ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 蛍光灯が黄色く輝く廊下を歩く。
 消灯時間が近いせいか俺以外には人影も見当たらない。本来なら巡邏の看守が警棒を担いでやってくるまで毛布にくるまってじっとしてなきゃならない一介の囚人がはるばる房を抜け出て東棟と中央棟を繋ぐ渡り廊下付近まで散策してきたのは物見遊山が目的じゃない、ある直感に突き動かされてだ。
 いや、確信というべきだろうか。
 コンクリート打ち放しの寒々しい壁が延延と連なる無機質な廊下と平行して伸びているのは涯てのない天井、陰鬱な灰色に沈んだ天井に等間隔に連なっているのはところどころガラスが割られて砕けた蛍光灯。朽ちた廃墟のように荒廃した廊下は夜気もひんやりと肌寒く、上着越しの二の腕が鳥肌立つのがわかる。
 あそこに行くのをためらわなかったわけじゃない。
 正直、何度も引き返そうとした。あそこに足を運べばどんな光景が待っているか、だれがどんな格好で待っているか薄々予期できたから。そんな光景は見たくなかった、想像するだに腹立たしくて情けなくてやりきれなくて怒りのぶつけようがなくなる。でも、放っておけない。
 脳裏によみがえるのはつい数時間前の光景。
 図書室から出てきた俺が廊下で遭遇した衝撃的な出来事。タジマの手の中で燃え尽きて灰になった鍵屋崎の手紙、下品な哄笑と散らばる半紙、一直線にタジマに向かってゆくサムライの背中……孤高の武士の背中。
 大股にタジマに歩んでゆくサムライの背中が展望台のへりに立った鍵屋崎の背中とだぶる。背格好も違う、身長も違う。サムライと鍵屋崎に似ているところなんてどこにもない、外見上の共通点なんてどこにもない。それなのに、それでもあの時のサムライはたしかに鍵屋崎と酷似していた。相違点はといえば、鍵屋崎は孤独であろうと意識した上で人を寄せ付けないよう辛辣に振る舞ってるがサムライは自然体で孤高を保っているところだ。
 知能が劣る凡人と馴れ合う趣味はない、と鍵屋崎なら吐き捨てるだろう。だれにも心を開かず心を許さず、異常に高いプライドと天才の自負だけで立っている精神の均衡は危うく、脆い。一方サムライには他人を寄せ付けまいと気負っている節はないが、日常的に身に纏った低温の殺気、なにげない動作の端々から垣間見える鍛え抜かれた身のこなしにはただ居るだけで他人の接近を拒む威圧感がある。
 他人に興味がない鍵屋崎と他人に関心がないサムライ。どっちも自分の世界だけで閉じているように見えたのにサムライはタジマを殴った、囚人が看守に手を上げるということがどういうことかわからなかったはずないのに怒りに任せて我が身を顧みず、殆ど衝動的に。
 サムライが自発的に暴力をふるうところを初めて見た。
 この前の監視塔の一件のように巻き込まれて仕方なく、といった諦観の風情ではない。自分で判断し、自分で考えて行動したのだ。暴力沙汰が嫌いで平和主義なサムライが、明鏡止水の四字熟語を体現するかの如くいつだって冷静沈着、鉄板に目鼻をつけたような無表情を崩さないサムライが看守を殴った。衆人環視の中、おもいっきり。
 サムライはそういう奴だ。
 自分の身に降りかかった災難なら我慢できる、忍耐力の続く限り耐えて耐えて耐え抜くことができる。でも、今回は違う。タジマの標的になったのは同房の鍵屋崎だ。お高くとまったメガネ、エリート崩れの日本人、言うことなすこと偉そうで気に食わない奴、最低最悪の見下げ果てた親殺し。
 唾棄すべき最下等の人間。 
 それでも鍵屋崎を庇った、庇わずにはいられなかった。タジマがしたことは鍵屋崎が苦心惨憺して書き上げた手紙を残忍に踏みにじっただけじゃない、文字どおり人の気持ちを踏みにじる外道の所業だ。サムライは許せなかった、絶対に。
 鍵屋崎のてのひらを思い出す。机に伏せたてのひらは鉛筆で汚れていた。何回、何十回推敲して書き直したのだろうか。あの潔癖症が、手を洗う暇も惜しんで夢中で執筆に励んでいたのだ。ちょっと指と指が触れただけで生理的嫌悪に顔をしかめ、すれちがいざまに肩がぶつかっただけで大仰なしぐさで肩口を払い、眼鏡のレンズに微小な埃が付着すればシャツの裾で執拗に拭わなければ安心できない病的な潔癖症のくせに、妹に手紙を書いてる間だけはそんな些末なこと完全に忘却して鉛筆を握っていた。
 普通の、兄貴の顔をしていた。
 同房のサムライなら俺よりずっと長く鍵屋崎を見てきただろう、奴がどんなに頑張っていたか、どんなに不器用でたどたどしく、それでも精一杯の愛情と謝罪をこめて妹への手紙を書き綴っていたか。
 他人に弱味を見せるのが大嫌いな鍵屋崎の弱味を、ただひとりサムライだけが夜毎垣間見ていたのだ。鍵屋崎もサムライにだけは少しだけ心を許し、心の奥底に抱えこんだ弱味の一端を垣間見せていたのだ。たとえ本人が全否定しても俺にはそうとしか思えない、ほかに頼る奴がいない鍵屋崎が悩みに悩んで頼るとしたらサムライだけだ。寡黙なサムライは寝いりばなを叩き起こされても渋りもせず、隣のベッドに腰掛けた鍵屋崎に真摯に助言してきたのだろう。
 陰ながら努力していた鍵屋崎を知っているなら、タジマのしたことが許せなくて当たり前だ。
 一歩進むごとに気分が重たく塞ぎこんでくる。本音を言うならここで引き返したい、房にひっこんで毛布をかぶって眠りたい。でもそういうわけにはいかない、俺の予想が正しければアイツは今頃サムライがどんな目に遭ってるかもしらずに消灯目前の廊下をうろうろしてるはずだ。
 『本当にきみは、ひとがいいな』
 苦笑する。なるほど、鍵屋崎の言い回しは的を射ていたわけだ。
 自分の人のよさにあきれながらなげやりに足を運んでいるとじきに問題の廊下が見えてくる。昼間、タジマと五十嵐が歩いていた廊下。なによりも体面を重んじる看守を囚人環視の中サムライが殴ったあの場所。
 いた。
 滲んだように輝く蛍光灯の下、廊下に膝と両手をつき、一心不乱になにかを捜してる囚人が目に入る。危うい手つきで床を手探りし、舐めるような目で床を走査し、焦燥の色濃い顔を前後左右に振り向けている。
 芝居がかったため息をひとつ。
 「なにしてるんだ」
 はっと顔をあげる。まずい奴にまずいところを見られた、という気まずげな顔にデジャヴュをおぼえる。いつかの凱と同じ顔。互いの出方を窺うような微妙な沈黙を破ったのは鍵屋崎の平板な声。
 「………………壁の強度を確かめていたんだ」
 「は?」
 手近の壁をコンコンと小突き、納得したように頷く。
 「コンクリートには押し潰そうとする力には強いが引っぱられる力には弱いという特性がある。紙を破る行為を例にとればわかりやすい。両手で引っぱって紙を破るのはむずかしいが上からちぎればさほど力を必要としない、鉄筋コンクリートにも同じことが言える。つまり鉄筋コンクリートは横方向からの衝撃には強いが縦方向からの衝撃には脆い物質なんだ、縦方向からの衝撃でコンクリートが裂ける現象をせん断破壊といい何の前兆もなく突然起きるから最も危険な壊れ方のひとつに分類される。東京は地震の多発する土地柄だろう、いつなんどき直下型大地震が発生してもおかしくない。もともと亀裂の生じていた壁が地震の衝撃に耐え切れずに崩壊する危険性も否定できない、よって地震発生時に刑務所の壁が保つかどうか耐震性を確かめてんだ」
 苦しすぎる言い訳。
 ひどく真面目な顔でコンコンと壁を叩き続ける鍵屋崎に脱力しかけ、口を開く。
 「手紙はないぜ」
 「……なんで知ってるんだ?」
 嘘を見抜かれて一瞬気まずげな顔をしたがすぐにその目は不審の色に塗り替えられる。鍵屋崎の反応を汲み、こいつがまだなにも知らないことを悟る。
 屈めた膝の上に腕をおき、鍵屋崎の顔を覗きこむ。
 「サムライは帰ってきたか」
 「…………いや。僕が房にいた間は姿を見なかったが」
 そりゃそうだ、帰ってこられるはずがねえ。
 「サムライがどうかしたのか」
 サムライの名前を出した途端鍵屋崎の表情に微妙な変化が起きる。大多数の人間は微妙すぎて見過ごしてしまうだろうささいな変化だが体温の低い無表情を見慣れてる俺にはひどく新鮮に映った。狼狽した鍵屋崎を見下ろしているうちに胸の中でむくむくと黒い感情が育ってくる。
 凱の時と同じだ。
 なんでこんなみっともない真似までして手紙を捜す、なんでこんなブザマな格好までして手紙を捜してるんだよ、お前。いつもは大勢子分を引き連れて好き放題威張り散らしてる凱が、あの夜、途方に暮れて廊下に這っていた。今目の前にいるのは鍵屋崎だ、プライドの高さじゃ凱の十倍にも匹敵するだろうにやっぱりあの夜と同じ、廊下のど真ん中に両手両足をついて必死こいて手紙を捜してやがる。
 たかが手紙一枚のためになんでそこまでする?
 そんなに娑婆に未練があるのかよ、そんなに娑婆が恋しいのかよ。
 しかも鍵屋崎は今の今まで同房のサムライがどんな目に遭わされてるのかも知らず呑気に廊下を這っていたと言う、サムライがタジマに何をしたか、自分が原因となって招いた災厄を知りもせず自分の不注意で消失した手紙のことだけで頭を一杯にしてやがる。
 鍵屋崎から目を逸らし、吐き捨てる。
 「サムライは独居房送りになった」
 独居房、またの名を懲罰房。
 囚人がなにか問題を起こしたときに使用される特殊な房で床面積は人ひとりがようやく寝転がれる程度。錆びた鉄扉の下方には矩形の窓があり、そこから一日二回差し入れられる腐りかけの残飯は犬のように貪り食うしかない。手は使えない、看守に反抗した囚人はその罰として手錠で後ろ手に戒められているから。分厚い壁に四囲を塞がれた独居房にこもっているのは糞尿と杜寫物の悪臭、嘔吐に嘔吐をくりかえし苦い胃液しかでてこなくなっても胃袋を痙攣させて吐き続けずにはいられないようなこの世ならぬ異臭が漂う中、手足も十分にのばせない暗闇の底に監禁された囚人の多くは最短一日、どんなに強靭な精神力の持ち主でも最長二週間で発狂に至る。
 深夜、消灯時間を過ぎて寝静まった廊下の奥から獣じみた咆哮が聞こえてくることがある。
 独居房送りにされた囚人が発する奇声がそれだ。
 何回か、任期が明けて独居房からひっぱりだされた囚人を見たことがある。看守にふたりがかりで担がれ、床から足裏を浮かせた状態で運ばれてきたその囚人は弛緩した口から大量の唾液を垂れ流し、黄色く濁った目はここではないどこかを見ていた。シャワー室に強制連行されてく途中だったんだろう、伸び放題の髪は糞便にまみれ囚人服は杜寫物に汚れていた。
 そいつは額に怪我をしていた。
 囚人どもの噂じゃ、開けてくれ開けてくれと泣き叫びながら鉄扉に体当たりした結果らしい。額から血を流し、すでに正気を失って意味不明に喘ぐしかない囚人を見送り、俺は金輪際なにがあっても独居房にだけは行くものかと心に決めた。
 サムライは独居房送りになった。五体満足、正気を保って帰ってくる保証はない。
 長い沈黙だった。
 入所二ヶ月の鍵屋崎も独居房のことは知ってるはずだ、それが証拠に「独居房」の名称を出した途端目に見えて顔色が変わった。ごくりと唾を飲み下した鍵屋崎が、白く乾いた顔で俺を仰ぐ。
 そして。

 「サムライはなにをやったんだ」
 キレた。

 スッと体温が下がってゆく。
 「お前のせいだよ」
 お前のため、とはあえて言わなかった。名指しされた鍵屋崎が不審げな顔をする。
 「何故僕のせいなんだ?」
 衝動的に立ち上がった鍵屋崎がさも見当違いのことを言われたと食いついてくるのを見越し、あたりを見回す。
 「お前、ここで手紙落としたろ」
 中央棟と東棟をつなぐT字廊下、その岐路。図星を刺された鍵屋崎が押し黙るのをひややかに眺め、続ける。
 「お前の手紙はよりにもよって最悪の奴に拾われた。囚人どもに毛嫌いされてる最低最悪唯我独尊看守のタジマ様、囚人いじめが三度の飯より大好きと豪語してはばからない性根の腐ったブタ野郎、イエローワーク担当で俺たちを砂漠に埋めかけてくれたサディスト。タジマは今お前が立ってるその場所で手紙を拾ったんだ。俺は廊下の陰に隠れてそれを見た、あとからサムライがきた、展望台で半紙を干した帰りだ。そして、」
 そこで言葉を切る。その後の展開を予期したらしく、鍵屋崎が息を呑む。
 「タジマは勝手に手紙を読んだ。皆に聞こえるよう大声で」
 こんなことまで言う必要ない、わざわざ本人に知らせる必要なんてどこにもない。
 大人げないと自覚してる。こんなのただの嫌がらせだ、ガキっぽい意趣返しだ。わかってる、頭ではわかってる。でも舌は止まらない、鍵屋崎の澄ましたツラを見てるとどうしようもなくむしゃくしゃしてくる。サムライはコイツのためにタジマを殴って独居房送りになったというのに当の本人ときたらまるでそんなこと関知せずこんなところをウロウロしてやがる、手紙をさがして右往左往してやがる。
 もうそんなもの、どこにもないのに。
 「タジマはライターを取り出して、手紙に火をつけた」 
 ちらりと鍵屋崎の足もとに目をやる。そこに存在する一握りの灰にたった今気付いたとでもいうように、鍵屋崎がわずかに目を見開く。
 「それを見ていたサムライは、」
 サムライは、とびだしていった。
 我慢できずに。許せずに。それもすべて鍵屋崎のために。
 「サムライは、タジマを殴った。当然の結果として独居房にぶちこまれた。期限は一週間だそうだ」
 鍵屋崎の表情が漂白されてゆく。顔を伏せた鍵屋崎、その唇が何かを堪えるように引き結ばれ、震えた声を絞り出す。
 「だれがそんなことをしてくれと頼んだ」
 鍵屋崎の言葉に耳を疑う。ふたたび顔を上げた鍵屋崎、眼鏡越しの目に荒れ狂っていたのは紛れもない怒り。憎悪に軋み、そのくせひどく痛々しく歪んだ顔に朱を昇らせ、
 「なんで僕がサムライみたいな凡人に同情されなければならないんだ、不愉快だ」
 「ちょっと待てよ、」
 「さわるな」
 立ち去りかけた鍵屋崎の肩を掴んで引き止める、その手がおもいきり振り払われる。その拍子に足がすべり、足もとの灰を蹴散らしてしまう。バッと舞い散った灰の向こう、手紙の燃え滓を見下ろす鍵屋崎の顔にはさっきと打って変わってなんの表情も浮かんでない。
 「こんなものどうでもよかったんだ」
 自分に言い聞かせるように。
 「自己満足で書いてたんだ、本気で届けようと思ってたわけじゃない。届かなくてもよかったんだ、僕はただ天才の必然として何事も完璧に仕上げなければ気が済まなかったらくりかえし修正を加えただけだ。読まれて燃やされて、だからなんだ?些末なことだ」
 些末なことだ?
 この上もなく大事なものを包むように図書室の片隅で手紙を広げていたくせに?
 「うそつくなよ」
 鍵屋崎が怪訝な顔をする。
 「本当は届けたかったくせに、読んで欲しかったくせに。だから何度も何度も手直しを加えてたんだろう、何度書き直しても気に入らなくてしつこく消してたんだろう?娑婆の妹に今の気持ちを伝えたくて、今の気持ちを知ってもらいたくて、なにをどう書けばわかんなくて、それでも苦労して寝る間も惜しんで書き上げたんだろ?だからサムライだって放っておけなかったんだろうが、それなのになんでそんな顔してんだよ、サムライも手紙もどうでもいいみたいな涼しいツラしてんだよ!!」   
 鍵屋崎の肩を突き飛ばす。無抵抗の鍵屋崎は軽々吹っ飛ばされて壁にぶつかる、その上に覆い被さるようにして囁く。
 「未練があるくせに」
 「……なんだって?」  
 「外に未練があるくせに」
 凱のようにレイジのようにリョウのように娑婆に未練があるくせに、未練を捨てきれてないくせに、表面上はどこにもそんなもんないってツラしてやがる。
 おめでたい日本人に思い知らせてやる、だれにも望まれてない現実ってやつを。
 「お前わかってんのか?ここは東京プリズン、入ったら二度と出られない砂漠の監獄だぜ。両親殺してぶちこまれたお前が生きて出られるわけがない、三人殺した俺も同類。ここに送りこまれたってことは娑婆の連中に見限られたってことなんだよ、世間から見捨てられたってことなんだよ。考えてもみろ、俺たちは人殺しだ。人殺しの身内がのこのこ出てったところで笑顔で迎えてくれる人間がいると思うか、お前の妹にとっても俺のお袋にとっても迷惑でしかねえよそんなの」
 壁を背にした鍵屋崎の表情は前髪にさえぎられて見えないが、色を失った唇がきつく噛み締められているから俺の声はちゃんと届いているんだろう。心の底の底、鍵屋崎が今まで必死に目をそらしていた核心部分に。
 目の前にお袋の顔が浮かぶ。
 物心ついた時から決してこっちを振り返ってはくれなかった冷淡な女の横顔、俺を産んだことさえ忘れたがっている薄情な顔。
 俺を産んだ事実を消して俺を育てた記憶を消して俺の存在を無かったことにしたがってる女の―
 「忘れたいんだよ忘れたがってるんだよ忘れさせてやれよ手紙なんか書いて思い出させるなよ!!」
 「絶対に嫌だ!!」
 鼓膜が割れそうな大声に目を見開く。
 「恵に忘れられたら僕はなんのためにここにいるんだ」 
 壁に背中を預けた鍵屋崎が、軋んだ声で呟く。
 問うように、縋るように。
 「なんのためにここにきたんだ?」
 「―どういうことだ?」
 お前がここにきたのは両親を刺殺したからだろう、それ以外の理由があんのかよ。
 荒い息を吐きながら追及しようとした俺を制したのはふいに顔を上げた鍵屋崎の眼鏡越しの眼差し。
 鍵屋崎は泣いてなかった。でも、それより数段ひどいツラをしていた。
 泣きたくても泣けない、泣き方を知らない。涙を流して哀しみを発散する方法も知らず、ためこむだけためこんだ哀しみに息もできなくなって足掻いてるやりきれない表情。
 「……殴れよ」
 俺を殴って鍵屋崎の気が晴れるならそれもいい。ろくにひとを殴ったことのないコイツの拳が頬を掠ったところで痛くも痒くもないだろう。拳に目をやって挑発した俺を見上げ、鍵屋崎が唸る。
 「思い上がるなよ」
 真っ直ぐな目。軽蔑と威圧。
 「貴様なんか殴る価値もない」
 俺を振り切って歩き出した鍵屋崎が途中で立ち止まり、上着の裾を摘む。なにをしてるのだろうとぼんやり見守っていた俺の前で上着の裾をはたく。上着の裾にこびりついた灰が廊下に落ちたのを気のない目で眺め、低温の声で鍵屋崎が呟く。 
 「解せないな」
 顔を上げる。鍵屋崎のメガネに俺の顔が映る。
 「手紙が届いた人間に嫉妬するのは理解できるが手紙を出そうとした僕に嫉妬する理由が理解できない」
 メガネのレンズに映りこんだ俺はあの時の鍵屋崎とおなじ顔―……ためこむだけためこんだ哀しみに息もできなくなって足掻いてる、やりきれない表情をしていた。
 これが現実か。
 これが動かしようのない現実か。
 「なんで拒絶されるのが怖くないんだよ」
 はなから歓迎されないとわかっていながら、なんで手紙を出せるんだよ?
 「怖くないわけがない」
 意外な答えが返された。
 こちらに背中を向けているせいで鍵屋崎の表情はわからないが、その背中はどうしようもなく孤独で。
 孤独で。
 「でも今は、忘れられるほうがずっと怖い」 
 その呟きが、ずっと耳に残った。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060331052232 | 編集

 気分は最悪だ。
 鉛のような足をひきずり、いつ果てるともしれない廊下を逆戻りする。消灯時間が間近に迫ったことを告げるのはぴたりと閉ざされた鉄扉の列、ほんの五分前まで猥雑な喧騒に沸いていた廊下には人っ子ひとりいやしない。
 ようやく自分の房に帰り着き、ノブを回す。無用心なことに施錠されてなかった。まあ、東棟の王様の寝込みを襲うような命知らずはいないから他の連中のように戸締りに気をつける必要もないんだが。
 房の中がやけに静かなのを不審に思いながらノブを捻る。中は暗かった。レイジはもう寝ているのだろうか?今日はやけに早い。ちゃんと施錠してから足音をひそめて房を横切り、裸電球の傘を捻る。点灯。照度を絞り自分のベッドの周囲だけ視野が効くようにする。隣のベッドに目をやれば毛布がこんもりとふくらんでいた。
 さきに床についたレイジに背を向けて自分のベッドに歩き、腰掛ける。俺は疲れていた。体はぐったりと消耗していた。鍵屋崎との言い争い、サムライがタジマを殴った一件。
 『思い上がるなよ。貴様なんか殴る価値もない』
 そのとおりだ。アイツの言うコトは正しい。鬱々と蓄積された苛立ちを鍵屋崎にぶつけて発散しようとした、同族嫌悪の対象に憎悪を転化してラクになろうとしたのだ。最低だ。最低の半半だ。
 ベッドの上で膝を抱え、膝の間に顔を埋める。鍵屋崎の言葉を反芻するたび気分が滅入って自己嫌悪の泥沼に沈みそうになる。女々しい、女々しすぎる。なんなんだ一体、なんなんだ俺は。嫉妬まるだしで格好悪い、八つ当たりして格好悪い。 
 『忘れたいんだよ忘れたがってるんだよ忘れさせてやれよ!』
 実際、それが現実だ。どうしようもないほどに。
 手紙がこないということは俺の存在なんてとっくの昔に外の人間に忘れ去られた、ということだ。今の今までそう思って自分をごまかしてきた、いや違う、本当はわかっていた。檻の中の人間がそうしてるように娑婆の人間もそうしてるんじゃないかと。 
 いくらお袋が血も涙も母性愛もない淫売だからって、自分が腹を痛めたガキの存在を綺麗さっぱり忘れ去るのはむずかしい。
 11年も一緒に暮らしたガキの顔をそう簡単に記憶から消せるはずがない。愛情?未練?違う、そんな甘ったるい感傷じゃない。むしろ鬱陶しい、足枷のような感情だ。すっぱり断ち切ることができればラクになるのに解放されるのに、男と寝ようがなにをしようが頭の片隅にはガキの顔がつきまとって離れない。
 
 お袋は、俺のことを忘れようとしている。
 時の流れの不可抗力で忘れ去ってしまったんじゃない、自ら努力して忘れたがってるんだ。

 俺が東京プリズンにきてどれくらい経つだろう、たぶん一年近く経つ。その間ずっと外への未練を断とうとした、どうせ出られないんだから未練はすっぱり捨てて東京プリズンに順応しろとくどいほど自分に言い聞かせてあきらめようとした。
 でも、できなかった。どうしても忘れられなかった。
 毎晩のように夢を見る。俺が殺した奴らの夢、チームの連中の夢、お袋の夢。ひとを殺したときのことは忘れられない。青空に放物線を描く手榴弾、閃光、爆発、轟音。廃車の山が炸裂してスクラップ部品がばらばらと落ちてくる。部品といっしょにばらばら落ちてきたのは八体の人影、ちぎれた腕、足、指。次第に晴れてゆく煙の向こう、鮮血に濡れた腕をおさえてのたうちまわっているのは俺と同じ位のガキ。苦悶に泣き叫ぶガキども、あたり一面に散乱する廃車と部品と腕、鉄錆びた血臭とおびただしい硝煙が充満する阿鼻叫喚の地獄絵図。
 何度も夢に見て何度も吐いた。でも、いちばん見る頻度が高いのはお袋の夢だ。
 考えてみりゃおかしな話だ、もう三年も顔を見てないのに夜毎夢を見るごとにお袋の面影は鮮明になる。いっしょに暮らしてたときは嫌で嫌でしょうがなかった、ぐでぐでに酔って男をひっぱりこんでガキの前でコトに及ぶようなお袋が恥ずかしくてしょうがなかった。とるにたらないささいなことで癇癪を爆発させては容赦なく俺を殴る蹴るお袋が怖くて怖くて、一日中お袋の機嫌と顔色を窺いながら暮らしてたってのに。
 なんで。なんで二度と会えなくなった今になって毎晩くりかえしくりかえし夢に見るんだ。
 あんな女大嫌いだ。あんな淫売大嫌いだ、二度と会いたくねえ。二度と顔を見ずに済んでせいせいする、早いとこ梅毒にかかってのたれ死ね。もう夢に出てくんな、あんたなんかちっとも恋しくねえ、俺はリョウと違ってマザコンじゃねえ。
 あんたが俺を忘れたがって手紙ひとつよこさないなら、俺だってあんたのことをすっぱり断ち切って生きてゆく。 
 俺は一人で生きてゆく。これまでもずっとそうだったしこれからもずっとそうだ、これからもずっとそうしていく。

 なのになんで、サムライのように孤高を貫けない?
 鍵屋崎のように孤独に耐えられない?
 
 なんでこんな檻の中でめそめそ泣き言をこぼしてるんだ。
 自分に愛想が尽きた。こんな日は早々に寝ちまうにかぎる、明日も強制労働がある。睡眠時間を余分にとっといて損はない。埒のない繰り言に蹴りをつけるように毛布をめくろうとして手を止める。
 紙飛行機だ。
 毛布の上に紙飛行機が乗っかってる。紙飛行機を手に取り、眺める。俺が折ったやつとは違い、うまくできている。バランスも完璧、翼の傾斜もシャープで格好いい。よっぽど手先が器用なやつが作ったんだろう。
 たとえばリョウ。たとえば―……
 ちらりと隣のベッドに目をやる。毛布はこんもりふくらんでいる、レイジは珍しく寝返りも打たない。フォークやペンを手先でもてあそぶのが習慣化してるレイジなら紙飛行機なんて鼻歌まじりに折り上げてしまうだろう。
 それはともかく、なんで俺のベッドの上に紙飛行機が乗ってるんだ?
 角度を変えて紙飛行機を眺めながらいつかの意趣返しだろうかと勘繰るがどうも釈然としない。裸電球の光に紙の翼を透かした俺はふと目を細める。
 翼に文字が透けている。癖のある、手書きの文字だ。
 内側に何かが書いてある。なんだろう。答えを求めるようにレイジを一瞥するが毛布にくるまったレイジはぴくりともしない。警戒しながら紙飛行機の翼を開き、ベッドの上でたいらにならす。
 折り目をのばした紙面は、ひどく雑な字で何か、文章が書かれている。
 闇の帳が降りた房の中。
 裸電球の明かりの下、じっと目を凝らし、手紙を読む。


 『Dearロン。
  ……おんなじ房の奴に手紙書くのって照れくさいな。なんて書き出せばいいかわかんなくてDearとか始めてみたけどスベったか?
  My sweetと迷ったけど、それやったら一行目で破り捨てられそうだし。
  ……え~と、お前が手紙欲しがってたんで書いてみた。
  なんか最近元気ないし、やっぱ手紙こなかったのが原因かなってかってに思ってるんだけど。
  違うか?
  前も言ったけど、お前に手紙こねーのは外の連中に見る目ねえだけだから気にすんな。忘れちまえ。……なんて、けしかけて忘れられるもんじゃねえよな。
  弱ったな。
 
  俺がさきに外出たら絶対お前に手紙書くんだけど、ワリィ。
  俺の懲役110年なんだ。
  お前がココ出てくほうが絶対早いよな。はは。

  でもさ、安心しろよ。
  俺は絶対にお前のこと忘れない。
  檻の中なんて本読む以外にやることねえし娯楽少ねえし、寝ても覚めても飯食ってもクソしても考えることなんてそんなにないんだ。
  お前もよく知ってんだろ?考えることなんていっつも同じこと。
  
  だから俺はいっつもお前のこと考える。
  もちろんほかのことも考える。娑婆に待たせてる20人の女のこともちゃんと考える(博愛主義者だからな)
  でも、たぶん。それ以上にお前のこと考える。
  娑婆でどうしてるか、元気にしてっかな、たらふく飯食ってるかな、喧嘩してねえかな。
  女はできたかな、ガキはできたかな、とか。どうでもいい、めちゃくちゃ他愛ないことをずっと考える。
  
  お前がいなくなったらこの房もすっきりするし、からになったベッド眺めて、ずっと考えてる気がする。
  それで、お前が幸せになってりゃいいなって思う。
  
  それで、もしよければ、娑婆にでてからも俺のことを忘れないでいてくれてると嬉しいな……な―んて。
  たまーに思い出すだけでいいんだ。
  ナスの漬物食ってるときとか俺とよく似た奴とすれちがったときとか(最もこんなイイ男世界に俺っきゃいないからその確率は低いけどさ)「あの刑務所はマジ最低な肥溜めだったけど、レイジとか言う口軽くて面白い奴もいたっけな」とか思い出してくれると嬉しい。
  結構、マジで嬉しい。

  俺は絶対にお前のこと忘れない。
  こんなくそったれたトコで寝ても覚めても考えることなんて好きな奴の幸せくらいだ。

  だから、娑婆にでたら手紙を書いてくれ。
  一年に一度、だめなら五年に一度……あー、この際十年に一度でもいっか。
  ロンから手紙きたらなにより優先して返事を書くよ。

  It a  promise!』


  手紙を膝に置き、隣のベッドを見る。いつのまにか寝返りを打って振り向いたレイジが、鼻の下まで毛布をずりさげ、してやったりとほくそえんでいた。
  「……………」
  なにが約束だよ馬鹿野郎。
  俺が生まれて初めて貰った手紙がこれかよ、こんな支離滅裂な文章、こんな雑な字、こんな―……こんな手紙。
  手紙に水が落ちた。
  一滴、二滴。ぽたぽたと紙面に染み込んでインクを滲ませてゆく水を認め、レイジがぎょっと毛布を払いのける。慌てふためいて俺のところに駆け寄ったレイジが身振り手振りをまじえてフォローする。
  「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。そんなに感動させちまうなんて俺の文才も罪だよな」
  調子にのんな馬鹿。
  そう言い返したかったのに声がでない、今なにかしゃべったら泣いてるのがバレてしまう。嗚咽を押し殺し、肩を上下させてうつむいた俺の頭にそっと手がおかれる。
  「お前さ、まだガキなんだから意地張らずに泣いていいんだぜ」
  いたわるような手つきで俺の頭を撫でながらひどくやさしい声でレイジが教え諭す。
  気遣わしげに覗きこんできたレイジの顔には、扱いにくいガキを同じ目線で見守るような妙に大人びた苦笑いが浮かんでいた。

  レイジの言う通り俺はガキだ。
  自分のことで一杯一杯で、レイジの境遇なんて考えたこともなかった。
    
  俺の懲役は十八年、生きて娑婆に出られる可能性は十分ある。
  懲役110年のレイジはどんな気持ちで、手紙をもらえない、それっぽっちの理由でいじけていた俺を見ていたんだろう。 
  
  「あのさ。キーストアに代筆頼んでる間ヒマで辞書めくっててたまたま目に入ったんだけど、台湾語じゃ手紙のこと『信』って言うんだよな」
  「……それがどうかしたのかよ」
  「いや。いい言葉だと思って」
  レイジがほほえむ。 
  「俺を信じるみたいに娑婆の人間を信じてみろ。お前の大事な人間がお前のこと忘れたがってるなんてかってに決め付けんな、手紙に書けない真実が世の中にゃあふれてるんだぜ」
  すとん、と腑に落ちた。
  今、ようやくわかった。
  俺が欲しかったのは手紙じゃなくて、レイジのこの言葉だったんだ。 

  手紙。台湾語で「信」。
  俺の国の言葉はいい言葉だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060330052338 | 編集

 今日で一週間が経った。
 サムライがいなくなってから一週間ー……長い一週間だった。
 独居房送りになったサムライの消息はわからない、体調を崩してないか健康を損なってないか僕には知るすべもない。この一週間、無人のベッドを眺めながら眠りについた。いつのまにかサムライが隣にいる生活に慣れていたからひとりきりの房は存外に広く、奇妙にがらんとして感じられた。
 空虚。僕の胸の空洞のような。
 夜、きちんと毛布が折りたたまれたサムライのベッドを眺めながら睡魔が訪れるのを待つ。心許ない裸電球の明かりに照らし出された無人のベッドはとても寒々しかった。眠りにつけずに何度も寝返りを打った、連日の強制労働で体力と気力を消耗してるはずなのにどうしても頭の片隅が冴えて無意識の眠りに没入できないのだ。
 東京プリズンに入所して二ヶ月が経った。その間、いろいろなことに慣れた。慣れざるをえなかった。
 人間はどんな過酷な環境にも時間の経過とともに順応していける図太くしたたかな生き物だ、太古から連綿と続く食物連鎖と自然淘汰、弱肉強食のシステムが遺伝子に刷り込まれた人間はどんな現実や環境にも順応して柔軟に変わっていける多面的な生き物なのだ。
 進化と呼んでいいかはわからない。成長、という言葉も違う気がする。
 ただ、いやでも慣れなければ生きていけなかっただけの話だ。単純な自然淘汰の理論。酷暑の砂漠での強制労働も栄養に乏しいまずい食事も他の囚人からの陰湿な嫌がらせも慣れてしまえば無気力にやり過ごすことができる。殴られることにも慣れた、理不尽な暴力や不条理な叱責、容赦ない罵倒にも慣れた。
 怒りの感情はエネルギーを消費する。
 だから僕は怒りの感情を排し、あらゆることに無視と無関心をきめこんだ。殴りたければ殴れ、笑いたければ笑え。事故を装って僕の足をひっかけた連中から野次と嘲笑を浴びせられてもなにも感じない、心まで不感症になってしまったように。
 知能で劣る低脳どもの嫌がらせにいちいち付き合っていてもきりがない。
 彼らときたら観察対象にもならない、僕の知的好奇心を満たすこともできない、単細胞の微生物にも劣る卑小で低劣な存在なのだ。
 僕は天才だ。今は亡き鍵屋崎夫妻が自慢にしていた優秀な長男、IQ180の天才、ゆくゆくは自分たちの研究を継がせるつもりで幼少期から高度な英才教育を施してきた最高傑作。そんな僕が愚劣な嫌がらせや野卑な揶揄に本気で腹を立てるわけがない、そんな些事はどうでもいい。

 僕が腹を立てているのはサムライの行動だ。
 
 強制労働終了後。
 自由時間が開始され、廊下には暇を持て余した囚人が三々五々あふれだす。僕は扉越しにその喧騒を聞いていた。自分のベッドに腰掛け、黄昏が訪れた房の壁を見つめる。薄暗がりに沈んだ殺風景な壁を見つめ、落ち着きなく五指を組み替える。
 今日で一週間、サムライが帰ってくる日だ。
 『お前のせいだよ』
 一週間前、ロンに言われた言葉が耳によみがえる。
 サムライは僕のせいで独居房に送られた。タジマが僕の手紙を燃やしたことに怒り、こともあろうにタジマを殴り、独居房に送致された。独居房の噂は聞いている。独居房から出てきた囚人がどんな有り様をしてるか、一週間後に出された囚人で正気を保ってる割合がどれだけ少ないかも。
 サムライはどんな姿で帰ってくるのだろう。
 ……否、帰ってこられるのだろうか。正気を保ち、五体満足で、この房に帰ってこれるのだろうか。
 房の扉を開けて、薄暗がりの部屋を見回して、僕の顔がちゃんとわかるのだろうか。僕の存在に気付くだろうか。
 サムライは僕より遥かにここでの暮らしが長い。独居房の恐ろしさは入所して日が浅い僕より遥かに正確に理解していたはずだ。
 サムライは鈍感だが、聡明な男だ。でなければ僕がモルモットに指名したりしない。そのサムライが看守に手を上げた囚人を待ち受ける仕打ちを予期しなかったはずがない。サムライは覚悟の上でタジマを殴りその結果一週間の期限つきで独居房に送られた。
 なんでそんなことをするんだ?頼んでもないのに。
 奥歯に力をこめ、抱えた膝の間に顔を伏せる。
 僕のことなど放っておけばいい、手紙のことなど見ないふりをすればいい。サムライの手紙じゃない、あれは僕の手紙だ。僕が不注意で落とした手紙がタジマの手に渡り燃やされたところでサムライが怒るのはおかしい、理屈にあわない。どう考えても合理主義に反する。
 あの時のことを思い出す。
 中央棟から帰る渡り廊下で通りすがりの囚人にわざと肩をぶつけられた。
 よろめき、バランスを崩した僕は本の間に挟んだ封筒を落としたことに気付かずにそのまま房に帰った。房に帰り、ふたたび手紙を読み直そうとしてはじめて封筒を紛失したことに気付き、慌てて現場に引き返したときにはもう遅かった。
 手紙はタジマの手で跡片もなく灰にされた後だった。
 威圧的な靴音が近づいてくる。
 この靴音は看守のものだ。革靴の底が廊下を叩く神経質な音は扉越しでも聞き間違えようがない。それに続くひらたい足音は……
 顔を上げる。息を呑む。耳を澄ます。 
 尖った靴音と二重奏を奏でるのはひらべったい足音。東京プリズンの囚人はたいてい護送された時に履いてきた靴一足でその後を過ごすが、履き古して底が抜けた時の代用品として半年に一回スニーカーが支給されるそうだ。僕はまだ東京プリズンにきて二ヶ月、新しい靴はもらえていない。強制労働終了後は二日に一度の頻度で自分でスニーカーを洗って砂を落としているが酷使が祟ってだいぶ傷んできた。東西南北各棟のトップたる特権階級の四人はこの範疇外で望めばすぐにでもセンスのよい新品を入手できるというが真偽は定かではない。
 サムライのスニーカーはぼろぼろだった。
 いったい何年間履いてきたのだろう、ぼろぼろに擦り切れて底が抜けかけたみすぼらしいスニーカーを汚れた踝につっかけたサムライを思い出す。サムライのことだ、スニーカーの底が抜けて踵が削れても文句ひとつ言わずに日々を過ごしてきたのだろう。
 半年に一度新品が支給されるといっても、東京プリズンの総人口を賄いきるのは不可能だ。
 サムライが我慢すれば、サムライに行き渡るはずだった新品のスニーカーは別の囚人に履かれることになる。無欲なサムライは自分はぼろぼろのスニーカーで我慢して新品の靴がほかの囚人に行き渡るよう配慮したのだろう。
 だから、サムライの靴音はすぐにわかる。遠くからでも聞き間違えるはずがない。
 廊下を近づいてきた靴音が房の前で止まる。
 看守が腰の鍵束を探る金属音、中のひとつが鍵穴にさしこまれカチャリとノブが回る。
 細い隙間から射したのは一条の光、廊下に設置された蛍光灯の光明。
 暗闇に慣れた目を細めた僕の前にスッと影が立つ。蛍光灯の光を背に扉の向こうに佇立した影、右側は紺の制服に身を包んだ看守、左側には―

 サムライ。

 「入れ」
 右側の看守が横柄に顎をしゃくる。その命に従い、房の中へと足を踏み入れる。幽鬼じみた足取りで房の中へと歩み入ったサムライを見送り、看守がふんと鼻を鳴らす。 
 「これに懲りたら二度と看守にはむかうなよ」
 バタンと扉が閉じ、靴音が遠ざかってゆく。
 一週間、僕以外の気配が絶えてなかった房に今はもうひとり、サムライの気配がある。
 顔が上げられない。
 サムライがすぐそばにいるのはわかる。たぶん、顔を上げればまともに目を合わせてしまうほどの距離に。動機が早まる。心臓が強く鼓動を打つ。何を言おう、何を言えばいい?僕のせいで独居房送りになって今帰ってきたサムライになんて声をかければいい?考えれば考えるほど頭が混乱してきて息をするのも苦しくなる。落ち着け、鍵屋崎直。お前は天才だろう、なにもかも完璧に完全にこなすことができるIQの持ち主だろう。なにも取り乱すことはない、独居房送りになった同房の囚人が一週間ぶりに帰ってきた、言葉で説明してしまえばただそれだけのことじゃないか。
 なにも無理して会話の接ぎ穂をさがす必要はない、そんなのはまるで無意味な行いだ。
 今までどおり無視すればいいんだ、サムライの存在を空気のように無視して―
 「…………単刀直入に聞く。正気か?」
 両手の五指を握り締め、顔は上げずに聞く。沈黙。房の薄暗がりに佇んでいた痩躯の影が凪のような声で話す。
 「ああ」
 サムライの声はしっかりしていた。どうやら正気のようだ。
 体の力が抜けてゆく。少し緊張が解け、顔を上げる決心がついた。慎重に顔を起こし、暗闇に溶けるように佇むサムライを仰ぐ。
 サムライは痩せていた。
 もとから痩せた男だったが、たった一週間ではっきりそれとわかるほどに面変わりしていた。色艶を失った頬は鋭角的に削げて剣呑な印象がさらに際立ち、喉周りの肉が落ちたせいか喉仏の突起がやけに目立った。落ち窪んだ目は疲労で濁り、二・三歳は老けて見えた。この一週間、サムライの周りだけ密度の違う時が流れていたかのような凄惨な変貌ぶりに言葉を失った僕を見下ろし、サムライが言う。
 「くさいか?」
 「え?」
 囚人服の袖口に鼻を近づけたサムライが平板な口調で述べる。
 「……あんまりひどい有り様だったからここに来る前にシャワー室に連れていかれたんだが、まだ臭うか」
 どうやら僕の凝視を違う風に解釈したらしい。顔の筋肉を動かさない独特のしゃべり方は奇妙に感情が欠落していて、そのしゃべり方は僕がよく見知ったサムライと全然変わらなくて、意味なく胸がざわめいた。
 「なんでタジマを殴ったんだ」
 今にも理性の枷を破って噴き上げてきそうな激情をなんとか抑制し、感情を欠いた声で問う。不健康に痩せたサムライが怪訝そうに眉をひそめ、一拍おいてようやくなにを言われてるか悟る。サムライがなにか言おうとしたのをさえぎり、苦々しく続ける。
 「僕への同情か?義憤か?偽善か?時代遅れの武士の正義感とやらか。物好きな男だなきみは、タジマが目の前で手紙を破いたからってなんの関係もないきみが手を上げる理由がどこにある。ないだろうそんなもの」
 今まで塞き止めていた感情の汚濁が裂け目から迸り、怒涛の勢いで理性を押し流してゆく。怒りの濁流に呑みこまれた理性に楔を打とうと両手の指を強く強く握り締める。
 「だれがそんなことをしてくれと頼んだ、そんなことをされて僕が喜ぶとでも思ったか」
 喜べるはずがない。
 サムライは僕のせいで独居房送りになった、僕を哀れんで看守に手を上げた結果がこれだ。だれが哀れんでくれなんて頼んだ?余計なお世話だ。他人に同情されるのは虫唾がはしる、僕はひとから同情されなければならないような情けない人間じゃない。
 特にサムライには。
 この男にだけは、絶対に同情なんかされたくなかったのに。
 妹にすら打ち明けることのできない、今のみじめな境遇を思い知らされたくなかったのに。
 「お節介はたくさんだ」
 吐き捨てるように言った僕をサムライは無言で見下ろしていたが、おもむろに口を開く。
 「お前はそれでいいのか」
 「……なに?」 
 裸電球も点けない薄暗がりの中、黙然と立ち竦んだサムライが静かに語る。
 「俺に夜毎読み聞かせてくれたのは大事な妹宛の手紙だったんじゃないのか」
 サムライの言葉が胸を抉る。
 「―あれは、ただの紙だ。手書きの字を連ねたただの紙だ、前時代の遺物だ。僕にとってなんら重要じゃない、タジマに燃やされたところでどうということはない。僕はただ、なにごとも完璧にやり遂げなければ気がすまなかったから何度も修正を加えていただけだ。すべては自己満足、ただの余興だ」
 「本当か」
 「本当だ」
 「本当か」
 「本当だ」
 「俺の目を見ろ」
 「…………………………」
 「見ろ、鍵屋崎。俺の目を見て今の言葉をくりかえせ」
 「…………………………」
 「なぜ目を見ない」
 「強制されたくない」
 なぜモルモットの命令に従わなければならない?
 それでもサムライは引き下がらない。顔を背けた僕に一歩詰めより、命令というには静か過ぎる声で忍耐強くくりかえす。
 「俺の目を見ろ」
 「見たくない」
 「やはりな」
 「なにがだ」
 「お前は自分で思ってるほど器用じゃない、ひとの目を見て嘘がつけないのがなによりの証拠だ」
 
 その一言で、たった一言で、頭が真っ白になった。

 「………調子にのるなよ」
 モルモットの分際で、低脳の分際で、凡人の分際で。
 衝動的に立ち上がり、サムライの顔を睨む。体の脇で拳を握り締め、叫ぶ。
 「僕は本当にどうでもよかったんだ、あんな手紙破かれようが燃やされようがどうでもよかったんだ、どうせ汚い手紙だ何回も消して書き直した汚い手紙でとても完璧とはいえない代物だった、文章だってひどかった、要領を得なくて支離滅裂で主旨が曖昧でなにが言いたいのかわからなかった、あんな手紙送られるほうが迷惑だ!おかしいじゃないか、僕は天才なのに、日本語の語彙は野卑なスラングしか知らないこの刑務所の低脳どもの何倍何十倍も豊富なはずなのに、なんで手紙ひとつまともに書けないんだ!!あんな手紙届かなくてよかったんだ届いたところで恵を哀しませて苦しませるだけだった、僕みたいな人殺しから手紙がきたところで恵が喜ぶわけ―……」
 
 『おにいちゃん』 

 「喜んでくれるわけなかったんだ!!」

 拒絶されるのは怖い。
 でも、忘れられるほうがずっと怖い。
 あの時ロンに言ったのは掛け値なしの真実だ。僕は恵に忘れられたくなかった、今までしてきたことを無かったことにされるのが怖かった。
 だからわざわざ手紙を書いて「忘れないでくれ」と懇願しようとした。わざわざ手紙を書いて僕のことを思い出させようとした。
 そんなことをされて、恵が喜ぶわけないのに。
 「もうどうでもいいんだ」
 どうでもいいんだ。 
 手紙は燃えた。恵はいない。僕はひとりだ。
 僕の人生には何の意味もない。
 だれもいない。なにもない。どんなにIQが高くても、優れた遺伝子を持って生まれても、僕にはなにもない。
 この世でただひとつの譲れないもの、大事な妹を失った今の僕に一体なにが残るというんだ?
 ズボンのポケットに手をやり、一片の灰を掴む。
 一週間前、ロンとの言い争いを打ち切って房に帰る前、廊下で立ち止まって裾に付着した灰をはたき落とした。そのときポケットにまぎれこんだ一片の灰が、まだ残っていたのだ。
 「タジマに燃やされた手紙の灰だ」
 こんなものを後生大事に持ってる自分の愚かさに呆れるを通り越して笑えてくる。 
 僕の手に残されたのは一片の灰だ。こんなものなんになるというんだ。くだらない感傷だ、不条理な感情だ。くだらない、くだらない―
 灰を握り締めた手がおもむろに掴まれる。
 シャツの袖の上から僕の手首を掴んだのは目の前のサムライ。なにをするんだと抗議する間も与えず大股に歩き出したサムライの背中にむなしく叫ぶ。
 「はなせ、汚い手でさわー……」
 さかんに身をよじりサムライの手を振り払おうとした僕の目にとびこんできたのは、空気を孕んでめくれ上がった袖口、そこから覗いた手首の傷痕。生々しく血を滲ませた傷痕は手錠の跡。独居房に監禁された囚人は看守に反抗した罰として後ろ手に手を戒められて過ごすという。肉が抉れた手首を目にして抵抗を躊躇した僕を強引にひきずり、房をよこぎり、廊下に出る。鈍い響きを残して扉が閉じ、廊下にたむろした囚人を押しのけるようにしてサムライが歩みだす。
 「どこに行くんだ!?」
 この男、わけがわからない。
 突飛な行動に当惑した僕を片手でやすやすと引きずってサムライが向かったのは見覚えのある廊下、これは展望台へと向かう道だ。好奇の眼差しを注いでくる囚人など物ともせず、毅然とした歩みで廊下を抜け、ガラスの取り除かれた窓を踏み越えて展望台にでる。サムライに引っぱられて窓枠を踏み越えた僕は砂漠を朱に染める夕日の眩さに目を細める。



 展望台の向こうには涯てのない砂漠が茫茫と広がっている。  

 そのまま展望台を一直線に歩いてコンクリートの先端に立ち、ようやく僕の手を放す。なにがなんだかわからず混乱している僕の手からサムライがおもむろになにかを毟り取る。それは手紙の燃え滓、一週間が過ぎても捨てるに捨てられず僕が持ち歩いていた一片の灰。
 砂まじりの強風が吹いた。
 砂漠の彼方に沈む夕日と対峙するかの如く展望台のへりに立ったサムライが、黄昏の風に吹かれながら暮れなずむ空へと手を翳す。
 眩い残照と砂漠、そしてサムライ。一幅の絵画のようにあざやかな光景。 
 天へとさしのべられたサムライの手、その手から舞い上がったのは一片の灰。風にさらわれて天高く舞い上がった灰はやがてこの広大な砂漠に紛れる一粒の砂のように小さくなり、完全に見えなくなった。
 しばらくは風の鳴る音だけが秒秒と響いた。
 「………何の真似だ」
 声をひそめて聞く。サムライはしばらく無言でそこに佇んでいたが、やがて呟く。
 「届くように祈れ」 
 朱の残照に照り映える横顔、風に吹き乱れてたなびく烏の濡れ羽色の黒髪。
 「お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ」
 絶句した。
 「……きみは、馬鹿じゃないか」
 ようやくそれだけ言った。
 「あれはただの灰だ、手紙じゃない。ただの灰だぞ、燃え滓だぞ」
 「だからなんだ」
 「なんだって、」
 正真正銘の馬鹿か?
 「……待て、冷静になれ。距離と風速と風向きとを計算したら一片の灰が仙台まで届くわけがないだろう。あの風は西緯30度から吹いたから灰が落ちるのは現在地から北緯60度の地点だ」
 冷静にならなければいけないのは僕だ。そんなの口に出すまでもなくわかりきったことじゃないか、サムライの奇矯なふるまいにあてられてどうかしてしまったのか?
 「本当は届けたかったんだろう」
 サムライの声で我に返る。いつのまにかこちらを向いたサムライが、沈みゆく夕日を背にしてゆっくりと語りだす。
 乾燥した風が吹く。
 はるかな砂漠を渡ってきた風が、脂じみたサムライの髪を、垢染みた囚人服の裾を、そして、僕の前髪をはためかせる。
 「手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない」
 
 詭弁だ。
 そう言い返したかった。言い返せなかったのは、サムライがひどく柔和な目をしていたからだ。

 膝から下の力が抜けてゆく。
 尻餅をつくようにその場に座りこんだ僕は、サムライを見上げる格好で吐き捨てる。
 「……ばかばかしい。茶番だ。付き合ってられない」
 本当に、付き合ってられない。サムライときたら言動のすべてが突飛すぎる、予想の範疇を超えている、理解の枠を超えている。
 「仙台まで風が吹くわけないじゃないか」
 「吹くかもしれない」
 「貴様気象予報士か」
 「ゆっくりと時間をかければ届くかもしれない」
 ゆっくりと時間をかければこの想いも届くというのか?
 仙台の恵のもとに。大事な妹のところに。
 抱えこんだ膝の間に顔を埋め、呟く。
 「どうせ届かなかったんだ、あの手紙は。住所がなかったからな」
 サムライがあっけにとられたような顔をする。
 そう、あの手紙には住所がなかった。まったくこの僕としたことが失念していた。何度も手直しをくわえて書き上げてしまうまで、恵が収容された病院の住所をまったく知らないことを忘れていたのだ。だからどのみちあの手紙は届かなかった、それに気付いたのは一週間前、図書室でロンと話し、本を抱えて房に帰ってからだ。それまではまったく気付かなかった、手紙を不備なく完成させることにばかり気をとられて肝心の住所を失念していた。手紙を紛失したことに気付いた僕が慌てて廊下に戻ったのはそれでもどこかで未練があったからだ。
 つまりサムライは、どのみち届かない手紙のためにタジマを殴り、一週間ものあいだ独居房にいれられたのだ。
 猛烈に腹が立った。僕に無断で勝手なことをしたサムライに、僕の手紙のためにひとを殴って重すぎる罰を受けたサムライに。 
 最初からとどかない手紙のために必死になっていたサムライと自分に。
 「……住所の件だが、看守に聞いてみてはどうだ」
 「聞いた」
 「どうだった」
 「殴られた」
 「そうか」
 数呼吸の沈黙の後、サムライが感慨深げにため息をつく。
 「そうだったのか」
 脱力したようにその場に正座したサムライを前に、呟く。 
 「サムライ、きみは馬鹿だ」
 「そうだな」
 「僕も馬鹿だ」
 「……少しな」
 否定してほしかったわけじゃないが、すんなり肯定されるとそれはそれで腹が立つ。
 むっとした僕を一瞥したサムライがもののついでとばかりにつけくわえる。 
 「勘違いするな。俺は手紙の一件だけで看守を殴ったんじゃない、タジマの言葉に腹を立てたからだ。あの男は俺のふるさとを悪し様に言った、仙台くんだりと」
 「仙台出身なのか!?」
 「ああ」
 おもわず声を荒げた僕に言葉少なく頷くサムライ。この男が仙台で生まれ育ったなんて今の今まで知らなかった。恵がいる仙台、遠く離れた仙台……
 「仙台はいいところか」
 ぽろりとそんな質問が口をついてでた。
 「ああ」
 「空気はおいしいか」
 「ああ」
 「人はやさしいか」
 「ああ」
 「食事はおいしいか」
 「ああ」
 「恵は元気にしてると思うか」
 最後の質問に、サムライはひときわ力強く頷いた。
 「ああ」
 膝を抱いた腕が弛緩し、極度の緊張に強張っていた体がほぐれてゆく。膝と膝が接するほどの距離でサムライが覗きこんでいる。
 頬がこけてだいぶ面変わりしていたが、なぜか、その顔には薄く笑みが浮かんでいた。
 サムライは力強く請け負ってくれた。
 仙台はいいところだと。恵は今でも元気にしていると。願い続けていれば、いつか、いつの日か、僕の想いは届くかもしれないと。
 「よかった………」
 よくないけど、よかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060329052559 | 編集

 「いいかげん機嫌なおしてくださいよリョウさん」
 絶賛不貞寝中の僕の背後でお調子者のビバリーがぴーちくぱーちくさえずってる。
 「………」
 頭からすっぽり毛布をかぶって無視無関心を決め込んだ僕にもビバリーはへこたれない。打たれ強いというか粘り強いというか傍迷惑というか、ドラッグをキメたラッパーみたいな例のハイテンションでまくしたてる。
 「カギヤザキのしたことはたしかにひどいっすけどリョウさんだってひどいこと言ったっしょ、どっちもどっち目くそ鼻くそっすよ。最愛の妹悪し様に言われちゃそりゃシスコンメガネは怒りますって、リョウさん地雷踏んじゃったんすよ、あきらめましょうよ事故だと思って」
 「最愛のママを悪し様に言われた僕の気持ちを汲んでよ」
 「挑発するからっすよ」
 毛布の端をくいくいひっぱりながら顔を覗き込んできたビバリーにぷいとそっぽを向く。そりゃたしかに僕はサーシャたちをけしかけて鍵屋崎をはめようとしたけど、だからなに?気に入らない奴を蹴落としてどこが悪いのさ。反省の色がまったくない僕にため息をつき、両手を広げて話題を変えるビバリー。
 「特別大サービス、ぼくがしこしこ集めた無修正画像ファイルを見せてあげるからこれで元気出してくださいっす!」
 「…………」
 「洋モノっすよ洋モノ。下の毛まで金髪」
 こそこそ耳打ちしてきたビバリーを寝返り打って追い払う。ビバリーがさも意外そうに驚く。
 「金髪はNG?好みはブルネットか赤毛かそれとも……」
 「そんなん地毛かどうかわかんないじゃんか」
 染めてるかもしれないし。
 「夢がないなあリョウさんは……」
 ついに僕の機嫌とりをあきらめたか、ベッドに背を預けて床にへたりこんだビバリーが僕の枕元に投げ置かれていた封筒をかっさらう。高級紙の封筒を頭上にかざしてためつすがめつし、中が見えないものかと目を眇めてから便箋を抜き取る。カサカサと紙のふれ合う乾いた音に続いたのはどこまでも能天気を装う道化者の声。
 「いいじゃないすっか、ママさんからの手紙は破かれてお空に返って雀に啄ばまれちゃいましたけどリョウさんにはもう一通残ってるんすから。これ読んであげるからいい加減不貞寝やめてくださいよ、リョウさんが塞ぎこんでると房に黴生えそうでいやなんすよ。え~と、なになに……『Dear my sweet リョウ、元気にしてるかい?きみが東京少年刑務所に収監されて何ヶ月が経つだろう。まだ一年も経過してないはずだが私には百年、いや千年にひとしい月日が流れたように思えるよ。売春と恐喝と覚醒剤の所持及び売買、この三つの罪状で最悪懲役五年以上は免れないと法律で定められていたのに私の人柄がなせる技というか、減刑工作が功を奏したようでなによりだ。警察上層部に裏から手を回してきみの減刑をかけあった私の苦労も報われたというものだ。たしか懲役三年―……いや、二年だったかな?生憎とそこまで覚えてないが、二年経って出てきたきみはどんな姿をしてるんだろう。ああ、私の片腕にすっぽりおさまってしまう華奢な肩、まるい膝小僧、あどけなさを残した愛くるしい笑顔。きみが13歳の面影を残して外に出てくる日を思い浮かべれば私の心臓は今もこうしてはげしく動機を打ちはじめ熱く火照った血が全身を巡り始める……Oh My Fairy、My boy リョウ!はやくきみをこの腕に抱きしめたい、シルクのベッドで思う存分ミルクの匂いがするきみの肌をむさぼりたい。そうだ、出所の日に備えてきみによく似合うパールピンクの口紅を買ったんだ。白いワンピースも。今から待ち遠しい、きみと一緒にシャワーを浴びて火照った肌を拭いてワンピースを着せ……』」
 途中からわなわな震え出したビバリーの手がついに我慢の限界に達し、コンクリートの床に手紙を叩きつける。 
 「なんじゃこりゃあ!!」
 「ぼくのパトロン、代議士ヤマノベさんのお手紙」
 「リョウさん、あんたの客は変態ばっかだ!」
 感染力の強い黴菌にでも触れたかのように両手を上下させる見かけによらず潔癖なビバリーにこらえきれず吹き出す。毛布をどけ、ベッドに起き上がる。床に手をのばして手紙を拾い上げ、ざっと目を通す。ヤマノベさんてば相変わらずだなあ。
 「ヤマノベさんは女装じゃなきゃ興奮しない趣味なんだって」
 「感謝してくださいよリョウさん、それレイジさんと同房の囚人に危うく読まれかけたんですから……」
 「ロン?」
 「減刑のコト、バレたらどうします」
 ヤマノベさんは僕が渋谷の売春組織をシメていたときに客として知り合った大物代議士のパトロンで今でもこうして繋がりがある。売春と法律で禁じられた各種薬物・覚醒剤の売買、客に対する恐喝罪で逮捕された僕が懲役五年未満で済んだのはヤマノベさんが警察上層部に圧力をかけてくれたからだ。感謝しなきゃね。
 「つかえるコネは徹底的に利用するのが僕のモットー」
 「最低だアンタ……」
 「最低なのはどっちだよ」
 ベッドに腰掛け、宙を蹴りながらビバリーを睨む。
 「ビバリー、この前の監視塔の一件知ってたんじゃないか。なに初耳みたいな顔してふんふん頷いてたのさ。レイジに火炎瓶原料のテキーラ渡したのビバリーじゃん、本人の口から聞いたんだからすっとぼけても無駄だよ」
 まずい。出した尻尾を踏まれたビバリーが大袈裟に顔をしかめ、身振り手振りをまじえて弁明する。
 「だってほんとのこと言ったらリョウさん怒るじゃないっすか!」
 「怒るよ」
 「それにあの晩は寝ぼけてて……今思えばレイジさん監視塔に行く直前にぼくの房寄ったみたいなんすけど、いきなり『テキーラくれ』なんて言い出すからどっかでパーティーでもやるのかな~と……隣のベッドにリョウさんいないことに朝になって気付いたくらいですし。あ、その目は疑ってますね!?マジっす、マジっすってば!!」 
 不審の眼差しに耐えかねたビバリーがひしと肩にしがみついてきたのを鬱陶しげに振り払う。
 「裏切り者」
 「そんなあ………」
 半泣き寸前の情けない顔で脱力したビバリーを無視してベッドに横たわる。枕元に散らばっているのは展望台でかき集めてきたママの手紙の断片。今だあきらめきれず、もはや原形をとどめぬまでにばらばらにちぎれた断片をパズルのピースのように並べ替えながら呟く。
 「アイツ、ぜったい殺してやる」
 アイツ。鍵屋崎 スグル。
 物騒な発言にぎくっとしたビバリーがおそるおそる背中に問うてくる。
 「まだそんなこと言ってんすか……」
 「本気だよ僕は」
 ママから来た手紙の断片をああでもないこうでもないと並べ替えつつ、固い決意を口にする。
 ママを侮辱したアイツだけは許せない、絶対に。鍵屋崎は地雷を踏んだ、僕のママを馬鹿にした。僕が世界でいちばん大好きなママを。
のみならず、僕が指折り数えて待ち焦がれていたママからの手紙を目の前で破り捨てた。何の心の痛痒も感じず、何の罪悪感もおぼえず。
 許せない。絶対に復讐してやる、クソ生意気な日本人に思い知らせてやる。
 コンコンと扉がノックされる。反射的に上体を起こし、首を傾げてビバリーと顔を見合わせる。目配せを交わしてどちらが応対にでるか譲り合うが愛想のよさでは僕に軍配が上がる。それにこの時間帯に訪ねてくるのはだいたい僕のパトロンの看守か囚人と相場が決まっている、だったら最初から僕が出たほうが早いだろう。ベッドから飛び下り、扉へと歩く。ノブを回し、扉を開ける。
 廊下にいたのは見覚えのある看守。いつも笑ってるような糸目、しまりのない口元、日本人特有のなで肩。冴えない中年男の最大公約数のような平凡で個性に欠ける容姿を紺の制服に包んだこの男は―……
 「えーと、曽根崎さん?」
 やばい、語尾が疑問形になった。
 「どうしたの、こんな時間に何か用」
 扉を閉じてビバリーの詮索を遮り、僕目当てでやってきた看守と廊下で対峙する。彼の名前は曽根崎、イエローワーク温室担当の看守でなにかにつけ僕を贔屓してくれるパトロンのひとり。このまえサムライの房の前で僕が噛んでいたガムも彼からこっそりもらった物だ。
 お人よしが制服を着て歩いてるような曽根崎は下腹部で手を組んでもじもじしていたが、なにかを探るような上目遣いでちらりと僕を見上げるや意を決し、心配そうな声音で来意を告げる。
 「いや、用ってほどのことじゃないんだけど……リョウくん最近元気なかったから調子悪いのかなって心配になって、様子を見にきたんだ」
 三十過ぎた中年男のはにかみ笑い、気色悪い。そんな内面はおくびにも出さず、営業スマイルで対応する。
 「そっか、わざわざ心配して来てくれたんだ。ありがとう曽根崎さん、やさしいね」
 「いやあ……あはは……照れるなあ」
 頭を掻きながら恐縮する曽根崎の頬がうっすらと上気している。どうやら本気で照れてるらしい。壁によりかかりながら内心、あんたいくつだよ?とツッコミをいれる。イエローワークの温室。ホースで水やりをしてる最中、体、とくに腰のあたりにまとわりつくような視線を感じることがある。ホースを持って振り返れば十中八九の確率で曽根崎と目が合う。僕と目が合った曽根崎はまずい、という顔をしたあとで決まってぷいと顔を逸らす。侮蔑まじりにささやかれてる曽根崎の噂を思い出す。曽根崎は恐妻家の婿養子で二つ年上の奥さんに頭が上がらないらしく、その反動から腕力や権威で自分が上位に立つことのできる相手―すなわち僕みたいに腕力で御しやすい、見た目小動物系の少年ばかりに性欲を感じるようになったらしい。
 つまりはタジマやヤマノベさんのご同類、かなり年季の入った少年愛好者の変態ってわけだ。
 「それはそうとなにが原因で落ちこんでたんだい?僕でよければ力になるよ」
 善意を装った下心見え見えの申し出に辟易しつつ打算を働かせ、憂い顔で嘆息。
 「たいした理由じゃないんだけどね……鍵屋崎スグルって知ってる?僕と同じイエローワークの砂漠担当、両親を殺して東京プリズンに送致されたエリート崩れの日本人。彼とちょっと、ね」
 「なんだい?」
 「ママから届いた手紙を目の前で破かれちゃったの」
 涙にぬれた上目遣いで曽根崎を仰ぐ、これも作戦のうち。思ったとおり、僕にぞっこん首ったけの曽根崎はその言葉を聞いて義憤にいきり立つ。
 「なんてひどい……!!」
 鍵屋崎にいじめられたと主張してしおらしく落ち込んだフリをしておけば僕にご執心の曽根崎は鍵屋崎を目の敵にして辛く当たるようになるだろう。そう考え、嗚咽をこらえるふりで顔下半分の笑みを隠した僕をよそに事態はおもわぬ方向に転がり始めた。
 「鍵屋崎ってサムライと同房のあのメガネの少年だろう?おとなしそうな顔してなんてひどい、とんだいじめっ子じゃないか。きっとサムライに、あの残虐非道な大量殺人犯に感化されたんだな。同じ仙台市民として恥ずかしい……」
 「え?」
 仙台?
 「あ?ああ、鍵屋崎のことじゃない。同房のサムライのことだよ」
 「サムライ仙台出身なの?しかも曽根崎さんとおなじって……」
 「僕の実家仙台なんだ」 
 「じゃあ、サムライのこと知ってるの?」
 「ここだけの話」
 手招きして僕の顔を招き寄せた曽根崎が周囲を憚って耳打ちする。
 「初めて聞いたときはすごい偶然もあるもんだと驚いたんだが、僕の叔母さんにあたる人が奴の実家で働いてたんだよ。と言っても数多くいる使用人のひとりとして雇われた身だし例の忌まわしい事件と同時にすっぱり辞めちゃったけど」
 「数多くいる使用人のひとりって、サムライんちそんな金持ちだったの」
 いつもは慇懃無礼でつれない僕が好奇心むきだしで話に乗ってきて有頂天になった曽根崎が、興奮に頬を上気させ続ける。
 「地元じゃ有名な武家屋敷だよ。なんでも元禄から続く由緒正しい武士の家柄だとかで家土地だけで千坪のだだっ広い敷地、立派な松が植わった日本庭園まであって事件で本家の人間が死に絶えてからは県の文化財に指定されてちょっとした名所になってる」
 「……へー。すごおい」
 棒読みで感心する。まったく日本人ってのは、どいつもこいつも成金揃いでむかつくったらありゃしない。僕とママが住んでたアパートはウサギ小屋みたいに狭くてベッドを並べて置くこともできなくて、僕とママは窮屈に寄り添いあって寝るしかなかったのに。僕を床に蹴落とさないようぎゅっと抱っこしてベッドの隅に身を寄せたママが「ごめんねリョウちゃん、狭くて。ママがもう少しやせてたらよかったんだけど、だめね、ダイエットしなきゃ……」と申し訳なさそうに謝る声が今でも耳から離れない。
 「当時はそりゃ騒がれた、地元で有名な道場主の跡取り息子が突然伝家の宝刀抜いて父親を含む門下生十数人を斬り殺したんだから騒ぎにならないほうがおかしい」
 「しかも動機は不明だし」
 曽根崎が言おうとしたことを先回りして付け加えたがどうも様子がおかしい。僕を覗きこんでる曽根崎の顔、その目に隠そうとしても隠しきれない優越感が滲んでいる。なんともいえない表情でこみあげてくる笑みを堪えた曽根崎を不審がっていると、僕の反応に気をよくした曽根崎が意味ありげに声を低める。
 「世間的にはそういうことになってるね」
 「世間的にはって……」
 「言ったろう、僕の叔母さんは事件があった屋敷で使用人として働いてたんだ。どいうことかわかる?世間体を慮って表には出ずしまいだった情報やその他諸々の理由でマスコミにも伏せられた真の殺害動機をあまねく知る立場にあったってこと」
 曽根崎の叔母さんは仙台にあるサムライの実家で使用人として働いていた。
 なるほど、長く勤めた使用人なら閉鎖的な家の内部事情にも知悉してるだろう。サムライの殺害動機が外に漏れなかった最大の理由は本人が完全黙秘を貫いたからだが、その他にもいくつか理由がある。まずサムライは人間国宝の祖父を持つ名門道場の跡取り息子、鍵屋崎とは少し意味合いが違うがそれでも輝かしい未来を予定された生粋の日本人。そのサムライが、日本人の中の日本人たるサムライが自分の父親を含む門下生十数人の殺害という重罪を犯した。政府または警察上層部の方針でマスコミに緘口令が敷かれた可能性もある、半世紀前ならいざ知らず無国籍スラム化して混血が進んだ今の日本じゃ苗字を有した血統書つき日本人は中世の貴族のように種特権階級扱いされてる。日本人の鑑となるべく生まれたサムライが自分の父親を含む十数人の人間を大量殺戮したのだ、少年犯罪の増加による日本のイメージ低下を危ぶむ政府にとっては都合が悪いことこの上ない。しかもその動機がマスコミに流布するとまずいような種類のものであるなら尚更だ。 
 ……ああ、そうか。
 「教えて曽根崎さん」
 曽根崎の首に腕を回し、口付けする体勢で顔を仰ぐ。媚びた上目遣いと甘ったるい猫なで声で媚態を演じ、片手でズボンの股間をまさぐり挑発。曽根崎の股間が反応を示し始めたのをこれ幸いと耳朶に吐息を吹きかける。
 「曽根崎さんなら知ってるんでしょ?サムライがここに来た本当の理由……」
 ズボン越しに太腿をさする。突然の愛撫に年甲斐もなく動揺していた曽根崎がごくりと生唾を嚥下する。情欲にぬれた目。唇が重なりそうで重ならない距離でささやけば、つりこまれるように曽根崎が息を乱しはじめる。
 「サムライがここに来た本当の理由は……」
 僕の言葉を復唱し、覆い被さる。囚人服の裾に手がすべりこむ。むさぼるように腹筋を揉みしだく手に湿った息を漏らし興奮してる演技をする。不器用な愛撫に励んでいる曽根崎の口元に耳を近づけ不明瞭にかすれた言葉を拾い上げる。驚愕。そして理解。意外だ、あのサムライがそんな理由で?あんな淡白な顔して、あんな清廉潔白なフリして、そんなことを……
 面白い。すごく、面白い。
 「あ」
 僕の腰を抱きしめ、性急な手つきで股間のジッパーを下げようとした曽根崎に待ったをかける。お預けを食らわされた犬のように物欲しげな目で狂おしく見つめてくる曽根崎、その視線を絡めとり、悩殺的な笑みを浮かべる。
 「じゃあ曽根崎さん、サムライの本名知ってる?」
 ビバリーのパソコンで個人情報を呼び出そうにも本名を知らなければ検索をかけられない。 
 「ああ、知ってるさ。アイツの本名は……」 
 曽根崎が囁いた名前は……
 ジッパーの開く金属音が響き、僕の下半身が軽々と持ち上げられる。曽根崎がことに及びやすいよう腰を浮かせて足を開きながら妙に感心する。
 まったく、サムライらしい名前だ。
 律動的なリズムで貫かれながら快感に朦朧としはじめた頭を回転させる。サムライの本名を餌にすれば鍵屋崎は釣れるだろうか?曽根崎の背中に腕を回してしがみついたとき、はだけて乱れたシャツの裾からはらりと紙片が舞い落ちる。鍵屋崎に破り捨てられた手紙の断片、地べたに這いつくばってかき集めてきたママの手紙の欠片。
 展望台のへりに立った鍵屋崎の背中が浮かぶ。
 冷酷無慈悲かつ、トンとひと突きすれば奈落の底に転げ落ちていってしまいそうに脆い均衡の上の―
 『追いつめて追いつめて殺しやる』
 ママのために。僕のために。
 胸の内で燻り始めた火種がやがて快楽の熾火に変じて全身に散じてゆくに任せ、曽根崎の背中に強く強く爪を立てた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060328052822 | 編集

 その家は暗く湿った木造家屋だった。
 どっしりと太く貫禄のある黒光りする梁、威圧感のある重厚な骨組み。天井は開放的に高いが、日本家屋特有の採光の悪さから板張りの廊下の端々にはいつも闇がたちこめていた。
 森閑と静まった外廊を一人の男が歩いている。
 否、男というより少年と形容したほうが正しい。
 外見は十代半ばに見えるが、もう少し若いかもしれない。とても姿勢が良い。一足ごとに歩いていても少しも姿勢が崩れず、身のこなしは極力贅を殺ぎ落としたように無駄なく、狩りで鍛えた肉食獣の如く敏捷かつ流麗。ただでさえ背が高いというのに小揺るもせず背筋をのばし、きびきびと大股に歩くせいで本人は意図せず周囲に威圧感を振りまいている。
 足袋を穿いて板張りの廊下を歩けば、飴色に輝く檜の床の軋り音がする。よく磨きこまれ、艶やかな飴色の光沢を放つ縁側を殆ど衣擦れの音もさせずに歩いていた少年はふと踏み石に目をとめる。石臼のようにひらべったい丸石の上には下駄が一足、きちんと並べて置かれている。この屋敷は日本家屋独特の造りで屋敷をめぐる縁側から直接庭に出られるようになっている。
 胴着の腰にさした木刀の鍔に知らず手を添え、丸石の上におかれた下駄の鼻緒に足の指をもぐらせる。下駄を穿いて庭に出た少年はしばらく木刀の鍔に手を添え、爛漫とした春の陽気に酔うかのように鼻孔を上向けてそこにたたずむ。暦が如月に変わり、陽射しもだいぶ柔らかくなった。陽射しのぬくもりを背に感じ、冬眠から覚めて芽吹き始めた木々の新芽を眺める目は凪のように穏やかだ。切れ長の一重はともすると近寄りがたく剣呑な印象を与えがちだが、口元をゆるめて目を細めれば表情はずいぶんとやさしくなる。
 しかし、少年が笑みを浮かべるのは稀だった。
 少年は物心ついた時から泣くのを法度とする家に生まれた。母は知らない、物心ついたときには既に他界していた。父は母に関する話を渋った。夫婦仲がよくなかったのかと子供心に邪推するほどに母の話を避けた。少年もまた、亡き母を恋しがって泣いたりはしなかった。
 顔も知らない、息子に思い出も残さずに逝ってしまった母に実の所執着はない。
 少年の家族は父だけだった。
 鬼のような父だった。
 鬼の如く外道、というわけではない。否、世間的には十分そう評価されてもふしぎではない気性のはげしさと荒々しさを持ち合わせていたが、少年はどんなにひどく不条理に痛めつけられても父を憎むことがなかった。これも修行のうち、と心得ていたからだ。実際剣の腕では父の右に出る者はない。元禄年間から続く由緒ある道場を継がせるためにも厳格な父が跡取り息子に幼少期から真剣を握らせたのは至極道理の習いだった。父もまた、今は亡き祖父からそう育てられたのだろう。
 少年は箸の握り方よりさきに真剣の握り方を教えられ、それを覚えた。
 血が滲むような日々の鍛錬と過酷な修行の末に剣術を体得した少年は、しかし、無口で何を考えてるかわからない子供だと使用人から陰口を叩かれた。口数は決して多くなく、必要以上のことは言わない。徹底して無駄を省いたそのしゃべり方は世間が定義する「子供らしさ」とはかけはなれており、子供が子供らしくあることを望む大多数の大人には好まれざるものだった。
 少年にとってはこれが自然だった。物心ついたときから身に染み付いた姿勢、というべきか。必要以上のことも必要以外のことも言わず、他人にそしられる隙をあたえぬよういつでも背筋をただして歩く。隙を見せない子供は隙を見せぬままに成長し、その本心を知る者はただ一人を除いて皆無であった。そう、実の父でさえも彼の胸のうちを余す所なく把握していたとはとても言えない。
 下駄をつっかけて庭に出た少年は、そのまま鬱蒼とした木暗闇を歩いた。
 屋敷の庭は広く、さまざまな樹木が植わっている。松、杉、欅、檜……そして桜に梅。四季折々の花を咲かせて人目をたのしませる庭をあてどもなく散策するのは剣を握ることしか知らない少年の無聊をなぐさめる数少ない趣味のひとつだった。 
 季節は如月。どこからか桜の香が薫ってくる。
 馥郁たる桜の香に誘われるように木暗闇を抜ければ視界に吹き荒れたのは薄紅の嵐。鬱蒼とした木暗闇の涯て、樹木が開けた場所には桜の老木が一本植わっている。大樹である。どっしりと貫禄のある枝ぶり、老齢をしめすおびただしい皺が刻まれ、瘡に覆われた幹。四方に枝をのばして天を覆った桜の大樹の下に佇んでいるのは女。
 否、これも少女と形容したほうが正しい。
 たおやかななで肩、女性らしい丸みをおびはじめた腰の曲線。つややかな黒髪を背中の中ほどで一つに絞った背格好は薄紅の嵐に吹き飛ばされてしまいそうなほどに儚げで、少年は足を速めた。桜の花弁が淡雪のように降り積もるなか、大樹の下に立ち、心もち顎を傾げて天を仰いでいた女に声をかける。
 女が振り返る。
 女は地味な着物を身に纏っていた。裾が綻び、袖が汚れた粗末な着物。故あって屋敷の隅に間借りしているが、女の立場は一介の使用人である。とても衣服に贅沢できるような恵まれた身分ではない。
 しかしそれをさしひいても、女は十分に美しい容姿をしていた。
 垂れ目がちのやさしいまなじり、常に潤んだ黒目がちの目。鼻は高くもなく低くもない。常に微笑を含んでいるかの如くふくよかな唇。黄色人種のそれと比べても、東洋と西洋が中和したかのように肌の色は白い。抜けるような白さ、と表現するのがふさわしいだろう。
 たおやかで優しげで、今にも大気に溶けて消えそうに儚げな容姿の少女だった。
 『こんなところにいたのか』
 なにげない一言で、少年が女をさがして庭にさまよいでたことが判明する。桜の下の少女はすまなさそうに微笑んだ。わざわざ私なんかを捜させてしまって申し訳ない、という控えめな謝罪の微笑。
 『桜を嗅いでいたんです』
 桜を見ていた、とは言わなかった。否、言えなかったのだ。
 女は目が見えなかった。
 いつ頃からそうなのか、生まれつきなのか、少年は知らなかった。少年が物心ついたときにはもう女の目は光を失っていた。女は少年の二歳上、今は十六歳のはずである。女は少年の遠縁にあたる親類の子で、幼い時に両親を亡くして本家の屋敷に引き取られてきたらしいがその扱いは使用人も同然だった。ほんの幼い頃から使用人として仕えてきた女のことを、しかし、少年は彼の父がそうするように決して蔑んではいなかった。
 それが証拠に、こうして女とふたり並んで語らうときが少年にとっては殆ど唯一といえる貴重な安らぎの時だった。
 『小さい頃からずっとふしぎでした』
 唐突に女が呟き、先を促すように少年が振り返る。その姿が見えているわけでもないのに、空気の震えが伝わるのだろう。
 女は遠慮がちに微笑み、さきを続けた。
 『わたしが知っているのは黒だけです。瞼裏の暗闇の色、漆黒の夜の色。小さい頃はこれでも目が見えていたんですけど、光を失うと同時に色の記憶も薄れていって……桜を見たことだってたしかにあったはずなのに、今ではこの木がどんな色の花を咲かせるのか、それさえも思い出せないんです』
 女は淡々と語った。流れる水のように、ただ淡々と。
 憂えているわけでも哀しんでいるわけでもない。ただ、少しだけ残念そうに伏し目がちに微笑した。桜の花弁に降られながら、それでも桜の色がわからないと途方に暮れる女の横顔をしばらく無言で見つめていた少年がおもむろに行動にでる。無造作な歩幅で桜に歩み寄り、頭上に手をのばし、小枝を手折る。小枝の先端は薄紅の花弁で可憐に彩られていた。女の傍らに引き返した少年は、白い顔の前にスッと小枝をさしだす。
 『……本当にいい香り』
 胸いっぱいに清涼な香りを吸い込んだ女が、幸せそうに頬を上気させ、うっとりと呟く。焦点のあわない目を虚空に向け、薄紅の花弁を頭に積もらせてたたずむ女。邪気のない笑顔につりこまれ、少年もふと笑う。
 花弁ははらはらと降り積もる。
 女は桜の下から動かない。立ち去るのがたいそう名残惜しいようで、なかなか踏ん切りがつかずにいる。着物の胸に片方の拳をあて、放心したように立ち竦む女の顔前に小枝をさしだしたまま、少年もまた微動だにしない。女の頭に花弁が降り積もっているのに気付き、少年が片手をあげる。小枝をささげもったのとは別の手をそっと女の頭上に翳し、少し躊躇してから決心し、薄紅の薄片を払い落とす。
 頭に触れた無骨な手、その不器用さと誠実さが嬉しくて愛しくて、見えない目でじっと少年を見据える。
 『ありがとうございます』
 鈴を振るような声で礼を言った女に少年がなにか返そうとしたその時、屋敷の方からさかんに声がした。女の名を連呼する横柄な声。使用人を取り仕切る筆頭格の女中が女を呼びつけ、また何か雑用を言いつける気だろう。せわしない呼び声に我に返った女が屋敷の方角を仰ぎ見て「いけない」と呟く。
 『私、もう行きます』
 『ああ』 
 『みつぐさんはまだ?』
 『……ああ』
 『じゃあ、ここでお別れですね』
 寂しげに微笑み別れを告げた女、その足音がぱたぱたと遠ざかり、桜の木の下には小枝を胸に抱いた少年だけが残される。足音が止み、木暗闇の隋道の半ばで女が振り向く。着物の袖をたくしあげ、ちょっと片手を挙げるしぐさをしてみせた少女が、次の瞬間には自分のはしたなさに赤面して下を向く。
 足音が再開される。
 屋敷の方角へと走り去った少女を見送り、桜を仰ぎ、おのれの手の中の小枝を見下ろす。
 桜を見ることができない女にせめて香りだけでも存分に嗅がせたいと小枝を手折ったが、桜も生きている。枝には命が通っているのだ。少年は心なしばつが悪そうに手の中の小枝を見下ろしていたが、やがてその場に片ひざつくや、桜の木の根元にそっと小枝を横たえる。
 『……すまん』
 片手を軽く掲げて合掌する。 

 桜はなにも答えず、ただ、薄紅の嵐を降らせるだけ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060326052933 | 編集

 夜中に目を覚ますと今でも時折自分がどこにいるかわからなくなる。
 四隅に錆びた配管の走った低い天井。視界を圧迫するように頭上を塞いだ陰鬱な天井から壁に沿って視線をめぐらす。コンクリート打ち放しの殺風景な壁にはところどころどす黒い染みが浮き出している。壁の内部に埋め込まれた配水管から漏れた水が斑模様の痣にも見える暗色の染みを壁に浮き上がらせているのだ。
 痣。僕の体にあるのとそっくりな。
 そこまで考え、毛布下の右腕に目をやる。自覚した途端、右腕が鈍く疼いた。今日……否、正確には昨日になるだろうか。イエローワークの強制労働中、同じ班の人間に砂をどかすふりをしてシャベルをぶつけられた痕が青黒く痣になっている。東京プリズンにきてから痣と生傷が絶えない毎日で今では何とも思わないが最初の頃は辟易した。世田谷の実家にいた頃はほとんど怪我とは無縁の生活を送ってきた。自慢じゃないが僕の反射神経は鈍い、運動神経もそれに対応して鈍い。屋外での運動を好まず、父の研究助手から解放された後の余暇は書斎か自室で本を読み耽るのを日課にしていた僕の日常は知識の蓄積、教養の向上という一面では生産的であったが、活動的なものであったとは到底言いがたい。
 東京プリズンにきてからすべてが反転した。日常は非日常に、常識は非常識に。
 しかし東京プリズンにきてはや四ヶ月が経過しようとしている現在ではこの馬鹿げた非日常がすっかり驚くにも値しないほど日常化してしまっている。人間はどんなに過酷な状況にも柔軟に順応していける変化に即した生き物なのだという進化の定説をいまさらながら実感する。今では痣のある生活にも慣れた。間接を曲げるときに痛みに顔をしかめるぐらいで、この程度の怪我では医務室に行く気も起きない。たとえ行ったとて追い返されるのが目に見えている。医務室はいつも満員御礼の大混雑だ、しかも初期に負った右手薬指の怪我を包帯だけ巻いてあとは完全に放置しておくようないい加減さ。無事骨のヒビが完治したからよかったようなものの一歩間違えば右手が使い物にならなくなっていた。それはおおいに困る、右手が使えなければ本を読むのにも不自由する。
 胸にかぶさっていた毛布をどけ、上体を起こす。ベッドの背格子にもたれ、闇に沈んだ房を見回す。毛布をどける際、袖に包まれた右腕が鈍く疼いた。明日、いや今日の強制労働に障りそうだなと考えると憂鬱になる。今は何時だろう?房には時計がない、したがって時間がわからない。就寝時刻から逆算するに午前二時か三時、といったところだろうか。ずいぶん中途半端な時間に目覚めてしまった。体の底には疲労が澱のように沈殿され、節々を動かすのさえ億劫だ。二度寝しようにも目が妙に冴えてしまった、体に蓄積された疲労とは裏腹に左脳と右脳の思考活動が再開される。
 まったく、明日も強制労働だというのに迷惑な話だ。
 心の中で毒づき、顔でも洗って気分転換を図ろうと床に足裏をおろす。ひやりと吸い付くような石床の感触に頭が覚醒。腰を上げ、洗面台に歩く。わざわざ裸電球など点けなくてもこの狭苦しい房のどこになにがあるかは完璧に把握している、僕の記憶力は細部に至るまで完全に正確だ。暗闇の中を歩いて洗面台に辿り着き、蛇口を捻る。両てのひらに水を受けて顔を洗う。顔の皮膚が水を弾く感触が気持いい。生き返った気分で蛇口を締め、タオルをさがして空中に手をさまよわせてから自分の愚行に気付かされる。
 
 ここは世田谷の実家じゃない。洗面台の横に清潔なタオルが用意されてるわけもない。

 東京プリズンにきてから四ヶ月も経とうとしているのに未だに世田谷の家にいた頃のくせが抜けないなんて、と自分に呆れる。ここは僕の家じゃない、砂漠のど真ん中に建つ悪名高い東京少年刑務所……通称東京プリズンだ。勤勉でよく気がつく家政婦が常に清潔なタオルやシーツを用意してくれた世田谷の家じゃない、僕が戸籍上の両親と十五年余りを過ごしたあの息苦しい家じゃない。
 そうだ。ここには恵がいないんだ。
 僕の妹がいない、僕の恵がいない。その事実が手に掴みそこねた不在のタオルの形を借りて身に染みて、宙に浮いた手を拳にして握り締める。恵は今どうしてるだろう。
 『仙台はいいところか』
 『ああ』
 『空気はおいしいか』
 『ああ』
 『人はやさしいか』
 『ああ』
 『食事はおいしいか』
 『ああ』
 『恵は元気にしてると思うか』
 『ああ』
 あの時サムライは力強く請け負ってくれた。武士に二言はない。嘘をつかないサムライが絶対だと保証してくれたのだから檻の中で恵の消息を知る術のない僕はそれを信じるしかない。仙台のことは仙台で生まれ育ったサムライがいちばんよく知っている。サムライがいいところだと言うならいいところなのだろう、恵はたぶん、健康面では支障なく過ごしていることだろう。そう自己暗示をかけて自分を安心させるしか今の僕には術がない。
 タオルがないから、仕方なく囚人服の裾で顔を拭う。衣類の裾で顔を拭くのは正直抵抗があったが、タオルがないなら身につけてるもので代用するしかない。メガネを拭くときも同様だ。シャツで顔を拭ってからふとサムライは熟睡してるだろうかと気になり、隣のベッドに目を転じる。僕のベッドの反対側、壁に密着するように置かれているのは廃品寸前のパイプベッド。5メートルもない距離を隔てた対岸のベッドに寝ている人物の気配に耳をそばだてるが、洗面台からは少し離れてるせいか衣擦れの音ひとつしない。あまりに静かなので就寝中に心停止してるんじゃないかと不安になり、足音をひそめてサムライのベッドに歩み寄る。
 そっと顔を覗きこむ。
 暗闇に目を凝らす。
 ……どうやら生きてはいるようだ。この男ときたら起きているときも寝ているときも殆ど物音をたてない、寝息さえじっと耳をそばだてなければ聞き取れないほどだ。少し安心し、自分のベッドに引き返そうとしたが、サムライの寝顔をじっくり観察する機会もそうはないと思い直してその場にたたずむ。観察対象のモルモットが無意識領域でどんな夢を見ているか気にならないと言えば嘘になる。
 暗順応を起こした目にサムライの寝顔が映る。眉一筋動かさない仏のような寝顔……仏のような?突飛な連想に我知らず苦笑する。彫りの浅い、日本人特有ののっぺりした顔だちのサムライの容貌を形容するなら確かに彫像というより仏に近いが、言うにこと欠いて「仏のような」なんて僕も斬新な比喩をつかったものだ。どんなに穏やかな寝顔をしていても、サムライは僕よりはるかに多く人を殺してるのに。
 「………殺してるんだよな?」
 知らず、語尾が疑問形になった。
 わざわざ聞く人もない疑問を口にだして確かめたのは自分でも半信半疑だったからだ。東京プリズンに来た初日、凱とその取り巻き連中に強姦されかけたときに聞かされた話を思い出す。人間国宝の祖父を持つサムライはある日突然道場の神棚に飾られていた伝家の宝刀をひっ掴み、実の父親を含む同胞十二人を残忍に斬り殺した。とても正気の沙汰とは思えない、尋常じゃない。凱は空恐ろしげにそう口にした、サムライは気が狂っていると、異常者だと。僕と同じ、他者からの理解を拒む親殺しだと。
 でも、そこにはなんらかの理由があったはずだ。
 今ならわかる。確信できる。サムライは理由なく他者を惨殺するような手合いじゃない、流血に快感を見出し殺戮に酔いしれ、人を殺したことを逆に誇るような見下げ果てた手合いじゃない。凱はなんと言った?サムライがここに護送される間際に呟いた台詞―
 『俺はただ、力量を試したかっただけだ』   
 はたして本意だろうか、どうにも解せない。剣の道に身を捧げたサムライなら考えられなくもないが、なぜ純粋に力量を試すためだけにおのれの父親を含む十二人もの罪なき人間を殺害しなければならない?サムライは自分の力量を他者の上に立つことで証明して楽観するような安い男じゃないはずだが……買いかぶりすぎだろうか。
 どれくらいサムライの寝顔を眺めていたのだろう。
 つりこまれるようにサムライの寝顔を覗いていると就寝中も眉間に皺がよっていることに気付いた。単純な発見。熟睡している人間はだれしも無防備になるというがサムライも例外ではないらしい、彫刻刀で彫りこまれたような不動の皺を除けば覚醒時の近寄り難い殺気は霧散している。
 新たな発見に満足し、自分のベッドに引き返そうとした僕の背後で、声。
 「?」
 耳を澄ます。振り返る。
 背後のベッドに横臥したサムライの唇がかすかに動き、なにかを不明瞭に呟く。寝言か?何を言ってるのだろうと興味をおぼえて耳を近づけた僕の腕がぐいと引かれる。
 「!」
 毛布から突き出たサムライの手に手首を掴まれ、強い力で引き寄せられ、バランスを崩す。床に膝をついた前傾姿勢にならざるをえない僕の眼前、ベッドに横たわったサムライの顔に淡い変化がおきる。
 淡すぎて見過ごしてしまいそうな表情の波紋―……これは。
 苦悩?焦慮?
 寝ている時まで仏頂面のサムライにはじめて表情の変化が起きる。息をするのも忘れ、サムライの表情の揺らぎに見入る。薄い唇が開かれ、また、閉ざされる。二音節の単語を呟いた気がしたが生憎小さすぎて聞こえなかった。脱力し、サムライの手をふりほどこうと指に力をこめる。……無理だ。もう一度、僕の手首をがっちり握り締めた手の甲に爪を立てて開かせようとするが失敗。一本一本指を引きはがしにかかるがサムライの握力は想像以上に強く、びくともしない。
 コイツ、痩せてるくせに握力が強すぎる。
 さすが幼少期から真剣を握って修行してきたわけじゃないなと半ば感心したが、ふといやな予感に襲われる。このままサムライが手を離してくれなければ僕は床に膝をついたこの体勢で夜を明かすしかない。毛布も羽織らず、床にすわりっぱなしという背骨に負担のかかる体勢でまんじりともせず朝を迎えるなんて……
 明日も強制労働が控えているというのに冗談じゃない、なぜサムライのせいで僕まで睡眠不足にならなければならない?最悪風邪をひいてしまうではないか。
 こうなったらなんとしても手を引き抜こうとなりふりかまわず手首を振って身をよじってみるが、駄目だ。サムライを叩き起こすしかないのだろうか?はげしく息を切らしながら忌々しげにサムライを睨みつけ、ハッとする。
 サムライの手首にうっすら残る赤い濠……独居房に送られた折の、手錠の痕。
 だいぶ癒えて薄くなってきたが、まだ完全には消えてない。僕の手紙を燃やしたタジマを殴り、その罰としてサムライが独居房送りになったことを思い出す。 
 むきになってサムライの指を引きはがそうとしていた手から力が抜けてゆく。
 誤解しないでほしい、べつにサムライの安眠に配慮したからでもサムライの怪我を案じたからでもない。ただ、自然に手がはずれるまで待とうと発想を転換しただけだ。サムライも朝まで僕の手を握ってるつもりはないだろう、そのうち寝返りを打つかどうかして自然と手を離してくれるはずだ。
 ………待てよ、僕は潔癖症だ。人に触られるのも人に触るのも不快でしょうがなかったはずなのに、なんで。
 不可思議な心境の変化に戸惑いつつ、よく寝入っているサムライの顔を見下ろす。僕の気なんて知らずにかすかな寝息をたてるサムライ、その眉間の皺が深まり、乾いた唇が薄く開く。
 「……………」
 「え?」
 声がした。
 声、というより呟き、というほうが正しいだろうか。サムライが何かを呟いた。小さすぎてはっきりとは聞き取れなかったが、吐息に紛れそうにかすかな声でたしかに何かを言った。
 手首を掴んだ握力が強まる。
 手首に走った痛みに「いい加減にしろ」と抗議の声をあげ、こうなったら枕を引き抜いてでもサムライを起こそうと決心する。
 サムライの睡眠時間より僕の睡眠時間のほうが大事だ。
 そう優先順位をつけ、サムライが頭を載せた枕を一気に引き抜こうと前傾姿勢をとった僕は、至近距離からまともにサムライの顔を覗きこんで絶句する。
 眉間に刻まれた苦悩の皺、憂いに閉ざされた瞼、色を失った唇ー……
 そして、縋るように手首を掴んでくる骨ばった手。
 うなされている?
 あの鉄面皮のサムライが、悪い夢を見てうなされているというのか?
 瞬時には理解しがたい不測の事態に、あるいはサムライ以上に動転した僕はその場に膝立ちになり硬直する。心臓の動悸が速まり粘液質の汗が全身に噴き出す。現在進行形で理解できないことがおきている。サムライはいつなにがおきても巌のように動じない、般若心境を読むときだって眉一筋動かさない男だったはずなのにー
 「………………え」
 乾いた唇が開き、かすれた声で呟く。
 ひきこまれるようにサムライの口に耳を近づける。次第に高鳴りつつある心臓の鼓動に邪魔されないよう聴覚を研ぎ澄ませ、次なる一言に全神経を集中させる。
 眉間の皺がひときわ深く刻まれ、今度ははっきりした声で―……

 「なえ」 

 苗?
 「……苗。名詞。芽が出て少し育った移植用の(草木)植物。狭義では発芽してから田に植えるまでの稲をさす。数え方、一本・一束」
 苗といえばそれしか思い浮かばない。いや、待てよ。いつか見た、サムライが小箱に秘匿していた手紙の文面に記載されていた一文を連想する。
 『芽吹かない苗』
 意味不明な、謎めいた言葉。なにを意味するのかさっぱりわからない、暗示的な一文。
 サムライが今口にした「なえ」とあの「苗」は同じものをさすのだろうか?……わからない。芽吹かない苗の意味するものが。順当に考えればあの手紙は外でサムライの帰りを待つ人間から届いたものだ、その人間が「芽吹かない苗」という一文を手紙にしたためた。以上の条件から導き出される仮説は……サムライがここに入る前にどこかに植えてきた苗を甲斐甲斐しく世話してる人間からの相談の手紙?苗が発育不良で育たなくて悩んでいるのだろうか?サムライのことだ、盆栽の栽培など年不相応に渋い趣味を有していても不思議ではない。ひとを殺して東京プリズン送致が決定するまえに大事にしていた盆栽の世話を信頼できる人間に託した、という可能性はあるだろうか?
 などと推理を働かせながらサムライの顔を見下ろしてるうちに、唇がひとりでに動く。
 「僕の名前は『なお』だ」
 『なえ』じゃなくて『なお』だ。
 なぜ今改めてこんなことを強調するのか自分で自分がわからないー……ただ、一字を変えれば僕の名前になるなと気付き、言ってみただけだ。いつも「鍵屋崎」と呼び捨てにしてるサムライが下の名前を覚えてるかどうか疑問になった、というのもあるが。
 すっと手が離れた。 
 あれほど強く僕の手首を握り締めていた指から力が抜け、枯れ葉のようにゆるやかに毛布の上に落ちる。まるで人違いだったといわんばかりに。
 なんなんだ一体。
 とはいえ、手首の拘束が解けて助かったのは事実だ。床から立ち上がり、ベッドにとって返そうとした僕の足元を頭部に触覚を生やした黒い影がささっとよこぎる。
 「うわっ!?」
 奴だ!
 悲鳴をあげ、後ろ向きに尻餅をついた拍子に背後のベッドに肘がぶつかりガチャンと音が鳴る。
 毛布がばさりと床に落ち、剃刀のような風が頬を掠めた。
 何が起きたのか一瞬理解できなかった。
 理解できたのは裸電球の笠が捻られ、仄暗い光が房を満たしてからだ。裸電球の光に暴かれたのは殺風景な房の全容。黒々と水性の染みが浮き出たコンクリートの壁、ひんやりと冷たい床、天井を走る錆びた配管から滴る汚水―……その汚水を肩に受けながら微動だにせず佇んでいるのは長身痩躯、一見年齢不詳の男。
 サムライ。
 床に尻餅ついた僕の顔面に隙ない構えで木刀をつきつけるサムライ。最前まで熟睡していたというのに、猛禽の如く剣呑に輝く眼光からは今や完全に眠気が払拭されている。全身に殺気を漲らせて仁王立ちしたサムライ、僕の鼻先に擬されていた木刀の切っ先が音もなくすべり顎を縦断、喉仏に達する。
 生唾を嚥下した喉仏にひやりとした木の感触を感じつつ、床に後ろ手をついた間抜けな体勢でサムライを仰ぐ。
 重苦しい沈黙を破ったのは揺るぎない、低い声。
 「何をしていた」
 「……顔を洗っていた」
 「洗面台はあちらだ」
 木刀は喉仏に擬したまま、無造作に顎をしゃくり洗面台を示す。サムライの顎が流れた方角を目で追い、正面に向き直る。
 「木刀を引け。これで三回目だぞ、僕に木刀を向けるのは」
 初対面のとき、首を吊ろうとしたとき。今晩で三回目だ。
 その一言でようやく木刀を引いたサムライだが目にはまだ一抹の疑念が宿っている。僕の行動を探るような疑り深い眼差しに嫌気がさし、床に手をついて立ち上がる。
 「悲鳴がしたが」
 「幻聴じゃないか?僕にはなにも聞こえなかったが」
 誰がゴキブリを見て悲鳴をあげたなんて言えるか。
 背中に注がれる視線を無視し、わざと挑発的な口調で返す。
 「般若心経の唱えすぎで聴覚までおかしくなったようだな。念仏の幻聴が聞こえ出したら耳鼻科では間に合わない、精神科に行け。最もこの刑務所にはカウンセラーがいないから無理だろうが」
 「お前の声ではなかったか?」
 「どこにそんな根拠がある?」
 これ以上要らぬ詮索を招くまえにベッドに帰って寝入ったふりをしようと踵を返しかけ、ふと立ち止まる。サムライの寝顔が脳裏によみがえる。僕の手を掴んだ骨ばった指、眉間に寄った苦悩の皺、乾いた唇から発せられた言葉は―……
 「サムライ、『なえ』とはなんだ?」
 刹那、サムライの顔色が変わった。
 いついかなる時も本心を悟らせない鉄面皮を保ち、寡黙を貫いて存在感を消した男が、その言葉を出した途端怖じたように狼狽する。右手にさげた木刀の切っ先が内心の動揺を反映するかの如く揺れ、嵐の前の波紋のように名伏しがたい激情が面に生じ、切れ長の双眸に複雑な色が過ぎる。
 だが、それも一瞬のこと。
 肩の力を抜いたサムライは僕に背を向けてベッドに戻るや、さらなる追及を拒絶するが如く断固たる口調で言う。
 「お前の知ったことではない」
 厳然と拒絶する背中にかける言葉を失う。ベッド下に木刀を投げこみ、毛布をたくしあげ、横たわる。僕に背中を向けてベッドに横たわったサムライはそれきり何も言わず、これ以上会話を続ける気もないと沈黙の内に意思表示する。
 人に聞きたくもない寝言を聞かせておいて、あんまりな態度に憤慨する。
 大股にベッドに戻り、毛布にくるまり目を閉じる。サムライのほうは振り向かずに壁と向き合う。こんな偏屈で偏狭な男とはもう一切会話したくない、頼まれたって願い下げだ。なんなんだ、わけがわからない。自分の方から人の手を掴んでおいて用がなくなれば何の未練もなく……べつにサムライに手を握っていて欲しかったわけじゃないが。断っておくが同性に手を握られて喜ぶ変態的な趣味はない、断じてない。
 朝起きたらちゃんと手を洗っておこう。
 そう決意し頭から毛布をかぶろうとし、顔だけ出して素早くあたりを見回す。床にも壁にも天井にもゴキブリの姿は見当たらない。深く安堵し、裸電球を点けっぱなしでいたことに気付く。舌打ちし、裸電球の笠を捻る。消灯。闇の帳が降りた隣のベッド、こちらに背中を向けて寝入った……もしくは寝入ったふりをしている男を睨み、嫌味を言う。
 「寝言で般若心境を唱えだすなよ。辛気くさい念仏を聞けば眠りも浅くなる」
 サムライは答えない。僕を無視するなんて何様の気だ?
 べつにサムライが答えてくれずともちっとも寂しくはない、ただ猛烈に腹が立っただけだ。

 モルモットに指を噛まれた気分だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060325053038 | 編集

 東京プリズンにきて四ヶ月が経った。
 四ヶ月での目に見える変化といえば少し日に焼けたこと、少し背が伸びたことくらいだ。
 身長に比例して増えるはずの体重は減った。
 心境の変化として挙げられるのはここでの生活に馴染み、外のことをあまり思い出さなくなった点だ。
 強制労働中は頭を空白にし、シャベルの上げ下げだけに集中する。
 雑念を散らし、頭をからっぽにし、シャベルを握る手元に意識を傾けてひたすら単調な作業に没頭すれば時間はあっというまに過ぎて強制労働が終了する。夕食後の自由時間は決まって図書室から借りてきた本を読んで過ごす。ベッドに腰掛けて読書する僕の隣でサムライは大抵読経か写経かそれでもなくば木刀を磨いている。会話はあまりしない。口を開くのは大抵僕の方で、その内容も「読経の声がうるさくて読書に集中できない」「トーンを下げろ」という一辺倒の抗議に尽きる。
 サムライは寡黙な男だ。
 サムライと一緒にいるのは気楽でいい、互いの存在が重荷にならない。使い道もないのに一日も手入れを欠かさず、飴色の艶がでるまで丹念に木刀を磨いているサムライの横顔を開いた本越しにちらりと盗み見ればいつも気難しい顔をしている。眉間に不本意な皺を刻んだ仏頂面は誇り高い武士というより傘張りに精を出す食いつめ浪人に近い。房の床に写経に用いた半紙が散らばっている状況にも慣れた。至極真面目な顔で筆をとり、一字一句写経にとりくむサムライの顔を見るともなく眺めているとふと疑問になる。
 『なえ』とはなんだ?
 背筋を凛と伸ばして床に端坐したサムライの肩越し、べッド下の薄暗がりを凝視する。サムライがベッドの下に秘匿している小箱、その中に保管されている古い手紙。かすれて薄れた記述の中、唯一読み取ることができたのは「芽吹かない苗」という一文。先日サムライがうなされながら口にしたのも「苗」だった。奇妙な符号の一致。この事実が示唆するものはなんだろう?手紙に記述された「苗」とサムライが寝言で呟いた「苗」は同じものなのか?そう考えるのが妥当だろう。苗……植物の苗。わからないのは何故サムライがそれほど苗にこだわるのかという点だ。サムライに盆栽の趣味があるかどうかは知らないが、十八歳という実年齢が偽証としかおもえない老けた未成年なら般若心境の写経と読経のほかに年寄りくさい趣味があってもおかしくはない。
 サムライは外においてきた盆栽に心を残してる?
 外になんら未練がないように見えるこの男が盆栽ごときに?
 「なにを見ている」
 訝しげに声をかけられ、本から顔を上げる。木刀を拭う手を止めたサムライが不審げな目をしている。いつのまにか本から心が離れ、サムライの過去に思い馳せていた自分に気付き、ひどくばつの悪い思いを味わう。
 「手に墨がついてるからあとで洗ったほうがいいぞ」
 わざとらしく見えないよう、余裕ぶって本のページをめくりながら指摘する。右手に目をやったサムライが「言われずとも心得ている」と返し、墨で手を汚しつつも精魂こめて写経に取り組む。その真剣な目、俗離れした雰囲気にかける言葉を失い、仕方なく本に戻る。
 が、漫然と活字を追っていても一向に内容が頭に入ってこない。僕には珍しい、いや、珍しいどころではない……異常事態だ。
 視線が活字を上滑りしていく感覚、集中力の低下。脳裏によみがえるのは先日の光景。
 裸電球の明かりもない暗闇の中、僕の手を握って離さないサムライ。僕よりひとまわり大きい骨ばった手の感触、すがるように手首を掴んでくる節くれだった指。眉間に寄った苦悩の皺、一文字に引き結ばれた唇、そしてー……
 『なえ』
 あの時、サムライはそう発音した。あのサムライが、起きているときも殆ど表情筋を動かさず、必要以上のことはおろか必要以外のことも滅多にしゃべらない男が夢という無意識の領域で苦悶していた。悪夢。サムライは悪夢に苛まれていた、ここの囚人なら珍しくもないことだ。僕も収監当初に比べてだいぶ頻度は減ったがそれでも週に二・三回は悪夢を見る。毎晩のように悪夢にうなされて飛び起きていた頃よりはマシになったが、連日の強制労働で精神的にも肉体的にも消耗して悪夢を見る余裕がなくなっただけだろう。東京プリズンに入所して間もない頃は心身ともに極度の緊張状態が続き、混沌の無意識領域にあっても自我を没することができなかった。四ヶ月が経過して東京プリズンでの生活にも多少慣れてきた現在は緊張も緩み、心身の疲労を回復するための眠りに抵抗なく没入できるようになった。
 サムライは強靭な精神力の持ち主だ。それはこの四ヶ月、共に暮らしてみてよくわかった。心身ともに強靭で頑健なサムライが悪夢にうなされるなんて珍しいこともあるものだとあの晩は妙に感心したが、考えれば考えるほどに疑問は募り、好奇心が刺激される。
 外の世界になんの未練もないように見えるこの男が唯一心を残しているもの……『なえ』。
 手紙にしたためられていた謎の一文……『芽吹かない苗』。
 それが、サムライの譲れないものなのだろうか。僕にも増して外界や他者に無関心なこの男が人並みに執着している対象なのだろうか。
 ページをめくる手が速まるにつれ知的欲求が向上し、探究心が刺激される。
 サムライの過去が知りたい。
 『芽吹かない苗』の謎を解き明かしたい。
 顔を隠すように広げた本の向こう側ではサムライが熱心に写経に励んでいる。姿勢よく端坐し、右手に筆、左手で半紙を押さえたその姿は垢じみた囚人服を纏っているというのに一種の風格さえある。
 サムライと同じ房になって四ヶ月。
 四ヶ月も経つというのに僕はサムライのことをなにも知らない。不公平ではないか。
 サムライは僕のことを知っている、最愛の妹を外に残してきたことも最愛の妹から拒絶されたことも熟知して許容している。転じて僕はどうだ?もう四ヶ月が経とうとしているというのにサムライについてなにも知らない、サムライは僕にとって依然謎多き存在のままだ。あの日、東京プリズンに来た最初の日に暗がりの房で木刀をつきつけられて以降なにも変わってない。
 どうして父親を含む門下生十二人を惨殺したのか?
 本当に力量を試したかっただけなのか?
 そのすべての謎を解く手がかりが「芽吹かない苗」の一文に秘められている、というのは考えすぎだろうか?―否、僕の予測は正しい。IQ180の天才たるこの僕が立てた予測が間違っているはずがない、サムライの過去を探る手がかりは「芽吹かない苗」の一文にある。
 だれから来た手紙なのだろう、あれは。
 だいぶ古い手紙だった。端は黄ばんで鉛筆書きの字は薄れて、肉眼では殆ど判別がつかなくなっていた。おそらくは数年前に届いた手紙……サムライが入所して間もない頃に届いた手紙だろう。差出人の候補に挙げられるのはサムライの肉親、または友人?後者の可能性は却下。あの寡黙で偏屈な男に、刑務所に収監されてからも手紙を送ってくるような友人の類がいるとは思えない……僕自身人のことを言えた立場じゃないが。
 ということは、最有力候補として挙げられるのはサムライの身内?その可能性が高いのは否定できないが……それでもまだ釈然としないものが残る。とにもかくにも差出人を特定するか「芽吹かない苗」の暗号を解読しないかぎりサムライの過去を暴くのは不可能だ。
 ――解明してやろうじゃないか。
 サムライが寝言で呟くほどに心を残しているもの、サムライの譲れないもの。絶対に突き止めてやる。口元に笑みが浮かぶのが押さえられない。東京プリズンに収監されて四ヶ月、過酷な強制労働にすり削られて休眠していた知的好奇心が疼きだす。サムライは非常に興味深い観察対象だ。見ていて飽きない、次になにをするか予想がつかない。
 そのサムライが現時点で唯一人並みに執着する対象―……『なえ』。
 面白いじゃないか。久しぶりに、本当に久しぶりに手応えのある研究課題ができた。
 「なにを笑ってるんだ」
 ハッとした。
 おもわず本を取り落としそうになり、慌てて両手を前に出す。ベッドから腰を浮かした姿勢で本を抱え持った僕を見て、サムライが怪訝な顔をする。
 「本に面白いことでも書いてあるのか」
 純粋な疑問を述べたサムライに動揺を知られるのを恐れ、膝の上で本を立て直して視線をさえぎる。
 「ああ。きみのように般若心境を写経するしか能がない男には理解できないかもしれないが、非常に為になる、興味深いことが書かれている」
 務めて平静を装い、表情を消し、本を再読するフリをする。本越しに注がれていたサムライの視線がついと逸れ、緩慢に墨を擦る動作が再開される。
 「結構なことだ」
 本心から述べたのか彼流の嫌味なのか……否、サムライは表情を変えずに嫌味を言えるほど器用ではない。察するに本心から述べた言葉だろう。うまくごまかせたようで安心する。本を読むふりをしてサムライの横顔を見上げ、決意する。
 『芽吹かない苗』の謎は、僕が自力で解き明かす。
 天才に不可能はない。


 調べ物があるときはまず図書室だ。
 東京プリズンの図書室は面積が広く、蔵書が豊富だ。古今東西、あらゆるジャンルを網羅した書物が整然と並んだ書架に一分の隙なく収められた光景はいっそ壮観である。人類の知的財産が集積された知識の宝庫、教養の泉。まずは本を手にとり、その重さを確かめる。ずっしりした手応えを感じつつページを開き、インクの匂いを嗅ぐ。そして、活字を読む。
 世田谷の実家にいた頃は自室にパソコンがあり、調べ物をしたいときはインターネットを検索するだけでよかった。インターネットで検索すればたちどころに必要な情報が呼び出されて手間と時間が省けるが、確実性を期したいときは本を頼る。僕の戸籍上の父として名前が記載されている鍵屋崎教授は職業柄豊富な蔵書を有していて、論文執筆の折には僕もたびたび彼の自室から本を借りてきてインターネットで検索した項目に関する徹底的な裏づけ作業を行った。骨が折れる作業だったが決して苦ではなかった。本を開けば常に新たな発見があった、一枚一枚ページを繰るたびに鮮度のいい知識が増えてゆく喜びがあった。
 電子の網が世界中に張り巡らされ、遠距離近距離問わずほとんどの用件はメール上のやりとりで済んでしまう今の時世にあり、僕がオーソドックスな読書を好むのはそういうわけだ。パソコン上で電子化された書籍を読むこともあったが、手ずから本を読んで得られる充足感にはかなわない。
 それに、パソコンで文章を読むのは目が疲れる。
 三分の一まで行かずに眼底がハレーションを起こし、いちいちメガネを取って目頭を揉まずにはいられなくなる。……今気付いたが好悪の問題というよりたんに体質に合わないだけかもしれない。
 強制労働終了後の自由時間、単身図書室に足を踏み入れる。
 三階まで吹き抜けの開放的な天井、整然と並んだ書架にはノンフィクションや伝記などジャンル別に分類札が貼られている。看守が常駐したカウンターの目の前、図書閲覧用の机を陣取って騒いでいるのは品のない囚人たち。東棟の囚人もいるが他の棟の囚人も多多混じっている、東西南北の棟はそれぞれ仲が悪く囚人同士も険悪であると聞いたが監視の目があるせいか表面的には和気藹々とやっている……あくまで表面的には。
 声高に雑談に興じる囚人たちの脇を素通りし、一直線に書架に向かう。僕が目指すのは三階、図鑑や事典など学術的な資料が置かれたスペース。階段をのぼり、三階に到着。幸い人けはない、誰にも邪魔されることなく目的の資料をさがすことができそうだ。手摺に手をおき、眼下を覗きこむ。この位置からだとちょうどカウンター前に並んだ閲覧用の机が見渡せる。机に行儀悪く足を乗せ、口々に下卑た冗談をとばす輩に眉をひそめる。
 図書室は本を読むところだ。ああいう輩には即刻ここを立ち去れと忠告したい。
 これ以上見ていても腹が立つので、踵を返して奥の書架へと歩む。きちんと等間隔に整列した書架の一角、図鑑が並んだスペースで立ち止まり、最上段の右端から順に背表紙を追ってゆく。
 あった。
 最上段の右から三番目に目的の図鑑を見つけ、手を伸ばして取ろうとした刹那、ずきんと右腕が疼く。
 「!」
 右腕を押さえ、書架に凭れる。この前シャベルをぶつけられた痣がまだ癒えてなかったことを肘の間接をのばした瞬間に思い知らされる羽目になった。とはいえ、せっかくここまで来て引き返すのはプライドが許さない。諦めきれず、もう一度図鑑へと手を伸ばしかけた僕の頭上をサッと手がかすめる。
 忽然と図鑑が消えた。
 書架の最上段からたやすく図鑑を抜き取った人物を振り向けば隣には見覚えのある顔。毛先の不揃いな茶髪を襟足で結ったその青年は、健康的な褐色肌と色素の薄い茶色の目という人種不明な容姿をしていた。  
 「コレ?キーストアが取ろうとしてたの」
 「返せ」
 レイジの手から本を奪い取る。頭に本を乗せてバランスをとりながらレイジが不思議そうに言う。
 「植物図鑑なんて借りて花でも育てる気か」
 「関係ないだろう」
 図鑑を開いて項目をたどりはじめた僕の横顔を何か言いたげに眺めていたレイジがおもむろに呟く。
 「『ありがとう』」
 「?」
 図鑑から顔を上げてレイジを見れば、してやったりと笑っていた。
 「知らねーみたいだから教えてやったんだ。ひとにもの取ってもらったら何を置いてもまず『ありがとう』だろ」
 『Salamat』
 「あん?」
 今度はレイジが当惑する番だった。眉をへの字にしたレイジに興味をなくし、図鑑へと目を戻す。ぱらぱらとページを繰りながら熱のない声で付け加える。
 「きみはフィリピン育ちだから現地の言葉、すなわちタガログ語でありがとうと言ったんだ。自分の生まれた国の言葉くらい覚えておけ」
 「………かっわいくねー。ちょっとはロンのかわいさを見習え」
 あきれたように絶句したレイジがなぜかロンの名前を出す。レイジを無視して項目をひいてみたが生憎「芽吹かない苗」の謎を紐解くような記述にはお目にかかれなかった。少々落胆しつつ図鑑を戻した僕の目に映ったのは、本を頭にのせて書架を物色しはじめたレイジ。
 「本で遊ぶな」
 忠告するがはやいか、「ん?」と生返事して振り向いたレイジの頭からバランスを崩して本が落下する。反射的に床に落ちた本を拾い上げる。おそらくヒロインだろう金髪の外人女性がしどけなく服をはだけ、その背後できらめくナイフにはでな血飛沫というイラストの表紙。ペーパーバックの推理小説だった。
 「低俗な本だな」
 「お前は誤解してる」
 見たままありのままの感想を呟いた僕の手から推理小説を奪い返し、悪趣味な表紙を掲げてレイジが断言する。
 「本にいいも悪いもねえ、面白いか面白くないかだけだ」
 「……ごくたまに天文学的確率で良いことを言うんだな」   
 「皮肉か?」
 「そうとってもらってもかまわない」
 これ以上レイジと無駄話を続けていても収穫はなそうだ。
 レイジを書架と書架の間に残してその場を立ち去りかけた僕は階段をおりかけてふと気付く。階段の手摺に手を置いて振り向き、書架の間に立ち尽くしたレイジを振り向き、問う。
 「レイジ、きみは東京プリズンにきて長いと聞くが」
 「あー?そうだな、けっこー長いな。このムショじゃ古株に入る」
 「サムライより古いか?」
 「どうだっけ……俺が入った頃にはもういたような気がする。ああ、思い出した、たしか一週間差だ。サムライが一週間先輩だってどっかで聞いたような……なんでそんなこと聞くんだ?」
 書架に凭れてペーパーバッグの推理小説を読み始めていたレイジがふと真顔になる。手摺に手をおいたまま逡巡する。東京プリズンに収監されて長いレイジならサムライについて何か知ってるんじゃないかと期待したのだが……僕の表情を読んで何か勘付いたのか、パタンとペーパーバッグの推理小説を閉じて小脇に抱えたレイジがこちらに歩み寄ってくる。
 「サムライより古株って聞いてぱっと思い浮かぶのはひとりっきゃいねえな」
 「だれだ?」
 間髪いれずに問い返していた。息を呑んだ僕の隣で手摺から身を乗り出したレイジが階下を覗きこむように声を張り上げる。
 「おーい、ヨンイル!」
 「なんやあ」
 二階の書架奥から間延びした声が跳ね返ってきた。少し間をおいて二階の手摺からこちらを仰いだのはいつかのゴーグル少年。手摺に肘をついたレイジが階下を覗きこみ、ヨンイルに呼びかける。
 「お前、ここに来て何年になる?」
 「ちょ待ち。たしか……」
 ひい、ふう、みい、よ……と指折り数えながら過去を遡っていたヨンイルが屈託ない笑顔でこちらを仰ぎ、五本指を突き出す。
 「五年や」
 声もなく驚く。
 ゴーグルをかけた少年はせいぜい15,6歳。尖った八重歯を覗かせた笑顔はまだあどけなさを残しているというのに、彼は東京プリズンにきてもう五年が経つという。ということは外見年齢から逆算して、11歳前後で東京プリズンに収監されたというのか?
 いったいどんな凶悪犯罪を犯したらわずか11歳の少年が史上最低と悪名高いこの刑務所に収監されることになるんだ?
 「サムライのこと知りたいなら図書室のヌシに聞いてみろよ。ヨンイルの城に案内してやるからさ」 
 絶句した僕に気軽に顎をしゃくり、先頭に立って階段をおりはじめるレイジ。城?不審がりつつも好奇心には抗えず、レイジについて階段を降り、二階に立つ。三階とは違い、二階は多くの囚人で賑わっていた。それもそのはず、二階には漫画の書架があるのだ。床にじかにうずくまって一心不乱に漫画を読み耽っていた囚人たちがレイジの姿を目にした途端、血相変えてとびのく。漫画を片手に持ったまま、書架にへばりつくように道を開けた囚人を左右に流し見ながら悠然と歩くレイジの背中に質問する。
 「きみとその、ヨンイルという少年はどういう関係なんだ?」
 レイジに声をかけられてもヨンイルには少しも怖じるところはなかった。東棟の王様の目を見てあれだけ堂々と振るまえる囚人は少ない。ロンやリョウ、それにサムライや僕など例外もいるにはいるが他の棟の囚人は特にレイジを避ける傾向がある。
 レイジと対等に渡り合える西棟のヨンイルとは何者なんだ?
 「どういう関係ねえ……強いていえば、同じテヅカファンかな」
 「テヅカ?」
 なんのことだ?作家名か?
 「ようヨンイル」
 「おうレイジ」
 ヨンイルがいた。ゴーグルをかけているため顔の造作は判別しがたいが、ひょうきんなかんじがする笑顔が人当たりのよさをふりまいている。背後に顎をしゃくり、レイジが言う。
 「こいつが聞きたいことあんだって」
 「俺に?」
 頭上の書架に手をのばして漫画を抜き取ろうとした姿勢で固まり、レイジの肩越しに僕を一瞥するヨンイル。
 瞬間、僕は見てしまった。
 囚人服の袖口がはらりとめくれ、健康的に日焼けした手首が覗く。
 ヨンイルの手首には鱗があった。
 毒々しく照り輝く緑の鱗。手首に巻きつき腕に巻きつき、服に隠された素肌まで舐めているにちがいない大蛇の刺青。螺旋を巻くが如く四肢を抱きすくめた大蛇の刺青を服の上から透視した気分になった僕を現実に戻したのはヨンイルのあっけらかんとした声。
 「ええで、俺に答えられることならな」
 漫画を抜き取ると同時にはらりと袖が落ち、光沢のある鱗が隠れる。
 僕が今目にしたものは幻だったのだろうか?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060324053159 | 編集

 「ヨンイルは図書室のヌシなんだ」
 先頭を歩くヨンイルにレイジ、僕と並んで書架の間を進む。
 「しかも東京プリズンにきて長いからヨンイルが知らないことはねえ」
 「ほめてもなんもでえへんで」
 我が事のように自信ありげに豪語するレイジにヨンイルが苦笑する気配。縦一列に並び書架と書架の間を進んでいるとやがて二階最奥、蛍光灯の光も射さない薄暗い場所にでる。壁一面を巨大な書架が占めた行き止まりの手前で立ち止まり思案げに天井を見上げたヨンイルが唐突に方向転換、書架の側面に回りこむ。ヨンイルの奇行を訝しがりつつ、同じく書架の側面へと回りこむ。
 書架の側面にはハンドルが取り付けられていた。
 反射的に足もとを見れば床にレールが敷かれている。合点した、これは移動式本棚だ。床に敷いたレールの上を滑って移動する形式の書架。書架の側面に設置されたハンドルを無造作に握り、鼻歌まじりに操作するヨンイル。ヨンイルが右にハンドルを回すとそれに応じて書架が傾ぎ、レールに沿って右方向に滑ってゆく。それまで書架と書架が密着していた面が離れ、人一人ぶんの隙間が生じる。
 横幅1.5メートルほどの窮屈な隙間、書架と書架の間の黴臭い峡谷に率先してヨンイルが足を踏み入れる。まさかここに入るのか?と目でレイジに問えば本人は至って涼しげ、野生の豹のようにしなやかな身ごなしで書架の隙間にすべりこんだではないか。
 仕方ない。
 図書室二階最奥、書架の前に取り残されるのを危惧して覚悟を決める。レイジの背中が暗闇に没する前に意を決し、横幅1.5メートルあるかないかというわずかな隙間に入りこむ。ヨンイル、レイジ、僕の順に縦一列に進みながら物珍しげに周囲を見渡す。天井に迫らんばかりの巨大な書架には一分の隙なく蔵書が詰めこまれている。知的好奇心を刺激されて背表紙を目で辿った僕はまったく聞き覚えのない題名に眉をひそめる。ブラックジャック……七色いんこ?なんだこれは、変なタイトルだ。ほんの出来心から無作為に中の一冊を取り出し、ページを開いてあ然とした。
 「漫画じゃないか!」
 そう、この書架にあるのは全部漫画だった。
 三桁に及ぶだろう蔵書量の漫画が棚の端から端まで規則正しく全巻整列している。呆れて物も言えない僕を振り返り、ヨンイルが唸る。
 「おお、『奇子』を手に取るなんて渋い趣味やな」
 「ここは図書室だろう?ここの囚人がほとんど左脳を働かせずに生きているのは十分理解していたが……なんでこんなに大量の漫画がおいてあるんだ?こんな下等で低俗な子供だましの、」
 眩暈をおぼえて本を所定の位置に戻した僕の耳をほとんど絶叫に近い声が貫く。
 「俺を馬鹿にするのはいい、せやけど手塚を侮辱するのは許せん!!」
 「まあまあ落ち着けってヨンイル」
 肩を叩いて宥め透かそうとしたレイジを突き飛ばし、わなわな震える両手を頭上にささげてヨンイルが絶叫する。
 「これが落ちついてられるか!ええかよう聞け、ここにある本は今じゃほとんど手に入らん漫画の神様手塚治虫御大の絶版本ばっかやで!?ネットオークションにかければそれこそ五百万の高値がつくんやで、そんな貴重な書物が全巻揃ってる刑務所なんて世界広しといえどここ、この東京プリズンだけや!最高やんか!」
 「……は?」
 なんだって?
 この男は今、東京プリズンが最高だとそう言ったのか?
 「レイジ、彼は……頭がおかしいんじゃないか?」
 不安に苛まれてレイジに囁けば、本人は肩をすくめただけ。その顔には苦笑い。
 「ヨンイルにとっちゃここが天国なんだよ。一生好きな漫画読んで暮らせるんだからな」
 一生?ヨンイルの懲役は一生に匹敵するほど長いのだろうか?
 釈然としないものを感じつつ、ふたたび歩き出したレイジにおいていかれてなるものかと後に続く。行進停止。行き止まり。正面と左右、三面の壁を書架に塞がれた細長い暗闇の最奥に僕らを案内したヨンイルが「さて」と鼻の穴を膨らませる。自慢げな顔。
 「俺の城にようこそ」
 「……ずいぶんとみすぼらしい城だな」
 率直に感想を言う。こんな狭苦しくて薄暗い、書架と書架の隙間の隠れ家が城?ヨンイルの美的感覚は狂ってるにちがいない。  
 「ま、適当に座れ」
 ぞんざいに顎を振り、自身は背後の書架にもたれてうずくまるヨンイル。胡座をかいた膝の上にちゃっかりと漫画本を開いてる。左の書架にレイジがよりかかり、右の書架に僕がよりかかる。ヨンイルを頂点に三角形ができあがる。
 「で?俺に聞きたいことってなんや」
 漫画本を開いているが一応話を聞くつもりはあるらしくヨンイルが気のない声で促す。左の壁に凭れたレイジが僕へと顎をしゃくる。
 「コイツがサムライのこと知りたいんだって」
 「サムライ?―ああ、東のサムライな。知ってる知ってる、お前の次に有名人やもん」
 レイジの目を見てにやりと笑うヨンイル。人の悪い笑顔を浮かべたヨンイルに挑戦的にほほえみ返すレイジ。
 「でも、なんでサムライのこと知りたいんや」
 「モルモットの関心の向きを見定めたい」
 「こいつサムライと同房なんだ。あの変人と四ヶ月も一緒に暮らしてりゃ嫌でも不思議になるだろう、サムライがどうして東京プリズンにぶちこまれたかここにくる前に何をやってたか」
 「かってに代弁するな。僕はあくまで知的好奇心からモルモットの行動原理を追及しそれに関連する事象を抽出……」
 「はいはい」
 背後の壁にもたれてペーパーバッグの推理小説をめくりはじめたレイジに憤慨しさらに言い募ろうとした僕を制したのはヨンイルの心ここにあらずといった声。
 「サムライがここに来たときのことはよく覚えとる」
 推理小説から顔を上げたレイジが興味深そうにヨンイルに向き直り、リラックスした姿勢で書架にもたれて話を聞く体勢をとる。僕はといえば、ヨンイルの口からサムライの名前がでた途端に頭の中で渦巻いていた言葉が全部蒸発してしまった。胸を衝かれて押し黙った僕と好奇心旺盛に身を乗り出したレイジとを見比べ、ヨンイルが話し始める。
 淡々とした、いっそ素っ気ない口調。
 「仙台12人殺しの当事者が東京プリズンにぶちこまれることになったんや、そりゃ看守も囚人も大騒ぎや。いかにプライバシー保護の名目で外の情報が遮断されてるとはいえ看守の口伝やその他もろもろのルートからどうしても噂が入ってくる。サムライが外で事件起こしたときは俺はもう檻の中におったけど、それでも看守の動転ぶりはおもろかったなあ。ま、噂に尾ひれついてたのは否定できん。実の父親をヘイキで手にかけるような血も涙もないガキんこっちゃ、さぞかしふてぶてしい、恐ろしい面構えをしてるに違いないって看守も囚人も震えあがっとった。お前かてそう思うやろ?相手は自分の父親を含む十二人の人間を人間国宝の祖父が愛用した伝家の宝刀でばっさばっさと斬り殺した大量殺戮犯、極悪非道の人殺しや」
 そこで一呼吸おき、やれやれと首を振る。
 「ところがどっこい、現実のサムライを見て拍子抜け。そりゃたしかに眉間に皺寄せた仏頂面で近寄り難いけど、それだけや。実の父親を日本刀でばっさり袈裟斬りにするような危ない奴にはとても見えへん、なーんや、期待して損した。で、野次馬は解散」
 「それだけか?」
 「他になにか聞きたいんか?」
 「たとえば……サムライの本名とか」
 「サムライの本名?むかし聞いたことあったけど忘れてもうたわ。まあええやん、サムライがサムライであることに変わりないし」
 悪びれたふうもなくあっけらかんと白状したヨンイルに脱力する。疲労感はすぐに怒りに変わり、こんな役立たずのところに僕を案内してきたレイジに転じる。当の本人はそしらぬ顔、ペーパーバッグの推理小説を斜め読みしながら「うわあ、アイスピックをそんなふうに使うなんてえぐい殺し方」と半笑いで感想をもらしている。
 とんだ徒労、時間の無駄だった。
 レイジを押しのけて憤然とその場を立ち去ろうとした僕は、右側の書架に片手をついた姿勢で立ち止まる。立ち去ろうとした瞬間に脳裏に閃いた疑問を振り返りざまヨンイルにぶつけてみる。
 「『芽吹かない苗』がなにか知ってるか?」 
 「「あん?」」
 レイジとヨンイル、それぞれ手元の本に熱中していたふたりが示し合わせたような間合いのよさで顔を上げる。同時に顔を上げたふたりを見比べ、僕なりの推理を披露する。
 「サムライが寝言で呟いてた言葉、『なえ』。サムライの手紙に記述されていた一文、『芽吹かない苗』。この符号の一致は偶然とは思えない……サムライが寝言で呟いた『なえ』と手紙の苗とは同一物だと考えるのが妥当だろう。ただ、その意味がわからないんだ。収監された当初からサムライを知っている君ならひょっとしてなにか心当たりが……」
 「ストップ!」
 熱に浮かされたように饒舌な推理をさえぎったのは面前に掲げられたレイジの片手。なぜか、いつになく厳しい顔をしたレイジが執拗に僕の顔を覗きこんでくる。
 「なんでサムライの手紙の内容をお前が知ってんだよ?」
 まずい。
 「かってに読んだのか?」
 「読みたくて読んだんじゃない、あれは事故だ。偶発的要因が招いた不本意な結果だ」
 メガネのブリッジを押し上げるふりで動揺を隠し、務めて平静を装い反論する。そう、あれは事故だ。ただの不幸な事故だと懸命に自分に言い聞かせる。あの時ゴキブリが足もとを過ぎらなければ動転した僕がころんで小箱をひっかけることも、小箱をひっくり返して蓋を落とすこともなかったのだ。すべては偶然の産物、予期せぬ不運が連鎖した結果だ。
 それは確かに、小箱の中に手紙を発見した瞬間、我を忘れて手をのばしてしまったことは認めるが―
 「おかしいな」
 レイジの疑惑をはねつけてさらに反論しようとした僕の耳にとびこんできたのは、思案げな声。振り向く。背後の書架にもたれてじかに床にうずくまったヨンイルが頬杖をついて唸っている。
 「収監されてこのかた、サムライに手紙きたことなんて一回もないで」
 「……え?」
 馬鹿な。
 じゃあ、僕が見たものはなんだというんだ?僕がじかにこの手で触れたものは……
 「嘘やない。自慢やないけど俺には定期的に手紙がくる、三ヵ月毎に視聴覚ホールにとりにいってる俺が一回もサムライとかちあったことないんや。断言できる、サムライに手紙が来たことは一度もない……まてよ」
 そこまで言ってふと何か思い出したように深刻な面持ちで黙りこくるヨンイルに期待がいやます。生唾を嚥下してヨンイルを見つめる僕の隣、気だるげな姿勢で書架にもたれたレイジの双眸がスッと細まる。
 夢から覚めたように顔を上げたヨンイルがまっすぐに僕を、ついで、レイジを見る。
 「思い出した。その手紙、サムライが外から持ち込んだんや」
 「?今の発言には矛盾がある。東京少年刑務所は囚人の私物持ちこみを厳しく禁じているはずだろう」 
 「建前はな」
 にやりと笑ったヨンイルが意味ありげにレイジを仰ぐ。レイジを振り返れば、ヨンイルとよく似たいやらしい笑みを浮かべている。
 「キーストア、マジで知らないわけ?聞いたことないわけ?」
 「へえ、天然か。いまどき珍しいな、よっぽど育ちがええんやな」
 「何のことだ一体……」
 「変に思わなかったんか?」
 当惑した僕をいたずらっぽく見上げ、ちょんちょんとゴーグルを指さすヨンイル。わけがわからずにレイジを見れば、囚人服の胸元から金鎖をたぐりよせていつかの十字架を覗かせているではないか。
 「東京プリズンが囚人の私物持ちこみを禁止してるなら俺らが今身につけてるモンはどうやって検問をくぐったんやろな」
 ……言われてみれば。
 ヨンイルの一言が引き金となり、これまで日常風景にまぎれこんで漫然と見過ごしてきた矛盾がはっきりと形を取って現れる。ヨンイルのゴーグル、レイジのロザリオ、リョウのテディベア……そして、サムライの手紙。
 東京少年刑務所は原則として囚人の私物持ちこみを禁止しているはずだ。僕はそう言われたから、ここに護送される際に衣服と靴以外のものを全部おいてきた。にも関わらずヨンイルやレイジ、その他の囚人がどう考えても外から持ち込んだとしかおもえない私物を携帯しているのは何故だ?
 「抜け道があるんや、ふたっつほど。なんやと思う」 
 ヨンイルが二本指を立てる。抜け道。看守の検問をくぐりぬけて刑務所内に私物を持ち込む手段……しばらく考え、顔を上げる。
 「嘆願と脅迫?」
 ヨンイルとレイジが顔を見合わせ、失笑。
 「嘆願?笑われるで」
 「脅迫?殺されるぜ」
 その笑みがどこか翳っているように見えたのは目の錯覚だろうか?  
 いや、錯覚ではない。その証拠に……
 「正解は………」
 一拍おき、深呼吸。暗闇に潜む獣のごとく発達した犬歯を剥き、ゴーグルをかけた少年が笑う。
 「フェラチオか懲罰房」
 「………………なに?」
 何を言ってるんだ、この低脳は。
 言葉を失った僕を嘆かわしげに見上げて首を振り、ヨンイルが付け足す。
 「聞こえんかったんか?フェラチオか懲罰房。フェラチオはわかるよな、男のアレをしゃぶるんや。ま、お前もココの看守に変態多いのは知ってるみたいやけど……たとえばどうしても他人にゆずれへん、大事なもんがあったとする。規則じゃ絶対に持ちこみ禁止、看守は絶対に許してくれへんし見逃してくれへん。ピンチ。さて、どうする?そこで交換条件、という建前の強制。俺のモンをうまくしゃぶれば特別に私物持ちこみを許可してやるって東京プリズンにつれてこられたばっかでびびってる新入りにもちかけるんや、ひとたまりもないで」
 
 本気、なのか?
 本気で言ってるのかヨンイルは。これは……現実なのか?

 「嘘だろう」
 声が上擦っていた。嘘だと信じたかった。だが、レイジもヨンイルも一向に否定しようとしない。
 レイジは笑っている。ヨンイルも笑っている……醜悪かつ、おぞましい笑み。
 「残念ながら真実や」
 刑務所でそんなことが行われてるなんて信じられない。否、信じたくない。
 たしかに東京プリズンはひどいところだ、最低の刑務所だ。でも、しかし、ここまでとは―……
 「きみも、したのか」
 なにをした、とは言えなかった。口にするのも汚らわしい。嫌悪感をこめて吐き捨てた僕を見上げてヨンイルが皮肉っぽく笑う。
 「俺んときは十五秒やった。相手が早漏でな、こう、目え閉じて口動かしてたらあっというまやった。ラッキー」
 「いいなあ。俺んときは六分かかったぜ、顎が疲れた」
 「!!」
 なんでもないことのようにさらりとレイジが口にした台詞に戦慄、驚愕。
 床を蹴ってあとじさった背中が書架に激突、上段の本がばさばさとなだれ落ちてくる。頭上に被さった本に視界をさえぎられ、バランスを崩して尻餅をつく。頭が混乱する。何だ?何が起きてるんだ……
 レイジは今なんと言った?俺のときは、だと? 
 「レイジ、まさかきみも………」
 信じたくない。否定してほしかった。悪い冗談だと笑ってはぐらかしてほしかった。
 しかしレイジが次に口にした言葉は、一縷の希望さえ打ち砕くものだった。
 「舌テクには自信あったんだけど、男のモン舐めるのは慣れてないからさ」
 ……最悪だ。
 東京プリズンは看守も囚人も最悪かつ最低な人間ばかりだ。そのきわめつけが今、目の前にいる。ふたりも。
 「同性との口腔性交に抵抗はないのか?」  
 それが最大の疑問だった。震える声で質問した僕の頭上で顔を見合わせ、ヨンイルが説明を引き取る。
 「抵抗ない、ゆーたらそりゃ嘘になるけど背に腹は変えられん」
 「懲罰房よかくわえるほうがマシだ」
 しれっと主張したレイジが金鎖を指に巻き、十字架に口付ける。 
 「母さんの形見だしな」
 どこまで本気かわからない。 
 「この刑務所の看守は少年愛好者の変態しかいないのか」
 最悪だ。最悪だ。看守も囚人もなにを考えてるのか理解できない、こんな化け物みたいな連中― 
 「それは違う」
 ヨンイルの声が響く。
 その声がやけに生真面目に聞こえてハッとする。僕の前に膝を屈めてうずくまったヨンイルが間近で顔を覗きこんでくる。そうしてまっすぐに僕の目を見据えていたが、おもむろにゴーグルを押し上げて素顔をさらす。
 あらわれたのは射抜くような光を放つ双眸。おとなびた少年にもあどけない青年にも見える吊り目がちの精悍な顔だちはどこか野性味をおびて雄雄しくさえある。
 ヨンイルがスッと人さし指を立てる。
 「野良犬にペニス舐めさせたことあるか?」
 「……あるわけないだろう」
 質問の意図がまったく理解できないが、ほとんど生理的な反応で全否定する。ヨンイルは苦笑。
 「オレはあるで。いや、育ちの悪いませガキならだれでも一度は経験あるやろ。そこらほっつき歩いてる野良犬とっつかまえてパンツさげてアレ舐めさせるんや。そういう遊びや、一種の」
 「なにが言いたいんだ?」
 ゴーグルを下げおろして翳りある表情を隠し、素っ気なく呟くヨンイル。
 「遊び半分でアレ舐めさせる野良犬がオスかメスかなんてどうでもええやろ」
 ようやくヨンイルの言いたいことがわかった。
 看守にとって、僕ら囚人はおなじ人間じゃない。同格の人間ではない。自分の権限で好き放題になぶることができる下等の人間、もしくは犬や家畜と同列の存在なのだ。東京プリズンの看守が受刑者に手を出すのは真性の変態だからではない。ここでは看守が絶対的存在であり、囚人はたとえどんな無茶な命令だろうとそれに服従するよりないのだ。全能の優越感に酔いしれた彼らの多くはその権力を弱者にふるうことで証明したくなる、自分が人の上に立っているということを、自分が絶対的な強者であるということを。
 その為には相手が最も屈辱に打ちのめされる行為を強制し、相手が最も嫌がることを嬉々として行えばいい。二度と逆らう気など起こさぬよう、生意気な囚人には特に徹底して。それに嗜虐の快楽がともなう場合は絶対に外には漏らせない陰湿な娯楽になる。

 人間は、自分より弱い存在には驚くほど残酷になれる生き物だ。

 「で、もういっこの選択肢が懲罰房。フェラチオなんか死んでもごめんて男気あふるる奴は大抵こっちを選ぶな、必ずあとで後悔するけど。話は簡単、エロ本でもタバコでもどうしても没収されたくないモンがあれば懐にぎゅって抱き込んではなさなければええんや。警棒で何回、何十回殴られて気が遠くなっても腕と足の骨を折られても絶対はなしたらあかん、看守の暴行が止むまでずっとそれで通す。看守が痛めつけるのに飽きたか疲れるかしたらこっちの勝ち、言うコト聞かない生意気な新入りはそのまま懲罰房送り。早い話、腕と足の骨と引き換えに大事なモンを守り通すんや。サムライはこっち」
 サムライの名前に反応して顔を起こす。  
 書架にもたれたヨンイルが天井の方を向いて話し始める。
 「サムライがここに来た初日、事件が起きた。オレも人づてに聞いただけで実際見たわけやないんやけど」
 そう断ってから。
 「サムライが収監された初日の身体検査で、上着の裏側に手紙を隠し持ってたのが発見された。とうぜん刑務所は私物持ちこみ禁止、サムライが後生大事に隠し持ってた手紙はあわや没収されかけたんやけど本人は頑として渡さん、譲らん。頭にきた看守が殴る蹴る、さらにひとり増えふたり増え、最終的にはリンチ状態。サムライはどんなに殴られ蹴られても無抵抗やったらしい。ただ懐に手紙をかばって、一言も口きかへんで床に這いつくばっとった。いや、正確にはよってたかって床に這いつくばらされたんやけどな。看守は容赦なかった。サムライが一言も口きかへんのにさらに腹を立てて、ついには」
 自身の左腕を掴んで折り曲げる動作をしてみせたヨンイルに不吉な予感がふくらむ。
 「ボキッと左腕を折ってもうた」
 「…………」
 「サムライはそれでも悲鳴ひとつあげへんかったらしい。実際左手骨折だけで済んだのは騒ぎを聞きつけた安田が止めに入ったからや、だれも止めに入らんかったら殺されてた。サムライのこっちゃ、殺される瞬間の断末魔も武士の意地でこらえるにちがいないけど……そんなわけで、オレの話はおしまい。お前が見たっちゅー手紙はサムライが外から持ち込んで、大勢の看守によってたかって殴られ蹴られても後生大事に懐にかばって肌身はなさんかったブツや。よっぽど大事な人間からの手紙なんやろな」

 大事な人間。
 左腕を折られても声ひとつ上げずにサムライが守りぬいたもの―……かけがえのない、大事な人からの手紙。
 それはだれだ?
 どこにいるんだ?
 なにをしてるんだ?

 サムライは未だにその人物を忘れてないのか?こんな、檻の中でも。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060323053401 | 編集

 「おーいキーストア、だいじょうぶか」
 レイジの気楽な声と顔の前を往復するてのひらで我に返る。ヨンイルの告白、サムライにまつわるエピソード……すぐには衝撃から立ち直れそうもない。書架に片手をついてなんとか立ち上がった僕の鼻先にスッと一冊の本がさしだされる。
 「餞別や」
 ヨンイルが笑っている。ヨンイルが手にしているのは黒衣の男がメスを構えた表紙の漫画本。作者名は……手塚治虫?
 「いらない。きみたち右脳でしか本を読めない人種と違って僕は左脳で本を読む、漫画なんて下等で低俗な書物を読むわけ……」
 「いいから読め」
 強引だ。
 「読みもしないでつまんねえって決め付けるのは狭量じゃねーか?それともなにか、天才を自称するくせにナオちゃんはずいぶんと柔軟性に欠けるんでちゅねー」
 「自称してるんじゃない、自認してるんだ。自分で称するのと自他ともに認めるのとの違いだ」
 ふざけてまぜっかえしたレイジを殺意をこめて睨み、その場の勢いで漫画を受け取る。してやったりと会心の笑みを浮かべたヨンイルに務めて気付かないふりをし、漫画を小脇に抱えて足早に去りかけた僕を立ち止まらせたのは先刻のレイジの言葉。
 『ヨンイルにとっちゃここが天国なんだよ。一生好きな漫画読んで暮らせるんだからな』
 「ヨンイル、きみはなにをして東京プリズンにきたんだ?」
 蛍光灯の光も射さない書架の狭間を城と称して満喫するヨンイルを振り返る。僕たちを見送りもせず、最奥の書架にもたれて胡座をかいたヨンイルが目は漫画からはなさずに片手を挙げ、拳にして握り締める。
 パッ。
 勢いよく五本の指が開かれる。
 「どーんとどでかい花火を打ち上げたんや」
 花火?花火の爆発事故でも起こしたのだろうか。
 それきり漫画から顔も上げずに沈黙したヨンイルに首を傾げ、書架と書架の間の狭い通路から抜け出す。左右に書架が聳える閉塞感から解放されて我知らず息を吐く。 
 「油断するなよ」
 内心を見透かされたような台詞に狼狽する。僕の目の前、ペーパーバッグの推理小説を小脇に抱えたレイジが多少演技がかった様子で耳打ちしてくる。
 「ああ見えて二千人殺してるんだぜ、あいつ」
 どういうことだ?
 真意を追及する間を与えずすたすたと立ち去るレイジ。どこへ向かうのかとあっけにとられて手摺から見下ろせば一足先に階段をおり、カウンターで本を借りる手続きを済ましているではないか。
 とりあえずヨンイルに無理矢理押し付けられた本を借りる手続きをしようと階段をおりながらも、頭にこびりついてはなれないサムライの顔。手紙。手紙を懐にかばって意固地に沈黙を貫くサムライの姿。
 そんなサムライは知らない。
 僕の知ってるサムライはいつでもぴんと背筋を伸ばし、だれにも怖じることなく、膝を屈することなく振る舞っているのに。
 なにがサムライをそうさせた?
 左腕を折られてまで信念を貫き通させた?
 
 ヨンイルの語るサムライと僕が知るサムライの隔たり、時間差だけでは埋められない溝。
 すべての謎を解く鍵は、やはり、あの手紙にある。

   +

 

 翌日。
 バスに積まれて派遣された仕事先でも昨日ヨンイルから聞いた話が頭から離れなかった。
 草一本生えない砂漠の中心、灼熱の太陽に灼かれながら考える。
 サムライが人目を忍んで保管していた手紙は外から届いたものではなく収監される時に密かに持ち込んだものだった。サムライはその代償として左腕を折られた、にも関わらず件の手紙を懐にかばって悲鳴ひとつもらさずに耐えていたという。
 そんなに大事なものなのか?
 左腕と引き換えても守りたいほど大事な物なのか? 
 そんなに大事な人から貰った手紙なのだろうか。
 拘置所で面会した身内から餞別として渡された手紙?あれほど情が薄そうに見えるサムライが今でも外に未練を残して手紙を大事に保管している?……まさか。あんなに外の世界に無関心に見えたサムライが今でも尚肉親への未練を断ち切れてないなんて納得できない。僕の知るサムライはほとんど表情筋を動かさずにしゃべる平板な顔の男で、顎には不潔な無精髭を散らし、脂じみた黒髪を無造作に結い、垢染みた囚人服を着て、にも関わらずに不思議な風格を持ち合わせた胡散臭い、得体の知れない男なのに。趣味は般若心境の読経と写経、そして木刀の手入れ。否、般若心境を読むときの真剣な横顔に想い馳せれば趣味というより精神の鍛錬にちかいだろう。
 清廉潔白、明鏡止水、泰然自若。
 サムライを体現する四字熟語をおもいつくままに連想する。俗世への執着を捨て、俗物の殻を脱ぎ、古戦場に打ち捨てられた墓標のように静かにひっそり朽ち果ててゆくように見える枯れた男。本人もまたその運命を諦念し、抵抗なくその末路を受け入れている……少なくとも僕にはそう見える。サムライは下劣な低脳ぞろいの東京プリズンにあって数少ない例外、ほとんど唯一ともいえる観察対象に値する人物。僕の研究欲を満足させて好奇心を充足させてくれる貴重で稀少なモルモット、そして……
 そして?
 自分が続けようとした言葉を不可解に思う。そしてなんだ?サムライは突飛な行動をとるモルモット、檻の中の観察対象。それ以外になにがある?僕にとってのサムライはそれ以上でもそれ以下でもない存在のはずだ。違うのか?
 
 『きみは僕の友達か?』
 『お前が決めろ』

 あの時、首を吊ろうとしてサムライに止められたとき。
 僕は自分の意志で、自分の判断で彼の手をとった。痩せた、骨ばった手。僕よりひとまわり大きく無骨で逞しい手の感触が今でもまざまざとよみがえる。
 なんであの時はサムライに触れるのが嫌じゃなかったんだ?
 世田谷の家にいた頃はドアノブに指紋がついていても不愉快に思うような潔癖症だったのに、東京プリズンに来てからもそれは変わらない、どころか不衛生な環境がますますそれを加速させたというのに。
 一昨日の夜、サムライは僕の手を握ってはなさなかった。
 傍らから去られるのを恐れるように、すがるように、五指に握力をこめて僕の手首を握っていた。振りほどくこともできたはずだ、明日の強制労働にそなえて少しでも多く仮眠を欲していたのならサムライの手をふりほどいてベッドに戻ればよかったんだ。
 何故そうしなかった?
 もしかしたら、という仮定が浮かんで我知らず苦笑する。そんな馬鹿な、ありえない。サムライはただのモルモットでそれ以上も以下でもない、僕が恵以外の人間に心を許すはずが―
 シャベルの刃に片足を乗せ、体重をかけて踏みこむ。尖った先端が砂を穿ち、深々と刺さる。延延その繰り返しで穴を掘りつづける単純作業のペースは体に染み付いており、手を動かしながら物思いに耽るのは慣れてしまえば苦でもない。ちょうど中天にさしかかった太陽が頭皮に照りつけ、全身の毛穴から汗が蒸発してゆく。顎に垂れ落ちてきた汗を片手で拭い、シャベルにぐっと片足を乗せて踏みこんだ刹那。
 風圧が顔を叩く。
 「!」
 ガキン、金属と金属が衝突する鈍い音。
 前髪を舞い上げた風圧に顔を上げ、硬直。僕の目の前に立ちはだかった小柄な影が体前にシャベルを構えて正面に突き出している。小柄な後ろ姿の向こう、シャベルをおもいきり振り上げた姿勢で固まっているのは見覚えのある顔。同じ班の囚人で、なにかと僕を目の敵にして幼稚ないやがらせをしてくるニキビ面の少年。
 未だに消えない右腕の痣はこの少年にやられた。
 半笑いのまま、顔の筋肉が戻らずに硬直している少年と対峙していたのはこちらも見覚えのあるー……ロンだ。少年が力一杯振り上げたシャベルをおなじくシャベルで受け止めたロンが、苦々しげに口角を歪めて吐き捨てる。
 「さすがに洒落にならねーだろ」
 「……ちっ」
 自棄気味に舌打ちした少年が、傍観している僕の足もとへと乱暴にシャベルを投げ落とす。
 「これ納屋に持ってけ」
 低脳に命令されるのは不愉快だ。
 しかし、腕力で優る相手に反抗してこれ以上体に痣を増やしたくはない。第一、低脳と同じレベルで怒っても精神年齢の低さを露呈するだけで僕にはなんの利益もない。砂を蹴散らし憤然と去ってゆく少年の背中から傍らのロンに視線を戻せば不満げな顔をしていた。
 「避けろよ」
 「……避けようと思ってたところだ」
 「気付いてなかっただろ」
 「そんなことはない、1メートル50センチの距離に接近した時点で気付いていた。ただ、砂に足をとられて動けなかっただけだ」
 「もしくは庇え」
 砂にシャベルを突き立てたロンが顔の前に左腕をかざす。
 「利き手を怪我したら仕事にさわるから左腕でかばうんだよ、常識だ」
 「さすがに嫌がらせの対処法には慣れてるな」
 「褒めてんのか?皮肉か?」
 「どうとってもらってかまわない」
 気分を害したロンから顔を背け、そっとメガネの弦に手をやる。 
 「もう少しでメガネが割れるところだった」
 「メガネより自分の心配しろ、もう少しで顔潰れてたぞ」
 「きみはどうしてここにいる?」
 あきれ顔のロンに聞けば足もとに顎をしゃくる。足もとに投げ出されていたのはシャベルが三本。
 「シャベルを納屋にもってく途中にお前の頭がかち割られようとしてるのが見えたんでつい駆けつけちまったんだよ」
 自分の人のよさを呪うように苦々しげに吐き捨てたロンに今度は僕があきれた。
 「きみの人の良さはなにかの病気なのか?そんなお人よしでよく東京プリズンで生き残れたな」
 見たまま感じたままを述べればロンがすさまじく嫌な顔をした。「こんなやつ助けなけりゃよかった」という後悔と自己嫌悪が半半に入り混じったお馴染みの顔。べつに僕が助けてくれと頼んだわけでもないのにそんな極悪人を非難するような目をされても不愉快だ。
 もう僕と口をきくのも嫌だというふうに三本のシャベルをそれぞれ脇に抱えて歩き出したロン、その背中を追うようにして僕も歩き出す、両手にシャベルを引きずって。
 「ついてくんなよ」
 「自意識過剰だな、目的地が一緒なだけだ」
 勤勉な働き蟻のように囚人が散らばった砂漠を横断し、片隅のプレハブ小屋を目指す。シャベルやリヤカーなどの農具を保管しておくための物置として使われている粗末な小屋だ。矩形の入り口から中を覗きこみ、シャベルを放りこむロン。ロンを押しのけて中に入り、小屋の隅にシャベルを立てかける。言いつけられた仕事を終えて持ち場に戻りかけ、忽然とロンの姿が消えたことに気付く。おかしい、さっきまで確かに小屋の外に……不審に思い、ロンをさがして小屋の周辺をめぐる。小屋を半周、人けのない裏手へと歩み出て眉をひそめる。
 「サボりか」
 「休んでるだけだ」
 看守の姿がないのをいいことに、小屋の外壁にもたれてうずくまっているロンに歩み寄る。べつにロンと雑談に興じるつもりはないが、炎天下での肉体労働が祟り、今にも眩暈を起こして倒れそうなのも事実だ。二・三分、日陰で休息をとってもばちはあたらないだろう。
 貧血が回復するまでの数分を庇の日陰で凌ぐことにした僕をうろんげに見上げ、さも陣地を侵犯されたと言いたげにロンが毒づく。
 「お前潔癖症だろ?おれみたいに不潔な人間の隣に座っていいのかよ、菌が伝染るぜ」
 「安心しろ、きみがどんなに不潔にしていても5メートル以上距離を保てば菌は空気感染しない」
 ロンからできるかぎり離れた右端に座れば、ロンもこの上なくいやな顔をして左端に移動する。砂漠のあちらこちらに散らばった大小の影、惰性でシャベルを振るう囚人たちを漫然と眺めながら涼んでいるさなか、唐突に閃く。
 「ロン」
 突然名前を呼ばれ、育ちの悪い猫のようにあくびしていたロンが顔を上げる。
 「僕が来る前のサムライを知ってるか」
 「俺と話すと菌に感染するぜ。お人よし菌」
 まだ根に持ってるのか。
 「僕には免疫がある、そんな菌は伝染しない。だいたいきみたち凡人が感染する菌が僕のような天才をどうこうできるわけないじゃないか、それよりサムライだ、サムライについて知りたい」
 「サムライのなにが知りたいんだよ?」
 「全部だ」
 「無茶言うな……」
 がっくりと首をたれたロンをそれでも凝視していると、乱暴に頭を掻きながら顔をあげた。 
 「聞いたことあるか?お前が来る前までサムライはイエローワークにいたんだ、半年に一度の部署移動でブルーワークに行っちまったけど」
 「初耳だ」
 サムライは自分のことはほとんど話さない。僕が来る前はどこでなにをしていたのか、どの部署に属していたのかも。
 「俺が東京プリズンに来たイエローワークの強制労働初日、ちょっとした事件があった。まあ俺以外の奴には事件でもなんでもねえ愉快な見せ物だったけど」
 砂に唾を吐いたロンを横目に、冷静に促す。
 「なにが起きたんだ?」
 「初日でさっそくタジマに目をつけられた」
 タジマは知っている。東京プリズンに数いる看守の中でもっとも横暴、かつ陰湿と嫌忌されている最低最悪の男。その人物評に異議を唱えるつもりはない、全面的に賛成する。
 「きっかけはささいなこと。シャベルがある場所がわかんなくて他の連中が作業はじめてからも右往左往してたんだ。適当なやつとっつかまえて聞こうにも私語は厳禁、どうしようもなくてキョロキョロしてたらいきなり後ろからゴツン。振り返ったらタジマがいた」
 警棒を振り下ろすしぐさをしてみせたロンが当時のことをまざまざと思い出したか、陰鬱に沈んだ顔で続ける。
 「もちろん一発で済むようなお優しい看守じゃねえ。新入りの分際でなにサボってるんだって警棒で何度も殴られて怒鳴られたよ。今おもえばあれがケチのつきはじめだったな……とにかく、十回くらい殴打されたあとだっけ。ようやく気が済んだかそれとも疲れて息切れしたのか、警棒を腰に戻したタジマを砂に手をついて仰いで『ああ、やっと終わった』と安心したんだが次の瞬間耳を疑ったね。タジマの野郎、言うにこと欠いてなにほざきやがったと思う?」
 喉の奥で卑屈な笑い声を泡立てる。
 「『脱げ』だとよ。脱いで裸になって俺がいいと言うまで立ってろ、とのたまいやがった」
 驚く。
 「砂漠でか?自殺行為だぞ」
 「他殺行為だろ。実際囚人に拒否権なんかねえから言われたとおりにした、まあ一握りの優しさなんだか寛容さだかで下は勘弁してくれたけどな。上半身裸でずっと立たされた、頭の上では太陽がぎらぎら輝いてるし周りの奴らはじろじろ見てくるしタジマはヤニ臭い歯を剥いてにたついてる……くそ、今思い出しても反吐がでる。なに考えてやがったんだあの早漏」
 「衆人環視の中、明るい日の光の下できみの裸を眺めていたかったんじゃないか」
 ロンがぎょっとしたように仰け反る。二の腕を抱いて僕から距離をとったロンが怒鳴る。
 「なんで変態の思考回路がわかるんだよ!?」
 「タジマの加虐趣味と少年愛好癖から推理しただけだ。誤解するな、僕に同性の裸を観賞して興奮する趣味はないぞ」
 異性の裸にも興味ないが。 
 話が脱線した。咳払いして仕切りなおし、ロンが続ける。
 「タジマはしばらく俺を眺めて飽きたようでそのまま行っちまった。『今日一日その格好で作業しろ』とご丁寧に言いつけてな。ああ言われたとおりにしたさ、タジマに上着もってかれちゃ仕方ねえだろ。警棒で殴られたあとは痣になって痛かったし同じ班の連中もほかの班の連中もじろじろ見てくる、なかにはにやにや笑ってる奴もいた。顔から火がでるほど恥ずかしかったけどそれよか問題は太陽だ。見てのとおりここは砂漠、裸でシャベルを上げ下げしてたら熱射病にかかって倒れちまう。じかに熱された皮膚は火ぶくれになって痛いし……本当に地獄だった」
 本当に地獄だったんだろう、しみじみと呟いて空を見上げるロン。
 「その時だよ、空から上着が降ってきたのは」
 ロンの視線につられて晴天を仰ぎ、「上着?」と鸚鵡返しにくりかえす。
 「囚人服の上着。砂で汚れて垢じみた上着、支給されたばっかの俺の上着じゃない。おもわずキャッチしてだれが投げてきたんだろうって振り返ればサムライがいた。上半身裸で突っ立ってた。おかしいよな、おなじ班でもなけりゃ口きいたこともねえのに俺を助けてくれたんだ。看守に黙ってかってなことしたらあとでどんな目に遭うか俺よか先輩のアイツがわからないはずねえのに、自分が着てた上着を脱いで投げてくれたんだ。なんでもないように無造作に、そうするのが当たり前みたいに」
 直接見てもいないその光景が鮮明に浮かび上がる。 
 好奇の視線にさらされながら意地になってシャベルを振るうロン、裸の上半身は直射日光を受けて赤く染まっている。羞恥と屈辱と熱線に肌を焼かれながらシャベルを上げ下げするロンに上着を投げるサムライ。
 至って無造作に、そうするのが当たり前のように。
 「上着を受け取って呼び止めようとしたら自分はさっさと持ち場に戻っちまった。それきり姿が見えなくなって上着を返すこともできなかった。サムライと再会したのは強制労働終了後のバス停だ。裸の背中をこっちに向けて無言で立ってた。物凄く姿勢がよかった、背骨が鉄でできてるみたいだった。慌ててサムライのところに飛んでって礼を言って上着を返した。そしたら『自分は慣れてるからいい』って、砂漠での強制労働も慣れてるから上半身裸でも別に苦じゃなかったから気にするなって言外にそう伝えようとしてたんだろうな。一目見てうそだとわかったよ」
 ロンが笑った。屈託なく。
 「アイツの背中、夕焼けみたいに真っ赤だったもん」
 話が終わった。
 砂漠に点在する無数の穴の周縁で蟻のように蠢いている黒い影は砂を運ぶ囚人。檄をとばす看守の指示のもとふたりがかりでリヤカーを押したりシャベルを回収したりと忙しい。砂に蹴躓いてひっくりかえった囚人が看守の警棒に打ちのめされるのを遠くに眺めながら、呟く。
 「サムライは人がいいな」
 「いい奴だな、だろ」 
 ロンに言われなくてもわかってる。
 伊達に四ヶ月サムライを見てきてない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060322053520 | 編集

 「ここでなにをしてる」
 無感動な声に振り向く。
 「やべっ」
 尻に付着した砂をはたき落とし、ロンが腰をあげる。
 「先行くぜ。ちっ、思い出話に耽るなんて年寄りくせー真似しちまった」
 面映げに舌打ちしたロンが砂に足跡の窪みを残して走り去る。そそくさと退散したロンに遅れをとり、中途半端に腰を浮かせた姿勢で立ち尽くした僕はゆっくりと小屋の曲がり角に視線を流す。
 まず目に入ったのはよく磨きこまれた飴色の革靴、こんな辺鄙な砂漠には不似合いな高級ブランドの物だと一目でわかる。均整のとれた体躯を包むのは地味だが洗練された細身のスーツ、右胸に光るのは副署長の地位を示すバッジ。細い首の上には品よく尖った顎、ノーブルな気品とエリートの矜持が見事に調和した怜悧な目鼻立ち。
 若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた三十代の男がさくさくと砂を踏んでこちらにやってくる。現場監督の看守に無断で小休止している現場を掴まれたのでは逃げも隠れもできない。覚悟を決め、両手を体の脇に垂らして恭順の意を表明し、男の接近を待つ。
 手前で立ち止まった男が値踏みするように目を細める。
 「またきみか」
 ずいぶんな挨拶だ。
 「また貴方ですか」
 僕だってなにも好き好んで安田の顔が見たいわけじゃない。何故だか僕の行く所行く所で安田と遭遇するのだ、僕は運命を信じないがこれが運命の悪戯だとしたらずいぶんと悪趣味だ、たんなる偶然の産物だとしても傍迷惑だ。頭頂部からつま先まで低温の視線を上下させた安田が俊敏な駆け足で砂丘を越えてゆくロンを仰ぎ見る。
 「友人ができたようだな」
 「ロンのことをおっしゃってるなら曲解も甚だしいです」
 「隣り合って雑談していたじゃないか」
 「5メートル以上はなれてました」
 「ロンは笑っていたぞ」
 「僕は笑っていません」
 「きみもなにか熱心に聞いていたように遠目には観測されたが、気のせいか?」
 「気のせいです。今度眼鏡の度を上げたほうがいいですよ」
 眼鏡のブリッジに触れて動揺を鎮め、できるだけ素っ気ない口調で安田の追及をかわす。安田の視線がブリッジに触れた人さし指にじっと注がれているのに気付いて眉をひそめる。違和感を感じてブリッジを押さえていた指をはなせば、安田が無表情に指摘する。
 「動揺したときはブリッジに触れるのが癖なんだな」
 ………非常に不愉快だ。
 「あなたみたいに偵察と称してジープで砂漠を駆ける優雅な身分のエリートには関係ないですが、僕には他に仕事があるんです。自他ともに利益のない雑談に興じるつもりはありません、失礼します」
 軽く会釈をして安田を通り越し、持ち場に戻りかけて立ち止まる。
 先日、書架と書架の狭間の黴臭い峡谷でヨンイルに聞かされた話を反芻する。
 東京プリズンに護送された初日の身体検査で大勢の看守に暴行されたサムライを救ったのは、たしかこの男ではないか?
 この機会を逃したら次はいつ安田と遭えるかわからない、この男は神出鬼没だが出現頻度はそう多くない。ましてやこの広い砂漠だ、安田が他日イエローワークの偵察にきても合間見える確率は低いだろう。
 それなら今、この機を逃す手はない。
 「安田さん」
 安田は小屋の外壁にもたれ、背広の胸ポケットから光る物をとりだしていた。眩さに顔をしかめて手中に目を凝らす。銀のライターを右手に、タバコを口にくわえた安田が顔を上げる。
 「なんだ」
 気晴らしの一服を邪魔された安田が口にくわえた煙草をもぎとり、神経質な手つきで胸ポケットに戻す。砂を踏んで安田の前に戻った僕は、少し緊張して彼と目を合わせる。
 「僕と同房のサムライのことについて聞きたいんですが」
 「サムライ?……ああ、少し前までイエローワークにいたな。前回の部署移動でブルーワークに転属になったと聞いたが」
 さすが副署長だ、囚人の個人データと共にその通称も完璧に頭に入ってるらしい。安田の記憶力のよさに内心驚きつつ、質問をたたみかける。
 「ある人物から聞いたんです。サムライが……彼が東京プリズンに来た初日に起きた出来事を」
 あえて婉曲な言い回しを選んだのは安田の反応を探るためだ。記憶の襞をなぞるように眼鏡越しの目を細めた安田が何事か思いだし、「ああ」と嘆声に近いため息をこぼす。よし。安田から望みどおりの反応を引き出したことに満足しつつ、自分の望む方向に話を誘導しようと慎重に口を開く。
 「東京プリズンに来た初日の身体検査で上着の裏側に手紙を匿っていたことが発覚したサムライは複数の看守から暴行を受け、それでも沈黙を守り通した。その態度に腹を立てた看守に左腕を折られても声ひとつ上げなかった。貴方が駆けつけるのがあと少し遅れていたらサムライは今頃砂の下で白骨化してると聞きました」
 後半は僕の捏造だが、決して誇張ではないだろう。
 性急な口調で述べ立て、一呼吸沈黙する。
 「当時の状況について詳細に窺いたいんですが」 
 「…………いいだろう」
 当然「何故だ」と聞かれるのを予期して身構えていた僕は肩透かしを食らう。緊張に強張っていた体から力がぬけてゆく。あっさりと承諾した安田が小屋の外壁にもたれ、胸ポケットからタバコとライターをとりだす。薄い唇にタバコをくわえ、ライターで点火。美味そうに紫煙をくゆらせながら空を見上げる。つられて空を仰げば、雲ひとつない底なしの青。
 地球が円いという単純な事実を視覚的に実感させる蒼穹。
 「当時のことはよく覚えている。所内でも話題になったからな」
 器用にタバコをくわえながら安田がしゃべる。
 「事件が発生したとき、私は署長の補佐として書類仕事を片付けていたんだが廊下の奥が妙にさわがしい。それに先刻から、扉越しの廊下でばたばたと複数の人間の足音が聞こえる。さすがに不審に思い、書類仕事を中断して廊下にでたら見覚えのある看守が駆けてゆくところだった。私はその看守をつかまえて一体何事かと聞いた、廊下を走るななどいまどき小学生でも知ってる訓示を大の男相手に垂れなければいけないのは情けない。その看守はまだここに来て日が浅く東京プリズンの規則や常識を呑み込めてなかった。……どういうことかわかるな?」
 頷く。東京プリズンに来た初日、ゲート脇の監視塔に待機していた若い看守の顔を思い浮かべる。
 大学卒業したてといった初々しい風情、まだ看守の制服も馴染んでいない青年が東京プリズンの劣悪な環境に順応するには年数を要するだろう。どんなに横柄に威張り散らしている看守にも新人のときはある、若い時は今より多少はマシな人間だったのかもしれない。彼らもある意味東京プリズンの環境に毒されて堕落した被害者と言っていい。
 最も、同情する気はこれっぽっちもないが。
 「看守は青い顔をしていた。その顔色を一目見て、なにか大変なことが起こってると直感した。新米の看守には到底手におえない異常事態が。私はすっかり動転している看守を従えてその場に急行した―……きみも初日に体験したろう?直腸検査が実施された部屋の隣に、収監時の身体検査及び健康診断を兼ねた特別屋が設置されてるのは気付いたか?肛門の奥に麻薬や貴金属を仕込んで持ち込もうとした囚人はその特別室に一時拘束される規則になっていたんだが」
 そこで一拍おき、安田が続ける。
 「特別室に駆け込んだ私が見たものは、床に組み伏せられた少年とその上に馬乗りになった看守が三人……否、四人ばかり。なにがおきたかは明らかだった。リンチだ。看守がよってたかって囚人をリンチするなんてあってはならない事態だ、それがたとえ東京プリズンの常識だとしても私の目の届く範囲ではそんな常識は認めない。それは良心と道徳に反する非常識な行いだろう。副署長の権限で看守を引きはがし、床に倒れた少年を覗きこんだ。左腕がおかしな方向を向いていた。骨折。慌てて医師と看護士を呼び、担架で医務室に運ばせた」
 安田の話に呼吸するのも忘れて引き込まれる。安田の話し方には劇的な抑揚もなく、姑息な演出の意図は微塵も感じられないが抑制された口調がかえってリアルさをともない身に迫ってくる。
 タバコを指の間に預け、紫煙を吐く。
 どこか遠い目をした安田が感慨深げに呟く。
 「印象的だったのは手紙だ」
 「手紙?」
 おもわず声が上擦り、心臓の鼓動が跳ね上がった。
 狼狽をさとられないよう、無表情を意識して顔を引き締めた僕をちらりと一瞥し、安田はふたたび空を仰ぐ。
 「担架で医務室に運ばれるとき私も途中まで付き添ったのだが……彼は無事な右手に手紙を握って離さなかった。一目でその手紙が看守の反感を買った原因だとわかった。よっぽど大事な手紙だったんだろう、指の関節が白く強張るほど力をこめて、骨折の激痛と熱にさいなまれながらそれでも肌身はなさずにー……こういう言い方は不謹慎だが、さすがは武士の子孫だと感心した」
 胸が騒ぎ出す。
 医師と看護士に付き添われて医務室に運搬される途中、激痛と高熱にさいなまれて酷くうなされながらもサムライは決して手紙を離さなかった。それが原因で東京プリズンに来て早々看守から私的制裁を受けたというのに、左腕まで折られたというのに、武士の魂は折れることなく残った右手に頑なに手紙を握り締めていたのだ。
 それほど大事な手紙なのか?
 それほどまでに大事な人間から託された手紙なのか?
 サムライはその人物のことを未だに忘れてないのか?
 もう二度と会えなくても、もう二度と触れることができなくても、最愛の人の面影を手紙に閉じ込めてそれで満足しているのだろうか。
 理解できない。
 そんなサムライは、理解したくない。
 「私からもひとつ質問していいか、鍵屋崎」
 低く落ち着いた声で名を呼ばれた。
 はっとして顔を上げる。安田がタバコを指に預けてこちらを凝視している。逃げもごまかしもを許さない眼鏡越しの視線。
 「他人に興味がないように見えるきみがなぜサムライのことを知りたがるんだ?」
 「観察対象だからです」
 「それだけか」
 「それ以外になにがあるんですか」
 「自覚はないんだな」
 「?」
 ふっと目を伏せた安田が携帯灰皿の蓋を開き、タバコの灰を落とす。その繊細な指の動きに見惚れる。肉体労働とは縁のない生活を送ってきたのだろう、間接と長さのバランスが絶妙な指、父性的な包容力を感じさせる華奢だが大きな造りの手。
 パチンと携帯灰皿の蓋を閉ざした安田がふいに顔を上げ、まっすぐに僕を見る。
 真実を見極める眼力に長けた真摯なまなざし。
 「きみはまるでサムライに手紙を託した人物に嫉妬してるようだ」  
 「……………………………………………………………………は?」
 馬鹿な、なんでぼくがサムライに手紙を託した人物に嫉妬しなければならない?見も知らぬ人物を相手に嫉妬などという不条理きわまる感情を抱かなければならない?サムライに嫉妬するなら話はわかる、事実ぼくは小箱をひっくり返してサムライ宛の手紙を見た途端に理性を失ってしまった。僕には一通も手紙が届かないのにサムライには手紙が届いている、こうして大事に保管されている。その事実を理解した途端、どうにもやりきれない感情がこみあげてきて発作的に手紙を読んでしまったのだ。
 嫉妬の対象がサムライなら話はわかる、いや、嫉妬というのは立場が上か対等の人物にのみ生じる感情だ。サムライは僕より立場が上か?対等か?まさか。サムライは観察対象のモルモットで僕は観察者、モルモットと観察者が対等であるわけがない。よしんばモルモットに下克上されては観察と記録という行為の継続すら危ぶまれるではないか。
 僕のアイデンティティを突き崩すような衝撃的な発言をした当の本人は涼しい顔をしている。携帯灰皿を背広のポケットにしまい、そろそろ次の目的地に行こうと踵を返しかけた背中に声をかける。
 「奇妙なことを言いますね、僕は見知らぬ第三者に嫉妬できるほど器用でもなければ精神を病んでもないですよ。最もこんな劣悪な環境の刑務所に長く収監されてれば遠からず精神の均衡を崩して独居房送りになりそうですがね」
 安田が振り返る。
 眼鏡越しの目がまじまじと僕を見つめていたが、やがて口を開く。
 「サムライはきみの友人じゃないのか?」
 「どこからそんな発想がわいてくるんですか」
 失笑する。まだなにか言いたげにしている安田の追及を阻むようにぴしゃりと言い放つ。
 「観察者と観察対象。それだけです」
 「……さしのべられた手を取ることはできても握り返すのは無理か」
 なんだって?
 心臓が縮まり、喉がつかえる。安田はあのことを知ってるのか?僕が首を吊ろうとして手ぬぐいを首にかけて、サムライに止められて、そしてー……
 あの時サムライの手をとったのは心が弱くなっていたからだ。あのときはああするよりほかないと意識朦朧としていたからだ。心の安定を回復した現在の僕が自らサムライの手をとるわけがない。
 ましてや、握り返すはずがない。そんな、友人の真似事みたいな甘ったるいまねをするわけがない。
 「深い意味はない、ものの喩えだ」
 沈黙した僕を励ますように安田が苦笑する、その笑顔に面食らう。こいつ、こんな人間らしい顔もできるんじゃないかと妙に感心した僕に背中を向け、颯爽とした大股で遠ざかってゆく安田。遠くに停めたジープに歩みより、後部座席のドアに手をかけて振り向く。
 「そんなにサムライのことが気になるなら本人に直接聞いてみるのがいちばんの近道だ。らしくもなく、何をためらってるんだ?あの鍵屋崎 優の息子だろう、きみは」
 『鍵屋崎 優の息子』
 その一言が引き金を引く。
 「自分の子供に刺されたりしないよう、父より慎重に生きていこうとしてるだけです」
 最も僕の懲役は八十年。懲役を終えて社会に放逐された頃には生殖機能が低下し、女性との性交はおろか子供をつくるのも不可能になっている公算が高い。そのことを残念に思うほど異性との性交を経て子孫を残すという原始的行為に執着はない、僕には恵がいればそれでいい。
 ……その恵も、今は失ってしまったが。
 安田はドアに手をかけてしばらくこちらを眺めていたが、やがて後部座席に乗り込んでドアを閉める。運転手に指示して車を出す。ジープが蒙蒙と砂埃を巻き上げて砂漠の彼方に走り去るのを見送り、持ち場に戻る。
 
 僕がサムライに手紙を託した人物に嫉妬してるだって?馬鹿も休み休み言え。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060321053639 | 編集

 強制労働が終了した。
 帰途につくバスの車内、吊り革に掴まりながら考えを整理する。ロンの語るサムライ、安田の語るサムライ。両者が知るサムライと僕が知るサムライとの開き。隔たり。埋まらない溝。とくに重要なのは安田の証言だ、東京少年刑務所副署長の安田は東京プリズンに来たばかりの頃のサムライを知っている。
 サムライは医務室に運ばれる最中も頑として手紙をはなさなかった。
 その事実が物語るものは?
 たとえば僕なら、誰から来た手紙なら左腕を折られても手放さずにいられるだろう。左腕を折られて殴られ蹴られても懐にかばい、守り通すことができるだろう。答えはすぐにでた。ただひとりの妹、かけがえのない家族、最愛の異性ー恵。仮に恵から来た手紙なら僕はなにがあろうが絶対に守り通す、それこそ殴られ蹴られた末に左腕を折られても他人に渡したりはしない。恵の手紙が看守の手に渡るなんて我慢できない、まるで恵が汚されたみたいじゃないか。
 サムライもか?
 大人数の看守に取り囲まれてもなお孤塁を死守したのは手紙を渡すのがいやだったから?野蛮な連中に手紙を奪われて最愛の人の面影まで汚されてしまうのを恐れたから?
 そうまでして最愛の人の面影を守り貫きたかったのか?
 骨折の激痛に意識朦朧となりながら、担架で医務室に運ばれる途中も強く手紙を握り締めて離さなかったのは、最愛の人の面影を胸に抱いていたかったから?
 『芽吹かない苗』
 手紙の筆跡を思い出す。ひどく乱れて読み取りにくい字だった、筆跡から推理した差出人の心境はおだやかとは言えない。余程精神的に追いつめられて錯乱しているか、もしくは初等教育すら満足に受けられない環境で育った無教養な人間と見て間違いはないだろう。ほとんど漢字が使われてないことから鑑みるに後者の可能性が高い。ひらがなばかりのたどたどしい筆跡から性別を特定することはできないが、「し」とおぼしき字の曲線や控えめなハネからは女性的な印象を受けた。
 女性。サムライの身近な女性?
 あの堅物に、恋愛に毛ほども関心がないように見える男に女性の影だって?まさか。笑い出したい気持ちを打ち消したのは安田の言葉。
 『きみはまるでサムライに手紙を託した人物に嫉妬してるようだ』
 嫉妬?馬鹿な。嫉妬の二字は両方とも女偏を含んでいることからもわかるとおり女性に顕著な情動だ。僕は男だ。なぜサムライに手紙を書いた人物に嫉妬しなければならない、わけがわからない。安田の言うことは意味不明だ。僕がこうして色んな人物に接触してサムライの身辺調査を試みているのは一重に観察記録の為、手紙の暗号を解読しようとしているのはサムライの過去を暴いて立場の優劣をはっきりさせたいからだ。サムライは全部ではないが、僕の過去の一部を知ってる。僕が両親を刺殺したのは最愛の妹を守るためだという動機の核さえ薄々勘付いている。
 それなのに、僕がなにも知らないのは不公平ではないか。
 なにも知らされてないのは不公平じゃないか。
 サムライと同じ房になって、朝夕毎日顔をつきあわせるようになってはや四ヶ月が経過する。苛酷な環境に順応するだけで精一杯だった四ヶ月だが、その四ヶ月の密度は非常に濃い。ともすると、僕が外の世界で過ごした十五年より余程密度の濃い四ヶ月だった。東京プリズンに来てからいろいろなことがあった。大部分は思い出したくもない不愉快なことだらけだが、決して忘れられないことも幾つかある。

 恵。
 リュウホウ。

 外に残してきた者、先に逝ってしまった者。もう取り返しがつかないことやもの、そしてひと。
 否、忘れられないのではない。絶対に忘れてはいけないと自戒しているのだ。
 二度と同じ過ちを犯さないために、同じ末路を辿らないために、いつでも何をしていても頭の片隅に留めておかなければいけないこと。シャベルで穴を掘ってるときも房で本を読んでいるときも毛布にくるまって寝るときも絶対に忘失してはいけない、忘却してはいけない。
 何故ならそれは、僕が僕であるために必要不可欠な部分だから。
 自意識を支える骨子だから。
 サムライの手紙。自己の存在の基盤となるもの、自分を自分たらしめる必要不可欠な要素、大切な記憶のかけら。なにも持たずに東京プリズンに来た僕が自己を保つためには脳裏に留めた恵の面影にすがるしかない、たとえばサムライのように外から持ち込んだ手紙を媒介にして外界に思い馳せることもできない。もちろんそんなみっともない真似はこちらからお断りだ、万一そんな情けない姿をひとに見られたら僕のプライドは瓦解する。
 大切なものは頭の中にだけあればいい。今までずっとそう思ってきた、自らに言い聞かせてきた。
 頭の中がいちばん安全な隠し場所だ、外から開けようと思っても絶対に開けることができない頑丈な金庫。恵の顔は今でも鮮明に思い出せる、そのしぐさのひとつひとつ、ピアノを弾く横顔まであざやかに呼び起こすことができる。この素晴らしい頭脳と記憶力があれば他の物などいらない、たとえ何も持たず、何も得ずにここで死んでゆくのだとしてもかまわないと思っていた。
 サムライの手紙を見るまでは。
 サムライの手紙の存在を知り、無性におそろしくなった。怖くなった。闇を恐れる子供のように漠然とした、正体を掴めない恐怖。だから手紙を書いた、恵に忘れられるのが怖くなったから。サムライに手紙を書いた人物は今でもきっとサムライのこと覚えている、サムライの帰りを待ちわびている。
 僕はどうなんだ?
 誰かに想われてる証拠なんて何も、どこにもない。時間の経過とともに劣化してゆくだろう妹の面影にすがるしか術がない。決して成就することのない、一方的な執着。サムライのように想い想われる関係に比べて何てむなしく、みっともないんだろう。
 たとえ実物じゃなくても、泡沫のように消えることを前提にした幻でも、恵にそばにいてほしい。恵の存在を近くに感じていたい。独りよがりな願望、みじめすぎる祈り。
 記憶は無限ではない。限界がある。
 記憶は必然的に色褪せるものだ。新しい経験を積めば古い情報は削除される、その繰り返し。
 証拠がなければ、形あるものでなければ。
 僕もいつかは恵のことを忘れてしまうんじゃないか?
 ……嫌だ、考えたくない。恵を忘れるなんて冗談じゃない、恵を忘れてしまうくらいなら記憶喪失になって自分の名前ごと忘れたほうがマシだ。どうせ僕の名前など本質を現すには値しない語呂合わせの産物なのだから、だから自分で名前をつけた。薄暗がりの房でサムライに名を問われたとき、一呼吸の逡巡の末に嘘をついた。
 カギヤザキ ナオ。
 直。直す。修正する、改める。遺伝子に手を加えて具合の悪いところを改めた人工の天才。 
 こちらのほうがよっぽど僕に相応しい記号だ、見事に本質を現している。直と書いてスグルと読ませるセンスの悪い名前はもう忘れた、世間体を重んじた戸籍上の親が「これは正真正銘鍵屋崎譲の孫であり、鍵屋崎優の長男である」と証明するためにだけ用いた借り物の名前に未練はない。
 サムライの本名は何と言うんだろう。
 『貢』
 手紙に散見された字。平仮名ばかりの文章の中、その字だけがやけに目立った。ミツグ、もしくはコウ。僕の知らないサムライの象徴、僕の知らないサムライの―
 サムライには下の名前を親しく呼んでくれる人がいたんだろうか。
 僕にはそんな人間、だれもいなかった。

 振動。
  
 「!」
 いつのまにかバスが停止していた。前方のドアが開き、囚人の大群が一斉に移動する。吊り革をはなし、囚人の列に紛れてステップを降り、アスファルトの地面を踏む。踝まで埋まる砂にはない磐石の安定感が心強い。混雑した車内から解放された囚人が夕食までのわずかな時間を各自の娯楽にあてようとエレベーター目指して歩いてゆく。次から次へと到着しては各部署から回収してきた囚人を吐き出して回送のランプを灯すバスを見送り、アスファルトの地面に引かれた白線の内側を歩く。ロンと安田に事情聴取を試みたが「芽吹かない苗」の謎を解く手がかりは掴めなかった。今日はもうあきらめ、明日に望みをつなぐしかない。
 ―「ふざけんな!」―
 コンクリートの巨大空間に響き渡る怒声。
 エレベーターへと流れていた群れから物見高い野次馬が抜けてゆく。また喧嘩だろうか?珍しくもない。強制労働を終えて帰ってきた直後によく喧嘩を始める体力が残存してるものだとあきれる。わざわざ見物する価値もないだろう低レベルな喧嘩にちがいな―
 「ふざけてなどいない」
 ……いやに聞き覚えのある声だ。急いで方向転換する。
 アスファルトのコンコース、その中央で対峙しているのは二人の男。
 楕円を描いた直径5メートルの白線の内側で睨み合った男のうち、片方は知らない顔だ。東洋系の黄色人種特有の顔立ちだが、髪の毛は金髪。派手な容姿をなおさら下品に見せているのは目つきの卑しさと唾液の泡を噴いた口元。体の脇で拳を固め、今にもとびかからんばかりに少年がガンをとばしている相手は―

 サムライ。

 「サムライが喧嘩?」
 ありえない。喧嘩を買いもしなければ売りもしないサムライが、何がどうしてこんな事に?
 僕と同じことを考えていたのだろう野次馬がざわつく。周囲のざわめきとは無縁に、サムライはうっそりと佇んでいる。
 「なあ、もう一度考えてみな。お前にだって悪い話じゃねえだろ」
 身振り手振りをまじえ、熱っぽく翻意を促す少年を冷たく見据えたままサムライは微動だにしない。
 「知ってるんだぜ、東棟で二番目に強い奴がだれか……お前だろサムライ。何を隠そうレイジの次に有名人だ、いまさらしらばっくれようたって無駄だ。小耳に齧った話じゃこれまで何遍もブラックワークにスカウトされたけど誘いを蹴り続けてるらしいじゃねえか。わかんねえな、ブラックワークで勝利すりゃなんでも手に入るんだぜ?酒もタバコも薬も、しかもブラックワーク上位になりゃ強制労働免除が約束される特権階級昇格で―」
 「興味がない」
 「そう言わずにさあ」
 つれない反応にもめげることなく、なおもねばる少年。
 「人斬り御免のサムライがブラックワークに参戦するいい機会だろ、ペア戦開幕は」
 ペア戦開幕?
 なんのことだ、初耳だ。ペア戦というからには二人で組んで出場するのだろうが、ブラックワークの試合風景を観戦したことがない僕には今いちぴんとこない。東京プリズン最大の娯楽、東西南北各棟を代表する腕自慢による無差別格闘技戦の存在はレイジの口から聞いたが僕は一度も試合会場に足を運んだことがない。
 試合会場はここ、広大な面積を有したコンコースだ。
 ブラックワークの試合日は週末。週末の深夜だけ、このだだっ広いコンコースには金網で仕切られただけの立見席が設けられ各棟の囚人に開放されるらしい。消灯時間は夜九時と義務付けられている東京プリズンだが、ブラックワークの試合日に限っては看守の目を盗んで房を抜け出すのが黙認されている。非公式ながら殆ど上層部公認と言っていい東京プリズンの名物行事なのだ、日頃押さえつけられてストレスをためている囚人のガス抜きという点でも週末の深夜だけは無礼講が許される。
 僕はといえば週末の夜は寝ている。当たり前だ、イエローワークの肉体労働で疲労しているのだ。囚人と囚人が血を流してどちらか一方が再起不能になるまで戦う野蛮な催しになど興味がない。
 ブラックワークの存在は知っていても試合を観戦したことは皆無、その為僕にとってのブラックワークとは奇妙に非現実的な、そう、たとえば東京プリズンの囚人全員が共有している妄想の類ではないかという感想を持っていた。実際目にしたことがなければ日頃抑圧されてる囚人に娯楽を饗するために選ばれた少年たちが死ぬ気で戦う、という危険な遊戯の存在など信じられるわけがない。
 よってペア戦開幕の情報は今、はじめて知った。
 「お前だって一生ブルーワークの便所掃除やってるつもりはねえだろ?便所ブラシを木刀に持ち替えて殺るんだよ、戦うんだよ!てめえの親父と仲間をばっさばっさ切り倒したときみたいにさあ、そしたらあっというまに西の道化と南の隠者、北の皇帝を追い抜いてレイジとガチンコ。ペア戦は二対二で戦うのがルールだけど覇者のレイジは別格、ダブルの挑戦者VS王様の決定戦もOKだって上から許可がでたんだよ!」
 「マジかよおい」「きっついねえ」「さすがの王様も勝てる見込みねえんじゃないか」「馬鹿言え、あのレイジだぞ?監視塔の一件聞いてねえのか」「サーシャとその取り巻き連中をほとんどひとりでやっつけたってアレだろ」「十人こようが百人こようが笑いながら片付けちまうさ」
 興奮、期待。騒然とする野次馬。いまいち状況が飲み込めずに取り残された気分の僕の視線の先でサムライが沈黙を破る。
 「無益な殺生は好まない。相棒なら他をあたれ」
 「マジかよ!?ブラックワークで上り詰めりゃなんでも望むがまま、マスかくのに飽きたら生身の女よか出来のいいダッチワイフが股おっぴろげて待ってる。お前だって収監されてからこっちずいぶんとご無沙汰だろ、すかしたふりすんなよ。刑務所にぶちこまれて望まざる禁欲生活送ってる男なら女が欲しいに決まってる、たとえアソコがゴム製のおにんぎょさんでもな」
 しつこく食い下がる少年を針の眼光で威圧、サムライが言う。
 「生憎と、お前ほど女に飢えてない」
 奇声。
 僕の目の前、狂ったようなおたけびを上げ、一直線にサムライにつっかかってゆく金髪の少年。憤怒と羞恥に顔を赤らめた醜い形相にも増して凶悪なのは、その拳に装備した棘つきのナックル。
 拳の破壊力を何倍にも増大する凶悪な武器……殴られたらひとたまりもない。
 「サムラ、」
 おもわず名を呼んで一歩を踏み出し、止まる。
 
 足が流れ、腰が流れ、腕が流れる。
 流れる水のようになめらかな身ごなしで少年の脇をかすめたサムライ、スローモーションのようなシーンの連続。
 烏の濡れ羽色の黒髪が泳ぎ、揺れ、乱れる。
 乱れた前髪の間からあらわれたのは一陣の矢の如く的を射抜く双眸―……

 正真正銘の侍の眼光。

 眼前からサムライの姿が消失したことに狼狽する少年、衣擦れ音もなく背後にまわりこんだ気配を察する間もなく首の後ろの急所に手刀が叩き込まれる。 
 流れるような動作に魅了され、言葉を失う。
 僕だけではない。その場に居合わせた全員が、瞬き三つする間に決着がついたサムライの戦いを見守っていた全員がもはや声もなくサムライの一挙手一投足に魅了されていた。極限まで贅を殺ぎ落とし、実戦用として極めることで芸術にまで昇華した体捌きには、もしこの男が真剣を握っていたらと仮定するだに背筋を寒くさせるキレがある。
 アスファルトに膝をつき、がくんと屑折れる少年。水平の手刀をしずかにおろし、白目を剥いて昏倒した少年を見下ろし、声には出さずにサムライがなにかを呟く。
 何を言ってるんだろう。
 かすかな、本当にかすかな唇の動きに目を凝らす。
 『お』 
 『れ』
 『が』
 『ほ』
 『し』
 『い』
 『お』
 『ん』
 『な』
 『は』
 「………おれがほしい女はここにいない?」
 サムライの独白。
 アスファルトの地面にうつ伏せた少年を見下ろし。無表情に、しかし、とても哀しげに。
 僕が見たこともない男の顔で。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060320053803 | 編集

 気絶した少年を引きずり、仲間が退散してゆく。
 そのさまをじっと見送るサムライをよそに、潮がひくように野次馬が散ってゆく。「素手でも強いなんて反則だよなあ」「なあ」と口々にサムライの実力を評しながらスロープを下る野次馬にもまれ、エレベーターへと押し流されながら振り向く。
 なにを考えているのか、コンクリートの地面に立ち尽くしたサムライの表情は影に沈んでわからない。
 孤独な武士の肖像。
 『おれが欲しい女はここにいない』
 では、どこにいるんだ?ここに女がいないのは当たり前だ、東京少年刑務所に収容されているのは十代前半から後半までの凶悪犯罪を犯した少年に限られる。女性がいるはずはない。
 だが、そういう意味ではなかった。
 サムライはある特定の人物を思い浮かべ、先の言葉を呟いたのだ。そうでなければあんな哀しい顔をするはずがない、僕が見たこともない男の顔をするはずがない。僕が知らないサムライをその人物は知っている、たぶんだれよりも、ロンよりも安田よりもヨンイルよりもレイジよりも理解している。
 サムライの理解者。サムライが心を許した。
 『芽吹かない苗』の記述と関連しているのだろうか?その可能性は高い、あの手紙の執筆者である可能性も。その女性は今でもサムライの帰りを待ち望んで日々を過ごしている、東京プリズンに送られたサムライの身を一途に案じながら再会の日を夢見ている。
 あれは……あの手紙は、恋文だったのか?
 サムライが毛ほども恋愛に関心がないというのは僕の勝手な私見、かつ偏見にすぎなかったのか?サムライはかつて女性を愛したことがあるのか?その女性は今も外に?サムライの帰りを待ち、無事を祈る日々を過ごしているのか?
 僕には恋愛感情がわからない。
 興味本位でセックスを体験したことはあるが、それは恋愛ではない。相手もまた自分より十も年下の子供に恋愛感情を抱いていたわけじゃないだろう、彼女にとっては遊び、僕にとっては実験。なぜひとが性行為に快感をおぼえるのか、性行為が快楽をともなわければだれもしたいと思わず、またそうでなければ子孫を残すことができないからだ。体験してわかったのは僕が不感症だということだ。
 僕が不感症なのは受精卵の段階で遺伝子を操作された後遺症かもしれない、と服を着ながら考えた。さりとて残念でもなかった、ただどんなものか試したくて誘惑に乗ったのだから快感を感じずに行為を終えても「意外と退屈だったな」という感想を持っただけだ。
 それは恋愛ではない。たぶん、全くの別物だ。
 エレベーターへと流されながら密かに決意を固める。
 もう一度サムライの手紙を読もう。
 どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう、すべては手紙から始まったのだから、すべての謎を解く手がかりもまた手紙にある。最初に読んだときは気が動転していて、とても平常心とはよべない心理状態ゆえに見逃してしまった箇所もあるだろう。心を落ち着けて目を通せば初読時には気付かなかった重大な発見があるかもしれない。何せサムライが外から持ち込んだただひとつの物証なのだ、これを鑑定して検証しない手はない。
 サムライの過去はこの鍵屋崎 直が解き明かしてやる。
 天才のプライドに賭けて。


                            +


 なんてことだ。面白かった。
 耳に喧騒が戻ってくる。時間を忘れて本に熱中していた僕は、満足の吐息をついて表紙を閉じ、急に不安になって房内を見回す。天井の中央に裸電球が点った薄暗い房、隣のベッドにサムライの姿はない。夕食後、房にまっすぐ帰ってきた僕とは裏腹にどこかをほっつき歩いてるんだろう。扉はちゃんと内側から施錠されている、格子窓の外に人影はない。房の内外に人目がないことに深く安堵したのはわけがある。
 原因は僕が手にしている本……正確には漫画だ。先日ヨンイルに無理矢理貸し付けられた古い漫画……作者名はたしか手塚治虫。
 自慢じゃないが、僕は物心ついたときから絵本に代表される挿絵入りの本を読んだことがなかった。僕が父に影響されて幼少時から接してきたのは最初から最後まで活字で埋まった本ばかり、挿絵といえばDNAの螺旋構造や脳の断面図などの図解説明のたぐいしか思いつかない。漫画なんてとんでもない、あんな人類を堕落させる低俗かつ下等な書物。鍵屋崎夫妻はそう決め付けて漫画を毛嫌いしていたし、戸籍上の両親に対し表向きは従順だった僕もそれには本心から同意した。
 だから、漫画を読むのは今回が初めてだ。
 最初は嫌々だった。「漫画を愛好してるヨンイルは精神年齢が低い」と冷笑しながら、それでも正規の手続きを経て借りたからにはざっと目を通しておくのが礼儀だろうと義務感から読み始めたのにページをめくる手が止まらなくなった。
 そして、一気に読破してしまった。
 これではヨンイルを笑えない体たらくだと頭を抱える。しかし仕方ない、本当に面白かったのだから。まず感心したのは作者の医学知識の豊かさだ、きっとこの手塚という作者は前線の医者としてさまざまな症例や病例に接したことがあるのだろう。それらの実体験を踏まえた上で奔放な発想力および想像力をふくらませ、病魔に冒された患者の苦悩や人生の悲喜劇を描き出した。主人公の孤独な生き様にも惹かれる、法外な治療費を請求する無免許医として糾弾されながらも天才的な外科手術の腕を持ち、同業者からも匙を投げられた患者を全力を賭して救い続けることでおのれの信念を貫き通す。
 人間とは、医学とはという難解な命題に真摯に挑んだ素晴らしい作品だった。残念なことに、僕の手元には一巻しかない。二巻以降は図書室の棚にある。今日はもう遅いから早速明日借りてこなければ……
 漫画を枕元に置き、対岸のベッドを見る。隣のベッドはもぬけのからだ、サムライが帰って来る気配はない。
 手紙を読むなら今がチャンスだ。
 ベッドから腰をあげ、慎重に対岸へと歩み寄る。房の外に物音が漏れないよう、細心の注意を払って一歩ずつ足を運ぶ。格子窓の外に目をやり、人影がないことを確認する。よし。深呼吸して心を落ち着け、ベッドの下を覗きこむ。暗く埃っぽい暗闇の奥から鼻孔を突いたのは墨の芳しい香り。硯と墨、半紙の束、般若心境の経典。そして木刀。手前にあるのはサムライの私物だ。手紙がしまわれている小箱は最奥にある。
 床に膝をつき、奥まで手を突き入れる。硯を避け墨を避け、限界までのばした手の先に箱の輪郭を感じる。カタンと乾いた音が鳴り、箱が動く。
 心臓が縮まる。
 ひっこめかけた腕をふたたびのばし、今度こそ箱を掴む。そのまま慎重に床をすべらせ、裸電球の下へと取り出す。
 僕の目の前に現れたのは埃をかぶり、浅葱の風味も色褪せた和紙の小箱。
 この前見たときとどこも、なにも変わってない。慌ててベッドの奥に投げ入れたときから蓋を開かれた様子はない。……最も、肉眼で見てわかるわけがないが。僕は透視能力者ではない、蓋を開けて見なければ中の様子までわからない。
 動悸が速まり、喉が渇く。
 これはパンドラの箱かもしれない。ギリシア神話にでてくるパンドラの箱、人間の女に神から贈られた祝福の小箱。しかし不用意に開けたために箱にしまわれていた良い物、素晴らしい物はすべて飛び去ってしまい、愚かな女の手元に残ったのは疫病や嫉妬、欲などの醜い残り物ばかり。
 ただひとつの救いは、箱の底に残っていた「希望」。
 さまざまな災害や不幸に見舞われても人間が屈することなく今日まで生き続けてこれたのは箱の底に希望が残っていたからだというのがこの話の寓意だ。
 この箱にしまわれているのは「希望」だろうか?
 ふとそんな考えが頭をかすめる。
 サムライにとっての希望、外へと繋ぐ望み……希望を託した手紙。罪悪と暴力が蔓延するこの刑務所で今日までサムライが正気を失わずにいられたのは箱の底に希望が残っていたから?
 絶望がひとを殺すなら、希望がひとを生かすこともまたあるだろう。
 それなら僕が不用意に開けたせいで、箱の底に残された唯一の希望まで飛び去ってしまうかもしれない。
 そんな迷信じみた危惧にかられ、箱にかけようとした手が止まる。いまさらなにをためらう、と自嘲しようとしたが笑みを作ろうとした顔の筋肉がひきつったまま元に戻らない。罪悪感?サムライの手紙を暴く行為に罪悪感を感じてるのか、この僕が。まさか。僕はただ知りたいだけだ、サムライの過去を暴いて探究心と好奇心を満足させたいだけだ。僕は好奇心を最優先する、他人がどうしようが、どうなろうが知ったことか。
 たとえそれがサムライでも、四ヶ月を共に過ごした男でも関係ない。
 僕は天才だ、天才にわからないことなどこの世にあるはずがない。天才にわからないことなどあってはならないのだ。だから謎を解く、謎を解いてサムライを理解する。サムライの過去になにがあったのか、サムライが執着する女性はだれか、わからないことに対する解答を導き出す。
 そして、サムライと公平に、対等になる。
 つまらない罪悪感を振り払い、箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げようとして…… 
 音。
 「!」
 こちらに接近してくる足音に我に返り、箱の蓋にかけた手を慌ててひっこめる。そのままベッドの奥まで手を突っ込んで箱を戻し、慌しく自分のベッドに戻り、なにもなかったように腰掛ける。これでいつ扉が開いても僕がやろうとしたことがばれることはー
 しまった。
 ノブが回り、鉄扉が開く。房へと足を踏み入れたサムライがうろんげに眉をひそめる。
 「なにをしてるんだ?」
 ベッドに片ひざ乗せ、枕の下へと漫画を隠し終えると同時にサムライの気配を背後に感じ、ひっくりかえった声で言う。
 「誤解するな、僕は漫画なんて読んでないぞ。あんな下等で低俗で子供だましの書物を枕元に置いておくわけがないじゃないか」
 「読んでたのか?」
 「だから読んでないと言ってるだろう、手塚治虫なんて」
 「なぜ名前を知ってる?」
 ……墓穴を掘った。
 枕の位置を正し、サムライの目から漫画を隠す。ベッドに腰掛け咳払いし、なんとかごまかす。サムライはそれ以上の追及はせず自分のベッドへと戻った。サムライの動きを目で追いながらひやひやする。ちゃんと証拠隠滅した、抜かりはないはずだ。小箱はちゃんと元の位置に戻したし硯と墨の配置も元通りに直した、ばれるはずがない。
 案の定、サムライは気付くことなくベッドに腰掛けた。よかった。
 しかしまだ安心はできない、第六感が鋭いサムライのことだ。僕がおもわず手をついたシーツの皺から異変を嗅ぎ取らないとも限らない。サムライの注意を身辺から引き離すため、声をかける。
 「見たぞ、地下で」
 「……ああ」
 なんのことを言われてるかすぐに悟ったのだろう、興味なさそうに首肯する。せっかく話し掛けてやったというのに反応が芳しくないことを不愉快に感じつつ、続ける。
 「人気者じゃないか」
 いつかのように「皮肉か?」と返されるのを予期していたが、僕の予想は斜め上にずれていた。
 「うらやましいか」
 「………全然べつにちっとも羨ましくはないが、なにがどうしてそんな発想がでてきた?」
 「冗談だ」
 真顔で冗談を言うな。
 サムライでも冗談を口にすることがあるという新事実に驚愕するよりもさきに怒りがこみあげてきた。安田といいサムライといい真顔で冗談を言うのはやめてほしい、それなら真顔で嫌味を言われたほうが数段マシだ。僕ならそうする。
 「知らなかった、きみのところにブラックワークのスカウトが来ていたなんて」
 「言ってなかったからな」
 「僕が来る前からずっとか」
 「お前が来てからもだ」
 「気付かなかった」
 「お前がいないところで声をかけられたからな」
 「解せない」
 するりと疑問が口をついてでた。
 「ダッチワイフを熱烈に所望してたあの少年の言い分じゃないが、ブラックワーク上位陣にはさまざまな特典が約束されるんだろう。僕はレイジからそう聞いた。ブラックワーク上位になれば連日の強制労働も解放されて悠悠自適な身分になれる。きみなら容易にブラックワーク上位に行ける実力があるのに、どうして色よい返事をしないんだ?」
 本当に不思議だった。
 監視塔の一件でも今日の一件でも証明されたとおり、東棟におけるサムライはレイジに継ぐ実力の持ち主だ。東京プリズン全棟を含めても、容易にブラックワーク上位に食いこめる実力はあるだろう。にも関わらずブラックワークの誘いを蹴り続けてブルーワークに甘んじているのはなぜだ?興味がないといわれてしまえばそれまでだが、強制労働免除のえさに惹かれない囚人はいないだろう。イエローワークほどでないにしても他部署の労働はそれなりに過酷なのだ、水質管理や廃水浄化作業に代表されるブルーワークの仕事も例外ではない。
 ブラックワーク上位を維持するかぎり半永久的に強制労働が免除されるなら、これに勝る賞与はないんじゃないか?
 「争いごとは好きではない」
 「詭弁だな。それならなぜ木刀の手入れを欠かさない?」
 「ただの習慣だ、般若心境の読経とおなじく一日でも怠ると寝つきがよくない」  
 「監視塔では水を得たように木刀を振るっていたじゃないか」
 未だにあざやかに覚えている、サーシャの取り巻き連中と死闘を演じるサムライ、その水際立った剣さばきを。
 背筋をのばしてベッドに腰掛けたサムライが射抜くような眼光でこちらを凝視する。
 死線を見た、武士の眼光。
 「自分の身と、ついでにお前を守るために仕方なくだ。ひとの娯楽のために剣を振るいたくない、剣は見せ物じゃない。我が身を賭してなにかを守る以外の目的に使ってはいけないものだ」
 「武士の信念か。時代遅れも甚だしい、今は西暦2083年だぞ」
 「そんな高尚なものではない。ただ、俺にも譲れないものがあるだけだ」
 小箱の手紙とおなじように?
 喉元まででかけた言葉をぐっと飲み込み、ちがうことを言う。
 「………この際だからはっきり言っておくが、僕から守ってくれと頼んだ覚えはない。友人でもなんでもない赤の他人なんだから、きみが僕を守らなければいけない義務なんてどこにもない。今度ぼくが強姦されかけたら放っておいてほしい」
 「強姦されたいのか?」
 「そんな趣味はない。ただ、もののついでできみに守られてるよりそっちのほうが精神的負担が減るだけだ」
 サムライに守られて自己嫌悪に陥るのはいやだ、自分がいかに無力かという現実を目の前につきつけられるようで。
 サムライに頼らなければ窮地を脱することもできない無力な人間に恵の兄を名乗る資格はないと思い知らされるようで。  
 暗澹たる気分でだまりこんだ僕をしばらく眺め、サムライがさらりと言う。
 「気にするな」
 「?」
 何を言い出すんだと顔を上げれば、サムライは相変わらずこちらを見つめていた。
 同情でもない、憐憫でもない。ただ自分に正直なだけ、それが何にも変えがたい強さとなる眼差し。
 「俺が守りたいから守った。お前が気に病むことはない」
 返す言葉を失う。
 唾を飲み下し、唇を湿らし、ようやく喉にひっかかっていた言葉を吐き出す。
 「見返りを期待せず、頼みもしないのに僕を守ってくれるなんて、まったくきみは………」
 「なんだ?」
 不審げなサムライをよそに、口の中だけで続ける。
 『まったくきみは、頼りになるモルモットだな』
 頬がむず痒いのはこういう時どんな表情をしていいかわからないからだ。
 ……天才にわからないことなどないのにサムライといるとわからないことが増えてゆくのはなぜだろう。
 わからない。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060319054208 | 編集

 「なあレイジ」
 「なんだよ」
 「おかんの形見って嘘やろそれ」
 本棚の裏から声が聞こえてくる。ヨンイルの声だ。レイジが首にさげて隠し持っているロザリオのことを指した台詞らしい。
 「いかにもお前が吹きそうな女の気をひくためのデマやんか」
 「ヨンイル、お前ゴーグル外して目ん玉かっぽじってまわり見回してみろ。東京プリズンのどこに女がいんだよ?女がいねえのにそんなお涙頂戴の嘘つくかよ」
 「じゃホンマか?」
 「ほんまほんま」
 「………お前の口調には真実の重みっちゅーもんがカケラもないな。お前の誠意に比べりゃまだアルミの1円玉のが重たいわ。せやけどお前のおかん死んだなんて初耳やで」
 「生きてるか死んでるか俺も知らねえ」
 「なんで知らんのや、自分のおかんやろ。てか生きとったら形見言わんで、やっぱ嘘やんか」
 「ほら見たことか」と揚げ足をとったヨンイルの感想にもレイジは動じずにしれっと言う。
 「いつ死んでもおかしくない流れの傭兵生活してっからなあ、米兵上がりの旦那とふたりで。今頃はベトナムの戦場で流れ弾に当たって夫婦仲良く十字架の下かも。そしたらこれ形見だろ?」
 「屁理屈や」
 「お前こそどうなんだよ」
 ヨンイルに鼻で笑われたレイジがむきになって食ってかかる。
 「俺のロザリオはともかくお前が付けてる安物のゴーグルのどこにフェラチオと引き換える値打ちがあるんだよ」
 「これ?じっちゃんの形見や」
 「お前のじっちゃんてKIAの革命家だろ、ゴーグルがトレードマークだったのかよ。ずいぶんハイカラな年寄りだな」
 「革命家言うても前身は花火師や。大阪育ちの在日で朝鮮・韓国の併合と同時に半島に渡ってきたんやけどそれまでずっと難波の工場で火薬扱うてたからな、火花から顔守るためにもゴーグルは必需品。それにこれ、このゴーグルすごいんやで」
 「どこが」
 レイジの失笑にヨンイルが声をひそめる気配。頬を上気させ、誇らしげに身を乗り出すヨンイルの姿が脳裏に浮かぶ。
 「暗視ゴーグルなんや。書架の裏側の暗闇でもすらすら本が読めるのはコイツのおかげ、ってなわけでそこに隠れてる奴カンネンしてはよ出てこんかーい」
 ……気付かれていたのか。
 書架の裏側から響いた間延びした声に促されて側面へとまわりこむ。横幅1.5メートルしかない小幅な通路の奥には二体の人影。小脇の本を抱えなおし、咳払いして足を進める。黴臭い匂いにつつまれながら最奥に進むと以前とおなじ、行き止まりの特等席にヨンイルがいた。その傍ら、左の書架によりかかっているのはレイジ。ふたりがこの場を去るまで待とうと書架の影に隠れていたのに、最初から見抜かれていたなんてばつが悪い。
 「表でなにしてたんや」
 「盗聴?」
 「違う。断っておくが虚偽と捏造の産物としかおもえないきみたちの身の上話になど興味がない、僕は本を借りに図書室に来たんだ、盗み聞きにきたんじゃない。他に行く所がなくて図書室にたむろってる暇人と一緒にしないでくれ」
 「じゃあさっさと借りたらええやん」
 軽く顎をしゃくるヨンイル、その膝の上に広げられているのは非常に、非常に間が悪いことに僕が本日借りようとしてた本。おもわずヨンイルの膝へと視線が吸い寄せられる。書架の峡谷に立ち尽くした僕の複雑な面持ちと手元に注がれる視線から勘付いたのか、それまで読んでいた本を手に持って振りながらヨンイルが言う。
 「ひょっとして、ナオちゃんが欲しいのはこれか?」
 ふざけ半分とはいえ、同性にちゃん付けされるのは気分がよくない。はっきり言って不愉快だ、凄まじく。しかしヨンイルの推理は的を射ていた、たしかに僕が今日ここに足を運んだのは今ヨンイルがこれ見よがしにかざしている本を借りるため―
 「ブラックジャック二巻か」
 ヨンイルの手元をのぞきこんだレイジが意地悪く目を光らせる。
 「ははーん。キーストアってばこんな低俗で下等な書物だれが読むかーって豪語してたくせに続きが気になって気になって早速二巻を借りにきちまったんだな?」
 「ところが肝心の本棚に先客がおったせいで迂闊に近づけん。さてこれからどないしよて表で立ちん坊してたんやろ」
 けらけら笑いながらヨンイルが言う。
 「俺の目に狂いはなかったな、入門編には王道がいちばん。ホンマ言うと『火の鳥・黎明編』にしよか迷ったんやけど初心者にはこれやろ、やっぱ。あ、火の鳥やったら俺のおすすめは『異形編』。泣けるでー」
 「そうか?俺は『七色いんこ』とかのが好きだぜ」
 「レイジの好みは亜流やから」
 ヨンイルに亜流と断言されたレイジが口を尖らす。手塚治虫には亜流と本流があるのだろうか?意外と奥が深い。ともかく、僕は今日図書室に運んだのは現在ヨンイルの手中にある二巻を借りるためだ。
 が、にやにや笑いながら僕の動向を窺っているレイジとヨンイルを見た瞬間、口がひとりでに動く。
 「妙な誤解をするな、だれが漫画なんて低俗な書物を借りるか。僕は断じて二巻を借りにきたわけじゃない、僕がここに来たのはヨンイル、きみに無理矢理押し付けられた本を返却するためとー……」
 「「と?」」
 レイジとヨンイルに復唱されて言葉に詰まる。適当な言い訳をさがしてうつむけば、昨夜、サムライのもとへブラックワークペア戦のスカウトがきたことを思い出す。
 顔を上げ、レイジを直視する。
 「レイジ、ブラックワークペア戦開幕の噂は本当か?」
 書架によりかかって文庫本を読んでいたレイジがふと顔を上げ、「なにをいまさら」とあきれかえった顔をする。
 「遅れてんなーキーストア。それ知らないのお前くらいのもんだぜ、ここんとこペア戦の噂で持ちきりなのに。どうやら本気みたいだぜ、上からのお達しだ」
 「なんでそんな馬鹿げたことを……」
 馬鹿げたことといえばブラックワークの存在自体が十分荒唐無稽なのだが、それを差し引いてもペア戦開幕は正気の沙汰とはおもえない。ただでさえ何でもありの無差別格闘技、腕に覚えのある囚人がどちらか一方が再起不能になるまで戦う催しにペア戦の新趣向を盛り込んでさらなる集客をはかるなんて、まるきり悪趣味なショーではないか。
 「原因はコイツ」
 ゴーグルの奥の目を弓なりにほそめてヨンイルが答えを明かす。その視線の先にはレイジがいた。
 「レイジが東京プリズンにきてからというもの殆どブラックワークの順位変動がのうなって客が退屈してるんや、毎度勝敗が決まってたら賭けにもならんしな、儲からんことはなはだしい。だから上は一計を案じたわけや、ここらでいっちょ新しい風を吹き込もうて。そこで考え出したんがペア戦や、ある程度腕に覚えのある囚人と囚人を組ませて二対二で戦わせる。ええ案や、ピンで戦うのと違て相性の良し悪しで勝敗が左右される、逆説的に言えば鼻クソみたいにたいしたことない奴でも鬼みたいに強い相棒ゲットすれば上位を狙えるんや。こんな美味しい話ほかにないやろ?辛い強制労働にサイナラして王様に昇格できる絶好のチャンスや」
 淡々と説明したヨンイルの口調には冷めた響きがあった。手塚治虫の著作について熱っぽく語っていたときの興奮が嘘のように白けたヨンイルから補足説明を求めてレイジへと目をやれば、当の本人は「うわー消火器をそんなことに使うなんてえぐい」と不謹慎に笑いながら文庫本を読んでいた。
 「なにを読んでるんだ」
 どうせまたくだらない本だろうとあきれながら聞けば、本から顔も上げずにレイジが答える。
 「ちょっと前の推理小説。作者はアヤツジ」
 聞いたことがない。現代と近代の作家ならほぼ頭に入っているはずの僕がすぐには思い出せないのだから「ちょっと前」と言っても最低八十年以上は昔の作家だろう。などと感想を持った僕をよそにレイジが何事か閃いたらしい。手にした文庫本をパタンと閉じて小脇にさげ、偉大な閃きを得たかの如く目を輝かせる。
 「そうだ。キーストア、このまえ『芽吹かない苗』がどうのって言ってたよな」
 「?ああ」
 唐突に何を言い出すんだと困惑した僕へと身を乗り出し、レイジが人さし指を立てる。
 「今思いついたんだけどさ……あれ、アナグラムじゃねえか?」
 アナグラミングは知っている、推理小説に親しんだ者には常識だ。そのままでは意味不明な一文をたとえばローマ字にして並べ替えることで真の意味を再発見するという暗号解読の手法。第六感の閃き、というよりは最近読んでいる推理小説から着想を得たのだろう気まぐれな思いつきにすっかり夢中になったレイジが熱に浮かされたように続ける。
 「『芽吹かない苗』ってだけじゃ意味不明だけどきっとローマ字にして並べかえるかしたら別の意味に―……」
 「やってみた」
 鬱陶しい熱弁をさえぎるように短く答えれば、レイジが「へ?」と目をしばたたく。
 なにを驚いてるんだろう?常識だろう。
 「芽吹かない苗、MEBUKANAINAE。この中に隠れている単語はMAN(男)、MEN(男性の複数形)、BANANAはバショウ科の多年草熱帯アジア原産の果物だな。そして……」
 「ストップ!!」
 レイジが両手を挙げる。
 「……で、新たな発見は?」
 「ない」
 アナグラミングの結果僕が発見したことといえばMEBUKANAINAEの中には三十二個の英単語が隠れているという事実くらいだ。残念ながら、ほかにはなにもない。サムライの過去につながるような手がかりは掴めなかった。
 捜査は完全に行き詰まった。やはりあの手紙にもう一度目を通し、初心に返る必要がある。
 顎に指を当てたレイジが背後の書架にもたれてなにやら考え込む。そして、呟く。
 「芽吹かない苗、芽吹かない苗、『なえ』ねえ……」
 呪文のように「なえ」と繰り返していたレイジがはたと顔を上げ、白昼夢から醒めたように僕を見る。
 「キーストア、俺は馬鹿だ」
 「そうだが、それがなにか?」
 真顔でわかりきったことを言い出したレイジに本当に頭がどうかなってしまったんじゃないかと不安になる。自分で馬鹿だと自白したくせに何故かショックを受けたような表情をしたのも束の間、瞬き一つ後には平生のペースを取り戻したレイジがもったいぶって言う。 
 「名前だよ」
 「名前?」
 床に胡座をかいて漫画本に没頭していたヨンイルが顔を上げる。観客の注意をひきつけたことにナンパな名探偵よろしく気を良くしたレイジが人さし指を振る。
 「キーストア、『芽吹かない苗』ってのはたしかサムライの手紙にあったんだな」
 「そうだ」
 「で、サムライが寝言で呟いた言葉が『なえ』」
 「そうだ」
 書架にもたれてポケットに手をつっこんだレイジが、斜め上方に視線をすべらせ、目を細める。
 「ロンの話をしようか」
 なんでここにロンがでてくるんだ?
 謎解きを期待して身を乗り出した僕とヨンイルに不審のまなざしを注がれても動じず、レイジが続ける。
 「ロンと同房になって大分経つけど、アイツときたら今だに毎晩のように悪夢を見てうなされてやがる。寝汗をびっしょりかいて見てるこっちが辛くなるくらいの苦しみよう、何べん肩に手をかけて揺り起こそうと思ったかわからねえ。まあ東京プリズンじゃ悪夢を見ない囚人のが少ない。お前らだって経験あるだろ?東京プリズンじゃだれでも通る道だ」
 押し黙る。たしかに頻度は少なくなったとはいえ、僕は未だに悪夢を見る。
 「でもさ、実際辛いぜ。自分がうなされるより何倍もクる、隣のベッドでひとがウンウンうなされてる光景は」
 首の後ろをなでながらレイジがどこかうしろめたげに呟く、自信に満ち溢れたいつものレイジらしくない湿った口調で。
 「それがまだガキで、俺の大事な奴だったりしたらなおさらだ」
 ため息をつく。伏せた睫毛の影が頬に落ち、物憂げに揺れる。
 「まあ、夢の中まで守ってやることできねーしな。で、ロンがうなされながら言うことつったら決まって一緒」
 「なんだ?」
 唾を飲み下して先を促した僕をガラスのように澄んだ茶色の目で見つめ、レイジが言う。ささやくように。
 「『お袋』。アイツの大事な人の名前。自分の胸に手えあてて考えてみろよ、悪夢にうなされて助けを呼ぶとしたらだれだ?自分のいちばん大事なひと、助けて欲しい人……もしくは自分がいちばん助けたくて、それが出来なくて夢の中でも悔やんでる人間だろ?お前は後者だな、キーストア。おおかた妹の夢見ては名前呼んで飛び起きてるんだろ?」
 「変な想像をするな」
 しまった、反応がはやすぎた。これではまったくそのとおりだと暴露してるようなものではないか、失態だ。
 苦渋に顔を歪めた僕をよそに、レイジはこう結論する。
 「サムライが寝言で呟いた『なえ』ってのはサムライの大事な人だって考えられないか?」
 『なえ』。『なえ』が人名?たしかにレイジの言い分も一理ある、心理学的には十分ありえることだ。だがしかし……
 「変な名前だ」
 「お前が言うな」
 ヨンイルとレイジに苦笑されて気分を害す。『なえ』というからには女性だろう。『さなえ』ならよくある名前だが『なえ』だけだとずいぶんとぞんざいな印象を受ける。やはり『苗』の字をあてはめるのだろうか?
 なえ……サムライが未練を残す女性?
 『俺が欲しい女はここにいない』
 サムライが欲しい女は『なえ』なのか?
 『なえ』が人名だと仮定すれば、サムライはその女性を親しく呼び捨てにしていたことになる。対して手紙には『貢』という字が散りばめられていた、以上の材料から推測するにサムライとその人物は『なえ』『貢』と親しく呼び合う間柄だったのだろう。
 仲睦まじいことだ。
 「なに怒ってるんだ?」
 物思いに沈んでいた僕を我に返したのはレイジの不思議そうな声。無遠慮に顔をのぞきこんできたレイジの指摘に戸惑う。
 「怒ってなんかいない、思考に没頭していただけだ。眉間に皺が寄っていたから怒っているように見えたんだろう」
 眼鏡のブリッジを押し上げるふりでレイジの視線をさえぎり、逃げるように細い通路を間を立ち去る。振り返ることなく蛍光灯の光満ちる空間へと出ようとした僕を立ち止まらせたのはレイジの声。
 「サムライの女に嫉妬?」
 ……なんでレイジまで安田とおなじことを言うんだ。
 振り返ればレイジはにやにやと笑っていた。書架にもたれ、この上なく愉快そうに僕の反応を眺めているレイジを睨みつける。
 「ロンに寝言で名前を呼んでもらえなくて残念だったな、レイジ」
 頬が吊り、苦味の勝った笑みが上塗りされる。
 いつもひとの神経を逆撫でする薄笑いを絶やさないレイジがこの時ばかりは忌々しさを噛み殺すように苦笑していた。レイジに背を向けて足早に立ち去る僕の耳に届いたのは「一本とられたなあ」「うるせい」というやりとり。
 ヨンイルの哄笑を背中に聞きながら階段を降りる。結局二巻は借りられなかった、また後日、レイジとヨンイルがいない時間帯を見計らって図書室にくるしかない。
 それより今は『なえ』のことで頭が一杯だ。
 なえ……それがサムライが愛した女性の名前?サムライに手紙を書いたのも、サムライが渇望する女も『苗』なのか?
 「そうか」
 階段を半ばまでおりかけて、体の中に電流が走ったように硬直する。
 今気付いた、気付いてしまった。
 あの晩サムライが僕の手を握って離さなかったとき、ひどくうなされながら苦しげに『なえ』と呟いたとき。僕は反射的に否定したのだ、自分は『なえ』ではなく『なお』だと。次の瞬間、サムライの態度は急変した。まるで人違いだったといわんばかりに、なんの未練もなく僕の手を離したのだ。
 
 当たり前だ。事実、人違いだったのだから。

 「……………」
 サムライが掴みたかったのは僕の手じゃない、僕はサムライに必要とされてもなかった。
 なぜあの時即座に手をふりほどかなかったのだろう。ほんの少しでも手を握らせたままでいることを許してしまったのだろう。

 サムライが欲しかったのは僕じゃないのに。

 胸がむかむかする。気分が悪い。なんでこんなに気分が悪いんだ?人違いだったからといって、それがなんだ?なんでこんなに腹が立つんだ。わからないー……わからないことだらけだ。全部サムライのせいだ、東京プリズンに来る前まで僕にはわからないことなんてなにもなかったのにサムライと会ってからわからないことだらけだ、わからないことばかりが増えてゆく、そしてどんどん矮小に卑屈に愚劣になってゆく、サムライに感化されてただの凡人に成り下がってゆく。
 天才だったこの僕が。天才となるべくして生まれたこの鍵屋崎 直が。
 「わからない」の繰り言は凡人の言い訳だ、天才が口にしてはならない言葉だ。
 わからなければ知ればいい、どんな手を使っても真相を突き止めてやればいい。
 サムライの手紙を読もう。
 もうためらわない、怖気づいたりしない。

 僕はサムライの過去が知りたい。
 僕がだれの代わりにされたのか知りたいんだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060318054329 | 編集

 現在、房にサムライは不在。
 サムライの行動範囲は謎に包まれている。強制労働終了後は大抵房で読経しているか写経しているかそれでなければ木刀の手入れをしているしかない無趣味な男だが、僕に無断で房を留守にすることも多い。最近はとくにそうだ。サムライがわざわざ他の房に足を運ぶほど親しくしている友人はいそうにないが、かと言って他に行く所も思い浮かばない。
 東京プリズンに友人がいない僕は、強制労働終了後の自由時間は図書室から借りてきた本をしずかに読んで過ごす。サムライがいてもいなくてもそれは変わらない、僕は他人に煩わされることなく趣味の読書に費やせる時間を貴重に思う。
 だが、この日は別だ。
 後ろ手に閉めた扉に施錠し、廊下に人通りがないことを確かめてから用心してその場を離れる。サムライのベッドに接近、床に片ひざをつく。ベッドに片手をつき、片手をベッドの下にさしいれる。手前に積まれた半紙や硯、木刀などの私物を崩さないよう注意して奥へと手をさしこんで暗闇を探る。
 指先に箱の輪郭。
 殆ど体積のない小箱を五指に掴み、唾を飲み込む。
 古ぼけた裸電球が殺風景な房の内観を白々と照らし出す。無表情なコンクリートの壁に四囲をふさがれた息苦しい空間、左右の壁際に配置されたのは背格子に錆びの浮いたパイプベッド。それ以外には特筆すべき調度品もない。
 主が不在のベッドの傍らに両膝をつき、改めて小箱を見下ろす。
 何の変哲もない和紙の小箱。この中にサムライの秘密を解く鍵がある、過去を暴く手がかりがある。現在サムライは房を留守にしている、箱を開けるなら今しかない。絶好のチャンスだ。
 捜査は難航している、さまざまな人物に事情聴取を試みたが一向に進展がない。現時点で入手した有力な手がかりといえば三つ、箱の中の手紙はサムライが外から持ち込んだ私物であること。東京プリズンに来た初日の身体検査で没収されかけてもサムライは頑として手紙を離さず、その代償に左腕を折られたということ。
 そして、サムライが寝言で呟いた『なえ』とはサムライの大事な女性ではないかという疑惑。
 収穫は皆無ではないが、これだけの材料で捜査を続けるのは心許ない。僕が欲しいのは決定的な証言、謎の霧に包まれたサムライの過去を白日の下にひきずり出すような決定的な証拠なのだ。
 すべての発端は手紙だった。僕がゴキブリに怯えて箱をひっくり返し、偶然存在を知ってしまった手紙……いや、訂正しよう。僕はゴキブリに怯えてなどいない、あんな下等な害虫に怯えるわけがないじゃないか。ただ驚いただけだ。とにかく、僕がゴキブリに驚いてひっくり返してしまった小箱には古い手紙が入っていた。最初サムライ宛に来た手紙かと思ったが事実は違った、あの手紙はサムライが東京プリズンに収監されてから届いたものではなくサムライが外から持ち込んだものだった。
 サムライが左腕と引き換えても守りたかった大事な手紙。
 サムライが左腕と引き換えても守りたかった大事な女性?
 それは誰だ、現在どこでどうしている?サムライの無事を祈り、一途に帰りを待ち続けているのだろうか。『なえ』とは誰だ、僕は誰の代用品にされたんだ?
 サムライは『なえ』を愛しているのか?
 ……僕には恋愛感情がわからない。脳の仕組みは理解できる、恋愛をしているときに脳から分泌されるのは快感物質のエンドルフィンだ。つまり恋愛中の人間が幸福な気分になるのは脳内麻薬の効果、覚醒剤を注入したときに訪れる恍惚感とおなじ一種の中毒症状と定義していい。
 理屈はわかる、仕組みは理解できる。が、体験したことは一度もない。
 僕は今まで人を好きになった経験がない、異性に恋愛感情を抱いたことがない。否、そればかりか恵以外の人間に親近感を抱いたことがない。戸籍上の両親に家族の愛情を感じたことは一度もない、最も彼らとて僕に愛情を持っていたわけではないだろう。将来自分たちの研究を継がせるために遺伝子段階から設計した優秀な作品を誇る気持ちはあってもそれ以上の愛着はないのが日常の態度からよくわかった。
 サムライは人を愛したことがあるのだろうか。
 僕は恵が好きだ。ただしそれはあくまで家族として、妹としてだ。性愛の対象として見ることはできない、絶対に。
 サムライは違うのか?過去、本気でひとを愛したことがあるのか?
 「……………」
 『なえ』。サムライに愛された女性。
 僕と間違われた女性。
 箱の蓋に手をかけようとして、ためらい、ひっこめる。その動作を何度くりかえしたことだろう。手を上げ、また下ろす。そのくりかえし。すぐに済んでしまうことなのに、いざとなれば決心が鈍る。 
 僕は知りたいのか?
 知りたくないのか?
 サムライの過去を、サムライが愛した女性のことを知りたくないのか?
 自分の行動を不審に思いつつ、大きく深呼吸して箱の蓋に手をかける。そして、3センチほど持ち上げてみる。
 箱の下の隙間にちらりと白い物が覗いた途端、心臓が強く鼓動を打ち、おもわず手を離す。
 再び箱に蓋が被さる。
 「………なにをやってるんだ僕は」
 どうして手が言うことを聞かない、手がうまく動かないんだ?耳の中で心臓の鼓動が響く、頭蓋が割れそうに大きな鼓動の音。痺れたように指が動かない、命令に従わない。末端の神経系統が麻痺してしまったように指が小刻みに震えている。
 コンクリートの床から這い上がってきた冷気が膝から体中へと広がってゆく。
 箱を凝視する。
 微動だにせず、ただそこに在る箱。この箱を開ければすべての謎が解ける、すべての謎を解く鍵が見つかる。
 なのに、どうして開けることができない?
 頭蓋裏の鼓動を圧して耳に響くのはいつかのサムライの声。
 『俺が守りたいから守った。お前が気に病むことはない』
 そうだ、僕が頼んだわけじゃない。にも関わらず、サムライは僕を守ってくれた。お節介にも、足手まといの僕を。
 『鍵屋崎、寝ているのか』
 リュウホウに死なれて僕が精神的に参っていたとき、サムライは何をした?僕の寝言を聴かないよう配慮して房を空けた、頼んでもいないのに、自らの意思でそう決めて実行した。 
 それなのに、僕は今、何をしている?
 サムライに無断で箱を開けて手紙を読もうとしている。あの時、僕がうなされている時、サムライは僕の寝言を盗み聞きしたくないがために房を後にした。僕がそれを知られるのを嫌がるだろうと直感し、何も言わずに房を後にしたのだ。
 それなのに僕は今、箱を開けようとしている。 
 サムライは僕の秘密を秘密のままでいさせようと不器用なりに配慮してくれた、僕は僕の意志でサムライの秘密を暴こうとしている。
 違う。
 これは違う、違う。なにが違うのかうまく言葉にできないが、僕がしようとしていることは間違っている。
 図書室の階段を降りるまではどんな手を使ってもサムライの過去を暴こうと思っていた、たとえサムライの手紙を盗み見るような卑劣な真似をしても自己の探究心を満足させるのが最優先だと。
 箱を目の前にして、蓋に手をかけようとして、思い出した。
 サムライは僕の寝言を盗み聞きするのが嫌で、消灯時間が来るまで寒い廊下をさまよっていた。僕をひとりにさせてくれた、秘密を守ってくれた。僕はサムライに借りがある。それは僕が頼んだわけじゃない、命令したわけでもない。
 でも、借りは借りだ。
 サムライに借りを作ったままでいるのはプライドの危機だが、借りを仇で返して膨らませるのはもっと嫌だ。
 僕はサムライと対等になりたいのに、こんなことをしたら一生対等になれなくなってしまう。
 「………」
 長い長い逡巡だった。
 体感時間では半日にも等しかった。しずかに蓋をおろし、両の手を下ろす。気付くと全身に汗をかいていた。粘液質の不快な汗。
 これでいいんだ。
 箱など開けなくても、物証に頼らずとも必ず真相を突き止めてやる。自分の力で、足で、この頭脳で。
 天才に不可能ない。僕はきっとサムライの謎を解いて、サムライと対等になることができる。
 深く深く深呼吸して箱をもとに戻そうとした僕の背後でカチャリと音がし、扉が開く。
 「そこでなにをしている」
 そうだ、サムライはリョウから合鍵を渡されていた。施錠しても無駄だったのだ。

 疾風。 

 顔のすぐ横のコンクリート壁を穿つ鈍い音。
 振り向きざま頬をかすめた烈風に押され、あとじさった弾みに背後の壁に激突する。
 僕の顔の横に突き立てられていたのは一振りの木刀。
 目の前にはサムライがいた。
 息を呑む。
 額にかぶさった脂じみた前髪の奥で炯炯と輝いているのは血に飢えた猛禽の眼光、極限まで研がれた殺気がひんやりと全身をつつんでいる。 
 憤怒の溶岩流が今にも堰を破り迸り出ようとしているのを鉄面皮でおさえこんだ、迫真の形相。
 「なにをしていた、鍵屋崎」
 サムライの声は低く落ち着いていた。責めるでも詰るでもない、ただ、問うようにささやく声。
 「……………なにも」
 強張った舌を動かし、それだけ言う。サムライの視線が背後に流れる。視線の先に転がっていたのは小箱。
 「あれは俺の私物だ」
 「……………………」
 「ベッドの下にしまっておいたのに何故ここにある」
 「……………………」
 「かってに見ようとしていたのか」
 「違う」
 素早く反論するが、顔を上げた途端、サムライの目とぶつかって後悔する。
 冷たい目。
 これまで僕が見たこともないようなひえびえとした目、口をきく石ころでも眺めているように辛辣な軽蔑の色。
 「妙に思っていたんだ。以前も同じことがあった。ベッドの下を覗けば箱が少しだけ動いた形跡があった。犯人はお前だな」
 「………自意識過剰だな、僕がきみの私物に手をつけるわけがない。竹刀にしても硯にしてもくだらない物ばかりだろう」
 「くだらなくなどない」
 サムライが断言する。その口調に反感をおぼえ、サムライの目を直視する。
 「慧眼だな。たしかにぼくは以前きみがいない間に箱を開けた、中の手紙も読んだぞ」
 『手紙』 
 手紙のことに触れた途端、サムライの顔が苦く歪む。鉄面皮が綻び、目に悲痛な色が宿る。膿んだ傷口を抉られたように痛々しい表情を目に浮かべたサムライを見上げ、唇の端を吊り上げ、せいぜい憎たらしく嘲笑してやる。
 「きみが不用意に房を空けるのが悪い、まさか僕を信用してたのか?かってに人の私物に手をつけるような奴じゃないと?お生憎様だな」
 饒舌にまくしたてる僕をじっと見据えるサムライ、その表情は変わらない。裸電球の明かりを背に、僕の顔の横に木刀を突きつけたまま微動だにしない。何を考えてるかわからない無表情を見上げていると胸の奥で暗い感情が沸騰する。
 「モルモットに人権はない」
 サムライが訝しげな顔をする。
 「僕は自分の好奇心を最優先する、知りたいことはどんな手を使っても突き止める。その事に対して罪悪感など感じない、後悔なんてしない、反省なんて冗談じゃない。なんで僕が凡人に頭を下げなければならない?知りたいことを知ってなにが悪いんだ、きみのことが知りたくて、『なえ』のことが知りたくて手紙を読んでなにが悪いんだ!!」
 『なえ』。
 その名を耳にした途端、サムライの胸の内で激情が沸騰するのがわかった。
 竹刀の切っ先に殺気がみなぎる。顎先に突き付けられた竹刀の切っ先が跳ね上がり、強引に上向かされる。僕の目をまっすぐに覗きこんだサムライが吐き捨てるように言う。
 「最低だな」
 苦々しく唾棄したサムライを睨む。僕の顎に切っ先を固定し、倦んだように呟く。
 「そんなに知りたければ教えてやる。あれは遺書だ」
 「――――え?」
 孤独が人の形をとったような、一切の救いの手を拒絶する孤影。
 木刀を突きつけられていることも忘れ、魅入られたようにサムライを見上げる。
 臓腑を絞るような声で、堪えきれないものを堪えようとして失敗したかのように、サムライは言った。
 僕の知らない男の顔で。
 「なえは俺が殺した女だ」
 コロシタ?
 裸電球を背にしているため、サムライの顔には濃い影が落ちている。濃淡に富んだ影に隈取られたサムライの顔は地獄の幽鬼じみた凄槍な形相に変化していた。
 地獄の業火に灼かれながら幽鬼が叫ぶ、自分を、感情を押し殺した声で。
 「俺がなえを追いつめて首を吊らせたんだ」
     
 『俺の貸した手ぬぐいで首を吊るなよ』

 数ヶ月前、自殺の誘惑に心傾いていた僕にサムライが釘をさしたのは身近な人間に首を吊られるのがいやだったから?
 『なえ』と同じ自殺―――――――――――

 「…………そうか」
 そうだったのか。
 力ない笑みが顔に浮かぶ。薄く笑みを浮かべ、サムライを仰ぎ見る。
 「きみが僕の自殺を止めたのは『なえ』と同じ過ちを犯したくなかったからか」
 サムライは否定も肯定もせず沈黙したまま、眼光鋭く僕の唇の動きを読んでいる。
 そうか。
 結局どこまで行っても、僕は苗の代わりに過ぎなかったのか。
 僕の手を掴んで「なえ」の名を呼んだのがなによりの証拠じゃないか。
 なえとサムライの間になにがあったかは知らない、ふたりがどんな関係だったのかも知らない。
 ただ、僕に言えることはひとつ。
 「自分が殺した女の名を未だに忘れられずに夢で呼ぶなんて、本当に情けない男だ」
 僕が浮かべているのは自嘲の笑みだが、サムライの目にはあからさまな蔑笑に映ったことだろう。その証拠に、木刀が汚れるのを厭うかのように僕の顎先から切っ先をおろしてサムライは吐き捨てた。 
 千本の針を含んだ軽蔑のまなざしをむけて。
 「恥を知れ」
 木刀を脇にさげたサムライが大股に去ってゆく。鉄扉が音荒く閉じ、急いた足音が遠ざかる。サムライはきっと消灯時間まで帰ってこないだろう、もう僕の顔を見るのもいやなはずだ。
 壁に背中を預けて崩れ落ちる。
 『なえ』はもうこの世にいない、首を吊って死んでしまった。
 サムライが後生大事に隠し持っている手紙はなえの形見……遺書だった。
 どうりで手紙にこだわるはずだ。 
 膝を抱え込み、顔を伏せる。
 『俺が欲しい女はここにいない』
 今なら、取り返しがつかないことをしてしまった今ならあの時サムライが言おうとしたことがよくわかる。
 『俺が欲しい女はこの世にいない』
 サムライはそう言いたかったのだ。

 僕と同じように、もう取り返しがつかなくなってしまったあとで。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060317054520 | 編集

 食堂の二階席からは人間関係がよく見渡せる。
 仲間がいなくて食堂の片隅でひとりで食事をとっている奴、人と馴れ合うのがいやで自ら進んで片隅の席を確保する奴、中央の席を陣取ってわあわあぎゃあぎゃあ騒いでいるのは東棟最大の勢力を誇る中国系派閥、凱が仕切るグループだろう。行儀悪く机に肘をつき足を乗せ、フォークや匙を勢いよく振り上げながら哄笑している。たぶん食事の席にふさわしくない猥談でもしてるんだろう、上座の椅子に反り返った凱は取り巻き連中におだてられて上機嫌だが仲間の五割は追従で笑ってるにすぎない。かわいそうな裸の王様。
 裸の王様に見切りをつけ、本物の王様をさがして食堂全体に目を馳せる。毎度毎度蜂の巣を突いたような騒ぎの食堂、耳を聾する喧騒に混ざるのは旺盛にものを咀嚼する音、下品に汁を啜る音、かちゃかちゃと食器が触れ合う耳障りな金属音に野太い笑い声。さまざまに音域の異なる雑音が混沌と混じり合い吹き抜けの食堂は活況を呈していた。
 茶髪の王様は猥雑な食堂の右から五列目、左から十五列目にいた。
 隣にいるのは言うまでもなくロンだ。今日の献立は洋食、マッシュポテトとコンソメスープとハム三切れ、それにパン一切れという育ち盛りの身には不満たらたらな粗食。コンソメスープにパンを漬けて食べてるレイジに隣のロンはちょっと呆れ顔。ロンは食事中も机に肘をつかない、よくは知らないけどママが相当行儀に厳しい人だったんだろう。レイジがテーブルに肘をつくたび小姑みたいに口うるさく注意している、あ、今も叩かれた。テーブルに肘をついただらしない姿勢でマッシュポテトを口に運ぼうとしたレイジがロンに肘をはたかれてバランスを崩す。上体ごと突っ伏したレイジが「フォーク持ってるときに叩くなよあぶねーな、鼻の穴がつながるとこだったろ!?」と抗議するのをひややかに眺め、「面白そうだな。ぜひやってみせてくれ」と言う。   
 毎度見飽きた、つまんない夫婦漫才だ。
 ロンとレイジの向かいにはサムライが座っている。しゃんと背筋を正して椅子に腰掛け、味覚がないような顔で一口大にちぎったパンを咀嚼している。
 そんなかんじで、食堂はいつもどおりにぎやかだった。本日の強制労働から五体満足で生きて帰ってこれた囚人が先を争うようにアルミの食器をたいらげてゆくのをブタの食事風景でも眺めるように見下ろしつつ、「あれ?」と呟く。
 レイジ、ロン、サムライ。
 おかしい、ひとりいない。
 「鍵屋崎はどこに行ったんだろうね」
 今しもハムにフォークを刺そうとしていたビバリーが声につられて顔を上げ、その拍子にコンソメスープの器に肘をぶつける。
 「あああああああああああああアッ、リョウさんなんてコトを!?」
 「僕なんもしてないじゃん、自分でかってに落としたんでしょ」
 ひどい責任転嫁だ。
 憤慨してビバリーを振り返れば、当の本人は悲壮な顔をコンソメスープのこぼれたトレイを見下ろしていた。
 「僕のハムがコンソメハムになってしまった!」
 だんだんと拳でテーブルを叩きながら無念に泣くビバリー、その肩をつついてもう一度聞く。
 「あれ見てよ」
 眼下に顎をしゃくる。僕に促されたビバリーが渋々手摺から身を乗り出して真下を覗きこむ。ちょうど僕らの真下の席を陣取っているレイジ、ロン、サムライの顔が目に入る。
 「ひとり欠けてるっしょ」
 「ああ、例のメガネくんっすか」
 「そう」
 ようやくビバリーも気付いたらしい、鍵屋崎の姿がどこにも見当たらないことに。
 東京プリズンに来て二ヶ月はだれとも馴れ合わず、食堂の隅っこでひとりで食事をとっていた鍵屋崎。そのガードが緩みかけたのは四ヶ月目に入ってから、サムライから誘ったのかどうかは知らないが、たぶんふたりの関係の変化がもたらした成り行き上の結果だろう。レイジ、ロン、サムライのいつもの食堂メンバーにどこかばつが悪げな顔をした鍵屋崎が含まれるようになったのはごく最近だ。サムライの隣に腰掛け、やっぱりこれも僕なんかとは比べ物にならないくらい正しく箸やフォークを扱って食事をとる。鍵屋崎がロンやレイジと会話してる様子はあんまりなかったが、話し掛けられれば二言三言答えていた。まあ、鍵屋崎と他の囚人の間にまともな会話が成立するとは思えない。それが証拠にたんなる世間話に打てば響くような皮肉と毒舌で応酬されたらしきレイジが苦笑い、ロンに至っては不機嫌きわまりない仏頂面をしていた。 
 その鍵屋崎の姿が、今日はない。
 サムライの隣から消えている。
 「具合でも悪いんすかねえ」
 「まさか。今日も普通に仕事してたよ」
 温室と砂漠、持ち場は違えどイエローワークの同僚の証言だ。バスに乗り込むときにちらっと見かけたけど鍵屋崎が体調を崩してる様子はなかった。まあ、陰鬱に打ち沈んだ顔をしてたけど。
 「喧嘩かな」
 「じゃないスかねえ。原因はなんでしょうね、レイジさんと違って相棒の寝込み襲ったりはしないだろうし」
 話題にされたレイジがくしゅんとくしゃみして唾をとばし、自分のトレイを両手で庇ったロンが「汚えな」と眉をしかめる。
 「しっ」
 唇にひとさし指をあてる。右から左へ、口にチャックする真似をしたビバリーと顔を並べてそろそろと下を覗きこむ。さっきからロンの様子がおかしい、ちらちらと落ち着きなく後ろを振り返っている。ロンの視線を追えば、黴臭く湿った食堂の隅っこに鍵屋崎がいた。ひとりでほそぼそと食事をとってるらしい。
 後ろ髪をひかれるように鍵屋崎を振り返っていたロンがくるりと正面に向き直る。
 「原因はなんだ」
 サムライは無言。アルミの椀を手にとり、音もなくスープを啜る。無視されてカチンときたロンが語気を強める。
 「お前らの喧嘩に俺が口出しする義理ねーけどサムライともあろう者が大人げねえ、柄にもなく意地張ってんなよ。今日地下駐車場で顔合わせた時からアイツの様子おかしかったぜ。ぜんぜん元気ねえし、毒舌にいつものキレがなかった」 
 毒舌を元気のバロメーターにされるなんて鍵屋崎も人徳がないなあ。
 「昨日、なんかあったのか」
 「……………………………」
 「たぶん原因は十中八九鍵屋崎だと思うけど、お前もお前だ。一方的にシカトなんかしてないで腹割って話し合えよ」
 「……………………………」
 「聞いてんのかよ」
 「やめとけってロン」
 立ち上がりかけたロンを肘を掴んで押さえ、レイジが笑う。
 「ほら、日本の諺にあるだろ。人の喧嘩に首つっこむやつは馬に蹴られて死んじまえって」
 「『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえ』だ」
 それまで沈黙していたサムライがぼそりと呟く。サムライが一言発したのを皮切りに、レイジが興味津々身を乗り出す。
 「で、実際どうなの?一体全体なにが原因で熟年離婚の危機に瀕した中年夫婦みたいな会話もない、目も合わせない倦怠期が訪れたわけ」
 頬杖ついたレイジが愉快げに探りを入れてくるのをひややかに一瞥、箸を操る手を止めずに短く答える。
 「俺の手紙をかってに読んだ」
 レイジとロンが顔を見合わせる。
 「……………………………それは、また」
 「許せねえな」
 やれやれと首を振りながら嘆声を発するレイジ、ロンもまた眉をひそめる。サムライはそれきり目も上げずにパンを齧っていたが、真相を聞いた今もなお鍵屋崎のことが気になるらしいロンはちらちら後ろを振り向いていた。ロンがよそ見したすきに脇へと忍びこんだのはレイジの手。ロンの死角を突いてハムを盗もうとしていた手が邪険にはたき落とされる。しつこく侵入してくる手をレイジの方を見もせずにはたき落としながらロンが言う。
 「やっぱ俺行ってくる」
 「放っとけって」
 席を立ち上がりかけたロンをあきれた声でレイジが制す。
 「ひとりにさせてやれよ、キーストアってもともとひとりを好むタチじゃん。サムライのことがなくてもひとりで飯食いたい日ぐらいあるって」
 「けど………」
 「ひとの尻拭いばっかしてると過労死にするぜ、ロン」
 「そこがいいところなんだけど」と付け足して惚気るのも忘れないレイジ。ちゃっかりしてる。躊躇しながらも腰をおろしたロンの皿にフォークをのばし、ハムを刺そうとした手がおもいきりはたき落とされる。赤く腫れた手の甲をさすりながら「ケチ」と口をとがらせるレイジに「俺を餓死させる気か?」と噛み付くロン、言い争いを始めたふたりの正面、先に食事を終えたサムライが席を立つ。
 トレイを持ってテーブルとテーブルの間の通路を歩き、カウンターへむかう。床に寝転り取っ組み合いの喧嘩を始めた囚人を巧みに避け、宙を飛び交うフォークとアルミ皿の嵐の中を泰然自若と進む。
 カウンターにトレイを返却したサムライがぐるりと通路を迂回し、食堂を後にしようとしかけー
 ちょうど、鍵屋崎の背後にさしかかる。
 その時だ、偶然のイタズラが発生したのは。
 カチャン。
 今しもトレイを持って背後を通り過ぎた囚人がわざと鍵屋崎にぶつかる。そんなに強くぶつかったわけではないが、食事中、油断してたところに不意打ちを食らったために鍵屋崎はフォークを落としてしまった。鍵屋崎にぶつかった囚人はにやにや笑いながら足早に通りすぎ、あとには姿勢を崩した鍵屋崎と床に転がったフォークだけが取り残された。
 そして、足もとに放置されたフォークを無表情に見下ろすサムライ。
 その時初めてサムライに気付いたのだろう、振り向いた鍵屋崎、その顔が強張る。眼鏡越しの双眸に宿ったのは複雑な色。罪悪感、怯惰。だけじゃない、もっと違うなにか―
 サムライは手ぶらだった。
 ちょっと腰を屈めてフォークを拾おうと思えば拾えたはずなのに、そうしなかった。
 スッとフォークを跨ぎ、通り過ぎる。何事もなかったように、鍵屋崎のことなど最初から見えなかったように。
 サムライとすれちがいざま、鍵屋崎の顔が悲痛に歪むのがわかった。だがそれはすぐに常と同じ無表情に変わり、椅子から腰を浮かせてフォークを拾う。サムライは一度も振り向かなかった。きびきびした大股で食堂をあとにしたサムライを見送り、笑う。
 「近づきかけた距離がまた開いた」
 「十歩進んで十五歩さがってる感じですねえ」
 ビバリーがうまいことを言う、座布団一枚。鍵屋崎を見れば妙に深刻な面持ちでじっと手中のフォークを見つめていた。
 「自分の目でも刺す気スかね」
 まさか。
 ビバリーを笑おうとして振り向きかけた視界の端、サムライに遅れること数十秒、食事を終えた鍵屋崎がカウンターへ行ってトレイを返却する。食堂を去りかけた鍵屋崎、その姿が完全に視界から消える前にトレイを持って腰を上げる。
 「じゃ、お先にビバリー」
 「……リョウさん。やけに嬉しそうっスけど、またよからぬこと考えてるんじゃないでしょうね」
 図星だ。鈍感に見えてビバリーは意外と鋭い。
 心の中で舌を出し、表面上は「そんなこと全然ないって」と主張する笑顔を湛える。ビバリーに別れを告げて軽快に階段を降りる。速攻でトレイを返却、小走りに鍵屋崎を追いかける。
 いた。
 廊下の途中、ちょうど人通りのないところでとぼとぼ歩いてる鍵屋崎に追いつけた。
 さて、なんて声をかけよう。もちろん決まってる。
 「サムライと喧嘩?」
 鍵屋崎の背中が反応する。
 「…………またきみか。人のゴシップを嗅ぎまわるしか娯楽がないのか」
 うんざりと振り返った鍵屋崎にスキップしながら近づけば本人はあとじさる。これじゃ一向に距離が縮まらない。仕方なし、危害をくわえるつもりはないと両手を振って主張する。
 「なにもしないよ、ほら、なにも持ってないでしょ?なにかしたくてもできないよ、ね」
 「ポケットの薬は?」
 「僕とキスできる距離に近づかなければ大丈夫さ」
 三歩距離を隔てて止まる。
 「……何か用か?」
 僕と口をきくのも煩わしいとばかりぞんざいな口調で鍵屋崎が促す。気乗りしない様子の鍵屋崎を上目遣いに見上げ、ささやく。
 「メガネくんが東京プリズンに来て四ヶ月。ということは、サムライと一緒の房になってもう四ヶ月も経つというわけだ」
 『もう』の部分を強調してやれば、鍵屋崎の眉間の皺がさらに深まる。
 予想通りの反応に気をよくしながら、内心はおくびにも出さず包囲網を狭める。
 「この四ヶ月、檻の中で生活してみてどうだった?感想を聞きたいね。外とココじゃ何もかもが違うでしょ、どっちが快適かなんて聞くまでもないけどさ……」 
 「要領を得ない問いは愚問だ。主旨はなんだ?」
 「この四ヶ月でサムライについて何かわかった?」
 「………………」
 痛い所を突かれた、といわんばかりに鍵屋崎が押し黙る。わかりやすいなあと苦笑する。
 「そのぶんじゃサムライの本名も知らないよね」
 優越感の滲んだ口調で念を押せば、反応はひどく新鮮だった。
 「知っているのか!?」
 僕の口調から何かを汲み取ったのだろう、肩に掴みかからんばかりの勢いで鍵屋崎がキスできる間合いに踏み込んでくる。僕がサムライの本名を知っていると匂わせただけでこれだ、我を忘れて敵の間合いに踏み込んでしまう無防備さ。
 これがコイツの弱点、サムライが鍵屋崎の弱点だ。
 「なぜ僕が知らないことをきみが、きみなんかが知ってるんだ?」
 押し殺した声で詰問する鍵屋崎を煙に巻くような笑みを浮かべ、背後の壁にもたれかかる。
 「『なんか』って失礼だね。前も言ったとおり、僕は看守にコネがあるんだ。一介の囚人が知らないようなゴクヒ情報だって全部メロウトークの延長線上で耳に流れこんでくる」
 物欲しげにこちらを見つめている鍵屋崎にすりよるように接近、耳朶にささやく。
 「教えてあげようか」
 鍵屋崎はすぐには頷かなかった。
 僕に借りを作ることに葛藤があったんだろう、いや、たんにプライドが許さなかっただけか。自分がいちばん知りたいことをひとに教えてもらうなんて冗談じゃない、そんなみっともない真似ができるかという強い意志が眼鏡越しの双眸に宿っていた。
 でも、本心は偽れない。
 「タイトウ ミツグ」
 『ミツグ』。
 苗字よりは下の名前に鍵屋崎は反応した。眼鏡の奥の目が驚いたように見開かれる。
 「貢いだ刀を帯びると書いて帯刀 貢。すごくサムライらしい名前でしょ?最初聞いたとき笑っちゃったよ。……ああ、そのぶんじゃ本当に知らなかったんだ。ひどいねサムライも、一緒の房になって四ヶ月も経つのに自分の名前ひとつ教えてなかったんだね。ま、それはお互い様か。きみもサムライのまえじゃ嘘の名前で通してるんでしょ?親からもらった名前を偽って平然としてるようなやつに本名打ち明けたくないよね、だれだって」
 『ミツグ』の名前を出したときから鍵屋崎の様子が変わった。
 それまで半信半疑だったのに今ではすっかり僕の言うコトを信用してるらしい。
 僕の言い分を真実だと認めた鍵屋崎が声をひそめて言う。
 「………きみは何を、どこまで知ってるんだ?」
 「全部さ」
 両手を広げる。
 「きみが知らないことは全部知ってる、僕のパトロンに仙台出身の看守がいて全部彼から聞いたんだ。サムライと同郷の看守が教えてくれたんだ、信憑性ばっちりっしょ?地元じゃ有名な事件らしいからね」
 鍵屋崎の肩になれなれしく手をかける。普段の鍵屋崎ならこの時点で潔癖な拒絶反応を示して手を振り落としてるところだが、今日は違う。肩に乗った手を振り払うのも忘れ、呆然と僕の顔を見つめている。
 眼鏡のレンズに僕の顔が映る。いびつな笑みを浮かべた詐欺師の顔。
 「知りたくない?サムライがなんで父親を含む門下生十二人を斬殺したのか、過去に何があったのか」
 鍵屋崎は何も言わなかった。
 でも、僕の言ってることは十分に理解できたらしく、瞳には隠しきれない興奮の色があった。
 「もし知りたければ今夜下水道に来てよ」
 「下水道?」
 鸚鵡返しに反駁した鍵屋崎に足もとの床……正確には、床の下に広がる巨大空間を見下ろして説明してやる。
 「地下駐車場のマンホールを一つずらして開けておくからそっから下水道に降りてきて。知ってるでしょ?ブルーワークの仕事場さ。時間は……そうだね、消灯から一時間後。房に時計がなくてもだいたいわかるっしょ、最初に見回りにきた看守の靴音が遠ざかってから。東京プリズンの深夜巡回は計三回、一巡目が22時、二巡目が午前0時、三巡目が午前3時。時計代わりになるし覚えといて損ないよ」
 「下水道である必要性は?」
 「人目を憚って。これでも一応プラシバシーには配慮してるんだ、メガネくんだってサムライの身の上話を興味本位の野次馬連中に盗み聞かれたくないでしょ。下水道なら監視カメラもないし、へたに記録される怖れもないから安全」
 納得したのかしてないのか、真剣な顔で考えこむ鍵屋崎からスキップしてとびすさる。
 「来る来ないは自由だけどこの機を逃したら一生サムライの昔話を聞くチャンスはない。きみはサムライのことをなにも知らずにやつと顔を突き合せて暮らしてくしかない、ずうっとね」
 くどいほどに念を押しぱたぱたと廊下を去る。20メートルほど走って振り返れば鍵屋崎はまだ同じ場所に突っ立っていた。満足し、角を曲がる。路地の陰に隠れた耳に低い声が響く。
 「首尾は?」
 「上々」
 人さし指と親指で丸を作り、蛍光灯の光も届かない路地の奥に笑顔を向ける。
 路地の奥、暗がりに潜む影が一体、二体、三体……計五体。中のひとり、この場の主導権を握っているらしき先頭の影が歩み出る。
 何度も脱色をくりかえして傷んだ金髪、ネズミのように卑しい目つきの少年が半信半疑で訪ねる。
 「本当にうまくいくのか」
 「僕に任せてって。鍵屋崎を餌にすればサムライは絶対来るよ、アイツ『いい奴』だからさ」
 東京プリズンにおける『いい奴』は褒め言葉じゃない、ただの蔑称だ。 
 「痴話喧嘩の最中だって相棒を人質にとられれば見捨てられないっしょ。サムライが来たらあとはお好きなように、メガネくんを盾に脅すなり何なりしてブラックワークペア戦出場の約束を取り付ければいい」
 「で、あのメガネは来んのか」
 「絶対に」
 断言する。
 「鍵屋崎はサムライのことが知りたくて知りたくてたまらないんだ、クールな顔してたって心の中はぐちゃぐちゃさ。サムライがなんで、どうして実の父親を含む十二人もの人間を殺したのか?事件の真相がどうしても知りたくて矢も盾もいられないのが本音さ」
 だから、鍵屋崎は絶対に来る。
 自ら罠にとびこみに。
 最も、本命のサムライが鍵屋崎の不在に気付いて下水道に来るまで少し時間がかかるだろう。それまでは―
 「アイツ、好きにしていいよ」
 ズボンのポケットに手を突っ込み、喉を鳴らして笑う。僕の言葉がなにをさしてるか直感したのだろう、路地にたむろっていた金髪と仲間の口から濁った笑い声が漏れる。
 鍵屋崎はまだ東京プリズンの本当の怖さを知らない。
 鉄格子の中の世界が悪意に包囲にされてると知らないでいる。おめでたいね。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060316054626 | 編集

 毛布にくるまり、静寂に耳をそばだてる。
 靴音の威圧的な響きが次第に大きくなり扉の前で最高点に達し、また遠ざかる。息をひそめ、看守の靴音が完全に消滅するのを待つ。靴音の余韻が完全に暗闇に呑まれてから毛布を持ち上げ、スニーカーに素足を潜り込ませる。毛布に手をかけたまま隣のベッドを見る。サムライはよく寝ている、僕が起きだしたのにも気付かない。もしくは気付いていて無視しているのか。
 どちらでもいい。
 サムライが寝たふりをしてようがかまわない、どうせ昨夜から一言も言葉を交わしてないのだ。どころか、僕とはもう目も合わせようとしない。僕は踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまった、サムライが最も踏み込まれたくない領域を土足で踏み荒らしてしまったのだ。
 多分、これから何があってもサムライは僕を助けてくれない。
 自業自得だ。これが僕が望んだ結果だ。サムライに助けられるのはいやだった、自分がひとりじゃなにもできない無力な人間だと思い知らされるようで、恵の兄たる資格を剥奪されるようで。今度強姦されかけたら放ってほしいというのは誓って真実、嘘偽りざる本音だ。もうサムライの力などあてにしない、僕は僕の力で、この天才的な頭脳の閃きで必ずや窮地を切り抜けてやる。
 それなのに、少し胸が痛いのは何故だろう。
 自己嫌悪?感傷?……くだらない。そんな感情僕には存在しない、今の僕に必要ない。そんなものにかかずりあっている余裕はないのだ、これっぽっちも。スニーカーを履き、房の真ん中に立つ。周囲を注意深く見渡してから鉄扉に歩み寄り、錠を上げる。
 カチャン。
 軽い手応え、金属音。
 軋り音をたてないよう、肩で押すようにして鉄扉を開く。廊下は無人。天井の蛍光灯だけが白々と輝いている。陰鬱なコンクリートの廊下を歩き、路地へと逸れる。エレベーターは使わない。エレベーターには監視カメラが設置されている、消灯時間を過ぎても出歩いてる姿を撮られたらまずい。殆ど存在を忘れ去られている死角の階段を使い、地下に降りる。
 当たり前の話だが、僕の房がある階より地下のほうが気温が低かった。コンクリートで出来た巨大な棺桶の中にいるような肌寒さ。廊下を何度か曲がりゆるやかな勾配のスロープを出れば、突如目の前に巨大な空間がひらける。
 東京プリズンの地下にある広面積の駐車場。 
 大勢の囚人を各仕事場へと運ぶバスで朝夕混雑しているコンコースも今は人けがなく、閑散と静まり返っている。囚人を目的地に運ぶ役目を終えたバスは車庫にしまわれているはずだ。したがって、深夜のコンコースには視界を塞ぐ遮蔽物など何もない。コンクリートの平面に幾何学的な白線を引いた空虚な空間が寒々と存在しているだけだ。 
 地面に目を落とす。
 50メートル間隔で点在するマンホールのうち、一つだけ蓋がずれている。仄暗い暗渠を覗かせた円盤に歩み寄り、地面に片ひざついて中を覗きこむ。なにも見えない、中に人がいるのかもわからない。
 リョウは先に来ているのだろうか。
 そこまで考え、リョウの言葉を真に受けてのこのこここに来てしまった自分の愚かさに苦笑する。サムライと僕の関係はもう修復不能だ。僕はサムライに軽蔑された、触れてはいけないものに触れてしまった。
 『なえ』は過去にサムライが愛した女性だった。
 その事実は疑うべくもない。なえの名を語るときサムライは男の顔をしていた。焦燥に揉まれ苦しむ男の顔、本気で人を恋したことがある人間の顔。
 だが、『なえ』は既にこの世にない。首を吊って死んでしまったのだ。
 サムライはそれ以上のことは語らなかったが、彼の言葉の断片をつなぎあわせて推理するになえの自殺の原因にサムライは深く関係しているらしい。そして、今でも自分を責めている。責め続けている。
 興味本位で『なえ』の名に触れた僕をサムライは絶対に許さないだろう。
 僕が彼の立場だったら絶対に許せない。許せるわけがない。
 それなのに、僕はまだ諦めきれない。まだ心の底ではサムライのことを知りたがっている、知りたいと叫んでいる。動悸の全貌を知りたい、サムライの素顔が、なえのことが知りたい。何故だ?わからない。サムライはただのモルモットだ、ただの観察対象、東京プリズンでの単調な毎日を紛らわせるための観察対象に過ぎないのに、何故、たかがモルモットの言動にこんなに振り回されてるんだ?
 サムライと対等になりたいから僕は手紙を見るのをやめた。
 それだっておかしいのだ、何故ぼくはサムライと対等になりたいと思ったりしたのだ?サムライはモルモットだろう、モルモットと観察者、どちらが優位な立場かは歴然としてるはずだ。
 それなのに僕は、サムライに引け目を感じてる?
 サムライの方が上だと、そう思っているのか?
 ……ぐだぐだ考えていても始まらない。ここまで来てしまったんだ、いまさら引き返せない。リョウはサムライの本名を知っていた、僕が知らないサムライの名前の読み方まで知っていた。帯刀 貢。貢いだ刀を帯びる。なるほど、これ以上なくサムライにふさわしい名前だ。名は体を現すという日本古来の言霊信仰を信じたくもなる。
 マンホールの蓋を持ち上げ、腕に力をこめる。もとから外れていた円盤はずるずるとコンクリートを擦って移動し、ひっくりかえって鈍い音を立てた。
 僕の目の前に口をあけているのは黒い穴。垂直の空洞。
 「………」
 緊張が高まる。そっとズボンのポケットを押さえ、覚悟を決める。手探りで壁をさぐり、作業用梯子の柄を握る。梯子の最上段に片足をかけ、慎重に降りる。明かりが届くようマンホールの蓋は開けたままだ。こんな非常識な時間に駐車場に出てくる看守もいないだろう。気を抜いた瞬間に足が滑って転落しそうになるのを梯子の柄をしっかり掴んで堪え、用心深く梯子を降りる。
 ようやく下水道に到達した。
 スニーカーの靴底が硬い地面を踏んで安堵したのも束の間、周囲に漂う異臭におもわず鼻を塞ぐ。下水道という特殊な環境のせいか、換気が行き届いてない地下水路には黴臭い異臭を孕んだ湿気と冷気が充満していた。しかし思ったより匂いが酷くないのはこの下水道が汚物などの生活排水を運ぶものではなく雨水を運ぶ雨水管だからだろう。
 東京プリズンの地下には都心から引かれた下水道が心臓周辺の血管のように緻密に巡らされている。複雑な路線図を描いて縦横に交錯した下水道は迷宮の如く支流と本流が入り組んでおり、ひとたび探索気分で奥へと踏みこめばブルーワークの囚人でも遭難してしまう危険性があるそうだ。
 僕は方向音痴ではないが、あまり奥へと踏み込みたくはないものだ。
 上を見上げる。遥か頭上、天井に開いた穴から降り注ぐのは一条の光。駐車場の壁に設置された保安点検用のランプの赤光が細々と漏れ行ってくるのだ。下水道に立ち、あたりを見回す。壁に設置されているのは同じく保安点検用のランプだが、こちらは白。が、最低30メートルの間隔を空けて連なっているためにお世辞にも視界が効くとはいえない。
 リョウはどこだろう。
 先に来ているはずだが姿が見当たらない。ひとを驚かすのが好きな彼のことだ、突然背後から飛び出して僕を驚かす魂胆だろうか?生憎だがそうはいかない、この僕にかぎってそんな醜態をさらすわけがない。もしくは奥に潜んでいるのだろうか、突然目の前に飛び出して僕を驚かす算段だろうか。 
 前後左右を注意深く見回しながら、下水道の奥へと足を進める。一歩足を進めるごとに針で突いたような頭上の穴から漏れ入る明かりは遠ざかり、視界が暗くなってゆく。
 10メートル、30メートル、50メートル……変化はない。
 天井から落ちた水滴がコンクリートを叩く音だけがむなしく響く。地面はじっとりと湿っている、歩道のすぐそばを轟々と音をたてて流れているのは横幅8メートルはあろうかという下水路だ。水量はさほど多くないが、それでも僕の腰あたりまではあるだろう。
 殆ど反射的に、今日、イエローワークの強制労働中に見た雲の動きを思い出す。
 今日の雲の流れはやけに早かった、気のせいか湿度も通常より高く、じっと立っているだけでも服の中が蒸した。シャベルの手を休めて遥か砂漠の彼方を見上げれば厚い雲の層が被さっていた。
 都心には豪雨が来そうだ。
 日中は死ぬほど暑く、夜はひどく冷えこむ東京プリズンには雨が降ることがない。ごく稀に都心から流れてきた雨雲がスコールを降らせることがあるが、それ以外は梅雨でも滅多に雨が降らない。だから都心の天候には知らず知らずのうちに関心が薄れていったがー
 足音。
 「リョウか?」
 下水道に殷殷と反響する靴音。誰何の声に返事はない。悪ふざけにも程がある、自分から呼び出しておいて……腹立たしくなり、もう一度、声を荒げてリョウを呼ぼうとしたとき。
 衝撃。
 後頭部に焼けるような激痛。
 何者かに背後から襲撃されたと知覚するよりはやく体が傾ぎ、前のめりに倒れる。否、正確には三人がかりで押し倒されたのだ。何が起きたのか咄嗟にわからなかったのは激痛で頭が朦朧としてたからだ、正常な判断力が回復するにはさらに三秒を要した。
 背中が重い。
 首を捻り、不自由な姿勢で振り返る。背中に誰かが馬乗りになり、僕の手を後ろ手に掴んでいる。さらにその後ろ、僕の足を掴んで身動きを封じている少年がひとりー……いや、ふたり。
 ようやく暗闇に目が慣れてきた。
 瞬き。背中に跨った人物に目を凝らす。どこかで見たことのある顔だ。一体どこで――――
 「本当に来た」
 はしゃいだ声に顔を上げる。下水道の奥、不気味に湿った暗闇から歩みだしてきたのは人懐こい顔をした赤毛の少年……リョウだ。
 「ね?僕が言ったとおりでしょ」
 にこにこしながらリョウが声をかけた方角を仰げば、汚い金髪の少年が立っていた。
 知っている。今、はっきりと記憶がよみがえった。一昨日駐車場でサムライに挑んで、あえなく惨敗した少年ではないか。僕の両足を押さえ込んでいる仲間にも見覚えがある、気絶した少年をひきずって逃げるように退散した少年たちだ。
 「よう親殺し。いいカッコだな」
 僕の前に屈みこんだ少年がヤニ臭い歯を剥いてせせら笑う。
 「……何の真似だ?」
 「まだわからないの?きみってやっぱ学習能力ないねえ、監視塔のときとおなじだよ」
 頭上から声がする。リョウが僕を見下ろして笑ってる。
 「おとりだよ。きみ、サムライをおびきだすおとりにされたんだ」
 そんなことだろうと思った。
 別に驚かなかった。リョウの短絡的思考や底の浅い企みなどある程度予期していた、それでも僕が下水道に足を運んだのは確信があったからだ。
 サムライが助けにこないという確信。
 「ブラックワークの件か?」
 「ご名答。さすがに頭は悪くないね」
 リョウが顎をしゃくり、周囲の少年たちを見回す。
 「ブラックワークペア戦開始の噂はいくら流行に疎いきみでも知ってるよね。彼らはサムライをご所望なんだ、正しくは彼らのリーダーがだけど。そこの金髪の彼ね。きみは知らないみたいだけど、水面下でのサムライ争奪戦は日に日にはげしくなってる。そりゃそうだ、サムライを勝ち取った者がブラックワークを制すってのがおおかたの予想だからね。サムライさえ味方につけりゃレイジとだって互角に戦える、いや、ひょっとしたら下克上できるかもしれない。なんたってサムライはレイジと拮抗する実力者、実際剣の勝負だったらサムライに勝てる奴はいない」
 リョウがにっこりと微笑む。
 「レイジでもね」
 「僕をおとりにしてサムライを参戦させようという魂胆か」
 「またまたご名答」
 「低脳だな」 
 おもわず本音が出た。
 「低脳」と断定された少年たちの顔が怒りにサッと紅潮するのを睨み、続ける。
 「なにか勘違いしてるようだが、サムライが僕を助けにくるわけがない。僕らはそもそも友人でもなんでもないんだ、彼が僕を助けに来る理由がさっぱり見当たらない。そうする利益もない」
 「来るよ。絶対来る」
 僕の主張を打ち消すようにリョウが断言。自分の言うことに間違いはないと確信している顔。
 「サムライは絶対来る、アイツはそういう奴だから。たとえ痴話喧嘩中だって関係ないね、相棒のピンチには何をおいても駆けつけるのが今の時代に生き残るホンモノの武士だ」
 「来ないと言ってるだろう」
 「来る」
 「来ない」
 「来る」
 「来ない」
 「頑固だね」
 「お互い様だ」
 「来ないなら来させるまでだよ」
 僕の傍らに屈みこんだリョウが顎に手をかけ、強引に上向ける。顎を振って手を払おうとしたが無駄だった。五指に力をこめて顎を掴まれ、逃れることができない。 
 「手紙のこと覚えてる?」
 頬に頬を密着させるように僕の耳朶にささやくリョウ。
 「きみが破り捨てたママからの手紙。僕がたのしみにしてた手紙」
 「…………ああ」
 「後悔してる?」
 「………………」
 「謝って?」
 「嫌だ」
 「謝ってよ」
 「謝るのはそちらだろう」
 顎を掴む握力が増す。下顎の激痛に顔をしかめたくなるのを堪え務めて冷静に指摘する。怪訝な顔のリョウに畳み掛けるように言う。
 「僕は自分が悪いと思ってないことまでみだりに謝罪するような人間じゃない。恵を侮辱したことを謝罪するなら君に謝ってやってもいい、君の事は正直大嫌いだが君の母親にはすまないことをしたと多少は思わないでもないからな」
 リョウの顔色が変わった。
 人懐こい愛想笑いが薄れ、スッと表情がなくなる。
 「そっか」
 再びリョウの唇に湧き上がったのは淫らな笑み。
 唇の端をこの上なく楽しげに吊り上げたリョウが片手に僕の顎を掴み、片手でポケットから何か、光る物を取り出す。リョウの手に目を凝らす。
 針金だ。リョウが鍵を開けるのに用いるあの針金、先端が鋭く尖った凶器。
 「なにを」
 舌が喉にはりついて声がもれるのを塞いでいる。苦労して唾を飲み下し、喉から舌を引きはがす。
 「なにをする気なんだ?」
 その針金で。鋭い金属で。
 「歯医者さんごっこ」
 にんまりと笑ったリョウが前触れなく僕の口の中に指をいれ、口腔の粘膜を揉み始める。強烈な吐き気、喉を圧迫する異物感。それまで顎を掴んでいた三本の指が口腔にもぐりこみばらばらに動き始める。前歯の裏側を撫で、舌の先端を掴み、かと思えば喉奥まで手を突っ込んで舌の根元を押さえる。奥歯の窪みを押していた指がスッと離れ、上顎の形状をたしかめるように動く。
 吐きそうだ。
 気持が悪い。
 舌を押さえられているためうまく唾が飲み込めず、大量の唾液が喉に逆流してはげしく咳き込む。窒息。リョウはなにを考えてるんだ、気持ち悪い、苦しい、はやくはやく抜いてくれ――――――
 僕の願いが通じたのだろうか、口腔の粘膜をさぐるのに飽きたらしい指が唾液の糸を引き、名残惜しげに引き抜かれる。
 「ちゃんと口開いてないと危ないよ」
 耳元でささやかれた台詞にぎょっとする。
 針金を右手に持ったリョウがちらりと背後の少年たちに目配せし拘束を固める。肉厚の手で後頭部を押さえ込まれ両足をがっちりと固定される。
 徐徐に、徐徐に目の前に近づいてくる針金。鋭い先端が輝きを増す。
 「おっと、間違えた。さすがにこっちはまずいね、一生汁物が飲めなくなる」
 リョウの手の中で針金が一回転、錐揉み状に捻れた先端ではなく、荒削りな後尻が向けられる。が、こちらも十分に鋭い。
 「…………!っあぐ、」
 ガチャリ、金属を噛む感触。
 アルミホイルを噛んだときに起きるのとよく似た現象が口内で発生し、静電気に似た激痛が歯の根を突き刺す。僕の口の中に針金を突っ込んだリョウが目に笑みを浮かべながらカチャカチャと粘膜をひっかく。口の中を手荒くかき回され歯茎が傷つく。出血。舌の上に錆びた鉄の味が広がる。
 痛い。
 痛い、なんて言葉では説明できない語彙を凌駕する痛み痛理性が蒸発する痛、やめろ、血の味、まずい、痛い、まず痛い―
 「口の中綺麗だね」
 リョウの顔がかすんでいる。
 最初、メガネが水蒸気で曇っているのかと思ったが実際は違った。涙。生理的な涙が目にたまり、視界が朦朧とかすんで見えたのだ。
 「そのへんにしとけよ」
 針金が乱暴に引き抜かれる。
 口の中を満たす血の味、嘔吐感にむせながら顔を上げる。ぼやけた目に映ったのはリョウを覗きこむ金髪の少年。
 「口が使い物にならなくなったら楽しみが減るじゃねえか」
 少年は笑っていた。リョウも笑っている。この場の全員が笑っている。
 僕以外の全員が。
 「そうだね」
 咳き込んだ拍子に液体が一筋口の端を伝う感覚。僕の口の端から垂れた血を親指ですくい、リョウがほほえむ。まだ終わりじゃない、これはほんの始まりに過ぎない。そう宣告するような笑顔。
 「快感に喘ぐ顔と苦痛に歪む顔って似てない?」
 耳元でリョウがささやく。
 「ぼく両方の違いがよくわかんないんだよね。きみはどう?不感症って痛み苦しみも感じないのかな。そんなことないよね、口に針金突っ込まれてたときすごい苦しそうだったもの。……てことはセックスの快感は駄目でも肉体的な苦痛はちゃんと感じるんだ」
 僕の顎から手をはなしたリョウがスッと立ち上がり、金髪の少年に目配せ。下水道の隅に跳んでいった金髪の少年が何かを蹴りながら戻ってくる。
 「メガネくんの場合、自分が気持ちよくなるのは無理でも相手を気持ちよくさせることはできるでしょう。だから選ばせてあげる」
 「なにを………」
 する気なんだ?続く言葉は喉にひっかかって出てこなかった。
 三人がかりで押さえ込まれた眼前、コンクリートの床へと蹴りとばされてきたのは僕がこの世で最も嫌悪する生物―
 ゴキブリ。
 茶褐色の腹を見せて不気味に脚を蠢かせるゴキブリと蒼白の僕とを見比べ、リョウが提案する。
 ポケットに手を突っ込み、あっけらかんと。
 「ゴキブリを食べるか、ここにいる全員に奉仕するか」
 究極の二者択一だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060315054917 | 編集

 目と鼻の先で瀕死のゴキブリがもがいている。
 まるで今の僕のようだ、三人がかりで押さえ込まれて手も足も出せない状態の。
 「どうする?」
 「俺はどっちもでいいぜ」
 金髪の少年が下卑た声で笑い仲間たちも追従する。目にするもの耳にするもの、あらゆるものから急速に現実感が薄れてゆく。
 僕に見えているのは目の前のゴキブリだけ。
 耳に聞こえるのはカサカサと羽が触れ合う音だけ。
 これを食べろと言うのか?
 僕の目の前で裏返って茶褐色の腹を見せているのはゴキブリ、正確にはクロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科。分布:全国 体長:30~35mm 特徴:本州では最も代表的な家屋性害虫種。ただし、南方ではコワモンゴキブリやトビイロゴキブリ等の方が優勢らしい。若齢幼体時は黒い体色で、中胸部全体や触覚の先端が白く、腹部にも一対の白い斑紋がある。成長とともに赤褐色になり、白い部分は目立たなくなる。成虫は全身黒褐色。いうまでもなく雑食性で……
 ちがう、そんなことは今関係ない。ゴキブリが雑食性かどうかなんて今この場に関係ない、大事なのはそう、ゴキブリは雑食性でも僕は違う、僕は人間だ、虫を食す習慣なんてない現代の日本人だ。アボリジニーは虫を食う、インドでは殻の中のひよこを煮殺して食べる料理がある。食は文化だ、だから虫を食べる種族がいてもゴキブリを食べる種族がいてもかまわない、それは彼らの習慣で文化だから。
 でも、僕はちがう。
 いなごの佃煮を例に挙げよう、いなごの佃煮とはバッタの仲間であるイナゴを利用した佃煮である。山形県の内陸部、群馬県、長野県など、海産物が少ない山間部を中心に多く食用とされた。いなご3匹分で鶏卵1個分の栄養があると伝えられ信じられている。他にもハチや蜂の子やざざむし、ゲンゴロウなどを佃煮として食べる地方がある。
 でも、僕の家があった世田谷にはそんな習慣はなかった。僕の家では虫の姿煮などという悪趣味な料理は食卓にのぼらなかった、もしそんな物が食卓にのぼったら母は卒倒して父は家政婦を解雇するだろう。
 どうする?
 ゴキブリを食べなければ選ぶ道はひとつしかない、考えるのもいやな、おぞましい提案だが、残る選択肢を選ぶしかない。ここに居る全員にリョウを含めていいのか疑問は残るが、とりあえず今ここにいるのは僕を除いて5人。奉仕の意味がわからないほど世間知らずじゃない、何を意味するかはちゃんとわかる。
 レイジやヨンイルがやったのと同じことだ。
 遅かれ早かれこういう事態に直面するだろうと予期していた、ある程度覚悟もあった。しかしいざ直面してみると動揺は大きい、いや、大きいどころではない。こうして後頭部を押さえ込まれている今も心臓が爆発しそうなほど鼓動が高鳴っている。以前、東京プリズンに来た初日に凱に強姦されかけたことがあった。あの時はサムライの介入で難を免れたがそう都合のいい偶然が続くはずもない、遅かれ早かれ挿入されるかくわえさせられる羽目になるだろうとは思っていたが……
 「はやく決めろよ」
 苛立たしげな声が思考に水をさす。顔を上げる。腕組みして僕を見下ろした少年が無造作に右腕を蹴りとばす。
 「!!!!!!」
 悶絶。
 思考が閃光に呑まれ、絶叫に近い悲鳴が喉から迸る。痛覚の存在を呪いたくなるような激痛が右腕に牙を立てる。芋虫のように身を捩って苦鳴をもらす僕からぎょっとしたように身を引き、金髪の少年があきれる。
 「コイツの痛がりよう大袈裟すぎやしねえか?」
 「腰抜けなんだろ」
 「ちょっと蹴られたくらいでよ」
 「派手に痛がって同情引こうって魂胆か」
 「けっ、日本人はヤルコトあざといな」
 悲鳴に驚いた仲間が口々に賛同の声をあげる。中でひとり、リョウだけが妙な顔をしていた。金髪の少年を押しのけて僕の傍らに回りこみ、おもむろに袖をめくり上げる。
 低いどよめき。
 「うわ痛そう」
 「でけえ痣」
 「何されたらこんな痣ができるんだ?」
 「シャベルか何かじゃねえか」
 押さえ込まれた位置からでは見えないが、外気に触れた右腕が寒々しく、全身に鳥肌が立った。はやく飽きてほしい一刻も早く終わってくれ、こんな馬鹿げた真似は―
 「!!っあ、あぐ、あ」
 脊髄反射で体が反り返る。
 不自由な体勢から首を捻れば目にとびこんできたのはおぞましい光景。
 リョウが嬉嬉とした様子で僕の右腕を踏みにじっていた。痣の上から。
 「痛い?」
 無邪気に聞く。頷いたつもりはないが、悲鳴を噛み殺すために唇を噛み締めたせいで自然に顎が上下する。それを都合よく受け取ったのだろう、リョウがさらに調子に乗り、足に体重をかけて踏みこむ。
 「もっと痛い?」
 皮膚がねじれ、歪み、ひきつれ、僕が生まれてからこれまで体験したこともないような激痛を生み出してくる。痛痛痛激痛苦痛摩擦熱骨軋音捻、絶叫。
 スッと足が離れ、右腕から重しが取り除かれる。
 叫びすぎて喉が枯れた。指を動かす気力も尽きた。右腕は焼き鏝を押し付けられたようにズキズキ疼いている。骨に異常はないだろうか?肩で息をしながら突っ伏した僕の目の前にリョウの顔が出現する。
 「やっぱり。苦痛に歪むきみの顔、すごく色っぽい」
 リョウは笑っていた。
 その笑顔を見た瞬間、理解した。リョウは他人の苦痛に欲情する種類の人間なのだ。 
 「あ、意外と睫毛長いんだ。普段はメガネに隠れててわかんなかった」と呑気に呟いてるリョウの背後に金髪の少年が歩み寄る。彼もまた人が悶え苦しむ姿に性的興奮をおぼえるタチらしくズボンの股間が勃起しているのが目に入った。
 ………見たくなかった。
 「決まったか?」
 答えられない。
 「まだか?」
 一気に不機嫌になる。顔を上げられない。顔を上げる気力もない。髪の毛をぐいと掴まれ、無理矢理顔を起こされる。
 「メガネくんはゴキブリを食べたいそうだよ?」
 「じゃあ手伝ってやる」
 そんなことは一言も言ってない。
 反駁する間も与えられずに後頭部に圧力が加えられる。抗おうとした。無駄。無力。背骨を突っ張り、顎を水平に保とうと努力したが、後頭部全体を掴まれて一気に押し下げられる。
 目の前でカサカサうごめいているのは茶褐色のゴキブリ。
 節くれだった脚、まるくふくらんだ腹部、一対の触覚――――――――繊毛の生えた脚がはっきりと肉眼で識別できる距離にせま、
 
 嫌だ。

 食べたくないこんな物食べたくない冗談じゃない喉を通るわけがない噛み砕けるわけがない口にいれられるわけがない!!

 何かが切れた。
 「………る、から」
 プツリと音をたてて。
 「なんだって?よく聞こえねえなあ」
 耳に手をあてた金髪の少年がわざとらしく繰り返す。 
 生きてるゴキブリを食べるくらいなら、
 「なんだ?」
 「ちゃんと言えよ」
 「声に出して言えよ」
 「口きけるんだろ」
 「ちゃんと声に出せよ」
 生きてるゴキブリを咀嚼して飲み下すくらいなら。
 「しゃぶるから…………」
 貴様ら低脳どもの粗末な持ち物をしゃぶったほうがマシだ。
 金髪の少年が溜飲をさげたような顔をする。僕を押さえこんだ少年たちが興奮に上気した顔を見合わせる。
 僕の選択はまちがってない。
 ゴキブリを食べるよりフェラチオのほうがマシだ。レイジとヨンイルにできたことが僕にできないはずはない、目を閉じて口を動かしてればすぐ終わる。そうだ、きっとそうだ、ゴキブリを食べるより百倍マシではないか。
 「じゃあさっそく」
 金髪の少年が何か言いたげに顎をしゃくる。何?何をさせたいんだ?
 「脱がせろよ」
 「………………………………………………は?」
 まさか、下着をおろす段から僕にやらせる気か?この低脳は。   
 「何か不満でもあんのか」
 「ゴキブリ食いたいのか?」
 野次がとぶ。震える手をズボンにかけ、躊躇する。唾を呑む。心臓の鼓動が高鳴る。すぐに終わる、目を閉じてればすぐに終わる。こんなことはなんでもない、たいしたことじゃない、東京プリズンじゃたいしたことじゃない。レイジもヨンイルもやったんだ、彼ら凡人にできたことが天才の僕にできないはずはない。
 震える手を裾にもぐらせ、ズボンを下げおろす。下着も同時に。
 「はやくしろよ」
 準備は整った。あとはくわえるだけだ。しかし、決心がつかない。
 口を開いては閉じ、開いてはまた閉じる。そのくりかえし。全身の肌が粟立っている。嫌な汗。不整脈?違う、動悸だ。耳の裏側で響く心臓の鼓動、頭蓋の裏側で響くのは間延びした呼吸音。
 赤黒く勃起した性器の醜悪さに体が拒絶反応を起こし脳裏に言葉が氾濫する。今からどうしてもこんな物を口に含まなければいけないのか?こんな不潔で醜悪で巨大な物を口に含まなければいけないのか?
 お断りだ。
 「洗ってこい」
 「は?」
 踝まで引きずりおろしたズボンに手をかけたままうずくまっている僕を見下ろし、少年が首を傾げる。
 「洗ってこいと言ったんだ」
 僕は冷静だった。
 激痛が薄れ、恐怖が去り、頭の片隅で休眠していた理性が活動を再開する。コンクリ床に膝をついた僕はきょとんとしてる少年を挑むように見上げる。
 「聞こえなかったのか?その不潔で醜悪な性器を水で洗浄してこいと言ったんだ、今すぐにただちに。性器を口に含むのはいい、目を閉じてればすぐに終わるだろう。同性相手に口腔性交の経験はないが十代の少年が射精にかかる時間は統計学的に見て平均5分らしい。きみたちは5人だから計25分、僕の顎は疲れるがそれだけだ、あとでよくうがいすれば済む話だ。だけど垢と汗と老廃物にまみれた不潔な性器を順番に口に含むのは我慢できない、最低三十回以上洗ってこい、そこに水も流れている」
 僕は至極当たり前のことを言っただけで、何故彼らが怒るのか理解できない。
 「このクソメガネ…………」
 金髪の少年に後頭部を掴まれる。頭蓋骨が砕けそうな握力に顔をしかめる。
 「何が不満なんだ?」
 この低脳は。
 「全部だ」
 短く答えた少年が頭を押し込む。鼻先に迫るゴキブリ。
 「!」
 反射的な動作で身悶えし、肘でゴキブリを突き飛ばす。突き飛ばされたゴキブリは目の前の水路に落ち瞬く間に流されていた。安堵に胸撫で下ろしたのも束の間、後頭部におかれた手の向きが変更。水路の方へと顔を導かれ―
 
 わかった。彼が何をするつもりなのか。

 水音。
 喉に逆流してくる水、肺から押し出された酸素がおびただしい泡となり水面で弾け目の前が暗く翳る。息ができない、苦しい、脳に酸素が届かず頭が働かない。苦しい、恵、めぐみ―――――――
 後頭部の頭髪を掴まれ、顔を持ち上げられる。
 はげしく咳をして気管に流れ込んだ水を吐き出す。喉が焼けるようだ。上体を突っ伏して咳き込む僕をにやにやしながら覗きこんでいる少年たち、その中にはリョウも混ざっている。
 リョウの笑顔を見た途端、この上なく正当な抗議をしたくなった。
 「メガネくらい外させろ」
 リョウと少年らが顔を見合わせる。
 「どうやら懲りてないみたい」
 「しぶてえな」
 「しばらくやりゃ折れるだろ」
 「メガネの気も変わるだろ」
 「次は何分?三分、五分?」
 「五分だな」
 金髪の少年が顎をしゃくる。ふたたび僕の背中に跨った仲間が後頭部を掴み水の中へと突っこむ。視界からリョウの顔が消え、金髪の顔が消え、仲間の顔が消え――――暗闇。無数の泡。ごぼごぼと空気の漏れる不明瞭な音だけが耳の奥にこだまする。
 肺が焼ける。喉が焼ける。頭の芯が朦朧とし、意識が急速に薄れてゆく。
 酸素が漏れるのを防ごうと唇を噛み締めたが無駄だった。肺から汲み上げられた二酸化炭素が透明な泡となって口から漏れてゆく。
 溺死。
 僕はこんな寒いところで死ぬのか、こんな寒くて薄暗いところで死ぬのか。
 恵に謝ることもできず、サムライに謝ることもできず――――
 そうだサムライ。
 サムライは僕の本当の名前も知らない、僕は何もサムライに伝えてない。
 嫌だ。ここで死ぬのはいやだ。
 僕はまだ何も伝えてない、伝えたいことを伝えてない。サムライを知ろうとすることばかりに夢中になって自分が知らせたいことを忘れていた、僕にも知らせたいことがあるという単純な事実から目を逸らし続けてきた。
 このまま死ぬのはいやだ。
 僕はサムライの本名を呼んだこともない、サムライに下の名前を呼ばれたこともない。 
 今わかった。僕はずっと『なえ』が羨ましかったんだ。
 顔も知らない、どんなひとかもわからない。だが、『なえ』はサムライに名前を呼ばれた。『なえ』はサムライの本当の名前を知っていた。
 
 僕も名前で呼んで欲しかった。
 スグルでもおにいちゃんでもない、僕の名前で…………

 「!!がほっ、げほがほっ」
 拘束が解けた。
 溺れる寸前、全身の力を振り絞り、顔を引き抜く。背中が軽い、さっきまで僕の背中を押さえ込んでいた少年が放心したようにあらぬ方向を見ている。否、よく見れば僕以外の全員が同じ方向を凝視している。
 咳き込みながら同じ方向を見る。
 下水道の奥。
 ちょうど僕がおりてきたマンホールの下にひとりの男が立っている。
 頭上から射しこんだランプの光が燃え盛る業火の中を歩んでいるかの如く男の姿を照らし出す。
 真紅のランプに半身を染め抜かれ、衣擦れの音も殆どなく、潰れたスニーカーを履きこなして僕らの前に現れたのは――
 
 木刀を腰にさしたサムライだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060314055055 | 編集

 口の中が苦い。
 錆びた鉄の味が喉を灼く感覚に軽く咳き込めば口の端を一筋の赤が伝う。
 下水道の脇に設けられた横幅3メートルもない歩道、僕らと8メートルの距離を隔てて立ち止まったサムライが目を細める。
 うろんげな視線が舐めているのは二の腕に付着した生々しい靴跡の泥、ひとりに右足ひとりに左足、最後のひとりに背中を押さえこまれて身動きできない僕、顎を伝ってコンクリートに滴り落ちる血の雫。
 「鍵屋崎になにをした?」
 サムライの声は冷えていた。
 聞く者を戦慄させる威圧的な声音、鋭く砥いだ猛禽の双眸。片手にさげた木刀の柄を握り締め、周囲に群れた少年らを睥睨する。
 「いろんなこと。なにから聞きたい?」
 ポケットに手を突っ込んだリョウがいたずらっぽく小首を傾げる。よく仕込まれた子リスのように愛らしい仕草。はずんだ声で問うたリョウがにこやかに僕を振り返り、靴後の付着した二の腕を蹴る。
 「!―っあ、」
 悲鳴を噛み殺す余裕はなかった。
 骨がへし折れたかとおもう衝撃に目が眩む。暴れないよう僕の両手足をコンクリートに固定した少年らがげらげらと笑っている、無抵抗の人間を心置きなく嬲ることで爽快感に酔うサディストの笑い声、目を炯炯と輝かせた陰湿な表情。
 「やめろ」
 サムライの声は決して大きくはないが、無視できない威圧感を伴って殷殷と響いた。
 下水道の天井に反響した声に全員が動きを止める。ふたたび痣めがけて足裏を振り下ろそうと高く膝を掲げたリョウが面白い見せ物に気をとられたようにそっと地面を踏む。乱れた呼吸を整え、二の腕の疼きをこらえて顔を上げる。朦朧とかすんだ目を凝らし、陽炎の如く歪む人影をとらえる。焦点が定まり、曖昧模糊とした人影の全体像が固まる。 
 今時日本人でも珍しい漆黒の髪を流し、日本人の典型ともいえる平たく特徴のない、しかし眼光だけは異様に鋭い、ある種の猛禽類を彷彿とさせる容貌。
 壁の冷光灯が投じる青白い光の中、サムライがしずかに口を開く。
 「用が在るのは俺だろう。鍵屋崎には手を出すな」
 その口調が一抹の焦燥にかられているように聞こえたのは気のせいだろうか。 
 「わかってるじゃねえか」
 下卑た笑みを満面に湛えた金髪の少年が仲間を率先して歩みだす。優位を誇示するが如くポケットに両手をかけ、威勢よく肩を怒らせたリーダー格に仲間が釘をさす。
 「ユアン、気をつけろ」
 「心配すんな、この前の二の舞にはならねえよ。こっちにゃ人質がいるんだ」
 ユアンという名の少年が確信をこめて断言、その言葉どおりに無防備にサムライの手前で立ち止まる。静謐。コンクリートの天井に結露した水滴が単調な旋律を奏でて水面を打ち、僕の顔の上にも降り落ちてくる。ほんのささやかな衣擦れの音まで反響して拡大される
 下水道という特異な空間における特殊な状況下で対峙するサムライと少年。
 一対一の均衡を崩したのは少年の背後からひょこりと顔を出したリョウだった。
 「自分がなんで呼び出されたか当然わかってるよね?」
 「無論」
 言葉短く答えたサムライが鋭い眼光で少年を、ついで、背後の少年三人を一瞥する。
 「ブラックワークの件だろう」
 「はいご名答」
 リョウが満足げに頷き、ユアンに目配せして引き下がる。続く説明を譲られたユアンが高圧的に一歩を踏み出す。
 「俺の顔は覚えてるよな?一昨日駐車場でお前に声をかけてすげなく袖にされた東棟のユアン、後ろにいるのがその仲間たちだ」
 「見覚えある」
 やはり短く答えたサムライが表情を変えずに付け加える。
 「その下品で卑しい面構えは一度見たら忘れられん」
 「!なっ……、」  
 短気に激昂した仲間が我を忘れて掴みかかろうとするのを「まあまあ」と片手で制し、余裕の笑みを顔にへばりつけたユアンが言う。
 「あの時はけんもほろろにふられちまったけど一日たちゃ気分もかわるだろ?今の正直なご意見を聞きたいね」
 ブラックワーク参戦を堂々と強要するのではなく、奥歯に物の挟まった言い回しでサムライの反応を探る陰湿な手口に不快感が募る。僕を人質にとられたサムライが断るわけがないと見越した上での台詞が耳に入り、胃のあたりにしこりを感じる。
 鉛のようなしこりは胃袋から上へ上へと這いあがり、胸に苦汁が広がる。
 「なんで助けにくるんだ?」 
 気付けばそう聞いていた。責めるように、詰るように。そんなに大きな声を出したつもりはないが下水道という特殊な状況下では予想外に凍えて響いた。
 「俺の勝手だろう」
 サムライはそっけなかった。その口ぶりからは本心など窺い知れない、僕のことを怒っているのか軽蔑しているのか、それとも。
 「はいはい痴話喧嘩はおしまい」
 リョウが軽快に手を叩いて自分に注意を向ける。口をきくのを許してないぞとばかり後頭部の髪を手荒く掴まれて顔を伏せられる。黴臭く湿ったコンクリートの地面に頬の片面を密着させた不自由な体勢でサムライを仰ぐ。
 「で?どうなんだ」
 小刻みに息を吐きながらユアンが急かす。
 「くりかえすがお前にとっても悪い話じゃねえ、もう一度チャンスをやる、胸に手ぇあててようく考えてみろ。俺とお前が組めばブラックワーク一位だって狙える、東棟のサムライと言えば泣く子も黙る仙台十二人斬りの当事者で人間国宝の祖父を持つ最強の剣の使い手、他の棟の連中なんかお前が出るって聞いただけでちびって寝込んじまうよ。そしたら俺らは不戦勝でトントン拍子にアガリって寸法さ、名案だろうが。スカした面してても俺にはわかる、欲しい物がねえ人間なんていねえ。酒でも女でも薬でもブラックワークのトップになりゃ何でも思うがまま、地獄の強制労働からも解放されて暇な一日贅沢三昧できるんだぜ。レイジを見てみろよ、ブラックワークの試合日以外は図書室に入り浸ったりてめえの房で高鼾こいたりな優雅なご身分じゃねえか。羨ましくねえか、妬ましくねえか?自分もああなりてえと思ったことがただの一度もねえなんて言わせねえ」
 期待と興奮に目を爛々と輝かせたユアンが大股に間合いを詰め、唾のかかる距離で熱心にかき口説くがサムライは表情ひとつ、眉一筋動かさない。同じ表情を見たことがある。写経中、サムライが墨を擦っているときに小蝿にまとわりつかれたことがある。耳障りな羽音の唸りを上げる小蝿にもサムライは動じず、今と同じく表情ひとつ眉一筋動かさず完全な無反応を決めこんでいた。
 こんな無礼者の誘いなどはなから真面目に取り合う気がないと表明するかの如く、意固地なまでに。
 サムライの反応がおもわしくないことに苛立ちをおぼえたか焦燥をかきたてられたか、舌を噛みそうな早口でユアンがまくしたてる。
 「潔白なサムライだって一つや二つ欲があんだろ?欲しいもんはねえのか、食いたいもんはねえのか、したいことはねえのか」
 「ない」
 「信じらんねえな」
 ユアンが鼻で笑う。
 「老けた面してっけどお前まだ十代だろ?それとも何か、中身だけじゃなくて『下』の方も枯れちまってんのか」
 下卑た冗談に過剰反応した仲間が腹を抱えて爆笑する。下劣な笑みを満面に湛えたユアンが両手を広げて親愛の情を強調、サムライを歓迎する意志を表明する。
 「悪いことは言わねえ、俺と組め。サムライが用心棒になってくれんなら百人力の怖いもんなし、レイジにだって余裕で勝てる」
 「身の程を知れ」
 「なんだと?」
 哄笑が途絶え、ユアンが怒気もあらわに気色ばむ。木刀を小脇にさげ、冷気と湿気が充満した下水道に立ち尽くしたサムライは土中の蚯蚓を観察するような目でしばらくユアンを眺めていたが、やがて達観した意見を述べる。
 「お前のように口先だけの人間と俺が組んだところでレイジに勝利できるとは思えん。ましてや王座を奪えるわけがない、思い上がるのもいい加減にしろ。夢を見るのは個人の自由だが俺を巻きこむのはよせ、ひとに迷惑をかける夢は手前勝手な妄想でしかない」
 ユアンの肩越しにサムライと目が合う。真剣のような意志を宿した目。 
 「ついでに鍵屋崎も、巻き込むのはよせ」
 下水道に殷殷と響いた声、その余韻が闇に滅するのを待たずにユアンの顔が歪む。顔を朱に染めたユアンが間接が白く強張るほどに五指を握り締めて拳を作り、押し出すように呟く。
 「そうかよ。それが返事か」
 霜が降りそうに冷えこんだ下水道に裸足にスニーカーをつっかけただけの格好で現れたサムライは、しかし、寒さに震えることも身を縮めることもなく、だれにも恥じることなくまっすぐに背筋をのばして立っている。
 おのれにさえ一点も恥じることなく。
 その瞬間に理解した。
 『サムライは絶対に助けにくる』
 リョウは何度もそう言った、確信をこめて強調した。あれは真実だったのだ、現にサムライはこうして助けに来た。監視塔の時のように我が身をかえりみずに僕を助けに来たのだ、こんな寒い下水道まで。
 かってに手紙を盗み読もうとした僕を。
 「おい」
 思考に囚われていた僕の肩が背後の少年に掴まれる。肩におもいきり爪を立てられ、苦痛に顔をしかめる。気付けば目の前にリョウがいた。ひょいと屈みこんだリョウが片手をさしのべ、水に濡れそぼった髪をやさしく撫でる。
 「かわいそうに。メガネくん、サムライに見捨てられたね」
 「……?」
 「リョウ」
 一歩も譲らずにサムライと対峙していた少年が背中越しに声をかけ、ぞんざいに命じる。
 「そいつ殺していいぜ」
 「だってさ」
 頭頂部に重ね置かれたてのひらに縦方向の力が加えられる。まずい。顎に力をこめて抗おうとしたが無駄だった、相手は三人、いやリョウを含めて四人がかり。対してこちらは一人、力の差は歴然としている。膂力で対抗できるはずがない。またあの苦しみを味わうのか、水の中でもがき苦しみながら死んでゆくのかという恐怖が体の芯まで染みこんでゆく。頭に酸素が回らず筋道だった思考が紡げず、水を掻いて掻きむしって無力に沈み、喉に逆流してくる大量の水に溺れ―
 死の恐怖を中和するために、むかし医学書で呼んだ溺死に関する記述を口の中で呟く。 
 「溺死の定義。体外より気道を通じて侵入した液体により、気道内腔が閉塞されて起こる死。溺水 (吸引した液体) による窒息。死の機序、溺水の吸引。吐血・喀血の気道内吸引による窒息は溺死と言わない。溺水:淡水 (河川、側溝)、海水、便槽の汚水など。浅い水でも溺死可能。死体の外部所見は水中に長く留まるために生じるもの。非特異的。死斑:弱く部位も不定(水中で体位が変動するため)。他には皮膚角化層の膨化やしわなどが挙げられ死後2~4時間で手掌全体に発現し1~2日で手袋状に剥離し……」
 「なにぶつぶつ呟いてんの」
 ふしぎそうな顔で僕を覗きこんだリョウが安心させるように笑う。
 「大丈夫、何日か経った溺死体は顔がふやけて誰だかわかんないから。プライド高いメガネくんは死顔見られるの嫌でしょう?すぐには見つからないよう下水道の奥に流しといてあげるから」
 毛並みの良い愛玩犬にするように僕の髪を梳きながらリョウが声たてて笑う。執拗に髪を撫でる手つきにもまして僕を戦慄させたのはその笑顔―……皆から愛される子役の笑顔。
 「なんで笑えるんだ?」
 恐怖を圧するほどの疑問が湧きあがる。リョウは今から僕を殺そうとしている、水に沈めて窒息させようとしている。にも関わらず、楽しげに笑っている。両親を殺害するとき僕はこんな顔をしてなかった、鍵屋崎優の胸にナイフを刺す瞬間、雨滴が伝う窓ガラスに映った顔はただただ必死で……恐怖と嫌悪、そして怒りが綯い交ぜになった、人間が最も動物に近くなった瞬間の本能剥き出しの表情。
 理解できない、わからない。何故リョウはこの状況下で笑えるんだ? 
 「昔話をしようか」
 僕の髪を梳きながらリョウがささやく。
 「僕が東京プリズンに来る前に何をしてたか。
 僕はきみみたいに育ちのいい日本人じゃない、生まれたときからパパとママが揃った環境でぬくぬく育ったわけじゃない。僕にはママしかいなかった。でもそれで十分だった、僕にはママだけで十分だったんだ。キレイでやさしくて最高のママだった。13か4で僕を産んだんだっけ?パパは誰だかわかんない、たぶん日本人だと思うけど違うかも。証拠はどこにもない。笑える話だけどね、ママも覚えてないんだって。その頃は娼婦をはじめたばっかりで、ろくに避妊もさせてもらえず、わけもわからずいろんな男に抱かれてたから」
 生温かく湿った吐息が耳朶にふれ、むずがゆい感覚を生み出す。
 「僕が見よう見真似でウリを始めたのは六歳のとき。その頃がいちばん悲惨な時期だった。僕のママってさ、やっぱりジャンキーだったの。十代んとき知り合った客がクスリの売人やっててそいつに無理矢理クスリ漬けにされたんだ。たぶんママに逃げられるのが怖かったんだろうね、そんな心配しなくてもママが男を捨てるはずないのにさ。ママってマリアさまみたいに優しいからどんなに暴力的でヤク中で屑な最低男でも見捨てることができないんだよね。で、別れ時を逃してズルズル……まあそれはともかく、物心ついたときにはママはヤク中だし部屋にはドラッグの白い粉と注射器が転がってるし……最初はね、砂糖とまちがえたんだ」
 「砂糖?」
 「うん、砂糖。ぼく甘い物が好きだからさ、覚醒剤の白い粉と砂糖まちがえたの。で、指ですくってなめてみたら全然甘くないし。でもそのうち妙に癖になってやめらんなくなって、気付いたらヤク中になってた。ママも粉の量が減ってるのに気付いたんだろうね、慌てて僕の手の届かない箪笥の引き出しに注射器をしまったけど残念、遅かった」
 リョウが軽くポケットを叩く。
 例の針金がしまわれたポケット。歯茎がまた疼きだす。

 「禁断症状って言うのかな?クスリがキレると正気じゃなくなるんだよね、人間て。ママにクスリを隠された僕は死に物狂いだった、死に物狂いで鍵付きの引き出しを開けようとした。で、ママがアパートを留守にしてるあいだ何時間もねばったんだ。クスリが欲しい一心で椅子にのぼって、ヘアピンで鍵穴ガチャガチャやってね。ぼくが鍵開けの技術習得したのはつまりそういうワケ。
 でもさ、ママに内緒でクスリやるにもお金要るじゃん?だから小遣い稼ぎに体売り始めたんだ、最初はママにも内緒で。そのうちバレたけどね。あのときは泣かれたなあ、『リョウちゃんどうしてそんなに悪い子になっちゃったの』って。ひどいよね、ママの子供だからこうなったんじゃん。ま、ママはあんまりいい顔しなかったけど僕はウリを続けたよ。実際稼ぎよかったんだ、小さい男の子が好きな変態客意外と多かったし、そういう奴って金払いイイからどうかするとママより月の稼ぎが多かった。
 知ってる?ペドフィリアって日本人に多いんだよ。あとは裕福な欧米人、普通のセックス目当てで女買うのに飽きた金持ちは小さい女の子や男の子にたまらなく欲情するらしいから。でもね、いいことばっかりじゃなかった。ペドフィリアの変態客のなかにはとんでもない奴もいた。今でもよく覚えてる、僕が9歳のときの客。国籍持ちのアメリカ人だったんだけどコイツがとんでもないサドでさ、殴りながらじゃないと興奮しないんだって、性的に。
 ヤッてる最中何度もおなか殴られた。
 あんまり力いっぱい殴られてシーツに吐いたら『これ取り替えさせるのにまたチップ払わなきゃならないだろ!』でまた殴られる。何度も何度も気を失いかけながら必死に顔を守った、大事な商売道具だから、ママに心配かけたくないから。途中で気を失ったからあとのことは覚えてない。気付いたら朝になってた、客はいなかった。ヨロヨロしながらシャワールームに行ったら洗面台の鏡に裸の僕が映った。で、青痣だらけのおなかの上になんて殴り書きされてたと思う?油性マジックで」

 なにかに憑かれたように饒舌に話し続けていたリョウの顔が歪み、腹の中で悪魔を飼い殺した憎悪の形相に変化する。
 「『You kill me!Your perfect bimbo!』メガネくん、翻訳してよ」
 乱暴に髪を揺すられ強要される。仕方なく、口を開く。
 「You kill meは直接の意味ではとらない、これは米英俗語の言い回しだ……きみは傑作だ、なんておもしろい奴なんだ、という感嘆表現。きわめて面白い人物や愉快な人に向かって言う言葉だ。Your perfect bimboは……」
 虚ろに説明する。言い澱んだのは翻訳に詰まったからではない、意味が完全にわかってしまったから躊躇したのだ。続きを催促するように髪を掴む手に力が加わる。頭皮から髪が毟られる激痛に舌がひとりでに動き出す。
 「bimboはスラングで娼婦の蔑称だ。若い女、身持ちの悪い女、ふしだらな女、尻軽女、売女。二義的な意味はおどけた人、道化者。それにperfectがつくということは、」
 「もういい」
 玩具に飽きたようなあっけなさで僕の髪を手放したリョウが白けた顔で吐き捨てる。
 「そういうコトだよ」
 そういうことか。
 ようやくわかった、何故リョウがひとの苦痛や恐怖に歓喜するのか、苦痛に歪む顔に欲情するのか。幼少期の貧困と過酷な体験、母親への過剰な依存。それら全てが起因してリョウの加虐的指向に拍車をかけているのだ。
 被害者は容易に加害者に転じる。
 弱者はさらなる弱者の出現で強者に生まれ変わる。
 自分が過去に体験した苦痛や屈辱を倍にして誰かに返すことでしか貶められた自尊心を修復することができない人間。
 「なんて醜悪なんだ」
 「?」
 怪訝な顔のリョウがもっとよく聞き取ろうと僕の口元に顔を近づけるのを見計らい、毅然と顎を上げる。
 「改めて言わせてもらうがリョウ、きみは最低の人間だ。きみが過去に体験した過酷な出来事は僕の体験したことじゃないからその痛みはわからない、わかったふりをすること自体思い上がりだろう。だからはっきり言わせてもらう、僕にはきみが理解できない、きみの苦痛も屈辱も過去もきみだけのものだ、きみの所有物だ、プライドがあるなら簡単にひとにわからせたりする物じゃない。きみが本当に復讐したいのは僕か?違うだろう、きみを貶めたその男だろう、きみを心ない物のように扱った客たちだろう。きみは復讐の対象を僕に転化して嬲ることで私怨を晴らそうとしている卑劣な人間だ、卑怯な手を使って自尊心を回復させようとしている愚劣な人間だ、自分より弱く無力な状態の人間、無抵抗な人間にしか暴力を行使することができない腰抜けだ」
 なんてわかりやすいんだ、なんて底の浅い、なんて短絡的で単純明快な。
 リョウはサムライじゃない、リョウが考えていることは全部読める。
 だからこう言える。水滴が付着した眼鏡越しにリョウをきっかりと見据えて。
 「恥を知れ」 
 同じことをサムライに言われた。だから言われた側の人間の気持ちと次にとる行動は予測できる。
 リョウがにっこりとほほえむ。
 「死ねよ」 
 死の宣告がささやかれた次の瞬間には視界はもう闇に閉ざされていた。いや、闇ではない。正確には水の壁だ。水音。水圧に肺が押し潰され二酸化酸素の塊がぼこぼこと音をたてて口からあふれだす。泡の濁音、薄れゆく意識、狭まりつつある視界。後ろ手に両手を押さえられているために水中で口を塞ぐこともできない、唇を噛み締めて空気が漏れるのを防ごうとしても肺から汲み上げられた二酸化炭素の塊が喉につかえ、失敗。
 十秒、二十秒、三十秒……。
 意識を保っていられるのが奇跡だがこの場合地獄を長引かせるだけだ、早く気を失ったほうがラクに―――――

 「やめろ!!」
 
 サムライの声を聞いた気がした。
 水の中まで声が聞こえるはずがない。きっと幻聴だ、聴覚が混乱してるにちがいない。
 後ろ髪を掴まれ、乱暴に顔を引き起こされる。
 胃袋を吐き戻す勢いで咳き込む。拡散しかけていた意識が一点に引き絞られる。助かった。何故?安堵より疑問が膨れ上がる。はげしく咳き込みながら顔を上げる。僕らから少し離れた場所に立ち尽くしたサムライの様子がおかしい。何事か深刻に考えこむように顔を伏せ、思案げな手つきで木刀の柄を握りなおしたかと思えばきっぱりと顔を上げる。
 「…………どうすればいい?」
 サムライの口から出た言葉に耳を疑う。
 「なにを、」
 言ってるんだ、と続けることはできなかった。前髪から雫を滴らせた僕をさえぎるようにサムライが続ける。
 「どうすれば、鍵屋崎を放してくれるんだ」
 一言一言が喉につかえているかのような苦しげな言い方だった。絶句した僕をよそにユアンと少年らが素早く耳打ち、それに同意したリョウが頷く。皆の後押しを得たユアンが再びサムライの前に立ち、腰に手をついて命じる。
 「木刀をよこせ」
 サムライは少しもためらわなかった。
 言われるがままに腰の木刀をユアンの足もとに放る。コンクリートの床をすべって足もとに到達した木刀を無造作に蹴り、さらに遠方へと移動させる。完全にサムライの手が届かない遠方へと木刀を退けたユアンがたちの悪い企み顔で仲間をかえりみる。僕の背中を押さえこんだ少年らが「行け行け」「言っちまえ」と口早にけしかける。
 サムライに向き直ったユアンが居丈高に腕を組み、傲然と言い放つ。
 「土下座しろ」
 馬鹿な。
 僕の為に、僕なんかの為に、サムライが土下座するわけないじゃないか。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060313055218 | 編集

 「どうしたんだ?やるのかやらねえのか」
 サムライを挑発したユアンを加勢するように野次がとぶ。
 「サムライなら男気見せてみろよ」
 「腹切れよ」
 「てめえの女救うために下水道に手えついて土下座してみろ」
 「コンクリートに額こすりつけて命乞いしな」
 長大なコンクリートの暗渠、照度の低い冷光灯が30メートルの間隔をおいて点々と設置された肌寒い暗闇。黙ってじっと立っていても冷気が骨の隋まで染み込んできて呼気が白く曇る。寒い、身も凍るほど寒い、いや、既に寒いという感覚は通り越した。痛い。息を吸うたびに肺を氷針で刺されるような鋭利な痛みを内側に感じ、呼気を吐き出すのが辛くなる。水にぬれた体は冷える一方だ、体温は急速に低下している。歯の根が合わずにがちがちと震えている。二の腕を抱いて暖をとろうにも両手はまとめられている、今の僕はなにもできない、瀕死のゴキブリより無力な状態だ。
 歯痒い。
 目だけ動かしてサムライを見る。
 暗闇に溶けた長身は厳粛な雰囲気で佇立していたが、白い吐息の向こう、乱れた前髪の奥から覗いたのは一重の双眸。 
 少年と形容するには鋭すぎ、青年と形容するには悟りすぎた、幾星霜を厳しい修行に耐え抜いた武士としか形容しようのない峻厳なまなざし。
 「なんだよその目は。文句あんのかよ」
 この期に及んでまだ武士の誇りを失わないサムライに反発したのだろう。
 長い沈黙に焦れたユアンが横柄に顎をしゃくる。僕を押さえこんだ少年がリョウに目配せを送る。リョウがポケットから取り出したのは針金。反射的に顔が強張り、心臓が止まりそうになる。針金を口に突っ込まれた恐怖と激痛が生々しくよみがえり全身から血の気が引いてゆく。 
 逃れようとした。無駄だった。背中に乗った少年が片膝に体重をかけ、右足左足を掴んだ少年ふたりがさらに腕の力を強める。腕を絞られ、皮膚がねじれる激痛に口から苦鳴がもれる。肩甲骨と肩甲骨の間を片膝でおさえた少年が僕の右腕をコンクリートに水平に固定、無理矢理五指を広げさせる。
 「爪と皮膚の間って神経が集まってていちばん敏感なところなんだよね」
 僕の指を手にとってまじまじ眺めていたリョウが口笛でも吹きそうな口調で言う。
 「生爪剥がされるのってどんな感じかな。麻酔なしで歯を削られるのとどっちが痛いかな」 
 喉が変なふうにひきつり、間延びした喘鳴が漏れる。
 コンクリートの地面にしっかりと僕の指を固定させる。その指先、爪と皮膚の間に針金の先端があてがわれる。鈍い銀色に輝く金属の先端が見せ付けるようにゆっくりと皮膚と爪の間にもぐりこみ――
 衣擦れの音。
 来るべき激痛にそなえ、固く閉じていた目を開ける。あんまり強く目を閉じていたせいで視界には赤い輪が明滅していたが、一点に焦点を凝らすと次第に薄れて消えてゆく。僕が焦点を凝らした先にはサムライがいた。目を開けてサムライの姿を見て違和感を感じる。背が縮んだ?まさか、人間の背が一瞬で縮むわけがない。
 もっとよく目を凝らす。
 サムライの背はたしかに縮んでいた。そのはずだ、サムライは床にひざをつき、今まさに両手をつき、両の肘を屈曲させた姿勢で土下座の前段階に入ろうとしていたのだから。
 いやだ。
 サムライのこんな姿は見たくない。
 「サムライ!」
 声は震えていた。きっと寒さのせいだ、冷たい水に漬けられて体の芯から凍えていたから声がみっともなく震えていたのだ。
 サムライが地面に膝を屈した姿勢で、半身だけ伸び上がるようにこちらを見る。全員の視線が僕に向く。愉快な見せ物に水をさされたユアンと仲間たちが音荒く舌打ちするが、関係ない。
 サムライは僕だけを見ていた。
 僕はサムライだけを見ていた。
 他の人間は視覚的には存在していたが心情的には存在してなかった、いないも同然だった。僕の目はユアンを通り越してサムライだけを見つめていた、今まさに武士の矜持をかなぐり捨て、僕を救うために人前で土下座を強いられようとしている男を。 
 そんなサムライは見たくない。
 この男のそんな無様な姿見たくない。
 サムライが人前で醜態を晒すなんて耐えられない、しかも僕の為に、足手まといの僕の為にだなんて我慢できない。
 「僕の為に土下座なんかしたら一生軽蔑するぞ」
 吐く息が白く染まる。
 大気に溶けた息の向こう、サムライは常と同じ無表情でじっと僕を見据えていた。が、やがてその唇が綻び、この男にしてはごく珍しい笑みを浮かべる。
 「お前の軽蔑など痒くもない」 
 挑発的な笑みを唇の端に矯めたサムライが瞑想に入るように肉の薄い瞼をおろす。ゆっくりと瞼を上げ、糸のような薄目を開ける。次第に上がりつつある瞼、瞼が完全に上がりきったときには最前までたしかに浮かんでいた仏の微笑は拭われたように消え去っていた。
 空気が変容した。
 微笑を脱ぎ捨てたサムライがゆっくりと顔を伏せ、百八十度に近い角度で肘を折り曲げる。綺麗な扇形に開かれたサムライの腕、沈んでゆく後頭部。いつでも、だれの前でも決して恥じることなく、逃げも隠れもせずにまっすぐのびていた背中が桑の葉を虫食む蚕のように丸まり、そして。
 額が完全に、コンクリートに付く。
 「…………………………………………」
 僕の目の前でサムライが土下座している。
 あの誇り高い男が、だれに対しても膝を屈することなく、だれに対しても媚びることなく、背筋をまっすぐにのばして立つこの男が。
 膝を屈し、肘を屈し、首を屈し。
 黴臭い地面に額を擦りつけ、身動ぎもせずに耐えている。耐え抜いている。
 「なんで……」
 なんでそこまでするんだ?
 僕はもう完全に愛想を尽かされたはずなのに、サムライに軽蔑されたはずなのに、何故サムライは僕を助けようとする?無視することもできたはずだ、食堂でフォークを無視したときのようにリョウに呼び出された僕を放置することもできたはずだ。何故そうしなかったんだ、木刀ひとつ引っさげてのこのこ下水道まで出むいてきたんだ?
 「僕はかってに手紙を見ようとしたんだぞ」
 きみの過去を暴こうとしたんだぞ。きみがだれにも知られたくないと思っていた過去を。
 「僕はきみを侮辱したんだぞ」
 『自分が殺した女の名を未だに忘れられずに夢で呼ぶなんて本当に情けない男だ』
 無断でサムライの手紙を読もうとしたことが発覚して壁際に追いつめられた僕はそう言った、卑屈な薄笑いさえ浮かべてサムライを嘲弄した。サムライを情けない男だと言った、自分の身を呈してまで監視塔で僕を助けてくれたサムライを、明日の強制労働に差し障るのに嫌な顔ひとつせず恵への手紙を見直してくれたサムライを、何度も何度も僕を助けてくれたサムライを。
 何度も何度も、本当に何度も。
 「僕は……」
 僕はなんだ?
 続けようとした言葉が塊となって喉に詰まる。他人に依存するなんて情けない真似はお断りだ、他人の助けを借りなければ生きていけないような惰弱な人間に成り下がるのを僕はなにより嫌悪していたはずだ。だからずっと目を逸らし続けてきた、サムライは頼みもしないのに僕を助けてくれる物好きな男だと、お節介で鬱陶しい人間だと、行動に謎が多いモルモットだと。
 じゃあ僕は、これまでずっとモルモットに助けられてきたのか?
 自分が見下していた人間に助けられてきたのか?
 僕は馬鹿だ。
 何故モルモットに人間を支えることができる?観察者と観察対象の関係に異物が入りこむ余地はない、観察者と観察対象の関係には相互扶助の精神など介在しない。いや、相互ではない。もっと酷い、僕はモルモットの立場の人間に一方的に扶助されてるだけではないか。
 こんな不均衡な関係は、もう観察者と観察対象に分類できない。 
 頭ではわかっていた、でも認めたくなかった。こんな何を考えているかわからない男の言動に自分がいちいち心乱されていると認めたくなかったのだ、モルモットだと見下していられた間は精神的に優位に立てた、たとえそれがむなしい先入観で思い込みに過ぎなくてもそう自己暗示をかけることで僕は僕でいられた、鍵屋崎 直でいられた。
 恵以外の他人に依存することなく、友人を必要とすることなく、「寂しい」という感情を知らない人間でいられたはずなのに。
 嫌だった。
 僕はそうとは気付かずにサムライに縋っていた、だから「なえ」のことが気になった。僕が現在進行形で縋っている人物が過去形で縋っていた女性、もしくは現在進行形で縋り続けている大切な女性。
 安田ならこの不条理な感情になんて名前を付けるだろう。
 『初めて出来た友人に対する独占欲』とでも指摘するだろうか。
 その意味では僕はたしかに嫉妬していたのだ、顔も見たことない、しかしサムライに大切に想われている『なえ』という女性に。
 馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたいだ。
 サムライの姿が正視できない。土下座したサムライから顔を背け、痛いほどに唇を噛み締める。うつむいた僕の頭上で声が交わされる。
 「マジかよ、本当にやりやがった!」
 「傑作だぜ、あのサムライが、サムライ気取りのくそったれた親殺しが黴の生えた地面に額こすりつけて命乞いしてやがる!」
 「もっとひと呼んでくるんだったな、こんなおもしれえ見せ物俺たちだけで独占するんじゃもったいねえ。天下のサムライがこんな可愛げねえメガネひとりに熱上げてよ、ユアンに言われたとおり俺らに手えついて謝ってんだぜ?とんだ玉ナシだな」
 「玉なし?ちがう、玉はある。だから『なえ』さんとそういう関係になったんでしょ」
 『なえ』  
 頭から冷水を浴びせられた気がした。
 「なえってだれだよ?」
 ユアンの不審げな声にリョウは楽しげに答える。
 「サムライの恋人。知ってるんだよ、きみがパパ含めた門下生十二人を殺したワケ。幼い頃から剣の修行一筋に励んできたサムライは年頃になってひとりの女性と恋に落ちた、それが『なえ』。サムライの遠縁にあたる親戚の娘だけど幼い頃に両親を亡くして本家に引き取られてきた女の子。ところがこの『なえ』ちゃんは目が見えなかった、生まれつきかどうかは知らないけどね、それに同情した本家当主…つまりサムライのお父さんだけど…がお情けで引き取ってあげたみたい。そんなわけで親類の子と言っても屋敷じゃ厄介者の使用人扱い、朝から晩まで雑巾がけや雑用にこきつかわれる薄幸の少女だったわけ」
 呼吸すら止めてリョウの話に聞き入る。
 リョウが饒舌に語るサムライの隠された過去、「なえ」の正体。
 「でもさ、年頃の男女が一つ屋根の下にいて色恋沙汰に発展しないわけないよね。『なえ』ちゃんは『なえ』さんになってサムライも立派な剣士に成長した。サムライと『なえ』さん、小さい頃から仲良かったんでしょ?よくふたりで遊んでたんだよね、庭で。二つ年上の『なえ』さんはきみのお姉さんみたいな存在だった、やさしくておしとやかでいっつもニコニコしてて……サムライのお父さんてのがおっかない人でさ、地元じゃ鬼帯刀って呼ばれてたんだって。オニタイトウ。三歳になったばかりの我が子に刀を握らせて植木を斬らせたり藁人形を斬らせたり……まあそれくらいで済めばいいんだけど、熱が入ってくると小鳥や小動物まで斬らせたんだよね。庭に迷いこんできた野犬をばっさりヤらせたり。それでさ、怖気づいたり犬が可哀相になったりして一太刀で留めさせないと頭から桶で汲んだ冷水浴びせたんでしょ?そういう時必ずきみをなぐさめてくれたのが『なえ』だった。一緒に野犬のお墓作ったりしたんだよね?桜の木の下に」
 「桜の木の下」という言葉にサムライが強く反応する。
 地面に付いた手が震え、肩が強張る。
 リョウの語りは続く、サムライに対する二人称「きみ」を時折思い出したようにまじえ。 
 「『なえ』はきみのお母さん代わりでお姉さん代わりで唯一の安らぎ……心の支えだった。ふたりが恋に落ちるのは自然な成り行きだった。でも、上手くいかないよね。使用人と本家の跡継ぎじゃ立場が違いすぎる、ましてや相手は目が見えない、両親を早くに亡くした天涯孤独な女の子。サムライのお父さんは厳しい人だった、大事な跡取り息子が色恋沙汰にうつつをぬかして剣の修行をおろそかにするのが許せなかった、絶対に。だからサムライに命じた、『なえ』とは縁を切れって」
 サムライは答えない。
 何かに耐えるように悲痛な沈黙を死守し、コンクリートに額を付けている。微動だにしないサムライにリョウが歩み寄る。リョウに続くのはユアン、ユアンに促された少年がひとりふたり、僕の右足と左足を解放してリーダーについてゆく。僕を押さえこんでおくにはひとりで十分だと高を括っていたのだろう。
 「きみは言う通りにした。『なえ』より剣を選んだんだ」
 「…………」
 サムライの傍らに屈みこみ顔を覗きこむリョウ。サムライの表情はこの距離からでは見えないが、地面に付いたてのひら、五本の指の関節が白く強張っているのがちらりとかいま見えた。   
 深々と顔を伏せ、痛覚への刺激で奈落に没しようとする自我を繋ぎとめ、奔騰した激情を自制しようと地面に爪を立てるサムライ。
 「きみに捨てられた『なえ』は絶望した。可哀相に、『なえ』さんは本気だった。本気できみのことを愛していたんだ。それなのにきみときたら、ねえ?どうせ遊びだったんでしょう、人間国宝の祖父を持つ名門道場の後継者が目の見えない使用人なんて本気で相手にするわけないもんね。ボロ雑巾のようにもてあそんでポイと捨てるつもりだったんでしょう、最初から。きみに絶縁された『なえ』は絶望して首を吊った。子供の頃、ふたりで犬のお墓を作った桜の木の枝でね。逢引によく使った思い出の場所だったんだよね?でしょ」
 無反応のサムライからどうにか言葉を引き出そうとリョウが耳元でささやく。
 「『なえ』に死なれて逆上したきみは神棚の刀を引っ掴み、実の父親を一太刀で斬り捨てた。むかし野良犬にやったみたいに、ね。『なえ』が死んだのはお父さんのせいだって逆恨みしたのかな?道場の門下生まで殺したのは何でだかよくわかんないけど、要は巻き添え食らったんでしょう。きみ、一度キレると手がつけられないタイプっぽいもんね。お父さん殺したときはそりゃ『なえ』さんの敵討ちって大義名分があったかもしれないけど、他の11人を続けざまに斬殺したのは肉を斬って骨を断つのが病みつきになったからでしょう」
 サムライの肩に手をそえたリョウがすっくと立ち上がる。
 「『なえ』の死は言い訳、お父さんの死はきっかけ。これが全真相、スカした顔したサムライはたんなる色狂いの殺人狂だったわけ。がっかりだね」
 良心の呵責などかけらも感じさせずにサムライの過去を暴露したリョウが気分爽快にユアン達を振り向く。
 サムライを取り囲んだユアン達が口々に罵声を浴びせる。
 「はっ、東棟のサムライが、レイジに継ぐ実力者とかおだてられて乙に澄ましてたサムライがそんな情けねえ男だったとはよ!」
 サムライの肩を拳で殴るユアン。 
 「女に首吊られてキレちまうなんていまどき流行らねえよ、浪花節も大概にしやがれ」
 仲間の少年がサムライの左手を踏む。
 「それとも何か、そんなにイイ女だったのか?」
 「目が見えねえならやりたい放題だもんな」
 サムライの左手を靴裏で踏みにじって泥まみれにした少年が高笑い、もうひとりの少年が調子に乗って右手首を踏みつける。三人にかわるがわる小突き回されながらそれでもサムライは顔を上げない、地面に両手をつき額を擦りつけ、されるがままにじっと耐えている。
 しかし、僕は見てしまった。
 地面に付いたサムライの手が、爪も剥がれんばかりにコンクリートを掻き毟っている。
 肩といわず頭といわず降り注ぐ殴打の嵐に耐えるためというより、『なえ』にまつわるゲスな詮索、ユアン達の想像の中でなす術なく汚されてゆく『なえ』に対する自責と憤怒とに苛まれ、慙愧の念にいたたまれずにコンクリートに爪を立てる姿。
 「で、どっちが目当てだったんだ」
 「顔か体か、それとも両方?」
 「体だろう、きっと締まりがいい―……」
 卑猥な軽口を叩いた少年がサムライの右手を踏みにじろうと足を振り上げたのを見て、理性が一瞬で蒸発した。
 剣を握る大事な右手。

 ―「やめろ!!!!」―

 鼓膜を震撼させる絶叫。
 驚いた少年たちがサムライを小突くのを止め、一斉に振り向く。硬直した少年たちひとりひとりを睨みつける。 
 「サムライと、サムライの大事な人を侮辱するな」
 口の中が苦いのは血のせいだ。
 きっとそうだ。
 「貴様らになにがわかる、サムライと貴様らを一緒にするな。サムライはそんな低俗で低劣な人間じゃない、貴様らに何がわかるんだ」
 サムライは『なえ』の遺書を片時もはなさずに握り締めていた。
 左腕を折られても、なお離さず。
 「サムライは僕が認めたモルモットだ、生まれて初めて僕が恵以外に、妹以外に認めた他人なんだ!僕が生まれて初めて対等になりたいと望んだ人間なんだ、『なえ』はサムライが認めた女性、サムライが愛した女性だ!!ふたりを侮辱するのはこの僕が、鍵屋崎 ナオが絶対に許さないぞ!!!」
 貴様らになにがわかる、わかるはずがない。
 僕にだってわからないことが貴様らなんかにわかってたまるか。
 でも僕はサムライのことが知りたい、理解したい。サムライの過去すべてを理解しようなどというのは思い上がりだ、それが今はっきりとわかる、さっきリョウに言った言葉で自覚した。
 だからすべてを知りたいとは言わない、そんな虫が好いことはいまさら言えない。
 ようやくわかった。こんな単純なことが、どうして今までわからなかったのだろう。
 それでもこれだけは言える、サムライは僕が認めた男、『なえ』は僕が認めた男が好きになった女性だ。 
 ふたりに対する侮辱は、僕自身を侮辱されるより何倍もこたえる。
 「サムライの手から足をどけろ」
 氷点下の声音で命令する。
 「サムライの右手は刀を握るためにある、人を、大切なものを守るためにあるんだ。自慰しか用途のない貴様らの右手と一緒にするな」
 サムライの右手を踏み付けていた少年の顔色がサッと紅潮、奇声を発してこちらに突進してくる。僕の背中を押さえこんでいた残るひとりが狼狽、拘束が緩む。
 今だ。
 瞬間冷却した頭でタイミングを計算し、はげしく身を捩る。油断していた少年が悲鳴を発して胴から落下、コンクリートに突っ伏した彼が頭を振って起き上がる間にポケットに手を突っ込む。僕に振り落とされた少年が逆上、怒りに任せて鉄拳を振り上げたその鼻先にぴたりとポケットに隠し持っていたフォークをつきつける。
 「だれの学習能力がないって?」
 サムライの傍ら、リョウを振り返る。
 「監視塔の一件で学習した、手ぶらで呼び出しに応じる馬鹿がどこにいる?こんなフォークでもないよりはマシだろう」
 リョウがいまいましげな顔をする。息を呑んだ少年の鼻先から頚動脈へとフォークを移動させ、宣言する。
 「天才をなめるなよ」
 この四ヶ月で僕も多少は成長したのだ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060312055348 | 編集

 「天才って天然で敵を作る才能のことでしょう」
 下水道の天井に澄んだボーイソプラノが反響する。
 歌うような抑揚で揶揄したリョウを振り向く余裕はない、耳の中で響くのは強まる一方の鼓動の音。頭蓋裏で鳴り響く心臓の鼓動がすべての雑音を打ち消し、体の中に静寂が満ちる。かじかみ凍えた手が小刻みに震える。吐く息が白く昇華して大気に溶けてゆく。それでも少年の首筋、脈打つ頚動脈の上に正確にフォークの先端を擬して身動ぎしない。
 形勢逆転。
 この機を逃す手はない。仲間を人質にとられたユアン達は完全に静止している。これまで嬲られ放題無抵抗に徹していた僕がこの期に及んで反撃に転じるとは全くの予想外だったのだろう、モルモットに指を噛まれたような、否、一息に踏み潰せば容易に息の根を止めることができた蟻に噛まれたような忌々しげな顔をしている。
 憤怒の形相でこちらを凝視するユアンらを威嚇するようにフォークの先端を進める。
 僕に羽交い絞めにされて息を止めた少年の首筋、弾性のある皮膚にフォークの先端が食い込む。
 「もう一度言う。足をどけろ」
 顎を振って命令。
 仲間を人質にとられた少年が不承不承サムライの右手から足をどける。泥にまみれたサムライの右手からユアンらの顔へと高圧的な視線を転じる。視線の圧力に気圧されたユアンらが示し合わせたように一歩下がる。 
 「顔を上げろサムライ」
 今だ地面に両手をついたままのサムライに言葉少なく命じる。
 「こんな奴ら、きみが頭を下げる価値もない」
 吐き捨てるように言った僕にサムライが反応する。地面に密着して折り曲げられていた肘が起ち上がり、完全に伏せられていた上体がゆっくりと起き上がる。緩慢な動作で起き上がったサムライ、ユアンらに蹴られ小突き回されていたせいでその顔は泥濘にまみれていた。頬の泥汚れを拭う素振りもなく、毅然と顎を起こしたサムライと目が合う。
 僕はサムライから目を逸らさなかった。
 逸らせなかったのではない、逸らさなかったのだ。自分の意志で。
 以前の僕ならきっとサムライと目が合った段階でよそよそしく視線を外していただろう。鋭く透徹した眼光に本心を見抜かれるのをおそれ、むなしく空転する思考を読まれるのをおそれて。僕はサムライの目が怖かった。自分にも他人にもなんら恥じることのない真っ直ぐな双眸、真っ直ぐすぎて怖いほどの目。
 揺るぎない目。
 サムライと僕は余りに違いすぎる、価値観は相容れない、生育歴とて何ら共通点はない。僕は心のどこかでサムライに引け目を感じていた。この男のことがわからなかった、わからないことが怖かった。理解できない者に対する純粋な恐怖、自分と別個の人間に対する警戒と忌避。
 でも今は、サムライの目をまっすぐに見ることができる。
 逃げずに見つめかえすことができる。
 「無駄だよ」
 人も空間も超越し、一対一でサムライと対峙していた僕を現実に戻したのはリョウのしらけた指摘。目線を横に移動。ユアンらを背後に従えたリョウが腰に手をついてせせら笑っている。
 「冷静になりなよメガネくん、そんなことしても無駄だよ。きみはひとり、僕らは五人。人質とったところで勝ち目はない。でしょ」
 「勝算はある」
 フォークの先端に圧力をくわえる。柔らかな皮膚が破け、薄く血が滲む。
 「もし彼がきみらにとってどうでもいい人間なら見捨てることもできるだろう、しかしこの場の主導権を握ってるのはリョウ、きみではない。そこにいるユアンだ。先刻ユアンがサムライのもとへ赴くときこの少年は『気をつけろ』と声をかけ、ユアンはそれに『心配するな』と返した。どこにでも見られる仲間内の会話、親愛の情のこもるやりとりだな。もしユアンが僕に人質にとられた少年を薄情に切り捨てたとしよう、自分を心配して注意を促してくれた彼を他の仲間の前で見捨てるとしよう」
 ちらりと目を上げ、ユアンのそばにはべっている少年ふたりを意味深に見比べる。
 「それを見た仲間はどうする?当然ユアンから離反するだろうな。平然と仲間を見捨てるようなリーダーに付いていくはずがない、今僕の腕の中にいる少年を見捨てるということはいつ自分たちもそうされるかわからないからだ。ユアン、今きみは葛藤している。きみは人質の存在を無視してサムライに土下座を続けさせることもできる、しかしその選択をした場合残る仲間全員の人望を失い自分の身が危うくなる。だからユアン、きみは嫌でも僕の命令に従わなければいけない。仲間に袋叩きされるのがいやならな。以上が自己保身を最優先した合理的帰結だ、異議があるなら聞くが?」
 解説の要所に交渉相手の名前を挿入したのは心理的効果を狙うためだ、交渉時に相手の名前を連呼するのは軽い催眠をかけ自分の有利な方向へと話を導く初歩的な心理の罠だ。
 僕の作戦は功を奏したようだ、根が単純な性質らしいユアンの逡巡は長くは続かなかった。僕の得々とした解説で自分たちまで見捨てられるのではないかという疑惑にかられた両隣の少年が不安げな面持ちでユアンに猜疑のまなざしをむけてきたからだ。
 絶体絶命の窮地に立たされたユアンがとる行動はひとつしかない。
 ユアンが舌打ちして顎をしゃくり、少年ふたりを引き下がらせる。
 ユアンたちが十分にサムライから離れるのを見計らい、小さく息を吐く。念のためにフォークを持ってきてよかった。自衛の手段には心許ないがないよりはマシだろう、フォークや本でも的確に急所を突けば人を殺せるとレイジは豪語していた。彼の軽口を全面的に信用するわけではないが、フォークを頚動脈につきつければ脅しにはなる。今日食堂で洋食が出たときから考えていた、僕は昨日サムライと喧嘩して信頼を失った、今後は自分で自分の身を守るしかない。
 そう決意した僕は、食後ひそかにフォークをポケットに隠してトレイを戻した。食堂を出たあとにリョウに声をかけらたのは想定外の出来事だったがその夜には早速フォークが役に立ったわけだ。
 サムライが助けに来たのは予想外だったが。まったくこの男は、僕が認めた男は、いつでも僕の予想を裏切ってくれる。
 「話は終わったな」
 片腕で人質の首を締め、もう片方の手でフォークを首筋に擬し、一歩一歩慎重にあとじさる。サムライを見る。僕の目を見て勘付いたサムライが静かに立ち上がり、足を踏み出す。下水道の床に点在する水溜りをはね散らかし、泥にまみれた囚人服姿で僕のもとへと近づいてくる。
 一歩一歩、着実に。
 「『僕達』は帰らせてもらう」
 なす術なく下水道に立ち尽くしたユアンらを最後にぐるりと見渡して威圧する。人質をとられて手も足も出ないユアンが悔しげに歯軋りし、傍らのリョウがつまらなさそうに鼻を鳴らす。おもちゃを不当に取り上げられた子供のように口を尖らしたふくれ面。
 「せっかく面白くなってきたのに」
 一歩、一歩。サムライがこちらに歩いてくる。澱みない足取りで、衣擦れの音もなく。耳に聞こえるのは荒い息遣い、サムライの歩みを見守る僕自身の息遣いと僕の腕の中で浅く呼吸している少年の息の音。それに被さるのは水滴がコンクリートの地面を叩く単調な旋律。
 もう少し、もう少しだ。もう少しでサムライが僕のところへ―
 僕の目の前まで来たサムライの顔色が豹変、何かを叫ぶ。
 「あぶない!!」
 「?」
 衝撃、水音。
 おもいきりサムライに突き飛ばされ、ぶざまに床に転げる。目が回る。地面に倒れたはずみにメガネがずれて視界が曇る。片手を地面につき上体を起こし、メガネを直す。
 今まで僕の腕の中にいた少年とサムライがはげしくもつれあっていた。
 めまぐるしく上下逆転するサムライと少年、少年が右手に握り締めている刃物に目が止まる。ナイフ。鰐の歯に似た獰猛な形状のサバイバルナイフ。サムライの接近を今か今かと待っていたせいで人質から注意がそれていた、油断していた。彼が懐からサバイバルナイフをだしたことにも気付かなかった。転倒した拍子にフォークは手から落ちて水路に没した、ふたたび反撃の手段を失った僕のもとへユアンたちが疾駆してくる。
 「馬鹿にしやがって!!」
 「人質とるなんて上等な真似してくれんじゃねえか、クソメガネ!」
 「そんなにゴキブリ喉に詰めて窒息死してえのかよ、いいぜやってやる、今度はまるまる肥えたドブネズミ捕まえてきてやっからありがたくいただけよ!」
 一塊となって突進してくるユアンたち、地面を転げ回るサムライと少年、ひとり腕を組んで高見の見物を決め込むリョウ。少年の下敷きになったサムライが顔に拳を受ける。鈍い音の連続、殴られるサムライ、サムライの胴に跨った少年が嬉嬉として哄笑する。
 僕は無力なのか?
 いつまでも無力で、サムライに守られるばかりなのか?
 違う、そうじゃない、僕は天才だ。僕がサムライを助けることもできるはずだ、自分が対等になりたい男を助けることができるはずだ、サムライを助けて対等になることができるはずなんだ。地面に手をつき、膝をのばし、起き上がる。足がもつれて転びそうになる、地面が苔でぬめっている。膝に手をつき体勢を立て直し、3メートル後方で揉みあっているサムライと少年のもとへ馳せる。
 サムライに馬乗りになり、今まさに何度目かわからぬ鉄拳を振り下ろそうとしていた少年を後ろから引きはがす。血がこびりついた拳を振り回して仰向けにひっくりかえった少年が僕を認めざまに「この野郎!」と罵倒を吐く。襟首を掴まれ押し倒される、背中から地面に叩きつけられ収縮した肺から空気の塊が押し出される。
 手荒く投げとばされた衝撃で歯茎から出血、口の中に血が満ちる。
 できればこんな下品な手は使いたくなかった。
 「お高く取り澄ました可愛げねえツラ潰してやるよ!」
 勝利の快哉をあげながらナイフを振りかざした少年、その右目に狙い定めて唾を吐く。湿った音がした。血が混ざった唾に右瞼をふさがれた少年が狼狽、赤い唾を拭き取ろうと拳を引き寄せる。
 この瞬間を待っていた。
 「!?ぐあっ、」 
 くぐもった苦鳴をもらした少年の手からナイフが吹っ飛び、あっけなく水路に没する。仰向けに寝た姿勢から勢いよく片足を振り上げ、無防備な腹部に蹴りを入れたのだ。正確に、胃袋の上から。胃袋を蹴られて滝のような反吐を戻す少年から方向転換、よろばいながら走る先には木刀が転がっている。僕がなにをしようとしてるか勘付いたのだろう、すぐそこまで迫っていたユアンが「させるな、追え!」と命じ残る仲間をけしかけてくる。
 ひとり、ふたり……ユアンをいれて三人。残るひとりは杜寫物にまみれてうずくまり戦闘不能の状態、サムライから完全に注意がそれた。ユアンたちを十分にひきつけたことを振り返りざま確認し、同時に視界の隅で影が動くのを把握。ゆらりと起き上がった長身痩躯の影は壁に片手をつき、思案げな面持ちで壁に設置された鉄パイプの配管を見下ろす。
 なにを考えているんだ?
 思考は中断された、背中に重量がのしかかってきたのだ。地面を蹴ってとびかかってきた少年ふたりに背中から押し倒され、木刀まであと50センチという至近距離で派手に転倒。コンクリートの地面を滑る摩擦熱で囚人服の袖が破ける。
 「お前が考えてることなんか全部お見通しだ、サムライを助太刀しようったって無駄だ!」
 「刀がなきゃサムライなんておそるるにたりねえよ、普通よりちょっと喧嘩が強いだけの老け顔だ、四人がかりなら楽勝だぜ!」
 耳元で声、哄笑。鼓膜が割れそうだ。僕の背中の上で歓声をあげる彼らは気付かない、僕の右腕が動くこと、まだ完全には押さえ込まれていないこと。ぎりぎりまで腕をのばす。肘の関節が外れそうだ。奥歯を食いしばり、脱臼も覚悟の上でさらに距離を稼ぐ。
 のばした指先が木刀の柄に触れた。
 しっかりと柄を掴み、絶叫。
 「サムライ!」
 サムライの名前を呼ぶ。喉が裂けそうな渾身の叫びに本人は素早く反応、ぎょっとした少年の一人が僕の行動を関知、木刀の投擲を阻止しようと派手に殴りかかってくる。
 顔面を叩く風圧にロンのアドバイスが閃く。
 『利き手を怪我したら仕事にさわるから左腕でかばうんだよ、常識だ』
 咄嗟の判断で左腕を眼前にかざし拳を受ける。左腕に鈍い衝撃、震動。左腕の下をくぐらせ、右手首を撓らせる。
 下水道の天井に大きな放物線を描く木刀。
 放物線の終点にはサムライがいた、壁に設置された鉄パイプの配管によりかかるようにして立っている。
 僕が投擲した木刀は、サムライの手に届かなかった。
 サムライの手中を外れ、その横、配管と配管の接合部を直撃する。その衝撃でもとから緩んでいたのだろうボルトは脆くも弾け飛び、地面を点々と転がり水路へと落下。配管の接合がとけ、噴水の如く水が噴出する。勢いよく噴き出した水がサムライの顔といわず手といわずぬらしてゆくのをぽかんと眺めていたユアンたちが顔を下品に歪めて爆笑する。
 「ぎゃははははははは、馬鹿じゃねえかコイツ、見事に的はずしてやがる!!」
 「ぜんぜん見当違いの場所に投げやがって!」
 「ノ―コンもいいところだな!」
 腹を抱えて笑い転げる少年たち、ふたりがかりで組み伏せられた僕の口元に自然と笑みがこぼれる。
 敗北を自覚した自嘲の笑みではない、絶望から来る自暴自棄の笑みではない。
 勝利を確信した、不敵な笑み。
 「的外れ?違う、『大当たり』だ」
 円周率を五千桁暗記してる僕の計算が狂うはずないだろう、低脳どもめ。
 ボルトの弾けた鉄パイプをたやすく壁から引きはがすサムライ。測ったように手のひらにおさまる直径、一振りの武器―……木刀より硬度と殺傷力に長じた、金属の刀。
 唾をとばして笑い転げていたユアンたちの顔が瞬時に強張る。鈍感な彼らにもようやくわかったのだろう、サムライがより強力な武器を手にしたという現実が。

 サムライが目を瞑る。
 流麗な動作で腕を振り上げ、鉄パイプを正眼に構える。
 ふたたび開かれたその目に漲っていたのは、今まさに獲物を狩ろうという猛禽の闘志。
 僕は見た。
 精神統一が頂点に達したサムライの背中から立ち昇る青白い闘志、凍傷を負いそうな危惧すら孕んだ氷点下の殺気。
 
 「参る」
 残像。
 刹那よりなお速く、電光よりもなお苛烈に。苔ぬめる地面を軽々と跳躍、俊敏な身ごなしでユアンらに猛進。
 一瞬だった。
 「流れる水のような」という形容が、必ずしもなめらかな、しずかな流ればかりを意味するとは限らない。水は周囲の環境に応じて変幻自在に形を変えるものだ、上流では岩をも砕くほど猛々しく怒り荒ぶる激流になりなにもかもを容赦なく打ち砕く。  
 その骨までも、微塵に。
 サムライの右手がかき消えた、と思ったのは錯覚だった。かき消えたと錯覚した右手が最寄りの少年の顎下に出現し、その骨を打ち砕いたからだ。少年の顎を破砕した鉄パイプが弧を描いて正面に舞い戻り、サムライまであと二歩の距離に迫っていた別の少年の鳩尾を強打。反吐を戻して蹲った少年の死角から別の少年が飛び出すが、サムライの後頭部を狙った拳は水平に寝かされた鉄パイプと衝突して鈍い音を生じさせただけ、手首の骨が砕ける激痛に膝を屈した少年の鳩尾をこれも鉄パイプで強打。急所を突かれた少年がどさりと突っ伏すのを横目に最後のひとり、ユアンと対峙する。
 「ま、待てよ……」
 おもねるような愛想笑いを浮かべ、ユアンがよわよわしく訴える。
 「おおおおおお、俺を殺す気か?ま、さかな。怒るわけねえよな、サムライが。お前が本気で怒ったところなんか見たことねえよ。冗談だろ?」
 「…………」
 腰砕けに後退しかけたユアンの鼻先に鉄パイプが擬される。
 「土下座させたことなら謝る、調子に乗りすぎたことも認める……メ、ガネにやったことも謝るよ。でも、俺のせいじゃないぜ?メガネを人質にしてお前おびきだそうって入れ知恵したのはリョウなんだから恨むんならリョウを恨めよ」
 両手を挙げて降参宣言したユアンからすいと安全圏のリョウへと目を移す。リョウはおどけたふうに肩を竦めた。
 「きみだって乗り気だったじゃん、『親殺しの口とケツでかわるがわる楽しんだって他の連中に自慢してやる』ってさ」
 「!ばっ……、」
 『馬鹿言うな』と噛み付こうとしたユアンの頭上に影がさす。
 袈裟斬り。
 右肩から左脇へ抜けた刀筋には全く澱みがなく、糸が切れたようにユアンが膝を付いたのは何故だか最初はわからなかった。それほどサムライの動きは速かったのだ、肉眼では追いつけないほどに。
 「案ずるな。峰打ちだ」
 水溜りを盛大に跳ね散らかして屑折れたユアンの周りには、サムライに斬られて戦闘不能に陥った少年たちが死屍累々と倒れていた。
 終わった、のか?
 荒い息をつきながら顔を上げる。目の前に鉄パイプをさげたサムライが歩いてくる、背筋をまっすぐにのばして。
 そして、踏み付けられて泥に汚れた顔で、ひどく生真面目に言う。
 「立てるか?」
 「だれにものを言ってるんだ」
 答えず、壁に手をつき立ち上がろうとしたが、途中で膝が砕けた。寒い。全身が鳥肌立っている。全身に水を浴びたせいで下水道の冷気が骨身に染み、膝から下に力が入らない。なんたる失態だ。赤ん坊じゃあるまいし、自力で立つこともできないなんてー……
 顔の前にスッと手がさしだされる。
 古い刀傷のある手の主は無表情なサムライだ。互いの出方を探るように、間を計るように、視線と視線が交錯する。
 『さしのべられた手を取ることはできても握り返すのは無理か』
 そう言ったのは安田だったか。
 当たり前だ、赤の他人の手を握り返すなんて冗談じゃない。垢と汗と老廃物で汚れた皮膚と接触するなど考えただけでもおぞ気が走る、生理的嫌悪に耐えられない。
 でもこれは、サムライの手だ。
 僕が生まれて初めて恵以外に認めた、心の底から対等になりたいと望んだ人間の手だ。
 「………………」
 ためらいがちにサムライとサムライの手とを見比べ、呟く。
 「手に性格がでるというのは本当だな」
 「?」
 あの時、トイレの個室でタジマに愛撫されたときは生理的嫌悪しか感じなかったのに、サムライの手をこうして見つめていても不思議と嫌悪感はわいてこなかった。あの時は侮蔑まじりに思い浮かべた感想が、今は深い実感をともなって許容できる。
 サムライの手。無骨で不器用で力強くて、
 過去、『なえ』を守るためにあった手。
 「…………………」
 血の味がする唾を飲み下し、ためらいがちに手をのばす。この手を掴むことで何が変わるのか、何を変えることができるかはわからない。わからないが、きっと――――――――
 そして、サムライの手を掴みかけた時。
 「……………なんだ、この音は」 
 「音?」
 「聞こえないか」
 地響きに似た重低音、雪崩の前兆のような不吉な唸りが下水道の遥か奥から聞こえてくる。手をつなぐのも忘れ、サムライと顔を見合わせる。サムライも怪訝な顔で下水道の暗闇を振り返る。闇。この闇の奥の奥でいったいなにが――――
 「!!」
 わかった、音の正体が。
 「悠長にしてる場合じゃない、はやく上にのぼれサムライ、はやくしないと死ぬことになるぞ!」
 僕の予想は正しい、その証拠に水路の水かさが増えている。下水道に降りた直後は僕の腰までしかなかった水かさが倍ほどに増えている、馬鹿な、どうして今まで気付かなかったんだ?今日の天気はおかしかった、都心の上空には厚い雲が被さっていた。
 低気圧、通常より高い湿気、異常に早い雲の流れ。これらから導き出される結論は、
 「何事だ?」
 僕に促されるがまま梯子に手をかけたサムライが訝しげに問うのに叫ぶように返す。
 「気付かなかったか!?今日都心には雨が降った、集中豪雨だ、都心に降った雨は雨水管を通じて東京プリズンの浄水施設に集められる仕組みになっている、ということは当然この地点を通過するはずで……」
 僕の解説は耳を聾する爆音にさえぎられた。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060311055515 | 編集

 爆音と錯覚したのは都心を網羅した雨水管が下水道に合流し、すべてを押し流す濁流がコンクリートの堰から解き放たれた音。
白い水飛沫を撒き散らし、うねるように凶暴な流れとなって一挙に押し寄せてきた水を頭から被る。遅かった、間に合わなかった。少し離れた場所で足元を水にすくわれ、半狂乱の死に物狂いで逃げ回っているユアンたち。リョウの姿はなかった、一足先に逃げたのだろうか?
 「なんだよこれ、聞いてねえぞ!?」
 「リョウ、あのクソガキャどこ行ったんだ、俺たち見捨てて自分だけ逃げたのかよっ」
 「くそっ、あとで殺っ……」
 口汚く毒づいたユアンが濁流に呑まれて押し流される、ユアンの足が、胴が、胸が、首から上が水流に没してやがて見えなくなり、しばらくは頭上に突き出してもがいていた手が白濁した水に巻かれながら沈んでゆく。 
 僕は梯子にすがりついてそれを見ていた、肩を打つ濁流の水圧に耐えながら、なす術なく。
 「鍵屋崎!」
 頭上からの声で我に返る。サムライに叱咤されて梯子をよじのぼろうとした僕の視界の隅を何かがかすめる。 
 木刀だ。
 その瞬間、僕は片手で梯子を掴み、もう片方の手で木刀を掴んでいた。木刀を無事掴めて安堵したのも束の間、奥から押し寄せた水流の威力が一段と強まり梯子にかけた指がちぎれそうになる。
 だめだ、片手では限界だ、もうこれ以上梯子を握っていられない。
 でも両手は使えない、そんなことをしたら木刀が、サムライの木刀が―――――
 上に進むことも下に降りることもできない僕の顔面に大量の水が被さり、呼吸ができなくなる。苦しい、息がつづかない、大量の水を呑んで胃が膨張する。視界が暗く翳ってきた、もう限界だ、めぐみ――――――――サムライ。
 梯子から手が外れる。
 狭窄しつつある視界と意識の中、無数の泡を吐いて水中に没していた僕の顔が上方に引き上げられ呼吸が復活。梯子から離れかけた僕の片手を痛いほど握り締めていたのはサムライだった、あと少し、もう少しでマンホールどけられた出口へ達する地点にありながら単身脱出するのをよしとせず、渾身の力で僕の手を握り締めている。
 「手を放せ!」
 口を開くと水が流れこんでくる。喉に逆流した水にむせながら、叫ぶ。
 「巻き添えで溺死したいのか!?」
 「お前こそ手を放せ、両手で俺の手を掴め!」
 サムライが叫び返す、必死の形相と声音で。僕が見たこともない必死な顔で。
 できない。
 そんなことはできない、今手をはなせばサムライの木刀は流されていってしまう、サムライが朝夕丹念に磨いていた木刀が……それにサムライの手はひとを、大切なものを守るためにあるんだ。僕が、僕なんかが握っていていいはずがない。妹にさえ死ねばいいと願われている僕のような人間がすがっていていいはずがない、この手を握り返す権利がある人間は……
 『なえ』。サムライの大切なひと。今は亡き女性。
 水圧で腕がもぎとられそうになるのに歯を食いしばり抵抗、少しでも気を抜けば木刀を持っていかれそうになりながら刃を握る五指に力をこめ…

 「木刀よりお前が大事だ、直!!」

 頬をぶたれた気がした。
 サムライを見上げる。頭から水をかぶり、全身びしょ濡れになったサムライが、梯子の段に足と手をかけ、もう片方の手で僕の手を掴んでいる。必死の形相で、目に思い詰めた光を浮かべ。サムライの手が、指が、ますます強く食いこむ。けっして離さないという意志をこめ、たとえ水に呑まれ流れに没してもこの手を離すものかというように。
 木刀を握る手から力が抜けてゆく。
 ほどけた指の間を木刀がすり抜け、瞬く間に下水道の奥へと流れ去り、見えなくなる。
 「本当に、救いようのない馬鹿だなきみは……」
 強い眼光に魅入られるようにサムライの手に手を重ねる。指と指を絡め、固く固く握り締める。サムライが強く強く握り返してくる、すがるような一念をこめて、もうけっして離さないと誓うように。
 あの夜、『なえ』の名を呼んだときと同じ強さで。
 否、それ以上の強さで。 
 サムライに片腕をひきずられて梯子を這い上がる。丸く切り抜かれた明かりの面積が次第に大きくなる。下方で響いているのはコンクリートの壁を渦巻く濁流が削る轟音、ユアンたちの悲鳴は水音にかき消されて聞こえない。全員水に押し流されてしまったらしい、運がよければ途中の梯子にひっかかっているかもしれない……運がよければ。
 一足先に地上に出たサムライの腕を掴まれて引き上げられる。
 たった今自分たちが決死の思いで脱出してきたマンホールを覗きこめば泥濘の飛沫をとばしながら濁流が渦巻いていた。巻き込まれたらひとたまりもないだろう、地上に生還できたのが奇跡に近い。
 サムライがマンホールの鉄蓋を移動させ、円い空洞に嵌めこむ。
 耳元で響いていた轟音が薄れ、ようやく助かった実感が沸いてくる。こうして人心地がついた今も下方の下水道では凄まじい勢いで濁流が渦巻いている事実には変わりないがマンホールに転落して溺死する危険性はなくなった。
 安堵の息を吐く僕の眼前、妙に堅苦しく地面に正座したサムライが声をかける。
 「大丈夫か?」
 サムライがふいに手をのばし、僕の顎にふれる。僕の口を開けさせ、顔を近づけて中を覗きこむ。逆らう気は起きなかった、僕は気力体力ともに消耗していて指一本動かすのも億劫だった。そのままサムライのしたいようにさせる。
 「……口の中が切れてる。当分汁物は飲めないな」
 「べつにかまわない、この刑務所の味噌汁は味が薄すぎる」
 受け答えが微妙に噛み合わなかったのは頭が朦朧としていたからだ。長時間水に漬かっていたせいで疲労と衰弱がはげしい、微熱をおびたように体がだるい。ひょっとしたら熱があるかもしれない、体の表層は冷えているのに芯は火照っている。
 僕の顎に手をかけたサムライがじっと目を覗きこんでくる。
 「きみは握力が強いな」
 サムライの目を見ながら、ふと関係ないことを言う。
 「仮にボルトが緩んでいたとしても片手でやすやすと鉄パイプを引きはがすなんて最低80キロの握力がなければ無理な芸当だ。痩せて見えるが、着やせするタイプなだけか?」
 「配管の接着はもとから弱かった。俺がブルーワークの強制労働終了後も下水道に降りて修理していたからな」
 なるほど、腑に落ちた。最近サムライが房を留守にすることが多かったのはブルーワークの時間外労働のせいか。
 「だからお前が目測を見誤って木刀が配管に激突したとき、ひょっとしたらと……」
 「ちょっと待て、だれが目測を誤っただと?僕の計算は完璧だ、1ミリだって狂うことない、狂うはずがない。今ここで証明してみせよう、数字に強いと証明するには円周率の暗唱がいちばんだな。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971……」
 「知っている、お前の計算はいつも完璧だ」
 それ以上僕にしゃべらせまいというように苦笑したサムライの目を見る。
 どこか気遣わしげな色を湛えた双眸には最前まで漲っていた殺気はない、在るのはただ、一途で真摯ないたわりの色。
 『木刀よりお前が大事だ、直!』 
 直……なお。それが僕の名前だ。僕が僕につけた、僕が僕である証。ずっと自分以外のだれかに認めて呼んでほしかった僕の名前。
 サムライは名前を呼んでくれた。
 必死の形相で、必死の声音で。
 顔を伏せる。手を握り締める。
 「……………………………………悪かった」
 自分でも全く意図しなかった台詞が口をついてでた。サムライが驚いた顔をする。虚を衝かれた顔のサムライと向き合っているうちに動揺が大きくなる。
 「……………………………………いや、僕がどうかしてた、忘れてくれ」
 何をうろたえてるんだ僕は、他人に謝罪するなんて僕らしくない。自慢じゃないが生まれてからこれまで恵以外の人間に謝罪を口にしたことなど一度もないのに、当たり前だ、僕はこれまでの人生で恵以外の人間に対して罪悪感をおぼえたことなど一度もないのだから。
 それなのにサムライの目を見ているうちに、顔を見ているうちに、どうしてもこの言葉を口にしたくなって、口にしなければいてもたってもいられない衝動にかられて。手紙を盗み読んで悪かった?過去を暴こうとして悪かった?そういう意味なのか、僕はそのことを気に病んでいたのか?だから自分でもはっきりそれと自覚しないで、でも、口にしなければいてもたってもいられない衝動をかきたてられてこんなみっともない、恥ずかしい台詞を吐いてしまったのか?
 羞恥で頬が熱くなる。失言を吐いたせいでサムライの顔が見られない、サムライの反応を確かめることができない。おかしい、顔だけじゃなくて体中が熱くなってきた、全身が火照っている。サムライが何かを叫んで体を起こす、聞こえない、なにを言ってるんだ……
 瞼が落ちるのと、均衡を失った体がだれかの両腕に受け止められるのは同時だった。

                              +


 子供の頃、風邪をひいたことがある。                                
 鍵屋崎夫妻は子供の体調の良し悪しなどにあまり関心を示さなかった、風邪をひいたら抗生物質を投与されて寝かされていた。……と言えば聞こえはいいが、実質放っておかれた。僕の看病は家政婦任せにして自分たちは研究を続けていたのをはっきりと覚えている。鍵屋崎夫妻は多忙だった、自分たちの長男が風邪で寝込んだとしてもわざわざ時間を割いて様子を見にきたりはしない。
 『私達がいても何もならないだろう』
 なぜ様子を見にこないのかと聞けば上のような答えが返ってくるだろう。正論だ。たしかに彼らがそばにいても何もならない、何もできないだろう実際的には。だから一度も見舞いに来なかったとしても彼らを責める気にはなれない、否、責めようなどという発想がはなからなかった。
 僕の家ではそれが普通だったから。
 彼らが心配するとしたら僕の頭の中身だけで、僕自身はどうでもよかったのだ。風邪をこじらせても肺炎を併発して死亡しないかぎりは頭の中身は正常に保存されるのだから。
 高熱と悪寒にさいなまれて意識朦朧とまどろんでいた僕は、その間ずっと誰かに手を握られていた。
 家政婦ではない。彼女には他に仕事がある、鍵屋崎由佳利が夫の研究助手として家を不在にしている間の家事は彼女の役目だった。額にぬれタオルを乗せたり錠剤を投与したり必要最低限の看病はしてくれたがやることを終えたあとはよそよそしく部屋を出ていってしまった。だから家政婦ではない、そもそも家政婦は僕が潔癖症だと自覚している。ドアノブの指紋さえ見過ごせないような病的に神経質で口うるさい、異常に扱いにくい子供の手をベッドの傍らに付き添ってずっと握っているはずがない。
 手を握っているのはだれだろう。
 薄目を開ける。
 その頃の僕はまだそれほど視力が低下してなかった、裸眼でもぼんやり物を見ることができた。ベッドの傍ら、僕の枕元にだれかがいる。毛布から突き出た手を握り締め、心配そうに顔を覗きこんでいるのは……
 恵。僕の妹。
 『おにいちゃんだいじょうぶ?』 
 僕が起きたことに気付いた舌ったらずな声が問いかけてくる。そうか、ずっと手を握っていたのは恵か。僕が起きるまでずっと……
 潔癖症の僕が、恵の手だけは何の抵抗もなく握り返すことができた。恵の手はちっとも汚くない、不潔じゃない。爪は清潔だ、肌はなめらかで少しも傷がない。やわらかくあたたかい、握り返すだけで安心感を与えてくれる手。
 人肌の体温が心地いいことを、僕はあの時はじめて知った。
 僕には恵がいればそれでよかった、恵の手があればそれでよかった。僕が安心して握り返すことができたのは恵の手だけだ。その手も今はない、失ってしまった。遠くへ行ってしまった。
 『さしのべられた手を取ることはできても握り返すのは無理か』 
 だれの手をとれというんだ?
 だれの手を握り返せというんだ?僕にはもうだれもいないのに。
 そうだ、僕にはもうだれもいない。だれも、だれも……
 じゃあ今この瞬間、ぼくの手を握っているのはだれだ?ぼくの手を握って離さないでいてくれるのは?
 僕よりひとまわり大きい、がっしりした造りの手。骨ばった指がやさしく手を握り締めている。
 恵の手じゃない。抉れたような刀傷のある男の手。
 「……………………」
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。
 最初に目に映ったのは白く清潔な天井だ。絶え間なく汚水が滴る不衛生な房の天井とは全然違う綺麗な天井、壁紙の眩い白さが目に痛い。壁に沿って視線を下降させる。白い天井、白い壁。部屋中が白い。正方形の枠が縦横に交差した床には塵ひとつない。左右二列、等間隔に配置されたベッドを仕切っているのは病院でよく目にするカーテンの衝立だ。整然と並んだベッドとベッドの間に存在しているのは包帯や消毒液の瓶がきちんと整頓されて収納された中型の棚だ。
 そうか、ここは……医務室だ。
 以前東京プリズンに来たばかりの頃、左手薬指の怪我を診てもらいに訪れたことがある。僕が案内されたのは医務室の扉を開けた付近でそこには回転式の椅子が一脚と簡素な机、患者を寝かせる診療用の台があるだけだった。医師は人がよさそうな、しかしあまり腕はよくなさそうなメガネの老人で僕の左手の怪我を「たいしたことはない」と故意か善意かは知らないが自信ありげに断言してくれた。
 以来、僕は医務室を訪れてない。完治に二ヶ月を要した薬指のヒビを「たいしたことはない」の一言で済ませる医者など信用できるわけがない。
 にもかかわらず、今僕が寝かされているのは医務室のベッドの上だ。そうとしか考えられない。医務室以外に清潔なシーツと枕が用意されてる場所など東京プリズンに存在するはずがない。
 何故ここにいるのだろうと訝りながら視線を手前に戻せば、毛布の上に出た右腕に真新しい包帯が巻かれている。ちょうど痣を覆うように巻かれた包帯を目で辿れば、僕の右手を握り締め、メガネのおかれた枕元で熟睡している人物を発見する。
 サムライだ。
 瞬間、すべての謎が解けた。何故ぼくが医務室にいるのか?答えはひとつしかない、サムライが運んできたからだ。その証拠に枕元に上体を突っ伏してかすかな寝息をたてるサムライ、その背中の広範囲が生渇きの状態だった。全身ぬれそぼった僕をおぶって運んできたからにちがいない。
 霧が晴れるように頭が覚醒し、すべてを思い出した。
 リョウに呼び出されて下水道に赴いたこと、思い出すのも嫌な、おぞましい苦痛の再現。現れたサムライ。土下座。人質の首筋に擬したフォーク、鉄パイプを武器にユアンらを一掃するサムライ、そして……
 ひとつひとつ記憶を整理していた僕を現実に戻したのはサムライの呟き。僕の枕元に顔を伏せたサムライがくぐもった声で寝言を呟く。
 また『なえ』の名を呼んでいるのだろうか?
 なにげなく耳を澄ましてみる。サムライの唇がかすかに動き、開き、明瞭な声で。
 「……直」
 聞き間違いじゃない。
 サムライが呟いたのは僕の名前だった。東京プリズンに来た最初の日に僕がサムライに教えた名前……「なお」。「なえ」と一字ちがいの、サムライの大切な人と一字ちがいの名前。
 サムライが薄く瞼を開けた。 
 「………起きていたのか」
 「きみは寝ていたな、ぐっすりと。引き続き睡眠を要求するならこのベッドを譲るが?」
 指摘されたサムライはばつが悪そうな顔でぼくの手を解放する。折りたたみ式のパイプ椅子に背筋をのばして腰掛けたサムライが妙に堅苦しい口調で質問する。
 「気分はどうだ?」
 「優れない」
 「熱は?」
 「推定38.5分」
 「明日の強制労働は」
 最後の質問に重いため息がでた。
 「砂漠に出たら死ぬか倒れるのは間違いないが左手の指を骨折しようが風邪を肺炎にこじらせようが強制労働は休めないんだろう?なら出るしかない」
 「いや、休ませる」
 サムライがきっぱりと断言する。   
 「休ませるって……囚人の一存でそんなことできるわけ、」
 「ないだろう」と続けようとした僕をさえぎりサムライが背後を振り返る。パイプ椅子の背もたれにたてかけられていたのはベッドの仕切りの衝立……正確にはその残骸で骨組み。カーテンを取り除かれて分解された衝立の骨組みの片方、円筒形の棒の片割れ。
 「これで医師を脅して診断書を書かせた。一日ゆっくり寝ていろ」
 まさか、この棒を振り回して暴れたというのか?医務室で。よく看守に取り押さえられなかったものだとあきれ半分感心半分の脳裏に次々と疑問が浮かぶ。
 『なえってだれだよ?』
 『サムライの恋人』
 リョウの声が頭蓋裏に反響する。
 『幼い頃から剣の修行一筋に励んできたサムライは年頃になってひとりの女性と恋に落ちた、それが『なえ』。サムライの遠縁にあたる親戚の娘だけど幼い頃に両親を亡くして本家に引き取られてきた女の子。ところがこの『なえ』ちゃんは目が見えなかった、生まれつきかどうかは知らないけどね、それに同情した本家当主…つまりサムライのお父さんだけど…がお情けで引き取ってあげたみたい』
 『『なえ』はきみのお母さん代わりでお姉さん代わりで唯一の安らぎ……心の支えだった。ふたりが恋に落ちるのは自然な成り行きだった。でも、上手くいかないよね。使用人と本家の跡継ぎじゃ立場が違いすぎる、ましてや相手は目が見えない、両親を早くに亡くした天涯孤独な女の子。サムライのお父さんは厳しい人だった、大事な跡取り息子が色恋沙汰にうつつをぬかして剣の修行をおろそかにするのが許せなかった、絶対に。だからサムライに命じた、『なえ』とは縁を切れって』
 『きみは言う通りにした。『なえ』より剣を選んだんだ』
 「サムライ」
 サムライが顔を上げる。聞きたいことはたくさんある、知りたいこともたくさんある。「芽吹かない苗」の謎はまだ解けてない、あの一文に秘められた本当の意味はサムライにしかわからない。サムライが父親を含めた十二人もの人間を斬殺した理由がなえの自殺を逆恨みしたせいだとはどうしても思えない、サムライは逆恨みで殺人を犯すような安直な男じゃない。たしかに殺人の動機にはなえが関係してるんだろう、なえの死が起因してるんだろう。
 他にも何かがあるはずだ。リョウも知らない、僕も知らない重大な秘密が……。
 遅かれはやかれ「なえ」について詰問されると覚悟していたのだろう、サムライの反応は迅速だった。顔を引き締め、唇を結び、目に悲痛な色を湛えてまっすぐに僕を見る。揺るぎない悲哀の目、哀しみをこらえることに慣れすぎて感情をおもてにだすことさえなくなった……
 「話さなくていいぞ」
 サムライがかすかに目を見開いたが、無視して続ける。一息に。
 「今考えれば何故ああも執拗にきみの過去にこだわっていたのか本当にわからない、きみの過去知りたさにリョウに呼び出されて下水道にでむいて酷い目に遭った。もう散々だ、きみの過去など知りたくないし興味もない。突飛な行動が習慣化したモルモットには愛想が尽きた、もういい、きみの観察と研究は打ち切りだ。僕はまた明日からあらたな観察対象をさがす、東京プリズンは奇人変人の巣窟だから心配には及ばない、きっとすぐにあらたなモルモットが見つかる、骨のある研究材料が見つかる、だから……」
 だから?
 そこで言葉を切り、口を噤む。
 「だから、きみの生態観察はやめた。データをとる必要はない。きみの過去を暴くような真似は、手紙を盗み読むような真似はもうしない。する意味と必要性がない」
 膿んだ傷口を抉るような真似をしてまでサムライの過去を暴く意味はない。したくない。一息つき、殊更軽い口調で続ける。
 「この四ヶ月、なかなか貴重な体験ができた。それというのもきみという退屈しないモルモットが身近にいたからだ。礼を言う」
 これ以上サムライの足手まといになりたくない。
 僕が居れば、僕が窮地に陥ればサムライは助けに来る。我が身をかえりみずに助けに来る、絶対に。僕が頼まなくても命じなくても自分の意志で、木刀があってもなくても絶対に助けに来る。来てしまう。
 僕を助けるためにサムライは土下座した。あの誇り高い男が武士の矜持を捻じ曲げてまで、僕みたいな人間を、妹にさえ軽蔑された人殺しを助けるために土下座を強いられるなんて嫌だ。サムライのあんな姿は二度と見たくない、あんな姿は『なえ』だって見たくないはずだ。
 僕はもうサムライをモルモット扱いすることができない。ここではっきりと別れを告げるべきだ、もうサムライを解放するべきだ、そうだ、そうすべきだ。サムライに二度と土下座なんかさせないために、『なえ』が愛した男をこれ以上貶めないために。僕が生まれて初めて自分と妹以外に認めた人間を貶めないために。
 サムライと対等になれないなら、いっそー……
 「直」
 下の名前を呼ばれ、顔が強張る。姿勢を正して椅子に腰掛けたサムライがまっすぐに僕を見据え、言う。
 「お前に礼を言われるのは気持ち悪い。そんな遺言じみた台詞、俺は金輪際聞きたくない」
 遺言。芽吹かない苗。サムライの顔が苦く歪む。
 「俺に礼を言うのはここを出るときでいい。だからそれまでは礼など言わずに…」
 苦く歪んでいた顔が一転し、笑みを浮かべる。笑うのに慣れてないことが如実にわかる、どこかぎこちなく、不器用な笑みだけれど。
 これがサムライの、『なえ』の死を乗り越えたサムライが今浮かべることができる、精一杯の笑顔だ。
 「生き残るために俺を頼れ」

 『生き残るために友人をつくれ』

 いつか、いつだったか、安田はそう言った。東京プリズンで生き残る秘訣は友人を作ることだと、苦しい時に助けてくれる友人を作ることだと。僕は即座に否定した、友人など必要ない、恵がいればそれでいいと。
 「……サムライ」
 腕で目を覆い、かすれた声で呟く。何事かと顔をのぞきこんできたサムライに、手で顔を覆い、言う。
 「やっぱり気持ち悪いから、上の名前で呼んでくれないか」
 サムライが砕顔した。その笑顔からは先刻のぎこちなさが大分抜けていた。
 「奇遇だな。ちょうど俺もそう思っていたところだ」
 口元に自然と笑みが浮かび、瞼が熱くなる。
 辛い時、苦しい時にそばにいてくれるのが友人なら。
 認めたくはないが、サムライはどうやら僕の友人らしい。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060310055707 | 編集

 「土下座させたことなら謝る、調子に乗りすぎたことも認める……メ、ガネにやったことも謝るよ。でも、俺のせいじゃないぜ?メガネを人質にしてお前おびきだそうって入れ知恵したのはリョウなんだから恨むんならリョウを恨めよ」
 「きみだって乗り気だったじゃん、『親殺しの口とケツでかわるがわる楽しんだって他の連中に自慢してやる』ってさ」
 参ったねこりゃ。
 木刀をつきつけられて身動きできない状態のユアンが目で助けを乞うてくるのに知らぬ存ぜぬ、気付かぬふりで無視を決め込む。腕組みしてさてと考えこむ。鍵屋崎を嵌めようという僕の作戦は裏目にでた。途中までは順調だった、笑いがとまらないほどに。なにもかも僕の想像通りに事が運んだ、鍵屋崎はまんまと僕の罠にひっかかった。サムライの本名をエサにすれば鍵屋崎が釣れるだろうという僕の思惑はそりゃもう見事に的中した、鍵屋崎と来たらのこのこ手ぶらで―あの時はそう見えた―下水道にでむいてきて、僕の姿が見えないことを訝りながらものこのこ奥まで進んできた。それもすべてサムライの過去が知りたい一念でだ。
 好奇心ひとを殺す。
 鍵屋崎は下水道で待ち伏せしてたユアンたちにたやすく押さえ込まれねじ伏せられた。ユアン達の本命はサムライ、鍵屋崎はサムライをおびきだすエサ、人質にすぎなかったけど僕の本命は鍵屋崎。僕は手紙を破かれたことを根に持ってる、おおいに恨んでもいる。ユアンたちに押さえこまれて身動きとれない状態のやつに復讐してなにが悪いの?
 自業自得だよ。
 それなのに鍵屋崎ときたら自分がおかれた状況も顧みず、天然の毒舌を遺憾なく発揮して僕を罵倒してくれた。鍵屋崎に言わせれば僕は復讐の対象を無抵抗の弱者に転化して私怨を晴らそうとしている最低の人間で、自分より弱く無力な状態の人間、無抵抗な人間にしか暴力を行使することができない腰抜けだそうだ。 
 僕を殴りながらイッた客と同じく。
 そんなこと言われたらだれだって頭にくる、でしょ?頭にきてちょっとやりすぎちゃった僕の気持もわかってほしい。まあいじめすぎたのは認めるけど、鍵屋崎があれくらいで参るタマだとは思えない。あいつはああ見えて打たれ強い、なんたって異常にプライドの高い天才サマだから。それにこの四ヶ月でだいぶ逞しくなった、というか神経が図太くなった。ゴキブリとフェラチオ、どちらを選んでも最悪の結果しか待ってない究極の二者択一を迫られても精神崩壊起こさなかったのがいい証拠だ。さすがにユアンたちの小便くさいペニスを生でくわえさせられそうになったときは弱ってたけど寸前で持ち直して「洗ってこい」とか命じるくらいだからね。
 何様だ。
 すべては順調に行った、気分は上々だった。いじめられる鍵屋崎を見物できれば僕は満足、さんざん嬲られて弱り果てた鍵屋崎を足蹴にすることができれば僕は満足だったのにちょうどいいところに邪魔が入った。サムライだ。ちぇ。そりゃユアンたちが用があるのはサムライで鍵屋崎はおまけだろうけど僕的にはもっとメガネくんで遊んでいたかったのにおもちゃを取り上げられた気分だ。
 で、現在。
 サムライと鍵屋崎のさすが連携プレイというか、阿吽の呼吸がなせる技というか、サムライの手の中には鉄パイプがある。木刀より硬度と殺傷力に優れた一振りの武器で頭蓋骨を陥没させることくらいわけない。刀を持ったサムライは最強だ、ユアンたち群れるしか能のない口先だけの馬鹿が何人寄り集まったところでかなうはずがない。勝敗はサムライが鉄パイプを握った時すでに決まっていた。
 てなわけで、僕がこれ以上下水道にとどまってる理由もなくなった。
 勝敗を見届けるまでもなくユアンの命運は決している、だいたい僕がユアンを助ける理由もない。今回の件を持ち込んできたのはユアンだけどユアンとは一・二回体の関係があるだけで特別思い入れはない、僕とサムライが顔見知りだと小耳にはさんだユアンがサムライをブラックワークに引き込むいい知恵はないかとベッドの中で聞いてきたから「サムライの女をオトリにしなよ」と囁いてやっただけだ。ユアンの馬鹿がドジ踏んで不利な状況になろうが僕には関係ない、興味もない。こういう場合はさっさと逃げるに限る。こんなこともあろうかと一番乗りで下水道に降りたとき前もってマンホールの蓋を開けて逃走路を確保しておいた、鍵屋崎が入ってきたのとは別の、もっと奥の人目につかない場所のマンホールの蓋を。こうしておけばユアンがサムライの注意をひきつけてる間に僕ひとりいつでも逃げ出せるというわけだ。
 たじたじのユアンと全身に殺気をみなぎらせたサムライ、息を呑んでふたりを見守っている鍵屋崎の視界に入らないよう頭を屈めて移動。三人の背後に抜けると同時に小走りになり、あらかじめ開けておいたマンホールを目指す。10メートル15メートル20メートル……頭上からまるい明かりがもれてくる。駐車場の赤いランプの光だ。地上へと続く梯子、その最下段に足をかけ……
 「ん?」
 音。
 地鳴りに似た重低音が耳朶にふれる。なんだろうこの音は、地震?ちがう、もっとなにかべつの……
 爆音。
 梯子に手をかけた姿勢できょろきょろ下水道を見回していた僕は危うく足を滑らせ転落しそうになる。それも無理ない、下水道の奥の奥、一際濃く闇がわだかまった空洞から耳を聾する轟音とともに雪崩れてきたのは濁流。泥濘の飛沫をはね散らかし、怒涛を打って攻めてきた濁流に目を疑う。なにこれ聞いてないよちょっと!?僕が下水道を待ち合わせ場所に選んだのは監視カメラがないからで、ここならひとりふたり人が死のうが水路に沈めちゃえばすぐには発見されないだろうってそんだけ……
 御託はおいといて、今は逃げるっきゃない。
 素早く梯子をよじのぼった僕の足もとで「なんだよこれ、聞いてねえぞ!?」「リョウ、あのクソガキャどこ行ったんだ、俺たち見捨てて自分だけ逃げたのかよっ」「くそっ、あとで殺っ……」と声がしたが、振り返ってもなにも見えなかった。足もとを席巻するのは白濁して渦巻く濁流。ユアンたちはどうしたんだろう、運がよければ途中の梯子にひっかかってるだろうけど……無難に死ぬな、これは。いや待て、ぼくも他人事みたいに言ってる場合じゃない。速く上までのぼらないと水に呑まれてユアンたちの二の舞になる、溺死はごめんだ。もはや一刻の猶予もない、一秒でもはやく地上に出ようと一目散に梯子をのぼる。光がどんどん近付いてくる、下水道の黴臭い臭気が薄れ空洞から新鮮な外気が流れ込んでくる。あともう少し―
 「!?わっ、」
 手が滑った。
 バランスを失った体が後ろ向きに倒れてゆく。やばい、すぐ背後では凄まじい勢いの濁流が荒れ狂っている。落ちたらひとたまりもない、骨を砕かれ肉を砕かれ――――溺死。ユアンたちのように?いやだ、ママ、たすけてママ……
 宙をかきむしっていた手ががしりと掴まれる。
 水に落下する衝撃を予期し、固く閉じていた目を開く。薄目を開いた視界に映ったのはおぼろげに歪む光景。丸く切り抜かれたマンホールの上から下水道を覗きこんでいるのは見覚えのある顔。いつも驚いたようなまるい目をさらにまんまるくしたその顔は……
 「ビバリー!?」
 なんでここに?
 「掴まってくださいリョウさん!」
 顔面に水飛沫を浴びながらビバリーが叫び、足腰を踏ん張り両手に力をこめる。顔を赤くし、脱臼せんばかりに腕の関節を伸縮させて僕を引き上げたビバリーが「ぶはあっ」と息を吐き、崩れるようにその場に膝をつく。駐車場の地面に尻餅ついた僕はあ然としてビバリーを見つめる。鉄蓋をどけられたマンホールの下ではさらに速さと勢いを増した濁流が轟々と唸りをあげている。
 堰から解き放たれた濁流がコンクリートの岸壁を容赦なく削る轟音と振動を聞きながら、ぽかんとしてビバリーに尋ねる。
 「なんでここにいるのさ?」
 「リョウさん」
 肩で息をしながら恨めしげな上目遣いで僕をねめつけるビバリー。
 「殴っていいスか?」
 「へ?」
 有言実行。
 ビバリーはおもいっきり、容赦加減なく僕の頬を殴り飛ばした。あんまり容赦がなかったんで僕は軽々と吹っ飛んだ、もとから体重が軽いのだ。バキッと、いっそ爽快なくらいいい音が鳴った。コンクリートの地面にひっくりかえり、腫れた頬に手をやり、放心状態でビバリーを仰ぎ見る。体の脇で拳を握り締めて仁王立ちしたビバリーの顔からは軽薄スマイルが消し飛んでいた、こんなおっかない顔のビバリーは見たことない。
 ついさっき、下水道でユアンに木刀をつきつけていたサムライを思い出す。
 サムライと同じ、怖い顔。
 怒りで頬を朱に染めたビバリーは浅く肩を上下させて立ち竦んでいたが、深く息を吸い、駐車場中に響く大声で絶叫。
 「あんまり心配させんな!!」
 耳が麻痺するような怒声を至近距離で浴びせられ、僕は完全に面食らっていた。
 「……………………………ごめん」
 びっくりしすぎて、つい謝ってしまう。
 言いたいだけ言ってスッとしたのだろう、脱力したようにその場にへたりこんだビバリーが抱え込んだ膝の間に頭をたらす。
 「僕がここにいるのはリョウさん追ってきたからに決まってるじゃないスか。今日食堂で妙なこと言ってたからまたよからぬこと企んでるんじゃないかな~と気になってたんスけど、案の定夜中にコソコソ出てくし……もしやと後つけてみたらこんな、」
 ビバリーが口を噤み、心なし青ざめた顔で空恐ろしそうにマンホールを覗きこむ。濁流渦巻くマンホール。ビバリーにつられて下方を見れば今頃になって、安全圏に引き上げられた今頃になって体の芯から懇々と恐怖が湧いてくる。
 正面に向き直り、ビバリーが声をひそめる。
 「リョウさんイエローワークっしょ?気付かなかったんすか、今日都心に大雨が降ったんすよ、酷い大荒れの天気で……都心を網羅した雨水管が途中で下水道に合流して東京プリズンの浄水施設に集められてるって聞いたことあります?今日の天気でわかりそうなもんじゃないっすか、下水道の状況が」
 「わかんないよ、ずっと温室からでなかったし」
 腫れて熱をおびた頬をさすりながら口を尖らす。同じイエローワークでも温室組と砂漠組は待遇から境遇からちがうのだ、一日中温室でイチゴに水をやってた僕に外の天気がわかるはずない。ビバリーも無茶を言う。反省の色がない僕をビバリーはしばらく恨めしげにねめつけていたがやがて馬鹿馬鹿しくなったのだろう、うんざり気味に首を振って愚痴をこぼす。
 「どうせまたメガネくんをいじめてたんでしょう」
 ぎくりとした。
 考えていることが顔にでたのだろう、疑惑に満ちた目でジッと僕の表情を探っていたビバリーがため息をつく。
 「リョウさんがなんでメガネくん目の敵にすんのか知りませんけど、もういい加減にしてくださいっス。リョウさん前にぼくに言いましたよね?自分は笑顔でひとを殺せるレイジさんみたいな悪魔じゃない、せいぜい小悪魔だって」
 説教臭い口ぶりが不愉快だけど、なにも言い返せない。悔しくて、唇を噛む。唇を噛んだぼくはそれなりに反省してるような、殊勝な面持ちをしてるように見えないこともなかったのだろう。少しだけ声音を柔らかにしたビバリーが哀しげに呟く。
 「今のリョウさん、本当に悪魔っスよ」
 「……………………」
 頬をさすっていた手を力なくおろし、膝の上に置く。 
 「ママさんが哀しみます」
 「わかってるよ」
 そんなことビバリーに言われなくてもわかってる。
 目が熱っぽく潤んでるのは頬が痛いからだ、泣いてるからじゃない。膝の上の手を拳にしてにぎりしめ、吐き捨てるように言う。
 「だってアイツ、手紙破いたんだもん」
 東京プリズンでただひとつたのしみにしてたママからの手紙。 
 大好きなママからの手紙。
 視界がぼやけ、目に大粒の涙が盛り上がる。目尻からあふれた涙が頬を伝い、顎先で透明な玉を結び、膝に滴る。滴った涙がズボンの膝に染みてゆく。あとから、あとから。涙が染みた膝が熱い、涙腺が熱い。悔しいけど、嗚咽がこらえきれない。
 今でも忘れられない。夢に見る。
 無慈悲に手紙を破り捨てた鍵屋崎の背中、風に舞う無数の紙片、僕の手の中に残された手紙の断片。
 「だってずるいじゃんか、アイツはなんでも持ってるのに、なんでも持ってる日本人のくせに。生まれたときからなんでも持ってるくせに、ママもパパもいたくせに、欲しいもん全部もってたくせに僕の手紙まで横取りして破いて捨てて。僕にはあれっきゃなかったのに、ママがすべてだったのに。ここに来てからママに会えなくて、外でどうしてるか全然わかんなくて、三ヶ月に一回の手紙だけをたのしみに過ごしてたのにそれをアイツ、」
 声が詰まる。鼻水がたれる。ママ、ママ。せっかくママが書いてくれたのに、僕の為に書いてくれたのに、それをアイツは。そりゃ僕は鍵屋崎にひどいことをした、しかもそれをたのしんでた、おもいっきり。苦痛に歪む顔を見てスッとしたのも認める、だって気味がよかったんだ、ざまあみろって思ったんだ。
 ああそうだよ、僕はサディストで変態で腰抜けでひとが苦しむ姿に快感をおぼえる性的異常者だよ。9歳のぼくを買っておなかを殴りながらレイプしたアメリカ人の客とおなじか、それ以上の。
 「いいじゃないか、ちょっとくらいいじめたって。アイツむかつくんだもん」
 「『ちょっと』で済むうちはね」
 疲れたように首を振りながらビバリーが立ち上がり、「よいしょ」と腰を曲げてマンホールの蓋を戻す。
 「もう帰りましょう。次からはせめて僕を起こさないようベッド抜け出してくださいよ」
 さしだされた手を掴んで立ち上がる。僕を助け起こしたビバリーが目に隈を作っていることに、間近で顔をつき合わせ、初めて気付く。僕がベッドを抜け出す気配で安眠妨害されたのは事実なんだろう、疲労と焦燥が滲んだ冴えない顔色をしている。
 ビバリーはなんで僕をつけてきたんだろう、放っておけばいいのに。
 ロンとおなじ放っておけない体質なんだろうか?損な性分だ。ビバリーはもっと要領よく立ち回るやつだと思ってたのに、同房の相方がだれとなにをしようが自己保身を優先した放任主義をきめこんでるやつだったのに、どんな心境の変化?
 おもいきり殴られた頬が熱をもって疼きだす。ひとに殴られるのは初めてじゃない。子供の頃からいろんな人間に殴られてきた、大半は客だったけど。客を選り好みできない子供の頃は暴力的な男に何度となく殴られてきた、涙と鼻水をたれながして、顔をくしゃくしゃにして泣き叫ぶさまが面白いからって。 
 けど、だれかに心配されて殴られたのは生まれて初めてだ。
 ママは絶対にぼくを殴らなかった、僕がママの目を盗んで覚醒剤に手を出してるのが発覚したときはぐすぐす泣いてたけど僕に手を上げて咎めようとはしなかった。ママは僕を抱っこしながら言ったんだ、「なんでリョウちゃんそんな悪い子になっちゃったの」って子守唄の嗚咽を聞かせるように。そんなママを嫌いになることはできなかった、たとえ覚醒剤に手をだしたのがママの影響でも、客をとりはじめたのがママの影響でも。
 片手で頬をかばい、先に歩き出したビバリーの背中をじっと見送る。 
 ビバリーはビバリーなりに僕のことを心配してくれたんだろうか?現在進行形で心配してくれてるのだろうか?くすぐったいような居心地が悪いような、変な気持だ。ママ以外の人間に心配されるのに慣れてないからだろうか?ぼんやりそんなことを考えながらビバリーを眺めているうちに、ポケットがやけに軽くなってることに気付く。
 まさか……おそるおそるポケットを裏返し、
 「あ――――――――――――!」
 「どうしたんすかリョウさん!?」
 血相変えたビバリーが寄ってくるのに泣きぬれた顔を上げ、ポケットの裏地をつまむ。
 「クスリが溶けてる!!」
 ビバリーがこけた。
 勢いよくつんのめったビバリーをよそに、水に粉末が溶けて薄平べったくなった覚醒剤のパックを両手に掲げる。
 「うあああああん僕の大事な売り物でクスリが全部水に溶けちゃってる、どうしようビバリー!?」
 「知りません」
 びしょぬれの僕につめたく吐き捨てて、二度と振り返ることなくすたこらさっさと歩き去るビバリー。憤然とした大股で駐車場をでてゆくビバリーを追って駆け出しかけ、後ろ髪をひかれる思いで足もとのマンホールを一瞥する。
 『どうすれば、鍵屋崎を放してくれるんだ』
 『顔を上げろサムライ。こんな奴ら、きみが頭を下げる価値もない』
 あの霜が張りそうに寒くて暗い下水道で、サムライは言った。鍵屋崎は言った。サムライは鍵屋崎をかばおうとして、鍵屋崎はサムライをかばおうとした。
 友情?美しいね、何の役にも立たないけど。
 偽善と欺瞞が手をつないだ茶番を鼻で笑う。ここじゃ友情なんて何の役にもたたない、何の役にも立たない自己犠牲精神を発揮して他人のためになにかしようなんて本気で考えるやつはどうかしてる―いかれてる。悪意に包囲された世界で生き残るために必要なのは頭の回転と腕力だけだ、他者を蹴落とし他者を利用し、なにがあっても自分だけは絶対に生き残ってやるぞという目的のためなら手段を選ばない野心。鍵屋崎とサムライは友情ごっこしてればいい、絆とか友情とか互いを思いやる心とかそんな物は何の役にも立たないと、役に立たないどころか自分の足を引っ張るお荷物にしかならないと思い知らされるまでは。
 それまではせいぜい東京プリズンで初めてできた「お友達」とやらを大事にするがいいさ。ふたりの仲を割くのに僕が手を下すまでもないだろう。
 予感がするんだ。鍵屋崎はきっと近いうちにもっと深い地獄を見ることになる、半生で地獄を見てきた僕が断言するんだから間違いない。
 口元に笑みが浮かぶ。
 「なにもおかしくないのに笑い出すのも禁断症状の一種っスか?」
 にんまりほくそえんだ僕に薄気味悪そうに眉をひそめるビバリーのもとへ駆け寄りながら心の中でつけくわえる。
 どうせ僕が手を下さなくても鍵屋崎は地獄に落ちる、サムライを道連れに。
 だからそれまでは大人しくしてよう、これ以上ビバリーを心配させるといけないしね。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060309060006 | 編集

 豊島区池袋台湾系スラム。
 俺が生まれ育ったところはそう呼ばれた。もちろんそう呼んでるのは日本人で、地元で生まれ育った俺にしてみれば自分の出身地を「スラム」と名指しされるのは気に入らない。事実だけど。実際治安の悪い地区だった。女は娼婦、男は賭博師か呑んだくれか当たり屋かヤク中か……まあ似たりよったりの屑ばかりだ。
 俺の周りでは娼婦の母親の稼ぎで食ってる台湾人の母子家庭は少なくなかった、両親ちゃんとそろってる家庭が逆に珍しいくらいだ。これにはワケがあって、女は大抵十代で身ごもってガキを産んで母親になる計算だが十代で父親になる現実にびびった男がガキが産まれるまえに女を捨てて逃げちまうケースが多いのだ。
 男だってなにも好き好んで十代の親父になろうと人生設計を立てたわけじゃない、避妊を怠った報いとして女の腹にあらたな生命が宿っちまっただけ。でも自分の種にはちがいない、いや、中には違うケースもあるかもしれないが自分のガキである可能性は全否定できないわけだ。
 ご利用は計画的に、妊娠は偶発的に。
 まだおぎゃあと産声をあげてないにしてもガキ殺すには忍びないと躊躇して、というよりは中絶費用を出し渋ってずるずる日が経つうちに堕ろせる時期はとっくに過ぎて、現実に首を絞められた男がヤケ起こして失踪する頃にはでかい腹を抱えて放り出された女には不憫な私生児を産み育てるしか道がなくなる。
 女がてっとりばやく稼ぐためには体を売るのがいちばん、ただでさえガキと自分のふたりぶんの生活費を女手ひとつで稼ぎ出さなきゃいけないのだ、手段を選んでなどいられない。
 体がいちばん高く売れるなら売ってやろうではないか、そんなわけで俺のまわりじゃ十代二十代の若い身空で子持ちの娼婦は珍しくなかった。

 事実俺のお袋がそうだった、二十代で俺というコブつきの娼婦。 

 親父の顔は知らない。俺が物心ついた頃には家にいなかった。
 泥酔したお袋の昔話によると、俺の親父はまだなにも知らないウブな小娘だったお袋をもてあそんで孕ませた挙句に捨てた極悪人で、俺が産まれた二週間後に女をつくって出奔し以来音沙汰なし。三度の飯より賭け事が好きな駄目人間の典型で俺が産まれたときも賭け仲間と麻雀に興じてたそうだ。

 俺の名前は親父がつけた。ロン。語源は麻雀の役名だ。

 俺がおぎゃあと産声をあげたちょうどその時、とんとん拍子で牌が上がった親父が「ロン!」と叫んだ。
 それがそのまま名前になった。
 漢字で「龍」と書くから字面だけは格好いいが、由来をたずねられたら正直答えにくい。まさか麻雀の役名だとは言えない。
 お袋は俺も俺の名前も嫌っていた。
 俺はお袋を捨てた男の種で、俺の名前はお袋を捨てた男が付けたものだから。
 俺が親父に関して知ってるのはその程度だ。
 三度の飯より賭け事が好きな女たらしのダメ男で、中国人。三度の飯より賭け事が好きなのも女たらしなのも個人の自由で素質だが最後のひとつがまずかった。中国人。よりにもよって。
 もしこれが韓国人だったら事情はだいぶ違ってただろう。
 俺はおなじ台湾人からつまはじきにされることなく、疎外されてひねくれることなく、今よりマシな今があったかもしれない。でも中国人。節操なしのお袋に種を仕込んだのはよりにもよって中国人だった、台湾と中国がはでに喧嘩してばかげた数の死傷者をだしたのはついこないだだってのに。
 乳くりあうなら乳くりあうでほとぼりが冷めた頃にやってほしいものだ、お互い仇同士、犬猿の仲の台湾人と中国人を両親にもつ俺の身にもなって欲しい。
 お袋が俺を産んだ理由はいまいちわからない。
 自分が寝た男が親の仇の中国人だと気付いたころには堕ろせる時期を過ぎてたか、それともガキを産んで男に逃げられてから真相が判明したかどちらかだろう。お袋は仕方なく、いやいや俺を育てた。憎い中国人の血が半分流れた俺を、本当にいやいや。
 謝謝お袋、殺さないでくれて。それだけは感謝してる。
 いつだったかこんなことがあった。
 あれはまだ俺がお袋と一つ屋根の下で暮らしてたガキの頃だ。たぶん11歳かそこら。
 季節は11月、スーイーユエの終わり。
 天気は曇天。
 陰鬱な曇り空の下を俺は急ぎ足で歩いていた。
 吐く息が白く溶ける。空気は肺を刺すように冷たい。
 すれ違うやつすれ違うやつ皆この世のおわりのような顔をしているのは刻一日と師走が近付いてるからだ、年の暮れになると借金の催促が活発になるのはどこも変わらない。
 くたびれたコートに手をつっこんだ初老の男がドブに小銭がおちてないかと目を皿にし、穴の開いた革靴を踵で履いた浮浪者が路上に散った外れ馬券の中に万馬券が混ざっていやしないかと両の手に紙片をすくっている。
 不景気ヅラの大人を避け、巧みにかわし、足を速める。
 腕の中じゃガサガサと紙袋が鳴っている。紙袋の中を覗きこむ。中に入ってるのはそこの屋台で買ってきた肉粽(ロウズォン)、台湾のちまき。俺の好物。ちょっと外出したついでに屋台に寄って夕飯を仕入れてきたのだ。紙袋の口を指でちょいと寛げ、たちのぼる湯気で顔を溶かす。
 食欲をそそる匂いが鼻孔を突き、口の中に唾液がわく。
 紙袋に片手をつっこみ笹の葉を巻かれた肉粽を一個掴む。
 大口あけて放りこもうとして、思いとどまる。お袋はこと行儀に厳しかった、食事中に肘をつくな箸はちゃんと持てなどなど。食べ歩きをしてるところなど目撃されたら……どうせすぐ食べるからと紙袋ではなくジャンパーの懐に肉粽を戻す。
 やっぱり帰ってから食べよう。
 べつにお袋が怖いからじゃない、家の中なら腰を落ち着けて食えるからだ。
 見慣れたアパートが視界に入った。
 急き立てられるように鉄筋製の階段を駆け上がり俺の家がある階に到着。ペンキが剥落し、鈍色の地金を覗かせたみすぼらしい合板のドアには表札も番号札もなにもない。

 当たり前だ、娼婦の家に目印なんか必要ない。
 表札をだせるのはひとに誇れる商売をしてる人間だけだ。

 片腕に紙袋を預け、片手を郵便受けに突っ込んで蓋の裏側をさぐる。蓋の裏側にセロテープで接着された合鍵をむしりとり、鍵穴にさしこみ、回す。錆びた軋り音をあげたドアの隙間にすばやくつま先をもぐりこませ、肩で押し開ける。
 お袋はいないようだ。
 ほっとした。
 紙袋で両腕がふさがってなかったら盛大に胸を撫で下ろしたかった。俺とお袋が一つ屋根の下にいてなにもおきなかった試しがない、機嫌が悪ければドアを開けた途端に灰皿がとんでくるから玄関に入るときはいつのまにか頭を屈めるのが習慣になってしまった。
 靴を脱ぎ捨て廊下に上がろうとして、背後の物音に気付く。
 だれかがアパートの外廊下を歩いてくる、足音はふたつ。声はひとつ。酒焼けした、あまり品のよくない男の濁声だ。
 いやな予感、は往々にして当たる。
 足音は一直線に俺の家を目指していた。正確には俺の家のドアの前を。足音が止み、ドア越しの濁声が一際大きくなる。
 「きたねえドアだなあ、犬小屋みてえ。本当にここに住んでんのかよ?」
 こいつ馬鹿だ。犬小屋にドアがあるわけねえだろ、どんな比喩だ。
 「小さくても素敵な我が家よ」
 かすれた咳。お袋の声だ。
 「鍵は?」
 「待って、開いてるわ……帰ってきてるのか」
 舌打ち。
 次の瞬間荒々しくドアが開け放たれ、男に肩を抱かれたお袋が膝から下がくずれるように玄関にすわりこみ、はげしく咳き込む。
 紙袋を抱えた廊下に立ち尽くした俺は、11月の寒空の下を露出度の高い服で歩き回ってたらしいお袋に心底あきれる。
 男の気を引いて客を仕事場兼家に引きずりこむためとはいえ、こんな肩むきだしの格好で北風吹きすさぶ中をうろついてたら風邪をひくに決まってる。しどけなく膝を崩して玄関にすわりこんだお袋が、熱っぽく潤んだ色っぽい目で傍らの男を見上げる。
 俺は完全に無視。いつものことだ。
 「ごめんなさい、咳がとまらなくて、少し熱があるみたいで……せっかく家まできてもらって悪いけど、今日のところは帰ってもらえる?この埋め合わせは次に必ず、」
 「ふざけんな!!」
 お袋の弁解は野太い怒号でさえぎられた。
 「帰ってもらえる?」の一言で激怒した男がお袋の二の腕を掴んで強引に立ち上がらせ、無造作に靴を脱ぎ捨て家にあがりこむ。そのまま片腕一本でお袋を奥へと連行しかけた男に紙袋を弾ませて追いすがる。
 「おい、かってに人んちにあがりこむな」
 「ひとんち?お前だれだよ」
 「息子だよ」
 憤然と廊下をのし歩いていた男が唐突に立ち止まり、廊下に尻餅ついたお袋とお袋を助け起こしてる俺とを不躾に見比べる。
 「いわれりゃよく似てるな」
 「でてけ」
 「俺は客だ、母親の客を追い出しにかかるなんて躾のなってねえガキだな」
 「咳してんだろ、熱があるんだよ」
 廊下に膝をついたまま立ち上がる気力もなく、男に片腕をひきずられるがまま抵抗もせずぐったりしてるお袋をかばうように立つ。
 普段粗雑に扱われてるとはいえ一応俺の母親だ、風邪をひいて苦しそうに咳き込んでいるのに無視できない。
 「はなせよ」
 「うるせえガキだな。おれたちゃもう商談成立してんだ、ガキが首つっこむな。娼婦の仕事は股開くことだ、それで稼いでんだから風邪ひこうが足折ろうが関係ねえだろ、ただ足おっぴろげて寝てりゃいいだけなんだからラクな仕事じゃねえか。ここまできて引き返すなんざごめんだこちとら前金払ってんだよ、払ったぶんはちゃんと元とらせてもらうぜ」
 「調子悪いって言ってんだろ、ヤりたいなら他の女買えよ」
 「いやだね、こんな上玉にお目にかかれる機会なんて滅多にねえ。化粧はちょっと濃いがきつい目元といいお高くとまった鼻といい生意気そうな唇といいモロに俺のタイプなんだよ、これでアソコの具合がよかったら最高だ」
 頭に血がのぼった。
 「手をはなせ!」
 華奢な細腕をひきずっている毛深く逞しい腕におもいきり爪を立てる。これにはたまらず男が悲鳴をあげる。
 ひっかかれた腕に血を滲ませた男が当惑の相から豹変、目に怒りを滾らせた憤怒の形相で腕を振り上げる。
 「このガキ!!!」
 後頭部に衝撃、背中に振動。
 突き飛ばされた、といよりは薙ぎ飛ばされた。
 体格差が歴然としたガキ相手でも容赦する素振りはちっともなかった、おもいきり突き飛ばされた俺は軽々と吹っ飛んで背中から壁に激突した。肋骨が折れそうな衝撃に腹をかばい身を縮める。両腕をすりぬけた紙袋が床に落下、俺の夕飯の肉粽が盛大に廊下に散らばる。
 「客にむかって何様のつもりだ、お前らアバズレ母子んところに金落としにきてやった大事なお客だぜ俺は、言うにことかいて帰れたあ何様だ!?え!!男に股開くしか能のねえ淫乱女の分際で『帰れ』、客に帰れだと?こちとら慈善事業の一環で性病にかかってるかもしれねえ雌犬を買ってやったんだ、ぎゃんぎゃん吠えてる暇があるんならその口開いて俺のモン舐めろ犬なら舐めるの得意だろうが!」
 眼前に影がさす。壁を背にしてずり落ちた俺の前髪を手荒く掴み、無理矢理顔を引き起こす。男の足の下で肉粽がつぶれる。

 俺の肉粽。

 討嫌(タオイエン)。
 嫌になる、だれも彼も。
 俺が乱暴な客に前髪を鷲掴まれて顔面に唾をとばされてるあいだもお袋ははでに咳をしてるし……なんでいつもこうなるんだ、お袋には客を選ぶ目がないのか。引っぱりこむならこむでもうちょっとマシな男つれてこいってんだ。
 歯軋りしてお袋の見る目のなさを呪っていたら顔に舐めるような視線を感じる。視線の粘度が微妙に変化したことに違和感を感じ、顔を上げる。俺の前髪を掴んだ男がしきりに下唇を舐めている、唾液にぬれひかり、淫猥にうごめく下唇にもまして俺を戦慄させたのは目。情欲に火照った目が観察しているのはお袋じゃない―……

 俺だ。

 「親子だけあって顔の造りは似てるなあ、本当に」
 やけに感慨深く、しみじみと呟く。
 その声には単純な感想以外のなにか、とんでもなく不吉なもの、おぞましい企みが含まれていた。面白がるような響きで揶揄され、恐怖と緊張で喉が鳴る。壁に片手をつき、上体を倒し、壁際に追いつめた上から俺を覗きんだ男の視線が顔から四肢、そして下半身へと移動する。
 「おまえでいいぜ」
 「は?」
 なにを言われてるかわからなかった、本当に。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060308060226 | 編集

 手首を掴まれひきずられる。
 お袋と立場が逆転した。廊下に膝をついて取り残されたお袋が放心状態で見守る前で、客は俺の意志なんかはなから無視して、拒否権なんか完全無視で、肩が抜けそうな勢いで寝室にひきずりこもうとしてる。
 スダレ一枚で仕切られたお袋の仕事場、日常俺が足を踏み入れるのを極力避けている、薄暗がりに生臭い臭気がただよう男と女の情事の現場。首根っこを掴まれて軽軽と寝台に放り出される。
 お袋がいつも男と乳くりあうのに使ってる粗末な寝台だが、さすがに寝心地は悪くないなと混乱した頭の片隅で漠然と考える。
 俺は寝台に寝たことがない、寝台はお袋専用で物心ついた頃に俺に与えられた寝具は汚い毛布と枕だけ。
 眠くなったらお袋の目の届かない部屋の隅に行って毛布にくるまれば事足りる、こんな寝心地がいい贅沢なもの使わせてもらったことはない。風邪をひいたときでも。
 外から帰った直後でまだ脱いでもいなかったジャンパーを鼻息荒く男が剥がしにかかる。ようやく俺もこれから何されようとしてるのかわかった、わかりたくなかったけどそれしか考えられない。くそ!
 手足を振りまわして死に物狂いで抵抗、ジャンパーをひっぺがしにかかる男の手から逃れようと無我夢中でつま先を跳ね上げる。顎に命中。顎を蹴られた男が大きく仰け反った瞬間を逃さずにベッドから転がり落ち、膝這いの姿勢から立ち上がり廊下にかけだしかけ……襟首を掴んで引き戻される。
 「お前でいいっつってんだろうが、暴れるんじゃねえ!」
 「俺はよくねえ!!」
 「風邪ひいたお袋助けてえんだろ?やり方はお袋と男がヤッてるとこ見て知ってんだろ、ベッドで目え閉じて足開いてりゃいいんだよ、なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよお客様の機嫌を損ねねえようにな!あんな淫乱女を母親にもってんならヤり方くらいわかるだろ、娘じゃねえのが残念だが我慢してやる。お前くれえの年ならどっちにしろ処女にゃちがいねーしな!」
 下品に哄笑する男の股間を、襟首を掴まれた姿勢から足でおもいきり蹴り上げる。捨て身の反撃が効いたらしく男が魂ぎる悲鳴をあげてうずくまり、襟首を締め上げていた手がゆるむ。しめた。 
 「死心奇的変人(あきらめろ変態)」
 伊達に喧嘩慣れしてない、こういう場合どうすりゃいいか、相手が男の場合どこを狙えばいいかは体に刷り込まれてる。挑発的な笑みで絶縁状を叩きつけ廊下に駆け出し、あたり一面に散乱した肉粽を素早く拾い上げて紙袋につめなおす。今は家にいないほうがいい、どこか適当なところで時間を潰そう。今晩の夕飯を抱いて履きつぶしたスニーカーに足をつっこみかけ、廊下にお袋の姿が見当たらないことに気付く。
 「お袋?」
 いた。お袋は廊下奥の台所にいた、椅子にも座らずに板張りの床にうずくまって何かごそごそやってる。お袋の手元に注目する。片手に握り締めているのはプルトップを立てた缶ビール、もう片方のてのひらに握り締めているのは白い錠剤……正気かあの女、どこの世界にビールで風邪薬を流しこむ馬鹿がいる!
 「なにやってんだよアル中!!」
 スニーカーを蹴り捨てて台所にとって返す。転がるようにとびこんできた俺の方を見もせず、今まさに顔をあお向け、ビールで風邪薬を流しこもうとしていた女にとびかかる。紙袋を手近の椅子に置き、お袋の手から缶ビールと風邪薬をむしりとり、肩で息をしながら説教する。
 「んなことしたら風邪がなおるどころか悪化するだろうが、常識で考えりゃわかるだろ」
 「あんたまだいたの」
 ひどい言い草だ。苦しげに咳き込みながらも俺の手から缶ビールを奪い返そうとしてくる執念深いお袋、その手の届かないところに缶ビールを投げて部屋の隅に駆け戻る。俺が寝るときに羽織ってる薄汚い毛布でもないよりはマシだ、体をあたためることぐらいはできるだろう。手に持って引き返してきた毛布をむきだしのお袋の肩に掛けようとして突き飛ばされる。
 足がよろけ、尻餅をつく。毛布を体に巻いたお袋が般若の形相で吐き捨てる。
 「でてって」
 何?
 なんで俺がでてかなきゃいけないんだ、叫ぶ相手がちがうだろう。客に言えよ。正論の反論が喉元まででかけ、つっかえる。比喩じゃない、そのままの意味で。お袋が無造作に俺の胸ぐらを掴んで廊下をひきずり、家にあがりこんだ図々しい捨て猫でもつまみだすようにポイと玄関に放り出したのだ。鈴の鳴るような涼やかな美声をつぶし、嗄れた咳をしながらノブを押しては引き押しては引き、それを二度くりかえしてドアを開ける。合板のドアの隙間、外廊下から吹き込んだ刺すように冷たい冬風が顔を叩く。
 「でてけ」
 厄介者か疫病神を見る目で言い捨て、有無をいわせず俺を押し出す。
 「なんで……、」
 なんで俺が自分ちを追い出されなきゃいけないんだよ、こんな寒空の下。外側のノブを引っぱりドアの隙間に片足をつっこみ、施錠しようと頑張るお袋に抵抗する。状況はおれが優勢、男と女じゃ腕力に歴然とした差がある。大柄な客には歯向かえなくても細腕のお袋が相手ならドアを押し開くことぐらいたやす……
 舌を噛みそうな衝撃。
 駄々をこねるようにノブを引いていたお袋に加勢が入ったのだ、股間を痛打された衝撃から回復した客がにやにや笑いながら閉まりゆくドアの向こうに消えてゆく。ドアが閉まりきる前におれが見たのは勝ち誇ったように冷笑する男、その腕にしなだれかかるお袋。
 「再見(じゃあな)」 
 見せ付けるようにお袋を抱き、嫌味たらしく片手を挙げた男の姿が完全にドアの向こうに消え、
 ドアが閉じた。追い討ちをかけるように施錠の音が響き、ご丁寧に二重のチェーンまでかけられ、11月の寒空の下、俺は完全に閉め出された。呆然と外廊下に立ち尽くした俺は、台所の椅子の上に肉粽入り紙袋を置いてきたことを今になって思い出す。
 椅子の上に置き忘れた肉粽。立ち去り難い思いで外廊下にたたずんでいた俺はドア越しに聞こえてきた艶っぽい嬌声に身を竦ませる。
 「あんなでかいガキがいるなんて知らなかった」
 「かわいげない子でしょう。大嫌い」

 大嫌い。  

 「だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ。見てなさい、今に刑務所送りになるから」
 「ずいぶんな言い草だな、てめえが腹痛めて産んだガキだろう。もうちょっとやさしくしてやれよ」
 「なによ、やっぱり私よりあの子のほうがいいの?」
 「んなわけあるか、男より女がいいに決まってる。さっきのは悪ふざけ、ほんの冗談だよ。まあ顔は似てたし、下の口はともかく上の口で試してみようと思ったのは事実だけどさ」
 耳をふさぎたくなる下劣な冗談に頬がひきつる。
 「そうなの、じゃあさっさとヤッちゃえばよかったのに。仕込んでないから私ほど上手くないだろうけど」
 「そう拗ねるなって、お前がつれなくするからだよ」
 お袋も本気で拗ねてるわけじゃないんだろう、その証拠にドアの向こう、おそらくお袋の寝室兼仕事場からもれてくるのだろう会話は陽気に弾んでいた。
 「本当に使えないわ、あの子。女の子ならよかったのに、そしたら客とらせることもできたのに……」
 「男だってできないこたないだろ?」
 「特殊な環境と資質がそろわなきゃ無理よ。だいたい、」
 衣擦れの音、男と女の荒い息遣い。なにをしてるのかだいたい想像できる。
 「だいたいこんなイイ女が目の前にいるのに男に手をつける意味がないでしょう」
 「だな」
 男の首に腕を回し、服を脱がせるままにしてるお袋の白い背中が目に浮かぶ。
 沸々と、やり場のない怒りがこみあげてくる。
 風邪はどうしたんだよ。帰って欲しいって頼んだのはだれだよ。だから追い返そうとしたのに、本当に調子が悪そうだから今日は無理だって客を止めようとしたのに、酒かっくらって気が変わったのかよ。
 『かわいげない子でしょう。大嫌い』
 『だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ』
 『見てなさい、今に刑務所送りになるから』
 こめかみの血管が熱く膨張し、俺の中の何かが切れた。
  
 合板のドアを蹴り上げる。俺の存在を知らせるように、思い出させるように。

 ドアが震撼し、足が痺れた。
 片足を抱えて外廊下にうずくまりたくなるのを堪え、ドアの真ん中を睨みつける。無関心な沈黙。お袋があられもない半裸姿で出てくる気配はない。衣擦れの音に混ざって聞こえてきたのはかんだかい喘ぎ声、一定のリズムで寝台が軋む音。
 急速に馬鹿らしくなった、なにもかもが。
 ドアの前で踵を返し、お袋の喘ぎ声から逃げるように外廊下を抜け、足早に階段を駆け下りる。どうせ事が済むまでドアは開かない、何時間後かわからないがお袋が気まぐれを起こして鍵を開けてくれないかぎり俺は自分ちに入れない。
 断言してもいいが、俺が帰ってくる頃には俺が買い込んできた肉粽はお袋と客の胃の中で消化されてるだろう。
 未練があるとしたら椅子に置き忘れた肉粽だけだ、それ以外に何の未練もない。寒さを凌ごうとジャンパーのポケットに突っこんだ手がなにか柔らかいものに触れる。はっとしてポケットを探る。
 肉粽があった。
 これ一個きり。ひもじい夕飯になるのは覚悟したが、ないよりはいい。ずっとマシだ。アパートを後にしたその足で適当な路地にもぐりこみ、乾いた地べたを選んで腰をおろす。俺は空腹だった、家で味わって食べる予定だった肉粽をこんな寒空の下で頬張ることになった我が身を省みるとやりきれなくなるが食欲には勝てない。
 大口あけて肉粽を頬張ろうとして、猫と目が合う。
 いつのまに現れたんだろう、いや、最初から路地にいたのか。
 みすぼらしく薄汚れた毛並みの野良猫が物欲しそうに俺を、俺の手の中の肉粽を見ている。肉粽と野良猫を見比べ、唸るように言う。
 「やんねーぞ」
 だれが大事な夕飯を畜生にやるかってんだ。
 肉粽の笹をひっぺがし、ぽいとむこうに放る。待ってましたというように猫がやってきて地面に落ちた笹にへばりついた飯粒を舐める。
 そのさまがあんまりみじめでしみたれてたもんだから、肉粽を指でちぎり、ひとかけらを猫に投げてやる。思ったとおり猫はとびついてきて、殆ど一口で胃の中におさめてしまう。肋骨の浮いた、全身傷だらけの老いぼれ猫だ。
 「…………」
 肉粽を指でこまかくちぎり、投げる。くりかえし。あっちへ投げればよろよろと、こっちへ投げればよろよろと、ひとかけらの飯粒が投げられた方向に右往左往する猫の歩き方が面白くて笑っちまう。よぼよぼの爺さんだ、コイツ。ガキっぽいと自覚しつつ、ちぎっては投げ、ちぎっては投げを夢中でくりかえしてるうちに遂には何も掴めなくなった。
 手の中の肉粽が消失していた、跡片もなく。
 「……………………………………………………」
 俺は馬鹿だ。自分のぶんまで猫にやっちまってどうするよ、おい。
 投げ与えられる餌が尽きたことを野生の勘で悟った野良猫が悠揚と尻尾を振って路地の奥へ去ってゆく。
 「飯がなくなりゃ用なしかよ、愛想のない猫」
 畜生相手に呪詛を吐き、空腹から来るため息をつく。陰鬱な曇り空から吹いてきた風が頬をなぶり、ジャンパーの襟元をかきあわせる。肺が凍りそうに空気が冷たい。高さの不揃いな高層アパートが猥雑に密集し、不規則かつ無秩序な摩天楼の要塞と化したスラムの路地裏にうずくまって空を仰いでいたら頬にひんやりした薄片が触れる。

 六角形の雪の結晶だった。

 「マジかよ」
 マジだった。
 重苦しく雲が被さった曇天から音もなく雪が舞い落ちてくる、次から次へとひっきりなしに。両手を意味なく空にかざして雪を受け、ゆっくりと五指を畳む。開く。てのひらの体温があっというまに雪を溶かしてただのぬるい水へと変えてゆく。
 これ呑めば腹の足しになるかな。
 試しに舐めてみたら塩辛かった、水より汗の塩分のほうが勝っていたからだ。雪に降られ、舌先で塩辛い水を舐めとりながらお袋の捨て台詞を反芻する。
 『だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ』
 『見てなさい、今に刑務所送りになるから』
 「不可能把握」
 まさか。ありえない。だれが刑務所送りになるようなヘマをするか。
 俺は犯罪者にはならない、男娼にもならない。お袋の二の舞はごめんだ。不幸にも顔はお袋に似ちまったけど生き方と身の処し方まで似るつもりはない、顔も見たことない、愛着もわかない親父と同じ人生を送るつもりもない。まっぴらごめんだ。
 俺は少なくとも親父やお袋よりはマシな人生を送るつもりだ。
 好きな女にガキができたら放り出したりしないでちゃんと面倒を見る、気に入らないことがあるからって女とガキを殴ったりしない。
 立派な大人になれなくてもいいから、普通の大人になりたい。
 幸福な人間は平凡を嫌うけど不幸な人間は平凡に憧れる、好きな女と友人に囲まれた毎日なら平凡だってそう悪くない。俺は自分を不幸だと思いたくないが、腹の足しにもならない自己憐憫にひたる趣味もないが、殴らない母親と気楽に馬鹿騒ぎできる友達がいたら少なくとも今よりマシな毎日が過ごせる気がする。

 前者はもう手遅れだとしても、後者が俺にできる日は来るのだろうか。

 人けのない路地で膝を抱え、ジャンパーの肩に雪を積もらせながら自嘲の笑みを浮かべる。
 「まさか、刑務所でダチができるわけねえよな」
 お袋の言う通り俺が近い将来なにかへまをして刑務所に送られたとして、そこで俺に友達ができる可能性は万に一つもないだろう。当たり前だ、刑務所はやあやあで馴れ合って友達を増やす場所じゃない、目的のためには手段を問わずに生き残るための場所だ。
 
 でも。
 もし刑務所でダチができたとしたら、そいつはろくな奴じゃないと断言できる。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060307060422 | 編集

 頬に水滴が落ちていた。
 「………………」
 緩慢な動作で頬を擦る。手の甲がぬれていた。涙じゃない、水だ。どこから落ちてきたのだろうと視線を上げればベッドの上空、俺の顔の真上を通る配管の破れ目から水が滴っていた。それで合点した、あんな夢を見たわけを。頬に落ちた冷たい水が、11の冬にスラムの路地裏で頬に吹き付けてきたひとひらの雪と重なったのだ。
 頬を擦り、毛布を蹴って上体を起こす。
 房の中は薄暗かった。隣の房との境の壁に耳をつけてみたが隣人が起き出してる気配はない、壁越しに聞こえてくるのは豪快な鼾と規則的な寝息、それに混ざる衣擦れの音。行儀悪く毛布を蹴りどけて寝返りを打ってるらしく、腕やら頭やらがベッドの背格子にぶつかるゴチンゴチンという金属音が耳障りに響く。
 俺もひとのことを言えた立場じゃないが隣の房のやつは相当に寝相が悪い、しかも鼾が大きくて近所迷惑だ。おかげで毎朝レイジよりさきに叩き起こされる。
 ちらりと隣のベッドに目をやればレイジは毛布を蹴りどけて気持良さそうに寝息をたてていた。
 口元がしあわせそうに緩んでいるのはいい夢を見ているからだろうか?悪夢にうなされるのが日常化した東京プリズンの囚人の中で連日連夜熟睡できるなんてレイジは神経が図太すぎる、さすがは王様だ。
 俺たち下々の民がつまらない罪悪感や娑婆への未練をずるずる夢の中までひきずってうんうんうなされている間も夢の中では金貨に埋もれ、世界中の美女を腕の中に侍らして高笑いしてるんだろう。
 むかつくな。
 レイジのベッドが面した壁向こうの囚人は、俺のベッドが面した壁向こうの囚人より行儀がいいらしく夜中に絶叫をあげて飛び起きたり寝相の悪さが祟って壁を蹴りつけたりはしない。
 だからレイジも思う存分熟睡できるわけだが、これはちょっと不公平だ。基本的に東京プリズンの囚人は収監された初日に左右どちらかのベッドを割り当てられるわけだがベッドを移るのは囚人間での自由裁量となる。
 ベッドを替えたいときは同房の囚人と話し合って合意を得るか力づくで奪うかの二択しかない。
 俺も一度ならずレイジに抗議した、ベッドを変わってほしいと。俺のベッドが面した側の囚人にはとことん悩まされている、歯軋りに鼾に壁を蹴り付ける音。たぶん俺とおなじで育ちが悪いのだろう、おとなしく毛布にくるまって寝てる試しがない。分厚い壁を透視するのは無理でも毛布をはだけて爆睡してる醜態が目に浮かぶ。
 一方「ベッドを変わってくれ、むしろ変われ」と強硬に主張した俺にレイジが返した言葉はあっけらかんとしたものだった。
 「一緒に寝りゃいいじゃん」
 言うと思った。
 レイジときたら「おまえを迎え入れる準備はいつでも整ってるぜ」といわんばかりにベッドに片肘ついて横たわった姿勢で毛布を持ち上げてにやにやしていた。
 冗談か本気かわかりゃしねえ。いや、本気だったら嫌だが、すごく。
 とりあえずレイジに鉄拳をお見舞いして黙らせて俺は自分のベッドに戻った、レイジに背中を向け、壁の方を向いて毛布にくるまって。消灯後しばらくは「寝相の悪さなら気にしねーぞ。蹴落とされるのも愛だ、愛」とかなんとかレイジがほざいていたが寝言は寝てから言えってコトで完全無視、寝たふりを決めこんだ。
 もう一晩経ったのか。
 寝起きでぼんやりした頭でベッドから抜け出し、素足で床を踏む。
 ひんやりした感覚が足裏からはいのぼってきて二の腕が鳥肌立つ。ベッド下に蹴りこんであるスニーカーに踵をつっこむのももどかしい、数メートル先の洗面台に行くのにわざわざ靴を履く必要はない。
 ぺたぺたと床を歩いて洗面台に接近、蛇口を捻る。錆びた蛇口から勢いよく水が迸る。跳ねた飛沫が顔にあたり、急速に頭が覚醒してゆく。
 両手で水を受け、顔を洗う。顔面に叩きつけるように両手の水を受ける、針で刺すように冷たい水が瞼を叩き、背筋がしゃっきり伸びる。
 洗顔時の水が骨身に染みるように冷たくなった。東京プリズンに冬が来た証拠だ。
 東京プリズンには季節がない。季節感がないのではない、そもそも四季が存在しないのだ。春夏秋冬、七夕にクリスマスに正月に……娑婆の人間が浮かれ騒ぐ四季折々の行事も存在しない。
 当たり前だ、ここは刑務所だ。
 しかも入ったら二度と出られないという悪名高い東京少年刑務所、通称東京プリズン。
 ここを出てゆくには死体になるか懲役を終えるかのどちらかしかないが、前者はともかく後者の条件をクリアするのは困難だ。半年か一年か、ぎりぎり二・三年の懲役刑なら五体満足で出所することも不可能ではないだろうがそれ以上となると絶望的。
 どちらにせよ二十歳になって少年法が適用されなくなった受刑者は郊外にある一般の刑務所に移送される手筈だが、東京プリズンで生きて二十歳を迎えられる囚人はごく一部。十代で東京プリズンに入所した囚人の六割は事故か自殺かリンチか、もしくは風邪をこじらせた肺炎などの不摂生が祟った病気で死ぬ。もっとも風邪が悪化して肺炎を併発するまえに手を打てば死ぬ可能性は万に一つもないのだが、その「万に一つ」が東京プリズンでは「百に一つぐらい」の割とよくある出来事として認知されてる。
 囚人に対する適切な処置が行われなかった結果だ。風邪をひこうが肺炎になろうが強制労働を休ませてくれない鬼看守が班の担当だった場合は確実に死ぬだろう、たとえばタジマのように。
 砂漠のど真ん中に聳えたつコンクリートの要塞には木一本、花一本植わってない。
 桜が咲いたから春、雪が降ったから冬、と視覚的に四季の変化を感じることもできない。当たり前だ、ここは都心から何十キロと離れた荒野だ。花が咲くわけもなければ雪が降るわけもない不毛の砂漠なのだ。
 自分が入所した日から壁にしるしをつけてるような几帳面な囚人なら今が何月何日か、自分が入所してから何ヶ月…ひょっとしたら何年…が経過したのか正確に把握してるのだろうが、俺にはさっぱりわからない。
 俺がこのくそったれた監獄に放り込まれてくそったれたレイジと同房になってから最低でも一年半は経過してると思うが、まだそんなに経ってないかもしれない。東京プリズンの毎日ときたら無味乾燥で単調で、一日一日が似たりよったりの最悪と災厄の連続だから月日の感覚が狂ってくるのだ。
 東京プリズンは時間の流れる速さが違うのだ、娑婆とは。
 ざっと顔を洗い、シャツの裾を掴んで顔を拭う。シャツの裾で顔を拭きながら片手で蛇口を締め、水を止める。水流の音が止み、夜明けの静寂が満ちる。今がいちばん静かな時間だ、起床ベルで叩き起こされるまでにはまだ余裕がある。いつのまにか壁向こうの鼾も止んでいた。
 上着の裾で顔の水滴を拭ってる最中、亀裂の入った鏡にぼんやりと顔が映る。
 薄暗がりの房を映しこんだ鏡の中からこっちをジッと見返しているのは喧嘩腰のガキだ。険のあるつり目、癇の強そうな薄い口元、生意気に尖った顎。もともと癖の強い髪の毛がはねっかえりの気性をあらわすように頭の上で跳ね回っている。重力に逆らってぴんと跳ねた前髪を一房掴み、ごしごしと撫でつける。無駄だった、乱暴に撫で付けたそばから天を突くように跳ね上がってしまう。二度くりかえしてあきらめる、寝癖なんかどうでもいい。こんな環境で身だしなみに気を遣ってもあまり意味はない。

 目を細め、鏡を見て、顔の隅々まで観察する。

 顔の造作はお袋に似ているが生き写しというほどじゃない。男と女では輪郭の鋭さが違う。それに表情、媚と艶、色香匂い立つしぐさ。お袋は俺を折檻するときはそりゃおっかない顔をしてたけど、腕を絡めた客を寝台に引き込むときは夜行性の食虫花のように艶然と笑っていた。いつも眉間に皺を寄せたしかめ面をしてる俺とは雲泥の差、ガキの頃からよく言われたが俺には致命的に愛想がないのだそうだ。もう少し愛想があればお袋が連れてきた客の機嫌をとることもできたし、にこにこ愛嬌をふりまいて客に取り入り、小遣いや駄菓子をせしめることもできたんだろう。
 俺にはできなかった。
 酔っ払ったお袋がどこの馬の骨ともわからない客を連れこみ、五歳になるかならないかの息子の前で気前よく服を脱ぎだしたときも、目立たないように部屋の隅っこに行って膝を抱えてることしかできなかった。何かに怒ってるみたいな、この上なく腹を立ててるみたいな、およそ子供らしくない頑固な仏頂面をして。
 『かわいげのない子』
 無茶を言う。目の前で実の母親が服を脱ぎだしてるのに、見知らぬ男に乳房を揉まれて息を上擦らせているのに笑えるわけがない。今こうして鏡の中の自分と向き合い、素朴な感慨を噛みしめる。メガネを外した鍵屋崎でも俺を女と見間違えるのはむずかしいだろう、ご覧の通り正真正銘、どこからどう見ても俺は男だ。服を脱いでみせるまでもなくわかりきったことだ。髪は短いし目は鋭いし体の輪郭は直線的、踝や肘は尖っている。
 お袋が風邪ひいて商売にならないからと手っ取り早く俺で間に合わせようとした客の気持ちがわからない。女の方がいいに決まってるのに。もっとも俺の隣で寝てるレイジは女でも男でもとっかえひっかえおかまいなし、体の相性がよけりゃ性別にはこだわらないと無節操に吹聴してはばからないが。

 次第に青みはじめた大気が夜明けの訪れを知らせる。

 暗闇の帳が降りた房の中、壁に固定された鏡を覗きこみ、自嘲的に呟く。
 「かわいげねえツラ。殴りたくなるのもわかる」
 それにしても古い夢を見た。流しの縁にもたれかかり、さんざんだった11の冬を回想する。11月に雪が降るなんて異常気象もいいところだ、きっと百年前の人間がガンガン暖房と冷房をかけた悪影響だな。実際都心の天候はガタガタでつい二ヶ月前も新宿近辺が集中豪雨に見舞われたそうだ、俺もイエローワークの穴掘り中に「やけに風がなまぬるいな」と感じてはいたがあれが悪天候の前兆だったのだ。
 今は何月だろう。季節は冬だ、水の温度が氷点下まで下がっているし。が、正確な月日となるとお手上げだ。たぶん11月の下旬だろうとは思うが……
 洗面台にもたれかかり、物思いに沈んでいた俺を現実に引き戻したのは「う~ん……」という声。隣のベッドに目をやればレイジが毛布をはだけて大の字に寝転がっていた。寝相が悪い。なにげなく首元に視線を移し、喉仏の上で波打ってる金鎖に目を細める。
 レイジの奴、寝るときも十字架外さないのか。クリスチャンかよこいつ。
 首に金鎖を絡めて熟睡してるレイジに歩み寄り、ベッドの背格子を掴んで間の抜けた寝顔を覗きこむ。たのしい夢を見てるらしく、しあわせそうに緩んだ口の端からヨダレをたらしている。コイツに惚れてる女が見たら百年の恋も醒めそうだ、レイジに惚れてない俺は特等席でコイツの間抜け面を堪能できて気分がいいが。
 まあ、寛大な心の持ち主なら「母性本能をくすぐられるわ」という好意的な見方もできなくはないだろうが。
 俺に観察されてるとも知らず、毛布を片足で蹴りどけて寝返りを打ったレイジが何かを呟く。寝言?なんて言ってるんだろう。単純な好奇心からレイジの口元に耳を近付け、不明瞭にくぐもった寝言を聞き取る。
 「だめだって杏奈、おれ耳よえーんだよ……レイチェル、もっと寄れよ、遠慮すんなって。しばらく会わない間に痩せたんじゃねえか?え、俺のことが心配で?大丈夫、胸まで痩せてないよ……You are greatest!One and only.あ、わりい、オンリーは嘘。ヘソ曲げんなよシンディ、愛してるからさ……」
 にやけ面のレイジが次から次へと女の名前を挙げ、吹けば飛びそうに薄っぺらい口説き文句をつらねてゆく。丸めたつま先で悩ましげにシーツを蹴り、体の前に両腕をまわし、架空の女を抱きしめて口付けする動作をくりかえす。 
 「OH,もちろん忘れてないよシェリファ!褐色の女豹を忘れるものか、シヴァ神のご加護を授かったあのエキゾチックで情熱的な一夜を……カーマストラの深淵にふれた……謝謝弥的好意、我愛弥。あはは、足の小指なめるの相変わらずうまいなあソーニャは……今度ボルシチ作ってよ、うんと辛い奴……辛いといえばキムチだよ、スヨンが漬けたキムチまた食いてえ…」
 コイツ、何人愛人がいるんだ?
 寝ぼけたレイジが甘ったるい声で挙げ連ねる女の名前を指折り数えるのにもいい加減飽き、頃合を見て立ち上がる。レイジの夢の中で酒池肉林、人種・国籍不問な乱交パーティーが繰り広げられているのは嫌というほど理解できた。これ以上レイジの愛人自慢を聞いてるのは阿呆らしい、やれやれと首を振りながら腰を上げかけ。

 「愛してるぜロン」

 不意打ちだった。
 背格子にかけた手がすべり、危うく尻餅をつきかける。前屈みにたたらを踏み、毒気をぬかれてレイジの寝顔を覗きこむ。寝たふりした確信犯かと疑ったが至近距離でじっくり観察してみて本当に寝入ってるらしいと結論を下す。中腰の姿勢でレイジの口の上にてのひらを翳し、規則正しく呼吸しているのを確かめる。囚人服の胸が深く上下していることからも熟睡してるのは一目瞭然なのにあんまりタイミングがよかったからタヌキ寝入りじゃないかと本気で疑ってしまった。 
 「……………………」
 やり場のない怒りに泣けてきた。
 レイジはすやすやと眠っている、何の悩みもなさそうな能天気なツラをして大の字に手足を投げ出してる。気だるげに寝返り打ったレイジの首、緩んだ襟刳りから覗いた鎖骨の窪みにそってすべりおちた金鎖が清流のせせらぎに似た涼やかな音をたてる。
 まだ女にだって「愛してる」なんて言われたことないのに、初めて「愛してる」と説かれた相手が同房の受刑者なんてしょっぱすぎる。しかも男。しかも寝言。
 あんまりにもみじめな自分の境遇にやりきれなくなった俺の脳裏でふと名案が閃く。胸が透く意趣返しを思いついた俺は嬉々としてそれを実行に移す。レイジの枕元に屈みこみ、髪を結わえておくゴムを手に取る。指にひっかけたゴムを楕円に伸ばし、伸縮性を確認。レイジを起こさぬよう細心の注意を払い、腕を振るう。 
 よし、できた。
 「………………」 
 出来栄えに満足した俺の前でレイジが「うう~ん……」と唸り、ゆっくりと瞼を持ち上げる。寝ぼけまなこをしばたたき、焦点を失った顔で起き上がったレイジが傍らに突っ立ってる俺に気付く。
 「はやいじゃん。先に起きてたのか」
 「ああ」
 極力レイジから目を逸らし、顔を直視しないよう気をつけながら答える。素っ気ない返事を別段不自然がることなくベッドから抜け出たレイジが二の腕を抱いて身を竦める。
 「さみ………もう12月?」
 「知るか。俺に聞くな」
 「俺フィリピン生まれだから寒さこたえるんだよ、女の柔肌であたためてもらいたい」とかなんとかほざいてるレイジから不自然な角度で顔を背けたまま唇を引き結んでいると大音量のベルが廊下に鳴り響く。起床を告げるベルだ。けたたましいベルに叩き起こされた囚人が「るっせえよ!」「鼓膜が割れる……」と、ある者は中指を立て、ある者は耳を塞いで扉を開け放つ。連鎖反応で開け放たれた扉から先を競うように廊下にあふれだした囚人が一塊の流れとなり大挙して食堂の方角へ行進してゆく。
 「飯の時間だ、先いくぞ」
 レイジを房に捨て置き、ボロがでる前にドアを開けようとした俺の背中を呑気な声が追ってくる。
 「12月か、どうりで冷え込むはずだ。部署替えの時期だもんな」
 「もうそんな時期か?」
 ノブに手をかけた姿勢で反射的に振り返り、レイジの顔を直視してしまう。やばい、慌てて下を向く。
 「なに言ってんだお前、ボケすぎだろ。明日発表されるって聞いてなかったのか」
 ベッドに腰掛けたレイジはあきれ顔だ。そういえばちらりと小耳にはさんだ気もするがイエローワークの穴掘りに精をだしていて詳細は聞き逃していた、穴掘りの片手間に噂話に興じるような間柄の友人が班にいない俺は黙々とシャベルを振るうしかないのだ。
 東京プリズンでは半年に一度部署替えが行われる。 
 東京プリズンに収監された囚人は来た翌日からランダムに各部署に振り分けられ強制労働に従事する規則だが、半年ごとに行われる部署替えでそれまで自分が就いていた仕事から違う部署へと移動させられる可能性もあるのだ。たとえばイエローワークからブルーワーク、ブルーワークからレッドワークというようにそれまで馴染んだ仕事と手を切ってあたらしい仕事をいちから覚えなおさなければいけないのは骨だが、砂漠での無意味な穴掘りに代表されるもっとも過酷なイエローワークから解放され、他部署への転属が決まった囚人がもろ手をあげて喝采している光景がこの時期よく見られる。イエローワークでの働きを認められ、看守への態度が品行方性で覚えめでたい囚人は晴れてレッドワークに昇格。反対にブルーワークでの働きぶりが芳しくなかったり看守に反抗的な態度をとって顰蹙を買った囚人はレッド―ワークに、レッドワークからお払い箱にされた連中はイエローワークへと回されてくる。
 ブルーワークはレッドワークよりマシ、レッドワークはイエローワークよりマシだというのが東京プリズンの囚人間における共通認識だ。水質管理や便所掃除、浄水施設での廃水ろ過行程にたずさわるブルーワークの仕事がいちばん軽くて安全、街から大量に運搬されてきた危険物や産業廃棄物を加熱処理するレッドワークは次点。殺人的な太陽の下、酷暑の砂漠で沸きもしない井戸を来る日も来る日も掘らされ続けるイエローワークが精神的にも肉体的にもいちばんきつくてしんどいというのが囚人間の総意だ。
 俺も同感。
 完全に日が昇りきる前のこの時間帯は氷点下まで冷えこんでいる砂漠も一旦太陽がでてしまえば12月だろうが冬だろうが関係ない。気温は太陽の高度に比例して上昇し続けるのが常で、暦上の冬はとくにこの寒暖差がはげしいのだ。
 「喜べロン、今度の部署替えで晴れてイエローワークとおさらばできるかもしれねえぜ」
 「どうかな」
 俺を喜ばそうと水をむけたのに冴えない反応を示され、レイジが鼻白む。
 「タジマに目の敵にされてる俺がイエローワークとすっぱり縁切れるとは思えねえ」
 タジマ。イエローワークの主任看守で俺の天敵。
 「弱音吐くなって。信じて努力すりゃ報われるよ、きっと」
 「報われたことなんかねえよ」
 今朝見た夢を思い出す。お袋の肩に毛布をかけようとして突き飛ばされた俺。耳に残る「大嫌い」の響き。鉄扉にもたれかかり、頭を振って感傷を払拭。心配そうに俺を見つめているレイジを挑発的に睨み、皮肉を言う。
 「お前には関係ないだろ?ブラックワーク首位を維持しつづけるかぎり王様の椅子が約束されてるんだから」
 「ちげえねえ」
 ベッドに後ろ手をつき、長い足を床に放ったレイジが声をたてて笑う。ついうっかりその頭に目をやりそうになり、自制心を振り絞って顔を背ける。これ以上レイジと一緒にいるのはまずい、無理。とってつけたようにノブを握り、背中でレイジに別れを告げる。
 「先行くぜ、席とっとく」
 「頼んだ」
 ひらひらと片手を振り、さわやかな笑顔で俺を送り出したレイジの姿が鉄扉の内側に消えるのを確認し、その場で壁に手をつく。背後で音荒く鉄扉が閉じ、鈍い震動が壁と鼓膜を震わせる。片手を壁に付いて体を支えようとしたが駄目だ、限界だ。膝から下が砕けるように壁際にうずくまり、顔を伏せ…
 「ぶはっ!!!」
 おもいっきり吹き出した。
 壁に片手を付き膝を屈めた姿勢で顔を伏せ、腹筋を痙攣させ、涙が出るまで笑う。笑いの発作をこらえようと唇を噛み締めようとして失敗、震える拳を壁に打ち付けて爆笑する俺をすれちがう通行人が奇異の目で見る。
 思う存分気が済むまで笑って笑って笑い続け、遂には息切れを起こし、壁に肩を預けるようにして廊下にへたりこんだ俺のそばを「ついにイカレたか、半半?」「レイジと同房じゃあ長く保たないと思ったんだよな」と揶揄しながら近隣の房の囚人が通り過ぎてゆく。
 かまうもんか、言いたい奴は言ってろ。
 東京プリズンに来て以来、こんなに笑うのは久しぶりだ。
 これからさき笑える保証がないなら今この瞬間に一生分笑い納めといて損はねえ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060306060609 | 編集

 「前から不満だったんだ」
 「なにが?」
 深刻な顔でぼそりと呟けば隣席のレイジが耳ざとく横槍を入れる。箸を浮かべてプラスチック皿の焼き魚を見据え、言う。
 「なんでこの刑務所には中華がないんだ?」
 東京プリズン入所当時から俺が腹の中で抱いてた最大の疑問がそれだった。
 東京プリズンにはさまざまな国のさまざまな人間がいる。白色人種黄色人種黒色人種、アメリカ人ロシア人ベトナム人フィリピン人マレーシア人インド人。中で最多数を占めるのが世界総人口の実に五人にひとりを占めるという中国人で東棟はとくにその割合が多い。東棟最大規模の中国系派閥を仕切る凱が裸の王様のごとく威張り散らしてるのがいい証拠だ。しかし東京プリズンの食事は来る日も来る日も和食・洋食・和食・洋食・和食・洋食の単調なローテーションで栄養面でもお粗末ならば見た目もパッとしない、お世辞にもバリエイション豊かとはいえない貧しい内容なのだ。
 現に今、俺の前に供されてるのは粗食という形容がこれほどぴたりと当てはまるのも珍しいだろうという和食メニュー。矩形の皿にはパリパリに骨ばって干からびた焼き魚が真ん中から開かれて乗っている、白目の濁った眼球をぎろりと剥いたなかなかグロテスクな顔をしている。トレイの左隅、アルミの深皿に注がれているのは申し訳程度にワカメが浮いた水っぽい味噌汁。いや、味噌汁というより水汁だろう。なんたって味がしないのだ。小皿に盛られているのは薄っぺらいキュウリの漬物が五切れ、あとは白い飯。口に入れた途端に唾液がわいてくるような、ふかふかに炊けた甘い白米ではなくこれも妙にべそべそと水っぽい。自分が食べてるのは粥になりそこねた米なんだか焚くのに失敗した米なんだか時々わからなくなるほどだ。  
 箸で焼き魚の目玉をえぐりながら不満を訴える。
 「おかしいじゃねえか、東京プリズンは中国人がいちばん多いんだぜ?なのになんで中華がねえんだよ、民主主義だろ日本は。多数派の意見尊重しやがれ」
 「おまえの口から民主主義とか多数派とか聞ける日がくるとはな」
 行儀悪く箸をくわえてテーブルに肘をついたレイジがけたけたと笑う。
 「食に関しては民主主義に賛成。ムショにぶちこまれてから来る日も来る日もまずい芋と小骨ばっかの焼き魚食わされてみろ、拷問だ」
 腹立ち紛れに箸を使い、抉り取った目玉をぽいと口に放りこむ。レイジが嫌な顔をした。
 「よく食えんなそんなもん」
 「魚の目玉は栄養あるんだぜ。だよな鍵屋崎」
 目玉をしゃぶりながら箸の先を上げ、博識な鍵屋崎に解説を頼もうとしたが本人の姿が見当たらない。てっきり近辺に座ってるとばかり思っていたのにと向かい席のサムライに目をやれば寡黙に飯を咀嚼しながら背後へと顎をしゃくる。鍵屋崎は三つテーブルを隔てた後方席の隅にひとり腰掛け、片手にアルミ皿を片手に箸を握り、終始うつむきがちに朝食をとっていた。時折思い出したように顔を上げて焼き魚を切り分ける以外に俺たちのほうを見ようともしない。
 最初から俺たちに気付いてないのかそれとも気付いていて完璧に無視してるのかわからないが、自分の膝を見ながら飯を食べる鍵屋崎が何だかひどく真剣な表情をしていて尻込みしてしまう。椅子から腰を浮かし、鍵屋崎に声をかけようとして躊躇した俺を押しのけるように身を乗り出したレイジが「おーい」と呼びかける。
 「?」
 大声で鍵屋崎を振り向かせたレイジが箸の先をちょいちょいと擦り合わせ、「魚の目玉について教えてくれ」と要請する。この突発的かつ突飛な申し出に鍵屋崎は怪訝な顔ひとつせず見慣れた無表情で応じた、淡々と事務的に、なにかを長々と説明するときの癖でメガネのブリッジに触れながら。
 「魚の目玉とその周辺の肉は栄養価が高い。魚の目玉にはビタミンA・B1・B2が多く含まれていて特にタイの目玉はビタミン類と脂肪が豊富なことで知られている。余談だが同じ脂でも肉と魚では働きが違う、魚の脂肪に多く含まれているDHAは記憶力をよくしたり脳の中の情報伝達を担うシナプスの原料となる成分だ。要約すれば魚を食べることにより脳内のシナプス量が増え痴呆防止につながるんだ」
 「へえーへえー」
 わざとらしく感心したふりをするレイジだが、その顔がにやついているのまでは隠せない。説明を終えた鍵屋崎がふたたび顔を伏せ、とくに味わってる様子もなければ美味そうな様子も見せずに淡々と食事を再開。
 「まあ、きみたち凡人と頭の出来が違うぼくは魚の目玉なんてグロテスクなものを食して記憶力の向上を図る必要はないがな」
 一言余計だ。
 「なんでアイツひとりで食ってんの?」
 「魚の目玉に含まれてる成分解説」よりもそっちのほうが気になり、正面のサムライに尋ねる。東京プリズンに来た最初の数ヶ月は俺たちと馴れ合うのを極力避け、ひとりぽつんと輪から外れて飯を食っていた鍵屋崎がここ最近俺たちと一緒に食事をとるようになった。べつに積極的に交流をはかるようになったとか親睦を深めようとか気色悪い変化がおきたわけじゃないが、二ヶ月前くらいからだろうか鍵屋崎に微妙な変化がおきた。それまでは意固地に他の囚人と交流を断ち、接触を拒絶し、自分のまわりにひとを寄せ付けないよう透明なバリアを形成していた鍵屋崎の目に見えないバリアの壁が薄くなったといえばいいのだろうか。それまではだれも立ち入ることを許されてなかった鍵屋崎の内側に気付けばサムライがちゃんと存在していた。俺たちからしてみればバリアの弾力は相変わらずで、不用意に触れればあっというまに跳ね返されてしまう排他的な強靭さも備えているのだが、その壁が内側まで透けるくらいに薄くなったことには気付いていた。

 サムライと鍵屋崎の間になにがあったかはわからないが、サムライはあの気難しい、扱いにくいメガネの内側に入ることに成功したんだろう。

 そんなわけで、ここ最近は鍵屋崎も俺たちと一緒に食事をとっていた。鍵屋崎が混ざったからといって会話が弾むはずもなく、むしろ食事時の雰囲気は悪くなった。鍵屋崎ときたら多少は接しやすくなっても毒舌は衰えてないばかりかさらに磨きがかかっていて、気まずい沈黙にしびれを切らした俺がちょっと話しかければ間髪いれずに辛辣な皮肉で応酬するのだからたまらない。鍵屋崎が相手じゃまともな会話が成立するはずないと奴が来てからの半年で十分に理解してるのだが、「気は進まないが席を立つのは大人げないしここに居るしかない」という決まり悪そうな表情の鍵屋崎を見てると何か言わずにはいられなくなるのだ。
 本当にお節介だな、俺。
 「今朝はひとりで食事をとりたいそうだ」
 「たまにはそういうこともあるだろう」と達観した淡白な口調だった。
 「また喧嘩したのか?」
 サムライは答えず、粛々と箸を運ぶ。さすがガキの頃から箸を握らされてた生粋の日本人だけあって箸の扱いはお手の物だ、流れるようにあざやかな、能の振り付けを彷彿とさせる華麗な手さばき。これ以上答える気はないようだし、詮索はよす。焼き魚の目玉を舌の上で転がしながら視線を食堂上空に移動、娑婆で日常的に食べていた好物を次から次と思いつくままに挙げてゆく。
 「牛楠飯(ニョウナンファン)炒麺(ツァオミエン)生薊包(センチエンパオ)控肉飯(コンロウファン)貢丸湯(コンワンタン)……ああ、肉粽(ロウズォン)が食いてえ」
 今俺が挙げたのは厳密には中華料理じゃなくて台湾料理だが、ガキの頃から慣れ親しんできた家庭の味なのは事実だ。俺がある程度でかくなってお袋が料理を放棄してからは屋台で買い込んできた飯が三食腹の足しになったが。
 好物を指折りかぞえて悲嘆に暮れる俺をレイジがにやにや笑いながら眺めている。ひとを小馬鹿にしたような憎たらしいツラが癇に障り、噛み付くように言う。
 「おまえは食いたいもんねーのかよ?」
 「あるぜ。ティラピア」

 あん?なんだって?

 「知らねーの?フィリピン料理だよ。川魚の丸揚げ、味は淡白で癖もない。酢醤油みたいなソースに漬けて食うんだ、うめーの」
 「ティラピア……それピラニアじゃねえか?」
 「そうかも」
 「そうかもってピラニア食えんのかよ。食う奴いるのかよ」
 「あとはポップコーラ。気の抜けたとしかいいようのないフィリピン産のコーラでコップに注がずにそのまま飲むのがフィリピンスタイルだ。ガキの頃はよく飲んでたんだけどココ入ってからとんと縁がなくてさあ……看守に融通きかせてフィリピンから輸入しようにもあそこ第二次ベトナム戦争の戦火が飛び火した激戦地じゃん?無理っぽくて」
 「テキーラとかウィスキーとか好きなだけがぶ呑みできる身分の王様が気の抜けたコーラにこだわんなよ、しみったれてんなオイ」
 「手に入ったら飲ませてやる」
 「要らない」
 「感謝しろ、特別サービスだ」
 「い・ら・ね・え」
 俺から持ち出した話題だが、これ以上レイジの戯言に付き合ってられるか。
 綺麗にたいらげたトレイに抱えて席を立つ。乱暴に椅子を引いて立ち上がった俺にもサムライは顔を上げず、背筋をしゃんとのばして飯を食っている。対照的にだらしなく頬杖ついたレイジが箸をもてあそびながら気のない声をかけてくる。
 「ロン」
 「なんだよ」
 トレイをカウンターに返却する途中、レイジの声に反応して振り向く。やばい、ついうっかりレイジの頭を直視してしまった。こみあげてきた笑いがこらえきれなくなる前に慌てて下を向く。下唇を噛み締め、肩を震わせて立ち尽くした俺をテーブルに片足投げ出した姿勢で眺めていたレイジが箸の先端をツと滑らせて警告する。
 「あぶない」
 え?

 背後に衝撃。

 無防備な背中に肘打ちをくらい、たたらを踏んで姿勢を崩す。トレイを取り落としかけて体勢を立て直した俺の目に映ったのは見覚えあるツラのガキ……凱の取り巻きのひとりだ。下卑た笑みを満面に浮かべたしまりのないツラのガキ、その足もとにからのアルミ皿が落下する。けたたましい騒音を奏でて床に散らばったアルミ皿をご丁寧にテーブルの下へと蹴り飛ばし、勝ち誇ったように哄笑する。
 「ぼうっとしてんなよ、半半。わかんねえのかよ、お前が食堂にいるだけで飯がまずくなる。とっとと失せろ」
 トレイだけは死守したが、がくんと上下したトレイから落下した皿の方は俺が拾い上げる間もなく油汚れで照り光る不衛生な床を転がって四方のテーブル下に散逸してしまった。そのさまを見て周囲のテーブルの連中が嘲笑する。中には自分の足もとに転がってきた食器をさらに奥へと蹴り飛ばしてくれた奴がいる。
 「なにすんだよ」
 「床に手をついて拾えよ」
 手近のテーブルにトレイを叩きつけて食ってかかったが、相手は涼しい顔をしている。陰湿な光を目に湛えた卑しい面つきには俺の反応を面白がってこれから行われることを存分に見届けよういう嗜虐心が満ち満ちていた。高飛車に腕を組んで優勢を誇示したガキを忌々しげに睨みつけるが、いつまでこうしていても始まらない。舌打ちして床に膝をつき、テーブルの下に頭をくぐらせる。あった。手近の椅子の下にアルミ皿が転がっている。テーブルの裏面に頭がぶつからないよう注意して四つん這いになり食器へと手をのばし……
 手がふれる寸前に食器が目の前から消失した。
 かんだかい音をたてて1メートル向こうへと蹴り飛ばされた食器から視線を上昇させれば、手前の椅子にふんぞりかえっていた中国系のガキが「ふん」と嘲るように鼻を鳴らしてくれた。
 ガキっぽい嫌がらせだ。
 毎度毎度慣れているとはいえ腹が立たないわけじゃない、生憎俺はそんなに人間ができてない。体の脇で拳を握り締め、わざと俺にぶつかってきたガキと俺が手に取ろうとうした食器をわざわざ遠くに蹴り飛ばしてくれたガキを想像の中で殴り倒す。よし、少し気が済んだ。気を取り直し、四つん這いの姿勢で這って1メートル遠のいた食器に接近、今度こそはと手をのばしかけ……
 また食器が消えた。今度は別の奴に蹴り飛ばされ、さらに1メートル奥へと強制移動。
 頭の上で哄笑がはじけ、かまびすしい野次が乱れ飛ぶ。こめかみの血管が切れそうだ。コイツら、ガキっぽいにもほどがある。蒸発寸前の自制心をかきあつめ、油汚れで一面飴色に輝く不衛生な床に四肢をついた犬の姿勢でテーブルの下を彷徨する。膝で床を刷いて食器に辿り着いたそばから別のガキに蹴り飛ばされ手の中から皿が消える、その繰り返し。机の下から顔を出してレイジを仰ぎ見れば、テーブルに片肘ついた気だるいポーズで箸をくわえていた。
 『助けてやろうか』
 恩着せがましいレイジの目配せに中指を立てる。俺にも意地がある。プライドと呼べるほど上等なもんじゃないが、それでも守り通したい意地が。レイジの助けを借りるなんてお断りだ、俺は男だ、自分の身にふりかかった災難くらい自分ひとりの力で切り抜けてやる。
 油汚れでズボンの膝をどす黒く染め、テーブルの下をうろうろ這い回る。どれくらいそうしていただろう、遂に食器を見つけた。椅子に陣取ったガキどもの足が格子のように林立する中間にぽつねんとアルミの深皿が転がっている。今度こそは蹴られるまえに拾い上げようと肘をのばして皿を掴みかけ……
 「!」
 顔面に靴裏の影がさす。
 椅子に腰掛けたガキと足もとに這いつくばっていた俺の目が合う。ガキは笑っていた、俺が至近距離に到達するのを見計らい、事故を装って顔面に蹴りをくれようと足を振り上げたのだ。顔を庇おうと頭上に両腕を翳したが間に合わない、遅くとも鼻骨が陥没するのは防げればいいのだが……
 しかし、予期していた衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
 肩透かしを食らい、おそるおそる両腕をおろす。今まさに俺の顔面に振り下ろされようとしていた片足が虚空で止まっている。ゴミと残飯が付着した靴裏が鼻先に迫った近距離に浮かんでいる。そして、足の脛を掴んで虚空に縫いとめているのは肉厚のてのひら。眼前の足を辿って視線を上昇させた俺の目に映ったのは意外な光景だった。
 凱がいた。
 俺を蹴ろうとしたガキの足を骨が軋むほどに締め上げ、不機嫌絶頂の仏頂面で俺を見下ろしている。
 凱がとった意外な行動に食堂の喧騒が止み、周囲のテーブルで俺を囃し立てていた連中が固唾を飲んで沈黙。耳に痛いほどの静寂が満ちる中、無造作に腰を屈めた凱が自分の足もとに転がってきた食器を拾い上げ、ずいと俺の鼻先に突き出す。
 「………………どういう風の吹き回しだ?」
 おもわず食器を受け取ってしまってから暗雲のように疑惑がたちこめる。凱が俺を助けるなんてわけがわからない、凱は俺のことを毛嫌いしてるのに。半年前もイエローワークの仕事場で殺されかけて、「次は必ず殺す」と堂々予告されてもいるのに。
 俺の両手に食器を押し付けた凱は周囲のテーブルから注視を受け、ばつがわるそうな、陰鬱な表情をちらりと覗かせたがすぐに虚勢を取り戻す。巌のような筋肉に覆われた厚い胸板を反らし、腰に手をつき、憎々しげに吐き捨てる。
 「借りは返したぞ」
 借り。
 脳裏で閃光が閃く。何を言われてるのかわかった、いつだったか、あれは三ヶ月に一度のあの日、囚人の明暗を分ける手紙の分配日。凱が自分宛の手紙に同封されていた写真を廊下に落とし、そうとは気付かずに高笑いして去ってしまったことがある。俺はそれを拾い届けてやった、わざわざ。凱の手紙に同封されてた写真なんか破り捨ててやればよかったと後々後悔しないでもなかったがどうしてもできなかった、煙草の火で写真を焼こうとして寸前で思いとどまった。

 写真に写っていたのが凱によく似た小さな女の子だったから。

 コイツまさか、あのことをずっと気にしてたのか?
 俺が何か言う前に背中をひるがえし、早々とその場を立ち去る凱。憤然と肩を怒らせ、堂々たる大股で通路を去ってゆく凱の後ろ姿を周囲のテーブルの連中が口を半開きにした間抜けヅラでぽかんと見送っている。どいつもこいつも今目の前で何が起こったのか計りかねている様子だった。いちばん当惑しているのは最初に俺にぶつかってきた凱の子分だ、台湾・中国の混血を毛嫌いして「いつか殺してやる」と血気さかんに息巻いている凱の歓心を買いたいがために俺に嫌がらせを仕掛けてきたのに裏目にでてしまった。
 「あ、あの、……」
 放心状態で立ち尽くすガキのもとへ大股に接近、肩で風を切って威勢よく突き進んでゆく途中で拳を振り上げ。
 ガキの顔が大きく仰け反り、噴出した鼻血が空に弧を描く。
 「ひゃ、ひゃんで凱さん?!」  
 ひしゃげた鼻を両手で覆い、半泣きの状態で床にうずくまったガキの疑問に凱は背中で告げる。
 「いいか?そいつは俺が殺すんだ、イエローワークの現場で正々堂々とな。俺様の獲物を勝手に横取りするんじゃねえ」
 「ま、待ってください凱さん!出すぎた真似してすいませんでした!」と卑屈に頭を下げて凱の背中に追いすがるガキが振り返りざまありたけの殺意をこめて睨んできたが、「すまねえと思ってんならとっとと席確保してこい、使えねえパシリだな!」という凱の怒声に縮み上がり、全速力でテーブルとテーブルの間の通路を駆けてゆく。
 「愛されてるなロン。妬けるね」
 椅子の背もたれに上体を預け、後ろ脚で器用にバランスをとりながら一部始終を傍観していたレイジが呟く。
 「………」
 レイジを恨むのは筋違いだ。レイジのことだからきっと一言「助けてくれ」と頼めば助けてくれたんだろう。王様の一声で連携して俺をなぶっていた囚人どもを黙らせることもできたはずだ。
 でも、それはできない。俺は男だ、自分の身くらい自分で守れなければ。俺はいつもそうしてきた、11の時にお袋の客に無理矢理ヤられそうになったときも喧嘩慣れしたクソ度胸で切り抜けた。
 俺は男に依存するしか生き方を知らないお袋とは違う、自分の身くらい自分で守れる。 レイジの台詞を無視して逃げるように食堂から立ち去る。トレイをカウンターに返却して足早に通路を抜けた俺の背後で聞こえるのはサムライとレイジのやりとり。
 「なんだよ、ジッと顔見て。なんかついてるか?」
 「いや……」
 「はっきり言えよ、あんまり男前で見惚れたって」
 「レイジ、気付いてないのか?」
 「なにを」
 「……今朝顔は洗ったか?」
 「いんや、面倒だから洗ってない。それがどうしたの?洗わなくても美形だろ」
 「鏡は見なかったんだな」
 「だからなんだよ?」
 噛み合わないやりとりを繰り広げるサムライとレイジの声に被さるのはくぐもった笑い声。周囲のテーブルに陣取った囚人がトレイに顔を伏せ食器に顔を埋め、懸命に笑いの発作をこらえているのだ。箸を握った拳を震わせ、笑い声をもらさないよう下唇を食い締めた囚人の多くは満足に呼吸できずに顔を紅潮させている。ひとたび声をもらしたら最後、風船を針で突いたような爆笑の渦に食堂が呑まれるのは必至。
 しかし恐れ多くも王様の機嫌を損ねる真似はできない、王様はまだなにも知らないのだから。
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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060305072831 | 編集

 東京プリズン名物強制労働開始。
 東京プリズンの日常として溶け込んでいる光景の一つに挙げられるのが各房から食堂をめざす民族大移動、二つ目が地下駐車場のバス停に長蛇の列を作る囚人の大群だ。
大挙してバスに乗り込んだ囚人が運ばれる目的地は部署によってちがうが俺たちイエローワーク担当の囚人がバスに収容されて運ばれるのは灼熱の太陽が照りつけるだだっ広い砂漠。二十一世紀初頭の大地震で地殻変動が起きた結果生じたとされる足立区と同面積の大砂漠だ。
 この砂漠もエリア別にこまかく分けられているが、それよりわかりやすい区別が開墾組と温室組だ。前者、開墾組の仕事はその名のとおり明けても暮れても不毛の砂漠を耕す辛い肉体労働で大半の囚人は日射病にかかってくたばっちまうが、それでも手を休めることは許されない。少しでも手を抜いたら容赦ない体罰が待っている。警棒でめった打ちされのがいやなら手の豆がつぶれるのも覚悟で鍬やシャベルを振り続けなければならないのだ。
 後者、温室組は百八十度対照的。温暖で快適な気候が人工的に保たれたビニールハウス内で暇な一日トマトやメロンに水やってりゃいいラクな仕事で担当看守に気に入られりゃイチゴのご褒美にも預かれる特別待遇だ。温室組に回されるのは愛想のよさを売りにして看守に取り入ってる囚人ばかり、俺たち要領が悪い憎まれ組は物欲しげに指をくわえてビニールハウスでいちごをしゃぶってる連中を羨むしかない境遇だ。
 ここでもやっぱり俺は報われない。
 「点呼終了、作業開始!」
 タジマのかけ声を合図に蜘蛛の子を散らすように囚人が分散してゆく。それぞれの持ち場へ駆けてゆく囚人たちに混ざり俺も素早く移動する。伊達に一年半イエローワークで勤め上げてない、最後尾の囚人は「ちんたら走ってんじゃねえこのノロマ」と看守に尻を蹴り上げられ、背中に警棒を浴びて泣きを見るのがお約束。
 砂を蹴散らし、脇にシャベルを手挟み、班の連中に紛れて持ち場につく。
 長年おなじ面子で作業を続けているのだからそれなりに息は合っている、連携プレイはお手の物。まず斜面を踵ですべって穴の底に到達した囚人がシャベルを地面に突き立て、シャベルに一抱えの砂を掘る。そしてシャベルで掘った砂を肩越しに投げ、地面の上へ放る。穴の周縁に小山を築いた砂を右から左へと手分けしてリヤカーに積んだ囚人が額に汗して砂漠を何往復もする。際限ない不毛なくりかえしが強制労働が終了する夕方までえんえんと続くのだからたまらない、たとえ暦上は冬がこようが12月に入ろうが関係なく日射病でぶっ倒れる囚人がいるのはそのせいだ。
 もっとも、ながくイエローワークに従事してりゃ作業のコツは飲み込めてくる。この場合のコツってのは看守にバレずに適度に手を抜くコツのことだ。看守はそのへん忘れてるみたいだが囚人だって血も涙もある人間だ。朝から夕方までろくすっぽ休憩もとらずにぶっ通しで穴掘りしてたらさすがに一日三桁の死者がでるだろう。イエローワークの死者が一日平均十人……今までの最高人数は一日三十人らしいが……で済んでるのは、俺たち囚人が利口だからだ。看守の目を盗んで手を休め、気心の知れた仲間と雑談するくらいの余裕は月日が経過すれば自然とでてくるのだ。
 「明日はいよいよ部署替え発表だな」
 「これでやっとイエローワークとおさらばできると思うと嬉しくて泣けてくるね」
 「まだ決まってねえだろ。おまえは無理だよ、看守に目えつけられてるからな」
 「なんでだよ」
 「この前影で煙草吸ってんの見られてたぞ」
 「マジで?」
 「神様どうかブルーワークに昇格できますように!」
 「馬鹿かお前、レッドワークぬかして一足とびにブルーワークに出世なんて看守に賄賂でもおくらねえかぎり無理だ」
 「前例があるだろ」
 「東棟のサムライのこと言ってんならお生憎様。アイツは長年イエローワークで真面目に勤め上げた功労賞でブルーワークに昇格したんだよ、異例の大出世ってイエローワークじゃ今でも語り草になってる。お前はどうだ、サムライの真似できるか?」
 「ブルーワークとは言わねえからレッドワークに昇格できねえかな。産廃扱うレッドワークだってイエローワークよかマシだよ、このままじゃお天道様に焼き殺されちまう」
 「聞いたか?東京プリズンに原子力発電所建てるって噂」
 「「マジかよ!?」」
 「地方で断られた原発がまわりまわってこの砂漠に建つかもしれねえんだと。レッドワークに昇格したら原発でつかわれるんじゃねえの?ぞっとしないね」
 「だったらイエローワークのがまだマシかあ……」
 諦観のため息に溺れる班の連中を横目にひたすらシャベルを振るう。班の連中が砂に突き立てたシャベルによりかかって無駄口叩いてる間も俺は黙々と穴掘りに励んでいた、台中混血で嫌われ者の半半に自分から話し掛けてくるような物好きはこの班にはいないからだ。
 作業がはかどることこの上ない。くそったれ。
 額から滴った汗が目尻に流れ込み視界がぼやける。シャベルを砂に突き立て、手の甲で瞼を拭う。掘っても掘ってもきりがねえ、水なんか一滴も沸いてきやしねえのに馬鹿げてる。辟易した俺の頭上からなにかが投げ落とされる。ドサドサと音をたてて横の地面に落下したのは乾いた砂が刃先にこびりついたシャベルが二本。
 「新しいのに替えて来い」
 穴の縁からこっちを覗きこんでいたガキが偉そうに顎をしゃくる。看守に命令されるのは慣れてるが同年代のガキに命令されるのは腹が立つ。さすがにムッとして何か言い返そうとしたが、ガキの背後、いやらしい薄笑いを浮かべて俺の反応を観察してる班のメンバーが目に入ってぐっと思いとどまる。挑発に乗ったら負けだ。醜態をさらすのはごめんだ。シャベルを二本両脇に抱え、砂まみれになりながら斜面をよじのぼる。踝まで砂に埋まりながらなんとか地上に這い上がり、鼻白んだガキどもを睥睨し、せいぜいふてぶてしく笑ってやる。
 「頭が悪いな中国人は。いやがらせに慣れてる俺がこの程度でべそかくと思ったか?そのへんにおいときゃいいものをわざわざ穴の底にシャベルを二本投げ落として手間かけさせてくれたのは腹立つがそれだけだ」
 両脇に抱えたシャベルにちらりと目をやり、啖呵をきる。
 「凱の後ろ盾がなけりゃ群れるしか能がない腰抜けのくせにいい気になるなよ、朋友(パンヤオ)」
 「!な……、」
 予想通り、頭に血がのぼりやすいタチのガキふたりが拳を握り固めて気色ばむのを最前列のガキが「待て」と制止。片手を挙げて息巻く仲間ふたりを押しとどめたガキが軽蔑の入り混じった冷笑を浮かべて向き直る。
 「誰がパンヤオだって?かってに友達扱いして馴れ馴れしく呼びかけるんじゃねえよ、気持わりい」
 予想どおりの反応に会心の笑みが浮かぶ。
 「だろ?俺もそう思って『わざと』言ってやったんだ。不愉快になってくれてなによりだ」
 それまで余裕ぶって仲間を制していたガキの顔が憤怒で朱に染まる。虚勢が綻んだガキから踵を返して走り去る。後ろからとびかかってくるかと警戒したが相手もそこまで短慮じゃなかったようだ、念のため十五メートル走ってからちらりと振り返れば憎々しげに唾を吐き捨てたガキが仲間を引き連れて去ってゆくところだった。少し離れたところに看守がいた。警棒で肩を叩きながらやる気なさそうにあくびしてるが騒ぎが起これば目に入らない距離じゃない、看守の目がなければよってたかって袋叩きにされてた俺は人知れず安堵の息を吐く。
 両脇に抱えたシャベルを引きずり、物置小屋めざして歩いてる途中、何人もの囚人とすれ違う。前後ふたりがかりで砂を積載したリヤカーを引いてるやつ、俺と同様パシリ扱いされてる不満を前面に押し出した仏頂面も居れば、同じ境遇でもびくびくと気弱に周囲を窺ってる新米もいる。
 パシリならパシリで、もっと堂々としやがれってんだ。
 ……自分で言ってて情けなくなってきた。俺が班の連中に雑用を言いつけられても表立って逆らわないのは奴らが怖いからじゃない、揉め事を避けたいからだ。イエローワークの仕事場で揉め事を起こせば訓練された犬の嗅覚でタジマが嗅ぎつけてくる、初日から俺を目の敵にしてるタジマのことだ、俺の言い分なんかはなから尊重せずに一方的に体罰を下すに決まってる。最悪独居房行きも免れないのは半年前の一件で確認済みだ。看守の目が届かないところで売られた喧嘩なら誰に遠慮することなく買ってやるが、看守が一部始終目撃してる前で次から次へと問題を起こすほど俺は馬鹿じゃない。そんなことをしても寿命を縮めて懲役を長くするだけだ。
 シャベルを引きずって小走りに駆けてる途中、視界の隅を見覚えのある顔がかすめた。
 俺が立ち止まったのはイエローワーク六班の仕事場。仕事内容は俺の班と変わらない、穴の底で砂を掘る連中と砂を運ぶ連中が手分けして作業してる中、俺の目にとまったのは他の連中から少し離れた場所でシャベルを抱えてる……

 鍵屋崎だ。

 物置小屋へ行くみちのりに六班の持ち場があるから必ずこの地点を通過しなければらず、必然的に俺と鍵屋崎の遭遇率は高い。以前も何度か鍵屋崎のツラを見かけたがアイツが班の連中と和気藹々とくっちゃべってた試しがない、いつだってひとりぽつんと輪から外れて孤独にシャベルを上げ下げしてる。本人はてんで気にしてないんだろうが、傍から眺めてて気持いい光景じゃない。鍵屋崎に同情を覚えたわけじゃないが、アイツを村八分にしてる連中への反感も手伝って何度か助けてやったことがある。
 が、さっぱり感謝された試しがない。たぶん鍵屋崎の辞書には「謝謝」、日本語の「ありがとう」が記載されてないんだろう。
 と、シャベルを引きずってちんたら歩いていた鍵屋崎の前方で不穏な動き。鍵屋崎とおなじ班の連中が横顔に陰険な笑みをちらつかせて互いに耳打ち、中のひとりが鍵屋崎の進行方向に片足を突き出し待ち構える。
 野郎、ひっかけて転ばす気だ。
 反射神経の鈍さは筋金入りの鍵屋崎のことだ、自分をつまずかせようという意地の悪い策略にも気付くことなく、まんまと嵌まってしまうに決まってる。
 「おい、……」
 非難の声をあげかけた俺の前で、予想外の事態が発生した。
 「!」

 鍵屋崎が、足を跨いだのだ。

 ひょいと、なんでもないことのように。見てるこっちがあ然とするくらい自然な動作で、自分をひっかけて転ばそうと待ち構えていた足を軽快に跨ぎ越す。以前の鍵屋崎からは考えられないことだ。  
 我知らず口笛を吹いてしまった。
 「?」
 口笛を聞き咎めた鍵屋崎が怪訝な顔で振り向き、俺と目が合う。その後頭部に風切る唸りをあげて振り下ろされるのはシャベル。
 「!あぶなっ、」
 今度こそ大声をあげてしまった。
 「調子にのるんじゃねえ!」
 鍵屋崎に余裕で罠を回避され逆上したガキが、無防備な後頭部めがけて横薙ぎにシャベルを振る。
 鍵屋崎の頭蓋骨を陥没させようと全力で薙ぎ払われたシャベルの刃が頭髪をかすめ、残像を穿つ。紙一量の差で頭を屈めて横薙ぎの一撃をかわした鍵屋崎がシャベルの自重に耐えかねて前傾姿勢でよろばいでたガキをひややかに見下し、メガネのブリッジを軽く押し上げる。
 怜悧な知性を宿した切れ長の双眸には、軽蔑よりも同情が勝った辛辣な色があった。
 「進歩がないな」
 学習能力のないモルモットか細胞分裂に失敗した微生物でも哀れむような、数段上からひとを見下した、さめきった口調だった。 
 気付いたら拍手していた。
 拍手に反応した鍵屋崎が眼鏡越しに訝しげなまなざしをむけてくる。「クソメガネが」「調子にのんなよ」と吠え面かいてすごすご退散してくガキどもから鍵屋崎へと顔を戻し、パチパチとやる気なさげに打ち鳴らしていた手を体の脇にたらす。
 緩慢な拍手が止み、俺と鍵屋崎だけがふたり向き合って取り残された。
 「成長したな」
 「順応しただけだ」
 「どう違うんだよ」
 「ひとに聞く前に辞書をひく習慣を身につけたらどうだ?きみたち凡人の知能レベルにあわせて平易な言葉を選択するのは意外と骨が折れるんだ、IQ90~100前後の凡人とIQ180の僕が会話を成り立たせるのはな」
 環境に順応しても口の悪さは改善されなかったようだ。毒舌は健在。
 「『やられるまえによけろ』と助言してくれたのはたしかきみだったように記憶してるが」
 「俺の助けはもういらないな」
 「助けてくれと頼んだ覚えはないぞ」
 鍵屋崎の意趣返しにぐっと押し黙る。悔しいが事実だ。鍵屋崎は一度も俺に「助けてくれ」なんて言ってない、いつだって俺が世話を焼いて助けてやってただけで本人から感謝されもしなければ喜ばれもしない、どころかしまいには迷惑がられる始末だ。ふてくされたようにだまりこんだ俺をしげしげとながめていた鍵屋崎がやがて感慨深げに呟く。
 「今後は他人のことより自分のことを気にしたらどうだ?食堂の再現はしたくないだろう」
 「見てたのか。だったら何かするか言うかしろよ」
 「なんとかしてほしかったのか?僕に相互扶助の精神を発揮して友人でも何でもない他人の窮地を救えと?」
 「~おまえと話してると腸煮えくり返ってくるな」
 「事実を言ったまでだ」
 鍵屋崎はしれっとしたツラをしてる。自分の言ってることが正論だと信じて疑わない度し難い頑固者特有の態度。コイツに見返りを期待するほうが間違ってるという自覚はあるが、これまでいろいろ助けてやったのに恩を仇で返された気分だ。畜生。平然と取り澄ましたツラの鍵屋崎の襟首を掴んで一発見舞ってやろうかと身を乗り出した俺の背後で怒声が炸裂する。
 「そこの囚人、まだ日も高いうちからサボりたあいい度胸だな!そんなに暇なら新しい仕事をやる、ついてこい」
 砂を蹴散らして走ってきた看守が俺と鍵屋崎に唾をとばして怒声を浴びせかける。しまった。後悔したが今更遅い。鍵屋崎の襟首を掴んでいた五指をゆるめ、意味なく開閉して引っ込める。胸ぐらの皺を几帳面な手つきで直している鍵屋崎の顔からは何の感情も汲み取れない。
 看守の警棒で尻を叩かれ、鍵屋崎と肩を並べて強制連行された先には直径10メートルはあろうかという巨大な穴があった。
 「ここがおまえらの仕事場だ」
 腰に手をついた看守が横柄に顎をしゃくり、斜面を下るよう命じる。
 「俺たちふたりで掘るのかよ!?」
 無茶な命令に語尾を跳ね上げて抗議。
 「不満か?」
 「いや……、」
 「不満なのか?」
 「………掘るよ。掘りゃいいんだろ」
 見せ付けるように警棒を振り、かさねて促す看守に逆らう気力が萎える。憤懣やるかたない顔つきをしてるだろう俺とは対照的に斜面をすべりおりる鍵屋崎はすずしい顔をしていた。シャベルを脇に抱え、二条の筋を付けながら斜面を下って穴の底に到達。

 空が狭い。高い。

 千尋の井戸の底から見上げたように遠ざかった円い空に四囲から砂礫の断崖が迫っている。
 暗く翳った視界の中央、ぽつんと申し訳程度の面積存在する青空を仰ぎ、腹立ち紛れに砂を蹴り上げて毒づく。
 「やってらんねえ、畜生」
 「まったくいい迷惑だな。きみが話しかけてこなければ無関係のぼくまで連帯責任を負うことはなかった」
 あんまり勢いよく蹴り上げたものだから砂粒を顔に被る羽目になった。はでに砂をかぶり、涙目でむせかえる俺の隣で鍵屋崎は事務的に作業を開始する。言葉とは裏腹に自らの境遇を悲観してる様子はない。鍵屋崎にならってシャベルの柄を掴む。こうなりゃやけだ。相棒が無愛想で無口なメガネだろうが知ったこっちゃない、俺は俺の仕事をやるだけだ。
 シャベルの柄を掴み、片足に体重をかけて刃を砂に押し込む。俺の隣で鍵屋崎もおなじようにして砂を掘る。ふたり黙々と作業をつづけるうちに中間にできた砂の山はどんどん高くなる。どれ位過ぎたのだろう、穴底の平面に生じた砂の山の高さが俺の踝から膝、そして脹脛と同じ位になる。さすがに腕が疲れてきた、ここらへんで休憩をいれてもいいだろうと隣の鍵屋崎を窺えばもともと無い体力が底を尽きたらしくぜいぜい息を切らしていた。
 「顔色悪いぜ。休んだほうがよくないか」
 「……きみのような凡人に指摘されなくてもペース配分は考えて作業してる。そろそろ上腕二頭筋と僧房筋中に乳酸が蓄積されてたきた頃だと思ってた」
 シャベルを砂に突き立て、背中を丸めてよりかかった鍵屋崎が酷い顔色をしてるのが気になって声をかける。
 「相変わらず体力ねえな、ちゃんと飯食ったのかよ?自分の膝ばっか見て箸もろくに動いてなかったじゃねえか」
 「見てたのか?」
 鍵屋崎がなぜかぎくりとする。はじかれたように顔をあげた鍵屋崎とまともに目が合い、ばつが悪い思いを味わう。
 「お互い様だろ。おまえだって俺が食堂中這い回るとこ指一本動かさずに見てただろ?」
 「それとこれとは別だ、話が違う。食事中ずっと僕を見てたのか?僕がなにをしてたのか全部知ってるとそう言いたいのか、脅迫か?」
 なにを慌ててるんだ、このメガネは。
 普段の無表情をかなぐり捨てて動揺した鍵屋崎が視線を右へ左へと揺らし「違う、あれには訳があるんだ。本来ならあんな行儀が悪い真似はしたくなかった、しかし僕にも言い分がある。僕の前頭葉は常人の倍新陳代謝が活発でシナプスは日々分岐して増殖してるんだ、当然知識欲はとどまることを知らずに向上し僕は日々あらたな知識を蓄積する必要と義務に迫られる。その結果、知識を蓄積するための最適手段として食事中でも読書を優先せざるをえなくなり……」と延延御託を述べ始める。何だか知らないが焦りまくった鍵屋崎が意味不明な弁解をまくしたてるのを聞き流し、シャベルの柄に顎をのせてため息をつく。
 「鍵屋崎、食いたいもんある?」
 「何?」
 「食堂で食いたいもん。東京プリズンのクソまずい飯に舌が麻痺しちまった今じゃ娑婆の好物の味も満足に思い出せねえけどおまえにも夢にまで見る幻のメニューあるだろ」 
 シャベルにもたれて乱れた呼吸を整えていた鍵屋崎が生真面目な顔でしばし逡巡。
 「H2О」
 唐突に呟く。
 「あん?」
 「水だ」
 メガネをとり、レンズに付着した砂汚れを上着の裾で丁寧に拭い取る。病的に神経質な手つきでレンズをこすって綺麗に砂を拭った鍵屋崎がメガネを日光に翳し、裸眼の目を細める。レンズの縁に反射した日光が鋭くきらめき、俺の顔にまで光線を投じる。
 メガネの反射光が落ちた顔をしかめながら熱のともなわない口調で鍵屋崎が説明する。
 「ミネラルウォ―ターが呑みたい。鉄やマンガン、その他微生物などの不純物が混入されてない清涼感ある喉越しのミネラルウォ―ターだ。この刑務所の水道ときたら最悪だ、浄水装置も取り付けられてないで錆びた水道管を通ってきた水がそのまま蛇口からでてくる仕様でてんでなってない、塩素消毒されてるかどうかも疑わしい。18世紀ヨーロッパでは不衛生な水道管が原因でコレラや腸チフスが水系感染したんだぞ、安全性の面から指摘しても東京プリズンの飲料水は不安と断じざるをえない。僕が欲しいのは安全性が保証された飲料水だ、ミネラルウォ―ターが無理ならせめて口に含んでも安心な無色透明な水が呑みたい」 
 手庇をつくってメガネの反射光を避けていた俺はそれを聞いてあ然とする。開いた口がふさがらない。常々変人だとは思ってたがここまで重症とは思わなかった。内面が顔に出たのだろう、メガネをかけ直した鍵屋崎の眼光が俄かに鋭くなる。
 「なんだその顔は」
 「おまえもレイジもなんで食いたいもん聞いてんのに飲みたいもん挙げるんだよ、ひとの話聞けよ」
 揚げ足をとられても鍵屋崎は動じない。「なんだそんなことか」と冷笑めいた表情を閃かせただけだ。これ以上鍵屋崎と話してても腹が立つだけだと賢明な判断を下し、早々に会話を切り上げて作業再開。
 シャベルの刃に片足を乗せ体重をかけ、一気に踏みこむ。
 「だいたい水なんてどこも同じだろ、美味いまずいもありゃしねえ。水道水でじゅうぶんだ」
 俺を真似て作業再開した鍵屋崎がつめたいまなざしを横顔に注いでくる。
 「きみは育ちが悪いからな。井戸水を飲んでも腹を壊さないタイプと見たが図星か?」
 「水飲んで腹壊すほど繊細にできてないんでね、どこかの軟弱な日本人と違って」
 ざくざくと砂を掘りながら憎まれ口を叩けば鍵屋崎が過敏に反応する。
 「前言撤回を要求する。確かに僕はきみより繊細にできてる自覚があるしそれは否定しないが軟弱と決め付けられるのは不愉快だ、だいたいぼくは君より背も高いし骨格も恵まれてる。きみはこの半年で何センチ背が伸びた?イエローワークの初日に見かけたときとたいして変わってないような気がするのはメガネの度が合ってないせいか?」
 遠まわしな嫌味にカチンときて怒鳴り返す。
 「視力は勝ってる!!」
 「知力は圧勝だ」
 「お前に負けてんのは頭と毒舌だけだ」 
 「頭で負けたのは認めるんだな?殊勝じゃないか」
 鍵屋崎の奴ときたら俺の隣で顔もあげずに砂を掘りながらせせら笑いやがった。コイツ、いつのまにこんなひとの神経逆撫でする笑い方覚えやがったんだ?こうなりゃ一発殴ってやらなければ気がすまないとシャベルを勢いよく、おもいきり深々と砂地に突き立てる。全体重を乗せてシャベルの刃を踏みこんで倒れないよう直立させてからむんずと腕をのばして鍵屋崎の胸ぐらを掴み、

 ぴちゃん。

 「……雨?」
 頬に水滴が付着した。
 反射的に空を見上げる。雲ひとつない晴天だ。じゃあこの水はどこから……鍵屋崎と不審な顔を見合わせ、
 次の瞬間、答えは天から与えられた。文字通り。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060304073100 | 編集

 「うわっ!」
 頭上に降り注ぐ大量の水、水、水。
 シャベルを突き刺した地面から懇々と湧き出した水流がやがて噴水となり、上から下へ流れ落ちる滝となって燦々と日光を弾く。この突発的事態に俺と鍵屋崎はただただぽかんとしていた。地から湧き出たばかりの水は泥で濁っていたが、高く高く高度を上昇させて吹き上がるうちに不純物がろ過され無色透明となり、清く澄んだ流れとなる。
 頭上に降り注ぐ水が頭髪といわず顔面といわず脳天からつま先までびしょぬれにし、乾燥した地面を黒く染めて浸透してゆくさまを絶句して見守っていると遠くから歓声が聞こえてくる。爆発的な歓声だ。青空に透明な膜を張って降り注ぐ滝の向こう、押し合いへし合いながら穴の縁に押しかけたのは各々作業を放棄してはるばる馳せ参じてきた物見高い囚人たち。
 穴の縁に四肢をついてこちらを覗きこんだ囚人たちは満面に喜色を湛えていた。
 東京プリズンでついぞ見たことのない表情。
 希望。
 「水だ!」
 「水が沸いてる!」
 「すげえ、水だ!ホンモノの水だ!!」
 興奮した囚人が看守の制止を振り切り、転げるように先を競って急勾配の斜面をすべりおりてくる。蒙蒙と砂埃の煙幕を蹴立てて穴の底に駆け下りた囚人が天に両手を突き上げ、宿願叶って雨乞いの儀式に成功した原住民みたいに野蛮に踊り狂う。 
 「夢じゃねえよな、水だよな!?」
 「本当に地下水脈あったんだ、井戸沸いたんだ、夢じゃねえよな!?」
 「つめてえ、気持いい―」
 全身に水を浴びて狂喜乱舞する囚人の中には看守と肩を抱き合って涙してる奴もいる。上着を脱ぎ捨て上半身裸で水を浴びるやつ、ちょうどいい機会だとフケのわいた頭をとどまることなく水が噴出する源に突っ込んで洗い出すやつとさまざまだ。盛大に頭皮をかきむしり気持良さそうに身悶える囚人をよそに、偶発的事故で水源を掘り当てた俺と鍵屋崎だけがわけもわからず取り残されていた。
 無数の水滴を撒き散らし、絶え間なく顔面を叩く水に目を凝らし、透明な膜が張った青空を仰げば虹が架かっていた。
 燦然と輝く綺麗な虹。東京プリズン収監以来、虹を目にするのはこれが初めてだ。
 両手に水をひとすくいし、口を付け、下品に喉を鳴らして飲み下す。
 「好吃!」
 美味い。口を湿らし喉を潤し食道を下る水。喉越し爽やかな清涼感が全身の細胞に染み渡り活気と生気が漲る。湿りけをおびた口を手の甲で拭い、懲りずにさしだした両手にあふれんばかりに水を受ける。なみなみと張られた水面がきらめく陽射しを反射して小さな虹を宿す。
 ふと隣を見れば鍵屋崎が見よう見まねで水をすくい、口を付けて啜っていた。
 「まずい。鉄分が多すぎる」
 「じゃあ飲むな」
 言葉に反し、鍵屋崎は二度三度と水をすくっては夢中で口を付けていた。両手に汲んだ水に口を付け、美味そうに喉を鳴らして飲み下す。隣で喉仏が上下するさまを眺めながら俺も何度となく水を飲む。
 周囲では上半身裸の囚人が発狂したように咆哮して踊りまくってる。
 狂乱の坩堝と化した穴の底で遠い青空と中央に架かった虹を見上げながら、ぽつりと呟く。
 「無駄じゃなかったんだ」
 今までずっと思ってた、井戸なんか沸くもんかと、水なんか沸くもんかと。
 俺たちがやってることは無駄だと、無意味だと。 
 でも実際に水が沸いた。班の連中から村八分にされてる俺が、台湾と中国の汚らしい混血と馬鹿にされて唾を吐きかけられてるこの俺が掘り当てたんだ。そりゃ大部分は偶然の産物だけど、それでも俺が掘り当てたことには変わりない。
 今までやってきたことが、一年半かけてイエローワークでやってきたことがやっと報われたんだ。
 報われないことだらけの俺の人生だって、たまには当たり目をだす。
 「パンドラの箱を開けたな」
 振り向く。たった今沸いたばかりのオアシスの水で喉を潤しおえた鍵屋崎が手の甲で口を拭い、遠い目をして呟く。
 「パンドラの箱とはギリシア神話に登場する、神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた女性パンドラが開けた箱のことだ。壺とする説もある。プロメテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは人類に災いをもたらすために「女性」を作るよう神々に命令した。ヘパイストスは泥から彼女の形をつくり、パンドラは神々から様々な贈り物を与えられた。アフロディテからは美を、アポロンからは音楽の才能と治療の才能を、と言った具合に。そして神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱を持たせ、さらに好奇心を与えてプロメテウスの元へ送り込んだ。そしてある日パンドラはついに好奇心に負けて箱を開いてしまう。するとそこから様々な災いが飛び出し、パンドラは慌ててその箱を閉めるが、既に一つを除いて全て飛び去った後だった」
 メガネのレンズに付着した水滴を神経質に親指で弾き、綺麗に拭い去ってから鼻梁にかける。
 水にぬれて額にはりついた前髪を鬱陶しげにかきあげながら、鍵屋崎が俺を見る。
 一抹の猜疑心を宿した翳りある目。
 「最後に残った一つが『希望』だ。以来、人間がさまざまな苦難に見舞われても生き抜くことができたのは希望を失わずにいられたからしい」
 いくら頭が悪い俺でも鍵屋崎が言わんとしてることは漠然と察しがついた。
 絶望の中に紛れ込んでいた一粒の希望を掴んだとき、人間はどうなる?
 不毛の砂漠に水が沸いたように、懇々と沸いた水が乾いた砂を潤して地に浸透してゆくように。
 水が生命の糧となるように、希望が生命の糧となるなら、俺たちだってもうしばらくは生きていけるんじゃないか?
 周りの囚人が馬鹿みたいに奇声を発して踊り狂ってるのは水が沸いたのが単純に嬉しいからだけじゃない、自分たちが汗水たらしてやってきたことが決して無駄じゃないと今この瞬間に立証されたから、絶望しかないと思い込んでた不毛の砂漠で砂の底の底に埋もれてた希望を発見したから。
 
 東京プリズンに「希望」があるなんて、俺だって今この瞬間にはじめて知った。

 「本当にそうだろうか」
 「?」
 意味深な呟きにぐっしょり濡れそぼった髪をかきあげる。
 頭を振って水滴を散らしながら改めて鍵屋崎を見れば、見てるこっちが不安になるような思い詰めた顔をしていた。 
 「箱の底にあるのは本当に希望なのか?」
 空には虹が架かってるのに。
 水は懇々と沸いて枯れることがないのに。
 なんで鍵屋崎は、こんな暗いまなざしをしてるんだ?まるでこの水が泥水で、希望が紛い物で、箱の底に残ってたのが希望じゃなくて、もっと他の―……
 ゆるゆると顔を上げた鍵屋崎が、ひとの心の奥底まで見透かすような、ぞっとする眼差しをむけてくる。
 「箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?」
 鍵屋崎の台詞を「考えすぎだ」と鼻で笑い、手ですくって水を飲む。
 こんなに水が美味いものだったなんて初めて知った。
 

                              +



 歓声は止まない。
 イエローワークの砂漠に水が沸くなんて東京プリズン始まって以来の椿事らしく、今日ばかりは無礼講、喜び勇んだ囚人がシャベルを投げ捨てて我先にと今や小規模の泉と化した穴底の噴水へと殺到しても看守は目くじらをたてない。看守自身驚いてるのだろう、不毛の砂漠に水が湧き出たことに。他でもない、囚人を指揮してポーズで地図を広げてる看守自身がいちばん地下水脈の存在を信じてなかったのだ。自分たちがやってることが無駄じゃない、骨折り損のくたびれもうけじゃなかったんだと立証された囚人が喜色に頬を紅潮させてお互い肩を叩き合ってる。中には看守を交えて円陣を組んでる奴もいる、きっと囚人を虐待したりない人望厚い看守だったんだろう、「よかったなあ、よかったなあ」「お前らのやってたこと無駄じゃなかったんだなあ」と塩辛い涙と鼻水を垂れ流してもらい泣きしている。
 泣きっ面の大人と泣きっ面の囚人が、頭から水を被って全身びしょぬれになるのにも頓着せず、これまでの苦労を遠い日の思い出話にすりかえ、気安く肩を叩きあってる現場をそっと後にする。
 俺にはまだやることがある。 
 思案げな面持ちで噴水のそばに立ち尽くす濡れ鼠の鍵屋崎を残し、斜面をよじのぼる。斜面を八分目まで上って背後を振り返りまだ虹が出てるのを確認する。東京プリズンで初めて目撃した虹だ、瞼を閉じてもいつでも思い出せるように鮮明に目に焼き付けとく。貧乏人根性丸出しで虹を凝視し、燦然たる七色の輝きを網膜に転写してからパッと背中を翻す。一気に加速して急斜面をよじのぼり、六班の持ち場へと駆け戻る。
 「砂漠にオアシス誕生」の一報は稲妻の如く六班にももたらされたのだろう、ちんたら穴掘ってる場合じゃねえと血相かえた囚人と途中何度もすれ違う。
 「あっちの大穴に水わいたってよ!」
 「マジで!?本当に地下水脈なんてあったんだ、デマじゃねえだろうなそれ!」
 「デマじゃねえよ、ちゃんとこの目で確かめてきたんだ!お前も早く来い、ついでに頭洗っちまおう!」
 「すげえ、本当に地下水脈なんてあったんだ!すげえすげえ!」
 貧困な語彙を総ざらいし、全身打ち震えるような喜びと驚きを表現する囚人と何人もすれ違い鼻高々になる。疾風の勢いで俺のよこを走り抜けてく囚人の首ねっこ掴まえて「俺が掘り当てたんだぜ」と手当たり次第に吹聴したい気分だがみっともないから我慢する。それでも適当なやつの首ねっこをとらえかけた指を引き戻すのに最大限の自制心を発揮した。
 最高に気分がいい。
 盆と正月がいっぺんに来たような、という比喩が正しいかどうかわからないがとにかく爆発したような浮かれ騒ぎっぷりで、先を競うように噴水そそりたつ狂乱の坩堝へと身を投じてゆく囚人を尻目に六班の持ち場に到着。先刻鍵屋崎と口論してた地点に腰を屈める。
 あった。砂の上に放置されてたのは柄がとれかけたシャベルが二本。
 本来俺に課せられた仕事はコイツを物置小屋に運び新しいのと取り替えてくることだった。偶然井戸を掘り当てた喜びと驚きですっかり忘れかけてたが、シャベルの交換を忘れて持ち場に戻って班の連中に嫌味を言われ、せっかくのいい気分を台無しにされてはたまらない。
 赤錆の浮いたシャベルを脇に抱え、プレハブ造りの物置小屋に急行する。
 砂に足跡の窪みを残して物置小屋に到着、シャベルのせいで両手がふさがってるから行儀悪く戸を蹴り開ける。引き戸の隙間に片足をもぐりこませて中に入れば埃っぽい空気が充満していた。中は薄暗い。物置小屋には窓が一つあるだけ、天井近くに位置する小さな窓だけで採光はよくない。
 中古のシャベルを手近の壁にたてかけ、そばに転がってた新品のシャベルを脇に手挟む。これを持ってけば俺の用事は完了、班の連中から嫌味を言われることもないだろう。天井近くの窓から射した陽射しが大気中に埃を浮かび上がらせるなか、シャベルさえ確保すりゃこんな辛気臭いところに用はねえと踵を返しかけ……

 体に電流が走った。

 戸口を塞ぐように仁王立ちする大柄な影。胸に輝くのは主任看守の証の金バッジ。
 逆光で黒々とぬりつぶされた体躯がぬっと前に歩み出て、陰湿かつ陰険な性根が透けて見える醜い素顔が暴かれる。
 俺の天敵のタジマだ。
 何でタジマがこんなところにいるんだ?
 疑問が顔にでたのだろう、酒焼けした赤ら顔に酷薄な笑みをたたえたタジマが壁際に追いつめられた俺のもとへ大股に接近。地面に転がったシャベルの山を突き崩しセメントの袋を踏んで白茶けた煙を舞い上がらせ、ふてぶてしいくわえ煙草でこっちに歩いてくる。
 「………」
 壁にへばりついた格好でキッとタジマを睨む。
 「そんな怖い顔すんなよ」
 「何か用か」
 いつものタジマなら俺がタメ口きいた時点で激怒して腰の警棒を振り上げるはずなのに今日は違った。 
 薄暗いプレハブ小屋の中、5メートルが3メートルに、3メートルが1メートルに、1メートルが50センチにと次第に差が縮まってくる。俺のすぐ手前で立ち止まったタジマが道化たしぐさで肩をすくめる。
 「もうすぐ一年半になる長い付き合いだってのにつれねえな、お前をねぎらいにきてやったんじゃねえか。聞いたぜ、井戸掘り当てたって。口ばっか達者な親殺しとふたり、嫌われ者同士協力してほかの連中見返してやったんだろ?よかったじゃねえか、おめでとう」
 言葉とは裏腹にタジマの声には微塵も称賛の色など含まれてなかった。野太い濁声に含まれているのはとことんひとを馬鹿にしたあくどい嘲弄の響き。何考えてんだコイツ?引き戸までの距離を目測で計算し、脱出不可能だと悟る。シャベルを放り出して逃げようにも引き戸はタジマの背後、タジマのよこを走りぬけざまに襟首掴まれて引き戻されるのは目に見えてる。
 腰に手をついたタジマがスッと目を細め、じろじろと俺の上半身をねめつけている。
 粘着質な視線に肌が粟立ち、反射的に二の腕を抱く。頭から水をかぶってびしょぬれになった上着が素肌に張り付いて肌色が透けて見える。肌に密着した上着越しに二の腕から胸板から、糸を吐くようにヘソへと下降した視線に情欲の火照りを感じ屈辱で頬が熱くなる。
 「いい格好だな。脱いで乾かしたらどうだ」
 「……太陽の下で働いてりゃそのうち乾く」
 ぐっと顎を引いて虚勢を張る。タジマの思惑に嵌まってたまるかってんだ、短絡的な変態が考えてることなんてお見通しだ。二の腕を庇うように抱いた俺を不躾に眺めていたタジマが無造作に歩を詰め、胸板が触れ合う距離にまで巨体が迫る。
 喉が異常に乾く。
 ここは密室、逃げ場はない。現在物置小屋にタジマとふたりきり、助けがくる気配もない。
 この状況でタジマが手を出してきたらひとたまりもない。
 殺られるか犯られるか―……究極の二択に足もとが崩れ落ちるような絶望感を味わう俺の目を威圧的に覗きこみ、ヤニくさい歯を剥いてタジマが笑う。
 頬の皺の皺、その一筋一筋に生命あるミミズのように精気が漲った淫猥な笑み。
 「前から聞きたかったんだが」
 俺の胸板をはいまわっていた視線がツとすべりおち、脇腹に集中。反射的に脇腹をおさえた俺の反応に溜飲をさげ、壁に片手をついた前傾姿勢でタジマがささやく。
 「脇腹の煙草のやけどの痕、だれにやられたんだ?」

 『面白いでしょうその子。声あげないのよ』

 頭が真っ白になった。
 「………、」
 吐き気をもよおさせるタジマの笑顔、分厚い唇にはさんだ煙草、先端には橙色の炎。
 炎。ジジジ、と爆ぜる煙草の火。
 「ずいぶんまえになるがな、お前がイエローワークに来た最初の日に服脱がしたことあるだろ。覚えてるか?」
 「……ああ」
 やっとそれだけ、絞りだすように言う。忘れるわけがない。上半身裸で灼熱の砂漠に立たされて背中を真っ赤に焼かれて、生きながら火に焼かれる地獄の責め苦を忘れるわけがない。
 「あの時気付いたんだ。立たされてるあいだずっと脇腹を手で押さえてたろう?で、なにか隠してるんじゃねえかって警棒で払いのけてみたら案の定だ」
 くつくつと喉の奥でタジマが笑い、背中に冷水を浴びせ掛けられたような戦慄が殺到してくる。唇を噛んで俯いた俺を中腰の姿勢で覗きこんだタジマがアルコール臭い息を吐きかけてきて、たまらず顔を背ける。眉をしかめたのが気に食わなかったのか、顔を背けたのが癇に障ったのか、タジマの片頬が不快げにひきつる。指の間に煙草を預けたタジマがおもむろに腕を振り上げ、
 ジュッ。油に一滴水をたらしたような音が、耳のすぐ下で生じる。
 条件反射で体が強張る。ちょうど耳朶の真下に握り潰された煙草の余熱を感じる。あと2ミリ上にずれていたら俺の耳朶には焦げ穴ができてた。固く閉じていた目をおそるおそる開けば、横手の壁で煙草を揉み消した前傾姿勢でタジマが見下ろしている。
 「煙草の火が怖いか?」
 「………………まさか」
 虚勢で笑う。口角が不自然に痙攣したのがばれなければいいのだが。べつに煙草が怖いわけじゃない、俺だって煙草を吸う。
 怖いのは平然と、声をあげないからと、声を我慢するさまが面白いからとひとの体に煙草を押し付けてくる人間だ。
 タジマのように。だれかのように。
 全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。体中の血が蒸発しそうだ、圧倒的恐怖に理性が虫食まれて思考が散らされそうだ。だめだ、出てくるな、思い出したくない。あんなことは思い出したくない、思い出すな―――
 『かわいげないでしょうその子。泣きもしないのよ』
 「冗談だ」
 タジマがパッと離れる。こっちがあ然とするくらいあっけない幕切れだった。が、タジマの顔に浮かんでいるのは冗談にしてはタチが悪すぎ、本気にしてはにやけすぎた、どっちつかずの歪んだ笑み。
 壁際に俺を押さえ込んでいたタジマが大儀そうに上体を引く。背骨が引き抜かれるような脱力感が温水の安堵に変じて体中に染み渡る。
 情けないが、たったあれだけで、煙草の火を押し付けられると勘違いしただけで腰が抜けそうになった。
 壁を背にしてずりおちかけた俺を小馬鹿にするように鼻を鳴らし、指先からこぼれ落ちた吸殻を靴裏で揉み消し、タジマが底抜けに明るい声で話題を変える。
 「明日は新規部署発表だな」
 「?」
 急激な話題転換についていけない。目に疑問符を浮かべてタジマを仰げば、何が楽しいのかわからないがにやにやと笑っていた。
 無意味な砂遊びに熱中するガキのように吸殻に砂を蹴りかけながら、熱に浮かされたように陽気に弾んだ口調でタジマが言う。鼻歌でも歌いだしかねないご機嫌な様子で。
 「喜べロン、一年半コツコツやってきたことが報われるんだ。今までイエローワークで勤め上げてくれてご苦労だったな、おまえがいてくれたおかげで退屈しなかった」
 「どういう、ことだよ」
 まるで俺がイエローワークからいなくなるみたいじゃないか?
 不吉な予感に胸が締め上げられる。イエローワークから解放されて他部署に転属になるというなら話はわかるが、何故タジマが俺の栄転を喜ぶんだ?俺を殴るのが三度の飯より好きなタジマがなぶり甲斐のある獲物をそうやすやすと手放さすはずがないのに。
 「明日のおたのしみだ」
 なれなれしく肩を叩かれ、たたらを踏む。俺の肩を叩いた手をひらひら振り、濁声で哄笑しながらプレハブ小屋をでてゆくタジマ。しわがれ声の余韻が耳に浸透し、俺ひとり取り残された物置小屋に静寂の波紋が満ちる。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
 今頃になり、鼻で笑い飛ばせない実感を伴って耳裏にこみあげてきた鍵屋崎の台詞に不安がいやます。髪に手をやる。水にぬれそぼった前髪を不器用な手つきで撫で付け、寝癖をなおす。服だってまだ乾いてないのに、水けをたっぷり吸って重たく湿ってるのに、希望を掘り当てたのは今さっきのことなのに。
 
 俺は今日、ようやく報われたばかりなのに。
 東京プリズンにくる前もきてからもろくなことがなかった人生もそんなに捨てたもんじゃないって前向きになれたばかりなのに。
 なんでこんな、嫌な予感がするんだ?

 ふとだれかに呼ばれた気がして天井近くの小窓を振り仰げば、虹はもう消えていた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060303073215 | 編集

 今日は散々だった。
 東京プリズンに来てから散々じゃなかった日があるかと問われれば否だが、今日はとくに散々だった。僕は仏滅も大安も、なんら科学的根拠のない迷信じみたこじつけは一切信じない主義だがもし厄日というものが実在するなら今日は間違いなくその日だ。
 まずは朝。
 普段の僕なら犯すはずもない失態を犯してしまったことに目覚めた直後に気付いた。大音量の起床ベルに促されてベッドに上体を起こし、寝る前枕元に置いた眼鏡を手探りでかける。眼鏡を求めて枕元にのばした手が固い物に触れた。何だろう。半覚醒の頭で不審がりつつ眼鏡をかけ、視界を明瞭にする。
 本があった。表紙を開き、僕の片手を挟んだ状態で枕元に広げてあった。
 昨夜の記憶が高速再生される。昨夜僕は消灯後に隠れてこっそり本を読もうとしていた、東京プリズンの就寝時刻は夜九時と厳重に定められているがこの規則を従順に遵守してる囚人はごく一部、もとい皆無。夜九時といえば宵の口、たとえ半日に及ぶ強制労働で心身ともに疲弊していても目が冴えて眠れない囚人は数多い。
 否、正確には皆寝るのが惜しいのだ。
 一旦眠りに落ちてしまえば日中の疲弊も伴って泥のように熟睡してしまうだろう、次に目を開けたら朝、そして始まるのは昨日とおなじ単調な今日、味気ない食事と過酷な強制労働、先の見えない生活の延長。  
 刑務所の囚人は自由に飢えている。自分が自由に使える時間を一分一秒たりとも無駄に浪費せず重宝し、各々の娯楽に当てているのだ。消灯時間が過ぎても実状に変化ない、巡回の看守が囚人が寝付いてるかどうか確認し、納得して去った直後からある者は毛布に隠れて猥褻な雑誌を読み耽りある者は裸電球を灯して同房の囚人と賭けポーカーをし、夜明けが近くなり睡魔に負けた瞼が重く垂れ下がってくるまで辛抱強く起きているのだ。
 僕も例外ではない。
 ごく限られた自由時間しか認可されてない囚人が趣味に徹することができる時間帯は消灯後の深夜と相場が決まっている。自由時間では読みきれなかった本を消灯時間後も毛布に隠れて読み耽るのは今や僕の日常と化している。裸電球の照度を絞り、睡魔に瞼がふさがれるまで活字を追い、きりがいいところで栞を挟んで就寝する。それが東京プリズンに来てから自然発生した僕の一日の終わりの儀式だ。
 が、僕が所属しているのはブラックワークは例外として東京プリズンに存在する三つの部署の中で最も過酷なイエローワーク。炎天下の砂漠で来る日も来る日も井戸を掘り続ける重労働で精神的にも肉体的にも最も消耗がはげしく、過去には一日最高三十人の死者をだしたこともあるらしい非人道的な部署だ。日射病にかかって倒れることも砂漠に生き埋めにされることもなく、無事一日を切り抜けることができた囚人の多くは心身ともに疲労が頂点に達しており、房に帰り着いたその足でベッドに倒れこんで仮死状態と見紛う深い眠りに落ちる。
 くりかえし言うが僕は体力に自信がない。知力ならだれにも劣らない自信があるが体力は平均以下、そんな僕がイエローワーク終了後に図書室と房とを往復して一日一冊のペースで本を消化するのは大変だ。それでも一日一冊のペースで本を読破するのは難しくなかった、外では一日平均二冊本を読んでいたのだ、数量的には減ったのだからその点は問題ない。
 問題なのは睡魔だ。
 以前の僕なら寝る前に読もうとした本を表紙を開いた状態で放置するような醜態を露呈するはずがなかった。しかし実際、昨夜の僕はこの本を読もうとして表紙を開いた瞬間に眠りに落ちたのだ。
 ありえない。一生の不覚だ。
 眠りに落ちた瞬間の記憶はないが、事実、動かし難い証拠として枕元に本が存在している以上否定しようがない。そして僕が昨夜寝る前に読もうと楽しみにしていた本は……
 手塚治虫著、ブラックジャック八巻。
 くれぐれも誤解しないでほしいが、漫画しか読まないような単細胞の怠け者と一緒にされてはたまらない。僕は左脳と右脳とバランス良く活性化させて本を読み活字を消化する、漫画なんて低俗かつ下等な書物、右脳しか使わない凡人が好む退廃した娯楽の産物になどこれまで一切まったく関心がなかったし事実漫画も漫画を好む人種も軽蔑していたのだ。
 東京プリズンに収監されるまでは。
 二ヶ月前、ヨンイルと名乗る西棟の囚人から無理矢理強引に百八十度僕の意向を無視して押し付けられたのがブラックジャック一巻だった。最初僕は固辞した、手塚治虫だか何だか知らないがそんな奇抜なペンネームの、それも没後百年以上になる二十世紀の人間がしるした漫画など興味はないし読んだところでなにも得るものはないと強固に主張したがヨンイルは強引だった。仕方なく不承不承、僕はブラックジャック一巻を借りる手続きをした。気は進まなかったが図書室私語厳禁の規則に違反してヨンイルと押し問答を繰り広げるのも大人げないと賢明な判断を下しただけで他意はなかった、これっぽっちも。  
 それなのに何故か二ヵ月後の現在、僕の手元にはブラックジャック八巻がある。
 ……動かし難い証拠がある以上認めざるをえないだろう。ああそうだ、僕はまんまとヨンイルの策略に嵌められた。僕を漫画などという低俗かつ下等な書物に耽溺させて自分とおなじ凡人の地平まで堕落させようという悪魔の如く狡猾なヨンイルの思惑に誘導されて。
 内心忸怩たるものがないではないが、実際面白いのだから仕方ない。
 否、ただ「面白い」では語弊がある。「素晴らしく面白い」のだ。一巻を読み終えた時の感動は今でも鮮明に思い出せる、世間にこんな面白い本があったのか、死について生について命についてそれらを内包する現代医学について、極論すれば人という種について、人類の永遠の命題にこんな斬新な観点から挑んだ書物があったのかと蒙を啓かれた。
 以後、僕は人目を盗んで足繁く図書室に通っては手塚治虫著の漫画を借り続けた。一巻、二巻、三巻、四巻、五巻、六巻、七巻……そして八巻目。一度借りた本は最低でも三回読み返すのが僕の流儀だ。昨夜もその流儀に則って三回目の再読に入ろうとしたのだが、表紙を開いた瞬間睡魔に襲われて挫折した。 
 しかし、天才は一度こうと決めことをとりやめたりはしない。
 二ヶ月前の一件を契機に、僕はサムライと一緒に食事をとるようになった。サムライと同席するということは必然的にロンやレイジと同じ机になるわけだが、今日は故あってひとりで食事をとりたいと固辞した。サムライは特に異論を唱えることなく「心得た」と承諾してくれた。その方面ではサムライは非常に淡白な人間だ、なぜひとりで食事をとりたいのか不審に思ったとしても口には出さず、個人の意向を尊重してくれる。

 サムライは多分、一応、認めたくはないが、僕の友人……なのだろう。

 曖昧な表現を採用せざるをえないのは東京プリズン入所から半年が経過した現在でも、主観的にはともかく、客観的には僕とサムライが友人関係に映るという確信がもてないからだ。
 確かに下水道の一件から僕らは一緒に食事をとるようになったし、お互い無言でいることが多かった自由時間も他愛ない雑談をするようになった。でも、目に見える変化といえばそれくらいで「他に何が変わったのか」と問われれば答えに詰まる。
 何かは確実に変わったのだが、その「何か」は日常水面下に潜んでいて可視の範囲に浮かんでこないのだ。
 だから他人から見た僕とサムライは以前とおなじ、特別親密な間柄になったわけでもなければ距離が縮まったわけでもなく、無表情な人間がふたり、同じ空間と時間を共有し、それでも互いに無関心に違うことをしてるように映るのだろう。
 ただ、サムライの存在を煩わしいと思わなくなったのは事実だ。
 背中越しに感じる体温と気配に免疫ができた、とでも言えばいいのだろうか。サムライの存在が日常に溶け込んで、僕の生活の一部となって、僕に不可欠な人間になって、接触の嫌悪も解消されて。

 「居心地がいい」と言えば語弊があるが、サムライのそばにいるとリンチやレイプを警戒して始終張り詰めてる神経が緩むのも事実だ。
 それが「居心地がいい」ということなら、否定できない。

 話が脱線したが、僕は今日ひとりで朝食をとった。
 昨日読み損ねたブラックジャック八巻を膝に広げ、食事の片手間にページをめくりながら。
 もし食事中漫画を読んでいるところをレイジに目撃されたりしたら「キーストアってば口ではいやがってたくせに今じゃすっかり手塚ファン?」とかなんとかチェシャ猫のような笑顔でからかわれるに決まってる、だから今日は、今日だけは彼らから離れたテーブルで食事をとっていたのにロンにはしっかり見られていた。
 それを知ったのはイエローワークの強制労働中で、ロンとふたりで井戸掘りの任に就かされたとき本人の口から証言を得たのだ。レイジと違ってひとの嫌がることはしないロンのことだ、まさか僕が、IQ180の天才たるこの僕が食事中に漫画を読んでいたと他の囚人に暴露したりはしないだろうが……確信はない。
 しかし、ロンから言質をとらないうちに第二の災難に見舞われた。
 砂漠に井戸が沸いたのだ。
 結構なことだ、と他人事のように言わないでほしい。他の囚人にとってはなるほど結構なことだろう、無駄で無意味だと身の上を悲観していた長年の苦労が報われたのだから。しかし生憎とイエローワークに配属されてから半年、生来の体力の無さと宝の持ち腐れと化した知能指数が災いして砂漠での井戸掘りに労働の喜びを見出せずにいた僕には文字通り降って沸いた災難でしかない。
 「すげえ、水だ!」「ほんとに沸いた!」「うめー」と上半身裸で狂喜乱舞する囚人たちをよそに、間断なく水が降り注ぐ穴の底で頭髪といわず服といわず全身びしょぬれになった僕は閉口した。確かに水が飲みたいと言ったが、その二十秒後に現実になるとは……運命の皮肉なのか偶然の悪戯なのかは知らないが、試しに飲んでみた水には鉄分が多く含有されすぎていた。まあ、衛生面では全く信用ならない東京プリズンの水道水よりマシだろうが。
 
 そして強制労働終了後。

 水を吸って不快に湿ったスニーカーが足を踏み出すたびにぬれた音をたてる。本来なら房に直帰して夕食開始まで待機してる時間帯だが、ぐっしょりぬれたスニーカーを乾かさないことには不快指数が上昇する一方で我慢できない。分厚いコンクリート壁で四方を密閉された房は通気性に優れてるとはいえず、明日の強制労働に支障がでないよう取り急ぎスニーカーを乾かすためには風がとおるところ、屋外にでなければ。
 展望台だ。
 以前僕の天敵―クロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科―が房に出没し、危急の措置として展望台に一時避難したことがある。だから展望台への行き方は頭に入ってる、入り組んだ路地も階段の位置も完璧に記憶している。 
 途中何人かの囚人とすれちがい、階段の踊り場に到着。
 ガラスが除去された素通しの窓枠を跨ぎ、展望台に降り立つ。折から吹いた風がしっとり湿った髪をかきまぜ、黄昏の空へと還ってゆく。眩く乱反射する残照に目を細め、展望台の先端に歩む。昼から夜への過渡期、夕方特有のなまぬるい風が生渇きの上着の裾をはためかせる。展望台の先端でスニーカーを脱ぎ、裸足になる。裸足の足裏にコンクリートのざらついた質感を知覚、少しでも気を抜けば踵まで砂に埋まってしまう砂漠とは対極の水平面の安定感。
 スニーカーの踵を揃え、縦方向に置く。一寸の狂いもない完璧な角度に満足する。腕組みして踵を揃えて脱ぎ置いたスニーカーを見下ろしていたら空から吹いた強風が前髪を舞い上げ、よろめく。
 その拍子に踵がスニーカーに接触、瞬く間に一足が落下。
 「……………」
 展望台の先端に四肢をついた間抜けな姿勢で地上を覗きこむ。僕の手をむなしくすりぬけていったスニーカーは展望台の真下の地面に物寂しく転がっていた。
 僕としたことが、なんて失態だ。 
 底意地悪い囚人に隠されるまえに拾ってこなければと踵を返しかけ、展望台にもう一足を放置してあったことを思い出す。片方のスニーカーを右手にぶらさげ方向転換、階段を駆け下りて中庭に到着。
 黄昏の中庭には強制労働を終えた囚人が三々五々散らばっていた。
 肉体労働で疲弊した様子もなくエネルギッシュな歓声をあげ、白線の陣地の内側でバスケットボールを取り合っている。白熱した試合風景を横目にスニーカーの落下地点に急ぐ。あった、あれだ。幸いまだ持ってかれてなかったらしく、砂利まじりの風にくたびれた靴紐をそよがせている。
 右手に片方のスニーカーをぶらさげて慎重に落下地点に接近、五歩、四歩、三歩と距離を縮め……
 目の前でスニーカーが消失した。
 「!」
 反射的に顔を上げる。
 僕に悪意を持ってる囚人がスニーカーを持ち去ろうとしたのではないかと疑ったが紀憂だった。いや、しかし事態が好転したわけではない。僕自身の過失で転落したスニーカーを所在なげに片手に掲げていたのが見知らぬ看守だったからだ。
 アルコールの過剰摂取で黄色く濁った覇気のない目と剃刀であたった形跡のない無精髭、ろくにアイロンをかけた痕跡もない色の抜けた制服。
 東京プリズンには二種類の看守がいる。
 囚人を虐待する看守と虐待しない看守だ。前者の筆頭がタジマで、生意気な囚人をいたぶるのが生き甲斐だと豪語してはばからない唾棄すべき人間だ。後者の看守はごく少数だが皆無でもない、東京プリズンに送り込まれた囚人の中には貧困や家庭の事情からやむなく犯罪に手を染めた者もいる、経済的にも情緒的にも恵まれない少年期を過ごした囚人に同情的な態度をとる看守もいないわけではないのだ。
 目の前の男がどちらか見極めようと、1メートルの距離を維持して仔細に観察する。
 櫛を通すのもわずらわしければ整髪料で撫で付けるのも億劫だったのだろう、ちらほらと白髪の混ざり始めた黒髪には根強い癖が付いているが存外顔は若い。第一印象では四十路と錯覚したが、よく見れば頬は精悍に引き締まり、色褪せた制服に包まれた四肢にも無駄な贅肉はない。実年齢は意外と若いかもしれない。
 …とすると、あれは若白髪か。
 などという呑気な感想は、脳の奥で膨張した違和感に圧倒される。今日が初対面だとばかり思い込んでいたが、以前どこかで見たような気がするのだ。いや、東京プリズン内を我が物顔で練り歩いてる看守の群れの中に一方的に見出したというわけではなく、以前どこかで会ってはっきりと会話を交わした確信さえある。
 あれはそう、半年前―
 
 『そのへんにしておけ』
 耳によみがえる声。
 『お前さん知らねえのか。その小僧はVIPだぜ。丁重に扱わねえと上からお叱りを受ける』
 『万一そいつの頭をぶん殴ってみろ。IQ180の超高性能の頭脳がイカレちまったら、お前、どう責任とるつもりなんだよ?』
 やる気なさそうな声に付随して浮上するのはさまざまな断片、気だるそうにハンドルを握るくわえ煙草の横顔、眠たそうな半眼。
 見覚えがあるはずだ。 
 半年前、ジープの荷台に僕を乗せてはるばる東京プリズンまで護送してきた運転手じゃないか。

 「この刑務所の人材不足は深刻だ」
 「?」
 声に反応した看守が、今はじめて僕の存在に気付いたといわんばかりにゆるやかに振り向く。半年ぶりの再会だというのに心弾むものがなにもないのは看守と囚人という明確な上下関係故だろうか。警戒を解き、無防備に看守に歩み寄りながら続ける。
 「僕を護送してきた運転手が半年後の現在、看守の制服を着てる理由を聞きたいですね」
 彼の名前は何だったろう。
 不審げなまなざしを僕に注いでる看守の前で立ち止まり、半年前、拘置所の囚人搬送用裏口からジープの荷台に搭乗したときに紹介された名前を思い出そうと目を閉じ―
 目を開く。
 「五十嵐さん」
 僕のスニーカーを片手にぶらさげた間抜けな格好で立ち尽くしている冴えない中年男性の名前は、五十嵐。
 僕をこの地獄に送りこんだ張本人だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060302073326 | 編集

 「はだしで嫌味言われても説得力ねえ」
 あきれたように指摘され、コンクリートの中庭に裸足で立ち尽くしている自分というこの上なく間抜けな状況を思い知らされる。失態を繕おうと手に持ったスニーカーを地面に投げ落とし踵をくぐらせる。摩滅したゴム底でコンクリートの地面を叩き、有無を言わさず五十嵐へと片手を突き出す。
 「返してください」
 無言で自分の手元を見下ろした五十嵐がまじまじと僕の顔を見る。
 「おまえのか?」
 「この状況下で僕以外の私物と断定する根拠はないはずですが」
 「上から降ってきたんだよ」
 「干してたんです」
 「ああ」
 つられるように展望台を仰いだ五十嵐が僕へと向き直り、しみじみと呟く。
 「イエローワークの砂漠に井戸沸いたんだってな。……ってことは井戸掘り当てた六班の親殺しってのはお前か、やっぱり」
 「正確には僕じゃありません、井戸を掘り当てたのはロンです」
 「ロン?ダチか」
 僕の片手にスニーカーを預けながらさして興味もなさそうな口ぶりで訊いてきた五十嵐の前で生渇きのスニーカーを履き、そっけない横顔で応じる。
 「どこからそんな発想がわいてくるか理解しがたいですね」 
 スニーカーに踵をもぐりこませて顔をしかめる。水を吸って膨張したスニーカーの内側が白くふやけた足全体を陰湿に圧迫してくる。大量の水分を吸収したせいでぐっしょり重くなったスニーカーの底を二度三度、苛立ち紛れに地面に叩き付ける。明日の強制労働までには乾くといいのだが……悲観的な未来予想にうんざりした僕を現実に戻したのは五十嵐の声。
 「ひさしぶりだな」  
 顔を上げる。疎遠になっていた十年来の友人に同窓会で再会し、その変貌ぶりに絶句したように五十嵐は言う。不器用な口調にもましてその心中を代弁していたのは表情。四十路にかかるか否かという男盛りの年齢で早くも生活に疲れ始め、やさぐれた哀愁をただよわせている横顔におそらくは彼本来の資質なのだろう、看守が囚人に対する態度には不似合いな親身な同情の念を湛えている。
 「半年も経つのによく覚えてたな」
 「僕は天才ですよ。一度聞いた名前を忘れるわけがない」
 そうだ、完全に思い出した。
 僕と対峙した男の名前は五十嵐、僕とリュウホウとダイスケを護送車の荷台に乗せ、丸一昼夜をかけて東京プリズンに連れてきた運転手だ。下の名前は省略されたからわからないが、珍しい苗字だなと妙に関心したから初対面の印象は強かった。護送中に五十嵐と交わした言葉は数えるほどしかないが、囚人の監視目的で荷台に同乗した看守が横暴かつ粗暴なタイプで道中たびたび僕らに暴力をふるっていた。気まぐれに警棒で殴打されても僕を含む囚人は反抗しなかった、そんなことをしても無駄だという諦観が痣が増えるごとに皮膚に馴染んでいったから。
 殴打された皮膚が鬱血し青黒い斑点にむしばまれてゆくように、ひとつ痣が増えるごとに皮膚の下を絶望の皮膜が覆っていった。その皮膜は強力な弾性があって、警棒で一回殴打される毎にさらに厚みと弾力をまして全身を覆っていき、今や僕の体の一部として吸収されてしまった。
 だが、五十嵐は違った。逆上した看守が十何回目に警棒を振り上げて僕を殴打しようとした瞬間に口を開き、
 『そのへんにしておけよ』
 あくびまじりの皮肉げな口調でやんわりと制止したのだ。
 そのことを感謝してるわけではないが、半年が経過した今、弱肉強食が至上の掟として認知された東京プリズンの過酷な環境にある程度順応した半年後の今になって当時の運転手と再会を果たしたことに悪趣味な皮肉を感じずにはいられない。
 「元気だったか?」
 他に気の効いた台詞を思い付かないから無難に常套句を吐いた、といったなげやりな風情で五十嵐が水をむけてくる。看守の世間話に付き合う趣味もなければそんなおおらかな気分でもないが、一方的に僕ら囚人に同情を寄せてるらしい看守を無視するのも大人げない。仕方なく、口を開く。
 「元気に見えますか?僕が」
 「まあまあ、な」
 「東京プリズンじゃ現在進行形で生きているだけで元気な部類に入るんでしょうね」
 五十嵐が少し笑う。僕は無表情。
 「一緒に来たふたりはどうした?」
 僕と一緒にジープの荷台に乗せられていた囚人ふたりの現在に関心を持ったのだろう、回顧的な郷愁を伴う世間話の延長、なにげない調子で消息を問うてきた五十嵐をまっすぐに見る。
 眼鏡越しの視線の透徹した硬度に気圧されたか、上下関係の距離が存在しない笑みを浮かべた五十嵐の表情が動揺に崩れる。
 「死にました」
 眼鏡のブリッジを押し上げ、無感動に答える。五十嵐の顔が驚愕に強張り、救い難く痛々しいまなざしが僕へと注がれる。同情のまなざしを避けて顔を背け、努めて無表情に、何の感情も窺い知れない平板な声を出す。
 「リュウホウは自殺です。房で首を吊りました。ダイスケはリンチで……」
 「そうか」
 深々とため息をつき、五十嵐が首を振る。
 「生き残ったのはひとりだけか」
 『生き残り』。好きになれそうにない呼称だ。さりげなさを装って話題を変える。
 「ここでなにをしてるんですか?」
 「バスケットボールの審判を頼まれてな」
 五十嵐が顎をしゃくった方角をつられて見れば、過酷な強制労働でも搾取できない体力を持て余した囚人がはげしくぶつかりあい、両陣営の間をめまぐるしく行き来するバスケットボールをめぐって熾烈な争奪戦を展開していた。
 驚いた。
 東京プリズンにバスケットボールの審判を頼まれるような、また、囚人の頼みを気安く引き受けてくれるような看守がいたなんて。
 驚きに打たれた立ち尽くした僕が横顔に視線を感じて振り向けば五十嵐が妙な顔をしていた。動揺を見抜かれたようでばつが悪い。咳払いして五十嵐に向き直り、会話の軌道修正を図る。
 「前述の質問に対する答えがまだです」  
 西空を染める茜色の夕日がコンクリートの地面に長々と影を刷き、中庭に面して聳え立つ東棟の威容を際立たせる。
 収容人数増加の一途に伴い拡張と増築を繰り返し年々巨大化して行った東棟は内外問わず複雑な構造をしている。コンクリートの無機質かつ殺風景な外観を印象付けているのは階層毎に外壁に並んだ窓だが、粗暴な囚人が窓ガラスを破損したり発狂した囚人が高層階の窓から飛び下り自殺を計ったこともあるため、今ではその全てが手榴弾程度の衝撃では壊れない強化ガラスに交換された。
 展望台への唯一の出入り口として役目を果たす素通しの窓は東京プリズンの窓ガラスが特殊仕様に更新される以前の名残りだが、新たに窓ガラスを嵌め直すことなく放置されてる現況を鑑みれば、展望台が貴重な息抜きの場として機能しているのを知った「上」が故意に見て見ぬふりをしてる可能性が高い。万一展望台の出入り口に強化ガラスを嵌めて封鎖してしまえば暴動が発生するおそれもある、それを忌避した苦肉の策として囚人が展望台に出入りするのを黙認してるのだろう。

 しかし、窓は片側、すなわち廊下の側にしかない。

 囚人の居住房が位置する側には一つの例外もなく窓が存在せず、日常房で過ごす囚人は四囲のコンクリ壁が与えてくる閉塞感に押し潰されそうになりながら生活するしかない。
 凹凸が目立つ起伏に富んだ外観と陰鬱な要塞の威容、夕空を背景に屹立するグロテスクな輪郭の陰影も今では見慣れた日常風景の一部と化している。東棟の建造物が面した中庭を横断して宙空に架かっているのは中央棟へと続く渡り廊下で、僕と五十嵐が立ち話している地点から上空二十メートルほどの場所に在る。
 他に視線のやり場もなし、コンクリートの渡り廊下を眺めながら話を続ける。
 「なぜ護送車の運転手だった貴方が看守の制服に身を包んでるんですか?護送ジープの運転手が看守を兼任するほどこの刑務所の人材不足は深刻なんですか」
 「おれはもとから看守だよ」
 「参った」と言うように五十嵐が両手を挙げる。降伏の意を表明したわけではなく親愛の裏返しのポーズだろう。 
 「ただ、刑務所内でちょっとヘマやらかして謹慎処分をくらってたんだ。それじゃ体面悪いってんで何でもいいから仕事をくれ、雑用でもなんでもいいからココで働かせてくれって副所長にかけあってみたらちょうど護送車の運転手に欠員がでたことも幸いして、三ヶ月間だけ運転手の代役をしてたんだ。免許は持ってるしな、ほら」
 制服の襟元に手をもぐらせた五十嵐が黒皮の免許証入れを取り出し開いて眼前に掲げる。五十嵐に目配せで許可を得て免許証入れを受け取る。くたびれた黒皮の外装、中に入れられていたのは免許証ほかプラスチック製の各種カード類。五十嵐の証言に嘘はないようだ、三ヶ月間の期間限定で護送車の運転手として就任する旨をしるした許可証もあった。
 「無用心ですね」 
 許可証に添付された五十嵐の顔写真を見下ろし、呟く。
 「囚人にこんな貴重品を預けていいんですか?盗まないとも限りませんよ」
 「看守が見てるまえで堂々ネコババ働くような囚人いねえよ」
 とはいえ、不安になったのだろう。一介の囚人に私物を閲覧させている現場を同僚に見咎められてはまずいと、妙によそよそしい素振りで免許証入れを取り返そうとした五十嵐の手に黒皮の外装をのせかけ、止まる。
 写真だ。
 免許証入れをめくっていちばん最初に目に入るところに一枚の写真が挟まれていた。
 女の子の写真だ。
 季節は夏だろう、新緑の若葉茂る公園かどこかで撮られたとおぼしき一枚で、健康的な小麦色の素足にぴったり密着したスパッツを穿き、露出度の高いキャミソールから肩と二の腕をむきだしにしたショートヘアの少女が白い歯を覗かせて活発に笑っている。男の子のように短く切った前髪の下、凛々しい弧を描く眉は若干太く、少しきつめの印象のアーモンド型の目が気が強そうな顔だちに拍車をかけている。溌剌と日焼けした肢体を惜しげもなく晒したボーイッシュな少女の笑顔は、燦々と降り注ぐ夏の陽射しの中、大輪の向日葵のように生き生きと輝いていた。
 「娘さんですか?」
 恵の方が可愛い。
 本音は伏せ、五十嵐の手に免許証入れをのせる。 
 五十嵐の年齢から考えればそれがいちばん妥当だろう、少女愛好趣味の変態性欲者でもないかぎりは。注意してよく見れば口元が少し五十嵐に似ていた。他人に無関心な僕が期せずしてそんな質問をしてしまったのは、写真の女の子がちょうど恵と同じ位だったからだ。
 「ああ。かわいいだろ、カミさん似だ」
 僕から免許証を受け取った五十嵐が愛情深い父親の目で写真を凝視する。かけがえのない大事なものを手中で愛でる、包容力にあふれた優しい眼差し。
 僕の父親を名乗っていた男とは大違いだ。
 ただ、その眼差しの中に一抹の悲哀が、救い難く痛々しい悲哀の色が宿っているように見えたのは錯覚だろうか?
 「何歳ですか?」
 恵は今月で11歳になった。
 写真の女の子に恵の面影を重ね、遠く離れた仙台の小児精神病棟で11歳を迎えた妹の境遇に思い馳せるとやりきれなさで胸が疼く。だから本当に他意はなかったのだ、この質問に。
 免許証入れを手にした五十嵐がゆるやかに顔を上げ、何とも言い難い複雑な色に染め上げられた眼差しで正面のぼくを凝視する。
 「『生きていれば』お前と同じ位だ」
 「………、」
 免許証入れを握り締めた手が白く強張っていた。それでわかった、五十嵐のまなざしを翳らせていた一抹の悲哀の正体が。詳細は知らないが五十嵐は娘を亡くしているのだ、生きていれば僕と同じ年頃の最愛の娘を。
 言葉を喪失し無力に立ち尽くす僕、免許証入れを握り締めて所在なげに立ち竦む五十嵐。一面コンクリートで覆われた黄昏の中庭に大小の影が落ちる。煌煌と西空を染める残照を浴びながら重苦しい沈黙を共有していた僕らを同時に振り向かせたのは。
 爆笑。

 ―「あははははははっははははっははははっ、じゃりん子チエや!!」―

 「「!?」」
 五十嵐と同時に渡り廊下を振り仰ぐ。
 中庭に平行な影を落とす渡り廊下、その半ばの距離から笑い声は聞こえてきた。常識外れにけたたましい笑い声にそれまで試合に熱中していた囚人も手を止めて一斉に同じ方向を見る。敵から奪い取ったボールを中腰の姿勢で抱えた少年の手からボールが転げ落ち、トントンと軽く弾みながら僕と五十嵐の足もとに転がってくる。
 中庭に居合わせた全員が度肝を抜かれて注視している前で渡り廊下の窓がガラガラと音荒く開け放たれ、僕が見知った顔が出現する。
 ヨンイルだ。
 針金のような短髪を立たせ、稚気と凄味とを均等に宿した精悍な双眸をゴーグルで覆った西棟の少年が背骨が折れるんじゃないかと危ぶまれるほど上体をのけ反らせて爆笑している。そして、ヨンイルに肩を抱かれて甚だ当惑しているのは―
 レイジ。東棟の王様。
 「ちょうどええ、ギャラリー揃っとるな。中庭に散ってる連中全員集合、はいこっちに注目!!」
 「んだよヨンイル、肩抱くなよ気色わりいな。俺これから図書室行くんだよ、京極借りるんだから邪魔すんなよ」
 いやがるレイジの肩を抱いて窓枠に片足乗せたヨンイルが笑いの発作で肩を痙攣させながら召集をかけ、異変を察した囚人たちが「なんだ」「なんだ」とざわめきながら渡り廊下の下に群れ集まってくる。中庭の四方から砂糖水の匂いを嗅ぎ付けた蟻のように群れ集まり、小山の人だかりを成した囚人を傲然と顎を引いて睥睨、窓枠に片足かけた姿勢でレイジをギャラリーの眼前に押し出す。
 「コイツ、今俺の腕の中でブスッとふてくされとる東棟の王様の頭に注目!!」
 「なんだよヨンイル、注目させるなら頭よか顔だろ?俺が老若男女問わずモテるからってやっかんで進路妨害すんのもいい加減にしろ」
 涙を流して笑い転げるヨンイルが指さしたのはレイジの頭。
 それを見た囚人は一瞬硬直し、そして。

 地鳴りのような笑い声が大気を震撼させ、物理的な波動に変じてコンクリートの地面を震わせた。
 
 「ぶはははははははっ、あははははははは!」
 「なに、なにあれあの頭!?なにかのギャグ!?」
 「洒落がきついぜ王様」
 「あれ東棟のトップだろ、王様のレイジだろ、ブラックワークの無敵の覇者だろ?」
 「なのになにあの頭、おもしろすぎるぜオイ!!」
 腹を抱えて地面に倒れ陸揚げされた魚のように四肢をばたつかせてのたうちまわる囚人たち、大気を攪拌させ理性を蒸発させる爆笑の渦に包まれた中庭でただふたり平常心を保っていたのは僕と五十嵐のみ。
 ヨンイルに肩を抱かれ、何が何だかわからず当惑しているレイジを一直線に仰ぎ、長い長い沈黙と逡巡の末に疑問を述べる。
 「……………………………………………髪形を変えたのは心境の変化か?」
 食事中は本に夢中になってて気付かなかった。
 「?」
 指摘され、ヨンイルの腕を肩に回した姿勢から片手を掲げたレイジがそっと頭に触れ、異変を悟る。おそるおそる頭を巡っていた手が頭皮をよじのぼり、頭の斜め上で結わえられた髪の一房を掴み。
 「なんじゃこりゃあああああああああ!!!」
 レイジの絶叫が黄昏の中庭に響き渡った。 
 「ひっひっひっ、なんじゃこりゃってそ、ソレじゃりん子チエやろ?似てる似てるそっくりや、小鉄捜してもうたもん」
 「小鉄ってなんだよ、てゆーかじゃりん子チエってだれだよ!?ごく一部の人間にしかわかんねえコアな比喩使うな!!」
 「小鉄は猫や。ええでー小鉄、ええ味だしとる。でもなあ、じゃりん子チエ読むとむしょーに切なくなるんや、テツがじっちゃんと重なってどうにも他人と思えんで……」
 ヨンイルの襟首を掴んで窓枠から突き落としかねない形相で迫るレイジの剣幕から察するに、中庭に居合わせた囚人全員の前で見せ物にされて前代未聞の失笑を買った今の今まで、自分が頭の斜め上で髪を一つに結わえた状態で出歩いてたことにも気付かなかったらしい。 
 お転婆な女の子のような一つ結いを軽快に揺らして出歩いてたレイジに今の今までだれも声をかけられなかったのは頷ける、相手は無敵の強さを誇る東棟の王様だ。どんな奇矯なふるまいをしたところで王様に意見できるはずもない。
 「怒るなレイジ、ほんの冗談や。ジブンだってつっこんで欲しくてネタ仕込んだんやろ」「ネタじゃねえっつの、今気付いたっつの!」と喧喧諤諤、上空の渡り廊下で不毛な口論を繰り広げるレイジとヨンイルをあきれ顔で眺めていた僕はふと空気の変容を感じ、横を向く。

 刹那、戦慄が走った。

 隣の五十嵐が食い入るように渡り廊下を見つめている。
 その横顔に息を呑む。今まさに大気に溶けようとしている残照に禍々しく隈取られ、高濃度で煮詰められた殺意が顔の皮膚の下で沸騰してるのが透けて見えるような凄まじい形相。表情筋は不自然に強張り、唇は一文字に引き結ばれ、忘我の境地で渡り廊下を仰ぐ目には純粋な憎悪が結晶していた。
 まじりけない憎しみ。
 瞬間凍結された殺意。
 五十嵐の視線を辿り、渡り廊下を仰ぐ。開け放たれた窓の向こうに垣間見えた渡り廊下でじゃれあっているのはふたり、レイジとヨンイル。「この漫画オタク、王様を見せ物にしてくれた貸しは高くつくぜ!」「裸の王様がでかい口叩くな、お前はなるほど東の王様かもしれんけど俺は図書室のヌシ、東京プリズンの漫画王やで!!」と五十歩百歩、進歩ない自己主張をしながら取っ組み合っているふたりのうち、どちらを見ているのだろうかと眼鏡をとり、上着の裾で拭ってかけ直し、目を凝らす。
 
 レイジ……………ちがう、ヨンイルだ。 

 五十嵐に凝視されてるヨンイルはそのことにも気付かずゴーグルを奪い取ろうと仕掛けてくるレイジの手をあざやかにかわしながら笑っている。
 何故五十嵐はこんな恐ろしい顔でヨンイルを睨んでいるんだ?
 まるで、これから今まさにヨンイルを殺しに行こうとしてるみたいじゃないか。
 五十嵐の指が軋み、免許証入れを握る手に異常な力がこめられた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060301073432 | 編集
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