ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 信じらんねえ。
 「…………」
 茫然自失した俺の顔が鏡に映る。蛇口を捻っても水がでない。緩めても緩めても全開にしても点々と水滴が落ちてくるだけで、その水滴だって次第に間延びして遂には出なくなる。

 水を止められた。

 いくら俺が馬鹿だってそれが意味してることくらいわかる、水を止められたら水が飲めなくなる。俺が篭城開始してから五日目、水道は大事な生命線だった。空腹に苛まれて眠れなくなるたびに水をがぶ呑みして胃を満たしたのに水を止められたらそれもできなくなる、水道水を止められたら飲料水が確保できなくなって食糧補給はレイジに頼るしかなくなるがレイジだってそう頻繁に食料を持ってやって来れるわけじゃない。鉄扉一枚隔てた廊下では看守がおっかない顔で睨みをきかせてる、怖い物なしの王様だって看守の目をかいくぐって食料を届けにくるのはむずかしい。
 「……信じらんねえ。イカレてやがる、完璧」
 毒づいてみても始まらない、事態が改善されるわけでもない。この絶体絶命危機的状況をどう打破すればいいか頭を回転させて素晴らしい名案を考え出そうとしたが無駄だった。まさかこんな手を打ってくるとは思わなかった。タジマの奴、俺が予想を裏切ってねばりにねばってるもんだから業を煮やして強行手段にでたんだろう。2・3日で音を上げると高を括ってた俺が意外な頑張りを見せて面目潰されたタジマが怒り狂って水道水止めたとしてもちっとも不思議じゃない、奴ならそれくらいやるだろう。

 頭が混乱して考えがまとまらない。水の出ない蛇口を全開にして腕組みして歩き回る。

 ベッドに塞がれた鉄扉の周辺にごろごろと転がっているのは昨日レイジが差し入れてくれた食料、というか缶詰だ。桃缶鯖缶カニ缶、あれだけ要らねえと拒絶したのにちゃっかりキャビア缶まで混ざってるのはいやがらせだろうか?本人の襟首掴んで聞いてみたいが肝心のレイジがいないし今はそれどころじゃない。缶詰ばかりなのはレイジいわく長期の保存が効く物ばかり厳選して持ってきたからだそうだ、俺の篭城がどれ位延びるか今の時点じゃわからないから常温でも腐らない缶詰がいいだろうと奴なりに考えあってのことらしいが床一面に足の踏み場もなく転がってて危なっかしいったらない。
 缶詰を避けて歩きながら考える考えるひたすら考える。
 長期戦を想定するなら水を止められるのはめちゃくちゃこたえる。俺があと何日何週間、いや、ひょっとしたら何ヶ月篭城するかわからないが一滴も水が飲めないのは命に関わる深刻な打撃だ。まあ俺はもともと鍵屋崎みたいな潔癖症じゃないからマメにシャワーを浴びて体を洗う習慣はないしその点は保ちそうだが……

 ―「てめえっ、いい加減にしろよ!!」―

 ドン、と壁が震えて通気口から怒声がもれてきた。怒声にびびって足もとの桃缶に蹴躓き、たたらを踏んで持ちこたえる。壁はまだ震えている、ドンドンドンと鈍い音が連続してるのは癇癪を起こした売春夫が力任せに壁を蹴り付けてるか殴り付けてる為らしい。隣と言っても鍵屋崎じゃない、その反対側だ。
 「お前のせいでシャワー止められて体洗えねえじゃんか、なんとかしろよ!」
 「はあ!?なんで俺のせいなんだよっ」
 言いがかりとしか思えない言い草に腹を立て、大股に壁に歩み寄る。
 「お前のせいだろうが、お前が自分勝手に篭城してるせいで『上』の怒り買って水道水止められたんだよ!ふざけんなよ畜生、いじけて仕事場にとじこもってるお前はシャワーなんか浴びなくてもいいだろがこちとらシャワー使えないと困んだよ、一刻も早く体洗って汚え汁洗い流してさっぱりしてえんだよ!!」
 ……正論だ。言ってることは無茶苦茶だが一面じゃ真実を言い当ててる。確かに水道水を止められたのは俺が篭城してるからで、水道水を止められた累が及ぶのは売春班全体だ。体の脇で怒りに震える拳を握り締め、ぐっと押し黙った俺の周囲で散発的に怒鳴り声が上がる。
 「てめえひとり強情張ってるせいで全員に迷惑かかんだよ、看守に睨まれて肩身狭いんだよ」
 「あきらめて素直にヤられちまえ、てめえひとりいつまでも貞操守ってられると思ってんじゃねえぞ」
 「野郎の処女なんか大事にとっとくようなもんじゃねえだろうが、どうせ俺たちがこっから抜け出せる望みなんか万に一つもねえんだ、開き直って男に抱かれちまったほうがラクになれるぜ」
 「開き直って股も開いちまえ」
 「ああ、シャワー浴びてえ。体べとついて気持ちわりィ」
 「恨むんなら自己中な半半を恨みな、俺たちを見捨てて見殺しにして自分ひとり助かりゃいいって知らんぷりしてる腰抜けを恨めよ」
 「なっ……、」
 嘲るように揶揄されてキレかけたが挑発に乗って房を飛び出すわけにはいかない。怒りに顔面朱に染めて立ち竦んだ俺の姿を壁越しに見透かしたように声のトーンが跳ね上がり通気口に反響した空疎な哄笑が天井を席巻してゆく。
 「なんだよ、本当のことだろうが!お前がそうやって強情張ってる間に俺たちがどんな目に遭わされてると思ってんだ?地獄だ!おまえが房の真ん中で大の字になってぐーすか鼾かいてる間に俺たちは男に抱かれて喉すりへるまで喘ぎ声あげさせられてんだ、ははっ、俺たちの喘ぎ声はいい子守唄になったか?仲間を見殺しにして手に入れた眠りはさぞかし気持いいだろうな」
 『ふざけんな』と絶叫したかった、壁がなければ襟首掴んで殴り倒したかった。仲間を見殺しにした俺がぐっすり眠れるわけがないじゃないか、見殺しにした見返りに安眠を手に入れられるわけないじゃないか。仲間を見殺しにした罪悪感に苛まれて浅い眠りの中でも悪夢にうなされてびっしょり寝汗をかいて飛び起きてる始末なのに……お前に何がわかるってんだよ、わかったふうな口きくなよ。そう言い返そうとして下唇を噛む。今の俺が何をどう言っても卑怯者の言い訳にしか聞こえない、俺が他の連中を見捨てて自分一人だけ売春を拒み続けてるのは動かし難い事実なんだから。
 俺が黙ってるから調子に乗ったのか、通気口から矢継ぎ早に怒声が降り注ぐ。
 「ああ、シャワー浴びてえなあ!」
 「水が使えねえと困るなあ!」
 「だれのせいなんだろな、ええっ」
 「さあな。バカみたいに意地張って駄々捏ねてる半半のガキのせいじゃねえか」
 「そうか、裏切り者のせいか」
 「売春班の中に裏切り者まじってるせいでとんだ迷惑だ、連帯責任なんて冗談じゃねえ」
 「ふざけんなよくそがっ、なんで関係ない俺までこんな目にあわなきゃなんねーんだよ!」
 怒り狂った売春夫がシャワーの先端を床に叩き付ける音、力任せに壁を殴る蹴る騒音が鼓膜に押し寄せてきて息詰まる圧迫感を感じる。
 耳をふさいで無視しようとした手から力が抜け、肩のあたりまで掲げた手首がだらりとたれさがる。今耳をふさぐのは卑怯だ、逃げるのは卑怯だ。俺以上にコイツらが追い詰められてるのは仕方ない、コイツらは売春班に配属されてから五日間一時も心休まることなく客をとってきたんだ。ごく真っ当な男が女の身代わりに男に抱かれるのがどれだけ屈辱的なことか十一歳でお袋の身代わりにされかけた俺にはよくわかる。今コイツらの声に耳をふさいじまったら俺は俺を軽蔑する、心の底から軽蔑する。俺にはコイツらの非難を受け止める義務がある、どんなに無茶苦茶な言いがかりをつけられようがどんなに理不尽な罵倒をされようが耳をふさいじゃいけない、知らん振りしちゃいけない。
 俺が今ここで知らん振りしてしまったらコイツらの痛みや苦しみまで無かったことになる。
 そんなことはできない、絶対に。
 「畜生、もうすぐ客がくるのに……」
 「なあ、これからずっとシャワー使えないまんまなのか?水も出ねえまんまなのか?」
 「さあな、半半に聞いてくれよ。あいつの気分次第で断水期間長引くんだからよ」
 「くそう、なんで俺がこんな目に……もうやだよお、こんな生活」
 「男にヤられるなんてやだよう、ケツいてえよう」
 「めそめそすんな、気色わりィ野郎どもだな。そうやってなよなよカマっぽいこと言ってから客に殴られるんだよ」
 「こんな辛い目に遭うなら生まれてこなけりゃよかった」
 「畜生、恨むぜお袋。だれも産んでくれなんて頼んじゃないのに」
 「聞いてんのか半半!全部てめえのせいだ、てめえがいなけりゃ全部丸くおさまるんだ!頼むから一刻も早く死んでくれ!!」
 湿っぽい愚痴と女々しい嗚咽、陰にこもった呪詛と血を吐くような罵倒。この五日間で神経をすりへらして心身ともにギリギリの極限状態に追い詰められた連中が恥も外聞もなく泣き叫んでいる、将来を誓い合った女の名前を呼ぶ奴、外に残してきたガキの名前をくりかえす奴、みんながみんな誰かに、何かに未練を残して心と体を引き裂かれる激痛を味わってる。

 俺が出てったら皆ラクになるのか?

 先が見えない絶望的な状況で通気口の闇を見つめているうちに、唐突に心動いた。俺が降参して出てったら、観念して諦念して客に抱かれてやったら他の連中も少しはラクになるのか?今よりマシな状態になるのか?俺がいるせいで売春班全体に迷惑がかかってる、被害が及んでる。もし今、扉の封鎖を解いて廊下に出て行ってタジマに土下座して謝ったら狂ったように泣き叫んでるコイツらは救われるのか…?
 
 「見苦しいぞ」

 催眠術が解けたように顔を上げる。
 俺の葛藤を見透かしたような声が通気口からもれてきた。冷静沈着に落ち着き払った……鍵屋崎の声だ。
 「あんだって?」
 嘲弄の響きを隠そうともしない声色に売春夫が気色ばみ、血気盛んに壁を殴り付けていた音が止む。重苦しい空気がたちこめる中、鍵屋崎は淡々と繰り返す。 
 「聞こえなかったか?見苦しいと言ったんだ、今の君たちの状態が。次の客が来るまで本を読もうと表紙に手をかけたところなのに品のないスラングが飛び交ってるせいで読書に集中できないじゃないか、少しは僕の都合も考えてくれたまえ」
 コイツ、今の状況下で読書なんてどういう神経なんだ?
 あ然とした沈黙が落ちた。水を打ったように静まり返った通気口には埃っぽい闇が蟠っていたが、ふいにその闇を震わせ、低いトーンの声が響く。
 「『こんな辛い目に遭うなら生まれてこなければよかった』と言った者がいたな」
 「俺だ……」
 感情が水漏れしない誰何の声におそるおそる返事を返したのはうってかわって気弱そうな声だった。通気口からもれてくる声を拾い上げて会話してるから直接顔を見ることはできないが、きっと顔面蒼白で憔悴しきってるんだろう。頬が殺げて眼窩が落ち窪んだガキの顔をぼんやりと脳裏に思い描く。
 「本気か?」
 「本気だよ。毎日毎日男にヤられて痛くて死にそうで、こんな生活がずっと続く位なら生まれてこないほうがマシだった」
 「甘えだな」
 「!?なっ、」
 何を言い出すんだコイツ。 
 「君が今そうして膝を抱えていじけながら『生まれてこなければよかった』なんて言えるのは『生まれてきた』からだろう。そんな大前提をないがしろにして安易に『生まれてこなければよかった』なんて自己憐憫にひたりきった戯言を吐く人間には虫唾が走る。君たちは自分が『生まれてない』状態を想像できるか?生まれてないということは即ち無、無を知覚できない無だ。無を知覚することは不可能だ、何故なら無は人間が『考える』ことはおろか『感じる』ことさえ阻む白紙の状態だから。僕らはこうして生きているあいだも常に何かを感じている、熱い寒い怖い冷たい痛い寂しい哀しい等の言葉の定義未満の淡く微妙な外面的内面的変化を感じ取って生きている。『生まれてこなければよかった』?君は本当にそれでいいのか。主体が存在しない無の世界に埋没して自我を消滅させるのが望みなのか」
 「……頭おかしいんじゃないか、言ってることわかんねえよ」
 俺もそう思う。必死に頭を働かせてみたが鍵屋崎の言ってることは難しすぎてちっともわからない。でも鍵屋崎の澱みない語り口には俺たち全員が真剣に聞かなければいけない気にさせる静かな気迫があった。推測の域は出ないけど、鍵屋崎は過去にもこうやって誰かに何かを説明したことがあるんじゃないか?おそろしく説明に慣れた饒舌な口調で続ける。
 「僕は『無』を解釈できない、だから怖い。『死』は『無』になることだ、だから怖い。『生まれてこなければよかった』?いいか、よく聞けよ。『生まれてこなければよかった』と口にした瞬間から堕落が始まるんだ。『生まれてこなければよかった』はこれまで出会ってきたすべての人間、自分の人生に関わってきた人間全部ひっくるめて否定して『無』にしてしまう言葉だ。生まれてこなければ決して会うことができなかった大事な人間まで貶める言葉だ。……君には子供がいるな」
 「!」
 「名前はメイファだと記憶してる。漢字で梅の花と書いてメイファか」
 「ああ……俺がつけたんだ」
 照れたような呟きをすくい上げたのは抑揚のない指摘。
 「いい名だな。君が生まれてこなければ彼女もまたこの世に生を受けることがなかった。その事実を忘れてるんじゃないか」
 「………」
 「一児の親なら矜持を持て。本当に生まれてこなければよかったような人間に成り下がりたくないなら生まれてこなければよかったなんて非生産的な繰り言は二度と吐くな」
 鍵屋崎が深呼吸する気配が伝わってきた。今や、一つに繋がった通気口で結ばれた房の全員が鍵屋崎の言葉に固唾を呑んで耳を澄ましていた。奇妙な連帯感が芽生え始めていることに動揺しながらも鍵屋崎の声を無視することができない、奴の屁理屈を鼻で笑い飛ばすことができない。
 壁に隔てられて各々の顔が見えない状況下にも関わらず、鍵屋崎は「声」の圧力だけでこの場の主導権を握ったのだ。
 場の雰囲気を完全に掌握した鍵屋崎が淡々と続ける。
 「『だれも産んでくれなんて頼んでない』。確か、そう言った人間がいたな」  
 耳が痛くなるような静寂。名乗りを上げるのを待つ気配。いや、名乗りを上げる者がいなくても構わず続けるつもりだったんだろう。
 「僕はその言葉が嫌いだ。大嫌いだ。いいか?胎児と意思疎通できる方法があったら今頃その発見者はノーベル賞を受賞してる。でも現実にそんな方法はない、自我が芽生えてない胎児には出生の拒否権がない。だからなんだ、それがどうした。『誰も産んでくれなんて頼んでない』からどうだって言うんだ、君たちの親はだれかに頼まれて君らを産んだんじゃない、自分が産みたくて産んだんだ。それだけだ。『誰も産んでくれなんて頼んでない』なんてよくそんな自己憐憫にひたりきった思い上がった台詞が吐けるな、悲劇の主役ぶったナルシシズムにでも酔ってるのか?あきれたな、そんなに生まれてきたのを後悔してるなら今から受精卵に退行して子宮にひきこもっていろ、いや、受精卵以前の段階、尾の生えた精子に退行して泳いでろ。生涯子宮にひきこもっていたいと渇望してる人間にロンを、彼を非難する資格はない」

 俺?

 いきなり話題を振られて面食らう。つられて自分の顔を指差して通気口を仰げば演説はまだ続いていた。通気口奥の闇を震わせて鉄格子の隙間から降り注いでくるのは鍵屋崎の冷静な声。
 「彼は少なくとも自分の頭で考えて選択して行動した、男に抱かれるのは絶対いやだと決意表明して扉を封鎖するという強行手段に出た。君たちも男に抱かれるのが嫌ならそうすればよかったんだ、自分の頭で考えて行動して危機を回避すればよかったんだ。自分じゃ何ひとつ行動を起こさずに受動態に徹して抱かれるままになってた人間が未だに篭城を続けてるロンを非難しても負け犬の遠吠えにしか聞こえない」
 「そういうお前はどうなんだよ!?」
 ありのままの事実を指摘するが如く言い終えた鍵屋崎の語尾に反発した売春夫が噛み付き、「そうだ」「そうだ」と同意の声が上がる。鍵屋崎はしばらく無言で自分にむけられた非難の矛先をやり過ごしていたが、やがて静かに答える。
 「無駄な抵抗はせず、効率的に男に抱かれてる」
 潮が引くように野次が遠のき静寂が戻ってきた。不均衡な沈黙を破ったのはシャワーの先端を壁に叩き付ける音。「やってらんねえぜ」「えらそうなこと言いやがって」と舌打ちしつつも鍵屋崎に一本とられたかんじで矛を納めた売春夫。三々五々通気口から離れてゆく売春夫の衣擦れの音を聞きながら矩形の闇を見上げて立ち尽くす。

 鍵屋崎が、俺を庇ってくれた?

 「……勘違いするなよ」
 すぐ隣から聞こえてきたのはばつが悪そうな呟き、ページをめくる音。ベッドに腰掛けて本をめくっているのだろう鍵屋崎が続ける。
 「君を庇ったわけじゃない、彼らがあまりに見苦しくて腹が立ったんだ。あと、読書の邪魔だ」
 違う、嘘をついてる。
 じっと聞き耳をたててみれば鍵屋崎の声はひどくしんどそうだった、自分の体だって辛いのに、俺を庇う余裕なんかないはずのなのに何で。通気口の闇を食い入るように見つめ、ためらいがちに口を開く。 
 「……なあ」
 「なんだ」
 「俺、やっぱり出てったほうがいいのかな」
 機械的にページを繰る音が止む。
 「俺が出てけばシャワーだって使えるだろ。俺だけこんなことやってて、こんなふうにガキっぽく意地張ってお前や他の連中に迷惑かけまくって本当に、」
 「自分の選択に自信を持て」
 おそらくは本から顔も上げずに答えてるんだろう、鍵屋崎の声はひんやりとそっけなかった。
 「男に抱かれるのはいやなんだろう。なら信念を貫き通せ、行動したことを後悔するな、多数派の意見に惑わされるな。周りの連中に支持されなくても関係ない、刑務所の中にまで民主主義は持ち込めない。君は君のしたいようにしろ、決して僕達に同情なんかするな、負い目なんか感じるな、くだらない罪悪感に振り回されて道を見失うな」
 静か過ぎるほど静かな激情を抑制した口調に自然と背筋がのびる。鉄格子を嵌め込まれた通気口の向こう、パタンと表紙を閉じた鍵屋崎がぶっきらぼうに呟く。
 「百人の凡人に共感をえられなくても一人の天才に認められれば十分だろう」
 奴一流のまわりくどい言い回しを咀嚼するのにちょっと時間がかかったが、その言葉は胸に染みた。通気口の下に佇み、見上げる。鍵屋崎になんて声をかけるか迷い、結局これしかないと、俺が今いちばん伝えたい言葉をおもいきって舌に上らせる。
 『謝謝』
 鍵屋崎は何も答えなかった。俺の声なんか聞こえなかったフリで読書に戻ったんだろう。一世一代の決心で口にした言葉を無視されて少しムッとしたが次の瞬間にはアイツらしいなと苦笑してしまう。
 鍵屋崎は強い。
 強すぎて、脆い。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060131202240 | 編集

 売春班に配属されて六日目。
 もうすぐ一週間が経とうとしている。東棟には寝に帰るだけの日々が続く。サムライとは一言も言葉を交わしてない。僕が朝早く房を出て夜遅く帰ってくる頃には大抵先に寝ていて会話をしなくてすむのは気楽だが一抹の胸の痛みは何だろう。感傷?馬鹿な。夕食をとりに与えられる休憩時間も極力サムライと顔を合わせるのを避けて房に寄らないようにしてるのは彼に何を話していいかわからないからだ。
 『引いたか?』
 『僕は不感症だから多少ひどくしてもかまわないんだそうだ』
 耳に蘇る自虐的な台詞、格子窓から射しこんだ明かりに浮かび上がるのは驚愕に目を見開いたサムライの顔。蛍光灯の光に暴かれた手首にはロープで強く縛られた鬱血痕。
 サムライは潔癖な人間だ、男に抱かれた僕を軽蔑するだろう。
 毎日毎夜男に抱かれて貪るように陵辱されて体中に行為のはげしさを留めた痣を作って帰ってきた僕を忌避しないわけがない、毎晩のように同性に抱かれて身も心も汚れきった僕に生理的嫌悪を抱かないわけがない。

 彼と目を合わせるのが怖かった。最初の日からずっと、初めて犯された日からずっと。

 僕はもう堕ちてゆくしかない。堕ちるところまで堕ちて汚れきるしかない、それしか生き残る術はなく生き延びる術もない。体が軋んで悲鳴をあげても心が軋んで壊れそうでもサムライに頼るわけにはいかない、友人に弱味を見せるわけにはいかない、この痛みを共有させるわけにはいかない。これは僕一人で耐えなければいけないことだ、僕一人で耐えて処理しなければいけないことだ。惠の兄として精一杯の虚勢を張って一握りのプライドを防波堤にして、何人何十人の客に抱かれても犯されても殴られても口に出せないような卑猥で最低な行為を強いられたとしても僕が鍵屋崎直であるかぎり、かつては日本を背負って立つエリートとして将来を嘱望された選ばれた人間であるかぎり、そうあるように望まれて設計された人工の天才であるかぎり弱音なんか吐いてはいけない、狂ったように泣き叫んでみっともない醜態など晒してはいけない、何よりそんな情けない姿を初めて出来た友人に見せたくない。見られたくない。

 『こんな辛い目に遭うなら生まれてこなけりゃよかった』
 『畜生、恨むぜお袋。だれも産んでくれなんて頼んじゃねえのに』

 僕は『作られた人間』だから、ああいう台詞は本当に嫌いだ。唾棄すべき甘え、自分が今の境遇に陥った原因を他者に責任転嫁して罪から逃れようとする惰弱さ。彼らは何故ここにきた?砂漠の涯てにあるこの東京プリズンに収監された?答えは一つ、法律に背いて犯罪を犯したからだ。彼らがこうなった原因は全部彼ら自身にある、親に責任転嫁して自らの罪に目を背けるのは不毛な自己欺瞞にしか思えない。しかし、僕らは確かに罪を犯し法律に背いた咎で東京少年刑務所に収監されたが個人の性的嗜好を無視して強制的日常的に売春させらてる現状は極めて不条理で理解に苦しむ。僕は男に犯されるためにここに来たのか?毎日毎晩強制的に客をとらされ性行為を強いられあらゆる体位を仕込まれ、女性の代用品として性の玩具にされるために東京プリズンに連れて来られたのか?
 違う。絶対に違う。
 『生まれてこなけりゃよかった』 
 『産んでくれなんて頼んじゃない』
 通気口から聞こえてきた泣き言には即座に毒舌で応酬した僕が、同じことを一度も思わなかったといえば嘘になる。犬のように四つん這いの姿勢をとらされ背後から犯されてるときも、壁に手をつかされて腰を抱かれてはげしく突き上げられてるときも何度もその言葉が脳裏をかすめた。でも認めるわけにはいかない、それが事実だと認めるわけにはいかない。生まれてこなければよかった?そんな非生産的かつ悲観的な繰り言は全否定する、その言葉を認めて受け入れてしまえば僕は生きる意義と意味を見失ってしまう、これまで僕の人生に関わってきた人間を、惠を、サムライを、最愛の妹と誠実な友人まで否定してしまうことになる。

 でも、正直わからない。
 僕は何故、生きているのだろう。

 なぜ今もこうして息をしているのだろう、毎朝目を開けてしまうのだろう。朝起きて、起きたことを後悔する。夜眠り、明日がくることに絶望する。不毛な日々の繰り返しが連綿と続く先の見えない生活、終わりの来ない地獄。僕は何故足掻いてるのだろう、足掻き続けてるのだろう。いい加減足掻くのをやめてラクになればいいのに、弱みを見せてしまえば精神的負担が減るのに。

 でも、できない。
 どうしても、できない。

 僕は何故自殺しないのだろう、と時々不思議になる。大抵その問いに絡めとられるときは頭が朦朧としていて、体を這い回る汗ばんだ手の不快さや首筋から胸板へとすべりおちてなぶるようにヘソを責める舌の不快さや強引に広げられた下肢の断続的な痙攣やら、現在進行形で自分の身に起きていることから全力で現実逃避する為の一手段として問いを繰り返しているのだろう。
 自殺の選択肢に思考が辿り着くたびに連想するのはリュウホウの最期だ。
 リュウホウ。僕と同じ日にジープの荷台にのせられて東京プリズンに連れてこられた囚人で、もういない。首を吊って逝ってしまった。
 リュウホウの最期は今でも鮮明に網膜に焼き付いている。
 天井からぶら下がった手ぬぐいに首を突っ込み、だらりと弛緩した四肢を宙にたらし、酸素不足の顔は青黒く変色して膨張し、それでも奇妙に安らかな笑みを湛えて。眠るような表情の安らかさとは対照的に下肢は糞便にまみれていて、嘔吐をもよおさせるほどの強烈な悪臭が死体発見現場となった房にたちこめていて、その死に様には人間の尊厳のかけらもなかった。

 今なら言える。僕はリュウホウに死んでほしくなかった。

 リュウホウが生きているうちに言えばよかった、気付けばよかった。もう遅い。リュウホウはおそらく「生まれてこなければよかった」と思ったまま死んだ、生まれてこなければよかったと思ったまま死んでしまった。僕が死なせてしまったも同然だ。
 『死んだほうがマシだ』と安易に吐き捨てるのは死者への冒涜だ。
 リュウホウの最期が半年が経過した今もなお網膜に鮮明に焼き付いてる僕には、リュウホウの最期を何度も夢に見てその死に顔を何度も瞼の裏側に蘇らせてきた僕には絶対にそんな事言えない。
 自殺は負けたまま死ぬことだ。僕は敗北して死にたくない、『無』に還りたくない。僕は『無』が理解できない、定義も解釈も理解も想像も『無』の本質に触れることはできない、『無』を証明できない。観念も概念も存在しない『無』の世界など想像することができない、想像できないものに無闇に憧れたくない。僕が僕として存在を許されない世界など、僕が僕である意味も意義も剥奪されて『無』という主体のない空虚に統合される世界になど行きたくないし逝きたくない。

 死ぬのはいやだ。  
 でも、生きるのは苦痛だ。

 矛盾した葛藤だとわかっている、でもどうにもならない。自殺は合理的じゃない、自殺はしたくない、自殺はプライドを放棄した人間が最後に選ぶ手段だ。だから僕は死ねない、まだ死ねない。両親を殺害して東京プリズンに送致されてまだたった半年だ、今ここで自殺の誘惑に心負けてしまったら僕はみじめな敗残者で世間の笑い者じゃないか。僕の懲役は八十年でまだ一年も経ってないのに弱音を吐いてどうするんだ。惠にだって言いたいことがあるのに、伝えたいことが山ほどあるのに、自分の本当の気持なんか何ひとつ伝えることができずこのまま誤解を解くこともできず永遠に惠と訣別するのはいやだ。
 僕は毎日、死ぬ気で生きている。
 いや、死んだ気で生きていると表現したほうが正確かもしれない。売春班に配属されてからの僕は生ける屍のように男に抱かれてる。毎日少しずつ心が壊死してゆくのがわかる、精神力がすりへって生気が吸い取られてゆくのがわかる。でもどうすることもできない、僕にできるのは唯一つ、この現状を受け入れて適応して順応することだけだ。徐徐に、徐徐にでいいから体を慣らして心を鍛えてゆくんだ。それしかここで生き残る術はない、生き延びる道はない。
 大丈夫だ、僕はまだ大丈夫だ。
 サムライがいなくても大丈夫、彼に頼らなくても大丈夫だ。
 誰にも心を許さず独りで生きていた以前の状態に戻っただけだ、何を気に病んで罪悪感に苛まれる必要があるんだ?

 「鍵屋崎」 
 「!」
 通気口からの声にはじかれたように顔を上げる。ロンだ。
 「やけにしずかだけど今なにしてるんだ?」
 篭城五日目で大分退屈してるのかもしれない。レイジとは一昨日和解したらしいがそういえば今日は彼の姿を見ていない。ロンの話し相手になる義務はないし頭の悪い人間との会話は疲れるだけだが、凪のように客が絶え、僕も少し暇を持て余していたから返事を返す。
 「本を読んでいた」
 「なんて本?」
 「トルーマン・カポーティ『冷血』」
 「どんな話?」
 「アメリカの中西部の町で農場主一家4人が惨殺される事件が発生、その犯人が殺人を犯すまでの過程から捜査状況、逮捕時の様子、裁判の経過から絞首台に消えるまでを綿密に綴ったノンフィクション文学の傑作だ」
 ロンにもわかりやすく要約したつもりなのだが彼の理解力の低さは僕の予想をはるかに超えていたようで、通気口から応答が返ってくるまでに3ページほど読み進めることができた。
 「……悪趣味だな。刑務所でんな本読むなよ」
 「優れた本はどこで読んでも面白い」
 実際読書は精神安定剤になる。客を待つ間の焦燥や不安を紛らわすための重要なアイテムとして図書室から借りてきた本は重宝している。危険物の持ち込みは不可と規則で定められてる仕事場にも無害だと見なされる小物、たとえば本などなら持ち込んでいいのだ。外出時間などには口うるさい看守もその点は寛容に見逃してくれる。
 「……面白い?」
 僕が本腰入れて読書に集中し、会話が途切れて寂しくなったのか、さして乗り気でもない口調でロンが聞いてくる。正直読書を邪魔されて鬱陶しかったが退屈を極めて話し相手を求めてるらしいロンを無視するのも大人げないので上の空で答える。
 「ああ。冴えに冴え渡る冷徹な筆致で綴られる事件発生までの過程と登場人物の心理を綿密に解剖しながらも余分な感情移入はさせない一定の距離感、第三者的に突き放した作者の視点が興味深い」
 「……おまえの説明聞くと面白くなさそうだな」
 「失礼だな。普段本を読まない人間に言われたくない」
 「今読んでるよ」
 「何の本だ」
 「ブラックジャック。こないだレイジが持ってきてくれた」
 「マンガか」
 「面白いよなブラックジャック」
 「何故なれなれしく同意を求めるんだ」
 「だってお前ブラックジャック好きだろう」
 「……ちょっと待て、だれに聞いた?」
 聞き捨てならない台詞に本の表紙を閉じ、膝からどかして腰を上げる。じっとしてることができずに通気口の下に歩み寄る。
 「レイジから。図書カードにお前の名前載ってたって……素直に白状しちまえよ」
 「白状するも何も事実無根だ。僕がマンガなんて稚拙な絵と吹き出しで構成された子供騙しの書物を読むわけがないじゃないか、誤解を招くような発言はやめてくれ。図書カードに記入されてた名前は……そうサムライ、サムライが僕の名前を騙ったんだ。ブラックジャックに熱中してるのは僕じゃない、サムライの方だ。ただ自分の名前でマンガを借りるのは恥ずかしいから僕の名前を貸してくれと頼まれて嫌々不承不承渋々、」
 「仲いいんだな」
 「なんだって?」
 「サムライに名前貸してやったんだろ。仲いいな」
 墓穴を掘った。
 失言を悔いて押し黙れば通気口からくっくっくっと奇声がもれてくる。しゃっくりの発作にでも襲われたかといぶかしめば奇声の正体はロンの笑い声だった。
 「……まったく不愉快な人間だな。読書の邪魔だからその不気味な笑い声は即刻やめてくれないか、癇にさわる」
 「お前は……」
 「なんだ?」
 「意外といい奴だな」
 眉をひそめる。
 「……昨日のことを言ってるなら誤解もいい所だ。君を庇ったつもりなど微塵もない、僕は僕がしたいように行動しただけだ」
 言葉に嘘はない。僕は別にロンを庇ったわけではない。ただ、四面楚歌の状況で非難の矢面に立たされて、この壁の向こうでそれでも俯かずに轟々たる非難に立ち向かってるのだろうロンを思い浮かべ反射的に口が動いたのだ。まあ、ロンに借りを返したかったのは否定しない。彼にはイエローワークの強制労働中頼んでもないのに助けてもらったし、借りはちゃんと返しておかないと気持が悪い。僕は完璧主義者だから貸し借りはきちんと清算しておきたいのだ。
 憤然とベッドに戻り、栞を挟んだページを開けばまた懲りずにロンが話しかけてきた。
 「俺さ、前に言ったよな。しんどくなったらサムライを頼れって」
 「………」
 「頼れよ」
 「断る」
 「断るなよ」
 「他人の世話にはならない」
 深いため息。
 『真地了(まじめすぎ)』
 『幼稚(ガキっぽいぞ)』
 「!?んだよ本当のことだろう、ひとりで意地張ってかってに自分追い込んでるくせに何でもないフリしてんじゃねえよ、見てるこっちが痛いんだよ!!いや正確には見てるわけじゃねーけど、通気口から声から聞いてるだけだけどさ!声だけでもしんどいのわかんだよ!」
 本から顔も上げずに台湾語で返せば短気なロンが何やら吠えているのが聞こえてきたが馬鹿を相手にして不毛な口論に終始する愚は犯したくないから無視する。僕がしんどいだって?余計なお世話だ、ロンに心配されるほど僕はおちぶれてない。こうやって平常心で読書できるのが僕が正気を保っている何よりの証拠じゃないか。ロンのお節介はもう病気の域だが今は他人のことより自分のことを心配するべきだ、と最もな忠告をしようと眼鏡のブリッジを押し上げー 

 その瞬間だった、ガラスが割れ砕ける不吉な騒音が耳をつんざいたのは。

 「なんだ?」
 通気口からロンの不安な声、周囲の房のざわめき。廊下に殺到する複数の足音、連鎖的に扉が開く音。何が起きたんだろう?どうやら緊急事態が発生したらしいと扉に駆け付けて開け放てば、僕の目の前を数人の看守が走り抜けてゆくところだった。
 「ついに出たか、自殺者が!」
 「ガキが頭から鏡に突っこんだらしいぜ」
 「顔なんか血まみれで鏡の破片が刺さりまくってるらしいぜ」
 「うわあ、ご自慢のツラが二目と見れなくなっちゃ客足遠のいて商売あがったりだな」
 「顔がつぶれちゃあ客も萎えるよな」
 「勃つもんも勃たなくなるさ」
 嫌な予感に駆られて廊下にとびだせば、異変を察して廊下にさまよいでてきた売春夫や上半身裸のあられもない姿の客で現場は既にごった返していた。着の身着のままの風体で行為を中断して野次馬にわいてきた客と売春婦、その注目を一身に浴びて担架で運び出されてきたのは見覚えある囚人。六日前、身体検査が行われた医務室で喉を振り絞るように恋人の名前を連呼していた……

 『おいまてよ聞いてくれよ!うそだよな、俺が売春班なんて冗談だよな?だって俺娑婆に彼女いるんだぜ、凛々って言ってさ、すっごいスタイルがいい美人で今でもけなげに俺の帰り待ってくれてるんだぜ?なのになんで男なんかに抱かれなきゃいけねえんだよこんなのってねえよ、凛々にあわす顔ねえよ!!』

 必死の形相でタジマの膝にしがみつき、なりふりかまわず情けを乞うていた囚人の顔が、目の前、顔面をしとどに血に染めて担架で運び出された少年に重なる。
 宙を掻き毟るような動作で腕を上下させ、息も絶え絶えに何かを呟く少年。
 「凛々……今会いに行くから、抱きに行くからな……」
 鏡の破片で切った頭からも出血してるらしい、意識朦朧と忘我の境地をさまよいながらも恋人の名を呼び続ける少年の姿が担架に乗せられて遠ざかってゆく。男に犯されている最中も恋人の面影を抱き、それだけを支えに今日まで生きてきた少年を見送り、振り向く。
 たった今少年が運び出された部屋からトランクス一丁の姿でふらりと出てきた客が「何があったんだ」と看守に警棒をつきつけられ、おどおどしながら弁解する。
 「知んねーよ、さあこれから本番って時にいきなり叫び声あげて鏡につっこんでったんだ。最初から頭おかしかったんじゃねえの、アイツ。なんかさ、鏡の中に女の幻覚見たらしくて……『凛々!』て絶叫して頭からつっこんでったんだ。本当だよ、嘘じゃねえよ。もうさ、幻覚でもいいから女抱きたかったんじゃねえの?そんくらい飢えてたんだよ。ハハハハ、俺じゃ不満なのかって話だよな。売春班の連中は皆男にヤられたほうがイイように仕込まれてんのに、」
 脂下がった顔と下卑た笑い声。ああ、この顔は知ってる、僕を組み敷いて今から思う存分犯そうと性欲に猛った今日まで十数人という客たちの―
 
 気付いたら、渾身の力をこめて廊下の壁を殴っていた。

 「………」
 あれだけ騒がしかった野次馬がしずまり、喧騒が止む。自己顕示欲むきだしの身振り手振りをまじえて自己弁明していた客も、廊下に残された血痕と鏡の破片とを後始末してた看守も、口々に勝手な憶測を述べていた野次馬連中も重苦しく押し黙って僕を凝視する。
 「黙れ、低脳」 
 そうだ黙れ、貴様ら全員黙れ、黙ってろ。お前らに何がわかる、僕達の何がわかる、うわ言のように恋人の名前を呟きながら担架で運ばれていった彼の何がわかる。何もわからないくせに、わかろうともしないくせに勝手なことを言うな。僕達が男に抱かれて喜んでるわけないじゃないか、いや、他の人間は知らないが少なくとも僕は喜んでなどいない、体を這い回る手も手首に食い込む縄も首筋を這う舌も強引に射精させられる屈辱も塩辛くて生臭い物を無理矢理口に突っ込まれて吐きそうになってそれでも死ぬ気で続けなけりゃいけない地獄もなにもかも、
 「何もわからないくせに、知ったふうな口をきくな」
 呆然とした看守と囚人を廊下に残して扉を閉める。鉄扉に背中を押し付け、深く深く深呼吸して俯く。他人のことで取り乱すなんて僕らしくもない、まったく僕らしくない。でもどうしようもなかった、感情が抑制できなかった。おもいきり壁を殴った手が痛い、リョウを殴った時よりずっとずっと痛い。

 僕は不感症だが、心まで不感症になったつもりはない。

 固い壁を殴ればちゃんと痛いと感じる、手が砕けそうな衝撃に脳髄が痺れる。本を読んで面白いと感じる、漫画を読んで不覚にも面白いと感じ、その事に戸惑って隠そうとする。
 人は常に感情と感覚に左右されて生きてる。
 殴られたら体も心も痛いし、取り替えのきく玩具のように粗末に扱われたら自尊心が傷つく。でもいちばん怖いのは、そういう風に扱われるうちに自分がそう扱われても仕方ない人間だと思えてきてしまうことだ。
 ゆっくり、ゆっくりと、心が死に始めている。
 もう限界かもしれない、どうやら僕は自分がそうありたいと願っていたほどに強い人間じゃなかったようだ。ずっとずっと惠の兄にふさわしい人間になりたくて努力してきたのに、惠に認めてもらいたくて足掻き続けてきたのに、遂にはその努力も報われずにこんな所で終わろうとしている。
 ぶざまだな、鍵屋崎直。
 『俺さ、前に言ったよな。しんどくなったらサムライを頼れって』
 ロンの声が脳裏に響く。そうだ、たしか以前そんなことを言われた記憶がある。あの時は鼻で笑い飛ばした台詞が今は笑い飛ばすことができない、狂気に浸食されかけて自分を見失いかけた今は無視することができない。僕だってそうしたい、サムライに頼れるものならとっくにそうしてる。でもできない、できないんだ。僕は天才だから、不可能を可能にすることができる人間だからどんな過酷な苦境だって独りで耐え抜けるはずなんだ。僕はこれまでそう信じてきたしこれからもずっとそう信じ続ける、だれかによりかかってはだめだ、惠を守る為には他人によりかかってなどいられない、たとえそれが戸籍上の両親でもよりかかることができなかったんだから―

 「いつまで客待たせんだよ」

 横柄な声に反応してゆるやかに顔を上げればいつのまに来ていたのだろう、ベッドに看守が腰掛けていた。直感した、客だ。前にも一度僕を買いにきたことがあるからすぐわかった。おそらくは僕が廊下に出ている間に入れ違いに入室したのだろう、苛立たしげな様子で立ち上がった看守が犬でも呼ぶみたいに僕を手招く。
 足をひきずるように看守のもとへ向かう。徐徐に縮まりつつある距離。目の前で看守がポケットからとりだしたのは……ロープ。何をされるかはわかっていた、以前にもされたことがある。だが売春夫に拒否権はない、逆らったらもっと酷い事をされる。無駄な労力は使いたくないと諦念に至り、看守に命じられて上着の裾に手をかける。上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱ぎ、完全に裸になる。
 全裸の僕を手招きしてすぐそばに呼び寄せた看守が手の中のロープを扱きながら命じる。
 「手を出せ」
 命令どおりに手首をそろえてさしだせば早速縄をかけられる。ちょうど縄目の鬱血痕に添って手際よくロープが巻かれてゆく過程をぼんやり観察しながらついさっき、意識の表層に上らせた考えを反芻する。

 さっき僕は、死んだほうがマシなことなどこの世にあまりないと言った。
 だが、今のこの状態を「死んだほうがマシだ」以外に説明する言葉がない。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060130202502 | 編集

 「黒ヤギさんからお手紙着いた~白ヤギさんたら読まずに食べた~仕方がないからお手紙書いた、さっきの手紙のご用事なあに」
 陽気に鼻歌をうたいながら飛び跳ねるように廊下を歩く。
 ポケットでかさかさ鳴ってるのは手紙。僕を殴ってる最中に鍵屋崎のポケットから落ちた大事な大事な妹宛のお手紙だ。捨てにいく?残念、不正解。そんな芸のないことはしないね。今日の僕は東京プリズンの郵便配達夫だ、黒ヤギさんから着いたお手紙は白ヤギさんに食べられちゃったけどこの手紙をむしゃむしゃ食べられちゃっちゃあ困る。
 「あ、逆だったかな?読まずに食べたのは黒ヤギさんだっけ」
 まあどっちもでいい、ささいなことだ。懐かしい童謡を唄いながら蛍光灯が点滅する仄明るい廊下を歩いて向かうはとある房。前方50メートルの地点に目的の房が見えてきて駆け足で急ぐ。小走りに到着、廊下に人通りがないのを用心深く確かめてから鉄扉の上部に設けられている格子窓に顔を近付け、鉄格子の隙間からそっと中の様子を窺ってみる。
 目をしばたたいた。
 「なあサムライ」
 「なんだ」
 「顔色が悪いぜ」
 「気のせいだ」
 「目の下に隈ができてる」
 「気のせいだろう」
 この噛みあわないやりとり、どこかで聞いたことがある。息をひそめ頭を屈めて鉄格子の窓を覗き込めば天井中央から埃に曇った裸電球がぽつねんと吊りさがる下、ベッドとベッドが左右対象に配置された殺風景な房の真ん中に見知った顔がふたり。ともに垢染みた囚人服を着ているが第三者に与える印象は対照的。ひとりは凛と背筋をのばして床に正座したおそろしく姿勢のよい男でこちらを振り向きもせず寡黙に墨を磨っている。精悍に引き締まった横顔はのっぺりと起伏に乏しく表情も読み取りにくいが、注視してよく見れば目の下に隈が浮いてる。憔悴した顔をわずかに俯け、黙々とストイックに墨を磨り続ける男の傍らにだらしなく膝を崩して座りこんでるのは明るい藁束のような茶髪を後ろで一本にまとめた男で、囚人服からのびた手足はむらのない褐色。耳朶に連ねたピアスの数がまず目を引くが、それより何より印象的なのは精巧なガラスを彷彿させる色素の薄い瞳だ。純和風な容姿の男と人種不明な容姿の男がおなじ天井の下で口数少なく向き合ってるのはちょっと異様な光景だ。
 それがブラックワーク実力№1を誇る東棟の王様と、影じゃその王様にだってひけをとらないと噂される№2なら言わずもがな。
 ロンが篭城開始してから六日目、からかう相手もいないがらんとした房にひとりぼっちで暇を持て余してたのか、わざわざサムライの房に出張してきたレイジが大あくびをする。
 「鍵屋崎がいなくなってからよく眠れてねーんじゃねえか?」
 『鍵屋崎』
 レイジがなにげなく、さりげなくを装って口にした言葉は直球で核心を突いていた。墨を磨る手が止まり、こちらに向いた背中が強張る。そしてまたなにげない風に再開、そっけないほどに抑揚ない声でサムライが応じる。
 「……そんなことはない。下衆な勘繰りをするな」
 「嘘つけ」
 膝を崩して身を乗り出したサムライの顔を覗き込み、なにもかもお見通しだという笑顔を浮かべる。努めて表情を出さないように引き締めた横顔を覗きこみ、サムライの本心を推し量るように目を細めたレイジが軽く提案する。
 「助けに行ってやれば?」
 「………………」
 「行きたいんだろ」
 「お前に関係ないだろう」
 「なんでそうはぐらかすかね。照れてんの?」
 「照れてなどいない」
 「じゃあさっさといけよ、呑気に墨なんか磨ってる場合じゃねえだろう。こうしてる今も鍵屋崎は突っ込まれてしゃぶらせて喘がされて泣かされてるんだぜ」
 挑発ともとれる発言に返された反応は激烈だった。
 人の不幸は蜜の味と公言してはばからない悪魔のような薄笑いを浮かべてうそぶいたレイジの襟首が凄まじい力で掴まれて締め上げられる、激昂して立ち上がったサムライがその弾みに足もとの硯を蹴飛ばして床一面に墨汁がぶちまかれてサムライの手足やズボンの裾にも点々と飛沫が跳ねる。墨汁の海に立ち上がったサムライはおそろしい形相をしていた。先刻までの無関心無表情はどこへやら、憤怒を滾らせた双眸は冥府の鬼火の如く眼光炯炯と輝いている。目の下に浮いた隈と凄惨に殺げた頬も相俟って今のサムライは修羅の鬼相に変じていた。
 「……怒るなよ。本当のこと言っただけだぜ」
 「降参降参」とおどけて両手を挙げたレイジが火に油を注ぐような返し方をするが、床一面にゆっくりと染み広がってゆく墨汁が目に入り、失態に気付いたサムライが乱暴にレイジの襟首を突き放す。そのまま床に膝をつき、ポケットからだした手ぬぐいできびきび墨汁を拭いだしたサムライを愉快げに眺めながらレイジがへたな鼻歌を唄いだす。わあ音痴だ。これ以上レイジの鼻歌を聞かされちゃたまらないと片手で耳をふさぎ、鉄格子の隙間に手紙をくぐらせて手を放す。宙にすべりおちた手紙がぱさりと床に落下するまでの数秒間に廊下を全力疾走して10メートル先の曲がり角に身をひそめ呼吸を整えがてら聞き耳を立てる。さあ、うまく気付いてくれるかなと憂慮したけど要らぬお世話だったようだ。
 衣擦れの音、人が動き出す気配。
 「?何かおちてきたぜ」
 レイジに指摘され床に這いつくばってたサムライも気付いたらしい、墨汁をしとどに吸って黒く染まった手ぬぐいをさげてこっちに歩いてくる姿が目に浮かぶ。曲がり角からちょっと顔を覗かせてみれば格子窓の向こうでうごめく長身痩躯の影を確認できた。上体を折ったサムライが怪訝そうに眉をひそめてたった今、僕が鉄格子の隙間から落とした手紙を拾い上げる。
 錆びた軋り音をあげて扉が開き、手紙を手にしたまま廊下に立ち尽くして左右を睥睨するも人影はない。サムライが当惑した様子で房に引き返して鉄扉を閉じるのを確認後、抜き足差し足忍び足で廊下を歩いて会話が聞こえる距離にまで接近する。
 「手紙だ」
 壁に背中をくっつけて鉄格子の隙間からもれてきた呟きに耳を澄ます。不審の色を目に湛えたサムライが処理に困って手の中の手紙を見下ろしてる様子がありありと目に浮かんで愉快になる。
 「ラブレター?もてるねサムライ」
 レイジのひやかしを黙殺したサムライが音荒く便箋を広げて文面に目を通してゆく。沈黙。中の様子が気になっておそるおそる格子窓を覗きこんでみれば、サムライは滝に打たれた修行僧のように凝然と裸電球の明かりの下に立ち尽くしていた。手の中の便箋に食い入るように見入って立ち竦むサムライへと無警戒な大股で歩み寄ったレイジが「なになに」とその手元を覗きこみ、声にだして読み上げる。

 「『惠、元気にしてるか?
  手紙を書くのは今回で二度目だ。前回よりは上手く書けてるといいが、正直自信はない。一度目の手紙は諸事情あって出すことができなかったが、こうしてまた惠に手紙を書くことができて、たとえそれが僕の一方的な思い込みだとしても惠との繋がりが回復してすごく嬉しい。
 すごく、嬉しい。
 ……なんだか稚拙な文章になってしまった。ここまでまだ三行だが、早くも後悔し始めている。どうやら僕は手紙を書くのが下手なようだ。新発見だ。論文を書くのは得意なのに、変だな。上手くいかないものだな、なにもかも。
 惠は今どうしてる?
 現在は仙台の精神病院に入院してると聞いたが、不自由はないか。僕に心配されるだけ迷惑かもしれないが、せめて今どうしてるのかだけでも知りたい。風邪はひいてないか?寂しくはないか?担当医や看護婦はやさしくしてくれるか?惠をそんな境遇に追いこんだ僕が言えた立場じゃないのは自覚してるが、惠さえよければ、負担にならなければ、こうして拙い手紙を綴る行為を許して欲しい。 
 惠に手紙を書いて、惠の存在を実感することでしか今現在の僕は生きてる実感がえられない状態なんだ。どうか、手紙を書くことだけでも許して欲しい。辛ければ読まなくていいから、いや、最初の一行だけでも読んで欲しいのが本音だが惠が辛いなら無理にとは言わない。一度目を通してすぐに捨ててくれて構わない。それでもいいから、とにかく今この瞬間だけは僕の気持が恵に伝わってると錯覚させてくれ。

 しあわせな夢を見させて、安心させてくれ。

 ……僕としたことが、失態だ。前回とおなじ過ちを繰り返している自分の愚かさ加減に絶望しそうだ。主旨を明確にしなければ伝わるものも伝わらないと頭ではわかっているのに、こうしていざ惠に書くとなるとひどく緊張して文章が支離滅裂になってしまうんだ。
 惠は今、精神病院でなにをしてる?病院にピアノがあるとは思えないが、音楽療法を行っている所なら置いてあるかもしれないなと気付いた。惠は今もピアノを弾いてるか?練習は続けているか?僕は惠のピアノが本当に好きだった、惠の隣でピアノを聞いてるときが一番心休まった。また惠のピアノを聞きたい、仔犬のワルツを聞かせて欲しい。他の曲でも構わない。惠の弾く曲なら何でも好きだ。
 今僕は、』……」 

 手紙はそこで途切れていた。まったく唐突に、必然的に。
 「中途半端」
 不得要領顔で首を傾げたレイジの声など聞こえないように手の中の手紙を見つめていたサムライがふいに呟く。
 「書けなかったんだ」
 「?」
 レイジが不思議そうな顔をしたのはサムライの言葉の真意を推し量ったからじゃない、手紙を握り締めたサムライの手が白く強張っていたからだ。便箋が歪むほどに手に力をこめたサムライが俯き、かすれた声で呟く。
 「自分の近況が書けなかったんだ。鍵屋崎は」
 僕も同感。鉄扉に背中を預けて廊下にうずくまり、蛍光灯がぶらさがった天井を仰ぐ。あのかっこつけたがりが大事な妹宛の手紙に今の自分の境遇を書けるわけがない、毎日男に犯されて泣いてるなんてそんな救いのない現実を明かせるわけがない。不自然な箇所で途切れた手紙を握り締め、途方にくれたように立ち尽くすサムライの傍ら、レイジは何か言いたげに唇をとがらして沈黙を守っていたが……
 「サムライ」
 レイジが長い沈黙を破りサムライに呼びかけるのと、心ここにあらずといったらしくもない腑抜け面で顔を上げたサムライの横っ面に拳が叩き込まれるはほぼ同時だった。
 「!」
 風切る唸りをあげて襲来した拳を避ける暇もなく、また、軌道から逸れる暇もなく横っ面をぶん殴られたサムライの手から書き損じの便箋がこぼれて宙に舞う。裸電球の明かりを透かして天井高く舞い上がった手紙がゆるやかな螺旋を描いて床に落ち、レイジにぶん殴られて床に転倒したサムライが呆然と目を見張る。床一面の墨汁の海に手をついたサムライを見下ろしたレイジが笑顔で吐き捨てる。
 「しけたツラしてんじゃねえよ。ぐちゃぐちゃ悩んでる暇あんならとっとと行動起こせ、らしくねえよ。鍵屋崎のこと気になんなら助けに行けばいいじゃん、会いにいけばいいじゃん。何をうじうじうじうじと悩んでんだよ、お前それでも武士か?」
 「―お前になにがわかる」
 冥府の底から湧いてくるような声だった。
 墨汁の飛沫をはね散らかし、瘴気じみた殺気を全身にまとわせて立ち上がったサムライが目に激情を閃かせる。幽鬼じみた足取りでレイジに歩を詰めたサムライの足もとで墨汁の飛沫が跳ねてズボンの裾と上着の裾を汚してゆく。
 「鍵屋崎は俺が手を貸すのを拒んでいる」
 「知ってるよ。キーストアは何でも独りで抱え込むタチだもんな、さぞかししんどい思いしてんじゃねえの今。行ってやれよ」
 「俺がのこのこ出向いて行ってあいつが喜ぶと思うか」
 「喜ばないだろうな。余計なことするなって怒るんじゃえねえの」
 挑発的に腕組みして自分を待ち受けるレイジのもとへと大股に歩み寄ったサムライはぞっとするほどに底冷えした目をしていた。おもいきりぶん殴られて切れた唇を拭いもせず、唇の端に痛々しく血を滲ませたまま、一歩もひかずにレイジと対峙する。狭苦しい房に充満してゆくのは息苦しいほどの殺気と圧迫感、異変を嗅ぎ付けた囚人が周囲の房からわらわらと沸いてきて鉄格子から覗き見してた僕を最前列に押し出して扉に群がる。ぐ、ぐるじい。
 「なんだなんだ」
 「喧嘩か」
 「どいつとどいつが……て、サムライとレイジじゃねえか!?」
 「マジかよ、東棟の二強が遂にガチンコ対決!?」
 「こいつあ見逃す手はねえ。おいっ、東棟の連中全員呼んで来い!見モノだぞ!」
 扉に押し付けられて圧死寸前、鉄格子に顔を押し付けられて身動きできずに窒息寸前の僕などもう全く目に入らないみたいに房の中ではサムライとレイジが睨み合ってる。蛇とマングース、いや、龍と虎?違う、そんなレベルじゃない。今にも絶えそうに点滅する裸電球の下、床一面の墨汁に靴裏をひたして一対一で対峙するのはブラックワークの覇者たる東棟の王様と王様に継ぐ実力の持ち主と噂される男。腕組みしたレイジは余裕の構え。 これまで、というか僕が東京プリズンに来て以来レイジとサムライの直接対決は行われたことがなかった。僕が東京プリズンに来る前も二人が直接ぶつかったことはなく、それなりに良好な関係を維持してきたという。サムライは無駄な殺生を好まない平和主義者だし、笑う戦闘狂として東棟を含めた全棟の連中に恐れられてるレイジだってサムライには一目おいてる節があったからこれまで二人の直接対決は行われてこなかったのだ。
 それが今、現実に始まろうとしている。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060129202624 | 編集

 「……俺が今のこの状況を喜んでるとでも思うか」
 底冷えする目でレイジを見据えたサムライが、胸引き裂かれるような苦渋が滲んだ独白を吐き捨てる。
 「俺だって鍵屋崎を助けに行きたい、このまま放っておきたくはない、ではどうれすればいい?鍵屋崎は俺を頼るのを拒んでいる、俺が手を貸すのを拒んで嫌がっている。俺はあいつを哀しませたくない、これ以上傷付けたくない。俺が横から手を出すことで鍵屋崎の矜持に泥をぬってしまうなら、余計な口を出すことでさらに鍵屋崎を苦しめて絶望の淵に追いやってしまうような真似はしたくない絶対に」
 「腰抜け」
 「……何?」
 「聞こえなかったか?腰抜けって言ったんだよ」
 顔寄せ合って鉄格子を覗きこんでいた連中が息を呑む。頭から冷水を浴びせられたような戦慄が体を走り抜けた僕らをよそに目の前ではレイジが笑ってる。やさしいとも評せるだろう魅力的な笑顔で、世界中の女を虜にするだろう蕩けそうに甘い笑顔で。
 でも、これまで何人何十人殺してきたのかわからない眼光の鋭さは女たらしの本性全開の甘い笑顔に全く相応しくない。
 「キーストアを苦しめたくないから手をださない、あいつに呼ばれてないから助けにいけない?御託ふかしてんじゃねえよ。ここで重要なのはキーストアがどうこうじゃない、お前がどう思ってるかだよ。いいか?あいつの屁理屈鵜呑みにして指くわえてたらじきに手遅れになるぜ、いちばん近くでキーストア見てるお前がそろそろ限界近付いてんのに気付かねえわきゃねーだろ。あいつが余計なお世話だ何だ喚こうが抵抗しようが手刀でも打ち込んで連れてくりゃいいじゃん、ほんとは今すぐにでも駆け出してってそうしたいくせにやせ我慢してんじゃねえよ」
 「お前に何がわかる。俺だってそうしたい、この六日間あいつの顔を見るたびにずっとそう思ってきた、寝ても覚めてもそればかり考えてきた。俺は二ヶ月前に『生き残るために俺を頼れ』と言った、しかし鍵屋崎はその言葉を受け入れてない、自分ひとりで何とかしてみせると抗いつづけている。俺は、」
 サムライの顔が苦渋に歪み、胸に裂け目が生じ、血を吐くような激情が声に迸る。
 「俺はどうしたらいいんだ!?鍵屋崎はプライドが高い、決して自分の弱さを認めない、仮に認めたとしても俺に弱味を見せることがない。俺が余計な手を出すことであいつがいちばん大事にしているプライドを踏み付けて泥だらけにしてしまったら鍵屋崎は立ち直れなくなる、今度こそ駄目になってしまう、一切の希望を失ってしまう。俺は、」
 唐突に言葉を切ったサムライが自分を落ち着かせるように深呼吸し、毅然と顔を上げる。目に宿るのは痛々しいまでに思い詰めた光、無明の闇の中で迷子になった子供のように途方に暮れた表情。
 「俺はもう、俺のせいで大事な人間を失いたくない」
 切羽詰った声色で吐き捨てたサムライの正面、腕組して反論を聞いていたレイジが口角を吊り上げて獰猛に笑む。
 「鍵屋崎が他の男に抱かれてもいいってのか?」
 「…………」
 「お前がそう言うなら仕方ねえ」
 やる気なさそうに耳をほじっていたレイジがフッと耳垢を吹き、両の手を体の脇にさげてサムライに面と向かい、そして。
 サムライを激怒させる一言を放つ。
 「俺が今度抱きに行ってやるよ。お望みなら感想教えてや、」 

 レイジが吹っ飛んだ。

 「……………」
 鉄格子に殺到していた全員が声を失った。あのレイジが、王様が、いつでも自信たっぷりにへらへら笑ってる奴が目にもとまらぬ速さで空を切った拳に薙ぎ飛ばされて壁に衝突。この場の全員、だれ一人としてサムライの拳がレイジの横っ面に入る瞬間をとらえることができなかった。鈍い音、震動。壁を背にしてずり落ちたレイジが糸が切れた人形のように手足を投げ出して項垂れる。顎がゆっくりと持ち上がり、前髪が額を流れる。
 乱れた前髪の隙間から覗いたのは闘争心に火がついた双眸、痙攣して吊り上がった口角から露わになったのは鋭く尖った犬歯。
 「やったな」 
 「それがどうかしたか」
 「いい度胸だ」
 壁に片腕もたれて立ち上がったレイジが床に唾を吐く。サムライに殴られて口の中が切れたらしく唾には血が滲んでいた。唇の端を親指で拭い、過不足なく理想的に引き締まった全身に獰猛な殺気を漲らせて戦闘体勢に入ったレイジが片腕を前に突き出し、ゆっくりと五指を折り曲げてサムライをさし招く。
 「かかってこいよみっちゃん」
 闘いの幕が切って落とされた。
 床を蹴って疾駆したサムライが腕を振りかぶってレイジの顔を殴る、殴る、殴る。やっぱり幼い頃から木刀を振ってきただけあって腕を繰り出す動作ひとつとっても無駄なく贅が殺ぎ落とされてる。
 「刀がなくても強えじゃんか」
 一方レイジは連続で殴られてるってのに口笛を吹く余裕さえある。いや、これはわざと殴らせてるのだろう。その証拠にレイジの顔には余裕の笑みが浮かんでいる。と、レイジの姿が突然消失。拳を穿ったサムライの足もと、壁面に背中を預けて屈んだレイジが這うような低さから蹴りを繰り出す。長い足が宙を綺麗な弧を描いて宙を薙ぎ、ふいをつかれたサムライが叫び声をあげる間もなくすっ転ぶ。形勢逆転、サムライの襟首を掴んで馬乗りになったレイジが鼓膜をびりびり震わす声で吠える。
 「ダチひとり助けられなくて何がサムライだ、格好つけてんじゃねえよ!!」
 「お前はどうなんだレイジ、ロンと喧嘩して行く当てなく人の房を訪ねてきたくせに和解した途端俺に説教か?ずいぶんと変わり身の早い王だな」
 「ああそうだよ、手の早さと変わり身の早さが俺の取り得だからな」
 レイジに襟首掴んで強引に立たされたサムライが再び腕を振りかぶる、風切る唸りをあげて的確に急所を狙ってくるこぶしをスキップ踏むようにラクラクとかわしながらレイジが口早に畳み掛ける。
 「このまま鍵屋崎が弱ってへばってくの見過ごしてていいのかよ、何もしないでいていいのかよ?」
 「俺が何かしたら裏目に出る!!」
 頬を擦過した拳の風圧が前髪を舞い上げる、それでも動じないレイジとは対照的にサムライは動揺をあらわにしつつある。ポケットに指をひっかけたままの大胆不敵な姿勢で身軽に跳躍、柔軟性を存分に生かして顎を逸らし胸を反らし右足を軸に体を半転させ間一髪で拳をかわすレイジに降り注ぐのは野次と罵声。
 「よーし、行け、レイジ!」
 「負けるなサムライ、下克上だ!」
 「いつもへらへら笑ってる王様なんか完膚なきまでに叩きのめして血の海に沈めちまえっ、お前ならできる、やれ!」
 「さあ、どっちに賭ける?ただ今6:4競っております競っておりますレイジがやや優勢であります!」
 「いやいやサムライだって実力じゃレイジに負けてねえ、平和主義者だから表立ってレイジとぶつかってこなかっただけでちょっと本気だしゃスマイル0円のバカ王なんかあっというまだ!」
 「刀持ってねえんじゃレイジに形無しだ!」
 「うめえ洒落言ったつもりかよっ、興醒めだからひっこんでろ!!」
 押し合いへし合い蹴り合い殴り合い、レイジとサムライの対決を巡る賭けを発端にした小競り合いが飛び火して廊下に殺到した囚人同士が取っ組み合いの喧嘩がおっ始める。もう収拾がつかない。頂上決戦の噂が噂を呼んで膨れ上がった人波に揉まれて流されかけ、「勝つのはサムライだ!」「いやレイジだ!」と互いの襟首掴んで喧喧轟々唾とばしあってる囚人二人の股の間をくぐり抜け、髪と服をぐちゃぐちゃにして最前列に戻ってみればレイジとサムライは両者互角の攻防戦を繰り広げていた。
 レイジもサムライも僕以上にぼろぼろだ。ちょっと目をはなしてるすきに嵐のような拳の応酬があったんだろう、のびきった襟首から覗いた鎖骨には玉のような汗が浮いている。頭の後ろで一本にまとめた髪が乱れ、おくれ毛がこぼれていることに気付いたレイジが素早くゴムを抜き取って口にくわえる。そのまま頭の後ろに手を持っていき、ふたたび一本にまとめて扱いてからゴムで結んでサムライと向き合う。 
 「ハンデやろうか?」
 レイジが意味ありげに一瞥した方角にはサムライの木刀が。ちらりとレイジの視線を追い、サムライが口にした言葉は簡潔だった。
 「情けは無用だ。反吐が出る」
 「言うじゃねえか、上等だ」
 「そうこなくっちゃ」と好戦的な笑みを浮かべたレイジが腰に重心を移動させ、足幅を広げる。空気が撓み、場の緊張が頂点に達する。
 先手を打ったのはサムライだった。
 均衡が崩れ、サムライが満を持して解き放たれた矢のように一直線に疾駆する。極限まで撓められた矢のようにレイジに肉薄したサムライが、これまで堪えに堪えていた何かを解き放つように絶叫する。
 「俺は鍵屋崎を友だと思っている!!」
 叫びながら腕を振りかぶる。
 「鍵屋崎が大事だ、守りたい、守ってやりたい!でも本人がそれを重荷に感じるなら、迷惑だと言うなら俺はどうしたらいい!?何か事が起こり俺が手を出すたびにあいつは哀しい顔をしてきた、ひどく侮辱されたような顔で迷惑がってきた!俺は鍵屋崎にあんな顔をさせたかったわけじゃない、鍵屋崎を傷付けたかったわけじゃない、でも実際そうなんだ、俺が余計な手出しをすることであいつの自尊心を傷つけ何より他人の同情を嫌う鍵屋崎を苦しめて貶めてきたんだ!」
 「それがなんだってんだよ!!」
 おのれの顔面めがけて迫ってきた拳を腕にしがみついて捨て身で封じ、空いた手を拳に握り固めたレイジが負けじと叫ぶ。
 「鍵屋崎が苦しもうが傷つこうかいいじゃないか、あいつはもう十分苦しんで傷ついてんだよ、これ以上苦しみようも傷つきようもねえよ!」
 「黙れレイジ、」
 「だまんねーよバカ!」
 サムライの片腕を締め上げて封じたレイジがもう一方の手を目にもとまらぬ速さで振りかぶる、僕には残像しか見えなかった。サムライの鳩尾に抉るように叩きこまれた拳、その威力は絶大で痩せてはいるが長身のサムライがもんどり打って吹っ飛んだ。
 勝敗は決した。
 僕はさっきレイジとサムライは互角だと言ったけどとんだ勘違いだった。レイジはあの時点でまだ本気をだしちゃなかった、全力をだしちゃなかった。刀を持ったらどうだか知らないけど素手の喧嘩じゃあサムライに勝ち目はない、レイジだって伊達に東棟の王様を名乗っちゃいないのだ。みじめに床に這いつくばり片腕を腹に回し、胃袋を吐き戻しそうな勢いで咳き込むサムライの頭上に影がさす。
 勝者の余裕、墨汁の海を悠々と渡ってきたレイジが醒めた笑顔でサムライを見下ろす。
 「ざまあねえな」
 「………!」
 墨汁で顔を汚し、屈辱に歯軋りしたサムライの前にすとんと屈みこみ、無造作にその襟首を掴む。サムライの襟首を掴んで自分の方へと引き寄せたレイジが顔とは裏腹に真剣な声で言う。
 「いいか?よく聞けよ」
 鳩尾の激痛が原因で額に夥しい脂汗を浮かべ、痛苦に顔を歪めたサムライの視線を正面から絡めとり、レイジが深呼吸する。
 「おまえ以外のだれに鍵屋崎が助けられんだよ」
 「……………」
 頑是無い幼子に世の理を噛み含めるように辛抱強くレイジがかき口説く。
 「もうちょっと自信もてよ、あの気難しいメガネにこの刑務所で唯一友人だって認められたんだからよ。大事な人間を失いたくないから自分じゃ何もしないだ?ふざけんな、お前が何もしないでいるうちに大事な人間はどっか行っちまうっての。それがまだ手が届くところならいいよ、全速力で走って追いつけるとこならいいよ。でもな、そうじゃないだろう?もう二度と手が届かないところに行っちまったらどうすんだよ、取り返しつかないだろ」
 サムライの目に戸惑いの波紋が生じる。墨汁の海に手をついて上体を起こしたサムライの襟首をそっけなく放し、レイジが立ち上がる。
 「お前の過去に何があったかなんて死んねーし俺が口出せた義理じゃねーけど今のお前見てるといらつくんだよ。般若心境の読経にも身が入ってねえし木刀の切れ味も悪いし全然サムライらしくねえよ、今のお前はただの腰抜けだよ、サムライ名乗る資格ねえよ。鍵屋崎は今ならまだ追いかければ間に合う、助けに行けば間に合う。じゃあ答えは決まってんだろ?」
 なだめすかすような声音に変じたレイジがうってかわってやさしい物腰で片手をさしだす。不審げな顔で眼前の手を見下ろしたサムライが答えを仰ぐようにレイジに視線を向ければ返されたのは何もかもを見通す笑顔。
 「ダチひとり守れねえで何が武士だ。サムライの心意気見せてみろよ」
 衒いない笑顔の眩さに目を細めたサムライが誘われるがままレイジの手をとりかけて……
 そっけなく、はたき落とす。
 「情けは無用だ。ひとりで立てる」
 「そりゃ結構だ」
 野次馬が固唾を呑んで見守る中、力尽きたように墨汁の海に膝を付いていたサムライがやがて、誰の手も借りずに立ち上がる。ズボンの膝を墨汁で黒く汚し、顔にも手足にも黒い飛沫を付着させていたが、それでも毅然と顔を上げてレイジと目を合わせたサムライの顔にはこの所鳴りを潜めていた武士の矜持が生き生きと息吹いていた。
 「手はとらないが礼は言う。かたじけない」
 几帳面に頭を下げたサムライに踵を返し、レイジが扉を開ける。廊下にたむろっていた野次馬が一斉に道を開ける。モーゼの十戒みたいに真っ二つに割れた野次馬の垣根の真ん中、王様の為に作られた特設の道を大股に歩んで房に帰ろうとしていたレイジに声をかける。
 「どういう風の吹き回しさ、王様。鍵屋崎のことなんかどうでもよかったんじゃないの?」
 ぴたりと立ち止まり、レイジが振り向く。黒山の人だかりに混ざってる僕を見つけたレイジがにこりと微笑む。
 「勘違いすんな。キーストアはどうでもいいけど四六時中やつの喘ぎ声聞かされるロンが寝不足になっちゃ困るだろ?それにな、ロンは俺と違っていい奴なんだ。あのプライドばっか高くて可愛げない鍵屋崎のことを一応ダチだと思って心配してる。キーストアが哀しめばロンが哀しむ、ロンを哀しませないためにはキーストアを哀しませない、つまりはサムライを焚き付ける必要あんだよ」
 「すっごい屁理屈だね」
 「そうか?筋は通ってるだろ。好きな奴哀しませて喜ぶのは筋金入りのサディストだけだよ。つまりお前だ、リョウ」
 指で銃を作って僕を撃ち抜く真似をしたレイジが最後にふっと指を一吹き、音痴な鼻歌を奏でながら意気揚揚と去ってゆく。その後ろ姿を見送って鉄格子の隙間を覗けば、房の真ん中に立ち尽くしたサムライが強い決意を秘めた目で相方不在のベッドを凝視していた。
 さあ、これで準備は整った。
 後ろ手を組み、鼻歌を奏でながらレイジとは逆方向に廊下を戻る。僕が配達した手紙が起爆剤になってサムライが動けばこれから面白くなるだろう、ぐしゃっと握り潰してポイと捨てちゃうよりずっと賢いやり方を選択しつもりだ。レイジに喝入れられてサムライも漸く迷いを吹っ切ったみたいだし近いうちに何らかの行動を起こすだろう。
 早くて明日か……明後日か。
 「まあ、それまで鍵屋崎の体と心が保てばいいけどねえ」
 一抹の不安、あるいは期待。
 そうして僕はレイジと逆方向に廊下を去っていった。まだこれからしなくちゃいけないことがあるもんでね。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060128202737 | 編集

 「どうしたんだよその顔」
 「男前が上がったろ」
 扉を開けた途端、ぬっと突き出されたレイジの顔を見てあ然とする。絶句した俺の前でレイジはへらへら笑ってる、頬を腫らして目に青痣を作った「今さっき一戦交えてきました」ってな顔で。
 「じゃなくてその怪我。喧嘩でもしたのかよ」
 笑った拍子に切れた唇が痛んだんだろう、「あちっ」と顔をしかめたレイジがごまかそうとするのを許さず目を三白眼に据わらせる。男前が台無し、とまではいかないがはでに目を引く青痣と痛々しく血が滲んだ唇を見なかったふりするのはちょっと無理がある。 
 「……サムライか?」
 親指で唇の血を拭ったレイジが驚いた顔をする。
 「なんでわかったんだ?」
 イタズラの証拠を掴まれたガキのようにばつ悪げなレイジの反応で当てずっぽうの推理が的を射ていたと直感する。いつも余裕ぶっこいて瓢瓢としてるレイジが珍しく動揺したのが小気味良い、顔がにやけそうになるのを咳払いでごまかして説明してやる。
 「単純な消去法だよ。レイジ、認めるのは癪だがお前は無茶苦茶強い。王様の異名も伊達じゃないブラックワークの覇者だ。そんなお前のツラにパンチ入れられる奴は東棟にゃ一人しかいない……サムライだけだ」
 偉ぶって解説してはみたがレイジが他棟のトップとやりあった可能性もなくはないし、サムライの名前を出したのはレイジの反応を見て真偽を炙り出す作戦でもあった。
 まんまとひっかかった王様は大袈裟なくらい感心したフリでふんふん頷いてたが、賞賛の色に染まっていた目を細め、一転からかうような笑みを浮かべる。
 「鈍感なくせに変なとこで鋭いな」
 「だれが鈍感なんだよ」
 「鈍感だろ」
 ……まあ、否定はしない。自分が鈍感な自覚はあるがレイジに指摘されると猛烈に腹が立つのは何故だろう、俺のことをなんでも見透かされてる不愉快さが最大の原因だろうか。ベッドに胡座をかき、腑に落ちずに黙り込んだ俺の前でレイジがごそごそやりだす。肩に担いで持ってきた袋を無造作に床に下ろし、口を縛っていた紐を手際よく緩め、手を突っ込んで中を探る。取り出したのは銀色に輝く缶詰。レイジが鼻歌まじりに缶詰を積み上げてゆくさまを眺めながら探りを入れてみる。
 「で、何が原因なんだ」
 「友情を深める為に」
 「嘘付け。じゃあアレか、お前が俺の寝込み襲うのも友情を深める為か?」
 「バカだな。リング上の格闘技は友情を深めるために、寝台上の格闘技は愛情を深めるためにって太古から決まってんじゃねえか……痛痛痛っ!冗談だって、缶詰投げるなよ」
 すこぶるご機嫌に音痴な鼻歌をかなで、缶詰の塔を築いていたレイジが顔を片手でかばって仰け反る。片手にさえぎられて翳った口元には懲りない笑みが浮かんでいた。野郎、絶対楽しんでやがる。アホらしくなり、レイジにむかって缶詰を投げつけようとした手をおろす。扉の隙間から差し入れられた缶切りで蓋をこじあけにかかりながら腹立たしげに吐き捨てる。  
 「いいよ、一本筋が通った答えが返ってくると期待した俺がバカだったよ」
 くそ、なかなか開かねえ。缶切りの先端を底に突き刺して押したり引いたりしてみたがびくともしねえ。いまだ抵抗を続ける缶詰に業を煮やして床に叩き付けようとしたが食い物を粗末にしちゃお袋が怖い、じゃない罰が当たると思い直して腕をおろす。俺の不器用さを見かねたレイジが横から口を挟んでくる。
 「開けてやろうか」
 「いらねえ」
 「遠慮すんなよ」
 レイジが食い下がるが俺にも意地がある、扉の隙間から手を突っ込んで缶切りを奪い取ろうとしてくるレイジに背中を向けギコギコやってるううちに何とか蓋をこじ開けるのに成功した。やった。ほれ見ろ、お前の手なんか借りなくてもやればできるんだと清清しい達成感に酔いしれてレイジを振り返れば奴と来たら全然こっちを見てない、親切をつっぱねて缶詰と格闘してる俺に飽きたのか退屈したのか真剣極まりない表情で缶詰に缶詰を重ね上へ上へと積み上げ、たった今十段重ねに成功したところだ。
 「よっしゃ、十段重ね成功!見ろよロン、ちょっとすごくねえかこの傾き。ピサの斜塔だ」
 万歳して快哉を叫んだレイジの傍ら、危うすぎるバランスを維持して傾いた缶詰の塔に蹴りを入れる。盛大な音をたてて崩落した缶詰が床一面に散乱し、扉の隙間からこっちにまで転がってくるのを素早く拾い上げる。レイジが缶詰の塔とかくだらないことやってる間に看守に目をつけられる、今はまだレイジに賄賂贈られたか頼まれたかで見て見ぬふりしてるがあんまり派手に騒げば目の色変えてとんでくるだろう。
 ……じゃあ蹴り入れて崩すなって話だが。
 「食料持って来てくれたのは有り難いけどだったら早くこっちよこせよ、看守に目えつけられたらどうすんだよ!?」
 我慢の限界が来た俺が小声で説教すれば不服そうに唇をとがらせたレイジが拗ねた表情で呟く。
 「焦らしに焦らして俺のありがたさを思い知らせてやろうとしたのに」
 「お前に焦らされてるあいだに俺は餓死する。てか何で缶詰ばっかなんだよ、桃缶鯖缶……アボカド缶?ぜってーまずいよコレ」
 「意外とイケる」
 「庶民離れしてるからな、お前の味覚は。いや、それよりこんな大量の缶詰どこに隠してたんだよ。気付かなかったぜ全然」
 「ベッドの下。ほら、このあたりって昔から地震多いじゃん?二十一世紀初頭も大地震が来て地表陥没したしな、それで今の砂漠ができたんだ。いつまた地震がきてもいいように長期保存のきく非常食ためこんでんだよ。それにまあ、缶詰はガキの頃から食いなれてるしな。いろんな味があって飽きが来ないんだよ、コンビーフとかシーフードとか」
 「ガキの頃から缶詰三昧の生活?」
 どんな幼少時代送ったんだこいつは。いや、それより何より三食缶詰の生活なら著しく栄養偏りそうなもんなのに何だってそんな長身に恵まれてやがるんだ?
 レイジの過去にはちょっと謎が多すぎる。今度改めて聞いてみたい気もするがレイジの過去に興味津々だと勘違いされて今以上に奴を調子づかせるのは癪だ。
 レイジに背中を向け、苦労の末こじ開けたコンビ―フ缶を覗きこめば口の中に唾液がわいてくる。さて食べようとして匙を持ってないのに気付く。ちょっと迷ったがこの際仕方ないと腹を括り、上着の裾でよく手を拭いてからコンビーフを指で摘んで口に入れる。
 味は……ちょっと答えにくい。まあ、缶詰のコンビーフにほっぺた落ちるような美味を期待するほうがおかしい。食料調達係のレイジがいなけりゃこうやって不味いコンビーフを口にすることさえできなかったからその点は感謝してる。あんまり感謝してないように見えるのはその、気のせいだ。態度に出すのが照れくさいのもあるが、実際。
 背中合わせにレイジの存在を感じながらコンビーフを貪り食い、あっというまにからにする。からっぽになった缶を覗きこんで満腹感には至らないまでも束の間多幸感にひたるが、腹が満たされてホッと一息ついた瞬間に通気口から喘ぎ声がもれてきてびくっとする。

 そして、今自分がおかれてる状況を思い出す。
 仲間を裏切って見殺しにして、自分ひとり売春を拒んで篭城を続けてレイジの世話になってる情けない現状を。

 「……このままでいいのかな」
 「あん?」
 ぽつりと呟けばレイジが間の抜けた声を返す。鉄扉によりかかった自堕落な姿勢で廊下に足を投げ出し、コネで取り寄せたポップコーラにさも美味そうに喉を鳴らしていたレイジが瓶から口を放して振り向く。手の甲で口を拭ったレイジが訝しげに眉をひそめるのに俯く。
 「俺がいるせいで売春班全体に迷惑がかかってる。俺がいるせいでシャワーも使えねえし水もでねえし、みんな苛立ってる」
 顔を上げ、レイジを見て、続ける。
 「鍵屋崎はそれでもいいって言ってくれた、大勢の意見に惑わされるな、俺は俺のしたいようにしろって」
 現在鍵屋崎がいる方角の壁を振り向き、膝を崩し身を乗り出し、すがるようにレイジを見上げる。
 「でも、本当にこれでいいのか?」

 俺はバカだから考えれば考えるほどわからなくなる。
 鍵屋崎はああ言ってくれた、自分だって辛いのに、いや、自分のほうがずっとずっと辛いのに四面楚歌の俺を気遣って庇ってくれた。シャワーが使えなくて水が出なくてこたえるのは鍵屋崎だって同じなのに、そんなこと気にするなと、無理矢理男に抱かれるのがいやならその信念を曲げることはないと力強く請け負ってくれた。
 その信念は今も変わらない、変わるわけない。男に抱かれるのなんかお断りだ、だれが好きでもない奴とそんな事したいもんか。でも、俺ひとり強情張って意地を張り続けることで鍵屋崎や他の連中に迷惑かかるとなりゃ話は別だ、ことは俺一人の問題じゃ済まなくなる。

 俺だって、なんとかしたい。
 でも、なにもできない。

 自分の無力が歯痒い、自分の非力に腹が立つ。こうやって震えて逃げ込んで耳ふさいで知らん振りしてこれじゃ俺は一生格好悪いまんまだ、ガキのまんまだ。レイジみたいに強ければすぐさまここを出て行って扉を蹴破って鍵屋崎や他の連中を助け出すことができるのに、実際レイジなら颯爽とやってのけるはずなのに俺はいつまでこうやって尻尾を巻いて震えてりゃいいんだ?
 レイジは何も言わずに俺の泣き言を聞いてくれた。茶化すでもひやかすでもなく、聞いてないようなフリで扉によりかかって廊下の蛍光灯を見上げて、それでもちゃんと耳を傾けてくれてることが背中を見ただけでわかった。
 蛍光灯の明かりに透けた茶髪が金色に光り、耳朶のピアスが鈍くきらめく。肉の薄い耳朶で輝くピアスを眺めながら焦燥にかられてまくしたてる。
 「子供がいるんだ」
 「子供?」
 レイジが不審げに眉をひそめ、ちょっと振り向く。挑むようにレイジの目を見つめ、頷く。
 「同じ売春班の奴に子供がいるんだ。俺の初恋の女と同じ名前で、メイファって言うんだ。梅の花でメイファ。外に女がいる奴もいる。名前は凛々」

 『ああ……俺がつけたんだ』
 娘の名前は俺がつけたんだと、照れたように、その癖誇らしげに明かす声。
 『凛々……今会いに行くから、抱きに行くからな……』
 血まみれで担架にのせられ、想いを残してきた女の幻影を腕にかき抱いて、恍惚と笑みを浮かべた顔。

 「みんなヤられながら名前を呼ぶんだ。子供の名前だったり女の名前だったり、色々。いちばん好きな人間の名前を呼んでるのが通気口から聞こえてくるんだよ、いちばん大事な人間の名前を呼びながら男にヤられて泣き叫んでるのが聞こえてくるんだよ」
 言ってるうちに声が震えそうになり、深呼吸して心を鎮める。レイジに気付かれちゃまずい、あいつは鋭いから今俺がどんな顔をしてるか勘付かれる恐れがある。深く深く深呼吸する途中で、空気の塊が喉に詰まって胸がつかえて苦しくなる。声だけでもしっかり奮い立たそうとした努力が泡沫に帰し、膝を抱え込む。
 「たまんねえよ、こんなの」 
 本当に、たまらない。他の連中がどんなに酷い目にあって苦しんでても俺はただ聞いてるしかない、卑怯者の俺は黙って指をくわえて見てるしかない。確かに俺たちは人を殺した、人を殺して傷付けて物を盗んで壊して犯罪を犯した罪で東京プリズンに送り込まれた、世間から相手にされるはずもない見下げ果てた人間だけど、だからってこんな目に遭わなきゃならない謂れはない。
 「こんなの絶対間違ってる。そうだろ?確かに俺たちは最低の人間だけど、人を傷付けたり殺したりしてここにやってきた人間の屑ばっかだけど屑にだってちゃんとプライドがある、屑にだって大事な人間がいる、家族や恋人がいる、屑のことを屑って思ってない人間がどっかにちゃんといるんだよ。犯罪者の前にガキを持つ親父だったり、好きな女がいたり……なんかうまく言えねえけど、俺も何言いたいんだか自分でよくわかんねーんだけど。無理矢理男に犯されて自業自得だって思えるのは強姦魔だけで、あとの連中は」
 なに熱くなってんだ、俺。恥ずかしさと情けなさが入り混じった複雑な感情に責め苛まれ、顔を伏せる。
 「……男に生まれてきたら好きな女抱きたいのが普通だろ」
 「俺は男とか女とか関係なく好きな奴を抱きたいけど言いたいことはわかるよ。で、お前の初恋の女は今どうしてんだ?」
 「は?」
 いきなり話題を変えられてたじろぐ。膝から腕を放して顔を上げればレイジがにやにや笑いながら扉の隙間に顔をつっこんでくる。
 「ヤったのかヤってねえのか素直に白状しろ」
 なんでそういう話になんだよ?
 「や、ヤったに決まってんだろ」
 「どもるのが怪しいな」
 「ヤったんだよ本当に!いや、あれもヤったうちに入るよな?あっというますぎて実感が……」
 何言ってんだ俺、すっかりレイジのペースに巻き込まれて乗せられてる。ああ、だからコイツと話すのは嫌なんだよ。わざとらしく咳払いしてごまかそうとするが失敗、微笑ましいものでも見るかのようななまぬるい眼差しを注がれる。
 「気にすんな、誰にでもある若気のいたりだ。経験積めばそのうち上手くなるよ。で、そのメイファちゃんとは今どうなってるんだ」
 「どうもなってねえよ、ここ入ってそれっきりだよ。……まあ元々チーム仕切ってた奴の女だったし、一回ヤっただけじゃどうにもなりようなかったんだけどさ」

 最後にメイファを見たのは惨劇の現場となった廃車置場。
 赤色灯を点滅させたパトカーが次々に到着し、立ち入り禁止のテープがはられた向こうに野次馬がたかりはじめ、自分が手榴弾を投げたせいで生じた結果の惨さに放心状態の俺が手錠をかけられパトカーに引っ立てられてく途中だった。
 『ねえ、しっかりして』 
 嗚咽が聞こえてきた。
 立ち入り禁止のテープをくぐって運び出されてく担架には怪我人がのせられてて、その担架のひとつに身も世もなく泣き崩れて追いすがっていたのがメイファだった。寝床の客をほっぽりだし、取る物もとりあえずのサンダル履きで駆け付けてきたのだろう。薄い素材のワンピースの下には下着も何も身につけてなくて、薄桃色の乳首と瑞々しい素肌とが悩ましく透けて見えた。でも、乳首より素肌より目を引いたのはワンピースの生地越しに薄らと浮かび上がる無数の痣だ。メイファはしょっちゅう殴られて泣いてたのに、顔に痣を作って「これじゃ客もとれない」とこぼしていたのに、その痣をつけた張本人が大怪我して、意識不明の状態で救急車に運ばれてくのに付き合って、着の身着のままのあられもない格好で自分も乗り込んで。

 その間ずっと、男の手を握っていた。
 『我愛弥、我愛弥(すきだから、すきだから)』と念じるようにくりかえして。

 すぐそこに突っ立ってた俺の方は振り向きもしなかった。いや、最初から俺がそこにいることに気付かなかった可能性もある。メイファの視界に入らなかったことを嘆き哀しむより、残念に思うより、俺はいっつも男に殴られて泣かされてたメイファがそれでもそいつのことを愛してたという事実に呑気に驚いていた。救急車が出発して、メイファが乗り込む時に落としていったサンダルが一足ぽつんと地面に転がってるのを見て、その瞬間に俺の初恋は終わった。

 その後メイファがどうなったかは知らない。知る術もない。今、俺に言えるのはこれだけだ。
 「……幸せになってるといいな」 
 片思いと言えるほど一途でもなければ恋愛と呼べるほど強い感情を抱いてたわけでもないが、それでもメイファには幸せになっててほしいと、女の泣き顔を見るのはもうこりごりだと心の底からそう思い、願う。
 刑務所の中から。
 「……ロンさ」
 「なんだよ」
 レイジの声で一気に現実に引き戻された。初恋の思い出に土足で踏み込まれて気分を害して振り向けばレイジがさらりととんでもないことを言い出す。
 「いつでもいいけどできればなるべく早く、本音言うと今すぐ抱かせてくれない?」
 手から空き缶が落ちた。
 俺の手をすり抜けた空き缶がからから音をたてて床をすべって壁に衝突し、止まる。
 「……おまえ俺の話聞いてたか?男に生まれてきたら女抱きたいのが普通だってあれだけ言ったのに無視かよ、スルーかよ。その手の冗談は虫唾が走るんだよ本当に。好きでもねえ男に抱かれて喜ぶ奴いねえだろ」
 「ポイントはそこだ。好きでもねえ男に抱かれるのがいやなら好きな男なら問題ねえ。違うか?」
 「違う、根本的に違う。まず俺がおまえを好きになることありえねーし男と寝るなんて気持悪い」
 「やさしくするからさ」
 「そういうキザな台詞は女限定にしとけ、泣いて喜ぶぞ。俺やその他大勢の男は泣いて嫌がる」
 「泣くんだ?」
 「言葉のあやだよ、揚げ足とってんじゃねーよ」
 頭が沸いてるとしか思えない戯言を一蹴してしっしっと追い立てればようやくレイジが重い腰を上げる。手で腰を支えて大儀そうに立ち上がったレイジがコーラの空き瓶を片付けながら背中で呟く。
 「……お前がそうやってねばってるうちはまだいいけど、そのうち誰かに先越されたらって思うと気が気じゃねーんだよ」
 「?」
 コーラの空き瓶を片手にぶらさげたレイジが笑顔で振り返る。
 「俺の手を借りるのが嫌なら自分の身くらい自分で守っとけ。目ぇはなしたすきに他の男にヤられたらただじゃおかねーぞ」
 口の端に指をひっかけ横に広げ、犬歯をむき出す。
 「安心しろ。噛みちぎってやる」 
 「よーしその意気だ」  
 盛大に哄笑しながらいつかと同じように片手を振って去ってゆくレイジを見送り扉を閉ざし、房に引き返す。缶詰があっちこっちに散乱して足の踏み場もない惨状にどっと疲労感が増し、とりあえず足の踏み場くらいは確保しようと中腰の姿勢で缶詰を拾い集めてる最中に通気口から声がする。
 「痴話喧嘩か。仲がいいことだな」
 鍵屋崎だ。レイジとのこっ恥ずかしいやりとりを聞かれてたのか、とばつ悪げに押し黙れば気を抜いた拍子に手から缶詰がこぼれおちる。腕から雪崩落ちた缶詰を追って部屋中奔走し、苦労の末かき集めてから通気口を振り仰ぐ。何か言いかえそうとして、鍵屋崎の声がひどく弱ってるのに気付く。喉がすりへってもう声もでない状態なんだろう、さっき訪ねてきた客に相当ひどくされたらしい。

 なにやってんだ、俺。

 レイジと馬鹿やってるあいだに鍵屋崎は確実に弱ってるのに、他の連中は地獄を見てるのに、レイジと話してるとうっかり自分がおかれた状況を忘れそうになる。認めるのは癪だが、俺はずいぶんとレイジの存在に救われてる。
 じゃあ、今の鍵屋崎にはだれがいるんだ?
 途方に暮れて手の中の缶詰を見下ろしてるうちに口がかってに動く。
 「……缶詰食うか」
 「………は?」
 「レイジが持ってきた缶詰がゴロゴロしてて足の踏み場もないんだ。一個引き取ってくれよ」
 「贅沢な悩みだな。結構快適な生活をしてるじゃないか」
 口にしてから、自分が皮肉を言ったことに気付いたんだろう。不機嫌そうに黙りこんだ鍵屋崎を無視し、通気口の下でむなしくジャンプを繰り返す。精一杯頭上に手をのばしてもあとちょっとのところで鉄格子を掴めないもどかしさに歯噛みしながら、それでも諦めきれずに床を蹴り続ける。
 四回、五回……届いた!
 指先が鉄格子に触れた瞬間に五指を回し、しっかりと握り締める。片腕一本で鉄格子にぶらさがり、懸垂の要領で体を持ち上げる。通気口と通気口は壁を挟んだすぐ隣に近接してるし、この距離なら十分に届くだろう。幸い鉄格子の隙間には手首がすっぽり入るだけの広さがある。手首を撓らせて円筒形の缶詰を転がせば、壁にぶつかって方向転換した缶詰が隣の通気口の鉄格子をくぐり抜けておちてゆくのが見えた。俺の目測は正しかったらしい。
 そろそろ腕が限界だ。缶詰が落下するのを見届けてからパッと手を放せばはでに尻餅をつく。隣の部屋で鈍い落下音。通気口から落ちてきた缶詰を手にした鍵屋崎が怪訝な顔をしてるのが目に見えるようだ。
 「……桃缶だな」
 「食えよ。食欲なくても桃の缶詰とかなら喉通るだろ、ろくなもん食ってないからそんなに声細くなっちまうんだよ」
 「………ロン、君は」
 「なんだよ」
 鍵屋崎の口から感謝の言葉が聞けると期待したわけじゃないが、続く言葉には大きく予想を裏切られた。
 「頭が悪いにも程がある。缶詰を開ける缶切りはどこにあるんだ?素手で缶詰を開ける奇術でも僕に強制するつもりなら期待に添えなくて悪いな、自慢じゃないが腕力にも握力にも自信がないんだ」
 しまった。
 俺としたことがすっかり忘れてた、盲点だった。慌てて缶きりを探してみたがあたり一面に缶詰が転がってて、散らかりすぎてて何がどこにあるのかもわからない。馬鹿だ、これじゃ俺が食うぶんの缶詰だって開けられないじゃんか!さっきコンビーフの缶を開けてそこらへんに放っぽって、それから……
 駄目だ。見つからねえ。
 「……鍵屋崎」
 「なんだ」
 「悪い、気合と根性で開けてくれ」
 それでこじ開けられるなら苦労しねえよ自分が口にした台詞にあきれるが、続く言葉にはもっと驚かされた。
 「……ブラックジャックのメスで缶きりが代用できればな」
 やっぱり読んでるんじゃねえかよ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060127202913 | 編集

 イエローワークに戻りたい。

 今更こんなこと言っても遅い、次の部署替えまで半年もある。俺はタジマに目をつけられてブラックワークに回されてきた、言うなれば左遷された身だ。主任看守のタジマには人事を取り仕切る権限があって、タジマに目の敵にされてる俺がイエローワークに戻るには土下座でもなんでもしてご機嫌をとるしかない。
 冗談じゃねえ、奴に土下座なんかこっちから願い下げだ。
 なんで俺がタジマのご機嫌伺いしなけりゃならない、考えただけで反吐が出る。タジマに頭を下げるのだけはいやだ、絶対に。殴られても殺されてもそれだけはいやだ、俺にあんなことをさせた人間に、俺にあんなことをさせてにやけながら見ていた人間に土下座して詫び入れたりなんかしたら俺は自分を殺したくなる、殺しても殺しても殺し足りなくなる。タジマに謝る理由なんかない、絶対に。あいつに謝らなきゃいけねえことなんか何もない、あいつに喧嘩を売ったことに関してはなんにも後悔してない。
 でも、俺がタジマに喧嘩を売ったことで泣く泣く客をとらされてる他の連中まで巻き込むことになるなんて迂闊だった。じわじわ真綿で首を締められてるような圧迫感。俺がこうやって意地を張り続けることで他の連中にまで迷惑かかってる事実から逃れたくても逃れられない。
 正直、きつい。いつまでこの状態が続くんだろう。
 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……半年間ずっと?まさか、保つわけがない。こうしてる今だって一歩も仕事場から出ることができずに閉塞感と孤独感におしつぶされそうで何とか崖っぷちに踏みとどまってるのに、この状態が半年も続いたら頭がおかしくなってしまう。でも俺はまだマシだ。鍵屋崎や他の連中に比べたらはるかにマシだ、男に犯されてないのだから。
 本当に辛いのは、こたえるのは、鍵屋崎が日に日に弱ってくのがわかるのに何もできずにじっと耳をふさいでることしかできない現状だ。あいつの声が聞けるうちはいい、まだ声を出すだけの元気が残ってる証拠だから。でもそろそろ限界だ、鍵屋崎は相当切羽詰ってる。

 売春班は一週間が峠だ、と聞いた。

 それまで普通に女を抱いてきた男が抱かれる側になって、物みたいにひどい抱かれ方をされて体を壊して、プライドをずたずたにされて生き延びられるかどうかは一週間の峠を越えれるかどうかに賭かってる。もうすぐその一週間がきてしまう、期限が切れてしまう。鍵屋崎が峠を越えられるかはあいつ自身に賭かってる。何度どん底に突き落とされてもなお這い上がってくる気力を残してるか、這い上がろうとする意地を見せるかは個人の資質に拠るところが大きいが今の鍵屋崎じゃ正直わからない。
 あいつには誰も味方がいない。
 鍵屋崎は他人に弱味を見せるのいやさに全部ひとりで抱え込もうとしてる、そんなの絶対に無理なのに。
 俺も鍵屋崎も一体なにをやってるんだ?生まれてくるのを後悔するために刑務所に入ったわけじゃないのにこんな生き地獄が続けばそうなってしまう、罪を償うためでも贖うためでもなく、女に飢えた男のおもちゃにされてひどく抱かれて日に日に衰弱してってそれで死んじまうなんてあんまりじゃないか。 
 イエローワークに戻りたい。
 また炎天下の砂漠で砂まみれになって穴を掘りたい、砂を含んだスニーカーに足をとられながらシャベルを上げ下げして、目に流れこんだ汗で視界が見えなくなって陽炎みたいに歪んで、それでも必死に穴を掘り続けてどんどん太陽が遠くなって青空が狭くなって、でもまだあそこには希望があった。地下水脈があるって言葉は嘘じゃなかった、本当だったんだ。俺がオアシスを掘り当てて井戸ができて看守も囚人も肩抱き合って喜んでた、空には虹だって架った。

 虹。綺麗だったなあ。

 「……砂漠に戻りたい」
 声にだして言ってみる。叶わない願いだとわかっていながら、口にだしたら現実になるんじゃないか、そんな淡い期待をこめてくり返す。
 「また水が呑みたい。炎天下で穴を掘りたい。頭から砂をぶっかけられて蟻地獄に落ちたい」
 もうこんな生活はいやだ、イエローワークのほうがずっとマシだった。イエローワークで一年と半年かけて希望を掘り当てたらその次の日にはブラックワーク転属になって、どん底に突き落とされて、それからずっとどん底のまんまだ。蟻地獄の急斜面を助走して一気に加速してよじのぼろうとしてずり落ちたり、そんな馬鹿やってた頃がたまらなく懐かしい。
 夢なら早く覚めてくれ。イエローワークに戻させてくれ。
 売春班の連中がそれぞれの棟に寝に帰り、周囲の房がもぬけの殻になり、物音が絶えた深夜。裸電球を消した闇にひとりきり、毛布にくるまり、床の真ん中で膝を抱えこむ。
 起きてても腹が減るだけだから寝たほうが賢いと頭じゃわかってるんだが目が冴えて眠れない。また砂漠で働きたい、虹が見たい、水が飲みたい。俺が掘り当てた井戸で水浴びしたい。井戸、俺が掘り当てた井戸は今どうなってるんだろう。ちゃんと用水路が引かれて今頃は畑でも耕されてるかもしれない。それとも……枯れた?まさか、考えたくない。希望が枯れることなんかあってたまるか、あれは俺の希望なんだ、こうやって暗闇で膝を抱えて無力を噛み締めてるしかない俺のただひとつの希望なんだ。
 パンドラの箱?知るか。
 何度絶望したってどん底に突き落とされたって希望を抱いちゃいけない決まりはない、紛い物だろうがなんだろうが知ったことか、頑固に信じ続けてれば偽物の希望だっていつか本物になる。なあそうだろう?

 俺も鍵屋崎も頑張ってるんだから、報われないはずがないよな。レイジ。

 毛布にくるまっていても肌寒い。体の芯から冷えてくる。ベッドで寝れば少しはマシなんだろうがどうしても近寄る気がしない、扉のすぐ近くだと安心して眠れる気がしないのだ。いつだれが入ってくるか戦々恐々として、足音ひとつにびくついて跳ね起きるのはぞっとしない。だからこの六日間というもの俺はずっと床で寝てる。東京プリズンにきてレイジと同房になってからはベッドに寝てたけどガキの頃はそんな贅沢許されてなかった、お袋に厄介者扱いされて部屋の隅っこに追いやられてた昔に戻っただけだ、身に染みてくる床の冷たさと固さを我慢して目を閉じてた頃に戻っただけだ。まあ、俺が暮らしてたアパートの床は板で、こっちはコンクリートだからより固くて冷たくて骨身にこたえるのは事実だが……明日は筋肉痛だな。
 どれくらい経ったんだろう。
 毛布を羽織ってうとうとまどろんでいたら遠くから靴音が聞こえてきた。薄く瞼を持ち上げる。目に映るのは闇。唯一の光源の裸電球を消してるせいで何がどこにあるのかもわからない、圧迫感で息苦しくなるほどの完全な闇だ。眠い目を擦り、闇を手探りして扉の方へと這い進む。空耳じゃない、現実に靴音が近付いてくる。こんな時間に誰だ?朦朧と霞がかった頭で扉を見つめ、

 その瞬間に目が覚めた。だれかが無理矢理扉をこじ開けようとしている。

 鉄と鉄が擦れ合う耳障りな金属音、がちゃがちゃと錠が鳴る音、壊れそうに揺れて傾ぐ扉。だれかが体当たりで扉をぶち破ろうとしてる重たく鈍い衝突音が断続的に響き闇を震わし鼓膜を叩く、ドンドンドンドンガンガンガン、誰かが、顔の見えない誰かが躍起になって扉を殴る蹴るしてる。誰だ?わからない、自分の手もどこにあるかわからない暗闇じゃ何も見えない。わかるのは音、視覚が閉ざされた暗闇の中、獣じみて荒い息遣いと狂ったように扉を連打する音、音、音。拳を振り上げ振り下ろす一連の動作に取り憑かれた何者かが扉の向こうで粘ってる、扉が開くのを今か今かと待ち構えてる。
 最初のうちはドンドンドンと聞こえてた音が今じゃ間隔が狭まってドドドドドとひと繋がりに聞こえる、俺の心臓の動悸も比例して早くなる。開けろ開けろここを開けろと扉の向こうの誰かが訴えてる、凄まじい剣幕で一心不乱に扉を殴り付けてる。
 戦慄が走る。
 暗闇で視界が利かない現実がさらに恐怖心を煽る、乱暴なノック音は一向に止まないばかりかどんどん激しさを増して高圧的になる一方だ。本当に扉をぶち破ってしまいそうな勢いで扉を乱打していたノック音がふいに止み、耳が痛くなるような静寂が降り積もる。
 行ったのか?諦めたのか?
 安堵よりも不審が募り、膝這いに床を這っておそるおそる扉に近寄る。
 その時だ。ガチャガチャと金属音が響き、力づくでこじ開けられた扉の隙間から誰かが顔を突っこんでくる。廊下の明かりを背にして仁王立ちしたその人物は―
 タジマ。
 「よく眠れてるか」
 廊下の蛍光灯を背にしたタジマの顔にはどす黒い影が落ちていた。 
 『何の用だ』と問いただそうとして、声が出ないことに愕然とした。なんで肝心なときに声がでないんだ?これじゃまるで俺がタジマに怯えてるみたいじゃんか、タジマにびびりまくって声を失ってるみたいじゃんか。
 「あはは、眠れてるわけねえよなあ。今ので起きちまったもんな、そいつあ悪かったなせっかくの眠りを邪魔して」
 全然悪かったなんて思ってない口調でうそぶいたタジマの哄笑が殷殷と響き渡る。タジマの笑い声が引き金になりようやく金縛りが解けて自由に動けるようになった。
 「……何のつもりだよ」
 「怒るなよ、暇してると思って世間話しに来てやったんじゃねえか。今日で篭城六日目か。居心地はどうだ?シャワーの使い心地は……おっと、今は使えないんだっけか」
 「ふざけるなよ、お前が止めたんだろうが」
 こめかみの血管が熱く脈打ち、キレる寸前で右拳を握り締める。元はといえば全部コイツのせいで俺はこんな目に遭ってるんだ、鍵屋崎は苦しんでるんだ。くわえ煙草のタジマが大袈裟に仰け反って哄笑するのを睨み付けてるうちに腸煮えくり返るような憎悪が全身に滾り、扉の隙間から顔を突っこんで爆笑してるタジマの顔面に力一杯毛布を叩き付け、吠える。
 「耳腐る豚の鳴き真似はいい加減にしろ、汚えヨダレと唾たらして笑ってねえで耳の穴かっぽじってよおく聞け!!お前に喧嘩売ったのはこの俺だ、他の連中は関係ない。俺が気に食わないなら扉ぶち破るなんなりして直接俺の襟首ひっ掴んでみろよ、シャワー止めたり水止めたり陰険な嫌がらせしてんじゃねえよ!」
 「効果覿面だな」
 顔面から毛布を払いのけたタジマがぞっとするほど陰惨な笑みを浮かべる。
 「お前にゃこっちのがこたえると思ったんだよ、お節介でお人よしな半半のロン。自分が苦しむより他人が苦しむの見聞きするのが数倍数十倍こたえるだろうが、それがオトモダチの親殺しだったら苦しみも格別だなあ。で、どうだ?この六日間壁一枚挟んでずっと鍵屋崎の喘ぎ声聞いてた感想は。いい声で鳴くだろう、アイツ。鍵屋崎の喘ぎ声聞きながら何回ヌイたんだ?なんだよその目は、腹立てたのか?ダチの喘ぐ姿想像してヌイたからっていまさら恥ずかしがるこたねえさ。ま、声だけで残念だったな。俺は本人を頂いたぜ」

 頭が真っ白になった。 

 「―鍵屋崎をヤったのか?」
 気付いたらタジマの襟首を掴んでいた。
 俺に襟首締められてもタジマはにやにやと笑ってる、笑ってやがる。そして言う、悪びれた風もなく得意げに。
 「ああ、ヤってきたぜ。ずっと隣にいたくせに気付かなかったのか?そうか、耳ふさいでて聞こえなかったのか。そりゃもったいねえことしたな、喘ぎ声聞けなくて。知ってっか?あいつ不感症のくせに耳朶噛まれると感じるんだぜ、おかしいだろ。淫売みたいに濡れた声で鳴いてたぜ。いや、アレは泣いてたのか?どっちでもいいか、どっちでもおなじだ。傑作なのはな、」
 そこでとっておきの内緒話を打ち明けるように顔を寄せ、淫猥に舌なめずりしてタジマが囁く。
 「ヤってる最中に妹の名前を『呼ばせた』んだ。最初の日に妹の名前呼んだって噂で聞いて試してみたら効果絶大だった。ただ呼ばせるだけじゃつまんねえからいろいろ体位変えて立たせたり跨らせたり……男にヤられてると思いたくねえなら妹とヤってると思い込めって耳元で吹き込んでよ。まあヤるのとヤられるのじゃ全然ちがうしな、妹ヤってると思い込めってのも無理あるがな。妹の名前呼びながらイッたんじゃ近親相姦疑われても仕方ね、」
 手首に衝撃、震動。
 タジマの顔面めがけて叩き込もうとした拳が扉の表面に激突する。俺の拳を予期して素早く首をひっこめたタジマが破れ鐘のような濁声で哄笑してる。目も眩むような憎悪が視界を赤く染める、眼球の毛細血管が破裂しそうだ。拳の痺れも忘れ、犬歯で突き破りそうに唇を噛み締めた俺を見下してタジマが嘯く。
 「怒るなよ、真実言ってるだけだろ。お前ら売春班の連中はそろいもそろって腰抜けのタマなしぞろいだ、女抱くよか男に抱かれるほうがお似合いだ。男にヤられながらめそめそべそかいてガキの名前やら女の名前やら呼んで恥ずかしくねえのかよ?めいふぁーめいふぁー、りんりんーりんりんー。鍵屋崎に至っては妹の名前ときた、めぐみーめぐみー、めめ、めぐみー。はは、みっともねえったらありゃしねえ」
 「……みっともなくねえ」
 「あん?」
 自分でもぞっとするくらい低い声だった。 
 「何がみっともないんだよ、男に抱かれて子供の名前や女の名前呼んで何が悪いんだよ?なにも恥ずかしくねえよ、みっともなくねえよ。自分がいちばん辛くてしんどい時にいちばん大事な人間の名前呼んで何が悪いんだ、心と体がばらばらになって砕け散りそうな時に現実に繋ぎとめてくれる人間にすがって何が悪いんだ。悪くねえよ何も、」

 『名前はメイファだと記憶してる。漢字で梅の花と書いてメイファか』
 『ああ……俺がつけたんだ』
 照れたような呟き。

 『凛々……今会いに行くから、抱きに行くからな……』
 扉の隙間から見た光景。
 宙を掻き毟るように、血まみれの腕に愛しいだれかをかき抱く仕草。

 「ああそうだよ、てめえが必死に考えてつけたガキの名前呼んで何が悪いんだ、いい名前じゃねえかよ梅の花でメイファ!梅の花みてえな女の子になってほしくて親父がつけたんだよ、願いがこもったいい名前じゃんかよ、どっかの博打打がつけた麻雀の役名よかよっぽどマシだ、他人にも自分にも誇れる立派な名前だよ、もしそいつが俺の親父だったら全然恥ずかしくなんかない、絶対見損なったりしない!なあ教えてくれよタジマ、ヤられながら女の名前呼んで何が悪いんだよ?そいつのことが本当に好きだって証拠じゃねえか、マジで愛してるって証拠じゃねえか。俺がその女だったら絶対に見損なったりしねえよ、そんなに愛されて嬉しく思うよ。鍵屋崎だってそうだ、犯されながら妹の名前呼んだからってちっとも恥ずかしくなんかない、あいつにはもう妹しかいないんだ、妹っきゃすがれる奴がいないんだよ、今までずっと妹の幸せをいちばんに考えて尽くしてきたんだよ、報われなくても尽くして尽くして尽くしてきたんだよ、俺みたいに見返りなんか期待しないで本当に純粋に妹の為だけに頑張ってきたんだよ!だからこれからも妹に尽くすことでしか生きられないんだよ、意固地にそう思いこんで見てるこっちが痛くなるくらい全部ひとりで抱えこんでんだよ!!」
 俺は本来こんなこと言えた立場じゃない、偉そうに知ったかぶりして鍵屋崎の心境を、発狂して鏡に突っ込んだ奴や外にガキをおいてきた奴の心境を代弁できる立場じゃない。俺は腰抜けの裏切り者だ、現在進行形で鍵屋崎や他の連中を見殺しにしてる最低の卑怯者だ。
 でも、目の前で仲間を侮辱されて黙って見過ごせるわけがない。 
 「みっともなくて恥ずかしくて情けないのはお前だろう、タジマ」
 俺の剣幕に呑まれてあとじさったタジマが不審げな顔をする。
 「わかってんだよもう、お前が弱い者いじめっきゃできないクズだってことは。ネタは割れてんだよ、素直に白状しちまえよ。囚人いじめてストレス発散か?風俗の女に笑われて売春班のガキで憂さ晴らしか?それっきゃ生き甲斐がないなんて寂しい中年だな、どうせお前にゃ自分のこと愛してくれる女もガキもいないんだろ、何があっても一生守ってやるって心に誓った大事な人間なんかひとりもいないんだろ。だから羨ましいんだろ、いざって時にガキの名前や女の名前呼べる奴が」
 図星をさされたらしくタジマの顔色が豹変する。憤怒で赤黒く充血したタジマの顔を挑戦的に見上げ、笑う。
 「俺でよかったら何回でもあんたの名前呼んでやるよ、タジマさん。ああ、でもその前に―……」
 今の俺はレイジみたいに笑えてるだろうか?奴みたいに、おもわずくびり殺したくなるようなふてぶてしい笑みを浮かべてるだろうか?
 だったら合格だ。
 「早漏癖直してきたら相手してやるよ、糞野郎」
 合格。
 タジマの顔色が豹変した。赤黒く充血していた顔からサッと血の気がおりて蒼白になる。こわばった表情のタジマが口角を痙攣させて口にくわえてた煙草をもぎ取り、そして。
 扉の隙間にかけていた俺の手に、じゅっと押し付けた。
 「!!!!!」
 熱、あついあついあつあつい、煙草の先端を押し付けられた手の甲から煙が立ち昇って白く揺らめきながら天井に、熱、やめ、洒落になら、肉の焦げる異臭が鼻孔の粘膜を突いて吐きそうになる、不覚にも涙がこみあげ、煙草の先端が肉を抉るように圧力を増して捻じ込まれて手から煙が上がる、最悪だ、また自分の肉が焦げてく匂いを嗅がされるなんて……

 『また』?
 前にもこれとおなじことがあったのか?

 『面白いでしょうその子。声あげないのよ』  
 熱と痛みに頭が痺れて気が遠くなる。寝起きのお袋の寝ぼけた声。そうだ、思い出した。俺がガキの頃、いつもみたいにお袋が客を連れこんで寝室に消えてベッドの軋む音が聞こえて、その日たまたま外に出されてなかった俺はまだお袋の仕事がよくわかってなかったら不安になって毛布をひきずって後を追っかけてった。そしたら情事の真っ最中で居場所がなくてどうしようか迷った挙句に部屋の隅っこで蹲ってることにした。
 どれくらい経ったんだろう。情事を終えて一服してた客がこっちに気付いた。柄の悪い男だった。情事の一部始終を見張られてたと勘違いして気分を害したんだろう、『目つきの悪いガキだな』とかなんとか声を荒げながら大股にこっちにやってきていきなりシャツをめくりあげられた、ひやりとした外気の感触まで覚えてる、腹にこぼれ落ちた煙草の灰の熱さが生々しい皮膚感覚を伴って蘇ってくる。
 そして、脇腹にじゅっと煙草を押し付けた。
 熱かった、なんてもんじゃない。脂っぽい異臭が鼻孔にたちこめて、それは俺の皮膚が焦げてく匂いで、そう知覚した途端に胃袋がぎゅっと縮んで猛烈な吐き気がこみあげてきた。それでも必死に奥歯を噛んで悲鳴を殺した、悲鳴をあげたらもっと酷くされると身に染み付いてたから死ぬ気で声を殺した、殺し続けた。
 十秒は経ってなかったと思うが、俺には永遠にひとしかった。ようやく溜飲をさげたらしく、煙草の先端が離れてゆく。声は死ぬ気で殺したけど頬はべとべとに濡れてて、塩辛い涙と鼻水と汗とがごっちゃになって喉を流れ落ちてまた戻しそうになった。シャツがはだけた脇腹からはまだ煙と異臭とが立ちのぼっていて赤い火脹れができていた。
 『可愛げないでしょうその子。泣かないのよ』
 のろのろと顔を上げる。寝台に横たわったお袋が白い喉を仰け反らせて笑っていた。指一本動かしもせず、止めもせず、腹を庇って床でのたうちまわってる俺をただ笑いながら見ていた。 

 最悪だ。
 なんで今、こんなことを思い出すんだろう。
 こんな最悪の記憶、一生忘れてたほうがマシだった。
 「―っ、あ、」
 反射的に手をひっこめようとしたがタジマががっちりと手首を掴んでるせいでそれさえできない、額に滲んだ脂汗が目に流れこんで陽炎のように視界がぼやける、胸が悪くなるような異臭が鼻腔の粘膜を刺激して吐き気に襲われる。悲鳴を噛み殺すのもそろそろ限界だ、手に穴が開いてしまいそうだ。肉が破けるまえに何とかしようと、タジマに掴まれてないほうの手で床を探る。手が何か、固くひんやりした金属を握り締める。
 それが何か確かめる暇もなく、俺の手を掴んでるタジマめがけて思いきり投げた。 
 「!!ぎゃあっ」
 タジマの顔が大きく仰け反った。俺が向こう見ずに投げたブツは銀色の弧を描いて額に命中してタジマの撃退に成功した。手首を掴んでた指がぱっと離れ、反射的に引っ込めて思いきり扉を閉じ、一分の隙なくベッドで封鎖してタジマの侵入を防ぐ。ベッドに背中をもたせてずり落ちれば半狂乱のタジマが廊下で騒ぐ声が聞こえてくる。
 「はは、ざまあみろ」
 手の甲がひりひりする。水で冷やそうとして、水道が止められてることに舌打ちする。腰をおろし、そばに転がってた缶詰を拾い上げて手の甲に押し当てる。金属のひんやりした感触がじんわり染みる。缶詰を放し、手の甲に吐息を吹きかける。唾液で消毒しようとしてちょっと舐めてみたらひどく染みて、舌先には苦い味が残った。
 灰の味だ。
 「……煙草は吸うもんで、食べるもんじゃねえな」
 味蕾で実感する。舌で溶け始めた灰を苦い唾と一緒に吐き捨て、ベッドによりかかって足を投げ出す。真っ暗闇の天井を仰ぎ、そのまま痛みが引くまでじっとしてる。
 「この野郎!!」
 ドンドンと誰かが扉を殴ってる。タジマだ。激怒したタジマがめちゃくちゃに拳を振るって何かを叫んでいる、はは、いい気味だ。
 「ふざけやがって、缶切りなんて投げやがって!!コルク抜きになってるほうが刺さったらどうするんだ!!」
 そうだ、あの缶きりは反対側が螺旋状のコルク抜きになってて……缶きり?
 「!!」
 ばっと背中を翻し、ベッドを押しのけて扉にしがみつく。片目だけ覗く隙間を押し開けてタジマの姿を捜せばもう廊下の遥かに遠ざかっていて、その足もとには缶きりが転がっていた。腹立ち紛れにタジマが蹴り飛ばして行ったのだろう、もう手が届かない廊下の彼方にまで遠ざかった缶きりを目で追って息を飲む。
 「よく聞けロン!!」
 癇癪を起こしたタジマが獣の声で咆哮して缶きりを蹴りとばす。廊下の奥へと蹴飛ばされ、遂には視界から消えてしまった缶きりからタジマに目を転じれば、額を押さえた手の間から血が流れて顔が朱に染まっていた。 
 「今夜が最後のチャンスだったんだ、わざわざこうして足運んでやったのは最後の改心を迫る為だ。明日で一週間、一週間だ。俺は一週間も待たされたんだ。今ここで観念して出てくればお咎めなしにしてやろうと思ってたんだ、明日から客とって今までの分挽回すれば独居房送りは勘弁してやろうと思ってたんだ。それを!お前は!この俺にむかって缶きりなんか投げ付けて何もかもを台無しにしやがったんだ、いいか、この借りは高くつくぜ」
 タジマの指を染めて滴り落ちた血が床に血痕を残してゆく。 
 「お前は懲役終えるまで永遠に売春班だ。今決定した」
 血まみれの顔でタジマが笑い、高らかに哄笑しながら去ってゆく。頭から血を流しすぎておかしくなってるのかもしれない。扉を閉じ、ベッドで塞ぐ。今缶きりを探しに廊下に出てけばタジマの思う壺だ、奴のことだ、廊下の先で待ち構えてるに違いない。いや、これも俺をおびき出す為の作戦かもしれない。今のこのこ出てくのは危険すぎる、命を捨てにいくようなもんだ―……
 俺は馬鹿だ。
 あたり一面に缶詰がごろごろしてるのに、とっさに掴んだのが缶きりなんて運が悪すぎるにもほどがある。
 「缶きりなくてどうやって缶詰食うんだよ……」
 頭を抱えこんで悲嘆に暮れる。
 ……俺もブラックジャックのメスが欲しい。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060126203041 | 編集

 ひもじい。

 あれからまんじりともせず夜を明かした。またいつタジマが来襲するかわからなくて生きた心地がしなかった、廊下の奥から近付いてくる靴音や嵐のように扉を乱打するノック音やらの幻聴が闇の帳越しに鼓膜を叩いて眠りに落ちたそばから現実に引き上げられた。
 ずっと床に座ってたせいで尻が痛んだがどうしても横になる気はしなかった、無防備に横臥した状態で鉄扉が蹴破られたら即座に対処できずに逃げ遅れてしまう。逃げ遅れたら最後どうなるかわからない。独居房送り?いや、そんな面倒くさいことはせず、俺に一週間も手を焼かされ続けたタジマやその他の看守に取り囲まれてここで殴り殺されるのかもしれない。殴り殺される俺の悲鳴は通気口から全部の房に響くのだろう、俺の断末魔を聞いた鍵屋崎はどんな顔をするだろう。

 ざまあみろ。

 そう思われても仕方ない、俺が看守主導のリンチの末に殺されたとしたら仲間を見殺しにした罰なのだ。さんざん看守の手を焼かせて一週間もろう城を続けてタジマの額をかち割った罰。東京プリズンには死に至るリンチが横行してるから今更死体が増えたところでどうってことはない。処理班の手間が増えるだけ、日常よくある出来事だ。餓死するか殴り殺されるか、どのみち死ぬならささいな違いだ。
 『お前は懲役終わるまで永遠に売春班だ。今決定した』
 俺の懲役は十八年で現在は一年と半年が経過している。残りの懲役は十六年と半年。気の遠くなるほど長い年月で実感が伴わない。俺は今十三歳で、刑務所を出る頃には三十路近くになってる計算だが俺があと十六年と半年生き残れる確証はどこにもない。もし俺が成人して郊外の刑務所に移送されるとしてもそれまで生き延びなけりゃ話にならない。

 俺が成人するまで七年。

 売春班の連中は一週間を境に壊れはじめる。まともな神経なら七日しか続かない仕事に七年間耐え抜くことができるだろうか。答えはすぐにでた、耐え抜けるはずがない。俺がどんなに頑張ろうが性病にかかっちまったらおしまいだ、体から腐り始めてじきに心まで狂気にむしばまれて壊れてく。
 畜生、お袋とおなじ末路だけは辿りたくなかったのに。
 あの日、十一月の寒空の下、舞い散る雪を見上げながらそう誓ったのに。
 俺は男だから自分の身くらい自分で守るって、男に依存しなきゃ生きられないお袋みたいにはなるもんかって固く決意したのに俺はこれから七年もお袋とおなじ仕事をさせられるのか。何があっても絶対に体だけは売るもんかと心に決めたのになんで刑務所に来てこんな目に遭うんだ、なんで刑務所に売春班なんてもんがあるんだよ?だれが好きでもない男に抱かれたいもんか、無理矢理犯されて嬉しいもんか。男が男に犯されて何が嬉しいんだ、何も嬉しくなんかねえ、痛くて苦しくて辛いだけだ、いっそ死んだほうがマシな毎日が延延とくりかえされるだけだ。
 目を閉じて思い出すのはお袋がよがる姿、寝台の上で絡み合う男女の裸体、薄暗い部屋にたちこめる生臭い交わりの臭気。俺は物心ついた頃からずっとお袋の喘ぎ声を聞いて育った、気まぐれで外に出されなかったときも客と入れ違いに外に追い出されたときもやってたことは同じだ、こうやってぴたりと耳をふさいで音を密封して身を竦めて一刻も早く終わってくれますようにと願うだけだ。
 俺を追い出す暇もなく服を剥がれたお袋が寝台に押し倒された時はひんやりと尻に冷たい板張りの床にうずくまって、お袋に腕を掴まれて外廊下に放り出されたときはペンキが剥げてみすぼらしい地金を晒した合板のドアに背中をよりかからせて俺はいっつもこうして耳をふさいでいた、耳に蓋をしてお袋の喘ぎ声を聞かなくてもいいようにして必死に耐えていた。俺はあの時から全然成長してない、図体ばっかでかくなって喧嘩が強くなって女の体を知ったからってそれがなんだ?俺はあの寒々しい廊下に心を置き去りにしてきたまま、決して開くことがないドアの前で、お袋に迎え入れられることがないドアの前で途方に暮れて立ち竦んでるガキのまま一個も成長してない。

 そして今、俺の目の前にはドアがある。あの時とおなじ、開かないドアが。

 だがあの時とは状況が違う、俺がいるのはドアの内側だ。
 扉を封鎖して一週間も中に閉じこもってタジマをやきもきさせてるのは「俺」なのだ。 俺が降参すればすべて片がつくと頭じゃわかっている。ベッドをどかして扉を開けて見張りの看守に泣きつけば、「俺が悪かったから許してください、なんでもするから独居房送りだけは勘弁してください」と膝にしがみついて頼みこめばいいんだ。いや、根性悪のタジマがその程度で許してくれるはずがない。「俺が悪かったから、もう好き放題突っこんで揺すってくれていいから、顎ががたがたになるまでくわえさせていいからお願いだから殺さないで下さい」と廊下に額をこすりつけて土下座すればタジマも一片の慈悲をたれてくれるかもしれない、にやにや笑いながらベルトを緩めてジッパーを引き下げてズボンの前を寛げて「今ここでしゃぶれば許してやるよ」と言うかもしれない。塩辛い涙と鼻水に咽ながら廊下に跪き、あいつの腐れペニスを喉の奥までくわえこめばひょっとしたら、もしかしたら独居房行きは免れるかもしれない。

 『しゃぶる』?どうやって?

 俺は男のモンなんかしゃぶったことないからやり方なんかわからない、どうやれば相手が満足するのかもわからない。舌はどうやって動かせばいいんだ、どのくらい深くくわえこめばいいんだ、吐きそうになったらどうすればいいんだ?
 思い出せ。お袋はどうしてた?
 今まで何十人もの客を股ぐらにくわえこんできたお袋なら男のイカせ方も心得てるはずだ。どんなふうにしごいてどんなふうに口を開ければ、顎の角度から指の絡め方から舌の使い方に至るまで娼婦の基本のすべて……

 『本当に使えないわ、あの子。女の子ならよかったのに、そしたら客とらせることもできたのに……』
 『男だってできないこたないだろ?』
 『特殊な環境と資質がそろわなきゃ無理よ』

 特殊な環境と資質、か。笑えてくる。資質のほうは未知数だが特殊な環境はばっちり整ってる。もしあの時素直にヤられてたら、躍起になって暴れて抵抗したりせずにお袋の身代わりに抱かれてたら男が男に抱かれる現実を諦観したふりで割り切れたのだろうか?簡単に割り切れりゃ苦労はしないと俺だってそう思う、でも駄目だ、どうしても駄目なんだ。耳には通気口に響き渡った悲鳴がこびりついてる、爪が剥がれるほどにシーツを掻き毟って蒼白の肌を鳥肌立たせて激痛から逃れようと身をよじり、身をよじればよじるほどに接合が深くなり肛門に裂傷が生じ、もがけばもがくほどに深みに嵌まって抜け出せなくなってゆく悪循環に陥ったガキの断末魔が耳にこびりついて今だに離れないのだ。
 思考が支離滅裂だ。ヤられたくなくてこうやって閉じこもってるはずが独居房送りを免れたい一心でしゃぶってもいいかもなんて、しゃぶるだけで済むならずっとマシだ、ヤられるよりずっとマシじゃないかと決心が揺らぎだしている。いや、待て、「しゃぶるだけで済む」はずがない。観念してここから出てったら遅かれ早かれヤられるに決まってるんだ、やっぱり駄目だ、ここを出てくわけにはいかない。

 ああもう、わからない。ヤられたいのかよ、ヤられたくないのかよ?

 自分の優柔不断さが情けなくなってくる。ヤられるのがいやでいやで一週間も閉じこもってたのに独居房送りの脅しにびびってのこのこ出てったら本末転倒だ。よし、俺がどうしたいのかもう一度心を冷静に落ち着かせて考えてみよう。俺は男で、男に抱かれるのは絶対にお断りで、好きでもない男になんか絶対に……

 『ロンさ、いつでもいいけどできればなるべく早く、本音言うと今すぐ抱かせてくれない?』

 「だからなんで思い出すんだよ!!」
 やばい、相当きてる。
 はげしくかぶりを振って瞼の裏側にちらつきだしたレイジの笑顔を追い払う。好きでもない男になんか抱かれたくない、いや、てことは好きな男となら問題ないのか?違う違う違う、俺が男なんか好きになるわけねえ。だからその仮定は無意味だ、だまされるなだまされるな。レイジのことなんか大嫌いだ、レイジに抱かれてるとこなんて想像したくない。
 俺がこんなくだらないことばっか考えちまうのは腹が減ってるからだ。昨夜から何も食べてない、水一滴飲んでない。食料は余るほどある、そこらじゅうにごろごろ転がってる。レイジが持ってきてくれた缶詰だ。床一面に足の踏み場もないほど散乱した缶詰を物欲しげに見渡して嘆息する。
 缶きりがないんじゃ開けられねえ。
 俺も馬鹿だけどレイジも馬鹿だ、なんだって缶詰しか持ってこないんだ?レイジに文句を言いたいのは山々だが今この場にいない本人を責めても仕方ないと思考を前向きに切り替える。傍らに転がってた缶詰を試しに手に取り、銀の光沢の底を齧ってみる。
 固い。金属の味がする。
 缶詰に歯を突きたて、顎の角度をせわしく変えて蓋をこじ開けようと奮闘するが遂には顎が疲れて努力も無に帰す。底には歯型がついて多少へこんでいたが俺の顎の力じゃ金属の缶を食い破るのは無理だったようだ。むなしい努力に嫌気がさし、息を切らして缶詰を放り出す。馬鹿なことやったせいでますます腹が減った。喉が渇いた、水が飲みたい。這うように洗面台に行ってのろのろ腕をのばして蛇口を緩めれば、既に全開になっているのに水道水が枯渇して水が一滴もでない現実に直面する。
 「……やってみただけだ」
 水道を止められてることを忘れてたわけじゃない。ひょっとして、もしかしたらと淡い希望を抱いて挑戦してみただけだ。だれも聞いてないのに言い訳がましく呟いて蛇口に置いた右手に目をやれば手の甲に真新しい火傷ができていた。
 昨夜、タジマに煙草を押し付けられた痕だ。
 焦げ臭い匂いを嗅いだ気がして鼻腔をひくつかせる。ひりひりと疼く右手の甲に顔を近付けて匂いを嗅ぐ……どうやら気のせいだったようだ。水で冷やすこともできなかったせいで一夜明けた今はひどく腫れてる。たぶん、一生痕が残るだろう。蛇口を捻ったり眠い目を擦ったりするたびに手の甲の火傷が目に入り、こいつをつけられたときの想像を絶する熱と痛み、とタジマのにやけ面とを連想する羽目になるのかと思うと本当にうんざりする。
 まあ、手の甲のが皮が厚いぶん脇腹よりマシだった。
 洗面台によりかかり、シャツの上から脇腹に触れる。こいつをつけられたときは本当に洒落にならないくらい熱かった……
 隣の部屋で扉が開く音。
 鍵屋崎のところに客が来た。背中が緊張する。この六日間繰り返し行われてきたことなのに未だに慣れない、扉が開く音を聞くたびに体が過剰反応してしまう。硬直した足をぎくしゃく操って通気口から離れる、できるだけ離れる。あとじさるように通気口と距離をとって扉のところまで避難する。
 今日はまだ鍵屋崎の声を聞いてない。
 俺から話しかけるのは正直気後れした。鍵屋崎が衰弱してるのは日に日に弱まってく声からも手に取るようにわかったし、体が辛いのに無理に話しかけるのも酷だと遠慮してたのだ。いや、厳密には声を聞いてないわけではない。ただ、通気口の闇を伝わってもれてきた声は意味を持った言葉というよりは苦鳴とか喘鳴に近くて、後ろ髪を掴まれて水の中に頭を突っ込まれてたやつが顔を引き起こされ、気道を解放された束の間に酸素を欲して喘いでるような苦しげな声なのだ。
 ああ、溺れてるんだな。
 熱に溺れシーツに溺れ快楽に溺れ、酸素不足の頭が快感にしびれはじめた声が通気口の奥で猥雑に交わって殷殷とこだまする。苦痛と快感の境界線が曖昧に溶け出して、男を受け入れるのに慣れた体がベッドで弓なりに撓り、強張り、痙攣し、すべてが終わったあとには白濁した精液にまみれてぐったりと弛緩する。
 自分の想像力を呪ってはげしくかぶりを振れば扉越しに物音が聞こえてくる。 
 「?」
 レイジが来たのだろうか?
 足音にも気付かなかった。腕に力を入れて少しだけベッドをどかし、慎重に押し開いた隙間に片目をくっつける。 

 目の前に紙袋入りの肉粽(ロウズォン)がある。 

 「………」
 首をひっこめ静かに扉を閉じる。再び開ける。肉粽は扉を閉める前と同じくそこにあった、何の変哲もない紙袋にいれられて廊下の真ん中に無造作に置かれていた。目を擦る。瞬き。しつこく目を擦る。開く。何度瞬きしても消えない、ということは空腹が見せた幻覚じゃない。紙袋からは食欲を昂進させる香ばしい匂いがたちのぼってる、東京プリズンにきてからとんとご無沙汰だったこんがりした醤油の匂い。
 俺が11の時路地裏で猫に投げ与えて食い損ねてそのことを夢の中でまで後悔してた好物の肉粽が今、手を伸ばせばすぐに届く目の前の廊下にある。
 待て、待て待て冷静になれ。なんで俺があの時食い損ねた肉粽が時を超えて廊下に出現してるんだ、忽然と。そんな馬鹿げたことあってたまるか、ここにこうやって紙袋入りの肉粽が置き去りにされてるってことは持ち運んできたやつがいるからで、そいつは俺の好物が肉粽だってことをちゃんと知ってる人間で、いつだったか俺が好物の料理を打ち明けた……
 『牛楠飯(ニョウナンファン)炒麺(ツァオミエン)生薊包(センチエンパオ)控肉飯(コンロウファン)貢丸湯(コンワンタン)……ああ、肉粽(ロウズォン)が食いてえ』
 そうだ、もう随分昔のことに思えるが俺がこうやって頑固にろう城して食堂に足を運ばなくなる前、不味い飯に愚痴をこぼしながら今食べたい料理を思いつくまま列挙してったことがある。好物を指折りかぞえて悲嘆に暮れる俺をにやにや笑いながら眺めていたのは……

 レイジ。

 「レイジが持ってきてくれたのか?」
 そうとしか考えられない、俺の好物を知ってるのはあの時あの場にいたレイジ以外に考えられない。
 『何で缶詰ばっかなんだよ、桃缶鯖缶……アボカド缶?ぜってーまずいよコレ』
 昨日缶詰片手に抗議したから奴なりに気を利かせて好物を差し入れてくれたのだ。それで納得がいったが、肝心のレイジの姿が見えないのはどうしてだ?レイジは意地が悪いから意地汚さ全開で俺が紙袋をひったくるのをどっかそのへんに隠れてにやにやしながら眺めてるのかもしれない。いや、ひょっとしたら俺の好物を手に入れたはいいが直接渡すのは照れくさくて帰っちまったのかもしれない。後者なら廊下を見渡してみてもさっぱり気配がないのが頷ける。
 呑気に状況分析してる場合じゃない。
 ぐずぐずしてたらまた野良猫にかすめとられてしまうかもしれない。
 同じ過ちは繰り返したくない、このままじゃ俺は確実に餓死してしまう。さあ早く手を伸ばせ扉を開けろ、ほらあとちょっとで手が届くぞ、紙袋に手が触れるぞ。耳元でだれかがけしかける。このまま放っといたら看守に持ち去られて片付けられちまう、冗談じゃねえ、食い物を粗末にしたら罰が当たる。今この機を逃す手はない、ほら、もうちょっと手が届きそうなんだ。レイジがせっかく持ってきてくれたんだ、冷めちまわないうちに有り難くいただこう。
 紙袋にぎりぎりまで伸ばした指先が触れ、乾いた音が鳴る。
 紙袋からたちのぼり廊下に充満してゆく匂いに誘われて扉を少しずつ押し広げてゆく、隙間の面積が徐徐に広く大きくなって廊下にぶらさがってる蛍光灯の光が射しこんできて緩慢に扉が開いていって、手首から肘が、肘から肩が、遂には上半身が完全に廊下に出る。廊下に片膝乗り出し均衡を崩して膝這いになる、もう俺には紙袋しか見えてない、他の物は目に映っても知覚できない。
 空腹は人をおかしくさせる、理性に基づいた正常な判断をできなくさせる。
 いつもはちゃんと見えてるものが見えなくなって聞こえてるものが聞こえなくなって靴音の接近にも気付かなくて口の中には大量の唾液が湧いて、よく考えればおかしいのに、よく考えなくても絶対おかしいのに。
 
 『おまえが俺の顔見たくなくても俺はおまえの顔が見たいんだよ、いやなら力づくでこじ開けるぜ』
 俺の顔が見たくて腕づくで扉を押し開けたレイジが、俺の顔を見もせずに食料だけ置き去りにしてくわけないのに。

 そして俺は、膝這いに身を乗り出して紙袋を掴み。
 背後ではベッドの重しを取り除かれた扉が錆びた軋り音をあげて傾ぎ、

 「つかまえた」
  
 凄まじい力で後ろ襟を掴まれ後ろに引かれ、胸に抱いた紙袋からこぼれおちた肉粽が宙を舞って、ああもったいねえ、猫なんかにくれてやるもんかと蛍光灯が吊られた天井に手をのばしてむなしくもがきながら後ろ向きに倒れ、
 轟音をたてて扉が閉じた。
 後ろ襟を掴まれ引きずり戻された俺の目の前、固く閉ざされた扉から背後に目を転じる。 
 タジマがいた。
 笑っていた。額に真新しいガーゼを貼ったタジマがそれはもう嬉しそうに、目には暗い狂熱を湛え。
 「躾のなってねえ野良をつかまえる方法知ってるか?『餌』で釣るんだよ」
 懐の紙袋が叩き落され肉粽が床に散らばる、ああ、この光景前にも見たことがある。アパートに帰ってきて早々お袋とお袋の客とハチ合わせてこうやって紙袋を叩き落されて廊下に散らばった肉粽が踏み潰されて、
 俺が見ている前で。
 あの時とおなじだ、なにもかも。タジマの靴裏で肉粽が踏み潰され床に米がへばりついて、俺はこうやって腕を掴まれて強引に立たされて引きずられて物みたいにベッドに投げ出されて。
 抵抗しようとしたら手首を一本にまとめられる形で頭上に拘束され、股間を蹴り上げようとしたら胴に馬乗りになられて動きを封じられ、天井の明かりを背にしてどす黒い影が落ちたタジマの顔が鼻先に迫ってきて。

 「突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ。じっとしてろ、裂けたくねえだろ」
 『なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよ』

 後ろにまわされた手が薄い尻を猥褻にまさぐり、ぐいとズボンを引きずりおろしにかかる。
 はは。
 本当に、何から何まであの時と同じだ。くそったれ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060125203211 | 編集

 今日はロンの声を聞いてない。

 普段は用がなくても通気口を介して話しかけてくるくせに今日は一言も声を発してない。どうしたことだろう。いや、彼が静かにしてるのは非常に都合がいい。彼が大人しくしてくれてれば読書がはかどる、待機中に読もうと借りてきた本を膝の上に広げてページをめくってみたが静か過ぎて気が散る、という予想外の事態に動揺する。
 まさか飢え死にしたわけじゃあるまい、レイジが食料をさしいれてるのだから。現に昨日だって僕に妙な気を遣って所望してもないのに缶詰をよこしてきたではないか、全く彼は頭が悪い、いや、頭が悪いというより間が抜けているのだろうか。缶きりもないのにどうやって缶詰を開けろというんだ?いくら僕が不可能を可能にする天才だからって握力は常人の域をでない、というか平均以下の体たらくなのだ。缶きりもなしに缶詰を開けられるような器用な芸当ができれば苦労しない。
 通気口を介してロンから渡された缶詰は処置に困った結果、仕事場の床に転がしてある。もともと僕は甘い物が好きじゃないし缶詰は口に合わない、鉄格子の隙間から転がしてロンに突き返そうにもそうするだけの体力も残ってない。今の僕には鉄格子に手をかけて缶詰を転がすのさえ骨が折れる重労働なのだ、これ以上余計な体力は使いたくない。はっきり言おう、ロンの行為はありがた迷惑だ。僕は先日言ったはずだ、僕達に同情なんかせずに自分の信念を貫けと。それなのにロンはまだ迷いを吹っ切れないでいるらしい、昨日、食料を携えたレイジが隣の房を訪ねてきたときに漏れ聞こえてきた会話から推測したがロンは現在進行形で僕達を見殺しにしてる事実にくだらない罪悪感を募らせてるらしい。

 これだから凡人は困る。自分の利益を最優先に考えるのは人間の基本方針じゃないか。

 自己保身は生存欲求の根幹を成す感情だ、自分の身を守る為に他人を犠牲にしたからといってつまらない罪悪感にさいなまれるのは愚の骨頂だ。人間は常に自分の利益を第一に考える生き物だ、自分の身の安全さえ保証されてない極限状況下で他人を構えるほどには器用になりきれないのが現実だ。ロンは特に不器用だから他人のことを気にしてるあいだに自分にまで危険が及んでしまう、彼はお節介で心配性で物好きで、イエローワークの強制労働中も同じ班の人間から度々いやがらせを受けてた僕を助けてくれた。自分には何の利益もないにも関わらず、何故友人でもない僕の為に労を惜しまずに介入することができるのか理解に苦しむ。

 でも、それがロンの性質なら仕方がない。

 断っておくが僕はロンに感謝してるわけでは全くない。事実ロンに礼を述べたことは一度もない、言う必要などないし本人にも強要されたことはない。ただ、ロンの仲裁で僕が救われた事実は認めなければらない。 
 他の連中が何を言おうが、毎日のように男に犯されてる鬱屈を立場の弱いロンにぶつけることで晴らしてる惰弱な連中がどんな理不尽な言いがかりをつけたとしてもロンが自責の念に苛まれる義務などないと僕は断言する。
 ロンに僕達全員を救い出すのは不可能だ。彼はそこまで強くもなければ万能でもない、ただの少年だ。僕より身長も低ければ頭も悪い、まだ十三歳の少年だ。そんな彼が僕達の痛みや苦しみまで全部背負う必要はない、抱えこむ義務はない。僕達の痛みは僕達一人一人が引き受けなければならない種類のものだ、他人に気安く責任転嫁できる類のものではない。ただ黙って僕達の悲鳴や嗚咽を聞いてることしかできなくてもロンが責任を感じることはない、その無力は罪じゃない、不可抗力なのだ。
 
 僕は自身の無力を容認できないが、ロンの無力は許容されて然るべきものだ。 

 ロンは凡人だからそれでいい、凡人は凡人らしく自分の無力に甘んじていればいい。何もかもを抱え込んで苦しんだりせず、痛みを共有できる人間が身近にいるならその人間を頼るべきだ。生き残る為に利用するべきなのだ。
 だが、僕はそれができない。僕は天才だから他人に頼ることは許されない、僕がもし他人に頼ってすがってしまったらこの頭脳は何の意味も成さなくなる、僕は誰もが認める天才としてこの世に生を受けたのに今現在僕を僕たらしめてる矜持を否定したら後に何が残るのだ?
 惠。
 いや……違う、惠はもういないんだ。僕にはもう誰もいないんだ。何を言ってるんだ、何をまだ期待してるんだ。いい加減未練を捨てろ、情けない。僕が恵のことを考えるたびに、辛い時に惠を呼ぶたびに惠が汚れてゆくのがわからないのか?僕はもう惠の名前を呼んではいけない、口に出してはおろか心の中でも呼んではいけないのだ。僕に名前を呼ばれたら惠が汚れる、汚してしまう。僕はこの口で何をした?この七日間何人の男の物を含まされてきた?いやだ、答えたくない、記憶を反芻したくない。
 『君に呼び捨てられたら恵が汚れる』
 いつだったか、僕はレイジにそう言った。あの言葉がそっくり今の自分に跳ね返ってくる。僕は惠が好きだ、今でもいちばん大事な人間であることに変わりない。惠、僕の生きる意味、最愛の妹、庇護の対象、守りたい存在。
 かけがえのない大事な人。東京プリズンで僕を生き延びさせる原動力。
 だからもう、名前を呼べない。呼んではいけない。何度もそう言い聞かせてきたのにシャワーに打たれて頭が朦朧としてるときや男に犯されてる最中に脳裏をかすめるのは惠の顔で、舌はかってに惠の名前を紡ごうとする。 
 僕は惠が好きだ。惠の名前が好きだ。
 惠。恵まれる。いつだったか惠は言った、自分の名前は両親に愛されてる証拠だと誇らしげな笑顔を湛えて。僕は惠を汚したくない、惠の思い出まで汚したくない。惠が大事にしてるものを汚したくない、そんなことしたら惠をますます哀しませてしまう、もうこれ以上惠を哀しませるのはいやなのに泣かせるのはいやなのに。
 自分の名前でさえ好きになれなかった僕が妹の名前には好感を抱いていたなんておかしな話だ。
 どのみち両親から貰った名前を捨てた僕に、こんなことを言う資格はないのに。
  
 物思いに耽りながら本のページをめくれば手首を取り巻いた鮮やかな鬱血痕が目にとまる。一日を経て青黒く変色した痛々しい痣に、今ではもう何の感慨も抱かない。もう見慣れてしまったのだ、痣には。どうせ東棟には寝に帰るだけでサムライに気付かれるおそれはない、サムライはあの日から、僕の手首を見たあの日から僕をよそよそしく避けてる節がある。
 それでいいんだ。
 それが賢い選択だ。
 彼はもう僕の友人じゃない、もともと契約を交わしたわけではない。形の無い物を解消するのに煩雑な手続きはいらない、本人の気持次第だ。彼がもう僕のことを友人だと思っていないのならここ数日間僕を避け続けてるのも頷ける、いや、僕からサムライを遠ざけるような真似をしておいて彼に非を負わせるのは間違っている。サムライは悪くない、原因があるとしたら僕だ、僕の心の問題なのだ。
 僕が悪いんだ、すべて。
 僕が両親を殺害したせいで惠は精神に変調をきたして精神病院に収容されて、サムライは不器用な好意を同情だと決め付けられ拒絶されたことで傷ついていた。今でも僕はわからない、同情と心配の違いが。サムライは僕に同情してやさしくしてくれたのか?僕に同情して食堂から食事を運んでくれたのか?
 でも、もし彼が上から人を見下すように同情していたのなら、何故ああも僕の酷い言葉に耐えてくれたんだ?
 ……馬鹿な、いまさらこんなことを考えてどうする。目の前の本に集中しろ、活字を頭に詰めこめ、無心にページをめくれ。サムライのことは忘れるんだ、もう友人ではなくなった男のことなど思考野から消去するんだ。僕にはもともと恵しかいなかった、今ではその惠もいなくなった、僕は最初からひとりで、羊水のぬくもりを知らずに試験管で育ったから、無意識の海を茫洋と漂ってる胎児の頃から孤独を運命付けられていたのだから、一時の気の迷いで友人かもしれないと錯覚した男がいまさらいなくなったからってだからどうした?全然ショックなんかじゃない、精神的打撃なんか受けてない。 
 僕は他人によりかかなければ歩けないほど弱い人間じゃない、プライドの背骨があれば人は独りでも生きていけるんだ。
 そういえば、写経するサムライの背は惚れ惚れするくらいにしゃんとのびていた。彼は本当に姿勢がよかった、幼少期から相当厳しく躾られてきたんだろう、決して背中を丸めることなく姿勢を崩すことなく、食堂の椅子に腰掛けるときも僕の隣を歩くときも端然と… 
 「……思い出してどうするんだ」
 全然読書に集中できない。おかしい、こんなの僕らしくない、異常事態だ。ロンの声は相変わらず聞こえてこない、通気口から聞こえてくるのは売春班の囚人の喘ぎ声ばかり。みっともない。そして僕も、男にのしかかられて貫かれてるときはおなじみっともない声で喘いでるんだ。死ぬ気で声を殺しても漏れてしまうのは防げない、いっそ喉を潰してしまいたい、声帯を切除してしまいたい。そうしたらもう声を聞かれずにすむ、こんなみじめな思いはせずにすむ。二度と惠の名前を呼ぶことはなくなる、惠を汚すことはなくなる。
 次に惠の名前を呼んでしまったらもう、危うい均衡でどうにか保たれていた僕の精神は崩壊してしまう。
 唐突に笑いの発作がこみあげてきて、片手で額を支え、俯く。
 「七日が限界か。意外と保たなかったな」

 その時だ、扉が開いたのは。

 「!」
 反射的に顔をあげる。乱暴に扉を閉じた客が大股にこちらにやってくる。前に見たことがある客だ、以前『また来てやるよ』と宣言して去っていった客だ。名前は知らない。知る必要もない。彼らがここに足を運ぶ目的はひとつだけだ、僕らを性欲解消の玩具としか認識してない彼らが自己紹介などするはずがない。
 「また来てやったぜ」
 見ればわかることを言うな。
 という言葉が喉まで出かけ、ぐっと飲み込む。コンドームを着用しない点を除けばこの客はそうタチが悪くない、無抵抗に徹していれば足腰立たないほど痛めつけられることもないだろう。そう楽観して表紙を閉じ、本をどける。客に背を向けて上着の裾に手をかけ、
 「脱ぐなよ。脱がすほうが好きなんだよ、俺は」
 「……」
 手を放す。売春夫に拒否権はない、従うしかないだろう。名前も知らない客の言うなりにベッドに仰臥すれば早速上に覆い被さってくる。首筋に痣がつかないよう首を振って抵抗するのはもうやめた、サムライに見られてもかまわない、彼は手首の痣を目撃したのだから既に僕がどういう扱いを受けてるかは察したはずだ。シャツの裾にもぐりこんだ手が蛇が這うように脇腹を揉みしだき、首筋に執拗なキスをされる。唇の感触が気持ち悪い。生温かく柔らかく湿っていて不快極まりない、吐き気がする。ズボンの裾にもぐりこんだ手が太腿の内側で淫猥にうごめく……
 そうだ、忘れていた。
 「眼鏡を外させてくれないか?」
 理性的な声音で申し出たつもりが、吐息が上擦ってしまった。僕の腰を抱え上げ、今まさにズボンをひきずりおろそうとしてた客が不快げに眉をひそめる。
 「これが済んだらな。今手えはなせねーんだよ」
 「手間はとらせない。すぐに済む」
 「客を優先しろ」
 「眼鏡を優先する」
 「―あんだと?」
 「万一眼鏡が壊れたらどうしてくれるんだ、君が弁償してくれるのか?ここは刑務所だ、眼鏡ひとつ修理に出すのも大変なんだ。へたしたら一生直らないかもしれない、僕は眼鏡なしで余生を過ごさなければならないかもしれない。冗談じゃない、眼鏡がなくなれば本が読めなくなる、刑務所での唯一の娯楽がなくなる。僕はまだ冷血の下巻を読んでないんだ、あと三回再読するまで眼鏡を壊されては困る」
 それにまだブラックジャックも全巻読破してない。
 僕の膝を抱えた客が険しい形相になるのを無視し、断固として主張する。
 「性欲に狂った低脳、たとえば君のような人間には理解できないだろうが僕にとって眼鏡は日常生活で欠かすことのできない必需品でもはや体の一部だ。そんな大事な眼鏡をこんなくだらないことで壊して失うのはお断りだ、二度と本が読めなくなるじゃないか。わかったか?わかったらさっさとその汚い手をどけてくれ、稚拙な前戯に感じてる演技をするのも疲れるんだ」
 後半は殆ど自棄になっていた、たぶんもう壊れ始めているのだろう。
 僕の上に跨った客の表情が不審から憤怒へと変貌し、険悪な形相に豹変。
 かん高く、乾いた音が鳴る。
 頬をぶたれて視界がぶれる。いや、視界がぶれたのは眼鏡が床にはじけ飛んだからだ。床に落下した眼鏡がかちゃんと音をたてる、壊れてないか心配だ、弦は曲がっていないだろうか? 
 「外してやったぜ」
 眼鏡よりも自分の身を心配すべきだと頭ではわかっているのに全力で現実逃避してるせいで実感が追いつかない、ああ、またこの感覚だ。擬似幽体離脱ともいえる感覚に全身が支配されて四肢が虚脱、熱をもって疼きだした頬の激痛も下肢から押し寄せた熱に飲まれてやがて気にならなくなる。もう殆ど痛みはない、この六日間でずいぶん慣れたのだ。いや、正確には「慣らされた」と言うべきか?朦朧と痺れてきた頭で漠然と考える、僕は不感症だから何をされても感じない、感じたりしない。痛くない辛くない苦しくない哀しくない。そうだ、それでいい、それが正しいんだ。やればできるじゃないか鍵屋崎 直、さすがは天才だ。男に犯されて喘ぐような醜態を晒すのは一度でたくさんだ、もし声をもらしてしまいそうなら奥歯を噛み締めろ、頭の中で円周率を唱えて気を逸らせ。
 3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971……
 「反応薄くてつまんねえ体だな」
 ぶっきらぼうな呟きに薄目を開ける。僕の腰を揺さぶりながら、白けたように客が言う。
 「不感症てどんなもんか試してみたかったけど本当になにされても感じねえんだな。耳朶噛んだらちょっとは反応よくなったけど七日も客とりつづけて慣れちまったのか?せっかく甘噛みしてやっても声もらさねえじゃん」
 「だ、れが、耳朶を噛めと頼んだ?」
 声が上擦りそうになり、懸命に自制する。反論するな、反論すれば殴られるぞと理性が警報を発してるが舌が止まらない。僕はこの七日間何をされても耐え続けてきたんだ、心を殺して自分を殺して何でも従順に受け入れてきた。
 七日も耐えたんだから、ひとつくらい逆らっても罰は当たらないだろう。
 「耳朶噛まれるの好きだろう、お前。やさしく噛まれるのが好きなんだよな?耳の穴に舌入れられるのも好きだろう、もうたまんねえって顔してたもんな」
 僕は勘違いしていた、彼は優しい客などではなかった。
 今にも達しそうに息を喘がせた客が好き勝手なことをうそぶくのを仰向けに眺めながら、口角が歪むのを自覚する。
 眼鏡をしてないせいで自分を犯してる客が見えないのが唯一の救いだ。いや、正確には客の瞳に映る自分の顔が見えないのが。
 今の僕はきっと、おそろしく醜い笑顔を浮かべているだろうから。
 「その程度で僕が満足するとでも思ったか」
 腰の動きがぴたりと止まる。自慢の愛撫を「その程度」と酷評されたことにショックと憤りを隠しきれない客を冷ややかに見上げ、頭を働かせる。こういう時はなんて言えばいいんだろう、なんて言えばこの自信過剰な低脳を完膚なきまでに打ちのめすことができるだろう?ああ、そうだ。いい台詞があったな。
 売春班配属になって、初めてこの言葉の実用的な使い方を知った。感謝しなければ。
 ベッドに仰臥し、薄く笑みを浮かべ、僕の腰に跨って茫然自失した客を仰ぎ見る。
 「思い上がるなよ、早漏」
 「……そうか、まだ満足できねえか。でもな、それは俺が早漏だからじゃなくておまえが不感症だからだよ」
 殴られると諦観して目を閉じたが、予期していた衝撃はいつまでたっても訪れない。衣擦れの音に違和感を開けて薄目を開ければ歪んだ視界に映ったのは……
 針。
 注射針の先端。
 僕の眼球3センチの距離に注射針の先端が浮かんでいる。鋭く尖った注射針のむこう、ポケットに隠し持っていたのだろう注射器を握り締めた少年が醜い顔で笑っている。
 「なにをする気だ?」
 声が震えた。注射針から目を逸らせない……腰に跨がられたこの体勢では逸らすことなど不可能だ。見せつけるように注射器を翳し、絶体絶命の恐怖に歪む僕の顔をにやにや観察しながら少年がうそぶく。
 「気持ちよくなるクスリだよ」
 「覚醒剤か」
 無言で笑う少年、肯定の証。今注射器を手に持った少年の笑顔は一生忘れられそうにない、もう一生網膜に焼きついてはなれないだろう。醒めた悪夢の中を生きてるようだ、もがけばもがくほどに深みに堕してゆく。恐怖を煽るような緩慢さで注射器が近付いてきて理性が一瞬で蒸発、狂ったように手足を振り乱して暴れて少年の下から逃れようとする、いやだ、怖い、それだけはやめてくれと心が軋んで悲鳴をあげる。既に精神は崩壊を始めている、押しのけようと両腕を突っ張れば逆に右腕を掴まれて袖をはだけられる。
 右腕、僕の右腕。
 「安心しろ、絶対に気持ちよくさせてやるよ」
 「薬の力を借りてまで気持ちよくなりたくない、理性を手放してまで快楽に溺れたくない!頼むやめてくれ、それだけはやめてくれ、僕は僕でいたい、僕のままでいさせてくれ、鍵屋崎直でいたいんだ……惠を、妹のことをちゃんと覚えていたい、忘れたくない。それにサムライ、友人、いや、もう友人じゃないが、違う、何を言ってるんだ、」
 外気にさらされた右腕に注射器の先端が押し当てられる。針の切っ先を凝視していた少年が音をたてて生唾を嚥下し頭がますます混乱し自分でもなにを口走ってるかわからなくなる。
 「わかった、君の言うことを聞くから、喘ぐ演技をしろと言うならそうするから、どんなへたな愛撫にでも感じてるふりをするから、」
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、惠、惠助けてくれ、僕はもう駄目だ本当に駄目だ、
 「どんなに自己中心的で一方的な愛撫にもちゃんと反応するから、」
 サムライ、
 「もういいから黙ってろ!!」
 耳元で恫喝されて鼓膜が痺れ、むきだしの腕にひやりとした金属の感触。腕にあてがわれた注射針が皮膚の弾力で跳ね返され、ゆっくりゆっくりとポンプが押しこまれ―
 
 サムライを呼ぼうとした。プライドが恐怖に飲み込まれた虚無でサムライの名を呼ぼうと口を開けた、

 その瞬間だった、扉が蹴破られたのは。 
 室内に踊りこんだ残像が僕の上に覆い被さってた少年の後ろ襟を掴んで腕一本で後方に投げ、少年の手をすりぬけた注射器が床に落下する。何が起きたのか一瞬理解できなかった。ゆっくりと上体を起こし、床を手探りして眼鏡を拾い上げる。眼鏡をかけ、顔を上げ、目の前に広がる光景を確認して声を失う。
 目の前で対峙する二人の人間。
 片方は腰を抜かして床に座り込んだ少年、最前まで僕を押さえこんで覚醒剤を打とうとしていた客。
 そして、客の鼻先に小揺るぎもせず箸をつきつけていたのは。

 「サムライ……」
 なんで君がここにいるんだ、と詰問しかけて己の愚を呪う。まさか。でもそれしか考えられない。ここは売春班の仕事場で、ここに足を運ぶ人間の目的はひとつしかない。
 眼光鋭く箸を構えたサムライを魅入られたように凝視し、聞く。
 「僕を買いに来たのか?」
 振り向きもせず、サムライは簡潔に答える。
 「そうだ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060124205138 | 編集

 「な、な、なんだよいきなり!?」
 突然の闖入者に泡を食い、尻であとじさりながら少年が喚く。
 「今は俺の番だろうが、これから思う存分楽しもうって時に何勝手に入ってきてんだよ!?」
 床に転がった注射器をちらりと一瞥したサムライがベッドに横たわっている僕に視線を投げる。はだけたシャツからあられもなく素肌を覗かせ、右腕の袖を肘までめくりあげられ、行為を中断された為にズボンを腿に絡めた自分の醜態に気付かされた僕はサムライの視線を避けて俯き、素早くズボンを引き上げて生白い肌を隠す。
 こんな姿、彼にだけは見られたくなかった。
 半年前の僕なら別に何も思わなかっただろう、裸に剥かれて犯されているところをサムライに目撃されたからとて羞恥心をかきたてられたりはしなかったはずだ。それなのに今は屈辱で頬が熱くなるのをおさえられない、羞恥で体が火照るのがおさえられない。
 下唇を噛み、紅潮した顔を俯けた僕から正面の少年へと視線を戻したサムライが無言で箸を進める。箸の先端が少年の鼻の頭にめりこんで「ひっ」と悲鳴がもれる。
 箸から逃れて尻であとじさりながら、物言わぬサムライの剣幕に飲まれて怯えきった少年は媚びへつらう笑みを浮かべる。
 「わ、わかった、こうしよう!3Pでどうだ?タマ重くて待ちきれねえなら一緒にやれば問題なしだ、だろ」
 さも名案を思いついたといわんばかりの饒舌さでまくしたてた少年が欲望にぎらついた目で僕とサムライとを見比べる。
 「俺も一度試してみたかったんだよ、複数プレイ。どうだ、悪くねえ提案だろ?俺が上の口でたのしんでるあいだはお前が下の口でたのしんであの眼鏡をイカせてや、」
 「聞くに堪えん。今すぐその下劣な口を閉ざせ」
 サムライの声は霜が張りそうに冷えていた。
 眼光の圧力を増して少年を追い詰めたサムライが箸を握る手に尋常ならざる力をこめたのが白く強張った手首からわかる。
 「俺はサムライだ。箸一本でお前の息の根を止められる」
 サムライは決して実力を誇張してるわけではない。その証拠に小揺るぎもせず少年の顔面に突きつけられた箸には極限まで先鋭化した殺意が凝縮されている。全身に殺意を気迫とを漲らせたサムライが隙のない動作で歩を詰める。衣擦れの音さえたてない静けさで、優雅ともいえる足捌きで徐徐に少年と距離を詰めてゆく。サムライに追い詰められる一方の劣勢に回った少年が壁にもたれて立ち上がり、その喉元に箸の切っ先がつきつけられる。
 「去れ」
 憤怒を滾らせた双眸。 
 「…………っ、」
 サムライに威圧され二歩三歩あとずさった少年が何かを踏み付けてはでに転倒する。両手で宙を掻き毟りながら後ろ向きに倒れた少年が背中から扉に激突、背中で扉をぶち破るかたちで廊下に転がり出る。偶然の事故、受け身もとれずに床で背中を強打した激痛にうめく少年の前で静かに扉が閉ざされてゆく。
 何かを叫ぼうと大口あけた少年の顔が消え、轟音をたてて扉が閉じた。完全に。
 最前まで少年がいた地点に視線をやれば缶詰が転がっていた。昨日、鉄格子の隙間からロンによこされた缶詰だ。
 「僕はまたロンに助けられたのか」
 缶詰に蹴躓き、何が何だかわからぬまま廊下へと放り出された少年の動転ぶりを思い出し、呟く。スッと腕をさげ、ポケットに箸を納めたサムライがこちらに向かってくる。大股に歩み寄ってくるサムライをぼんやりと眺めていると廊下で言い争う声が聞こえてくる。
 「なんだよあれ、聞いてねえぞ!?なんで俺が済んでないのに次の客いれるんだよ!」
 「しかたねえだろ、箸つきつけられて脅されたんだよ!あいつの噂知らねえのか、東棟のサムライだよ。仙台の名門道場の跡取り息子でてめえの親含めた十二人を伝家の宝刀で斬り殺しちまった……」
 「は、マジで?」
 「マジだよ、いくら俺が看守だからってそんな囚人怖くて止められねえよ!言うこと聞くしかねえだろが!」
 看守と囚人の押し問答に耳を傾けながら目はサムライの一挙一動を追っている。サムライから目を逸らせない―……放せない。そういえば、こうしてちゃんと彼の目を見るのは何日ぶりだろう?ずいぶん久しぶりのような気がする。売春班配属になってからずっと彼と目を合わせるのに気後れしていた、目を合わせた瞬間に僕の体内に沈殿した汚い澱まで見透かされてしまうような強迫観念に襲われていたから。
 ベッドの傍らでサムライが立ち止まる。
 今や、密室に完全に二人きりだ。扉には鍵がかかっている。逃げ出したくても逃げられない、と苦渋を噛み締めてその連想に笑いたくなる。

 『逃げる』?だれから?

 僕はサムライから逃げようとしてたのか、元友人だった男から。馬鹿な、みじめに逃げ隠れする必要などありはしない。相手がサムライだからといって何も怖じることはない、いつもどおりにすればいいんだ、いつもどおりに。この六日間やってきたのと同じことだ。相手が顔見知りの人間だからといってためらうことなど何もない、僕はもう体も心も汚れきってしまったんだから。
 先客を追い払ったもののこれからどうしたらいいか皆目見当がつかず、所在なげに立ち竦んでいるサムライを見上げ、事務的に聞く。
 「騎上位がいいか、正常位がいいか?」
 サムライの目に驚きの波紋が広がり、そして、低い声を絞りだす。
 「………悪い冗談だ」
 「冗談ではない。現実だ」
 ベッドに上体を起こし、片膝を立てる。まだ体が熱い、さっきの少年に抱かれた余熱が残っている。シャワーを使用できないのが辛い、体に付着した他人の体液を洗い流せないのが不快でしょうがない。生理的嫌悪に顔をしかめた僕の傍ら、サムライは目に痛ましげな光を湛えて立ち尽くしていた。
 やめろ、そんな目で僕を見るな。
 そんな抗議が喉元まで出かけ、ぐっと飲み込む。他人に同情されるのはごめんだ、プライドの高い僕には耐えられない。サムライから、今まで友人だと思っていた男に同情される屈辱を味わうくらいなら、私情に振り回されることなく早急に仕事を済ましてしまったほうがいい。
 「むこうを向いててくれないか」
 「何故だ」
 サムライの目を見ないように顔を伏せ、指示する。察しの悪いサムライに苛立ち、刺々しい口調で補足する。
 「服を脱ぐんだ。……このままじゃやりにくいだろう、お互いに」 
 『お互いに』の部分を強調したのは当てこすりだ。吐き捨てるように皮肉を投げ付ければサムライが一瞬だけ傷ついた顔をする。だが、それは刹那にも満たない一瞬の出来事なので僕の罪悪感が見せた目の錯覚かもしれない。僕の指示に従ったサムライがベッドに腰掛けて壁の方を向く。こんな時だというのに背筋は凛々しく伸びていて、おそろしく姿勢がよくて、武士の矜持あふるる毅然とした背中におもわず見とれてしまいそうになる。
 サムライの背中から視線を引きはがし、上着の裾に手をかける。さっきの客は行為を急くあまり上着まで脱がせなかったが、もしサムライが本気で僕を買いに来たのなら上も下も全部脱いだほうがいい。一糸まとわぬ生まれたままの姿になり、今の僕を、身も心も汚れて変わり果てて彼の友人には相応しくなくなった僕を見せつけてやるべきだ。

 サムライを失望させるのはいやだった。
 でも、こうなってしまった以上仕方ない。 

 何を、どこで間違えたんだろう。どうしてこんなことになったのだろう。東京プリズンにきてからずっと繰り返してきた答えのない問いが重苦しく胸にのしかかる。何故サムライは僕を買いに来たんだろう。サムライは売春など嫌悪する潔癖な男だと思っていたのに、違ったのか?買いかぶりすぎていたのか?なるほど、男なら人並の性欲があっても何もおかしくない。いくらサムライが清廉潔白な男に見えても性欲までは否定できない、性欲は人間の根源欲求のひとつ、子孫を増やすために備わっている原初的な本能だ。いや、そんなのは詭弁だ。動物は快楽原則に忠実な生き物で、人間も動物であるかぎりは快楽の呪縛から逃れられない。いやなことを何もかも忘れさせるほどの強烈な快楽を伴うからこそ人は太古の昔から性行為に溺れてその副産物として子孫を増やし世界中に散らばり繁栄してきたのだ。
 これまで禁欲生活を送っていたサムライに遂に限界が訪れ、売春班の囚人を買いに来たからといって、彼との友人関係を一方的に解消した僕に責める資格などありはしない。
 上着の裾に手をかけたまま、放心状態で思考に沈んでいたら通気口から喘ぎ声が聞こえてきて、自分がおかれた状況と立場を一瞬で思い出す。何をやってるんだ僕は、何をためらうことがある?今まで何人もの客の前で服を脱いできたじゃないか、脱がされてきたじゃないか。顔見知りの人間がそばにいるからといって、手を伸ばせばすぐに届く距離に腰掛けてるからといって躊躇することはない。
 決心し、上着を脱ぎ、上半身裸になる。
 脱いだ上着を神経質に畳み、眼鏡を外し、枕元に置く。下も脱ごうかどうしようか迷ったが、サムライの反応を見てからでも遅くないだろう。
 第一、僕の上半身を見たサムライが抱く気をなくす可能性も否定できない。
 「いいぞ」
 サムライがゆるやかに振り向き、そして。

 その目が、大きく見開かれた。

 僕はもともと色が白いほうだ。
 いや、生白いといったほうがいい。筋肉に乏しい脆弱な細腕は劣等感の種だったが、この前来た客には褒められた。
 『お前、男のくせに色白いから縄の痕が映えるんだよな』
 嬉嬉として僕の手首を縛りながらそう言ったのは例の看守だった。あの時の痣はまだ消えてない、手首にくっきりと残っている。
 そして、上半身。
 酷い有り様だった。鎖骨にも胸板にも腹にも腰にも至る所に発疹によく似た赤い斑点が散らばっている。中に混じる大小の青痣は腹部を殴られた痕だ。青痣だけではない、経過した日数によって黄褐色に変色しているものも少なからずある。痣の上に痣が重なり、もとは白い筈の肌がまだらにむしばまれ腐敗し始めた果実の表皮のような惨状を呈している。
 抱き心地の悪い薄い体だ。
 痣だらけで醜い体だ。
 行為を終え、這うように洗面台に行って鏡に体を映すたびに生理的嫌悪で吐きそうになった。体の内側からも外側からも腐り始めて醜くおぞましい本性を晒し始めているのだぞと容赦ない事実をつきつけられるようで。
 「萎えたか?」 
 完全に沈黙したサムライを卑屈に仰ぎ、聞く。止まらない、言葉が止まらない。洪水のように後から後から押し寄せてきて理性を押し流そうとする。だめだ、冷静になれ、冷静に―
 ベッドの背格子に上体を預け、片手で額を支え、俯き加減に言う。
 「気持ち悪いだろうこんな体」
 サムライは答えない。何も言わない。と、ふいにベッドが軋み、頭上に影がさす。つられたように顔を上げれば正面にサムライがいた。ベッドに膝を乗せ、正面に移動してきたサムライが無言の内に僕の肩に手をかける。
 サムライの手は熱かった。血が、燃えているみたいに。  
 「無理に抱かなくていいんだぞ」
 サムライがらしくもなく緊張しているのがわかったから、僕は言った。こんな体を見て興奮するのは虐待性愛者の変態だけで、ごくノーマルな嗜好の男なら扇情的な気分になろうはうずもない。何も無理して僕を抱くことはないのだ、本当に。
 「……無理などしてない」
 一呼吸おいてサムライが答え、肩に置いた手に力がこもり、自然と押し倒される格好になる。背中にベッドの感触、二人分の体重にスプリングが軋む。
 すぐそばにサムライの顔がある。
 天井の裸電球を背にし、僕を組み伏せるかたちでベッドに手をついたサムライの目には僕が見たこともない複雑な色があった。悲哀、慙愧、苦痛、悔恨……痛ましげな双眸に思い詰めた光を湛えたサムライが不器用に、本当に不器用に僕の首筋に触れる。愛撫、という呼び方さえ相応しくない拙さで。
 熱をおびたてのひらが首筋をやさしく包みこむ。ちょうど初日につけられた痣があった部分、今ではもう肌に馴染んで消えてしまった痣が見えるようにそこばかりを撫でる。 
 「怪我はもう治ったのか」
 「?」
 「ガーゼをしていただろう」
 「ああ、あれは……」
 「?」
 「……何でもない」
 脱力状態でベッドに体を横たえ、無造作に投げた四肢をぐったり弛緩させる。そっと目を閉じる。もう疲れた。どうでもいい。サムライが相手ならひどくされることもないだろう、と安心して警戒を解く。答えのない自問自答はやめた。何故こんなことになったのか、などという繰り言は「生まれてこなければよかった」という発言にも増してみっともなく、みじめさを増長させるだけだ。サムライとこんなことになる日がくるなんて思わなかった。でも、もうどうでもいい。僕の体で彼が満足してくれるならそれに越したことはない、どうせ僕はこの生き地獄から抜け出せないのだからもう何もかもどうでもいい。
 考えるのに疲れた。思考が働かない。
 思考停止状態の頭で、サムライの肩越しに天井を見上げる。配管むきだしの殺風景な天井に意識を飛ばそうとしたが、その度に僕を現実に引き戻すのは稚拙な愛撫。稚拙……本当に下手だ。いや、下手という言葉はひどいかもしれない。サムライはおそらくあまり女性経験がないのだろう、それとも相手が僕だから緊張してるのだろうか?ぎこちなく誠実な愛撫が緩慢に熱を煽り、体の芯が鈍く疼きだす。僕は不感症だから快感に溺れたりはしないが、もしそうなら下肢から這い上がってくる熱の正体は何だ?ひょっとして僕が不感症だというのは強力な自己暗示の産物で、実際はそうじゃないのか?
 朦朧と霞がかった頭に泡沫のように浮かんでは弾ける疑問符。ふいに違和感を感じ薄目を開ける。水面下から見上げたように視界がぼやけている。眼鏡を外してるせいでサムライの顔がよく見えない、こんな至近距離にいるのに。歪む視界の中、サムライをさがす。いた。僕の目の前にいる。僕の上に覆い被さり、脈をとるように首筋に手を置いて沈黙してる。まだ服は脱いでないようだ。ずいぶんと前戯が長い。首筋を包んだ手が熱く火照っている。サムライは体温が高いんだな、とどうでもいいことを実感しながら天井を見上げ―

 顔に水滴が落ちた。

 「……?」
 おかしい、水道は止められてるはずなのに、現状ではシャワーも使用できないはずなのに何故水が?配管の破れ目から水滴が落ちたのだろうかと訝しんだがそうでもないらしい。顔に付着した水滴を手で拭い、ぬれた指先を顔に近付けてみれば思い出すのはイエローワークの記憶。
 ロンと一緒に穴を掘った。水が噴出した。虹が架った。あの虹は綺麗だった、今でも鮮明に覚えている。
 ロンは本当に喜んでいた、脇目もふらずに両手で水をすくって飲んでいた。その隣で僕も飢えたように水を飲んだ、あの時は「鉄分が多くて不味すぎる」と不満をこぼしたが本当は美味しかった、僕がこれまでに飲んだどのミネラルウォ―ターよりも美味しくて。
 懐かしい。何故今、こんなことを思い出すんだろう。
 何故今、いまさらになって、イエローワークに戻りたいなんて思うんだろう。
 もうどうにもならないのに、後戻りできないところまできてしまったのに、ひとりでは這い上がることさえできない底の底まで落ちてしまったのに。
 諦観とともに目を閉じればどこからかサムライの声が聞こえてきた。耳に心地よく響く低い声。
 「すまん」
 語尾が震えていた。目を開ける。また顔に水滴が落ちた。これは―……涙だ。だれかが泣いている、僕の上に覆い被さっただれかが涙をこぼしている。でも、眼鏡をしてないせいでその誰かの顔がよく見えない。いや、見えなくてもわかる。泣いているのはサムライだ。でも僕にはサムライが泣いてる顔が上手く想像できない、彼が泣いてるところなんて想像できない。眼鏡を外した状態でぼんやりと見えるのは深く深くうなだれたサムライの姿だけだ。  

 何で泣くんだ?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060123211224 | 編集

 サムライが泣く理由などない。
 彼は何も悪くない。嗚咽をこらえるようにかすかに肩を震わせるサムライ、首を折って深く項垂れたその頬へと指をのばしかけ、虚空で止める。
 自責の念に苛まれて肩を震わせるサムライ、その姿をぼんやり捕らえ、頬に透明な弧を描いて流れ落ちる涙に触れかけ手を止めれば、怪訝な色に染め抜かれた視線を顔に向けられたのが気配でわかる。
 サムライの頬に触れようとして、ためらうように指を引き、呟く。一抹の戸惑いを声に宿して。
 
 「僕がさわったら汚れる」

 そうだ、僕がさわったら汚れてしまう。惠にもサムライにもずっとそのままでいてほしいのに僕が触れることによって、名前を呼ぶことによって汚してしまう。僕を虫食みつつある汚濁に感染させてしまう、汚してしまう。そんなことはしたくない、絶対に。惠とサムライは僕が心を許したこの世でただ二人の人間なのにその二人を自分の手で汚してしまったら僕は僕が許せなくなる、一生許せなくなる。
 僕はこの一週間で十七人の男に抱かれた。サムライが十八人目だ。
 口にはとても出せないような行為を強いられた、最低の汚らわしい行為を。タジマには無理矢理惠の名前を呼ばされた、射精をせき止められて苦しくて、惠の名前を呼ばないかぎり許さないと耳元で脅迫されて泣くように叫ぶように呼んでしまったのだ。
 最低だ。
 最低の、兄だ。
 こんな僕を知られたら軽蔑される、いや、惠が軽蔑しなくても僕が僕を軽蔑する。サムライだってそうだ、本当の僕を知ったら軽蔑するに決まってる、僕を友人にしたことを後悔するに決まってる。僕はサムライに失望されるのが怖くてずっと頼れずにいた、本当の意味で彼に心を開けずにいた。サムライが同情からではなく心の底から僕を心配してくれてると本当はわかってたのに、サムライが同情心から動くような人間ではないことはこの半年でよくわかったのに、でもどうしても受け入れることができなかった。受け入れてしまったら最後僕は独りでは生きれなくなる、独りでは惠を守れなくなる。
 惠。めぐみ。
 心の堰が決壊し、何度も何度も惠の名前を呼ぶ。惠の面影で心が占められてゆく。守りたかった、傷付けたくなかった、ずっと綺麗なままでいてほしかった。僕が汚したんだ、僕が汚してしまったんだ、僕が―…… 
 心に渦巻いていた自責の言葉を遮ったのは力強い握力。
 サムライがぐっと僕の手を握り締めている。そして、握り締めたまま自分の頬へとあてがわさせる。
 「汚くなどない」
 てのひらに染み渡る人肌の体温。指の股に流れこんできた熱い水滴は涙だろうか。
 「お前は汚くなどない」
 「何も知らないくせによくそんな台詞が言えるな」
 喉がひきつり、絶望的な笑い声が漏れる。サムライへの反発が急激にもたげてきて、手を掴まれたまま叫ぶ。
 「僕が今日まで何人の男に抱かれてきたか、どんなことをされてきたかも知らないくせに。いいだろう、聞かせてやる」
 そうだ、聞かせてやれ、サムライを絶望させてやれ。僕のことを理解して許容したふりをしてるこの偽善者を完膚なきまでに徹底的に打ちのめしてやれ。残酷な衝動に駆られるがまま口角を吊り上げ冷笑、肘をついて上体を起こしてシャワーがかかってる壁を振り向く。
 「シャワーがかかってるホックがあるだろう。あそこに『吊られた』んだ」
 サムライが握り締めた手から不審げな気配が伝わってくる。シャワーが固定された壁から青痣も痛々しい自分の手首へと視線を転じる。
 「僕をよく買いに来る看守に変態がいて、持参したロープで必ず手首を縛るんだ。勿論全裸にしてからな。そうやって完全に抵抗を封じこめないと安心して犯すこともできない見下げ果てた小心者だ」
 「もういい、」
 「全裸にして手首を縛って、それからどうすると思う?ベッドで犯されることもあったが、たまには趣向を変えてみようと提案されてあそこに吊られたんだ。シャワーがかかってるホックにな。あのホックは壁にがっちり固定されてて人一人吊り下げる強度なら十分にあるんだ。ホックにロープをかけられ腕を括られてつま先がつくかつかないかぎりぎりの高さで吊られた、」
 「やめろ直、」
 「腕が軋んで痛かった、本当に。そうやって僕が痛がる顔を見て笑うんだ、それはもう楽しそうに。そのまま腰を抱えられて立ったまま挿入された、行為のはげしさに意識を失えば顔面にシャワーをかけられて無理矢理起こされ続行された。くりかえしくりかえし本当に拷問―……」
 「直!!」
 悲痛な絶叫が天井に響き渡るのと荒々しくベッドに押し倒されるのは同時だった。目の前、凄惨な形相で息を荒げたサムライを見上げて命じる。
 「……好きなようにしろ。乱暴にされるのは慣れてる」
 だが、サムライは決して僕を乱暴に扱おうとはしなかった。
 直前の荒々しさが嘘のようにぎこちない動作で僕の肩を掴み、そっと押し倒す。恋人をやさしく組み伏せるような動作に、ふと、今は亡きサムライの恋人のことを思い出した。僕と一字違いの『なえ』もまたこうして押し倒されたのだろうか?……わからない。乾いた唇が首筋に触れ、触れるか触れないかの微妙さで鎖骨の窪みを辿る。
 「……お前は汚くなどない。もし汚いなら、口をつけることなどできはしない」
 その言葉に薄く目を開ける。
 眼鏡をしてないにも関わらず、目と鼻の先に浮かんだサムライの顔がはっきりと視認できた。
 強靭な意志を宿した目も、目尻で乾いた涙の跡も、固く引き結んだ唇も。
 「お前がだれになにをされようが関係ない、そんなことで汚れたりはしない。お前は鍵屋崎直だ、この刑務所のだれにも負けない天才なんだろう?お前の矜持を砕くことはだれにもできない、お前がお前であり続けるかぎり。体が汚れた?それがどうした、洗えばいい。痣ができた?いつか治る。いいか、この世に治らない怪我などない。怪我が治ったあとには跡が残るが、俺はそれを否定しない。怪我の跡は痛みに耐えた証だ、どんな辛く苦しいことにも耐え抜いて今を生きてる証だ」
 サムライがまっすぐに僕の目を覗きこむ。逸らすことなど許されない一途な眼光。
 「俺はおまえに生き延びてほしい、生き残ってほしい。俺は二ヶ月前に言った、生き残るために俺を頼れと。その言葉が気に入らないなら『利用しろ』と言い換えてもいい。鍵屋崎、そんなに俺は頼りないか?頼りにならない男なのか?いくら剣が強くても友人に頼られる価値もない男にサムライを名乗る資格はないとレイジに言われた。そのとおりだ」
 そこで一呼吸おき、サムライが顔を上げる。
 「お前がいちばん辛く苦しいときに関わらせてもらえなくて、何が友だ。この一週間、自分が何もできない無力感にうちひしがれてたのはお前じゃない―……俺だ。友人の窮地に何もできなかった臆病者は俺の方なんだ」

 サムライでも、こんなすがるような表情をするのか。
 切ないまでに人間らしい、無理に無理を重ねても孤独に耐えることができなかった少年みたいに心細い顔をするのか。

 上半身裸の僕を押し倒す格好のサムライが、俯き、長く伸びた前髪に表情を隠して懇願する。
 「頼むから頼ってくれ、直。今ここで頼ってもらえなければ、俺はもう友人でいる資格がない」
 血を吐くような声だった。この一週間、サムライは僕が知らないところでこうして自分を責め続けてきたんだろう。僕が男に抱かれながら自分の無力を呪ったように、いや、ひょっとしたらその何倍も何十倍も僕の窮地に何もできない自分の無力を責め続けていたに違いない。サムライを関わらせてこなかったのは、僕だ。僕の問題にサムライを関わらせるわけにいかないと、巻き込むわけにはいかないと虚勢を張って彼の存在を無視し続けてきた、まるでそこにいないかのように扱って避け続けてきた。
 僕は馬鹿だ。
 サムライは表情に乏しいから、傷ついてもわからなかったなんて。
 僕の為に食堂からトレイを運んできて酷い言葉を投げ付けられたときも、仕事に向かう僕を止めようとして精一杯の声と勇気を振り絞ったときもサムライは必死だったのに。表情の起伏に乏しいからわかりにくかっただけで、本当はいつも、いつだって僕のことを気にして心配してくれてたのに。
 友人に冷たく無視されて、傷つかない人間がいるわけないじゃないか。
 友人の為に何かしたいと、その真摯なまでの不器用さ故に愚直に思い詰めて、結果として何もできない自分の無力に苛まれて、何もさせてもらえない屈辱を噛み締めて。

 ああ。
 本当に、本当に、馬鹿だ。救いがたい愚か者だ。僕もサムライも、両方とも。

 「サムライ……」
 蛍光灯の光を遮るように額に片手を置き、表情を隠す。
 「頼みがある」 
 「なんだ」
 ずっとずっと彼に弱味を見せるのがいやだった。僕の痛みや苦しみまで彼に背負わせて苦しめるのがいやだった。
 でも、もう限界だ。
 ひとりで抱え込むには限界がある。心も体も悲鳴をあげている。もうとっくに限界は来ていたのに必死に気付かないふりをしていた、僕は天才だから、選ばれた人間だから、こんなふうな醜態を晒すことなどあるわけないとむなしい自己暗示をかけて。 
 でも、もう限界だ。
 惠、許してくれ。
 他人を頼ることを許してくれ。恵をひとりぼっちにさせておきながら他人を頼ることを許してくれ。
 生まれて初めてできた誠実な友人に、弱味を打ち明けることを許してくれ。
 喘ぐように息を吸いこみ、よわよわしくかすれた声を喉の奥から絞りだす。片腕で目を覆い、表情を暴かれるのを防ぎ。 

 「たすけてくれ」 
 
 サムライが深く深く息を吐く。長いこと胸を塞いでた重苦しい鬱屈、そのすべてを吐息にのせて吐き出すように。
 「無論だ」
 サムライの声がひどく優しく鼓膜に染みる。片腕で目を覆ってるせいでどんな顔をしてるのかは見えないが、きっと声と同じように、それ以上に優しい顔をしてるはずだ。
 瞼が熱い。腕が熱い。瞼をぬらした熱い水滴が腕に染みて、ようやく僕は泣いてることを自覚した。
 安心して泣いたのは、生まれて初めてだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060122211451 | 編集

 「暴れんなって言ってんだろうが」
 すぐ耳元でタジマの声がする。
 抵抗したくても大人と子供じゃ体格差は歴然で押さえ込まれたらひとたまりもない、肉粽で廊下におびきだされて扉が開いたところをまんまと捕獲された恰好の俺は頭が混乱していた。何でタジマが俺の好物を知ってるんだ、卑怯じゃねえかこんなの。俺はてっきりレイジが持参してくれたんだと思ってあいつにしちゃ心憎いことするなってそれで迂闊にも扉を開けて、
 「なんでだ」
 恐怖に席巻された脳裏に唐突に疑問が浮かぶ。卑猥な手つきで俺の尻をまさぐるタジマを見上げて声を荒げる。
 「なんでおまえが俺の好物知ってんだよ、それにおかしいじゃねえか、近付いてきたの全然わからなかった……」
 「隠れてたんだよ」
 愛撫の手は休めず、興奮に息を喘がせたタジマが言う。欲望にぎらついた目が俺の顔から襟刳りから覗いた鎖骨へとすべりおち、上着を透かすようなねちっこさで薄い胸板を舐める。裾をはだけ、上着の背中にもぐりこんだ手のがさついた感触が気持ち悪すぎて喉がひきつるような悲鳴が漏れる。
 「気付かなくって当たり前だ、ずっと隣に隠れてたんだからよ」
 「鍵屋崎の?」
 「馬鹿だな、鍵屋崎んとこには今客がきてるだろう。その反対だよ。廊下に餌おいて飢えた野良がヨダレたらして出てくんの待ち構えてたんだ、まあ俺の作戦勝ちだな。どんなに強情なガキでも飢えには勝てねえよな、はは」
 どうりで、と合点した。タジマの接近に気付かないはずだ、タジマは最初から隣の房に隠れて餌に釣られた俺がのこのこ出てくるその瞬間を襟首引っこ抜いて捕らえようと待ち構えていたのだ。背中に突っこまれた手が肩甲骨を撫で、骨に直接触れられるようなひやりとした感触にぞくりと身が竦む。
 「お前の好物は前に食堂で話してたの聞いたんだよ」
 「いたのか!?」
 全然気付かなかった、あの時タジマが食堂にいたなんて。驚きを隠せない俺の反応を楽しみながらタジマが笑みを広げる。
 「ああいたさ、性懲りもなくお前ら学習能力ゼロな囚人が喧嘩おっぱじめたせいで仲裁に行ったんだよ食堂に。そん時たまたま聞こえてきたんだよ、お前が食堂中に響き渡る大声で今食いたいもん挙げてる声が。これを利用しねえ手はねえだろが」
 嘘だ、そんなでっけえ声あげてねえと抗議して拳を振り上げかけたが普段他人にさわらせることなんてない背中をまさぐられて手が萎える。感度を確かめるように肩甲骨の窪みを撫で擦っていた手が背骨に沿ってすべりおち、ねっとりと尻の肉を揉みほぐされる。
 「!―っ、」
 まずい。
 勢いよくつま先を蹴り上げて鳩尾に食らわせようとしたが本人はそんなことお見通し、黄ばんだ歯を覗かせてせせら笑うや体重をかけた片膝でたちどころに俺の足を押さえこんでしまう。羞恥で顔が火照る、くそ、動けよ足!この体勢じゃどうにもならない、タジマの思うがままにされちまう。冗談じゃねえそんなの男にヤられるのなんか死んでもお断りだ、ましてや相手がタジマなんて最悪だ。はげしく身動ぎして腰に跨ったタジマを振り落としにかかるが俺とタジマじゃ倍の倍近く体重が違う、俺が手も足もでない劣勢に追い込まれたのをいいことに調子に乗ったタジマが舌なめずり、指に圧力を加える。
 「!っ、あ」
 ズボンの上からケツの穴に指を入れられた。
 気持ち、悪い。肛門を抉った異物感に吐き気がする、涙が出るほど痛い。胃袋がでんぐり返るような吐き気に襲われた俺が反射的に手を突き上げ、自分に馬乗りになったタジマの腕を掴めば、ねだるようなすがるようなその動作に嗜虐心を煽られたタジマが蛇が地を這うようにいやらしい声で囁く。
 「鍵屋崎と違って感じやすい体だな」
 『鍵屋崎』
 今も隣の部屋で犯されてるだろう鍵屋崎を引き合いにだされた瞬間、萎えかけていた反抗心が活発にもたげてきた。腕力でかなわないならせめて、ベッドに押し倒されたこの体勢でも気迫じゃ負けてないと主張しようと目を据わらせてガンをつける。生意気な目つきが気に入らなかったのか、押し倒されてもなお殊勝とは縁遠い態度が癇に障ったのか、有頂天から一転不機嫌になったタジマが俺の前髪を掴む。
 「なんだよその目は」
 雑草を毟るように前髪を掴まれ、強引に顔を上向けられる。頭皮から髪が剥がれる激痛に視界が歪み目には涙が滲んでるが今こいつから目を逸らしたら負けだ、冗談じゃねえ、このままタジマに剥かれてやられちまったらレイジにあわせる顔がない。唇を噛み締め、敵愾心むきだしの目で一瞬たりとも逸らすことなく睨み付けていればタジマの顔が憤怒で朱に染まっていく。
 反抗的な態度に業を煮やしたタジマが再び服に手を突っ込んでくる、今度は前より乱暴に肌をしごかれて苦鳴がもれそうになるのを必死に唇を噛んで堪える。タワシで擦ったあとみたいに肌が赤くなってるのが見なくても予想できる、痛い、皮膚が剥けそうだ。
 最初は乾いていた手が性急な愛撫を続けるうちに徐徐に汗ばんで湿ってゆき不快指数が上昇する。肉に塩をすりこむように脇腹を揉みほぐしていた手がやがてズボンの内側にもぐりこみ―
 「やめっ、」
 一瞬で虚勢が吹き飛び、悲鳴じみた声が漏れた。
 「どうした?ああそうか、俺にヤラれるより自分でしごくほうが好きなのか」
 焦らすように内腿を撫でながらタジマが笑う、根性の腐った笑顔が目の前にちらついて今まで味わったこともない恥辱に体が火照る。だめだやめろ思い出すな、あの時のことなんか思い出すんじゃねえ、震えるな体、竦むな足。今竦んじまったら腹の上に跨って馬鹿みたいに大口開けて哄笑してるタジマを蹴りどかすこともできねえじゃんか、どうしちまったんだよ、なんで肝心な時に言うこときかねえんだよ俺の足は!
 固く固く目を瞑りタジマの顔を打ち消そうとするが下着の上から先端を掴まれて無駄に終わる。俺の上にのしかかったタジマが耳朶に舌を這わせてくる。くそ、そんなとこ女にだって舐められたことねえのに!
 「ちゃんと声出せよ、ダチの鍵屋崎に聞かせてやるんだ」
 意味ありげに通気口を一瞥したタジマがこの上なく愉快げにほくそえむ、きっと通気口の向こうで繰り広げられてる痴態を想像してるんだ、客に犯されて四つん這いに跪かされてる鍵屋崎の裸体でも想像して勃起してるんだ。この部屋に放りこまれた初日に通気口に反響した鍵屋崎の嗚咽が耳に殷殷とよみがえりタジマの哄笑と重なって悪夢と現実の区別がつかなくなる。
 くそ、今ここでタジマにヤられちまったら俺はこの一週間なんで頑張ってきたんだよ、飲まず食わずで意地張って水止められて他の連中に迷惑かけて、鍵屋崎にもレイジにも迷惑かけまくって何やってきたんだよ。お袋の二の舞になるのだけはいやで今日まで必死に抵抗してきたのにその努力も報われずにこんなとこで終わるのか、とうとう男にヤられちまうのかよ、好きでもねえ男に、いや、好きじゃねえどころか今いちばん憎んでる男に腕づくで股開かされて突っこまれちまうのかよ!?
 これならまだレイジの方が、いや違う、何言ってんだ俺。恐怖と混乱で頭がおかしくなってる、レイジのほうがマシなんてあるもんか、男にヤられるならどっちでもおんなじだ、最悪なことに変わりない。 
 『おまえでいいぜ』
 俺はよくねえ。
 『そうなの、じゃあさっさとヤッちゃえばよかったのに』
 ヤられてたまるか。
 『お前ら売春班の連中はそろいもそろって腰抜けのタマなしぞろいだ、女抱くよか男に抱かれるほうがお似合いだ』
 そんなことあってたまるか、俺は外に出て女を抱くんだ、絶対に。
 『ロンさ、いつでもいいけどできればなるべく早く、本音言うと今すぐ抱かせてくれない?」』
 「討厭(やなこった)!!」
 タジマの手が図々しくも下着の内側に滑り込んだとき、俺の中の何かが切れた。
 もっと早く気付きゃよかった、手が使えねえなら足がある、足が使えねえなら頭がある。仰向けに寝た姿勢から跳ね起き、タジマの額に頭突きを食らわす。おもいきり。無防備な額に一発喰らったタジマが「ぎゃっ」と悲鳴を発して大きく仰け反る。はは、ざまあみろ豚が!ヤりやすいよう、俺のトランクスに手をひっかけて引きずりおろそうとしてる最中で注意が疎かになってたのが仇になった。
 タジマの額を穿った頭がじんじん疼く、一矢報いてやった結果の爽快な痛みだ。俺は狂ったように哄笑していた、こんな時だってのに、絶体絶命の劣勢は変わってないってのに愉快で愉快でたまらなくて腹の底から笑いが湧いてきた。俺の頭突きを喰らって傷口が開いたらしく額のガーゼにはじわじわと血が滲み出してる。ああ本当にいい気味だ、いいツラだ。最高に愉快な気分で体を二つに折って爆笑してたら、恥辱と憎悪をごった煮にした燃え滾る双眸でタジマが呟く。
 「いいこと思いついた」
 いいこと?
 言葉とは裏腹に壮絶に嫌な予感がする。笑いの余韻で口角を痙攣させながら涙に潤んだ目でタジマを仰ぐ。俺に馬乗りになったタジマがズボンのポケットから取り出したのは一枚のハンカチ、アイロンもかかってない皺だらけのハンカチがどんどんこっちに近付いてくる。
 「なに、する気だよ」
 まだ笑いの発作が納まってないらしく、喉が不自然にひきつれた。いや、ひょっとしたら恐怖のせいかもしれない。仰向けに寝転んで手も足も出ない状態の俺の視界をどんどんハンカチが覆ってゆく、ハンカチに翳った視界の向こうからタジマの企み声が降ってくる。
 「『賭け』をしようや」
 ハンカチが顔に触れた瞬間、何をされるかようやくわかった。まったく俺は鈍感だ。つま先でシーツを蹴り、死に物狂いに顔を振りかぶって抵抗するがこの体勢じゃ何の役にも立たない。ハンカチで目隠しされ視界が真っ暗になる、タジマの顔も見えなくなる。暗闇に聞こえるのは自身の荒い息遣いと衣擦れの音、不吉な予感に高鳴る一方の心臓の鼓動。後頭部でハンカチを結び終えたタジマがゆっくり離れてゆくのが遠ざかる衣擦れの音でおぼろげにわかる、何だ賭けって、これから何をする気だ、俺をどうする気だ?
 耳朶にねっとりと囁き声。
 「これからお前の体に煙草を三回押し付ける。それに声ださずに耐えられたら今回は見逃しやるよ」
 体の先から冷えてゆく感覚。
 煙草―煙草の火。鼻腔に充満する肉が焦げてく異臭。まだ煙草の火を押し付けられてもないのに嗅覚が匂いを先取りしてる。心臓が爆発しそうに高鳴り全開の毛穴から汗が噴き出す、熱、煙草の先端を抉るように皮膚にねじこまれる灼熱感を体はまだ鮮明に覚えている。覚えてるはずだ、つい昨日のことだ、右手の甲にはまだ生々しく灰がこびりついてるってのに。いや、昨日だけじゃない。ずっと昔、ガキの頃にも同じことをされた。お袋の客に、柄の悪い客に。
 そしてお袋は笑いながらそれを見てた―……
 「いや、だ」
 みっともなく、声が震えた。哀願するような声だった。ハンカチに塞がれた視界の中、にやにやしながら俺を見下ろしてるだろうタジマの気配を探りながら声を張り上げる。
 「頼むから、それだけはやめてくれ」
 何言ってるんだ、なんで頼むんだよ、なんでこんな情けない声だしてんだよ。止まれ舌、止まらないと切り落とすぞ。
 「ほかは、他はなんでもするから。なんでも言うことを聞くから、」
 違う、こんなこと言いたくない、本当は言いたくないと心が絶叫してる。でも舌が止まらない、言うことを聞かない。体の細胞ひとつひとつに染み付いた恐怖と激痛が煙草を押し付けられるのはいやだと訴えてる、あんな激痛を味わうのはもうこりごりだと、あんなことは思い出したくないと強硬に主張してる。自分の肉が溶けて焦げてく匂いなんかもう嗅ぎたくない、煙草の先端がジジジと爆ぜて鼓膜を炙る音なんか聞きたくない。怖い怖い怖い、理性の制御がきかなくなって恐怖が暴走する。 
 暗闇で爆ぜる赤い先端、扉の隙間から見たタジマの笑顔。
 暗闇で爆ぜる赤い先端、俺のシャツをめくりあげて薄気味悪くにやつく客の顔。
 いやだ、あんな痛くて熱くて怖い思いをするのはもういやだ、痛くて苦しいのはもういやだ、だれも助けてくれないのはいやだ泣いても叫んでも無視されてひとりぼっちにされるのはいやだ、いやだ、いやだ―……
 「なんでも言うことを聞く?本当だな」
 勝ち誇った声でタジマが念を押し、俺は頷く。本当は頷きたくなかった、でもそうするより仕方ないじゃんか。煙草で皮膚を炙られる痛みは、恐怖は、味わった奴にしかわからない。熱くて苦しくて痛覚を呪いたくなるような一瞬、いや、現実に体験した人間にしてみりゃ一瞬じゃ引き合わない。体感時間じゃ永遠にも釣り合う拷問だ。暗闇に視界を閉ざされたまま何度も何度も顎を上下させれば耳元でタジマの声がする。
 「『俺は薄汚い裏切り者の半半です』」
 「………」
 「どうした。くりかえせよ」
 生唾を飲み下し、口を開く。
 「俺は、薄汚い裏切り者の半半です」
 棒読み。悦に入ったタジマが陰湿に囁く。
 「『ダチを見殺しにして自分だけ助かろうとした最低のクズです。仲間の喘ぎ声にさかってヌきまくった変態です』」
 「ダチを見殺しにして、……」
 「聞こえねえな」
 喉に何か、塊が詰まったような異物感に塞き止められて声が出ない。出てこない。言いたくねえこんなこと、タジマの命令になんか従いたくない。でも、煙草の火を押し付けられるのはもっといやだ。矛盾を包括した葛藤が胸中ではげしくせめぎあってる。タジマの言う通り仲間を見殺しにしたのは事実だ、売春を拒否して一週間も閉じこもってたのは動かし難い事実だ。何もむずかしいことはない、事実を事実と認めればいいだけだ、俺は薄汚い裏切り者だと、ダチを見殺しにして逃げようとした最低のクズだと誰もが知ってることを白状すりゃいいだけだ。そうすりゃ俺は救われる、この窮地を切り抜けることができる。
 さあ言え、言うんだ。言っちまえ。
 「ダチを見殺しにして自分だけ助かろうとした最低のクズです、仲間の喘ぎ声にさかってヌきまくった変態です」
 鼻腔の奥がつんとする。胸が苦しい、痛い、張り裂けそうだ。何でこんなことを言わされてるんだよ俺は、腹話術の人形みたいにタジマの命令どおりに口動かしてんだよ。情けない、かっこ悪い、なんで俺はこんな弱くてカッコ悪くて自分じゃ何もできないんだよ、煙草の火にびびってタジマの言うこと聞くしかなくて、これじゃ一生かっこわりぃまんまじゃねえかよ。
 「泣いてんのか」
 「………………」
 首を振る。それだけは違うと頑固に否定すれば、引っこ抜かれる勢いで強く前髪を掴まれる。
 「なさけねえガキだな、本当にタマついてんのかよ。俺の言う通りに舌動かして媚売りやがって。本当はお前こうされるのが好きなんだろ、俺に命令されてやらしいことするのが好きなんだろ?」
 暗闇の向こうでタジマが笑ってる、醜く顔を歪めて嘲笑ってる。ズボンの上から股間を揉みしだかれて声が漏れそうになるのを奥歯を噛んで殺す。目隠しされてるせいで次にどこを触られるか揉まれるかまったく予測できずに恐怖が増幅される、心構えができずに体が過剰反応してしまう。ねちっこい愛撫に吐息が上擦りそうになるのをシーツに顔を埋めてごまかしてればタジマがゲスな詮索をしてくる。
 「どうせ毎晩のようにレイジと楽しんで感覚開発されてんだろうが、一週間ももったいぶってんじゃねえよ」
 『レイジ』 
 今いちばん聞きたくない名前に目を見開く。
 「レイジも物好きだよな、お前みたいな生意気なガキに尽くして貢いでよ。王様の気まぐれだか同情だか知らねえがお前みてえな可愛げねえガキを相手にしてつれなくされてそれでも懲りずに面倒見てよ、笑っちまうくらい報われねえ男だ」

 『じゃあ報われない報われない言ってるお前に尽くしてる俺はなんなんだよ!?』

 「ま、どうせ体目当てに決まってるがな。はは、このかわいいケツを何回貸してやったんだ?ケツで王様たらしこんだ気分はどうだ、愉快痛快きわまりねえか。お前みたいなクソガキにぞっこん熱あげてるレイジは王様どころかとんだ道化だ、笑いが止まらねえぜ」
 タジマの手がズボンにすべりこみ、下着の内側にもぐりこんだのにも気付かなかった。俺の頭の中ではタジマの言葉がぐるぐる回ってた、物好き、気まぐれ、報われない男……道化。

 違う。

 レイジはそんな奴じゃない、お前に何がわかる。あいつはいい奴なんだ、俺に『頑張ったな』って言ってくれたんだ。そう言って笑いかけてくれたんだ、裏表のない笑顔で。あの笑顔は嘘じゃない、あの言葉は嘘じゃない。それにそれだけじゃない、俺はいつだったかあいつに酷い言葉をぶつけたのに、『大嫌いだ死んじまえ』なんてガキっぽく八つ当たりして一晩中閉めだしたってのにあいつは責めるどころか食料持ってやってきてくれたんだ、俺のことを心配して顔を見に来てくれたんだ。
 俺はレイジのことが大嫌いだ、いっつもへらへらしててどこまで冗談か本気かわからなくて人のこと遊び半分にからかって、でたらめに強いからいっつも余裕かましてて。
 でも、
 「とんだ色ボケの王様だな、レイジは。あんだけキレイなツラしてりゃ売春班でも十分需要あるのに変に腕っ節強いせいで引き込むこともできやしねえ。ああそうだ、お前とレイジどっちが『上』なんだ?レイジが『下』になってる姿も想像できねえがアイツ来る者拒まずの淫乱だしな、ここ来る前だって男も女も関係なくさんざん楽しんできたんだろう。じゃあ『上』でも『下』でもイケそうだな、そうだ、今度レイジが訪ねてきたら俺の前でヤッて見……」
 タジマが絶叫した。
 手が使えなきゃ足、足が使えなきゃ頭。そして、頭が使えなきゃ口で反撃するのが喧嘩の鉄則だ。仰向けに寝転がされ、目隠しされて視界が利かない状況でも口が自由に動けば噛み付くことできる。俺はおもいきりタジマの腕に噛み付いた、それこそ顎が外れるんじゃないかって危ぶむくらい力をこめて犬歯を突き立てた。股間を揉みほぐしていた手が下着から引き抜かれ、濁声の絶叫をまきちらしながらタジマが俺の頭を掴んで引きはがしにかかる。頭を押され髪を掴まれ、横っ面からベッドに叩き落される。
 「ふざけんなこのガキっ、なにしやが」
 「レイジはそんな奴じゃねえ!!」
 タジマの怒声をさえぎり叫ぶ。ハンカチに覆われた暗闇に浮かぶのはレイジの顔、扉の隙間越しに俺にキスしやがったときの笑顔。あの時レイジは約束してくれた、絶対に俺を裏切らないと、哀しませたりしないと、呼べば助けにきてくれると。
 『俺を信じろ、ロン』
 「レイジは、」
 『おまえが大事にしてる牌も俺を信じろって言ってる。あとはお前次第だ。ピンチになったら名前を呼べ、速攻助けにきてやるよ』
 「口が軽くて手が早くていっつもへらへらしててわけわかんなくて無茶苦茶で、ひとのことからかっちゃあ楽しんでる根性悪で食料つったら缶詰しか持ってこねえ馬鹿で口を開けば下ネタとびだしてくる最低な奴で、」
 『鍵屋崎のことは心配すんな。アイツにはサムライがいる、ロンには俺がいる』
 そうだ、レイジはタジマが言うような奴じゃない、俺が一年と半年付き合ってきたレイジはそんな奴じゃない。俺がどんな憎まれ口叩いても愛想尽かさずに面倒見てくれた、お袋やお袋の客みたいに癇癪起こして手を上げたりしなかった。 
 「でも、いい奴なんだよ!!!」
 そうだ、レイジはいい奴だ。畜生そんなことわかってたよ、ずっとまえからわかってたよ。じゃなきゃ俺の為にあれこれしてくれるわけない、レイジはむかつくけどいい奴で、すげえいい奴で、キレたら何するかわかんなくて滅茶苦茶怖いけどでも俺にはいつだって「いい奴」でいてくれて。
 だから勘違いしちまったんだ。
 「調子に乗るなよタジマ、お前にレイジを悪く言う資格なんかこれっぽっちもねえ。いや、そんな台詞俺が言わせねえ」
 ひょっとしたらこれが、こういうのが、「ダチ」って言うんじゃないかって。
 こともあろうにレイジが、誰よりも強くて何でもできるレイジが俺の「ダチ」なんじゃないかって思い上がってたんだ。でも俺にはダチなんかいたことねえし、ダチなんかいらねえって、そんなもんに頼らずに独りで生きてくって決意した手前素直になれなくて、どうしても認めるのが癪で反発してばっかで。
 だけど、今更だけど、タジマに悪く言われたら俺のこと以上に猛烈に腹が立って頭に血が昇って。

 ―「レイジは俺なんかにゃもったいねえくらいのいいダチなんだよ!!」―

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060121211552 | 編集

 「……そうかよ」
 カチッ、と軽い音がした。
 何だかすぐにわかった、ライターを押し込む音だ。何をされるかわかった。シーツを蹴って逃れようとしたら背中に鈍い衝撃、金属音。
 ベッドの背格子に衝突して追い詰められた俺の頭上に巨大な影が覆い被さる。ジジジジ、と煙草の先端が爆ぜる音に喉がひきつる。
 煙草の先端からこぼれた灰がシーツに焦げ穴でも開けたのだろうか、焦げ臭い匂いがあたりにたちこめてる。逃げようにも逃げられない、目隠しされたままじゃどこに逃げたらいいかもわからない。無造作に上着をはだけられ素肌が外気に晒されるひやりとした感触に身が竦む。
 背格子に沿って距離をとってるうちに片腕を掴まれ力づくで引き寄せられ、そして。
 「!!!!!!!」
 背骨が折れそうなほどに仰け反る。左の鎖骨を貫通する灼熱感に目が眩み体中から脂汗が噴き出す。熱い、死ぬほど熱い。
 「ああっ、あっ、ふ、」
 息ができない。真っ赤に焼けた煙草の先端を抉りこむように鎖骨に押し付けられたのだ。汗でぐっしょり湿ったハンカチが目にへばりついて気持悪い。背格子にしがみついて熱が引くまでひたすら耐える、激痛が消え去るのを待つ。大丈夫、痛いのはいつまでも続かない、息を殺して待ってればいつかは終わる―……
 痛みが引かないうちに二度目が来た。鎖骨の激痛が沈静化してないのに今度は脇腹に。脇腹、ガキの頃に押し付けられた煙草の痕の上に。タジマの奴、全くいい性格してやがる。古傷を抉るってこういう事を言うのか、と痛みに麻痺した頭で朦朧と考える。それでも悲鳴はあげなかった、声をだしたら負けだ、負け―……

 『面白いでしょうその子。声あげないのよ』
 『可愛げないでしょうその子。泣きもしないのよ』 

 違うよお袋、俺は泣かなかったんじゃない、泣き声をあげなかっただけだ。あんたは何を見てたんだ、鼻水と涙とヨダレで顔をべとべとに汚してぐったり床に横たわってた俺の姿が目に入らなかったって言うのかよ。
 目を閉じても暗闇、目を開けても暗闇。
 真っ暗だ、何も見えない、気が変になる。もがいてももがいても堕ちてくだけでこの暗闇に終わりはない、自分で何とかしなけりゃだれも助けちゃくれない。耐えろ、とにかく耐えるんだ、我慢してればいつかは終わる、いつかは飽きてやめてくれる。早く早くお願いだから早く煙草をはなしてくれ、いい加減にしてくれないと吐いちまう、自分の肉が焦げてく臭気が鼻腔に充満して盛大に戻しちまう。ああ、でも大丈夫か、昨日から何も食ってないからどうせ胃液しか出てこないか。
 一回、二回。タジマは「しめて三回」だと予告した。
 最後はどこだ?
 ……だめだ、意識が保たない。頭も体もぐらぐらする。三半規管がおかしくなって平衡感覚が維持できずに体が傾いでく、背格子に背中を預けるように体をもたせかければベッドに横倒れる寸前に片腕を掴まれ引き戻される。
 「寝るなよ。寝たらつまんねえだろ」
 意識を失いかけたそばから頬を叩かれて強制的に目覚めさせられる。もう瞼を持ち上げる気力もない。息、喉に息の塊がひっかかって上手く呼吸できない。馬鹿な、呼吸の仕方を忘れちまったのか?魚じゃあるまいし。軽く咳き込んで息の通り道を確保、咳き込んだ拍子に抉るような激痛が脇腹に走り、鎖骨からは生々しく焦げ臭い臭気が立ちのぼる。まだ、まだ終わりじゃない。しっかりしろ、あと一回どうにか我慢しろ……
 汗でぐっしょり湿った前髪をかきあげられる。タジマの視線を顔に感じる。口を閉じろ、犬みたいに息を喘がせるな。……駄目だ。痛すぎて熱すぎて呼吸が浅くなる、肩で息をしながらぐったりとベッドに横たわる。熱い、体中が火照って肌が敏感になってる。男に犯されてる最中の鍵屋崎もこんな気持ちだったのか?……思考がまとまらない。早く早く終わってくれ、もうこんなこと終わりにしてくれ。いくら俺が痛みに慣れてても痛いもんは痛いんだ、怖いもんは怖いんだ。これ以上焦らされたら頭が変になっちまう、精神が崩壊しちまう。
 今タジマに泣いて頼めば許してくれるならそうする、土下座でもなんでもする。生きながら焼かれる苦痛から逃れるためならなんでもする……
 タジマが体勢を変えたらしくスプリングが耳障りに軋む。
 「お前、今の自分がどんな恰好してるかわかるか?」
 耳元で囁いた声には興奮の色。ズボンの太腿に擦りつけられたのは固く勃起した股間。
 「目隠しされたままシーツ掻き毟って喘いで滅茶苦茶いやらしいぞ。ほら、下さわってみりゃわかるだろ?お前がだしたもんでシーツがぐっしょりぬれてるじゃねえか」
 「変な言い方すんなよ、汗だろただの……」
 「まだ減らず口きけんのか、上等だ」
 暗闇の帳越しにタジマがほくそえむ気配がし、ジジジと煙草が短くなってく音が鼓膜をくすぐる。その瞬間にわかってしまった、次にどこに煙草を押し付けられるか。右手をとられ、掲げられる。ゆっくりと焦らすように、右手の表皮に熱源が近付いてくる。
 昨日できたばかりの火傷を二度焼きしようとしてる。
 冗談じゃない、まだ治ってもいない火傷を昨日の今日で抉られるなんて考えだけで発狂しそうだ。
 暗闇の向こうからだんだん音が近付いてくる。ジジジジジ、と煙草の穂先が短くなってゆく音。
 『恨抱謙……』
 ごめんなさい、とかすれた声を絞り出す。鼓動が暴れて心臓が爆発しそうだ。恐怖で頭がおかしくなる一歩手前に追い詰められ、催眠術でもかけられたように口が勝手に動く。
 『不要這様、』 
 暗い、暗くて何も見えない、タジマがどこにいるかもわからない。もう許してくれ、解放してくれ、お願いだから手を放してくれ。
 「ここは日本だ。日本語で言え」
 タジマの揶揄が耳朶にふれ、煙草の先端からこぼれ落ちた灰が右手の甲に降り注ぎ、その瞬間頭が真っ白になった。奇声を発して手を振り回せばタジマがひっくり返ったらしくベッドに震動が伝わる。
 今だ!
 目隠しをずらしてベッドから飛び下り床を蹴り半端に開いた扉めがけて走る、ベッドが斜めに傾いで扉を塞いでるせいですぐに開かない。くそ、早く開けよこの馬鹿!愚図愚図してるあいだに後ろから襟首を掴んで引き戻される、後頭部で結ばれたハンカチが中途半端に顔にひっかかった間抜け面で振り向けばタジマの笑顔が視界一杯を占め、
 横っ面に激痛。おもいきり頬を張られてベッドに背中から投げ出される。俺の上にのしかかったタジマがくわえ煙草のまま顔を近づけてきたせいで顔面に煙草の灰が落ちて口に入る。
 「賭けは俺の勝ちだな。ご褒美くれや、ロン」
 タジマが腰を使って動いてる昼間に見る悪夢みたいな光景に急速に現実感が薄れてく。俺の首から胸から腹から下半身へと手を移動させて舌を使って素肌に唾液の筋をつけてくタジマからもはや逃れる術もなく、せめてこれから先起こることを見ないですむように固く固く目を閉じれば瞼の裏に浮かぶのはいつでも余裕ぶっこいたレイジのくそ憎らしいツラ。
 『あとはお前次第だ。ピンチになったら名前を呼べ、速攻助けにきてやるよ』
 本当に、呼べば助けにきてくれるのか?
 俺はまた裏切られるんじゃないか?
 「!!あっ、んっ、く」 
 鋭い性感が走る。殆ど上着をめくりあげられて外気に晒された胸板を分厚い舌が這っている、唾液にまみれたタジマの舌が発情したなめくじめいた動きで這いずりまわってる。
 「女みたいにかわいい声だすじゃねえか、淫売」
 違う、こんなの嘘だ、絶対嘘だ。俺がこんな声だすはずない、よりにもよってタジマなんかに舐められてこんないやらしい声出すはずない。だって、今のはまるで……
 お袋?
 なんで?俺はあんたみたいにだけは絶対なりたくなくて家を出てきたってのに、なんでこんな声で喘いでるんだよ。タジマなんか殺したいほど憎くて憎くてたまらないのに何でこんな声だしてるんだよ、こんな、まるで感じてるみたいな声……
 淫売の血は争えないってか?
 笑いたくなる。泣きたくなる。どっちともつかない表情が顔に浮かぶ。今からタジマにヤられるしかねえのか?いやだ、絶対にいやだ。でも今の俺じゃ手も足もでねえ、なんでだよ畜生、あれからもう二年も経って俺は強くなったのに、なんで腹の上でヨダレたらしてさかってる屑ひとりどかすこともできねえんだよ。
 俺を押さえこんだタジマがベルトを緩めて前を寛げる、顔を背けようとしたら前髪を掴んで正面に固定されズボンを一気に引き下げられる、当然下着と一緒に。素っ裸の下肢を軽々持ち上げられタジマの目が精力的にぎらついて脂にぎとついた醜い顔が笑み崩れて、
 いやだ。
 怖い厭だ怖い、許してくれ頼む許してくれ、台湾語で謝罪の言葉を繰り返してもタジマには通じない。厭だ、男にヤられるのなんかやだ、この六日間通気口から聞こえてた絶叫が次の瞬間には俺の喉を引き裂いて漏れてくる、いやだ、だれかだれか助けてくれ― 




 お袋。
 母さん。



 レイジ。
 レイジレイジレイジ、
 『頑張ったな』
 俺の頑張りを誉めてくれた。
 『いいんじゃねえの?ロンの不器用なとこ結構好きだぜ、俺』
 笑いかけてくれた。
 『おまえが俺の顔見たくなくても俺はおまえの顔が見たいんだよ、いやなら力づくでこじ開けるぜ』
 顔を見にきてくれた。
 『あとはお前次第だ。ピンチになったら名前を呼べ、速攻助けにきてやるよ』
 必ず助けにくると約束してくれた。
 本当に、信じていいのか?扉をぶち破ってとんできてくれるのか?
 もう裏切られるのはいやだ、がっかりするのはたくさんだ、でも信じたいんだ、最後の最後まで「もしかしたら」って信じさせてほしいんだ。だから―……

 ―「さっさと助けにきやがれ、レイジ!!」―

 絶叫。
 俺の喉から迸ったんじゃない―……俺の上、素っ裸の腰に跨ったタジマが片目を押さえて絶叫してる。海老反りに反って床に転落したタジマを呆然と見下ろし、ベッドに肘をついて上体を起こす。
 何?俺が目を瞑ってるあいだに何があったんだ?
 床では手で片目を覆ったタジマが壮絶な悲鳴をまきちらして悶絶してる、その傍らに転がってるのはどっかで見たことある麻雀牌。
 俺の牌だ。
 いつだったか、ブラックワーク配属が決定した俺がヤケになって房にぶちまけたままにしてきた牌がタジマの横に落っこちてる。どっから飛んできたのだろうと不審がりつつあたりを見回せば扉の方から物音が。背格子にもたれて上体を起こしかけて扉に向き直れば、今まさに僅かな隙間に手がかかり、細腕からは想像もできない馬鹿力で無理矢理にこじ開けられる。
 扉の下方から突っ込まれた長い足が無造作にベッドを蹴りどかし、人一人分何とか入りこめる隙間を作る。
 そして、中途半端に開いた扉から悠々と足を踏み入れたのは。
 「言ったろ?射撃の腕前は百発百中だって」
 銃を真似た指にゴムをひっかけ、いつもは襟足で結んでる茶髪を肩に流したレイジだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060120211712 | 編集

 情けない話、レイジの顔を見て腰が抜けるほど安心した。
 脱力してベッドに尻が沈みこんでく感覚。間抜けな恰好で床にひっくりかえったタジマから背格子にもたれて荒い息を吐いてる俺へとゆっくり視線をすべらしたレイジと目が合う。硝子めいて色素の薄い茶色の目に覗きこまれた瞬間、レイジの瞳に映った自分がどんなみじめで恥ずかしい恰好をしてるか思い知らされる。 
 視界の下半分が翳ってるのは鼻梁にずり落ちたハンカチが中途半端に顔にひっかかてるせいで、何度もタジマに掴まれて引き戻された襟刳りは伸びきって大胆に鎖骨が露出し、鎖骨の上には生々しく灰をこびりつかせた黒ずんだ痣が今だ焦げ臭い臭気をたちのぼらせてる。赤裸々にめくれあがった上着の裾から垣間見える脇腹にも高熱の灰が付着した丸い火傷がある。均衡を失って転落しないよう背格子に乗せた手の甲にもこまかな灰を散りばめた火傷があった。

 何をされたか、一目瞭然だ。

 「…………」
 レイジの顔がまともに見れずに下を向けばズボンが膝に絡んだ下半身が目にとびこんできて羞恥に体が火照る。下唇をきつく噛んでズボンに巻き込まれた下着と一緒に引き上げる。みっともねえ、こんな恰好レイジに見せたくなかった。だからぎりぎりまで我慢したんだ、助けを呼ぶのを。こんな、目隠しされて殆ど抵抗できなくてタジマのされるがままに煙草の火で炙られて……
 本当に、情けねえ。男のくせに、自分の身ひとつ守れないなんて。
 レイジがじっとこっちを見てるのがわかるのに顔が上げられない。

 ふと、全く唐突にレイジが動き出す。

 床に転落したタジマはパチンコで狙いすまして強打された片目を押さえて悶絶していたが、レイジの接近に本能的な危機感を感じ取ったんだろう。手で片目を覆ったまま「ひっ、」と声にならない悲鳴をあげ、足で床を掻くように尻であとじさる。レイジの歩き方には野生の品がある。今まさに狩りに赴かんとする猫科の肉食獣を彷彿とさせるしなやかで隙のない身のこなしは捕食者の余裕を漂わせ、ただ足を交互に繰り出してるだけだってのに筋金の筋肉と強靭なバネとが連動した生き生きした躍動感が満ちている。右手指にひっかけたゴムをくるくる回しながら、無造作ともいえる大股でタジマに歩み寄ったレイジがふと視線を落とす。タジマの足もとに落ちてるのはさっきまで俺の体を焼いてた煙草。まだ火が生きてるらしく、ジジジジと音を発してる煙草をひょいと拾い上げる。流れるように洗練された動作で腰を折った次の瞬間には持ち前の手癖の悪さで指と指の間に煙草を掠め取り、おもむろに口をつける。

 『間接キスだ』
 いつだったかレイジが冗談めかして口にした台詞が、はまりすぎて映画のワンシーンのように現実感の薄い光景に重なる。

 慣れた手つきで煙草をくわえ、紫煙を吐く。並の男がやりゃ気障ったらしく鼻につく動作がレイジにはおそろしく馴染んでてちっとも不自然には感じられなかった。
 酷薄な笑みが似合う唇に煙草を挟んだレイジが低く呟く。
 「まじい煙草。日本製か」
 紫煙を燻らせながらレイジがにっこりと笑いかけた先には腰を抜かしたタジマがへたりこんでいた。鬱血した瞼を押さえ、無事な目を怒りに充血させてレイジを睨み付けているが、一瞬で形勢逆転されたタジマの虚勢を蹴散らすのは王様にとっちゃ造作もないことだった。タジマの正面に屈みこんで視線の高さを釣り合わせ、フレンドリーに話し掛ける。
 「タジマさん、ロンに何したか聞いていい?」
 親しみやすさ全開でにっこりと笑いかけているのに、その目はひどく醒めていた。殺意の氷塊を沈めた双眸で覗きこまれたタジマの顔が急速に青ざめてゆく。青黒く腫れた瞼を押さえ、ごくりと生唾を飲み下したタジマから望む反応が引き出せないと悟るや否や興味をなくして作戦を変える。
 「ああいいや、言わなくても。見ればわかるよ、灰皿代わりにしたんだよな」
 レイジの声はひどく淡々と落ち着き払っていたが、注意してよく聞けばおそろしく物騒で不安定な振幅があった。手首にさげたゴムで手際よく髪をひとつに結ったレイジがくわえ煙草でタジマを見つめる。
 襟足で一本に髪を結い終え、ゆっくりと両手を脇に下げる。
 「『俺の』ロンを灰皿代わりにしたんだよな」
 所有格を強調し、口から煙草を放す。レイジは完全にキレていた。理性を振り切った笑顔の内側から獰猛な本性を晒し始めたレイジが斜め下の挑発的な角度でタジマを覗きこむ。
 「俺の断りもなく俺の見てないところで俺のロンに手を出したんだよな。ロンの上着めくりあげて鎖骨と脇腹と右手の甲にじゅっと煙草を押し付けたんだよな。あははわかるよタジマさん、ロンの泣き顔おもわず勃起しそうなくらいかわいいもんな。ついイタズラ心出して泣かせてみたくなるもんな。下脱がされてたのはアレか、売春班の業務に就かせるまえに味見しようとしてたのか。タジマさんさ、知ってる?そういうの職権濫用っていうんだぜ。まあ賄賂と汚職に浸かりきったここの看守にんなこと言っても始まらねーけどさ」
 殆ど息継ぎもせず、饒舌にまくしたてたレイジの目が狂気を帯びて爛々と輝きだす。それまでレイジに気圧される一方で壁際に追い詰められたタジマが腰の警棒に手をかけて反撃に転じる、自分には警棒という心強い味方がいることに、ひいては主任看守の地位という最強の後ろ盾があることにレイジの指摘で思い至ったのだろう。
 「……看守に説教たあ何様のつもりだレイジ?たかが囚人風情がずいぶんとお偉くなったもんだな、おい。何勘違いしてるんだか知らねえが俺は一週間も売春拒否ったクソガキにきっついお灸据えに来ただけだ、あいつがやったこと考えれば当然の処置だろうが。あいつが駄々こねてひきこもってたせいで他の連中はシャワーも使えず迷惑してたんだ、いわば俺は代理人だな、こいつひとりのせいで多大なる迷惑被ってた売春班のガキどものぶんまでたっぷり思い知らせにきてやったんだよ」
 青黒く鬱血した瞼を押さえたままタジマがねっとりと笑う。
 「体にな」
 レイジの背後に位置したベッド、背格子に凭れ掛かってる俺へと視線を転じたタジマが懲りずに舌なめずりする。ケツを揉みほぐされる猥褻な感触がまざまざとよみがえりぞくりと悪寒が走った。間一髪レイジがとびこんでこなけりゃ俺は確実にタジマにヤられてただろう。
 背格子を掴み、反射的に身を竦ませた俺に性懲りもなく嗜虐心が疼きだしたタジマが下卑た哄笑をあげて追い討ちをかける。
 「それにな、俺が無理矢理こじ開けたんじゃねえぜ。ロンの方からドア開けて迎え入れてくれたんだよ。はは、傑作だったなあ!廊下に置き去りにされた好物に目が眩んでヨダレたらしてとびだしてきた意地汚さ全開のコイツの顔ときたら、もう見るからに育ちの悪さが現れてたぜ。自分からドア開いちまったんならついでに股も開いちまえよ、他の連中は一週間もまえにドアも股も開いてるぜ。ダチの鍵屋崎だってそうだ、アイツは素直だったぜ。ヤってる最中に妹の名前呼ばせたのが相当効いたんだろうな、あれ以降逆らう気力もなくして何でも言うこと聞いてくれたよ。ああそうか、お前にもそうしてやりゃよかったか?どうせレイジとできてんだろう、俺にヤられてる最中にレイジの名前でも呼ばせてやったらおもしろ……」
 「おもしろくねーよ」
 ゲスな勘繰りをさえぎったのはレイジの冷えた声。
 のべつまくなしにタジマが喋ってる間中不気味に沈黙して蚊帳の外におかれてたレイジが笑顔のままに立ち上がる。
 「おもしろいのはあんただけだ。俺はちっとも面白くねえ」
 壁に片手をつき、タジマを見下ろす姿勢で覗きこんだレイジが裸電球を背に顔を翳らせて笑う。指に挟んだ煙草の灰がこまかに顔に降り注いでタジマがぎょっと仰け反ったのにもお構いなしに抑揚なく続ける。
 「『汝、姦淫するなかれ』」
 「あん?」
 「我は汝の神なり。我のほか、なにものをも神とすべからず。汝、偶像を造り、これを拝みこれに仕うべからず。汝の神の名をみだりに唱うべからず。安息日を心に留め、これを聖別せよ。汝の父母を敬うべし。汝、殺すなかれ。汝、姦淫するなかれ。汝、盗むなかれ。汝、隣人に対して偽証することなかれ。汝、隣人の家を欲することなかれ」
 あっけにとられたタジマを前にすらすらとレイジが暗唱してみせたのは……聖書の台詞。俺は読んだことないけど汝うんぬんの妙に堅苦しい言い回しが聖書の特徴だってことくらいは知ってる。
 「聞いたことぐらいあんだろ?モーゼの十戒だ」
 よどみなく十戒を暗唱してみせたレイジが壁に手をついたままの前傾姿勢でタジマを覗き込む。
 「汝姦淫するなかれは十戒のひとつでいちばん有名な言葉。まあ、俺の場合『汝の神の名をみだりに唱うべからず』の時点で早くもつまずいてるしほかにも数々のNGワードがあるんだけどね。まず盗むなかれでアウト、殺すなかれもアウト、姦淫するなかれは言わずもがな。親も敬ってねえし安息日も関係ねえし他人の物欲しがるし隣人にも嘘つくし……こんな調子で禁忌犯しまくってるから神様に嫌われて当たり前なんだけどさ」
 乾いた声で笑ったレイジがスッと笑顔を引っ込める。
 「聖書を例にとるよかハムラビ法典のがタジマさんにはわかりやすいか」 
 
 絶叫。

 タジマが片時もはなさず目を押さえてた手の甲から煙が上がってる。肉が焦げる匂いが部屋に充満して吐き気を催せば、視線の先、壁際にタジマを追い詰めて退路を断ったレイジが薄らと笑っていた。
 壁に肘をつき、気だるげによりかかったレイジが手にした煙草の火をタジマの右手に押し付けたのだ。赤く爆ぜた先端を執拗に皮膚にねじこんで焼き焦がしながらもレイジは笑みを絶やさない。口を全開にし、濁った絶叫をまきちらして暴れるタジマの手からさっと煙草を遠ざける。脂汗と涙と鼻水、汚い汁にまみれて地崩れを起こした醜い顔のタジマを覗きこんでにこりと笑う。

 「ロンのぶん」

 極上の微笑を湛えたレイジめがけ風切る唸りをあげて警棒が振り上げられる。手を煙草で焼かれて激怒したタジマが獣じみた咆哮を発してレイジを殴打しようと警棒を振りかぶったのだがレイジが避けるほうが早かった。前髪を掠め去った警棒の行方を追ったレイジが目にも止まらぬ速さでつま先を蹴り上げればタジマの肥満体が毬のように弾む、つま先の先端が胃袋にめりこんだ衝撃に盛大に反吐を戻したタジマがその場に膝を折ると同時にレイジの腕がのびてくる。

 「鍵屋崎のぶん」

 ぶちん、ぶちんと音がして紺の制服のボタンが弾け飛んでく。タジマの襟首から力づくでボタンを毟りとって前を寛げたレイジが再び手を振り上げて今度は鎖骨の上に煙草の先端を置く。じゅっ、と音がしてタジマの体が絶叫とともに跳ねる。あの細腕のどこにこんな馬鹿力が秘められてるのか、タジマの肥満体を悠々と吊り上げて背中から壁に叩き付けたレイジが最高に愉快そうに笑いながら足もとの警棒を蹴りどかす。
 「レイジ、今すぐその手を放せ、今ならまだ許してやる!!」
 哀願、というにはあまりに高圧的な罵声をとばしたタジマにレイジがやれやれと苦笑する。完全な劣勢だというのに反省したふりをする機転さえ利かないタジマを哀れんでるような、その実心の底から楽しんでる凄まじくタチの悪い笑顔。
 「独居房送りは勘弁してやる、だから、な、この手を放せ。囚人が看守に暴行なんざ上にバレたら問題になるぞ」
 「ロンに手え出すまえなら考えたかもな」
 なだめすかすような言葉を鼻で笑ったレイジがタジマのズボンに手を突っ込んでシャツをめくりあげる。はだけたシャツの下から露出したのは不恰好に弛緩した腹。
 一際長い絶叫が天井にこだまする。

 「売春班のガキどものぶん」

 一際長く、じっくり時間をかけてタジマの脇腹を焼きながらレイジは笑っていた。怖い顔だった。完全に狂気に飲み込まれた笑顔には俺が知ってるへらへらした面影なんかどこにもなかった。肉が焦げる香ばしい匂いを鼻腔一杯に吸い込んだレイジが満腹した豹の笑顔でタジマから離れてく。すっかり先端が潰れた煙草を床に投げ捨てて靴裏で踏み躙りながら叫びつかれてへたりこんでるタジマの胸ポケットを探る。胸ポケットから無断で取り出したのは煙草の箱とライター。掌にすっぽり納まる箱を上下に振り、噛みちぎるような顎の振り方で煙草を一本くわえとる。
 ライターを押して煙草に点火。
 鼻に抜けてく紫煙を味わうようにゆっくりと目を瞑り、開ける。
 俺の知らないレイジがいた。
 魅力的に微笑むレイジから目を逸らせない。次の行動から目をはなせない。今のレイジなら何をしでかしてもおかしくない。狂気と正気の境界線をあっさり踏み越えたレイジがひょいと屈みこんで、くわえ煙草のままタジマのベルトを緩めにかかる。
 「……なにやってんだ。お詫びのしるしに俺のもんでもしゃぶってくれるってのか」
 叫び疲れて息切れして、酷い顔色のタジマがそれでもとことん人を馬鹿にした冗談を言えばレイジは手を止めずに返す。
 「残念、不正解」
 ズボンと一緒に下着を引きずりおろしてタジマを下半身裸にしたレイジが口から煙草を外し。

 「これが、俺を怒らせたぶんだ」
 「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 俺はその瞬間を見なかった。
 レイジがやろうとしてることがわかったから、おぼろげなら察しがついたから目をひしと閉じて顔を背けていた。でも嗅覚まで殺すことはできない、タジマのペニスが煙草の火に焼かれて焦げてく異臭が鼻腔を突いて戻しそうになるのを懸命に堪える。たぶん今までで最長だった、たっぷり二十秒間はあったと思う。手首を捻り、圧力をくわえて先端をねじこみ、ようやく溜飲をさげたレイジが立ち上がった時にはタジマは口からヨダレを垂らして半ば廃人化していた。
 その襟首を片腕一本で掴んで引きあげたレイジがぐったりしたタジマの耳朶で退廃的に囁く。
 「汝姦淫するなかれ、だ。肝に銘じとけ。いや、たった今ヤキ入れてやったお行儀の悪いぺニスによーく銘じとけよ。俺はべつにあんたがだれ犯そうが興味ねえし構わないけどロンに手を出すのは許さねえし認めねえ。俺のいないところでロンを美味しくいただこうなんてしてみろ、じっくり時間をかけて生まれてきたのを後悔させてやる。なあタジマさん、なんで俺が『レイジ』ってゆーか知ってるか?」
 タジマの目をまっすぐ覗きこんだレイジが吸殻を蹴散らしてほくそ笑む。
 「憎しみを抑えつけるのがとてつもなく下手だからさ」
 「…………っ、!」
 レイジに殺される。
 殺意を秘めた脅迫に対してタジマは素早い行動にでた。膝に絡んだズボンに足をとられ、危なっかしく蹴躓きながら這う這うの体で逃げてゆく。床に転がった警棒をひったくり、腰にさすのも惜しんで脇に手挟んだまま扉にしがみつきノブを押したり引いたりしてたが焦りが増すばかりで上手くいかない、汗でぬめった手でノブを掴んで漸く開け放てば負け犬の背中に呑気な声がかかる。
 「タジマさん」
 反射的に振り返ったタジマの目に映ったのはにこやかに腕組みしたレイジの立ち姿。
 ゆったりと腕組みをほどいたレイジがタジマの股間へと視線をおろす。
 「隠さなくていいの?」
 「!」
 レイジに注意されたタジマが慌ててズボンを引き上げ、憤怒に猛り狂った凶暴な形相で唸る。
 「~~調子に乗んなよレイジ。一ヶ月、いや、懲役終えるまで一生独居房にぶちこんでやるから覚悟しとけ」 
 荒々しく扉が閉じ、鈍い残響が大気を震わせる。股間を焼かれたタジマが這うように廊下を逃げ去ってく気配が次第に遠ざかりやがて完全に消滅、タジマの姿が視界から消え去ると同時に金縛りにとけたように体が自由になる。放心状態で背格子に凭れ掛かった俺のもとに呑気な足音が近付いてくる。
 見なくてもわかる。レイジだ。
 「………レイジだよな」
 俺が知ってるレイジだよな?そう疑り深く念を押せば「なにをいまさら」とため息が聞こえてくる。
 「俺以外のだれが助けに来んだよ」
 よかった。いつもの、いつもどおりのレイジだ。タジマが逃げ去るのを見送ってるあいだに憎しみを抑えつけるのが下手なもう一人のレイジはいなくなったんだろう。深く深く安堵した俺のほうへと手をのばしたレイジが心配そうに眉をひそめる。
 「だいぶ酷くやられたみたいだな。もっと早く呼べよ」
 「さわんな」
 鎖骨に触れようとしたレイジの手を払いのける。虚を衝かれたように立ち竦むレイジ、その間抜け面に猛烈に腹が立つ。こいつが俺のダチ?嘘だ、あの時は気が動転してて心にもないことを口走っただけだ。レイジがダチのわけないじゃんか、こんなでたらめに強くて怪物みたいなやつがこんなカッコ悪い、一人じゃ何もできねえ俺のダチなわけないじゃんか。情けない情けない、死ぬほど情けねえ。タジマに押し倒されて下半身脱がされるまでなにもできなかったのに、レイジときたら呼んだらすぐに飛んできてタジマをやっつけちまった。
 畜生。
 「ふざけんなよ、なんでそんな強いんだよ」
 レイジくらい強かったらタジマをぶちのめすことができたのに。
 「反則じゃねえかよ」
 鍵屋崎や他の連中を助け出すこともできたのに。
 「お前のことなんか大嫌いだ、本当に大嫌いだ、スカした面見ただけで反吐が出る。いっつもへらへら笑ってて馬鹿なフリしてるくせにヤるときゃヤるなんて出来すぎだ、ぜってえ認めねえぞそんな都合いい展開。だって認めちまったら何なんだよ、俺が今までやってきたことは何なんだよ。お前なんかに頼りたくなかったのに、他人の力なんかあてにしたくなかったのに、だれかによりかかってしか生きてくことできねえんじゃあの女と一緒じゃねえか」
 俺にレイジみたいな力があればだれにも頼らずひとりで生きてくことができるのに。
 わかってる、レイジは約束を守ってくれた、俺を裏切ったりなんかしなかった。お袋でさえ開けてくれなかったドアを二年越しで開けてくれたんだ、レイジの顔を見た瞬間にああもう大丈夫だって安心して、その変わり身の早さに自分を殺したいくらい腹が立った。なにが大丈夫なんだよ、大丈夫じゃねえよ。だれかを、大事な人間を安心させる側になりたくて今まで頑張ってきた俺の苦労はどうなっちまうんだよ。
 水の泡?
 「どうして助けに来ちまうんだよ!?」
 逆ギレだ。
 「どっから冗談でどっから本気かわかんねえお前の言葉なんかマジで信じるわけねえだろ、はなから期待なんかしてなかったよ、どうせ助けにくるもんかって!俺のことなんか放っときゃいいんだよ、なんで構うんだよ、俺を助けてお前が独居房に入れられたらどうしようもねえだろ」
 レイジだって馬鹿じゃない、俺が言おうとしてることくらいわかってるはずだ。東京プリズンで看守に逆らうということが何を意味するか、どんなみじめな末路を示唆するか身に染みてないはずがない。レイジの懲役が残り何年だか知らないが俺よりは確実に長いはずだ、その間ずっとレイジが独居房で過ごすことになったら俺のせいだ、俺を助けにきてタジマに喧嘩売ったせいだ。
 「なんで余計なことするんだよ、無視すりゃよかったんだよ、そうすりゃ諦めついたのに!無視されんのにも裏切られんのにも慣れてんだから今さら傷つくもんか、お前のことなんかはなからダチともなんとも思ってなかったんだから裏切られたところで『やっぱり』で済んじまうんだよ、『ひょっとして』とか『もしかしたら』とかいらねえんだよ!」
 ちがう、本当はレイジがきてくれて嬉しかった。すげえ嬉しかった。でも同じ位、それ以上に悔しくて腹が立ってやりきれない。いつのまにかレイジに浅ましく期待してる俺がいることが、『ひょっとしてレイジなら』とか『もしかしてレイジなら』とか希望を託してる俺がいることが。もう諦めてたのに、刑務所で希望なんか見つかるはずないって、外にも何にもなかった俺の人生にそんなもん見つかるわきゃないって割り切ってたのに。
 「全部お前のせいでおかしくなったんだよ!!」
 お前のせいで、割り切れなくなったじゃねえか。 
 「余計なことすんなよ、目障りなんだよ、消えてくれよ!期待なんかさせんなよ、希望なんか持たせんなよ、そんなもん持ったってどうせ無駄なのに何も報われねえのに!ここは刑務所で、悪名高い東京プリズンで、生きて五体満足でここを出れるかどうかもわかんねえのにそんなもん抱えこんでどうすんだよ、蟻地獄の底で身動きとれなくなってゆっくり死んでくだけだろう!?」 
 大体刑務所でダチつくってどうすんだよ、どっちがいついなくなるかわかんねえのに。
 どうせまた一人ぼっちになるのに。
 
 ―「お前に助けられるくらいならタジマにヤられたほうがマシだった!!」―

 気付いたら、そんな心にもないことを叫んでいた。喉振り絞るように。
 俺のせいでタジマに喧嘩売ったレイジがこれからどうなるか想像したくもない、けど身近に想像できちまう。いくらレイジが無茶苦茶強くても看守を敵に回してここで生きてけるわけがない、殺されるに決まってる。独居房に入れられて手も足もでない状態で嬲り殺しにされるか飯を抜かれて飢え死にするまで一週間でも二週間でも放置されるか―……
 
 「そうかよ」
 氷点下の声だった。
 「!?」
 声に反応して顔を上げれば目の前、唇が触れそうなほど近くにレイジの顔があった。近付きすぎだ気色わりい、と押しのけようとしたら手首を掴まれ逆に引き寄せられる。スプリングが軋む。ベッドに片膝から飛び乗ったレイジが両腕で俺を組み伏せ、真剣に怒った顔で言う。
 「ヤられたほうがマシなんだろ」
 真剣に怒った顔?
 まさか、なんでレイジはこんな顔してるんだ。いつものへらへらした笑顔はどこ行ったんだ。サーシャとやりあったときもタジマを追い詰めたときもへらへら人を食った態度を崩さなかったのに、俺のたった一言で理性が爆ぜていつもの余裕が吹っ飛んだってのかよ。
 額と額を突き合わせて俺の目を覗きこんだレイジが、天井の裸電球を背にしてスッと目を細める。
 冷徹な眼光に射竦められた瞬間、鼓膜に響いてきたのはさっきレイジ自身が不誠実に笑いながら口にした言葉。
 『なんで俺がレイジってゆーか知ってるか?憎しみを抑えつけるのがとてつもなく下手だからさ』
 「タジマとどっちがマシか思い知らせてやる」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060119211907 | 編集

 何回押し倒されりゃ気が済むんだ、俺。

 しかも今覆い被さってるのはこともあろうにレイジだ、レイジとヤる気なんかこっちにゃさらさらねえってのに、くそっ!俺の両手首を押さえこんだレイジが形よく尖った鼻を蠢かしてシャツの匂いを嗅いでる、犬みたいにふざけた動作が癇に障って声を荒げる。
 「悪ふざけも大概にしろよレイジ、全然笑えねえんだよ!」
 はげしく身を捩って抗議するが哀しいかな膂力と体格ではレイジが圧倒的に優勢、やつときたら細身のどこにこんな怪力を秘めてるのか不思議になるほど握力が強くて顔の横に固定された手首なんかびくともしない。「犯ってください」といわんばかに仰向けに組み伏せられた姿勢から額と額が接するほどの至近距離に迫ったレイジにガンをとばせば斜に構えて笑いやがった。
 「冗談なもんかよ」
 狂ったように暴れる俺の耳元に口を近づけてくるレイジ。
 ついさっき、耳の穴に舌を突っこまれた時のえもいわれぬ不快感が生々しく蘇って体が拒絶反応を起こす。発情期の犬みたいに浅い息を吐きながら耳朶を舐めて外縁の窪みを舌で辿って穴の中に舌を突っ込んできたタジマ……
 やめろ、思い出したくない。そんなとこ女にだって舐められたことないのに冗談じゃない、俺は男だ、男に耳舐められて感じまくって甘い声をあげる変態的な趣味はこれっぽっちもない。
 レイジが何をしようとしてるか悟った瞬間タジマの愛撫が感覚的に再現されて頭が真っ白になった。なんとかレイジから逃れようと顔を振りかぶったが駄目だ、レイジの野郎執拗に追尾してきやがる。
 「!レイ、」
 声が萎えた。
 上唇と下唇で耳朶を食まれ、抗議の声が熱く湿った吐息に紛れた。
 ただ耳朶を甘噛みされただけだってのに電流が走った、背骨が撓って踵がシーツを蹴ってベッドに射止められた手の先の五指を掌に爪痕が残るほど強く握り締めていた。
 そうだ爪、一週間前タジマに去勢された爪がもう随分と伸びて元に戻ってる。途方もなく長く感じられたこの一週間でも爪が伸びるのなんてあっというまだ、俺は育ち盛りだから新陳代謝も活発なんだろう。畜生、爪が伸びるなら背も少しくらい伸びりゃいいのにと現実逃避の延長でこの場に全く関係ないことに苛立ったが耳朶に歯を立てられて思考が散らされる。そういや鍵屋崎も耳朶が感じるらしいと聞きたくもないのに聞かされた、男でも耳朶噛まれれば性感帯が刺激されて感じるのが普通なのだろうか、正常なのだろうか?

 知るか、知りたくもない。

 「知ってるか?男でも女でも体の先端て敏感にできてるらしいぜ」
 耳朶を噛まれ、甘く湿った吐息を漏らしそうになるのを唇を噛んで堪えてる俺には揄に切り返す余裕もない。腰に馬乗りになったレイジが耳朶の歯型をいとおしむように舌先で突付いてるのがわかる。
 舌先をすぼめ、尖らし、横這いにし、巧みに角度を変えて刺激を与えられて気が休まる暇がない。こんな時だというのにレイジは薄笑いを浮かべてる、俺が見たこともない酷薄な笑顔、さっきタジマの体に煙草の火を押し付けてた時だってこんなきな臭い、危険な表情はしてなかった。
 「たとえば耳朶、」
 名残惜しそうに耳朶から離れた唇が今度はとんでもないところに落ちてくる。
 「たとえば睫毛」
 「ちょ、」
 待て、と両手を突っ張ってレイジを退けようとしたが遅かった。
 俺の両手首を万力めいた握力で押さえこんだまま、顔に顔を重ね、睫毛と睫毛が縺れる距離に接近したレイジの上唇がそっと瞼に触れる。
 唇に促されて落ちた右の瞼に柔襞の粘膜の感触、上唇と下唇で啄ばむように睫毛を食みながら聞く者を酩酊させ堕落させる声で唄う。
 「泣きすぎなんだよ、お前。睫毛しょっぱい」
 悪魔の歌声だ。
 口元には笑みを絶やさず、丁寧に睫毛を舐めて先端に宿った水滴を舐めとっていく。睫毛には感覚なんて通ってないはずなのに啄ばまれるたびに甘い痺れに似た感覚が走った。

 快感?

 まさか、なんでレイジに睫毛舐められて感じなきゃいけないんだ?こんなの性的刺激でもなんでもないただの児戯だろ、レイジ一流の悪ふざけで嫌がらせで全力で嫌がる俺を見て腹ん中じゃせせら笑ってるに決まってるのに思惑通りに反応するのは癪だ、でもどうにもならない、この体勢じゃどうしようもない。

 熱い唇が触れ、また離れてゆく。

 秒刻みの接吻が呼び覚ますのは体の芯が疼くようなじれったい熱、唇の火照りが感染した瞼が微かに震えて目が熱っぽく潤んでくる。
 まだ目尻の涙も乾いてないってのに俺は泣いてばかりいる、格好悪い、最高に格好悪い。レイジにもタジマにも泣かされてばかりで何もできない女々しい奴だ、男のくせにされるがままでこぶしで仕返しもできなくて。
 今まで俺を支えてきた意地と決意が体を苛む熱に飲まれて溶解してく。
 両方の瞼を舐めていたレイジの唇がすっと降りてきて目尻に滲み始めた塩辛い水を意地汚く舐めとる、赤く充血した目尻に舌先を当ておいたレイジが水滴を啜る。
 褐色の喉仏が艶かしく動き、甘露を飲み下したようにレイジが陶然とする。

 涙を飲まれた。

 眼球に舌先を浸けて涙を啜られたせいで唾液が目に染みた、朦朧と膜が張った視界の中央を占めているのは何考えてるかわからないレイジの笑顔だ。
 わからない、次の行動が読めない、次に何やらかすか全然予想つかなくて頭が混乱して爆発しそうだ。完全に恐慌状態に陥った俺はレイジに上体を押さえ込まれてるせいで満足に身動きもできなくて、まさしく手も足もでない状態でも最後まで抵抗する気概だけは見せようとかすれた声を振り絞って喚き散らす。
 「涙なんか飲んで何が美味いんだよ、意味わかんねえよ!もう本当にいい加減にしやがれ、さっさと離れないと殺すぞ!!」
 うろたえきった俺を見下ろすレイジの笑顔には、腹ごなしの戯れに猫をいたぶる豹の愉悦が滲んでいた。ふたたび俺の耳元に口を近づけたレイジが腰にくる低音で囁く。
 「殺れるもんなら殺ってみろよ。その前に犯るからな」
 上着の裾に手がすべりこんでくる。脇腹を撫で擦るなめらかな感触はタジマの乾燥した手が与えてくる粗雑な不快感とは縁遠い。絹のように触り心地いいてのひらが脇腹を撫でるのを成す術なく眺めながら脳髄を焼き焦がす羞恥と屈辱に耐える。
 「『タジマにヤられたほうがマシだった』?」
 俺自身が叫んだ台詞を反芻するレイジ。愛撫の手は休めぬまま、だらしなく緩んだ襟刳りから覗く鎖骨へと唇を触れる。
 「やめ、ろ」
 声が震えた。
 今のレイジには何を言っても無駄だ、レイジをここまで怒らせたのは俺だ。俺が素直じゃないから、自分から助けを求めたくせに手酷く拒絶したから、支離滅裂に矛盾した言動がこいつを本気で怒らせちまったんだ。
 鎖骨に接触した唇が灰被りの火傷を食み、焼け爛れた皮膚に唾液が染みる。 レイジの唾液は媚薬か劇薬みたいだ、舌から分泌された唾液が焦げた皮膚に染み込んで酸のように骨を焼いてく。さらに激しく身悶えれば、手首を掴む手にさらに力がこもる。
 「痛くてもやめねえよ」
 レイジの顔が下腹へとおりてゆく。
 緩慢な動作で下腹部へと移動、しどけなくはだけたシャツの隙間、鎖骨の火傷と同寸大の焦げ跡を見つけてかすかに顔をしかめ、
 「!!っあ、」
 脇腹を舐められて、喉から変な声が漏れた。
 さっきタジマに焼かれた痕を今はレイジが舐めている。
 焦げて黒ずんだ皮膚に生理的嫌悪を催すことなく舌をつけて唾液をのばして広げてゆく、普段外気に触れることもない、人目に晒すこともなく秘された部位を舌で舐められてるという事実と触感に肌が粟立つ。しかも相手はレイジだ。今までだってそりゃ冗談半分に寝込みを襲われることはあったけどこんな事されるの初めてだ、何でこんなことになってんだ、何が原因なんだ?
 答えは速攻でた。俺だ。
 俺がこうなったのも全部俺のせいだ、俺が弱くて何もできなくて、にも関わらずレイジに反抗してばっかで礼の一つも言わないせいだ。
 諸悪の根源は俺だと、全ての元凶は俺だと頭ではちゃんとわかってる。これ以上なく完璧に理解してる。でも心が納得できない、本当はレイジがとんできてくれて凄く嬉しかった、でもそれ以上にタジマに押し倒されて何もできなくてレイジに頼るしかない俺の無力と非力が歯痒くて情けなくてやりきれなくて自己嫌悪を裏返した反感を抱いた、本来ならレイジに感謝して然るべき立場の俺がその本人に、独居房に送られるかもしれない我が身を顧みずにとんできてくれたレイジに性懲りなく八つ当たりして一週間前と同じ過ちを犯して。

 その結果がこれだ。現在進行形で起こってる出来事だ。自業自得じゃねえか。

 脇腹にひやりとした金属の感触を感じて視線をおろせばレイジの首から垂れた金鎖が腹筋でうねっていた。舌での愛撫に励むレイジの首の動きにあわせて鈍くきらめきながら脇腹を這う金鎖の先端には華奢な十字架が輝いている。悪寒の正体はこれだった。神様のご威光、じゃないだろうが十字架の光に目を射られて我に返り、脇腹に顔を埋めて舌を使うレイジを押し返そうと足腰に重心を移して手首をつかまれたまま起き上がる、渾身の力をこめて身を捩り手を振り払う、漸く自由になった両手で俺より広い肩幅を押し返そうとするがレイジは脇腹に顔を伏せたまま離れようとしない。
 「やめてくれ、」
 芯の通った声で抗議しようとしたが貪欲に這い回る舌がその余裕を与えてくれない。レイジの肩を押し返そうとして、半ばまで行かずに腕が萎えた格好でベッドに上体を起こせば抱き付いてるようにも見える。これじゃねだってるのか拒んでるのかわかりゃしねえ。
 なんでこんなことになったんだ?
 俺は女だって一人しか抱いたことなくて、人生二度目の体験が男なんて悪い冗談で、レイジとこんな関係になるつもりなんかこれっぽっちもなかったのに。もう何を言っても無駄なのか、通じないのかよ。俺が歯向かってばかりだからレイジもいい加減嫌気がさして痛い目見せてやらなきゃ気が済まなくなったのか?
 タジマと同じように。
 タジマの顔を連想した瞬間、ついさっきまで好き放題に体の裏表をまさぐってた手の感触や舌の生温かい温度が蘇って喉がひきつる。なめくじが這いずった跡みたいにタジマの手の痕跡を正確に辿ることができるのは体が鮮明に覚えてるからだ、いや、あの不快感と恐怖と戦慄は一生忘れられないかもしれない。脇腹を揉みしだかれて胸板を撫でられてケツの穴に指突っこまれて俺は何もできなくてタジマの言うなりになるしかなかった、容赦なく体を焼く煙草の火怖さに命乞いまでしたのだ、殺したいほど憎い相手に。
 哀願なんてしたくなかった。
 俺は悪くないのになんで「ごめんなさい」なんて言わなきゃならない。鍵屋崎だったら絶対こんなこと言わない、自分が悪くもないのに口先だけで謝罪なんかしたりしない。あいつはプライドが高いからこんなみっともなくて恥ずかしい真似するわけない、これから自分を犯そうとしてる男相手に心にもない謝罪を述べ立てて同情を乞おうなんていっそ死んだほうがマシな醜態を晒すはずがない。たとえヤってる最中に強制的に妹の名前を呼ばされたからってだから何だ、強制的に妹の名前を呼ばすことはできても自発的に「ごめんなさい」を言わせることはできなかったはずだ絶対に。
 鍵屋崎は強いのに、今まで十何人という数の男に毎日毎晩犯されてもプライドは屈しなかったのに、心は負けなかったのに、本当の意味で汚れることはなかったのに、なんで壁一枚隔てたこっち側にいる俺は弱いんだよ。鍵屋崎やレイジみたいに強くなれないんだよ。折角助けに来てくれたレイジに反発して余計な真似すんなっていきがって、じゃあ何ができたんだよ?

 「こういうのはやなんだよ、」

 レイジをどかそうと肩に手をかけたまま顔を伏せる。これじゃタジマと一緒だ、いや、11の俺を犯そうとした客と一緒だ。俺が何を言っても聞き入れちゃくれなくて、体格差と腕力じゃ歯が立たなくて犯られるがままで二年経っても全然成長してない自分の無力さとか愚かさとか痛感して、でも結局何もできなくて。

 「聞けよレイジ、聞いてくれよ。お前なら俺の話聞いてくれるだろ、なあ」

 そうだ。お袋みたいに無視したりせずタジマのように殴り飛ばしたりせず、レイジはいつだってちゃんと俺の話を聞いてくれた。どんなくだらない話も鼻で一蹴したりせずに根気強く最後まで付き合ってくれた、そして必ず俺が欲しい言葉を言ってくれた。たまに、どころか頻繁に余計な一言もついてきたけど絶対に裏切ったりしなかった。そうだ。いつも、いつだってレイジは俺の期待を汲んでくれた。なにげない一言一言に親身になって報いてくれた。まるで、俺が長いこと心の底で欲しがってた本当のダチみたいに。

 「いやだって言ってんだからちゃんと聞けよ、無視すんなよ」

 無視しないでくれよ。
 お前に無視されたら本当にひとりきりだ、他に頼れる奴がだれもいなくなっちまう。今更虫がいい、先にレイジを拒絶したのは俺じゃねえか。でもこれじゃお袋やお袋の客やタジマとおんなじだ、今ここで大した抵抗もせずに犯られてしまえばレイジまで奴らと同格に堕ちてしまう、堕としてしまう。だから今ここで本音をぶつけなければ怒りに任せて拳を振り上げなければ、また大事な物を失ってしまう。
 ダチかどうかもわかないうちにダチを失ってしまう。
 だから叫ぶ、声を大にして叫ぶ。俺の右手をとって火傷に口付けたレイジに、名伏しがたい衝動に駆られるがまま。

 ―「おまえまで俺のこと無視すんのかよ、レイジ!!!!」―

 自分の声で鼓膜が痺れた。
 絶叫の余韻が殷殷と大気を震わせる。仰向けにベッドに寝転び、もう何も見たくなくて片腕で目を覆えば右手の甲から唇が離れてく。火傷を舐めていた舌が離れ、レイジに軽く掴まれた手首が虚空をすべるようにシーツに落ちてゆく。
 「……そんなツラすんなよ」
 「…………どんなツラだよ」
 「泣きそうなツラ」
 「泣いてねえよ」
 「泣きそうなんだよ」
 「泣かねえよ」
 不毛な押し問答にため息で終止符を打ったレイジが衣擦れの音さえたてない慎重さで力なく垂れ下がった手首をシーツに着地させる。
 すぐそこにいるのにレイジの顔が見れない、片腕をどける勇気がない。片腕で遮った顔にあきれ果てた眼差しを感じながら口を開く。 
 「……やさしくするって言ったじゃねえかよ」
 
 『ポイントはそこだ。好きでもねえ男に抱かれるのがいやなら好きな男なら問題ねえ。違うか?』
 『違う、根本的に違う。まず俺がおまえを好きになることありえねーし男と寝るなんて気持悪い』
 『やさしくするからさ』
 
 「やさしくしてやったじゃねえか」
 「やさしくねえ」
 間髪いれず言い返せばばつが悪そうに押し黙る気配が空気を伝わってきた。三呼吸の沈黙をおき、レイジが憮然として口を尖らす。
 「タジマにヤられたほうがマシだなんて言うからむかついたんだよ。せっかく助けにきてやったのにさ」
 「嘘だよ」
 「嘘かよ」
 片腕をどける。額にずりあげた片腕の向こう、ベッドに起き上がって胡座をかいたレイジがあからさまに安心して胸を撫で下ろしてる。レイジの胸で催眠術をかける振り子の如く揺れる十字架を見つめながらぼんやり呟く。
 「マジでヤられるかと思った」  
 レイジが笑みを広げる。俺がよく見慣れた底抜けに明るい笑顔。
 「唾液で消毒」
 「あん?」
 背格子に凭れ掛かって起き上がった視線の先、人を食った笑顔のレイジが口から突き出した舌を指さして説明する。
 「火傷の応急処置だよ。黴菌感染すると困んだろ」
 悪びれたふうもなくうそぶくレイジを面と向かいあってるうちに毒気がぬかれて怒りが沈静化してく。もう拳を振り上げる気力もなくて、虚空で指を解き放って大の字に寝転べば天井がやけに遠く感じられた。
 空腹が突き抜けて距離感がおかしくなってる。
 「紛らわしいことすんじゃねえよ」
 配管むきだしの幾何学的な天井を仰ぎ見ながら文句を言えば悪戯っぽい笑顔のレイジが近すぎる距離で顔を覗き込んでくる。
 「本当にヤられると思った?」
 過激な反応を見越され、からかうように聞かれて反論しかけ、正面のレイジに向けた視線が傍らの床へと吸い寄せられる。コンクリートむきだしの殺風景な床にへばりついてるのはタジマの靴裏に踏み躙られて原形留めぬまでに圧搾された肉粽。
 それを見た瞬間理性が爆ぜ、ベッドから転げ落ちるように飛び下りて床に跪いてた。
 床にへばりついた米粒の塊を爪でこそぎ落として掌で鷲掴んで口に入れて咀嚼する、喉につかえそうになりながら飲み下す、強引に飲み下して食道に送りこんで次から次へと胃袋に貯める。タジマが俺をおびきだすために持参した肉粽は形は無残に崩れて靴裏の泥が付着して見るからに不味そうだけど凄く美味しかった、俺が今まで食ったどんな物よりも素晴らしく美味かった、美味すぎて涙がでてきたくらいだ。それで気付いた、やけに塩辛いなと思ったら涙と鼻水と一塊の米粒とか一緒くたに喉の奥を流れてたからだ。情けない格好わるい恥ずかしい、レイジも見てるってのに腹が減りすぎて理性の抑制が利かなくなってる、食欲に歯止めが利かなくなってる。昨晩から何も食ってない、水一滴飲んでないんだから仕方ないだろう。人間飢えには勝てない、両手に掴んだ肉粽を脇目もふらずにがつがつ貪り食い飲み下す、延延その繰り返しが際限なく続く。何度目だろう、意地汚さ全開で両手に肉粽を握り締め、交互に口を運んでがっついてたら喉に米の塊が詰まって息が堰き止められた。
 苦しい。
 米を喉に詰めてむせ返った背中に手が伸びてくる。あたたかい手が背中に置かれる。はげしく咳き込む俺の背中をやさしく撫で擦ってる奴を振り向く余裕はない、いや、正しくは意地とプライドが邪魔して振り向けない。涙と鼻水でやけに塩辛い肉粽を口一杯に頬張った意地汚い俺を見てもそいつは失笑したりせず、あきれたりもせず、無言で背中を撫で続けてくれた。
 喉に米を詰めそうになったらすかさずトントンと背中を叩いて気道を確保してくれる世話好きの手。 
 床に散乱した肉粽をひとつ残らずたいらげ、一息つく。腹一杯に満たされて漸く人心地がついた。床にうずくまった俺の背中を優しくなでてる奴の顔は見ないまま、膝を抱え、顔を俯ける。
 「レイジ」
 「うん?」
 「一度しか言わねえからよく聞けよ」
 「うん」
 深く深く息を吸い、心の準備をする。大きく深呼吸した拍子に背中を支える手の大きさと力強さを再確認し、次の瞬間驚くほどするりと、今までの葛藤が嘘みたいなあっけなさでその言葉が出てきた。

 『謝謝』

 それまで、本当に長い間喉元で塞き止められてた感謝の言葉を初めて素直に口に出すことができた。今この場で背中を擦ってくれたことに対してのみ感謝を述べたんじゃない、今までさんざん迷惑かけっぱなしで世話になりっぱなしで、そんな自分が情けなくて悔しくて、どうしても素直に表現することができなくて腹の底に積もってたレイジに対する本音だ。
 レイジの顔は見ずに、憮然と、でもはっきりと礼を言えば背後から柔らかに笑う気配が伝わってきた。和んだ空気につられて振り向けば、レイジが俺が見たこともない顔で笑ってた。
 レイジでもこんな、くすぐったそうに笑うことがあるのか。
 「どういたしまして。借りはいつか体で返してくれりゃいいよ」
 前半で終わらしときゃいいのに株大暴落の蛇足をつけるあたり本当にいい性格してやがる。真冬の寒空の下、スラムの路地裏で膝を抱えてた十一歳の俺に言ってやりたい。ほら、やっぱりろくな奴じゃなかったって。 
 ベッドからひょいと腰を上げたレイジがごそごそポケットを探りながら通気口に近付いてく。何をする気だと目で追えばポケットから取り出したのは掌にすっぽり納まる大きさの黒い円球。通気口の真下で足を止めたレイジが癇癪玉によく似たそれを掌中で弄くりながらよく透る声を張り上げる。
 「そろそろ仕上げにかかるぜ」
 その声は明朗に通気口に響き渡り、壁を挟んで同じように通気口の闇を覗いてるのだろう誰かのところに届いた。
 「準備はいいか、サムライ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060118212014 | 編集

 「抱かないのか」
 数分後。
 ベッドに起き上がった僕の視線の先ではサムライが所在なげにうろついていた。一人の時はやけに広々と閑散に感じられた仕事場もサムライがすぐそばにいると狭苦しい空間に変貌するがそれは決して居心地悪いことはでなく、逆に心休まることだと気付いた。
 僕はといえば泣き顔を見られたのが気恥ずかしく、サムライはサムライで青臭い台詞を吐いたのが面映いのか、ベッドを離れてからの数分間はお互いの顔を正視する勇気がなくて敢えて視線を逸らして思い思いの事をしながら気まずく沈黙していた。
 胸塞ぐ圧迫感を伴う沈黙に痺れを切らして口を開いた僕を振り向いたサムライがぎょっとする。何をそんなに驚くことがあるんだろう。
 サムライの驚愕ぶりを疑問に思いながら抑揚なく言葉を続ける。
 「べつに構わないぞ、どうせ初めての客じゃない。今日まで17人相手してきたんだ。やり方はそれなりに心得てるつもりだし暴れて抵抗して君の手を煩わせたりしない。僕を物か玩具としてしか扱ってこなかった粗野で愚鈍な連中と違って君ならそう酷くしないだろし、」
 「な……、」
 僕の名前を呼ぼうとしたのか意図を推し量ろうとしたのか、何事か口にしかけて中途で絶句したサムライが咳払いして威儀を正す。
 「……俺に男色の趣味はない」
 「古い言葉を使うな」
 堅苦しく拒否したサムライに失笑を誘われる。「男色」なんて今はもう廃れて久しい言葉だ。誤解しないでほしいが僕だって別に積極的にサムライと寝たいわけじゃない、不感症の僕はあらゆるセックスに快感を感じないように出来ている為性行為は苦痛でしかないのだ。しかしここまで来て何もしないでサムライを追い返すのも気が引ける、既に上着は脱いで前準備は整ってる。僕は完璧主義者だから一度やり始めたことを中断するのを是としない、どうせ今日までの一週間で看守も囚人も含めて十七人もの男を相手にして様々なセックスを試みてきたのだ。性欲の捌け口にされるのは慣れてるしサムライならそう酷くされることもないだろうと楽観視してる。
 しかし、サムライはそっぽを向いたまま不機嫌そうに押し黙り、ベッドに腰掛けた僕を見もしない。
 「ここに来たのだからてっきりそのつもりだと身構えていたのだがな」
 サムライへの警戒を解き、ため息をつく。どうやらサムライは本当にその気がないらしい。安堵、というよりは拍子抜けに近い気分で枕元に畳んで置いた上着を手に取って袖に腕を通す。体に負担がかからないから性行為をしないで済むのは大歓迎だがこれでまたサムライに借りを返せなくなるのかと思えば忸怩たるものがある。まあ、体で借りを返そうなどという娼婦の発想自体がこの一週間で身も心も売春班に馴染んでしまった証かもしれないと自嘲的な気分に浸りながら上着に袖を通して裾を引き下げれば耳朶にぶっきらぼうな呟きが触れる。
 「……自分を粗末にするな」
 反射的に顔を上げ、サムライを注視する。
 こちらに背を向けて佇んだサムライの横顔が心なし赤く染まっていた。赤面した横顔を見るともなく眺めながら「もしかして」と下世話な想像を巡らす。もしかしてサムライはあまり女性経験がないんじゃないか?そう仮定すれば僕への態度がぎこちなく不自然だったのも頷けるし道理で愛撫に慣れてないはずだ。まあ異性を相手にする場合と同性を相手にする場合じゃ根本的に違うし一概に断言できないが、この奥手で不器用で酷く純粋な一面を併せ持つ男にそう多く女性経験があるとは思えない。さっき肩に手をかけて押し倒された時は過去サムライの恋人だったという「なえ」を連想してしまったが故人と肉体関係があったかどうかも冷静に分析すれば一抹の疑問が残る。
 ……何を考えてるんだ、僕は。
 無意識に考え巡らしていた下品な想像に辟易する。東京プリズンに収監されてからの半年で大分頭が汚染されてしまったらしい、人の女性関係なんてどうもでもいいじゃないか。ましてや相手はサムライだ、僕の友人だ。友人の女性経験の有無について詮索するなんて唾棄すべき最低の行為だと自戒して吹っ切れば視線の先でサムライの顔が厳しく引き締まる。
 何か、不可視の異変を知覚したサムライが俊敏に顔を上げて虚空の一点を凝視する。
 『準備はいいか、サムライ』
 通気口からの声に不意をつかれた。
 聞き覚えのある声……レイジの声だ。レイジの声には一度聞いたら癖になるような甘く掠れた依存性があるから聞き間違えるはずがない。通気口を介した声がすぐそばで聞こえる、ということはレイジは隣の部屋、つまりロンの仕事場にいるのだ。サムライとの会話に夢中になり過ぎて注意力散漫になっていたが、途中、ロンの部屋からうるさい物音が聞こえてきた気がする。ろう城を破られたのか降参して扉を開けたのかはわからないが現に今レイジがいることから考えると漸くロンのもとにも希望の光が射しこんだのだろう。

 希望の光?

 馬鹿な、僕は希望なんか信じてないはずなのに。そんな幻想はとっくに見限ったはずなのに、サムライの顔を見た途端心が揺らぎだしてるのを否定できない。サムライに押し倒され、至近距離で顔を覗き込まれて説得され、「たすけてくれ」の一言を口にした途端にまた根拠のない希望を抱き始めてるなんて。
 でも、今の僕は自分の変わり身の早さを笑えない。目の前で希望が現実になりかけているから、サムライと顔を合わせ、一週間ぶりにまともに言葉を交わしてから全てが劇的に変化した。惠が収容された病院の住所を記したメモと手紙をなくして全ての希望を失い、ついさっきまで精神崩壊寸前まで追い詰められていたのに目の前のこの男に、今、一心に通気口を覗きこんでる男の顔を見た途端に奇妙な安堵感を覚えて全てが何とかなりそうな気がしてきたのだ。
 ベッドから腰をあげ、複雑な心境で背に歩み寄れば僕の接近に気付いているのかいないのかサムライがよく透る声を張り上げた。
 「こちらは問題ない。そちらはどうだ」
 『首尾は上々だ。そろそろいくか』
 「心得た」
 なにを心得たんだ?
 レイジと会話するサムライの背後で歩みを止めれば意外なことが起きる。サムライがおもむろに、全く無造作に上着を脱いだのだ。現れたのはよく引き締まった上半身、鞭のような強靭さを感じさせるストイックな裸身を眺め、少し距離をおいて尋ねる。
 「気が変わったのか?」
 「馬鹿なことを言うな」
 気が変わって僕を抱く気になったのか、と身構えながら聞けばうろんげに一蹴された。馬鹿?なにが馬鹿なんだ、今この状況から順当に考えれば当然その解答に帰結するじゃないか。性行為に及ぶ気が毛頭ないなら何故上着を脱いだんだ、君は露出狂かと声を荒げかけた僕の胸に投げ付けられたのはまだぬくもりが残る上着。
 「顔を覆っていろ」
 「?どういうことだ、まるでこれから火事でも起こるみたいな」
 持て余し気味に上着を抱いた僕を振り返り際何かを言おうと口を開きかけたサムライの背後、壁の高い位置に設けられた通気口から大量の煙が噴出したのは次の瞬間だった。
 「!?」
 気密性の高い瓶から栓を抜く時のような破裂音が連鎖した通気口から大量に沸いて出てきたのは……膨大な量の白煙。鉄格子の隙間から流れ出てきた白煙に何事かと目を見張った僕を力強い腕が抱きすくめてそのまま扉の方へと疾駆する。
 「火事だー!」
 狂乱の幕開けは王様の一声だった。
 「火事!?」
 「マジかよ、火元はどこだ!?」
 「すげえ煙だ、げほごほっ、目、目に染みる……」
 「おい早くここ開けろよ燻り殺す気かよ!!」
 「腹上死ならともかく焼死なんて冗談じゃねえ、おい看守聞いてんのか異常事態発生だ、とっととドア開けやがれ!」
 通気口から通気口、房から房へと恐慌が伝染して波紋のように動揺が広まってゆく。そうだ、売春通りの仕事場は全部通気口の内側でひとつに繋がっている。先日ロンが通気口から缶詰をよこしてきたように鉄格子には手首を入れられるだけの隙間がある、もし鉄格子の隙間から何か、煙の源となる物を投げ入れたとしたら当然通気口の内部で破裂したそれは全ての房に大量の煙を撒き散らして、事情を知らない大半の者たちはレイジの一声で火事が発生したと誤解する。
 そして、一連の流れから予想される合理的展開は。
 爆発するかの如き勢いでぶち破られたドアから転がり出てきたのは上半身裸に下半身裸、ともすれば大事な部分を服で隠しただけの全裸の売春夫や囚人たち。中には幾人かの看守も含まれる。火事発生の急報を受け、消火器を担いで駆けつけてきた看守の目に映ったのは一斉にぶち破られたドアと売春通りの廊下に溢れ出る難民、もとい行為を中断して着のみ着のままで転げ出てきた客と売春夫。鼻から口から煙を吸ってはげしく咳き込んでる囚人たちを押しのけ、各ドアから溢れ出た煙が濛々とたちこめた廊下を走りつつ看守が呟く。
 「おい待て、様子がおかしいぞ。煙は出てるがどこにも火なんて……ぎゃっ!?」
 消火器をぶらさげてドアのひとつを覗きこんでいた看守が廊下を転がってきた何かを踏んづけて派手にひっくり返る。一面にばらまかれ、廊下の傾斜を雪崩れてきたそれは大量の缶詰。不運にも缶詰の上に乗ってバランスを崩して倒れる看守、それにに巻き込まれて連鎖的に転倒したのは後続の同僚たち。
 「なんだよこれ、どっからこんな缶詰が……」
 「気をつけろ、滑るぞ!」
 「滑ってから言っても遅いんだよ!」
 次々に廊下を転がってくる缶詰に足をとられ、ドミノ倒しの如く倒れてく看守の手から消火器が放り出される。売春夫と客全員で埋め尽くされた廊下は今や悲鳴と罵声が飛び交う混乱の坩堝と化し、何が起きたのか誰も完全には理解せぬまま噂だけが錯綜している。
 「火事だ、早く逃げねえと黒こげになるぞ!」
 「エレベーターに急ぐんだ、詰め込むだけ詰め込んじまえっ」
 「馬鹿いえ積載オーバーだよ、階段使ったほうがなんぼかマシだ!」
 階段に向かう流れとエレベーターに直行する流れと二手に分かれたが、方向が違う両者が千々に入り乱れたせいで混乱はますます増すばかり。開放されたドアから廊下へと漂いだした煙は既に厚い層となって天井を覆い視界を塞いでいたが、混乱の中、僕が人ごみに流されずに済んだのはサムライがずっと腕を支えててくれたからだ。
 「レイジの仕業か?」
 「ああ」
 サムライの上着で鼻と口を覆ってるせいで声がこもってしまったが意味は正確に伝わったようだ。階段とエレベーター目指し、押し合い圧し合いして先を争う人の流れに楔を打つように廊下の真ん中に立ち竦んだサムライの肩越しに見覚えある顔を発見する。
 「どうした」
 僕の視線を追ったサムライが不審げに眉をひそめる。僕が食い入るように見つめていたのは足もと一面にぶちまかれた缶詰に立ち往生する上半身裸の看守。おそらく今日もまた売春夫を買いにきてたのだろう。僕に先客が来てたから違う売春夫を買っていつもの手順で全裸にしてロープで縛って……
 「―あの男か」
 冷えた声がした。
 ロープの痕も生々しい手首を庇った反応で全てを悟ったらしいサムライが殺気が先鋭化した猛禽の双眸で例の看守を凝視してる。瞬きもせず、真剣の切れ味の目で看守を見つめるサムライに短く答える。
 「ああ」
 刹那、残像だけ残してサムライの姿が消失した。
 次にサムライが現れたのは缶詰に足をとられて二進も三進も行かずに立ち往生してる看守の眼前。
 サムライの拳が風切る唸りをあげて宙に弧を描き、悲鳴をあげる間もなく看守の顔が大きく仰け反った。サムライが拳を振るうところを初めて見た、と呑気に驚いた僕を正気に戻したのは続く鈍い音。
 一発、二発、三発。
 「な、なんひゃよいきなひ……おひぇがなにしひゃってんひゃ!」
 「覚えがないか」
 サムライに殴られ、顔面を鼻血の朱に染めた看守が腰砕けにあとじさりながら喚き散らすのを摺り足で追い詰める。三歩まで近付いて、サムライの双眸が剣呑に細まる。看守のズボン、そのポケットから垂れ落ちてるのは紛れもないロープ。あのロープにも見覚えがある、容赦なく手首に食い込んで苦痛を与えてくる固い縄目の感触を忘れようにも忘れられない。
 普段は抑制が利いてる殺気が理性の枷から解き放たれ、それ自体が不可視の刀の如き凄まじい威圧感を伴ってサムライの全身から放射される。 
 「覚えがないなら思い知らせるまでだ」
 サムライが間合いに踏み込んできて、恐怖が最高潮に達した看守がそばに転がってた消火器をかん高い奇声とともに振り上げる。脳天から耳の痛くなる奇声を発して立ち向かってきた看守からあとじさったサムライの前髪を力任せに振り下ろされた消火器の風圧が舞い上げる、長く伸びた前髪の下から覗いたのは冷え切った双眸。
 「看守に逆らっひゃら殺されひぇも文句ねえひゃ」
 喉から息が漏れるような間抜けな発声は歯が何本か折れているためだろう。血まみれの顔で醜く笑った看守がサムライの頭蓋骨を陥没させようと両手に抱えた消火器を振り下ろし、
 白い煙が噴出した。
 ドアから流れてきた煙ではない、これは……消火器の煙だ。サムライに間一髪かわされたせいで的を逸した消火器が床を穿ち、その衝撃で栓が抜けて勢いよく煙が噴出したのだ。煙をおもいきり吸い込んではげしくむせ返る看守の眼前、厚い煙幕越しに幽鬼めいた影が揺らめく。優雅な足捌きとともに煙の筋を引いて現れ出でた男が右手に握り締めていたのは…… 
 何の変哲もない、ただの箸。
 しかし、それを握っているのがサムライとなれば話は別だ。箸はただの食事道具ではなく十分人を殺傷できる凶器になる。
 「外道が」
 口にするのも汚らわしいと吐き捨てたサムライに怯え、壁を背にしてあとじさった男のポケットからロープがこぼれおちる。ポケットから垂れて床にひきずられたロープを一瞥、その先端を無造作に掴んで拾い上げたサムライが手首を撓らせて一気にポケットから引き抜き、目にも止まらぬ速さで看守の足もとへと投げる。気が動転し、一刻も早くサムライから逃げることしか頭になかった看守の足にロープが絡まって縺れさせ、結果的にひっくり返る。売春夫を縛るために持参したロープに文字通り足をとられるかたちになった看守が顔面蒼白で上方を仰げば、サムライが無表情に箸を振り上げたところだった。

 「鍵屋崎の手首の分は爪一枚で勘弁してやる」
 
 視界が真っ白になるまで煙がたちこめた廊下に濁った絶叫が響き渡った。
 一瞬、いや、瞬き一回にも満たない一刹那の早業で何が起きたのか肉眼で見定めることは不可能だったが、床に落ちた血まみれの爪と赤い肉が露出した右手中指、そして爪が剥がれた中指をおさえて悶絶する看守とを見れば何が起きたか察しがついた。爪と肉の間に箸をさしいれて一息に引き剥がしたサムライが何の感慨もなく腕を振りかぶれば、箸の先端に付着した血痕が散り、鮮やかなまだら模様を廊下に描く。
 「やるねサムライ」
 場違いな口笛に振り向けば両手一杯に缶詰を抱えたレイジがいた。それで腑に落ちた、廊下に缶詰を転がして看守を足止めしていたのは彼自身だった。今だ苦悶に身を捩る看守に背を向けて戻ってきたサムライが嘆かわしげに周囲を見渡す。
 「お前はやりすぎだ。どう収拾つけるつもりだ」
 「ここまで騒ぎになるとはな。さすがプロの作品は威力がちがうね、ぼや騒ぎ程度でよかったのに……ヨンイルの野郎」
 後半は口の中で呟くだけに留めたレイジの横に目を向ければブラックジャックを胸に抱いたロンがいた。逃げるときに忘れず持ってきたのだろう、感心だ。
 彼と顔を合わせるのは一週間ぶりだ。
 ロンは目が合った瞬間気まずい顔をした。たぶん僕も同じような表情をしてるだろう。無理もない、この一週間壁一枚を挟んでみっともない声を聞かれてたのだ。正直こうしてまた彼と顔を合わせる日がくるとは思わなかった。イエローワークにいた頃とはこの一週間余りで何もかもが激変してしまったのだ、こうしてロンと再び顔を合わせ、いちばん最初に何を言えばいいか……
 『謝謝』
 「あん?」
 ロンが怪訝そうに顔を上げる。眼鏡のブリッジを押し上げるふりでそっぽを向き、無愛想に付け足す。
 「台湾中国の混血で物心ついた時から台湾語を日常会話として使ってきた君に質問だ。前述したのは台湾語で感謝の言葉だが、ネイティブな発音はこれで正しいか聞きたい」
 突拍子もない質問に当惑を隠せないロンだが、僕の機嫌を損ねてはまずいと彼なりに気を遣いながら慎重に答える。
 「……正しいもなにも、俺以上に正確な発音だよ」
 「そうだろう。君は育ちが悪いせいかスラングでだいぶ崩れてるからな」
 面と向かって「育ちが悪い」と言われてムッとしたロンが何か言おうと口を開きかけたのに素早く背を翻し、やや早口で弁解する。
 「それだけだ。僕はただアクセントの位置が知りたかっただけだ、他意はないから気にするな」
 「素直じゃないなあキーストア」
 振り向く。いつのまにか僕の横に並んだレイジが「お前の考えてることはお見通しだ」といわんばかりに意味ありげに微笑んでる。
 「……不可解だな。僕はただ自分の語学力に正確さを求めたかっただけだ」
 眼鏡のブリッジを押さえて吐き捨てる。背後でロンがきょとんとしてる。
 全く彼は頭が悪い、僕が礼を言ったのにも気付かないなんて。
 一週間ぶりにレイジとロンと顔を合わせ他愛ない話をしていたが今はそんな状況でもない、いや、状況は悪化する一方だ。廊下を逃げ惑う人ごみに揉まれながらサムライとはぐれることがないよう彼の背中を視界に納めてれば再び片腕を掴まれる。
 「離れるなよ」
 「わかってる」
 サムライの上着で顔を押さえて煙を避けながら階段めざして進む、僕らの背後では懲りもせずにレイジとロンが言い争ってる。
 「お前このために缶詰持ってきたのかよ!?」
 「足止めくらいにゃなると思ってな」
 「今度もうちょっとマシなもん持ってこいよ、缶きりなきゃ開かねえだろ缶詰なんてよ」
 「缶きりなくしたのか?」
 「………ちょっと、色々あって」
 「それよかすげえだろ、俺の射撃の腕。あんな狭い隙間からタジマの額一撃で撃ち抜いたんだぜ、褒めてくれよ」
 「俺の牌でな」
 「房にいっぱいあったから使わせてもらったぜ。……て、あれ?ひょっとして気付いてねえ?」
 「?何だよ、まだ何か俺に隠してんのかよ。だったら吐け、残さず吐いちまえ」
 「いや、あの時牌すりかえたの気付いてないのかなーって……ほら、コーラさしいれるときポケットから拝借して」
 「イカサマだったのか!?」
 「手癖悪いって言ったろ。だいたい麻雀牌が何個あると思ってんだ、一発で図案当てられるわきゃねえじゃん。お前単純すぎ、騙すの簡単すぎ。なんで今の今まで気付かないわけ?それともマジで信じてたの、必ず助けに来てくれるって」
 「この……!」
 手の甲に血管を浮かせてレイジの襟首を掴んだロンが最大限の自制心を発揮して振り上げかけた拳をおさめ、憮然と吐き捨てる。
 「……覚えてろ、無事この場を切り抜けたら徹底的にイカサマ仕込んでやるからな。あの程度で調子乗られちゃ博打じゃ負けなしの俺のプライドが許さない、麻雀のやり方ってやつを基本から叩き込んでやる。徹夜で付き合えよ」
 「徹夜で付き合うさ」
 相変わらず仲がいいのか悪いのかわからない。最も、それは僕とサムライにも言えるが。
 「どうだかな」
 心の中を見抜かれたような台詞にハッとして顔を上げれば、僕の腕を掴んだサムライが微動だにせず正面の虚空を見つめている。
 「この場を無事切り抜けられるかわからない」
サムライの視線につられて僕とロン、レイジの全員が正面に向き直る。たった今エレベーターの扉が左右に引き込まれ、中から悠然と降り立った人物がいる。三つ揃いのスーツを隙無く着こなし、若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた男の年齢は推定三十代前半。銀縁眼鏡がよく似合う知的な風貌はエリートの理想形だ。
 よく磨きぬかれた革靴で廊下を叩き、濛々と煙がたなびく中を悠然と歩みだした男は背後に数名の看守を引き連れていた。屈強な看守を従え、廊下の半ばまで辿り着いた男がレンズ越しの目を鋭く光らせて周囲を睥睨すれば、あれだけうるさかった廊下がしんと静まり返る。
 たった一瞥で混沌を静寂に塗り替えたのは、場違いなスーツ姿で現れた男が全身から発する威圧感のなせる技だ。
 冷水を浴びせられたように正気に戻った囚人と看守が廊下の両端にへばりつき、固唾を呑んで動向を見守る中、廊下の中央で立ち止まった安田がゆっくりとあたりを見回す。開け放たれた鉄扉から今だ漏れて来る煙で白く煙った廊下の天井、廊下一面に散乱した缶詰と消火器、何が何だかわからぬまま殆ど裸同然で逃げ出してきた看守と囚人……
 そして、満を持してエレベーターから降り立った一団と奇しくも対峙する形で停止を余儀なくされた僕達。
 「端的に聞く。誰の仕業だ」
 先刻サムライに向けて発射され、からになった消火器を靴の先端で軽く転がし、無表情に呟いたのは……
 安田。
 東京少年刑務所の副所長の地位にある男だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060117212113 | 編集

 「俺の仕業だ」
 何故暴露するんだ。
 レイジは破滅的なまでに頭が悪い。廊下のあちらとこちらで安田率いる上層部の人間と対峙した状況下で自白して何の利益がある、立場が不利になるだけじゃないか。安田の進路を妨害するが如く正々堂々廊下の真ん中に仁王立ち、得意げに胸を張ったレイジに満場の注目が集まる。廊下で煙に巻かれて咳き込んでいた囚人も行為の途中で逃げ出してきたのだろう半裸の売春夫も驚きに目を見張ってレイジの動向を凝視している。それはレイジ周辺の僕らとて変わらない、レイジの隣にいるロンは開いた口が塞がない状態で立ち尽くし、サムライは片手に箸を握り締めたまま黙然と佇み、僕はといえば呆れて物も言えずにレイジの後頭部を見守るしかない。
 「安田さん、全部こいつの仕業ですよ!」
 金切り声の喚き声に顔を向ければ安田のすぐ背後からタジマが顔を覗かせていた。ベルトを緩め、ズボンの前をだらしなく寛げたタジマが不自然な前屈みの姿勢でまくしたてる。
 「俺はこの目でばっちり見てたんだ、レイジがロンの仕事場に殴りこんできてこともあろうに主任看守の俺を掴まえて火、煙草の火を……」
 「あんただっておんなじことやっただろう」
 口角泡をとばして怒鳴り散らすタジマを醒めた目で眺めてレイジが笑う。短く喉を鳴らして嘲ったレイジが前触れなく傍らのロンの手首を掴んで自分の方へと引き寄せる。不意をつかれたロンの体が大きく揺らめいてバランスを崩し、レイジの胸に抱かれる格好で褐色の腕にとびこんでいったのは本人にとっては不幸な事故だろう。
 「おい何すんだよ放せ、人が見てんだろ!?男に抱かれるなんて気色わ、」衆人環視の中、レイジの腕に抱きすくめられたロンがはげしく身を捩って喚き散らすのを完全無視して手首を掴むや安田達によく見えるよう袖を引き下げて右手の甲を掲げる。それまで袖を引き上げて隠していた手の甲が外気に触れ、人目に晒される。
 現れたのは丸い火傷、この形状には見覚えがある、煙草の先端を押し付けられた時に出来る特徴的な火傷だ。まだ出来てから日が浅いらしく皮膚が焦げた表面が生々しかった。
 ロンの火傷を見た瞬間、タジマの顔が青褪める。それでわかった、ロンの手に煙草を押し付けた犯人が。悔しげに歯軋りしたタジマに冷ややかな一瞥をくれ、安田が問いただす。
 「君がやったのか、但馬看守」
 「ご、誤解ですよ安田さん……」
 鋭い眼光に射竦められ、窮地に陥ったタジマが生唾を嚥下して弁明に転じるが事実を否定するだけの根拠がないためか語尾も歯切れ悪くなる。しとどに冷や汗をかき、愛想笑いで安田の機嫌をとりながら口を開く。
 「そりゃまあ俺がやったのは否定しませんけど、これにはちゃんとわけがあるんです。ほら知ってるでしょ?あの台中半半のガキが一週間も強情張って閉じこもって売春拒否ってたのは。いくら寛容で温厚な俺にもこれには堪忍袋の緒が切れましてね、ちょっとお灸を据えてやったんですよ。もう二度とこんななめた真似しねえようにって……」
 「あと二箇所ある。人前でロンの服剥ぎたくないから見せねえけど」
 「人に見られて興奮する趣味はないんでね」と軽口を叩きながらパッと手を放したレイジから素早く距離をとったロンが「よく言うぜ節操なしが」と聞こえよがしに毒づく。
 通気口に何を放り込んだかは知らないが漸く効果が切れてきたのだろう、廊下に充満していた煙が薄まって次第に視界が晴れ、呼吸しやすくなる。拭われたように晴れてゆく視界の中、廊下の半ばで立ち止まった安田とレイジが一歩も譲らず互いを牽制してる。安田は無表情で、レイジは挑戦的な笑みを浮かべて。刑務所上層部の人間が相手だというのに怖じるところは微塵もなく、怯む気配は毛頭ない。もはや最大にして最強の特徴となった笑顔で飄々と嘯く。
 「ひとつ忠告だ」
 芝居がかった振り付けで両腕を広げたレイジが意味ありげに背後を振り返り、サムライが持ってる箸へと視線を投げる。
 「売春夫の身体検査は徹底してるみたいだけど今度から客の身体検査もちゃんとやったほうがいい、客の身体検査がおざなりなもんだからポケットに入る物なら簡単に持ち込めちまう。たとえば箸」
 安田に向き直り、怪しくほくそ笑む。
 「たとえば爆弾」
 安田の背後に付き従っていた看守が息を飲み、廊下に居並んだ野次馬にまで動揺と緊張が伝染した。不均衡な沈黙を破ったのは安田の威を借りたタジマの罵声だった。 
 「レイジてめえ何とち狂ってやがる、こんな大騒動起こしてタダで済むと思ってんのかよ。連戦連勝のブラックワーク覇者だろうが東棟のトップだろうが関係ねえ、お前らは所詮囚人で看守にゃ逆らえない運命なんだよ。売春班を大混乱に陥れた罪は重いぜ、最低でも独居房一ヶ月は覚悟しやがれ」
 ヤニ臭い歯を剥きだし、凄味を利かせて唸るタジマの目には囚人をいたぶることに陰湿な喜びと倒錯した快楽を見出す嗜虐の色が渦巻いていた。「独居房」が意味するのは明白な脅迫、囚人にとっては何よりも恐ろしく厳しい罰。嗜虐の笑みを湛えたタジマが腰の警棒に手をかけるのを見てはじかれたようにロンが飛び出してゆく。
 「ちょっと待てよ、おかしいだろ。レイジは何もやってない、ただ同房の俺を助けに来ただけだ。独居房送りにするなら一週間も閉じこもってさんざんあんたの手を煩わせた俺だろう?」
 煙草の火傷も癒えてないのにタジマと相対し、恐怖心に飲み込まれかけてもなお強い眼光を放つ双眸には力及ばずながらレイジを守ろうとする真剣な色がある。人に媚を売ることなく生きてきた野良猫のように強気に、その実痛々しいまでの切実さでレイジを庇ってタジマに殴りかかろうとしたロンの肩に褐色の手が置かれる。
 褐色の手を辿って振り向けば、背の低いロンを覗きこむようにレイジが微笑んでいた。
 実際に口に出したわけではないが、僕には彼が「いいから」と目配せしてるように見えた。いいから俺に任せておけ、と。ロンの肩を掴んで半ば強引に引き下がらせたレイジが悠々たる足取りで廊下に踏み出し、安田を先頭にした一群との距離をゆっくり詰めてゆく。
 「ホントはぼや騒ぎの混乱に乗じてロン連れてトンズラするつもりだったんだけど安田さんがしゃしゃり出てきたんだ、いい機会だしちょっと俺とお話しない?」
 「話?」
 レイジの真意を測りかねて胡乱げに繰り返した安田の手前で立ち止まったレイジが、所在なげに廊下に立ち尽くしていたあられもない風体の野次馬をぐるりと見渡す。
 「今ここにいるお前らが証人だ。耳の穴かっぽじってよおく聞いとけよ」  
 「レイジお前なに勝手なことほざ、」
 「いい」
 「しかし安田さん、」
 「下がってろ但馬看守」
 「そうこなくちゃ」 
 警棒を振り上げて殴りかかろうとして安田に諌められ、渋々警棒を下ろして腰に戻す。双眸に殺意を漲らせ、分厚い唇を怒りにわななかせたタジマが射殺しそうな眼圧でレイジを睨んでいるが当の本人は気にもしない。
 ところどころ割れ砕けた蛍光灯が華やかな照明に、荒廃した廊下が数多くの聴衆が固唾を呑む舞台へと変貌し、垢染みた囚人服のレイジと三つ揃いのスーツの安田が同格の役者のように互角に対峙する。作為か無作為か、仄暗い照明に映える一挙手一投足が酷く洗練されて見えるのは舞台に上がった役者の容姿が優れているせいだろうが。最も、仕立てのよいダークグレーのスーツを隙無く着こなした安田と対峙したレイジが全く見劣りしないのは一重に身に纏うオーラ故だろう。
 血で喉を潤し生肉で腹を満たす、野生の本性剥き出しの好戦的なオーラ。
 「副所長として、いや、ひとりの人間としてあんたに聞きたい。東京プリズンの強制売春制度についてどう思う?」
 ポケットに指をひっかけた自堕落な姿勢はそのままに、欠伸でも噛み殺すようにレイジが問う。見せかけの無防備さで相手を油断させて喉笛に喰らいつく豹の策略。対して安田はこの策略に嵌まることなく、淡々と、しかし律儀に答えを返す。
 「私とて現状を是認してるわけではない。売春班などというシステムは非人道的過ぎる、いくらこの刑務所に収容されてるのが凶悪犯罪を犯した受刑者といえど異性愛嗜好の少年に売春を強制するなど……正直反吐がでるな」
 「じゃあ何で見て見ぬふりしてんの」
 「私とて改革したいと思ってはいる。しかし、売春制度廃止を会議で提案するたびに大半の看守から強硬な反対にあってな……今だ実現に至らないのだ」 
 銀縁眼鏡のブリッジを押さえた安田が苦渋に満ちた口調で吐き捨てるのをレイジは鼻で笑う。
 「そりゃそうだ、看守だって恩恵に預かってるもんな。売春班がなくなりゃ高い金払って風俗行くっきゃなくなる、おまけにちょっとカッときて風俗嬢殴ったら訴訟問題になりかねない。その点売春班なら安心だよな、どんな変態プレイだってタダで楽しむことできるし殴ったって文句言わねえ、独居房を脅しに使えば命令通りに言うこと聞いてくれる。刑務所でヤってりゃ自分たちの倒錯した嗜好や危ねえ趣味が世間にバレる心配もねえし社会的立場も安泰ってか」
 「そういうことだ」
 あっさり肯定した安田が威圧的な眼光で廊下を睥睨すれば、針の眼差しに射竦められた看守が一斉に首を竦める。確かに安田は副所長だが、だからといって東京プリズンに何十名といる看守全員に言うことを聞かせるのは難しい。副所長として、否、ひとりの人間としての正義感から売春制度廃止を訴え自分の意見を押し通そうにも、議題を提出した時点で個人の欲望を優先する連中に妨害されては改革に乗り出せるはずもない。安田が売春班の存在を快く思ってないのは明らかだがだからといって一人ではどうすることもできない。
 安田は無能ではないが、東京プリズンにおいては実質無力なのだ。僕と同じく。
 「………」
 こんな状況だというのに安田に共感を覚えた僕はおかしいだろうか。いや、この感情は同族嫌悪に近いかもしれない。僕がかつて鍵屋崎優に感じたのとおなじ―
 「じゃあ話は簡単だ」
 物思いから醒めた僕の目に映ったのは飄々と笑うレイジ。
 「安田さんは売春班の存在を容認してない、俺も売春班はいけすかない。そんなわけで……」
 おもわせぶりに人さし指を立て、さらりと。

 「ブラックワーク撤廃を要求する」

 「ふざけんなよ!」
 次の瞬間、不満が爆発したかの如きブーイングが一斉に降り注ぐ。それまで固唾を呑んで事態の推移を見守っていた野次馬に事ここに至って我慢の限界が訪れたらしく、相手がレイジだというのに容赦なく罵声と怒声と野次を浴びせかける。  
 「ブラックワークなくなったら東京プリズンで唯一のたのしみがなくなるじゃねえか!」
 「勝手なことほざいてんじゃねえ、いくら東棟の頭だからってノリだけで調子いいこと吹かしやがって」
 「売春班なくなったら今度からどこで男買えばいいんだよ」
 「オナニーで我慢しろってか?冗談じゃねえ、穴に突っ込んでひいひい言わすことできねえんじゃ物足りねえ!」
 囚人も看守も、怯えたように黙りこくってる売春夫以外の全員が一致団結して拳を振り上げて猛然と抗議する。礫の如く上空を飛び交うのは無数の缶詰、廊下一面に転がった缶詰を次々手にとってはレイジめがけて力一杯投げ付けている野次馬たちへと我を忘れて突っこんでいきかけたのはロンだ。
 「お前らこそ何勝手なこと言ってんだ、てめえのタマ軽くすることしか考えてねえ屑が、売春班のガキのことなんか……」
 せわしく缶詰が飛び交う中、怒りに顔を上気させたロンが飛び出しかけたのを片手で制する。
 「大人しく傍観してろ」
 「なんで止めんだよ!?」
 怒りの矛先を僕へと転じたロンが悔しげに歯軋りする。何故ロンを止めたのかだって?馬鹿なことを聞く、今彼が飛び出して行っても事態を悪化させるだけだ。当事者のレイジと安田、そしてサムライを除けばこの場で唯一冷静な僕が頭に血がのぼって誰彼構わず殴りかかっていきそうなロンを諌めなくてどうするんだ。
 缶詰の幾つかが蛍光灯に命中して破片が飛び散り、廊下の照明がふいに暗くなる。集団ヒステリーに陥った囚人が口々に奇声を発し、または聞くに堪えない罵声をとばし、廊下中央で対峙したレイジと安田めがけて大きく腕を振りかぶり缶詰を投擲してる。安田に従っていた看守数名は巻き込まれてはたまらないと頭を抱えこんで床に伏せ、ズボンの前をだらしなく寛げたタジマも身を丸めて床に這いつくばっていた。滑稽きわまりない。
 「認めねえぞ、売春班廃止なんて……売春夫いなくなったらお前がケツの穴擦り切れるまで相手してくれるんだろうな、レイジ!」
 おそらく東棟の人間なのだろう少年が、騒音が最高潮に達して飽和状態の廊下でも一際際立つ大声で叫び、風切る唸りをあげて腕を振りかぶる。その他大勢に紛れてわからないとでも楽観していたのか、度外れの喧騒にかき消されて自分の声が届くはずもないと安心していたのか、少年が力一杯投げた缶詰はレイジのこめかみに命中し、鈍い音が鳴った。
 「!レ、……」
 血相替えたロンがレイジへと駆け寄りかけ、一歩足を踏み出して周囲の異変を悟る。潮が引くように廊下の喧騒が止み、缶詰を投擲しかけた姿勢のまま全員が硬直する。廊下の真ん中、かわす気になればラクにかわせたのにも関わらず甘んじて缶詰の直撃を受けたレイジのこめかみが切れ、つ、と血が一筋流れ落ちる。
 「最後まで聞けよ」
 ゆっくりとした動作で手を掲げ、ぱっくり切れたこめかみを覆う。五指に染みた鮮血にも怯むことなく、血まみれの顔でレイジが笑う。
  闘争心に火がついた獰猛な笑顔。 
 「だれが『タダ』で売春班廃止するって言った?お前ら何か勘違いしてんじゃねえか。いいか、これは賭けだ。賭け好きだろうお前ら、そうさ、東京プリズンの人間は看守も囚人も博打好きの屑揃いだ。だったらお前らがお気に召すやり方で正々堂々売春班潰してやろうじゃんか」
 深呼吸し、目を瞑る。開く。
 爛々と輝く双眸で廊下を睥睨したレイジが驚くべき提案を口にする。 

 「俺とサムライがブラックワークペア戦に参加して100人抜き、イコール50組抜きを達成する。その見返りとして売春班撤廃を要求する」

 なん、だって?
 レイジの言葉に耳を疑う。反射的にサムライを振り返れば本人は動揺した素振りもなく静かに腕を組んでいた。ということは、サムライも承知の上なのか?レイジとサムライは売春班を潰すために、それぞれが僕とロンを救出に向かう前に事前に打ち合わせしてたというのか?ありえない、こんなこと馬鹿げてる。非常識にも程がある。何とか言えサムライ、と詰め寄ろうとした僕の鼻先をスッと影が過ぎる。僕に口を開く間を与えずにレイジの背後に歩み寄ったサムライがゆっくりと腕組みを解く。  
 サムライが隣に並ぶと同時にレイジが軽く息を吸って続ける。
 「悪い話じゃねえだろ。俺が東京プリズンに来てから娯楽班の順位変動がなくなって観客も退屈してた、何が原因て俺が強すぎて入所以来ずっと一位独占してるのが原因だ。下克上が醍醐味だってのに盛り上がりに欠けること甚だしいよな、これじゃ。でも、俺とサムライが組んだらどうだ?東棟の実力ナンバー1とナンバー2の最強コンビが強豪100人50組を相手に連戦連勝成し遂げるって宣言したんだ、不確定要素多くて面白くなりそうじゃんか、なあ」
 「負けたらどうするんだ?」
 冷ややかな挑発ともとれる安田の発言に返されたのは衝撃的な答え。
 「俺が売春班に入る」
 廊下に群れていた黒山の人だかりが興奮に色めき立ち、好奇心もあらわにざわめく。僕の隣でロンが息を飲むのがわかった。顔をひきつらせたロンの視線の先、こめかみから血を滴らせたレイジがにやりと安田に笑いかける。
 「俺と寝たくない?安田さん」
 「俺が負けたら手首の腱を切ってもらって構わない」
 何か言おうと口を開きかけた安田を遮り、レイジの隣に並んだサムライが無造作に手首を突き出す。腱……馬鹿な、手首の腱を切ったらもう二度と刀が握れなくなるじゃないか。刀はサムライの命なのに、
 「それで割に合わないというなら処理班に落としてくれ。男色の趣味がないから売春班は慎んで辞退するがな」
 「なに言ってんだよあいつら……」
 横を向く。顔面蒼白のロンが、信じがたいものでも見るかのようにサムライとレイジの背中を凝視していた。恐らくは無意識だろう、縋り付く物を欲して僕の片腕を握り締めたロンに早口で言い含める。
 「わからないのか?彼らは売春班撤廃を要求してペア戦に出場すると、もし負けたらレイジは売春班に、サムライは手首の腱を切って処理班に回されてもいいと言ってるんだ」
 「ふざけんなよ、頭おかしいんじゃないか。100人抜きなんて無茶だ、死ぬに決まってんじゃねえか」
 「ああ、全く同感だ。完全に狂ってる」
 サムライとレイジは僕らの身代わりに自分たちの身を犠牲にしてもいいと、僕らを救い出すためには手段を選ばないとそう言ってるのだ。これを完全に狂ってると言わずして何と言う。心臓を掴まれたように立ち竦んだ僕とロンの視線の先、ごしごしとこめかみを拭ったレイジが血で汚れた手で壁を叩く。
 「どうだ、悪かねえ話だろ。矢でも鉄砲でも爆弾でも何でも持ってかかってこい、俺とサムライがリング上で相手してやる。俺に勝ったらブラックワーク覇者だ、キャビアの缶詰だろうがフィリピン産のコーラだろうがなんでも好きな物が好きなだけ手に入る特権階級に昇格だ。どんな卑怯な手使ってもかまわねえからブラックワークの王座から引きずり下ろしてみろ、東京プリズン最強の栄冠と最高の栄誉をくれてやる。そんかしブラックワーク覇者が決定するまで売春班の業務は休止、文句がある奴は俺んとこに来い。売春班のガキどものぶんまで千人でも二千人でもケツの穴擦り切れるまで相手してやるよ」
 血が付着した手の甲で口を擦れば、レイジの唇が紅でも引いたように朱く染まる。美味そうに血を啜る唇、生命の躍動を感じさせる鮮烈な赤に魅入られ、激しい衝動に突き動かされた観衆が叫ぶ。
 「乗ったぜ、それ!」
 「おもしれえじゃんか!」
 「やれるもんならやってみろよ、100人抜き。王様とサムライの底力見せてみやがれ」
 東京プリズンの囚人は刺激に飢え、日々新しい娯楽を欲してる。先刻とは一転、「ブラックワーク100人抜き」という目標を立ち上げたレイジの提案は熱狂的に歓迎された。皆が皆大いに乗り気で異を唱える者など誰もいない、いや、仮にいたとしても鼓膜も痺れる大歓声に圧倒された状況下で自己主張などできるはずがない。
 「王様!」
 「王様!」
 「王様!」
 「サムライ!」
 「サムライ!」
 「サムライ!」
 最初に声をあげたのは誰か、もはやわからない。皆が皆手拍子を打って廊下中央に立ち尽くすレイジとサムライに喝采を送っている。看守も囚人も、廊下に居合わせた全員がこの先の展開に昂揚感を膨らませ、頬に興奮の朱をさして子供のようにはしゃいでいる。高まる一方の手拍子と賞賛の声の中、口角を痙攣させ、ひきつり笑いを浮かべたロンが口を開く。
 「……鍵屋崎。お前、刑務所の中にまで民主主義は持ち込めないって言ったよな。じゃあ、これはなんなんだよ」
 廊下に居合わせたほぼ全員がレイジの英断を賞賛し、安田の決断を後押しするかの如く足を踏み鳴らして手を打ち鳴らしてるせいで地震が来たように壁と床が震動してる。ひりつくような熱を孕んで温度が急上昇した大気の中、唾を嚥下して言葉を返す。
 「これは、王様の独裁主義だ」
 耳が割れるような歓声に背を向け、それまで押し黙っていた安田が小さくため息をついてブリッジを押し上げる。
 そして。
 「……いいだろう。要求を飲もう」
 王様の勝利だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060116212229 | 編集

 刑務所の隠語。
 看守の目を盗んで交わされる囚人間の伝言をキャノンボールと言う。レイジが安田に宣戦布告した一件はまさしく尻に火がついたキャノンボールの速さで東京プリズンに出回った。
  
 「聞いたか、レイジが安田に喧嘩売ったって」
 「売春通りのぼや騒ぎもレイジの仕業なんだろ。何考えてんだ、あいつ」
 「同房の半半守るためなら手段は選ばないってか、王様も無茶やるぜ」
 「面白いことになりそうじゃんか、ブラックワーク100人抜き!」
 「ひさびさに燃えてくるなあ。いくらレイジが化け物みたいに強くても100人50組の強豪相手にストレート勝ちはむずかしい、てか不可能だろ実際。俺の見立てによると50組目でザセツだな」
 「いや、もっと行くだろう。レイジとサムライの最強コンビなんだからよ、40組は突破するだろう」
 「賭けようぜ賭けようぜ!」
 「落ち着けよ、まだ試合始まってねえだろうが」
 「ひょっとするとひょっとして100人抜き達成したらどうなるんだ、マジで売春班撤廃?いやだぜ俺、右手が恋人なんてむなしい」
 「そうなったらレイジがケツ貸してくれるそうだ、ははっ、いいじゃねえか。あいつキレイなツラしてるもんな、ケツの方もさぞかし締まりがあってキレイな色形してるんじゃねえか」
 今日も今日とて出張サービスを終えてビバリーの待つ房への帰り道、廊下にたむろった連中がさざめいて噂してるのは売春通りの一件。普段王様の前じゃびびって縮こまってる腰抜けどももレイジの姿が見えなきゃ言いたい放題だ。ぼや騒ぎ発生時に売春通りに居合わせて一部始終を目撃した囚人が当時の状況を面白おかしく吹聴して仲間を焚きつけ、廊下でも食堂でも図書室でも中庭でも囚人が寄り集まればごく自然な流れで「100人抜き実現は成るか否か」が話題になった。
 今じゃレイジとサムライの最強にして最凶コンビが100人抜きを達成するか否か、また100人50組抜きは不可能でも半分は行くか、行くとしたらどこまで行くかが全棟ひっくるめた最大の関心事かつ賭けの対象となりここ何日かの東京プリズンはお祭り前の浮かれ騒ぎ状態。まだペア戦開始前だってのに気の早い連中は賭けをしてお祭り騒ぎの雰囲気を盛り上げてる始末でもうぶっちゃけ手に負えない。
 「はい50組以上は手を挙げろ、50組以下は人間はこっち!何組目で負けるかつまずくか見事予想できた奴は賭け金独り占めだ、いちばん人気は38組目で12人、大穴は12組目と98組目!」
 身振り手振りをまじえ、黒山の人だかりを成した囚人に声を張り上げてる賭けの胴元の背後をサッと通り過ぎる。「12組、12組に賭けるぞ!」「ばか、楽勝で20組突破するに決まってんじゃん」「大穴狙いで一攫千金狙うんだよ、俺は」と小突き合う暇人どもに背を向け、そのまま10メートルほど行くと房が見えてきた。
 扉に凭れ掛かってる人影も。
 変なの。まるで待ち伏せしてるみたいじゃんか。妙な胸騒ぎを覚えつつ、スキップするような足取りはそのままに扉に接近するにつれ不審感は驚愕に変わる。腕組みして鉄扉に凭れ掛かっていた人物が僕のよく知ってる奴だったから。鉄扉によりかかって僕を待ち伏せしてた、としか思えないそいつは僕の接近にも気付かずに本を読み耽っていた。ちょっと覗きこんでみたけど行間の狭い、字ばっかりで埋め尽くされた本だ。挿絵がない本を読みたがるやつのさっぱり気持ちがわからないのは僕の愛読書が不思議の国のアリスだからかな?……関係ないか、それは。
 1メートル手前で僕が立ち止まったのにも気付いてるのかいないのか、もしくは気付かないふりをしてるのか全く読み取れないポーカーフェイスで読書に集中してる人物に声をかける。
 「何読んでるの?」
 声に反応し、こっちを向いた顔はあからさまに不愉快そうだった。読書を邪魔されて不機嫌なのはわかるけど、だったら人の房の前で立ち読みなんかしてんなよ。
 「トルーマン・カポーティーの『冷血』。あと3ページで読了できたのに、全く間が悪い」
 その口ぶりから察するに待機中ずっと読書してたらしい。長く待たされて不機嫌、というより読書を邪魔されて不機嫌という本音を隠しもしないあたりいい性格をしてる。渋々栞を挟んで本を閉じ、そこで改めて僕へと向き直る。怜悧な知性を宿した切れ長の目と薄く整った鼻梁。銀縁眼鏡がよく似合う理知的な風貌に大人びた雰囲気を纏った少年の名前は鍵屋崎直、僕とはいじめっ子といじめられっ子の関係。もちろん鍵屋崎がいじめられっ子。
 「……じゃあ図書室か自分の房で読みなよ。人の顔見て開口一番間が悪いって、なにそれ」
 憤慨したフリで鍵屋崎を押しのけてノブに手をかければ呼び止められる。
 「用がなければそうしたかったな」
 「用?」
 ノブを握って振り返れば本を小脇に抱えた鍵屋崎が無表情にこっちを見返していた。まじまじと鍵屋崎の顔を見つめて、その視線が若干鋭くなったことに気付く。売春班で強制的に客をとらされてた一週間で体重が減ったらしい、本を抱え直すときにちらりと袖口から覗いた手首なんか女より細くて痛々しいし、肉が削げたように細い首筋からは嗜虐心をくすぐる色香が立ち上ってる。 
 でも、それより僕の目を引いたのは鍵屋崎の手首にくっきり残るロープの痕。青黒く鬱血した縄目の痕のほかに、たとえば注射針の痕は見当たらないだろうかと無意識に手首を追っていたら不審の眼差しを向けられてハッとする。
 「廊下で話すのは気が散るでしょ?中入ってよ」 
 鍵屋崎は拒まず、あっけないほど不用心に房へと足を踏み入れた。鍵屋崎が僕の房に足を踏み入れるのは二度目だ。この前訪れたのはもう数ヶ月前になる。時が経つのは早い。そして人が環境に馴染むのも。ビバリーは留守で房はからっぽだった。
 鍵屋崎とふたりきり。
 何となく息が詰まる。一度殺されかけた相手の生活空間だっていうのに鍵屋崎ときたら警戒心がカケラもない、いや、一対一ならどうでにもなると安心しきってるのだろうか。鉄扉に凭れ掛かった姿勢で腕組みしたまま僕へと冷ややかな視線を投げている。
 「で、用ってなに」
 「君に返したい物がある」
 「返したい物?」
 返して欲しいものじゃなくて?と続けようとして慌てて口を塞ぐ。当惑した僕と対峙した鍵屋崎がポケットを探って何かを取り出す。
 鍵屋崎が手にした物を見てぎょっとした。注射器だった。
 「君のだろう」
 確認、ではなく断言。先端に鋭い針を備えた注射器を無理矢理僕の手に押し付けた鍵屋崎の目には何の感情も浮かんでない。
 「なん、で」
 「この注射器は客が所持していた物だ」
 当たり前のことを説明させられる徒労に小さくため息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「いくらこの刑務所に薬物が蔓延してると言っても注射器なんて物騒な医療器具を所持してる囚人がそう多くいるとは思えない。そう、ドラッグストアの君を除いては。ここからは僕の推理だが、君はどこかで例の客と接触して注射器を渡したんじゃないか?不感症が物足りなくなったら覚醒剤を注射して脳に快楽物質を分泌させろと、いや、君は頭が悪いから実際にはもっと平たい言い回しをしただろうがそれはいい。君は僕のことを目の敵にして二ヶ月前も殺しかけたからな、僕をさらに追い詰めて精神崩壊に追い込むためにはそれ位するんじゃないか」
 「……証拠はあるの?」
 「ない。机上の空論だ」
 注射器をポケットに戻しながら慎重に問えば拍子抜けするほどあっさりした答えが返ってくる。余裕を見せ付けるようにゆっくり腕組した鍵屋崎が偉そうに顎を引く。
 「しかし僕は洞察力に優れてる自負がある、君に下した人物評価は間違ってないはずだ。異論があるなら聞くが」
 なんだ、この圧迫感は?
 これがあの下水道で、僕にやられるがまま無抵抗に徹してた鍵屋崎か?針金を口に突っ込まれて出血して指で口の中を揉まれて戻しかけて、苦しくて苦しくて涙目でうめいてたあの鍵屋崎?ほんの数日前、ちょっと妹のことに触れて挑発したら面白いくらい怒り狂って殴りかかってきたあの鍵屋崎?
 今の鍵屋崎には凄味がある。眼鏡越しに注がれる透徹した眼差しには僕の心の中まで見透かしてしまう徹底した容赦のなさが備わってる。精神的に不安定で繊細さと表裏一体の脆弱さを拭いきれずにいた以前の鍵屋崎とは段違いに冷酷で冷徹、僕のことなんか恐るるに足らないと宣言してるような態度が癪にさわり、注射器で膨らんだポケットに手を添えながら微笑む。
 「ご名答だよ名探偵くん。全く君が言う通りさ、彼に注射器渡してけしかけた黒幕はこの僕だ」
 言い訳は美しくない、もう全部ばらしちゃおう。どうせ鍵屋崎はお見通しなんだし。鍵屋崎の推理通り裏で糸を引いてたのは僕だ、サムライに手紙を配達したあと済まさなきゃいけない用件てのがそれだった。
 「あの客は他棟の人間だ。なぜ僕を買いにくるとわかったんだ?」
 「中央棟のエレベーター付近で待ち伏せしてたんだよ。地下一階の売春通りに降りるエレベーターの前をぶらぶらするふりで見張ってたら売春夫買いにぞろぞろやってきた連中が声高に話してるの聞こえてね。その中のひとりが言ったんだ、『喘ぎもしなけりゃ感じもしねえ、不感症は歯応えねえな』って。誰のことか一発でわかったよ、売春班の不感症と言えばひとりっきゃいないもん。あとは簡単、通りすがりの善人のフリして近付いたんだ、不感症に飽きたんならコレ使わない?って。実際いい取引だったよ、はしたお金と引き換えに注射器と覚醒剤渡して客はご満悦で君は天国イッちゃうほど気持ちよくなれる。ねえ、悪い話じゃないでしょう?みんながみんな幸せになれて損するやつはだれもいない」
 悪びれたふうもなく飄々と嘯いて上目遣いに媚を売るが鍵屋崎の表情は少しも変わらなかった。客に注射器を渡して覚醒剤を打つようそそのかしたのが僕だとわかっても激怒することなく、また、動揺することもない。ポーカーフェイスもここまで徹底してると気味が悪い。鍵屋崎の反応がないことに苛立ち、下から覗き込むように挑発的に見上げてやる。
 「で、覚醒剤打たれてイッた感想は?」
 「打たれる前にサムライが止めに入った」
 「なんだ」
 そんなことだろうと思った。舌打ちしながら身を引く。サムライときたら毎回いいところで邪魔に入る。作戦失敗が明るみに出た僕を見下ろす鍵屋崎の目に初めて感情らしいものが浮かぶ。

 軽蔑、そして冷笑。

 軽蔑されるのは慣れてるけど冷笑らしき片鱗が目に浮かんだのは意外だった。以前の鍵屋崎には悪事を暴露した僕に対して冷笑を浮かべるほどの精神的余裕や打たれ強さはなかったはずだ。いや、見間違いじゃない。よく見れば薄く整った口元にも人を食った笑みが浮かんでるじゃないか。東京プリズンに鍵屋崎が来てからの半年で初めて笑顔を見た気がして、思わずその表情に魅入られる。色のない唇から笑みがかき消えるのと鍵屋崎が背を翻すのは同時だった。
 「用件はそれだけだ。注射器は返却したぞ。床に落ちた時に強い衝撃を受けて壊れてるかもしれない、次に使用する時は十分注意しろ」
 皮肉っぽく付け足し、用は済んだとばかりに扉を開けて出て行こうとした鍵屋崎を咄嗟に呼び止める。
 「言い忘れてた。こっちも返したいものがあるんだ」
 「?」
 ノブに手をかけた姿勢で鍵屋崎が振り向く。鍵屋崎の視線を顔に感じながらごそごそポケットを探り、小さく折りたたまれたメモを取り出せば鍵屋崎の顔に驚きの波紋が広がる。
 「このまえ殴り倒されたときにポケットから落ちたみたい。気付かなかった?」
 小さく笑いながら問いかけるが本人は無言。ノブに手をかけたままの姿勢で魂を抜かれたように立ち竦み、僕の手の中の紙屑をじっと凝視してる。何も馬鹿正直に返してやることはない、とちらっと考えたが注射器を返しに来てくれた手前ただで追い返すのもフェアじゃない。正直言うとポケットに入れっぱなしにしたまま存在自体をすっかり忘れてたんだけど今日当人の顔を見て思い出した、まだ芽吹きもしない希望の種を僕が持ち歩いてることを。
 「返してほしい?」
 下唇を舐め、なぶるようにねっとりと問いかける。ノブから手を放し、ふたたび鉄扉を背にした鍵屋崎が真剣な面持ちで押し黙る。
 「何をすればいいんだ?」

 話が早い。

 切羽詰ったように声を絞り出した鍵屋崎にうっすらと笑みを浮かべる。僕の考えてることなんかはなからお見通しってわけか。さて、何をさせよう。僕が今握り締めてるのは鍵屋崎にとっては大事な大事な希望の種、何物にも変えがたい最愛の妹の消息を知る手がかりだ。こいつの目の前でメモを握り潰してやったら面白いかもしれない、拳で握り潰してびりびりに破り捨ててやったらどんな顔をするだろうと考えるだけで溜飲が下がる心地だ。
 いつだったか、展望台の突端に立った鍵屋崎が僕の目の前でママの手紙を破り捨てたように真似してみるのも悪くない。
 脳内で愉快な想像を巡らしながら鍵屋崎を観察し、閃く。
 「キスして」
 親鳥に餌をねだる雛のように口を尖らせば眼鏡越しの目がスッと細まる。接触嫌悪症の鍵屋崎がどう出るか楽しみだ。鉄扉を背にして追い詰められた状況じゃ逃げ場はない、この体勢から扉を開け放つのは困難だ。鍵屋崎の顔を下から覗きこむ姿勢で詰め寄って唇を奪いかけ、

 僕の襟首が、無造作に掴まれる。

 「!?」
 危うく声を出しそうになった。
 首筋にひやりとした感触。鍵屋崎の唇は冷たいんだな、なんて悠長なことを考えてる暇はなかった。おそらく三秒にも満たないだろう短いキスで、唇から伝わった体温の低さが首筋に浸透して肌が粟立った。乱暴に襟首を突き放され、びっくりして声もない僕の眼前、しつこく唇を拭いながら鍵屋崎が吐き捨てる。
 「これでいいだろう」
 「なんで首」
 「唇がよかったのか」
 「じゃあ最初からそう言え」と目で訴え、手の甲で唇を拭う。そりゃ場所まで指定しなかったけど普通キスっていや唇でしょう、ためらいもなく汗臭い首筋にキスするなんてどんだけウワテなんだよコイツ。天然だとしたらたちが悪い。それとも売春班で客をとってた一週間でキスの仕方からセックスの体位に至るまで基礎から応用まで全部仕込まれたってわけ?
 ……ああ、なるほど。
 「キスは売らないのが娼婦の意地ってわけ」
 「?何わけわからないこと言ってるんだ。もういいだろう、早く返してくれ」
 焦燥に駆られて手を突き出した鍵屋崎の顔を見上げ薄く嘆息、観念してメモを返す。僕の目論見は外れたけど一応約束は守ってくれたんだし、これ以上焦らして意地悪したら本当に絞め殺されちゃいそうだ。念願かなってメモを取り返したというのに鍵屋崎の顔は何故か晴れない。僕がいる手前今にも叫びだしたい喜びを必死に我慢してるのかとも勘繰ったけどそういう感じでもない。
 少しうなだれてるせいで華奢な首筋の白さが際立つ。じっと見てると絞め殺したくなる細首に幾つかの斑点が浮かんでいるのが目にとまる。売春班でセックス浸けの日々を送ってた時につけられた痣がまだ消えないらしい。首筋の痣を見られることにもう抵抗もないのか、無防備にうなだれた立ち姿は酷く嗜虐心をくすぐる。
 いち、にい、さん……声には出さず首筋の痣を数えてた僕の目の前で、次の瞬間、鍵屋崎が思いもよらぬ行動をとる。

 手の中のメモを、びりびりと破きだしたのだ。

 「………な!」 
 強烈な既視感。
 展望台の突端に佇んだ鍵屋崎が僕から奪った手紙をびりびりに破いて空へとばらまいた光景が鮮烈に蘇り、今、目の前の光景と重なる。
ちぎっては捨てちぎっては捨てを繰り返し、原形を留めぬまで細かくした紙屑を手を軽く振って虚空にばらまけば、それはまるで雪のようにコンクリートの床に積もってゆく。
 僕の足もとに散り、鍵屋崎の足もとにも散ってゆくメモの切れ端を指一本動かせずに見守っていたが、最後の一片が落ちきると同時にハッと我に返る。
 「なに考えてんだよ!!?」
 思わず大声を上げてしまった。
 我を忘れて鍵屋崎に掴みかかったのはママの手紙を破り捨てられた時のことを思い出してしまったからだ。せっかく人が親切に返してやったのにその好意を無にしやがって、許せない。そう息巻いて鍵屋崎の襟首を掴めば軽く胸を突いて押しのけられる。
 「僕にはもう必要ない」
 言ってることが理解できなかった。
 「必要ない、って」
 だってそのメモは、大事な大事な妹の消息を知る唯一の手がかりだろう。
 「もう妹さんのことはどうでもいいっての?」
 わけがわからなくて混乱する。だって鍵屋崎にとって妹は世界で一番大事な人間で、心の支えで、生きる意味で……希望で。僕にとってのママみたいなかけがえのない存在だったのに、もう必要ないってどういうことさ?
 「誤解するな」
 咎めるように声を荒げた僕を煩わしそうに一瞥して嘆息、ブリッジを押し上げる。
 次にその口から出たのは、驚くべき一言。
 「天才を見くびるなよ。メモの住所なんて暗記してるに決まってるじゃないか」
 「………………………………………………………………………………は?」
 「まったく君は馬鹿だな。その脳みそに詰まってるのはおが屑か?無能な案山子の生まれ変わりか?僕は円周率五千桁を暗記してるIQ180の天才だぞ、メモの内容を一読完全に理解しなくてどうするんだ」
 「ま、待て待て。じゃあなんでメモを取り返す為に言うコト聞いたの?それじゃ別に取り返す必要なんて……」
 「君には二ヶ月前といい今回といいずいぶん世話になったしささやかな意趣返しを試みたんだ。焦らしに焦らして返してやったメモを目の前で破かれて驚く君の顔はなかなか痛快だった」
 それだけの為に。
 たったそれだけの為に、僕にキスまでしてメモを取り返したっての?イカレてるよ完璧。絶句した僕を愉快げに眺める鍵屋崎の顔には切れ味鋭い冷笑が浮かんでいた。売春班に堕ちる前の鍵屋崎からは考えられないしたたかな笑み。
 ぞっとした。
 「……まあ、惠に繋がる唯一の手がかりを手元に残しておきたかったという側面も否定できないがな。住所は完全に暗記したとはいえ五十嵐が折角持ってきてくれたメモを不注意で紛失したらさすがに後ろめたい」
 と、全然後ろめたく思ってない口調で抑揚なく続ける。
 売春班を体験して鍵屋崎は変わってしまった。一度地獄に堕ちて這い上がってきた人間ほど強い者はない。這い上がれなければ死ぬまでだ。でも、鍵屋崎はしぶとく這い上がってきた。
 サムライの手を借りて。
 今の鍵屋崎はしたたかさでしぶとくて、強い。狩られる一方の無力な獲物じゃない、敵を油断させて隙を作り出して反撃に転じる知恵をつけた本当の意味で賢い獲物。
 話は全て終わったのだろう、ノブを捻って今まさに出て行こうとしてる鍵屋崎の背中にからかい半分に声をかける。
 「用心棒は迎えにきてないの?」
 「何か勘違いしてるんじゃないか?サムライは僕の―……」
 以前の鍵屋崎ならそこで言葉を探しあぐねて無力に立ち尽くすしかなかっただろう。でも、今は違う。ノブに手をかけて振り返った鍵屋崎の顔にはどこか誇らしげな笑みがあった。
 「『友人』だ」
 鈍い残響が鼓膜を震わす。鍵屋崎の姿が消え、ほっと息を吐く。安堵のため息?まさか、鍵屋崎にびびってたなんて認めたくない。絶対に。でもじゃあ、この汗ばんだ手はなんだ?腋の下を流れる冷や汗の正体は?
 複雑な心境で鉄扉を見つめてると鍵屋崎と入れ違いに騒々しく言い争う声が近付いてくる。何だ?何事だ、とノブに手をかけようとした僕の目の前で勢いよく鉄扉が開け放たれて転がり込んできたのはビバリーともう一人。
 ……やばい。
 「ちょっとリョウさんこの人どうにかしてくださいよ、今ぼくそこで賭けに参加してたのに無理矢理引きずってこられて」 
 「アホ抜かせ、賭けなんかあとやあと。今いちばん重要なんはユニコの身柄や、おいそこの赤毛のガキ、お前何日何週間延滞したら気が済むんや?図書室のヌシなめとんのか?ひょっとしたらひょっとしてブラックジャック九巻パクってトンズラこいたんもお前か?」
 「リョウさんはどう思います、レイジさんとサムライさんどこまで行くと思います?ぼくさんざん悩んだんスけど大穴狙いで50組100人抜きに賭けてみようかなーって。あの二人マジ強いじゃないスか、100人抜きもまんざらありえない話じゃないと思うんスよね!」
 「じゃかあしいワレ、今俺が話してんのや!横からいらん口挟むとケツの穴から指突っ込んで奥歯ガタガタ言わせるで!」
 「ちょ、ちょっとやめてくださいよ廊下で脱がさないでくださいよ破廉恥なっ、露出狂だと勘違いされるじゃないスか!それにそう、ケツの穴に指突っ込んで奥歯ガタガタ言わせるならリョウさんが先でしょう!?」
 あ、ひどい裏切り者。
 ビバリーの脇を絞めて廊下に立ってたのは東棟じゃ見慣れないゴーグルをかけた短髪少年。目が合うと同時に鉄扉を閉じようとしたらそれを見越されて素早く片足を突っ込まれる、片足をつっかえ棒にして扉が閉まらないよう妨害した少年が力づくで隙間を押し広げ……
 「―ちゅーワケや」
 借金を取り立てに来たヤクザ顔負けの迫力で笑ったヨンイルが扉をこじ開け、逃げ遅れた僕のズボンをむんずと掴んだ。 
 ……どうやらケツの穴に指突っ込まれて奥歯ガタガタ言わせられるのは不可避の決定事項らしい。
 なんてこった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060115212457 | 編集

 巨大な廃工場。
 ひと昔前に閉鎖された廃工場の一階には埃を被った圧搾機が放置され、鉄骨の梁が幾何学的に交差した天井からは大振りのチェーンがたれていた。天井の近く、壁の高い位置に穿たれた窓は板で目張りされてるせいで昼でも全体に薄暗く、埃臭く陰湿な空気がよどんでいる。
 仄暗い空間を照らすのは板の隙間から射しこむわずかな明かり。
 二階まで吹き抜けの天井は開放的に高く、鉄骨に反響して音がよく響くように設計されている。労働者で賑わっていたひと昔前ならさぞ圧搾機の稼働音がうるさかっただろうと予想されるが操業停止して人々から忘れ去られた今では物音をたてる原因とて見当たらない。
 間断なく轟音の唸りをあげて大気を震わせていたのだろう機械が完全に沈黙した廃墟の仄暗がりは不可侵の静寂に支配されている。
 天井の高い位置に穿たれた窓。目張りされた板の隙間から仄かに射しこむ一条の光に薄く埃が舞う中、静寂に溶けこむように工場の真ん中に佇んでいたのは一人の少年。
 肉の薄い瞼を閉ざした双眸は長く優雅な睫毛で縁取られ、ノーブルに筋が通った鼻梁はさながら生ける彫刻のよう。そろそろ少年期を脱しようという鋭い輪郭の中、形よく尖った顎からよく締まった首筋にかけてのラインが扇情的なまでに美しい。色褪せたTシャツと傷んだジーパンというみすぼらしい格好をしていても贅なく引き締まった四肢のしなやかさは十分に人目を引く。
 まるで豹のようだ。
 少年を見た誰もが口をそろえてそう言う。まるで豹のようだ、と。実際少年にはそう評価されるに相応しい敏捷性と獰猛さが備わっていたが、それよりはむしろ外見に起因した第一印象だろう。うなじにかかるくらいに伸びた髪は東南アジア圏の人間には珍しい明るい茶髪で、日の光を吸った藁のように柔和な色合いを見せている。彫りの深い顔だちはまだ若干のあどけなさを残しているもののおそろしく整っており、甘さと野性味が黄金率で溶け合った容姿から放たれるオーラには野生動物のフェロモンすら匂い立つ。
 人よりは獣に近い。
 廃工場の中央、瞑想するかの如く瞼を下ろして黙していた少年がゆっくりと目を開ける。
 肉の薄い瞼が緩慢に持ち上がり、現れたのは闇を射抜く眼光を放つ切れ長の眦。完璧な造作の双眸に嵌めこまれているのは精巧なガラス玉めいて色素の薄い茶色の瞳。人工物をおもわせる硬質さの瞳に宿る眼光はどこか狂気を孕み、目にした者を不安にさせた。肌の色は東南アジア圏特有の褐色、にもかかわらず髪と目は茶色。絹のような褐色肌に癖のない黒髪、という外見的特徴の東南アジア系黄色人種には珍しい髪と瞳の色を有しているのは西洋人との混血だからに他ならない。
 そしてそれこそが、彼が異端視される由縁だ。
 まどろみから覚めたように目を開け、つられたように視線を上げた先には茶褐色の空き瓶が横一列に並んでいた。約10メートルの距離がある。目測でおよその距離を割り出した少年は重さを確かめるように右五指を開閉、すっかり体温が馴染んだ銃のグリップを握り直す。 右手で銃のグリップを握り、左手でしっかりと銃底を支えて固定。発砲時に銃弾がブレないように注意しながら摺り足で足を開く。
 10メートル先に並んだ空き瓶の数は二十本。弾倉を交換する手間を考慮しても三十秒、いや二十秒以内には蹴りをつけたい。
 右手は黒光りするグリップを握り締めたまま、左手でシャツの首元をまさぐり内側の金鎖を手繰り寄せる。射撃訓練前には欠かすことができないまじないめいた儀式。左手に絡めた金鎖の先端、金色に輝く十字架に軽くキスをする。
 祈る神様を持たない人間でも、誰かに祈りたくなるときはある。
 こんな風に。
 『終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい』
 廃工場の仄暗がりに甘くかすれた声が響く。それが合図だった。
 声変わりの過渡期なのだろうハスキーな声が官能的に大気を震わせるとほぼ同時に乾いた銃声が連続して茶褐色の瓶が木っ端微塵に砕け散る、微塵となったガラスの欠片が宙に舞うも引き金を引き続ける。
 『そのときに人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者になり』
 引き金を引く指は止まらない。子供のように無邪気に、薄らと笑みさえ浮かべて銃を撃ちながら少年が口ずさんでいるのは聖書の一節。
 『情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり』
 「そいつは俺だ」と心の中で反駁して人を食った笑みを深めた時も引き金と連動した指は休めない。機械的なまでの正確さと精密さ、銃弾の発射から瓶を撃ち抜くまでコンマ一秒の狂いもなく引き金を引きながら聖書の一節を唱え続ける。
 『見えるところは敬虔であってもその実を否定する者になるからです』
 ここまで十本、全弾命中させることができたのは生まれ持った身体能力の高さと幼少期からの訓練の成果だ。そのことについて特に感慨はないが、血なまぐさい環境に磨かれた人殺しの才能に助けられ、14歳になる今日まで戦場で生きながらえてきたのもまた事実だ。実際彼に備わっていたのは人殺しの才能としか言いようがない危険極まりない性向だった。物心ついたときから身の周りにあるものはなんでも武器にするよう徹底して叩き込まれた。銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり。日常身の周りに溢れてる何の変哲もない日用品や雑貨も彼の手にかかれば容易に人を殺傷できる凶器へと変貌した。
 まだ試したことはないが、本の角で人を殺せる自負があるのは彼くらいものだ。
 『こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちはさまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるがいつになっても真理を知ることができない者たちです』
 女だけを責めちゃ可哀相だ、と彼は思う。女をたぶらかすのが男の甲斐性なら、それを承知で男にたぶらかされるのも女の甲斐性だろ?
 『また、こういう人々はちょうどヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った信仰の失格者です』
 知性が腐った?上等だ、知性なんかクソ喰らえ。信仰には唾を吐け。それよか短い人生、可愛い女や男と乳繰り合って楽しく生きたほうが何倍も素晴らしい。やり場のない苛立ちを銃弾にこめ、腹の底で燻る反感を叩きつけるように引き金を引けば最後の一本が盛大な破裂音をたてて木っ端微塵に砕け散り、天窓から射しこんだ一条の明かりが宙に散ったガラス片を綺麗に照らした。
 二十本分の瓶の破片が床一面におびただしく散乱した惨状を見渡した少年は、ジーンズの尻ポケットに銃を突っこむや軽くため息をついて手首の懲りを揉み解した。全弾命中した爽快感も慣れてくれば薄れてしまう。コーラの空き瓶を的にして射撃訓練を始めたのは確か七才の時だ。子供の小さな手には発砲時の反動は凄まじく、手首を捻挫しそうな衝撃におもわず銃を取り落とした記憶がある。体が大きくなるとともに骨格が成長した今では連射の反動にもラクに耐えられるようになったが、無理矢理射撃訓練をやらされてた子供の頃はいやでいやでたまらなくてよく訓練をサボって抜け出してきた。しかしサボったはいいが同年代の遊び相手もなし、他にやることもなく暇を持て余して仕方なく聖書を読んだ。彼の母親はフィリピン人のキリスト教徒で、彼が普段肌身離さず身につけてる十字架も母から貰ったものだ。
 彼が人殺しの慰みに口ずさむ聖書の文句は、幼い頃、母親に読み聞かされてるうちに自然と覚えてしまったものだ。
 べつに覚えたくて覚えたわけではないが、子供の頃からしつこく読み聞かされて耳に馴染んでしまった為、これを唱えると妙に落ち着くのは否定できない。
 『バチあたりめ』
 無意識に金鎖を手繰り、掌に乗せた十字架を見下ろしていた彼を我に返したのは男の声。声がした方角に顔を向ければ、汚れた迷彩服を着た男が工場の壁に凭れ、ウォッカの瓶をあおっていた。
 『銃撃ちながら聖書の文句唱えるなよ』
 『仕方ないだろ、癖なんだよ』
 『キリストの怒りにふれるぜ。せめてさ、歌とか唄ったらどうだ』
 年の頃は三十代前半だろうか。何日洗ってないのか、乾いた泥がこびりついて汚れきってはいるが元は明るい金髪なのだろう。お世辞にも美形とは言い難いが、精悍に日焼けした顔だちを一層魅力的に引き立てているのはスコールに洗われた空のようにカラッと晴れた青い目だ。頬が赤く上気してるのは昼間から酒を飲んでいた為らしい。悪く言えば自堕落で人目を気にせず、よく言えば自由奔放で気さく。何者にも縛られず、自分がしたいときにしたいことをするのが唯一にして至上の信念とうそぶいてはばからない男のことを、少年はそんなに嫌いでもなかった。
 壁に凭れかかった男が古い英語の歌を口ずさむ。少年が知らない、男の祖国の歌だ。
 『なんて歌?結構好きかも、それ』
 『レディ・ディことビリー・ホリディの「ストレンジ・フルーツ」』
 低い鼻歌に導かれるように歌詞を真似て唄い出せば、気持ちよく歌を口ずさんでいた男がウォッカに咽る。
 『おま、おまえ音痴だなあ!なんだそれ、本当におなじ歌か。ソウル・ディーバに失礼だろ、謝れよ』
 『ああ?んなことねえよ、ちゃんと唄えてるじゃねえか』
 『耳腐ってんじゃねえか。それとも何か、生まれてくる前に悪魔にリズム感売り渡したのかよ』
 何か言い返そうと口を開きかけた少年が、その指摘にふと押し黙る。
 『―そうかも。悪魔にリズム感売り渡して人殺しの才能買ったんだよ、きっと』
 『射撃上手い奴はリズム感に恵まれてるって言うけどな』
 『迷信だろ』
 悪戯っぽく笑い、男の隣に並んでもたれかかる。
 男と並んで工場内を見渡す。目張りされた板の隙間から射した光が大気中に沈殿した埃をゆっくりかき回している幻想的な光景にそのまましばらく見入る。沈黙を破ったのは隣から聞こえてきたしゃっくりだ。
 『で、今度の標的はだれだ』
 残り少なくなったウォッカをちびちび舐めながらの質問にひょいと肩を竦めてみせる。
 『日本の政府高官』
 『Japan?』
 『Yes.米軍と癒着して裏で武器とかバンバン流してる政界の大物みたいでさ、今度こっちに来るんだって』
 『またなんだって戦争真っ只中のこの時期に』
 『知らねえ。ジブンとこの軍隊の視察が目的じゃないの?日本も米軍に協力して軍隊とか物資とか派遣してるし』
 『日本もなあ、憲法第九条があった頃はよかったんだけどなあ』 
 『なにそれ』
 『平和を愛して戦争を憎む法律』
 『ふーん。いい法律だ』
 『昔話だよ。二十一世紀始まって早々にイラク戦争だなんだゴタゴタあってじきに改正、もとい改悪されちまった。第二次ベトナム戦争はじまると同時にアメリカの尻馬乗ってばんばん軍隊とか物資送りこんできたろ。おかげで東南アジア圏の人間にゃおなじイエローモンキーの裏切り者って憎まれて唾吐きかけられる始末だ』
 『あんたがよく言う二十一世紀前半に道を踏み誤った国のひとつってわけ?』 
 『そういうことだ』
 『……なんかすげー他人事に聞こえんだけど、米軍ドロップアウトしてこっち側に逃げてきたやつが偉そうに言う資格ないよな』
 『しかたねえだろ、ほれた弱味だ。戦場で果たす運命の出会い、銃弾飛び交う死線上のロマンス!しかもだ、ほれた女が反政府ゲリラの一員とあっちゃサム・ペキンパーの映画みたいによくできた話だと思わねえか?さしずめ俺はジェームズ・コバーン』
 『なにひとりで酔ってんだよ、寒いんだよ三十路。誰だよサム・ペキンパーって。マイク・タイソンの知り合い?マイケル・ジョーダンの親戚?』
 『まあそのへんだ』
 そのへんてどのへんだよ、口には出さずに顔に不満を出す。マイケル・ジョーダンもマイク・タイソンも全部この男の口から聞いた名だ。特にこの男はマイケル・ジョーダンに心酔してた、百年以上前に活躍したバスケットプレーヤーの何にそんなに惹き付けられるのかと最初は醒めた気持ちもあったが男の口伝にマイケル・ジョーダンの凄さを聞くにつれどんどんのめりこんでいった。よくよく考えれば見てきたようにマイケルの凄さを話す男も、過去に活躍したスポーツ選手を特集したテレビの映像や雑誌のスクラップでしか本人を知らないはずなのにと気付いて「騙された!」と我が身の不覚を呪ったことも今となっては懐かしい。
 まあ、種を明かしてしまえば男がマイケル・ジョーダンに心酔していたのはファースト・ネームが同じだからという単純な理由だが。
 『どうやって近付くんだ?』
 ふざけた口調で転落の軌跡を物語っていた男がさりげなく話題を変える。何を言われてるのかすぐわかった、どうやって標的に取り入るのかと探りをいれてるのだ。隣のしゃっくりを聞きながら、床一面に散乱した瓶の破片を見下ろしてあくびする。
 『考え中。どうせ俺が考えなくても上の連中が考えてくれるし……ああ、体でたらしこむのもアリか』
 『本気か?その政治家って男だろ?』
 『冗談だよ。そりゃ俺は男でも女でもかまわないけど一応好みがあるんだぜ、万年発情期の犬を見るような軽蔑の目を向けるなよ』
 『……危険じゃねえのか、その仕事』
 『危険に決まってんじゃん』
 「いまさら何言ってんだ」とあきれて振り向けば、ウォッカを飲み干して瓶をからにした男がいつになく辛気くさく黙りこんでいた為、こういうしんみりした雰囲気に免疫がない少年は道化を演じきることに慣れたフリで朗らかに笑う。
 『マジになんなって、ガキの頃からやってきたんだから今回も大丈夫だって!やばくなったらパッと逃げてくるし殺られたりとっ捕まったりしねえから……あ、でもアジト吐かすために拷問されんのはやだなあ。俺好みの美女が足の裏に刷毛でハチミツ塗ってぺろぺろ舐めてくれるくすぐり拷問なら大歓迎なんだけど』
 冗談なのか本気なのか区別がつかない顔で笑う少年に微笑を誘われた男だが、その笑みはどこか哀しげだった。あたたかさとほろ苦さが均等に混じり合う笑みには血の繋がらない息子の行く末を案じる父親の包容力があふれている。
 乾いた笑い声が萎み、少年の顔に終始はりついていた笑みが薄まり、瞳の真剣さが度合いを増す。
 『マイケル。マリアのこと、幸せにしろよ』
 懇願、ではなく命令。
 いつもふざけてる少年がこんな真剣な顔をするのは珍しい。色素の薄い瞳に宿るのは自分が愛した女の幸せを真摯に祈り貫徹する信念だ。口元にはもはや惰性の習性となった笑みを浮かべ、その実、一途な目で訴えかける少年はとても母親から『憎悪』の名を与えられた忌むべき存在とは思えない。そうして男は口を開く、祖国の言葉で『憎悪』と名付けられた少年を安心させるために男くさい笑みを浮かべて。

 『OK,My son』
 まかせとけ、息子よ。

 力強い答えを聞き、少年はホッと笑みを浮かべた。憑かれたように銃を撃っていた時からは想像もできないほどにあどけない、子供っぽい笑顔だった。『No』と言えば撃たれてたかもしれない、と不吉な考えが脳裏をかすめたのは男の口に目を凝らしてる間じゅうジーンズのポケットに手をかけてたのに気付いたからだ。おそらくは無意識の動作だろうが、あの褐色の手が目にもとまらぬ速さで銃を抜き取るところを想像して冷や汗をかいた。 
 銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり、缶きりがなければ本。
 連想ゲームの臨機応変さで身のまわりの品々を武器に変える少年にはなるほど『憎悪』の名が相応しいかもしれない。それでも男は余計な一言を言わずにはいられない、近い将来父親になる身として義理の息子が生まれついた宿命を嘆かずにはいられないのだ。
 『レイジなんて似合わねえ名前だ』
 『そうか?ぴったりだろ』
 慣れた手つきで弾倉を交換しつつ背中で答えて歩き出す。廃墟の床を踏みしめて大股に向かう先には先がギザギザに尖ったコーラの瓶が転がっていた。進行方向の瓶を無造作に蹴りどけ、銃のグリップを握り締めて背中から鉄扉に寄りかかる。背中に体重をかければ錆びた軋り音をあげて鉄扉が開き、網膜を焦がす白熱の奔流が殺到する。
 外の眩しさに目を細め、左手で手庇を作り、その影で右手の銃を掲げる。
 『強姦されて孕んだガキにはさ』
 
 熱帯気候の青空の下、乾いた銃声が轟いた。

 そして、人が死んだ。30メートル先の茂みに潜み、今まさに腰だめに抱えた自動小銃で少年を蜂の巣にしようとしていた米軍の兵士が、右胸を銃弾で撃たれ、もがき苦しむ暇もなく迅速に。破裂した右胸から鮮血を噴出させ、ほぼ即死に近い状態で地面に倒れ伏した兵士の最期を無感動に見届け、シャツの内側から引っ張り出した十字架にキスをする。 
 『終わりに言います。主にあってその大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために神のすべての武具を身につけなさい』 
 銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり、缶きりがなければ本。
 たった今人ひとり屠ったばかりだというのに、恍惚の笑みさえ浮かべて呟く少年は確かにその通り、敵の策略に対して立ち向かうためにすべての武具を身につけた稀有なる存在だった。
 生まれ持った才能と素質を環境が研磨したら金剛石より強い光を放ちだすのは知れたこと……即ち無敵。
 開け放たれた鉄扉の外、逆光を背に十字架にキスする少年の姿を見つめ、マイケルはため息まじりに考えた。  
 やっぱりこいつには、Rageの名が相応しいかもしれない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060114212615 | 編集

 手が追いかけてくる。

 逃げても逃げても追いかけてくる手、手、手。
 粘液質の汗で不快に湿った手が、乾燥してがさついた手が、不健康に静脈が浮いた手が。手といってもさまざまだ、ひとつとして同じ手はない。僕の体に触れる手のひとつひとつ、一本一本に特徴がある。背中を腰を胸を腹を臀部を下肢を、体の裏表隅々に触手の執拗さで絡みつき束縛し隙あらば奈落の淵に引きずり込もうとする無数の手。これは夢だとわかっている。睡眠中でも頭の一部は常に冴えていて醒めた理性が働いてるが、生々しい身体感覚を伴う悪夢を体験するとこれが現実なのか妄想なのか、正気と狂気の境界線が曖昧に滲み出して混乱してわからなくなる。
 息を切らし、必死に逃げる。足首に巻き付き引き戻そうとする手を蹴散らし、後ろから肘を掴んだ手を邪険に振り払い、首を締めようとする手を激しくかぶりを振って追い払う。左右の肩にかかった手が強引に僕を足止めして振り向かせようとする、いやだ、振り向きたくない絶対に。二度と振り返りなどするものか、せっかく逃げ出してきたのに這い上がってきたのに今振り向いてしまったらまた地獄に逆戻りじゃないか。

 地獄。思い出したくもない。

 肩に乗った手を乱暴に振り落としてさらに加速して逃げ続ける、一心不乱にひたむきにどこまでもどこまでも逃げ続ける。
 夢の中でも息が苦しいのは何故だろう、得体の知れない恐怖に追い立てられ心臓が早鐘を打つのは何故だろう。重力が増したように密度の濃い空気が四肢に纏わりつき真綿で締めるような緩慢さで徐徐に自由を奪ってゆく。
 足が重たい、体が重たくて上手く走れない。交互に足を繰り出すだけでも強烈な眩暈に襲われて嘔吐しそうになる、駄目だ限界だ。

 酸欠の苦しみに喘ぎ、速度を落とすと同時に背後から殺到してきたのは無数の手。腕に注射針の痕を残し、黄褐色に変色した薬物依存者の手が後頭部を鷲掴みにしてむらなく日焼けした逞しい手で羽交い絞めにされて白くふやけた不健康な手が太腿を這いまわる。手の持ち主の顔は振り向かないとわからないが振り向くことができない、否、振り向きたくない絶対に。振り向いたら後悔してしまう、僕が忘れようと自己暗示をかけて封印してる出来事を一気に思い出して発狂してしまう。
 誰が自分を犯した男の顔を再び見たいものか。
 一本、二本、三本……しめて三十四本、十七人分の手がそれ自体体から独立した生物のように自在に伸縮して追いかけてくる。今や完全に絡めとられて身動きができずぶざまに地に倒れ伏す、後頭部を押さえ込んだ手、背中を圧迫する手、左右の膝を割って太腿をまさぐる手。「やめろ」と声を限りに叫ぼうとして開けた口腔にも容赦なく指を突っ込まれ、唾液を塗りこまれるように粘膜をまさぐられ揉み解される。一本二本三本……そんなに入るわけがない、にもかかわらず涙目でむせ返った僕の口腔では無理矢理突っこまれた三本の指が淫靡に蠢いている。顎が外れそうになるまで口を開けて三本の指を飲み込めば喉の奥をまさぐる指の感触に強烈な嘔吐感がこみあげてくる、舌をつねり歯の窪みを辿る指の陰湿さに耐えている間もほかの手は止まることなく、シャツの背中にもぐりこんだ手が肩甲骨を撫で、ズボンの後ろもぐりこんだ手が臀部をまさぐり、ズボンの前にもぐりこんだ手が絶対他人に触れられたくない場所に侵入してくる。

 気持ち悪いやめてくれ頼む放してくれもう解放してくれ。

 気も狂いそうになりながら、口に指を突っこまれているため声には出せず懇願する。体の裏表至る所に手が侵入してくる、既に僕の体で他人の手に犯されてない場所などどこにもない。体の内側も外側も熱くて熱くてどうにかなってしまいそうだ、理性が蒸発して体の奥底で燻っていた淫蕩な熱をかきたてられ全身の細胞が溶解しそうに火照りだす。
 『妹の名前を呼べば許してやるぞ』
 唐突に、声が聞こえた。
 それまで僕の耳には何も聞こえてなかったが、ひょっとしたらずっと前から聞こえてたのかもしれない。ただ逃げるのに必死で聞こえてなかっただけで。手で目隠しされてるせいで視界が塞がれて何も見えない、目の前にあるのはどこまでも続く暗闇だ。
 『さあ言えよ』
 命令調の声で強制され、体を硬直させ拒絶する。誰が言うか。惠は僕の妹、この世でいちばん大事な人間なんだ。僕はもう二度と惠の名前を呼ばない、幼い妹に泣いて助けを求めるなんてみっともない真似はしない、そんな醜態を晒すのはごめんだ。
 惠にはいつまでも綺麗でいて欲しい。汚したくはない。
 『言えよ』
 『!』
 僕の体を覆い尽くしていたおびただしい手が一斉に蠢きだす。指という指が体の先端の敏感な部分を刺激する、愛撫は次第に激しくなり擦りむけるほどに肌を摩擦する痛みを伴うようになる。熱に苛まれた体の芯が鈍く疼きだして腰が萎えそうになる。いつまで続くんだろうこの拷問は。早く終わって欲しいとそればかりを気も狂わんばかりに一心に念じるが愛撫ははげしくなる一方で、体が心を裏切って反応しだすのを自分の意志ではどうすることもできない。

 反応?

 馬鹿な、僕は不感症なのに何に反応するというんだ。それともあの一週間で、売春を強要されていたあの一週間で倒錯した快楽の味を覚えこまされてしまったのか?まさかそんな、そんな馬鹿なことあるはずない。これは夢だ、悪い夢だ、今すぐに目を開けて目覚めなければ。こんなのは嘘だ全部嘘だ、僕が感じてるなんて欲情してるなんて絶対に嘘だ、男に無理矢理犯されて反応してるなんてあるわけない。
 『言えよ』
 前と後ろとをはげしく責め立てられて喉がひきつる。言いたくない、言いたくない。でも言わなければこの拷問は終わらない、延延と苦痛が長引くだけだ。ただ一言言ってしまえばラクになる、長い悪夢から解放されて現実に浮上することができる。
 めぐ、み。
 『そんなんじゃ聞こえねえよ。もっと大きくはっきりと、』 
 めぐみ。
 『男にヤられながら妹の名前呼ぶなんて変態だな』
 めぐみ。
 『本当はずっと妹とヤりたかったんだろう。妹のひらたい胸を揉んでかわいく窪んだヘソを舐めてまだ毛も生えてない股に突っ込んで喘がせたかったんだろう。はは、残念だったな!妹ヤるまえに男にヤられちまったら世話ねえな。妹独り占めしたくて堅物の両親殺したくせに目論見外れてがっかりだろ。まあ諦めろ、一度東京プリズンにきちまったんなら腹括って俺のご機嫌とりに徹すんのが吉だ。そうそう、そうやって素直に股開いて腰振って言うこと聞いてりゃいい。なあ、男に抱かれんのは癖になるだろ?なんだ、泣いてんのか。もうイッちまいそうってか。まだ駄目だ、俺がイくまでイかせられねえな。もうちょっとそのまま我慢してろよ。不感症のくせに不能じゃねえなんて都合いいカラダだな、本当に』
 めぐみめぐみ。
 『ああ、やっぱりだ……妹の名前呼ばせると締まりよくなるな。興奮してんのかよ近親相姦の変態が』
 めぐ、み、めぐ、
 助けてくれ誰か助けてくれもう嫌だ体も心も壊れてしまうばらばらになってしまう、今すぐに舌を切り落としたいもう惠の名前なんか呼ばないようにこれ以上汚して貶めないように。誰か僕を殺してくれ今すぐに殺して息の根を止めてくれ、まだプライドが残ってるうちに理性が残ってるうちに僕が鍵屋崎直でいられるうちに殺してくれ。
 リュウホウすまない、僕は自殺する勇気もない。自分で自分を殺すことさえできない臆病者の小心者で今から他人の手を汚そうとしている、でももうどうしようもない、こんな毎日が続くなら死んだほうがマシとしか思えない。君の最期を目に焼き付けた手前死んだほうがマシなんて軽軽しく口にしたくないのにでもどうしてもその結論に行き着いてしまう、何故だ、いつから僕はこんな惰弱で見下げ果てた人間に成り下がったんだ?最悪だ、もう本当にこんな自分には愛想が尽きた。ぼくは選ばれて生まれてきた人間のはずなのに、この刑務所のだれより賢く知力に優れた天才のはずなのにこれじゃまるで飼い殺しにされる運命に生まれついた鎖つきの家畜じゃないか。
 このまま懲役を終えるまで刑務所で飼い殺しにされるくらいなら本当に殺されたほうがマシだ。
 体を這いまわる手に拡散しかけた理性をかき集め、這いずるように前に進みながら口の中で名前を呼ぶ。僕がこの刑務所で唯一信頼できる男の名を、生まれて初めて友人と認めて心を許した男の名を。
 そして頼む。
 手で目隠しされた暗闇に溺れてもがきながら、こちらに背中を向けて佇んだ男の幻影に。


 「殺してくれ、サムライ」


 その瞬間目が覚めた。
 一瞬自分がどこにいるかわからなくなる。寝返りを打つ度に筋肉痛になる固いベッド、上を見上げれば配管むきだしの殺風景な天井がすぐそこまで迫っている。
 僕が日常寝起きしてる房、寝心地の悪いパイプベッドの上。
 瞼を開けると同時に反射的に上体を起こし、今にも倒れそうな体をベッドの背格子に凭せ掛けて呼吸を整える。気付けば全身にびっしょりと汗をかいていた。冷や汗だ。汗で湿った囚人服が皮膚に密着して気持ち悪い。薄く汗が浮いた鎖骨に目を落とし、無意識な動作で上着の裾に手をもぐりこませる。悪夢の中、体中を這い回った手の感触がまだ生々しく残っているようだ。下肢を割って太腿をなでる手の感触も臀部をなぶる手の感触も、現実に体験したことだけにとても夢とは思えない鮮明さで感覚的に再現されている。
 僕が寝てるあいだ、だれかが体を触ってたんじゃないか?
 そんな錯覚に囚われてはじかれたように房を見渡すが怪しい人影はない。当たり前だ、消灯時間が過ぎたら内側からの施錠が義務付けられているのだ。合鍵でも持ってるなら別だが、鍵開けの技術も持たない囚人が容易に忍び込めるはずがない。寝起きの緩慢さで首を巡らして隣のベッドに視線を放る。サムライは寝ているようだ。寝言は聞かれなかったらしい、とまずはそのことに深く安堵する。
 今は何時だろう。
 正確な時間はわからないが、おそらくは深夜に近いらしく暗闇の濃度が増している。一度目が覚めたら当分寝られそうにない。いや、本音を言えばもう寝たくない。
 寝るのが怖いのだ。
 以前の僕が見る悪夢の内容は大抵決まっていた。戸籍上の両親、鍵屋崎優と由佳利を刺殺して惠に糾弾される夢。リュウホウの自殺を食い止められず、天井からぶらさがった首吊り死体を前に無力に立ち尽くす夢。でも今は違う。最近僕が見るのは「手」に追われる夢だ。売春班で売春を強要されてた一週間で僕の精神力は相当に磨り減っていたようだ、それこそ誰より何より大事な惠の存在を頭の隅に追いやってしまうほどにあの一週間で見た地獄が体に染み付いて頭の中心を占めている。

 睡眠薬が欲しい。

 睡眠薬を服用すれば悪夢に悩まされることなく熟睡できる。そんなことを考えながら床に足をおろしてスニーカーを履く。汗にまみれた顔が気持ち悪い、一刻も早く顔が洗いたい、水が飲みたい。体中の水分が蒸発して喉がからからに渇いている。夢遊病者のようにふらつきながら洗面台に行き、蛇口を捻る。両手で水を受けて顔を洗い、水をすくって飲む。衛生面で不安が残る東京プリズンの水道水を飲むことにもう抵抗もなくなった。蛇口を締めて顔を上げ、正面の鏡をまともに覗きこめば酷く憔悴した自分の顔が映る。眼鏡をしてないせいで鏡に映った顔がぼやけている。そういえば眼鏡をはずした自分の顔をちゃんと見たことがない。日常生活に支障がでるほど視力が悪いため、裸眼で鏡と向き合った自分の目鼻立ちを正確に把握することができないのだ。写真を撮る時は必ず眼鏡をかけているから、写真でさえ自分の素顔を見たことがないという事実にいまさらながら直面する。
 「………」
 ふと眼鏡をはずした自分の顔が見てみたくなり、わずかに身を乗り出して鏡に目を凝らす。馬鹿げてる、視力が悪いんだから土台不可能なのに。しかしこの至近距離で鏡の中の顔が判然としないというのも悔しい、鏡に引き込まれれるように身を乗り出して目を細めた僕の眼前で前ぶれなく異変が起きる。
 あろうことか鏡が歪み、水面の波紋に飲み込まれるように僕の顔がかき消え、立ちかわり現れたのは小柄な少女。
 いつもだれかに詫びてるようなおどおどした表情、人の機嫌の良し悪しに敏感な小動物めいた目。知っている。いや、知っているも何も忘れるわけがない。誰がこの世でいちばん大事な、たった一人の妹の顔を見忘れるというんだ。
 みつあみに結った髪を肩にたらし、俯き加減に立ち尽くしたその少女の名前は―……惠。
 僕の心の支え。最愛の妹。自分の身を犠牲にしても守りたい対象。
 「めぐ、み?」
 声が震えた。自分の目に映るものが信じられない。覚めながら夢を見ているのだろうか?―いや、どうでもいい。こうして惠と会えただけで十分だ。鏡の中に立ち尽くす惠へと誘われるように手を伸ばす。緊張に震える指先がもう少しで鏡の表面に触れようとしたその時だ、鈴を鳴らすような声が響いたのだ。
 『汚い』
 おそるおそる鏡の表面に触れようとした指が止まる。
 惠がゆるやかに顔を上げる。その目にあったのは冷ややかな軽蔑の色、僕が触れることを頑なに拒む断罪の意志。
 『さわらないで。おにいちゃん汚い』
 「汚い?」
 『汚いじゃない、だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
 『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
 「そうだ、そのとおりだ。僕は惠を守る、死ぬまで守り続ける。それが僕の生きる意味だ」
 『うそ。刑務所の中でどうやって恵を守るのよ。惠は今精神病院の白い部屋に閉じ込められてるのよ、おにいちゃん全然守れてないじゃない。おにいちゃんのうそつき』
 「ちがう」
 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
 「ちがうそうじゃない聞いてくれ、」
 『今だって嘘をついてる。大事なお友達にも嘘をつき続けてる』
 「頼むやめてくれ、それ以上言うな」
 『お兄ちゃんがお父さんとお母さんを殺したなんて嘘よ』
 「嘘じゃない、致命傷を与えたのは僕だ。今でも鮮明に覚えている、父さんの、鍵屋崎優の右胸にナイフを刺して引き抜く感触を。手を濡らした血液の生温い温度と赤さを」
 『最初にナイフを取ったのはお兄ちゃんじゃないでしょう』
 「僕が殺したんだ」
 『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき』
 惠の唇が動く。うそつきうそつきうそつき…連綿と囁かれるのは断罪の言葉、無邪気にさえずるような呪詛。声の軽やかさとは裏腹に惠の顔には何の感情も浮かんでない。陶器の人形めいた固さの無表情で呪詛を吐き続ける惠から逃れたい一心で頭を抱えこみ話題を変える。
 「知ってるか惠?心臓は胸の中央やや左側にあり、全身に血液を送り出すポンプの役割をしている。隔壁と呼ばれる筋肉の板で左右に分けられてて、それぞれの側がさらに弁を境に上部の心房と下部の心室に分かれている。要するに右心房・右心室・左心房・左心室の4部屋に分かれている。まず左右の心房が収縮し血液が心室に押し出される。次に心室が収縮し心室にあった血液が動脈を通って全身あるいは 肺に押し出される。心臓はこの収縮サイクルを繰り返す。肺で酸素を得た血液は肺静脈から左心房に入り、左心室から大動脈を通って全身に送り出され……」
 『……嘘つき嘘つき嘘つき』
 「だから人を確実に殺したいときは心臓を刺せばいいんだ深く深く手に体重をかけて。僕は医学書で読んだ通りに実践した、そして鍵屋崎優と由佳利は失血性ショックで死んだ。僕が得た知識は正しかったと証明されたんだ、彼ら二人の死によって。はは、僕は天才だろう?当たり前だ、そうなるように設計されて生まれてきたんだから。だから認めてくれ恵、僕がしたことを認めてくれ。全部恵を守るためにしたことなんだ、あの場はああするより仕方なかった。鍵屋崎由佳利まで殺したくはなかったがやむをえない、一部始終を目撃してたんだから」
 『嘘つき嘘つき嘘つき』 
 ―「仕方ないだろう!!」―
 そうだ仕方ない、惠を守るためにはやむをえない処置だった。僕が犠牲になることで惠の将来に傷がつかずにすむなら喜んで罪を被る、鍵屋崎優と由佳利にとどめをさす。だって惠は僕が生きる理由の全てで、僕が生きる意味で……
 そして惠が、鏡の中の少女が決定的な一言を放つ。まだ塞がってもいない傷口を抉る残酷な台詞を。

 『カギヤザキ スグルなんか死んじゃえ』

 そうか。僕にはもう、「おにいちゃん」と呼ばれる資格さえないのか。
 「おにいちゃん」と親愛をこめた呼称で呼ばれるのが嬉しかった。惠に懐かれてることが実感できて、たまらなく嬉しくて幸せだった。
 だから、惠のおにいちゃんでなくなった僕などもうどうなってもかまわない。
 無造作に拳を振り上げる、拳が裂けて血にまみれてもかまうものか。もうこれ以上惠の顔を見続けるのは耐えられない、呪詛を聞き続けるのは耐えられない。あんなに惠の顔が見たくて、声が聞きたくて気も狂いそうだったのに今は破壊衝動に突き動かされて高々と拳を振り上げている。 
 ぶざまだな。
 そして、鏡に映った惠めがけ渾身の力をこめて拳を振り下ろし―
 その手首が、後ろから掴まれた。

 「何をしている」
 振り返ればサムライがいた。いつのまに起きたのだろう、全然気付かなかった。
 「離せ!」
 鏡の中に向けられていた憎悪が一気に沸点に達してサムライに転じる。サムライの手を振り払おうとはげしく身を捩って抵抗すればますます強く掴まれて苛立ちが募る、なんで邪魔するんだ、邪魔しないでくれ!理性をかなぐり捨てて鏡めがけて手を振り上げれば背後から抱き竦められ動きを封じられる、それでもなお暴れ続ければ僕を背後から抱きしめたままのサムライともども床に転倒する。
 鈍い物音、衝撃。
 それでも痛みを感じなかったのはサムライがしっかりと僕の体を抱きとめて衝撃を緩和してくれたからだ、サムライを押し倒す格好で床に転倒した僕は即座に起き上がるや、自分の下になった男の襟首を掴んで責め立てる。
 「なんで邪魔するんだ、どうして止め……」
 不自然な箇所で言葉が途切れたのは、僕に組み敷かれたサムライの額に大量の脂汗が滲み出してるのに気付いたからだ。様子がおかしい。床に倒れたサムライを注意してよく眺めれば、転倒した際に変な方向に捻ったらしい手首が赤く腫れているのが目に入る。
 頭に昇っていた血が急速に下降し、四肢の端々の体温が急激に低下してゆく。
 「捻ったのか!?」
 「……たいしたことはない」
 腫れた右手首に左手を添え、大儀そうに起き上がったサムライだが苦痛にしかめた顔を見れば痩せ我慢してるのは一目瞭然だ。
 「たいしたことあるだろう!!」  
 早く医務室に連れて行かなければ、放置しておけば腫れが酷くなる。一刻も早く冷やさなければ……サムライに肩を貸して立ち上がりかけ、ある事を思い出して立ち竦む。

 ペア戦開幕は、明日だ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060113214333 | 編集

 医務室は深夜でも開いている。
 いや、開いてなかったとしても無理矢理にでもこじ開けるつもりだ。
 サムライに肩を貸して夜気がひんやりと身に染みる廊下を歩く。幾つかの角を曲がってひたすら歩けば渡り廊下に到達、そこから中央棟へと向かい医務室に直行する。消灯時間を過ぎて出歩いてるのを看守に見咎められればどんな罰を受けるかわからないがそれどころじゃない、今はサムライの手首の治療が最優先事項だ。蛍光灯が心もなく照らす廊下には歩調をあわせる僕らの他に人影もなく閑散としている。こうして肩を貸していてもサムライの呼吸が浅く乱れ、額にはおびただしい脂汗が浮きだしているのがわかる。
 医務室の扉が見えてきた。
 「急患だ、応急処置を頼む!!」
 嵐のようなノックを降らせて、扉に体当たりするように医務室に雪崩こむ。白い衝立で仕切られたベッドの手前は診療スペースとなっており、消毒液や包帯などがきちんと整頓された戸棚に面してステンレスの机が置かれていた。そして、机の前の革張りの椅子には首から聴診器をさげた医師が腰掛けて何事かと大きく目を見張って深夜の闖入者を凝視している。
 「どうしたのかねこんな時間に」
 「手首を捻ったみたいなんだ、早急に処置を頼む」
 サムライに口を開く暇を与えずに早口に用件を告げる。革張りの椅子の対面、患者が腰掛ける用の椅子にサムライを座らせ、未だ事態が飲み込めずに面食らっている医師に語気荒く詰め寄れば僕の剣幕に圧倒された医師が迅速に動き出す。慎重にサムライの手首を取り様子を見てからしかめつらしく診断を下す。
 「ふむ。どうやら手首を捻ったみたいだ」
 頭に血が昇った。
 「だからそう言ってるじゃないか!!」
 「落ち着け鍵屋崎……、」
 「落ち着いてなどいられるか君はなんでそんな冷静なんだ!?右手が使えなくなったら困るだろう箸が握れなくなる、箸が握れないということは食事できなくなる、それに筆、筆が握れなければ写経できなくなる!いや違う、もっと大事なことがあるだろう、そうだ刀……」
 刀。
 明日はペア戦だ。
 「付き添いは外に出ていてもらえるかね」
 完全に気が動転した僕を扱いかねた医師が遠慮がちに、しかし有無を言わさずに申し出る。対面式に腰掛けたサムライの手に氷水で冷やしたタオルを当てながら迷惑そうに眉をひそめて振り返る。
 「嫌だ、貴様は医者として信用できない。僕が以前医務室を訪ねた時なんて診断を下したか忘れたとは言わせない、特に別状はないと右手に包帯だけ巻いて追い返したじゃないか。何が別状ないだ右手にヒビが入ってたんだぞこの耄碌した藪医者め。藪医者の語源を知ってるか?そうか知らないか、なら無知な貴様の為に特別に教えてやる。藪医者の語源は諸説あるが『野巫医者』を語源とし、『藪』は当て字とする説が有力とされる。野巫は田舎の巫医とも言われ、呪術で治療する田舎の医師のこと。あやしい呪術で治療することから「いい加減な医者」、たった一つの呪術しかできなかったことから下手な医者といった意味で野巫医者という言葉が生まれたとされ……」
 「落ち着きたまえ」
 「離せ!」
 肩に置かれた手を激情のままに振り払えば次はもっと強く肩を掴まれる。そして気付く、誰が僕の肩を掴んでるんだ?サムライと医師は目の前にいる、じゃあ僕の背後に立っているのは?ぽかんと口を開けた医師と唇を一文字に引き結んで痛みを堪えるサムライ、対照的な二人の視線の先を振り返れば意外な人物がいた。
 安田だ。
 「何故ここに……、」
 安田の顔を見た瞬間、急速に膨れ上がった疑問が一時的に興奮を駆逐した。数日前売春通りで見た時と殆ど同じ格好をしているように思えるのは安田が陰鬱に沈んだダーク系のスーツしか身につけないからだ。銀縁眼鏡の奥、剃刀のような知性を帯びた双眸を鋭く細めた安田が放心状態の僕の腕を引っ張って強制的に医務室の外へと連れ出す。
 逆らう気は起きなかった。
 されるがままに腕を引かれて医務室から外に出される間際に振り返ればサムライが手首の治療を受けているところだった。右手首に巻かれたタオルの冷たさが骨身に染みるのか僅かに顔をしかめている。その横顔を深い悔恨とともに胸に刻みこんで廊下に出れば背後で扉が閉ざされる。 
 深夜、人気のない廊下に閉め出されて途方に暮れて立ち竦む僕の隣には安田がいた。何が起きたのか正確には理解しないまま、僕の頭を冷やすために廊下に連れ出したのだろう安田が訝しげに顔を覗きこんでくる。
 「いい加減手を離してくれませんか」
 「すまない」
 指摘され、初めて僕の腕を握ったままでいたことに思い当たったらしい安田がよそよそしく手を放す。安田に掴まれた腕をさすりながら白くペンキを塗られた医務室の扉を見つめる。中で何が行われているかは殆ど物音が聞こえないため窺い知れない。サムライの手首は大丈夫なのか?あの藪医者はちゃんと治療してくれるのか?深夜の急患のため医務室はいつでも開放されているがあくまで形だけ、肝心の医師が役に立たなければ話にならない。信用?できるはずがない、半年前僕の右手に包帯だけ巻いて「別状はない」と追い返した老人だぞ。何が別状ないだ、右手の骨にひびが入っていて完治に二ヶ月費やしたじゃないか。今度またいい加減な診断を下したらただじゃおかない、僕は東京プリズンによくいる何でも腕力で解決できると思い込んでいる野蛮人ではないから暴力的な手段には訴えないがあの藪医者を床に正座させて傍らに分厚い医学書を積んで医学の基礎の基礎から復習させ性根を叩き直すくらいのことはやる。
 焦燥に揉まれ、廊下の壁に凭れて所在なげに立っていれば横顔に視線を感じる。反射的に顔を上げればずっと僕の横顔を見ていたらしい安田と目が合い、お互い非常に気まずい思いをする。
 どちからからともなく顔を伏せる。サムライの治療が終わるのをただひたすら待つ苦痛な時間。
 「何があったんだ?」
 そう聞いてきたのは安田だった。沈黙の重圧に耐えかねたか、無意識にスーツのポケットを探っているのは喫煙者の癖だろう。安田の方は見ず、蛍光灯の影が落ちた廊下に視線を放りながら返事を返す。
 「あなたには関係ありません」
 これでも自制心を総動員して応したつもりだが安田は気に入らなかったようだ。胸ポケットにかけた手をおろし、レンズの奥の目を僅かに細め、医務室のドアと僕の横顔とを見比べながら慎重に口を開く。
 「………見たところ彼は手首を捻挫していたようだが、ペア戦開幕は明日だろう」 
 「はい」
 「彼はレイジと組んで出場するんだったな」
 「はい」
 「それは」
 そこで言葉を切った安田が、僕の顔色を窺うように低い声で念を押す。
 「まずいんじゃないか?」
 「わかってる」
 そうだわかっている、誰よりもよくわかっている。ペア戦開幕は明日、今は深夜だからあと数時間しかない。それなのに僕の不注意でサムライは怪我をした、他でもない効き手に、刀を握る大事な右手に。僕は馬鹿だ、売春班から足を洗ってもう数日が経つのに未だに悪夢から抜け出せずに幻覚を見てサムライにまで迷惑をかける始末だ。東京プリズンに惠がいるわけないじゃないか、惠は今仙台の小児精神病棟に入院してるんだ。仙台から東京までどれくらいの距離があると思ってる?惠は超能力者じゃない、超能力なんて非科学的な現象は断じて認めない。だから瞬間移動はありえない、深夜、闇の帳が落ちた鏡の中に見出した妹の幻は自己嫌悪の産物で現実にはありえないことなのだ。
 とりとめないことを考えて気を散らそうとするが駄目だ、どうしても意識が背後の扉へと向いてしまう、強力な磁力でもって引きつけられてしまう。思考が支離滅裂でまとまらない、頭と心が完全に分離して自分でも何を言ってるかわからずにますます混乱してくる。サムライの様子が気になる、手首の具合はどうだ?もし彼が手首を捻挫して明日のペア戦に出場できなくなったら僕のせいだ、僕はまた彼に迷惑をかけてしまう、足手まといになってしまう……
 「顔色が悪い」
 「よくなりようがない」
 隣に凭れかかった安田に指摘され、苛立ちをぶつけるように切り返す。天井と床が平行にのびた廊下に立ち尽くしてただ待つしかないのは精神的拷問にひとしい。白々と輝く蛍光灯の光を浴びながら立っていれば安田がまた声をかけてくる。
 「痩せたんじゃないか」 
 「……少し体重は戻りました」
 なんなんだ一体、僕はとてもじゃないが安田の世間話に付き合えるような精神状態じゃないというのに。それとも安田は沈黙に耐えられず、特別親しくもない他人にスキンシップを求めてくるような傍迷惑なタイプの人間なのか?だとしたらこの男に対する評価を大幅に下方修正しなければならない。舌打ちしたい気分で返事をするが口にした内容自体はまったくの嘘でもない。売春班の業務が休止されてから一週間で3キロ近く減った体重が多少は戻ったのだ。食べ物を口にいれても直後に吐かなくなったし大分マシになったと思う。
 「……そうか。君は少し痩せすぎだ、もっと食べたほうがいい。育ち盛りなんだから」
 「じゃあ食堂のメニューを改善してください、少なくとも人間の舌に合うように」
 「考えておく」
 「中華をメニューにくわえたらどうですか。この刑務所で最も多くの人口を占めているのは中国系の囚人ですし」
 「考えておく」
 「口だけなら何とでも言える」
 はっきりそれとわかるように冷笑する。言動の端々がひどく攻撃的になっている自覚はあるが自重する気は微塵もない、こうして安田と二人きり、誰にも邪魔されずに会話できる機会などもう永遠に訪れないかもしれない。それならば婉曲に腹の探り合いなどせず直裁に核心に触れるべきだ。
 銀縁眼鏡のブリッジを押さえ、反感に波立つ心を何とかしずめようと努力しながら口を開く。
 「僕からも質問させてください。何故今まで売春班を、いや、ブラックワークの存在そのものを放置してきたんですか」 
 安田は東京プリズンの副所長の地位にある若きエリートだ。いかに彼が無力とはいえ、その気になれば売春班などどうにでもできたはずだ。看守の恨みや囚人の不満を買うのは避けられない事態だろうが、もし本気で売春班の現状を、ひいてはブラックワークの制度自体を憂慮していたのなら多数派の賛同を得なくても副所長権限で廃止なり休止なりに追い込む強行手段にでることも厭わないはずだ。
 それともこの男は、おのれの下で働く看守や何百何千という囚人の非難の矢面に立つのが怖くて今まで手をこまねいて静観してきたというのか?
 「……煙草を吸ってもいいか」
 「最低5メートルは離れてください」
 いや、僕が離れる。安田から5メートルの距離をとればライターを点火する音が聞こえてくる。煙草に点火して深く紫煙を吸い込む。天井に設置された蛍光灯がよわよわしく点滅する中、コンクリートの陰鬱な色彩に溶け込むように廊下に佇んだ安田がうっそりと紫煙を燻らせる。
 「……東京プリズンに収監されているのは日本で罪を犯した人間だけではない」
 「?」
 「囚人で知っている者は少ないだろうが東京プリズンには海外で罪を犯した者が多数収監されている。いずれも日本人に対して罪を犯した者や日本という国家に重大な損害を与えた凶悪犯に限られるがな。中には本国で手におえなくなり、東京プリズンの風評を聞いた海外政府から頼むからこちらで預かってくれと流されてきた者もいる。早い話たらい回し……いや、厄介払いが正確か。近年日本も治安が悪くなったと言われているが海外にはもっと治安が悪化して手がつけられなくなった国が多くある。たとえば第二次ベトナム戦争の戦火が拡大して否応なく戦争に巻き込まれた東南アジア圏の国々、ここ十年は特にフィリピンの治安悪化が著しい。米軍侵略以降、反政府ゲリラとの対立が激化してもう手がつけられない状態だ。たとえば韓国。二十世紀前半に朝鮮韓国が併合され半島統一が実現したのはいいが社会主義と資本主義に二分化した溝を埋めるのは容易ではない。実際朝鮮政府の負債を補填するために韓国は巨額の国費を費やし、結果として深刻な不況に陥り国民の反発を招いた。自分たちが貧しくなったのは朝鮮と併合したからだと考える人間があたらしい世代から出てきたのだ。今では韓国独立、または朝鮮独立をスローガンに掲げて過激なテロ活動に身を投じる人間もいる始末で半島からの亡命者が日本に大挙して渡ってきて都心に一大スラムを作っている」
 「知っています。常識です」
 「そうか。なら東京プリズンで非常識が常識としてまかりとおるのもわかるな」
 「………」
 「正直ここの囚人は手におえない。何かのきっかけで不満が爆発したら看守が束になってかかってもその勢いを押しとどめることはできないだろう。売春班を含めたブラックワークの存在がこれまで黙認されてきたのはいみじくも需要と供給が成立していたからだ。もちろん売春夫を買いに来る客の中には看守も含まれるが囚人に比べたら微々たる割合だ。規則に縛られた窮屈な生活の中、ブラックワークは数少ない娯楽として、貴重な息抜きの場として機能して東京プリズンの日常に溶け込んでいるのだ」
 「息抜きですか?僕を、僕達を抱くのが」
 笑い出したくなる。二の腕を抱いて自嘲の笑みを浮かべた僕をちらりと一瞥して安田が結論する。
 「……君たちにはすまないことをしたと思っている。しかし仮に看守の反対を押し切り、囚人の意向を無視してブラックワーク撤廃に乗り出したとしたら多数の死傷者をだす大規模ストライキが起きる可能性がある。刑務所でストライキが発生して死傷者をだすなど、万が一そんな醜聞が外に漏れたら日本政府の恥だ」
 「東京プリズンの存在自体が恥です」
 間髪いれずに結論を奪えば、指の間に吸いさしの煙草を預けた安田がため息まじりにかぶりを振る。
 「……否定できないな」
 安田の話を聞いてよくわかった、彼は有能だが保身を第一に考えるエリートの典型だということが。やり場のない苛立ちと怒りがこみあげてきて無造作に片手を突き出す。おもむろに突き出された手を怪訝そうに見下ろす安田に一息に畳み掛ける。
 「煙草をくれませんか」
 安田の顔に驚きの波紋が広がる。しかし次の瞬間には手の内を見せない表情を取り繕うや、胸ポケットから取り出した新しい煙草を僕に手渡す。
 「君は嫌煙家じゃなかったのか」
 「ニコチンは精神安定剤になるんでしょう」
 安田にライターを借りて点火すれば穂先に赤い光がともる。とにかく今は忌むべき有害毒素、ニコチンの力を借りてでも気の昂ぶりを沈静化させたい。そうでもしないと安田に殴りかかってしまいそうだ。いつだったか、展望台の突端から足をたらしたロンが煙草をくわえていたのを手本にして真似してくわえ……
 扉が開いた。
 「!」
 煙草を口にいれて振り向けば仏頂面のサムライがいた。右手首に包帯を巻いて。
 「全治二週間だそうだ」
 絶句する。やはり僕を庇って転倒した際に右手首を捻挫していたのだ。全治二週間、ということは明日の試合、いや、その後の試合にも影響がでるではないか。また僕はサムライに迷惑をかけしてしまった、そもそも平和主義者のサムライがペア戦出場を決意したのは僕を売春班から助け出すのが動機なのにこともあろうにその僕が……
 怒っているのだろうか、見た目はいつもと変わらない仏頂面のサムライがひとりで歩き出そうとするのに有無を言わさず肩を貸す。そうして歩き出そうとして、ふと脳裏に疑問が過ぎる。
 「何故医務室に?」
 安田を振り返り質問する。何故こんな深夜に、人目を盗むように医務室を訪ねてたのか?一見したところ怪我をしてるふうでもなし、安田が医務室を訪ねた動機がわからなくて率直に聞けば壁によりかかった安田がポケットから錠剤のシートをとりだす。
 「睡眠薬だ。最近よく眠れなくてここの医師に処方してもらってる」
 安田にも不眠症の気があるなんて初耳だ。言われてみれば顔色が冴えず、目の下には薄く隈が浮いている。
 「……囚人には睡眠薬なんて処方してくれませんよね」
 自然、皮肉が口をついてでる。
 「眠れないのか」
 「よく眠れていたら今頃こんなところにいません」
 「確かに」
 それきり黙りこんだ安田に背中を向け、サムライの肩を支えて歩き出す。サムライのほうが僕より背が高いから歩調があわずに苦労するが、ここで倒れるわけにはいかない。肩に回されたサムライの腕、そのぬくもりと重みを感じながら歩を運ぶ。安田はもう何も声をかけてこなかった。背中に注がれる安田の視線を意識しながら逃げるように廊下を曲がれば東棟へと通じる渡り廊下がのびている。
 「げほっがほっ」
 壁に阻まれて安田の姿が消えると同時に、深く深く上体を折ってはげしく咳き込む。よかった、なんとか安田の目の届かないところまで我慢することができた。慣れないことはするもんじゃない、煙草、即ちニコチンに代表される有害毒素が濃縮された煙を吸引したせいで頭がくらくらする。最悪だ、これでもう三年は確実に寿命が縮まった。安田を筆頭に世にはびこる喫煙者は消極的な自殺志願者としか思えない、何故こんな不味いだけの、煙を吸い込めば苦しいだけの煙草をひっきりなしに吸えるんだ?
 「大丈夫か?」
 「大丈夫だ」
 即座に煙草を投げ捨て涙目でむせ返れば、僕の肩によりかかったサムライに逆に心配される。情けない、なにをやってるんだ僕は。サムライをひきずるようにして途方もなく長い渡り廊下を歩きだせばニコチンの副作用で眩暈までしてくる。
 「僕の心配より自分の心配をしろ、手首を捻ったんなら明日のペア戦は欠場したほうがいい」
 「そういうわけにはいかない」
 「無理をしたら二度と手が使えなくなるかもしれない」
 「駄目だ」
 「頑固だな君は、たまには僕の言うことを聞け。天才の言うことに間違いはない、絶対だ。IQ180の頭脳に賭けて」
 渡り廊下の半ばでおもむろにサムライが立ち止まる。
 サムライを背負って廊下を歩いていた僕も必然的に立ち止まる格好になる。すぐそばにサムライの顔があり、浅い息遣いが聞こえてくる。右手首の腫れと痛みは悪化する一方らしく、包帯を巻いた手を庇い、僕の肩にもたれかかるようにして何とか二本足で立つ姿は痛々しげで見るに耐えない。右手首の激痛を堪え、意地でも明日の試合に出ると主張するサムライを叱責しようと口を開きかけた僕をひたと見据えたのは強い信念を宿した眼光。

 「俺はもう、他の男にお前を抱かせたくない」

 窓の外には濃度を増した闇が淀んでいる。
 息苦しいまでの質量で押し寄せてくる闇の中、蛍光灯に照らされ白々と浮上した渡り廊下の中央でサムライと向き合い、その眼光に魅入られる。肩にかかる重みも腕と腕が触れたところから生まれる心安らぐぬくもりも、息遣いの乱れがまざまざとわかる距離にある生真面目な顔も。
 顔が近すぎるせいか、心臓の鼓動と鼓動が溶け合うほどに体が接してるせいか、緊張する必要など微塵もないにもかかわらず掌がしっとりと汗ばんでくる。目を逸らすことなど許されないまっすぐな眼光に魅入られ、口を開く。

 「僕も、他の男には抱かれたくない」

 しっかりした声で本音を言えば、サムライが心底から安堵したように体を弛緩させて僕の肩に体重を預けてくる。肩にかかる重みが急に増したせいでよろめきつつも、何とか均衡を維持してサムライと二人分の体重を支えれば小さい声が聞こえてくる。  
 「……なら問題はない、明日のペア戦には出場する。右手を捻ったぐらいどうということはない」
 僕を安心させるように柔和に呟くサムライの体を背負いなおし、東棟へと帰り道を急ぐ途中、ほんの数秒前に自分が口にした台詞がいちるじく文法を違えていたことに気付く。
 他の男には抱かれたくない?それじゃまるで、サムライになら抱かれてもいいみたいじゃないか。多大なる誤解を招く発言を悔い、羞恥に顔を火照らせてサムライを見上げる。
 「誤解するなよ、他の男にはもちろん君にも抱かれたくない。さっきのはその、日本語の文法を間違えただけだ。IQ180の天才たるこの僕がこうして自らの間違いを認めたのは誤謬を指摘される前に訂正しておこうと謙虚に思い直したからで他意はないぞ、これっぽっちも」
 「無論だ。俺に男色の趣味はない」
 「僕にも同性愛嗜好はない。ついでに言わせてもらうが君の文法は破綻してる、紛らわしいことこの上ない」
 僕より大分背が高いサムライをひきずるようにして渡り廊下を歩きながら俄かに不安になる。
 僕に同性愛嗜好はない……はずだ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060112214530 | 編集

 ペア戦開幕前夜。
 目と瞼が磁石の対極のように反発してくっつかない。まんじりともせず毛布にくるまってるのが苦痛だ。乾いて充血した目をしばたたいて疲労のため息をつく。俺が緊張してどうする?戦うのはレイジなのに付き添って観戦するだけの俺が心配のあまり眠れないなんてどうすんだよおい。
 当のレイジはといえば不眠症には縁のない寝つきのよさで今日もぐっすり眠っている。野郎、人の気も知らないでと舌打ちしたくなる。いや、レイジが俺の為に、ひいては売春班のガキどもを救い出す為にサムライと組んでペア戦出場を決意したのはわかってるし感謝もしてる。
 でもはっきり言って無茶だ。東西南北各棟選り抜きの強豪相手に100人抜きなんてできるわきゃない。
 そりゃレイジは強い、それこそ化け物じみてる。以前本の角で人を殺せると豪語してたのはまんざら嘘でもないだろう、そう納得させてしまう気迫と威圧感、そして殺気が無敵を誇る笑顔の内から放たれているのだ。伊達に東棟の王様を名乗っちゃいない。
 今回のペア戦じゃレイジを倒し名実ともに東京プリズン最強を名乗ろうって自己顕示欲旺盛な連中がわんさかしゃしゃりでてくるはずだ。闘技場に詰めかけた大観衆の眼前でレイジを完膚なきまでに叩きのめし、自分こそが東京プリズン最強の男だと、無敵のレイジを超えた真のブラックワーク覇者だとふれまわりたい連中が。
 東京プリズンの囚人は喧嘩好きが高じて手加減できずに相手ぶち殺して刑務所送りにされた気の荒いガキどもばかりだから、リングに上がるやつもフェンスにしがみついて声援をとばすやつもペア戦開幕を明日に控えた今夜は体中の血が沸騰して眠れないはずだ。まあ、やりすぎて相手ぶち殺しちまったうんぬんじゃ俺も人のことは言えないが俺と奴らとの最大の違いはその事を後悔してるかどうかだ。人ひとり殺したくらいじゃてんで後悔も反省もしないのが東京プリズンの囚人がタチ悪いところで、特に娯楽班の連中はこの傾向が強い。娯楽班にスカウトされる囚人には一定の条件があって「素手で五人以上殺した者」というのが最低条件だそうだが本当かどうかは知らない。あくまで噂だ。

 今俺の隣で眠ってる男なら五人くらいラクに殺してそうだが。笑いながら。

 「………」
 もちろん俺はレイジに付き合って試合観戦に行くつもりだ。正直あまり気乗りしないが、俺と鍵屋崎、ひいては売春班のガキどもの命運を背負ってサムライとレイジがリングに立つというのに当事者の俺が一部始終を見届けなくてどうするんだ。レイジを巻き込んだのが俺ならちゃんと義務をまっとうして責任を果たさなければ……半面、もし試合中にレイジが怪我をしたらどうしようとか逆に歯止めがきかなくなったレイジが相手のガキを殺しちまうんじゃないかとか不吉な予感ばかりが膨らんで気が塞いでくる。
 レイジの闘いを最初から最後まで見届けるのが俺の役目だと頭じゃわかってるが心が納得しない、心の底じゃまだ割り切れない。もはや恐怖心に近い。レイジがもし100人抜きを達成できなかったら俺と鍵屋崎は売春班に逆戻り、半年後の部署替えまで毎日のように客をとらされつづける生き地獄に再び叩き落されるわけだがそれよかレイジの身が保つのか心配だ。ぶっちゃけちまえば男に犯されても死ぬことはない、そりゃ死んだほうなマシな思いはするだろうがマジで死ぬわけじゃない。でもレイジは死ぬかもしれない、殺されるかもしれない―

 レイジがいなくなるのが、怖い。
 レイジが殺されるとこなんて、見たくねえ。

 固く固く目を閉じて頭から毛布にもぐりこむ、嫌だ、レイジが死ぬなんていやだ。俺のせいで、俺を助ける為に100人抜きなんて無謀な目標ぶちあげたせいで万一試合中に殺されたらと考えるだけで頭が真っ白になって胸が苦しくなって息ができなくなる。レイジはなんだってあんな勝ち目のない、無謀としか言いようがない賭けにでたんだ?
 いや、わかってる。全部俺のせいだ、レイジは俺の尻拭いを―
 鳥肌だった二の腕を抱きしめ、自分の身を庇うように毛布の中で丸まっていたら隣から呻き声。
 呻き声?
 とっさに毛布をはねのけ起き上がる。暗闇に目をしばたたいて隣のベッドを見れば珍しいことにレイジがうなされていた。同じ房になって一年と半年、レイジがうなされるてるとこなんて初めて見た。そっとベッドを抜け出し、スニーカーを踵で履きつぶして接近。枕元に跪いて覗きこめば額には薄らと汗が浮かんでいた。酸欠に喘ぐように物欲しげに開閉される口といいぴくりぴくりと痙攣する目尻といい、眠りながら溺れてるようでいかにも苦しげだ。寝苦しそうにシーツを蹴り、悩ましげに喉を仰け反らせるレイジを注意深く観察する。
 いつも肌身離さず身につけてる十字架の金鎖が首に絡んでいた。
 うなされてたのはこれのせいか、と腑に落ちてそのまましばらくシーツを掻き毟って苦しむレイジの姿を堪能する。いつも寝込みを襲われたり寝顔を眺められたりしてんだからこれ位してもバチは当たらないだろう。まったくレイジは馬鹿だ、寝るときも十字架身につけてるなんて常日頃神様をなめしくさった言動をしてるくせに根っこじゃどんだけ信心深いんだよ。何も知らないレイジがシーツを蹴ってもがくたびにますます強く金鎖が食い込んで首を締め付けてくる。
 「……ざまあみろ」
 いつも人をおちょくってるからバチが当たったんだよ。そうほくそ笑み、溜飲をさげる。とは言えこのまま放っておくわけにもいかない。気のせいかレイジの顔色がちょっと青ざめて呼吸が浅くなってきたし、面倒くさいけど仕方ない。ベッドの傍らに跪き、レイジの首元へとそろそろ手を伸ばす。レイジを起こさないよう細心の注意を配りながら褐色の首に手を回し、金鎖に触れ―
 その瞬間だ。
 手首の骨が砕けそうな握力で腕を掴まれたのは。
 「!」
 はめられた、と一瞬勘違いした。かなり本気で。
 レイジのやつ、うなされたふりして俺が来るのを待ってたのか。くそっ、人の親切につけこみやがってと頭に来て押し倒される前に殴り返そうとしたがどうも様子がおかしい。あらためてレイジを見下ろす。瞼を閉ざしていてもおそろしく端整な面立ちが暗闇に浮かび上がる。汗にまみれて乱れた前髪がざんばらに額にはりついて妙になまめかしく、ノーブルに筋が通った鼻梁はさながら生ける彫刻のよう。整いすぎてともすれば中性的になりがちな雰囲気を中和し、線の細さからくる脆弱さを拭い去ってるのはシャープに研ぎ澄まされた顔の輪郭の精悍さだろう。
 口さえ開かなきゃ本当に綺麗な顔してんだけどな、こいつ。
 惜しいなと思いつつ、不覚にもレイジの顔に見入っていれば……

 『Because I laugh, do not kill me.』 
 
 不意打ちを食らった。
 「な……なに?」
 寝言?にしちゃはっきりしすぎだ。何を言ってるか全然わからない。びこーず……あらふじゅのきーみー?早口の英語だ。金鎖に手をかけたままジッとレイジを見下ろせば眉間に苦悩の皺を刻んで俺の手首を握り締めている。やがて握力が緩み、額に浮かんだ汗と一緒に苦痛の色が引いてゆく。
 『What is this song?……Strange fruits?……I like it.』
 一転柔和な顔つきになったレイジがくぐもった声で何かを呟く。寝言の内容が気になり、幸せそうに緩んだ口元へと無防備に顔を近付け―
 次の瞬間、後悔した。
 「!!わっ、」
 肩を掴まれ、即座に体勢を入れ替えられたのだと気付いたのは視界が反転して天井が正面にきたときだ。二人分の体重でスプリングが軋んで悲鳴をあげ、押し倒された背中で固いマットレスが弾む。押し倒す?だれが?決まってる、レイジだ。
 「……ロンのほうから襲ってくれるなんて今夜は積極的だ」
 「起きながら寝言言うな。今すぐ離れろ、殺すぞ」
 まだ寝ぼけてるのか、ぼんやりした目つきのレイジが戯言をほざくのを一蹴すれば肩にかけられた手が移動して上着の裾に……
 「いだっ、だだだだだだだだだだだだっ!?」
 「そう毎回おなじ手喰うかよ」
 「ギブ、ギブギブ!腕外れるっ、ロンやめ、ちょっと冗談だって!マジで怒んなよっ、寝起きのスキンシップじゃねえかよっ」
 レイジの注意が手に移った瞬間の隙をつき、素早く跳ね起きて片腕を締め上げる。そのまま膝に重心を移動、膝で背中を組み伏せ後方に引いた片腕を絞り上げれば陸に打ち上げられた魚よろしくベッドを叩いて降参の意思を表明する。よし。俺に押さえ込まれた手前とりあえず今晩は変な気を起こさないだろうと予想して腕の戒めを解いてやれば、一瞬で目が覚めたらしいレイジが腕の付け根をさすりながら起き上がる。レイジが寝ぼけててよかった、もし完全に覚醒した状態だったら押さえ込んで形勢逆転するのは不可能だった、絶対に。
 「おまえは寝ぼけてひと押し倒すのかよ」
 「んなことねえよロンだけだよ」
 「なおさら悪い」 
 「なんだよ、俺の目の前にいるのが悪いんだろ。目を開けていちばん最初に見たやつ押し倒すのが男の習性だろ」
 「ケダモノの習性だろ。どこで刷り込まれたんだよそんな傍迷惑な習性」
 「戦場で」
 腕の付け根をさすりながら胡座をかいたレイジにはっきりそれとわかるようにため息をつく。どこまで本気で冗談だか区別がつかねえからコイツと会話すんのは疲れんだよ。
 「さっきうなされてたぜ」
 「うなされてた?俺が?」
 寝耳に水、とばかりにレイジが驚く。意外な指摘に目をしばたたいたレイジの首元を顎でしゃくり教えてやる。
 「十字架の鎖が首に絡んでたんだよ。寝るときくらい外しとけよ、窒息しちまうぜ」
 「心配してくれんの?」
 「自信過剰も大概にしろ。朝起きて隣に死体が転がってたら飯食えなくなるからご遠慮ねがいたいだけだ」
 からかうような笑みを浮かべて胸元の十字架をまさぐるレイジを素っ気なくあしらうも頭の中じゃさっき偶然耳にした寝言がぐるぐる渦巻いてる。レイジと同房になって寝起きを共にするようになってもう一年半が経つが神経の図太さじゃ俺をはるかに上回るこいつがうなされるなんて珍しい、それこそ天変地異の前触れかもしれない。レイジが見た夢の内容に好奇心を刺激されどう切り出そうか迷った挙句、膝でにじりよるようにして顔を覗きこむ。
 「びこーずあらふじゅのきーみー、ってなんだ」
 絡まって縮まった金鎖を器用な指先でほどきながらレイジが変な顔をする。
 「?なんだそれ」
 「こっちが聞いてんだよ」
 「発音へたすぎてわかんねえよ」
 「……悪かったな発音へたでよ、どうせ俺は馬鹿だよお前みたくすらすら聖書暗唱できねえよ」
 「拗ねるな相棒、聖書読めなくても女口説くボギャブラリーありゃ世の中楽しく渡ってけるぜ」
 「ストレンジフルーツは?」
 英語な上に早すぎてほとんど聞き取れなかったが前後に間が空いたせいでその部分だけは聞き分けることができた。ベッドの上で胡座をかき踵と踵をすり合わせて身を乗り出せば、十字架をいじくりまわすのに飽いたレイジが金鎖をシャツの内側にしまいこんで俺へと向き直る。そして、暇さえありゃ唄ってるへたくそな鼻歌をひと通り辿ってからさらりと白状する。
 「俺が気に入ってる鼻歌のタイトル」
 「元ネタあったのか!?」
 度肝を抜かれた。
 レイジ自作のデタラメな鼻歌だとばかり思い込んでたのに元となる歌が存在してたなんて全然知らなかった、いや、たとえ俺が知ってたところでレイジの破滅的音痴が原因で気付かなかったとは思うが。
 「レディ・ディことビリー・ホリディの『ストレンジ・フルーツ』。知らねえ?二十世紀に活躍したジャズ歌手なんだけど」
 「……いや、お前の鼻歌は公害だろ。元ネタになった歌手が聞いたら訴訟起こしそうだ、天国まで届かなくてよかったな」
 あきれて口がふさがらない俺をよそにレイジは機嫌よく歌を口ずさんでる。女を酔わして腰を疼かせる甘くかすれた声の響き自体は決して悪くないのにいかんせん音痴なせいで台無しだ。裸電球を消した暗闇の中、レイジの口をついてでる音痴なメロディーに耳を澄ます。鍵屋崎の鼻歌とはまた違った趣があるなこれも、なんて呑気にあくびしてたら闇に溶け込むように鼻歌が途切れる。
 静寂。
 なんとなく、気まずい。ペア戦開幕を明日に控えた大事な夜だってのに何やってんだ、俺。いや、実際戦うのは俺じゃねえけどだったら尚更こんな事してちゃはまずい、レイジの眠りを邪魔して体力を削っちまうのは。もう自分のベッドに戻ろうと腰を上げかけ、後ろ髪をひかれるように振り向いてしまったのは寝る前にどうしても一言レイジに告げておきたかったからだ。
 「明日、だよな」
 「ああ」
 ベッドに腰掛け、レイジの視線を避けるように俯いて逡巡する。こんなこと改まって言うのは面映い、でもちゃんと言っときたい。ぼろぼろに傷んで擦り切れたスニーカーに踵をもぐりこませ、靴紐を結わえるフリで時間を稼ぎながら背中に意識を向ける。直接レイジの顔を見てこんなクサイ台詞吐く度胸はないから、こうやって背を向けたままで勘弁してほしい。
 深呼吸し、腹を括る。
 あせりすぎて噛まないよう口の中で小さく反芻しながら、いよいよ覚悟を決める。
 さあ、いまだ。言え。

 「………がんばれよ」

 あやうく噛みそうになりながら何とかその気恥ずかしい台詞を口にする。顔が熱い、レイジの顔がまともに見られない。何も照れることはないだろうと自分にあきれるが恥ずかしいんだから仕方ねえだろ、と誰にともなく弁解すれば靴紐をいじる手に動揺が出てしまう。なかなか上手く結べず、複雑に絡まってゆくばかりの靴紐に苦戦してると背中に衝撃。
 「ああ畜生かわいいなあロンは本当に!!」
 突進する勢いでレイジにとびつかれ、猫にでもするように頭をかきまわされた。
 「なんだお前誘ってんの俺のこと誘ってんの?誘ってんなら乗るぜよしヤろう今すぐヤろうぱぱっと!」
 「誘ってねえよ襲われてんだよ何だよお前はひとのシリアスな気分台無しにしやがって!?ああもうなしだなし、今のなし!お前なんか頑張んなくていいよ、どうせ頑張んなくても俺が付き添って応援なんかしなくても100人抜きなんか楽勝だもんな無敵の王様は!」
 腹に回された腕を引き剥がそうと躍起になりつつヤケ気味に喚き散らす、ああもうなんだよ、照れ損かよおれ!?柄にもないことするんじゃなかった、ペア戦開幕を明日に控えた一生に一度の夜くらい格好よく決めさせてくれよ。そりゃ俺が出るんじゃねえけど気持ち的にはレイジと一緒にリングにのぼるつもりだしレイジのこと全然まったくこれっぽっちも心配してないって言や嘘になるし……
 ふいに、腹に回された腕が緩む。
 「………」
 つられて暴れるのを止める。抱きしめる力が緩んだんだから振り落とせばよかったのに、そうする気が起きなかったのは背中越しに感じる雰囲気がスッと一変したからだろうか。背中に俺以外の人間の体温を感じながらおそるおそる振り向けばすぐそこにレイジの顔があった。
 「ロンさ、ひとつ頼みがあるんだけど」
 「なんだよ。音痴の矯正法なら鍵屋崎に頼め、アイツのほうが上手いから」
 どうせろくでもないことだろうと鼻で笑って冗談にすれば、耳の裏側にキスするように低くささやかれる。
 「お前にしかできないこと」
 緩やかな動作で腕がほどけてはなれてゆく。ベッドに腰掛け、腰を捻って振り向けばベッドに正座したレイジがこれまで俺が見たこともない顔で黙りこくってる。何だよ一体、早く言えよ。気をもたす沈黙にしびれをきらし、スニーカーをつっかけたままベッドによじのぼって胡座を組みかけ、靴底の泥で汚したらまずいと正座に切りかえる。
 裸電球を消した暗闇の中、同じベッドの上に一対一で正座して向き合えば、小さく息を吐いたレイジが一世一代の決断を下すように毅然と顔を上げる。正面に向き直ったレイジをまじまじと見つめ、まともな顔すりゃ本当に美形なんだけどなあともどかしくなる。俺は女じゃないから全然そんな気起きねえけど、衣擦れの音が異様に耳につく暗闇の中、互いの息遣いがまざまざと伝わる距離で向かい合った男にこんな真剣な目で見つめられたら女の大半が抱かれたくなる気持ちもわかる。

 「100人抜き達成したら抱かせてくれ」

 「…………………………………………………は?」
 ……うそ、やっぱりわからねえ。
 右耳から左耳へと抜けていった言葉を理解するのを頭が拒否してる。そりゃそうだ、なにとち狂ったこと言い出すんだこの馬鹿は。いつになくマジな顔をするもんだから本腰入れて話聞いてやろうと正座までして損した、もう本当に愛想尽かして腰を上げようとして、腰が抜けたようにその場にへたりこんだまま動けない事実に気が動転する。
 目の前にはおそろしくマジな顔したレイジがいる。
 悪い冗談だと笑い飛ばしたかったが、口角が痙攣したひきつり笑いじゃたいした効果もない。自分の膝に手をおいたレイジが一途に思い詰めた目で、言い逃れなんか許さない眼光でまっすぐこっちを見つめてる。
 「……嘘だろ」
 「本気だ」
 「嘘って言えよ」
 「本気だよ」
 「だって、」
 「抱かせろ」
 「おいちょっと待てよ、変だってこの展開」
 「もうさ、俺限界。これまで一年半待ったんだ、これ以上焦らされたら気が変になる」
 「言う相手間違ってるだろその台詞、女に言えよ。外にたくさん愛人待たせてるんだろ、な?」
 「今抱きたいのはお前だ」
 「抱くとかヤるとか何なんだよ話ついてけねえよ。もう俺寝るからな、まあそのなんだ、明日は殺さない程度殺されない程度にがんばってくれ……」
 一方的に話を打ち切りそそくさと逃げようとしたら片腕を掴んで引き戻され、その勢いでもう何度目かわからないがレイジに押し倒される。上から見上げたレイジの表情は目鼻立ちが暗闇に沈んでるせいでよくわからないが、よく締まった首からぶらさがった金鎖が頬に触れてひんやり硬質な感触を与えてくる。思わず目を奪われるほどにシャープで美しいラインを描く顎から首筋、そして鎖骨が間近に迫る。
 「いいだろ?」
 耳朶にかかる吐息が熱い。何されるがままになってんだよ、早く押しのけろよと脳みそが指示をとばしてるが四肢が言うことを聞かない。頭が混乱して何が何だかわからなくなる。だってレイジは俺を他の男に抱かせたくないからペア戦100人抜きの目標をぶちあげて安田に宣戦布告して売春班撤廃を目指して……

 全部俺の為?
 それ全部俺の為に?

 いや、俺の為にとかそういう発想自体が思いあがりだ。レイジは以前から売春班の存在が気に食わないって言ってたし和姦がいちばんってうそぶいてたし俺ひとりの為にやったことじゃない、はずだ。でもペア戦100人抜きを条件に売春班撤廃という無謀すぎる賭けにでた原因は俺、レイジを突き動かす原動力は俺なのか?そうだ、レイジは今までさんざん俺の面倒を見てくれた俺の尻拭いをしてくれた。報われないのに尽くして尽くしてどんなにつれなくされても懲りずにお袋につきまとってたガキの頃の俺みたいに……。
 じゃあ、ここで断るのはアンフェアじゃないか?
 これまでさんざん迷惑かけてきたくせに、いや、現在進行形で迷惑かけてるレイジの頼みを蹴るのはあんまり恩知らずじゃないか? 
 俺を助けるために自ら命をかえりみない危険にとびこんでいこうとしてるレイジの頼みをひとつくらい聞いてやれなくてどうするんだ。
 

 なにかひとつくらい借りを返せなくてどうするんだ。


 全身の血が沸騰し、体が燃えるように熱くなる。喉がからからに渇いて舌が下顎にへばりついてる。くりかえし唾を飲み下し、すべりをよくしてから舌を引き剥がす。暗闇に慣れた目が普段からは想像もできない神妙な面持ちのレイジをとらえる。レイジも同じか、いや、それ以上に緊張してるのだろうか?そう思い当たればますます手が汗ばんできて心臓の鼓動が高鳴って頭が真っ白になって、
 堰を決壊させたのは頬と頬が接する距離で、薄らと汗ばむ肌と肌とが交わる距離でささやかれた言葉。
 「いいだろ?」
 俺の中で何かが切れた。

 ―「ああもうわかったよっ、抱かせてやるよ!!!!!!!!」― 

 コンクリートの空間にやけっぱちの絶叫が響く。
 コンクリートの壁と天井に反響した声が長く尾を引く余韻を残して大気に浸透してゆく。鼓膜を震わし大気を震わす音の波紋が完全に収束したときに訪れたのは耳が痛くなるような静寂。 
 『Great』
 そっと薄目を開ければレイジが満面に笑みを湛えていた。
 嬉しくて嬉しくてもうしんぼうたまらねえ、今にも叫びだしたいのを唇を噛んで必死に噛み殺してる有頂天の笑顔。
 …………やばい。
 「今の本当だな、本当の本当に本当だな。あとからナシとか言うなよ絶対に!?」
 「本当だよ、ただし100人抜き達成したらの話だ!98人でも7人でもまけられねーぞっ100人きちんと倒したらな!」 
 「100人抜いたら抱かせてくれるんだよな直前になって駄々こねたりやっぱりなかったとか言いっこなしだぜ、」
 「しつけーなそんな往生際わりぃこと言わねえよ、100人抜いたらヌかせてやりゃいいんだろうがこの尻軽が!!」
 肩を掴んでがくがく揺さぶられたせいで眩暈に襲われて壁と天井が回りだす。期待と興奮で頬を紅潮させたレイジが我を忘れて手加減も忘れて無我夢中で俺を揺さぶりながら気が触れたようにはしゃいでやがる。シャツから引っ張り出した十字架にキスの嵐を降らせ、俺には聞き取れない早口の英語でたぶん神への感謝の言葉でも口走ってるんだろうレイジに茫然自失してれば手をひったくられる。
 「な……、」
 「指きりしようぜ!」 
 なにすんだ、と続けようとした抗議をさえぎり一方的に小指に小指を絡めて腕がもげそうな勢いで上下させる。傍から見りゃそりゃ間の抜けた光景だろうが、自分がやってることが滑稽だなんて自覚がこれっぽっちもないレイジが相手じゃ怒る気も失せる。
 「あーもう断然殺る気と犯る気でてきた、ロン、俺頑張るからな!タジマなんか目じゃねえ、『もうお前なしじゃいられねえよレイジ』って泣いてねだるようになるまでヤるから皮剥いてケツの穴洗って待ってろよ!」
 「皮かぶってねえっつの」
 半ばヤケになって小指が上下するにまかせながら、喜び全開、顔をくしゃくしゃにして笑み崩れたレイジを絶望的に眺める。
 俺はまた、勢いだけでとんでもないことを言っちまった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060111214632 | 編集

 週末の夜、停留場は闘技場になる。
 東京プリズンの地下空間にある巨大な停留場は強制労働に従事する囚人を各部署へと運んでくバスでいつも賑わってるが週末の夜だけは別、すべてのバスは停留場の隅に駐車されて中央には広大なスペースが空く。そのさらに中心、一辺8メートルの面積を正方形に囲って張り巡らされているのは高さ10メートルはあろうかという金網のフェンスだ。
 娯楽班の試合が催される闘技場はこの金網の内側だ。裏を返せばこの金網以外に闘技場と観客席とを仕切る境界線はなく金網に顔をくっつけさえすりゃ顔面に返り血浴びる至近距離で大迫力の殺し合いを見物することができる。いや、観客席などというご大層なものはない。週末の夜限定で設置される金網の外側には当然椅子なんてなくて試合観戦に赴いた囚人は最前列から最後列に至るまで例外なく立ち見を強いられることになるがその事自体に不平不満を漏らす奴は少ない、試合中はそれどころじゃないからだ。
 金網一枚向こうで繰り広げられるのは血湧き肉踊る熾烈な殺し合い。
 ルールなんてあるようでなし、使用する武器には素手だろうがナイフだろうが釘バットだろうが一切制限がなくて万一やりすぎて相手を殺しちまったとしても不幸な事故で片付けられて金網の外に控えてる処理班が迅速に死体を運び出してくれる。
 東京プリズンの囚人はどいつもこいつも無類の賭け好きで喧嘩好き、喧嘩をするのも見るのも大好きで殴られても殴り返しても勃起しちまいそうに興奮する真性の変態揃いだから、試合が過熱するにつれ自然と立ち上がってリングに檄をとばすようになる。だから席なんて必要じゃないのだ、立ちっぱなし勃ちっぱなしの尋常じゃないハイテンションを終始維持してるんだから。
 さて、金網の外にゃ処理班のガキどもが待機してるし準備は万全。あとは役者が揃えばいつでも試合の幕が切って落とせる、レイジとサムライの東棟最強ペアVS各棟強豪100人50組の東京プリズン始まって以来の無理無茶無謀な対戦、前代未聞の対決が。
 レイジとサムライの最強にして最凶ペアに挑戦するのは事前に名乗りを上げた東西南北各棟の50組でどいつもこいつも五人くらい素手でラクに殺してそうな凶悪な人相の強敵ぞろい、レイジとサムライがいくら化け物じみて強くても無傷で勝ち残れる保証はどこにもない。万一の時の為に医務室から出張してきた医者がフェンスの外に控えてるけどはっきり言って気休めにもなりゃしねえヤブで、今日の試合でひとりふたり死人がでる可能性も皆無じゃない。

 時間をちょっと遡る。

 当日は朝からペア戦開幕の噂で持ちきりで食堂でも廊下でもすれ違うやつ皆そわそわしてた。東棟、ひいては東京プリズン全体が熱気と興奮にさざめいて寄るとさわると今夜の出し物の話題になった。だれもかれも膨らみすぎて弾けるのを待つばかりの風船のように極限まで高まった緊張感を意識せずにはいられず何をするにしても奇妙に浮き足だっていた。
 何か、前例を覆し歴史をひっくり返すとんでもないことが起きる予兆のざわめきがたちこめる中、当のレイジだけはそんな緊張とは無縁にいつもどおりに振る舞っていた。まったく、あと数時間後にはリングに上って死闘を演じる羽目になるってのに見てるこっちまで気が抜ける緊張感のなさで食堂じゃ行儀悪く肘をついてたいして面白くもねえ冗談に笑い転げたり、昼間は昼間でへたくそな鼻歌まじりに図書室に足を運んで本を借りたりしてた。傍から見りゃ憎たらしいくらい余裕ぶちかましてるレイジの心の内は俺にもわからない。昨夜あんなことがあって勢いと流れでとんでもないこと約束しちまった手前、朝っぱらからすこぶる上機嫌なレイジの態度をどうとっていいかわからないのだ。
 まさか、100人抜き達成すりゃ俺を抱けるからあんなに上機嫌だったんじゃないよな?……ありえない話じゃない。 
 そして、長い長い生殺しの昼が過ぎて砂漠に日が沈み夜の帳がおちる頃。
 夕食が終わって自由時間が始まり、いつもなら廊下や図書室やそれぞれの房にたむろって賭けポーカーや麻雀や下ネタ満載の猥談、看守の失敗をネタにした馬鹿話に興じてる連中が一斉に、それこそ示し合わせたように同時に鉄扉を開けて廊下に溢れ出した。廊下に溢れた衆人は同一方向を目指す巨大なうねりとなって蟻の大群の如く蠢き流れ出し移動を開始する。
 そう、地下停留場をめざして。
 「いよいよだな」
 鉄扉に穿たれた格子窓の向こうを流れてゆく囚人たち、興奮に頬紅潮させ、今夜の試合についてしゃべくりあう混沌のざわめき。鉄扉越しの高揚が伝染したのか壁にもたれかかってる俺も落ち着きをなくし、レイジに話しかける口ぶりがよそよそしくなる。
 「ああ」
 対して、レイジは余裕綽々。ベッドの上でのんきに柔軟体操なんかしてる。頭上で手を組んで伸びをして腕をおろし、全身の間接をほぐしてから「よっしゃ」と腰を上げる。スニーカーをつっかけてこっちに歩いてきたレイジを過剰に意識して壁に背中をつけたままじりじりとあとじさる。大股に歩いてきたレイジを見て反射的に仰け反ったのは昨夜の約束が脳裏を過ぎったからだ。
 『ああもうわかったよっ、抱かせてやるよ!!!!!!!!』
 まったく、なんだって安請け合いしちまうんだよ。自分の馬鹿さ加減が恨めしい。俺の前で歩みを止めたレイジがじっと顔を覗きこんでくる、睫毛の先端が触れ合う距離で覗きこまれて息が止まりそうになる。
 「昨日のアレ、今さらなしなんて言うなよ」
 凄味を利かせた声で念を押される。綺麗すぎて精巧なガラスを彷彿とさせる瞳にらしくもなく固い顔した俺が映ってる。
 「………100人抜きしたらな。やれるもんならやってみやがれってんだ」
 「100人抜きしたらいいんだな。本当にいいんだな」
 「しつけえっての」
 「よし」
 ようやく納得したらしいレイジが変に真面目ぶった顔で離れてゆき、途中で自制心が限界に達したらしくとろけるように笑み崩れる。
 「ちゃんと応援してくれよ」
 「………………………ああ」
 そう答えるしかないじゃんか。レイジは売春班から俺を救い出すために、いや、俺だけじゃない、鍵屋崎を含めた売春班のガキども全員を助け出すために未曾有の100人抜きに挑むんだから。ふてくされたように呟けば、その可愛げない態度にも気分を害すことなく音痴な鼻歌を奏でながらレイジがノブを握る。レイジが鼻歌唄うのは上機嫌な証だ。察するにこれがストレンジ・フルーツなのだろう、著しく音程が狂った鼻歌はもはや原形を留めてなくて元の歌を想像することすら難しいが闘いに赴く精神に作用して気分を盛り上げることはできる。精神高揚の鼻歌を奏でながらノブを捻り、今まさに扉を開けようとしたレイジと振り返り際目が合う。
 「もう一度指きり、」
 「しねえよ馬鹿」
 二度とあんな恥ずかしい真似するか。昨夜は無理矢理レイジに付き合わされたが拒否権があるなら拒否したい。ちょっと残念そうに口を尖らせたが持ち前の変わり身の早さを発揮し、思考を前向きに切り替えたレイジが膝の屈伸運動を終えて廊下にとびだしてゆく。レイジの背中を追って扉を閉じ、房を出る。東棟全ての住人があふれだしてきたかのような人ごみに揉まれながら、3メートル先に見え隠れするレイジの後頭部を目印に小走りに駆け出せばやっぱり音痴な鼻歌が聞こえてくる。
 ……レイジに勝ってほしいような勝ってほしくないような、複雑な心境だ。   

 ペア戦出場者は最低三十分前に停留場に降りて、フェンス脇での待機が義務付けられている。
 レイジもその規則にのっとって三十分前に停留場に降りたわけだが、広大な面積を有する地下停留場はすでに東西南北全棟の囚人であふれ返っていて蟻の巣をほじくりかえしたような人口密度の高さだった。今日この日を楽しみに辛い強制労働に耐え、まずい飯を我慢してきたと言っても過言じゃない囚人たちがある者はダチを誘い、ダチがいない奴は一人で試合観戦にきてる。押し合い圧し合い、少しでも前へ出ようと悪戦苦闘する物見高い野次馬連中の背後にレイジが近付けば、王様の出現に気付いた最後尾の囚人がぎょっとしたように仰け反り、瞬く間にその動揺が伝染して窮屈にごったがえしていた囚人が道をあける。周囲の囚人が固唾を呑んで見守る中、自分のために作られた花道をレイジが悠々と歩き出す。最前列でレイジを応援しようとくっついてきた俺もすかさずあとに続こうとするが不測の事態が発生した。
 俺の目の前で花道が閉ざされ、レイジの後ろ姿が人ごみの彼方にかき消えたのだ。
 「!?ちょっと待てよ、こらっ」
 慌ててレイジを呼び止めるも、遅い。
 人ごみをかきわけてレイジを追おうとしたが小柄な俺なんか一突きで跳ね返されちまう。いや、冷静に考えればわかりきったことだ。東棟の王様のために作られた花道をただ尻にくっついてきただけの俺までおこぼれに預かって通れるわきゃない。畜生、もっとレイジにくっついてりゃよかったと歯噛みするが後の祭りだ。
 「あれがレイジだぜ」
 「東棟の王様か?」
 「100人抜きとか無茶な目標ぶちあげた?」
 「へえっ、あんな優男だったんだ。娯楽班より売春班のが向いてんじゃん?」
 「おまえ馬鹿か。あんなツラしてっけど連戦無敗のブラックワーク覇者だ、本の角でひと殺せるイカレ野郎って評判だぜ」
レイジ出現に色めきだった野次馬が我も我もと背伸びして金網越しのリングに見入ってる。真似してつま先立ってみたが前列の木偶の坊がジャマして何も見えやしねえ、視界にひしめいてるのは囚人服の背中ばかりだ。
 むさ苦しい光景に嫌気がさし、そっと野次馬の輪からはなれる。慌てることはない、まだペア戦開幕まで三十分もある。要はペア戦の火蓋が切って落とされるまでにレイジのそばにいきゃいいんだから試合開始までは自由にぶらついててもバチ当たらないはずだ。
 猥雑な喧騒に満ちた停留場をあてどもなく歩きながらひとりむなしく愚痴をこぼす。
 「レイジも薄情だぜ、気付きもしないで行っちまった。足の長さがちがうんだからちょっとは振り返れっての」
 足の長さが違えば当然歩幅も違う……言ってて哀しくなってきた。そういや鍵屋崎はどこにいるんだろう。サムライが出るなら当然鍵屋崎もきてるはずだ。この人ごみで鍵屋崎とサムライが見つかるかどうか心許なかったが試しに視線を巡らしてみて、20メートル離れた人ごみの渦中にふたりを発見する。
 意外と近くにいた。全然気付かなかった。
 「おーい」
 と声をかけながらふたりに近寄ろうとして、遠目にも様子がおかしいことを悟る。
 鍵屋崎とサムライが深刻な面持ちで何事か話しこんでる。いや、深刻なのは鍵屋崎だけでサムライはいつもと同じ無表情か。どうやら鍵屋崎が一方的に畳み掛けてるらしいがサムライはどこ吹く風と涼しげで取り合う様子もない。左手に預けた木刀の握りを確かめ、今まさに人ごみをかきわけて金網のフェンスに近寄ろうとしてる。そんなサムライになおも鍵屋崎が追いすがる……
 「痴話喧嘩か?」
 仲がいいな、とあきれる。おそらくはペア戦に出場するサムライの身を案じるあまり鍵屋崎がはなはだお節介な諸注意でもたれてるのだろう。もしそうなら俺はお呼びじゃないだろうが、鍵屋崎とサムライを取り巻く雰囲気がにわかに険悪になったのを察し、仲裁に入ったほうがいいだろうかと考え直す。心配性が再発し、ここまで届かない声で喧嘩してるふたりの注意を向けさせようと片手を挙げかけ……
 その片手を、誰かに掴まれる。
 「!?なにすんだよっ、」
 俺の片手首を掴んだやつの顔は人ごみに紛れて見えない、人の壁の間から唐突に腕だけ生えてきたのだ。くそっ、腕だけのくせして馬鹿力だ、こいつ。さかんに身を捩り、掴まれた手を振って抵抗したが握力が緩められる気配は微塵もなくかえって強められる一方だ。そして、力づくで引きずられる形で野次馬の垣根から連れ出されて強引に歩かされる。俺の腕を掴んでのし歩く人間の背中は周囲にたむろった囚人の垣根に阻まれてよく見えないがちらりと覗いた紺の制服にはやけに見覚えがある。
 いや、見覚えあるどころじゃない。看守の制服じゃないか、これは。
 だとしたら、手首に爪が食い込む握力で俺の腕を握り締めてるのはひとりしかいない。
 「!―っ、」
 歯を食いしばったのは手首に爪が食い込む痛みが原因じゃない。
 「はなせよっ、どこに連れてく気だよ!これから用事あんだよ、もうすぐペア戦が……」
 足腰踏ん張って引き返そうとするが無駄だ、力と体格でこいつにかなうわけない。野次馬の頭の向こう、銀の檻を彷彿とさせる景観で高々と張り巡らされた金網のフェンスへとむなしく片腕を伸ばすが届くはずもない。無力にもがきながら、それでも必死に抗い続ける俺を嘲笑うかの如き揶揄が耳朶にふれる。
 「まだ30分あるだろ。30分もありゃいろんなことができるよなあ、ロン」
 間違いない。悪い予感が的中した。
 顔が見えなくても声聞きゃわかる―……わかってしまう。

 『手え抜くなよ、いつまでたっても終わんねーぞ』  
 『ちゃんと持ち上げろよ、よく見えるように』 
 『泣くほど気持ちいいってか?やらしいツラしやがって』
 『ひとに見られてイッて恥ずかしくねえのかよ』
 『ちゃんと後始末しとけよ』
  
 やめろ思い出したくない、あんなことは思い出したくない絶対に。きつく目を閉じて脳裏に浮かび上がろうとする声と光景とを打ち消せば靴音の響き方が突然変わる。だだっ広く開放的な空間からコンクリートで周囲を密閉された細い通路へと連れ込まれたのだと音で判断した瞬間に目を見開けば正面に扉があった。ごつい手が腰の鍵束を探り、鍵穴にさしこむ。カチャリ。
 だめだ、ここに足を踏み入れちゃだめだ、そうなったらおしまいだ。
 回れ右して逃げなければ絶体絶命の窮地に陥ると頭じゃわかってる、でもそうする前に、なりふりかまわず暴れて逃げ出す前にぐいと片腕を掴まれ、乱暴に肩を突かれて扉の内側へと放り込まれる。足が縺れてたたらを踏んだ俺の背後で扉が閉じ、暗闇に鈍い音が響く。
 どうやらここはボイラー室みたいだ。
 むきだしの配管が毛細血管の緻密さで張り巡らされた壁面に背中を預けてキッと正面に向き直れば、目の前には肥満体の男。たっぷっり脂肪がついた二重顎と弛んだ頬肉、酷薄そうに輝く目は爬虫類の陰湿さ。発情した軟体動物めいて淫猥な分厚い唇は唾液でてかてかと濡れ光り、薄く開かれたそこから覗くのはヤニ臭く黄ばんだ歯並びの悪い前歯。
 俺の天敵、いや、東京プリズン全囚人の天敵……最低最悪の看守、タジマだ。
 「……何の用だよ」
 壁を背にしながら虚勢を張って唸れば、威圧的に腰に手をおいたタジマが大股に歩み寄ってきて身が竦みそうになる。前にもこんな状況があった、あれはまだ俺がイエローワークにいたとき物置小屋に連れ込まれて煙草の火を……
 煙草の火。いやだ、思い出したくない。
 囚人服の背中がじっとり湿ってるのはよりかかった壁が配管から噴出した水蒸気で濡れてるからだろうか、それとも汗のせいだろうか。わからない、それどころじゃない。なぶるように距離を詰めてきたタジマが俺の上にのしかかるように壁に手をついた前傾姿勢をとり、ヤニ臭い歯を剥いて顔を覗きこんでくる。
 「あと30分で開幕だな」
 「…………」  
 「無視すんなよ。レイジは同房のお前助けるためにペア戦出場するんだろうが」
 口臭くさい息を吐きかけられて顔を背ければ有無を言わさず顎を掴まれて正面に固定される。
 「レイジも可哀相だよな、お前助けるために100人抜きなんて無茶な目標ぶちあげたせいで東西南北全棟の強豪に狙われる羽目になってよ。生きて帰れる保証もねえってのに……なあ、良心は痛まねえか?レイジはお前のために、お前の貞操守るためにこれからリングに上って情け容赦ない殺し合い演じるんだぜ。もしレイジが殺されたらお前のせいだ、お前が駄々こねて売春拒否ったせいだよなあ」
 顎に指がめりこんで痛いが、それよりなぶるような口調で揶揄されたことへの反感が沸いてくる。俺の顎を掴んだタジマの目をまっすぐ見返し、挑戦的に口角を吊り上げてやる。  
 「馬鹿言うな、レイジが死ぬわけない。忘れたのか?あんただってレイジに煙草押し付けられて鼻水と涙にまみれて降参したじゃんか」
 そうだ、レイジが死ぬわけない。あいつを殺せる奴なんかだれもいない。
 そう信じて、自分に信じ込ませようとして断言すればタジマの顔がわかりやすく強張る。
 「……素直に俺に組み敷かれてりゃこんな面倒なことにならなかったのによ。売春班撤廃だあ?寝ぼけたこと言ってんじゃねえよたかが囚人が、」
 口汚く吐き捨てたタジマが舌なめずりし、扇情的な手つきで俺の尻をさわってくる。
 「お前が、お前らが余計なことしてくれたおかげでマジで売春班撤廃されちまったらどうすんだよ?安田の若造は以前からブラックワーク目の敵にしてたから手前勝手にレイジの要求飲んだけど看守のだれも売春班撤廃なんかにゃ賛成してねえぜ。看守だけじゃねえ、囚人だって誰一人としてんなこと望んでねえ。いいか、その中身の詰まってねえオツムでよーく考えろ。売春班がなきゃどうなると思う、人通りがあろうがなかろうが廊下歩くたんびに物陰ひきずりこまれてケツ剥かれて肛門から血を垂れ流す羽目になるんだ。おまえだって嫌だろう、このかわいいケツが柘榴みたいに裂けちまうのは」
 ズボンの上から円を描くように尻を撫で回され、ぞわりと肌が粟立つ。
 「売春班にいりゃもっと早く裂けちまうよ」
 図々しく尻におかれたタジマの手を叩き落し、壁に背中をつけて距離をとる。次にタジマがどう出るか警戒して生唾を嚥下し、挑戦的な笑みはそのままに宣戦布告する。 
 「それにな、売春班つぶすのに誰一人賛成してないなんて真っ赤な嘘だ。その証拠が俺だ。俺だけじゃない、鍵屋崎も他のガキどもも誰一人だって売春班の継続なんか望んでない。てめえら変態看守のオモチャにされてケツの穴もてあそばれるのはこりごりだとよ」
 「よっく言うぜ、俺に煙草の火押し付けられて喘いでたくせに」
 喉を仰け反らせて笑ったタジマの言葉に永遠に葬り去りたい悪夢が鮮明に蘇る。まだ鮮明に体が覚えてる、皮膚にねじこまれた煙草の火の温度を、肉が焦げる臭気を。ともすれば震え出しそうになる唇を噛み締め、精一杯の怒りと反感をこめてタジマを睨みつける。
 「……喘いでなんかねえよ」
 「うそつけ。お前ら囚人は全員痛いのが好きなマゾで看守はサドだ、な、需要と供給が成り立ってるだろう?」
 ひとしきり下劣に笑ったタジマが制服の胸ポケットに手をやり何かを取り出す。
 「試してやろうか」
 配管が取り付けられた壁に背中をくっけてあとじさってるうちに逃げ場のない隅へと追い詰められる。背後の配管を握り締め、恐怖に強張った顔でタジマを仰げば見せつけるようにその手に掲げられたのは……
 安全ピン。
 「なに、する気だ」
 「レイジとお揃いにしてやるよ」
 にたつきながら歩み寄ったタジマが安全ピンを片手に、もう一方の手で俺の耳朶を摘む。
 レイジとお揃い。耳に開けたピアス穴。
 「!―っ、」
 反射的にタジマの手を振り払おうとしたが、おどけた動作で胸を仰け反らせて避けられてしまう。駄目だ、壁際に追い詰められて身動きとれない。俺に覆い被さってるタジマを何とかしないかぎりドアを開け放って助けを呼ぶこともできない。俺の耳朶を掴んだタジマが舌先で安全ピンを舐めて唾液をのばしてゆく。唾液に濡れた安全ピンの先端が鋭さを増して輝いて俺の顔へと近付いてくる。
 「処女耳だな。傷ひとつねえキレイな膜だ」
 耳朶に熱い吐息がかかる。ズボンに内腿に擦りつけられるのは今にも爆ぜそうに猛りきった股間。手を突っ張ってタジマをどかそうとしたが、体と体を密着させて壁際に押さえ込まれてしまってはどうすることもできない。心臓の動悸が速まり血の巡りが異常に速くなる。恐怖に息遣いを荒くした俺の耳朶に、生温かく柔らかい舌が粘着質な唾液の糸を引いて絡んでくる。
 「今から穴に舌突っ込んでやる。処女膜破って開けた穴に熱くて太いモンを突っこんでぐちゃぐちゃにかきまわしてやる」
 ただピアス穴開けるだけがタジマが言うと最低の行為に聞こえる。
 消毒でもしてるつもりなのか、唾液を捏ね回す淫猥な音とともに執拗に耳朶を舐められ不快さのあまり腰が萎えそうになる。レイジに耳朶を舐められたときは恐怖が先行したが今は生理的嫌悪で吐きそうだ。熱く潤んだ口腔に含まれた耳朶が溶けそうに火照り、萎んだ息遣いの間から拒否の呻きが漏れる。いやだ、俺はこのまま手も足もでず頼んでもないのに耳に穴開けられちまうのか?耳に安全ピン刺されちまうのかよ?
 「気持ちわりいんだよ変態、いつまでもひとの耳たぶ飴玉みてえにしゃぶってんじゃねえ!!」
 腹の底から声を振り絞って拒絶したがタジマはますます図に乗るばかりで俺の話なんか聞こうともしねえ、それでもなお暴れていれば業を煮やしたタジマがとんでもない場所を抓ってくる。
 「!?―いっ、」 
 「大人しくしろ、あんまり暴れると変なとこ刺しちまうだろ。それともこっちのがいいか?ははっ、乳首抓られて感じるなんて変態だな」
 感じてるんじゃねえ、痛がってるんだよ。
 服の上から力一杯胸の突起を抓られ、恥辱と激痛で顔が熱くなる。これ以上抵抗したら本当にそっちを刺されそうだ、それなら耳朶のほうがずっとマシだ。絶望して体の力を抜けばタジマの肩に額を預けて凭れかかる屈従の体勢になる。
 「そうそう、そうやって俺の命令聞いてりゃいい。なあに、痛いのも慣れてくりゃじきに気持ちよくなる。レイジのピアス穴は……ひいふうみい……何個だ?十個くらいか。安全ピン足りなくなりそうだな、おい」
 タジマが上機嫌に唄う声がどこか遠くで聞こえ、乳首を抓られた激痛に意識をさらわれそうになりながらも頭が恥辱で煮立つ。俺の耳朶とピン先とにたっぷり唾液を塗付したタジマが興奮に濡れ輝いた目をして鋭利に尖った銀色の先端を右の耳朶へと近づけてくる。安全ピンの針先から逃れようと必死にかぶりを振るが、壁を背後にした無理な体勢じゃ首の可動域にも限界がある。
 恐怖を煽るようにゆっくりと近付いてきた針の先端が耳朶に触れ、ちくりとした痛みが生じる。
 苦痛を上回る恐怖に歪んだ俺の顔を舌なめずりして堪能しながらじわじわと針に圧力をくわえて耳朶を貫通させようと企むタジマ、耳朶に触れた針が徐徐に、徐徐に柔らかく破けやすい皮膚へと埋まってゆきー……
 目を閉じる。
 痛いのには慣れてるからいまさら耳に穴開けられるくらいどうってことない目を閉じてりゃすぐ終わる、そう一心に念じながら一刻も早く針が耳朶を通ってくれるよう、もういっそ苦痛など感じないほど素早く耳朶を貫通してくれるよう気も狂わんばかりに祈ったその時だ。 
 ドアが開き、一条の光が射しこんだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060110214736 | 編集

 「「!」」
 耳朶を刺し貫こうとした針が止まりタジマが廊下を振り返る。タジマの肩越し、ボイラー室の隅に押さえ込まれた窮屈な姿勢から首をのばせば廊下に立ちはだかっている人影が目に入る。
 第一印象はラテン黒縁メガネ。
 ラテン系の血統をしめす浅黒い肌と彫り深い顔だちにはややそぐわない印象を持たせる黒縁メガネの奥には糸のように細い柔和な目。おなじ眼鏡でもインテリぶって傲慢に見えるやつと気弱な臆病者に見えるやつと二種類いるがこいつは間違いなく後者だろう。ウェーブがかった黒髪を七三に分けて秀でた額を露出した几帳面なヘアスタイルと、いまどき流行らない野暮ったい黒縁メガネをかけた顔つきが甚だ時代錯誤だ。
 東京プリズンの囚人で鍵屋崎以外に眼鏡をかけてるやつを初めて見た。
 自分がおかれた危機的状況も一瞬忘れ廊下に立つ男を凝視する。見るからに気弱そうなたれ目がちの目をきょときょとさせて廊下を見回していた男が困り果てた顔して、縋るような視線をこっちに向けてくる。
 縋るような視線?助けを求めたいのは俺のほうだってのに。
 分厚いレンズの奥、人の機嫌とりが習性になったおどおどした目つきでこっちを見て漸く俺とタジマとに気付いたらしい。壁際に押さえ込まれて身動きできない俺とその上に覆い被さるタジマという誤解しようもなくやばい状況を何と勘違いしたのか、いや、これ以上なく正しく理解した故の行動か俺とタジマとを見比べ恐縮したように頭を下げる。
 「あ、失礼しました!お取り込み中でしたか」
 耳慣れない敬語に当惑する。鍵屋崎の場合おなじ敬語でも腹の中じゃ相手を馬鹿にしてるのがまるわかりだがこいつの場合敬語が日常会話として浸透してるんだろう。ラテン系の外見のくせにすらすらよどみない敬語で謝罪し、そそくさドアを閉めようとした男に精一杯首をのばして抗議する。
 「おい待てよ通りすがりのラテン眼鏡、この状況見て何とも思わねえのかっ!?」
 もちろん俺は鍵屋崎みたいに育ちがよくないから初対面のやつにも平気でタメ口叩く。地獄に仏、というほど頼りになるか怪しいがタジマに押さえ込まれて絶体絶命の窮地に通りかかった人間を「はいお取り込み中ですよ」と返すわけにはいかない。トラブルに巻き込まれるのを避けるように無関心に閉まりつつあるドアの向こう、ぺこぺこ頭を下げてる黒縁メガネに助けを求めればタジマの手で頭頂部を押さえ込まれる。
 「残念だったなロン、通りかかったのが頼りにならねえメガネ野郎でよ。鍵屋崎といい今のアイツといいメガネかけてる奴あみんな腰抜けのタマなしだ、てめえがトラブルに巻き込まれるのいやさにお前を見捨てちまうような薄情者ばっかりだ!」
 至近距離で大笑いされて顔面に唾がかかる。俺の耳朶をちぎれんばかりに掴んだタジマが気を取り直し安全ピンを掲げる。くそっ、ついてねえ!なんだってせっかく通りかかったのがあんな頼りにならねえ、事なかれ主義の臆病メガネなんだよ!?こうなったら俺一人でなんとかするしかねえ。拳に握った手でタジマの肩を殴って抵抗しながら、もう廊下を去ってしまっただろうメガネを罵る。
 「くそっ、その眼鏡は伊達かよ!!似合いもしねえ眼鏡かけてんじゃねえよ、襲われてる俺が見えないような眼鏡は捨てちまえっ」
 キィ、とドアが開いた。
 「あのですね」   
 予想を裏切り、黒縁メガネはまだそこにいた。ドアの隙間から遠慮がちに顔を突っこみ、かぼそい声で呼びかけてきた黒縁メガネにタジマがぎょっとする。俺もぎょっとした。外側のノブを掴んだまま、やばくなればいつでも逃げ出せる体勢をとって黒縁メガネが口を開く。
 「吾輩のワイフが言ってました。無理強いはよくないと」
 ワガハイ?ワイフ?
 一瞬、自分がおかれてる立場もど忘れして耳を疑った。タジマも同じらしい、一目見て生粋の外人だとわかる男の口から「吾輩」「ワイフ」という、日本語と英語が混在してわけわからない台詞が吐かれたんだから。腰も引け気味にノブを握った男がびくつきながら俺とタジマを見比べる。
 「少なくとも合意ではない、ですよね。何も知らない吾輩がこんなさしでがましい口を挟むのは恐縮なんですがでもやっぱり無理強いはよくないと思うんです、強姦からは愛が生まれません。吾輩のワイフもよく言ってました、体を開いても心を開かないんじゃむなしいだけだと……まったくその通りです。ワイフはいいことを言います、素晴らしい女性です」
 「なんなんだよお前はよ」
 後半はただのノロケだ。興醒めしたタジマが、シャイな笑顔でワイフ自慢をはじめた男の方へ憤然と歩み寄り腰の警棒に手をかける。
 注意がそれた。今だ!
 「どわっ!!?」
 タジマが背中を向けた一瞬の隙をつき、後ろから足をひっかける。俺に足をひっかけられてはでにすっ転んだタジマの頭上を飛び越えてドアめがけて一散に走れば、正面から突進してきた俺に突撃されるとでも勘違いした黒縁メガネが「ひっ」と女々しい悲鳴をもらす。
 「~~の野郎!!」
 床で顔面を強打したタジマが鼻柱を赤くして立ち上がる、地鳴りめいた足音を響かせて突進してくるタジマから間一髪廊下に逃れ、振り返り際中指を突き立てる。
 『再見』
 ドアが閉まる直前に見えたのは「しまった」と硬直したタジマの顔。
 容赦加減なくドアを閉めれば手も痺れる衝撃と振動、そして低い呻き声とが伝わってくる。叩きつけるように閉められたドアに加速して正面衝突して脳震盪でも起こしたのだろうか、タジマが再び立ち上がる気配はない。試しにドアを開けて確認してみれば予想通り大の字になって床に伸びていた。ざまあみろ、と笑い出したい気分になる。気を失ってるのをいいことに小便でもひっかけてやりたくなったが、傍らに人目もあることだしあまり感心できた真似じゃないとぐっと堪える。俺にはタジマと違って人前でズボン下ろす趣味はない。人目がなきゃそれくらいやってたかもしれない、というか確実にやる。ささやかな意趣返し、失神したタジマの背中に唾を吐いて振り返れば例の黒縁メガネがきょとんと突っ立っていた。
 地獄に仏、だ。
 こいつがドアを開けなきゃどうなってたことかと思うと耳朶が冷えてくる。とりあえず礼のひとつくらいは言っとこうと口を開きかけ、様子がおかしいことを悟る。俺の目の前、廊下に立った黒縁メガネがもじもじした内股で股間を押さえてる。まるで尿意を我慢してるような……
 ような、じゃねえ。実際そうなんだ。
 「あの、それでですね。きみに早急にお尋ねしたいことがあるんですが、ト、トイレはどこでしょうか」
 もう一刻の猶予もないといった急いた口調で、今にも泣きそうに目を潤ませた男が言う。
 「ここ、てっきりトイレだと思って開けてみたらボイラー室で全然違ったんですよね。なんかもういっそボイラー室でもいいかな?って誘惑がちらりと脳裏をかすめたんですが一応吾輩にも羞恥心というものがありますし先客がいるのに小用を足すのは気が引けるといいますか羞恥の極みといいますか、それでですね、回れ右したのはいいのですが吾輩道に迷ってしまってもう降参して素直に道をお尋ねしようかと……」
 「わかった、わかったから漏らすんじゃねえ!!」
 その瞬間、目の前の男に対する感謝の気持なんてもんはキレイさっぱり吹っ飛んだ。実際もう限界なんだろう、いつ失禁してもおかしくない切羽詰った様子の男の手をむんずと鷲掴んで廊下を走り抜けてトイレを探す。失禁するのは勝手だが俺の目の前じゃ勘弁してほしい。
 不吉な感じに顔色が変わってきた男を引きずって廊下を走り抜けて角を折れれば意外と近くにトイレが見つかった。迷うほど複雑な場所にあるでもなし、何故今まで見つからなかったのか理解に苦しむが筋金入りの方向音痴ならありえないことじゃない。おそらくはトイレを探して何十分、もしかしたら何時間も延延廊下を行きつ戻りつしていたのだろう男の顔が希望に燦然と輝き「おお」とも「ああ」ともつかない嘆声を発する。畜生なんだって俺は見ず知らずの男の腕を引っ張って廊下を全力疾走してんだ、試合開始まであと30分、いや、タジマに絡まれて時間食ったからもう10分切ってるかもしれねえ。こんなことしてる場合じゃねえってのに頼まれても頼まれなくても放っとけない自分のお人よし加減が腹立つ。
 「吾輩昇天しそう……」
 「俺と手えつないだまま昇天すんじゃねえ、さあ行ってこい!!」
 トイレの扉を開け放ちドンと背中を突き飛ばして中に放り込む、当然扉を閉めるのも忘れない。間に合ったか?全力疾走して乱れた呼吸を整えながら壁に凭れ掛かれば勢いよい水音と「ああ……」と安堵の吐息が聞こえてくる。どうやら間に合ったらしい。
 「なにやってんだ……」
 本当になにやってんだ。廊下の壁に背中を預けてずり落ちる。息切れしてしゃがみこんだ視界の隅でドアが開いて手を洗い終えた男が出てくる。見違えるようにさっぱりした顔で再登場した黒縁メガネが悪気なんかこれっぽっちもない口ぶりで言う。
 「本当助かりました。いやはやお恥ずかしいです、吾輩本当に方向音痴で……ここに収監されて長いのにいまだに道順がわからなくて。ああ、自己紹介が遅れました」
 ズボンの腰で軽く拭った手をなれなれしく差し出してきたから何だと思ったら握手を求めてるらしい。
 「吾輩ホセと言います。スペイン系メキシコ人です」
 握手なんて柄じゃないが、折角さしだされた手を払いのけるのも気が引ける。ホセと名乗る男と握手を交わし、自己紹介する。
 「俺はロン、東棟。お前は?」
 「南棟です」
 どうりで見たことないわけだ。あらためてホセを観察する。繊細な癖のある黒髪を七三に分け、人当たりよい垂れ目と牛乳瓶底のメガネをかけた容姿は無難にまとまりすぎてて特徴がない。腰が低すぎて人にへりくだってるようにも取れる言動は詐欺師の格好の餌食となるカモのそれだ。押しが弱すぎて営業成績が伸び悩んでるセールスマンにも見えるが。
 握手を交わした左手に目を落とし、薬指に指輪が嵌められてるのに気付く。
 くすんだ銀の指輪。左手薬指に指輪を嵌めてるってことは既婚者か?東京プリズンじゃべつに珍しくないが檻の中にぶちこまれても指輪を外さないでいるなんてよっぽど愛妻家なんだろう。そう感心してしげしげ指輪を見つめてるうちにふと妙なことに気付く。
 指輪の表面に何か、錆にも似た黒い点々が浮いてるような……
 「ロンくんも試合観戦にきたんですか?」
 明るい声で話題を変えられ、ハッと握手をほどく。目の前じゃにこにことホセが笑ってる、「カモってください」と喧伝してる間の抜けた顔に他人事ながら「もうちょっと警戒心持てよ」と不安になりつつ返事を返す。
 「ああ。知り合いが試合にでるんだ」
 「お友達がレイジくんのペアに挑むんですか?」
 「いや……そのレイジのほうと知り合い、というか同房で」
 「それはよかった」
 「?何がよかったんだ」
 不審げに眉をひそめればホセがなんてことない口ぶりでさらりと言う。
 「何って、お友達が死なずにすむじゃないですか」
 ぎょっとした。
 何言い出すんだこいつ。そりゃ確かに、レイジとサムライに挑むような命知らずがダチにいたら今日でそいつの人生には幕が引かれるかもしれないがお人好しを絵に描いたようなホセの口からさらりと「死ぬ」なんて出てきて面食らった。ホセと並んで通路を歩きながらこっそり横顔を盗み見ればもともと饒舌なタチなのか俺が聞いてようか聞いてまいがお構いナシにしゃべりつづけてる。
 「吾輩もね、たのしみなんですよ。東京プリズン始まって以来、ブラックワーク始まって以来の歴史的出来事じゃないですかペア戦50組100人抜きなんて。東京プリズン最強の称号を持つ東棟の王様レイジくんに挑むは東西南北選り抜きの強豪100人。もしレイジくんが100人抜き達成したら末永く語り継がれる伝説になります。すごいですよね、そうなったら。吾輩たちは伝説が誕生するまさにその瞬間に目撃者として立ち会うわけです。二十一世紀初頭に相次ぐ地震に見舞われ、その爪痕から立ち直ることができずに荒廃の一途を辿る斜陽の日本が生み出したその退廃の象徴たる刑務所、そのさらに暗部で語り継がれる黒歴史の生き証人となるわけです。素晴らしいことじゃないですかロンくん?」
 「……あのさ、くん付けやめてくんないか。あと、レイジくんって……」
 初対面だってのになんでこんななれなれしいんだコイツ。南棟の人間はみんなこうなのか?俺はともかくレイジに至っちゃ東棟の王様だぞ。居心地悪く押し黙った俺をよそにホセは饒舌にしゃべりつづけてる。
 「ああ、ワイフにも見せてあげたかった!今ワイフが隣にいればつぶらな目を潤ませて大感激したことでしょう。ワイフは格闘技が大好きなんです、特にボクシングが。吾輩と知り合ったのも地下のボクシング会場でした。吾輩が18、ワイフが20。目と目が合った瞬間に恋に落ちるってああいうのを言うんですね。熱に潤んだワイフの眼差しが媚薬を塗られたキューピッドの矢のように吾輩の心臓を射抜いた瞬間、試合中だというのに後ろから三列目、右から五席目の観客席にたたずむビーナスから目が離せなくなってKOされてしまいました。吾輩青かったなあ。いやはやお恥ずかしいかぎりです」
 聞いてもない馴れ初め話をデレデレ披露して頭を掻いてるホセにあきれかえる。ひょろりと背が高いホセの隣を歩いてると足の長さの違いを痛感させられる。くそ、レイジといいこいつといいむかつくったらありゃしねえ。
 「……そんなワケで、せめて吾輩がワイフのぶんまで見届けようと今日こうして試合会場まで降りてきた次第です。隣にワイフがいないのはとても寂しいですが、吾輩がここを出た暁には土産話としてペア戦100人抜きの偉業を話してあげようと思いましてね。吾輩の土産話を楽しみにしてるワイフのためにもレイジくんにはぜひ頑張ってもらいたいわけです」
 「愛妻家だな」
 「でしょう」
 それが最高の褒め言葉だというように謙虚に頭を下げたホセにため息つくのも疲れて前に向き直ればようやく通路の終点に辿り着く。
 ホセを伴って駐車場に戻るのと、歓声が爆発するのは同時だった。
 「よかった、間に合って。吾輩ひやひやしてしまいました」
 心底安堵して胸撫で下ろしたホセの隣、熱気と歓声が膨張し、人いきれに蒸せた駐車場の片隅で生唾を嚥下する。
 いよいよ、運命の夜が幕を開ける。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060109214918 | 編集

 サムライは信じられない頑固者だ。
 もう半年の付き合いになるがこんなに頑固な男だとは思わなかった。確かにサムライは初心貫徹の信念に基づき一度手をつけたことは最後までやり遂げる武士の鑑だが今この場に限っていえばその強情さは痩せ我慢に分類せざるをえない。
 ペア戦当日、もう間もなく試合が始まるというのに辞退を表明する気などこれっぽっちもないらしい。
 サムライと共に地下停留場におり、金網のフェンス付近に待機してるあいだも再三翻意を促したのに本人ときたら耳を貸そうともしない。「大丈夫だ」の一点張りで僕の忠告など聞き入れようともしない態度に腹を立てて「大丈夫なわけがないだろう」と食い下がれば「それでも大丈夫だ」と突っぱねられる。
 何がそれでもだ、日本人のくせに正しい日本語を使えないなんて最低だ。いちから文法を学び直してこい。
 僕は知っている。囚人服の袖に隠れたサムライの右手首に真新しい包帯が巻かれていることを。そして、その包帯の下が倍ほどにも腫れ上がってることを。昨夜サムライは僕を庇って捻挫した、刀を握る大事な右手を捻挫してしまった。昨日の今日で痛くないはずがない、痛みも腫れもさらに激しく悪化してるはずだ。この上木刀を振るって手首を酷使すればどんな後遺症が残るかもわからない、そんな無茶はやめさせたい絶対に。試合が始まって後戻りできなくなるまえにサムライを翻意させなければ、試合を辞退するよう説き伏せなければと苛立ってると視界の片隅に見覚えある顔が過ぎる。
 「!」
 反射的に顔を上げる。
 フェンスの金網に凭れ掛かるように立った視線の先、コンクリートで囲まれた広大な地下空間へと繋がる通路の一本から出てきたのはロンだ。隣にいるのは見知らぬ男。年は二十二、三歳に見えるが二十歳を迎えた囚人は郊外の刑務所に移送される決まりだから風貌が大人びてるだけだろう。時代遅れの七三分けが外見年齢を老けさせているのだろうか。ラテン系の血が色濃く流れてるらしく浅黒い肌と彫り深い顔だちをしたその中でセンスを度外視した垢抜けない黒縁眼鏡が浮いてる。
 一目でわかる。伊達だ。
 そう判断し、次の瞬間疑問が浮かぶ。東京プリズンに来たばかりの頃に身をもって痛感したがここでは眼鏡さえ凶器になる。事実僕以外に眼鏡をかけてる囚人を見かけたことがない。あの囚人は何故眼鏡を、それも視力補助の用を足さない伊達眼鏡なんかを酔狂にかけているんだ?違和感を感じ、黒縁眼鏡をかけた囚人を目で追っていたら僕に気付いたロンが小走りにこちらへ駆け寄ってくる。
 そして、人ごみに跳ね返された。
 「なんだよ、またこれかよ!」とロンが喚いてるのが遠く聞こえる。小柄な彼では押し合いへし合い、少しでも見晴らしのよい場所を確保しようと蠢く人ごみを突っ切るのは不可能だろう。いくつもの頭の彼方、フェンスに群がる囚人の垣根越しにロンが地団駄踏んでいた。コンクリートの地面を蹴りつけて悔しがるロンの肩を叩き、隣の男が何かを囁く。顔に疑問符を浮かべて首を傾げたロンをその場に置いて小走りに駆け出した男が近くにいた囚人に一声かける。

 その瞬間、劇的な変化が起きた。

 振り返った囚人が息を飲んであとじさり、その背中が周囲の囚人にぶつかる。衝突された衝撃に振り返った囚人が怒号をあげかけ、これもまた男と目が合って言葉を飲み込む。自分と関わり合いになるのを避けるようサッと左右に分かれた囚人に丁寧に会釈、振り返ってロンを手招くや悠然と歩き出す。あぜんとしたロンをひきつれ、野次馬の垣根を割って最前列に踊り出た男が満足げに呟く。
 「試合開始まであと五分というところですか。いい場所がとれました」
 「鍵屋崎!」
 名を呼ばれて視線を落とせば息を切らしたロンがいた。髪の毛と服が乱れているのは早くも塞がりかけた垣根を根性と瞬発力で突破してきたからだろう。
 「おや、こちらロンくんのお友達ですか」
 腰の低い敬語で尋ねられて感心する。敬語を使える囚人が僕以外に東京プリズンにいたなんて、と驚きを隠せず目を見張った僕へと片手をさしだして男が自己紹介する。
 「吾輩ホセと言います。南棟の人間なので日頃顔を合わせる機会もないですが今日は無礼講、東棟の王様レイジくんが100人抜きの初陣を切るめでたい日ですしこれを機にぜひお近づきに……」
 吾輩?
 「猫か」
 「?人間だろ」
 低く呟けばロンが「何言ってるんだこいつ」と怪訝な顔をする。名刺でも渡されそうな腰の低さで、握手を求めてさしだされた手を無視してロンを睨む。
 「君は本を読まない人種だったな。ひとり言に介入して無教養を露呈するなんて恥ずかしい人間だ」 
 理由はわからないが侮辱されたのはピンときたんだろう、「なんだよやる気か?」と気色ばんだロンを無視してホセに向き直る。
 「手は洗ったか?衛生面で不安な人間とは握手しない主義なんだ、この手はさげてくれると嬉しい」
 「一応トイレで洗ってきましたが」
 「何回だ」
 「三回ほど」
 「今すぐこの手をおろせ」
 僕の率直な物言いにも気分を害すことなく、恐縮したようにホセが手を引っ込める。ロンよりは心が広く寛容な精神の持ち主らしい。
 「君の友達か?」
 「ちがう」
 「ええそうです。ついさっきそこの通路で迷っていた所を親切にも道案内してくれまして友達になって五分弱というところでしょうか」
 話が噛み合わない。奇人変人狂人の巣窟と揶揄される東京プリズンでホセはどれにあてはまるだろう、と考えていたらいよいよ歓声が高まり雰囲気が盛り上がる。
 まずい。試合開始まであと一二分しかない、ロンたちと無駄話してる時間などない。ついさっきまでそこにいたサムライをさがして視線を巡らせば少し離れたところにいた。準備万端、金網のフェンスに穿たれた矩形の入り口で木刀の握りを確かめている。
 「おい鍵屋崎、」と呼びかけてきたロンに背中で指示する。
 「レイジはあそこだ。試合前に応援の言葉でもかけてやれ、彼が先鋒らしいから」
 猛獣を囲いこむ檻を連想させる巨大なフェンスをぐるりと半周した地点にレイジがいた。ペア戦には彼が先鋒として出場するらしいが、試合開始時刻が直前まで迫っているのにまだフェンスの内側に入ってないのは途中ではぐれたロンを待っていたからだろう。
 一度フェンスの内側に足を踏み入ればリタイアするか再起不能になるまで、もしくはペアを組んだ相手と交替するまで外には出られない決まりになっている。レイジのもとへと駆けてゆくロンを目の端で見送り、矩形の入り口にたたずむサムライのもとへと歩み寄る。
 「サムライ」
 声をかける。
 サムライがゆるやかに顔を上げる。木刀は本来利き手じゃないはずの左手に持ち替えられてる。袖の下に隠された右手首を一瞥、取り返しがつかなくなるまえに説得しなければと決断する。
 「辞退しろ」
 「しない」
 「欠場しろ」
 「しない」
 「―子供か君は、本当は痛いくせに意地を張って!もう君を担いで医務室に運ぶのはこりごりだ、少しは身長差と体重差を考慮してくれ。昨夜廊下で共倒れしそうになったのを忘れたのか」
 「肩を貸してくれなど頼んだ覚えはない」
 ……それはそうだ。
 サムライは僕を頼りなどしなかった、決して。僕が勝手にサムライに肩を貸して、長い長い廊下を歩いてサムライを房へと連れ帰ったのだ。サムライはいつもそうだ。僕には「自分を頼れ」なんて偉そうなことを言ったくせに自分は絶対に僕を頼ったりしない。
 僕はサムライに頼ってほしいのに。
 ……いや、僕にこんなことを言う資格はない。忘れたのか鍵屋崎直、サムライがペア戦出場を決めた理由と動機を。全部お前の為だ、お前を売春班から救い出す為だ。サムライは今夜これから僕の為に刀を取ろうとしてる、刀を取って人を倒そうとしてる。
 「……やっぱりやめたほうがいい。試合には出るな」
 「繰り言は聞き飽きた」
 「君が翻意するまで何度でも言う。100人抜きなんて無茶だ、不可能だ。冷静に考えてみろ、こちらは2人で敵は100人だ。実力で勝っていても数量で圧倒されたら勝ち目はない。仮に今夜の試合では勝利しても来週来来週そのまた来週も延延試合が控えてるんだ。もし君の右手がだめになったら、」
 目を伏せる。
 サムライの顔を直視できず、足元のコンクリートに視線を落とす。
 「……『なえ』に申し訳ない」
 ごく小さい声で呟く。胸にこみあげてきた苦汁を言葉に乗せて吐露するように激しく畳み掛ける。
 「前にも言ったろう。君の右手は人を守るためにある、大事な人間を守るためにあると。僕なんかの為に使っていいはずがない、壊していいはずがない。そんなこと許されるわけがない」
 そうだ、こんな最低の人間の為に、両親を殺害して妹を精神病院送りにし、世間はおろか刑務所の中という狭い社会でも唾を吐きかけられ忌み嫌われる見下げ果てた人間を守る為に刀を振るっていいはずがない。僕が地獄に落ちたのはタジマの策略だがこれまでしてきたことを考えれば自業自得だ。
 惠にしたこと。両親にしたこと。
 僕にはサムライに守られる価値がない。
 サムライの右手はかつて愛した女性の為に在り、これからもずっと彼女の為にだけ在りつづけるのだろう。
 「……僕は売春班に戻る。あと半年だ、我慢できる。僕の懲役は八十年だから半年なんてあっというまだ、」
 嫌だ、戻りたくない。今でも夢に見る、肉の快楽を貪り体の裏表を這いまわる手の感触を。
 「あっというまに決まってる。君と出会ってからの半年があっというまだったように売春班での日々もいつかきっと終わる。今ここで君が戦う必要も義務もない、半年経てば解放されるんだから」
 嘘だ、半年過ぎて解放される保証などどこにもない。売春班に残留する可能性だってあるじゃないか。僕はタジマに目をつけられて売春班に回されてきたのだからイエローワークに戻れるわけがないのにまだみじめたらしく期待してるのか?あきれたな、本当に。
 「だから、」
 「直」
 突然、手を握られる。いつのまにか背後に回っていたサムライが優しく僕の手を取り木刀を握らせる。
 何の真似だ?
 肩越しにサムライを仰ぐも本人は無言。手に手を添えて僕を導いて柄を握らせたサムライが生真面目に教え諭す。
 「木刀を握る時はこうして上の方に右手を添え、下方は左手でしっかり固定する」
 僕よりひとまわり大きく骨ばった手が男性的な包容力と力強さでもって両手に被せられ柄の握りを調整する。一体何のつもりだサムライは、もうすぐ試合が始まるというのに木刀の握り方など教授して。困惑が苛立ちに変わる寸前、耳に吹き込まれたのは低い声。
 「このとき、重要になるのは左手だ。右手は添えるだけでいい」
 「!」
 虚を衝かれて手元を見下ろす。確かにサムライの指摘どおり、右手を鍔の根元に添え左手でしっかり柄を握った正眼の構えになっている。
 「木刀を握る時に重要なのは左手で、右手に怪我をしていてもさほど支障はないということか」
 僕の手を解放して木刀を抜き取ったサムライが首肯する。
 「でも不便だろう?」
 「不便だが不利ではない。お前を他の男に抱かせぬために刀を振るうことに一片の恥もなければ悔いもない。いや、むしろ……」
 木刀の切っ先をコンクリートの地面におろし、瞑想に耽るかの如く瞼を落とす。衣擦れの音さえたてない静かな挙措でゆるやかに腕を振り上げて木刀を構える、正眼に構え直した木刀が指したのは高く巡らされた金網のフェンスの向こう。
 檻の中の檻、今だ無人の闘技場を鋭い眼光で見据え、断言。 
 「それが、俺の誇りだ」
 「かーっこいいねえサムライは。惚れそうだ」
 野次るような口笛に振り向けばレイジがこちらに歩いてきたところだ。隣にはロンがいる。僕とサムライの目の届かない場所で何を話してたかは知るよしもないが、ポケットに指をひっかけたレイジには試合直前だというのに緊張の色などかけらもない。いつもどおり、いや、いつも以上に余裕綽々の物腰で人を食った笑みを浮かべたレイジがちらりと金網のフェンスに流し目を送る。
 いや、正確には金網のフェンスの向こう側、対岸の入り口で今か今かとその時を待ち構えている対戦者ふたりを。
 「でもま、残念だったなサムライ。キーストアにいいとこ見せたい気持ちはわかるけどお前の出番はねえよ、今日は俺ひとりで楽勝だ」
 無駄に大きい声が聞こえたのか、金網を隔てた対岸に控えていた二人組が険悪な形相になる。
 サムライから聞いたのだが、ペア戦といっても二人一緒に戦うわけではないらしい。一辺8メートルの正方形は一対一でやりあうには広くもなく狭くもなく適しているが、二人同時、対戦組も含めて四人同時にリングに上るとかなり小狭になり自由に動ける範囲が制限されるため試合に向かない。そこでペア戦では原則として、事前に先鋒と後鋒を決めて一対一で闘うルールが採用された。交替は自由。早い話、自分が劣勢に追い込まれて負けそうになったり怪我をしたら後に控えてる相棒にバトンタッチしてリングに上ってもらえばいいわけだ。 
 実力ある相棒と組めば腰抜けでも勝てる根拠がそこにある。戦況を挽回し自分の仇をとってくれる心強い相棒がいる限りペア戦出場者には常に逃げ道が開かれているのだ。

 だが、僕らには逃げ場がない。
 僕とロンに、サムライとレイジに逃げ場はない。逃げ道はとうに閉ざされている。ここは東京プリズン、東京の中心に広がる砂漠のど真ん中にある少年刑務所。一度入ったら二度と出られない、リンチやレイプが日常化して暴力と薬物が蔓延する史上最低の刑務所。東京プリズンに送致された時点で戸籍は抹消され社会的に抹殺されたにひとしく過酷な強制労働では毎日のように死者がでる。
 逃げ場など常にない。
 生きたければ戦うしかなく、生き延びたければ戦い続けるしかない。
 それならばせめて、僕もサムライと共に戦おう。無力ゆえに何もできなくても、非力ゆえに力では抗えなくても、僕を救うためにいざ戦いに赴こうとしているサムライの背中に自己を投影して戦い続けよう、抗い続けよう。
 それこそが、一度地獄を見た僕が生き延びる唯一の道だ。
 
 膝の屈伸運動を終えたレイジが「よし」と立ち上がり、木刀を左手に預けたサムライが虚空に目を据える。僕の隣に立ち、不安げな眼差しでレイジの一挙手一投足を見守りながらロンが同意を求めてくる。
 「あいつら、勝つよな」
 「ああ」
 「勝てるよな」
 「僕が断言する」
 いまだ疑念を拭いきれないロンの目を覗きこみ、力強く言い聞かせる。
 「天才と天才が認めた凡人を信じろ」 
 僕の語尾に被さるように鳴り響いたのは金属質のゴング。連続して鳴らされるゴングから生じた音の波紋が大気に浸透して緊張感が頂点に達し、弾ける。地鳴りめいて耳を聾する轟音の正体は広大な面積を有するコンクリートの地下空間を見渡すかぎり埋めた大観衆の足踏み。日頃抑圧され、澱のように鬱憤をためこんでる囚人も週末の夜になればそのすべてを声援と野次に変えてぶちまけ、弱肉強食を至上の掟とする動物の本能全開で囚人と囚人が情け容赦なく殺し合う血なまぐさい出し物に熱狂する。
 そして、一際高らかにゴングが響き。
 『主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください』
 シャツの内側に潜った金鎖を手繰り、十字架に口づけたレイジが唄うように詩篇の一節を口ずさんで歩き出す。
 金網の向こうへ、正方形のリングへ……彼の戦いの場へと。
 『Amen』

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060108215011 | 編集

 ペア戦開幕を告げるゴングが高らかに響き渡る。
 死闘の舞台となる一辺8メートルの正方形は便宜上「リング」と呼ばれる。
 猛獣を囲いこむ檻を連想させる景観の高さ10メートルはあろうかという金網で、一度この中に足を踏み入れたら降参を表明するか完膚なきまでに叩きのめされて再起不能になるか次に控えてる相棒にバトンタッチするかしないと外に帰還することができない。
 娯楽班の試合にルールなどあってないようなもんで武器の使用は可、普段持ち歩いてるのが看守にバレたらお咎め食らう物騒な凶器もこの日だけは所持が認可されてる。まあ武器といっても刑務所の中で調達できるもんだからナイフや鉄パイプ、または鋭く尖らせた鉄板などに限られてて銃を持ち出してくるような馬鹿は今だかつていない。

 ルールはこれひとつと言っても過言じゃない。殺ったもん勝ち。

 東京プリズンに服役してから一年半になるが俺が週末の夜に一度の地下闘技場に足を運んだ回数は片手で足りるほど。最初の頃は興味本位でレイジにくっついて覗いてみたがすぐに辟易した。東京プリズン最大の娯楽、週末の夜に地下で催される無差別格闘技試合の噂はもちろん新米の俺の耳にも入ってきたが二三回観てうんざりした。
 こんな悪趣味な出し物だれが考えたんだ?完璧いかれてやがる、そいつ。
 刑務所にぶちこまれたガキを野犬をけしかけるみたいに競わせて戦わせて無駄な血を流させて一体何が楽しいのか理解に苦しむ。俺も池袋最凶最悪と恐れられた武闘派チームで抗争に明け暮れてた身だがそれは成り行きみたいなもんで、お袋のアパートをとびだして路頭に迷った挙句にたどり着いた場所が路上で暮らしてるガキが寄り集まり、似たり寄ったりな境遇の中国系のガキと陣取り合戦してるチームだっただけだ。好きで喧嘩や抗争に明け暮れてたわけじゃない、ほかにやることがなかったから仕方なくだ。 
 得意なものが必ずしも好きとは限らないのが世の中辛いところだ。
 でも、レイジか出るんなら応援しないわけにはいかない。レイジとサムライは俺と鍵屋崎を、ひいては売春班のガキども全員を助け出すためにペア戦50組100人抜きに挑むんだから責任とって一部始終を見届けなきゃバチが当たるだろう……昨夜の約束はおいといて。
 地下停留場は満員御礼。人いきれで蒸せ返り呼吸するのも苦しいほどだ。昼間は強制労働に従事する囚人を各部署へと運ぶ送迎バスがコンコースを走る巨大な地下空間が今は東西南北全棟から大挙して殺到した囚人で埋まってる。髪の色目の色肌の色、外見的には何の統一性もない囚人がある者は金網のフェンスにへばりつき、ある者は押し合いへし合い小競り合いして場所をとりあいながらリングの中央に目を凝らしている。無秩序を極めた無秩序の眺め。地下闘技場には何の秩序も存在しない、日頃囚人を束縛して抑圧してる堅苦しい規則など何もない。

 何が起きてもおかしくない、真の無法地帯。

 「………」
 金網の網目を握り締め、食い入るようにリングを凝視。金網を四囲に巡らせた正方形の中央、フェンスの四隅に設置されたサーチライトの脚光を浴びて対峙してるのは……
 レイジと他棟のガキ。先鋒同士の対決だ。
 「負けんなよレイジ!」
 ゴングを鳴らした看守がレイジの横を走り抜けて金網の外の安全圏に退避する。喉の乾きを生唾で湿らし、肩の凝りをほぐしてるレイジに一声かければ極上の笑顔で振り返る。
 「あったりまえだろ。待ってろロン、速攻100人抜きして抱いてやるからな!」
 ……………あの馬鹿。
 よく響き渡る大声をあげ、きっかりとこっちを向いて宣言したもんだから金網のフェンスにしがみついてた俺にまで注目が集まる。あの馬鹿、能天気なツラで手なんか振ってんじゃねえ。まわりの視線が痛いだろ!顔を熱くしてうつむけば隣の鍵屋崎が訝しげに眉をひそめる。
 「……どういうことだ?」
 「……聞いたとおりだよ」
 「まさかとは思うが短絡的で直情的な君のことだ、レイジに押し切られる形で100人抜き達成したら抱かせてやるなんて約束したわけじゃないだろうな」
 図星だ。動揺した俺を軽蔑的なまなざしで一瞥、眼鏡のブリッジを押さえて物憂げに嘆息する。
 「同情で抱いて勢いで抱かれるのか。最低だな」
 「同情じゃねえよ」
 「勢いは否定しないんだな」
 ……否定できねえだろ実際。
 あげ足とられて押し黙れば、金網を掴んでうつむいた俺にはもう興味をなくしたように鍵屋崎が顔を上げる。鍵屋崎の視線の先、こちら側の入り口には木刀を左手に構えたサムライが佇んでる。周囲の熱狂とは裏腹に、静謐な空気を纏ったサムライの横顔を落ち着きなく窺いながら声だけは平板に続ける。
 「減るものではなし素直に抱かれてやったらどうだ」
 「は……!?」
 耳を疑った、鍵屋崎の口からこんな言葉が出るなんて。当の本人はしれっとしてる。金網のフェンスに凭れかかり脱力のため息をつく。
 「……おまえブラックワーク行ってから性格変わった」
 「変わらざるをえない体験をしたからな、多少は打たれ強くなった」
 卑下して自嘲するでもなく、ありのままの事実を述べるかの如く淡々と言った鍵屋崎に見とれちまったのはこうして肩を並べてじっくり横顔を見て、この半年間でずいぶん成長したなと感心したからだ。半年前、食堂で初めて顔を合わせたときは頑ななまでに人間不信でとっつきにくい印象を受けたのに今じゃこうやって半々で嫌われ者の俺とも普通に話してる。半年前と比べて大分背が伸びて、あどけなさが抜けたぶん輪郭が痩せて大人びた横顔を見上げて独りごちる。
 「サムライのおかげ、か」
 「何がサムライのおかげなんだ?」
 「独り言に口挟むやつは無教養なんじゃなかったのか」
 間髪入れずあげ足をとり返せば一本とられた鍵屋崎が憮然と押し黙る。いい気味だ。頬が緩みそうになるのを引き締めて前を向く。間合いはじりじりと縮まってる。リング中央、半歩足を開いて立ったレイジはまだポケットから手を出してもいない。
 「馬鹿にしてんのか?」
 「寒がりなんだ俺」
 どうやら西棟の人間らしい、「いけっやれっ!」「東棟の人間なんかに負けんじゃねえ!」「負けたら帰ってくるな!」「西棟の意地を見せてやれー」と声援に後押しされたガキが歯を剥き出して間合いに踏み込む。
 緊張で手が汗ばんでくる。距離は徐徐に縮まりつつあるってのにレイジは慌てる素振りもなくただ突っ立ってる。何を考えてるんだあいつ?房をでるときに武器になりそうなモンをポケットに仕込んでる様子はなかったしマジで素手で戦う気なのか?対戦相手のガキは一見徒手空拳だが、いつポケットからナイフを抜くかわかったもんじゃない。いや、ナイフとは限らない。食堂からかっぱらってきたフォークか秘密裏に入手したスタンガンか鑢で研いで異様に鋭くした針金かそれとも……
 「レイジくんは素手ですか」
 「!」
 驚いて顔を上げる。試合に熱中するあまり存在を忘れていたホセがいた。七三分けに黒縁眼鏡という当たり障りのない容姿のせいか一旦群衆に埋没しちまうと存在感がなくなるんだろう、肘が触れ合う距離に接近してたのに全然気づかなかった。
 「いつのまに?」
 「カメレオンの保護色の原理だ」
 おなじことを考えていたらしい鍵屋崎が上手い例えになぞらえる。俺の横、肘と肘がぴたりと密着する距離から身を乗り出し、金網の向こう、リング中央でいまだ余裕の笑みを浮かべてるレイジを観察。顎の下に拳を当てたホセがふむふむと頷く。
 「彼は武器を携帯してない?」
 「俺が見たかぎりじゃ房を出るときに何も持ってなかったけど」
 「素手で戦うつもりなのか?」
 鍵屋崎に確認されて不安になる。いつだったかレイジが図書室から借りてきた聖書はポケットに隠せるほど小さくないし他に武器を身につけてる様子もない。西棟のガキと睨み合ったまま、ポケットに手を突っ込んだ不敵なポーズで間合いをとるレイジを目で追いつつ焦りを禁じえない鍵屋崎が呟く。
 「いくらレイジが強くても無謀すぎる、相手がどう出るかわからないのに」
 「まあご覧ください、今にわかります。彼がおそろしく堅実な王だということがね」
 どういう意味だ?
 謎めいた微笑に促されてリングに視線をやれば、なかなか縮まらない距離に苛立ちと焦りをおぼえたのか、その差3メートルまでレイジを追い詰めた西棟のガキが下卑た笑みを口元に滴らせて挑発する。
 「ペア戦100人抜きなんて無茶な目標ぶちあげたブラックワーク覇者ってゆーから期待してみりゃとんだタマなしだな、逃げるばっかで全然手え出してこねえなんて噂ほどでもねえ。おまえみてえなチキン野郎がトップに立ってるなんて東棟の連中はどんだけ弱えんだよ、それとも何か、そのキレイなツラと体でたらしこんで言うこと聞かせてんのか?そんなら王様じゃなくて女王様だ、東棟のクイーンに改名したらどうだ」
 「クイーンは別にいるんだよ」
 ……まさか俺のことじゃねえだろうな。
 「ロンくんのことでしょうね」
 「頼むから振らないでくれ」
 鍵屋崎の視線が横顔に刺さる。やめろ、そんな目で見ないでくれ。金網を両手で握り締めてうなだれてるとリングに変化が起きる、床を蹴って加速したガキが前傾姿勢をとってレイジめがけて突っ走る。
 「あばよチキンキング!」
 ガキの片足が俊敏な弧を描いて宙を薙いだ、最前までレイジがいた位置を。レイジの鳩尾にめりこもうとしていたつま先が標的を逸して金網を穿つ、やけに重々しい音をたて金網が陥没しフェンスに群がっていた観客が「ぎゃっ!?」と仰け反る。ドミノ倒しの連鎖反応で尻餅ついた観客の鼻先から引き抜かれたつま先からは鋭く尖った鉄板の先端が飛び出ていた。
 「スニーカーの底に鉄板仕込んでやがったのか!」
 娯楽班の囚人がよく使う手だ。前にも一度このやり方でレイジに挑んでボロ負けしたやつがいた。ポケットばかり警戒してたせいで足元から注意が逸れてて気づかなかった。
 「あぶねーあぶねー」
 冷や汗ひとつかいてない涼しげな顔でのんびりとうそぶく。避けるのが一瞬遅れてたらガキの靴から飛び出た鉄板が確実に肩に刺さってたってのにレイジときたら落ち着きすぎだ、心配してる俺が馬鹿みてえじゃんか。
 「娯楽班は学習能力ねえな。前にも靴に鉄板仕込んでむかってきた奴いたけど……末路聞いた?」
 「全治一週間だろ」
 「ご名答。おまえは何週間がいい?一週間か二週間か」
 「ふざけてろ」
 金網をへこませたガキがゆらりと体勢を立て直す。床を蹴り一気に加速、獣じみた雄叫びを発しながら闘争心むきだしでレイジに突っかかってゆく。ガキを加勢するように声援が膨らむ、金網に群がりよじのぼった西棟のガキどもが「殺れ、殺っちまえ!」「レイジを倒したら西が一番だ!」「ブラックワーク新王者は西棟の人間だ!」と檄を飛ばしてる。皆が皆レイジが殺られるところを、完膚なきまでに叩きのめされ無様に地を舐める王の姿を見たがってる。観客の中にゃ東棟の人間もいるはずだが哀しいかな人望がないせいでレイジを応援するやつはあまりいない、それどころか「殺れ、殺っちまえ!」「東棟の劉が許す、いちばん数多い中国系さしおいてトップ名乗ってるフィリピン製の混血児なんて殺しちまえ!」と鼻息荒く駆り立てる始末だ。観客の中に凱の取り巻き連中が多く混じってるらしい。
 レイジの味方はだれもいない。そう、俺以外は。

 ―「レイジ、負けんじゃんねえ!!」―

 気づいたら叫んでいた、腹の底から。
 鍵屋崎がびっくりしてる。ホセが「おやおや」と微笑ましげに笑ってる。知ったこっちゃねえ。声に反応して顔を上げたレイジが金網越しに俺を見つけて目を見張り、そして。
 世界中の女心をかっさらっちまう、無敵かつ不敵な笑みを湛える。
 
 ―「クイーンの応援ありゃ百人力だ!」―
 
 レイジが跳んだ。

 接触寸前、猛牛めいた前傾姿勢で突進してきたガキの眼前でコンクリートを蹴り、跳躍。高く高く高度が上昇、優雅に長い足がスローモーションめいた弧を描いてガキのこめかみに吸い寄せられてゆく。レイジの鳩尾を狙って繰り出された鉄板仕込みのつま先がむなしく宙を穿ち、バランスを崩したガキが前のめりにたたらを踏む。映画のワンシーンのように時間はひどくゆっくりと流れ、ガキをぎりぎりまで引き付けて横脇に跳び退いたレイジの片足が楕円の軌道に乗って宙を滑ってガキのこめかみに接近し……
 「試合所要時間三分二十秒というところですか」
 レイジの首から泳いだ金鎖が照明を反射して鈍くきらめくのと、眼鏡のブリッジを押さえたホセが呟くのは同時だった。
 次の瞬間、レイジの跳び蹴りがガキのこめかみに炸裂した。
 頭蓋骨を揺さぶる衝撃にたまらず地に膝をついたガキの背後に羽毛の軽さで着地する、首から泳いだ鎖を引き戻し十字架に接吻。
 唇が十字架に触れるのが試合終了の合図だった。
 「レイジくんは本でもフォークでも缶きりでも何でも武器にしてしまうことで恐れられてますが近接戦闘も得意なんです。初試合に素手で臨んだのは正しい判断だったと吾輩思います。武器を持ってると余裕が生まれる、武器の威力に頼りきるあまり心身に満ちる緊張感が欠けてしまう。これでわかったでしょう、さきほど吾輩がレイジくんを堅実と言ったわけが」
 試合の興奮をおさえきれないホセが頬を紅潮させて説明する。俺と鍵屋崎はただただぽかんとして、リングに寝転がったまま脳震盪を起こして立ちあがれずにいる挑戦者と両手を挙げて歓声に応じるレイジとに見入るだけだ。
 「レイジくんは確実に勝てる方法を選んだんです」
 「ね、堅実でしょ?」と顔を覗きこんでくるホセを鬱陶しげに振り払って「レイジ!」と声をかければ、跳び蹴りの一撃で挑戦者を屠った王様がにやりと笑う。
 「応援ありがとよ、マイ・ディア・クイーン」
 「黙れファッキン・キング」 
 中指を突き立てられ、お調子者の王様は肩を竦めた。
 ポケットに手を突っ込んだまま。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060107215151 | 編集

 馬鹿げてる。信じられない。
 まさしく「瞬殺」の形容がふさわしい試合内容だった。金網の向こう、リング中央に立ったレイジがロンと軽口を叩いて笑っている。その顔だけ見ればとても今しがた蹴りの一撃で脳震盪を起こさせて挑戦者を再起不能にしたブラックワーク王者とはおもえない。ポケットに手を入れたままのふざけきった態度で、裂帛の奇声を発して突っ込んできた少年を瞬殺したレイジを怪物でも見るように眺めているとロンを挟んだホセが感心した口ぶりで言う。
 「いやはや、レイジくんは相変わらずお強い。肉眼で把握できましたか?蹴りが入る瞬間を」
 「……いや」
 正直に答えざるをえない。優雅に長い足が弧を描いて少年の左側頭部に吸い込まれた瞬間に生じた鈍い音で蹴りが炸裂したとわかったが、楕円の軌道を描いた足がこめかみを直撃する電光石火の一刹那は肉眼で把握することさえ難しかった。
 「レイジくんは格闘の、いや、戦闘のプロです」
 「だれがいつてめえのクイーンになったんだよ、え?」「キングの相棒つったらクイーンて相場が決まってるだろ、不思議の国のアリス読んだことねえか」「ねえよ」と金網越しに和気藹々と口喧嘩を繰り広げるロンとレイジとをなまぬるい笑顔で見守りながらホセが流暢に解説する。
 「武器を使用しても強いが何も身につけてないときは自分の体をも凶器にすることができる。それこそが彼が最強にして最凶のブラックワーク覇者と恐れられる所以です。いやはや、吾輩ひやひやしてしまいました。レイジくんがうっかり力加減を間違えて挑戦者の少年を殺してしまうのではないかと密かに気を揉んでいたのですが杞憂でした、収監以来無敵無敗の栄えある戦績を誇る王者がそんな愚かな過ちを犯すはずありませんよね考えてみれば。吾輩うっかりです」
 反省してるのかしてないのか、殊勝な口ぶりとは裏腹にホセの頬は緩んでいた。得体の知れない男だ。レイジの怪物じみた強さの一端を見せ付けられた僕はとても呑気に解説を聞くどころではないのに。
 「勝者レイジ!挑戦者再起不能につきレイジ・サムライペアの勝利!!」
 試合終了を告げるゴングが高らかに鳴り響き、脳に衝撃を受けて昏倒した少年が担架で運び出されてゆく。意識を失い金網の外へと運び出された少年へと浴びせかけられるのは罵声と野次、「3分弱でレイジに負けるなんて西棟の面汚しだ」「5分はねばって男気見せてみろくそったれ」「恥さらしの負け犬が」……手のひらを返したように態度を豹変させた西棟の囚人が忌々しげに叫んでいる。
 娯楽班の試合にルールなどあってないようなものだが、大前提としてペア戦出場者はいつでも自由に相棒と交替することができる。劣勢に回ったり負傷した場合には後に控えてる相棒と交替してリングに上がってもらえばいいわけだが、その場合には必ず入り口に戻って手と手を打ち合わせて合図しなければならない。蹴りの一撃で屠られた少年は王者の実力を舐めきり慢心するあまり、このルール以前の大前提さえろくに踏まえてなかったようだ。入り口に戻る間もなく、相棒にバトンタッチすることもできずに倒れてしまえばその時点で敗北が決定する。
 バトンタッチが間に合わず、出番を失ったペアの片割れが担架に乗せられた少年を呆然と立ち尽くして見送っている。
 「試合続行ですね。次は何分で片がつくか予想しません?」
 うきうきと―少なくとも僕にはそう聞こえた―ホセが提案する。レイジとの口喧嘩を止めたロンが不審げに眉をひそめる。不謹慎な、と咎めているようにも見えた。
 いくらレイジとサムライといえどペア戦50組100人抜きを一晩で達成できるわけがなく、試合は何週かかけて行われる予定だ。一晩に消化される試合数は決まっておらず必然サムライとレイジの体力が保つまでのスタミナ勝負となる。
 瞬殺された西棟ペアに続いてリングに上がったのは浅黒い肌の少年。
 「おや、うちの棟の人間ですね。おなじ棟のよしみで応援しないわけにはいきません。レイジくんの健闘を応援したいのは山々ですが今回は失礼して寝返らせていただきます」
 「いちいち断んなくていいよ……」
 「吾輩律儀なのでね。では失礼して、がんばれー負けるなー南」
 のほほんと声援を送るホセにロンはあきれ顔。僕もおなじような表情をしてることだろうと予想する。「南!南!南!」とラテンのリズムの合唱が沸き起こり金網のフェンスにしがみついた南棟の囚人が陽気にタップを踏み出す。南棟の人間にはアフリカ系やラテン系が多いと聞いたがなるほど、それならこのノリの良さも頷ける。騒がしいのが苦手な僕には迷惑千万な話だが。
 「いいね、サンバもフラメンコも嫌いじゃねえぜ。で、次に踊ってくるのはおまえ?」
 リング中央に仁王立ちしたレイジが不敵な笑みで挑戦者を迎える。レイジと対峙した少年は頭頂部をきれいに剃りあげたスキンヘッドの黒人だった。
 「王様を相手にダンスできるなんざ光栄だぜ。スラムで磨いたストリートダンスの実力見せてやる」
 「さて、それはどうかな」
 棘つきのナックル、という物騒な防具を拳に嵌めた少年の宣戦布告にレイジはひょいと肩を竦める。
 「俺のダンスは速すぎて見えねーぜ」
 次の瞬間、レイジが動いた。
 ゴングが鳴るとほぼ同時に抜群の瞬発力でその場から消失したレイジが次に現れたのは少年の眼前、慌てた少年が間一髪とびのいた時にはこめかみを掠めるように高い蹴りが繰り出されてる。途中で蹴りの軌道が変化、少年の後頭部へと弧を描いて吸い込まれていく。
 「蝿が止まりそうなダンスだな」
 頭を低めてレイジの蹴りを回避した少年が嘲笑、レイジのわき腹めがけてナックル装備のこぶしを突き出す。隣でロンが息を呑む。
 「のろい」
 その呟きはなぜか、騒音にかき消されることなく僕の元まで届いた。レイジの口角が嘲るように吊りあがり、褐色の手が無造作に虚空に突き出される。
 「「!」」
 目を疑った。
 獲物を狙う猛禽の爪の如き貫手が勝利を確信した少年の鳩尾をこれ以上なく的確に抉る。信じられないことに、ナックル装備の凶悪なこぶしがレイジのわき腹にめりこむよりも速く、それより後に繰り出された貫手が挑戦者の急所を抉っていたのだ。
 鳩尾にこぶしを食らった少年がぐらりと体勢を崩し、一瞬勝敗が決したかに見えたが、先刻の西棟の少年ほど彼は愚かでも弱くもなかったようだ。歯を食いしばり、足腰に重心を移して何とか踏みとどまるや、鳩尾を腕で庇って相棒が待つ入り口に引き返そうとする。
 「!まずい、」
 金網を掴んだロンが焦燥に駆られて口走るのと、スッと虚空に伸びたレイジの手が少年の襟首をとらえるのは同時だった。襟首を掴み、今しも逃げ帰ろうとした少年を引き戻したレイジが寛容に微笑む。
 「蜂のはばたきと同じ速度でこぶしを繰り出せるようになってから出直して来い。そしたらリングの上でもベッドの上でも腰振りダンスに付き合ってやるよ」
 少年の体が宙に舞った。比喩でもなんでもなくそのままの意味で。
 レイジの腕の一振りで軽々宙に薙ぎ飛ばされた少年の体が背中から金網に激突し肺から大量の空気が吐き出される。金網に背中を預けてずり落ちた少年がはげしく咳き込む、その頭上に不吉な影がさす。肺が押しつぶされたような衝撃に苦悶しつつ、脂汗でしとどに顔面をぬらした少年が仰いだ先にはレイジがいた。
 そして、レイジが笑いながら一歩を踏み出し……
 「こ、降参だ!」
 恐怖に心臓を掴まれた少年が顔面蒼白となり、片手を腹に回し、もう片手を挙げて降参の意思を表明する。素直に敗北を認めた少年にブーイングが降り注ぐ中、レイジには彼に手を貸して立ち上がらせる余裕さえあった。優しい王様だ。
 「圧倒的だ」
 「ええ、圧倒的なまでに強い。試合所要時間一分五十秒というところです」
 呆然と呟けば即座にホセに同意される。
 「今日の試合はすべて五分以内に片がつくでしょうね」
 その通りになった。
 レイジの強さは圧倒的だった。次から次へとレイジに挑んでは秒殺されある者は昏倒し担架で運び出され、またある者はそうなる前に自ら降参を表明し、入り口に逃げ帰り相棒と後退する暇さえなく尻尾を巻いてリングから降りてゆく。レイジの快進撃は続く。ある時は目にも止まらぬ蹴りで、またある時は的確に急所を突いたこぶしでリングに上がる囚人にとどめを刺してゆく。蝶のように舞い蜂のように刺すという形容があるが、レイジの動きは俊敏かつ獰猛すぎて「蝶のように」という優雅な比喩はそぐわない。
 「まさしく豹のように、か」
 そう、まるで獲物を狙う豹のように獰猛に俊敏に、一気に相手との距離を詰めて屠ってゆく。金網にしがみつき、固唾を飲んで試合風景に見入ってるロンの横顔から入り口にたたずむサムライへと視線を転じる。
 僕の心配は杞憂だったようだ。このぶんでは、少なくとも今日の試合ではサムライの出番はない。
 一組あたり五分も要さない短時間で片を付けてゆくレイジをサムライは無表情に見守っていた。自然、その右手首に視線が吸い寄せられる。木刀を振るうことがなければ捻挫した手首をこれ以上痛めることもない。
 『お前を他の男に抱かせぬために刀を振るうことに一片の恥もなければ悔いもない』
 サムライはああ言ったが、僕を守るためにサムライが右手を犠牲にするのはいやだ。
 まったく僕は馬鹿だ。自分がする側になって、初めて同情と心配の違いがわかるなんて。
 無言で試合風景を観察するサムライから遠ざかることもできなければ近づくこともできない微妙な距離でその横顔を見つめていれば僕の鬱屈と葛藤を和らげるようにホセが言う。
 「吾輩のワイフが言ってました。女がいちばん強くなるのは子供を守るときで、男がいちばん強くなるのは女を、心にこれと決めた人を守るときだと」
 おもわずホセを振り返れば、黒縁眼鏡の奥の目で柔和に微笑まれる。  
 「吾輩のワイフは素晴らしい女性です。彼女の言うことに間違いはない、吾輩も大いに賛成です。レイジくんが最強でいられるのは常にそばにロンくんがいるから、そして彼の場合は君がいるからです」
 「……今日が初対面のくせに随分と知ったふうな口を利くじゃないか」
 「お気に障ったのなら失敬。でも彼らを見てれば自ずとわかるでしょう?」
 本当に変な男だ。
 再びリングへと向き直れば十試合目が終わったところだった。余力を残して逃げ帰る暇もなく、相棒と交替する余裕も与えられずにリングに沈んだ少年を見下ろすレイジはいまだ余裕の笑みを浮かべていたが、ここまでの十試合、サムライと交替して休憩を挟むことなく戦ってきたせいでさすがに息が切れてきたらしい。少しだけ疲労が滲んだ顔で試合終了を告げるゴングに背を向けるや、サムライが待つ入り口へと大股に引き返してくる。
 「独壇場だな」
 回れ右で戻ってきたレイジを迎え、開口一番サムライが言った。
 「俺ばっか目立って悔しいだろ。せっかくの晴れ舞台だ、おまえにも出番をやるよ」
 額に汗を浮かべたレイジが前髪をかきあげて笑う。サムライと交替して休憩を入れる気だ。レイジは知らないのだ、サムライが利き手を捻挫してることを。
 「?どうしたんだよ鍵屋崎」
 懸念が顔に出たらしくロンが不審げに訊いてくる。次の試合開始まで若干の猶予がある。レイジのあまりの強さに恐れをなし、どちらが先にリングに上るか小声で言い争う挑戦者ペアを一瞥してこちら側の入り口に視線を戻せば今まさにサムライと交替しようとレイジが片手を挙げ、
 「待て!」
 レイジが驚いたようにこちらを向く。金網から離れ、二人のもとへと駆け寄る。
 「どうしたんだよキーストア、おまえが声荒げるなんて珍し……ははーん、サムライのこと心配してんだな?憎いね、アツアツだねお二人さん。たった半年でどこまで仲良くなったんだよ羨ましいなオイ、俺なんか今だにロンに冷たくされてお預け食らってんだぜ」
 「ゲスな詮索をするな」
 「てめえなんか一生お預けだ」
 「ロンまさか昨夜の約束忘れたわけじゃ、」
 「……100人抜き達成しなかったら一生って意味だよ」
 僕の態度をいぶかしんだロンがレイジのもとへと小走りに駆け寄ってくる。「100人抜きしたらいいんだな、本当にいいんだよな」とくどいほどに念を押して顔を近づけてくるレイジの額を片手で押し戻しつつ「顔寄せんなよ」とぼやいてるロン。痴話喧嘩をよそにサムライに向き直れば本人は平然とした顔をしていたが、木刀を片手に預け、無意識に右手を庇ってるのが痛いほどわかる。
 「サムライ、」
 「言いたいことは心得てる」
 断固とした態度でサムライが顎を引く。頑固に信念を貫く眼光に射抜かれ、僕がどれほど言葉を尽くしてもサムライを翻意させるのは不可能だと悟る。かくなるうえはレイジに真実を話すしかない、昨夜起きた出来事を包み隠さず。そう決意して口を開きかけた僕の肩に手を置き、半ば強引に下がらせたサムライが立ち替わり前に出る。
 「俺が征く」
 「頼んだぜサムライ」
 レイジとサムライの手が高く打ち合わされ、小気味よく乾いた音が鳴る。僕は指一本動かすことができず、木刀を下げてリングへと赴くサムライの孤高な背を見送るしかない。サムライの無事を祈るしかない自分の無力が歯痒い、レイジに真実を告げることができない優柔不断さに自己嫌悪が募る。武士の矜持を重んじるサムライは自分の弱みを他人に見せて気遣われることを恥と定義してる。僕に対してもそうなのだから、同じ目的の為に共同戦線を組んだレイジに対しては尚一層。
 そして、孤高の武士が出陣した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060106215250 | 編集

 「よろしく頼む」
 リング中央に赴いたサムライが頭を下げる。どこまでも生真面目で堅苦しい男だ。礼に始まり礼に終わる武士道精神を遵守し、律儀に会釈したサムライに相手は鼻を鳴らしただけだ。
 十一試合目、レイジと立ち替わりリングに上がったサムライが対戦するのは北棟の人間。色素の薄い肌に金髪碧眼という典型的白色人種で、人を小馬鹿にした下卑た顔つきといい、足を肩幅以上に開いて腰に手をおいた尊大な態度といい、何から何までサムライとは対照的だった。
 「品性の卑しさが顔に表れてるな」
 サムライの会釈が無視されたことを本人以上に不快に感じて吐き捨てる。金網の向こう、リング中央で対峙したサムライは礼儀正しい挨拶を鼻で一蹴されたというのに気分を害した様子もなく、常と同じく平静な無表情で木刀の握りを確かめている。鍔の根元に軽く添えられた右手から目が離せない。袖に隠れてはいるが純白の包帯が巻かれた手首は捻挫一日を経て痛み腫れともに激化してるだろう、それこそ木刀などとても握れないほどに。このうえ手首に負担をかけるような真似をすればどうなるか……想像したくもない。
 「………っ」
 金網を握る手に無意識に力がこもる。金網で内と外に隔てられた僕には無力感に歯噛みしてサムライの無事を祈り健闘を願うことしかできない。僕のせいで怪我をしたのにサムライは僕を責めるような台詞など一つも吐かなかった、僕を庇って手首を捻ったことに対し一片の悔いもないという自然な態度で接してくれた。
 罪悪感と後悔が胸を締め付ける。
 「なんだよ、そんなにサムライが心配なのか。らしくねえじゃん、傲岸不遜冷静沈着なキーストアが沈んだ顔しちゃって」
 「……それが僕の人格を的確に表す四字熟語なのか?ならば君には軽佻浮薄、大胆不敵がふさわしいな」
 「馬鹿言え、俺にふさわしい四字熟語つったら決まってるだろ」
 「酒池肉林」
 「ちげーよ」
 ロンの皮肉は不満だったらしい。ポケットに手を入れて怠惰に金網に凭れ掛かるや、豹を彷彿とさせるしなやかな肢体を照明に晒し、牙を剥くように獰猛に笑う。
 「弱肉強食」
 納得した。
 自画自賛が嫌味にならないのは実力が伴っているからだろうか。弱者が強者に従うのは世の習いだ。いつ死ぬか殺されるかもわからない苛酷な環境で生き残る為、自己保身を最優先する人間は庇護を求めて強者に媚び、並ばれてやがて蹴落とされるのを恐れて己より劣る弱者を虐げる。弱肉強食は東京プリズンを支配する至上の掟であり、また、東京プリズンの存在を半世紀もの長きに渡り黙認し続けてきたこの社会全体に通じる非情の掟だろう。
 人間がいくら進化し、生命さえ試験管の中で作り出せる世の中になっても根幹は変わらない。言語を介しても意思疎通できず、相互理解が成立しない他者を従わせるのに最も有効なのは純粋な力……
 即ち暴力。それも、圧倒的なまでの。
 レイジにはそれがある。
 類稀なる格闘センスと身体能力の高さ、抜群の反射神経。レイジの過去についてはよく知らないが彼の証言を信じるならフィリピン出身らしい。フィリピンといえば第二次ベトナム戦争―いや、東南アジア全域に戦火が拡大されたのだからこの名称は正確ではなく後に制定された「米亜戦争」を用いるべきだろうが―に巻き込まれて二十年以上が経つ凄まじい激戦区だ。
 仮にレイジが戦場で生まれ育ったのならばあの圧倒的な強さも頷ける。
 レイジが幼少期から少年期を過ごした環境では精神的にも肉体的にも強く在らなければ到底生き残れなかったのだろう。
 だがしかし、フィリピンの戦場で生を受けた男が何故こんな極東の刑務所に送りこまれたのだ?
 先日の安田の言葉を思い出す。僕も初耳で驚いたが、東京プリズンは手軽な流刑地として戦争や貧困による治安悪化に悩む海外政府に認識されてるらしい。十代の未成年にして国際指名手配級の重犯罪を犯し、もう手におえないと自国政府から見放された少年たちの身柄を積極的に預かり隠滅工作を図ることで周辺諸国に恩を売っているのだろうか?
 だとしたらこの男は、ロンをからかって遊んでる悪魔と豹の混血の美しい青年は祖国フィリピンでどんな大それた罪を犯したのだろうか。
 「試合開始!」
 レイジの前身についてひとり頭悩ませていた僕を我に返したのは甲高いベルの音。金網を掴み、身を乗り出すようにしてリング中央を見つめれば、サムライがツと木刀を滑らし左上段の構えをとった。剣道の知識がない僕でも右利きの人間がとるならば右上段の構えのほうが有利だという基礎くらい知ってる。
 サムライが本来得意中の得意とする右上段の構えをとらない理由はただひとつ、右手が使えないからだ。
 「木刀かよ。時代遅れの相棒だな」
 試合開始を告げるゴングが鳴り、北棟の少年が皮肉げに片頬笑む。腰に重心を移した少年の手がズボンのポケットにもぐりこむ。再びあらわれた手に握られていたのは刃渡り20cmはあろかという殺傷に適したサバイバルナイフ。
 「北の人間はナイフが好きだな」
 「サーシャの影響だな、きっと」と呑気な感想を述べたレイジを睨みたくなる。菱形の網目の向こう、左上段に木刀を構えたサムライとサバイバルナイフを握り締めた少年が対峙する―……、
 
 『Мне плохо』

 氷柱の鞭のように鼓膜を打った声に真っ先に反応したのはレイジで、一呼吸遅れて僕とロンが続く。
 声の主はリングを挟んだ対岸にいた。入り口横の金網を猛禽の爪の如き握力で握り締め、菱形を連ねた網目に顔を埋めるようにしてこちらを凝視している。
 骸骨のように落ち窪んだ眼窩と病的にこけた頬は重度の薬物依存者に見られる典型症例だ。薬物の過剰摂取で灰褐色にくすんだ肌の色に似つかわしい生気のかけらもない陰鬱な容貌の中、鮮烈な異彩を放っているのは落ち窪んだ眼窩で精力的に輝くアイスブルーの瞳と肩で切り揃えた銀髪だろう。
 金網を掴んだ手に尋常ならざる力をこめ、静脈が浮いて間接が軋るほどに菱形の網目に指をくいこませる。金網をねじ切ろうとでもするかのように強く強く、内から突き上げてくる破壊衝動を金網をねじ切ることで抑圧せんとしてる様子には狂気に飲み込まれる寸前の危うさが漂っている。
 『ムニェ プローハ』……「私は気分が悪い」と吐き捨てた男の名は、サーシャ。レイジに継ぐ実力者としてブラックワーク次席を占め、ロシア人至上主義の恐怖政治を敷く北の皇帝として君臨する超絶的なナイフの使い手。
 照明を反射した銀髪が遠くロシアの大地に降り積もる雪のように絢爛に輝く。色彩と生気を失い、陰鬱に乾いた肌艶を補って余りあるほどにその銀髪は美しかった。
 半年ぶりに見るサーシャは半年前と同様、墓場の土の匂いがする骸骨めいて陰惨な容姿にはそぐわない銀髪と、卑しい混血児でありながら自らの上に君臨するレイジへの激烈な殺意とを持て余していた。
 「私は気分が悪い。今とても気分が悪い。何故だかわかるか」
 鼓膜に霜が張りそうに凍えた声だ。
 サーシャの視線は自分に背を向けて立つ北棟の少年をも通り越し、木刀を構えたサムライを空気のように透過してまっすぐに僕らへと向けられていた。否、正確にはただひとり……レイジへと。
 美しく虚ろなアイスブルーの瞳にはレイジ以外の人間が映っていない。報われない恋にも似た一方的な執着は殺意に昇華し、サーシャの口角が三日月の形に吊りあがる。
 「さあな。ああ、北のエセ皇帝は俺と違って暑がりなんだっけ。はは、なにからなにまで正反対で気があわねえのな。怒涛の十連勝に盛り上がるコロシアムでサウナのように蒸されて干からびちまいそうってか?」
 「私は気分が悪い。貴様のせいで不快な茶番に付き合わされることになった。売春班撤廃を賭けて勝負に挑む、か。東の王は物好きだな。自らとおなじ汚れた血の友を救うためなら手段を問わないというわけか」
 「懲りずに人種差別発言?半年前さんざんお説教したのに改心の余地なしときたか、皇帝は学習能力ないね。学ばない頭はギロチンで切り落とせよ、北で革命起こるのも時間の問題だ」
 「汚いものを汚いと言って何が悪い、それはとても正しいことだ。レイジよ、貴様は自分の姿を鏡に映したことがあるか」
 「最高に男前だった。俺が女だったら惚れそう」
 「貴様は汚い血の流れる雑種で内面の汚れが外見にも現れている。金に似せた紛い物の色合いの茶髪も薄汚れた褐色の肌も安物の琥珀のような茶の瞳もすべてが汚い。我ら崇高なる白色人種と知能が低い黄色い猿との背徳の交わりの末に生まれた罪の象徴」
 「きれいは汚い汚いはきれい。シェークスピア読んだことねーの」
 「いやらしい混血児が、血の穢れた雑種が。貴様のように卑しい男にこの私が、ゆくゆくは大国ロシアを総べる至高の皇帝となる純血のロシア人たるこの私が劣るというのか?そんな事は断じて認めん、全力で否定する。100人抜きを達成したら売春班撤廃などという偽善ぶった提案には反吐が出るが貴様を屠るにふさわしい舞台を整えてくれたことには感謝するぞ、東の王」
 サーシャの顔全体が笑みの形に歪み、いびつにひしゃげた網目から乱暴に指が引きぬかれる。金網に押し付けられ、まばゆい照明にくっきりと浮かび上がったのは手の甲の無残な傷跡。
 半年前。監視塔でサーシャと死闘を繰り広げたレイジが、力尽きて地に膝を屈した皇帝の手をナイフで抉った痕跡。
 「貴様と私があいまみえるのはまだ先の話だが、貴様とあの日本人が私のもとに辿り着く前に敗北を喫するともかぎらない。だがしかし北の人間以外の手にかかって殺されるのは釈然としない。レイジ、貴様にとどめを刺すのはこの私以外にはいないと心に決めているのだ」
 うっすらと恍惚の笑みさえ浮かべ、リングで対峙する二人さえ通り越して一直線にレイジだけを見つめる姿には瘴気じみた情念さえあふれだしていた。
 「だから私は私の分身を家臣に貸した、私が収集しているナイフの一本を手渡して飢えた刃にたっぷり血を吸わせるように命じた。私のかわりに貴様の血を啜ってくるようにと、な。それなのに貴様ときたら漸く北の出番が巡ってきたと同時に戦線離脱ときた。まさか怯えたわけではあるまい、ブラックワークの無敵覇者と名高き東の猿どもの王が」
 「買いかぶりすぎだぜサ―シャ。いくら俺が持久力あったって十試合ぶっとおしはさすがにきつい、休憩いれなきゃ死んじまうよ。サムライと交替したのは退屈してる相棒に出番くれてやろうと思ったからさ」
 サーシャと同じ前傾姿勢で金網に額をこすりつけたレイジが微笑む。
 「ナントカに刃物が最強なんてのは迷信だ。本当に最強なのはー……」
 リング中央、まったく隙のない防御姿勢で木刀を構え、ナイフを手にした少年を牽制するサムライを一瞥して自信たっぷりに言う。
 「サムライに刃物、だ」
 僕の視線の先では両者睨み合いのまま一進一退の気迫のぶつかりあいが続いている。いつ均衡が崩れるか予測できず緊張感が高まる。サムライの実力に信頼をおいてるレイジは気づいてない、彼が右手首を捻挫した劣勢にあることを。鍔元に添えるだけといっても木刀を振るう時には右手にも力が作用する、もし右手の捻挫が原因でサムライが敗北したら、いや、敗北するだけならいい、最悪命に関わる重傷を負ってしまったら……
 「僕のせいだ」
 「?どうかしたのか」
 自責の念に押し潰されかけた僕をロンが心配げに覗きこんでくる。気遣わしげな視線で平静さを取り戻し、眼鏡のブリッジを押し上げて表情を隠す。
 「なんでもない。リングを見てろ」
 そっけなく顎を振った僕にひっかかりを覚えたロンがさらに食い下がろうと口を開きかけ―
 刹那、均衡が崩れた。
 「「!!」」
 金網にしがみついた僕とロンの視線の先、床を蹴った少年が雄叫びを発しながらサムライへと突っ込んでゆく。腰だめに抱えたナイフが照明を反射して物騒に輝く。
 「お前が死ねばサーシャ様に誉めてもらえる、サーシャ様に認められて側近にくわえてもらうことができる。もう廊下に跪いてサーシャ様を出迎えたり食堂の床に這いつくばってサーシャ様の靴を舐めたりしなくてすむんだ犬の扱いから抜け出せるんだ!!」
 純粋なロシア人ではないのだろう、金髪碧眼というゲルマン民族の外見特徴が発現したがゆえに北棟では肩身の狭い思いをしてきた少年が積年の恨み屈辱を晴らさんと、憎悪の対象をサムライに転化して疾駆する。殺意に目を血走らせて走ってきた少年を普段のサムライなら息一つ乱さずかわせたはずだが、体調が万全とはいえない状態では必然隙が生じる。己のわき腹を疾風の速度で掠め去った銀光が弧を描いて舞い戻ったとき、サムライはまだ完全に体勢を立て直せていなかった。
 防御から応戦へと移るその一瞬の遅れにつけこんで容赦なくナイフが襲いくる、連続して振り下ろされるナイフを避けながら後退するサムライには余裕がなく、僕以上に感情をおもてに出さない無表情に気のせいか焦りの色が見え始めている。 
 「どうしたんだ今日のサムライ。あんな弱かったっけ」
 悪気はないのだろうレイジの一言で頭に血が上った。
 「違う、サムライは……!」
 言いかけて口を噤んだのはサムライ本人が伏せようとしている弱みを僕の口から伝えることに躊躇したからだ。サムライは強い、レイジと互角とまではいかなくても東棟二番手の実力者として過去にはブラックワークにスカウトされた身だ。体調が万全ならサーシャの息がかかった北棟の少年など秒殺できたはずだ。
 僕なんかを庇ったせいでサムライが追い詰められてる現状を正視できずに顔を伏せれば、頭上で大歓声が炸裂する。動物園の猿のように金網によじのぼった囚人が興奮に顔を火照らし、喉の奥が丸見えになるほどに口を開けている。何が起きたんだ?不吉な予感に突き動かされ、菱形の網目に両手をひっかけて金網にしがみつけばリング中央では予想外の事態が発生していた。
 大気を切り裂くナイフの猛攻を縦横斜めにした木刀で弾き返しながら、それでも右手を使えない劣勢は克服できずに後退を余儀なくされたサムライの間合いに一気に踏み込んだ少年が勝利を確信してナイフを突き出す。
 木刀での防御が間に合わず、間一髪身を捩ったサムライの右袖をナイフの刃が掠めて粗い生地が無残に裂ける。手首から肘にかけ、ぱっくり裂けた右袖の下から暴かれたのは清潔な包帯。 
 最悪の状況とタイミングで真実が暴かれてしまった。
 誇り高いサムライが無理を強いてまで隠し通そうとしていた痛々しい真実が。 
 「なんだあいつ、怪我してんのか」
 「どうりで動きが鈍いと思った。東棟のサムライっていや電光石火の早業で相手が気づく前にとどめを刺しちまうって評判だもんな」
 「にしちゃあ切れ味鈍いと思ったんだ」
 「しっかしあれじゃあ刀握れないだろ」
 「サムライから刀とったら何が残るよ、何も残らねえだろうが!」
 「あーあ、負け確定だなこれじゃ」
 嘆息とどよめきが金網の周囲に波紋を生じさせる。サムライの勝利に賭けていたのだろう囚人が「くそっ大損だぜ!」とヤケ気味に金網を蹴りつけ、その振動が金網から手に伝わってくる。
 「まだ決まったわけじゃないだろう、結論を急ぐんじゃない!」
 金網を掴んでむなしく叫び返した僕自身、手足の先から染み渡る絶望に意識が閉じかけて視界が翳る。すがりつくように金網に凭れ掛かればロンの声が遠くこだまする、大丈夫かよ鍵屋崎、あきらめんなよ、天才が信じれば凡人にも不可能ないって言ったじゃねえか……
 喝を入れるように僕の肩を揺さぶり、必死な声音で叱咤するロンの隣。
 呆然とリングを見つめ、レイジが呟く。
 「……なんだよあれ」
 目の前で起きている出来事が信じられず、興奮のあまりロンを押しのけてまで僕の肩を掴んだレイジが吼える。
 「鍵屋崎お前知ってたのかよサムライが右手に怪我してるって、なんだよあの包帯、あんなの聞いてねえぞ俺!?マジかよ畜生、怪我してたって最初から知ってたら絶対交替なんかしなかったのに……なんで何も言わねえんだよアイツ!!」
 レイジに詰問されて返す言葉もなくうなだれれば、見かねたロンが「鍵屋崎を責めてもはじまんねーだろ!」とレイジに食ってかかる。今度はロンに向き直り声を荒げかけ、真剣なまなざしに射すくめられて顔を歪める。舌打ちして僕の肩を突き放したレイジが腹立ち紛れに金網を殴りつける。
 「……武士の誇りとかカッコつけてる場合じゃねえだろ」
 「サムライは格好つけてたわけじゃない」
 怪我をさせた手前サムライを弁護すればレイジに睨まれるが無視して結論する。
 「ただ、手におえないほど頑固で強情で人の言うことを聞かない度し難い馬鹿なだけだ」
 天才でさえ手におえないほど頑固で強情で人の言うことを聞かない度し難い馬鹿を武士というなら、サムライは立派な武士だ。
 本当に、いやになるほど。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060105215355 | 編集

 サムライは窮地に立たされていた。
 檻の頂上に設置されたサーチライトが苛烈に照りつける中、サムライの不調を知って早々と賭けを投げた観客が足を踏み鳴らし、金網を揺すりたてて怒号を発している。
 「どうした腰抜けザムライ、日本人なら男気見せてみろ」
 「実家の道場じゃ十二人斬り殺した大量殺戮犯のくせに右手が痛くて刀も振れねえか」
 「マスの掻きすぎで腱鞘炎か?ブザマだぜ」
 「ご自慢の刀がへなちょこじゃあこれからサムライ名乗れねえぜ、へなちょこザムライに改名したらどうだ」
 賭けに負けたと早合点した腹いせか、金網に群がった囚人に飛距離が足らない唾を吐かれて侮辱されても目をくれもしない。巧みに木刀を振るい攻撃を薙ぎ払うも太刀筋を調整する右手が使えないため後手後手に回ざるをえない。鍔元にかけた右手には目に痛いほど白い包帯が巻かれているが、こうして熾烈な攻防戦を繰り広げている間も絶えず骨に響く激痛に苛まれているだろうことは想像に難くない。
 サムライは感情がおもてにでない種類の人間だが、額に薄らと滲んだ脂汗と照明を反射して襲い来るナイフを木刀で防ぐたびに右手首に走る激痛に歪む顔からは色濃い焦燥が漂ってくる。苦痛の皺を眉間に刻み、辛そうに顔をしかめてもなお木刀を握る手は緩めず、狂気にぎらつくナイフを臨機応変に木刀で弾き返す。
 「大丈夫かよ……」
 金網を掴んだロンが不安げに呟く。
 右手を負傷してもなお電光石火の冴えを見せる太刀筋をかいくぐり、サムライにとどめを刺そうとナイフを繰り出す少年の顔からは完全に余裕が消し飛んでいる。それも無理ない、背後では北棟の絶対権力者、ロシア人至上主義の恐怖政治を敷く皇帝が自分の戦いを見守っているのだ。
 背中に注がれる視線の重圧に、今ここでサムライを血祭りにあげて実力を証明しなければと強迫観念に駆られた少年が狂った奇声を発してナイフを振るう。氷点下の瞳をもつ北の皇帝に一挙手一投足を監視された状況下ではいかに優勢であろうと平常心を保つのはむずかしい。
 防御に徹するサムライを固唾を飲んで見守るロンの傍ら、苛立ち紛れに爪を噛むレイジからもまた最前までの余裕が消し飛んでいる。リングに立っていた時でさえ口元に絶やすことがなかった微笑が苦渋の色で塗り替えられ、サムライの背中を追う双眸には焦燥の火種が燻っている。
 「爪を噛むのは行儀わるい」
 レイジの素行をたしなめた僕自身、金網を掴んだ手がじっとり汗ばむ不快さに苛立ちを募らせて神経がおそろしく過敏になっていた。指摘され初めて自分が爪を噛んでいたことに気づいたのだろう、ばつが悪そうに手をおろしたレイジが忌々しげに僕を睨む。
 「……なんで言わなかったんだよ」
 何を責められてるかはわかってる。爪を噛めない苛立ちを解消しようと指をさまよわせてシャツの内側から金鎖を手繰り寄せる、サムライの劣勢に比例して募る不安をごまかすように十字架を弄る。
 「サムライの同房なら知ってたはずだ。いつからだ?」
 「昨夜からだ」
 「だろうな、一昨日までは何ともなかった。何があったんだよ」
 十字架を揉みながらレイジが言う。困った時の神頼みではないだろうが、本人は無意識にしているその動作が軽薄な言動が習慣化した普段とは隔たりがあって意外だった。神を神とも思わず好き勝手に振舞うレイジに隠された信心深い一面を垣間見た思いで十字架を揉む手の動きをぼんやり見つめていたら現実逃避の無反応を看破される。
 「聞いてんのかよ鍵屋崎。サムライはお前のために戦ってるんだ、ぼうっとしてる場合じゃねえだろ」
 『僕のために』。
 その一言をこれほど重く、痛く受けとめたことはない。金網越しのリングでは鋭利なナイフに木刀の表面を削られながらも、右手を使えない不利を技量と胆力で克服すべくサムライが戦っている。額に汗を浮かべ顔には疲労の色濃く、吐息が乱れているのは捻挫の痛みが酷くなる一方だからだろうか。それでも弱音一つ吐かず降参する様子もなく、また、入り口で待つ僕らのもとに逃げ帰ることもなく孤高の剣を振るっている。
 「……サムライに怪我を負わせたのは、僕だ」
 息の塊が詰まったように喉が苦しくて声がでてこない。指に食い込むほどに金網を握り締め、木刀がナイフを弾く干戈の音を聞きながら顔を伏せる。胸が痛い。サムライが今苦しんでるのは僕のせいだ、僕はまた彼に迷惑をかけてしまった。とんだ足手まといだ、どれだけサムライに重荷を負わせれば気が済むんだ?
 僕の存在そのものがサムライの足枷になってる現状から目を伏せ、続ける。
 「転倒した僕を庇って下敷きになったせいで手首を捻挫したんだ、刀を握る大事な右手を。捻挫してからまだ一日しか経過してないのに試合にでるなんて無謀だ、手首を酷使すれば悪化するに決まってるのに馬鹿げてる。大事な右手を痛めつけてまで僕を、僕なんかを守る義務なんかこれっぽっちもないのに彼ときたら人の話なんか聞こうともしない。試合直前になっても天才の助言を頑として聞き入れずに『大丈夫だ』の一点張りで、」
 サムライは馬鹿だ。
 なんで僕なんかを庇う?僕なんかを助ける?僕はサムライになにもできないのに、誠意の対価を払うことさえできない卑劣な人間なのに何故自分の身を犠牲にしてまで僕なんかを助けようとする?
 「大丈夫なわけがないだろう!!」
 試合前、罪悪感と無力感に苦悩する僕を安心させようと木刀を握らせたサムライを思い出す。刀で人を打ち負かすことは得意でも人に教えることには慣れてないのがよくわかる、指の一本一本に誠意とぬくもりが通ってるかのような不器用かつ真摯な手つきだった。
 僕の手を優しく包みこんだ手の温度がよみがえり、サムライに心配されるばかりの自分の無力さがやりきれなくなって力一杯金網を殴りつける。
 「大丈夫なわけがない、辛いに決まってるやせ我慢に決まってる!この天才を見くびるなよ、友人の本音がわからないほど洞察力がないとでも思ってるのか?じゃあどうすればいいんだ、僕の為に戦うなと泣いて止めればよかったのか。そんなこと言えるわけがない、サムライに『助けてくれ』と泣いて頼んだ舌の根も乾かないうちに前言撤回しても彼は聞き入れない、僕が嘘をついてると看破してしまう」
 そうだ、僕はサムライに助けてほしい。売春班には二度と戻りたくない、もう男に体を売りたくない。口で嘘をついても心は嘘をつけない、自分の心にまで嘘をつけるほど僕は器用じゃない。サムライに戦って欲しくないのは本音だ、サムライが傷つくところなど見たくない。でも同じ位の比重で彼に頼りたいと、彼に助けてほしいと願ってしまう惰弱で卑劣な自分を否定できない。
 サムライは僕の嘘を見抜いていた、だから説得も意味を成さなかった。
 彼を戦場に向かわせたのは僕だ。責められるべきはサムライではなく僕だ、捻挫の責任を負うべき卑怯者は金網越しの安全圏でサムライの死闘を傍観しているこの鍵屋崎直だ。
 「……全責任は僕にある。反論はしない、非難は甘んじて受ける」 
 そう、すべての責任は天才のくせに嘘ひとつまともにつけなかった僕にある。
 いくら語彙が豊富でも肝心な時に舌が回らなければ、いや、表情を偽ることができなければ何の役にも立たない。嘘を無効化するサムライの視線の前では眼鏡のレンズなど何の役にも立たない、目に浮かぶ本音を隠すことさえできはしない。
 憮然とした顔つきで黙りこんだレイジを前に眼鏡を外す。
 「何の真似だよ?」
 すぐそばでロンの声がする。きちんと眼鏡の弦を畳んでから顔を上げ、霧に包まれたように曇った視界にレイジらしき影をとらえる。
 金網に肘をついて凭れ掛かったレイジをまっすぐに見つめ、口を開く。
 「殴れ」
 視界はぼやけているが、金網が鳴る音と影が身を起こした気配からわずかな動揺が伝わってきた。
 「サムライに怪我を負わせたのは僕だ。サムライは君の相棒で100人抜きを達成するのに欠かせない重要な戦力だ、つまり僕はサムライの足を引っ張ることでロンを守るために戦いに挑む君の足をも引っ張ってることになる。サムライを責める前に根本原因を断罪するのが人として正しい在り方だろう。さあ、遠慮せずにおもいきり殴れ。君に殴られるのはぞっとしないがサムライの手首の分の痛みは引きうけるつもりだ、覚悟はできている」
 自分がしたことの責任はとらなければならない。口にはしなかったがレイジに殴られたほうが気分が軽くなるのではないかという予感もあった。レイジが僕を殴るのは正しいことだ、サムライが敗北すればその時点で100人抜き不可能となり彼の敗北も自動的に決定する。それを踏まえればレイジには僕を殴る権利が発生する。
 眼鏡を手に持ち、前を向き、目を閉じる。
 「……まさか、本気じゃねえよな」
 金網から上体を起こしたレイジが大股に歩いてくるのが靴音でわかる。僕の方へ憤然と歩いてきたレイジが風切る唸りをあげてこぶしを振りかざし、風圧が顔面を叩き―
 金網がはげしく鳴る。
 目を開ける。横薙ぎに払われたこぶしが横の金網にめりこんでいる。 
 「……おまえ殴っても意味ねえっつの。天才だろ、ちょっとはわかれよ」
 あきれたようにぼやいたレイジが金網からこぶしを引きぬけば、上着の胸をなでおろす動作つきでロンが安堵の息を吐く。拍子抜けして眼鏡をかけなおした僕の目に映ったのはふてくされたレイジの横顔。
 「説教はあとまわしだ。おい聞いてるかサムライ、今すぐ戻ってこい!右手に怪我してんなら無理すんな、あとは俺に任せろ!」
 レイジの横顔からリングに視線を転じる。金網を背にし、追い詰められ逃げ場を失ったサムライが木刀の軌跡を交差させ、右から左から正面からと急所を狙い来るナイフを翻弄している。
 「サムライ帰ってこい!もういいよ、キーストアにかっこいいとこ見せたいのはわかるけど刀握れなくなったら元も子もねえだろ。つまんねえ意地張らずに俺とバトンタッチしちまえ」
 この距離でレイジの声が聞こえないはずはない。にもかかわらず無視を決め込み、意固地なまでに我を通すサムライを見てレイジの顔が険悪になる。どうにかサムライの注意を引きつけようと金網に手をかけて揺さぶりながら周囲の歓声すら圧する大声を張り上げる。
 「王様命令だ!逃げるのは恥じゃねえ、武士の誇りやらお固い信念やらにこだわってる場合じゃねえだろ。おまえが負けたらキーストアはどうなんだよ、また売春班に逆戻りで男にケツの穴もてあそばれるんだぜ。キーストアだけじゃねえロンだって……くそっ!無視してんじゃねえよ、いい加減にしねえと下の名前呼ぶぞ!?」
 レイジの声がむなしく響き渡る中、木刀を握り締めたサムライには一向に帰ってくる様子もなければ振り向く素振りさえない。腰に重心を移した防御姿勢には荒波と対峙する巌のように磐石の安定感がある。
 とどめの一撃が刺せず、木刀に鑢をかけるばかりの現状に痺れをきらした少年が両手でナイフの柄を握りこむ。
 「しつけえんだよっ」 
 頭を低めた突撃の姿勢から床を蹴り一気に加速、地に伏せるような低姿勢から足のバネを最大限に生かしてサムライの懐にとびこむ。木刀の下を抜けて遂にサムライの間合いに踏み込んだ少年が目前に迫った勝利に狂喜してナイフを突き出す。
 「解剖ショウのはじまりだ、ソラマメによく似た腎臓摘出してリングの照明にさらしてやるよ!麻酔ねえから痛いだろうがな!!」
 「!!サムライ避けろ、」
 金網にしがみついた視線の先、まばゆい照明を反射して白銀に輝くナイフが木刀で打ち払うこともできない至近距離からサムライの腹部へと吸い込まれ……
 
 「踏み込みが浅い」

 直角に折れた膝が、楔を打つように少年の鳩尾を直撃する。
 「!!」
 木刀を警戒するあまり足元への注意がおろそかになっていた。
 不意の膝蹴りに体勢を崩し、サムライの脇腹をかすめるように前傾してゆく。サッとサムライが避けたせいで抑止力を失い金網に激突した少年のナイフが柄まで網目に刺さって抜けなくなる。
 「なっ……、」
 不測の事態に気が動転した少年は汗でぬめった手でナイフを引きぬこうと悪戦苦闘するが、焦りが募る一方で一向に抜けない。恐慌をきたした少年の背後に衣擦れの音さえたてない足運びで回りこんだサムライが、左手に木刀をさげたままの無防備な立ち姿を照明にさらす。
 「抜けないなら手を貸すが」
 はじかれるように振り向いた少年の顔が恐怖にこわばる。声さえかけなければ完全に死角をとることができたのにサムライはあえてそうしなかった。それどころか、網目に嵌まったナイフを引きぬこうと額に汗して苦労している少年に助力を申し出たではないか。サムライの体に流れる誇り高い武士の血が、武器を持たない相手を背後から不意打ちするという卑劣な戦略を拒んだのだろう。
 ―「うあああああああああああああああっあああああっ!!」―
 いつのまにか敵に背後をとられ、武器のナイフを失い無防備な素手となり、あまつさえその一部始終がサーシャの監視下にある現実に直面して理性の糸が切れたのだろう。言葉にならない雄叫びを撒き散らして方向転換、そのまま入り口へ逃げ帰ればいいものをサーシャと目が合って金縛りにあったように停止。
 「北の恥さらしが。獲物の喉笛を掻き切れず尻尾を巻いて帰ってきた猟犬の末路を知りたいか?常時交替可能な制度に甘えて恥をさらすのは許さん、棒を振り回すしか芸のない猿ごときを倒すのに交替など不要だろう」
 氷のような無表情のサーシャが鞘からナイフを抜き放つ。その輝きにも増して彼を戦慄させたのはアイスブルーの瞳の狂気。サーシャなら表情ひとつ変えず、アイスブルーの目にためらいの波紋ひとつ生じさせずに醜態をさらした自分の首を掻き切ると確信した少年がまたしても方向転換。一歩でも遠くサーシャから逃れたい一心で策も何もなくサムライに突っ込んでゆく。
 「あああああっ、ああっ!?いやだ殺されるのはいやだ許してくださいサーシャ様なんでもすっ、」
 「哀れだな」
 木刀が少年を打ちのめした瞬間は速すぎて誰にも、僕にも見えなかった。 
 膝から下が崩れるように屑折れた少年を見下ろすサムライの目には勝者の愉悦ではなく同情の念が浮かんでいた。おそらくこの一撃のために防戦に徹して余力を蓄えていたのだろう、竹を割るように肩へと振り下ろされた太刀筋には見る者の心胆寒からしめる稲妻の冴えがあった。

 「勝者サムライ、十一試合目もサムライ・レイジペアの勝利!!時間切れにつき今日の試合は以上をもって終了!」

 試合終了を告げるゴングがけたたましく鳴り響く。先に僕は一晩で消化される試合数は決まっておらず、サムライとレイジの体力が保つまでのスタミナ勝負と述べたが明日には通常通りの強制労働が控えているため時間無制限というわけにはいかず、時間切れと同時に必然試合が区切られることになる。
 まだまだ観たりない暴れたりないと無粋なゴングに水をさされた囚人が金網を揺する中、左手に木刀をさげたサムライが物言わずこちらに引き返してくる。 
 
 無事でよかった。

 サムライの顔を残り1メートルの距離ではっきり確認したその瞬間、四肢から力が抜けて自然と金網に凭れ掛かる格好になる。試合を終えてみれば本人は拍子抜けするほど泰然自若として、盾代わりにした際に木刀についた傷を検分していた。
 木刀よりも自分の右手を心配しろ、と忠告しかけた僕を気迫で押しのけるようにレイジが前に出る。
 「………サムライ、ちょーっと顔貸せよ」
 軽く顎をしゃくったレイジの笑みには一触即発の危うさが漂っていた。
 「心得た」
 「雲行きが怪しいですね」
 レイジの背中について歩き出したサムライを追い駆け出そうとして後ろから声をかけられる。ロンと同時に振り向けばホセがいた。存在感がないせいかたった今まで近距離にいたことを忘れていた。無骨な黒縁眼鏡の奥、物分りよく柔和な目をしばたたかせてホセが言う。
 「お気づきですかお二人とも、レイジくんは今非常に怒っています。吾輩忠告しますが、レイジくんと彼とを二人きりにしないほうがいい。ちゃんと見張ってないとペア戦50組100人抜きどころではなくなります」
 「どういう意味だ?」
 「リングに上がる前にどちらかが再起不能になるかもしれないという意味です」
 その言葉に悪寒が走ったのは気のせいではない。眼鏡のブリッジを中指で押し上げたホセが愉快げにほくそ笑む。今宵の出し物は終了のゴングが鳴りリングを下りてからが本番だとばかりに。
 「いやはや、レイジくんは怒り憎しみを抑えつけるのが本当に下手だ」


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060104215451 | 編集

 試合中も不穏な気配はたちこめていた。
 気配の出所はレイジだ。金網の外からじゃ手も足も出ず、窮地に追いこまれて苦闘するサムライに再三代われと呼びかけても徹底して無視されて鬱憤をためこむ一方。一旦リングを下りてしまえば入り口に戻ってきた片割れと手と手を打ち合わせて合図しない限り戦線復帰することもできない。ルール無用のペア戦のルール以前の大前提、手と手を打ち合わせて合図しない限りはいかなる場合も交替は認められないのだ。
 手と手を打ち合わせるのは合意の証、信頼を譲渡する証。
 ペアを組んだ相棒に「後は任せた」と承認されなければ決してリングに上がることができず、ひりつくように焦れながら観客の側に回るしかない。
 サムライが梃子でもリングを下りなかったせいで不本意にも外野に回されたレイジは試合中ずっと苛立っていた。鍵屋崎が額に汗して戦うサムライを思い詰めた目で見守ってる間ずっとレイジの手を観察していたが、間接と長さのバランスが絶妙な指が十字架に絡むたびに苛立ちが募ってゆくのが傍目にもわかった。
 「なんで無視すんだよ、あいつ」
 苦々しげに吐き捨てた顔には焦燥が滲み、目には不満の火種が燻っていた。その時から胸を塞いでた嫌な予感が、今、俺の前で現実になろうとしている。
 試合終了後。
 サムライに顎をしゃくり、大股に歩き出したレイジの全身から威圧のオーラが振りまかれる。試合の興奮冷めやらぬ囚人で猥雑にごったがえす地下空間を突っ切れば「おいレイジだ!」「やべえ逃げろっ」「殺されるぞ」と剣呑などよめきが沸き起こり、蜘蛛の子散らすように観客が逃げ惑う狂騒の一幕が演じられる。
 レイジは一度も振り返らず、俺達がちゃんとついてきてるか確認しようともしない。俺達がついてきて当たり前、むしろそれが義務だといわんばかりの傲慢かつ尊大極まりない態度は、普段くだらない冗談を口にしておちゃらけてる身近で庶民的な王様とはかけはなれてる。
 「暴君だ」
 隣を歩いていた鍵屋崎が呟く。そう、暴君……今のレイジは憤怒の権化となった暴君、歩みを阻める奴はだれもいない。もし今レイジの前にとびだしてくる馬鹿がいたら最低でも腕一本はへし折られるにちがいない。
 悪寒がしてきた。
 サムライを従えたレイジが歩を向けたのは地下空間に連結された細い通路。さっき俺がタジマに連れ込まれたボイラー室がある廊下だ。
 試合観戦中からずっとレイジの様子はおかしかった。何度呼びかけても徹底的に無視される歯痒さに業を煮やし、十字架をまさぐる指は力をこめすぎて間接が強張っていた。黄金の十字架さえ砕いちまいそうな握力のこぶしで加減できずにサムライの頬骨を折っちまったら、と気が気じゃなく足を速めれば目の前に火花が散る。
 鍵屋崎の背中に顔面衝突。
 「ぼさっと突っ立ってんじゃねえ、人間急には止まれねえんだよっ」
 鼻血はでてねえよな、かっこ悪い。三歩前行く鍵屋崎が立ち止まったことにも気付かなかった気恥ずかしさを叱責でごまかせば、怒鳴れてる本人は無反応で硬直。横顔にはただならぬ緊張の色。何をそんな熱心に見てるんだろうと視線を追い、今度こそ俺も硬直した。
 蛍光灯が割れてるせいで通路全体が薄暗く、廃墟特有の裏寂れた空気がどんより澱んでいる。
 レイジとサムライは鍵屋崎の5メートル先にいた。
 壁を背にしたサムライと対峙し、詰問のポーズをとる。
 「なんだよ、その右手」
 不機嫌に凄まれてもサムライは動じず、興味もなさそうに自分の手首を一瞥しただけだ。純白の包帯が巻かれた右手首が鍵屋崎の肩越しの距離から目に入る。
 天井に設置された蛍光灯が忙しない瞬きを繰り返している。
 レイジの顔が闇に沈み、また暴かれる。明と暗がめまぐるしく入れ替わる荒廃した通路に立ち尽くすレイジとサムライを、そして、少し離れた場所で二人のやりとりを傍観するしかない鍵屋崎と俺の四人を沈黙の帳が包みこむ。
 「なんで無視したんだよ、さっき」
 質問を変えて追及するもサムライの表情は変わらない。なにを考えてるかまったくわからない不気味な無表情。質疑応答さえ成立しない無反応に業を煮やしたレイジが語気荒く吐き捨てる。
 「……右手怪我してんならそう言やいいだろ、なんで黙ってたんだよ。武士の意地?サムライの矜持?くだらねえ」
 サムライの双眸が針のように細まり、牽制の意をこめて木刀の鍔に左手を置く。
 「くだらなくなどない」
 「右手捻挫して刀使えないならそう言えよ。何ひとりでムキになってかっこつけてたんだよ、さっきはたまたま運が味方して勝てたからいいようなもの次の試合はどうするんだよ。順当に勝ち進んでけば敵はどんどん強くなる、二十組から先は片手で勝てるほど生易しくねえぞ」
 「最善を尽くす」
 「最善尽くしても結果だせなきゃ意味ねえだろ」
 「最善の結果を出す」
 「全然わかってねえよ、おまえ」
 レイジが嘆かわしげにかぶりを振る。 
 「何の為にペア組んでんだよ俺たち、ひとりが負けそうになったらひとりが助けるためだろうが。なのにおまえときたらさんざん呼びかけたの無視して意固地に剣にこだわりやがって、そんな目立ちたがり屋だとは思わなかったぜ。リングで脚光を浴びた気分はどうだ?気持ちよくて癖になりそうってか」
 「俺に交替したのはおまえだろう」
 「右手捻挫してるって知ってりゃ代わらなかったよ」
 サムライの負傷を事前に知らされてなかったのが悔しいのか腹立たしいのか、おそらくその両方だろう。やるせないため息をつき、無意識に十字架をまさぐる。
 「わかった、冷静にお話しよう。事の重大性ちゃんと理解してるのかなお利口なみっちゃんは。俺たちがペア戦100人抜き達成できなきゃキーストアとロンはおててつないで売春班に逆戻り、半年後の部署換えまで毎日客とらされてケツの穴もてあそばれるワケ。もちろん俺はロンが他の男に抱かれるのなんてぜってえ嫌だし想像しただけで吐き気がする、おまえだって同じだサムライ。そうだろ」
 「異論はない」
 「俺たちは何があってもどんな手使っても絶対勝たなきゃいけないわけ。Do you understand?」
 「無論だ」
 
 その一言でレイジがキレた。

 「じゃあなんで黙ってたんだよ!!?」
 激昂したレイジが片腕一本の膂力でサムライの胸ぐらを締め上げ手加減せず壁に叩きつける。壁を震わせた振動が天井にまで駆け上って蛍光灯を揺らし点滅が一層激しくなる。落下を危惧させる不安定さで軋る蛍光灯の下、壁際に追い詰めたサムライの胸ぐらを容赦なく締め上げるレイジの顔には一片の笑みもない。余裕ありげな物腰をかなぐり捨て、灼熱の溶岩流の如く腹の底から突き上げてくる憤怒を体中の血管一本一本に巡らせたレイジの双眸に激情が爆ぜる。
 「右手怪我してんならさっさと俺と交替すりゃいいだろが、なに意地張って一人で戦ってんだよ時代遅れのサムライ気取りが!!なんだよこの包帯は、痛いなら無茶すんなよ二度と剣握れなくなったらどうすんだよ!?」
 「大事はない」
 「嘘つけ、試合中額にびっしり脂汗浮かべてたのはどこのだれだ?木刀振るたびに辛そうな顔して痛み堪えてたのは?俺も鍵屋崎もロンもちゃんとこの目で見てんだよ、いまさら言い逃れできるわきゃねえだろ。刀振れないんなら交替しろよ、後は俺に任せろよ。万一お前がリングで負けたらその時点で100人抜き実現不可能で俺たちの敗北決定するんだぜ、ロンと鍵屋崎を助け出せなくなるんだぜ!?お前が無理して手首痛めて何の得があるんだよ、負けちまったら全部おしまいだろうが!!」
 唾とばして吼え猛る間も手はサムライの胸ぐらを掴んだまま。首を圧迫され罵られてもサムライは瞬きひとつせずレイジの恐ろしい形相から目を逸らすこともない。ただ、左手の木刀を握り直して毅然と顔を上げる。
 「俺は鍵屋崎を守ると誓った。お前もそうだろう、レイジ」
 外見以上に実年齢をあやふやにさせる老成した口吻でサムライが言い、手をつかねて立ち竦む俺に分別くさい一瞥を投げる。その視線が隣の鍵屋崎へと移り、頑なに信念を貫く眼光が強まる。
 「ならばこの程度の怪我問題にもならん。お前の足手まといにならぬよう尽力する」
 「足手まといだあ?」
 レイジの顔に嫌味な笑みが浮かぶ。比類なく整った面立ちさえ下卑て見せる侮蔑的な笑みは、普段見慣れた底抜けに明るい笑顔とは全く性質が異なる不快さと威圧を与えた。
 胸ぐらを掴む手に徐徐に力をくわえれば、息の通り道を塞がれる苦しみにサムライの顔が歪む。
 指の間接が強張るほどに胸ぐらを締め上げ、サムライを壁際に追い詰めてその上に覆い被さる。壁と背中を密着させ、されるがまま無抵抗に徹するサムライへとしなやかに体を摺り寄せる。
 「ふざけんな。足手まといとかくだらねえこと気にしてる暇あんなら意地張らずに俺頼れって言ってんだよ、さっきだってもう少しで負けそうだったじゃねえか。この先まだまだ試合は続くんだぜ、50組100人倒さなけりゃ俺たち四人全員心中する運命なんだ」
 「……お前など頼らなくとも」
 「あん?」
 耳元でささやいたレイジの顔が怪訝そうに歪み、手の力が緩む。その隙をついて褐色の手を振りほどき、皺が寄った胸元をひどく几帳面に手のひらで撫で下ろす。左手の木刀を握り締め、凛と背筋を伸ばしたサムライが眼光冷え冷えと宣言する。
 「お前など頼らなくても俺は俺の力と剣で鍵屋崎を守る。それが俺の信念だ、友人一人守り通すこともできずに武士を名乗るのは愚の骨頂、恥の極み。お前に何をどう言われても刀を握るのはやめん、刀を手放せば俺は俺でなくなる。身に刀を帯びず戦いを放棄するのは矜持を捨てるも同義、信念を貫いて右手を壊すならそれもまた本望だ」
 鍵屋崎の肩がかすかに震え、食い入るようにサムライを見つめる横顔に悲痛なものがこみあげる。 
 サムライは小揺るぎもせず、正面の虚空に目を据えていた。
 虚飾とも誇張とも一切無縁な実直な面持ちで、ただありのままの真実だけを述べ、己に恥じる所など一点もなく背筋を伸ばした立ち姿には清水で浄めた真剣のように清冽な気すら漂っている。
 『……sit』
 レイジの答えは短かったが、反応は激烈だった。
 囚人服の胸に垂れた鎖を力任せにちぎり十字架を毟り取る。鎖が弾けた十字架を握り締めた右手はそのままに前髪で表情を隠して片足を振り上げる。
 「!レ、」
 まさかサムライを蹴る気か!?
 「冷静になれ!」
 俺がとびだすよりも早く血相変えて走り出したのは鍵屋崎、サムライのもとに駆けつけようと床を蹴った鍵屋崎の頭上で蛍光灯が不規則に点滅。サムライの横脇、木刀にかけた左手を牽制するようにおもいきり壁を蹴りつけ、荒い舌打ちとともに足を下ろす。くっきり靴跡がついた壁から天井まで振動が駆け上り、衝撃に翻弄された蛍光灯が傾ぐ。
 「………よーくわかったよ。お前がとんでもねえ意地っ張りの頑固者でひとの話なんかこれっぽっちも聞かねえってことが」
 泥で汚れた壁から足をどけたレイジが底知れず暗い声と憎悪に濁った双眸で吐き捨てる。
 「勝手にしやがれサムライ気取り。そっちがその気ならこっちも好きにやらせてもらう。ペアだ?相棒だ?知るか。100人抜きなんて俺ひとりで楽勝だ。お前の手首が炎症起こそうがどうなろうが知ったことか、俺は俺のやり方で100人抜き成し遂げてロンを売春班から足抜けさせる」
 「俺は俺の剣に賭けて鍵屋崎を売春班から足抜けさせる」
 「交渉決裂だな」   
 皮肉げに笑ったレイジが去り際のついでとばかりに壁を蹴る。二度の衝撃に耐えかねた壁からは粉塵が舞い落ち、命脈を絶たれた蛍光灯が完全に瞑目する。
 荒廃した闇がわだかまる通路の片隅、背丈では分のあるサムライを覗きこんだレイジが、最後のチャンスを与えてやろうとでもいう風に舐めきった口調と見下した目つきで尊大に問う。
 「『代わってください』って土下座しても代わってやらないからな」
 暗闇の中、サムライがかすかに笑う気配した。口の端を歪める嘲笑。
 「こちらの台詞だ」 
 鼻白んだように黙りこみ、それ以上押し問答する愚を犯さず背を翻す。サムライを通路に残して歩き出したレイジとすれ違うように鍵屋崎が駆け出す。サムライのもとに辿り着いた鍵屋崎が小声で何か言ってる。だが俺の目は、すれ違い際視界を掠めた端正な横顔に吸い寄せられたまま離れなかった。
 サムライを突き放したレイジがほんの一瞬、あまりに短すぎて錯覚かと疑わせる一瞬、酷く傷ついた表情をしたからだ。
 サムライと鍵屋崎を通路に残し、俺のことなんかまるきり忘れたようにずんずん突き進むレイジの背中を小走りに追いかける。
 何て声をかけたらいいかわからない。
 看守の手により迅速に解体されてゆくフェンスの周囲にはまだ興奮の余熱冷めやらぬ囚人がたむろっていたが、通路に入る前と比べれば随分と閑散としていた。解体作業に着手されたリング周辺を用もないのにぶらついてる連中は、次のペア戦が行われる来週末まで強制労働に汗水流す日々が続く現実に帰還するのが惜しくて、ささやかな抵抗にだらだら駄弁って一日を引き延ばそうとしている。
 レイジは左手を軽くポケットにかけ、十字架を握り締めた右手を力なくたらし、さっきまでの賑わいが夢か嘘のように閑散とした地下空間を芒洋と見つめていた。解体されたフェンスが数人がかりで運び出されて行く光景を見送る目には一言では表現できない複雑な色がある。

 何か声をかけてやらなければ。

 こんな頼りないレイジはらしくない。さっきまでの怒りが嘘のように萎んだ背中は勢いだけでサムライと絶交しちまってこれからどうしようと途方に暮れてるようにも見える。
 ……まあ、目の錯覚かも知れないが。
 どっちにしろ、いつでも自信満々大胆不敵な笑みを絶やさないレイジのこんな背中は見たくない。
 「サムライの右手が心配なのか」
 「サムライなんか心配なんかしてねえよ」
 「日本語おかしい」
 「うるせえ」
 少しだけ背中に元気が回復する。深呼吸し、完全に気を取り直したレイジが振り向く。鍵屋崎とサムライが通路から出てくる気配はない。二人で何を話してるんだろうと気にならないと言ったら嘘になるが精神的に不安定なレイジを放っぽって様子を見に行くわけにはいかない。
 お人よしな自分がいやになりため息をつく。ポケットに手を突っ込み、レイジの隣に立つ。レイジが見てるのと同じ方向に視線を投じれば、三々五々去ってゆく囚人の向こう、金網が撤去された正方形の空間がぽっかり口を開けていた。
 潮が引くように人が去った地下空間を漫然と見渡し、口を開く。
 「……謝らなくていいのか」
 「なんで俺が。何も間違ったこと言ってねえだろ、右手が痛きゃ俺と代わればよかったんだ、無理して戦って勝っても右手壊したら意味ねーだろ。庶民は王様の言うこと黙って聞いてりゃいいんだ、変な意地張って交替拒んでリングに上がり続けて……もういいよ、サムライなんかあてにせずに俺一人で100人抜きしてお前抱くから」
 「なんでそうなるんだよ……」
 ガキっぽくむくれたレイジの横でため息をつく。俺のほうが年下のはずなのに、まったく手のかかる王様だ。どこまで本気か冗談かわからない人の誤解を招く言動が多いレイジだが、こいつはこいつなりに本気でサムライを心配してたんだろう。同じ目的の為に手を組んだ相棒として、安心して背中を預けられる存在として。だからこそ、右手の捻挫を隠してリングに上がったサムライが許せないのだ。
 「……『汝 偽りの証しを立てるなかれ』」
 「?」
 「十戒の九戒目、『汝 偽りの証しを立てるなかれ』。つまんない嘘つくなってこと」
 「サムライは嘘ついてないぜ」
 その指摘にレイジが振り向く。
 「言わなかっただけだ」
 「なおさらタチ悪い」
 舌打ちしたレイジがばつ悪げな表情で手の中の十字架を見下ろす。自らの手で鎖をひきちぎった十字架を見下ろしながら苦々しげに吐き捨てる。
 「……相性悪いのかもな、俺たち。共闘なんかするんじゃなかったぜ」
 持て余し気味に十字架をまさぐる横顔に自嘲的な笑みを上らせたレイジを見てると何か声をかけてやりたくなる。だが上手い言葉が見つからない。落胆したレイジに免疫がないせいか、うまい慰めの言葉や励ましの文句がさっぱり思い浮かばない。伏し目がちにうなだれたレイジにとにかく何でもいいから声をかけようと口を開きかけ、
 「よくもやってくれたな、ロン」
 コンクリの地面に巨大な影がさす。
 「!」
 反射的に振り返り、影の主を確認した途端心臓が止まりかける。ボイラー室のある通路からよろばいでてきたのは鼻柱を赤く擦りむいたタジマだ。全試合終了する頃になってやっと目が覚めたらしい。
 俺の耳たぶに安全ピンで穴を開けようとしてお預け食らったことが相当腹に据えかねてるらしい。憤怒で満面朱に染めたタジマが凶暴に唸る。
 「待ってろ、今すぐそっち行ってさっきの続きしてやる。二度と舐めた真似できねえのに安全ピンでその生意気な口と舌縫い合わせて、そうだズボン脱がせて下も……」
 腰の警棒に手をかけたタジマが狂気に目をぎらつかせて鼻息荒く歩いてくる。最悪だ、何でこんな時に。自分の不運を呪ってみても始まらない、一刻も早く逃げなければ、いやだめだ、もう遅い。タジマはもうそこまで来てる……
 「タジマさん」
 警棒を抜こうとした手がびくりと硬直。
 やんわりタジマに呼びかけたのはそれまで背中を向けていたレイジ。声をかけられ、初めてレイジの姿が視界に入ったとばかり仰天したタジマを振り向き、にこやかに言う。
 「俺、今最高に機嫌悪ィんだけど。それ以上ロンに近付いたら掘るから」
 だがしかし、その目はこれっぽっちも笑ってなかった。
 背筋がぞっとするような冷ややかな微笑で脅迫されたタジマがひどく苦労して生唾を嚥下、ぎこちない動作で警棒を腰に戻す。
 体ごとタジマに向き直り、無防備に歩を踏み出し、芝居がかって大仰な身振りで畳みかける。
 「今ここであんたのケツ剥いて括約筋ずたずたにしてやろうか。この十字架中に突っ込んで抉ってやろうか。これまでさんざん売春班のガキども犯して美味しい思いしてきたんだ、だったらたまには楽しませてくれよ、なあ」
 おどけた動作で両手を広げながらタジマに歩み寄ったレイジが扇情的に赤い舌を覗かせ、手の中の十字架を美味そうに舐める。
 背徳の味を舐める冒涜のキス。
 「あんたがこれまで体験したことないくらい最高に気持ちよくさせてやるよ」
 「………っ!!」
 タジマの喉が恐怖にひきつり、絞め殺される豚によく似た悲鳴を漏らす。
 「くそっ、覚えてろよレイジ、それにロン!100人抜きなんて無理に決まってんだろうが、負けちまえ負けちまえてめえもサムライも負けちまえ!売春班に落ちてきたらロンとかわるがわる楽しんでやるっ」
 捨て台詞だけは威勢良く踵を返したタジマが全速力で逃げ去ってゆく。十字架に舌を這わせながらその後姿を見送り、顔を上げる。
 「尻は重いくせに逃げ足速いな」
 「………今言ったことマジじゃないよな?」
 頼むから否定してくれと内心気を揉みながらおずおず追及すれば、尻軽な王様はあっさりうそぶく。
 「マジ」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060103215604 | 編集

 東西南北四つの棟に君臨するトップにはそれぞれ異名がある。 
 東棟の王様、北棟の皇帝、西棟の道化、南棟の隠者。
 この異名は四人それぞれの性格やら人柄やらに由来している。現ブラックワーク覇者のレイジが「最強」の称号を有する「王様」で、それに続くのがロシア人至上主義の恐怖政治を敷く誇大妄想狂の「皇帝」サーシャ。「西棟の道化」より「図書室のヌシ」のあだ名のほうが通りがよくて親しみやすいヨンイルは暇な一日図書室にこもって漫画を読み耽ってる趣味人。レイジとヨンイルには読書という共通の趣味があり、お互いあけっぴろげな性格してるから四天王の中じゃいちばん気安く話せるし仲もいいとは本人談。

 じゃあ、南棟の隠者は?……知るか。

 「隠者」というくらいだから表にでるのが好きじゃない恥ずかしがり屋なんだろうと勝手に予測してるが、四天王の中じゃ目立たない最下位にあたるせいか今まで気にしたこともなかった。噂によると「素手で五人殴り殺せる鉄の拳の持ち主」らしいが所詮は噂、どこまで本気かわかりゃしない。
 何故今「隠者」のことを思い出したかというと、廊下を歩いてる途中にふとホセの顔が脳裏に浮かんだからだ。
 まったく変な奴だった。初対面の俺にもなれなれしく話しかけて握手なんか求めてきて……南棟の人間は皆ああなんだろうか?ラテン系の囚人が多い南棟の雰囲気はおおらかで開放的。初対面の人間にああも積極的に友情の押し売りができるノリのよさはラテンの血が流れる人間の特徴だろう、と結論付ければ自然とまだ見ぬ南の隠者へと思いが飛ぶ。レイジとサムライが順当に勝ち進めばおいおい西南北のトップと当たるんだろうが……そこまで考えて憂鬱になり、ため息をつく。

 話を戻す。

 なぜ強制労働免除特権が与えられる娯楽班上位者でもなんでもないただの囚人の俺が、地下停留場からバスが出払っちまった午前中に廊下をぶらついてるかというと売春班休業状態でしばらく体が空いてるからだ。
 ブラックワークペア戦の結果がでるまで売春夫の処遇は保留。性欲処理が目的で売春夫を買いにきた客は全部まとめて面倒みてやるとレイジが宣言し、その噂が東西南北全棟隅々まで行き渡る頃には売春通りには人っ子一人看守一匹いなくなった。
 王様の影響力は偉大だ。
 レイジはああ言ったが、売春夫が抱けないからレイジを抱こうと他棟から出張してくる命知らずはまずいない。だれだって豹と添い寝としたくはないだろう、キスする演技で喉笛噛みちぎられるかもしれないのに。レイジの強さが身に染みてる東棟の連中に至っては王様の半径1メートル以内に近付くのだって尻込みしていやがるありさまだ。
 レイジの貞操は東京プリズン末代まで安泰だろう、と思いたいがもし100人抜き達成しなければ俺と鍵屋崎だけでなくレイジまで売春班に落とされるのは不可避の処分。サムライは手首の腱を切られた上に処理班に回されることを考えれば俺たち四人は最悪の運命共同体といえる。
 つまり……
 「喧嘩してる場合じゃねえだろ」
 そう、この一言に尽きる。
 渡り廊下を渡りきり、図書室の扉を開ける。中はがらんとしていた。三階まで吹き抜けの開放的な構造で各階には整然と書架が並び、閲覧用のテーブルが等間隔に配置されてる。図書室が本格的に賑わいだすのは強制労働を終えた囚人たちがやってくる夕方で、大半の囚人が出払っちまった真昼間は訪ねる物好きとていないのだろう。ごく一部の例外を除いては。
 看守が暇そうにしてるカウンター前を足早に通過、軽快に階段を上る。売春班が休止に追いこまれて晴れて自由の身になれたのは願ったり叶ったりだが、そうすると今度はなにもやることがなくなる。東京プリズンにきてから一年半、ごく限られた自由時間以外に好き勝手に振る舞える余暇がなかったせいかせっかく暇になっても何をしていいかわからない。

 で、やることなくなった時に訪ねるのは図書室だ。

 暇潰しには漫画が最適、なんて言うと鍵屋崎に睨まれそうだが読む方の日本語は得意じゃない俺には漫画くらいしか読めないんだから仕方ないだろ。漫画なら絵を追ってりゃ自然と内容が飲み込めるし俺みたいな馬鹿でも読める、とか言ったら今度は某道化に怒られるだろうか?  
 一段飛ばしで階段を上がり、二階に到着。漫画の書架を目指して進む。今この状況で呑気に漫画なんか読んでていいのかよ、と自分にツッコミたいのは山々だがひとりでぐだぐだ悩んでても仕方ない。囚人にも気晴らしは必要なのだ、とそれらしく言い訳した……
 その時だ。
 「だからな、ブラックジャックとDrキリコの関係には好敵手という言葉がふさわしいと思うんや」
 「『好敵手』には語弊がある。ブラックジャックは人を生かす医者でキリコは人を殺す医者だ。両者とも『人を救いたい』という思いは共通してるが手段が相容れなければその価値観もまた相容れない。必然彼らは互いを唾棄し、互いが医療に賭ける信念を否定せざるをえない。それならまだ『天敵』のほうが二人の関係を的確に正確に表してるんじゃないか?」
 「読みが浅いな。お前はブラックジャックの何を見てたんや、お互い相容れないからこその好敵手やろ。ええか、ブラックジャックはキリコのことを忌み嫌っとるけど半面抗いがたい魅力も感じとる。キリコにもおなじことが言える。二人とも心のどっかでは相手の言い分も最もやと、一面じゃ真理を突いてると重々承知してるんや。でもそれを認めてもうたら自分が今まで信じてきたもんやコツコツ積み上げてきたもんが一瞬で瓦解する。せやからブラックジャックはキリコを、キリコはブラックジャックを認めるわけにはいかへんのや。心の底では抗いがたい魅力と共感を覚えとっても表にだすわけにいかん究極の友情、これを好敵手といわずして何と言う?」
 「君の読解力のなさには絶望を通り越して疲労さえ覚えるな。いいか、いちから説明するぞ。まずDrキリコ初登場シーンから引用……」
 「鍵屋崎?」
 いた。一面漫画で占められた書架に凭れ掛かり、喧喧諤諤の議論を繰り広げていたのは声から予想したとおり鍵屋崎だった。腕組みをほどいて俺を振り返った鍵屋崎の顔に「しまった」という表情が浮かぶ。
 「……これはその、誤解だ」
 「いや、まだ何も言ってないけど」
 「君が妙な誤解をする前に言っておくが僕は漫画なんて低俗な書物にはさっぱり興味がない、今ここにいるのはそう、偶然だ。本を探しに二階にやってきてたまたま漫画の棚の前を通りかかっただけだ。君と同じく暇を持て余した挙句に良い機会だし手塚治虫の著作に目を通そうなんて不純な動機でこの僕が図書室に足を運ぶわけないじゃないか、見損なわないでくれないか」
 眼鏡のブリッジを押し上げるのは動揺してる証拠だ。現場を押さえられてもなお偶然の通行人を装うつもりらしい鍵屋崎に「いやもうバレバレだから」と教えてやりたくなったがこれ以上追い詰めるのも可哀想だし見て見ぬフリをしてやる。
 ……いい奴だな俺。
 「えーと、お前は」
 鍵屋崎の正面、書架に凭れ掛かっていたのは針金のような短髪とゴーグルが特徴的なガキ。
 「思い出した、アトムもといロン」
 「もといってなんだよ」
 西の道化、ヨンイルだ。
 ヨンイルはしょっちゅう図書室に入り浸ってるから遭遇率は高いが、俺の顔と名前を知ってたのにはびっくりした。まあヨンイルとこうやって言葉を交わすのは初めてだがこれまでレイジの肩越しに顔見たり何だりしたし、何より四天王の中じゃダントツに話しやすい部類だから不自然な間を空けることなくタメ口で返せたのだが。
 腕組みして書架に凭れたヨンイルが笑顔を浮かべる。
 「ちょうどええ、お前も混ざるか。本日の討論、テーマはブラックジャックとDrキリコの関係性について。二人の間に友情は成立するかどうか。俺はする派でなおちゃんはしない派」
 「ちょっと待て、そんなくだらない議論に参加表明した覚えはないぞ」
 「またまた、さっきまでえらい乗り気やったのに。ブラックジャックは患者を救うことに命賭けとるクールでダーティーなふりして中身は熱い医者だからキリコみたいなド外道許せるわけないて熱弁……」
 「人の意見を捏造するな。僕はただ『ブラックジャックは人間を肯定してる、人間という種の根源的生命力に信頼をおきいかなる難解な手術にも最善を尽くし患者を救おうと努力する。そんな彼が安楽死という対極の手段をとるDrキリコを好敵手などという狭義の呼称で括るわけがない』と……」
 そこで鍵屋崎がハッと言葉を切り、よそよそしく眼鏡の位置を直す。俺の眼差しも大分生ぬるくなってたようだ。照れ隠しだろうか、咳払いでごまかした鍵屋崎が鋭い目で睨んでくる。
 「何故君がここにいるんだ?普段本を読まない人種が図書室に来るなんて心境の変化でも起きたのか」
 「ただの暇潰しだよ。昼間やることないし」
 そういえば、と向かいのヨンイルに目をやって思い出す。売春通りで発生したぼや騒ぎはレイジが通気口に投げこんだ煙玉が原因だがそれを細工した職人は一人しか思い浮かばない。
 「……西の道化」
 若干緊張して呼びかける。書架から適当に抜き取った漫画をぱらぱらめくってたヨンイルが顔に疑問符を浮かべてこっちを見る。ゴーグルに隠れてるせいで目の表情までは読めないが、懲役二百年の西のトップに見つめられてると思えば背中に冷や汗が流れる。
 「レイジに煙玉渡したの、おまえだな」
 「ああ」
 「なんだそんなことか」と速攻興味をなくしたヨンイルが手元の本へと視線を戻す。
 「レイジに耳打ちされたからパパッと渡してやったんや。ぼや騒ぎ程度の威力なら大した材料要らんしな、お前がケツ掘られる前に出来あがってよかったわホンマ。あと一日完成遅れてたらレイジに殺されてたかもわからん」
 悪びれたふうもなく飄々と笑うヨンイルに確信する。こいつは間違いなくレイジの同類だ。
 ……しかしそうすると俺の命の恩人、いや貞操の恩人は巡り巡ってヨンイルということになるのか。こいつがいなけりゃぼや騒ぎのどさくさに紛れて脱出することも不可能だったし感謝しなけりゃ罰が当たるかもしれない、と自戒した俺の横で鍵屋崎がぽかんとしてる。
 「……君が西の道化だったのか!?」
 「「は?」」
 なにをいまさら。……いや、本当にいまさらだ。
 「まさか気付いてなかったのかよ?」
 「まさか気付いてなかったんか?」
 「語尾だけ変えて同じことを言うんじゃない、くどい。……いや、誤解するなよ。まさかこの僕が真実に気付いてないわけないじゃないか。彼が西のトップだということは薄々勘付いていたが確信が持てずに答えを保留していただけだ。確たる証拠もないのに彼が西のトップだと断定するのは早計かつ短慮というものだろう。信頼できる結論を下すにはまず説得力ある証拠を揃えなければ机上の空論で終わってしまうからな」
 落ち着きなく眼鏡のブリッジに触れ、いつもの冷静さを欠いて弁解する鍵屋崎からはプライドの防波堤を築こうと必死な様子が伝わってくる。表面だけは平静を装い、なおかつ動揺をあらわにした口調と仕草とで「最初からおかしいと思ってたんだ。思えば初対面時、レイジにあれ程気軽に声をかけられる存在は同格のトップしかいないと……」と後出しの推理をまくしたてる鍵屋崎にこらえきれずヨンイルが吹き出す。
 「あははははは、かわいいなあなおちゃんは」
 「侮辱してるのか?」
 「馬鹿に馬鹿にされるほど不愉快なことはない」と吐き捨てた鍵屋崎が不満げに腕を組む。忌々しげにヨンイルを睨む横顔が仄かに上気していた。
 「レイジにも君にもトップにふさわしい威厳や風格が微塵もない。もっと広い層に認知されたいのなら日常の態度から矯正して然るべきじゃないか。上に立つ者にはそれ相応の資格というものがあるだろう」
 「べつになりたくてなったわけじゃないしなあ、西棟に俺より強い奴おらへんかっただけで」
 さらりととんでもないことを言い放ったヨンイルが漫画のページをめくりながら続ける。
 「あ、ちゃうわ訂正。俺より強い奴は他にもごろごろいてる、俺より人殺してる奴がおらんかっただけや。俺がトップになれたのは単純に数でごり押ししたから」
 あっさりおそろしいことを口にしたヨンイルに鍵屋崎の顔が強張る。
 「……何人殺したんだ?」
 「二千人」
 「冗談だろう?」
 「ホンマ」
 「本当だぜ」
 漫画から顔も上げず、謎めいた笑みだけを深めたヨンイル相手に慄然と立ち竦む鍵屋崎に耳打ちする。
 「何を隠そう西の道化は懲役二百年の大量殺戮犯だ」
 べつに鍵屋崎をびびらせようとしたわけじゃない、俺が今述べたのはありのままの真実だ。西の道化は懲役二百年の大量殺戮犯で残りの一生を刑務所で送ることが決定してる。こんなふざけたナリしてるが間接的に殺した人数じゃレイジだってサーシャだって百馬身引き離してダントツトップの凶悪な男だ。さっきまで喧喧諤諤、ブラックジャックとキリコの関係についてああでもないこうでもないと活発に議論してた張本人が西のトップと知って相当動揺してるらしい。眼鏡越しにヨンイルを凝視する目には信じがたいものでも見るかのような驚愕の相があった。
 「……人は見かけによらないというが、本当だな。一体何をどうやって二千人もの大量殺人を犯したんだ?」
 いまだ半信半疑、警戒心を捨てきれない口調で鍵屋崎が言い、ヨンイルがそれに答えて口を開きかけ……
 「鍵屋崎、いるか?」
 階下からの声に邪魔される。
 名指しされた鍵屋崎が率先して反応。書架と書架の間の通路を抜け、手摺越しに下を覗けば一階カウンター横に五十嵐が立っていた。手摺に顔を並べた俺たちを見て五十嵐の顔が綻ぶ。
 「やっぱりここか。サムライの言ったとおりだ」
 「何か用ですか?」
 「とりあえず下りて来い、話はそれからだ」
 手摺に片手を置いた鍵屋崎が怪訝な顔をする。五十嵐に手招きされた鍵屋崎が不審げな様子で階段を降りる。カウンター横で二言三言鍵屋崎と立ち話した五十嵐がちらりとこっちを見る。
 俺たちの目があるところじゃ話せないような用件なんだろうか?鍵屋崎を従えて書架の死角へと引っ込んだ五十嵐の後姿から書架の奥へと目を転じれば、ただひとりそこを動かずにいたヨンイルが面白くもなさそうに漫画を読んでいた。
 「今の五十嵐やろ」
 「ああ」
 もといた場所に引き返しがてら質問に答えれば「やっぱりな」と合点される。その声色に複雑な感情を汲み取り、妙な引っ掛かりを覚える。鍵屋崎を呼び出した相手がタジマなら話はわかる、またぞろよからぬことを企んでるにちがいないと予想がつくからだ。でも五十嵐なら話がちがう、五十嵐は東京プリズンじゃ珍しくよく出来た看守と評判で囚人にも人気がある。鍵屋崎を呼び出したのが五十嵐なら、ヨンイルがこんな奥歯に物の挟まったような言い方をする必要もないだろうに。
 「……五十嵐、好きじゃないのか?」
 探りを入れる声に反感がこもる。東京プリズンの囚人で五十嵐に借りがないやつは少数派だろう。よほどのひねくれ者を除いて皆なにかしら五十嵐には借りがある、タバコやガムやエロ本を調達してもらったり看守に暴行されて足腰立たなくなってるところを肩担いで医務室に連れてってもらったり……俺の場合は麻雀牌だ。東京プリズンじゃ数少ない好感もてる看守に対し、何故ヨンイルはこんなそっけない言い方をするのだろう。
 「あんま嫌われるタイプの看守にゃ見えないけど」
 「ちゃう。嫌われてるのは俺の方や」
 「五十嵐がお前を?なにかの間違いじゃねーか」
 「階段から突き落とされても?」

 なん、だって?

 ヨンイルの三歩手前で立ち止まる。
 悪い冗談か何かの聞き間違いかと思った。だってそんな、にわかに信じられるわけがない。五十嵐が?ヨンイルを?なんで?タジマの間違いじゃないかそれ。でもヨンイルには前言撤回する素振りもなければ冗談にして笑い飛ばす気配もない、手元の漫画に目を落としながらただただつまらなさそうに呟いただけだ。
 「階段のいちばん上から突き落とされたことあるんや、五十嵐に。ドン、て背中突かれてな。びっくりしたわホンマ、そん時漫画読みながら歩いてて油断してたから。打ち所悪けりゃ死んどったわ、いやがらせにしても洒落にならんでアレ」
 「……でもお前、ぴんぴんしてるじゃん」
 「アホ、俺の運動神経舐めるんやない。階段のいちばん上から落ちてもちゃーんと着地決めたわ。ま、まったくの無傷ってワケにもいかんで片足捻ってもうたけどあの場に審査員いたら9.8は鉄板やった。こないだの釜山オリンピック出ればええ線行ったかもしれん」
 頭が混乱してきた。
 乾いた笑みを口元にはりつかせたヨンイルが作り話をしてるようには思えないが、五十嵐がヨンイルを突き落としたというのはもっと信じられない。あの温厚で気さくな五十嵐が何故ヨンイルにそんなことを?一歩間違えば死んでたかもしれない恐ろしい真似を?
 わけがわからないまま、それでも五十嵐が、東京プリズンで唯一囚人の味方をしてくれる看守だと今の今まで疑わずにいた五十嵐がそんなことするわけないと信じたい一心で唾を嚥下してヨンイルに詰め寄れば、単調な靴音が階段を上ってくる。
 鍵屋崎が戻ってきた。
 「何の用だったんだ」
 正直、鍵屋崎が帰ってきて救われた心地がした。雰囲気を変えようとなにげなく問いかければ、鍵屋崎の手に握られてる白い封筒が目にとまる。
 手紙だ。
 「まさかそれ……」
 鍵屋崎は緊張に強張った顔で、眼鏡越しの視線は今だ信じられないものでも見るように手の中の手紙に注がれていて。今気付いたが、手紙を握り締めた指がかすかに震えている。
 「たった今、五十嵐に渡されたんだ」
 呆然と呟いた鍵屋崎の声には、思いも寄らない幸運が自分の身の上に降りかかった事に対する信じがたい驚愕が含まれていた。いや、幸運というより奇跡に近いだろう。辛いことばかりを体験して麻痺してしまった心にはついぞ無縁だった温かな感情が、喜びが、海綿に水が染みこむように乾いた心を潤して胸を満たすまでに何度深呼吸して唾を嚥下したことだろう。
 「妹からの手紙か!?」
 気付いたら図書室だということも忘れて大声をあげていた。
 それでわかった、五十嵐が鍵屋崎の所在を尋ねてわざわざ図書室までやってきたわけが。一刻も早く鍵屋崎を訪ねて手紙を渡したくて、喜ぶ顔が見たくて足をのばしてきたんだろう。
 覚めない夢を見てるような呆然とした表情で、放心状態で立ち竦んだ鍵屋崎の肩を力任せに掴んで揺さぶる。
 「なあしっかりしろよ、それ妹からの手紙なんだろ!お前がこの半年間首を長くして待ち望んでた大事な妹からの手紙なんだろ、やったじゃんか、ちゃんと返事きたじゃねーか!妹がお前のこと忘れてたわけじゃないってこれでわかったろ、ちゃんと証明されただろ!!」
 なんで俺こんな叫んでるんだろう、馬鹿みたいにはしゃいで喜んでるんだろう。自分のことでもないのに、俺には一通も手紙なんかこないのに、なんで鍵屋崎に手紙がきたことがこんな嬉しくて嬉しくてたまらないんだろう。鍵屋崎が妹から見捨てられたわけじゃないってわかって、こいつが今までしてきた苦労が今この瞬間に全部報われた気になって、何だかもう無性に嬉しくてたまらない。
 俺のことでもないのに、俺のこと以上に嬉しくて視界までぼんやり霞んできやがった。
 俺に肩を揺さぶられてる間じゅう、まだ虚脱状態から抜けきってない鍵屋崎は鼻梁にずり落ちた眼鏡を押し上げるのも忘れてぼんやり虚空を見据えていたが、右手に掴んだ手紙だけはしっかり握り締めて絶対に手放そうとしなかった。
 そして、呟く。
 聞き取りにくい小さな声で、プライドとか虚勢とか全部取り払ってただの子供に戻っちまった弱弱しい声で。
 ただ一言。
 『………よかった』 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20060102215718 | 編集
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