ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「犯人はロンだ」
 ふてくされた顔を窓枠にのせたレイジが断言する。
 「なんでだよ、俺アイツに恨まれるようなことなんかしたか?こんな羞恥プレイの辱めを受けてそれ見たことかざまあみろと鼻で笑われるような真似を!!」
 レイジが拳を振り回して断固抗議するたびに頭の斜め上で結わえた髪の一房がじゃじゃ馬の尻尾のようにはげしく跳ねる。それを見た中庭の囚人がさらに笑いのツボを刺激されて呼吸困難に陥る。腹を抱えて地面で七転八倒し、もはや収拾つかなくなった中庭の惨状を忌々しげに睨み、レイジが哀れっぽく頭を抱える。
 大袈裟な演技で悲嘆に暮れるレイジを中庭から見上げ、本人も忘れてるらしい事実を指摘する。
 「毎晩のように貞操の危機に直面していれば熟睡中の同房者に復讐したくなる心理も頷ける」
 「毎晩じゃねえよ、週に二・三回だ」
 結構な頻度じゃないか。
 はじかれたように顔を上げたレイジが自身の名誉に賭けて反論したのにあきれる。僕はロンの友人でもないし彼に親近感を抱いてるわけでもないが週に二・三度の頻度で貞操の危機に陥ってるロンの境遇には同情する。
 「なあラッシ―、見てよこの頭。ひでーと思わない?」
 窓枠にしがみついたレイジが転落せんばかりに身を乗り出しなれなれしく五十嵐に声をかける。横の五十嵐を見れば最前の厳しい表情は払拭され、おどけたような笑顔に戻っていた。自分の頭を指さしたレイジが半泣きの声で共感を求めてきたのに気安く返事をかえす。
 「しょげるな、意外と似合ってるぜ。あとラッシ―と呼ぶな」
 「なんで?五十嵐さんでラッシ―じゃん」
 「相変わらずきみのネーミングセンスは最悪だな。パブロ・ピカソの無意味に長い本名といい勝負だ」
 反省の色など少しもなくきょとんとしてるレイジに閉口する。レイジ限定で「キーストア」という呼称に馴染んだ現在では執拗に訂正する気も起きないが、『鍵屋』崎だからキーストア、などという短絡的で安直な連想の産物としかおもえないセンスの悪いあだ名で呼ばれるのはすさまじく気分が悪い。
 「こちとらくさっても看守だ、ちゃんとさん付けしねーと独居房にぶちこむぞ」
 「うへえ、職権濫用だ。看守がそういうことしていいわけ?」 
 「看守だからいいんだよ」
 上空を横断する渡り廊下と20メートル下方の中庭で気負いなく軽口を叩き合うレイジと五十嵐の姿にあ然とする。東京プリズンの非人道性の象徴として日常怖れられている「独居房」のことを承知で冗談にしている五十嵐にも驚いたが、もっと意外だったのはレイジの「職権濫用」発言だ。もし囚人の冗談を解さない狭量で激しやすい性質の看守が相手だったらレイジはこの一言で最低右腕を折られるか、最悪独居房行きが決定していただろう。
 が、五十嵐はレイジの無礼な発言にも腹を立てることなく、手のかかる子供を見守る教師のように苦笑していた。
 看守らしからぬ人間くさい笑顔だった。
 「なおちゃーん!」
 名前を呼ばれて反射的に顔を上げれば窓を開け放たれた渡り廊下からヨンイルが身を乗り出していた。ゴーグルをひったくろうと左右から攻めてくるレイジの手を軽業師の芸当でかわしながらぶんぶんと手を振っている。断っておくが、ぼくはヨンイルに手を振られるような親密な間柄でもなければちゃん付けで呼ばれるような気色悪い関係でもない。
 「ちゃん付けはやめろ。僕は男だ」
 「見ればわかること口にすな。べつにええやん、男にちゃん付けしても。鉄腕アトムちゃん、とかはおかしいけど」
 「また手塚治虫か?きみは漫画関連の比喩しか使えないのか、語彙に乏しい男だな」
 「へえ、アトムが手塚キャラやってすぐわかったんや?成長したななおちゃん」
 墓穴を掘った。
 まんまとヨンイルにのせられた自分の愚かさを呪いながら唇を噛めば、ひょいと窓枠に腰掛けたヨンイルが宙を足で蹴りながら「そうそう」と話題を変える。
 「お前今ブラックジャック何巻まで進んだ?せっかくなおちゃんのために十巻まで取りおきしてるんや、はよとりにこないと他の囚人にもってかれてまうでー手塚は人気高いんやから」
 なんてことをしてくれたんだ。
 ヨンイルが脳天から発したすっとんきょうな声は大勢の囚人が散った中庭に余す所なく響き渡った。「ブラックジャックを借りたのか?」「あの眼鏡が?」「漫画なんか低脳の読物だって馬鹿にして取り澄ましてたあの眼鏡が?」失笑をはらんだ低いどよめきが鼓膜に押し寄せてきて気が動転する。
 ようやく笑いの発作がおさまり二足歩行が可能になった囚人が不審げなまなざしで頭上のヨンイルと僕とを見比べる。渡り廊下と中庭とをせわしく往復する好奇の視線に耐えかね、今や中庭に居合わせた囚人全員にこともあろうに図書室から漫画を借りた事実が発覚した僕は、努めて平静を装い反撃に転じる。
 「誤解を招く発言は取り消してくれ、きみのような右脳でしか本が読めない凡人と僕を同枠で括るな。だれが漫画なんて速効性の視覚的刺激だけがウリの低俗な書物を借りてまで読むというんだ、わざわざ取りおきなどしてくれずとも結構だ。いいか、僕の愛読書を挙げよう。オーストリアの神経病学者、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの「夢判断」だ。フロイトは知ってるか?」
 「風呂糸?」
 「だろうと思った。いいか、一回しか説明しないからよく聞け。ジークムント・フロイト(1856‐1939)オーストリア・ハンガリー二重帝国に属していたモラビア地方の小都市フライベルク (現チェコのプシーボル) にユダヤ商人の息子として生まれる。4歳のとき一家をあげてウィーンに移住。1881年ウィーン大学医学部を卒業。最も興味を抱いたのは神経疾患である。85年、神経病理学の講師の資格を取得。85‐86 年、約 5 ヵ月間、パリの高名な神経病学者 J.M.シャルコー のもとに留学し催眠を研究するかたわらヒステリーの問題に関心を寄せ著作を執筆……」
  「ブラックジャックの本名は?」
  「間 黒男」
 しまった、0.2秒で即答してしまった。
 淘淘と流れる解説をさえぎられ、またもや墓穴を掘った敗北感に打ちのめされてコンクリートに膝をつく。屈辱だ、天才ともあろう者がなんたる失態。地面に膝を屈して自分の愚かさとヨンイルの姑息な手口を呪っていると頭上から朗らかな笑い声がふってきた。
 「もう隠さんでええて、ジブンは手塚治虫大先生大好きです、ブラックジャックだけでなし他の本も読破する勢いですって白状してまえば?」
 「違う、断じて違う。前言撤回を要求する」
 「頑固やな」
 「格好つけたい年頃なんだよ」
 体の脇で拳を握り締めて立ち上がった僕をあきれたように盗み見ながらヨンイルとレイジがこそこそ耳打ちする。さっきまで喧喧轟々喧嘩していたくせにもう仲直りしたのか?変わり身が早すぎてついていけない。宙にぶらさげた足を揺らしながらすべてを見透したようにヨンイルが笑う、残照に照り映える横顔、勝ち誇った微笑。
 「素直に吐いてまえばラクになる。今度手塚キャラで好きなタイプ教えっこしよう、ちなみに俺の理想はやけっぱりのマリアのマリアちゃんや」
 「俺は和登さん。いいよな和登さんボーイッシュで……一人称「ボク」だぜ、「ボク」。しばかれたいってゆーか、」 
 「誤解だ!!」
 意気投合して好みのタイプを話し合っているヨンイルとレイジを一直線に睨み、逡巡。どうにかこの場を切り抜けようと頭を高速回転させ苦肉の策を思い付く。大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせ冷静に反論する。
 「手塚治虫はサムライ、そう、サムライに頼まれて図書室から借りてきたんだ。彼がブラックジャックを読みたいと希望したから図書室に行くついでに借りてきてやっただけだ、僕は毎日のように図書室に通っているからな、他棟の人間に顔が知られたサムライが図書室に出没して騒ぎを大きくするより無難だろう?」
 平板な声を意識して、なおかつ中庭にたむろった囚人全員に聞こえるように明朗に声を張り上げて主張すればレイジとヨンイルが怪訝そうに顔を見合わせる。
 「へえ、サムライがねえ」
 「サムライならブラックジャックよか日だまりの樹とか新撰組好みそうなもんやけどな」
 今だ疑念を捨てきれない口調で曖昧に意見交換するふたりを見比べ最大の危機が去ったことを悟る。何とか無事この場は切り抜けた、危地は脱した。僕が漫画を読んでるなんて、わざわざ図書室から借りてまで漫画などという低俗な書物に熱中して自由時間はおろか消灯後も食事中も手放せないなんて絶対知られてはならないのだ、天才のプライドに賭けて。
 僕自身の名誉を守る為にサムライの名前をだしたところで良心は傷まない。彼には尊い犠牲になってもらおう。
 自己欺瞞、もとい賢明な判断を下して安堵した僕はふと違和感を感じて渡り廊下を振り仰ぐ。現在ヨンイルとレイジがいるのは中央棟と東棟をつなぐ渡り廊下だ。おかしいではないか?何故図書室のヌシを自認するヨンイルが東棟へと至る渡り廊下の途中にいるのだ、自分の棟に帰るというなら話はわかるが西棟は全く逆方向だ。それにサムライから聞いた話では隣接した棟同士を結ぶ渡り廊下は封鎖されて久しいという、隣接する棟同士の仲が険悪でたびたび抗争が起きたのが原因らしいが、それが本当だとすれば西棟のヨンイルが東棟へ行くのはまずいんじゃないか?
 「ヨンイル、質問だ。きみは何故東棟に行こうとしてる?」
 「本の取り立てや」
 「本の取り立て?」 
 耳慣れない言葉に面食らった僕をゴーグル越しに愉快げに見下ろし、ひとさし指を立てて説明する。
 「東棟の人間が図書室からユニコ借りたまま延滞してるんや、二週間ほど。図書室のヌシとしてほうっとけん事態や、せやから俺がじきじきに出向いてきたんや、ジブンの城うっちゃってな。えーと、リョウって知っとるか?赤毛の」
 知ってるもなにも、彼にはつい二ヶ月前もひどい目に遭わされた。
 「ユニコ誘拐したんはアイツや。で、今から武力行使も辞さん覚悟でユニコ取り返しにいくんや」
 「命が惜しくないのか?他棟の人間が東棟に足を踏み入れるのは自殺行為じゃ……」
 「アホ」
 窓枠に尻をのせたヨンイルが頬杖してにっこりほほえむ。
 「立ち入り禁止ちゅーてもそんなの囚人がかってに怖がってるだけで規則で決められとるわけやない、実際中央棟の渡り廊下経由すれば四つの棟どれにでも行くことできるんや。肝心なのは自力で行って帰ってくる実力と覚悟あるかの一点だけや、ジブンひとりの力で生きて帰ってくる覚悟あるなら四つの棟自由に行き来してええんやで?だれも文句なんか言わん」
 ヨンイルが大袈裟に両手をひろげ、当惑が深まる。 
 ヨンイルとは一体何者なんだろう。
 ブラックワークの覇者、連戦連勝の戦績を誇る東東の王様の肩をなれなれしく抱いてじゃれあい、今もこうしてなんら気負いなく、警戒心など一片たりとも持たずに東棟へ立ち入ろうとしている。
 そして、ヨンイルを見つめる五十嵐の視線にこめられた氷点下の殺意。
 「じゃ、そろそろ失礼するわ。夕飯はじまるまでにユニコの身柄確保せんとな」
 「ほなサイナラ」と肩越しに片手を振って廊下を遠ざかってゆくヨンイルを見送り、髪を結わえていたゴムを抜いたレイジが明るい藁束のような茶髪を素早く襟足で結わえる。窓ガラスに映った顔を確認し「よし」と満足げに首肯。
 「やっぱこっちのが決まってる。だろ、ラッシ―とキーストア」
 「五十嵐さんと呼べ」
 鋭い眼光でヨンイルの後ろ姿を見送っていた五十嵐が一転、柔和な苦笑を浮かべる。襟足で髪を一つに結わえたレイジが「ったくロンにも困ったもんだよな、夢の中じゃあんなに素直だったのによ」とぶつくさ零しながら廊下を去ってゆくのを一瞥、声に反応して五十嵐に向き直る。
 「そうだ、思い出した。お前サムライと同房だよな」
 「?それが何か」
 「渡したいもんがあるんだ、ちょっと待ってろ……あ、俺がいない間審判任せる」
 かってに任されても困る。
 そう抗議しようとした僕に背をむけて五十嵐が走り出す。ひとり中庭に取り残された僕は茜色の空を見上げて途方に暮れていたが、「はやくボールよこせ!」とどやされて我に返る。中庭に引かれた白線の陣地の内側、矩形のコートに散らばっていた少年のひとりが居丈高に両手を突き出して「ボールをよこせ」と催促する。腰を屈め、ぎこちない動作でボールを拾い上げる。ずっしり重たいボールの手応えをてのひらに感じ、投げる。
 試合再開。
 成り行きで仕方なく審判代理を務めることになった僕は、他にすることもなく体の脇に腕をたらしてコートの外側に立ち尽くしていた。
 べつに五十嵐の言葉を遵守する義務はない、途中何度も審判の役目を放棄して房に帰ろうとしたが五十嵐が「渡したい」と言った物が気になる。五十嵐はサムライのことをよく知っているようだし、ふたりの関係が気にならないと言ったら嘘になる。ただ眺めているだけ、ゲームに参加しろと強制されないなら、ほんの数分間審判の真似事をするくらいいいだろうと寛容な気分になる。
 東京プリズンに来た当初はリョウに「ここで待ってろ」と強く念を押されたそばから踵を返そうとしてたのに、僕もずいぶんと心が広くなったものだ。
 自分の変化に戸惑いながら漫然とゲームを眺めていたら、ボールを抱えて中庭を走り回っていた囚人とボールを奪おうとしていた囚人の間で小競り合いが発生、かまびすしく怒号が飛び交い不穏な空気が漂いはじめる。
 「おい審判代理、今のトラベリングだよな!?」
 すさまじい剣幕でこちらを振り向いた少年が唾をとばして食ってかかるのに目を細める。
 「よくわからないが、きみがトラベリングだと思うならトラベリングじゃないか」
 互いに襟首を掴み合い、今まさに取っ組み合いの喧嘩にもつれこもうとしていた険悪な形相の囚人ふたりがあ然とする。
 「見てなかったのかよ審判!」
 「つかえねえなオイ!!」
 互いの襟首を突き放し、憤然たる大股でこちらに歩み寄ってきた囚人が僕の顔面に唾をとばして抗議する。ふたりがかりで胸ぐらを掴まれ品のない罵声を浴びせられて閉口する。
 上着の胸ぐらを掴まれた不自由な体勢から眼鏡を外し、レンズに付着した唾を神経質に服で拭う。
 「第三者に意見を求めるまえに少しは自分の頭で考えたらどうだ?だいたい僕はこんな野蛮な球技さっぱり関心がない、大人数で一つのボールを奪いあって発情期の犬みたいにみっともなく息をきらしてかけずりまわって無駄にカロリーを消費してなにが楽しいのか理解に苦しむ。はっきり言って滑稽だ、大変滑稽だ。きみたちはマゾヒストか、自分の肉体を虐めに虐めぬいて極限状況に追いこむことで背徳的な快感をおぼえる倒錯した性癖の持ち主なのか?なぜ過酷な強制労働を終えたあとに肉体を酷使するような真似をするのか、その非効率的な心理を教えて欲しいな」
 「審判に意見求めてなにが悪いってんだよ!?」
 「僕は代理にすぎない。文句なら五十嵐に言え」
 「バスケのルール知ってんのかよお前!!」
 「興味がない」
 無尽蔵の知識欲を満たすために幼少期から医学書を読みあさってきた僕もさすがにバスケットのルールブックに目を通したことはないし、またその必要も感じなかった。自慢じゃないが生まれてこのかたバスケットボールなんて野蛮なスポーツはしたことがない。
 一緒にやる人間がいなかった、というのが本当のところだが。
 「興味のあるなし聞いてんじゃねえよ、屁理屈こねてんじゃねえよこのッ……」
 激怒した少年が風切る唸りをあげてこぶしを振り上げる。殴られるのは慣れている、目を閉じていればすぐに終わる。
 「なにしてんだ!」
 瞼越しに接近してくる足音。僕の胸ぐらを掴んで今まさに顔を殴ろうとしていた少年が邪険な舌打ちとともに僕を投げ落とす。僕から五十嵐へと非難の矛先を転じた少年らが看守を取り囲んで口々に不平不満を訴える。
 「どこ行ってたんだよ五十嵐さん、こいつ使えねえよ」
 「なんで親殺しに代理頼むんだよ、こいつルールも知らねえじゃん」
 「わーったわーった、悪かったよ。はいゲーム再開、持ち場に戻りやがれ」 
 ぞんざいに片手を振りながら少年らを追い払い審判の定位置に戻った五十嵐に不承不承したがい、ボールを抱えた少年らが各々の陣地へと駆け戻ってゆく。何事もなかったように試合が再開される。膝を払って腰を上げた僕を気遣わしげに覗きこみ、五十嵐が声をかける。
 「大丈夫か?」 
 「だと思います」
 「これ」
 五十嵐が片手にさげていた物を僕の前に突き出す。
 「……木刀に見えますが」
 「中学の修学旅行土産。押入れの中ひっかきまわして持ってきたんだ、これをサムライに渡してくれ。頼まれてたのすっかり忘れてた」
 サムライに木刀を頼まれてた?
 何が何だかわからず困惑した僕の手に無理矢理木刀を預け、五十嵐が満足げに頷く。前に突き出した両手にのせられた木刀を所在なげに見下ろす。サムライが以前有していた木刀と目立った差異はない、何の変哲もない古びた木刀だ。
 用は済んだ。
 五十嵐も戻ってきたことだし、審判代理の役目から解放された僕はそろそろ夕食開始の時刻だし自分の棟に戻ることにする。別れの挨拶をしようかと五十嵐を見上げたら、眩い残照に目を細めて白熱した試合風景を眺めていた。残照を浴びて一気に老けこんだ横顔にかける言葉を失い、黙ってその場を去ることにする。木刀を小脇にさげて立ち去り際、なにげなく五十嵐を振り返り。
 目が合った。刹那、五十嵐が何か思い出したように小走りに駆けてくる。
 木刀の先端を地面にひきずった僕の前で立ち止まった五十嵐はばつが悪そうに視線を揺らし、頬を掻き。
 「言い忘れてた」
 「まだ何か?」
 うんざりした。僕は疲れていた、早く房に帰って休息をとりたかった。つっつけどんに聞き返した僕を痛ましげに見下ろし、五十嵐は言った。
 「手紙のこと。止められなくて悪かった」
 手紙。
 なにを言われてるか一瞬で理解できた。サムライから聞かされたのだ、僕の手紙がタジマに拾われ燃やされたとき一緒にいた看守が止めに入ったことを。五十嵐だったのか、と軽く驚いた僕は努めて表情を消して下を向く。
 「いいんです。どうせ届かなかったんですから、あの手紙は。住所もなかったし」
 それにどうせ。どうせ僕から手紙が届いたところで恵は喜ばないのだから。表情を読まれるが嫌で俯いた僕を物言いたげに見下ろしていた五十嵐が、手のやり場に困って頬を掻きながら遠慮がちに呟く。
 「……届けてやろうか?」
 「え?」
 耳を疑った。
 顔を上げ、眼鏡越しに直視した夕日の眩さに目を細める。朱の残照に輪郭を溶けこませた五十嵐が照れくさそうな早口で続ける。
 「同僚の暴走止められなかった罪滅ぼしで住所は調べてやる。こんな仕事長く続けてりゃ警察関係者に知り合いもできるしそのツテ使えばなんとかなるだろ、規則違反になるがデータベースにアクセスしてもいいし。囚人が外に手紙だすときゃ看守が房を回って回収する決まりだしな、俺が直接房をたずねるからそん時にでも渡してくれ」

 五十嵐は本気なのか?
 本気で手紙を届けてくれるのか?
 どうしてそこまでしてくれるんだ?
 
 「本当に、」
 声が震えた。
 緊張で乾いた唇を舌で湿らし、唾を飲み下し、喉をなめらかにする。体の脇で拳を握りしめ、すがるように五十嵐を仰ぐ。
 「本当に届けてくれるんですか?住所を調べてくれるんですか?恵を、妹に手紙を届けてくれるんですか?」
 「そんな念をおさなくても紙飛行機にしてとばしたりしねーよ」
 我を忘れて詰め寄った僕を片手を掲げて制し、五十嵐が苦笑する。その時、茜色の空に直線の軌跡を描いて白い物体が滑空してくる。飛燕のように急傾斜の軌跡を引いて僕と五十嵐の足もとに不時着したのは紙飛行機。ふたり同時に紙飛行機がとんできた方角を振り向けば中庭の中央の監視塔、囚人の監視に飽きて退屈を持て余した看守がふたり、暇潰しに紙飛行機を折ってとばしていた。中腰の姿勢で紙飛行機を手に取り、開く。
 外の恋人に宛てたとおぼしき囚人の手紙だった。
 「………今度注意しとく」
 「…………………」
 五十嵐は手紙を紙飛行機にしてとばしたりしないと約束した。
 タジマのように、僕が妹に宛てた手紙を燃やして灰にしたりはしないと固く誓った。
 なるほど、五十嵐は出来た看守だろう。レイジの軽口にも腹を立てず、囚人からは審判を頼まれ、同僚の暴走を止められなかった罪滅ぼしとして僕の手紙を届けようと善意で申し出てくれた。
 彼を信用していいのだろうか?
 自分の心に従って、一縷の希望にすがってもいいのだろうか? 
 「任せろ」
 五十嵐が力強く頷く。「住所がわかり次第伝えにいくからお前の房教えろ」と言い置き、肩越しに片手を振って夕日の方角に去ってゆく五十嵐をむなしく手をつかねて見送っていた僕の口から意図せぬ声がもれる。
 「あ、」
 五十嵐が怪訝そうに振り向く。
 五十嵐の視線を避け、顔を伏せる。立ち尽くす。
 「…………………………………………………ありがとうございます」
 本当の意味で敬語を使ったのはこれが初めてだ。
 棘のように喉にひっかかっていた言葉が、長い間、本当に長い間僕の胸を塞いでいたため息のような言葉が、みっともなくかすれた声に音を付与されて吐き出された。表情を隠して俯いた僕の姿は五十嵐に頭を下げているようにも見えただろう。5メートルの距離を隔てて対峙した五十嵐がキザに肩を揺らし、面映げに笑う。
 「おうよ。どういたしまして、だ」
 今度こそ本当に五十嵐が去ってゆく。
 西空を染めた太陽が月へと空を明け渡す間際に存在を主張するように燦然と燃え上がり、残照で一面朱に染め抜かれたコンクリートの中庭に放心状態で取り残された僕は、五十嵐の後ろ姿が遠くに去ってから自分が今さっき口にした台詞を反芻する。
 サムライやレイジにはとても聞かせられない言葉だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060228073545 | 編集

 今日はいい日だった。
 強制労働と夕飯を終えて自由時間が始まってからも俺は上機嫌だった。気分のよさは持続していた、物置小屋でタジマにとっつかまって水をさされる一幕もあったがそれくらいどうってことない、とるにたらないささいなことだ。東京プリズンにぶちこまれてからこんな気分がいい日は初めてかもしれない、今日一日で一生分の運を使い果たしてしまった気がする。
 煎餅のように固いベッドの真ん中に胡座をかき、でたらめな鼻歌を奏でながら麻雀牌を弾いていると隣のベッドから声。
 「たのしそうだな」
 手の中で麻雀牌をじゃらじゃら鳴らしながら振り向けば対岸のベッドに胡座をかいたレイジが仏頂面をしていた。いつもへらへら笑ってるレイジには珍しくふてくされた面をしてるのが愉快痛快きわまりない。
 「聞いたぜ、イエローワークで井戸掘り当てたって。だからそんなにご機嫌なんだな」
 ベッドに後ろ手ついて長い足を放り出したレイジが探りを入れてくるのを無視、交互の手の中で麻雀牌をさばきながら鼻歌を続ける。
 「ったく、ひとの気もしらねえで……いいかロン、お前のおかげで今日はさんざんだったんだぜ!?」
 「気付かないほうが悪い」
 レイジの抗議を鼻で一蹴する。正直者は馬鹿を見る、朝イチで鏡を見ないやつは泣きを見る。身だしなみに気を遣うのは人間として最低限の礼儀だ、たとえ見渡すかぎり野郎しかいないむさ苦しい監獄に身を置いてるのだとしても、だ。洗顔をさぼったせいでレイジが恥をかいたとしてもさっぱり同情する気は起きない、自業自得だ。
 ざまあみやがれ。
 「おい、麻雀牌で遊んでないでこっち向けよ。俺おまえに何かしたか?癇に障るようなことしたか!?」
 「存在自体が」
 「存在自体が癇に障るってか?」
 「あと寝言がうるさい」
 「夢の中まで責任もてねえよ。無罪を主張する」
 「檻の中で無罪主張しても説得力ねえ」
 床に足を投げ出したレイジがこぶしを振って抗議するのをひややかに眺めて麻雀牌を放る。天井の裸電球すれすれに投げ上げた麻雀牌が放物線を描いて戻ってきたのをパシッと掴んで拳をほどく。
 「ロン」
 会心の笑みが顔に浮かぶ。
 「なにやってんだよ?」
 訝しげなレイジの方は見ずにポイポイ続けざまに牌を放り上げ、両方の手を突き出して拳に握る。
 「麻雀牌の図案あて。こうやって目を閉じて適当な牌投げて落っこちてきたやつの図案をあてる」 
 「寂しいひとりあそびだな」
 「放っとけ」
 ダチがいないせいでひとり遊びばかり達者になるのは否めない。まあ、レイジの皮肉じゃないがあんまり格好いい真似でもなし、普段は鼻歌まじりに麻雀牌をもてあそんでひとり遊びに耽ったりはしない。今日は特別機嫌がいいから普段マットレスの下に押しこんで隠してる麻雀牌をベッドにばらまいて神経衰弱をしているのだ。 
 断っとくが、この麻雀牌は外から持ち込んだものじゃない。俺はなにも持たず、殆ど身一つでここに来た。俺が今もてあそんでる麻雀牌は五十嵐から貰ったものだ。五十嵐といえばそろいもそろって人間の屑ばかりと盛大に嘆かれる東京プリズンの中じゃ珍しく出来た看守でとかく囚人に同情的なことで有名で、何か欲しい物があれば五十嵐に相談すれば手を尽くして都合してくれるという噂までまことしやかに流れている。
 いや、根も葉もない噂ではない。今俺の手の中にある麻雀牌が動かし難い証拠だ。
 「仕方ないじゃん」
 唐突にレイジが呟く。麻雀牌で神経衰弱しながら惰性でレイジを振り向けばベッドに腰掛けた姿勢で大袈裟に頭を抱えこんでいた。両手で頭を抱えこみ、悄然と打ち萎れたレイジが長々とため息を吐く。
 「おれフィリピン生まれだもん、冬場の洗顔はこたえるんだよ」
 何のことを言ってるんだろうと一瞬怪しんだが、言い訳がましい台詞から察するに「何故朝イチで鏡を見なかったのか」という質問に対する答えらしい。時差があったせいで殆ど忘れかけていた。
 「鏡見りゃ一発でわかったのに残念だったな」
 「他人事のように言うなよ。お前が諸悪の根源、すべての元凶だろ。おかげで俺はあんな恥ずかしいナリで朝飯食って廊下歩いてヨンイルに笑われて囚人どもの見せ物になって……とんだ裸の王様だ」
 ベッドに後ろ手をついて仰け反ったレイジが頭を振り振り嘆く。そのさまがあんまり可笑しかっ、もとい情けなかったんでフォローをいれてやることにする。
 「そう言うなよ。意外と、」
 『笑えたぜ』と続けようとして、不覚にも吹き出しかけて口を噤む。レイジから顔を背け、笑いをこらえる痙攣で顎、さらには頭全体が震えているのがばれないよう唇を噛んで下を向く。
 「………似合ってたぜ」
 「笑ってるだろ」
 「笑ってねえよ」
 「震えてるぜ」
 「寒いんだよ」
 疑心暗鬼のまなざしをむけてきたレイジを何とかごまかす。今だ疑わしげなまなざしで俺の横顔を凝視していたレイジが嘆息、何食わぬ顔で呟く。
 「天邪鬼め。今朝見た夢の中じゃあんなに素直だったのに」
 反抗期の娘につれなくされて拗ねる親父のようなしんみりした述懐が癇に障り、両拳に握った麻雀牌をベッドに叩き付けて身を乗り出す。膝立ちの姿勢でベッドに上体を起こし、「やれやれ」と首を振るレイジを指さして猛然と抗議。
 「お前の夢に許可なく俺をだすな」
 「かってにでてきたんだよ。可愛かったぜ夢の中のロン、俺の腕の中で……」
 「レイジ」
 声に凄味を利かせ手首を一閃、手の中に残っていた麻雀牌をレイジめがけて力一杯投げ付ける。顔の前に平手をかざして麻雀牌を軽く受け止めたレイジを眼光鋭い三白眼で睨んで脅迫。
 「その先言ったら丸刈りだ」
 「へーへー」
 おどけたように首を引っ込めたレイジが手の中の牌を持て余し、指で軽く弾いて宙に投げ上げる。交互の手の中を素早く行き来する麻雀牌を視線で追いながら天井を眺めているとレイジがおもむろに声をかけてくる。
 「頑張ったな」 
 裸電球をかすめて交互の手の中を行き来していた麻雀牌から正面のレイジに向き直れば、東棟の王様は下々のことなどすべてお見通しだといわんばかりの傲岸不遜な、そして、なによりタチが悪いことに憎めない笑顔を浮かべていた。
 何を言われてるのかは一秒後にわかった。一年半かけて達成した俺の偉業を、草一本生えてないイエローワークの砂漠で井戸を掘り当てたという偉業をレイジなりに称賛してるのだろう。
 いつもなら反発しかわいてこないレイジの笑顔だが、今日ばかりは少し事情が違った。ひとの反感を煽ることにかけては天才的な才能を発揮するレイジが手放しで俺を称賛してくれたのだ、なんの含みもないストレートなやり方で俺をねぎらってくれたのだ。
 ひょっとしたら、相手がレイジじゃなければもっと素直になれたのかもしれない。相手がレイジでさえなければ「ありがとう」でも「謝謝」でも鍵屋崎の辞書には載ってない感謝の言葉をさらりと口にすることもできただろう。
 でも、レイジに礼を言うのは抵抗がある。
 ささやかな意地とそれでも死守したい矜持から、麻雀牌を放り上げる手を虚空で止め、呟く。
 「……………がんばったよ」 
 今の俺はおもわず殴りたくなるほど可愛げない、ふてくされた面をしてるだろう。踵をきちんと合わせてベッドに胡座をかいたレイジはただにやにやと笑っていた、お袋やお袋の客のように俺がただそこにいるってだけで邪険にしたりはせず、目つきが気に入らないからと殴ったりもせず、「可愛げないガキだ」とわざと聞こえるように陰口を叩いたりもしない。
 それどころか。少し距離をおいて微笑ましいものでもながめるような、見られてるこっちがくすぐったくなるような人懐こい笑い方をしてる。
 なんだか本当に、俺が成し遂げたことを俺以上に喜んでるようなそんな笑い顔だ。
 「仕方ねえなあ、許してやるよ!」
 踵を擦り合わせて胡座をかいていたレイジが脳天から突拍子もない声を発し、ぎくりとした俺の手からばらばらと麻雀牌がこぼれおちる。何がそんなに嬉しいのか、足裏をくすぐられてるみたいにむずがゆそうな顔でレイジが朗らかに笑う。
 「寝てるあいだにイタズラされたのはムカツクし王様の面目丸つぶれだけどロンが嬉しいならしかたねーもんな、砂漠に井戸沸いたんだもんな、うん、すげーよすげーよ!Congratulations!!」
 流暢な英語の発音をまじえて称賛され柄にもなく照れくさくなる。やっぱりこういう場合「ありがとう」と言ったほうがいいのだろうか?自慢じゃないが俺は礼を言うのにも言われるのにも慣れてない、この十三年間他人から礼を言われるようなことはおろか礼を言うようなことともさっぱり無縁だったのだ。お袋は食事の作法には厳しかったけど礼の言い方なんて教えちゃくれなかったし、毛布をかけようとした俺を邪険に突き飛ばすような女のそばにいりゃ感謝の言葉が自然に身に付くこともなかった。
 なんだ。鍵屋崎のこと偉そうに言えないじゃんか、俺。
 俺の葛藤などつゆしらず呑気な王様はしきりに感心してる、したり顔で腕組みして眉間に小難しい皺まで寄せてる。
 「でも本当びっくりしたぜ、最初に聞いたときゃ耳疑ったもん。イエローワークの砂漠に井戸沸くなんて前代未聞じゃねえか、本当に地下水脈なんてあったんだな、てっきり看守のフカシだと思ってた。ロンさ、パンドラの箱って知ってる?この前読んだ本に載ってたんだけどさ、絶望とか疫病とかたくさんの災いがこれでもかって詰まった箱の底にたったひとつ残ってたのが……」
 「希望だろ」
 そっけなく先手を打たれ、面食らったようにレイジが目をしばたたく。裸電球の光に麻雀牌をかざし、指と指の間に挟まった白い光沢の角が明かりを弾くのに目を細めながら言う。
 「今日鍵屋崎から聞いた。アイツは疑ってたけどな、箱の底にあるのが本当に希望かどうか」
 「へえ?人間不信のキーストアらしいね」
 あきれたような感心したような口ぶりでレイジが相槌を打つ。裸電球の光に透かした麻雀牌の角度を変え、白い光沢の表面がちょうど横手の壁に反射光を投じるように調整しながら考えこむ。

 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』 
 なんで鍵屋崎はあの時あの場であの台詞を口にしたんだ?

 鍵屋崎は馬鹿だけど頭がいい。矛盾した言い方だがそうとしか表現しようがない。どんな環境で生まれ育ったんだかわからないが、常識なんて鼻にもかけない世間知らずで一旦自分がこうだと思い込んだらテコでも主張を曲げないとんでもない頑固者だ。
 半面、日常なんでもない場面でなにげなく口にした台詞がおそろしく的確に真実を穿っていたことも一度ならずある。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
 あの台詞には何か根拠があるのだろうか。
 急激に胸に沸いてきた不安をごまかすように手を開閉、麻雀牌を握りこむ。考えすぎだと自嘲する。鍵屋崎のなぞめいた台詞に惑わされて馬鹿を見るのはこりごりだ、鍵屋崎の疑り深さは筋金入りなのだからやつの一挙一動を真に受けて振り回されるほうがどうかしてる。 
 悲観的な思考に嫌気がさし、後ろ向きにベッドに倒れこんで指先に摘んだ麻雀牌を頭上にかざす。裸電球の光を弾き、雲母の欠片のようにきらきら輝く麻雀牌に見惚れていたら死角から飛んできたゴムが命中、あっけなく弾き飛ばされた麻雀牌が壁に跳ね返り転々と枕元に転がる。
 「!なにすんだよっ、」
 度肝を抜かれて上体を起こせば対岸のベッドに胡座をかいたレイジが「してやったり」と笑っていた。ピストルを真似た指をフッと吹き、たった今披露した射撃の腕前を誇るように白い歯を覗かせる。
 「これで『おあいこ』な」
 ……今朝の仕返しかよ。俺よか年上のくせに大人げないヤツめ。
 腹立ち紛れに毛布の上に落ちたゴムを楕円に伸ばして指にひっかけ、レイジがやったように見事奴の額に的中させようと狙い定めて引き金を引き……
 「痛っ!」
 何故か逆方向に跳ね返ったゴムが額の真ん中を痛打。
 赤く腫れた額を片手でおさえて歯を食いしばった俺の姿が笑いのツボにハマったらしくレイジが手足をばたつかせて爆笑する。
 「やっべお前おもしろすぎ、マジおもしれえ!」
 「ひとに断りもなく面白がってんじゃねえ!!」
 自慢じゃないが俺は不器用なのだ、手先も生き方も。
 こんなむかつくやつに付き合ってたら身がもたないからとっとと寝ちまおうと毛布を羽織りレイジに背中を向ける。壁の方をむいて寝たふりを決めこんだ俺の背後で声がする。
 「いいんじゃねえの?ロンの不器用なとこ結構好きだぜ、俺」
 「だまりやがれ」
 レイジの戯言を一蹴して毛布にもぐりこみ固く目を閉じる。
 明日は新規部署発表だ。格好の標的としてタジマに認知されてる俺がイエローワークを卒業できる日がくるとはおもえないが、砂漠に井戸が沸く可能性も皆無じゃないと確信できた今はそれでもいいやと前向きに思えるようになった。 
 手にマメを作ってやってきたことがやったぶんだけ報われるならイエローワークだってそう捨てたもんじゃない。
 小骨を呑んだようにひっかかるのは鍵屋崎の意味深な台詞と物置小屋で接触してきたタジマだがアイツらの言うことをいちいち本気に取ってたら体がいくつあっても足りない。

 今日は昨日よりマシな一日だった。
 明日もきっと今日よりマシな一日になる。
 
 消灯時間にはまだ早いけど俺はそう信じて寝ることにした。
 今日はぐっすり寝付いて悪夢も見ないだろうと確信めいた予感に胸ふくらませ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060227074007 | 編集

 鈍い音、上から下へと垂直に伝わる衝撃。
 「?」
 天井中央から裸電球が吊り下がる房の真ん中、単調な生活に不可欠な日課、般若心境の写経に臨もうと脇に硯を置き、今まさに墨を擦ろうと腕を手前に引いたサムライが振り向く。
 裸電球の下で端然と正座していた男と振り向きざま視線が衝突、房に足を踏み入れようとした瞬間の姿勢で一時停止を余儀なくされた僕は非常にばつが悪い。
 「……なにをしているんだ?」
 「見ればわかるだろう、木刀を持ってきたんだ」
 表情の読み取りにくい一重の双眸を眇めたサムライに腹立たしげに返す。肩に担いで持ってきた木刀の先端が鉄扉の上部に衝突、木刀に釣られるかたちで足だけ前進した滑稽な光景をサムライに目撃された事実に屈辱感を味わう。
 鬱積した屈辱感はすぐにこの不条理な出来事に対する怒りに変じ、その矛先はサムライへと転じた。大仰なリアクションも驚きの声もなく、遠目に物珍しいものでも眺めるかのような泰然自若とした態度が癇に障るのは複雑な感情の裏返しだろうか。僕はサムライと対等になりたいと、彼の助けを借りなくても東京プリズンで生き抜けるほど強くなりたいと望んでいるのに今またこんな醜態を晒してしまった。
 軽く咳払いし、鬱陶しくまとわりついてくるサムライの視線を蜘蛛の糸でも払うかのように手で薙ぐ。背後でバタンと扉が閉じ、鈍い響きを残す。不届きな侵入者を警戒して後ろ手に施錠するのも忘れない。今度は天井に突っかかったりしないよう木刀の先端を水平よりやや下向きに小脇に抱えサムライに接近。うろんげな顔で僕の一挙手一投足を見守っていた男の前に無造作に突き出す。
 「五十嵐からの預かり物だ」
 五十嵐の名前をだした途端サムライの顔にわずかな変化がおきた。
 喜怒哀楽の欠落した鉄面皮にかけては僕以上に定評があるサムライの目をかすめたのは淡い感情の波紋、驚き、そして今ここにはいない五十嵐に対する律儀な感謝の念。体前に仰々しく両手を突き出し、押し拝むように木刀を受け取る。会釈するように頭を下げ、両の手にしっかりと木刀を掴んだサムライを自分のベッドに腰掛けて黙って見守る。
 そのまま暫く何かを確かめるように真剣な眼差しで木刀を凝視していたサムライがおもむろに鍔に手を添え、裸電球の光に木刀を翳す。
 裸電球の光を弾いた木刀が白く発光し、その眩さに目を細める。
 「いい木刀だ」
 ……まず何から聞けばいいのだろう。
 陶酔したように手中の木刀を凝視するサムライの横顔を仰ぎ、質問に優先順位をつけて口を開く。
 「五十嵐とはどんな関係なんだ?」
 木刀を握ったままサムライが振り向く。その視線が心を落ち着かなくさせる。なにもかもを見透かすような針の眼差しなのだ、半年前、初対面時に木刀をつきつけられたときは本気で斬られると錯覚した。
 「敢えて言うほどの仲ではない」
 「知りたいんだ」
 そう言われると聞きたくなるのが人間心理じゃないか?
 「……お前は少し勘違いしてるようだがなにも五十嵐と俺が特別個人的に親しいわけではない。五十嵐は囚人皆に慕われている」
 「東京プリズンに囚人全員に慕われるような人徳者がいたとはな」
 「地獄に仏、東京プリズンに五十嵐」
 冗談を言ってるのかとまじまじと横顔を見つめてしまったが淡白な表情からはその内心まで読み取れなかった。
 友人になっても相変わらずよくわからない男だ。
 「五十嵐は囚人の物品調達係だ」
 木刀を水平に寝かせてその色艶にすみずみまで見惚れていたサムライが平板に呟く。
 「五十嵐はとかく囚人に親身に接してくれることで評判だ。他の看守のようにおのれの憂さを晴らすためという愚にもつかん理由で囚人を虐待したりはしない、それどころか同僚の暴走行為を止めようと介入したことさえある。タジマがお前の手紙を燃やしたとき直前まで止めようとしていたのが五十嵐だ」
 「知ってる。本人の口から聞いた」
 「そうか。礼は言ったか」
 「言うわけないだろう」
 ひどく侮辱された気分だ。実際は礼を言ったのだが、サムライに真相を知られるのは自尊心の危機だ。間髪入れずに否定した僕をそっけなく一瞥、ふたたび正面に向き直り、木刀の握りを調整しはじめたサムライが続ける。
 「囚人に同情的な五十嵐にかけあえば大概のものは利便をはからって調達してくれる。もちろん他の看守には秘密裏にだが、五十嵐はその点寛容だ。よほど物騒なものや人を傷付ける危険性がある凶器は例外として囚人が心底欲しているものなら同僚の目を盗んで東京プリズンに持ち込んでくれる」
 「物好きだな」
 素直な感想が口をついてでた。聖人君子を気取っているつもりなのかどうかは知らないが、囚人の希望を聞き入れて物品を調達し感謝されることでささやかな自己満足か優越感にでも浸っているのだろうか?まあ、それで双方が満足するなら外野が口を挟めたことではないが……否、他人事ではない。五十嵐に「恵が入院してる病院の住所を調べてくれ」と依頼した時点で僕は当事者なのだ。
 ロンが掘り当てたオアシスの傍らで「希望」の存在を否定した僕が、その舌の根も乾かないうちに眼前に提示された「希望」に縋ろうとしている。我ながら変わり身が早いことだと自嘲し、表情が苦くなる。そんな僕に気付かないのか、もしくは彼特有の勘の鋭さで気付かないふりをしてくれたのか、サムライは相も変わらず淡白な口調で続けた。
 「俺が五十嵐に依頼したのは木刀だ。二ヶ月前に下水道に流して以降、修行ができずに腕がなまってしまった」
 「たしかに。きみには筆よりも木刀のほうが似合ってる」
 「皮肉か?」
 「一応褒めているつもりだが」
 「お前も何か欲しい物があれば五十嵐に頼め。囚人には無理な物でも数日、遅くても数ヶ月以内には調達してくれる」
 そこで初めて僕に向き直ったサムライが今初めて気付いたといわんばかりにスッと目を細める。
 「なにかあったのか」
 「え?」
 「嬉しそうだな」 
 唐突な指摘に戸惑う。戸惑いは一瞬後には動揺に変じ、動揺を糊塗しようと眼鏡のブリッジに意味なく指を押し当てる。
 「そのしぐさは心が揺れている証拠だ」
 「安田みたいなことを言うな、心理分析は僕の専門だ」
 実際サムライは無関心なふりをして驚くほどよく僕のことを見ている。半年も同じ房で寝起きして同じ時間と空気を共有していればいやが応でも身に染み付いた癖やしぐさを見抜かれてしまうのかもしれないが、まさかサムライに心の内面を見抜かれて本心を言い当てられる日がくるとは思わなかった。
 凡人のくせに、十年早い。
 それ以上答える気はなかったが床に正座したサムライが気遣わしげなまなざしをむけてくるのに辟易し、ベッドに腰掛けた姿勢でため息。膝の上の五指をせわしく組みかえて心を落ち着かせようと努め、口を開く。
 「………五十嵐が、恵が入院してる病院の住所を調べてくれると約束した」
 サムライの顔に驚きの波紋が広がる。自分の身にどんな災いが降りかかろうが明鏡止水の平常心を乱さない鉄面皮の男がこんなに率直に感情を露わににするのは珍しい。何となく面映くなり、表情を読まれるのを避けて俯く。
 「このまえタジマの暴走を止められなかった罪滅ぼしだそうだ。恵の病院の住所を調べて僕に知らせてくれると、僕の手紙を届けてくれると約束してくれた」
 「よかったな」
 柔和な声に顔を上げれば思わぬ光景と直面した。
 一瞬、ほんの一瞬だが、サムライが笑ったのだ。
 こういう時なんて返せばいいんだろう。「ありがとう」?そんな台詞は却下する、僕のプライドに賭けて。二ヶ月前のあれは気の迷いだ、高熱に浮かされて意識朦朧としていたから自分が何を口走ったか自覚がなかったのだ、殆ど。熱が下がって正気を取り戻した今、素面の状態ではとてもじゃないが口にできる言葉ではない。五十嵐に対して礼を述べた時だってバスケットボールに興じる囚人の歓声にかき消されて周囲に聞こえないからこそ言えたのだ、もし周囲の耳目があれば絶対に口にすることなどできなかった。
 『届けてやろうか?』
 五十嵐が遠慮がちにそう申し出たとき、これまで封じていた思いが、強いて忘れようと自己暗示をかけて封印していた恵への感情が堰を切ったように殺到してきて一瞬で理性が押し流された。
 イエローワークの強制労働中に恵のことを思い出さなくなるまで四ヶ月がかかった。手を動かすことに集中していればいやなことはなにも思い出さなくていい、東京プリズンに来た最初の頃、イエローワークの穴掘りに慣れて機械的な作業が苦でなくなった頃は手を動かしながらも終始恵のことを考えていた。今どうしているか、元気にしているか、周りの人間はやさしくしてくれてるか、僕のことを忘れてないか…恵の存在を中心に堂堂巡りしていた思考が虚無に呑まれ、頭の中心に真空が生じるまでにそう時間はかからなかった。
 いつまでも未練を引きずっていてもしかたがない。
 推敲に推敲をかさねてあたためていた恵への手紙がタジマに燃やされたと知ったとき、僕はそう自覚した。恵のことは今でも大事だ、今まで僕の存在を支えてきたたったひとりの妹を、この世で唯一僕が心を許した人間のことを忘れ去れるわけがない。
 どんなに辛いことでも無かったことにすることはできない。
 たとえそれがどんなに苦痛と悔恨と慙愧をともなう記憶でも僕が生きているかぎり永久に葬りさることはできないのだ。
 僕はこれまで裏切られ続けてきた。
 恵が僕を必要としているという甘い幻想に裏切られ、恵に手紙が届くかもしれないという希望を踏み躙られ、それでもなお心の奥底では一縷の希望を捨て去ることができずに恵の夢を見て夜毎うなされる自分に幻滅し。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』  
 耳によみがえるのは疲れたような諦観が滲んだ自分の声だ。
 東京プリズンに来てから僕は常に裏切られ絶望し続けてきた。期待は踏み躙られる為に、希望は打ち砕かれる為にのみ存在するのが東京プリズンの常識だ。そして期待が裏切られたあとにやってくるのはさらなる落胆、希望が潰えたあとにやってくるのはさらに深い絶望。光を目印に暗闇を這い上がったぶんだけ、まえぶれなく光をとりあげられた人間はもっと深い絶望の底に突き落とされる。
 だから僕は期待するのはやめたのだ、みっともなく縋り続けるのはやめたのだ。
 東京プリズンの苛酷な環境に順応し、同じ班の人間のいやがらせに対処法を編み出し、反射神経を磨いてシャベルも避けられるようになった。希望なんてありもしないものにすがりつづけるのはやめて現実を見ようと、この救いのない現実と折り合いをつけて何とかやっていこうと、何とか生き抜いていこうと自分に言い聞かせて。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
 あれはロンに対する皮肉ではない、自戒の言葉だ。
 僕は本当に虫がいい人間だ、唾棄すべき最低の人間、最愛の妹からも軽蔑されて死ねと願われるような人間だ。それでもまだ心の奥底で必死になって恵に許される可能性をさがしてる、もし東京プリズンで生き抜くことができればいつか、いつの日か恵と再会できることができるんじゃないかと、恵がまた僕のことを受け入れてくれる日がくるんじゃないかと渇望している。
 そんなことありはしない、絶対に。
 でも、五十嵐の言葉ですべてが一変した。
 五十嵐は恵の住所を調べてくれると力強く請け負ってくれた、もしそれが現実になれば、僕のもとに恵の住所がもたらされば僕は恵に手紙を書くことができる。いつかサムライが言ったように、今の僕の嘘偽りない気持ちを恵に知ってもらうことができるのだ。届けることができるのだ。

 今度の手紙はちゃんと届く。
 僕はまた、恵とつながりがもてるのだ。

 「今日、イエローワークの砂漠で井戸が沸いたんだ」
 脈絡なく呟けばサムライが妙な顔をする。サムライと目を合わせて本心を読まれるのを避け、俯きがちに吐露する。
 「掘り当てたのはロンだ。斜に構えてはいたが彼は本当に喜んでいた。そのとき僕も一緒にいた、ロンが喜んでいるのがわかって、長いあいだの苦労が報われて希望を見出したのがわかって、つい言ってしまったんだ。パンドラの箱の底にあるのは希望じゃなくて絶望じゃないか、と」
 サムライは要領を得ない顔をしていたが、それでも真摯に僕の言葉に耳を傾けてくれるのが寡黙な雰囲気でわかった。
 膝の上でにぎりしめた指に力をこめ、衣擦れにかき消えそうな小声で呟く。
 「………彼には少し、ほんの少しだが、悪いことをしたと思わなくもない」
 大人げないな、僕は。
 天才は謙虚にならなければいけないのにあの時僕はロンに反発してしまったのだ。希望を抱いてもどうせすぐに裏切られるのに僕より長くここにいてそんなこともわからないのかと、まだわからないのかと、到底やりきれない焦燥感で胸が塞がって水も喉を通らなくなった。
 でも。五十嵐の一言で、たった一言で、ロンを笑えなくなってしまった。
 今度こそ報われるんじゃないかと、恵への手紙は届くんじゃないかと、僕がこれまで東京プリズンで過ごした苦難の日々は決して無駄じゃなかったとそう信じたいのだ。 
 「大丈夫だ。きっと届く」
 ゆるやかに顔を上げ、サムライを見る。木刀を体の脇におき、経典を寛げ、筆をとる。その横顔がいつもより優しく見えて、角がとれた微笑の名残りすら漂っているように見えて俄かに落ち着かなくなる。目のやり場に困ってふと視線を落とせばぬれたスニーカーが視界に入る。生渇きの不快感が足裏を圧迫してくるのに顔をしかめ、独り言を言う。
 「明日もイエローワークの強制労働があるのに参ったな」
 「明日は強制労働はないぞ」
 「え?」
 サムライを見る。筆の動きを止めたサムライがまじまじと僕の顔を見つめている。
 「聞かされてないのか?明日は新規部署発表の日だ」
 「聞いてない」
 「東京プリズンでは半年に一度部署替えが行われる。半年間勤勉に勤め上げた者は軽い部署に移され素行が悪かった囚人は重い部署へと回される。勤務態度が可もなく不可もなかった囚人はもとの部署に残留することが多いがどこまで本当かわからない、ある程度は勤務態度の良し悪しで決まると言っても内実はランダムだからな」
 知らなかった。ということは、明日でイエローワークから解放されるかもしれないのか?
 そう考えると半年間、何の意義も喜びも見出せなかったイエローワークの肉体労働がやけに感慨深く思い起こされる。僕は僕なりに一生懸命イエローワークを勤め上げたつもりだが、生来の体力のなさが災いしてあまり仕事に貢献してたとはいえない。
 イエローワークから格上げされて別の部署に移れるかもしれない、などと分不相応な望みはもたないほうが無難だろう。
 恵に手紙が届くかもしれないとわかっただけで十分なのだから。
 「ところでサムライ」
 「なんだ」
 「今朝、食事中、僕がなにをしてるか見なかったよな」
 「なにをしてるもなにも、食事中に飯を食べる以外になにをする?」
 「そうだ、食事を食べる以外になにをするんだ?ごくたまに天文学的確率でいいことを言うな、きみは」
 どうやらバレてないようだ。心底安堵してため息をつき、そっと手をのばしてひらべったい枕を撫でる。
 サムライに真相が発覚しないうちに早々と『これ』を返し、九巻を借りてこよう。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060226074109 | 編集

 昨夜はよく眠れた。
 ぐっすり寝付いて悪夢も見なかった。東京プリズンに来てからこんな気分爽快な朝を迎えるのは何ヶ月ぶりだろう、ひょっとしたら入所以来初めてのことかもしれない。四肢は心地よい疲労感につつまれて何の憂いもなく心と体を休めることができた、目を閉じて次に目を開けたら朝になっていた。悪夢に苛まれた朝おなじみのいつまでも頭の芯が疼くようなだるい鈍痛とも縁が切れた。
 大の字で毛布をはだけてる寝相の悪いレイジを尻目に一足先に顔を洗う。
 小気味良く捻った蛇口から迸りでた水は相変わらず骨身まで染みるように冷たかったが顔に叩き付ければしゃっきり目と頭が冴えた。蛇口を締めて鏡と向き合う。心なしかいつもより顔色がいい、表情も柔らかい。寝癖も立ってないし幸先いい。
 どうやら常識外れに喧しい起床ベルが鳴る少し前に自然に目が覚めたようで人けのない廊下は閑散と静まり返っている。夜明け前、青く明るんだ闇がたちこめた廊下を格子窓の隙間から覗いてベッドに戻る。ベッドに腰掛け、枕元に転がしたまま寝付いてしまった麻雀牌を手に取り頭上に翳す。
 五十嵐にかけあうならもっといい物を頼めばよかったのに。
 自分でもそう思わないこともない。実際最もなのだ、こんな役にも立たない麻雀牌などねだったところで暇潰しのひとり遊びにしか用立てることができないのだから余り意味がない。それよりはもっと実用的な嗜好品、たとえば煙草やガムや自慰用のエロ本とか東京プリズンの囚人垂涎の品をこっそり耳打ちして要求すればよかったのに「欲しい物は?」と聞かれて真っ先に挙げてしまったのは今手の中にある麻雀牌だった。
 何の変哲もないプラスチックの表面に簡略化された図案や漢字が彫られた四角い牌を指先につまみ、じっくり眺める。
 俺の名前の由来は麻雀の役名。顔も知らない親父が唯一残してくれた物。
 生後二週間の俺とお袋を薄情にも置き去りにして女と蒸発してしまった親父に関して聞かされたことはごく僅かだ。とんでもない女たらしで三度の飯より博打が好きな駄目男で最低の人間、すべてお袋の独断と偏見に基づく評価だがあながち間違ってるとも言えない。否定するだけの根拠がないと言ったほうが正しい。
 俺は賭け事が強い。博打運に恵まれてる。
 博打好きの親父が付けた名前のせいだと断じるのは安直だが、娑婆にいた頃、お袋の留守に訪ねてきて待ち惚けを喰らった客に無理矢理付き合わされて麻雀牌を弾いていたら自然と身に付いてしまったのだ。普段鈍感な俺が他人の顔色をうかがうことにかけてはひどく敏感なのも何割かは客との麻雀で培った観察眼に起因してるのだろう。俺の数少ない特技の一つだが余り誇れるもんじゃないのが残念だ、もうちょっとひとに自慢できることならよかったのに「麻雀じゃ負けなし」「賭け事じゃ負けなし」なんて末は放蕩者になって身を持ち崩すと喧伝してるようなもんじゃないか。
 「何か欲しい物はないか」と五十嵐に問われたときあれこれ考えるよりはやく殆ど条件反射で「麻雀牌」と即答してしまった心理はよくわからない。五十嵐はいい奴だ。憂さ晴らしが目的で好き放題囚人をなぶって挙句殺しちまうような加減のわからない看守ぞろいの東京プリズンの中じゃ珍しく話のわかる大人でどんなにひねくれた奴でも皆五十嵐には一目おいてる。看守仲間からは「囚人贔屓の偽善者気取り」と陰口を叩かれやっかまれてるとも聞くが本人はそんなこと気にせず親身になって囚人に接してくれる。

 『なにか欲しい物ないか?』

 五十嵐にそう聞かれたのはついこの前、正確には二週間ほど前、いつものように俺を目の敵にしてるガキどもに絡まれて小突かれ、遂に堪忍袋の緒が切れた俺がはでに暴れ、右目に痣を作って房に帰る途中だった。
 自慢じゃないが、俺は滅多なことで切れたりしない。
 昨日の食堂の一件も想像の中で俺にぶつかってきたガキを殴り倒すだけで何とかおさめたし事実おさまった、半年前はイエローワークの作業中に鍵屋崎も巻き込んで凱の取り巻き連中とはでにやり合ったりもしたがあんなのは例外中の例外だ。東京プリズンに来てまず最初に驚いたのが「俺には意外と忍耐力がある」という単純な事実だった。娑婆でも同年代の中国人か台湾人にむちゃくちゃな因縁をつけられて頭に来て殴り飛ばしてやったことがあったが、東京プリズンでそれをやったら倍が倍倍になって返ってくるのは目に見えてる。凱が仕切る東棟最大規模の中国系グループを敵に回したら最後、俺が東京プリズンにいる限りあの手この手を使って陰険きわまりない嫌がらせを仕掛けてくるに決まってる。いや、本気で凱の逆鱗にふれたら最後、嫌がらせなんて悠長でまわりくどい過程はすっとばして入所一週間以内に死に至るリンチの洗礼にあっていた。
 俺はこれまで大人しくしてた。東京プリズンで生きていくために何より必要なのは忍耐だ。幼稚ないやがらせにいちいち過敏に反応してたらきりがない、どんなに腹に据えかねても頭に来ても殴り飛ばしたくても体の脇でぐっと拳を握り締めてこらえてなければ明日の命の保証はないのだ。
 でも、あの日は違った。 
 廊下ですれちがいざまに俺に絡んできたのは台湾系のガキが三人、俺みたいな雑種とちがって両親とも台湾人の純血種が三匹だ。俺の顔を見た瞬間に目配せで示し合わせて輪を作り、進路を塞ぐように扇形に展開。進路妨害には慣れている、迂回すれば済むことだと踵を返しかけた背中に浴びせられたのは罵声。『半半の雑種のくせにいっちょまえに無視すんのか』『何様のつもりだ』『こっち向けよ』とか何とかそんな芸のない悪態だった気がするがよく覚えてない。
 それ位なら無視できた。馬耳東風の態度で、何食わぬ顔でやり過ごすこともできたのだ。
 『おい、淫売』 
 俺を立ち止まらせたのはその台詞。勝ち誇ったような声にふりむけば、ガキのひとりがにやにや笑っていた。
 『淫売のガキなんだろ、おまえ。知ってるんだぜ。俺の従兄な、豊島区のスラムに住んでるんだよ。お前のお袋地元じゃ有名みたいじゃんか、金払いがよけりゃ日本人でも台湾人でも中国人でもおかまいなしのとんでもないアバズレだって。そりゃそうだよな、自分の身内を殺した憎い中国人ともヘイキで寝ちまうような節操なしの雌犬だもんな。俺の従兄娼婦遊びにハマってて十代のガキから三十路年増のババアまで手当たり次第に買ってんだけど、』
 おもわせぶりに言葉を切ったガキが両隣のダチを振り仰ぎ、言う。
 『今度お前のお袋買ってくれるよう頼んでやろうか。自分が腹痛めたガキがひと殺した悪評立ったせいで客足遠のいて困ってるんじゃねえか?安心しろ、お前のお袋なら高く買ってやるよ』
 気付いたらそいつの頬げたを殴り飛ばしてた。
 べつにお袋を悪く言われて腹が立ったんじゃない、あの女がだれになんと言われようが俺は腹を立てたりしない。
 そう思っていたのに、反射的に体が動いてしまった。
 目に青痣を作ってとぼとぼ廊下を歩いてる俺と偶然行き当たった五十嵐は一目でなにがあったか察したんだろう、その時の俺の風体があんまり悲惨だったもんだから同情して、「何か欲しい物はないか」と気を利かせてくれたのだ。
 そして俺は「麻雀牌をくれ」と言った。
 自分でもなんだってそんなもん頼んだのか理解に苦しむ。麻雀牌なんて後生大事に持ってても何の役にも立たないじゃないかと自嘲して手の中の牌を高く放り上げる。ひょっとしたら何か、何かひとつでもいいから胸を張って他人に誇れる物を持っていたかったのかもしれない。何の取り得もない、生きてる価値がない人間でも「形」としての価値が信じられる何か。 
 まさか。手の中の牌が娑婆と俺とを繋ぐ唯一の形あるものなんて思ってるわけじゃないよな。
 もしそうだとしたら反吐が出るほどつまらないくだらない感傷だ。自問自答して苦笑を刻み、宙に手を突き出して落下してきた牌をキャッチ。拳を開いて牌を確かめていると隣のベッドで起き上がる気配、衣擦れの音。しなやかな豹のように両腕を屈伸させて上体を起こしたレイジが半覚醒の頭を振り、模糊と霞がかった半眼で俺を見る。
 「昨日も今日も早起きだな」
 「おまえが寝すぎなんだよ」
 麻雀牌をじゃらじゃらかき集めてマットレスの下に押し込み、腰を上げる。そろそろだ。
 ほら来た。
 俺の予想は当たっていた、レイジの起床から間をおかずに廊下に響き渡ったのは鼓膜が割れそうにけたたましいベルの音。思いやりのない起床の合図、そうして今日も東京プリズンの一日が始まる。食堂でまずい飯をかっこみ鮨詰めのバスにのせられ炎天下の砂漠で脱水症状と戦いながら穴掘って満員状態のバスにつめこまれて帰ってくる、延延その繰り返しが三百六十五日続く単調な一日の始まり。
 でもきっと、今日は昨日よりマシな日になるはずだ。
 昨日がそうだったように。
 明るく前向きに鼻歌をかなでながらレイジに先んじて鉄扉を開ければ早くも食堂をめざす囚人大移動が始まっていた。声高に談笑しながら食堂へとむかう囚人の大群にまぎれ、まだベッドの上でぐずぐずしてるレイジを呼ぶ。
 「行くぞ、飯だ」
 「勘弁してくれよ、フィリピン育ちなのに……」
 「おなじネタ飽きた」
 「フィリピン育ちだから十二月の寒さはこたえるんだよ」とこぼし、寝ぼけ面で毛布にくるまったレイジをばっさり斬り捨てる。まだベッドの上でぐずぐずしてるらしいレイジを扉の前で待つこと数十秒、もともと短気な俺がしびれを切らして癇癪を起こす一秒前にレイジがひょっこりと廊下に顔をだす。
 「やってくれたな?」
 恨めしげな目で睨まれても少しも動じない。廊下の壁にもたれたまま「惜しい」と舌打ち。馬鹿を装ってる東棟の王様もそれほど馬鹿じゃない、同じ手は二度と食わないってわけか。頭の斜め上で二房髪を結わえたレイジが苛立たしげにゴムを抜き取る。
 「今日はちゃんと顔洗ったんだな。どうりで」
 「男前が上がった?」
 「そういうことにしといてやるよ」
 辛辣な皮肉を期待していたらしきレイジが拍子抜けしたように目を丸くする。今日は素晴らしく気分がよかった、普段なら憎まれ口を叩いてレイジを挑発してるはずが奴の戯言を鼻で笑って聞き流す余裕まである。肩透かしを食らったレイジが襟足で髪を結びながら心なし物足りなさげにため息をつく。
 「朝イチの口喧嘩は前戯なのに張り合いねえの」
 「安心しろ、本番は無い。永遠に無い」
 鏡も見ずに器用に髪を結いつつ呟くレイジを廊下に捨て置きさっさと食堂に行けば先にサムライと鍵屋崎が座っていた。ちょうど食堂の真ん中らへんのテーブルに陣取って飯を食べている。カウンターの列に並んでトレイを受け取りアルミの食器を並べる。今日の献立は洋食、苔むして黴が生えた見るからにまずそうなマッシュポテトのかたまりがアルミ皿にこそぎおとされおそろしく味が薄いコンソメスープが深皿に注がれる。歯が立たないほど固い食パンが一枚としなびたレタスと褪せたにんじんのサラダ、あとはハム五切れの貧しいメニューだ。
 ちなみに本当にマッシュポテトに黴が生えてるわけじゃない。すりつぶした枝豆が混ぜてあるからそう見えるだけだ。
 トレイを抱えてサムライの席に接近、無言で正面の席に腰掛ける。乱暴に椅子を引いて尻を投げ出せば、他の連中とは一味も二味も違った育ちのよさが窺える品良い動作でハムを均等に切り分けていた鍵屋崎が非難がましい目をむけてくる。
 「静かに座れ。きみは行儀がいいんだか悪いんだかわからないな」
 「おまえは馬鹿なんだか頭がいいんだかわからないな」
 鍵屋崎が凄まじく嫌な顔をする。不機嫌そうに黙りこんでフォークを口に運ぶ鍵屋崎から隣のサムライへと目を転じれば無言でスープを啜っていた。俺が席に着いて遅れること数分、レイジがやってきた。食器をのせたトレイを抱え、そこが指定席であるといわんばかりの堂に入った動作で俺の隣に腰掛ける。
 図々しい奴め。
 「なあ聞いてよサムライ、ロンってばひどいんだぜ。朝起きたらまた髪が結わえてあった。しかも二本」
 二本指を突き立てたレイジがそう言って嘆くのを興味なさそうに眺め、サムライが呟く。
 「それは結構なことだな」
 「待て、結構なことって何だ?」
 「お前は不愉快かもしれないが他の連中は愉快だ」
 器に口を付けてコンソメスープを飲もうとしていた俺はその言葉におもわず吹き出す。サムライに一本とられたレイジはこの上なく情けない顔をしていたが、右手でもてあそんでいたフォークの先端でおもむろに鍵屋崎を指す。
 「そうだキーストア、ヨンイルから伝言。ブラックジャック十巻まで取り置きしてあるって言ったけど昨日書架見てみたら九巻が紛失してたらしい、ヨンイルはだれかが無断で持ってったにちがいない、そいつ見つけ出して絶対殺したる!ってキレてたけどもし今日八巻返すつもりなら」
 「きみは頭がおかしいのか?」
 鍵屋崎が荒々しくフォークを叩き付け、周囲のテーブルで談笑していた囚人が一斉にこちらに注目する。
 「昨日も言ったが僕が漫画なんか借りるはずないだろう、僕はきみたち凡人とはちがうんだ、そんな低俗な書物に熱中するはずがない。漫画なんかに耽溺して貴重な時間を浪費する位ならカール・マルクスの『資本論』を再読したほうがマシだ。そうやって自分の物差しでひとを計るのはやめてくれないか、いい迷惑だ」
 眼鏡越しにレイジの顔を突き刺した視線にはどこまでも拒絶的な非難の色があった。一息に抗議した鍵屋崎を行儀悪く頬杖ついて見つめ、レイジが首を傾げる。
 「あれ?でも図書カードに名前あったぜ」
 鍵屋崎が「しまった」と言う顔をする。鍵屋崎が怯んだ一瞬の隙をついてテーブルに身を乗り出したレイジが話の山場で犯人を追い詰める名探偵か刑事気取りでひとさし指を立てる。
 「おかしいじゃんか、なんでブラックジャックなんか借りてないって頑固に言い張るお前の名前が一巻から七巻までずらっと図書カードに記入されてんだよ?証拠はあるんだぜ、素直に吐いちまえ」
 「食事中に吐くとか吐けとか下品な言葉を使わないでくれるか?食欲が減退する」
 「ごまかすなよ」
 「ごまかしてない」
 「本当は借りたくせに。夜中人目を盗んで読み耽ってブラックジャックと恵の別れのシーンで感動して泣いてるせに」
 突然、鍵屋崎が席を蹴立てて立ち上がる。
 「感動はしたが泣いてない!!」
 平手でテーブルを叩いてレイジに噛み付いた鍵屋崎だが食堂の注視を一身に浴びていることに気付き、わざとらしく咳払いして席に戻る。動揺を露呈した事実を上塗りするように妙に落ち着きなくトレイに散ったパン屑を一箇所に集め、袖に付着した粉まで神経質に払い落とす。
 「……それに、気安く『恵』と呼び捨てにしないでくれないか?僕の妹と同じ名だ」
 「ああ、そうだっけ。キーストアの最愛の妹と同じ名か」
 「きみに呼び捨てられると恵が汚れる」
 口にフォークをくわえ、椅子の背もたれに仰け反って天井を仰いだレイジに叩き付けるように鍵屋崎が言う。気持ちはわかる、就寝中レイジの口に上った女は数知れないがおそらくその全員と体の関係があるのだろう。しかし鍵屋崎も鍵屋崎だ、たった一人の身内だか大事な妹だか知らないがいつもつんと取り澄ましてるコイツが人目があるのも忘れて激情をあらわにするなんて珍しい。
 いや、珍しいどころじゃない一大事だ。妹関連でまたなにかあったのだろうか?
 「今日は新規部署発表かあ」
 間延びした声にフォークを持ったまま顔を向ければ、口にくわえたフォークを上下させながらレイジが椅子を揺らしていた。
 「強制労働一日休みで結構だけどそうなると午前中から図書室が混みそうだな。読みたい本あるんだけどさきに借りられちまわないか心配」
 「なんだよ読みたい本って」
 たいして興味もなかったが無視するのも大人げないからおざなりに聞いてやる。
 「『初心者でもわかる麻雀のススメ』」
 ハムを突き刺したフォークが止まる。目に疑念を宿してまじまじとレイジを見れば頭の後ろで手を交差させた姿勢で人を食ったように笑いやがった。
 「俺が麻雀のルール覚えたらひとり遊びに耽らなくてもいいだろ?」
 「……麻雀は最低四人いねえとかっこつかねえよ」
 「ちょうどいいじゃん」
 背もたれから上体を起こしたレイジが「ひい、ふう、みい」と人さし指をめぐらして俺、自分、サムライ、鍵屋崎と順番に指してゆく。
 「四人」
 答えに詰まった。
 「……この面子で麻雀やってる光景想像できねえ」
 「それ以前にルールを知らない」
 突飛な提案にあっけにとられた俺と気乗りしない鍵屋崎とを交互に見比べ、背凭れが床と接触しそうに反り返ったレイジが両手を広げる。  
 「いいじゃん、王様の暇潰しに付き合ってくれよ。ひとりで牌投げてるより皆で遊んだほうがたのしくないか?」
 「あれはあれで面白いんだよ」
 嘘じゃない、あれはあれでなかなか癖になるのだ。今度はもっと高く投げ上げようとかてのひらに掴んで拳を開くまでの一瞬に手の中で軽く転がしてイカサマのコツを習得するとか……自分で言っててちょっとむなしいが。
 早々に食事を終えた囚人が三々五々席を立ち始める。トレイを抱えてカウンターへと歩いてく囚人を一瞥、フォークを口にくわえたり椅子を転倒寸前まで傾けたり怠けて遊んでいたくせに気付けば速攻で食事を終えていたレイジが一番最初に席を立つ。
 「先行くぜ。図書室に一番ノリして目的のブツゲットしなきゃ」
 音痴な鼻歌をかなでながら嬉々として歩み去ってゆくレイジの背中を見送り、二番手に席を立つ。今日は強制労働がないからゆっくり落ち着いて飯を食べてもバチは当たらないはずだが東京プリズンに来てからの癖というか習慣で早々と飯を食べ終えてしまった。よく噛んで味わいたいような朝飯でもないしな。椅子の背もたれに手をかけ、ちんたら飯を食ってるサムライと鍵屋崎を振り返る。
 「サムライはどうする?」
 「修行を終えたら行く」
 新規部署発表の掲示が張り出されるのは中央棟の視聴覚室だ。東京プリズンの囚人がひとりももれることなく自分の部署を確認できるよう一日中掲示が張り出されてるからどの時間帯に見に行っても個人の自由らしい。まあやなことは早めに済ませちまうにかぎる、タジマに目を付けられてる俺がイエローワークから足を洗える望みはなきにひとしいのだからこの目で確認する前に潔く腹を括る。
 「鍵屋崎は……」
 「食事を終えたら行く。さきに用事を済ませたいのが本音だが部署を確認してからじゃないと落ち着かないしな」
 「なんだよ用事って?」
 トレイを抱えて目を細めれば鍵屋崎が狼狽、何か隠してることが丸分かりのよそよそしい素振りで眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「黙秘権を行使する」
 なんなんだ一体。わけがわからねえ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060225074256 | 編集

 「で、なんでおまえは俺の隣歩いてるんだよ」
 「自意識過剰だな。目的地が同じなら必然的に一緒の方向になるだろう、好悪の判断はおいといて」
 相変わらず一言多いメガネだ。
 本人いわく偶然俺と一緒に歩くことになった鍵屋崎の横顔を見てこっそりため息をつく。東京プリズンに来てからの半年で多少は背も伸びて心身ともに逞しくなったらしいが俺に言わせりゃまだまだ甘さが抜けきってない。もっとも身長に関してはひとのことは言えないが俺の場合まだまだ伸び盛りで将来的有望性が見こめる、と主張しときたい。
 ポケットに手を突っ込んで中央棟へと続く渡り廊下を歩きながら隣を歩く鍵屋崎をなにげなく観察。銀縁メガネがよく似合う清潔で無機質な容姿にひんやりと拒絶的な雰囲気を漂わせてるのは相変わらずだが、東京プリズンに来た当初より人当たりは幾分柔らかくなった、気がするが考えすぎかもしれない。
 もっとも鍵屋崎の場合人当たりがよくなったという好意的な評価の根拠は「他人が半径50センチ範囲内に接近しても露骨に不快感を表さなくなった」とか「汚い物でも払うように手を振らなくなった」とかでしかないのだが。半面、ひとのプライドをぎたぎたに切り裂くことにかけては天才的な毒舌にはますます磨きがかかっている。
 下心を抱いて無防備に接近しようものなら寸鉄人を刺す毒舌で手酷く釘をさされるのは必至、実際好き好んでコイツとダチになりたいと思う物好きはいないだろう。
 サムライはどうだか知らないが。
 半年前、食堂ではじめて会った時は成長期途上で脆弱な印象を拭えなかった細身の体躯も連日の肉体労働の成果か骨格がしっかりしてきたらしい。発育不良のモヤシが発育良好なモヤシぐらいには成長した。それでも同年代平均と比べて華奢なことに変わりない、筋肉が付きにくい体質らしく囚人服につつまれた四肢は軟弱に細っこいまんまだ。
 なんとなく、タジマや凱やその他の囚人がコイツを目の敵にしたくなる気持ちも察しがつく。 
 いつでも泰然自若、冷静沈着に落ち着き払って取り澄ました表情をくずさない鍵屋崎を見てると劣等感を刺激されるのだろう。眼鏡越しにひとを観察するような奢り高ぶった視線が気に食わないとか、どんなに陰湿な嫌がらせを仕掛けても泣きもしなけりゃ怒りもしない可愛げない態度が癇にさわるとか奴らにも手前勝手な言い分があるんだろうが、凱やタジマがどんなに鍵屋崎に目を付けていたぶったところでてんで相手にしない鍵屋崎のが一枚も二枚も上手だ。
 次元が違う微生物でも見下すような氷点下のまなざしで突き刺されるたびに奴らの劣等感は積もりに積もり負のエネルギーが蓄積されてくのだろう。
 悪循環だ、本当に。
 「ロン」
 突然名前を呼ばれ、不躾に横顔を見つめていたのがばれたのかと内心焦った俺に向き直り、鍵屋崎がひどく真剣な顔で口を開く。
 「聞いてもいいか?」
 「俺に?」
 鍵屋崎が俺に聞きたいことなんて想像もつかない。というか、コイツが疑問に思うことなんて難解すぎて俺に答えられそうにない。おそるおそる問い返した俺の脳天からつま先まで視線を上下させた鍵屋崎が生真面目な表情はくずさずに質問する。
 「これは他意のない仮定だが、身内に手紙を書くとき君なら何を書く?」
 ……喧嘩を売ってるのだろうか?
 一瞬かなり本気で皮肉と受け取って気分を害したが、鍵屋崎の表情をすみずみまで観察して考え直す。俺にだれからも手紙が来ないことを承知の上でこんな婉曲な質問をしたとはおもえない、おそらく鍵屋崎は本心から疑問を述べたんだろう。なんでいきなりこんなことを聞いてきたんだかわからないが冗談を言ってるような感じでもないし、愚直に思い詰めたような目の光に情をほだされて考えこむ。
 「身内に手紙書いたことなんかねえからわかんねえけど元気してます?風邪ひいてませんか?とか、自分の近況とか……」
 「発想が貧困だな」
 「待て、自分から聞いといてその言い草はなんだ」
 嘆かわしげにかぶりを振った鍵屋崎を張り倒したい衝動を拳を握り締めておさえこむ。コイツ、だれかに手紙でも書こうとしてんのか?だったら素直にアドバイスを乞えばいいのにとことんひねくれてやがる、まあ素直な鍵屋崎なんて気持ち悪いだけだが。鍵屋崎の澄ました面を殴り飛ばそうとしたこぶしを開閉、視線を天井にむけて考えこむ。
 「お前本好きだろ。だったら最近読んだ本のことでも書けばいいんじゃね?」
 頭を働かせるのに嫌気がさし、なげやりに言い放った俺の顔を虚を衝かれたように見つめていた鍵屋崎の目に「その手があったか」という理解の色がともる。頭のいい奴に称賛のまなざしを注がれるのは気分がいい、自分まで頭がよくなったような錯覚をおぼえるから。頭の後ろで手を組んで上機嫌に鼻歌をかなでていたら渡り廊下の終点に辿り着く。
 ここからさきは中央棟だ。
 鼻歌を止め、若干気を引き締める。ここからさきは東西南北四つの棟の囚人が集結する無法地帯だ、いつだれにどこから襲われても対処できるように周囲に隙なく目を配っといて損はない。一歩中央棟に踏み込んで周囲の空気が俄かに殺気立ったのを肌で感じ取ったのだろう
鍵屋崎が不審げに眉をひそめる。中央棟の廊下をふたり並んで歩いてると東棟では殆ど見かけない黒い肌や白い肌の囚人とすれちがう。廊下の上空をかまびすしく飛び交うのは韓国語中国語英語ヒンドゥー語がごっちゃになった混沌の雑音。俺の耳で聞き分けられたのは以上四つが限界だが他にもさまざまな言語が混ざってるらしい、試しに鍵屋崎を振り仰ぎたずねる。
 「何ヶ国語わかった?」
 「十三ヶ国語」
 さして自慢げでもなく、それ位聞き分けられて当然だといわんばかりにさらりと答えた鍵屋崎に閉口する。東京プリズンは無国籍化した二十一世紀日本の悪しき象徴、退廃と冒涜がはびこる人種の坩堝だと再認識する。かって知ったる廊下を歩いて視聴覚ホールに到着。先着の囚人が黒山の人だかりを築いた最後列から背伸びして室内の様子を窺えば正面の巨大スクリーンが目に入った。
 「行くぞ」
 人ごみに揉みくちゃにされて身動きとれなくなってる鍵屋崎に無造作に顎をしゃくり、頭を屈めて押し合いへし合いしてる囚人の脇をくぐりぬける。囚人に通せんぼされて立ち往生してる鍵屋崎なんかに構ってられない、いくら俺がお人よしでも面倒見切れないことはある。鍵屋崎を見捨てて視聴覚ホールに足を踏み入れた俺は所在なげにあたりを見回す。悠に二百畳の面積はあろうかというだだっ広い部屋だ。 四囲の壁は一点の染み汚れもない白い壁紙で統一されていている。衛生的といえば聞こえはいいが清潔なだけが取り得の殺風景な部屋だ。天井がプラネタリウムのように開放的に高いせいか、房の低い天井を見慣れた身には妙に落ち着かない。月一恒例の映画鑑賞会には正面のスクリーンに政府の検閲を無難にパスした退屈な映画が上映されだだっ広いホール全体にぎっしりとパイプ椅子が並べられる。
 だが、現在パイプ椅子はない。在るのは空虚な面積を誇る無菌のホールだけ。
 「おれの名前あった?」
 「自分でさがせよ」
 「やった、レッドワークに昇格っ」
 「くそっ、レッドワーク落ちか!なにが悪かったんだよ畜生、ブルーワークの便所掃除サボったからか?」
 「便所ブラシでちゃんばらごっこしてたのバレたんじゃねえの」
 「畜生っ、イエローワーク落ちかよ!!」
 「いい気味だ、いちから出直してこい」
 「砂漠で干からびて死ぬんじゃねえぞ」
 「タマまで萎れたら悲惨だよな」
 下卑た哄笑、世を呪う悪態と我が身の悪運を喜ぶ歓声、それに被さるのは野次と揶揄。視聴覚ホールの前方に殺到した囚人の後列からつま先立ってスクリーンの掲示に目を馳せたがこの距離からじゃどこに俺の名前があるかわからない。右から「ブルーワーク」「レッドワーク」「イエローワーク」の順で各囚人の振り分け部署が発表されてるが生憎と東京プリズンの収容人数は半端じゃない、芥子粒大の字がずらっと並んだ中、一体どこら辺に自分の名前が埋まってるか見当もつかずに途方に暮れる。
 もうちょっと近寄らなければ名前を探すこともできないと果敢に人ごみをかきわけて前進、「押すなんじゃねえガキっ殺すぞっ」という脅迫の文句を聞き流して最前列に転がり出る。
 さて、俺の名前はどこだろう。
 わざわざ捜すまでもなくイエローワークには違いないとあたりをつけて左端を重点的に捜すが一向に見当たらない。おかしい。新規部署発表は囚人番号→名前の順番で掲示されるはずなのに、目を皿にしてイエローワーク配属の囚人の名前を確認してっても俺の名前どころか囚人番号も見当たらない。
 まさか、レッドワークに昇格できたのか?
 入所一年半の苦労が報われて、砂漠での働きと井戸を掘り当てた功労が認められて、晴れてレッドワークに上がることができたのか?
 まさかそんなと冷静に自戒する気持ちとついにやったと早合点した高揚感とがせめぎあい心臓の鼓動が高鳴る。緊張と期待で乾いた喉を唾で湿らし、頭の芯が甘美に痺れてくるような鼓動を耳裏に聞きながらレッドワークの囚人名へと視線を移す。
 上から下へと視線をすべらせてくにつれ高鳴る一方だった鼓動が沈静化し、頭の奥で急激に膨張した不安感が期待感を駆逐してゆく。 
 俺の名前はない。
 レッドワークにも見当たらない、ということは残るひとつ、ブルーワークだろうか?まさか。昨日班の連中が噂してたようにイエローワークから一足とびにブルーワークに昇格するなんてのは異例中の異例の事態で東京プリズンじゃ滅多に起こらない。サムライは長年勤勉に勤め上げた功績を認められてブルーワークへの大出世を成し遂げたが俺の場合そんなことはありえない、そりゃ俺だって私語を慎んで真面目に働いてきたが、でも……
 待てよ。あながちそうとも言い切れない。
 俺は昨日イエローワークで偉業を成し遂げた、草一本生えず、水一滴沸いてない不毛の砂漠でオアシスを掘り当てるという前代未聞の偉業を達成したのだ。その功績を認められて一挙にブルーワークに昇格、という奇跡みたいな幸運が俺の身にふりかからないとどうして断言できる?
 汗ばんだ手でズボンの生地を握り締め、生唾を飲み下す。  
 しゃちほこばった体にかすかな震えが走る。悪寒ではない、武者震いだ。まさか、ひょっとしたら。そんなことはありえないと頭の片隅で全力で理性が叫ぶのに、俺はそれを信じたがってる。
 俺が今までやってきたことは無駄じゃなかったんだと、決して無意味じゃなかったんだと。
 ようやく、本当にようやく俺がやってきたことがだれかに認められたんじゃないかって。
 「………よし」
 肩を上下させ大きく深呼吸、上着の胸を掴んで喝を入れる。長いこと確認する決心がつかずに固く閉じていた目をこじ開け、殆ど狂わんばかりに一途に祈るような気持ちで正面のスクリーンを仰ぐ。
 上から順に囚人の名前を確認。
 囚人番号11927柳、12816ケビン、12906パク、12978……
 「………やった、ブルーワーク昇格だ!!」
 天に高々と拳を突き上げて快哉を叫ぶ。
 その声で現実に引き戻されて横を向けばブルーワーク昇格が確定した囚人が歓喜の涙に咽んで万歳三唱していた。やっかみ半分称賛半分、「よかったな」「この野郎」と仲間に小突かれながら歓喜の絶頂で笑み崩れてる囚人から大画面のスクリーンへと顔を戻し、呟く。
 「ない」
 
 ない。ブルーワークにも名前がない。
 その事実が四肢に染み渡って思考野に達するまでに、俺は石になった。

 手足がスッと冷えてゆく。
 五感が閉じ、視野が狭窄してゆく。心臓の鼓動が銅鑼のように頭蓋裏で響き渡り耳小骨を震動させる。内耳の平衡感覚が狂い足がよろけて二歩後退、背後に突っ立ってた囚人と接触して「邪魔だよ」と突き飛ばされる。危うく尻餅をつきそうになり、寸でのところで立て直す。萎えて崩れ落ちそうな膝に手を付いて上体を支え、悪夢の色彩をおびた眩暈に耐える。
 心臓の動悸が不整脈を生じたように異常に速まり呼吸するのも苦しくなる。絶望で暗く翳った視界を占めるのは大画面のスクリーンだ。
 俺の名前がどこにもないスクリーン。
 そんなことはない、とよわよわしく否定する声がどこからか聞こえてくる。まさかそんな、そんなことがあるわけない。俺の名前がどこにもないなんてそんなこと。目に映る現実を全否定した繰り言が無意味な言葉の羅列となって頭の中で増殖していく。自己欺瞞の現実逃避。底なしの絶望をさらに掘り下げる行為。
 スクリーンに名前が無い。その事実が意味するところはちゃんとわかっていた。
 わかっていたが、認めたくない。認めたくない。だって、ありえないじゃないか?俺はこの一年半一生懸命やってきた、手にマメを作ってマメが潰れても弱音を吐かずに地道に穴掘りを続けてきてようやく昨日その苦労が報われたばかりだというのに。
 スクリーンに公表されてる囚人名はブルーワーク、レッドワーク、イエローワークの三部署に限定される。そうだ。部署が一つ欠けているのだ。東京プリズンの汚辱にまみれた暗部を一手に担うあの部署が。
 「僕の名前がない」
 「!」
 鞭打たれたように隣を見ればいつのまにか鍵屋崎が来ていた。囚人の人だかりを半ば強引に突破してきたのだろう、格闘の痕跡を残した囚人服は皺くちゃに乱れて額には薄く汗が浮いていた。イエローワークからレッドワーク、レッドワークからブルーワークへと俺と同じ順番で名前を確認していた鍵屋崎が純粋な疑問の色に染め上げられたまなざしをむけてくる。
 「おかしい。全部の名前を確認したが、囚人番号も名前も見当たらない」

 笑いたくなった。
 いっそ本当に笑えたらどんなによかったろう。
   
 「鍵屋崎」
 顔が不自然に強張り、悲痛なひきつり笑いが浮かぶ。傍から見た俺は泣き笑いとしか形容しがたいこっけいな顔をしてることだろう。いまだ状況が飲み込めずに眉間に皺をよせてる鍵屋崎の肩を両手で掴んで振り向かせれば、本人は至極迷惑そうな顔をした。が、いつもそうするように即座に手を振り払おうとしなかったのは俺の顔を直視してしまったからだろう。
 俺の顔。希望を根こそぎ取り上げられて涙も枯れてもう笑うしかない状況なのに、肝心の笑顔がどうしても浮かべられない。 
 出来損ないの笑顔。
 鍵屋崎の肩に指を食い込ませる。強く強く、もっと強く。鍵屋崎が苦痛に顔をしかめるのを無視して、気付かないふりをして。そうでもしなければ支えを失った俺自身がその場に崩れ落ちてしまいそうだったから、底なしの泥沼に沈みこんで二度と這い上がってこれない危機感に襲われたから。
 
 足もとには地獄が口をあけて待ち構えてる。
 もっと早く気付けばよかったのに。

 「いいか、よく聞けよ」
 自分の声を自分の声じゃないように聞く。実際俺の声じゃないみたいだ、こんなみっともなくかすれた声、女々しく震えた情けない声、俺が知ってる俺の声じゃない。
 本当はこんなこと言いたくない、鍵屋崎にだって聞かせたくない。
 でも、知らせておかなければ。コイツに覚悟させておかなければ。
 「これから房に帰ってしばらくしたら看守がやってくる。何分何十分、ひょっとしたら何時間後かわからないが必ず今日中にやってくる。そいつが持ってるのは黒い紙だ、妙に薄っぺらくてたよりない手応えの四角い紙。その紙を手渡されたら、」
 事態の推移と俺の豹変に全くついていけてない鍵屋崎が理解不能といった顔をするのに胸が締め付けられる。
 言いたくない。
 言いたくない。
 でも、言わないわけにはいかない。逃れることはできないのだから、どのみち知らずに済ますことはできないのだから。
 もう、手遅れだ。後戻りなんかできっこない。
 「……その紙を手渡されたら、中を開けろ。たぶん数字が書いてあるはずだ。1か2か3かそれはわからない、わからないけど……」
 「一体全体どうしたんだ、きみは少しおかしいぞ」
 当惑を極めた鍵屋崎の肩を砕けそうなほど力をこめて握り締め、切羽詰った口調で念を押す。
 「どの数字が書いてあっても、絶対に首を吊るなよ」
 俺を残して首を吊るなよ。
 言外にそう脅迫して鍵屋崎の肩を乱暴に突き放す。よろけて二歩後退した鍵屋崎が俺に抗議するのも忘れて目を見張ってる。自分がおかれた悲惨きわまりない状況なんかこれっぽっちもわかってない平和な面を見るに耐えかね、物問いたげな視線を断ち切るように踵を返してその場を走り去る。
 群れた囚人を突き飛ばし突き飛ばし肘打ちを食らわせ脛を蹴り上げる。
 背中に浴びせられる罵声も罵倒もなんら意味を成さない、俺には関係ない世界のことだ。無茶苦茶に暴れて人ごみを突っきったせいで視聴覚ホールの外に転げ出たときにはひどい有り様だった、髪はぐちゃぐちゃにかきまわされて揉みくちゃにされた服は盛大に乱れ、のびきった襟刳りから鎖骨が覗いている。
 茫然自失の状態から夢遊病者のような二足歩行で人ごみをかきわけ廊下を進むが、半ばで力尽きた。いまだ喧騒止まない廊下の半ば、壁の表面に背中を密着させ、膝の関節が抜けたようにあっけなくずりおちる。
 頭蓋裏を満たしてるのは不規則に弾む呼吸音と荒く乱れた動悸。
 「…………………………なんでだよ」
 壁に縋るようにへたりこみ、呟く。
 
 今日は昨日よりマシな一日になるはずだったのに。
 なんでいつもこうなっちまうんだよ。

 壁際で頭を抱えて蹲った俺を不審顔の囚人が遠巻きに迂回していく。無関心に遠ざかる足音に巻かれ、膝と膝の間に頭を垂れる。
 
 俺は今日、人生何度目かの最悪のくじを引いてしまった。
 今日より最悪な明日があるなんて知りたくなかったのに、畜生。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060224074259 | 編集

 なんでこんなことになっちまったんだ。
 裸電球を消した薄暗闇の房、虚空の一点に茫洋と視線を据え、ベッドで膝を抱えて考える。背中に感じるのはひんやりと拒絶的なコンクリート壁の感触。なにかによりかかってなければ支えを失った体が倒れたまま二度と起き上がれないような危惧を抱き、横手の壁に背をもたせた胎児の姿勢で丸まる。
 一体全体俺がなにしたってんだ。
 虚無の空白にむしばまれた頭の中に泡沫のように断片的に浮上するのは意味のない繰り言ばかり、正解を導きだすためではなく自分を精神的に追い詰めるための無益な自問自答。確かに俺はひとに誇れる物なんかなにも持っちゃいない、育ちも悪ければ口も悪いし品性も卑しい淫売の子だ。11でお袋のアパートをとびだしてからいろいろ無茶やってきた、追いはぎもかっぱらいも恐喝も小金を掴むためなら何だってやった。頭がよくないから口八丁の詐欺はできなかったけど一通りの軽犯罪には手を染めてきた自覚がある。クスリと強姦だけは絶対にやってないと自信を持っていえるが、そんなの自慢にもなりゃしない。
 俺がやった最大の悪事といえばやっぱり人を殺したことだろう。
 対立チームとの抗争中、不良品の手榴弾を投げ付けて三人を肉片に変えたことだろう。悪気はなかった、なんて言えるわけがない。現に俺は三人もの人間を殺して下半身不随にした連中の人生を滅茶苦茶にしたのだ。悪気はなかっただなんて今更言えないし今そんなこと言うのは卑怯だ。俺がやったことは絶対に許されることじゃない、俺が殺した連中にもちゃんと人生があって親身に身を案じてくれる恋人や家族がいたんだ。
 その一切合財を奪ったのは、俺だ。
 だから今更虫がいいことを言えるわけがない、俺が今こんな目に遭ってるのは当然の報いだ。自業自得の仕打ちだ。俺はくそったれの人殺しなのだから、世間から後ろ指さされる犯罪者なんだから、これからどんな最悪なことが起きたってそれは自業自得なのだ。
 なにを能天気に浮かれてたんだろう。
 東京プリズンにいるかぎり、今日よりマシな明日なんて訪れるわけないのに。
 俺は馬鹿だから勘違いしてしまったのだ、イエローワークの砂漠に井戸が沸いた瞬間希望を掴んだと錯覚して自分がおかれた立場も全部忘れて狂喜してしまったのだ。やった、やっと俺がしてきたことが認められた、やっと俺の人生に甲斐ができたって。

 馬鹿だ。
 どうしようもなく馬鹿だった。
 呑気に浮かれてた自分を絞め殺したい。

 ここは刑務所なのに、ひとを殺したり傷付けたりした人間がぶちこまれる監獄なのに、蜘蛛の糸すらふってこない地獄の底なのに。
 目に映る光景すべてに現実感が乏しい。
 圧迫感を与える低い天井も殺風景な房の壁も不衛生な床も一年と半年見慣れた光景なのに無機物ですら妙によそよそしい。二の腕を抱きしめてるのに殆ど感覚がない、自分の手が自分の手じゃないみたいに強張って麻痺しているせいだ。 
 自分を取り巻く世界のすべてからそっぽむかれた壮絶な孤独感に押し潰されそうだ。
 自分を取り巻く世界のすべてが敵としか思えない状況でこれから何を信じて生きていけばいいのだろう。
 それ以前に、生き残れるのだろうか。 
 ひとりの味方もいない極限状況下ではたしてこれからさき、明日から始まる地獄の日々をしぶとく生き延びることができるのだろうか。
 蝙蝠の鳴き声に似た耳障りな軋り音をあげて鉄扉が開き、扉の隙間から一条の光が射す。廊下に設置された蛍光灯の光が一条漏れ入ってきたのだ。暗闇に慣れた目を細め、ゆっくりと顔を上げる。開かれた鉄扉のむこう、廊下を背に立っていたのは看守がひとり。奇妙に表情が欠落した酷薄な風貌の中年男だ。のろのろと首を動かして看守の手元に視線を注ぐ。体の脇に手をたらした看守が何か、一枚の紙きれを握っている。握り締めている。
 ついに来た。
 この瞬間が来てしまった。
 諦観と悲哀が入り混じった感情の渦がたちどころに理性を飲み込み押し流す。喉がひきつり、喘鳴にしか聞こえない間抜けな呼吸音が漏れる。膝頭に食い込むほど爪を立て、ともすれば恐怖が頂点に達して蒸発寸前の自我を痛覚への刺激でつなぎとめる。大丈夫だ、まだ正気だ、まだ正気を保っていられる。痛覚が正常に働いてるあいだはまだ大丈夫、まだ冷静に状況を分析できる、許容できる。
 峠さえ越えればこれ以上最悪なことなんか起こらない。起こりっこない。
 いや、そんなのは自己欺瞞だ、むなしい言い訳だ。自分でも薄っぺらい嘘だとわかりきってる調子よすぎな思い込みだ。でもとりあえず正気を保たなければ、なんでもないふりで看守に対応してこの場を切り抜けなければ、これから起こるさらに最悪なことに対処できるはずがない。
 大きく深呼吸して呼吸を鎮め、ベッドから腰を上げる。瞬間膝が笑って転びそうになったが背格子を片手で掴んでごまかす。虚勢を張り、顔を上げる。鉄扉までの一歩一歩がはてしなく長く遠く感じられた。距離感と平衡感覚が狂って悪夢の再現めいた眩暈が押し寄せてくる。自分の足を自分の足じゃないようにぎこちなく繰り出しながら歩いてるうちにじきに終点に到着。
 二歩分距離をあけて相対した俺を威圧的に見下し、看守が口を開く。
 「囚人№11960ロンだな」
 「ああ」
 こんな状況だというのに発作的に笑い出したくなる。「はい」って素直に返事すりゃいいのに看守の反感を煽るのを承知でタメ口叩くなんて俺はとことんひねくれ者だ。予想通り、俺にタメ口きかれた看守は目尻をぴくりと痙攣させて不快感をあらわにしたがそんなの知ったこっちゃない。用件は手短に済ましてほしい。
 「お前にプレゼントだ」
 プレゼント。真顔で悪趣味な冗談言うじゃんか。
 不遜な態度で手を突き出して看守から紙を受け取る。何の変哲もない黒い紙、妙に薄っぺらくてぺらぺらした手応えの紙きれ。ちょっと手に力をこめりゃびりびりと破けちまうチンケな紙きれ一枚で俺の人生が左右されるなんて悪趣味な冗談にしかおもえない。
 ああ、本当に。これが悪趣味な冗談だったらどんなにいいだろう。
 放心状態で手中の紙きれを見つめる俺の前で背中を翻し看守が廊下に出る。別れの挨拶も何もない事務的な職務態度は嫌いじゃない。タジマのようにねちねち囚人をいたぶらないだけどんなにマシかは身に染みてる。目の前で鈍い響きを残して鉄扉が閉じ、ふたたび俺ひとりが薄暗がりの房に取り残される。
 無言で手中の紙きれを見下ろす。
 ごくりと唾を飲み込み、軽く糊付けされた角を指でめくる。ぴりぴり、と薄片が剥がれる音がしてあっけなく表面が分離してゆく。
 読まずに便器に流しちまいたい。
 鼻をかんで捨てちまいたい。
 悪魔の誘惑に心が傾くが意志を裏切るが如く手の動きは止まらない。ぴりぴり、と緩慢な動作で紙の表面を剥がし終えて秘されていた数字と直面する。

 『2班』

 たったそれだけの簡潔な文面。
 無表情な数字が呼吸するのも苦しくなるような異常な圧迫感を伴って視界を占める。

 ―「畜生ッ!!」―
 咆哮。
 端的な通知に秘められたおそろしい事実が思考野に染み渡った瞬間、俺は獣じみた咆哮をあげて手の中の紙をぐしゃぐしゃに丸めていた。大きく腕を薙ぎ払い、ぐしゃぐしゃに握り潰した紙屑を壁に投げ付ける。壁に跳ね返った紙屑が転々と床に転がったのを間髪いれず蹴り上げて遠方に飛ばす、それでもまだ気が済まずに紙屑に飛び付いて無数の断片に切り裂く。びりびりに千切った紙片を両手を突き上げて頭上にばらまき、一斉に降り注いだ紙片が床に落ちたそばから地団駄踏む。
 踏み付ける、踏み付ける、踏み付ける。
 蹂躙。
 足裏が痛い。
 床に膝を付き、両手をのばして床に散乱した紙片をかき集める。閉じた五指の中に握り締めた紙片を部屋の隅の便器の上にもってってばらまく。そばのペダルを勢いよく踏み込んで水を流す、何度も何度も何度も。白濁した水流に揉まれ流されて渦中に飲み込まれた紙片を見送ったところで気は済みそうにない、躍起になって便器を蹴りつける、スニーカーの靴底で蹴り付けたせいで便器には無数の足跡が生じた。
 『2班』
 『2班』
 『よりにもよって2班』
 だんだん笑えてきた。口角が笑みの形に歪み、無機物の便器めがけて狂ったように足を振り下ろしながらも腹の底から笑いが湧いてくる。便器を攻撃するのに飽き、追い詰められた獣の必死さ、狂気にぎらついた目で周囲を見渡す。視界をかすめたのは俺が使用してるベッド。床を蹴ってベッドに飛び付きマットレスを持ち上げれば昨夜押し込んだ麻雀牌がバラバラと膝の上に落ちてきた。
 膝の上に落ちた麻雀牌を掴み、奇声を発して壁に投げ付ける。
 風切る直線を描いて壁に衝突した麻雀牌がその衝撃で天井高く弾き飛ばされる。何度も何度も腕を振り上げては振り下ろし壁や床に麻雀牌を叩き付けて満腔の憎悪をこめて靴裏で踏み躙る、プラスチックの牌が軋む異音と足裏で牌が砕ける感触に昨夜レイジと交わした会話が蘇る。
 『がんばったな』
 ああ、がんばったよ。
 だれよりもがんばったよ。むくわれなくてもがんばったよ。
 いつかむくわれる日がくるんじゃないかってがんばったよ、この地獄で。
 崩れ落ちるように床に尻餅つき、泥まみれの牌を両手にかき集めて握り締める。拳に握り締めた牌を顎下にあてがい、顔を伏せる。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』   
 鍵屋崎の言ってたことは正しかった。
 俺は紛い物の希望に目が眩んで自分がおかれた立場を忘れてたのだ。めでたすぎて笑えてくる、笑える、笑えー
 「……笑えねえよ」
 指が軋むほど握り締めた牌を全力で床に叩き付け、一面にばらまく。
 癇癪起こしたガキが手当たり次第に玩具を散らかしたような目も覆わんばかりの惨状のど真ん中に蹲りめちゃくちゃに髪を掻き毟る。 
 
 東京プリズンには四つの部署がある。
 都心から運搬されてきた危険物を加熱処理するレッドワーク、浄水管理や廃水ろ過行程にたずさわるブルーワーク、不毛の砂漠での開墾作業を担当するイエローワーク。
 最後がブラックワーク。唾棄すべき汚れ仕事を一手に担う東京プリズンの暗部。  
 ブラックワークはさらに「上」「中」「下」の三つにランク分けされる。腕自慢の囚人同士を戦わせ、その試合風景を観戦させることで流血沙汰に飢えた囚人どもの欲求不満を解消するのが「上」の娯楽班で正式名称は「ブラックワーク 1班」だ。最下層の3班は別名「処理班」と呼ばれて忌み嫌われてる。何を処理するかって?決まってる、死体だ。看守主導による体罰や囚人が暴走した末のリンチで出た死人は全部ブラックワークの囚人が片付けてくれる。
 レッドワーク、ブルーワーク、イエローワークに配属された囚人の名前は視聴覚ホールに張り出されるのが決まりだがブラックワークは事情が異なる。仕事内容がアレだから、プライバシー保護の建前だか何だか知らないが秘密裏に個人に通知する形をとってる。
 それが例の紙だ。
 ブラックワークの汚れ仕事に抜擢されるのは東京プリズンにおけるごく一部の囚人で、それこそ百分の一だか二百分の一だかという稀少な確率なのだ。俺はまさか自分がブラックワークに落ちるなんて、コツコツ真面目に働いてきた俺が不条理にもブラックワークに落とされるなんてこれっぽっちも考えちゃなかったのだ。
 ブラックワークは完全に勘定外だった。つい今しがた視聴覚ホールに足を運んで自分の名前がどこにも見当たらないスクリーンを目の当たりにするまでは。
 
 そして。
 俺の配属が決定した「ブラックワーク 2班」の、下卑た揶揄と嘲笑の的となる俗称は。
 『売春班』だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060223074854 | 編集

 昨夜は一睡もできなかった。
 薄い毛布にくるまってまんじりともせず夜を明かした。体には澱のように疲労が沈殿して精神はぐったり消耗しているのに頭の一部は常に冴えていて意識は鮮明に覚醒していた。何度寝返りを打っても眠りに落ちることはできなかった、一晩中暗い天井と壁とを交互に見つめて波が岸壁を削るように緩慢に、しかし確実に神経をすり減らしてゆく時間と葛藤した。
 起床したのは夜明け前だ。
 寝不足の目が赤く充血してるのが鏡に映して初めて分かった。酷い顔色だった、昨日の爽やかさなんか一片もない。腫れぼったい瞼をしばたたいて蛇口を捻り、顔を洗う。俺の周りだけ空気の密度が倍に膨張したように体を動かすのが億劫で仕方なかった、蛇口を捻りまた締める、たったそれだけの動作が想像を絶する苦痛を強いた。ベッドから這い出し、床に転がしていたスニーカーを踵で履き潰して洗面台に行くまでの道程が途方もなく長く感じられた。自分のやることなすことすべてに現実感が伴わない、悪い夢を見ているような、なにもかもが理不尽な夢の続きのような気がして。
 都合のいい思い込みだ。
 これが夢だったらどんなにいいだろう、と何度も思った。実際思い込もうとした、これは悪い夢なんじゃないかって、朝起きれば昨日とおなじ明日がくるんじゃないかと淡い期待を胸に抱いて。明日起きれば俺は昨日とおなじように顔を洗って朝一番にレイジと口喧嘩して食堂に行ってサムライや鍵屋崎とおなじテーブルに着いてまずい飯を食べてバスに乗ってるんじゃないか、そして行く先はかんかん照りの砂漠で今日もまた穴掘りの拷問が待ってるんじゃ……埒のない、堂堂巡りの現実逃避だ。それが証拠に俺の枕元には麻雀牌が転がってる、足裏の自重に耐えかねて脆くも割れ砕けた麻雀牌が。怒り狂った俺が腹底から突き上げてきた衝動にかられるがまま床一面にぶちまけて地団駄踏むように足を振り下ろした動かし難い証拠。
 昨日、ブラックワーク配属の通知を受け取ってからのことは断片的にしか覚えてない。すべてがあやふやでおぼろげで、どこまでが現実で夢なのか俺にもわからない。図書室から帰ってきたレイジに何か心配そうに声をかけられた気がするが覚えてない、自分がなんて返したのか、もしくは心ここにあらずで無視して返事しなかったのかさえ記憶にない。とにかく、昨日の朝飯以降レイジと会話らしい会話を交わしてないのは間違いない。昨日は月一回の映画鑑賞会と三ヶ月に一度の手紙配布日以外はごく稀な強制労働免除日だったのに俺はブラックワーク配属通知を受け取ってから自分がなにを過ごしたかてんで覚えてないのだ、たぶん廃人のようにベッドに寝転がって一昼夜を過ごしたんだと思うが気付いたら日が暮れて夜になってまた朝が来ていた。 
 朝なんか永遠に来なけりゃいいのに、くそ。
 内心毒づきながらベッドに腰掛ける。対岸のベッドから聞こえてくる安らかな寝息がささくれだった神経を苛立たせる。レイジは昨夜もぐっすり眠れたらしい、どうせまた夢の中じゃ世界中の美女をはべらしてハチミツぬりたくった足の指でもなめさせてるんだろう。八つ当たりでレイジが横たわってるベッドの脚を蹴って安眠妨害したくなったが大人げないと自重し、ベッドから浮かせた腰をまた戻す。大人しくベッドに戻り、落ち着きなく視線をさまよわせる。ちゃんと施錠された自分の房にいてこんな焦燥に苛まれたことは今だかつてない。
 今日から始まるのは地獄を上回る地獄の日々、最悪を極めた最悪の日々だ。
 鍵穴に鍵がさしこまれる金属音に過敏に反応して顔を上げる。
 外側から開錠された鉄扉が開き、廊下に立っていた看守と目が合う。昨日俺に通知を渡しに来た看守じゃない、もっと若い別の看守だ。看守になりたてといった初々しい風貌のそいつは片手に鍵束をさげたまま、ひどく緊張した面持ちで房内をぐるりと見渡した。その視線が四囲を一巡して俺に戻ってくるまでベッドに座ったまま辛抱強く待つ。 
 「囚人№11960ロンだな」
 昨日とおなじ台詞に無愛想に頷く。返事する気力もなかった。戸口に立った看守は一瞬同情的なまなざしで俺を見た、自分がこれから俺をどこに連れてくか、俺にどんな運命が待ち受けてるか知ってるのだろう。が、すぐに職業的な物腰に戻って若々しい顔を厳しく引き締め「来い」と命じる。
 命じられるがままのろのろと腰を上げ、看守について房を出る。鉄扉を閉じようとして、最後に対岸のベッドを見る。レイジはよく眠っていた、俺が出て行く気配にも気付いてないらしく大の字に毛布をはだけている。 
 気持良さそうに眠ってるレイジにやりきれなさと腹立ちが募り、わざと乱暴に扉を閉めた。扉の震動が壁を伝わってレイジの耳小骨を震わせてせめて俺が出て行くことに気付けばいいと、気付いてほしいと祈りながら。
 廊下の半ばで止まって無言で待ってる看守のもとに急ぐ。俺の到着を確認した看守が厳粛に頷いて歩き出す。これから自分がどこに案内されるかは薄々勘付いていたがだからといって足が軽くわけもない、未練たっぷり、足をひきずるように悄然と歩いているうちに周囲の景色が変わる。中央棟へと続く渡り廊下を経て俺が案内されたのは普段殆ど世話になることがない医務室。日中は満員御礼で大繁盛してる医務室も早朝の時間帯は閑散としている、かとおもいきや白い扉を開ければ室内には他に十数名の囚人がいた。
 いずれも俯きがちに壁際に並んだ囚人は俺と似たりよったりの悲壮な顔色をしていたが、中のひとりに吸い寄せられるように目がとまる。列の右端、壁に背中をもたせて所在なげに立ち竦んでいるのはよく見知った顔。
 鍵屋崎。
 「?」
 視線を感じて顔を上げた鍵屋崎と目が合う。眼鏡越しの目に訝しげな色を湛えた鍵屋崎が首を傾げる。
 「奇遇だな。きみもここに連れて来られたのか」
 コイツ、自分がおかれた状況わかってんのか?「奇遇」もなにも呑気すぎるだろう、ちょっと。無造作に鍵屋崎に歩み寄り、感情の欠落した口調で言う。
 「お前も2班だったのか」
 「昨日渡された紙にはそうしるされていたが……一体なんのことだ?意味不明だ」 
 「サムライに聞かなかったのかよ」
 「修行に熱中していて聞ける雰囲気じゃなかった。僕も他に用があったから明日聞けばいいと思って……そうしたらこれだ。起床ベルが鳴る前に看守に起こされて理にかなう説明もなく医務室に連れてこられた。なんなんだ一体、これからなにが始まるんだ?」
 「貴重な睡眠時間を阻害されたのが腹立たしくてならない」といわんばかりの憤然たる口調で鍵屋崎が訴える。いくら俺が親切でも鍵屋崎にいちから説明してやる気力はない、知りたくなくてもおいおいわかってくるだろうし俺の口から話すまでもないだろう。
 通夜のような陰鬱な面持ちで壁際に並んだ列に加わって待つこと数分、がちゃりと扉が開いて入室したのは初老の医師と俺の天敵。
 タジマ。 
 タジマの姿を一目見た途端囚人に戦慄が走る。イエローワーク以外の囚人にもタジマの悪名は轟いている、あの手この手を使って囚人をなぶり者にするのが趣味の陰湿かつ陰険な性格で虐待性愛者の変態。一年半タジマに目を付けられてあの手この手でなぶられてた俺が自信をもって断言するんだから間違いない。
 「全員揃ってるな」
 俺たち囚人を威圧的に睥睨したタジマが黄ばんだ歯を剥いて笑い、傍らの医師に目配せ。タジマの意を汲んだ医師が謹厳に頷いて椅子に腰掛け、聴診器をかける。俺たちの正面に仁王立ちしたタジマが傲然と顎を引いて重々しく告げる。
 「もうわかってると思うが、お前らが今朝ここに連れてこられたのはブラックワーク2班就労前の健康診断と身体検査の為だ」
 『ブラックワーク』の名に小心な囚人が震え上がる。青ざめた唇を噛み締めて俯いた囚人を陰険にぎらつく目で順番にねめつけ、タジマが演説を続ける。
 「まだわかってねえオツムの鈍い新人のために手早く説明するとブラックワーク2班の仕事は売春、おっといけねえ、囚人の性欲処理だな。知ってのとおりここは刑務所だ、見渡す限り野郎しかいねえむさ苦しい環境だ。しかも砂漠のど真ん中で手っ取り早くヌくための風俗店もなけりゃ娼婦もいねえ、タマが重くなったら相方の留守見計らってこっそりヌくしかねえ侘しい日々だ。しかしお前らヤることしか考えてねえ十代のエロガキどもが役不足の右手で満足できるわきゃねえ、まあ左利きの奴もいるだろうがな」
 なにがおかしいのが、自分の冗談にウケたタジマが下卑た哄笑をあげる。頬をひきつらせて追従笑いする囚人もいりゃタジマの哄笑に怯んであとじさった囚人もいたが、俺と鍵屋崎はどちらでもない。ここに来てようやく自分がおかれたのっぴきならない状況が飲み込めてきたのか、鍵屋崎は無言で立ち尽くしていた。傍らの俺は親の仇のような目でタジマを睨みつけるしかない自分の無力を噛み締める。
 「そこで出来たのがブラックワーク2班、通称売春班。女がいなけりゃ男でまかなうしかねえってコトで出来た東京プリズンの性欲処理係だ。光栄に思えよ、2班に選ばれるのは同性の目から見てもムラムラくるような見目がイイ奴ばっかだ。たとえばそこの、」
 いやらしい笑みを満面に湛えて鍵屋崎の方へと顎をふるタジマ。
 「そこのメガネは元イエローワーク六班の親殺しだ。とてもてめえを産み育てた両親をナイフでぐさっと殺っちまうような外道には見えねえ品のいいツラしてるだろ。想像してみろよ?あの生っ白くて細っこい体が男に組み敷かれてお高くとまった顔が火照って喘ぐさまを。ああ、でも駄目か、おまえ不感症だもんな。相手ばっか気持ちよくても自分が気持ちよくないんじゃ悲惨だよなあ」
 警棒で平手を叩きながら呵呵と高笑いしたタジマに眼鏡越しの視線の硬度が増す。憎悪よりなお冷たく凍えた軽蔑の眼差しで射抜かれてもタジマは動じず、鍵屋崎の隣の俺へと視線を転じる。
 「隣のガキはチームの抗争で三人殺ってるらしいが、反抗的な態度に似合わずやんちゃでカワイイツラしてるだろ。育ちが悪いせいか目つきは悪いけどな、あの目を潤ませてよがってる姿はなかなかそそるぜ。クソ生意気なガキをいたぶっていたぶって泣かせてみてえって股間熱くしてる客に人気でそうだよな、え?」
 カッとした。
 「お前によがらされたことなんかねえよ、あることないことほざいてんじゃねえ!」
 あんまりな言い草に我を忘れてタジマに掴みかかろうとした俺を鍵屋崎が小声で制す。
 「下劣な人間に関わるとそれでなくても卑しい品性がさらに卑しくなるぞ」
 フォローになってねえし後半いらねえし。
 鍵屋崎に制止され、多大な努力を強いて拳をおさめた俺に溜飲をさげたタジマが手中の警棒を振り回しながら指示をとばす。
 「じゃ、順次健康診断開始だ!手間かけさせずにちゃっちゃっとやれよ」
 鼻歌でも歌いだしかねないご機嫌な様子でタジマがひっこみ、重苦しい沈黙が囚人の間に落ちる。
 「……あ、」
 歯の根ががちがち震える音とかすれた声に顔を上げれば、鍵屋崎からふたり挟んだ場所のガキが呆然と虚空を見据えていた。
 ―「ああああああああああああああああっ、くそおおおおっ!!」―
 突如頭を抱え込んで床にうずくまったガキに周囲の囚人が動転する。頭皮に爪を立てて頭をめちゃくちゃに掻き毟ったガキが狂ったように絶叫する。
 「なんでだよなんで俺がブラックワークなんだよ、これまで真面目に働いてきたのに!なにが悪かったんだよ畜生っ、教えてくれよ!」
 床に屈した膝を拳でめちゃくちゃにぶちながら真っ赤に充血した目で泣き叫ぶ囚人の隣、放心状態で突っ立ってたガキにまで恐慌が伝染したんだろう、鼻歌まじりに医務室の奥にひっこもうとしていたタジマの背になりふりかまわず追いすがる。
 「おいまてよ聞いてくれよ!うそだよな、俺が売春班なんて冗談だよな?だって俺娑婆に彼女いるんだぜ、凛々って言ってさ、すっごいスタイルがいい美人で今でもけなげに俺の帰り待ってくれてるんだぜ?なのになんで男なんかに抱かれなきゃいけねえんだよこんなのってねえよ、凛々にあわす顔ねえよ!!」
 タジマの肩を掴んで振り向かせようとした囚人の横っ面が唸りをあげてとんできた警棒に張り飛ばされる。もんどり打って転倒した数人が鼻血で顔面を朱に染めて悲痛な嗚咽をもらすのをひややかに見下すタジマ。一蓮托生、同じ境遇の囚人がタジマに張り飛ばされるのを固唾を呑んで凝視していたガキが精神崩壊を起こし痴呆じみた表情で糸が切れたようにその場に跪く。
 「おかあさん、おかあさん……」
 「お袋、もうやだよおこんなトコ、娑婆でてえよ……」
 「頼むよタジマさん凛々に会わせてくれよ、売春班抜けられねえなら仕事始めるまえに一回、一回でいいから凛々抱かせてくれよ!!そしたらあきらめるから、すっぱり未練捨てるから……」
 膝を抱えて女々しくすすり泣くガキ、頭を抱えて悲嘆に暮れるガキ、「お袋お袋」とうわ言を呟きながら視線を虚空にさまよわせるガキ、何度張り飛ばされても懲りずにタジマにつっかかってゆくガキとそいつを羽交い絞めにして後ろから抱きかかえるガキ、耳をつんざく悲鳴と完全に理性を失った怒号が交錯する収拾つかない惨状。
 「娑婆にガキいるのに出所後どのツラさげて会いにいきゃいいんだよ!?」
 「『おまえの親父はムショで男にヤられました』って貴重な体験談話してやれよ、絵本よかよっぽど刺激的だぜ」
 自分の背中にひしとしがみついた囚人を蹴倒してタジマが笑う、医務室に響き渡るどす黒い哄笑に眩暈をおぼえて壁によりかかる。
 地獄絵図だ。
 憤怒にかられて獰猛に吠え猛る囚人と絶望のどん底に突き落とされて正気を失った囚人、恐怖の絶頂で失禁した囚人もいる。阿鼻叫喚の惨状を呈した医務室でただひとり平静を保ってるかに見えた鍵屋崎にしても顔色は白く強張り、ただでさえ色白の肌が静脈が透けるほどに青ざめて見えた。 
 娑婆に残してきたという子供の名前を連呼しながら床に突っ伏した囚人に鼻を鳴らし、軽快な大股でタジマが去ってゆく。医務室の奥へとひっこんだタジマを見送る囚人の目には奔騰する溶岩流の如く激烈な殺意が迸っていた。
 「ところで」
 咳払いに振り向く。
 椅子に腰掛けてこの惨状を観察していた初老の医師が、俯きがちの視線でおそるおそる申し出る。
 「健康診断を始めていいかね?」


                                 +

 

 壁際に並んだ囚人の名が一人ずつ呼ばれる。
 健康診断はとどこおりなく行われた。白い衝立でさえぎられた向こうに吸い込まれた囚人は平均五分、どんなに長くても八分程度で程度で出てくる。でも健康診断を無事クリアして浮かれてる奴なんか一人もいやしねえ、どいつもこいつもこの世の終わりのような悲惨な顔をしている。亡者めいた足取りで不安定に蛇行しながら身体検査が行われる医務室の奥へと歩いてく囚人を見送り、呟く。
 「くされ縁だよな」
 苦渋にみちた口調に鍵屋崎が顔を向ける。
 「イエローワークでも顔見知りならブラックワークも同じ班で、ほんとくされ縁だ」
 唾を吐くように辛辣に言い捨てた俺を何か言いたげに見つめていた鍵屋崎がスッと眼鏡の奥の目を細める。
 「顔色が悪い。昨夜の睡眠時間は?」
 「0分。お前は?」
 「昨日は遅くまで読書してたから正直寝不足だ」
 あくびを噛み殺したような口調で鍵屋崎が生返事する。何の本を読んでたかは聞かなかった、どうせ題名を聞いてもさっぱりわからない小難しい本だろう。列に並んだ囚人がいずれも顔を伏せて竦み上がっているのに鍵屋崎は相変わらず泰然自若としてる。冷静沈着な態度とひとを小馬鹿にした横顔からは今しがた告げられた自分の運命をどう思っているか正確に汲み取れない。
 「冷静だな」
 「そうか?」
 無関心な口ぶり。一睡もできなかった自分とよく眠れなかったと口では言いながら憎らしいほど落ち着き払った鍵屋崎を比較し、自己嫌悪を裏返した苛立ちが募る。
 「便利だよな、不感症は」
 だからつい、皮肉を言ってしまったのだ。
 腕組みして壁にもたれた姿勢で漫然と衝立をながめていた鍵屋崎がゆるやかに振り向く。わずかに怪訝そうに目を細めた鍵屋崎を挑発的に睨み、意識的に口角を吊り上げる。嘲笑。
 「男に無理矢理ヤられようが何されようがお前にゃ関係ないもんな、快も不快もなにも感じないんだもんな。女抱いてもなにも感じないようなつまんねえ男だもんな、いまさら強姦されたってたいしたことないだろ」
 今まで積もり積もった鍵屋崎に対する反感が辛辣きわまりない台詞となって口から迸り出た。半年前、鍵屋崎がイエローワークに配属されてからこっちずっといろいろ助けてやってるのに感謝されもしない、どころか迷惑がられてうっとうしがられてる現状に自分でもはっきりそれと自覚しないうちに不満が蓄積されてたのだろう。
 『こんな汚い毛布、どうせ持ってくるならきれいなやつを』
 耳にこだまするのはつんけんしたお袋の台詞。相手のためによかれと思ってしたことがさっぱり報われない時の胸が締め付けられるようなやるせなさ。お袋と鍵屋崎は別人なのに、俺は鍵屋崎の中に憎いお袋の幻影を見てたのかもしれない。
 鍵屋崎は黙って俺を見つめていた。声を荒げて反論もせず、打てば響くような毒舌で応酬するでもなく、普段の奴からは想像もできないような複雑な表情を一瞬だけ覗かせて。
 「……そうだな」
 それだけだった。 
 あっさり肯定されて肩透かしを食らった俺は次の瞬間猛烈な自己嫌悪に苛まれる。鍵屋崎がいつになくしおらしかったからうしろめたくなるなんて、卑怯だ。
 もっと卑怯なのは、コイツの傷ついた顔で少しだけ救われたことだ。
 最低だ俺。自分に反吐が出る。
 「囚人№11960ロン、来なさい」
 おいぼれ山羊みたいにのどかな声に呼ばれてハッとする。衝立の向こうから名指しされて自分の順番が回ってきたことを知る。正直鍵屋崎の隣を離れられて救われた心地がした、鍵屋崎の視線を背に感じながら衝立の内側に消える。
 健康診断自体はごく短時間で終わった。
 俺を担当した医者は度の強い老眼鏡をかけた耄碌ジジィで聴診器を持つ手が震えていたが、カルテに何かを書き込みながら「健康そのものだ」と力強く請け負ってくれた。鍵屋崎の言う通り衛生面では全く信用おけない東京プリズンの水道水を呑んでも腹を壊さないのだからそりゃ健康体だろう、わざわざ診察するまでもない。ちなみに健康診断というのは建前で、本当の目的は2班に採用された囚人が性病にかかってるかどうかを調べるための検査だ。もちろん俺は白、性病を伝染されるようなことはだれとも何もやってないんだから当たり前だ。
 もっとも、これからさきの保証はないが。
 ため息をつきながら上着の袖に腕を通してると手荒く衝立のカーテンが開けられた。
 振り向く。背後のカーテンから赤ら顔を突き出したタジマが上半身裸の俺を見て舌なめずりして笑っている。
 下衆野郎と悪態をつき、さっさと服を着ようと裾を掴んでおろしかけた手が鷲掴みにされる。
 「なにすんだよ!?」
 「なにって健康診断の次は身体検査だろ?看守に断りなく服着るんじゃねえよ」
 やにくさい歯を剥いてにたつくタジマに壮絶に嫌な予感が募る。不吉な胸騒ぎをおぼえて医者を振り返ればわざとらしく咳払いしてそっぽをむいてくれた。見て見ぬふりの保身主義ってわけか。片腕を掴まれ椅子から腰を浮かせた姿勢で振り仰げば、タジマの視線はみみずが這うように首筋から肩を経て二の腕へ、そして胸板へと滑っていた。
 察するに、身体検査とやらは衝立で仕切られた第三者の目の届かない密室で行われるのだろう。タジマとふたりきりで。
 ぞっとしない話だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060222075106 | 編集

 「脱げよ」
 キャスター付きの椅子に腰掛けたタジマが背もたれに顎をのせて命じる。
 壁に背中を密着させ、タジマの視線から体を守るようにへその上に腕を回す。だがいつまでこうしてても始まらない、嫌なことは早く済ませちまうに限る。覚悟を決め、上着を脱ぐ。あらわになったのは薄い胸板と腹。鍵屋崎とおなじで筋肉の付きにくい体質なんだろう、一年半イエローワークの肉体労働に従事しても身体的な変化は日焼けした位で筋肉が隆起する兆候は見られない。でも肩は直線的だし腕は骨ばって肘は尖ってるしこんな体観賞しても楽しいとはおもえない、女のヌードなら大歓迎だが。
 俺にとっちゃ劣等感を刺激する要素でしかない華奢な上半身もタジマにとっては意味合いが異なるのだろう。
 革張りの背もたれに二重顎を乗せたタジマはヨダレをたらさんばかりににたついてた。床を蹴りキャスターを滑らせて加速、壁際の俺に接近。異常な熱をおびた視線が露出した胸板から一直線にへそを縦断、重点的に股間を舐める。
 「下もだ」
 「下もかよ」
 間抜けな問答だ。
 抗議口調の俺を鋭い眼光で射竦め、口元には酷薄な笑みを浮かべてタジマが言う。
 「一年と半年前は慈悲かけて下は勘弁したけど今回は見逃せねえぜ。身体検査だもんな」
 仕事だからいやいや、という口調を気取ってるが本心は嬉しくて楽しくて仕方ないと心躍らせたタジマの命令に唇を噛んで下を向く。逡巡、葛藤。コイツの前でズボンと下着を脱いで全裸になるなんてまっぴらごめんだ、そんなみっともない真似死んでもお断りだ。いっそどこまでも事務的に自分の仕事に徹してる看守ならよかったのに、俺に通知を渡しに来た看守みたいに同性の裸なんかにてんで性的興奮をおぼえない真っ当な奴ならよかったのに。今こうしてる間も俺の体を見つめてるタジマの視線にはうんざりするような粘着力がある、タジマの視線が裸の胸板を這うと皮膚の下で千匹の蟲が蠢いてるような悪寒が走る。
 「くそっ、」
 舌打ち。
 タジマの命令に従うのは癪だが背に腹は変えられない。腹を括ってズボンに手をかけ、下着と一緒にさげおろす。ひやりとした外気が下肢に触れた。普段ズボンに包まれてる下半身が外気に触れたことで筆舌尽くしがたい羞恥と屈辱に身を苛まれる。無意識な動作で腹部に腕を交差させ視線を避けようとしたが警棒で無情に払われる。椅子を軋ませて背もたれに体重をかけたタジマがごくりと生唾を呑む。
 壁際に立たされた俺はせめて自分の局部と薄い胸板が目に入らないように視線を逸らしてるしかない。自分の裸なんかじっくり見たくもない、赤の他人の目に晒されてるとありゃなおさらだ。
 が、視線の圧力は無視できない。
 床を蹴って距離をとったタジマが粘着質な視線で俺を観察する。
 首筋から落ちた視線が肩をすべり二の腕を下降、肘の輪郭をたどって腋の下へ。鎖骨の窪みを執拗に舐めていた視線がひらたい胸板を這ってへその中心へと吸い込まれ、その下へ。
 「…………」
 生理的嫌悪で肌が鳥肌立つ。一刻も早く終わってくれ終わってくれと念じながら固く固く目を閉じる。視線にさらされた肌が異常に敏感になり、淫蕩な熱を孕んでじれったく疼く。奥歯を噛み締めて身動ぎした俺の耳朶にふれたのは皮肉げな嘲笑。
 「見られて興奮してんのか?」
 頭の中で光が弾けた。
 しっかりと目を開け、タジマにガンをとばす。裸の背中に触れた壁の無機質な固さが心許ないが今タジマから目を逸らすのは意地が許さない。口で反抗するのが許されないならせめて眼光で互角に対抗しようと顎を引いた俺に笑みを広げタジマが再接近。キャスターが床を擦る音に条件反射で身が竦む。
 くそ、びびってんじゃねえよ、こんな変態相手に。
 タジマの腕が脇腹へと伸びる。なにする気だと声を荒げかけ、飲み込む。鼻息荒く興奮したタジマが俺の脇腹に触れる。
 「!あっ、」  
 声をあげたのは感じたからじゃない、脇腹の痣を撫でられたからだ。つい二・三日前にできたばかりの青痣でちょっと手を触れられただけでも剣山で抉られるような痛みが生じる。俺の声を事実とは違う風にとったタジマが調子に乗って体のあちこちに手をすべらす。肉付きを確かめるように脇腹を揉んでいた手が上へ上へとよじのぼり二の腕を軽く持ち上げさせ、もう一方の手が腰にあてがわれる。
 「この痣はおれがやったんだ」
 恍惚とした目で俺の上半身を舐めまわしながらうっとりとタジマが呟く。所有の証を愛でるような誇らしげな口調だった。
 「おぼえてるか?一年半前はじめてイエローワークに来た時のこと。こうして裸にして立たせたよな。あの時はまだ痣も生傷も少ないキレイな体してたけど、これはこれで」
 「お前が言ってた身体検査ってのは囚人を裸にしてあちこち撫で回すことかよ?無知なブタに教えといてやるけどな、それは身体検査じゃなくてセクハラってゆーんだよ」
 タジマの顔が強張る。
 そりゃそうだろう、今までされるがままに自分の手に身を委ねてた囚人に真っ向から嘲笑されたのだから。俺としても我慢の限界だった、堪忍袋の緒が切れた。いつまでこうしてタジマの手に体を撫で回されてなきゃなんないんだ?裸になって俺が危険物隠し持ってないことが判明したんだからさっさと終了してほしい、いつまでも素っ裸でいたら風邪をひく。
 しかし、今日のタジマは忍耐強かった。普段のタジマなら俺が反抗した時点で怒り狂って警棒を振り上げてるはずなのに、腰の警棒にのばしかけた手を自制心を総動員してぐっと引っ込めたではないか。警棒でめった打ちされるか、最悪独居房に送られるのを予期して生きた心地がしないでいたのに拍子抜けする。
 ほっとして、ほっとした自分を殺したくなるのはこの数秒後だ。これは序の口に過ぎなかったのだから。
 「服を着ろ」
 興味が失せたように淡白に命じられ、背骨がとろけるような安堵に浸かる。床を蹴って椅子ごと遠ざかったタジマが何かごそごそやり始めたのをよそに素早く服を着る。ズボンの裾を引き上げて長々と息を吐いた俺をタジマが呼ぶ。
 「来い」
 目をかけた猫の子でもさし招くような溺愛の動作に警戒する。背もたれに怠惰に顎をのせた姿勢で俺を手招きするタジマに不承不承従い、歩み寄る。椅子の手前で立ち止まった俺を含みありげな上目遣いで見上げてタジマが取り出したのは……
 爪きり。
 息を呑む。
 「なにびびってんだよ。安心しろ、深爪の拷問なんかしねえよ。爪を切るだけだ」
 「……は?」
 耳を疑う。爪を切る?なんで?なんで看守がそんなことしてくれるんだ、何か裏があるに違いないと警戒心をむきだしにした俺にタジマが笑いかける。有無を言わせず俺の腕を掴んだタジマが面前で五指を開かせる。一本一本指を取ってしげしげ見つめていたが爪きりに爪を噛ませて…… 
 パチン。乾いた音におもわず目を瞑る。
 すこぶるご機嫌な鼻歌まじりで俺の爪を切ってくタジマをあ然と見つめる。右の小指、薬指、中指、人さし指、親指。パチンパチンという乾いた音が軽快に連続してのびきった爪の先端がぽろぽろ床にこぼれる。手際よく爪が切られてく小気味良い音を上の空で聞きながら、俺は逃げることも立ち去ることもできずにその場で硬直していた。背もたれに顎をかけたタジマがへたくそな鼻歌をなぞりながら爪切りを上下させる、ぱちんぱちんぱちん。レイジより音痴な人間がいるなんて衝撃だ。
 タジマの意図が掴めず漠然と不安になった俺をよそに右手終了、左手の小指を爪切りが噛む。ぱちんぱちんと連続する音、爪の欠片がぱらぱらと床に落ちてくのを複雑な面持ちで眺める。
 去勢された気分だ。
 やがて十本すべての指の爪を切り終え、タジマが満足げに身を引く。腑に落ちない顔で両手を翳した俺と床に散らばった爪とを見比べること数秒、タジマが嬉嬉として叫ぶ。
 「もう安全だな」
 安全?脈絡のない単語に眉をひそめた俺を椅子から見上げ、タジマは命令した。
 「自慰しろ」
 コイツは異常者だ。正真正銘の異常者だ。
 「…………っ、」
 「自慰。オナニーでもマスターベーションでもひとりエッチでもいいけどな、言ってるこたわかるだろ?まさかその年で一度もやったことねえなんて言うなよ」
 わかる、わかるに決まってる。俺だって聖人君子じゃない、レイジの留守中に毛布にかくれてやったことくらいある、というか最低二日に一度はやってるけど他の囚人に比べて頻度は少ないほうだ、いや違う、そんなことは今どうでもいい、どうでもよくないのは今タジマの口から出た言葉と現在進行形で俺がおかれてる状況だ。
 「正気じゃねえ」
 あとじさった拍子に背中が白塗りの棚にぶつかった。消毒液の瓶や包帯やらガーゼやらを収納しておく棚だ。棚にへばりつく格好でタジマを見据え、吐き捨てる。
 「はじめて会った時から思ってたけど本当の本当に正気じゃねえ、あんたおかしい、狂ってる。だいたいそんなもん見てなにが楽しいんだよ、そんなことさせて何の意味があんだよ?そんなにオナニー見たいなら鏡見ろよ、てめえの短小ペニスをおったててしごいてひとりで勝手にイけよこの変態!!」
 気持ち悪い、吐きそうだ。猛烈な嘔吐感をこらえて叩き付けるように叫ぶ、自分が直面してる事態があんまり異常すぎて許容できない、現状把握が追いつかない。ともすれば気が遠ざかりそうになるのを足腰踏んばってこらえてタジマを睨む。床を蹴ったタジマがみたび接近、消毒液の棚を背に追い詰められた俺を卑猥なにやけ面で覗きこむ。
 「違うな。俺はな、お前がイくとこが見たいんだよ。全身全霊で嫌がってる奴に無理矢理ヤらせるのがたのしいんじゃねえか、なあ」
 分厚い唇を唾液で淫猥にぬれひからせたタジマに生理的嫌悪が爆発して絶叫したくなる。恐怖と混乱で頭が真っ白になった俺の方に図々しく身を乗り出したタジマが断りもなくズボンに手をかける。
 「どれ、下脱がすの手伝ってやる」
 
 キレた。
 
 絶叫、椅子が横転。
 凄絶な悲鳴を発して椅子から転げ落ちたタジマが両手で目を覆ってのうたちまわっている。俺の右手にあるのは消毒液の瓶、瓶から立ちのぼったアルコールの刺激臭がつんと鼻孔を突く。足もとに落ちた蓋を蹴り、一瞬の早業でガラス戸を開け放った棚から上体を起こす。
 「図に乗るなよタジマ。ビール腹の中年が見境無く男に発情して気持ち悪ィんだよ、二度とそんな気持ち悪い目で俺のこと見れないように眼球焼いてやる!!」
 ガラス戸を軋ませて啖呵を切るも俺の頭の中は真っ白だ、怒髪天を突いた自分の声がびりびり大気と鼓膜を震わせてるというのに。無防備な顔面に消毒液をかぶったタジマはたまったもんじゃない、消毒液が涙腺に染みる激痛に目を真っ赤に充血させ声もなく悶絶していたが突然咆哮、四つ脚の獣のように床を蹴って棚に激突、腹に体当たりして俺を押し倒す。 
 「!」
 腹に頭突きを喰らった衝撃で五指が緩み、床に落下した消毒液の瓶が粉々に割れ砕ける。透過性の高い茶色のガラス片が床一面に散乱する、蛍光灯の光を反射して硬質に輝くそれはおそろしく色素の薄いレイジの瞳を彷彿とさせ、タジマに組み伏せられて後頭部を床で強打した俺は今の情けない光景をレイジに見られてるような錯覚に陥る。
 「このガキッ、下手にでりゃ付け上がりやがって!!」
 前髪を掴まれ強引に顔を上向けられる、腰の警棒を抜いたタジマが肩で息をしながら凄む、憤怒で朱に染まったおそろしい形相。後頭部を打った後遺症で眩暈に襲われた俺を真上から覗きこんでうわ言のようにタジマが繰り返す。
 「一年半だ、いいか一年半だ、俺がお前に目を付けてから一年半だ!一年半ずっとヤりたくてヤりたくて仕方なかったんだ、お前が来た日のことはよーく覚えてる、主任看守の俺に媚びへつらわねえ生意気な新人が来たって久方ぶりにぞくぞくしたよ!実際お前ほどいじめ甲斐あるガキは久しぶりだ、おまえときたら初日に服脱がされても泣き言ひとつ言わねえでガンとばしやがった、何度警棒でぶちのめそうがガンとばすのやめねえ学習能力のなさ!その可愛げねえツラを歪ませたくて憎まれ口叩くしか能のねえ口に突っ込みたくて何回想像の中でヤッてヤッてヤりまくったかわかりゃしねえ!!」
 「黙れ黙れ黙れ、これ以上変態の寝言に付き合わされたら頭が変になっちまう!」
 「いいか、これは予行演習なんだ。どうせ明日から体売るんだ、何人何十人だかの男に抱かれるんだ。羞恥心とかプライドとか余計なモンはひとつ残らず剥ぎ取ってやる」
 狂気にぎらついた目を片手で覆ったタジマが俺の顔の横に風切る唸りをあげて警棒を振り下ろし、横っ面を風圧が叩く。
 次にタジマの口からでた提案に耳を疑う。
 「ケツの穴に警棒突っこまれるのと自分でヤるの、どっちがマシだ?」
 
 卑怯だ。
 そんなの二択になってない、はなから選択権なんかない。

 「はじめてが警棒ってのもきっついよな?大丈夫、ちゃんと気持よくなれるよう奥までねじこんでやるよ」
 タジマは異形の心を持つ怪物だ。理解を拒む異常者だ。
 俺をいじめるのがたのしくてたのしくてたのしくて発狂しそうにたのしくて仕方ない、追いつめて貶めてひとつ残らず希望を踏み躙ってくのがたのしくてたのしくてたのしくて勃起しそうにたのしくて仕方ない。タジマの顔はそう言ってる、タジマの目はそう言ってる、狂わんばかりの欲望の炎に燃え盛ってそう主張してる。
 タジマなら本気でやる、容赦なんかするはずがない。
 手足の先が冷えてゆくのは無機質に冷たい床のせいじゃない、体の芯まで凍えさせる絶望の温度だ。消毒瓶の破片が散乱した床の惨状に四肢を投げ出して仰向け、眼前に迫ったタジマの顔とその背後の蛍光灯とを見比べて口を動かす。
 「そんなもんねじこまれるくらいなら、」
 舌が、勝手に動く。
 たった今眼球が潰れてほしいと、眼球が潰れてなにも見えなくなればいいと狂わんばかりに希求して強く強く瞼を閉じる。発狂寸前の暗闇の静寂に自我を没して頭をからっぽにしようと努める、なにも考えるな感じるな思い出すな、お袋のことも俺が殺した連中のこともレイジのことも行為中になにも思い出すな思い浮かぶな全部忘れろ忘れろ忘れちまえー……
 
 仕方ないのか。
 もう、仕方ないのか。言うしかないのかよ。

 ―「そんなもんねじこまれるくらいなら、自分でヤッたほうがマシだ!!」―
 ああ、本当に。
 こんな台詞、だれが吐きたいもんか。だれが見せたいもんか。
 目の前のタジマが勝ち誇ったように笑う。
 床に四肢を投げ出してタジマを仰ぎながらからっぽになった頭で漠然と考える、ただそればかりを考える。
 なんで今、俺の手の中には手榴弾がないんだろう。
 今この手に手榴弾があれば、俺の上でザーメンくさい涎たれてさかってる短小包茎の畸形ブタを微塵の肉片に変える事ができたのに。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060221075225 | 編集

 「ロンが壊れた」
 床の真ん中に胡座をかいたレイジがいつになく深刻な面持ちで切り出した。
 「それ以前に何故僕の房にいるんだ?」
 「閉め出されたからだよ」
 ベッドに腰掛けてそれまで本を読んでいた僕が刺々しく問えば世にも情けない顔でレイジが嘆く。床にじかに胡座をかいたレイジが途方に暮れたようにかぶりを振る。
 「なにがあったか知んねーけど俺がふらっと外出て戻ってみたら房に鍵かけてあって叩いても蹴ってもさっぱり反応なし。返事もねえし入れねえしでサムライの房に避難してきたわけ」
 「参ったね」と両手を広げたレイジの訴えにサムライは特に反応を見せず日課の写経に励んでいた。どうせまたいつもの痴話喧嘩の延長だろうと飽きれているのかもしれないが淡白な横顔からはその本心まで読み取れない。サムライを話し相手にする愚を思い知ったレイジが拗ねたように鼻を鳴らして僕に向き直る。
 「キーストア、何か知らない?」
 おそらく何も知らされてないのだろうレイジの顔を見て伏し目がちに逡巡する。彼に真実を告げたものかどうか判断が付かない。僕の表情から何かを読み取ったレイジが怜悧に目を細める。ひとの心の奥底まで見透かすような透徹した視線の前では偽証すら霧散する。小さく嘆息し、図書室から借りてきた本を膝に置く。
 「昨日、房にやって来た看守にこれを渡された」
 枕の下に手をさしいれ取り出したのは一枚の紙。妙にたよりない手応えの黒い紙を面前にかざした僕にレイジとサムライが注目する。まるで強力な磁力を放っているかのようにふたりの視線を引き付けた紙をかざしながら淡々と説明する。
 「僕は何だか知らなかったが今朝医務室に案内されて聞かされた、これは半年に一度の新規部署発表でブラックワーク配属が決定した囚人への就労通知らしい。そして医務室にはロンがいた、僕と同様ブラックワーク2班就労が決定したらしい」
 口を半開きにして絶句するレイジの背後、床に正座して墨を磨っていたサムライが手を止める。
 「おまえもブラックワークなのか?」
 「君の耳は節穴か?先にそう言ったろう」
 「なんでそんな落ち着いてるんだよ?」
 レイジの抗議に力なく腕をおろす。
 「……いまさら取り乱しても仕方ないだろう、『上』の決定は覆せないんだから」
 昨日の時点では自分の身に何が起こってるのか現在進行形でわからなかった。完全に理解したのは起床ベルが鳴る前に看守に起こされて中央棟の医務室へ引率されタジマの口から説明を聞いた時だ。新規部署発表のスクリーンに僕の囚人番号と名前が見当たらなかったのはそういうわけだ、僕はブラックワーク配属になったのだから他の囚人の目に触れるかたちで公表されるわけがないのだ。
 ブラックワークとは東京プリズンの暗部、汚れ仕事を一手に引き受ける忌まわしい部署だ。
 ブラックワークの詳細は監視塔でリョウとレイジから聞かされていたし二ヶ月前にはサムライがブラックワークに誘致される事件も起きた。が、まさかこんな予想外な形で自分の身に関わってくるなんて予期してもなかった。タジマの説明によると僕が配属された二班の通称は売春班、囚人の暴発を防ぐために溜まりに溜まった性欲を処理する係らしい。
 正直、実感はない。現実感も希薄だ。
 僕がブラックワーク配属になったなんて悪い夢のようだ。ただ、売春班の実態を目にしたことがないせいか身に迫る実感が伴わないのだ。それがプラスに働いて恐慌状態の医務室でみっともなく取り乱すような事態は避けられたが……
 僕は同性と性交渉に及んだ経験がない。
 異性との性交渉は経験したが行為中も快感を感じたわけではなかった、僕はきっとセックスに淡白な人間なんだろう。知識を吸収するのには貪欲だが異性と性行為に及びたいとか種の保存に関わる本能的な欲求が根源から欠落してるのだ。だから純粋に快楽を求めて性行為に及ぶという人間の行動原理がよくわからない、不快より快を優先するのは動物の正しい姿だが僕は生まれてからこれまで性的な快感を得たことがなく、したがって純粋に快楽を求めて同性と寝る心理もわからない。
 
 ただ、他人にさわられるのは気持悪い。
 想像しただけで吐き気がする。

 しかしそんなことを言っても仕方ない、決定はもう覆らない。「上」の決定は絶対だ、僕個人の感情で左右されるわけがない。それならどんなに不快で耐え難くても従順に受け入れるしかないではないか、そうするよりほかに僕が生き残る道はないのだから。
 大丈夫だ、これからどんな最悪なことが起きても僕には恵がいる。
 一昨日五十嵐は恵の住所を調べてきてくれると、調べて必ず告げにきてくれると約束した。五十嵐は誠実な人間だ、必ずや約束を実行してくれるだろう。恵との連絡手段が回復すればまた恵の存在を身近に感じることができる、一度は断たれた絆を回復するきっかけも掴めるのだ。
 恵さえいてくれれば大丈夫だ、僕はまだ生きていける、まだ希望がある。
 そう自己暗示をかけて本を開くが内容が全然頭に入ってこない。心を落ち着けようと努めれば努めるほど空回りしてるのが自分でもわかる、せめて同じ空間を共有したサムライとレイジに動揺を悟られないように本へと目を落とす。
 「ロンがブラックワーク……」
 レイジが呟く。 
 「ブラックワーク落ちが決定したからショック受けてひきこもったのか?」
 「それだけじゃない」
 ページをめくりながら呟けばレイジが答えを促すように顔を上げる。
 「今朝の身体検査でロンはタジマに連れて行かれた。僕は衝立の外で待機していたし壁際のはなれた場所にいたから何が起きたか正確にはわからないが……」 
 「言え」
 脅迫に近い口調でレイジが促し威圧的な笑みを浮かべる。本のページに目をすえたまま、続ける。
 「衝立の向こうで凄い騒音と悲鳴がした。何事かと動揺した囚人が衝立に近寄ろうとしたら別の看守に止められた、それから暫くしてロンが出てきたが……」
 当時の状況がまざまざと瞼の裏によみがえり、顔を伏せる。
 「酷い顔をしていた」
 実際ひどい顔だった。あれが数分前のロンと同じ人物だとは思えなかった、僕が知ってるロンは目つきこそ悪いがまだまだあどけなさを脱してない少年の顔をしていたのに身体検査を終えて衝立から出てきたときには自分を取り巻く世界のすべてを憎悪しているような殺伐とした雰囲気を漂わせていた。少し泣いたらしい荒みきった目は赤く充血してぎらついていた、極度の人間不信に凝り固まった目。
 医務室を出て行く間際のロンと目が合った。
 壁際の僕にむけられたのは本来タジマに向けるべき憎悪を転化した苛烈な眼差し、僕に見られていることが痛くて耐え難いとでもいうような悲痛な色を湛えた双眸が後々まで強く印象に残った。
 少なくとも衝立の影に消えるまでのロンは、あんな荒んだ目をする人間じゃなかった。
 重苦しい沈黙が落ちた。
 僕はべつにロンを友人と認識してたわけじゃない、イエローワークの強制労働中、同じ班の人間に嫌がらせされてるところを何回か助けられたがそのことに感謝してるわけでもない。
 でも、ロンの変貌ぶりが気にかかるのは何故だろう。
 「殺しときゃよかった」
 ぽつりと呟いたレイジにぎょっとして顔を上げる。天井中央から吊り下がる裸電球の下、房の床に行儀悪く胡座をかいたレイジが軽薄に笑いながらうそぶく。
 「タジマがロンに手を出す前に殺しときゃよかった。相手は看守だし時期を見て慎重に行こうってグズグズしてた俺が馬鹿だった」
 だが、その目は微塵も笑ってなかった。
 口元だけで笑みを浮かべるなんて器用な男だ、とあきれ半分感心半分の僕はレイジの脇におかれてる本に目をとめる。麻雀のルールブックだった。昨日、食堂で口にしたことは半ば以上本気だったのだろう。レイジは麻雀のルールを覚えてロンに付き合うつもりだったのだ、ふらりと廊下に出て自分の房から閉め出されるまでは。
 「で、君はいつまで僕の房にいるつもりなんだ?」
 レイジの境遇には同情しないでもないが消灯時間が過ぎても房に居残られていては困る、じきに看守も見回りにくるのだからレイジには早急に房から出て行ってもらわなければ。露骨に迷惑げな顔をした僕に首を竦めて立ち上がる。
 「キーストア一緒に寝よ」
 「断る」
 「じゃあサムライ、」
 「断る」
 「……ちぇ」
 「廊下で寝るしかないか」と悲観的な予想を口にするレイジをちらりと一瞥して懐をさぐるサムライ、取り出したのは針金を細工した合鍵。
 「リョウに渡された手製の合鍵だ。お前の房でも使えるかもしれない」
 「恩に着るぜサムライ」
 サムライから合鍵を受け取ったレイジが白い歯を見せて笑う、片手を振って房から出て行ったレイジを見送ってサムライに向き直る。
 「ロンのことが気になるか?」
 図星だ。目を見ただけでどうしてわかるのだろう。
 「気になるわけないじゃないか、彼は何の関係もない赤の他人だぞ。不可解なことを言うな」
 さも憤慨した、といわんばかりに否定するが危うくブリッジに手が伸びそうになる。心の揺れを繕うようにベッドに腰掛けた僕を表情の読めない双眸で一瞥、サムライの視線が最前までレイジが座っていた床へと固定される。サムライの視線を追ってなにげなく床を見た僕はレイジが足取り軽く立ち去った床に本が置き忘れられてるのを発見する。
 麻雀のルールブック。
 「レイジに届けてやれ」
 「………」
 「今から行けば房の前で間に合うな」
 淡々とした物言いに逆らう気も失せた。ベッドから腰を上げてレイジが忘れていった本を手にとり、小脇に抱える。
 「誤解するなよ。レイジの忘れ物を嫌々不承不承届けに行くだけだ、こんな俗悪な本が視界に放置されたままだと気分が悪いからな」 
 突き放すように言い置いて房を出る。扉が閉じる間際、振り返った際に目が合ったサムライが薄く微笑してるように見えたのは気のせいだろう。レイジの房は以前訪ねたことがあるから道には迷わなかった。サムライの言う通り房の前でレイジに追いついた、中腰の姿勢で鍵穴と格闘してたレイジが苛立たしげに舌打ち。
 「くそっ、開かねえ。サムライめ、嘘ついたんじゃねえだろうな」
 「武士に二言はない」
 レイジが振り向く。僕の目は廊下でのやりとりにも無関心に沈黙した鉄扉へと吸い寄せられた。僕らの声が聞こえてないはずはないのに中からは何の反応もない。しびれをきらしたレイジが針金を投げ捨て長い足で扉を蹴る。
 「ロン、寝てんのか?聞こえてんだろ?いい加減ココ開けろよ、おまえだけの房じゃないんだぜ」
 ガンガンガンと続けざまに扉を蹴るが全くの無反応だ。全く手応えが得られずに渋面を作ったレイジが片手で頭をかきむしる。いつも飄々と笑ってるレイジの横顔にこの時ばかりは焦燥の色が浮かんでいた。
 「俺の声聞こえてんだろ?なにがあったか知んねーけどだんまりやめろよ、タジマになにかされたんならちゃんと言、」
 
 轟音、震動。

 「タジマ」の名に返ってきた反応は激烈だった。何か硬い物が鉄扉に激突する音に目を見張る。枕だろうか?いや、枕にしては震動が大きい。一体なにを投げたんだろうといぶかしんだ僕の傍らで予想外の事態が発生。
 レイジが激発した。
 ―「ガキっぽい真似やめろよ!!」―
 普段の余裕をかなぐり捨てたレイジがどうにかこうにか自分に関心を向けさせようと苛立たしげに叫び、拳で鉄扉を殴る、殴る、殴る。
 「てか今投げたの俺の本だろ、音でわかんだよちゃんと!ひとが図書室から借りてきた本投げんなよ表紙剥がれたらどうすんだよ弁償しろよ!!」
 「……今の音から推測すると人が殺せそうに分厚い本だな」
 「ロン!!」
 「放っとけよ!!」
 すがるように扉を殴り付けていた拳が止まる。  
 鉄扉越しに届いた絶叫には聞く者の鼓膜と心を引き裂くような悲痛な響きがあった。拳を掲げて廊下に立ち尽くしたレイジが虚を衝かれて凝視する扉の向こう、自分のベッドの上で膝を抱えてるにちがいないロンが打って変わって低い声で命じる。 
 「…………………失せろレイジ。耳障りだ」
 扉に被せていた上体をゆっくりと起こし、拳に握り固めた手を体の脇におろす。急激に沸騰してきた怒りを押さえ込むように五指を握り締めたレイジがロンよりさらに低い声をだす。
 「……そんなに言いたくないのかよ」
 沈黙。
 明るい藁束のような茶髪を振り乱して扉を殴り付けていたレイジが、今は近寄り難い静謐をまとって廊下に佇んでいる。完璧な造作の双眸に嵌め込まれた色素の薄い瞳を扉の一点に据えて微動だにしないさまは端正な彫像のようにおかしがたい聖性をおびていた。
 「………おまえのツラなんか見たくねえ、ずっと目障りだったんだよ。一年半、同じ房になってからずっと。おまえのしあわせそうな寝顔見るたび絞め殺したくなった。本気で」
 毅然と前を向いたレイジの顔が一瞬苦痛に歪む。いつでも余裕綽々と笑ってるこの男が、いつでも飄々とした態度をくずさないこの男が傷ついた顔をするところを初めて見た。しかしそれはすぐに現在進行形で起こりつつある不条理な出来事に対する怒りに転化され、精巧な硝子玉めいた瞳に激情の稲妻が閃く。レイジが纏っていた空気が一気に変容、静電気をおびたように空気が撓んだのにも気付かずロンが地雷を踏む。
 「お前なんか大嫌いだレイジ、死んじまえ」
 「ああそうかよ!!!」
 レイジがおもいきり扉を蹴った。
 鼓膜が痺れるような轟音が廊下に響き渡り近隣の房の囚人が「なんだなんだ」と扉を開け放つ。
 「いつまでもそうやって拗ねてろガキ、もう面倒みきれねえよ!」
 端正な顔を憎々しげに歪めてレイジが絶縁状を叩き付けるも鉄扉の内側から応答なし。轟音の余韻が大気に溶けて消えてゆくのに背中を向けて廊下を歩み去るレイジ、その形相を目にした囚人が「ひっ」と悲鳴を発して連鎖的に扉を閉める。有言実行、怒れる暴君の大股で廊下を去ろうとしたレイジにわけもわからず追いすがる。
 「レイジ」
 「んだよ」
 「この本はきみのだろう」
 レイジが鞭打たれたように立ち止まる。怪訝そうな顔で僕の手の中の本を見下ろしたレイジが悲哀に似た感情を目に閃かせるが、瞬きとともに消失。長く優雅な睫毛に縁取られた瞼が上がりきったときには、レイジは一転して笑顔を湛えていた。
 冗談とも本気ともつかない、僕がよく見慣れた気丈な笑顔。
 「やる。もう要らねえから」
 肩越しに手を振って大股に去ってゆくレイジを見送りひとり廊下に取り残された僕の脳裏に疑問符が浮上する。彼は今晩どこで寝る気なのだろう?あてがあるのだろうか。まあレイジが廊下で寝て風邪をひこうが僕のベッドに入りこまれるよりマシだが。
 「……………」
 僕の手に残されたのはレイジに半ば強引に押し付けられた麻雀のルールブック。
 折角だし、読もう。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060220075437 | 編集

 殺してやる。
 絶対に殺してやる。
 殺してやる殺してやる本当の本当に殺してやる生皮剥がして唐辛子すりこんで目ん玉を抉り抜いて踏み潰してさびた剃刀でアレをなます切りにして犬に食わせてやる千回でも万回でも億兆回でも殺してやる。 

 裸電球を消した房は真っ暗だ。
 目と鼻の先に人がいても肉眼じゃわからないだろう闇の中、手負いの獣のように息をひそめて壁にもたれる。ベッドの上で膝を抱えて顔を伏せる。房にだれもいないのが救いだ、今レイジの顔を見たら何をするかわからない。さっき言ったのは掛け値なしの本心だった、俺は殺したいほどレイジが憎かった。
 あいつの寝顔を見るたび猛烈に腹が立った。
 何の悩みもないような能天気なツラして、無意識の眠りの中でもリンチやレイプを警戒して萎縮することなくのびのびと手足を伸ばして安らかな寝息をたてた寝顔。人を殺した罪悪感や思い出したくもないガキの頃の思い出に苛まれて繰り返し繰り返し悪夢にうなされる俺とは対照的に充実した睡眠。
 うっかりレイジより先に目が覚めて満ち足りた寝顔が視界に入るたび無性にやるせなくなった、なんでこんな気持良さそうに寝れるんだろう、いつだれに襲われて息の根止められるかもわからない地獄でぐっすり安眠できるんだろう。
 だれにも気兼ねすることなく睡眠を満喫してるレイジが息の根止めたいほど憎らしかった。
 今朝。迎えに来た看守に連れられて房を出て行くとき俺は一縷の望みを賭けたのだ、自分でもはっきりそれと自覚しないほど望みの薄い賭けだったけど。もしレイジが俺が出て行く気配に気付いてくれれば、いつものように瞼をこすりながら「う~ん……」と起き上がってくれればいいと念じながら。鉄扉を閉じる時必要以上に力をこめたのは俺の存在に気付いて欲しかったからだ、俺を止めて欲しかったからだ、抑止力になってほしかったからだ。
 甘かった。何を期待してたんだろう。俺はもうとっくに期待するのはやめたはずなのに。
 わかってたはずなのに。ガキの頃からお袋に裏切られ続けて疎まれ続けてとことん懲りてたはずなのに心のどこかじゃまだ期待してた、未練たらしく縋ってた、一縷の望みを賭けてた。とっくに割り切ったつもりでもそうじゃなかった、認めたくないが、けっして認めたくはないが俺は心のどこかでレイジのことを信頼し始めてたのかもしれない。一年半同じ房で同じ空気を吸って暮らして気軽に憎まれ口を叩くようになって気楽にちょっかいをだされ仕返すようになって、偽物の笑顔が本物と区別できない程に顔の皮膚に馴染んで見分けが付かなくなったレイジに心を許しちゃいけないと自制しつつも、ゆるやかに、でも確実に警戒を解き始めてたのだ。
 だからわざと乱暴に鉄扉を閉めたのだ。あいつならひょっとして、とありえない期待を抱いて。
 こないだ見た夢じゃ俺はアパートの外廊下に閉め出されたまま、なす術なく立ち尽くしてるしかなかった。俺がおもいきり蹴ってもドアは無関心に沈黙してお袋は顔を覗かせもしなかった、ひんやりと拒絶的なドアの前を逃げるようにあとにした俺の脳裏ではお袋への呪詛が渦巻いていたが俺が本当に許せなかったのは裏切られても裏切られても懲りない女々しい自分だ、決して報いることない相手の関心を自分に向けさせようと試行錯誤した挙句に寒空の下に閉め出されて彷徨を余儀なくされた情けない俺自身だ。

 俺はレイジになにを期待してたんだろう。
 俺は鍵屋崎になにを期待してたんだろう。

 止めてほしかったのか?たすけてほしかったのか?感謝してほしかったのか?うすっぺらい慰めの言葉でもかけてほしかったのか?
 そんなの全部無意味だ、偽善だ。ここで生き残るために必要なのは偽善なんかじゃない、真にあてにすべきは自分のみだ。
 八つ当たりなのは百も承知だ。レイジを恨むのは筋違いだ、かってに期待して裏切られたからってそれがなんだ?レイジに俺を助ける義務なんかない、看守を制止する権利もない。いかに東棟で絶大な権力を誇る王様でも看守に逆らうなんてできっこない、そんなことしたら最悪独居房行きの憂き目に遭うのは必至だ。レイジが本当に寝ていようが寝たふりをしてようが関係ない、アイツに連れて行かれようとしてる俺を止めることなんかできなかったしましてや助けることなんかできなかった。
 そうだろ。違うか?
 せめて俺がもうちょっと強かったら、タジマを張り倒せるくらい強ければこんなことにはならなかったのに。裸電球を消した真っ暗闇で膝を抱えていじけてるようなみっともない真似はせずにすんだのに。俺だって東京プリズン送りになったからにはそれなりの前科がある、ガキの頃から十分に喧嘩慣れして二・三人相手でも逃げずに立ち回れる度胸も付いたと自負してたのにタジマに押し倒された瞬間いっぺんで虚勢なんか吹き飛んだ。
 
 恐怖。
 理屈じゃ括れない本能的な、体の細胞ひとつひとつに至るまで執拗に強烈に刻みこまれた恐怖。

 俺がまだここに来てから一年半だ、たった一年半しか経ってない。にもかかわらず俺はタジマが警棒を抜いた瞬間条件反射で身が竦むようになってしまった。みっちり一年半かけてそう躾られたのだ、飴と鞭は犬をしつける基本だがタジマが実践したのは後者だけだ、毎日毎日鞭だけを徹底して実践しつづけたのだ。ここに来てタジマに引き合わされてから何百回警棒を喰らったかわかりゃしない、この一年半体に生傷と痣が絶えたことなんかなかった。その大半がタジマにやられたものだ、タジマはあの手この手を尽くして囚人をいたぶることに命を賭けてる節がある、だからあんなことができるのだ、あんな……

 『手え抜くなよ、いつまでたっても終わんねーぞ』  
 『ちゃんと持ち上げろよ、よく見えるように』 
 『泣くほど気持ちいいってか?やらしいツラしやがって』
 『ひとに見られてイッて恥ずかしくねえのかよ』
 『ちゃんと後始末しとけよ』

 「………っ、」 
 両手で耳を塞ぎ膝と膝の間に頭を突っ込む。
 五指で隙間なく塞いでも無駄だ、声は頭の中から聞こえてくる。悪辣な嘲弄が陰陰滅滅と鼓膜を震わし三半規管を浸食し平衡感覚を狂わせる、均衡が崩れて重心を失った体がともすると倒れそうになるのを背後の壁面によりかかることで何とか保つ。心臓の動悸がはげしくなり頭蓋骨の裏側で狂った銅鑼のように鳴り響き体内を巡る血液が全身の毛穴から赤い水蒸気となって噴出しそうに煮え滾る。理性が蒸発し血液が沸騰し憎悪が奔騰し憤怒が頂点に達しそうになるのを寸前で堪える、堪えきる。駄目だ思い出すな思い出すな忘れろあんなことは実際なかったんだ無かったんだ。自己暗示をかけて事実を全否定するが網膜に灼き付いた光景が鮮明に自動再生されるたび屈辱と羞恥で体が火照って発狂して絶叫しそうになる。
 
 俺がいちばん殺したい人間はお袋だった。
 でも、あのときあの瞬間からタジマになった。

 みじめに床に這いつくばって自分がだした物の後始末までさせられてる間中、いやらしい薄笑いを浮かべて俺を見下ろしてるタジマを肉片にすることばかり考えていた。今手の中に手榴弾があればこいつを微塵の肉片に変えることができるのにと歯噛みしながら。
 俺が殺した連中のことなんかたいして憎くもなかったのに。
 殺らなけりゃ確実に殺られる極限状況下だからこそ俺は手榴弾のピンを抜いて三人もの人間を肉片と血霧に変えた、それ以外の選択肢はなかった。まわりを敵に囲まれて退路を絶たれた絶望的状況で味方は全滅、一発逆転なんか不可能だ。即刻決断しなければ死んでたのは俺の方だ、だからピンを抜いたのだ、自分が生き残るために他人を犠牲にしようという取捨選択の打算が働いて。いや、打算というには必死すぎた。打算なんて呼べるほど余裕がありはしなかった、俺は今も昔も生き残るために死に物狂いだったのだから。
 殺意と呼べるほど明確な殺意があったわけじゃない。俺が殺した連中のことなんかよく知りもしなかった、ただ国が違うというだけで、十五年前にやらかした戦争で親兄弟だか親戚だかが死傷したという自分の身には直接関係のない「身内のだれか」の怨嗟を肩代わりして戦ってただけだ。くだらないガキの戦争ごっこだ。どんな理由があったとしてもガキの戦争ごっこに手榴弾なんて物騒な物を持ち出した俺が責められるのは当たり前だ、取調べ中「なにも殺すことはなかった」と顔面に唾をとばされ刑事に説教されたがそのとおりだ、俺はなにもわかってなかった、あの間合いで手榴弾のピンを抜いたらどんな惨状が出現するか想像してなかったのだ、全く。
 本当は殺したくない人間を殺して入れられた檻の中で本当の本当に殺したい奴に出会っちまうなんて。
 まったく、皮肉が効きすぎてる。タチの悪い冗談みたいな人生だ。救いもなけりゃ報いもない無い無い尽くしの人生だ。
 「………」
 冷たく無機質な壁面に後頭部をもたせ、力なく天井を仰ぐ。天井中央から裸電球が吊り下がった殺風景な天井も消灯した今は暗闇に沈んで様相を一変させてる。体前に引き付けていた両足を無造作に投げ出し、惰力で毛布を蹴る。踝で毛布をめくれば昨日ばらまいた牌の一つが顔を覗かせた。ゆっくりと腕をのばし、牌を拾い上げる。暗い視界じゃ何の図案が描かれてるのかもわからない。

 俺は何度勝ち目のない賭けに出たんだろう。

 全力でアパートのドアを蹴ったとき。
 手榴弾のピンを抜いたとき。
 イエローワークの強制労働初日に裸にされて泣くのをよしとせずタジマを睨み付けたとき。
 今朝出て行く際乱暴に扉を閉めたとき。   
 そして、

 あの時こうしときゃよかったなんて繰り言は所詮負け犬の遠吠えにすぎない。「ひょっとしたら」と絶望的に勝率の低い賭けに出て「ええいままよ」と大穴の博打を打って、期待が報いられなかったことに幻滅して救いのない現実にむしばまれて根深い絶望に至る。
 俺はとてつもなく博打運が悪いんじゃなかろうか、という不吉な疑惑がちらりと脳裏をかすめる。 
 顔も知らない親父が付けてくれた名前は麻雀の役名が由来で体面は悪いが縁起はいい、親父譲りの博打運で麻雀じゃ負けなしだけど人生の大事な局面じゃ常に負け続けてきたじゃないか。不利な状況を好転させようと無茶を承知で無謀な賭けにでては常に事態を悪化させてきたじゃないか。
 なんだ。そうだったのか。
 ゆっくりと指を閉じ、唯一残された牌を手の中に握り締める。
 「たったひとつの取り得もなくなっちまったな」
 音痴な鼻歌以外で俺が唯一レイジに勝てそうな取り得だったのに。
 『いつまでもそうやって拗ねてろガキ、もう面倒みきれねえよ!!』
 レイジの声がいつまでも耳に残る。いつでも泰然自若と居直った態度をくずさないレイジが感情をあらわにして怒鳴るなんて稀だ、きっと相当頭に来てるんだろう。俺のことなんかどうでもいいと、こんな扱いにくいガキ本当に愛想が尽きたとでもいうような叫びだった。
 「………………」
 俺は本当にどうかしてる。
 レイジに愛想尽かされた今になって、すべてが手遅れになった今になって、麻雀であいつを打ち負かすことができなくなったのが少し残念だなんて思い始めるなんて。

 ブラックワークの勤務は明日からだ。
 レイジの顔を見ずに絶交できて、よかったのかもしれない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060219080244 | 編集

 受刑者が日常生活の大半を送る房には陽がさしこまない。
 当たり前だ、房には窓がないのだから物理的に陽射しがさしこむことなどありえない。分厚く厳重なコンクリート壁で四囲を塞がれた息苦しい空間には見えざる手により始終頭を押さえ込まれているような閉塞感が陰鬱によどんでいる。殺風景な壁はむきだしの灰色で所々しみが浮かび、錆びた配管が幾何学的に交差した天井は仰向けになればすぐ視界に迫るほど低い。
 無機質で無機的で機能性はおろか居住性も十全に行き届いてるとはいえない不衛生な房だ。配管の接合部から滴った水滴がコンクリ床を穿つ単調な旋律も耳に馴染んでしまえばとるにたらない雑音にひとしい。無防備に床に座ればドブネズミやゴキブリなどがすぐ横を駆け抜けてゆく全く油断ならない環境だ。
 だが、それも一旦慣れてしまえば取り乱すには及ばない。 
 僕は時間の経過に伴いさまざまなことに順応していった。非日常に順応してしまえば日常になるように環境に対応して性格も変わるように、反射神経を磨いてシャベルを避けられるようになるまで半年かかった。客観的に長いか短いかの判断は保留するが僕にしてはよくやったほうだと自負する、自慢ではないが僕の運動神経の鈍さは天性の資質なのだ。おそらくは頭脳が人類の最終進化段階まで発達したのと反比例して跳んだり跳ねたりといった基礎的な運動能力が退化したのだろう、たとえば僕は日常生活に支障がでるほど視力が悪く裸眼では3センチ先の人間すら識別できない体たらくだがその欠陥を補うが如く聴覚の性能は鋭敏だ。
 だからこの朝、僕の眠りを妨げたのは断じて朝の陽射しなどではなく耳障りな音だった。
 紙が擦れる乾いた音だ。聴覚に侵入してきた音に連動して視覚が目覚め、薄く瞼を開ける。最初に目に映ったのは見慣れた天井だ。これが半年前なら自分が今いる場所がどこかもわからない錯覚に陥って混乱していたところだが今はそんなこともない、自分がいる場所がどこかちゃんとわかる。
 東京プリズンだ。
 二十一世紀初頭の相次ぐ地震により砂漠化した東京の中心に設立された悪名高い少年刑務所。そして僕が横たわっているのは寝返りを打つたびに尾てい骨をしたたかに打ちつけて悶絶する羽目になる固いベッドの上だ。
 「………」
 毛布をはだけ、半睡状態の頭を気だるげに巡らす。寝起き故か頭に霞がかったような倦怠感が一挙手一投足に付き纏う。ただ頭を半周させるだけの動作が密度の濃い霧の中をたゆたってるかのように億劫だった。横を向いた僕の目にとびこんできたのは一冊の本。
 昨夜レイジから借り受けた麻雀のルールブックだ。
 東京プリズンの図書室は蔵書が充実してる。ノンフィクション・ミステリー・古典文学に至るまで硬軟問わずさまざまな本が揃えられているというのにその内容に目を向ける囚人は少ない、とかく東京プリズンの囚人には読書という高尚な趣味を解さずに図書室を談話室と勘違いしてだべりにくる輩が多いのだ。憂うべき事態だ、嘆かわしい現状だと僕がしたり顔でかぶりを振ってみたところで何も改善されないが、趣味が高じてもはや習慣となった読書家としては苦言を呈したくもなる。
 そうか。僕の耳朶にふれたかすかな音は毛布と本のページとが擦れ合う音だったのだ。 
 耳が敏感にできすぎてるのも考え物だ。日常とるにたらないほんのささいな音にも好悪の判断を下す前に過敏に反応してしまうのだから。苦笑したい気持ちをおさえ、改めて枕元の本を見下ろす。あれから一応目を通した、図解が多かったせいで完読するのにそう時間はかからなかった。麻雀のルールは完璧に暗記した、実線に応用できるかはわからないが理論は完璧に記憶したのだから僕の天才的頭脳を持ってすれば容易に勝ちをおさめることができるだろう。
 相手がいれば、の話だが。
 むなしい仮定だ。ふと我に返り、自分がなにをやってるのか訝しむ。バスケットボールのルールも麻雀のルールも僕にはまるで関係ない世界の出来事ではないか、円周率や相対性理論ならともかくバスケットボールのルールなど覚えても僕には何の利益もない、麻雀のルールだって本来必要ないことのはずなのだ。
 僕が本を読んで頭で覚えたルールを友人と遊びながら体得してゆくのが「正しい子供」なんだろう。大人がそうあるべきだと望んで定義づけた本来あるべきすがたの子供、「無邪気」「無垢」と定型句で括られ語られる大人から庇護されるべき対象なんだろう。
 もしそうなら、僕には子供時代が存在しなかった。いや、この表現は正しくない。「鍵屋崎 直」という一個人の人生から「子供時代」が欠落している、とでも言えばいいのだろうか。僕は無邪気でもなければ無垢でもない、知識だけが異常に豊富な子供だった。大人の庇護欲をかきたてるような愛くるしさもなければ素直さも持ち合わせてない、どちらかといえば奇異の目で見られてけむたがれるタイプの子供だ。
 無口で無愛想。
 同年代の子供が興味を示すあらゆる事柄に無関心な姿勢を貫き、クレヨンを握って画用紙に落書きするよりも父の書斎に入り浸って本を読むことを好む変わり者の子供。僕に対する伯母夫婦の評価は手に取るように伝わってきた。彼らにとって僕はほとほと扱いにくい存在だったんだろう、僕自身はべつに伯母夫婦に敬遠されようがどうでもよかった、年に数回の頻度で対面した時に露骨に戸惑ったような目で見られるのは煩わしかったがそれだけだ。鍵屋崎優の長男に対するどこかぎこちない態度とは一転して彼らは恵を可愛がっていた、恵こそ彼らがそうあるべきだと望んだ子供、身の丈に合った心を宿した理想の子供だったんだろう。実子同然に恵を可愛がる伯母夫婦のことを僕は全面的に信頼さえしていた、彼らなら大丈夫だろうと、たとえ何かの事故に遭遇して僕と両親が一度に死亡するようなことがあっても彼らになら安心して恵を託すことができると楽観していたのだ。
 
 馬鹿だった。
 その結果が、これだ。

 あんなに恵を可愛がってくれたのだから大丈夫だろうと信頼したのに、ひとたび自分たちの手に余る事態が起きれば狼狽して責任放棄してしまう。伯母夫婦ばかり責められないのはわかってる、彼らは凡庸だが善良な人間だ、鍵屋崎優と由佳利のような非凡な資質にこそ恵まれなかったがどんな変化や事件も柔軟に受け止めて対応していける小市民の包容力を有していた。
 そう、彼らはよくも悪くも普通の人間だった。だから恵のことを庇護してくれるとおもったのだ、理解してくれるとおもったのだ、僕の両親がそうしたように決して恵を見下したりはしないと、広い家の中で恵をひとりぼっちにしたりしないと信用できたのだ。
 僕は普通じゃないから、普通の人間の気持ちがよくわからない。
 鍵屋崎優と由佳利は「普通」の価値観から逸脱していた。彼らを見本に育った僕も「普通」の基準がよく判らないままに成長した、そうして恵だけが異分子として取り残された。恵。至って平凡な僕の妹、普通の、だからこそかけがえのない妹。
 本当に、本当に恵のことが好きだった。大事だった。守りたかった。守り抜きたかった。
 必要とされたかった。
 だから、刺した。両親を刺殺した。正確に急所を突いて人体の奥深くへとナイフを押しこんだのだ。あの時の判断には何も間違いはなかったと自信をもって断言できる、もしあのまま看過していれば恵の生涯は台無しになっていた、恵の将来は台無しになっていた。
 妹を守る為なら両親だって殺す。躊躇なく、狼狽せず、確実に。あの小さな手からナイフを奪うことに何の良心の痛痒も感じなかった、恵の手を血で汚す位なら、あの強欲な男の血で汚す位なら自分の手を汚したほうがマシだと本気で思い込んでいたのだから。
 小さな手だった。ナイフを奪うのなんてあっけないくらい簡単だった。 
 恵を守るためなら、恵がいてくれるならなんだってできた。僕には惠以外の誰も要らない、他の人間なんて要らない。惠さえいればそれでいいと頑なに思い込んでいた心が溶け始めたのはいつ頃だろう。信頼には至らないまでも信用には足る同房の男を自分でも無意識のうちに頼り始めた。得体の知れない、胡散臭い男だ。口数は僕よりさらに少なく、会話を成立させるのにこれ程忍耐を要する相手もめずらしいとあきれることもしばしばだが実際僕は彼の存在に助けられている。
 でも、これでいいのか?
 一方的に助けられるばかりでいいのか?
 あの時サムライは「俺を頼れ」と言った。生き残るためには時にプライドを挫いて他人を頼ることも大切だとしずかに、だが力強く説いた。正論だ。いまや僕は自分が無力だと認めざるをえない、だが無力ゆえに貪欲に成長することができた、周囲の状況を冷静に分析し瞬時に利害を汲み取る能力を身に付けることができたのだ。
 効率論を重視する僕から言わせてもらえばロンがやってることは滑稽としか言いようがない。どうしてああも他人の為に一生懸命になれるのか、自分が不利な状況に陥ってまで他人を気にかけることができるのか理解しがたい。彼の行動原理は甚だ非効率で不可解きわまりない、僕とは相容れない価値観の下に行動するロンを斜に構えて冷笑してなかったとは言えない。
 でも、彼がやってることは本当に無駄なのか?
 偽善者気取りの自己満足なのか?その一言で斬り捨てられ片付けられてしまうようなことなのか?
 偽善者?ちがう。彼は善を偽れるほど器用な人間じゃない。
 自己満足?ちがう。彼は自己に満ち足りてなどいない。
 
 僕はサムライからもロンからも借りっ放しで、助けてもらうばかりで、それで本当にいいのか?

 「…………」
 思考の助走を終え目を開ける。
 このさき使うこともないだろうが麻雀のルールは完璧に頭に入力した。たとえそれがどんな些末な雑学でも知識を吸収するのは無駄なことではない、と思いたい。毛布をはだけ、ベッドに腰掛ける。素足の裏が床に接触すると氷柱をさしこまれたようにひやりとした冷気が立ち昇ってくる。ベッドの横にそろえて脱いだスニーカーに踵をもぐりこませようとして眉をひそめる。半年間の酷使に耐え抜いたスニーカーは泥にまみれてくたびれている、入所半年が経過したから今月中には新品が支給されるはずだがイエローワークを除名された僕には余り必要ないかもしれない。
 ブラックワーク二班の仕事内容から推察するに、足で地を踏んでいる時間よりベッドに横たわっている時間のほうが長いからだ。
 汚れたスニーカーをじっくりと観察し、ふと靴底のゴムが剥がれかけているのに気付く。靴の裏面から前部が剥離しかけたゴム底を見下ろし思案を巡らす。ズボンのポケットに手をあて、まさぐる。昨夜レイジが投げ捨てたのを回収した針金がポケットにおさまっている。
 窮屈な前屈姿勢をとってスニーカーの靴紐を結びなおしていると隣のベッドで起き出す気配。衣擦れの音に反応して即座に顔を上げればサムライが上体を起こしていた。寝起きだというのにサムライの背筋はしゃんとのびている、サムライの姿勢のよさは習慣が習性となった人間特有の潔癖さの表れなのだろう。
 「………今日からだな」
 「ああ」
 何を指してるかは理解できた。サムライも十分に理解した上で露骨な呼称を避けたのだろう。確かに積極的に口にしたい部署ではない。
 「いいのか?」
 なにかを探るように、確かめるように、凄味さえ孕んだ低い声が大気を震わせて響く。何故だかいつにも増して陰鬱な面持ちのサムライを見据え、できるだけ無表情に端的に心情を伝える。
 「僕に決定権はない。拒否権もない。あるのはただ、」
 「ただ?」
 「義務感と諦観だ」 
 実際「上」の通達を拒否できるわけがない。僕は囚人なのだ、両親を殺害して服役中の徹底的に自由と選択権を剥奪された身の受刑者なのだ。就労通知を受け取った時点で僕の運命は決定した、おそらくは最悪の方向へ、もう二度と這い上がれないだろう底の底へ。
 僕はブラックワークの実態を知らない。
 娯楽班の実態は週末限定で闘技場と化した駐車場に自発的に赴かないかぎり目にする機会はないし、処理班にしても作業は専ら人目のない深夜に極秘裏に行われる。中でいちばんおぞましく生々しい売春班の実態も謎に包まれている、積極的に知りたいことでもなし今の今まで無関心故の無知を決めこんできたのがこんな痛烈なかたちで報われるとは皮肉なものだ。
 「百聞は一見にしかずと言うだろう。実際体験してみたほうが早、」
 「俺が聞いているのはお前の『考え』じゃない、お前の『想い』だ。直」
 不意打ちのように名を呼ばれて機械的に靴紐を結ぶ手が止まる。靴紐にふれたまま、視線だけ上げてサムライを仰ぐ。背格子にもたれることなく、背筋を凛々しくのばした端正な姿勢で上体を起こしたサムライが喩えようもなく深い目で僕を見つめている。
 清冽な水のような、清澄な泉のような、あまりに底知れず深すぎて冥府に繋がるような不安さえおぼえる黄泉の目。
 「………いやに決まっているだろう」
 愚直に覗きこんだ漆黒の目に魂を奪われかけ、強引に顔を背ける。
 「だから?僕の快不快なんて問題じゃない。たとえ不感症の僕が他人にさらわれるのを極度に嫌がろうが許してくれるはずがない、ここの連中がきみみたいな紳士ばかりだと安穏と信じてるほど僕は楽観主義者じゃない。それとも武士、と言い換えたほうがいいか?」
 耳によみがえるのはロンの言葉。不感症は便利だな、と吐き捨てるように揶揄する口調。
 「心配には及ばない。遺伝子をいじくった後遺症だか何だか知らないが僕は性的快感に反応しないようにできてるんだ、自分より知力も品性も劣る客の下でみっともなく喘いで一生の汚点を残すこともない。ああ、今思い付いたが」
 自虐的なまでに痛々しい、わざとらしい口調で付け足す。靴紐に手をかけた姿勢から上目遣いにサムライを仰ぎ、挑発。
 「僕を組み敷いて征服した気になってる客の下で快感に喘ぐ演技で君の名前でも呼んでやれば面白い反応が見れるだろうな」
 鼻梁に落ちた眼鏡を押し上げ、今度はきっかりと、水平方向からサムライを直視する。
 何か返してみろ、と眼力の気迫をこめて。
 ベッドに上体を起こして物言いたげに僕を見返していたサムライの目に複雑そうな色が過ぎる。僕の身を一途に案じている真摯な色と揶揄されたことに戸惑いをおぼえて困惑する色、そして一抹の反感とが混沌と溶け合った悲哀にも通じる色。
 「皮肉を言う元気があるなら大丈夫そうだな」
 複雑な陰影をおびた眼差しをわずかに伏せ、サムライが呟く。自己嫌悪に苛まれて視線を背け、立ち上がる。かすかに異物感の残る靴底で二度三度床を叩き接着させてから鉄扉へ歩く。一歩足を踏み出すごとに、距離が離れるごとにサムライの視線を強く意識して肌に感じてしまう。神経が過剰に苛立っているのが自分でもわかる、今声をかけられたらプライドを要になんとか塞き止めている堰が決壊してしまう、堰が決壊してさまざまな感情が一気にあふれだしてしまう。このまま振り返らずに出て行くのがいちばんだと自分に言い聞かせ、深呼吸してノブを握り―
 「戻って来い」
 背後で声。
 ノブを握り締め、肩を、背中を強張らせる。僕の背後でベッドに腰掛けたサムライが至極淡々と言葉を紡ぐ。その言葉は透き通った水の如く心の表層に沈殿した澱を洗い流し、もっとも柔らかで繊細な奥底へと染みこんでいった。
 「待っているぞ」
 だれでもないだれかに祈るような切実な響き。
 たった一言。その一言で、危うく振り向いてしまいそうになった。惰弱な本音を吐露してしまいそうになった。
 「言われなくても、」
 ノブを捻り、背中で答える。突き放すように、すがるように、矛盾する感情を研ぎ澄ました硬度の言葉の刃に変えて。
 「僕が帰る場所はここしかない」
 そうだ。
 僕が帰る場所も居場所も、もうここにしかないんだ。
 サムライの隣以外には、もう。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060218080402 | 編集

 ブラックワーク配属が決定した囚人は就労前に医務室に集められる決まりだ。
 口数少ない看守に引率されて渡り廊下を渡り医務室の扉を開ければ先に身体検査を終えた囚人が十数人、所在なげに壁際に寄り添いあっていた。一箇所に寄り集まることで外敵から身を守ろうと意図するかのように壁際に並んだ囚人の列に見覚えある顔を発見する。
 ロンだ。
 先に身体検査を終えたのだろう、見慣れた囚人服を身に纏い不機嫌な仏頂面で佇んでいたが顔を見れば一晩中泣いていたのが一目瞭然だ。真っ赤に泣き腫らした目は近寄り難いほどに荒みきり、自分の身を守るべく本能的な動作で腹に回した両腕は固く強張っていた。たった一日でこうも頑なに変貌するとは、とあきれていたら導かれたようにロンと目が合う。
 「………よう」
 ぶっきらぼうな挨拶。無視することもできたのにお人よしな本質は変わらないんだろう、叱られた子供のように顔を伏せたロンへと慎重に接近する。衝立越しに自分の名前が呼ばれるまでの間は他の囚人に混じり壁際に待機が義務付けられている。ロンの横に並んで壁に背中を密着させる。ロンが非難がましい眼差しをむけてきたが気付かないふりで正面を向く。衝立越しにひとり、またひとりと吸い込まれていく囚人を見るともなく見送りながら気鬱な沈黙に耐えていると隣で声。
 「……あいつ、風邪ひかなかったかな」
 ぽつりと呟いたロンを意味深に見上げれば本人は心配そうに顔を曇らせていた。「あいつ」がだれを指してるかはすぐにわかった。
 「一夜明けて後悔するくらいなら閉めださなければいい」
 「こっちにも事情があんだよ」
 正論を唱えた僕をキッとロンが睨む。確かにロンには事情があるんだろう、人には明かせない事情が。ロンはきっとレイジに顔を見られたくなかったのだ、一晩中泣き腫らして子供っぽく様変わりした情けない顔を。しかしレイジが麻雀のルールブックを抱えて寒々しい廊下をさまよっていたことを知る身としてはロンに全面的に同情することもできず、複雑な心境で言う。
 「馬鹿は風邪をひかないという俗説が流布してるから大丈夫だろう」
 ロンが驚いたように顔を上げる。別にロンを慰めたつもりはないが結果的にそう聞こえてしまったようだ。なんとなくばつが悪い。気恥ずかしく俯いた僕の横顔を疑り深げに凝視していたロンがそっぽを向く。
 「……だな。あいつ馬鹿だもんな」
 「ああ。きみなんかを本気で心配してる大馬鹿者だ」
 皮肉っぽく付け加えればロンが「あんだと」と気色ばむ。昨日タジマに何をされたかは知らないが僕の当てこすりに反抗する気力が残ってるなら上々だ、心まで折れてない。少しだけ生気を蘇らせたロンが食い付いてきたのに安心し、安心したことを不思議に思う。
 「昨夜、レイジが房に来た。麻雀のルールブックを抱えて」
 「!」
 「どうやら本気で麻雀のルールを覚えて君に付き合う気だったらしいな。少なくとも房を閉め出される直前までは」
 「………」
 ロンが強く唇を噛んで下を向く。ロンの横顔に自然な動作で一瞥を投げる。この角度から見たロンは常よりさらにあどけなく幼く見える、普段は他の囚人に舐められないよう虚勢を張って振る舞っているが今のロンは親からはぐれた子供のように途方に暮れている。
 もしくは親に虐待された子供か。 
 「鍵屋崎 直」
 名前を呼ばれた。壁から上体を起こし、身体検査が行われる衝立の影へと歩みながらロンを振り返れば何か考えに耽るように真面目な顔をしていた。おそらくはレイジのことを考えているんだろう。
 友人と呼ぶには抵抗があり、他人と呼ぶには心を占め過ぎた男のことを。

                               +

 
 
 ブラックワーク二班の仕事場は中央棟地下一階だ。
 中央棟の地下に潜ったことがない僕は全く知らなかったがエレベーターで下った階は図書室がある廊下と比べて明らかに異なる様相を呈していた。
 まず、照明が暗い。そのせいか廊下全体が暗く、陰湿な雰囲気が漂っている。べつに蛍光灯の数自体が減ったわけではない、天井には上の階と同じ数だけの蛍光灯が等間隔に設置されているのだ。にも関わらず誤解しようもなく暗い印象を一歩足を踏み入れた者に与えるのは、管が破損したまま交換されることなく放置されてる蛍光灯が多いからだ。
 破損した蛍光灯の数はその区域の治安の悪さに正比例する。
 図書室や医務室、視聴覚ホールなど公共の施設がある上層階は見張りの看守の人数も多く監視の目が行き届いてるせいもあり割れた蛍光灯は少なく、万一割られたとしても即時交換されて照明が復旧する。
 ところが下層階ともなると事情は一変する。
 囚人はともかく、看守が頻繁に往来することがない中央棟地下一階の蛍光灯は破損したまま長期間放置されてる。仄暗く翳った視界の左右に並ぶのは無個性な鉄扉。なにやら秘密めいて淫靡な空気を醸す扉は厚さと形状こそ僕の房のそれと変わりないが決定的な違いがある。
 格子窓がないのだ。
 通常囚人が暮らす房にはちょうど顔にあたる高さに格子窓が設けられている。格子窓に顔をくっつけて中を覗けば囚人の私生活が隅々まで見渡せるというプライバシー侵害も甚だしい仕組みだがここにはそれがない。
 あたりまえだ、行為中に中を覗かれては気が散って仕方がない。東京プリズンの看守にも情事を盗み見るのを人並みに忌避する最低限の配慮はあるらしい、などと他人事のように考えていたら廊下にだみ声が響く。
 「全員整列!」
 囚人を何組かに分けてエレベーターで降ろし終えたタジマが号令をかける。殆ど条件反射で囚人が整列する。行儀正しく並んだ囚人を満足げに眺め、後ろ手を組んで廊下を徘徊しながらタジマが言う。
 「さて、今日からブラックワーク二班本格始動、新規メンバー就労開始だ。ブルーワークやらレッドワーク、他部署の連中がとっくに仕事始めてるのになんで売春班だけ二日のロスタイムあるかわかる奴いるか?」
 だれも答えない。気まずげに顔を見合わせる囚人を小馬鹿にして鼻を鳴らし、腹を満たす獲物を物色するよう視線をさまよわせたタジマが嗜虐的な笑みを浮かべる。
 「わかるか、天才」
 「たぶん」
 この場で「天才」と呼ばれる心当たりがあるのは僕だけだろう、他は似たり寄ったりの凡人ばかりだ。不安げな面持ちでタジマの顔色を窺っていた囚人が自分から矛先が逸れたことにあからさまにホッとする。プライドを全放棄して自己保身に走ったいずれ劣らぬ小心な囚人の中、顎を引いてタジマを見返す。
 「僕らに覚悟する時間を与えてくれたんですね」
 「覚悟ねえ」
 「語弊があるならわかりやすく端的に言い変えましょうか?」
 ねちっこい口調で揚げ足をとられて不愉快になるがタジマに心の中を見抜かれるのは癪だ。眼鏡のブリッジを押し上げ、挑むようにタジマを睨む。
 「僕らに『諦める』時間を与えてくれた。檻の中で執行猶予を言い渡されるなんて貴重な体験だった」
 「ご名答」
 白々しく拍手したタジマが両腕をおろして一列に並んだ囚人をねめつける。視線に威圧され、腰が引けた囚人が一歩二歩とあとじさる中、その場に踏みとどまったのは僕とロンだけ。僕は軽蔑的な無表情で、傍らのロンは敵愾心むきだしの形相でタジマと対峙する。
 「ブラックワーク就労通知を受け取ってから今日で二日だ。二日もありゃ腹括れるだろう、男に抱かれるあきらめもつくだろう。ここにいる連中は昨日の健康診断をパスした健康体のオス犬ぞろい、性病にかかってないのも保証済みで安心だ。その後の身体検査で危険物は没収された、いや、それだけじゃねえ」
 薄暗い照明が不気味な陰影を落とす廊下に仁王立ちしたタジマが腕組みして声をかけたのはロン。脳天からつま先まで舐めただけでは飽きたらず、囚人服に隠された未成熟な四肢まで愛撫するかの如く視姦に時間をかけ、興奮に乾いた唇を舌で湿らす。
 「身体検査で丸裸にされて恥かいて、すっかり抵抗する気が失せただろうが」
 「…………っ、」
 ロンが歯軋りする。今にもとびだしていきかねない剣幕のロンを見れば羞恥と屈辱で頬が上気し、体の脇で握り締めた拳が怒りを押さえ込んで震えていた。ロンの反応に気を良くしたタジマが陰険に笑い、手中の警棒を軽やかに回して挑発。
 そう、昨日今日と二回かけて念入りに行われた身体検査の真の目的は「見せしめ」だった。直前の身体検査は囚人が危険物を所持してないかチェックするのが目的だが、昨日の段階で身体検査をしても何の意味もないではないか。
 ブラックワーク二班の囚人にプライドなど要らない。羞恥心など要らない。
 不要な感情を全部剥ぎ取り、精神的にも肉体的にも囚人を全裸にして従順に従わせる素地を作るのが昨日の身体検査の真の目的だった。
 吐き気がするような真相だが、それが有利に働くこともある。そう、看守の考えを逆手にとり行動し盲点を突くのだ。
 思案顔で黙りこんだ僕には気付かず、機嫌よく警棒を振り回しながら薄暗い廊下を闊歩し、朗々と声を張り上げるタジマ。
 「この期に及んで反抗しようなんて馬鹿はいねえだろうが忠告だ。世の中なんでもあきらめが肝心だ、娑婆に女がいようがガキがいようが知ったこっちゃねえ。いいか?ここはどこだ」
 廊下の半ばで立ち止まったタジマが機敏に警棒を振り上げ、中央の囚人を指す。顔面蒼白で立ち竦んでいた囚人がひきつけを起こしたように硬直、長く長く息を吐いて呼吸を平坦にし喘ぐように口を開く。
 「と、東京プリズン」
 「そう、東京プリズンだ!」
 素早く警棒を引っ込めたタジマが大袈裟に両手を広げ、我が意を得たりと会心の笑みを湛える。
 紺色の征服に包まれた厚い胸板を反り返らせ、誇らしげに高らかに、嬉嬉と紅潮した顔色で。
 地獄で産声を上げた悪魔のように、懇々と沸き出づる歓喜に声帯を打ち震わせ。
 目を炯炯と輝かせ狂気迸る身振り手振りをまじえ、演説をぶつ。
 「むさ苦しい野郎どもがカマほりあってる変態の巣窟。ブタ小屋より劣る最低の場所。人間よりネズミのが肥えてる下水道。糞にまみれた汚ねえ便所。史上最低最悪の治外法権無法地帯、地獄を上回る地獄と評判の悪名高い東京少年刑務所!ここに来ちまったんならあきらめろ、娑婆にでようなんて考えるな。五体満足で刑期終えたきゃ看守の命令に逆らうな、上の決定に歯向かうな。まあお前らの境遇にゃちっとは同情しないでもねえ、娑婆じゃフツーに女抱いてたのに刑務所送りになった途端にツラのよさが災いして売春班入りだもんな。無事に刑期終えて娑婆に出ても売春班体験したら一生女を抱けなくなるぜ、女の裸見ても勃たなくなるぜ?女抱くたびに自分が抱かれたこと思い出して毎晩野郎に犯られてたトラウマがよみがえっちまうもんな」
 下卑た哄笑が陰陰滅滅と低い天井にこだまし、壁際に並んだ囚人の顔が悲愴さを増してゆく。中には耐えきれずに嗚咽をもらす者やタジマに殴りかかりたくなるのを拳を握り締めてこらえる者がいる、一様に殺気走った目でタジマを睨み据えた囚人が全身から発散する負のエネルギーで廊下の空気が重苦しく澱んでゆく。
 「ま、それも良い経験だ。知ってるか?オカマは癖になるんだとよ。最初は痛くて痛くて泣き叫んでも回数重ねるごとによくなってくんだと。よかったなあお前ら、イエローワークの穴掘りでもブルーワークの便所掃除でもレッドワークの火遊びでもなく売春班で!相手も喜ばせることできて自分も気持いいなんて一石二鳥じゃねえか」
 「ふざけやがって!!!!」
 すさまじい剣幕で列からとびだした囚人がタジマの襟首を掴む。昨日医務室で外に子供がいると訴えていた囚人だ。
 「たしかに俺は犯罪者だよ、悪いことしてムショにぶちこまれた何ひとつ偉そうなこと言えねえ身だよ、ガキにだってなにひとつ自慢できねえ屑親父だよ!でもなんで、なんでこんな目にあわなきゃなんねーんだよ、おかしいだろ畜生!刑務所ってのは犯罪者を更生させるとこだろ、反省させるとこだろ、看守が幅利かせて好き放題やって囚人いじめ抜くとこじゃねえだろ!!なんだよ売春班てなんだよブラックワークってそんなの聞いたことねえよ、なんで刑務所にんなもんあるんだよ!野郎にケツ掘られたら家族に合わす顔ねえよ、メイファに、娑婆においてきたガキに俺が親父だって名乗りでることもできねえじゃんか!!」
 目に涙をため顔をくしゃくしゃに歪め、なりふりかまわずタジマにつっかかっていった囚人が警棒で横っ面を張られて薙ぎ飛ばされる。軽々と吹っ飛び、背中から壁に衝突した囚人が軽微な脳震盪を起こして床にずり落ちる。
 「往生際が悪い」
 心底あきれたような侮蔑のまなざしで囚人を見下ろし、指を弾いて若い看守を呼ぶ。顎をしゃくって看守に指示し、ぐったり四肢を弛緩させた囚人を手近の房へと投げ込む。気を失った囚人が鉄扉の向こう側に消えるのを待ち、改めて僕らへと向き直る。
 「付け加えとくが外には見張りがいる、脱走しようったって無駄だ。使用目的がアレだから中にはシャワーもある特別待遇のスイートルームだ。それと」
 タジマの背後に居た数人の看守が手際よく散開、一列に並んだ囚人に順々に箱を渡してゆく。看守から手渡された長方形の箱を見下ろし、その正体を確かめる。
 コンドームだ。
 「コンドームは無料配布、在庫が尽きたら看守に言え。二班は性病流行ってるし後処理も面倒だし付けといて損はねえ。野郎同士でも中出しは禁物だ、下痢しちまうからな。ま、シャワーがあるし速攻で洗えば心配ねえだろうが念には念をだ」
 複雑な面持ちで掌中のコンドームを持て余した囚人に混ざっていると景気付けるようにタジマが手を叩く。辛気くさい空気を払拭せんとかん高く手を打ち鳴らして自分に注意を引き付けたタジマが順繰りにひとりひとりを見渡す。
 「これよりブラックワーク二班就労開始だ」
 警棒に追い立てられた囚人が我先にと手近の扉を開けてとびこんでゆく。他の囚人と同じようにノブに手をかけて入室しようとして視線を感じて顔を上げ、タジマと目が合う。ノブに手をかけた僕へと大股に接近、鉄扉に片手をついた前傾姿勢で顔を寄せてくるタジマから距離をとろうとしてどこにも逃げ場がないことに気付く。
 廊下の奥には闇がよどんでいる。
 僕の前途のように暗い暗い闇が。
 後にも先にも逃げ場はない、助けてくれるひとはいない。ここにはサムライがいない、彼を頼ることはできない。救いのない現実に足をすくわれそうになるがここで引くわけにはいかない、そんなぶざまな真似は僕を僕たらしめてるプライドが許さないと深呼吸する。
 顔に顔を寄せてきたタジマがよわよわしく明滅する蛍光灯を背に、耳朶を食むように囁く。
 「知ってるか?売春班の常連には看守もいるんだぜ」
 タジマの口から出た言葉を紛れもない真実として咀嚼するのに二秒を要した。衝撃の余り頭の働きが鈍っているようだ。鉄扉にすがりつくようにもたれてタジマを仰げば、よわよわしく瞬く蛍光灯が不安定な影を落とした容貌はおぞましく醜悪で、正気の沙汰とはおもえない半月の笑みが口元に揺らめいていた。
 「………ご忠告どうも」
 背中を翻しタジマを振り切り鉄扉を閉じる。扉越しに響いたのは狂える哄笑。タジマが笑っている、僕のことを嘲笑っている。紙一重でタジマから逃れた僕は肩で息をしながら考える。
 『売春班の常連には看守もいるんだぜ』
 タジマは必ず僕を犯しに来るだろう。
 予感が確信に変わるにつれ頭から冷水を浴びたように全身が鳥肌立ち、肩に腕を回し自分で自分を抱きしめた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060217080500 | 編集

 後ろ手に扉を閉めて部屋を見渡す。
 コンクリート壁むきだしの殺風景な部屋。錆びた配管が幾何学的に入り組んだ天井とところどころに染みが生じ亀裂が入った壁、地震が来たら真っ先に潰れてしまいそうな危惧すら抱かせる。真っ裸の状態で壁が崩れて生き埋めになるのはぞっとしない。壁際にはパイプベッドが一脚、サイズは俺が普段使用してる物と同寸大だがマットレスが破けて綿がはみだしてないだけ寝心地はよさそうに見える。最も使用目的を考えればとてもじゃないが気軽に腰掛けてみる気になれない。扉によりかかったまま壁際のベッドから視線を転じれば最奥の壁に鏡。
 洗面台だ。
 殆ど俺の房と変わらぬ位置に洗面台と便器があることに妙に懐かしい既視感を覚える。見知った場所に見知った物があるという心強い感覚はすぐに安心感に変わり、少し警戒を緩める。肩の力を抜いて部屋の真ん中へと歩み出る。右手の壁際に配置されたベッドと正面に設えられた洗面台、さて左手には何があるのだろうと視線をやれば壁にシャワーが括り付けられていた。仕切りの衝立もカーテンもなく、むきだしの壁にシャワーが設置されていたのだ。そのまんま。プライバシーもへったくれもないが贅沢は言ってられない、ブラックワーク二班はひっきりなしに客が訪れることで有名な重労働なのだ。さっさと手際よく客をさばいて体を洗い終えて次に備えるのが肝心。性欲持て余したガキどもを身一つで相手にするのだから効率重視で仕事に徹しなければ神経が参ってしまう。
 シャワーに歩み寄り、見上げる。
 「男に見られながらシャワー浴びるなんてぞっとしねえけどな」
 そんな特殊趣味はない。床に設けられた排水口を覗きこめば空虚な闇がよどんでいた。排水口の闇に心まで吸い取られるまえに逃げるようにその場を後にする。他に座る場所もなし、仕方なくベッドに腰掛ける。シャワー以外は俺の房とそっくり同じ内観と同で配置の部屋だ、ただ一つ重大な違いを挙げるならここは一人部屋だということ。
 そうだ。
 「レイジいないんだっけ」
 口にしてから、口にした内容があんまり馬鹿らしくて失笑する。いまさら「レイジいないんだっけ」もない、昨晩レイジを廊下に閉め出したのは俺じゃないか。あれからレイジは帰ってこなかった、大方朝になるまで廊下をふらついてたか適当なねぐらを見つけて夜を明かしたのだろう。消灯時間過ぎたら定期的に見回りが行われるから後者の可能性の方が高いが……コンクリートで塗り固められた天井を仰ぎながらつらつらレイジのことを考える。考え続ける。絶好したはずなのに絶好されたはずなのに、あいつのことが頭から離れない。頭の中心に図々しく居座って心の中心にでんと胡座をかいて目を閉じて「消えろ」と念じても一向に消えてくれない。
 くそ、離れろ、消えろよ。出てくるなよもう、一人にしてくれよ。
 あいつがいなくなってせいせいしてるのに、目の前から消えてくれて万歳でもしたい気分なのになんでこんなむしゃくしゃするんだ?胸が重苦しくふさがって息もろくにできないような有り様なんだ、アイツの名前が呑みこみ損ねた魚の小骨のように喉にひっかかってるせいか?ばかばかしい。あんな奴どうなろうが知ったこっちゃない、俺に閉め出されて風邪ひいたからってそれが何だ?いい気味だ、ちょくちょくひとの寝こみ襲って安眠妨害しやがってちっとは頭を冷やせ。
 気配を感じ取れるほど近くにいる時はうざくてうざくて仕方なかったのに、本当に辟易してたのに、うんざりさせられたのに。 
 常より広い房で、ひとつきりのベッドの上でぽつんと膝を抱えた今になって底抜けに馬鹿で明るいアイツの存在に救われてたことに気付くなんて皮肉だ。
 ブラックワークの業務開始は他部署の囚人が強制労働を終えて引き揚げてきてからだ。
 それまでは外に見張りが付き、房に軟禁状態で過ごす。よくは知らないが囚人の逃亡を防ぐための措置らしい、業務開始までの時間を自由にさせていたら自分の房で自殺未遂を図る奴や売春嫌さに捨て身の脱出を試みる自暴自棄な連中が続出したらしく、結果、二班に配属された囚人は各々に割り振られた仕事場に日中拘束され無為な時間を過ごす羽目になったのだ。
 客が来るまではあと半日もある。 
 悠長に構えて壁にもたれる。このまま刻一刻と時が経過するのを指をくわえて看過してるだけでいいのか、男にヤられるまで何もせずに待ってていいのかという葛藤はあるが、だからといってどうすればいい?身を守る為の武器を持ち込むのは不可能だ、直前施行された身体検査で全部没収される。素手で抵抗するのは無茶だ、俺は体格に恵まれてない。小柄な俺が全力で抵抗したところでかなうわけがない、よしんば生傷だらけになって最初の客を退けたとしても次の客次の客が延延列をなして待ち構えているのだ。そいつら全部を相手どって素手の取っ組み合いを演じるのは不利だろう、どう考えても。
 八方塞がりだ。逃げ場はない。打開策はない。
 不利な状況を好転させる要素なんか一個も転がってない。俺の博打運もいよいよ尽きたようだ。いや、尽きたのは悪運だろうか。足掻いても足掻いても底に落とされるだけで希望の光なんかちっとも見えやしねえ。
 観念して目を閉じれば壁越しに物音。後頭部を壁面にもたせて天井を仰いでいた俺がうろんげに振り向けば「シャワーがあるだけマシだ」という独り言が壁越しに漏れてくる。
 隣は鍵屋崎か。腐れ縁もここまで来るとタチ悪すぎて笑えてくる。
 「よかったな、毎日シャワー浴びれるようになって」
 ベッドに足を投げ出して皮肉を言えば沈黙。壁越しに声が聞こえてきて、はじめて俺と隣部屋だと気付いた鍵屋崎の複雑そうな面持ちが目に浮かぶようだ。失態を悔いるように黙りこんだ鍵屋崎を想像し、少し気分が復調してきた。愉快げな笑みを噛み殺し、声を張り上げて続ける。
 「どうだ、おまえの仕事場」
 「いい部屋だ。気に入った。家具調度の少なさには目を瞑るとしてシャワーと洗面台とトイレが完備されてるのはありがたい」 
 「洗面台とトイレは房にもあるだろ」
 「水の出が悪いんだ」 
 「へえ」
 気のない返事を終止符に会話が途切れる。まずい、と内心焦る。なにも俺が責任を感じることはないのだがこの状況下で沈黙に陥るのは気まずい、ひどく気まずい。いや、実際話し相手がいるだけ救われるのだ。長時間軟禁状態で過ごしてるうちに大半の囚人は貝のように無口になりやがて酷い鬱状態に陥る。抜け殻のようにうつろな目で壁の一点を凝視して訪れる客とてない空白の時間に刻一刻と神経をすり減らし、自閉的に外界と断絶した囚人を俺はこれまで幾人となく見て来たがそいつらの末路は二種類しかない。
 自殺か発狂か。
 極限状況下の精神崩壊を防ぐためには会話を続けるのが手っ取り早い。会話、とにかく会話だ。会話さえしていれば俺はまだ正気でいられる正気を維持してられる正気でいることを自他ともに確認することができる。気を紛らわせるために、現実から目をそらすために、絶望を先送りするために俺は鍵屋崎に話しかける。それこそすがるように必死に。
 「なあ、」
 何て言おう。
 「おまえ、女抱いたことある?」
 何言ってんだ俺。今この状況下でんなこと聞いてどうすんだよおい。
 「………改めて言わせてもらうが、きみは馬鹿だな」
 頭をかきむしって今しがた口をついてでた質問の間抜けぶりを後悔してると鍵屋崎が容赦なく追い討ちをかける。ああそうだ、俺は馬鹿だ。半日後には客がやってきて無理矢理犯られる運命にあるってのによりにもよって娑婆で女抱いたことあるかなんて、場の雰囲気にそぐわないことこの上ない。前髪をかきむしって自分の頭の悪さを呪っていたら背中越しにスプリングが軋む音。どうやら俺の仕事場とは調度の配置が左右対称になってるらしく、鍵屋崎がベッドに腰掛けて壁にもたれると俺と背中越しに対になる格好になる。
 鍵屋崎の声が驚くほどすぐ近くで聞こえたのはそのせいだ。
 「半年前に言ったはずだが?僕は既に経験済みだと」
 ………あ、馬鹿ってそういう意味か。俺の質問にあきれたんじゃなく単純に俺の記憶力の悪さにあきれてたのかと的外れに安心する。
 「よかったな、野郎に犯られるまえに童貞捨てといて」
 「興味がないな。行為中に性的快感を得られなければ男でも女でも大差ない、生物学的身体的特徴は差異はあるだろうがな。異性とのセックスを経験してもわずらわしいだけで何も得る物がなかったんだ、今度も変わらないだろう。きみは?」
 「え?」
 「童貞なのか」
 頭が真っ白になった。
 「ふざけんなよ!」 
 男の沽券に関わる誤解だ。突発的にベッドに立ち上がり拳をにぎりしめて平面の壁を見上げる。クールに無表情な鍵屋崎のようにのっぺりと平坦な壁を憎々しげに歯噛みして睨み、唾をとばして主張する。
 「ここにぶちこまれる一週間前に童貞捨ててるよ。生憎だれかさんと違って育ちが悪いもんでね、スラムの連中はみんな初体験早いんだよ。まわりに同年代の娼婦がうじゃうじゃしてるからな」
 「相手は娼婦なのか?」
 やばい、墓穴を掘った。ベッド上を右往左往してから他に行き場もなく腰をおろす。 
 「娼婦だよ。勘違いすんなよ、金払って相手してもらったんじゃねえ」
 「恋愛感情はあったのか?」
 「……たぶん」
 「たぶん?何だその曖昧な仮定は。きみは『何々であろうか』『何々かもしれない』で恋愛感情を定義付けるのか?」
 「あ、いや、たぶんじゃねーけど」
 ああくそ、なんで不感症の鍵屋崎相手にこんなこと話してたんだよ。とまれ舌、切り落とすぞ。人生最大の汚点をさらけだすつもりかよ。壁面に背中を預け、落ち着きなく貧乏揺すりしながら吶々と語りだす。俺の初恋の思い出ってやつを。
 「……俺が台湾系チームにいた頃の話だ。俺が身を寄せてたチームってのは恐喝・強盗・窃盗・乱闘、なんでもありの武闘派で地元の連中にもおそれられてたんだけどこのチームをシメてた男ってのがとんでもなく自己中な奴でよ、自分が気に入らないことあるとすぐに格下の仲間や女に暴力振るうんだ。よくいるだろ?図体ばっかでかくて中身はてんでガキ。こいつが当時付き合ってた女ってのがもったいないくらいイイ子でさ、年は俺より三つ上の十六歳なんだけど……娼婦だったんだ。名前はメイファ」
 梅花。メイファ。廊下で取り乱した囚人が声を振り絞るように連呼していたガキと同じ名前。舌にのせた名前が呼び水となり当時の記憶がまざまざとよみがえる。
 11でお袋と暮らしたアパートをとびだした俺は当時池袋で幅を利かせてた台湾系チームに身を寄せたが居心地は決してよくなかった。台中混血の俺は中国人から厄介者扱いされ台湾人からも邪魔者扱いされて身の置き所がなかった、おなじチームの仲間にむちゃくちゃないちゃもんつけられて頭に来て殴り倒したことも一度や二度じゃない。何か問題が起これば「半半だから」「中国人の血が混じってる奴は信用できねえ」と聞こえよがしに陰口を叩かれた、同朋からも後ろ指さされて嫌われてる俺とまともに口きいてくれる物好きなんてほんの一握りしかいかなかった。
 その、ほんの一握りの物好きの代表格がメイファだった。
 「メイファは尽くすタイプってか、とにかくすごくやさしくて心配性でみんなの姉貴分的なところがあって。仲間にシカトされて居場所なくした俺が裏路地ほっつき歩いてると真っ先にとんできたよ。まあ、俺があてどなく裏路地ぶらついてるときは大抵仲間と喧嘩して根城にしてる廃工場に顔出しにくい状況だったんだけど」
 「迎えにきてくれたんだな」
 「まあな。でもさ、ひとの心配するより自分の心配しろってかんじで……さっきも言ったけどチームのトップってのがとんでもない癇癪もちで気に入らないことがあるたびメイファに手え上げるんだよ。殴ったり蹴ったりひどい暴れようでメイファはその間じっと我慢してた。何か口答えしたらもっと酷くやられるからって体に青痣作って、」
 目を閉じれば鮮明に思い出す。人けのない路地裏にうずくまり、5メートル先の空き缶に小石を投げて倒す遊戯に寂しく耽っていた俺を迎えに来たメイファ。けっして華やかな顔立ちじゃない、記憶に残りにくい地味な目鼻立ちの中に楚々とした風情があって、瞼の裏に余韻を残すような寂しげな微笑が印象に残った。俺が喧嘩して怪我をした時は『あんまり心配させないでよ』とこぼしながら手際よく包帯を巻いてくれた。
 だれかに心配されるのは心地いい。だれかに抱きしめられるのは心地いい。
 ……それはそうと小石投げて空き缶倒す遊びに熱中してるなんて当時からネクラだな、俺。
 「……ここに来る一週間前、てことはまだチームの連中が全員生き残ってた頃だけど。トップが酒呑んで暴れて、耐えきれなくなったメイファが泣きながら工場とびだしたんだ。さすがに放っとけなくて夢中で後追ったら路地裏でしくしく泣いてた。その姿見たらなんか胸がもやもやして、どうにかしてやりたくなって」
 「同情で寝たのか」
 「ちげえよ!!」
 シーツを蹴飛ばして立ち上がり真っ向から否定したが実の所自信がない。メイファに好意を抱いてたのは事実だがそれが恋愛感情というほど輪郭がくっきりはっきりした物だという確証はない、恋愛感情と言うには淡くて苦すぎる。恋心と同情の比率じゃ確かに後者が勝っていたのは否定できないが、でも。逡巡しながら目を伏せ、言い訳がましく呟く。
 「……俺もちょっと、好きになりかけてたんだよ。あんなことがなければ」
 あんなこと。チーム同士の抗争でメンバーが全滅し、追いつめられた俺が手榴弾のピンを抜き東京プリズン送致が決定するまでは。しみじみ感慨にひたっていると無感動な声が水をさす。
 「初体験の感想は」
 「なんてこと聞くんだ」
 「恥ずかしいのか」
 「まさか」
 「言えないのか」
 「放っとけ」
 「今の話は嘘か」
 「なんだと?」
 壁越しに鼻で笑われて気色ばむ。シーツを踏み荒らして立ち上がった俺が睨み付けた壁の向こう、泰然自若としてベッドに腰掛けているのだろう鍵屋崎が淡々と自説を披露する。
 「よくある話をよそおってるが幾つか矛盾があるな。メイファなんてごくありふれた名前で個性がないし、いかにも捏造の産物の気配濃厚じゃないか。さっき廊下で泣き叫んでいた囚人の話をきっかけに即興で作り上げた嘘じゃないか?だいたい十三歳で童貞喪失なんて早すぎる、君らの常識にかなってようがどうか知ったことか。いや、きみが東京プリズンに収監されたのが一年半前なら当時十二歳か?幾ら男女の初体験年齢が平均14.2歳まで低下してる昨今でもわずか十二歳の少年にセックスの手順を一通りこなせるか怪しいところだな。やっぱり嘘だろう、今の話は」
 「嘘だ、嘘にちがいない」といわんばかりの断定的な口調で自信過剰に述べた鍵屋崎、その姿が見えないにも関わらずわなわなと拳が震え出す。なんで不感症の冷血人間にここまでコケにされなきゃなんないんだと沸々と頭に血が昇り、売り言葉に買い言葉で絶叫。
 「反論がないところから察するにやはり嘘、」
 「るっせーな、速かったんだよ悪いかよ!!」
 頭を抱え込みその場にうずくまる。ああ恥ずかしい、言わせるなよ畜生。すさまじい自己嫌悪に苛まれて顔全体を火照らせた俺の耳朶を弾いたのは憎らしいほど余裕な鍵屋崎の声。
 「……早漏か?」
 「……しかたねえだろ、はじめてだったんだよ」
 「気に病むことはない、十代の男性が射精に要する時間は平均五分。君が五分だか三分だか五十秒だか知らないが女性には少々物足りないほど早く達したところで自分の身体的欠陥を疑うことはない、統計学的に見てそれが普通だ。まあ健全で健康な十代の少年なら時に性的衝動に身を任せて恋愛と性欲をすりかえてみるのもいいんじゃないか?僕は全く関心がないが命はセックスで感染した病気だとガイ・べラミイも言ってる」
 「だれだそれ」
 一秒でも早くこの話を切り上げたくて強引に話題を変える。まだ赤味の残る頬を叩いて喝を入れ背後の壁を振り返る。
 「俺が初体験話したんだからお前も話せよ、俺だけ恥かいたんじゃ浮かばれねえ。お相手はひと回り年上の研究員で親父の助手、だっけ」
 「ああ」
 「何回ヤッた?」
 どうせ一回こっきりだろうと高を括って質問すればなんでもない事のような口調で意外すぎる答えを返す。
 「三回」
 俺より多いじゃねえか。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060216195759 | 編集

 「正直あんまり思い出したくないな」
 壁越しに声がする、と思ったのは勘違いで実際には壁の上方に設けられた通気口から漏れてくるのだと悟ったのはその時だ。壁際に位置したベッドの頭の方向、高い所に等間隔に鉄格子を嵌めた矩形の穴が開いてる。鍵屋崎の声はおそらく壁を挟んで左右対称に位置する通気口を伝って聞こえてくるのだ。
 「あんまり思い出したくないって年上の女に犯されたのか」
 「………」
 「図星?」
 「違う。一応合意の上だ」
 「一応?」
 ため息。聞き手、すなわち俺の飲み込みの悪さにうんざりしたのか、壁越しの鍵屋崎が捨て鉢な口調で続ける。
 「僕がはじめて性交渉を持った女性は父、即ち鍵屋崎優の研究室の助手を勤めていた24歳の才媛だった。名前は……どうでもいいな。プライバシーに配慮して伏せておくのが無難だろう。日常父の研究を手伝っていた関係で彼女はよく世田谷の家を訪れて必然的に僕と顔見知りになった。ある日、彼女と僕が書斎でふたりきりになった。父は大学の資料室に本を取りに行って不在、母は海外の大学に講演に招かれて一週間ばかり家を留守にしていた」
 「で、ふたりきりになったときに何かあったんだな」
 生唾を飲み下しぐっと身を乗り出したのはオスの本能故の行動だ。俄然食い付きがよくなった俺を壁越しに透視してるかのように鍵屋崎の声が冷えこむ。
 「日常的に父の論文執筆を手伝っていた僕は書斎に残り原稿を仕上げていた。パソコンの液晶画面に集中しててドアが開く音にも気付かなかった。背後に忍び寄る足音に気付いても顔は上げなかった、時間の無駄だからだ。論文執筆中に部外者に入室されるのは正直不愉快きわまりなかったが論文が山場にさしかかり集中力が頂点に達していたから無視してキーを打ち続けた。そうしたら後ろから首に腕を回された。それだけならべつにかまわない、鬱陶しいことこの上ないがキーを打つのさえ邪魔しなければ。振り払うのは一段落ついてからでいいだろうと楽観視してたんだ、潔癖症のこの僕が」
 鍵屋崎が自嘲的に笑う。
 「僕が何も言わなかったから図に乗ったんだろう、相手が断りもなくシャツのボタンを外して襟元をはだけてきた。さすがに一方的に素肌にさわられるのは抵抗があったし生理的嫌悪で耐え切れなかったから振り向いて言ったんだ」
 「なんて?」
 固唾を呑んで先を促した俺に一呼吸おき、鍵屋崎が言う。台本を棒読みしてるような熱のない口調で。
 「『ピルを服用してるか』」
 ………え?
 「ピルも知らないのか?世間知らずも度が過ぎてるぞ」
 「馬鹿にすんなよ、それくらい知ってるよ。中出ししても大丈夫な薬だろ、カプセルの」
 問題なのはそう、ここで問題にすべきはなんで脈絡もなく会話中にピルがでてくるかの一点だろ?今の会話のどこに前後の繋がりがあるんだ、意味不明だ。二十一世紀初頭に日本に入ってきたピルは解禁された当初こそ敬遠されたがそれから徐徐に浸透して行って今じゃ当たり前に女が服用してる時代だ。ビタミン剤を飲む感覚で、いや、生理の鎮痛剤を飲むのと同等の気安さで女がピルを服用するようになった現代だから鍵屋崎の質問はあながち的外れじゃない、のか?いや、大いに的外れだろう。書斎で椅子に腰掛けて論文執筆に没頭してる最中に誘惑してきた、全くの他人ではないにしてもさりとて親しくもない女にむかって投げかける第一声としては十分すぎるほどに不自然だ。
 なに考えてるんだコイツ。
 「相手が肯定したら話は早い。後は語るまでもないだろう」
 「待て待て大事なのはそっから先だろう?」
 自分勝手に話を終了させようとしている鍵屋崎にあわてて待ったをかける。というか何でコイツこんな冷静なんだ、初体験の話をしてるってのに興奮してる様子も全然ないし。まあ不感症なら仕方ないが。
 「まだ聞きたいのか?下世話だな」
 心底あきれたような声で嘆かれぐっと言葉に詰まる。そりゃ鍵屋崎の初体験に興味がないといったらうそになる、いつでも体温低そうな無表情のコイツが、男と女の情事を蟻の交尾と同じ位に考えてるコイツが初めて女と寝た時の話に下世話な好奇心がわかないといったら嘘になるが……それにしたってあんまりだろう、これは。
 「でも、寝たってことは女のこと憎からず思ってたんだろ」
 「いや全然。彼女自身にも彼女の性的嗜好にもまるで興味がなかった」
 「じゃあなんで?」
 「彼女自身にも彼女の性的嗜好にも全然興味はないが行為そのものには好奇心を刺激されたからな」
 早い話恋愛感情度外視で好奇心を優先したってことか?いかれてやがる完璧。
 「彼女がそんな目で僕を見てるなんて気付かなかった。まあ、彼女にしてみれば遊び半分で手をだすのにちょうどよかったんだろうな。僕なら性交渉を持ったところで上司の鍵屋崎に告げ口する心配もないだろうし妙な自己顕示欲にかられて周囲に吹聴するおそれもない。まさか十歳以上年の離れた僕を本気で恋愛対象と見てたわけじゃないだろう。あちらは遊び、僕は実験。お互い様だ。それに、」
 「それに?」
 「惠が家にいたからな。へたに騒がれて異変を気付かれる前に速やかに終わらせたほうがいいと判断したんだ、書斎で」
 あきれた。コイツ妹のことしか考えてないのか。途方もない疲労感に襲われて膝を抱えこみ、うんざりと警告してやる。
 「おまえいつか刺されるぞ」
 「刺されはしなかったが、ぶたれた」
 「?」
 「惰性で関係を続けていたが三回目で別れを切り出したらいきなり」
 「なにか頭に来るようなこと言ったんだろ」
 「僕はただ『これ以上貴女と関係を続けても得られるものは何もない、こんな非効率で不利益で肌を重ねる毎に不快感ばかりが募る無為な関係は白紙に戻したほうがお互いの為じゃないか?貴女と性交渉を持った時間を原稿用紙に換算すれば五十枚は論文が進んだはずなのに僕としたことが判断を誤った。一世一代の失態、人生最大の汚点だ。それで大至急ノーマン・マクベスの『ダーウィン再考』を取り寄せてほしいのだが、』と事実をありのままに端的に述べただけだ。ついでに資料を手配してもらおうと頼みかけて」
 開いた口がふさがらない。
 「………よく刺されなかったな」
 いくら遊び半分でちょっかいかけたとはいえ自分と寝たことを「一世一代の失態」だ「人生最大の汚点」だ言いたい放題言われたんじゃ黙ってられないだろう女心はよくわかる。いや、人間として当然の心理だ。鍵屋崎にはそのへんの機微わからないだろうけど、永遠に。「女性にぶたれたのは初めてだった。貴重な体験だった」とか妙にしみじみ言ってるのがその証拠だ、ほら。
 沈黙が落ちた。
 懐に抱いた膝に顔を伏せ、心の底に沈めていた本音を吐露する。
 「…………女抱きてーなあ」
 男に抱かれるまえにせめて女抱いときゃよかった。今度はしっかりと味わって女を抱いて絶対感触を忘れないようにしてそれを支えするんだ、メイファの時はあっというまに終わっちまったから気持ちいいというよりあっけない感の方が強かったし。目を閉じてメイファの裸を思い出そうとして途中からそれがお袋の背中とすりかわり動揺する。結局お袋に戻ってきちまうのか、俺がいちばん長く一緒に過ごした女の上に。あと何時間後かには男に犯られようって危機的状況なのに最後に思い出した女の映像が実のお袋の裸なんて嫌すぎる。こんなことなら娑婆にいる間にもっとたくさんの女とヤッときゃよかった。かぶりを振って嘆けば壁向こうからあきれた声がする。
 「女性に幻想を抱きすぎじゃないか?」
 「妹に妄想抱きすぎが口だすな」
 間髪いれず返せば鍵屋崎が憮然と押し黙る。頭のネジがまとめて外れたコイツでも妹をやばいほど溺愛してる自覚はあるのだろう。話のネタも尽き、重苦しい沈黙がふたたびやってくる。ベッドで膝を抱えて正面の壁ばかり見つめていると時間の感覚がおかしくなってくる。昨日一晩中泣いてたせいで瞼が重たい。寝不足が祟り、うつらうつらまどろんでいた俺の耳に流れこんできたのは念仏。
 ……念仏?
 「3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971」
 うとうと船を漕いでいたのに耳に侵入してきた数字の羅列のせいですっかり目が覚めちまった。抗議を兼ねて壁を叩き、怒鳴る。
 「いやがらせか、いやがらせなのか?ひとの耳元で意味不明な数字唱えるんじゃねえっ」
 「円周率だ。五千桁暗記してる」
 「……口寂しけりゃ歌でも唄ってろ」
 五千桁唱えられちゃたまらない。壁に背中を預けて崩れ落ちた俺の背後、束の間逡巡するような沈黙を挟んでから再開されたのは鼻歌。通気口からもれてきたのは俺が聞いたことない、いや、どこかで聞いたことがあるような郷愁かきたてる旋律。どこか哀愁をおびた旋律には三半規管を酔わせる不思議な魅力がある。
 鍵屋崎はレイジほど音痴じゃないらしい。それなりに上手い。
 「……なんだっけ、その歌」
 「ホテルカリフォルニア。百年以上前の古い歌だ。父がレコードを所蔵してた」
 大気に溶けこむように鼻歌が途切れる。背中越しに鍵屋崎の気配を感じる。ちょうど同じ姿勢で壁にもたれたのだろう鍵屋崎が茫洋とした目で天井を見上げてる光景がありありと目に浮かぶ。
 「……ネーミングセンスは最悪だが、レコードの趣味はそれほど悪くなかったな」
 だれのことを言ってるのか、なんて間抜けな質問はしなかった。親父のことに決まってる。鍵屋崎がなんで両親を殺したんだか知らないがだれにも言えない複雑な事情を抱えてるんだろう、きっと。両親を殺害したことを反省してるわけでも後悔してるわけでもないだろうが、そう呟いた声は殆ど起伏がないくせに妙に湿っぽく聞こえた。
 また、鼻歌が始まる。
 流暢な発音の英語の歌詞が哀愁おびた旋律に織りこまれて通気口からもれてくる。天井に満ちた音符が鼓膜に押し寄せるのを心地よく聞きながら急速に眠りに落ちてゆく。ちょっと低いトーンの歌声は鍵屋崎の声じゃないみたいだ、溺愛してる妹にもこんな風に子守歌を唄ってやってたのかと本人に聞いてみたいところだがダメだ、限界だ。
 そうして俺は瞼を閉じた。
 
 数時間後。
 壁際で膝を抱えた姿勢でぐっすり寝入ってた俺を起こしたのは、壁のむこうから聞こえてきた悲鳴だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060215200209 | 編集

 子供の頃の話だ。
 僕は本を読むのが好きな子供だった。海綿が水を吸収するように僕の脳細胞は活字に変換された知識を吸収していった、新陳代謝が活発な脳細胞が知識に飢えて乾いてるのを知覚したから僕は異常に枝葉の伸びが速いシナプスを萎れさせないためにも本を読まなければいけなかった。本の内容が難解であれば難解であるほど知的好奇心が刺激されて充足が得られた、物心ついた時にはもう父の書斎に入り浸って本棚の端から端へと本を制覇してゆくのが日課になっていた。
 その日も僕は父の書斎に居た。
 父は大学で教鞭を執っていて不在だった。母は家にいたかもしれないが気配はなかった。惠はまだ赤ん坊で眠ってばかりいたし広い家の中はしずかだった。しずけさに満ちた家の中でも最も静謐な場所が父の書斎だった。父の書斎に入り浸り本に目を通していた僕が異変に気付いたのは本棚の下段に手を伸ばしたときだった。
 百科事典のように分厚い本が整然と並んだ一角に何か、薄平べったい四角形の板が挟まっている。興味を覚え、本を手前に引く。本と本とに挟まれるかたちで人知れず隠されていたのは一枚のレコード。相当古い物らしく埃を被って色褪せたレコードを膝にのせ、しげしげと見つめる。本棚に本以外の物があるなんて新鮮な驚きだ。あの堅物が、頑迷で偏屈なことで有名な鍵屋崎優が思春期の少年のように人目を忍んでこっそり隠し持っていたレコードの正体が気になりラベルに目を落とせば洒落た英題が印刷されていた。
 『ホテルカリフォルニア』 
 レコードなんて前世紀の遺物だ、とだれかが言った。僕が産まれた頃にはすでに絶滅しかけてたんじゃないかと思うが生産数が少なければ少ないで希少価値が釣り上がるのが世の習いだ。過ぎ去りし二十世紀を懐古したい向きに需要があることは漠然と理解できたが父がレコードを所有しているという事実はひどく意外だった。鍵屋崎優は自己中心的で冷淡でおよそ父性愛とも寛容精神とも相容れない精神構造の持ち主なのに、そんな男がこんな古いレコードを大事に所有してたなんて、家族の目にもふれない本棚の奥にひっそり隠し持ってたなんて知られざる一面を垣間見た気がした。
 知られざる、人間らしい一面を。
 レコードがあるなら再生するための装置もあるはずだと推理して書斎を捜し回り、見つけたのは十分後。白い布をかけられて沈黙していた装置の上に慎重にレコードを置く。勿論僕はレコードを聞いたこともないし従って扱い方も知らないが、何をどこに置いてどうすればいいかおおよその見当をつけることぐらいはできる。円形の溝にレコードを置いて蓋を閉め、ただじっと待てばいいだけだ。
 やがて流れ出したのは僕が聴いたこともない英語の歌詞。
 芳醇な男性歌手の声が紡ぎだすのはひどく謎めいた、それでいて忘れ難い余韻を残す不思議な歌。好悪の感情が沸き起こるより早く僕を魅了したのはその旋律だ、ユーモレスクな哀愁とほろ苦いペーソスとが溶け合ったノスタルジックな―……
 聴いたのは一回だけだ。
 レコードが終了すると同時にすぐに本棚に戻した。父の私物にさわったことが知られたら面倒なことになると打算的に考えた上で迅速に行動したわけだが本当はうしろめたかったのだ、その頃はまだ生物学上の父だと信じて疑わなかった鍵屋崎優の秘密を覗き見たようで。
 それ以来レコードにふれたことはなかった。
 だから、僕が歌える歌はひとつだけだ。
 「…………」
 鼻歌を止める。
 円周率の暗唱よりは生産的かとも思ったがそうでもなかったようだ。鼻歌を止めてから、ふと、生まれてはじめて鼻歌を唄ったことに気付く。ここ半年間の心境の変化に発作的に笑い出したくなる。僕はいつから暇潰しに鼻歌を口ずさむような俗っぽい人間になったんだ?堕落したものだ。自嘲的な気分で天井を仰げば幾何学的に入り組んだ配管が目に入った。配管むきだしの殺風景な天井から壁に沿って視線を下降させる。
 シャワー。便器。パイプベッド。
 それだけ。あとはなにもない。シャワーがあるだけマシだというのは掛け値なしの本音だがだからといって僕がおかれた状況が改善されたわけではない、否、それどころか事態は悪化する一方だ。このままこうしていれば遠からず客が訪ねてくるだろう、強制労働から引き揚げてきた囚人がブラックワーク二班通称売春班に足を運んでくるだろう。性欲処理が目的で、女の代わりに男を抱きに。
 いや、抱きに来るんじゃない。犯しに来るんだ。
 僕がこの部屋に軟禁されてから何分、何時間が経過したのだろう?正確にはわからない。もう随分経ったような気がする、ぐずぐずしてる暇はないというのに……窓がないから日の傾きで時間帯を知ることもできない。廊下で見張ってる看守に時間を聞いたところで親切に教えてくれるかどうか。
 考えろ、考えるんだ。このままでいいはずがない。
 『いやに決まってるだろう』
 『だから?僕の快不快なんて問題じゃない。たとえ不感症の僕が他人にさらわれるのを極度に嫌がろうが許してくれるはずがない、ここの連中がきみみたいな紳士ばかりだと安穏と信じてるほど僕は楽観主義者じゃない』
 あんなのは詭弁だ。本当はちっとも心の整理なんかついてない、ただそう思い込もうとしていただけだ、廊下で醜態をさらした囚人の二の舞になって泣き叫んで取り乱すくらいなら諦観したふりをした方がラクだとまだ体面が保てると自己暗示をかけて。僕は天才なんだ、天才なんだ。なりふりかまわず看守の同情を乞うて自己保身に走るような去勢された犬のようにみじめな真似はしたくない、絶対に。
 でも、どうすればいい?どうすればこの絶体絶命危機的状況を打破することができる?思考が空転し答えに詰まる。堂堂巡りの自問自答に嫌気がさし比例して徒労感が募る。
 僕は不感症だ。
 僕は潔癖症だ。
 人肌にふれるのもふれられるのも気持が悪い吐きそうだ想像しただけで気が遠くなる、それなのにこれから男に抱かれようとしてる犯されようとしてる。体温が気持ち悪い触感が気持ち悪いねばりけある液体が気持悪い汗に唾液に涙に血、人体の老廃物すべてが気持ち悪い。それでも初めての時は我慢できた。いや、我慢できたというのは語弊がある。惰性といえども彼女と関係を続けていたのは事実なのだから。だが回を重ねるごとに不快感が増していって四回目に誘惑された時にそれが頂点に達してはげしく拒絶してしまったのだ。
 人肌の体温があんなに気持ち悪いものだとは思わなかった。
 彼女は実に三回かけてそれを教えてくれた。
 異性とのセックスを体験してはじめて自分の欠陥を気付かされた僕は結果として潔癖症まで悪化させた。恐怖、とはまた違う。純粋に単純に不快なのだ、耐え難いほどに。何にふれたかわからない不潔な手で体をまさぐられるのも何を食べたかわからない唇でキスされるのも熱い粘膜に包まれるのもすべて。
 異性とのセックスでさえあんなに耐え難かったのに、同性と、それも強制的に性行為に及ばなければいけないなんて冗談じゃない。耐えられそうにない。そんなことが起きたら僕の精神は崩壊してしまう、これまでサムライがいてくれたから、サムライがそばにいてくれたから危うい均衡で維持してられた精神が粉々に砕け散ってしまう。
 いやだ。 
 せっかく希望が見えてきたのに。
 『……届けてやろうか?』
 『同僚の暴走止められなかった罪滅ぼしで住所は調べてやる。こんな仕事長く続けてりゃ警察関係者に知り合いもできるしそのツテ使えばなんとかなるだろ、規則違反になるがデータベースにアクセスしてもいいし。囚人が外に手紙だすときゃ看守が房を回って回収する決まりだしな、俺が直接房をたずねるからそん時にでも渡してくれ』
 五十嵐がせっかく約束してくれたのに、ああ言ってくれたのに。惠に手紙を届けることができるかもしれないと、関係を回復するきっかけが掴めるかもしれないと思っていたのに。惠とつながりを持てれば今の気持ちを伝えることができる、今でも惠のことを大事に思っていると、今でも惠がいちばん大事だと、迷惑かもしれないけど伝えることができる。許してくれなんて都合がいいことは言えない、僕は惠の両親を殺したのだから。
 戸籍上の両親ではなく、実の両親を。
 惠から両親を奪ったのは僕だ。家庭を奪ったのは僕だ。それだけじゃない、僕は惠から「兄」まで奪ったのだ。無邪気に僕のことを慕ってくれた惠から、全面的信頼を寄せてくれた惠から「兄」という唯一の身内まで奪ってしまったのだ。
 いまさら許してくれなんて言えない、そんなおこがましいこと言えるわけがない。でもせめて僕のことを覚えておいてほしい、心の隅にとどめておいてほしい。見捨てないでほしい、忘れないでほしい。
 
 僕をひとりにしないでくれ。
 頼むから、ひとりにしないでくれ。

 これ以上遠くに行ってほしくない、これ以上離れていってほしくない。体と体が離れるのは仕方ない、両親を殺害した僕が刑務所に収監されるのは避けられない事態だった。でもそのことで惠をひとりぼっちにしてしまうなんて、精神を病んだ惠が仙台の小児精神病棟にいれられてしまうなんて不測の事態だった。惠には叔母夫婦がついていてくれるから大丈夫だと心のどこかで高を括って安心していたのに。 
 彼らのことを、戸籍上の両親以上に信頼していたのに。
 いくらサムライと親しくなっても心の中心にはまだ惠がいる。心の中心は惠が占めている。惠に手紙が出せるかもしれないとわかったときは本当に嬉しかった、たとえ返事がこなくても惠との関係性を回復できるだけで生きる気力がわいてきた、希望が持てた。 
 それなのに、なんでこんなことになったんだ?
 なんで僕はこんな所にいるんだ?シャワーとベッドと洗面台があるだけの部屋に軟禁状態で押しこめられてなにもかもに絶望して頭を抱えているんだ?こんなことをしてる場合じゃないのに、僕は一刻も早く恵に手紙を書かなければいけないのに、サムライのところに帰られなければいけないのに。
 サムライが待ってる房へ。
 『戻って来い』
 声がすぐ近くで聞こえた。
 『待っているぞ』
 サムライの声はじかに頭の中で響いた。切羽詰ったような響きの声、だれでもないだれかに祈るような切実な。
 「戻るんだ」
 胸の空洞に吸い込まれそうによわよわしい声にしかならなかったが、くりかえし呟く。決意を確認するために、決心が鈍らないように、鼓膜を震わせるかすかな呟きが萎みかけた心に生気を注ぎこんでくれることを願い。
 「戻るんだ。戻る。戻る」
 惠のところに。
 「戻る。戻る。戻る」
 サムライのところに。  
 僕は惠に伝えたいことがある、サムライに言いたいことがある。こんなひえびえした房で膝を抱えてなにもかもに絶望したフリをしてる時間はない、僕はまだ死ねない、体はもちろん心だって死なせるわけにはいかないんだ。
 心が死んだらサムライにあわせる顔がなくなる。心が死んだら惠のことさえわからなくなってしまう。
 冗談じゃない。
 「……この程度のことで僕が折れると思ったら大間違いだ」
 しっかりと目を見開き、部屋の全容を見渡す。洗面台、シャワー、ベッド、便器、そして扉の配置を非常な集中力で頭に叩き込む。時間はあまりない、僕が目を閉じて考えに耽っているあいだにかなり過ぎた。もうすぐだ、もうすぐ強制労働から引き揚げてきた第一陣がここに来てしまう。ふと壁を仰ぐ。ロンは眠っているのだろうか?寝不足な顔つきをしてたから無理もない。彼が眠っていてくれるなら有り難い、これから僕がしようとしていることを知られずにすむ。
 ベッドから起き上がり、素足にスニーカーを履く。床に降り立ち部屋を見回す。物音は絶えて聞こえない。ひんやりと無機質な静寂が支配する部屋を渡り、中腰の姿勢で屈んで鉄扉と向き合い―
 その瞬間だ、悲痛な悲鳴が耳を貫いたのは。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060214200317 | 編集

 音源は隣の隣だ。
 ロンの房を挟んだ一つ向こうから発された悲鳴が通気口を伝って僕のもとまで届いたのだ。一つ房を隔てた場所で何が行われてるかわからないがあの悲鳴は尋常じゃない、スニーカーの靴底で床を蹴り通気口の下へと駆け付ける。
 通気口の鉄格子にしがみついて矩形の闇を覗きこむ。
 「なんだよ?」
 通気口からうろたえた声……ロンの声だ。
 「いったいなんだよ!?」
 「黙ってろ!!」
 平常心を乱しかけたロンが叫ぶのを一蹴して通気口に顔を近付ければ聴覚が拾い上げたのは切れ切れな会話の断片と嗚咽。
 「近付くな、近付くんじゃねえっ、さわんなよくそっ」
 「暴れんなよ、俺たち囚人に奉仕するのが売春班の仕事だろうが!」
 背中に冷水を浴びせられた気がした。
 僕は楽観的に構えすぎていたのだ、第一陣は既に到着していた。一つ隔てた房でどんなおぞましい光景が繰り広げられてるのか目で見るのは叶わないが音で正確に把握できる、売春班の少年が必死に抵抗して泣き叫ぶ声とそれをどやしつける客の声、凄まじい攻防戦。衣擦れの音に混じるのは何かを殴り付ける鈍い音とベッドの背格子が壁に衝突する金属音、はげしく揉みあって息を乱した客の笑い声。
 「やり、初物か。たっぷり仕込んでやるよ」
 絶叫。
 大気を震わせ鼓膜に叩き付けて来る長い長い絶叫。通気口によどんだ闇を震わせて鉄格子の隙間からもれてきた絶叫を聞くに堪えず耳を塞ぐ。何が起きてるのか想像もしたくない。悲痛な絶叫が追ってこないよう両手で耳を塞いで鉄扉へと駆け戻る。ぐずぐずしてる時間はない、僕がぐずぐずしてるあいだに一つ隔てた房の少年が犠牲になった。脅威はすぐそこまで迫っている、じきに僕の房にも強制労働を終えた囚人が訪れてくるだろう。溜まりに溜まった性欲を処理しに、積もりに積もったストレスを解消しに。
 「ごめん、ごめんなさい」
 鉄扉へと引き返した僕の耳朶を打ったのはたどたどしい哀願。さっきの部屋じゃない、鉄扉の斜向かいから聞こえてくる。扉の表面に耳を密着させる。僕の房から通路を挟んで斜向かいに位置した房からよわよわしいすすり泣きもれてくる、そしてすすり泣きを打ち消すような怒鳴り声も。
 「謝ればすむとおもってんのかよ!ふざけんなよ、シーツに吐きやがって……俺のモンがゲロまみれじゃねえかきったねえ」
 「ごめんなさいゆるしてください、だって苦しくて、喉が」
 「言い訳すんな」
 何かを殴り付ける鈍い音が連続。一回、二回、三回……まだ止まない。殴られ続けて歯が折れたのだろうか、廊下にながれていた嗚咽が急にくぐもり聞き取りにくくなる。
 通気口からは生きながら杭に貫かれる絶叫が、斜向かいの扉からはくぐもった嗚咽が。前後から押し寄せてくる音の波に耳を塞いで抗おうとするが無駄だ、どんなにぴったりと耳をふさいでもじかに頭の中に響いてくるようだ。吐き気をともなう眩暈に襲われながら扉の前に屈みスニーカーのつま先を立てる。背後に腕を回し、ゴムと裏面の隙間から一本の針金をとりだす。昨夜レイジが廊下に投げ捨てた針金だ、今朝サムライに返さなかったのはこの事態を想定してたからだ。
 直前施行された身体検査で売春班の囚人は全裸にされ裏も表も改められたが、スニーカーの中はともかく裏面の靴底まで確かめる看守がいなかったのが幸いした。ちょうどゴムが剥離しかけた部分に合鍵の針金を仕込むのはたやすかった、だれにも気付かれることなく仕事場に針金を持ち込むことができたのは幸運だった。
 今僕の手の中にあるのは直径10センチの針金だ。
 早鐘を打ち始めた心臓の鼓動が頭蓋骨の裏側で反響する。緊張で汗ばんだてのひらを開閉し固く固く針金を握り締める。正面には扉がある、錠がおりた扉。中から錠をおろして密室を作るのは可能だが鍵を掌握した看守がすぐ外にいるのだからそんなことをしても無駄だ。
 が、不可能を可能にするのが天才だ。
 「お袋、おふくろお」
 「凛々……」
 「こんなのやだ、こんなのやだ」
 「うそだうそだうそだ俺が犯られるなんてうそだ、俺は娑婆にでて女を抱くんだ抱いて抱いて抱きまくるんだそれだけがたのしみで生きてきたのに!」
 呪詛嗚咽哀願絶叫。向かいから斜向かいから右右隣から左隣から左左隣からすべての房から喉を絞るような声が押し寄せてきて発狂してしまいそうだ、理性が蒸発してしまいそうだ。廊下に面した房の大半では既におぞましい行為が繰り広げられてるらしくスプリングが軋む音や衣擦れの音や獣じみた息遣いがもれてくる。うるさい黙れ消えろ邪魔をするな。指先に全神経を集中し手こずりながらも針金をこねくり回し変形させる、変形させた針金を内側の錠に巻き付けて固定する。試しにノブを引いてたしかめる、手首に抵抗。針金で束縛した錠は押しても引いても動かない。
 密室の完成だ。
 これで多少の時間稼ぎにはなるだろう、とノブから手をはなして顔を上げる。ドアの隙間から覗けば見張りの看守はあくびをしていた。僕の思惑には気付いてないようだ。
 さて、次は?
 混乱した頭で考える考える考える、打開策を考える。壁越しに響いてくる罵声に集中を散らされないよう下を向いて歩き回る、余計な物が目に入らないように自分のつま先だけを見て頭を回転させる。時間はない、もうすぐ僕のもとにも客がやってくる。僕を買いにだれかがやってくる。
 ふざけてる。
 時間はないのに右往左往してる場合じゃないのに次の策が思いつかない、早く早く早く……考えろ鍵屋崎直、考えるんだ。お前は天才だろう、IQ180の知能指数の持ち主だろう?きっと素晴らしい打開策が見つかるはずだ、この危機的状況をあざやかに切り抜ける打開策が。サムライに頼ってばかりはいられない、ここにはサムライがいない。
 ひとりきり。
 僕は今現在完全に孤立してる。内側から密室を作り中に閉じこもっている状況だ。味方なんてだれもいない、ひとりもいない。
 「痛い、うあ、あああああっ」
 苦鳴。
 「あばれんなよ、じきに気持ちよくなるから」
 睦言。
 「処女はきっついな、さすがに。ちぎれそう」
 嘲笑。
 「助けてくれ、誰でもいいから助けてくれ、もうこんなとこいたくねえ、はやいとこ地獄から引き上げてくれ、悪い夢なら覚めてくれ」
 現実逃避。 
 皆自分のことだけで精一杯だ、他人をかまってる余裕などない。他人の助けを期待できないなら自分でなんとかするしかない、生き抜くためには頭を使うしかない。考えろ考えろ考えるんだ鍵屋崎直、惠に会うためにサムライに会うために僕が僕でありつづけるために。全房に設けられた通気口は中でつながっていてプライバシー度外視で会話や音がもれてくる、聞きたくもない喘ぎ声や泣き声やその他諸々が。無理だ、こんな状況で正気を保ち続けるのは不可能だ。じきに限界が訪れる、僕が僕でいられなくなる。だからその前に打開策を捻り出すんだ、大丈夫だ、僕ならできる。
 追い詰められて視線をさまよわせた僕の目にとびこんできたのは左手の壁に括り付けられたシャワー。そして正面の鏡。
 吸い寄せられるように鏡を覗きこめば鏡の中の自分と目が合う。憔悴しきった顔色の少年が呆然としてこちらを見返している。
 その手があったか。
 左側面の壁に駆け寄り壁からシャワーを毟り取る。壁に固定されたホックからホースを抜き取り振り返れば鏡の中の自分と目が合う、眼鏡越しの目に極限まで思い詰めた光をたたえた線の細い少年の顔に亀裂が入り破片となって砕け散る。
 おもいきりシャワーの先端部を鏡に叩き付けたからだ。
 洗面台の鏡にちょうど斜線を引くようにひびが入り、三分の一上方の破片が鋭利に輝きながら宙に舞った。
 「かぎやざき?」
 ロンの声が聞こえた気がしたが幻聴かもしれない、今の僕に他人にかまってる余裕などない。壁越しの騒音を不審に思ったロンが騒ぎ出しても知ったことじゃない。鏡に先端部を叩き付けた衝撃でホースが外れ、天井近くの蛇口から滝のように水が迸る。ほとんど垂直に迸った水に背中を打たせながら崩れるように床にうずくまり一面に散乱した鏡の破片を手にとる。
 
 落ち着け心臓。
 しずまれ呼吸。

 「あああああああああああああああああっ、ひ、ぐっ、」
 「痛い痛い死ぬ死んじまう!」
 「たすけてくれ、たすけて、おねがいだからあ」
 「どいつもこいつもくそったれだ、タジマのくそったれめ、絶対に殺してやる、ここからでたら真っ先に殺しにいってやる!!」
 聞こえない。
 なにも聞こえない。
 波が引くように周囲の雑音が消え虚無の世界にぽつんと取り残される。頭は真っ白だ。集中力が頂点に達して余計な物が徹底して排除されたからだ。蛇口からあふれた水が床一面をぬらしてどす黒く染め替えてゆく、僕が膝を付いたズボンにも染みて背中にも染みて急速に体温を下げてゆく。
 背後でノブを引っ張る音、看守の怒声。鏡が割れる音でようやく異変に気付いたらしい看守がせわしげに扉を殴ってる。
 「おい何の真似だこれは、開けろ、即刻開けろ!!」
 針金がちぎれるのも時間の問題だ。もうあまり保たないだろう。はやく覚悟を決めなければ……よし。目を開き、鏡の破片をしっかりと握り締める。鋭利に尖った切っ先を左手首に浮いた青白い静脈にあてがい深呼吸をくりかえす。
 結局この方法しか思いつかなかった。
 「無駄な抵抗はやめてドアを開けろ!」
 「いつまで客待たせんだよ、娼夫のくせに生意気だな」
 「ドアの前に客がきてるぞ。いさぎよく腹を括ったらどうだ」
 血管は血液が運ばれる道筋だ。
 心臓を出た血管は全身くまなく回る大量の血液が通れる直径2.5センチぐらいの太さ、体の隅々に行くにつれて次第に細くなり1ミリの1000分の5になる。
 「鍵屋崎どうしたんだよ」
 心臓から出ていく血管を動脈という。酸素をたくさん含んでいるため真っ赤な血が流れているが外側からは見えない、体の表面から離れた深い所を通っているし血を遠くまで運ぶために圧力が高く血管の壁が厚くできているから。が、アゴの下や手首の内側の親指側、ヒジの内側などに手を触れると動脈がドクドクと脈打つのを感じることができる。
 「なにか言えよ」
 体の隅々から心臓へ戻っていく血管が「静脈」。酸素が少ないため赤紫色をしている。体の表面近くを通っていて、手の甲や手首に見える血管はこの静脈だ。動脈と違って壁が薄いから皮膚の上から血の色がすけて見える。光の屈折や乱反射の関係もあって赤紫が少し青みがかって見えるのはこの為だ。
 「おい!!」
 動脈と違い静脈を切ったところで早急に処置を施せば命に別状はない、見た目は出血が多くてはでだから恫喝効果も期待できる。
 僕は今から手首を切る。
 自殺するつもりは全くない、だがこの方法しか思い付かなかった。どんなにここの看守が非人道的でも囚人が自殺未遂を図れば慌てるだろう、医務室に運んでくれるだろう。
 そうしたら客をとらなくてすむ。犯されなくてすむ。サムライのところに帰れる。顔を上げてサムライを見ることができる。
 これが最も合理的な結論だ、効率論を重視した必然的帰結だ。大丈夫、加減すれば死ぬことはない。僕が加減を間違うなんてそんなことありえない、あってはならない。手首の血管がどこを通っているかどれくらいの太さなのかすべて頭に入ってる、力の加減を誤って出血多量で死に至るような失態を犯すはずがない。

 おそれることはない。
 僕は人殺しなのだから。

 両親を刺した時の感触はまざまざと手に残っている。要はあの時と同じことをすればいいだけだ、躊躇することなどなにもない。
 あの時、僕は惠を守るために鍵屋崎優と由佳利を刺した。  
 今度は自分を守るために自分を刺すんだ。一度できたことが二度できないはずがない、今度も上手くやれる、上手くできる。何度も深呼吸して指の震えをおさえこもうとするがなぜか手が言うことをきかない、鏡の破片を握り締めた右手が自分の物じゃないように震えている。どうしたんだ?怖いのか?人殺しのくせに、鍵屋崎優と由佳利は刺したくせに自分の手首を切るのは怖いのか?
 固く固く目を閉じる。
 左手首に破片が食い込み傷口から血があふれだす瞬間を見ずにすむように目を閉じれば瞼裏の暗闇に交互に顔が浮かぶ。
 『おにいちゃん』
 惠。
 『鍵屋崎』
 サムライ。
 破片を握り締めた手が汗ですべりそうになる。心臓の鼓動が大きくなり全身の血管が脈打ち頭が熱く火照る。どうして、なんで決心がつかないんだ?戸籍上の両親は刺せたじゃないか、殺せたじゃないか。破片の切っ先が左手首の皮膚に食い込み血の玉が盛り上がる。鋭い痛みに顔をしかめる。手首を切ればもっと痛い――
 空を切り、右手を振り上げる。
 僕の計算に狂いはなかった。サムライの声を、言葉を、顔を思い出しさえしなければ僕が振り上げた鏡片は狙い違わず左手首の静脈をかすめていたはずだ。
 『戻って来い。待っているぞ』
 「!」
 顔を上げたのは何故だろう。
 そして、正面の鏡を見てしまったのは。
 斜線状に亀裂が生じた鏡に映った顔には見覚えがある。生まれてから十五年間、鏡を覗けばどこにでもいる自分の顔。でも、違う。普段の僕はこんな追い詰められた顔をしてない、こんななりふりかまわない形相をしてない。
 この顔はそうだ、鍵屋崎優の胸にナイフを刺したとき、雨滴の伝う窓ガラスに映った顔とおなじ―……
 爆発的な勢いで扉が蹴破られるのと、僕の手から落ちた鏡片が床で粉々に砕け散るのは同時だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060213200428 | 編集

 「うわっ、なんだこれ」
 扉をぶち破って房に乱入した看守が目を剥く。
 無理もない、房の床は一面惨状を呈していた。斜めに亀裂が入った鏡の破片が無数に撒かれた床には蛇口から迸った水があふれてさながら洪水のような有り様だった。大股に水たまりをはね散らかしながら接近した看守がびしょぬれの僕を見下ろしてぐいと肘を掴む。
 「手間かけさせんなよ、だれがこれ片付けると思ってんだよ」
 肘を掴んで強引に立たせる。情けない話、肘を支えられていなければ膝が笑ってしまって自力で起き上がることすらできなかった。
 現在房にいる看守はふたり。どうやら彼らふたりがかりでドアを破ったのだろう、錠に巻き付けた針金は無残にちぎれて床に弾けとんだ。荒々しく踏み込んできた看守に肘を引かれて立たされるが頭の中は混乱していた。なぜ手首を切れなかった?サムライの顔が浮かんで?馬鹿な。あの時決断して手首を切っていればこんなことにはならなかった。
 もう手遅れだ。
 「入るぜ」
 ゆるやかに顔を上げる。
 看守に断って入室した少年に目を凝らし既視感をおぼえる。どこかで見た顔だ。どこでだろう。
 「おいおいもう忘れちまったのか?つい二・三日前まで同じ班でよろしくやってただろうが」
 揶揄するような口調と薄笑いで思い出す。二ヶ月前、僕の腕に偶然の事故を装ってシャベルをぶつけた少年だ。つい先日足をひっかけようとしたのも彼だ。どうやらよほど僕のことが気に入らないらしく同じ班に配属されてからというもの頻繁に嫌がらせを受けてきた。
 何故ここに居るんだ、という詰問が喉元まで出かけて飲み込む。何故?決まってるじゃないか。僕を買いに来たのだ。
 「思い出したみたいだな」
 「なんで、」
 声が詰まる。唾を飲み下し、声が震えないよう一語一句を強調して吐き出す。
 「きみは僕のことを嫌ってるはずだろう?だから性懲りもなく進歩のない嫌がらせをしてきたんだろう?なのに何故、」
 「ご挨拶だな。見ず知らずの赤の他人にヤられるより元同僚にヤられたほうがまだマシだろ」
 おどけたように肩を竦めて名前も知らない少年が笑う。名前……名前は何と言ったっけ?わからない。わかるのは東棟の人間だということだ、僕と、サムライとおなじ東棟の。床をひたした水たまりを軽快に跨いで歩み寄った少年が媚びるように左右の看守を見比べる。
 「ドア開けてくれてありがとうございます。で、早速っスけど出てってくれませんか?見られて興奮する趣味ないんで」
 おぞけをふるう提案に片方の看守は表情を変えず、片方の看守は下卑た笑みを浮かべた。すれちがいざまに少年の肩を叩いて看守が出て行き扉が閉まる。外側で錠の落ちる音がやけに重々しく房全体に響いた。
 密室にふたりきり。
 逃げ場はない。
 「そんなびびんなよ親殺し」
 壁を背にしてあとじさった僕へと無防備に歩み寄りながら少年が両手を挙げてみせる。五歩、四歩、三歩。次第に確実に縮まってゆく距離、耳朶をこする衣擦れの音。壁に背中をあずけてゆっくりと半周した僕につられて円を描きながら少年が笑う。
 欲望に火がついた、おぞましい笑顔。  
 「お前が売春班に配属されたって聞いて『やっぱり』って思ったよ」
 「やっぱり?」
 聞き捨てられない言葉に眉をひそめれば少年が図々しく間合いを詰めてくる。少年の接近を拒み、壁に背中を預けて緩慢に距離をとる。
 「忘れたのか?半年前のこと。タジマの息がかかった凱たち相手にはでにやらかしただろう」
 「!」
 「あれで目をつけられたんだよ、おまえ。だから売春班にまわされたんだ」
 「ロンもか?」
 「ロン?ああ、あの半半ね」
 頭が割れそうに痛いのは頭蓋骨の裏側でがんがん反響する荒い息遣いのせいだ。鐘を一斉に打ち鳴らすような心臓の鼓動が耳のすぐ裏側で聞こえて全身の血液が沸騰する。こんな奴に怯えるのはプライドが許さない、こんな奴に怯えて逃げ惑うのは僕らしくない。でも、どうすればいい?距離をとらなければ後退しなければ肌がふれてしまう、体と体が接触してしまう。
 それなれば終わりだ。
 体格で劣る僕がかなうわけがない。
 手も足も出ずに後退を余儀なくされた僕をなぶるように追い詰めながら少年がまくし立てる。
 「タジマは生意気な新人が好きなんだ、踏みつけても踏みつけても雑草みたいにしぶとく起き上がってくるやつがな。減らず口ばっか叩く生意気な囚人のケツ剥いてひんひん泣き叫ぶ声に酔いながら痛いのぶちこんでやるのが大好きなんだよ」
 饒舌にまくし立てていた少年の目が恍惚と狂気をおびる。無造作に歩を繰り出し一気に間合いを詰めてきた少年から後退しようとして背中に鈍い衝撃。
 洗面台だ。
 洗面台で尾てい骨を打った僕はいよいよ本格的に追い詰められたことを悟る。少年はすぐそこまで迫っている。三歩、二歩、一歩……
 「さて。はじめるか」
 後ろ手に洗面台の縁を掴み仰け反れば前傾姿勢をとった少年を仰ぐ格好になる。汗で手が滑って崩れ落ちそうになるのを膝を支えにして耐える。今目の前にいるのは二ヶ月前僕にシャベルをぶつけた男、なにかと僕を目の敵にして絡んできた男だ。
 よりにもよって、こんな男を相手にしなければいけないのか?
 「!あ、」
 洗面台の縁にかけていた右腕をぐいと掴まれて袖を剥かれる。外気にふれた右腕にひやりとした感覚。肘までめくりあげた右腕をまじまじと見下ろして少年が口惜しそうに唇をねじまげる。
 「俺がつけてやった痣、ねえな」
 「……当たり前だ、何ヶ月前の話をしてるんだ?人体の自然治癒力をみくびるなよ」
 つけてやっただ?あまりの言い草に反感がもたげてくる。思い出すのはイエローワークの強制労働中、穴を掘る作業に没頭していたらちょうど横にいた彼に砂をどかすふりでおもいきりシャベルをぶつけられたのだ。あの時の激痛は忘れようったって忘れらない、一時は骨折したかと危ぶむほど重たい衝撃だった。
 「じゃあ、またつけるか」
 洗面台に追い詰めるかたちで僕を押さえこんだ少年の目に愉快げな企みが宿る。発言の真偽を確かめる余裕など与えずに上着の裾にすべりこんできたのは手。
 「なっ、」
 手を振り切ろうと身動ぎしても無駄だ、裾にもぐりこんだ手が痛いほどに脇腹を揉みしだいて淫猥にうごめく。すさまじい生理的嫌悪で腰が萎えそうになる、逃げたくても逃げられない、背後は洗面台だ。無力に身悶えるしかない僕を覗きこんで歯を剥いた少年が意外な行動にでる。
 首筋を舐められた。
 「!!」
 声が出そうになった。
 奥歯を噛んで必死に声を殺す。僕の肩に抱きつく格好で首筋に顔をうずめ強弱をつけて吸う、唾液を捏ねる淫靡な音がすぐ耳元で響き猛烈な吐き気がこみあげてくる。首筋に軽く歯を立て舌で舐め唇で食む執拗な吸引力のキス。
 両手を突っ張って突き飛ばそうとしたがたやすく腕をつかまれ押さえこまれてしまう。手首を締め上げられてはそれ以上抵抗もできない、屈辱に歯噛みして耐えるしかない僕の首筋に顔を埋めたまま上着にもぐりこませた手を緩慢な動きで胸板に這わせる。発情した軟体動物めいた動きで胸板を這っていた手が鎖骨に達する。
 膝が砕けそうになる。拡散しかけた理性をかき集めて理路整然とした思考を紡ごうとするがだめだ、目を瞑って見ないようにするだけで精一杯だ。声がでないよう手で口をふさぎたいが手首を締められていてはそれさえできない、早く早く終わってくれ飽きてくれ解放してくれと一心に念じながらただひたすらに待つー……
 願いが通じた。 
 透明な糸を引いて唇がはなれ張り詰めていた体から力が抜ける。虚脱して崩れ落ちそうになった体を気力とプライドだけでなんとか支える。熱に潤んだ目で見下ろせば首筋が赤く染まっていた。
 「今度は隠せないだろう」
 「……っ、」
 唇を噛み締め、てのひらで首を隠す。羞恥と屈辱で顔が熱くなる。赤面した顔を覗き込まれるのを避けて俯けば上着に突っこまれた手が性急に動き出す、先刻とは違う貪欲な愛撫。跡になりそうなほど乱暴に肌を摩擦されて苦痛で顔が歪み吐息が上擦る。
 「痛くされるのが好きなのか」
 嘲弄の声に目を見開けば熱で歪んだ視界を占めた卑猥な笑顔。興奮に顔を上気させた少年が僕の反応をうかがいつつ手を加速させる。汗で不快に湿ったてのひらが体の裏も表もまさぐるおぞましさに全身鳥肌立つ、気持ち悪い、惠、めぐみ―……
 猛烈な吐き気と戦いながら僕に覆い被さって股間を固くしている少年を睨む。
 「調子、にのるな、よ」
 上着の裾をはだけて侵入した手が今やズボンの内側にまでもぐりこもうとしている。なす術なくそれを眺めながら途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
 「僕は貴様みたいな変質者じゃない、同性を性愛対象にするほど飢えてもなければ溜まってもいない。半年間同じ班にいたが君がタジマの同類だとは気付かなかったな、察するに自分より体格で劣った弱者をいじめ抜くことで性的興奮をおぼえる倒錯的嗜好の持ち主なんだろう?は、虫唾が走る、な。どうりで外の女性に相手にされないわけだ」
 「なんだと?」
 愛撫の手は止めずに少年が凄む。ズボンの内側に潜りこんだ手に手荒く太腿をしごかれ声がもれそうになるのを奥歯を噛みしめて殺す。
 「外の女性に相手にされないか、ら、刑務所で男なんか相手にするんだ、ろう。生憎、だな。貴様に恋愛感情はおろか好意を抱けない女性の気持ちはよくわ、かる。貴様のよう、に、容姿も言動も品性も人間性もすべてが平均以下の以下、そんな男に抱かれたら自分の価値まで貶めることになる。どうやら僕が思っていた以上に世の女性は賢明なようだ」
 下着と一緒にズボンを膝までひきずりおろされる。ズボンが膝に絡んで足がもつれた隙に体勢を入れ替えられ後ろ向きに固定される。洗面台に顔を突っこまれ強制的に前傾姿勢をとらされて鏡を見れば、背中に覆い被さった少年が憤怒の形相に変じていた。
 「処女にはやさしくしてやろうとおもったんだけどな」
 むきだしの内腿に勃起した股間を擦り付けられ喉がひきつる。亀裂が入った鏡の中で自分の顔が悲痛に歪む。背中に体重をかけてのしかかられて眼鏡の傾きを直すこともできない不自由な体勢を強いられることになり洗面台の縁を掴んだ腕がくじけそうになる。
 「ベッドに行きたいか?ダメだ。立ったままやるんだ。生意気な口きかなきゃベッドに運んでやったんだけどな」
 腕が辛い。間接が軋む。
 交尾に臨む雌犬のように屈辱的な体勢をとらされ視界が羞恥に歪む。いや、水面下から見上げた世界のように視界が朦朧と歪んでいるのは目に涙の膜が張ってるせいだろうか。哀しくて泣いてるわけじゃない、生理的嫌悪と肉体的な苦痛でかってに涙が滲んできたのだ。鏡に映る自分から目をそらせない、そらしたくてもそらせない。殆ど上着をはだけられて半裸の状態になった肌の至る所に浮かび上がるのは薄赤い痣。真っ先にとびこんできたのは首筋の斑点、襟刳りが緩んで露出した鎖骨の上にも点々と見受けられるそれは唇の吸引痕。
 顎先を指で掴まれて持ち上げられる。後頭部を仰け反らせたはずみに耳朶が何か、熱い粘膜に含まれる。
 「っあ、あ」 
 舌、だ。
 とろけそうに熱い口の粘膜が耳朶を食み、細切れの声がもれる。僕は不感症だからなにも感じない性的刺激など一切受け付けないはずだ、それは誓って真実なのに。口から出た声はまるで、まるで僕の声じゃないみたいだ。気持ち悪くてうめいてるのか鋭い性感に苛まれて喘いでるのか自分でもわからない、自分の耳朶がこんなに敏感にできてるなんて今の今まで知らなかった、いや、永遠に知りたくなかった。
 「不感症のくせに耳噛まれただけで感じるなんて変態だな」
 この、低脳を喜ばせるくらいなら。
 
 ダメか。
 もうダメなのか。

 体の奥底で燻っていたプライドの熾火が消えそうになる。今まで僕を支えていたプライドが床に叩き付けたパズルのピースのように崩壊してゆく。こんな姿惠には見せられないサムライには見せられない僕自身も見たくない、だれがこれから自分を犯そうとしてる相手の顔を見たいものか無力に犯されようとしている自分の姿を見たいものか。
 洗面台の縁に手をついて上体を支え、よわよわしくかすれた声をしぼりだす。今の僕に精一杯の声を。
 「…………、」
 「は?」
 「眼鏡を、外させてくれないか」
 洗面台にすがりつき、鏡に映った自分とその背後の相手を見ずにすむように顔を俯ける。眼鏡さえなければ情けない自分を見ずにすむ、おぞましい光景を網膜に焼き付けずにすむ。
 「なんでだよ」
 「面倒くせえ」といわんばかりの投げやりな口調で行為を続行しようとした相手に何かが切れる。何か。それはきっと僕を僕たらしめている核の部分、僕をこれまで支えてきた脆く強靭なプライドの要、今にも切れそうな理性を繋いでいた細い糸。
 それが、音をたてて切れた。
 「理由を聞きたいか?じゃあ話してやる」
 そうだ、話してやれ。ありのままを、包み隠さず。今僕の背中に覆い被さったズボンを脱ごうとしてる男に、醜悪な性器を露出しようとしてる男に。鏡の中の自分が歪な笑みを浮かべる。危うい均衡の上に成り立つ、崩壊寸前の笑顔。
 「きみの醜悪な容貌を見たくないからだ、容貌に負けず劣らず醜悪な性器を見たくないからだ。発情期の犬のように弛緩した口と垂れ下がった舌から滴る涎も脂下がった目も火照った顔も欲望剥き出しの下劣なオーラもすべて、そう、存在自体を見たくない。きみに要求するのはこれだけだ、迅速に速急に確実に今この瞬間に僕の視界から消えてくれ」

 僕は馬鹿だ。
 なぜ今この場で、この状況下で、こんなことを口にするんだ。
 こんなことを言ったらどうなるか、予想がつきそうなものじゃないか。

 「―っぐ、」
 顎が軋むほどに指に力をこめられ上向きに固定される。目の前の鏡には洗面台の縁にしがみついた僕の姿が鮮明に映っている。  
 「眼鏡は絶対に外すな。ヤられてる自分の顔ちゃんと見てろ」
 声を低めて恫喝される。内腿にすべりこんだ手が蛇腹めいた動きで徐徐に這い上ってゆく。緩慢に熱を追い上げる愛撫に先行するのは皮膚の下で多足の蟲が蠢いてるような不快感。鏡の中の顔が歪む、歪む――
 こんな姿惠には見せられないサムライには見せられないレイジにもロンにも―……ロン。そうだロン。不自由な体勢から顎を持ち上げて壁を仰ぐ。僕が発した声は通気口を通って隣に漏れ聞こえてしまう。
 嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 たとえもうどうしようもなくても何もできなくてもその瞬間を待つしかなくてもプライドだけは最低限のプライドだけは守りたい。死守したい。プライドがなくなれば僕は僕でなくなる、鍵屋崎 直じゃなくなってしまう。ロンにみっともない声を聞かせるのはいやだ、こんなみっともない僕を知られるのはいやだ。
 だから、叫ぶ。通気口を見上げ、腹の底から。
 「耳朶閉!!」
 聞こえただろうか?信じるしかない、祈るしかない。彼ならきっとわかってくれるだろう、言う通りにしてくれるだろう。
 僕が人に何かを頼むなんて滅多にないことなのだから。
 僕の後頭部を押さえ込んでいた手が腰へと回される。鏡の中、洗面台の縁に手をついて苦しげに呼吸する僕の腰を掴んだ少年、その唇が動く。  
 『い』
 『く』
 『ぜ』
 目を閉じる。瞼裏の暗闇に浮かんだ惠の顔が急速に遠ざかり消滅する。行かないでくれ恵、おいてかないでくれ。闇に浮かんだサムライの顔が手が届かない彼方に遠ざかる。
 死に物狂いで叫びながら手を伸ばす、けっして届かない手を、握り返されることのない手を。
 頼む行かないでくれおいてかないでくれ見捨てないでくれ
 惠、サムラ、

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060212200638 | 編集

 通気口の空洞に反響したのは血を吐くような絶叫。
 強制労働から引き揚げたその足で真っ先にやってきた奴らが早い者勝ちで売春夫を犯している、肛門を裂かれる激痛になりふりかまわず泣き叫ぶガキの断末魔がひっきりなしに響き渡る。
 ついにこの時がきてしまった。
 こんなに早いなんて思わなかった、おれが呑気に居眠りしてるあいだに半日経ってしまったらしい。こんなのはまだ序の口だ、本当の地獄はこれからだ。強制労働から引き揚げてきた第一陣が近隣の房に吸い込まれて行くたびにくぐもった悲鳴と何かを殴り付ける鈍い音が連続する、中で何が行われてるか想像したくもない。しゃぶらせてぶちこんでタマを軽くしにやってきた囚人が快楽にうめく声がもれてくる、スプリングが壊れそうに軋む音に重なるのは乱暴にケツを揺さぶられて裂けた肛門から血を滴らせるガキの悲鳴。
 「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいゆるしてください、だって苦しくて、喉が」
 「言い訳すんな」
 一回、二回、三回。おそらくはこぶしで力一杯顔面を殴り付けているのだろう鈍い音が耳底にこびりついて心臓が縮む。廊下を挟んで聞こえてきた嗚咽はけっして他人事じゃない、あと何十分後、いやあと何分後かには俺の身にも迫ってる切実な危機だ。
 「お袋、おふくろお」
 「凛々……」
 「こんなのやだ、こんなのやだ」
 「うそだうそだうそだ俺が犯られるなんてうそだ、俺は娑婆にでて女を抱くんだ抱いて抱いて抱きまくるんだそれだけがたのしみで生きてきたのに!」
 哀願嗚咽呪詛罵倒、狂気の渦に呑まれかけながら必死に耐えていると隣の房でガラスが割れ砕ける音。
 「鍵屋崎?」
 耳から手を放し顔を上げる。ガラスが割れ砕ける音は鍵屋崎の房からだ、何がおきたんだ?ガラスの破片が床一面にぶちまかれるかん高い音に続いて降り注いだのは扉を殴る音音音。
 「無駄な抵抗はやめてドアを開けろ!」
 「いつまで客待たせんだよ、娼夫のくせに生意気だな」
 「ドアの前に客がきてるぞ。いさぎよく腹を括ったらどうだ」
 台詞の断片から察するに鍵屋崎は内側から房を封鎖して閉じこもっているらしい。あの鍵屋崎が、いつでも冷静沈着な鍵屋崎がそんな無茶やらかすなんてと膝立ちの姿勢で呆然と扉を見つめてたがハッと我に返る。間断なく鼓膜を打つ水音に顔を上げれば壁の上方に設けられた通気口が目にとびこんでくる。
 はじかれたように起き上がり、シーツを蹴って通気口の下に駆け付ける。
 あとちょっとのところで鉄格子に手が届かないもどかしい現実に歯噛みしながら吠えるように叫ぶ。
 「鍵屋崎どうしたんだよ、なにか言えよ」
 水音を打ち消す沈黙に急激に不安が募る。不吉な予感に胸締め付けられ壁に拳を打ち付ける。
 「おい!!」
 分厚い壁にさえぎられて隣の房の様子はわからない、鍵屋崎の身になにが起きてるのかも。わからないから余計に不安になる、返事がないから余計に悪い想像がふくらむ。なにか答えてくれ、お願いだから俺を一人にしないでくれと狂気と紙一量の危機感に駆り立てられて壁を叩いていると扉がぶち破られる轟音と衝撃が拳に伝わる。
 隣接した房に慌しい足音が踏み込んでくる、床一面の水たまりをはね散らかして乱入した看守の息遣いまで手にとるようにわかる。通気口の真下の壁に耳をくっつけて息を殺していると隣部屋の様子がまざまざと伝わってくる、扉が閉まり看守が出て行く気配、そして。
 だれかが入ってきた。
 だれか……わからない。顔は見えない、わかるのは客だということ。鍵屋崎を買いに来た客。肋骨が粉砕されそうに心臓の鼓動が高鳴り喉が乾く。扉が閉まり外側から錠がかけられ完全に密室となった房で鍵屋崎がじりじりと追いつめられてゆく。
 なぶり者。
 背中を壁に密着させ移動する鍵屋崎。スニーカーの踵が水たまりに突っこんで水滴をはね散らかし、いつ襲いかかってくるかわからない客から壁を手探りしてのろのろあとじさるじれったい光景まで脳裏に浮かぶ。
 鼓動が完全に壁と同化した。耳裏で鳴り響く鼓動は自分のものか、壁自体が脈打ってるせいかわからない。聴覚を研ぎ澄まして鍵屋崎の息遣いを拾い上げる、顔の見えない相手の足音を拾い上げる。 
 突然だった。
 均衡が崩れ、小さな悲鳴があがる。何がおきたのかわからない、わからないが鍵屋崎の身に何かが起きたのだけは確かだ。きっとそれは最悪な何か、俺が予想したとおりのこと。
 「………………、」
 くぐもった声が通気口からもれてくる。鍵屋崎ともうひとりの話し声、息を乱して言い争う声に混じるのは赤裸々な衣擦れの音。いやだ、想像したくない、聞きたくねえ。はやくはやく一刻もはやく通気口からはなれろと脳裏で警鐘が鳴り響いてるのに足が棒のように硬直して一歩も動けない、距離をとることすらできない。鍵屋崎の身にふりかかったのは遠からず俺の身にも起きること、俺が先延ばししようと足掻いて足掻いて足掻きまくっている救いのない現実。いやだ、鍵屋崎が犯されるとこなんて見たくない聞きたくない知りたくないと全身で拒絶してるのに五感は全開で通気口から降ってきたどんな小さな物音にでも電流を通されたように反応してしまう。
 金縛りになったように無力に通気口を見上げるしかない俺の脳裏で荒れ狂っているのはここ数日間のいろいろなこと、その殆どがとるにたらないくだらないこと、俺がいつのまにかすっかり馴染んじまった東京プリズンの日常。
 顔を洗った水が冷たかった冬が来たレイジの幸せそうな寝顔むかつくコイツは寝相が悪い風邪ひいちまわないか心配まずい朝飯まずい味噌汁ああ肉粽が食いてえ強制労働つらいしんどいいつまで続けりゃいいんだこんなこと水が出たまさか信じられないこんなことって。

 希望。
 これが希望?

 鍵屋崎の言葉『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』むずかしいことはわからないこいつはいつもむずかしことばかりいう屁理屈ばかりいう素直に喜べばいいのに。タジマだ煙草の火だ怖い怖い火は熱い痛い脇腹の火傷『その子面白いでしょう、泣かないのよ』お袋の声眠そうだいつの?
 『頑張ったな』 
 ああ、これは。
 これはレイジの声だ。奴にしちゃストレートで飾りけないねぎらいの言葉。あいつは笑ってた、笑っていた。水源を掘り当てたのはあいつじゃないのに俺のことを自分のことのように喜んでた嬉しがってた祝福してくれた。
 「………がんばったよ」
 鍵屋崎の声に耳をふさぎたいのに手が言うこをきかない、衣擦れの音に耳をふさぎたいのに手が痺れたように動かない。むなしく通気口を仰ぎ見ながら唇を動かす。レイジはもう「がんばったな」なんて言ってくれない、褒め言葉なんかけちゃくれない。もっと素直になっときゃよかった、「謝謝」でも言っときゃよかった。んなこと言ったらあいつはまたひとのことガキ扱いしてなれなれしく頭撫でてきてそうなりゃたぶん確実にぶん殴ってたけど。
 あれが最後になるなんて、思わなかった。
 あんな別れ方、するんじゃなかった。
 駄々をこねるように壁を叩いていた拳から力が抜けてゆく。額を壁に預け、顔を俯ける。
 「がんばってるよ、おれ。がんばってるけど、どうしようもねえよ」
 壁一枚挟んだ隣の部屋で鍵屋崎がヤられそうになってるのに指くわえてみてるしかないなんて、通気口から生々しい衣擦れの音や肌をまさぐられて強引に追い上げられる息遣いや噛み殺したような苦鳴まで聞こえてくるのに手も足もでずに見過ごしてるしかないなんて。
 レイジならこんなときどうする?
 決まってる。 
 俺があっというような胸がすく行動にでるはずだ、あいつはでたらめに強いから回れ右して房から出てって隣にとびこんで汚いケツむきだして鍵屋崎に覆い被さってるガキをひっぺがすくらいなんでもないはずだ、息も乱さずやってのけるはずだ。
 俺が胸糞悪くなるほど見慣れた無敵の笑顔を浮かべて。
 でも俺はレイジじゃない、レイジほど強くない。鍵屋崎がこれからどうなるかわかってるのにいやというほどわかってるのに勇気がなくて行動できない、度胸が足りなくて助けに行けない。
 俺は腰抜けだから、鍵屋崎を助けに行けない。
 自分かわいさに鍵屋崎を見捨てようとしてる、アイツの悲鳴に耳をふさぎ目をそむけ無視をきめこもうとしている。  
 最低だ。
 最低の人間だ。
 「…………っ、」
 壁にすがりつき、惰性の動作で拳を叩きつける。よわよわしく壁を打った拳から伝わってきたのは強固に拒絶的なコンクリートの固さ。今すぐにでも房をとびだしたいのが本音だがそれからどうなる?看守をふりきって隣にとびこんで鍵屋崎を助ける?無茶だ、そんなことできっこない。俺は俺がおかれた立場がよくわかってる、後にも先にも逃げ場がないことがよくわかってる。俺は看守を殴り倒せるほど強くない、鍵屋崎を犯そうとしてるガキを易々ひっぺがせる自信がない。
 その時だ、命令調の声が響いたのは。
 ―『耳朶閉!!』―
 耳をふさげ。
 「!」
 戦慄が走った。
 微動だにせずに立ち竦んだ俺の目に映るのは壁上部の通気口、今しがた通気口の闇を震わせて響いたのは聞き間違えようない鍵屋崎の声。……鍵屋崎の声?本当に?たしかに声質は鍵屋崎の物だ、でも違う、俺が知ってる鍵屋崎はいつでも冷静沈着でひとを小馬鹿にした態度で、たとえ何が起ころうが憎たらしいほど落ち着き払ってしれっと澄ましてて声をあげて笑ったことはおろか人前で怒りをあらわにしたことだって滅多にないのに。
 腹の底から振り絞るような、喉に血が滲むようなこんな声、鍵屋崎の声とはおもえない。
 それでも鍵屋崎の声で金縛りがとかれ、手首が言うことをきくようになった。言われたとおり手を掲げてぴたりと耳をふさぐ、何も聞こえないように背中を丸め壁面に額をつけてずりおちて―
 
 絶叫。
 
 耳をふさいでても何の役にも立たなかった。 
 麻酔なしで切開手術されてるような、気を失いたくても失えないほどの激痛に引き裂かれた絶叫が長く長く余韻を残す。鼓膜が割れそうだ。固く固く耳を閉ざす、もう何も聞かなくていいように鍵屋崎の悲鳴を聞かなくてすむように。力一杯耳を押さえ付けた手が震えだす。その震えは手首から肘、肘から肩にかけて広がっていき、しまいには全身がたがた震え出した。
 固く固く固く目を閉じる。もう何も見ずにすむように、瞼の裏に浮かぶ鍵屋崎の顔を渦中に沈めて罪悪感を打ち消そうと。それでも絶叫は止まず指を食い破って執拗にねじこまれる、通気口を通ってきた絶叫が大気に染みこみ鼓膜に染みこみその余韻が完全に吸収されるのを待たず連続、苦痛を凝縮した叫びには余裕なんかこれっぽっちもなくていっそ気を失ってしまったほうがラクなのにつながった腰を手荒く掴まれ揺さぶられるせいで気が遠くなったそばから引き戻されて地獄に叩き落とされるその繰り返し。
 拷問。
 これは拷問だ。
 腰が抜けて立ち上がれない。隣の部屋でどんなおぞましい行為が繰り広げらてるか想像したくもない、鍵屋崎がどんな目にあってるかなんて知りたくもない。でも声を聞けばわかる、わかってしまう。アイツがどんな辛い目にあってるか痛い思いをしてるかいっそ死んだほうがマシな地獄で足掻いてるか。痛いほど耳を押さえこんで尻で床を擦るように避難、少しでも通気口から離れようとみっともなくもがく俺の脳裏でぐるぐる渦巻いているのは現実に見た悪夢。
 11の冬、お袋の身代わりにされてヤられかけた時の記憶。
 『風邪ひいたお袋助けてえんだろ?やり方はお袋と男がヤッてるとこ見て知ってんだろ、ベッドで目え閉じて足開いてりゃいいんだよ、なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよお客様の機嫌を損ねねえようにな!あんな淫乱女を母親にもってんならヤり方くらいわかるだろ、娘じゃねえのが残念だが我慢してやる。お前くれえの年ならどっちにしろ処女にゃちがいねーしな!』 
 血走りぎらついた目、舌なめずりしそうな表情。がさがさに乾いた手が薄汚れたジャンパーを剥ぎ取りシャツの裾にもぐりこんで脇腹を揉みしだいて生臭く湿った吐息が顔をなでて―
 いやだ。
 男にヤられるのはいやだ。
 お袋の二の舞はごめんだ。
 鍵屋崎みたいに他の連中みたいに男にヤられるのはごめんだ絶対にごめんだ、まだ女だって一人っきゃ抱いてないのにこれから何人何十人という男に抱かれなきゃいけないなんて犯されなきゃなんねえなんていやだ、絶対にいやだ。
 「くそっ、」
 体当たりするようにベッドに突撃したのは気が狂ったからじゃない、俺は正気だ、泣きたくなるくらい正気だ。両腕を突っ張り足腰を踏ん張り渾身の力をこめてベッドを押す、ベッドの脚が床を擦る音が長く尾をひいてついてくるが知ったこっちゃない、歯を食いしばり何度もベッドに体当たりし肩で押し出すように前進する。重たい、腕がくじけそうだ。でもここでくじけたらおしまいだ、ここでくじけたら俺はこのベッドの上で男に強姦されるしかなくなる。肛門からの出血でシーツを赤く染めて泣き叫ぶようなみじめな末路はお断りだ、冗談じゃない。顔を真っ赤に充血させ腕に力をこめて押し出す、ベッドの脚が床をひきずる音がやけに空疎に響く。もうすぐ、もうすぐだ。額に滲んだ汗が目にすべりこんで視界がぼやける、ぼやけた視界の中央には歪曲した扉。扉を目指して遅遅とした行進を続けていた俺の背後から聞こえてきたのは、

 嗚咽。
 隣の房からの、嗚咽。

 信じられなかった。
 だって、信じられるはずがないじゃないか。隣の房から嗚咽が聞こえてくるなんて、まさかあの、あの鍵屋崎が。違う、本当は信じたくなかったんだ。だってあの鍵屋崎が、
 『パンドラの箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
 鍵屋崎。
 『黙秘権を行使する』
 鍵屋崎。
 『これは他意のない仮定だが、身内に手紙を書くとき君なら何を書く?』
 鍵屋崎。
 『馬鹿は風邪をひかないという俗説が流布してるから大丈夫だろう』
 鍵屋崎。あいつなりのひねくれたやり方で、俺を元気づけてくれたのに。
 「……―っ、」
 喉が詰まる。汗がすべりこんだ視界が歪み、霞む。俺は自分の身を守るだけで精一杯であいつを見捨てようとしてる、あいつの嗚咽に背中を向けてしらんぷりを決め込んでる。なんて卑怯でカッコ悪いんだ、なんで俺はこんなに弱くてみっともなくてかっこ悪いんだ。
 ここにレイジがいたら、なんて言うだろう。
 徹底的に弱くてカッコ悪い俺を笑うだろうか?犬みたいに息を切らしてベッドを移動させてる俺を指さして笑うだろうか?
 鍵屋崎が泣いてる顔なんか想像できない。でも実際に通気口からは嗚咽が流れてくる、低くよわよわしい嗚咽が、完膚なきまでにいたぶられて辱められて体を引き裂かれる激痛に喉がすりへるまで絶叫して心が瀕死の状態で、無残に虚勢を剥ぎ取られて身も心もむきだしに晒された状態で泣いている。
 これまで支えにしていたプライドを折り砕かれて、すがっていた物すべてを取り上げられて。
 床を這うように低く低く流れていた嗚咽の間からかすかに聞こえてきたのは、声。

 妹の名前を呼んでる。
 助けを求めるように、すがるように。
 辛くて苦しくてどうしようもなくて、身も心もばらばらになりそうで。

 ああ……聞きたくない、こんな声聞きたくない。いつでも自信にあふれてひとを見下した態度で傲慢な物言いをする鍵屋崎のこんな声は聞きたくない、こんななさけない、救いのない声は聞きたくない。鍵屋崎だって聞かせたくないだろう、死ぬほどプライドが高いアイツのことだ、俺に泣き声を聴かれるくらいなら死んだほうがマシだと思ってるに決まってる。腕が自由になれば耳をふさいでせめて聞かないでいてやることができるのに今はそれさえもできない、ベッドを移動させるのに手一杯で。
 廊下を近付いてくるのは足音。一直線に俺の房を目指してくる……客だ。やばい、間に合わない。
 「ついてるぜ、おまえ。この房のガキはとびきりイキがいい」
 「知ってるよ、半半だろう。おんなじ棟で顔も知ってる、あいつ目当てに来たんだから」
 「噛み千切られないよう気をつけろよ」
 「おっかねえなあ」
 看守と連れ立って歩きながらガキがおどけたように肩をすくめてる図が目に浮かぶ。はやくはやくはやく……気が狂いそうに焦りながら押す、力任せに押し出す。鈍い震動が手首に伝わり扉を塞ぐかたちで入り口にベッドが衝突、と同時に外側で錠が上がる金属音。
 「!?なんだ、何かつっかかって……クソガキなめた真似をっ!!」
 「なんだなんだ」「どうした」と扉越しに声が交錯、廊下に足音が殺到。逆上した看守が三人がかりでノブを押したり引いたりするのに全力でベッドを押し付けて抵抗、扉に体当たりされる衝撃で舌を噛みそうになりながら必死に耐える。固く固く目を閉じて一刻も早く看守が扉から離れてくれるよう祈る、退散してくれるよう祈る。
 「こんなことしても無駄だぞ、わかってんのか!」
 「素直にヤられちまったほうがラクになるぜー。人間あきらめが肝心だあ」
 扉に激突されるたびに強い震動が突き上げてきて腕が痺れる、もう限界だ―……
 「やめろ!」
 意外にも俺の窮地を救ったのはこの世でいちばん大嫌いな、俺が殺したいほど憎んでる男……タジマだ。騒ぎを聞き付けて廊下に駆け付けたタジマが同僚から事情を聞きだしてふんふん頷いてる気配。扉に阻まれて廊下の光景が見えない俺は漏れ聞こえてくる会話の断片から想像するしかない。
 「どうしますタジマさん、強引に突破しますか。三人がかりならなんとか―……」
 「いや、いい。俺に考えがある、お前らは持ち場に戻れ」
 警棒を振って同僚を蹴散らしたタジマがじっと扉を見つめてる気配。頑丈な扉を隔ててはいても粘着質な視線が肌に注がれているのがわかるようだ、と、看守が無理矢理こじ開けようとした扉の隙間に目玉が覗く。 
 扉の隙間に片目を押し付けたタジマが黄色い歯を剥いて笑ってる。
 「そうか、お前が意地でも貞操守りとおす気なら俺にも考えがある。一生そうやって閉じこもってろ」
 扉の隙間から覗いた目に射竦められる。血走りぎらついた目、11歳の俺を腕づくで犯そうとした客と同じ飢えた光。
 「便器もシャワーもベッドもあるスイートルームだ、居心地はけっして悪かねえはずだ。……が、飯はどうする?デリバリーサービスなんてやってねえぞ、この刑務所は。そうやってとじこもって飢え死ぬつもりか」
 「………る、せえ」
 うるせえよ変態野郎。
 片頬がひきつり、唇が笑みの形に歪む。タジマに中指を突き立て宣戦布告。
 「男にヤられるくらいなら飢えて死んだほうがマシだ」
 タジマの顔に一瞬怒気が迸るが、それはすぐに生ぬるい笑みへと変じた。扉から身を起こしたタジマが靴音も高らかに去ってゆく。
 「じゃあ、そうしろ」
 遠ざかる靴音に安堵。タジマが去ったことで俺をその場に縛り付けていた威圧感が霧散し、床に尻餅をつく。 
 安堵はすぐに絶望へと変わる。タジマが言ったことが今頃になって頭に染みてきて目の前が真っ暗になる。ここに閉じこもって一歩も出ないつもりなら飯はどうする?客を寄せ付けない為の苦肉の策が裏目にでたことに頭を抱える。
 一体どうすりゃいいんだ。
 「レイジ……」 
 いつものように笑い飛ばしてくれ。
 こんなの全然たいしたことねえって、どうにかなるって、お気楽に茶化して笑い飛ばしてくれ。
 胸糞悪いけど、認めたくないけど、お前がいないとダメそうなんだ。もう、今度こそダメみたいなんだ。
 いつのまにか嗚咽は止み、鼓膜に染み渡るような静寂が房に居座った。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060211200801 | 編集

 食堂の二階席からは人間関係がよく見渡せる。
 萎びた野菜屑が累々と散らばった床は粘着質な油汚れでどす黒く染まり、黒ずんだ足跡だらけの床を踏みしめて行き交っているのは空席をもとめてさすらうゾンビもとい囚人の群れ。
 席取り合戦に出遅れたら最後トレイを抱えてあっちへこっちへさすらうしかない流浪の民をよそに優雅に、とはお世辞にも言えない行儀悪さで机に肘をつき胡座をかきフォークでチャンバラし、口から飯粒をとばしてだべってるのは凱の派閥の囚人たち。
 所在なげに行ったり来たりしてる囚人に野次をとばして高見の見物と決めこんでるのはなにも彼らが腕力が物言う席取り合戦に勝利したからじゃない、凱傘下の幹部連中は格下のガキをパシらせて席を取らせている。拳骨怖さに押し合い揉み合い空席を死守するパシリの苦労なんて露知らず、我が物顔で椅子を跨いだ幹部連中が陣取っているのは一階中央部。凱を中心に据えた東棟最大の中国系派閥の外縁、周囲のテーブルに散っているのは凱の傘下に入らず、人種別国別気の合う仲間別に五・六人の小規模群を成した囚人たち。
 だがここにも厳然と序列が存在する。実際刑務所はちょっとした序列社会なのだ、どこでだってそうだけどひとりぼっちの人間には大層肩身が狭くできている。幅を利かせてる連中の目を盗んでテーブルの隅っこに腰掛けようとしたそばから尻を蹴られて追い払われておかずを一品二品、気弱なやつだと全品トレイごと横取りされてしまう。
 ご愁傷サマ。
 さて、東棟の場合は裸の王様・凱を中心に円の外周に行くに従い序列がさがってくわけで、手摺越しに見下ろした食堂一階の光景はそのまんまわかりやすい勢力図になってるんだけど例外はある。凱の傘下に入ることなく、真ん中のテーブルから右に五列ほど隔てた遠くも近くもない微妙な距離に居るのは明るい茶髪が目立つ容姿の男、正面に腰掛けているのは今時珍しく背筋がしゃんとした垢染みた身なりをしていても凛々しい男。
 レイジとサムライだ。
 実力はダントツトップと次点だけど群れるのが好きじゃないサムライとレイジは凱たちから少し離れた場所に席をとる。本来なら向かい合わせに座ってるふたりの隣にもう二名加わるんだけど今日は欠席、正確には一昨日からだけど。
 今日の献立は洋食。
 付け合せに茹でたブロッコリーとアスパラガスの温野菜、妙にぱさぱさと乾いてまずいマッシュポテトに薄味にもほどがあるコンソメスープにパン一切れという栄養状態が著しく偏りそうな内容。どうやらこの刑務所はよっぽど囚人に与える肉を惜しんでるらしくステーキはおろかチキンだってでた試しなし。こんな環境じゃ肉食動物も雑食動物に宗旨替えしなけりゃならない、凱や凱の子分、その他体育会系の囚人はひよわなガキからぶんどったおかずを腕の中に囲いこんでる。
 意地汚さ全開の凱たちをよそに右五列向こうでのんきにあくびなんかしてるのは本家王様レイジ。どうやら食が進まないご様子であくびの合間にやる気なさそうに茹でたブロッコリーをつついてる。フォークの先端でぶすりとブロッコリーを突き刺し、しげしげ眺めてから口に運ぶ。まだ寝ぼけてるのだろうか、瞼が重そうだ。生彩を欠いた顔といい後ろでなげやりにまとめた髪といい惰性でフォークを口に運ぶ動作からも一切の覇気が感じられない。
 今のレイジに相応しい言葉はこれだ。『腑抜け』。
 すっかり腑抜け化したレイジの正面席でサムライは淡々と食事をとっていた。いつもどおり惚れ惚れするほど美しい姿勢、いつもどおり惚れ惚れするほどなめらかな箸さばき、もとい、今日は洋食だからフォークさばき。テーブルに足をのせたり胡座をかいたりはては床に寝転んで取っ組み合ってる連中に爪の垢を煎じて飲ませたい。
 味覚が欠落してるんじゃないかと疑わしくなるほど無表情にブロッコリーを噛んでるサムライの隣にはぽっかりと空席が。待ちぼうけをくらって寂しげな椅子は一瞥もせず、ブロッコリーをよく噛んでいたサムライにレイジが声をかける。
 「なあサムライ」
 「なんだ」
 「本名ミツグってほんと?」
 フォークが止まる。お椀を片手に抱えたサムライがうろんげに眉をひそめる。
 「なぜ知ってる」
 「リョウが吹いてまわってる」
 半眼になったサムライにも怖気づくことなく飄々とレイジがうそぶく。そうさ、発信源はこの僕。「帯刀貢」なんてあんまりまんまな名前だったもんだからツボに嵌まって来る客来る客に吹き込んだせいで二ヶ月経った今じゃだいぶ噂が広まってるらしい、王様の耳にも届くぐらいだし。
 「本当だ」
 何事もなかったように食事再開。無表情にパンをむしってるサムライの正面、怠惰に頬杖しながらレイジが言う。
 「なあサムライ」
 「なんだ」
 「みっちゃんて呼んでいい?」
 口の中の物を吹き出しそうになった。
 「わっ、きったないなリョウさん!」
 というか、吹き出した。
 トレイを抱えて仰け反るビバリーに「ごめんごめん」と片手を挙げて適当に謝罪、ごほごほと咳き込こんで笑いの発作がしずまるのを待っていたらサムライがぴくりと手を止める。
 「レイジ」
 「なに」
 「斬るぞ」
 「冗談だよ」
 サムライの目は本気だった。おどけたように両手を挙げて降参したレイジがテーブルに片足投げ出し行儀悪く椅子に反り返る。頭の後ろで手を組み、あくびを噛み殺した表情で虚空を仰ぎぽつりと一言。
 「張り合いねーの」
 そりゃ張り合いないだろう、寡黙なサムライ相手の口喧嘩は。早くも話の種が尽きて居心地悪い沈黙が落ちたテーブル。なにげなくサムライの隣に目をやったレイジが今初めて空席に気付いた、という自然体の演技をよそおって尋ねる。
 「キーストアは?姿見えないけど」
 「食欲がないそうだ」
 椅子を揺らしながらたずねたレイジに口の中のパンを飲み下して簡潔に答える。その先を目で乞われ、仕方なく口を開く。
 「……歩くのが辛いらしい」
 「だろうな」
 納得したように頷きレイジがため息をつく。そんなふたりのやりとりを文字通り高見の見物、手摺越しの特等席から見下ろしながらフォークの先端でブロッコリーをつついて転がす。
 「これきらいなんだよなあ、苦いし。ビバリー食べてよ」
 「好き嫌いはいけませんよリョウさん。おおきくなれません」
 「僕のママ気取らないでよ、なんかすごくむかつく」
 「ハイハイ。ママでも似非ママでもいいっスから好き嫌いせずちゃあんと食べましょうね、脱140cm台目指して」
 小さい子をあやすような甘ったるい口調で馬鹿にされて腹が立つ。ブロッコリーをつついていたフォークを反転、ビバリーの鼻先につきつける。
 「僕の背がのびないのは好き嫌いしてるからじゃないよ、ヤク中だからだよ」
 「いばれることじゃないっス」
 言えてる。不毛すぎる会話がむなしくなってひとりさびしくブロッコリーをつつく。ふてくされた態度で頬杖つき、フォークの先端でブロッコリーに孔を開けながらちらりと階下に目をやればレイジはすっかり退屈した様子で椅子を揺らしていた。レイジの隣にはぽっかり空席ができてる、いつもならロンが座ってるはずの席。後頭部で手を組んだレイジは意識して注意をむけないようにしてるが心に逆らって無視しようと意識してる時点で無理が生じてる、ロンの不在には極力ふれずに当り障りない会話を試みようと懲りずにサムライに話しかけてはとりつくしまもなくつれなくされて少し拗ねてるらしい。
 「張り合いないなあ」
 「どうしたんスかリョウさん」
 僕にもレイジの鬱が伝染ってしまったようだ。洒落じゃなくて。ブロッコリーをいじくりまわすのにも飽きてフォークを投げ出し、退屈を極めたレイジを真似て後頭部で手を組む。
 「メガネくんとロン。アイツらいないと面白くない、からかえる奴いないんだもん。レイジもサムライも冴えない顔してるし雰囲気湿っぽくなって仕方ないよ。梅雨でもないのに黴生えちゃいそう」 
 「んな無茶苦茶な。いじめっ子の理屈ッスよ」
 あきれ顔で異を唱えたビバリーにヒヨコのように口をすぼめて反論する。
 「いじめっ子で結構。いじめられっ子がいてこそのいじめっ子ってね」
 ブラックワーク二班、通称売春班の営業開始から今日で三日。半年前の一件でタジマの怒りを買った鍵屋崎とロンが売春班にまわされたってのは噂で聞いたけど本人に会って直接確かめる機会がない。実際この目でたしかめてみれば早いんだけど中央棟地下一階、売春通りに足を運ぶのはちょっと気が引ける。売春通りといえば悪名高き東京プリズンでも忌避される地獄の最深部、個人の意志とか性的嗜好とか全く無視して売春班に送り込まれた囚人が一昼夜軟禁されてる区域で強制労働終了後は手っ取り早く性欲処理しに来た囚人でごったがえし囚人が強制労働に出払ってる時間帯は看守がいそいそやってくることで有名だ。僕も趣味と実益を兼ねて売春してるけどあくまで非公式の非公認、客以外の看守にばれたらこっぴどくとっちめられる。対して売春班は公認も公認、足繁く通ってる客の中には看守も含まれるんだから誰も文句なんか言えない。ずるいね。
 早い話、売春班は商売敵。商売敵の本拠地にのこのこ足を運ぶのは娼夫のプライドが許さない、なんてね。じゃあ直接房に行けよと思ってるひともいるだろうけどサムライが爪楊枝くわえた用心棒よろしく目を光らせてるんじゃ無理、絶対無理。
 「メガネくん最近見てないけど食事はどうしてるんだろね」
 「サムライさんが運んであげてるみたいっスよ」
 「へえ、デリバリーサービスだ。やさしいねサムライは」
 「食事どうしてるのか気になるのはロンさんっスよ、今日で篭城三日目でしょう。そろそろ限界なんじゃ」
 「水がありゃ人間一週間は生きてけるよ。水道は生きてるんでしょ」
 心配そうに顔を曇らせたビバリーを鼻で笑う。売春班に配属されたロンがタジマに喧嘩売って立てこもってから今日で三日目、内心よく保つもんだと感心してるけど顔には出さない。マッシュポテトをもぐもぐ食べながら階下を覗きこんだビバリーが首を振る。
 「レイジさんも冷たいっすね、同房の相方が三日間ハンストしてるのに一度も見舞いに行かないなんて」 
 「そう思う?」
 「思いますよ、今だってあんなのほほんとしたツラして全然心配なんかしてないじゃないスか」 
 イタズラっぽく問いかけてビバリーの視線を追う。なるほど、たしかにビバリーが言う通りレイジは能天気なツラをしてる。少なくとも表面的には。でも僕は気付いてた、ここ最近レイジが元気ないことに。顔の表面には殆ど皮膚と同化した笑みを浮かべていてもちっとも生気が感じられないのだ、ロンが隣にいたときは太陽みたいな快活さを振りまいてたのに。
 「つまんないの」
 フォークをくわえ声に出してもう一度。沈んでるレイジなんかレイジらしくない、ちっとも王様らしくない。ちょっと見いつも通り気丈に振る舞ってるサムライも全然らしくない、むしりとったパンを口に運びながらも房に残してきた鍵屋崎の様子が気になるらしくどこか痛ましげに隣の空席を見下ろしてる。
 やだやだ、こういう湿っぽい雰囲気大嫌いだ。
 「で、どうだった売春班新メンバーのケツの具合は。全員とヤッてきたんだろう」
 うんざり気味にフォークを舐めていたら突拍子もない奇声があがる。なんだなんだとビバリーと顔を見合わせて手摺から身を乗り出せば音源は中央やや左寄りのテーブル。椅子に股おっぴろげて腰掛けた囚人が七・八人、興奮に鼻息荒くしてツラ突き合わせてる。中のひとり、くちゃくちゃ下品にパンを咀嚼していた茶髪の囚人が野卑に笑う。
 「三日で全員と?時間たりねえよ」
 「でもまあ、半分くらいはヤッてきたんだろう」
 「連日行列待ちでまだ三人しかヤれてねえ」
 「どうだった感想は」
 「今後の参考に聞かせてくれ」
 「聞き取り調査しとけばハズレ引かずにすむしな」
 この時期恒例、メンバー総入れ替え後の売春班の実状に皆興味津々らしい。いくら東京プリズンの囚人が飢えてるといっても手当たり構わず腕力で劣るやつを襲ってるわけじゃない、もちろんそういう見境ないやつもいるけど囚人にも最低限好みはある。ロングヘアが好きな奴がいればショートヘアが好きな奴もいるしロリ入った貧乳童顔が好きな奴もいればスタイル抜群のクール系美人が好きな奴もいる。女の好みが千差万別なら男の好みだって容姿から好きな体位に至るまで細分化されてる、見わたすかぎり男っきゃいない特異な環境でハズレくじを引かないための情報交換には余念がない。
 「ま、どうせ俺らに回ってくるのは看守の食い残しだあ。昼間は看守にヤられて夜は囚人にヤられておちおち眠ってる暇もねえな、売春班は」
 「いいんだよ、それが仕事だから」
 「そうそう、ヤられてたのしんでんだから」
 そう主張した囚人の声が食堂上空に響き渡る、と同時にサムライの肩が強張る。テーブルに片足を投げ出して椅子を揺らしていたレイジの目が酷薄に細まる。
 「看守にゃ変態が多いから大変だ。知ってるか、古池って。ガキに女装させるのが趣味の変態でさ、ちょっとかわいいツラした売春夫にわざわざ外からカツラとセーラー服持ちこんで女装させていざ突っこもうとした時に何が目に入ったと思う?」
 「なに?」
 「脛毛だよ。剃り残しの脛毛が目に入って興醒めしてぶん殴っちまったらしい」
 「「ひっさーん!」」
 全然悲惨とは思ってない口調でげらげらと笑う。涙を流して笑い転げていた囚人のひとりがぴんと人さし指を立てる。
 「そういやさ、あいつ知ってる?メガネの」
 「ああ、メガネの……面白い名前のやつ、かぎなんとかって」
 「かぎナントカ」にサムライが反応、反射的に顔を上げる。目が合った者ひとり残らず石にするような、射竦めるような眼光でサムライが振り返ったのにも気付かず話は盛り上がる一方。最初にメガネと口にした囚人が下世話な好奇心むきだしでぐるりを見回す。
 「だれかアイツで試した奴いる?ツラは品よさげでそそられるけど自分の親ぐさってヤっちまうようなキレたガキ相手にすんの怖くて」
 「ヤったぜ」
 悪びれたふうもなく挙手した囚人には見覚えがある。たしかイエローワークで鍵屋崎と同じ班だったやつだ、一緒のバスに乗り込んだことがあるから自信もって断言できる。そいつが口にした一言でサムライの背中が強張り不穏な気配が周囲に漂いだす。
 「なにを隠そう一番乗りだ。美味しくいただいてきた」
 「くわしく」
 鍵屋崎の処女を奪ったと暴露したガキに満座の視線が集中、通路を挟んだ近隣テーブルからも好奇のまなざしが注がれる。固唾を呑んで聞き耳たてた連中をにやにやにたつきながら見回し、一躍脚光を浴びたガキが調子に乗って腕を組む。
 「前から気に入らなかったんだよな、あいつ。イエローワークで同じ班になってからずっと。メガネなんかかけてえらそうにすかしやがって、お前らとは住んでる次元がちがうんだぜって感じでむかつくったらありゃしねえ」
 深い共感をこめて頷く仲間たち、「そうだそうだ」「そのとおりだ」と矢継ぎ早にあがる賛同の声に満足し、満座の注目を浴びた優越感に酔いしれながらガキが続ける。舌なめずりしそうな表情で。
 「あいつがタジマに目えつけられて売春班にまわされたって聞いて『やった!』と思ったね。シャベルでぶん殴っても足ひっかけてもすずしいツラしてたけど男に犯されちゃあさすがにこたえるだろ?しかも相手は俺、ワラジムシかアメーバ程度にしか思ってなかった下賎な低脳の俺様と来た!まあ、俺がアイツだったら二度と立ち上がれねえショックだな。うん」
 「前置き長えんだよ、さっさと次いけよ」
 焦れたように催促されて一瞬鼻白んだガキだけどすぐに表情を改め目を炯炯と輝かせはじめる。テーブルに両手を突いて身を乗り出したガキにつられて額を突き合わせた囚人の輪を近隣テーブルの野次馬が精一杯首をのばして覗きこんでいる。
 「アイツびびってたぜえ。壁を背中にしてこう、じりじりあとじさってな。あん時のツラときたら傑作だった。俺もタマ重くて限界だったんで洗面台に追い詰めて手っ取り早く服剥いだよ。たぶんタジマあたりにやられたんだろうな、色白の肌に青い痣が映えて妙に色っぽくて……興奮したよ」
 おそらくは上着をはだけられて色白の素肌をさらした鍵屋崎を想像したんだろう、ひどく劣情を刺激されたらしい紅潮した面持ちをぐるりに並べたダチの反応を手にとるように楽しみながらくぐもった声でガキが笑う。嘲弄の響きをおびた陰湿な笑い声が低く低く流れ食堂のあちこちであぶくのような笑い声が派生する。ただ一人サムライだけが周囲と断絶された温度差と溝を保っていた、ふかく顔を伏せているためその表情は窺い知ることができないけどフォークを握り締めた手は固く固く強張っている。
 「体毛薄くてキレイな背中だった。洗面台に手えつかせて立たせて突っ込んだんだけどうっすらと汗浮かべた肌が赤く上気して……」
 「処女で立ちっぱなしはきっついな」
 痛そうに顔をしかめたダチを冷然と一瞥し、嘲笑に頬を歪めたガキが主張する。
 「最初は痛いほうがいいんだよ、回数重ねる毎によくなってくるからな。いいか?最初は思い知らせてやったほうがいいんだ、二度と逆らう気なんか起こさないように。メガネも最初こそ意地張ってたけど途中でザセツ、洗面台にしがみついて泣いてたぜ。痛すぎて泣いてたんだか良すぎて泣いてたんだかわかんねーけどな、俺にヤられながら息も絶え絶えに女の名前読んでたよ。めぐみーめぐみーってな」
 「それ妹だよ」
 「マジ?」
 「親殺しがやばいくらい妹溺愛してるの有名な話じゃんか」
 「ヤられながら妹の名前呼ぶとはなっさけねえ。すかしたツラしたメガネも意外と根性なしだな」
 喧喧轟々てんでかってなことを言い合ってた囚人の一人が何事か思い付き、もったいぶって顎をなでながら身勝手な憶測を述べる。
 「あやしいな。メガネがぐさっと両親殺っちまったのって妹との近親相姦バレたからじゃね?」
 「そりゃあ傑作だ!!」
 手を叩き唾をとばして爆笑する囚人の集団の遥か背後でサムライがおもむろに席を立つ。天板を平手で叩いて立ち上がったサムライの背中からは瘴気じみた気炎が噴き上っている。陽炎を身にまとったサムライをちらりと見上げ、それまで白けきった目で何列か隔てた集団を眺めていたレイジがゆったりと言う。
 「サムライ」
 「止めるな」
 叩き付けるように返したサムライへと後頭部の手を解いて身を乗り出す。
 本来人間よりは肉食獣に備わってる方が相応しい発達した犬歯を剥き、硬質なガラスめいた薄茶の目に先鋭化した殺気を迸らせた凶暴な笑顔。今まさに獲物の喉笛を噛みちぎらんとする飼いならすことなど到底不可能な野生の豹の獰猛さ、その片鱗をちらりと覗かせて。
 「殺って来い」 
 驚いたように目を見張ったサムライの顔が次の瞬間厳しく引き締まり、レイジの意を汲んで重厚に頷く。
 「言われずとも心得ている」
 そうしてサムライは歩き出す。大袈裟な身振り手振りを交え、微に入り細を穿ち当時の状況を克明に物語るガキのもとへと。
 ……ご愁傷サマ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060210201011 | 編集

 「おれは半半がいいな」
 空気が読めないバカはどこにでもいる。
 その筆頭がちょうどサムライが歩み寄ってく先、鍵屋崎が犯される場面を演出過剰気味なひとり芝居で再現してたガキの斜向かい、しまりない口元にニヤニヤ笑いを浮かべた見るからに頭悪げなガキ。
 「半半……ロンか。あいつも売春班だっけ」
 「そうそう。前から目えつけてたんだよ、いつか物陰にひっぱりこんでヤッちまおうって思ってたんだけど売春班にまわされたんなら話ははええ、堂々と大手振って犯しにいける」
 『ロン』の名前を聞いた途端レイジに変化が起きる。それまで腑抜けたように背もたれに上体を預けて椅子を揺すっていたのに俄かに眼光鋭くなり生彩を蘇らせる。一瞬で眠気が吹き飛んで素面に戻ったレイジがゆっくりと首を巡らしテーブルのむこうでワイワイ騒いでる連中を凝視。群れるしか能のない獲物に狙い定めた肉食獣の凝視にも気付かない幸せな連中はああでもないこうでもないと活発に論議する。
 「ああいう生意気なツラしたガキ見ると躾けたくなるんだよな、無性に」
 「いいね、しつけ甲斐ありそうな雑種の野良猫だ。いい声で鳴いてくれる」
 弛緩しきった笑みを浮かべた連中の輪に首をつっこんできたのは見覚えある囚人。だれだっけとビバリーと顔を見合わせて視線を戻した途端に思い出した、この前ロンにわざとぶつかってトレイを落とさせた凱の子分。 
 「真っ先に買いに行ったぜ、俺」
 「閉めだされて門前払い喰らったんだろう?ご愁傷さまだなオイ」
 「なあに、もうちょっとの辛包さ」
 ロンの抵抗なんか歯牙にもかけてない余裕ありげな素振りもまんざら演技じゃないらしい、ひょいと肩をすくめた囚人の顔には悠然と勝ち誇った色がある。
 「三日間飯も食わずにひきこもってるんだ、明日かあさってにゃ音を上げるさ。そしたらこっちのもんだ、たっぷり躾けて仕込んでやるよ」
 「おいおいなに仕込む気だよ」
 「ナニ仕込む気だろう」
 下劣な揚げ足取りに爆笑する集団の輪の遥か外、サムライが去ったテーブルにぽつんと残されたレイジは口元にうっすらと笑みを浮かべていた。いや、正確には口元だけに。精巧なガラスを模した薄茶の目は今や完全な無表情、低温の微笑を湛えた口元からは鋭い犬歯が覗いている。背もたれからゆっくりと背を起こし、寝起きの豹を彷彿とさせる気だるい動作でテーブルから足をおろす。レイジの手の中で銀弧が閃き、右手に掴んだフォークの柄がトントンと机を叩き始める。
 フォークの柄をテーブルに打ち付け、単調に拍子をとりはじめたレイジをよそに中央左よりテーブルの盛り上がりはさらに過熱する。「ロンに仕込んでやる」とうそぶいたガキが両手をひらひらさせながら続ける。
 「あいつのせいで凱さんに殴られたんだ、四つん這いで跪かせて奉仕でもさせなきゃ気がすまねえ。知ってるか?あいつのお袋淫売なんだぜ。男とみりゃ手当たり構わずひっぱりこんでガキの前でもあんあん喘ぎ声あげて絡まってたらしい、淫売のガキは淫売ってむかしから決まってんだよ。むずかしく言やあ劣性遺伝の法則だな。ガキのころからお袋のよがる姿見てきたんだ、ナニをどうすりゃいいか頭じゃわかんなくても体にすりこまれてるだろうさ」
 「外の女にゃ引かれる変態プレイでも売春班相手なら試せるし」
 「ちょうどいい、半半ヤるときゃ俺たちも呼んでくれよ。上の口にも下の口にも突っこみゃ得意のへらず口たたけねえだろ」
 トントン、トトトン。それまで一定のリズムを保っていた音頭が崩れ、速まり、乱れる。左手で頬杖ついて首を傾げたレイジは相変わらず口元に微笑をそえていたが眼光は炯炯と強まるばかり、今にもはじけそうな一触即発のきな臭い雰囲気が漂う。フォークの柄でテーブルの天板を抉っていたレイジの目にちりちりと燻り始めたのは殺意、スランプに陥ったピアニストの如く破滅的に苛立たしげに右五指を波打たせてスタッカートを打つ、トトン、トトトトトトン。
 鍵盤に見立てた天板を叩きながら中央やや左よりのテーブルを見つめる。見つめ続ける。無表情よりなおタチの悪い愉快犯の笑顔で本音を包み隠し、火花散る静電気の殺気で全身を鎧い、ひっそりと息を詰め。
 「やばい」
 頬がひきつる。ぎゅっと手摺をにぎりしめた僕の異変に気付き、ビバリーが首を傾げる。
 「どうしたんスか」
 「レイジだよ」
 アイツら鈍感すぎる。レイジは音と視線で警告を発してるのに、これ以上ロンを悪く言ったらお前らただじゃすまないぞとこれ以上なくわかりやすく脅し付けているのにてんで気付かずに良識人なら眉をひそめずにはいられない下ネタを交わしてる。中央左寄りテーブルに寄り集まって自己顕示欲丸出しで自分の下で泣き叫ぶ鍵屋崎の姿態を吹聴したりロンを想像の中で犯しまくってる連中は馬鹿だ、そろいもそろって命知らずの馬鹿ばかりだ。話に夢中になりすぎて周囲がまるで見えてない、「不感症だって噂だけど耳噛まれて感じてたぜアイツ。案外敏感なんじゃねえか」とけたけた笑ってるガキの3メートル背後に水面を歩くような足捌きでサムライが近付いてるのに、「今度陣中見舞いに行ってやろうぜ、膝抱えてひきこもってる半半とこに」と提案したガキをレイジが苛烈に睨んでるのに。
 「昨日は俺ひとりで行ってやったんだ。頑固な半半がドアふさいで閉じこもってる開かずの房の前でさんざん暴れてやった、何度も何度もドア蹴り上げて声張り上げて。いい加減出て来いよ、固くて黒くてでっけえプレゼント持ってきたんだからよ。遅かれ早かれどうせヤられちまうんだからカンネンしろよ、淫売のガキなら素直に股開いて男受け入れやがれ、そうやって食わせてもらってたんだからわかるだろ」
 どんどん扉を殴る真似をしながら勢い余って席を蹴ったガキが叫ぶ。精神的に追い詰められたロンに情け容赦なく追い討ちをかけ、恐怖と屈辱に歪む顔を扉越しに想像して暗い愉悦にひたるというあんまり感心できない傾向を増長させて。
 レイジが頬杖を崩し、上体を起こす。音の間隔が長くなり、やがて完全に途絶える。フォークを静止させたレイジは微動だにせずロンを侮辱する口の動きを見つめている、顔筋の収縮に連動して顎の間接が開き赤い口腔に歯が覗くコマ落としのように緩慢な一連の動作を。 
 「それでもまだだんまり決め込んでるもんだから言ってやったんだ」
 「なんて」
 「俺ならレイジより楽しませてやれるって、」
 
 フォークが宙に舞った。

 一瞬の早業。
 レイジの腕が鞭のように撓った次の瞬間、残像だけ残して振りかぶられた腕から弧を描いて跳ね上がったフォークが銀光を放ってテーブルの天板を穿つ。パッと木片が散り塗料が剥げてテーブルに突き刺さったフォークをレイジが腕力に物言わせて引き抜くのとサムライが行動を起こしたのは同時だった。
 「!?ぎゃっ、」 
 情けない悲鳴をあげて後ろ向きに転倒したのは鍵屋崎をヤッたと自慢してたガキ、サムライに椅子を蹴り飛ばされて椅子から倒れて床面で背中を強打、圧迫された両肺から空気の塊が押し出されて苦しげに咽かえったガキが正面に仁王立ちしたサムライに「なにすんだよクソヤロウ!」と猛然と突っかかってゆく。風切る唸りを上げて顔面を襲った拳を右手の甲で軽くいなし後退、体勢を崩したガキが前のめりにたたらを踏むのを待ち構えていたかの如く間合いに踏み込む。
 「みっちゃん!」
 振り向きもせず利き手を横薙ぎしたサムライの五指が掴んだのはレイジが投擲したフォーク。肉眼ではとらえられない早業でフォークを逆手に持ち構えたサムライが電光石火の乱舞で柄の部分を突き出す。 
 潰れた喉から濁った苦鳴が迸った。
 手摺にしがみついて身を乗り出した僕はビバリ―と顔を並べてばっちり目撃した、サムライが鋭い呼気を吐いて突き出したフォークの柄がガキの喉仏を穿つ瞬間を。激痛に苛まれ、喉をかきむしってもんどり打って倒れたガキをひややかに見下ろしたサムライが手首を鋭く撓らせレイジにフォークを投げ返す。その時には既にレイジの姿は消失していた、いや、消失したんじゃない。瞬間移動と見紛う速さで中央やや左寄りのテーブルに出現していたのだ。椅子から転げ落ちたと見せかけて横転、驚嘆すべき跳躍力でテーブルに飛び上がったレイジがトレイをひっくりかえしアルミ皿を蹴散らし一直線に疾駆、嵐のようにアルミ皿が舞う中を息も乱さず全力疾走しながら手をかざして発矢とフォークを掴む。
 完璧に呼吸の合った連携プレイに見惚れる間もなく襟首を掴まれ片腕一本ラクラクと宙に吊るし上げられたのは「レイジより楽しませてやる」と身の程知らずにほざいた馬鹿なガキ。
 そして、食堂に居合わせた囚人全員が口を半開きにした眼前でガキの体が浮いた。
 いや、正確にはぶん投げられたのだ。無重力状態で宙に舞った体がテーブルに叩き付けられる、騒々しい金属音を奏でて床に散らばるのはアルミ皿とトレイ。力任せに襟首締め上げられて窒息寸前、軽微な脳震盪を起こしたガキを手馴れた様子で組み伏せ。
 耳朶を食いちぎるように囁く。
 『Please say once again?』
 絶叫。
 何が起こったのか瞬時にわからなかった、レイジが片腕を振り上げて振り下ろした次の瞬間には両手で目を覆ったガキが四肢をばたつかせて悶絶してたのだ。顔面を覆ったガキが金切り声の悲鳴を撒き散らしながらあっちへこっちへゴロゴロ転げ回ったせいで滝のように雪崩落ちたアルミ皿が不規則に床を乱打して無秩序な狂騒曲を奏でる、服の裏表に残飯を付着させたガキが背骨を丸めて海老反りに仰け反り、手足をめちゃくちゃに振り乱して椀をひっくりかえして頭からコンソメスープをかぶり頭皮を火傷する。恐慌状態に陥って絶叫し続けるガキを我に返ったダチが助け起こした時には既に第二撃が繰り出されていた。フォークを構えたレイジが片ひざついて姿勢を低めて椅子に腰掛けたガキの鼻筋を跨いで薙ぐ、フォークの先端に皮膚をくしけずられたガキが赤く剥けた顔を押さえて床に転倒、返す刀でフォークを振るったレイジが今まさに椅子を蹴って逃げようとしたガキの背後に接近、後ろ首を引き倒す。
 後頭部を天板にぶつけて膝から下が崩れ落ちるように屑折れたのは「ロンをヤるときは俺たちも呼んでくれ」と誘いを持ちかけたガキだった。テーブルにもたれるように膝を屈したガキ、テーブルの縁にひっかかった左腕を蹴り上げ靴底で踏みしめ……
 「ぎゃあああああああああああああああああっ!!!」
 耳を塞ぎたくなるような絶叫が食堂にこだました。
 フォークが左手の甲を貫き一気に天板に縫い止める。惨劇を演出した張本人はテーブルの上に仁王立ちしたまま、血塗られたフォークを片手にさげて激痛にのたうち回るガキどもを見下ろしていた。息一つ乱すことなくかすり傷一つ負うことなく計三人のガキを屠ったレイジに食堂中の視線が集まる。
 「……ひさしぶりにちょーーーっとキレたぜ?」
 語尾に疑問符を付け、皮肉げに片頬笑む。床に横たわって苦悶にうめくガキには速攻で興味が失せたらしくレイジがテーブルの上を歩き出す。毛足の長い絨毯の上を歩いてるかのような優雅な大股で周囲に威圧感をふりまきながら高らかに声を張り上げる。
 「いくら庶民に寛容な王様で売ってるからってお前ら調子乗りすぎだ、王様にも我慢の限界ってもんがあるんだぜ。何々、俺の方がロンを楽しませてやれる?上の口でも下の口でもたのしんでやる?はは、面白いなあ。面白すぎるぜ愚民ども」
 アルミ皿を蹴散らし蹴落としトレイを無頓着にひっくりかえし進路を阻む障害物は人でも物でも傍若無人に薙ぎ倒すその様は王様というより狂気におかされた暴君。怒り荒ぶる大股で突き進み、一身に視線と脚光を浴びて立ち止まる。テーブル中央に仁王立ちしたレイジが大きく深呼吸、静寂の波紋が食堂の隅々まで行き渡るのを待つ。
 睫毛が揺れ、瞼が開く。
 冷徹に研ぎ澄まされた眼光で満場を睥睨し。
 「ロンに手を出していいのは俺だけだ。他は認めない、全力で殺す」
 頑是無い子供に噛み砕いて諭すような口調から一転、食堂全体に響く声でレイジが宣言する。自らの影響力を推し量るように左右に顔を傾げてから正面に固定、手首を軽く撓らせてフォークを投げ上げる。天井スレスレの弧を描いてテーブルに突き立ったナイフの柄を踏み込んで跳ね上げ今度は左手でキャッチ。曲芸師さながら器用な芸当を披露してみせた後に白い歯を覗かせて笑う。
 いや、笑っているのだろうか、これは。
 笑顔にしては獰猛すぎる、理性よりは本能が勝った表情。
 枷から解き放たれた獣のように生き生きとした顔。
 「東棟の王が勅命を下す。『汝、姦淫するなかれ』」
 左手のフォークを投擲。俊敏な放物線を描いたフォークがどんどん近付いてきて目の前にー……
 「「うわっ!?」」
 眼前に迫ったフォークが手摺を飛び越えて僕らが座ってたテーブルに刺さる。ビバリーと抱き合ってへたりこんだ僕はハッと我に返って手摺から身を乗り出す。
 「なに考えてんのさレイジ、殺す気かよ!?」
 「わりい、手元が狂った。利き手じゃねーとダメだな、やっぱ」
 とんでもない暴挙にこぶしを振り回して抗議した僕をへらへら笑いながらあしらうレイジに反省の色はない。ひょいとテーブルから飛び下りたレイジに周囲の囚人がびくつく、両手をポケットにひっかけたリラックスした姿勢でサムライに歩み寄ったレイジが肩を竦める。
 「頭に来てたから上手く加減できなかった。失明してねえといいんだけど」
 言葉とは裏腹に全然心配してない口調であっけらかんとうそぶいたレイジにサムライが至極真面目に告げる。
 「慣れないことはするものじゃない」
 あきれたようにサムライが見下ろした床には片方の瞼を青黒く腫らせたガキがうずくまっていた。それで謎が解けた、レイジがどうやってひとり目のガキを倒したか。襟首を掴んでテーブルに叩き付けたその瞬間逆手に持ったフォークの柄で瞼を衝いたのだ。青黒く鬱血した瞼を押さえて呻き声をあげるガキ、アルミ皿と残飯が散らばった目も覆わんばかりの惨状を見わたしたレイジとサムライが少々暴れすぎたかなと首を傾げ、
 「何の騒ぎだ!!?」
 その瞬間だ。
 トレイが横転しアルミ皿がひっくり返り床一面に残飯がぶちまかれた惨状に遅ればせながら駆け付けた看守があ然とする。一体全体何が起きたのか、なんだって計四人のガキが芋虫のように床でうごめいてるのかと鋭い視線を四方に馳せた看守に我関せずと知らんぷりを決めこむ囚人。ふたり向かい合って惨状のど真ん中に立ち尽くしてたレイジとサムライだけがまっすぐに看守を見る。しなやかな歩調で看守に歩み寄ったレイジが笑顔が魅力的な詐欺師のように肩をすくめ看守の懐柔にかかる。
 「すいませんお騒がせして。今俺の足もとに寝転んでうんうんうめいてるガキどもが飯の取り合いから潰しあいの大喧嘩になって……だよな、みんな?」
 看守と対峙したレイジが同意を求めるように周囲に視線を流す。声を荒げて脅迫したわけでも容赦ない暴力をふるったわけでもないのにその瞬間に起きた変化は劇的だった。レイジと目が合った囚人が全員、ひとり残らず頷く。少々ぎこちなさが残る動作で顎を上下させた奴もいれば残像が残る速さで顎を縦に振った奴、ふてくされたように顎を引いた奴もいる。反応は千差万別でもそれに伴う動作は一様におなじ。レイジと目が合った全員が催眠術にかけられたように連鎖反応、寄せては返す波のように視線が巡るにつれ端から端へと首肯が連なる。
 芝居けたっぷりに両手を広げたレイジが「ご覧の通り」と首を傾げてみせる。腑に落ちないがこれ以上粘っても聞きだせることは何もないと判断したのか忌々しげに舌打ちして退散した看守を見送り、レイジが振り向く。
 もう誰もレイジと目を合わせなかった。
 「……レイジとロンを切り離したのはまずかったね、タジマさん」
 すごすごと席に戻りながら呟く。僕の目の前、テーブルのど真ん中に刺さってるのはレイジが投げたフォーク。最低20メートルは離れた距離から腕の一振りでフォークを投擲してど真ん中に刺したんだ、まったくイカレてる。もしこれがナイフだったらと考えるとぞっとする。レイジは「手元が狂った」なんてそれらしい嘘ついてたけど冗談じゃない、レイジは最初から僕が腰掛けたテーブルのど真ん中に狙いを付けてフォークを投げたと断言できる。
 なにせ、『汝、姦淫するなかれ』の警告を一番無視しそうなの僕だし。
 「……なんかレイジさん怖いっス。ぴりぴりしてます」
 「鈍いね、今頃気付いたの?ロンがいなくなってからずっとああだよ」
 そう、ロンはレイジの抑止力だった。ロンがいなくなってからのレイジは不安定だ、顔の皮膚と同化した笑みに変化はなくても一挙手一投足がぴりぴり殺気立ってる。天板に刺さったフォークを引き抜き、頭上にかざしてためつすがめつする。
 「東棟の王様から暴君に改名しなきゃ。ロンに手を出したら相手が囚人だろうが看守だろうがなにしでかすかわかんないよ、今のレイジ」
 寒気がした。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060209201139 | 編集

 微熱をおびたように体が気だるい。
 下半身には澱のように倦怠感が沈殿してる。指一本動かすのも億劫だ。全身の間接が軋み、寝返りを打って姿勢を入れ替えるのも骨が折れる。起き上がらなければ、と脳が運動神経に指令を発してるのに体がちっとも言うことをきかない。
 余力を振り絞って瞼を持ち上げる。
 配管むきだしの見慣れた天井が裸電球を消した闇に沈んでいる。どうやらおきているらしい。意識は辛うじて覚醒してるが頭の芯に靄がかかってるように現実感が希薄だ。シーツに手をつき、体を起こそうとした途端下肢に激痛が走る。痛い。身を二つに折って耐えて激痛の波をやり過ごせば少しラクになる。額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭いみっともなく乱れた呼吸を整える。起きなければ、起きていなければ。休憩時間はもうすぐ終わりだ、早く行かなければ。ブラックワーク二班の業務は強制労働終了後が本番だ、これからますます忙しくなる。早く仕事場に戻って待機してなければ。次の客が来るまでにシャワーを浴びておきたい。
 『次の客』?
 泡がはじけるような自然さで意識の水面に浮かんできた言葉に自嘲の笑みをおさえきれない。次の客、か。まだ三日、たった三日だというのに僕はずいぶん売春班に馴染んでしまったじゃないか。
 最初の日は立てなかった。
 それでもなんとか粉々になったプライドをかき集めて壁にすがって足を運んだ、一歩一歩慎重に鈍重に。一歩足を踏み出すごとに全身に耐え難い激痛が走って目が眩んだ、いっそ気を失えたらどんなにラクだろうと途中何度も意識を手放しかけた。赤ん坊のように危なっかしい足取りでそれでも一歩一歩足を運んだ、何度も蹴躓きそうになりながら体勢を立て直し歯を食いしばり。
 でも、限界は訪れた。
 中央棟から東棟に帰る渡り廊下の入り口でとうとう膝をついた。もう一歩も歩けない状態だった。壁に手を突いてうずくまっていたら背後から声をかけられた。振り返れば若い看守がいた、見るからに人がよさそうな顔をした看守は僕が頼んでもないのにお節介を焼いて肩を貸してくれた。途中「大丈夫かい」と不器用に気遣いながら僕をひきずって房へと連れ帰ってくれた親切な看守の名前は聞き忘れた、それどころじゃなかったからだ。それから倒れこむようにベッドに崩れ落ちて昏々と眠り続けた。
 すぐに明日が来た。目覚めたことを後悔する一日が繰り返された。
 詳細は語りたくない。なにも言いたくない。記憶喪失になれたらどんなにいいだろう、ここ三日間の記憶が欠落してたらどんなに心も体も軽くなって救われるだろう。悪夢のような現実を生きてるのか現実のように生々しい悪夢を見てるのか僕自身区別がつかない。もしこれが夢だとしたらいつ終わるんだろう、目覚めるんだろう。そうだ、僕はきっと風邪をひいて40.2度位の高熱に浮かされてるんだ、だからこんな荒唐無稽な悪夢を見てるんだ。だからこんなに体が熱いんだ、悪寒が走るんだ、間接が軋むんだ。きっと次に瞼を開けたら頭上から惠が覗きこんでるはずだ、「おにいちゃんだいじょうぶ」と心配そうに声をかけてくれるはずだ。惠は優しい子だから僕が悪夢にうなされてる間中ずっと手を握り締めて励ましてくれてたに決まってる、次に瞼を開ければ惠は笑ってくれる、安心したように笑ってくれる。
 惠が笑ってくれるだけで僕は救われる。
 これは悪い夢だ、悪い夢だ。夢はいつか覚めるんだ、続くわけがないんだ。夢にしてはやけに生々しい身体感覚を伴ってるけど……そういうこともある。さあ目を開けるんだ、目を開ければ夢は終わる、僕は自室のベッドで寝ていて傍らには恵がいる。風邪をひいて寝込んだ僕を心配してけなげに寄り添ってくれてる。鍵屋崎優と由佳利夫妻はどうしてるだろう?書斎にいるのだろうか。そうだ、執筆中の論文について聞きたいことがあったんだ。書斎の扉を開けよう、懐かしい木目調の樫の扉。この向こうに両親がいる、血は繋がってないけど十五年間僕を養育して膨大な知識を授けてくれた戸籍上の両親が。
 両親。僕は彼らのことをなんて呼んでいたっけ。
 まさか「鍵屋崎優」「由佳利」と呼んでたわけがない、書類上はれっきとした親子なんだから。父と母?違う。思い出せ、思い出すんだ。僕は鍵屋崎夫妻のことをなんて呼んでいた?パソコンのキーを叩いてた父を振り向かせるとき、本棚を整理してた母を振り向かせるとき……
 思い出した。
 『父さん、母さん』
 父さん、母さん。なんて嘘っぽい響きだろう。彼らは何も親らしいことをしてくれなかったじゃないか、笑わせる。でも、こう呼ぶしかない。第三者に説明するときはフルネームでも「父」「母」表記でもかまわない、しかし本人と対峙した時にはこう呼びかけるしかない。
 父さん、母さん。ずいぶんひさしぶりに口にした。正確には半年ぶりか?何故だろう、ひどく懐かしい。
 ……都合のいい感傷だ。鍵屋崎優と由佳利を殺したのは僕なのに、今頃になって「懐かしい」だなんて。「父さん」「母さん」だなんて図々しいにも程がある。僕は自分の選択を後悔してない、惠を守るにはあの時ああするより他になかった。鍵屋崎優と由佳利を殺したことについて何の罪悪感も持ってない、あれは僕が選択して行動した結果なのだから。
 なら、受け止めるしかないだろう。
 でも、僕が両親を殺してまで守り通そうとした惠ももういない。失ってしまった。僕にはだれもいなくなった、だれも。
 
 一体僕は何を守ろうとしたんだろう。
 こんな痛い思いをしてまで、屈辱を噛み締めてまで、何を守り通そうとしたんだろう。

 コンコンと扉がノックされる。
 「!」
 反射的に上体を起こし、毛布をたくしあげる。刹那、下肢に激痛が走る。
 「……入っていいぞ」
 顔をしかめ、平静な声音で入室を許可する。扉が開き廊下の明かりが射しこむ。素早く扉を閉めた痩せた影……サムライだ。手に何かを抱えている。トレイだ。今日も僕のために食事を持ってきてくれたんだろう。
 余計なことを。舌打ちしたくなる。
 「気分はどうだ」
 「優れない」
 簡潔に答えたのは彼との会話を避けようと意図したからじゃない、口を開くのが億劫だったからだ。毛布をどかして姿勢を起こし、少しでもラクなようにベッドの背格子にもたれる。背骨に溶けた鉛を流しこまれたように間接がぎこちなく強張ってる。大股に歩いて房の真ん中に進み出たサムライがトレイを片手に持ったまま器用に裸電球を点ける。明るい光が房に満ち、眩さに目を細める。
 「……寝てたのか?」
 「……ああ」
 口数少なく尋ねられ、口数少なく返す。会話は弾まない。居心地悪い沈黙ばかりが存在感を増して膨れ上がってゆく。
 正直、彼に何を言えばいいかわからなかった。 
 「対等になりたい」だとか「一方的に依存するのはいやだ」とかえらそうに言っておいて結局僕は自分の身ひとつ守り抜けなかったじゃないか、サムライがいなければ何もできない無力な人間だと証明してしまったようなものじゃないか。いくら頭がよくてもこのザマだ、こんな情けない僕を見られたくない。見ないで欲しい。
 「食事だ」
 顔を背けた僕の枕元にサムライがトレイを置く。アルミ皿に一山盛られたマッシュポテトに澄んだコンソメスープ、付け合せにブロッコリーとアスパラガスの温野菜にパンといういちじるしく栄養状態が偏ったメニューだ。
 「……食欲がない」
 「無理にでも食べろ、体が保たない」
 そっけなくトレイを突き返そうとした僕にいつになく強引にサムライが迫る。サムライの眼光に気圧されて不承不承トレイを受け取る。毛布を被せた膝の上にトレイを置いてフォークをとる。が、どうしても食欲がわかない。無理にでもつめこまなければ体が保たないと頭では理解してるが手が動かない、強引に飲み下しても胃が受け付けないのだ。
 「……あとで食べる」
 ため息まじりにフォークを置いて言い訳がましく呟けばサムライが咎めるような目で睨んできた。
 「嘘をつくな」
 「嘘じゃない、本当に食欲がないんだ」
 本当だ。この三日間というもの何を食べても味気ない、味覚が麻痺したように料理の味がわからなくなってしまってる。味噌汁は泥水のようにぬるくてサラダのレタスは口の中でぱさぱさかさばって焼き魚は小骨ばかりが喉にひっかかる。何を食べても美味しいと感じない、もともと僕は料理に執着がない人間だったがここ三日間は異常だ。目を閉じて口に入れて飲み下したとしても完全に消化される前に吐き出してしまう悪循環で不快な胸焼けが消えない。
 原因はわかってる。口の中に物を詰める感覚に喉が圧迫され、床に跪かされて強いられたおぞましい行為を思い出してしまうからだ。
 かぶりを振って不快な連想を払拭し、サムライの手にトレイを押し付ける。だめだ、また気持が悪くなってきた。こんなんじゃろくに食事もできない、早く体が慣れて欲しい。顔面蒼白で押し黙った僕を心配そうな面持ちで見下ろすサムライの視線が苦痛だ。
 「反吐が出る」
 吐き捨てるように呟いた僕にサムライがまともに返す。
 「洗面台に行け」
 「君のことだ」
 ベッドに上体を起こしてサムライに向き直る。
 「だれがわざわざ食事を持ってきてくれなんて頼んだ?食欲がでたら自分で食堂に行く、こんなことしてくれなくていい。食事の手助けが必要な乳幼児じゃないんだから余計なことをしないでくれ、不愉快だ。君は福祉介護士か、看護士か?違うだろう、そうじゃない。僕は病気でも何でもないんだから病人扱いするのはやめてくれ。そうやって同情されるのは不愉快なんだ、見下されているようで」
 「同情してるんじゃない、心配してるんだ」
 「同じ事だろうそれは、どう違うんだ?僕はひとに同情されなければいけないような人間じゃない、なんでこの僕が、IQ180の知能指数の持ち主でこの刑務所のだれより高い知力の持ち主の僕が同情されなければならない?僕は自分のことをちっとも可哀相なんて思ってない、他人からも可哀相だなんて思われたくないし絶対に思わせない。だれが哀れんでくれなんて頼んだ?哀れんでくれたら苦痛が軽減されるのか?僕は人から哀れまれなければいけないような情けない人間じゃない、みっともない人間じゃない。プライドを売り払った利子で同情を買うような真似は死んでもごめんだ」
 たとえあの房でどんな目に遭ったとしても、どんなに屈辱的な行為を強いられて正視に耐えない醜態をさらしたとしてもサムライの前でだけはプライドを死守したい、虚勢を貫きたい、対等でいさせてほしい。サムライに同情されるのはいやだ、こんな目で見られるのは不愉快だ。
 消え入りたい。
 「なんで君はそんなに鈍感なんだ?最後まで言わなければわからないのか」
 「わからない」
 察しの悪いサムライに苛立ちと歯痒さが募る。こんなこと言いたくない、こんなみっともない台詞吐きたくない。激情にかられて我を忘れるなんて僕らしくない、僕はいつでも冷静沈着で理性的な人間だったはずだ、こんな風に取り乱したりはしないんだ。これじゃまるで八つ当たりだ、頭ではわかってる、理性ではわかってるんだ。それなのに舌が止まらない、サムライの顔を見ているとやりきれなくなって暴力的な衝動に突き動かされて酷い事を言わずにはいられなくなる、傷付けたくてたまらなくなる。
 自分がされたことを他人に仕返して満足するなんて卑劣な人間がすることだ。
 自分が傷付けられたから身近な人間を傷付けていいなんて思い上がるのは愚かな事だ。僕がされたことはサムライに関係ない、この男は関係ない。彼は僕のことを心配してるんだ、そんなことわかってる、わからないはずがない。この半年間ずっとサムライに付き合って来たんだ、彼がどれほど無口で不器用で優しい男かわからないはずないじゃないか。
 それなのに、なんでこんなに苛立つんだ?
 「……あきれたな。鈍感な上に無神経と来たか」
 なんで僕は言葉を続けてるんだ?膝を抱えて毛布にくるまり、表情をさえぎるように片手を額に置く。額がしっとりぬれているのは寝汗をかいたからだろうか。頭を抱えこむようにして俯く。僕はどうかしてる、サムライを傷付けたくてたまらない。僕の枕元で所在なげに立ち尽くしてるこの男を言葉の刃でめちゃくちゃに傷付けたい衝動が抑制できない、この男に悪意の塊をぶつけたい。
 「じゃあ説明してやる。君は強いからわからないだろう、刀を持っていてもいなくても強いから共感できないだろう。僕は非力を言い訳にしたくない、非力ならその分知力で補えばいいと高を括ってたんだ。視力が低下すれば聴力が発達するように欠落は補うことができる、僕は無力だけど無能じゃない、君の力を借りなくても、君に頼ってばかりいなくても自分の身くらい守りぬけると思ってたんだ」 
 ずっとサムライと対等になりたかった。
 非力を知力で補うことによってサムライに依存する一方の釣りあわない関係を清算したかったんだ。たとえサムライがそれでいいと言っても、「生き残るために俺を頼れ」と言ってくれたとしてもそれじゃ嫌だ、納得できない。

 だって、友人はどちらかがどちらかに拠って立つものじゃないだろう。
 どちらか一方が相手に執着する関係を友情とは呼ばない、ただの依存だ。

 僕はサムライに必要とされかった、対等な人間になりたかった。
 依って存在する。『依存』。
 等しく対になる。『対等』。
 僕はこれまでサムライに支えられてきた、サムライがいたからこの半年間をなんとか生き延びられた。でもそれじゃだめなんだ、庇護される存在に甘んじてるかぎり僕はサムライの友人にはなれない、僕は僕として必要とされたいんだ、僕の力をサムライに認めさせたいんだ。
 惠に必要とされたように、もう一度だれかに、目の前のこの男に必要とされたかった。
 だれかに頼ってもらいたかった。だれかにすがってもらえるような人間になりたかった。
 笑わせる。自分の身ひとつ守れなかったくせに、惠の面影やサムライにすがってばかりいる惰弱な人間のくせに。あの時だって逃げるばかりでなにもできなかったくせに、洗面台に追い詰められ身動きできずにされるがままになってたくせに。背中を押さえ込まれてろくに抵抗もできなかった、せめて声はあげないように奥歯を噛み締めたのに想像を絶する激痛に貫かれて悲鳴を撒き散らしたじゃないか、嗚咽をもらしたじゃないか、惠の名前を呼んだじゃないか。
 「まだ言わせるのか、わからないのか。他人に同情されるならまだいい、彼らの同情は一過性の情動だ、自分より不幸な境遇の他者を見ることで同情を裏返した優越感にひたっているんだろうと心理解剖して納得できる、でも君はちがう」
 「どうちがうんだ」
 哀しくなるほど落ち着いた声音でサムライが促し、僕の理性を繋ぎとめていた細い糸が切れた。
 「友人だからだ!」
 言いたくなかった、こんなこと。でも遅い、口にだしてしまった。
 「……自分が友人だと思ってた人間に同情されるのがどれだけみじめかわかるか」
 片手で顔を覆う。なんでこんなことを言わせるんだ、こんなこと言いたくなかった。僕がサムライのことを友人だと思っていて、妹以外にはじめて心を許した他人で、彼と対等になりたいとそればかりを考えていたなんて。シーツに覆われた膝に拳をおろし、俯き加減に口を開く。
 「……出てけ」
 「鍵屋崎」
 「頼む、独りにしてくれ」
 これ以上サムライの顔を見ていたら殴ってしまいそうだ。決して目を合わせずに呟いた僕の意を汲んでサムライが房を出て行く。行く先はたずねなかった。そんな心理状態でもなかった。背格子に手をそえてスニーカーを履く。そろそろ夕食をとるために与えられた休憩時間が終了する、中央棟地下一階の仕事場に戻らなければ。これから待ち受けてる長い長い拷問を思い浮かべると吐き気がせりあがってくる。踵を返して房を出ようとしてふと鏡が目に入る。奥の壁に嵌め込まれた洗面台の鏡だ。
 吸い寄せられるように洗面台に歩み寄り、両側の縁に手をつく。あの時と同じ格好だ。鏡に映ってるのは酷く憔悴した少年だ、眼鏡越しの目は陰惨に荒みきっている。首に貼ったガーゼを一息に剥がせば露出したのはあざやかな痣。くっきりと痕が残ったそれは唇で強く吸われた名残り、三日経ってもまだ消えない。
 『今度は隠せないだろう』
 「馬鹿だな、ガーゼを貼っておけばわからないだろう」
 嘲るように笑おうとして鏡の中の顔が醜く崩れる。自分でもわかってる、これは気休めの応急処置にすぎないと。いつまでも隠しとおせるわけがない、現に会話中サムライの視線を首筋に感じた。『どうしたんだ』と聞かれた時は『転んだんだ』と嘘をつくつもりだが転んで首筋を擦りむく人間はあまりいないと思う。
 鏡の中の顔を睨みつける。鏡の中の顔が変化する、裸の背中に覆い被さるのは下半身を露出した少年、洗面台にしがみついて苦鳴をもらしているのは……僕だ。額に汗を浮かべ目尻に涙をため頬を上気させ、酸素を欲するように喉を反り返らせた次の瞬間には振り落とされないよう必死の形相で洗面台にしがみつく。汗にぬれて額に貼り付いた前髪、苦痛を訴えるように眉間に刻まれた深い皺、熱に潤んだ目の焦点は朦朧としてる。
 鎖骨の上から首筋にかけて点々と散った赤い斑模様は……
 「違う」
 お前はだれだ?
 「これは僕じゃない、僕はこんな醜態を晒したりしてない。こんなふうにあがいたりしてない、もがき苦しんだりしてない。こんなの僕じゃない、こんな僕は否定する、これは捏造だ虚偽だ虚構だ妄想だ非現実だ」

 熱に溺れて頭が真っ白になって揺さぶられるままになって、

 「違う、そんなわけない。これは別人だ、僕によく似た他人」

 無我夢中で虚空をかきむしって喉がすりへるまで叫んで喚いて泣いて喘いで、
 声にだして惠を呼んで、声にださずにサムライを呼んで。

 「―っ!!」
 名伏し難い衝動にかられて拳を振り上げる、鏡の中の顔を打ち砕こうと怒りに任せて拳を振り下ろし―
 軽いノックが響いた。
 鏡を打ち砕こうとした拳が寸前で止まる。正気に戻って振り返る。ノックは止まない、断続的に続いてる。だれだろうと訝りながら足をひきずって扉を開ければ五十嵐がいた。
 「どうしたんだ、顔色悪いぞ」
 「ただの貧血です。何か用ですか?」
 戸惑ったように僕を見つめていた鍵屋崎が作り笑顔を浮かべて右手を掲げる。五十嵐の右手に握られていたのは一枚のメモ。まさか。
 「妹の住所だ」
 言葉をなくして立ち尽くした僕の手にむりやりメモを握らせて五十嵐が言う。震える指でメモを開けばそこには確かに病院の住所が殴り書きされていた。雑な字に目を凝らして硬直した僕に気付いてないのか照れくさそうに鼻の頭をこすりながら五十嵐が続ける。
 「データベースに入院記録が保管されてたからそんなに手間かかんなくてラッキーだった。加害者が未成年だった場合、肉親に対する身辺調査が収監後三年間は施行されるのが決まりでな。お前の妹が現在どこに入院してるかもその報告書から……どうした?」
 「……ご苦労さまでした」
 頭を下げたのは五十嵐に感謝を表したからじゃない、むしろのその逆だ。僕は今自分が浮かべてる表情を五十嵐に見られたくなかった、覗かれたくなかった。五十嵐に会釈して逃げるように扉の内側に駆け込む、背後でバタンとドアが閉じる。後ろ手に施錠して五十嵐が追って来ないようにしてから足早にベッドに戻り腰掛ける。ドンドンドンと鼓膜を打つノック音、ぽつねんと廊下に取り残された五十嵐が「おい、どうしたんだ」とヤケ気味に鉄扉を叩くのを無視し、小刻みに震える指でメモを広げる。
 そこに記入されているのは惠が入院してる病院の住所。
 僕と惠とを繋ぐ、たった一枚のメモ。 
 「なんで今頃」
 手の中でぐしゃりとメモがつぶれる。力をこめてメモを握り締める。
 「なんで今頃来るんだ」
 僕が心待ちにしてたメモだ。これで惠に手紙が書ける、今の気持ちを伝えることができる。
 あと三日早ければ素直に喜ぶことができたのに、五十嵐に感謝することができたのに、心の底から「ありがとう」が言えたのに。

 三日。
 この三日間でなにもかもが変わってしまった。
 僕はこの三日間で五人の客をとった。看守が二人、囚人が三人。初日は一人、二日目は三人。初日は余りの激痛に途中で失神して以降客をとれなかった。二日目は三人。そのうち一人は看守で昼間にやって来た。今度はなんとか最後まで意識を持ちこたえることができたがそれがよかったのかどうかわからない。二人目の客は口ですませた、喉に異物が詰まって何度も吐きそうになったがシャワーで杜寫物を洗い流すのは今強いられてる行為よりさらにみじめだと言い聞かせてこらえた。三人目の客とはベッドの上で。この囚人は早漏だった、たぶん五分も保たなかったと思う。本人はひどく情けない顔をしていたが僕は行為が長引かなくて心底安堵した。
 そして今日、三日目。昼間にやって来たのはタジマだった。何をされたかは言いたくない。絶対に言いたくない。
 でも、これで終わりじゃない。これからまた行かなければならない、それが売春班の仕事だから。あと何人相手にすれば一日が終わるんだろう。ひとり?ふたり?口だけで満足してくれるならラクなのに。正直もう限界だ、体も心も壊れそうだ。
 
 こんな人間が惠の兄?
 こんな人間が恵に手紙を書く?
 上の空でメモを開きながら「今日は口だけですめばいい」と、そればかりを切実に祈ってるような見下げ果てた人間に、堕ちるところまで堕ちてしまった人間に惠の兄を名乗る資格があるのか?

 「………」
 跡片もなくメモを握り潰しかけ、思いとどまる。こんな物僕にはもう必要ないはずなのにどうしても捨てることができない、握り潰すことができない。くしゃくしゃに丸めかけたメモを丁寧にのばしててのひらに包む。包みこむ。
 僕がこんなことを言うのは卑怯だ。
 惠から両親を奪った僕が、彼らを殺した張本人がいまさらこんなこと言うのは卑怯だ。
 でも、止まらない。メモを握り締めたこぶしを祈りを捧げるように額にあてがい、呟く。
 「父さん、母さん……」 
 惠を守るために僕がしたことは間違ってたのか?
 父さんと母さんを、鍵屋崎優と由佳利を殺したことは間違ってたのか?  
 わからない。もう何もわからない。なんで僕が苦しいのかもわからない。
 それでもメモは捨てられない。
 手の中に残された唯一の希望だから、僕を生かす唯一の理由だから、頼むから、もうしばらくはこうして縋らせてほしい。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060208201248 | 編集

 食堂のパフォーマンスには度肝を抜かれた。
 普段は手下をぞろぞろひきつれてがに股でいばりちらしてる裸の王様・凱が完全に出遅れたのもむべなるかな、レイジとサムライの行動は迅速だった。見事に呼吸の合った連携プレイで瞬く間に四人を倒したんだ、格の違いを見せ付けたってかんじ。レイジが椅子を蹴って床を走り抜けた一瞬で食堂が戦場に変貌した。食堂中の視線がレイジを追っていた、注がれていた。全員食事を一時中断し、手に食器を抱え、ほげっとフォークをくわえた間抜け面を並べて。
 東棟の王様の異名は伊達じゃない。レイジがテーブルに立ち上がった瞬間、アルミ皿とフォークが飛び交う喧騒の戦場は華やかな舞台へと変貌して血塗られたフォークを片手にさげたレイジへと脚光が注がれた。一身に脚光を浴びたレイジ、しなやかに引き締まった全身から放たれていたのは食堂中を飲みこみ目が合った人間をひとり残らず意のままに従わせてしまうすさまじい威圧感。

 レイジは強い。怖いくらい、強い。

 でも、危うい。今のレイジには余裕がない。今のレイジなら食堂で宣言したことを実行するだろう、そう信じさせるだけの説得力の重みが一語一句にあった。まあこの期におよんでロンを買いに行くバカはいないだろう、からかい半分でロンに手をだしてレイジに殺されちゃあ割があわない。どっちにしろ今のレイジは危険すぎる、フォークで失明させられるのがいやならへたに近付かないほうがいい。
 ポケットに手をつっこんで廊下を歩きながらこっそりと決意する。僕は今出張サービスを終えて房に帰る途中。いつもは房で客をとってるんだけどそうするとビバリーがひどく肩身狭そうなんで最近はこっちから客の所に出向いてやってる。僕はべつにビバリーに声を聞かれてもかまわないんだけどね、接客スマイルで客を見送って顔を真っ赤にしたビバリーからかうの面白いし。
 まあ、僕は趣味と実益を兼ねてるからいいんだけど鍵屋崎みたいに上から命令されて売春を強要されるのはつらいだろう。いや、つらいなんてもんじゃない。鍵屋崎のことだからろくに女も抱いたことないだろうに刑務所に入って半年で売春班にまわされて何人もの男を相手にするよう強いられてるんだ、ここの連中なんか看守も囚人も屑ぞろいのサドばかり、ろくに前戯もせず、ならしもぬらしもせずにいきなり突っこんでくるようなバカばかりだし陸に上がったばかりの人魚姫よろしく歩くのだってつらいはずだ。 

 べつに鍵屋崎を心配してるんじゃない、改めて言うまでもないけど僕は鍵屋崎が嫌いだ。大嫌いだ。

 それはそうなんだけど売春経験なら僕のほうが遥かに長いし、人生の酸いも甘いも噛み分けてきた娼夫の先輩として鍵屋崎が今現在おかれた境遇には顔をしかめずにいられない。好きでもない人間と毎日のようにセックスしなきゃなんないなんて、ありとあらゆる体位とテクを仕込まれて実践しなきゃなんないなんて普通の人間には耐えられない。鍵屋崎の場合そういう方面に淡白そうだし……マスターベーションもしたことなさげな潔癖症には生き地獄の日々だろう。神経がまいっちゃうのも時間の問題だ。
 「つまんないな」
 口に出してぼやく。僕は鍵屋崎のことが嫌いだからあいつが売春班にまわされて本来なら万歳ってかんじなんだけどすっきりしないのはなんでだろう。歯応えがないというか手応えがないというか……あっけなさすぎで拍子抜けした感が否めない。かってきわまりないいじめっこの理屈だけどアイツにはもうちょっと頑張ってほしかった。
 なんて、今頃は僕の足の下でせっせと客をとっているのだろう鍵屋崎の行く末を憂いながら東棟へと帰る渡り廊下に足をむけようとして立ち止まる。物音。なんだろう?ちょっと興味を引かれてエレベーターができてからは使われてない階段へと足をむける。僕が今中央棟にいるのは図書室で営業してたからだ、本棚の影にかくれてヤるのってなかなかスリリングだね。癖になりそう。で、物音が聞こえてきた階段ってのは中央棟地下一階へと降りる用に設けられた物だ。目をつけたガキを物陰にひっぱりこんでヤキ入れたりケツ剥いたり、東京プリズンの囚人はとかくお行儀がよろしくないことで有名だから今度もまたその手の行為が行われてるのかなと好奇心からひょいと踊り場を覗きこんで……

 目を見開いた。

 中央棟地下一階、通称売春通りへと降りる階段の踊り場にいたのが僕のよく知る人物だったからだ。いや、よく知る人物なんて他人行儀には呼べない。たった今「絶対に近付かないでおこう」と最重要警戒態勢に入った奴だから。
 レイジ。
 いますぐ回れ右するのが賢い選択。もちろん頭じゃわかってるけど好奇心に負けた。レイジがなんでこんなところにいるのか、こんな人目のとどかない場所でなにをしてるのか気にならないわけがない。白馬の王子様気取ってロンを救出しにきたなら格好いいんだけどね、と含み笑いしながらこっちに背中をむけてるレイジに目を凝らし、レイジと対峙するかたちで壁際に追いつめられてる囚人に気付く。
 「?」
 蛍光灯が割れた薄暗い踊り場、轢かれた蛙のような不恰好なポーズで壁にへばりついてる囚人の顔は知らない。中央棟にいるってことはほかの棟のやつかもしれない。なんで売春班の仕事場が中央棟に在るのかって言えば全棟の連中が平等に買いに来るからだ、売春班は来る者拒まずで顔見知りでも赤の他人でも一度客に指名されたら文句言わずに受け入れなきゃなんないのだ。
 おおかたレイジに詰め寄られてる囚人も売春班に用があるんだろう。蛍光灯の破片が散乱した荒廃した踊り場、人目を避けるようにふたり息をひそめたレイジと囚人とを壁に隠れて見てるうちに胸騒ぎがしだす。
 なんだか様子がおかしいぞ?
 「勘弁してくれよ……」
 よわよわしい声に首をのばす。踊り場の壁を背中にした囚人が気弱そうな上目遣いでレイジを盗み見る。
 「俺は手っ取り早くヌキにきただけなんだ、こんなとこで足止めくらってる時間はねえんだ。とっとと解放してくれ」
 「だめだ」
 闇を震わせて響いたのは低い声……レイジの声だ。甘くかすれた独特の響きがある、聞いてると癖になる声。
 「気持ちはわかるけど行かせられねえな。もうちょっと付き合えよ」
 「なんでだよ。つーかおまえだれだ、どこの棟の人間だ?正義の味方気取りで俺のジャマして何様のつもりだよ」
 「王様のつもりだ」
 どうやらレイジと対峙してる囚人は東棟の王様の顔をしらないらしい。東棟でレイジの顔を知らないやつはいないけど他の棟ならままありえる事態だ。他の棟の、それも末端の囚人が知ってるのは王様の名前と噂ぐらいだろう。
 『東のトップはイカレてる』 
 『完全にイカレてる』
 『べらぼうに強くてべらぼうにキレイな顔してるけどやることなすことめちゃくちゃだ』
 『一度キレたら手がつけられない』
 『いっつもへらへら笑っててどこに本心があるのかわかんねえ気持ち悪いやつ』
 全部真実だ。 
 「ばかにしてんのか?」
 「いや?真実を言ったまでだぜ」
 顔を険しくした囚人にもレイジは動じない、掴み所のない笑顔でへらへら笑ってる。瓢瓢とした態度が癪に障ったのだろうか、「頭おかしい人間の無駄話に付き合ってられるか」と悪態をついた囚人が強引にレイジを押しのけて階下に降りようとするのを肩を掴んで引き止める。。
 「気が短いなあ。もうちょっとお話しようぜ、な」
 「うぜえんだよ」
 きっと振り返ったレイジの手をぶち、かん高い音が鳴る。邪険に払いのけられた手を引き、赤く腫れた甲をさすりながらレイジはにやにやと笑っている。狂気の欠片を瞳に沈めたきなくさい笑顔。手をぶたれたことなんて全然気にしてないよ、というフレンドリーな演技で肩をすくめたレイジが軽快な大股で相手に歩み寄る。獲物をしとめにかかる豹を彷彿とさせるしなやかで隙のない歩行動作。ポケットに手をひっかけただらしない姿勢で長い足を踏み出す。三歩、二歩、一歩。
 レイジが立ち止まる。
 「お前がずっと粘ってた扉さ」
 「?」
 レイジはポケットから手を抜いてさえいない。何も行動を起こしてない。にも関わらず、踊り場は既にレイジの独壇場と化していた。口元に淡い微笑を漂わせ、精悍さと甘さとを黄金率で混ぜ合わせた魅力的な双眸を細め、少し媚びるように首を傾げてみせる。
 「そんなにご執心なわけ?ほかにも売春夫はたくさんいて扉はずらっと左右に並んでるのにあそこから動かなかったじゃねえか」
 「見てたのか?」
 「なんだこいつ」と警戒した囚人があとじさり壁に衝突、鈍い音が生じる。壁と衝突した囚人の横に手をつき、前傾姿勢をとる。レイジが上体を屈めると色素の薄い前髪がさらりと額を流れ、長い睫毛に縁取られた完璧な造作の双眸を隠す。
 「見てたよ、ずっと。『出て来い、出てこねえとぶち破るぞ』ってずいぶん威勢良く叫んでたじゃんか、どんどんドア蹴りながらさ。おかしくない?手っ取りばやくヌキにきたんなら他の奴でもいいだろう、三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者にこだわる理由なんかねーじゃんか」
 『三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者』
 ロンのことだ。ははん、読めてきたぞ。壁に身をひそめて踊り場のやりとりに聞き耳たてる。壁に片手をついて斜に構えて傾げて相手の反応を探るレイジ、相手がどうでるか楽しんでる風をよそおっているが実際そこまで余裕はないだろう。レイジの眼光に射竦められた囚人が唾を嚥下する、レイジに引けをとらないように虚勢を張って言い返す。
 「俺のかってだろう。客にも好みがあるんだ、俺は強情なガキが好きなんだよ。三日間飲まず食わずでたてこもってるなんて根性あるじゃんか、さすがタジマご推薦のことだきゃある」
 『タジマ』の名前にレイジの眼光がスッと鋭くなる。
 「顔は知らねえけどタジマがああもこだわってんだ、ぜひともお相手願いたいね。三日間なにも食ってねえんならちょうどいい、俺の飴玉しゃぶらせてやるよ。俺の飴玉は喉につまっちまうほどでけえからさぞかし食いでがあるだろうさ」
 ひひ、と野卑な笑い声をもらす囚人に相対したレイジの目の温度が急速に下がってゆく。口元に漂うのは低温の微笑、透徹したガラスを模した薄茶の目がいたずらっぽく輝く。
 「俺が相手してやるよ」
 耳を疑った。囚人もきょとんとしてる。予想外の展開に「え?え?」と仰け反り距離を詰めてきたレイジから反射的に逃れようとして、壁際に追い詰めらて身動きできず、逃れる場所がどこにもないと悟る。なに、なんだこの展開?壁に隠れて息をつめレイジの動向を見守る、壁を背中にした囚人の頭上に片肘置き、上から覗き込むように顔を近付けたレイジがほほえむ。
 背筋にぞくっとくる淫らな笑顔。
 「俺じゃ不満か」
 「不満もなにもおれは売春班の娼夫買いに来たんだぜ、なんでどこのだれかもわかんねえおまえなんかと」
 「不満なのか」
 「いや……」
 物欲しげに喉を鳴らし、頬を上気させた囚人がなめるようにレイジを流し見る。レイジに誘惑されて拒む奴は実際そんなにいないだろう、男だろうが女だろうが関係ない。いや、その手の趣味がない男なら拒絶できるかもしれないけど見わたすかぎり男っきゃいないむさ苦しい環境に頭のてっぺんまでどっぷり染まった囚人の大半はそんな理性を持たない。いつもは表情を崩してることが多いからわかんないけど真顔になったレイジは文句つけようがない美形だ。明るい藁束のような茶髪は天然物、東洋と西洋の混血の産物の肌はなめらかな褐色でしなやかな張りがあり四肢は過不足なく引き締まってる、僕みたいなちびのやせっぽちからすりゃため息をつきたくなるくらい見栄えのする長身で敏捷な豹のように美しい筋肉が肢体に映えている。
 そして顔。
 ロンと一緒にいる時とはまるで別人、とまでは言えないけど、少なくともロンとじゃれあってるときはこんな淫らで挑発的な笑顔を見せたりはしてなかったはずだ。ロンをからかってるときのレイジは本当にたのしそうにはしゃいでて笑顔に裏がないように見えたのに、今のレイジは笑顔に裏があることを隠そうともしてない。
 表情と本心がまるで重なってない、両者が完全に分離した笑顔。
 「売春班なんか買うなよ、へんな病気伝染されるかもしれねえじゃんか。その点俺は安全だ、ここんとこ清潔に健全に身の周りを保ってたからな。なんなら生でもいいぜ?売春班のガキは後処理面倒だからコンドームしろしろうるせえだろ、俺はそんな固いこと言わねえよ、女相手なら避妊必須だけど男相手なら生のが気持いいよな」
 (へえレイジちゃんと避妊してるんだ意外だなあえらいなあ)とか全然関係ないことを考えて全力で現実逃避してたけど目の前で繰り広げられてる光景はなんかもうすごいことになってる、え、なにこれ?レイジなにやってんの?いちおーあんなんでも収容人数千人の東棟の代表でぼくらの王様なのに王様が一般庶民、それも他棟の人間なんか堂々誘惑しちゃっていいわけ?
 動揺のあまりずれたこと考えてた僕の目の前では洒落にならない事態が進行しつつある。ひっそりとしずかな階段の踊り場、蛍光灯が割られてるせいで闇の帳がおちて視界は暗く、階上からさしこむ蛍光灯の明かりが一条、斜めに闇を裂いてるほかは光源もない。その明かりもレイジの背後斜め上を遮断してるせいで表情はすっぽり闇に隠れてる。が、生々しい衣擦れの音や生唾を嚥下する音が耳朶にとどき否が応にも想像力がふくらむ。
 壁から身を乗り出し、暗闇に目を凝らす。なにが行われてるのか見極めようと好奇心に突き動かされて精一杯首をのばせば暗闇に慣れた目がとらえたのは一つに重なった二つの影。踊り場の底、壁際に追いつめられ身動き封じられた囚人に覆い被さっているのはレイジ。さかりのついた蛇のように相手の脇腹にすべらした手をズボンの内腿にもぐらす。いまさらだけどおそろしく手馴れている、いったい何十何百人の女の服を脱がせてくればこんな人体の性感帯をおさえた愛撫ができるんだろう。ガキの肩に手をかけ、野性味あふれる中に魔性の媚を宿したまなざしのレイジが犬歯を剥く。微笑。なんで今笑うんだ?なにを考えてるんだよぼくらの王様は、本当に本気でヤるつもりなのか。

 ロンのために自分が身代わりに?ちょっとまてよ。

 暗闇で光る豹の目。どこか鬼気迫る形相で笑んだレイジが顎を傾け、淫猥に舌なめずりしてガキの耳朶を口に含もうと―

 「はーいそこまで」

 パンパンとやる気ない拍手で打ち止め。
 ぎょっとして振り向けば階上には意外な人物がいた。いつのまに現れたのだろうか、まるで気配を感じなかった。大きなサイズのゴーグルで目を覆った15.6歳の少年だ。針金のようにツンツンした剛毛の短髪が特徴的な少年が一身に注目を浴びてズイとゴーグルを押し上げる。少年と青年の狭間、稚気と凄味とを均等に配分した双眸が印象的な精悍な顔だちをしている。
 やばい。
 少年に見つかるのを避けて奥へと移動する。図書室の常連で彼の顔を知らないものはいない、漫画王の異名をとる西棟のヨンイルだ。
 「レイジぃ。それ誘惑ちゃうて脅迫や」
 「なんでだよ」
 体の脇に腕をたらしたヨンイルがくく、と愉快げに喉を鳴らし、鼻白んだレイジが抗議する。今まさにご馳走にありつこうとして意地悪な調教師にとりあげられたような拗ねた表情。
 「耳たぶ噛みちぎろうとしてたやろ」
 「!?」
 無造作に顎をしゃくられたガキが顔面蒼白で耳朶を覆い、レイジがさも心外そうに反論する。
 「どこのマイクタイソンだよ、しねえよそんなこと」
 「どうだか。ついでに言わせてもらえばそのネタ百年ばかり古い」
 「余計なお世話だ」 
 前戯に水をさされてすっかり興醒めしたのだろう、いや、ひょっとしたら今頃になってレイジがただ者じゃないと気付いたのかもしれない。後者だとしたら鈍感すぎるガキが階上のヨンイルと正面のレイジとを見比べて悲鳴をあげる。
 「ヨンイルさん、だれっスかコイツ!?」
 ごく自然にヨンイルに「さん」付けして敬語つかってるってことはコイツ西棟の人間か。それでわかった、ヨンイルが助けに入ったわけが。腐っても自分の棟の人間だ、むざむざ耳朶食いちぎられてのたうちまわるところを見殺しするに忍びなかったんだろう。蛍光灯の光を浴びて仁王立ちしたヨンイルがほとほとあきれたような顔をする。
 「おまえ鈍いなー。レイジで王様言うたら心当たりあるやろ」
 「!!」
 「なんでうちの棟の人間はこんな鈍感ぞろいなんやろ」と首を傾げながらのヨンイルの指摘にはじかれたように振り向けば、ポケットから片手を抜いたレイジが王様にはふさわしくないなれなれしさで挨拶する。
 「たしかに俺の名前はレイジで東棟の王様だけど気にするこたねえよ。さ、続きしようぜ」
 「じょ、冗談じゃねえ!!東棟のトップなんか相手したら耳たぶ何個食いちぎられてもたりねえよ!」
 フレンドリーな物腰で歩み寄ってきたレイジから跳んで逃れたガキが死に物狂いに階段を駆け上がる。途中何度も段に蹴つまずきはでに転びながら半死半生這い上がったガキが後ろも振り返らずに廊下を走り去ってゆく。それを見送り、ヨンイルが階段を降りはじめる。東棟の王様が待ち構えているとわかってるのにまったく気負ってないのはさすが、
 さすが、二千人を殺した懲役二百年の大量殺戮班だ。
 「お前最近おかしいで」
 硬い靴音を響かせながら中腹まで階段を降りてゆっくりと立ち止まる。
 「同房の相方いなくなってこたえとるんか?すぐそこの仕事場に会いに行ったればええやん」
 「扉封鎖してとじこもってんだよ。三日間」
 苦々しげに吐き捨てたレイジにヨンイルが口笛を吹く。
 「根性あるやん。ああ、おまえの相方って四ヶ月前にブラックジャックの五巻と六巻読みにきた目つき悪いガキか。思い出したわ。そうか、あいつならそんくらいやりそうや。根性据わったええ目してたもん」
 「笑い事じゃねえよこっちは」
 「助けに行けば?」
 「簡単に言うなよ」
 「喧嘩でもしたんか」
 「…………………」
 「図星や」
 なにがおかしいのかくく、とヨンイルが笑いレイジがますます不機嫌になる。腕組みして開き直り踊り場の壁によりかかる。そのまま虚空に視線を泳がせて何事か考えに耽っていたレイジがふいに真顔になってヨンイルを仰ぐ。
 「……俺の寝顔むかつく?」
 「あん?」
 「寝顔むかつくって言われたんだけど。その、相方に」
 「あー。むかつくかもしれんな、がーっと大口あけてなんの悩みもなさそーな顔してるしな。お前の口からたれたヨダレで枕元においてたリボンの騎士の単行本びしょぬれや、弁償しろやコラ」
 「それはとにかく」
 「ごまかすな。それが行く当てなく廊下うろついとったところ房に泊めてやった恩人に対する言い草か?凍死しなかったのはだれのおかげや?」
 さりげなく話題をすりかえようとしたレイジにヨンイルが声を尖らせて待ったをかける。てゆーかレイジ、ヨンイルの房に泊めてもらったのか。四日前の深夜、消灯時間が過ぎてさて寝ようと毛布にもぐりこみかけたときに足音がして格子窓を覗けばレイジがはでにくしゃみしながら遠ざかってくところで「こりずにロンの寝込み襲って閉めだされたんだろうなあ」と思ってたけど。
 「……俺の顔見るとアイツへそ曲げるんだよ」
 「だから見舞いに行かんかったんか。あきれたな、とんだ腑抜けの王様や」
 口角を吊り上げたヨンイルにあからさまに馬鹿にされたレイジがむっとして腕組みをほどく。ヨンイルの襟首を掴んでなにか言い返そうと歩を階段にむけかけ、
 「会いに行ったれ。可哀相やろ」
 きっぱり断言したヨンイルの顔からは完全に笑みが消えていた。
 「ええか?お前の相方のー……なんやったっけ。まあええわ、仮にアトムとしとこう」
 「ロンだ」
 「アトムもといロンは四ヶ月前に図書室に来た時ごっつ熱中してブラックジャック読んでたんや。手塚治虫好きなやつには悪いやつはおらん。今頃おまえに言うたことしたこと後悔してるんちゃう、ひとりぼっちで。もう今すぐ会いにいったれ、図書室のヌシの指令や、おなじ手塚ファンとして頼む」
 「西の道化として命令するのがいちばん効果なくね?」
 「おまえ俺のダチやろ。ダチを上から見下ろすような言い方したくない」
 自分がさらりと口にした意外すぎる台詞に虚をつかれたように立ち竦んだレイジにしてやったりと笑いかけ、ヨンイルが腕をふりかぶる。下向きの放物線を描いてレイジの手にとびこんだのはブラックジャックの単行本。
 「暇してるやろしさしいれ持ってったれ」
 「………」
 なんとも複雑な面持ちで手の中の本を見下ろしていたレイジが顔を上げまっすぐにヨンイルを見つめる。力強い眼光。
 「用意してほしい物があるんだ」
 「なんや」
 階段をのぼってヨンイルの一段下に移動したレイジが耳打ちする。ふんふんと頷きながら聞いていたヨンイルが「了解」とあっさり請け負う。何を言ってるのか聞き取れなくてもどかしい。壁を掴んで身をのりだした僕の視線の先、片手を挙げてレイジに別れを告げたヨンイルがこっちの方に歩き出す。
 「さて、まだ用が残っとるんや。おまえの棟の赤毛いつ行っても留守でユニコの在り処わからん、今日という今日こそはケツの穴に指つっこんで奥歯ガタガタ言わせたる覚悟でユニコの身柄確保するでー」
 やっべ、こっちにくる!あわてて顔をひっこめて廊下の奥に退散、壁にむかって背中を丸めてうずくまりヨンイルが通り過ぎるのをひたすら待つ。まさかユニコを延滞してる張本人が壁の行き止まりで頭抱えてるなんて露知らずやる気満々、目に闘志を燃やして東棟へと続く渡り廊下へと足をむけかけたヨンイルを間延びした声が呼び止める。
 「おーい!」
 「?」
 東棟へと続く渡り廊下、その半ばで振り返ったヨンイルを追って階段を駆け上がったレイジが膝に手をついて息を整える。食堂で大乱闘を演じた時だって息一つ乱さなかったのに今はどうだろう。おもいきり全力疾走した後のように何かを吹っ切った顔をしている。大きく深呼吸し、膝から手を放す。まっすぐ姿勢を起こし、頭上にブラックジャックを掲げて叫ぶ。
 「感謝するぜ、西の」
 廊下の半ばで立ち止まったヨンイルがニヒルに笑う。
 「どういたしまして、東の」
 肩越しに手を振って廊下を遠ざかってゆくヨンイルを物陰から見送って長々と息を吐く。危なかった、まっすぐ房に帰ってたらケツの穴に指つっこまれて奥歯ガタガタいわされるところだった。ヨンイルがあきらめてすごすご自分の棟に帰るまで灯台下暮らし、図書室でマンガでも読んで時間潰してようと踵を返しかけてレイジを振り返れば忽然と姿を消していた。
 「やれやれ、変わり身の早い王様だね」
 レイジが何を企んでるか知らないけどこれからまた一波乱あるだろう。まあ見てな、僕の予感はあたるんだ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060207201411 | 編集

 腹が減った。
 起き上がろうとして体に力が入らないことに愕然とする。そんなバカな、嘘だろう。宙に手をのばしてもがくように空気をむしりとる。大気に溺れる。頭上に翳した手がやけに遠かった。意識が朦朧としてるせいで距離感が狂ってるのかもしれない、天井中央の蛍光灯の光を遮るように掌をかざせば五指の隙間から黄色い光が射してくる。肉の薄い掌、静脈を青白く透かして降り注いだ光が眩しくて目を細める。ぼやけた蛍光灯の明かりが涙腺に染みて目が痛かった。腕をおろしてベッドに手をつき、のろのろと上体を起こす。
 篭城三日目。
 ……のはずだが確証はない。栄養不足のせいで頭の回転が鈍くなってる、覚醒してる時間より睡眠時間のほうが長いからたんに寝ぼけてるだけかもしれないがそれにはちゃんとわけがある。眠りさえすれば空腹を忘れられる、いやなことは全部忘れられる、今自分がおかれた最悪の状況も少しの間だけ忘れられているのだ。昨日のことも今日のことも明日のことも気にせず、何も考えずに眠るのはいちばん安易で手っ取り早い現実逃避の手段だ。これからさきのことをつらつら考えて悲観するのは凄まじく精神力を消耗する、一旦眠りの世界に逃げ込んでしまえば苦痛しか生まない現実にも目を背けていられる、隣り合わせの地獄が浅い眠りの中に生々しい音声とともに土足で踏み込んできても一過性の夢だと思えばまだ救いがあるのだ。
 それだけじゃない。
 眠りさえすればこれ以上空腹を意識せずにすむ、体力を温存しておける。たとえ胃酸過多で胃に穴が開きそうでも食い物の夢ばかり見て滝のようにヨダレをたらしても今現在の俺にとって眠りは唯一の救いだ。
 「…………」
 かぶりを振り、眠気を払拭。床に脱いだスニーカーに踵をもぐりこませる。二本の足で立とうとしてちょっとよろけてベッドの背格子を掴む、一瞬立ち眩みにおそわれて視界が歪んだ。おかしい、胃袋は軽いのに頭は重たい。眩暈をこらえて片手で頭を支え、奥歯を食いしめて足腰を踏ん張る。
 空腹感なんて生易しいもんじゃない、ここ三日間、寝ても覚めてもじわりじわりと胃袋を締め付けてきた空腹感は今や飢餓感に達している。
 片手で背格子を掴んで眩暈が去るのを待ちながらもう一方の手を腹に回す。しっかりしろ、胃袋。三日間なにも食ってないくらいでなんだ、水だけじゃ不満なのかよこの根性なし。ガキの頃を思い出せ、お袋がいつもの癇癪起こして飯抜かれたことだって一度や二度じゃないだろう、この位でへこたれるな。服の上からぺたんこの腹を抱いてどやしつける。そのままの姿勢で萎えそうな足をひきずって洗面台に向かう。たった5メートルばかりの距離がはてしなく遠く長かった、途中で膝を屈してばたりと倒れてしまいそうだった。東京プリズンを脱走して砂漠を越える途中で餓死、ならまだ格好がつくが男に体売るのいやさに必死で抵抗してたてこもって餓死なんて情けなさすぎる。
 『ざまあみろ、俺に逆らったのが仇になったな』
 それみたことかと哄笑するタジマの憎たらしい面が脳裏に浮かび上がり体の奥底で熾火が燻り始める。冗談じゃねえ、俺はお前に逆らったことを後悔なんかしてねえ……少なくとも今はまだ。はげしくかぶりを振って得意満面なタジマの顔を振り払い、力強く歯噛みして前を向く。ここで死んだらいい笑い者だ、ミイラ化した俺の死体を片付けにきた連中に「ざまあねえな」とせせら笑われて唾吐きかけられるみじめな死に様はお断りだ、俺はなにがあってもどんな手を使っても生き延びてやる。

 絶対にタジマの思い通りになんかなってやるもんか。

 青息吐息、一歩ずつ慎重に足を運んで洗面台に辿り着く。洗面台の縁に上体を預けて焦れた手つきで上に向けた蛇口を捻る。勢いよくあふれだしたのは大量の水、透明な軌跡を描いて洗面台の底を満たして排水口の暗渠へ吸い込まれてゆく水を両手で受けるのもまどろこっしく蛇口にかぶりつく。蛇口にしゃぶりついて夢中で水を飲み干す、俺の足もと、床の遥か下の水道管から汲み上げられた水が唇を湿らし喉を潤し全身の細胞の隅々まで染み渡る。蛇口からあふれた水が口の端を滴りぬれた筋をひいて首筋へと流れる、それでも俺は止めない、まだ止めない、まだ足りない。胃袋を水で一杯にするまでは、胃袋を水で満たして空腹をごまかすまでは。
 手の甲で口を拭いながら蛇口を締める。滝のような流れが次第に弱まり、点々と水滴を落として収束する。あんまり夢中でしゃぶりついてたもんだから上着の胸が水を吸って湿っていた、ぬれたシャツが薄い胸板にはりついて気持悪い。襟首に指をひっかけ、軽く揺すりながら房を見渡す。
 この三日間ですっかり見慣れてしまった房だがさっぱり愛着がわかないのは何故だろう。決まってる、ここには忌まわしい思い出しかないからだ。周囲の房から昼夜問わず響き渡るのは喘ぎ声と罵声と呪詛と悪態、壁向こうで何がおこなわれてるか、どんなおぞましい行為が繰り広げられてるか強いて想像しないようにしてきたが通気口から漏れてくる生々しい音声が無関心を気取るのを阻む、隣部屋で行われてることを無視するなと、耳を塞ぎ目を塞ぎ俺だけ安全圏に逃れた気になるのは許さないぞと脅しをかけてくるのだ。

 強迫観念、焦燥、罪悪感、自己嫌悪。

 さっき俺は眠りだけが唯一の救いだと言ったが夢の中でも本当に救われたわけじゃない。お前は腰抜けだ、卑怯者だ、売春班の仲間が今頃どんな目に遭ってるか知ってるくせに知らん振りを決め込んでる、自分さえ助かればそれでいいと保身に逃げた最低の人間だ、ほら聞こえるだろう通気口から降ってくる喘ぎ声が、痛くて痛くて死に物狂いで泣き叫ぶ声が。なんで助けに行かないんだ?自分の身がかわいいから?他の連中はみんな泣く泣く客をとらされて生き地獄を味わってるのにお前はそれでいいと思ってるのか?頭の裏側でだれかがずっとささやいてる、俺の心の裏側の後ろ暗い部分を的確に突きまくってる。
 夢の中でずっと聞こえてたその声が俺自身の声だと気付くのは寝汗をびっしょりかいて飛び起きてからだ。俺を容赦なく責め立てる良心の声に耳をふさぐことはできない、なぜならその声は耳の内側から発せられ直接鼓膜に響いているから。いや、鼓膜じゃない、心か?ちょうど心臓のあたり、魚の小骨を飲んだように息苦しい圧迫感にふさがれた喉から胸のあたりにかけて声が響くのだ。
 
 俺は仲間を見捨てた卑怯者だと。
 鍵屋崎を見捨てた腰抜けだと。

 そうだ、そのとおりだ。開き直るわけじゃないけど俺が鍵屋崎を見殺しにしたのは動かし難い事実だ、だったら認めるしかないじゃないか、受け入れるしかないじゃないか。たとえどんなに事実から目を背けたくても現実を否定したくてもちゃんと証拠がある。
 声だ。
 「あ、ああっ、あっ」
 「!」
 まただ。
 洗面台の縁にしがみつき、その場に膝を屈して声が頭上を通り過ぎるのをひたすら待つ。苦痛と表裏一体の快楽、熱に溺れたガキの喘ぎ声がベッドが律動的に軋む音と一緒に流れてくる。はやく終われ、はやくはやく。一心に願い唇を噛み締める、壁向こうの喘ぎ声を床にしゃがんでやりすごそうとする。
 願いむなしく声は一向に止まない。腰をつかまれて揺さぶられて頂点に追い上げられているのだろう、艶を増して大きくなるばかり。
 「うるせえよ」
 軋り音が鳴るほどに奥歯を噛み締める、強く強く噛み締める。獣じみて生臭い息遣いもベッドが壊れそうに軋む音もしどけなく放り出された踝がシーツを蹴る悩ましげな衣擦れの音も甘くぬれた吐息もうるさい、うるせえ。耳に入ってくるな消えちまえ、もう俺にかまうな、かまわないでくれ。頭を抱えるように背中を丸めてうずくまる、通気口に蓋をしたい、塞いじまいたい。なんで俺は通気口の鉄格子に手が届かないんだ?もうちょっと身長があれば鉄格子を力任せに揺さぶって『黙れ』と吠えることができるのに。
 「あっ、まだだめっ、やめ……」
 「なにがだめだよ、もう準備万端じゃねえか」
 「もう本当に勘弁してくれ、体がもたねえ……」
 「なに言ってんだ、まだ三回しかイッてねえじゃんか。おたのしみはこれからだ」
 「死ぬ、こんなの死ぬ」
 「じゃあ死ね、腹上死しろ。いや、この場合は腹下死か?」
 隣。向かい斜向かいその隣隣隣。延延と連鎖する房という房は内部に設けられた通気口で全部繋がってて声がだだ漏れの状態だ。哀願懇願嘆願、それを鼻で笑う客の悪態罵倒呪詛そして舌打ち。時折聞こえてくる肉と肉がぶつかる鈍い音は粗相をやらかした囚人が折檻されてる音だろうか、客の怒りを買ったガキが床に手をついて泣いて謝って、その謝罪が終わらないそばから口にペニスを含まされて嗚咽だか苦鳴だか判断しがたい苦しげな声でうめいてる。
 いつまで続くんだろう。
 長時間耳をおさえこんでたせいで鼓膜が麻痺し、掲げっぱなしの手首は血液が降りて白く強張ってる。短い休憩時間を終えて帰って来た売春班の面々がまた客をとりはじめてから何分、何時間が経つんだろう。俺はあと何時間この声を聞いてればいいんだろう、あと何時間我慢すればいいんだろう。

 帰りたい。

 本当に唐突に、水面に浮上した泡のようにその言葉が意識の表層で象を結んだ。帰りたい?どこへ?俺が帰る場所なんてどこにもないのに、迎えてくれる人間なんてだれもいないのに。俺が帰ってきたからって喜んでくれる人間なんかだれも、ひとりもいないのに。
 そうだろ、お袋。
 お袋の口から「おかえりなさい」なんて聞いたことがない、ノブに手をかけてがちゃりと捻った拍子に灰皿ぶん投げられたことはあっても笑顔で迎えられたことなんかない。俺はお袋にとって厄介者だった、疫病神だった、自分を捨てて女と行方をくらました憎い男の忘れ形見で俺の顔を見るたびにやり場のない憎しみを懇々と募らせてたはずだ。
 池袋のアパートにはいまさら帰れない。お袋のところには顔を出せない、どうせ拒絶されるのが目に見えてる、なんで帰ってきたのかと白けきった目で侮蔑されるのが目に見えてる。いや、どうせ帰れないんだ。俺の懲役は18年だけど懲役を終える前に東京プリズンで死ぬかもしれない。水しか口にしてない今の状態が続けば遠からず確実に餓死するだろうと断言できる。
 じゃあ、俺はだれのところに帰ればいいんだ?
 答えなんかはなから期待してなかったのに、その支離滅裂な問いに反射的に思い浮かべたのは見慣れた顔。明るい藁束のような茶髪を後ろに流して襟足で一本にまとめ、切れ長の双眸に薄茶の瞳を嵌めこんだ甘い顔だちの男。せっかくの美形を台無しにする品性卑しい薄笑いを浮かべた男の面には腐るほど見覚えがある、東京プリズンに収監されてからのこの一年と半年間ずっと一緒にいた……
 レイジ。
 バカだ。見返りを期待するのはもうやめたはずなのに、俺はまだ心のどこかで期待してる。一縷の希望を捨てきれないでいる。あいつにひどいことを言ったのに、俺のことを心配してくれたあいつにひどい言葉をぶつけて追い払ったのにまだあいつの隣に居場所があると思ってやがる自分が調子よすぎて笑えてくる。自分で自分が帰る場所をつぶしておいて今更なに調子いいこと言ってるんだ、虫がよすぎるにも程がある、自分に反吐が出る。
 もうあいつのことなんか忘れろ、忘れちまえ、覚えてたってなにもいいことなんかない。もう俺の夢に図々しく顔だすな、胸糞悪いツラ見せるな。何も知らないくせに『がんばったな』なんて言うな、俺はそんなこと言ってもらう資格なんかないのに。 
 あの時、鍵屋崎の嗚咽に背中をむけてベッドを扉に押し付けた時点でそんな資格は奪われたのに。
 強く強く耳をふさぎ強く強く目を閉じてレイジのことを忘れようとする、何が何でも忘れようとする。もうこんなみっともない真似やめろ、自分をみじめにするだけだ。レイジが会いにきてくれるわけないのに、またレイジと軽口叩けるかもしれないなんて淡い期待を抱いたぶんだけ報われなかった喪失感は大きいのに。
 こうなったらなにがなんでもレイジへの未練を断ち切ってやると半ばムキになって奴の顔を打ち消そうと努め、

 扉が開かれる。

 「!」
 開かれたのは俺の房じゃない、隣の……鍵屋崎の房の扉だ。鍵屋崎の房に客が来たのだ。それまで俺は周囲から押し寄せてくる声の混沌からバリアを築いて身を守るのに精一杯で隣の房でひとりぼっちの鍵屋崎がどうしてるかまで気が回らなかった。存在感を消してたから気付かなかったのかもしれない。鍵屋崎の房に客が来た。その事実が脳細胞に染み渡り、これから待ち受けてる展開を予想して息苦しいほどに動悸が速まる。
 耳を澄ます。通気口から聞こえてきたのはかすかな話し声。鍵屋崎と客が何かを話してるが声が小さくて内容までは聞き取れない。この後の展開を予想して食い入るように通気口の奥の闇を凝視する。
 衣擦れの音。
 自発的に脱いでるのか無理矢理脱がされてるのかわからないが、乱闘の物音が聞こえないことから察するに諦念して自分で脱いでるのだろう。生唾を飲み込み、瞬きも忘れて通気口の闇を見つめる。辟易したような表情で上着を脱いで裸の上半身を晒した鍵屋崎の姿があざやかに脳裏に浮かぶ。男にしておくのが惜しいような白い上半身に散っているのは淫らな行為の痕跡を留めた赤い痣……無数のキスマーク。実際目撃してるわけでもないのに壁越しの光景を肉眼で見るように立体的に想像することができるのは耳が異常に敏感になってるからだ、極限状況下で研ぎ澄まされた聴覚は俺が聞きたくない物音や声まで漏らすことなく拾い上げてしまう。 
 衣擦れの音が二人分重なり、両者裸になり準備万端―

 その時だ、シャワーのコックが捻られたのは。

 「………」
 コンクリートの床を叩く水音、蒙蒙と立ち昇る水蒸気が視界に浮かぶ。それが合図だった。ぴたりと耳をふさいで頭を抱え込む。この三日間、鍵屋崎の房に客が訪れる度にしてきたことだ。壁越しにシャワーが捻られ湯が出しっぱなしにされる。シャワーを出しっぱなしにすれば声は水音にかき消されて俺のもとまで届かないと鍵屋崎は計算してるのだろう。声を消すにはどうすればいいか冷静に計算できる、ということはまだ一握りの理性が鍵屋崎の中に残ってる証拠だ。鍵屋崎の声を聞かずに済むことよりそっちに安堵する。
 でも、頭の片隅に醒めた理性を残したまま行為に挑むのは本人にとっちゃより辛いかもしれない。  
 そんなことを漠然と考えてるうちにコトが始まったようだ。裸足の足裏が床を浸した水溜りを弾く音、頭上から降り注いだ湯が肌を叩く音。今頃どんな体位をとらされどんな行為を強いられてるんだろう?俺にみっともない姿を見せたくないと強情張ってる鍵屋崎のプライドを守る為にも考えないようにしたいが、考えないようにしようとすればするほどそのことばかり考えてしまう。
 固唾を呑んで殺風景な壁を見つめる。今、この壁の向こうで何が行われてるのだろうか。
 知りたい気持ちと知りたくない気持ちがはげしくせめぎあっている。葛藤。思考の悪循環に悪酔いしながら灰色の壁を眺めていたら耳朶を打つノック音。どこから聞こえてくるのだろうと通気口を見上げて音源を辿り、今まさに鍵屋崎が客を相手してる房から聞こえてくるのだと気付く。何の音だ?不審を募らせて壁に歩み寄り、ちょうど音が響いてくる高さに五指を置く。

 ああ、わかった。わかってしまった。

 音の正体に気付いた途端、俺は無力感に打ちしひしがれて深く深く頭を垂れた。壁越しの鍵屋崎に謝罪するように頭を下げた姿勢をとり、やりきれなさに震える拳を顔の横にあてがい、発狂したように咆哮したくなる衝動を血が滲むほどに唇を噛み締めてなんとか封じて。
 鍵屋崎が今、どんな姿勢をとらされてるかわかった。壁に手をついた前傾姿勢をとらされ、後ろからはげしく責め立てられているのだ。そうやって壁に両手をついて屑折れそうな上体を支えながら、力一杯奥歯を噛み締めて悲鳴を殺して迸るシャワーに打たれている。シャワーの奔流に上気した背中を打たせながら無理を強いた姿勢をとり、断続的に突き上げられる反作用で助けを求めるように壁を叩いているのだ。拳で。
 平手にした五指を折り曲げ、やり場のない怒りと無力感を噛み締めながら壁をかきむしる。拳に握り締めた手を体の脇にたらし、震える。たぶん本人も無意識にやってるのだろう、助けを求めてるつもりなんかこれっぽっちもないんだろう。だが俺にはそう聞こえてしまう、俺が奴に対して抱いてる罪悪感を反映した幻聴かもしれないがそう聞こえてしまうんだからどうしようもない。でも、助けを求められたところでどうしようもない。今の俺になにができる、男にヤられるのいやさに駄々こねて閉じこもってる腰抜けになにができる?今すぐにでも壁をぶち抜いて鍵屋崎を助けることができたらどんなにいいか俺だってそう思う、でも無理なんだ、できないんだ。俺はやっぱり自分がかわいくて男にヤられるのは絶対いやで、壁一枚挟んだ隣部屋で鍵屋崎が今どんな酷い目に遇ってても指一本動かせないんだ。  
 何かを訴えるように連続していたノック音が次第に間隔をおき、弱まり、たどたどしくなってゆく。
 壁を叩く音に諦念が滲み始めている。こんなことをしても無駄なのに何をやってるんだろう、という自嘲的な響きもある。俺は金縛りにあったようにその場に硬直して、ノック音がだんだん小さく、よわよわしくなってくのを何もできずに聞いてるしかなかった。
 最後は本当に小さな音だった。壁を震動させて耳朶を打つ力もないほどよわりきったその音はそれまでのどんな音よりも、俺がこの三日間に聞いたどんな絶叫や悲鳴よりも長く長く耳に残り、直接心臓を打った。
 「不好意思」
 『ごめん』
 壁に手をつき頭を下げる。結局俺はこんなことしか言えない、鍵屋崎が辛いのになにもしてやれない。他の連中だってそうだ、毎日のように男に犯されて体を引き裂かれて泣いてるのに俺は卑怯にも知らん振りを決め込んでる。
 壁に額を擦りつけるように頭を下げて、ようやく思い出した。

 イエローワークに居た頃、俺がお呼びじゃないお節介を焼いてたびたび鍵屋崎を助けてやってたのは見返りを期待してたからじゃない。
 ただ、放っとけなかったんだ。
 弱音なんか一度も吐かず、なにもかも全部ひとりで抱えこもうとしてるアイツのことが気になってしょうがなかった。とっさに体を動かす時に打算なんてない、見返りとか報いとかそんなの全部後付けの感情だ、頭で考えるよりはやく体を動かしてアイツを助けちまってからその反動で湧き上がってきた衝動だ。

 「やっぱり最低だ、俺」
 中途半端に首つっこんで、中途半端に助けようとして、その結果がこれだ。
 いちばん辛い時に手をさしのべてやらないような人間がそれまで偽善を積んだ見返りを求めたからって報われるわけがない。 
 ノック音が完全に途絶え、シャワーがとめどなく床を叩く音だけが寒々しい空間に満ちる。壁に拳をおいたまま崩れるように膝を折ってずり落ちれば扉越しに足音が近付いてくる。顔を上げる。まただれか喧嘩を売りに来たのだろうか。それともタジマ?壁に手をついて立ち上がり、よろよろと蛇行しながら扉に歩く。懲りずに喧嘩を売りに来たバカだったら顔面に唾でも痰でも吐いて追い返してやる、タジマだったら……どうしよう。頭突きでもしてやるか。
 飽和した頭でどうでもいいことを考えながら扉の手前で立ち止まり、少しだけベッドをずらして隙間を広げる。斜めに傾いで扉ふさいでるベッドの上に飛び乗り、目を三白眼に据わらせて隙間を覗き―
  
 腰を抜かしそうになった。
 扉の向こうにいたのが、俺が会いたくて会いたくて、でもそんなの叶いっこねえと自棄になってた奴だから。

 俺と目が合ったそいつは少しばつが悪そうにはにかみ笑い、片手を挙げた。
 「よ」
 レイジだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060206201533 | 編集

 レイジの顔を見た瞬間、力一杯扉を閉じた。
 「おい!?」
 鼻先で扉を閉じられたレイジが拳で追いすがるが背中で扉を押さえて無視、無関心を決めこむ。
 「それが三日ぶりに来てやった同房の相棒に対する仕打ちか、開けろよ恩知らず!」
 両拳が扉を乱打する騒音とレイジの金切り声を鉄板越しに浴びながら俺はすっかり気が動転していた。なんでレイジがここにいるんだ?四日前の夜に絶縁状を叩き付けたはずなのに、喧嘩別れして愛想尽かされたはずなのに。俺だってこんな風に扉を閉め切るつもりはなかったんだ、でもレイジの顔を見た途端体に染み付いた反射行動でついうっかり……だって、なんで今更?なんで今更レイジが俺なんかの所に?わけわからねえ、夢を見てるんじゃないか。自分がやったことを帳消しにしてレイジとまた軽口叩けるんじゃないかっていう都合のいい夢。眠気覚ましに頬を抓ってみたが痛い損で、ということは俺はどうやら起きているらしいが背後のノック音はまだ止まない。次第に熱を帯びて嵐のようにはげしくなりつつあるノック音に振り返り、断続的に震動する扉を見つめ。
 「うるせえ、おまえの顔なんか見たくねえ!」
 ああ、俺は手におえないバカだ。
 なんだって今、よりにもよってこんな台詞を吐いちまうんだ。売り言葉に買い言葉の愚をこりずに繰り返す気か。背中を扉に密着させ両腕で扉をふさいで癇癪を起こしたガキのように叫ぶ。
 「いまさらなんで会いに来たんだよ、三日も経ってのこのこツラ見せるんじゃねえよ!目ざわりだって言ったろ、お前の胸糞悪いツラが見えなくなってせいせいしてたのによっ」
 そうだ、なんで今更のこのこ会いに来たんだ?何もなかったようなツラして、何もなかったようなフリして。俺はコイツにひどいことを言ったのに、ひどいことをしたのに、なんでいつもどおりの笑顔を引っさげてやってくるんだ。俺はどんな顔してレイジの面を見たらいいのかわからないのに、レイジと面と突き合せて開口一番どんな台詞を吐けばいいかわからなくて混乱してて頭の中はぐちゃぐちゃなのに、心の準備も何もしてなくて無防備に扉を開けたらレイジがいて心臓が喉から飛び出そうな位びびったのに。
 「余計なことすんなよ、だれが見舞いにきてくれなんて頼んだよ、俺とお前はもうなんも関係ねーのにうざってえことすんなよ!」
 違う、こんなこと言いたいんじゃない、こんな憎まれ口叩きたいんじゃない。本当は嬉しいくせに、三日ぶりに再会したレイジが風邪ひいてなくてぴんしゃんしてて、俺が知ってる普段通りのレイジでいてくれて凄く嬉しいのに口が勝手に動いてしまう。レイジに動揺を見抜かれるのは癪だ、すげえ癪だ。アイツの目は苦手だ、俺の心の奥底まで見透かしてしまいそうな色硝子の瞳だ。俺がこの三日間どうしてたかレイジと目が合えば一瞬で見抜かれてしまう、いやだ、冗談じゃねえ。だれがこの三日間寝ても覚めてもレイジのこと待ち焦がれてたってんだ、べつにコイツなんかいなくたって……
 「そうかよ、じゃあ好きにしやがれ!」
 一際大きく扉が震えた。
 怒りに任せて扉を蹴り上げたレイジが靴音高く去ってゆく気配にハッと顔を上げ、耳をふさいでいた手を下におろす。荒廃した廊下にこだまする硬質な靴音が次第に遠ざかってゆく。
 ベッドに膝立ちの姿勢で呆然と扉の表面を凝視する。レイジに追いすがるように扉の表面に手をあててると鋼鉄の質感と無機質な冷気が指に染みてくる。またやっちまった、俺はバカだ、大馬鹿者だ。これじゃ四日前の繰り返しじゃないか、折角俺を心配して見舞いに来てくれたレイジにひどい言葉をぶつけてろくに顔も見ずに追い返して……レイジの靴音が彼方に遠ざかってから放心状態でいた俺はようやく正気を取り戻す。体の奥底から湧いてきた衝動に突き上げられてベッドに立ち上がり高々と拳を振り上げてレイジの名を呼ぼうとする、呼び止めようとする。意地なんか張ってる場合じゃないだろう、他に言いたいことがあるはずだろう。大きく深呼吸して口を開く。思い出すのは酷寒の冷気に満ちたアパートの外廊下、情夫を連れ込んだお袋に閉めだされて、それでも諦めきれずにドアを叩きまくってた苦い記憶。
 頼むから行かないでくれ、見捨てないでくれ。
 「レイ、」
 「ああっ、畜生!」
 喉も破れよと悲痛な声をあげようとして、廊下に響いた突拍子もない声に拳を止める。脳天から奇声を発したレイジが廊下で地団駄踏んで大股に戻ってくる、大手を振って憤然と引き返してきたレイジがほんのわずかな扉の隙間に無理矢理手を入れてこじ開ける。
 そして、ヤケ気味に叫ぶ。
 「おまえが俺の顔見たくなくても俺はおまえの顔が見たいんだよ、いやなら力づくでこじ開けるぜ」
 なんだよ、それ。
 「…………」
 扉を押さえていた腕から力が抜けてゆく。無茶苦茶な要求に全身脱力、虚脱状態に陥ってベッドに尻餅ついた俺の前で隙間が広がっていき、その隙間からぬっとレイジの顔が現れる。ふてくされたような拗ねたようなガキっぽい表情。
 「……思ったより元気そうだな」
 扉を背にして床に胡座をかいたレイジが憮然と呟く。レイジの顔を見るのが照れくさく、というかあんなでかい口叩いた一瞬後にはめちゃくちゃに拳を振り回してレイジを呼び止めようとした自分の行動が顔から火が出るほど恥ずかしくなってレイジと背中合わせに蹲る。
 居心地悪い沈黙。
 膝を抱えて蹲りながら扉越しにレイジの気配を感じる。分厚い鉄扉に阻まれていてもレイジの存在感は揺るがず、相棒に背中を守られてる現状に心強い安堵感を覚える。相棒?その連想に動揺する。俺はいつのまにか、レイジのことを相棒だとかそういう風に思ってたのか?俺の動揺をよそにレイジは胡座をかいて扉の前に居座ったまま奴らしくもなく押し黙っていた。内部に設けられた通気口からは依然として聞くに堪えない嬌声が漏れてくるし、売春班のガキが客に虐げられて泣き叫ぶ阿鼻叫喚の地獄が壁一枚隔てた向こうに在るのは動かし難い事実なんだが、俺とレイジの周囲だけがバリアを築かれてでもいるかのような静寂に包まれていた。
 息の詰まる沈黙に嫌気がさし、口火を切ったのは俺だった。 
 「……風邪ひいてねーか」
 「あん?」
 レイジが振り向く。怪訝な顔をしたレイジに見つめられて続く言葉を失いそっぽを向く。 
 「バカは風邪ひかねえって鍵屋崎が言ってたから直接聞いてみようかと」
 四日前、房から閉めだされたレイジがどうしてたか知らないが一晩中廊下をさまよってたなら風邪をひいててもおかしくない。曖昧に口を濁して顔を背けた俺を不思議そうに観察していたレイジの目に理解の光が点り、一瞬後には稚気が閃き、俺がよく見慣れたいつもの笑顔が戻ってくる。
 「心配してくれたんだ」
 「バカ言え」
 「照れるなよ」
 「照れてねえ」
 「腹へってないか」
 「?」
 突然話題を変えられて反射的に顔を上げる。扉の隙間に顔をくっつけて廊下の様子を窺えばすぐ目の前に胡座をかいたレイジが腕に何かを抱えていた。なんだろう?レイジが大儀そうに懐に抱いていたのはコーラの瓶が二本とでかいアルミ缶。一抱えもあるアルミ缶の蓋を開けて手を突っ込み、なにやらごそごそと漁りながらレイジが続ける。
 「だと思って食料持って来たぜ」
 口笛を吹く格好に唇をとがらせて音痴な鼻歌を奏でながらアルミ缶の中を漁るレイジの背中を毒気をぬかれて眺める。またレイジの鼻歌が聞ける日がくるとは思わなかった、相変わらず進歩がなくてへたくそだ。鍵屋崎の爪の垢でも煎じて飲めばいいのに。にも関わらずレイジの唇から流れたでたらめな歌が耳朶にふれた途端、不覚にも涙腺が緩みそうになって慌てて俯き加減になる。
 「ほい」
 鼻孔の奥につんと熱い物を感じて俯いた俺の前へと突き出されたのは扉の隙間を通ってきた一本の手。そして、俺の鼻先に突きつけられたのは……
 「なんだこれ」
 「乾パンだよ。知らねえ?非常食で保存がきくんだ」
 おもわず受け取ってしまって首を傾げる。レイジに無理矢理握らされたそれは乾燥したパンのような無味乾燥な保存食だったがこの状況でえり好みしてられない。というか願ってもない差し入れだ、この三日間水道水しか口にしてない俺にとっちゃ歯応えあって胃にためることができる固形物ってだけで有り難かった。左手に一掴み受け取った乾パンを右手でつまみ、頭上に翳してためつすがめつしてから口に放りこむ。噛み砕く。嚥下する。
 味わう余裕があったのはそこまでだった。
 一心不乱に乾パンをがつがつむさぼり食う、噛み砕く、飲み下す。それから先は延延と咀嚼と嚥下の繰り返し。乾パンを口一杯につめこんで頬を不恰好に膨らませた俺の背中越しに何かを噛み砕く乾いた音。どうやらレイジも乾パンを食ってるらしい、アルミ缶の底を探るごそごそ言う音と小気味良い咀嚼音が代わる代わる聞こえてくる。
 そのまま脇目もふらずに乾パンにがっついてたら能天気な声が聞こえてくる。
 「なあ知ってる?」
 「はんだよ」
 口に物が詰まってる状態で言葉を返したせいでくぐもった発音になってしまった。扉の向こう、俺よりは遥かに余裕ありげに乾パンを齧りながらレイジがとんでもないことを言い出す。
 「乾パンにキャビアのせて食うと美味い」
 豪快に咀嚼した乾パンを飲み下そうとして喉に詰まりかけた。
 「食ったことあんのかよ」
 「あるから言ってんだよ」
 「……まさか今やってんじゃねーだろな」
 はでに咽ながら追及すれば鼻歌でごまかされた。 
 「おい」
 脳の奥で疑惑が膨れ上がる。扉に手をかけて隙間を広げて覗き込めばレイジは鼻歌まじりに乾パンを掲げ、膝の上にはポケットにでも入れてたのだろう缶詰を開け、用意がいいことに右手に握ったナイフで乾パンになにやら黒い物を塗りつけていた。
 キレた。
 「おいレイジこっちむけ!ひとの話聞けよ!」
 扉をどんどん叩いてこちらに注意を向ける。乾パンにキャビアを贅沢に塗りたくりながら鼻歌まじりに振り向いたレイジの面に殴りかかりたくなる衝動を抑え、器用に片眉を動かして視線で「何?」と問うてきた奴に有無を言わせず要求する。
 「………俺にもくれ」
 扉の隙間から居丈高に片手を突き出す。言うまでもなくてのひらに乾パンを盛った方の手だ。自慢じゃないが俺は今までの人生でキャビアなんて贅沢品食べたことない、その手の届かない贅沢品を、貧乏人垂涎の的のキャビアを目の前の男が独り占めしてるのを放っておけるか。俺もご相伴にあずからなきゃ気が済まねえ……意地汚い自覚はあるから何も言わないでくれ。レイジはとくに拒むことなく、かえって嬉しそうに俺の手の中の乾パンにキャビアを一匙乗っけてくれた。ずいぶん気前がいいなとほんの少しだけレイジを見直す。生まれて初めて口にするキャビアに手が震えそうになるのをこらえながらゆっくりと口へと運び……
 「………塩辛い」
 拍子抜けした。
 「舌が貧しいから」
 「あん?ばかにするなよ、だれの舌がまずしいんだよ」
 「よく味わって食えよ、一缶万単位の高級品だぜ。庶民だって一年に一回食えるかどうかって代物なんだからお前みたいな貧乏人は一生に一回食えるかだ。で、その一生に一度の機会は今ここで使っちまったからこの先二度と訪れねえってわけ」
 癇にさわることこの上ないレイジの笑い声を無視し、憮然とした面でキャビア盛りの乾パンをぺろりとたいらげる。塩辛いだけであまり美味く感じなかったのはレイジの言う通り味覚が貧しいからか?奴の言うことを認めるのは癪だが滅多に口にする機会がない贅沢品には違いないし、俺が刑務所にいるかぎりキャビアなんかにありつける機会はもう二度巡ってこないと断言できるから意地汚いのは百も承知で指を舐める。舌を出してパン屑を舐め取りながら三日ぶりの満腹感に浸る。とても足りたとはいえないが胃袋がからっぽじゃなくなったぶんずっとマシだ。これで腹が減りすぎたのが原因で眠りたいのに眠れないなんてどっちつかずの状態から脱却できるだろう。
 と、扉の向こうでまたレイジがなにかやりだした。ぷしゅっと気が抜ける音に連続したのはアルミの蓋が床に落下する音。指を口に含んだ格好で膝這いに扉に這い寄る。なにやってんだアイツと不審げに隙間を覗いた俺の鼻先に突きつけられたのはコーラの瓶。
 「こないだ約束したろ、飲ませてやるって。俺の好物のポップコーラ。フィリピン産だし入手困難だよなって半分あきらめてたんだけど第二次ベトナム戦争に派遣された米軍が持ち込んだ奴が今日本に出回ってるらしい、コネのある看守が仕入れてきてくれたんだ」
 思い出した。こないだ食堂でレイジが言ってた気の抜けたコーラか。あのとき冗談半分で交わした会話を有言実行してしまうなんてさすがは王様、実力が伴う権力者はやりたい放題だ。手渡されたコーラに口を付け飲み下す。
 レイジがにやりと笑う。
 「飲んだな?間接キスだ」
 「大丈夫ちゃんと拭いた」
 レイジが考えてる事なんかお見通しだ、服の裾でさっと瓶の口を拭いた。俺の反応を楽しみにしてたらしいレイジが情けない顔をする。
 「……なあ、本当のこと言ってくれ。俺のこと嫌い?」
 「思い上がるな」
 手酷い仕打ちにあった乙女のように今にも泣きそうな顔のレイジが聞いてくるのにそっけなく答え、瓶を逆さにしてコーラを飲み干す。
 「『嫌い』じゃなくて『大嫌い』だ」
 一気に中身を飲み干し、からになった瓶をレイジに突っ返す。どこまで本気なんだか、傷心のレイジが哀しげにため息ついてコーラの空き瓶を受け取る。そのさまがあんまり情けなかったもんだから我慢できずに笑っちまう、レイジに背中を向けたまま喉を鳴らして笑ってるとホッとしたような吐息が耳朶をくすぐる。
 「ようやく笑ったな」
 笑いを引っ込めて振り向けばレイジが安堵を隠しもせずに笑み崩れていた。周囲に快活さを振りまく底抜けに明るい笑顔を見てるうちに舌がかってに動き、今まで必死に目をそむけてきた本心を口に出しちまう。
 「この前は悪かった」
 「?」
 コイツ本気で忘れてるのか、と危惧すら抱かせるほどの天然ぶりでレイジが首を傾げる。いや、コイツの場合演技かもしれないから尚更タチが悪い。内心忸怩たるものを感じつつも俺の口は止まらない、今まで心の奥底に追いやって必死に目をそらしつづけていた感情が堰を切ったようにあふれだして俺を突き動かす。
 「死んじまえなんて本気で言ったんじゃない。たしかにおまえは女たらしでろくでもない奴で寝言がうるさいし、週に二・三回は寝込み襲われておちおち寝てもいらねえしすっげえ迷惑してるけど……すぐ横で気持よさそうに寝息たててるお前の寝顔見て、なんでこんなトコでぐっすり眠れるんだろうって。熟睡中に誰かに襲われたり口ふさがれたりするの怖くないのかって、そう思ったらなんだか無性に腹が立って。俺は寝てる最中もいっつもびくびくしてるのに、お前がそうやって熟睡できるのは自信と実力の表れで……」
 言ってることが支離滅裂だ。相当ヤキが回ってるな、俺。でも止められない、今まで腹の底にためにためこんできた様々な感情が一気に噴き上げてきて口を動かしてるのだ、レイジに対する劣等感とか嫉妬とか羨望とかそう感じてしまうことへの自己嫌悪とか無力感とか全部ごっちゃになって訳わからなくなってきた。俺は鍵屋崎と違って頭良くないんだから考えすぎて煮詰まって墓穴掘るに決まってるのに。
 でも、これだけは言いたい。
 ちゃんと誤解を解いておきたい。あの時俺が飲みこんでしまった言葉を一対一で言わせて欲しい。
 「監視塔のときだってそうだ。俺がシャワー室の帰りに拉致られたら助けにきてくれた、でも素直によろこべなかった、だって俺は強い男になりたかったから。ガキの頃からずっと思ってたんだ、自分の身くらいちゃんと自分で守れるような強い男になりたいって、自分が好きな女や自分のガキとか……ついでにお袋とか、身の周りの人間もちゃんと守ってけるような男になりたいってずっとそう思って俺なりにやってきたんだ。喧嘩の腕を磨いて一対一の勝負じゃ負けなくなって漸く自信がついたのに……」
 レイジの顔を見れない。
 こんな顔を見せたくない、ぐだぐだ弱音吐いていじけてるこんな情けない顔を見せたくない。膝を両手で抱いて顔を伏せる、続ければ続けるほどに胸の痛みがはげしくなるのに耐えて意気地のない本音を吐露する。 
 「東京プリズンに来たら全部変わっちまった。俺は全然弱くてカッコ悪いガキだし、危なくなったらいっつもお前にたすけてもらってて、その癖自分じゃだれも助けられなくて」
 鍵屋崎のことも助けられなくて。
 見殺しにして。
 「タジマはおっかねえし、あいつが警棒に手をかけると条件反射で身が竦んじまうし。あんなブタびびるに値しねえって頭じゃわかってんのに体が言うこと聞かないんだ、かってに震え出すんだ。外にいた時は大人数相手の喧嘩だってびびったことねえのにタジマひとりに怯えて腰ぬかして、すげえかっこわるいだろ。あんな風に怯えたのってガキの頃以来だ、足が竦んで逃げることもできなくて……ザマあねえよ、自分じゃ幾つも修羅場くぐりぬけて強くなった気になってたのにココに来て全部ひっくりかえされた」
 俺はもうお袋に殴られっぱなしのガキじゃないのに、自分の身くらい自分で守れると高を括ってたのに。
 俺だけじゃない、そのうちできるだろう大切なだれかを守れるくらい強くなった気でいたのに。強くなりたかったのに。将来俺が好きになった女とかその間に出来たガキとか絶対殴ったり蹴ったりせずにちゃんと守ってやるってあの寒空の下で決意したのに今の俺ときたら何ひとつ実行できてないじゃんか。タジマにやられっぱなしで何もやり返せなくて、壁の向こうで鍵屋崎が酷い目にあってても知らん振りを決め込むことしかできなくて、こんな情けない俺は俺がなりたかった俺じゃない。

 俺はレイジみたいに強くなりたかった。
 今わかった。俺はずっとレイジが羨ましかったんだ。

 「……ガキだ、俺」
 レイジが面倒見切れなくなって当然だ。レイジの寝顔を見るたびに腹を立ててた自分が情けない。突き詰めればレイジに対する劣等感を裏返した愚にもつかない嫉妬じゃねえか。にもかかわらずレイジにガキっぽく八つ当たりして今もこうして湿っぽい愚痴をこぼして……膝を抱えてうなだれた俺の背後、レイジが後頭部を仰け反らせて鉄扉によりかかる気配がした。隙間から覗けば片膝立て、もう片方の足を無造作に投げ出したなげやりな姿勢でレイジは天井を仰いでいた。
 「あのさ、ロン。勘違いしてねえか」
 一呼吸の間。面映げに鼻の頭を掻きながらレイジが呟いた言葉に耳を疑う。
 「俺がぐっすり眠れるのはお前が隣にいるからだよ」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060205201644 | 編集

 「は?」
 予想外の言葉に面食らって扉にしがみつけばレイジはやや不自然に明後日の方向を向いていたが、その耳朶が真っ赤に染まっていた。
 なんだよ、どういう意味だよ、俺と安眠がどう関係あるんだよ。脳裏で際限なく増殖してゆく疑問符とは裏腹に頬が火照るのはレイジの動揺が空気感染したからだ。なんだこの微妙な雰囲気?落ち着きをなくしてベッドに胡座をかき、レイジと背中合わせで押し黙る。
 「……わけわかんねえ、なんで俺が関係あるんだよ」
 「突っこむなよ」
 「突っこまれるような答え方すんなよ」
 「うるせえな、あんまりしつけーとデコピンするぞ。ガキの頃から積んだ修行の成果で射撃の腕前は百発百中なんだ」
 傍らに置いていたコーラの空き瓶に銃を模した指をむけて自信満々うそぶいたレイジが聞いてもないのに続ける。
 「こうやってポップコーラの空き瓶を並べてパチンコで順番に撃ってくんだ。外した試しなし。懐かしいなあ……ロンはガキの頃どんな遊びしてた?」
 「麻雀牌でドミノ倒し」
 「なんだそれ」
 「麻雀牌を並べて倒すんだよ。やってるうちに結構癖になる……なんだよその人を哀れむような目は。ダチいなかったんだから仕方ねえだろ、悪かったなネクラで。部屋中に麻雀牌転がってるような環境で育ったんだからよ」
 「いやいや悪いなんて言ってねえよ。最も自分の額撃っちまうような不器用が並べたドミノを途中で倒さずに完成させることができるか怪しいけどな。あ、その仏頂面は図星?」
 銃を真似た指を小粋に吹きながらにやにや指摘してきたレイジを不機嫌に睨んで膝に顎を埋める。
 「ほっとけ。どうせ俺はなにやっても報われねえよ」
 図星を射されて不快感をあらわにした俺。膝を抱えて蹲った頑固な背中に何を思ったか、軽薄な笑みをかき消したレイジが扉に背中を預けて足を投げ出し、ほとほとあきれたようにかぶりを振る。
 「お前の口癖は『報われない』だ。報われない報われない報われない何やっても報われねえ。不毛な繰り言で人生浪費するなよ」
 「おまえになにがわかんだよ?」
 あまりの言い草にカッとして振り向く。拳に固めた手を体の脇で握り締め、三白眼に据わらせた目でレイジを睨みつける。その拳から徐徐に力が抜けてゆき気勢を殺がれたように肩が落ちてゆく。力なくほどいた五指を膝に置き深々とうなだれる。
 「……いや、そうだな。『報われない』『報われない』って見返りばっか求めてたから罰があたったんだ。はなから見返りなんか求めず期待なんかしなけりゃよかった、そしたら裏切られることもなかったのに」
 悲嘆に暮れながら呟いた俺の言葉を鋭く聞き咎めたレイジががりがりと頭を掻き毟り、奴らしからぬ苛立ちをこめて叫ぶ。

 「じゃあ報われない報われない言ってるお前に尽くしてる俺はなんなんだよ?!」

 頬をぶたれような気がした。
 いつになく焦燥にかられたレイジの言葉。扉に背中を預けたレイジの横顔は歯痒げに歪んでいた、虚空を見据えた目には激情の波紋が苛烈に生じていた。あっけにとられたようにレイジの横顔を見つめるしかない俺の視線の先、形よく尖った顎を上向けて深呼吸したレイジがゆっくりと目を開く。優雅に長い睫毛が震え、肉の薄い瞼が持ち上がり、強靭な意志を宿した瞳が虚空を貫く。
 「いいか、よく聞けよ。俺はお前を裏切らない、絶対に哀しませたりしない」
 野性的な双眸が眼光の軌跡を描いて虚空を巡り、扉の隙間からまっすぐに俺を射抜く。鼻梁がいちばん映える角度に顔を傾げたレイジが何にも怖じることない強い眼光で俺を射竦めて凶暴に犬歯を剥く。
 闘志と矜持に満ち溢れた無敵の自信家の笑顔。
 「俺を信じろ、ロン」
 「……おまえに賭けたら大損だよ」
 「疑り深いな」
 「信じる要素がないからな」
 「じゃあこうしよう」
 扉の隙間から手をさしいれたレイジが俺の腰を指さす。
 「おまえが持ってる牌で占ってみようぜ。牌の柄を当てられたら俺の勝ち、俺を信頼するだけの価値はある」
 「くだらねえ子供騙しだ。牌の柄なんか占ってどうするよ、信用に足る証拠になんかなんねーよ、適当言ってこじつけるな」
 「負けるの怖い?」
 「バカ言え。俺の数少ない自慢を教えてやろうか?悪運以上に博打運が強いんだよ」
 「よし」
 レイジが挑戦的に微笑む。奴の口先に乗せられてる自覚はあったが挑発されて博打好きの本領に火がついた。負けず嫌いの性だ。ポケットに手をつっこんで入れっぱなしにしといた麻雀牌を握り締める。麻雀牌を強く強く握り締めてからパッと五指を開いて天井高く投げ上げる、放物線を描いて宙に待った牌をレイジの視線が追う。眼前に落下した牌を発矢と掴み取る。
 「がっかりさせんなよ、王様」 
 火に油を注ぐように挑発的に笑ってやる。レイジの眼光が好戦的に輝く。
 「筒子(ピンズ)の1」
 あっけらかんと解答したレイジを上目遣いに探りながら慎重に指を広げ……
 「……正解」
 信じられなかった。
 愕然としてレイジを仰げば本人は器用に片眉を跳ね上げて「ほれ見ろ」とでも言いたげな表情を作った。動揺を取り繕ってそそくさと牌をポケットにしまった俺へと身を乗り出したレイジがさらに追い討ちをかける。
 「おまえが大事にしてる牌も俺を信じろって言ってる。あとはお前次第だ。ピンチになったら名前を呼べ、速攻助けにきてやるよ」
 コーラの空き瓶とアルミ缶を抱いたレイジが「さて」と腰を上げる。てきぱきと帰り支度を始めたレイジに不安が募り、うろたえた声で呼び止める。
 「行くのか?」
 「そろそろ行かねーとテキーラで酔い潰した看守が起きちまうからな」
 レイジが顎をしゃくった方角を見れば見張り役の看守が廊下の壁にもたれてうたたねしていた。顔が紅潮してるのはレイジに貢ぎ物と称してテキーラを飲まされたからだろう。手っ取り早く空き瓶を片付けて立ち去りかけたレイジが「ああそうだ」とまた戻ってくる。
 「これヨンイルから差しいれ。暇してるから持ってってやれって」
 ブラックジャックだった。
 「……もらっとく」
 「そんな顔すんなよ、また来てやるよ。今度はポップコーラ1ダース持ってきてやる」
 「いらねえ」
 「じゃあキャビア」
 「いらねえ」
 「遠慮すんなよ、もうすぐ賞味期限来ちまうんだよ」
 「ちょっと待て、賞味期限切れかけてる奴を俺に食わせたのか?」
 「人聞き悪ィことぬかすな、お前がくれくれ言ったんだろ」
 「王様になりゃなんでも手に入るんだな」
 「俺にも手に入んねえもんあるよ」
 「愛とか誠実さとか……わかった、人望だ。大当たりだろう」
 歯を覗かせて笑った俺の頬にほんの一瞬、何か、あたたかくてやわらかい物が触れる。扉の隙間に顔をくっつけた俺の目の前にレイジの顔が浮かんでる。どこまで本気か判別つかない笑みを浮かべた悪魔のようにキレイな男の顔が。
 「おまえ」
 麻薬さながら退廃の香りが付き纏い、人を堕落させる笑顔。
 レイジにキスされたのだと気付いたのは奴がでたらめな鼻歌をなぞりながら廊下を去りかけた時だった。レイジが五歩ほど離れてから軽く触れるだけのキスをされたと気付いた俺は真っ赤になって気が動転した、いや、レイジにキスされたからって照れてるわけないバカ言えそんなことあるか、男にキスされて喜んでたら俺は変態だ!まあ奴にとっちゃからかい半分の親愛の情の表現なんだろうが俺は男にキスされるのに慣れてない、いや、慣れててたまるか。唯一の救いはファーストキスじゃなかったことだけだ、メイファを抱く前におそるおそる唇奪っといてよかった、本当によかった。初めてキスされたのが男でしかも場所が刑務所だなんて人生真っ暗で救いがねえ。
 『不可能把握、別開弄笑!』 
 ありえねえだろこんなの、ワリィ冗談も大概にしろ!とレイジを罵倒しようとして興奮しすぎて台湾語になってたことに気付く。ドンドン扉を叩いてレイジの歩みを止めようとした俺のすぐ真横で扉が開く。ベッドに膝立ちした姿勢で電流を通されたように硬直する。たった今鍵屋崎の房から出てきたのはさっぱりした顔の客。鍵屋崎を思う存分犯して犯しまくってタマが軽くなったんだろう、うーんと伸びをして独り言にしちゃでかすぎる暴言を吐く。
 「ああ、気持ちよかったあ。あれが噂の不感症か、声あげねえし反応はパッとしなかったが味はまずまずだったな。ケツもこなれて大分使いやすくなってたしダチに宣伝してやるよ、感謝しろ」
 客が大声張り上げてる理由が判明した、固く閉ざされた扉の向こう側で立ち上がる気力もなく床に蹲ってる鍵屋崎に聞かせてるのだ。恩着せがましくうそぶいた客が「また来るからな」と脅し付けるように扉を蹴り上げ、先行するレイジとすれ違いかけた……

 まさにその瞬間だった。

 「ぶぎゃっ!!」
 レイジに足をひっかけられた客がはでにすっ転ぶ。顔面から廊下に突っ伏した客が鼻血を垂れ流しがら怒号を発する。
 「な、なにすんだよ!?」
 「わっりー。手癖だけじゃなくて足癖も悪いんだ、俺」
 反省の色などかけらもないへらへらした口調でレイジが謝罪し、鼻血で顔面朱に染めた客が怒り狂って突っかかっていき、レイジの眼光に気圧されて手前で踏みとどまる。
 「次は間違えて大事なとこ踏み潰しちまうかもな」
 警告、ではなく脅迫。
 廊下に仁王立ちしたレイジが呆然と立ち竦んだ客の股間を一瞥し、タマが縮み上がるような戦慄に襲われた客が内股で逃げ去ってく。廊下を遠ざかってゆく後ろ姿を醒めた目で見送っていたレイジがふと俺の視線に気付いて振り向き、一転して明るい笑顔を浮かべる。
 「鍵屋崎のことは心配すんな。アイツにはサムライがいる、ロンには俺がいる」
 『ロンには俺がいる』
 何でもないことのようにさらりと、まるでそれが当たり前のことのように述べたレイジが肩越しに片手を振って遠ざかってゆく。軽快な大股で廊下を去ったレイジを見送って房に戻れば、背中を扉に預けてずり落ちた拍子にポケットからぽろりと麻雀牌がこぼれおちた。
 膝におちた牌を握り締め、拳を作って顎の下に挟む。

 レイジが言ったように、俺の博打運もまんざら捨てたもんじゃない。
 そしてまた性懲りもなく、淡い期待を持ち始めていることを否定できない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060204201803 | 編集

 「リョウさんどうしたんすかその包帯」
 扉を開けた途端、床に胡座をかいてパソコン画面に見入ってたビバリーがすっとんきょうな声をあげる。注目されるのが嬉しくて跳ねるような足取りで自分のベッドに向かい、すとんと腰をおろす。お尻を落とした反動で元気よく足を跳ね上げ、ベッドに後ろ手ついてリラックスした姿勢をとる。心配げに顔を曇らせ、膝這いに床を這ってきたビバリーを見下ろし、思わせぶりに頭の包帯に手をやる。 
 「鍵屋崎にやられたの。可哀相でしょ?慰めて」
 『鍵屋崎』
 名前を出した途端ビバリーに変化がおきる。ため息まじりに頭の包帯をなで、悲劇に見舞われた子役ぶって同情を引こうとしたらベタな芝居が裏目にでたようだ。伏し目がちに目を潤ませた僕を覗きこんだビバリーの顔にはありありと不審の色が窺えた。
 「リョウさん何したんすか?」
 「べつになにも」
 「前科者の言葉を今更信じられると思います?」
 「ひどい差別だ」
 ショックを受けたふりで胸をおさえたのにビバリーときたら乗ってもくれない。ノリの悪いビバリーからふくれ面でそっぽを向き、足をぶらぶらさせながら白状する。
 「たいしたことじゃない。出張サービス終えて廊下歩いてたらたまたま鍵屋崎と行き違ったんだけど……」
 そうして僕は、ついさっき我が身に降りかかった災難について情感たっぷりに語り始めた。

 鍵屋崎が売春班に配属されて五日目。
 この五日間というもの鍵屋崎は食堂に姿を現さなかった。ひょっとして行き違ってるのかもしれないがどっちにしろ直接本人の顔を見ることができず、鍵屋崎がどうしてるのかわからなくてフラストレーションが溜まる一方のもやもやした状態だった。鍵屋崎が体調を崩してようが男にヤられて痛くて立てなくて寝たきりでいようが別に僕には関係ないんだけど、いじめられっ子がいないと今いち調子でないのがいじめっ子の哀しき性というか因果で、顔が見えないとなると尚更鍵屋崎のことが気になってたのは否定できない。売春班に配属されて五日目にもなると新規メンバーの間にも諦めムードがどんより漂い始め、自暴自棄になって暴れ出す奴やら自殺を図って担架で医務室送りになる奴やら酷い鬱症状を呈して何もない虚空に話しかける奴やらそれぞれ個性的な壊れ方をしだすんだけどさて鍵屋崎はどのパターンだろう?僕が顔を見てない五日の間に精神崩壊起こしてるかもしれない、とてもじゃないけど人前に出られる状態じゃなくて裸電球を消した真っ暗闇の房にひきこもってるのかもしれない。
 そうやって悪い方へ悪い方へ想像をふくらましながら廊下を歩いてたら10メートル先に見覚えある後ろ姿を発見。
 鍵屋崎だった。
 ちょうど出張サービスを終えて房へ帰る途中だった僕はこの偶然に感謝した。いそいそと鍵屋崎に駆け寄ろうとして5メートル背後で立ち止まったのはどうも様子がおかしかったからだ。足をひきずるような歩き方をしてる理由は理解できたけど僕が違和感を感じたのはもっと別の何か、一目でわかる身体的変化ではなく内面的な変化とでも言えばいいのだろうか。鉄の足枷でも括り付けられてるみたいな歩き方にも増して僕の接近を阻んでいたのは背中から放射される威圧感。
 一切の救いの手を拒絶する背中。
 鍵屋崎の人間不信は前からだけど最近は少しマシになったのに、サムライと一緒に食事をとるようになってからは少し雰囲気もやわらいで接しやすくなったのにこの五日間ですっかり退行してしまった。

 他者に歩み寄る惰弱を自らに禁じ、他者に歩み寄られる安穏さえ拒絶する孤独な背中。

 それでも勇気をだして歩み寄った僕を褒めてほしい。僕自身短期間の変貌ぶりに躊躇しなかったといえばうそになるけどこの機を逸したらいつまた鍵屋崎に会えるかわからない、なんたって売春班は一日の殆どを売春通りの仕事場にこもりきりで過ごすんだから。急く足取りで鍵屋崎に接近、後ろ手を組んで声をかける。
 『ご機嫌いかが?メガネくん』  
 鍵屋崎が立ち止まる。脆弱に細い首がゆっくりと巡り、振り向く。
 酷い顔色だった。だるそうに振り向いた横顔には表情が欠落していて眼光ばかりが炯炯と輝いていた。銀縁眼鏡越しの双眸は針のように怜悧に研ぎ澄まされて、鋭すぎて怖い位だった。
 世界中の人間一人残らず自身に危害を加える敵と断じた、殺気走った目。
 『……ご機嫌悪そうだね』
 鍵屋崎の眼光に気圧されながら愛想笑いを浮かべる。鍵屋崎は僕のことを嫌ってる、いや、嫌ってるなんて生易しい言葉じゃ足りない。二ヶ月前なんか下水道に呼び出されて殺されかけたんだから恨まないほうがおかしい。さて、天敵の僕が現れてどんな行動にでるかなと内心わくわくしつつ反応を探ってたんだけど……
 鍵屋崎ときたら、あっさり背中を翻しやがった。
 まるで僕なんて最初からそこにいなかったみたいに、空気に同化して見えなかったみたいな態度で。これにはちょっとムッときた。だってそうでしょう、こうやって一対一でちゃんと言葉を交わすのは二ヶ月ぶりなのに何も挨拶がないなんて。それじゃなくても挨拶した相手に無視されたら腹が立つのに相手が鍵屋崎ときたら猛烈に腹が立つ。
 だからつい、魔が差して。
 余裕ぶって腕組みして、鍵屋崎の背中むかって言い放ったんだ。
 『ねえ、ちょっと聞きたいんだけど』
 立ち止まりもしない鍵屋崎の背中にスッと目を細め、意地悪く口角を吊り上げる。
 『男にヤられてる時妹さんの顔思い浮かべた?』
 反応は激烈だった。
 顔に風圧を感じた次の瞬間横っ面に衝撃、吹っ飛ばされて背中から転倒。背後の壁に激突した衝撃で後頭部を強打、脳みそがはげしく揺さぶられて脳震盪を起こしかける。地震でもないのに天井の蛍光灯が揺れて廊下が急傾斜する。宙を掻くように無力に手をのばして虚空を掴む、眩暈に襲われてすぐに立ち上がることができない。背中を壁に預けて上体を起こそうとした瞬間こめかみをぬるりとした感触が伝う。無意識な動作でこめかみを拭って手に目を凝らせばべったりと赤い血が付着していた。壁に強打したせいで頭が切れて出血してるらしい、やばいなこれ、血の量多すぎない……?背中を壁に密着させ、萎えた膝を励まして立ち上がりかけた体がまた吹っ飛ばされて後ろ向きに転倒。今度は廊下の床でおもいきり背中を打って肺から空気が押し出され窒息しかける。
 僕の襟首を締め上げて馬乗りになってるのは……鍵屋崎。
 怖い顔をしている。眼鏡越しの双眸に苛烈に閃くのは……殺意。それでも顔筋は殆ど動かない、能面めいた無表情の中、目だけに激情が発露してる。目は口ほどに物を言うって諺があるけど鍵屋崎も例外じゃない、これは殺人者の目だ、正真正銘の人殺しの目だ。
 きっと僕は、鍵屋崎に殺される。
 全身に冷水を浴びせられたような戦慄が走り、死に物狂いで四肢をばたつかせて鍵屋崎を振り落とそうとしたが無駄だった。悔しいけど体格じゃ鍵屋崎に利がある、胴に跨った鍵屋崎が無表情に拳を振り上げる。蛍光灯の光を反射した眼鏡が物騒に輝く、そして拳が振り下ろされる。一回、二回、三回、四回。肉が肉を打つ鈍い音が連続する。僕だってこういう経験は一度や二度じゃない、逆上した客に殴りかかられた経験はいやというほどある、仰向けに寝た状態での拳の回避法は身に付いてる。なるべく顔が傷つかないように首を左右に傾げて避けようとしてたけど胴をおさえこまれてるんじゃ身動きできない、息継ぐ間もなく振り下ろされる拳をまともに顔面に受けないようにするだけで精一杯。
 『ちょっ、やめっ、』
 鍵屋崎は暴力の行使を楽しんでない、快感を感じてもいない。拳を振り上げて振り下ろす一連の動作は理性で抑制されているかのように機械的だった。
 『顔はぶたないでよ、ママにも殴られたことないのにっ。ねえ聞いてる、聞いて、き』
 横っ面を殴られて意識が飛んだ。口の中が切れたらしく舌の上に塩辛い血の味が広がる。五回、六回、七回……もう何回目だろう?わからない。頭が朦朧としてきた。殺到する足音。騒ぎを聞きつけた囚人が野次馬がてらダチを誘って駆けつけてきたらしい、口笛と野次と罵声が喧しく飛び交いわんわん耳鳴りを伴って鼓膜に押し寄せてくる。
 『なんだなんだ、喧嘩か?』
 『下になってるのはリョウか。リョウを殴ってるのは……』
 『見たことある面だと思ったらサムライと同房の親殺しだよ!こいつあ珍しい、一体何が原因だ?』
 『痴話喧嘩か?痴情のもつれか?赤毛の雌猫に色仕掛けで迫られて潔癖メガネがキレちまったんじゃねえか』
 『いいや、案外メガネがリョウを買ってコト終えたあとに料金上乗せされてカッときて……』
 くそ、言いたい放題言ってやがる。お門違いな詮索に舌打ちしたい気分だけど続けざまに顔を殴られてそんな余裕もない、口の中は血で満たされて、鉄錆びた血が逆流して喉を焼いて咽返る。歯が折れるのはやだなあ、さし歯なんか格好悪いよ。顔が崩れるのは勘弁してほしいんだけどと頭の片隅、妙に醒めた理性で考えながら虚ろに鍵屋崎を観察する。返り血が付着した拳の向こう、眼鏡越しの目に一瞬だけ波紋を生じさせた感情の正体は……悲哀。変なの、殴られてるのは僕なのに鍵屋崎の方が痛そうな顔をしている。崖っぷちに追い詰められた顔をしてる。
 ああ、こんな顔してるからいじめたくなるんだよ。
 『なんだよ、本当のこと言っただけだろ!毎日のように男に犯されて泣いてるくせに、いや、男に組み敷かれて喘いでるのが本当のところ?』
 僕もちょっとおかしい、無抵抗で殴られっぱなしで完全な劣勢なのに鍵屋崎を侮辱するのがやめられない、とまらない。火に油を注ぐのを承知で声高に笑ってやれば鍵屋崎の顔が羞恥に染まりさらに加速して拳が降り注ぐ。ああ、もう本当にそれ位にしてくれないと。顔が崩れたら商売に支障がー…… 
 『そこ、なにやってるんだ!』
 怒号、足音。
 野次馬の垣根を警棒で薙ぎ払い足音荒く突入してきたのは看守。二人がかりで僕と鍵屋崎とを引き離して、残りの一人が警棒を振り回して物見高い野次馬を追い払いにかかる。『なんだよ、もうおしまいかよ』『折角いいとこだったのにジャマすんなよ、バーカ』と口々に毒づき、捨て台詞を吐いたのが誰か特定されない速さで蜘蛛の子散らすように逃げ去ってく囚人をよそに息も絶え絶えに起き上がってみれば、鍵屋崎が看守に羽交い締めされ肩で息をしていた。
 『一体何があったんだ』
 あきれ顔で問いただした看守を振り向けばラッシ―……五十嵐だった。手足を投げ出して廊下に寝転んだまま、起き上がる気力もなく遠い天井を仰いでいた僕を助け起こし、親切にも肩を貸して立ち上がらせてくれる。
 『ま、喧嘩の原因を追求するのは後回しだ。頭が切れてるな、医務室に行ったほうがいい。お前は……』
 気遣わしげに一瞥くれた五十嵐に鍵屋崎はゆるりと顔を上げる。五十嵐の視線が自分の拳に注がれてるのに気付くと体の脇にたらした手を操り人形めいた動作で持ち上げ、凝視し。
 『拳に怪我をしてるんじゃないか?』
 『違います』
 思ったよりしっかりした声だった。叩きつけるように返した鍵屋崎が右五指を軽く折り曲げ、手の甲に付着した血を見下ろす。
 眼鏡のレンズに遮られて感情の読めない目。
 『僕の血じゃないから問題ありません。帰ったらよく洗っておきます』
 鍵屋崎が淡々と口にした言葉に五十嵐が絶句し、鍵屋崎を戒めていた若い看守が気圧されて腕を放す。羽交い締めが解け、自由の身になった鍵屋崎が興味が失せたように背中を翻す。そのまま後も見ずに歩み去ってゆく鍵屋崎の背中をもう一人の看守が『おい、許可なく房に帰るな!』と叱責して追いかけかけたが五十嵐に制止される。
 『いいよ、アイツは』
 『天才児だから特別扱いか?贔屓がすぎるぜ五十嵐、だいたい囚人どもに甘すぎなんだよ。そんなんだから同僚に煙たがられて…』
 『頼む。ここは俺の顔に免じて納めてくれ』
 『……ちっ』
 荒く舌打ちした看守が大股に去ってゆく。後に残されたのは頭から血を流した僕と怯えたように立ち尽くす若い看守、鍵屋崎が消えた廊下に佇んで哀しげに嘆息する五十嵐。複雑な面持ちで鍵屋崎を見送った五十嵐が『医務室に行くぞ。歩けるか』と僕を気遣って覗きこむ。営業営業、けなげに痛みを耐えるフリで『大丈夫』と切り返そうとして廊下に落ちた紙屑に目が止まる。
 殴られてる最中に僕に馬乗りになった鍵屋崎のポケットから落ちた物だ。
 殆ど反射的に紙屑を拾い、素早くポケットに隠す。そうして僕は五十嵐の肩を借りて医務室に行って治療を受けたわけだけど……

 「リョウさん」
 身振り手振りをまじえ、やや大袈裟な口ぶりで話し終えた僕の眼前。床に正座したビバリーは暫く口を半開きにした状態で言葉をさがしあぐねていたが、酸欠の金魚を真似てぱくぱく口を開閉してから漸く舌の麻痺が抜けたらしい。
 「あんた本当に最低だ」
 「ねえビバリー僕の頭の包帯が目に入らない?被害者はどちらかな?」
 いちばん目立つ場所に巻かれた包帯がビバリーの目に入らないわけがない。頭部に巻かれた包帯を指さし、変に強張った笑顔で解答を促した僕を睨み返し、断固たる口調でビバリーが言う。
 「さきに喧嘩売ったのはリョウさんでしょう。言っていいことと悪いことの区別もつかないような人もう相手しきれません」
 「そんなつれないこと言わないでよ。それにね、勘違いしてる。僕は言っていいことと悪いことの区別がつかないんじゃない、ちゃんとついてるからこそ言ったんだよ。今の鍵屋崎がいちばん言われたくないと思ってる言葉、避け続けてる真実をね」 
 「ますますタチ悪いじゃないっスか!」
 抗議口調で立ち上がったビバリーもどこ吹く風と口笛を吹く格好に唇を尖らす。頭の後ろで手を組んで寝転ぼうとして、なるべく頭を動かしちゃいけないという医者の言葉を思い出す。幸い怪我は大したことなかったけど包帯がとれるまで三日かかるそうだ。それより心配なのは顔の傷だ、めちゃくちゃに殴られて痛々しく腫れあがってる。ちょっと口を動かしただけでも酷く疼くのは口の中を切ってるからだ。
 まさかあの冷静沈着な鍵屋崎が、ああも激怒するなんて予想の範疇外だった。
 鼻歌をなぞりながら僕を殴ってる時の鍵屋崎の顔を思い出してたら、床に正座したビバリーが疑惑の目をむけてくる。
 「何がそんな嬉しいんですか?」
 「嬉しい?」
 「嬉しそうじゃないスか。鼻歌唄ってるし足ぶらぶらさせてるし……リョウさんひょっとしてマゾ?」
 「失礼だね」
 身に覚えのない指摘に憤慨して宙を蹴るのを止める。
 「サドかマゾかで言ったら僕はまちがいないサドだよ、今まで鍵屋崎にしたこと見てきたらわかるでしょう」
 「じゃあなんだってそんなにご機嫌なんスか。殴られて顔腫らして頭に包帯巻いてるのに」
 「鍵屋崎がまだまだへばってないからさ」
 「?」
 理解に苦しむといった顔つきで眉根を寄せたビバリーを見下ろし、体ごと向き直る。疑問の色を浮かべたビバリーの目に映ったのは心から嬉しそうな笑顔を湛えた僕の顔。欧米産のホームコメディという安っぽい虚構の中でしか生きられない作り物の子役の笑顔。
 「僕の挑発にキレて殴りかかってくる気力があるなら上等だ。売春班に配属されて五日目、鍵屋崎の目はまだまだ死んじゃいなかなった。この五日間地獄を見たせいで大分憔悴してたけど怒る気力を残してるなら心配ない、まだまだアイツで遊べそうだ」
 どん底からはいあがってこない獲物には興味がない。
 僕が好きなのは何度どん底に突き落としてもこりずにしぶとく這い上がってくる奴、何度プライドを挫かれても破片をかき集めて型にはめこんで修復できる奴だ。少なくとも現時点の鍵屋崎はまだ壊れてない、心まで死んじゃいない。
 何故だかその事が、すごく嬉しい。
 「やっぱさ、抵抗してくれなきゃ燃えないよね」
 ビバリーの言う通り、僕は根っからのいじめっ子なんだろう。が、無抵抗の獲物を一方的になぶるだけだったら歯応えもなにもない、僕はただの悪者になってしまう。まあ悪者なら悪者でいいんだけど、このまま鍵屋崎が抵抗する気力も失って生きた屍になっちゃったらどうしようと危ぶんでいたんだ。
 だから、五日ぶりに鍵屋崎と会って、奴の目を見て安心した。
 たとえそれが崖っぷちで踏みとどまってるに過ぎない虚勢でも目が死んでないなら望みがある。僕に怒れるということは感情が麻痺してない証拠だから、どんな生き地獄を味わっても心はまだ死んでない証明だから。
 すこぶる上機嫌に鼻歌をなぞりながらふと、廊下で拾った紙屑を思い出してポケットを探る。ビバリーが首を傾げる。
 「なんスかそれ」
 「鍵屋崎の落し物。なんか病院の住所みたいだけど……あ、紙が二枚重なってる。片方は書き損じの手紙みたい」
 ベッドに腰掛けてぐしゃぐしゃに握り潰された紙屑を広げ、ざっと目を通す。ビバリーの方はといえば丁寧に皺をのばされた跡があるメモを手にとってしげしげ眺めていたが、その手からメモをひったくって膝に広げた手紙の文面と見比べ、ひとつの結論に至る。 
 「ふーん、なるほどね。鍵屋崎のやつ、精神病院に入院してる妹宛に手紙書いてたんだ」
 病院の住所が書かれたメモと書き損じの手紙とを見比べてるうちに顔がにやつきだすのを押さえられない。
 「じゃあ、メモがなかったらとってもとっても困るよね?」
 僕が考えてることを瞬時に見抜いたビバリーがメモを奪回しようと手をのばしてくるがすばしっこさで僕にかなうわけない。捨て身でスライディングしてきたビバリーから跳んで逃れ、見せびらかすように頭上に掲げたメモをくるくる回しながらベッドに立ち上がる。
 「鍵屋崎がやっとの思いで掴んだ希望を握りつぶすのも気分次第ってわけだ」
 蛍光灯の光に手紙を翳す。便箋の裏面を透かして浮かび上がったのは右上がりの神経質な筆跡。不自然な箇所で途切れてるのは心理的葛藤が原因で先を続けられなかったからだろう。さて、どうしよう?このまま本人に返すのもアレだしひと思いに握り潰してしまうのも芸がない。
 愉快な企みに心弾ませながら、住所を記したメモをなくして今頃焦ってるだろう鍵屋崎を想像し、意地悪い忍び笑いをもらす。
 まったく鍵屋崎ときたら、とことんついてない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060203201904 | 編集

 鉄扉を閉じる。
 房の中は暗かった。サムライは不在らしい。施錠する手間も惜しんで洗面台に直行する。鍵をかけないと危険だと本能が警鐘を鳴らしていたがそんなの今更だ。僕が今更どうなろうがかまわない、輪姦されようがリンチされようがどうでもいい。僕はこの五日間で地獄を見た、今更レイプされたところで構うものか。もっと酷い体験をしてもっと酷い苦痛だって味わった、既に蹂躙された体と心がさらに恥辱にまみれようが構いやしない。
 これ以上汚れようがないのだから。
 真っ暗闇の中を一直線に突き進んで洗面台に到達したのは裸電球を点ける手間を惜しんだからじゃない、裸電球の光に満ちた房の中で鏡の中の顔と向き合う自信がなかったからだ。洗面台の手前で立ち止まって蛇口を捻る。最初はよわよわしく、蛇口を緩めるごとに水量が多くなる。勢いよく迸った水の下に手を突っこんで手の甲に付着した返り血を洗う。
 リョウの血だ。
 爪の間まで念入りに手を洗いながら回想する。廊下でリョウに声をかけられた。無視して立ち去ろうとした。とてもじゃないが彼の相手ができる精神状態じゃなかった、今はだれとも関わり合いになりたくなかった。この頃酷く情緒不安定になってる、感情の振れ幅が大きくてほんの些細なことでも怒りを爆発させてしまう。だからなるべく人との関わり合いを避けて過ごしていたのに、食事だって人目を避けてひとりでとっていたのに……。

 『男にヤられてる時妹さんの顔思い浮かべた?』

 あの一言で、完全に理性を喪失してしまった。
 瞼の裏側によみがえるのはすべてを見透かすようなリョウの薄笑い。惠の、妹のことに触れられた途端それまで抑圧していた感情が堰を切ったように噴き上がって体内を席巻して気付いた時には僕の膝の下でリョウが頭から血を流してうめいていた。最初は自分がしたことが信じられなかった、まさかこの僕が、いついかなる時も冷静沈着で理性的な人間であろうと自らを律していたこの僕が我を忘れてリョウに殴りかかっただなんて。否定したかった、あんな安っぽい挑発に乗って取り乱してしまうなんて僕らしくもない、リョウなんて同レベルで怒るにも値しない下劣で低俗な人間だというのに。目の前の現実を全否定したくても出来なかった、手の甲にはべったりと返り血が付着していて眼下のリョウの顔が醜く崩れつつある。暴力をふるってる最中も後も爽快感は微塵もなかった、看守に取り押さえられてリョウから引き離された時は放心状態だった。廊下には点々と血が滴っていた、リョウのこめかみから滴った血、だらりと力なくさげた僕の拳から滴り落ちる血。

 手が汚い。

 早く洗いたいとそればかりを考えていた、早く房に帰って手を洗いたいと強迫観念に駈られて廊下を歩いた。房に辿り着いて洗面台に直行して蛇口を捻れば勢いよく水道水が迸る。蛇口の下に手を突っ込んで手を洗う、指の又の間も爪の間も先から先まで神経質に擦って洗って不純物を取り除く。手から流れた血が水に薄まり淡く溶けて渦を巻きながら排水口へと呑まれてゆく。二十回以上擦って洗って汚れを洗い落として、綺麗になった手を見下ろせば手の甲が薄赤く擦り剥けていた。力任せにリョウを殴った時に擦りむいたのだろう、人を殴るのに慣れてないと手の甲を擦りむくと聞いたことがある。
 『拳に怪我をしてるんじゃないか?』 
 五十嵐に聞かれたとき力を込めて否定したのにはわけがある。手の甲の擦り傷を医者に見せるよりも重大な理由。
 手首を見られたくなかったのだ。
 今は上着の袖で隠れているから人目に触れる心配はないがもし何かの折に袖がめくれたら、と考えると憂鬱になる。初日につけられた首筋の痣もようやく皮膚に馴染んで消えたといのに……
 「無意味だな」
 自嘲的に呟く。
 どうせ首筋の痣が消えたところでまたすぐ別の客につけられるのだから意味がない。売春班の就労開始から五日間、漸く体が慣れてきた。初日は歩行するのも困難で寝返りを打つ度に下肢を引き裂かれるような激痛に苛まれる有り様だったが、今ではなんとか独りで歩けるようになった。だからと言って痛くなくなったわけじゃない、今でも気を抜けば苦鳴をもらしてしまいそうに間接は軋んでいる。それでも壁を支えにして食堂に行けるようになったのは有り難い、いつまでもサムライの世話になってるわけにはいかない。
 この五日間、僕は首筋に痣をつけられるのを避けて必死に愛撫をかわしてきた。
 巧みに、とは言えないまでも不自然ではない程度に演技は成功したと思いたい。服で隠れる部分ならいい、サムライに知られることもない。だが首筋なら確実に知られてしまう、目に触れてしまう。彼の目に触れたらまた要らぬ詮索を招く、僕の身を案じるあまり腫れ物にさわるかのような接し方をされるのは鬱陶しい。服に隠れて見えない部分ならどうなってもかまわない、好きにしていい。腹部を殴られて青痣ができようが膝の裏側を強く吸われて発疹のような赤い斑点が生じようがどうでもいい。
 他人に弱味を見せるのはプライドが許さない。それが友人なら尚更だ。
 僕は不感症だが、感じてる演技をすることくらいはできる。客に愛撫されながら快感を感じるフリで首を傾げて唇を避ける演技も最近は上手くなった。僕が本当に感じてると勘違いした客に『敏感な体だな』と揶揄されたから。

 幸せな低脳どもだ。僕が本当に感じてるわけないじゃないか。

 蛇口を締め、水を止める。休憩時間はもうすぐ終了する。早く仕事場に戻らなければ看守に叱責される。自分のベッドに戻り、力なく腰掛ける。左のポケットから取り出したのは初日に支給されたコンドームの箱。長方形の箱を振ってみればからからと乾いた音が鳴る。中身が残り少ない証拠だ、今日あたり看守に言って補給してもらわなければ。同性とセックスする場合避妊の必要はないが性病感染の危機まで回避できたわけじゃない。娼夫を買いに来る客の中にはコンドームを面倒くさがる者が少なからずいて性病が蔓延してるのが現状だ。僕は毎回命がけで客にコンドームの着用を強要してる、他はどんなことをされてもこれだけは譲れない。

 同性に性病を伝染されるなんて冗談じゃない。

 殴られても罵られても主張を譲らずに睨み付けていれば、客の大半は不承不承コンドームを着用した。中には進んで着用する者もいた、売春班が性病の巣窟と化した実状を知ってる客だろう。娼夫に性病を伝染されてはたまらないと用心してるのだ。性病感染を疑われるのは非常に不本意だが僕にとっても有り難いので異議を唱えるのは慎んで大人しく抱かれてやった。まあ、『せっかく買いに来てやったのに客に指図する気か』と逆上し、最後まで着用を拒み続けた客もいる。僕もねばりにねばったのだがムキになりすぎて逆効果だったようだ、売春班に人権なんて認めてないその客は僕の目の前でコンドームを口の中につめこんだ。
 ガムみたいにくちゃくちゃ噛んだコンドームをペッと吐き捨て、黄色い歯を剥いて笑いながら言った言葉を忘れられない。

 『何で俺が売春班抱きに来るかわかるか?女とちがって避妊の手間省けるからだよ。売春班にはなから人権なんかねえんだ、お前ら男に組み敷かれて喘ぐしか能のないひよわな連中は俺の下で腰振ってりゃいんだよ、所詮女の代用品なんだから』 

 話が通じる客ばかりではない。話が通じない人間を相手に我を通すつもりならそれ相応の覚悟が要るが、どうにもならないことはある。行為を終えた直後に洗浄したから性病には感染してないと信じたいが、一週間に一度行われる検査の結果が出るまではわからない。
 「………」
 コンドームの箱を左ポケットに戻し、ふと右ポケットに目を転じる。先日五十嵐から渡されたメモは捨てるに忍びなくポケットに入れてある。実際、以前レイジから貰った便箋を引っ張り出して惠に手紙を書こうとしたがどうしても途中で挫折してしまう。
 惠に何を書いたらいいのかわからない。
 今現在僕がおかれた状態を知られたくない、僕が陥った境遇を知られたくない。当り障りのないことばかり書こうとして現実逃避の自己欺瞞に嫌気がさす。なにをやってるんだ僕は。僕から手紙が来ても恵は喜ばないのに、迷惑なだけなのに。
 ポケットに入ってるのは病院の住所を記したメモだけじゃない、書き損じの便箋も一緒に入ってる。どこに捨てたらいいのかわからなくて、なるべく人目に触れない所に捨てたくて決心がつかずに持ち歩いてる状態だ。ポケットに手を触れ、ふと違和感を感じる。ポケットに手を入れて探ってみたが何もない、中はからだ。

 笑いたくなった。 
 僕としたことがどこかで落としてしまったらしい。
 
 いや、どこで落としたか見当はつく。ついさっき、リョウに馬乗りになって拳を振るっていた廊下だ。はじかれるように立ち上がり現場に引き返そうとして、糸が切れたようなあっけなさでベッドに腰をおろす。

 メモがなんだ?手紙がなんだ?どうしたっていうんだ。
 なにもかもどうでもいい。

 掴んだと思ったそばから手をすり抜けてしまうのが希望の正体なら追いすがるのは虚しいだけだ。僕は幻影を見ていたんだ、希望の幻影を。パンドラの箱の底に残っているのは希望じゃない、希望を偽装した絶望だ。
 僕の手の中に残されたのは空虚な絶望、一掴みの闇だ。
 みっともなく足掻くのはやめた、疲れるだけだ。抵抗するのはやめた、殴られるだけだ。  
 抵抗する気力すら完全に失った今の僕にできるのは諦念して許容することだけだ、今の境遇を受け入れることだけだ。次の部署替えまで半年、はたして僕の体は、心は保つだろうか?わからない、自信はない。壊れるのは体が先か心が先か、それとも両方一緒に壊れるのだろうか。わからない。心にはもう亀裂が入ってる、ちょっとした衝撃で粉々に割れ砕けてしまいそうに危うく不安定な精神状態にあるのが自分でもわかる。体はどうだろう?今はまだ大丈夫でもこんな生活を続けていれば長くは保たない、じきに限界が来る。性病に感染したらどうなるんだろう、売春班から足を洗えるのだろうか。それとも、そんな状態でも客をとりつづけなければいけないのか。
 ほんの一瞬、脳裏をかすめた誘惑に苦笑したくなる。
 「……そうか。売春班から足を洗えるなら性病を伝染されてもいいかもしれないな」
 コンドームの箱を握り潰したい衝動に駆られ、指に力をこめる。握力にひしゃげたコンドームの箱を見下ろして急速に理性が戻る。箱を左ポケットに納め、腰を上げる。馬鹿なことをやってる暇はない、早く仕事場に戻らなければ。サムライと顔を合わせるのは避けたい―
 その時だ。
 錆びた軋り音をあげて扉が開き、鈍い響きを残してまた閉じる。暗闇に反響する震動、誰かが入ってくる気配。振り向かなくてもわかる。殆ど衣擦れの音をたてずに歩ける人間を僕はひとりしか知らない。
 遅かったか。もっと早く出ればよかった。
 「……帰っていたのか」
 「安心しろ、すぐ出ていくところだ」
 裸電球も点けない暗闇でサムライと対峙する。暗闇に慣れた目が対峙したサムライをとらえる。暗闇に沈んだ表情は相変わらず平淡で、どこか沈痛な面差しをしていた。サムライに背中を向けて鉄扉に歩きかけた瞬間、声が追ってくる。
 「つかぬことを聞くが」
 「なんだ」
 妙に堅苦しい聞き方をされ、律儀に答えてしまった事に苦い顔をした僕へと歩み寄り、毅然と顔を上げて述べる。
 「最近、明るい場所でお前の顔を見てない気がする。房はいつも暗闇で、お前は暗闇に独りきりだ」
 「それがなんだ?光合成してるわけじゃないんだ、明かりなんかなくても生きていけるだろう」
 突拍子もないことを言い出したサムライを心の中で嘲笑しながら、反射的に浮かび上がってきた辛辣な皮肉を口にする。
 「それにどうせ、ここは一条の光も射しこまない地獄の底なんだ。今まで僕を養育して知識を授けてくれた両親を殺害した挙句、最愛の妹を精神病院送りにしてしまう最低の人間に光を浴びる資格なんかないだろう。目の潰れたミミズみたいに地獄を這いずってるのがお似合いだ」
 口角が吊り上がり、醜い笑みが顔に浮かぶのが顔筋の収縮でわかる。サムライの目に今の僕はどう見えていることだろう。自虐的な台詞を吐いたことが俄かに恥ずかしくなり、視線の圧力に耐えられず顔を背ける。
 「こう見えて多忙な身なんだ。もう行くぞ」
 「待て」
 逃げるように立ち去りかけ、力強い声に背中を鞭打たれる。すぐ背後に迫ったサムライが固い声で告げてくる。
 「行くな」
 「止める気か?」
 声に嘲笑うような響きが宿るのを抑制できない。
 「じゃあ、力づくで止めてみせたらどうだ。君は刀を持っても持たなくても十分に強いんだから、毒舌を吐いて理屈をこねまわすしか能のない無力で非力な僕なんてあっというまに押さえ込めるだろう。大丈夫だ、押さえ込まれるのには慣れている。ああ、それとも……」
 危険な兆候だ。
 いつかと同じ、サムライを傷付けたいという残酷な衝動が沸いてきて理性の抑制が利かなくなっている。悪い冗談を口走ってる自覚はあるが止められない。何も知らないくせに、僕がどんな目にあってるかまるで知らないくせに無責任なことを言う。今目の前に立ってるこの男だって服を脱いだ僕を見たら愕然とするだろう、生理的嫌悪に圧倒されて目を背けてしまうだろう。本当の僕を知らないくせに無茶なことばかり言う、『行くな』と言われて行かずに済ませるものなら僕だってそうしたい。でもダメだ、不可能なんだ。

 もう後戻りはできない。

 暗闇の中、サムライと対峙した僕は何かに憑かれたように饒舌に続ける。
 「僕を独占したいか?僕に欲情してるのか?だから行かせたくないと強硬に主張して足止めしてるのか。それならそうと言えばいい、どうせ初めてじゃないんだ。同性を相手にするのにも多少は慣れたしお望みなら喘ぐ演技もしてみせる。仕事場に直接僕を買いに来る勇気がないならここで抱くか」
 「違う、」
 「違う?違うのか、なら紛らわしいことを言うな。僕は仕事に行くぞ」
 付き合いきれないと踵を返しかけた刹那、五指に手首を掴まれ引き戻される。節くれだった逞しい指……サムライの手だ。
 「行くなと言っている」
 「僕を行かせたくないなら相応の行動にでればいいじゃないか。発言に行動が伴わないなんてそれでも武士の端くれか」
 サムライの手を振り払おうとする、だが外れない。サムライの握力は強い、僕の手首を握って離さない。揉み合っているうちにはらりと袖口が落ち手首が露出する。鉄扉に設けられた格子窓から射した縞模様の光が暗闇を過ぎり、サムライに掴まれた手首を照らす。
 
 サムライが目を見開き、指から力が抜けてゆく。
 格子窓から射しこんだ光に照らされ、仄白く浮かび上がった手首には縄で縛られた痕。
 
 僕には言葉を失って立ち尽くすサムライを観察する余裕まであった。心は奇妙に冷静だった、彼にだけは見られたくなかったはずなのに今となってはどうでもよかった。もう全てが手遅れなのだ。
 サムライの手をふりほどき、緩慢な動作で手首をおろせば痕はすぐに隠れて見えなくなる。
 「引いたか?」
 サムライに聞く。無言。沈黙に逃げこんだサムライをひややかに一瞥し、ノブを捻る。
 「僕は不感症だから多少ひどくしてもかまわないんだそうだ」
 扉を閉ざす。
 後ろ手に扉を閉ざして廊下に立ち、格子窓に後頭部を押し付けて天井を仰ぐ。等間隔に蛍光灯が並んだ廊下に無力に立ち尽くすのにも飽き、中央棟目指して足早に歩き出す。
 もうどうでもいい。
 サムライに幻滅されようが、愛想を尽かされようがかまわない。
 僕と彼の道はここで分岐してこの先二度と交わることがないだろう。僕はもう以前の僕とは違ってしまった、体も心も汚れてしまった。
 僕はもうサムライの友人に相応しくない。彼の思い遣りは重荷でしかない。
 僕は鍵屋崎 直、IQ180の天才だ。親殺しの受刑者でブラックワーク二班の売春夫、家族は妹がひとりいる。いや、正確には過去形で『ひとりいた』と言うべきか。
 そして、友人がひとりいた。
 彼は僕が妹以外に認めた唯一の人間で、般若心境の読経と写経が趣味の変わった男で、剣の修行を欠かすことがない物好きな男で、とても未成年には見えない老け顔だが笑うと若く見えて、僕はその笑顔がまんざら嫌いでもなかったがとうとう本人に言う機会はなかった。
 彼は鍵屋崎 直の最初で最後の友人で、僕には勿体無いくらいいい奴で。
 たった今、別れを告げてきたところだ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060202202027 | 編集

 「また来てやるよ」
 鉄扉が閉じる音を聞きながら額の上で腕を交差させる。
 鼻歌まじりの足音が遠ざかってから上体を起こす。床には上着と下着が散らばっている。自分で脱ぐ場合は枕元にきちんと畳んで衣類を置くのだが客に脱がされる場合そんな暇ない、一刻も早く行為に及びたいと急いた客に毟り取られるように服を脱がされてベッドに押し倒されたら衣類をかき集める余裕などなくなる。
 上体を起こすにも細心の注意を払わなければ。行為を終えた直後は体の中が熱い、腸に熱を放たれて体内温度が上昇している。今の客はコンドームを着用しなかったから早急な洗浄の必要がある。しかしコンドームの着用を射精の瞬間まで断固拒否した点を除けばそんなにひどい客でもなかった、僕がこれまでに接してきた客の中ではやさしい方だ。

 勘違いしないで欲しいが、この場合の「やさしい」は「殴らない」と同義だ。

 売春班に人権を認めてない連中の中には売春班が少しでも反抗すれば嵐のような暴力を振るう輩がいる、また純粋に快楽が目的で暴力を行使する嗜虐的な性的傾向の客も少なからず含まれる。もともとここは刑務所なのだ、暴力と犯罪の温床で生きてきた社会の落伍者が一堂に収容された環境で他人に苦痛を与えることを至上の快楽とするサディストがいない方がおかしい。ノーマルな性的嗜好をもつ外の女性相手には実現不可能な歪んだ性的空想も刑務所の中という巨大な密室、弱肉強食の力関係に支配された特殊な環境下では実現することができる。刑務所の中でおきたことは外部に隠蔽されて闇から闇へと葬り去られるのが暗黙の掟だ。刑務所で何が起きても闇から闇へ葬り去られ個人の秘密が漏洩しないという大前提があるからこそ売春班を買いに来た客は人間の尊厳を蹂躙するような真似ができるのだ、看守も囚人も関係なく。その筆頭がタジマだ。
 
 早くシャワーを浴びなければ。

 気だるい体に鞭打ち、床に素足をおろす。裸足の足裏にむきだしのコンクリートの感触。足をひきずるようにシャワーの下に立ち、コックを捻る。ちょうどいい温度に保たれた温水が慈雨のように頭上に降り注ぎ生気がよみがえる。濛々とたちこめる水蒸気に視界が覆われて何も見えなくなる。そうだ、眼鏡をとるのを忘れていた。眼鏡をかけたままシャワーを浴びた失態に気付いた僕は慌てて外そうとして弦に触れ、もう手遅れだと指をおろす。
 眼鏡のレンズは水蒸気で曇って何も見えない。こっちのほうがいい。
 いちばん最初の客は例外として、以降客と行為に及ぶ時は眼鏡を外すようにしている。行為のはげしさで眼鏡が壊れてはたまらない、また、腕がぶつかったり弾いてしまったりなどの事故が起きないように大事をとり枕元ではなく洗面台の縁に弦を畳んで乗せている。眼鏡を外すには他にも理由がある。
 僕を抱いてる客の顔を見たくなかったのだ。
 誰が自分をむさぼるように抱いてる男の顔を見たいものか、肉食動物の意地汚さで涎を垂らして呼吸を喘がせて性欲で目をぎらつかせてうごめく相手の顔をじっくり観察したいものか。眼鏡さえ外していれば客の顔を見ずにすむ、僕を陵辱して悦に入ってる顔を見ずにすむ。
 だが、今の客の場合服を脱がされた直後にベッドに押し倒されたせいで眼鏡を外す暇がなかった。仰向けに寝転がった姿勢の僕はベッドに手足を投げ出したまま客の頭越しの天井ばかり見つめていた。無機質で幾何学的な配管むきだしの寒々しい天井……
 シャワーのホースを手に取り、足の指の間から首周りに至るまで丁寧に洗い流す。体に付着した汗やその他の粘液をくまなく洗い流して肌を擦る。どんなに洗い流しても落ちることない汚れが体内に澱のように沈殿してる。僕を内側からむしばんで腐らせてゆく汚れ。洗っても洗っても落ちることがないのは体の痣。発疹のような赤い痣が全身の広範囲に散らばっている、シャワーに上気した肌に鮮明に浮かび上がるそれは何かの烙印のようだ。

 売春班に配属されて五日が経ち、大分体も慣れてきた。

 最初の激痛をやり過ごしてさえしまえばあとは何とか耐えることができる、腰を掴まれ揺さぶられても耳朶を噛まれても声を殺すことができるようになった。客の反感を買わず殴られないようにするためには受動態でいることだ、決して逆らったりせず従順に従うフリをすることだ。たとえどんな無茶な注文をされて無理な要求をされたとしても拒否してはいけない、受け入れるんだ、許容するんだ。許容して適応して順応するんだ、それしかここで生き延びる術はない。無抵抗で受動態で従順に抱かれていれば客だって機嫌を損ねたりしない、暴力で応酬されることもない。何をされても無抵抗に徹していれば勝手に射精して満足して帰ってくれる。  
 客に抱かれてる間は感覚が麻痺したような無反応に徹する。
 以前ロンに『不感症は便利だな』と揶揄されたがそれは事実なのだ、一面では。性的快感を一切感じないように出来ている僕はどんなに乱暴に抱かれても、また、反対にどんなにやさしく愛撫されたとしても甘い性感に溺れることはない。客の機嫌を損なわないよう快感に喘ぐ演技はできるが自ら進んでしたいようなものではない、自分を抱きに来た同性に媚を売るなんて虫唾が走る。

 だが、快感に喘ぐ演技で首を傾げることによって間近で客の顔を直視するような忌まわしい事態を避けれるのは有り難い。

 熱に冒されてる間は意識が朦朧としている。頭は理性的に冷めているのに体は熱く火照っていて、その温度差が生み出した靄が頭の芯に纏わりついて今行われてることの現実感が薄れてゆく。以前、幼少期から実父に性的虐待を受けてきた女性の症例を心理学の本で読んだことがある。その女性はあまりに過酷で辛い現実から逃避するために、父親に犯されてる間は一種の幽体離脱状態になって意識を隔離する術を身に付けたという。意識の一部を切り離した彼女は部屋の上空に浮遊した状態で、父親に陵辱されてる自分の姿をまるで他人事のように観察してたという。

 僕には何故、彼女がそんな不思議な体験をしたかわかる。

 たとえば幼少期の記憶を思い出すとき、ひとは記憶の中の自分と視点を共有してるわけではないと気付くだろう。過去のある一場面を回想するときは必ず「自分を見ているだれかの視線」に同調する。記憶の中の自分の視点ではなく、第三者の視点で自分を見下ろしてるような錯覚と距離感を生じさせる原因は脳の処理過程にある。ふとした折に過去の記憶を呼び出す際、過去の自分から今の自分という変化を経た過程に齟齬が生じる。人は常に変化して進化して成長しつづける生き物だ、記憶の中の自分は既に過去にしか存在することができない虚構であり現在を生きる自分はこうしてる今も刻一日、刻一瞬と活発な新陳代謝をして変わり続けている。
 辛い出来事を客観的に分析するのはその出来事が一種の虚構だと、今の自分には関係ない出来事だと自己暗示をかける為の手段だ。実父から日常的に虐待を受けていた彼女は過酷な体験を許容するために自動的に意識を乖離させる擬似幽体離脱ともいえる症状を呈した、そうしなければ到底自分の身に現在進行形で起きていることを受け止めきれなかったから、生き延びられなかったから。
 今現在、僕の身に起きていることにも同じことが言える。

 まさか刑務所に来て男に抱かれることになるとは思わなかった。しかも、それがこんなに苦痛なことだとは。

 心地よいシャワーに打たれながら、倒れるようにコンクリートの壁にもたれる。
 シャワーにぬれそぼって一面黒く変色した壁に額を預け、呟く。
 「疲れた……」
 疲れた。本当に、疲れた。
 一日でいいからゆっくりと眠りたい。安眠したい、熟睡したい。売春班のことなど忘れて、コンドームを補給しなければなんて憂慮せずにぐっすり眠りたい。夢なんか見なくていい、暗闇でいい。泥のような眠りの中で何も気に病むことなく体を休ませたい、羊水の安息に浸かりたい。
 そして、惠を抱きしめたい。
 精神に異常をきたした僕が何もない虚空に見た幻でも構わない。惠のそばにいきたい、惠に会いたい、惠を抱きしめて安心したい。
 身を庇うように二の腕を抱き、正面の壁に額を押し付ける。
 惠を抱きしめることができるなら他になにもいらない、惠を抱きしめることによって僕自身抱きしめられたい。もう疲れた、二本の足で立つのだって限界なんだ。だれかに支えて欲しい、だれか―
 「………最悪だな。僕はいつから臆面なく人の助けをあてにするような惰弱な人間に成り下がったんだ」
 ついさっきサムライに別れを告げてきたくせに、サムライの好意を無にするような振る舞いをしたくせに。
 思い遣りが重荷だと跳ね付けたくせに未練があるのか?あきれたな。僕はサムライに弱味を見せたくない、こんな情けない姿、人に見せられない姿に成り果てた僕を知られたくない。矜持がなくなったら僕は鍵屋崎 直ではなくなる、僕を僕たらしめてるのは今はもうこの継ぎ接ぎだらけのプライドしかない。
 弱味を見せることに抵抗がなくなれば精神的負担も減るだろう、と頭ではわかっている。だれかに依存するのはラクだ、庇護されるのはラクだ。自分の無力に免罪符を与えられる、自分の非力に言い訳できる。でも認めたくない、僕が無力で非力な人間だと認めたくない。なんで僕が、IQ180の知能指数の持ち主で、この刑務所に収容されてる囚人の中で誰より頭がよくて物を知ってるこの僕が自分の無力に甘んじることが許される?弱いことを言い訳にしたくない、弱いことを誇りたくない。僕は今でもまだ惠の兄でいたい、惠に頼ってもらえる強い兄でいたい。

 惠を失望させたくない。
 サムライを失望させたくない。

 僕は卑劣な人間だ。 
 サムライを哀しませるより失望させるほうが嫌だった。僕が生まれて初めて妹以外に認めた人間に今のこの姿を見せて失望されたら僕は立ち直れない。服を脱いで生まれたままの姿を晒してサムライに失望されるのが怖かった、僕自身服を脱いだ体を洗面台の鏡に映すたびに圧倒的な生理的嫌悪に襲われて吐き気がこみあげてきた。
 自分でさえ正視できない姿が、友人といえど所詮は赤の他人に正視できるはずもない。受け入れられるはずもない。いや、服を脱がなくても同じだ。売春班で客をとらされつづけるかぎり服の下の痣は消えることがないのだから。
 サムライを失望させるくらいなら、このさき八つ当たりしてしまうくらいなら、友人関係を解消したほうがずっとマシだ。





 無。
 虚無。






 ……意識が途絶えていた。
 どうやら壁によりかかったままうとうとしてたらしい。シャワーを出しっぱなしにして寝たら風邪をひく、と見当違いな危機感にかられコックを捻って湯を止めようと手を伸ばす。いつ次の客がやってくるかわからない、早く用意しておかなければ。どうせすぐ脱ぐのだとしても服は着ておきたい、まあ客にしてみれば全裸のほうが都合良いかもしれないが。
 突然、シャワーが止まった。
 「?」
 コックを捻る直前だった。まだ手を触れてもいない。何故予告なく止まったんだろう、断水だろうか?まいったな、シャワーを浴びれないとなると色々支障がでる。前髪から水滴を滴らせながら沈黙したシャワーを仰ぎ、考える。
 いや、断水にしては様子がおかしい。現に断水ならすぐに修理に駆け付けてくるはずの看守が一向にやって来ないではないか。ということは故意に止められた?…まさか。ある可能性に気付き、眼鏡をとって通気口の奥を見つめる。
 シャワーを浴びれなければ確かに支障はでる。しかし命に別状はない、ただ一人を除いて。水道水を止められ、水の補給を断たれたことにより深刻な危機に瀕する人間は売春班でただ一人。
 ロンだ。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060201202139 | 編集
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