ロールシャッハテストB

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四十六話

(2005/11/30)
 その瞬間、何が起こったか。
 僕が見たままありのままを順を追って説明しよう。レイジが片腕一本で吊り上げた凱を絞殺する寸前、煙に巻かれて大混乱に陥った囚人がドミノ倒しに転倒して金網を直撃。
 囚人の体重を受け止めきれず金網が撓んだところへとどめの一撃をくれたのは意外な人物。
 ロンだ。
 酔っ払ったロンが足癖悪く金網の真ん中に蹴りを入れ、それがきっかけとなり地響きをたてて金網が倒れたのだ。
 チェス盤を傾けたところを想像してほしい。盤上の駒が重力の法則に従い落下するように、煙に巻かれてあてどもなく逃げ惑っていた囚人が金網に殺到。ただでさえ限界を超えた自重を受け止めかねた金網はロンの蹴りで脆くも崩壊、今まさに凱を絞め殺そうとしていたレイジと今まさにレイジに絞め殺されようとしていた凱には当然逃げる暇も与えられず、お互い「は?」と間抜け顔を見合わせ。
 それが、金網が倒れる寸前に僕が目撃した光景だった。
 リングの四面に高々と聳える金網のフェンス、その一面が崩壊した衝撃で舞い上がった埃の煙幕が視界を閉ざす。轟音の残響が殷殷と鼓膜に染み、耳小骨が震える。とっさに僕を抱きすくめて庇ったのはサムライで、金網に立てかけてあった木刀を右手でひっ掴み、残る左腕で僕の肩を抱いて頭を屈めさせた。
 サムライの左腕、そのぬくもりと力強さに守られつつ小さく咳き込む。
 あたり一面にたちこめた埃が次第に晴れ、前方に目を凝らす。
 いつのまにとびだしたのか、リング中央にロンが立っている。
 一面の金網が取り払われ、俄かに風通しがよくなったリングに立ったロンの下には凱がいた。倒れた金網の下敷きになり苦しげにうめいている。レイジの姿が見当たらないなと周囲を見回せば、凱を放り出して自分ひとりだけ金網の下から逃れたらしく奇跡的に無傷でロンと対峙していた。金網の均衡が崩れて倒れるまでのほんの一瞬に、地面に身を投げ出して素早く横転し間一髪難を逃れたものらしい。
 相変わらずでたらめな反射神経をしている。
 「……な、」
 外傷はないが頭からつま先まで埃まみれ、みすぼらしい風体のレイジが目を見開く。
 「なにすんだよロン!!?」
 レイジが声を荒げるのも無理はない。ロンがしたことは立派な試合妨害だ。試合の途中で部外者が金網を蹴倒すなど前代未聞の珍事で、審判とてどう対処したらよいやらはかりかねてリング外でうろたえている。
 あのまま見過ごしていれば今試合はレイジの勝利で幕を閉じたはずだ。その場合凱は窒息死していた可能性が高い。つまりロンは結果として、これまでさんざん自分を痛め付けてきた張本人を救ってしまったことになる。
 「おまえ何考えてんだよ、いきなり金網蹴倒しやがってあぶねえじゃんか!俺の自慢のツラが潰れたら世界中の女が泣、」
 「だまれ節操なし!!」
 「せ……?」
 憤然と歩み寄ったレイジを一喝、剣呑な雰囲気を漂わせて顔を伏せたロンが低く呟く。
 「どいつもこいつも好き勝手なことぬかしやがって……」
 ロンがゆっくりと顔を上げる。三白眼が血走っているのはアルコールのせいだけだろうか?アルコールが回って二本足で立つのも辛い状況なのに、膝に手をつき体勢を持ち応え、全身に怒気を充満させて周囲を睨み付ける。威嚇の眼光にレイジがたじろぎ、ようやく金網の下から這い出た凱までもがロンの変貌ぶりに絶句する。
 金網に殺到した囚人が死屍累々と地面に折り重なって気絶し、その他の囚人は絶叫と悲鳴を撒き散らして煙に巻かれて逃げ惑っていたが、リング周辺のみ異様な緊迫感が高まっている。リング上の三角形に気付いた囚人が「おい、なんだアレ」「レイジと凱ともう一人いるぞ」「これから何が始まるんだ」と注意を向け、好奇心に負けて寄り集まってくる。
 満場の注視を浴び、リングに立ったロンがぶつぶつと呟く。
 「……ああもう、なにもかも気に入らねえ。どいつもこいつも腹が立つ、くそったれだ。なんで俺ばっかいつもこんな目に?なんで俺ばっかハズレくじ?報われもしねえ苦労ばっかしょいこんでばっかみてえ」
 様子がおかしい。酒が入って正気を失っている、普段のロンらしからぬ奇矯な言動はそのせいだ。
 いつになく刺々しいロンの様子にいやな予感をおぼえ、僕を抱きすくめるサムライを振りほどいてリングに向かおうとしたが遅かった。
 「おい、猿山のボス!」
 リングではロンが凱を指さしていた。
 「猿山のボス?半半、てめえだれにむかって口きいてんだ……」
 「凱、おまえだよ。東棟のナンバー2で囚人三百人を傘下におさめる中国系派閥のボスのくせしててめえそっくりの娘にめろめろな親バカ野郎が」
 凱に娘がいたなんて初耳だ。が、娘の話題は凱にとって他人に踏み込まれたくないデリケートな領域だったのだろう。皮肉げな笑顔で揶揄された凱の顔がみるみる憤怒に紅潮、しかしロンは動じることなく、酒精に憑かれて饒舌にまくしたてる。
 「おまえとおまえの子分どもにゃいい加減頭きてるんだ、東京プリズン入所初日から今日の今日までさんざんいやがらせしてくれやがって。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたり食堂で肘ぶつけられたりトレイひっくりかえされたり床に這わされたり廊下で足ひっかけて転ばされたり……挙句にゃ鞭で好き放題しばきやがって。よく見ろよおい、このみっともねえ格好を!どうしてくれるんだよ、替えの囚人服なんかもってねえっつのに!破れかぶれの囚人服でほっつき歩けってのかよ、露出狂かよ俺は!?」
 囚人服の裾を掴んでへそを覗かせたロンが訴えるのに、凱とレイジはただただぽかんと立ち尽くしている。支離滅裂な訴えに気勢を殺がれたか、ロンめがけてこぶしを振り上げた体勢のまま凱は固まり、隣のレイジはといえば赤い顔でくだを巻くロンに目を丸くするばかり。
 「見つけたぜ、鍵屋崎、ロン!」
 三つ巴の睨み合いが繰り広げられるリングの外、サムライと並んで事態の推移を見守る僕の耳にとびこむ怒声。振り返るまでもなく、腰にしがみつくワンフーを振り切ってタジマが駆けて来たのだと悟った。
 「!っ、」
 めちゃくちゃに警棒を振りまわし、囚人をなぎ倒して猛進するタジマ。タジマが僕のもとに辿り着けば警棒で殴り殺される、いや、殴り殺されずとも骨折くらいは覚悟しなければ。独居房送りはもう免れないだろう。諦観して目を閉じれば、瞼の向こうで気配が動き、僕を背に庇うようにサムライが立ち位置を移動するのがわかった。
 「どけっサムライ、俺は親殺しに用があんだよ!」
 僕を守るようにタジマと対峙したサムライが木刀を握り締める。
 「どかぬ」
 短く答えたサムライが地を蹴り跳躍、奇声を発して警棒を振り上げたタジマに敏捷に肉薄。即座に翳した木刀が警棒を受け止め、木と木がぶつかる乾いた音が鳴る。
 警棒と木刀が拮抗する。
 腕力に物を言わせて警棒を押し込もうと鼻息荒くするタジマだが、サムライはこれに表情も変えず、眉間で水平に寝かせた木刀を両手で支えている。
 「邪魔すんならてめえも道連れだ!」
 怒り狂ったタジマが再び警棒を振り上げ、サムライの脳天めがけ力一杯振り下ろすも、風を切った警棒が頭蓋骨を陥没させるより早くサムライの姿が消失。 
 「胡乱なことを言うな。おまえに言われずともとうに鍵屋崎の道連れになると決めている」
 衣擦れの音さえたてずにタジマの背後に出現したサムライが流麗な動作で木刀を振り、タジマの足をすくう。木刀に足をすくわれたタジマが「ぎゃあっ!?」と悲鳴をあげ、警棒を投げ捨てぶざまにひっくり返る。地面で顔を強打したタジマが四つん這いに跪き、手探りで警棒をさがすのを冷ややかに一瞥、リングにふんぞり返ったロンがしゃっくりをあげる。
 「俺はどっかのタジマと違って鞭でしばかれて興奮する趣味ねえんだよ!それをてめえの子分どもは笑いながら鞭くれやがって、そんなにSMごっこしたきゃタジマが贔屓にしてるクラブ紹介してもらやいいだろうが」
 「!?なっ、」
 地面に落とした警棒を捜し求め、四つん這いになったタジマが血相を変える。顔面蒼白のタジマを傲慢に見下ろすロンの顔には、衆人監視の中地面に四つん這いになり、ぶざまな醜態を晒したタジマの虚栄心をさらに容赦なく踏み躙る快感に酔った酷薄な笑みが。
 「文句あんのかよタジマ。知ってんだぜ、おまえの本性が女に鞭でしばかれてひんひんケツ振ってよがるマゾ野郎だってこと。刑務所でガキどもいじめてんのはマゾな本性隠すカムフラージュなんだろ。新宿のSMクラブじゃ金払いのいい常連なんだよな、給料の大半SMクラブに注ぎ込んで情けねったらありゃしねえ」
 「!!!!っこのくそっ、」
 知らなかった、タジマがマゾヒストだったなんて。
 ロンの言うことがもし本当だとしたら、タジマは女性に対してだけマゾヒストなのだろうか。売春班に客として通い詰めてさんざん僕をいたぶった男がマゾヒストだとは到底信じられないが……
 満場のギャラリーの眼前、衝撃の真相を暴露されたタジマが凄まじい剣幕で跳ね起きるが、ロンの口から出た言葉は既に会場中に蔓延し、東京プリズン最凶の看守と恐れられるタジマが今この瞬間までひた隠しにしてた秘密の性癖はこの場に居合わせた全員の知るところとなった。
 「マジかよ、タジマがマゾだって!?」
 「これまでさんざん俺たちをいたぶってくれた東京プリズンいちのサド看守と名高いタジマが?」
 「囚人いじめが生き甲斐で一日一回は売春班通いしねえとタマが重たくてはちきれそうだって嘆いてたタジマが?」
 「網タイツにボンテージの女王様に鞭でぶたれて、汚いケツさらけだして発情期の豚の鳴き真似させられてるってか?傑作だなおい!!」
 失笑、嘲笑、蔑笑、憫笑。あらゆる種類の笑いが周囲の人だかりから湧き上がり、はては爆笑の渦となって会場中を席巻し、四面楚歌で追い詰められたタジマの顔が青を通り越して白くなる。看守の権威の象徴かつ心強い味方の警棒を失い、これまでさんざんいたぶってきたロンに倒錯した性癖を暴露され、地下停留場を埋めた何百何千という数の囚人に唾まじりの嘲笑を浴びせられ、タジマは弁解の言葉もなくただ青褪めていた。そんなタジマに鼻を鳴らし、再びロンが凱へと向き直る。
 「今度という今度は堪忍袋の緒が切れたぜ」
 「だったらどうする気だよ、いつもレイジの背中に隠れてる臆病者の半半が。俺と直接やりあう度胸もねえくせに、」
 「あるよ」
 ロンがきっぱりと言い、凱がうろんげに眉をひそめる。レイジも奇妙な表情をしていた。満場の注視と白熱の照明を浴び、凱とレイジをさしおいて一転リングの主役となったロンは大きく深呼吸。
 そして、一息に言いきった。
 今まで溜めに溜めこんでいた鬱憤をぶちまけるように、腹の底から声をあげ、大気をびりびりと震わせ。
 それは絶叫、宣戦布告。 
 「〜〜〜〜もうこりごりなんだよてめえにびびって逃げ隠れするのは、何されても我慢すんのは!いいかよく聞け凱、てめえがこれまで俺に売った喧嘩全部まとめて買ってやる!そうだよ、レイジの出る幕じゃねえ。元を正せばこれは俺の喧嘩だ、レイジに横取りされてたまるかよ、てめえとはこのリングの上できっちりこぶしで決着つけてやる!!」
 ロンの目は爛々と燃えていた。血沸き肉踊る高揚感の絶頂で好戦的に輝いていた。
 ロンは一歩も退くことなく、逃げ隠れすることなく凱を見据えている。
 「おもしれえじゃねえか……」
 ロンの挑発に闘争心を煽られた凱が残忍に笑み、闘技場の猛牛のように地面を蹴立てる。一触即発、堂に入ったファイティングポーズをとる凱とてのひらに唾を吐くロンとが睨み合いで互いを牽制。幾多もの修羅場を踏み荒みきった眼光といい喧嘩慣れした物腰といい、怒りのあまり顔筋が痙攣しひきつり笑いを浮かべる顔といい、今のロンと凱はとてもよく似ていた。
 「いやあ、おもろいことになっとるなあ」
 のんびりした声に振り向けば、いつのまにか隣にヨンイルが来ていた。ホセもいる。
 「おや、これは奇妙な。さっきまでレイジくんがリングに上がっていましたが、今はロンくんが。100人抜きの勝敗はどうなったんですか?」
 ホセに指摘され、背中に冷や汗をかく。
 突然のことで止めに入るタイミングを逸したが、部外者の飛び入りは試合妨害に分類されるのではないか?ロンの飛び入りで100人抜きが中断され、レイジ対凱の試合の勝敗がうやむやになれば…… 
 「まさか、僕らの敗北か?」
 冗談じゃない。酔っ払ったロンが試合に乱入したせいで敗北が決定してはたまらない。かくなる上は抵抗されるのを承知でロンをリングから引きずり下ろそうと駆け出しかけた僕の進路にスッと木刀がさしだされる。足元をさえぎる木刀を目で辿れば、考え深げに黙りこんだサムライがいた。
 「何故止めるんだ、このままじゃ試合が……!」 
 「暫し待て」
 リングではいまだ一触即発の不均衡さで睨み合いが続いている。ロンは全身に怪我をしている、いくらかすり傷程度とはいえあの状態で凱と渡り合うのは無謀だ。煙が充満した会場にて戦々恐々と逃げ惑っていた囚人たちが、凱対ロンの予定外の試合にただならぬ興味をひかれ、リング周辺に黒山の人だかりを築いてざわめき始めている。
 「静かにしたまえ」
 ざわめきを圧し、平板な声が響く。 
 声の主は地下通路の出口にいた。一筋の乱れもなく撫で付けたオールバックの下には端正だが表情の欠落した顔、三つ揃いのスーツを完璧に着こなした男の名は安田。無能で怠慢な現所長に成り代わり、東京プリズンの執権を握る若き副所長。
 何故安田がここに?
 突然登場した安田に驚き言葉を失った僕の方へ、安田は平然と歩いてくる。人ごみに揉まれスーツを皺だらけにされオールバックを崩し、幾人もの囚人にぶつかりぶつかられて立ち往生しつつも、能面めいて冷淡な無表情には汗ひとつかかずに遂に僕のもとへ辿り着く。
 「ボヤ騒ぎが発生したと聞いて来てみれば……この惨状は何事だ」
 額にたれた前髪をかきあげ、わずかに眉をひそめて不快感を表明し、安田が嘆かわしげに言う。その言葉から察するに、試合観戦に来た看守がヨンイルが発生させた煙を火事のボヤだと勘違いして報告しに行ったらしい。騒ぎを大きくした張本人のヨンイルは「でな、明日のジョーと並んでボクシング漫画の二大金字塔と称されるのががんばれ元気で」などと素知らぬふりでホセに講釈を垂れている。
 「そこの三人!」
 神経質な手つきで前髪をかき上げた安田がリングを仰ぎ、微妙な距離をおいて対峙するロンと凱、そしてレイジに声をける。 
 「今ここでは娯楽班の試合が行われているはずだが、この煙はなんだ?それにペア戦のはずが、何故リングに三人の人間がいる?」
 「ちょうどいい」
 何がちょうどいいんだ?
 いやな予感が強まる。安田を見下ろしたロンがにんまりと、それはもう嬉しげにほくそ笑む。
 「副所長立会いのもと宣言すりゃ、もうなんでもありだよな。もとからペア戦にゃルールなんて存在しねえし、途中からペア組む相手が替わろうがシャッフルしようが全然アリだよな」
 「何を言ってるんだ?少しは頭を冷やせ」
 意味不明なことを口走ったロンをたまらず叱責するが、ロンは黙らない。親指で自分の胸を指し、毅然と顎をそらし、展開の早さについていけず呆然と立ち尽くすレイジと凱とを等分に見比べて続ける。
 「レイジとサムライに任せ切りにするのはやめだ。自分のケツは自分で拭く。いつまでもぐだぐだ喧嘩してるレイジとサムライなんかに100人抜き任せておけるか、元はといえば俺と鍵屋崎の売春免除条件にふたりがペア組んだんだ。ちょっと待ておかしいだろそれ、俺たちに関係あることなら俺たち自身がペア組むべきだろ?俺と鍵屋崎がペア組んで出場するべきだろ?ならこうしよう、これっきゃない」
 そこで言葉を切り、ロンがきっかりと僕を見据える。
 酔っているわりには毅然として、揺るぎない決意をこめているかに見えるまっすぐな眼差しで。  
 「レイジとサムライの代わりに、俺と鍵屋崎がペア戦にでる」

【少年プリズン】
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四十七話

(2005/11/29)
 「勝手なこと言ってんのはどっちだよ!?」
 それまで呆然と立ち尽くしていたレイジが我慢できないという風に爆発する。
 戦闘体勢に入った凱とロンが一触即発で睨み合い緊迫感が高まる中、ふたりに無視される形で蚊帳の外におかれていたレイジが憤然と歩き出す。体の脇でこぶしを握り締め肩を怒らせ、双眸きつく大股に突き進んだレイジが怒鳴る。
 「ロン、おまえ凱にいじめられすぎて頭どうかしちまったんじゃねえか?うわっ酒臭えっ、おまえ飲んでるだろ絶対!リングおりて頭冷やしてこい、試合の邪魔すんなよ。今やってんのは俺と凱だ、ペア戦登録してない部外者がしゃしゃりでてくんな。目ざわりだ」
 「俺に命令すんな」
 「王様の命令に従うのが庶民の義務だろ」
 「だったら下克上してやる」
 傲慢に腕を組み、ロンの前で立ち止まるレイジ。傲然と人を見下した目つきといい暴君の器を兼ねた尊大な態度といい、ロンをからかってお気楽に笑ってる普段のレイジとは人が違ってる。レイジはレイジなりにひどく怒っているらしい。突如乱入したロンに勝利目前で試合を妨害され、あまつさえ自分がこれまでやってきたことすべてを無に帰すような大胆な提案をされて。
 しかし、いつになく高圧的な態度でレイジに迫られてもロンは萎縮することなく、殺気走った酔眼と不敵な面構えで王様を睨みつけている。
 「命令だ。下りろ」
 レイジが横柄に顎をしゃくり、リングを下りるようロンに指示する。が、ロンはこれを完全に無視。挑戦的にレイジを睨みつけたまま、一歩たりともそこを動こうとしない。白熱の照明が降り注ぐリングにて、微妙な距離をおいて対峙する三者のうち、今度は凱が傍観者に回ったようだ。
 ロンの目をまっすぐ見つめ、レイジは繰り返す。道理のわからない子供に噛み含めるように辛抱強い口調で。
 「下りろ」
 「いやだ」
 「下りろつってんだろ」
 「いやだ」
 「いいから」
 「いやだ」
 「!〜〜〜くそっ、」
 乱暴に頭を掻き毟れば、日の光をたっぷり吸った藁束のような色合いの茶髪が逆立つ。荒荒しく髪をかきまぜ腹立ち紛れに地団駄踏んだレイジが大きく深呼吸、意を決したようにロンへと向き直る。
 本当にロンのことを案じてるのがわかる真剣な表情で。苦渋と焦燥とを宿した悲痛な双眸で。
 「俺はお前が心配なんだよ!」
 「俺もお前が心配なんだよ!」
 間髪入れず叫び返したロンもレイジと全く同じ顔をし、同じ色を目に浮かべていた。頑として譲らない決意をこめた強情な顔つき。双方向の絶叫は上空で衝突し、弾け、だだっ広い地下停留場に殷殷と響き渡った。ロンに一喝されたレイジが虚を衝かれたように動きを止める。
 誰かに心配されたことなど生まれて初めてだ、といわんばかりの鮮烈な反応。
 硬直したレイジをまっすぐ見据え、ロンが口を開く。体の痛みではなく心の痛みを堪えるように顔をしかめ、体の脇で震えるほどにこぶしを握り締め。
 「守られっぱなしは嫌なんだよ」
 切羽詰った声だった。今まで溜めに溜めていたもの全部を吐き出すように、堪えに堪えていたものを訴えるようにロンは続ける。レイジの目から決して視線を逸らさず、心の底からの本音を述べる。
 「おまえに守られっぱなしなのは嫌なんだ。おまえはいっつもへらへら笑ってて怖いもんなしの無敵の王様で、おまえに甘えりゃラクだって頭じゃわかってる。でもどうしても嫌だ、納得できねえ。おまえが俺を助けるために100人抜きに挑んで怪我したらとか死んじまったらとか、もう帰ってこなかったらとか心配で。ずるいじゃねーか俺ばっか心配しどおしで。不公平じゃねえか、そんなの」
 「おまえが心配性なんだよ、俺が負けるわけな……」
 「わかんねーだろそんなの!!」
 レイジは笑ってごまかそうとしたが、ロンはそれを許さなかった。逆上したロンが頬を上気させてレイジに食ってかかり、次の瞬間には泣きそうに顔を歪める。
 「かっこつけるのもいい加減にしろよバカ野郎。畜生、なんで俺は何にもできないんだよ。なんで俺に何もさせてくれないんだよ。俺だって一緒に戦いたい、元はといえば俺の喧嘩だろ、俺と鍵屋崎の問題だろ。それなのになんで俺たちに関わらせてくれないんだよ!?」
 泣き顔を覗かれるのを避けるように下唇を噛んで顔を伏せ、続ける。
 「……負けないってわかってても、負けたらって考えると怖いんだよ。寝ても覚めても怖いんだよ。お前が死んだらその胸糞悪いにやけ顔もう見れなくて寝こみ襲われることもなくなってせいせいするはずなのに、でも怖いんだ。どうしようもなく。そりゃお前と比べりゃ俺は弱いけど、何もできず何もさせてもらえず守られっぱなしになってるほど弱くねえよ」
 何も言い返せないレイジに、ロンは小さく呟いた。
 「馬鹿にすんな、レイジ」
 頭を殴られた気がした。
 ロンが言ってることはよく理解できる。それどころか、共感をおぼえてさえいる。ロンが心の奥底に抱え込んでいた葛藤や矛盾にはこれまで僕もさんざん苦しめられてきた。レイジとサムライがペアを組んで100人抜きに挑んだのは僕たちを売春班から救い出すため、元はといえばこれは僕たちの問題なのだ。それなのに肝心の僕たちはサムライとレイジがリングに上がるのをただ見ているだけ、無力な傍観者に徹してふたりの戦いを見守ることしかできない。金網越しの安全圏で友人の無事を祈ることしか許されない。
 おかしい。
 そうだ、ロンの言葉で劇的に理解した。これまで必死に目を逸らし抑圧し続けてきた心の奥底の願望、サムライと共に戦いたい、サムライを助けたい力になりたい。彼ひとりを危険な目に遭わせて元凶の僕は安全圏で指示をとばすだけなんて嫌だ、納得できない。
 僕はずっとサムライと対等になりたかった。
 一方的に守られるだけの関係ではなく、サムライにあてにしてほしかった。頼ってほしかった。もし今この瞬間に何も自己主張しなければ僕は永遠にサムライの庇護の対象になってしまう。
 僕も、僕だってサムライが心配だ。
 サムライに怪我をしてほしくない、死んでほしくない。僕の為に怪我をして僕の為に死なれても嬉しくない。僕を守ってサムライが傷付き、本人がそれを是としても僕は是としない。
 僕の身に降りかかった災難は、僕自身が振り払うべきだ。 
 正方形のリングで静謐に対峙するレイジとロンの間には緊張の糸がはりつめている。
 間抜けなしゃっくりをあげながら、ロンが緩やかに顔を上げる。その目にあったのはしてやったりと満足げな光。レイジの胸をひたと指差し、いたずらっぽくロンが笑う。
 「俺ばっか心配するんじゃ不公平だからおまえにも心配させてやる。な?これでおあいこだろ」
 「………あまのじゃく」
 不満げに唇を尖らし、レイジが僕へと振り返る。
 「キーストアはどうなんだ?ロンが勝手なことほざいてるけど」
 「……ロンの意見に賛成だ」
 逡巡は長くは続かなかった。 
 気付けば僕は笑っていた。何か、たとえば運命と呼びならわされる大きな存在に喧嘩を売る挑戦的な笑み。サムライがぎょっとしたような顔をし、ヨンイルとホセが「ほう」と感嘆の声を発し、安田が不審げに目を細める。地面に倒れた金網を踏み、サムライの傍らを通り抜け、冷静沈着に歩き出す。地下停留場を埋めた何百何千という数の囚人の視線が一挙手一投足に注がれているのがわかる。視線の重圧をはねつけるように得てしてさりげなく足を繰り出し、ロンの隣に立つ。
 「―他人に意向を代弁されたのは不愉快だが、ロンの意見に異存はない。僕も一方的に守られるのは性に合わない。どころか、プライドの危機だ」
 眼鏡のブリッジに触れ、軽くため息を吐く。そして、ゆっくりと周囲を見渡す。心は奇妙に落ち着いていた。緊張とは無縁だった。さまざまなことが一度に起こりすぎて現実感が薄れてるのかもしれない。
 なら好都合だ。
 たまには効率を無視し、感情に流されてみるのもいいだろう。自分のしたいようにするのもいいだろう。
 無謀だという自覚はある、賢明な判断とはとても言えない。しかし僕はサムライ一人に戦わせたくない、重荷を背負わせたくない。一方的に庇護される甘ったるい関係はごめんだ。僕にもできることがあるはずだ。ならばそれを証明してみせよう。IQ180の天才的頭脳に賭けて、リングの上で。
 眼鏡の位置を直し、毅然とレイジを見据え、朗々と宣言する。地下停留場の開放的に高い天井に殷殷と響く声で。
 「今ここでペア戦参戦を表明する」
 歓声が爆発した。
 「おもしろいことになったじゃねえか!」  
 「親殺しと半半の弱弱コンビ参戦で100人抜きの行方がわかんなくなったな!」
 「レイジがべらぼうに強すぎて賭けが成立しなくて退屈してたんだ、いいぞ親殺しと半半、盛大に負けてリングで剥かれて俺たち楽しませてくれよ!」
 僕の宣戦布告に熱狂した囚人が金網に殺到、一斉にこぶしを突き上げ地響きたてて足を踏み鳴らす。金網を揺すり蹴りを入れ、興奮に目を輝かせて顔を紅潮させた何百何千という数の囚人が怒涛をうって押し寄せたせいで金網が撓んで変形する。
 レイジは苦りきった顔をしていた。ロンの抑止剤として期待していた僕が賛成の意思を表明するとは思わなかったのだろう。音荒く舌打ちし、横手の金網に蹴りを入れている。
 「直……、」
 声に振り向けばサムライがいた。金網に手をかけ、呆然とした面持ちでこちらを見つめている。驚愕したサムライに向き直り、気恥ずかしさを押し殺して無愛想に呟く。
 「僕と君は『道連れ』だろ」
 サムライの横には安田がいた。相変わらずの無表情で何を考えてるのか読み取れない。サムライから安田に視線を移し、口を開く。
 「副所長のご意見を聞きたいです。レイジとサムライが売春班撤廃を条件に100人抜きに挑んだのは貴方の許可があったからだ。貴方が今ここで許可してくだされば、僕とロンもペア戦に出場できる」
 「……君は誤解してるな。東京プリズンで最も力があるのは私ではない」
 安田が首を巡らすのにつられて周囲を見渡す。地下停留場は熱狂の坩堝と化していた。興奮が最高潮に達した囚人が奇声を発して暴れだし同時多発的に小競り合いが発生し、もはや収拾がつかなくなった会場の惨状を冷静に眺めて結論する。
 「東京プリズンで最も力があるのは囚人だ。君の参戦表明は彼ら囚人に熱狂的に受理された、いくら私でも取り消すわけにはいかない。強権を発動すれば暴動が起こる。いいか?もう取り返しがつかないぞ」
 「かまいません」
 「なら認めよう。しかし条件がある」
 安田がスッと人さし指を立てる。
 「いくらレイジとサムライが強いとはいえ、二人のみで100人抜きを達成するのは困難だ。実質二対百の連続試合では体力的にも不利。本人たちが望んだこととはいえ、許可した私もいささか気が咎める。さて、ペア戦の公平をはかるべくひとつ提案だが、次週の試合からは君とロンのペアを加えた四人で100人抜きに挑みたまえ。こう言ってしまえば何だが、君とロンのペアでは100人抜きは不可能だ。しかし予備戦力として君らふたりを残しておけばレイジとサムライに余裕が生まれ、多少なりとも不公平が改善される」
 「……いいでしょう」
 首肯した僕からサムライに視線を移し、返答を待つ安田。サムライはしばらく眉間に皺を寄せて考え込んでいたが、やがて諦念のため息を吐く。
 「……致し方ない」 
 僕の決意が固いと悟ったサムライは、それ以上何も言わなかった。アルコールの過剰摂取で酩酊状態のロンはさておき、残るレイジは金網に連続で蹴りを入れながらヤケ気味に吼える。
 「〜〜〜もういいよ、わかったよ!!俺が頷きゃ全部丸くおさまるんだろ、だったら頷いてやるよ気に入らなくても何でもさ!けっ、勝手にしやがれ」 
 「決まったな。たのしみにしてるぜ半半」
 それまで存在を忘れ去られていた凱が、全身から殺気を放ち凶悪な笑みを浮かべる。
 「本当なら今すぐここで決着つけてえところだが、足元怪しい酔っ払いを殴り倒してもつまんねえから一週間チャンスをやる。せいぜい悪足掻きしてこいや」 
 「こっちの台詞だ。顔洗って待ってやがれ」
 凱の言うとおり足元がふらついてるくせに、啖呵を切るときだけ威勢よくロンが吼える。ふんと鼻を鳴らしてリングを下りた凱にはもう見向きもせず、ロンが歩み寄った方向にはレイジがいた。
 勝利目前で試合を中断された上に急遽ロンのペア戦参戦が決まり、完全にふてくされたレイジが「んだよ」と凄むが、ロンは無造作にその手を取るやリングの外に突っ立っているサムライに顎をしゃくる。
 「ちょっと来い」
 何の真似だ?
 ロンの奇妙な行動に首を傾げた僕の目の前、木刀を片手に下げたサムライが言われるがままリングに上る。本来なら試合終了まで部外者の立ち入りは禁止されているが、ロンの乱入で試合自体がめちゃくちゃにされ、安田の提案で次週仕切り直しとなった現状では誰もうるさく言わない。
 ロンに招かれて大股に歩いてきたサムライを一瞥、レイジが鼻を鳴らす。
 ロンの前で立ち止まったサムライはあえてレイジと目を合わせずに「何用だ」と訊き、僕はまだ喧嘩を続行してるふたりに心底からあきれる。
 いい加減大人になれとふたりを説教しようと足を踏み出し……
 「いつまでもぐだぐだ喧嘩してんじゃねえ、ガキかよお前ら!!」
 激昂したロンが有無を言わさずサムライの手を掴んで引き寄せ、正面からレイジと対峙させる。
 そして、この場の誰も予想だにしない意外すぎる命令を下す。
 「握手しろ」
 「「は?」」
 喧嘩以降初めてサムライとレイジの声が揃い、ふたり揃ってロンを凝視し。
 ロンはそんなふたりを等分に見比べ、当然のことをいわせるなとばかりに尊大に開き直った。
 「仲直りの握手」
 「はあ……!?」
 レイジが気の抜けた声をあげ、サムライもわずかにたじろぐ。二人が当惑するのは最もだ。何百何千という観衆の注目を集めるリング中央、話題の渦中にあるサムライとレイジが仲直りの握手を強制されんとしているのだ。
 「冗談じゃねえ、こんな童貞くさいサムライ気取りと握手なんてお断りだ。童貞菌が伝染っちまうよ」
 「相も変わらず下品な男だ。こんな男と手をつなぐなど恥辱の極み、断じてせん」
 さすがに恥ずかしいのかロンに命令されるのが癪なのか、顔を赤らめたレイジが全身で握手を拒めばサムライも苦々しい顔をする。
 「下品?下品で悪かったな。俺はどっかの腰抜けザムライと違って人並以上に女知ってるもんでね、下ネタの知識豊富なんだよ」
 「威張れることではない。むしろ恥じろ」
 「鞘から刀抜くまえに下半身の鞘脱いでこいっつの」
 「……見下げ果てた男だな本当に。貴様と話しているだけで口が汚れる。不愉快だ」
 「そりゃお互い様だ。なんだ気が合うじゃねーか!」
 皮肉げに笑ったレイジが力づくでロンの手をふりほどこうとし、サムライもまたロンの手を振り払おうとする。延々幼稚な口論を繰り広げるレイジとサムライ、そのあまりにも大人げない光景に僕の忍耐力が限界に達し、こめかみの血管が熱く膨張する。
 「「いい加減にしろ!!!」」   
 ロンとぴったり声が一致したのは偶然だ。
 暗闇の天井に反響する大声で怒鳴れば、同時に叱責されたサムライとレイジが驚きのあまり固まる。レイジに胸ぐらを掴まれた姿勢のままサムライは硬直し、サムライの胸ぐらを掴んだレイジもまた目を見開く。
 もう我慢の限界だ。今まで自制心を振り絞り抑圧してきたレイジとサムライへの不満が爆発し、血流とともにこみ上げてきた怒りをそのままに吐露する。
 「なんなんだ君たちは、いつもいつまでも大人げない喧嘩を続けて僕たちに世話を焼かせて少しは反省したらどうだ!?あまりにも精神年齢が低すぎて眩暈をおぼえる!胸に手をあてて考えてみろ、元はといえば僕が危険に巻きこまれたのも君たちがつまらない意地を張って互いを無視してペア戦の本質を見失ったからだろう!?」
 「そうだメガネの言うとおりだ、たまにはいいこと言うなバカ天才!レイジ、おまえどんだけ俺に心配かけりゃ気が済むんだよ?おまえとサムライが喧嘩してるあいだどんだけ俺と鍵屋崎が気を揉んだと思ってる、どうにかしてお前ら仲直りさせよって頭ひねりゃ全部裏目にでちまうしもうお手上げだ!もうこれ以上迷惑かけんじゃねえ、おまえらなんでペア組んでんだ、俺たち助けるにゃ一人より二人のがイイからだろ!?なのにバラバラに戦ってボロボロになって……バカおまえらバカ、いくら強くても救いようねえバカ!」
 バカバカと連呼されて罵られたレイジが何か反論しようと口を開き、何も反論できないと悟ってむなしく口を噤む。サムライも言葉に詰まる。僕たちふたりの剣幕に圧倒されたサムライとレイジの手を取り、ロンが強引に結論付ける。
 「あーもうっ、面倒くせえから今ここで仲直りしちまえ!」 
 「同感だ。これ以上振りまわされるのは不愉快だ」
 「!――っ、」
 交互に責め立てられたレイジが救いを求めてあたりを見まわせば、金網の外からのんびりした声が届く。
 「仲直りにはね、キスがいいんですよ」 
 ホセだった。
 「いやはや懐かしい。ワイフともよく喧嘩しました。仲が良いほど何とやら、今のレイジくんみたいにつまらない意地を張って三日三晩無視耐久戦をしたものですがいつも折れるのは吾輩から。仲直りの秘訣はキスです。もちろん唇に」
 「………………………………………………………………………………マジかよ」
 ホセは親切心からアドバイスしてるつもりらしいが、レイジにしてみれば余計なお世話どころか死刑宣告にも等しい内容だった。今にも泣きそうな顔でおそるおそる振り返ったレイジに返されたのは……
 ロンの微笑。
 「キスさせるぞ」
 そして脅迫。逃げも隠れもできない状況で究極の二者択一を迫られたレイジに同情する人間は一人もいない。地下停留場を埋めた野次馬の間から沸き上がるのは耳も割れんばかりの大歓声と手拍子。いつも余裕綽々、不敵な笑みを振りまく王様が青褪めるところなんて滅多に見られないと金網に殺到した野次馬が目を爛々と輝かせ口角泡をとばし金網を揺すり、地底から沸き上がるように大合唱。
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 ―『Shut up!!』― 
 大歓声を圧し、英語の絶叫が天井高く響き渡る。
 頭を抱え込んでうずくまったレイジが、何か決意したような悲壮な顔つきでスッと立ちあがり、思い詰めた目でサムライを凝視する。サムライは外野の大合唱にも動じず泰然自若と木刀に手をかけていたが、ただらぬ真剣さでレイジに目を見つめられ眉間に皺を刻む。
 まさか、本当にキスするつもりか?
 一抹の不安に駆られた僕をよそに、レイジは長々と息を吐く。その口の中でぶつぶつ呟いてるのは英語のスラングで、「なんでこんなことに」「恨むぜ神様」という類の悪態だ。
 ロンの手を邪険に振り解き、再びサムライと向き合ったレイジの目を掠めたのは複雑な色。
 気恥ずかしい、ばつが悪い。しかし他にどうしようもない。
 そのすべてを包括した諦観の色を双眸に湛えたレイジが渋々サムライに歩み寄り、自分から手をさしだし。
 『………I'm sorry.』
 そっぽをむいて謝罪した。

【少年プリズン】
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四十八話

(2005/11/28)
 「あははははははっ!」
 やばい、面白すぎる。ツボにはまった。
 双眼鏡を構えた僕の視線の先ではこれ以上ない仏頂面のレイジと憮然としたサムライとが握手してる。お互い気が乗らないがサムライの側じゃ鍵屋崎が、レイジの側じゃロンが睨みを利かせてるから妥協して手を握ってるんだけど二人とも嫌がってるのが見え見えだ。大人げないったらない。
 足をばたつかせておなかを抱えて、地下停留場を埋めたその他大勢の囚人と同様に爆笑していたらバランズを崩してあわやバスの天井から転落しかける。
 『Danger!』
 視界がぐらっと傾いで体が浮遊感に包まれて、あ、落ちちゃう落ちちゃうと焦った僕の手を引っ張り上げてくれたのはビバリーだ。バスから転落寸前に僕を引き戻してくれた命の恩人のビバリーが安堵に胸を撫で下ろす。
 「リョウさん、あんた何回落っこちれば気が済むんスか」
 「落っこちなかったんだからいいじゃん。それに僕が安心して落っこちられるのはいつでもビバリーが引っ張り上げてくれるって信頼してるからだよ」
 茶目っけたっぷりにウィンクすれば、反省の色のない僕にあきれかえったふうにビバリーが首を振る。やれやれとお手上げ状態のビバリーをよそに再び双眼鏡を構えて目をくっつける。会場を爆笑の渦に巻き込んだ当の本人たちはいまだ脚光降り注ぐリング上で晒し者になっていた。
 ロンに命令され鍵屋崎に威圧され、渋々不承不承握手を交して仲直りに至ったレイジとサムライだけど、まだ完全にはわだかまりが払拭できないらしくお互いばつが悪そうにしてる。何百何千の大観衆の注目の的、野次と喝采が喧しく飛び交う中で握手を強制されたのだから気恥ずかしさで顔から火がでてもおかしくない状況だ。実際、遠く離れたバスの上から双眼鏡を覗いてもレイジの顔が赤らんでるのがわかるし、注意してよく見ればサムライも眉間に縦皺を刻んでいる。
 ロンと鍵屋崎に監視され、見渡す限り地下停留場を埋めた大観衆にやんやと囃し立てられ、レイジとサムライがやけくそで握手する光景を堪能してから双眼鏡をおろす。もう我慢できない、もっと近くに行きたい。この距離からじゃ声が聞こえない、レイジ達が何を話してるのか猛烈に気になる。双眼鏡の性能がいいから試合観戦するぶんには何の問題もないけど、バスの上の特等席じゃ会話が聞こえないのが難点だ。
 「僕ちょっと行ってくる!」
 「行ってくるってリョウさん無茶な、潰されちゃいますよ」
 「失礼な、ひとをありんこみたいに」
 ビバリーの失言に憤慨する。そりゃたしかに僕はちびだけど人に踏み潰されるほどじゃない。ふくれ面でビバリーを睨みつけ、双眼鏡の紐を首に通して胸にぶらさげる。バスの窓枠に足をかけ、足を踏み外さないよう慎重に下りる。足裏に衝撃、地面に着地。ちびにはちびなりの利点がある、小柄で身軽なのが僕の取り柄だ。
 ビバリーをバスの上に残し、一散に駆け出す。胸の双眼鏡を弾ませ人ごみの喧騒に飛びこめば後ろから「ちょ、待ってくださいっス、放置プレイはごめんっスよ!」とビバリーの狼狽した声が追いかけてくるけど無視無視。一度ならず命を救ってくれた恩人に対して酷い仕打ちだと自分でも思わないでもないけど僕をちび呼ばわりした恨みは根深い。
 それはそうと、面白いことになったぞ。
 人ごみをすりぬけて走りながら自然と頬が緩むのをこらえきれない。レイジとサムライに続いて鍵屋崎とロンがペア戦参戦を表明するなんて予想外の展開だ。現在、地下停留場には東京プリズンの人口の約八割が集まってる。何百何千の大観衆の前でペア戦参戦を表明したらもう後戻りできない。ロンが言ったこと、鍵屋崎がしたことには取り返しがつかないのだ。もし今さら前言撤回なんかしたら怒り狂った囚人にリンチされた末に殺されるのは確実。
 鍵屋崎とロンは自力で運命を打破するつもりが、最悪の選択肢を選んでしまったのだ。
 レイジとサムライならともかく、理屈をこねるしか能がない鍵屋崎と短気で喧嘩っ早いロンのコンビがペア戦を勝ち抜けるとは思えない。思えないけど、そんなのはささいなことだ。要は僕を楽しませてくれればいい。規則に束縛され規律に抑圧された刑務所ライフに倦み果てた囚人を、週末のお祭りで最高に楽しませてくれればそれでいい。
 「ああ、今からたのしみでたのしみでしょうがないよ!リングで裸に剥かれて泣きっ面の鍵屋崎も凱に叩きのめされてケツ掘られるロンもっ」
 こみ上げる笑みを抑えきれない。お高く取り澄ました鍵屋崎と口が悪くて生意気なロン、可愛げないふたりがリングで恥かかされて泣きべそかく未来絵図に心が踊る。リングで晒し者にされたふたりが立ち直れなくなっても知るもんか。いや、それこそ僕が期待する展開、歓迎すべき流れだ。
 すこぶる上機嫌に人ごみを駆け抜ければ、じきにリングが見えてくる。リング周辺に群れた囚人をすりぬけかきわけ何とか前に出ようとして、
 「但馬看守、話がある」
 声が聞こえてきたのは偶然だった。
 反射的に声の方に目をやれば安田がいた。鍵屋崎とロンのペア戦参戦に許可をだした後は外野に退き傍観者に徹していた安田が、冷徹な眼差しで地に這いつくばったタジマを見下ろす。
 「は?な、なんでしょうか副所長」
 なくした警棒が見つからず不安が隠せないのか、副所長直々に声をかけられて緊張してるのか。反射的に立ち上がったタジマが体の脇に腕を密着させた直立不動の姿勢をとる。囚人相手に威張りちらす平常時とは別人のようだ。そんなタジマを針の眼光で一瞥、安田が低く言う。
 「きみが無断で持ち出していたボイラー室の鍵のことだが……話ではブレーカーの不調を見に行ったらしいな」
 「はっ、そのとおりです!」
 「ここに来る途中ボイラー室に寄ってきた。なるほど、ブレーカーの故障は嘘ではなかったらしい」
 「は?はあ……」
 何が何だか意味不明といった間の抜けた顔のタジマの背後、地獄耳でこちらの会話が聞こえたらしい鍵屋崎が何故だか複雑な顔になる。要領を得ないタジマの返答にも表情を変えずスッと片手を掲げる安田。
 「しかし、『彼ら』についてはどう説明する?」
 安田が器用に指を弾けば、それが合図だといわんばかりにボロボロの集団が現れる。互いが互いを支え合うように寄り添い寄りかかって何とか二足歩行してる状態の集団に向き直り、鍵屋崎が叫ぶ。
 「無事だったのか」
 「?」
 鍵屋崎の知り合いなの?
 殴る蹴るの暴行の痕跡の青痣を顔に咲かせ、瞼を倍ほどに腫れ上がらせた囚人の集団が、鍵屋崎に声をかけられて照れ臭そうな素振りを見せる。強面の看守数名に付き添われ、一人で立てないほど疲弊した者は腕を掴まれ引きずり出されたガキどもを見て、タジマの顔から血の気がひく。
 「ここで来る途中、ボイラー室前の廊下で争っていたところを拘束した。中のひとりに事情を聞いたところ但馬看守、君が妨害工作を仕組んで100人抜きを阻止せんとしたらしいが……」
 「でたらめに決まってますよ、こんな奴らの言うこと信じるんですか安田さん!?」
 目を憎悪に濁らせたタジマが汚い唾をとばして自分の身の潔白を訴える。が、笑えるほど説得力がない。 怒りに任せてガキの一人に歩み寄ったタジマがその胸ぐらを掴む。
 「犯罪に手え染めて砂漠くんだりの刑務所にぶちこまれた社会の屑の言うことと看守の言うこと、どっちを信じるんですか?え、てめえか副所長にでたらめ吹きこみやがったのか。俺になにか恨みでもあんのかこら。それともお前か、そっちのお前か!?」
 タジマに口汚く罵倒されたガキが、乾いた鼻血がこびりつき、青痣の目立つ顔に不敵な笑みを浮かべる。
 「味見された売春夫であんたに恨みもってねえ奴なんかいねえよ」
 「!?なっ……、」
 安田の前で滅多なこと言うなという台詞が喉元まで出かけたのをぐっと嚥下したタジマが逆ギレ、胸ぐらを掴んだガキめがけてこぶしを振り上げる。
 「こんな噂を耳にしたのだが」
 ガキの窮地を救ったのは冷静沈着に落ち着き払った声。
 声を耳にした全員が安田を振り返る。一声で場を掌握する存在感といい、逆上したタジマをたちどころに萎縮させる侮蔑の眼差しといい、やっぱり格が違う。たった一声で冷水を浴びせ掛けたようにタジマの怒りを鎮めた安田が、神経質な手つきでブリッジに触れ眼鏡の位置を直す。
 「タジマ看守、君は以前にもたびたびボイラー室の鍵を持ち出してるな」
 「……な、んで知」
 「私が気付いてないとでも思っていたのか」
 「あきれたな」と嘲りをこめ、安田がため息を吐く。
 「本来関係者以外立ち入り禁止のボイラー室に、以前からたびたび囚人が出入りする光景が目撃されてな。不審に思って調べてみたら、きみが秘密裏に鍵を持ち出してるのが判明だ。ここから先は噂だが、きみは賄賂と引き換えに一部の囚人にボイラー室を開放し、人目を盗んでいかがわしい行為をするための場所を提供してるそうじゃないか」
 「なーるほど」
 密林を行く豹のような忍び足で鍵屋崎の隣にひょっこりやってきたレイジがわざとらしく驚いてみせる。
 「立ち入り禁止のボイラー室にウェルカムって連れこまれて、変だと思ってたんだよな」
 鍵屋崎の隣に立ったレイジが肩越しに振り返り、対岸に視線を投げる。金網を隔てた対岸、亡霊のように陰惨な存在感を醸してこちらを凝視するのは灰色がかって不健全な肌の男……サーシャだ。
 いつからそこにいたのか、いや、ずっとレイジを見ていたのか。
 体温を感じさせないアイスブルーの双眸に映るのは、心を感じさせないレイジの笑顔。
 「サーシャのやつ、そんなに俺と遊びたかったのか。かわいいとこあるじゃん」
 乾いた呟きで思い出す。数週間前、ボイラー室で目撃した淫靡な光景。服の内側にナイフを突っ込まれ、その冷たさとくすぐったさに娼婦の囁きに似た忍び笑いを漏らすレイジ。
 安田が婉曲に表現した「いかがわしい行為」の内容が僕にはありありと思い描ける。
 早い話、ラブホ代わりだ。
 レイジが口の端っこに指をひっかけ、サーシャに舌をだすのを横目に呟く。
 「サーシャのやつ、思う存分レイジをいたぶるためにボイラー室に連れこんだのか。タジマにかけあってまで」
 まったく、いい性格してるね。サーシャの執念深さに心底あきれた僕をよそに、安田と対峙したタジマは絶体絶命の窮地に立たされていた。裏工作と裏商売が露見し、はては倒錯した性癖まで暴露されて精神的に追い詰められたタジマが血走った目であたりを見まわすが、これまで散々タジマに酷い目に遭わされてきた囚人たちは誰一人として手をさしのべないどころか「ざまあみろ」とわんばかりの嘲りの表情を浮かべてる。
 タジマに同情する人間は一人もいない。タジマを弁護する人間は一人もいない。
 「いい気味だ、タジマの豚が」
 「自業自得だ」
 「イエローワークで殴られた痣がまだ消えねえ」
 「今までさんざんやりたい放題やってきた罰だ」
 「こんどはお前が痛い目に遭う番だ」
 「お仕置きされる番だよ」
 「〜〜〜〜〜〜〜!!っ、」
 リング周辺に黒山の人だかりを成した囚人が自然と輪になりタジマを取り囲む。タジマの破滅を心の底から喜ぶ哄笑と嘲笑が渦巻く中、ストレス発散と警棒でぶちのめしてきたガキに後ろ指をさされ、性欲解消の公衆便所扱いでペニスをしゃぶらせてきたガキにケツを蹴り上げられ四つん這いに這い、嗜虐心を満足させる「お仕置き」の名目でふざけ半分に爪を剥いできたガキに背中を蹴られ鳩尾を蹴られ。
 「〜〜〜〜〜くそっ!!!!」
 盛大に反吐を戻し、顔から制服から吐瀉物にまみれて鼻の曲がりそうな異臭を放ちタジマが跳ね起きる。蹴られた鳩尾を庇い、安田に背を翻して逃走を図ったタジマの行く手を包囲する囚人たち。
 この瞬間、一分の隙なくタジマを取り巻いた囚人全員が共犯関係を結んだ。
 「話は執務室でゆっくり聞こう。事と次第によっては減棒処分は免れないと思え」
 包囲網の中心に立たされ、敵愾心と復讐心とに燃え盛る視線の集中砲火を浴び、制服の脇が変色するほど汗をかいたタジマに冷徹な宣告を下す安田。しとどに脂汗をかいた顔面に卑屈な笑みを浮かべ、何か抗弁しようと口を開いたタジマをがっちり羽交い絞めにし、人ごみの外へと連れ出したのは安田お付きの看守二人組。そのまま地下停留場の出口へと強制連行されるタジマが往生際悪く喚き散らす。
 「誤解だ俺は無実だ、なあ話せばわかるって副所長さんよ!あんた騙されてるんだよここの囚人に、ここの囚人はみんな口が上手くてこずるいから世間知らずのエリートはころりと騙されちまうんだよ。あんただってさんざん見てきただろ、東京プリズンの囚人がどんだけタチ悪いか知ってるはずだろうがよ!?たとえるなら発情期の犬だ、男同士だろうが関係なくどこでも見境なくさかりやがって……ふざけんなよ売春班のガキども躾てやった恩忘れやがって、飼い主の手に噛みついたらただじゃ」
 ―「いい加減にしたまえ!」―
 地下停留場に殷殷と響き渡ったのは歯切れ良い声。
 周囲をコンクリートで固められただだっ広い地下空間に、その声はよく響いた。地下停留場を埋めた無数の囚人が度肝を抜かれたように声の方を凝視。
 珍しく、本当に珍しく感情を昂ぶらせてタジマを一喝した安田が大きく深呼吸して心を沈静化。囚人はおろか、付き添いの看守にまでぽかんとした間抜け面で注視されてさすがに気恥ずかしくなったのか、いつもの冷静さを取り戻した安田が能面みたいな無表情で付け加える。
 「……たしかに東京プリズンの囚人の素行は誉められたものではない」
 動揺を鎮めんと眼鏡のブリッジを押さえる安田に、鍵屋崎とおなじ癖を見出して変な気分になる。ブリッジに触れた安田が意味ありげに鍵屋崎を見る。安田の視線に促されるように隣に立った鍵屋崎が毅然と前を向いてタジマを見据える。情緒不安定で危なっかしい印象がついて回った以前の鍵屋崎とは違う、恫喝に怖じることなく脅迫に屈することないどこまでも率直な眼差し。
 体の芯をサムライと共有したみたいに強い眼差し。
 そんな鍵屋崎を満足げに見下ろし、安田がかすかに、ほんのかすかに微笑む。
 「だが私は彼らの言葉を信じる。私は東京少年刑務所の執権代行者、副所長の任に就く人間。正しい者とそうでない者を見定め、正否の判断くらいはできる」
 「〜〜〜〜似合いもしねえオールバックの若造が、覚えてやがれ……」
 タジマの化けの皮が剥がれた。 
 憎憎しげに捨て台詞を吐いたタジマが、地下停留場の出口へずるずる引きずられながら声を限りに吼える。
 「調子のってんじゃねえっ、エリート気取りの若造が!砂漠の刑務所に左遷された身のくせに、出世街道外れたくせによ!いいか俺は看守だ主任看守のタジマ様だ、東京プリズンで俺に逆らえる奴なんざ誰一人もいねえって体に叩き込んでわからせてやる!!」
 はでに暴れても羽交い絞めを解くには力不足、強制退場の憂き目を見たタジマから鍵屋崎に視線を移した安田はまたいつもの無表情に戻っていた。見苦しい醜態を晒して連れていかれたタジマに呑気に手を振るのはレイジで「あばよタジマさんー、次帰って来るときゃ地獄の土産話聞かせてくれや」と笑ってる。
 ロンはといえば、リングの真ん中にへたりこんで眠っていた。残る一人、サムライはどこだろうと視線を巡らせばいつのまにリングを下りたんだかちゃっかり鍵屋崎の隣にいた。まるでそこが定位置だといわんばかりに。
 「………本当にいいのか」
 サムライが低く呟く。何のことを言ってるんだろうと訝しんだが、鍵屋崎はすぐに理解したようだ。心配性のサムライをあきれたように見上げて言う。
 「何度おなじことを言わせれば気が済むんだ?僕の参戦表明に異存はないんじゃなかったのか」
 「しかし、」
 「しかしはない」
 気遣わしげな色を目に湛えたサムライをそっけなくあしらい、こめかみを指さす。顔には不敵な笑み。
 「僕にはIQ180の天才的頭脳という武器がある。低脳どもが100人集まってペアを組んだところで負ける気はしない、それを証明してやる」
 「………強情だな」
 「君には負ける」
 「ならば俺も覚悟を決めよう」
 力強く木刀を握り直したサムライが、気高い志と強固な決意を秘めた双眸でひたと鍵屋崎を見据える。
 「地獄の涯てまで道連れになる、と」
 「………まったく、デリカシーのない男だな。地獄だ何だと幸先悪いことを言わないでくれないか。どうせ道連れになるならもっといい場所を目指したい」
 声こそあきれていたが、鍵屋崎の顔はどこか嬉しそうで。
 ああ、鍵屋崎はずいぶん変わったんだなと、僕は何だか寂しい気分になった。僕ひとりがいつまでたっても成長せずに取り残されたような、そんな気分。
 「………」
 無言で立ち竦む僕をよそに周囲の状況は刻一刻と変化する。全身に傷を負った少年たちーさっきの会話で判明したが鍵屋崎の元同僚、売春班のメンバーらしい―が、安田の的確な指示に従い、数名の看守に付き添われて医務室へと向かう。顔は青痣だらけ、他にも体じゅう至る所が生傷だらけであるにもかかわらず不思議とその顔はすがすがしく、全力を賭して何かを成し遂げたあとの爽快感が漂っていた。
 少年たちがお互い肩を抱いて医務室へ向かったあと、再びリングへと目を転じる。リングの真ん中に突っ伏したロンの傍らに屈みこんだレイジが、意識のないロンを指で突ついて「幸せそうな顔してんじゃねーよ、ばあか。キスしちまうぞ」とぼやいてる。そうやってぶつくさ言いつつもロンを背中におぶさって腰を上げる。本当、ロンにだけは特別優しい王様だ。
 鍵屋崎とサムライはまだ何か話してる。仲睦まじくて結構なことだ。
 タジマが強制連行され、売春班の面々が去り、仕事を終えた安田もまた踵を返し。疎外感を抱いて立ち尽くした僕のもとへ駆けてくるのは軽い足音。
 瞬間、僕は振り向いていた。
 「遅いよ、ビバリー。もう全部終わっちゃったよ」
 「『終わった』?」
 ビバリーが来てくれて安心したような、一人じゃなくなって嬉しいような不思議な気分をひた隠して怒ったふりをすれば、全部が終わったあとにようやっと駆け付けてきたビバリーがいたずらっぽく笑う。
 「ノーノー、違いますよリョウさん。『終わった』んじゃなくて『始まり』っス」
 「?どういうことさ」
 謎かけめいた台詞に眉をひそめ、つられてビバリーの視線を追う。リング中央、ロンをおぶさったレイジのもとへと歩み寄るサムライと鍵屋崎。
 リング中央に集まった四人を見つめ、ビバリーは宣言した。
 「今から本当のペア戦の始まりっス」

【少年プリズン】
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一話

(2005/11/27)
 体に刺青を入れたのは十歳の時だ。
 全身を彫るのにまず全裸になる。彫刻刀で皮膚を削り、墨を入れる。何より手先の繊細さと細心さが要求される施術は気が遠くなるほど長時間にわたり、しまいには精も根も尽き果てた。
 施術した人間の顔はおぼろげにしか覚えていない。
 皮膚を切り刻まれる激痛に頭の芯が鈍く痺れ体の芯を熱におかされ、目に映る光景すべてが歪んでいた。
 施術した人間は組織が飼っているプロの彫り師で腕は超一流だが、皮膚を刻む際に拷問の如く身を苛む激痛を癒せるわけもなく、途中何度も失神寸前まで追いこまれた。

 痛かった。ただ痛かった。 

 身を苛む純粋な激痛を堪える為に血が滲むほどに唇を噛んで悲鳴を殺し苦鳴を漏らし、強く強く手に握り締めた布をただひたすらに掻き毟る。溺れる者が藁をも掴む必死さで、一途に無心に縋るものを求めて。固く目を瞑り涙腺を引き締めても自然と涙が零れ、汗と一緒くたに顎から滴った。
 背中にのしかかるのは大人の手。
 惰弱な甘えも微力な抵抗も許さず後頭部を押さえつけ、がっちりと肩を固定する非情な手。
 涙で瞼を濡らして身近に目を凝らせば、裸の肩を抱擁した腕には刺青が彫られていた。
 今、自分を裸に剥いて容赦なく床に這わせているのはよく日に焼けた逞しい腕だ。筋骨隆々という形容がよく似合う大人の男の腕、どれほど暴れても振りほどくことなど到底無理な強靭な握力。その腕に彫られているのは雄雄しい龍。今まさに神風を巻き起こして昇天せんと螺旋の蛇腹をのたうせた龍の刺青が、肘から手首にかけ見事に表現されている。
 野蛮な生命力に満ち溢れた半面毒々しく照り映える緑の鱗一枚一枚に神格を帯びた、人から畏怖される伝説上の生き物。
 許される限り身をよじり、後頭部の手を見上げる。
 その手にもまた、刺青があった。むきだしの肩の付け根から手の甲にかけて、龍の刺青が。
 『少しくらい我慢しろ』  
 耳に吹き込まれる吐息。思考力を奪い去る呪詛。
 『これは儀式なんだ』
 『俺たちの仲間になる儀式』
 『お前を正式に同志として迎え入れるため、勇気と忠誠心を証明する儀式』
 『同志の証の龍の刺青を彫る儀式』
 『刺青の大きさや入れる部位は組織への貢献度や成した功績によって違ってくる。俺はな、テロ弾圧政策を可決しようとした政治家を殺って収容所にぶちこまれ釈放された時に手柄を讃え刺青を入れられた。組織への貢献度に比例して、肩の付け根から手の甲にかけて。一般人にゃ奇異の目で見られるから夏でも半袖着れないのが辛いがな。公衆浴場にも行けねえし』
 『そうだな、一生半袖着れないのは辛いな。闇の中でしか女を抱けないのも』
 『痛みは一瞬だが刺青は一生ついてまわる。お前がどこで何をしても、将来女を抱く時にも』
 『光栄に思え。正真正銘最年少の刺青保持者だ。その若さで刺青もってる奴なんざほかに見当たらねえよ。ガキの全身に刺青入れるのも酷な話だがよ』
 『褒美だと思えよ』
 『お前の功績でKIAの知名度が一気に高まったし、政治家連中もいつ自分が狙われるかびびりまくってるし。まだ皮も剥けてねえガキだろうが何だろが、優秀なやつは早く洗礼済ませて仲間にしちまえってのが上のご意向で組織の総意だ』
 『一回刺青入れちまえば一生組織抜けられねえし』
 他にとられるまえに、逃げられるまえに、一生消えない烙印を体に刻め。
 ここでしか生きてけないように、ここ以外に居場所がないように。
 決して組織を裏切らないように、裏切る気などはなから起こさないように獰猛極まる龍を身の内に孕ませる儀式。
 激痛と恐怖を骨の髄まで刻み込み、組織への忠誠と畏怖を植えつけ、洗礼と偽り洗脳する儀式。
 彫り師は口数少ない人間らしく、十歳の少年が裸に剥かれ、屈強な男に二人がかりで押さえつけられた末、布を掻き毟り身悶える痛ましい光景にも微塵も動じず、背中に燻し銀の切っ先を添える。
 健康的に日焼けしたなめらかな裸の背中に、彫刻刀が添えられ、そして―
 『!―っ、はあっ』
 小刻みに、小気味よく。
 一定のリズムで拍子をとり、木の皮を剥ぐように背中に彫刻刀を入れば、苦痛の極地とも恍惚の官能ともつかぬうめき声がたまらず漏れる。彫り師は手際良く無表情に、苦悶に歪む少年の顔にもおかまいなしに彫刻刀を打ちこむ。痛い。鼻水と涙を垂れ流し、みっともなく泣き喚けば少しは気がラクになるのだろうか。全身で暴れて慈悲を乞えばこのいつ終わるともしれない拷問から解放されるのだろうか。
 しかし泣けない。情けない。
 祖父は、頑固で偏屈で人嫌いの祖父は、唯一の肉親でもあり家族でもある孫が人前でみっともなく泣き喚くのを許すだろうか?痛みを我慢できず、狂ったように身悶えし、「許してくれ助けてくれ」と涙ながらに訴えるのをよしとするのだろうか?

 ―許すわけがない。拳骨を落とされるに決まってる。

 祖父の背中にも龍の刺青がある。一緒に風呂に入ったとき、この目で見た。確認した。幼い頃から何度も何度も。両親の体のどこかにもまた、祖父とおなじ刺青が、自分を押さえ付けて抵抗を封じる男の腕とおなじ刺青が存在したのだろう。両親も祖父も組織の人間なのだから、組織に飼い殺しにされた人間なのだから。祖父の背中を思い出す。ずっと昔、もう記憶も霞むほど昔、自分をおぶってくれた背中を。両親がいない寂しさに駄々をこねて泣けば、祖父は自分をおぶってあやしてくれた。あれはまだ三歳かそこらの頃か、五歳をこえて泣けば「やかましい」と殴られたから。
 あの頃はずいぶんと広く逞しく感じられた祖父の背中も、今やすっかり老いた。
 最後に風呂に入った時に目撃した祖父の皮膚が縮み、弛み、背中一面の龍も色褪せて生彩を欠いていた。それが、なんだか哀しかった。
 祖父の老いを痛感させられたようで。祖父の死期が迫ってるのを思い知らされたようで。
 張りと艶のある皮膚にこそ鮮烈に映える刺青には子供心に憧れていた。若く潤いのある皮膚でこそ際立つ彩り豊かな刺青、祖父とおなじ刺青、両親にもあったという刺青。
 生まれてこのかた家族そろったことがないから、家族そろって何かを共有するのに漠然と憧れていた。
 祖父とそろいの刺青なら悪くないなとも、楽観的に考えていた。
 刺青を入れるのを祖父に無断で請け負ったのは、心の片隅でどこか憧れていたからだ。祖父以外の人間の刺青を見たこともある。
 祖父と親しく頻繁に家を訪れていた人間が酔った勢いで袖をからげ得意げに見せてくれたのだ。
 それを知った祖父は何故か激怒し、「んなつまらんもん見せるな」と履き物を投げて知人を追い返したが、その理由が今は理解できる。
 祖父は娘の忘れ形見であり、唯一の肉親たる孫に自分と同じ道を辿って欲しくなかったのだ。
 まっとうに生きてほしかったのだ。
 体に刺青なんか彫るな、組織になど入るな、自分の真似をするな憧れるな爆弾作りに手を出すな。孫が組織に目をつけられ利用されていることを祖父は深刻に気に病んでいた。組織とは縁を切れ、手を切れ、おまえはワシや娘夫婦のぶんまでまっとうに生きろと口を酸っぱくして言われたのを、祖父が説教する気力も失くしすっかり老け込んだ今になって懐かしく思い返す。
 不孝やな、俺。
 とんでもない不孝者や。
 不孝なだけやなくて、虫がいい。
 祖父の説教が聞けなくなった今になって、頭を張り飛ばされなくなった今頃になって、しわがれた怒鳴り声が懐かしくなるなんて。また、どつかれとうなるなんて。
 熱に浮かされた頭が朦朧とし、視界が霞んで意識が遠のく。 
 布に取り縋った手から力が抜け、ぐったりと四肢が弛緩。
 『さすがに無理か』
 『もたねえだろうな、麻酔もなしじゃ』
 『気ィ失ったほうがラクだないっそ。目が覚めりゃ晴れて組織に仲間入りだ』
 『俺たちの仲間として認められるんだ』
 肩を掴んだ手の持ち主が、耳元に口を近付け祝福する。
 『オショスムニダ、同志』 
 「ようこそ、同志」。
 『オショスムニダ、同志』 
 後頭部の手の持ち主が、そっくり同じ台詞を復唱する。
 体を責め苛む激痛に意識が果てる寸前、瞼の裏に思い浮かべたのは祖父の面影。顔の上半分のゴーグルにさえぎられて表情は見えないが、何故だか祖父に「しょうもない奴やな、ホンマ」と言われた気がした。
  
 『しょうもない奴やな、ホンマ』
 夢じゃない。声は現実にした。
 意気消沈した呟きに正気に戻り、跳ね起きる。いつのまに敷かれたのか、自分は布団に寝かされていた。 激痛に失神した自分が敷けるわけがないから、自分をここまで運んだ人間か祖父が手ずから敷いてくれたのだろう。
 『何日も帰ってこないから、どこほっつき歩いとるんやあのあほんだらて腹に据えかねてしょうもないことばかり考えてもうたわ』
 布団の傍らに正座した祖父が吶々と語る。深い皺が寄った顔に苦渋を湛え、痛ましい眼差しで。
 祖父が心配するのも無理はない。
 刺青を彫ってやるとそそのかされ、ふらりと家を出たきりずっと音沙汰なしだったのだから。
 『……女と駆け落ちしたかと思った?』
 冗談めかして聞けば、途端に頭をはたかれる。祖父に頭をはたかれるのも随分と久しぶりだ。昔は悪戯するたびに手加減なくはたかれたものだが、最近ではぱったり孫に手を上げなくなって少し物足りなく感じていた。
 『アホ言えませガキ。十歳のガキに手え出す物好きがどこにいる、家出と勘違いして気ィ揉んだだけや』 
 『冗談やのに、そんなに怒ることないやん』  
 苦笑いとともに頭をさする。祖父は日本にいた期間が長く、家ではこうして日本語を話していた。正確には標準語ではなくどこかの訛りが入ってるらしいが、祖父譲りの日本語しか知らないからよくわからない。
 成人して後、妻子を伴い渡った祖国の言葉より生まれ育った国の言葉が得意な祖父が、じっと物言いたげに孫を見つめている。どこか思い詰めた眼差しで、もう引き返せないところまで来てしまった人間特有の哀切な眼差しで。
 『……入れてもうたんやな』
 『ああ』
 何を言われてるかすぐにわかったから、なるべくそっけなく頷いてみせる。
 『身内に何の相談もせず親から貰った体に傷つける不孝モンがどこにおる』
 『ここにおる』
 『どつくど』
 『痛っ、どついてから言うの卑怯や。……だって正直言うたら怒ったやろ、絶対』
 『あたりまえや』
 体はまだだるい。体の芯で熾火が燻っているようだ。体の節々が痛むのは皮膚の炎症のせいだろうか。いつのまに着せられたのか上半身にはTシャツを羽織り、下にはトランクスを穿いていた。何気なく毛布を剥ぎ、トランクスから突き出た足を見下ろす。
 尖った膝小僧と華奢な脛、腕白な少年の足。
 しょっちゅう箪笥の角にぶつけたり転んだりしてるせいですり傷が絶えない見慣れた足がそこにあるはずだった。
 しかし、現実に布団に投げ出されていたのは。
 毒々しく照り映える緑の鱗が螺旋状に巻き付いた足。
 『……ああ』
 終わったんや、と呟く。拷問から解放された安堵に浸かりながら、何かを得て何かを失った虚脱感とともに。祖父のもとを離れてからどれくらい監禁されていたのか正確な日数はわからない。一昼夜、いや、一週間かそれ以上か?わからない、判然としない。体力が果てるまで付っきりで刺青を彫られてるあいだ、霞がかかったように頭が朦朧としてここがどこで自分が誰かもわからなくなっていた。入れかわり立ちかわり誰かに肩を押さえつけられ、入れかわり立ちかわり監視されていたように思う。
 周囲に何人の人間がいたのか、それすらも漠然としか把握できなかった。
 自分を押さえ付けていた人間が二人、彫り師が一人、その助手が一人、監視役が二人か三人の厳重体制……そうだ、とにかく水が飲みたかった。喉が乾いて仕方がなかった。しかし身動きすらできなかった、少しでも動けば手元が狂うと叱責されさらに強く押さえつけられた。肩が軋むほどに、万力で容赦なく締め上げる拷問のように。
 もう終わったんや。
 全身が微熱をおびたように火照っているのは、体に彫られたばかりの刺青のせいだ。墨が肌に馴染むまでもうしばらく時間がかかる。余熱を持て余して気だるい体を抱きしめれば、祖父の呟きが耳に聞こえる。
 『ホンマにアホやな』
 大袈裟にかぶりを振り振り、ため息まじりに嘆く祖父にかちんと反感をおぼえる。あんなに痛い思いを味わったのに「アホ」の一言で片付けられては自分の苦労が報われないではないか。祖父へと向き直り、肩の付け根まで袖をめくりあげる。
 あらわになった腕には一匹の龍、鱗一枚一枚が艶やかに照り映える躍動的な刺青。
 『どや、かっこええやろ。じっちゃんとおそろいや』
 「じっちゃんとおそろい」という言葉にはどこかこそばゆげで、かつ自慢げな響きがあった。確かにそれは祖父の背中に彫られた刺青をそのまま腕に移植したようにも見えるが、自分の場合は背中だけでなく全身に及んでいる。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にも、四肢に巻きつくように巨大な龍が棲みついている。この刺青が完成するまで途中何度も失神した。激痛のあまり半狂乱で絶叫して意識を手放したが、その甲斐あって満足行く出来映えに仕上がって……
 『入れてもらったんや、刺青。腕だけやない、体中に。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にもあるんやで。すごいやろ、今度風呂に入ったとき見せたる。ちょーっと痛かったけどな、済んでもうたらたいしたことない。おかんとおとんにもおなじ刺青あったんやろ?家族揃って体に刺青てなんか格好ええな、極道家族や。じっちゃんが親分やな、きっと。いっつも眉間に皺寄せてぎょろ目剥いたおっかない顔してるもん……』
 むきだしの腕を祖父の眼前に突きつけ、何かに憑かれたようにまくしたてる。うしろめたさをごまかすように、虚勢を張って。八重歯を覗かせた人懐こい笑顔で。
 『格好ええやろ、じっちゃん』  
 祖父に誉めてもらいたくて、せっかく刺青を入れたのに。
 家族に自慢したくて、歯を食いしばって痛みに耐えたのに。
 『なんで泣くん』  
 頑張って痛みを堪えたのに、全身に刺青を入れたのに、そうまでして祖父の口から引き出そうとした称賛の言葉は聞けず、祖父は深々と顔を伏せ肩を震わすばかり。嗚咽もあげず、膝の上で握り締めたこぶしを涙でぬらすばかり。
 これで組織の一員だとか、晴れて同志として認められたとか、そんなことはどうでもよかった。二の次だった。ただ自分は祖父に誉めてもらいたくて、誇りに思ってほしかっただけだ。
 自分にとって祖父がそうであるように―
 祖父は無言で涙をこぼし続ける。決して孫の顔は見ず、頑固に俯いて。
 そんな祖父によわりきったように眉を下げ、少年はぽつりと呟く。
 『………後生やから、誉めたってや』 
 祖父が他界したのは、その一ヶ月後だ。
 形見のゴーグルを孫に遺して。

【少年プリズン】
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二話

(2005/11/26)
 頭が痛い。二日酔いだ。
 「いってー……」
 目を開けた途端、こめかみに疼痛が走る。錐で貫かれる激痛にたまらず奥歯を食いしばり、苦鳴を殺して上体を突っ伏す。ちょっと体を動かすだけでガンガン頭に響く。
ああ、酒は十五までやらないって決めてたのに畜生。残虐兄弟はじめ凱の子分どもときたら調子に乗って無理矢理俺にウィスキー飲ませやがって……凱そっくりの性格の悪さだ。
 昨夜の記憶はおぼろげだ。どう頑張ってみても何があったか正確に思い出せない。俺が覚えてるのは鍵屋崎を助けにいってタジマに体当たりして張り飛ばされて手錠につながれてヤられかけ、休憩がてら引き上げてきた凱の子分どもには鞭でしばかれるはさんざんな目にあって……
 それから何があった?くそ、思い出せねえ。
 ずきずき疼くこめかみを指で揉みほぐし、記憶を掘り起こそうと目を瞑る。
 ……駄目だ。記憶を反芻しようとすればするほど頭痛が悪化していったん思考を放棄、毛布をはねのけて素足を床に下ろす。ひんやりと冷たいコンクリートの床、裸の足裏に直に感じるざらざらした質感。無造作にベッドの下に放りこんでいたスニーカーに踵をもぐりこませながら、俺の酒癖の悪さはお袋譲りだなと妙な感慨をおぼえる。別にまったく嬉しくはない、どころか迷惑な話だ。遺伝子の皮肉というか何というか、俺は似たくないところばかりあの女に似ちまう。顔しかり酒癖の悪さしかり。
 酔っ払ったお袋が手当たり次第に物を投げて俺に当り散らす光景を懐かしく回想する。飛んできた灰皿で起こされてたガキの頃が懐かしい。アル中一歩手前、現実逃避に酒に溺れ男に溺れて一度も実の息子をかえりみることがなかったお袋のことを刑務所の中でもいまだに忘れられないなんて女々しいやつだ、と束の間自嘲に浸り、スニーカーを履く。
 ふと隣のベッドに目をやればレイジはどこに行ったんだかもぬけのからだった。
 俺が起床するまでぐっすり寝入ってるやつにしちゃ珍しい。毛布が中途半端にはだけたからっぽのベッドを漠然と眺めるうちにいやな胸騒ぎに襲われる。
 脳裏に朦朧とよみがえる昨夜の光景。
 銀の金網に囲われたリングにて対峙するレイジと凱。凱を絞め殺そうと手を伸ばすレイジ、その顔には残虐な笑み。俺がいちばん嫌いな種類の、人の命なんかどうでもいいと嘲る笑顔。
 レイジは凱の首を絞めた。俺の目の前で、俺の目を意識して。
 それからどうなった?決着はついたのか?
 ……答えはでない。記憶はそこでぷつりと途切れている。頭の底をさらってみたところで、気紛れに浮上してくるのは断片的な記憶のみ。レイジは勝ったのか?凱は殺されたのか?―わからない。レイジが凱ごときに負けるはずがないと信じたいが、大観衆の注視を浴びたレイジが例の微笑を湛えて凱を絞め殺してしまったんだとしたら……
 はげしくかぶりを振り、不吉な想像を追い散らす。
 俺は凱が嫌いだ。大嫌いだ。ぶっちゃけこの手で殺してやりたいくらい憎いし今すぐに凱が死んでくれりゃ万歳して快哉上げたいが、レイジが人を殺すところは見たくない。レイジとはそれなりに長い付き合いになるが、何やってぶちこまれたのか、何で東京プリズンに来たのか詳しくは知らない。気にならなくもないが、どうも聞き出すきっかけが掴めないのだ。砂漠のど真ん中の刑務所に隔離されたからには複雑な事情があるんだろうし、本人が触れられたくないなら今までどおり無視してやったほうがいい気がする。実際俺も自分がぶちこまれたワケについてはできるだけ触れたくない。ガキの抗争で米軍払い下げの欠陥手榴弾を投げて人殺しましたなんて自慢できるほど俺の神経は図太くない。
 レイジは外で人を殺したのかもしれないし、それ以外の犯罪をやらかして東京プリズン送致が決定したのかもしれない。どういう経緯だか不明だが、本で人を殺せる技術を身に付けたレイジが外で殺人を犯してない可能性は限りなく低いが、それでもやっぱりレイジが人を殺すところは見たくない。

 『笑うから殺さないでください』

 唐突に耳によみがえるのは、いつか聞いたレイジの寝言の翻訳。レイジは普段馬鹿っぽく振る舞ってるがアレで実は結構頭がよくて日本語もぺらぺらだ。けど寝言で英語をしゃべったってことは、外では日常会話として普通に英語を使ってたんだろう。本人いわくフィリピン出身らしいし、フィリピンといや米軍占領以降英語をしゃべってる国。第二次ベトナム戦争が始まってから生まれたレイジが無意識に英語を口走ったところで不思議じゃない。
 物騒なのは、その内容だ。
 「笑うから殺さないでくれってどんな状況だよ一体」
 今ごろになって、レイジの寝言の真意が深刻に気になりだす。
 いつもへらへら笑ってくだらないこと言って人からかってるレイジが、「笑うから殺さないでくれ」と懇願した。びっしょりと寝汗をかいて、悪夢にうなされて、俺の知らないだれかに哀願した。だれに?笑うから殺さないでくれ、なんて何だか矛盾してる。謝るから許してくれとか何でもするから殺さないでくれならまだ話がわかる。でも、「笑うから殺さないで」?無理にでも笑わないと殺される状況ってどんなんだよおい。ちょっと悔しいが、俺には全然想像できない。鍵屋崎に相談したら「想像力が欠如してる」と指摘されそうだ。
 鍵屋崎。そうだ鍵屋崎だ。
 あいつ、あれからどうなったんだ?俺がボイラー室に殴りこんだときゃタジマに首絞められてたけど、大丈夫なんだろうか。一夜明けて顔を見てない鍵屋崎の心配をしながら洗面台に行き、鏡に映し出された自分の格好にぎょっとする。 
 「……ひでー格好だ」
 開口一番の感想がそれだった。
 亀裂が入った鏡に映し出された俺はかなり悲惨な格好をしてた。垢染みた囚人服の上着はあちこち破け、包帯を巻きバンソウコウを貼った肌が覗いてる。上着だけじゃない、ズボンの膝も太股も裂けて擦り傷ができていた。ゲンキンなもんで、姿見で怪我を確認した途端に体中の傷が疼き出す。くそ、残虐兄弟め。心ゆくまで人のこと鞭で嬲ってくれやがって、この落とし前はいつかきっちりつけてやる。
 はらわた煮えくり返して蛇口を捻れば勢い良く水が迸る。両手に受けた水を三度顔面に叩きつければ少しは頭がすっきりした。水の冷たさを心地よく感じながら上着の裾で顔を拭き、習慣で蛇口を締める。
 生き返った。
 『Good morning,Long.』
 背後に流れたのはなめらかな英語。反射的に振り向けば、開け放した房の扉に凭れてレイジが立っていた。いつのまに扉を開けたんだかちっとも気付かなかった。その必要もないのに気配を消して接近するなんざ忍び足で獲物を狩りにくる豹より始末が悪い。
 「めずらしく今日は早起きじゃねーか。早朝の散歩でも行ってたのか」
 上着の裾で顔を拭きながらからかえば、レイジがスッと房に入ってきた。バタンと扉が閉じ、レイジがこっちに歩いてくる。片手に抱えてるのはトレイと飯。飯?食堂から運んできたとおぼしきトレイを俺のベッドに置いたレイジがあきれたふうにかぶりを振る。
 「なにが早朝だよ、もう昼だっての。今の時間まで呑気に爆睡してんのはおまえだけ、他の連中はみんな強制労働に出払っちまったよ」
 「は……!?もうそんな時間なのか」
 どうりで廊下がしんとしてると思った。周囲の房からも物音が聞こえてこないし、何より集団生活の朝に特有の喧騒の活気が微塵もないじゃないか。
 こんな時間にほっつき歩いてるのはブラックワーク上位常連で強制労働免除特権ありのレイジかその同類くらいのもんだ。
 「ルームサービスもってきてやったぜ。俺も損だよな、てんで報われない女に貢いでてんで懐かない猫に甲斐甲斐しく餌付けして、恋煩いのピエロかよ」
 「だれが猫だ。女とも比べるな」
 恩着せがましいレイジに憎まれ口を叩きつつ、遅い朝食を有り難く頂戴する。実のところ二日酔いであんまり食欲がないんだが、飯を粗末にしたらバチが当たる。今日の朝飯は和食、ワカメの味噌汁と白米の飯とあじの開きにナスの漬物という何の変哲もない育ち盛りには物足りない献立。
 ああ、台湾料理が食いてえ。
 二日酔いには味噌汁が効く。味噌を節約したせいで殆ど味がしない味噌汁を啜れば、対岸のベッドに腰掛けたレイジがじっと俺を見てる。
 「?なんだよ」
 箸を片手に聞けば、鼻白んだレイジが声を低める。
 「―おまえ、昨日のこと覚えてないの?」
 「覚えてるよ。凱の子分どもにとっつかまって酷い目に遭わされた」
 忘れられるわけがない。服もあちこち破けてるし、第一まだ体中が痛いのだ。
 「今度は俺が質問する番だ。結局試合どうなったの、おまえの勝ち?」
 「絶頂期のマイケル・ジョーダンにスリーポイントシュートできますかって聞くくれえわかりきったこと聞くなよ」
 「たとえが意味不明だけど、勝ったんだな?」
 箸を持って念を押せば、片手で頬杖ついたレイジがいたずらっぽく微笑んでみせる。
 「俺が負けるとこ想像できる?」
 ……愚問だった。
 「凱は生きてるのか」
 「絞め殺そうとしたら邪魔が入った。惜しかった」
 「だれ。鍵屋崎、サムライ?」
 「本気で言ってんのかよ」
 レイジが大袈裟に手を広げてみせる。俺には意味がわからない。ボイラー室に閉じ込められてから先の記憶が酒のせいであやふやなのだ。顔を掴まれ口をこじ開けられ、強引に喉に流し込まれたアルコールの灼熱感がまざまざとよみがえり再び吐き気をもよおす。
 ガキの頃からさんざん酒かっくらっちゃあ荒れまくるお袋を見てきたから、十五になるまで酒はやらないと心に固く誓ってたのにこのザマだ。酒が入るとぷっつり記憶が飛ぶなんて始末におえない。
 とりあえず、レイジが凱を殺してないとわかってほっとした。試合にも余裕で勝てたみたいだし、俺が心配するこたなかったな。もう全然。
 安堵に胸撫で下ろした矢先、レイジがまっすぐに俺を指さす。
 「凱の命の恩人」
 は?
 「試合に乱入して俺の出番かっさらった張本人が一夜明けて記憶喪失なんざ洒落になんねー」
 味噌汁を吹きそうになった。
 「ちょ、ま……まてまて、たんま、話を整理しよう。昨日俺が何したって?試合に乱入して凱助けたって本当かよそれ、てきとー言ってまた担ごうとしてるんじゃねえだろな?」
 「同房の相棒疑うなんてあんまりだ、ルームサービスまでしてやったのに何でこんなに信用ないかね。黄金の心臓の王様だってさすがに傷付くぜ」
 「前に寝ぼけた俺に『今日は避難訓練だ!頭に水かぶって廊下にでろ、早くしねえとボヤに巻かれて死ぬぞ!』って吹きこんで笑い者にしたのだれだよ」
 「あー、あれは笑えたな。最高だった、おまえ面白すぎ。寝起きのロンいつも以上に可愛くていつも以上にからかいたくなるんだよな。貞操守りたいなら俺以外の男に寝顔見せんなよ、心広い王様は特別にキスだけで許してやる」
 「話をすりかえるな」
 一気に飲み干した味噌汁の椀をトレイに置き、正面に身を乗り出す。心臓の鼓動が速まり腋の下がじっとり汗ばむ。膝の上でこぶしを握り締め、冷や汗をかきつつ質問。
 「……レイジ。俺、昨日なにやったんだ?」
 自分で覚えてないなら他人に聞くっきゃない。
 酔っ払った俺の一部始終を見届けた口ぶりのレイジに恥を忍んで真相を問えば、レイジときたら悩ましげにため息なんかつきやがった。男の癖に長い睫毛が、伏し目がちの目を物憂げに翳らせる。
 「覚えてないのかよ。本当始末におえねえな。ギャラリーの前であんな大胆なことしといて、」
 「大胆なこと?」
 「あんな大胆な発言して」
 「大胆な発言?」
 「しまいには脱いで」
 「脱……………!?」
 愕然とした。
 そんなまさか冗談だろなにやってんだ俺、公開ストリップショー!?いやいやいや、いくら酔っ払ってたからって俺がそんな馬鹿な真似するわけねえレイジの吹かしに決まってる事実であってたまるかってんだ。
 青褪めた俺を眺めながら、片腹をくすぐられるみたいな愉快さを噛み殺した口調でレイジが続ける。
 行儀悪くスニーカーも脱がずにベッドに飛び乗り、だらしなく足を崩し、全開の笑顔で。
 「酔っ払ったロンが試合に乱入して俺と凱の一戦台無しにした時は焦ったけど、その後地下停留場を埋めた何百何千のギャラリーの前で大胆告白。『レイジ、おまえが好きだ』『おまえになら今この場で、東京プリズンの全囚人が見守る中抱かれてやってもいい』と宣言して俺の腕の中にとびこんできてキスを、」
 皆まで言わせずレイジの顔面にトレイを投げつける。食器は懐に確保して。
 「それらしい作り話してんじゃねえ、鳥肌立ったろうが!!いくら俺が酒飲んで正気なくしたからって自分からてめえにキスするなんてありえねえ、絶対ねえ!おまえにキスするくらいなら鍵屋崎にキスしたほうがマシだっ」
 「俺とタジマなら?」
 「あじ投げるぞ」
 「冗談だよ」
 レイジがおどけた態度で両手を挙げて降参を表明する。顔面にトレイを食らったのに涼しいツラしてるのが憎たらしいっちゃない。ナスの漬物はよけ、先にアジに箸をつける。手先が不器用なせいで骨が巧く取れないのに苛立ってしまいには骨ごと噛み砕こうと頭を口に持ってけば、野良猫のゴミ漁りでも目撃したように微妙な顔のレイジが口を開く。
 「ロンさ、とりあえず肌隠しとけよ。そんな格好でふらふら出歩かれたんじゃ心臓に悪い」
 ベッドから立ちあがったレイジが俺の膝の上で五指を開けば、ばらばらと銀の光沢の安全ピンが降ってくる。ベッドに散らばった安全ピンに意味不明と眉根を寄せれば、レイジが嘆かわしげにかぶりを振る。
 「タジマが警棒さがして這いつくばってたときに落としたらしい。それで破れた個所留めとけよ、応急処置に」
 合点した。これはタジマの安全ピンか。理解した瞬間に耳たぶを安全ピン刺し貫かれる恐怖に身が竦んだだが、レイジの言い分も一理ある。こんな格好で外出歩けば露出狂だと誤解されかねないし、第一風邪をひいちまう。いったん箸を置き、手にした安全ピンで破れた個所を留めて補修する。幾つかの安全ピンで裂け目を縫いとめて応急処置を完了すれば、服を繕った俺に満足したらしくレイジが鷹揚に頷く。
 「……しっかし、こんな大量の安全ピンどうするつもりだったんだタジマは。想像するだけで気分が滅入る」
 「安心しろ。当分タジマの顔見なくてすむよ」
 「?どういう意味だよ。今まで積み重ねた悪事がバレてクビになったのか」
 「あはははは!ギャララリーが見てるまえでタジマのSMクラブ通い暴露してマゾな性癖さらした東京プリズンの女王様がよっく言うぜ」
 ………俺、本当になにやったんだ。
 自己嫌悪からくる頭痛が悪化して頭を抱え込んだ俺を見下ろし、レイジが柔らかく呟く。
 「でもさ、ちょっと嬉しかったぜ」
 「俺がタジマの性癖暴露して晒し者にしたからかよ……」
 レイジの話じゃ晒し者にされたのはむしろ俺だ。記憶にはないが、試合に乱入して酒臭い息吐き散らし、囚人監視のリングの上でさんざんタジマを罵ってる自分を想像し、ただでさえ二日酔いで滅入ってた気分がどん底まで落ちこむ。
 「ちげーよ。俺が言ったのは、」
 何か言いかけたレイジが口を噤む。苦いものを飲みこんだように口をむずむずさせたレイジが照れ隠しに舌打ち、遅い朝飯中の俺をベッドに残し足早に扉に向かう。 
 「それ食ったら俺と来い。紹介したいやつがいる」
 「はあ?だれだよそれ、俺が知らない南のトップとかじゃねーだろな」
 突拍子もない提案に驚く俺を振り向き、いつもの調子を取り戻したレイジがノブに手をかけ、扉を開く。
 「酔った勢いでペア戦参戦表明したどこかのロンを鍛え直してくれる心強いコーチだよ」

【少年プリズン】
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三話

(2005/11/25)
 レイジに案内されたのは展望台だ。
 「いい天気だなあ」
 気持ち良さそうにのびをしたレイジにつられて空を仰ぐ。
 雲ひとつない快晴の空が砂漠の涯てまで広がってる。東京プリズン周縁の砂漠の遥か彼方、墓標の蜃気楼のごとく灼熱の大気にぼかされてるのは半ば廃墟と化した高層ビル群だ。
砂漠周辺には二十一世紀初頭の地震で半壊した建造物が朽ち果てるままに放置され、住処を追われたホームレスや密入国した不法就労者やらが行政の目を逃れて住み着いてるとかで問題になってる。俺もお袋のアパートを追い出てしばらくの間は路上生活をしていたが、天気が荒れ模様のときは廃墟で雨宿りしたこともある。
 晴れた日は新宿がよく見える。
 展望台が突き出た方角のずっとずっと先には新宿があり、新宿からちょっと離れたところには池袋がある。池袋。俺が11まで飲んだくれのお袋と暮らしたスラム街。故郷と呼ぶにはよそよそしく、いつだって俺を疎外した街。この空が新宿とつながってるなんて信じられない。あっちとこっちじゃ世界が違いすぎる。東京プリズンじゃ日常と非日常が逆転して、慣れるのに大分時間がかかった。もっともけたたましい起床ベルで叩き起こされ廊下に整列して点呼をとり集団で食堂に行きまずい朝飯をかきこむ生活にも一年もありゃ馴染んでしまう。すし詰めのバスで仕事先に派遣されるハードな日々が今は懐かしい。 
 「イエローワークが懐かしいか」
 芒洋と砂漠の先を見つめてたら、俺の心を読んだようにレイジが声をかけてくる。砂塵まじりの乾いた風が一陣吹き、日に透ければ燦然と金に輝く茶髪が舞いあがる。  
 「……まあな」
 風に髪をなぶらせるレイジの横、素直に相槌を打つ。乾燥した砂漠の風をいつもより強く感じるのは何ひとつ遮る物とてない展望台の高所に立ってるからだ。風通しの良い展望台は日光浴に最適、といいたいところだが容赦なく脳天に照りつける直射日光にはうんざりだ。白く発光する太陽から降り注ぐ灼熱の日差しはきつすぎる。
 食後の散歩がてら展望台に案内され、しばらくふたり並び、物言わず眺望に見入る。が、だだっ広い砂漠がどこまでも延々続くだけの変化に乏しい光景にはすぐに飽きが来る。今ごろは強制労働の現場で砂掘りに精を出す囚人の姿も、この距離からじゃ蟻の巣穴掘りの光景に見える。
 で、話を戻す。
 「……レイジ、おまえ俺のこと騙してるんじゃねえだろうな」
 「まだ疑ってんのかよ、しつこいな。俺は誠実な男なんだ、つまんない嘘ついたりしねえよ」
 「どの口が言ってんだよそれ、呼吸する自然さで嘘つくたらしがよ。何回聞いても信じらんねえんだけど、いくら酒飲まされたからって俺がそんなこと言うなんて……」
 「言ったんだよ。嘘だと思うなら他の囚人つかまえて聞いてみろよ、全員口そろえて同じこと言うよ。『昨日の試合ぶち壊した張本人がなにをいまさら白々しい』『来週の試合たのしみにしてるぜ』ってな」
 レイジはしらっとうそぶくが、俺はまだ疑いを拭えない。俺の複雑な心境も知らず、いや、知っていて尚こうなのか、隣のレイジは張り飛ばしたくなるくらい涼しいツラをしてる。
 酒を飲まされたせいで昨夜の記憶はすっぽり抜け落ちてる。俺が昨日なにをやったかなんて全然覚えちゃいない。けどまさか、レイジ対凱の試合に乱入して酒の勢いで参戦表明しちまうなんてまるっきり酒乱の所業じゃないか。ああ、昨日の俺を殴り飛ばしたい。殴り飛ばして正気に戻して説教したい。凱に勝負を挑むのなんて無理無茶無謀、一週間の猶予期間を与えられたところで俺にはてんで勝てる見こみがない。
 凱は東棟の囚人三百人を傘下におさめる大派閥のボス、体格でも腕力でも場数でも引けをとる俺がかなう相手じゃない。
 「くそっ!凱はそりゃ気にいらねえし連中の汚い手口にはいい加減頭きてたけどよ、鍵屋崎巻きこんで参戦表明なんかして負けちまったらどうすんだよ一巻の終わりじゃねえか昨日の俺の馬鹿っ」
 「自分で自分を罵るマゾな趣味にひたってる暇あるなら特訓あるのみだ」 
 「特訓だあ?」
 頭を抱え込んでうずくまった俺にすっと手をさしだし、レイジが微笑む。
 「言ったろ。いいコーチを紹介してやるって」
 「どこにいんだよ、そのコーチは」
 レイジの手を邪険に払いのけて立ちあがりしなあたりを見まわす。展望台には俺たち二人以外にだれもいない。レイジが無人の展望台に俺を案内した真意は不明だ。不機嫌に眉をひそめた俺にいたずらっぽい笑顔を浮かべ、展望台の突端へ足を踏み出すレイジ。
 「おーい!」
 レイジが大仰な動作で両手を振る。
 レイジにつられ、遥か彼方の砂漠から手前の中庭へと視線を転じれば中央に人影を発見。と言っても、この距離からじゃ顔の造作まで判別できない。中庭といっても東京プリズンのそれは全棟つながっててだだっ広いのだ。中庭の真ん中あたりにぽつんと突っ立ってる人影がレイジの大声に向き直り、こっちに手を振り返す。やけにフレンドリーだ。
 「あれがコーチ?」
 一抹の不安が胸を過ぎる。レイジが紹介する人間にろくなやつはいない。というか、囚人の大半が強制労働が出払ってるこの時間帯に居残ってる面子は限られてくる。
 突き詰めれば、レイジの同類しか考えられないじゃんか。
 「ちょっと待て、コーチがあそこにいるなら最初から中庭に案内すればいいじゃんか。展望台に連れてくる意味が不明だ」
 「いい天気だから風にあたりたかったんだよ」 
 「……王様の気まぐれに振りまわされる身にもなれ。情けなくて涙がでる」
 「なに、下りるのに時間はかかんないさ」
 意味ありげに笑ったレイジが次の瞬間とった行動に度肝を抜かれる。
 「!?」
 俺の視界からレイジの姿が消失。
 ひょいと、何でもないことのように空気を踏んで展望台から飛び降りたのだ。 
 「!?おいレイジっ、」
 この高さから落ちて無事ですむはずがない。レイジの身を案じ、慌てふためいて突端に膝をつき下を覗きこむ。真剣に心配した俺の眼下で繰り広げられてたのは人間離れした軽業。展望台の突端に手をかけ、垂直に聳えた壁の平面を蹴り、落下の衝撃を緩和したレイジが身軽に地面に着地。猫科の獣特有の敏捷性を遺憾なく発揮し、優雅に身をひねって地面に降り立ったレイジに呆然とする。
 馬鹿げた運動神経の持ち主だ。
 地面について汚れた手を軽く払い、レイジが立ち上がる。
 「おまえもこいよ」
 「真似しろってか?無難に死ぬぞ。よくて骨折だ」
 額の汗を拭い、心配させられた腹いせに恨めしく呟く俺を見上げ、レイジが顎をしゃくる。
 「庶民は階段を使え」
 悪かったな庶民でよ。
 これ以上レイジの面を見てると唾でも吐きかけてやりたくなるから大急ぎで回れ右して展望台を後にする。2.5階の高さから飛び降りる芸当などできっこない凡人は無難に階段を使って中庭に下りる。これぞ本当の無駄足だ。自己顕示欲旺盛な王様は仰天パフォーマンスを披露したいがために中庭に直行せず展望台に寄り道した可能性もあるが、いったん考え出すと腹が立って仕方ないから思考を放棄。まあ本当に風にあたりたかったのかもしれないが、いつもへらへら笑ってて本心がどこにあるかわからないレイジの考えることなんてわかりっこない。
 駆け足で階段を降り、中庭にでる。
 見渡すかぎりコンクリートで足元を固めた屋外空間は灰色以外の色彩の印象がない。殺風景な中庭を突っ切ってレイジのもとへ急ぐ。俺より先にコーチに歩み寄ったレイジが振り向きがてら「遅かったな」なんてぬかしやがった。むかつく。
 「俺の足が遅いんじゃなくてお前の運動神経が、」
 並外れてるんだ、と反論しかけ。
 こぶしの残像が視界を過ぎり、豪速の風圧に前髪が舞いあがる。誰かが俺の目と鼻の先にパンチをくれた。誰かとはレイジの横の人物で、予定では俺のコーチとなる人間らしい。来週の試合にそなえ、俺をいちから鍛え直してくれる心強いコーチは汗が匂い立つ首にタオルを巻き、手には布を巻き、ひとり黙々とシャドウボクシングに励んでいた。右から左へ、左から右へと変幻自在に重心を移す敏捷な足捌きに目を奪われる。舞踏でも踏むように軽快で律動的な足捌きに連動し、左右の腕を腋に引き付けては交互にこぶしを繰り出す。まったく隙のない構えから繰り出すこぶしは毛穴を縮ます風圧を纏い、鋭い呼気を吐いて腕を伸縮させれば、そいつを中心に波紋が連なるように地面の砂塵が動く。

 すごい。

 俺もそれなりに喧嘩慣れしてるが、今目の前のこいつは「完璧」だ。フォームに一分の乱れもなく、獲物を仕留めにかかる猛獣の如く息遣いを抑制し、全身に闘志を充溢させている。極限まで無駄を殺ぎ落としたシャープな動きに威嚇の派手さはないが、ちょっと場数を踏んだやつなら「こいつとだけはあたりたくない」と畏怖する存在感の脅威。
 格の違いを肌にびりびり感じさせる、大気を打破するこぶしの威力。
 「!!」 
 腕の軌道が途中で変化し、まっすぐこっちにむかってくる。
 逃げられない、さけられない。地面から足が生えたように硬直し、目を閉じ―
 顔がひしゃげる衝撃は、いつまでたっても訪れなかった。
 「……?」
 おそるおそる目を開ける。布を巻いたこぶしが引かれ、コーチを名乗る人物の顔が暴かれる。どこかで見た顔だ。薄らと汗をかいた浅黒い肌、細身のくせに筋肉の躍動が伝わる胸板が囚人服越しでも見えるみたいだ。のっぺりと七三に分けた髪もはげしい運動のせいで乱れ、額に一房髪が落ちていた。どこかで見た顔だ。でもどこで?
 混乱した俺の前でそいつは尻ポケットを探り、ゆっくりとそれを取り出した。センスを度外視した実用一辺倒の黒縁眼鏡。ホセとおんなじ……
 まさか。
 「改めて自己紹介を。吾輩がロンくんのコーチです」
 黒縁眼鏡をかけた顔がこっちに向き直る。はにかむような笑みを浮かべた、人のよい顔が。
 紛れもなくホセだった。
 「どういうことだよ、ホセと知り合いだったのか!?」
 ホセの隣のレイジに食ってかかれば、俺の剣幕に首を竦めたレイジが曖昧に返事する。
 「知り合いってゆーか、」
 「トップ同士の間柄です」
 レイジの語尾を引き継いだホセが何でもないことのようにさらりと答える。トップ?今トップって言ったのか?今この場にいる人間は三人だけ、俺とレイジとホセだ。もちろん俺は庶民でレイジは王様で、他にトップといったら候補はひとりしか。
 「おまえが南のトップなのか!?」
 おもわず大声をあげてしまった。にわかには信じ難いが、今目の前にいるこいつが、トイレと間違えてボイラー室にとびこんで成り行きで俺の窮地を救ったドジで方向音痴なこいつが、東京プリズンの一角をなす南棟のトップだなんて。トップにふさわしい威厳が全然ないからちっとも気付かなかった。いや、そんなもんはレイジにだってこれっぽっちもないが。辛うじて備えてるのはサーシャくらいか。
 「そういうことは先に言えよ……」
 一気に脱力する。冷静に考えてみりゃレイジをくん付けする人間がただの囚人のわけない。ブラックワークの無敵覇者で名実ともに東京プリズン最強と目されるレイジにまでくん付けするのは同次元の囚人しかありえない。しかし、いちばん肝心な部分を省略した自己紹介に何の意味があるんだと恨みがましくホセを睨みつければあっけらかんと反論される。
 「ご気分を害されたのなら失敬。しかし自己紹介で吾輩が南のトップと名乗るとはいささか自意識過剰であり僭越な誤解を招いてしまうのではないかと危惧したものですから……初対面でトップと名乗るのは『俺はバンタム級世界王者だ』『私はメキシコ美女コンテスト優勝者よ』と自慢するのとおなじ気恥ずかしさをおぼえます」
 「先入観と偏見をもってしては友情は結べませんし」とちゃっかり付け加えるが俺には言い訳にしか聞こえない。あと断っとくが、俺はホセをダチだと思ったことは一度もない。本人がどう思ってようがこれ以上変人の知り合いを増やしたくない。
 「これではっきりした。東西南北のトップは変態紙一重の変人ぞろいだ」
 「そうむくれんなって」
 ぐったりした俺の背後に回りこんだレイジが、励ましのつもりで肩を叩く。
 「ホセはもと地下ボクシングの最強王者で素手で人殴り殺せるバーサーカーだ。おまえのコーチにはこいつっきゃいないって思って紹介してやったんだから一週間かけて特訓してもらえよ」
 「レイジくんの頼みじゃ断れません。レイジくんには以前ワイフへ贈る手紙の書き出しの相談にのってもらいましたし、吾輩にできることなら何なりとご恩返ししなければワイフに怒られてしまいます」
 「よろしく頼むぜホセ」
 「ちょっと待て、勝手に話進めんな!」
 展開の早さについてけない。レイジとホセは和気藹々と意気投合してるし。
 レイジとホセの他愛ないおしゃべりに割って入り、腰に手をついた尊大な態度で睨みを利かす。
 「ホセが南のトップだってのはわかった、俺に特訓つけるために呼びだしたってのもまあわかる」
 「じゃあ何が不満なんだよ?」
 理解できないといった顔で腕を組んだレイジの胸に人さし指をつきつける。
 「……なんでこんなまどろっこしいことする?ホセに話つけて俺を鍛え直すより、おんなじペア戦にでるおまえが直接鍛えたほうが早くないか」
 そうだ、わからないのはそれだ。こんな回りくどいやり方レイジらしくない。ところどころ記憶が飛んでるが、酒に酔った俺が参戦表明したのはホセに引き合わされた以上事実と認めるっきゃない。 
 でも、俺を鍛えるならレイジが直接やればいい。レイジは連戦連勝、無敵無敗のブラックワーク覇者で東京プリズン最強の男。ホセだってサーシャだってヨンイルだってレイジにはかなわない、東京プリズンでぶっちぎりに強いのはレイジなのだ。人任せになんかせず直接特訓つけたほうが俺にとってもレイジにとっても効率的だろうに。
 それを聞いたレイジはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、ふいに腕組みをほどいて腰を屈め、そばに転がっていたバスケットボールを拾い上げる。解答を先延ばしにするよう拾い上げたバスケットボールを交互の手に投げ渡し、器用に人さし指の上で回転させる。不器用で突き指する俺には真似できない芸当だ。
 人さし指を支点にバスケットボールを回しながら、レイジがどこか遠い目をして呟く。
 「ロンはさ、喧嘩が強くなりたいんであって人殺しがうまくなりたいわけじゃないだろ」
 さらりと述べた台詞は、ひどく物騒だ。
 ぎょっとした俺の方は見ず、回転の残像をながめながらレイジが続ける。薄い笑みを顔に浮かべ。
 「俺が教えられるのは人の殺し方と壊し方だけ。何をどうすればより効率的に致命傷を与えられるか、何をどうすれば一秒でも長く動きを止められるか。本で人殺す技術覚えても凱相手じゃ役にたたねーだろ?」
 淡々と断言したレイジが手首を返してボールを投げてよこす。
 「おまえにはおまえに合った戦い方がある」
 とっさに両手を突き出してボールを受け止めたが、驚きに腰が引けたせいでボールを取りこぼしてしまった。転々と地面で弾むボールを目で追えば、素早くボールを掠め取ったレイジが再び人さし指の上で回しはじめる。
 「俺を真似したところで俺以上にはなれない。なる必要もない。絶対に」
 レイジは笑っていた。心なんかどこにもない、からっぽの笑顔。歪んだ笑顔から一転、いつものお気楽な笑顔に戻ったレイジが手首を跳ね上げてボールを宙に浮かせ、絶妙のバランス感覚で頭にのせる。  
 ボールを頭にのせた間抜けな格好で俺に向き直ったレイジが、冗談めかして軽い口調で、その実全身に殺気を漲らせて口を開く。
 「ロン。俺の足手まといにはなるなよ」
 魔性に魅入られた心地でレイジの目を直視する。色硝子に似て綺麗な瞳。光の錯覚で猫科の獣のように瞳孔が狭く見える目が、睫毛の下で獰猛に輝く。
 「………あたりまえだ」
 決意をこめたこぶしを握り締め、挑むようにレイジを睨みつける。
 「おまえこそ俺の足手まといになるなよ」
 「よーし、その意気だ」 
 殺気を引っ込めたレイジが明るく笑い、黙って俺たちのやりとりを見守ってたホセが前に出る。
 「では、中庭五十周」
 「は?」
 五十周?
 耳を疑った俺の正面で立ち止まり、首にかけたタオルで汗を拭きながらホセが説明する。
 「本当は百周にしたいところですが初日だということで半分にまけておきます。さあ、吾輩のあとについてきて!」
 「おいマジかよ、中庭がどんだけ広いと思ってんだ!?全部の棟つながってるんだぜ、五十周なんてしたら動悸息切れ眩暈でぶっ倒れるに決まって、」
 「ヨ―イドン!」
 聞いちゃいねえ。俺をその場に残し、とっとと走り出したホセの後に濛々と砂塵が舞う。何だが俺以上にやる気満々のホセに開いた口が塞がらず、呆然と立ち竦んだ俺の背後でレイジがにやにや笑ってる。バスケットボールを頭から肩に、肩から肘へ、肘から手首へと自由自在に移してはその逆もなんなくやってのけるレイジをおもいきり睨みつけ、何ひとつ遮る物とてない快晴の青空の下、やけくそで叫ぶ。
 「くそっ、走りゃいいんだろ走りゃ!?いいさ、日射病でぶっ倒れるまで走ってやるよ!」

【少年プリズン】
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四話

(2005/11/24)
 僕は馬鹿かもしれない。
 「………」
 暑い。
 じっとしててもシャツの内側に汗をかく陽気だ。暦上は冬のはずだが砂漠に季節は関係ないらしい。 図書室帰りの僕は現在展望台にいる。売春班が休業状態にある現在、強制売春で身も心もすり減らして自殺未遂を図るまでに追い詰められた売春夫にはひとときの休息が与えられた。ペア戦の結果がでるまで売春夫の処分は見送り。男に犯される生き地獄の日々から解放された売春夫は束の間の憩いを満喫してる。
 僕とて例外ではない。売春班にいた頃は売春通りに面した隔離房に半日軟禁状態だったが、レイジとサムライが100人抜きを表明し安田の許可を取りつけた後はこうして読書に耽る時間もできた。他の囚人が強制労働に出払ってるせいで喧騒が絶えた刑務所内は読書に最適の環境だ。

 日が高い。もうすぐ正午だ。

 汗が蒸発する音さえ聞こえそうな静けさで、ページをめくる音がやけに耳につく。通常この時間はサムライが留守にした房でひとり静かに本を読んでいるのだが、こんな天気のよい日に薄暗く湿った房にこもっているのも体に悪いなと漠然と展望台に足を向けた。読書環境を変えることで気分転換を図ったのだが、今は後悔してる。東京プリズンに入所して半年以上が経つというのに、僕はまだ甘さが抜けてない。
 屋外での読書は自殺行為だ。サウナで本を読むようなもので、暑さに頭が朦朧として一向に本の内容が頭に入ってこないうえに体から水分が蒸発して眩暈を覚える始末だ。
 しかし、一度こうと決めたことを後から翻すのは僕のプライドに関わる。
 つまらない意地だという自覚はある。しかし今ここで立ち上がれば、僕の判断が誤りであったと自分から認めるようなものじゃないか。それは気に入らない。誰も見ていなくても僕のプライドが許さない。
 「…………」
 直射日光に朦朧とした頭で、意地になってページをめくる。何ひとつ遮る物とてない展望台に座りこめば当然容赦ない陽射しを浴びることになる。本のページには顎から滴った汗の染みができていた。それにしても暑い、異常に暑い。後頭部にも上着の背中にも太陽の熱を感じる。
 本の内容が一向に頭に入ってこないせいか、朦朧とした頭に浮かぶのは昨夜から今日にかけての出来事。
 ペア戦参戦表明から一夜明けた今日は、朝から身の周りが妙にざわついていた。食堂に向かう途中、僕とすれ違った囚人がこちらを窺いながらひそひそ話をしていた。食堂の周辺席の囚人がこちらを指さしながら笑い声をあげたり眉をひそめたり、表情豊かに耳打ちをしていた。たった一晩で僕を取り巻く空気が変容し、他の囚人の態度が微妙に変化した。
 軽侮から好奇へ、そして畏怖へ。
 普段僕を「親殺し」と蔑んで幼稚ないやらがせをする囚人が今日は不思議と大人しく、僕を遠巻きに眺めていた。好奇の眼差しには慣れているが、食堂に現れた僕を取り囲んだそれに混じっていたのは畏怖の色。
 どうやら僕の参戦表明は、周囲の囚人に少なからず影響を及ぼしたらしい。 
 狩られる一方の獲物、守られる一方の弱者が強気に反撃に転じればそれまで侮っていた者たちも少しだけ、あくまでほんの少しだけ見方を改めるらしい。
 もっと早く気付いてほしかった。彼ら凡人と僕は頭の出来からして違うのだから、本来尊敬されこそすれ侮蔑されるいわれはない。
 だが、僕に感心した囚人ばかりではない。反感をおぼえた者や敵愾心をむきだした者の割合のほうがむしろ多いくらいだ。食事中、背中や横顔に感じた視線は凱とその取り巻き連中のテーブルからだ。朝こそ彼らも大人しくしていたが、「サムライのモノしゃぶる見返りに守ってもらってる生白いお嬢ちゃんがでかい口叩きやがって」「二度とあんな口きけねえように俺のモン突っ込んでやる」と下卑た悪口を叩いてるのがしっかり聞こえた。
 それに過剰反応したサムライが味噌汁の椀を乱暴に置いて席を立とうとしたが、僕が止めた。
 「低脳には言いたいだけ言わせておけ。彼らはああして卑猥な冗談を口にしないと生きていけない病気なんだ、下半身で物を考える生き物だからな」と。
 朝はそれだけで済んだが、今後はどうなるかわからない。何百何千のギャラリーの前で凱に恥をかかせた借りは高くつくだろう。凱傘下の囚人三百人を敵に回し、この一週間無事に生き抜ける保証はない。
 かぶりを振って憂鬱な気分を払い、ふと顔を上げれば眼下の中庭を誰かが走ってゆく。
 中庭を横切る影は走者はふたり。第一走者から三十メートル遅れた第二走者は足元がふらふらで、今にも昏倒しかねない危険な状態。しかし第一走者がスピードを落とす気配は微塵もなく、差が開けば開くぶんだけ不利なのは明白。
 「……炎天下でマラソンか。自殺行為だな」
 自分のことは棚に上げ、見たままありのままの感想を述べる。
 この距離からでは中庭を一周二周する走者の顔まで見えないが、ずいぶんな物好きがいるものだ。普通の囚人は強制労働に出払ってる時間帯だから、中庭でマラソンしてるのは強制労働免除特権のあるブラックワーク上位陣と売春班の囚人に限定される。試しに売春班の面々の顔を思い浮かべてみたが、炎天下でのマラソンを好むような活動的な人間はいない……気がする。となれば、ブラックワーク上位者だろうか?ありえる。ブラックワーク上位者はレイジを始めとして変人ぞろいだ。暇を持て余して突然走り出す理解不能な思考回路の持ち主がいないとは断言できない。   
 暇を持て余した挙句に奇妙な行動をとる人間心理は興味深い。近くでもっとよく観察してみたい。
 誤解しないでほしいが、断じてここを去る言い訳などではない。じっと暑さに耐え、コンクリートの地面に尻を熱されつつ屋外で本を読むのがいい加減辛くなったわけじゃない。小脇に本を抱え、足早に展望台を去る。
 階段を下り、中庭に到着。
 一面コンクリートで足元を固められた殺風景な中庭に立てば、地上に降りたぶん空が高くなった錯覚を受ける。シャツの胸元をつまみ、内側に風を送りながら空を仰ぐ。
 ボールが地面に跳ね返る軽快な音が響く。
 「!」
 音が近付いてきた方角を振り向けばレイジがいた。
 「よう、キーストア。なにやってんだこんなとこで」
 「こちらの台詞だ。炎天下の屋外で何をしてるんだ君は」
 「見りゃわかるだろ、ひとりボール遊びでバスケットの真似事」
 たしかに。レイジの両手におさまってるのは、いつだったか僕が触れたこともあるバスケットボール。強制労働終了後に中庭に来た囚人が忘れていったものらしい。 
 「サムライに遊んでもらえなくて寂しい?」
 地面でボールを突きながら、レイジが声をかけてくる。
 「サムライはブルーワークの強制労働で下水道におりている。君と違って暇じゃないんだ、彼は」
 「ひでー言いようだな。俺は実力で今の身分を勝ち取ったんだぜ。羨ましいならお前も実力でブラックワークにのぼりつめてみろよ。二班でトップにのぼりつめるよか一班でトップ極めたほうが羨望集めるぜ」
 痛いところをつかれ一瞬言葉を失うが、すぐに反撃に転じる。
 「ロンに頭が上がらない王様など羨ましくも何ともないな。忘れたのか?大観衆の眼前で赤面モノの痴話喧嘩を繰り広げた挙句にサムライと握手させられた昨夜の記憶を」
 昨夜の光景を思い浮かべて失笑すれば、気に障ったらしいレイジが手首を返してボールを投げてくる。
 突然投げてよこされ、反射的に胸の前で受け止めたものの危うく手首を挫きそうになる。小脇に抱えた本も落としてしまった。
 「あぶないじゃないか!手首を痛めたら書架の上段の本が取れなくなるだろう」
 「本より心配することあるだろ、食事とか下の心配とかさあ」とあきれ顔のレイジを睨みつけてボールを投げ返そうとしたが、力が足りなかったのか途中であっけなく地面に落ちてしまった。
 「腕力なさすぎ握力なさすぎ」
 「悪かったな。自慢ではないが運動神経は鈍いんだ」
 本当に自慢にならない。
 足元に転がったボールを拾い上げたレイジがおもむろに沈黙して僕の顔に見入る。色硝子の瞳で顔を凝視されるのは落ち着かない。値踏みするように人の顔を見るな不愉快だと抗議の声をあげ、
 「キーストア、暇なら遊ばない?」
 人さし指の上でボールを回しながらレイジが笑いかけてくる。太陽の光がよく似合う活発な笑顔。  
 「……遊ぶ?どうせくだらない遊びだろう、きみがこれまで性交渉を持った女性の数と名前をあてるような著しく品性に欠けるゲームなら断固辞退する」
 「俺が寝た女の数は百五人。名前はスヨン杏奈シェリファメアリー麗羅、」
 「言わなくていい、聞きたくもない。僕は帰らせてもらう」
 レイジとしゃべるだけ時間の無駄だ。憤然と回れ右した僕の背中に浴びせられたのは嘲笑。
 「逃げるのか」 
 「…………なんだと?」
 逃げる?今レイジはそう言ったのか、こともあろうに僕にむかって。この鍵屋崎直にむかって。
 不快に眉をひそめれば、人さし指の上でボールを回しながらレイジが笑う。完全に僕を馬鹿にした笑顔。
 「俺に負けるのが怖いんだろ。いいよ、今回は見逃してやるよ腰抜けメガネ。レイジにいじめられたってサムライに言いつけてこいよ」
 「……聞き捨てならないな。何故僕が君に負けなければならない?僕にはこのIQ180の天才的頭脳と素晴らしい発想力がある。今の発言は取り消してもらおうか」
 「なら勝負しろ」
 「なんの勝負だ」
 挑発に乗せられた自覚はある、レイジのペースに巻きこまれてる自覚もある。しかし今さら引き返せない、今引き返せばレイジの発言が全面的事実だと認めるようなものじゃないか。僕は天才だ、天才の頭脳をもってして制覇できないゲームなどない。
 そして、レイジの提案はひどく単純なものだった。
 「簡単なゲーム。俺からボール奪い取ったらおまえの勝ち」
 「……それだけか」
 拍子抜けすると同時に、運動が苦手な僕はひどい脱力感をおぼえる。僕の運動神経には致命的欠陥がある。少し本気を出して走っただけでも動悸息切れ眩暈で昏倒するありさまだ。炎天下の屋外でボールを取り合ったりなどしたら日射病で脱水症状を起こして……
 「……いや、やっぱりやめよう。周囲を砂漠に囲まれた環境ではげしい運動は血中酸素濃度を薄める自殺行為……」
 「バスケットボールもできないなんておにいちゃんかっこわるーい」
 理性的にレイジを説得しようとし、眼鏡のブリッジに触れた手が間延びした声に停止。バスケットボールを胸に抱えたレイジはにやにや笑ってる。完全に僕の反応を楽しんでる。女の子の声真似までして、甲高い裏声で、僕の妹を馬鹿にするなこの低脳め恵はそんな変な声をだすものか。
 頭に血が上ったのは暑さのせいではなく、目の前のこの男のせいだ。
 「……いいだろう、貴様の望みどおり幼稚なお遊戯に付き合ってやる」
 半年前、イエローワークの砂漠に現れた安田とおなじく「幼稚なお遊戯」を強調すれば「そうこなくっちゃ」とレイジがはしゃぐ。
 レイジのボールを奪えばいいんだ、簡単なことだ。
 いくら僕が運動音痴でも至近距離にいるレイジからボールひとつ奪うのにそう時間がかかるはずもない。 腰を低め、レイジの手の中のボールに視線を集中。今か今かと息を詰め、その瞬間を待つ。
 「プレイボール!」
 ゲーム開始の合図は、青空に響き渡るレイジの声。
 レイジは立ち位置を動かずに右手でドリブルしていた。よし。手と地面の間で軽快に弾むボールに目を凝らし、コンクリートを蹴って跳躍。一気に接近し、ボールを掴もうとして……
 「!」
 目の前からボールが消失。何が起きたのだか全然わからずに振り返れば左手にボールがあった。あまりに速すぎて瞬間移動したようにしか見えなかった。驚愕に目を見張った僕をよそにレイジがドリブルを再開、手と地面の間で小気味よくボールを弾ませ。
 「とろい」
 「―っ、」
 人を食った笑顔のレイジに憤慨し、今度こそボールを奪取しようと手を伸ばすが僕の鼻先で再びボールが消失。どこへ行ったのだとあたりを見回せばレイジの頭上に移動していた。レイジの頭上に手を伸ばしてボールを掴もうとすれば、頭から落ちたボールが肩から肘を経て手首に至りまた右手へと移る。右手に乗ったボールを叩き落とそうとすれば僕の頭越しに左手へと飛び移る。右左右左と残像を引いてボールを交互させつつレイジが飄々とうそぶく。
 「キーストアはバスケットボールしたことないの」
 「そんなくだらないことしてる暇があるなら本でも読んだほうがマシだ」
 まだ十分もたってないのに息が切れてきた。首筋を伝う汗を手で拭い、目に流れこんだ汗でぼやけた視界にボールをとらえる。レイジは殆ど立ち位置を動いてない。対して僕はレイジがボールを突くたびにぶざまに突進し右へ左へ走らされはては腕にしがみつこうとしてかわされ、無駄な動きが多いせいか体力の消耗がはげしい。
 合計三歩しか動いてないレイジとは凄まじい落差だ。
 「俺も本は好きだけど、それってつまんない人生だな」
 笑い飛ばされると思ったら、レイジの感想には真摯な実感がこもっていた。
 「共感のふりなどしてくれなくても結構だ。凡人に同情されるほど落ちぶれてない」
 辛辣な毒舌でやりこめれば、レイジが何故かひどく愉快そうな笑い声をあげる。まるで自分のほうがつまらない人生だったと主張するように演技過剰の笑い声。馬鹿にしているのか、これは?地面を蹴って加速、頭を低めた前傾姿勢から伸び上がるようにレイジの正面に立ち塞がり、右肩から右肘へと滑ったボールを掠めとろうと両腕を突き出し。
 僕の頭上に放物線を描き、十メートル向こうの地面にボールが落下した。
 「卑怯だぞ!」
 いや、見方を変えれば今がチャンスか。レイジのボールを奪えば僕の勝ち、翻せばレイジの手から落ちたボールを拾えば勝ちということだ。レイジより先にボールの落下地点に直行、ボールをにむかって両腕を伸ばし―
 転々と地面で跳ねたボールが誰かの足元にぶつかり、その人物が片手でボールを拾い上げる。
 ボールを持った手につられて視線をあげれば意外な人物がいた。安田だった。
 「バスケットボールをしていたのか」
 「違います、『付き合わされていた』んです。僕の自発的意思じゃない」 
 即座に訂正すれば、僕に遅れること五秒後に駆け付けたレイジがなれなれしく安田に挨拶する。
 「安田さん一日ぶり。バスケ観戦にきたの?」
 「そんなところだ。イエローワークの視察から帰ったら君たちの姿が目に入ってな、この暑さの中バスケをプレイするなど物好きな囚人もいるものだと興味をおぼえて来てみたら案の定だ」
 ……レイジに付き合わされたおかげで僕まで物好き扱いされた。不愉快だ。
 憮然と黙りこんだ僕と笑いを噛み殺すレイジとを見比べ、小脇にボールを抱いた安田が言う。
 「レイジ。君と鍵屋崎は仲がいいんだな」
 「誤解です」
 「まあそこそこ」
 断固否定した僕の横からレイジがいらぬ口を出す。そんな僕らふたりの対照的な様子に何を思ったか、銀縁眼鏡の奥の双眸が和み、安田の顔に柔和な表情が浮かぶ。
 その表情に、一抹の翳りが射したのは目の錯覚か?
 「……そうか。友人ができたのか」
 「彼が僕の友人だとしたら僕は辞書に記載された友人の項目を塗り潰します。僕の人間性を貶める発言は聞いてて不愉快なのでよしてくれませんか」
 「おま、貶められてるの俺だよ!」
 レイジの抗議を無視して安田に詰め寄るが、安田が前言撤回する気配はない。手の中のボールに目を落とした安田が僕の顔に視