十五話
(2005/12/31) 夢を見てるんじゃないだろうか。
今僕の手の中には一通の手紙がある。何の変哲もない白い無地の封筒で厚みはないが、こうして手に持って指を触れているとさまざまな感情がこみあげてくる。
まだ夢を見てるようだ。
一体何度信じられないと繰り返して自分の正気を疑っただろう、現実逃避の延長の妄想の産物ではないかと訝しんで自己を戒めて手紙の存在を否定しにかかったことだろう。でも何度否定しても手の中には依然として手紙があり幻覚のように消え失せたりはしない。
この手紙を受け取った時からずっと胸の動悸がおさまらない。鼓膜に響くのは心臓の鼓動と唾を嚥下する音だけ、思考停止状態に陥った頭に浮上するのは懐かしい思い出。まだ僕が「お兄ちゃん」と呼ばれていた頃の、「お兄ちゃん」と呼ばれる資格を有していた頃の記憶。恵に懐かれることが嬉しくて恵に慕われることが誇りで、それだけが僕の、鍵屋崎直に付随する「天才」以外の価値だと信じて疑わなかった頃の些末な記憶の断片。今でも鮮明に思い出せる恵の笑顔に被さるのは五十嵐の優しげな声。
『お前宛だ』
そう言って五十嵐に手渡されたのは一通の手紙。おもわず手を出して受け取ってから、僕宛に手紙がきたという事実に驚愕して立ち竦む。驚きのあまり言葉を失った僕を見て五十嵐は微笑ましげに続けた。
『この前書いた手紙の返事だ。ちゃんと妹に届いたんだよ、よかったな』
そうだ、確かに僕は数日前恵に手紙を書いて五十嵐に投函を頼んだ。僕から手紙を預かった五十嵐は「任せておけ」と「責任もって届けるから安心しろ」と力強く請け負ってくれた。五十嵐は言葉通りちゃんと義務を果たしてくれた、責任をまっとうしてくれた。放心状態から容易に立ち返ることができず、二階からは死角になった書架の影で手紙を握り締めたまま凝固してる僕を何と思ったか、五十嵐は頬を掻きながら言った。
『……悪かったな』
『?』
後ろめたげな謝罪に反応して緩やかに顔を上げる。巨大な書架に凭れた五十嵐が、僕の視線に糾弾されるのを恐れたか敢えて目を伏せて吶々と呟く。
『こないだ住所を渡しに言った時、邪険に閉め出されて「なんだよ」って腹立てちまって……後から知ったんだ、お前が売春班勤務になったって。あの時はちっとも知らなくて、お前の気持ちも知らずに悪いことしちまった。罪滅ぼしっちゃなんだけど一日も早くこれ届けたくてな、ほんとは視聴覚ホールで皆と一緒に渡さなきゃいけねえから内緒だぜ』
すまなそうに伏し目がちで語る五十嵐を見上げ、手の中の手紙を見下ろす。メモは既に破り捨てて存在しないが恵が入院してる病院の住所は完璧に暗記してる。手紙を書くのに何の問題も発生しなかった。便箋は以前レイジから貰った残りを使用したし、鉛筆でも読みやすいよう字は大きく丁寧に書くよう心がけたつもりだ。恵はまだ11歳だから出来るだけ難しい漢字はひらがなに直し、平易で簡潔な文面になるよう工夫した。
届くだけで十分だったのだ。五十嵐に手紙を渡した時点で僕は大いに満足していたのだ。
この上返事を期待するのは虫がよすぎると自戒していた。僕は恵の実の両親を殺害し、恵から家族を奪った張本人なのだから殺したいほど憎まれこそすれ一方的な手紙に返事などくるわけがないと、両親を殺害して刑務所に服役中の兄から手紙がきたところで迷惑でしかないと、せっかく出した手紙も封を破かれることなく目を通されることなく破棄されても仕方ないと諦観していたのだ。
でも現実に、返事が届いたのだ。
この半年間僕が心から待ち望んでいた手紙が、何より大事な妹からの手紙が。
心の底ではだれよりなにより見捨てられることを恐れていた最愛の家族からの手紙が。
『よかったな』
五十嵐の声が鼓膜に染みた。
図書室からの帰り道のことは殆ど覚えていない。
不条理な夢の中を漂っているように現実感が抜け落ちて頭が朦朧として思考が正常に働かなかった。自分の足が足じゃないような、自分の手が手じゃないような奇妙な浮遊感が付いて回ってちゃんと床を踏んで歩いてる気がしなかった。途中何人かの看守か囚人とすれ違った気がするがよく覚えてない。図書室を出る時、ロンがやけに嬉しそうな顔をしていたのが印象に残った。自分のことでもないのに何故ああも単純に喜べるのか理解できない。ふらふらしながら房に帰り着き、片方のベッドに腰掛けたところまでは記憶にある。
それからしばらくぼんやりと虚空を見つめていた。
しばらく、と言っても実際には数時間は経過していたのだろう。我に返ったのは強制労働を終えた囚人が廊下にごったがえしはじめた頃だ。ショック冷めやらぬ放心状態がどれ位続いたのか正確な時間はわからないが、いつまでこうしてても埒が明かない。夕食が始まる前に封を開けて中身を改めようと深呼吸する。
無理だった。
どうしても出来なかった。
くりかえし深呼吸して心を落ち着けようとしたのに、いざとなると指が震えてどうしても封が破けなかった。どうしたんだ一体、しっかりしろ鍵屋崎直。天才のくせに情けないぞ。そう自分を叱咤し、何度目を閉じて暗示をかけたことだろう。大丈夫だ、何も恐れることはない。僕は今日までさまざまなことを体験して多少は打たれ強くなったんだから、もう何が起きても傷つかないほどに心が麻痺してしまったんだから仮に手紙にどんなことが書いてあっても、どんなに厳しい糾弾の言葉や激しい断罪の言葉が連ねられていても逃げずに正視できるはずだ、受け止めきれるはずだ。
恵に拒絶されるのは怖い。でも、読みたい。
僕には恵の思いを、哀しみと孤独を受けとめる義務がある。今ここで逃げるのは許されない。たとえ手紙に何が書いてあったとしても冒頭から文末まで全部目を通して恵の気持ちを真摯に受け止めなければ兄失格だ。いや、この期に及んで一抹の期待に縋っていたのも否定できない。もしかしてひょっとしたら、恵は僕のことを許してくれたんじゃないか?許してくれたからこうして返事をくれたんじゃないか?まさか。僕は戸籍上の両親を殺して最愛の妹を精神病院送りにした人間だぞ、そんな人間が世間からはおろか遺族から許されるわけがないじゃないか。どこまで図々しいんだ僕は、ありもしない幻想に性懲りなく縋ってる現状には吐き気さえおぼえる。
でもこうして返事をくれたということは、少なくとも恵は僕からの手紙を無視しなかったということで。
ちゃんと読んでくれたということで。
『お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ』
『手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない』
いつだったかサムライは言った。願えば叶うと、信じれば報われると。
僕はサムライを信じていいのか?サムライの言葉を額面通りにとって希望を持っていいのだろうか?
僕が五十嵐に託した手紙は無事恵のもとに届けられ数日を経て返事が返ってきた。その事実だけでも身に余る幸運なのに、これ以上の幸福など夢見ていいのだろうか。夢見ることが許されるのだろうか。
「………よし」
小さく呟き、何度目かで封に手をかける。一息に封を破こうとした指が怖気づき、やはり不可能だと思い知らされる結果になる。馬鹿な。なにが不可能なんだ、まだ封を破いてもないくせに。これじゃ中の手紙に目を通すまで何時間何日かかるかわからない。
しっかりしろ、お前は天才だろう鍵屋崎直。恐れるものなどなにもない、怖がる必要などどこにもない。優れた知力を持ってすれば世に克服できないことなどないはずだ―
扉が開いた。
「……鍵屋崎?」
「!」
突然呼びかけられ、動揺の余り手紙を取り落としそうになり慌てる。床に落ちかけた手を寸前ですくいあげて長々と安堵の息を吐く。ベッドから腰を浮かした僕をうろんげに眺めているのはたった今房に帰ってきたサムライだ。
……気まずい。
「……ノックくらいしろ。デリカシーがない人間は最低だ、ここは君一人の居住空間じゃないんだぞ。最低限プライバシーには配慮してもらいたいな」
醜態を晒したことが気恥ずかしく、気忙しく眼鏡のブリッジを押し上げてごまかせば大股に床を横切ったサムライにあきれたように指摘される。
「鍵がかかってないのにプライバシーもなにもないだろう」
……忘れていた。注意され、初めて鍵をかけ忘れていたことに気付く。施錠が習慣化して久しいはずなのに今日の僕は本当にどうかしている。不用心にも鍵をかけずにベッドに座りこんでいた僕を眺めるサムライの目にも気のせいか不審の色がある。
「どうかしたのか?」
「……どうもしてないが」
「相変わらずお前の嘘はわかりやすい」
失笑されてムッとする。この頃サムライは僕と二人で居る時だけごくたまに笑顔を見せるようになったが、こんな風に失笑することはないだろう。僕のことを何でも見通されてるようで心が落ち着かなくなる。
心許なく目を伏せれば自然と手の中の手紙に目が吸い寄せられる。僕の視線につられて手の中を覗きこんだサムライが怪訝そうに眉をひそめる。
「その手紙は?」
何と言おうか一呼吸迷い、結局真実を口にする。
「五十嵐に渡された。その、恵の、妹からだそうだ」
たどたどしくつまずきながら告げればサムライの顔にかすかな驚きが浮かぶ。驚きの波紋はすぐに沈静化し、変わってサムライの顔に浮かんだのは若々しい笑顔。
「そうか。よかったな」
失笑でもなければ冷笑でもない、あたたかな感情が流れこんでくるような誠実な微笑み。気のせいか頬が熱くなり、サムライの顔をずっと見ていられなくなる。
また沈黙が落ちた。
「……読まないのか?」
「今から読もうと思っていたところだ」
即座に言い返すが、封筒にかけた手はそのまま硬直してしまい指も動かない。サムライの視線を過剰の意識しつつ瞠目、深呼吸。心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、口の中が異常に乾く。
手紙を右手に握り締めたまま腰を上げ、憤然とした大股で扉に向かう。物問いたげな眼差しで背中を見送るサムライの方は見ず、早口に言う。
「分厚いコンクリートで密閉されてるせいかここは空気が悪い。新鮮な酸素を吸ってくる」
ノブを回し廊下に出る。乱暴に鉄扉を閉じ、背中に注がれる視線を遮る。そのまま数歩歩む、と見せかけて壁に凭れかかって廊下にしゃがみこむ。
なにをやってるんだ僕は?
廊下の端で力尽きたように屈みこんだ僕へと注がれるのは通行人の好奇の眼差し。見世物じゃないぞ、くそ。そう抗議したいのは山々だがいちいち通行人にかまってる精神的余裕がない。とりあえず廊下にでて頭を冷やそうと適当に理由をこじつけて出てきたのはいいが時間稼ぎにも限界がある。冷たい壁に背中を預け、俯く。
『おにいちゃん』
『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』
―『おにいちゃんが死ねばよかったのに』―
「……許してくれるのか?」
僕は許されるのか?
数日前、鏡の中に見た恵の幻影が脳裏を過ぎる。あれは僕の自己嫌悪の産物で現実には存在しない虚像で、でも一面では真理を言い当てていて。僕は恵を守る為に両親を殺害したが、結局それはただの自己満足に過ぎなかったんじゃないか?恵の為恵の為と口では言い訳しつつ、心の底では自分の存在意義を失うの怖さに凶行に及んだんじゃないか?
恵を守ることでしか僕は自分の存在意義を実感できない。
「天才」という付加価値以外の存在意義がないなら、鍵屋崎直という固有名詞を持つ人間はこの世に必要ないんじゃないかという疑問がいまだに心から拭い去れないのだ。
手の中の手紙を見下ろし、壁に凭れかかるようにして立ちあがる。
一時的に廊下に逃避してきたはいいが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。逃げるのは可能でも逃げ続けるのは不可能だ。扉を開け、房に戻る。サムライを無視して床を横切って自分のベッドに腰掛ける。
あれほど待ち望んでいた恵からの手紙だが、いざ手にしてみると喜びよりも恐怖が勝っている。
恵はまだ手紙の中で僕を「おにいちゃん」と呼んでくれているのか?わからない。僕のことを許してくれたのか?わからない。封を破き、この目で確かめるのが怖い。東京プリズンでの過酷な日々の中唯一心の支えとなっていた恵の思い出を壊したくなくて、この世にただ一人の妹に拒絶されたら生きる気力さえ失ってしまうんじゃないかと危惧して今まで逃げ続けてきた恵の本音と向き合うのが怖いのだ。
「大丈夫だ」
励ましの声に顔を上げる。
対岸のベッドに腰掛けたサムライが僕の葛藤さえ包みこむような深い眼差しを注いでいた。
「お前は強い。大丈夫だ」
「無責任なことを言うな、大丈夫じゃないかもしれないだろう」
声が震えた。情けない、サムライの前でこんな醜態を晒して。指の間接が白く強張るほど手紙を握り締めて下を向けば、裸電球もつけない夕闇の房に力強く優しい声が響く。
「お前が大丈夫じゃなくなったその時は俺がいる。だから大丈夫だ」
指の震えが止まる。
「大丈夫だ」なんて何の根拠もない繰り言にあっけなく説得されてしまうなんてどうかしてる、本当にどうかしてる……否、どうかしていてもかまわない。サムライの声を聞いて励まされて、少しだけ心が軽くなったのは事実なのだから。
不覚にも安心してしまったのは事実なのだから。
そして、封を破く。心臓が壊れそうに高鳴り、喉が詰まりそうに息苦しくなる。一息に封を破き、逆さにして便箋を取り出す。逆さにした封筒からすべりおちてきた便箋を手にとり、広げる。
長い長い時間が経過した。
重苦しい沈黙が落ちた房の中に夕闇が押し寄せる。物量的な圧迫さえ感じさせる夕闇に呑まれて正面にいるはずのサムライの顔が見えなくなる。
「……何が書かれてたんだ?」
暗闇に沈んで表情がわからないサムライが、様子がおかしい僕を気遣って不器用に声をかけてくる。
便箋を手に持ったまま、僕は何も返す言葉がなく放心していた。
そこに書かれていたのが、良い意味でも悪い意味でも僕の予想を裏切る思いがけない内容だったから。
今僕の手の中には一通の手紙がある。何の変哲もない白い無地の封筒で厚みはないが、こうして手に持って指を触れているとさまざまな感情がこみあげてくる。
まだ夢を見てるようだ。
一体何度信じられないと繰り返して自分の正気を疑っただろう、現実逃避の延長の妄想の産物ではないかと訝しんで自己を戒めて手紙の存在を否定しにかかったことだろう。でも何度否定しても手の中には依然として手紙があり幻覚のように消え失せたりはしない。
この手紙を受け取った時からずっと胸の動悸がおさまらない。鼓膜に響くのは心臓の鼓動と唾を嚥下する音だけ、思考停止状態に陥った頭に浮上するのは懐かしい思い出。まだ僕が「お兄ちゃん」と呼ばれていた頃の、「お兄ちゃん」と呼ばれる資格を有していた頃の記憶。恵に懐かれることが嬉しくて恵に慕われることが誇りで、それだけが僕の、鍵屋崎直に付随する「天才」以外の価値だと信じて疑わなかった頃の些末な記憶の断片。今でも鮮明に思い出せる恵の笑顔に被さるのは五十嵐の優しげな声。
『お前宛だ』
そう言って五十嵐に手渡されたのは一通の手紙。おもわず手を出して受け取ってから、僕宛に手紙がきたという事実に驚愕して立ち竦む。驚きのあまり言葉を失った僕を見て五十嵐は微笑ましげに続けた。
『この前書いた手紙の返事だ。ちゃんと妹に届いたんだよ、よかったな』
そうだ、確かに僕は数日前恵に手紙を書いて五十嵐に投函を頼んだ。僕から手紙を預かった五十嵐は「任せておけ」と「責任もって届けるから安心しろ」と力強く請け負ってくれた。五十嵐は言葉通りちゃんと義務を果たしてくれた、責任をまっとうしてくれた。放心状態から容易に立ち返ることができず、二階からは死角になった書架の影で手紙を握り締めたまま凝固してる僕を何と思ったか、五十嵐は頬を掻きながら言った。
『……悪かったな』
『?』
後ろめたげな謝罪に反応して緩やかに顔を上げる。巨大な書架に凭れた五十嵐が、僕の視線に糾弾されるのを恐れたか敢えて目を伏せて吶々と呟く。
『こないだ住所を渡しに言った時、邪険に閉め出されて「なんだよ」って腹立てちまって……後から知ったんだ、お前が売春班勤務になったって。あの時はちっとも知らなくて、お前の気持ちも知らずに悪いことしちまった。罪滅ぼしっちゃなんだけど一日も早くこれ届けたくてな、ほんとは視聴覚ホールで皆と一緒に渡さなきゃいけねえから内緒だぜ』
すまなそうに伏し目がちで語る五十嵐を見上げ、手の中の手紙を見下ろす。メモは既に破り捨てて存在しないが恵が入院してる病院の住所は完璧に暗記してる。手紙を書くのに何の問題も発生しなかった。便箋は以前レイジから貰った残りを使用したし、鉛筆でも読みやすいよう字は大きく丁寧に書くよう心がけたつもりだ。恵はまだ11歳だから出来るだけ難しい漢字はひらがなに直し、平易で簡潔な文面になるよう工夫した。
届くだけで十分だったのだ。五十嵐に手紙を渡した時点で僕は大いに満足していたのだ。
この上返事を期待するのは虫がよすぎると自戒していた。僕は恵の実の両親を殺害し、恵から家族を奪った張本人なのだから殺したいほど憎まれこそすれ一方的な手紙に返事などくるわけがないと、両親を殺害して刑務所に服役中の兄から手紙がきたところで迷惑でしかないと、せっかく出した手紙も封を破かれることなく目を通されることなく破棄されても仕方ないと諦観していたのだ。
でも現実に、返事が届いたのだ。
この半年間僕が心から待ち望んでいた手紙が、何より大事な妹からの手紙が。
心の底ではだれよりなにより見捨てられることを恐れていた最愛の家族からの手紙が。
『よかったな』
五十嵐の声が鼓膜に染みた。
図書室からの帰り道のことは殆ど覚えていない。
不条理な夢の中を漂っているように現実感が抜け落ちて頭が朦朧として思考が正常に働かなかった。自分の足が足じゃないような、自分の手が手じゃないような奇妙な浮遊感が付いて回ってちゃんと床を踏んで歩いてる気がしなかった。途中何人かの看守か囚人とすれ違った気がするがよく覚えてない。図書室を出る時、ロンがやけに嬉しそうな顔をしていたのが印象に残った。自分のことでもないのに何故ああも単純に喜べるのか理解できない。ふらふらしながら房に帰り着き、片方のベッドに腰掛けたところまでは記憶にある。
それからしばらくぼんやりと虚空を見つめていた。
しばらく、と言っても実際には数時間は経過していたのだろう。我に返ったのは強制労働を終えた囚人が廊下にごったがえしはじめた頃だ。ショック冷めやらぬ放心状態がどれ位続いたのか正確な時間はわからないが、いつまでこうしてても埒が明かない。夕食が始まる前に封を開けて中身を改めようと深呼吸する。
無理だった。
どうしても出来なかった。
くりかえし深呼吸して心を落ち着けようとしたのに、いざとなると指が震えてどうしても封が破けなかった。どうしたんだ一体、しっかりしろ鍵屋崎直。天才のくせに情けないぞ。そう自分を叱咤し、何度目を閉じて暗示をかけたことだろう。大丈夫だ、何も恐れることはない。僕は今日までさまざまなことを体験して多少は打たれ強くなったんだから、もう何が起きても傷つかないほどに心が麻痺してしまったんだから仮に手紙にどんなことが書いてあっても、どんなに厳しい糾弾の言葉や激しい断罪の言葉が連ねられていても逃げずに正視できるはずだ、受け止めきれるはずだ。
恵に拒絶されるのは怖い。でも、読みたい。
僕には恵の思いを、哀しみと孤独を受けとめる義務がある。今ここで逃げるのは許されない。たとえ手紙に何が書いてあったとしても冒頭から文末まで全部目を通して恵の気持ちを真摯に受け止めなければ兄失格だ。いや、この期に及んで一抹の期待に縋っていたのも否定できない。もしかしてひょっとしたら、恵は僕のことを許してくれたんじゃないか?許してくれたからこうして返事をくれたんじゃないか?まさか。僕は戸籍上の両親を殺して最愛の妹を精神病院送りにした人間だぞ、そんな人間が世間からはおろか遺族から許されるわけがないじゃないか。どこまで図々しいんだ僕は、ありもしない幻想に性懲りなく縋ってる現状には吐き気さえおぼえる。
でもこうして返事をくれたということは、少なくとも恵は僕からの手紙を無視しなかったということで。
ちゃんと読んでくれたということで。
『お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ』
『手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない』
いつだったかサムライは言った。願えば叶うと、信じれば報われると。
僕はサムライを信じていいのか?サムライの言葉を額面通りにとって希望を持っていいのだろうか?
僕が五十嵐に託した手紙は無事恵のもとに届けられ数日を経て返事が返ってきた。その事実だけでも身に余る幸運なのに、これ以上の幸福など夢見ていいのだろうか。夢見ることが許されるのだろうか。
「………よし」
小さく呟き、何度目かで封に手をかける。一息に封を破こうとした指が怖気づき、やはり不可能だと思い知らされる結果になる。馬鹿な。なにが不可能なんだ、まだ封を破いてもないくせに。これじゃ中の手紙に目を通すまで何時間何日かかるかわからない。
しっかりしろ、お前は天才だろう鍵屋崎直。恐れるものなどなにもない、怖がる必要などどこにもない。優れた知力を持ってすれば世に克服できないことなどないはずだ―
扉が開いた。
「……鍵屋崎?」
「!」
突然呼びかけられ、動揺の余り手紙を取り落としそうになり慌てる。床に落ちかけた手を寸前ですくいあげて長々と安堵の息を吐く。ベッドから腰を浮かした僕をうろんげに眺めているのはたった今房に帰ってきたサムライだ。
……気まずい。
「……ノックくらいしろ。デリカシーがない人間は最低だ、ここは君一人の居住空間じゃないんだぞ。最低限プライバシーには配慮してもらいたいな」
醜態を晒したことが気恥ずかしく、気忙しく眼鏡のブリッジを押し上げてごまかせば大股に床を横切ったサムライにあきれたように指摘される。
「鍵がかかってないのにプライバシーもなにもないだろう」
……忘れていた。注意され、初めて鍵をかけ忘れていたことに気付く。施錠が習慣化して久しいはずなのに今日の僕は本当にどうかしている。不用心にも鍵をかけずにベッドに座りこんでいた僕を眺めるサムライの目にも気のせいか不審の色がある。
「どうかしたのか?」
「……どうもしてないが」
「相変わらずお前の嘘はわかりやすい」
失笑されてムッとする。この頃サムライは僕と二人で居る時だけごくたまに笑顔を見せるようになったが、こんな風に失笑することはないだろう。僕のことを何でも見通されてるようで心が落ち着かなくなる。
心許なく目を伏せれば自然と手の中の手紙に目が吸い寄せられる。僕の視線につられて手の中を覗きこんだサムライが怪訝そうに眉をひそめる。
「その手紙は?」
何と言おうか一呼吸迷い、結局真実を口にする。
「五十嵐に渡された。その、恵の、妹からだそうだ」
たどたどしくつまずきながら告げればサムライの顔にかすかな驚きが浮かぶ。驚きの波紋はすぐに沈静化し、変わってサムライの顔に浮かんだのは若々しい笑顔。
「そうか。よかったな」
失笑でもなければ冷笑でもない、あたたかな感情が流れこんでくるような誠実な微笑み。気のせいか頬が熱くなり、サムライの顔をずっと見ていられなくなる。
また沈黙が落ちた。
「……読まないのか?」
「今から読もうと思っていたところだ」
即座に言い返すが、封筒にかけた手はそのまま硬直してしまい指も動かない。サムライの視線を過剰の意識しつつ瞠目、深呼吸。心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、口の中が異常に乾く。
手紙を右手に握り締めたまま腰を上げ、憤然とした大股で扉に向かう。物問いたげな眼差しで背中を見送るサムライの方は見ず、早口に言う。
「分厚いコンクリートで密閉されてるせいかここは空気が悪い。新鮮な酸素を吸ってくる」
ノブを回し廊下に出る。乱暴に鉄扉を閉じ、背中に注がれる視線を遮る。そのまま数歩歩む、と見せかけて壁に凭れかかって廊下にしゃがみこむ。
なにをやってるんだ僕は?
廊下の端で力尽きたように屈みこんだ僕へと注がれるのは通行人の好奇の眼差し。見世物じゃないぞ、くそ。そう抗議したいのは山々だがいちいち通行人にかまってる精神的余裕がない。とりあえず廊下にでて頭を冷やそうと適当に理由をこじつけて出てきたのはいいが時間稼ぎにも限界がある。冷たい壁に背中を預け、俯く。
『おにいちゃん』
『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』
―『おにいちゃんが死ねばよかったのに』―
「……許してくれるのか?」
僕は許されるのか?
数日前、鏡の中に見た恵の幻影が脳裏を過ぎる。あれは僕の自己嫌悪の産物で現実には存在しない虚像で、でも一面では真理を言い当てていて。僕は恵を守る為に両親を殺害したが、結局それはただの自己満足に過ぎなかったんじゃないか?恵の為恵の為と口では言い訳しつつ、心の底では自分の存在意義を失うの怖さに凶行に及んだんじゃないか?
恵を守ることでしか僕は自分の存在意義を実感できない。
「天才」という付加価値以外の存在意義がないなら、鍵屋崎直という固有名詞を持つ人間はこの世に必要ないんじゃないかという疑問がいまだに心から拭い去れないのだ。
手の中の手紙を見下ろし、壁に凭れかかるようにして立ちあがる。
一時的に廊下に逃避してきたはいいが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。逃げるのは可能でも逃げ続けるのは不可能だ。扉を開け、房に戻る。サムライを無視して床を横切って自分のベッドに腰掛ける。
あれほど待ち望んでいた恵からの手紙だが、いざ手にしてみると喜びよりも恐怖が勝っている。
恵はまだ手紙の中で僕を「おにいちゃん」と呼んでくれているのか?わからない。僕のことを許してくれたのか?わからない。封を破き、この目で確かめるのが怖い。東京プリズンでの過酷な日々の中唯一心の支えとなっていた恵の思い出を壊したくなくて、この世にただ一人の妹に拒絶されたら生きる気力さえ失ってしまうんじゃないかと危惧して今まで逃げ続けてきた恵の本音と向き合うのが怖いのだ。
「大丈夫だ」
励ましの声に顔を上げる。
対岸のベッドに腰掛けたサムライが僕の葛藤さえ包みこむような深い眼差しを注いでいた。
「お前は強い。大丈夫だ」
「無責任なことを言うな、大丈夫じゃないかもしれないだろう」
声が震えた。情けない、サムライの前でこんな醜態を晒して。指の間接が白く強張るほど手紙を握り締めて下を向けば、裸電球もつけない夕闇の房に力強く優しい声が響く。
「お前が大丈夫じゃなくなったその時は俺がいる。だから大丈夫だ」
指の震えが止まる。
「大丈夫だ」なんて何の根拠もない繰り言にあっけなく説得されてしまうなんてどうかしてる、本当にどうかしてる……否、どうかしていてもかまわない。サムライの声を聞いて励まされて、少しだけ心が軽くなったのは事実なのだから。
不覚にも安心してしまったのは事実なのだから。
そして、封を破く。心臓が壊れそうに高鳴り、喉が詰まりそうに息苦しくなる。一息に封を破き、逆さにして便箋を取り出す。逆さにした封筒からすべりおちてきた便箋を手にとり、広げる。
長い長い時間が経過した。
重苦しい沈黙が落ちた房の中に夕闇が押し寄せる。物量的な圧迫さえ感じさせる夕闇に呑まれて正面にいるはずのサムライの顔が見えなくなる。
「……何が書かれてたんだ?」
暗闇に沈んで表情がわからないサムライが、様子がおかしい僕を気遣って不器用に声をかけてくる。
便箋を手に持ったまま、僕は何も返す言葉がなく放心していた。
そこに書かれていたのが、良い意味でも悪い意味でも僕の予想を裏切る思いがけない内容だったから。
十六話
(2005/12/30) 『はじめまして。
恵さんを担当する十文字大学病院小児精神科病棟の医師・斉藤です。
まずはじめに謝罪します。
恵さんからの手紙だと思って過分な期待をさせてしまったらごめんなさい。
君の手紙は先日こちらに到着しましたが、現在治療過程の恵さんは精神的に不安定な状態にあるのを考慮し「今手紙を見せるのはよくない」との結論に至りました。
君からの手紙は恵さんがある程度落ち着いてから見せるつもりです。
君にとっては唯一の妹にあてた手紙でもあり、他人に読まれることなど想定してなかったでしょうね。
それを考えるととても心苦しいです。
付け加え、血のつながりもない赤の他人である我々が勝手に見せる見せないを判断したことを謝罪します。
プライバシーを侵害する行いですが、患者の安全と健康を最優先する病院としての建前、また患者の精神の安定を第一に考える医師としての立場上やむをえない処置だとお考えください。
恵さんの入院から数ヶ月を経た今、君から手紙が届いたことに驚きました。
半年前の事件で君は両親を殺害し、その罪を裁かれて東京少年刑務所に送致されたと聞いています。
君が両親を殺害する場面を目撃した恵さんはそのショックで重度のPТSDに陥り一旦は伯母さん夫婦に引き取られましたが、一般家庭ではケアにも限度があり適切な処置もできないという判断から、設備の整った仙台の小児精神科に長期入院することになりました。
君に相談せず恵さんの処遇を決めた伯母さん夫婦を恨まないでください。
入院前、恵さんの様態を知るため叔母さん夫婦と何回か面談しましたが、彼らは恵さんを手放すことについて深刻に悩んでいました。
できることなら最後まで恵さんの面倒を見たい、この年になるまで子供に恵まれなかった自分たちだからこそ恵さんを我が子として育てたいというその熱意は本物でした。
ただ当時の恵さんの状態では一般家庭で日常生活を送るのが極めて難しいと判断せざるをえず、度重なる話し合いの末に彼らは恵さんを我が病院に預ける決断を下したのです。
最後の話し合いの場で、君の伯母さんは嗚咽を堪えながらこう言いました。
『直くんが帰ってくるまで、私たちが責任もって恵ちゃんを守らなければいけなかったのに』。
叔母さん夫婦が心配してたのは恵さんだけではない。
いや、ひょっとしたら恵さん以上に君の事を気にかけていたのかもしれない。
叔母さん夫婦は君のことを心から憂い、君が懲役を終えて出てくる日を待ち望んでいました。
たとえそれが八十年先で自分たちが確実に生きてなくても、君が長い長い懲役を出てくるその日の為に帰る場所を残しておいてあげようと、君が罪を償い社会復帰した日のために恵さんと暮らせる環境を整えておいてあげようと尽力していたのです。
彼らのことを恨まないでください。
彼らはとても善良な人間です。
恵さんを預けて病院を去るとき、伯母さん夫婦は『君に手紙を書けない』と泣いていました。
自分たち夫婦が直くんの信頼を裏切り恵さんを見捨てた事実を知らせる勇気がないと、自分たちはどうしようもない臆病者だと、見送りにでた医師と看護士の前で泣き崩れました。
こんな形で恵さんを放任した自分達夫婦を、妹想いの君は絶対に許してくれないだろうと。
『直くんに申し訳ない』と彼らは何度も何度も言いました。
叔母さん夫婦は決して恵さんを見捨てたわけじゃない。
決して君たち兄妹を見捨てたわけじゃない。
彼等は君のことを大切な甥として、鍵屋崎直というひとりの人間として愛しているのですから。
そのことだけはどうか心に留めておいてあげてください。
……少々脱線してしまいましたね。話を戻します。
現在恵さんは精神的に不安定な状態にありますが、この半年間で大分回復し、最低限の日常生活なら支障なく営めるようになりました。
病院にきた最初の頃は本当に手をつけられない状態でした。
食事を受けつけない。
点滴で栄養分を注入しようとすれば自分でチューブを抜き、奇声を発して暴れる。
夢遊病による深夜の徘徊。
極度の対人恐怖症。
鬱。
初期は深爪するまで爪を噛む自傷傾向も見られましたが、入院数ヶ月が経過した現在では大分症状が落ち着き、指の爪を執拗に噛んで不安をごまかす自傷癖もなくなりました。
看護婦と担当医の私にはおずおずと心を開き、親の愛情に飢えた十一歳の少女らしく無邪気に甘えてくるようにもなりました。
ただ、まだ事件のショックが癒えてないせいか家族のことに触れられるのを避けている節があります。
君が東京少年刑務所に送致されたことは伯母さん夫婦から告げられたはずですが、それに対しどんな感情を持っているかは現在の恵さんの様子からは窺い知れません。
恵さんを刺激するのをおそれ、私たち医師も出来るだけその事には触れないようにしてます。
恵さんは普段絵を描いて過ごしています。
恵さんは動物を好んで描きます。
もともと動物が好きなのでしょう、ずっと犬を飼いたかったのだと話してくれました。
『でも、お父さんとお母さんが動物嫌いで、飼っちゃいけませんて』とも。
彼女の口から家族の話がでたのは初めてでした。
直くん。
君は取り調べでも裁判でも、動機については一貫して黙秘を通したと聞きました。両親を殺害した動機については今でも不明のまま裁判が進行し、陪審員および裁判官の質問をまともに取り合わなかったせいで心証を悪くし、情状酌量の余地なく懲役を課されたとも。
あくまで噂です。
どこまで本当かはわかりません。
ただ僕は君に対して、一抹の共感をおぼえているのです。
故人を悪くいうのは不謹慎ですが、鍵屋崎夫妻は学者としては間違いなく一流の人物でしたが、人の子の親としては眉をひそめざるをえない言動が目立ちました。
僕は専門分野が違うので直接の面識や交流はありませんが、遺伝子工学の世界的権威である鍵屋崎夫妻はメディアへの露出が多く、4・5年前まで長男の君も交えてよくマスコミから取材を受けてましたよね。
当時読んだ新聞に君たち家族の写真と記事が掲載されていました。
遺伝子工学の世界的権威。
最高学府の最年少名誉教授。
日本で最も有名な学者夫婦。
それら華々しい見出しの下に掲載された家族の写真に写っていたのは、眼鏡をかけた無表情な男の子を挟んだ中年夫婦でした。
一瞥『ああ、三人家族なんだな』と思いました。
『似てない親子だな』とも。
共通点は表情に乏しいことくらいでしょうか?
その時僕は何の疑問もなく、鍵屋崎夫妻の子供は長男の君ひとりだと思いこんでしまいました。
何故ならその写真には長女の恵さんが省かれていたから。
当時恵さんは五歳くらいでしょうか。
何故彼女ひとりだけ写真から除かれいないものとして扱われていたのか、正しい家族構成を知った現在では違和感をおぼえます。でもその時、鍵屋崎夫妻を取材した記事を読んで最も印象に残ったのは次の一文でした。
『息子さんには将来どんな大人になってほしいですか』
『私たちの研究成果を受け継ぐ優秀な人材になってほしい』
人間、ではなく人材でした。
読み間違いじゃないかとその時は何度も読み返してしまいました。
読み違いじゃありませんでした。
誤植でもない。
鍵屋崎優氏は確かにそうインタビューに応じたのでしょう。
ささやかなニュアンスの違いが後々重大な意味をもつことがあります。
もし鍵屋崎氏がインタビューに本音で答えたのだとしたら、その発言はあまりにも無神経で軽率ではないでしょうか。
私は生前の鍵屋崎夫妻と面識がありませんし、君たち兄妹がどういう家庭環境で育ったのかも伯母さん夫婦の話から想像するしかありません。
ただあの記事を読んだ限りでは、鍵屋崎夫妻が自分の子供達に人並の愛情を注いでるようにはどうしても思えませんでした。
写真からは幼い長女を除外し、長男に対しては「人間」ではなく「人材」としての有用性を求め。
両親を殺害した君が正しいと言いたいわけではありません。
ですが十五年間自分を育てた両親を殺害したからには必ず動機があるはずだと、肝心の動機も斟酌せずに罪を裁くのは早計ではないかと疑問は残ります。
取り調べと裁判に際し君が完全黙秘を通したのも余人には計り知れない複雑な事情があるのでしょう。
たとえどんな理由でも殺人は許されないとはいえ、まだたった十五歳の少年が懲役八十年という重すぎる刑罰を受け、劣悪な環境下の刑務所に送られたのは理不尽としか言いようがありません。
少なくとも私は、君に下された判決は間違っていると思う。
絶対に。
……「恵さんのために一日も早く罪を償って出てきてください」なんて言えない。
君の懲役が明けるのは遥か先の未来でその頃には恵さんは既に生きてないかもしれない。
いや、肝心の君が懲役満了を待たずに死亡してるかもしれない。
東京少年刑務所の悪評は遠く仙台にも届いています。
どこまで本当かはわかりません。
ただ、東京少年刑務所を生きて出られる人間が全体の三割にも満たないという統計データを信用するなら君が今いるそこは生き残るにも命がけな極東の強制収容所なのでしょう。
私はただ祈ることしかできません。
君が無事に出てきてくれることを。
生きて再び恵さんと会える日がくることを。
ご両親亡き今たったふたりきりの兄妹なのですから、きっとやり直せるはずです。
関係を修復し絆を取り戻せるはずです。
私はただの精神科医に過ぎませんが、一日でも早く君と恵さんが再会できる日がくることを願ってやみません。
では、長々と書いてしまいましたがこの辺で。
もしよければまた手紙をくださると嬉しいです。
恵さんのお兄さんについて、担当医として知っておきたいことが山ほどあります。恵さんの近況を知りたいときは遠慮なく言ってください、できるだけ詳細に記述して送ります。
追伸
君の手紙を読んでびっくりしました。今の子も手塚治虫の漫画なんて読むんですね。
ブラックジャックは小学生の頃よく読んでいました。今でも大好きです。
確かまだ実家に手塚治虫全集が残っていたと思います。今度恵さんに貸して感想を聞いみますね。
女の子に貸すにはやっぱり『リボンの騎士』がいいでしょうか?
恵さんはいつも夢中で絵を描いてるのでひょっとしたら漫画の才能があるかもしれません。
先日恵さんが描いた絵を同封します。ご参照いただければ幸いです』
以上が手紙の内容だった。
恵からの手紙じゃなかったことに安堵し、また落胆する。手紙を裏返して封筒の裏面を見れば、差出人の氏名がないかわりに恵の病院の住所が記入されていた。五十嵐に「お前宛だ」と他の囚人より早めに手渡され、てっきり恵からきたものだと思いこんでしまったのだ。突然の事態でいくら動転してたとはいえ注意力が欠落してるにもほどがある。
黄昏に暮れる房の中、恵の担当医を名乗る人物から届いた手紙を複雑な面持ちで見下ろす。
いつのまにかベッドを立ちこちらへとやってきたサムライが、放心状態の僕の手の中を覗きこんで文面を読む。文末にさしかかり、その眉間に不審の皺が刻まれる。
「ブラックジャックとはなんだ?」
「恵への手紙に書いたんだ。最近読んだ本のことを」
恵への手紙に何を書けばいいのかわからなくて、暴力と薬物に汚染された東京プリズンの日常を事細かに描写するわけにもいかなくて、悩んだ末に手紙に記したのはブラックジャックの感想だった。まだ11歳の恵に資本論の感想を送るのは酷でも無理でも漫画の楽しさなら共有できるんじゃないかと一縷の希望に縋って、東京プリズンで出会った手塚治虫の漫画を手紙の中で語彙を費やして絶賛したのだが……
恵以外の人間の共感を招くなんて、予想外の結果だ。
そこまで考え便箋をめくる。便箋の一番下に折り重ねられていたのは三枚の紙。これが恵が描いたという絵だろう。一枚目に描かれているのは猫とおぼしき三角耳としっぽの生えた生き物だ。クレヨンで茶色く塗られた毛並みを眺めてると、正面に立ったサムライが声をかけてくる。
「……残念だったな、妹からじゃなくて」
「気にしてない」
そうだ、気にしてない。もとから返事がかえってくるなんて期待してなかったのだから傷つくわけない。
「それよりこれを見ろ、斬新なアートだと思わないか。恵には絵画の才能があるな、市販のクレヨンを使用しても塗り方に独特の前衛的センスを感じる。僕の妹はミュシャの再来かもしれない。いや待てよ、この淡く滲んだ色彩と余韻を残すぼかし方はクロード・モネの影響か……」
一枚目をめくりながら強いて笑みを作る。二枚目の紙に描かれていたのは色とりどりのチューリップだ。隅々まで丁寧に色を塗られたチューリップは女の子らしい繊細さと細心さを感じさせる微笑ましい出来だ。
なのにサムライは、何故こんな痛ましい眼差しで僕を見つめてるんだろう。
これじゃまるで、僕が哀れまれてるみたいじゃないか。
「僕の顔じゃなくて絵を見ろ。ほら凄いだろう、この光の当たり加減。太陽を赤やオレンジじゃなく黄色で塗るのが恵の凄いところだ。これはゴッホの影響だな。いかに無教養な君でもゴッホの名前と代表作『ひまわり』くらいは知ってるだろう、なに知らない?なら説明してやる、一度しか言わないからよく聞けよ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、強烈な色彩と激情的な筆致でそれまでの表現の流れを変えフォーヴィズムに影響を与えた後期印象派の画家でその生涯を貧困、精神的な病気の苦痛などに苛まれ……」
自然と焦りをおぼえて口調が言い訳がましくなる。やめろ、そんな目で見るな、同情されるのはこりごりだ。そんな目で見られるとますますみじめになる、何の関係もないサムライにまで声を荒げて手を上げて八当たりしてしまいそうじゃないか。
こめかみを疼かせる苛立ちを抑圧しながら次をめくる。
そして、硬直した。
三枚目は二人の男女に挟まれた女の子が笑っている絵だ。
女の子を挟んだ男女の顔に既視感を刺激される。
やけに見覚えのある顔だ。顎が尖り気味の細面の女性と教養深い目をした男性……鍵屋崎由佳利と優だ。そして、二人と手をつないで微笑んでいるのはおさげが特徴的でつぶらな瞳が愛らしい女の子。
すぐにわかった。恵だ。
見てるうちに自然と笑みがこぼれるような幸せ一杯の家族の肖像で、僕の前ではおろか恵の前ですら滅多に笑顔を見せることがなかった鍵屋崎優と由佳利が、理想の両親像が投影された絵の中では優しげに微笑んでいたる。
両親と手をつないだ恵もこの上なく幸せそうで、
幸せそうで。
絵の中のどこにも、僕はいなかった。
「…………」
絵の中の三人はしっかり手をつないでいる、家族の完成形に異物が入りこむ隙間などないほどに。絵の中の三人は笑っている、僕がいなくても平然と、僕など最初から存在しなかったように。
恵が描いた絵に僕がいない。
僕だけがいない。
これは家族の絵なのに、鍵屋崎優と由佳利はちゃんと絵の中にいるのに、僕だけが当たり前のように省かれて最初からいないことにされている。この絵のどこにも僕の居場所はない。拒絶という言葉すらそぐわない違和感のなさで存在ごと抹消された僕は、家族の絵に含めてもらえなかった僕は。
恵にとってはもう、いないも同然の人間なのか?
いないほうがいい人間なのか?
「直……」
僕の手元から顔を上げたサムライが気遣わしげな視線を向けてくるのに気付かないふりをし、虚ろな目で家族の肖像を見つめ続ける。僕が含まれてない家族の絵。僕がどこにもいない家族の絵。
これが恵が願った家族の形というなら一体僕は何のために、
何のために、何を守ろうとして両親を殺害したんだ?
「僕の妹は絵が上手いだろう」
要らないのは僕の方だったのに、それにも気付かず両親を殺して恵を一人ぼっちにして。僕は馬鹿だ。自分が本当は必要とされてないことにも気付かずに、妹が本当に必要としていた人間を永遠にこの世から葬り去って、それで妹を守りきったつもりになって自己満足して。
恵にとっては僕こそが家族の和を乱す異分子で、絵の隅にさえ描く価値と意味のない邪魔者で。
ああそうか。
僕は本当は、家族じゃなかったんだ。僕の家族なんて最初からだれもいなかったんだ。
「………ひとりにしてくれ」
絵と便箋を封筒に詰める気力もなくし、ベッドに放り出して頭を抱える。
とにかく今はひとりになりたかった。冷静に考える時間が欲しかった、虚勢と矜持を立て直す時間が欲しかった。崩壊寸前の何かを、いや、既に崩壊してしまった何かをかき集めていつもの、いつもどおりの自分に戻るための執行猶予が欲しかった。この手紙を読む前の自分に、この絵を見る前の自分に戻るためにどれ位時間がかかるかはわからない。それでも今は一人になりたい、これ以上余計なことを言わずに済むように、嫌なことを見聞きしないように―
サムライはいつまでたっても僕の前を去らなかった。
時間を忘れたようにただそこに立ち竦んでいた。夕闇に沈む房の中、黙りこんだ僕の鼓膜に染みたのは低い声。
「……気が休まるまで俺のことは忘れてくれてかまわない。でも、今のお前をひとりにはできない」
ベッドに放置してあった封筒に便箋と絵を詰め直し、そっと枕元に置いて立ち去る。自分のベッドに引き返してゆくサムライの背中を見送り、ふたたび頭を抱え込む。少し前までのサムライなら僕が「ひとりにしてくれ」と頼めば何も言わずに出ていったはずだ。でも、今は違う。情緒不安定な僕をひとり残して出て行くのがいやで、対岸のベッドに物言わず腰掛けてこちらを見守っている。
そして僕は、客観的な距離をおいたサムライの視線があったからこそ壊れかけた心を維持するできたと、心の裂け目から染みこんできた絶望に耐えることができたと認めざるをえない。
恵さんを担当する十文字大学病院小児精神科病棟の医師・斉藤です。
まずはじめに謝罪します。
恵さんからの手紙だと思って過分な期待をさせてしまったらごめんなさい。
君の手紙は先日こちらに到着しましたが、現在治療過程の恵さんは精神的に不安定な状態にあるのを考慮し「今手紙を見せるのはよくない」との結論に至りました。
君からの手紙は恵さんがある程度落ち着いてから見せるつもりです。
君にとっては唯一の妹にあてた手紙でもあり、他人に読まれることなど想定してなかったでしょうね。
それを考えるととても心苦しいです。
付け加え、血のつながりもない赤の他人である我々が勝手に見せる見せないを判断したことを謝罪します。
プライバシーを侵害する行いですが、患者の安全と健康を最優先する病院としての建前、また患者の精神の安定を第一に考える医師としての立場上やむをえない処置だとお考えください。
恵さんの入院から数ヶ月を経た今、君から手紙が届いたことに驚きました。
半年前の事件で君は両親を殺害し、その罪を裁かれて東京少年刑務所に送致されたと聞いています。
君が両親を殺害する場面を目撃した恵さんはそのショックで重度のPТSDに陥り一旦は伯母さん夫婦に引き取られましたが、一般家庭ではケアにも限度があり適切な処置もできないという判断から、設備の整った仙台の小児精神科に長期入院することになりました。
君に相談せず恵さんの処遇を決めた伯母さん夫婦を恨まないでください。
入院前、恵さんの様態を知るため叔母さん夫婦と何回か面談しましたが、彼らは恵さんを手放すことについて深刻に悩んでいました。
できることなら最後まで恵さんの面倒を見たい、この年になるまで子供に恵まれなかった自分たちだからこそ恵さんを我が子として育てたいというその熱意は本物でした。
ただ当時の恵さんの状態では一般家庭で日常生活を送るのが極めて難しいと判断せざるをえず、度重なる話し合いの末に彼らは恵さんを我が病院に預ける決断を下したのです。
最後の話し合いの場で、君の伯母さんは嗚咽を堪えながらこう言いました。
『直くんが帰ってくるまで、私たちが責任もって恵ちゃんを守らなければいけなかったのに』。
叔母さん夫婦が心配してたのは恵さんだけではない。
いや、ひょっとしたら恵さん以上に君の事を気にかけていたのかもしれない。
叔母さん夫婦は君のことを心から憂い、君が懲役を終えて出てくる日を待ち望んでいました。
たとえそれが八十年先で自分たちが確実に生きてなくても、君が長い長い懲役を出てくるその日の為に帰る場所を残しておいてあげようと、君が罪を償い社会復帰した日のために恵さんと暮らせる環境を整えておいてあげようと尽力していたのです。
彼らのことを恨まないでください。
彼らはとても善良な人間です。
恵さんを預けて病院を去るとき、伯母さん夫婦は『君に手紙を書けない』と泣いていました。
自分たち夫婦が直くんの信頼を裏切り恵さんを見捨てた事実を知らせる勇気がないと、自分たちはどうしようもない臆病者だと、見送りにでた医師と看護士の前で泣き崩れました。
こんな形で恵さんを放任した自分達夫婦を、妹想いの君は絶対に許してくれないだろうと。
『直くんに申し訳ない』と彼らは何度も何度も言いました。
叔母さん夫婦は決して恵さんを見捨てたわけじゃない。
決して君たち兄妹を見捨てたわけじゃない。
彼等は君のことを大切な甥として、鍵屋崎直というひとりの人間として愛しているのですから。
そのことだけはどうか心に留めておいてあげてください。
……少々脱線してしまいましたね。話を戻します。
現在恵さんは精神的に不安定な状態にありますが、この半年間で大分回復し、最低限の日常生活なら支障なく営めるようになりました。
病院にきた最初の頃は本当に手をつけられない状態でした。
食事を受けつけない。
点滴で栄養分を注入しようとすれば自分でチューブを抜き、奇声を発して暴れる。
夢遊病による深夜の徘徊。
極度の対人恐怖症。
鬱。
初期は深爪するまで爪を噛む自傷傾向も見られましたが、入院数ヶ月が経過した現在では大分症状が落ち着き、指の爪を執拗に噛んで不安をごまかす自傷癖もなくなりました。
看護婦と担当医の私にはおずおずと心を開き、親の愛情に飢えた十一歳の少女らしく無邪気に甘えてくるようにもなりました。
ただ、まだ事件のショックが癒えてないせいか家族のことに触れられるのを避けている節があります。
君が東京少年刑務所に送致されたことは伯母さん夫婦から告げられたはずですが、それに対しどんな感情を持っているかは現在の恵さんの様子からは窺い知れません。
恵さんを刺激するのをおそれ、私たち医師も出来るだけその事には触れないようにしてます。
恵さんは普段絵を描いて過ごしています。
恵さんは動物を好んで描きます。
もともと動物が好きなのでしょう、ずっと犬を飼いたかったのだと話してくれました。
『でも、お父さんとお母さんが動物嫌いで、飼っちゃいけませんて』とも。
彼女の口から家族の話がでたのは初めてでした。
直くん。
君は取り調べでも裁判でも、動機については一貫して黙秘を通したと聞きました。両親を殺害した動機については今でも不明のまま裁判が進行し、陪審員および裁判官の質問をまともに取り合わなかったせいで心証を悪くし、情状酌量の余地なく懲役を課されたとも。
あくまで噂です。
どこまで本当かはわかりません。
ただ僕は君に対して、一抹の共感をおぼえているのです。
故人を悪くいうのは不謹慎ですが、鍵屋崎夫妻は学者としては間違いなく一流の人物でしたが、人の子の親としては眉をひそめざるをえない言動が目立ちました。
僕は専門分野が違うので直接の面識や交流はありませんが、遺伝子工学の世界的権威である鍵屋崎夫妻はメディアへの露出が多く、4・5年前まで長男の君も交えてよくマスコミから取材を受けてましたよね。
当時読んだ新聞に君たち家族の写真と記事が掲載されていました。
遺伝子工学の世界的権威。
最高学府の最年少名誉教授。
日本で最も有名な学者夫婦。
それら華々しい見出しの下に掲載された家族の写真に写っていたのは、眼鏡をかけた無表情な男の子を挟んだ中年夫婦でした。
一瞥『ああ、三人家族なんだな』と思いました。
『似てない親子だな』とも。
共通点は表情に乏しいことくらいでしょうか?
その時僕は何の疑問もなく、鍵屋崎夫妻の子供は長男の君ひとりだと思いこんでしまいました。
何故ならその写真には長女の恵さんが省かれていたから。
当時恵さんは五歳くらいでしょうか。
何故彼女ひとりだけ写真から除かれいないものとして扱われていたのか、正しい家族構成を知った現在では違和感をおぼえます。でもその時、鍵屋崎夫妻を取材した記事を読んで最も印象に残ったのは次の一文でした。
『息子さんには将来どんな大人になってほしいですか』
『私たちの研究成果を受け継ぐ優秀な人材になってほしい』
人間、ではなく人材でした。
読み間違いじゃないかとその時は何度も読み返してしまいました。
読み違いじゃありませんでした。
誤植でもない。
鍵屋崎優氏は確かにそうインタビューに応じたのでしょう。
ささやかなニュアンスの違いが後々重大な意味をもつことがあります。
もし鍵屋崎氏がインタビューに本音で答えたのだとしたら、その発言はあまりにも無神経で軽率ではないでしょうか。
私は生前の鍵屋崎夫妻と面識がありませんし、君たち兄妹がどういう家庭環境で育ったのかも伯母さん夫婦の話から想像するしかありません。
ただあの記事を読んだ限りでは、鍵屋崎夫妻が自分の子供達に人並の愛情を注いでるようにはどうしても思えませんでした。
写真からは幼い長女を除外し、長男に対しては「人間」ではなく「人材」としての有用性を求め。
両親を殺害した君が正しいと言いたいわけではありません。
ですが十五年間自分を育てた両親を殺害したからには必ず動機があるはずだと、肝心の動機も斟酌せずに罪を裁くのは早計ではないかと疑問は残ります。
取り調べと裁判に際し君が完全黙秘を通したのも余人には計り知れない複雑な事情があるのでしょう。
たとえどんな理由でも殺人は許されないとはいえ、まだたった十五歳の少年が懲役八十年という重すぎる刑罰を受け、劣悪な環境下の刑務所に送られたのは理不尽としか言いようがありません。
少なくとも私は、君に下された判決は間違っていると思う。
絶対に。
……「恵さんのために一日も早く罪を償って出てきてください」なんて言えない。
君の懲役が明けるのは遥か先の未来でその頃には恵さんは既に生きてないかもしれない。
いや、肝心の君が懲役満了を待たずに死亡してるかもしれない。
東京少年刑務所の悪評は遠く仙台にも届いています。
どこまで本当かはわかりません。
ただ、東京少年刑務所を生きて出られる人間が全体の三割にも満たないという統計データを信用するなら君が今いるそこは生き残るにも命がけな極東の強制収容所なのでしょう。
私はただ祈ることしかできません。
君が無事に出てきてくれることを。
生きて再び恵さんと会える日がくることを。
ご両親亡き今たったふたりきりの兄妹なのですから、きっとやり直せるはずです。
関係を修復し絆を取り戻せるはずです。
私はただの精神科医に過ぎませんが、一日でも早く君と恵さんが再会できる日がくることを願ってやみません。
では、長々と書いてしまいましたがこの辺で。
もしよければまた手紙をくださると嬉しいです。
恵さんのお兄さんについて、担当医として知っておきたいことが山ほどあります。恵さんの近況を知りたいときは遠慮なく言ってください、できるだけ詳細に記述して送ります。
追伸
君の手紙を読んでびっくりしました。今の子も手塚治虫の漫画なんて読むんですね。
ブラックジャックは小学生の頃よく読んでいました。今でも大好きです。
確かまだ実家に手塚治虫全集が残っていたと思います。今度恵さんに貸して感想を聞いみますね。
女の子に貸すにはやっぱり『リボンの騎士』がいいでしょうか?
恵さんはいつも夢中で絵を描いてるのでひょっとしたら漫画の才能があるかもしれません。
先日恵さんが描いた絵を同封します。ご参照いただければ幸いです』
以上が手紙の内容だった。
恵からの手紙じゃなかったことに安堵し、また落胆する。手紙を裏返して封筒の裏面を見れば、差出人の氏名がないかわりに恵の病院の住所が記入されていた。五十嵐に「お前宛だ」と他の囚人より早めに手渡され、てっきり恵からきたものだと思いこんでしまったのだ。突然の事態でいくら動転してたとはいえ注意力が欠落してるにもほどがある。
黄昏に暮れる房の中、恵の担当医を名乗る人物から届いた手紙を複雑な面持ちで見下ろす。
いつのまにかベッドを立ちこちらへとやってきたサムライが、放心状態の僕の手の中を覗きこんで文面を読む。文末にさしかかり、その眉間に不審の皺が刻まれる。
「ブラックジャックとはなんだ?」
「恵への手紙に書いたんだ。最近読んだ本のことを」
恵への手紙に何を書けばいいのかわからなくて、暴力と薬物に汚染された東京プリズンの日常を事細かに描写するわけにもいかなくて、悩んだ末に手紙に記したのはブラックジャックの感想だった。まだ11歳の恵に資本論の感想を送るのは酷でも無理でも漫画の楽しさなら共有できるんじゃないかと一縷の希望に縋って、東京プリズンで出会った手塚治虫の漫画を手紙の中で語彙を費やして絶賛したのだが……
恵以外の人間の共感を招くなんて、予想外の結果だ。
そこまで考え便箋をめくる。便箋の一番下に折り重ねられていたのは三枚の紙。これが恵が描いたという絵だろう。一枚目に描かれているのは猫とおぼしき三角耳としっぽの生えた生き物だ。クレヨンで茶色く塗られた毛並みを眺めてると、正面に立ったサムライが声をかけてくる。
「……残念だったな、妹からじゃなくて」
「気にしてない」
そうだ、気にしてない。もとから返事がかえってくるなんて期待してなかったのだから傷つくわけない。
「それよりこれを見ろ、斬新なアートだと思わないか。恵には絵画の才能があるな、市販のクレヨンを使用しても塗り方に独特の前衛的センスを感じる。僕の妹はミュシャの再来かもしれない。いや待てよ、この淡く滲んだ色彩と余韻を残すぼかし方はクロード・モネの影響か……」
一枚目をめくりながら強いて笑みを作る。二枚目の紙に描かれていたのは色とりどりのチューリップだ。隅々まで丁寧に色を塗られたチューリップは女の子らしい繊細さと細心さを感じさせる微笑ましい出来だ。
なのにサムライは、何故こんな痛ましい眼差しで僕を見つめてるんだろう。
これじゃまるで、僕が哀れまれてるみたいじゃないか。
「僕の顔じゃなくて絵を見ろ。ほら凄いだろう、この光の当たり加減。太陽を赤やオレンジじゃなく黄色で塗るのが恵の凄いところだ。これはゴッホの影響だな。いかに無教養な君でもゴッホの名前と代表作『ひまわり』くらいは知ってるだろう、なに知らない?なら説明してやる、一度しか言わないからよく聞けよ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、強烈な色彩と激情的な筆致でそれまでの表現の流れを変えフォーヴィズムに影響を与えた後期印象派の画家でその生涯を貧困、精神的な病気の苦痛などに苛まれ……」
自然と焦りをおぼえて口調が言い訳がましくなる。やめろ、そんな目で見るな、同情されるのはこりごりだ。そんな目で見られるとますますみじめになる、何の関係もないサムライにまで声を荒げて手を上げて八当たりしてしまいそうじゃないか。
こめかみを疼かせる苛立ちを抑圧しながら次をめくる。
そして、硬直した。
三枚目は二人の男女に挟まれた女の子が笑っている絵だ。
女の子を挟んだ男女の顔に既視感を刺激される。
やけに見覚えのある顔だ。顎が尖り気味の細面の女性と教養深い目をした男性……鍵屋崎由佳利と優だ。そして、二人と手をつないで微笑んでいるのはおさげが特徴的でつぶらな瞳が愛らしい女の子。
すぐにわかった。恵だ。
見てるうちに自然と笑みがこぼれるような幸せ一杯の家族の肖像で、僕の前ではおろか恵の前ですら滅多に笑顔を見せることがなかった鍵屋崎優と由佳利が、理想の両親像が投影された絵の中では優しげに微笑んでいたる。
両親と手をつないだ恵もこの上なく幸せそうで、
幸せそうで。
絵の中のどこにも、僕はいなかった。
「…………」
絵の中の三人はしっかり手をつないでいる、家族の完成形に異物が入りこむ隙間などないほどに。絵の中の三人は笑っている、僕がいなくても平然と、僕など最初から存在しなかったように。
恵が描いた絵に僕がいない。
僕だけがいない。
これは家族の絵なのに、鍵屋崎優と由佳利はちゃんと絵の中にいるのに、僕だけが当たり前のように省かれて最初からいないことにされている。この絵のどこにも僕の居場所はない。拒絶という言葉すらそぐわない違和感のなさで存在ごと抹消された僕は、家族の絵に含めてもらえなかった僕は。
恵にとってはもう、いないも同然の人間なのか?
いないほうがいい人間なのか?
「直……」
僕の手元から顔を上げたサムライが気遣わしげな視線を向けてくるのに気付かないふりをし、虚ろな目で家族の肖像を見つめ続ける。僕が含まれてない家族の絵。僕がどこにもいない家族の絵。
これが恵が願った家族の形というなら一体僕は何のために、
何のために、何を守ろうとして両親を殺害したんだ?
「僕の妹は絵が上手いだろう」
要らないのは僕の方だったのに、それにも気付かず両親を殺して恵を一人ぼっちにして。僕は馬鹿だ。自分が本当は必要とされてないことにも気付かずに、妹が本当に必要としていた人間を永遠にこの世から葬り去って、それで妹を守りきったつもりになって自己満足して。
恵にとっては僕こそが家族の和を乱す異分子で、絵の隅にさえ描く価値と意味のない邪魔者で。
ああそうか。
僕は本当は、家族じゃなかったんだ。僕の家族なんて最初からだれもいなかったんだ。
「………ひとりにしてくれ」
絵と便箋を封筒に詰める気力もなくし、ベッドに放り出して頭を抱える。
とにかく今はひとりになりたかった。冷静に考える時間が欲しかった、虚勢と矜持を立て直す時間が欲しかった。崩壊寸前の何かを、いや、既に崩壊してしまった何かをかき集めていつもの、いつもどおりの自分に戻るための執行猶予が欲しかった。この手紙を読む前の自分に、この絵を見る前の自分に戻るためにどれ位時間がかかるかはわからない。それでも今は一人になりたい、これ以上余計なことを言わずに済むように、嫌なことを見聞きしないように―
サムライはいつまでたっても僕の前を去らなかった。
時間を忘れたようにただそこに立ち竦んでいた。夕闇に沈む房の中、黙りこんだ僕の鼓膜に染みたのは低い声。
「……気が休まるまで俺のことは忘れてくれてかまわない。でも、今のお前をひとりにはできない」
ベッドに放置してあった封筒に便箋と絵を詰め直し、そっと枕元に置いて立ち去る。自分のベッドに引き返してゆくサムライの背中を見送り、ふたたび頭を抱え込む。少し前までのサムライなら僕が「ひとりにしてくれ」と頼めば何も言わずに出ていったはずだ。でも、今は違う。情緒不安定な僕をひとり残して出て行くのがいやで、対岸のベッドに物言わず腰掛けてこちらを見守っている。
そして僕は、客観的な距離をおいたサムライの視線があったからこそ壊れかけた心を維持するできたと、心の裂け目から染みこんできた絶望に耐えることができたと認めざるをえない。
十七話
(2005/12/29) ひとりになりたい。
なにもかも全部忘れてしまいたい。ここじゃないどこかへ行きたい。ここじゃなければどこでもいい、寝ても覚めても何をしていても付き纏う罪悪感から逃れられるならどこでもいい。
現実逃避。
ひとりになりたい。誰もいないところに行きたい。夢の中、毎晩違う男に犯される悪夢を追体験させられるなら眠りさえ救いにならない。逃げ場などない。誰も助けてなどくれない。もがいてももがいても堕ちてゆくだけ、足掻いても足掻いても希望など見えない。喉が嗄れるまで泣き叫んでも懇願の声はむなしく虚空に吸い込まれるだけ。忘却は救いだ。眠りは癒しだ。でも僕の頭の一部は睡眠時にも明晰に冴えていて、目を閉じて眠りに身を委ねても、完全には意識を無意識に明け渡すことができない理性の監視下にある。 醒めた夢の中、僕は夢だと自覚していながらも自分の身の上に起こる出来事に抗うことができず、また、これから何が起こるか重々承知していながら過去を捻じ曲げる力すら持たない。
「眠る」という行為は「夢を見る」という行為に直結している。寝れば必ず夢を見るとは限らないが売春班での生き地獄を体験してからかなりの頻度で悪夢を見るようになったのは確実で、夢の内容は決まって過去の反復だ。
何故人が繰り返し過去の夢を見るのか、それも根強いトラウマの原因となった忌まわしい体験ばかりを反復させられるのかは心理学的見地から説明できる。
心身に深い傷を残す耐えがたい出来事に直面した場合、脳に備わっている自己防衛機能が働いてその事実は一時的に「無かった」ことにされる。あまりに辛い体験を許容することを脳が拒否すれば、人は表面的には以前となんら変わりなく振る舞うことができる。だがしかし強烈な苦痛を伴う体験が容易に消え去るわけもなく、実際は水面下に抑圧されてるに過ぎない。そして無意識の水面下に抑圧された記憶を夢の中で繰り返すことにより耐性がつき、おぞましい記憶を追体験しても平静を失わなくなって初めてトラウマを克服できるのだ。
理論はわかってる。
夜毎悪夢を見せる脳の仕組みも十分に理解しているのに、それでもやはり耐えられそうにない。トラウマを克服するために必要なことだとわかっていても、僕が生き延びるために必須な試練だとしてもやはり許容できない。
眠るのが怖い。
消灯時間が過ぎてもうだいぶ経つにもかかわらず僕は眠れなかった。「眠る」という行為に対する潜在的恐怖が体の芯に根を張って眼球を乾かせている。暗闇に耳を澄ます。隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライはよく眠っているようだ。
緩慢な動作で毛布をどけ、上体を起こす。床に足をおろしてスニーカーを履く。サムライの安眠を妨げぬよう足音をひそめて床を横切る。ノブを回し、押す。ゆっくりと鉄扉が開き、わずかな隙間から肌寒い夜気が忍びこんでくる。廊下に出て、音がしないよう慎重に扉を閉じる。
とにかく今はひとりになりたかった。
頭の中を整理する時間が欲しかった。
深夜ひとりで出歩くのは危険だという自覚はあるが、それより何より狭苦しい房の中、息詰まる闇から逃れたくて蛍光灯が照らす廊下にさまよいでた。自暴自棄にもなっていた。消灯時間が過ぎてからひとりでふらついて、身に危険が及んだからとてそれがなんだ?リンチもレイプも怖くない、僕の身にはもう最悪なことが起きたんだからこれ以上最悪なことなど起こるはずがない。物陰にひきずりこまれて強姦されるくらいどうってことない、売春班ではもっと酷い目に遭い、口にだすのも汚らわしいおぞましい行為を強制されていたのだから。
行くあてはない。
とにかく少しでも早く、できるだけ遠くに行きたかった。もう房には帰りたくなかった。房に帰れば手紙がある、ベッドの下に目につかないよう放りこんである手紙が。またあの手紙が目に触れるようなことがあれば今度こそ自分がどうなるかわからない、手のつけられない恐慌をきたして僕のことを純粋に心配してるサムライにまで当り散らしてしまうかもしれない。そんなぶざまな真似はしたくない、絶対に。サムライはなにも知らないのだから、なにも関係ない彼を僕の身勝手で振りまわすのは理不尽だ。
たとえ彼がそれを許してくれても、彼の優しさに甘えるようなことはしたくない。
彼の寛大さに付けこんで自分の弱さを肯定するような卑劣な真似はしたくないのだ、絶対に。
蛍光灯が冷え冷えと輝く廊下をなにかに取り憑かれたようにひたすら歩く。糸で繰られてるように足を交互させて廊下を進む。頭の中から現実感が抜け落ちて感覚が鈍化してる。
『さわらないで。おにいちゃん汚い』
『だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
容赦ない糾弾の言葉が胸を抉る。数日前、鏡の中に現れた恵の幻覚が僕を指弾して言い放った言葉の数々が足を鈍らせて歩調を落とす。そうだ、僕はいつだって恵がいちばん大事で恵のことをいちばんに考えてきた。恵を守るためなら何だってした。他人を傷つけても僕自身が傷ついても恵が笑ってくれるならそれでよかった、それ以上はなにも望まなかった。
どこで間違えたんだろう。
僕がいない家族の肖像。三人仲良く手をつないだ親子の絵。
僕がいなくても鍵屋崎優と由佳利さえいれば恵はそれで満足だったのだ。それ以上はなにも望んでいなかったのだ。僕にとっては恵ただ一人が大事な家族でかけがえのない人間だったが、恵にとっての僕はいてもいなくてもどうでもいい程度の存在だったのだ。いや、いてもいなくてもどうでもいいのではなくいっそいないほうがいい人間、そう、生まれてこなかったほうがよかった人間なのだ。
僕は自分が生まれてこなかったほうがよかった人間だとは思いたくない。
今すぐに死んだほうがマシな人間だとも思いたくない。
でもそう思っているのがこの世に僕一人なら、ただ一人生き残った家族にさえそう思われてないのだとしたらただの道化じゃないか。
この世で僕以外のだれも僕の存在を肯定してないなら、僕が生きてることを快く思ってないなら……
僕は何故生きてるんだ?
なんの為に、だれの為に、生きてるんだ。
どれだけ知能が優れていても知能指数が高くても、頭脳にしか価値がないなら脳だけ摘出してホルマリン漬けにしておけばいい。「天才」としての付加価値しか重要視されないなら「鍵屋崎直」の人格はもとより不要……馬鹿らしい、なにを考えてるんだ。こんな思考は無意味だ、いつまでたっても答えなどでるわけない……くそ、最悪だ。自己憐憫に浸るのもいい加減にしろ。自分がしたことを考えれば当たり前の仕打ちじゃないか、恵が描いた絵に自分がいなかったからって何だ?だれが自分の両親を殺した人間を好き好んで描きたがるというんだ、自業自得じゃないか。たかが一枚の絵にショックを受けて夢遊病者のように深夜徘徊して……
「!」
夢から覚めた。
ここはどこだろう。
目の前には見慣れた扉がある。両開きの巨大な扉……そうか、図書室の前だ。いつのまにか渡り廊下をわたり中央棟までやってきてしまったことに愕然とする。歩くのに夢中で全然気付かなかった、これじゃ本当に夢遊病者じゃないか。一瞬自分の正気を疑ったが、すぐに平静さを取り戻す。
たぶん僕はまったく無意識に自分がいちばん行きたいところに来てしまったのだろう。暇さえあれば図書室に通ってたせいで自然と足が向いてしまったのだ。習慣とは怖い。
今は深夜だ。押して試すまでもなく図書室は閉鎖されてるだろう。時間外立ち入り禁止の規則を破ってまで図書室に足を踏み入れるほど短慮でも愚かでもない僕はおとなしく引き返すことにする。少し頭を冷やすつもりがずいぶんと遠出してしまった、これ以上廊下をうろついてたら風邪をひいてしまう……
そう判断して身を翻しかけた、刹那。
「おい、あれうちの棟の親殺しじゃねえか?」
驚いて振り向けば、中央棟地下一階へと降りる階段から一人の少年が顔を覗かせていた。少年の仲間らしい数人が階段を駆け上がり、騒々しくとびだしてくる。
「本当だ」
「なんでこんな時間にうろついてんだ」
「さあな、図書室に用じゃねえか。しょっちゅう本読んで歩いてるネクラメガネだしな」
「こんな夜更けに読書かよ、物好きだねえ」
「いや、待てよ。案外俺らに犯されにでてきたんじゃねえか」
見覚えある顔だと思ったら、食堂の中央席を占領してる凱の取り巻き達だった。いやな予感がした。面倒なことになるまえに逃げようと踵を返すより凱の取り巻きたちに押し倒されるほうが早かった。
「消灯時間過ぎて外うろついてたらヤられちまっても文句言えねえな!」
「自業自得だな」
「犯してくださいって言ってるようなもんだぜ」
まずい。
背中に馬乗られて床にうつ伏せた僕の周囲を取り囲んだ少年たちがにやにやと笑みを浮かべてる。これから何されるか容易に予想がついたが、性欲を持て余した低脳ども相手に弱みを見せるのが嫌で虚勢を張る。
「君たちこそ、なんでこんな時間にこんなところにいるんだ?」
「打ち合わせだよ」
「打ち合わせ?」
僕の後頭部を片手でおさえこんだ少年が耳元でささやく。
「ペア戦の班割り決めてたんだよ。だれとだれが相棒になるかを、な。看守が定期的に見まわりにくる房じゃ大人数で集まれねえし話に集中できねえし、エレベーターできてから使われてない中央棟の階段なら落ち着いて話せるだろうって……ですよね、凱さん?」
唾をとばしてまくしたてていた少年の視線につられて振り向けば、今しも階段を上りきり廊下に歩を踏み出したのは大柄な男。少年、という表現がふさわしくない屈強な体躯と獰猛かつ厳しい面構えで鋼の筋肉を縒り合わせた背中から周囲を威圧する剣呑なオーラを振りまいている。
東棟最大の中国系派閥のボス、凱だった。
「ようメガネ。いい格好だな」
威圧的に腰に手をあて、大股に歩いてきた凱が廊下に組み敷かれた僕を見下ろして挑発的に笑う。周囲にたむろっていた仲間を手荒く押しのけ、僕の鼻先に仁王立ちした凱が優勢を優位するかの如くゆったりと腕を組む。手を背中で一本にまとめられてるせいか、鼻梁にずり落ちた眼鏡の位置を直すこともできない。両手が使えない不便さに舌打ちしながら凱を睨みつける。
「……話は聞いた。君たちもペア戦に出場するのか?」
「おおともよ。べつに驚くことじゃねえだろ?レイジがぶちあげたペア戦50組100人抜きは来る者拒まずの無差別格闘技、東西南北全棟の囚人参加自由。あのケツの軽い王様気取りをつぶしにかかるにはこれ以上ない絶好の機会じゃねえか」
レイジが売春班撤廃の条件に掲げたペア戦50組100人抜きは東西南北すべての棟の囚人の出場許可されている。レイジが東棟のトップだろうが関係ない、いや、東棟に凱を筆頭にレイジを蹴落として下克上を企む野心家がごろごろしているのだ。棟対棟というより個人戦の様相が強いのには、レイジが属する東棟からもかなりの人数がペア戦にエントリーしてる裏事情がある。
凱はレイジを目の敵にしてる。ペア戦に出場し、東西南北の大観衆の前で決着をつけ、レイジに代わる新たなトップとして君臨するつもりなのだろう。
「……身のほど知らずだな」
「あん?」
口元に嘲笑が浮かぶのをおさえられない。
「身のほど知らずだと言ったんだ。リングに上る前に忠告しておくが、君たちは自分の実力を過信すぎじゃないか?君たち群れるしか能のない低能どもがレイジと対戦したところでかなうわけがない。レイジだけじゃない、サムライだってそうだ。君たちはわからないのか?レイジとサムライは凄まじく強い、勝敗などリングに上る前から決まっているようなものだろう。大観衆の前で恥をかきたくないなら大人しく金網の外で観戦してろ。躾がなってない動物園の猿にはフェンスを揺さぶって騒ぐのがお似合いだ」
嫌味でもなんでもなく、ただありのままを指摘しただけだというのに一気に雰囲気が険悪になった。
「!!」
脇腹にめりこむスニーカーのつま先。
腕組みして僕を見下ろしていた凱が無造作に蹴りを入れ、臓腑がねじれる激痛に目の前が赤く眩む。痛い。背中で手を一本にまとめられてるせいでひりひりする鳩尾を庇うこともできず、反吐を戻す勢いではげしく咳き込みながら顎を上げれば、周囲を取り囲んだ凱の取り巻き連中が手を叩いて爆笑していた。
ああ、本当に猿みたいだ。
その連想に苦笑しかけ、髪の毛を掴んで頭を持ち上げられる。僕の髪の毛を掴んで強引に顔を上げさせた凱が邪悪にほくそ笑む。
「ダチのサムライに頼まれて偵察に来たのか?」
「誤解するなよ。僕はただ眠れなくて気分転換の散歩に出かけただけだ。僕が偵察などしなくてもサムライとレイジは絶対に勝つ」
「右手を怪我してても?」
「そうだ」
「ちっ、強情だな」
荒く舌打ちして僕の髪を突き放し、鼻梁にずり落ちていた眼鏡を奪い取る。眼鏡を奪われた瞬間、視界が曇った。凱の腕が大きく弧を描き、眼鏡が遠方に放り投げられる。
カチャン。ごく軽い落下音がした。
なんてことをするんだ、この男は。眼鏡がなければ日常生活に支障がでる、なにより本が読めないじゃないか。そう抗議しようと口を開きかけ、おもむろに命じられる。
「拾え」
「………」
「床に手をついて四つんばいになって拾って来い」
周囲の人垣から悪意滴る嘲笑がこぼれる。背中を押さえ込んでいた少年がどき、両手が解放される。膝に体重をかけて押さえこまれていたため手首が痺れて感覚がなくなっていた。
逆らう、という発想ははなからなかった。
数と腕力では圧倒的に凱たちに利がある。僕が逆らったところで体に無駄な痣を増やすだけだ。それならば無抵抗に徹し、彼らが飽きるまでこのくだらないお遊びに付き合ってやるのが無難だろう。
心に空洞が開いたようになにも感じなかった。
嘲笑に取り巻かれ、孤立無援の状態で冷たい廊下に座りこんだ現状でも屈辱感とか敗北感とか一切の感情が沸いてこなかった。恵の絵を見てからずっと心が麻痺している。大切な思い出と一緒に喜怒哀楽をどこかに置いてきてしまったみたいに。
恵の思い出。
なにより大事な、最愛の妹。
『おにいちゃん』
『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
「…………」
くだらない。なにもかもがくだらない。
床に両手をつき、膝をつく。目がよく見えないせいで距離感と方向感覚が狂ったが、目を凝らして廊下を見渡して7メートル先に眼鏡を発見した。ズボンの膝で床をこすりながら眼鏡の落下地点に接近する最中、壁と天井に反響して頭上に降り注いでいたのは野次と嘲笑。
「あはははははっはははっ、犬だ、犬がいるぞ!」
「もっと高く尻上げて頭下げろよ」
「尻上げるのは得意だろうが、さんざん売春班でやってきたことだろう」
「ズボンで床拭きゃ雑巾いらなくて一石二鳥だ」
騒がしく罵声が飛び交う中、手をついた床からじんわり伝わってくる冷気が体中に行き渡って肌が粟立つ。寒い。体の芯まで冷えそうだ、心まで凍えてしまいそうだ。かすむ目を凝らして廊下を見渡し、眼鏡までの距離を割り出す。膝をついて手をついて這い進む途中、進路を妨害するように何度も背中や肩を蹴られた。肩や背中ならまだいい、中には無防備な腹部に蹴りを入れてくる者もいて鳩尾を抉る衝撃に肘が砕けそうになった。
こんな連中相手にするだけ馬鹿だ、無視するに限る。五指を広げた手を床に置く、ズボンの膝で床を擦って前に進む。時間はひどくゆっくりと流れた。肘を蹴られて四つん這いの体勢を崩しかけ、寸手のところで立て直す。汚れた靴裏を頬に押しつけられて口の中まで泥が入りこむ。
行儀が悪いとは思ったが、唾と一緒に泥を吐き捨て前に進む。ようやく眼鏡の落下地点に辿りついたことに安堵し、手を伸ばしかけー
「くわえて持って来い」
手が止まる。
振り向く。ぼんやり滲んだ視界に映ったのは下劣な笑みを湛えた凱を真ん中にした少年たち。全員が凱とよく似たにやにや笑いを浮かべて突拍子もない命令に躊躇する僕の反応を楽しんでいる。
まったく陰険な連中だ。
なぶるような視線を四囲から注がれて辟易する。僕が次にどうでるかと、生唾飲み下して待ち構えてる連中のほうは見ずに吐き捨てる。
「持っていけばいいんだろう」
衆人環視の中、眼鏡をくわえて持って行くぐらいどうということはない。売春班ではもっと汚い物もくわえさせられたのだから。眼鏡をかけてないせいで、陰湿な笑みを全開にした取り巻き連中の顔がよく見えない現状に感謝しつつ、上体を突っ伏した姿勢から不自由に顎を傾げる。
眼鏡の弦を食み、口にくわえる。
手を使わず眼鏡をくわえるのは意外と難しいんだな、と妙な所に感心する。
「絶対に手は使うなよ。使っていいのは口だけだ。そう、上手いじゃねえか。誰に仕込まれたんだその芸は」
売春班に決まってるだろう、と口がきけるものなら言い返したかったがいかんせん弦をくわえていて自由に動かない。眼鏡の弦を口に含めば無機質な金属の味がした。
なにをしてるんだろうな、僕は。
両親を殺し、恵を精神病院送りにし、刑務所に送られ。刑務所の中の狭い社会でさえ自分の親を手にかけた人間の屑として扱われ迫害され異端視されて。
これが僕の、恵の望んだことなのだろうか。
「よし、上出来だ」
厚みのある手が頭全体を包みこむように往復し、口にぶらさげていた眼鏡をひったくられる。まさかまた放り投げられるつもりじゃと警戒したが、違った。中腰に屈んだ凱が、手ずから眼鏡をかけてくれる。
レンズを通した視界が拭われるように明瞭になり、同じ目線の高さに凱の顔が浮かんでいた。
「命令通りにしたぞ。もういいだろう、帰っても」
肉体的疲労よりも精神的疲労が蓄積されていた。もう毒舌を吐く気力もない。もう何も見たくない、何も聞きたくない、何もしたくない―
ぐい、と襟首を掴まれた。
「なに言ってんだ、本番はこれからだぜ」
本番、か。やっぱりな。なるべく早く済ませてほしいが、凱一人を相手にして解放されるとは思えない。凱の取り巻き連中は一人、二人、三人……合計八人。この数を一度に相手にするのは少しきつい。
「たぶん僕の意見など聞いてはくれないと思うが」
「なんだ」
「僕は不感症だが一応痛覚はあるんだ、こうして君に押さえこまれた現状では性行為は避けられないとしてもなるべく痛い思いはしたくない。君たち全員が早漏なら行為も比較的短時間で済むだろうが確証はない」
うんざりしながら説明する僕の上に覆い被さった凱が早くもシャツの内側に手を潜らせてきた。裾がはだけられた脇腹に冷気が触れて身が竦む。売春班にいたときにつけられた痣は大部分が消えたが、臍の横脇にはまだ黄褐色の痣が鮮明に残っている。痣を見た凱が萎えてくれないだろうかと淡い期待を抱いたが無駄だった。痣を揉まれるたびに下腹部を襲う鈍い痛みに顔をしかめ、半ば自棄気味に続ける。
「なら合理的解決として僕の気を失わせてくれないだろうか。出来るだけ穏便な手段を希望したいが、無理なら急所への一撃ですみやかに気を失わせてほしい。電力を押さえたスタンガンが理想だが、誰か持ってないか?」
気を失ってしまえばこれ以上いやなものを見ずに済む、痛い思いをせずに済む。
スタンガンで少々火傷を負うくらい我慢しよう、痛みに慣らされた体なら一瞬の電撃くらい耐えることができるだろう。ズボンの内側にすべりこんだ手が太股を這う感覚におぞけをふるいながら、声だけは冷静に提案した僕に返されたのは蔑笑。
「馬鹿言うなよ、目え覚めてなきゃヤるほうだって楽しくねえだろうが。お前が悲鳴あげて痛がる姿にみんな興奮するんだからサービスしろよ」
背後に距離を詰めてきた取り巻き連中に肩を掴まれ、後頭部を押さえこまれた前傾姿勢をとらされる。耳朶で熱い吐息が弾ける、だれか、僕の背後に立った顔の見えない誰かが執拗に耳を舐めている。
もうどうでもいい。
頭の裏側でだれかが囁く。もうどうでもいい、僕がどうなろうがかまわない。これから凱たちに輪姦されボロボロにされようがべつにかまわない。僕が傷ついても泣いてくれる人間がいないのなら、自分でさえ泣けないのなら力加減を誤って殺されてもかまわない。
もう、どうなろうとかまわない。
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
それが恵の望みなら。
それで恵が救われるのなら。
サムライには悪いことをした。僕のせいで迷惑をかけて、僕を庇って怪我を負わせて。
でも、僕がいなくなればこれ以上迷惑をかけることもなくなるだろう。
そして僕は、一抹の諦念とともに目を閉じ。
「何をしている」
瞼の裏側に恵の顔を思い浮かべたのと、第三者の声が介入してきたのは同時だった。
なにもかも全部忘れてしまいたい。ここじゃないどこかへ行きたい。ここじゃなければどこでもいい、寝ても覚めても何をしていても付き纏う罪悪感から逃れられるならどこでもいい。
現実逃避。
ひとりになりたい。誰もいないところに行きたい。夢の中、毎晩違う男に犯される悪夢を追体験させられるなら眠りさえ救いにならない。逃げ場などない。誰も助けてなどくれない。もがいてももがいても堕ちてゆくだけ、足掻いても足掻いても希望など見えない。喉が嗄れるまで泣き叫んでも懇願の声はむなしく虚空に吸い込まれるだけ。忘却は救いだ。眠りは癒しだ。でも僕の頭の一部は睡眠時にも明晰に冴えていて、目を閉じて眠りに身を委ねても、完全には意識を無意識に明け渡すことができない理性の監視下にある。 醒めた夢の中、僕は夢だと自覚していながらも自分の身の上に起こる出来事に抗うことができず、また、これから何が起こるか重々承知していながら過去を捻じ曲げる力すら持たない。
「眠る」という行為は「夢を見る」という行為に直結している。寝れば必ず夢を見るとは限らないが売春班での生き地獄を体験してからかなりの頻度で悪夢を見るようになったのは確実で、夢の内容は決まって過去の反復だ。
何故人が繰り返し過去の夢を見るのか、それも根強いトラウマの原因となった忌まわしい体験ばかりを反復させられるのかは心理学的見地から説明できる。
心身に深い傷を残す耐えがたい出来事に直面した場合、脳に備わっている自己防衛機能が働いてその事実は一時的に「無かった」ことにされる。あまりに辛い体験を許容することを脳が拒否すれば、人は表面的には以前となんら変わりなく振る舞うことができる。だがしかし強烈な苦痛を伴う体験が容易に消え去るわけもなく、実際は水面下に抑圧されてるに過ぎない。そして無意識の水面下に抑圧された記憶を夢の中で繰り返すことにより耐性がつき、おぞましい記憶を追体験しても平静を失わなくなって初めてトラウマを克服できるのだ。
理論はわかってる。
夜毎悪夢を見せる脳の仕組みも十分に理解しているのに、それでもやはり耐えられそうにない。トラウマを克服するために必要なことだとわかっていても、僕が生き延びるために必須な試練だとしてもやはり許容できない。
眠るのが怖い。
消灯時間が過ぎてもうだいぶ経つにもかかわらず僕は眠れなかった。「眠る」という行為に対する潜在的恐怖が体の芯に根を張って眼球を乾かせている。暗闇に耳を澄ます。隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライはよく眠っているようだ。
緩慢な動作で毛布をどけ、上体を起こす。床に足をおろしてスニーカーを履く。サムライの安眠を妨げぬよう足音をひそめて床を横切る。ノブを回し、押す。ゆっくりと鉄扉が開き、わずかな隙間から肌寒い夜気が忍びこんでくる。廊下に出て、音がしないよう慎重に扉を閉じる。
とにかく今はひとりになりたかった。
頭の中を整理する時間が欲しかった。
深夜ひとりで出歩くのは危険だという自覚はあるが、それより何より狭苦しい房の中、息詰まる闇から逃れたくて蛍光灯が照らす廊下にさまよいでた。自暴自棄にもなっていた。消灯時間が過ぎてからひとりでふらついて、身に危険が及んだからとてそれがなんだ?リンチもレイプも怖くない、僕の身にはもう最悪なことが起きたんだからこれ以上最悪なことなど起こるはずがない。物陰にひきずりこまれて強姦されるくらいどうってことない、売春班ではもっと酷い目に遭い、口にだすのも汚らわしいおぞましい行為を強制されていたのだから。
行くあてはない。
とにかく少しでも早く、できるだけ遠くに行きたかった。もう房には帰りたくなかった。房に帰れば手紙がある、ベッドの下に目につかないよう放りこんである手紙が。またあの手紙が目に触れるようなことがあれば今度こそ自分がどうなるかわからない、手のつけられない恐慌をきたして僕のことを純粋に心配してるサムライにまで当り散らしてしまうかもしれない。そんなぶざまな真似はしたくない、絶対に。サムライはなにも知らないのだから、なにも関係ない彼を僕の身勝手で振りまわすのは理不尽だ。
たとえ彼がそれを許してくれても、彼の優しさに甘えるようなことはしたくない。
彼の寛大さに付けこんで自分の弱さを肯定するような卑劣な真似はしたくないのだ、絶対に。
蛍光灯が冷え冷えと輝く廊下をなにかに取り憑かれたようにひたすら歩く。糸で繰られてるように足を交互させて廊下を進む。頭の中から現実感が抜け落ちて感覚が鈍化してる。
『さわらないで。おにいちゃん汚い』
『だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
容赦ない糾弾の言葉が胸を抉る。数日前、鏡の中に現れた恵の幻覚が僕を指弾して言い放った言葉の数々が足を鈍らせて歩調を落とす。そうだ、僕はいつだって恵がいちばん大事で恵のことをいちばんに考えてきた。恵を守るためなら何だってした。他人を傷つけても僕自身が傷ついても恵が笑ってくれるならそれでよかった、それ以上はなにも望まなかった。
どこで間違えたんだろう。
僕がいない家族の肖像。三人仲良く手をつないだ親子の絵。
僕がいなくても鍵屋崎優と由佳利さえいれば恵はそれで満足だったのだ。それ以上はなにも望んでいなかったのだ。僕にとっては恵ただ一人が大事な家族でかけがえのない人間だったが、恵にとっての僕はいてもいなくてもどうでもいい程度の存在だったのだ。いや、いてもいなくてもどうでもいいのではなくいっそいないほうがいい人間、そう、生まれてこなかったほうがよかった人間なのだ。
僕は自分が生まれてこなかったほうがよかった人間だとは思いたくない。
今すぐに死んだほうがマシな人間だとも思いたくない。
でもそう思っているのがこの世に僕一人なら、ただ一人生き残った家族にさえそう思われてないのだとしたらただの道化じゃないか。
この世で僕以外のだれも僕の存在を肯定してないなら、僕が生きてることを快く思ってないなら……
僕は何故生きてるんだ?
なんの為に、だれの為に、生きてるんだ。
どれだけ知能が優れていても知能指数が高くても、頭脳にしか価値がないなら脳だけ摘出してホルマリン漬けにしておけばいい。「天才」としての付加価値しか重要視されないなら「鍵屋崎直」の人格はもとより不要……馬鹿らしい、なにを考えてるんだ。こんな思考は無意味だ、いつまでたっても答えなどでるわけない……くそ、最悪だ。自己憐憫に浸るのもいい加減にしろ。自分がしたことを考えれば当たり前の仕打ちじゃないか、恵が描いた絵に自分がいなかったからって何だ?だれが自分の両親を殺した人間を好き好んで描きたがるというんだ、自業自得じゃないか。たかが一枚の絵にショックを受けて夢遊病者のように深夜徘徊して……
「!」
夢から覚めた。
ここはどこだろう。
目の前には見慣れた扉がある。両開きの巨大な扉……そうか、図書室の前だ。いつのまにか渡り廊下をわたり中央棟までやってきてしまったことに愕然とする。歩くのに夢中で全然気付かなかった、これじゃ本当に夢遊病者じゃないか。一瞬自分の正気を疑ったが、すぐに平静さを取り戻す。
たぶん僕はまったく無意識に自分がいちばん行きたいところに来てしまったのだろう。暇さえあれば図書室に通ってたせいで自然と足が向いてしまったのだ。習慣とは怖い。
今は深夜だ。押して試すまでもなく図書室は閉鎖されてるだろう。時間外立ち入り禁止の規則を破ってまで図書室に足を踏み入れるほど短慮でも愚かでもない僕はおとなしく引き返すことにする。少し頭を冷やすつもりがずいぶんと遠出してしまった、これ以上廊下をうろついてたら風邪をひいてしまう……
そう判断して身を翻しかけた、刹那。
「おい、あれうちの棟の親殺しじゃねえか?」
驚いて振り向けば、中央棟地下一階へと降りる階段から一人の少年が顔を覗かせていた。少年の仲間らしい数人が階段を駆け上がり、騒々しくとびだしてくる。
「本当だ」
「なんでこんな時間にうろついてんだ」
「さあな、図書室に用じゃねえか。しょっちゅう本読んで歩いてるネクラメガネだしな」
「こんな夜更けに読書かよ、物好きだねえ」
「いや、待てよ。案外俺らに犯されにでてきたんじゃねえか」
見覚えある顔だと思ったら、食堂の中央席を占領してる凱の取り巻き達だった。いやな予感がした。面倒なことになるまえに逃げようと踵を返すより凱の取り巻きたちに押し倒されるほうが早かった。
「消灯時間過ぎて外うろついてたらヤられちまっても文句言えねえな!」
「自業自得だな」
「犯してくださいって言ってるようなもんだぜ」
まずい。
背中に馬乗られて床にうつ伏せた僕の周囲を取り囲んだ少年たちがにやにやと笑みを浮かべてる。これから何されるか容易に予想がついたが、性欲を持て余した低脳ども相手に弱みを見せるのが嫌で虚勢を張る。
「君たちこそ、なんでこんな時間にこんなところにいるんだ?」
「打ち合わせだよ」
「打ち合わせ?」
僕の後頭部を片手でおさえこんだ少年が耳元でささやく。
「ペア戦の班割り決めてたんだよ。だれとだれが相棒になるかを、な。看守が定期的に見まわりにくる房じゃ大人数で集まれねえし話に集中できねえし、エレベーターできてから使われてない中央棟の階段なら落ち着いて話せるだろうって……ですよね、凱さん?」
唾をとばしてまくしたてていた少年の視線につられて振り向けば、今しも階段を上りきり廊下に歩を踏み出したのは大柄な男。少年、という表現がふさわしくない屈強な体躯と獰猛かつ厳しい面構えで鋼の筋肉を縒り合わせた背中から周囲を威圧する剣呑なオーラを振りまいている。
東棟最大の中国系派閥のボス、凱だった。
「ようメガネ。いい格好だな」
威圧的に腰に手をあて、大股に歩いてきた凱が廊下に組み敷かれた僕を見下ろして挑発的に笑う。周囲にたむろっていた仲間を手荒く押しのけ、僕の鼻先に仁王立ちした凱が優勢を優位するかの如くゆったりと腕を組む。手を背中で一本にまとめられてるせいか、鼻梁にずり落ちた眼鏡の位置を直すこともできない。両手が使えない不便さに舌打ちしながら凱を睨みつける。
「……話は聞いた。君たちもペア戦に出場するのか?」
「おおともよ。べつに驚くことじゃねえだろ?レイジがぶちあげたペア戦50組100人抜きは来る者拒まずの無差別格闘技、東西南北全棟の囚人参加自由。あのケツの軽い王様気取りをつぶしにかかるにはこれ以上ない絶好の機会じゃねえか」
レイジが売春班撤廃の条件に掲げたペア戦50組100人抜きは東西南北すべての棟の囚人の出場許可されている。レイジが東棟のトップだろうが関係ない、いや、東棟に凱を筆頭にレイジを蹴落として下克上を企む野心家がごろごろしているのだ。棟対棟というより個人戦の様相が強いのには、レイジが属する東棟からもかなりの人数がペア戦にエントリーしてる裏事情がある。
凱はレイジを目の敵にしてる。ペア戦に出場し、東西南北の大観衆の前で決着をつけ、レイジに代わる新たなトップとして君臨するつもりなのだろう。
「……身のほど知らずだな」
「あん?」
口元に嘲笑が浮かぶのをおさえられない。
「身のほど知らずだと言ったんだ。リングに上る前に忠告しておくが、君たちは自分の実力を過信すぎじゃないか?君たち群れるしか能のない低能どもがレイジと対戦したところでかなうわけがない。レイジだけじゃない、サムライだってそうだ。君たちはわからないのか?レイジとサムライは凄まじく強い、勝敗などリングに上る前から決まっているようなものだろう。大観衆の前で恥をかきたくないなら大人しく金網の外で観戦してろ。躾がなってない動物園の猿にはフェンスを揺さぶって騒ぐのがお似合いだ」
嫌味でもなんでもなく、ただありのままを指摘しただけだというのに一気に雰囲気が険悪になった。
「!!」
脇腹にめりこむスニーカーのつま先。
腕組みして僕を見下ろしていた凱が無造作に蹴りを入れ、臓腑がねじれる激痛に目の前が赤く眩む。痛い。背中で手を一本にまとめられてるせいでひりひりする鳩尾を庇うこともできず、反吐を戻す勢いではげしく咳き込みながら顎を上げれば、周囲を取り囲んだ凱の取り巻き連中が手を叩いて爆笑していた。
ああ、本当に猿みたいだ。
その連想に苦笑しかけ、髪の毛を掴んで頭を持ち上げられる。僕の髪の毛を掴んで強引に顔を上げさせた凱が邪悪にほくそ笑む。
「ダチのサムライに頼まれて偵察に来たのか?」
「誤解するなよ。僕はただ眠れなくて気分転換の散歩に出かけただけだ。僕が偵察などしなくてもサムライとレイジは絶対に勝つ」
「右手を怪我してても?」
「そうだ」
「ちっ、強情だな」
荒く舌打ちして僕の髪を突き放し、鼻梁にずり落ちていた眼鏡を奪い取る。眼鏡を奪われた瞬間、視界が曇った。凱の腕が大きく弧を描き、眼鏡が遠方に放り投げられる。
カチャン。ごく軽い落下音がした。
なんてことをするんだ、この男は。眼鏡がなければ日常生活に支障がでる、なにより本が読めないじゃないか。そう抗議しようと口を開きかけ、おもむろに命じられる。
「拾え」
「………」
「床に手をついて四つんばいになって拾って来い」
周囲の人垣から悪意滴る嘲笑がこぼれる。背中を押さえ込んでいた少年がどき、両手が解放される。膝に体重をかけて押さえこまれていたため手首が痺れて感覚がなくなっていた。
逆らう、という発想ははなからなかった。
数と腕力では圧倒的に凱たちに利がある。僕が逆らったところで体に無駄な痣を増やすだけだ。それならば無抵抗に徹し、彼らが飽きるまでこのくだらないお遊びに付き合ってやるのが無難だろう。
心に空洞が開いたようになにも感じなかった。
嘲笑に取り巻かれ、孤立無援の状態で冷たい廊下に座りこんだ現状でも屈辱感とか敗北感とか一切の感情が沸いてこなかった。恵の絵を見てからずっと心が麻痺している。大切な思い出と一緒に喜怒哀楽をどこかに置いてきてしまったみたいに。
恵の思い出。
なにより大事な、最愛の妹。
『おにいちゃん』
『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
「…………」
くだらない。なにもかもがくだらない。
床に両手をつき、膝をつく。目がよく見えないせいで距離感と方向感覚が狂ったが、目を凝らして廊下を見渡して7メートル先に眼鏡を発見した。ズボンの膝で床をこすりながら眼鏡の落下地点に接近する最中、壁と天井に反響して頭上に降り注いでいたのは野次と嘲笑。
「あはははははっはははっ、犬だ、犬がいるぞ!」
「もっと高く尻上げて頭下げろよ」
「尻上げるのは得意だろうが、さんざん売春班でやってきたことだろう」
「ズボンで床拭きゃ雑巾いらなくて一石二鳥だ」
騒がしく罵声が飛び交う中、手をついた床からじんわり伝わってくる冷気が体中に行き渡って肌が粟立つ。寒い。体の芯まで冷えそうだ、心まで凍えてしまいそうだ。かすむ目を凝らして廊下を見渡し、眼鏡までの距離を割り出す。膝をついて手をついて這い進む途中、進路を妨害するように何度も背中や肩を蹴られた。肩や背中ならまだいい、中には無防備な腹部に蹴りを入れてくる者もいて鳩尾を抉る衝撃に肘が砕けそうになった。
こんな連中相手にするだけ馬鹿だ、無視するに限る。五指を広げた手を床に置く、ズボンの膝で床を擦って前に進む。時間はひどくゆっくりと流れた。肘を蹴られて四つん這いの体勢を崩しかけ、寸手のところで立て直す。汚れた靴裏を頬に押しつけられて口の中まで泥が入りこむ。
行儀が悪いとは思ったが、唾と一緒に泥を吐き捨て前に進む。ようやく眼鏡の落下地点に辿りついたことに安堵し、手を伸ばしかけー
「くわえて持って来い」
手が止まる。
振り向く。ぼんやり滲んだ視界に映ったのは下劣な笑みを湛えた凱を真ん中にした少年たち。全員が凱とよく似たにやにや笑いを浮かべて突拍子もない命令に躊躇する僕の反応を楽しんでいる。
まったく陰険な連中だ。
なぶるような視線を四囲から注がれて辟易する。僕が次にどうでるかと、生唾飲み下して待ち構えてる連中のほうは見ずに吐き捨てる。
「持っていけばいいんだろう」
衆人環視の中、眼鏡をくわえて持って行くぐらいどうということはない。売春班ではもっと汚い物もくわえさせられたのだから。眼鏡をかけてないせいで、陰湿な笑みを全開にした取り巻き連中の顔がよく見えない現状に感謝しつつ、上体を突っ伏した姿勢から不自由に顎を傾げる。
眼鏡の弦を食み、口にくわえる。
手を使わず眼鏡をくわえるのは意外と難しいんだな、と妙な所に感心する。
「絶対に手は使うなよ。使っていいのは口だけだ。そう、上手いじゃねえか。誰に仕込まれたんだその芸は」
売春班に決まってるだろう、と口がきけるものなら言い返したかったがいかんせん弦をくわえていて自由に動かない。眼鏡の弦を口に含めば無機質な金属の味がした。
なにをしてるんだろうな、僕は。
両親を殺し、恵を精神病院送りにし、刑務所に送られ。刑務所の中の狭い社会でさえ自分の親を手にかけた人間の屑として扱われ迫害され異端視されて。
これが僕の、恵の望んだことなのだろうか。
「よし、上出来だ」
厚みのある手が頭全体を包みこむように往復し、口にぶらさげていた眼鏡をひったくられる。まさかまた放り投げられるつもりじゃと警戒したが、違った。中腰に屈んだ凱が、手ずから眼鏡をかけてくれる。
レンズを通した視界が拭われるように明瞭になり、同じ目線の高さに凱の顔が浮かんでいた。
「命令通りにしたぞ。もういいだろう、帰っても」
肉体的疲労よりも精神的疲労が蓄積されていた。もう毒舌を吐く気力もない。もう何も見たくない、何も聞きたくない、何もしたくない―
ぐい、と襟首を掴まれた。
「なに言ってんだ、本番はこれからだぜ」
本番、か。やっぱりな。なるべく早く済ませてほしいが、凱一人を相手にして解放されるとは思えない。凱の取り巻き連中は一人、二人、三人……合計八人。この数を一度に相手にするのは少しきつい。
「たぶん僕の意見など聞いてはくれないと思うが」
「なんだ」
「僕は不感症だが一応痛覚はあるんだ、こうして君に押さえこまれた現状では性行為は避けられないとしてもなるべく痛い思いはしたくない。君たち全員が早漏なら行為も比較的短時間で済むだろうが確証はない」
うんざりしながら説明する僕の上に覆い被さった凱が早くもシャツの内側に手を潜らせてきた。裾がはだけられた脇腹に冷気が触れて身が竦む。売春班にいたときにつけられた痣は大部分が消えたが、臍の横脇にはまだ黄褐色の痣が鮮明に残っている。痣を見た凱が萎えてくれないだろうかと淡い期待を抱いたが無駄だった。痣を揉まれるたびに下腹部を襲う鈍い痛みに顔をしかめ、半ば自棄気味に続ける。
「なら合理的解決として僕の気を失わせてくれないだろうか。出来るだけ穏便な手段を希望したいが、無理なら急所への一撃ですみやかに気を失わせてほしい。電力を押さえたスタンガンが理想だが、誰か持ってないか?」
気を失ってしまえばこれ以上いやなものを見ずに済む、痛い思いをせずに済む。
スタンガンで少々火傷を負うくらい我慢しよう、痛みに慣らされた体なら一瞬の電撃くらい耐えることができるだろう。ズボンの内側にすべりこんだ手が太股を這う感覚におぞけをふるいながら、声だけは冷静に提案した僕に返されたのは蔑笑。
「馬鹿言うなよ、目え覚めてなきゃヤるほうだって楽しくねえだろうが。お前が悲鳴あげて痛がる姿にみんな興奮するんだからサービスしろよ」
背後に距離を詰めてきた取り巻き連中に肩を掴まれ、後頭部を押さえこまれた前傾姿勢をとらされる。耳朶で熱い吐息が弾ける、だれか、僕の背後に立った顔の見えない誰かが執拗に耳を舐めている。
もうどうでもいい。
頭の裏側でだれかが囁く。もうどうでもいい、僕がどうなろうがかまわない。これから凱たちに輪姦されボロボロにされようがべつにかまわない。僕が傷ついても泣いてくれる人間がいないのなら、自分でさえ泣けないのなら力加減を誤って殺されてもかまわない。
もう、どうなろうとかまわない。
『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
それが恵の望みなら。
それで恵が救われるのなら。
サムライには悪いことをした。僕のせいで迷惑をかけて、僕を庇って怪我を負わせて。
でも、僕がいなくなればこれ以上迷惑をかけることもなくなるだろう。
そして僕は、一抹の諦念とともに目を閉じ。
「何をしている」
瞼の裏側に恵の顔を思い浮かべたのと、第三者の声が介入してきたのは同時だった。
十八話
(2005/12/28) そこにいたのは安田だった。
蛍光灯が白白と輝く廊下の真ん中に図書室の扉を背にして佇んでいる。皺ひとつないダークグレーのスーツを隙なく着込み、シャツの白さを際立たせるアクセントとして濃い暗色のネクタイを結んでいる。無機質かつ無彩色かつ無表情の三拍子が揃った容姿から漂いだしているのは、選良のプライドに根付いた威圧的なオーラ。銀縁眼鏡がよく似合う理知的な細面は端正だが無個性で、規範を逸脱することを何より嫌うエリートの典型ともいえる面白みのない容姿の中、剃刀のような知性を帯びた双眸だけが強い印象を与えた。
「手を放したまえ」
冷たい声で安田が命じ、僕を組み伏せていた凱が言われたとおりにする。行為に水をさした招かれざる闖入者、それも東京プリズン副所長の地位にある人間に命令されては従わぬわけにいかない。荒い舌打ちとともに僕の肩を突き飛ばして立ちあがった凱が仲間に顎をしゃくって後方に下がらせる。
安田と目が合う。
床に座りこんだ僕は酷い状態をしていた。上着の裾は胸まではだけられて臍が露出し、ズボンは下着が覗くまで引き下げられていた。これから何をされようとしていたのか一目瞭然の状況だ。上着の裾をおろし、丁寧に皺を伸ばしてからズボンを穿く。服に付着した埃をはたき落としながら腰を上げれば、安田が落ち着いた声で凱たちを問い詰めていた。
「こんな時間に何をしている?消灯時間過ぎてからの外出は規則で禁止されてるはずだが」
「すいません、ちょっと外の空気を吸いたくなったもんで……な、そうだろみんな?」
「そうそう」
「凱さんの言うとおり」
「眠れなかったからちょっとそこまで散歩に出かけただけです、なーんも悪いことなんかしてませんよ」
反省の素振りもなく凱とその取り巻きたちが身の潔白を訴える。凱に追従して次々に声をあげる少年たちを冷ややかに一瞥、その視線が僕の顔へと降りてくる。
「彼に何をしたんだ?」
「ちょっと遊んでただけですよ」
腰に手を当てた凱がおどけたふりで肩を竦める。
「この親殺し、おっともとい、ネクラ眼鏡が夜中ひとりでほっつき歩いてたもんだから注意してやろうと思いましてね。夜中にひとりで出歩くなんて自殺行為だ、他の囚人に襲われてケツ剥かれても文句言えねえ。一回痛い目見たらもうこんな馬鹿な真似しないでしょう。はは、親切だよな俺たち」
「凱さんは優しいから」
「ほうっとけないんですよ、危なっかしい奴が」
「貧弱で生っ白いくせして、自分がどんだけ男誘惑する犯ってくださいオーラ撒き散らしてるか自覚もなくほっつき歩いてるようなガキがね」
「自業自得だよ」
「そうだ、自業自得だ。ここをどこだと思ってんだ、リンチとレイプが年中行事の東京プリズンだぜ?深夜に出歩くのがどんだけ危険かわかってんのかよ、狼の群れに襲われて内蔵食い散らかされても知らねえぜ」
「よかったな、俺たちが心優しいオオカミさんでよ」
「黙れ」
その一声で廊下に渦巻いていた野次と嘲笑がぴたりと止む。廊下の真ん中に立ち、体格はそう変わらないどころか自分より筋骨逞しい凱を含めた九人の少年と対峙した安田が底光りするレンズの奥から命じる。
「独居房送りにされるのが嫌なら今すぐ自分の房に帰れ。今ならまだ見逃してやる」
「独居房」の脅しは効果抜群だった。
安田が介入してもなお人を食った態度を改めなかった凱たちの間にざわめきが走り、全員が怯えたようにを見合わせる。一列に並んだ少年たちを眼光鋭く睥睨した安田が、内心の恐怖を押し殺し、先頭に仁王立ちしていた凱を視線で射竦める。
前出以外の選択肢を許さない強圧的な眼差し、無言の脅迫。
「……ちっ。お前ら、帰るぞ」
横柄に顎をしゃっくり、取り巻きたちを率いて踵を返した凱がすれ違いざま僕の耳元で囁く。
「レイジとサムライに伝えとけ。東棟最大勢力を率いるこの俺様が必ずお前らを殺してやるってな」
「伝えるのはかまわないが、無意味だな」
「なんだと?」
気色ばんだ凱に体ごと向き直り、泥で汚れた顔に笑みを浮かべる。
「無知な君のために教えてやるが、脅迫とは強者が弱者にするからこそ効力を発揮するんだ」
「…………屁理屈メガネが。俺に押し倒されて抵抗ひとつしなかったくせによ」
口汚く毒づいた凱がいやな笑みを浮かべる。
「俺がレイジを倒して東棟のトップになったらさっきみたいに四つん這いにして飼ってやるよ。たのしみにしてな」
安田には聞こえない声で囁いた凱がすばやく尻を撫でて去ってゆく。廊下に響き渡る濁った哄笑もやがて消え、再び耳が痛くなるような静寂が降り積もる。蛍光灯の信管が爆ぜる耳障りな音が、目には見えない蝿の羽音のように鼓膜に付き纏っている。哄笑の余韻が今だたゆたってるような不均衡な静寂の中、安田と二人きりで廊下に取り残された僕は俯き加減に上着の裾を払っていた。廊下に押し倒されたときに埃やら泥やらが付着して酷い有様だ。こんな風体で帰ったらサムライに怪しまれてしまう。
顔を伏せて立ち尽くしていた僕に安田が声をかけてくる。
「君は何をしてるんだ?深夜の外出は規則違反だぞ」
「何をしてるんでしょうね」
鸚鵡返しの嫌味ではなく本当に疑問だった。何故自分がここにいるのかわからない。夢遊病者のように無意識に出歩いて気付いたらここにいましたなんて言えない。気まずく押し黙った僕になにを思ったか、安田がため息をついてそばの壁に凭れる。
「……彼らの肩を持つわけではないが、消灯時間過ぎてから廊下をふらついてたら危険に遭遇しても仕方ない。自己責任だ。もう少し自分を大事にしたらどうだ」
「自分を大事にしろなんて偉そうに説教する前に刑務所の治安を改善してください。仮にも副所長なんでしょう」
「……私も努力はしている」
「口だけならなんとでも言える」
前にもおなじやりとりをした。つい数日前、サムライが僕を庇って右手を捻ったときだ。サムライが医務室で診療を受けてるあいだ、こうして廊下に立ち、今とおなじように二人並んで壁に凭れかかって立ち話をした。ほんの数日前のことをやけに懐かしく感じながら足元の床を見下ろす。
「何故抵抗しなかったんだ」
「どこから見ていたんですか?」
「君が上着を脱がされかけたところから」
「……抵抗しても疲れるだけだ。それにあの人数では僕に勝ち目はない。相手は凱を含めて九人、全員が喧嘩慣れしていて僕など比較にならないほどに体格と腕力に恵まれてる。抵抗したら余分に殴られるだけだ、そんな非効率的なことはしたくない。大人しく抱かせてやれば彼らもじきに飽きるだろう」
「投げやりだな」
「東京プリズンの常識です」
そっけなく返し、ふいに笑い出したくなる。入所たった半年で東京プリズンの常識を語れるほど馴染んでしまったのか、僕は。東京プリズンの劣悪な環境に感化されて一般社会で通じる倫理観が破壊されてしまったのだとしたら本末転倒だ。
自嘲的に含み笑いした横顔に体温の低い視線を感じる。安田がじっと僕を見つめている。言いたいことがあるなら直接口にだせばいいのにまわりくどい男だ、と辟易しながら気付かぬふりで無視を決め込めば隣から衣擦れの音。スーツの背広を探り、安田が取り出したのは綺麗に折り畳まれた濃紺のハンカチ。皺ひとつない清潔なハンカチを手に持った安田をちらりと一瞥すれば、おもむろに手を掲げ、ハンカチを僕の頬に押し当てようと―
手。
体を這い回る手。
「!―っ、」
力一杯手を払われた衝撃でハンカチが床に落ちる。僕の眼前に手を翳したまま、安田は顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
「さわるな。吐き気がする」
僕を覗きこんだ安田の顔に一瞬悲痛な色が浮かぶ。おそらく今の僕は、生理的嫌悪と恐怖とが綯い交ぜになったさぞ醜い顔をしてることだろう。よそよそしく視線を外し、足元を見る。安田に触れられると直感した瞬間一斉に肌が粟立ち、冷静沈着な僕らしからぬ激烈な拒絶反応を示してしまった。僕の頬に付着した泥汚れを拭おうとして手厳しく拒絶された安田が中腰に屈み、軽く払ってからハンカチを拾い上げ、背広に戻す。
「ひとに触れられるのはまだ怖いか」
「怖いんじゃない。虫唾が走るほど不快なだけだ」
落ち着け、動揺のあまり敬語を忘れてるじゃないか。深呼吸して気持ちを落ち着けてから服の袖で頬を拭い、泥汚れを落とす。
「今夜の君は普段にも増して不安定だな。何かあったのか?」
「……副所長ともあろう立場の人間がただの囚人に興味をもちすぎです。そんなに面白いですか、かつてはIQ180の天才児ともてはやされ将来を嘱望された僕が人間の屑の親殺しとして虐げられるさまを観察するのが。いい具合に倒錯した趣味をしてますね」
「ひねくれてるな相変わらず」
安田がかすかに苦笑する気配が伝わってきた。安田と話してると「同族嫌悪」という言葉を連想する。それからしばらく二人無言で壁に背中を預けていたが、五分が経過した頃に前を向いたまま安田が口を開く。
「今の君は自暴自棄になっている。危険な兆候だ。辛いことがあるなら友人を頼ればいい」
「友人とはサムライのことですか」
「それ以外にだれがいる?」
「だれもいません」
「ひとりで抱え込むには限界がある。心が壊れるまえに友人に相談したらどうだ」
「副所長」
これ以上安田の賢しげな助言を聞くに自制心を消耗し、体ごと安田に向き直る。名前ではなく役職名で呼ばれた安田がかすかに意外げに目を見張る。等間隔に並んだ蛍光灯の下、青白く発光する信管に濃く焼き付けられた影が廊下にのびている。
足元の影を踏んで安田と対峙し、眼鏡の奥から反抗的な目つきで睨みつける。
「あなたは独身ですか」
「……ああ。今現在は未婚だが」
脈絡ない質問に当惑しながら安田が否定する。体の芯で燻っていた怒りが凍結、双眸の温度と比例して急速に声が冷えてゆくのがわかる。
「既婚歴も離婚歴もない?」
「ああ」
「兄弟はいますか?」
「いや」
「家族に『死ね』と言われたことは?」
続く言葉を喪失し、安田が黙りこむ。僕の頭の中では夕闇の房で見た一枚の絵が焼き付いてる。恵が描いた絵。拙い家族の肖像。僕だけがいない家族の絵。あれが恵が理想とした家族なら、恵が長い間欲しがってた家族の姿だというなら僕がこれまでしてきたことは何だったんだ?すべて無意味じゃないか。
伯母夫婦のもとで恵が幸せになってくれるならそれで良かった。
鍵屋崎夫妻が与えてくれなかった愛情を注がれ、健やかに穏やかに育ってくれるならそれでよかったのだ。恵が幸せにある代償として僕が東京プリズンに送られたのなら何の不満もない。伯母夫婦のもとで愛情を注がれ、無邪気に笑ってるだろう恵を心の支えにすれば過酷な強制労働にも不味い食事にも幼稚ないやがらせにも耐えられたのだ。
ところがどうだ?
結局僕がしたことで恵は不幸になってしまったじゃないか。恵が渇望していた「家族」を永遠に葬り去ってしまったじゃないか。精神病院送りにされ白い部屋の中で奇声を発して暴れてベルトでベッドに拘束されて、食事さえまともに受けつけずに点滴のチューブを抜いて暴れて……恵をそこまで追い詰めたのは僕だ、すべて僕が悪い。何が天才だ、何が兄だ。結局僕は恵のためになにもできなかったじゃないか、恵を以前よりさらに、各段に不幸にしただけで終わってしまったじゃないか。どんなに知能指数が高くても知力が優れていても何の役にも立たない、幼い妹ひとり救えない無力でぶざまで最低な人間なのだ鍵屋崎直は。
何故鍵屋崎優と恵が死んで、ふたりを殺した僕がのうのうと生きてるんだろう。
そんなこと恵はちっとも望んでないのに。
「……鍵屋崎優と由香利を身近に感じたことは一度もない。彼らは僕のことを後継者として見ていたから教育には熱心でもその他のことには徹底的に無関心だった。彼らを家族と思ったことは一度もない、一つ屋根の下に暮らしてる他人だと思っていた」
僕の家族は恵ただひとりだった。
恵を守るためならなんでもした。両親だって殺せた。恵にとっての僕はただの「おにいちゃん」で、僕が天才だろうがそうでなかろうがその呼び方はきっと変わらなくて。
ただそれだけが嬉しかった。
「以前こんなことがありました。4・5年前、鍵屋崎夫妻が遺伝子工学の分野で画期的理論を構築して、一躍有名になりマスコミから取材を受けたときです。僕は10歳かそこらで恵は5歳でした。父の研究に関与していた僕も両親と一緒に取材を受け、その写真が紙面に掲載されることになりました。恵は呼ばれませんでした。何故恵だけ抜かしたのかと父に聞けばこう返されました」
目を閉じる。まだ鮮明に覚えている、あの時鍵屋崎優がそっけなく口にした言葉を。侮蔑的な眼差しを。
「『恵は必要ないからだ』と」
そうだ、鍵屋崎優は「必要ない」と言ったんだ。聞き間違えようもなくはっきりと、当たり前のことを諭すように僕にむかって。
「恵は研究に一切関与してないから呼ぶ意味がないと、彼はそう言いました。そんなこともわからないのかと嘆かわしげな顔をして。僕は頼みました、次に取材がきたときは恵も混ぜてくれと。家族全員で写真を撮らせてあげてくれと」
鍵屋崎優は言う通りにした。普段自己主張しない僕が必死に頼んだのが効いたらしい、次回から渋々恵を呼んでくれるようになった。
「でも、新聞に掲載された写真では恵はいつも申し訳そうな顔をしてました」
自分がここにいるのが場違いだといわんばかりにしおらしく俯いたその姿。自分が必要とされてないことを空気で感じ取り、すまなそうにうなだれた姿。
僕がよかれと思ってしたことはいつも裏目にでて恵を哀しませてばかりいる。今だってそうだ、恵の為に、恵を守る為に両親を刺殺したことで恵がどれだけ傷ついて心を閉ざしてしまったか……
恵と僕には血のつながりがない。恵は鍵屋崎夫妻の実子で、僕は違う。でも僕は鍵屋崎夫妻に必要とされていた、自分達が老いた将来研究を継がせる人材として優秀な後継者として彼らは僕を養育した。
彼らが必要としたのは僕の天才としての「能力」で、「鍵屋崎直」という一人の人間じゃない。
それなら名前なんて必要ない。本名など無意味だ。「鍵屋崎直」は便宜上の記号にすぎない。研究を継がせるため、試験管の中で精子と卵子を結合させ人工的に創造した天才児だから僕は「直」と名づけられた。
ユズルの次にくるのはスグル。何の願いも夢もこめられてない語呂合せの産物。
ただの人材。
「馬鹿な、今の状態じゃ需要と供給が成立しない。僕はだれかを必要とするばかりでだれからも必要とされない、たった一人の妹にだって必要とされてないのが現状で。僕は恵を守ることで恵に必要とされたかったのに、恵に必要な人間になりたかったのに、その結果がこれか?どうしてだ、なんでこうなってしまうんだ。両親を殺害したときもまったく後悔はしなかった、恵を軽んじた両親など死んで当然だとさえ思っていた。鍵屋崎優と由香利を殺せば恵が二度と無神経な言動に傷つくことがないと、自分が身代わりになって妹を守り通した気にさえなって」
遠くから聞こえる雨の音、雨の音にかき消される悲鳴。
血が滴るナイフを片手にさげ、薄暗い書斎に立ち尽くす僕。部屋の隅に追い詰められた恵。恐怖に硬直した表情。うつ伏せに倒れ伏せ、徐徐に体温と血を失いつつある両親の遺体―……
「僕のしたことは全部無駄だった。恵にとっても、サムライにとっても」
僕が助けなど求めなければサムライが死地に赴くこともなく利き手を痛めることもなかったのだ。どうしてこんなことになったんだ、恵もサムライも傷つけたくなどなかったのに―……
僕がしたことは全部無駄だった。もう、疲れた。
「鍵屋崎 直」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
安田がまっすぐにこちらを見ていた。逃げを許さない眼差しで。
「君がしたことが迷惑だと、サムライがそう言ったのか?」
「………いいえ」
「なら、ひとりで決めつけるのはよせ。友人に対して失礼だろう」
叱りつけるような声だった。
安田がゆっくりとこちらに向き直る。眼鏡越しの目には僕の心をざわつかせる透徹した光。
「君が傷ついたら哀しむ人間がいることを忘れるな。自分を粗末にしたら怒る人間がいると肝に銘じておけ。君は一人だが独りじゃない、君のために泣いてくれる人間がいるかぎりは」
安田の言葉に記憶がよみがえる。
売春班の仕事場に僕を訪ねてきたサムライの涙を。眼鏡をかけてないせいで顔はよく見えなかったが、あの時、彼はたしかに泣いていた。頬に落ちた涙が熱かった。堪えても堪えきれずに声が震えていた。
ああ、そうか。
自分のために泣けない僕の代わりに、サムライが泣いてくれるのか。
目は乾いていた。涙はでなかった。
でも、少しだけ、ほんの少しだけ救われた心地になった。心の空洞を埋めるように温かいものが胸を満たし、恵の絵に僕がいなくても泣かずにすんだのはそばにサムライがいたからだと気付いた。
「泣くのが下手な人間のそばには代わりに泣いてくれる人間がいるはずだ。必ず」
「あなたのそばにもそんな奇特な人間がいるんですか?物好きな」
「皮肉を言う元気がでてきたみたいじゃないか」
何故か嬉しそうに微笑んだ安田が背広のポケットに手をさしいれ、何かを取り出す。てのひらには一粒の錠剤。
「さっき医務室でもらってきた睡眠薬だ。どうしても眠れない場合はこれを服用しろ」
驚いた。
「いいんですか、副所長が勝手なことして。貴方に処方された薬でしょう」
「私には残りがある。それに東京プリズンの不眠症患者は君だけではない、自分が犯した罪の重さに苛まれて眠れない囚人は他にもたくさんいる。そんな囚人から『睡眠薬を処方してくれ』と要望がでてな、近々重度の不眠症に苦しんでる囚人にかぎり睡眠薬を処方する懸案がでてる。いい機会だ、君には試験体一号になってほしい」
咎めるような目をした僕の手に錠剤を乗せ、悪びれたふうもなく安田が言う。
「くれぐれも睡眠薬の服用自殺など図るなよ」
「副所長は自殺幇助の疑いで更迭されますね」
「おい」
気色ばんだ安田を無視し、手渡された錠剤をズボンのポケットにしまいこむ。
「冗談です。この僕が自殺なんて無様な真似するわけない。見損ないでくれますか」
睡眠薬を受け取り、踵を返す。夜が更けて本格的に寒くなってきた、これ以上立ち話してたら凍死してしまう。サムライが異変に気付く前に房に戻らなければ……安田とすれちがいざま、彼が小脇に抱えてる本に目がとまる。腰の後ろに隠していたせいで今まで全然気付かなかった。
「なんですかそれ」
「え?」
いついかなるときも冷静沈着な安田に似つかわしくないうろたえた声だった。
安田の小脇に目を凝らし、目を見張る。
以前ヨンイルが紛失したと騒いでいたブラックジャック九巻だった。
「犯人は貴方だったんですか!?」
意外すぎる事実が発覚し、廊下中に響き渡る大声で叫んでしまった。片手に隠し持っていた本を見咎められた安田がついぞ僕が見たことのない表情で焦る。
「ああ。囚人間で面白いと評判だし、その、少し興味がでてな……一巻から八巻までは図書室で読んだのだがこの巻には興味深いエピソードがあってじっくり読みたくて」
「何故正規の手続きを踏んで借りなかったんですか、盗みは犯罪でもないと思ってるんですか」
追及する声にも怒りがこもる。落ち着け、冷静になれと理性が命じるが僕が読みたくて探していた九巻をよりにもよって副所長の安田が持ち出したと発覚した今じゃ無理な相談だ。九巻が見つからなかったせいで僕がどれほど苦労したか、書架の端から端まで一日かけて探して頭から埃にまみれて……
「……正規の手続きで借りたら図書カードに名前が残ってしまうだろう」
合点がいった。
正規の手続きで借りたら図書カードに名前が記録され、次に借りる人物に知られてしまう。副所長の見栄だかエリートの矜持だか知らないが、それに気後れした安田は無許可で本を持ち出したのだろう。
「……あきれた男だな。もはや敬語を使う価値すら見出せない、図書カードに記入せず無断で本を持ち出すなど最低の犯罪行為だ。僕個人の法的見地から述べさせてもらえば器物破損より罪が重い」
「反省している」
一介の囚人が副所長を叱責する、という立場逆転の図を第三者に目撃されたら問題に発展したかもしれない。素直に謝罪した安田が図書室の扉の前に立ち、背広のポケットから鍵束をとりだし、中のひとつを鍵穴にさしこむ。僕が凱たちに犯されようとしてる現場に通りかかったのも、人目がない時間帯を選んでこそこそ本を返しにきたからだろう。
「副所長」
両開きの扉を開け、図書室の中に足を踏み入れようとしていた安田が振りかえる。
まだ何かあるのだろうか、と眼鏡越しの双眸を細めた安田と対峙し、できるだけ平静を装い眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……読み終わったのなら僕に貸してください」
戻ってくるのをずっと待っていたのだから、これくらい言う権利はあるだろう。
蛍光灯が白白と輝く廊下の真ん中に図書室の扉を背にして佇んでいる。皺ひとつないダークグレーのスーツを隙なく着込み、シャツの白さを際立たせるアクセントとして濃い暗色のネクタイを結んでいる。無機質かつ無彩色かつ無表情の三拍子が揃った容姿から漂いだしているのは、選良のプライドに根付いた威圧的なオーラ。銀縁眼鏡がよく似合う理知的な細面は端正だが無個性で、規範を逸脱することを何より嫌うエリートの典型ともいえる面白みのない容姿の中、剃刀のような知性を帯びた双眸だけが強い印象を与えた。
「手を放したまえ」
冷たい声で安田が命じ、僕を組み伏せていた凱が言われたとおりにする。行為に水をさした招かれざる闖入者、それも東京プリズン副所長の地位にある人間に命令されては従わぬわけにいかない。荒い舌打ちとともに僕の肩を突き飛ばして立ちあがった凱が仲間に顎をしゃくって後方に下がらせる。
安田と目が合う。
床に座りこんだ僕は酷い状態をしていた。上着の裾は胸まではだけられて臍が露出し、ズボンは下着が覗くまで引き下げられていた。これから何をされようとしていたのか一目瞭然の状況だ。上着の裾をおろし、丁寧に皺を伸ばしてからズボンを穿く。服に付着した埃をはたき落としながら腰を上げれば、安田が落ち着いた声で凱たちを問い詰めていた。
「こんな時間に何をしている?消灯時間過ぎてからの外出は規則で禁止されてるはずだが」
「すいません、ちょっと外の空気を吸いたくなったもんで……な、そうだろみんな?」
「そうそう」
「凱さんの言うとおり」
「眠れなかったからちょっとそこまで散歩に出かけただけです、なーんも悪いことなんかしてませんよ」
反省の素振りもなく凱とその取り巻きたちが身の潔白を訴える。凱に追従して次々に声をあげる少年たちを冷ややかに一瞥、その視線が僕の顔へと降りてくる。
「彼に何をしたんだ?」
「ちょっと遊んでただけですよ」
腰に手を当てた凱がおどけたふりで肩を竦める。
「この親殺し、おっともとい、ネクラ眼鏡が夜中ひとりでほっつき歩いてたもんだから注意してやろうと思いましてね。夜中にひとりで出歩くなんて自殺行為だ、他の囚人に襲われてケツ剥かれても文句言えねえ。一回痛い目見たらもうこんな馬鹿な真似しないでしょう。はは、親切だよな俺たち」
「凱さんは優しいから」
「ほうっとけないんですよ、危なっかしい奴が」
「貧弱で生っ白いくせして、自分がどんだけ男誘惑する犯ってくださいオーラ撒き散らしてるか自覚もなくほっつき歩いてるようなガキがね」
「自業自得だよ」
「そうだ、自業自得だ。ここをどこだと思ってんだ、リンチとレイプが年中行事の東京プリズンだぜ?深夜に出歩くのがどんだけ危険かわかってんのかよ、狼の群れに襲われて内蔵食い散らかされても知らねえぜ」
「よかったな、俺たちが心優しいオオカミさんでよ」
「黙れ」
その一声で廊下に渦巻いていた野次と嘲笑がぴたりと止む。廊下の真ん中に立ち、体格はそう変わらないどころか自分より筋骨逞しい凱を含めた九人の少年と対峙した安田が底光りするレンズの奥から命じる。
「独居房送りにされるのが嫌なら今すぐ自分の房に帰れ。今ならまだ見逃してやる」
「独居房」の脅しは効果抜群だった。
安田が介入してもなお人を食った態度を改めなかった凱たちの間にざわめきが走り、全員が怯えたようにを見合わせる。一列に並んだ少年たちを眼光鋭く睥睨した安田が、内心の恐怖を押し殺し、先頭に仁王立ちしていた凱を視線で射竦める。
前出以外の選択肢を許さない強圧的な眼差し、無言の脅迫。
「……ちっ。お前ら、帰るぞ」
横柄に顎をしゃっくり、取り巻きたちを率いて踵を返した凱がすれ違いざま僕の耳元で囁く。
「レイジとサムライに伝えとけ。東棟最大勢力を率いるこの俺様が必ずお前らを殺してやるってな」
「伝えるのはかまわないが、無意味だな」
「なんだと?」
気色ばんだ凱に体ごと向き直り、泥で汚れた顔に笑みを浮かべる。
「無知な君のために教えてやるが、脅迫とは強者が弱者にするからこそ効力を発揮するんだ」
「…………屁理屈メガネが。俺に押し倒されて抵抗ひとつしなかったくせによ」
口汚く毒づいた凱がいやな笑みを浮かべる。
「俺がレイジを倒して東棟のトップになったらさっきみたいに四つん這いにして飼ってやるよ。たのしみにしてな」
安田には聞こえない声で囁いた凱がすばやく尻を撫でて去ってゆく。廊下に響き渡る濁った哄笑もやがて消え、再び耳が痛くなるような静寂が降り積もる。蛍光灯の信管が爆ぜる耳障りな音が、目には見えない蝿の羽音のように鼓膜に付き纏っている。哄笑の余韻が今だたゆたってるような不均衡な静寂の中、安田と二人きりで廊下に取り残された僕は俯き加減に上着の裾を払っていた。廊下に押し倒されたときに埃やら泥やらが付着して酷い有様だ。こんな風体で帰ったらサムライに怪しまれてしまう。
顔を伏せて立ち尽くしていた僕に安田が声をかけてくる。
「君は何をしてるんだ?深夜の外出は規則違反だぞ」
「何をしてるんでしょうね」
鸚鵡返しの嫌味ではなく本当に疑問だった。何故自分がここにいるのかわからない。夢遊病者のように無意識に出歩いて気付いたらここにいましたなんて言えない。気まずく押し黙った僕になにを思ったか、安田がため息をついてそばの壁に凭れる。
「……彼らの肩を持つわけではないが、消灯時間過ぎてから廊下をふらついてたら危険に遭遇しても仕方ない。自己責任だ。もう少し自分を大事にしたらどうだ」
「自分を大事にしろなんて偉そうに説教する前に刑務所の治安を改善してください。仮にも副所長なんでしょう」
「……私も努力はしている」
「口だけならなんとでも言える」
前にもおなじやりとりをした。つい数日前、サムライが僕を庇って右手を捻ったときだ。サムライが医務室で診療を受けてるあいだ、こうして廊下に立ち、今とおなじように二人並んで壁に凭れかかって立ち話をした。ほんの数日前のことをやけに懐かしく感じながら足元の床を見下ろす。
「何故抵抗しなかったんだ」
「どこから見ていたんですか?」
「君が上着を脱がされかけたところから」
「……抵抗しても疲れるだけだ。それにあの人数では僕に勝ち目はない。相手は凱を含めて九人、全員が喧嘩慣れしていて僕など比較にならないほどに体格と腕力に恵まれてる。抵抗したら余分に殴られるだけだ、そんな非効率的なことはしたくない。大人しく抱かせてやれば彼らもじきに飽きるだろう」
「投げやりだな」
「東京プリズンの常識です」
そっけなく返し、ふいに笑い出したくなる。入所たった半年で東京プリズンの常識を語れるほど馴染んでしまったのか、僕は。東京プリズンの劣悪な環境に感化されて一般社会で通じる倫理観が破壊されてしまったのだとしたら本末転倒だ。
自嘲的に含み笑いした横顔に体温の低い視線を感じる。安田がじっと僕を見つめている。言いたいことがあるなら直接口にだせばいいのにまわりくどい男だ、と辟易しながら気付かぬふりで無視を決め込めば隣から衣擦れの音。スーツの背広を探り、安田が取り出したのは綺麗に折り畳まれた濃紺のハンカチ。皺ひとつない清潔なハンカチを手に持った安田をちらりと一瞥すれば、おもむろに手を掲げ、ハンカチを僕の頬に押し当てようと―
手。
体を這い回る手。
「!―っ、」
力一杯手を払われた衝撃でハンカチが床に落ちる。僕の眼前に手を翳したまま、安田は顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
「さわるな。吐き気がする」
僕を覗きこんだ安田の顔に一瞬悲痛な色が浮かぶ。おそらく今の僕は、生理的嫌悪と恐怖とが綯い交ぜになったさぞ醜い顔をしてることだろう。よそよそしく視線を外し、足元を見る。安田に触れられると直感した瞬間一斉に肌が粟立ち、冷静沈着な僕らしからぬ激烈な拒絶反応を示してしまった。僕の頬に付着した泥汚れを拭おうとして手厳しく拒絶された安田が中腰に屈み、軽く払ってからハンカチを拾い上げ、背広に戻す。
「ひとに触れられるのはまだ怖いか」
「怖いんじゃない。虫唾が走るほど不快なだけだ」
落ち着け、動揺のあまり敬語を忘れてるじゃないか。深呼吸して気持ちを落ち着けてから服の袖で頬を拭い、泥汚れを落とす。
「今夜の君は普段にも増して不安定だな。何かあったのか?」
「……副所長ともあろう立場の人間がただの囚人に興味をもちすぎです。そんなに面白いですか、かつてはIQ180の天才児ともてはやされ将来を嘱望された僕が人間の屑の親殺しとして虐げられるさまを観察するのが。いい具合に倒錯した趣味をしてますね」
「ひねくれてるな相変わらず」
安田がかすかに苦笑する気配が伝わってきた。安田と話してると「同族嫌悪」という言葉を連想する。それからしばらく二人無言で壁に背中を預けていたが、五分が経過した頃に前を向いたまま安田が口を開く。
「今の君は自暴自棄になっている。危険な兆候だ。辛いことがあるなら友人を頼ればいい」
「友人とはサムライのことですか」
「それ以外にだれがいる?」
「だれもいません」
「ひとりで抱え込むには限界がある。心が壊れるまえに友人に相談したらどうだ」
「副所長」
これ以上安田の賢しげな助言を聞くに自制心を消耗し、体ごと安田に向き直る。名前ではなく役職名で呼ばれた安田がかすかに意外げに目を見張る。等間隔に並んだ蛍光灯の下、青白く発光する信管に濃く焼き付けられた影が廊下にのびている。
足元の影を踏んで安田と対峙し、眼鏡の奥から反抗的な目つきで睨みつける。
「あなたは独身ですか」
「……ああ。今現在は未婚だが」
脈絡ない質問に当惑しながら安田が否定する。体の芯で燻っていた怒りが凍結、双眸の温度と比例して急速に声が冷えてゆくのがわかる。
「既婚歴も離婚歴もない?」
「ああ」
「兄弟はいますか?」
「いや」
「家族に『死ね』と言われたことは?」
続く言葉を喪失し、安田が黙りこむ。僕の頭の中では夕闇の房で見た一枚の絵が焼き付いてる。恵が描いた絵。拙い家族の肖像。僕だけがいない家族の絵。あれが恵が理想とした家族なら、恵が長い間欲しがってた家族の姿だというなら僕がこれまでしてきたことは何だったんだ?すべて無意味じゃないか。
伯母夫婦のもとで恵が幸せになってくれるならそれで良かった。
鍵屋崎夫妻が与えてくれなかった愛情を注がれ、健やかに穏やかに育ってくれるならそれでよかったのだ。恵が幸せにある代償として僕が東京プリズンに送られたのなら何の不満もない。伯母夫婦のもとで愛情を注がれ、無邪気に笑ってるだろう恵を心の支えにすれば過酷な強制労働にも不味い食事にも幼稚ないやがらせにも耐えられたのだ。
ところがどうだ?
結局僕がしたことで恵は不幸になってしまったじゃないか。恵が渇望していた「家族」を永遠に葬り去ってしまったじゃないか。精神病院送りにされ白い部屋の中で奇声を発して暴れてベルトでベッドに拘束されて、食事さえまともに受けつけずに点滴のチューブを抜いて暴れて……恵をそこまで追い詰めたのは僕だ、すべて僕が悪い。何が天才だ、何が兄だ。結局僕は恵のためになにもできなかったじゃないか、恵を以前よりさらに、各段に不幸にしただけで終わってしまったじゃないか。どんなに知能指数が高くても知力が優れていても何の役にも立たない、幼い妹ひとり救えない無力でぶざまで最低な人間なのだ鍵屋崎直は。
何故鍵屋崎優と恵が死んで、ふたりを殺した僕がのうのうと生きてるんだろう。
そんなこと恵はちっとも望んでないのに。
「……鍵屋崎優と由香利を身近に感じたことは一度もない。彼らは僕のことを後継者として見ていたから教育には熱心でもその他のことには徹底的に無関心だった。彼らを家族と思ったことは一度もない、一つ屋根の下に暮らしてる他人だと思っていた」
僕の家族は恵ただひとりだった。
恵を守るためならなんでもした。両親だって殺せた。恵にとっての僕はただの「おにいちゃん」で、僕が天才だろうがそうでなかろうがその呼び方はきっと変わらなくて。
ただそれだけが嬉しかった。
「以前こんなことがありました。4・5年前、鍵屋崎夫妻が遺伝子工学の分野で画期的理論を構築して、一躍有名になりマスコミから取材を受けたときです。僕は10歳かそこらで恵は5歳でした。父の研究に関与していた僕も両親と一緒に取材を受け、その写真が紙面に掲載されることになりました。恵は呼ばれませんでした。何故恵だけ抜かしたのかと父に聞けばこう返されました」
目を閉じる。まだ鮮明に覚えている、あの時鍵屋崎優がそっけなく口にした言葉を。侮蔑的な眼差しを。
「『恵は必要ないからだ』と」
そうだ、鍵屋崎優は「必要ない」と言ったんだ。聞き間違えようもなくはっきりと、当たり前のことを諭すように僕にむかって。
「恵は研究に一切関与してないから呼ぶ意味がないと、彼はそう言いました。そんなこともわからないのかと嘆かわしげな顔をして。僕は頼みました、次に取材がきたときは恵も混ぜてくれと。家族全員で写真を撮らせてあげてくれと」
鍵屋崎優は言う通りにした。普段自己主張しない僕が必死に頼んだのが効いたらしい、次回から渋々恵を呼んでくれるようになった。
「でも、新聞に掲載された写真では恵はいつも申し訳そうな顔をしてました」
自分がここにいるのが場違いだといわんばかりにしおらしく俯いたその姿。自分が必要とされてないことを空気で感じ取り、すまなそうにうなだれた姿。
僕がよかれと思ってしたことはいつも裏目にでて恵を哀しませてばかりいる。今だってそうだ、恵の為に、恵を守る為に両親を刺殺したことで恵がどれだけ傷ついて心を閉ざしてしまったか……
恵と僕には血のつながりがない。恵は鍵屋崎夫妻の実子で、僕は違う。でも僕は鍵屋崎夫妻に必要とされていた、自分達が老いた将来研究を継がせる人材として優秀な後継者として彼らは僕を養育した。
彼らが必要としたのは僕の天才としての「能力」で、「鍵屋崎直」という一人の人間じゃない。
それなら名前なんて必要ない。本名など無意味だ。「鍵屋崎直」は便宜上の記号にすぎない。研究を継がせるため、試験管の中で精子と卵子を結合させ人工的に創造した天才児だから僕は「直」と名づけられた。
ユズルの次にくるのはスグル。何の願いも夢もこめられてない語呂合せの産物。
ただの人材。
「馬鹿な、今の状態じゃ需要と供給が成立しない。僕はだれかを必要とするばかりでだれからも必要とされない、たった一人の妹にだって必要とされてないのが現状で。僕は恵を守ることで恵に必要とされたかったのに、恵に必要な人間になりたかったのに、その結果がこれか?どうしてだ、なんでこうなってしまうんだ。両親を殺害したときもまったく後悔はしなかった、恵を軽んじた両親など死んで当然だとさえ思っていた。鍵屋崎優と由香利を殺せば恵が二度と無神経な言動に傷つくことがないと、自分が身代わりになって妹を守り通した気にさえなって」
遠くから聞こえる雨の音、雨の音にかき消される悲鳴。
血が滴るナイフを片手にさげ、薄暗い書斎に立ち尽くす僕。部屋の隅に追い詰められた恵。恐怖に硬直した表情。うつ伏せに倒れ伏せ、徐徐に体温と血を失いつつある両親の遺体―……
「僕のしたことは全部無駄だった。恵にとっても、サムライにとっても」
僕が助けなど求めなければサムライが死地に赴くこともなく利き手を痛めることもなかったのだ。どうしてこんなことになったんだ、恵もサムライも傷つけたくなどなかったのに―……
僕がしたことは全部無駄だった。もう、疲れた。
「鍵屋崎 直」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
安田がまっすぐにこちらを見ていた。逃げを許さない眼差しで。
「君がしたことが迷惑だと、サムライがそう言ったのか?」
「………いいえ」
「なら、ひとりで決めつけるのはよせ。友人に対して失礼だろう」
叱りつけるような声だった。
安田がゆっくりとこちらに向き直る。眼鏡越しの目には僕の心をざわつかせる透徹した光。
「君が傷ついたら哀しむ人間がいることを忘れるな。自分を粗末にしたら怒る人間がいると肝に銘じておけ。君は一人だが独りじゃない、君のために泣いてくれる人間がいるかぎりは」
安田の言葉に記憶がよみがえる。
売春班の仕事場に僕を訪ねてきたサムライの涙を。眼鏡をかけてないせいで顔はよく見えなかったが、あの時、彼はたしかに泣いていた。頬に落ちた涙が熱かった。堪えても堪えきれずに声が震えていた。
ああ、そうか。
自分のために泣けない僕の代わりに、サムライが泣いてくれるのか。
目は乾いていた。涙はでなかった。
でも、少しだけ、ほんの少しだけ救われた心地になった。心の空洞を埋めるように温かいものが胸を満たし、恵の絵に僕がいなくても泣かずにすんだのはそばにサムライがいたからだと気付いた。
「泣くのが下手な人間のそばには代わりに泣いてくれる人間がいるはずだ。必ず」
「あなたのそばにもそんな奇特な人間がいるんですか?物好きな」
「皮肉を言う元気がでてきたみたいじゃないか」
何故か嬉しそうに微笑んだ安田が背広のポケットに手をさしいれ、何かを取り出す。てのひらには一粒の錠剤。
「さっき医務室でもらってきた睡眠薬だ。どうしても眠れない場合はこれを服用しろ」
驚いた。
「いいんですか、副所長が勝手なことして。貴方に処方された薬でしょう」
「私には残りがある。それに東京プリズンの不眠症患者は君だけではない、自分が犯した罪の重さに苛まれて眠れない囚人は他にもたくさんいる。そんな囚人から『睡眠薬を処方してくれ』と要望がでてな、近々重度の不眠症に苦しんでる囚人にかぎり睡眠薬を処方する懸案がでてる。いい機会だ、君には試験体一号になってほしい」
咎めるような目をした僕の手に錠剤を乗せ、悪びれたふうもなく安田が言う。
「くれぐれも睡眠薬の服用自殺など図るなよ」
「副所長は自殺幇助の疑いで更迭されますね」
「おい」
気色ばんだ安田を無視し、手渡された錠剤をズボンのポケットにしまいこむ。
「冗談です。この僕が自殺なんて無様な真似するわけない。見損ないでくれますか」
睡眠薬を受け取り、踵を返す。夜が更けて本格的に寒くなってきた、これ以上立ち話してたら凍死してしまう。サムライが異変に気付く前に房に戻らなければ……安田とすれちがいざま、彼が小脇に抱えてる本に目がとまる。腰の後ろに隠していたせいで今まで全然気付かなかった。
「なんですかそれ」
「え?」
いついかなるときも冷静沈着な安田に似つかわしくないうろたえた声だった。
安田の小脇に目を凝らし、目を見張る。
以前ヨンイルが紛失したと騒いでいたブラックジャック九巻だった。
「犯人は貴方だったんですか!?」
意外すぎる事実が発覚し、廊下中に響き渡る大声で叫んでしまった。片手に隠し持っていた本を見咎められた安田がついぞ僕が見たことのない表情で焦る。
「ああ。囚人間で面白いと評判だし、その、少し興味がでてな……一巻から八巻までは図書室で読んだのだがこの巻には興味深いエピソードがあってじっくり読みたくて」
「何故正規の手続きを踏んで借りなかったんですか、盗みは犯罪でもないと思ってるんですか」
追及する声にも怒りがこもる。落ち着け、冷静になれと理性が命じるが僕が読みたくて探していた九巻をよりにもよって副所長の安田が持ち出したと発覚した今じゃ無理な相談だ。九巻が見つからなかったせいで僕がどれほど苦労したか、書架の端から端まで一日かけて探して頭から埃にまみれて……
「……正規の手続きで借りたら図書カードに名前が残ってしまうだろう」
合点がいった。
正規の手続きで借りたら図書カードに名前が記録され、次に借りる人物に知られてしまう。副所長の見栄だかエリートの矜持だか知らないが、それに気後れした安田は無許可で本を持ち出したのだろう。
「……あきれた男だな。もはや敬語を使う価値すら見出せない、図書カードに記入せず無断で本を持ち出すなど最低の犯罪行為だ。僕個人の法的見地から述べさせてもらえば器物破損より罪が重い」
「反省している」
一介の囚人が副所長を叱責する、という立場逆転の図を第三者に目撃されたら問題に発展したかもしれない。素直に謝罪した安田が図書室の扉の前に立ち、背広のポケットから鍵束をとりだし、中のひとつを鍵穴にさしこむ。僕が凱たちに犯されようとしてる現場に通りかかったのも、人目がない時間帯を選んでこそこそ本を返しにきたからだろう。
「副所長」
両開きの扉を開け、図書室の中に足を踏み入れようとしていた安田が振りかえる。
まだ何かあるのだろうか、と眼鏡越しの双眸を細めた安田と対峙し、できるだけ平静を装い眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……読み終わったのなら僕に貸してください」
戻ってくるのをずっと待っていたのだから、これくらい言う権利はあるだろう。
十九話
(2005/12/27) 早くも一週間が経った。
レイジとサムライが仲違いした前回のペア戦から一週間、二人は一度も口をきかず食堂で顔を合わせても見て見ぬふりしてむっつり黙り込んでる。レイジはサムライのことなんか知ったこっちゃないとそっぽを向き、サムライもレイジのことなんか知ったこっちゃないとポーカーフェイスに徹して箸をとってる。レイジとサムライに挟まれて苦労してる俺と鍵屋崎はいい迷惑で、俺は何度となく「ガキっぽい真似はやめて仲直りしろ」と正座させて説教したのだがレイジはまともに取り合わずあくびばかりしてる。
サムライも同様で、鍵屋崎がいくら説得しても顔を縦に振ろうとしない。普段おちゃらけてるレイジだが、相棒のサムライに右手の捻挫を隠されていたのが相当こたえたらしい。俺は悪くない、悪いのはサムライだ、サムライが謝るなら許してやるの自己中三段論法を頑として譲らず年下の俺を手こずらせてばかりだ。サムライもあれで相当頑固者だから、自分に非があると認めて頭を下げるのは武士の見栄だかなんだかに関わる重大事なのだろう。
そして何も進展がないまま今日を迎え、ペア戦第二幕が切って落とされた。
試合開始十分前。
今日のこの日を楽しみに過酷な強制労働に耐えぬいた東西南北の囚人ががやがや騒ぎながら地下空間にくりだしてくる。週末の夜に催される東京プリズン最大の娯楽行事、ブラックワーク娯楽班の無差別格闘技を観にやってきた囚人に先輩も新入りも関係ない。そろそろ年季も明けようかという二十歳ぎりぎりの囚人から俺とそう変わらない年頃の小柄なガキまではしゃぎまくって金網のフェンスに群がってる。喧嘩好きが高じて相手を殴り殺して東京プリズンに送られたガキには、返り血のしぶきがかかる距離で繰り広げられる囚人同士の殺し合いは血沸き肉踊る最高の催しなのだ。
力こそすべて、勝利こそすべて。
レイジの100人抜きを阻止せよと名乗りを上げた連中の中には東棟の人間も多くいた。大半は凱の子分で、目の上のたんこぶ的存在のレイジを完膚なきまでに打ち負かしてブラックワーク覇者の名声と東棟トップを地位をぶんどろうと目論んでる。
今日の第一試合で、レイジ・サムライペアは早速凱の子分とぶつかった。
「いいのかよ」
「いいんだよ」
先鋒で出陣したサムライを見送りながら傍らのレイジを睨めば、ふてくされたように鼻を鳴らされた。サムライの右手の怪我はこの一週間でだいぶ良くなったらしいが不安は残る。レイジが先鋒として出場したほうが無難じゃないかとさんざん口を挟んだのだが、サムライはもとよりレイジまでが「いや、これでいく」と頑固に言い張ったせいで順番は逆転することなく、右手の包帯が外れないサムライがリングに立つことになった。
試合開始のベルが鳴り響く。
挑戦者の武器はヌンチャクだった。風切る唸りをあげてヌンチャクを振りまわしながらじりじりと間合いを詰めてゆくガキとは対照的にサムライは一歩もそこを動かない。木刀を正眼に構えた姿勢で微動だにせず挑戦者を威圧している。
「右手の怪我は治ったのか?」
「心配無用だ」
ヌンチャクを旋回させながらの揶揄に短く返したサムライの右手首には包帯が巻かれている。一週間が経ってだいぶ腫れは引いたらしいが、大事を見て安静にしてなければ患部が悪化してしまうかもしれない。金網にしがみついてサムライを見守ってる俺の横で、鍵屋崎も少し不安げな顔をしていた。
勢いよく投擲されたヌンチャクが右手首をかすめ、袖口がふわりとふくらむ。
「!危ねっ」
完璧にあてにきていた。間一髪、身をかわしてヌンチャクの直撃を避けたサムライに降り注ぐ罵声と怒号の嵐。いちばん見晴らしのよい最前列を独占していた凱とその取り巻き連中が一斉に金網を揺すりたて、右手への集中攻撃に苦戦中のサムライめがけ聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせ掛ける。
「避けるな、バーカ」
「おとなしくやられちまえ、腰抜けザムライが」
「右手怪我してんのに試合でんじゃねえよ、かっこつけが」
「チュンル、棒きれ振りまわすしか能のねえ日本人なんかぎたぎたにのしちまえ!中国人の意地見せてみろ!」
ペットボトルの水をがぶ飲みしつつ檄をとばす凱を筆頭に、金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、行儀悪く野次をとばす連中に苛立ちが募る。凱たちの声援に後押しされたガキが調子に乗って雄叫びをあげ、頭上でヌンチャクを大旋回。大昔に流行った香港の活劇映画さながら迫力満点にヌンチャクを旋回させ加速させ、投擲。
サムライが眼前に掲げた木刀がヌンチャクを弾く。あと一秒反応が遅れていたら顔面に直撃を受け、盛大に鼻血を噴いていたことだろう。へたしたら鼻骨が折れてたかもしれない。
「いい加減交代してやれよ」
「言う相手間違えてんじゃねえか?」
レイジの袖を引っ張りながら言えば鼻で笑って一蹴される。「サムライが苦戦してようが鼻血噴こうが俺には関係ないですよ」と他人事めいて取り澄ました横顔を殴りたくなる。はらはらとしっぱなしの俺をよそに、金網越しのリングでは華やかな大技が連続する大活劇が繰り広げられていた。手足の延長のように鎖を躍らせ、自由自在にヌンチャクを方向転換させつつ地面を蹴ってサムライに突進。頭蓋への致命傷を狙い、頭上に振り下ろされたヌンチャクを避けて横に跳躍したサムライが追撃を阻止すべく反射的に木刀を構える。目にもとまらぬ連続攻撃を苛烈な太刀筋でさばきつつ金網に沿って疾走するサムライ、その残像を目で追いながら余裕のない口ぶりで鍵屋崎が言う。
「ヌンチャクを受けとめるたびに右手首が痺れ、次の攻撃への反応が遅れてる。いかに補助の役割とはいえ右手が使えないのは不便だ」
「聞いたかレイジ、不便だとよ」
「不便でも不利じゃない。俺が出る幕ねえよ、今日の試合は」
「〜お前いい加減にしろよ、いつまでもガキみてえなこと言ってんじゃねえよ!」
「無茶言うなっつの。実際サムライが帰ってこなきゃどうしようもねえだろ」
「………」
レイジの言い分も最もだ。レイジがいくら交代したくても肝心のサムライが入り口に戻ってこなければ手と手を打ち合わせることができず、よってレイジがリングに上がることは許可されない。サムライがあくまで孤独な戦いに身を投じて木刀を振るいつづけるかぎり永遠に交代不可能なのだ。
もっとも今のレイジは、サムライを心配してしつこく声をかけたりはしない。腹の底じゃどう思ってるか知らないが、少なくとも表面上はポーカーフェイスで金網越しの死闘を眺めている。醒めた目と口元の笑みの組み合わせはひどく酷薄で、綺麗な顔形が売りの悪魔のようだ。
どうしちまったんだよ。
これは俺の知ってるレイジじゃない、いつもおちゃらけてくだらない冗談を吐いて俺をあきれさせる笑い上戸のレイジじゃない。相棒のサムライが右手の怪我にも負けずに歯を食いしばって頑張ってるってのに、応援の言葉ひとつかけず嘲笑してるなんて……
「らしくねえよ」
そりゃレイジの性格の悪さは一年と半年付き合ってきた俺がよく知ってるけど、少なくとも以前のレイジはこんなむかつく笑い方をしなかった。サムライはダチじゃなかったのかよ、ちょっと前まで相手にされなくてもおかまいなしに軽口叩いてたじゃねえかよ。レイジが俺のために100人抜きを決意してくれたのは嬉しい、感謝もしてる。でもサムライと仲違いしたまま、ずっとうやむやのまま100人抜きに挑まれるのはいやだ。
「らしくねえよ、お前。サムライは相棒だろ?一緒に戦う仲間だろ?なのになんで平気なツラして笑ってんだよ」
「じゃあ聞くけど、なにが俺らしいんだよ」
シャツの内側から金鎖を引っ張り出し、十字架をまさぐる。この前引きちぎった鎖は器用に結ばれて修復されていた。サムライの足元を穿ったヌンチャクがコンクリートの破片を散らすのを横目に続ける。
「金網にしがみついてがんばれーって応援すりゃいいのか?サムライは絶対負けねえから安心しろよってにこにこ笑って励ませば満足か?お断りだな。あんな頑固者応援するのまっぴらごめんだ、ひとりで勝手にやってりゃいいんだ。いいか、よく聞けよ。先に手を貸すの拒んだのはあいつだ、俺に頼らなくても勝てると宣言したのはサムライだ。だったら証明してもらおうじゃんか、時代遅れのサムライが刀一本でどこまでやれるか」
「本気で言ってんのかよ」
「本気」
十字架をまさぐりながら笑みを浮かべたレイジにやりきれなくなる。今のレイジには何を言っても無駄だ。もしサムライがヌンチャクに直撃され腕一本骨折したとしても指一本動かさずに変わらぬ笑みを浮かべていることだろう、そう痛感させる冷酷な双眸だった。
年上のくせにどこまで世話焼かせりゃ気が済むんだよ。
レイジを翻意させるのがバカらしくなってそっぽを向けば鍵屋崎の横顔が目に入る。深刻な横顔を眺めてるとなにか声をかけてやりたくなる。サムライの苦戦中に関係ない話をするのは気後れしたが、俺たちが焦慮に揉まれようが戦況が好転するわけじゃなし、せめて応援席の雰囲気だけでも明るくしようと気持ちを切り替える。
「妹からの手紙、なにが書いてあったんだ」
念願叶って届いた手紙を話題にだせば会話も弾むだろうと踏んだのに、何故か反応は芳しくなかった。変だ、シスコンの鍵屋崎が妹から手紙が届いて嬉しくないわけないのに。金網を掴んだ手が白く強張り、俯き加減の顔から表情が消え失せる。情緒不安定に黙りこんだ鍵屋崎を怪しみつつ、重苦しい雰囲気を蹴散らそうと明るい声で続ける。
「ほら、こないだ五十嵐から渡された手紙のことだよ。なんだよ照れてんのかよ、らしくねえ。半年ぶりに届いた妹からの手紙だろ、シスコンならシスコンらしく素直に喜べよ。なにが書いてあったんだ?おにいちゃん元気ですか、とか……」
正直身内から手紙が届いた鍵屋崎が羨ましかったが、卑屈な本音はおくびにもださず軽口を叩く。
鍵屋崎に手紙がきたんなら俺にもいつか手紙がくるかもしれない、嬉しい内容の手紙が……
「!そうだ、前に言ってた手紙ってこの事か。覚えてるだろ、手紙になに書けばいいか俺に相談してきて、お前本読むの好きだから最近読んだ本のこと書けばってアドバイスしたよな。どうだった、結果は。お前のことだから手塚治虫の漫画のここが好き、あそこが素晴らしいって延々書き綴って妹に引かれてそ……」
何が起きたのかわからなかった。
上下に視界がぶれ、襟首が締まる。鍵屋崎に襟首を締め上げられたのだと気付いたのは眼鏡越しの双眸に射竦められた時だ。
「黙れ」
鍵屋崎らしからぬ暴力的な振るまいに度肝を抜かれ、続く言葉を喪失する。力一杯襟首を締め上げられ、足裏が宙に浮く。
「なん、で怒るんだよ……俺なにか気にさわることでも言ったか!?」
「なれなれしく話しかけてくるな。不愉快だ」
手を触れてるのも汚いと俺の襟首を突き放した鍵屋崎が物言わずそっぽを向く。わけもわからず咳き込みながら鍵屋崎を見上げる。もう俺のことなんか視界からも思考からも閉め出しちまったんだろう、以前にも増してひややかで人を寄せ付けないバリアを築いた鍵屋崎に愕然とする。
「―っ!」
場を和ませようと話しかけたのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。
やり場のない怒りに駆られ、金網を蹴りつける。そりゃ少し調子に乗ってたことは認める、この頃鍵屋崎がだいぶ接しやすくなったから勘違いしちまったのも認める。でも何で?妹からの手紙をからかわれたぐらいでマジで腹立てるなんてシスコンも度が過ぎてる。
もう鍵屋崎のことなんかどうでもいい、放っとこう。
深呼吸で気を鎮め、正面に向き直る。試合は白熱していた。ヌンチャクは遠距離攻撃を得意とする武器だ。自分の身は安全圏においたまま鎖で飛距離を稼いで連続攻撃を仕掛けることができる。対するサムライは木刀での打ち合いを得意とする近接戦闘型で、必然戦況は不利にならざるをえない。相手の間合いに踏みこまなければ必殺の一撃を繰り出せず、劣勢に回らざるをえないサムライに焦れて声をかける。
「サムライ、負けんじゃねえ!武士の意地を見せてやれ!」
俺の声援に励まされたわけでもないだろうが、次の瞬間サムライが行動を起こした。
肩口めがけて振り下ろされたヌンチャクから素早く逃れ、頭を屈めた低姿勢で疾風の如く疾走。大旋回するヌンチャクの下をかいくぐり、一気に敵に接近。
「チュンル、下、下だ!」
金網によじのぼった凱が指示をとばすが、遅い。一瞬の隙をついて懐にもぐりこんできたサムライに慌てたガキが鎖を引き戻そうと手前に引いた刹那、楕円の軌道で舞い戻ってきた鎖を見据えてサムライが呟く。
「潔く巻かれろ」
棒で綿飴をすくいとるように木刀で鎖を絡めとり、何重にも鎖を巻いた木刀を横薙ぎに一閃。鎖の先端を握っていたガキが前のめりにたたらを踏み、今度は逆にサムライの懐へととびこんでゆく。
勝敗が決した。
無防備に晒されたガキの背中に、脊椎も痺れる一撃が振り下ろされる。木刀から外れた鎖がじゃらじゃらと鳴りながらサムライの足元にとぐろを巻く。
「本日の第一試合、勝者サムライ!!」
鎖に巻かれてもがき苦しむガキを興味なさげに一瞥、試合終了のリングに背を向けたサムライが大股に引き返してくる。勝利の爽快感とは無縁な仏頂面で、腕を振りすぎたせいで緩み、だらしなく垂れ下がった包帯を縛りなおしている。
「おつかれさん」
一試合終えて帰ってきたサムライを労ってやる。一時はどうなることかと危ぶんだがさすがサムライだ、一瞬で形勢逆転しちまった。このぶんなら俺が心配することもないだろう。ホッと胸を撫で下ろして傍らを見ればいつのまにかレイジがいなくなっていた。
あいつ、サムライの試合も見届けずにどこ行っちまったんだ?
とことん自己中な奴だとあきれはてた俺をちらりと一瞥し、サムライが言う。
「奴がいなくても問題ない。俺一人で勝てる」
サムライが名前を呼ぶのも不快げに「奴」と吐き捨てたことが、なんだか無性にやるせなかった。
レイジとサムライが仲違いした前回のペア戦から一週間、二人は一度も口をきかず食堂で顔を合わせても見て見ぬふりしてむっつり黙り込んでる。レイジはサムライのことなんか知ったこっちゃないとそっぽを向き、サムライもレイジのことなんか知ったこっちゃないとポーカーフェイスに徹して箸をとってる。レイジとサムライに挟まれて苦労してる俺と鍵屋崎はいい迷惑で、俺は何度となく「ガキっぽい真似はやめて仲直りしろ」と正座させて説教したのだがレイジはまともに取り合わずあくびばかりしてる。
サムライも同様で、鍵屋崎がいくら説得しても顔を縦に振ろうとしない。普段おちゃらけてるレイジだが、相棒のサムライに右手の捻挫を隠されていたのが相当こたえたらしい。俺は悪くない、悪いのはサムライだ、サムライが謝るなら許してやるの自己中三段論法を頑として譲らず年下の俺を手こずらせてばかりだ。サムライもあれで相当頑固者だから、自分に非があると認めて頭を下げるのは武士の見栄だかなんだかに関わる重大事なのだろう。
そして何も進展がないまま今日を迎え、ペア戦第二幕が切って落とされた。
試合開始十分前。
今日のこの日を楽しみに過酷な強制労働に耐えぬいた東西南北の囚人ががやがや騒ぎながら地下空間にくりだしてくる。週末の夜に催される東京プリズン最大の娯楽行事、ブラックワーク娯楽班の無差別格闘技を観にやってきた囚人に先輩も新入りも関係ない。そろそろ年季も明けようかという二十歳ぎりぎりの囚人から俺とそう変わらない年頃の小柄なガキまではしゃぎまくって金網のフェンスに群がってる。喧嘩好きが高じて相手を殴り殺して東京プリズンに送られたガキには、返り血のしぶきがかかる距離で繰り広げられる囚人同士の殺し合いは血沸き肉踊る最高の催しなのだ。
力こそすべて、勝利こそすべて。
レイジの100人抜きを阻止せよと名乗りを上げた連中の中には東棟の人間も多くいた。大半は凱の子分で、目の上のたんこぶ的存在のレイジを完膚なきまでに打ち負かしてブラックワーク覇者の名声と東棟トップを地位をぶんどろうと目論んでる。
今日の第一試合で、レイジ・サムライペアは早速凱の子分とぶつかった。
「いいのかよ」
「いいんだよ」
先鋒で出陣したサムライを見送りながら傍らのレイジを睨めば、ふてくされたように鼻を鳴らされた。サムライの右手の怪我はこの一週間でだいぶ良くなったらしいが不安は残る。レイジが先鋒として出場したほうが無難じゃないかとさんざん口を挟んだのだが、サムライはもとよりレイジまでが「いや、これでいく」と頑固に言い張ったせいで順番は逆転することなく、右手の包帯が外れないサムライがリングに立つことになった。
試合開始のベルが鳴り響く。
挑戦者の武器はヌンチャクだった。風切る唸りをあげてヌンチャクを振りまわしながらじりじりと間合いを詰めてゆくガキとは対照的にサムライは一歩もそこを動かない。木刀を正眼に構えた姿勢で微動だにせず挑戦者を威圧している。
「右手の怪我は治ったのか?」
「心配無用だ」
ヌンチャクを旋回させながらの揶揄に短く返したサムライの右手首には包帯が巻かれている。一週間が経ってだいぶ腫れは引いたらしいが、大事を見て安静にしてなければ患部が悪化してしまうかもしれない。金網にしがみついてサムライを見守ってる俺の横で、鍵屋崎も少し不安げな顔をしていた。
勢いよく投擲されたヌンチャクが右手首をかすめ、袖口がふわりとふくらむ。
「!危ねっ」
完璧にあてにきていた。間一髪、身をかわしてヌンチャクの直撃を避けたサムライに降り注ぐ罵声と怒号の嵐。いちばん見晴らしのよい最前列を独占していた凱とその取り巻き連中が一斉に金網を揺すりたて、右手への集中攻撃に苦戦中のサムライめがけ聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせ掛ける。
「避けるな、バーカ」
「おとなしくやられちまえ、腰抜けザムライが」
「右手怪我してんのに試合でんじゃねえよ、かっこつけが」
「チュンル、棒きれ振りまわすしか能のねえ日本人なんかぎたぎたにのしちまえ!中国人の意地見せてみろ!」
ペットボトルの水をがぶ飲みしつつ檄をとばす凱を筆頭に、金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、行儀悪く野次をとばす連中に苛立ちが募る。凱たちの声援に後押しされたガキが調子に乗って雄叫びをあげ、頭上でヌンチャクを大旋回。大昔に流行った香港の活劇映画さながら迫力満点にヌンチャクを旋回させ加速させ、投擲。
サムライが眼前に掲げた木刀がヌンチャクを弾く。あと一秒反応が遅れていたら顔面に直撃を受け、盛大に鼻血を噴いていたことだろう。へたしたら鼻骨が折れてたかもしれない。
「いい加減交代してやれよ」
「言う相手間違えてんじゃねえか?」
レイジの袖を引っ張りながら言えば鼻で笑って一蹴される。「サムライが苦戦してようが鼻血噴こうが俺には関係ないですよ」と他人事めいて取り澄ました横顔を殴りたくなる。はらはらとしっぱなしの俺をよそに、金網越しのリングでは華やかな大技が連続する大活劇が繰り広げられていた。手足の延長のように鎖を躍らせ、自由自在にヌンチャクを方向転換させつつ地面を蹴ってサムライに突進。頭蓋への致命傷を狙い、頭上に振り下ろされたヌンチャクを避けて横に跳躍したサムライが追撃を阻止すべく反射的に木刀を構える。目にもとまらぬ連続攻撃を苛烈な太刀筋でさばきつつ金網に沿って疾走するサムライ、その残像を目で追いながら余裕のない口ぶりで鍵屋崎が言う。
「ヌンチャクを受けとめるたびに右手首が痺れ、次の攻撃への反応が遅れてる。いかに補助の役割とはいえ右手が使えないのは不便だ」
「聞いたかレイジ、不便だとよ」
「不便でも不利じゃない。俺が出る幕ねえよ、今日の試合は」
「〜お前いい加減にしろよ、いつまでもガキみてえなこと言ってんじゃねえよ!」
「無茶言うなっつの。実際サムライが帰ってこなきゃどうしようもねえだろ」
「………」
レイジの言い分も最もだ。レイジがいくら交代したくても肝心のサムライが入り口に戻ってこなければ手と手を打ち合わせることができず、よってレイジがリングに上がることは許可されない。サムライがあくまで孤独な戦いに身を投じて木刀を振るいつづけるかぎり永遠に交代不可能なのだ。
もっとも今のレイジは、サムライを心配してしつこく声をかけたりはしない。腹の底じゃどう思ってるか知らないが、少なくとも表面上はポーカーフェイスで金網越しの死闘を眺めている。醒めた目と口元の笑みの組み合わせはひどく酷薄で、綺麗な顔形が売りの悪魔のようだ。
どうしちまったんだよ。
これは俺の知ってるレイジじゃない、いつもおちゃらけてくだらない冗談を吐いて俺をあきれさせる笑い上戸のレイジじゃない。相棒のサムライが右手の怪我にも負けずに歯を食いしばって頑張ってるってのに、応援の言葉ひとつかけず嘲笑してるなんて……
「らしくねえよ」
そりゃレイジの性格の悪さは一年と半年付き合ってきた俺がよく知ってるけど、少なくとも以前のレイジはこんなむかつく笑い方をしなかった。サムライはダチじゃなかったのかよ、ちょっと前まで相手にされなくてもおかまいなしに軽口叩いてたじゃねえかよ。レイジが俺のために100人抜きを決意してくれたのは嬉しい、感謝もしてる。でもサムライと仲違いしたまま、ずっとうやむやのまま100人抜きに挑まれるのはいやだ。
「らしくねえよ、お前。サムライは相棒だろ?一緒に戦う仲間だろ?なのになんで平気なツラして笑ってんだよ」
「じゃあ聞くけど、なにが俺らしいんだよ」
シャツの内側から金鎖を引っ張り出し、十字架をまさぐる。この前引きちぎった鎖は器用に結ばれて修復されていた。サムライの足元を穿ったヌンチャクがコンクリートの破片を散らすのを横目に続ける。
「金網にしがみついてがんばれーって応援すりゃいいのか?サムライは絶対負けねえから安心しろよってにこにこ笑って励ませば満足か?お断りだな。あんな頑固者応援するのまっぴらごめんだ、ひとりで勝手にやってりゃいいんだ。いいか、よく聞けよ。先に手を貸すの拒んだのはあいつだ、俺に頼らなくても勝てると宣言したのはサムライだ。だったら証明してもらおうじゃんか、時代遅れのサムライが刀一本でどこまでやれるか」
「本気で言ってんのかよ」
「本気」
十字架をまさぐりながら笑みを浮かべたレイジにやりきれなくなる。今のレイジには何を言っても無駄だ。もしサムライがヌンチャクに直撃され腕一本骨折したとしても指一本動かさずに変わらぬ笑みを浮かべていることだろう、そう痛感させる冷酷な双眸だった。
年上のくせにどこまで世話焼かせりゃ気が済むんだよ。
レイジを翻意させるのがバカらしくなってそっぽを向けば鍵屋崎の横顔が目に入る。深刻な横顔を眺めてるとなにか声をかけてやりたくなる。サムライの苦戦中に関係ない話をするのは気後れしたが、俺たちが焦慮に揉まれようが戦況が好転するわけじゃなし、せめて応援席の雰囲気だけでも明るくしようと気持ちを切り替える。
「妹からの手紙、なにが書いてあったんだ」
念願叶って届いた手紙を話題にだせば会話も弾むだろうと踏んだのに、何故か反応は芳しくなかった。変だ、シスコンの鍵屋崎が妹から手紙が届いて嬉しくないわけないのに。金網を掴んだ手が白く強張り、俯き加減の顔から表情が消え失せる。情緒不安定に黙りこんだ鍵屋崎を怪しみつつ、重苦しい雰囲気を蹴散らそうと明るい声で続ける。
「ほら、こないだ五十嵐から渡された手紙のことだよ。なんだよ照れてんのかよ、らしくねえ。半年ぶりに届いた妹からの手紙だろ、シスコンならシスコンらしく素直に喜べよ。なにが書いてあったんだ?おにいちゃん元気ですか、とか……」
正直身内から手紙が届いた鍵屋崎が羨ましかったが、卑屈な本音はおくびにもださず軽口を叩く。
鍵屋崎に手紙がきたんなら俺にもいつか手紙がくるかもしれない、嬉しい内容の手紙が……
「!そうだ、前に言ってた手紙ってこの事か。覚えてるだろ、手紙になに書けばいいか俺に相談してきて、お前本読むの好きだから最近読んだ本のこと書けばってアドバイスしたよな。どうだった、結果は。お前のことだから手塚治虫の漫画のここが好き、あそこが素晴らしいって延々書き綴って妹に引かれてそ……」
何が起きたのかわからなかった。
上下に視界がぶれ、襟首が締まる。鍵屋崎に襟首を締め上げられたのだと気付いたのは眼鏡越しの双眸に射竦められた時だ。
「黙れ」
鍵屋崎らしからぬ暴力的な振るまいに度肝を抜かれ、続く言葉を喪失する。力一杯襟首を締め上げられ、足裏が宙に浮く。
「なん、で怒るんだよ……俺なにか気にさわることでも言ったか!?」
「なれなれしく話しかけてくるな。不愉快だ」
手を触れてるのも汚いと俺の襟首を突き放した鍵屋崎が物言わずそっぽを向く。わけもわからず咳き込みながら鍵屋崎を見上げる。もう俺のことなんか視界からも思考からも閉め出しちまったんだろう、以前にも増してひややかで人を寄せ付けないバリアを築いた鍵屋崎に愕然とする。
「―っ!」
場を和ませようと話しかけたのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。
やり場のない怒りに駆られ、金網を蹴りつける。そりゃ少し調子に乗ってたことは認める、この頃鍵屋崎がだいぶ接しやすくなったから勘違いしちまったのも認める。でも何で?妹からの手紙をからかわれたぐらいでマジで腹立てるなんてシスコンも度が過ぎてる。
もう鍵屋崎のことなんかどうでもいい、放っとこう。
深呼吸で気を鎮め、正面に向き直る。試合は白熱していた。ヌンチャクは遠距離攻撃を得意とする武器だ。自分の身は安全圏においたまま鎖で飛距離を稼いで連続攻撃を仕掛けることができる。対するサムライは木刀での打ち合いを得意とする近接戦闘型で、必然戦況は不利にならざるをえない。相手の間合いに踏みこまなければ必殺の一撃を繰り出せず、劣勢に回らざるをえないサムライに焦れて声をかける。
「サムライ、負けんじゃねえ!武士の意地を見せてやれ!」
俺の声援に励まされたわけでもないだろうが、次の瞬間サムライが行動を起こした。
肩口めがけて振り下ろされたヌンチャクから素早く逃れ、頭を屈めた低姿勢で疾風の如く疾走。大旋回するヌンチャクの下をかいくぐり、一気に敵に接近。
「チュンル、下、下だ!」
金網によじのぼった凱が指示をとばすが、遅い。一瞬の隙をついて懐にもぐりこんできたサムライに慌てたガキが鎖を引き戻そうと手前に引いた刹那、楕円の軌道で舞い戻ってきた鎖を見据えてサムライが呟く。
「潔く巻かれろ」
棒で綿飴をすくいとるように木刀で鎖を絡めとり、何重にも鎖を巻いた木刀を横薙ぎに一閃。鎖の先端を握っていたガキが前のめりにたたらを踏み、今度は逆にサムライの懐へととびこんでゆく。
勝敗が決した。
無防備に晒されたガキの背中に、脊椎も痺れる一撃が振り下ろされる。木刀から外れた鎖がじゃらじゃらと鳴りながらサムライの足元にとぐろを巻く。
「本日の第一試合、勝者サムライ!!」
鎖に巻かれてもがき苦しむガキを興味なさげに一瞥、試合終了のリングに背を向けたサムライが大股に引き返してくる。勝利の爽快感とは無縁な仏頂面で、腕を振りすぎたせいで緩み、だらしなく垂れ下がった包帯を縛りなおしている。
「おつかれさん」
一試合終えて帰ってきたサムライを労ってやる。一時はどうなることかと危ぶんだがさすがサムライだ、一瞬で形勢逆転しちまった。このぶんなら俺が心配することもないだろう。ホッと胸を撫で下ろして傍らを見ればいつのまにかレイジがいなくなっていた。
あいつ、サムライの試合も見届けずにどこ行っちまったんだ?
とことん自己中な奴だとあきれはてた俺をちらりと一瞥し、サムライが言う。
「奴がいなくても問題ない。俺一人で勝てる」
サムライが名前を呼ぶのも不快げに「奴」と吐き捨てたことが、なんだか無性にやるせなかった。
二十話
(2005/12/26) むかつく。
いくら僕がちびだからってこの仕打ちはないんじゃない?頭くるよまったく。
ペア戦二週目にして50組100人抜きの14組目。今戦ってるのは先鋒サムライ、右手のハンデは技量と度量で克服。ヌンチャクやらナイフやら釘バッドやら、殺傷目的の凶器をひっさげて襲いかかってきたガキどもと木刀一本で互角以上に立ち回ってる……らしい。「らしい」と仮定するしかないのはリングが見えないからだ。
先週とおなじ過ちは犯さないとはりきって早めに来たのに、試合が始まってみれば我先にフェンスに殺到した人波に押し流され後方へと追いやられ、どんだけ背伸びしたってリングの様子が見えない始末。そりゃ確かに僕は140センチ台のちびだけどこれはちょっとあんまりだ。ま、僕が同年代平均を遥かに下回る小柄で貧弱な体躯なのは幼少期からクスリをやってたせいでもあるんだけど。いつまでたっても第二次成長期がこなくて声変わりもしてなくて、まだ脛毛だって薄いもんだからちょっと見女の子みたいに可愛い男の子を犯したいって親父にはウケがいいんだ。
東京プリズンにくる前、渋谷の売春組織をしきってた頃は小動物系の容姿と天使のボーイソプラノで変態親父をたぶらかしてたけどぺドフィリアに好評な半面世知辛い苦労も多いのだ。
「ちょっとどいてよ見えないよ、痛っ、押さないでよつぶれるっ!髪の毛引っ張るなよおい!」人ごみを掻き分け、少しでも前にでようと犬掻きしても無駄。試合に熱中した観客は僕のことなど目に入ってないらしい。ああもう、むさ苦しい。人いきれで窒息しそう。暑苦しく蒸した背中と背中に挟まれ、「サンドイッチにしても美味しくないよっ」ともがいてたら運良く人垣の綻びから抜け出ることができた。
「あー、ひどい目にあった……」
放心状態で額の汗を拭う。悔しいけど今日の試合観戦はあきらめたほうがいいかもしれない。今からじゃとてもリングが見える位置に陣取れないだろうし、ちびでやせっぽちの僕は力づくで場所をぶんどることもできない。最前列で幅を利かせてる凱たちが羨ましい、一等席を陣取るためによっぽど悪どい手を使ったんだろう。歓声飛び交うリングに背を向け、すごすごと退散しかけた視界の端を人影が過ぎる。
「ん?」
今まさに人垣を割り、歩み出してきたのは光の加減で金にも見える茶髪の男。傍らには肩で切り揃えた銀髪の男がいる。
レイジとサーシャだ。
「意外な組み合わせだ」
軽く口笛を吹く。檻の入り口脇じゃロンと鍵屋崎がサムライの勝利を信じて声援をとばしてるだろうに、肝心の交代要員がそしらぬふりで抜け出てきていいのだろうか。レイジもいい加減だな、と呆れたが人垣の外に出たふたりを見比べ様子がおかしいことに気付く。気配を消してレイジに接近、何事か耳打ちしてリングを囲む人の輪の外に連れ出したらしいサーシャが横柄に顎をしゃくる。サーシャが顎を振った方角には人けのない通路が延びていた。先に歩き出したサーシャに促されてレイジも歩き出す。サーシャに従って通路へと吸い込まれたレイジの後ろ姿に好奇心が疼きだす。
ふたりしてどこへ行く気だろう?
試合中のサムライを放っぽって誘いに応じたのだからそれなりのワケがあるんだろう。茶髪の王様と銀髪の皇帝、東と北の二大トップの内密のやりとりが気になり、通路に吸い込まれたふたりを追って駆け出す。
トンネルみたいに狭苦しい通路だった。
通路に足を踏み入れてしばらくすると潮が引くように歓声が遠のき、地下空間の熱狂が異世界の出来事のように感じられる。開放的な空間から閉塞的な空間へ、天井に設置された蛍光灯がちかちか瞬く通路を歩いてると一枚のドアが見えてきた。
サーシャがノブを捻り、先に中に入るようレイジを促す。とくに逆らうでもなく無防備に足を踏み入れたレイジに続いて扉を閉める。レイジとサーシャが入室したのを確認し、急ぎ足で駈け付ける。音がしないよう慎重にノブを捻り、わずかな隙間を開けて中を覗きこむ。どうやらボイラー室のようだ。四面の壁を埋めているのは間欠的に蒸気を噴出する大小無数の配管だ。幾何学的に交差した配管から噴き出された水蒸気がたちこめてるせいで中はサウナのように蒸し暑く、とてもじゃないが長時間いられそうにない。
気密性の高いボイラー室は人に聞かれたくない話にもってこいだ。
レイジとサーシャは右手の壁にいた。
壁に背中を凭れ、両手をポケットに突っ込んだ姿勢のレイジの正面に立っているのはサーシャ。
沈黙を破ったのはレイジだ。
「で?内緒話ってなに。今相棒が試合中なんだけど」
「相棒だと?は、諍いの最中のくせによく言う」
「北棟にまで噂出回ってんのかよ」
レイジがばつ悪げに舌打ち。が、すぐに表情を切り替える。
「こんな人目のないとこに俺連れ込んでなにする気だよ、おまえ。北の皇帝様ともあろうお方が東のイエローモンキーにデートに誘うなんてどういう風の吹き回し?お前を崇拝してる北のガキどもが知ったらがっかりだな、皇帝の威厳大暴落だ」
「貴様のように東の人間に忌み嫌われてる人望なき王と一緒にするな。私の家臣は皆忠実で従順だ、主への反逆などという愚かしいことをするはずがない。万一飼い主の手に噛みつけばどうなるか文字通り体に刻み付けてあるからな」
繊手を一閃、ポケットから抜き放ったのは銀光閃くナイフ。繊細かつ華麗な紋様が柄に彫られた見るからに高価そうな品で、無粋な武器というより好事家が収集する調度品の風格があった。目にもとまらぬ早さで鞘を振り捨て、レイジの顎に切っ先を擬したサーシャが微笑む。
「……なあ。世の中には聞かないほうが幸せなことがたくさんあるってわかっちゃいるんだけど、気になるからひとつ質問させて」
顎先に擬されたナイフに怯える素振りも見せず、切れ味鋭いナイフの重圧など微塵も感じてないさりげなさでレイジが口を開く。
「こないだ俺とやった北棟のガキいたじゃん。ほら、お前にナイフ貸してもらった」
「ああ」
「試合後、あいつどうなった」
「両足の親指と中指と小指を切り刻んだ」
「……やっぱ聞くんじゃなかった。もう一生まともに歩けないだろ、それ」
顔をしかめたレイジの顎先にナイフの切っ先が食いこむ。ナイフの刃に映ったのは人間らしさなど欠片もないアイスブルーの双眸。
「だからどうした?お前風情を倒せなかったのだから当然の処置だろう。獲物を狩れない猟犬は去勢される運命だ。切り刻まれたのが足の指で感謝されこそすれ恨まれる筋合いはない。奴も私の寛大さに恐れ入って歓喜の涙を滂沱と流していた」
「痛かったんだろ単純に。なんでも自分に都合いいよう解釈するのは誇大妄想の特徴だ、エセ皇帝の悪趣味に付き合わされる北のガキどもはたまったもんじゃねえ」
「偉そうに意見する気か?雑種が」
口汚く吐き捨てたサーシャが、レイジの顎にナイフの切っ先を沈めたまま視線をおろす。憎憎しげにレイジをねめつけていた視線が頬の輪郭をすべり、よく引き締まった首筋を舐め、シャツの襟ぐりから覗く鎖骨へと辿り着く。獲物を味見する蛇のように粘着質な視線に自分が観察されてるわけでもないのに鳥肌が立つ。
アイスブルーの双眸で青く燃える狂熱。
興奮に乾いた唇を湿らし、ともすれば手元が狂って頚動脈を切り裂きそうな危うさでレイジの顎先にナイフを向けたサーシャが呟く。
「……ああ、貴様は本当に汚い。その髪も目も肌もすべてが汚い。外見だけではなく品性と言動も卑しい、見てるだけで吐き気がする。何故貴様のように汚らわしい男が平然と王を名乗れる?東棟の頂点に君臨していられる?貴様に相応しい扱いは奴隷か家畜だ。奴隷に生まれついた者は死ぬまで奴隷、家畜に生まれついた者は死ぬまで家畜。お前の運命は生まれ落ちたときから決定していた、混血が雑種が、淫売の股から生まれた毛並みの茶色い犬が。なにを勘違いして王座にふんぞりかえっている?なにを勘違いしてブラックワークの王冠を戴いてる?貴様に相応しい装身具は黄金の王冠ではなく鉄の鎖、噛み癖を矯正する猿轡と首輪だろう」
無抵抗のレイジを言葉でいたぶってるあいだじゅうサーシャの目は炯炯と輝いていた。ナイフを顎先に突きつけられたレイジは終始醒めた目で悦に入るサーシャを眺めていたが、これ以上支離滅裂な誇大妄想に付き合わされるのに飽いたかため息まじりに両手を挙げる。
「そんなに王冠ほしけりゃ実力でぶんどってみろよ、相手してやるからさ」
「本当だな」
「しつこい男は嫌われるぜ」
うんざり気味に肩を竦めたレイジの顎からゆっくりとナイフがはなれてゆく。沈黙。絹糸の前髪が紗を落とす眼窩に氷の瞳が輝いている。ナイフの銀光に魅入られるが如く緩慢な動きで腕を振り上げるサーシャ。右手に握り締めたナイフの先端で巧みに上着の裾をはだけシャツの内側にもぐりこませる。シャツの内側を這いのぼってくるナイフを見下ろし、レイジが微笑する。
「なんのつもりだ」
「命令だ。相手になれ」
シャツの内側に片腕を突っ込まれてもなお動じないレイジの問いにサーシャが答える。
「売春班が受け持つ客は代わりに自分が引き受けると愚民どもの前で宣言しただろう?その場に居合わせた家臣に聞いた。なら相手になってもらおうではないか」
執拗に唇を舐めつつ、熱に浮かされたように呟いたサーシャがナイフを横に寝かせて素肌に密着させる。ナイフの刃から伝わったひんやりした感触に「つめて」と笑うレイジには怖気づいた様子など微塵もない。壁際に追い詰められ、服にナイフを突っ込まれてもまだ余裕ありげな物腰のレイジに嗜虐心をかきたてられたサーシャが刃を手前に引く。乾いた音をたてて生地の繊維が裂け、上着の胸から銀の先端がとびでる。
「私は女の体を切り刻みながら抱くのを好む。ナイフの刃が血に濡れるさまと苦痛と快楽のあいだで歪む顔とを見比べながら絶頂を迎えるのを好む。お前は聞いたことがあるか、火で熱したナイフでゆっくりと生皮剥がされる男の悲鳴を。お前は見たことがあるか、ナイフを口に入れられ閉じるに閉じられず涙を流す女の顔を」
「変態の寝言を通訳すると『たまってたまってはちきれそうだからヌかせてください』ってか」
胸の裂け目からこぼれたのは金色の光、シャツの内側に下げていた十字架だ。上着を破かれてもレイジはまったく動じずに笑みを浮かべている。すごい度胸だ、とあきれる。神経が図太いにも程がある。レイジには恐怖心がないのだろうか?今自分にナイフを突きつけてるのはその狂気では他の追随を許さない北の皇帝サーシャだ。いつナイフが翻って頚動脈を裂くかもわからない状況下で下ネタを口にできるなんてどうかしてる、命が惜しくないのだろうか。
突然、シャツの内側からナイフが引きぬかれる。
十字架の鎖を鳴らし、上着の裾をはためかせて素早く引きぬかれたナイフを鞘に納めたサーシャがレイジの襟首を掴む。いや、正確には襟首ではなく首元の金鎖だ。痩せた腕で毟り取るように金鎖を掴み、忌々しげに唸る。
「雑種の分際で私を愚弄するか?」
「サーシャ。痛いよ」
「随分と洒落た首輪じゃないか。穢れた混血のくせにキリストを崇拝してるのか?」
「苦しい」
「もっと苦しめ、泣け、喚け。そうだその顔だ、その顔が見たかったんだ。いいざまだ、いつもひとを小馬鹿にした笑みを浮かべてる東の王が私に膝を屈する日をどれほど待ち望んだことか。貴様のような雑種が極北の皇帝の末裔、純血ロシア人たるこの私をさしおいて頂点に君臨していいはずがない。いいかよく聞け、私の夢はこの極東の地に第二のロシア帝国を築くことだ。斜陽の祖国から独立し、第二のロシア帝国をこの地に打ちたてることで私は真の皇帝になる。手始めにまずこの刑務所を支配して囚人どもを征服する、侵略には手駒の軍勢が不可欠だからな。それには貴様が邪魔だ、目障りだ。貴様がいるかぎり私は頂点に立てない、東京プリズンを支配することができない。まったく忌々しい男だ、貴様さえいなければ万事うまくいったのだ。黄色い淫売の股から生まれた下賎な雑種は私の靴でも舐めていればいいものを」
嗜虐心に火がついたサーシャが力一杯鎖を引く。窒息の苦しみにレイジの顔が歪み、喉仏の上に食い込んだ鎖を掻き毟る。
レイジがよわよわしく苦痛を訴えたところでサーシャが手を緩めることはなく、もっと苦しめといわんばかりにますます力をこめてくる。壁に背をつけ、酸素が回らない頭でもがき苦しむレイジにサーシャが欲情してるのは一目瞭然。
汗にまみれて額にはりついた前髪。
薄らと上気した目尻。
熱っぽく潤んだ双眸。
酸素を欲して緩慢に開閉される唇。
苦痛の表情さえ淫らなレイジに我慢できなくなり鎖を掴んだ前傾姿勢から首筋に顔を埋める。
レイジの息遣いが次第に荒くなる。息の通り道を圧迫され満足に呼吸できない苦しみに溺れているのか、サーシャの舌が与える快楽に身を委ねはじめているのか傍目にはわからない。鎖を引く握力が緩む、と同時に首筋の性感帯を舌で探られる。寄せては返す波のように苦痛と快楽が交互に訪れるせいで、完全には理性を捨て去ることができない生殺しの状態が続く。苦鳴なのか喘ぎ声なのか判別しがたい低いうめきが漏れ、鎖をもてあそんでいた手が十字架に伸びる。
「淫売の雑種が、この程度で興奮しているのか?口ほどにもない王だ。今この場で跪いて私のものをくわえればこれまでの無礼は許してやってもいい。リングでの一騎打ちで四肢を切り刻まれるより恥をかかずにすむだろう?どうだ、半年前も言ったが私の愛玩犬にならないか。今ならまだ許してやる、半年前お前が私にしたことも独居房での屈辱の日々も全部水に流して可愛がってやる。こんな似合わない首輪など外してもっとふさわしい首輪をつけてやる」
サーシャの指が十字架に触れると同時にレイジの手から力がぬけ、だらりと垂れ下がる。もはや完全に抵抗を止めたレイジが緩慢な動作で腕を掲げ、そっとサーシャの頬に触れる。突然頬に触れられ動揺したサーシャをよそに、頬からすべりおちた手が首の後ろに回り、襟ぐりを広げるように内側へともぐりこむ。
伸びた襟ぐりから覗いたのは数えきれないほどの傷跡が浮いた胸板。
鎖骨の下辺にある傷跡を人さし指でたどり、浅い呼吸の間から哀れみ深く呟く。
「……可哀想に。痛かったろ」
サーシャが狼狽する気配が伝わってきた。
「なぐさめてやるよ」
頬にそえられた両手が顔を導いてゆく。壁際に追い詰められ身動きとれず、それまでサーシャの愛撫を一身に受けて呼吸を追い上げられていたレイジが一瞬で優位を奪い、先導する側に回った。
一瞬だけ顔と顔が重なり、唇と唇が触れ合う。
千回のキスを交わした恋人にするように手馴れてて、ひょっとしたら愛情を注がれているのではないかと錯覚させる仕草だった。
とんだ誤解だった。
「!!―っ、」
唇をおさえてあとじさるサーシャ。突き飛ばされ、だらしない姿勢で壁に凭れかかったレイジがぺろりと唇を舐める。
レイジの唇には血が付着していた。キスに見せかけてサーシャの唇を噛みちぎった返り血。
「なあ、元気でたろ?感謝しろよ、特別大サービスだ」
「貴様………、」
「たしかに俺は言ったよ、売春班のガキどもの代わりに抱かれてやるって。けどな、俺にも好みってもんがあるんだ。サーシャ、おまえキス下手すぎ。その程度のテクでイかせられるとでも思ってんのか、王様もなめられたもんだぜ。まあ首締めながら愛撫ってのはなかなか良かったよ、苦しいのと気持ちいいのとで長く続けられたら頭が変になっちまいそうだったし。女悦ばせる素質はあるよ、誉めてやるから有難く思え。あとはまあ、ナイフで切り刻みながらじゃねーと興奮しない変態性なおしてこい。俺を抱くのはそれからだ」
親指で唇の血を拭い、好戦的にレイジが笑う。
「『逆』ならいいぜ。今この場で抱いてやろうか?」
「後悔するぞ東の王」
唇の血を拭い、ゆらりと立ち上がったサーシャが冷たい声で言う。もうすっかり氷のポーカーフェイスを取り戻したらしい、壁に凭れたレイジの方は見向きもせずドアへと向かう。
やばい、こっち来る!
「貴様はリングで倒す。私の氷が溶ける前に勝ちあがって来い」
冷え冷えと宣言したサーシャがノブを捻り、ドアを開ける。危なかった。サーシャと入れ違いに曲がり角に身を隠した僕の視線の先、銀髪を振り乱したサーシャの後姿が遠ざかってゆく。サーシャの靴音が廊下に反響して消える頃、ポケットに両手をつっこんでボイラー室からでてきたレイジが虚空に声をかける。
「そこに隠れてる奴、十秒以内に出て来い」
嘘、なんでばれたんだ?
知らぬ存ぜぬでやりすごそうとしたが、どのみちレイジをどかさないかぎり廊下を通ることはできない。廊下の真ん中に陣取ったレイジが動く気配は微塵もない。根比べに音をあげたのは僕の方だ。「ワン、ツー、スリー……」と間の抜けたカウントが響く中、おとなしく両手を挙げて歩み出る。
「いつからわかってたの、隠れてるって」
「おまえがドア開けた時。地獄耳なんだよ」
自分の耳を指さしながらレイジが笑い、八秒数え終わった時点で廊下にでてきた僕と向き合う。ドアを開けたときから第三者の存在に気付いてたというが終始そんな素振りは見せなかった。
とことん食えない奴だ。
あきれ顔でレイジを眺めれば、サーシャにナイフを突きつけられたときもサーシャの唇を噛みちぎった瞬間も変わらず笑みを浮かべていた顔がふと曇る。
「今見たことロンに言うなよ」
「王様と皇帝が試合ほっぽらかしていちゃついてたって?バラしたら殺される?」
茶化して聞き返せば、首周りの痣を撫でながらレイジが肩を竦める。
「人聞き悪いこと言うな。せいぜい半殺しだよ」
いくら僕がちびだからってこの仕打ちはないんじゃない?頭くるよまったく。
ペア戦二週目にして50組100人抜きの14組目。今戦ってるのは先鋒サムライ、右手のハンデは技量と度量で克服。ヌンチャクやらナイフやら釘バッドやら、殺傷目的の凶器をひっさげて襲いかかってきたガキどもと木刀一本で互角以上に立ち回ってる……らしい。「らしい」と仮定するしかないのはリングが見えないからだ。
先週とおなじ過ちは犯さないとはりきって早めに来たのに、試合が始まってみれば我先にフェンスに殺到した人波に押し流され後方へと追いやられ、どんだけ背伸びしたってリングの様子が見えない始末。そりゃ確かに僕は140センチ台のちびだけどこれはちょっとあんまりだ。ま、僕が同年代平均を遥かに下回る小柄で貧弱な体躯なのは幼少期からクスリをやってたせいでもあるんだけど。いつまでたっても第二次成長期がこなくて声変わりもしてなくて、まだ脛毛だって薄いもんだからちょっと見女の子みたいに可愛い男の子を犯したいって親父にはウケがいいんだ。
東京プリズンにくる前、渋谷の売春組織をしきってた頃は小動物系の容姿と天使のボーイソプラノで変態親父をたぶらかしてたけどぺドフィリアに好評な半面世知辛い苦労も多いのだ。
「ちょっとどいてよ見えないよ、痛っ、押さないでよつぶれるっ!髪の毛引っ張るなよおい!」人ごみを掻き分け、少しでも前にでようと犬掻きしても無駄。試合に熱中した観客は僕のことなど目に入ってないらしい。ああもう、むさ苦しい。人いきれで窒息しそう。暑苦しく蒸した背中と背中に挟まれ、「サンドイッチにしても美味しくないよっ」ともがいてたら運良く人垣の綻びから抜け出ることができた。
「あー、ひどい目にあった……」
放心状態で額の汗を拭う。悔しいけど今日の試合観戦はあきらめたほうがいいかもしれない。今からじゃとてもリングが見える位置に陣取れないだろうし、ちびでやせっぽちの僕は力づくで場所をぶんどることもできない。最前列で幅を利かせてる凱たちが羨ましい、一等席を陣取るためによっぽど悪どい手を使ったんだろう。歓声飛び交うリングに背を向け、すごすごと退散しかけた視界の端を人影が過ぎる。
「ん?」
今まさに人垣を割り、歩み出してきたのは光の加減で金にも見える茶髪の男。傍らには肩で切り揃えた銀髪の男がいる。
レイジとサーシャだ。
「意外な組み合わせだ」
軽く口笛を吹く。檻の入り口脇じゃロンと鍵屋崎がサムライの勝利を信じて声援をとばしてるだろうに、肝心の交代要員がそしらぬふりで抜け出てきていいのだろうか。レイジもいい加減だな、と呆れたが人垣の外に出たふたりを見比べ様子がおかしいことに気付く。気配を消してレイジに接近、何事か耳打ちしてリングを囲む人の輪の外に連れ出したらしいサーシャが横柄に顎をしゃくる。サーシャが顎を振った方角には人けのない通路が延びていた。先に歩き出したサーシャに促されてレイジも歩き出す。サーシャに従って通路へと吸い込まれたレイジの後ろ姿に好奇心が疼きだす。
ふたりしてどこへ行く気だろう?
試合中のサムライを放っぽって誘いに応じたのだからそれなりのワケがあるんだろう。茶髪の王様と銀髪の皇帝、東と北の二大トップの内密のやりとりが気になり、通路に吸い込まれたふたりを追って駆け出す。
トンネルみたいに狭苦しい通路だった。
通路に足を踏み入れてしばらくすると潮が引くように歓声が遠のき、地下空間の熱狂が異世界の出来事のように感じられる。開放的な空間から閉塞的な空間へ、天井に設置された蛍光灯がちかちか瞬く通路を歩いてると一枚のドアが見えてきた。
サーシャがノブを捻り、先に中に入るようレイジを促す。とくに逆らうでもなく無防備に足を踏み入れたレイジに続いて扉を閉める。レイジとサーシャが入室したのを確認し、急ぎ足で駈け付ける。音がしないよう慎重にノブを捻り、わずかな隙間を開けて中を覗きこむ。どうやらボイラー室のようだ。四面の壁を埋めているのは間欠的に蒸気を噴出する大小無数の配管だ。幾何学的に交差した配管から噴き出された水蒸気がたちこめてるせいで中はサウナのように蒸し暑く、とてもじゃないが長時間いられそうにない。
気密性の高いボイラー室は人に聞かれたくない話にもってこいだ。
レイジとサーシャは右手の壁にいた。
壁に背中を凭れ、両手をポケットに突っ込んだ姿勢のレイジの正面に立っているのはサーシャ。
沈黙を破ったのはレイジだ。
「で?内緒話ってなに。今相棒が試合中なんだけど」
「相棒だと?は、諍いの最中のくせによく言う」
「北棟にまで噂出回ってんのかよ」
レイジがばつ悪げに舌打ち。が、すぐに表情を切り替える。
「こんな人目のないとこに俺連れ込んでなにする気だよ、おまえ。北の皇帝様ともあろうお方が東のイエローモンキーにデートに誘うなんてどういう風の吹き回し?お前を崇拝してる北のガキどもが知ったらがっかりだな、皇帝の威厳大暴落だ」
「貴様のように東の人間に忌み嫌われてる人望なき王と一緒にするな。私の家臣は皆忠実で従順だ、主への反逆などという愚かしいことをするはずがない。万一飼い主の手に噛みつけばどうなるか文字通り体に刻み付けてあるからな」
繊手を一閃、ポケットから抜き放ったのは銀光閃くナイフ。繊細かつ華麗な紋様が柄に彫られた見るからに高価そうな品で、無粋な武器というより好事家が収集する調度品の風格があった。目にもとまらぬ早さで鞘を振り捨て、レイジの顎に切っ先を擬したサーシャが微笑む。
「……なあ。世の中には聞かないほうが幸せなことがたくさんあるってわかっちゃいるんだけど、気になるからひとつ質問させて」
顎先に擬されたナイフに怯える素振りも見せず、切れ味鋭いナイフの重圧など微塵も感じてないさりげなさでレイジが口を開く。
「こないだ俺とやった北棟のガキいたじゃん。ほら、お前にナイフ貸してもらった」
「ああ」
「試合後、あいつどうなった」
「両足の親指と中指と小指を切り刻んだ」
「……やっぱ聞くんじゃなかった。もう一生まともに歩けないだろ、それ」
顔をしかめたレイジの顎先にナイフの切っ先が食いこむ。ナイフの刃に映ったのは人間らしさなど欠片もないアイスブルーの双眸。
「だからどうした?お前風情を倒せなかったのだから当然の処置だろう。獲物を狩れない猟犬は去勢される運命だ。切り刻まれたのが足の指で感謝されこそすれ恨まれる筋合いはない。奴も私の寛大さに恐れ入って歓喜の涙を滂沱と流していた」
「痛かったんだろ単純に。なんでも自分に都合いいよう解釈するのは誇大妄想の特徴だ、エセ皇帝の悪趣味に付き合わされる北のガキどもはたまったもんじゃねえ」
「偉そうに意見する気か?雑種が」
口汚く吐き捨てたサーシャが、レイジの顎にナイフの切っ先を沈めたまま視線をおろす。憎憎しげにレイジをねめつけていた視線が頬の輪郭をすべり、よく引き締まった首筋を舐め、シャツの襟ぐりから覗く鎖骨へと辿り着く。獲物を味見する蛇のように粘着質な視線に自分が観察されてるわけでもないのに鳥肌が立つ。
アイスブルーの双眸で青く燃える狂熱。
興奮に乾いた唇を湿らし、ともすれば手元が狂って頚動脈を切り裂きそうな危うさでレイジの顎先にナイフを向けたサーシャが呟く。
「……ああ、貴様は本当に汚い。その髪も目も肌もすべてが汚い。外見だけではなく品性と言動も卑しい、見てるだけで吐き気がする。何故貴様のように汚らわしい男が平然と王を名乗れる?東棟の頂点に君臨していられる?貴様に相応しい扱いは奴隷か家畜だ。奴隷に生まれついた者は死ぬまで奴隷、家畜に生まれついた者は死ぬまで家畜。お前の運命は生まれ落ちたときから決定していた、混血が雑種が、淫売の股から生まれた毛並みの茶色い犬が。なにを勘違いして王座にふんぞりかえっている?なにを勘違いしてブラックワークの王冠を戴いてる?貴様に相応しい装身具は黄金の王冠ではなく鉄の鎖、噛み癖を矯正する猿轡と首輪だろう」
無抵抗のレイジを言葉でいたぶってるあいだじゅうサーシャの目は炯炯と輝いていた。ナイフを顎先に突きつけられたレイジは終始醒めた目で悦に入るサーシャを眺めていたが、これ以上支離滅裂な誇大妄想に付き合わされるのに飽いたかため息まじりに両手を挙げる。
「そんなに王冠ほしけりゃ実力でぶんどってみろよ、相手してやるからさ」
「本当だな」
「しつこい男は嫌われるぜ」
うんざり気味に肩を竦めたレイジの顎からゆっくりとナイフがはなれてゆく。沈黙。絹糸の前髪が紗を落とす眼窩に氷の瞳が輝いている。ナイフの銀光に魅入られるが如く緩慢な動きで腕を振り上げるサーシャ。右手に握り締めたナイフの先端で巧みに上着の裾をはだけシャツの内側にもぐりこませる。シャツの内側を這いのぼってくるナイフを見下ろし、レイジが微笑する。
「なんのつもりだ」
「命令だ。相手になれ」
シャツの内側に片腕を突っ込まれてもなお動じないレイジの問いにサーシャが答える。
「売春班が受け持つ客は代わりに自分が引き受けると愚民どもの前で宣言しただろう?その場に居合わせた家臣に聞いた。なら相手になってもらおうではないか」
執拗に唇を舐めつつ、熱に浮かされたように呟いたサーシャがナイフを横に寝かせて素肌に密着させる。ナイフの刃から伝わったひんやりした感触に「つめて」と笑うレイジには怖気づいた様子など微塵もない。壁際に追い詰められ、服にナイフを突っ込まれてもまだ余裕ありげな物腰のレイジに嗜虐心をかきたてられたサーシャが刃を手前に引く。乾いた音をたてて生地の繊維が裂け、上着の胸から銀の先端がとびでる。
「私は女の体を切り刻みながら抱くのを好む。ナイフの刃が血に濡れるさまと苦痛と快楽のあいだで歪む顔とを見比べながら絶頂を迎えるのを好む。お前は聞いたことがあるか、火で熱したナイフでゆっくりと生皮剥がされる男の悲鳴を。お前は見たことがあるか、ナイフを口に入れられ閉じるに閉じられず涙を流す女の顔を」
「変態の寝言を通訳すると『たまってたまってはちきれそうだからヌかせてください』ってか」
胸の裂け目からこぼれたのは金色の光、シャツの内側に下げていた十字架だ。上着を破かれてもレイジはまったく動じずに笑みを浮かべている。すごい度胸だ、とあきれる。神経が図太いにも程がある。レイジには恐怖心がないのだろうか?今自分にナイフを突きつけてるのはその狂気では他の追随を許さない北の皇帝サーシャだ。いつナイフが翻って頚動脈を裂くかもわからない状況下で下ネタを口にできるなんてどうかしてる、命が惜しくないのだろうか。
突然、シャツの内側からナイフが引きぬかれる。
十字架の鎖を鳴らし、上着の裾をはためかせて素早く引きぬかれたナイフを鞘に納めたサーシャがレイジの襟首を掴む。いや、正確には襟首ではなく首元の金鎖だ。痩せた腕で毟り取るように金鎖を掴み、忌々しげに唸る。
「雑種の分際で私を愚弄するか?」
「サーシャ。痛いよ」
「随分と洒落た首輪じゃないか。穢れた混血のくせにキリストを崇拝してるのか?」
「苦しい」
「もっと苦しめ、泣け、喚け。そうだその顔だ、その顔が見たかったんだ。いいざまだ、いつもひとを小馬鹿にした笑みを浮かべてる東の王が私に膝を屈する日をどれほど待ち望んだことか。貴様のような雑種が極北の皇帝の末裔、純血ロシア人たるこの私をさしおいて頂点に君臨していいはずがない。いいかよく聞け、私の夢はこの極東の地に第二のロシア帝国を築くことだ。斜陽の祖国から独立し、第二のロシア帝国をこの地に打ちたてることで私は真の皇帝になる。手始めにまずこの刑務所を支配して囚人どもを征服する、侵略には手駒の軍勢が不可欠だからな。それには貴様が邪魔だ、目障りだ。貴様がいるかぎり私は頂点に立てない、東京プリズンを支配することができない。まったく忌々しい男だ、貴様さえいなければ万事うまくいったのだ。黄色い淫売の股から生まれた下賎な雑種は私の靴でも舐めていればいいものを」
嗜虐心に火がついたサーシャが力一杯鎖を引く。窒息の苦しみにレイジの顔が歪み、喉仏の上に食い込んだ鎖を掻き毟る。
レイジがよわよわしく苦痛を訴えたところでサーシャが手を緩めることはなく、もっと苦しめといわんばかりにますます力をこめてくる。壁に背をつけ、酸素が回らない頭でもがき苦しむレイジにサーシャが欲情してるのは一目瞭然。
汗にまみれて額にはりついた前髪。
薄らと上気した目尻。
熱っぽく潤んだ双眸。
酸素を欲して緩慢に開閉される唇。
苦痛の表情さえ淫らなレイジに我慢できなくなり鎖を掴んだ前傾姿勢から首筋に顔を埋める。
レイジの息遣いが次第に荒くなる。息の通り道を圧迫され満足に呼吸できない苦しみに溺れているのか、サーシャの舌が与える快楽に身を委ねはじめているのか傍目にはわからない。鎖を引く握力が緩む、と同時に首筋の性感帯を舌で探られる。寄せては返す波のように苦痛と快楽が交互に訪れるせいで、完全には理性を捨て去ることができない生殺しの状態が続く。苦鳴なのか喘ぎ声なのか判別しがたい低いうめきが漏れ、鎖をもてあそんでいた手が十字架に伸びる。
「淫売の雑種が、この程度で興奮しているのか?口ほどにもない王だ。今この場で跪いて私のものをくわえればこれまでの無礼は許してやってもいい。リングでの一騎打ちで四肢を切り刻まれるより恥をかかずにすむだろう?どうだ、半年前も言ったが私の愛玩犬にならないか。今ならまだ許してやる、半年前お前が私にしたことも独居房での屈辱の日々も全部水に流して可愛がってやる。こんな似合わない首輪など外してもっとふさわしい首輪をつけてやる」
サーシャの指が十字架に触れると同時にレイジの手から力がぬけ、だらりと垂れ下がる。もはや完全に抵抗を止めたレイジが緩慢な動作で腕を掲げ、そっとサーシャの頬に触れる。突然頬に触れられ動揺したサーシャをよそに、頬からすべりおちた手が首の後ろに回り、襟ぐりを広げるように内側へともぐりこむ。
伸びた襟ぐりから覗いたのは数えきれないほどの傷跡が浮いた胸板。
鎖骨の下辺にある傷跡を人さし指でたどり、浅い呼吸の間から哀れみ深く呟く。
「……可哀想に。痛かったろ」
サーシャが狼狽する気配が伝わってきた。
「なぐさめてやるよ」
頬にそえられた両手が顔を導いてゆく。壁際に追い詰められ身動きとれず、それまでサーシャの愛撫を一身に受けて呼吸を追い上げられていたレイジが一瞬で優位を奪い、先導する側に回った。
一瞬だけ顔と顔が重なり、唇と唇が触れ合う。
千回のキスを交わした恋人にするように手馴れてて、ひょっとしたら愛情を注がれているのではないかと錯覚させる仕草だった。
とんだ誤解だった。
「!!―っ、」
唇をおさえてあとじさるサーシャ。突き飛ばされ、だらしない姿勢で壁に凭れかかったレイジがぺろりと唇を舐める。
レイジの唇には血が付着していた。キスに見せかけてサーシャの唇を噛みちぎった返り血。
「なあ、元気でたろ?感謝しろよ、特別大サービスだ」
「貴様………、」
「たしかに俺は言ったよ、売春班のガキどもの代わりに抱かれてやるって。けどな、俺にも好みってもんがあるんだ。サーシャ、おまえキス下手すぎ。その程度のテクでイかせられるとでも思ってんのか、王様もなめられたもんだぜ。まあ首締めながら愛撫ってのはなかなか良かったよ、苦しいのと気持ちいいのとで長く続けられたら頭が変になっちまいそうだったし。女悦ばせる素質はあるよ、誉めてやるから有難く思え。あとはまあ、ナイフで切り刻みながらじゃねーと興奮しない変態性なおしてこい。俺を抱くのはそれからだ」
親指で唇の血を拭い、好戦的にレイジが笑う。
「『逆』ならいいぜ。今この場で抱いてやろうか?」
「後悔するぞ東の王」
唇の血を拭い、ゆらりと立ち上がったサーシャが冷たい声で言う。もうすっかり氷のポーカーフェイスを取り戻したらしい、壁に凭れたレイジの方は見向きもせずドアへと向かう。
やばい、こっち来る!
「貴様はリングで倒す。私の氷が溶ける前に勝ちあがって来い」
冷え冷えと宣言したサーシャがノブを捻り、ドアを開ける。危なかった。サーシャと入れ違いに曲がり角に身を隠した僕の視線の先、銀髪を振り乱したサーシャの後姿が遠ざかってゆく。サーシャの靴音が廊下に反響して消える頃、ポケットに両手をつっこんでボイラー室からでてきたレイジが虚空に声をかける。
「そこに隠れてる奴、十秒以内に出て来い」
嘘、なんでばれたんだ?
知らぬ存ぜぬでやりすごそうとしたが、どのみちレイジをどかさないかぎり廊下を通ることはできない。廊下の真ん中に陣取ったレイジが動く気配は微塵もない。根比べに音をあげたのは僕の方だ。「ワン、ツー、スリー……」と間の抜けたカウントが響く中、おとなしく両手を挙げて歩み出る。
「いつからわかってたの、隠れてるって」
「おまえがドア開けた時。地獄耳なんだよ」
自分の耳を指さしながらレイジが笑い、八秒数え終わった時点で廊下にでてきた僕と向き合う。ドアを開けたときから第三者の存在に気付いてたというが終始そんな素振りは見せなかった。
とことん食えない奴だ。
あきれ顔でレイジを眺めれば、サーシャにナイフを突きつけられたときもサーシャの唇を噛みちぎった瞬間も変わらず笑みを浮かべていた顔がふと曇る。
「今見たことロンに言うなよ」
「王様と皇帝が試合ほっぽらかしていちゃついてたって?バラしたら殺される?」
茶化して聞き返せば、首周りの痣を撫でながらレイジが肩を竦める。
「人聞き悪いこと言うな。せいぜい半殺しだよ」
二十一話
(2005/12/25) ペア戦がペア戦にならない。
サムライはあくまでひとりで戦う気だ。現在20組目、右手のハンデに苦戦しつつも勝ち進んできたサムライだがその横顔には色濃く疲労が滲んでいる。前回のペア戦じゃ交代する暇もなくレイジに倒されてた挑戦者ペアも20組超えた時点からはそれなりに強くなり、自分が危なくなったら入り口脇に逃げ戻って相棒とバトンタッチするようになった。もちろん新たにリングに上がったガキは体力を温存してるから、意固地に交代を拒んで疲労してるサムライにベストの状態で挑むことができる。
「ずるいだろ、これ」
おもわず文句を言う。俺の視線の先では今しも入り口脇に逃げ戻ったガキが勢いよく手を打ち合わせて相棒とバトンタッチしたところだ。疲労困憊、せっかく用意した釘バッドも空振りするだけに終わっちまったガキと入れ違いにリングに上がったのは東南アジア系の男。手に持っているのは電気カミソリに似た凶器……スタンガンだ。
娯楽班の試合に参加表明した囚人はあの手この手を使い、敵を一発でしとめられる強力な武器を入手しにかかる。看守にコネのある囚人はスタンガンやら軍用ナイフやら物騒なブツをこっそり横流ししてもらって、手先が器用なやつはさらに凶悪な改造をくわえて殺傷能力を高めたりする。浅黒い肌のガキが手に持ってるスタンガンも違法な改造をくわえらてるんだろう、リング中央へと歩み寄る途中、両端の電極の間に青白い火花が弾けた。あれでサムライを脅してるつもりなんだろう、スタンガンの威力を見せつけるように火花を飛び散らせたガキが笑う。
「黒焦げにしてやるぜ、日本人」
「低能らしい短絡的戦略だな」
反射的に声のした方を見る。俺の隣、興奮して取り乱すことも声援を送ることもなく、物静かな物腰で試合風景を眺めていた鍵屋崎が眼鏡のブリッジに触れながら解説する。
「スタンガンと木刀では後者に利がある。スタンガンは敵の間合いに踏みこんで体に接触させなければ威力を発揮しない自己防御、または超近接戦闘用の武器だ。木刀の長さのぶんだけ距離を稼げるサムライのほうが有利に決まってる」
「さて、どうかな」
目の前じゃサムライが額に汗して戦ってるってのに何でこんな冷静なんだこいつ。取り澄ました横顔を見てると反論したくなる。妹からの手紙をからかっただけで襟首締め上げられたのを根に持ってるのもあるけど、右手の激痛をこらえてサムライがリングに上がってるのは鍵屋崎を守りたい一念だ。「頑張れ」とか「負けるな」とかもうちょっと言いようがあるだろうに……まあ、勢いに任せて「勝ったら抱かせてやる」と口約束されても困るけど。いくら俺たちの境遇が似てるからって、100人抜きの褒美を体で払うとこまで似ちゃおしまいだ。
「見りゃわかるだろ、これまでぶっとおしで戦ってきてサムライが疲れてるのが。額に汗かいてるし少し息切れしてるし顔色悪いし……サムライだって人間なんだから意地張り続けるにも限界がある」
「きみの友人はどこへ行った?」
「え?」
したり顔で腕組みした俺を睨み、鍵屋崎が続ける。
「サムライに限界がきたらどうするんだ、それでも手をださずに放っておくのか?あきれたな、君には危機感というものがないのか。サムライが負けるときはレイジが負けるとき、僕ら四人全員が破滅するときだ。サムライが途中で負けてもレイジが途中で負けても100人抜き不可能で売春班に逆戻り、僕ときみは半年間毎日男に犯され続けてゆくゆくは性病に感染して処理されるんだぞ」
強く金網を握り締めた鍵屋崎が思い詰めた目でリングのサムライを見つめる。表情に乏しい顔の中、眼鏡越しの双眸に綯い交ぜになったのは焦燥と憂慮。端をくわえて包帯を結び直し、試合再開のゴングが鳴り響くまで短い休憩をとっているサムライを見つめながら物憂げに呟く。
「つまらない喧嘩などしてる場合じゃないだろう。サムライもレイジも子供だ」
「……同感」
鍵屋崎の酷評にため息をつく。サムライもレイジもどうしようもなくガキだ。見た目は大人びてるからなおさら始末が悪い。なんでこんなことになっちまったんだろう、という埒のあかない疑問が脳裏に浮かぶ。 サムライはあの通り頑固で融通がきかないし、剣に賭けてで鍵屋崎を守ると固く決意した手前レイジに頭を下げるようなみっともない真似はしないだろう。剣に賭けて信念を貫くのがサムライの生き方なのだから、苦しいときはレイジを頼ったほうがラクだと頭ではわかっていても認めるわけにはいかない。いっつもへらへらしてて冗談と本気の区別がつかないレイジにもひどく子供っぽい一面があって、いったんへそ曲げちまったら俺がなにを言おうが耳を貸そうともしない。
雰囲気は最悪だ。なまじ二人とも強くて絶体絶命のピンチに追いこまれる場面が少ないぶん、「俺が悪かった」「あとは頼んだぞ」と素直に頭を下げることができないのだ。
俺たち守るために100人抜きに挑んで俺たち困らせてどうすんだよ。
うんざりとかぶりを振った俺を我に返したのは高らかなゴングに続く爆発的な歓声。
試合再開。
スタンガンを手にしたガキが慎重に間合いを詰め、サムライが正眼の構えをとる。防御の基本姿勢をとったサムライと3メートルを隔てて対峙したガキがぺっと唾を吐く。
「打ってこないのかよ、臆病者が。武士の風上にもおけねえ」
わかりやすい挑発。
「…………」
サムライは無視。摺り足で間合いをはかりつつ、いつどこから相手がかかってきても対処できるように木刀の切っ先に全神経を集中してる。ガキが一歩足を進め、サムライが一歩後退。危うい均衡の上に成り立つ睨み合いに場の緊張感が高まる。
「大丈夫だ、今回は楽勝だ」
自己暗示をかけるように鍵屋崎が言う。
「敵の武器はスタンガンだ、スタンガンでは木刀に太刀打ちできない。間合いに踏みこんだ瞬間に木刀で弾かれておしま、」
均衡が崩れた。
リング中央でサムライと睨み合っていたガキが突如方向転換、一直線にこちらに突っ走ってくる。
眼前に火花散るスタンガンを翳して。
「!?鍵屋崎、伏せろっ」
持ち前の反射神経の鈍さか、反応が遅れた鍵屋崎を体ごと押し倒した俺の背後に落雷の衝撃。小爆発。ぼさっと突っ立ってた鍵屋崎の顔面にむけスタンガンが突き出され、金網を通った電流が盛大に火花を散らす。小爆発。間一髪俺に押し倒されたからいいようなもの、金網に顔をくっつけるようにして立ってた鍵屋崎が感電してたらと思うと背中に冷や汗が流れる。へたしたら心臓麻痺を起こして死んでいた。
「鍵屋崎!」
背後に駆けて来る足音、サムライの声。
スタンガンで脅されても顔色ひとつ変えなかったサムライが、俺の下敷きになった鍵屋崎を心配して疾走してくる。突然とびかかられ、満足に受け身もとれずに地面に突っ伏したせいで鍵屋崎の回復には時間がかかった。押し倒されたはずみに飛んだ眼鏡をさがして「めがね、めがね……」と間抜けに呟いてる。
「眼鏡、いや鍵屋崎の心配はいいから後ろだ!!」
眼鏡がないせいでサムライがやってきたことにも気付かず、地面にうずくまって当惑してる鍵屋崎をよそに命令。俺の声に鞭打たれたサムライが即座に振り返り、
「!ちっ、」
舌打ち。
サムライの背後に忍び寄ったガキが、うなじにスタンガンを押し付けようとしてひらりとかわされる。ガキの意図がわかった。鍵屋崎を攻撃することでサムライに隙を作り、スタンガンで気絶させようとしたのだ。こっち側の応援席にいずっぱりの俺と鍵屋崎を見れば数少ないサムライの味方だと一目でわかる。
友情に厚いサムライがダチを見捨てるはずないと踏んで攻撃の対象を変えたのか。
「反吐が出るな」
「……いや、なかなか利口な手だ」
苦労の末ようやく眼鏡を見つけたらしい。レンズに付着した埃をズボンの腰で拭い、きちんとかけ直す。自分が感電死しかけたことなど屁でもないツラで鍵屋崎が立ちあがる。
「金属には電流を通す性質がある。君に押し倒されなければ今ごろ僕は心臓麻痺を起こしていただろう。真っ向勝負で勝ち目がないなら味方を狙って隙を作りだす、さすがに20組目ともなると一筋縄ではいかない」
「なに悟ってんだよ、『まだ』20組だ。あと30組、数にしてえーと、60人残ってるんだぜ」
「……『えーと』とはなんだ。君はかけ算も満足にできない小学生以下の知能の持ち主なのか?」
「眼鏡がなきゃピノコとメルモの見分けもつかねーくせにいきがんな」
「ちょっと待て、何故それを知ってる?」
「こないだ図書室で表紙のピノコとまちがえて借りてただろう。不思議のメルモ借りるなんて恥ずかしい、シスコンでロリコンなんて救いようねえ」
「……ちがう、あれは眼鏡のレンズが埃で曇っててよく見えなくて偶発的要因が重なった上の事故で、いや、それ以前になぜ君が不思議のメルモの内容を知ってる?」
……まずい。
「読んだんだな?幼女が薬物を服用して急激に二次性徴を迎えて成体変異するあの漫画を読んだんだな?」
「ばっ、だれが読むかあんなガキと女が読むような漫画っ……ただちょっと、どういう話かと思ってめくってみただけだよ。あとお前の説明は正しいようで何か致命的に間違ってる、飲むのは飴だ飴!」
「何を言う、これ以上正確かつ的確なあらすじの要約はクオリティーペーパーの書評家でもできないぞ。それに勘違いしてもらっては困る、僕がアレを借りたのは自分で読むためじゃない」
「じゃあなんだよ?」
落ち着きなく眼鏡のブリッジに触れながら目を伏せた鍵屋崎が、物凄く言いにくそうに口を開く。
「……恵に、妹に読ませるためだ」
とんでもなく恥ずかしい秘密を知られたみたいに照れ隠しで舌打ち。
「どの漫画なら気に入ってくれるか自分の目で吟味しようと思って……小学生の女の子が好みそうな漫画なんて僕には皆目見当がつかないし、手塚治虫入門編なら選択を誤りたくないだろう」
あきれて二の句が継げない。
「……シスコンが」
どっと疲労を感じて金網越しのリングに向き直る。スタンガンの一撃を間一
サムライはあくまでひとりで戦う気だ。現在20組目、右手のハンデに苦戦しつつも勝ち進んできたサムライだがその横顔には色濃く疲労が滲んでいる。前回のペア戦じゃ交代する暇もなくレイジに倒されてた挑戦者ペアも20組超えた時点からはそれなりに強くなり、自分が危なくなったら入り口脇に逃げ戻って相棒とバトンタッチするようになった。もちろん新たにリングに上がったガキは体力を温存してるから、意固地に交代を拒んで疲労してるサムライにベストの状態で挑むことができる。
「ずるいだろ、これ」
おもわず文句を言う。俺の視線の先では今しも入り口脇に逃げ戻ったガキが勢いよく手を打ち合わせて相棒とバトンタッチしたところだ。疲労困憊、せっかく用意した釘バッドも空振りするだけに終わっちまったガキと入れ違いにリングに上がったのは東南アジア系の男。手に持っているのは電気カミソリに似た凶器……スタンガンだ。
娯楽班の試合に参加表明した囚人はあの手この手を使い、敵を一発でしとめられる強力な武器を入手しにかかる。看守にコネのある囚人はスタンガンやら軍用ナイフやら物騒なブツをこっそり横流ししてもらって、手先が器用なやつはさらに凶悪な改造をくわえて殺傷能力を高めたりする。浅黒い肌のガキが手に持ってるスタンガンも違法な改造をくわえらてるんだろう、リング中央へと歩み寄る途中、両端の電極の間に青白い火花が弾けた。あれでサムライを脅してるつもりなんだろう、スタンガンの威力を見せつけるように火花を飛び散らせたガキが笑う。
「黒焦げにしてやるぜ、日本人」
「低能らしい短絡的戦略だな」
反射的に声のした方を見る。俺の隣、興奮して取り乱すことも声援を送ることもなく、物静かな物腰で試合風景を眺めていた鍵屋崎が眼鏡のブリッジに触れながら解説する。
「スタンガンと木刀では後者に利がある。スタンガンは敵の間合いに踏みこんで体に接触させなければ威力を発揮しない自己防御、または超近接戦闘用の武器だ。木刀の長さのぶんだけ距離を稼げるサムライのほうが有利に決まってる」
「さて、どうかな」
目の前じゃサムライが額に汗して戦ってるってのに何でこんな冷静なんだこいつ。取り澄ました横顔を見てると反論したくなる。妹からの手紙をからかっただけで襟首締め上げられたのを根に持ってるのもあるけど、右手の激痛をこらえてサムライがリングに上がってるのは鍵屋崎を守りたい一念だ。「頑張れ」とか「負けるな」とかもうちょっと言いようがあるだろうに……まあ、勢いに任せて「勝ったら抱かせてやる」と口約束されても困るけど。いくら俺たちの境遇が似てるからって、100人抜きの褒美を体で払うとこまで似ちゃおしまいだ。
「見りゃわかるだろ、これまでぶっとおしで戦ってきてサムライが疲れてるのが。額に汗かいてるし少し息切れしてるし顔色悪いし……サムライだって人間なんだから意地張り続けるにも限界がある」
「きみの友人はどこへ行った?」
「え?」
したり顔で腕組みした俺を睨み、鍵屋崎が続ける。
「サムライに限界がきたらどうするんだ、それでも手をださずに放っておくのか?あきれたな、君には危機感というものがないのか。サムライが負けるときはレイジが負けるとき、僕ら四人全員が破滅するときだ。サムライが途中で負けてもレイジが途中で負けても100人抜き不可能で売春班に逆戻り、僕ときみは半年間毎日男に犯され続けてゆくゆくは性病に感染して処理されるんだぞ」
強く金網を握り締めた鍵屋崎が思い詰めた目でリングのサムライを見つめる。表情に乏しい顔の中、眼鏡越しの双眸に綯い交ぜになったのは焦燥と憂慮。端をくわえて包帯を結び直し、試合再開のゴングが鳴り響くまで短い休憩をとっているサムライを見つめながら物憂げに呟く。
「つまらない喧嘩などしてる場合じゃないだろう。サムライもレイジも子供だ」
「……同感」
鍵屋崎の酷評にため息をつく。サムライもレイジもどうしようもなくガキだ。見た目は大人びてるからなおさら始末が悪い。なんでこんなことになっちまったんだろう、という埒のあかない疑問が脳裏に浮かぶ。 サムライはあの通り頑固で融通がきかないし、剣に賭けてで鍵屋崎を守ると固く決意した手前レイジに頭を下げるようなみっともない真似はしないだろう。剣に賭けて信念を貫くのがサムライの生き方なのだから、苦しいときはレイジを頼ったほうがラクだと頭ではわかっていても認めるわけにはいかない。いっつもへらへらしてて冗談と本気の区別がつかないレイジにもひどく子供っぽい一面があって、いったんへそ曲げちまったら俺がなにを言おうが耳を貸そうともしない。
雰囲気は最悪だ。なまじ二人とも強くて絶体絶命のピンチに追いこまれる場面が少ないぶん、「俺が悪かった」「あとは頼んだぞ」と素直に頭を下げることができないのだ。
俺たち守るために100人抜きに挑んで俺たち困らせてどうすんだよ。
うんざりとかぶりを振った俺を我に返したのは高らかなゴングに続く爆発的な歓声。
試合再開。
スタンガンを手にしたガキが慎重に間合いを詰め、サムライが正眼の構えをとる。防御の基本姿勢をとったサムライと3メートルを隔てて対峙したガキがぺっと唾を吐く。
「打ってこないのかよ、臆病者が。武士の風上にもおけねえ」
わかりやすい挑発。
「…………」
サムライは無視。摺り足で間合いをはかりつつ、いつどこから相手がかかってきても対処できるように木刀の切っ先に全神経を集中してる。ガキが一歩足を進め、サムライが一歩後退。危うい均衡の上に成り立つ睨み合いに場の緊張感が高まる。
「大丈夫だ、今回は楽勝だ」
自己暗示をかけるように鍵屋崎が言う。
「敵の武器はスタンガンだ、スタンガンでは木刀に太刀打ちできない。間合いに踏みこんだ瞬間に木刀で弾かれておしま、」
均衡が崩れた。
リング中央でサムライと睨み合っていたガキが突如方向転換、一直線にこちらに突っ走ってくる。
眼前に火花散るスタンガンを翳して。
「!?鍵屋崎、伏せろっ」
持ち前の反射神経の鈍さか、反応が遅れた鍵屋崎を体ごと押し倒した俺の背後に落雷の衝撃。小爆発。ぼさっと突っ立ってた鍵屋崎の顔面にむけスタンガンが突き出され、金網を通った電流が盛大に火花を散らす。小爆発。間一髪俺に押し倒されたからいいようなもの、金網に顔をくっつけるようにして立ってた鍵屋崎が感電してたらと思うと背中に冷や汗が流れる。へたしたら心臓麻痺を起こして死んでいた。
「鍵屋崎!」
背後に駆けて来る足音、サムライの声。
スタンガンで脅されても顔色ひとつ変えなかったサムライが、俺の下敷きになった鍵屋崎を心配して疾走してくる。突然とびかかられ、満足に受け身もとれずに地面に突っ伏したせいで鍵屋崎の回復には時間がかかった。押し倒されたはずみに飛んだ眼鏡をさがして「めがね、めがね……」と間抜けに呟いてる。
「眼鏡、いや鍵屋崎の心配はいいから後ろだ!!」
眼鏡がないせいでサムライがやってきたことにも気付かず、地面にうずくまって当惑してる鍵屋崎をよそに命令。俺の声に鞭打たれたサムライが即座に振り返り、
「!ちっ、」
舌打ち。
サムライの背後に忍び寄ったガキが、うなじにスタンガンを押し付けようとしてひらりとかわされる。ガキの意図がわかった。鍵屋崎を攻撃することでサムライに隙を作り、スタンガンで気絶させようとしたのだ。こっち側の応援席にいずっぱりの俺と鍵屋崎を見れば数少ないサムライの味方だと一目でわかる。
友情に厚いサムライがダチを見捨てるはずないと踏んで攻撃の対象を変えたのか。
「反吐が出るな」
「……いや、なかなか利口な手だ」
苦労の末ようやく眼鏡を見つけたらしい。レンズに付着した埃をズボンの腰で拭い、きちんとかけ直す。自分が感電死しかけたことなど屁でもないツラで鍵屋崎が立ちあがる。
「金属には電流を通す性質がある。君に押し倒されなければ今ごろ僕は心臓麻痺を起こしていただろう。真っ向勝負で勝ち目がないなら味方を狙って隙を作りだす、さすがに20組目ともなると一筋縄ではいかない」
「なに悟ってんだよ、『まだ』20組だ。あと30組、数にしてえーと、60人残ってるんだぜ」
「……『えーと』とはなんだ。君はかけ算も満足にできない小学生以下の知能の持ち主なのか?」
「眼鏡がなきゃピノコとメルモの見分けもつかねーくせにいきがんな」
「ちょっと待て、何故それを知ってる?」
「こないだ図書室で表紙のピノコとまちがえて借りてただろう。不思議のメルモ借りるなんて恥ずかしい、シスコンでロリコンなんて救いようねえ」
「……ちがう、あれは眼鏡のレンズが埃で曇っててよく見えなくて偶発的要因が重なった上の事故で、いや、それ以前になぜ君が不思議のメルモの内容を知ってる?」
……まずい。
「読んだんだな?幼女が薬物を服用して急激に二次性徴を迎えて成体変異するあの漫画を読んだんだな?」
「ばっ、だれが読むかあんなガキと女が読むような漫画っ……ただちょっと、どういう話かと思ってめくってみただけだよ。あとお前の説明は正しいようで何か致命的に間違ってる、飲むのは飴だ飴!」
「何を言う、これ以上正確かつ的確なあらすじの要約はクオリティーペーパーの書評家でもできないぞ。それに勘違いしてもらっては困る、僕がアレを借りたのは自分で読むためじゃない」
「じゃあなんだよ?」
落ち着きなく眼鏡のブリッジに触れながら目を伏せた鍵屋崎が、物凄く言いにくそうに口を開く。
「……恵に、妹に読ませるためだ」
とんでもなく恥ずかしい秘密を知られたみたいに照れ隠しで舌打ち。
「どの漫画なら気に入ってくれるか自分の目で吟味しようと思って……小学生の女の子が好みそうな漫画なんて僕には皆目見当がつかないし、手塚治虫入門編なら選択を誤りたくないだろう」
あきれて二の句が継げない。
「……シスコンが」
どっと疲労を感じて金網越しのリングに向き直る。スタンガンの一撃を間一