崎は、ここにきた当初のように囚人に襲われるのを警戒して必ず扉に錠をおろすようになった。困ったのはサムライだ。強制労働で疲れきり、精神的にも参っている鍵屋崎は房に鍵をかけたままぐっすり寝込んでいるのが常で、その間サムライは廊下で待ち惚けをくらうことになる。
 相棒が熟睡中で房に入れないならガンガン扉を叩いて起こしてやればいい。僕もビバリーが房に鍵をかけてたらそうするし、他の囚人だってそうするだろう。
 でもサムライはそんな荒っぽいやり方は好まず、僕から借りた鍵でこっそり扉を開けて房に入ることを選んだ。すべては鍵屋崎の睡眠に配慮した結果ーいや、それよりも鍵屋崎の寝言を聞くまいと己に課した誠実な誓いからか。
 反吐がでるね、まったく。
 「きみみたいな人なんてゆーか知ってる?」
 舌でこねたガムに空気をいれてふくらます。まるくふくらんだ風船ガムの向こうにサムライがいる。
 「お人よし」
 「リョウ。お前、鍵屋崎になにをした」
 「べつになにも」
 ぱちんと風船がはじけ、唇にガムがへばりつく。粘着質のガムをひきはがしにかかりながら、サムライを苛立たせるのを承知で笑い声をたてる。
 「ただ、アイツのことが気に食わなかっただけ。廊下ふらついてるところをつかまえて口移しで変なクスリ飲ませたりサディスティックに言葉責めしたりちょーっといじめすぎちゃったかなって思わないでもないけど」
 横隔膜をくすぐられてるように愉快な気分で笑い声をあげつづけていると、サムライの目がスッと細まり、眼光が針に変じた。ひきはがしたガムを指でこねて口に含み、顎を動かして咀嚼しながら、同意をもとめるように微笑する。
 「それしきのことで自殺するならそれまでの人間だったと思わない?鍵屋崎は」
  
 風が吹いた。

 頬を掠めた烈風の正体は肉眼ではとらえられない速度でサムライが抜き放った木刀だ。途中までふくらんでいた風船ガムが横面を叩いた風圧にぱちんとあっけなくはじけ、木刀が掠った頬に摩擦熱を感じる。
 「……わーお」
 泡沫のようにはじけたガムを顎を上下させて咀嚼し、飽きたように足もとの床に吐きすてる。床に付着したガムを足裏で踏みにじりながらサムライを見上げる。気弱な奴ならちびってもおかしくない眼光と木刀の切っ先までみなぎった凝縮された殺気。
 「怒った?いつもクールを気取ってる寡黙なサムライも同房の相棒のこととなるとムキになるんだね。それともなに、鍵屋崎に気でもあるのかな。難儀な恋だね、あんなカタブツメガネに惚れたら痛い目見るよ。だいいち不感症の男を抱いても面白くな……」
 「勘違いするな」
 手首をかえし木刀をひねり、切っ先で僕の顔を上げさせたサムライが釘をさす。
 「俺はただ、気に食わないからという愚にもつかん理由で人をおいつめる人間が好かないだけだ。おまえのようにな」
 「ひとの命を粗末にするなって?自分の親父まで殺した大量殺人犯のくせによく言うよ」
 床に付着したガムを蹴りつけながら、威勢のいいサムライをコケにするように笑ってやる。
 「その木刀を真剣に持ち替えて何人殺したの?道場は血の海だったんでしょ、死体がごろごろしてたでしょ。そんな地獄を見てきたくせに同房の腰抜けがいまさら首を吊ったくらいでみっともなく狼狽するわけ。ずいぶんと繊細な感受性をお持ちあわせのことで」
 「だからこそだ」
 断固としてサムライが言い、苦渋に顔を歪める。
 「俺はもう身の周りの人間が死ぬのを見たくない。とくに、首を吊る姿は」
 木刀を握り締めた手に異常な力がこもり、切っ先で起こされた顎にまでかすかな震えがつたわってくる。ガムを踏みにじるのをやめ、あらためてサムライを見つめる。針のように鋭い眼光がちりちりと揺れ、眉間に苦い皺がよっている。
 サムライがこんな顔をするのは珍しい。
 もともとが感情の起伏にとぼしい無表情な奴なのに僕と相対したサムライはなにを思い出しているのか、堪えきれないものを堪えるように唇を一文字に引き結んでいた。その鋭さで相手はおろか己自身まで傷つける刃のような両刃の眼光。
 「大事なひとに首を吊られたことがあるの?」
 一瞬、サムライの目に動揺が走った。
 サムライの双眸をかすめた動揺の波紋はすぐに無表情の仮面の下に隠れて見えなくなったが、スッと引かれた木刀と伏せたまなざしがなによりも雄弁に真実を物語っていた。
 「行け」
 興味が失せたように木刀を引き、僕から顔を背けてサムライが命じる。無造作に顎をしゃくられ追い立てられた僕はその場で軽快にターンして歩き出す、と見せかけて立ち止まる。
 「僕が手をだせないようにきみが守ってやんなよ、アイツを」
 物問いたげなまなざしを背中に投げかけてきたサムライを振り向き、唇を笑みの形に歪めて挑発する。
 「トモダチなんでしょう」
 守り抜けるものなら守り抜いてみせろよ、最後まで。
 宣戦布告ともとれる僕の発言を一歩もひかずに受けたサムライが右手に掴んだ木刀を横薙ぎに振り、風を起こす。木刀の一振りで巻き起こった風が前髪を舞い上げ、囚人服の裾をはためかせる。
 「言われずとも心得ている」
 木刀の向こうにいたのはどこまでも冗談の通じない、真面目でカタブツな武士。
 切腹に挑むかのように厳粛な面持ちで誓いを立てたサムライに背を向けて歩き出した僕は、自分の房へと通じる角を曲がってしばらく歩いたところではたと立ち止まり、右の袖口に目をおとす。
 囚人服の袖口がハサミをいれたようにすっぱりと切れていた。
 「カマイタチかよ」
 日本にはそんな妖怪がいるらしい。サムライはカマイタチの化身なのだろうか。だから僕に気付かれることなく木刀の一振りで風を巻き起こすことができた?剃刀のような切れ味の木刀で袖口を切断することができた?ばからしい。
 とはいえ、もしあの木刀が袖口ではなく首をかすめていたらと考えると背筋が薄ら寒くなる。
 鳥肌だった二の腕をさすりながら小走りに房へと戻る。案の定鍵かかっていたんでガンガンと蹴飛ばす。まもなく鉄扉が開き、ビバリーがひょこりと顔をだした。
 「蹴らなくてもわかりますよ、アングラエロ画像サイトサーフェインしてたのにジャマしないでくださいよ」
 「そう?ごめんね」
 不満げに口をとがらせたビバリーをおしのけて房に入ると、案の定でベッドの上ではパソコン画面が輝いていた。青白く発光するパソコン画面から自分のベッドへと目を転じる。枕元にちょことんと腰掛けたテディベアを抱き上げ、ベッドにごろりと横になる。
 「で?さっきの騒ぎはなんだったんすか、ご近所さんがみんなして廊下を走っていきましたけど」
 「ああ、たいしたことじゃない。鍵屋崎が首を吊ろうとしたんだって」
 「……たいしたことっスよ」
 「そう?」
 テディベアの腕を持ち上げていじくりながら生返事をかえすと、パソコンからはなれて膝這いに床をにじりよってきたビバリーが僕のベッドに顎をのせる。
 「で、どうなったんスか」
 不安げな面持ちでのぞきこんきたビバリーをちらりと流し見て、心の底から残念がってみせる。
 「鍵屋崎の腰抜けってばサムライに説得されてしおしおしおれちゃって首吊り自殺はとりやめ」
 「よかった……」
 「拍子抜けだよ」
 安堵に胸をなでおろした根はいい奴のビバリーが僕の呟きを聞きとがめてぎょっとする。化け物でもみるかのような畏怖のまなざしをむけてきたビバリーをごろんと寝返りを打って仰ぎ、頬杖ついてほほえむ。
 「鍵屋崎が死んだらメガネをもらう予定だったんだ」
 「メガネを?」
 「死体にメガネは必要ないっしょ。この刑務所のやつでメガネしてるやつ少ないし、度がかち合う囚人をさがして売りつけてやろうかなってたくらんでたんだけど水の泡さ。弦は分解して耳掻き棒にすりゃあいいしけっこー使いがっていいんだ。あーあ、鍵屋崎が死んでたらメガネゲットできたのになあ」
 「リョウさん」
 「なあにビバリー」
 「あんた最低だ」
 テディベアを高い高いしながらビバリーに向き直る。辟易したような表情のビバリーを上目遣いにさぐり、不敵に笑う。
 「ありがとう」
 最高の褒め言葉だ。
 ここじゃ最低にならなきゃ生き残れない。最後まで生き残る秘訣は最低の人間に成り下がることなのだ。
 処置なしとかぶりを振って引き下がったビバリーをよそに膝の反動で起き上がり、テディベアの懐をまさぐる。敏感な触覚が異物をさぐりあてる。テディベアの横っ腹、目立たないように存在する手術痕に指をもぐりこませて中からとりだしたのはセロハンにつつまれた白い粉末と注射器。
 洗面台まで歩き、注射器に水を汲む。注射器に組んだ水に白い粉末を溶かしてしばらく待つ。ベッドに腰掛けて袖をめくる。キスマークと見紛う赤い斑点が無数に散った青白い腕、典型的なヤク中の腕。深呼吸して注射器の針を腕にあてがい、ポンプをおしこむ。ほどなく覚醒剤がめぐりだし、陶然とした恍惚感におそわれる。
 「信じられねっスよ。そのテディベア、リョウさんのママから贈られた思い出のブツなんでしょ?ふつー思い出のブツの腹の中にヤクを仕込みますかね」
 ほとほとあきれたといった風情で、目にもとまらぬ指わざでキーを操作しながらビバリーが嘆く。
 「しかたないでしょ、ここがいちばん安全なんだ。テディベアのはらわたに覚醒剤と注射器が仕込まれてるなんて誰も思わないし」
 ふと視線を感じて隣に目をやる。僕の隣にちょこんと座ったテディベアが、つぶらな目で何かを訴えかけている。
 『リョウちゃん、どうしてそんな悪い子になっちゃったの』
 愛くるしい目に映りこんだのは覚醒剤の恍惚感に浸りきり、弛緩しきった僕の顔。飽和しきった目。
 テディベアの方に上体を倒し、機嫌をとるようにその額にキスをし、呂律の回らない舌を動かす。

 「I'm sorry a mom.I love you.」 
 (ごめんねママ。
  でも、愛してるよ)

 酔っ払ったような呟きに、テディベアは哀しげな目をした。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060414031713 | 編集

 刑務所には二種類の人間がいる。馬鹿な奴と利口な奴だ。
 東京少年刑務所略して東京プリズン、二十一世紀初頭に少年犯罪の増加に頭を痛めた政府が砂漠のど真ん中に設立した世界に類をみない収容人数と規模の巨大刑務所。台中戦争や第三次ベトナム戦争による難民の流入、韓国と北朝鮮の併合による半島の経済低迷で日本に新天地をもとめた流民たちが一気に押し寄せたために都市の治安は悪化し、かつての東京は無国籍スラム化した。そんな長ったらしい前置きはどうでもいいって奴もいるだろうが、まあ聞け。おれもなるべく手早く済ませる、前回までの説明は苦手なんだ。 
 自己紹介がまだだったな。俺の名前はロン、日本生まれの台中混血児で国籍はなし。半世紀前には日本にもちゃんと国籍法があって、日本で生まれた子供なら両親が外人でもちゃんと日本国籍を与えられたらしいがそんなのは今じゃ眉唾のおとぎばなし。難民の増加にともない日本生まれの二世が増えるにしたがい政府は国籍法を改変した、増えつづける一方の二世や三世にまでいちいち国籍をあたえて社会保証してたんじゃ予算がばかにならないからだ。今じゃこの国で日本国籍を持ってるのは三代前までさかのぼれる生粋の日本人だけ、俺たち日本生まれの二世は完全にカウント外ってわけだ。
 俺が生まれたのは豊島区池袋スラム。治安は都下最悪で斬った張ったは日常茶飯事の無法地帯、対立するチーム同士の抗争なんて珍しくもなんともない。とくに仲が悪かったのは台湾派閥と中国派閥。無理もない、台湾と中国が戦争をしたのはまだたった15年前なのだ。チームの構成員の中には15年前の戦争で家族を失った奴も大勢いて、親の代からの根強い怨恨を受け継いで相手国を敵視している。池袋では殆ど毎日のように台湾系チームと中国系チームの小競り合いが起きていた。
 俺がいたのは武闘派でならした台湾系チーム。
 お袋とふたりで暮らしてたアパートを追んでて路頭に迷ってた11歳の頃から13歳までの二年間身を寄せていたが、居心地はお世辞にもよくなかった。決まってる。俺の親父は中国人だ。両親が台湾人と片親だけ台湾人のガキじゃ格がちがう、しかも父親は憎き中国人ときた。俺の中に家族を殺した中国人の面影を見てしつこく絡んでくる奴もいた、はっきり言って肩身が狭かった、かなり。
 だからあの時もムキになってしまったのだ。
 『できるだろう』
 『できるに決まってんだろ』
 ガキっぽい応酬を苦々しく思い出す。まったく、安っぽい挑発になんか乗るんじゃなかった。にやにや笑いながら俺の手に手榴弾を握らせたのは当時のチーム仲間、といっても俺と四つしかちがわないくせに無駄に態度のでかいいけすかないガキだ。まわりを取り囲んだやつらのにやにや笑いも癇に障る。
 因縁の仇敵たる中国系チームとの決戦を控えた前夜。
 『仲間の中国人を殺れるかどうかミモノだ』
 アジトにしている廃工場に集合して明日の作戦を練っていた俺たちだが、いつのまにか会議の方向が脱線していた。俺の覚悟を見極めるという名目で、俺が本当の台湾人かどうかたしかめるという大義名分で手にあずけられたのは米軍の横流し品の手榴弾。どっからかっぱらってきたのか知らないが、栓を抜くだけで人間を肉片に変えることができる物騒な代物だ。
 『やるよ。持ってろ』
 半ばおしつけるかたちで俺に手榴弾を握らせそいつが命じる。
 無骨な形状の手榴弾をしげしげと見つめる。
 飛び道具は卑怯に感じられ気乗りしない。
 『いらねえ。鉄パイプでじゅうぶんだ』
 無造作に手榴弾を突っ返しかけた俺だが、途端にやつの目が冷え込んだのに気付き「やばい」と舌打ちする。
 『持ってて損するこたないだろ』
 『米軍の落としもんが信用できるか、こんな手榴弾自爆用にしかつかえねえ』
 『逃げるのか』
 意味ありげに言葉を切り、車座になったガキどもの間に沈黙が浸透するのを待ち、続ける。
 『中国人を殺るのに怖気づいたのか』
 展開は読めていた。なにかにつけ因縁をふっかけてくるコイツのことだ、絶対に俺の出自にふれるとおもった。
 『そんなわけじゃねえ。いつ爆発するかひやひやしながらこんな危ねえもん持ち歩くより鉄パイプで頭かち割ったほうが確実だってだけだ』
 『言い訳すんのが怪しいな』
 目が笑ってる。
 まわりのガキどももそうだ。窮地に立たされた俺を見て心の底からたのしげににたついている。
 周囲のガキどもが嬉々として横槍を入れる。
 『本当はおまえ、あっちのチームに入りたいんじゃねえか』
 『なにを、』 
 『べつに止めねえぜ、今からでもあっちのチームに乗り換えろよ。親父が中国人ならそれもアリだ、中国人の足裏なめて仲間にいれてもらってこいよ』
 ねちねちいたぶるような口調でイヤミを言われ頭が沸騰しかけたが、拳を握り締めてこらえる。
 『―やれるさ』
 陰険なやり方に反発して、勢いだけで断言する。てのひらにすっぽりおさまる大きさの手榴弾をもう一度見下ろし、自分に言い聞かせるようにくりかえす。
 『ひとり残らず殺って証明してやるよ、俺が生粋の台湾人だってことを』 
 物心ついたときから台湾人の母親と暮らしてきて箸の作法から廟詣でにいたるまで骨の髄まで台湾文化をたたきこまれてきたのに、顔も知らない親父が中国人だというただそれだけでこんな扱いを受けるいわれはねえ。いいさ、明日の抗争じゃ存分に戦果をあげてコイツらを見返してやる。手榴弾は保険だ、チームが全滅して俺ひとり生き残るかして追いつめられないかぎりは栓を抜くこともないだろう。
 
 俺は馬鹿だった。
 「そのまさか」の可能性をもう少し尊重するべきだったのだ。

 いまさらなにを悔やんでも後の祭りだが、もしあの時手榴弾の譲渡を拒んでいれば俺は今こうしていなかっただろう。つまらない見栄をはってこれからさきの人生を台無しにしてしまったばかりか、くそったれた人殺しの前科を負ってしまったのだ。
 刑務所には二種類の人間がいる。馬鹿な奴と利口な奴。
 俺はまちがいなく前者だ。いや、刑務所送りにされる時点でみんなバカな奴にはちがいないが、利口な奴が看守に媚売ってとりいって特別待遇を受けているのに比べても俺は損をしている。もっとも今じゃ開き直ってもいる。馬鹿なら馬鹿で結構、嫌いな人間に愛想笑いなんてしたくないからな。
 
 さて、ながながと続けてきたが最終的になにが言いたいのかというとこれに尽きる。
 刑務所には二種類の人間がいる。手紙がくる奴とこない奴だ。

                              +


 「うっとうしい奴だなお前」
 いまさらわかりきったことだが、レイジの沈んだ顔を見てると言わずにはいられない。頭を抱えてベッドに伏せったレイジがじつに情けない声をあげる。
 「だってよーあんまりだよー本燃やしたの俺じゃねえのにこんな無体な仕打ち」
 スランプに陥った作家のように頭をかきむしって苦悶するレイジを隣のベッドから嘲ってやる。
 「そもそも図書室で借りた本を凶器にすんのがまちがいなんだよ」
 レイジの愛読書は聖書だ。原則として東京プリズン収監時における囚人の私物持ち込みは禁止されているから、レイジが暇潰しに読み耽っていた聖書は図書室から借りてきたものでしかありえない。こともあろうに借り物の聖書でサーシャ率いる北のガキどもをぶん殴って血に染めた男が当たり前の制裁措置として図書室への出入り禁止されたところでさっぱり同情の念はわかない。自業自得だ。
 「つめてえな」
 白けた顔の俺を仰ぎ見て、ガキっぽく口をとがらすレイジ。どんなに美形でも拗ねた表情はガキっぽくなるもんだなと妙に感心する。レイジは普段から表情を崩してることが多いからいまいち美形の実感がわかないが娑婆にでれば女が放っておかない容姿をしている。
 それが証拠に今でも大量のラブレターが届く。
 「活字に飢えてんなら例のラブレターでも読み返せよ」
 そっけなく顎をしゃくり、レイジが伏せったベッドの下を促す。ベッドの下をのぞきこんだレイジがなげかわしげにため息をつく。
 「全部暗記しちまったよ、もう」
 「うそつけ」
 「本当だよ。今ここで暗唱してやろうか」
 「いらねえ」
 「ははーん。嫉妬か」
 「死ね」
 なんで俺がうきうきしながらラブレターを音読するレイジに嫉妬しなければならない?たしかに俺にはレイジみたいに両の腕からあふれんばかりのラブレターなんて届いた試しがないし、というかそもそも東京プリズンにきてから手紙をもらったことがない。いや、東京プリズンにきてからとか限定しなくても、スラムで喧嘩に明け暮れていたころまでさかのぼってもだれかから手紙を貰ったことなんて一度もない。それがなんだ?女から手紙をもらったことがないのがそんなに恥ずかしいことなのかよ。
 「女から手紙もらうのがそんなにえらいことなのかよ。娑婆にいた頃のお前がどんだけモテまくって女を泣かせてたかしらねえけど調子にのんな」
 「なに勘違いしてんだ、逆だよ逆」
 要領を得ないやりとりに不審顔をする。ベッドに上体を起こしたレイジがいつのまにかとりだした手紙で顔を仰ぎながら笑う。
 「この手紙を書いた女たちにやきもち焼いてるんだろ、ロン」
 は?
 「なんで俺がやきもち焼くんだよ」
 「俺のガールフレンドだからさ」
 「意味わかんねえ、付き合ってられるか」
 レイジに愛想を尽かし、壁の方を向いてごろりと横になった俺は背中で調子っぱずれの鼻歌を聞く。
 「いいぜ手紙は。愛がこもってる」
 背後でカサカサと紙の擦れる音がする。黄ばんだ手紙を広げてうきうきしながら文面を読み始めたレイジの顔が目に浮かぶようだ。腹が立つ。どうせ俺には手紙がきたことなんて一度もねえよ、と心の中で吐き捨てて目を瞑る。
 俺だって天涯孤独ってわけじゃない、娑婆には11の時から音信普通のお袋がいる。お袋は自分が腹を痛めて産んだガキが刑務所に入ってることを知ってるんだろうか。風の便りに小耳に挟んでも不思議じゃないが、だからといってあの薄情な女に期待するのがまちがってる。刑務所暮らしの息子を案じて手紙をしたためるような人並みの親心があの女にあるわけがない、十一年間一緒に暮らした俺が断言する。
 壁の方を向いて肘枕した俺は、たのしそうなレイジにイヤミのひとつでも言いたい気分になって口を開く。
 「手紙にこもってるのは愛だけかよ」
 「?」
 「憎しみもこもってるんじゃねえか」
 一呼吸の沈黙。
 「否定はしない。実際剃刀入りの手紙送りつけてくるようなあぶねー奴もいるしな」
 振り返る。肩越しに見たレイジは俺と同じような格好でベッドに寝転がり、頭上に手紙をかざして読み耽っていた。安物の便箋に綴られた字をすばやく目で追いながら結論づける。
 「でも、いいもんだぜ。こうやって何度も読み返せるし手元にとっておけるし、娑婆の女が俺のこと忘れてないんだって確認できる」
 「お前馬鹿か、他に男つくってるにきまってるじゃねーか」
 「浮気はいいよべつに、おれも浮気するし」
 さらりと世の女に刺されそうな発言をして手紙をたたみ、こちらに顔を振り向け、意味ありげに笑う。
 「お前の浮気は許せないけど」
 「ちょっと待て、俺がいつお前のものになった?」
 たしかに何度も寝込みを襲われかけたが、まだ既成事実はない、はずだ。
 脅すような笑みを浮かべたレイジに確信が揺らぐ。俺がぐっすり寝込んでて気付かなかっただけ、というおぞましいオチはないよな。さすがにそこまで鈍感じゃないぞ俺。畳んだ手紙を封筒に戻し、ベッドの下に放りこんだレイジがベッドを立って大きく伸びをする。
 「いい加減読み返すのも飽きたな」
 「安心しろ、もうすぐ青い鳥がまいこんでくる」
 反動をつけて上体を起こし、ベッドに腰掛けた姿勢で鉄扉を注視する。廊下を近づいてくる尖った靴音。カツンカツンカツン……房の前で靴音が止む。
 「レイジはいるか」
 「はーい」
 ふざけた返事だ。もしレイジ以外のやつがこんな返事をすれば前歯の一本や二本は折られてただろう。鉄扉が乱暴に開けられ、見るからに横暴そうな面構えの看守が現れる。
 「お待ちかねの手紙がきてるぞ。視聴覚ホールに集合だ」
 横柄に顎をしゃくって看守がひっこむ。ついてこいという意思表示だろう。看守の背中を追って房をでていきかけたレイジが鉄扉のノブに手をかけて振り返る。
 「んじゃ、いってくる」
 「もう帰ってこなくていいぜ」
 「俺がいない間に浮気すんなよ」
 聞いちゃいねえ。
 馬耳東風のレイジが踊るような足取りで房をでてゆくのを見送り、手持ち無沙汰な気分で床を見つめる。鈍い音をたてて鉄扉が閉じ、いつ聞いても音痴なレイジの鼻歌が廊下を遠ざかってゆく。廊下の途中で「しずかにしろ!」と看守に怒鳴られ一瞬だけ鼻歌が止むが懲りない様子ですぐに再開される。今度は看守も注意しなかった、背後を歩いてるガキが泣く子もびびる東棟の王様だと思い出したのだろう。
 鼻歌が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
 レイジがいなくなり、奇妙なほど広々と感じられる殺風景な房にひとり残された俺はなにげなく向かいのベッドの下に視線をもぐらせる。
 うらやましくなんかない。
 たかが手紙だ。読み終わったら鼻をかむかケツを拭くかしかとりえのねえ薄っぺらい紙じゃねえか。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060413050226 | 編集

 通常強制労働は朝6時から夜6時までの12時間と決まってるが、この日だけは特別。
 強制労働は午後3時で切り上げられ囚人たちはバスに鮨詰めにされてそれぞれの部署から戻ってくる。そっから先の進路は二通りに別れる。房に戻るか中庭にでるか廊下をぶらつくかして暇を潰す奴らと看守によばれて中央棟の視聴覚ホールに出張する奴ら。
 東京プリズンの地理について説明しとこう。
 東京砂漠のど真ん中に建つこの刑務所は奇奇怪怪にこみいった構造をしている。まるで迷路だ。核をなすのは東西南北に配置された四つの棟でそれぞれ東棟・西棟・北棟・南棟という面白みのないネーミングで呼ばれてる。過去、それぞれの棟は渡り廊下でつながれていたが俺がここに入った時にはすでに渡り廊下は封鎖されて棟同士の行き来はできなくなっていた。
 べつにコンクリートで塗り固められてるわけじゃないが、有刺鉄線のバリケードが二重三重に張られているため手の皮がやぶけるのを承知でバリケードを乗り越えないかぎり渡り廊下から隣の棟には行けないわけだ。
 なんで渡り廊下に有刺鉄線なんて物騒なもんが張られてるのか最初は疑問だったがすぐに謎は解けた。
 「棟同士の抗争だよ」
 入所して間もない俺が渡り廊下が封鎖された理由を訊ねたら、レイジはこともなげにそう言った。
 「東京プリズン創立当時から棟同士の仲が悪かったのは聞いてるだろ。隣り合った棟は殆ど戦争状態でその激戦区になったのが渡り廊下だ。渡り廊下じゃ毎日のように対立する棟同士の小競り合いが繰り広げられてどうかすると二桁の死傷者がでることもあった。だから『上』の人間は手を打ったわけだ、渡り廊下を封鎖して行き来を禁止しちまえば流血騒ぎもおきねえだろうって」
 そんなわけだ。
 実際それは名案だった。俺たち囚人はまず自分の棟からでることはないし渡り廊下がふさがれても殆ど不便は感じなかった。
 でも、封鎖された渡り廊下とはべつにもうひとつの渡り廊下がある。東西南北どの棟からも等距離にそびえる中央棟へと通じる渡り廊下で、こっちは今でも頻繁に使われている。中央棟には図書室と視聴覚ホールと医務室がある。刑務所に入ってから読書に目覚めた囚人や怪我をした囚人はこの渡り廊下を通って中央棟に行く。棟同士が直接つながる渡り廊下では火種が絶えなかったが、中央棟ではその心配もない。看守が常駐してる図書室で喧嘩をおっぱじめるような馬鹿な囚人はさすがに東京プリズンにもいない。
 軽い見かけに反して読書家のレイジは三日と空けずに図書室に通っているが、俺は図書室に足を運ぶことはあまりない。医務室に行く頻度はもっと減る、ここじゃ大概の怪我は「唾つけときゃ治る」程度のかすり傷と見なされるのだ。
 残るひとつ、視聴覚ホールは特別なイベントの時だけ開放される。くそつまんねえ映画の鑑賞会や新入りの配属先一覧表公開。
 そして、三ヶ月に一度の今日この日だけ。
 最もすべての囚人にお呼びがかかるわけじゃない。現にレイジは呼ばれて俺は呼ばれなかった。くそ。
 
 房をでたときから空気が浮ついてるのがわかった。
 廊下にたむろった囚人が変にそわそわとしている。落ち着きがねえ。ズボンのポケットに手をつっこんで憤然と歩き出す。すれ違う囚人の表情は二種類、不機嫌そうな仏頂面とほくほくと幸せそうな笑顔。前者の囚人は異常にぴりぴりして、肩が触れた触れないのささいないざこざが殴り合いの喧嘩に発展してる。ほくほくと幸せそうなツラの囚人はその反対、すれ違ったときおもいきり肩がぶつかろうが故意に肩をぶつけられようが「ああ、わりいわりい」と愛想よく返している。
 嬉しそうなツラをした囚人の手には決まって手紙が握られていた。多い奴で十通、少ない奴は一通、平均して二・三通。手紙を持った囚人は中央棟の方角から流れてくる。その流れに逆らうように早足で歩き、階段をおり、踊り場で立ち止まる。踊り場の窓をのりこえ、ひょいと外にでる。
 墜落の心配はない。外にはちゃんと固い地面がある……が、ここは一階じゃない。位置的には三階と二階の中間にあたるのだろうか。2・5階の踊り場の窓にはガラスが嵌まってない。窓の下の床は長年風雨にさらされつづけて変色している。暴れて頭から突っ込んだ囚人がガラスをぶち破って以降この状態で放置されているのだ。東京プリズンに何百何千と存在する抜け道・裏道のひとつだ、別段目新しくもなんともない。東棟の囚人で知らない奴のが少ないだろう。
 2・5階の踊り場の外にはコンクリートの展望台がある。展望台ってのは俺たちが勝手に呼んでるだけで実態は下層階の壁の出っ張りだ。収容人数の増加に伴う下層階の拡張工事のせいで二階より下の壁は出っ張ってて、つまりはその出っ張りが2・5階の踊り場と接してるわけだ。まったく変な造りの刑務所だ、九龍城かよ。
 通称展望台とよばれるコンクリートの突堤の向こうには広さだけは十分な中庭が広がってる。見晴らしはいい、バスケットボールを追っかけて走り回ってる囚人どもを一望するには絶好のポイントだ。それに2・5階の高さがあれば多少は風も感じられる、涼むにはもってこいだ。
 展望台にはすでに先客がいた。おれとおなじく視聴覚ホールにお呼びがかからなかった奴らだろう。憮然とした面でだまりこみ、お互い距離をとって展望台に散ったガキどもの間を突っ切ってコンクリートの先端をめざす。もちろん、囚人が立ち入ることを想定してなかったわけだから手摺なんてご大層なもんはない。展望台の先端はそのまま垂直に切り立っている。
 コンクリートの絶壁。
 絶壁の縁に腰かけ、宙に足をたらす。ポケットに手をやり、煙草をくわえる。この前廊下に落ちてた煙草だ。しけてないしまだ吸える、はずだ。煙草は味もろくにわかんないガキのころに吸ったきりだ。いつもはべつに吸いたいともおもわないが、気分がむしゃくしゃした時には無性にニコチンが恋しくなる。惜しむべくはここにライターがないことだが……
 指の間に煙草をはさんでため息をつく。せっかく持ってても吸えないんじゃ宝の持ち腐れだ。レイジが房を出る前にライターを持ってるかどうか聞いとくべきだった、東棟の王様はなんでも持ってるしな。
 口寂しいから火のついてない煙草を口に挟み、後ろ手をついて空を仰ぐ。砂漠はいつもいい天気だ。だだっ広く、はてしがない。この砂漠の遥か彼方に俺の産まれた池袋があって俺を産んだおふくろがいて―……
 「ここは禁煙だぞ」
 俺の感傷をぶち壊したのはクールな声。
 後ろ手をついたまま振り向くと背後に鍵屋崎が立っていた。小脇に本を抱えてるところから察するに静かに読書できる場所をさがして展望台にまでやってきたのだろう。
 「図書室に行きゃいいだろ」
 「騒がしくて落ち着かない」
 たしかに。図書室で行儀よくできない連中はガキ以下だが、ここの囚人はそんな奴ばかりだ。……ちょっと待て。
 「房に帰れよ」
 「……………」
 本を借りてきたんなら自分の房でゆっくり読めばいい、なにも展望台にくることはない。
 「なにか房に帰りたくない理由でもあんのかよ。サムライと喧嘩したとか」
 「変に勘繰らないでくれ、僕が房に帰りたくないのは『奴』がでたからだ」
 「やつ?」
 口から煙草を外し、鍵屋崎を仰ぐ。無言のまま俺の隣に腰掛けて本の表紙を開き、鍵屋崎が言う。
 「クロゴキブリ 学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科 分布:全国 体長:30~35mm 特徴:本州では最も代表的な家屋性害虫種。ただし、南方ではコワモンゴキブリやトビイロゴキブリ等の方が優勢らしい。若齢幼体時は黒い体色で、中胸部全体や触覚の先端が白く、腹部にも一対の白い斑紋がある。成長とともに赤褐色になり、白い部分は目立たなくなる。成虫は全身黒褐色。いうまでもなく雑食性」
 「ゴキブリか」
 納得。ここにきてずいぶん経つ俺はいまさら房にゴキブリがでたくらいじゃ驚かないが、まだ二ヶ月しかたってない鍵屋崎は慣れないだろう。潔癖症だしなコイツ。
 「ゴキブリ怖さに逃げ出してきたわけか。ご愁傷様」
 気のない声でイヤミを言った俺にはまるで注意を払わずページをめくる。相変わらず無愛想な奴だな、会話が成立しねーじゃんか。あきれながら鍵屋崎の右手薬指に目をやる。腫れはだいぶひいていた。読みやすいよう本を支えることができるくらいだからもう殆ど日常生活に支障はないだろう。 
 つまらなそうに本の活字を追ってる鍵屋崎の横顔をちらりと眺め、コイツが隣にきたときから気になってたことに探りをいれる。
 「お前にはきてねーの、手紙」
 「だれからだ」
 「家族とかよ」
 友人はないだろう。絶対。
 「答える義務がない」
 本から顔をあげた鍵屋崎が迷惑そうに俺を見て吐き捨てる。
 「きてないんだな」
 「黙秘権を行使する」
 「俺もきてねーよ」
 「だからどうした?」
 「どうもしねえけどさ」
 パタン。
 拍手を打つように本を閉じ、くるりと俺の方に向き直る。眼鏡越しの双眸に
 「仮に君とおなじように身内からの手紙が一通も届いてないからといって、それがどうだというんだ。きみだって自分がどうしてここにいるか忘れたわけじゃあるまい、僕らは懲役刑に処された犯罪者なんだぞ。きみの場合被害者の遺族から糾弾の手紙が届くことはあっても身内からいたわりの手紙が届くわけがないじゃないか。もちろん僕もそうだ、僕の場合被害者は両親だから遺族からの抗議文イコール身内からの手紙になるわけだがそれもない、一通もない。だからなんだ?それがどうした?それだけの接点で妙な親近感を抱いて馴れ馴れしく口をきかないでくれ、気色が悪い」
 「これ以上読書の邪魔をするな」といわんばかりの刺々しい口調だった。一緒にムショ入りしたダチが死んでから性格まるくなったと思ってたけど前言撤回、全然変わってねえ。どころか、ますますひねくれてるじゃねーか。
 はげしい徒労感に襲われてため息をついた俺は、指の間に預けた煙草をふたたび口にもっていきかけ、鍵屋崎に睨まれる。
 「同じことを二度繰り返させる気か?」
 「禁煙なんてだれが決めたよ」
 「僕だ。副流煙は体に毒だ、肺がん発生率が上がる」
 「ほんとに自分のことしか考えてないんだなお前。てか、そんなにいやなら俺の隣にくるなよ。どっか他いけよ」
 「断る」
 「なんで」
 「ここがいちばん日当たりがいい。本を読むのにちょうどいい角度で陽射しがあたるんだ」
 議論を続ける気力が尽きた。鍵屋崎は頑固だ、自分の主張を譲る気はこれっぽっちもないらしい。指に煙草を挟んだまま、ほかにやることもなく空を見上げる。
 快晴の空。雲ひとつない青―
 「サムライはどうしてる」
 「房にいるんじゃないか」
 「アイツも手紙きてねーの?」
 「そうらしいな」
 「ふうん」
 サムライは俺がくる前からここにいる。レイジと同じかそれ以上の古株に入るだろう。長年服役してる囚人には手紙もぱたりと絶えて届かないというがサムライもそのクチだろうか。最もサムライの場合、鍵屋崎とおなじで親を殺してるから娑婆の身内からの心あたたまる手紙がこなくてもむりはない。
 話のタネも尽きた。鍵屋崎は読書に集中してる。暇をもてあました俺が大口あけてあくびしかけたその時だ。
 「ん?」
 中庭の一隅に目を凝らす。
 中庭の端っこで仲間を集めてなにやら話しこんでるのは凱だ。なにかと俺を目の敵にしてつっかかってくる面倒くさい囚人。自分の顔の前に取り巻き連中を招き寄せ、手にした手紙をいそいそと開き、俺が見たこともないようなデレデレしたツラで何かを喋っている。
 「女か?まさかな」
 「なんだ?」
 「あれ」
 顎をしゃくる。凱を発見した鍵屋崎の顔がそれこそゴキブリを踏んづけたようにしかめられる。視線の先には満面笑顔の凱。
 「気味が悪い」
 「だろ」
 「凱には手紙がきたんだな」
 「らしいな」
 なんとなく顔を見合わせる。気まずい沈黙。
 鍵屋崎は軽く咳払いしてページをめくり、俺もそっぽを向く。
 互いの目を見ただけで言いたいことがよくわかったからだ。
 意訳。
 凱のような最低野郎にさえ娑婆からの手紙が届いたというのに、俺たちに手紙がこないのはいくら自業自得とはいえ自尊心の危機。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060412050504 | 編集

 調子っ外れの鼻歌が聞こえてきた。
 「大漁大漁っと」
 踊り場の窓を乗り越えて歩いてきたレイジに所在なげに展望台に散っていた囚人たちから嫉妬と羨望の入り混じった視線が注がれる。両腕いっぱいに抱えているのは手紙の束だ。
 「ロン、こんなとこにいたのか。さがしちまったじゃねーか」
 「大漁だな」
 にやけ面のレイジにイヤミっぽく言ってやる。両手に抱えた手紙の山を見下ろしたレイジはまんざらでもなさそうに笑う。
 「これでも昔に比べて倍近く減ったんだぜ」
 レイジの手の中に目をやる。手紙は全部で二十通、この倍近く届いていたということは四十通か?展望台のコンクリートに胡座をかき、どさりと手紙を投げ落として一通ずつ目を通してゆく。
 「スヨン、杏奈、シェリファ、メアリー、麗羅、ソーニャ、テレサ……」
 長ったらしい呪文のようにブツブツと女の名前を唱えながら右から左へと手紙を移し変えて小山を築いてゆくレイジは一瞥もせず、つまらなそうな無表情で本に読み耽る鍵屋崎。興味ないふりを装っているが、苛立たしげにページをめくる手つきから奴が酷くぴりぴりしていることがわかった。最後の一通を頂点にのせる。手紙の小山を築き終えたレイジは「よっしゃ」と腕まくりし、嬉嬉として開封作業にとりかかる。手紙の山の中腹からランダムにとりだした封筒を日に翳して差出人名を確かめ、いそいそと封を破く。
 「くさい」
 おもわず鼻をつまむ。レイジが広げた便箋からすえた香辛料の刺激臭のようななんともいえない匂いが漂ってきた。
 「ばか、香だよ。インドの」
 どうやら便箋に香が焚き染められていたらしい。顔の前に漂ってきた異臭を手で払いながら好奇心にかられてレイジの手元を覗きこむ。膝這いに這ってレイジへと近寄った俺の目にとびこんできたのは便箋上のミミズの行進。
 「……何語だ?」
 毒を呷ったミミズが七転八倒してるようにしか見えない外国語は俺にはさっぱり理解できない。便箋の文面に目を走らせながらレイジが言う。
 「ヒンドゥー語」
 ……男でも女でもとっかえひっかえ手当たり構わずの節操なしだとは知っていたが、人種はおろか国にもこだわらないなんて。レイジはある意味究極の平等主義者かもしれない、レイジの中にはそもそも国境線が存在しないのだ。次から次へと手当たり次第に便箋を広げてはとっかえひっかえ目を通してゆくレイジのにやけ面が無性に腹立たしくなって舌打ちしながら鍵屋崎の隣に戻る。ガサガサと手紙を広げる音が背後で聞こえる。レイジがうらやましいわけじゃない、そんなことはない絶対に。最初から期待してなかったから落ちこむ理由もない。だいたいこんな極東の刑務所宛に、俺宛の手紙が舞いこむわけがないのだ。
 お袋とはとうに縁を切った。親でもなけりゃ子でもない。だから別に―……
 「落ち込んでんのか」
 背後で声。
 「落ち込んでねえよ」
 膝這いに這って俺の顔を覗きこんだレイジが一瞬逡巡するような表情を見せてから、俺の顔の前に一通の手紙を突き出す。
 「やるよ」
 「……は?」
 馬鹿かコイツ。
 「お前宛の手紙くれても嬉しくねーんだけど」
 「たくさんきたからお裾分けだ」
 真性の馬鹿だコイツ。
 それとも天然で残酷か天然でお人よしなのだろうか、寛容で博愛精神あふれる偉大な王様の発言に俺は口を噤んで一寸迷うそぶりを見せてからおずおずと手紙を受け取る。そして、満足そうに微笑したレイジと手紙とを見比べて早速行動にでる。封筒から薄い便箋をとりだしてコンクリートの地面に広げ、丁寧にしごいて折り目をのばす。何のつもりだと怪訝な顔のレイジをよそに便箋をさっさと折りたたんで紙飛行機を作る。
 俺は天性の不器用だから出来はお世辞にも素晴らしいとはいえないが、まあいいだろう。
 完成した飛行機を角度を変えてためつすがめつしてから、ひょいと手首を撓らせる。俺が飛ばした紙飛行機は上手いこと風に乗り、ツバメのようにあざやかに滑空した。
 「なんてことすんだよ!?」
 俺の奇行をあぜんと見守っていたレイジがこれ以上なく情けない顔で訴えるが、無視して飛行機の行方を追う。小手をかざした俺の視線の先、不恰好な紙飛行機はよれよれと不安定な軌道を描いて遂に力尽き中庭に墜落。バスケットボールを追って駈けずり回っていたガキどもに踏まれ、揉みくちゃにされ、泥だらけになる。
 「飛距離30メートルというところだな」
 本から顔を上げた鍵屋崎が一言呟き、すぐにまた本に目を戻す。意外と飛んだな。上々な成果に気をよくした俺の隣ではレイジがコンクリートに手をついて大袈裟に嘆いていた。
 「ひどい、ひどすぎる、親切を仇で返しやがって……娑婆の愛人のシェリファが真心こめた手紙なのにっ」
 恋人じゃなくて愛人ときたか。レイジらしい。
 「一枚くらいケチケチすんな、沢山余ってるだろうが」
 俺を哀れんで分けてくれるくらいだからもとから執着は薄かったのだろう。案の定レイジの立ち直りは早かった。ため息をついて胡座をかいたレイジは手紙の山を両手に抱え直すと今初めて気付いたように鍵屋崎に目をやる。
 「キーストアには手紙きたの?」
 「来たのならこんなところにいない」
 にべもない返答だ。
 眼鏡越しの目を伏せて即答した鍵屋崎を「ふ~ん」と眺め、両腕に手紙を抱えたレイジが何か言いかけたときだ。
 「やっほ、みんな集まってるね」
 澄んだボーイソプラノに揃って振り向く。
 今しも窓枠を越えて展望台に降り立ったのは燃えるような赤毛のガキ。鼻梁にそばかすが散った童顔にあどけない笑みを湛え、俺らの方に気安く手を振ったのは男娼のリョウ。にこにこ笑いながらスキップするように近づいてきたリョウの後ろ、窓枠を跨いで姿を見せたのはリョウと同房の黒人だ。名前は忘れたが、レイジと仲がいいからツラは知ってる。
 人懐こく笑いながら俺の隣に腰掛けたリョウが手にしていたのは一通の手紙。よっぽど大事な人から届いた手紙らしく、もう一通、無造作に尻ポケットに突っ込まれてる手紙とは扱いからして違う。尻ポケットの手紙のほうが白い上質紙の封筒で高級感あふれてるのに。 
 「ようビバリー、その節は世話んなったな」
 「いえいえ。またテキーラが必要になったらいつでも言ってくださいっす、王様と仲良くしといて損はないっすからね」
 ビバリーと呼ばれたガキと和気藹々と会話してるレイジ、その言葉の何かがひっかかる。
 「飲みたくなったら、じゃなくて必要になったら?」
 囚人が酒を隠してるのはいまさら不思議に思わない。要領のいい囚人の中には看守に取り入って酒や煙草やガムなんかの禁制品をゲットする奴もいるし、博打が強い囚人の中には看守と賭けをして戦利品をぶんどるのを生き甲斐にしてる奴もいる。ビバリーは愛想もいいし世辞も上手いし看守受けは悪くなさそうだ。テキーラを手に入れる機会はいくらでもあったわけだ。
 だからその点に関しては疑問は抱かなかったが妙な言い回しが気になった俺に、レイジが意味ありげに微笑する。
 「また火炎瓶が必要になったら、な」
 すとん腑に落ちた。
 「ガキの頃よく火炎瓶作って遊んだなー。テキーラを瓶にいれて火をつけて投げる遊び」
 「レイジさんどんな子供時代すごしたんすか」
 火炎瓶にテキーラを流しこむ動作をしながら昔なつかしむレイジにあきれ顔のビバリーが一同を代表してツッコミをいれる。俺もチームにいた頃は火炎瓶のひとつやふたつ自前で用意したが、ガキの頃からそんな物騒なもんを持ち歩いたりはしなかった。
 「で?お前は手紙もらえたのか」
 回想から覚めたレイジにビバリーが腕を広げる。手ぶらの証明。
 「仕方ないっすよ。ほら、僕のファミリーってビバリ―ヒルズ在住じゃないスか。届くまで時差があるんスよ、エアメールだし」
 残念そうに主張したビバリーから俺の隣に腰掛けたリョウへと視線を転じるレイジ。
 「お前は?」
 「じゃーん」
 待ってましたといわんばかりに顔の横に手紙を掲げる。得意満面、胸を反らしたリョウの右手に鍵屋崎を除く全員の視線が集中する。
 「ママからだよ」
 ママ。
 舌の上で砂糖菓子がとけるような発音。
 「そっちは?」
 「ああ、パトロンの親父から」
 顎をしゃくったレイジに凄まじい温度差のある声で答え、興味なさそうに尻ポケットを一瞥する。くるりと前を向いたリョウは母親から届いた手紙のことしか眼中になかった。
 「視聴覚ホールから戻ってくるまでの間にもう何回も読み返しちゃった。ママってば相変わらずだ、元気にしてるみたいで良かったけど相変わらず男にだまされて泣いてばっかいるらしい。やっぱりリョウちゃんがいなきゃだめだって、僕がいないと寂しくて死んじゃいそうだって、はやく戻ってきてほしいって……まったく、どっちが子供だかわかりゃしないよ」
 「参ったなあ」と弱りきって頭を掻いているが俺には愚痴を気取った惚気にしか聞こえなかった。事実、いとおしげに親からの手紙を見つめるリョウの顔は見てるこっちが憎らしくなるくらい幸せそうに笑み崩れている。どうやって人を出し抜こうかと企んでるいつもの笑顔ではない、素の笑顔。
 「でね、ママってば僕がここに入ってから三人目の男ができたみたいなんだけどそいつとうまくいかなくて家出中なんだって。この手紙はホテルで書いたらしい。もうすぐ持ち金が底を尽くから早いとこホテルをでてかなきゃって悩んでるけど行くあてあるのかなあ、ママ美人だから変な虫にひっかかって場末の売春窟にでも売り飛ばされたらどうし」
 「うるさい」
 饒舌にまくし立てていたリョウをさえぎった鍵屋崎に全員の視線が集中する。それまで我関せずと本を読み耽っていた鍵屋崎がパタンと表紙を閉じ、本を膝においてからキッと向き直る。眼鏡越しのきつい眼差し。
 「読書中なんだ、私語は慎んでくれないか」
 「ああ、いたんだメガネくん」
 最初から気付いていたくせに、今鍵屋崎が目に入ったといわんばかりの大仰さでリョウが驚く。神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げて顔を伏せた鍵屋崎をじろじろ眺め、高慢ちきに腕組みしてリョウがうそぶく。
 「メガネくんは手紙きたの?」
 「……………いや」
 「ふうん」
 「なんだ、言いたいことでもあるのか」
 「べっつにー。ただ、だれからも手紙がこないなんて可哀相だなあって」
 「きみに同情される筋合いはない。それにリョウ、きみこそ自分のおかれた立場を忘れてないか?ぼく達は服役中の犯罪者で身内の恥さらしだ、そんな人間に好き好んで手紙を書くような手合いはよほどの偽善者で自己本位な奉仕精神に酔いしれてるとしか思えない」
 リョウの顔色が変わる。そりゃそうだろう、世界でいちばん大好きな母親を「自己本位な奉仕精神に酔いしれた偽善者」よばわりされたんじゃ頭にくるのも頷ける。
 「ほんとは嫉妬してるんでしょ」
 「嫉妬?」
 理解できないというふうに眉をひそめた鍵屋崎を見下ろし、手紙で風を送りながらリョウが続ける。
 「僕にはちゃんと手紙がきた。君にはきてない。ママはぼくのことを忘れてない、今でもぼくが大事だからこうして欠かさず手紙をくれる。君はどう?だれからも大事に思われてないから、出てくるのを待ち望まれてないから一通も手紙がこないんでしょ」
 リョウの言葉が胸に突き刺さる。
 確かにそれはそのとおりで、俺に一通も手紙がとどかないのは娑婆の人間は俺のことなんかとっくに忘れ去って普通に暮らしてるからだろう。お袋だってそうだ、いや、お袋こそいい例だ。自分が腹を痛めて産んだガキの存在なんか綺麗さっぱり忘れ去って今頃は新しい男をくわえこんでるにちがいない。
 俺も鍵屋崎も、娑婆の連中にとっては一日も早く記憶から消し去りたい存在なのだ。
 「可哀相だね、ホント」
 リョウが首を振る。
 「きみの大事な妹さんは大好きなお兄ちゃんに手紙ひとつくれないわけ?兄妹仲はよかったんでしょ。刑務所にとじこめられてひとりぼっちのお兄ちゃんのことが心配じゃないのかなー妹さんは。冷たいねー。まあ仕方ないよね、きみってば両親殺しちゃったんだし。それってつまり妹さんのパパとママも殺しちゃったわけでしょ、ぐさっと。つまりきみは妹さんにとってただひとりのお兄ちゃんであると同時にパパとママを殺した憎い仇でもあるわけだ、うん、なら仕方ないね手紙がこなくても」
 「おい、そのへんに……」
 ねちねちと陰険なイヤミを聞くに耐えきれずに腰を上げかけた俺を制したのは鍵屋崎。ずんずんと自分に歩み寄る鍵屋崎を見据えるリョウの目には露骨な優越感がある。
 「こうも考えられる。パパとママが死んでおにいちゃんは刑務所にいれられて、ひとりぼっちになった妹さんは首を吊って―……」
 「リョウさん!!」
 調子に乗りすぎたリョウが言ってはならないことを口走りビバリーが止めに入ったが、鍵屋崎が手紙を奪い取るほうが早かった。
 リョウの手から強引に手紙を奪い取った鍵屋崎がコンクリートの突堤に立ち、胸の前に手紙を翳す。
 「!なにす、」
 狼狽しきったリョウの叫びを無視し、鍵屋崎が手紙を引き裂く。
 一度ではない。
 二度、三度、四度、五度。原形を留めない断片にまで千切り捨てた手紙を両腕からこぼし、抜けるような青空の下にばらまく。

 青い空に舞う幾千の白い紙片。

 鮮烈なコントラストをさらに印象付けたのは、コンクリートの先端にたたずむ鍵屋崎の背中。孤独が人の形をとったような背中の向こうに降り注ぐのは、折から吹いた風にさらわれ、吹雪のように儚く淡く積もりゆく千々に裂かれた手紙の切れ端。
 中庭に散らばっていた囚人たちがてのひらで紙片を受け、「何だ?」「何だ?」と顔をあげる。その目に映った光景が俺にはありありと想像できる。
 展望台のへりに立ち尽くし、陽射しに反射したレンズの下に表情を押し隠し、紙吹雪にさえぎられた鍵屋崎の姿。
 紙吹雪を演出した当の本人は落ち着き払ったしぐさでシャツに付着した紙片を払い落とすと何事もなかったように読書に戻った。妙にすっきりした顔でしおり紐をはさんだページをひらき、次のページをめくろうとした―

 その時だ、リョウが鍵屋崎にとびかかったのは。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060411050615 | 編集

 「この野郎!」
 奇声を発して鍵屋崎にとびかかったリョウ、発情期の猫のような敏捷さで鍵屋崎を押し倒す。全体重をかけてコンクリートに押し倒された鍵屋崎の手からそれまで読んでいた本が飛び、転がる。ページが開かれたままの本を冷静に眺め、呟く。
 「いいところだったのに」
 さして残念そうでもない口ぶりで嘆いた鍵屋崎の胸ぐらを締め上げ、顔を真っ赤にしてリョウが怒鳴る。
 「よくも……よくもママからの手紙を!!」 
 「たかが手紙一枚、大袈裟に嘆くほどのことでもないだろう」
 「ママが、ママからの手紙なのに!僕がどんだけこの日をたのしみにしてたか、ママからの手紙を待ってたか知らないくせに!!」
 演技ではない、リョウは本気で怒っていた。媚売る用の笑顔が板についた普段のリョウからは想像もつかない半狂乱の醜態で鍵屋崎を罵る。対する鍵屋崎はポーカーフェイス、押し倒されてズレた眼鏡を中指で正しながら落ち着き払って指摘する。
 「知らないし知りたくもないな、そんなことは。付け加えるならばリョウ、きみは自分の年齢を自覚してるか?実年齢以上にきみの精神年齢は幼稚きわまりない、指しゃぶりの傾向がある四歳児の典型だ。知ってるか?幼児が執拗に指を吸うのは潜在的に母乳を恋しがっているからだそうだ、乳離れして間もない時期の潜在的不安を指をしゃぶることでごまかしてるんだ」
 ちらりと眼鏡越しの視線が動き、襟首を鷲掴んだリョウの手を見る。爪がギザギザの子供っぽい手。
 「爪を噛む癖が抜けないのもその延長だ。母親の愛情に飢えた幼児期を過ごした人間にはよく見られる傾向らしいが、きみの母親は幼い子供よりも恋人との交際を優先するような自己中心的な女性だったんじゃないか」
 まずい。
 腋の下を冷や汗が流れる。患者の心にメスを入れて解剖してゆくように淡々と解説した鍵屋崎、その言葉が終わるより前に襟首を締め上げた手がぶるぶると震え出す。
 止めに入るタイミングを逃した。
 鈍い音。おもいきり鍵屋崎を殴ったリョウはそれでもまだ気が休まらず、肩で息をしながら命じる。
 「今の言葉取り消してよ」
 かん高いボーイソプラノに凄みを与えて低め、鍵屋崎を脅迫する。顔を殴られた鍵屋崎はずれた眼鏡を押し上げる余裕さえ見え、相変わらずの無表情で物珍しげにリョウを見上げる。
 「ママはそんな女じゃない、そんな最低女じゃない。いつもでいちばんに僕のことを考えてくれるんだ、いつでもいちばんに僕のことを愛してくれるんだ。ちっちゃい頃、寝る前には必ず絵本を読んでくれたし寂しくないようにってクマのぬいぐるみも買ってくれたし、客に体を売ってたのだって僕を食べさせてくために仕方なく―」
 「マザーコンプレックス」
 鍵屋崎がぼそりと呟き、リョウの顔が強張る。
 「なに?」
 「母親が過度に愛情を注いで子供を育てた場合、結果として母親への依存心が潜在的に内在化し成長しても自分一人ではなにもできない人間になってしまう。いいか?「コンプレックス」にはよく使われる「劣等感」という意味の他に「こだわり、執着」といった意味がある。 つまりマザー・コンプレックスとは「母親に対して強い執着心を持つ人間」という意味で、母親に対して肉親としての感情を超えた恋愛感情や独占欲を持った人間をさす」
 そこで一呼吸おいた鍵屋崎が、哀れむような蔑むような、その実勝ち誇ったまなざしで蒼白のリョウを凝視する。
 「つまり……きみのように異常な性癖の持ち主をさす言葉だ、リョウ」
 「……異常なのはどっちさ」
 「何?」
 リョウの声はごく小さく、くぐもっていて聞き取りにくかったが、鍵屋崎にはちゃんと聞こえたらしい。不審げな表情の鍵屋崎をのぞきこんだリョウの顔は不自然にひきつっていた。卑屈に喉を鳴らし、軋んだ笑い声を漏らし、鍵屋崎の襟首を力の限り締め上げる。
 「妹に欲情してる変態のくせに」 
 それまで無抵抗に徹していた鍵屋崎の顔にわかりやすい変化が起きる。眼鏡越しの双眸に宿ったのは明らかな敵意。 
 「撤回しろ。僕は恵に、妹に欲情したことなんか一度もない」
 「どうだかね、きみだって心ん中じゃなに思ってたんだか……そんなことさっぱり興味ないですって淡白な顔した奴に限ってとんでもない淫乱の変態だったりするんだ。不感症てのも嘘で、本当はずっと妹さんとヤリたくてヤリたくてたまらなかったんじゃない?」
 言い過ぎだ。
 さすがにまずいと思い、「お前らいい加減に……」と仲裁に入りかけた俺の肩を押さえて制したのはよく日に焼けた褐色の手。手を辿って後ろを向く。背後にレイジがいた。
 「放っとけよ」
 「けどよ」
 「まあ待て、これから面白くなるんだから」
 聞き間違いではなかった。レイジは「これから面白くなりそうだ」とぬかしやがったのだ、ぬけぬけと。身勝手なレイジに頭にきて乱暴に手を払い、鍵屋崎とリョウを引きはがそうととびだしかけてあぜんとする。
 鍵屋崎の上でリョウが大きく仰け反った。
 大きく顎を仰け反らせたリョウの顔が前へと戻ってきたとき、唇の端には血が滲んでいた。殴られた衝撃で唇を切ったらしい。発作的にリョウを殴った鍵屋崎は自分のしたことにうろたえる素振りもなくひややかに取り澄ましていたが、リョウが狙い定めて吐き捨てた唾がその頬に付着する。
 それが合図だった。
 毛を逆立てた猫のような奇声を発して一目散に鍵屋崎にとびかかるリョウ、押し倒され組み伏せられコンクリートで背中を強打する鍵屋崎、その襟首を掴もうとのびてきた手を顎で振り払い、逆にリョウの襟首を掴んで力をくわえる。身長と体格では鍵屋崎が勝ってる、リョウの襟首を掴んで動きを奪い拳をお見舞いする。その拍子に地面にすっ転んだリョウのポケットから手紙が落ち、レイジと肩を並べてぽかんと傍観してた俺の足もとまでコンクリートをすべってくる。なにげなく手紙を拾い、裏返す。差出人の名前はない。不審に思い、もっとよく確かめようと顔を近づけた俺の手の内から手紙が消える。
 ビバリーだった。
 「プライバシーの侵害っすよ」
 右隣にいたビバリーが非難するような目で俺を睨み、ズボンのゴムに手紙を突っ込んでとびだしてゆく。ビバリーが駆けつけた先では、リョウと鍵屋崎がせわしく上下逆転しながら取っ組み合っていた。
 「ママを悪く言うな!」
 拳を振り上げ、おもいきり横っ面を殴るリョウ。
 「推論を述べただけだ、事実だとは言ってない」
 眼鏡のレンズが割れないようとっさに顔を逸らし、鍵屋崎が反論する。
 「ただ僕は親から子への形質遺伝を否定しない。後天的な性格は幼児期の生育環境に左右されるが行動原理の本質は両親から受け継いだ遺伝子に拠るところが大きい」
 「なにが言いたいんだよ!?」
 「きみの男好きは母親から遺伝したんじゃないか?」
 最悪だコイツ。
 おもわず額を覆った俺の隣、レイジは「キーストアも言うようになったなあ」と子の成長を微笑ましく見守る親父のツラでのんきに笑ってる。どいつもこいつもくそったれだ。鈍い音。激怒したリョウが力任せに鍵屋崎の後頭部をコンクリに打ちつけ、噛みつかんばかりの形相で怒鳴り返す。
 「その理論でいくと君のクチの悪さは父親譲りなわけ?性格の悪さはパパとママどっち似?ああ、でも妹さんはよかったねえこれっぽっちも君と似てなくて。てゆーかマジで血がつながってんのこの娘、養女じゃない?って疑わしくなるくらい似てなかったもんね!」
 「恵の写真を見たのか?」
 リョウの言葉にひっかかりを覚え、訝しげに問い返す鍵屋崎。やばい、とリョウが狼狽した隙に下肢を跳ね上げて胴からふりおとす。
 「妹さんも君みたいなクソ兄貴に溺愛されていい迷惑さ、しかも兄貴は人殺しときた。恥ずかしくて表だって歩けないだろうさ、かわいそうに。―ああ、それとも」
 地面に尻もちついたリョウが足払いをかけ、巧みに鍵屋崎を転ばせる。背中から転倒した鍵屋崎の上によじのぼり、無我夢中で襟首を締め上げて窒息させようとする。
 「妹さんのほうが誘ったのかな。もしそうなら色恋沙汰にまったく興味のないきみが実の妹にだけ異常にこだわるのも頷けるよ、かわいい顔してヤるねあの子」
 リョウが吹っ飛ぶ。
 俺は見た、奴がリョウの腹を蹴る瞬間を。大人しい鍵屋崎がぶちぎれる瞬間を。
 両手で膝を払ってゆっくり立ち上がった鍵屋崎が腹を抱えて苦悶しているリョウを見下ろし、聞く。氷点下の声。目が合った刹那に心臓が蒸発しそうな、人が殺せそうな視線。
 「恵を侮辱したな」 
 「ママを馬鹿にしたね」
 腹を抱えてよろよろ立ち上がったリョウが中腰の姿勢でしんどそうに笑う。―いや、笑っているのではない。怒りが沸点を突破し、表情筋がひきつっているのだ。
「妹とヤッてろシスコン、気色悪いんだよ」
 「マザコンに言われたくない」
 人懐こい童顔を怒りの朱に染めたリョウが鬼の形相で鍵屋崎に突進、めちゃくちゃに手足を振り回して暴れる。リョウが振り回した拳が顎をかすめ、たたらを踏んであとじさった鍵屋崎が片腕を顔の前にかざして攻撃を防ぎながら、もう一方の手を握り固めて拳を作り、斜め下方の死角からリョウの顎を殴る。うまく急所に入った。喧嘩慣れしてない鍵屋崎のことだからまったくの偶然だろう。立ち眩みをおぼえたリョウがそれでも諦めきれず、かん高い声で泣き喚いて頭を低め、コンクリートを蹴って一気に加速。体勢を屈めて鍵屋崎の腹につっこみ、そのまま体重を乗せて押し倒す。
 ふたたび形勢逆転、腹に直撃を受けてはげしく咳き込む鍵屋崎を殴ろうとした手首ががしっと掴まれる。
 「リョウさんもうやめましょうよ、そんだけやれば気が済んだっしょ!?」
 「はなせよ!!」
 「はなしません!!」
 ビバリーに羽交い締めされてもリョウはまだ諦めきれず、しきりに手足をばたつかせていたが、やがてその手首から力が抜けてゆく。拳をほどいて体の脇にたらし、うつむいてしまったリョウ。その頬を伝ったのは大粒の涙。
 「うえっ、えっ」
 堪えきれずにしゃくりあげるリョウ。ビバリーの腕の中、肩を上下させて泣き出したリョウの足もとでは鍵屋崎が唇を拭っていた。顔を殴られたときに唇が切れたらしい。血の混ざった唾を吐き捨て、ふらつきながら立ち上がる。そのまま振り返りもせずに落ちた本を拾い上げ、展望台を去ろうとした鍵屋崎を我に返って追いかける。
 「おい待てよ、」
 鍵屋崎の背中にむなしく手をのばした俺を追ってきたのは奥歯で噛み潰された悲痛な嗚咽。おもわず足を止め、振り返る。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして号泣するリョウをビバリーが必死に慰めている。
 リョウの泣きっ面と鍵屋崎の背中を見比べ、決意する。
 「謝らないのか?」
 背中が立ち止まる。
 「なんで僕が謝るんだ?」
 小脇に本を抱え、囚人服のあちこちを砂利と泥で汚した悲惨な格好の鍵屋崎が、それでも振り返らずに聞く。主張はしないが主観は譲らない、自分は完全完璧に正しいと頑なに信じこんでる奴の声。
 「手紙破いただろ」
 「それが?」
 「リョウのお袋からきた手紙だったんだぞ」
 「だから?」
 「あのな……」
 舌打ち。どう言えばいいんだよ、ちくしょう。
 「謝るのは僕じゃないだろう」
 わずかに振り向く。ビバリーによしよしと頭をなでられてしゃくりあげてるリョウから手前の俺へと冷めた視線を移し、言う。
 「恵を馬鹿にしたんだ。謝るべきなのは彼だ」
 言うだけ言って歩き出した背中に今度こそかける言葉を失う。頑固すぎだコイツ。あきらめて踵を返し、修羅場真っ最中のリョウたちの所に戻る。コンクリートの地面に屈みこんだリョウが何かを懸命にかき集めている。手紙だ。鍵屋崎が引き裂いてばらまいた紙片を脇目もふらずにかき集めながらブツブツと呟く。
 「殺してやる」
 真っ赤に泣き腫らした目。憎々しげに歪んだ唇。
 「絶対に殺してやる」
 いまさらだれを?なんて間抜けな質問はしなかった。この場の全員がわかりきっていたことだ。
 ネクラな呪詛を吐きながら、なにかに憑かれたのように無数の紙片をかき集めるリョウを地べたに這いつくばって手伝いながら尻ポケットをしゃくるビバリー。
 「元気だしてくださいよリョウさん、まだ一枚残ってますから」
 「ママじゃないならいらない」
 「来るだけマシじゃないっすか」
 にべもない返答にビバリーは苦笑い。そりゃそうだ、ビバリーには一通も手紙がきてないのだ。
 俺と、鍵屋崎もおなじく。
 「面白かったかレイジ」
 不機嫌な声で隣の人物の真意を問えば、レイジは大あくびで返す。
 「まあな」
 両手に抱えた手紙の山にちらりと目をやり、薄笑いを浮かべたレイジを仰ぐ。
 レイジ宛の手紙なんか欲しくない。
 俺が欲しいのはその他大勢の女からの手紙じゃなくて、ただ一人からの手紙なんだ。 
 本当に大事な人から届いた手紙しか大事じゃないリョウの気持ちはよくわかる。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060410050819 | 編集

 展望台から帰る途中。
 ポケットに手をつっこみ、所在なげに廊下をぶらつく。
 レイジは展望台に残してきた。
 面白半分にリョウをけしかけたレイジの性根の悪さにむしゃくしゃしてこれ以上アイツのツラを見るに耐えかねたからだ。
 女々しくしゃくりあげるリョウを四方八方手を尽くしてなぐさめるビバリー、黴でも生えそうにじめじめした雰囲気に嫌気がさして展望台を去ったが他に行く所もない。
 中庭へと足を向けかけたが凱たちがたむろってたことを思い出す。ひとりぽつんとしてるところに目をつけられたら面倒だ、殻にこもるカタツムリのように房にひっこんでるのが無難だろう。
 まったく、今日は厄日だ。
 房へと帰る道すがら、何度も手紙を抱えた囚人とすれちがった。
 どいつもこいつも能天気に幸せそうなツラをしている。
 でれでれとにやけきって弛緩したツラ、大の男が情けねえ。至福の笑みを浮かべた囚人が頬擦りせんばかりに手紙に顔を埋めて文面を読み返している。荒みきった双眸に柔和な光を宿し、頬を上気させて手紙に見入るさまは信じられないほど間が抜けている。
 今なら殴りかかっても殆ど無抵抗で倒せるだろうという不穏な考えが脳裏をかぶりを振って追い払う。
 わざわざ自分から恨みを買いこむことはない。
 向こうから歩いてくる囚人のにやけ面と衝突しないよう伏し目がちに歩き、すれちがう。
 今日は厄日だ、三ヶ月に一度の厄日。
 そりゃあ娑婆に家族がいる連中にとっては三ヶ月に一度の極上の日かもしれない、娑婆に女を待たせてる連中にとっては待ちに待った特別な日だろう。どっちもいない俺には関係ない、ただ鬱陶しいだけの気が滅入る日。実際手紙が届かない連中にとっては仏滅とおなじ扱いだろう、通夜のほうが幾らかマシだ。

 手紙が届く奴と届かない奴じゃなにもかもが違う。

 娑婆からの手紙が定期的に届くということは娑婆に待たせてるだれかに出所を待ち望まれてるということだ。
 女だったり家族だったり友人だったりさまざまだろうが、自業自得の無茶やって放りこまれた同じ穴のムジナの囚人でも「あなたのこと待ってるわ」「忘れてないわ」「はやくでてきてね」と励ましの手紙が届くというのはそれだけで人として上等な証明にもなるのだ。
 いや、そんな御託はどうでもいい。
 娯楽の極端に少ない刑務所暮らしを強いられてる連中にとって自分宛の手紙が届くというのは単純に嬉しい、凄く嬉しい。
 陳腐な表現を使えば天にも昇る心地ってやつだ。
 朝起きて飯食って働いて飯食って寝る、365日延延とそれが繰り返される単調な生活は時間の感覚を狂わせる。自分が入所して何日何ヶ月何年になるのか、コンクリート壁に印をつけて一日一日棒を足してかない限りきちんと把握するのはむずかしい。
 そんな生活をしてれば不安にもなる。
 娑婆に待たせてる女はちゃんと俺の帰りを待ってくれてるだろうか、他に男を作ってやしないだろうか、浮気してないだろうか。娑婆の家族は俺のことを忘れてないだろうか、出所した日にはあたたかい飯をこしらえて迎えてくれるだろうか。
 不安と疑念に苛まれ悶々とした日々を送る囚人にとって、三ヶ月に一度舞いこむ手紙は現在の身内の暮らしぶりや世相を知る為の重要な手がかりとなるのだ。
 脇目もふらずに手紙を読み耽る囚人とは対照的に手ぶらの囚人はくさった顔をしてる。
 爆発寸前の鬱憤を腹ん中にためこんだ憤懣やるかたない様子である囚人は壁に八つ当たりし、逆に拳を痛めて「畜生!」と毒づく。
 廊下にうずくまって通行人をねめつけていたある囚人は手紙を抱えた奴が通りかかるたびに「てめえ、俺の影を踏んだな」と無茶な言いがかりをつけて手加減なしに殴り倒す。
 手紙をもらえなかった連中はどいつもこいつもぴりぴりと殺気立っている、さわらぬ神に祟りなしというがあっちから絡んでくるんじゃ始末に終えない。
 手紙がもらえた奴ともらえない奴とですっぱり明暗がわかれるこの日、後者の俺はどこへ行っても居場所がない。
 右を向いても左を向いても幸せそうなツラの囚人ばかり、前を向いても後ろを向いても聞こえてくる上機嫌な鼻歌と軽快な口笛。地に足がついてない雰囲気に馴染めない、どこへ行ってもひどく場違いな気がする。
 こんな日に外にでるんじゃなかった。舌打ち。
 内心後悔しながら房へと急ぐ。
 手紙を読むのに飽きたらレイジもそのうち帰ってくるだろう。内側から鍵をあけてアイツを閉め出してやるのも一興だ。意地の悪い空想に耽りながら廊下を歩いていた俺は前から歩いてきた囚人を見てぎょっとする。
 凱だ。
 でれでれと弛緩しきっただらしないツラの凱が、珍しく仲間を従えることなく単身で歩いてくる。
 やばい。
 俺を目の敵にしてる凱のことだ、見つかったらどんな因縁をふっかけられるかしれねえ。拳の一つや二つ、三つ四つ五つ覚悟しなければ……はじかれたように周りを見回す。
 ここは廊下のど真ん中、隠れる場所なんかどこにもねえ。
 まずい、凱が気付いた。万事休す。
 「―くそったれ台湾の半半か」
 それまで一心に目を通してた手紙から顔をあげ、眉をしかめる凱。
 思ったより温和な反応に拍子抜けする。
 いつもの凱ならこの時点で俺に殴りかかってるところだ。警戒しながらあとじさった俺を見下ろし、手にした手紙をひらひらさせながら凱がうそぶく。
 「お前には来たのかよ、手紙」
 …………嫌な奴。
 「……見りゃわかるだろ」
 俺は手ぶらだ。手紙がきてないのは一目瞭然。
 「そりゃそうだよなあ。台湾のクソ野郎どもは義理を重んじる中国人と違って薄情者ばっかだ、てめえの知り合いの台湾人が手紙なんて大層なもんくれるわけがねえ。だいたい池袋育ちのエセ台湾人に字の読み書きなんて高等教育が行き届いてるわきゃねえ、だろ?」
 得意満面の凱が手紙で顔を仰ぎながら呵呵大笑する。
 ムキになったら負けだ、顔に本音をだしたら負けだ。
 反感を堪え、ぐっと拳を握り締める。そんな俺を見てますます調子に乗ったか、分厚い唇をふてぶてしくねじり、陰険な目で続ける。
 「ああ、悪いこと言っちまったなあ。字の読み書きは関係ねえか、肝心のお前にダチや女がいないだけか。だから手紙がもらえねーのか、そりゃすまなかったなあ気付かなくてよ」
 ねちっこい嫌味にこめかみの血管が切れそうになる。
 何か言い返してやろうと口を開きかけた俺をさえぎり、狂った節回しで凱が唄う。
 「娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ」
 だれにも待たれてない、だと?
 「―はっ。たかが手紙一枚で威張るなよ」
 口をついてでたのが本音か虚勢か、自分でもわからない。
 ただその瞬間凱の顔色が豹変したのは事実だ。憤怒の形相に変じた凱が凄みのある低音で「なんだと?」と繰り返すのを眺めて冷笑する。
 「たかが手紙一枚で有頂天になって恥ずかしくねーのかお前、大の男がよ。レイジを見ろ、あいつんところに来た手紙を。全部で二十枚はあったぜ。お前は何枚だ、たかが一枚だろう。それで東棟の王様と対等になったつもりかよ、笑わせる」
 怒りに紅潮した凱の顔からすっと血の気が引き、浅く上下していた大胸筋が平らに寝る。次の瞬間、凱の顔に浮かんだのは……
 甘美な優越感に酔いしれた傲慢な表情。
 「それで……お前は『何枚』来たんだ?」
 「―っ、」
 ぐいと両手首を掴まれ、叩きつけるような勢いで壁にぶつけられる。おもわず苦鳴が漏れた。
 手首の骨が軋むほどに握り締めた凱が無遠慮な手で俺のシャツをまくり、胸板をまさぐり、腰を揉む。
 快感よりは苦痛を与えてくる容赦ない愛撫。
 シャツから引き抜かれた手がズボンの後ろにまわり、しごくように太腿を撫で擦る。ズボンの上から舐めるような手つきでケツをさわっていた手が両のポケットにもぐりこんで裏返してゆく。
 「馬鹿っ、なに考えてんだよ廊下のど真ん中だぞ!?」
 このままじゃ貞操の危機だ、最悪ヤられるにしてもこんな廊下のど真ん中はお断りだ。気が済んだらしい凱が、自分の手で裏返したポケットと皺くちゃの囚人服とをジロジロ見比べて砕顔する。
 「一枚もねえな」
 「………………」
 悪いかよ。
 顔が歪むのはおさえられなかった。
 ドンと突き飛ばされ、背中が壁にあたる。
 はだけたシャツを直しへそまでめくれていた裾をおろす。顔をあげられない俺の目の前、呵呵大笑しながら凱が去ってゆく。
 「きたねえきたねえ、台湾人なんか触っちまった。俺にも淫乱菌が伝染っちまう、房に帰ったらよーっく手え洗っとかなきゃな」
 馬鹿でかい笑い声が遠ざかり、やがて消える。
 しばらくそうして廊下のど真ん中に突っ立っていたが、人がくる前に立ち去ろうと踵を返す。
 『一枚もねえな』
 だからなんだ、わざわざ人の体を裏っ返してまで確かめることか?
 ケツまでさわられて不愉快だ、ポケットの中までさぐられて腹が立つ。卑猥に這っていた手の感触を消そうとシャツを掴んで腹を擦りかけ、ふと立ち止まる。
 足もとに一枚の紙片が落ちている。
 「?」
 なんだろう、さっきまではなかったはずだ。
 怪訝に思い、中腰の姿勢で拾い上げる。
 なにげなく紙片を裏返してみる。
 写真だ。
 写真に写ってるのは口角に飯粒をつけた汚い女の子だ。
 飯の最中に撮られたらしく、レンゲを鷲掴んで椀に顔をつっこんだ獣のような姿。この顔どこかで―……
 はっとして廊下を振り返る。
 たしかにさっきまでこの写真はなかった、凱が立ち去ってはじめてこの写真の存在に気付いたのだ。ということは―……
 「凱の失物(スーウー)か……」
 凱の落し物。よりにもよって厄介なもんを拾っちまった、自分の運の悪さを呪いたい。

                               

 「拾わなきゃいいじゃん」
 「あん?」
 それからしばらく後。
 房に帰ってきたレイジにはなから期待せずに相談してみたらさらりとそんなことを言われた。
 「凱がかってに落として忘れてったんだろう、お前が拾ってやる義理なんてねーよ。放っときゃいいじゃん」
 両手を上に向けたレイジの言い分に「なるほど」とつい納得しかけるが、現に俺の手の中には写真がある。
 おそらくは手紙に同封されていたものだろう、俺を壁際におしつけて好き放題体をまさぐってたときに落としたらしく行為の最中も後も本人に気付いた様子はなかった。
 ……拾ってやる義理ねえな、本当に。
 「それか破くとか」
 写真を破くまねをしてみせたレイジに先刻の鍵屋崎が重なる。
 リョウのお袋の手紙を引き裂いてばらまいた鍵屋崎の冷酷な背中。
 「さっきのこと思い出してんのか」
 どうやら俺は考えてることがすぐに顔にでるらしい、今度も速攻で見抜かれた。だらしなく頬杖ついたレイジが向かいのベッドに腰掛けた姿勢でにやにやと顔を眺めてくる。
 相変わらず胸糞悪い笑顔だ、美形だからなおさら。ベッドの上で行儀悪く胡座をかき、レイジのにやにや笑いを受けて立つ。
 「笑い事じゃねえだろ」
 「俺にとっちゃ笑い事でリョウは泣き言」
 「うまいこと言ったつもりか」
 「座布団くれ」
 座布団のかわりに枕を投げつけてやる。
 余裕でキャッチされた、腹立たしい。
 顔の前で枕を受け止めたレイジが軽薄に笑う。
 「まあ、マジな話オアイコじゃねえの?イーブンイーブンてやつ。鍵屋崎も鍵屋崎だけどリョウも相当ひでえこと言ってたし喧嘩両成敗ってことでさ、ほら、喧嘩のあとこそ真の友情なり愛なりが芽生えるってゆーじゃん」
 「お前は許せるのか、自分宛の手紙を目の前でびりびり破くようなやつのこと」 
 お気楽な私見を述べたレイジを睨めば、人さし指の上で器用に手紙を旋回させながらこんな答えが返ってくる。
 「俺宛の手紙を飛行機にして飛ばした奴の台詞とはおもえねーな」 
 「リョウにきた手紙とお前にきた手紙じゃ重さが違うだろ」
 どうだ、言い返せるもんなら言い返してみろと開き直ってレイジを睨みつける。根負けしたか、人さし指の上で手紙を回すのを止めたレイジが降参のため息をつく。
 「おっしゃるとおりで」
 リョウにきた手紙は気安く他人に譲れるようなもんじゃない、なにがあっても絶対に譲れない類のものだ。鍵屋崎はそれを本人の目の前で破いたのだ、びりびりと。恨まれても仕方ない。
 「リョウのことはおいといて肝心なのはその写真だ」
 ベッドから腰を上げてこっちにやってきたレイジに写真を手渡す。
 「凱に届いた写真だってのはわかったけど写ってんのはだれ?女?」
 「見りゃわかる」
 興味津々、写真を覗きこんだレイジの眉間に皺が刻まれる。
 無理もない、写真の女の子は凱そっくりだったのだから。
 「………そういや聞いたことある、凱にガキがいるって」
 「凱いくつだよ」
 「ハタチかそこら」
 写真の女の子はどう見ても五歳より上には見えない。
 「種まいたのが5年前として15歳のときの子か?」
 「ありえなくはねーな」
 凱が15歳で親父になった可能性はなきにしもあらず。
 俺の周りの連中は総じて初体験が早かった、早くて十一か遅くて十六でとっとと童貞捨ててた。避妊を面倒くさがった奴が当然の報いとして十代の父親になるよーな不測の事態も頻発してた。
 おおかた凱もそのクチだろうが、こうして刑務所に入ってからもちゃんと写真が届くということはガキともガキの母親ともよろしくやってるという証拠だろう。娑婆にでれば案外子煩悩でいい親父だったり……
 それはないな。絶対。
 ちょいちょいと角度を変え、しげしげと写真を眺めていたレイジがやがて心の底から同情の念を述べる。
 「かわいそうに。凱似だ」
 「言うなよ」
 「で?どうすんだよ」
 レイジの手から奪い取った写真を複雑な心境で見下ろす。
 俺は凱が嫌いだ、心の底から大嫌いだ。
 あいつには何度も襲われてヤられかけた、イエローワークの仕事場で凱とその取り巻き連中に追っかけられて生き埋めにされかけたのは記憶に新しい。さっきだって壁におしつけられて無遠慮に体をさわられた、これからさきだってあいつが絡んでこないという保証はない。
 でも、それとこれとは別だ。
 「凱に返す」
 写真をポケットにおしこんで立ち上がった俺を「いいのか?」とレイジが仰ぐ。
 「写真の女の子に罪はねえだろ」
 自然、口調が言い訳がましくなる。
 「それに………」
 「それに?」
 やさしく先を促され、ついぽろっと本音をこぼしてしまう。
 「凱のためじゃねえ。あいつなんかどうなってもいい、はっきり言って俺の貞操のために一日もはやく死んでほしい。でも、この写真を送ってきた人間にとってはあんな腐った奴でも大事な父親で男だろ。どんなに反吐がでそうな最低野郎でも娑婆で帰りを待ってる奴がいるんだ、俺の独断で破り捨てれるわけー……なんだよおい」
 「お前いい奴だなあ」
 「は?」
 なんで俺がいい奴なんだよ、気色悪い。
 おもいきり顔をしかめた俺にかまわず、突然レイジが抱きついてくる。後ろから抱きつかれてたたらを踏んだ俺の頭をわしゃわしゃとかきまわし、頬に頬をつけるようにしてレイジが笑う。くすぐったそうな、そのくせ幸せそうな笑顔。手紙を抱えて戻ってきたときより遥かに嬉しそうなのはなんでだ?
 「なんで俺がいい奴だとお前が嬉しいんだよ」
 わけわかんねえとあきれた俺を覗きこんでレイジが不思議そうに首を傾げる。
 「わっかんねえなあ」
 「?」
 「俺が外にでたら絶対手紙書くのに、お前の周りの連中見る目ねーな」
 余計なお世話だ。本当に。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060409050923 | 編集

 「………なにがあったんだ?」
 開口一番、サムライが尋ねた。
 「………………………べつに」
 サムライの方は見ずにページをめくる。途中でとんだ邪魔が入ったせいで二章までしか読めなかった、ちょうど面白くなってきたところだったのに。ひとりしずかに読書できる場所をさがして展望台に辿り着いたというのに後から来たリョウが声高に自慢をはじめるから僕の集中力まで散らされたではないか。
 僕には我慢できないことが三つある。
 一つは低脳に見下されること、二つ目は読書を邪魔されること、三つ目は妹を侮辱されること。リョウはこの全部に抵触した上に僕に謝罪することなく飄々としていた、周囲の同情と関心を乞おうと白々しく号泣してみせたところで彼に対する罪悪感など微塵もない。
 当たり前だ、何も悪くない僕がどうして謝らなければならない?
 苛々しながらページをめくり、三章の冒頭に目を落とす。遺伝子の進化とその可能性……ベッドに腰掛け、図書室から借りてきた本を膝に広げ、印刷された活字を目で追う。どこへ行ってたのかは知らないが外出先から帰ってきたサムライは僕の前を素通りするや、向かいのベッドへと腰掛ける。とはいえ完全な無関心は装えないのだろう、時折ちらりちらりと鋭い眼光を向けてくる。
 観察されてるようで落ち着かない。
 荒々しく本を閉じ、脇におく。なんで僕が観察されなければならない、立場が逆だろう。サムライは観察対象で僕は観察者、優位に立っているのは僕の方だ。手の中のモルモットに好奇の眼差しを注がれるのはプライドの危機だ。
 「言いたいことがあるならはっきり言え」
 できるだけ平坦な口調を意識したつもりだが、責めるような詰問口調になるのは否めない。寡黙なサムライは背筋をぴんと伸ばしてベッドに腰掛けていたが流れる水のように緩慢かつ無駄のない動作で腕を動かし、自分の口端に触れる。サムライにつられ、無意識に口元に触れた僕はおもわず顔をしかめる。リョウに殴られた際に唇が切れていたことを忘れてた。
 「喧嘩か?」
 「きみたちみたいな野蛮人と一緒にしないでくれ、そんな非効率的な真似はしない。カロリーの浪費だ」
 喧嘩で消費するカロリーの比率を考えればイエローワークでのシャベルの上げ下げ三十回分には相当するだろう。僕が好き好んでそんな野蛮な真似をするわけがない、あれは断じて喧嘩などではない。
 「ただ、根強いマザーコンプレックスの囚人に逆恨みされて絡まれただけだ。一方的に」
 「リョウか」
 一発でわかったらしいのはさすがだ。サムライの顔に納得の表情が浮かぶ。すべてを見通すような深い眼差しを受け止めることができずに顔を伏せる。
 『妹とヤッてろシスコン、気色悪いんだよ』
 僕を侮辱するならまだ許せる。いや、許せはしないが耐えられる。
 『妹さんのほうが誘ったのかな。もしそうなら色恋沙汰にまったく興味のないきみが実の妹にだけ異常にこだわるのも頷けるよ、かわいい顔してヤるねあの子』
 リョウは恵を侮辱した。絶対に許せない。
 恵に拒絶されたことを自覚した今でも恵は僕にとってかけがえのない存在だ、これまでの十五年間僕を支えてきたのは他ならぬ恵なのだ。その事実を否定することはできない、その事実を否定することは僕自身をも否定することだ。いや、本音では否定したくない。僕は今でも恵が大事だ、心の底の底では恵に縋っている。自分がしたことが許されるとは思っていない、それが証拠に恵はあの日たしかに僕にむかってこう叫んだのだ。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 悲痛な絶叫が耳によみがえる。恵は僕を憎んでいる、父親にとどめを刺して母親を殺した僕を心の底から憎悪している。無理なことだと頭ではわかっていても僕は永遠に変わらず恵の尊敬と愛情の対象でありたかった、恵の兄として容認してほしかった。
 ただ、両親を殺害した時点で僕はその対象に値する資格を失った。
 それは仕方ない―仕方ない。自分で選択した結果だ、こうなるべくしてなった結果だと今では許容した。時間を巻き戻すことはできないのだから後悔しても仕方ない、現在の僕は自分のしたことが正しいと確信できないが、さりとて間違ってもなかったと自己暗示をかけることでどうにか精神の安定を保っている状態だ。
 恵に憎まれているのは理解できる。
 でも、恵への未練まで断ち切れるわけがない。
 「…………きみも手紙がきてないのか?」
 まだ何か尋ねたそうにしているサムライにあえて気付かぬふりをして、少し顔を上げる。発言してから「君は」ではなく「君も」と妙な共感をこめてしまったことを恥じ入る。そんなに同類を求めてるのか、情けない。いつから僕はこんな情けない、唾棄すべき人間になったんだ?サムライの手を取った時からか?それならば時間を巻き戻してあの日の自分に「やめておけ」と忠告したい。
 「……ああ」
 一拍間をおいてサムライが答える。表情は変化なし。なんとなく安堵し、安堵した自分に自己嫌悪が募る。
 「ここの囚人は幼稚すぎる」
 本を開き、続ける。
 「手紙一枚で一喜一憂して馬鹿みたいだ、あんな物を黄金かなにかのようにありがたがる心理が理解できない。たかが紙、たかがインク、たかが字で構成される前世紀の遺物じゃないか。電子メール全盛の現代にあんな時代遅れの情報伝達手段を採用してるこの刑務所の意向がそもそも理解できない、絶対におかしい。メールの方が情報処理速度も格段に早いしコストも安い、だいいち人の手を介さなくていいから安心できる。不確定要素の多い行動をとる人間より0と1で思考が構成される機械のほうがよほど信用できるからな」
 「手紙を書いたことは」
 「あるわけないだろう」
 今まで何を聞いてたんだ、この男は。
 本から顔を上げてサムライを睨む。サムライはしげしげと僕の顔を見つめていたが、やがて小さく嘆息する。
 「そのぶんでは貰ったことも」
 「ない。一通もない。だからなんだ」
 「手紙も悪くはない」
 「過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」
 賢しげに述べたサムライを皮肉げな笑みを浮かべて揶揄してやる。瞬間、サムライの目に淡い波紋が浮かんだ。その波紋の核を成す感情の正体を見極めるより早くいつもの無表情に戻り、サムライが腰を上げる。洗面台まで歩き、蛇口を捻る。尻ポケットから抜き取った手ぬぐいを蛇口の下に広げて水に濡らしながら淡々と言う。
 「リョウに謝れとは言わないが反省くらいはしろ」
 なんだ、もう噂が広まっていたのか。
 「僕に説教か?きみが唱える般若心境と同じかそれ以上に説得力がないな」 
 噂話に興じるしか娯楽がない囚人を忌々しく思いながら皮肉を返す。蛇口を締めたサムライが振り返り、無駄のない動作で腕を振りかぶる。反射的に手を出し、こちらに投げられた手ぬぐいを受け取る。なんのつもりだとサムライを仰げば拍子抜けする答えが返ってきた。
 「当てておけ」  
 何を意味してるかわかった。サムライの指示に従うのははっきり言って不愉快だが、この場で逆らうのも子供じみた醜態を露呈するだけだと判断してぬれた手ぬぐいを唇にあてる。染みた。
 「鍵屋崎」
 顔をしかめた僕をサムライが呼ぶ。切れた唇に手ぬぐいをあてがって顔をあげる。洗面台を背にしたサムライが通夜に参列するように厳粛な面持ちでこちらを凝視している。
 「俺はリョウを好まないが、母親に対するリョウの感情まで好まないわけじゃない」
 「マザーコンプレックスの薬物依存者に理解を示すのか?そうは見えないが、きみも母親に対する異常な執着心でも秘めてるのか」
 まさかな、と自分の言葉を心の中で否定して薄く笑みを浮かべる。このすべてにおいて淡白な男に限って身内に対する異常な執着心など持ち合わせているわけがない、どちらかといえば自分を含むすべての人間に対する関心が薄い人間だ、サムライは。僕とおなじく。
 どう切り返してくるかと少し楽しみにしながら反応を待っていた僕は、次の言葉に面食らう。
 「俺の母親はとうに死んだ」
 サムライが呟く。哀しみよりは諦念を湛えているように見える揺るぎない瞳。
 「俺が三歳のときだ。顔も覚えていない、だから哀しみようがない」
 「…………………そうか」
 それ以外になにが言える?
 「だから正直リョウがそこまで母親にこだわる気持ちもわからないが……だれにでも譲れないものが一つあるということはわかる」
 僕の耳に馴染んだ平板な声からはいかなる感情も汲み取れない。レイジの声が抗い難い麻薬ならサムライの声は清冽な水だ、無理矢理にこじあけるのではなく自然に染みこんでくる声。
 「きみにも」
 口を開く。サムライが僕を見る。
 「譲れないものがあるのか」
 僕の譲れないものは恵だ。だれにも譲れないかけがえのない妹。この俗離れした男にもそんなものがあるのだろうか?
 どうしても譲れないものが。
 サムライが目を細める。
 「あった」
 「?」
 過去形なことに疑問を抱き、先を促すように見上げるがそれ以上は答える気がないらしくサムライが歩き出す。僕の前を通り過ぎ、鉄扉から出ていきかけたサムライにおもわず腰を浮かして声をかける。
 「どこへ行くんだ?」
 「紙をもらいにいく」
 は?紙?
 「写経の紙が尽きたから新しい奴をもらいにいく。そこの紙でも試してみたが具合がよくない、透けて破けてしまう」
 サムライが顎をしゃくった方角を振り返れば便器とトイレットペーパーが備え付けられていた。まさかトイレットペーパーで写経を試したのか、この男は?待て、だれに紙をもらうつもりだ。看守に頼んだところでくれるのかと問いただそうとした時には既に遅く、サムライは房を出ていってしまっていた。
 鉄扉が閉じ、重たく鈍い残響が房を満たす。
 「………………最後まで聞け」
 ひとり房に残された僕は、今はいないサムライに恨み言を吐くしかない。謎を残したまま房を出ていったサムライを不愉快に思いつつベッドに腰をおろし、先刻の言葉を反芻する。
 『あった』
 あれはどういう意味だ。サムライにも譲れないものがあったというのか。では、過去形の意味は?なんでアイツのことがあんなに気になるんだ、不可解だ。サムライの譲れないものなどどうでもいいじゃないか、そんな些末なことに興味はない。観察対象でしかないモルモットの譲れないものを知って何の得がある?
 馬鹿らしい、なんで僕がアイツの呟き一つでこんなに悩まなければならない。 
 腹立たしくなってサムライのベッドに手ぬぐいを投げつけるが、飛距離がたらずに半ばで墜落する。一応借り物の手ぬぐいだ、床に落ちたまま放置しておくわけにもいかないだろうと義務感に突き動かされて腰を上げる。中腰の姿勢で床に落下した手ぬぐいを拾い上げようとして、ベッドの下の薄暗がりに目をとめる。
 サムライのベッドの下には木刀と経典、そして硯が寝かされていた。これらは普段見慣れているものだ、格別驚くには値しない。僕の動きを止めたのはさらにその奥にある風雅な和紙を貼った小箱。
 なんでここにこんな物が?
 東京プリズンは囚人の私物持ち込みを厳重に禁じてるはずだ。僕も入所二ヶ月が経過した今ではさまざまな裏ルートを経由して囚人が禁制品を手に入れてることは理解してるが、サムライに小箱という取り合わせに釈然としないものを感じる。その小箱が淡い浅葱色の風雅な意匠だったせいもあるだろう。風流のかけらもない無骨なサムライには似つかわしくないデザインだ。
 少し迷ったが、ベッドの下に手をいれて小箱を取る。
 裸電球の下に晒された小箱は長年開けられた形跡もなく埃をかぶり、ずいぶんとみすぼらしく古びて見えた。中には何が入っているのだろう。いや、開けるのはさすがに抵抗がある。一応はサムライの所有物だ、本人が房を不在にしてる間に許可なく中を改めるなんてプライバシー侵害で訴えられてもおかしくないぞ。
 蓋にかけようとした手を途中で止め、ベッドの下、もとの位置に戻そうと頭を屈めたその瞬間。
 「!」
 目の前をささっと黒い影が通り過ぎた。房の床を横切り、サムライのベッドの下へと消えた黒い影の正体は頭から触覚を生やした害虫―ゴキブリ。僕がこの世で最も嫌悪する生き物。とっさに尻餅をつき、ひっくりかえった足が蓋にぶつかる。 
 嫌な予感。
 ひっくりかえったはずみに鼻梁にずり落ちためがねを押し上げる。朦朧とぼやけていた焦点が一点に定まり視界が拭われたように明瞭になる。
 僕の目の前で小箱がひっくり返っていた。
 「……………これは過失だ」
 だれも見てないにも関わらず、言い訳がましく呟いてしまう。サムライが戻ってこないうちに即刻蓋をもとに戻してしまいなおさなければ……冷静に考えられたのはそこまでだった。
 小箱の中には手紙が入っていた。
 「―――――」
 頭が真っ白になる。
 『手紙も悪くはない』
 『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな」』 
 あのときサムライはなんと言った?なにも言わなかった、肯定も否定もしなかった。
 なるほど、サムライが過去に手紙が貰ったことがあったとしても不思議はないのだ。僕はなにを勝手に勘違いして安心してたのだろう。現にサムライにはちゃんと手紙が届いていたではないか、こうして大事に保管されていたではないか。
 「…………」
 気付いたら手紙を手にとり、開いていた。
 見てはいけない、見るべきものじゃない。サムライ宛の手紙だ、第三者が無許可で閲覧していいわけがない。でも、どうしても我慢できない。理性で感情が制御できない、僕ともあろう者が混乱しきっている。胸を焼くような、疼くようなこの感情はなんだろう。息ができなくなるようなこの感覚は。
 文面に目を落としてから、自分の胸を焼いていた感情の名を知る。
 『嫉妬』。
 文面に目を落として拍子抜けする。数年前に届いた手紙らしく、手書きの文字は殆どかすれて消えてしまっていた。鉛筆で書かれていたのも災いしたらしい。毛羽だった便箋を慎重にてのひらでのばし、文字に目を凝らす。
 「工……の下は貝か」
 口にだして確かめる。かすれて殆ど判別つかなくなった文面に散見されるのは「貢」の一字。
 ひょっとして、これがサムライの名前なのだろうか。
 なんて読むんだろう。ミツグ?コウ?舌の上で転がしてみる。サムライの面影と「貢」の字を重ねあわせようと努力するがうまくいかない、僕の知ってるサムライと「貢」という字がどうしても重ならないのだ。
 そして、はっきりと読み取れたのはこの一文だけ。

 『芽吹かない苗』 

 「………暗号か?」
 手紙を電球にかざし、透かしてみる。火で炙るなり水に漬けるなりして文字が浮き出てくる可能性も考慮しないではなかったが、そこまで手がこんでるようには思えない。だいたい筆記用具に鉛筆を採用する時点で書き手の無頓着さが知れるじゃないか、鉛筆なんてすぐに薄れて消えてしまうのに。
 しかしひらがなの多い手紙だ。かえって読みにくい。この手紙を書いた人物はよほど無教養か、さもなくば幼い子供だろう。そう推理して何度手紙を読み返した頃だろう、こちらに近づいてくる足音に気付いた。慌てて手紙を畳み、片付け、ベッドの奥に小箱を押しやる。
 鉄扉が開く。廊下にサムライが立っていた。
 「紙はもらえたのか?」
 「ああ」
 サムライが何か言い出すまえに先手を打つ。サムライが小脇に抱えていたのは習字用の半紙だ、当面はあれに般若心境を書き写すつもりだろう。精がでることだとあきれつつ腰をあげ、こちらに歩いてきたサムライに手ぬぐいを押し付ける。
 何も言わず手ぬぐいを受け取ったサムライ、その仏頂面に「貢」という名を当て嵌めてみる。

 貢。僕の知らないサムライ。

 ―なんでこんなにむかむかするんだろう。サムライの過去の一端をかいま見てしまったことがうしろめたくもある半面、ひどく侮辱されたような気がするのはなぜだろう。
 『手紙を書いたことは』
 『あるわけないだろう』
 『そのぶんでは貰ったことも』
 『ない。一通もない。だからなんだ』
 『手紙も悪くはない』
 『過去に貰ったことがあるような口ぶりだな』
 サムライはどんな気持ちで僕の言葉を聞いていた?心の中では馬鹿にして見下してたんじゃないか?
 手紙が届かない僕のことを。
 「……妹に手紙を書こうと思うんだが」
 サムライの手に手ぬぐいを押し付け、くぐもった声を絞り出す。
 「筆記用具はなんにしたらいいと思う」
 「…………無難にボールペンにしたらいいだろう」
 何を聞くんだ、という怪訝な顔でサムライが言い、今思いついたように付け足す。
 「なんなら写経用の墨を貸すが」
 「いらない」
 サムライを試したつもりが鈍感な彼には通じなかったようだ。
 深くため息をついてベッドに戻り、本を開く。再開した読書にまったく集中できないのは隣でサムライが墨をすり始めたからではない、さっき読んだ手紙のせいだ、サムライ宛にきた手紙。相当古い手紙だ、小箱の中に保管されていたことから考えてよほど大事な人からの手紙なのだろう。サムライの大事な人、それはだれだ?母親は幼児期に死去している、父親は彼自ら殺した。
 肉親以外で大事な人間……サムライの譲れないもの?
 本に没頭するふりをしてサムライを盗み見る。サムライは我関せずという閉じた横顔で墨をするのに熱中している。どこまでも朴訥で愚直な武士の姿勢を眺めながら、先刻自分が口にした案を再考し、悪くないと考え直す。
 恵に手紙を書こう。
 サムライに譲れないものがあるように僕にも譲れないものがある。たしかに僕には手紙が届かなかったが、譲れないものに対する執着の強さでは決してサムライに負けてない。
 せめて届かせたいのだ、譲れない想いを。檻の中から。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060408051036 | 編集

 『拾わなきゃいいじゃん』
 レイジはああ言ったが、拾ってしまった以上届けなければならない。
 手の中の写真を見下ろしながら点々と蛍光灯のともる廊下を歩く。夕食終了後の自由時間もあと三十分で終了、無駄に元気のありあまった囚人が取っ組み合いの喧嘩や賭けポーカーに興じる喧騒を遠くに聞きながら展望台へと向かう。さすがにこの時間帯、展望台にでる物好きはいない。当たり前だ、今は夜だ。暗くてなにも見えやしねえし闇の帳ですっぽり包まれた場所にふらふら出てくなんて自殺行為だ、そうじゃなくても隙を見せれば物陰にひきずりこまれてカマ掘られるのが日常化してる東京プリズンだ。貞操を奪われたくないなら軽率な行いは慎むに限る。
 じゃあ何故ひとりで廊下をぶらついてるのかというと答えは単純、凱の失物を届けるためだ。台湾・中国の血が流れる薄汚い半半、即ち俺を目の敵にして、ねちねちいびるのを生き甲斐にしている凱のことだ。イエローワークの作業中に看守の目を盗んで接触するのは危険すぎる、万一見つかったら写真を返そうとした俺まで警棒の餌食になりかねない。直接凱の房を訪ねるのはもっとやばい、みすみすヤられに行くようなもんだ。飢えた虎の檻の中に身一つで殴りこむような馬鹿な真似はしたくない。
 まあ、そんな危険策をとらなくても俺の予想が正しければ凱は展望台への道中にいるはずだ。
 この写真が、いや、この写真のガキが凱にとって大事な存在なら絶対に捜しにもどってくるはずだ。
 『ついてってやろうか』
 房を出てくとき、レイジにそう言われた。奴なりに俺のことを心配してるんだろうとは思ったが、レイジと一緒にいるところを見られたらまたややこしくなる。東棟最大の勢力を誇る中国系派閥のトップたる凱は、長きに渡り東棟の王様として君臨するレイジを目障りで目障りでしょうがない目の上のたんこぶとして意識してるのだ。
 だから俺は言ってやった。
 『いらねえ。絶対についてくんな』
 念を押して凄むとレイジは残念そうな顔をした。
 『ひとの好意を足蹴にしやがって、心配してやってんじゃねーか』
 『下心と見分けがつかねえお前の好意なんか信用できるか。いらねー心配しなくても速攻で戻ってくるよ』
 『だといいけどな』
 ノブを捻って出てゆく間際、ベッドに腰掛けたレイジが『ロン!』と俺を呼んで振り向かせる。反射的に振り向いた俺めがけて投げられたのは銀の光沢のライター。不審顔で手の中のライターとレイジのにやにや笑いとを見比べる。
 『さがしてたんだろ』
 見られてたのか。
 察するにレイジは俺が展望台で煙草を吸おうとしてライターをさがしていたところを意地悪く眺めていたらしい。今生の餞別とばかりに投げ渡されたライターを受け止め、尻ポケットに手をやる。さっき吸おうとして諦めた煙草がいれっぱなしの尻ポケット。
 『謝謝』
 仏頂面で軽く礼を言い、今度こそ房を後にしようとノブに手をおいた俺にレイジが追い討ちをかける。
 『燃やしていいんだぜ』
 『あん?』
 レイジが顎をしゃくる。おもわず手の中を見下ろす。凱にそっくりの女の子が口のまわりを飯粒だらけにしてレンゲをくわえた写真。
 『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
 本気で言ってんのか、コイツ。
 いまさらながら俺を試すような笑顔を浮かべたレイジの正気を疑う。俺が次にどうでるかたのしみにしてるような人を食ったツラ。右手に握り締めた写真とライターとを見下ろし、銀のライターを尻ポケットにすべりこませる。
 『だれがするかよ、そんなこと』
 逡巡を断ち切るようにレイジを睨む。おどけて首をすくめたレイジが白い歯を見せ、嬉しそうに笑う。
 『知ってる。お前はしないよな、そういうこと』
 『じゃあ言うな』
 乱暴に扉を閉じ、胸糞悪いレイジに別れを告げる。なんだアイツ、なんなんだ一体。あれで試してるつもりかよ、調子に乗りやがって。むかむかしながら房を出て、囚人で賑わう廊下を突っ切る。そうして展望台へと抜ける廊下に足を踏み出したが思ったとおり人気はなし、物陰に人がひそんでる気配もない。周囲をよく確認し、用心して歩を進める。どこから迷いこんできたのか、頭上の蛍光灯には蛾がたかっている。蛍光灯に群がる蛾を眺めながら、なんとなく手持ち無沙汰になってライターと煙草をとりだす。人影なし、看守の姿なし。廊下で喫煙してるところを看守に見咎められたらただじゃ済まない、全治三日ぐらいの怪我は覚悟しなければ。歩きながら煙草を口にくわえ、ライターで点火する。ボッと青い火が燃え上がり、煙草の穂先にオレンジ色の光点がともる。
 手首を振る。蓋が落ち、パチンと火が消える。用済みになったライターをポケットに戻そうとして思い留まる。
 少し一服したい気分になり、そのまま壁に背中を預けてうずくまる。
 紫煙を肺に吸い込み、床に足を投げ出し、頭上にかざして蛍光灯に透かした写真を見上げる。椀に顔をつっこむようにして飯をかっこんでるのはまだヨダレかけもはずれてない女の子、凱とそっくりの顔をした凱のガキ。
 『お前には来たのかよ、手紙』
 うるせえ。
 『ああ、悪いこと言っちまったなあ。字の読み書きは関係ねえか、肝心のお前にダチや女がいないだけか。だから手紙がもらえねーのか、そりゃすまなかったなあ気付かなくてよ』
 余計なお世話だ。
 『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
 だからなんだってんだ。
 凱の得意げな面がよみがえり、紫煙が苦くなる。
 俺の懲役は十八年。でも、十八年経って出所したところで待っててくれる人間なんていやしねえ。今だって娑婆で俺を待ってる人間なんてだれもいない、ひとりもいない。家族はいないも同然だ、十一のときにアパートを飛び出してからお袋とは会ってない。けど、俺が十一でアパートを飛び出してお袋を袂を分かったからってそれがなんだ?お袋とふたりで暮らしてた時だってなにも状況は変わらなかった、お袋にとって俺はいないも同然の人間だった。厄介者で疫病神で、自分を捨てた憎い中国人の血が半分流れるガキ。
 冷たい壁面に後頭部を付け、じっと写真を見る。
 無我夢中で飯をがっつくガキ、それを写真に撮る女、その写真を刑務所で受け取る男……凱。あんな最低野郎でも娑婆にはちゃんと家族がいる、一日千秋の思いで出所の日を待ちわびてる女とガキがいる。刑期が明ければ凱もこの写真の中に入って家族団欒の食事風景に混ざるんだろう、行儀悪いガキを叱り飛ばすか殴り飛ばすか、それともヨダレかけでやさしく顔を拭ってやるかはわからない。女はそれを見てどうするんだろう、泣くか笑うか窘めるか……どの表情もうまく想像できない、家族団欒に縁のない暮らしをしてきた俺には親父とお袋とガキが揃った食卓がうまく想像できない。
 お袋とふたりきりの食卓。通夜みたいに辛気くさい、飯も喉を通らないような。
 「……娑婆にいる間にガキ作っとくんだったな」
 東京プリズンに入ってしまったら再び外に出られる可能性はかぎりなく低い。懲役が終了するか他の刑務所に移る前に死ぬか殺されるか発狂するかの究極の三択。十八年後、俺が無事懲役を終えて生きて外に出られるという保証はどこにもない。最も現時点で俺は十三歳だし童貞だって東京プリズンに入る一週間前に捨てたばっかで、女とねんごろになってガキを作る機会なんてそもそもなかったんだけど……何言ってんだ俺、相当ヤキが回ってるな。
 凱のガキの写真なんてもんをいつまでも持ち歩いてるからこんなくだらないことばっか考えちまうんだ、と激しくかぶりを振って雑念を追い散らす。そんなに帰りを待っててくれる人間が欲しいのかよ、そんなに凱が羨ましいのかよ。強いて自嘲の笑みを浮かべようとしたが、写真の女の子と目が合って失敗する。
 『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
 勝ち誇ったような凱の憫笑が瞼の裏側によみがえり、フィルターを強く強く噛み締める。
 『燃やしていいんだぜ』
 これはレイジの声だ。
 心の動揺をすくいあげるような、愉快犯めいた悪魔のささやき。
 『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
 そうだ、これまで凱にはさんざん酷い目に遭わされてきた。何度薄汚い混血だって馬鹿にされた、イエローワークの仕事場でシャベルを脛にぶつけられた、食堂で肘をぶつけられた?アイツさえいなければ俺はもっと平和に暮らせたはずだ、東京プリズンでの暮らしもずっとマシになったはずだ。人ごみでアイツの姿を目にしてもびくつくことなく貞操の心配をすることもなく心おだやかに毎日を過ごせたはずなのだ。
 「…………」
 自分でも制御できない感情に突き動かされ、ライターの蓋を開ける。固唾を呑み、ライターの火を写真に近づける。写真の真ん中では凱とそっくりの顔をしたガキが脇目もふらずに飯をかっこんでる、カメラを構えた女の笑い声が聞こえてきそうな微笑ましい写真。
 写真の角にライターの火を近づける。
 『燃やしてもいいんだぜ』
 レイジはそう言った。俺も同感だ。たかが写真一枚燃やしたから何だってんだ、たかが写真一枚―……
 大事な、ガキの写真。
 「!」
 口にくわえた煙草の灰がぽろりと先端からこぼれおち、あろうことか女の子の顔の真上に落ちる。ジジジ、と早速不吉な音をたて始めた灰を考えるより早く両手で払いのける。あちっ。煙草を口から外す。よかった、間に合った。少し焦げ目がついたが、ガキの顔に穴が開くのはなんとか防げた。
 必死になって灰を払いのけてから一連の行動の矛盾を自覚し、発作的に笑い出したくなる。
 煩死了。うんざりだ。
 あんまり馬鹿らしくなって腰を上げる。こんな疫病神とっとと凱に返しちまうにかぎる、また気の迷いを起こさないうちに。写真をポケットに押し込み、大股に歩き出した俺は十五メートルも行かないうちに前方の異変に気付く。
 割れた蛍光灯の下、薄暗がりの廊下に這いつくばっているのは巨大な影。
 どうやらその影は脇目もふらずに何かを探しているらしい。警察犬のように鼻面をひくつかせ、目を皿のようにして廊下の隅々まで視線を走らせる。こっちに尻を向けた四つん這いの姿勢にはいつも撒き散らしてる威圧感のかけらもない。額に汗した必死の形相に縋るような悲哀の色さえ浮かべた情けない面のコイツは―……

 見ちゃいけねーもんを見ちまった。

 が、いまさら引き返すわけにもいかないと腹を括り、人影の頭上、廊下の真ん中で立ち止まる。いつも見下ろされるのに慣れていた俺は、こうしてコイツを見下ろせる日がくるなんて考えたこともなかった。
 「なにやってんだお前」
 あきれて声をかける。
 人影がびくりと震え、顔を上げる。まずい奴にまずいところを見られたといわんばかりの狼狽の表情が次の瞬間には虚勢をむきだした憤怒の相に変じる。
 「お前こそ何やってんだ、半半。またヤられにきたのかよ」
 凱だった。
 いつも引き連れてる取り巻き連中の姿がないことから、適当な理由をでっちあげてひとりでここにきたのだろう。どれくらいの間ここでそうやって写真をさがしてたかは知らないが、ふと目をやったズボンの膝はどす黒く汚れていた。
 ズボンの膝で床を擦り、両手を床につき、徘徊する獣のような姿勢で何往復、ひょっとしたら何十往復も廊下を行ったりきたりしてたのだろう。
 憎悪の対象を俺へと転じた凱が今にも掴みかからんばかりの形相でこっちによってきたのを、すかさず写真を掲げて制す。
 凱の顔色が豹変した。
 「さがし物はこれだろ」 
 「返せ!!」
 礼も言わず、俺の手から写真をひったくる。手中に奪還した写真を見つめ、長々と安堵の息を吐く。頬を緩め口元を緩め、ぬくんだ眼差しを写真に注ぐ凱は俺が見たこともないツラをしていた。
 一人前の父親のツラ。
 ……………腹が立つ。
 何時間ぶりかで手元に戻ってきた写真に見入る凱をひとり廊下に残し、用は済んだとばかりに立ち去りかけた俺に声がかかる。
 「待てよ」
 今度はなんだ。
 うんざりしながら振り向いた俺をうしろめたげに盗み見た凱が、威圧的に顎を引き、写真へと視線を促す。
 「かわいいだろ」
 「…………………………………………………………………………ああ」
 すさまじい葛藤を克服し、我が身可愛さに嘘をつく。いや、大人げないぞ俺。凱はともかく凱のガキに罪はない、鍵屋崎の言い分じゃないが親から貰った遺伝子には文句のつけようがない。自分を殺して嘘をついた俺の存在など音速で忘れ去り、こっちに背中を向けてじっと写真に見入る凱。
 やってらんねえ。
 馬鹿馬鹿しくなって足早にその場を立ち去る。凱が追ってくるかと警戒したがいつまでたっても靴音は響かず、不安になって振り向いたら凱はまだ同じ場所に突っ立っていた。うつむき加減の横顔がちらりと目に入る。えらの張ったごつい顔には似つかわしくない腑抜けた笑み、節くれだった指には似合わない細心さで写真を撫でる手。
 角を曲がり、完全に凱の視線が届かなくなってから口にくわえた煙草を吐き捨て、靴裏で揉み消す。凱の腑抜けヅラを踏みにじるようにあらんかぎりの憎しみと行き場のない怒りをこめて。

 凱のあんなツラ見たくなかった。
 どいつもこいつも反吐がでる、手紙をもらって浮かれまくってる連中はみんな。
 みんな死んじまえ、畜生。

 壁に額を預け、呟く。
 「……どうせ俺には、だれもいねーよ」
 凱にもレイジにもリョウにも待っててくれる人間がいる、首を長くして出所の日を待っててくれるだれかがいる。
 じゃあ、俺にはだれがいるんだ?
 「…………これでいいのか」
 そう、これでいいのかもしれない。
 俺はくそったれの人殺しだ。いくら自分の身を守るためとはいえ、追いつめられてたとはいえ、手榴弾の栓を抜いて三人の人間を肉片に変えたのはまぎれもない事実だ。そんな人間のところに手紙なんてくるわけない、そんな人間がなにかを図々しく期待すること自体間違ってる。
 俺が殺した奴らにだって親がいた、女やガキだっていたかもしれない。 
 でも、地獄には手紙が届かない。
 俺が地獄送りにした連中には永遠に手紙が届かないのに、地獄送りにした張本人の俺に手紙がこないからって……だからなんだってんだ?当然の罰じゃないか、人を殺した報いじゃないか。

 自業自得だよ。

 「不需要、信」
 プーシュイヤォ、シン。
 手紙なんか必要ない。そんなもんいらない、そんなもん届かなくても生きていける。だれかに生きてて欲しいなんて望まれなくてもしつこく生きてのびてやる、だれかに出てきてほしいなんて望まれなくても絶対に生きてここを出てやる。
 他人にどう思われてるかなんて関係ない。
 俺は生きたいんだ。
 だれにも喜ばれなくたって、だれもいなくたって、生きてここを出たいんだよ。悪いかよ畜生。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060407051215 | 編集

 房の前でロンと遭遇した。
 ノックしようとしたら、ポケットに手をつっこみふてくされた様子で歩いてきたロンが目に入った。ロンもこちらに気付いたようで、扉の手前で立ち止まるや否や不審げに眉をひそめ、ポケットから手を引き抜く。
 「どうしたんだ?」
 「なにが」
 沈んだ顔をしていたから何の気なしに尋ねてみたら三白眼で睨まれた。どうやら相当に機嫌が悪いらしく毛を逆立てた猫のようにぴりぴりと全身殺気立っている。またレイジに寝こみを襲われたのだろうか?心中ロンの境遇に同情した僕は鼻腔をついた匂いに顔をしかめる。
 「煙草を吸ってたな」
 「吸っちゃ悪いかよ」
 ロンの囚人服に染み付いていたのは煙草の匂い。鈍感なロンは気付いてないらしいが彼よりは繊細にできている自覚がある僕には耐えられない。不可視の紫煙を払うように手を振った僕を三白眼で睨み、ロンがノブを握る。一応、その背に注意してみる。
 「刑務所内は禁煙のはずだろう」
 「そんな規則律儀に守ってる奴ひとりもいねえよ」
 鼻で笑われた。僕のほうが異常な人間みたいな言い草に反感をおぼえ、皮肉を言う。
 「僕の前では絶対に吸うなよ、将来的にきみが肺癌で死ぬのはかまわないが副流煙でぼくまで肺癌になるのはお断りだ」
 「大丈夫だよ、お前の死因は他殺だ。まわりに敵作る天才だもんな、すれ違った奴に片っ端から殺意抱かれても仕方ねえ。自業自得」
 ロンの死因はきっと肺癌だろう。
 不毛な議論に嫌気がさしていたこともあり、それから先は大人げないと自重して胸の中で反駁するに留めてロンの後に続く。一足先に房へと足を踏み入れたロンの背中を追ってレイジの房へと入る。
 「おかえりロン、面白い客つれてきたな」
 「つれてきたんじゃねえ、最初からいたんだ」
 ベッドに腰掛けたレイジが妙な顔で僕を見る。僕を扉の前に残して方向転換したロンが自分のベッドへと戻る途中、手首を撓らせてレイジに何かを投げる。天井中央の裸電球の光を受けて銀に輝いたそれは、虚空に美しい光沢を放ってレイジの手に吸いこまれる。レイジの手に目を凝らす。褐色の手におさまったのは凝った意匠のライター。
 「東の王様はライターまで所有してるのか」
 「王様は物持ちだからな」
 嘲るような口調でロンが茶化しベッドに尻を投げ出す。手首を軽く撓らせ、否定も肯定もしない曖昧な笑顔でライターをキャッチしたレイジが「で?」とこちらに視線を転じる。
 「キーストアが俺の房訪ねるなんて珍しいじゃん。何か用?」
 「友人でもないのに用件もなくきみの房を訪ねるわけがない、王様と雑談しにくるほど暇じゃない」
 とくに座れとも勧められなかったので、立ったまま話を進めることにする。ベッドに腰掛けたレイジの前に歩み出た僕は殺風景な房を見渡す。
 ベッドの配置から裸電球の位置まで僕の房と殆ど何も変わらない、既視感をかきたてられる無個性な内観。コンクリート打ち放しの床と壁は寒々しい灰色でところどころ亀裂が走っている。天井の四隅に這った配管の接合部からはぽたぽたと汚水が滴っている。
 汚水が滴る単調な旋律を背景音楽にレイジと向き合った僕はどう本題に触れたものかと逡巡するが、これ以上こうしていても埒が明かないと決断を下す。
 「きみはロンにライターを貸した」
 レイジが瞬きする。視界の隅でロンも瞬きする。藪から棒に何を言い出すんだという不審の表情をありありと浮かべたレイジを見下ろし、一息に続ける。
 「ライターを貸したということはライターを所持していたということだ。以前の君自身の発言を総合すればブラックワークの上位陣には特別待遇が約束されるらしい、強制労働の免除や上からの褒賞がそれだろう。ということはつまり、きみはライターの他にもさまざまな日用品や雑貨その他嗜好品を数多く隠し持っているということだ。房を見渡した限りではそれらしい物は見当たらないがおおかたそのベッドの下にでも隠してるんだろう、裏ルートを経由して入手した私物は看守の目が届かないベッド下に貯蔵するのが囚人間の了解になってるからな」
 「なにが言いたいんだよ」
 当惑したレイジを前に大きく深呼吸する。
 「便箋とボールペンは持ってるか」
 「?そりゃ持ってるよ、便箋とペンがなけりゃ全世界のガールフレンドにラブレター書けないじゃんか」 
 なにを今さらとカサノヴァ気取りで両手を広げたレイジと対峙し必死に頭を働かせる。この食えない男相手に何をどうすれば望みどおりの結果を引き出せるか現段階で想定されうるあらゆる可能性を考慮し、最も賢い選択をしようと頭を回転させるが考えれば考えるほど思考が入り乱れて煮詰まってくる。 
 これ以上無駄思考に時間を費やしてもきりがない。
 体の脇で拳を握り締めて決意を固め、おもいきりよく顔をあげ、真正面からレイジを凝視する。
 「ペンと便箋を貸してくれないか」
 「お前に?」
 レイジが瞬きする。次に瞼が上がったとき、精巧なガラスめいた薄茶の瞳には意地の悪い笑みが宿っていた。
 「さてはサムライだな、俺に頼ればなんでも手に入るとか吹き込んだの」
 その通りだ。馬鹿を装ってるが見かけほど頭は悪くはないらしいレイジは即座にそうと見抜くや、長い足を組んでベッドに後ろ手をつき、眉を八の字にして大袈裟に困り果てたフリをする。
 「あーあ、困ったなあ。そりゃ俺は王様だから便箋もペンも持ってっけど」
 おもわせぶりに言葉を切ったレイジがちらりと挑発的な一瞥をくれる。
 「お前に貸す理由がさっぱり見当たらねえ」
 「…………………………僕もその一点で悩んでいたんだ。友人でもない僕がきみからものを借りる理由がさっぱり無い、しかし僕と面識のある人間で便箋とペンを所持してるらしいのはレイジ、きみだけだ。たとえプライドをねじまげてでも君に頭をさげてペンと便箋を入手しないかぎり外の人間に手紙を書くという最大の目的が果たせない、以上の理由でぼくにペンと便箋を貸してはくれないか」
 「ちょっと待て、お前いつ頭をさげた?」
 ふむふむと頷きながら僕の弁舌を聞いていたレイジがハッと我に返る。三段論法を活用した婉曲表現で主旨を曖昧にしようという目論みは失敗したようだ。
 「ひとにものを頼む態度を知らないんだよ」
 対岸のベッドに腰掛けたロンがやる気なさそうにあくびしながらフォローといえないフォローをいれるが、まったく逆効果でしかない。僕としても便箋とペンを入手するにはこの男を頼るしかないと頭ではわかっているのだが、軽薄な言動が日常化し、やることなすこと本気か冗談か全く区別がつかない天性の虚言症で楽天家、おまけに終始人を食った笑顔を絶やさずにいるこの不愉快な男に自ら頭をさげるなんて屈辱的な行為はプライドが許さない。
 せめて交換条件があれば、レイジに気兼ねすることなくペンと便箋を要求できるはずだ。レイジが提示した条件を滞りなく消化し、屈辱感など味あわず、うしろめたい思いなどせずにペンと便箋を入手する方法が。
 「タダでとはいわない。そちらが何か交換条件を提示してくれれば誠意を持って呑むつもりだ、需要と供給が釣り合ってこその資本主義経済だからな」 
 「交換条件つってもなあ」
 今度は演技ではなく本気で困り果てているらしい、困惑しきった表情を浮かべたレイジがしきりに首を傾げる。
 「お前タイプじゃねえし不感症の男なんて抱いてもたのしくなさそうだし。話のタネに一回ヤッてみてもいいかなーと思わないでもないけどもし俺の超絶テクでもいかせることができなかったら自信喪失だし」
 「下品な上に下劣だな」
 辟易する。どうしてこの男はこう短絡的なことしか考えないんだ、前頭葉ではなく下半身でものを考える人間の典型だな。ベッド上で胡座をかいたロンも同じことを考えていたらしく、心底あきれた顔で横槍をいれる。
 「体以外に要求するもんねーのかよ」
 「そうだ!」
 快哉をあげたレイジが枕元をさぐり、両手に手紙の山を抱えていそいそ戻ってくる。ドサッと膝に投げ落とした手紙の山からアトランダムに一枚を選び取り差出人名を一瞥したレイジが試すような上目遣いで僕を眺める。
 「これ何語だ」 
 クイズでも出題するかの如く面白半分のふざけた言い回しを不快に思いつつ、手紙の封筒に目をやる。
 簡単だ。
 「ヒンドゥー語」
 「正解」
 人さし指の上で器用に手紙を回しながら会心の笑みを浮かべたレイジとは対照的に、背後のロンが何故か驚いた顔をする。ぎょっとして胡座を崩したロンの視線を受け止めた僕はレイジの声で我に返る。
 「キーストア、代筆やってみない?」
 「代筆?」
 手紙に埋もれてベッドに後ろ手をついたレイジがヒンドゥー語の封筒で顔を仰ぎながらうんざり気味に続ける。
 「このとおり、俺には肌の色も目の色もバラバラなガールフレンドが世界中にいる。ムショ入って何年もたつのに今でもこうして甲斐甲斐しくお手紙よこしてくれるけなげなマイ・スイートハニーズにお手紙返そうと思ってシコシコ書き綴ってたんだけど、生憎人間には限界ってもんがある。律儀に一枚一枚書いてたんじゃ腱鞘炎になっちまう。そこでだ、お前をゴーストライターに任命する!」
 「人さし指でさすな。不愉快だ」
 とはいえ、これで決まった。胸につきつけられた人さし指を慇懃無礼に払って顎を引く。
 「条件を呑む」
 「よっしゃ」
 歓喜したレイジが両手を上に挙げて手紙を降らす。滝のように降り注いだ封筒に埋もれてすこぶる上機嫌なレイジをロンがいつにも増して鋭い目で睨んでいることに気付く。口数少なく塞ぎこんだロンを訝りつつ、用件を終えて房を後にしようとした僕に声がかかる。
 「聞いていいか」
 「なんだ」
 ノブに手をかけて振り向く。
 ベッドに腰掛けたレイジが手に取った封筒に口付けながら言う。
 「だれに手紙を書くんだ?」
 彼には珍しく純粋な好奇心に端を発したのだろう裏のない質問に、しかし、周章狼狽する。
 頭に思い浮かぶのは恵の顔、冷たい雨に打たれながら泣き叫ぶ恵の顔。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 「―大事な人だ」
 それだけ答え、逃げるようにノブを回し、扉を閉める。追い立てられるように廊下を歩きながら脳裏で今の言葉を反芻する。大事な人。大事な家族、大事な妹。僕がただひとりこの世で大事だと思える他人、精神的に縋っているかけがえのない存在―譲れないもの。
 
 でも。
 そう思ってるのは僕だけじゃないか?
 僕から手紙がきても、恵は迷惑なだけじゃないか?


 「そんなことはない」
 足早に僕を追い立てるのは今まで封印してきた罪悪感だろうか、膨れあがる一方の模糊とした不安だろうか。手紙を受け取った恵はどんな顔をする、どんな反応をする?僕はまた一方的に自分の気持ちを押し付けようとしてないか?恵のためによかれと思ってしたことがこれまですべて裏目にでてきたように、今度もまた同じ過ちをくりかえすんじゃないか。
 ―だめだ、まただ。また思考の泥沼に嵌まりかけている。サムライとのあの一件からできるだけ恵のことは考えないよう避けてきたのに恵のことを考えだすと止まらない。
 元気にしてるのか、体の調子はどうか、食事はちゃんととっているのか?
 恵のことが知りたい、遠く離れた仙台の小児精神病棟で今どうしているか知りたい。
 ただそれだけなんだ。
 ……いや、違う。そうじゃない。どんなにそれらしい詭弁を弄したところで本心まで偽れない。
 本当は、僕が手紙を書く本当の目的と動機は。
 『おにいちゃん』
 恵の笑顔が脳裏に浮かぶ。もう二度と僕に向けられることのない、永遠に失ってしまった……
 壁をぶつように拳を預け、顔を伏せ、呟く。
 「手紙くらい、いいよな」
 いいよな?恵。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060406051357 | 編集

 東京プリズンのいいところは図書室の蔵書が充実してるその一点に尽きる。
 囚人の娯楽は限られている。束縛の多い生活を強いられた囚人の中には必ずしも読書を目的とせずに図書室に入り浸って机を占領しては、読書に励む隣人の集中力読書を妨げる大声でだべりつづける非常識な連中もいるが、純粋に図書閲覧を目的として図書室に足を運ぶ囚人も何割かはいるのだ。図書室通いが日々の習慣となった囚人の中にはもちろん僕も含まれる。強制労働終了後の限られた自由時間を利用して東京プリズンの囚人がすることと言ったら廊下で車座になってのカードゲームか気に入らない人間へのはげしいリンチか腕づくのレイプ、体力がありあまってる囚人は競うように中庭にとびだしてバスケットボール等の健全なスポーツに興じているが、もともと体を動かすのが好きではない僕は図書室でひとりしずかに読書する方を好む。
 図書室は中央棟にある。
 中央棟へ行くには東棟唯一の渡り廊下を使う。サムライが言うには昔はもう二つ、東棟と隣接する棟とを結ぶ渡り廊下が存在していたらしいが件の廊下は封鎖されて久しい。有刺鉄線付きのバリケードで厳重に封鎖された渡り廊下の向こうは昼間でも薄暗くて不気味で、天井の蛍光灯は微塵に割れたまま交換されることなく放置され、分厚く埃をかぶっている。
 正直好奇心を刺激されないでもなかったが、バリケードに近づくのは自殺行為だと怖い顔で言い含められた。言うなれば国境線なのだ、これよりよりさきに許可なく踏みこんだら命はないぞというだれの目にも見えるわかりやすい脅し。北と南とをつなぐ渡り廊下は現在封鎖されて棟同士の交流は完全に途絶えているが、中央棟へと通じる渡り廊下は今でも普通に使用されている。
 つまり中央棟は、普段は断絶されて行き来もない四つの棟の囚人が一堂に会する貴重な場所なのだ。
 中央棟の図書室は各棟の囚人に平等に開放されており、図書室では東西南北四つの棟の囚人が雑然と入り混じることになる。当然その騒がしさは廊下の比ではない、そもそも図書室に収容される人数が半端ではない。活気と喧騒、笑声と怒声。異常な賑わいを呈した図書室は三階まで吹き抜けの構造で四囲の壁を巡るように手摺があり、それぞれの階に整然と書架が並んでいる。歴史・ノンフィクション・古典・純文学から大衆小説、はては漫画に至るまであらゆる本を網羅した知識の貯蔵庫が自分たちの生活圏内に存在しているというのに、ここの囚人ときたら何しに図書室にきてるんだ?本になんて見向きもせず、机に行儀悪く肘をついて品のない大口をあけてだべりにきているだけじゃないか。
 「なに怒ってんだよ」
 「怒ってない、これが地顔なんだ」
 目の前にドンと辞書が置かれる。分厚い辞書を運んできた人物は襟足で茶髪をひとつに括った軽薄な男―レイジ。パイプ椅子を引き、矩刑の机を挟んだ向かいの席へと腰掛けたレイジが「さて」と手紙の小山を脇にのけて作業に着手する。ペンを右手にとり辞書を広げ、便箋の一行目に文字を記入しようとしたレイジが怪訝そうに眉をひそめる。
 「お前辞書は?」
 一足先に代筆にとりかかっていた僕は顔も上げずに右手ひとさし指でこめかみをつつく。
 「ここに入ってる」
 レイジが口笛を吹く。あきれ半分感心半分、苦笑いを浮かべたレイジが指に挟んだペンを器用に回しながら茶々をいれる。
 「さっすが天才の言うコトはちがう。俺も読むぶんにはヘイキだけど書く段になるとさすがにちょっと、な。辞書要らずで翻訳できるお前みたいな奴がいてよかったぜ」
 「無駄口を慎め、図書室は私語厳禁だぞ」
 「おかたいな、相変わらず」
 降参とばかりに首を竦めたレイジがペンを回すのを止め、机上に突っ伏していた姿勢を正し、「よし」と腕まくりしてようやく冒頭の文を書き出す。逐一辞書を引きながら手紙の返信を執筆しはじめたレイジと面と向き合った僕は、ペンを握り締めた手をひそかに開閉し、正常に指が機能するのを確かめる。薬指の骨は完全にくっついたようだ。痛みもないし、代筆業に支障はない。右手が使えなくてとにかく不便だったこの二ヶ月間の苦渋に満ちた思い出を反芻し、内心深く安堵する。薬指の怪我も完治したことだしこれで心置きなく作業にとりかかれると気を取り直し、レイジが用意した下書きの文面と途中まで書き写した便箋とを見比べる。歯の浮くようなきざったらしい修飾を散りばめた、お世辞にも文学的とはいえない陳腐な内容の恋文だが語彙に乏しいレイジがしたためたのだから仕方ないだろう。
 ペンと便箋を手に入れる交換条件にレイジの代筆を引き受けた僕は、強制労働終了後の図書室で彼と待ち合わせてこうして執筆作業に励んでいたのだが肝心のレイジにはあまりやる気がなさそうだ。それとも生来の気まぐれなのか、ちょっと目を放すとすぐにサボりだす。ペンを回したり辞書に顔を埋めてまどろんだり、ひとに代筆業を押し付けて自分は適当に時間を潰してるようにしか見えないレイジにさすがに不快感が募る。
 「きみにきた手紙だろう、少しは自分で書いたらどうだ」 
 「交換条件を呑んだのはお前だろう、精をだせよゴーストライター」
 反省した素振りもなく手をひらひらさせながらレイジが笑う。なんて男だ。椅子の後ろ脚に体重をかけてバランスをとりながら音痴な口笛を吹き始めたレイジを睨み、こんな男には構ってられないとペンを取り直した時、書きっぱなしで放置されたレイジの便箋が目に入る。
 「レイジ、綴りが間違ってるぞ」
 僕の指摘にレイジが眉をひそめ、便箋の一行目にちらりと目を落とす。抽象的な外国語が羅列された便箋をじっと凝視し、ついでまじまじとこちらを見る。
 「すげえ。ヒンドゥー語の間違い指摘されたの生まれて初めてだ」
 何がすごいんだ。
 「きみにやる気がないならいい、全部ぼくがやる。きみが視界に入ると気が散るからどこかよそに行ってくれないか」
 腹立たしくなって語気荒く命令する。おどけて首を竦めたレイジが「はいはい」とペンを握りなおし二行目から書き始める。そのまましばらくは会話もなくお互い集中して作業に没頭する。時折レイジが辞書を引くぱらぱらという音を除けばカリカリという鉛筆の音しか聞こえてこない。猥雑な活況を呈した図書室の一隅、僕らが陣取った机の周囲だけが別世界のように静まり返っている。これも王様効果だろうか、レイジを恐れる囚人の多くは僕らの机を避けて通る。うるさい喋り声もここまでは届かない、カリカリと鉛筆の走る乾いた音が心地よい。図書室でこんな満ち足りた気分になれたことを思えば彼を知ってから初めてレイジに感謝をしたくなる。
 一枚目、二枚目、三枚目。順調に手紙を消化していた僕の正面、インクの減ったボールペンをカチャカチャ振りながらレイジが呟く。
 「なあキーストア」
 「なんだ」
 「自分のこと嫌ってる人間に手紙を書くとしたらどんな内容が喜ばれると思う?」
 耳を疑う。
 質問の意図が理解できずに顔を上げた僕の目に映ったのは、ボールペンを鼻の下に挟み、スランプ中の作家のように苦悩するレイジ。鼻面に皺を寄せた滑稽な顔でボールペンのバランスをとるレイジに愛想が尽きて顔を伏せ、作業に戻る。
 「自分が嫌ってる人間から手紙なんて欲しくない」
 「身も蓋もねえこと言うなよ……」
 何故だか僕の言葉にショックを受けた様子で机上に突っ伏すレイジ、その顔の下でぐしゃりと便箋がつぶれる。執筆途中の便箋を巻き込んで机に伏せたレイジが何か言いたげな上目遣いでちらりと僕を見る。未練がましく答えを欲してるようだったので、大仰にため息をついてからペンを置き、顎を引いて正面に向き直る。
 「そんなの決まってる」
 眼鏡のレンズに埃が付着していた。眼鏡を外し、ふっと埃を吹いてから慎重に上着の裾で拭う。綺麗になったレンズを天井の蛍光灯に透かし、完全に埃が取り除かれたことを確かめる。レイジの視線を顔に感じながら眼鏡をかけ直し、言う。
 「『この手紙を最後に貴方の前から消えます』」
 「……………いやーーー、ちょーーーーーーーっとそれは無理だな?」
 変な男だ。
 今にも崩れそうな半笑いの微妙な表情で困り果てたレイジにますます不審感が募る。頭を抱えたレイジが「わっかんねーよ、アイツが貰って嬉しい手紙なんてよ」と悶絶するのをひややかに眺めていたらぐるりを巡る二階の回廊から間延びした声が聞こえてきた。

 「やかまし―」

 レイジと同時に頭上を仰ぐ。
 その人物は二階の回廊にいた。整然と並んだ書架を背景に手摺によりかかり、両手を虚空にたらしただらしない姿勢でちょうど真下にいる僕らを見下ろしている。何にも増して特徴的なのは目をすっぽりと覆い隠す大きさの黒いゴーグル。顔の上半分を覆うゴーグルにさえぎられて詳細な容貌まで視認できないが、針金のように立たせたこざっぱりした短髪が活動的な少年らしさを強調している。
 手摺に顎を乗せたその少年は大袈裟にかぶりを振るや、階下のレイジに視線を投じて嘆く。
 「お前の話し声がうるそうて読書に集中できひん、ちィと静かにしてくれへん?」
 ゴーグルにさえぎられていてもうんざりした表情を浮かべているのが目に見えるようだ。
 「わりぃヨンイル、気をつける」
 頭を抱えたままのレイジが犬でも追い払うようなしぐさでぞんざいに片手を振る。ヨンイル。名前の語感から察するに韓国系だろうか。東棟では見たことのない顔だからおおかた他の棟の囚人だろう。僕と初対面になる囚人はようやくレイジの向かいに座る僕の存在に気付いたらしく一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに気さくな笑顔に切り替えて片手を挙げてくる。笑うと八重歯が覗いて悪童めいた印象が増長される。
 「そっちのメガネは見いひん顔やけど東の新入りか?」
 「鍵屋崎っての。下の名前は……ナオだっけ」
 「女みたいやな」
 「だろ」
 「よっ」と反動をつけて手摺に飛び乗った少年が、汚れたズックをひっかけた足で虚空を蹴りながら、不躾に観察するような目を階下の僕に向けてくる。好奇心むきだしの眼差しが不愉快になった僕が席を立ちかけたのをレイジが片手で制する。何のつもりだと目をやれば、レイジはまっすぐにヨンイルと名乗る少年を見つめていた。
 親愛と牽制が等分に入り混じった、油断ならない横顔。
 レイジの横顔にただならぬものを感じて大人しく椅子に戻る。二階の手摺に腰掛けたヨンイルは足をぶらぶらさせながら笑う。
 「つれない女に恋文でも書くんか」
 「そんなとこ」
 曖昧に頷いたレイジをゴーグル越しに眺めてなにやら思案していたヨンイルがぱっと顔を輝かせる。
 「天邪鬼にはカウンターが効くで。小細工なしのストレートで今の気持ちをぶつけるんや、あとはひたすらに打つべし打つべし」
 「お前明日のジョー読んでたな」
 脇を締めてパンチを繰り出すヨンイルにレイジは苦笑い。シャドウボクシングしながらあっけらかんと言い放ったヨンイルのアドバイスを咀嚼したレイジがのろのろと上体を起こし、椅子の背もたれに反り返って間延びした声を張り上げる。
 「参考にするよ」
 にこりと感じよく笑ったヨンイルが手摺から飛び下り、口笛を吹きつつ書架の谷間に消えてゆくのを目で追ってからレイジに向き直る。
 「あれはなんだ?」
 「んー。西の知り合い」
 西、ということは西棟の人間か。いまさらわかりきったことだが、レイジの知り合いにはエキセントリックな人間が多い。
 「またの名を殆ど漫画しか読まない図書室のヌシ」
 最悪だ。
 「図書室の常連になるなら知っといて損ねえぜ、古今東西の漫画のことならアイツに聞きゃすぐわかる」 
 「僕が漫画なんて読むわけないだろう」
 余計な邪魔が入って作業を中断された、執筆速度を上げて取り返さなければ。
 ふたたび便箋をひろげてペンを走らせはじめた僕の正面、腕組みしたレイジがなにやら真剣に考えこんでいたが、ふと呟く。
 「キーストアはだれに手紙を書くんだ」
 「またその質問か」
 「妹だろう」
 見抜かれていたのか。
 「…………知ってたのなら聞くな」
 まったく嫌な性格だ、ロンがレイジを毛嫌いするのも頷ける。視線に殺せそうな圧力をこめてレイジを睨んだが当の本人は涼しい顔でぱらぱらと辞書をめくっている。
 「むずかしいよな。実の妹相手に愛してるを連発するわけにもいかねーし」 
 「きみは節操なく愛してるを連発して行を埋めてたんだな。かなり適当に」
 「適当に」をわざと強調してやったのは僕なりの反抗心のあらわれだ。どうでもいいが無駄口叩いてる暇があったら手を動かせと催促しかけてふと不安になる。
 僕はこれまで手紙を書いたことがない。なにごとも完璧にやり遂げなければ気が済まない僕が、はたして完璧な手紙を書けるだろうか?
 「そういえばリョウには謝ったか」
 レイジの声で物思いから覚める。
 「?なんで僕がリョウに謝るんだ、悪いのは彼だろう。サムライと同じで変なことを言うんだな」
 手を止めずに返した僕を頬杖ついて眺めていたレイジがおもむろに口を開く。
 「『ごめんなさい』」
 「?」
 おもわず手を止め、八割方書き終えた便箋から顔を上げる。人を食った笑顔で身を乗り出したレイジが辛抱強くくりかえす。
 「知らないみたいだから教えてやろうと思って。『ごめんなさい』」
 「英語でsorry中国語で対不起韓国語でカムサハムニダロシア語でイズヴィニーチェ、タミル語でマンニチュカンガ」
 レイジがきょとんとする。
 瞬きも忘れてあっけにとられたレイジを眼鏡の奥から無表情に眺める。
 「親切に教えてもらうまでもなく約百二十カ国語で知ってる。ただ、言いたくないから言わないだけだ」
 「…………さいですか」
 なぜこの僕がIQで遥かに劣る低脳に頭をさげなければならない?そんな必要どこにもない、よって使用する理由がない。
 僕が悪かったと謝罪したい人間はこの世にただひとりだけだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060405051526 | 編集

 「うーしっ、終了――」
 椅子の後ろ脚でバランスをとったレイジが便箋とボールペンを放り出し大きく伸びをする。
 重労働から解放されたように肩のコリを揉みほぐすレイジの対面席、間接の痛くなった指を開閉する。レイジは自分ひとりで手紙の返信作業を完遂したような顔をしているがその半分以上は僕がやった。退屈したレイジが大口あけてあくびしたり果ては辞書にヨダレをたらして熟睡している間も黙々と手を動かして鉛筆を走らせていたのだから報われてしかるべしだろう。
 彼がサボッている間の代筆を一手に引き受けた僕はタコのできた指を見下ろして顔をしかめる。いまどき長時間鉛筆を握っていたせいでタコなど作って格好が悪い、手書きでものを書くことすら珍しくなった現代にまた随分と時代錯誤な代筆業を引き受けてしまったものだと自分に飽きれる。しかし、目的のものを入手するためには背に腹は変えられない。
 完成した手紙を鼻歌まじりに封筒に詰めてゆくレイジの前に片手を突き出す。
 「約束だ」
 鼻歌が途切れ、封筒を糊付けしていたレイジがわずかに顔を上げる。愉快げな企みが宿った目。
 「いいともいいとも、役に立ってくれた礼だ」
 気楽に頷いたレイジがポケットに手をつっこんで中身を漁るさまを眺めていた僕の手に乗せられたのは便箋と鉛筆、そして消しゴム。
 「………なんだこれは」
 意図せず声が低くなる。沸々とこみあげてきた怒りを理性で押さえ込んでレイジに問えば、当の本人は至って涼しい顔をしている。
 「だから鉛筆と便箋と消しゴム」
 「ぼくは便箋とボールペンが欲しいと言ったんだが」
 「だめだ」
 しゃんと背筋を伸ばしたレイジが厳格な裁判官のように顎を引き、深刻ぶった面持ちで宣言する。
 「ボールペンはこれ一本しかないからくれてやるわけにはいかねえ、鉛筆で我慢しろ」
 「約束がちがうじゃないか」
 「約束なんかしてない。これは取引だろ?」
 便箋を机上に叩きつけて立った僕を見上げしてやったりとレイジがほくそ笑む。頬杖の肘を崩して身を乗り出したレイジは僕と額を付き合わせる格好で前傾するや、意地悪い笑みを含ませた下目遣いで飄々と言い放つ。
 「王様と庶民が対等だとか勘違いするなよ?俺はお前に頼まれて代筆させてやったんだ、交換条件を提示しなけりゃ無闇に高いプライドが邪魔してお前が目当てのブツ手に入れられないと思ったから」
 「それが人に半分以上手紙を押し付けて自分は辞書で『三角関係』とかひいていた人間の言い草か?」
 「こまかいとこまでよく見てるな」
 他人事めいた口ぶりで感心したレイジにもう少しで声を荒げそうになるが、低脳相手にムキになるだけ時間と体力の無駄だと考え直してこの場は大人しく引き下がることにする。不承不承便箋と鉛筆を受け取った僕にレイジがなんら己に恥じることなく爽快に笑いかける。まったく人を馬鹿にした男だ、もう同じ空気を吸うのだって嫌だ。受け取るものを受け取ってあとはもう用がないと席を立ちかけた僕の背中にレイジが声をかける。
 「がんばれよ」
 「なにをだ?」
 キッと振り向く。椅子の背もたれに腕をかけて前後に揺らしながらレイジが意味ありげに笑う、すべてを把握したような全能の笑顔。
 「妹への手紙。今度は失敗するなよ」
 『今度は失敗するなよ』
 その言葉が脳裏で不吉に反響し、我知らず便箋を握る手に力がこもる。レイジは見抜いてたんだろうか、見透かしてたんだろうか。道化じみた言動の裏で怜悧な観察眼を働かせて僕の動揺や心の迷いまで見抜いていたんだろうか?もう失敗するな、ということは僕が過去に失敗したことを知っているのだ。
 大事な妹を守ろうとして僕が失敗したことを。 
 「………きみこそ」
 内心の動揺などおくびにも出さず、声の温度を下げてレイジに嫌味を言う。
 「自分に気のない女性の歓心を手紙で買おうなんて安い真似はよすんだな、あまりにも前時代的だ」
 「スタンダードと言ってくれ」
 僕のアドバイスを聞き入れる気は毛頭ないらしく椅子に体重を預けたレイジがしれっと言い放つ。付き合ってられない。甚大な徒労感を募らせてレイジの前を去る。整然と書架が並んだ図書室を足早に突っ切りカウンターの前を通過して廊下にでる。東棟へと帰る渡り廊下を憤然と歩きながら手の中の鉛筆と便箋を見下ろす。長期的な保存性を考慮したらボールペンに軍配が上がる、すぐに劣化して消えてしまう鉛筆では長期的な保存に適さない。水にぬれたり汚れたりして字が読めなくなる可能性だって否定できない。どうにも心許ないものを感じつつ、それでも鉛筆で代用させるしかないとため息をついて決意を固める。実際にはペンと便箋を所持しているのはレイジだけではない。レイジには「面識のある人間で便箋とペンを所持してるのはきみだけだ」と嘘をついたが、僕はこの目でリョウが手紙を持って房から出てきたのを目撃している。手紙を書くために必要な道具の一式はリョウも持っているはずなのだ。
 ただ、恵を侮辱した人間に頭を下げてものを借りるなんて真似は言語道断だからまえもって選択肢から外していただけだ。
 思いだす。小箱の中に保管されていた手紙、毛羽だちの目立ちはじめた古い便箋、ひらがなばかりの手書きの文字。
 サムライ宛の手紙に使われていた筆記具も鉛筆だった。今思い起こせばずいぶんと拙い文面だった、はっきり読み取れたのは一文だけだが筆跡もずいぶんと乱れていた。まるで生まれてからこの方ろくな教育を受けず、読み書きも満足にできない人物が書いたような……
 あの手紙の差出人はだれだろう。
 サムライの肉親という線はあるだろうか。本人が語ったところによればサムライは既に両親を亡くしている、母親は幼少期に他界して父親は彼自ら伝家の宝刀で惨殺した。サムライの家族構成は知らないがもし兄弟がいると仮定して、両親を殺害して刑務所に服役中の身内の身を案じて手紙を送ってくる可能性は考えられるだろうか……皆無とは言い切れないが、どうしても釈然としないものが残る。
 サムライに手紙を送るくらいなのだから、差出人はサムライの身を真摯に案じているのだろう。
 おそらくその人物は外の世界で彼の帰りを待ち続けているのだろう。彼が東京プリズンで元気にしているか案じ、その身を慮り、一日でも早く顔が見たいと狂おしく焦がれているのだろう。
 誰だ、それは?
 あのサムライにそんな奇特な人物がいるとは思えない、絶対にありえない。あの無愛想でとっつきにくい男に、レイジ以上になにを考えてるかわからない謎めいた男にそんな人間がいるなんて。
 胸が疼く。
 あのサムライにだって出所の日を待っててくれる人間がいるのに、刑務所に入れられた今でも身を案じて手紙をくれるような人間がいるのに僕にはだれもいない―否、だれもいないなんて思いたくない。そんなはずがない、僕には恵がいる。外では必ず恵が待っててくれると無根拠に思いこんでいられた、これまでは。
 それが盲目的かつ一方的な思いこみに過ぎないとわかったのは、あの日、冷たい雨の中で恵に拒絶されたことを思い出した時だ。
 妹に死ねと願われてる人間のもとに本人から手紙が届くわけがない。
 常識的に考えればすぐにわかることだ―……わかることなのに。
 それでも僕は手紙を書こうとしている。恵をさらにさらに苦しめると予期していながら、それでも手紙を書こうとしている。
 唾棄すべき人間だ。見下げ果てた人間だ。
 そして何よりも、酷い兄だ。

                               +

 
 

 腕が疲れた。
 レイジの代筆を手伝ってから早いもので一週間が経過する。この一週間というもの殆ど寝不足の徹夜続きでイエローワークの作業中もシャベルによりかかってうつらうつらしていることが多い。ほんの二・三分、長くても五分の居眠りを見逃してくれるような寛容な看守にあたればいいのだが、どこかのタジマのように短気な看守に目をつけられたときは最悪だ。容赦なく警棒で殴られて地に這わされる。砂に膝をついてもすぐさま立ち上がらなければそのまま事故を装って埋められるから、一瞬たりとも気を抜くことはできない。
 もっとも入所二ヶ月が経過し、僕もだいぶ要領が呑みこめてきた。
 炎天下での肉体労働は相変わらず辛く過酷だが、看守が目をはなした隙にシャベルにもたれて休む余裕はでてきた。周囲の囚人を見渡せば、現場監督の看守が他のエリアを見に立ち去ったそのすぐ後に休憩をとっている。露見しない程度に手を抜くコツさえ掴めればイエローワークの現場でも貧血と熱中症を併発して倒れるような最悪の事態は防げるのだ。
 腕が疲れているのは何もシャベルを振りすぎたからではない、夜通し鉛筆を握っているからだ。恵への手紙は冒頭からつまずいた。なにを書けばいいのか皆目見当がつかない、だいたい僕は手紙を書いた経験など一度もない。なにをどう書き出せばいいのかわからずに途方に暮れた僕は、長い長い逡巡の末にサムライに下読みを頼んだ。
 誤解しないで欲しい。自分の手に余る事態が発生したからといって無闇やたらと他人を頼るのは本意ではない、自分の力と頭脳で解決できることならとっくにそうしている。
 僕は天才だ、天才に不可能はない。
 しかし、僕が今から手紙を書こうとしているのはこの世でいちばん大事な妹なのだ。
 絶対に恥をかきたくない、恵に弱味を見せたくない。なんでもできる完璧な兄という理想像を崩したくない。不可能を可能にするのが天才なら書いたことない手紙も完璧に書けるはずだ、書き遂げることができるはずだ。
 よって僕は客観性を重視する。純粋なる第三者の視点からでなければ果たして自分が書き上げた手紙が完璧と形容できる物か否か判断できないからだ。
 手紙の下読みをレイジではなくサムライに頼んだのは彼がいちばん近くにいたというのは勿論だが、単純な消去法の帰結でもある。口の軽いレイジよりは口の固いサムライのほうが信用できる、僕が下読みを頼んだことは第三者には絶対口外しないと事前に誓わせた。
 手紙の初稿が出来上がったのはつい三日前だ。
 『どうだ』
 ベッドに腰掛け、少しばかり緊張してサムライの感想を仰ぐ。念のため何度も読み返して確認したが誤字脱字はない。
 問題は内容だ。
 向かいのベッドに腰掛けたサムライは無表情に初稿を黙読していたが、やがて、抑揚に乏しい声で言う。
 『鍵屋崎』
 『なんだ』 
 便箋から顔を上げたサムライが、怪訝そうな目で僕を見る。
 『なぜ延延とゴキブリの生態が書いてあるんだ?』
 ベッドから腰を上げ、サムライのもとまで歩き、手前で立ち止まる。サムライの手元を覗きこみ、苦心惨憺して書き上げた文章を目で辿る。
 「前略 
  恵、元気にしているか。僕は元気とはいえないが、ようやく刑務所での生活にも慣れた頃だ。
  この刑務所にきてまず驚いたのはゴキブリがでることだ。掃除が行き届いた世田谷の実家ではほとんど見かけることがなかったあの忌まわしい生き物だ。
  知っているか恵。
  東京少年刑務所に生息しているのはクロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科。分布:全国 体長:30~35mm 特徴:本州では最も代表的な家屋性害虫種。ただし、南方ではコワモンゴキブリやトビイロゴキブリ等の方が優勢らしい。若齢幼体時は黒い体色で、中胸部全体や触覚の先端が白く、腹部にも一対の白い斑紋がある。成長とともに赤褐色になり、白い部分は目立たなくなる。成虫は全身黒褐色。いうまでもなく雑食性で……」
 『これしか書くことがなかったからだ』
 あっさりと本音を述べる。
 『他に何かないのか』
 『強制労働中に看守に三回警棒で殴られたとか同じ班の囚人に足をひっかけられて転んだとか?』
 皮肉げに自嘲する。いちばんプライドを保ちたい妹への手紙にそんなこと書けるはずがない、兄の面目丸つぶれだ。サムライは何か言いたげにゴキブリの生態について三十行にも及ぶ説明文と僕の顔とを見比べていたが、軽く咳払いして口を開く。
 『鍵屋崎、俺がお前の妹だったら』
 『僕の妹を貴様と一緒にするな』
 恵の方が百万倍かわいい。
 なにを突然突拍子もないことをと非難めいた眼差しを向けた僕を『まあ聞け』と制し、サムライが厳かに断言する。
 『俺がお前の妹だったら延延ゴキブリの生態など語られても迷惑だ』
 『……………………………………じゃあ、なにを書けばいいんだ』
 およそ便箋一枚を費やして記述されたゴキブリの生態を般若心境を読む時と同じ生真面目さで読み返しつつ、サムライが助言する。
 『今の気持ちをありのままに書けばいい』
 今の、恵に対する気持ちをありのままに?それがいちばん難しいのに簡単に言ってくれる。 
 三日前のやりとりを回想し、苛立ちながらシャベルを振るう。今の気持ち、恵に対する罪悪感や呵責の念を上手く言葉にすることができるだろうか。字に置き換えて便箋に書き写すことができるだろうか。この矛盾した気持ち、相反する葛藤をどう表現すればいい?
 伝えたいが、伝えたくない。
 哀しませたくないが、哀しませてしまう。
 恵が現在どうしているか知りたいという欲求は確かに根底にあるが、それ以上に手紙を書くという行為に僕をかりたててるのは気が狂いそうになるほどのはげしい渇望。 
 書かなければ、吐き出さなければ。体の底に沈殿した黒い澱を洗いざらい吐き出してしまわなければ限界だ、これまで辛うじて危うい均衡を保ってきた僕の精神まで狂気と絶望に蝕まれて瓦解してしまう……東京プリズンに収監されたほかの囚人とおなじように。
 ほかの囚人と同じ、狂気の深淵に堕ちてしまう。
 そうなる前に恵に伝えなければ、僕がまだ正気を保っている間にどうしても恵に伝えなければ。
 たとえ恵を哀しませるとわかっていても。
 僕がまだ、恵の兄でいられる間に。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060404051723 | 編集

 裸電球の光が目に痛い。
 天井中央に吊られた裸電球が投じるわずかな明かりをたよりに毛布にくるまり、固くしけったマットレスに横たわり便箋を読み返す。書いては消し書いては消し、その不毛な繰り返しについに終止符を打つ。便箋に散った消しゴムの滓を手で払い、冒頭から末尾まで一気に読み返す。 強制労働終了後はその足で図書室に行き目立たない机の隅で手紙を書いたが、自由時間終了と同時に図書室は閉鎖される。図書室を閉め出された後は房に帰って手紙を書き続け、睡眠時間を削って何度も内容を練り直した。深夜、囚人がちゃんと就寝しているかどうか看守が確かめにきたときは裸電球を消し、毛布にくるまって寝たふりをした。
 格子窓から中を覗き、納得した看守が房の前を去るのを辛抱強く待ち、遠慮がちに裸電球を点けて枕の下に隠した便箋と鉛筆を引っ張り出す。
 とにかく時間が惜しかった。一刻も早く完成させなければと気が急くばかりで一向に納得のいくものができない、何度読み返して熟考しても完璧とはほど遠い稚拙な仕上がりになってしまう。違う、僕が書きたいのはこんな手紙じゃない、こんな陳腐な手紙じゃない。そう思って何度文章を消したことだろう。
 でも、これ以上は無理だ。どんなに足掻いてもこれ以上の手紙は書けそうにない。
 今の自分の気持ちをありのままに言葉にすることができたか自信はない。できるだけ率直に書くよう心がけたつもりだがこの手紙を恵が読んでくれるという保証はない。それでも書かずにはいられなかった、体の底に溜まった澱のようなものを吐き出さずにはいられなかった。ようやく完成した手紙を裸電球に透かし、恵の顔を重ねる。今は仙台の小児精神病棟に収容されている最愛の妹の顔。
 「サムライ、起きているか」
 隣のベッドに控えめに声をかける。反応はない。熟睡しているのだろうかと訝しんだ僕の耳をかすかな声が打つ。
 「…………なんだ」
 寝起きの不機嫌そうな声だ。毛布にくるまり背中を向けたままのサムライにちらりと目をやりどう切り出したらいいものかと逡巡する。毛布をどけてベッドに腰掛ける。こちらに背中を向けたままのサムライを見つめ、ごくりと唾を飲み下す。
 「手紙を読んで欲しいんだ。いいか?」
 こんな時間に非常識な、という考えが脳裏を掠めなかったわけではない。
 今は深夜だ、夜明けもさほど遠くない時刻だろう。常識的な囚人ならぐっすりと寝入っている頃合だ。サムライも僕が声をかけるまでは熟睡していたのかもしれない、気のせいか声のトーンがいつもより低かった。朝まで、せめて強制労働終了後の自由時間まで待てないものかと自制する気持ちも片方ではあったが生殺しの状態ではそれまで保ちそうにないのが本音だ。
 早くこの手紙を恵に届けたい、今の気持ちを恵に伝えたい。
 だから―……この手紙が妹に出して恥ずかしくないものか、冷静かつ公平な目を持った第三者に確かめて欲しい。
 固唾を呑んでサムライの反応を待つ。裸電球の薄ぼやけた光の下でサムライが寝返りを打ち、毛布をはだけて起き上がる。ベッドに上体を起こしたサムライが体ごと僕に向き直る。
 「貸せ」
 無造作に突き出された片手に肩の力を抜く。どうやら読んでくれるらしい。サムライの方に身を乗り出し、痩せさらばえた手に便箋を渡す。手紙を渡すとき、てのひらを深々と抉った古い刀傷が目に入った。サムライがサムライたる証、幼少期からの過酷な修行を物語る傷痕。
 僕が傷痕に見入っていることに気付いたか、スッと手をひっこめたサムライが淡白な無表情で手紙に目を落とす。
 静寂。
 裸電球がジジジ、と唸る音さえ聞こえてきそうな重苦しい沈黙だった。裸電球の領域の外には闇の帳が落ちている。壁を通して聞こえてくるのは悪夢にうなされる囚人の寝言と衣擦れ音だけだ。
 長かった。実際にはそれほど経過してないのだろうか、体感時間では半日にも等しかった。
 所在なげにベッドに腰掛けた僕は落ち着きなく五指を組み換えつつサムライを盗み見る。何を考えてるか他人に悟らせない無表情は相変わらずだが、かさりと便箋をめくる手つきは無骨な指に似合わぬほど優しく繊細だ。
 「前略」
 サムライがおもむろに一言を発し、危うく心臓が止まりそうになる。  
 はじかれたように顔を上げた僕を鋭い目で一瞥し、サムライが音読を始める。やめろ、そのさきは言うな、何も音読することはないだろうと声を荒げかけたが今が深夜で付近を看守が巡回している可能性があることを思い出し、ハッと口を閉ざす。

 『前略

  恵、元気にしているか。
  僕は元気とは言えないが、二ヶ月が経って刑務所での生活にも慣れてきた頃だ。
  ここでの生活ははっきり言ってきつい。囚人にはプライバシーが存在しない、なにをするにも厳しく規則と時間が定められている。
  唯一の娯楽は読書だ。
  東京少年刑務所には蔵書の充実した図書室があり、強制労働終了後の自由時間はいつも囚人たちで賑わっている(最も図書室が賑わっていては困るのだが)驚いたことに漫画もある。僕は漫画なんて下等な書物は読まないから関係ないが、囚人たちにはシェークスピアやドエトエフスキーなどの古典文学よりよほど需要があるらしい。漫画の書架がある一角だけ異常に人の出入りが激しいのはそのためだ。他の囚人は図書閲覧が目的ではなく、気の合う仲間とだべるのが目的で図書室に入り浸っている。本当に低俗な連中だ、ひとり本を読みながら彼らの猥褻なジョークや下品な笑い声を隣で聞かされる僕の身にもなってほしい。図書室はあくまで本を読む場所であって大きな声をあげて雑談に興じるところでは断じてないと主張したい。
 ……こんな話つまらないな。手紙を書くのは初めてだから、なにをどう書き始めたらいいかわからないんだ。
 僕のことなんかどうでもいい、知りたいのは恵のことだ。
 ある看守から恵は今仙台の小児精神病棟にいると聞いた。本当にそうなのか?……なんだか間抜けな質問だな。東京少年刑務所にいる限り外の情報は殆ど入ってこない、たとえ外で大地震が起きても東京少年刑務所では変わりない日常が続くんじゃないかと思わせるほどだ。囚人の手に渡る情報は厳しく制限されている。実際図書室に足を運んでも新聞を見ることはできない、図書室の蔵書は豊富だと前に述べたが現在の世相を知るための手がかりとなる新聞や雑誌は一切おかれてないのが実状だ。それには一応理由がある。事件を報じるのを主目的とした新聞や雑誌には東京少年刑務所に収監された囚人の顔写真や履歴が記載されていることがままある。看守の口から囚人のプライバシーがもれることはあるとしても表向きにはプライバシー保護の方針が生きているため、『上』が雑誌や新聞を検閲して東京刑務所に送致されてきた囚人のデータが看守以外の人間の目に触れることがないようはからってるんだ。
 だからここには、外の情報が一切届かない。外で起こった出来事はすべて看守の口を介して知らされるだけで真偽を確かめる術もない。
 僕は看守の言葉を信用するしかない……彼は嘘を言っているようには見えなかった。
 恵。お前はたぶん、本当に仙台の小児精神病棟にいるんだろう。
 あの出来事が起きてから、お前は八王子の叔母夫婦に預けられたと取調室で聞かされた。実はそう聞かされて、少しだけ安心したんだ。 子供のいない叔母夫婦は恵のことを実の娘のように可愛がっていたし、お前もすごく懐いていただろう。
 あんな家にいるよりその方がずっといいと、心のどこかでそう思っていたんだ。

 思ってしまったんだ。
 馬鹿だった。 

 僕は本当に浅はかだった。両親を殺されてひとりぼっちになった恵がそれで喜ぶはずがないのに、叔母夫婦のもとで幸せになれるわけがないのに、ただ彼らのほうが人の子の親として相応しい人間だという一点で楽観していた僕はどうしようもなく馬鹿だった。
 
 いまさらこんなこと聞きたくないよな。
 僕はもう、恵の兄である資格を失ってしまったんだから。

 恵、教えてくれ。
 今どうしてる。元気にしてるか?不自由はないか?病院の食事はおいしいか?
 小さい頃、恵は絵を描くのが好きだったよな。あの家にいた頃もひとりでずっと絵を描いてた。クレヨンを握って脇目もふらずに熱中して、僕が声をかけても気付かないことがよくあった。
 あれはまだ恵が六歳ぐらいの頃だ。
 自分の部屋で本を読んでいた僕のところに画用紙いっぱいにクレヨンを塗りたくった絵を持ってきてくれた。父親でも母親でもなく、完成した絵をいちばんに僕に見せにきてくれた。
 その絵には四人の人間が描かれていた。
 僕と恵と、父と母と。
 ……たぶん、あれは僕だよな。メガネらしきまるいものをかけていたし、そうだと思うんだが。両手の指が六本あるように見えたのはかなり斬新な抽象表現だな、ピカソの再来かと思った。
 両親はすぐにわかった。お世辞じゃなくてよく描けていたぞ。あのむすっとした顔はそっくりだった。恵はピアノだけじゃなくて絵の才能もあるな。
 その四人は手をつないでいた。
 最初僕はなんで手をつないでるのか不思議だった。実際のぼくたちは一度も手をつないだことがない。いや、それ以前に親子で手をつないでどこかへ遊びにでかけることがなかったから『手をつなぐ』という行為が意味するものがよくわからなかった。
 だって、手なんてさわったら汚いじゃないか。
 僕はもう物心ついたときからそう思っていた。今思い返せば父の影響だ。父は僕以上の潔癖症で常に身辺を清潔に保っていたし、一つ屋根の下の家族にもそうするよう強制していた。ノブに手形がつくのを毛嫌いし、塵ひとつでも机に残っていれば家政婦を呼びつけて容赦なく叱責するような狭量な男だった、彼は。……僕と似てるな。
 だから最初その絵を見た時、ただただ疑問だったんだ。なんで彼らが手をつないでいるのかわからなくて恵に聞いてみたら、たしかこう答えたよな。

 『普通の家族ならこうするよ』って。  
  
 今でも疑問なんだが、恵はどこで普通の基準を知ったんだ?
 テレビか?それとも学校か?
 僕はそんなこと知らなかった。あの家が、あの両親こそ僕にとっての「普通」の基準だったんだ。
 でも今思えば、恵がそれを絵に描いたというのは無意識の願望の表出だったんじゃないか?
 現実には手をつないだことない家族が絵の中では手をつないでいた。恵はずっとそうしたかったんじゃないか?普通の家族がしているようにみんなで手をつなぎたかったんじゃないか?
 僕は今でも人にさわるのが不快でしょうがない。人にさわられるのも同様だ。手をつなぐなんて冗談じゃない、そんな気持ち悪いことはしたくない……ただひとりの例外を除いては。

 その例外が恵だったんだ。

 叔母の家にピアノがあるかどうかは知らないし病院にはたぶんピアノがないだろうから、今恵ができることといえば絵を描くことくらいだ。違うか?世田谷の家にあったピアノはどうなったんだろう、業者に処分されてしまったんだろうか。
 また恵のピアノが聞きたい。またショパンを聞かせて欲しい。
 ……なんて、無理だよな。嫌だよな。恵はもう僕の顔なんか見たくないだろうし、いっそ存在自体を忘れてしまいたいだろう。
 ……こんなことを言えた立場じゃないのは十分すぎるほどわかってる。
 でも、ひとつだけ頼みがある。図々しい願いだと承知している、理解している。
 全部わかった上で、これだけは言わせてくれ。

  僕のことを憎んでかまわないから、忘れないでほしい。
  僕の存在を『無かったこと』にしないでほしい。

 わかっている。いっそ僕のことなんか忘れてしまったほうが恵がラクになれるとわかってるんだ。
 こんな最低の人間のことなんて一日も早く忘れてしまうに限る、十五年一つ屋根の下で暮らした両親を刺殺するような見下げ果てた人間のことなど覚えていても意味がない。
 恵だって、自分をひとりぼっちにした人間のことなんか覚えていたくないだろう。
 あの日僕に死んでほしいと言ったのは誓って本当だろう。
 だが、僕はまだ死ねそうにない。
 ……恵から両親を奪っておいて自分は死ねないなんて、図々しいな。でも、時間の問題だと思う。心が先か体が先かはわからないが僕が死ぬ日はそう遠くない気がする。僕の懲役は八十年、八十年たったら九十五歳だ。懲役刑を生きて終えるのはまず絶望的だ。
 どのみち恵が生きている間はここを出られそうにない。
 僕はもう二度と恵に逢えない……なにをいまさら、だ。両親を殺して恵をひとりぼっちにさせておいて合わす顔もないだろうに。
 だからせめて、僕のことを忘れないでほしい。
 恵の記憶から消されたら僕の存在には何の意味もなくなってしまう、僕の人生には何の意義もなくなってしまう。
 贅沢な願いだ。贅沢な望みだ。
 親殺しの人殺しのくせに自分の立場もわきまえないでこんなことを言い出すなんてと恵は軽蔑するだろう。
 それでいいんだ。永遠に憎まれることで恵の心の片隅に存在できるなら、それで十分だ。
 ……鉛筆をおいて読み返してみたが、主旨のよくわからない変な手紙になってしまった。
 おまけに支離滅裂でまとまりのない文章で、とても僕のような天才が書いたものとは思えない。論文を書くようにスムーズにいけばいいのに、なんで手紙を書くのにこんなに時間がかかるんだろう。
 長々と書いてしまったが、これで終わりにする。
 恵が嫌ならもう手紙は書かない、これきりにする。…返事は書かなくていい。書いてくれれば嬉しいけど本来僕は強要できる立場じゃない、この手紙を読むという行為そのものが恵に苦痛を強いることを考えればこれきりにするのが最善だろう。
 最後に、恵がまたピアノが弾ける日がくることを祈ってる。心の底から』
 
 ……長い長い沈黙だった。
 手紙から顔を上げたサムライがまっすぐに僕を見る。
 「いい手紙だ」
 サムライの笑顔を見るのは初めてだ。
 ひどく落ち着いて大人びた笑い方だが、思っていたより年寄りくさくはない。 
 笑うと老ける人間と若く見える人間がいるというがサムライはどうやら後者のタイプだったらしい、と関係ないことを考えていたのは顔が熱くてその目を直視する勇気が湧かなかったからだ。
 ベッドから腰をあげ、サムライの手から手紙を毟り取る。サムライに背を向けて自分のベッドに戻り、枕元の鉛筆を手に取り命じる。
 「サムライ、僕がいいと言うまでむこうを向いていてくれないか」
 「?なぜだ」
 「いいから。絶対に振り向くなよ」
 それ以上は追及せずサムライが壁の方を向いたのを確かめ、便箋の末尾、最後の一行を書き加える。サムライに読まれることを前提にしたらどうしても書けなかった最後の一行を。
 
 『なにもできない、だめなお兄ちゃんですまなかった』

 句点を打ってから振り向き、サムライが壁の方を向いたままでいるのを確かめて心底安堵する。
 よりにもよってサムライに声にだして最後の一行を読まれるくらいなら、今この場で蒸発して消えてしまったほうがマシだ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060403051845 | 編集

 「これがシンディこれがレイチェルこれがチェマム……」
 さっきから延延と長ったらしい呪文が続いている。
 出所は向かいのベッドだ。壁の方を向いて無視を決め込もうにもこれもまた嫌がらせの一環なのか一向に呪文が止む気配がない。軽快な節回しで延延と女の名前を連ねてゆく男の方を見れば奴ときたらでれでれと鼻の下を伸ばしていた。
 「なにやってんだよ、気色悪い」
 ベッドに肘をついて寝返りを打ち、レイジの方を向く。次から次へと手紙に接吻していたレイジが笑みを含んだ上目遣いで俺を仰ぐ。
 「仕上げに愛をこめてんだよ」
 「へいへい」
 また何か頭の沸いたこと言い出したぞ。
 「なんだよ信じてねえな」
 うんざり気味にそっぽを向いた俺にレイジがさも心外なといわんばかりに食いついてくる。奴の膝に積まれているのは娑婆の女への返事が二十通ばかり、そのうち半分は鍵屋崎に代筆を頼んだものだろう。他人に代筆させた手紙に仕上げのキスを施して真心こめたつもりになってるような男は世の女から刺されて当然だと思う。むしろ刺されろ。
 べつにレイジが手紙にキスしてゆくさまなんて眺めていたくはないが同じ房にいるためどうしても声が聞こえてしまう、わざわざ声に出して娑婆の女の名前を挙げ連ねることもないだろうに俺に対する嫌がらせか?と襟首を掴んで問いつめたい心境だが、モテない男の僻みだと鼻で笑われても癪だしぐっと堪える。
 「これがルーシーこれが杏奈これがサマンサこれがマイケル……」
 限界だ。しかも最後男じゃねえか。
 ベッドから腰を上げ、疾風のようにレイジの前を駆け抜ける。ノブに手をかけるのと背中に声がかかるのは同時だった。
 「どこ行くんだよ」
 「お前のツラが見えないところだ」
 「さては女に嫉妬したな」
 「死ね」
 ありたけの殺意をこめて振り返れば、手にした手紙にきざったらしくキスを落としながら女を駄目にする色男の顔でレイジが微笑む。
 「お前にもキスしてやろうか」
 「別開弄笑(悪い冗談はやめろ)」
 想像したら吐き気がしてきた。
 調子づいたレイジが実力行使に及ばないうちに一刻も早く房を立ち去るにかぎると決意してノブを捻る。バタンと閉じた鉄扉によりかかりさてどこへ行こうかと候補を挙げる。夕食終了後の自由時間が始まってからまだ十分しか経過してない、多少は遠出できる時間的余裕もある。この前と同じく展望台に足を向けるのも芸がない、とはいえ他に行く所といえば限定される。黄昏の中庭では強制労働でも潰れずに体力を有り余らせた囚人が腕づく力づくでバスケットボールを奪い合ってる、命が惜しけりゃ殆ど球技じゃなく格闘技の様相を呈してきたゲームに途中参加するのはやめたほうがいい。
 まあ、中国系が幅を利かせてる東棟の中庭に俺がひょっこりと顔を出したところで歓迎されるわけもないからこの案はあっさり却下。
 行く先を決めずにぶらぶらと廊下を歩いてるうちにふと気まぐれを起こし、中央棟へと通じる渡り廊下に足を向ける。
 図書室に行こう。
 言っとくが、俺が自発的に図書室に行くことなど滅多にない。ああ見えて読書家のレイジは足繁く図書室に通っているが俺が図書室に顔を出すなんて一ヶ月に一回あるかないかだ。活字を見ると眩暈がする体質なのだ、自然と図書室から足も遠ざかろうといもの。
 だが、図書室にあるのは小難しい本ばかりではない。図書室だって伊達に広い面積は有してない、二階奥の書架には一面ずらりと漫画が並んでいて一歩足を踏み入れればなかなか壮観な眺めに酔える。
 正直、俺は日本語があまり得意じゃない。俺が物心ついたときからまわりの大人たちは台湾華語をしゃべっていた、台湾華語が飛び交うスラムで生まれ育ったガキは当たり前の習いで台湾華語をしゃべるようになる。お袋のところにやってくる客には日本人も多かったし、その影響で日常会話に不自由しない程度には日本語も話せるが決して語彙が豊富とはいえない、読み書きとなると殆どお手上げだ。図書室の本はもちろん日本語で記述されてる、中には中国語や英語で書かれた本もあるがそんなのは全体の一割にすぎない。現在刑務所に収監されてる囚人の八割はしゃべるぶんにはともかく日本語の読み書きは絶望的なスラム育ちだというのにまったく不親切だ、日本語の本なんて日本人しか読めねえじゃねえか。
 その点漫画ならコマを追ってりゃストーリーの大枠は理解できる、理解できない台詞を飛ばしたところで支障はない。気晴らしにテヅカの漫画を読み耽るのもいいだろうと閃き、滅多に足を運ばない図書室の扉を開ける。
 図書室の扉は分厚い鉄板の両開きで無駄に威圧的な構えをしている。
 錆びた軋り音をあげながら開いた扉の向こうには三階まで吹き抜けの開放的な空間が在った。閉塞感に息が詰まりそうな房の天井に慣れた身には戸惑いと違和感が禁じえない。整然と並んだ書架には娯楽小説から古典文学さらにはノンフィクションに至るまであらゆる本という本が詰め込まれているが、大抵の囚人は本になんて見向きもせずに閲覧用の机を陣取ってくっちゃべっている。
 なかでも一際騒がしい一隅に目をやった俺はおもわず顔をしかめる。見知った奴がいた、凱の取り巻き連中が何人か紛れ込んでる。向こうに気付かれる前に手近の書架にさっと隠れる。なんで何もやましいことをしてない俺がネズミのように逃げ隠れしなきゃなんねえんだと腹の底では不満が燻っていたが、俺を目の敵にしてる連中に因縁ふっかけられてトラブルに巻き込まれるのは願い下げだ。
 ちらりとカウンターに目をやる。
 カウンターの端っこに肘をついてあくびをしてるのは図書室に常駐してる看守だ。囚人が騒ぎを起こさないように立ちん坊をしている名目だがそれも所詮お飾りにすぎない、そりゃ看守の目の届くところで喧嘩をおっぱじめるような馬鹿はいないだろうが書架にさえぎられた死角ともなれば話は別だ。念には念をいれて行動するべきだろう、東京プリズンじゃどこでなにが起きてもおかしくない。
 書架の影に隠れ、二階へと上る階段めざして摺り足で移動している途中、見覚えのある顔が視界を過ぎる。
 凱の子分じゃない。
 図書室の奥まった場所にある机の隅、ひとりで座ってるアイツは―……
 鍵屋崎だ。
 「物好きだな」
 自分のことは棚に上げ、呟く。漫画ならともかく、活字恋しさに図書室に入り浸るような奇特な囚人がレイジ以外にもいたなんてと呆れる。そこまで考えてふと違和感をおぼえる、鍵屋崎が珍しく本を開いてなかったからだ。本はある。が、机上にページを開いて放置されたままだ。じゃあ当の本人はなにをしてるのだろうと訝りつつ手元に目をやった俺は眉をひそめる。
 手紙だ。
 鍵屋崎は手紙を読んでいた。五枚重ねた便箋を慎重な手つきでめくり、怖いくらい真剣な顔つきで目を通してゆく。いつにも増して近寄り難い雰囲気を纏った鍵屋崎の方へ吸い寄せられるように足を踏み出す。10メートル、8メートル、5メートル……珍しい、あの神経質な鍵屋崎が自分の5メートル以内に他人が接近しても気付かないなんて。あんまり無防備すぎてこっちが心配になってくる、今背後から襲われたらひとたまりもないじゃんか。
 『請問一下(聞いていいか)』
 『煩雑不可以(わずらわしいからだめだ)』  
 おい待て、そこは「何をだ?」と返すところだろう。あてつけがましく台湾語で拒否された俺はムキになり、反射的に嫌味で応じる。
 『我抽煙這裡可以馬?(ここでタバコ吸ってもいいか)』
 カサリと音が鳴る。
 折り重ねた手紙を机上に伏せて振り向いた鍵屋崎が凍った針のような軽蔑の眼差しをむけてくる。
 『弥不可以抽煙(図書室は禁煙だ)』
 「冗談だよ」
 日本語に切り替え、鍵屋崎の隣の椅子を引いて腰掛ける。椅子の脚が床を擦る音を聞きとがめた鍵屋崎があからさまに不機嫌になるが50センチしか離れてない場所に座るからってわざわざコイツの許可をとる義務はないだろう。俺は日本人が嫌いだ、日本人のご機嫌窺いなんてまっぴらごめんだ。
 「タバコはもう吸っちまった」
 「それは結構なことだ。きみの将来的な肺がん発症率は0.5パーセント上昇したな」
 「ひとの死因をかってに決め付けんな」 
 「誤解しないでくれ、きみの死因になど興味はない。刺殺だろうが絞殺だろうが殴殺だろうが僕は一切関知しない」
 「かってに他殺だと決め付けんな」
 軽口をたたきつつ、気のない素振りで手紙を盗み見ようとしたらサッとてのひらで隠された。バレたか。
 「図々しいな。隣に座るのを許可した覚えはないぞ」
 どうしてこう偉そうなんだろうか、自覚がないんだとしたら逆にたいしたものだ。
 「妹への手紙、書きあがったのか」
 「…………ああ」
 無意識に手紙を庇った鍵屋崎が警戒心をむきだして椅子ごとあとじさり俺から距離をとる。そんなに見せたくないのかよ、重箱の隅をつつくような完璧主義の上に秘密主義の二重苦じゃそりゃトモダチできねえはずだ。……俺もひとのこと言える立場じゃねえけどさ。
 鍵屋崎のてのひらには鉛筆の跡がついていた。察するに図書室奥の机の隅で今の今まで手直しを加えてたんだろう、ご苦労なこった。
 「いいお兄ちゃんだな」
 椅子の背もたれに腕をかけて揺らしながら、レイジによく似たいやらしい笑みが顔に浮かぶのを自覚する。俺の口をぽろりとついてでた皮肉に鍵屋崎が気色ばむ。
 「馬鹿にしてるのか?」
 「よくわかったな」
 俺らしくもねえ。
 鍵屋崎に喧嘩を売ってどうする、コイツに冗談が通じないなんてわかりきったことじゃねえか。なんでこんなに腹が立つんだ、なんでこんなに苛立ってるんだ?自分で自分の行動を不審に思いつつ、それでも一度回りだした舌は止まらない。
 「まったく日本人ってのは物好きだよな、わざわざ檻の中から手紙を書いて出そうなんて奴の気がしれねえ。頼まれたわけでもねーのによ」
 椅子を軋ませながら言い放つ。
 「娑婆から手紙がきたんならわかるよ、返事をだすのが礼儀だもんな。でも」
 そこで一呼吸おき、鍵屋崎に向き直る。
 「お前にいつ手紙が来たんだよ」
 神経がささくれだって、いつにも増して攻撃的になってるのが自分でもよくわかる。それでも言わずにはいられなかった、図書室の奥で手紙を見直してる鍵屋崎の背中を見た時からそのみじめな境遇を自分と重ねずにはいられなかった。
 だれからも手紙なんかこないくせに、今だに娑婆への未練を捨てきれずにみっともなく足掻いてるコイツが自分と重なって自己嫌悪に押し潰されそうで耐えられなかった。 

 お前はだれからも必要とされてない、だれからも待たれていない。
 何の意味も価値もない人間なんだという現実が足の先から染みてくるようで。

 「…………放っといてくれ」
 神経質な手つきで手紙をかさねて折りたたみ、封筒にいれる。その封筒を本のページに挟んで腰を上げる。椅子を軋らせて立ち上がった鍵屋崎は俺の方を見もせず淡々と言う。
 「たしかにきみの言い分も一理ある、人と人とのコミュニケーションは双方向の意思疎通でしか成立しえない。頼まれてもない人間に手紙を書くなんて行為ははっきり言って自己中の極み、一方的に気持ちを押し付ける自己満足の典型症例でしかない」
 機械のように無機質で平板な声にはなんの感情もこめられてない、寂しさも自己嫌悪もその声からは感じられない。
 ただ、事実を事実としてありのままに告げていただけの声に初めて感情らしきものがこもる。
 「だからなんだ」
 鍵屋崎が毅然と顔を上げ、挑むような眼差しを俺の顔へと叩きつける。
 眼鏡越しの貫くような視線……心の奥底に溜まった澱をかきまぜて波立たせるような、真っ直ぐすぎて怖いほどの目。
 「書きたいから書くんだ。自己満足のどこが悪い」
 「…………物好きな日本人」
 それしか言えなかった。言い返せなかった。
 相手は口ばかり達者な日本人なのに、一発拳をくれてやればそれで参っちまうような軟弱な奴なのに、ストリートで喧嘩慣れしたこの俺が気圧されて何もいえなくなっちまうほど鍵屋崎の眼光は力強かった。小脇に本を抱えた鍵屋崎が書架と書架の間に消えてゆく。
 ガン!!
 腹立ち紛れに机を蹴る。足が痺れた。俺に八つ当たりされた机が斜めにずれ、最前まで鍵屋崎が座っていた椅子が連動して倒れる。知るか。頼まれてもないのに手紙を書こうなんて発起する奴の気がしれねえ、だれからも必要とされてないのにアイツときたらまだ縋ってる、まだ諦めてないのかよ。
 まったく情けない奴だ、どこかのだれかそっくりの。
 「畜生、俺じゃねえか…………」
 鍵屋崎は俺にそっくりだ。本当に、嫌になるほど。 
 漫画を読む気は失せた。
 図書室までやってきながら鍵屋崎のお高くとまったツラを見て読書意欲がすっかり失せてしまった。仕方なく椅子を立ち、もときた廊下を引き返す。幸い凱の子分に見咎められることなくカウンターの前を通過し、東棟へと戻る渡り廊下を歩く。すれ違う囚人すれ違う囚人片っ端から胸ぐらを掴んで殴り倒したい気分だ、いつもは抑制してる暴力衝動が理性の枷を破って沸々とこみあげてくる。
 耳によみがえるのは自分の声。
 『まったく日本人ってのは物好きだよな、わざわざ檻の中から手紙を書いて出そうなんて奴の気がしれねえ。頼まれたわけでもねーのによ』
 頼まれたわけでもないのに、必要とされてるわけでもないのに。
 『娑婆から手紙がきたんならわかるよ、返事をだすのが礼儀だもんな。でも』
 娑婆から手紙が届けば返事をだす口実ができる、手紙をだす口実ができる。でも。
 『お前にいつ手紙がきたんだよ』
 俺に、お前に、いつ手紙がきたんだ?なんで娑婆から手紙が届いてもないのに相手に書こうなんて気を起こすんだ。そんなのただの道化じゃねえか、みじめすぎて滑稽すぎて笑えもしねえ。11の時アパートを飛び出てからお袋とは会ってない、お袋が今でもあのアパートに住んでる保証はどこにもない。手紙を出したところで住所不定で戻ってきてしまう可能性は捨てきれない、いや、それよりなにより俺から手紙が届いたところであのお袋が涙を流して喜ぶか?とうの昔に喧嘩別れしたきり行方不明の音沙汰知れずだったガキから今頃手紙が届いたところで母性愛に目覚めるようなタマかよ、あの淫売が。
 なんで見返りを期待せずにそんなことができる?
 傷つくだけだと、さらに絶望を深めるだけだと諦観していながら自分から手紙を出すなんて真似ができるんだ?
 俺と鍵屋崎は似てるけど俺にはアイツがわからない。俺は生まれも育ちも卑しい人間だ、淫売の台湾人と放蕩者の中国人の間に生まれた薄汚い混血だ。だから性根まで卑しいのか、考え方まで卑しくなるのか?
 俺にはできない。
 期待して裏切られるのはごめんだ、拒絶されるのはいやだ。俺はずっとお袋に振り向いてほしかった、ガキの頃からずっと。11で家を出てやっと未練を吹っ切ったと思ったのに、いまさら、こんなー……

 『書きたいから書くんだ。自己満足で悪いか』  
 なんでアイツは、拒絶されるのが怖くないんだ?

 「なんだこりゃあ」
 条件反射で体が強張る。
 場所は東棟の廊下。房に帰ろうと歩いていた俺の足をその場に縫い止めたのは酒焼けした野太い声ー……天敵のタジマの声。イエローワークの仕事が終了して中央棟の詰め所に戻ろうとしていたところらしい。よりにもよってタジマとでくわしちまうなんてと自分の運の悪さを呪ったのも束の間、奴の手に掲げられている白い封筒にぎょっとする。
 図書室の光景がフラッシュバックする。
 椅子に腰掛けた鍵屋崎、開かれた本のページ、その間に挟まれていたのは白い封筒―……タジマが手にしているのと同じ封筒。
 廊下の角に隠れ、少しだけ顔をだす。手中の封筒をじろじろ眺めていたタジマの眉間に皺が寄る。
 「なになに宛名は『鍵屋崎 恵様』……鍵屋崎だあ?」
 やばい。
 封筒を裏返して差出人名を確かめたタジマ、すっと眉間の皺が晴れ、絵に描いたような企み顔に切り替わる。
 「あのクソかわいげねえ親殺しの手紙がなんでこんなとこに落ちてんだよ。……にしても、看守の許可なく娑婆の身内に手紙だそうなんてこずるいこと考えるじゃねえか。さすがIQ180の天才は出来が違う、どっからか封筒まで手に入れやがって」
 なんでこんな廊下のど真ん中に手紙を落としたまま気付かないで行っちまうんだよ。
 声を大にして鍵屋崎を罵りたいが生憎と本人の姿は跡片もない。廊下のど真ん中を占領してすれ違う囚人の注意を浴びているのはタジマとその隣の看守……名前はたしか五十嵐。短気で傲慢で囚人よりタチの悪い奴ばかりと盛大に嘆かれる東京プリズンの看守の中では、珍しく囚人を人間扱いしてくれる出来た看守だ。その五十嵐を振り返り、にやにやとタジマが続ける。
 「中、見てみるか」
 「よせよ」
 五十嵐が諌める。が、タジマはこれを無視。まだ糊付けされてなかった封筒を逆さにして便箋をとりだすや、ざっと目を通しにかかる。
 「どうした」
 ぎょっとする。
 背後に人の気配を感じて振り向けば半紙を抱えたサムライがいた。
 「お前なんでここに!?」
 「これを干しに行っていた。扉を閉めきった房より風が通る展望台のほうが墨の乾きが早い」 
 まだ墨の匂いも芳しい写経の束を抱えたサムライが前方のタジマに気付き、スッと目を細める。脳裏で警鐘が鳴り響き、瞼の裏側で危険信号が点滅する。破れ鐘のような笑い声で我に返る。壁に隠れて覗き見れば、手紙を握り締めたタジマが大量の唾を撒き散らして爆笑していた。 
 「おい、これ読んでみろよ!笑えるぜ、くそったれの親殺しの分際で実の妹相手にゃずいぶん下手にでてるじゃねえか。シスコンだって噂は本当だったんだなあ、恵恵って何回妹の名前だしてんだよおい」
 「親殺し」の単語にサムライが反応し、俺を押しのけて前にでる。サムライの肩越しに繰り広げられるのはタジマの哄笑とその傍らに立ち尽くす五十嵐のあきれ顔。
 「お前ら、これ見ろよ!」
 渋面を作った同僚を無視し、廊下を行き交う囚人にタジマが呼びかける。なんだなんだと物見高い野次馬が周囲に集まりだしたのに気をよくしたタジマが頭上に高々と手紙を掲げて演説を打つ。
 「この手紙の差出人だれだと思う?聞いて驚け、親殺しの鍵屋崎だ!」
 「かぎやざき?」「サムライと同房の?」「イエローワークだよな」「メガネの」……ひそひそと囁き交わされる声に混じるのは露骨な好奇心と興奮の色。潮騒の如くざわめき始めた囚人を満足げに見下ろし、周囲によく見えるよう頭上に掲げた手紙を打ち振るタジマ。
 「あの天才気取りのクソガキめ、看守に無断で手紙を書いてやがったんだがその内容ときたら……元気にしてるか?さびしくないか?ちゃんと食事はとってるか?だとよ!まるっきり妹にぞっこんの情けねえ兄貴じゃねえか、でれでれ鼻の下のばしながら手紙書いてるところが目に浮かぜ」
 タジマの手の中でがさがさと手紙が鳴り、その光景を想像した囚人たちの間から失笑が漏れる。
 陰湿な喜びに目を炯炯と輝かせたタジマがかん高い声を張り上げる。
 「留めは最後の一行だ。なにもできない、だめなおにいちゃんですまなかった、だとよ!キャラ違うじゃねえか気色わりぃ!!」
 演技感情に最後の一文を読み上げたタジマに囚人が腹を抱えて爆笑する。本気で笑ってる奴もいるだろうが、タジマに追従して大袈裟に笑い転げてる奴も三割はいるだろう。爆笑の渦に包まれた廊下で平静を保ってるのは俺とサムライとあと一人、五十嵐だけ。
 「そのへんにしとけよ」
 さすがに見かねた五十嵐がタジマに注意するが本人に聞き入れる様子はない。制服の胸ポケットからライターを取り出し、親指を上下させてスイッチを押しこむ。
 いやな、予感。
 下劣な笑みを満面に湛え、ライターの火に手紙の角を翳したタジマの腕がぐいと掴まれる。五十嵐が怖い顔をしていた。
 「やりすぎだ、かわいそうだろう」
 「囚人に同情するのかよ」
 「見ろよ。その手紙、何度も消して書き直したあとがあるじゃねえか」
 ちらりと手紙を一瞥するタジマ。しらけた目。
 俺の視線の先、ふたたび五十嵐に向き直ったタジマの言葉に耳を疑う。
 「だからどうした?俺が書いたんじゃねえ」
 絶句した五十嵐がさらになにか言い募ろうとしたのを制したのはタジマの意味ありげな微笑。
 「偽善ぶるなよ、五十嵐。本音じゃここの囚人を憎んでも憎みたりねえくせに」 
 瞬間、五十嵐の目に生じたのは狼狽の波紋。負の感情の汚濁が裂け目から迸るような悲痛な眼差し。
 「………どういう意味だ?」
 「そのとおりの意味だ」
 狼狽した五十嵐の腕を力づくで振りほどき、ライターの火で手紙を炙る。

 ライターの火が手紙に燃え移るのはあっというまだった。

 手紙の右端に点じた炎はみるみる領域を拡大し、便箋を黒く変色させてゆく。焦げ臭い臭気があたりにたちこめ、火に炙られたタジマの顔が地獄の悪鬼の形相に変貌する。タジマの手の中で燃え尽きた便箋がパサリと廊下に落ちる。
 いつのまにか、あれだけうるさかった廊下がしんとしていた。
 水を打ったように静まり返った廊下に響くのはどこか空疎なタジマの哄笑。  
 「せいせいしたぜ。親殺しの手垢がついた手紙なんて長いことさわってたら俺まで親不孝菌が伝染っちまうよ、灰にして空気に返すのが正しいやり方だ。仙台の妹に届かなくて残念だったけどよ、まあ、てめえの親父とお袋を殺した兄貴からの手紙なんて迷惑なだけだよな。両親亡くして傷ついてる女の子をこの上さらに哀しませずに済んでよかったぜ、鍵屋崎にゃ感謝して欲しいもんだな。ああ、今回の礼はケツで払ってくれりゃそれでいいよ!この前はトイレで首締められて興醒めしたからな、今度はちゃんと房のベッドで」

 目の前からサムライの背中が消失。 
 
 廊下に舞い散ったのはサムライの手からこぼれおちた半紙の束。ひらひらと空中を滑ってゆく薄っぺらい半紙にほんの数日前の光景が重なる。展望台のへりに立った孤独な背中、鍵屋崎の手からこぼれた無数の紙片が白い雪のように風に乗り、あたり一面に散らばってゆく。
 あの日の鍵屋崎の背中が今、タジマのもとへ大股に歩んでゆくサムライの背中に被さる。
 「アイツの細腕を組み敷いて細腰を突いて教えてやる、なくした手紙がどうなったか、大事な妹が仙台くんだりの病院でどうしてるか―……」
 ヤニくさい歯を剥きだして念入りに灰を踏みにじっていたタジマは、しかし、最後まで言いきることができなかった。

 サムライが、タジマを殴ったからだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060401052103 | 編集
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