ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 夢を見てるんじゃないだろうか。
 今僕の手の中には一通の手紙がある。何の変哲もない白い無地の封筒で厚みはないが、こうして手に持って指を触れているとさまざまな感情がこみあげてくる。
 まだ夢を見てるようだ。
 一体何度信じられないと繰り返して自分の正気を疑っただろう、現実逃避の延長の妄想の産物ではないかと訝しんで自己を戒めて手紙の存在を否定しにかかったことだろう。でも何度否定しても手の中には依然として手紙があり幻覚のように消え失せたりはしない。
 この手紙を受け取った時からずっと胸の動悸がおさまらない。鼓膜に響くのは心臓の鼓動と唾を嚥下する音だけ、思考停止状態に陥った頭に浮上するのは懐かしい思い出。まだ僕が「お兄ちゃん」と呼ばれていた頃の、「お兄ちゃん」と呼ばれる資格を有していた頃の記憶。恵に懐かれることが嬉しくて恵に慕われることが誇りで、それだけが僕の、鍵屋崎直に付随する「天才」以外の価値だと信じて疑わなかった頃の些末な記憶の断片。今でも鮮明に思い出せる恵の笑顔に被さるのは五十嵐の優しげな声。
 『お前宛だ』
 そう言って五十嵐に手渡されたのは一通の手紙。おもわず手を出して受け取ってから、僕宛に手紙がきたという事実に驚愕して立ち竦む。驚きのあまり言葉を失った僕を見て五十嵐は微笑ましげに続けた。
 『この前書いた手紙の返事だ。ちゃんと妹に届いたんだよ、よかったな』
 そうだ、確かに僕は数日前恵に手紙を書いて五十嵐に投函を頼んだ。僕から手紙を預かった五十嵐は「任せておけ」と「責任もって届けるから安心しろ」と力強く請け負ってくれた。五十嵐は言葉通りちゃんと義務を果たしてくれた、責任をまっとうしてくれた。放心状態から容易に立ち返ることができず、二階からは死角になった書架の影で手紙を握り締めたまま凝固してる僕を何と思ったか、五十嵐は頬を掻きながら言った。
 『……悪かったな』 
 『?』
 後ろめたげな謝罪に反応して緩やかに顔を上げる。巨大な書架に凭れた五十嵐が、僕の視線に糾弾されるのを恐れたか敢えて目を伏せて吶々と呟く。
 『こないだ住所を渡しに言った時、邪険に閉め出されて「なんだよ」って腹立てちまって……後から知ったんだ、お前が売春班勤務になったって。あの時はちっとも知らなくて、お前の気持ちも知らずに悪いことしちまった。罪滅ぼしっちゃなんだけど一日も早くこれ届けたくてな、ほんとは視聴覚ホールで皆と一緒に渡さなきゃいけねえから内緒だぜ』
 すまなそうに伏し目がちで語る五十嵐を見上げ、手の中の手紙を見下ろす。メモは既に破り捨てて存在しないが恵が入院してる病院の住所は完璧に暗記してる。手紙を書くのに何の問題も発生しなかった。便箋は以前レイジから貰った残りを使用したし、鉛筆でも読みやすいよう字は大きく丁寧に書くよう心がけたつもりだ。恵はまだ11歳だから出来るだけ難しい漢字はひらがなに直し、平易で簡潔な文面になるよう工夫した。
 届くだけで十分だったのだ。五十嵐に手紙を渡した時点で僕は大いに満足していたのだ。
 この上返事を期待するのは虫がよすぎると自戒していた。僕は恵の実の両親を殺害し、恵から家族を奪った張本人なのだから殺したいほど憎まれこそすれ一方的な手紙に返事などくるわけがないと、両親を殺害して刑務所に服役中の兄から手紙がきたところで迷惑でしかないと、せっかく出した手紙も封を破かれることなく目を通されることなく破棄されても仕方ないと諦観していたのだ。
 でも現実に、返事が届いたのだ。
 この半年間僕が心から待ち望んでいた手紙が、何より大事な妹からの手紙が。
 心の底ではだれよりなにより見捨てられることを恐れていた最愛の家族からの手紙が。
 『よかったな』
 五十嵐の声が鼓膜に染みた。

 図書室からの帰り道のことは殆ど覚えていない。
 不条理な夢の中を漂っているように現実感が抜け落ちて頭が朦朧として思考が正常に働かなかった。自分の足が足じゃないような、自分の手が手じゃないような奇妙な浮遊感が付いて回ってちゃんと床を踏んで歩いてる気がしなかった。途中何人かの看守か囚人とすれ違った気がするがよく覚えてない。図書室を出る時、ロンがやけに嬉しそうな顔をしていたのが印象に残った。自分のことでもないのに何故ああも単純に喜べるのか理解できない。ふらふらしながら房に帰り着き、片方のベッドに腰掛けたところまでは記憶にある。
 それからしばらくぼんやりと虚空を見つめていた。
 しばらく、と言っても実際には数時間は経過していたのだろう。我に返ったのは強制労働を終えた囚人が廊下にごったがえしはじめた頃だ。ショック冷めやらぬ放心状態がどれ位続いたのか正確な時間はわからないが、いつまでこうしてても埒が明かない。夕食が始まる前に封を開けて中身を改めようと深呼吸する。

 無理だった。
 どうしても出来なかった。

 くりかえし深呼吸して心を落ち着けようとしたのに、いざとなると指が震えてどうしても封が破けなかった。どうしたんだ一体、しっかりしろ鍵屋崎直。天才のくせに情けないぞ。そう自分を叱咤し、何度目を閉じて暗示をかけたことだろう。大丈夫だ、何も恐れることはない。僕は今日までさまざまなことを体験して多少は打たれ強くなったんだから、もう何が起きても傷つかないほどに心が麻痺してしまったんだから仮に手紙にどんなことが書いてあっても、どんなに厳しい糾弾の言葉や激しい断罪の言葉が連ねられていても逃げずに正視できるはずだ、受け止めきれるはずだ。
 恵に拒絶されるのは怖い。でも、読みたい。
 僕には恵の思いを、哀しみと孤独を受けとめる義務がある。今ここで逃げるのは許されない。たとえ手紙に何が書いてあったとしても冒頭から文末まで全部目を通して恵の気持ちを真摯に受け止めなければ兄失格だ。いや、この期に及んで一抹の期待に縋っていたのも否定できない。もしかしてひょっとしたら、恵は僕のことを許してくれたんじゃないか?許してくれたからこうして返事をくれたんじゃないか?まさか。僕は戸籍上の両親を殺して最愛の妹を精神病院送りにした人間だぞ、そんな人間が世間からはおろか遺族から許されるわけがないじゃないか。どこまで図々しいんだ僕は、ありもしない幻想に性懲りなく縋ってる現状には吐き気さえおぼえる。
 でもこうして返事をくれたということは、少なくとも恵は僕からの手紙を無視しなかったということで。
 ちゃんと読んでくれたということで。

 『お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ』
 『手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない』
 
 いつだったかサムライは言った。願えば叶うと、信じれば報われると。
 僕はサムライを信じていいのか?サムライの言葉を額面通りにとって希望を持っていいのだろうか?
 僕が五十嵐に託した手紙は無事恵のもとに届けられ数日を経て返事が返ってきた。その事実だけでも身に余る幸運なのに、これ以上の幸福など夢見ていいのだろうか。夢見ることが許されるのだろうか。
 「………よし」
 小さく呟き、何度目かで封に手をかける。一息に封を破こうとした指が怖気づき、やはり不可能だと思い知らされる結果になる。馬鹿な。なにが不可能なんだ、まだ封を破いてもないくせに。これじゃ中の手紙に目を通すまで何時間何日かかるかわからない。
 しっかりしろ、お前は天才だろう鍵屋崎直。恐れるものなどなにもない、怖がる必要などどこにもない。優れた知力を持ってすれば世に克服できないことなどないはずだ―
 扉が開いた。
 「……鍵屋崎?」
 「!」
 突然呼びかけられ、動揺の余り手紙を取り落としそうになり慌てる。床に落ちかけた手を寸前ですくいあげて長々と安堵の息を吐く。ベッドから腰を浮かした僕をうろんげに眺めているのはたった今房に帰ってきたサムライだ。
 ……気まずい。   
 「……ノックくらいしろ。デリカシーがない人間は最低だ、ここは君一人の居住空間じゃないんだぞ。最低限プライバシーには配慮してもらいたいな」
 醜態を晒したことが気恥ずかしく、気忙しく眼鏡のブリッジを押し上げてごまかせば大股に床を横切ったサムライにあきれたように指摘される。
 「鍵がかかってないのにプライバシーもなにもないだろう」
 ……忘れていた。注意され、初めて鍵をかけ忘れていたことに気付く。施錠が習慣化して久しいはずなのに今日の僕は本当にどうかしている。不用心にも鍵をかけずにベッドに座りこんでいた僕を眺めるサムライの目にも気のせいか不審の色がある。
 「どうかしたのか?」
 「……どうもしてないが」
 「相変わらずお前の嘘はわかりやすい」
 失笑されてムッとする。この頃サムライは僕と二人で居る時だけごくたまに笑顔を見せるようになったが、こんな風に失笑することはないだろう。僕のことを何でも見通されてるようで心が落ち着かなくなる。
 心許なく目を伏せれば自然と手の中の手紙に目が吸い寄せられる。僕の視線につられて手の中を覗きこんだサムライが怪訝そうに眉をひそめる。
 「その手紙は?」  
 何と言おうか一呼吸迷い、結局真実を口にする。
 「五十嵐に渡された。その、恵の、妹からだそうだ」
 たどたどしくつまずきながら告げればサムライの顔にかすかな驚きが浮かぶ。驚きの波紋はすぐに沈静化し、変わってサムライの顔に浮かんだのは若々しい笑顔。
 「そうか。よかったな」
 失笑でもなければ冷笑でもない、あたたかな感情が流れこんでくるような誠実な微笑み。気のせいか頬が熱くなり、サムライの顔をずっと見ていられなくなる。
 また沈黙が落ちた。
 「……読まないのか?」
 「今から読もうと思っていたところだ」
 即座に言い返すが、封筒にかけた手はそのまま硬直してしまい指も動かない。サムライの視線を過剰の意識しつつ瞠目、深呼吸。心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、口の中が異常に乾く。
 手紙を右手に握り締めたまま腰を上げ、憤然とした大股で扉に向かう。物問いたげな眼差しで背中を見送るサムライの方は見ず、早口に言う。
 「分厚いコンクリートで密閉されてるせいかここは空気が悪い。新鮮な酸素を吸ってくる」
 ノブを回し廊下に出る。乱暴に鉄扉を閉じ、背中に注がれる視線を遮る。そのまま数歩歩む、と見せかけて壁に凭れかかって廊下にしゃがみこむ。 
 なにをやってるんだ僕は?
 廊下の端で力尽きたように屈みこんだ僕へと注がれるのは通行人の好奇の眼差し。見世物じゃないぞ、くそ。そう抗議したいのは山々だがいちいち通行人にかまってる精神的余裕がない。とりあえず廊下にでて頭を冷やそうと適当に理由をこじつけて出てきたのはいいが時間稼ぎにも限界がある。冷たい壁に背中を預け、俯く。
 
 『おにいちゃん』
 『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
 『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
 『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』

 ―『おにいちゃんが死ねばよかったのに』―

 「……許してくれるのか?」
 僕は許されるのか?
 数日前、鏡の中に見た恵の幻影が脳裏を過ぎる。あれは僕の自己嫌悪の産物で現実には存在しない虚像で、でも一面では真理を言い当てていて。僕は恵を守る為に両親を殺害したが、結局それはただの自己満足に過ぎなかったんじゃないか?恵の為恵の為と口では言い訳しつつ、心の底では自分の存在意義を失うの怖さに凶行に及んだんじゃないか?
 恵を守ることでしか僕は自分の存在意義を実感できない。
 「天才」という付加価値以外の存在意義がないなら、鍵屋崎直という固有名詞を持つ人間はこの世に必要ないんじゃないかという疑問がいまだに心から拭い去れないのだ。
 手の中の手紙を見下ろし、壁に凭れかかるようにして立ちあがる。
 一時的に廊下に逃避してきたはいいが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。逃げるのは可能でも逃げ続けるのは不可能だ。扉を開け、房に戻る。サムライを無視して床を横切って自分のベッドに腰掛ける。
 あれほど待ち望んでいた恵からの手紙だが、いざ手にしてみると喜びよりも恐怖が勝っている。
 恵はまだ手紙の中で僕を「おにいちゃん」と呼んでくれているのか?わからない。僕のことを許してくれたのか?わからない。封を破き、この目で確かめるのが怖い。東京プリズンでの過酷な日々の中唯一心の支えとなっていた恵の思い出を壊したくなくて、この世にただ一人の妹に拒絶されたら生きる気力さえ失ってしまうんじゃないかと危惧して今まで逃げ続けてきた恵の本音と向き合うのが怖いのだ。
 「大丈夫だ」
 励ましの声に顔を上げる。
 対岸のベッドに腰掛けたサムライが僕の葛藤さえ包みこむような深い眼差しを注いでいた。
 「お前は強い。大丈夫だ」
 「無責任なことを言うな、大丈夫じゃないかもしれないだろう」
 声が震えた。情けない、サムライの前でこんな醜態を晒して。指の間接が白く強張るほど手紙を握り締めて下を向けば、裸電球もつけない夕闇の房に力強く優しい声が響く。
 「お前が大丈夫じゃなくなったその時は俺がいる。だから大丈夫だ」
 指の震えが止まる。
 「大丈夫だ」なんて何の根拠もない繰り言にあっけなく説得されてしまうなんてどうかしてる、本当にどうかしてる……否、どうかしていてもかまわない。サムライの声を聞いて励まされて、少しだけ心が軽くなったのは事実なのだから。
 不覚にも安心してしまったのは事実なのだから。
 そして、封を破く。心臓が壊れそうに高鳴り、喉が詰まりそうに息苦しくなる。一息に封を破き、逆さにして便箋を取り出す。逆さにした封筒からすべりおちてきた便箋を手にとり、広げる。
 
 長い長い時間が経過した。

 重苦しい沈黙が落ちた房の中に夕闇が押し寄せる。物量的な圧迫さえ感じさせる夕闇に呑まれて正面にいるはずのサムライの顔が見えなくなる。
 「……何が書かれてたんだ?」
 暗闇に沈んで表情がわからないサムライが、様子がおかしい僕を気遣って不器用に声をかけてくる。
 便箋を手に持ったまま、僕は何も返す言葉がなく放心していた。
 そこに書かれていたのが、良い意味でも悪い意味でも僕の予想を裏切る思いがけない内容だったから。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051231215929 | 編集

 『はじめまして。
 恵さんを担当する十文字大学病院小児精神科病棟の医師・斉藤です。
 まずはじめに謝罪します。
 恵さんからの手紙だと思って過分な期待をさせてしまったらごめんなさい。
 君の手紙は先日こちらに到着しましたが、現在治療過程の恵さんは精神的に不安定な状態にあるのを考慮し「今手紙を見せるのはよくない」との結論に至りました。
 君からの手紙は恵さんがある程度落ち着いてから見せるつもりです。
 君にとっては唯一の妹にあてた手紙でもあり、他人に読まれることなど想定してなかったでしょうね。
 それを考えるととても心苦しいです。
 付け加え、血のつながりもない赤の他人である我々が勝手に見せる見せないを判断したことを謝罪します。
 プライバシーを侵害する行いですが、患者の安全と健康を最優先する病院としての建前、また患者の精神の安定を第一に考える医師としての立場上やむをえない処置だとお考えください。
 
 恵さんの入院から数ヶ月を経た今、君から手紙が届いたことに驚きました。
 
 半年前の事件で君は両親を殺害し、その罪を裁かれて東京少年刑務所に送致されたと聞いています。
 君が両親を殺害する場面を目撃した恵さんはそのショックで重度のPТSDに陥り一旦は伯母さん夫婦に引き取られましたが、一般家庭ではケアにも限度があり適切な処置もできないという判断から、設備の整った仙台の小児精神科に長期入院することになりました。
 君に相談せず恵さんの処遇を決めた伯母さん夫婦を恨まないでください。
 入院前、恵さんの様態を知るため叔母さん夫婦と何回か面談しましたが、彼らは恵さんを手放すことについて深刻に悩んでいました。
 できることなら最後まで恵さんの面倒を見たい、この年になるまで子供に恵まれなかった自分たちだからこそ恵さんを我が子として育てたいというその熱意は本物でした。
 ただ当時の恵さんの状態では一般家庭で日常生活を送るのが極めて難しいと判断せざるをえず、度重なる話し合いの末に彼らは恵さんを我が病院に預ける決断を下したのです。
 最後の話し合いの場で、君の伯母さんは嗚咽を堪えながらこう言いました。

 『直くんが帰ってくるまで、私たちが責任もって恵ちゃんを守らなければいけなかったのに』。

 叔母さん夫婦が心配してたのは恵さんだけではない。
 いや、ひょっとしたら恵さん以上に君の事を気にかけていたのかもしれない。
 叔母さん夫婦は君のことを心から憂い、君が懲役を終えて出てくる日を待ち望んでいました。
 たとえそれが八十年先で自分たちが確実に生きてなくても、君が長い長い懲役を出てくるその日の為に帰る場所を残しておいてあげようと、君が罪を償い社会復帰した日のために恵さんと暮らせる環境を整えておいてあげようと尽力していたのです。
 彼らのことを恨まないでください。
 彼らはとても善良な人間です。
 恵さんを預けて病院を去るとき、伯母さん夫婦は『君に手紙を書けない』と泣いていました。
 自分たち夫婦が直くんの信頼を裏切り恵さんを見捨てた事実を知らせる勇気がないと、自分たちはどうしようもない臆病者だと、見送りにでた医師と看護士の前で泣き崩れました。
 こんな形で恵さんを放任した自分達夫婦を、妹想いの君は絶対に許してくれないだろうと。
 『直くんに申し訳ない』と彼らは何度も何度も言いました。
 叔母さん夫婦は決して恵さんを見捨てたわけじゃない。
 決して君たち兄妹を見捨てたわけじゃない。
 彼等は君のことを大切な甥として、鍵屋崎直というひとりの人間として愛しているのですから。
 そのことだけはどうか心に留めておいてあげてください。

 ……少々脱線してしまいましたね。話を戻します。

 現在恵さんは精神的に不安定な状態にありますが、この半年間で大分回復し、最低限の日常生活なら支障なく営めるようになりました。
 病院にきた最初の頃は本当に手をつけられない状態でした。
 食事を受けつけない。
 点滴で栄養分を注入しようとすれば自分でチューブを抜き、奇声を発して暴れる。
 夢遊病による深夜の徘徊。
 極度の対人恐怖症。
 鬱。
 初期は深爪するまで爪を噛む自傷傾向も見られましたが、入院数ヶ月が経過した現在では大分症状が落ち着き、指の爪を執拗に噛んで不安をごまかす自傷癖もなくなりました。
 看護婦と担当医の私にはおずおずと心を開き、親の愛情に飢えた十一歳の少女らしく無邪気に甘えてくるようにもなりました。
 ただ、まだ事件のショックが癒えてないせいか家族のことに触れられるのを避けている節があります。
 君が東京少年刑務所に送致されたことは伯母さん夫婦から告げられたはずですが、それに対しどんな感情を持っているかは現在の恵さんの様子からは窺い知れません。
 恵さんを刺激するのをおそれ、私たち医師も出来るだけその事には触れないようにしてます。
 恵さんは普段絵を描いて過ごしています。
 恵さんは動物を好んで描きます。
 もともと動物が好きなのでしょう、ずっと犬を飼いたかったのだと話してくれました。
 『でも、お父さんとお母さんが動物嫌いで、飼っちゃいけませんて』とも。
 彼女の口から家族の話がでたのは初めてでした。
 
 直くん。
 君は取り調べでも裁判でも、動機については一貫して黙秘を通したと聞きました。両親を殺害した動機については今でも不明のまま裁判が進行し、陪審員および裁判官の質問をまともに取り合わなかったせいで心証を悪くし、情状酌量の余地なく懲役を課されたとも。
 あくまで噂です。
 どこまで本当かはわかりません。
 ただ僕は君に対して、一抹の共感をおぼえているのです。
 故人を悪くいうのは不謹慎ですが、鍵屋崎夫妻は学者としては間違いなく一流の人物でしたが、人の子の親としては眉をひそめざるをえない言動が目立ちました。
 僕は専門分野が違うので直接の面識や交流はありませんが、遺伝子工学の世界的権威である鍵屋崎夫妻はメディアへの露出が多く、4・5年前まで長男の君も交えてよくマスコミから取材を受けてましたよね。
 当時読んだ新聞に君たち家族の写真と記事が掲載されていました。
 遺伝子工学の世界的権威。
 最高学府の最年少名誉教授。
 日本で最も有名な学者夫婦。
 それら華々しい見出しの下に掲載された家族の写真に写っていたのは、眼鏡をかけた無表情な男の子を挟んだ中年夫婦でした。
 一瞥『ああ、三人家族なんだな』と思いました。
 『似てない親子だな』とも。
 共通点は表情に乏しいことくらいでしょうか?
 その時僕は何の疑問もなく、鍵屋崎夫妻の子供は長男の君ひとりだと思いこんでしまいました。
 何故ならその写真には長女の恵さんが省かれていたから。
 当時恵さんは五歳くらいでしょうか。
 何故彼女ひとりだけ写真から除かれいないものとして扱われていたのか、正しい家族構成を知った現在では違和感をおぼえます。でもその時、鍵屋崎夫妻を取材した記事を読んで最も印象に残ったのは次の一文でした。
 
 『息子さんには将来どんな大人になってほしいですか』
 『私たちの研究成果を受け継ぐ優秀な人材になってほしい』

 人間、ではなく人材でした。
 読み間違いじゃないかとその時は何度も読み返してしまいました。
 読み違いじゃありませんでした。
 誤植でもない。
 鍵屋崎優氏は確かにそうインタビューに応じたのでしょう。
 ささやかなニュアンスの違いが後々重大な意味をもつことがあります。
 もし鍵屋崎氏がインタビューに本音で答えたのだとしたら、その発言はあまりにも無神経で軽率ではないでしょうか。
 私は生前の鍵屋崎夫妻と面識がありませんし、君たち兄妹がどういう家庭環境で育ったのかも伯母さん夫婦の話から想像するしかありません。
 ただあの記事を読んだ限りでは、鍵屋崎夫妻が自分の子供達に人並の愛情を注いでるようにはどうしても思えませんでした。
 写真からは幼い長女を除外し、長男に対しては「人間」ではなく「人材」としての有用性を求め。
 両親を殺害した君が正しいと言いたいわけではありません。
 ですが十五年間自分を育てた両親を殺害したからには必ず動機があるはずだと、肝心の動機も斟酌せずに罪を裁くのは早計ではないかと疑問は残ります。
 取り調べと裁判に際し君が完全黙秘を通したのも余人には計り知れない複雑な事情があるのでしょう。 
 たとえどんな理由でも殺人は許されないとはいえ、まだたった十五歳の少年が懲役八十年という重すぎる刑罰を受け、劣悪な環境下の刑務所に送られたのは理不尽としか言いようがありません。

 少なくとも私は、君に下された判決は間違っていると思う。
 絶対に。

 ……「恵さんのために一日も早く罪を償って出てきてください」なんて言えない。
 君の懲役が明けるのは遥か先の未来でその頃には恵さんは既に生きてないかもしれない。
 いや、肝心の君が懲役満了を待たずに死亡してるかもしれない。
 東京少年刑務所の悪評は遠く仙台にも届いています。
 どこまで本当かはわかりません。
 ただ、東京少年刑務所を生きて出られる人間が全体の三割にも満たないという統計データを信用するなら君が今いるそこは生き残るにも命がけな極東の強制収容所なのでしょう。
 私はただ祈ることしかできません。
 君が無事に出てきてくれることを。
 生きて再び恵さんと会える日がくることを。
 ご両親亡き今たったふたりきりの兄妹なのですから、きっとやり直せるはずです。
 関係を修復し絆を取り戻せるはずです。 
 私はただの精神科医に過ぎませんが、一日でも早く君と恵さんが再会できる日がくることを願ってやみません。
 
 では、長々と書いてしまいましたがこの辺で。
 もしよければまた手紙をくださると嬉しいです。
 恵さんのお兄さんについて、担当医として知っておきたいことが山ほどあります。恵さんの近況を知りたいときは遠慮なく言ってください、できるだけ詳細に記述して送ります。

 追伸
 君の手紙を読んでびっくりしました。今の子も手塚治虫の漫画なんて読むんですね。
 ブラックジャックは小学生の頃よく読んでいました。今でも大好きです。
 確かまだ実家に手塚治虫全集が残っていたと思います。今度恵さんに貸して感想を聞いみますね。
 女の子に貸すにはやっぱり『リボンの騎士』がいいでしょうか?
 恵さんはいつも夢中で絵を描いてるのでひょっとしたら漫画の才能があるかもしれません。
 先日恵さんが描いた絵を同封します。ご参照いただければ幸いです』

 以上が手紙の内容だった。
 恵からの手紙じゃなかったことに安堵し、また落胆する。手紙を裏返して封筒の裏面を見れば、差出人の氏名がないかわりに恵の病院の住所が記入されていた。五十嵐に「お前宛だ」と他の囚人より早めに手渡され、てっきり恵からきたものだと思いこんでしまったのだ。突然の事態でいくら動転してたとはいえ注意力が欠落してるにもほどがある。
 黄昏に暮れる房の中、恵の担当医を名乗る人物から届いた手紙を複雑な面持ちで見下ろす。
 いつのまにかベッドを立ちこちらへとやってきたサムライが、放心状態の僕の手の中を覗きこんで文面を読む。文末にさしかかり、その眉間に不審の皺が刻まれる。
 「ブラックジャックとはなんだ?」
 「恵への手紙に書いたんだ。最近読んだ本のことを」
 恵への手紙に何を書けばいいのかわからなくて、暴力と薬物に汚染された東京プリズンの日常を事細かに描写するわけにもいかなくて、悩んだ末に手紙に記したのはブラックジャックの感想だった。まだ11歳の恵に資本論の感想を送るのは酷でも無理でも漫画の楽しさなら共有できるんじゃないかと一縷の希望に縋って、東京プリズンで出会った手塚治虫の漫画を手紙の中で語彙を費やして絶賛したのだが……
 恵以外の人間の共感を招くなんて、予想外の結果だ。
 そこまで考え便箋をめくる。便箋の一番下に折り重ねられていたのは三枚の紙。これが恵が描いたという絵だろう。一枚目に描かれているのは猫とおぼしき三角耳としっぽの生えた生き物だ。クレヨンで茶色く塗られた毛並みを眺めてると、正面に立ったサムライが声をかけてくる。
 「……残念だったな、妹からじゃなくて」
 「気にしてない」
 そうだ、気にしてない。もとから返事がかえってくるなんて期待してなかったのだから傷つくわけない。
 「それよりこれを見ろ、斬新なアートだと思わないか。恵には絵画の才能があるな、市販のクレヨンを使用しても塗り方に独特の前衛的センスを感じる。僕の妹はミュシャの再来かもしれない。いや待てよ、この淡く滲んだ色彩と余韻を残すぼかし方はクロード・モネの影響か……」
 一枚目をめくりながら強いて笑みを作る。二枚目の紙に描かれていたのは色とりどりのチューリップだ。隅々まで丁寧に色を塗られたチューリップは女の子らしい繊細さと細心さを感じさせる微笑ましい出来だ。
 なのにサムライは、何故こんな痛ましい眼差しで僕を見つめてるんだろう。
 これじゃまるで、僕が哀れまれてるみたいじゃないか。
 「僕の顔じゃなくて絵を見ろ。ほら凄いだろう、この光の当たり加減。太陽を赤やオレンジじゃなく黄色で塗るのが恵の凄いところだ。これはゴッホの影響だな。いかに無教養な君でもゴッホの名前と代表作『ひまわり』くらいは知ってるだろう、なに知らない?なら説明してやる、一度しか言わないからよく聞けよ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、強烈な色彩と激情的な筆致でそれまでの表現の流れを変えフォーヴィズムに影響を与えた後期印象派の画家でその生涯を貧困、精神的な病気の苦痛などに苛まれ……」
 自然と焦りをおぼえて口調が言い訳がましくなる。やめろ、そんな目で見るな、同情されるのはこりごりだ。そんな目で見られるとますますみじめになる、何の関係もないサムライにまで声を荒げて手を上げて八当たりしてしまいそうじゃないか。
 こめかみを疼かせる苛立ちを抑圧しながら次をめくる。

 そして、硬直した。
 
 三枚目は二人の男女に挟まれた女の子が笑っている絵だ。
 女の子を挟んだ男女の顔に既視感を刺激される。
 やけに見覚えのある顔だ。顎が尖り気味の細面の女性と教養深い目をした男性……鍵屋崎由佳利と優だ。そして、二人と手をつないで微笑んでいるのはおさげが特徴的でつぶらな瞳が愛らしい女の子。
 すぐにわかった。恵だ。
 見てるうちに自然と笑みがこぼれるような幸せ一杯の家族の肖像で、僕の前ではおろか恵の前ですら滅多に笑顔を見せることがなかった鍵屋崎優と由佳利が、理想の両親像が投影された絵の中では優しげに微笑んでいたる。
 両親と手をつないだ恵もこの上なく幸せそうで、
 
 幸せそうで。
 絵の中のどこにも、僕はいなかった。

 「…………」
 絵の中の三人はしっかり手をつないでいる、家族の完成形に異物が入りこむ隙間などないほどに。絵の中の三人は笑っている、僕がいなくても平然と、僕など最初から存在しなかったように。
 恵が描いた絵に僕がいない。
 僕だけがいない。
 これは家族の絵なのに、鍵屋崎優と由佳利はちゃんと絵の中にいるのに、僕だけが当たり前のように省かれて最初からいないことにされている。この絵のどこにも僕の居場所はない。拒絶という言葉すらそぐわない違和感のなさで存在ごと抹消された僕は、家族の絵に含めてもらえなかった僕は。

 恵にとってはもう、いないも同然の人間なのか? 
 いないほうがいい人間なのか?
 
 「直……」
 僕の手元から顔を上げたサムライが気遣わしげな視線を向けてくるのに気付かないふりをし、虚ろな目で家族の肖像を見つめ続ける。僕が含まれてない家族の絵。僕がどこにもいない家族の絵。
 これが恵が願った家族の形というなら一体僕は何のために、
 何のために、何を守ろうとして両親を殺害したんだ?
 「僕の妹は絵が上手いだろう」 
 要らないのは僕の方だったのに、それにも気付かず両親を殺して恵を一人ぼっちにして。僕は馬鹿だ。自分が本当は必要とされてないことにも気付かずに、妹が本当に必要としていた人間を永遠にこの世から葬り去って、それで妹を守りきったつもりになって自己満足して。
 恵にとっては僕こそが家族の和を乱す異分子で、絵の隅にさえ描く価値と意味のない邪魔者で。
 
 ああそうか。
 僕は本当は、家族じゃなかったんだ。僕の家族なんて最初からだれもいなかったんだ。

 「………ひとりにしてくれ」
 絵と便箋を封筒に詰める気力もなくし、ベッドに放り出して頭を抱える。
 とにかく今はひとりになりたかった。冷静に考える時間が欲しかった、虚勢と矜持を立て直す時間が欲しかった。崩壊寸前の何かを、いや、既に崩壊してしまった何かをかき集めていつもの、いつもどおりの自分に戻るための執行猶予が欲しかった。この手紙を読む前の自分に、この絵を見る前の自分に戻るためにどれ位時間がかかるかはわからない。それでも今は一人になりたい、これ以上余計なことを言わずに済むように、嫌なことを見聞きしないように― 
 サムライはいつまでたっても僕の前を去らなかった。
 時間を忘れたようにただそこに立ち竦んでいた。夕闇に沈む房の中、黙りこんだ僕の鼓膜に染みたのは低い声。
 「……気が休まるまで俺のことは忘れてくれてかまわない。でも、今のお前をひとりにはできない」 
 ベッドに放置してあった封筒に便箋と絵を詰め直し、そっと枕元に置いて立ち去る。自分のベッドに引き返してゆくサムライの背中を見送り、ふたたび頭を抱え込む。少し前までのサムライなら僕が「ひとりにしてくれ」と頼めば何も言わずに出ていったはずだ。でも、今は違う。情緒不安定な僕をひとり残して出て行くのがいやで、対岸のベッドに物言わず腰掛けてこちらを見守っている。
 そして僕は、客観的な距離をおいたサムライの視線があったからこそ壊れかけた心を維持できたと、心の裂け目から染みこんできた絶望に耐えることができたと認めざるをえない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051230220156 | 編集

 ひとりになりたい。
 
 なにもかも全部忘れてしまいたい。ここじゃないどこかへ行きたい。ここじゃなければどこでもいい、寝ても覚めても何をしていても付き纏う罪悪感から逃れられるならどこでもいい。
 現実逃避。
 ひとりになりたい。誰もいないところに行きたい。夢の中、毎晩違う男に犯される悪夢を追体験させられるなら眠りさえ救いにならない。逃げ場などない。誰も助けてなどくれない。もがいてももがいても堕ちてゆくだけ、足掻いても足掻いても希望など見えない。喉が嗄れるまで泣き叫んでも懇願の声はむなしく虚空に吸い込まれるだけ。忘却は救いだ。眠りは癒しだ。でも僕の頭の一部は睡眠時にも明晰に冴えていて、目を閉じて眠りに身を委ねても、完全には意識を無意識に明け渡すことができない理性の監視下にある。  醒めた夢の中、僕は夢だと自覚していながらも自分の身の上に起こる出来事に抗うことができず、また、これから何が起こるか重々承知していながら過去を捻じ曲げる力すら持たない。
 「眠る」という行為は「夢を見る」という行為に直結している。寝れば必ず夢を見るとは限らないが売春班での生き地獄を体験してからかなりの頻度で悪夢を見るようになったのは確実で、夢の内容は決まって過去の反復だ。
 何故人が繰り返し過去の夢を見るのか、それも根強いトラウマの原因となった忌まわしい体験ばかりを反復させられるのかは心理学的見地から説明できる。
 心身に深い傷を残す耐えがたい出来事に直面した場合、脳に備わっている自己防衛機能が働いてその事実は一時的に「無かった」ことにされる。あまりに辛い体験を許容することを脳が拒否すれば、人は表面的には以前となんら変わりなく振る舞うことができる。だがしかし強烈な苦痛を伴う体験が容易に消え去るわけもなく、実際は水面下に抑圧されてるに過ぎない。そして無意識の水面下に抑圧された記憶を夢の中で繰り返すことにより耐性がつき、おぞましい記憶を追体験しても平静を失わなくなって初めてトラウマを克服できるのだ。
 理論はわかってる。
 夜毎悪夢を見せる脳の仕組みも十分に理解しているのに、それでもやはり耐えられそうにない。トラウマを克服するために必要なことだとわかっていても、僕が生き延びるために必須な試練だとしてもやはり許容できない。
 眠るのが怖い。
 消灯時間が過ぎてもうだいぶ経つにもかかわらず僕は眠れなかった。「眠る」という行為に対する潜在的恐怖が体の芯に根を張って眼球を乾かせている。暗闇に耳を澄ます。隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライはよく眠っているようだ。
 緩慢な動作で毛布をどけ、上体を起こす。床に足をおろしてスニーカーを履く。サムライの安眠を妨げぬよう足音をひそめて床を横切る。ノブを回し、押す。ゆっくりと鉄扉が開き、わずかな隙間から肌寒い夜気が忍びこんでくる。廊下に出て、音がしないよう慎重に扉を閉じる。
 とにかく今はひとりになりたかった。
 頭の中を整理する時間が欲しかった。
 深夜ひとりで出歩くのは危険だという自覚はあるが、それより何より狭苦しい房の中、息詰まる闇から逃れたくて蛍光灯が照らす廊下にさまよいでた。自暴自棄にもなっていた。消灯時間が過ぎてからひとりでふらついて、身に危険が及んだからとてそれがなんだ?リンチもレイプも怖くない、僕の身にはもう最悪なことが起きたんだからこれ以上最悪なことなど起こるはずがない。物陰にひきずりこまれて強姦されるくらいどうってことない、売春班ではもっと酷い目に遭い、口にだすのも汚らわしいおぞましい行為を強制されていたのだから。
 行くあてはない。
 とにかく少しでも早く、できるだけ遠くに行きたかった。もう房には帰りたくなかった。房に帰れば手紙がある、ベッドの下に目につかないよう放りこんである手紙が。またあの手紙が目に触れるようなことがあれば今度こそ自分がどうなるかわからない、手のつけられない恐慌をきたして僕のことを純粋に心配してるサムライにまで当り散らしてしまうかもしれない。そんなぶざまな真似はしたくない、絶対に。サムライはなにも知らないのだから、なにも関係ない彼を僕の身勝手で振りまわすのは理不尽だ。

 たとえ彼がそれを許してくれても、彼の優しさに甘えるようなことはしたくない。
 彼の寛大さに付けこんで自分の弱さを肯定するような卑劣な真似はしたくないのだ、絶対に。

 蛍光灯が冷え冷えと輝く廊下をなにかに取り憑かれたようにひたすら歩く。糸で繰られてるように足を交互させて廊下を進む。頭の中から現実感が抜け落ちて感覚が鈍化してる。
 『さわらないで。おにいちゃん汚い』
 『だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
 『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
 容赦ない糾弾の言葉が胸を抉る。数日前、鏡の中に現れた恵の幻覚が僕を指弾して言い放った言葉の数々が足を鈍らせて歩調を落とす。そうだ、僕はいつだって恵がいちばん大事で恵のことをいちばんに考えてきた。恵を守るためなら何だってした。他人を傷つけても僕自身が傷ついても恵が笑ってくれるならそれでよかった、それ以上はなにも望まなかった。
 どこで間違えたんだろう。
 僕がいない家族の肖像。三人仲良く手をつないだ親子の絵。
 僕がいなくても鍵屋崎優と由佳利さえいれば恵はそれで満足だったのだ。それ以上はなにも望んでいなかったのだ。僕にとっては恵ただ一人が大事な家族でかけがえのない人間だったが、恵にとっての僕はいてもいなくてもどうでもいい程度の存在だったのだ。いや、いてもいなくてもどうでもいいのではなくいっそいないほうがいい人間、そう、生まれてこなかったほうがよかった人間なのだ。
 僕は自分が生まれてこなかったほうがよかった人間だとは思いたくない。
 今すぐに死んだほうがマシな人間だとも思いたくない。 
 でもそう思っているのがこの世に僕一人なら、ただ一人生き残った家族にさえそう思われてないのだとしたらただの道化じゃないか。
 この世で僕以外のだれも僕の存在を肯定してないなら、僕が生きてることを快く思ってないなら……
 僕は何故生きてるんだ?
 なんの為に、だれの為に、生きてるんだ。
 どれだけ知能が優れていても知能指数が高くても、頭脳にしか価値がないなら脳だけ摘出してホルマリン漬けにしておけばいい。「天才」としての付加価値しか重要視されないなら「鍵屋崎直」の人格はもとより不要……馬鹿らしい、なにを考えてるんだ。こんな思考は無意味だ、いつまでたっても答えなどでるわけない……くそ、最悪だ。自己憐憫に浸るのもいい加減にしろ。自分がしたことを考えれば当たり前の仕打ちじゃないか、恵が描いた絵に自分がいなかったからって何だ?だれが自分の両親を殺した人間を好き好んで描きたがるというんだ、自業自得じゃないか。たかが一枚の絵にショックを受けて夢遊病者のように深夜徘徊して……

 「!」
 夢から覚めた。

 ここはどこだろう。
 目の前には見慣れた扉がある。両開きの巨大な扉……そうか、図書室の前だ。いつのまにか渡り廊下をわたり中央棟までやってきてしまったことに愕然とする。歩くのに夢中で全然気付かなかった、これじゃ本当に夢遊病者じゃないか。一瞬自分の正気を疑ったが、すぐに平静さを取り戻す。
 たぶん僕はまったく無意識に自分がいちばん行きたいところに来てしまったのだろう。暇さえあれば図書室に通ってたせいで自然と足が向いてしまったのだ。習慣とは怖い。
 今は深夜だ。押して試すまでもなく図書室は閉鎖されてるだろう。時間外立ち入り禁止の規則を破ってまで図書室に足を踏み入れるほど短慮でも愚かでもない僕はおとなしく引き返すことにする。少し頭を冷やすつもりがずいぶんと遠出してしまった、これ以上廊下をうろついてたら風邪をひいてしまう……
 そう判断して身を翻しかけた、刹那。
 「おい、あれうちの棟の親殺しじゃねえか?」
 驚いて振り向けば、中央棟地下一階へと降りる階段から一人の少年が顔を覗かせていた。少年の仲間らしい数人が階段を駆け上がり、騒々しくとびだしてくる。
 「本当だ」
 「なんでこんな時間にうろついてんだ」
 「さあな、図書室に用じゃねえか。しょっちゅう本読んで歩いてるネクラメガネだしな」 
 「こんな夜更けに読書かよ、物好きだねえ」
 「いや、待てよ。案外俺らに犯されにでてきたんじゃねえか」
 見覚えある顔だと思ったら、食堂の中央席を占領してる凱の取り巻き達だった。いやな予感がした。面倒なことになるまえに逃げようと踵を返すより凱の取り巻きたちに押し倒されるほうが早かった。
 「消灯時間過ぎて外うろついてたらヤられちまっても文句言えねえな!」
 「自業自得だな」
 「犯してくださいって言ってるようなもんだぜ」
 まずい。
 背中に馬乗られて床にうつ伏せた僕の周囲を取り囲んだ少年たちがにやにやと笑みを浮かべてる。これから何されるか容易に予想がついたが、性欲を持て余した低脳ども相手に弱みを見せるのが嫌で虚勢を張る。
 「君たちこそ、なんでこんな時間にこんなところにいるんだ?」
 「打ち合わせだよ」
 「打ち合わせ?」
 僕の後頭部を片手でおさえこんだ少年が耳元でささやく。
 「ペア戦の班割り決めてたんだよ。だれとだれが相棒になるかを、な。看守が定期的に見まわりにくる房じゃ大人数で集まれねえし話に集中できねえし、エレベーターできてから使われてない中央棟の階段なら落ち着いて話せるだろうって……ですよね、凱さん?」
 唾をとばしてまくしたてていた少年の視線につられて振り向けば、今しも階段を上りきり廊下に歩を踏み出したのは大柄な男。少年、という表現がふさわしくない屈強な体躯と獰猛かつ厳しい面構えで鋼の筋肉を縒り合わせた背中から周囲を威圧する剣呑なオーラを振りまいている。
 東棟最大の中国系派閥のボス、凱だった。
 「ようメガネ。いい格好だな」
 威圧的に腰に手をあて、大股に歩いてきた凱が廊下に組み敷かれた僕を見下ろして挑発的に笑う。周囲にたむろっていた仲間を手荒く押しのけ、僕の鼻先に仁王立ちした凱が優勢を優位するかの如くゆったりと腕を組む。手を背中で一本にまとめられてるせいか、鼻梁にずり落ちた眼鏡の位置を直すこともできない。両手が使えない不便さに舌打ちしながら凱を睨みつける。
 「……話は聞いた。君たちもペア戦に出場するのか?」
 「おおともよ。べつに驚くことじゃねえだろ?レイジがぶちあげたペア戦50組100人抜きは来る者拒まずの無差別格闘技、東西南北全棟の囚人参加自由。あのケツの軽い王様気取りをつぶしにかかるにはこれ以上ない絶好の機会じゃねえか」
 レイジが売春班撤廃の条件に掲げたペア戦50組100人抜きは東西南北すべての棟の囚人の出場許可されている。レイジが東棟のトップだろうが関係ない、いや、東棟に凱を筆頭にレイジを蹴落として下克上を企む野心家がごろごろしているのだ。棟対棟というより個人戦の様相が強いのには、レイジが属する東棟からもかなりの人数がペア戦にエントリーしてる裏事情がある。
 凱はレイジを目の敵にしてる。ペア戦に出場し、東西南北の大観衆の前で決着をつけ、レイジに代わる新たなトップとして君臨するつもりなのだろう。
 「……身のほど知らずだな」
 「あん?」
 口元に嘲笑が浮かぶのをおさえられない。
 「身のほど知らずだと言ったんだ。リングに上る前に忠告しておくが、君たちは自分の実力を過信すぎじゃないか?君たち群れるしか能のない低能どもがレイジと対戦したところでかなうわけがない。レイジだけじゃない、サムライだってそうだ。君たちはわからないのか?レイジとサムライは凄まじく強い、勝敗などリングに上る前から決まっているようなものだろう。大観衆の前で恥をかきたくないなら大人しく金網の外で観戦してろ。躾がなってない動物園の猿にはフェンスを揺さぶって騒ぐのがお似合いだ」
 嫌味でもなんでもなく、ただありのままを指摘しただけだというのに一気に雰囲気が険悪になった。
 「!!」
 脇腹にめりこむスニーカーのつま先。
 腕組みして僕を見下ろしていた凱が無造作に蹴りを入れ、臓腑がねじれる激痛に目の前が赤く眩む。痛い。背中で手を一本にまとめられてるせいでひりひりする鳩尾を庇うこともできず、反吐を戻す勢いではげしく咳き込みながら顎を上げれば、周囲を取り囲んだ凱の取り巻き連中が手を叩いて爆笑していた。
 ああ、本当に猿みたいだ。
 その連想に苦笑しかけ、髪の毛を掴んで頭を持ち上げられる。僕の髪の毛を掴んで強引に顔を上げさせた凱が邪悪にほくそ笑む。
 「ダチのサムライに頼まれて偵察に来たのか?」 
 「誤解するなよ。僕はただ眠れなくて気分転換の散歩に出かけただけだ。僕が偵察などしなくてもサムライとレイジは絶対に勝つ」
 「右手を怪我してても?」
 「そうだ」
 「ちっ、強情だな」
 荒く舌打ちして僕の髪を突き放し、鼻梁にずり落ちていた眼鏡を奪い取る。眼鏡を奪われた瞬間、視界が曇った。凱の腕が大きく弧を描き、眼鏡が遠方に放り投げられる。
 カチャン。ごく軽い落下音がした。
 なんてことをするんだ、この男は。眼鏡がなければ日常生活に支障がでる、なにより本が読めないじゃないか。そう抗議しようと口を開きかけ、おもむろに命じられる。
 「拾え」
 「………」
 「床に手をついて四つんばいになって拾って来い」
 周囲の人垣から悪意滴る嘲笑がこぼれる。背中を押さえ込んでいた少年がどき、両手が解放される。膝に体重をかけて押さえこまれていたため手首が痺れて感覚がなくなっていた。
 逆らう、という発想ははなからなかった。
 数と腕力では圧倒的に凱たちに利がある。僕が逆らったところで体に無駄な痣を増やすだけだ。それならば無抵抗に徹し、彼らが飽きるまでこのくだらないお遊びに付き合ってやるのが無難だろう。
 心に空洞が開いたようになにも感じなかった。
 嘲笑に取り巻かれ、孤立無援の状態で冷たい廊下に座りこんだ現状でも屈辱感とか敗北感とか一切の感情が沸いてこなかった。恵の絵を見てからずっと心が麻痺している。大切な思い出と一緒に喜怒哀楽をどこかに置いてきてしまったみたいに。  
 恵の思い出。
 なにより大事な、最愛の妹。
 『おにいちゃん』
 『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
 『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
 『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

 「…………」
 くだらない。なにもかもがくだらない。
 床に両手をつき、膝をつく。目がよく見えないせいで距離感と方向感覚が狂ったが、目を凝らして廊下を見渡して7メートル先に眼鏡を発見した。ズボンの膝で床をこすりながら眼鏡の落下地点に接近する最中、壁と天井に反響して頭上に降り注いでいたのは野次と嘲笑。
 「あはははははっはははっ、犬だ、犬がいるぞ!」
 「もっと高く尻上げて頭下げろよ」
 「尻上げるのは得意だろうが、さんざん売春班でやってきたことだろう」
 「ズボンで床拭きゃ雑巾いらなくて一石二鳥だ」
 騒がしく罵声が飛び交う中、手をついた床からじんわり伝わってくる冷気が体中に行き渡って肌が粟立つ。寒い。体の芯まで冷えそうだ、心まで凍えてしまいそうだ。かすむ目を凝らして廊下を見渡し、眼鏡までの距離を割り出す。膝をついて手をついて這い進む途中、進路を妨害するように何度も背中や肩を蹴られた。肩や背中ならまだいい、中には無防備な腹部に蹴りを入れてくる者もいて鳩尾を抉る衝撃に肘が砕けそうになった。
 こんな連中相手にするだけ馬鹿だ、無視するに限る。五指を広げた手を床に置く、ズボンの膝で床を擦って前に進む。時間はひどくゆっくりと流れた。肘を蹴られて四つん這いの体勢を崩しかけ、寸手のところで立て直す。汚れた靴裏を頬に押しつけられて口の中まで泥が入りこむ。
 行儀が悪いとは思ったが、唾と一緒に泥を吐き捨て前に進む。ようやく眼鏡の落下地点に辿りついたことに安堵し、手を伸ばしかけー
 「くわえて持って来い」
 手が止まる。
 振り向く。ぼんやり滲んだ視界に映ったのは下劣な笑みを湛えた凱を真ん中にした少年たち。全員が凱とよく似たにやにや笑いを浮かべて突拍子もない命令に躊躇する僕の反応を楽しんでいる。
 まったく陰険な連中だ。
 なぶるような視線を四囲から注がれて辟易する。僕が次にどうでるかと、生唾飲み下して待ち構えてる連中のほうは見ずに吐き捨てる。
 「持っていけばいいんだろう」
 衆人環視の中、眼鏡をくわえて持って行くぐらいどうということはない。売春班ではもっと汚い物もくわえさせられたのだから。眼鏡をかけてないせいで、陰湿な笑みを全開にした取り巻き連中の顔がよく見えない現状に感謝しつつ、上体を突っ伏した姿勢から不自由に顎を傾げる。
 眼鏡の弦を食み、口にくわえる。
 手を使わず眼鏡をくわえるのは意外と難しいんだな、と妙な所に感心する。
 「絶対に手は使うなよ。使っていいのは口だけだ。そう、上手いじゃねえか。誰に仕込まれたんだその芸は」
 売春班に決まってるだろう、と口がきけるものなら言い返したかったがいかんせん弦をくわえていて自由に動かない。眼鏡の弦を口に含めば無機質な金属の味がした。
 なにをしてるんだろうな、僕は。
 両親を殺し、恵を精神病院送りにし、刑務所に送られ。刑務所の中の狭い社会でさえ自分の親を手にかけた人間の屑として扱われ迫害され異端視されて。 

 これが僕の、恵の望んだことなのだろうか。

 「よし、上出来だ」
 厚みのある手が頭全体を包みこむように往復し、口にぶらさげていた眼鏡をひったくられる。まさかまた放り投げられるつもりじゃと警戒したが、違った。中腰に屈んだ凱が、手ずから眼鏡をかけてくれる。
 レンズを通した視界が拭われるように明瞭になり、同じ目線の高さに凱の顔が浮かんでいた。
 「命令通りにしたぞ。もういいだろう、帰っても」
 肉体的疲労よりも精神的疲労が蓄積されていた。もう毒舌を吐く気力もない。もう何も見たくない、何も聞きたくない、何もしたくない―
 ぐい、と襟首を掴まれた。
 「なに言ってんだ、本番はこれからだぜ」
 本番、か。やっぱりな。なるべく早く済ませてほしいが、凱一人を相手にして解放されるとは思えない。凱の取り巻き連中は一人、二人、三人……合計八人。この数を一度に相手にするのは少しきつい。
 「たぶん僕の意見など聞いてはくれないと思うが」
 「なんだ」
 「僕は不感症だが一応痛覚はあるんだ、こうして君に押さえこまれた現状では性行為は避けられないとしてもなるべく痛い思いはしたくない。君たち全員が早漏なら行為も比較的短時間で済むだろうが確証はない」
 うんざりしながら説明する僕の上に覆い被さった凱が早くもシャツの内側に手を潜らせてきた。裾がはだけられた脇腹に冷気が触れて身が竦む。売春班にいたときにつけられた痣は大部分が消えたが、臍の横脇にはまだ黄褐色の痣が鮮明に残っている。痣を見た凱が萎えてくれないだろうかと淡い期待を抱いたが無駄だった。痣を揉まれるたびに下腹部を襲う鈍い痛みに顔をしかめ、半ば自棄気味に続ける。
 「なら合理的解決として僕の気を失わせてくれないだろうか。出来るだけ穏便な手段を希望したいが、無理なら急所への一撃ですみやかに気を失わせてほしい。電力を押さえたスタンガンが理想だが、誰か持ってないか?」
 気を失ってしまえばこれ以上いやなものを見ずに済む、痛い思いをせずに済む。
 スタンガンで少々火傷を負うくらい我慢しよう、痛みに慣らされた体なら一瞬の電撃くらい耐えることができるだろう。ズボンの内側にすべりこんだ手が太股を這う感覚におぞけをふるいながら、声だけは冷静に提案した僕に返されたのは蔑笑。
 「馬鹿言うなよ、目え覚めてなきゃヤるほうだって楽しくねえだろうが。お前が悲鳴あげて痛がる姿にみんな興奮するんだからサービスしろよ」
 背後に距離を詰めてきた取り巻き連中に肩を掴まれ、後頭部を押さえこまれた前傾姿勢をとらされる。耳朶で熱い吐息が弾ける、だれか、僕の背後に立った顔の見えない誰かが執拗に耳を舐めている。

 もうどうでもいい。

 頭の裏側でだれかが囁く。もうどうでもいい、僕がどうなろうがかまわない。これから凱たちに輪姦されボロボロにされようがべつにかまわない。僕が傷ついても泣いてくれる人間がいないのなら、自分でさえ泣けないのなら力加減を誤って殺されてもかまわない。
 もう、どうなろうとかまわない。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 それが恵の望みなら。
 それで恵が救われるのなら。
 サムライには悪いことをした。僕のせいで迷惑をかけて、僕を庇って怪我を負わせて。
 でも、僕がいなくなればこれ以上迷惑をかけることもなくなるだろう。
 そして僕は、一抹の諦念とともに目を閉じ。
 「何をしている」
 瞼の裏側に恵の顔を思い浮かべたのと、第三者の声が介入してきたのは同時だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051229220301 | 編集

 そこにいたのは安田だった。
 蛍光灯が白白と輝く廊下の真ん中に図書室の扉を背にして佇んでいる。皺ひとつないダークグレーのスーツを隙なく着込み、シャツの白さを際立たせるアクセントとして濃い暗色のネクタイを結んでいる。無機質かつ無彩色かつ無表情の三拍子が揃った容姿から漂いだしているのは、選良のプライドに根付いた威圧的なオーラ。銀縁眼鏡がよく似合う理知的な細面は端正だが無個性で、規範を逸脱することを何より嫌うエリートの典型ともいえる面白みのない容姿の中、剃刀のような知性を帯びた双眸だけが強い印象を与えた。
 「手を放したまえ」
 冷たい声で安田が命じ、僕を組み伏せていた凱が言われたとおりにする。行為に水をさした招かれざる闖入者、それも東京プリズン副所長の地位にある人間に命令されては従わぬわけにいかない。荒い舌打ちとともに僕の肩を突き飛ばして立ちあがった凱が仲間に顎をしゃくって後方に下がらせる。
 安田と目が合う。
 床に座りこんだ僕は酷い状態をしていた。上着の裾は胸まではだけられて臍が露出し、ズボンは下着が覗くまで引き下げられていた。これから何をされようとしていたのか一目瞭然の状況だ。上着の裾をおろし、丁寧に皺を伸ばしてからズボンを穿く。服に付着した埃をはたき落としながら腰を上げれば、安田が落ち着いた声で凱たちを問い詰めていた。
 「こんな時間に何をしている?消灯時間過ぎてからの外出は規則で禁止されてるはずだが」
 「すいません、ちょっと外の空気を吸いたくなったもんで……な、そうだろみんな?」
 「そうそう」
 「凱さんの言うとおり」
 「眠れなかったからちょっとそこまで散歩に出かけただけです、なーんも悪いことなんかしてませんよ」
 反省の素振りもなく凱とその取り巻きたちが身の潔白を訴える。凱に追従して次々に声をあげる少年たちを冷ややかに一瞥、その視線が僕の顔へと降りてくる。
 「彼に何をしたんだ?」
 「ちょっと遊んでただけですよ」
 腰に手を当てた凱がおどけたふりで肩を竦める。
 「この親殺し、おっともとい、ネクラ眼鏡が夜中ひとりでほっつき歩いてたもんだから注意してやろうと思いましてね。夜中にひとりで出歩くなんて自殺行為だ、他の囚人に襲われてケツ剥かれても文句言えねえ。一回痛い目見たらもうこんな馬鹿な真似しないでしょう。はは、親切だよな俺たち」
 「凱さんは優しいから」
 「ほうっとけないんですよ、危なっかしい奴が」
 「貧弱で生っ白いくせして、自分がどんだけ男誘惑する犯ってくださいオーラ撒き散らしてるか自覚もなくほっつき歩いてるようなガキがね」
 「自業自得だよ」
 「そうだ、自業自得だ。ここをどこだと思ってんだ、リンチとレイプが年中行事の東京プリズンだぜ?深夜に出歩くのがどんだけ危険かわかってんのかよ、狼の群れに襲われて内蔵食い散らかされても知らねえぜ」
 「よかったな、俺たちが心優しいオオカミさんでよ」
 「黙れ」
 その一声で廊下に渦巻いていた野次と嘲笑がぴたりと止む。廊下の真ん中に立ち、体格はそう変わらないどころか自分より筋骨逞しい凱を含めた九人の少年と対峙した安田が底光りするレンズの奥から命じる。
 「独居房送りにされるのが嫌なら今すぐ自分の房に帰れ。今ならまだ見逃してやる」
 「独居房」の脅しは効果抜群だった。
 安田が介入してもなお人を食った態度を改めなかった凱たちの間にざわめきが走り、全員が怯えたようにを見合わせる。一列に並んだ少年たちを眼光鋭く睥睨した安田が、内心の恐怖を押し殺し、先頭に仁王立ちしていた凱を視線で射竦める。
 前出以外の選択肢を許さない強圧的な眼差し、無言の脅迫。
 「……ちっ。お前ら、帰るぞ」
 横柄に顎をしゃっくり、取り巻きたちを率いて踵を返した凱がすれ違いざま僕の耳元で囁く。
 「レイジとサムライに伝えとけ。東棟最大勢力を率いるこの俺様が必ずお前らを殺してやるってな」
 「伝えるのはかまわないが、無意味だな」
 「なんだと?」
 気色ばんだ凱に体ごと向き直り、泥で汚れた顔に笑みを浮かべる。
 「無知な君のために教えてやるが、脅迫とは強者が弱者にするからこそ効力を発揮するんだ」
 「…………屁理屈メガネが。俺に押し倒されて抵抗ひとつしなかったくせによ」
 口汚く毒づいた凱がいやな笑みを浮かべる。
 「俺がレイジを倒して東棟のトップになったらさっきみたいに四つん這いにして飼ってやるよ。たのしみにしてな」
 安田には聞こえない声で囁いた凱がすばやく尻を撫でて去ってゆく。廊下に響き渡る濁った哄笑もやがて消え、再び耳が痛くなるような静寂が降り積もる。蛍光灯の信管が爆ぜる耳障りな音が、目には見えない蝿の羽音のように鼓膜に付き纏っている。哄笑の余韻が今だたゆたってるような不均衡な静寂の中、安田と二人きりで廊下に取り残された僕は俯き加減に上着の裾を払っていた。廊下に押し倒されたときに埃やら泥やらが付着して酷い有様だ。こんな風体で帰ったらサムライに怪しまれてしまう。
 顔を伏せて立ち尽くしていた僕に安田が声をかけてくる。
 「君は何をしてるんだ?深夜の外出は規則違反だぞ」
 「何をしてるんでしょうね」
 鸚鵡返しの嫌味ではなく本当に疑問だった。何故自分がここにいるのかわからない。夢遊病者のように無意識に出歩いて気付いたらここにいましたなんて言えない。気まずく押し黙った僕になにを思ったか、安田がため息をついてそばの壁に凭れる。  
 「……彼らの肩を持つわけではないが、消灯時間過ぎてから廊下をふらついてたら危険に遭遇しても仕方ない。自己責任だ。もう少し自分を大事にしたらどうだ」
 「自分を大事にしろなんて偉そうに説教する前に刑務所の治安を改善してください。仮にも副所長なんでしょう」
 「……私も努力はしている」
 「口だけならなんとでも言える」
 前にもおなじやりとりをした。つい数日前、サムライが僕を庇って右手を捻ったときだ。サムライが医務室で診療を受けてるあいだ、こうして廊下に立ち、今とおなじように二人並んで壁に凭れかかって立ち話をした。ほんの数日前のことをやけに懐かしく感じながら足元の床を見下ろす。
 「何故抵抗しなかったんだ」
 「どこから見ていたんですか?」
 「君が上着を脱がされかけたところから」
 「……抵抗しても疲れるだけだ。それにあの人数では僕に勝ち目はない。相手は凱を含めて九人、全員が喧嘩慣れしていて僕など比較にならないほどに体格と腕力に恵まれてる。抵抗したら余分に殴られるだけだ、そんな非効率的なことはしたくない。大人しく抱かせてやれば彼らもじきに飽きるだろう」
 「投げやりだな」
 「東京プリズンの常識です」
 そっけなく返し、ふいに笑い出したくなる。入所たった半年で東京プリズンの常識を語れるほど馴染んでしまったのか、僕は。東京プリズンの劣悪な環境に感化されて一般社会で通じる倫理観が破壊されてしまったのだとしたら本末転倒だ。
 自嘲的に含み笑いした横顔に体温の低い視線を感じる。安田がじっと僕を見つめている。言いたいことがあるなら直接口にだせばいいのにまわりくどい男だ、と辟易しながら気付かぬふりで無視を決め込めば隣から衣擦れの音。スーツの背広を探り、安田が取り出したのは綺麗に折り畳まれた濃紺のハンカチ。皺ひとつない清潔なハンカチを手に持った安田をちらりと一瞥すれば、おもむろに手を掲げ、ハンカチを僕の頬に押し当てようと―

 手。
 体を這い回る手。

 「!―っ、」
 力一杯手を払われた衝撃でハンカチが床に落ちる。僕の眼前に手を翳したまま、安田は顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
 「さわるな。吐き気がする」
 僕を覗きこんだ安田の顔に一瞬悲痛な色が浮かぶ。おそらく今の僕は、生理的嫌悪と恐怖とが綯い交ぜになったさぞ醜い顔をしてることだろう。よそよそしく視線を外し、足元を見る。安田に触れられると直感した瞬間一斉に肌が粟立ち、冷静沈着な僕らしからぬ激烈な拒絶反応を示してしまった。僕の頬に付着した泥汚れを拭おうとして手厳しく拒絶された安田が中腰に屈み、軽く払ってからハンカチを拾い上げ、背広に戻す。
 「ひとに触れられるのはまだ怖いか」
 「怖いんじゃない。虫唾が走るほど不快なだけだ」
 落ち着け、動揺のあまり敬語を忘れてるじゃないか。深呼吸して気持ちを落ち着けてから服の袖で頬を拭い、泥汚れを落とす。
 「今夜の君は普段にも増して不安定だな。何かあったのか?」
 「……副所長ともあろう立場の人間がただの囚人に興味をもちすぎです。そんなに面白いですか、かつてはIQ180の天才児ともてはやされ将来を嘱望された僕が人間の屑の親殺しとして虐げられるさまを観察するのが。いい具合に倒錯した趣味をしてますね」
 「ひねくれてるな相変わらず」
 安田がかすかに苦笑する気配が伝わってきた。安田と話してると「同族嫌悪」という言葉を連想する。それからしばらく二人無言で壁に背中を預けていたが、五分が経過した頃に前を向いたまま安田が口を開く。
 「今の君は自暴自棄になっている。危険な兆候だ。辛いことがあるなら友人を頼ればいい」
 「友人とはサムライのことですか」
 「それ以外にだれがいる?」
 「だれもいません」
 「ひとりで抱え込むには限界がある。心が壊れるまえに友人に相談したらどうだ」
 「副所長」
 これ以上安田の賢しげな助言を聞くに自制心を消耗し、体ごと安田に向き直る。名前ではなく役職名で呼ばれた安田がかすかに意外げに目を見張る。等間隔に並んだ蛍光灯の下、青白く発光する信管に濃く焼き付けられた影が廊下にのびている。
 足元の影を踏んで安田と対峙し、眼鏡の奥から反抗的な目つきで睨みつける。
 「あなたは独身ですか」
 「……ああ。今現在は未婚だが」
 脈絡ない質問に当惑しながら安田が否定する。体の芯で燻っていた怒りが凍結、双眸の温度と比例して急速に声が冷えてゆくのがわかる。
 「既婚歴も離婚歴もない?」
 「ああ」
 「兄弟はいますか?」
 「いや」
 「家族に『死ね』と言われたことは?」
 続く言葉を喪失し、安田が黙りこむ。僕の頭の中では夕闇の房で見た一枚の絵が焼き付いてる。恵が描いた絵。拙い家族の肖像。僕だけがいない家族の絵。あれが恵が理想とした家族なら、恵が長い間欲しがってた家族の姿だというなら僕がこれまでしてきたことは何だったんだ?すべて無意味じゃないか。
 伯母夫婦のもとで恵が幸せになってくれるならそれで良かった。 
 鍵屋崎夫妻が与えてくれなかった愛情を注がれ、健やかに穏やかに育ってくれるならそれでよかったのだ。恵が幸せにある代償として僕が東京プリズンに送られたのなら何の不満もない。伯母夫婦のもとで愛情を注がれ、無邪気に笑ってるだろう恵を心の支えにすれば過酷な強制労働にも不味い食事にも幼稚ないやがらせにも耐えられたのだ。
 ところがどうだ?
 結局僕がしたことで恵は不幸になってしまったじゃないか。恵が渇望していた「家族」を永遠に葬り去ってしまったじゃないか。精神病院送りにされ白い部屋の中で奇声を発して暴れてベルトでベッドに拘束されて、食事さえまともに受けつけずに点滴のチューブを抜いて暴れて……恵をそこまで追い詰めたのは僕だ、すべて僕が悪い。何が天才だ、何が兄だ。結局僕は恵のためになにもできなかったじゃないか、恵を以前よりさらに、各段に不幸にしただけで終わってしまったじゃないか。どんなに知能指数が高くても知力が優れていても何の役にも立たない、幼い妹ひとり救えない無力でぶざまで最低な人間なのだ鍵屋崎直は。
 何故鍵屋崎優と恵が死んで、ふたりを殺した僕がのうのうと生きてるんだろう。
 そんなこと恵はちっとも望んでないのに。
 「……鍵屋崎優と由香利を身近に感じたことは一度もない。彼らは僕のことを後継者として見ていたから教育には熱心でもその他のことには徹底的に無関心だった。彼らを家族と思ったことは一度もない、一つ屋根の下に暮らしてる他人だと思っていた」
 僕の家族は恵ただひとりだった。
 恵を守るためならなんでもした。両親だって殺せた。恵にとっての僕はただの「おにいちゃん」で、僕が天才だろうがそうでなかろうがその呼び方はきっと変わらなくて。
 ただそれだけが嬉しかった。
 「以前こんなことがありました。4・5年前、鍵屋崎夫妻が遺伝子工学の分野で画期的理論を構築して、一躍有名になりマスコミから取材を受けたときです。僕は10歳かそこらで恵は5歳でした。父の研究に関与していた僕も両親と一緒に取材を受け、その写真が紙面に掲載されることになりました。恵は呼ばれませんでした。何故恵だけ抜かしたのかと父に聞けばこう返されました」
 目を閉じる。まだ鮮明に覚えている、あの時鍵屋崎優がそっけなく口にした言葉を。侮蔑的な眼差しを。
 「『恵は必要ないからだ』と」
 そうだ、鍵屋崎優は「必要ない」と言ったんだ。聞き間違えようもなくはっきりと、当たり前のことを諭すように僕にむかって。
 「恵は研究に一切関与してないから呼ぶ意味がないと、彼はそう言いました。そんなこともわからないのかと嘆かわしげな顔をして。僕は頼みました、次に取材がきたときは恵も混ぜてくれと。家族全員で写真を撮らせてあげてくれと」
 鍵屋崎優は言う通りにした。普段自己主張しない僕が必死に頼んだのが効いたらしい、次回から渋々恵を呼んでくれるようになった。
 「でも、新聞に掲載された写真では恵はいつも申し訳そうな顔をしてました」
 自分がここにいるのが場違いだといわんばかりにしおらしく俯いたその姿。自分が必要とされてないことを空気で感じ取り、すまなそうにうなだれた姿。
 僕がよかれと思ってしたことはいつも裏目にでて恵を哀しませてばかりいる。今だってそうだ、恵の為に、恵を守る為に両親を刺殺したことで恵がどれだけ傷ついて心を閉ざしてしまったか……
 恵と僕には血のつながりがない。恵は鍵屋崎夫妻の実子で、僕は違う。でも僕は鍵屋崎夫妻に必要とされていた、自分達が老いた将来研究を継がせる人材として優秀な後継者として彼らは僕を養育した。
 彼らが必要としたのは僕の天才としての「能力」で、「鍵屋崎直」という一人の人間じゃない。
 それなら名前なんて必要ない。本名など無意味だ。「鍵屋崎直」は便宜上の記号にすぎない。研究を継がせるため、試験管の中で精子と卵子を結合させ人工的に創造した天才児だから僕は「直」と名づけられた。
 ユズルの次にくるのはスグル。何の願いも夢もこめられてない語呂合せの産物。
 ただの人材。
 「馬鹿な、今の状態じゃ需要と供給が成立しない。僕はだれかを必要とするばかりでだれからも必要とされない、たった一人の妹にだって必要とされてないのが現状で。僕は恵を守ることで恵に必要とされたかったのに、恵に必要な人間になりたかったのに、その結果がこれか?どうしてだ、なんでこうなってしまうんだ。両親を殺害したときもまったく後悔はしなかった、恵を軽んじた両親など死んで当然だとさえ思っていた。鍵屋崎優と由香利を殺せば恵が二度と無神経な言動に傷つくことがないと、自分が身代わりになって妹を守り通した気にさえなって」      
 遠くから聞こえる雨の音、雨の音にかき消される悲鳴。
 血が滴るナイフを片手にさげ、薄暗い書斎に立ち尽くす僕。部屋の隅に追い詰められた恵。恐怖に硬直した表情。うつ伏せに倒れ伏せ、徐徐に体温と血を失いつつある両親の遺体―……
 「僕のしたことは全部無駄だった。恵にとっても、サムライにとっても」
 僕が助けなど求めなければサムライが死地に赴くこともなく利き手を痛めることもなかったのだ。どうしてこんなことになったんだ、恵もサムライも傷つけたくなどなかったのに―……
 僕がしたことは全部無駄だった。もう、疲れた。 
 「鍵屋崎 直」
 名前を呼ばれ、顔を上げる。
 安田がまっすぐにこちらを見ていた。逃げを許さない眼差しで。
 「君がしたことが迷惑だと、サムライがそう言ったのか?」
 「………いいえ」
 「なら、ひとりで決めつけるのはよせ。友人に対して失礼だろう」
 叱りつけるような声だった。  
 安田がゆっくりとこちらに向き直る。眼鏡越しの目には僕の心をざわつかせる透徹した光。
 「君が傷ついたら哀しむ人間がいることを忘れるな。自分を粗末にしたら怒る人間がいると肝に銘じておけ。君は一人だが独りじゃない、君のために泣いてくれる人間がいるかぎりは」
 安田の言葉に記憶がよみがえる。
 売春班の仕事場に僕を訪ねてきたサムライの涙を。眼鏡をかけてないせいで顔はよく見えなかったが、あの時、彼はたしかに泣いていた。頬に落ちた涙が熱かった。堪えても堪えきれずに声が震えていた。
 
 ああ、そうか。
 自分のために泣けない僕の代わりに、サムライが泣いてくれるのか。  
 
 目は乾いていた。涙はでなかった。
 でも、少しだけ、ほんの少しだけ救われた心地になった。心の空洞を埋めるように温かいものが胸を満たし、恵の絵に僕がいなくても泣かずにすんだのはそばにサムライがいたからだと気付いた。
 「泣くのが下手な人間のそばには代わりに泣いてくれる人間がいるはずだ。必ず」
 「あなたのそばにもそんな奇特な人間がいるんですか?物好きな」
 「皮肉を言う元気がでてきたみたいじゃないか」
 何故か嬉しそうに微笑んだ安田が背広のポケットに手をさしいれ、何かを取り出す。てのひらには一粒の錠剤。
 「さっき医務室でもらってきた睡眠薬だ。どうしても眠れない場合はこれを服用しろ」
 驚いた。
 「いいんですか、副所長が勝手なことして。貴方に処方された薬でしょう」
 「私には残りがある。それに東京プリズンの不眠症患者は君だけではない、自分が犯した罪の重さに苛まれて眠れない囚人は他にもたくさんいる。そんな囚人から『睡眠薬を処方してくれ』と要望がでてな、近々重度の不眠症に苦しんでる囚人にかぎり睡眠薬を処方する懸案がでてる。いい機会だ、君には試験体一号になってほしい」
 咎めるような目をした僕の手に錠剤を乗せ、悪びれたふうもなく安田が言う。 
 「くれぐれも睡眠薬の服用自殺など図るなよ」
 「副所長は自殺幇助の疑いで更迭されますね」
 「おい」
 気色ばんだ安田を無視し、手渡された錠剤をズボンのポケットにしまいこむ。
 「冗談です。この僕が自殺なんて無様な真似するわけない。見損ないでくれますか」
 睡眠薬を受け取り、踵を返す。夜が更けて本格的に寒くなってきた、これ以上立ち話してたら凍死してしまう。サムライが異変に気付く前に房に戻らなければ……安田とすれちがいざま、彼が小脇に抱えてる本に目がとまる。腰の後ろに隠していたせいで今まで全然気付かなかった。
 「なんですかそれ」
 「え?」
 いついかなるときも冷静沈着な安田に似つかわしくないうろたえた声だった。
 安田の小脇に目を凝らし、目を見張る。
 以前ヨンイルが紛失したと騒いでいたブラックジャック九巻だった。
 「犯人は貴方だったんですか!?」
 意外すぎる事実が発覚し、廊下中に響き渡る大声で叫んでしまった。片手に隠し持っていた本を見咎められた安田がついぞ僕が見たことのない表情で焦る。
 「ああ。囚人間で面白いと評判だし、その、少し興味がでてな……一巻から八巻までは図書室で読んだのだがこの巻には興味深いエピソードがあってじっくり読みたくて」
 「何故正規の手続きを踏んで借りなかったんですか、盗みは犯罪でもないと思ってるんですか」
 追及する声にも怒りがこもる。落ち着け、冷静になれと理性が命じるが僕が読みたくて探していた九巻をよりにもよって副所長の安田が持ち出したと発覚した今じゃ無理な相談だ。九巻が見つからなかったせいで僕がどれほど苦労したか、書架の端から端まで一日かけて探して頭から埃にまみれて……
 「……正規の手続きで借りたら図書カードに名前が残ってしまうだろう」
 合点がいった。
 正規の手続きで借りたら図書カードに名前が記録され、次に借りる人物に知られてしまう。副所長の見栄だかエリートの矜持だか知らないが、それに気後れした安田は無許可で本を持ち出したのだろう。
 「……あきれた男だな。もはや敬語を使う価値すら見出せない、図書カードに記入せず無断で本を持ち出すなど最低の犯罪行為だ。僕個人の法的見地から述べさせてもらえば器物破損より罪が重い」
 「反省している」
 一介の囚人が副所長を叱責する、という立場逆転の図を第三者に目撃されたら問題に発展したかもしれない。素直に謝罪した安田が図書室の扉の前に立ち、背広のポケットから鍵束をとりだし、中のひとつを鍵穴にさしこむ。僕が凱たちに犯されようとしてる現場に通りかかったのも、人目がない時間帯を選んでこそこそ本を返しにきたからだろう。
 「副所長」
 両開きの扉を開け、図書室の中に足を踏み入れようとしていた安田が振りかえる。
 まだ何かあるのだろうか、と眼鏡越しの双眸を細めた安田と対峙し、できるだけ平静を装い眼鏡のブリッジを押し上げる。  
 「……読み終わったのなら僕に貸してください」
 戻ってくるのをずっと待っていたのだから、これくらい言う権利はあるだろう。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051228220414 | 編集

 早くも一週間が経った。
 レイジとサムライが仲違いした前回のペア戦から一週間、二人は一度も口をきかず食堂で顔を合わせても見て見ぬふりしてむっつり黙り込んでる。レイジはサムライのことなんか知ったこっちゃないとそっぽを向き、サムライもレイジのことなんか知ったこっちゃないとポーカーフェイスに徹して箸をとってる。レイジとサムライに挟まれて苦労してる俺と鍵屋崎はいい迷惑で、俺は何度となく「ガキっぽい真似はやめて仲直りしろ」と正座させて説教したのだがレイジはまともに取り合わずあくびばかりしてる。
 サムライも同様で、鍵屋崎がいくら説得しても顔を縦に振ろうとしない。普段おちゃらけてるレイジだが、相棒のサムライに右手の捻挫を隠されていたのが相当こたえたらしい。俺は悪くない、悪いのはサムライだ、サムライが謝るなら許してやるの自己中三段論法を頑として譲らず年下の俺を手こずらせてばかりだ。サムライもあれで相当頑固者だから、自分に非があると認めて頭を下げるのは武士の見栄だかなんだかに関わる重大事なのだろう。
 そして何も進展がないまま今日を迎え、ペア戦第二幕が切って落とされた。

 試合開始十分前。

 今日のこの日を楽しみに過酷な強制労働に耐えぬいた東西南北の囚人ががやがや騒ぎながら地下空間にくりだしてくる。週末の夜に催される東京プリズン最大の娯楽行事、ブラックワーク娯楽班の無差別格闘技を観にやってきた囚人に先輩も新入りも関係ない。そろそろ年季も明けようかという二十歳ぎりぎりの囚人から俺とそう変わらない年頃の小柄なガキまではしゃぎまくって金網のフェンスに群がってる。喧嘩好きが高じて相手を殴り殺して東京プリズンに送られたガキには、返り血のしぶきがかかる距離で繰り広げられる囚人同士の殺し合いは血沸き肉踊る最高の催しなのだ。
 力こそすべて、勝利こそすべて。
 レイジの100人抜きを阻止せよと名乗りを上げた連中の中には東棟の人間も多くいた。大半は凱の子分で、目の上のたんこぶ的存在のレイジを完膚なきまでに打ち負かしてブラックワーク覇者の名声と東棟トップを地位をぶんどろうと目論んでる。
 今日の第一試合で、レイジ・サムライペアは早速凱の子分とぶつかった。
 「いいのかよ」
 「いいんだよ」
 先鋒で出陣したサムライを見送りながら傍らのレイジを睨めば、ふてくされたように鼻を鳴らされた。サムライの右手の怪我はこの一週間でだいぶ良くなったらしいが不安は残る。レイジが先鋒として出場したほうが無難じゃないかとさんざん口を挟んだのだが、サムライはもとよりレイジまでが「いや、これでいく」と頑固に言い張ったせいで順番は逆転することなく、右手の包帯が外れないサムライがリングに立つことになった。
 試合開始のベルが鳴り響く。
 挑戦者の武器はヌンチャクだった。風切る唸りをあげてヌンチャクを振りまわしながらじりじりと間合いを詰めてゆくガキとは対照的にサムライは一歩もそこを動かない。木刀を正眼に構えた姿勢で微動だにせず挑戦者を威圧している。
 「右手の怪我は治ったのか?」
 「心配無用だ」
 ヌンチャクを旋回させながらの揶揄に短く返したサムライの右手首には包帯が巻かれている。一週間が経ってだいぶ腫れは引いたらしいが、大事を見て安静にしてなければ患部が悪化してしまうかもしれない。金網にしがみついてサムライを見守ってる俺の横で、鍵屋崎も少し不安げな顔をしていた。
 勢いよく投擲されたヌンチャクが右手首をかすめ、袖口がふわりとふくらむ。
 「!危ねっ」 
 完璧にあてにきていた。間一髪、身をかわしてヌンチャクの直撃を避けたサムライに降り注ぐ罵声と怒号の嵐。いちばん見晴らしのよい最前列を独占していた凱とその取り巻き連中が一斉に金網を揺すりたて、右手への集中攻撃に苦戦中のサムライめがけ聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせ掛ける。
 「避けるな、バーカ」
 「おとなしくやられちまえ、腰抜けザムライが」
 「右手怪我してんのに試合でんじゃねえよ、かっこつけが」
 「チュンル、棒きれ振りまわすしか能のねえ日本人なんかぎたぎたにのしちまえ!中国人の意地見せてみろ!」
 ペットボトルの水をがぶ飲みしつつ檄をとばす凱を筆頭に、金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、行儀悪く野次をとばす連中に苛立ちが募る。凱たちの声援に後押しされたガキが調子に乗って雄叫びをあげ、頭上でヌンチャクを大旋回。大昔に流行った香港の活劇映画さながら迫力満点にヌンチャクを旋回させ加速させ、投擲。
 サムライが眼前に掲げた木刀がヌンチャクを弾く。あと一秒反応が遅れていたら顔面に直撃を受け、盛大に鼻血を噴いていたことだろう。へたしたら鼻骨が折れてたかもしれない。
 「いい加減交代してやれよ」
 「言う相手間違えてんじゃねえか?」
 レイジの袖を引っ張りながら言えば鼻で笑って一蹴される。「サムライが苦戦してようが鼻血噴こうが俺には関係ないですよ」と他人事めいて取り澄ました横顔を殴りたくなる。はらはらとしっぱなしの俺をよそに、金網越しのリングでは華やかな大技が連続する大活劇が繰り広げられていた。手足の延長のように鎖を躍らせ、自由自在にヌンチャクを方向転換させつつ地面を蹴ってサムライに突進。頭蓋への致命傷を狙い、頭上に振り下ろされたヌンチャクを避けて横に跳躍したサムライが追撃を阻止すべく反射的に木刀を構える。目にもとまらぬ連続攻撃を苛烈な太刀筋でさばきつつ金網に沿って疾走するサムライ、その残像を目で追いながら余裕のない口ぶりで鍵屋崎が言う。
 「ヌンチャクを受けとめるたびに右手首が痺れ、次の攻撃への反応が遅れてる。いかに補助の役割とはいえ右手が使えないのは不便だ」
 「聞いたかレイジ、不便だとよ」
 「不便でも不利じゃない。俺が出る幕ねえよ、今日の試合は」
 「~お前いい加減にしろよ、いつまでもガキみてえなこと言ってんじゃねえよ!」
 「無茶言うなっつの。実際サムライが帰ってこなきゃどうしようもねえだろ」 
 「………」
 レイジの言い分も最もだ。レイジがいくら交代したくても肝心のサムライが入り口に戻ってこなければ手と手を打ち合わせることができず、よってレイジがリングに上がることは許可されない。サムライがあくまで孤独な戦いに身を投じて木刀を振るいつづけるかぎり永遠に交代不可能なのだ。
 もっとも今のレイジは、サムライを心配してしつこく声をかけたりはしない。腹の底じゃどう思ってるか知らないが、少なくとも表面上はポーカーフェイスで金網越しの死闘を眺めている。醒めた目と口元の笑みの組み合わせはひどく酷薄で、綺麗な顔形が売りの悪魔のようだ。
 どうしちまったんだよ。
 これは俺の知ってるレイジじゃない、いつもおちゃらけてくだらない冗談を吐いて俺をあきれさせる笑い上戸のレイジじゃない。相棒のサムライが右手の怪我にも負けずに歯を食いしばって頑張ってるってのに、応援の言葉ひとつかけず嘲笑してるなんて……
 「らしくねえよ」
 そりゃレイジの性格の悪さは一年と半年付き合ってきた俺がよく知ってるけど、少なくとも以前のレイジはこんなむかつく笑い方をしなかった。サムライはダチじゃなかったのかよ、ちょっと前まで相手にされなくてもおかまいなしに軽口叩いてたじゃねえかよ。レイジが俺のために100人抜きを決意してくれたのは嬉しい、感謝もしてる。でもサムライと仲違いしたまま、ずっとうやむやのまま100人抜きに挑まれるのはいやだ。
 「らしくねえよ、お前。サムライは相棒だろ?一緒に戦う仲間だろ?なのになんで平気なツラして笑ってんだよ」
 「じゃあ聞くけど、なにが俺らしいんだよ」
 シャツの内側から金鎖を引っ張り出し、十字架をまさぐる。この前引きちぎった鎖は器用に結ばれて修復されていた。サムライの足元を穿ったヌンチャクがコンクリートの破片を散らすのを横目に続ける。
 「金網にしがみついてがんばれーって応援すりゃいいのか?サムライは絶対負けねえから安心しろよってにこにこ笑って励ませば満足か?お断りだな。あんな頑固者応援するのまっぴらごめんだ、ひとりで勝手にやってりゃいいんだ。いいか、よく聞けよ。先に手を貸すの拒んだのはあいつだ、俺に頼らなくても勝てると宣言したのはサムライだ。だったら証明してもらおうじゃんか、時代遅れのサムライが刀一本でどこまでやれるか」
 「本気で言ってんのかよ」
 「本気」
 十字架をまさぐりながら笑みを浮かべたレイジにやりきれなくなる。今のレイジには何を言っても無駄だ。もしサムライがヌンチャクに直撃され腕一本骨折したとしても指一本動かさずに変わらぬ笑みを浮かべていることだろう、そう痛感させる冷酷な双眸だった。
 年上のくせにどこまで世話焼かせりゃ気が済むんだよ。
 レイジを翻意させるのがバカらしくなってそっぽを向けば鍵屋崎の横顔が目に入る。深刻な横顔を眺めてるとなにか声をかけてやりたくなる。サムライの苦戦中に関係ない話をするのは気後れしたが、俺たちが焦慮に揉まれようが戦況が好転するわけじゃなし、せめて応援席の雰囲気だけでも明るくしようと気持ちを切り替える。
 「妹からの手紙、なにが書いてあったんだ」
 念願叶って届いた手紙を話題にだせば会話も弾むだろうと踏んだのに、何故か反応は芳しくなかった。変だ、シスコンの鍵屋崎が妹から手紙が届いて嬉しくないわけないのに。金網を掴んだ手が白く強張り、俯き加減の顔から表情が消え失せる。情緒不安定に黙りこんだ鍵屋崎を怪しみつつ、重苦しい雰囲気を蹴散らそうと明るい声で続ける。
 「ほら、こないだ五十嵐から渡された手紙のことだよ。なんだよ照れてんのかよ、らしくねえ。半年ぶりに届いた妹からの手紙だろ、シスコンならシスコンらしく素直に喜べよ。なにが書いてあったんだ?おにいちゃん元気ですか、とか……」
 正直身内から手紙が届いた鍵屋崎が羨ましかったが、卑屈な本音はおくびにもださず軽口を叩く。
 鍵屋崎に手紙がきたんなら俺にもいつか手紙がくるかもしれない、嬉しい内容の手紙が……
 「!そうだ、前に言ってた手紙ってこの事か。覚えてるだろ、手紙になに書けばいいか俺に相談してきて、お前本読むの好きだから最近読んだ本のこと書けばってアドバイスしたよな。どうだった、結果は。お前のことだから手塚治虫の漫画のここが好き、あそこが素晴らしいって延々書き綴って妹に引かれてそ……」
 何が起きたのかわからなかった。
 上下に視界がぶれ、襟首が締まる。鍵屋崎に襟首を締め上げられたのだと気付いたのは眼鏡越しの双眸に射竦められた時だ。
 「黙れ」
 鍵屋崎らしからぬ暴力的な振るまいに度肝を抜かれ、続く言葉を喪失する。力一杯襟首を締め上げられ、足裏が宙に浮く。
 「なん、で怒るんだよ……俺なにか気にさわることでも言ったか!?」
 「なれなれしく話しかけてくるな。不愉快だ」
 手を触れてるのも汚いと俺の襟首を突き放した鍵屋崎が物言わずそっぽを向く。わけもわからず咳き込みながら鍵屋崎を見上げる。もう俺のことなんか視界からも思考からも閉め出しちまったんだろう、以前にも増してひややかで人を寄せ付けないバリアを築いた鍵屋崎に愕然とする。
 「―っ!」
 場を和ませようと話しかけたのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。
 やり場のない怒りに駆られ、金網を蹴りつける。そりゃ少し調子に乗ってたことは認める、この頃鍵屋崎がだいぶ接しやすくなったから勘違いしちまったのも認める。でも何で?妹からの手紙をからかわれたぐらいでマジで腹立てるなんてシスコンも度が過ぎてる。
 もう鍵屋崎のことなんかどうでもいい、放っとこう。
 深呼吸で気を鎮め、正面に向き直る。試合は白熱していた。ヌンチャクは遠距離攻撃を得意とする武器だ。自分の身は安全圏においたまま鎖で飛距離を稼いで連続攻撃を仕掛けることができる。対するサムライは木刀での打ち合いを得意とする近接戦闘型で、必然戦況は不利にならざるをえない。相手の間合いに踏みこまなければ必殺の一撃を繰り出せず、劣勢に回らざるをえないサムライに焦れて声をかける。
 「サムライ、負けんじゃねえ!武士の意地を見せてやれ!」
 俺の声援に励まされたわけでもないだろうが、次の瞬間サムライが行動を起こした。
 肩口めがけて振り下ろされたヌンチャクから素早く逃れ、頭を屈めた低姿勢で疾風の如く疾走。大旋回するヌンチャクの下をかいくぐり、一気に敵に接近。
 「チュンル、下、下だ!」
 金網によじのぼった凱が指示をとばすが、遅い。一瞬の隙をついて懐にもぐりこんできたサムライに慌てたガキが鎖を引き戻そうと手前に引いた刹那、楕円の軌道で舞い戻ってきた鎖を見据えてサムライが呟く。
 「潔く巻かれろ」
 棒で綿飴をすくいとるように木刀で鎖を絡めとり、何重にも鎖を巻いた木刀を横薙ぎに一閃。鎖の先端を握っていたガキが前のめりにたたらを踏み、今度は逆にサムライの懐へととびこんでゆく。
 勝敗が決した。
 無防備に晒されたガキの背中に、脊椎も痺れる一撃が振り下ろされる。木刀から外れた鎖がじゃらじゃらと鳴りながらサムライの足元にとぐろを巻く。
 「本日の第一試合、勝者サムライ!!」
 鎖に巻かれてもがき苦しむガキを興味なさげに一瞥、試合終了のリングに背を向けたサムライが大股に引き返してくる。勝利の爽快感とは無縁な仏頂面で、腕を振りすぎたせいで緩み、だらしなく垂れ下がった包帯を縛りなおしている。 
 「おつかれさん」
 一試合終えて帰ってきたサムライを労ってやる。一時はどうなることかと危ぶんだがさすがサムライだ、一瞬で形勢逆転しちまった。このぶんなら俺が心配することもないだろう。ホッと胸を撫で下ろして傍らを見ればいつのまにかレイジがいなくなっていた。
 あいつ、サムライの試合も見届けずにどこ行っちまったんだ?
 とことん自己中な奴だとあきれはてた俺をちらりと一瞥し、サムライが言う。
 「奴がいなくても問題ない。俺一人で勝てる」
 サムライが名前を呼ぶのも不快げに「奴」と吐き捨てたことが、なんだか無性にやるせなかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051227220531 | 編集

 むかつく。
 いくら僕がちびだからってこの仕打ちはないんじゃない?頭くるよまったく。
ペア戦二週目にして50組100人抜きの14組目。今戦ってるのは先鋒サムライ、右手のハンデは技量と度量で克服。ヌンチャクやらナイフやら釘バッドやら、殺傷目的の凶器をひっさげて襲いかかってきたガキどもと木刀一本で互角以上に立ち回ってる……らしい。「らしい」と仮定するしかないのはリングが見えないからだ。
 先週とおなじ過ちは犯さないとはりきって早めに来たのに、試合が始まってみれば我先にフェンスに殺到した人波に押し流され後方へと追いやられ、どんだけ背伸びしたってリングの様子が見えない始末。そりゃ確かに僕は140センチ台のちびだけどこれはちょっとあんまりだ。ま、僕が同年代平均を遥かに下回る小柄で貧弱な体躯なのは幼少期からクスリをやってたせいでもあるんだけど。いつまでたっても第二次成長期がこなくて声変わりもしてなくて、まだ脛毛だって薄いもんだからちょっと見女の子みたいに可愛い男の子を犯したいって親父にはウケがいいんだ。
 東京プリズンにくる前、渋谷の売春組織をしきってた頃は小動物系の容姿と天使のボーイソプラノで変態親父をたぶらかしてたけどぺドフィリアに好評な半面世知辛い苦労も多いのだ。
 「ちょっとどいてよ見えないよ、痛っ、押さないでよつぶれるっ!髪の毛引っ張るなよおい!」人ごみを掻き分け、少しでも前にでようと犬掻きしても無駄。試合に熱中した観客は僕のことなど目に入ってないらしい。ああもう、むさ苦しい。人いきれで窒息しそう。暑苦しく蒸した背中と背中に挟まれ、「サンドイッチにしても美味しくないよっ」ともがいてたら運良く人垣の綻びから抜け出ることができた。
 「あー、ひどい目にあった……」
 放心状態で額の汗を拭う。悔しいけど今日の試合観戦はあきらめたほうがいいかもしれない。今からじゃとてもリングが見える位置に陣取れないだろうし、ちびでやせっぽちの僕は力づくで場所をぶんどることもできない。最前列で幅を利かせてる凱たちが羨ましい、一等席を陣取るためによっぽど悪どい手を使ったんだろう。歓声飛び交うリングに背を向け、すごすごと退散しかけた視界の端を人影が過ぎる。
 「ん?」
 今まさに人垣を割り、歩み出してきたのは光の加減で金にも見える茶髪の男。傍らには肩で切り揃えた銀髪の男がいる。
 レイジとサーシャだ。
 「意外な組み合わせだ」
 軽く口笛を吹く。檻の入り口脇じゃロンと鍵屋崎がサムライの勝利を信じて声援をとばしてるだろうに、肝心の交代要員がそしらぬふりで抜け出てきていいのだろうか。レイジもいい加減だな、と呆れたが人垣の外に出たふたりを見比べ様子がおかしいことに気付く。気配を消してレイジに接近、何事か耳打ちしてリングを囲む人の輪の外に連れ出したらしいサーシャが横柄に顎をしゃくる。サーシャが顎を振った方角には人けのない通路が延びていた。先に歩き出したサーシャに促されてレイジも歩き出す。サーシャに従って通路へと吸い込まれたレイジの後ろ姿に好奇心が疼きだす。
 ふたりしてどこへ行く気だろう?
 試合中のサムライを放っぽって誘いに応じたのだからそれなりのワケがあるんだろう。茶髪の王様と銀髪の皇帝、東と北の二大トップの内密のやりとりが気になり、通路に吸い込まれたふたりを追って駆け出す。
 トンネルみたいに狭苦しい通路だった。
 通路に足を踏み入れてしばらくすると潮が引くように歓声が遠のき、地下空間の熱狂が異世界の出来事のように感じられる。開放的な空間から閉塞的な空間へ、天井に設置された蛍光灯がちかちか瞬く通路を歩いてると一枚のドアが見えてきた。
 サーシャがノブを捻り、先に中に入るようレイジを促す。とくに逆らうでもなく無防備に足を踏み入れたレイジに続いて扉を閉める。レイジとサーシャが入室したのを確認し、急ぎ足で駈け付ける。音がしないよう慎重にノブを捻り、わずかな隙間を開けて中を覗きこむ。どうやらボイラー室のようだ。四面の壁を埋めているのは間欠的に蒸気を噴出する大小無数の配管だ。幾何学的に交差した配管から噴き出された水蒸気がたちこめてるせいで中はサウナのように蒸し暑く、とてもじゃないが長時間いられそうにない。
 気密性の高いボイラー室は人に聞かれたくない話にもってこいだ。
 レイジとサーシャは右手の壁にいた。
 壁に背中を凭れ、両手をポケットに突っ込んだ姿勢のレイジの正面に立っているのはサーシャ。
 沈黙を破ったのはレイジだ。
 「で?内緒話ってなに。今相棒が試合中なんだけど」
 「相棒だと?は、諍いの最中のくせによく言う」
 「北棟にまで噂出回ってんのかよ」
 レイジがばつ悪げに舌打ち。が、すぐに表情を切り替える。
 「こんな人目のないとこに俺連れ込んでなにする気だよ、おまえ。北の皇帝様ともあろうお方が東のイエローモンキーにデートに誘うなんてどういう風の吹き回し?お前を崇拝してる北のガキどもが知ったらがっかりだな、皇帝の威厳大暴落だ」
 「貴様のように東の人間に忌み嫌われてる人望なき王と一緒にするな。私の家臣は皆忠実で従順だ、主への反逆などという愚かしいことをするはずがない。万一飼い主の手に噛みつけばどうなるか文字通り体に刻み付けてあるからな」 
 繊手を一閃、ポケットから抜き放ったのは銀光閃くナイフ。繊細かつ華麗な紋様が柄に彫られた見るからに高価そうな品で、無粋な武器というより好事家が収集する調度品の風格があった。目にもとまらぬ早さで鞘を振り捨て、レイジの顎に切っ先を擬したサーシャが微笑む。
 「……なあ。世の中には聞かないほうが幸せなことがたくさんあるってわかっちゃいるんだけど、気になるからひとつ質問させて」
 顎先に擬されたナイフに怯える素振りも見せず、切れ味鋭いナイフの重圧など微塵も感じてないさりげなさでレイジが口を開く。
 「こないだ俺とやった北棟のガキいたじゃん。ほら、お前にナイフ貸してもらった」
 「ああ」
 「試合後、あいつどうなった」
 「両足の親指と中指と小指を切り刻んだ」 
 「……やっぱ聞くんじゃなかった。もう一生まともに歩けないだろ、それ」
 顔をしかめたレイジの顎先にナイフの切っ先が食いこむ。ナイフの刃に映ったのは人間らしさなど欠片もないアイスブルーの双眸。
 「だからどうした?お前風情を倒せなかったのだから当然の処置だろう。獲物を狩れない猟犬は去勢される運命だ。切り刻まれたのが足の指で感謝されこそすれ恨まれる筋合いはない。奴も私の寛大さに恐れ入って歓喜の涙を滂沱と流していた」
 「痛かったんだろ単純に。なんでも自分に都合いいよう解釈するのは誇大妄想の特徴だ、エセ皇帝の悪趣味に付き合わされる北のガキどもはたまったもんじゃねえ」
 「偉そうに意見する気か?雑種が」
 口汚く吐き捨てたサーシャが、レイジの顎にナイフの切っ先を沈めたまま視線をおろす。憎憎しげにレイジをねめつけていた視線が頬の輪郭をすべり、よく引き締まった首筋を舐め、シャツの襟ぐりから覗く鎖骨へと辿り着く。獲物を味見する蛇のように粘着質な視線に自分が観察されてるわけでもないのに鳥肌が立つ。
 アイスブルーの双眸で青く燃える狂熱。
 興奮に乾いた唇を湿らし、ともすれば手元が狂って頚動脈を切り裂きそうな危うさでレイジの顎先にナイフを向けたサーシャが呟く。
 「……ああ、貴様は本当に汚い。その髪も目も肌もすべてが汚い。外見だけではなく品性と言動も卑しい、見てるだけで吐き気がする。何故貴様のように汚らわしい男が平然と王を名乗れる?東棟の頂点に君臨していられる?貴様に相応しい扱いは奴隷か家畜だ。奴隷に生まれついた者は死ぬまで奴隷、家畜に生まれついた者は死ぬまで家畜。お前の運命は生まれ落ちたときから決定していた、混血が雑種が、淫売の股から生まれた毛並みの茶色い犬が。なにを勘違いして王座にふんぞりかえっている?なにを勘違いしてブラックワークの王冠を戴いてる?貴様に相応しい装身具は黄金の王冠ではなく鉄の鎖、噛み癖を矯正する猿轡と首輪だろう」
 無抵抗のレイジを言葉でいたぶってるあいだじゅうサーシャの目は炯炯と輝いていた。ナイフを顎先に突きつけられたレイジは終始醒めた目で悦に入るサーシャを眺めていたが、これ以上支離滅裂な誇大妄想に付き合わされるのに飽いたかため息まじりに両手を挙げる。
 「そんなに王冠ほしけりゃ実力でぶんどってみろよ、相手してやるからさ」
 「本当だな」
 「しつこい男は嫌われるぜ」
 うんざり気味に肩を竦めたレイジの顎からゆっくりとナイフがはなれてゆく。沈黙。絹糸の前髪が紗を落とす眼窩に氷の瞳が輝いている。ナイフの銀光に魅入られるが如く緩慢な動きで腕を振り上げるサーシャ。右手に握り締めたナイフの先端で巧みに上着の裾をはだけシャツの内側にもぐりこませる。シャツの内側を這いのぼってくるナイフを見下ろし、レイジが微笑する。
 「なんのつもりだ」
 「命令だ。相手になれ」
 シャツの内側に片腕を突っ込まれてもなお動じないレイジの問いにサーシャが答える。
 「売春班が受け持つ客は代わりに自分が引き受けると愚民どもの前で宣言しただろう?その場に居合わせた家臣に聞いた。なら相手になってもらおうではないか」
 執拗に唇を舐めつつ、熱に浮かされたように呟いたサーシャがナイフを横に寝かせて素肌に密着させる。ナイフの刃から伝わったひんやりした感触に「つめて」と笑うレイジには怖気づいた様子など微塵もない。壁際に追い詰められ、服にナイフを突っ込まれてもまだ余裕ありげな物腰のレイジに嗜虐心をかきたてられたサーシャが刃を手前に引く。乾いた音をたてて生地の繊維が裂け、上着の胸から銀の先端がとびでる。
 「私は女の体を切り刻みながら抱くのを好む。ナイフの刃が血に濡れるさまと苦痛と快楽のあいだで歪む顔とを見比べながら絶頂を迎えるのを好む。お前は聞いたことがあるか、火で熱したナイフでゆっくりと生皮剥がされる男の悲鳴を。お前は見たことがあるか、ナイフを口に入れられ閉じるに閉じられず涙を流す女の顔を」
 「変態の寝言を通訳すると『たまってたまってはちきれそうだからヌかせてください』ってか」
 胸の裂け目からこぼれたのは金色の光、シャツの内側に下げていた十字架だ。上着を破かれてもレイジはまったく動じずに笑みを浮かべている。すごい度胸だ、とあきれる。神経が図太いにも程がある。レイジには恐怖心がないのだろうか?今自分にナイフを突きつけてるのはその狂気では他の追随を許さない北の皇帝サーシャだ。いつナイフが翻って頚動脈を裂くかもわからない状況下で下ネタを口にできるなんてどうかしてる、命が惜しくないのだろうか。
 突然、シャツの内側からナイフが引きぬかれる。
 十字架の鎖を鳴らし、上着の裾をはためかせて素早く引きぬかれたナイフを鞘に納めたサーシャがレイジの襟首を掴む。いや、正確には襟首ではなく首元の金鎖だ。痩せた腕で毟り取るように金鎖を掴み、忌々しげに唸る。
 「雑種の分際で私を愚弄するか?」
 「サーシャ。痛いよ」 
 「随分と洒落た首輪じゃないか。穢れた混血のくせにキリストを崇拝してるのか?」
 「苦しい」
 「もっと苦しめ、泣け、喚け。そうだその顔だ、その顔が見たかったんだ。いいざまだ、いつもひとを小馬鹿にした笑みを浮かべてる東の王が私に膝を屈する日をどれほど待ち望んだことか。貴様のような雑種が極北の皇帝の末裔、純血ロシア人たるこの私をさしおいて頂点に君臨していいはずがない。いいかよく聞け、私の夢はこの極東の地に第二のロシア帝国を築くことだ。斜陽の祖国から独立し、第二のロシア帝国をこの地に打ちたてることで私は真の皇帝になる。手始めにまずこの刑務所を支配して囚人どもを征服する、侵略には手駒の軍勢が不可欠だからな。それには貴様が邪魔だ、目障りだ。貴様がいるかぎり私は頂点に立てない、東京プリズンを支配することができない。まったく忌々しい男だ、貴様さえいなければ万事うまくいったのだ。黄色い淫売の股から生まれた下賎な雑種は私の靴でも舐めていればいいものを」
 嗜虐心に火がついたサーシャが力一杯鎖を引く。窒息の苦しみにレイジの顔が歪み、喉仏の上に食い込んだ鎖を掻き毟る。
 レイジがよわよわしく苦痛を訴えたところでサーシャが手を緩めることはなく、もっと苦しめといわんばかりにますます力をこめてくる。壁に背をつけ、酸素が回らない頭でもがき苦しむレイジにサーシャが欲情してるのは一目瞭然。

 汗にまみれて額にはりついた前髪。
 薄らと上気した目尻。
 熱っぽく潤んだ双眸。
 酸素を欲して緩慢に開閉される唇。

 苦痛の表情さえ淫らなレイジに我慢できなくなり鎖を掴んだ前傾姿勢から首筋に顔を埋める。
 レイジの息遣いが次第に荒くなる。息の通り道を圧迫され満足に呼吸できない苦しみに溺れているのか、サーシャの舌が与える快楽に身を委ねはじめているのか傍目にはわからない。鎖を引く握力が緩む、と同時に首筋の性感帯を舌で探られる。寄せては返す波のように苦痛と快楽が交互に訪れるせいで、完全には理性を捨て去ることができない生殺しの状態が続く。苦鳴なのか喘ぎ声なのか判別しがたい低いうめきが漏れ、鎖をもてあそんでいた手が十字架に伸びる。
 「淫売の雑種が、この程度で興奮しているのか?口ほどにもない王だ。今この場で跪いて私のものをくわえればこれまでの無礼は許してやってもいい。リングでの一騎打ちで四肢を切り刻まれるより恥をかかずにすむだろう?どうだ、半年前も言ったが私の愛玩犬にならないか。今ならまだ許してやる、半年前お前が私にしたことも独居房での屈辱の日々も全部水に流して可愛がってやる。こんな似合わない首輪など外してもっとふさわしい首輪をつけてやる」
 サーシャの指が十字架に触れると同時にレイジの手から力がぬけ、だらりと垂れ下がる。もはや完全に抵抗を止めたレイジが緩慢な動作で腕を掲げ、そっとサーシャの頬に触れる。突然頬に触れられ動揺したサーシャをよそに、頬からすべりおちた手が首の後ろに回り、襟ぐりを広げるように内側へともぐりこむ。
 伸びた襟ぐりから覗いたのは数えきれないほどの傷跡が浮いた胸板。
 鎖骨の下辺にある傷跡を人さし指でたどり、浅い呼吸の間から哀れみ深く呟く。
 「……可哀想に。痛かったろ」
 サーシャが狼狽する気配が伝わってきた。
 「なぐさめてやるよ」
 頬にそえられた両手が顔を導いてゆく。壁際に追い詰められ身動きとれず、それまでサーシャの愛撫を一身に受けて呼吸を追い上げられていたレイジが一瞬で優位を奪い、先導する側に回った。
 一瞬だけ顔と顔が重なり、唇と唇が触れ合う。
 千回のキスを交わした恋人にするように手馴れてて、ひょっとしたら愛情を注がれているのではないかと錯覚させる仕草だった。
 とんだ誤解だった。
 「!!―っ、」
 唇をおさえてあとじさるサーシャ。突き飛ばされ、だらしない姿勢で壁に凭れかかったレイジがぺろりと唇を舐める。
 レイジの唇には血が付着していた。キスに見せかけてサーシャの唇を噛みちぎった返り血。
 「なあ、元気でたろ?感謝しろよ、特別大サービスだ」
 「貴様………、」
 「たしかに俺は言ったよ、売春班のガキどもの代わりに抱かれてやるって。けどな、俺にも好みってもんがあるんだ。サーシャ、おまえキス下手すぎ。その程度のテクでイかせられるとでも思ってんのか、王様もなめられたもんだぜ。まあ首締めながら愛撫ってのはなかなか良かったよ、苦しいのと気持ちいいのとで長く続けられたら頭が変になっちまいそうだったし。女悦ばせる素質はあるよ、誉めてやるから有難く思え。あとはまあ、ナイフで切り刻みながらじゃねーと興奮しない変態性なおしてこい。俺を抱くのはそれからだ」
 親指で唇の血を拭い、好戦的にレイジが笑う。  
 「『逆』ならいいぜ。今この場で抱いてやろうか?」
 「後悔するぞ東の王」
 唇の血を拭い、ゆらりと立ち上がったサーシャが冷たい声で言う。もうすっかり氷のポーカーフェイスを取り戻したらしい、壁に凭れたレイジの方は見向きもせずドアへと向かう。       
 やばい、こっち来る!
 「貴様はリングで倒す。私の氷が溶ける前に勝ちあがって来い」 
 冷え冷えと宣言したサーシャがノブを捻り、ドアを開ける。危なかった。サーシャと入れ違いに曲がり角に身を隠した僕の視線の先、銀髪を振り乱したサーシャの後姿が遠ざかってゆく。サーシャの靴音が廊下に反響して消える頃、ポケットに両手をつっこんでボイラー室からでてきたレイジが虚空に声をかける。
 「そこに隠れてる奴、十秒以内に出て来い」
 嘘、なんでばれたんだ?
 知らぬ存ぜぬでやりすごそうとしたが、どのみちレイジをどかさないかぎり廊下を通ることはできない。廊下の真ん中に陣取ったレイジが動く気配は微塵もない。根比べに音をあげたのは僕の方だ。「ワン、ツー、スリー……」と間の抜けたカウントが響く中、おとなしく両手を挙げて歩み出る。
 「いつからわかってたの、隠れてるって」
 「おまえがドア開けた時。地獄耳なんだよ」
 自分の耳を指さしながらレイジが笑い、八秒数え終わった時点で廊下にでてきた僕と向き合う。ドアを開けたときから第三者の存在に気付いてたというが終始そんな素振りは見せなかった。
 とことん食えない奴だ。
 あきれ顔でレイジを眺めれば、サーシャにナイフを突きつけられたときもサーシャの唇を噛みちぎった瞬間も変わらず笑みを浮かべていた顔がふと曇る。
 「今見たことロンに言うなよ」
 「王様と皇帝が試合ほっぽらかしていちゃついてたって?バラしたら殺される?」
 茶化して聞き返せば、首周りの痣を撫でながらレイジが肩を竦める。 
 「人聞き悪いこと言うな。せいぜい半殺しだよ」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051226220636 | 編集

 ペア戦がペア戦にならない。
 サムライはあくまでひとりで戦う気だ。現在20組目、右手のハンデに苦戦しつつも勝ち進んできたサムライだがその横顔には色濃く疲労が滲んでいる。前回のペア戦じゃ交代する暇もなくレイジに倒されてた挑戦者ペアも20組超えた時点からはそれなりに強くなり、自分が危なくなったら入り口脇に逃げ戻って相棒とバトンタッチするようになった。もちろん新たにリングに上がったガキは体力を温存してるから、意固地に交代を拒んで疲労してるサムライにベストの状態で挑むことができる。
 「ずるいだろ、これ」
 おもわず文句を言う。俺の視線の先では今しも入り口脇に逃げ戻ったガキが勢いよく手を打ち合わせて相棒とバトンタッチしたところだ。疲労困憊、せっかく用意した釘バッドも空振りするだけに終わっちまったガキと入れ違いにリングに上がったのは東南アジア系の男。手に持っているのは電気カミソリに似た凶器……スタンガンだ。
 試合に参加表明した囚人はあの手この手を使い、敵を一発でしとめられる強力な武器を入手しにかかる。看守にコネのある囚人はスタンガンやら軍用ナイフやら物騒なブツをこっそり横流ししてもらって、手先が器用なやつはさらに凶悪な改造をくわえて殺傷能力を高めたりする。浅黒い肌のガキが手に持ってるスタンガンも違法な改造をくわえてあるんだろう、リング中央へと歩み寄る途中、両端の電極の間に青白い火花が弾けた。あれでサムライを脅してるつもりなんだろう、スタンガンの威力を見せつけるように火花を飛び散らせたガキが笑う。
 「黒焦げにしてやるぜ、日本人」
 「低能らしい短絡的戦略だな」  
 反射的に声のした方を見る。俺の隣、興奮して取り乱すことも声援を送ることもなく、物静かな物腰で試合風景を眺めていた鍵屋崎が眼鏡のブリッジに触れながら解説する。
 「スタンガンと木刀では後者に利がある。スタンガンは敵の間合いに踏みこんで体に接触させなければ威力を発揮しない自己防御、または超近接戦闘用の武器だ。木刀の長さのぶんだけ距離を稼げるサムライのほうが有利に決まってる」
 「さて、どうかな」
 目の前じゃサムライが額に汗して戦ってるってのに何でこんな冷静なんだこいつ。取り澄ました横顔を見てると反論したくなる。妹からの手紙をからかっただけで襟首締め上げられたのを根に持ってるのもあるけど、右手の激痛をこらえてサムライがリングに上がってるのは鍵屋崎を守りたい一念だ。「頑張れ」とか「負けるな」とかもうちょっと言いようがあるだろうに……まあ、勢いに任せて「勝ったら抱かせてやる」と口約束されても困るけど。いくら俺たちの境遇が似てるからって、100人抜きの褒美を体で払うとこまで似ちゃおしまいだ。
 「見りゃわかるだろ、これまでぶっとおしで戦ってきてサムライが疲れてるのが。額に汗かいてるし少し息切れしてるし顔色悪いし……サムライだって人間なんだから意地張り続けるにも限界がある」
 「きみの友人はどこへ行った?」
 「え?」
 したり顔で腕組みした俺を睨み、鍵屋崎が続ける。
 「サムライに限界がきたらどうするんだ、それでも手をださずに放っておくのか?あきれたな、君には危機感というものがないのか。サムライが負けるときはレイジが負けるとき、僕ら四人全員が破滅するときだ。サムライが途中で負けてもレイジが途中で負けても100人抜き不可能で売春班に逆戻り、僕ときみは半年間毎日男に犯され続けてゆくゆくは性病に感染して処理されるんだぞ」
 強く金網を握り締めた鍵屋崎が思い詰めた目でリングのサムライを見つめる。表情に乏しい顔の中、眼鏡越しの双眸に綯い交ぜになったのは焦燥と憂慮。端をくわえて包帯を結び直し、試合再開のゴングが鳴り響くまで短い休憩をとっているサムライを見つめながら物憂げに呟く。
 「つまらない喧嘩などしてる場合じゃないだろう。サムライもレイジも子供だ」
 「……同感」
 鍵屋崎の酷評にため息をつく。サムライもレイジもどうしようもなくガキだ。見た目は大人びてるからなおさら始末が悪い。なんでこんなことになっちまったんだろう、という埒のあかない疑問が脳裏に浮かぶ。 サムライはあの通り頑固で融通がきかないし、剣に賭けてで鍵屋崎を守ると固く決意した手前レイジに頭を下げるようなみっともない真似はしないだろう。剣に賭けて信念を貫くのがサムライの生き方なのだから、苦しいときはレイジを頼ったほうがラクだと頭ではわかっていても認めるわけにはいかない。いっつもへらへらしてて冗談と本気の区別がつかないレイジにもひどく子供っぽい一面があって、いったんへそ曲げちまったら俺がなにを言おうが耳を貸そうともしない。
 雰囲気は最悪だ。なまじ二人とも強くて絶体絶命のピンチに追いこまれる場面が少ないぶん、「俺が悪かった」「あとは頼んだぞ」と素直に頭を下げることができないのだ。
 俺たち守るために100人抜きに挑んで俺たち困らせてどうすんだよ。  
 うんざりとかぶりを振った俺を我に返したのは高らかなゴングに続く爆発的な歓声。
 試合再開。
 スタンガンを手にしたガキが慎重に間合いを詰め、サムライが正眼の構えをとる。防御の基本姿勢をとったサムライと3メートルを隔てて対峙したガキがぺっと唾を吐く。
 「打ってこないのかよ、臆病者が。武士の風上にもおけねえ」 
 わかりやすい挑発。
 「…………」
 サムライは無視。摺り足で間合いをはかりつつ、いつどこから相手がかかってきても対処できるように木刀の切っ先に全神経を集中してる。ガキが一歩足を進め、サムライが一歩後退。危うい均衡の上に成り立つ睨み合いに場の緊張感が高まる。
 「大丈夫だ、今回は楽勝だ」
 自己暗示をかけるように鍵屋崎が言う。
 「敵の武器はスタンガンだ、スタンガンでは木刀に太刀打ちできない。間合いに踏みこんだ瞬間に木刀で弾かれておしま、」
 均衡が崩れた。
 リング中央でサムライと睨み合っていたガキが突如方向転換、一直線にこちらに突っ走ってくる。
 眼前に火花散るスタンガンを翳して。
 「!?鍵屋崎、伏せろっ」
 持ち前の反射神経の鈍さか、反応が遅れた鍵屋崎を体ごと押し倒した俺の背後に落雷の衝撃。小爆発。ぼさっと突っ立ってた鍵屋崎の顔面にむけスタンガンが突き出され、金網を通った電流が盛大に火花を散らす。小爆発。間一髪俺に押し倒されたからいいようなもの、金網に顔をくっつけるようにして立ってた鍵屋崎が感電してたらと思うと背中に冷や汗が流れる。へたしたら心臓麻痺を起こして死んでいた。
 「鍵屋崎!」
 背後に駆けて来る足音、サムライの声。
 スタンガンで脅されても顔色ひとつ変えなかったサムライが、俺の下敷きになった鍵屋崎を心配して疾走してくる。突然とびかかられ、満足に受け身もとれずに地面に突っ伏したせいで鍵屋崎の回復には時間がかかった。押し倒されたはずみに飛んだ眼鏡をさがして「めがね、めがね……」と間抜けに呟いてる。
 「眼鏡、いや鍵屋崎の心配はいいから後ろだ!!」
 眼鏡がないせいでサムライがやってきたことにも気付かず、地面にうずくまって当惑してる鍵屋崎をよそに命令。俺の声に鞭打たれたサムライが即座に振り返り、
 「!ちっ、」 
 舌打ち。
 サムライの背後に忍び寄ったガキが、うなじにスタンガンを押し付けようとしてひらりとかわされる。ガキの意図がわかった。鍵屋崎を攻撃することでサムライに隙を作り、スタンガンで気絶させようとしたのだ。こっち側の応援席にいずっぱりの俺と鍵屋崎を見れば数少ないサムライの味方だと一目でわかる。
 友情に厚いサムライがダチを見捨てるはずないと踏んで攻撃の対象を変えたのか。
 「反吐が出るな」
 「……いや、なかなか利口な手だ」
 苦労の末ようやく眼鏡を見つけたらしい。レンズに付着した埃をズボンの腰で拭い、きちんとかけ直す。自分が感電死しかけたことなど屁でもないツラで鍵屋崎が立ちあがる。
 「金属には電流を通す性質がある。君に押し倒されなければ今ごろ僕は心臓麻痺を起こしていただろう。真っ向勝負で勝ち目がないなら味方を狙って隙を作りだす、さすがに20組目ともなると一筋縄ではいかない」
 「なに悟ってんだよ、『まだ』20組だ。あと30組、数にしてえーと、60人残ってるんだぜ」
 「……『えーと』とはなんだ。君はかけ算も満足にできない小学生以下の知能の持ち主なのか?」
 「眼鏡がなきゃピノコとメルモの見分けもつかねーくせにいきがんな」
 「ちょっと待て、何故それを知ってる?」
 「こないだ図書室で表紙のピノコとまちがえて借りてただろう。不思議のメルモ借りるなんて恥ずかしい、シスコンでロリコンなんて救いようねえ」
 「……ちがう、あれは眼鏡のレンズが埃で曇っててよく見えなくて偶発的要因が重なった上の事故で、いや、それ以前になぜ君が不思議のメルモの内容を知ってる?」
 ……まずい。
 「読んだんだな?幼女が薬物を服用して急激に二次性徴を迎えて成体変異するあの漫画を読んだんだな?」
 「ばっ、だれが読むかあんなガキと女が読むような漫画っ……ただちょっと、どういう話かと思ってめくってみただけだよ。あとお前の説明は正しいようで何か致命的に間違ってる、飲むのは飴だ飴!」
 「何を言う、これ以上正確かつ的確なあらすじの要約はクオリティーペーパーの書評家でもできないぞ。それに勘違いしてもらっては困る、僕がアレを借りたのは自分で読むためじゃない」
 「じゃあなんだよ?」
 落ち着きなく眼鏡のブリッジに触れながら目を伏せた鍵屋崎が、物凄く言いにくそうに口を開く。
 「……恵に、妹に読ませるためだ」
 とんでもなく恥ずかしい秘密を知られたみたいに照れ隠しで舌打ち。
 「どの漫画なら気に入ってくれるか自分の目で吟味しようと思って……小学生の女の子が好みそうな漫画なんて僕には皆目見当がつかないし、手塚治虫入門編なら選択を誤りたくないだろう」
 あきれて二の句が継げない。
 「……シスコンが」
 どっと疲労を感じて金網越しのリングに向き直る。スタンガンの一撃を間一髪ふせいだサムライが、俺たちのほうを一瞥して毅然と言う。
 「……関係ない人間を巻き込むのはやめろ。お前が戦っている相手はこの俺だ」 
 「関係なくねーだろ。知ってるんだぜ、お前とレイジがなんで100人抜きに挑んだか」
 顔一杯に下劣な笑みをたたえたガキが皮肉げに嘲弄、後ろ向きにサムライから距離をとる。後ろ手にあずけたスタンガンを小気味よく振りつつ、おそろしく姿勢のよいサムライと金網越しの鍵屋崎とを見比べる。
 「てめえの女が売春班送りになって、ほかの男に抱かせたくねえ一心で安田にかけあったんだろ。で、てめえの女助け出すだけじゃアレだしついでに売春班のガキども全員解放してやろうって……ひゅう!かーっこいいねえ、男前だ。そういうの世間じゃなんて言うか知ってるか?」
 口笛を吹く真似をしたガキが、猛禽の双眸で獲物に狙い定めたサムライから摺り足であとじさりつつ金網に凭れて半周。金網から背中を放し、後ろ手に構えたスタンガンの電源を入れる。
 「『偽善者』って言うんだよ!!」
 「!!っ、」
 金網の檻の頂点に設置された照明よりなお眩く、大気を青白く燃焼させてガキの顔を暴く電撃。金網に触れたスタンガンの先端から勢い良く火花が迸り、金網にしがみついていた観客が一斉に絶叫。
 「「ぎゃああああああああああっ!!?」」
 汗ばんだ手で金網を握り締め、食い入るように身を乗り出していた連中全員が感電する。体を通りぬけた電流の威力はすさまじく、金網を握っていた囚人の大半が白目を剥いて気絶した。死人がでない程度に威力を調節してたのがせめてもの救いだ。
 「あ、あぶなかったあ……」
 とっさに金網から手を放したせいで幸いにも感電せずにすんだ。が、人垣の最前列を独占し、金網にへばりついていた凱とその取り巻きたちは無事じゃすまなかったらしい。電流に痺れ、四肢を痙攣させ、死屍累々と床に倒れ伏せている。
 ちょっといい気味だ。
 「死にはしないだろう」
 地面に折り重なって倒れた凱たちを見下す鍵屋崎の声も清清しかった。
 凱たちが感電したことに関してはまったく同情しないどころかざまあみろと高笑いでもしたい気分だが、サムライはそうもいかない。武士の真剣勝負に無関係の観客を巻き込むなど決してあってはならない事態だ。止めに入るも間に合わず、伸ばした手の先で観客が感電する瞬間を目撃した顔が苦渋に歪む。 
 今だ煙が上がる金網からはなれたガキが、悦に入ったように喉を鳴らす。
 「いいか、よく聞け。おまえが木刀振りかざして俺にかかってくるたびに何の関係もないギャラリーを感電させる。観客を巻き込むのがいやなら木刀捨ててこっちにこい」
 やばい。
 金網の向こうに視線を向け、気絶した囚人たちを見渡すサムライの目に逡巡の色が浮かぶ。中には金網に凭れかかる格好で気絶しているガキや金網を握り締めたまま硬直してるガキがいて、自力で逃げられない奴らがスタンガンの二撃目を食らえば今度こそ心臓麻痺を起こしちまうかもしれない。 
 観客を人質にとるのは使い古された常套手段だが、サムライには効果覿面だ。
 ただ試合を観にきただけの囚人に危害を加えるぞと脅されれば、サムライは武器を捨てて投降せざるをえなくなる。人質などどうでもいいと切り捨ててしまえるほど非情になりきれないのがサムライのサムライらしいところだ。
 弱者を虐げる強者ばかりの東京プリズンじゃ数少ない弱者を守る強者なのだ、サムライは。
 「くそっ、どうする!?このままじゃサムライが……、鍵屋崎?」
 天才を自称するこいつなら一発逆転の名案を思いつくんじゃないかと声をかけ、隣から鍵屋崎が消えてることに気付く。あいつ、まさかレイジの二の舞かよ!?サムライのピンチにどこ行ったんだ薄情者、とあたりを見回せば少し離れたところにいた。
 鍵屋崎がたたずんでいたのは感電して失神した凱の傍ら。大の字に寝転んだ凱のそばにはペットボトルが落ちていた。ペットボトルの容器自体は看守のコネを使えば簡単に手に入るし、レッドワークのゴミ捨て場から拾ってきたやつを水筒代わりにしてるちゃっかり者もいる。地面にこぼれている水は洗面台の水道水を汲んだものだろう。凱の手を放れたぺットボトルを拾い上げた鍵屋崎が金網の向こうを見る。
 「さあ、はやくしろ」
 「………」
 畳みかけるように命じられ、ついにサムライが腹を括る。無念そうに瞼をおろし、木刀を投げる。再び目を開いたとき、そこに合ったのは決意の色。スタンガンを手に持ち、死屍累々と倒れたギャラリーを背景に悪役笑いを浮かべるガキのもとへと一歩、また一歩と歩み寄り―
 「おい」
 「あん?」
 鍵屋崎が声をかけるのとガキが振り向くのはほぼ同時だった。
 「!?ぶっ、な、なんだこれっ」
 背後を振り向いたガキの顔面に浴びせ掛けられたのはペットボトルの水。顔面から胸から手首にかけて、容赦なくペットボトルの水をぶちまけた鍵屋崎がほくそ笑む。
 「水も滴るいい男という諺があるが、滴っていても醜いものは醜いな」
 挑発。
 「―っ、このクソ眼鏡があああっ!!」
 突然水を浴びせ掛けられ、頭に血が上ったガキが腕を振り上げる。おとなしく投降すれば人質には手を出さないという約束も忘れ、いや、もとから守る気なんかなかったガキが金網越しの鍵屋崎めがけてスタンガンを突き出し、電源を入れ―
 
 絶叫。

 ガキの上に落雷が落ちたのかと思った。
 火花の爆ぜる音が発生し、感電したガキの体が筋肉の発作の如く跳ねる。白煙を噴いて沈黙したスタンガンを取り落とし、あっけなくリングに膝をついたガキは顔から手首にかけて水にぬれていた。鍵屋崎が浴びせた、水。
 「普通の水道水にはミネラルや塩素などの色々な物質が溶け込んでいる。ぬれた手でコンセントに触れると感電するのは水に溶け込んだ物質が電線の役目を果たして電気を通してしまうからだ。塩分の多い海水は電気をよく通すが純度の高い水になると電気を通しにくくなる。つまり何が言いたいかというと」
 からっぽのペットボトルを興味なさげに一瞥した鍵屋崎がやや強引に結論する。
 「東京プリズンの水道水には不純物が多い、ということだ。この刑務所の衛生管理はお粗末だな」
 「ひ、卑怯だ!今のはなし、なしだ!!」
 対岸の入り口に避難していた先鋒のガキが、テンカウントをとるためにリング中央へと赴いた審判役の看守に抗議する。
 「いいのかよ外野が勝手なことして!ぜってえズルだ、今のなし、しきりなおしだ!こんな終わり方納得できっかよっ」
 「人聞き悪いことを言うな」
 リングに膝をついたまま、感電のショックで心神喪失したガキがテンカウントに反応する気配はない。試合終了の気配が漂い始めた中、木刀を拾ってこっちに歩いてきたサムライから対岸の入り口脇に視線を転じる。
 「偶然手元が狂って水をかけてしまったが、僕が故意に水をかけたという証拠がどこにある。仮に僕が故意に水をかけたとしてもだからどうした?」
 リング中央、カウントをとる声にも無反応にうつ伏せたガキを見下ろしてペットボトルを投げ捨てる。
 卑怯な手を使った罪悪感など欠片もない、人を食った無表情で。 
 「ペア戦はルール無用だろう」
 テンカウントが終了し、サムライの勝利が確定した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051225222529 | 編集

 「余計なことをするな」
 試合終了後、開口一番サムライにそう言われた。
 「余計なこと?なにを言ってるか理解できないな、僕はただ手が滑っただけだ。変に勘繰るのはよしてくれないか」
 ペア戦二週目ともなると敵もそこそこ強くなり、利き手にハンデを負っていてもたやすく勝てるほどに生易しくはなくなった。事実、20組を超えるまでは片手一本でも危うげなく立ちまわっていたサムライが本日最終試合の24組目を退けた時点では心身ともにひどく消耗していた。
 一週間が経過して右手の捻挫もだいぶ治癒したとはいえ、まだ安静が義務付けられてることに変わりはない。補助とはいえ多少は右手に負担がかかる、この調子で右手をないがしろにすれば最悪もう一生刀を握れなくなってしまうかもしれない。
 「考えすぎだ」
 木刀の振りすぎでほどけた包帯を口にくわえ、器用に巻きなおしながらサムライがたしなめる。
 「この程度の怪我で一生手が使えなくなるわけがないだろう。食事の時も問題なく箸を使えた」
 「馬鹿じゃないか君は、箸と木刀じゃ重さがちがうだろう」 
 「似たようなものだ」
 「そのまとめ方は少しどころではなく大雑把すぎるぞ」
 「心配性だな」
 リングが撤去された地下空間には試合の余韻に浸って消灯時間ぎりぎりまで長居する囚人と、いまだ感電のショックから覚めやらずにコンクリートの地面に寝かされ医師に介抱されてる囚人がいる。電撃の巻き添えを食って気絶した少年らがコンクリ剥き出しの地面に敷き物もなく並べられ、「大丈夫かね?心臓に異常はないかね?」とやる気のない医師に聴診器を押し当てられてる。
 野戦病院の光景だ。
 電撃に痺れ、今だ満足に手足を動かすことすらできない囚人十数名がうなされているのを横目にサムライに向き直る。
 ふと、サムライの左頬が目に入る。ヌンチャクが頬を掠めた刹那の摩擦熱で痛々しく頬が擦りむけている。派手に目立ちはしないが、何もなかったように見過ごすには気が咎める程度の怪我だ。 
 「頬を怪我してるぞ」
 「かすり傷だ。わざわざ医者の手を煩わせる必要もない、唾をつけておけば治る」
 「いい加減な民間療法だな、おまけに不衛生だ。みっともいいものじゃないからバンソウコウくらい貼っておけ、医師ならバンソウコウくらい常備してるだろう」
 傷口から黴菌に感染して悪化する可能性もある。うるさく説教されたサムライが逡巡の末渋々頷く。腕白が過ぎた子供を叱責してるみたいで奇妙な気分になる。
 木刀を左手にさげたサムライがあまり気乗りしない様子で医師の方へと歩いてゆくのを見送る。恥を忍んで声をかけたサムライに注がれたのは老眼鏡越しの不審の眼差し。手に火傷を負った少年たちを中腰で見て回り、焼け爛れた皮膚に軟膏をすりこんでいた医師とサムライが二言三言交わし、大儀そうに腰を上げた医師が白衣のポケットを探る。
 「ツワモノどもが夢の跡ってか」
 のんきな声に振り向く。
 目の前にレイジがいた。試合中のサムライを放置し、ロンにも僕にも内緒で今の今までどこへ行ってたんだと詰問しようと足を踏み出し……
 小気味よく乾いた音がした。
 「いだっ、なんでぶつんだよ!?」
 「苦戦中の相棒放ったらして俺にも誰にも何も言わずどっか行ってたからだ」
 横合いから踊り出したロンが平手でレイジの額を叩いたのだ。小柄ながら少しでも威圧感を与えようと肩を怒らせ、精一杯の迫力をこめてレイジを睨むさまは怒りに毛を逆立てた猫のようだ。一方、試合終了後二十分も経ってからのこのこ戻ってきたレイジは悪びれたふうもなく「知らなかった、愛の鞭って痛いんだな」と笑っている。
 「反省の色がない」
 「あたりまえだ、これっぽっちも反省してないんだから」
 それがどうしたと両手を広げたレイジがうそぶき、試合中ずっとレイジの行方に気を揉んでいたらしいロンが苛立たしげに吐き捨てる。
 「お前が試合サボったせいで全部ひとりで敵をやっつけなきゃいけなくなったんだぜ、ちょっとは悪いと思えよ」
 「ロンには悪いと思ってる、俺がいないあいださびしい思いさせて。この借りは体で返すから、」
 「ひっつくなよ馬鹿っ、ちげーよそうじゃなくてサムライに悪いと思えっつってんだよ!!」
 毎度お馴染みの痴話喧嘩に傍観者の僕はため息をつくしかない。気まぐれで何を考えてるのかわからないレイジに付き合わされる気苦労多いロンには一抹の同情をおぼえるが、レイジに本音で接することができる数少ない人間であり、一年と半年おなじ房で寝起きして遠慮ない物言いができる相棒の存在は王様にとっても貴重だろう。
 遠慮ない物言いという点では凱も同様だが、彼の場合レイジに対してすさまじい敵愾心を抱いてるからまた別だ。サムライとレイジは対等の関係だが、寡黙なサムライと饒舌なレイジの会話は微妙にテンポがずれて空回ってる印象がある。僕はサムライほど無口ではないが、もともとレイジのように不真面目にふざけた人間が好きではないため積極的に付き合いたくない。

 口喧嘩ばかりしてるロンとレイジは一見相性が悪そうで、実は相性がいいのかもしれない。 

 いやがるロンを抱き寄せ、子供っぽさ全開の笑顔を振りまいてるレイジは好きな女の子をいじめてたのしむ小学生の典型だ。じゃれあってるようにしか見えないふたりの諍いを少し離れて眺め、幼稚な精神構造の持ち主だな、と内心あきれる。ロンをからかうことでしか親愛の情を表せないレイジも、レイジのいやがらせにいちいちむきになって噛み付くロンも五十歩百歩の進歩のなさだ。
 「ほんっとガキだなおまえ、見そこなったよ。よくそれで王様名乗れるな、恥ずかしくて他の棟の連中に顔向けできねえよ。くそっ、いい加減放せよ!好みの女ならともかく男に抱きしめられても嬉しくね…、」
 ロンの抗議が不自然に途切れる。
 「どうしたんだ、服破けてるぞ」
 肩に腕を回された格好からロンが見上げた先、レイジの胸に人さし指大の穴が開いている。言われて初めて服が破けてることに気付いた。長く着古していれば綻ぶことなど珍しくもないが、それにしては胸の真ん中という場所が不自然だ。
 「蛇に噛まれたんだ」
 「嘘つけ、東京プリズンに蛇がでるかよ。砂漠のど真ん中だぜ、ここ」
 「無知だな君は。蛇の種類は約三千種で生息地域は全世界の熱帯・温帯に広がり、生息環境は草原、砂漠 、川辺、海など種類によってさまざまだ。だから一概に砂漠に蛇がいないとは言えな、」
 「帰参した」
 議論が紛糾しかけたタイミングでサムライが戻ってきた。木刀をさげて帰ってきたサムライが手ぶらなのを訝しんで目に疑問符を浮かべれば、地面に寝かされた少年達の間を行き来してる医師を顎でしゃくる。
 「バンソウコウは切らしてるそうだ」
 一瞬言葉を失った。
 「……あの藪医者が」 
 バンソウコウの携帯は医者として最低限の備えだろう。軽い眩暈に襲われ、さも忙しいふりで少年たちを診療してる医者を忌々しげに睨めば、険悪な雰囲気を察したロンが遠慮がちに口を挟む。
 「バンソウコウなら五十嵐が持ってたぜ、まえに怪我したとき貸してもらったことあるから……さっきちらっと見かけたからまだこのへんに、」
 いた。
 名前を出した途端、視界の端を五十嵐が過ぎ去った。五十嵐がペア戦を観に来てたなんて意外だ、囚人同士の争い事を好むような悪趣味には見えないのに。
 しかし、ちょうどよかった。
 いつ五十嵐に会えるかわからなくてずるずる持ち歩いていた物をようやく渡すことができる。サムライには悪いが、この瞬間バンソウコウは二の次になった。いい機会だ、五十嵐を呼びとめて手早く用を済まそうとしたが様子がおかしい。
 「なんであんなおっかない顔してんだ?」
 ロンが眉根を寄せ、レイジが「さあ」とてのひらを返す。五十嵐は確かに怖い顔していた。人を寄せ付けないオーラを撒き散らして大股に突き進む姿から怒りで視界を狭くしてる心理状態がうかがえる。 
 「五十嵐にバンソウコウをもらってくる、すぐに戻ってくるから君はここにいろ」
 本当の目的は伏せ、有無を言わさずサムライに命じて走り出す。五十嵐が不機嫌なのは遠目に見ただけでもわかったが生憎こちらにも事情がある。この数日間、五十嵐と顔を会わせる機会がなくてやむをえず持ち歩いていた物を直接手渡し、ついでにバンソウコウを貰ってこようと優先順位を入れ替えれば何故かロンが隣にやってくる。
 「?なんだ君は」
 「いや、べつに……ちょっとその、気になってさ」
 曖昧に口を濁したロンが不安げな面持ちで五十嵐の背中を見送る。
 「……あきれた、暇人なうえにお人よしだな」
 「お人よしはどっちだよ、サムライのためにわざわざバンソウコウとってきてやろうなんて……いつからそんな親切になったんだ、気味わりぃ。砂漠にスコールがくる予兆か?」
 「なんとでも言え」
 本当の目的は別にある、妙な誤解をするなと喉元までこみあげた反論を飲み下し、鬱陶しくついてくるロンを振りきるように足を速める。ロンもその他の囚人と同様少なからず五十嵐に恩があるのかもしれないが、何故か今日に限り、雰囲気が硬化した五十嵐を心配して尾行に踏みきるなんてお人よしもいいところだ。
 それともなにか、別の理由があるのか?
 深刻な面持ちで黙りこくったロンと声をかけにくい五十嵐の背中とを見比べて勘繰れば、僕の目の前で五十嵐がスロープをのぼり、東棟地下一階へと通じる通路へと足を踏み入れる。人がはけた地下空間から閑散とした通路へと足を向けた五十嵐の前をだれかが歩いてる。
 五十嵐の前を歩いていたのはタジマだった。
 「よりにもよってタジマかよ」
 ロンが舌打ちする。僕も舌打ちしたい気分だった。僕たちふたり、特にロンはタジマに目の敵にされてる。半年前はイエローワークの強制労働中に凱たちを扇動して僕らを生き埋めにしかけたし、つい最近では売春班にも頻繁に通っていた。
 『妹の名前を呼べば許してやるぞ』
 唐突に、声がよみがえる。
 『さあ言えよ』
 『言えよ』
 粘着質に繰り返す声が覚めて見る悪夢のようにこだまし、袖の下で二の腕が鳥肌立つ。やめろ思い出すな、記憶を封印して平静を保て。隣にロンがいるこの状況下で取り乱すわけにはいかない、そんなみっともない真似天才のプライドが許さない。深呼吸し、肌をむさぼる手の感触を忘れ去ろうと目を閉じる……よし、落ち着いた。心拍数が平常値にもどり、頭に上っていた血がスッとおりてくる。唐突に立ち止まった僕を振り返り、「どうした」と問うてくるロンをぶっきらぼうにあしらう。
 「ただの貧血だ。東京プリズンの食事には鉄分が足りてないらしいな」
 眼鏡のブリッジを押し上げ、腑に落ちない顔のロンを足早に追い越す。今さら引き返すわけにはいかない。タジマなど恐るるにたりない下劣で卑小な人間だというのに、今ここで逃げたら自分の負けを認めるようではないか。意志の力で恐怖心をねじふせ、先行するふたりに勘付かれない程度の距離をおき、ロンと前後しながら慎重に尾行を続ける。
 「前にも一緒に歩いてたけど、五十嵐とタジマが仲いいなんて意外だな」
 「看守間の友人関係に口をだす権利は僕たち囚人にないぞ」
 「んなこと知ってるよ、べつに五十嵐がだれとダチだろうがつるもうが本人の勝手だし興味もねえけど……でもなんか、すっきりしねえな。五十嵐も好き好んでタジマにひっついてるようにゃ見えねえし、なんでふたり一緒にいるのか謎だ」
 「君とレイジも傍目にはそう見えるぞ」
 煮えきらない様子で疑問を口にするロンを、翻って自己分析するよう指摘する。
 「おまえとサムライもな。いまだにお前たちの間で会話成立してんのが不思議でしょうがねえ、ふたりきりになったとき何話してんだよ。この前だってほら、レイジが腹立ててサムライ残して行っちまったとき。ずいぶん廊下で話しこんでたみたいだけど、サムライの頭でも撫でて慰めてやってたの?」
 妄想が飛躍しすぎだ。頭は悪いくせに想像力は旺盛なロンに疲労のため息をつき、そっけなく言う。
 「なぜ僕がサムライの頭を撫でなければならない、年上の同性相手に気色が悪い。頭を撫でたくなるような殊勝な可愛げがあるなら話は別だが、そんな人間には妹以外お目にかかったことがないな。僕はただ骨に異常がないか怪我の具合を確かめていただけだ、レイジに乱暴されたサムライが壁に叩きつけられた弾みに右手首を痛めてないか気になってな。そういう君は一週間前の試合直前にレイジとなにを話してたんだ?」
 「たいしたことじゃねえよ」
 「言えないのか?」
 「……言うほどのことじゃねーし」
 「さては100人抜き達成時の約束についてくどくどしく念を押されたんだろう」
 図星か。
 顔を赤らめて舌打ちしたロンが何か言い返そうと大口を開け。
 「頼む五十嵐、この通りだ。三万でいいんだ、なっ?」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051224222859 | 編集

 「!」
 遥か先、角を折れた廊下から声が聞こえてきた。
  ロンと同時に顔を見合わせ、気配を殺して急接近。ふたりして壁に背中を密着させ、声がした通路をそっと覗きこむ。
 階段があった。
 東京プリズンには今は使われてない階段や閉鎖された通路が数多く存在する。後にエレベーターが設置されて利用者の足が遠のいた為に、今では蜘蛛の巣が張った階段が幾つも放置されているのだ。
 密談には最適の場だ。   
 人目を避け、わざわざ今は使われてない階段へと五十嵐を誘導したタジマが踊り場に立っていた。
 へりくだった低姿勢で合掌し、醜い愛想笑いを浮かべたタジマに向き合った五十嵐は憮然としていた。 
 「……またかよ但馬、いったいいつになったら貸した金返してくれるんだ。借金十万超えたぜ」
 「俺とおまえの仲でかてえこと言うなよ、借りた金はいつかちゃんと返すよ」
 「いつかっていつだ、何年先だ?」
 「返すもなにも今手元にねえもんどうしようもねえだろが」
 「おまえの手元に金が残らねえのは風俗通いで全部使っちまうからだろうが。知ってるんだぜ、おまえが新宿のSMクラブに通いつめてること。あの手の風俗は金かかるよな、売春班のガキどもただ食いするだけじゃ飽き足らずアブノーマルな趣味にまで手え出すなんて看守の風上にもおけねえ最低野郎だ」
 口にするのも汚らわしげに五十嵐が吐き捨て、嘔吐感さえ催す生理的嫌悪がロンの顔に渦巻く。
 「……どうりで人の耳にピアス穴開けたがるサドで変態なわけだ。イイ趣味してんなゲス野郎」
 「?なんのことだ」
 「うるせえ、黙ってろ」
 普段の横柄な態度はどこへやら、タジマが五十嵐を拝み倒していた。機嫌をとるように両手をすり合わせ、脂下がった顔で続ける。
 「つれねえこと言うなよ、同僚だろ。おまえもご無沙汰ならちょっとは俺の下半身事情わかるだろう、売春班が休止に追いこまれたせいで溜まりに溜まってはちきれそうなんだよ。売春班のガキでヌけねえなら外で女買うしかねえだろが。恨むんなら正義の味方気取りのレイジを恨め、けっ、あの茶髪のクソガキがペア戦100人抜きの条件に売春班撤廃だなんてとんでもねえこと言い出しやがってよ!」
 タジマが踊り場の壁を蹴る。壁の震動が天井に伝わり、漆喰の粉末が剥げ落ちる。 
 「今に見てろよくそったれが、どんな手使っても絶対100人抜き阻止して売春班に落としてやる!この俺様をなめた貸しは高くつくぜ、レイジのケツ剥いて黒くて硬いもんぶちこんで二度と生意気な口叩けないようにしてやる。ああ、たのしみでたのしみでしょうがねえ!レイジが負けたら鍵屋崎とロンも売春班に戻ってくる、またいつでもアイツらを抱けるようになるっ」
 怒り狂うタジマ。狂気に充血した目が異様な輝きを放ち、興奮に乾いた唇を何度となく舌で湿らせ汚い唾をまきちらす。タジマの頭の中で繰り広げられてる光景を想像すると吐き気がする。無意識に口を押さえた僕の隣、人を殺しそうな形相でロンが唸る。
 『寄生蟲的東京監獄(チーセンツォンダウェトンチンチエンユィ)』
 まったく同感だ。タジマは東京プリズンの寄生虫だろう。
 「ああ、今からたのしみだぜ売春班に戻ってきたロンと鍵屋崎を裸に剥いて犬のように四つん這いにして後ろから犯すのが!目に浮かぶぜ、あいつらが泣き叫ぶ顔が!ひんひん喘いでねだるように尻振る姿が!そうだいいこと思いついた、鍵屋崎とロンを絡めて遊ぶのもまた一興だな」

 なに、を言ってるんだこの変態性欲者で性格破綻者で異常者の低能は。

 あまりに常軌を逸脱した発言に、ロンの顔から血の気が引いてゆく。踊り場ではタジマが哄笑してる。耳をふさぎたくなるようなだみ声で、制服のボタンもはちきれそうに腹を揺らして。
 「そうだそうしよう、あいつら二人絡めてそれ見て楽しもう。鍵屋崎にはたっぷり仕込んでやったし、ロンのケツがイイ具合にこなれるまであいつにヤらせるのも……」
 「タジマ!」
 壁に背中を預けて座りこみたくなった。片手で口を押さえ、猛烈な吐き気と戦いながら踊り場を見上げれば五十嵐がタジマの襟首を掴んでいた。
 「……囚人いじめもほどほどにしとけよ、あいつらはおまえの性欲解消するためのオモチャじゃねえんだぞ。いいか、今度なんかあったら上に報告するからな」
 「よくそんなでかい口がきけるな」
 義憤に鼻息荒くした五十嵐に襟首を締め上げられてもタジマは動じない。襟首にかけられた手を力づくで引き剥がし、先ほどまでの低姿勢はどこへやら、下劣な本性をむきだした笑みを浮かべる。
 「いいのかよ、周りに『あのこと』ばらしても」
 「!」
 『あのこと』?
 「いやだよなあ、そりゃそうだよなあ。おまえのこと親父みたいに慕ってる囚人やなにも知らねえ同僚に秘密知られてシカトされるのは。とくにガキどもはがっかりだな、今までなにくれとなく良くしてくれた五十嵐さんが私怨で囚人殺しかけた極悪人だと知れば。そしたら今度はおまえがリンチの標的にされるんじゃねえか?まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな」

 私怨、極悪人、標的。

 わからない、タジマは何を言ってるんだ?五十嵐が過去に囚人を殺しかけたなんてにわかには信じがたい、だがタジマが嘘をついてるにしては五十嵐の態度がおかしい。 
 脳裏によみがえる光景。
 中空の渡り廊下を仰ぎ、夕暮れの中庭にたたずむ五十嵐。
 その手に握り締められた免許証入れ、娘の写真。 
 五十嵐に接近したタジマが、耳に吐息を吹きかけるようにねっとりと囁く。
 「弱みバラされるのがいやなら俺の言うとおりにしろよ」
 「………」
 舌打ち。
 制服のポケットを探り、皮の財布から紙幣を三枚抜き取る。胸に叩き付けられた紙幣に狂喜したタジマが「ひゃっほう!」と歓声を発する。
 「ありがとよ五十嵐、恩にきるぜ。これからも仲良くしてくれよ」
 有頂天に浮き足立ったタジマが階段を駆け上がってゆく。重たい足音を響かせて階段を駆け上がったタジマなど見向きもせず、俯き加減に立ち尽くす五十嵐。
 その手は体の両脇で握り締められ、屈辱と葛藤に打ち震えていた。
 「五十嵐さん」
 ハッと顔をあげた五十嵐と目が合う。タジマがいなくなれば隠れることもないだろうという安心感から無防備に階段の真下に歩み出る。  
 「……見ていたのか?ずっと聞いてたのか?」
 「いいえ、今偶然そこを通りかかったんです。僕たちが来た時にはもう話が終わってました」
 とっさに嘘をつく。その言葉を鵜呑みにしたのか疑ってるのか、傍目には窺いしれない複雑な面持ちで五十嵐が降りてくる。成り行きで立ち聞きしてしまったが、今の話は聞かなかったふりをするのが無難だろう。
 「で、何の用だ?」
 「バンソウコウを貸してください。サムライが怪我をしてしまったんで……」
 「ダチのためにバンソウコウ貰いにきたのか。優しいな」
 他人に「優しい」と評されると侮辱された気分になる。
 「気色悪いこと言わないでください。擦り傷だと甘く見て、後々黴菌にでも感染したら同房の僕が不快になるからです」 
 五十嵐に手渡されたバンソウコウを背後に突っ立っていたロンに預け、命じる。
 「先に帰ってろ」
 「先にって、おまえはどうすんだよ」
 「もう少しここにいる。個人的に五十嵐と話し合いたい重大な用件があるんだ」
 その言葉に五十嵐が警戒する。バンソウコウを押し付けられたロンは一瞬ぽかんとした顔をしたが、彼なりに気を利かせてくれたらしい。ひょっとしたら今見聞きしたことを整理する時間が欲しかったのかもしれない、うしろめたげに僕と五十嵐とを盗み見、廊下を走り去ったロンの足音が甲高く反響する。
 ロンがいなくなったあと。
 足音の残響が大気に溶けた廊下に僕とふたり取り残された五十嵐が、何とも形容しがたい顔をする。
 「鍵屋崎おまえ……、」
 続く言葉を無視し、ポケットから取り出したのは一通の手紙。面食らった五十嵐の手に手紙を預け、下を向く。
 「―妹へ、いや正確には妹の担当医への手紙です。僕の代わりに投函してもらえませんか」
 この数日間、機を見て五十嵐に渡そうとずっと持ち歩いていた手紙だ。
 恵の担当医から届いた手紙には「妹の近況を知りたいならいつでも手紙をくれ」と記述があった。

 はっきり拒絶されたとはいえ、恵がただひとりの大事な妹であることに変わりはない。

 恵の近況を知りたいという欲求は日増しに膨れ上がり、ついに返事をだすことにした。担当医を名乗る見知らぬ他人を介してでも恵と繋がりを保てるならその希望に縋りたい。恵が元気でいるか、風邪などひいてないか、それさえ知ることができるなら実際の文通相手が他人だろうがかまわない。
 ……否。
 僕はただ僕のしたことは無意味じゃなかったと、ちゃんと意味があったのだと第三者に認めさせたいのかもしれない。僕の存在は無意味じゃなかったと、僕の人生は無意味じゃなかったんだと恵のそばにいる人間に手紙を送り付ける行為を通じて主張したいのかもしれない。
 とことん自己本位で見下げ果てた人間だ。自分に殺意さえ沸く。    
 でもそれでも、欺瞞と偽善を積み上げた愚かしい行為に過ぎなくても、僕はやっぱり恵を身近に感じていたい。恵には僕の妹でいてほしい、家族でいてほしい。恵が僕のことを兄とも家族とも思っていなくても、僕の中で一生恵が妹であり家族である事実は変わらない。
 一方的な未練と執着にすぎなくても、僕はまだ恵の兄でいさせて欲しいのだ。
 下を向いたきり顔をあげられない僕を見つめ、ふっと五十嵐が微笑む気配がした。雰囲気が軟化し、ゆっくりと顔を起こす。丁寧な手つきで制服のポケットに手紙をしまい、五十嵐が請け負う。
 「ああ、ちゃんと届けるよ。間違っても飛行機にしてとばしたり鼻かんだりしねえから安心しろ、切手代はツケとくからな」 
 最後は冗談めかして言い、五十嵐が踵を返す。エレベーターではなく目の前の階段をのぼってゆく五十嵐の背中に何とも形容しがたい感情をかきたてられ、我知らず一歩を踏み出す。 
 「五十嵐さん」
 階段の半ばで五十嵐が振り向く。
 声をかけたはいいものの言葉が続かない。むなしく立ち竦んだ僕の耳元で声がする。
 
 『いやだよなあ、そりゃそうだよなあ』
 『おまえのこと親父みたいに慕ってる囚人やなにも知らねえ同僚に秘密知られてシカトされるのは。とくにガキどもはがっかりだな、今までなにくれとなく良くしてくれた五十嵐さんが私怨で囚人殺しかけた極悪人だと知れば』
 『そしたら今度はおまえがリンチの標的にされるんじゃねえか?まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな』

 脳裏を席巻するタジマの台詞。脅迫。
 タジマは五十嵐の弱みを握って金を強請っている。弱み。周囲に知られたくない秘密。五十嵐の秘密とはなんだ、過去に囚人を殺しかけたというのは本当なのか…
 間抜けに口を開閉すること三度、唇を引き結ぶ。
 「―アイロンくらいちゃんとかけたほうがいい、制服が皺だらけだと看守の権威が失墜する。そんなみっともない格好で出歩くのが許されるのは生活態度が悪くて妻帯者がいない男性だけです、タジマのように」
 「おいおい、看守に説教かよ。囚人のくせに生意気だな」
 冗談半分におどけた五十嵐の目が柔和に和み、優しげな父親の顔になる。
 「……娘によくおなじこと言われたよ。年の割に口うるさくてこまっしゃくれてたからな、リカは」
 もう決して戻らない過去を回想するようにしみじみと五十嵐が呟き、うなだれた背中で階段をのぼってゆく。僕は何故か鍵屋崎優を思い出した。
 鍵屋崎優の背中はいつも近寄りがたく威厳にあふれていて、半面、親近感や父親の愛情とは無縁だった。
 生きる気力を失った背中を見送り、世の中には情けない父親がいるものだと達観した。
 五十嵐はきっといい父親だったのだろう、とも。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051223223007 | 編集

 東京少年刑務所のなりたちは今から50年前、西暦2033年に遡る。
 外国人就労者の増加による治安の悪化と犯罪発生率の高さに頭を痛めた政府が、今世紀初頭の東京大地震で誕生した砂漠に世界に類を見ない規模の刑務所を設立した。
 周辺住民の抗議をおそれるように俗世間と隔絶した不毛の砂漠に設立された刑務所にはさまざまな肌とさまざまな目の色、そしてさまざまな国の人間が集められた。

 人種の坩堝という表現がこれほどふさわしい環境もない。

 二十一世紀前半の少年法改正により少年院から少年刑務所へと改名され、未成年の犯罪者だろうが成人と区別なく裁判で裁かれるようになった。
 ……が、陪審制度が導入された裁判は必ずしも公正とは言いがたく、陪審員の心証ひとつで判決が大きく左右されてしまう。
 情状酌量の余地がある被告が裁判時の態度が悪くて陪審員の不興と反感を買い、重い刑罰を課されることもある。
 被告が国籍を持たない日本生まれの二世だととくにこの傾向が強い。陪審員にはおもに裕福な中産階級の日本人が選ばれるからであり、中には彼らを日本を内側から食い荒らす害虫か何かのように毛嫌いしてる者もいる。
 無国籍スラム化が進んだ現在でも、いや、現在だからこそ都下スラム出身者には根強い偏見がある。中にはスラムの住民を犯罪者予備軍と呼んではばからない者もいる。
 実際、治安が悪いスラムでは強盗や殺人などが日常茶飯事に蔓延してる。複雑な家庭事情から逃げるように路上生活者となった少年らが徒党を組んで集団強盗を働くなど生きる為の犯罪をくり返しているのが社会の底辺の現状であり、実に東京プリズンに送られる犯罪者の八割が犯罪や暴力と隣り合わせの環境で育った若者たちだ。
 
 東京少年刑務所は特異な構造をしている。

 砂漠は足立区とほぼ同面積で52.14km2。その中心に位置する刑務所は周囲を有刺鉄線に囲まれた難攻不落の要塞の威容で、東西南北に設けられた通用門兼搬入口からは毎日のように新入りを乗せたジープが出入りしている。
 有刺鉄線の向こう側、刑務所の敷地内には巨大すぎて視界に把握できないコンクリートの建造物がある。
 それ自体ひとつの砦のような景観の巨大建造物は渡り廊下で繋がれているが、囚人が直接渡り廊下を通ってそれぞれの棟を行き来することはない。中央棟を核に東西南北に展開した四つの棟で現在使われている渡り廊下は中央棟に行き来する四本だけだ。それぞれの棟を直接繋ぐ渡り廊下は抗争が原因で封鎖されて久しい。
 中庭も例外ではない。
 東西南北の棟が面した敷地は中庭として囚人に開放されている。が、中央棟と接続した渡り廊下を中空の境界線に、「あの下をくぐったら敵の陣地」と漠然と認識されているために違う棟の囚人が活発に交わることもない。
 東京プリズンの全景を俯瞰図で表せば、正方形の中に十字架がおさまっているように見えるだろう。正方形の外枠は棟と棟とを繋ぐ渡り廊下であり、中央棟を貫いて十字に交差しているのが中庭の境界線の渡り廊下。
 縄張り意識が強い囚人は滅多なことでは境界線を越えず、暗黙の掟を破って越境した愚か者には容赦しない。もしバスケットボールを追いかけて他棟の囚人がうっかりこっち側にやってきたら途端に戦争が始まり、死人がでる。
 ごく一部の例外を除いて。

 その例外が、いた。
 場所は西棟の中庭。異形のコンクリート建築を背景に、中庭の真ん中に立っているのは一人の少年。
 少年は奇妙な風体をしていた。
 顔の上半分を覆った暗色のゴーグルが目の表情を隠しているため、全体の造作は定かではない。が、針金のように立たせた短髪とやや大きめの口、頬から顎にかけて精悍に引き締まった線から快活な気性がうかがえる。
 黒と白の格子縞、垢染みた囚人服こそ他の囚人と変わらないが、黒いゴーグルをかけた少年には他と一線を画す異質なオーラがあった。
 上に立つ者特有の威圧のオーラ、とでも言えばいいだろうか。
 今は深夜、視界は闇に包まれている。中庭は無人。消灯時間を過ぎて出歩いてるのが看守に見つかれば厳罰に処されてるというのに怯えた素振りとてない。
 「今度のは自信作や」
 だれにともなく呟き、ポケットに手を入れる。手の中に握りこんだのは黒い丸薬。東京プリズンに来て五年、現役を退いて五年だ。腕は錆びついてないだろうか?掌中の丸薬をもてあそびながら束の間回想に耽る。娯楽班の試合で腕前を発揮する以外には見せ場もなく、最近は図書室に入り浸りで研究が疎かになっていた。が、試作品の実験はしといて損がない。ぶっつけ本番で挑んで誤爆でもしたら目もあてられない。勝ち負けにはこだわらないほうだとはいえ、できることなら満場の客の前で恥をかきたくないのが本音だ。
 ゴーグルの内側で目を閉じ深呼吸、集中。右手に握りこんだ丸薬は三つ。
 いや、正確には丸薬ではない。
 「弾けい!!」
 素早く手を抜き放ち、大きく腕を振りかぶる。夜空に放物線を描いた丸薬が三つ、地面に落下時に強い衝撃を受ける。

 閃光。

 漂白された視界の中、大気を震わす轟音と震動のうねりが足元に突き上げてきて、危うくバランスを崩しそうになった。鼓膜が痺れるような轟音が殷殷と闇にこだまし、コンクリートの地面に走った衝撃があたり一面にたゆたう白煙に紛れて分散してゆく。
 「ちと火薬が多すぎたかな?」
 周囲にたちこめる白煙に咳き込みながら舌打ちする。以前なら全幅の信頼をおけた勘が少々鈍ってると認めざるをえない。以前なら目を閉じていても火薬の量を間違えるような初歩的ミスは犯さなかったはずだ。
 祖父が生きていれば頭に拳骨を落とされていた。
 根っからの職人気質の祖父は自分の仕事に誇りを持っていたが、娘の忘れ形見の孫におなじ道を歩ませるのを最期まで拒んだ。孫には人殺しの道具ではなく人を喜ばせる道具を生み出してほしいというのが祖父の願いだった。
 祖父は口には出さなかったが、唯一の孫が両親の二の舞になるのを恐れていた。
 『ごめんなじっちゃん、二の舞になってもうたわ』
 反省の色もなく彼は笑う。
 刑務所で獄死した両親の顔は覚えてない。母親は刑務所で臨月を迎えて彼を産んだが、刑務所を出ることなく、我が子を腕に抱くことなく死亡。父親の消息は不明だが、たぶん死んでいるだろう予感がする。刑務所で産声をあげた男児は祖父に引き取られ「龍一」と名づけられ、両親もまた与していた組織の中で育てられることになった。
 そして今、彼は刑務所にいる。生きて外にでることはない。祖国からは収監五年が経過した今でも組織の活動内容と近況を知らせる手紙が届くが、殆ど義理のようなものだ。
 彼の懲役は二百年、生きて刑務所をでるのは絶対に不可能だ。  
 だが彼は、別段その事を哀しんでるわけでもない。悲観してるわけでもない。どころか、逆に感謝している。本国政府に厄介払いされてこの刑務所に送られたからこそ、爆弾作りに代わる新たな生き甲斐を見出すことができたのだから。
 「こんな夜更けに火遊びかよ、物騒だな」
 からかいの声に顔を上げれば煙幕越しに人影が歩いてくる。ゴーグルを額に押し上げ、目を凝らす。外気に晒されたのはつり目がちの精悍な双眸、稚気と凄味とを均等に宿した剽悍な顔だち。ゴーグルを取り払った視線の先、白煙の筋をなびかせながら視界が晴れ、人影の素顔が暴かれる。 
 均整のとれた長身の男だ。いや、青年と呼ぶのが正しい年頃だ。頭の後ろで襟足にかかる髪を一本に結んだ青年はとても魅力的な容姿をしていた。
 甘さと精悍さが黄金率で混ぜ合わさった野性的な美形。
 「おうレイジ、夜遊びか」
 「おう夜遊びだ。月が綺麗だから散歩してたら場違いな爆発音が聞こえてな、なんだろうって来てみりゃ西の道化がだれも観客いない中庭でパフォーマンスしてた」
 「パフォーマンスやない、予行演習や」
 「にしちゃ凄い威力だったぜ。少しは加減しろよ、寝た子が起きちまうだろが」
 空には月がある。
 中天に昇る満月の下、闇に沈んだ中庭で対峙する二人の少年。西棟の巨影を背景に、青白い月光を浴びた少年の名はヨンイル。中央棟を背にしたのはレイジ。ともに西棟と東棟のトップであり、常人離れした強さを誇るブラックワーク娯楽班上位者だった。 
 「王様も暇人やな。いくら夜やからって西棟の陣地まで出張してきて、看守にバレたら大目玉くらうで?」
 「かてーこと言うな、ばれなきゃいいんだよばれなきゃ。万一ばれても黙らせりゃ問題なし」
 「脅す気かい。おっかないな」
 硫黄に似た火薬の臭気が鼻腔を突く。
 鼻面に皺を寄せたレイジがヨンイルの横にやってくる。ヨンイルはその場に腰を下ろし、リラックスした姿勢で足を投げ出した。後ろ手をついて仰け反ったヨンイルにならい、レイジも隣に腰を下ろす。
 「どないしたんや?胸に穴開いてる」
 上着の胸の穴に目ざとく注目し、疑問の声をあげる。胸の穴に人さし指をひっかけたヨンイルが怪訝そうな顔をし、コンクリートの地面に尻を落としたレイジが肩を竦める。
 「蛇に噛まれた。永久凍土の蛇に」
 「サーシャかい」
 嫌な顔をしたヨンイルの手を払いのけ、上着の胸を指で摘む。ちょうどシャツの内側にさげた十字架が穴の位置にくるために、月光を反射した金色の光がこぼれる。
 「サーシャもなんでああお前にご執心なんやろな。きっと恋やな、恋。お前のことが好きで好きでもう辛抱たまらんでつい意地悪してまうんや」
 「意地悪で済むか、服の内側にナイフ突っ込まれたんだぞ?いつ頚動脈かっきられるかひやひやしたぜ」
 「うそつけ、顔笑ってるで」
 「いやマジで怖かったって、信じろよ。サーシャの目完全にキレてたし蛇に射竦められた蛙の心地がしたよ、思い出しただけでちびりそう」
 「笑いながら言っても説得力ない」
 「しかたねーだろ」
 月光に映える横顔に甘い笑みを浮かべたレイジが、自分の口元を指さして言う。
 笑っているのに笑ってない、空っぽの笑顔。
 「この顔しかできねえんだよ」
 「難儀やなあ。お前の同房に同情するわ、それじゃ本音でしゃべっても冗談にしか聞こえんやろ」
 「ロンにはいつも本気だよ。本気で愛を語ってるし本気で抱きたいし」
 「うるさい。アホ。さらりと抱きたいとか言うな頭に白蟻沸いたバカ王。聞いてるこっちが痒うなる。あーーーーかゆいかゆい、ほら見ろお前が平然とキザな台詞吐いたせいで鳥肌が!!」
 肘まで袖をめくりあげたヨンイルの腕にはなるほど鳥肌が浮いていたが、レイジは素知らぬ顔で鼻歌を奏でていた。音痴な鼻歌だ。音程がめちゃくちゃで聞くに耐えない。袖をおろし、今度は不快げに耳を塞いだヨンイルがはげしくかぶりを振る。
 「へたっくそな鼻歌はやめい、気分が悪うなる。俺はおまえの音痴克服練習に付き合って中庭まで出てきたわけやないぞ」
 「ひどい言いぐさだな、傷ついた。責任とって嫁にして」
 片手で胸を押さえ、ショックを受けたふりをするレイジにヨンイルは完全に白けていた。レイジの意見は取り合わず、ため息を吐いて空を見上げる。コンクリートの巨大建造物が威圧的に押し迫った夜空に玲瓏と月が輝き、清浄な月光が降り注ぐ。
 「お前が最後までペア戦勝ち進んだらの話やけど」
 唐突にヨンイルが呟き、無意識に十字架をまさぐっていたレイジが顔を上げる。
 「俺、南か北とペア組まなあかんのか?」
 「ペア戦だからなあ。そうじゃねーの?」
 「当事者のくせに知らんのかい、なんちゅー適当な」
 「いいじゃんペア組めば。北と西だろうが南と西だろうが正々堂々相手してやるよ」
 「お前がよくても俺がよくない。南はまあええとして北のトップってサーシャやろ、嫌やであんな頭イカレた奴と組むの、命がいくらあっても足らん。俺は一人のが性にあってるんや。どうせお前除いた三人でペア組むと一人あぶれるし、俺は単独で参加するわ。そっちのが色々やりやすいし上もまあ大目に見てくれるやろ」
 「嫌われてるなサーシャ。可哀想に」
 「そういうお前はどうなんや?サーシャに殺したいほど憎まれ愛されて嬉しいか?」
 「ああ嬉しいぜ、お前が五十嵐に愛されてるくらいにゃ」
 レイジをからかったヨンイルが手痛いしっぺ返しに渋面を作る。舌打ちして地面に寝そべったヨンイルが月まで届けと盛大に嘆く。
 「ほんっま性格悪いなお前、なんで今五十嵐の名前だすんや!?せっかくのええ気分がぶち壊しや、キレイなお月さんに申し訳ないとは思わへんのか?謝れ、そこに手をついて謝れ!せやないと月に代わってお仕置する!」
 「『性格悪い』?ありがとう最高の誉め言葉だ、女に『今夜のあなた最高だった、お返しに次は騎乗位で』って言われる次に」
 煮ても焼いても食えない笑みを浮かべたレイジに怒る気も失せる。こいつの言動を真に受けるだけ馬鹿だ、長い付き合いでそんなことわかりきってたのに不覚にも一本とられたと歯噛みし、勢い良く起き上がる。
 「本当に心当たりないの、五十嵐に恨まれる原因」
 憮然と胡座をかいたヨンイルににやつきながらレイジが指摘する。
 「漫画読みながら歩いててぶつかってそのまま謝らずに行っちまったとか、五十嵐が借りようとしてた漫画を自分が独り占めしたいばかりにどっかに隠したとか」
 「……ないとは言いきれん。いや、でもそれで階段から突き落とされるのは割にあわん。ええ大人のすることか?一歩間違えれば死んどったちゅーに」
 「もう死んでるようなもんじゃん」
 なにを今更と鼻で笑い飛ばしたレイジが首周りの金鎖を手繰り、シャツの内側から十字架を引っ張り出す。金鎖を纏い付かせた十字架を頭上に掲げ、神聖な儀式の一幕の如く月光に翳す。青白い月光を反射した十字架が清浄に輝き、レイジの顔に十字の影が落ちる。
 「俺もお前もここに放りこまれた時点で死んだようなもんだ。国でオイタが過ぎて極東の砂漠に島流しされた身だ、いい加減認めちまおうぜ兄弟。社会的には死人も同然でいまさら脱獄して国に帰ったところで戸籍も抹消されてんだから東京プリズンに骨埋める覚悟で楽しく人生送らなきゃ損ソン」
 「釜山に帰ろうなんて思ったこともないわ。いまさら帰っても俺の居場所ないしじっちゃんおらんし……手紙は定期的に来るけど、それだって義理と惰性で続いてるようなもんや。いつ絶えてもおかしくない。まあそんなもんやろ人間て、薄情者て恨むんは筋違いや」
 まんざら虚勢でもないのんびりした口調でヨンイルがうそぶき、意味ありげな目つきでレイジを見る。
 「お前はどうや、レイジ?生まれ故郷が恋しゅうなったか。国に家族がいるんやろ。前に言うてたよな、その十字架おかんから貰ったもんやって」
 好奇心旺盛に身を乗り出したヨンイルが畳みかけるように質問し、レイジは十字架をいじりながら微笑んだ。
 「家族はいるけど、俺がいないほうが幸せだ」
 何を思い出しているのだろう、その声は空虚に明るかった。感情を見せない微笑に当惑したのはヨンイルの方だ。しんみりした雰囲気を吹っ切るように顔を上げたレイジがシャツの内側に十字架を戻し、指の間からこぼれた金鎖が清澄な旋律を奏でる。
 「俺は今幸せだよ。かわいい愛人たちからたくさん手紙が届くし図書室は本が充実してるから退屈しないし娯楽班の試合はいい運動になる」
 ヨンイルに顔を近づけ、まっすぐに目を覗きこむ。
 「何よりロンがいる。東京プリズンは天国だ」
 強がりの嘘にしてはあまりに衒いなく、悪い冗談にするには真剣な声音だった。
 月光を吸い込み、芳醇に深まった瞳に魅入られたように息を止めていたヨンイルの口元に共感の笑みが浮かぶ。
 「―俺もや。好きなだけ漫画読み放題の東京プリズンは天国や、もう一生ここから出とうない。今の俺は爆弾作りより何倍も何十倍も何百倍も面白いこと見つけたんや。俺の望みはただひとつ、死ぬまで一生漫画を読み続けること。ブラックジャックも明日のジョーもカムイ伝も三国志もめぞん一刻も奇面組もがきデカもまことちゃんも絶対一生読み続けたる、だれも俺が漫画読むのを止められん、俺は漫画読むために悪魔に魂売り払ったんやんから地震がこようが天変地異が起ころうが本棚にかじりついて漫画を読み続ける」
 「やっぱ似てるな、俺たち」
 「王様は道化、道化は王様か。そうやな、お前お得意の笑顔七変化は道化の特徴やな」
 互いによく似た経緯で東京プリズンに送られ、東京プリズンで運命の出会いを果たし。
 祖国に居場所をなくし、最悪の環境で居心地良い居場所を見つけ。 
 共犯めいた笑みを交わす王様と道化をただ砂漠の月だけが見ていた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051222223216 | 編集

 次のペア戦まであと三日。
 日々は平穏に過ぎていた。少なくとも表面上は。
 イエローワークの強制労働に就いていたころは朝五時に起床、点呼をとり終えたら即食堂に行き朝食をとり、その足で地下に降りてバスに乗り込むハードな日々の繰り返しに辟易したが、半年に一度の部署代えで売春班就労が決定してからはイエローワークに戻りたいと心の底から願う毎日だった。
 どんな最低の仕事でも売春班に比べれば遥かにマシだ、まだ救いがある。
 売春班から抜け出すためならドブさらいでも便所掃除でもなんでもやる、それがだめならいっそ処理班に回してくれと仕事場のベッドで頭を抱えて思い詰めていた。
 今の僕は自由だ。
 僕を含めた売春夫の処遇はまだ決まってない。100人抜きの結果がでるまで、期間限定で処分が保留されたどっちつかずの現状だ。レイジ・サムライペアが途中で負けるか100人抜きを達成して勝利の栄冠を手にするか、どちらにしろ白黒決着がつかないと売春は再開できない。
 売春班が休止され、本来なら「自由になれた」と手放しで喜べるはずが気分は滅入ってゆくばかりだ。苛立ちと不満が澱のように鬱積し、胸裏が陰鬱に淀んでいる。
 こんなのは所詮束の間の安息、パンドラの箱の底の仮初の希望にすぎない。
 サムライとレイジは強い。だがしかし、ささいな行き違いから関係をこじらせた今の二人が果たして力を合わせてぺア戦100人抜きを成し遂げられるだろうか?チームワーク最悪の状態で、ふたりの連携が見込めない不利な状況下で、意固地に交代を拒んでリングに上がりつづければ遠からず限界がくる。互いの不足と不得手を補う目的のペアが正常に機能してるとは今の状況ではとても言えず、関係は悪化する一方だ。
 敵はこれからますます強くなる。サムライにしろレイジにしろひとりで戦うのは荷が重すぎる。100人抜き達成にはふたりの助け合いが必須なのに、肝心のふたりが呼吸を合わせる努力もせず、このまま相棒の危機にも無視と無関心を決めこむのならー……
 「……集団心中する気はないぞ」  
 惰性で本のページをめくりながら呟く。酷薄な台詞だが、嘘偽らざる本心である。自殺も心中もお断りだ、何故僕が自ら死を選ばなければいけない?自殺などプライドがない人間がすることだ、敗北を認めた人間の逃避手段だ。僕は死なない、絶対に死なない。自殺も心中も全力で否定する。
 が、もし仮に、仮にレイジかサムライのどちらかが敗北したらその時点で僕ら四人の運命は決定する。僕とレイジとロンは売春班に堕とされてタジマの玩具にされる、サムライは両手の腱を切られて処理班に回される。まさか安田が本気でサムライの腱を切るとは思えないが、他の看守はどうだかわからない。サムライが両手をさしだした売春通りには看守も多数居合せていたし、この生意気な申し出に反感を抱いた看守、たとえばタジマなら確実にサムライの腱を切断するだろう。

 僕ら四人はもうひき返せないところまできている。
 言うなれば運命共同体だ。

 誰か一人でもつまずけばその瞬間にすべてが瓦解する危うい均衡の上に全員が立っている。実際に戦うのはレイジとサムライで、僕とロンは試合風景を金網越しに見守るしかない無力で非力な立場だが、当のサムライとレイジに軋轢が生じた現状では100人抜き達成の見込みは極めて低い。
 まったく、連中ときたら天才の手を煩わせるばかりだ。
 凡人は凡人らしく天才の助言に従って素直に仲直りしてしまえばいいものを、サムライときたら何をそんなに意地を張ってるんだ?理解に苦しむ。まあ、凡人には凡人の些末かつ低劣な苦悩や葛藤があるのだろうが、彼らの頭では考えれば考えるだけ時間の無駄だ。入り口はあっても出口がない迷宮の中をさまようのは不毛な行為と言えよう。  
 やはり忠告すべきだろうか。
 もっと簡潔かつ平易な言葉でないと伝わりにくいというなら、僕の現在の気持ちそのままに「レイジと仲直りしろ。見苦しい」と切り出すべきだろうか。「サムライのくせに潔くない」「自分を殺して謝罪の言葉ひとつ言えないなんて度量の狭い男だ」「見損なった」……どれも本心だが、本人の顔を見て直接口にするのはためらわれる。
 いかに僕が毒舌家といえど、僕のために、ひいては売春夫全員のために生死を賭した戦いに挑んでるサムライに
 「まったく偏屈で頑迷な男だな、一度その脳味噌を解剖して何色をしてるか確認したい。全体に灰色なら石化してる証拠だ。エルキュール・ポワロと違って灰色の脳細胞を自慢できないな、きみの場合頭だけでなく脳まで石化が進んでる証だ。石橋を叩いて渡るとは心配性の人間を揶揄した諺だが、君の石頭は叩いても割れなくて結構なことだ」 
 などと言えるわけがない。これでも一応遠慮して、自制心を総動員して毒舌と失言を控えているのだ。
 ……ああ、だからストレスがたまるのかもしれない。
 僕としたことが、何故今までこんな初歩的なことに思い至らなかったのだろう。鬱屈の原因は自己嫌悪と劣等感だと分析していたが、辛辣で的を射た毒舌を避け、口当たり柔らかい言葉ばかりを並べ立てる消化不良かもしれない。
 くそ、何故僕がこんなくだらないことを憂慮しなければならない?他人の喧嘩に口出しするのは小姑の役目で天才の義務じゃない、お節介なロンに任せておけばいいじゃないか。もう勝手にしろ、友人とはいえ年上の尻拭いなどごめんだ。冗談じゃない、自分の尻くらい自分で拭け……違う、何を言ってるんだ僕は、いつのまにこんな下品で下劣な悪態を覚えたんだ?最悪だ、たった半年で東京プリズンの環境に感化、否、汚染されてしまったなんて……
 「―最悪だ。こんな汚い言葉口にしたら恵に嫌われる」
 いや、もう手遅れだが。
 恵、恵への手紙は無事届いただろうか?このまえのペア戦の翌日に投函したのだとしたらもうそろそろ着いてる頃だ。正確には恵本人への手紙ではなく担当医への手紙だが……恵との繋がりが回復するなら、再生へのきっかけが掴めるのなら、それがどんなにか細い糸であっても放したくない。縋りたい。 
 恵は元気にしてるだろうか?精神病院の白い部屋で膝を抱えて寂しがってはいないだろうか?食事はちゃんととっているだろうか?夜はよく眠れているだろうか?看護婦や医者とは仲良くやっているだろうか……
 恵が夢遊病を発症してたなんて知らなかった。眠れない夜は、恵も蛍光灯が寂しくともる廊下をふらついていたのだろうか?現実を映さない虚ろな目を虚空に据え、ひたひたと…… 

 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』

 「!」
 ハッと物思いから覚めてみれば、すでに房の中は暗くなっていた。膝に本を広げたまま、ずいぶん長い間ぼんやりしてたらしい。ほとんど内容が頭に入ってこなかった。視線が活字を上滑りする感覚がもどかしくなり、乱暴に本を閉じる。本に八当たりするのは馬鹿げてる、八当たりすべきはそう、サムライだ。しかし本人が今ここにいないのだからどうしようもない。
 廊下が賑わってきた。強制労働から引き上げてきた囚人が群れてるらしい。サムライももうすぐ房に帰ってくるだろう。ブラックワーク娯楽班の出場者には強制労働免除の特権が与えられるが、それはあくまで上位者のみの厚遇で、サムライみたいに実力はあるが実績がないペア戦初出場者にはあてはまらない。
 サムライは週末のみリングに立ち、平日は通常どおりブルーワークの労働に就いている。 
 サムライがいない間、東棟と中央棟の図書室とを往復し、自分以外だれもいないがらんとした房で読書に耽っていたがどうにも集中できない。静か過ぎるとかえって落ち着かないものだ。ため息をつき、本の表紙を見下ろす。無念かつ不本意だが、三回目の再読はあきらめるしかない。二回ではこの僕の旺盛な知識欲がが充足したとはとても言いがたいが……
 ベッドから腰を上げ、本を小脇に抱えてドアに歩く。
 夕食が始まるまえに本を返してこよう。そして新しい本を借りてこよう。次はなにを借りようか、漫画にするか小説にするかノンフィクションにするか専門書にするか……火の鳥はまだ乱世編の下巻までしか読み進めてなかった。未来編のロックは人間の哀切と孤独を感じさせる業深いキャラクターでとくに「戦争だけはいやだ」と叫ぶシーンは傑作…… 
 「―!?っ、」
 どの本を借りようか、から脱線した思考を巡らせながら廊下を歩いていたら突然視界が暗くなる。何が起きたのか一瞬わからなかった。背後から目隠しされたのだ、と気付いたのは闇越しに命令されたからだ。
 「叫ぶなよ。叫んだら殺すぞ」
 背中を突き飛ばされ、バランスを崩す。倒れかけたのを壁に片手をついて前傾姿勢を維持、ことなきをえる。なんなんだ一体?当惑した頭では状況把握が追いつかない、まずとりあえず手を払うのが先決だ。このままじゃ何も見えない、どこに連れてかれるのかもわからない。
 「この手を離せ低脳、眼鏡のレンズに指紋がつくだろう」
 目隠しした手を掴み、顔から引き剥がそうともがいてる間じゅう僕の抵抗を嘲笑する声が渦巻いていた。ひとりじゃない。二人、三人、四人……四人か。四人も囚人がいれば目立つだろうに誰も何も言ってこないのは何故だ?すれちがう通行人の足音やしゃべり声、気配がないのは……
 物陰に連れこまれたからか。
 落ち着け、冷静になれ。取り乱したら相手の思うつぼだ。深呼吸して冷静に、頭を冷却して状況把握に努めなければ。目隠しされた手の内側の暗闇で目を閉じる。敵は四人、敵と断定したのは僕に悪意を持ってるのが耳に渦巻く嘲笑から伝わってきたから。僕に悪意を持ってる人間……真っ先に思い浮かぶのはタジマだが、今僕を取り囲んでるのは四人の少年。この中にタジマがいないのは明白。
 と、いうことは……
 「群れなければ吼えることもできない凱の飼い犬が何の用だ?僕は図書室に本を返しに行くという大事な用があるんだ、このまえの続きなら後にしてくれないか」
 笑い声がぴたりと止む。
 目隠しが取り除かれ、視界が晴れる。レンズにべったりと指紋が付着していた。即座に眼鏡をとり、上着の裾で丁寧に拭う。綺麗に指紋を拭ってから眼鏡をかけ、あたりを見まわす。
 推理が的中した。
 肩をそびやかせて僕を取り囲んでいたのは、この前、中央棟の廊下で出くわした凱の取り巻きが四人。僕に犬の真似をさせ、手を叩きながらはしゃいで見ていた頭の悪そうな四人だ。
 「もう一度言ってみろよめがね、だれが群れなきゃ吼えることできねえ犬だ?」
 「君だ、膿んだニキビが醜い顔をさらに醜くしてる品性下劣な少年。今もこうして四人で僕を取り囲んで、多勢に無勢で牽制してるつもりか?それともなにか、恐喝するときも用を足すときも単独行動ができない社会不適合者の集まりなのか?友人が多くて結構なことだな。誰も彼も似たり寄ったりの愚劣な低脳同士気が合うだろう、だれの脳味噌がいちばん皺が少ないか頭蓋骨を開けて競争してみたらどうだ。ひとつ忠告だが脳味噌を扱うときは気をつけろよ、つるつるとなめらかすぎて手を滑らせてしまう危険性がある」
 サムライの前で毒舌を控えてた反動か、気付いたら一息に罵詈雑言をぶちまけていた。
 すっきりした。
 喉を圧迫。片手で襟首を掴まれ背中を壁に叩きつけられる。僕を取り囲んだ凱の子分のひとりが憎憎しげに顔を歪める。
 「犬はどっちだよ、床に這いつくばって俺たちの言うなりに眼鏡くわえてもってきた奴がよ」
 眼前で拳が振り上げられる。おもわず目を瞑ったが、予期した衝撃はいつまでたっても訪れない。不審に思いながら薄目を開ければ、僕の目と鼻の先で拳が止まっていた。
 周囲から陰険な嘲笑が沸きあがる。
 「マジにすんな、遊んだけだ。凱さんに言われた用件がすむまでお楽しみはとっとくよ」
 「凱?凱がどうしたんだ」
 喉首を締め上げられても声は平静だった。数は脅威だが、こんな低脳どもおそるるにたりない。万一殴る蹴るの暴行に発展したとしても骨折程度で殺されはしないだろう楽観がある。もうすぐ夕食が始まる、夕食開始のベルが鳴れば囚人の点呼が始まる、点呼が始まるまえに囚人は廊下に並ばなければいけないからそれまでには解放してくれる。
 頭の中で冷静に計算する。敵は四人。体当たりで逃げるのは体格差から不可能。ここは従順なふりで彼らの用件とやらを聞くしかない、まあどうせ聞いたそばから忘れたくなるくだらない用件だとは思うが。
 僕の襟首を掴んだ肥満の少年、ヤンと呼ばれた中国人が仲間に目配せする。
 「三日後のペア戦でオトモダチのサムライがだれと当たるか知ってるか?」
 「いや」 
 「『俺たち』だよ」
 襟首を掴む手に握力をこめ、ヤンが凶悪な笑みを浮かべる。
 「俺とロンチウ、ユエにマオの兄弟、そして凱さんとシャオチン……以上三組だ。運命のイタズラか天の采配か、俺たち東棟中国系派閥の幹部と三組ガチンコするんだ。何が言いてえかわかるか」
 「怖気づいたのか」
 「あん?」
 意識して口角をつりあげ、ひとの神経を逆撫でする笑みを浮かべる。今の僕はきっと殺したいほど憎らしい顔をしてるだろう。
 「サムライとレイジに怖気づいたのなら今からでも遅くない、辞退しろ。きみたちには金網越しの安全圏で語彙に乏しい野次でもとばしてるのがお似合いだ、リングで惨敗して恥をさらすのがいやなら頭を抱えて引っ込んでいろ」
 顔の横を突風が掠め、壁に震動が生じる。
 反射的に閉じた目を開く。頬を掠めた風の正体はヤンの鉄拳。顔の横の壁から引き抜かれた拳をまともに受けていたら、と思うとぞっとする。
 眼鏡が壊れなくてよかった。
 安堵の息を吐いた僕の耳朶にふれたのは、すでにして決定事項を述べるような淡々とした声。
 「辞退するのは俺たちじゃねえ。サムライとレイジだ」
 読めてきた。
 彼らが僕を待ち伏せして物陰に連れこんだ理由が。僕が毎日のように図書室に通ってるのは東棟の囚人なら周知の事実だ、図書室への通り道で待ち伏せすればたやすくつかまえられるだろう。三週目のペア戦を三日後に控えた今日、彼らが僕に声をかけてきた理由はひとつ。
 脅迫。
 「なあ、オトモダチのお前からも言ってくれよ。今度の試合辞退するようにって。喧嘩嫌いのサムライが100人抜きに挑んだのは売春班からお前助け出すためだろう、だったらお前のかけ声ひとつ、『やめてくれ』のお願いひとつでコロッと言うこときくだろう。右手の怪我が心配だでも僕のために争わないででも何でもいい、適当にでっちあげてサムライをほだしてくれよ」
 「実力でサムライに勝てる見込みがないから彼の知らないところで僕を脅迫、か。雑魚らしく卑劣で姑息な手段だな」
 あまりに短絡的な思考と行動に失笑すれば、怒気と殺気が膨張する。憤怒で朱に染まった顔を並べた少年たちを眼鏡越しに観察、いつ腕や足を振り上げられても対処できるように小脇の本を握り締める。
 雑魚と呼ばれてもヤンは短慮に殴りかかってこようとはしなかった。怒りを理性で御せるぶんだけ凱の取り巻き連中の中ではマシな方だ、たとえそれが短時間しか保たないとはいえ。僕の耳に口を近づけ、吐息がかかる距離でヤンがささやく。
 「念には念を、だ。なるほどサムライはおそろしく強い、先手打っといて損はねえだろう。次のペア戦には俺たち中国人のプライドが賭かってんだ、レイジを蹴落として名実ともに東棟のトップになれるまたとねえチャンスなんだ。卑劣で姑息な手だとわかってるよ。だけどな、お前が脅迫されたとしらねえ連中はそうは思わねえ。お前の泣き落としでサムライが辞退したら『凱さんの強さに恐れをなしたんだな』『腰抜けの日本人め』『いいザマだ』って大笑いするだけだ。よく聞けよ、サムライの勝利なんてだれも、お前ら以外の東棟のだれも望んじゃいねえんだ。引き際見誤ったら針のむしろだぜ」
 「お前ら」にはロンも含まれてるのだろう。レイジとサムライの味方は僕とロンだけ、だがそれがなんだ?他人がどう思うかなんて知ったことか、重要なのは僕がどう思うかだ。
 他の誰でもない、僕がどうしたいかだ。
 「僕以外のだれも望んでない?だからなんだ、百人の凡人が否定しようが一人の天才が肯定するんだ。君たちリングに上がる前から負けている負け犬が吼えようが、勝てる試合に負けるようサムライを説き伏せる気は微塵もない」
 「―調子にのるなよ日本人、したてにでりゃつけあがりやがって」
 ヤンが獰猛に歯軋りし、僕を壁際に追い詰めた三人が間隔を狭めてくる。壁に背中を預けた姿勢から順繰りに少年らを見つめ、こんな連中を「君」と呼ぶこともないだろうと二人称を降格。
 「貴様らには中国人のプライドがないのか?正々堂々リングで勝とうとは思わないのか?中国四千年の歴史と文化が泣くぞ。今ここに老子がいたら中国人の愚かさを嘆くだろうな、貴様らには『道徳教』を読み返して十徳の真髄を学べと……」
 ぽかんとした顔を並べる少年たちに、講釈をたれる気も失せてため息を吐く。
 まさか老子も知らないのではあるまいな、と疑われる反応の鈍さに頭痛をおぼえながら続ける。
 「―言いたいところだが、たかだか三百程度の貧困な語彙しかない貴様らに読書を強制するのは酷だな。比較の基準にはならないが僕の語彙は日本語外も含めて三百万でおよそ一万倍。同格になれとはいわないがせめて百倍には増やせ。そうしたら最後まで話を聞いてやる」
 低脳の話に付き合うのは疲れる。一方的に話を打ち切り、少年たちをどかして廊下に出ようとして……
 後ろから腕を掴まれ、引き戻される。
 「言ってることはさっぱりわかんねえが、俺たちの言うとおりにする気がさらっさらねえってことはわかった」
 「意外と賢いじゃないか」
 「なにか勘違いしてないか天才。俺たちは『お願い』してるんじゃねえ、『命令』してるんだ」
 上から見下す物言いと目つきが気に入らない、低脳の分際で生意気な。
 ……本心が顔に出たのだろうか、嗜虐の笑みを目に覗かせたヤンが力一杯左手首を締め上げてくる。骨が軋む激痛に苦鳴が漏れ、手首の間接が抜けそうになる。
 「お前もサムライおなじにしてやろうか?そしたら右手捻挫した状態で日常生活送るのがどんだけ大変かわかるだろう、箸持つのだって痛えんだから木刀ぶんまわすのがどんなに辛いかわかるだろう」
 唾の根元で木刀を支える右手。
 袖口から覗いた白い包帯。
 「そしたら説得したくもなるだろうさ!自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にゃたくさんあるもんな、実際体験してみるのもわるかねえ。ほら、痛いなら抵抗してみろよ。力づくで腕ほどいてみな。できねえくせにいきがってんじゃねえよ、どんなに頭がよくて口達者でもこうして腕掴まれちまえばただの……」
 どす黒い哄笑が響き渡る中、手首の骨が軋む激痛に視界が灼熱。腕をほどきたい一心で右手を振り上げる。視界の外にあった右手を振り上げた瞬間、ヤンが「しまった」という顔をする。
 「ぎゃっ!?」
 右手に抱えた本でヤンの腕を強打、一気に手首を引きぬく。
 ついに本を凶器にしてしまった。これでレイジの同類に成り下がったか。いや、今のは自己防衛の反射行動だから仕方ないと強引に自分を納得させ、敵が怯んで包囲網が綻んだ隙に廊下に逃げ出す。
 「待ちやがれこのクソ野郎っ、なめた真似しやがって……覚えてろクソが、目にもの見せてやるからな!次のペア戦で勝つのは俺たち中国人だ!!」
 悪態まで語彙が貧困だ。
 少年たちが追ってこないのを確認し、どうにか巻けたみたいだと廊下の壁に凭れ掛かる。小脇に本を抱えていたおかげで助かった、僕に読書の習慣があってよかった。
 本は偉大だ。
 辞書並に厚い本でなければヤンを撃退できたか一抹の不安は残るが、まあ済んだことだ。無事逃げ延びられたのだから……
 待て。本当にこれで終わりか?
 「………あと三日、か」
 次のペア戦まであと三日。先の一件で、凱たちが裏で怪しい動きをしてると判明した。レイジに勝つためには手段を選ばないと宣言した凱がどんな汚い手を使い、どんな卑劣な罠を仕掛けてくるか……
 僕に対しての脅迫だけなら僕が黙っていればコンディションに影響はない。試合が近付くにつれ日増しに集中力を高めてるサムライの耳に入れることもない。余計なことを吹き込んでサムライの集中力を散らすのはいやだ。僕の存在そのものが重荷なのにこれ以上足を引っ張りたくない。
 あと三日。
 三日以内に凱たちは何らかの行動を起こすだろう。サムライを試合に集中させるためには僕だけで、僕の機転と知力で実質東棟を牛耳ってる凱率いる最大勢力に対処しなければ。
 いつまでも守られてばかりじゃ本格的に足手まといだ。
 友人の足枷にしかならない僕なら、僕は僕を軽蔑する。唾棄する、否定する、憎悪する。

 『自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にゃたくさんあるもんな、実際体験してみるのもわるかねえ』  

 「―語彙は貧困なくせに真理をつくじゃないか」
 そのとおりだ。
 自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にはたくさんある。自分の身に降りかかった火の粉は自分で払わなければ。僕の身に降りかかった火の粉を払ったせいでサムライがもう引き返せない場所まできてしまったのだとしたら、今度は僕の番だ。
 手を火傷してもかまうものか。今度は僕が火の粉を払う番だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051221223415 | 編集

 最近暇だ。
 日中やることなくて暇潰しに漫画を読んでるんだが、図書室にいるとやたらとヨンイルが懐いてきてうざったい。
 具体的には「マンモス西はやっぱええ味だしとるなあ」とか「丹下のおっちゃんのしごきに耐えに耐えてジョーは徐徐にボクサーとして頭角あらわしてくんやけどこっからが大変で、」とか横から口出ししてきてうるさいったらない。
 別名図書室のヌシ、漫画に命を捧げた西の道化は自分の視界に漫画読んでるやつがいりゃ知り合いだろうがそうじゃなかろうが十年来の友人ヅラで肩を抱いてくる。人間、自分が好きな分野のしゃべりは饒舌になるのが常だがヨンイルは典型だ。俺なんか友人の友人感覚でお世辞にも親しい仲じゃねえのに漫画を読んでるだけで仲間扱いされちゃ困る。
 本人に悪気はないんだろうが、どうもレイジの同類は苦手だ。
 「……でな。明日のジョーのクライマックス、ジョーVSホセ・メンドゥーサの決戦でジョーが死んだかどうかやけど俺はやっぱ死んだと思うや。ホセとの対戦で全力を出しきって真っ白に燃え尽きたジョーは結局リングの上でしか生きられん業深い男やったんや。リングを下りたジョーが平穏な人生歩めるはずない。大体想像できるか、葉子とジョーがにゃんにゃんしとるとこ。ジョーは自ら平穏な人生に背を向けてボクシング一筋でやってきたんやから……その意味ではジョーは力石のあと追ったんちゃうかな。力石とジョーはコインの裏表な関係やから、力石がああいう最期迎えたっちゅーこと自体ジョーに訪れる結末を示唆してたように思うんや。お前はどう思う?」
 「知るか」
 書架の裏側にうずくまって明日のジョーを読んでるところを偶然ヨンイルに見つかったのが運の尽きだった。くそ、今日はヨンイルと顔あわせないようにわざわざ目立たない場所に隠れてたってのに。
 俺の不機嫌をよそに、ヨンイルは図々しく身を乗り出してくる。明日のジョーについての意見と見解を俺に吹きこみたくて仕方ないらしい。鬱陶しい。体ごと向きを変え、手元に広げた本を覗きこんでくるヨンイルから逃れる。そしたらわざわざ迂回して、あろうことか俺の正面に腰を落ち着けやがった。
 ヨンイルの講釈は延々と続く。
 忌々しげに舌打ちしようがおかまいなしに。
 「割食うたのはホセやな、ホセ。それこそ最強の敵ってアオリで登場したのに人気とインパクトで力石に食われてもうて、今いちラスボスってかんじがせん。明日のジョーは力石が死んだ時点で終わった!って断言する読者もおるくらで、」 
 乱暴に本を閉じる。 
 もう我慢の限界だ、俺は図書室に漫画を読みにきたんであってヨンイルのおしゃべりに付き合わされにきたんじゃない。耳のすぐそばで先の先のそのまた先の展開までネタバレされて集中力をかきみだされて読書に集中できるわけがない。元の位置に本を戻し、ぽかんとしたヨンイルをおいて憤然と立ち去る。
 「なんで怒るんや?けったいなやつ」
 「ダチでもねえのにしゃべりかけてくるな、うざい」
 先の展開をネタバレされて読書を楽しめってほうが無茶だ。好きな分野の話には口出ししたくなるのが人間のサガだとわかっちゃいるが、せめてもう少し気を利かせてくれたってバチあたらねえだろ。
 ……くそ、ジョーが死ぬなんてすげーショックだ。読み進める気なくなっちまったじゃねえか。
 無神経なヨンイルに嫌気がさし、足早に階段を降りる。ヨンイルの講釈に付き合わされてるうちにいつのまにか半日が経過したらしく、図書室には強制労働を終えた囚人が大挙してやってきていた。
 図書閲覧用の机を占領して猥談に耽る連中のそばを通り過ぎ、図書室を出る。そろそろ夕食だ、早いとこ房に戻ろう。ポケットに手を突っ込み、渡り廊下の方角に廊下を歩く。ヨンイルにも困ったもんだ、俺が漫画読んでると決まって首突っ込んで気分をぶち壊す。
 でかいゴーグルをかけた顔を思い出してため息をつけば、こないだ偶然目撃した光景が脳裏を過ぎる。
 
 『いいのかよ、周りに『あのこと』ばらしても』
 『いやだよなあ、そりゃそうだよなあ。おまえのこと親父みたいに慕ってる囚人やなにも知らねえ同僚に秘密知られてシカトされるのは。とくにガキどもはがっかりだな、今までなにくれとなく良くしてくれた五十嵐さんが私怨で囚人殺しかけた極悪人だと知れば。そしたら今度はおまえがリンチの標的にされるんじゃねえか?まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな』

 薄暗い階段の踊り場、五十嵐の耳元でいやらしくささやくタジマ。
 五十嵐にバンソウコウ借りに行った鍵屋崎を追いかけたのは好奇心を優先した上の行動だ。ヨンイルは五十嵐に階段から突き落とされたと言った。ヨンイルが嘘をついてるようには見えなかったが、正直五十嵐がそんなことをするとは思いたくない。五十嵐はいつだって俺によくしてくれた。俺が凱の子分にぶん殴られてとぼとぼ歩いてたとき「大丈夫か」と声をかけてくれた。バンソウコウもくれた。 
 東京プリズンじゃ絶滅危惧種並に希少な親切な看守が、裏でヨンイルを殺しかけた極悪人だと思いたくないのだ。
 反射的に五十嵐のあとを追ったのは五十嵐の様子が気になったからだ。変と言えば五十嵐がペア戦見物にきてたのも変だったが、タジマに呼び出されたんなら納得だ。タジマは五十嵐を呼び出して金を強請るつもりだった、五十嵐の秘密を周囲にばらすぞと脅して言うことを聞かせるつもりだったのだ。
 五十嵐の秘密。
 俺には想像もつかない。あの五十嵐にひとに隠し立てしなきゃいけない秘密があるなんて……五十嵐は俺たち囚人にも明け透けに接してくれるいい看守だと身近に感じてたのに。そういえば噂でちらっと小耳に挟んだことがある、五十嵐の女房がアル中で家庭はぐちゃぐちゃだって。それが五十嵐の秘密?まあ女房がアル中で夫婦喧嘩が絶えないってのはみっともいいもんじゃないが、タジマに金を渡してまで隠蔽しようとするだろうか。事実、俺たち囚人だって風の噂で知ってるぐらいだ。
 『まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな』
 タジマが殺しかけた囚人てのはヨンイルでまちがいないだろう。
 五十嵐の秘密が単純にヨンイルを階段から突き落としたことを指してるなら話は簡単だが、あの時のタジマの口ぶりにはまだ何か隠してる節があった。もちろんそれもあるだろうが、それ以上にもっと周囲に知られたくない重大な秘密があるような口ぶりだった。
 ……いや、簡単じゃない。何故ヨンイルを階段から突き落としたのか、最大の疑問が解決してないじゃんか。五十嵐がヨンイルを殺しかけたのには理由があるはずだ。たいした理由もなく、ただ前を歩いてたのが邪魔だから突き落としたんならタジマといい勝負の最低野郎じゃないか。

 他の囚人にはやさしい五十嵐がヨンイルだけ嫌う理由。
 五十嵐がヨンイルを目の敵にする理由。
 それはなんだ?

 「!?―なっ、」
 突然後ろから腕を引かれ、無理矢理物陰に連れこまれる。
 わけもわからず身を捩り、肩越しに視線を落す。死角から伸びた手ががっしりと肘を掴んでる。俺をひきずるようにわき道へと連れこんだ奴のツラを確認しようとして、周囲に複数の気配を感じる。
 一人、二人、三人……四人か。いずれも俺より図体がでかい。わき道の暗がりにまぎれるように待ち伏せしてたらしい連中のひとり、俺の肘を掴んだガキがずいと身を乗り出してくる。
 どこかで見覚えある顔に記憶の襞をさぐる。思い出した。食堂の一階中央席、凱とおなじテーブルにずらりと並んでる東棟中国系派閥の幹部の中におなじツラを見た。名前はたしか……、
 「ユエ?」
 「マオだよ」
 答えたのは俺の肘を掴んだガキじゃない、その隣のガキ。両方を見比べ、眉をひそめる。
 「ユエは俺だ。よく似た兄弟だから間違えても無理ねえがな」
 「外じゃうりふたつだってよく言われたよ」
 ユエとマオ。聞いたことがある。外では「残虐兄弟」の異名で恐れられた連続婦女暴行魔で凱の腹心。
 「いつまで掴んでんだよ」
 力づくで腕をふりほどく。四人して俺を取り囲んで壁際に追い詰めた連中は優位を誇示するが如くにやにやと笑ってる。凱の子分が俺に声をかけてきてろくなことがあった試しがない。どうせまたいつものいやがらせだろうと半ばうんざりし、半ば腹を立てる。
 「で?凱の愉快な下僕たち、おっと間違えた、残虐兄弟とそのダチが俺に何の用だ。手短にすませてくれよ」
 凱がちょっかいかけてくるのは今に始まったことじゃないが、仲間をけしかけて脅すような真似するなんて今日はまたずいぶんと回りくどく手がこんでる。
 どちらが用件を切り出すか意味ありげに目配せ。兄弟を代表し、ユエが口を開く。
 「明日のペア戦でレイジがだれとあたるか知ってるか?」
 「知らねえよ」
 「『俺たち』だよ」
 顔を見合わせてほくそ笑むユエとマオ。得意げに鼻の穴をふくらませ、まったくおなじ動作で胸を指す。
 「俺たち残虐兄弟がレイジ・サムライペアに挑むんだ。俺たちだけじゃねえ、明日の試合にゃヤンとロンチウ、凱さんとシャオチンもでる」
 「そうか、そりゃ頑張れよ」
 「ずいぶん余裕ありげだな。ダチのレイジが俺たちに倒されたら~、とか心配しねえのか」 
 「笑わせんな」
 これもまたうりふたつの動作で腰に手を当て、左右から俺の顔を覗きこむ残虐兄弟。陰湿な笑みを口元に浮かべ、なぶるように俺の反応をたのしんでるユエとマオとに反感が沸騰。生意気な笑みでねちっこい揶揄を跳ね返す。
 「レイジがお前らクソ兄弟に負けるはずねえだろ。10秒、いや5秒でノックアウトだ」
 右手の五本指をユエとマオに突き出せば、右側のマオにむんずと襟首を掴まれる。
 「―いや違う、負けんのはレイジだ」
 「そして俺たち兄弟の不戦勝だ」
 「……はあ?なに言ってんだおまえら、レイジにびびりすぎて頭おかしくなったのか」
 本気であきれた。自分たち兄弟の出番が三日後に迫った恐怖と緊張でおかしくなっちまったのか?凱とレイジだって勝負になんないのに、凱の子分がレイジに戦いを挑んで勝てるわけがない。世の中そんなに甘くないと外で習わなかったのだろうか?いや、外で習わなくても東京プリズンにくりゃ自然と体に叩き込まれるはずなのに……
 いや待て。
 「不戦勝ってどういうことだよ?」
 うっかり聞き逃しそうになったが、マオはたしかに「不戦勝」と言った。どういうことだ、何故レイジが試合にでないと決めつける?意味不明な発言に不審の眼差しを注げば、とことん飲み込みの悪い俺にマオとユエが失笑を漏らす。
 「不戦勝は不戦勝だよ、レイジは俺たちとやるまえにリングを下りるからな。頭の巡りが遅い半々に噛み砕いて説明してやるとだな、」
 「脅迫だ、脅迫。今自分がおかれた状況をよく見渡してみろ、これ以上なくわかりやすい状況だろう」
 「お前は俺たちに言われてレイジに泣きつく、お前に泣きつかれたレイジはリングをおりる」
 「理由はなんでもいい。お前のことが心配で死んじまいそうだ、これ以上怪我してほしくねえ、無理すんのはやめてくれ……いいねえ、お涙頂戴の台詞もりだくさんだ。レイジはお前に甘いからな、大好きなロンちゃんが涙流していやいやすれば断れねえ」
 そういうことか。
 次第に飲みこめてきた。ユエとマオの兄弟が図書室帰りの俺を待ち伏せして物陰にひきずりこんだわけが、その真の意図が。さっき俺が言ったとおり、このまま何の手も打たずに正々堂々試合に挑むならユエとマオに勝ち目はない。東棟最大の中国系派閥のボスとして三百人弱のガキどもに仰がれ、いつもは傍若無人に威張り散らしてる凱が、よちよち歩きの赤ん坊も同然にレイジにあしらわれてるところを何度も見てきた。
 凱でも勝てない王様に凱の子分が正攻法で勝てるわけがない。
 なら、搦め手で攻めるまでだ。
 「……そんなにレイジに勝ちたいのかよ、みっともねえ」
 やりきれなくなり、苦く呟く。中国人は見栄っ張りだと聞いていたが、仮にこんな真似して勝って嬉しいのだろうか?真剣勝負だからこそ勝利に胸を張れるだろうに、俺を脅迫してレイジを辞退させようだなんてやってて哀しくないのか?ユエとマオ、そしてその背後のガキを見回してうんざりかぶりを振る。
 「凱のさしがねか?それともお前ら兄弟がかってにやってんのか?」 
 「聞いてどうすんだよ」
 「どうでもいいだろ」
 ユエとマオが交互に反論し、右と左から同時に俺の胸ぐらを掴む。二人がかりで胸ぐらを掴まれ、足裏が浮きそうになる。二人がかりで吊られた格好になった腹の底でやり場のない怒りが渦巻く。俺の中には親父から受け継いだ中国人の血が半分流れてる。ということは、俺も半分は中国人だ。台湾人のお袋に育てられたから中国にはとくに愛着を感じないが、中国人がこんな奴らばかりだと思えば情けなくもなる。
 俺とお袋を捨てて行方くらました親父も最低だが、こいつらも同じくらい最低だ。
 反吐が出る。
 背後は壁、正面には残虐兄弟。前後から圧迫され、ろくに身動きもできない苦しい姿勢から毅然と顔を上げ、憐憫の眼差しと口元の笑みとを合わせた軽蔑の表情を作る。
 「そうだな、どうでもいいな。どっちにしろおまえら中国人がプライドのねえクズぞろいってのはたしかだ」
 衝撃に頭が仰け反る。
 激痛は一瞬遅れてやってきた。はげしく視界がブレ、殴られた右頬が疼き出す。さすが凱の子分だ、手を出すのが早い。くそ、少しくらい手加減しろっつの。心の中で毒づき、切れた唇を拭う。口の中に鉄錆びた血の味が広がり、喉が焼ける。 
 俺を殴ったのはむかって左側のユエだ。
 むかって右側、俺を殴ろうと握り固めた拳をサッとおろしたマオがぼやく。
 「あんちゃん手えはやすぎ。俺が殴ろうとしたのにずっけーよ」
 「バカ野郎早いもん勝ちだ。うちのおかずとおんなじ、ぐずぐずしてたら横取りされても文句言えねえ」
 てめえらバカ兄弟の家庭の事情なんか知りたくねえ。
 そう言い返しかけ、唇の疼きに顔をしかめる。
 醒めた頭の片隅、これ一発ですめばいいなと冷静に考える。相手は四人だ。俺もだてに喧嘩慣れしてない、外じゃ池袋一の武闘派と恐れられたチームで抗争に明け暮れてた身だ。相手が三人までならなんとかなる、なんとかする自信もある。だがこの四人のうち、正面をふさいでるのは残虐兄弟の異名をとるユエとマオだ。まともにやりあってかなうはずない、ただでさえ壁際に押さえこまれた不利な状況だってのに。
 「やい半々。自分がおかれた立場を胸に手えあててじっくり考えてみたことあるか」
 兄に対する甘えた口調から一転、ドスの利いた声でマオがささやく。顔に吐息のかかる距離に接近したマオが平手で俺の頬を叩く。
 「裏切り者の中国人と裏切り者の台湾人のあいだに生まれた裏切り者のサラブレッド、中国人からも台湾人からも石投げられる嫌われ者。いやだよなあ、つらいよなあ。お前にとっちゃ中国系が幅きかせてる東京プリズンは針のむしろだよな。イエローワークにいたときも随分いじめられたんだろ?凱さんにさんざん聞かされたぜ、何度シャベル脛にぶつけてもキッと睨んできやがるクソかわいげねえガキだって。半年前は生き埋めにされかけたんだよな?砂ん中から息吹き返せてよかったじゃんか、めでてえなあ」
 俺の頬を叩いて哄笑するマオの隣、弟のやんちゃに目を細めたユンが続ける。
 「どうだ、取引しねえか。お前が試合辞退するようレイジ説得したらお慈悲で仲間にいれてやるよ。お前も半分は中国人だ、仲間に入る権利がある。まあ憎い台湾人の血が流れてるからな、こっち側にきてもパシリか公衆便所くらいっきゃ使い道ねえだろうが今までよかずっと扱いはいいぜ。廊下歩いてて足ひっかけられたり邪険に突き飛ばされることなくなるんだ、そんだけで随分と暮らしやすくなるだろ」 
 乾いた音が連続し、マオの手が上下するたびに激痛が走る。拳で殴られるよりマシだが、平手でぶたれても痛いのに変わりない。調子にのるなと抗議しかけたそばから口を開く間も与えずに手が翳される。
 「悪い話じゃねえだろ半々。俺たちの仲間になりゃ色々いいことあるぜ、中国人にいじめられないかびくびくしなくていいし……そうだ、お前もテーブルの端っこに座らせてやるよ。いつも俺たちが陣取ってる中央のテーブルだ。飯食うとき混ぜてやるから感謝しろ」
 今笑ってるのはどっちだ?ユエとマオは声までそっくりで判別しがたい。いや、笑ってるのは両方か。どうりで声が二重に響くわけだ。
 ユエとマオが笑ってやがる。
 喉の奥が丸見えになるほど口を開いて、赤い舌を覗かせて、盛大に唾をとばして。嬉々として俺をぶってるあいだもマオの笑い声は止まない。俺が「はい」と頷くまで、「わかりました」と承諾するまで泣こうが喚こうがしつこくぶちつづけるつもりだ。
 こいつらにかわるがわる強姦された女が、自分から股開くまで顔ぶたれたってのは本当だったのか。 
 何度も平手打ちを食らったせいで頭が朦朧としてきた。歯を食いしばり固く目を閉じ、悲鳴をあげるくらいなら舌を噛み切ったほうがマシだと虚勢を張っていたら、俺の強情ぶりに業を煮やしたユエが地団駄踏む。
 「なにが不満なんだよ、仲間にいれてやるって言ってんじゃねえか!くそったれ半々相手にここまで譲歩してやってんのに……」
 「安心しろよ、俺たちんとこ来りゃもうレイジに媚売らずにすむ。わかってんだよ、お前の魂胆は。刑務所にだれも味方がいねえからケツで王様たらしこんだんだろ」
 「……なんだと」
 急激に頭に血が上り、口の中を満たした血の味が濃くなる。壁に背中を付けた不自由な姿勢でユエとマオを仰げば、そっくりおなじ憎たらしいツラで笑いやがった。
 「東京プリズンで生き残るにゃ王様にすりよるのがいちばんだ」
 「いじめられりゃ王様が仇とってくれる」
 「王様にひっついてりゃ所内安全」
 「でもな、俺たちの仲間になりゃ無理して王様に付き合う必要ねえんだぜ。おまえだって好きでアイツのダチ演じてたわけじゃねえだろ、ダチのふりしたほうが何かと便利だから……」
 「そりゃそうだ!一度キレたら何しでかすかわかんねえ王様とダチになる奴なんて東棟どころか東京プリズン中さがしてもいねえよ、おっかねえもん。お前だってダチのふりしてレイジを利用……」
 
 俺のために戦ってるレイジを利用?
 ダチのふりで利用してる?  
 
 キレた。
 「!?ぎゃあっ、」
 何度目かに腕が振り下ろされた瞬間、今だと顔面に頭突きを食らわせば鼻血を噴いて大きく仰け反ったマオが二歩後退。なぶる一方の獲物に反撃されるなんて思ってもみなかったんだろう、驚愕の表情のマオをユエが抱きとめる。
 「いてえようあんちゃん、はなぢ、はなぢがでたあー」
 「かわいそうに、仇はあんちゃんがとってやる」
 顔面を鼻血の朱に染めたマオが半泣きで俺を指差す。なぐさめるように弟の肩を叩いたユエ兄貴がこっちにやってくる。頬が熱く疼く。口の中も切れてるみたいだ、味噌汁を飲んだら染みるかもしれない。胸焼けするような血の味に気分が悪くなって唾を吐けば陰惨な赤色に染まっていた。
 ぐいと顎を拭い、剣呑な顔を並べたユエとマオ、残り二人のガキを睨みつける。
 『拒絶(チュィチュエ)』
 てめえらのくだらねえ誘いなんかお断りだ。
 こめかみの血管が怒りに熱く脈打ち、外気に晒された頬が熱をもって疼く。口を動かすたび顔が吊るような感覚に頬を庇えば、手で包んだ全体が真っ赤に腫れていた。
 たいしたことない。お袋の平手打ちのが百倍痛くておっかなかった。
 ゆっくりと頬から外した手をそのまま体の脇におろす。と見せかけて正面に掲げ、垂直に中指を突き立てる。
 「てめえらと飯食うのなんかこっちから願い下げだ、ただでさえまずい飯がもっとまずくなる。哀れな半々を哀れんでくれなくても結構だ、俺はそれなりにたのしくやってる」
 そこで一呼吸おき、レイジの顔を思い浮かべる。
 「俺のダチは俺が決める、半々には半々のプライドがある。見損なうなよ残虐兄弟」
 口角をつりあげ、どうにかこうにか宣戦布告の笑みを浮かべる。頬の痛みを堪えてると見ぬかれなけりゃいいのだが。下品なポーズで啖呵を切れば、たがいに特徴のないユエとマオの顔が怒気に歪む。
 「あんちゃん、こいつ生意気だ。クソ淫売のクソ腹から生まれたクソ半々のくせによ」
 「ああ、生意気だ。俺たち残虐兄弟に盾突いたやつがどうなるか体に叩き込んでやるか」
 陰湿な糸目の奥、残虐に瞳を輝かせたユエとマオが恐怖を煽るようにゆっくりと近付いてくる。両側から挟みこまれたら逃げられない、まだ距離があいてるうちに逃げ出すべきだ。そう判断して踵を返せば、残り二人のガキがすかさず両手を広げて逃げ道を阻む。
 進退極まった背中が壁に激突、頭上に覆い被さる影に視界が薄暗く翳り、そして―……
 
 けたたましいベルが鳴り響いた。

 「!」
 はじかれたように目を開ける。よってたかって殴る蹴るされ最低腕一本はもってかれると観念したのに拍子抜けした。廊下の天井を仰いだユエが、お楽しみを取り上げられたガキの如く口惜しい顔になる。
 「ちっ、いいとこだったのに」
 邪険に舌打ちし、弟に顎をしゃくる。東京プリズンじゃ夕食前に点呼をとる規則がある。時間厳守の点呼に遅刻すりゃどこでなにをしてたかしつこく詮索された挙句罰を下される避けられない。へたすりゃ独居房行きだ。罰を承知でお楽しみを優先するほど残虐兄弟は馬鹿じゃなかったらしい。壁際に俺を残し、不承不承出ていきかけて振りかえる。
 「命拾いしたな」
 ユエが笑う。俺の悪運を呪う笑み。
 「三日の期限つきでレイジを説得するチャンスをくれてやる。もし三日後の試合までにレイジをリングから下ろせなかったら……わかってんだろうな」
 意味深に言葉を切り、足早に立ち去ったユエの意を汲んだマオが兄貴と見分けつかないツラで笑う。
 「俺たちまだ野郎で試したことねえんだ。東京プリズンじゃ珍しいだろ」
 その台詞がなにを意味するか察し、服で隠れた部分の肌が粟立つ。ご馳走にとびかかるケダモノみたいに舌なめずり、なめるような視線を体の隅々に這わされてぞっとする。
 彫刻刀で切りこみを入れたような目をさらに細め、能面みたいにのっぺりした笑顔を作ったマオがじっとこっちを見る。
 「お前が『一人目』になるんだよな?」
 能面めいた笑顔で念を押し、ガキを引き連れたマオが意気揚揚と去ってゆく。兄貴の背中を小走りに追いかけるマオを見送り、徒労の息を吐いて壁に凭れ掛かる。ベルはまだ鳴り止まない。俺も早く行かなければ看守の大目玉をくらっちまう、なのに足が動かない。
 今のことはレイジに黙っとこう。
 レイジには目先の試合だけに集中してほしい、余計なことを耳に入れて煩わせたくない。レイジならきっと正々堂々実力勝負で凱とその子分を打ち負かすだろう。何もなかったようなフリすることくらいワケない、いつも通りしれっとした顔で振る舞ってりゃいい、ばれるわけがない。頬の腫れが気がかりだが適当な理由でっちあげてごまかしちまえばいい、と強引に自分を納得させて表廊下にでる。
 心配しなくてもレイジは必ず勝つ。
 数でごり押しの脅迫なんて汚い手を使う連中に、無敵の王様が負けるわけねえ。 
 「……だよな、レイジ」
 少し不安になり、声に出して呟く。頬に手をやればまだ熱が冷めてなくて、一歩踏み出すごとに不吉な予感は増すばかりで、俺は凱の子分どもを追い払った今ごろになって弱気になってる自分に気付いた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051220223519 | 編集

 ひどい顔だ。
 鏡に映る顔に眉をひそめる。頬の腫れはまだひかない、マオにしつこくぶたれたせいだ。あの野郎ひとがおとなしくしてたらつけあがりやがって、と心の中で毒づき蛇口を捻る。
 とりあえず冷やすのが先決だ。わざわざ怪我診てもらいに医務室に行くのは面倒くさい。それにこの程度の怪我東京プリズンじゃ怪我のうちに入らない、のこのこ医務室に行ったら白い目で見られる。
 廊下を歩いてて因縁ふっかけられるのには慣れっこだ。凱は俺のことを目の敵にしてるし、凱の子分だって俺にたびたびちょっかいかけてくる。
 廊下で足ひっかけられたり食堂で肘ぶつけらたりは日常茶飯事で、いくら俺が短気で喧嘩っ早いとはいえこの一年と半年でだいぶ自制心と忍耐力が培われた。
 凱のいやがらせをいちいち真に受けてちゃきりがない。実際中国系が大多数を占める東棟で、最大派閥のボスに逆らうのは命を捨てるも同然だ。しかも毎回大人数で絡んできやがって、堪忍袋の緒がぶちぎれた俺がとびかかっていこうが返り討ちにあうのは明らか。
 凱やその取り巻き連中に囲まれるたびに喧嘩してたら体が保たないのが現状だ。
 本音を言や、そりゃぶちのめしたい。凱やその取り巻き連中、ついさっき連続十回も平手打ち食らわせたマオとそれを笑いながら見ていたユエをおもいきりぶちのめしたい。そんな気分爽快な体験をしてみたいもんだが、それこそ自分から凱を敵に回すようなもんだ。
 いちばん賢いのは無視、無視、とにかく無視あるのみ。
 「………なっさけねえ」
 じっと鏡を凝視し、頬が真っ赤に腫れた間抜けヅラに苦く呟く。どんなにそれらしい御託を並べようが負け犬の遠吠えでただの強がりにしか聞こえないのはやっぱり凱が怖いからだ。タジマに対して感じるのとはまた別の恐怖と脅威。嫌われるのも殴られるのも慣れてる、東京プリズンに来る前だって俺を取り巻く境遇に変化はなかった。池袋のチームにいたころだって俺はのけ者だったし、もっと過去に遡れば近所のガキどもの遊びに混ぜてもらえなかった記憶がある。

 『こっちくるなよ半半』
 『母ちゃんが言ってたぜ、おまえの母ちゃんはインバイだって』
 『父ちゃんは中国人で、お前と母ちゃんおいて出てちまったろくでもないオトコだって』
 『中国人は中国人と遊べよ』
 『台湾人の陣地に入ってくるなよなー』 

 台湾人でもあり、中国人でもあり、そのどちらでもない俺にとってはどこも針のむしろだった。ガキの頃は石投げられてはやしたてられたらすぐカッとして殴りかかってたけど、殴られたら殴り返し蹴られたら蹴り返し、最後は決まってボロボロになるのをくりかえしてるうちにだんだん阿呆らしくなってきた。
 上等だ、くだらない連中のご機嫌とりしてお情けで仲間にいれもらうくらいなら潔くひとりを選ぶ。
 だいたい俺は一緒に遊ぶダチいなくてべそべそ泣くようなしみったれた感傷は持ち合わせちゃない。理不尽さに腹は立つが、まあこんなもんだろうとガキの時分からなげやりになってた。
 現状凱にびびってると認めるのは癪だが、事実なんだから仕方ない。
 レイジは凱より強く、凱は俺より強い。東京プリズンではなにより「強さ」が物を言う。強けりゃ他を圧倒できる、強ければ生き残れる、強ければ皆の尊敬と畏怖を集める。弱者は絶対に強者に逆らえず、強者には弱者を虐げる権利が与えられてる。ここだけの話、凱や凱の取り巻き連中にいやがらせされるたび想像の中で鬱憤を晴らしてきた。我ながら消極的なストレス発散法だとおもうが、頭の中で考えてることを実践したら俺は確実に殺される。顔の形がわからなくなるまで殴る蹴るされ唾と痰を吐きかけられ、「あばよ半半」と凱に嘲笑されるに決まってる。
 「……ぶん殴りてーなあ、おもいっっっきり」
 正直な願望を口にし、水にぬらした手を頬にあてがう。ひんやりして気持ちいい。
 あの凱を、東棟最大の中国系派閥のボスで食堂の中央席を我が物顔で陣取って威張り散らしてる猿山のボスを子分三百人の眼前で殴り飛ばしてやったらスカッとするだろうに。できもしない想像を膨らませて偽りの爽快感に酔ってるさなか、背後で扉が開く音で現実に引き戻される。
 慌てて蛇口を締め、そそくさと手を下ろす。鏡にレイジが映ってた。自由時間を利用して図書室に行ってきたらしく、小脇に本を抱えている。
 「ったく、ヨンイルのやろう頭くるぜ!」
 憤然と歩み入ったレイジの背後で扉が閉じる。自分のベッドに腰を下ろし、傍らに本を投げて不満をぶちまける。
 「なんで俺が読んでる漫画の結末ばらすんだよ、ジョーが真っ白に燃え尽きるなんて序盤でバラすなよ!なんだよ力石死ぬってそんなのアリかよ、あーもうマジで腹立つ!!図書室で目につく所にネタバレ厳禁の貼り紙してネタバレ一回につき一週間図書室出入り禁止の罰とか……」
 「大人げねえ」
 察するに、俺とおなじ被害にあったんだろう。言ってることにゃ同感だが、東京プリズン最強と恐れられる東棟の王様が「俺のジョーを返せ、力石を返せ!」と駄々こねるガキみたいに喚いてるのはかなりみっともない。王様の威厳大暴落だ……まあ最初からそんなもんなかったという説もあるが。
 ないもんが落ちようないか、とひとり勝手に納得して自分のベッドに取って返せば背中に視線を感じる。なんだと思って振り向けばベッドにひっくり返ったレイジが何か言いたげにじっとこっちを見てた。 
 「なんだよ」
 じろじろ見られるのは落ち着かない。言いたいことあんならはっきり言いやがれ、野郎同士目と目で通じ合っても気色悪いだけだ。喧嘩腰で睨みつければ、反動をつけて起きあがったレイジがすたすたとこっちにやってくる。
 ちょうど俺の正面にしゃがみこんだレイジが上目遣いに表情を探ってくる。やばい。レイジに覗きこまれるのを避けて意識的に顔を背ければ、俺が顔をそらした方角に素早く回りこむ。
 気配も感じさせずに移動するなんてゴキブリみたいなやつだ。
 「やっぱり」
 心配そうに顔を曇らせ、レイジが呟く。
 「飯食ってるとき、ずっとそっぽむいてたから『俺なんかやったかな』ってひやひやしてたけど……どうしたんだよその顔」
 舌打ち。気付かれちまったか。
 俺に関することだけ察しが良いレイジをごまかし通すのが無理な話だったのだ。食事中ずっとそっぽ向いてた努力がこれで水の泡だ。自分じゃそれなりに上手くいったと満足してた芝居をはなから見ぬかれてたばつの悪さに不機嫌に黙りこくれば、表情に険を漂わせたレイジがずいと身を乗り出してくる。
 「言えよ」
 吐息のかかる距離にレイジの顔があるのが鬱陶しくて、手で払いながら言い訳する。
 「べつに、いつものことだよ。ちょっとそのへん歩いてたら凱の子分にとっつかまって何発か食らったんだ。騒ぐほどの怪我じゃねえ、冷やしときゃ治る」
 嘘はついてない。まあ、だいぶ省略してるが。残虐兄弟に脅されたことは伏せて簡単に説明すれば、表情が漂白されたレイジの顔に薄らと笑みが漂う。
 背筋がぞっとするような酷薄な笑み。
 「そっか、じゃあ殺してくる」
 「は?」
 聞き違いで片付けたかった。だがレイジの目はひどく真剣で、口元は笑ってるのに目が笑ってない笑顔に壮絶な違和感を感じる。
 「前に言ったよな?俺の目のつかないところでお前が痛めつけられるぶんには手だしできねえしどうしようもねって。前言撤回。俺の目のつかないところで殴られて帰ってきたお前が顔腫らしてるの放っとけるか、たとえるならそう、俺がたのしみにとっといた最後の一本のタバコ横取りされたようですっげえ不愉快」
 「どんなたとえだよ。てか俺タバコかよ、一緒にいんの煙たいのかよ」
 「バカちげーよ、理解力ねえな。タバコってのは最高の誉め言葉だよ、吸えば吸うほど癖になってやめられない手放せない……」
 「吸われたことなんかねえよ!変な想像させんな、鳥肌たっちまったじゃねえか!」
 「いや吸ったことあるよ。おまえがぐっすり寝てて気付かなかっただけでさ、ほら、こないだ気付かなかった?目が覚めたら首筋にキスマークが……うおっと」
 「!!この……っ、」
 おもいきり心当たりがある。どうりで寝苦しかったわけだ、朝起きて鏡を見れば首筋がちょっと赤くなってて、その時はとくに不自然に思わず蚊に食われたかと流したのに……いや、気付け俺。今は冬、いくら四季が関係ない砂漠でも蚊がいるわきゃない。
 寝こみ襲われて気付かないなんてさすがに鈍感すぎる。せめて首の痣見た時点でなにされたか気付けよ、と数日前の俺を罵る。
 頭に血が上ってレイジを殴り飛ばそうとしたが、こぶしの軌道を読んだが如く余裕でかわされてしまう。こぶしがはでに空振りした反動でバランスを崩す。ベッドから半分ほど腰がずり落ちたところですかさずにレイジに抱きとめられる。
 何か根本的に違う、納得できねえ。レイジがよけたせいでひっくり返り、レイジに助けられる理不尽が。
 「俺が知らないところでお前がヤられたら仕方ねえって、あれ嘘。お前の顔傷つけたやつ許せるか、一列に並ばせてお尻ぺんぺんしてこなきゃ気がすまねえ。あーもうマジで腹が立つ、なんで俺の許可なく怪我して帰ってくんだよお前は!?」
 言いながら興奮してきたらしく、苛立たしげに喚き散らすレイジはお気に入りのおもちゃを横取りされて頭にきてるガキみたいだ。しかも手元に戻ってきたおもちゃには傷がついてるときた。自分が知らないところで俺が怪我したのがよっぽど気に入らないらしく憤懣をぶちまける。
 「いいか、命令だ。俺の許可なく顔に傷つけるんじゃねえ」
 「ふざけんな、お前の命令なんか聞くか。だいたい顔に怪我したからって嫁入り前の女じゃあるまいし騒ぐほどのもんかよ、おまえくらいキレイな顔してりゃ別かもしんねーけど」
 「おまえも可愛いよ!!」
 逆ギレかよ。しかも男が男に「可愛い」とかしょっぱすぎな状況だなおい。
 「だいたい顔に怪我なんかしたらキスするとき真っ先に目にとびこんでくるじゃん、いや最悪『今口の中切れててキスが染みる』とか拒否られるかもしんねーじゃん!口の中切れてるから舌突っ込むな唾液飲ませるなで俺はいつまでたってもおまえとキスできねっ、」
 「キスキスキスキスうるせーよ、今までさんざん女とやってきたんだからいいじゃんか羨ましい!!俺なんかメイファとやったのが最初で最後でこのまま東京プリズン出れなかったら女の唇の感触忘れて最後に見た女の裸も想像できなくなってヌこうにもヌけなくなるんだぜ!?メイファ抱いた感触右手におもいだして励もうにももう一年半もむかしだし女の裸とかアソコとか毛の生え具合とか忘れちまっ……」
 まてまてまてまて落ち着け俺、ヌこうにもヌけないとか今そんなことどうでもいい、論点がずれてるだろ。そのうち頭が混乱して自分がなに言ってんだかわからなくなる。羞恥に赤面し、とてつもない自己嫌悪に襲われて頭を抱え込めばふと頭上に影がさす。
 おもむろに立ち上がったレイジが、顔の皮膚と一体化した笑みを浮かべ、口を開く。
 「殴ったやつ教えろよ。王様がお仕置きしてやる」
 おだやかに諭すような声音とは裏腹に、笑顔の仮面の奥に混沌と渦巻く狂気と殺意。口調はやさしいのに有無を言わせぬ強制力を秘めた言葉ひとつひとつが暗示のように作用して内耳に響く。
 
 『東京プリズンで生き残るにゃ王様にすりよるのがいちばんだ』
 『いじめられりゃ王様が仇とってくれる』

 二重の哄笑が内耳で渦巻き、悪魔の誘惑を突っぱねようとはげしくかぶりを振る。
 腰に手を置いた尊大なポーズで立ってるあいだもレイジは寛大に微笑んでいた。凱なんか到底及ばない格の違いと自信とが内から滲み出す笑みに、俺の胸に反発が湧き上がる。
 「―余計なことすんな」
 ベッドを軋ませ、荒荒しく立ちあがる。手を伸ばせば届く距離にいたレイジの胸ぐらを掴み、自分の方へと引き寄せる。レイジは抵抗することなく俺にされるがままになっていた。余裕の表れだろうか、気に食わねえ。胸に燻る反感が見せた錯覚かもしれないが、レイジの笑顔には俺を無性に苛立たせるざらりとした不快感が見え隠れするのだ。
 胸ぐらを掴む手に力をこめ、まっすぐにレイジの目を覗きこむ。
 「自分のケツは自分で拭くのが俺の流儀だ、他人にケツ拭かせて『ご苦労だった』言えるようになったら人間おしまいだ。弱くて腰抜けの俺の代わりに仇とってくれてありがとうなんて死んでも言うか、関係ないやつがしゃしゃりでてくんな。殴られて怪我したのはお前か?ちがう。口ん中切ったのは?ちがう、全部俺だ。痛いのも腹立てたのも仕返しするのも全部俺、俺じゃなきゃだめなんだよ」
 凱やその取り巻き連中だけどんだけ汚い手を使おうが知ったことか、レイジに泣きつくぐらいなら俺一人で仕返しにいってボコボコにされたほうがマシだ、まだ自分に誇れる。
 たしかに俺は弱い。レイジとも凱とも比較にならないくらい弱い。弱くて弱くて、なんで俺はこんなに弱いんだろうと自己嫌悪に押し潰されて眠れない夜もある。
 それなりに場数を踏んでそこそこ喧嘩が強くなっても東京プリズンにゃ上には上がいて「そこそこ」なんて自慢にもなりゃしない。大人数に囲まれて勝ち目がなくて、何を言われてもされても大人しくしてるのが利口だってわかっちゃいる。だから俺はぎりぎりまで耐える。頭を小突き回される屈辱に拳を握り締め、半半と侮蔑される恥辱に頬を染め、じっと俯いて唇をきつく噛み締めて俺を取り囲んだ連中に殴りかかりたい衝動を必死に押し殺してる。
 でも時々我慢がきかなくなって手を出しちまうこともあって、大抵相手は四・五人とかだからかなうわけなくて容赦なく殴る蹴るされる。
 正直言って、めちゃくちゃ悔しい。情けない。ボロ雑巾になってとぼとぼ廊下を引き返す途中、好奇の眼差しと嘲笑とにさらされてそのへんの囚人を手当たりかまわずぶん殴りたくなることもある。
 けど、俺に売られた喧嘩をレイジが横から掠め取るのは反則だ。
 売られた喧嘩を転売するような卑怯な真似はしたくない、絶対に。あと何ヶ月何年かかるかわからないがもっと強くなって力をつけて、凱の取り巻き連中が何人何十人かかってこようが鼻歌まじりに返り討ちにしてやる。幸か不幸か時間だけはたっぷりある。
 そしていつかいつの日か、凱のクソ憎たらしいツラに渾身の一発をお見舞いしてやる。

 「凱を倒すのは俺だ。王様は虫食いベッドの王座にふんぞりかえってな」 
 
 乱暴に胸ぐらを突き放す。俯き加減の顔に視線を感じる。お節介な申し出を蹴られて拗ねたのだろうか、俺に背中を翻したレイジが洗面台へと歩いてゆく。囚人服の背中から視線をひっぺがし、所在なくベッドに腰を下ろす。謝るつもりはない、俺は悪くない、思ったことを言ったまでだ。だいたい押し付けがましいんだよあいつ、頼んでもないのにかってに気を利かせてしゃしゃりでて……少しは懲りろ。
 言い訳がましく心の中で呟けば、小気味よく蛇口を捻る音と水が流れる音が聞こえてくる。蛇口が締まる。長い足を交互に繰り出してこっちに戻ってきたレイジが唐突にしゃがみこみ、俺の目の位置に顔を持ってくる。
 頬がひやりとした。
 「!つめて、」
 ひんやりと心地よい手が頬を包んでる。手の向こうにはレイジがいた。俺の頬を冷やすためにわざわざ手をぬらしてきたのだと、その時に漸く気付いた。いつもなら「さわるな」「気色悪い」と払いのけてるところなのに、褐色の手が触れた瞬間に頬の熱と一緒に抵抗の意志も消えていった。
 払うに払えず動くに動けず、仕方なくベッドに腰掛け、床に片膝ついたレイジの顔を覗きこむ。伏し目がちに顔を俯け、長く優雅な睫毛の影を頬に落としたレイジは俺が知らない男のようだ。
 廃墟の迷子のように寂しげで、途方に暮れた眼差し。
 「ロン、初めて会ったとき俺に言われた言葉覚えてる?」
 「きまってんだろ」
 また脈絡なくずいぶん古い話を持ち出してくる。もう一年と半年前になるか、東京プリズンに来た初日にこの房に案内されレイジと引き合わされたときのことは鮮明に覚えてる。初対面の衝撃が強すぎたのだ。耳にはピアスがじゃらじゃら、上半身は裸でベッドに寝転がってるときちゃ新入りがびびるのも当たり前だ。
 ベッドに寝転がったレイジがつまらなそうに俺を見て、また本へと顔を戻しがてら言った台詞を思い出す。
 
 『なんで怒ってんの?』

 「……つか初対面の挨拶がそれってどうなんだよ、失礼すぎだろ」
 「バカだなおまえ、初対面の人間に『はじめまして』『こんにちは』なんてお行儀よく挨拶するやつ東京プリズンにいるわきゃねえだろ。で、お前が返した言葉覚えてるか」
 俺の頬に手をあてたまま、口元に笑みを上らせてレイジが言う。これもすぐ思い出した。
 「『地顔だ』」
 「『もったいねえ、笑えばかわいいのに』」
 指に熱が伝わり、レイジの手全体がぬるくなる。気のせいか頬の腫れがひいてきたようだ。それでもレイジは俺の頬を抱いた手を退けず、一年と半年前とおなじ台詞を睦言の甘さでささやく。
 今振りかえれば初対面の男にむかって「かわいい」とか頭に蛆がわいてるとしか思えないイカレ具合だ。入所初日で、ブラックワークの存在もなにも知らなかった新入りの俺は目の前にいるのが東京プリズン最強の男だとは露知らず、「からかわれてる」とカチンときて敵意むきだしでガンをとばした。
 レイジもおなじ光景、おなじやりとりを回想してるらしい。
 何がそんなに可笑しいのか、くく、と喉を鳴らして笑い声をもらす。ふたたび正面を向いた顔には、俺が今まで見た中でいちばん優しい笑み。
 いとおしむような懐かしむような深い眼差し。

 「『楽しくもないのに笑ってたら、本当に楽しいとき笑えなくなるだろ』」
 
 楽しくもないのに笑えるか。
 俺はそう言いたかったのだ。俺はあの時人生最悪の気分で、手榴弾でガキどもを殺して懲役十八年を言い渡されて東京プリズンに送られて、生きてここをでれるかわからなくておまけに案内された房には笑顔が胸糞悪い上半身裸の変態がいてもうどうにでもなれとヤケになってたのだ。
 だから言ったんだ。ふてくされた態度でそっぽをむいて、あたりまえのことを言わせるなと開き直って。
 その瞬間。鉄壁の笑顔が崩れ、レイジの目がちょっと驚いたように見開かれ、あざやかな表情の変化に一瞬目を奪われた。俺の言葉のどこに驚いたのかわからないが、俺が何の気なしに発した言葉はレイジの何かに触れたのだ。
 たぶん、レイジ自身でさえ気付かなかった何かに。気付かないふりをしてた何かに。
 「……おまえ鈍いくせに時々ぎょっとするようなこと言うよな。そうだよな、普通そうだよな。楽しくもないのに笑える人間いないよな」
 くりかえす独白から底知れぬ悲哀を汲んだのは感傷か?おそろしく不安定かつ物騒なものを抱えこんだ躁気味の口調が変に心をざわつかせ、レイジの笑顔が微妙に変化してゆく。どうしても泣けないから仕方なく笑うような諦観の滲んだ笑顔へ、これしか方法を知らないとでもいうふうな未熟な笑顔へ。
 「おまえにそう言われて、『ああ、こいつなら』って思ったんだよ」
 「なんだよ?」
 手をどかすのも忘れ、身を乗り出すように訊ねる。俺はバカだから今いちわからないが、レイジは今、なにかとても大切なことを言ってる気がする。なにかとても大切なことを俺に聞いてもらいたがってる気がするのだ。
 なら、ちゃんと聞いてやらなきゃバチがあたる。
 まっすぐにレイジを見据え、俺は逃げないから最後までちゃんと言えと無言の圧力をかける。
 かすかな、本当にかすかな指の震えが頬に伝わり、レイジの笑顔が何とも形容しがたい崩れ方をした。

 「こいつと一緒にいりゃ、いつかおもいきり笑えるんじゃないかって」

 『Because I laugh, do not kill me』 
  笑うから殺さないでください。

 ペア戦開幕前夜、悪夢にうなされたレイジが呟いた言葉。
 レイジは一体だれに、笑うから殺さないでと哀願したのだろう。
 頼むからおねがいだから笑うから殺さないでと、死に物狂いに許しを乞うたのだろう。
 「………レイジ、」
 「……………惚れた?」 
 あ?
 レイジが勢い良く顔を上げる。儚く気弱な笑顔から一転、白い歯を覗かせて悪戯に笑う。
 「正直に言えよ、今ちょっとドキドキしたろ?俺に口説かれて雰囲気に流されて『レイジ落ちこんでるみたいだし慰めついでに抱かれてやってもいいかなどうせ百人抜き達成したら抱かれるんだし遅かれ早いかの違いだけだ、よし抱かせてやろう』ってぐらっときたろ!?やった狙い成功、伏し目効果ばっちり!おまえ単純すぎ、しょげたフリして同情引きゃすぐひっかか……、」
 レイジの顔面におもいきり枕をぶつける。
 顔面に枕の直撃を受け、後ろ向きに倒れたレイジの頭上に素早く回りこんで枕の上から蹴りを入れる。
 「俺の貞操はそんな安くねえよ!!」
 頭きた、ちょっとでもほだされかけた俺がバカだった。レイジの言うこと真に受けてマジで心配して恥かいて……くそっ、そんなにおちょくるのが楽しいかよこの性悪が!頬にはまだ指の感触とぬくもりが残ってるのに、さっきまで心地よかったそれが途端に忌々しくなる。
 枕をどかし、床に手をついて上体を起こしたレイジには言葉とは裏腹に反省の色などかけらもない。
 なにがそんなに可笑しいのかさっぱりわからないが、下品な大口あけて涙がでるまで笑い転げる姿は道化じみて滑稽で。
 しなくてもいい無理をしてるみたいで、胸が抉られた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051219223637 | 編集

 「レイジと和解しろ」
 「断る」
 サムライは頑固だ。
 夕食前、図書室に行く途中で待ち伏せしていた凱の子分―ヤン―に、「三日後の試合にサムライをだすな」と脅迫された。
 サムライは卑劣な脅しに屈するような男ではない。もしリング外で大人数で取り囲んで「辞退しろ」と暴力的手段に訴えたとしても撃退されるのは明らか。それならば現在最もサムライの身近にいて試合に向かわせる原動力となる僕、ひいてはサムライがレイジと組んで100人抜きを目指す動機となった僕を脅迫するのが手っ取り早いと踏んだのだろうが、それは大きな誤算だった。
 たしかに僕は腕力ではヤンにかなわない、しかしプライドの高さでは誰にも負けてないと断言できる。凱に命じられれば犬の真似もした、しかしプライドを捨てたわけじゃない。犬の真似をして眼鏡をくわえて持ってこようが嘲笑と罵声を浴びようが僕のプライドの芯は揺るぎない。凱とその取り巻きたちに侮られようが笑われようが、相手を同じ知能レベルの人間と思わなければ済むことだ。
 狂犬病にかかったようにうるさく吠えたてる犬の集団に、理性と思考力を兼ねた人間がとびこんでゆくのは愚の骨頂だ。正直に言おう、僕は凱たちを見下している。彼らのことを心から軽蔑してる。語彙欠乏で会話の成立しない低脳どもと口論する愚は避けたいし、はげしく抵抗して体力を消耗するのも馬鹿らしい。
 僕は彼らのことをアメーバ並の知性の持ち主だと断じてる。知能と品性で自分に劣る連中に軽蔑されても痛くも痒くもないどころか、無知で身のほど知らずの彼らに対し憐憫の情さえおぼえる。
 以前の僕なら侮蔑の念しか抱かなかったのに、この半年でずいぶんと寛容になったものだ。
 そして現在の僕に少なからぬ影響を与えたその男は、房の床に正座し、文鎮を置いた半紙をひどく真剣な顔で睨み付け、僕など完全に眼中にない集中力で日課の写経に臨んでいた。
 空気が殺気立ってると錯覚させるほどサムライは真剣だ。傍らに般若心経を広げ、時折手本に目をやりつつ、達筆な筆を振るってる。
 字は性格を表すと言う。はねととめは非の打ち所なく完璧、一字一句美しく均整がとれた墨痕麗しい筆跡は日本人の鑑だ。
 「レイジと和解しろ」「断る」「和解しろ」「断る」の押し問答に疲れ、小休止の区切りで話題を変える。
 「帯刀家では習字も必須課目か。いまどき珍しい。君の父親の教育方針は徹底してるな」
 「……書道は精神の鍛錬になるからな。手元に集中すれば雑念に惑わされることもない」
 サムライがどういう環境で育ったかはよく知らない。故に想像の域をでないが、父子の関係は良好とは言い難かったろう。
 以前下水道でリョウに聞いたが、サムライの父親はまだ三歳の息子に真剣を握らせて庭に迷いこんできた野犬を殺させるような男だった。剣士として、道場主として、帯刀家当主としての評価は保留するが人格形成途上の幼子にとって良い父親でなかったのは確かだ。息子に愛情をもって接することがあったかどうかも疑問だ。
 サムライの母親は既に他界してる。物心ついた時分から厳格な父親に剣を握らされ、庭に迷い込んだ小動物を斬るのをためらえば容赦なく井戸端までひきずられ真冬でも関係なく冷水を浴びせられ、周囲の使用人は見て見ぬふり。母親の記憶はなく、父親には毎日折檻に近い仕打ちを受け、周囲の大人の庇護が一切期待できない環境で育ったサムライの心の癒しは苗だけだった。甘えが許されない環境で、「ただ強くあれ」と叱咤され剣を極めてきたサムライにとって、無条件に自分を愛し慕ってくれる苗の存在がどれほど安息をもたらしたか……
 そこである可能性に思い当たり、眉間に皺を寄せ、気難しい顔で半紙に目を落とすサムライに声をかける。
 「目が見えない苗が手紙を書けたのは何故だ?苗に字を教えたのは君じゃないのか」
 『なえ』の名にサムライが反応する。
 なにげなく発した疑問が、サムライの古傷を抉ったのではないかと口にしてから後悔する。まったく迂闊だった、苗はサムライと仲を裂かれて自殺してるのに……
 「……よくわかったな」
 サムライの手がふたたび動き出し、半紙の上を流麗に滑ってゆく。サムライの顔を見る。表情の欠落した能面みたいな顔からは何の感情も汲み取れず、ただ猛禽めいて鋭利な双眸だけが、霧にかすむ千里彼方を仰ぎ見るような追憶の光を帯びていた。 
 「苗に字を教えたのは俺だ。苗の手を握り、筆を持たせ、いろはにほへとから覚えさせた。いつか目が完全に見えなくなってもいいように、まだ薄らとものが見えてるうちに字を教えてくれと、苗の方から申し出てきた。子供の頃の話だ」
 「目が見えなくても手が覚えていれば字は書ける、か。なるほどな」
 どうりで手紙がひらがなだらけのはずだ。画数が多く難しい漢字は手の感覚をたよりに書けなかったのだろう。
 サムライの本名、「貢」以外は。
 サムライは物言わず半紙を見下ろしていた。般若心経を途中まで写した紙だ。無骨に骨ばった手に筆を預け、刀を握ろうにも手に余った幼い頃、苗と一緒に半紙に向き合った記憶をよみがえらせているのだろうか。と、僕が見ている前でサムライの手がさらさら動き出し、息を吸いこんだ胸郭が上下する。
 風に煽られた木の葉のように、岩の狭間をすり抜ける魚のように。
 筆先が泳ぐごとに半紙の余白に綴られてゆくのは、風雅な趣き薫る達筆に崩した字。
 サムライの唇が薄く開き、不思議な抑揚のある声を発する。

 「色は匂へど 散りぬるを
  我が世誰そ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず」

 僕は呆けたようにサムライの横顔に見入り、サムライの声に聞き入っていた。
 平安時代末期に流行した涅槃経の概念、「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われる内容を朗々と吟じたサムライが、僕の凝視に恥じ入るように口を閉ざし、伏し目がちに俯く。
 「……苗と一緒によく詠じた。苗は綺麗な声をしていた」
 柄にもないことをした、といわんばかりに再び身を入れて写経に取り組み始めたサムライを見て、僕は僕の知らない「苗」という女性をあざやかに思い浮かべる。サムライが愛した女性だ。きっとサムライに相応しい、優しく美しい心の持ち主だったのだろう。髪は黒髪、服は着物だろうか。
 まだ幼いサムライがおなじように幼い苗の手を握り、「いろはにほへと」を半紙に書きつけてる光景を思い浮かべる。
 重なる手。真剣なふたり。微笑ましい光景。
 甲高い子供の声が拙く一生懸命に唱和する幻聴が聞こえ、こちらに向けられたサムライの背中が一瞬にして時を遡った。 
 サムライの背中が小さく見える日がくるなんて思ってもみなかった。
 「香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう」
 何か言わなければ、と義務感に急きたてられて注釈を挟む。このままサムライが遠くへ行ってしまいそうで、僕が置いてかれそうで怖くなったのだ。ゆるやかにこちらを向いたサムライが目で続きを促し、ベッドに腰掛けた僕は抑揚なく、つまらない感傷を排した声で続ける。 
 「この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて悟りの世界に至ればもはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である……以上、現代語訳だ」 
 淡々と言い終えると同時に、耳が痛くなるような静寂があたりを支配する。
 サムライは何とも形容しがたい眼差しで半紙を見つめていたが、その双眸にかすかな波紋が生じ、悲哀と苦渋とが綯い交ぜになった感情が浮かび上がる。  

 「苗は芽吹かずに死んだ。咲き誇る前に、花になる前に死んでしまった」

 『芽吹かない苗』
 いつだったか、サムライに宛てた手紙に記されていた一文を思い出す。芽吹かない苗。苗の遺書。
 首を吊った時、苗はまだサムライとそう変わらない年齢だった。サムライへの恋募を胸に秘めた十代の少女だった。 
 当主の手により無理矢理仲を裂かれたとはいえ、前途ある若い女性があてつけがましく首を吊るなど発作的な自殺で片付けるにはあまりに短絡な振る舞いではなかろうか?
 それとも苗の死には、まだ何かほかの……

 瞬き一つ後にはサムライはいつもの無表情に戻っていた。
 能面を被せたみたいに表情を封じたサムライにやりきれないものを覚え、ベッドから腰を上げ、衝動的に彼の手から筆を奪い取る。突然筆をひったくられ、「なにをする」と眉をひそめたサムライを無視。床に膝をつき、硯をこちら側へと引き寄せ、たっぷり墨汁に浸した筆を半紙の余白に走らせる。
 「君のような凡人に可能なら天才にも可能なはずだ」
 そうだ、サムライにできることが僕にできないはずがない。サムライがすらすら書き綴った写経を手本に、見よう見真似で般若心経の冒頭部分を書き写す。
 完成だ。
 憮然とサムライに筆を突き返す。僕が抜き出した部分をちらりと一瞥、あきれたようにサムライが呟く。
 「下手だ」
 「………独創的かつ前衛的な出来映えと言え」
 誤解するな、僕はとりたてて字が汚いわけじゃない。手書きの文字は綺麗な部類に入る。だが筆となれば事情は異なる、何せ筆を握るのは今回が生まれて初めてなのだ。多少字が歪んで墨汁が滲みだしてても仕方ないじゃないか、と心の中で弁解しつつ、顔に跳ねた漆黒の飛沫を拭う。
 そんな僕の様子を眺めていたサムライの顔がふと緩み、口元に柔和な微笑が浮かぶ。
 しかしその笑みには、どこか拭い難い悲哀と諦観とが付き纏っていた。  
 今だ。
 すっと背筋を伸ばし、サムライと向き合う形で正座する。サムライを説得するなら今しかない。目を閉じ、心を落ち着かせ、また目を開く。
 表情の薄いサムライを見つめ、言う。
 「もう一度レイジと話し合いを持て。つまらない喧嘩などしてる場合じゃないだろう、いくら捻挫が完治して包帯がとれたとはいえこれからますます敵は強くなる。レイジと協力しなければ100人抜きなど不可能だ、絶対に」
 今日の一件で凱たちがよからぬことを企んでるのが判明した。凱はレイジとサムライを倒すためなら手段を選ばない、どんな卑劣な罠を仕掛けてくるかわからない。サムライとレイジの連携が上手くいって初めて100人抜き達成の可能性がでてくるというのに、今のままでは三日後の試合に勝てるかも不明だ。
 かっきりとサムライを見据えてレイジとの話し合いを示唆すれば、サムライの眉間に深い皺が刻まれる。 
 「それは命令か?」
 「馬鹿だなきみは、頼んでるんだ」
 サムライが驚いたように目を見開く。
 サムライに頼みごとをするなんて屈辱だ、しかしこれしか方法がない。僕が頭を下げることでことが丸くおさまるならそうすべきだ、頭じゃわかってる、でも心が納得しない。くそっ、なんでサムライ如きに頭を下げなければならない?外にいた時だって他人に頭を下げた経験などないのに何故こんな屈辱的な真似をしなければならない?僕は天才だぞ、IQ180の知能指数の持ち主でサムライなんか足元にも及ばない優れた人間で……
 「頼む。レイジと仲直りしてくれ」
 くそっ、もうどうでもいい。なるようになれ。
 自分を殺して深々と頭を下げる。天才が頭を下げたんだ、これで断るような薄情な男なら綺麗さっぱり未練なく友人関係を解消してやる。屈辱に歯噛みして顔を伏せてると小さくため息が聞こえてくる。
 「………承知した」
 「!じゃあ、」
 反射的に顔を上げる。
 サムライは憮然とした面持ちで床に正座していた。いつのまにか筆を置き、体ごと僕の方に向き直っていた。
 「武士たる者、ひとの頼みを無碍にはできん。頭を下げられてはなおさらだ」
 自分は気が進まないが僕がどうしてもと言うなら仕方ない、と譲歩した口調に貴様何様だと反発がもたげてくるが、まあ大目に見よう。頑固一徹なサムライがレイジに歩み寄る姿勢を見せただけでも大進歩だ。
 ……しかしまだ最大の問題が残っている。
 肝心のレイジに歩み寄る気持ちがあるか否か、だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051218223753 | 編集

 三週目。
 ペア戦開始まであと一時間。
 
 凱の子分に脅迫されてから試合当日まで、僕はなにもせず指をくわえてたわけじゃない。
 思い出したくもない屈辱的な出来事、サムライに頭を下げてまで不承不承レイジとの話し合いを承諾させたはいいが肝心のレイジの説得は手に余る。正直僕はレイジが苦手だ。軽薄で尻軽で無節操で奔放で、およそ僕が最も軽蔑するタイプの人間だ。レイジの懐柔には僕は不適切、それよりはむしろレイジの最も身近にいて彼のことをよく知り抜いてるロンが適任だ。
 そう判断し、食堂でロンをつかまえて耳打ちしたのが昨日。ロンもサムライとレイジの関係悪化には気を揉んでいたらしく二つ返事で快諾してくれた。なら話は簡単だ、話し合いの場にレイジを誘導するのはロンに任せて僕はサムライを連れてくればいい。
 話し合いの場所に指定したのはレイジとサムライが喧嘩したあの廊下。
 天井に吊られた蛍光灯が廊下に古ぼけた明かりを落としている。コンクリートむきだしの灰色の壁に凭れ、サムライは目を閉じて腕を組んでいた。瞑想に耽るような面持ちで沈黙したサムライを少し離れた場所から眺める。壁に凭れるのは服の背中が汚れるから抵抗があった。レイジはまだ来ない。不安と苛立ちとを押し殺し、落ち着きなく眼鏡の弦に触れる。どうしたのだろう、まさかすっぽかしたのではあるまいな。僕はこうして約束通りサムライを連れてきた、しかし肝心のレイジが一向に現れないのでは話にならない。まったくロンはなにをしてるんだ、昨日食堂で会った時は「任せろ」と大口叩いてたじゃないか。「絶対連れてくる。大丈夫、レイジあれで単純だから」と自信ありげに断言してたじゃないか。
 ロンはレイジの説得に失敗したのではないか、やはり彼みたいな適当な人間にまかせるんじゃなかったと疑念と後悔が綯い交ぜになった複雑な感情にとらわれかけたとき。
 「待たせたな!」
 息せききって通路に駆け込んできたロンが、僕の顔を見て開口一番そう告げた。
 「遅かったじゃないか、なにをしてたんだ」
 「無茶いうな、レイジをなだめるのに手間食ったんだよ」
 膝に手を置き、全力疾走で乱れた呼吸を整えながらロンが弁解する。ロンの後ろから悠々と登場したのはレイジだ。なるほど、通路に現れたレイジを見れば説得に時間がかかったのも頷ける。ポケットに手を突っ込んだふてくされたポーズといい憮然とそっぽを向いた顔といい、無敵の王様というより拗ねた子供みたいだ。ちらりと僕の方を向いたレイジがポケットから片手を抜く。
 「よ、キーストア」
 僕より位置が近くて、当然視界に入ってるはずのサムライは無視だった。軽く片手を挙げて僕に挨拶したレイジが、サムライと目を合わせるのを避けてるのは一目瞭然。サムライなどまるでそこにいないかのように無関心に扱って良心の呵責も罪悪感もないらしい。対するサムライもサムライで、レイジがやってきても目を開けようともしない。まるでレイジの顔など見たくないと宣言するかのように憮然と黙り込み、堅苦しく腕を組んでいる。
 「おまえらなあ、いい加減にしろよ」
 最初に沈黙に耐えきれなくなったのはロンだった。おなじくらい頑固なサムライとレイジをほとほとあきれたように見比べ、ぶっきらぼうに顎をしゃくる。
 「あと一時間で試合始まっちまうんだぜ、とっとと握手して仲直りしちまえよ。いい年した男がいつまでもガキみたく拗ねてんじゃねーよ、大人げない」
 「大人げなくて結構。こんな胸糞悪い男と手を組むくらいなら焼けたトタン屋根の上で悪魔とダンスしたほうがマシだ」
 皮肉げな笑顔のレイジがポケットから手を抜こうともしない無礼な態度で吐き捨て、一気に雲行きが怪しくなる。不穏な気配が漂い始めた通路の中央、ロンの傍らに立ったレイジが先に謝罪を述べる気配はない。愚民を見下す暴君の如く傲慢な目つきに反発を覚え、無意識に一歩を踏み出した僕の背後で気配が動く。
 「同感だ」
 壁からゆっくりと背を起こし、腕組みをほどく。中間に僕を挟んでレイジと対峙し、目を開く。脂にぱさついた前髪の奥、近寄りがたく剣呑な印象の一重瞼の双眸には強靭な信念と拒絶の意志。
 「捻挫は完治した。お前の手など借りる必要はない。話は済んだ、行くぞ鍵屋崎」
 「ちょっと待て、かってに話を終了させるな!」  
 猛禽めいた双眸で眼光鋭くレイジを一瞥、包帯がとれた右手に木刀を掴んで背を翻したサムライを小走りに追いかける。サムライを制止しようと虚空に手を伸ばしかけ、
 「こっちの台詞だよ」
 憎憎しげな台詞に通路の半ばでサムライが立ち止まる。虚空に伸ばした手を引っ込め、振り向く。ロンを背に従えて廊下の真ん中に仁王立ちしたレイジがへらへら笑いながら続ける。
 「おまえが仲直りしたがってるって聞いていやいや出向いてきてやったのに何だよその態度は、かわいげねえ。王様がしたてにでりゃつけあがりやがって、調子のるのも大概にしろ」
 「だれがそんなことを言った?」
 サムライの目つきが険悪になり、ロンが気まずげにそっぽを向く。
 「……おまえの手など借りずともひとりで鍵屋崎を守る」
 今一度自身の決意を確かめるように目を閉じ、また開く。木刀の柄をしっかりと握り締め、毅然と顔を上げる。サムライの声には揺るぎない信念がこめられていて、どれほど語彙を搾って言葉を尽くしても彼を翻意させるのは不可能に思えた。
 頑なに説得を拒む横顔に胸かきたてられる。
 何故こうも頑なにレイジを拒絶する?何故こうも頑なにひとりで戦おうとする?
 サムライが強いことは知ってる、刀を握れば無敵なこともよく知ってる。だが一人で意固地に戦い続けるのはいくらなんでも無茶だ、このままではペア戦の本質を見失ってしまう。
 「僕の意志はどうなる?」
 これ以上傍観者の立場に徹するのに耐えきれず、サムライを詰る。
 「僕の意志は無視か。僕の意見は無視か。いったい何度おなじことを言わせればわかる、レイジと手を組まなければ100人抜きなど絶対に不可能だ。きみがいくら強くても人間なら体力に限界がある、交代せず全試合に出場するなど無茶だ」
 今度は右手の捻挫じゃすまないかもしれない。これからますます敵は強くなる、ひょっとしたら命に関わる重傷を負うかもしれない。サムライが怪我するのも死ぬのもいやだ、これ以上僕のせいで迷惑をかけたくない、傷ついてほしくない。
 彼を痛め付けたくない。
 気付いたら大股にサムライに詰め寄っていた。無言で壁際に立ち竦むサムライの眼前、俯き加減の顔は伸びた前髪に隠れてよく見えない。今彼がどんな表情を浮かべてるかは想像するしかない。叱責された子供のように悲痛な顔か、他人の意見などには惑わされない不敵な武士の面構えか……いや、おそらくは常とおなじ無表情だろう。
 こんなに言ってもまだわからないのか、ここまで言わなければわからないのか。
 やりきれない想いが募り、胸が痛くなる。決して届かない距離に手を伸ばし、決して聞こえない距離に声を届かせようとしてみても結局サムライの心の内に踏みこむのは不可能だ。サムライは決して自らの心の内に他人を踏みこませず弱みを見せようとしない。僕を庇って手首を痛めた時も「大丈夫だ」と額に汗を浮かべてやせ我慢して、僕を心配させないよう虚勢を張ってたじゃないか。
 彼が育った環境では「弱みを見せるのは恥だ」と徹底して叩きこまれたのだろう。
 だからサムライはひとりで耐えようとする、戦おうとする。それが武士として正しい姿だから、身に染みついた生き方だから。
 でも、
 「僕が君を頼ったように君がレイジを頼ってなにが悪いんだ!?」
 通路の壁と天井に絶叫が反響した。
 前髪に隠れたサムライの顔をまっすぐ睨み付ける。君はあの時言ったじゃないか。二人分の体重に軋むベッドの上で、僕の上に覆い被さるようにして、熱い涙を滴らせて。頼むから自分を頼ってくれ、今頼ってくれなければ友人でいる資格がないと。じゃあ君はどうなんだ、本当は辛いくせにひとりで無理をして全部抱え込んで平気な顔をして……
 「何故君が他人を頼っちゃいけない道理がある?相互扶助の精神で社会は成立してる。これまでさんざん頼られてきたんだからもう十分だろう、そろそろ頼る側に回ったらどうだ」 
 何故気付かない、無理をしてる君を見るのがいちばん辛いと。
 本音と建前とに齟齬が生じ、矛盾の葛藤が胸裏を苛む。サムライは黙って僕の叱責に耐えていた。野犬に情けをかけて剣先が鈍り、井戸端までひきずられて冷水を浴びせ掛けられたときもこうしてただ耐えていたのだろう。不満ひとつ漏らさず弱音ひとつ吐かず、すべては自分の至らなさが原因だと己の未熟さを噛み締めて。
 「もしここに苗がいたら、」
 僕の言葉を聞いてるのかいないのか、無反応に顔を伏せたサムライを見てるうちに無性にやりきれなくなり、名伏しがたい衝動が突き上げてくる。苗、過去にサムライが愛した女性。いつもサムライの隣にいた女性、周囲の人間への甘えが禁じられた環境でただひとりサムライに優しく接してくれた女性。  

 僕の言葉はサムライに届かないのか?
 苗のようには、サムライの心を溶かすことができないのか?
 サムライの心の内に入れるのは結局のところ苗だけで、後にも先にもそれは変わらなくて、僕は永遠に部外者で。
 苗がそうしたようには、サムライを安心させることも助けることもできなくて。

 「……もしここに苗がいたら哀しむ。きみが無茶をして自分を痛め付けることを苗は望まない」
 無意味な仮定だ。苗はもういないのだから。
 だが言わずにはいられなかった、幼い頃からずっとサムライを見てきた苗なら僕とおなじように、いや、僕以上にサムライを心配したはずだ。苗なら頑なな心をときほぐすことができただろうか、もう無茶をしなくていいと、辛いときは無理せず人を頼ればいいと優しく教え諭すことができただろうか。
 生憎僕は苗ほど優しくない。だからこうして、血を吐くようにサムライを詰るしかない。
 沈黙の帳が落ちた通路で、ロンは固唾を飲み、レイジは醒めた目でこちらの様子を窺っていた。
 やがてサムライが緩慢な動作で顔を起こす。
 烏の濡れ羽色の前髪が揺れ、涼やかに額を流れ、その隙間から覗いたのは透徹した眼差し。
 「鍵屋崎。苗はもういないんだ」
 庭の桜はもう咲かない、とでもいうかのような淡々とした口ぶりだった。
 「俺が殺したも同然だ。苗を追い詰めたのは俺だ。俺とおなじ重荷を背負わせたから苗は……、」
 「……どういうことだ?」
 自分とおなじ重荷を負わせたとはどういう意味だ?困惑した僕に鋭い一瞥をくれ、サムライが歩き出す。地下停留場へと続く出入り口に歩を向けたサムライを追いかけた視界に長身が割って入る。
 「なるほどね。わかったよ」
 サムライのすぐ背後に歩み出たレイジがしたり顔で頷き、サムライが怪訝そうに振り向く。
 「なにがわかったのだ?」
 「単純なことさ」
 性悪な笑みを顔一杯に広げ、レイジが言う。

 「鍵屋崎は死んだ女の代わりだろ?」

 ………な、
 「何を言ってるんだ?」 
 理解できない。何故僕が苗の代わりなんだ?当惑した僕をよそに、廊下の真ん中でサムライと相対したレイジはにこやかな笑みを絶やさず続ける。
 「むかし惚れた女を守り通せなかったから今度こそ鍵屋崎を守り通すってか?ようやくわかったよ、なんでお前がそこまで一人で戦うことにこだわるのか。お前にとっちゃひとりで鍵屋崎を守り通せてこそ意味があるんだよな、自分が守り通せなかった女の代わりに今度こそ助けてやるって、そしたら昔の女も許してくれるんじゃねーかって。けっ、過去と現実混ぜるのもいい加減に……」
 渾身の拳はレイジの顔面に達する寸前に食いとめられた。
 素早く眼前に手を翳して拳を受けとめたレイジが、サムライの顔を見上げてにやりと笑う。
 「図星?」
 「………お前になにがわかる」
 唇から搾り出された声は、これがあの冷静沈着な男かと疑わせる瘴気に隈取られていた。
 乱れた前髪の隙間から覗くのは、憤怒と憎悪とが激しく燃え盛る坩堝の双眸。
 「偉そうに俺を語るな。踏みこんでくるな」
 「おっかねえなあ、目の色変えちまって。そんなに好きだったんだ?じゃあ残念だったな、好きな女をむざむざ死なせちまった自分の無力を死ぬほど呪ったろ。おなじ間違いはしたくないよなあ」
 「黙れ」
 レイジは黙らず、この上なく楽しそうな笑顔で続ける。
 膿んだ傷口を抉るのが楽しくて楽しくてしょうがないという暗い愉悦に酔った笑顔に、僕の中の何かが蠢く。
 「いつもかっこつけてるサムライにそんな過去があったとはね、王様の耳がロバの耳でも届かない秘密はあるってか。いつまでたっても過去の女ふっきれないなんて意外と情けねえなサムライも、まあ童貞捨てさせてもらった相手ならわかるけど死んだ女に操立てても仕方ないじゃん。もし鍵屋崎守り通して惚れた女死なせた罪償おうってんなら虫がよすぎ……、」
 「レイジ」
 「あ?」

 迂闊に振り向いたレイジの横っ面を、おもいきり殴りつける。
 
 レイジの足がもつれ、床に尻餅をつく。
 床に尻を落としたレイジがぽかんとして僕を見上げ、全員の視線が僕へと集中する。ロンの顔は驚きに強張り、サムライは目を見開いていた。胸の内側で沸騰する感情をおさえこむように目を閉じて深呼吸し、拳をおろす。
 「貴様には反吐がでる。行くぞサムライ、こんな男に謝る必要はない」
 膝を崩して床にうずくまったレイジが、茫然自失の体で腫れた頬を押さえ、傍らを足早に通りぬける僕を見送る。おもいきり殴ったせいで手がひりひりした。背後から不意を衝かなければレイジの顔面に拳を決めることは到底不可能だった。甲高い靴音を響かせて出入り口へと赴く途中、通路に取り残されたレイジが何か喚いてるのが聞こえてくる。
 「痛っ……おい待てよキーストア!ひとの顔おもいきり殴りやがって、男前が台無しになったらどう責任とってくれんだよ!?娑婆で俺の顔見る日を待ち望んでる世界中の女が泣くだろっ」
 くだらない。
 レイジの罵倒に背を向けて通路を出る。まだ腹立ちはおさまらない。どうしてもあれ以上レイジの暴言に我慢できなかった、サムライが唇を噛み締めて耐えていたからなおさら。苗のことをなにも知らないレイジに、苗とサムライの間にあったことを何も知らないレイジにしたり顔で口だしする権利などありはしない。サムライを侮辱するだけならまだしも、苗まで侮辱するのは許さない。それはたぶん僕自身を侮辱されるより恵を侮辱されるほうが何倍もつらいのとおなじことで、苗はサムライにとって決して汚したくない思い出、他人に土足で踏み込まれたくない聖域なのだ。     
 サムライと苗を笑いながら侮辱するような男に、こちらから頭を下げる義理などない。
 「……すまん」
 その声で我に返る。
 僕の傍らで、サムライが木刀を片手に悄然と立ち竦んでいた。
 「なぜ謝るんだ。自分に恥じることをしてないなら謝るんじゃない」
 眉をひそめてサムライを叱責し、眩い照明を上部に取り付けられ、着々と組み立てられつつあるリングを見つめる。
 大丈夫だ。
 レイジの協力が期待できなくてもサムライには僕がいる。戦力面では足しにならないが戦略面でこの天才的頭脳を存分に発揮すればサムライを補佐して試合を有利に進めることもできるはずだ。
 今からサムライの相棒は、この僕だ。
 「サムライ、君一人の力で今日の試合に勝ってレイジを見返してやれ。不可能を可能にするのが天才が天才たる所以だ、僕が加勢して負けるわけがない」
 そうだ、もっと早く気付くべきだった。サムライにはこの僕がついてるんだ、東京プリズン最高の頭脳の持ち主が背後に控えてるんだ。
 この鍵屋崎直が全幅の信頼を寄せる男が、リングでみじめに惨敗するわけがない。
 「しかと心得た」 
 視界中央、四方から強烈な照明を浴びて晧晧と輝くリングに目を細めたサムライが力強く首肯した。
 単身戦いに挑む決意を新たにした、孤高の武士の顔で。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051217223908 | 編集

 ペア戦開幕時刻が着々と近付いてくる。
 試合会場となる地下停留場にも続々と囚人が集まり出し、金属の檻を彷彿とさせる中央のリングを囲んでがやがやと騒いでいる。好奇心むきだしの顔をぐるりに並べ、互いにつつきあうように試合の勝敗を予想してる気楽な囚人たちをよそに僕は苛立ちを隠しきれない。
 レイジのことは見損なった。あんなくだらない男だとは思わなかった。
 今思えばレイジとサムライを和解させるために配慮した僕の行為そのものがおおいなる無駄だった。他人に頭を下げるなんて慣れないことをしてまでサムライを話し合いの場に連れてきたのに肝心のレイジが僕の努力を綺麗さっぱり無にしてくれた。
 東棟のトップであり連戦無敗のブラックワーク覇者、東京プリズン最強の称号を保持する人物があんな幼稚かつ短絡的かつ陰湿な人物だったとは……あんな男に頭を下げるサムライなど見たくない。レイジの方から謝罪を申し入れてくるまで無視してやろうじゃないか。
 大丈夫だ、レイジの助けなど借りずともサムライには僕がついてる。IQ180の天才的頭脳の持ち主、素晴らしい発想力と理論的な思考力を兼ね備えた完璧な人間、鍵屋崎直が。戦略面で僕が指示して勝利への道を示唆すればサムライが負けるわけがない。右手の捻挫が完治して包帯がとれた今のサムライが刀を持てば臨むところ敵なし、怒涛の快進撃で全試合勝利をおさめることとて不可能じゃない。

 天才に二言はない。

 これは自己暗示じゃない、予定された未来を述べているだけ、既にして決定事項を述べているだけ。確信性の高い未来を述べてるにすぎないと念じて落ち着こうと試みるが、照明が眩い無人のリング脇、まだひっそりした観客席の傍らで腕組みしてると時間の経過に伴い焦燥感が蓄積される。
 なにも心配することはない、大丈夫だ、サムライが負けるわけがない。刀を握ったサムライと互角に戦える人間など東京プリズンにいるわけがない。あのレイジとて、体調が回復して刀をとったサムライの前では敵にもならない。
 サムライと刀。この最強の組み合わせに僕という最高の知能がくわわれば、今日の試合にレイジが出る幕もない。
 予定では前半の試合をサムライが、後半の試合をレイジが引き受けることになる。本来ぺア戦はいつ相棒と交代しようが一人あたりの試合数も時間も無制限で参加者の自由裁量に任されているのだが、レイジとサムライが仲違いした現状では片方が意地でもリングを下りない展開が予想されるため、昨日ロンと話し合って前半と後半とに出番を分け、僕はサムライを、ロンはレイジをそれぞれ説得して了承させた。
 本来ならこんなまわりくどいことはせず適宜交代できるといいのだが、あくまでレイジとサムライが互いを拒み続けるなら他に手の打ちようがない。たとえサムライが絶体絶命の窮地に陥ってもレイジは指一本動かさずに傍観してるだろうし、レイジが劣勢に回っても―こちらの可能性は皆無に近いだろうが―サムライは助け船を出さないだろう。
 何故これほどこじれてしまったんだろう。
 サムライとレイジという組み合わせに無茶があったのだろうか。饒舌で軽薄なレイジと寡黙で誠実なサムライでは意思疎通が上手くいかないだろうし連携に齟齬が生じるのも無理からぬ話だ。いくら目的が同じでも性格が違いすぎるのだ、あの二人は。食堂でおなじテーブルに着席してもレイジとサムライの会話が弾んだことなど今だかつてなかったではないか。

 二人が和解するのはもう無理なのか。

 話し合いさえまともに成立しない状況下でふたりの関係には亀裂が生じた。もう取り返しがつかない、僕らはもう後戻りできないところまで来てしまったのだ。予断を許さない危機的状況を打破するためにはレイジの協力が不可欠だというのに……
 「!」
 馬鹿か僕は。まだレイジに頼ろうなどと考えているのか?
 サムライと苗を侮辱した男になど頼るわけにいかないとついさっき決意したばかりではないか。にもかかわらず、開幕時刻が近付くにつれ決心が鈍り弱気になるのが否定できない。僕は無能じゃないが無力で非力だ、レイジのように獣じみた敏捷性も素晴らしい反射神経も超絶的格闘センスもなく体力はむしろ平均以下。戦略面でサムライにアドバイスを与えることはできてもサムライの代わりにリングに立つことはできず、万一彼が怪我をした場合でも休ませることができない。
 僕にできることはただ入り口脇の金網にしがみつき、自分にはなんら危害が及ばない安全圏から偉そうに指示をとばすだけだ。それで本当にサムライと一緒に戦ってると言えるのか、彼を補佐してると胸を張れるのか?
 結局の所僕は部外者で、サムライの戦いには今後一切関わらせてもらえないのではないか?
 いや、僕は当事者のはずだ。サムライがレイジと組んで100人抜きに臨んだのも僕の存在なくしてはありえない展開だ、平和主義者のサムライが戦いを決意したのは売春班から僕を救出する為なのだから。だがいつのまにか立場が逆転した現状を否定できない、僕は金網越しに死闘を見守るしかない無力な部外者で決してリングには上がらせてもらえない。実際死闘に身を投じるのはサムライで、彼は僕を守るために全力を賭して戦う覚悟だが、ペア戦三週目ともなれば敵も一筋縄でいかない強豪揃いで生きて再び帰還できる保証はどこにもない。サムライに限って命を落とすことなどありえない、そう強く確信する一方で黒々とした不安を拭い去れない。
 リングではどんなありえないことが起きても不思議じゃない、それさえ予想の範疇だ。
 正攻法ではかなわなくても、殺傷能力に特化した凶器や卑劣な罠でもって仕掛けてこられたらサムライとて遅れをとるだろう。しかも敵はふたり。消耗したり追い詰められたり、ひとたび窮地に陥ればいつでも交代可能な柔軟性が強みの二人で一組のペアなのだ。
 ひとりでふたりを相手どる試合でサムライの体力がどこまで保つか……
 「浮かない顔だな」
 「浮かなくもなる」
 隣のサムライが声をかけてきて、表情を探られる不快さにブリッジを押さえる。手の影で表情をさえぎり、サムライの方は見ずに続ける。
 「手の調子はどうだ」
 「異常ない。捻挫もすっかり完治した、体調は万全だ」
 右手の木刀を軽く持ち上げてサムライが頷き、不安が少しだけ緩和される。あくまで少しだけ、気休め程度だが。不自然に会話が途切れ、沈黙の帳が落ちる。人で賑わい始めた周囲のざわめきが満ちてくる中、眼鏡のレンズ越しに左右を見渡す。髪の色も肌の色も千差万別、人種の坩堝然とした雑多な様相を呈し始めた地下空間に先日絡んできた少年たちの顔を探す。凱の姿もヤンの姿もまだ見当たらなかった。試合開始までだいぶ余裕があるから来てなくても不思議はない。最前列の場所取りは子分のそのまた子分、派閥の最底辺の使い走りに任じてあるらしい。凱本人が現れるのはまだ先、試合直前と予測される。
 「どうした、きょろきょろして」
 「―いや。レイジとロンの姿が見えないと思って」
 目ざとく指摘され、動揺を押し隠すようにとっさに嘘をつく。レイジの名前を出した途端サムライが憮然たる面持ちになる。もともと表情の変化が少ない男だが、眉間の皺の深まりがわかりやすく不快感を表明してる。嫌悪の縦皺を眉間に刻んだサムライにため息をつきたくなる。
 他人のことを言えた立場でもないが、この男もずいぶんと生き方が不器用だ。
 今ごろ必死にレイジをなだめてるのだろうロンを想像し、あちらもあちらで大変そうだと一抹の同情をおぼえる。断っておくがレイジに同情したんじゃない、ロンに同情したのだ。愛情表現が小学生で、喧嘩をすれば露骨な無視と短絡的ないやがらせでしか感情表現ができない精神構造が未熟なレイジなど勝手に拗ねてればいい。
 口にはださずにレイジを罵ってた僕の隣、木刀片手に佇んだサムライがじっと一方向を見つめてるのに気付く。
 「どうした?」
 なにをそんなに熱心に見つめてるのだろうと気になって視線を追う。雑多に賑わい始めた人ごみから少し離れた場所、猥雑な喧騒に身を投じることなく片隅でうずくまる囚人を発見する。人ごみで気分を悪くしたのだろうか?そんな繊細な神経の持ち主が僕以外にも東京プリズンにいたなんて新発見だ。胸を押さえ背を丸め、亀のように縮こまる囚人の方へとおもむろにサムライが歩き出す。泰然自若とした歩みで人ごみを突っ切り、囚人に接近するサムライを追いかける。サムライの背筋はいつ見てもぴんと伸びていて人ごみでは良い目印になる。万一見失いそうになったらいちばん姿勢がよく、人ごみから頭ひとつぶん抜けた長身を探せばいいのだ。
 サムライの背中を追い、人ごみを抜ける。距離的にリングの照明が届かないせいか周囲は薄暗く閑散としていた。人ごみで目立つのを避けるように、なおかつサムライの視線の延長線上にしゃがみこんだ囚人に近付けば「うう、うー」とこもった声でうめいていた。苦しげに胸を掻き毟り、呼吸を乱すさまは尋常じゃない。
 急病か?
 「大丈夫か」
 囚人の傍らにしゃがみこんだサムライが気遣わしげに声をかける。が、答えを返す余裕もないらしく左右に首を振られただけだ。上着の胸を拳で掴み、苦しげに喘鳴を漏らす囚人を冷静に観察。正面に回りこみ、その表情を確かめようと角度を変えて覗きこむ。
 「胸をおさえている、ということは心臓発作か狭心症か。虚血性心疾患は冠動脈の動脈硬化やけいれんによって心筋への血流が不十分となり、虚血が引き起こされた病気の総称で大きく狭心症と心筋梗塞に分けられ胸痛や胸部圧迫などの狭心症症状をともない……」
 「うううう、い、痛えっ胸がっ胸がっ!」
 突然、目の前の囚人がはげしく胸をかきむしってもがきはじめる。しきりに心臓の痛みを訴えて悶え苦しむ囚人を見て、サムライの顔が真剣味を帯びる。
 「医者はどこだ?」
 「姿が見当たらない、医務室で茶でも飲んでるに決まってる」
 あの耄碌医師め、肝心なときに見当たらない。しかし今は緊急事態だ、このまま放っておけば命に関わる恐れがある。いくら僕が他人に冷淡な人間とはいえこのまま放置して最悪死に至られては寝覚めが悪い。とにかく医者を呼ぶのが先決だと踵を返しかけたそばから、サムライの片腕に縋りついたその囚人が息も絶え絶えに訴えてくる。
 「は、はやく。頼むからはやく、医務室につれてってくれ……」
 俯き加減の囚人にことは一刻を争うと判断したか、囚人に背中を向けて腰を落としたサムライが顎をしゃくり「おぶされ」と促す。言われるがままサムライの背中に体重を預けた囚人の顔を見て、漠然とした違和感をおぼえる。
 おかしい。額に汗をかいていない。
 痛い痛いと大袈裟に苦しんでるその囚人が、額に全然汗をかいてないのだ。ただの一滴も。サムライの背中にひしとしがみついた囚人に何か、とてつもなく不吉なものを感じて口を開く。
 「待てサムライ、試合はどうするんだ?」
 「案じることはない、すぐに戻る」
 「しかし、」
 「病人を見捨ててはおけん」
 きっぱり言いきったサムライが僕の方へと片手を突き出し、やや強引に木刀を押し付ける。有無を言わせぬ気迫に負けて上木刀を受け取ってしまってから後悔したが既に遅い。サムライは僕の言うことなどさっぱり聞かず、囚人を背負って医務室へと行ってしまった。
 人ごみの彼方に消え失せたサムライを成す術なく見送り、木刀を手に立ち尽くす。
 さすがに病人を見捨てろとは言えず、自分が感じてる違和感の正体をうまく言葉にすることもできなかった。いや、彼が本当に病人ならば早急に医務室に運ぶべきだが今思えば苦しみようが少々大袈裟すぎやしなかったか?しかも終始俯き加減で顔を覗きこまれるのを避けていて、まるで嘘の芝居を見ぬかれるのを恐れるように……
  
 嘘。
 嘘の芝居。

 「!サムライ待てこれは罠、」
 まったく迂闊だった、表情を仔細に観察すれば即座に嘘だと見ぬけたのに。
 木刀を片手にぶらさげ、すでに視界から消えたサムライを追い駆け出しかけ。
 脇腹に走った衝撃に、世界が暗転した。

                        +

 

 最初によみがえったのは聴覚だ。
 暗闇の帳越しに大勢の人の気配を感じる。忙しげに歩き回る靴音、衣擦れの音、しゃべり声。時々混じる下品な笑い声。何人……ひとり、ふたり、さんにん。最低五人以上いる。いや、もっといるかもしれない。正確な人数は把握できないが異なる声質の人間が五人以上いるのは確実だ。
 そして徐徐に意識がはっきりとしてくる。
 聴覚の次によみがえったのは触覚。背中にあたる固い感触。今ぼくは何か固い物に凭れ掛かり、弛緩した両足を床に投げ出してるらしい。背後にあるのは壁だろうか?床はコンクリートらしいがやけにじっとりと湿ってる。いや、ぬれてるのは床だけじゃない……壁もだ。空気自体やけに湿度が高くて蒸し暑い。シャツの内側に汗をかいてる。まるでサウナの中にいるみたいだ。
 薄らと目を開ける。
 瞼が上がるにつれ視界が広がりをみせ、自分が今どんな状況におかれてるかおぼろげながらわかってくる。窓がない、狭苦しい部屋だ。唯一の出入り口とおぼしき正面のドアまで目測7メートルの距離がある。周囲の壁に取り付けられてるのは緻密な毛細血管をおもわせて入り組んだ幾何学的軌跡の配管。壁や天井にむきだしで交差した配管の接合部から間欠的に水蒸気が噴き出してる。
 ここは……ボイラー室か?
 それ以外に考えられない。しかしボイラー室など自由に立ち入ることができるのか?鍵は看守が管理してるはずなのに……いや、まてよ。
 僕は何故ボイラー室なんかにいるんだ?さっきまで地下停留場にいたのに。
 記憶を整理する。
 試合開始一時間前、レイジとサムライを引き合わせて和解を示唆したが交渉決裂。その後、入り口脇での待機中に胸を掻き毟って苦しんでる囚人を見つけたサムライがお節介にも医務室まで運ぶと言い出し止める暇もなく行ってしまった。
 サムライは頑固な上に馬鹿だ。救いようがない。
 人の話は最後まで聞く癖をつけてほしい。親切なのは結構だがもう少し警戒心を持ってしかるべきだ、100人抜き達成を明言してからの彼はとかく狙われやすい立場にあるのだから。僕は直後にわかった、あの囚人が仮病を使ってることが。大体にして額に汗をかいてないことからして不自然だったのだ。わざわざサムライの目につくような場所にしゃがみこんでたのにも作為を感じる。何故もっと早く気付かなかったのだ、もっと早く気付けばサムライに注意を促せたのに。しかし既に遅い、サムライは僕に木刀を預けて行ってしまった……
 そうだ木刀。サムライに預けられた木刀はどこだ?
 「これでサムライも負け確定だな」
 下劣な哄笑が弾け、急速に目が覚める。周囲に少年たちが群れていた。誰も彼も似たり寄ったりの品性卑しい顔だちにはいやというほど見覚えがある。僕に犬の真似をさせて手を叩いて笑っていた凱の取り巻き連中だ。
 ということは、当然ボスもいるはずだ。
 僕の予想は的中した。まさに目の前に凱がいた。厚い胸板を反らして高笑いする凱の手の中にあるのはサムライの木刀だ。サムライが手によりをかけて磨きぬいた木刀を、よりにもよって凱が汚い手で掴んでる事実に耐えきれず、凱の手から木刀を取り返そうと身を乗り出しかけ。
 左手に抵抗、鎖が鳴る耳障りな音。
 反射的に目を落とす。左手に銀の光沢の手錠が嵌められていた。手錠のもう片方は壁の配管に繋がれていて、壁から背を起こすことはできてもそれ以上の身動きができない。手錠で拘束された左手を呆然と見下ろせば、無防備な頭上に不穏な影がさす。 
 「おもちゃじゃねえぜ。本物だ」
 見上げれば凱がいた。壁に手をつき、顔一杯に下劣な笑みを湛えてこちらを覗きこんでいる。
 「……僕をここに連れてきたのは君たちか」
 「それ以外にだれがいるよ?」
 「仮病を使ってた囚人も仲間か。迫真の演技だった」
 当然嫌味だ。ふと、上着の裾がめくれて脇腹が覗いてるのが目に入る。上着の裾から垣間見えた脇腹に軽い火傷があった。気を失う直前、脇腹を襲った衝撃を思い出す。
 「スタンガンの味はお気に召したか」
 隣の少年に木刀を押し付けた凱が見せつけるような動作で尻ポケットのスタンガンを抜きとり、僕の鼻先に近付ける。じっくり実物を見るのは初めてだ。一撃で気絶させる威力があるなんて違法な改造がなされてるのかもしれない。スタンガン越しに凱を睨み付け、淡々と訊く。
 「僕を、いや、サムライをどうする気だ?医務室への道すがら待ち伏せして襲うつもりか」 
 「んな面倒なことするかよ。どのみちサムライは勝てねえからな」
 僕の顔面にスタンガンを突き付けた凱がふてぶてしく断言し、周囲の取り巻きが僕の愚かさを哀れむかの如く失笑を漏らす。馬鹿に馬鹿にされるほど屈辱的なことはない。間欠的に噴き出す水蒸気が天井といわず壁といわずぬらしてゆくボイラー室の奥、片手を手錠に繋がれたまま生唾を嚥下する。手も足も出ず追い詰められた僕の焦燥を堪能するかの如く体を舐めていた凱の視線がスッと横にすべり、横の少年に預けた木刀を一瞥する。
 「刀がなけりゃサムライもただの人、ってな」
 左右の手にスタンガンを投げ渡しながら凱が笑う。既に勝利を確信し、嗜虐の愉悦に酔った笑顔で。
 「肝心の刀がなけりゃサムライだって普通よりちょっと喧嘩が強えだけの男にすぎねえ。わざわざ待ち伏せしてボコるなんてまわりくどいことせず、リングで堂々戦って勝ちゃあいいんだよ。東西南北の囚人が見てるまえで半殺しにして恥かかせてやるさ。ああそうだ、オトモダチの親殺しに先に謝っとくがちょっと行き過ぎて殺しちまったらごめんなあ。俺たち手加減へただからよ、サムライの頭かち割ってリングに脳味噌ぶちまけちまうかも。そしたらお前がかき集めてくれるんだろ?犬みたいに這いつくばってよ」
 鼻の先端が触れ合う距離に顔を寄せた凱が生臭い息を吐きかけ、背後で笑い声が炸裂する。凱と凱の取り巻き連中が腹を抱えて爆笑する中、ただひとり僕だけが重苦しく沈黙していた。たしかに凱の言い分も一理ある。ひとたび刀を握ったサムライは無敵だが、刀を失ったら最後、サムライは素手で戦うしかなくなる。レイジをあてにできない現状、刀をなくしたサムライに勝ち目はない。
 「……そうまでして、」
 唾と嘲笑とを一身に浴びせ掛けられ、顔を伏せる。手錠の鎖が擦れ合う音が神経を逆撫でする。
 「そうまでして勝ちたいのか、この低脳ども」
 笑い声が途切れ、沈黙があたりに覆い被さる。軽蔑に凍えた眼差しで少年たちを見まわせば、正面の凱がおもむろにスタンガンのスイッチを入れる。スタンガンの先端で青白い火花が弾け、喉がひきつる。足で床を蹴って距離をとろうとして、背中が壁にぶつかる。背後の壁にそれ以上の後退を妨げられ、手錠に繋がれて逃げることもできない僕のもとへと凱が接近し、片手に掴んだスタンガンへと視線が吸い寄せられる。 
 本能的な恐怖に身が竦む。
 やめろ、と無音で口を動かして接近を拒みかけ、死んでもそんな真似するかと固く口を閉ざす。凱やその他大勢の前で恐怖に取り乱す醜態をさらすなど願い下げだ。こんな愚にもつかない連中に怯える理由などない、知力とプライドでは遥かに僕が勝ってる、こんな数と腕力で人を脅すしか能がないー……
 衝撃が腹部を襲った。
 「!!」
 静電気を何倍にも凝縮したような凄まじい衝撃だった。抉りこむようにスタンガンを押し付けられた腹部は電流に痺れて感覚を失ってる。とっさに唇を噛んでも完全には苦鳴を殺せなかった。体内に波紋が広がるように神経系統が微電流に麻痺し、瞼の裏側で赤い環が点滅した。
 よわよわしく瞼を開け、朦朧とかすんだ目を凝らす。
 僕の頭上、覆い被さるような前傾姿勢をとった凱がスタンガンを抜こうともせず揶揄する。
 「大袈裟に痛がるなよ。いちばん弱くしてやったのに」
 「あ、いにくと、ぼくは君の仲間ほど演技が上手くなくてな。今のはほんと、うだ」
 荒い呼吸の狭間から途切れ途切れに言葉を返す。気を失わなかったのが不思議なくらいだ。痛覚への刺激で涙腺が緩んだか、視界が半透明にぼやけている。今一度目を閉じ、涙が引くまで待つ。本当に哀しくても泣けないくせに身体的刺激を与えられれば条件反射で涙がでてくる涙腺が恨めしい。完全に涙が引いてから目を開ければ、視界一杯を凱の笑顔が占めていた。
 「遠慮せずたのしめよ、スタンガンプレイがお好みなんだろ。次はもっと強くしてやるよ」
 冗談じゃない、まだ腹筋が痺れて呼吸も満足にできないのに。凱から遠ざかろうとして床を蹴れば背後に忍び寄っていた少年ふたりに肩を掴まれ、強制的に上体を倒される。背中に圧し掛かられ、上体を突っ伏した苦しい格好で頭上を仰げば、嗜虐の悦びに目を輝かせた凱がふたたびスタンガンを握り締める。
 「気持ちよすぎてイッちまうなよ、あとのたのしみが減るからな」
 不吉な宣告を下し、大股広げて屈みこむ。肩の手を振り払おうと身を捩るが、左手を配管に繋がれた上に二人がかりで押さえこまれては無駄な抵抗でしかない。
 鼻先に迫るスタンガンの先端、電極と電極の間で爆ぜる青白い粒子。
 再びの衝撃を予期し、固く固く目を閉じる―
 「凱さん、そろそろいかないとやばいっすよ」
 「お、もうそんな時間か」
 予期した衝撃が訪れず、慎重に目を開ける。
 拍子抜けするほどあっさりと眼前からスタンガンが引かれ、大儀そうに凱が腰を上げた。横柄に顎をしゃくった凱に応じ、背後の少年ふたりも立ちあがる。遊んでる暇はないといわんばかりにスタンガンを尻ポケットに戻した凱が、そばの少年から木刀を奪い取る。
 「残念だが時間がきちまった。あばよ親殺し、あとでたっぷり遊んでやるからな」
 奪い取った木刀をわざわざ僕が見てるまえで床に落とし、靴裏で踏みにじる。サムライが手によりをかけて磨き抜いた木刀が泥の靴跡に汚れてゆく。ついでとばかり僕の手が届かぬ遠方へと木刀を蹴り飛ばし、満足げに頷く。
 「サムライが負けるとこ見せてやれないのは心残りだが、俺が大勝利おさめりゃ大歓声ですぐわかるだろうさ。お前は用済みの木刀と一緒に試合終了まで監禁される運命だ。一日終わるまで指くわえて待ってろ。なんなら、」
 凱が顎をしゃくり、横手の壁に凭れ掛かっていた少年を示す。
 「見張り残してくから指で物足りなくなったらくわえてやれよ」
 聞くに耐えない下卑た冗談に爆笑の渦が巻き起こり、凱を先頭にした集団がボイラー室を出てゆく。最後の一人が出てゆくと同時に扉が閉じ、僕は放心状態で壁際に座りこんだ。
 もうすぐ試合が始まる。
 しかし、肝心の木刀がなければサムライは実力を発揮できない。サムライがサムライたる真価を発揮できない。そしてその木刀は僕がどれほど手を伸ばしても届かない距離に泥だらけで転がってる。
 見張り役の少年と二人きり取り残されたボイラー室。スタンガンのショックさめやらず、弛緩した頭で漠然と考える。
 
 今度こそ、サムライは負けるかもしれない。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051216224029 | 編集

 試合直前。
 リング周辺には黒山の人だかりができていた。てっぺんの照明に晧晧と照り輝く金属の檻の外側、今か今かと固唾を飲んでゴングが鳴り響くのを待ちうける囚人たちの中に見知った顔をさがす。
 鍵屋崎はいない。
 もうすぐサムライの出番だってのにどこ行ったんだアイツ、トイレだろうかと勘繰りながら周囲を見渡せばお呼びじゃないやつが目にとびこんできた。
 子分を引き連れて今しも大股にのし歩いてきたのは東棟最大の中国系派閥のボス、別名裸の王様こと凱。やばい、目が合えばまた因縁をつけられると伏し目がちにちらちら視線を送れば耳障りながなり声が聞こえてくる。俺の視線の先、リング最前列で場所取りをしていたパシリを労いもせずに押しのけて特等席に陣取った凱が周囲に仲間を侍らせて高笑いしていた。何か嬉しいことでもあったのだろうか、すこぶるご機嫌な様子ででかい腹を反り返らせ破れ鐘の哄笑をあげている。
 今日の試合には凱とその子分も出場する。
 最前列の特等席にいる、ということは凱の出番はまだ先なんだろうが対岸の入り口には既に対戦ペアが控えている。たしかヤンとかいうありがちな名前の凱の子分で、金網によりかかってヤンと雑談してるのはロンチウとかいう囚人だ。
 凱の傘下の囚人は三百人弱、全員の名前と顔が一致するわけでもなけりゃよっぽど腕がたつか凱に目をかけられてるんじゃなきゃ記憶にだって残らないがヤンとロンチウはこの条件をクリアしてる。凱の派閥じゃ幹部に列せられる実力者で、厳然とした序列に支配された食堂じゃ二つ三つ挟んで凱に近い席に座ってる。凱を上座に実力順に着席を強いられる食堂でボスの最寄り席に座るのを許されるとはつまりそういうことなのだ。
 あいつらが先陣を切るのか。
 漠然と不安になり、対岸からこちら側へと目を転じる。既にサムライは入り口脇に控えていた。捻挫も完治して包帯もとれ体調万全、全身に精気を漲らせた今のサムライなら相手が凱の子分でも負けるわけがない……と思いたいが、実際はどうだかわからない。
 それもこれもどっかのレイジがつまんねえ意地張って事態をこじらせてるからだ。

 ため息まじりについさっきの出来事を回想する。

 鍵屋崎にぶん殴られて床に尻餅ついたレイジは、遠ざかる二人の姿を見送りながらしきりに喚いていた。負け犬の遠吠えと呼ぶにふさわしい光景で、傍から見ててもかなり格好悪かった。
 「おいっ、ひとの話無視すんなよそこのサムライとメガネ!なかよしでお互い庇い合うのは結構だけど俺にキレるのはお門違いだろ、今言ったことは全部真実なんだから……サムライの様子見りゃわかるだろ?なにをいつまでも過去の女にこだわってんだよ、俺たちふたりがペア組んだのはキーストアとロン助けるためでお前の思い出の中にしかいない女への罪滅ぼしじゃねえっつの!死んだ人間と今生きてる人間どっちが大事なんだよ、ったく……」
 大声で悪態をぶちまけても返事はない。サムライと鍵屋崎は既に立ち去ってしまって通路には俺とレイジだけが取り残された。レイジの頬は痛そうに腫れていた。虫も殺せないツラした鍵屋崎がこの半年でレイジの顔面にキメられるまで逞しくなったのか、たいした成長ぶりだなとあきれ半分感心半分薄暗い通路に突っ立てたら、床に尻餅ついたレイジが大袈裟にかぶりを振って嘆く。
 「―わからず屋の頑固者が。いいさ、一生むかしの女に縛られてろ。サムライの剣だって死人への未練は断てねえだろ、いつまでたっても死んだ女の代わりにしかなれねんじゃキーストアも可哀想だな」
 こいつはいつまでたってもこうだ。
 鍵屋崎だってこの半年で多少は成長したのにこいつは出会った時からこんなかんじでさっぱり成長しない。俺にだけは気を許してるとか心を開いてるとか思いあがってたわけじゃないが、少なくとも他の誰よりもレイジの近くにいる自負が俺にはあったのに今じゃそれも怪しい。なんでこんな強情なんだよレイジは?おまけにサムライを挑発して侮辱する発言をして平気で笑ってて、しまいには鍵屋崎に殴られても反省の色なんかかけらもなくて。
 頬に手をやって廊下にへたりこんだレイジを見下ろし、自分でもびっくりするほど冷たい声をだす。
 「レイジ」
 俺の声に反応し、レイジがゆるやかにこちらを向く。緩慢に顔を上げたレイジを見下ろし、今の正直な気持ちを率直に伝える。
 「俺、今のおまえには抱かれたくねえよ」
 その瞬間、レイジが何とも言えない表情をした。
 裏切られた、傷ついた、見捨てられた―そのどれでもあってどれでもない感情、いや、そのすべての感情が複雑に入り混じった子供っぽい怒りの表情とでもいえばいいか。ふくれっ面のレイジが立ちあがりしな壁を蹴りつける。どこからどう見てもガキっぽい八つ当たりだ。
 「いいよいいよ、どうせ俺が悪者なんだろ?俺が全部悪いんだろ。はいはい反省しますよ反省したふりしますよ、それでお前は満足なんだろ。畜生いっつもこれだ、サムライはいっつも正しくて俺は憎まれ役で……そりゃ死んだ女悪く言ったのは口がすぎたけど言ってることは間違ってないだろ。なのになんでそんな目で見んだよ、ロン!!」
 癇癪を起こしたレイジが怒りの矛先を俺に転じて怒鳴り散らす。んなこと言われても、今自分がどんな顔してるかなんて鏡がなけりゃわかるはずない。苛立ち紛れに壁を蹴り付けていたレイジが肩を怒らせて俺の横を素通りする。まんまふてくされたガキだ。
 俺とすれちがいざま首から下げた十字架の鎖が浮き、蛍光灯を反射して鈍く光った。

 それがつい十分前の出来事で、今は試合開始直前だ。もうすぐゴングが鳴り響いて先鋒のサムライがリングに上がることになる。だがレイジは金網に凭れ掛かったまま、へたな鼻歌を奏でてペーパーバッグの本を読んでてさっきから顔を上げようともしない。
 サムライはおろか、俺の顔も見たくないと宣言した態度にはらわた煮えくり返る。おまえ精神年齢いくつだよと襟首掴んで問いただしくもなるが、最大限の自制心を発揮してわきわきと指を開閉するにとどめる。試合会場に本を持ち込み、緊張感を高める相棒など意に介さずに読書に耽るというひとをおちょくった態度にもサムライは腹を立てず、また表情を変えようともしない。
 レイジがなにしようがどうぞご自由に、俺は俺でやらせてもらうという慇懃無礼さで綺麗に無視してリングを見つめている。レイジは本に熱中するふりで完全に傍観者に徹してるし、サムライはサムライで絶体絶命の窮地に陥ろうがレイジを頼る気なんかこれっぽっちもないしもうお手上げの状態だ。
 「~くそっ、もう勝手にしやがれ!」
 だいたいなんで俺がレイジとサムライに挟まれてまごつかなきゃいけない?馬鹿みたいだ。喧嘩の仲裁役なんて土台俺には向いてないのだ、事実ふたりの仲を取り持とうとして裏目にでたじゃないか。レイジにもサムライにも愛想が尽きて何度目かわからないため息をつき、ひっかかりをおぼえる。
 急いで顔を上げ、サムライの後ろ姿を観察する。なにか変だ、違和感が拭えない。いつものサムライと何か決定的な違いがある。サムライの後ろ姿に目を凝らし、やっと違和感の正体を突きとめる。
 「おいサムライ、木刀はどこ行ったんだ?」
 もうすぐ試合が始まるというのにサムライは素手だった。いつも片脇にさげてる木刀はどこ行ったんだろうと不審がりつつ声をかければ、そっけない答えが返ってくる。
 「鍵屋崎に預けた」
 「で、その鍵屋崎はどこだよ?」
 「先刻から姿が見えない」
 「ちょっと待て、それ落ち着いてていいのか」
 木刀を預かったまま鍵屋崎が行方をくらましたなんて一大事じゃないか。
 あのバカ眼鏡、よりにもよってこんな大事なときにどこ行っちまったんだ?あと五分、いや二三分で試合が始まっちまうってのに……もし鍵屋崎が帰って来るのが間に合わなけりゃサムライは素手でリングに上るしかない、徒手空拳の無防備な状態を敵前に晒して独り戦わなきゃならない。レイジの助力を仰げない状況下で刀を持たずに戦うことになればサムライが苦戦を強いられるのは目に見えてる。
 「さがしてくる!」
 第一候補はトイレだ。こないだホセを案内したからトイレの場所は知ってる、鍵屋崎はあれで方向音痴なところがあるから単純な道で迷ってるのかもしれない。それともひょっとして、どっかで眼鏡を落として探すのに手間取ってるのだろうか。まったく世話が焼ける、レイジの尻拭いだけでこちとらてんてこまいだってのに!
 鍵屋崎をさがしに一散に走り出そうとした刹那、眼前を巨大な影が塞ぐ。
 気弱なやつならひと睨みでちびりそうな凶悪な人相の男が肩をそびやかせて歩を詰めてくる。行く手に立ち塞がったのは取り巻き連中を周囲に侍らした凱。腰に手を置いて仁王立ちした尊大なポーズが堂に入ってるのは巌のような巨体から放たれる威圧感ゆえか。岩石を力任せに鑿で彫りつけたような太く厳つい造作の顔を下劣な笑みを湛えた凱が、俺の横で立ち止まり、耳元でささやく。
 「どこ行く気だよ半半。おともだちのサムライを応援してやんなくていいのか」
 「―俺がいなくてもサムライは勝つよ。お前らなんか目じゃねえ」
 凱にかまってる暇はない、一刻も早く鍵屋崎を見つけ出して木刀を取り返すのが先決だ。そう判断して駆け出しかけたそばから凱の取り巻き連中に囲まれ中央に追い詰められる。
 「邪魔すんなよ、用があんだよ!!」
 「小便か?じゃあここでしろよ」
 「俺はどこかの中国人と違って人前で小便たれて平気な野良犬並の神経の持ち主じゃないんでね」
 皮肉げな笑みとともに言い返せば俺を包囲した連中が「なんだと!?」と気色ばむ。逆上し、一斉に殴りかかってこようとした連中を「まあまあ」と宥めたのは意外にも凱本人だった。短気な子分の手綱を引いてしずかにさせた凱が、ゆったりと余裕ありげな物腰で腕を組む。
 「まあそんなカリカリすんなよ。じきに試合が始まる、俺たちと一緒に試合見物といこうじゃねえか」
 「気味わりぃ、どういう風の吹き回しだよ。嫌われ者の半半を仲間に混ぜてくれるのは有難いけど生憎おまえらと同じ空気吸うと拒絶反応でるもんでね、慎んで辞退させてもらうよ」
 せいぜい鍵屋崎を真似て嫌味っぽい言いまわしをしてやれば、優位を誇示する如く腕組みしていた凱の眉間に不快げな皺が寄る。勝った。心の中で舌を出し、回れ右した背中に浴びせ掛けられたのは濁声の嘲笑。反射的に振りかえれば、リングの照明を浴びた凱が勝ち誇ったように哄笑をあげていた。
 「お仲間といえば、お前とおなじ嫌われ者の親殺しの姿が見当たらねえじゃんか。同房のサムライがこれから試合に挑むってのに薄情なやつだよなあ、大事な木刀持って消えちまうなんてよ」
 「待てよ、なんで鍵屋崎が木刀持ってるって知ってんだ?」
 おかしい、胸騒ぎがする。
 体の脇で拳を握り締めて凱に詰め寄る。リングを背後に仁王立ちした凱が周囲の仲間に意味ありげな目配せをし、凱の目配せの意味を汲み取った取り巻き連中が陰険な忍び笑いを漏らす。互いに肩を小突き合い吐息で耳朶をくすぐるように囁き合い、包囲網の中央で何も知らずに見世物にされた俺を笑ってる。優越感をこめた笑い声が波紋が広がるように周囲に行き渡り、てのひらがじっとり汗ばんでゆく。
 鍵屋崎が木刀を持って行方をくらましたことを凱が知ってるのは何故だ?
 わざわざそれを知らせにきたのは?
 ―馬鹿か俺は。そんなの決まってる、結論はひとつしかない。
 「……鍵屋崎になにをした?」
 何故もっと早く気付かなかったんだ、三日前も図書館の帰り道に脅迫されたのに。サムライとレイジのペアに勝利するためなら凱はなんでもやる、どんな汚い手も卑劣な罠も辞さない覚悟なのだ。そんな連中が考えることと言ったら決まってる。サムライに手を出したら返り討ちに遭う、しかし鍵屋崎ならどうだ、喧嘩はからっきしで口ばかり達者な自称天才がなにかの理由で一時的に木刀を預かったとして肝心の木刀ごと鍵屋崎をどうにかしちまえば……
 「試合が終わるまでちょっくら大人しくしててもらおうと思ってな」
 凱は悪びれたふうもなく肩を竦めた。
 「おっと、そんな怖い顔するなよ。スタンガンで気絶させただけで殺しちゃいねえよ、楽しみは後にとっとくべきだろ?」
 「なんでわざわざ俺に言う?」
 「『賭け』だよ」
 凱の魂胆がわかった、凱が提案した試合の余興の「賭け」とやらのくそったれた内容も。完全に俺を舐め腐った凱が口臭くさい至近距離に顔を突き出してきて、俺はタジマの口の匂いを思い出す。
 やにくさい口臭に気分を悪くしながら、こめかみの血管がはちきれそうな怒りをこめて凱を睨み付ける。
 金属の檻に設置された照明の下、逆光の陰影に隈取られた凱の顔には狂喜の笑みが広がっていた。
 「試合が終わるまえに鍵屋崎見つけて木刀取り返せばお前の勝ち、お前が帰って来るまえにサムライが負ければ俺の勝ち。ひとつヒントをやるが、鍵屋崎はこの地下停留場のどこかにいるぜ。通路一本一本も含めて、な。なあ楽しいだろ、サムライが勝つも負けるもお前の頑張り次第なんだぜ。応援席にぼけっと突っ立ってるだけじゃ半半も親殺しも退屈だろうから目新しい趣向を考えてやったんだ」
 「!!―っ、」
 頭に血が上った。
 凱のにやけ面めがけて拳を叩きこもうとして、逆に軽々と薙ぎ飛ばされる。床に手をついてひっくりかえった情けない姿勢で頭上を仰げば、俺を取り囲んだ連中がさも可笑しげに大口あけて笑っていた。
 「凱さんに盾突こうなんて百年早いぜ」
 「雑種のくせに生意気だ」
 「なんだよ今のパンチは、死にかけの蚊でもつかまえようとしてたのか」
 四面楚歌で尻餅つき、屈辱に歯噛みした俺の頭上に巨大な影が覆い被さる。腕の一振りで俺を薙ぎ飛ばした凱が、こちらの騒ぎが聞こえない距離で本を読んでるレイジにちらりと一瞥くれる。
 「さあ、いつもみたいにレイジに泣きついて助けてもらえよ」
 本に集中してるせいか人ごみのざわめきが邪魔なせいか、凱とその子分に取り囲まれてぶざまに尻餅ついた俺の姿はさっぱり視界に入ってないらしい。俺の方なんか見向きもしないレイジの横顔と凱のにやにや笑いとを見比べ、すっと立ちあがる。
 「……レイジに泣きつくなんて冗談じゃねえ。あいつの手なんか借りなくても必ず鍵屋崎を見つけ出す」
 このまま舐められっぱなしですごすご引き下がれるか。
 第一レイジには後半の試合が控えてる、余計なことを耳に入れて煩わせたくない。巻きこみたくない。
 いや、それ以上に。
 凱が俺に直接鍵屋崎を拉致したと告げたのは、俺の性格をとことん知り抜いた上で俺を舐めきってるからだ。すでにレイジを巻き込んだ俺がこれ以上あいつに迷惑をかけたくないと、意地でもあいつの手は借りるかと心に決めて単身賭けに乗ると踏んだからだ。どのみち俺ひとりじゃどうしようもないと、拉致の真相を告げても何もできないし脅威にならない、せいぜい鍵屋崎をさがしてあちこち駆けずり回るしかない俺を笑い者にしてやろうと高を括ってるからだ。

 ―なめやがって。
  
 「……その喧嘩買ってやる」
 仕返しが怖いとか凱には腕力じゃかなわないとか、そんな冷静な判断は綺麗さっぱり頭から吹っ飛んでた。もう限界だ、東京プリズンにきてから一年半ずっと何されても我慢してきたがもうやめだ、打ち止めだ。こんな性根の腐った連中に怯えて逃げ回るのはもうやめだ。
 相手が凱だろうが誰だろうが何人でこようが逃げずに渡り合ってやろうじゃんか。
 最後にレイジを見て、こっちに気付いてないことを確認する。臨界点を突破した怒りが炎となって血管中を駆け巡り目の前が赤く染まる。熱く火照り始めたてのひらを固く固く握り締め、呟く。
 「凱。ひとつ言っていいか」
 「なんだよ」 
 不遜に聞き返した凱の顔にはまだ人をおちょくった笑みが浮かんでた。今日までの一年と半年、凱を殴りたくて殴りたくてうずうずしていた拳を力一杯握り締めれば顔の筋肉が痙攣して自然と笑みを形作る。
 中国人の見栄になによりこだわる凱を逆上させるのは簡単だ。
 中国人なら絶対に我慢できない一言、笑顔で聞き逃すことが絶対不可能な一言を言えばいい。
 そうして俺は腹の底で暴れ回る怒りをおさえこむように深呼吸し、この一年半、凱とその子分に目の敵にされて何度となく痛い目遭わされた鬱憤を晴らさんと声を限りに叫ぶ。

 『祝福台湾的未来一片光明!』

 凱の表情が豹変し、それまで馬鹿みたいに笑ってた連中の顔が固く強張る。怒りに顔を充血させた凱の子分どもが口々に怒号を発しとびかかってくるのを頭を低めてかわし前傾姿勢で疾走、体当たりで包囲網を突破。
 俺はべつに台湾の未来なんかどうでもいいが、台湾との戦争で身内を亡くしてる凱たちにとっちゃどうでもよくないはずだ。
 実際、俺が「台湾の未来に幸あれ!」と叫んだ時の凱の顔ときたら傑作だった。
 背後に迫り来る手という手から加速して逃れる俺の背後で高らかにゴングが鳴り響く。試合開幕の合図だ。前へ前へと殺到する観客とは逆方向に人ごみを掻き分けながらひたすら突き進む最中、ひりつくような焦燥感に駆り立てられて強く強く念じる。
 
 俺が帰って来るまで負けんな、サムライ。
 レイジはこの際どうでもいい。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051215224155 | 編集

 ボイラー室は暑い。
 壁と天井の配管から漏出する水蒸気のせいでボイラー室はサウナのように蒸し暑く、何もせずじっとしてるだけで必然シャツの内側に汗をかく。
 熱気と湿気が充満した狭苦しい部屋の最奥、手錠で繋がれた僕は黙ってうずくまってるしかない。
 手錠の片方は背後の配管に繋がっている。途中、3メートル離れた壁際に暇そうに突っ立ってる見張りの目を盗んで手錠をひきちぎれないかと試みたが無駄だった。凱の言う通りこの手錠は本物らしい、以前監視塔で嵌められた玩具の手錠とは段違いの強度がある。鎖をひきちぎろうと手に力をこめて引っ張ってみてもさっぱり効果はなく、鎖と皮膚とが擦れる摩擦熱で手の内側が赤くなるだけだった。
 自分の非力さが恨めしくなる。腕力に自信がない僕では素手で鎖をひきちぎる野蛮な芸当は不可能だ。
 この半年、イエローワークの強制労働で来る日も来る日もシャベルを上げ下げしてそれなりに握力は鍛えられたと思っていたのに不意打ちでレイジを殴れはしても自力で手錠を外すのは無理らしい。
 あたりまえだ、そんなことができたら人間の限界を超えてる。
 ささやかな抵抗に手錠の環と手首の皮膚のあいだに爪をもぐりこませ、痛痒いひっかき傷ができるまで掻き毟ってみたがこれもまったく無駄。

 ……無駄だと?なにを言ってるんだ僕は。
 不可能だ不可能だと何回繰り返せば気が済む?不可能を不可能で片付けるのは凡人の諦観で、不可能を可能にしてこそ天才の真価が発揮されるというのに。 

 冷静になれ。まず状況を整理しよう。
 試合開始三十分前、僕は地下停留場にいた。隣にはサムライがいた。ふとサムライが人ごみから離れた場所にうずくまってる囚人を発見して、気分が悪いと訴えてしきりに悶え苦しむ囚人をおぶって医務室へ行った。とっつきにくい仏頂面ゆえ誤解されやすいが、サムライはあれで随分とお人よしな所がある。
 凱はその武士の情けにつけこんだ。囚人を医務室へ運ぶためサムライが一時的に僕に木刀を預けた瞬間を見計らい背後に接近、スタンガンで気絶させて拉致。試合終了までボイラー室に監禁してサムライと隔離する作戦だ。
 刀を握れば最強でも刀がなければただの男に過ぎないサムライが苦戦を強いられるのは目に見えてる。いや、ただの男よりは確実に強い。僕はサムライが囚人の首の後ろに手刀を打ちこんで気絶させた瞬間を目撃してる。俊敏な身ごなしと無駄のない足捌きは十分脅威になりうるが、極論してしまえばそれだけだ。
 今日のペア戦にはサムライに倍して喧嘩慣れした人間や腕力に優れた人間、何より卑劣な策略を巡らす人間が出場する。素手の喧嘩の経験値が低いサムライが彼らと互角に渡り合えるかどうか……、
 ぐずぐずしてる暇はない。もうとっくに試合始まってる。ボイラー室の扉越し、遠く潮騒のように聞こえるのは会場の歓声か。先鋒のサムライは既にリングに立ってるはずだ。今はどちらが優勢なのだろう。木刀を紛失したサムライが無防備な状態をリングに晒して苦戦を強いられる姿を思い浮かべ、刻々と焦りと苛立ちを募らせる。

 このままでは試合が終わってしまう、サムライが負けてしまう。

 何故あの時もっと真剣に止めなかったんだ、疑問点を追及しなかったんだと歯噛みして自分の甘さを悔やんでも時既に遅い。胸を掻き毟って苦しみ悶える大袈裟な演技に一抹の疑問を感じていながら、もし本当に急病人なら足止めするのはまずいと躊躇したからか。本当に急病人である可能性が完全には否定できない以上、根拠に乏しい憶測で物を言うのを控えた天才の謙虚さが仇になった。僕はもっと大胆になるべきだ、IQ180の頭脳が下した判断に自信を持って断言すべきだったのだ。
 今更ながら、サムライをむざむざ行かせてしまったあの時の選択が悔やまれる。
 サムライから木刀を預かった僕は呆然と立ち尽くし、仮病の囚人をおぶさった後ろ姿を見送るしかなかった。僕が選択を誤まったせいで、疑問点の追及をおろそかにしたせいでサムライは現在窮地に追いこまれているのだ。もしサムライが現在進行形で苦戦してるなら責任は僕にある、僕に木刀を預けたせいで本来ラクに勝てるはずの試合に苦戦してるなら全責任を負うべきはこの僕だ。
 ボイラー室に閉じ込められていては試合の様子がわからない。今が何試合目か、試合が始まってどれ位時間が経つのかも正確にはわからない。おそらく一時間は経ってないだろうが、凱たちが出ていってから随分と時間が経過した。サムライはかなり疲弊してるはずだ。前半戦で体力を使い果たして、まともに試合に臨める状態じゃないかもしれない。後半戦はレイジに交代する手筈だが、こじれにこじれた険悪な仲の二人が円滑に交代できるか不安が残る。
 僕がサムライを受け持つならともかく、ロンひとりでふたりを説得するのは荷が重い。はっきり言って、短気で喧嘩っ早いロンに喧嘩の仲裁役は向いてない。拗ねていじけたレイジに「おまえ精神年齢いくつだ」ときつい言葉をぶつけて事態を悪化させるおそれもある。
 焦燥感に煽られながら手首を見下ろす。
 手錠をひきちぎるのは困難だと実践済みだ。左手首のひっかき傷がその証。手錠を壊すのが不可能なら別の方法を探さなければ……それにしてもこの手錠はどこから手に入れたんだ。
 瞬間、頭の中で回線が繋がった。
 東京プリズンで常に手錠を所持してるのは看守しかいない。僕を長時間拘束するため使用された手錠の入手経路は看守しか考えられない。すぐさま連想したのは半年前の一件、イエローワークの強制労働中に凱たちに襲われロンともども生き埋めにされかけた記憶。
 あの時凱は、だれに命じられたと言った?
 ひとつひとつ事実を確認し、不確かな予感が徐徐に確信へと輪郭を固めてゆく。やはりそうとしか考えられない、僕の推理は正しい。合理的思考過程を踏んで辿り着いたのはひとつの結論、凱たちを裏で操り僕を、いや、正確には僕たち四人を陥れようと腹黒い策略を練る人物の存在。
 試合前に凱と接触し、直接手錠を渡した看守はひとりしか思い浮かばない。
 ―落ち着け鍵屋崎直、怒りは頭を鈍らせ判断を狂わせる。ここは冷静にならなければ。今は自分のおかれた状況を詳細に分析して冷静に対処すべき場面で感情を優先すべき場面じゃない、怒りに駆られて優先順位を逆転させるのは本末転倒愚の骨頂だ。
 僕をこんな目に遭わせた人物、ひいては現在進行形でサムライを危険な目に遭わせてる人物への怒りの感情は理性的に制して、一刻も早くボイラー室から脱出しなければ。
 まず、手錠を外すのが先決だ。
 もっとも僕一人の力では手錠を外せないとわかりきってる。なら、他人の手を借りるまでだ。
 背後の壁に凭れ掛かり、さりげない動作で天井を仰ぐ。
 「暑いな」
 3メートル離れた壁に寄りかかっていた見張り役の少年がちらりと一瞥くれる。横顔に注がれる視線を意識し、注意をひきつけるのに成功してまず安堵する。無視されたら無意味に大きな独り言になってしまうところだった、壁相手に会話する危ない人間扱いされるのはご免被りたい。
 上着の襟に指をひっかけ、軽く揺する。風を送るふりをしながら注意深く見張り役の表情を探る。さっきまで沈痛に押し黙っていた僕が、急に話しかけてきたことを不審がってるようだ。怪訝そうな見張り役を仰ぎ、できるだけさりげなく頼む。
 
 「脱がせてくれないか」
 
 今のは少し不自然だったろうか。
 いや、おかしくはないはずだ。実際ボイラー室の室温は高い、シャツの内側が汗でじっとり湿って不快なのも事実だ。暑いから服を脱がせて欲しいという文脈は理に適ってる。
 しかし、低姿勢で申し出た僕に対し見張り役の少年は何故かぎょっとしたような顔をした。
 「……は?なに言ってんだお前、脱ぎたきゃ勝手に脱げよ」
 「そうもいかない」
 戸惑いから怒りへ。不愉快な表情に変じた少年の反論は当然予測していた。説得の言葉も考えてある。壁際で腕組みした少年にもよく見えるよう、すかさず左手を掲げてみせる。左手を掲げる動作につられ、手錠の鎖が耳障りな音を奏でる。
 「人体における間接の稼動域には限界がある。僕はナマコやナメクジに代表される軟体動物じゃない、手錠されたまま服が脱げるとでも思ってるのか」  
 「殺されたくなきゃ黙ってろ」 
 どうやら気に障ったらしい。理論的な説得は逆効果か。一旦諦めたふりをして手首を下ろし、壁に背中を預けて天井を見上げる。片膝を立て、片足を床に投げ出した無防備かつ無造作なポーズで上着の襟をつまむ。シャツの内側に風を送る動作を装い、軽く襟を揺すってみせる。
 緩んだ襟刳りの内側、ちょうど鎖骨のあたりに熱っぽい視線を感じる。
 本人に悟られぬよう慎重に視線を滑らせば、壁際でむっつり腕を組んでいた見張り役が、生唾を嚥下して僕の方を凝視していた。わざと見えやすい角度で襟刳りを広げたのだから反応してもらわなければ困る。 
 「きみも大変だな」
 退屈を持て余した演技をし、無意識にこちらに身を乗り出した見張り役に話題を振る。
 「大変って、なにがだよ」
 「凱だ」
 予想通り食いついてきた少年に向き直り、同情的な口吻で言う。
 「凱は低能で粗暴な最低の男だ。君も内心では不満を感じてるんだろう?無理のない話だ。ボイラー室に君ひとり残して行ってしまうなんて随分と不条理じゃないか」
 おそらく見張り役の少年は、凱の派閥ではあまり地位が高くなく、常日頃から損な役回りばかりやらされてるのだろう。日頃から軽んじられ、凱への反感を募らせてるにちがいないという推理は的を射ていた。僕に本心を見抜かれて逆上した見張り役が大股に接近、襟首を掴んで息巻く。
 「うるせえんだよ、手も足も出ねえ人質の分際でさっきからごちゃごちゃくだらねえことぬかしやがって。しまいには犯すぞ」
 「犯せばいい」
 「………あ?」
 何言ってんだ、こいつ。
 面食らったように目をしばたたいた見張り役の手が緩み、襟首がすり抜ける。あっけにとられた少年をまっすぐ凝視、眼鏡越しに目を細めて挑発。
 
 「ブラックワーク仕込みを試したくないか?」
 
 背中がぐっしょりぬれてる。
 ぐったり凭れ掛かった壁が水蒸気で湿ってるせいだ。ボイラー室に長時間監禁されるのは拷問だ。周囲は分厚いコンクリートで塞がれていて、低い天井には濛々と水蒸気がたちこめている。いつのまにか視界が靄がかっていたことに気付き、落ち着き払って眼鏡を外し、上着の裾で丁寧にレンズを拭う。少し時間をかけてレンズを拭ってる最中、はだけた裾から覗いた脇腹に火照った視線を感じた。スタンガンの火傷が二箇所生々しく残った脇腹を興味なく見下ろし、眼鏡をかけ、ひたと正面を見据える。
 「心配には及ばない、ここは密室だ。僕たち以外にはだれもいない。見張り役という損な役割を押し付けられたんだ、少しくらいたのしんでも罰はあたらないと思うが」
 「……はっ。不感症で潔癖症の親殺しが、いっちょまえに男誘惑なんてどういう風の吹き回しだよ。売春班で毎日男に抱かれてるうちに男なしじゃ生きてけねえ体にされちまったのか。立派な娼夫になっちまってよ」
 「否定はしない。……本音を言えば、僕も少し退屈してたんだ」
 リョウがよくするような表情を手本に媚びた笑みを浮かべれば、目の前の喉仏がごくりと上下し、シャツの隙間から薄ら上気した素肌を垣間見せる僕の挑発に劣情を刺激された少年が我慢できずに身を乗り出してくる。肩に手をかけて押し倒され、背中が壁に衝突。その衝撃で手錠の鎖が引かれ、手首に痛みを感じる。
 手首に食い込んだ金属の拘束具に苦痛を与えられ、おもわず顔をしかめかけ、最大限の自制心を振り絞り平静を取り繕う。
 サムライ以外の人間に弱みを見せるのは僕のプライドが許さない。
 壁に背中を預けた窮屈な姿勢で見張り役を仰ぎ、虚勢を上塗りした皮肉な笑みを拵える。
 「凱が戻ってくるまでたのしもうじゃないか」
 「―ド淫乱が」
 口汚く罵りつつも下半身はおおいに乗り気なようで、見張り役の少年は本来の役目も忘れて夢中で僕にのしかかった。上着の裾をはだけ、貪欲な手つきで下腹部を揉みしだかれる。相手を気持ちよくさせることなどどうでもいい、自分の快楽を優先させるだけの乱暴な愛撫に抗議のひとつもしたくなるがぐっと堪える。
 シャツの内側に突っ込まれた手が卑猥にうごめいて上着を巻き上げてゆく。腕の付け根まで上着をたくし上げられ、一糸纏わぬ上半身を晒した間抜けな格好の僕は今この場に他の人間がいなくてよかったと心の底から安堵する。大勢の人間の前で犬の真似をするのはどうということないが、大勢の人間の前で犯されて興奮する趣味はない。
 貪欲な手が腹筋に沿って急速下降、ズボンの内側に潜りこもうとしたその瞬間。
 「待て、順番が間違ってる」
 「順番?」
 右手を突き出して行為を突っぱねれば、本番直前にお預けを食らった見張り役が目を丸くする。飲み込みの悪さを嘆くようにかぶりを振り、俯きがちに眼鏡のブリッジを押し上げる。眼鏡を押さえた方とは逆の手、手錠に繋がれた左手をポケットに持っていきながら淡々と説明する。
 「愛撫が性急すぎる。君は外で女性を抱いてたときもそんなふうにしていたのか?あきれたな。童貞ならまだ可愛げがあるが、前戯の手を抜くなど女性に対して失礼すぎる。僕は男だから多少乱暴にされてもかまわないし今更体に傷がついたところで大したダメージはないが、正規の手順を踏んでくれなければこれから臨む行為への意欲が減退する」
 「言いたいことあんならはっきり言えよ!」
 癇癪を起こした見張り役を冷え冷えと観察、とんでもなく非常識な人間を見る目で糾弾する。
 「キスもできないのか?」
 非難がましく指摘し、強制的に顔を近付ける。僕がしようとしてることを察した見張り役がおそらしく卑猥な笑顔となり、調子に乗って顎に手をかけてくる。顎に指をかけられ上向かされ、はずみで眼鏡がずり落ちそうになる。首だけ反った不自然な体勢が苦しくて、僕は売春班でよくやらされていたおぞましい行為を連想する。
 「舌使いが上手い」と、床に跪かせた僕の頭を撫でたのはタジマだったか。
 僕の舌使いが上手いのは売春班でさんざん仕込まれたからで人に誇れる特技ではないが、今この瞬間だけは役に立った。
 唇を奪い、舌を入れる。
 無遠慮に突っ込まれた舌が貪欲に口腔をまさぐり、喉元に唾液が逆流して噎せ返る。窒息の苦しみに涙目になり、はげしく咳き込みながら体を放す。呼吸の間隔で肩を喘がせ、ぐったりと壁に凭れ掛かる。顎を拭きたい、唇を拭きたい。緩慢な動作で手を掲げ、口腔粘膜の接触で入り混じった二人分の唾液を拭い取る。
 「涼しいツラして舌使い上手いじゃねえか」
 「ブラックワーク仕込みだからな」
 そうだ、全部ブラックワークで、売春班で仕込まれた。売春班ではもっと汚らわしい行為を強制された、この程度痛くも痒くもない。胃袋が引き絞られるような吐き気を抑えて減らず口を叩けば、おざなりに前戯を済ませた見張り役が自分のズボンを下着と一緒に膝まで下ろし、性器が勃起した下半身を露出する。裸の下半身を晒した見張り役が今度は嬉々として僕のズボンに手をかける。
 「上の口は合格。下の口の使い心地はどうだ、ろう、な………」
 鼻息荒く欲情した少年の握力が緩み、途中で言葉が萎む。愚かな少年が自分の身の上に起こった異変に気付いた時には既に遅く、彼の体は僕の膝の上に突っ伏していた。
 僕の膝に顔を埋め、ぶざまに突っ伏した見張り役の少年に侮蔑の眼差しを注いで揶揄する。
 「気付かなかったのか、睡眠薬を飲ませたのを」
 「て、めえ……ひ、きょうだ、ぞ……」
 さっき顔を伏せたとき、こっそり含んだ睡眠薬を口移しで飲ませたのだがしてみると即効性だったようだ。安田に貰った睡眠薬はどうしても眠れない夜のためにと大事にとっておいたのだが、それがまさかこんな形で役に立つとは。自嘲的な気分に浸りながら壁によりかかっていれば、じきに膝の上から規則正しい寝息が聞こえてくる。ズボンの膝にヨダレをたらし、幸せそうに寝こけている少年に囁く。
 『晩安』
 中国語でおやすみを言い、不自由な体勢から腕を伸ばし、少年のポケットをまさぐる。
 あった。
 見張り役の少年が鍵を所持してるのではないかと推理して賭けに出たのだが、僕の読みどおりだった。凱は捕らえた獲物に細心の注意を払うタイプでもなし、僕には見張りをつけてれば大丈夫だろうと慢心し、自分で肌身はなさず鍵を持ち歩いてる可能性は低いと踏んだのだ。
 鍵穴に鍵をさしこめば手錠は簡単に外れた。
 ひっかき傷ができた左手首をさすりながら立ちあがる。熟睡中の少年を起こさぬよう細心の注意を払い、足音はおろか衣擦れの音もたてない慎重さでドアへと向かいがてら、床に転がっていた木刀をそっと手に取る。
 サムライの木刀は泥だらけの靴跡にまみれていた。
 「………」
 手中の木刀を見下ろし、上着の裾で綺麗に拭う。この行為には何の意味もない、無意味な行為だ。断じてサムライの為ではない。ただ汚い物をそのままにしておくのが落ち着かなかっただけ、言うなればそう、僕の気分の問題だ。
 誰に聞かれてもないのにそう言い訳しながら木刀を掴み、右手でノブを回そうとし―
 抵抗を感じる。
 「……馬鹿な」
 ドアに鍵がかかってる。
 馬鹿な、何故こんな初歩的なことに気付かなかったんだ?もし凱たちを裏で操ってるのがあの人物ならば当然ボイラー室の鍵も管理してるはずだ。それでわかった、何故凱が見張り役の少年に手錠の鍵を預けて去ってしまったのか。仮に僕が手錠を外してボイラー室の中限定で自由に動き回れるようになっても、ボイラー室自体が外から施錠された完全密室なら何の意味もない。
 たぶん凱はあの人物からボイラー室の鍵を預かっていたのだ。試合終了まで僕を閉じ込めておく手筈は万端、というわけか。

 ―舐めた真似をしてくれるじゃないか。

 「―っ、」
 舌打ちしてドアを睨み付ければ、廊下から微かな衣擦れの音が聞こえてくる。
 ドアの表面に耳を当てる。間違いない、ドアの向こう側、ボイラー室前の廊下を誰かがうろついてる。
 「そこにいるのはだれだ?」
 ぺア戦開幕して試合会場が盛り上がる中、こんな薄暗い、人けのない場所をうろついてる人間は胡散臭い。外の廊下にいるのが凱が残していったもう一人の見張り役、という疑いを考慮して声を低めて問えば、少し間をおいて思いがけぬ人物の声が返ってきた。 
 「……俺だよ」
 何故五十嵐がこんなところにいるんだ?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051214224303 | 編集

 まずいね、こりゃ。
 「サムライさん苦戦してますね」
 「そりゃそうだよ、木刀ないんだもん。刀がなけりゃさすがのサムライも形無しってね」
 「で、肝心の刀はどこ行ったんすかね」
 「さあ」
 不思議そうなビバリーに僕はお手上げポーズで答えるっきゃない。
 前回といい前々回といい背の低さがマイナスに働いて試合観戦できなかった僕は、今、地下停留場の隅に駐車されたバスの上にいる。会場の盛り上がりをよそに、同伴したビバリーの手を借りてこっそりバスによじのぼって屋上の特等席に腰を据えてみたらこれがなんと見晴らし抜群で、なんでもっと早くこうしなかったのか悔やまれる。難点は距離が遠すぎて声が聞こえないところだけど映像だけでも十分迫力は伝わってくる。
 ビバリーがどこからか手に入れた双眼鏡に顔をくっつけ、絞りを調節する。
 双眼鏡の向こうで繰り広げられているのはサムライ対ヤンの手に汗握る熱戦で、いけっやれそこだっ、という威勢良くこぶしを振り上げて歓声を上げる囚人の熱狂ぶりは尋常じゃない。
 地下停留場中央に設置された金網の檻、通称リングに蟻のように群がる囚人たちを見下ろすのはすごく気分がいい。いつも見下ろされてるちっぽけな僕にしてみりゃなおさらだ。耳を聾する大歓声が殷殷とコンクリートに反響し、リングに詰め掛けた囚人がそれぞれ贔屓の側を応援してる。サムライに賭けてる囚人は「負けたら承知しねえぞっ」「切腹させっからなっ」と唾まじりの檄をとばし、ヤンとロンチウの勝利に賭けてる囚人―主に凱の子分だけど―は、「絶対勝てよ」「日本人にしてやられちゃ中国人の恥だ、わかってんだろうな」と叱咤激励してる。
 ハイな囚人がお祭り気分で浮かれ騒ぎ、熱狂の坩堝と化した会場の関心の的はもちろん現在進行形でリングで行われてる試合で、何故か木刀を持たずに出場したサムライが素手でヤンとやりあってるところだ。
 刀を持てば最強で知られるサムライも刀がなければただの人。いや、ただの人よりは確実に強いけど、それだって凱みたいな怪力自慢なわけでもレイジみたいに天才的格闘センスに恵まれてるわけじゃない。おそらくは道場時代、敵に刀を奪われた際に備えて学んだ護身術を生かしてるんだろうけど、稲妻の如き剣技の冴えに比べたらこぶしの瞬発力が鈍くなるのはさもありなん。
 実際サムライは苦戦してた。いくら捻挫が完治して包帯がとれたとはいえ、ひとりでふたりを相手にする試合内容自体が無茶なのだ。ヤンとロンチウは危なくなったらすぐ交代の逃げるが勝ち方式を採用してて、そろそろ息も乱れ始めたサムライをよそに高らかにハイタッチして入れ代わり立ち代わりリングに現れる。
 あ、今またヤンとロンチウが交代した。
 「相棒がピンチだってのにレイジさんはなにしてるんスか!?」
 「鍵屋崎とロンもいないよ」
 焦れたビバリーが叫び、双眼鏡をおろした僕は手庇をつくってあたりを見まわす。さっきから鍵屋崎とロンの姿が見えないのには気付いてた。いや、正確には試合開始前からだ。僕はビバリーと一緒に早めにやってきてバスに這いあがったから、凱に取り囲まれたロンがなにやら万歳して逃げてくところは目撃したけどなんでそうなったのか事情はさっぱりわからない。バスの上からじゃ距離ありすぎで声もろくに届かないのだ。もっとわかんないのは鍵屋崎で、大事なお友達のサムライが戦ってるのに薄情に行方をくらましてる。
 まさか会場の喧騒に嫌気がさして、ひとりで房に帰って本を読んでるんじゃ。
 鍵屋崎のことだから絶対ないとは言いきれない。事実ありえそうなのが怖い。
 「レイジならほら、あそこだ。リングの横っちょで本読んでる」
 こんな騒がしい状況でよく本を読めたものだと半ば感心し半ばあきれる。僕が指さした方角を手庇の下から透かし見たビバリーが「オウ!」と変な声をあげる。察するに非難の声らしい。
 「相棒が大変なときになにやってんすか僕らの王様は、顔もあげず目もやらず金網によりかかって優雅に読書なんていいご身分ッスね!」
 「王様だもん、そりゃいいご身分だろうさ」
 憤慨したビバリーにおどけて肩を竦め、ふたたび双眼鏡を目にあてる。双眼鏡のレンズの向こう、周囲を闇に包まれた円の中でレイジはむっつり本を読み耽っていた。なにを読んでるんだろ、と気になって倍率を上げてみればへミングウェイだった。
 「レイジの読書傾向、謎だ」
 「リョウさん双眼鏡一人占めしないで僕にも見せてくださいよっ」
 「いやだ、今いいとこなのにっ」
 「もとは僕のじゃないスかそれ、わがままなしっスよ!」
 双眼鏡を奪い取ろうと手をのばすビバリーと抗議の声を上げて揉み合ってるうちにバランスを崩し、ふたり縺れ合ってバスから転落しそうになる。
 「危ない!!」
 寸でのところでビバリーに抱きすくめられ事無きを得たけど、固いコンクリートの地面に叩き付けられるのはぞっとしない。へたしたら脳挫傷で即死だ。背の低さをカバーするためとはいえ、僕もずいぶんと無茶するもんだと今更ながら肝を冷やす。
 「もう、やめてよね。ビバリー視力いいんだから双眼鏡なんかなくても見えるっしょ、アフリカの原住民は視力7.0で3キロ先のシマウマもみつけられるって言うよ」 
 「ああっ、それを言いましたね言っちゃいましたね!?何度言わせれば気が済むんスかリョウさん、僕は生まれも育ちもビバリーヒルズの生粋のヒルズっ子でアフリカなんか行ったこともないってのに僕の肌が真っ黒いってだけで憶測でものを言うのよしてください、人種差別っスよそれ!?」
 「ご先祖はアフリカ育ちでしょ」
 「何代前のご先祖の話ですか。それ言ったらリョウさん、赤毛でそばかすのくせに日本語のが達者なアンタこそ何人スか!?」
 「さあ?半分はイギリス人だけどね」
 九死に一生を得た安堵に胸撫で下ろしながら愚痴れば、自称ヒルズっ子と主張して譲らないビバリーがいたくプライドを侵害されたらしく猛然と食ってかかる。僕のもう半分が何人かなんてこっちが知りたい。自分に半分流れる血の出所が判明してるだけロンはまだマシじゃないか。
 と、リングの方で唐突に歓声が膨れ上がった。
 何が起きたんだろう、と目を凝らす。僕らの視線の先、眩い照明に映える銀の檻の中では異変が起きていた。肘の関節を極められ、リングに組み伏せられたサムライの姿がまず目に入る。
 サムライを組み伏せてるのはロンチウで、そのまま力をこめれば腕が折れてしまう絶体絶命の窮地。
 「やばいじゃん」
 やっぱ木刀なしじゃ苦しいか、と思いながらのんきに呟く。喧嘩慣れしたヤンとロンチウに二人がかりでかかってこられちゃサムライだって苦戦せざるをえない。ひとりでふたりを相手どって体力を消耗してるとこにつけこまれちゃ成す術ない。
 サムライの背中を膝で押さえ、屈辱的な格好でリングを舐めさせたロンチウが何か言ってる。この距離からじゃ声は聞こえないけど、おおかた「思い知ったか日本人め」「エセサムライが」とか何とか口汚く罵ってるんだろう。双眼鏡の向こう、目を炯炯と輝かせてサムライを侮辱するロンチウの後ろに垣間見えるは応援席の凱一党。サムライには罵詈雑言のつぶてを、ロンチウには称賛のシャワーを。落差のはげしい台詞をそれぞれ浴びせ掛け、集団ヒステリーの猿の大群の如く金網を揺すりたててる。

 これじゃ本当にサムライが負けちゃう。

 僕はサムライの友達じゃないしサムライが死のうが怪我しようがぶっちゃけどうでもいいけど、これじゃあんまりあっけない。まだ試合は始まったばかりなのに……もうちょっと楽しませてくれなきゃ危険を承知でバスに上がった甲斐がない。
 ロンと鍵屋崎はどこ行ったんだよ?
 レイジを懐柔できるのはロンだけ、サムライを説得できるのは鍵屋崎だけ。うん、それは認めよう。でも肝心のふたりがいないんじゃどうしようもない、レイジはふてくされてるしサムライは間接極められて大ピンチだし……二進も三進もいかない状況がもどかしく、下唇を噛んだ僕の眼前で。
 サムライの肩が外れた。
 いや、正しくは外されたのだ。ごきり、と鈍い音が鳴った気がした。この距離からじゃそんな音聞こえるはずないし幻聴にはちがいないんだけど、情け容赦なくサムライの肩を外したロンチウの顔にはその瞬間もぞっとするような笑みが浮かんでた。無愛想で無表情なサムライもさすがにこれはたまらなかったようで、喉を仰け反らせて苦悶し、次の瞬間には顔を俯け、ぐったりと上体を突っ伏せたきり起き上がろうとしない。
 「ひっ!いだだたたっ」
 自分が肩外されたわけでもないのに、隣じゃビバリーが大袈裟に騒いでる。
 「さすが凱の子分、いい性格してる。武士にとっていちばん大事なのが刀握る腕だと知っててギャラリーの前で肩外したんだね、もう刀握れないように」
 露骨に顔をしかめたビバリーにちらりと一瞥くれてのんびり解説する。金網の外じゃ凱が狂喜していた。凱の子分どもも跳び上がって奇声を発し、サムライ相手に見事勝利をおさめたロンチウとヤンを祝福してる。ペア戦のルールじゃ対戦者が再起不能になるか降参したら敗北確定だから、肩の激痛に声もないサムライは当然負け……
 「ん?」
 「どうしたんスかリョウさん」
 ビバリーの疑問を無視し、双眼鏡の倍率を上げる。丸いレンズの向こう、両手を広げて歓声に応えるロンチウの足元に突っ伏していたサムライがもぞりと身動きした。ロンチウはまだ気付いてない、敗者復活の可能性など少しも鑑みず、また、ロンチウの勝利を確信した凱とその子分たちもこの期に及んでサムライがよみがえろうとは思ってなかった。
 全員の注意が逸れたのが幸いした。
 右肩を押さえ、慎重に上体を起こしたサムライが瞼をおろして深呼吸。疲労と激痛と顔色は悪く、青ざめて見えた。この双眼鏡はよっぽど性能がいいらしく、額に浮いた脂汗まで識別できた。汗にぬれた前髪をざんばらに額に貼り付かせたサムライの胸郭が上下し、そして―
 「―!っ、」 
 今度こそ、僕も顔をしかめた。
 「……信じられない。サムライのやつ、自分で肩はめなおした」
 どんだけ苦痛が伴うか想像したくもない行為を、サムライは平然と、なんの躊躇もなくやってのけた。脱臼癖がある人間ならコツを掴んでればむずかしくないらしいが、それだって、大の男でも絶叫しそうな激痛に耐えなきゃいけないのに。
 自分で肩を嵌めなおしたサムライが緩慢に立ちあがり、両手を上げて称賛の声に応じるロンチウへと忍び寄る。

 ―「ロンチウ後ろだ!」―

 背後に警戒を促したのは相棒のヤンで、その声はここまで聞こえてきた。会場の歓声を圧して響いた大声に振り向いたロンチウの頭上に影がさし、鞭のように俊敏に手首が撓り、手刀が鋭く翻り。
 水平に寝かせた手刀が、ロンチウの首の真横に叩きこまれた。
 刀を持たないサムライの現在唯一の武器は、刀に見たてた己が手しかない。
 手に馴染んだ太刀筋をなぞるように苛烈に、敏速に。
 急所に手刀を叩き込まれたロンチウがあっけなくリングに膝をつき、そのまま突っ伏して動かなくなる。
 交代を急かす相棒のもとへ逃げ帰る暇もない一瞬の早業だった。
 足元に倒れ伏した敵を見下ろすサムライの目には何の感情も浮かんでない。と、思いきや眉間に深い皺が寄り、歯を食いしばっても完全には抑圧しがたい苦痛の色が双眸に揺らめく。無理もない、自分で肩を嵌め直す荒療治でいっそ発狂したくなる激痛を味わったんだから。武士の意地だか何だか知らないけどああして平静を装えるだけ大したものだ。
 「根性あるっスね、サムライさん。相当痛かったでしょうに泣き言ひとつ言わずに……僕だったら絶対おしっこちびってますって」
 「サムライは武士の末裔だからねー。実家じゃ相当厳しい修行してたみたいだし肩はずれるとか日常茶飯事だったんじゃないの?ぞっとしないけどね」
 想像絶する激痛にも悲鳴ひとつ漏らさないのが武士の修行の成果、か。やるね。肩外れるのが別段驚くにも値しない日常茶飯事なら自分で直すやり方も必然覚えるはずだ。
 敵の隙をつき、あっけなく逆転したサムライのもとへ審判が駆けてゆく。
 「勝者サムライ、サムライ・レイジペアの勝利!」
 勝利を告げるゴングが高らかに鳴り響くも、サムライの顔色は晴れない。勝者の優越とも勝利の爽快感とも縁遠い沈痛な面持ちでリングを去り、次の試合の準備が整うまで小休止を挟む。金網の外へ出たサムライの背に浴びせ掛けられるは、不満爆発のブーイング。なんでもっと早く来ないんだよ、あと三十秒早くカウントとにきてたらロンチウの勝利だったろうが、と金網を滅多打ちして凱が審判に抗議する。
 まだ肩の痛みが残ってるのか、どこか覚束ない足取りで金網の外にでたサムライがちらりと周囲に視線を走らせる。鍵屋崎の姿をさがしてるんだと直感した。鍵屋崎がまだ帰ってきてないことを確認し、ついでにロンもいないことを再確認し、さすがに違和感を感じ始めたサムライだがすぐ隣にレイジがいるのに気付いて常通りの表情を取り繕う。
 サムライが肩を外されたその瞬間もレイジは指一本動かさなかった。
 「無視が徹底してる」
 ある意味あの演技力は見習いたいかもしれない。
 感嘆の吐息を漏らした僕をひややかに眺め、ビバリーが結論する。
 「子供なんでしょ、要するに」
 「どっちが?」
 「両方ともっス」
 言えてる。
 次の試合の準備が整うまで約五分、その間サムライには休息が与えられる。が、五分少々でどれだけ体力回復できるか実際怪しい。いつもは人や物によりかかることなく、凛々しく背筋を伸ばして立ってるサムライがこの時ばかりは疲労困憊して金網に肩を預けていた。サムライとレイジは互いを徹底的に無視して短い休憩時間で口もきかなかった。目さえ合わせなかった。
 頑固者同士の意地の張り合い、というより仲直りの仕方を知らない子供の喧嘩みたいだ。
 「仲直りにはさ、やっぱキスだよね」
 「へ?」
 付かず離れずの微妙な距離で、不均衡な沈黙を守るサムライとレイジとを双眼鏡越しに見比べる。双眼鏡を顔から放し、いたずらっぽい笑顔でビバリーを仰ぐ。
 「キスでだめならフェラチオだね。そりゃもう丁寧に舌使いに心をこめてフェラするわけよ、男娼なりの誠意の見せ方ってやつさ。効果抜群だね」
 「リョウさんの常識は世間一般にあてはまらないからまったく全然これっぽっちも参考になりませんス」
 「まあ確かにレイジにフェラするサムライもサムライにフェラするレイジも想像したくないけどねー」
 「ちょっとリョウさんとんでもないこと言わないでくださいっ、想像しちゃったじゃないスかああ!!」
 半泣きのビバリーに肩を揺さぶられて舌を出す。まあ想像したくないってのは同感だ。あんまりはげしく揺さぶられて手から双眼鏡が滑り落ちそうになる。そのへんにしといてよ、とご機嫌とりしたそばから不安が現実になった。
 「あーーーーーっ!!ぼ、ぼぼぼぼぼぼぼくの双眼鏡がっ、あらゆるコネを駆使して手に入れた800メートル先の女の首筋のホクロまでばっちりわかる双眼鏡がっ」
 「ビバリーが乱暴にするから悪いんじゃん、乱暴されて感じる趣味ないよ僕」
 バスの天井に膝をつき、がっくりうなだれたビバリーの背中があんまり不憫だったもんだから適当になぐさめてやることにした。まあ双眼鏡落とした責任の一端は僕にあることだしね。
 「そんな気に病むことないって、形あるものいつかは壊れるってむかしの偉い人も言ってたじゃん。あの双眼鏡はこうなる運命だったんだって。それにビバリーにはパソコンがあるじゃん、ええと、シンディだっけキャサリンだっけ?」
 「ロザンナっス」
 無機物に女の名前つけるなんてどうかしてる、真性の変態だなこいつ。
 そんな本音はおくびにもださず、猫なで声で続ける。
 「ロザンナちゃんが無事なら名無しの双眼鏡が壊れたって落ちこむことないよ、ロザンナちゃんに降りかかる災厄の身代わりで壊れたんだと思えばあきらめが……」
 「ああ、僕のサマンサがリョウさんにさんざんもてあそばされた末にポイ捨てされてしまった」
 双眼鏡にまで名前つけてんのかよ。
 しかも何気に人聞き悪いし。
 「~わかったようもう、拾ってくりゃいいんでしょ愛しのサマンサのご遺体をさ!」
 そりゃいやがるビバリーから無理矢理双眼鏡ひったくって独占したのは僕だけど、済んだことをぐちぐちとしつこすぎる。意外と根に持つタイプのビバリーにうんざりしてバスから下りようとして、「おーい」と間延びした声に反応。
 「「ん?」」
 ビバリーと顔を見合わせて下を向く。
 バスの真下、双眼鏡の落下地点にいたのはどでかいゴーグルをかけた囚人だ。ヤマアラシみたいな短髪の囚人には見覚えがある、西のトップ、ヨンイルその人だ。
 ヨンイルの手に握られた物を見て、「ああっ!」とビバリーが叫ぶ。
 「これおまえのか?さっき上から降ってきたんや、危うくドタマかち割られるとこやった」
 「西のトップも試合見物にきたの」
 危うくドタマかち割られるとこだったにしては呑気なヨンイルに、窓枠に足をひっかけてバスを降りながら聞けば、本人は八重歯を覗かせて笑いかけてくる。
 悪くない笑顔だ。
 「気分転換にな。図書室にこもってばっかじゃ体に悪いし散歩がてら敵状視察でもと」
 ヨンイルが心配げに目配せしたほうにはレイジがいた。
 「―思ってたんやけど、なんか雲行きあやしいな」
 「西の道化は知らなくても無理ないけどここんとこずっとあんなかんじさ」
 「喧嘩か」
 「みたい」
 「そや。お前ケツの具合どう?」
 ……言うなよ、それ。
 以前ヨンイルにケツの穴指突っ込んで奥歯がたがたいわせられた記憶がトラウマになってたから表面上平気なふりして話題を避けてたのに。苦虫を噛み潰した僕の表情ですべてを悟ったヨンイルが爽やかに笑い、ふいに真面目な顔になる。
 「念のため言うとくけど、今度ユニコに手え出したら奥歯がたがたどころの騒ぎやないで。くすぐり腸捻転の刑や」
 「わあ、ネーミング直球でおしおきの内容さしてるあたり素晴らしいね」
 たぶん僕は半笑いになってたことだろう。
 僕に続いてバスから下りたビバリーがへこへこ頭を下げながらヨンイルから双眼鏡を受け取り、「ああサマンサよく無事で!」と愛しげに頬擦りしてる。なんかもう変質者にしか見えない光景だ。
 双眼鏡に頬擦りするビバリーにどん引きした僕へと、ヨンイルが人懐こく話しかけてくる。
 「そういやアトムもといロンとなおちゃんの姿見えへんけど、どこ行ったんや。レイジとサムライはふたりの為に戦ってるのに薄情な……」
 「鍵屋崎は知らないけどロンならさっき凱たちに取り囲まれて、それから急にどっか走ってって……」
 「地下停留場でマラソンか?だだっ広いから息切れしそ……」
 ヨンイルの言葉が唐突に途切れ、ゴーグルの奥で不審げに目が細まる気配がした。反射的にヨンイルの視線を追えば、リングから離れた場所、喧騒の外側に突っ立ってる囚人が目にとまる。黒髪七三分けに黒縁眼鏡の人ごみから浮きまくった囚人を見つけた途端、ヨンイルの顔がパッと輝く。
 「メンドゥーサ!」 
 「「は?」」
 メデュ―サなら知ってる、頭が蛇の化け物だ。
 でもメンドゥ―サってなんだ、なんとなく人名ぽいけど……困惑した僕とビバリーをその場に残し、一目散にヨンイルが駆けていく。何故だか大はしゃぎで自分のもとへ駆け付けたヨンイルをその囚人は軽く片手を挙げて迎えた。
 ……で、メンドゥ―サってなに?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051213224409 | 編集

 首筋を汗が伝う。
 ボイラー室は暑い。縦横無尽に配管が交差した壁と天井が息苦しい圧迫感を与え、距離感が狂い出して眩暈さえ覚える始末。
 外側から施錠されたこの完璧な密室で、ドア一枚隔てて五十嵐と向き合う。
 何故五十嵐が外にいるんだ?
 暑さで朦朧とした頭で理路整然とした思考を紡ぐのは難しいが、それでも懸命に頭を働かせ状況分析する。僕は今この瞬間まで、ノブに手をかける瞬間まで外にいるのは凱の子分だと思いこんでいた。室内に見張り役一人だけはさすがに不安で、ボイラー室前の廊下にも見張りを残していったに違いないと半ば確信して先入観を抱いていたのに。
 凱が多少なりとも賢明なら室内と室外に最低見張り一人ずつ配置するだろうと警戒してノブを捻ってみたのに、ドアの向こう側から返ってきたのは意外な人物の声。
 五十嵐の声だった。
 「何故あなたがそこにいるんですか?」
 「……」
 詰問に被さるのはばつ悪げな沈黙。気まずげに頬を掻く五十嵐の横顔が脳裏に浮かぶ。重苦しく押し黙った五十嵐の反応に、脳の奥で違和感が膨れ上がってゆく。偶然通りかかったとは思えない。今は試合中、囚人も看守も東京プリズンの殆どの人間が試合会場に殺到した中で、こんな裏寂れた通路をひとりさまよってる理由がそもそも存在しない。
 用を足しにきた?トイレは方向が逆だ。だいたい五十嵐がこんな都合良く、僕が監禁されたボイラー室の前を通りかかるわけがないのだ。
 僕がボイラー室に監禁されてることを知ってるのは凱とその仲間、そしてあの男だけだ。
 それに五十嵐は今この瞬間に廊下を通りかかったというより以前よりそこにいた気配がある。ドア横の壁に凭れ掛かり、不機嫌に押し黙っていた節がある。何より変なのは靴音だ。コンクリートむきだしの通路を歩いていたのなら当然靴音が響くはずだ、しかしそれが聞こえなかったということは五十嵐は以前から変わらず廊下にいたという仮説が成り立つ。

 凱が出ていく以前から。気絶した僕がボイラー室に監禁された直後から。

 五十嵐は僕がボイラー室に監禁されたことを知っていた、知りながら黙認していた。以上の仮定から導き出される結論は……
 「……あなたには失望した」
 ドアに片方のこぶしを預け、苦く吐き捨てる。
 「今まで偽善者のふりで接してたくせに、本性はこれか。このざまか。凱に加担して見張り役までつとめるなんて、看守ともあろう人物が情けない」
 「言うなよ」
 ため息は肯定の証。ドア越しの返事にはうんざり気味の倦怠感が漂っていた。
 「おまえには悪いけど、こっちにもいろいろ事情があるんだよ」
 五十嵐の事情など知りたくもない。興味もない。
 ドアに背中を預け、木刀を膝においてその場に座りこむ。ボイラー室は外側から厳重に施錠され、外には見張り役がいる。室内の見張り役に口移しで睡眠薬を飲ませて眠らせてもドアに鍵がかかってるならどうしようもない、どんなに悪足掻きしても逃走不可能ならもう僕には打つ手がない。
 ドアに背中を預けてうずくまり、天井を仰ぐ。
 「すみやかに質問に答えろ」
 焦燥と失望とに苛まれた胸裏とは裏腹に、僕の声は低く落ち着いていた。言葉は淡々としていて、動揺も落胆も抑制した声音の下に塗りこめられてる。僕に質問された五十嵐がドアの向こうで顔を上げる気配がした。姿は見えないが、監禁状態の捕虜に命令口調で訊ねられた五十嵐が戸惑いの表情を浮かべてるのは察しがつく。
 「凱たちを裏であやつってるのはタジマだな?」
 「………」
 「沈黙は肯定と解釈するが」
 容赦なく五十嵐を追い詰める。シャツの背中越しに合板のドアの固い感触を感じる。木刀を懐に抱き、五十嵐の返事をただひたすらに待つ無為な時間。
 「……ばれちゃしかたねえな」
 十秒ほど沈黙を咀嚼した五十嵐がなげやりに言い捨て、僕はすべてのからくりを完全に理解する。
 五十嵐は何かの理由でタジマに脅迫されていた。周囲に知られたくない秘密をタジマに握られ、秘密裏に金を脅し取られていた。しかしそれだけでは済まなかった。弱みを握られた五十嵐が自分の命令に逆らえないのをいいことに、凱の企みに五十嵐を加担させ意に添わぬ見張り役という汚れ仕事を押し付けた黒幕はタジマだった。
 タジマこそが、一連の事件の首謀者だったのだ。
 「おかしいと思ってたんだ。ボイラー室は囚人が自由に出入りできる場所じゃない、鍵は刑務所側で厳重に管理されてるはずだ。ボイラー室の鍵を自由に持ち出せる人間は限られてる、すなわち一部の看守のみだ。タジマは人格に致命的欠陥がある変態性欲者で刑務所の檻の中よりむしろ精神病院の檻の中のほうがふさわしい立派な社会不適合者だが、何故か東京プリズンでは主任看守という高い地位にある。タジマならいつでも好きなときにボイラー室の鍵を持ち出せる。そして極め付けは」
 ちらりと奥の壁を見る。最前まで僕を繋いでいた手錠が、今はむなしく配管にぶらさがっている。
 「あの手錠だ。看守には暴動を起こした囚人を取り押さえるために手錠の携帯が義務付けられてる。凱に手錠を渡した人物は看守しか考えられない。そして、凱の企みを知っていながら快く手錠を貸す看守の有力候補は……売春班撤廃に強硬に反対し、なんとかペア戦100人抜きを阻止しようとしてる主任看守のタジマだ」
 一息に説明し終え、ヤケ気味に付け足す。
 「以上証明終了。異論があるなら聞くが」
 最初から最後まで淡々と言い終え、口調がどんどん戸籍上の父親に似てきたことを自覚して複雑な気分になる。
 僕に何か説明する時も鍵屋崎優は最高学府の教壇に立った時とおなじ、一片たりとも私情を挟まない講義口調を崩さなかった。血のつながりのない父親、それもこの手で殺した故人に似てきた事実を確認し、深刻な自己嫌悪に陥った僕の耳に届いたのは……
 拍手。
 「お見事、名探偵。いや、まったくその通りの名推理だ」
 「馬鹿にしてるのか?不愉快な拍手はやめろ」
 やる気のない拍手が止む。
 両手を体の脇にたらした五十嵐がドアに凭れ掛かったらしく、蝶番が耳障りに軋んだ。背中合わせに五十嵐の気配を感じ、膝の上の木刀を見下ろす。
 「……あなたのことは見損なった。東京プリズンでは珍しくできた看守だと思ってたのに、とんだ誤解だった」
 「きついな」
 五十嵐が乾いた声で笑った。僕は笑わなかった。付き合いで笑えるほど僕は器用じゃない。
 「今までのは全部演技か?僕や他の囚人に何かと良くしてたのは全部嘘か。大した役者だな」
 今の気持ちをどう表現すればいいのだろう。失望、落胆、幻滅。そのどれでもあってどれでもない気がする。言葉に置き換えれば「裏切られた」というのがいちばん近いかもしれない。
 裏切られた?ということは、僕は五十嵐を信用してたのか。
 そうだ、認めざるをえない。僕は五十嵐を信用してた。信じて頼れはしないまでも、信じて用いることには徐徐に抵抗を感じなくなっていた。五十嵐はなにより心待ちにしていた恵の手紙を僕に届けてくれた、手紙の内容は僕の淡い期待すら打ち砕くものだったがそれに関しては五十嵐を責められない。
 五十嵐は手紙の内容を知らなかった。
 他の多くの看守がそうするように、「検閲」と称して囚人のプライバシーを侵害する行為は慎んで他の囚人より少しだけ早く僕に手紙を渡してくれたのだ。
 僕も心の底で少しだけ、五十嵐に対する警戒を解き始めていた。
 東京プリズンにもまともな人間はいると、囚人を人間扱いしてくれる看守がいると、五十嵐と接するうちに考えを改めたのだ。
 その五十嵐が、タジマの言うなりに僕の見張り役につかされてるなんて。
 「……この状況で言い訳するだけみじめになるのはわかってるけど、べつに偽善者ぶってたわけじゃねえよ。いい人ぶりたくてお前に手紙を届けたわけじゃない」
 「同情か?」
 「……まあな」
 僕も頭ではわかってる、五十嵐がしたこと全部が演技ではないと、五十嵐は善意で動いたのだと。僕に手紙を届けたのも僕の手紙を届けてくれたのも全部五十嵐で、自分には何の利益もないにも関わらず労を惜しまず働いてくれた。
 五十嵐は根は善人だが、弱い人間だ。
 だからタジマの命令に逆らえなかった、弱みをばらすぞと脅されて自分を殺して従わざるを得なかった。
 なんて弱く卑劣な、唾棄すべき人間だろう。
 「おまえにはすまないことしたよ」
 「『した』?過去形は間違ってる、この場合は現在進行形で表現すべきだ。事実に即してな」
 「……閉じ込められても毒舌は健在だな」
 「ごく単純な文法の誤謬を指摘しただけで人格を疑われては不本意だな」
 「ああ、やっぱり」
 「?やっぱりとはなんだ」
 「タメ口のほうが話しやすい。囚人に敬語使われるの慣れてねえから、お前にですます調で応対されるとこそばゆくてよ」 
 「……そんなふうに思ってたのか」
 心外だ。これでも一応表面上は気を遣って、目上の人物に対する最低限の礼儀として敬語を使ってたのに。以前安田に僕は敬語のほうがより人を馬鹿にしてるように聞こえると言われたが、やはり心の底で全然まったくこれっぽっちも尊敬の念を抱いてないのが口調に表れるのだろうか。
 どうも鍵屋崎優との会話の癖が抜けきらない。
 僕は鍵屋崎優を心の底で軽蔑していて、その本心を装うために戸籍上の父親に敬語を使っていた。
 だから今もってわからない、普通の親子間の会話が、普通の親子間のやりとりが。
 「……退屈だ」
 手錠を外してから何分経ったのだろう。ちらりと部屋の奥に目をやれば、睡眠薬がよく効いてるらしく見張り役の少年はあくびをかいていた。よくこんな蒸し暑く寝苦しい環境で寝られるな、と神経の図太さに感心する。
 凱が戻ってくるまであと何十分、何時間だろう。その頃にはもう試合が終わってる、結果がでる。
 サムライは今どうしてる?無事だろうか。怪我はしてないだろうか。
 木刀なしでどこまで戦えるか―
 駄目だ、ひとりでじっとしてるととどんどん思考が深みに嵌まってしまう。最悪の結末に至るネガティブな可能性ばかり考慮してしまう。

 最悪の結末。死。サムライが死ぬ―?

 「!っ、」
 思考の悪循環だ。馬鹿な、サムライが死ぬわけない、彼に限ってそんなことあるわけないとくりかえし自己暗示をかけて自分を落ち着かせようと試みたが無駄だった。現に今僕の手の中には木刀があり、サムライは素手で戦ってる。レイジと交代できず、まわりは敵ばかりで決して退くことができない状況下で肉体的にも精神的にも追い詰められているのだ。
 ぐずぐずしてる暇はない、手錠が外れたのなら早く、今すぐにサムライのもとへ行かなければ。
 ボイラー室で蒸し殺されるまえに。
 「暇だな」
 背中越しに五十嵐が呟く。
 「……昔話でもするか」
 なにを考えてるんだこの男は。
 タジマに命令されるがまま僕を閉じ込めておいてのんきに昔話するつもりなら人格を疑う、あまりに非常識だ。そう抗議しかけ、ふと思いなおす。ひょっとしたら、僕の退屈を紛らわせようとの五十嵐なりの配慮か。べつに五十嵐の昔話に付き合う義理はないが、木刀を抱いてじっと座りこんでても状況は変化しない。
 今の僕にできることが何もないなら、五十嵐の昔話とやらに耳を傾けてやろうではないか。
 実際、くだらない昔話でも一時的に焦燥を紛らわすことができるなら有難い心境だった。
 「覚えてるか?まえに見せた写真のこと」
 唐突に聞かれ、記憶の襞をさぐる。
 脳裏に甦ったのは偶然見てしまった免許証入れの写真、活発そうな女の子。
 「リカって言うんだ。肌が色黒なのはカミさんがフィリピン人だからだ」
 混血が進んだ今の日本じゃ珍しくもない。事実東京プリズンにもロンを始めとする多くの混血児がいる。ロンの場合は両親ともアジア系黄色人種だから見た目じゃわからないが、中には外見ですぐハーフとわかる者もいる。
 「カミさんは第二次ベトナム戦争の戦火から日本に逃げてきた難民で、フィリピンパブで働いてた。俺と出会ったのもそのパブで、まだ俺は二十歳そこそこの若造で生まれて初めて同僚に連れられてったパブに舞い上がっちまって……とんだポカしちまった。女の子にいいとこ見せようと強くもねえ酒がぶ飲みしてぐだぐだに酔っ払っちまったのさ。同僚に笑われながら店の裏口でげえげえやってた時、背中を撫でてくれた女の子がいてな。ダイジョウブ、ダイジョウブ?って片言の日本語で聞いてきて、その優しさが身に染みた」
 五十嵐がはにかんだ気配がした。
 「それがリカのお袋。俺とおなじまだ二十歳そこそこで、日本に来たばっかで右も左もわからなくて不安でしょうがないってかんじで、でも優しくてよく気がついて。いつのまにかその子目当てに店に通い詰めて、いつのまにか恋仲になって。俺以外の男に太股さわらせるのがいやで、ある日店の裏口に呼び出して言ったんだ」
 『Mahal kita 』……マハル・キタ。
 フィリピン語で「愛してる」を意味する言葉を、五十嵐は呟いた。 
 「彼女は泣いた。日本の男から祖国の言葉を聞くなんて思わなかった、すごく嬉しいって。でもな、彼女が泣き出したことよりもっとびっくりしたのはその時もう腹ん中に子供がいて。俺は全然知らなくて、プロポーズと同時に初めて聞かされて。嫁さんとガキが一緒にできちまうなんて最高の気分だった。世の中に俺ほど幸せな男はいないって舞いあがっちまった。若かったな」
 五十嵐は本当に女性を愛してたのだろう。
 プロポーズと同時に一児の父親となったことに不安や戸惑いよりも喜びを強く感じ、フィリピン人女性を妻に、まだ見ぬ子供をまじえた幸福な家庭を夢見たに違いない。
 「結婚して、しばらくして子供が産まれた。女の子だった。カミさん似で、目がくりっとした可愛い子で……病院で初めて対面したとき、赤ん坊の抱き方わかんなくてまごついてたらカミさんと看護婦に笑われて。おそるおそる抱いてみたら本当に柔らかくて、ふんにゃりしてて。試しに人さし指だしてみたらさ、こう、きゅって握ってきたんだよ。俺の人さし指を五本の指で、きゅって」
 「それは反射的生理反応で父親を認識したからじゃない、前頭葉が未発達な赤ん坊は個人識別ができない」
 医学的見地からの指摘を無視し、五十嵐は続けた。
 「カミさんは日本に来てから日が浅くて慣れないことだらけで、スーパーでトイレットペーパー買うのも手こずるような有様で、俺が手伝ってやんなきゃ駄目で。おしめ代えたりミルクやったりなんでもした。リカがむずがったときはフィリピンの子守唄を歌った。カミさんから教えてもらった歌で、フィリピン語の歌詞とかわかんなくてデタラメに唄ってたけど、不思議とそれ聞くとリカの機嫌よくなって。ああ、やっぱりカミさんの血が流れてるんだなあってしみじみ感じた」
 「リカはすくすく大きくなった。大きな病気もせず、ちょっとおてんばすぎるんじゃねえかってこっちが心配になるくらいで、こんなんじゃ嫁の貰い手がねえなってからかったらふくれっ面で『婿養子とるからいいもん』だとさ。婿養子とか、小学校低学年の女の子がどこで覚えてきたんだかな」
 「思春期になるともっとマセた口きくようになって、ヒゲはちゃんと剃れとかシャツにはちゃんとアイロンがけしろとか毎日口うるさく注意された。カミさんは不器用でアイロンがけがへたで、皺だらけのシャツとかそのへんに放りっぱなしにしてたからな。親を反面教師に育ったリカがアイロンがけが得意のしっかり者になっちまうのも無理からぬ話で、うちにカミさんが二人いるみたいだった」
 真摯な愛情がこもった口調で五十嵐は語る。
 もう二度と戻らない日々を、近しく語ることによって引き戻そうとするかのように。
 「小学校五年のときだ」
 五十嵐の口調が妙によそよそしく改まり、微妙に雰囲気が変わる。
 「リカは修学旅行で韓国に行った。修学旅行で韓国なんて俺のガキの頃は考えられねえ贅沢だ。少子化で一学年完全一クラス制になって、修学旅行やら何やら金かけられるようになったからだろうな。まあいくら贅沢つっても金持ちの私立じゃねえから小学生の分際でオーストラリアとか無理だけど、日本出るのが初めてなリカはそりゃもう喜んで出発の日を楽しみにしてた。友達との思い出作りに、観光に、キムチ食べ歩きに……修学旅行の計画とやらを目を輝かせて話してくれて、俺とカミさんはにこにこしながら相槌打ってたよ。その時はまさか、リカが帰ってこれなくなるなんて思いもよらずに」
 「え?」
 「帰ってこなかったんだ」
 どういうことだ?
 僕の疑問をすくいあげるように、五十嵐が重い口を開く。
 「お前も覚えてるだろ。五年前に起きた韓国大統領爆弾テロ事件」
 「もちろん覚えている。今から五年前、韓国・朝鮮併合三十周年を記念するパレードの最中、沿道の群集に混ざってたKIAの党員が大統領の車の前にとびだしてきて……」
 「爆弾を投げ付けた」
 KIA、Korea Independent Alliance。
 韓国独立同盟と呼び習わされる反政府組織であり、韓国では過去に何十件もの爆弾テロを起こして政府に危険視されてる過激派である。その主義主張は一貫して韓国の独立を唱え、テロの弾圧に力をいれる現大統領とは水と油のように相容れない思想で国内外に知られてる。
 韓国・朝鮮併合三十周年を祝うパレードの最中に起きた爆弾テロ事件は、一般人を含む数多くの犠牲者をだした。大統領本人は一命をとりとめたが、沿道でパレードを見物していた一般人の中にKIUの党員が混じり、同時に爆弾を投擲した点が被害を無差別に拡散させる大きな要因となった。現場を混乱させ仲間の逃亡を助けるためか、彼らは野次馬でごった返した沿道で爆弾を破裂させる暴挙に及び、爆発に巻きこまれた民間人が五百四名死亡、重軽傷者は千二名にのぼる大惨事となった。
 「修学旅行とパレードの日が重なってたのが仇になった」
 思いもかけぬ五十嵐の述懐に虚を衝かれる。
 いやな予感がする。五十嵐の口調が奇妙に淡々としたものへと変化し、言い知れぬ不安が増す。
 「自由行動中のリカも現場にいた。友達と一緒にパレードを観に来てた。パレードの日と修学旅行が重なるように調整したのは学校側だとあとで聞かされた。生徒たちに韓国・朝鮮併合三十周年を記念して行われる盛大なパレードを見せてやろうと、長いあいだ分断されていたふたつの国が手に手に取り合って併合を祝うさまを見せてやろうと、教育関係者はそう考えたらしいな。全部あとになって聞かされた。もうとり返しがつかなくなってから」
 「じゃあ……」
 「そうだ」
 瞬間。 
 五十嵐の声が憎悪に軋り、ドア越しに強烈な殺意の波動が伝わってきた。 
 「リカは気違いどもの爆弾テロに巻き込まれて殺されたんだ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051212224605 | 編集

 鍵屋崎はどこだ?
 遠く会場の歓声が潮騒のように満ち引きをくり返す。
会場の盛り上がりは最高潮に達してる。対戦カードはサムライ対凱の子分で、今現在どっちが優勢かはこの目で見なきゃ断言できないが、木刀を失ったサムライがやすやす勝てるほどヤンもロンチウも生易しい相手じゃないのは確か。右手が使えなくても何とか勝てた今までの連中とはワケがちがう、相手はあの凱の子分、東棟最大勢力を誇る中国系派閥で実力でのしあがった二人だ。
 木刀を握りゃ無敵のサムライも、木刀がなけりゃ普通よりちょっと強いだけの男だ。
 一刻も早く鍵屋崎を見つけ出して木刀を取り返さなくてはサムライが負けてしまう。レイジの馬鹿は馬鹿でサムライが窮地に陥っても指一本動かさないだろうし、鍵屋崎は凱にとっつかまって身動きできねえ状態みたいだし、大袈裟に言やサムライが勝つも負けるも俺ひとりの肩に乗っかってる。

 ペア戦100人抜きなるか否かの命運は全部俺に賭かってるんだ。

 畜生、なんで俺ばかりこんな目に。
 俺はいつも損な目ばかり見てる、だれかの尻拭いばかりしてる。根がお節介だからしなくていい苦労をしょいこむんだとよく人から言われるし自分でもわかっちゃいるが、考えるより先に体が動いちまう性分はどうしようもねえ。凱もレイジもサムライも鍵屋崎も全員に腹が立つ、東京プリズン入所当初から凱はしつこく俺に絡んでくるしレイジは本に夢中で相棒手助けしねえしサムライは頑固だし、鍵屋崎に至ってはひょいひょい尻軽に拉致されすぎだ。以前監視塔でも二人そろって手錠につながれたことあったけど、あのバカ天才は自称天才なくせに学習能力がさっぱりない。猿でもできる反省ができないなんて猿以下だ。
 やつを見つけ出したら「次からもうちょっと警戒心もてよ」と襟首掴んで説教してやりたい。
 よし、そうしよう。
 くそ、走りっぱなしで胸が苦しい。全身の血がたぎって心臓が爆発しそうだ。凱が頼んでもねえのに恩着せがましく教えてくれたヒントとやらじゃ、鍵屋崎はこの地下停留場の「どこか」にいるらしい。

 「どこか」?どこだよそりゃ。

 そんな漠然としたヒントあてになるかってんだ。地下停留場はだだっ広い。試合会場の地下空間はもとより、地下停留場に繋がる通路だって何本あるんだか正確にはわからない。東西南北各棟から下りのエレベーターが到着する通路に蜘蛛の巣張った行き止まりの通路にそれからそれから……駄目だ、頭がこんがらがってきた。東京プリズンのひどく地理は込み入っていてムショ暮らしが長い囚人でもたまに迷子になるのに、入所一年半の俺がひとり歩きなんて無謀な試みするもんじゃない。
 とりあえず片っ端から通路という通路を行ったり来たりしてみたが、鍵屋崎はおろか人っ子ひとりいやしない。囚人はみんな試合会場に集結して、こんな薄暗い通路をうろうろしてる物好きは俺以外にいない。
 「鍵屋崎、どこにいんだよ!?」 
 廊下に叫び声がこだまする。
 コンクリートの壁と天井にこだました声が殷殷と鼓膜に染みてゆく。
 返事がない、ここもハズレか?待て、もっとよく探してみよう。俺はそそっかしいから何か見落としてるかもしれない。ついこないだタジマが五十嵐を脅してた階段の踊り場に駆け上がろうとし、疲労で足が縺れて段から滑りそうになる。
 危ね!ぐらりと体が傾いたその瞬間、反射的に手摺にしがみつく。
 辛くも転落は免れた。そのまましばらく手摺に凭れ掛かり、全力疾走で乱れに乱れまくった呼吸を整える。肺が破けそうだ、苦しくて死にそうだ。後生だから休ませてほしい、と弱音を吐きたくなるのをぐっと堪えて奥歯に力をこめる。弱気になったら負けだ、愚痴をこぼしてる暇あるなら足を動かせ。走れ、走れ、とにかく走れ。そして鍵屋崎を見つけだせ、このだだっ広い、通路一本一本を含めりゃ気が遠くなるほど込み入った地下空間のどこかに必ずいる鍵屋崎を見つけだせ。  
 「……にしても、だいぶ鈍ってるな」
 ちょっと本気出して走っただけで喘息のような息切れ、額には大粒の汗。東京プリズンに来てからすっかり体が鈍っちまった。外じゃチーム同士の抗争ではでに暴れて毎日警官に追われたけおかげで逃げ足が鍛えられたし、毎日生傷絶えずに喧嘩してたから並以上の体力と運動神経はあるんだが……反射神経と瞬発力には自信があるが持久力がないのが最大の難点か。イエローワークを抜けてから日が経つし、酷暑の砂漠で一日何百回もシャベルを上げ下げしてた頃と比べても体力が落ちてると認めざるをえない。
 俺も男だから鉄みたいな腹筋に憧れるが、もともと筋肉のつきにくい体質なのかいつまでたっても腹筋が六つに割れてこない。レイジに言ったら馬鹿にされるから口にはださないがちょっと劣等感も抱いてる。
 レイジの場合、過不足なく引き締まった理想的な体つきをしてる。豹のように精悍な体つきは筋骨の逞しさよりセクシーな柔軟性を感じさせ、その一挙手一投足が申し分ないしなやかさと美しさを兼ね備えてる。
 レイジならきっと、100メートル全力疾走したところで息切れひとつしないだろう。
 そう考えたらむかついてきた。レイジへの怒りに突き動かされ、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
 「鍵屋崎、隠れてねえで出てこいっ」
 一気に踊り場まで駆け上がり、薄暗がりをさまよいつつ鍵屋崎の名を呼ぶ。
 返事なし。
 舌打ちとともに踵を返した瞬間、顔面に粘着質の網が覆い被さってくる。
 「!?うわっ、」
 蜘蛛の巣だ。
 顔面に貼り付いた蜘蛛の巣を払いのけ、粘ついた感触が残る顔をごしごし擦る。くそ、蜘蛛の巣ごときにびびって情けねえ。こんなとこでもたついてる場合じゃねえってのに。自分の間抜けさに腹を立て、後ろも振りかえらずに階段を駆け下りる。
 これまで見て回った場所は全部はずれだ。
 まだ見て回ってない通路は半分以上……指折り数えただけで眩暈に襲われる。片っ端から通路を行ったり来たりして鍵屋崎さがして声張り上げてみたが捜索範囲が広すぎて効果がない。鍵屋崎がいる通路だけでも絞りこめないものだろうか?地下停留場も駆けずりまわってみたが鍵屋崎はいなかった。凱が鍵屋崎を拉致って試合終了まで隠しておくとしたら、試合中は人けのない通路のどれかに決まってる。
 鍵屋崎の居場所に見当つけようと頭を働かせ、俺に頭脳労働は向いてないと悟る。慣れないことはするもんじゃない、ますますこんがらがっちまったじゃねえか。普段使い慣れない頭を働かせたせいで動悸息切れに頭痛までしてきた。
 こうなりゃヤケだ。考えてる暇があったら走れ、がむしゃらに走れ。 
 隅から隅まで走ってりゃいつかはきっと鍵屋崎が見つかるはずだ。問題はそのいつかがいつになるかで、サムライの試合中に間に合わなけりゃすべてがパァだ。

 よし。

 大きく深呼吸し、肺に酸素をとりこむ。出走。加速。破れ鐘のような心臓の鼓動が耳裏に響き、目に流れこんだ汗で視界が滲む。通路から通路へ、階段から階段へ、隅から隅へ。駆けあがり駆け下り突っ走り引き返しまた戻り、延々それを繰り返してるうちに方向感覚と距離感が狂って自分の現在位置さえ混乱してわからなくなる。
 「鍵屋崎、いるなら返事しろ!」
 通路を行きつ戻りつ、大声で叫ぶ。反応なし。ふと視界の端を掠めたのは白いドア。
 もしかしたら。
 期待と不安とを抱いてドアを開け放ち、中へとびこむ。光沢あるタイル張りの床をスニーカーのゴム底で踏み鳴らし、周囲を見まわす。だれもいない。いや、まだ決め付けるのは早い。手近のドアを開け放ち、中を覗きこむ。いない。次のドア。ここにもいない。次の次、そのまた次へとドアを乱暴に開け放って中を改めてみたがどれも無人。それでも諦めきれず、タイルの床に片膝ついて便器の中を覗きこむ。
 「……俺は馬鹿か、こんなとこにいるわきゃねえっつの」
 だいたいどうやって便器の中に隠れんだよ、え?
 トイレの個室を片っ端から改めて、便器の中まで確認したのにさっぱり手応えも手がかりもなくて、俺はもうヤケになって片足に体重をかけてペダルを踏みこんだ。勢い良い水流の便器に背を向け、憤懣叩きつけるように扉を閉じる。
 トイレもはずれ、階段もはずれ。
 あと残ってるのは……どこだ?
 
 そうだ。あそこだ。

 なんで今まで気付かなかったんだ?いや、気付かないふりをしてたのか。確かにあそこにはいい思い出がないしできることなら近付きたくなかった、でも今は緊急事態だ、えり好みしてられない。
 全力疾走でトイレを飛び出し、ただ前だけ見て廊下をひた走る。 
 あそこへの道順は覚えてる、以前ホセをトイレに案内した道順を逆に辿ればいい。この角を右に、左に、この道をまっすぐ……もうすぐだ。
 「よう半半、頑張ってるか」
 三番目の角を曲がろうとして、突然声をかけられた。
 反射的にそちらを向けば、下劣なツラに吐き気がするほど見覚えあるガキが三人、にやにや笑いながら通路の壁に凭れ掛かっていた。群れて吠えるしか能がない凱の子分どもだ。
 待ち伏せされた?先回りされた?
 「……てことは、この道が正解か。迷路の出口教えてくれて謝謝」
 どうやら俺の勘は正しかったらしい。この先に鍵屋崎がいるのは間違いない、じゃなきゃ前もって俺の通過点を予測して待ち伏せするような卑劣な真似できるわけない。
 「泣かせるねえ、お友達のためにそんなに息切れするまで頑張ってよ」
 「どうせ負けちまうのにな、サムライは」
 「今サムライとヤってんのは悪名高い残虐兄弟だ」
 「血のつながった実の兄弟で、娑婆じゃふたりで組んで何十人って女犯してきた婦女暴行魔のコンビだ。チームワーク抜群のユエマオにサムライ風情が勝てるわけねえよ」
 「刀がねえんじゃなおさらだ」
 「言いたいことはそれだけか」
 こいつらの相手をしてる暇はない。
 でかい図体で通路に広がって俺を通せんぼした連中をきっと睨み付ける。
 「とっととそこをどけ。今俺は無茶苦茶機嫌が悪い、どかないと叩きのめすぞ」
 脅しではなく本心だった。
 もう少しで鍵屋崎に辿り着けるのに、木刀を取り戻せるのに、性懲りもなく凱の子分に絡まれて時間食ってサムライの試合に間に合わなくなったら俺は絶対に自分が許せない。体の奥底でちりちりと闘争心が燻り始める。長らく忘れていた指先に静電気が走るような感覚、こめかみの血管が熱く疼いて視界が赤く染まる憤怒。この感じ、この高揚感こそ俺がさんざん娑婆で慣れ親しみ、体の細胞の隅々まで馴染んだ感覚。 
 池袋のチームにいた頃はいつもこうだった。  
 いつだれに背後から鉄パイプで襲撃されるかわからない敵味方入り乱れた修羅場で、殴って蹴って頭突いて足払いかけて転ばせて、目に砂利が入ろうが全身泥だらけになろうが体のあちこちが擦りむけようが、自分の身がどうなろうが構わずに、目の前に立ち塞がる敵にがむしゃらにつっかかっていった記憶がよみがえり、好戦的な衝動に血が騒ぐ。
 「どかないと叩きのめす?お前、だれにむかって口きいてんだ」
 案の定、俺に宣戦布告されたガキが不快感をあらわにする。血の汚れた半半よか中国人の自分のが各段に偉いんだぞ、と奢り高ぶった傲慢な面構えだった。
 「凱さんにやられっぱなしでびくついてたガキが、本人いないとこじゃよく吠えるもんだな」
 「レイジに贔屓されて調子のってんじゃねえか?」
 「はは、言えてら。教えてくれよ半半、どうやって王様たらしこんだんだ?アレでもくわえてやったのか、ケツでも貸してやったのか」
 悪意渦巻く揶揄と嘲笑に晒され、恥辱で頬が熱くなる。拳を握り締めて通路に立ち尽くす俺を等間隔に取り囲んだガキどもがねちねちと絡んでくる。
 「ケツ貸す相手間違えたんだよ、おまえは」 
 「最初から凱さんにケツ貸してりゃ良かったんだ。100人抜きなんて大きく出ても達成できなきゃ意味ねえだろうが、レイジがいくら化け物じみて強くたって二対百なんて無茶すぎだ」  
 「今からでも遅くねえ、俺たち全員のモノしゃぶってから凱さんのモノしゃぶれば仲間にいれてやっても……、」
 くどいと評判の鍵屋崎の言いまわしを真似てみよう。
 右側のガキが馴れ馴れしく肩に手を置いたその瞬間に、俺は「虫唾が走る」の定義を身をもって味わうことになった。
 「お断りだ」 
 「!!?ひっででてっ、」
 ガキの手に手を重ね握手で親愛の表現、と見せかけておもいきり手首をひねりあげる。容赦はしなかった、容赦したら負けるのが喧嘩の鉄則だ。痛い痛いと訴えるガキの手首を雑巾絞りの要領でひねりあげ、皮膚が赤く変色すると同時に解放する。
 「こいつ…………、」
 雑巾絞りされた手首に吐息を吹きかけ、激痛に潤んだ目でこっちを睨むガキ。包囲の輪が威圧的に狭まり、嵐の暴威の如く険悪な雰囲気が吹き付けてくる。蛍光灯が点滅する薄暗い廊下、俺たち四人以外には人けがなく、通行人もいない。ここで俺が殺されても試合終了まで気付かれもしないと断言できる。凱の子分どもは俺を殺す気満々らしく、憤怒に目をぎらつかせ、興奮に鼻息荒くして歩を詰める。
 蛍光灯が消えるか、何かほんのちょっとしたきっかけで均衡が崩れりゃ途端に俺にとびかかってくるだろう。
 上等だ。そんなにヤりたきゃヤってやる。
 「そんなにしゃぶってほしけりゃ仲間同士で股間舐め合ってろよ。凱の犬なら犬らしくお互いのケツの匂いでも嗅いでろ」
 きっかけは俺の挑発だった。
 「半半のくせに舐めた口ききやがって!!」
 殴り合いの喧嘩はずいぶんと久しぶりだが、チームの抗争で何度となく修羅場をくぐりぬけた日々の習性はまだ抜けてないらしく、顔面めがけて迫り来たこぶしにもとっさに対応できた。スッ、と首を傾げてこぶしをかわし、その場に屈みこんで足払いをかける。
 面食らったのは俺をつかまえようと背後で両手を広げた別のガキで、眼前でいきなり俺が消失した次の瞬間には、足払いですっ転んだガキが頭から突っ込んでって廊下に尻餅ついた。
 こいつら動きが鈍い。
 三人とも図体がでかいから腕力じゃかなわないが、反射神経とすばしっこさじゃ俺が勝ってる。体格差で有利なガキ三人相手に勝つにはスピードで翻弄して体力を消耗させ、ばててきたところで急所に一発。これがいちばんラクで賢いやり方だ。
 俺はまえに喧嘩が好きじゃないと言ったが、それでもやっぱり血が騒ぐ。これまでさんざん凱の子分どもにいたぶられてきた不満と鬱憤を爆発させ、お返しとばかりに暴れ回りおもいきり体を動かすのは滅茶苦茶気持ちがいい。全身の血が燃え滾る高揚感もだれかをぶん殴る爽快感もここしばらく忘れていた。
 「―!っが、」
 ……て、言ってるそばから腹に蹴りをもらった。
 激痛に目が眩んだ。スニーカーのつま先で鳩尾を抉られちゃたまらない。片腕で腹を押さえ、額に脂汗を滲ませ一歩二歩あとじさる。引くな、引いたら負けだ、隙を見せるんじゃない。脳裏の警鐘に促され、鳩尾の痛みを堪えて腕をどけ、砕けそうな膝を叱咤して足腰を踏ん張る。
 腹筋が痛くて、深呼吸で痛みを散らすこともできない。
 弱みを見せるな、喧嘩じゃ弱みを見せたほうが負けだ。瞼を閉じ、今一度涙腺を締めなおす。目を開けて見下ろせば囚人服の腹にはくっきりと靴跡がついていた。
 ひりひり疼く鳩尾から顔を上げた途端、
 「よそ見すんなよ!」
 と奇声を発して突っ込んできたガキがひとり、ふたり、さんにん……三人?
 『所有的人!?』 
 全員かよ!?
 こいつらの辞書には正々堂々って載ってないのかよ、三人がかりなんて卑怯すぎていっそ笑えてくる。一人で三人を相手どるのはやっぱ無茶だったか、あのサムライだって一人で実質二人を相手どって苦戦してるのに、そこそこ喧嘩が強いだけが取り柄の俺が勝てるわけ―……
 壁際に追い詰められた俺の頭上で寿命間近らしい蛍光灯が不規則に瞬く。長い間手入れされてないらしく、蛍光灯の笠には埃が積もって蜘蛛の巣が張っていた。
 蜘蛛の巣?
 その手があったか、と脳裏で必勝法が閃く。絶体絶命、壁を背にした俺めがけ、三人団子状になったガキがこぶしを振り上げ意味不明の雄叫びを撒き散らして突進。
 先頭のガキが嬉々と顔を輝かせ、快哉を叫ぶ。
 「とどめだ!!」
 「どうだかな!」
 素早く後ろを向き、力一杯壁を蹴りつける。壁の震動が天井に伝わり、不規則に瞬いていた蛍光灯の明かりがふっつり消え、狭苦しい通路がすっぽりと闇に覆われる。
 「ぶわっ!」
 「な、なんだこれ気持ちわりい、顔がねばねばするっ」
 俺の予感は的中した。
 寿命間近の蛍光灯に衝撃を与えてとどめをさし、視界を暗くする。通路が突然暗くなって、俺の場所がわからなくなったガキどもは動揺する。その上に舞い落ちたのは蛍光灯にかかってた蜘蛛の巣だが、暗闇でその正体がわからない連中はますます混乱する。顔にへばりついた蜘蛛の巣をとろうと躍起になってる連中は、右も左もわからない暗闇で同じ地点から身動きとれない。一方俺は暗闇に響く声から敵の位置が把握できる、奴らが騒げば騒ぐほど俺にとっちゃ好都合だ。
 今だ。
 勢い良く床を蹴り跳躍、一気に距離を稼ぎ暗闇で敵に肉薄。接近を勘付かれるまえに相手の鳩尾に蹴りを入れ、その隣のガキをぶん殴る。
 暗闇に目が慣れてきたらしく、最後の一人がこっちに気付いた。
 「あ、」
 なにか言いかけたその鼻っ柱に渾身のこぶしを叩きこむ。たしかな手応えとともにぬるりとした液体がこぶしをぬらしたのは、いい具合に顔面にこぶしが入ってガキが鼻血を噴いたからだ。鼻骨は折れてないと思うが暗闇じゃ確証は持てない。まあ死んでないだけマシだ。床にうつ伏せた三人を身軽に飛び越え、通路の先をめざして走りながら苦汁を飲みこむ。
 こんな勝ち方は本意じゃない。正々堂々殴り合って勝てるものならそうしたかったが、今は時間がない。やむをえない状況とはいえ、停電の暗闇で動けなくなった敵に勝っても素直に喜べない。
 後味の悪さを吹っ切れずに通路を走り、遂に目指す場所に辿り着いた。
 ペア戦開幕日に俺がタジマに連れ込まれたボイラー室だ。
 鍵屋崎の居場所と聞いてまず真っ先にボイラー室を連想しなかった自分の馬鹿さ加減がいやになる。鍵屋崎を閉じ込めておくならこれほどふさわしい場所もない。ボイラー室に用がある囚人なんているわきゃないし、このあたりには必然人けがない。人に知られたくないいかがわしいことするにはぴったりの場所だ。
 無意識にボイラー室を避けてたのは言うまでもなくこないだの一件が原因で、タジマに関係する場所には今もできるだけ近付きたくないのが本音だがいざ仕方ない。タジマの気配が残っていようがいやな思い出しかなかろうが、鍵屋崎がいるなら助けてやらなければ。
 そう決意してボイラー室へと歩み寄り、ドアのそばの人影に目を細める。
 「五十嵐?」
 びっくりして声を上げてしまった。それもかなり大きな声を。
 俺に気付いた五十嵐がゆっくりとこっちを向く。気のせいか疲れた顔をしていた。
 「なんでこんなとこにいるんだよ」
 「……ちょっと、地下停留場の人ごみで気分が悪くなってな。頭冷やしにきてたんだ。ここならほかに人目ねえしゲロ吐いてもばれねえだろ」
 「汚ねえこと言うなよ」
 でも、待てよ。五十嵐がここにいるということは、俺の推理は外れか?
 俺はてっきりボイラー室に鍵屋崎がいるものと思いこんでたけど、もし仮に五十嵐がずっとボイラー室前にいたんなら中の異変に気付かないはずがない。
 「なあ、ちょっと聞きたいんだけど。いつからここにいた?」
 「かなり前から」
 「かなり前って」
 慎重に問い詰めれば、腕時計に目をやった五十嵐が曖昧に答える。
 「そうだな、三十分くらい」
 「そのあいだなんか変わったことなかったか」
 「……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ」
 「たいしたことじゃねーよ」
 いや、たいしたことあるけどさ。
 「ボイラー室に用か?念の為教えとくが、ボイラー室にゃ勝手に出入りできないよう鍵かかってるぞ」
 「え?だってこのまえは……」
 「このまえ?」
 やばい。慌てて口を噤む。五十嵐の不審の眼差しに顔を俯け、口の中だけでタジマを罵倒する。タジマのくそったれが、立ち入り禁止のボイラー室の鍵わざわざ持ち出してまで俺連れこんだのか。でも待てよ、ボイラー室の鍵を持ち出せるのが看守だけなら囚人の凱はボイラー室に入れない、鍵屋崎をボイラー室に入れることもできない。五十嵐も「自分がここにいたあいだ何も変わったことは起きなかった」って証言したし、実際中から聞こえてくるのは低いモーター音だけだし……
 「……またはずれか」
 がっくりした。
 一気に疲労感が募った。ボイラー室に鍵屋崎がいないなら他にどこを捜せばいいかさっぱりわからないし、捜索は完全に行き詰まった。三人殴り倒して体力浪費して馬鹿みたいだ。棒のような足を引きずり、今来た通路をとぼとぼ引き返そうとして……
 「ん?」
 足元の床一面に水溜りができていた。
 「どうした?」
 背後の五十嵐が声をかけてくる。返事を返そうとして、ある疑惑が芽生えて口を閉ざす。コンクリート剥き出しの天井にも壁にも水漏れの痕跡はない。この水はどこから流れてきたんだろう、と不審に思いながら目で辿ればボイラー室のドアにぶちあたった。
 ボイラー室のドアの下から、じわじわと水が滲み出してくる。  
 おかしい。
 怪訝そうな五十嵐と床の水溜りとを見比べ、いやな胸騒ぎをおぼえる。
 
 『そうだな、三十分くらい』
 『そのあいだなんか変わったことなかったか』
 『……いや、なんにも。どうしてそんなこと聞くんだよ』

 あの不自然な間はなんだ?
 五十嵐はこの床一面の水溜りに気付かなかったのか?床一面の水溜りに靴を浸して突っ立っていながらなにもおかしなことはなかったと、全然異変に気付かなかったとそう証言したのか?
 変だ。
 まさか、五十嵐が嘘をついてる?
 その可能性に思い当たると同時に、俺はボイラー室のドアを力一杯拳で殴り付けていた。
 「鍵屋崎、いるのか!」
 「おい、どうしたんだよ!?」
 狼狽した五十嵐が俺の肩を掴んでドアからひっぺがそうとするのを無視、狂ったようにドアを叩く。ドアの下からはどんどん水が溢れてきて今や廊下の広範囲が水浸しの状態だ。一面の水溜りにスニーカーを浸し、こぶしが痛くなるまでドアの表面を乱打しながら、不吉な予感が次第に現実味を帯びてゆく沈黙に耐える。
 おかしい。鍵屋崎が中にいるならなんで返事をしない?
 鍵屋崎の身に何か起きてるのか?
 「鍵屋崎、返事をしろ!!」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051211224721 | 編集

 「話はおしまいか?」
 ドアに背中を預け、愛想のない声で聞く。
 「……ああ、これでおしまいだ」
 「何故僕にそんな話を?」
 何故娘の死因を僕に明かしたのか、五十嵐の意図が不明だ。五十嵐は看守で僕は囚人だ、いくら五十嵐が囚人に分け隔てなく接することで知られた親しみやすい看守でも刑務所における明確な上下関係がそこにはある。ましてや伴侶との馴れ初めから故人となった娘の死因に至るまで、公私混同して語っていいのだろうか。
ただでさえ囚人に慕われて同僚に煙たがられてる五十嵐のことだ、職務上一線を引くべき囚人にプライベートな話をしたことがばれれば看守の立場も危うくなるのではないか?
 五十嵐は黙っていた。回想の余韻に浸っているのか感慨に耽っているのか、放心したように虚ろな沈黙が廊下に落ちていた。ドアに妨げられて姿は見えないが、漠然と五十嵐の行動が予測できる。
 今は亡き娘の面影を確かめようと免許証を開き、写真を見つめる。
 孤独な父親の顔をして。
 「……さあ、なんでかな」
 「僕しかいないから気を許したのか」
 「それもある。だれかに聞いてほしかったのかもな」
 五十嵐が嘘をついてるようには思えなかった。
 それも五十嵐の本心には違いない。娘の死から五年が経過した今も五十嵐はそのショックから立ち直れてない。「いってきます」と元気に出かけていった娘が、まさか修学旅行先の韓国で爆弾テロに巻き込まれて死亡するとは想像しえなかったのだ。
 五年前に韓国で起きた爆弾テロのことはよく覚えている。
 僕には当時から鍵屋崎優の意向と影響ですみずみまで新聞を読む習慣があり、家のテレビではニュース番組と教養番組を主に視聴していた。韓国・朝鮮併合三十周年記念パレード中に発生した爆弾テロは新聞の一面で大きく報じられ、各局のニュース番組でも連日取り上げられた。
 KIAの知名度が一躍高まったきっかけの事件である。
 当時から徐々にテロ行為が活発化していた隣国の革命組織のことなど十歳の僕の関心外だったが、朝鮮併合三十周年記念パレードという国家行事の最中に起きた韓国史上最悪の大規模テロであり、ごく一般的な常識と平均的な知識としてニュースや新聞から一通りの情報は得ていた。
 KIAとは韓国独立を提唱する過激派の革命家が集まる組織であり、自らの主義思想を押し通すためにはテロ活動も辞さないことで政府に危険視されている団体である。KIAの革命家がパレード中の沿道で爆弾を爆発させたせいで家族連れの見物客など五百四名の民間人が死亡、重軽傷者は千二名にのぼる大惨事に発展したと先に述べたが、修学旅行中の日本の小学生も何人か犠牲になったとの記述を新聞で読んだ。 

 それがまさか、五十嵐の娘だったなんて。

 「同情してほしいか?」
 そっけなく聞く。五十嵐の当惑が伝わってくる。
 「同情してほしかったんじゃないのか」
 「……はっ。おまえに同情してもらうほどおちぶれてねえよ」
 「僕に話して多少なりともすっきりしたか?精神科医のカウンセリングで大事なのは終始聞き役に徹し、患者が話し終わるまで相槌以外の言葉を挟まないことらしい。以上の前提条件から僕は精神科医に不適任だが、似非カウンセリングでも多少の効果はあったようで何よりだ」
 「閉じ込められても毒舌治んねえな」
 「僕から毒舌をとったら頭脳しか残らない」
 きっぱり言い返せば五十嵐が苦笑した、ような気がした。僕はといえば懺悔を聞かされた気分だ。懐かしむように過去を語る五十嵐の口調に滲んだ自責の念が何に起因するかはわからない。父親として無力な自分、娘の死を予期できずにむざむざ修学旅行に行かせてしまった自分に対する怒りだろうか。
 どちらにせよ、僕ができることは心理分析のみで五十嵐が抱えている心の傷を癒すことは専門外だ。そっけない対応に失望したか、しばらく黙っていた五十嵐がぽつりと本音を漏らす。
 「……このまえ、リカみたいなこと言われたから思い出しちまったんだよ。昔のこと」
 確かに先週、「アイロンくらいちゃんとかけたほうがいい」と身だしなみを注意したが。
 「僕と娘とを混同してるのか?あきれたな」
 「そうだな」
 力ない笑い声をあげた五十嵐の顔が脳裏に浮かぶ。一気に十歳も老け込んだような中年男の顔。
 「あきれちまうな、こんな父親」
 五十嵐がどんなに情けない父親でも鍵屋崎優よりはマシだ。
 喉元まで出かけた言葉をぐっと飲みこむ。五十嵐をフォローしたいわけじゃない、僕はそんなお人よしじゃない。今もこうして他愛ない世間話をしてるが、五十嵐はタジマに命令されて僕を閉じ込めている張本人だ。五十嵐がボイラー室の前にいる限り、僕は試合終了までボイラー室から一歩も出れずに無為な時間を過ごさねばならない。僕がこうして五十嵐の昔話に付き合わされているあいだ、サムライは苦戦してるにちがいない。そればかりか五十嵐はこれまで偽善者のふりで僕を騙してきたのだ、不幸な身の上話を聞かされたところで反感を覚えこそすれ同情できるわけがない。
 ……そのはずなのに、僕は五十嵐に裏切られた今も、五十嵐を心の底からは憎めずにいる。
 鍵屋崎優は研究者としては優秀だったが父親としての自覚がまるでなく、子供のことを遺伝子操作したモルモットと同一視してた向きがある。僕は鍵屋崎優に対してなんら親愛の情も尊敬の念も抱いてない、あんな俗物を戸籍上の父親と認めたくない。鍵屋崎優は僕に膨大な知識と教養と衣食住が整った快適な環境を与えてくれた、その事には感謝している。
 しかし、彼からそれ以外のものを貰った記憶がない。
 僕はいい、最初からそんなもの興味なかったから。両親に愛してほしいとか誉めてほしいとか、幼い子供なら当然抱くはずの承認欲求すら殆ど覚えたことがない。物心つく前、本当に幼い頃はそう思っていたのかもしれないが僕はすぐに「彼らに愛情をねだるのは愚かだ」と学習した。
 無から有は生み出せない。
 気付いてみれば単純な話だった。鍵屋崎優も由香利も研究者としては立派な人物だが、親としては致命的欠陥があった。可哀想なのは恵だ。僕は自我が芽生える前段階の人格形成時に両親に失望していたからそれ以上絶望を味わうこともなかったが、恵はあの鍵屋崎優と由香利の実子でありながら、ごく平均的な……言いかえればごく健全な感性を有してしまった。子供が両親の愛情を求めるのはごく普通のことで、求めても求めても愛情を与えられない子供は「自分には愛される価値がない」と卑下して自信喪失し、他人の顔色を気にするあまり自己主張できない内向的な性格が形成される。
 恵が上手く周囲との人間関係を結べず、哀しい思いばかりしていたのは鍵屋崎優と由香利の責任だ。「鍵屋崎夫妻の長女」の重責からクラスに溶け込めず同年代の子供の集団に馴染めず、恵はいつも一人ぼっちで泣いてばかりいた。
 恵を哀しませるのは、いつも両親の無関心と無神経だった。
 僕は恵を哀しませる人間が許せなかった。たとえそれが戸籍上の両親であっても。
 だから鍵屋崎優と由香利を殺して恵を守ろうとしたのに……
 『おにいちゃんなんか大嫌い』
 「残念だな」
 物思いから覚めた僕は、五十嵐の嘆きに眉をひそめる。
 「リカが生きてたら今ごろたいした美少女になってただろうによ、出会った頃のカミさんそっくりの」
 「恵のほうが可愛い」
 「恵?……ああ、妹か。本当にシスコンだなおまえ」
 「親馬鹿に言われたくない」
 「子供のことで馬鹿にならない親なんていねえよ」
 冗談めかして言った五十嵐の虚勢が痛々しい。五十嵐は卑劣で惰弱な偽善者だが、鍵屋崎優と比べればどれほど誠実な父親かわからない。さっき僕は五十嵐が公私混同してると非難したが、僕こそ五十嵐の中に「父親らしい父親」の幻影を見てるのは否定できない。
 鍵屋崎優に五十嵐の何十分の一でも子供を思いやる気持ちがあったのなら、僕は今東京プリズンにいないはずだ。
 遺伝子工学の最高権威たる鍵屋崎優は、将来研究を継がせる後継者と有望視していた長男に刺殺された悲劇の父親として新聞の一面で報じられずに済んだはずだ。
 自分の犯した罪を被害者に責任転嫁するつもりはない。僕が鍵屋崎優と由香利、つまりは戸籍上の両親を殺害したのはあくまで僕の意志でだれに命令されたわけでもない。 
 ただ、恵の医者の手紙を読んでから。
 いや、恵と引き離される寸前、恵が叫んだ言葉を思い出してから僕はずっと煩悶していた。現在に至る道のりが何かひとつでも違えば、こんな結末にならなかったのではないか。鍵屋崎優と由香利がもう少し恵に愛情をかけていたら、優しい言葉のひとつでもかけていたら恵は追い詰められずにすんだのではないか。
 あの時、ナイフを握らざるをえないほどに追い詰められずにすんだのではないか。
 もう過ぎたことだと頭ではわかっている。過去には戻れないのだからいまさら何を言っても無駄だ。ありえざる未来の分岐点を指折り数えてもむなしくなるだけで、誰も、僕自身も救われない。
 もし鍵屋崎優と由香利が、五十嵐の何十分の一でも恵のことを考えていてくれたのなら。
 「……故人になにを言っても無意味だが、何十分の一でも見習って欲しかったな」
 「え?」
 ため息まじりの独り言を聞き咎めた五十嵐が間抜けな声をだした、その時。
 「!」
 ドアの向こう側、廊下の空気が変容した。硬質の靴音をコンクリートむきだしの地下通路に響かせ、誰かがこちらにやってくる。反射的に立ちあがり、唾を嚥下して身構え、片耳をドアの表面に密着させる。ドアの向こうに五十嵐以外にもう一人、だれかがいる。
 だれだ?
 「よう、ちゃんと仕事してるか。サボってねえようで感心感心っと」
 野太い濁声が鼓膜を叩く。この声は……、
 『言えよ』
 『そんなんじゃ聞こえねえよ。もっと大きくはっきりと、』 
 『男にヤられながら妹の名前呼ぶなんて変態だな』
 ああそうだ、忘れられるわけがない。現実でも夢の中でも日夜僕を責め苛む、呪縛的な声の主を。その声を聞いた途端、まだ顔も見ないうちから背中に冷水を浴びせ掛けられた気がした。よろけるようにドアから距離を取った僕の視線の先、凝視したドアの向こうでは看守二名の会話が繰り広げられている。
 「タジマ……どのツラ下げて来やがった。ひとに見張り役押しつけて陣中見舞たあいいご身分だな」
 「怒んなよ、おまえと俺の仲だろが。心配して様子見にきてやった同僚にもう少し優しくしてもバチあたらねえだろ」
 「いつまでこうしてりゃいいんだよ」
 五十嵐の口調にどうしようもない苛立ちが覗く。
 「言っただろ、ペア戦終了までだ。ペア戦がすみゃ凱たち帰って来るからそれまでの辛抱だ。暇なら親殺しのケツで遊んでりゃいいんだろ。あいつのケツ使い心地いいぜ、売春班でたっぷり仕込んでやったからな」 
 「タジマ!」
 激昂した五十嵐がタジマに食ってかかるが、タジマの笑い声に変化はない。五十嵐の抗議などはなから取り合わずに軽く言う。
 「どれ、親殺しはどうしてるかな。ボイラー室ん中でミイラ化してなきゃいいけどな。ちょっくら様子見てくるから鍵貸せよ」
 ボイラー室の鍵は五十嵐が持っていたのか。
 なるほど、タジマの手から譲渡されたのだろうが看守の五十嵐ならボイラー室の鍵を所持してても不自然ではない。ただの囚人にすぎない凱が鍵を持ち歩いてることがばれれば看守の関与が疑われて事態がややこしくなる。見かけによらず用心深いタジマが五十嵐に鍵を預けたのは無難な予防策といえる。
 「………、」
 五十嵐の躊躇が濃厚に伝わってきた。タジマと僕とを密室でふたりきりにすれば何が起きるか、どんな事態が発生するか漠然と察しがついたのだろう。それでも五十嵐は逆らえなかった。じゃらりとうるさい音を鳴らして五十嵐が鍵束をとる光景が脳裏に浮かび、一歩、また一歩と足が後退する。
 鍵が鍵穴にさしこまれる音、鍵の先端の形状と鍵穴の型が噛み合う金属音。
 鍵が半回転すると同時に蝶番が外れ、耳障りな軋り音をあげてドアが開く。

 逃げるか?

 一瞬判断に迷ったがすぐに冷静さを取り戻す。逃げれるわけがない。廊下は五十嵐が見張っている、ドアの向こうにはタジマが立ち塞がっている。タジマに体当たりして突き飛ばすには体格差がありすぎ、横幅の体積に差がありすぎる。仮にタジマを突き飛ばすことができても僕の足で五十嵐をまくのは不可能だ。
 絶望で足が固まり、成す術なく立ち尽くすしかない僕の眼前で完全にドアが開く。
 タジマがいた。
 隣には五十嵐がいた。僕と目を合わすのを避け、苦渋に満ちた顔で俯いている。五十嵐は僕を閉じ込めていた張本人なのだからまともに目を合わせられない気持ちはわかる。
 通路の蛍光灯を背にしたタジマが、大股にボイラー室へと踏み入ってくる。
 「すぐに閉めろ。鍵も忘れんなよ」
 五十嵐とすれちがいざま、素早く耳打ちしたのを聞き逃さない。おそろしく卑猥な笑顔のタジマの意図を正確に察し、五十嵐が何か言おうと口を開きかけたが、いまさら何を言っても無駄だと反論の気力も尽きて憂わしげに黙りこむ。
 『すまない』
 謝罪の眼差しを冷淡に無視する。これから自分を見殺しにしようとしてる人間を許せるほど僕は度量が広くない。僕は五十嵐を心の底から憎めはしないが、心の底から軽蔑する。これ以上五十嵐の顔を見てると不快さと怒りから来る暴力衝動を御せなくなる。体の脇で拳を握り締め、五十嵐もタジマも視界に入らないように下を向く。 
 まだなにか言いたげに室内にとどまっていた五十嵐が、「早く行けよ」とタジマに追い払われ、後ろめたげに振り返りながら廊下に出る。ドアを閉ざして鍵をかけた五十嵐が僕を見殺しにした罪悪感に苦しもうが知ったことではない、僕はこれからもっと酷い目に遭うのだから。
 否、正確には「遭わされる」のだ。目の前の、この男によって。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051210224830 | 編集

 「器用だな」
 タジマの視線が僕の手首へと注がれる。手錠を外した左手首へと。
 「どうやって手錠外したんだよ、縄抜けの特技があるなんて知らなかった。まさかたあ思うが」
 そこでちらりと床に目をやり、大の字に寝転がっている少年を顎でしゃくる。
 「見張りを誘惑して外してもらったのか」
 「そうだと言ったら?」
 僕はもう諦めていた。タジマの考えていることなどお見通しだ。抵抗しても避けられないなら無抵抗で受容したほうが体の負担が軽くなる。ヤケ気味の僕の台詞に、タジマは一瞬驚き、次の瞬間にはこの上なく愉快そうな笑顔になった。
 「ふたりきりになるのは久しぶりだな」
 「正確にはもう一人いますが」
 タジマに敬語を使うなんて反吐が出る。でも、敬語を使わなければ何をされるかわからない。床に寝転んだ囚人をそっけなく一瞥すれば、揚げ足をとられて癇に障ったのか、タジマの形相が険悪になる。大股に歩いてきたタジマが胸ポケットに手を入れる。
 タジマの指先で鈍く輝いているのは、安全ピンの針の先端。
 何をする気だ?本人に確認するまでもなく、どうせろくでもないことに決まってる。予想通り、大股に僕に接近したタジマに手首を掴まれて壁に押し付けられる。壁際に追い詰められて身動きできない僕の足元では睡眠薬で眠らされた囚人が豪快な寝息をたてている。
 手にした木刀でタジマを攻撃する選択肢を考慮しなかったわけではない。しかし、勝算はあまりに低い。タジマを攻撃してドアに走り寄っても外側から施錠されてればどのみち逃げられない。壁に背を預けた僕の耳元で、いやらしくタジマが囁く。
 「五十嵐はちゃんと言うこと聞いたみたいだな、鍵かける音が聞こえた。躾のいい召使だぜ。こないだはロンいじめるのに夢中になって鍵閉め忘れて邪魔者が入ったからな、通りがかりのお節介野郎にお楽しみパァにされねえよう今度は気をつけなきゃ」
 「ロン?彼に何かしたのか」
 「敬語を使え」
 まずい。不機嫌になったタジマに前髪を掴まれ、顔を上向きに固定される。タジマの右手では安全ピンが光っている。
 鋭い痛みが生じた。
 タジマの手が下降し、ズボンの膝のあたりに安全ピン先端を突き刺されたのだ。いや、突き刺されたというより突つかれたと表現したほうが正しい。ズボン越しではたいした痛みを感じなかったが、皮膚にちくりと走った刺激にいやな予感が増す。僕は性的刺激に一切反応しない不感症だが、どういうわけだが痛覚は正常に働く。太股に落ちた安全ピンが膝から上へとじれったく這い上る途中、鋭利な先端がズボン越しの皮膚をなぞる刺激が、微電流でも通すみたいに神経に伝達される。
 膝から太股へ、太股から腰へ。たまに圧力をこめて鋭い痛みを与えながら、安全ピンの針が上方へと移動してゆく。へたに払い落とせばタジマの手元が狂って目玉を刺されそうで、僕は呼吸さえ止めて自分の体をなぞる安全ピンの行方を見守るしかない。
 「ここ最近、俺に抱かれなくて物足りなかったろ」
 そうに違いないと決め付けた口調でからかわれ、急激に怒りが沸騰した。
 「!―っ、」
 「おっと、動くなよ。ぶすりと刺しちまっても知らねえからな」
 安全ピンの先端に圧力が加わり、痛覚への刺激に条件反射で体が硬直する。シャツの上から卑猥な戯れにへその窪みをつついていた安全ピンが上へと移動し、嗜虐心に酔った笑みがタジマの顔に広がる。
 「ずいぶん大人しくなったな。俺の躾の成果だな。ご褒美にピアス穴開けてやるよ」
 屈辱と羞恥に染まる僕の顔と自分の手とを見比べ、ぞっとするような提案を述べる。性感帯を探らんと、シャツの上から執拗に胸の突起をつついていた安全ピンを耳朶に押し当てられる。
 「僕にピアスは似合わない、」
 「遠慮すんなよ」
 「遠慮ではない、事実だ」
 強硬に反対したところで、僕の意見を聞き入れる素振りなどタジマには微塵もない。耳朶を掴まれ、人体で最も柔らかく敏感な皮膚に針を埋めこまれかけ、性的興奮に勃起したタジマの股間が目に入ると同時に生理的嫌悪が我慢の限界に達する。 
 金属質の針のひやりとした感触が両親を刺したときに握っていたナイフの感触と重なり―
 「やめろ!!」
 「ぎゃっ!?」
 気付けば無我夢中で叫んでいた。殆ど反射的にタジマの手から安全ピンを叩き落とし、疼く耳朶に手をやる。緊張の糸が切れて壁際に座りこんだ僕の正面、手首を押さえたタジマが憎憎しげに唸る。
 「親殺しの分際でよくも……、」
 次の瞬間、タジマがとびかかってきた。
 僕に反抗されたことで逆上したらしく、目を血走らせて口角泡を噴いた凄まじい形相で胴に跨られる。嗜虐心に火がつき、残虐な衝動に駆り立てられたタジマが僕に馬乗りになって力任せに襟首を締める。タジマの手の甲に血管が浮かび、握力をこめるごとにその血管は太くなる。押し倒された衝撃で背後の壁で後頭部を打ち、眩暈に襲われて手足に力が入らない。血管中に水銀でも注射されたみたいに鈍重な動作で顔を上げれば、朦朧とぼやけた視界にタジマの顔が映る。
 「そうか、そんなに俺に乱暴されるのが好きか、痛くされるのが好きか。しょうもねえど淫乱だなお前は、東京プリズンで真性のマゾに目覚めちまったわけか。いいさ、目覚めさせた張本人のこの俺様が責任とってやるよ」
 唾を飛び散らせ、性欲に目をぎらつかせ、僕の太股に勃起した股間を擦り付けながら続ける。
 「覚えてるか?売春班におちるまえまでお前はオナニーも知らなかったんだよな、一人でヤるの覚えるまえに男にヤられちまったんじゃ悲惨だな。感謝しろよ、オナニーもバックも対面座位も全部おれが教えてやったんだ。ぴったりそばで監督してその体に教え込んでやったんだ。一人で気持ちよくなるやり方覚えて東京プリズンの暮らしが楽しくなったろうが!」
 「馬鹿、を言うな。全部貴様に命令されてやったことだ、僕の自由意志じゃない。貴様に強制されなければ誰があんな屈辱的な真似をするか、だいたい僕は不感症だ、一人でやろうが誰にやられようが一切性的快感を感じないように出来てるんだ」
 下肢が弛緩して立つこともできない、このままではタジマに犯されてしまう。逃げなければ、早く逃げなければ。せっかく売春班から逃れられたのに、来る日も来る日も男に犯される生き地獄から解放されたのに、ここでタジマに犯されたらすべてが水の泡だ。 

 『ああ、やっぱりだ……妹の名前呼ばせると締まりよくなるな。興奮してんのかよ近親相姦の変態が』
 まただ。
 また、僕を捕まえようと手が追いかけてくる。

 今度は幻覚じゃない、現実だ。現実に僕は危機に瀕してる。物分りよく無抵抗を決めこむのはやめだ、また男に、それもタジマに犯されるなんて冗談じゃない。サムライは今も戦ってる、売春班から僕を救い出すためにペア戦100人抜きを成し遂げるべく戦っている。
 サムライが戦っているのに、彼を死地に赴かせた僕が戦わなくてどうするんだ。
 僕の決断とは裏腹に、上に跨ったタジマが発情期の犬みたいに首筋を舐めてくる。生温かい粘膜とやわらかに蠢く襞とが、濃厚な唾液の筋で首筋をぬらしてゆく。
 「聞けよ。お前が好きな大人の玩具しこたま買いこんだんだ、売春班に戻ってきたらたっぷり仕込んでやる。しばらくこなしてねえからケツの穴縮んじまったかもしんねーが、」
 「『僕が好きな』?今そう言ったのか、貴様は」
 口元に笑みが浮かぶ。押さえようにも押さえきれない憎悪が瘴気のように噴き出す笑顔。
 「何回おなじことを言わせれば気が済むんだ度し難い低能が、僕はどんなセックスにも快感を感じない不感症だと再三言ってるだろう。卑猥な玩具が好きなのは貴様、そう、今僕の目の前で下品に笑っている虐待性愛者で少年愛好者の真性の変態、僕の首を締めて股間を勃起させてる人間の屑の方だ」
 「なっ……、」
 皮肉げな笑顔で暴言を吐けば、怒りのあまり口もきけなくなったタジマが目を見開く。 襟首を掴んだ手が緩み、どうにか上体を動かせるようになった。上体を起こした拍子に、背後の壁を通っていた配管に肘が触れた。配管に水を通して暖め、暖房用の水蒸気に気化させるのがボイラー室の役割である。僕の肘がぶつかった配管にも水が通ってるらしく、ボイラー室にたちこめる水蒸気で眼鏡が曇る。
 水。その手があったか。
 曇ったレンズ越しにタジマを睨み付ける。タジマに気付かれぬよう右手の木刀を握りなおし、体の脇に引きつける。
 「それとも」
 慎重に、悟られないように。壁の配管に背中を凭せ掛け、怒りに絶句したタジマを挑発。
 「あなたが玩具を好むのは、『それ』で僕を満足させる自信がないからですか?」
 タジマの股間に顎をしゃくり、斜に構えた笑顔を浮かべてやれば思ったとおりの、いや、思った以上の反応を引き出せた。
 「~~~~こっんのクソガキがああああああああっ!!」
 怒り狂ったタジマが咆哮、両腕を広げて僕に襲い来る。今だ!心の中でカウントをとり、タジマの注意が手元から逸れたまさにその瞬間に、右手の木刀で後ろ向きに配管を刺突する。水蒸気が濛々と噴き出す接合部を直撃し、来るべき事態を予期して上体を突っ伏す。
 ―「ぎゃああああっ!?」― 
 配管の接合部から噴出した水がタジマの顔面を直撃する。いくらボイラー室でも視界を遮るほどに水蒸気がたちこめてるのは異常だ。何箇所か配管の接合が緩んでいるにちがいないと予想して賭けにでたのだが、上手くいった。びしょぬれでうろたえるタジマの横を走り抜け、横ざまに木刀を抱えてドアに駆け付ける。
 「ここを開けろ五十嵐!早く!」
 「なっ、……」
 ドアを閉じて施錠し、中で起きてることには見て見ぬふりを決めこんでいた五十嵐が狼狽する。
 「いいから早く、もう時間がない!早くしなければサムライが負けてしまう、僕には木刀を届ける義務がある!!」
 眼鏡のレンズが曇って周囲が良く見えない状況がさらに焦りと苛立ちを加速させる。ドアの向こう、顔の見えない五十嵐に焦慮に揉まれて叫べば、突然背中を殴られる。
 「舐めた真似しやがって!」
 まともに水を浴び、紺の制服の上半身をどす黒く染めたタジマが、水蒸気の帳の向こうから姿を現す。僕を殴打したのはタジマが腰から抜いた警棒だった。そのままタジマに殴り倒され、背中を床に強打して肺が圧迫される。転んだはずみに木刀を落としてしまった。五指からすり抜けた木刀を手探りで拾おうとして、そんな暇も与えられず首を締められる。
 「看守に逆らったらどうなるかわかってんだろうな親殺し、これからじっくり時間をかけて生まれてきたこと後悔させてやるよ!安全ピンで目ん玉抉って欲しいか、爪の肉のあいだに刺してほしいか?泣き喚いても無駄だ、容赦しねえからな。お前が痛がれば痛がるほどこちとら楽しいんだ、楽しくて楽しくて笑いが止まらなくなんだよ!」
 僕に馬乗りになったタジマが渾身の力をこめて首を絞め上げる。気道が圧迫されて満足に呼吸できず、窒息の苦しみに顔が充血する。脳に十分に酸素が届かず、視界が薄暗く狭窄して思考が泡のように拡散してゆく。

 僕はこんなところで死ぬのか?
 タジマに殺されるのか?
 サムライに会えず、恵にも会えず、何一つやるべきことを果たせずに殺されるのか?

 「おいなにやってんだよタジマ、中でなにが起きてんだよ!?しまいにゃ上の人間呼んでくるぞっ」
 ドアの外の五十嵐が焦れた手つきで鍵束を探ってるらしく、金属の鍵と鍵とが触れ合う耳障りな音がした。しかしタジマは振り返りもせず、僕の首を締める手を緩めもせず怒鳴り返す。
 「ひっこんでろ五十嵐、看守クビになりてえのか!?!失職したくなきゃ黙って俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ。お前が仕事クビになったらフィリピ―ナの嫁はどうすんだよ、情緒不安定なアルコール依存症患者で毎日酒に溺れてるカミさんをどうやって養ってくんだよ?精神病院送りか強制送還か知らねえが無職の中年男が生活費いれられるわきゃねえしどのみち家庭崩壊だな。あ、悪ィ、おまえの家庭はもうとっくのとうに崩壊してるか!可愛い可愛い娘がばらばらの肉片になった五年前にな!」
 「………っ!!」
 満腔の憎悪をこめ、こぶしでドアを殴る音がした。
 五十嵐とタジマとの言い争いを意識朦朧と聞き流しながら、気道を圧迫する太い指を掻き毟る。つま先で床を蹴り、少しでも手の力を緩めようと抵抗してるうちに幻聴の靴音が近付いてくる。
 幻聴?違う、現実だ。
 廊下の向こうから、だれかがボイラー室目指してやってくる。タジマもそれに気付いたのか、表情を固く強張らせてドアに叫ぶ。
 「……五十嵐、わかってんだろうな。だれがこようが何食わぬ顔でごまかせよ」
 「………」
 五十嵐は無言だった。片手で僕の首を絞め、もう片方の手で僕の口を塞ぎ、タジマが言い聞かせる。
 「おまえもだ。助け呼ぼうなんて気ィ起こしてみろ、絞め殺すからな」
 言われなくても、首を締められていては叫び声もあげられない。喉を掌握され声帯を封じられた今の状態では、ボイラー室へとやってきた誰かに位置を知らせることさえできない。
 僕が助かる道はただひとつ。
 ドアを凝視するタジマから視線を外し、目だけを動かし、今だ水が噴出する配管の継ぎ目を見る。ボイラー室の床を浸した水溜りがドアの下から廊下へと広がりだすのを確認し、何の目的かは知らないがボイラー室に足を運んだ人物が異変を察してくれないかと期待する。
 そうして遂に、ボイラー室の前で足音が止む。
 固唾を飲んでドアを凝視するタジマの下、ぎこちなく顔を傾げてドアを見る。
 廊下で立ち止まったその人物は、ドアの前にたたずむ五十嵐に意外げな声をあげた。
 「五十嵐?」
 ロンだった。   

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051209224934 | 編集

 「鍵屋崎、返事をしろ!!」
 こぶしでドアを殴打しながら鍵屋崎の名を呼ぶ。
 が、返事はない。変だ、絶対おかしい。鍵屋崎は中にいないのか?俺の勘が間違ってたのか?ドアの下から廊下まで染み出して一面水浸しにしたこの大量の水は水漏れの事故かなんかで鍵屋崎には全然関係ないのか、鍵屋崎はここにはいないのか?殴れども殴れどもドアの向こうからは何の応答もなくて次第に不安が募ってくる。
 いやな胸騒ぎ。
 「くそっ、」
 舌打ちし、足腰踏ん張って力一杯ノブを引っ張る。右に左にがちゃがちゃ捻ってみるが鍵がかかってるらしくてびくともしない。
 俺の予感が正しければ鍵屋崎は絶対中にいるはずだ、ボイラー室以外はさんざん捜し回ったんだから残るはここのみ。なんてこたない、単純な消去法が正解に辿り着く一番の近道だったわけだ。しかし鍵屋崎が中に閉じ込められてるならなんで返事をしない、精一杯の声張り上げて居場所を知らせてこない?考えられる可能性はふたつ。鍵屋崎が中にいないか、いても返事をできる状態じゃないか。後者ならちんたらやってる場合じゃねえ、鍵屋崎は今危険な目に遭わされてると見て間違いない。
 手遅れになる前に助けなければ。
 「五十嵐、鍵貸せ!」
 そばでぼんやり突っ立っていた五十嵐を一喝、五十嵐のズボンのポケットに無理矢理手を突っ込んで鍵束を探る。あった。最初は気付かなくてうっかり見過ごしちまいそうになったが、全身を注意深く観察してみりゃポケットが不自然に膨らんでたから五十嵐本人が鍵を持ってるとすぐにわかった。
 「お、おい何すんだ!?」
 五十嵐のうろたえた声を無視してポケットをまさぐり鍵束を掴み取る、五十嵐の制止に背を向け、力づくでひったくった鍵束を一本ずつ鍵穴にさしこむ。回す。ハズレ。次、これもハズレ。くそっ、どれがボイラー室の鍵だよ!?苛立ちが頂点に達して叫びだしたくなるのをぐっとこらえ、手が汗でぬめりそうになるのに難儀しながら一本ずつ鍵を鍵穴に当て嵌めてゆく。駄目だ、これも違う。
 「ロンやめろ、鍵を返せ!」
 『打優!』
 背後でなにか喚いてる五十嵐を「邪魔だ」と一蹴する。早く早くと気ばかり焦って一向にボイラー室の鍵が見つけられない、中で何が起こってるかわからないが鍵屋崎が大変な目に遭ってる予感がする。悪い予感ってのは往々にして外れないもんだ。早く本物の鍵を見つけなければ―

 前にもおなじ状況に直面した。
 これとよく似た場面を体験した。

 体の中で鳴り響く心臓の鼓動が壁越しのノック音と重なり、一気に時間が逆流する。売春班の仕事場で鍵屋崎の隣部屋に入れられた俺は、飲まず食わずで閉じこもってるあいだずっと通気口から聞こえてくる悲鳴や喘ぎ声や泣き声に耳をふさぎ、卑怯に卑劣に臆病に知らんぷりを決めこんでいた。壁に両手をつかされ、後ろから挿入されてる鍵屋崎がその反動で壁を叩いても何もできなくて、ドアをぶち破って助けにとんでく度胸もなくて、ただ無力感を噛み締めて壁にこぶしを預けて立ち尽くすしかなくて。

 またあの時の二の舞なのか?
 俺はまた鍵屋崎を見殺しにするのか?

 ―冗談じゃねえ。
 あんな情けない真似もう二度と死んでもごめんだ、俺はもう逃げも隠れもしない、鍵屋崎を見殺しになんてしない。絶対このドアをぶち破ってやる。奥歯に力をこめ、指先に全神経を集中させ目を凝らす。どうか間に合ってくれ、無事であってくれと気も狂わんばかりに祈りながら鍵穴に鍵をさしこみ―
 かちゃり、と小気味よい金属音。
 『打開!』
 開いた!
 祈りが天に通じたのか神様の気まぐれか、苦心惨憺の末にようやくボイラー室のドアが開いた。躍り上がって喜ぶのは後回しだ。勢い良くドアを蹴り開け、濛々と水蒸気に煙る中へと殴りこむ。水蒸気の濃霧をかきわけて中へと進んだ俺が見たものは、ぐったり仰臥した鍵屋崎とその上に跨って首を絞めてるタジマ。
 「!!なにやってんだよっ、」
 頭が真っ白になった。
 なんでここにタジマがいるんだとか冷静な疑問は頭から吹っ飛んで、俺は一目散にタジマにとびかかった。水ですべりやすい床を蹴って加速、助走、跳躍。鍵屋崎に馬乗りになり、片手で首を絞めてるタジマを体当たりで突き飛ばす。激突の衝撃で鍵屋崎の胴から転げ落ちたタジマが「ぎゃっ!」と悲鳴をあげて床の水溜りに突っ込む。
 「大丈夫か鍵屋崎、しっかりしろ!」
 はげしく咳き込む鍵屋崎の首にはくっきりと手形の痣がついていた。タジマの指に圧迫された痕だ。体を二つに折って噎せ返る鍵屋崎の背中を撫でながら、肥満体ゆえに水溜りで溺れかけ、苦労の末にずぶぬれの上体を起こしたタジマを睨みつける。
 「なんでおまえがここにいんだよ、タジマ」
 「相変わらず鈍いな、タジマが黒幕だからに決まってるだろう」
 「は?」
 首を絞められて殺されかけたというのに、鍵屋崎ときたらそばに片膝ついて背中を撫でさすってやってた俺をそっけなくどかし、小さく咳をしながら痣になった首に手をやる。
 「半年前の事件を思い出せ。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたとき、凱たちを裏で操ってたのはタジマだった。今度もおなじだ。売春班撤廃に反対意見をもつタジマはペア戦100人抜きを阻止するため凱たちに命じてサムライから木刀を奪い、試合終了まで僕を監禁するという強硬手段をとった」
 鍵屋崎の声は掠れていた。タジマに長いあいだ首を絞められてたせいだろう。咳まじりの掠れ声で理論整然と説明した鍵屋崎は、水溜りに尻餅ついたタジマを針より鋭い軽蔑の眼差しで突き刺していた。
 瞬間、ここ一連の事件すべてが腑に落ちた。
 三日前俺が残虐兄弟に脅迫されたのも、今日鍵屋崎が木刀を持って行方をくらましたのも、裏じゃ全部タジマと凱が手を組んで計画したことだった。東棟最大の中国系派閥のボスで三百人の囚人を傘下におさめる凱は自分と性格が似た主任看守のタジマと仲が良くて、賄賂の見かえりにたびたび悪さを見逃してもらってる。半年前も凱とタジマに遊び半分で殺されかけたが、今度もふたり手を結んで俺たちを襲うなんて……
 「くそったれ」
 はっきり声にだして悪態を吐く。もう我慢の限界だった。タジマは東京プリズン入所当初から俺に目をつけてる。売春班で煙草の火を押し付けられた記憶は夜毎夢に見るほど生々しくて、一生消えない火傷の痕が鎖骨と脇腹と右手の甲の三箇所に残ってる。これまでもこれからも俺はタジマに付け狙われる運命なのか?本当にうんざりする。
 「あれ?でも五十嵐は、」
 五十嵐はどうして嘘をついたんだ。ボイラー室の中に鍵屋崎がいないなんて、そんな嘘を。
 「きみは馬鹿か?五十嵐が共犯者だからに決まってる」
 少しは頭を使わないと脳細胞が壊死するぞ、と鍵屋崎に嫌味を言われてもすぐにはぴんとこなかった。理解の遅い俺に焦れたように捨て鉢な口調で鍵屋崎が続ける。 
 「五十嵐はタジマに弱みを握られ脅迫されてたんだ。言うことを聞かないと周囲に弱みをばらすぞと脅されて不承不承ボイラー室の見張りにつかされていた……そうですよね、五十嵐さん」
 鍵屋崎が振り仰いだ方向につられて目をやれば、開け放たれたドアの向こう、水溜りの真ん中に呆然と五十嵐が立っていた。冷然と鍵屋崎に直視され、五十嵐はすまなそうに顔を伏せた。その態度がなにより雄弁に鍵屋崎の言葉が真実だと告げていた。
 「嘘だろ」
 鍵屋崎の口から真実を聞かされてもまだ信じられなかった。いや、信じたくなかった。五十嵐がタジマの共犯者だなんて何かの間違いか悪い冗談であってほしかった。ヨンイルの口から五十嵐の凶行を聞かされたときも俄かには信じられなかった、いや、信じたくない気持ちが強かった。あんなに親切にしてくれたのに、バンソウコウだってくれたのに。落ちこんでる俺に麻雀牌くれて「元気だせよ」と肩を叩いてくれた、あれも全部芝居だったのか?
 「本当なのか五十嵐?でも、脅されて仕方なくやったんだろ。だったら……、」
 だったらなんだ?
 五十嵐が鍵屋崎を見殺しにしたのは事実だ。鍵屋崎が首絞められて苦しんでるときに見て見ぬふりで廊下に突っ立ってたのは動かし難い事実だ。五十嵐の口から否定してほしくて、おそるおそる念を押してみたところで一度失墜した信頼は回復できない。希望を捨てきれず、すがるように必死な声音で詰問しても、五十嵐はこっちを見ようともしなかった。鍵屋崎の言葉が事実だと全面的に認めるつれない態度で。
 「……そいつの言うとおりだ。軽蔑してくれてかまわねえよ」
 「―っ、」
 やり場のない怒りをこめ、こぶしで床を殴りつける。 
 俺が甘かったのだ。東京プリズンに本心から囚人のことを気にかけてくれる看守なんているわけないのに、ちょっと優しくされただけで気を許して、手懐けられた猫のように警戒心を捨てて。鍵屋崎の面を見たら「もうちょっと警戒心もてよ」と説教してやろうと心に決めていたが、五十嵐の嘘を信じてまんまと回れ右した俺にこいつを叱る資格なんてない。
 甘かった。他人なんか信じるんじゃなかった。そんなこと娑婆でさんざん思い知らされたのに―
 「!」
 背後に忍び寄る気配に先に体が反応、床に座りこんでた鍵屋崎を突き飛ばす。俺に突き飛ばされた鍵屋崎が最前まで座りこんでた床めがけ、風切る唸りをあげて警棒が振り下ろされる。
 警棒が床に衝突する鈍い音。制服から水滴を滴らせ、ぬれた靴跡を床にひきずりながら歩いてきたタジマが目を凶暴に輝かせて警棒をぶん回す。
 「なんだなんだ、いいところを邪魔しやがって……おまえも仲間入りしにきたのかよ、ロン!」
 「ちっ、」
 舌打ちとともに頭を伏せた上空を警棒が過ぎる。タジマがはでに体を動かして警棒を振りまわすたび、その手足の動きにつられてあたりを覆っていた水蒸気が千々に霧散する。水蒸気で視界が曇って攻撃をかわすだけでやっとだ、とても鍵屋崎の面倒まで見きれない。タジマのお遊びに付き合ってたらサムライの敗北で試合終了だ、鍵屋崎だけでも先に行かせなければ!
 『奔!』
 走れ!
 床に転がってた木刀をひっ掴み、鍵屋崎めがけて放り投げる。いきなり木刀を投げ付けられ、反射神経の鈍い鍵屋崎がたたらを踏んだのが視界の端に入ったがなんとか持ち応えたようだ。慎重に木刀を抱えた鍵屋崎が、俺にあわせて台湾語で叫ぶ。
 『君はどうするんだ?』
 『タジマを食いとめる!』
 実際それしかない、鍵屋崎を上手く逃がすためには俺が足止めするっきゃない。それを聞いた鍵屋崎が一瞬逡巡の表情を覗かせて足を一歩踏み出して、
 「飛んで火にいる親殺しが!」
 「!馬鹿っ、」
 警棒の軌道が変わり、俺から鍵屋崎へと標的が転じる。
 鍵屋崎の顔面を警棒が直撃する寸前に床を蹴って跳躍、タジマの腰に突撃して転ばせる。タジマの肩越し、警棒が巻き起こした風圧に鍵屋崎の前髪が舞い上がり、眼鏡越しの目を見開いた驚愕の表情がかいま見えた。タジマともつれるように床に転がりながら、木刀を抱えてぼさっと突っ立ってる鍵屋崎を怒鳴る。
 「いいから行け、サムライ助けたいんだろ!?サムライにはおまえが必要なんだよ、早く行け、行かないとぶちのめすぞ!面倒くさいことになるからレイジに言うなよ!」
 俺がいなくてもサムライは大丈夫だけど、鍵屋崎がいなけりゃ大丈夫じゃない。
 叱責に鞭打たれた鍵屋崎の表情が厳粛に引き締まり、しっかり木刀を握り締めて走り出す。
 そうだ行け、立ち止まるな、振りかえるな、俺にかまうな。サムライを助けにいってやれ。
 運動音痴な鍵屋崎にしちゃ素早い身のこなしで濃霧を抜けて廊下にとびだして視界の彼方に遠ざかってゆく。鍵屋崎とすれ違いざま、廊下に佇んだ五十嵐がボイラー室の中に目をやったが、鍵屋崎の背中に手をのばしただけで積極的に止めようとはしなかった。
 鍵屋崎の靴音が廊下に反響して遠ざかってゆき、口元に満足げな笑みを浮かべる。
 その途端、横っ面を張られた。警棒を床に放りだしたタジマに素手で殴られたのだ。 
 「舐めた真似しやがって!!てめえが犠牲になって親殺し逃がすなんざ泣かせる友情だなおい!?」
 激怒したタジマが俺の胸ぐらを掴んでのしかかってくる。そうだいいぞ、もっと怒れ。頭に血を上らせて鍵屋崎のことなんか忘れちまえ、鍵屋崎を追いかけようなんて考えるなよ。俺の役目は足止めと時間稼ぎ。鍵屋崎が試合会場に辿り着いてサムライに木刀を届けるまで体を張ってタジマを食いとめてやる。
 少し間をおいて十分にタジマの注意を引き付けてから、せいぜい憎たらしく笑ってやる。タジマの神経を逆撫でして俺への怒りと憎しみで頭をいっぱいにさせるために、他のことは何も考えられなくなるように。
 「いい加減負けを認めろよタジマ。鍵屋崎はもう行っちまったぜ、木刀受け取ったサムライが一発逆転大勝利で会場沸かせてるさまが目に浮かぶぜ。ほら聞こえてくるだろ、サムライの勝利を祝う歓声が……」
 「はっ、なんにも聞こえねえな。親殺しが間に合わないほうに賭けるぜ」 
 「あいつは間に合う」
 間に合ってもらわなきゃ俺の苦労が報われない。そう心の中で反駁し、怒りに充血したタジマの顔を仰向け向けに寝転んだ姿勢で仰ぎ見る。
 「どうしたタジマ、煮るなり焼くなり好きにしろよ?ちょっと警棒振りまわしただけでもう息切れか、その贅肉落としたほうがいいんじゃねえの。あんたと寝た女が窒息死しちまうよ」
 下劣な笑顔で冗談を言えば、タジマの表情が豹変する。憤怒の形相から凶悪な笑みへ、こめかみの血管も切れそうなタジマが片腕一本で俺の胸ぐらを引きずって壁際に歩いてく。
 タジマに引きずられ、床に寝転んでるガキにつまずきかけた俺の視線の先にぶらさがっていたのは……手錠。手錠?なんでお誂え向きにこんな物が、ちょっと出来すぎだろ!?
 背筋に悪寒が走り、タジマの手を振りほどこうとめちゃくちゃに暴れてみるが、不条理にもタジマの握力のほうが俺のそれより何倍も強かった。手首を絞り上げられる激痛に顔をしかめて苦鳴を漏らし、抵抗を緩めたその瞬間にカチリと不吉な金属音、手錠の輪が噛み合う音。
 「いいんだな」
 タジマの声がすぐ耳元でした。
 反射的に顔を上げれば目の前にタジマの顔があった。黄ばんだ歯をむきだした、処女でも妊娠させちまいそうに好色な笑顔。性的興奮に股間を疼かせてるのが一目でわかるズボンの盛り上がり。
 恐怖と生理的嫌悪に生唾を嚥下した俺に顔を近付け、タジマが念を押す。
 「煮るなり焼くなり好きにしていいんだな」
 ……口は災いの元だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051208225104 | 編集

 木刀を持って駆ける、駆ける、ひたすら駆ける。
 呼吸を弾ませ動悸をはやらせ、片手に木刀を握り締めて薄暗い通路を全力疾走。
 蛍光灯が不規則に点滅する通路には埃っぽい闇が滞っていて、律動的に足を繰り出せば涯てのないトンネルにでも吸いこまれたかのような錯覚を抱かせる。
 交互に足を繰り出してコンクリート剥き出しの通路を走るさなか頭蓋の裏で響いていたのは水浸しのボイラー室の光景、タジマの下敷きになり、仰向けに寝転んだロンの必死な形相と苛烈な絶叫。  
 『奔!』
 走れ、と彼は叫んだ。声を振り絞って。
 今僕を突き動かしているのは一刻も早くサムライに木刀を届けなければという使命感と義務感、そして僕の身代わりとなってタジマを食いとめてるロンへの責任感である。
 ボイラー室に置き去りにしてきたロンが現在どんな目に遭ってるかはわからない、タジマに殴る蹴るの暴行を受けているか……いや、タジマのことだ。もっと陰湿で卑劣でいやらがらせをしてるかもしれない、人間の尊厳を蹂躙して徹底的に人格を貶めるような口にするのも汚らわしく想像するだにおぞましい行為を強制してるかもしれない。

 僕はロンを見捨てたのか?
 ロンを見殺しにして、自分だけ無事に逃げおおせるつもりなのか?

 他人などどうなってもかまわない、ロンは僕の友人ではない。お節介でお人よしで馴れ馴れしくて、正直鬱陶しいと思わなくもない。でもロンは僕を助けてくれた、タジマに殺されかけた僕を間一髪助けにきてくれたのだ。現に僕がボイラー室を脱出できたのもロンの助力に拠るところが大きい。
 今僕がなにより優先すべきは一刻も早く試合会場に辿り着き、試合中のサムライに木刀を届けること。
 いまさら引き返すわけにはいかない。
 そんなこと、ロン自身も望んでいない。
 それがわかるからとりあえず今は走るしかない、自慢じゃないが僕は運動音痴だ。少し本気をだして走っただけで息切れ動悸眩暈まで覚える体たらくだ。
 世田谷の実家にいた頃は滅多に外にでない生活を送っていた。海外の大学から依頼された論文を送信するとか父の研究を手伝って資料を集めるとか全部メールとパソコンがあれば事足りたし、鍵屋崎優の研究助手として清潔な白衣を纏い、画面上に擬似構築されたDNAの螺旋構造を見ながら理論を組み立てる日々では試験管を振るかキーを打つ以外に体を動かす必要もなかったのだ。
 半年間体験したイエローワークの強制労働で多少は筋力がついたし反射神経も鍛えられたと自負していたが持久力の欠乏はどうにもならない。
 振り返ってみれば、十五年の人生で本気を出して走ったのは初めてかもしれない。
 酸素不足の頭が割れそうに痛い。頭蓋の裏側では狂った銅鑼の如く心臓の鼓動が鳴り響く。全身の細胞が沸騰して皮膚の毛穴が汗が噴き出す。眼鏡が湯気で曇ってよく見えないが今は立ち止まってレンズを拭う時間も惜しい、霞がかった視界の終点に針で突いたような光があらわれる。
 出口だ!
 地下停留場の大空間へと至る出口が遥か前方に拓けていた。距離にして約100メートル。よし。木刀を腰だめに構え直し、出口の光点を目指して猛然と加速。心臓が爆発しそうだ、おまけに耳鳴りまでしてきた。古ぼけた蛍光灯が等間隔に連なる通路をただひたすらに突っ走る。顎から滴り落ちた汗が喉仏を伝ってシャツの内側にすべりこむ。
 汗をかくなんて僕らしくない。以前バスケットボールをプレイする囚人を見て「何こんな故好き好んで体力を浪費するような真似を」と訝しんだがそれは今も変わらない、どころか今回の件でさらに強く疑問を抱く。
 強制労働で疲れた体をそれでもまだ飽き足らずに酷使して何が楽しいんだ、娯楽を求めるなら本を読め、そして学習して語彙を積んで脳細胞を増殖させ前頭葉の新陳代謝を活発化させろ。ストレス発散目的の運動など僕には理解不能の行為だ、はげしい運動には肉体疲労が付き物で翌日は筋肉痛に悩まされるとわかりきっているのに……まったく、東京プリズンの囚人の学習能力のなさといったら救い難い。
 ……いけない、出口がすぐそこだというのに酷く消耗して思考が空転してる。今この状況には何の関係もないくだらないことばかり頭に浮かぶ悪循環。喉がひりひりする、ついさっきまでタジマに絞め付けられていた喉が。呼吸が苦しい、胸が苦しい。生まれて初めて全力で走り、自分の持久力のなさに絶望する。
 もう少し、出口はすぐそこだ。交互に足を前にだすたび次第に距離は縮まってくる。最初100メートルだったのが50メートルに、30メートルに。光も次第に大きくなり、通路に反響する歓声の声量も増す。
 ぐらり、と視界が傾いだ。
 「―くそっ、」
 何故視界が傾いだからというと僕の体が傾いだからだ。転んでも木刀だけは手放すものかと決意を秘めて右手を握り締める。疲労困憊が極まって足を前に進めるだけでも重労働の状況で、しかし後戻りは許されない。立ち止まることも許されない。
 僕が立ち止まったその瞬間にサムライの負けが確定する。
 僕が諦めたら、すべてがそこでおしまいだ。
 黙れ心臓、動け足。毒舌をとったら頭脳しか残らないと自負してる僕に、他の身体器官も使い物になると証明しろ。性能を証明しろ。足があるなら走れるはずだ、間に合うはずだ。
 間に合えば僕でも、頭脳以外には武器を持たず、実質無力な僕でもサムライを助けられるはずだ。
 今度は僕がサムライを助ける番だ。
 床を蹴って走る、手足を振って風を切って息を乱して突っ走る。天才のプライドに賭けて絶対に間に合わせる、間に合わせてみせる。試合開始から何分、いや何十分経ったのか正確な時間はわからないが、僕の予想ではサムライはまだレイジに出番を譲ることなくリング上に立ってるはず。
 サムライは頑固だから、たとえ疲労困憊で立っているのさえ辛い状況でも決して弱音を吐かない。
 傍目には平気な顔をして、何でもないふりをして、武士の面目とやらに拘泥してリングに立ってるはずだ。サムライは馬鹿だ、何故自分がサムライと呼ばれてるか考えてみろ。
 刀のないサムライが実力を発揮できるわけがないのに―
 「!」
 出口まであと10メートルの地点で立ち止まる。
 通路の出口に立ち塞がる数人の人影。まるで僕が来るのがあらかじめわかっていたかの如く、待ち伏せしていたかの如く猛烈に吹き付ける悪意の波動。試合会場の地下停留場はすぐそこなのに、あと十数メートルを残すばかりとなった現在地からでは横一列の人影に阻まれてリングの様子を知ることもできない。
 通路に射しこむ照明を逆光に、黒く塗り潰された集団から一人が歩み出る。
 蛍光灯に暴かれた人影の正体は―……
 凱。東棟最大の中国系派閥のボス。
 「意外な場所で会ったな、親殺し。手錠はどうしたよ」
 集団の先頭に立ち、高圧的に腕を組んだ凱が僕へと顎をしゃくる。尊大にふんぞり返った凱に、脇腹にスタンガンを押し付けられた記憶が生々しくよみがえる。無意識にシャツに隠れた火傷を庇って距離をとれば、僕の怯えを見ぬいた凱が哄笑する。
 「見張りふたりとも役立たずで情けないぜ。五十嵐なら情にほだされたのも頷けるが中にいたガキはどうしたんだよ。ケツでたらしこんで手錠外させたか?下をしゃぶって極楽逝かせてやったのか?」
 「下品だな。思考回路がタジマとうりふたつだ」
 タジマを引き合いにだせば凱が憮然と黙りこむ。タジマと凱は馴れ合いの共犯関係にあるらしいが、凱はそれほどタジマが好きではないらしい。凱から慎重に距離をとりつつ頭の中の考えを整理する。凱は僕を待ち伏せてたと見て間違いない、でなくば試合観戦の娯楽を放棄してわざわざこんな薄暗い通路に出向く意味がない。ボイラー室の様子を見て来いと使い走りの囚人を偵察に行かせたのか、僕がボイラー室を脱出した場合にそなえて前もって出口を固めていたのかはわからないが今の状況は非常にまずい。
 僕にとって、不利だ。
 凱とその仲間たちの包囲網を突破しない限り試合会場には辿り着けない、サムライに木刀を返すという本来の目的が達成できない。凱の視線から木刀を隠すように移動しながら、口調だけは静かに慎重に念を押す。
 「呑気に僕を待ち伏せてたということは、きみの出番はまだ先なんだな」
 「おおともよ。今サムライとヤってんのはユエとマオの残虐兄弟、俺とは娑婆の頃からの付き合いの婦女暴行魔のコンビだ。得物は鞭だとよ。ははっ、オトモダチのサムライがびしばししばかれてるとこ見せてやれなくて残念だぜ!」
 「鞭?悪趣味な」
 もちろん相手の武器が鞭でもサムライに木刀が返れば案じることはない、すぐに劣勢を挽回できる。と、凱の動向を観察しつつ摺り足で間合いを測っていた僕の耳に押し寄せる大歓声。
 意味ありげに背後を振り仰ぎ、凱が言う。
 「どうした、こねえのか。その刀サムライに届けにきたんだろ?早く行かねえとサムライ負けちまうぜ」
 「!―っ、」
 舌打ちする。通路の出口を塞いでいるのは凱と仲間たち、およそ六人。六対一では分が悪い、勝率は限りなく低い。僕は腕力に自信がない、体格にも恵まれてない。その上、なお悪いことに通路を全力疾走して今にも疲労困憊で倒れそうな状態だ。
 しかし、引き下がるわけにはいかない。
 「何の真似だ?」
 凱が目を見張った。
 会場の照明も届かず、蛍光灯も機能せず、薄暗がりの静寂に沈んだ通路の真ん中。深呼吸して肺に酸素を送り、木刀の切っ先をまっすぐ凱に向ける。
 「どけ。邪魔をすれば斬るぞ」 
 通路に哄笑が響き渡った。
 凱とその仲間たちが腹を抱えて笑い転げている。中には涙まで流している者もいる、僕を指さして罵詈雑言を吐く者もいる。集団の先頭、笑いの発作で呼吸困難に陥りかけた凱が真っ赤な顔で咳き込む。
 「おい、まさかたあ思うが『それ』でやっつけるつもりかよ?無理無理、慣れないことはするもんじゃねえ」
 「凱さんの言うとおりだ」
 「なにとち狂ってんだよ親殺し、イエローワークの仕事場じゃシャベル上げ下げするだけでバテてたおまえがいっちょまえに木刀なんか振り回せるかっての」
 「格好つけてねえで、さあ、木刀こっちによこせ。ボイラー室に帰ってろ。試合が終わったら俺たち全員でケツの味見してやるからさ」
 凱に追従して周囲の仲間が下劣に笑い、中のひとりがこれ見よがしに片手を突き出す。木刀を渡せという身振りの意思表示を無視し、敵ひとりひとりの動向に目を配り注意を払う。

 慣れないことはするもんじゃない?格好つけるな?

 そんなことわかってる。僕を誰だと思ってる、馬鹿にするなよ低能どもが。
 しかし、ここで引くわけにはいかない。出口はすぐそこだ。凱とその仲間たちの包囲網を突破しない限り僕に、いや、僕らに勝機はない。殆ど木刀になど触れたことがない素人が木刀一本で敵陣を切り抜けられるとは思えないが、僕もサムライから少しは剣道の基礎を習ったのだ。
 サムライは剣一筋に生きてきた男だから、他に話すこともなかったのだろう。
 自由時間、僕が図書室から借りてきた本を読み終え、他にすることもなく暇を持て余した余白の時間に時には木刀を構えて実演し、時には僕に木刀を握らせ手ずから基礎を教えてくれた。寡黙で口下手なサムライなりにそうして沈黙を埋めようとしたのかもしれない。僕の自衛に役立てばと一考したのかもしれない。
 道楽で体を動かすのは馬鹿げている。
 例外は、自衛を目的とした場合のみ。

 『直』

 深呼吸をくりかえす脳裏に静謐な声が響く。レイジの声とは正反対のサムライの声。
 たとえるなら麻薬の退廃と清水の清冽、心の奥深くまで染み込んでくるような。

 『木刀を握る時はこうして上の方に右手を添え、下方は左手でしっかり固定する』
 サムライに言われたとおりに指を組みかえる。
 『このとき、重要になるのは左手だ。右手は添えるだけでいい』

 一語一句取りこぼすことなくサムライの教えを反芻する。手元を確かめれば、右手を鍔の根元に添え左手でしっかり柄を握った正眼の構えが自然にできていた。
 僕の武器は頭脳のみ、抜群の記憶力のみ。形だけなら完璧にサムライを模せる。
 サムライを手本にした正眼の構えで下半身の安定を維持し、眼鏡の下に表情を隠し、呟く。
 「……貴様らには人語が通じないらしい。それとも中国語なら理解できるか。僕はここを通りたいと言っているんだ語彙が少なく品性卑しく性根の腐り果てた低能ども」
 「!なっ、」
 先頭の凱が気色ばむ。出口を封鎖した少年たちの顔から一瞬で笑みが霧散、通路に怒気が充満する。緊張に汗ばむ手で唯一の武器たる木刀を握り、構え、口元だけの笑みを作る。
 
 『弥打算的学日語(日本語を勉強したらどうだ)?』

 『~~~~エリート崩れの日本人がいい気になりやがって!!』
 凱が中国語で吼え、あっさりと逆上した。コンクリートの通路に地鳴りのような足音が響いて床が震動する。凱が無駄に大きな動作で腕を振りかぶり、僕の顔面めがけてこぶしが迫り来る。
 思い出せ、サムライの太刀筋を。そしてなぞれ、一寸の狂いもなく。
 僕ならできるはずだ、だれより近くでサムライを見てきて太刀筋の癖を知る僕なら。爪が白くなるまで指に力をこめ、稲妻の太刀筋を脳裏に思い描き、記憶の中の軌道を忠実になぞり、サムライと一体化した自然な動作で木刀を振るい―
 「ぎゃあああっ!」
 木刀から伝わってきたのは骨に響く重い衝撃、確かな手応え。
 奇跡的に、木刀の一撃が凱の額に炸裂した。凱より誰より僕自身がいちばん驚いた。凱が僕のことを舐めきって正面から突っ込んできたのが幸いしたらしい。完全にサムライに自己投影していて、腕が勝手に動いたような気がした。
 そうだ。僕はこの半年間、無駄に時を費やしてたわけじゃない。
 伊達にイエローワークの強制労働で毎日毎日シャベルを上げ下げしてたわけじゃない。
 割れた額を押さえて悶絶する凱の横をかまわず走り抜ける、進行方向に素早く展開したのはこの事態に焦りと動揺を隠せない凱の仲間たち。自分たちのボスが僕に、よりにもよって僕なんかに額を割られたさまを目撃して理性を失っている。
 「くそっ、やっちまえ!」
 「凱さんの仇だ、生きて通すなよ!」
 「木刀ぶんどって殺しちまえ!」 
 この人数を相手してたらきりがない。
 凱は運良く倒すことができたが多勢に無勢で依然として状況は不利だ。かくなる上はと覚悟を決め、僕めがけて殺到した少年たちの上空を見据える。
 「あ!」
 蛍光灯すれすれの上空に大きな放物線を描き、木刀が飛んでゆく。
 できるだけ遠くへ、出口の向こうへと木刀を投擲した僕の作戦は上手くいき彼らに隙を作り出すのに成功した。頭上を通過した木刀につられ少年たち全員が振り返ったその瞬間、床に接触しそうな低姿勢で彼らの足の間を走り抜ける。
 抜けた!
 「馬鹿野郎、よそ見してんじゃねえよっ!?」
 「おまえこそなにぼさっとしてんだよ、親殺し行っちまったじゃねえか!」
 「逃がすな、追え!」
 出口を抜けた瞬間、白熱の洪水が網膜を灼く。リングの直射を受けて視界が眩んだが今の僕に立ち止まる猶予はない。そばに落ちていた木刀を掴み、リング目指してひた走る。
 すぐ後ろからは凱の残党が追ってくる、早く、早くしなければ―
 耳が割れんばかりの歓声の渦中、人ごみに揉まれてそれ以上進めなくなった僕の耳にとびこんできたのはどこかで聞いた声。
 「ヨンイルくん、前から疑問だったんですが何故吾輩をメンドゥーサと呼ぶんですか」
 「だっておまえホセやろ。ラテン系やろ。ボクサーやろ。完璧メンドゥ―サやん」
 「『完璧メンドゥ―サやん』って自己完結しないでくださいよ、吾輩なにがなにやらさっぱりわからず取り残されてうら寂しい気分。親密な間柄のみの通称といえばそれはまあ確かにワイフは吾輩のこと『私のホセ』と所有格で語りますが……これは失礼、うっかり惚気てしまいました」
 「メンドゥ―サってのは明日のジョーの世界チャンプ、ホセ・メンドゥ―サのこっちゃ。知っとるかホセ・メンドゥ―サ、読んだことあるか明日のジョー?力石の影に隠れて今いち存在感薄い損な敵役だけど腐ってもラスボス、ホセ倒すのにジョーは全力使いきって真っ白に燃え尽きたんやからお前も光栄に……」
 反射的に声がした方に目をやれば、大きなゴーグルをかけた囚人と七三分けに黒縁眼鏡の囚人がいた。
 ヨンイルとホセだ。
 「あ、なおちゃん」 
 僕に気付いたヨンイルが馴れ馴れしく声をかけてくる。その目には非難の色。
 「どこ行っとったんや今まで、サムライ絶賛ピンチやで。鞭でびしばししばかれて、その手の趣味の変態には楽しい見世物やろけど俺みたいなノーマルな性癖の持ち主は胸糞悪いわー」
 饒舌なヨンイルを無視して人ごみをかきわけようとしたが駄目だ、跳ね返されてしまう。これじゃとてもリングまで辿り着けない、サムライが窮地だというのに―
 「ヨンイル、君は西のトップだったな!?」
 「そうやけど、それがなにか」
 この期に及んで人の手を借りるのはプライドの危機だが仕方ない、自力で道を拓くことができないなら最も効率的な方法を採用すべきだ。
 「速急に迅速に効率的にこの人ごみをどかしてくれ、頼む、急いでるんだ!」
 西のトップの影響力を見こんで頼めば、ヨンイルは「なんだそんなことか」という顔をして景気よく手を叩く。何故かそばにいたホセも「吾輩もささやかにお手伝いしますよ」と言葉とは裏腹に図々しく進み出てくる。
 「西の人間、こっちに注目!今から俺の手塚友達がそこ通るからちっと道あけたってや」 
 ヨンイルの一声で人ごみが左右に分かれ、リングに通じる一本道ができた。「吾輩の指示に従って皆さん整列ー、はーいそこ足踏んだ踏まれたと喧嘩しない!心優しい吾輩のワイフが哀しみます!」とホセが人員整理する声が間抜けに響き渡る中、一本道を走って念願のリングに辿り着く。
 サムライがいた。
 金網のフェンスに背中を預け、片腕を庇った不自由な格好で何とか立っている。よく見れば全身かすり傷だらけで囚人服の何箇所かは裂けていた。サムライの正面には鞭を手にした囚人が。
 もはや一刻の猶予もない。
 「サムライ、今木刀を返すぞ!」 
 声をあげ、初めて僕の存在に気付いたらしく振り返ったサムライが目を見張る。サムライに木刀を返そうとして、目の前に高いフェンスが聳えてることを再認する。どうやってサムライに木刀を渡す?ここまで辿り着くのに必死でそこまで頭が回らなかった、天才にあるまじき失態だ。
 途方にくれて手の中の木刀を見つめる僕の耳元で、声。
 「この木刀を渡せばええんやな?」
 答えるより早く、察しが良いヨンイルが木刀をひったくって身軽にフェンスをよじのぼり始めた。唖然として僕が見ているまえでヨンイルは造作なく金網に足をかけ手をかけのぼってゆき、五秒とかからずに頂点に辿り着いた。金網にまたがり、白熱の照明に輪郭を溶かしたヨンイルの姿は眩しすぎて正視できないが、声ははっきりと聞こえた。
 「ほい」
 ヨンイルの手から木刀が落ち、照明を弾き、白く眩く輝き。
 まるで、あらかじめ定められていたようにサムライの手の中に戻り。
 「―かたじけない」
 サムライが低く呟くのと、鞭が撓ったのは同時で。  
 さっきの僕より遥かに苛烈、遥かに迅速、遥かに壮絶な上段斬りが鞭を弾き飛ばし、手首の激痛にうめいた少年の首の後ろをトン、と木刀が小突き。
 『勝者、サムライ!!』 
 そのまま少年は倒れて動かなくなり、一瞬の沈黙の後に歓声が爆発し、試合終了を告げるゴングが鳴った。
 サムライの劇的な勝利だ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051207225218 | 編集

 「審判、インチキだろあれ!!」
 金網を乗り越えんばかりの凱が審判に抗議する。ゴングが鳴り響いた直後に辿り着いたらしく、リングにうつ伏せたままぴくりともしない少年を忌々しげに睨んでいる。
 「いいのかよ、外野の飛び入り参加見逃して!ルール違反じゃねえのかよ!?」
 「ペア戦はルール無用だ」
 金網を揺すりたてて吼える凱をうるさそうに一瞥、審判役の看守が説明する。
 「飛び入りの参加を禁止するルールはねえよ。素手で戦ってるやつに得物渡すなって禁止事項も、な」
 「そうそう」
 声は頭上から降ってきた。
 全員がそちらを仰げば、金網に足をひっかけ、ヨンイルが逆さまにぶらさがっていた。
 「一方が武器持って一方が手ぶらじゃアンフェアやろ?こんくらいのズル笑って許してや」
 悪びれたふうもなく笑うヨンイルを指さし、「ほら、自分でズルって認めたぜ!」「いいのかよ審判!?」と凱とその仲間たちが騒ぎ出す。凱とその仲間たちに詰め寄られ対処に困っている審判はよそに、ヨンイルが軽い身ごなしでフェンスから飛び降りる。
 そのまま宙で一回転して見事に着地を決める。
 「勝ちは勝ち、あとからなに言っても負け犬の遠吠えで結果は覆えらん。そうやろなおちゃん」
 「ちゃん付けするな」
 木刀を届けてもらった手前形だけでも感謝を述べておくか、という殊勝な気持ちはその瞬間に吹っ飛んだ。とはいえ、サムライの窮地に間に合って安堵した。最前までリングで孤独に戦っていたサムライはといえば、一戦終えた幕間にリング外へと退避して医師の治療を受けていた。
 サムライの方へ駆け寄る。
 サムライは上着を脱いで上半身裸になっていたが、皮膚の至る所が裂けて血が滲んでいた。鞭で相当ひどくやられたらしい。殆どかすり傷らしいが安心はできない。サムライのそばに侍った医師が手際良く傷口を消毒して綿で血を拭い、ガーゼを患部に押し当てて上から包帯を巻いてゆく。藪医者だと思っていたが存外腕は確かなようだ、と少しだけ、あくまでほんの少しだけ見なおす。
 半年前、いい加減な診断を下された恨みはこの程度では拭えそうもない。
 「……だいぶ苦戦したようだな」
 サムライの背後に歩み寄り、小さく呟く。大丈夫か、なんて間抜けな台詞はとてもじゃないが言えなかった。だいたいどの面下げて「大丈夫か?」などと聞けばいい、サムライの木刀を持ったまま今の今まで姿をくらましていた僕が、試合終了間際の今ごろになってのこのこ姿を現した僕が。凱にスタンガンで気絶されボイラー室に監禁されていたというやむをえない理由はあるが、それもすべて僕の不注意が招いた事態だ。
 もう少し警戒心を持って周囲に目を配っていたら防げたはずなのに。
 サムライに怪我をさせずにすんだのに。
 「たいしたことはない」
 医師に包帯を巻かれながら、振り向きもせずサムライが答える。それだけ聞けば本当にたいしたことはないと思えるそっけない口調だが、僕が到着するまで鞭で嬲られていたとおぼしき裂傷が肌におびただしく刻まれていて、正視するのも辛い。 
 「それよりどこに行ってたんだ。姿が見えないから怪訝に思っていたが……」
 罪悪感に苛まれつつ、サムライの裸の背中を眺めていた僕は返答に詰まる。まさかありのままに答えるわけにもいかない、サムライに余計な心配をかけたくない。彼には試合のことだけ考えていてほしい、僕が危険に巻きこまれたことをわざわざ知らせる必要はない。大事な木刀を持って行方をくらましていたというのに、そのことについて僕を責める発言を一切しないサムライの優しさが歯痒くて、どもりがちに嘘をつく。
 「……その、トイレに行っていた。早く木刀を返したかったんだが、出るに出られなくて」
 最低の言い訳だ。
 こんな嘘をつかなければいけないなんて屈辱的だ。いっそ真実をぶちまけてすっきりしたいが駄目だ、スタンガンで気絶させられボイラー室に監禁されてたなどと白状したらサムライは血相変えるに違いない。僕のプライドの危機でもある。それにしてももっとマシな言い訳はないものか、語彙は豊富だとかねがね自負する天才のくせに……
 手当てを終え、ふいにサムライが振り向き、僕を見た瞬間に眉をひそめる。
 「直。その首はどうした?」
 ひさしぶりに下の名前で呼ばれ、ハッとして顔を上げる。指摘され、無意識に首に手をやり、気付く。
 首に青黒い痣ができていた。タジマに首を絞められた指の痕だ。
 「これは、」
 自然な言い訳を考えようとして、真剣な眼差しに射抜かれて固まる。無理だ、首の痣に関して自然な言い訳など思いつくわけがない。誰がどう見ても誰かに首を絞められたとしか思えない状況じゃないか。
 サムライから顔を背け、言い訳を考えあぐねて視線を巡らし―
 「彼にやられた」
 「は?」
 隣にいたヨンイルを指さした。
 僕につられ、自分の顔を指さしたヨンイルが何が何だかわからず目をしばたたくのを無視し、ため息まじりにかぶりを振る。
 「僕がブラックジャック九巻を借りていると知り、自分も読みたいから早く返せと首を絞められたんだ。まったく、なんて粗野で乱暴で凶暴な男なんだ君は。首を絞めるような野蛮な行為をせずとも僕はしっかり期日を守って本を返す完璧主義者だ。考えてもみろ、僕が一日でも図書を延滞したことがあったか?ないだろう」
 「ちょ、ちょお待て!俺まったく身に覚えないんやけど人聞き悪いこと言わんといてや、正々堂々しれっとひとを絞殺未遂犯扱いして……そりゃユニコ誘拐した赤毛には有言実行ケツの穴に指つっこんで奥歯がたがたいわせた前科あるけど、」
 身に覚えのないぬれ衣を着せられたヨンイルを押しのけ、裸の上半身に包帯を巻いたサムライが歩いてくる。僕の手前で立ち止まったサムライがズボンの尻ポケットを探り、手ぬぐいを取り出す。
 「巻いておけ」
 「……は?」 
 何だと?
 「首に巻いておけ。手ぬぐいでもないよりはマシだろう」
 ふと、何の脈絡もなく、風邪をひいたときはネギを首に巻けば効くという民間療法を思い出した。 
 「要らない」
 「何故だ」
 「格好悪いからだ」
 即答する。たしかに以前も似た状況で手ぬぐいを借りたことがあったが、首に巻くのはさすがに抵抗がある。……というかこの男は、いつでも手ぬぐいを持ち歩いてるのか?これだけは絶対に譲れないと拒否すれば、サムライが渋々手ぬぐいをしまおうとし。
 「……待て。やっぱり借りておく」
 途中で気が変わり、サムライから手ぬぐいを受け取る。隣ではヨンイルが「木刀届けてやったのにこの扱いはナシやで、ホンマ」と不満をこぼしている。
 上着を拾い上げ、袖に腕を通し、裾を下ろす。
 包帯が目立つ上半身を上着に隠したサムライに、声を低めて念を押す。
 「ずっと戦い通しで疲労してるんじゃないか?続けて戦えるか?」
 「俺の出番は終わりだ。小休止を挟んだ後半戦はあの男の出番だ」
 サムライが冷めた一瞥をくれた方向を見れば、フェンスに凭れたレイジが本を読み耽っていた。
 「君が戦ってる間、ずっとああして本を読んでいたのか?」
 眉間に皺が寄るのをおさえられない。
 喧嘩中とはいえ、サムライが鞭で嬲られて負けそうになっているその瞬間も本から顔を上げずにいたとは由々しき事態だ。サムライをその場に残し、大股にレイジに歩み寄る。フェンスの金網に背中を預けたレイジが最後の1ページをめくり、満足げな吐息を漏らす。
 「ずいぶんちんたらやってたな。一冊読み終えちまったぜ」
 堕落しきった豹のように伸びをしながらレイジが言い、読み終えた本を脇におく。なにげなく本の表紙を見れば文豪アーネスト・へミングウェイの短編集だった。 
 「キーストアさ、どう思う?へミングウェイは武器よさらばとか誰がために鐘が鳴るとか有名だけど、俺は短編のが好きだな。武器よさらばとか肩がこるし後味わるいし、ハッピーエンド好きな俺的にすっきりしねーんだよラストが。インディアン・キャンプとかのが好み」
 「へミングウェイについてはほぼ同意見だ」
 怒りと苛立ちを押し殺し、努めて平静な声をだす。
 本を読み終え、初めてロンがそばにいないことに気付いたらしい。きょろきょろとあたりを見まわしたレイジが不思議そうな顔をする。
 「ところでキーストア、ロン知らねえ?」
 もう一回殴りたくなった。
 ロンは今僕の身代わりでボイラー室にいるというのに、僕を逃がすために体を張って時間稼ぎしてるというのに、この男は何も知らず何も気付かず試合中ずっと本に没頭していたのか。たしかに本は素晴らしい、へミングウェイの短編集は素晴らしいが時と場所をわきまえて読書するくらいの慎み深さはないのかこの男には。そうかないのか、手におえないな。
 なら本当のことを教えてやれ、レイジとサムライがつまらない喧嘩を長引かせたせいでロンが今どんな目にあっているか、彼らが知らないところで僕たちがどんな危険に巻きこまれたか。
 「ロンは今、」
 『面倒くさいことになるからレイジには言うな!』  
 言葉を続けようとして、ボイラー室を脱出する際に背中にかけられた声を思い出す。
 そうだ、あの時たしかにロンはそう言った。タジマに押し潰されて身動きできない状態で、必死な形相で叫んだのだ。真実を言うのは簡単だ、真相を告げればレイジは何をおいてもロンを助けにいくだろう。
 試合を放棄して、サムライの努力を無にして。
 「………」
 唇を噛んで考え込む。
 面倒くさいことになる、というのはそういうことか。レイジが試合放棄した時点で100人抜きは実現不可能となりレイジとサムライの敗北が決定する。サムライの善戦は水の泡となり僕とロンは売春班に逆戻り、レイジもまた売春班に堕とされてサムライに至っては両手の腱を切られる。
 冗談じゃない。
 そんな未来は断固として却下する、否定する。
 「どうした?」
 僕の顔を覗きこみ、レイジが眉をひそめる。レイジの視線を避けるように俯き、口を開く。
 「……ロンは今、トイレだ」
 「それにしちゃ長いな。腹でもくだしてんのかな」
 レイジは僕の言葉を疑う素振りもなく、ひとりで納得して頷いてる。
 『ロンは今、タジマに捕まって大変な目に遭っている』
 言えるわけがない。言った途端にすべてが水の泡、サムライの戦いもレイジの戦いもこれまで戦ってきたすべてが無駄になる。ロンはそれを見越して「レイジに言うな」と釘をさしたのだ。
 「よーし」
 おもむろにレイジが立ちあがる。膝の屈伸と柔軟、ざっと準備体操を終えてから照明に輝くリングを見つめる。  
 勝利の自信に満ち溢れた精悍な横顔で。
 「ロンがクソして戻ってくるまでに凱を倒して勝利の女神にキスしてやる」
 レイジは知らない、ロンが絶体絶命の危機にあることを。僕が話してないのだからあたりまえだ。
 レイジの視線の先、リングを挟んだ対岸では凱が睨みを利かせている。額の出血は既に止んでいたが、こちらを睨む目には殺気がこもっている。
 「この時を待ってたぜ、レイジ」
 殺気走った目でレイジを威嚇し、獰猛に凱が唸る。
 「ヤンとロンチウのペアや残虐兄弟がサムライやっつけちまったらどうしようって冷や汗かいたんだが、余計な心配だったな。言ってみりゃ奴らは安全牌、俺様の勝利をお膳立てする駒にすぎねえ。今日のペア戦の目玉はおれとおまえ、本番はこれからだ」
 「さらっと俺に様つけんな、雑魚の悪役地でいくつもりかよ恥ずかしい」
 「減らず口叩けるのも今だけだ、ゴングが鳴り次第王座からひきずりおろしてやる」
 「知ってるか凱、誰がためにゴングが鳴るか」
 一呼吸おき、レイジが不敵に笑う。
 「王様のためにさ」
 檻のような金網を挟み、リングを隔てて睨み合う凱とレイジの様子に否応なく周囲の緊迫感が高まる。
 非常にまずい状況だ。
 もうすぐゴングが鳴り、凱対レイジの試合が始まる。レイジはなにも知らない、ロンがボイラー室に捕まっていることもタジマに痛めつけられていることも。レイジに知らせてはいけない、どのみちそれは自滅を意味する。
 僕に残された選択肢はひとつ。
 レイジに知らせずサムライに知らせず、僕がロンを救出する。
 仮にサムライを頼ればすぐにロンを助け出せるかもしれない。しかしサムライは怪我をしている、心身ともに消耗している。彼には休息が必要だ。これ以上体を酷使すれば最悪倒れてしまうかもしれない。
 「……しかし、どうすればいい?」
 どうすればロンを救い出せる?
 ロンは単身僕を助けにきたが、今は僕の身代わりでボイラー室に捕まっている。策も何もなく突っ込んでいくのはとても利口とは言えない。同様に僕ひとりでロンの救出を成功させるのは不可能に近い。僕は天才だ、天才に不可能はないと断言したいところだが頭脳は常人離れしていても腕力は常人以下。認めたくはないが、できないことは必然でてくる。
 「おい、」
 「なんだ!?」
 振り向けば、そこにいたのは見覚えのある顔。だれだろうと記憶を検索し、すぐに思い当たる。
 途方もなく長く感じられた生き地獄の一週間、売春班で通気口越しに会話したおなじ境遇の少年たちが3・4人、僕の剣幕に恐れをなしたように縮こまっている。
 意外な顔ぶれに、しばし言葉をなくして動きをとめる。
 中にはメイファという名の子を持つ囚人と凛々という名の恋人を持つ囚人もいた。鏡に突っ込んで担架で運び出された後者の顔にはまだ生々しい傷痕が残っていた。
 「何の用だ?」
 「いや、……おまえが言えよ」
 「俺が?おまえが言えよ」
 しばらく小声で言い争っていた囚人を代表して歩み出たのは一児の父親だ。少し気まずげに視線を揺らしてから、何か決断したように僕を見据える。
 「さっき見てたんだよ、あの半半……売春班で一緒だった半半が大人数に取り囲まれてるとこ」  
 「なんかやばい雰囲気だったもんで、気になって」
 「試合が始まるまえだったかな。大人数に取り囲まれて何か言われて、それから血相変えて駆け出してったんだけどそれきり姿が見えなくて、どうしたのか気になったんだよ。半半と仲イイおまえなら何か知ってんじゃねえかって声かけたんだけど、」
 「仲がいい?どこからそんな発想がでてくるんだ」
 それはともかく、彼らは彼らなりに100人抜きの結果が心配で試合観戦にきていたらしい。自分たちの未来が関わってるのだから気にならない方がおかしい。一週間仕事場に軟禁状態で直接顔を見る機会は少なかったとはいえ、過去に自分たちが責め立てたロンのことを多少は気にかけているようだ。
 が、今は彼らの相手をしてる場合じゃない。
 おそるおそる声をかけてきた連中をそっけなくあしらおうとして、脳裏に一つの案が浮かぶ。
 「……君たち、ロンが心配か?」
 低い声で確認すれば、落ち着きなく顔を見合わせ、かつての同僚たちが口々に言う。
 「そりゃまあ、な」
 「あの時はずいぶん酷いこと言っちまったけど、俺たちが今こうして足洗えたのもあいつのおかげだし」
 「あいつのおかげ、というより東のトップのおかげだけど」
 「考えてみりゃあんだけ酷いこと言ったのに、あいつ反論らしい反論もせずによく我慢してたよな」
 「少し言いすぎたかなって思わなくもねえし……、」
 「心配してるんだな?」
 いちばん肝心な部分を確かめれば、一呼吸の間をおいて全員が頷く。ある者はきっぱりと力強く、ある者はためらいがちに、ある者はつられて。それでも全員が確かに、僕が見てる前で首肯した。
 ロンを心配してると認めたのだ。
 ならば話は簡単だ。
 「ロンに謝りたいなら行動で誠意を示して欲しい」
 咳払いし、元売春夫たちを見まわす。どう話したものか少し迷うが、ストレートに切り出すのがいちばんだろう。まわりくどい言いまわしは凡人に通じにくい。
そう判断し、毅然と前を向く。
 「僕に協力してほしい」
 天才が凡人に頭をさげるのはプライドの危機だが、プライドより優先しなければならないことが世の中にはある。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051206225342 | 編集

 俺には勢いだけでデカイこと言っちまう悪い癖がある。
 過去にもさんざん勢いだけで物を言って酷い目にあっちゃ後悔してきたが、今回が極め付けだ。これ以上悪いことはこれから先の人生でも起こりそうもない。
 「煮るなり焼くなり好きにしていいんだな」
 目の前じゃタジマが舌なめずりしてる。煙草くさい息を吐き散らして目を炯炯と輝かせて俺の顔を覗きこんでる。発情期の犬みたいに荒い息を吐くタジマの股間は固くいきり立ってズボンの生地を押し上げている。はちきれんばかりに勃起した股間から目をそらし、首筋にかかる吐息に顔をそむけ、渾身の力をこめて手錠を引っ張る。配管と手錠の金具が擦れあってがちゃがちゃとうるさい音をたてる。駄目だ、抜けない。手首が痛くなるばかりで金属の手錠はびくともしない。このままじゃ本当に煮るなり焼くなり好きにされちまう、ついさっき口からでた言葉を取り消したくても待ったはきかない。
 鍵屋崎助けにきて自分がとっつかまっちゃざまあねえ。
 強いて自嘲の笑みを浮かべようとして虚勢が崩壊したのは、ジッパーを下げる音がすぐ耳元でしたからだ。タジマが何をする気かわかる。わかるすぎるくらいわかるからそっちに目をやれない。ゆっくりと焦らすように、俺の恐怖を煽るようにジッパーがいちばん下まで引き下ろされる。続いて金具が擦れる音、タジマがベルトを緩めてズボンを寛げているのを手の動作で確認。 
 顔を上げられない。
 今顔を上げたら最後、最悪の光景を見てしまう。わかってるわかってる何をされるかわかってる、タジマが俺に何をさせるつもりか十分すぎるほどわかってる。売春班の仕事場、ドアをベッドで封鎖して閉じこもってた三日間来る日も来る日も頭の中で反芻したおぞましい行為。
 通気口から漏れてくる泣き声と怒鳴り声と喘ぎ声を一緒くたに聞きながら、コンクリート剥き出しの部屋の真ん中で膝を抱え、朝がこようが夜になろうがおなじことばかり考えていた。俺もいつかやらされる行為を、避けて通れない行為を、今はまだささやかな抵抗と飲まず食わずの持久戦で先送りにしてる行為を。
 ガキの頃お袋がやるのを見てたし、あれを真似すればいいんだと言い聞かせて平静を保とうと試みたこともある。でも無理だった、男が男のモノくわえるなんて正気の沙汰じゃない、俺は絶対にやりたくない。
 今もその考えは変わってない。どころか、タジマの醜悪なモノを見てますます強固になった。
 「舐めろ」
 「………」
 やっぱりこういう展開か。
 顔筋がひきつり、奇妙に滑稽な半笑いになる。タジマときたらどこまでも予想通りに最低な男だ。自分のモノを俺にしゃぶらせて楽しむつもりか、冗談じゃねえそんな汚いモン口に入れられるかと逆上しかけ、口を開けば最後無理矢理突っ込まれると賢明な判断を下して唇を引き結ぶ。
 どうやら俺の予想は正しかったようで、機嫌を損ねたタジマが仏頂面で手をのばしてくる。
 「どうしたロン、煮るなり焼くなり好きにしろって言ったのはおまえじゃねえか。ちゃんと口開けて舌使って奉仕しろよ」
 「!―っあ、」
 タジマが俺の前髪を掴み、雑草をむしるように引っ張る。頭皮が剥がれる激痛にたまらず苦鳴を漏らしかけ、声をだしたら負けだ、口を開けたら負けだと自分を叱咤して顎が軋むほどに奥歯を食いしばる。痛い、目が眩むほど痛い。あんまり痛すぎて涙が勝手に出てくる。喉を反らして悲鳴をあげかけ、でも口を閉じているから声にはならず、体を二つに折って突っ伏して毛根を纏めて引き抜かれる激痛をやり過ごす。
 声はだすな、絶対にだすな、口を開けるな、油断して口を開けたその瞬間に突っ込まれるねじこまれるしゃぶらされる。タジマのモンをしゃぶらされるのに比べたらこれくらいの痛みがなんだ。
 「ちっ、強情なガキだな」
 降参したタジマが舌打ちして手を放し、激痛が和らぐ。タジマが手を放した瞬間、何か黒いものが膝の上に落ちて涙でかすんだ目を凝らしたら俺の髪の毛だった。
 タジマがこれで諦めるとは思えない。
 タジマは入所当初からしつこく俺のケツを追いかけまわしてた。素直でおとなしい囚人が他に腐るほどいるだろうに何故素直でもおとなしくもない俺にかまうんだ、よそに行ってくれと何度口にださず願ったかしれない。ボイラー室で二人きりになった今、俺は手錠をかけられ逃げられない状態で、タジマはジッパーを下ろして準備万端だ。
 俺が身代わりになって鍵屋崎を逃がしたことは後悔してない。
 ……と言えたら格好いいんだろうが、俺の虚勢は長続きしない。鍵屋崎を助けにきたのは俺の意志で、鍵屋崎の身代わりに拘束されてるのも自業自得なんだがこれからタジマにされることを想像しただけで恐怖に身が竦み生理的嫌悪に肌が粟立つ。いやだいやだ、よりにもよってタジマにヤられちまうのかよ手も足もでずにヤられちまうのかよ。仕方ないだろ鍵屋崎逃がすためにはこれしか方法がなかったんだ、往生際悪く足掻いてねえでいい加減覚悟決めちまえと頭の裏側でもうひとりの俺が囁く。でもそれに抗う俺がいる。タジマにヤられるのは絶対にいやだお断りだ、売春班で目隠しされて煙草押し付けられても最後の最後まで暴れて抗ったのに今ここで何もできずにヤられちまうんじゃ今日までの頑張りは何だったんだ、全部無駄じゃねえか。
 俺は何の為に、売春班のガキどもが泣き叫ぶ声を無視して飲まず食わずで閉じこもってたんだ?
 それもこれも全部男に抱かれたくないから、タジマに抱かれたくないからだ。レイジとサムライは今も戦ってる、俺と鍵屋崎に売春班を止めさせるために、売春班の廃止を条件にペア戦100人抜きなんて無茶な目標を立ち上げて傷だらけで戦ってる。
 なのに、今ここで俺が抵抗しなくてどうするんだ?
 レイジとサムライの頑張りも、鍵屋崎を見殺しにした日々も全部水の泡になっちまうじゃねえか。
 「口開けろよ」
 タジマが俺の強情さをあざ笑うように顎に手をかけ、強引に口をこじ開けようとしてくる。顎を掴んだ手に万力めいた力がこめられ、奥歯から力が抜けそうになる。苦痛に歪む俺の顔が最高のご馳走だとでもいうように唇を舐めたタジマが耳元でささやく。
 「ちゃんと舐めて勃たせてくんなきゃ使い物にならねえだろうが。唇切れて顎外れるほどしゃぶらせるから覚悟しとけよ、出したもんも一滴残らずちゃんと飲めよ。こぼしたら裸で四つん這いにさせて舌で舐め取らせるからな」
 キレた。
 「へ、んたい野郎が」
 口を開けちゃいけないと頭じゃわかていたがもう我慢の限界だった。タジマにふれられてることが我慢ならない、タジマに言われ放題の現状が腹に据えかねて口汚く罵倒しないと気が済まない、こめかみの血管がぶちぎれてそれこそ失血死しちまいそうだ。これ以上変態の戯言を聞かされたら気が狂っちまう。
 好色な笑顔のタジマをまっすぐ睨みつけ、犬歯をむきだした笑みを浮かべる。
 「突っ込めるもんなら突っ込んでみろ。噛み千切ってやる」 
 本気だった。
 脅しなもんか、俺にはそれくらいの覚悟がある。タジマにフェラチオさせられるくらいならイチモツ噛み千切って失血死させてやる、いや、この場合はショック死だろうか?医学知識豊富な鍵屋崎がこの場にいりゃ解説してくれるんだろうが、別段知りたくもないしできることなら永遠に知らないままにしときたい。
 挑戦的な笑顔が気に食わなかったのか、身の程わきまえない生意気な物言いに腹を立てたのか。
 タジマの雰囲気が豹変し、顎を掴む手に凶悪な力がこもる。
 顎が軋んで、痛い。下顎が砕けそうだ。苦痛に顔を歪める俺の頬に指を食い込ませたタジマがもう片方の手でポケットを探り、何かを取り出す。
 タジマの指先で剣呑に光るのは、留め金から外れた安全ピンの針。
 「よく回る舌だな。二度と減らず口きけねえように留めてやろうか」
 ぞっとした。
 体の芯から凍えるような恐怖に身が竦む。つま先で床を蹴り尻をずらし、できるだけタジマから距離をとろうとしたが手錠されたままじゃろくに動けやしない。目は安全ピンからはなせない。鈍い銀色に輝く鋭利な先端。舌に刺されたらどれだけ痛いか―
 「知ってるか?舌にピアスするとフェラチオんときいい感じに当たって最高に気持ちいいんだぜ」
 俺の目の前に安全ピンをちらつかせながらタジマが笑う。タジマの指が揺れるたび、指にぶらさがった安全ピンの針先が瞼すれすれを撫でて生きた心地がしない。そのまま瞼の上から眼球を刺されそうで、体が硬直して指一本動かせない。大人しくなった俺に溜飲をさげたか、安全ピンを懐にしまいこんだタジマが猫なで声をだす。
 「舌にピアスされたくなきゃ口を開けろ」  
 「いや、だ」
 声が震えた。
 情けない、しっかりしろ俺、タジマごときにびびってどうする。マジでキレたレイジのほうが何倍も何十倍も怖い。舌にピアスされるくらいどうだってんだ、ちょっと味噌汁飲むのが不便になるだけじゃねえか。
 目を閉じ、瞼の裏の暗闇に俺が一番怖い人間を思い描く。
 瞼の裏の暗闇におぼろげな輪郭を結んだのは美しく酷薄な女の顔、気紛れに俺を殴り気晴らしに俺を蹴り気慰みに俺を罵倒し気休めに俺をなぶった女の顔。
 そうだ。お袋の折檻に比べたら、タジマの脅しなんて屁でもねえ。 
 目を閉じてゆっくり深呼吸する。再び目を開き、強い意志をこめてタジマを凝視する。
 今度はしっかりと、芯の通った声が出た。
 「なあタジマさん、こんな噂聞いたんだけど。新宿のSMクラブに通い詰めてるってマジ?東京プリズンで囚人なぶるだけじゃ飽き足らずにSMにまで手えだしたのか、それともそのサドな性癖はもとからか?刑務所でガキいじめて股間固くしてる真性の変態野郎が、あんた病気だ、病院行けよ。心のほうの病院にな」
 息継ぎもせず、何かに憑かれたように一気にまくしたてる。今度は自然に笑みを浮かべることもできた、タジマの神経を逆撫でする皮肉な笑み。
 タジマの表情が変わったのを見過ごさなかった。何故こいつがSMクラブ通いのこと知ってるんだ、だれが漏らしたんだという驚愕の表情はすぐに赤黒く充血した憤怒の形相へと変貌する。
 「―そうか。そんなに俺にいじめられるのが好きなのか、俺にいじめられたくて挑発してんのか」  
 お袋に比べたらタジマなんて怖くも何ともねえ。そう自分に言い聞かせて恐怖心をねじ伏せようとしても、現に今目の前にはタジマがいてよからぬことを企んでいる。俺の服の下まで見透かして腰から脇腹から臍から胸板から鎖骨から視線で犯してる感じがする。
 「!??なっ、」
 ぎょっと下を向く。
 突然、タジマが俺のズボンに手を突っ込んできた。
 いや、ズボンじゃない……下着の中だ。この野郎なに考えてやがる!?
 「クソ野郎なにやってんだよ、早く抜けよ、気持ち悪いんだよ!」
 「早く抜け?俺にヌイて欲しいのか」
 タジマはわかってて言ってる。わかってて哄笑する、楽しそうに嬉しそうに侮蔑するように。
 歯軋りしてタジマを睨みつけるその間もズボンから手が抜かれる気配はなく、下着の中でなまめかしく手が動いてる。気持ち悪い、気持ち悪いだけだ。男の手でそんなとこ握られても気持ち悪いだけで興奮しようがない、勃ちようがない。女の手にだって数えるくらいしかさわられたことないのに何だって今俺はこんな変態野郎に大事なとこ揉まれてんだよ、メイファ、せめてメイファのやり方を思い出そう。メイファの手を思い出そう、綺麗に磨かれた爪と綺麗な白い指―
 「びびって縮こまってる。ただでさえちっこいもんが、これじゃ使い物にならねえな」
 小さくねえ、と言い返したかった。でも口をあけた途端に意志に反して心を裏切って変な声が漏れそうで、待てよ、変な声がでそうってことは俺はまさか感じてるのか?こともあろうにタジマの手で擦られてちょっとでも感じてるのか?嘘だ、認めたくない。そりゃ俺も男だ、刺激されりゃ体が反応するのはあたりまえの生理現象だけど嘘だこんなのは嘘だ絶対に嘘だ、だってタジマの手で感じたりしたら俺は誰でもいいってことになる。
 誰でもいいわけあるか。
 ズボンの中じゃタジマの手がうごめいてる。タジマの腕を掴んで引きぬこうとするが全然かなわない、本当にもうやめろ、やめてくれ、勘弁してくれ。頼むから抜いてくれ許してくれ。
 「なんだよ、俺にヤられるより自分でヤりたいってか。自分でイくとこ見てて欲しいってか、あのときみたいに」
 「馬鹿言うな、」
 あの時?思い出したくもない。自分でイくのも他人にイかせられるのもお断りだ。恥ずかしい、死ぬほど恥ずかしい。なんで俺がこんな目に?いくらなんでもあんまりだ、なんで世界でいちばん憎んでる相手に、世界でいちばん殺したい相手にしごかれて息を荒げなきゃいけない?性急に追い上げられて、熱と快感と羞恥に火照った顔を至近距離で覗きこまれなきゃいけない?
 「―っあ、ふ」
 タジマの手で強く擦られ、嗚咽みたいな喘ぎ声が漏れた。
 喘ぎ声―……あえぎ声?これが、女みたいに甘く濡れたこれが俺の声だってのか?
 「固くなってきた」 
 その瞬間。
 勝ち誇ったようにタジマが笑い、ズボンにもぐりこんだ手で先端を撫でられた瞬間、下半身の熱に比例して最高潮に高められた殺意が爆ぜた。 
 このままじゃだめだ、このままじゃ強制的にイかせられて俺のプライドはずたずたにされる。俺は確実にタジマにヤられる、手も足もでない状態でヤられちまう。
 恐怖。頭が真っ白になるような恐怖。
 「離れろ、それ以上俺にさわったら殺す、絶対に殺してやる!!どんな手使っても殺してやる、八つ裂きにして肉片にしてやる、腹かっさばいて臓物ひきずりだして犬に食わせてやる、おまえがこれまで俺にしてきたこと千倍万倍億倍にしてたっぷり味あわせて血の小便でるくらい痛めつけてやる!!」
 タジマに蹴りを入れようとつま先を跳ね上げ獣じみた奇声を発し全身で抵抗する俺は完全に理性を失っていた。狂ったように手足を動かし身を捩りかぶりを振り手錠をひきちぎろうとめちゃくちゃに暴れる、獣じみた奇声を発して狂気に目をぎらつかせて全身で抵抗する。
 それでもまだ俺をあざ笑うようにズボンの中で動いてたタジマの腕に容赦なく爪を立て、皮膚を抉り、深く深く食い込ませる。売春班就労前の身体検査でタジマに切られた爪はもうすっかり伸びていた。タジマは豚みたいな悲鳴をあげて俺から飛び退き、俺は絶頂を迎える寸前で解放された。
 下半身が熱い。股間が疼く。情けない、恥ずかしい。自由な片手でズボンを押さえ、盛り上がりを隠す。
 早くおさまってくれと必死に祈ってズボンを押さえ付ければ、風切る音がして頭上に警棒が迫る。
 「『血の小便でるくらい痛めつけてやる?』こっちの台詞だ!」
 俺をイかせられずに逆上したタジマが警棒を振り上げる。頭上で両腕を交差させ庇おうとして、片手が封じられてることを再認する。片腕じゃとても防ぎきれない、骨が折れちまうかもしれない。
 最悪脳挫傷で死亡かよくて脳震盪か。いや、後者なら気絶したあとでタジマにヤられるか―
 顔面を風圧が叩き、反射的に目を閉じれば。
 「そのへんにしとけよ」 
 目を開ける。
 タジマの背後に五十嵐がいた。警棒を振り上げたタジマの腕を掴んでいる。
 「は、またまた正義の味方ご登場ってか?邪魔する気なら……わかってんだろうな」
 五十嵐の手を邪険に振り払ったタジマが陰険な笑顔で言い、五十嵐がため息をつく。
 「タジマ、今の自分の格好見下ろしてみろ」
 五十嵐に顎をしゃくられたタジマが改めて自分の格好を見下ろす。水浸しのボイラー室で転倒したせいか全身びしょぬれで髪の毛も制服もぬれそぼった姿。
 間合いよくタジマがくしゃみをした。
 「早く着替えてくるか乾かしてくるかしねえと風邪ひくぞ」
 「……親切ごかした忠告くれやがって。俺がいねえ間にこいつ逃がすつもりじゃねえだろうな」
 疑念を捨てきれないタジマの念押しに、五十嵐はおどけて肩を竦めてみせる。
 「信用できねえならそれでもかまわねえが、独身にゃ風邪はきついぜ。看病してくれる女がいねえんじゃなおさらだ」
 「―ちっ。わかってんだろうな五十嵐、俺がいねえあいだに勝手なことしてみろ。おまえの秘密全部ばらして東京プリズンにいられなくしてやるからな」 
 弱みを握ってる強みからか、脅迫者の優越に酔ったタジマが最後に俺を振り返り、「お楽しみはちょっとだけお預けだ」といわんばかりに満面の笑みを湛える。水浸しの床に足をとられつつボイラー室を出ていくタジマを見送り、五十嵐がこっちを向く。
 ボイラー室のドアが閉じ、俺と五十嵐だけが中に残される。
 顔を上げられない。 
 ドアの外で五十嵐に全部聞かれていた。知られてしまった。どんな顔すりゃいいかわからない。
 股間の盛り上がりはまだおさまらなくて、気遣わしげな五十嵐の視線がいたたまれなくて、もうこれ以上五十嵐の視線に耐えられそうになくて深く深く顔を伏せる。
 今すぐ消え入りたいと顔を伏せる。
 「……なに見てんだ。殺すぞ」
 俺の声じゃないみたいに乾いてかすれた声だった。 
 五十嵐がため息をつき、何も言わずにボイラー室を出ていく。ドアが閉まる音が決然と響き、俺は今度こそほかに誰もいないボイラー室に取り残された。
 俺以外だれもいなくなったのを確かめ、懐に抱き寄せた膝の上に顔を埋める。
 タジマも五十嵐も最低最悪のクソ野郎だ。
 東京プリズンの看守は、全員そろいもそろって囚人以上のクソ野郎だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051205231105 | 編集

 足音が近付いてくる。
 「!」
 タジマが帰って来たのかと早とちりしたが違う、様子がおかしい。もっとたくさんの足音だ。廊下に響いているのは喧しいしゃべり声。ドアの前で足音が止み、数人の来訪者が五十嵐とやりとりしてる。 
 だれだ?だれが入ってこようとしてる?
 味方が助けに来た、なんてご都合主義な展開はありえない。第一俺には味方なんかいない。鍵屋崎にとっちゃ俺はダチでもなんでもないし、ダチでもない人間を助けにくる理由なんかない。時間的にレイジは今試合中で俺を助けにこれないしサムライも前半戦の疲労が嵩んで体を動かすのは苦しい状態だ。
 鍵穴に鍵がさしこまれる金属音。
 鍵が外側から開けられ、乱暴にドアを蹴り開けて乱入してきたのは見覚えある囚人が五・六人。なんで見覚えあるかというと全員が東棟の人間で凱の子分だからで、その中には三日前、図書室帰りの俺を待ち伏せしていやというほど平手打ちを食らわせてくれた残虐兄弟の姿もあった。
 合点した。
 自分たちの出番を終えた連中が、ぞろぞろボイラー室に帰って来たんだろう。あるいは様子見か。
 鍵屋崎はもうとっくに試合会場に帰り着いてる頃だし、ヤンとロンチウだけじゃなく残虐兄弟の姿まであるってことは前半戦はサムライの勝利で幕を閉じたのだろう。
 鍵屋崎は間に合ったのだ。サムライが負ける前に木刀を届けることができたのだ。
 『高興』
 嬉しい、やった。そう叫び出したいのを唇を引き結んでぐっとこらえる。鍵屋崎が間に合っただけで俺が犠牲になった意味はあるというものだ。油断すれば途端に緩みそうになる口元をこらえ、足音荒くボイラー室に踏み入ってきたガキどもを眺めていれば、ユエだかマオだか区別がつかない残虐兄弟の片割れがぎょっとしたように俺を指さす。
 「あんちゃん大変だ!変わり身の術だ!」
 「あん?」
 「親殺しがいつのまにか半半になってる!瞬間移動だ縄抜けの術だっ、すげえ、手錠かけて閉じ込めてあったのに親殺しはどこ消えたんだ?」
 片割れを「あんちゃん」と呼んだってことはこっちが弟のマオか。くそ、おなじ顔しやがって紛らわしい。兄貴をつついて興奮してたマオの脳天に拳骨が落ちる。拳骨をくれたのは兄貴のユエで、俺を指さしてぎゃあぎゃあ喚いてる頭の悪い弟を一喝する。
 「馬鹿っ、凱さんが言ってたこと聞いてなかったのかよおまえは!親殺しは俺らの試合中にボイラー室脱出して会場に戻ってきたってよ。てめえは俺の試合中フェンスの外で居眠りこいてたのか、胸に手えあててよく思い出してみろや」
 マオの胸ぐらを掴んだユエが憎憎しげに俺を睨んで罵倒する。
 「俺があともうちょっとでサムライ倒そうってその時に木刀降ってきたろ?どんな手使ったんだか知らねえが親殺しはボイラー室から木刀持って逃げてきて、そのせいで俺はあともうちょっとのところでサムライに負けちまったんだよくそったれが!」
 後半は弟ではなく俺に向けていた。
 本人いわくあともうちょっとのところでサムライに敗北を喫した悔しさから地団駄踏み、八つ当たり気味に周囲の囚人を小突き回すユエにあきれる。と、手足を振り回して暴れていたユエが足元に寝転がってる囚人に気付いた。俺がボイラー室にとびこむまえからそこにいた囚人で、どういう神経をしてるんだかこんな蒸し暑い中でもぐっすり眠っていた。
 間抜けにヨダレをたらした寝顔を見下ろし、ユエが怒号を発する。
 「てめえのせいか!」
 「!?ぐふっ、」
 ユエの蹴りが囚人の腹に炸裂した。
 大の字になって寝こけていた囚人はたまらない、無防備な腹に容赦ない蹴りを食らい鞠のように体を弾ませて嘔吐する。ユエに蹴り起こされた囚人が体を二つに折り吐瀉物にまみれて悶絶、しかしユエの怒りはおさまらない、怒りに顔を充血させ気炎を吐き、たった今起きたばかりの囚人の頭といわず肩といわず背中といわず冷酷に蹴り倒す。
 「見張りが居眠りたあいい度胸してんじゃねえか、てめえが呑気にいびきかいてるあいだに親殺しはポケットから鍵抜いて手錠外して逃げちまったってのによ!お情けで仲間にくわえてやってる下っ端の分際で頭にのりやがって、凱さん帰ってきたらこの程度じゃ済まねえぞ!」
 「そうだ、全部おまえのせいだ、おまえがボケでカスでクズなせいであんちゃんは負けちまったんだぞ!」
 兄貴に大暴れに触発されたか残虐な衝動を駆り立てられたか、弟のマオまでしゃしゃりでてきて囚人の頭といわず肩といわず背中といわず蹴りを浴びせる。それこそ残虐兄弟の異名に相応しい容赦なさで、奇妙な笑みを顔に貼り付かせたユエとマオが殴る蹴るの暴行を働くあいだ、ヤンとロンチウを含めた他のガキどもは止めに入るでもなく眉をひそめるでもなく、面白い余興にでも立ち会ったように愉快げに笑っていた。
 「凱さんくるまえに殺しちまったらまずいんじゃねえか」
 「いいさ、そん時はそん時で処理班呼んでくりゃすむこった」
 「東京プリズンの処理班は有能だからあっというまに死体を片付けてくれるさ」
 「血を拭って脳漿かきあつめて跡形もなく、な」
 血なまぐさい余興に酔いしれた囚人が口々に野次をとばしてユエとマオをけしかけ、眼光が完全にイッちまったユエとマオが狂ったように見張りのガキを蹴倒して罵詈雑言を浴びせる。
 異様な光景だった。
 俺は金縛りにあったように硬直し、固唾を飲んで目の前で繰り広げられる凄惨な私刑に見入っていた。なんでだれも止めないんだ?今ユエとマオにめちゃくちゃにやられてる囚人は仲間だろ、ユエとマオに蹴り倒されて鼻血まみれの顔でうめいてるそのガキはおまえらの仲間じゃないのかよ?仲間が仲間に暴行されて半殺しの目に遭ってるのに何で笑ってられるんだ、こいつら正気じゃねえ、全員いかれてやがる。
 俺の足元に何か、赤いものが飛んできた。
 足元の床に目を凝らしてぎょっとした。血だ。ユエとマオに二人がかりで蹴られてる囚人の鼻が変な方向に曲がって鼻血が飛んできたのだ。
 「おい、」
 そのへんにしとけよ、と続けようとした。拘禁中の俺が口を出すのもおかしな話だが、放っとけば本当に殺されちまいそうだ。いくら凱の子分でも目の前で殺されちまうのは寝覚めが悪い。が、現実には俺が口出しするよりユエとマオが飽きるほうが早かった。
 「―そうか、わかったぞ。おい半半」
 「半半じゃねえ、ロンだ」
 無駄だとわかっていたが、一応訂正しておく。見張りのガキを蹴るだけ蹴って憑き物が落ちたようにすっきりしたユエが大股にこっちに歩いてくる。
 「半半がここにいるってことはてめえが親殺しを逃がした張本人か」
 「いまさら何わかりきったこと言ってんだ」
 ユエが足を繰り出せば床に赤い靴跡がつく。鼻血で汚れたガキの顔面を踏み付けた名残りだ。ユエの片手には鞭が握られていた。鞭?なんでこんな物が。試合用の武器だとしてもどっからこんなマニアックな物調達したんだ?ユエの手に握られた鞭に眉をひそめれば、その手首が跳ねあがり、鋭く鞭が撓って俺の足元に叩き付けられる。
 「これか?タジマに貸してもらったんだよ」
 本気で狙ったわけじゃなく単なる脅しだろう。もしユエが本気で俺を打つつもりなら、手錠をかけられた俺は到底逃げられやしない。足元の床を舐めた鞭に唾を嚥下し、ユエを睨む。
 俺の恐怖心を煽るように鞭をしごきながらにやにやとユエが説明する。
 「知ってるか?タジマのやつ東京プリズンじゃ変態サド看守で通ってるが娑婆の女相手にゃドMなんだぜ。革の拘束具つけられて鞭でしばかれて豚呼ばわりされて興奮するんだとさ。この鞭はタジマのお宝で、こいつで思う存分サムライ痛めつけてやれって特別に借り受けたんだ。なのに」
 風切る唸りをあげて鞭が振り上げられ、反射的に首を竦める。
 予想に反し、俺はまた直撃を免れた。今度もまた脅しだったようだ。俺の恐怖心を高めるために、ぎりぎりまで追い詰めるために、ユエはわざと直撃を避けて足元の床から背後の壁やらを狙っているのだ。
 さすが凱の子分。反吐がでるほど性格が陰険だ。
 手首を軽く捻って鞭を戻したユエが、能面みたいな顔の毛穴から瘴気じみた憎悪を噴出させる。
 「―なのに、てめえが余計なことしたせいで全部台無しだ。あともうちょっとでサムライしばき倒せたのに親殺しが木刀渡したせいで一発逆転、俺はギャラリーの眼前であっけなく気絶させられて凱さんに大目玉。いいとこなしの幕ギレだ」 
 背後の壁にぴたりと背中を密着させ、足裏で床を蹴り、蛇が獲物に食らいつくような唐突さで襲い来る鞭からできるだけ体を遠ざけようとする。無駄な足掻きだ。手錠をかけられて配管につながれて、どう頑張ったってこれ以上は逃げも隠れもできない壁際で、俺にできるせめてもの抵抗といえば最後まで虚勢を捨てずにユエを睨みつけることだけだ。 
 「全部おまえのせいだ。血の汚れた半半のくせに正義の味方気取りで格好つけやがって、」
 「―はっ。てめえが負けたのを俺のせいにするなよ」
 「なんだと?」
 生意気に口答えすれば、ユエの眉間に不快な皺が寄る。壁に背中を預け、もうこれ以上は後退も前進もできないボイラー室の片隅で、周囲を凱の子分に取り囲まれた絶体絶命の状況で革製の鞭をひっさげたユエと対峙する。
 飴色に艶光りする柔軟で強靭な鞭。叩かれたらさぞ痛いだろうな、他人事のようにぼんやり考える。
 「サムライとおまえじゃ実力が違いすぎる。鍵屋崎を木刀ごとボイラー室に閉じ込めてサムライに勝ったつもりでいたんならおめでたくて笑えるな。それってつまり木刀握ったサムライにびびったんだろ、びびってちびって何とかサムライから木刀奪えないかってない頭絞って鍵屋崎の拉致監禁を実行したんだろ。お生憎様だな。おまえらに黙って捕まってるほど鍵屋崎は馬鹿でも腰抜けでもねえ、馬鹿で腰抜けなのはサムライとレイジにびびって裏でこそこそやってるお前らのほうだ」
 こんな時でも俺の舌は止まらない。大人しく従順に無抵抗に徹して、これから俺を痛めつけようって連中の機嫌をとることができないのだ。借りてきた猫のように媚売ってりゃ少しは手加減してくれるのかもしれないが、こんないけすかない連中にへりくだって取り入るなんて冗談じゃない。
 俺に腰抜け呼ばわりされた連中が剣呑に押し黙り、ボイラー室に殺伐とした雰囲気が漂う。
 「手錠かけられて動けねえくせに口だけは達者だな」
 ユエが無表情に呟くのと、鞭が振り上げられるのは同時だった。
 「!!!」
 速すぎてかわせなかった。
 いや、軌道を読めていたとしても手錠で拘束された体勢じゃかわすのは不可能だ。飴色の残像が空を薙いだ次の瞬間、二の腕に爆ぜる衝撃と乾いた音。痛い―……洒落にならない。打たれたのは左腕だ。根性で悲鳴は殺したが、鞭で打たれた二の腕が狂おしい熱をもち、みみず腫れが耐え難く疼きだす頃にはもう次が振り上げられ振り下ろされていた。
 片腕で頭上を庇い、体を丸めて鞭から身を守ろうとするが殆ど何の役にも立たない。肩、肘、脇腹、太股。瞼の裏が真っ赤に染まる激痛に頭が朦朧として意識が霞んで、痛覚への刺激に涙腺が緩んで悲鳴になりそこねた苦鳴がひっきりなしに喉から漏れる。
 「痛って、」
 いてえよ畜生。でも痛がれば痛がるほど奴らが調子づくのがわかっていてそれは癪で、でも発狂しそうに痛くて何ともないふりなんかできそうにない。
 「ああ、やっぱり……鞭で人しばくの癖になるな、めちゃくちゃ楽しい」
 一心不乱に鞭を振り上げて振り下ろして俺を嬲りながらユエが言う、まるで俺をしばくのがいい運動だというふうに爽快な汗をかいて軽快に息を弾ませて。こっちはそれどころじゃない、俺を取り囲んだ連中がこっちを指さして笑ってようが野次をとばしてようが視界に入ってこないし耳に入ってこない。
 鞭でしばかれてよがるやつの気持ちが理解できない、ただ痛いだけじゃねえか。
 骨身にしみる激痛に歯を食いしばり、全身を苛むみみず腫れの熱に意識をさらわれそうになるたび、体のどこかに鞭があたる衝撃で強制的に覚醒させられおちおち気も失えない悪循環。もう抵抗する体力も尽きて床に座りこんで自分の服を見下ろせば、鞭が掠めた個所が裂け、薄く血が滲んだ素肌が覗いていた。
 「あんちゃんずりいよ自分ばっか楽しんで!俺にも貸してくれよ!」 
 「あせるな弟よ、ほら、おまえの番だ。やりすぎて殺しちまうなよ」
 目の前でヤンとユエが揉み合ってる。鞭を奪い合うつまらない兄弟喧嘩だ。喧嘩……喧嘩といえば、サムライとレイジはどうしてるだろう。つまらない意地張ってねえでいい加減仲直りしてほしい。
 脇腹の裂け目をおさえ、擦りむけた素肌を隠しながら今の状況にはまったく関係ないことを考える。そうやって頭を働かせてないととてもじゃないが意識を持ち応えられそうになかった。
 意識を保つだけで精一杯の俺の前でユエからヤンへと鞭が手渡され、拷問吏の役割が交替する。
 「ちゃんと鳴けよ」
 ようやく自分の出番が回ってきて狂喜したマオが高々と鞭を振りかざし、そして―
 「!ぎゃあっ」
 マオ自身の顔面めがけ、跳ね返ってきた。
 壁に背中を預けた俺めがけて鞭を振り下ろしたつもりが、勢い良すぎて床にあたって跳ね返ってきたのだ。自分が振り下ろした鞭で自分の顔面を打ちのめすという間抜けすぎる一人芝居を演じたマオが得物を取り落とし、両手で鼻っ柱を覆ってその場に膝をつく。 
 「大丈夫か弟よ、しっかりしろ!」
 顔面蒼白のユエが慌てふためいて弟を抱き起こし、「あんちゃんいてえよう、はなぢ、鼻血がでたあー」とマオが兄貴に取りすがって泣く泣く訴え。
 とうとう我慢できず、俺は吹き出した。
 「あははははははは、ははははははっ」
 腹筋がよじれるほど笑った。いい気味だ、ざまあみろ、ああおかしい。あんまりおかしくて涙がでてくる。ついさっきまで調子づいて俺を鞭でしばき倒してた奴らが自業自得な目に遭ってやがる、俺に鞭くれようとして勢い余って自分に跳ねかえってきたのをまともに受けてとびきり不幸な災難に違いない。 
 やばい、笑い声が止まらない。レイジの笑い上戸が伝染ったのだろうか?
 鞭の味が強烈すぎて頭のネジが二・三本とんじまったのだろうか。もう大しておかしくないのに俺は馬鹿みたいに笑い転げてる、発作に襲われたみたいに大袈裟に。
 床で笑い転げる俺を見下ろしていた連中が薄気味悪そうに眉をひそめ、マオを支えて立ち上がったユエが低い声をだす。
 「……おい。あれ持ってるか」
 「あれ?」
 「試合後の楽しみにとっといたとっておきのアレさ」   
 『アレ』?
 合点したガキがユエの方へと歩いてきしなに尻ポケットから何かを取り出す。ズボンの尻ポケットにすっぽり納まっちまうサイズの平べったい瓶。中で揺れているのは怪しげな琥珀色の液体。
 「…………」
 何をする気だ?
 ガキから瓶を受け取ったユエが俺の眼前で屈みこみ、視線の高さを合わせる。
 「くそったれ台湾の血が入った半半の分際で、よくも俺の可愛い弟をこけにしてくれたな」
 壮絶にいやな予感がする。嗜虐の熱狂を双眸に宿し、口元に笑みを浮かべたユエがコルクの栓を抜く。軽快な音をたててコルクが抜けた瓶から漂ってきたのはツンと鼻腔を突くアルコールの刺激臭。
 酒だ。それも、強いだけが取り柄の安物のウィスキー。
 匂いを嗅いだだけで胸焼けしそうな、一口飲んだだけで悪酔いしそうなウィスキーを俺の鼻先に近付けて
ユエが言う。脅すように密やかに、弄ぶように楽しげに。
 「飲めよ。一気に」
 ……酒は十五までやらねえって決めてたのに。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051204231434 | 編集

 遠く歓声が聞こえる。
 レイジと凱は現在試合中。無敵のブラックワーク覇者対三百人の大派閥のボスの対決ということで会場は異常な熱狂に沸いている。僕が人知れず会場を後にした時点で二桁の失神者が担架で運びだされたのだから、ゴングが鳴って本格的に火蓋が切って落とされた今はさらに収拾がつかなくなってるはずだ。
 熱狂の渦から離脱し、ボイラー室を見張ること数分。
 人けのない曲がり角に潜んでボイラー室を監視しているのは僕だけではない。蛍光灯の消えた薄暗がりにはは他に囚人が五名、その共通点は僕とおなじ元売春班の売春夫であるということ。 
 現在、ボイラー室にはロンが拘禁されている。
 僕を助け出しにきて自分が身代わりになっては本末転倒、まったく理解不能で無意味な行為だと断言せざるをえないが、僕が彼に助け出されたのは事実だ。ロンが助けにこなければ僕は無抵抗のままタジマに絞め殺され、今ごろは冷たい寝袋に入れられて処理班に回収されてたかもしれない。
 サムライに無事木刀を届けられたのもロンのおかげだ、ロンが体を張って僕を逃がしてくれたからだ。

 借りは返さなければいけない。

 他人でも友人でも関係ない、借りをそのままにしておくのは落ち着かない。しかし現状ではレイジを頼ることはできない、レイジに真実を話して助力を乞えばことは簡単に済むだろうがレイジの戦線離脱はすなわち試合放棄を意味し、僕ら四人の自滅に直結する。
 レイジに知られるまえに、レイジの戦いが終わるまでに決着をつけなければ。
 ロンの救出が最優先事項として、それには人員が不可欠だ。僕ひとりでは手に余ることが必然でてくる。
 他人に、それも知能で劣る凡人に頭を下げて助力を乞うのは屈辱だが、時には謙虚に態度で誠意を示すことも必要だと苦汁を飲んで決断した。 
 それもこれも全部サムライの影響だ。
 言葉ではなく態度で、理屈ではなく行動で誠意を示す方法はサムライに学んだ。
 「―まず聞く」
 軽く眼鏡の弦に触れ、物陰で輪になった五名の囚人を冷ややかに眺めれば、率直な眼差しと毅然と唇を引き結んだ真剣な表情で全員が注目する。
 彼らは彼らなりにロンの身を心配し、ロンを救出する手助けをしたいと思っているのだろう。
 売春班ではロンに酷いことを言ったが、一週間ものあいだ壁を挟んで生き地獄を共にした売春夫のあいだには強固な連帯感が芽生えていた。売春から一時的に足を洗い、他者を思いやる心の余裕を取り戻した彼らがロンにすまないと思い、ひとりは心細いから集団で謝罪の意思を表明しにきてもおかしくない。 
 「この中でスリまたは窃盗の前科がある者はいるか?」
 「「は?」」
 僕以外の全員の声が揃った。
 何故いきなりそんなことを、この場に何の関係がと質問の意図を推し量りかねた囚人が不審げに顔を見合わせる中、おずおずと進み出たのは軽薄に髪を脱色した優しげな顔だちの少年。柔和に整った顔に気弱げな表情を浮かべたその囚人は、凛々という名の恋人を持ち、男に犯される恐怖と嫌悪から鏡に突っ込んだ男。
 「名前は?」
 「ワンフー」
 間抜けな話だが、僕は今この瞬間に彼の名前を知った。売春班じゃ一週間もおなじ生き地獄を味わったというのに、僕は壁を挟んで男に犯されてる囚人の名前も知らなかった。
 ワンフーと名乗った囚人の顔には鏡の破片を抜いた痕が痛々しく残っていた。もう一生消えないだろう凄惨な傷痕に眉をひそめた僕の前に歩み出て、ワンフーが口を開く。
 「自慢じゃねえけど、スリならガキの頃からの唯一といえる特技だよ。十歳で親元とびだしてから地元のスリ集団に仲間入りして右手一本で食ってきたんだ。十五からはピンでやり始めて……俺が東京プリズンに送られたのも笑える話でさ。凛々の誕生日プレゼントに、まえから欲しがってた指輪どうしても贈ってやりたくて。でもそんな金ねえから、店のガラス割ってこっそり頂戴したんだよ」
 「語弊がある、どこがこっそりなんだ。第一盗品の指輪を贈られる女性の気持ちになってみろ」 
 僕の疑問と抗議を無視し、夢見る目つきでワンフーが続ける。
 「覆面かぶってたし店に人いない時間帯狙ったしうまくいったと思ってたんだけど、後日凛々が質屋に指輪流して盗品だってばれちまって……で、警察が出所辿ってあえなくお縄ってわけ」
 盗んだ指輪を誕生日プレゼントにする男もどうかと思うが、貰った指輪を質に入れる女性も感心しない。
 まあ本人が幸せならいいのだろう、部外者の僕が口だしする権利はないと自分を諌めて毒舌を控えたが何だか釈然としない。ともあれ個人的な感想は保留し、話の疑問点を突く。
 「窃盗だけなら軽犯罪だ、東京プリズンに送られるほどの罪には問われないはずだが」
 「スリの前科が二百二件あったんだよ」
 なるほど。塵も積もれば山になる、軽犯罪も嵩めば重罪になる。
 合点した僕に反省の色のない笑顔を向け、自信ありげにワンフーがうそぶく。
 「俺が捕まったのはたった一件の窃盗の失敗が原因で、警察で事情聴取されるまでスリの前科二百二件はバレてもなかったんだ。腕には自信があるぜ」
 「ならば証明してもらおう」
 輝かしい経歴でも誇るように自慢げに語るワンフーを眼鏡越しに見据え、顎をしゃくる。
 元売春夫五人を集め、頭の中で練っていた作戦を放す。神妙な表情で僕の一語一句に耳を傾けていた元売春夫が目を見開いて驚き、逡巡し躊躇し狼狽する。ボイラー室の前にいる五十嵐に聞かれぬよう、できるだけ声をひそめて意見交換する元売春夫らを威圧的な眼差しで黙らせる。
 僕の大胆な提案に動揺もあらわな元売春夫らを順繰りに見つめ、静かな声音で言う。
 「怖気づいたのなら逃げてもかまわない。その時はまた別の作戦を考える。この優秀な頭脳を持ってして単身ロンを救出する素晴らしい作戦を。しかし僕は体力面で不安が残る、人手があったほうが頼もしいのは事実。君たちが本当にロンに言ったことを後悔してすまないと思っているのなら、」
 そこで言葉を切る。
 言葉が十分に浸透するのを待ち、再開。
 「―すまないと思っているのなら、僕に協力してほしい」
 翻意する囚人がいても止める気はなかった。
 危険な賭けには違いない、無謀な試みには違いない。しかし現実にロンが危機に瀕してる今、危険な賭けだとわかっていても無謀な試みだと承知していても発案者の僕が迷うわけにはいかない。迷ったら最後なにも決断できなくなる。 
 少しばかり緊張しながら、そんな内心はおくびにもださず、表面上は平静を装い元売春夫らの反応を静観する。僕の予想に反し、だれも、誰一人として首を横に振りはしなかった。輪を抜けようとはしなかった。
 「やるよ」
 凛々という恋人がいる囚人が、きっぱり正面を向き。
 「東京プリズンの囚人を、いや、一児の父親を舐めるなよ。今ここで尻ごみしたら娑婆の娘に顔向けできねえぜ」
 メイファという娘がいる囚人が、はにかむように笑い。
 元売春夫ら五人が一致団結し、僕は安堵の息を漏らしていた。

 「準備はいいか」
 ひんやりと硬質なコンクリ壁に背中を預け、呼吸を抑え、無機物と同化。
 視線の先にはボイラー室がある。
 ボイラー室の前、不規則に蛍光灯が点滅する荒廃した廊下にはタジマに命じられて不承不承見張りの任に就かされている五十嵐がひとりだけ。周囲に通行人の姿がないのを確認し、ワンフー率いる元売春夫らを振り返る。ワンフーの隣には娘を溺愛する子煩悩な囚人がいて、ルーツァイだと自己紹介された。
 「いつでもいいぜ」
 「準備万端だ」
 ワンフーとルーツァイが若干緊張した面持ちで首肯する。
 視線の先ではむっつり黙りこんだ五十嵐が、ドア横の壁に凭れて腕を組んでいる。見るからに不機嫌そうな様子だ。長時間廊下に立たされる見張りの任に退屈しているのか、中で行われていることを知っていながら止められない罪悪感に苦しんでいるのか、近寄り難い仏頂面からは心の動きまで探れない。
 よし。  
 時機を見て、覚悟を決め、背後の待機組に顎をしゃくる。それが合図だった。打ち合わせ通り、ワンフーとルーツァイが廊下にとびだしてゆく。
 「五十嵐さん!」
 その声に五十嵐が振り向く。
 「五十嵐さん、いいとこで会った!大変だ、一大事なんだよ!」
 「早くきてくれよ、俺たちだけじゃ手におえねえよ!」
 「どうしたんだよ一体」
 長距離の廊下を全力疾走し、急を報せにきたとしか思えない迫真の演技で訴えられ、五十嵐が困惑する。
 「今は試合中だろ。おまえらレイジの試合観にきたんじゃねえのかよ」
 「それどころじゃねえよ!」
 「喧嘩だよ喧嘩!」
 「喧嘩?」
 「ほら、聞こえないのかよ、見えないのかよあっちで殴り合ってるのが」
 ワンフーが指さす方向を透かし見た五十嵐の表情が豹変する。ボイラー室が位置する通路から少し引っ込んだ脇道で今まさに殴り合いの喧嘩が行われていて、壁を殴り付ける音やら何かが倒れる音やらうるさく響いてくるのだ。
 それに混じるのは、互いをはげしく罵り合う声。
 「この野郎、絶対に許さねえ!殺してやる!」
 「やれるもんならやってみやがれこの腰抜けが、てめえが無駄にでかい図体してるせいで試合が見えなかったんだ、どう落とし前つける気だ!?」
 「なにが原因だよ一体……」
 五十嵐がげっそりと呟き、ワンフーとルーツァイがしてやったりと目配せする。
 「場所のとりあいさ」
 「会場が満員御礼で、前のやつが邪魔で試合が観れなくて、頭にきたガキがそいつ物陰に連れこんで喧嘩売ったんだよ」
 「俺たちが何言っても聞く耳もたねえんだ、五十嵐さん止めてくれよ!」
 ワンフーとルーツァイに血相かえて説得され、五十嵐が「しかたねえなあ」とぼやきながらも歩き出す。頼られたら断れないお人よしという点では五十嵐もロンの同類だ。先行するルーツァイにひきずられていた五十嵐の後ろでワンフーの手が素早く動く。
 錯覚ではない。肉眼ではとらえられない速さで五十嵐の腰から鍵束を抜き取ったワンフーが、絶妙のタイミングでこちらに鍵束を投げた。
 慌てて手を突き出せば、小さな放物線を描いた鍵束が狙い定めたが如くとびこんできた。
 鍵と鍵が擦れる耳障りな金属音は、反射的に指を閉じたせいで殆ど漏れなかった。鍵束を握り締め、音がもれるのを防ぎ、五十嵐が完全に曲がり角を通過して廊下の奥へと遠ざかるのを固唾を飲んで見送る。
 成功。
 こちらを向いたワンフーが親指を立てる。馬鹿なことをやってないで早く行け、とそっけなく手で追い立てれば憮然としたワンフーが小走りに五十嵐を追う。ルーツァイが大仰な身振り手振りで喚きたててくれたおかげで、五十嵐の注意がこちらに向き、序盤で作戦失敗の危機は回避できた。
 「上出来だ」
 ワンフーとルーツァイのコンビが五十嵐を連れ去ったのを確かめ、満足の笑みを浮かべる。
 第一段階は成功。五十嵐をボイラー室から連れ去り、鍵を入手。
 「きみの出番だぞ」
 五十嵐の誘導係が二名、嘘の喧嘩を演じる囮が二名。残る一名は僕の背後だ。囚人の手に鍵を渡し、指示する。
 「ボイラー室の鍵は右から五番目だ。間違うなよ」
 「なんでわかるんだよ?」
 不審感もあらわに眉をひそめた囚人の頭の悪さに辟易し、片方の耳をゆびさす。
 「僕の耳は脳に次いで性能がいい。ボイラー室に監禁されている間鍵穴に鍵がさしこまれる音に耳を澄ませて数えていた。五十嵐だって普段はボイラー室に立ち入りなどしないはずだ、どの鍵がボイラー室の鍵か一発でわかるはずもない。これは単純な推理だ。五十嵐は右手で鍵束を持っていた、手紙やメモを渡すときも常に右手から。つまり五十嵐は右利き。右利きの人間は無意識に右から物を選ぶ癖がある。複数のプレゼントの中から好きな物をひとつ選ぶなど選択者の好みに左右される場合にはこの法則はあてはまらないが、無個性な鍵の中から正解の一本を選ぶとなると話は別だ。途中で混乱しないためにも、どちらかの端から順に試すのが最も効率的な方法。五十嵐は右利きだから右から試してゆく可能性が高く、鍵穴に鍵がさしこまれる音は五回した。だから右から五本目の鍵がボイラー室の鍵だ。以上、何か質問は」
 僕はボイラー室に監禁されている間、何もせず無為に時を過ごしてたわけじゃない。 
 五十嵐がタジマの言いなりにボイラー室の鍵を開けたとき、食い入るようにドアを見つめて聴覚を研ぎ澄ませ、それが何本目の鍵かつきとめて脱出の布石にしようとしていた。
 あの時僕は追い詰められていた。ドアが開いた瞬間にタジマを突き飛ばし五十嵐を突き飛ばそうと半ば本気で考えたくらいなのだから、どんな小さなことやとるにたらないことからでも脱出の糸口を掴もうとこめかみが痛くなるような集中力を発揮していた。
 それが、勝機を掴むきっかけになった。
 「いいか、右から五本目だ。間違えるなよ」
 今いち頼りない少年に念を押して物陰から送り出す。今僕が淘淘と述べたのは心理学における右利きの法則、心理学的根拠に基づいてはいるが科学的根拠はどこにもなく、右から五本目が正解だという確証は持てない。ドアの前で立ち止まった少年が大きく深呼吸、緊張した手つきで鍵束をさぐり、僕に言われたとおり右から五本目の鍵を手にとる。 

 もし間違っていたらどうする?

 予期されるのは最悪の事態、外の異変に気付いた凱の仲間が一斉にとびだして少年を殴り倒し、物陰から僕を引きずり出す。かぶりを振って不安を払拭、少年の手元に目を凝らす。
 鍵穴に鍵がさしこまれ、涼やかな音が鳴る。
 開いた。
 僕の推理は的中した、あれが正解の鍵だったのだ。ボイラー室の中で息を殺し、耳を澄ましていた甲斐があった。何の抵抗もなく鍵穴に鍵が吸いこまれ、小気味よい金属音とともにドアが開く。僕の指示どおり、ドアの鍵が開くと同時に裏側に隠れた少年の姿は室内からは完全な死角となり、廊下にはだれもいないように見える。 
 話し声がぴたりと止んだ。
 ドアを閉めていても声が漏れ聞こえるほどに室内は盛り上がっていて、中の連中はドアの隙間から外気が吹きこんでくるまで、廊下の異状には全然気付かなかったらしい。
 「なんでドアが開いてんだ」
 「だれもいねえのに」
 「こええよあんちゃん、幽霊だよ」
 「リンチで殺された囚人の幽霊がモルグの地下通路うろついてるってか?まさか」
 廊下は無人であるにもかかわらず、現にドアは開いている。
 ボイラー室の中から歩み出てきた囚人は三名。さっきまでサムライと戦っていた囚人のぺアと、これは僕も知っているヤンだ。自分の出番を終え、休憩がてらボイラー室に引き上げていたものらしい。
 どこから手に入れたものやら、ウィスキーで酒盛りでもしてたのか。彼らが廊下に出た途端に強いアルコールの匂いが漂ってきて、おもわず顔をしかめる。
 好奇心から廊下にさまよいでた凱の子分三人が、ドアを開け放したまま周囲をきょろきょろ見回す。その背後、呼吸を止めてドアの裏側に隠れていた少年が早くしろと僕を手招く。
 人に命令されるのは不愉快きわまりない。言われなくてもわかっている。
 「あ!!」
 まずい、気付かれた。
 「早くしろ!!」
 「命令するな!」
 ドアの後ろの少年に急かされ、コンクリートの床を蹴り、物陰からとびだす。
 「親殺しだ!」
 「なんでここに、」
 「捕まえろ!」
 僕を発見したヤンが怒号を発し、互いによく似た顔だちの一目で兄弟とわかる囚人が回れ右してとびかかってくる。ボイラー室まで5メートル、3メートル、1メートル……必死に足を繰り出し、ヤンの手が肘を掴む直前にボイラー室にすべりこんで後ろ手にドアを閉め鍵をかける。間に合った。背中を預けたドアが震動、鈍い衝突音が連続。水浸しの床で足をすべらせ、勢いを殺せずドアに衝突した三人が何か喚いている。遠ざかる靴音を背中越しに確認、肩の力を抜く。彼が注意をひきつけてくれたおかげで間一髪ボイラー室にすべりこむことができた。ボイラー室を閉め出された三人のうち、二人は囮役を追いかけて走り去り、一人がドアを乱打する。
 「とっとと開けやがれ、親殺し!」
 ドアの前に居残ったヤンがこぶしでドアを殴り、断続的な震動が背中に響く。
 「半半助けにきたんなら無駄だぜ、中にゃまだロンチウとリャンとホウメイが残ってる!てめえが勝てる相手じゃねえよ!」
 「そんなことはわかっている」
 深呼吸してドアに凭れ掛かり、室内に残った三人を見回す。
 だれがロンチウでリャンでホウメイかは不明だが、僕を囲んだ三人ともが喧嘩慣れした物腰と凶暴な面構えの囚人だ。
 水蒸気の濃霧たゆたうボイラー室を見透かし、ロンの位置を確かめる。
 いた。壁際、さっきまで僕が繋がれていた場所にぐったりと手足をなげだして座りこんでいる。
 僕の声は聞こえてるはずなのに顔も上げないのはどうしてだ?六人がかりで徹底的に嬲られて、顔を上げることもできない状態なのか?近くでよく見なければどの程度の怪我か判断できないが、遠目にも服の何箇所かが裂けているのが視認できた。
 「こっち向けや」
 壁際のロンから手前に視線を転じれば、体格のいい囚人が仁王立ちしていた。
 「なに考えてんだ、おまえ。一回逃げ出したのにすぐまた戻ってきやがって」
 「お友達の半半助けにきたのかよ」
 「泣かせる友情だねえ」
 ドアから壁へと背中を移し、慎重に移動。壁面に取り付けられた配管を手摺代わりに、足元の水溜りにスニーカーを突っ込ませないよう注意し、一歩ずつ進む。ボイラー室の床には広範囲の水溜りができていた。漏水の副産物だ。水でぬれた床はとてもすべりやすくなっていたが、浸水してない乾いた個所を選んで足裏を下ろす。
 「友情?理解不能だな」
 口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
 僕がロンを助けにきたのは友情などではなくロンに借りを作るのが不愉快だからだ。それだけだ。
 僕は今、追い詰められているわけではない。絶体絶命の窮地に陥って後退を余儀なくされてるわけではく、敵から距離をとるふりで勝機を狙っているのだ。今まさに危機に瀕しているのは彼ら、僕を追い詰めたと慢心し、数の上でも力の面でも自分たちの優勢を信じて疑わない彼らの方だ。
 僕をどう料理しようか愉快な想像を膨らませた三人が、恐怖心を煽るように緩慢な足取りで接近。スニーカーがびしょ濡れになるのもかまわず水溜りを弾き、水の飛沫を跳ね散らかして大股に歩いてくる。
 「どうした、逃げるばっかりじゃねえか」
 「天才なら天才らしく天才的逆転劇を見せてくれよ」
 「俺たちをこんなに焦らしといて、口だけってこたあねえよな」
 壁面に背中を密着させ、壁に巡らされた配管に沿って移動するうちに目的地に到着。背後、ちょうど僕の頭の後ろにはブレーカーがある。ブレーカーの存在を後頭部に隠し、平静を装った不敵な眼差しで三人を牽制。僕の計略など知りもしない愚鈍な三人が水溜りを渡って間隔を狭めてくる。僕の足元に水溜りは及んでいない。僕はちょうど水溜りの淵に立っていて、スニーカーの先端に水は届いてない。
 壁際、手錠に繋がれてうなだれているロンを一瞥。
 ロンが座りこんだ床にも水溜りはない。ロンが捕らえられた場所は僕がいた場所とおなじで、僕はちょうどあの位置の配管を壊して水を噴出させたのだ。水圧と飛距離を計算にいれれば、ロンの足元には水がかからない。
 僕とロンは水溜りに足を突っ込んでない。
 対して、僕を追い詰めたつもりの三人は水溜りに足を浸して立っている。   
 「……まったく、浅はかだな」
 「あん?」
 ブレーカーを背に隠し、憐憫をこめた微笑を浮かべる。
 「浅はかだと言ったんだ。たまには僕の予想を覆す言動をしてみせたらどうだ、語彙が貧困な君たちには酷な要求かもしれないが君たちの言動・発想すべてが僕の予測の範囲でつまらない。どこかで聞いたような悪態を吐いてどこかで聞いたような挑発をしてどこかで聞いたような笑い方をする君たちには個性が皆無、観察対象にしても酷く物足りない。ケージの中のモルモットだってたまには可愛い芸を見せて観測者を楽しませてくれるのに、君たちときたら滑車を回すモルモットよりも無能で芸がないじゃないか」
 見せ付けるように腕を組み、ゆったりとブレーカーに凭れ掛かる。 
 「あんまり僕を失望させるな」
 「この野郎!!」
 頭に血が上った三人が水溜りを蹴散らし、水飛沫を蹴立てて肉薄。先頭の囚人が大きな動作で腕を振り上げ僕の顔面めがけ鉄拳を叩きこもうとしたが、腕の振り方で軌道を予測すれば避けるのはたやすい。
 イエローワークの強制労働中に足元に突き出されたシャベルを避けたり、食堂でわざと肘をぶつけてくる囚人をかわしてるうちに反射神経とともに動体視力が鍛えられたらしい。
 風圧が横顔を叩き、鉄拳が頬を掠める摩擦熱に毛穴が縮む。
 紙一重で拳をかわせば、僕の予想どおりの事態が発生。
 「うわっ、なんだこりゃ!?」
 「一気に暗くなったぞ、」
 「親殺しはどこだ、見えねえぞちくしょうが!」
 僕がかわした拳がブレーカーを直撃、拳がめり込んだ配電盤ははげしく火花を散らして小爆発。
 ブレーカーの一部が複雑に絡まり合ったコードを露出させて水溜りに没した瞬間、視界が眩むような凄まじい電撃の奔騰に水面が泡立ち、水溜りに立った三人が白目を剥いて痙攣。

 「「ぎゃああああああああああっ!!!」」   

 感電。水には電気を媒介する性質がある。水溜りの淵に立っていた僕とロンだけが感電の危機を免れた。 痙攣の発作が去った後に訪れたのは筋肉の硬直、そして弛緩。
 水溜りに膝をつき、気を失って上体を突っ伏した三人を見下ろして額の汗を拭う。ドアの外では「今の悲鳴なんだよ、どうかしたのかよロンチウ!?」とヤンが吼えている。
 薄らと水蒸気が立ち上る水面をまたぎ、泡を噴いて失神した三人の鼻孔に手を翳し、息があるのを確認してひとまず安堵する。正当防衛が認められるやむをえない状況とはいえ可能なかぎり人は殺したくない。鍵屋崎優と由香利、戸籍上の両親を殺した僕はもうこれ以上人を殺したくない。
 ロン。ロンはどうしている?
 確信犯的にブレーカーを落として敵を再起不能にし、当面の危機は脱した。五十嵐からスッた鍵で内側から施錠すれば廊下のヤンは中に入れない。異状に気付いた五十嵐かタジマが合鍵をとってこない限り……
 そうだ。ぐずぐずしてたらタジマが帰ってきてしまう。
 「ロン、生きているか?」
 水溜りを避け、壁際のロンのもとへ急ぐ。
 時間稼ぎには限界がある。五十嵐ももうすぐ戻ってくる。それまでにロンを正気に戻してボイラー室を後にしなければ……痛め付けられて気を失っているのだろうか?力なくうなだれたまま、声をかけても何の反応もないロンのそばに片膝ついて怪我の具合を確かめる。
 擦過傷とみみず腫れの他には外傷もなく、骨折などはしてないようだと安堵する。足元には鞭とウィスキーの空き瓶とが落ちていた。
 「気絶してる暇はないぞ。早く、」
 目を覚ませと叱咤しかけ、ロンが緩慢に顔を起こす。
 「?」
 どうも様子がおかしい。それにこの、むせかえるような酒の匂いは?酒の匂いを服に染み付かせたロンが熱っぽく潤んだ、その癖どこか焦点が合わない目で僕を見る。
 芒洋と虚ろな目はアルコールの残滓で半透明に濁っていた。 
 「ろ、」
 寝ぼけている場合か、しっかりしろ。
 苛立ち叫ぼうとした僕の顎にロンの手がかけられ、顔と顔が急接近し、唇と唇が―

 待て。
 なんだこの展開は。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051203231551 | 編集

 「寝ぼけるんじゃない!」
 唇が触れる寸前、ロンに平手打ちを食らわす。
 甲高く乾いた音が響き、ロンの横っ面を叩いた手が痺れた。そんなに強く叩いたつもりはない……のだが。怪我人だし一応手加減したつもりだがどうやら僕は手加減が上手くないらしい。ロンは膜が張ったような目つきで僕を見つめていた。
 糸に繰られた人形のように鈍臭い動作で頬をさすり、ぼんやりと僕を仰ぐ。
 そして、呂律の回らない口調で言う。
 「……メイファ」
 「は?」
 ロンの口からでた名前に眉をひそめる。意外な名だが初聞きではない。以前売春班の仕事場で、壁を挟んだ隣部屋に軟禁されたロンと暇潰しに語り合った過去の出来事。
 ロンの初体験の相手だ。
 ロンの呂律が怪しい理由はすぐにわかった。足元に落ちた空き瓶のせいだ。ウィスキーのラベルが貼られた瓶の中身はからで、酒は一滴も残っていなかった。ロンの服には芬芬たるアルコール臭が染み付いていて、緩慢にこちらを向いた顔は仄かに上気していた。ボイラー室で宴会していた凱の子分らに無理矢理ウィスキーを飲まされたものらしい。
 「無茶な」
 からっぽの瓶を見下ろして眉をひそめる。アルコール分解酵素がない人間に一気飲みを強制すれば最悪死に至る危険性もあるのに。ロンの様子がおかしいのはアルコールを一度に過剰摂取したせいだ。前後不覚の酩酊状態に陥ったロンは妄想と現実の区別がつかずに初体験の相手と僕とを混同している。
 失敬な。
 「僕はメイファじゃないぞ。だいたい性別が違うだろう」
 顎に手をかけられキスされかけた不快感は拭えず、強い口調で抗議する。未遂で済んだからよかったものの、あと一秒でも反応が遅れていれば手遅れだった。冗談じゃない、唇の粘膜と粘膜を接触させ唾液を交換する不潔な行為など相手がだれであろうが想像しただけで虫唾が走る。なにより同性とキスしたと知れたら恵に軽蔑される。いや、恵に関しては両親を刺殺した時点でもう手遅れだが……
 何を言ってるんだ僕は、しっかりしろ、落ち着け鍵屋崎直。
 無意識に唇を拭い、ロンを睨み付けて嫌味を言う。
 「僕と初体験の相手を間違えるなんてどうかしてるぞ、初体験の相手とレイジを間違えるならまだ理にかなってるが……、」
 突然、僕の抗議を遮ってロンの手が伸びてくる。驚き硬直した僕の顔の横にさしのべられた手が眼鏡の弦に触れ、そっと外す。眼鏡を外した僕の顔をしげしげと観察し、何か納得したようにロンが頷く。 
 「メイファ」
 「ちょっと待て、眼鏡を外したらメイファか?眼鏡の有無が条件なのか?」
 ダメだ、手におえない。ロンは完全に酔っ払っている。酔っ払いの戯言に付き合っている暇はないというのに。ロンの手から眼鏡を取り返しきちんとかけ直し、頭を整理して優先順位を確認。まず最初にすべきはロンの怪我の具合を確かめること。壁際に座りこんだロンと向き合い、怪我の程度を観察。
 囚人服の上着とズボンが何箇所か裂けて薄く血が滲んだ素肌が覗いている。サムライの対戦相手が用いていた鞭がそばに落ちていたが、おそらくこれでやられたらしい。悪趣味な拷問の真似事だ。服の裂け目から露出した皮膚には痛々しいみみず腫れが走り、手の甲や首元には擦過傷も数箇所散見された。
 「酷くやられたな」
 右袖、二の腕の裂け目から覗く赤く盛り上がったみみず腫れを見て眉をひそめる。
 ロンの前に片膝つき、尻ポケットから取り出したのは念の為にサムライから借りてきた手ぬぐい。こんなこともあろうかと所持していて助かった。医学書で学んだ応急処置の知識を頭の中で復習、包帯代わりの手ぬぐいをロンの二の腕に巻き付ける。包帯も消毒液もガーゼもない状況では大した応急処置もできないが黴菌の感染予防にはなるだろう。
 「かっこ悪ィ」
 「贅沢言うな」
 無抵抗に僕に身を委ねていたロンが嫌そうに二の腕に結ばれた手ぬぐいを見下ろす。応急処置は完了した。次は……ロンが手足を投げ出して座りこんだ床の周辺を手探りすれば、1メートル離れた場所に鍵を発見。素早く鍵を拾い上げ、手錠の鍵穴にさしこむ。
 ぴったり一致した。
 鍵を回すと同時に手錠が外れ、配管に固定されていたロンの左手が力なく膝に落ちる。
 「さあ、行くぞ」
 手錠が外れたならもうこんなところに用はない、一分一秒だって長居したくない。壁に背中を凭れてぐったりしてるロンを急かして立ち上がるが、焦る僕をよそにロンは自力で立ち上がろうとしない。……いや、アルコールの酩酊作用で二足歩行も困難なのか。まったく世話が焼ける、どこまで手間をかけさせれば気が済む?床に尻をつけたまま、半覚醒のまどろみをむさぼっているロンを苦々しく見下ろして逡巡する。
 逡巡のはてに辿り着いた結論は。
 「―くそっ、何故僕がこんなことを。肉体労働は凡人の役割で天才の専門分野は頭脳労働なのに」
 壁に背中を預け、手足を怠惰に弛緩させたロンの傍らにしゃがみこみ、その脇の下にいやいや腕を通す。
 ロンの片腕を肩にかけて立ち上がりしな、想像以上の重さに足がもつれて転びそうにな鳴る。小柄なくせに重い。そういえば意識を失った人間の体は重くなるとどこかで聞いたことがある。肩にかかる重みとぬくもりに利き手を捻挫したサムライに肩を貸した夜のことを思い出す。
 ほんの数週間前の出来事だ。僕より頭二つ分高いサムライを背負えたのだから、僕より背が低いロンを支えて歩くのは物理的に不可能じゃない。
 「……おまえ、潔癖症じゃなかったのかよ」
 「潔癖症だが、それがどうかしたか」 
 「俺にさわるの嫌じゃないの」
 「あとでよく手を洗っておく。爪の中まで念入りに」
 寝ぼけた声をだしたロンの方は見ず、冷淡に返す。実際ブラックワークで売春を体験してから僕の潔癖症は以前ほどではなくなった。売春班では手で人肌に触れるよりさらに生理的嫌悪をかきたてる性行為ばかりを毎日強いられていたのだから、それと比較すればロンと密着して歩くぐらいどうということもない。
 毒をもって毒を制すではないが、売春班での日々を経て僕も多少は逞しくなったらしい。良い意味でも悪い意味でも。
 「しっかりつかまってろ」
 気を抜けば肩からずり落ちそうになるロンを叱咤し、囚人が突っ伏した水溜りを迂回し、慎重に歩き出す。僕の言葉を聞いてるのかいないのかロンの足取りは覚束ない。酩酊したロンが肩に体重をかけてくるせいで足腰の重心がぐらつき、ドアまでの道のりがはてしなく遠く感じられた。
 しかし、どうする?
 ドアの外にはヤンがいる。僕らが出てくるのを今か今かと待ち構えて戦闘態勢に入っているはずだ。ドアを開けたその瞬間に襲いかかってくるかもしれない、怒号を発して殴りかかってくるかもしれない。ロンに肩を貸したこの体勢ではとてもヤンの攻撃をかわせそうになく、まともに拳を受けて顔面陥没の危機だ。顔面に拳を受けるのはかまわないが眼鏡が割れるのは憂鬱だ、眼鏡がなければ日常生活に支障がでるし第一本も読めなくなる。読書は東京プリズンにおける唯一にして最大の娯楽なのに……
 「てめえクソ眼鏡、ロンチウたちになにしたんだ!?とっとと開けやがれ、開けねえとぶち破るぞ!」
 ポケットを探り、鍵束を握り締める。
 どちらにせよ覚悟を決めなければ、対処法を練らなければ。ドアの外ではヤンが騒いでいる、ドアを開けた途端に殴りかかってくるの確実。どうする?ヤンの怒りを恐れ、このままボイラー室に閉じこもるか?……無駄な抵抗だ。五十嵐かタジマが戻ってくればその時点で時間切れ。それならば少しでも僕らにとって有利なうちに速やかにことを運ばなければ。今ならドアの外にはヤンひとり、囮を追っていったふたりが戻ってくる気配はない。
 今ならもしかしたら、どうにかなるかもしれない。
 ヤンの隙をつき、上手く逃げることができるかもしれない。
 「………」
 緊張に汗ばんだ手で鍵束をさぐり、右から五本目の鍵を手にとる。金属のひんやりした感触が指先に伝わり、心まで冷やしてくれる。僕の肩に顔を埋めたロンが何か呟いてる。寝言か?人の気も知らずにのんきだなと舌打ちしたくなる。水溜りを迂回し、ドアに到着。ヤンの攻撃を切りぬける方法を模索しつつ鍵穴に鍵をさしこみ……
 靴音。
 「タジマのクソ野郎が、エリート気取りのスカした若造が調子のりやがって!」
 「!」
 憤然と廊下を歩いてきたのは猛々しい靴音、もう二度と聞きたくなかった野太い濁声……タジマだ。なんてことだ、最悪のタイミングでタジマが帰ってきてしまった。鍵穴に鍵をさしこみ、回そうとした手が瞬時に硬直。もう逃げられない、すべてが終わりだ。
 「安田の馬鹿があれこれくだらねえことくっちゃべって足止めしてくれたおかげで時間食っちまったじゃねえか!こちとら早いとこ戻って続きやりたくてたまらなかったのに、早いとこロンを犯したくて犯したくて股間はちきれそうだってのに!俺がボイラー室の鍵持ち出したのに気付いて遠まわしに探り入れてきて、しまいにゃ『自分も一緒に行く』だと?ボイラー室のブレーカーが不調だからちょっと確認しに行くだけだって、副所長さまさまが出張ってくるよな用件じゃねえって何遍言わせりゃ気が済むんだよクソが!!」
 タジマは激怒していた。ボイラー室に近付きながら周囲の壁や床を蹴り付けてはでに八つ当たりしている。察するに、タジマがボイラー室に帰って来るのが遅れたのは無断で鍵を持ち出したことが安田にばれ、今の今まで詰問されていた為らしい。
 「―まあいい、安田の話が長いせいで服も乾いたしな。ははっ、いよいよお待ちかね、タジマ様がロンのケツいただく番だ。俺が処女いただくまえに凱の子分どもにヤられてなきゃいいが……一年半も待ったんだ。一回や二回の中出しじゃ終わらせね、ん?」
 「タジマさん、いいとこに!」
 ボイラー室の前で靴音が止む。タジマの到着で心強い味方を得たヤンが顔を輝かせる光景が浮かぶ。
 「タジマさんがいねえあいだにやべえことになったんだ。聞いてくれよ、例の親殺しがボイラー室に殴りこんできて中で何かあったみたいで……」
 「なんだって?」
 ドアに衝撃が走った。
 闘牛が激突したような衝撃に驚き、ロンの片腕を肩にかけたままドアから飛び退く。ドアの外の光景が鮮明に目に浮かぶ。僕がロンを助けに来たと知り、猛烈に怒り狂ったタジマがドアを殴っている。
 「ふざけやがって、安田の長話が終わってせいせいして来てみりゃコレかよ!そんなに俺の邪魔したいのかよ鍵屋崎、そんなに怒らせたいのかよ鍵屋崎!畜生がっ、安田といいてめえといい眼鏡かけた奴はどいつもこいつも俺の楽しみ奪って癪にさわりやがる!いいか殺されたくなきゃとっととここ開けろ、今すぐドア開けてズボン脱いでこっちにケツ剥けやがれ、ロンと並べて犯してやる!!」
 タジマのこぶしが振り上げられ振り下ろされ、鈍い音の連続とともにドアが震動。ノックだけでは飽き足らず、しまいにはドアの下部に蹴りを入れ始めたタジマの姿は見えなくても凄まじい剣幕に圧倒される。
 タジマなら今言ったことを本気で実行する。僕には確信がある。
 従順にドアを開けるか、無視して閉じこもるか。選択肢は二つに一つだが、どちらを選んでも僕たちに訪れるのは最悪の結末。従順にドアを開けたところでタジマは反抗した僕を絶対に許さないし、無視して閉じこもったとしても遅かれ早かれ強行突破される。
 「―くそっ、」
 どうしたらいい?どうすればいい?
 考えろ考えろ考えるんだ、僕は天才だ考えれば名案が浮かぶはずだ閃くはずだ。しかし状況は極めて不利、僕とロンは鍵をかけた密室に取り残されて救援を呼べず、唯一の出入り口たるドアの外にはタジマとヤンが立ち塞がっている。もう少しすれば囮を追っていった二人も戻ってくる、五十嵐も帰ってくる。
 どうする―?
 「!あ、」
 思考に没頭していた僕はその時まで全然気付かなかった。
 鍵穴に鍵をさしこんだまま決断できず、棒立ちに固まっていた僕の手にロンの手が被さり有無を言わさず横に回す。
 「なにを考えているんだこの低能」
 「手伝ってやったんだよ、感謝しろ」
 酔っ払いに説教するだけ無駄だと頭でわかっていても怒鳴らずにはいられない。ロンに反省の色はない、いいことをしたといわんばかりに満足げな表情で尊大に開き直っている。余計なことをするな、と続けて叱責しようとした僕の目の前でノブの抵抗が消失。
 蝶番が外れてドアが開き、
 「そらよっ!」
 「ぎゃあっ!」
 快哉と悲鳴が重なった。 
 僕に肩を抱かれたロンが行儀悪く片足を振り上げおもいきりドアを蹴り飛ばす、ロンの蹴りが見事に嵌まったドアはその勢いで加速、廊下に立ってノックを続けようとしていたタジマの顔面に激突。
 高々と片足を振り上げたロンの視線の先、ドアで顔面を痛打したタジマが中腰に屈んで悶絶。顔面を両手で押さえてのうたうちまわるタジマの横にはヤンが呆然と突っ立っている。
 「あは」
 ロンが笑った。奇妙に顔をひきつらせて。
 「あははははははははははは!ざまあみやがれタジマ、豚は豚らしく四つん這いで残飯漁りしてるのがお似合いだ!」
 ロンが笑っている。酒に酔った赤い顔で、タジマを指さして狂ったように。
 「!この、」
 喉仏を震わせ肩を上下させ、涙が出るほど笑い続けてなお笑い止まないロンめがけてヤンがとびかかる。 一瞬かなり本気でロンを捨てて身の安全を図ろうかと思ったが、僕に決断する間を与えずヤンのこぶしが迫り来る。駄目だ、この距離からじゃ避けられない。自分の鼻骨がへし折れ前歯が欠ける未来を予期し、固く目を閉じてこぶしの風圧を感じ―
 「させるか!」
 飛び入りした声に、目を開ける。 
 僕の鼻骨をへし折ろうとしていたヤンの腰に誰かがしがみつき、もんどり打ってその場に押し倒す。床でヤンと揉み合っている囚人はルーツァイだった。廊下の前方から殺到するのは複数の足音。喧嘩の芝居で引き止められる限界が訪れたか、五十嵐を先頭に元売春班の面々が駆け戻ってくる。
 「鍵屋崎……おい、なんだよこれは?」
 顔面をおさえてのたうちまわるタジマ、めまぐるしく上下逆転しながら床で揉み合う囚人ふたりを見下ろして五十嵐が唖然と呟く。五十嵐の疑問に返す言葉もなく立ち尽くす僕めがけ、ヤンに胸ぐらを絞められたルーツァイが叫ぶ。
 「逃げろメガネ!」
 この場でメガネは僕しかいない。
 「まさか、助けにきたのか?」
 「見てわかること聞くんじゃねえ、半半連れて早く逃げろ!」
 「逃がすかよ、」  
 足元の床に影がさす。風切る唸りをあげて振り下ろされた警棒の軌道が狂い、コンクリートの壁を穿つ。一気に加速して五十嵐を追い抜いたワンフーが、床を跳躍してタジマの片腕にぶらさがったのだ。
 ワンフーとルーツァイが捨て身で庇ってくれたおかげで逃げる時間が稼げた。しかし、彼らを見捨てて逃げていいのか?タジマに盾突いたら彼らとて無事では済まないはずだ。
 「くそ、まだ体がびりびりする……」
 「許さねえぞクソメガネ!」
 背後に忍び寄る不穏な気配。反射的に振りかえれば、ブレーカーで感電させた囚人三名が意識を回復し、覚束ない足取りながら廊下にさまよいでてきていた。僕への憎悪と復讐心をむきだした三人に囲まれかけた瞬間、ワンフーとルーツァイの他の売春班の三人がそれぞれの背後からとびかかる。
 「ぐずぐずすんな日本人、俺らが時間稼ぎしてるあいだにさっさと行け!」
 自分より遥かに体格のいい囚人の腰にしがみついた貧弱な少年が、目を血走らせて叫び。
 「僕たちは大丈夫だから!」
 色白な少年が、別の囚人に髪の毛を毟られながらか細い声で訴え。 
 「売春班を甘く見るんじゃねえ、一度地獄見た人間は怖いもんなしだっ!」
 ひょろりと背の高い、しかし栄養失調を疑わせる痩せた少年が別の囚人と殴り合って啖呵を切る。
 「なぜ、」
 何故そこまでする?
 ロンに謝罪したいのか?罪滅ぼしのつもりか?売春班では男に犯されるまま、声を嗄らして泣くしかなかった女々しい少年たちが今は別人のように精悍な顔つきで戦っている。明らかに自分より強い敵に、体格差で引けをとる相手に捨て身の戦いを挑んでいる。 
 何故、僕とロンを守るためにそこまで?確かに売春班では壁を挟んで共に生き地獄を味わったが、僕は今日まで、ついさっきまで他の売春夫の名前も知らなかったのに。関心さえ持たなかったのに。
 僕の心情が伝わったか、ヤンに殴られて血まみれの顔のルーツァイが頼もしい笑みを浮かべる。
 「メイファの名前誉めてくれて嬉しかったんだよ!」

 『いい名だな。君が生まれてこなければ彼女もまたこの世に生を受けることがなかった。その事実を忘れてるんじゃないか』

 警棒で殴打されてもタジマの片腕にしがみついたままのワンフーが、傷だらけの顔を希望に輝かせる。
 「考えてみりゃ、お袋の子宮にずっとひきこもってたら凛々とも出会えなかったんだよな!」

 『生まれてこなければよかった?君は本当にそれでいいのか』
 
 「………、」
 覚えていたのか。
 心に留めていたのか、僕の言葉を。絶望で窒息しそうな僕が、絶望で窒息しそうな他人に向けた言葉を。 だから彼らは戦っているのか。 
 ある者は子供に誇れる父親になるために、ある者は恋人に誇れる男になるために。
 だれかに誇れる自分になるために、なりたいがために、今僕の目の前で売春班の面々が戦っている。だれかを守ることで矜持を回復し、自分への信頼を回復し、一度徹底的に砕かれた自尊心の欠片をかき集めて復元しようと到底勝ち目のない相手に果敢に立ち向かっている。
 自分たちの身を犠牲にして僕とロンを守りきることで、無事に逃がしきることで、彼らは彼らなりに売春班の過酷な体験とそれに伴う苦痛な記憶を克服しようとしている。 
 「―わかった」
 今度は迷わなかった。
 ワンフーとルーツァイがはにかむように微笑み、他の売春夫たちが力強く頷く。凱の子分と殴り合っている売春班の面々に無言で背を向け、ロンの肩を抱いて走り出す。茫然自失して立ち尽くす五十嵐とすれ違ったが何も言われなかった。
 五十嵐とすれちがってしばらくして、廊下の途中で立ち止まる。
 振り返ったのは、大事なことを言い忘れていたからだ。
 「僕はメガネじゃない」
 コンクリートむきだしの壁と天井に声が反響する。濛々と埃を舞い上げて取っ組み合っていた売春班の面々が手を休めることなく、ある者は胴に馬乗られた苦しい体勢で、ある者は前髪を掴まれて壁に後頭部を打ち付けられ、ある者は額の出血で顔面を赤く染め上げ。
 全員が一度にこちらを向く。
 僕は深呼吸し、彼らひとりひとりの顔を見まわした。涙ではなく血を流し、だれかに誇れる自分になるために、だれより自分に誇れる自分になるために力を尽くして懸命に戦う少年たちの顔を。
 「僕は鍵屋崎 直だ」
 僕はまだ、自分の名前すら告げてなかった。
 それを聞いた少年たちの顔に浮かんだ表情はそれぞれ違った。苦笑、当惑、あきれ顔。少年たちの視線に急きたてられ、ふたたび僕は走り出す。ロンに肩を貸して長い長い廊下を全力疾走する。苦しくはなかった。現在試合中の会場までかなりの距離があるというのに、体は不思議と軽くて気持ちいいくらいだった。
 「カギヤザキ ナオ、か。改めて名乗るほど上等な名前かよ」
 「メガネ呼ばわりよりマシだ」
 酒臭い息を吐いて笑うロンに憮然と返し、すぐに前を、前だけを見つめる。
 会場はもうすぐだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051202231658 | 編集
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