ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 その瞬間、何が起こったか。
 僕が見たままありのままを順を追って説明しよう。レイジが片腕一本で吊り上げた凱を絞殺する寸前、煙に巻かれて大混乱に陥った囚人がドミノ倒しに転倒して金網を直撃。
 囚人の体重を受け止めきれず金網が撓んだところへとどめの一撃をくれたのは意外な人物。
 ロンだ。
 酔っ払ったロンが足癖悪く金網の真ん中に蹴りを入れ、それがきっかけとなり地響きをたてて金網が倒れたのだ。
 チェス盤を傾けたところを想像してほしい。盤上の駒が重力の法則に従い落下するように、煙に巻かれてあてどもなく逃げ惑っていた囚人が金網に殺到。ただでさえ限界を超えた自重を受け止めかねた金網はロンの蹴りで脆くも崩壊、今まさに凱を絞め殺そうとしていたレイジと今まさにレイジに絞め殺されようとしていた凱には当然逃げる暇も与えられず、お互い「は?」と間抜け顔を見合わせ。
 それが、金網が倒れる寸前に僕が目撃した光景だった。
 リングの四面に高々と聳える金網のフェンス、その一面が崩壊した衝撃で舞い上がった埃の煙幕が視界を閉ざす。轟音の残響が殷殷と鼓膜に染み、耳小骨が震える。とっさに僕を抱きすくめて庇ったのはサムライで、金網に立てかけてあった木刀を右手でひっ掴み、残る左腕で僕の肩を抱いて頭を屈めさせた。
 サムライの左腕、そのぬくもりと力強さに守られつつ小さく咳き込む。
 あたり一面にたちこめた埃が次第に晴れ、前方に目を凝らす。
 いつのまにとびだしたのか、リング中央にロンが立っている。
 一面の金網が取り払われ、俄かに風通しがよくなったリングに立ったロンの下には凱がいた。倒れた金網の下敷きになり苦しげにうめいている。レイジの姿が見当たらないなと周囲を見回せば、凱を放り出して自分ひとりだけ金網の下から逃れたらしく奇跡的に無傷でロンと対峙していた。金網の均衡が崩れて倒れるまでのほんの一瞬に、地面に身を投げ出して素早く横転し間一髪難を逃れたものらしい。
 相変わらずでたらめな反射神経をしている。
 「……な、」
 外傷はないが頭からつま先まで埃まみれ、みすぼらしい風体のレイジが目を見開く。
 「なにすんだよロン!!?」
 レイジが声を荒げるのも無理はない。ロンがしたことは立派な試合妨害だ。試合の途中で部外者が金網を蹴倒すなど前代未聞の珍事で、審判とてどう対処したらよいやらはかりかねてリング外でうろたえている。
 あのまま見過ごしていれば今試合はレイジの勝利で幕を閉じたはずだ。その場合凱は窒息死していた可能性が高い。つまりロンは結果として、これまでさんざん自分を痛め付けてきた張本人を救ってしまったことになる。
 「おまえ何考えてんだよ、いきなり金網蹴倒しやがってあぶねえじゃんか!俺の自慢のツラが潰れたら世界中の女が泣、」
 「だまれ節操なし!!」
 「せ……?」
 憤然と歩み寄ったレイジを一喝、剣呑な雰囲気を漂わせて顔を伏せたロンが低く呟く。
 「どいつもこいつも好き勝手なことぬかしやがって……」
 ロンがゆっくりと顔を上げる。三白眼が血走っているのはアルコールのせいだけだろうか?アルコールが回って二本足で立つのも辛い状況なのに、膝に手をつき体勢を持ち応え、全身に怒気を充満させて周囲を睨み付ける。威嚇の眼光にレイジがたじろぎ、ようやく金網の下から這い出た凱までもがロンの変貌ぶりに絶句する。
 金網に殺到した囚人が死屍累々と地面に折り重なって気絶し、その他の囚人は絶叫と悲鳴を撒き散らして煙に巻かれて逃げ惑っていたが、リング周辺のみ異様な緊迫感が高まっている。リング上の三角形に気付いた囚人が「おい、なんだアレ」「レイジと凱ともう一人いるぞ」「これから何が始まるんだ」と注意を向け、好奇心に負けて寄り集まってくる。
 満場の注視を浴び、リングに立ったロンがぶつぶつと呟く。
 「……ああもう、なにもかも気に入らねえ。どいつもこいつも腹が立つ、くそったれだ。なんで俺ばっかいつもこんな目に?なんで俺ばっかハズレくじ?報われもしねえ苦労ばっかしょいこんでばっかみてえ」
 様子がおかしい。酒が入って正気を失っている、普段のロンらしからぬ奇矯な言動はそのせいだ。
 いつになく刺々しいロンの様子にいやな予感をおぼえ、僕を抱きすくめるサムライを振りほどいてリングに向かおうとしたが遅かった。
 「おい、猿山のボス!」
 リングではロンが凱を指さしていた。
 「猿山のボス?半半、てめえだれにむかって口きいてんだ……」
 「凱、おまえだよ。東棟のナンバー2で囚人三百人を傘下におさめる中国系派閥のボスのくせしててめえそっくりの娘にめろめろな親バカ野郎が」
 凱に娘がいたなんて初耳だ。が、娘の話題は凱にとって他人に踏み込まれたくないデリケートな領域だったのだろう。皮肉げな笑顔で揶揄された凱の顔がみるみる憤怒に紅潮、しかしロンは動じることなく、酒精に憑かれて饒舌にまくしたてる。
 「おまえとおまえの子分どもにゃいい加減頭きてるんだ、東京プリズン入所初日から今日の今日までさんざんいやがらせしてくれやがって。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたり食堂で肘ぶつけられたりトレイひっくりかえされたり床に這わされたり廊下で足ひっかけて転ばされたり……挙句にゃ鞭で好き放題しばきやがって。よく見ろよおい、このみっともねえ格好を!どうしてくれるんだよ、替えの囚人服なんかもってねえっつのに!破れかぶれの囚人服でほっつき歩けってのかよ、露出狂かよ俺は!?」
 囚人服の裾を掴んでへそを覗かせたロンが訴えるのに、凱とレイジはただただぽかんと立ち尽くしている。支離滅裂な訴えに気勢を殺がれたか、ロンめがけてこぶしを振り上げた体勢のまま凱は固まり、隣のレイジはといえば赤い顔でくだを巻くロンに目を丸くするばかり。
 「見つけたぜ、鍵屋崎、ロン!」
 三つ巴の睨み合いが繰り広げられるリングの外、サムライと並んで事態の推移を見守る僕の耳にとびこむ怒声。振り返るまでもなく、腰にしがみつくワンフーを振り切ってタジマが駆けて来たのだと悟った。
 「!っ、」
 めちゃくちゃに警棒を振りまわし、囚人をなぎ倒して猛進するタジマ。タジマが僕のもとに辿り着けば警棒で殴り殺される、いや、殴り殺されずとも骨折くらいは覚悟しなければ。独居房送りはもう免れないだろう。諦観して目を閉じれば、瞼の向こうで気配が動き、僕を背に庇うようにサムライが立ち位置を移動するのがわかった。
 「どけっサムライ、俺は親殺しに用があんだよ!」
 僕を守るようにタジマと対峙したサムライが木刀を握り締める。
 「どかぬ」
 短く答えたサムライが地を蹴り跳躍、奇声を発して警棒を振り上げたタジマに敏捷に肉薄。即座に翳した木刀が警棒を受け止め、木と木がぶつかる乾いた音が鳴る。
 警棒と木刀が拮抗する。
 腕力に物を言わせて警棒を押し込もうと鼻息荒くするタジマだが、サムライはこれに表情も変えず、眉間で水平に寝かせた木刀を両手で支えている。
 「邪魔すんならてめえも道連れだ!」
 怒り狂ったタジマが再び警棒を振り上げ、サムライの脳天めがけ力一杯振り下ろすも、風を切った警棒が頭蓋骨を陥没させるより早くサムライの姿が消失。 
 「胡乱なことを言うな。おまえに言われずともとうに鍵屋崎の道連れになると決めている」
 衣擦れの音さえたてずにタジマの背後に出現したサムライが流麗な動作で木刀を振り、タジマの足をすくう。木刀に足をすくわれたタジマが「ぎゃあっ!?」と悲鳴をあげ、警棒を投げ捨てぶざまにひっくり返る。地面で顔を強打したタジマが四つん這いに跪き、手探りで警棒をさがすのを冷ややかに一瞥、リングにふんぞり返ったロンがしゃっくりをあげる。
 「俺はどっかのタジマと違って鞭でしばかれて興奮する趣味ねえんだよ!それをてめえの子分どもは笑いながら鞭くれやがって、そんなにSMごっこしたきゃタジマが贔屓にしてるクラブ紹介してもらやいいだろうが」
 「!?なっ、」
 地面に落とした警棒を捜し求め、四つん這いになったタジマが血相を変える。顔面蒼白のタジマを傲慢に見下ろすロンの顔には、衆人監視の中地面に四つん這いになり、ぶざまな醜態を晒したタジマの虚栄心をさらに容赦なく踏み躙る快感に酔った酷薄な笑みが。
 「文句あんのかよタジマ。知ってんだぜ、おまえの本性が女に鞭でしばかれてひんひんケツ振ってよがるマゾ野郎だってこと。刑務所でガキどもいじめてんのはマゾな本性隠すカムフラージュなんだろ。新宿のSMクラブじゃ金払いのいい常連なんだよな、給料の大半SMクラブに注ぎ込んで情けねったらありゃしねえ」
 「!!!!っこのくそっ、」
 知らなかった、タジマがマゾヒストだったなんて。
 ロンの言うことがもし本当だとしたら、タジマは女性に対してだけマゾヒストなのだろうか。売春班に客として通い詰めてさんざん僕をいたぶった男がマゾヒストだとは到底信じられないが……
 満場のギャラリーの眼前、衝撃の真相を暴露されたタジマが凄まじい剣幕で跳ね起きるが、ロンの口から出た言葉は既に会場中に蔓延し、東京プリズン最凶の看守と恐れられるタジマが今この瞬間までひた隠しにしてた秘密の性癖はこの場に居合わせた全員の知るところとなった。
 「マジかよ、タジマがマゾだって!?」
 「これまでさんざん俺たちをいたぶってくれた東京プリズンいちのサド看守と名高いタジマが?」
 「囚人いじめが生き甲斐で一日一回は売春班通いしねえとタマが重たくてはちきれそうだって嘆いてたタジマが?」
 「網タイツにボンテージの女王様に鞭でぶたれて、汚いケツさらけだして発情期の豚の鳴き真似させられてるってか?傑作だなおい!!」
 失笑、嘲笑、蔑笑、憫笑。あらゆる種類の笑いが周囲の人だかりから湧き上がり、はては爆笑の渦となって会場中を席巻し、四面楚歌で追い詰められたタジマの顔が青を通り越して白くなる。看守の権威の象徴かつ心強い味方の警棒を失い、これまでさんざんいたぶってきたロンに倒錯した性癖を暴露され、地下停留場を埋めた何百何千という数の囚人に唾まじりの嘲笑を浴びせられ、タジマは弁解の言葉もなくただ青褪めていた。そんなタジマに鼻を鳴らし、再びロンが凱へと向き直る。
 「今度という今度は堪忍袋の緒が切れたぜ」
 「だったらどうする気だよ、いつもレイジの背中に隠れてる臆病者の半半が。俺と直接やりあう度胸もねえくせに、」
 「あるよ」
 ロンがきっぱりと言い、凱がうろんげに眉をひそめる。レイジも奇妙な表情をしていた。満場の注視と白熱の照明を浴び、凱とレイジをさしおいて一転リングの主役となったロンは大きく深呼吸。
 そして、一息に言いきった。
 今まで溜めに溜めこんでいた鬱憤をぶちまけるように、腹の底から声をあげ、大気をびりびりと震わせ。
 それは絶叫、宣戦布告。 
 「~~~~もうこりごりなんだよてめえにびびって逃げ隠れするのは、何されても我慢すんのは!いいかよく聞け凱、てめえがこれまで俺に売った喧嘩全部まとめて買ってやる!そうだよ、レイジの出る幕じゃねえ。元を正せばこれは俺の喧嘩だ、レイジに横取りされてたまるかよ、てめえとはこのリングの上できっちりこぶしで決着つけてやる!!」
 ロンの目は爛々と燃えていた。血沸き肉踊る高揚感の絶頂で好戦的に輝いていた。
 ロンは一歩も退くことなく、逃げ隠れすることなく凱を見据えている。
 「おもしれえじゃねえか……」
 ロンの挑発に闘争心を煽られた凱が残忍に笑み、闘技場の猛牛のように地面を蹴立てる。一触即発、堂に入ったファイティングポーズをとる凱とてのひらに唾を吐くロンとが睨み合いで互いを牽制。幾多もの修羅場を踏み荒みきった眼光といい喧嘩慣れした物腰といい、怒りのあまり顔筋が痙攣しひきつり笑いを浮かべる顔といい、今のロンと凱はとてもよく似ていた。
 「いやあ、おもろいことになっとるなあ」
 のんびりした声に振り向けば、いつのまにか隣にヨンイルが来ていた。ホセもいる。
 「おや、これは奇妙な。さっきまでレイジくんがリングに上がっていましたが、今はロンくんが。100人抜きの勝敗はどうなったんですか?」
 ホセに指摘され、背中に冷や汗をかく。
 突然のことで止めに入るタイミングを逸したが、部外者の飛び入りは試合妨害に分類されるのではないか?ロンの飛び入りで100人抜きが中断され、レイジ対凱の試合の勝敗がうやむやになれば…… 
 「まさか、僕らの敗北か?」
 冗談じゃない。酔っ払ったロンが試合に乱入したせいで敗北が決定してはたまらない。かくなる上は抵抗されるのを承知でロンをリングから引きずり下ろそうと駆け出しかけた僕の進路にスッと木刀がさしだされる。足元をさえぎる木刀を目で辿れば、考え深げに黙りこんだサムライがいた。
 「何故止めるんだ、このままじゃ試合が……!」 
 「暫し待て」
 リングではいまだ一触即発の不均衡さで睨み合いが続いている。ロンは全身に怪我をしている、いくらかすり傷程度とはいえあの状態で凱と渡り合うのは無謀だ。煙が充満した会場にて戦々恐々と逃げ惑っていた囚人たちが、凱対ロンの予定外の試合にただならぬ興味をひかれ、リング周辺に黒山の人だかりを築いてざわめき始めている。
 「静かにしたまえ」
 ざわめきを圧し、平板な声が響く。 
 声の主は地下通路の出口にいた。一筋の乱れもなく撫で付けたオールバックの下には端正だが表情の欠落した顔、三つ揃いのスーツを完璧に着こなした男の名は安田。無能で怠慢な現所長に成り代わり、東京プリズンの執権を握る若き副所長。
 何故安田がここに?
 突然登場した安田に驚き言葉を失った僕の方へ、安田は平然と歩いてくる。人ごみに揉まれスーツを皺だらけにされオールバックを崩し、幾人もの囚人にぶつかりぶつかられて立ち往生しつつも、能面めいて冷淡な無表情には汗ひとつかかずに遂に僕のもとへ辿り着く。
 「ボヤ騒ぎが発生したと聞いて来てみれば……この惨状は何事だ」
 額にたれた前髪をかきあげ、わずかに眉をひそめて不快感を表明し、安田が嘆かわしげに言う。その言葉から察するに、試合観戦に来た看守がヨンイルが発生させた煙を火事のボヤだと勘違いして報告しに行ったらしい。騒ぎを大きくした張本人のヨンイルは「でな、明日のジョーと並んでボクシング漫画の二大金字塔と称されるのががんばれ元気で」などと素知らぬふりでホセに講釈を垂れている。
 「そこの三人!」
 神経質な手つきで前髪をかき上げた安田がリングを仰ぎ、微妙な距離をおいて対峙するロンと凱、そしてレイジに声をける。 
 「今ここでは娯楽班の試合が行われているはずだが、この煙はなんだ?それにペア戦のはずが、何故リングに三人の人間がいる?」
 「ちょうどいい」
 何がちょうどいいんだ?
 いやな予感が強まる。安田を見下ろしたロンがにんまりと、それはもう嬉しげにほくそ笑む。
 「副所長立会いのもと宣言すりゃ、もうなんでもありだよな。もとからペア戦にゃルールなんて存在しねえし、途中からペア組む相手が替わろうがシャッフルしようが全然アリだよな」
 「何を言ってるんだ?少しは頭を冷やせ」
 意味不明なことを口走ったロンをたまらず叱責するが、ロンは黙らない。親指で自分の胸を指し、毅然と顎をそらし、展開の早さについていけず呆然と立ち尽くすレイジと凱とを等分に見比べて続ける。
 「レイジとサムライに任せ切りにするのはやめだ。自分のケツは自分で拭く。いつまでもぐだぐだ喧嘩してるレイジとサムライなんかに100人抜き任せておけるか、元はといえば俺と鍵屋崎の売春免除条件にふたりがペア組んだんだ。ちょっと待ておかしいだろそれ、俺たちに関係あることなら俺たち自身がペア組むべきだろ?俺と鍵屋崎がペア組んで出場するべきだろ?ならこうしよう、これっきゃない」
 そこで言葉を切り、ロンがきっかりと僕を見据える。
 酔っているわりには毅然として、揺るぎない決意をこめているかに見えるまっすぐな眼差しで。  
 「レイジとサムライの代わりに、俺と鍵屋崎がペア戦にでる」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051130232059 | 編集

 「勝手なこと言ってんのはどっちだよ!?」
 それまで呆然と立ち尽くしていたレイジが我慢できないという風に爆発する。
 戦闘体勢に入った凱とロンが一触即発で睨み合い緊迫感が高まる中、ふたりに無視される形で蚊帳の外におかれていたレイジが憤然と歩き出す。体の脇でこぶしを握り締め肩を怒らせ、双眸きつく大股に突き進んだレイジが怒鳴る。
 「ロン、おまえ凱にいじめられすぎて頭どうかしちまったんじゃねえか?うわっ酒臭えっ、おまえ飲んでるだろ絶対!リングおりて頭冷やしてこい、試合の邪魔すんなよ。今やってんのは俺と凱だ、ペア戦登録してない部外者がしゃしゃりでてくんな。目ざわりだ」
 「俺に命令すんな」
 「王様の命令に従うのが庶民の義務だろ」
 「だったら下克上してやる」
 傲慢に腕を組み、ロンの前で立ち止まるレイジ。傲然と人を見下した目つきといい暴君の器を兼ねた尊大な態度といい、ロンをからかってお気楽に笑ってる普段のレイジとは人が違ってる。レイジはレイジなりにひどく怒っているらしい。突如乱入したロンに勝利目前で試合を妨害され、あまつさえ自分がこれまでやってきたことすべてを無に帰すような大胆な提案をされて。
 しかし、いつになく高圧的な態度でレイジに迫られてもロンは萎縮することなく、殺気走った酔眼と不敵な面構えで王様を睨みつけている。
 「命令だ。下りろ」
 レイジが横柄に顎をしゃくり、リングを下りるようロンに指示する。が、ロンはこれを完全に無視。挑戦的にレイジを睨みつけたまま、一歩たりともそこを動こうとしない。白熱の照明が降り注ぐリングにて、微妙な距離をおいて対峙する三者のうち、今度は凱が傍観者に回ったようだ。
 ロンの目をまっすぐ見つめ、レイジは繰り返す。道理のわからない子供に噛み含めるように辛抱強い口調で。
 「下りろ」
 「いやだ」
 「下りろつってんだろ」
 「いやだ」
 「いいから」
 「いやだ」
 「!~~~くそっ、」
 乱暴に頭を掻き毟れば、日の光をたっぷり吸った藁束のような色合いの茶髪が逆立つ。荒荒しく髪をかきまぜ腹立ち紛れに地団駄踏んだレイジが大きく深呼吸、意を決したようにロンへと向き直る。
 本当にロンのことを案じてるのがわかる真剣な表情で。苦渋と焦燥とを宿した悲痛な双眸で。
 「俺はお前が心配なんだよ!」
 「俺もお前が心配なんだよ!」
 間髪入れず叫び返したロンもレイジと全く同じ顔をし、同じ色を目に浮かべていた。頑として譲らない決意をこめた強情な顔つき。双方向の絶叫は上空で衝突し、弾け、だだっ広い地下停留場に殷殷と響き渡った。ロンに一喝されたレイジが虚を衝かれたように動きを止める。
 誰かに心配されたことなど生まれて初めてだ、といわんばかりの鮮烈な反応。
 硬直したレイジをまっすぐ見据え、ロンが口を開く。体の痛みではなく心の痛みを堪えるように顔をしかめ、体の脇で震えるほどにこぶしを握り締め。
 「守られっぱなしは嫌なんだよ」
 切羽詰った声だった。今まで溜めに溜めていたもの全部を吐き出すように、堪えに堪えていたものを訴えるようにロンは続ける。レイジの目から決して視線を逸らさず、心の底からの本音を述べる。
 「おまえに守られっぱなしなのは嫌なんだ。おまえはいっつもへらへら笑ってて怖いもんなしの無敵の王様で、おまえに甘えりゃラクだって頭じゃわかってる。でもどうしても嫌だ、納得できねえ。おまえが俺を助けるために100人抜きに挑んで怪我したらとか死んじまったらとか、もう帰ってこなかったらとか心配で。ずるいじゃねーか俺ばっか心配しどおしで。不公平じゃねえか、そんなの」
 「おまえが心配性なんだよ、俺が負けるわけな……」
 「わかんねーだろそんなの!!」
 レイジは笑ってごまかそうとしたが、ロンはそれを許さなかった。逆上したロンが頬を上気させてレイジに食ってかかり、次の瞬間には泣きそうに顔を歪める。
 「かっこつけるのもいい加減にしろよバカ野郎。畜生、なんで俺は何にもできないんだよ。なんで俺に何もさせてくれないんだよ。俺だって一緒に戦いたい、元はといえば俺の喧嘩だろ、俺と鍵屋崎の問題だろ。それなのになんで俺たちに関わらせてくれないんだよ!?」
 泣き顔を覗かれるのを避けるように下唇を噛んで顔を伏せ、続ける。
 「……負けないってわかってても、負けたらって考えると怖いんだよ。寝ても覚めても怖いんだよ。お前が死んだらその胸糞悪いにやけ顔もう見れなくて寝こみ襲われることもなくなってせいせいするはずなのに、でも怖いんだ。どうしようもなく。そりゃお前と比べりゃ俺は弱いけど、何もできず何もさせてもらえず守られっぱなしになってるほど弱くねえよ」
 何も言い返せないレイジに、ロンは小さく呟いた。
 「馬鹿にすんな、レイジ」
 頭を殴られた気がした。
 ロンが言ってることはよく理解できる。それどころか、共感をおぼえてさえいる。ロンが心の奥底に抱え込んでいた葛藤や矛盾にはこれまで僕もさんざん苦しめられてきた。レイジとサムライがペアを組んで100人抜きに挑んだのは僕たちを売春班から救い出すため、元はといえばこれは僕たちの問題なのだ。それなのに肝心の僕たちはサムライとレイジがリングに上がるのをただ見ているだけ、無力な傍観者に徹してふたりの戦いを見守ることしかできない。金網越しの安全圏で友人の無事を祈ることしか許されない。
 おかしい。
 そうだ、ロンの言葉で劇的に理解した。これまで必死に目を逸らし抑圧し続けてきた心の奥底の願望、サムライと共に戦いたい、サムライを助けたい力になりたい。彼ひとりを危険な目に遭わせて元凶の僕は安全圏で指示をとばすだけなんて嫌だ、納得できない。
 僕はずっとサムライと対等になりたかった。
 一方的に守られるだけの関係ではなく、サムライにあてにしてほしかった。頼ってほしかった。もし今この瞬間に何も自己主張しなければ僕は永遠にサムライの庇護の対象になってしまう。
 僕も、僕だってサムライが心配だ。
 サムライに怪我をしてほしくない、死んでほしくない。僕の為に怪我をして僕の為に死なれても嬉しくない。僕を守ってサムライが傷付き、本人がそれを是としても僕は是としない。
 僕の身に降りかかった災難は、僕自身が振り払うべきだ。 
 正方形のリングで静謐に対峙するレイジとロンの間には緊張の糸がはりつめている。
 間抜けなしゃっくりをあげながら、ロンが緩やかに顔を上げる。その目にあったのはしてやったりと満足げな光。レイジの胸をひたと指差し、いたずらっぽくロンが笑う。
 「俺ばっか心配するんじゃ不公平だからおまえにも心配させてやる。な?これでおあいこだろ」
 「………あまのじゃく」
 不満げに唇を尖らし、レイジが僕へと振り返る。
 「キーストアはどうなんだ?ロンが勝手なことほざいてるけど」
 「……ロンの意見に賛成だ」
 逡巡は長くは続かなかった。 
 気付けば僕は笑っていた。何か、たとえば運命と呼びならわされる大きな存在に喧嘩を売る挑戦的な笑み。サムライがぎょっとしたような顔をし、ヨンイルとホセが「ほう」と感嘆の声を発し、安田が不審げに目を細める。地面に倒れた金網を踏み、サムライの傍らを通り抜け、冷静沈着に歩き出す。地下停留場を埋めた何百何千という数の囚人の視線が一挙手一投足に注がれているのがわかる。視線の重圧をはねつけるように得てしてさりげなく足を繰り出し、ロンの隣に立つ。
 「―他人に意向を代弁されたのは不愉快だが、ロンの意見に異存はない。僕も一方的に守られるのは性に合わない。どころか、プライドの危機だ」
 眼鏡のブリッジに触れ、軽くため息を吐く。そして、ゆっくりと周囲を見渡す。心は奇妙に落ち着いていた。緊張とは無縁だった。さまざまなことが一度に起こりすぎて現実感が薄れてるのかもしれない。
 なら好都合だ。
 たまには効率を無視し、感情に流されてみるのもいいだろう。自分のしたいようにするのもいいだろう。
 無謀だという自覚はある、賢明な判断とはとても言えない。しかし僕はサムライ一人に戦わせたくない、重荷を背負わせたくない。一方的に庇護される甘ったるい関係はごめんだ。僕にもできることがあるはずだ。ならばそれを証明してみせよう。IQ180の天才的頭脳に賭けて、リングの上で。
 眼鏡の位置を直し、毅然とレイジを見据え、朗々と宣言する。地下停留場の開放的に高い天井に殷殷と響く声で。
 「今ここでペア戦参戦を表明する」
 歓声が爆発した。
 「おもしろいことになったじゃねえか!」  
 「親殺しと半半の弱弱コンビ参戦で100人抜きの行方がわかんなくなったな!」
 「レイジがべらぼうに強すぎて賭けが成立しなくて退屈してたんだ、いいぞ親殺しと半半、盛大に負けてリングで剥かれて俺たち楽しませてくれよ!」
 僕の宣戦布告に熱狂した囚人が金網に殺到、一斉にこぶしを突き上げ地響きたてて足を踏み鳴らす。金網を揺すり蹴りを入れ、興奮に目を輝かせて顔を紅潮させた何百何千という数の囚人が怒涛をうって押し寄せたせいで金網が撓んで変形する。
 レイジは苦りきった顔をしていた。ロンの抑止剤として期待していた僕が賛成の意思を表明するとは思わなかったのだろう。音荒く舌打ちし、横手の金網に蹴りを入れている。
 「直……、」
 声に振り向けばサムライがいた。金網に手をかけ、呆然とした面持ちでこちらを見つめている。驚愕したサムライに向き直り、気恥ずかしさを押し殺して無愛想に呟く。
 「僕と君は『道連れ』だろ」
 サムライの横には安田がいた。相変わらずの無表情で何を考えてるのか読み取れない。サムライから安田に視線を移し、口を開く。
 「副所長のご意見を聞きたいです。レイジとサムライが売春班撤廃を条件に100人抜きに挑んだのは貴方の許可があったからだ。貴方が今ここで許可してくだされば、僕とロンもペア戦に出場できる」
 「……君は誤解してるな。東京プリズンで最も力があるのは私ではない」
 安田が首を巡らすのにつられて周囲を見渡す。地下停留場は熱狂の坩堝と化していた。興奮が最高潮に達した囚人が奇声を発して暴れだし同時多発的に小競り合いが発生し、もはや収拾がつかなくなった会場の惨状を冷静に眺めて結論する。
 「東京プリズンで最も力があるのは囚人だ。君の参戦表明は彼ら囚人に熱狂的に受理された、いくら私でも取り消すわけにはいかない。強権を発動すれば暴動が起こる。いいか?もう取り返しがつかないぞ」
 「かまいません」
 「なら認めよう。しかし条件がある」
 安田がスッと人さし指を立てる。
 「いくらレイジとサムライが強いとはいえ、二人のみで100人抜きを達成するのは困難だ。実質二対百の連続試合では体力的にも不利。本人たちが望んだこととはいえ、許可した私もいささか気が咎める。さて、ペア戦の公平をはかるべくひとつ提案だが、次週の試合からは君とロンのペアを加えた四人で100人抜きに挑みたまえ。こう言ってしまえば何だが、君とロンのペアでは100人抜きは不可能だ。しかし予備戦力として君らふたりを残しておけばレイジとサムライに余裕が生まれ、多少なりとも不公平が改善される」
 「……いいでしょう」
 首肯した僕からサムライに視線を移し、返答を待つ安田。サムライはしばらく眉間に皺を寄せて考え込んでいたが、やがて諦念のため息を吐く。
 「……致し方ない」 
 僕の決意が固いと悟ったサムライは、それ以上何も言わなかった。アルコールの過剰摂取で酩酊状態のロンはさておき、残るレイジは金網に連続で蹴りを入れながらヤケ気味に吼える。
 「~~~もういいよ、わかったよ!!俺が頷きゃ全部丸くおさまるんだろ、だったら頷いてやるよ気に入らなくても何でもさ!けっ、勝手にしやがれ」 
 「決まったな。たのしみにしてるぜ半半」
 それまで存在を忘れ去られていた凱が、全身から殺気を放ち凶悪な笑みを浮かべる。
 「本当なら今すぐここで決着つけてえところだが、足元怪しい酔っ払いを殴り倒してもつまんねえから一週間チャンスをやる。せいぜい悪足掻きしてこいや」 
 「こっちの台詞だ。顔洗って待ってやがれ」
 凱の言うとおり足元がふらついてるくせに、啖呵を切るときだけ威勢よくロンが吼える。ふんと鼻を鳴らしてリングを下りた凱にはもう見向きもせず、ロンが歩み寄った方向にはレイジがいた。
 勝利目前で試合を中断された上に急遽ロンのペア戦参戦が決まり、完全にふてくされたレイジが「んだよ」と凄むが、ロンは無造作にその手を取るやリングの外に突っ立っているサムライに顎をしゃくる。
 「ちょっと来い」
 何の真似だ?
 ロンの奇妙な行動に首を傾げた僕の目の前、木刀を片手に下げたサムライが言われるがままリングに上る。本来なら試合終了まで部外者の立ち入りは禁止されているが、ロンの乱入で試合自体がめちゃくちゃにされ、安田の提案で次週仕切り直しとなった現状では誰もうるさく言わない。
 ロンに招かれて大股に歩いてきたサムライを一瞥、レイジが鼻を鳴らす。
 ロンの前で立ち止まったサムライはあえてレイジと目を合わせずに「何用だ」と訊き、僕はまだ喧嘩を続行してるふたりに心底からあきれる。
 いい加減大人になれとふたりを説教しようと足を踏み出し……
 「いつまでもぐだぐだ喧嘩してんじゃねえ、ガキかよお前ら!!」
 激昂したロンが有無を言わさずサムライの手を掴んで引き寄せ、正面からレイジと対峙させる。
 そして、この場の誰も予想だにしない意外すぎる命令を下す。
 「握手しろ」
 「「は?」」
 喧嘩以降初めてサムライとレイジの声が揃い、ふたり揃ってロンを凝視し。
 ロンはそんなふたりを等分に見比べ、当然のことをいわせるなとばかりに尊大に開き直った。
 「仲直りの握手」
 「はあ……!?」
 レイジが気の抜けた声をあげ、サムライもわずかにたじろぐ。二人が当惑するのは最もだ。何百何千という観衆の注目を集めるリング中央、話題の渦中にあるサムライとレイジが仲直りの握手を強制されんとしているのだ。
 「冗談じゃねえ、こんな童貞くさいサムライ気取りと握手なんてお断りだ。童貞菌が伝染っちまうよ」
 「相も変わらず下品な男だ。こんな男と手をつなぐなど恥辱の極み、断じてせん」
 さすがに恥ずかしいのかロンに命令されるのが癪なのか、顔を赤らめたレイジが全身で握手を拒めばサムライも苦々しい顔をする。
 「下品?下品で悪かったな。俺はどっかの腰抜けザムライと違って人並以上に女知ってるもんでね、下ネタの知識豊富なんだよ」
 「威張れることではない。むしろ恥じろ」
 「鞘から刀抜くまえに下半身の鞘脱いでこいっつの」
 「……見下げ果てた男だな本当に。貴様と話しているだけで口が汚れる。不愉快だ」
 「そりゃお互い様だ。なんだ気が合うじゃねーか!」
 皮肉げに笑ったレイジが力づくでロンの手をふりほどこうとし、サムライもまたロンの手を振り払おうとする。延々幼稚な口論を繰り広げるレイジとサムライ、そのあまりにも大人げない光景に僕の忍耐力が限界に達し、こめかみの血管が熱く膨張する。
 「「いい加減にしろ!!!」」   
 ロンとぴったり声が一致したのは偶然だ。
 暗闇の天井に反響する大声で怒鳴れば、同時に叱責されたサムライとレイジが驚きのあまり固まる。レイジに胸ぐらを掴まれた姿勢のままサムライは硬直し、サムライの胸ぐらを掴んだレイジもまた目を見開く。
 もう我慢の限界だ。今まで自制心を振り絞り抑圧してきたレイジとサムライへの不満が爆発し、血流とともにこみ上げてきた怒りをそのままに吐露する。
 「なんなんだ君たちは、いつもいつまでも大人げない喧嘩を続けて僕たちに世話を焼かせて少しは反省したらどうだ!?あまりにも精神年齢が低すぎて眩暈をおぼえる!胸に手をあてて考えてみろ、元はといえば僕が危険に巻きこまれたのも君たちがつまらない意地を張って互いを無視してペア戦の本質を見失ったからだろう!?」
 「そうだメガネの言うとおりだ、たまにはいいこと言うなバカ天才!レイジ、おまえどんだけ俺に心配かけりゃ気が済むんだよ?おまえとサムライが喧嘩してるあいだどんだけ俺と鍵屋崎が気を揉んだと思ってる、どうにかしてお前ら仲直りさせよって頭ひねりゃ全部裏目にでちまうしもうお手上げだ!もうこれ以上迷惑かけんじゃねえ、おまえらなんでペア組んでんだ、俺たち助けるにゃ一人より二人のがイイからだろ!?なのにバラバラに戦ってボロボロになって……バカおまえらバカ、いくら強くても救いようねえバカ!」
 バカバカと連呼されて罵られたレイジが何か反論しようと口を開き、何も反論できないと悟ってむなしく口を噤む。サムライも言葉に詰まる。僕たちふたりの剣幕に圧倒されたサムライとレイジの手を取り、ロンが強引に結論付ける。
 「あーもうっ、面倒くせえから今ここで仲直りしちまえ!」 
 「同感だ。これ以上振りまわされるのは不愉快だ」
 「!――っ、」
 交互に責め立てられたレイジが救いを求めてあたりを見まわせば、金網の外からのんびりした声が届く。
 「仲直りにはね、キスがいいんですよ」 
 ホセだった。
 「いやはや懐かしい。ワイフともよく喧嘩しました。仲が良いほど何とやら、今のレイジくんみたいにつまらない意地を張って三日三晩無視耐久戦をしたものですがいつも折れるのは吾輩から。仲直りの秘訣はキスです。もちろん唇に」
 「………………………………………………………………………………マジかよ」
 ホセは親切心からアドバイスしてるつもりらしいが、レイジにしてみれば余計なお世話どころか死刑宣告にも等しい内容だった。今にも泣きそうな顔でおそるおそる振り返ったレイジに返されたのは……
 ロンの微笑。
 「キスさせるぞ」
 そして脅迫。逃げも隠れもできない状況で究極の二者択一を迫られたレイジに同情する人間は一人もいない。地下停留場を埋めた野次馬の間から沸き上がるのは耳も割れんばかりの大歓声と手拍子。いつも余裕綽々、不敵な笑みを振りまく王様が青褪めるところなんて滅多に見られないと金網に殺到した野次馬が目を爛々と輝かせ口角泡をとばし金網を揺すり、地底から沸き上がるように大合唱。
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 「「キッス!」」
 ―『Shut up!!』― 
 大歓声を圧し、英語の絶叫が天井高く響き渡る。
 頭を抱え込んでうずくまったレイジが、何か決意したような悲壮な顔つきでスッと立ちあがり、思い詰めた目でサムライを凝視する。サムライは外野の大合唱にも動じず泰然自若と木刀に手をかけていたが、ただらぬ真剣さでレイジに目を見つめられ眉間に皺を刻む。
 まさか、本当にキスするつもりか?
 一抹の不安に駆られた僕をよそに、レイジは長々と息を吐く。その口の中でぶつぶつ呟いてるのは英語のスラングで、「なんでこんなことに」「恨むぜ神様」という類の悪態だ。
 ロンの手を邪険に振り解き、再びサムライと向き合ったレイジの目を掠めたのは複雑な色。
 気恥ずかしい、ばつが悪い。しかし他にどうしようもない。
 そのすべてを包括した諦観の色を双眸に湛えたレイジが渋々サムライに歩み寄り、自分から手をさしだし。
 『………I'm sorry.』
 そっぽをむいて謝罪した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051129232338 | 編集

 「あははははははっ!」
 やばい、面白すぎる。ツボにはまった。
 双眼鏡を構えた僕の視線の先ではこれ以上ない仏頂面のレイジと憮然としたサムライとが握手してる。お互い気が乗らないがサムライの側じゃ鍵屋崎が、レイジの側じゃロンが睨みを利かせてるから妥協して手を握ってるんだけど二人とも嫌がってるのが見え見えだ。大人げないったらない。
 足をばたつかせておなかを抱えて、地下停留場を埋めたその他大勢の囚人と同様に爆笑していたらバランズを崩してあわやバスの天井から転落しかける。
 『Danger!』
 視界がぐらっと傾いで体が浮遊感に包まれて、あ、落ちちゃう落ちちゃうと焦った僕の手を引っ張り上げてくれたのはビバリーだ。バスから転落寸前に僕を引き戻してくれた命の恩人のビバリーが安堵に胸を撫で下ろす。
 「リョウさん、あんた何回落っこちれば気が済むんスか」
 「落っこちなかったんだからいいじゃん。それに僕が安心して落っこちられるのはいつでもビバリーが引っ張り上げてくれるって信頼してるからだよ」
 茶目っけたっぷりにウィンクすれば、反省の色のない僕にあきれかえったふうにビバリーが首を振る。やれやれとお手上げ状態のビバリーをよそに再び双眼鏡を構えて目をくっつける。会場を爆笑の渦に巻き込んだ当の本人たちはいまだ脚光降り注ぐリング上で晒し者になっていた。
 ロンに命令され鍵屋崎に威圧され、渋々不承不承握手を交して仲直りに至ったレイジとサムライだけど、まだ完全にはわだかまりが払拭できないらしくお互いばつが悪そうにしてる。何百何千の大観衆の注目の的、野次と喝采が喧しく飛び交う中で握手を強制されたのだから気恥ずかしさで顔から火がでてもおかしくない状況だ。実際、遠く離れたバスの上から双眼鏡を覗いてもレイジの顔が赤らんでるのがわかるし、注意してよく見ればサムライも眉間に縦皺を刻んでいる。
 ロンと鍵屋崎に監視され、見渡す限り地下停留場を埋めた大観衆にやんやと囃し立てられ、レイジとサムライがやけくそで握手する光景を堪能してから双眼鏡をおろす。もう我慢できない、もっと近くに行きたい。この距離からじゃ声が聞こえない、レイジ達が何を話してるのか猛烈に気になる。双眼鏡の性能がいいから試合観戦するぶんには何の問題もないけど、バスの上の特等席じゃ会話が聞こえないのが難点だ。
 「僕ちょっと行ってくる!」
 「行ってくるってリョウさん無茶な、潰されちゃいますよ」
 「失礼な、ひとをありんこみたいに」
 ビバリーの失言に憤慨する。そりゃたしかに僕はちびだけど人に踏み潰されるほどじゃない。ふくれ面でビバリーを睨みつけ、双眼鏡の紐を首に通して胸にぶらさげる。バスの窓枠に足をかけ、足を踏み外さないよう慎重に下りる。足裏に衝撃、地面に着地。ちびにはちびなりの利点がある、小柄で身軽なのが僕の取り柄だ。
 ビバリーをバスの上に残し、一散に駆け出す。胸の双眼鏡を弾ませ人ごみの喧騒に飛びこめば後ろから「ちょ、待ってくださいっス、放置プレイはごめんっスよ!」とビバリーの狼狽した声が追いかけてくるけど無視無視。一度ならず命を救ってくれた恩人に対して酷い仕打ちだと自分でも思わないでもないけど僕をちび呼ばわりした恨みは根深い。
 それはそうと、面白いことになったぞ。
 人ごみをすりぬけて走りながら自然と頬が緩むのをこらえきれない。レイジとサムライに続いて鍵屋崎とロンがペア戦参戦を表明するなんて予想外の展開だ。現在、地下停留場には東京プリズンの人口の約八割が集まってる。何百何千の大観衆の前でペア戦参戦を表明したらもう後戻りできない。ロンが言ったこと、鍵屋崎がしたことには取り返しがつかないのだ。もし今さら前言撤回なんかしたら怒り狂った囚人にリンチされた末に殺されるのは確実。
 鍵屋崎とロンは自力で運命を打破するつもりが、最悪の選択肢を選んでしまったのだ。
 レイジとサムライならともかく、理屈をこねるしか能がない鍵屋崎と短気で喧嘩っ早いロンのコンビがペア戦を勝ち抜けるとは思えない。思えないけど、そんなのはささいなことだ。要は僕を楽しませてくれればいい。規則に束縛され規律に抑圧された刑務所ライフに倦み果てた囚人を、週末のお祭りで最高に楽しませてくれればそれでいい。
 「ああ、今からたのしみでたのしみでしょうがないよ!リングで裸に剥かれて泣きっ面の鍵屋崎も凱に叩きのめされてケツ掘られるロンもっ」
 こみ上げる笑みを抑えきれない。お高く取り澄ました鍵屋崎と口が悪くて生意気なロン、可愛げないふたりがリングで恥かかされて泣きべそかく未来絵図に心が踊る。リングで晒し者にされたふたりが立ち直れなくなっても知るもんか。いや、それこそ僕が期待する展開、歓迎すべき流れだ。
 すこぶる上機嫌に人ごみを駆け抜ければ、じきにリングが見えてくる。リング周辺に群れた囚人をすりぬけかきわけ何とか前に出ようとして、
 「但馬看守、話がある」
 声が聞こえてきたのは偶然だった。
 反射的に声の方に目をやれば安田がいた。鍵屋崎とロンのペア戦参戦に許可をだした後は外野に退き傍観者に徹していた安田が、冷徹な眼差しで地に這いつくばったタジマを見下ろす。
 「は?な、なんでしょうか副所長」
 なくした警棒が見つからず不安が隠せないのか、副所長直々に声をかけられて緊張してるのか。反射的に立ち上がったタジマが体の脇に腕を密着させた直立不動の姿勢をとる。囚人相手に威張りちらす平常時とは別人のようだ。そんなタジマを針の眼光で一瞥、安田が低く言う。
 「きみが無断で持ち出していたボイラー室の鍵のことだが……話ではブレーカーの不調を見に行ったらしいな」
 「はっ、そのとおりです!」
 「ここに来る途中ボイラー室に寄ってきた。なるほど、ブレーカーの故障は嘘ではなかったらしい」
 「は?はあ……」
 何が何だか意味不明といった間の抜けた顔のタジマの背後、地獄耳でこちらの会話が聞こえたらしい鍵屋崎が何故だか複雑な顔になる。要領を得ないタジマの返答にも表情を変えずスッと片手を掲げる安田。
 「しかし、『彼ら』についてはどう説明する?」
 安田が器用に指を弾けば、それが合図だといわんばかりにボロボロの集団が現れる。互いが互いを支え合うように寄り添い寄りかかって何とか二足歩行してる状態の集団に向き直り、鍵屋崎が叫ぶ。
 「無事だったのか」
 「?」
 鍵屋崎の知り合いなの?
 殴る蹴るの暴行の痕跡の青痣を顔に咲かせ、瞼を倍ほどに腫れ上がらせた囚人の集団が、鍵屋崎に声をかけられて照れ臭そうな素振りを見せる。強面の看守数名に付き添われ、一人で立てないほど疲弊した者は腕を掴まれ引きずり出されたガキどもを見て、タジマの顔から血の気がひく。
 「ここで来る途中、ボイラー室前の廊下で争っていたところを拘束した。中のひとりに事情を聞いたところ但馬看守、君が妨害工作を仕組んで100人抜きを阻止せんとしたらしいが……」
 「でたらめに決まってますよ、こんな奴らの言うこと信じるんですか安田さん!?」
 目を憎悪に濁らせたタジマが汚い唾をとばして自分の身の潔白を訴える。が、笑えるほど説得力がない。 怒りに任せてガキの一人に歩み寄ったタジマがその胸ぐらを掴む。
 「犯罪に手え染めて砂漠くんだりの刑務所にぶちこまれた社会の屑の言うことと看守の言うこと、どっちを信じるんですか?え、てめえか副所長にでたらめ吹きこみやがったのか。俺になにか恨みでもあんのかこら。それともお前か、そっちのお前か!?」
 タジマに口汚く罵倒されたガキが、乾いた鼻血がこびりつき、青痣の目立つ顔に不敵な笑みを浮かべる。
 「味見された売春夫であんたに恨みもってねえ奴なんかいねえよ」
 「!?なっ……、」
 安田の前で滅多なこと言うなという台詞が喉元まで出かけたのをぐっと嚥下したタジマが逆ギレ、胸ぐらを掴んだガキめがけてこぶしを振り上げる。
 「こんな噂を耳にしたのだが」
 ガキの窮地を救ったのは冷静沈着に落ち着き払った声。
 声を耳にした全員が安田を振り返る。一声で場を掌握する存在感といい、逆上したタジマをたちどころに萎縮させる侮蔑の眼差しといい、やっぱり格が違う。たった一声で冷水を浴びせ掛けたようにタジマの怒りを鎮めた安田が、神経質な手つきでブリッジに触れ眼鏡の位置を直す。
 「タジマ看守、君は以前にもたびたびボイラー室の鍵を持ち出してるな」
 「……な、んで知」
 「私が気付いてないとでも思っていたのか」
 「あきれたな」と嘲りをこめ、安田がため息を吐く。
 「本来関係者以外立ち入り禁止のボイラー室に、以前からたびたび囚人が出入りする光景が目撃されてな。不審に思って調べてみたら、きみが秘密裏に鍵を持ち出してるのが判明だ。ここから先は噂だが、きみは賄賂と引き換えに一部の囚人にボイラー室を開放し、人目を盗んでいかがわしい行為をするための場所を提供してるそうじゃないか」
 「なーるほど」
 密林を行く豹のような忍び足で鍵屋崎の隣にひょっこりやってきたレイジがわざとらしく驚いてみせる。
 「立ち入り禁止のボイラー室にウェルカムって連れこまれて、変だと思ってたんだよな」
 鍵屋崎の隣に立ったレイジが肩越しに振り返り、対岸に視線を投げる。金網を隔てた対岸、亡霊のように陰惨な存在感を醸してこちらを凝視するのは灰色がかって不健全な肌の男……サーシャだ。
 いつからそこにいたのか、いや、ずっとレイジを見ていたのか。
 体温を感じさせないアイスブルーの双眸に映るのは、心を感じさせないレイジの笑顔。
 「サーシャのやつ、そんなに俺と遊びたかったのか。かわいいとこあるじゃん」
 乾いた呟きで思い出す。数週間前、ボイラー室で目撃した淫靡な光景。服の内側にナイフを突っ込まれ、その冷たさとくすぐったさに娼婦の囁きに似た忍び笑いを漏らすレイジ。
 安田が婉曲に表現した「いかがわしい行為」の内容が僕にはありありと思い描ける。
 早い話、ラブホ代わりだ。
 レイジが口の端っこに指をひっかけ、サーシャに舌をだすのを横目に呟く。
 「サーシャのやつ、思う存分レイジをいたぶるためにボイラー室に連れこんだのか。タジマにかけあってまで」
 まったく、いい性格してるね。サーシャの執念深さに心底あきれた僕をよそに、安田と対峙したタジマは絶体絶命の窮地に立たされていた。裏工作と裏商売が露見し、はては倒錯した性癖まで暴露されて精神的に追い詰められたタジマが血走った目であたりを見まわすが、これまで散々タジマに酷い目に遭わされてきた囚人たちは誰一人として手をさしのべないどころか「ざまあみろ」とわんばかりの嘲りの表情を浮かべてる。
 タジマに同情する人間は一人もいない。タジマを弁護する人間は一人もいない。
 「いい気味だ、タジマの豚が」
 「自業自得だ」
 「イエローワークで殴られた痣がまだ消えねえ」
 「今までさんざんやりたい放題やってきた罰だ」
 「こんどはお前が痛い目に遭う番だ」
 「お仕置きされる番だよ」
 「~~~~~~~!!っ、」
 リング周辺に黒山の人だかりを成した囚人が自然と輪になりタジマを取り囲む。タジマの破滅を心の底から喜ぶ哄笑と嘲笑が渦巻く中、ストレス発散と警棒でぶちのめしてきたガキに後ろ指をさされ、性欲解消の公衆便所扱いでペニスをしゃぶらせてきたガキにケツを蹴り上げられ四つん這いに這い、嗜虐心を満足させる「お仕置き」の名目でふざけ半分に爪を剥いできたガキに背中を蹴られ鳩尾を蹴られ。
 「~~~~~くそっ!!!!」
 盛大に反吐を戻し、顔から制服から吐瀉物にまみれて鼻の曲がりそうな異臭を放ちタジマが跳ね起きる。蹴られた鳩尾を庇い、安田に背を翻して逃走を図ったタジマの行く手を包囲する囚人たち。
 この瞬間、一分の隙なくタジマを取り巻いた囚人全員が共犯関係を結んだ。
 「話は執務室でゆっくり聞こう。事と次第によっては減棒処分は免れないと思え」
 包囲網の中心に立たされ、敵愾心と復讐心とに燃え盛る視線の集中砲火を浴び、制服の脇が変色するほど汗をかいたタジマに冷徹な宣告を下す安田。しとどに脂汗をかいた顔面に卑屈な笑みを浮かべ、何か抗弁しようと口を開いたタジマをがっちり羽交い絞めにし、人ごみの外へと連れ出したのは安田お付きの看守二人組。そのまま地下停留場の出口へと強制連行されるタジマが往生際悪く喚き散らす。
 「誤解だ俺は無実だ、なあ話せばわかるって副所長さんよ!あんた騙されてるんだよここの囚人に、ここの囚人はみんな口が上手くてこずるいから世間知らずのエリートはころりと騙されちまうんだよ。あんただってさんざん見てきただろ、東京プリズンの囚人がどんだけタチ悪いか知ってるはずだろうがよ!?たとえるなら発情期の犬だ、男同士だろうが関係なくどこでも見境なくさかりやがって……ふざけんなよ売春班のガキども躾てやった恩忘れやがって、飼い主の手に噛みついたらただじゃ」
 ―「いい加減にしたまえ!」―
 地下停留場に殷殷と響き渡ったのは歯切れ良い声。
 周囲をコンクリートで固められただだっ広い地下空間に、その声はよく響いた。地下停留場を埋めた無数の囚人が度肝を抜かれたように声の方を凝視。
 珍しく、本当に珍しく感情を昂ぶらせてタジマを一喝した安田が大きく深呼吸して心を沈静化。囚人はおろか、付き添いの看守にまでぽかんとした間抜け面で注視されてさすがに気恥ずかしくなったのか、いつもの冷静さを取り戻した安田が能面みたいな無表情で付け加える。
 「……たしかに東京プリズンの囚人の素行は誉められたものではない」
 動揺を鎮めんと眼鏡のブリッジを押さえる安田に、鍵屋崎とおなじ癖を見出して変な気分になる。ブリッジに触れた安田が意味ありげに鍵屋崎を見る。安田の視線に促されるように隣に立った鍵屋崎が毅然と前を向いてタジマを見据える。情緒不安定で危なっかしい印象がついて回った以前の鍵屋崎とは違う、恫喝に怖じることなく脅迫に屈することないどこまでも率直な眼差し。
 体の芯をサムライと共有したみたいに強い眼差し。
 そんな鍵屋崎を満足げに見下ろし、安田がかすかに、ほんのかすかに微笑む。
 「だが私は彼らの言葉を信じる。私は東京少年刑務所の執権代行者、副所長の任に就く人間。正しい者とそうでない者を見定め、正否の判断くらいはできる」
 「~~~~似合いもしねえオールバックの若造が、覚えてやがれ……」
 タジマの化けの皮が剥がれた。 
 憎憎しげに捨て台詞を吐いたタジマが、地下停留場の出口へずるずる引きずられながら声を限りに吼える。
 「調子のってんじゃねえっ、エリート気取りの若造が!砂漠の刑務所に左遷された身のくせに、出世街道外れたくせによ!いいか俺は看守だ主任看守のタジマ様だ、東京プリズンで俺に逆らえる奴なんざ誰一人もいねえって体に叩き込んでわからせてやる!!」
 はでに暴れても羽交い絞めを解くには力不足、強制退場の憂き目を見たタジマから鍵屋崎に視線を移した安田はまたいつもの無表情に戻っていた。見苦しい醜態を晒して連れていかれたタジマに呑気に手を振るのはレイジで「あばよタジマさんー、次帰って来るときゃ地獄の土産話聞かせてくれや」と笑ってる。
 ロンはといえば、リングの真ん中にへたりこんで眠っていた。残る一人、サムライはどこだろうと視線を巡らせばいつのまにリングを下りたんだかちゃっかり鍵屋崎の隣にいた。まるでそこが定位置だといわんばかりに。
 「………本当にいいのか」
 サムライが低く呟く。何のことを言ってるんだろうと訝しんだが、鍵屋崎はすぐに理解したようだ。心配性のサムライをあきれたように見上げて言う。
 「何度おなじことを言わせれば気が済むんだ?僕の参戦表明に異存はないんじゃなかったのか」
 「しかし、」
 「しかしはない」
 気遣わしげな色を目に湛えたサムライをそっけなくあしらい、こめかみを指さす。顔には不敵な笑み。
 「僕にはIQ180の天才的頭脳という武器がある。低脳どもが100人集まってペアを組んだところで負ける気はしない、それを証明してやる」
 「………強情だな」
 「君には負ける」
 「ならば俺も覚悟を決めよう」
 力強く木刀を握り直したサムライが、気高い志と強固な決意を秘めた双眸でひたと鍵屋崎を見据える。
 「地獄の涯てまで道連れになる、と」
 「………まったく、デリカシーのない男だな。地獄だ何だと幸先悪いことを言わないでくれないか。どうせ道連れになるならもっといい場所を目指したい」
 声こそあきれていたが、鍵屋崎の顔はどこか嬉しそうで。
 ああ、鍵屋崎はずいぶん変わったんだなと、僕は何だか寂しい気分になった。僕ひとりがいつまでたっても成長せずに取り残されたような、そんな気分。
 「………」
 無言で立ち竦む僕をよそに周囲の状況は刻一刻と変化する。全身に傷を負った少年たちーさっきの会話で判明したが鍵屋崎の元同僚、売春班のメンバーらしい―が、安田の的確な指示に従い、数名の看守に付き添われて医務室へと向かう。顔は青痣だらけ、他にも体じゅう至る所が生傷だらけであるにもかかわらず不思議とその顔はすがすがしく、全力を賭して何かを成し遂げたあとの爽快感が漂っていた。
 少年たちがお互い肩を抱いて医務室へ向かったあと、再びリングへと目を転じる。リングの真ん中に突っ伏したロンの傍らに屈みこんだレイジが、意識のないロンを指で突ついて「幸せそうな顔してんじゃねーよ、ばあか。キスしちまうぞ」とぼやいてる。そうやってぶつくさ言いつつもロンを背中におぶさって腰を上げる。本当、ロンにだけは特別優しい王様だ。
 鍵屋崎とサムライはまだ何か話してる。仲睦まじくて結構なことだ。
 タジマが強制連行され、売春班の面々が去り、仕事を終えた安田もまた踵を返し。疎外感を抱いて立ち尽くした僕のもとへ駆けてくるのは軽い足音。
 瞬間、僕は振り向いていた。
 「遅いよ、ビバリー。もう全部終わっちゃったよ」
 「『終わった』?」
 ビバリーが来てくれて安心したような、一人じゃなくなって嬉しいような不思議な気分をひた隠して怒ったふりをすれば、全部が終わったあとにようやっと駆け付けてきたビバリーがいたずらっぽく笑う。
 「ノーノー、違いますよリョウさん。『終わった』んじゃなくて『始まり』っス」
 「?どういうことさ」
 謎かけめいた台詞に眉をひそめ、つられてビバリーの視線を追う。リング中央、ロンをおぶさったレイジのもとへと歩み寄るサムライと鍵屋崎。
 リング中央に集まった四人を見つめ、ビバリーは宣言した。
 「今から本当のペア戦の始まりっス」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051128232458 | 編集

 体に刺青を入れたのは十歳の時だ。
 全身を彫るのにまず全裸になる。彫刻刀で皮膚を削り、墨を入れる。何より手先の繊細さと細心さが要求される施術は気が遠くなるほど長時間にわたり、しまいには精も根も尽き果てた。
 施術した人間の顔はおぼろげにしか覚えていない。
 皮膚を切り刻まれる激痛に頭の芯が鈍く痺れ体の芯を熱におかされ、目に映る光景すべてが歪んでいた。
 施術した人間は組織が飼っているプロの彫り師で腕は超一流だが、皮膚を刻む際に拷問の如く身を苛む激痛を癒せるわけもなく、途中何度も失神寸前まで追いこまれた。

 痛かった。ただ痛かった。 

 身を苛む純粋な激痛を堪える為に血が滲むほどに唇を噛んで悲鳴を殺し苦鳴を漏らし、強く強く手に握り締めた布をただひたすらに掻き毟る。溺れる者が藁をも掴む必死さで、一途に無心に縋るものを求めて。固く目を瞑り涙腺を引き締めても自然と涙が零れ、汗と一緒くたに顎から滴った。
 背中にのしかかるのは大人の手。
 惰弱な甘えも微力な抵抗も許さず後頭部を押さえつけ、がっちりと肩を固定する非情な手。
 涙で瞼を濡らして身近に目を凝らせば、裸の肩を抱擁した腕には刺青が彫られていた。
 今、自分を裸に剥いて容赦なく床に這わせているのはよく日に焼けた逞しい腕だ。筋骨隆々という形容がよく似合う大人の男の腕、どれほど暴れても振りほどくことなど到底無理な強靭な握力。その腕に彫られているのは雄雄しい龍。今まさに神風を巻き起こして昇天せんと螺旋の蛇腹をのたうせた龍の刺青が、肘から手首にかけ見事に表現されている。
 野蛮な生命力に満ち溢れた半面毒々しく照り映える緑の鱗一枚一枚に神格を帯びた、人から畏怖される伝説上の生き物。
 許される限り身をよじり、後頭部の手を見上げる。
 その手にもまた、刺青があった。むきだしの肩の付け根から手の甲にかけて、龍の刺青が。
 『少しくらい我慢しろ』  
 耳に吹き込まれる吐息。思考力を奪い去る呪詛。
 『これは儀式なんだ』
 『俺たちの仲間になる儀式』
 『お前を正式に同志として迎え入れるため、勇気と忠誠心を証明する儀式』
 『同志の証の龍の刺青を彫る儀式』
 『刺青の大きさや入れる部位は組織への貢献度や成した功績によって違ってくる。俺はな、テロ弾圧政策を可決しようとした政治家を殺って収容所にぶちこまれ釈放された時に手柄を讃え刺青を入れられた。組織への貢献度に比例して、肩の付け根から手の甲にかけて。一般人にゃ奇異の目で見られるから夏でも半袖着れないのが辛いがな。公衆浴場にも行けねえし』
 『そうだな、一生半袖着れないのは辛いな。闇の中でしか女を抱けないのも』
 『痛みは一瞬だが刺青は一生ついてまわる。お前がどこで何をしても、将来女を抱く時にも』
 『光栄に思え。正真正銘最年少の刺青保持者だ。その若さで刺青もってる奴なんざほかに見当たらねえよ。ガキの全身に刺青入れるのも酷な話だがよ』
 『褒美だと思えよ』
 『お前の功績でKIAの知名度が一気に高まったし、政治家連中もいつ自分が狙われるかびびりまくってるし。まだ皮も剥けてねえガキだろうが何だろが、優秀なやつは早く洗礼済ませて仲間にしちまえってのが上のご意向で組織の総意だ』
 『一回刺青入れちまえば一生組織抜けられねえし』
 他にとられるまえに、逃げられるまえに、一生消えない烙印を体に刻め。
 ここでしか生きてけないように、ここ以外に居場所がないように。
 決して組織を裏切らないように、裏切る気などはなから起こさないように獰猛極まる龍を身の内に孕ませる儀式。
 激痛と恐怖を骨の髄まで刻み込み、組織への忠誠と畏怖を植えつけ、洗礼と偽り洗脳する儀式。
 彫り師は口数少ない人間らしく、十歳の少年が裸に剥かれ、屈強な男に二人がかりで押さえつけられた末、布を掻き毟り身悶える痛ましい光景にも微塵も動じず、背中に燻し銀の切っ先を添える。
 健康的に日焼けしたなめらかな裸の背中に、彫刻刀が添えられ、そして―
 『!―っ、はあっ』
 小刻みに、小気味よく。
 一定のリズムで拍子をとり、木の皮を剥ぐように背中に彫刻刀を入れば、苦痛の極地とも恍惚の官能ともつかぬうめき声がたまらず漏れる。彫り師は手際良く無表情に、苦悶に歪む少年の顔にもおかまいなしに彫刻刀を打ちこむ。痛い。鼻水と涙を垂れ流し、みっともなく泣き喚けば少しは気がラクになるのだろうか。全身で暴れて慈悲を乞えばこのいつ終わるともしれない拷問から解放されるのだろうか。
 しかし泣けない。情けない。
 祖父は、頑固で偏屈で人嫌いの祖父は、唯一の肉親でもあり家族でもある孫が人前でみっともなく泣き喚くのを許すだろうか?痛みを我慢できず、狂ったように身悶えし、「許してくれ助けてくれ」と涙ながらに訴えるのをよしとするのだろうか?

 ―許すわけがない。拳骨を落とされるに決まってる。

 祖父の背中にも龍の刺青がある。一緒に風呂に入ったとき、この目で見た。確認した。幼い頃から何度も何度も。両親の体のどこかにもまた、祖父とおなじ刺青が、自分を押さえ付けて抵抗を封じる男の腕とおなじ刺青が存在したのだろう。両親も祖父も組織の人間なのだから、組織に飼い殺しにされた人間なのだから。祖父の背中を思い出す。ずっと昔、もう記憶も霞むほど昔、自分をおぶってくれた背中を。両親がいない寂しさに駄々をこねて泣けば、祖父は自分をおぶってあやしてくれた。あれはまだ三歳かそこらの頃か、五歳をこえて泣けば「やかましい」と殴られたから。
 あの頃はずいぶんと広く逞しく感じられた祖父の背中も、今やすっかり老いた。
 最後に風呂に入った時に目撃した祖父の皮膚が縮み、弛み、背中一面の龍も色褪せて生彩を欠いていた。それが、なんだか哀しかった。
 祖父の老いを痛感させられたようで。祖父の死期が迫ってるのを思い知らされたようで。
 張りと艶のある皮膚にこそ鮮烈に映える刺青には子供心に憧れていた。若く潤いのある皮膚でこそ際立つ彩り豊かな刺青、祖父とおなじ刺青、両親にもあったという刺青。
 生まれてこのかた家族そろったことがないから、家族そろって何かを共有するのに漠然と憧れていた。
 祖父とそろいの刺青なら悪くないなとも、楽観的に考えていた。
 刺青を入れるのを祖父に無断で請け負ったのは、心の片隅でどこか憧れていたからだ。祖父以外の人間の刺青を見たこともある。
 祖父と親しく頻繁に家を訪れていた人間が酔った勢いで袖をからげ得意げに見せてくれたのだ。
 それを知った祖父は何故か激怒し、「んなつまらんもん見せるな」と履き物を投げて知人を追い返したが、その理由が今は理解できる。
 祖父は娘の忘れ形見であり、唯一の肉親たる孫に自分と同じ道を辿って欲しくなかったのだ。
 まっとうに生きてほしかったのだ。
 体に刺青なんか彫るな、組織になど入るな、自分の真似をするな憧れるな爆弾作りに手を出すな。孫が組織に目をつけられ利用されていることを祖父は深刻に気に病んでいた。組織とは縁を切れ、手を切れ、おまえはワシや娘夫婦のぶんまでまっとうに生きろと口を酸っぱくして言われたのを、祖父が説教する気力も失くしすっかり老け込んだ今になって懐かしく思い返す。
 不孝やな、俺。
 とんでもない不孝者や。
 不孝なだけやなくて、虫がいい。
 祖父の説教が聞けなくなった今になって、頭を張り飛ばされなくなった今頃になって、しわがれた怒鳴り声が懐かしくなるなんて。また、どつかれとうなるなんて。
 熱に浮かされた頭が朦朧とし、視界が霞んで意識が遠のく。 
 布に取り縋った手から力が抜け、ぐったりと四肢が弛緩。
 『さすがに無理か』
 『もたねえだろうな、麻酔もなしじゃ』
 『気ィ失ったほうがラクだないっそ。目が覚めりゃ晴れて組織に仲間入りだ』
 『俺たちの仲間として認められるんだ』
 肩を掴んだ手の持ち主が、耳元に口を近付け祝福する。
 『オショスムニダ、同志』 
 「ようこそ、同志」。
 『オショスムニダ、同志』 
 後頭部の手の持ち主が、そっくり同じ台詞を復唱する。
 体を責め苛む激痛に意識が果てる寸前、瞼の裏に思い浮かべたのは祖父の面影。顔の上半分のゴーグルにさえぎられて表情は見えないが、何故だか祖父に「しょうもない奴やな、ホンマ」と言われた気がした。
  
 『しょうもない奴やな、ホンマ』
 夢じゃない。声は現実にした。
 意気消沈した呟きに正気に戻り、跳ね起きる。いつのまに敷かれたのか、自分は布団に寝かされていた。 激痛に失神した自分が敷けるわけがないから、自分をここまで運んだ人間か祖父が手ずから敷いてくれたのだろう。
 『何日も帰ってこないから、どこほっつき歩いとるんやあのあほんだらて腹に据えかねてしょうもないことばかり考えてもうたわ』
 布団の傍らに正座した祖父が吶々と語る。深い皺が寄った顔に苦渋を湛え、痛ましい眼差しで。
 祖父が心配するのも無理はない。
 刺青を彫ってやるとそそのかされ、ふらりと家を出たきりずっと音沙汰なしだったのだから。
 『……女と駆け落ちしたかと思った?』
 冗談めかして聞けば、途端に頭をはたかれる。祖父に頭をはたかれるのも随分と久しぶりだ。昔は悪戯するたびに手加減なくはたかれたものだが、最近ではぱったり孫に手を上げなくなって少し物足りなく感じていた。
 『アホ言えませガキ。十歳のガキに手え出す物好きがどこにいる、家出と勘違いして気ィ揉んだだけや』 
 『冗談やのに、そんなに怒ることないやん』  
 苦笑いとともに頭をさする。祖父は日本にいた期間が長く、家ではこうして日本語を話していた。正確には標準語ではなくどこかの訛りが入ってるらしいが、祖父譲りの日本語しか知らないからよくわからない。
 成人して後、妻子を伴い渡った祖国の言葉より生まれ育った国の言葉が得意な祖父が、じっと物言いたげに孫を見つめている。どこか思い詰めた眼差しで、もう引き返せないところまで来てしまった人間特有の哀切な眼差しで。
 『……入れてもうたんやな』
 『ああ』
 何を言われてるかすぐにわかったから、なるべくそっけなく頷いてみせる。
 『身内に何の相談もせず親から貰った体に傷つける不孝モンがどこにおる』
 『ここにおる』
 『どつくど』
 『痛っ、どついてから言うの卑怯や。……だって正直言うたら怒ったやろ、絶対』
 『あたりまえや』
 体はまだだるい。体の芯で熾火が燻っているようだ。体の節々が痛むのは皮膚の炎症のせいだろうか。いつのまに着せられたのか上半身にはTシャツを羽織り、下にはトランクスを穿いていた。何気なく毛布を剥ぎ、トランクスから突き出た足を見下ろす。
 尖った膝小僧と華奢な脛、腕白な少年の足。
 しょっちゅう箪笥の角にぶつけたり転んだりしてるせいですり傷が絶えない見慣れた足がそこにあるはずだった。
 しかし、現実に布団に投げ出されていたのは。
 毒々しく照り映える緑の鱗が螺旋状に巻き付いた足。
 『……ああ』
 終わったんや、と呟く。拷問から解放された安堵に浸かりながら、何かを得て何かを失った虚脱感とともに。祖父のもとを離れてからどれくらい監禁されていたのか正確な日数はわからない。一昼夜、いや、一週間かそれ以上か?わからない、判然としない。体力が果てるまで付っきりで刺青を彫られてるあいだ、霞がかかったように頭が朦朧としてここがどこで自分が誰かもわからなくなっていた。入れかわり立ちかわり誰かに肩を押さえつけられ、入れかわり立ちかわり監視されていたように思う。
 周囲に何人の人間がいたのか、それすらも漠然としか把握できなかった。
 自分を押さえ付けていた人間が二人、彫り師が一人、その助手が一人、監視役が二人か三人の厳重体制……そうだ、とにかく水が飲みたかった。喉が乾いて仕方がなかった。しかし身動きすらできなかった、少しでも動けば手元が狂うと叱責されさらに強く押さえつけられた。肩が軋むほどに、万力で容赦なく締め上げる拷問のように。
 もう終わったんや。
 全身が微熱をおびたように火照っているのは、体に彫られたばかりの刺青のせいだ。墨が肌に馴染むまでもうしばらく時間がかかる。余熱を持て余して気だるい体を抱きしめれば、祖父の呟きが耳に聞こえる。
 『ホンマにアホやな』
 大袈裟にかぶりを振り振り、ため息まじりに嘆く祖父にかちんと反感をおぼえる。あんなに痛い思いを味わったのに「アホ」の一言で片付けられては自分の苦労が報われないではないか。祖父へと向き直り、肩の付け根まで袖をめくりあげる。
 あらわになった腕には一匹の龍、鱗一枚一枚が艶やかに照り映える躍動的な刺青。
 『どや、かっこええやろ。じっちゃんとおそろいや』
 「じっちゃんとおそろい」という言葉にはどこかこそばゆげで、かつ自慢げな響きがあった。確かにそれは祖父の背中に彫られた刺青をそのまま腕に移植したようにも見えるが、自分の場合は背中だけでなく全身に及んでいる。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にも、四肢に巻きつくように巨大な龍が棲みついている。この刺青が完成するまで途中何度も失神した。激痛のあまり半狂乱で絶叫して意識を手放したが、その甲斐あって満足行く出来映えに仕上がって……
 『入れてもらったんや、刺青。腕だけやない、体中に。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にもあるんやで。すごいやろ、今度風呂に入ったとき見せたる。ちょーっと痛かったけどな、済んでもうたらたいしたことない。おかんとおとんにもおなじ刺青あったんやろ?家族揃って体に刺青てなんか格好ええな、極道家族や。じっちゃんが親分やな、きっと。いっつも眉間に皺寄せてぎょろ目剥いたおっかない顔してるもん……』
 むきだしの腕を祖父の眼前に突きつけ、何かに憑かれたようにまくしたてる。うしろめたさをごまかすように、虚勢を張って。八重歯を覗かせた人懐こい笑顔で。
 『格好ええやろ、じっちゃん』  
 祖父に誉めてもらいたくて、せっかく刺青を入れたのに。
 家族に自慢したくて、歯を食いしばって痛みに耐えたのに。
 『なんで泣くん』  
 頑張って痛みを堪えたのに、全身に刺青を入れたのに、そうまでして祖父の口から引き出そうとした称賛の言葉は聞けず、祖父は深々と顔を伏せ肩を震わすばかり。嗚咽もあげず、膝の上で握り締めたこぶしを涙でぬらすばかり。
 これで組織の一員だとか、晴れて同志として認められたとか、そんなことはどうでもよかった。二の次だった。ただ自分は祖父に誉めてもらいたくて、誇りに思ってほしかっただけだ。
 自分にとって祖父がそうであるように―
 祖父は無言で涙をこぼし続ける。決して孫の顔は見ず、頑固に俯いて。
 そんな祖父によわりきったように眉を下げ、少年はぽつりと呟く。
 『………後生やから、誉めたってや』 
 祖父が他界したのは、その一ヶ月後だ。
 形見のゴーグルを孫に遺して。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051127232620 | 編集

 頭が痛い。二日酔いだ。
 「いってー……」
 目を開けた途端、こめかみに疼痛が走る。錐で貫かれる激痛にたまらず奥歯を食いしばり、苦鳴を殺して上体を突っ伏す。ちょっと体を動かすだけでガンガン頭に響く。
ああ、酒は十五までやらないって決めてたのに畜生。残虐兄弟はじめ凱の子分どもときたら調子に乗って無理矢理俺にウィスキー飲ませやがって……凱そっくりの性格の悪さだ。
 昨夜の記憶はおぼろげだ。どう頑張ってみても何があったか正確に思い出せない。俺が覚えてるのは鍵屋崎を助けにいってタジマに体当たりして張り飛ばされて手錠につながれてヤられかけ、休憩がてら引き上げてきた凱の子分どもには鞭でしばかれるはさんざんな目にあって……
 それから何があった?くそ、思い出せねえ。
 ずきずき疼くこめかみを指で揉みほぐし、記憶を掘り起こそうと目を瞑る。
 ……駄目だ。記憶を反芻しようとすればするほど頭痛が悪化していったん思考を放棄、毛布をはねのけて素足を床に下ろす。ひんやりと冷たいコンクリートの床、裸の足裏に直に感じるざらざらした質感。無造作にベッドの下に放りこんでいたスニーカーに踵をもぐりこませながら、俺の酒癖の悪さはお袋譲りだなと妙な感慨をおぼえる。別にまったく嬉しくはない、どころか迷惑な話だ。遺伝子の皮肉というか何というか、俺は似たくないところばかりあの女に似ちまう。顔しかり酒癖の悪さしかり。
 酔っ払ったお袋が手当たり次第に物を投げて俺に当り散らす光景を懐かしく回想する。飛んできた灰皿で起こされてたガキの頃が懐かしい。アル中一歩手前、現実逃避に酒に溺れ男に溺れて一度も実の息子をかえりみることがなかったお袋のことを刑務所の中でもいまだに忘れられないなんて女々しいやつだ、と束の間自嘲に浸り、スニーカーを履く。
 ふと隣のベッドに目をやればレイジはどこに行ったんだかもぬけのからだった。
 俺が起床するまでぐっすり寝入ってるやつにしちゃ珍しい。毛布が中途半端にはだけたからっぽのベッドを漠然と眺めるうちにいやな胸騒ぎに襲われる。
 脳裏に朦朧とよみがえる昨夜の光景。
 銀の金網に囲われたリングにて対峙するレイジと凱。凱を絞め殺そうと手を伸ばすレイジ、その顔には残虐な笑み。俺がいちばん嫌いな種類の、人の命なんかどうでもいいと嘲る笑顔。
 レイジは凱の首を絞めた。俺の目の前で、俺の目を意識して。
 それからどうなった?決着はついたのか?
 ……答えはでない。記憶はそこでぷつりと途切れている。頭の底をさらってみたところで、気紛れに浮上してくるのは断片的な記憶のみ。レイジは勝ったのか?凱は殺されたのか?―わからない。レイジが凱ごときに負けるはずがないと信じたいが、大観衆の注視を浴びたレイジが例の微笑を湛えて凱を絞め殺してしまったんだとしたら……
 はげしくかぶりを振り、不吉な想像を追い散らす。
 俺は凱が嫌いだ。大嫌いだ。ぶっちゃけこの手で殺してやりたいくらい憎いし今すぐに凱が死んでくれりゃ万歳して快哉上げたいが、レイジが人を殺すところは見たくない。レイジとはそれなりに長い付き合いになるが、何やってぶちこまれたのか、何で東京プリズンに来たのか詳しくは知らない。気にならなくもないが、どうも聞き出すきっかけが掴めないのだ。砂漠のど真ん中の刑務所に隔離されたからには複雑な事情があるんだろうし、本人が触れられたくないなら今までどおり無視してやったほうがいい気がする。実際俺も自分がぶちこまれたワケについてはできるだけ触れたくない。ガキの抗争で米軍払い下げの欠陥手榴弾を投げて人殺しましたなんて自慢できるほど俺の神経は図太くない。
 レイジは外で人を殺したのかもしれないし、それ以外の犯罪をやらかして東京プリズン送致が決定したのかもしれない。どういう経緯だか不明だが、本で人を殺せる技術を身に付けたレイジが外で殺人を犯してない可能性は限りなく低いが、それでもやっぱりレイジが人を殺すところは見たくない。

 『笑うから殺さないでください』

 唐突に耳によみがえるのは、いつか聞いたレイジの寝言の翻訳。レイジは普段馬鹿っぽく振る舞ってるがアレで実は結構頭がよくて日本語もぺらぺらだ。けど寝言で英語をしゃべったってことは、外では日常会話として普通に英語を使ってたんだろう。本人いわくフィリピン出身らしいし、フィリピンといや米軍占領以降英語をしゃべってる国。第二次ベトナム戦争が始まってから生まれたレイジが無意識に英語を口走ったところで不思議じゃない。
 物騒なのは、その内容だ。
 「笑うから殺さないでくれってどんな状況だよ一体」
 今ごろになって、レイジの寝言の真意が深刻に気になりだす。
 いつもへらへら笑ってくだらないこと言って人からかってるレイジが、「笑うから殺さないでくれ」と懇願した。びっしょりと寝汗をかいて、悪夢にうなされて、俺の知らないだれかに哀願した。だれに?笑うから殺さないでくれ、なんて何だか矛盾してる。謝るから許してくれとか何でもするから殺さないでくれならまだ話がわかる。でも、「笑うから殺さないで」?無理にでも笑わないと殺される状況ってどんなんだよおい。ちょっと悔しいが、俺には全然想像できない。鍵屋崎に相談したら「想像力が欠如してる」と指摘されそうだ。
 鍵屋崎。そうだ鍵屋崎だ。
 あいつ、あれからどうなったんだ?俺がボイラー室に殴りこんだときゃタジマに首絞められてたけど、大丈夫なんだろうか。一夜明けて顔を見てない鍵屋崎の心配をしながら洗面台に行き、鏡に映し出された自分の格好にぎょっとする。 
 「……ひでー格好だ」
 開口一番の感想がそれだった。
 亀裂が入った鏡に映し出された俺はかなり悲惨な格好をしてた。垢染みた囚人服の上着はあちこち破け、包帯を巻きバンソウコウを貼った肌が覗いてる。上着だけじゃない、ズボンの膝も太股も裂けて擦り傷ができていた。ゲンキンなもんで、姿見で怪我を確認した途端に体中の傷が疼き出す。くそ、残虐兄弟め。心ゆくまで人のこと鞭で嬲ってくれやがって、この落とし前はいつかきっちりつけてやる。
 はらわた煮えくり返して蛇口を捻れば勢い良く水が迸る。両手に受けた水を三度顔面に叩きつければ少しは頭がすっきりした。水の冷たさを心地よく感じながら上着の裾で顔を拭き、習慣で蛇口を締める。
 生き返った。
 『Good morning,Long.』
 背後に流れたのはなめらかな英語。反射的に振り向けば、開け放した房の扉に凭れてレイジが立っていた。いつのまに扉を開けたんだかちっとも気付かなかった。その必要もないのに気配を消して接近するなんざ忍び足で獲物を狩りにくる豹より始末が悪い。
 「めずらしく今日は早起きじゃねーか。早朝の散歩でも行ってたのか」
 上着の裾で顔を拭きながらからかえば、レイジがスッと房に入ってきた。バタンと扉が閉じ、レイジがこっちに歩いてくる。片手に抱えてるのはトレイと飯。飯?食堂から運んできたとおぼしきトレイを俺のベッドに置いたレイジがあきれたふうにかぶりを振る。
 「なにが早朝だよ、もう昼だっての。今の時間まで呑気に爆睡してんのはおまえだけ、他の連中はみんな強制労働に出払っちまったよ」
 「は……!?もうそんな時間なのか」
 どうりで廊下がしんとしてると思った。周囲の房からも物音が聞こえてこないし、何より集団生活の朝に特有の喧騒の活気が微塵もないじゃないか。
 こんな時間にほっつき歩いてるのはブラックワーク上位常連で強制労働免除特権ありのレイジかその同類くらいのもんだ。
 「ルームサービスもってきてやったぜ。俺も損だよな、てんで報われない女に貢いでてんで懐かない猫に甲斐甲斐しく餌付けして、恋煩いのピエロかよ」
 「だれが猫だ。女とも比べるな」
 恩着せがましいレイジに憎まれ口を叩きつつ、遅い朝食を有り難く頂戴する。実のところ二日酔いであんまり食欲がないんだが、飯を粗末にしたらバチが当たる。今日の朝飯は和食、ワカメの味噌汁と白米の飯とあじの開きにナスの漬物という何の変哲もない育ち盛りには物足りない献立。
 ああ、台湾料理が食いてえ。
 二日酔いには味噌汁が効く。味噌を節約したせいで殆ど味がしない味噌汁を啜れば、対岸のベッドに腰掛けたレイジがじっと俺を見てる。
 「?なんだよ」
 箸を片手に聞けば、鼻白んだレイジが声を低める。
 「―おまえ、昨日のこと覚えてないの?」
 「覚えてるよ。凱の子分どもにとっつかまって酷い目に遭わされた」
 忘れられるわけがない。服もあちこち破けてるし、第一まだ体中が痛いのだ。
 「今度は俺が質問する番だ。結局試合どうなったの、おまえの勝ち?」
 「絶頂期のマイケル・ジョーダンにスリーポイントシュートできますかって聞くくれえわかりきったこと聞くなよ」
 「たとえが意味不明だけど、勝ったんだな?」
 箸を持って念を押せば、片手で頬杖ついたレイジがいたずらっぽく微笑んでみせる。
 「俺が負けるとこ想像できる?」
 ……愚問だった。
 「凱は生きてるのか」
 「絞め殺そうとしたら邪魔が入った。惜しかった」
 「だれ。鍵屋崎、サムライ?」
 「本気で言ってんのかよ」
 レイジが大袈裟に手を広げてみせる。俺には意味がわからない。ボイラー室に閉じ込められてから先の記憶が酒のせいであやふやなのだ。顔を掴まれ口をこじ開けられ、強引に喉に流し込まれたアルコールの灼熱感がまざまざとよみがえり再び吐き気をもよおす。
 ガキの頃からさんざん酒かっくらっちゃあ荒れまくるお袋を見てきたから、十五になるまで酒はやらないと心に固く誓ってたのにこのザマだ。酒が入るとぷっつり記憶が飛ぶなんて始末におえない。
 とりあえず、レイジが凱を殺してないとわかってほっとした。試合にも余裕で勝てたみたいだし、俺が心配するこたなかったな。もう全然。
 安堵に胸撫で下ろした矢先、レイジがまっすぐに俺を指さす。
 「凱の命の恩人」
 は?
 「試合に乱入して俺の出番かっさらった張本人が一夜明けて記憶喪失なんざ洒落になんねー」
 味噌汁を吹きそうになった。
 「ちょ、ま……まてまて、たんま、話を整理しよう。昨日俺が何したって?試合に乱入して凱助けたって本当かよそれ、てきとー言ってまた担ごうとしてるんじゃねえだろな?」
 「同房の相棒疑うなんてあんまりだ、ルームサービスまでしてやったのに何でこんなに信用ないかね。黄金の心臓の王様だってさすがに傷付くぜ」
 「前に寝ぼけた俺に『今日は避難訓練だ!頭に水かぶって廊下にでろ、早くしねえとボヤに巻かれて死ぬぞ!』って吹きこんで笑い者にしたのだれだよ」
 「あー、あれは笑えたな。最高だった、おまえ面白すぎ。寝起きのロンいつも以上に可愛くていつも以上にからかいたくなるんだよな。貞操守りたいなら俺以外の男に寝顔見せんなよ、心広い王様は特別にキスだけで許してやる」
 「話をすりかえるな」
 一気に飲み干した味噌汁の椀をトレイに置き、正面に身を乗り出す。心臓の鼓動が速まり腋の下がじっとり汗ばむ。膝の上でこぶしを握り締め、冷や汗をかきつつ質問。
 「……レイジ。俺、昨日なにやったんだ?」
 自分で覚えてないなら他人に聞くっきゃない。
 酔っ払った俺の一部始終を見届けた口ぶりのレイジに恥を忍んで真相を問えば、レイジときたら悩ましげにため息なんかつきやがった。男の癖に長い睫毛が、伏し目がちの目を物憂げに翳らせる。
 「覚えてないのかよ。本当始末におえねえな。ギャラリーの前であんな大胆なことしといて、」
 「大胆なこと?」
 「あんな大胆な発言して」
 「大胆な発言?」
 「しまいには脱いで」
 「脱……………!?」
 愕然とした。
 そんなまさか冗談だろなにやってんだ俺、公開ストリップショー!?いやいやいや、いくら酔っ払ってたからって俺がそんな馬鹿な真似するわけねえレイジの吹かしに決まってる事実であってたまるかってんだ。
 青褪めた俺を眺めながら、片腹をくすぐられるみたいな愉快さを噛み殺した口調でレイジが続ける。
 行儀悪くスニーカーも脱がずにベッドに飛び乗り、だらしなく足を崩し、全開の笑顔で。
 「酔っ払ったロンが試合に乱入して俺と凱の一戦台無しにした時は焦ったけど、その後地下停留場を埋めた何百何千のギャラリーの前で大胆告白。『レイジ、おまえが好きだ』『おまえになら今この場で、東京プリズンの全囚人が見守る中抱かれてやってもいい』と宣言して俺の腕の中にとびこんできてキスを、」
 皆まで言わせずレイジの顔面にトレイを投げつける。食器は懐に確保して。
 「それらしい作り話してんじゃねえ、鳥肌立ったろうが!!いくら俺が酒飲んで正気なくしたからって自分からてめえにキスするなんてありえねえ、絶対ねえ!おまえにキスするくらいなら鍵屋崎にキスしたほうがマシだっ」
 「俺とタジマなら?」
 「あじ投げるぞ」
 「冗談だよ」
 レイジがおどけた態度で両手を挙げて降参を表明する。顔面にトレイを食らったのに涼しいツラしてるのが憎たらしいっちゃない。ナスの漬物はよけ、先にアジに箸をつける。手先が不器用なせいで骨が巧く取れないのに苛立ってしまいには骨ごと噛み砕こうと頭を口に持ってけば、野良猫のゴミ漁りでも目撃したように微妙な顔のレイジが口を開く。
 「ロンさ、とりあえず肌隠しとけよ。そんな格好でふらふら出歩かれたんじゃ心臓に悪い」
 ベッドから立ちあがったレイジが俺の膝の上で五指を開けば、ばらばらと銀の光沢の安全ピンが降ってくる。ベッドに散らばった安全ピンに意味不明と眉根を寄せれば、レイジが嘆かわしげにかぶりを振る。
 「タジマが警棒さがして這いつくばってたときに落としたらしい。それで破れた個所留めとけよ、応急処置に」
 合点した。これはタジマの安全ピンか。理解した瞬間に耳たぶを安全ピン刺し貫かれる恐怖に身が竦んだだが、レイジの言い分も一理ある。こんな格好で外出歩けば露出狂だと誤解されかねないし、第一風邪をひいちまう。いったん箸を置き、手にした安全ピンで破れた個所を留めて補修する。幾つかの安全ピンで裂け目を縫いとめて応急処置を完了すれば、服を繕った俺に満足したらしくレイジが鷹揚に頷く。
 「……しっかし、こんな大量の安全ピンどうするつもりだったんだタジマは。想像するだけで気分が滅入る」
 「安心しろ。当分タジマの顔見なくてすむよ」
 「?どういう意味だよ。今まで積み重ねた悪事がバレてクビになったのか」
 「あはははは!ギャララリーが見てるまえでタジマのSMクラブ通い暴露してマゾな性癖さらした東京プリズンの女王様がよっく言うぜ」
 ………俺、本当になにやったんだ。
 自己嫌悪からくる頭痛が悪化して頭を抱え込んだ俺を見下ろし、レイジが柔らかく呟く。
 「でもさ、ちょっと嬉しかったぜ」
 「俺がタジマの性癖暴露して晒し者にしたからかよ……」
 レイジの話じゃ晒し者にされたのはむしろ俺だ。記憶にはないが、試合に乱入して酒臭い息吐き散らし、囚人監視のリングの上でさんざんタジマを罵ってる自分を想像し、ただでさえ二日酔いで滅入ってた気分がどん底まで落ちこむ。
 「ちげーよ。俺が言ったのは、」
 何か言いかけたレイジが口を噤む。苦いものを飲みこんだように口をむずむずさせたレイジが照れ隠しに舌打ち、遅い朝飯中の俺をベッドに残し足早に扉に向かう。 
 「それ食ったら俺と来い。紹介したいやつがいる」
 「はあ?だれだよそれ、俺が知らない南のトップとかじゃねーだろな」
 突拍子もない提案に驚く俺を振り向き、いつもの調子を取り戻したレイジがノブに手をかけ、扉を開く。
 「酔った勢いでペア戦参戦表明したどこかのロンを鍛え直してくれる心強いコーチだよ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051126233037 | 編集

 レイジに案内されたのは展望台だ。
 「いい天気だなあ」
 気持ち良さそうにのびをしたレイジにつられて空を仰ぐ。
 雲ひとつない快晴の空が砂漠の涯てまで広がってる。東京プリズン周縁の砂漠の遥か彼方、墓標の蜃気楼のごとく灼熱の大気にぼかされてるのは半ば廃墟と化した高層ビル群だ。
砂漠周辺には二十一世紀初頭の地震で半壊した建造物が朽ち果てるままに放置され、住処を追われたホームレスや密入国した不法就労者やらが行政の目を逃れて住み着いてるとかで問題になってる。俺もお袋のアパートを追い出てしばらくの間は路上生活をしていたが、天気が荒れ模様のときは廃墟で雨宿りしたこともある。
 晴れた日は新宿がよく見える。
 展望台が突き出た方角のずっとずっと先には新宿があり、新宿からちょっと離れたところには池袋がある。池袋。俺が11まで飲んだくれのお袋と暮らしたスラム街。故郷と呼ぶにはよそよそしく、いつだって俺を疎外した街。この空が新宿とつながってるなんて信じられない。あっちとこっちじゃ世界が違いすぎる。東京プリズンじゃ日常と非日常が逆転して、慣れるのに大分時間がかかった。もっともけたたましい起床ベルで叩き起こされ廊下に整列して点呼をとり集団で食堂に行きまずい朝飯をかきこむ生活にも一年もありゃ馴染んでしまう。すし詰めのバスで仕事先に派遣されるハードな日々が今は懐かしい。 
 「イエローワークが懐かしいか」
 芒洋と砂漠の先を見つめてたら、俺の心を読んだようにレイジが声をかけてくる。砂塵まじりの乾いた風が一陣吹き、日に透ければ燦然と金に輝く茶髪が舞いあがる。  
 「……まあな」
 風に髪をなぶらせるレイジの横、素直に相槌を打つ。乾燥した砂漠の風をいつもより強く感じるのは何ひとつ遮る物とてない展望台の高所に立ってるからだ。風通しの良い展望台は日光浴に最適、といいたいところだが容赦なく脳天に照りつける直射日光にはうんざりだ。白く発光する太陽から降り注ぐ灼熱の日差しはきつすぎる。
 食後の散歩がてら展望台に案内され、しばらくふたり並び、物言わず眺望に見入る。が、だだっ広い砂漠がどこまでも延々続くだけの変化に乏しい光景にはすぐに飽きが来る。今ごろは強制労働の現場で砂掘りに精を出す囚人の姿も、この距離からじゃ蟻の巣穴掘りの光景に見える。
 で、話を戻す。
 「……レイジ、おまえ俺のこと騙してるんじゃねえだろうな」
 「まだ疑ってんのかよ、しつこいな。俺は誠実な男なんだ、つまんない嘘ついたりしねえよ」
 「どの口が言ってんだよそれ、呼吸する自然さで嘘つくたらしがよ。何回聞いても信じらんねえんだけど、いくら酒飲まされたからって俺がそんなこと言うなんて……」
 「言ったんだよ。嘘だと思うなら他の囚人つかまえて聞いてみろよ、全員口そろえて同じこと言うよ。『昨日の試合ぶち壊した張本人がなにをいまさら白々しい』『来週の試合たのしみにしてるぜ』ってな」
 レイジはしらっとうそぶくが、俺はまだ疑いを拭えない。俺の複雑な心境も知らず、いや、知っていて尚こうなのか、隣のレイジは張り飛ばしたくなるくらい涼しいツラをしてる。
 酒を飲まされたせいで昨夜の記憶はすっぽり抜け落ちてる。俺が昨日なにをやったかなんて全然覚えちゃいない。けどまさか、レイジ対凱の試合に乱入して酒の勢いで参戦表明しちまうなんてまるっきり酒乱の所業じゃないか。ああ、昨日の俺を殴り飛ばしたい。殴り飛ばして正気に戻して説教したい。凱に勝負を挑むのなんて無理無茶無謀、一週間の猶予期間を与えられたところで俺にはてんで勝てる見こみがない。
 凱は東棟の囚人三百人を傘下におさめる大派閥のボス、体格でも腕力でも場数でも引けをとる俺がかなう相手じゃない。
 「くそっ!凱はそりゃ気にいらねえし連中の汚い手口にはいい加減頭きてたけどよ、鍵屋崎巻きこんで参戦表明なんかして負けちまったらどうすんだよ一巻の終わりじゃねえか昨日の俺の馬鹿っ」
 「自分で自分を罵るマゾな趣味にひたってる暇あるなら特訓あるのみだ」 
 「特訓だあ?」
 頭を抱え込んでうずくまった俺にすっと手をさしだし、レイジが微笑む。
 「言ったろ。いいコーチを紹介してやるって」
 「どこにいんだよ、そのコーチは」
 レイジの手を邪険に払いのけて立ちあがりしなあたりを見まわす。展望台には俺たち二人以外にだれもいない。レイジが無人の展望台に俺を案内した真意は不明だ。不機嫌に眉をひそめた俺にいたずらっぽい笑顔を浮かべ、展望台の突端へ足を踏み出すレイジ。
 「おーい!」
 レイジが大仰な動作で両手を振る。
 レイジにつられ、遥か彼方の砂漠から手前の中庭へと視線を転じれば中央に人影を発見。と言っても、この距離からじゃ顔の造作まで判別できない。中庭といっても東京プリズンのそれは全棟つながっててだだっ広いのだ。中庭の真ん中あたりにぽつんと突っ立ってる人影がレイジの大声に向き直り、こっちに手を振り返す。やけにフレンドリーだ。
 「あれがコーチ?」
 一抹の不安が胸を過ぎる。レイジが紹介する人間にろくなやつはいない。というか、囚人の大半が強制労働が出払ってるこの時間帯に居残ってる面子は限られてくる。
 突き詰めれば、レイジの同類しか考えられないじゃんか。
 「ちょっと待て、コーチがあそこにいるなら最初から中庭に案内すればいいじゃんか。展望台に連れてくる意味が不明だ」
 「いい天気だから風にあたりたかったんだよ」 
 「……王様の気まぐれに振りまわされる身にもなれ。情けなくて涙がでる」
 「なに、下りるのに時間はかかんないさ」
 意味ありげに笑ったレイジが次の瞬間とった行動に度肝を抜かれる。
 「!?」
 俺の視界からレイジの姿が消失。
 ひょいと、何でもないことのように空気を踏んで展望台から飛び降りたのだ。 
 「!?おいレイジっ、」
 この高さから落ちて無事ですむはずがない。レイジの身を案じ、慌てふためいて突端に膝をつき下を覗きこむ。真剣に心配した俺の眼下で繰り広げられてたのは人間離れした軽業。展望台の突端に手をかけ、垂直に聳えた壁の平面を蹴り、落下の衝撃を緩和したレイジが身軽に地面に着地。猫科の獣特有の敏捷性を遺憾なく発揮し、優雅に身をひねって地面に降り立ったレイジに呆然とする。
 馬鹿げた運動神経の持ち主だ。
 地面について汚れた手を軽く払い、レイジが立ち上がる。
 「おまえもこいよ」
 「真似しろってか?無難に死ぬぞ。よくて骨折だ」
 額の汗を拭い、心配させられた腹いせに恨めしく呟く俺を見上げ、レイジが顎をしゃくる。
 「庶民は階段を使え」
 悪かったな庶民でよ。
 これ以上レイジの面を見てると唾でも吐きかけてやりたくなるから大急ぎで回れ右して展望台を後にする。2.5階の高さから飛び降りる芸当などできっこない凡人は無難に階段を使って中庭に下りる。これぞ本当の無駄足だ。自己顕示欲旺盛な王様は仰天パフォーマンスを披露したいがために中庭に直行せず展望台に寄り道した可能性もあるが、いったん考え出すと腹が立って仕方ないから思考を放棄。まあ本当に風にあたりたかったのかもしれないが、いつもへらへら笑ってて本心がどこにあるかわからないレイジの考えることなんてわかりっこない。
 駆け足で階段を降り、中庭にでる。
 見渡すかぎりコンクリートで足元を固めた屋外空間は灰色以外の色彩の印象がない。殺風景な中庭を突っ切ってレイジのもとへ急ぐ。俺より先にコーチに歩み寄ったレイジが振り向きがてら「遅かったな」なんてぬかしやがった。むかつく。
 「俺の足が遅いんじゃなくてお前の運動神経が、」
 並外れてるんだ、と反論しかけ。
 こぶしの残像が視界を過ぎり、豪速の風圧に前髪が舞いあがる。誰かが俺の目と鼻の先にパンチをくれた。誰かとはレイジの横の人物で、予定では俺のコーチとなる人間らしい。来週の試合にそなえ、俺をいちから鍛え直してくれる心強いコーチは汗が匂い立つ首にタオルを巻き、手には布を巻き、ひとり黙々とシャドウボクシングに励んでいた。右から左へ、左から右へと変幻自在に重心を移す敏捷な足捌きに目を奪われる。舞踏でも踏むように軽快で律動的な足捌きに連動し、左右の腕を腋に引き付けては交互にこぶしを繰り出す。まったく隙のない構えから繰り出すこぶしは毛穴を縮ます風圧を纏い、鋭い呼気を吐いて腕を伸縮させれば、そいつを中心に波紋が連なるように地面の砂塵が動く。

 すごい。

 俺もそれなりに喧嘩慣れしてるが、今目の前のこいつは「完璧」だ。フォームに一分の乱れもなく、獲物を仕留めにかかる猛獣の如く息遣いを抑制し、全身に闘志を充溢させている。極限まで無駄を殺ぎ落としたシャープな動きに威嚇の派手さはないが、ちょっと場数を踏んだやつなら「こいつとだけはあたりたくない」と畏怖する存在感の脅威。
 格の違いを肌にびりびり感じさせる、大気を打破するこぶしの威力。
 「!!」 
 腕の軌道が途中で変化し、まっすぐこっちにむかってくる。
 逃げられない、さけられない。地面から足が生えたように硬直し、目を閉じ―
 顔がひしゃげる衝撃は、いつまでたっても訪れなかった。
 「……?」
 おそるおそる目を開ける。布を巻いたこぶしが引かれ、コーチを名乗る人物の顔が暴かれる。どこかで見た顔だ。薄らと汗をかいた浅黒い肌、細身のくせに筋肉の躍動が伝わる胸板が囚人服越しでも見えるみたいだ。のっぺりと七三に分けた髪もはげしい運動のせいで乱れ、額に一房髪が落ちていた。どこかで見た顔だ。でもどこで?
 混乱した俺の前でそいつは尻ポケットを探り、ゆっくりとそれを取り出した。センスを度外視した実用一辺倒の黒縁眼鏡。ホセとおんなじ……
 まさか。
 「改めて自己紹介を。吾輩がロンくんのコーチです」
 黒縁眼鏡をかけた顔がこっちに向き直る。はにかむような笑みを浮かべた、人のよい顔が。
 紛れもなくホセだった。
 「どういうことだよ、ホセと知り合いだったのか!?」
 ホセの隣のレイジに食ってかかれば、俺の剣幕に首を竦めたレイジが曖昧に返事する。
 「知り合いってゆーか、」
 「トップ同士の間柄です」
 レイジの語尾を引き継いだホセが何でもないことのようにさらりと答える。トップ?今トップって言ったのか?今この場にいる人間は三人だけ、俺とレイジとホセだ。もちろん俺は庶民でレイジは王様で、他にトップといったら候補はひとりしか。
 「おまえが南のトップなのか!?」
 おもわず大声をあげてしまった。にわかには信じ難いが、今目の前にいるこいつが、トイレと間違えてボイラー室にとびこんで成り行きで俺の窮地を救ったドジで方向音痴なこいつが、東京プリズンの一角をなす南棟のトップだなんて。トップにふさわしい威厳が全然ないからちっとも気付かなかった。いや、そんなもんはレイジにだってこれっぽっちもないが。辛うじて備えてるのはサーシャくらいか。
 「そういうことは先に言えよ……」
 一気に脱力する。冷静に考えてみりゃレイジをくん付けする人間がただの囚人のわけない。ブラックワークの無敵覇者で名実ともに東京プリズン最強と目されるレイジにまでくん付けするのは同次元の囚人しかありえない。しかし、いちばん肝心な部分を省略した自己紹介に何の意味があるんだと恨みがましくホセを睨みつければあっけらかんと反論される。
 「ご気分を害されたのなら失敬。しかし自己紹介で吾輩が南のトップと名乗るとはいささか自意識過剰であり僭越な誤解を招いてしまうのではないかと危惧したものですから……初対面でトップと名乗るのは『俺はバンタム級世界王者だ』『私はメキシコ美女コンテスト優勝者よ』と自慢するのとおなじ気恥ずかしさをおぼえます」
 「先入観と偏見をもってしては友情は結べませんし」とちゃっかり付け加えるが俺には言い訳にしか聞こえない。あと断っとくが、俺はホセをダチだと思ったことは一度もない。本人がどう思ってようがこれ以上変人の知り合いを増やしたくない。
 「これではっきりした。東西南北のトップは変態紙一重の変人ぞろいだ」
 「そうむくれんなって」
 ぐったりした俺の背後に回りこんだレイジが、励ましのつもりで肩を叩く。
 「ホセはもと地下ボクシングの最強王者で素手で人殴り殺せるバーサーカーだ。おまえのコーチにはこいつっきゃいないって思って紹介してやったんだから一週間かけて特訓してもらえよ」
 「レイジくんの頼みじゃ断れません。レイジくんには以前ワイフへ贈る手紙の書き出しの相談にのってもらいましたし、吾輩にできることなら何なりとご恩返ししなければワイフに怒られてしまいます」
 「よろしく頼むぜホセ」
 「ちょっと待て、勝手に話進めんな!」
 展開の早さについてけない。レイジとホセは和気藹々と意気投合してるし。
 レイジとホセの他愛ないおしゃべりに割って入り、腰に手をついた尊大な態度で睨みを利かす。
 「ホセが南のトップだってのはわかった、俺に特訓つけるために呼びだしたってのもまあわかる」
 「じゃあ何が不満なんだよ?」
 理解できないといった顔で腕を組んだレイジの胸に人さし指をつきつける。
 「……なんでこんなまどろっこしいことする?ホセに話つけて俺を鍛え直すより、おんなじペア戦にでるおまえが直接鍛えたほうが早くないか」
 そうだ、わからないのはそれだ。こんな回りくどいやり方レイジらしくない。ところどころ記憶が飛んでるが、酒に酔った俺が参戦表明したのはホセに引き合わされた以上事実と認めるっきゃない。 
 でも、俺を鍛えるならレイジが直接やればいい。レイジは連戦連勝、無敵無敗のブラックワーク覇者で東京プリズン最強の男。ホセだってサーシャだってヨンイルだってレイジにはかなわない、東京プリズンでぶっちぎりに強いのはレイジなのだ。人任せになんかせず直接特訓つけたほうが俺にとってもレイジにとっても効率的だろうに。
 それを聞いたレイジはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、ふいに腕組みをほどいて腰を屈め、そばに転がっていたバスケットボールを拾い上げる。解答を先延ばしにするよう拾い上げたバスケットボールを交互の手に投げ渡し、器用に人さし指の上で回転させる。不器用で突き指する俺には真似できない芸当だ。
 人さし指を支点にバスケットボールを回しながら、レイジがどこか遠い目をして呟く。
 「ロンはさ、喧嘩が強くなりたいんであって人殺しがうまくなりたいわけじゃないだろ」
 さらりと述べた台詞は、ひどく物騒だ。
 ぎょっとした俺の方は見ず、回転の残像をながめながらレイジが続ける。薄い笑みを顔に浮かべ。
 「俺が教えられるのは人の殺し方と壊し方だけ。何をどうすればより効率的に致命傷を与えられるか、何をどうすれば一秒でも長く動きを止められるか。本で人殺す技術覚えても凱相手じゃ役にたたねーだろ?」
 淡々と断言したレイジが手首を返してボールを投げてよこす。
 「おまえにはおまえに合った戦い方がある」
 とっさに両手を突き出してボールを受け止めたが、驚きに腰が引けたせいでボールを取りこぼしてしまった。転々と地面で弾むボールを目で追えば、素早くボールを掠め取ったレイジが再び人さし指の上で回しはじめる。
 「俺を真似したところで俺以上にはなれない。なる必要もない。絶対に」
 レイジは笑っていた。心なんかどこにもない、からっぽの笑顔。歪んだ笑顔から一転、いつものお気楽な笑顔に戻ったレイジが手首を跳ね上げてボールを宙に浮かせ、絶妙のバランス感覚で頭にのせる。  
 ボールを頭にのせた間抜けな格好で俺に向き直ったレイジが、冗談めかして軽い口調で、その実全身に殺気を漲らせて口を開く。
 「ロン。俺の足手まといにはなるなよ」
 魔性に魅入られた心地でレイジの目を直視する。色硝子に似て綺麗な瞳。光の錯覚で猫科の獣のように瞳孔が狭く見える目が、睫毛の下で獰猛に輝く。
 「………あたりまえだ」
 決意をこめたこぶしを握り締め、挑むようにレイジを睨みつける。
 「おまえこそ俺の足手まといになるなよ」
 「よーし、その意気だ」 
 殺気を引っ込めたレイジが明るく笑い、黙って俺たちのやりとりを見守ってたホセが前に出る。
 「では、中庭五十周」
 「は?」
 五十周?
 耳を疑った俺の正面で立ち止まり、首にかけたタオルで汗を拭きながらホセが説明する。
 「本当は百周にしたいところですが初日だということで半分にまけておきます。さあ、吾輩のあとについてきて!」
 「おいマジかよ、中庭がどんだけ広いと思ってんだ!?全部の棟つながってるんだぜ、五十周なんてしたら動悸息切れ眩暈でぶっ倒れるに決まって、」
 「ヨ―イドン!」
 聞いちゃいねえ。俺をその場に残し、とっとと走り出したホセの後に濛々と砂塵が舞う。何だが俺以上にやる気満々のホセに開いた口が塞がらず、呆然と立ち竦んだ俺の背後でレイジがにやにや笑ってる。バスケットボールを頭から肩に、肩から肘へ、肘から手首へと自由自在に移してはその逆もなんなくやってのけるレイジをおもいきり睨みつけ、何ひとつ遮る物とてない快晴の青空の下、やけくそで叫ぶ。
 「くそっ、走りゃいいんだろ走りゃ!?いいさ、日射病でぶっ倒れるまで走ってやるよ!」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051125235505 | 編集

 僕は馬鹿かもしれない。
 「………」
 暑い。
 じっとしててもシャツの内側に汗をかく陽気だ。暦上は冬のはずだが砂漠に季節は関係ないらしい。 図書室帰りの僕は現在展望台にいる。売春班が休業状態にある現在、強制売春で身も心もすり減らして自殺未遂を図るまでに追い詰められた売春夫にはひとときの休息が与えられた。ペア戦の結果がでるまで売春夫の処分は見送り。男に犯される生き地獄の日々から解放された売春夫は束の間の憩いを満喫してる。
 僕とて例外ではない。売春班にいた頃は売春通りに面した隔離房に半日軟禁状態だったが、レイジとサムライが100人抜きを表明し安田の許可を取りつけた後はこうして読書に耽る時間もできた。他の囚人が強制労働に出払ってるせいで喧騒が絶えた刑務所内は読書に最適の環境だ。

 日が高い。もうすぐ正午だ。

 汗が蒸発する音さえ聞こえそうな静けさで、ページをめくる音がやけに耳につく。通常この時間はサムライが留守にした房でひとり静かに本を読んでいるのだが、こんな天気のよい日に薄暗く湿った房にこもっているのも体に悪いなと漠然と展望台に足を向けた。読書環境を変えることで気分転換を図ったのだが、今は後悔してる。東京プリズンに入所して半年以上が経つというのに、僕はまだ甘さが抜けてない。
 屋外での読書は自殺行為だ。サウナで本を読むようなもので、暑さに頭が朦朧として一向に本の内容が頭に入ってこないうえに体から水分が蒸発して眩暈を覚える始末だ。
 しかし、一度こうと決めたことを後から翻すのは僕のプライドに関わる。
 つまらない意地だという自覚はある。しかし今ここで立ち上がれば、僕の判断が誤りであったと自分から認めるようなものじゃないか。それは気に入らない。誰も見ていなくても僕のプライドが許さない。
 「…………」
 直射日光に朦朧とした頭で、意地になってページをめくる。何ひとつ遮る物とてない展望台に座りこめば当然容赦ない陽射しを浴びることになる。本のページには顎から滴った汗の染みができていた。それにしても暑い、異常に暑い。後頭部にも上着の背中にも太陽の熱を感じる。
 本の内容が一向に頭に入ってこないせいか、朦朧とした頭に浮かぶのは昨夜から今日にかけての出来事。
 ペア戦参戦表明から一夜明けた今日は、朝から身の周りが妙にざわついていた。食堂に向かう途中、僕とすれ違った囚人がこちらを窺いながらひそひそ話をしていた。食堂の周辺席の囚人がこちらを指さしながら笑い声をあげたり眉をひそめたり、表情豊かに耳打ちをしていた。たった一晩で僕を取り巻く空気が変容し、他の囚人の態度が微妙に変化した。
 軽侮から好奇へ、そして畏怖へ。
 普段僕を「親殺し」と蔑んで幼稚ないやらがせをする囚人が今日は不思議と大人しく、僕を遠巻きに眺めていた。好奇の眼差しには慣れているが、食堂に現れた僕を取り囲んだそれに混じっていたのは畏怖の色。
 どうやら僕の参戦表明は、周囲の囚人に少なからず影響を及ぼしたらしい。 
 狩られる一方の獲物、守られる一方の弱者が強気に反撃に転じればそれまで侮っていた者たちも少しだけ、あくまでほんの少しだけ見方を改めるらしい。
 もっと早く気付いてほしかった。彼ら凡人と僕は頭の出来からして違うのだから、本来尊敬されこそすれ侮蔑されるいわれはない。
 だが、僕に感心した囚人ばかりではない。反感をおぼえた者や敵愾心をむきだした者の割合のほうがむしろ多いくらいだ。食事中、背中や横顔に感じた視線は凱とその取り巻き連中のテーブルからだ。朝こそ彼らも大人しくしていたが、「サムライのモノしゃぶる見返りに守ってもらってる生白いお嬢ちゃんがでかい口叩きやがって」「二度とあんな口きけねえように俺のモン突っ込んでやる」と下卑た悪口を叩いてるのがしっかり聞こえた。
 それに過剰反応したサムライが味噌汁の椀を乱暴に置いて席を立とうとしたが、僕が止めた。
 「低脳には言いたいだけ言わせておけ。彼らはああして卑猥な冗談を口にしないと生きていけない病気なんだ、下半身で物を考える生き物だからな」と。
 朝はそれだけで済んだが、今後はどうなるかわからない。何百何千のギャラリーの前で凱に恥をかかせた借りは高くつくだろう。凱傘下の囚人三百人を敵に回し、この一週間無事に生き抜ける保証はない。
 かぶりを振って憂鬱な気分を払い、ふと顔を上げれば眼下の中庭を誰かが走ってゆく。
 中庭を横切る影は走者はふたり。第一走者から三十メートル遅れた第二走者は足元がふらふらで、今にも昏倒しかねない危険な状態。しかし第一走者がスピードを落とす気配は微塵もなく、差が開けば開くぶんだけ不利なのは明白。
 「……炎天下でマラソンか。自殺行為だな」
 自分のことは棚に上げ、見たままありのままの感想を述べる。
 この距離からでは中庭を一周二周する走者の顔まで見えないが、ずいぶんな物好きがいるものだ。普通の囚人は強制労働に出払ってる時間帯だから、中庭でマラソンしてるのは強制労働免除特権のあるブラックワーク上位陣と売春班の囚人に限定される。試しに売春班の面々の顔を思い浮かべてみたが、炎天下でのマラソンを好むような活動的な人間はいない……気がする。となれば、ブラックワーク上位者だろうか?ありえる。ブラックワーク上位者はレイジを始めとして変人ぞろいだ。暇を持て余して突然走り出す理解不能な思考回路の持ち主がいないとは断言できない。   
 暇を持て余した挙句に奇妙な行動をとる人間心理は興味深い。近くでもっとよく観察してみたい。
 誤解しないでほしいが、断じてここを去る言い訳などではない。じっと暑さに耐え、コンクリートの地面に尻を熱されつつ屋外で本を読むのがいい加減辛くなったわけじゃない。小脇に本を抱え、足早に展望台を去る。
 階段を下り、中庭に到着。
 一面コンクリートで足元を固められた殺風景な中庭に立てば、地上に降りたぶん空が高くなった錯覚を受ける。シャツの胸元をつまみ、内側に風を送りながら空を仰ぐ。
 ボールが地面に跳ね返る軽快な音が響く。
 「!」
 音が近付いてきた方角を振り向けばレイジがいた。
 「よう、キーストア。なにやってんだこんなとこで」
 「こちらの台詞だ。炎天下の屋外で何をしてるんだ君は」
 「見りゃわかるだろ、ひとりボール遊びでバスケットの真似事」
 たしかに。レイジの両手におさまってるのは、いつだったか僕が触れたこともあるバスケットボール。強制労働終了後に中庭に来た囚人が忘れていったものらしい。 
 「サムライに遊んでもらえなくて寂しい?」
 地面でボールを突きながら、レイジが声をかけてくる。
 「サムライはブルーワークの強制労働で下水道におりている。君と違って暇じゃないんだ、彼は」
 「ひでー言いようだな。俺は実力で今の身分を勝ち取ったんだぜ。羨ましいならお前も実力でブラックワークにのぼりつめてみろよ。二班でトップにのぼりつめるよか一班でトップ極めたほうが羨望集めるぜ」
 痛いところをつかれ一瞬言葉を失うが、すぐに反撃に転じる。
 「ロンに頭が上がらない王様など羨ましくも何ともないな。忘れたのか?大観衆の眼前で赤面モノの痴話喧嘩を繰り広げた挙句にサムライと握手させられた昨夜の記憶を」
 昨夜の光景を思い浮かべて失笑すれば、気に障ったらしいレイジが手首を返してボールを投げてくる。
 突然投げてよこされ、反射的に胸の前で受け止めたものの危うく手首を挫きそうになる。小脇に抱えた本も落としてしまった。
 「あぶないじゃないか!手首を痛めたら書架の上段の本が取れなくなるだろう」
 「本より心配することあるだろ、食事とか下の心配とかさあ」とあきれ顔のレイジを睨みつけてボールを投げ返そうとしたが、力が足りなかったのか途中であっけなく地面に落ちてしまった。
 「腕力なさすぎ握力なさすぎ」
 「悪かったな。自慢ではないが運動神経は鈍いんだ」
 本当に自慢にならない。
 足元に転がったボールを拾い上げたレイジがおもむろに沈黙して僕の顔に見入る。色硝子の瞳で顔を凝視されるのは落ち着かない。値踏みするように人の顔を見るな不愉快だと抗議の声をあげ、
 「キーストア、暇なら遊ばない?」
 人さし指の上でボールを回しながらレイジが笑いかけてくる。太陽の光がよく似合う活発な笑顔。  
 「……遊ぶ?どうせくだらない遊びだろう、きみがこれまで性交渉を持った女性の数と名前をあてるような著しく品性に欠けるゲームなら断固辞退する」
 「俺が寝た女の数は百五人。名前はスヨン杏奈シェリファメアリー麗羅、」
 「言わなくていい、聞きたくもない。僕は帰らせてもらう」
 レイジとしゃべるだけ時間の無駄だ。憤然と回れ右した僕の背中に浴びせられたのは嘲笑。
 「逃げるのか」 
 「…………なんだと?」
 逃げる?今レイジはそう言ったのか、こともあろうに僕にむかって。この鍵屋崎直にむかって。
 不快に眉をひそめれば、人さし指の上でボールを回しながらレイジが笑う。完全に僕を馬鹿にした笑顔。
 「俺に負けるのが怖いんだろ。いいよ、今回は見逃してやるよ腰抜けメガネ。レイジにいじめられたってサムライに言いつけてこいよ」
 「……聞き捨てならないな。何故僕が君に負けなければならない?僕にはこのIQ180の天才的頭脳と素晴らしい発想力がある。今の発言は取り消してもらおうか」
 「なら勝負しろ」
 「なんの勝負だ」
 挑発に乗せられた自覚はある、レイジのペースに巻きこまれてる自覚もある。しかし今さら引き返せない、今引き返せばレイジの発言が全面的事実だと認めるようなものじゃないか。僕は天才だ、天才の頭脳をもってして制覇できないゲームなどない。
 そして、レイジの提案はひどく単純なものだった。
 「簡単なゲーム。俺からボール奪い取ったらおまえの勝ち」
 「……それだけか」
 拍子抜けすると同時に、運動が苦手な僕はひどい脱力感をおぼえる。僕の運動神経には致命的欠陥がある。少し本気を出して走っただけでも動悸息切れ眩暈で昏倒するありさまだ。炎天下の屋外でボールを取り合ったりなどしたら日射病で脱水症状を起こして……
 「……いや、やっぱりやめよう。周囲を砂漠に囲まれた環境ではげしい運動は血中酸素濃度を薄める自殺行為……」
 「バスケットボールもできないなんておにいちゃんかっこわるーい」
 理性的にレイジを説得しようとし、眼鏡のブリッジに触れた手が間延びした声に停止。バスケットボールを胸に抱えたレイジはにやにや笑ってる。完全に僕の反応を楽しんでる。女の子の声真似までして、甲高い裏声で、僕の妹を馬鹿にするなこの低脳め恵はそんな変な声をだすものか。
 頭に血が上ったのは暑さのせいではなく、目の前のこの男のせいだ。
 「……いいだろう、貴様の望みどおり幼稚なお遊戯に付き合ってやる」
 半年前、イエローワークの砂漠に現れた安田とおなじく「幼稚なお遊戯」を強調すれば「そうこなくっちゃ」とレイジがはしゃぐ。
 レイジのボールを奪えばいいんだ、簡単なことだ。
 いくら僕が運動音痴でも至近距離にいるレイジからボールひとつ奪うのにそう時間がかかるはずもない。 腰を低め、レイジの手の中のボールに視線を集中。今か今かと息を詰め、その瞬間を待つ。
 「プレイボール!」
 ゲーム開始の合図は、青空に響き渡るレイジの声。
 レイジは立ち位置を動かずに右手でドリブルしていた。よし。手と地面の間で軽快に弾むボールに目を凝らし、コンクリートを蹴って跳躍。一気に接近し、ボールを掴もうとして……
 「!」
 目の前からボールが消失。何が起きたのだか全然わからずに振り返れば左手にボールがあった。あまりに速すぎて瞬間移動したようにしか見えなかった。驚愕に目を見張った僕をよそにレイジがドリブルを再開、手と地面の間で小気味よくボールを弾ませ。
 「とろい」
 「―っ、」
 人を食った笑顔のレイジに憤慨し、今度こそボールを奪取しようと手を伸ばすが僕の鼻先で再びボールが消失。どこへ行ったのだとあたりを見回せばレイジの頭上に移動していた。レイジの頭上に手を伸ばしてボールを掴もうとすれば、頭から落ちたボールが肩から肘を経て手首に至りまた右手へと移る。右手に乗ったボールを叩き落とそうとすれば僕の頭越しに左手へと飛び移る。右左右左と残像を引いてボールを交互させつつレイジが飄々とうそぶく。
 「キーストアはバスケットボールしたことないの」
 「そんなくだらないことしてる暇があるなら本でも読んだほうがマシだ」
 まだ十分もたってないのに息が切れてきた。首筋を伝う汗を手で拭い、目に流れこんだ汗でぼやけた視界にボールをとらえる。レイジは殆ど立ち位置を動いてない。対して僕はレイジがボールを突くたびにぶざまに突進し右へ左へ走らされはては腕にしがみつこうとしてかわされ、無駄な動きが多いせいか体力の消耗がはげしい。
 合計三歩しか動いてないレイジとは凄まじい落差だ。
 「俺も本は好きだけど、それってつまんない人生だな」
 笑い飛ばされると思ったら、レイジの感想には真摯な実感がこもっていた。
 「共感のふりなどしてくれなくても結構だ。凡人に同情されるほど落ちぶれてない」
 辛辣な毒舌でやりこめれば、レイジが何故かひどく愉快そうな笑い声をあげる。まるで自分のほうがつまらない人生だったと主張するように演技過剰の笑い声。馬鹿にしているのか、これは?地面を蹴って加速、頭を低めた前傾姿勢から伸び上がるようにレイジの正面に立ち塞がり、右肩から右肘へと滑ったボールを掠めとろうと両腕を突き出し。
 僕の頭上に放物線を描き、十メートル向こうの地面にボールが落下した。
 「卑怯だぞ!」
 いや、見方を変えれば今がチャンスか。レイジのボールを奪えば僕の勝ち、翻せばレイジの手から落ちたボールを拾えば勝ちということだ。レイジより先にボールの落下地点に直行、ボールをにむかって両腕を伸ばし―
 転々と地面で跳ねたボールが誰かの足元にぶつかり、その人物が片手でボールを拾い上げる。
 ボールを持った手につられて視線をあげれば意外な人物がいた。安田だった。
 「バスケットボールをしていたのか」
 「違います、『付き合わされていた』んです。僕の自発的意思じゃない」 
 即座に訂正すれば、僕に遅れること五秒後に駆け付けたレイジがなれなれしく安田に挨拶する。
 「安田さん一日ぶり。バスケ観戦にきたの?」
 「そんなところだ。イエローワークの視察から帰ったら君たちの姿が目に入ってな、この暑さの中バスケをプレイするなど物好きな囚人もいるものだと興味をおぼえて来てみたら案の定だ」
 ……レイジに付き合わされたおかげで僕まで物好き扱いされた。不愉快だ。
 憮然と黙りこんだ僕と笑いを噛み殺すレイジとを見比べ、小脇にボールを抱いた安田が言う。
 「レイジ。君と鍵屋崎は仲がいいんだな」
 「誤解です」
 「まあそこそこ」
 断固否定した僕の横からレイジがいらぬ口を出す。そんな僕らふたりの対照的な様子に何を思ったか、銀縁眼鏡の奥の双眸が和み、安田の顔に柔和な表情が浮かぶ。
 その表情に、一抹の翳りが射したのは目の錯覚か?
 「……そうか。友人ができたのか」
 「彼が僕の友人だとしたら僕は辞書に記載された友人の項目を塗り潰します。僕の人間性を貶める発言は聞いてて不愉快なのでよしてくれませんか」
 「おま、貶められてるの俺だよ!」
 レイジの抗議を無視して安田に詰め寄るが、安田が前言撤回する気配はない。手の中のボールに目を落とした安田が僕の顔に視線を転じる。
 「返すぞ」
 安田の言葉に迅速に対応、両手でボールを受け止める体勢を整える。安田があざやかに手首を返し、ボールを投げる。
 「!!っ、」 
 顔面に衝撃、瞼の裏側で火花が炸裂。
 理解不能の事態が発生した。僕が取り損ねたボールが顔面を直撃、その衝撃で眼鏡が落ちて視界がぼやけた僕が膝をついた背後、無防備に突っ立ったレイジの両手に乾いた音をたててボールが挟まる。
 「顔面でボールを受け取るなんてトリッキーなプレイどこで覚えたんだよ、すげーや天才!」と人の気も知らずに爆笑するレイジをよそに「めがねめがね」と口の中でくり返し地面をさぐる。
 あった。レンズに付着した埃を丁寧に拭いとり、眼鏡をかけ直したその瞬間。
 「…………元気でいてくれ」
 安田の声がした。
 衣擦れに紛れそうにかすかな呟きだが、僕の耳にははっきり届いた。眼鏡をかけ、正面に目を凝らし、身動きせずに焦点が定まるのを待つ。安田の輪郭が収束し、三つ揃いのスーツを着たエリート然とした風貌の男が目に映る。
 聞き間違いのはずがない。安田はたしかに「元気でいてくれ」と告げた。まるでこれが永遠の別れになるように、今日を限りに東京プリズンを去るように未練を残した口調で。
 どういう意味だと聞き返すより安田が踵を返すのが早かった。安田を追おうかどうしようか躊躇した僕の背後でレイジが「ボールを顔面キャッチしたおにいちゃんかっこわるーい」と笑い声をたて、怒りが瞬間沸騰する。
 「恵の真似をするなと言ってるだろう!恵の声はもっと可愛い、ヘリウムガスでも吸引して出なおしてこい!」
 ボールを両手にパスしつつ距離をとったレイジに走り寄った背中に一瞬だけ安田の視線を感じたが、振り向いた時にはもう安田の姿は遠ざかっていた。
 『元気でいてくれ』 
 普段の安田らしからぬ深刻な声音が脳裏に響き、胸騒ぎに襲われる。
 あれではまるで、最後の挨拶をしにきたみたいだ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051124235725 | 編集

 死ぬかと思った。
 「腹減った……」
 今日もまた腹を空かせた囚人たちでがやがやと騒がしい食堂。強制労働を終えた囚人たちが早いもん勝ちで席を争い、押しあいへしあいけなしあいはては取っ組み合いの喧嘩に及んでる。
 猥雑な活況を呈した食堂の片隅、空腹感に苛まれてテーブルに突っ伏す。
 今日は一日中ホセのマラソンに付き合わされた。だだっ広い中庭を夕方まで延々走らされて足が棒になった。疲れ知らずのホセは「いやはや、いい運動になりました」などとタオルで顔を拭きつつ爽やかにほざいていたが冗談じゃない、全力疾走したところで先頭のホセとの距離は全然縮まらなかった。
 初日なんだからもうちょっと手加減してほしい。
 しかしレイジといいホセといい、東西南北トップの運動神経は化け物じみてる。喧嘩じゃそれなりの場数を踏んで、体力にも多少は自信がある俺がホセの脚力と持久力には驚かされた。きっと肺活量がすごいんだろう、ホセときたら「ファイト―ファイト―」と叱咤しつつ酸素不足でふらついてる俺の脇を走りぬけてくれやがった。つまりその時点で一周差がついてたわけだ。
 一週間特訓を続けたところで俺がホセを追い抜く日がやってくるとは思えない。一瞬たりとも隣に並ぶのさえ不可能な現状なのに。
 テーブルに突っ伏して死んでる俺の正面には鍵屋崎が座ってる。何故かこっちも死にそうな顔色だ。顔に濃厚な疲労感を漂わせ、上品に味噌汁に口をつける鍵屋崎をテーブルに頬を預けただらしない姿勢で仰ぐ。
 「なんかあったの。疲れた顔してるけど」
 「昨夜、飲んで暴れた君に付き合わされて酷い目にあったからな」
 しれっとうそぶいた鍵屋崎の言葉に途端に背筋が伸びる。はじかれたように上体を起こし、テーブルに両手をついて身を乗り出す。たいして美味くもなければ不味くもなく、味を感じてるのかさえ謎な無表情で味噌汁を啜る鍵屋崎に食ってかかる。
 「……俺、本当に昨日なにやったの?」
 頼むから教えてくれと哀願の調子で訊ね、すがるような眼差しを注げば、不快な記憶を反芻したらしき鍵屋崎が眉をひそめる。なにその意味深な反応。酒を飲まされたあとの記憶がふっつり途切れてるせいでレイジに真相を明かされた今も昨夜の行動に確証が持てない。頭を抱え込み自己嫌悪の泥沼に沈んだ俺を見下ろした鍵屋崎が、味噌汁から口をはなして何かを言いかけ。
 「覚えてないなんて薄情だな。何百何千の大観衆が見守るリングの上で鍵屋崎の首にキスしたくせに」
 「な……!?」
 嘘つけこの野郎、と隣の席のレイジを罵ろうとして背中に冷水を浴びせ掛けられたような悪寒が走る。正面に座ってた鍵屋崎の襟首を問答無用で掴み、トレイをどけてテーブルに片膝のせ、抗議する暇も与えずに
首筋を確かめる。鍵屋崎の首には青黒い痣ができていた。タジマの指の痕だ。しかしそれより何より注目すべきはその下の赤い斑点。
 キスマークだ。
 「…………、」
 やっちまったか。
 茫然自失の体で鍵屋崎の襟首を突き放し、脱力して椅子の背凭れに背中を預ける。
 どうやら俺は酔った勢いでとんでもないことをしでかしたらしい。いや、正確には自分から飲んだのではなく飲まされたのだがそんなの言い訳にもならない。鍵屋崎の首に昨日今日できたばかりの発色あざやかなキスマークがあるってこたつまり俺は鍵屋崎を押し倒して首にキスしたのか?何百何千のギャラリーが食い入るように見守るリングの上でよりにもよって男相手に鍵屋崎に強姦未遂を働いたのか?
 どうりで食堂に入ったときから、いや、廊下を歩いてるときから周囲の連中の視線が痛いはずだ。俺が通りかかるとそれまで談笑してた連中がぴたりと話を止めてこっちを凝視するし、何だか変だと思っていたのだ。自己嫌悪の泥沼に沈みこんだ俺の肩を叩き、笑いを噛み殺した表情でレイジが励ます。
 「そう気に病むなって、ヤっちまったもんはしかたねーだろ。おまえが東京プリズンの全囚人が見守るリングの上でキーストア押し倒して体中あちこちにキスしてそれ以上のことまでしでかしたのは事実なんだがら。リングで公開プレイで公認カップルだ」
 「タチの悪い冗談を言うんじゃない」
 これ以上なく不愉快げに眉をひそめた鍵屋崎が、弛んだ襟刳りを直しながら付け加える。
 「ロン、これは君につけられたものじゃない。レイジの冗談を真に受けるな」 
 俺じゃない?じゃあだれにつけられたんだよ。
 俺が疑問の声をあげるより鍵屋崎の隣のサムライが味噌汁の椀を置く方が早かった。トレイに椀の底を叩きつけたサムライが不機嫌な仏頂面で鍵屋崎に向き直る。普段感情を表にださないサムライが腹の底で燻る怒りと不快さを押し殺し、おそろしく物騒な眼光で鍵屋崎を射竦める。
 「……だれにつけられたんだ」
 「君には関係ないだろう」
 「関係ないことはないだろう」
 「食事中に話す内容ではない」
 無意識に首筋をおさえ、サムライの目から痣を隠した鍵屋崎がそっけなく話題を変える。実際サムライときたら鍵屋崎にキスマークをつけた人間を今すぐ斬り殺しそうな剣幕なのだ。気迫をこめた口調と真剣な目つきで詰問された鍵屋崎が、サムライの頑固ぶりにあきれたようにため息をつく。
 「……ボイラー室に監禁されてるとき、凱の子分につけられた。念の為断っておくが合意の上の行為だ。君が口だしすることではない」
 合意の上?潔癖症の鍵屋崎が合意の上で、納得づくで凱の子分と乳繰り合ったってのか?
 あっけらかんとした鍵屋崎の台詞に仰天し、箸を取り落とした俺よりもさらに驚愕したのはサムライで、知らず力をこめていた手の中で箸が真っ二つに折れ砕けた。傍目に気の毒なくらい動揺したサムライをよそに鍵屋崎は淡々と食事を再開、育ちのよさを醸し出す上品なしぐさで音もたてずに味噌汁を啜る。
 「ともかく相手は俺じゃないんだな。あーよかった」
 「よくはない」
 安堵に胸撫で下ろした俺に憮然とサムライが呟く。
 「レイジ、おまえでたらめ言って驚かすなよ。本気にしちまっただろうが」
 「昨日のお返しだ」
 昨日のお返し。昨夜、酔っ払った俺がリングに殴りこんで試合をめちゃくちゃにした挙句に仲直りの握手を強いた事実は直接レイジから聞かされたがてんで実感がわかない。レイジは昨夜のことをまだ根に持って俺が鍵屋崎押し倒したなんだくだらない嘘ついたのか。
 意地悪な王様だ。
 それはともかく、レイジとサムライが仲直りしてくれてよかった。レイジとサムライの仲直りに一役買い、酒に酔った昨日の俺もひとつは善行をしたと気がラクになる。東京プリズンの囚人が一堂に会した地下停留場のリングで握手させるのはやりすぎだと思わないでもないが、レイジもサムライもお互い頑固だし荒療治に踏みきらなきゃあのままずっと平行線を辿ってた気もする。
 レイジとサムライに関しちゃ問題ない。問題大ありなのは、酒に酔った勢いで参戦表明した俺と何故かそれに同調した鍵屋崎だ。
 「……とんでもねーこと言っちまったな」
 「今さら後悔しても遅い」
 次の試合のことを考えると頭痛がしてくる。箸を掴んだままこめかみにこぶしをあてれば、こんな時でもひどく冷静な鍵屋崎が眼鏡越しの双眸を細める。
 「参戦表明はもう取り消せない。他の囚人には僕と君もレイジたちの仲間と認識された。君に関して言えば、何百という数のギャラリーの眼前で凱に宣戦布告した手前次の試合を辞退すれば臆病者だ腰抜けだと誹謗中傷されるのは確実。それを何というか知ってるか」
 「何て言うんだ」
 「自業自得」
 なるほど。
 「自業自得と後ろ指をさされたくないなら潔く有言実行しろ。凱にはこれまでさんざん痛めつけられてきたんだ、公式に与えられた復讐の機会を存分に生かせ」
 神経質な手つきで眼鏡の位置を直した鍵屋崎に毅然と告げられ、その眼光の鋭さに生唾を嚥下する。これはもうお遊びじゃない、俺はもう引き返せないとこまできちまった。鍵屋崎の言うとおり潔く腹を括るしかない。大丈夫、一週間ありゃ何とかある。俺には頼もしいコーチがついてるんだから。
 口の中でくりかえし自己暗示をかけて椅子に座り直した俺の隣、レイジが席を立つ。
 「お先に失礼っと。トレイ返してくる」
 先に食事を終えたレイジがどっかの給仕よろしく片手にトレイを持ってカウンターに向かう。その後ろ姿を見送り、トレイを見下ろす。鍵屋崎と話しこんでたせいで遅々として食事が進まず、結果まだ六割が残ってる。時間切れになるまえに飯の残りをかっこもうと箸を握りなおせば背後に足音が接近。
 「くそっ、半半と親殺しが何様のつもりだありゃ」
 「レイジとサムライにケツ貸す見返りに守ってもらってる嬢ちゃん二人組が、凱さんに喧嘩売ってただですむと思ってんのかね。めでてーな」
 「知ってるか、半半が東京プリズンにぶちこまれたワケ。ガキの抗争で手榴弾投げたんだよ。素手じゃ勝てないから手榴弾のピン抜いたんだ。くそったれ台湾の血が半分入ってるやつあ腰抜けのタマナシだ」  
 会話の内容から察するに、俺たちに反感を持ってる凱の子分だ。
 「―ちっ」
 舌打ち。陰口には慣れてる。むきになれば相手を喜ばせるだけ、いちばん賢い対処法は無視だ。背後に接近する足音は聞こえぬふりでさあ飯をたいらげようと食器を抱え持ち、

 味噌汁を頭にぶっかけられた。

 「………」
 正面の鍵屋崎が息を呑む。
 俺の背後じゃ凱の子分二人組が笑ってる。俺の頭の上でひっくり返されたのはアルミの深皿で、俺の頭にぶちまけられた味噌汁が髪をぬらし顎から滴り上着を汚し、ズボンに染みて床にこぼれていた。味噌汁がぬるいせいで火傷しなかったのがせめてもの救いだが、ワカメを顔に貼り付け放心状態で椅子に座りこむ俺の周囲じゃ一部始終を見ていた囚人どもがこっちを指さして爆笑してる。笑いすぎて椅子を蹴倒し床に転がりそれでもまだ笑い止まず、滂沱の涙を流して腹筋を痙攣させる。陸揚げされた魚がのたうちまわるように周囲の囚人が笑い転げる中、鍵屋崎は箸を持ったまま硬直し、その隣のサムライが気色ばむ。 
 レイジはまだ帰ってこない。そうか、レイジがいない隙を見計らって俺に手をだしたのか。
 レイジがいないなら安心だ、仕返しされるおそれもない、半半なら大丈夫だどうせ口だけだレイジがいなけりゃ何もできやしないんだから。 
 口の中が塩辛い。口に流れこんだ味噌汁の味だ。顔にへばりついたワカメを払い落とし、椅子を蹴倒して無言で立ちあがる。服には味噌汁が染みて濃い異臭が匂う。髪も服もべとついて不快でどうしようもない。
 味噌汁の染みは手洗いで落ちるかな、と漠然と考えつつトレイにのったアルミ椀をひったくる。
 お袋ごめん。言いつけ破る。
 食い物粗末にするのは罰当たりだけど、もう我慢できねえ。
 「味噌汁くせーな」
 「床にこぼれたぶんも一滴残らず啜れよ」
 そして俺は振り向きざま、背後に突っ立ってたガキの顔面にお返しとばかりに味噌汁をぶちまけた。
 「!?ぶっ、」
 「な、なにすんだこいつっ!」
 顔面に味噌汁をかけられたガキがよろめき、その隣のガキが憤怒の形相で掴みかかってくる。油汚れの目立つ食堂の床を蹴ってとびかかってきたガキに胸ぐらを掴まれテーブルの天板に背中を強打、俺が背中から倒れた衝撃でトレイが派手にひっくり返り食器が中身をぶちまけて宙に舞う。
 床になだれ落ちた食器が乱雑な金属音を奏で、たまたま近隣に居合わせた囚人の顔面に味噌汁の飛沫が跳ねて野菜の切れ端がへばりつく。
 「調子のりやがって!雑種は雑種らしく床に這いつくばって犬食いしてろっ」
 「人の頭に味噌汁ぶっかけるようなやつに食事作法指図されたかねえ、箸の握り方から覚えなおしてきやがれくそったれが!!」
 力づくで押し倒され、胴に跨られた体勢で唾をとばして相手を罵りながらテーブルを手探り、そばに転がってたアルミ皿を手繰り寄せる。
 「ぎゃっ!!」
 今まさにこぶしを振り上げ俺を殴らんとしたガキの額に、手にしたアルミ皿をおもいきりぶつける。額を痛打された激痛にうめいたガキが体を起こした瞬間、両足を揃えて跳ね上げて鳩尾に蹴りを入れる。鳩尾に蹴りを食らって吹っ飛ばされたガキがもんどり打って床に転落、床一面に散乱した食器が落下の衝撃に弾む。残飯にまみれたガキの連れが「くそっよくも!」と鼻息荒く突進。テーブルを背にした俺が紙一重で体当たりをかわせば、目標を見誤ったガキが加速した勢いでテーブルに乗り上げ、その巻き添えで鍵屋崎がもろに顔面に味噌汁をかぶる。
 「ざまあみやがれ、凱の子分どもはボス猿ぞっくりで動きが鈍いな!」
 「凱さんにびびってちびってた腰抜けに言われたくねえ!」
 「びびってなんかねーよ、その証拠にリングの上で決着つけてやる!」 
 事態はもう収拾つかない。
 テーブルに乗り上げたガキが無関係の囚人のトレイを蹴散らして不興を買い、巻き添えで食器をひっくり返され飯にありつけなくなった囚人が逆上。「おれの飯を返せ!」「おまえに食わせるたくあんはねえっ」とはげしい口論があちこちで勃発。テーブルと床一面に食器と残飯が散乱し、怒号と罵声が飛び交う修羅場と化す。
 堪忍袋の緒が切れた。味噌汁ぶっかけられて穏便なふりができるほど俺は人間ができちゃいない。
 「なに勘違いしてんだ半半、てめえは今ここで死ぬんだから次の試合なんか出られるわきゃねーだろ!」
 俺に味噌汁かけた張本人が再び突っ込んでくる。突撃、衝撃。床に転倒した俺の前髪を鷲掴んだガキが目を炯炯と輝かせ―
 『Stop!』
 騒動を静めたのは王様の一声だった。
 カウンターにトレイを返却したレイジが高らかに手を打ち鳴らして解散を告げれば、床やテーブルで取っ組み合っていた囚人が憑き物が落ちたように大人しくなる。王様の影響力は絶大だ。王様の命令に逆らえる者なんてだれもいやしない。
 床に仰臥した俺の頭上に立ったレイジが、意味ありげな流し目を食堂中央部にくれる。
 「決着はリングに持ち越し。だよな、凱?ギャラリーの眼前でロンぶちのめすの楽しみにしてたのに、でしゃばりな下っ端に先越されちゃつまんねえよな」
 食堂中央部のテーブルを占領しているのは凱とその一党。
 中央テーブルから少し離れた場所で起きた騒動を宴の余興として飯食いながら見物してたらしい。上座に陣取った凱が、レイジに話を振られて不敵に鼻を鳴らす。
 「……さっさと戻って来い」
 凱に顎をしゃくられた二人組が這う這うの体で戻ってゆく。食堂を一望する上座にふんぞり返った凱は忌々しげにレイジを睨み付けていたが、床に尻餅ついた俺に視線を転じるや獰猛な笑顔になる。
 「『リングで決着つける』。その言葉に嘘はねえな」
 「……ああ」
 尻をはたいて立ち上がり、反発をこめて凱を睨みつける。凱は尊大に腕を組んで椅子にふんぞり返っていた。巌のように筋骨隆々の体躯に殺気を凝縮し、嗜虐の予感に目を蕩かせて唇を舐める。
 「逃げたら承知しねえぞ。どこまでもどこまでも追いかけてたっぷり俺様に喧嘩売ったこと後悔させてやらあ。お前が東京プリズンでようが関係ねえ、必ず見つけ出してケツ掘ってから殺してやるよ」
 凱なら今言ったことを本気で実行しかねない。 
 だから俺は今この場できっぱり宣言する、凱と絶縁するために凱と決着をつけてやると。
 「……ここ出てからもお前に付き纏われるなんざうんざりだ。次の試合で綺麗さっぱり縁切ってやる」
 食器と残飯がばらまかれ、味噌汁で足がすべる惨状を呈した食堂の床を踏み、等間隔に配置されたテーブルと東棟だけで何百人という囚人の頭を越えてまっすぐに凱を指さす。
 そうだ。遅かれ早かれ凱とは決着をつけなきゃいけなかった。
 これ以上凱に付き纏われるのはごめんだ、俺はこれからも東京プリズンで生きていきたい。東京プリズンで生き抜くためには強くなるしかない、レイジの背中に隠れなくても戦えると証明するしかない。
 これは俺が生き抜くために避けて通れない一対一の喧嘩だ。
 東京プリズンにおける居場所をもぎとるための真剣勝負。
 耳が痛くなる静寂に支配された食堂に、俺の宣戦布告が明朗に響き渡る。
 「……格好つけるのは結構だが、その前に顔を洗ってきたらどうだ」
 食堂に集結した囚人全員が固唾を飲む中、顔に味噌汁を浴びた鍵屋崎がなげやりに言った。
 上着の裾で眼鏡を拭きながら。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051123235835 | 編集

 とんだ災難だ。
 この刑務所の囚人の食事作法が犬にも劣ることは重々承知していたがせめて物を咀嚼する間くらい静かにできないものか。一日の強制労働で疲れ果てているにもかかわらず何故喧嘩する活力が有り余ってるのか理解不能だ。きっかけはロンの応酬だが、そもそもの元凶はロンに味噌汁をかけた囚人だ。
 以前のロンなら余程のことをされても耐えていた。油汚れに照る床に膝をつかされ、囚人に蹴られた食器を追ってあちこち這いまわる羽目になっても、発作的暴力に及ぶような短慮な行動は慎んでいた。昨夜の宣戦布告を経てロンにも心境の変化があったのだろうかと勘繰ったが、本人のとぼけた様子からしてまったくこれっぽっちも覚えてない可能性が強い。
 勝手に人の意志を代弁して参戦表明をしたくせに、なんて人騒がせな人間だ。
 ロンが味噌汁をかけ返したせいで、食堂は目も覆わんばかりの惨状を呈した。テーブルで床で、食堂のあちこちで囚人たちが取っ組み合い罵り合い派手な喧嘩に及んだ。ひっくり返ったトレイと中身をぶちまけた食器が滝のように落下した床で乱雑な金属音を奏で、僕もその巻き添えで顔面に味噌汁をかぶる羽目になった。
 受難だ。受難続きだ。
 レイジの介入で一件落着したのだが、どうせなら僕に被害が及ぶまえに仲裁に入ってほしかった。僕が味噌汁を顔面にかぶり、まだ全部は食べてなかったトレイがひっくり返された頃に登場されても素直に感謝できない。どころか、何故今ごろ登場するんだ焦らしに焦らしてロンに恩を売ってるつもりかと下心を疑いたくもなる。
 それと言うのもレイジの人間性に信用がおけないからだ。
 とりあえず、味噌汁を顔にかぶり食事を中断された僕は早々に席を立った。残飯まみれの床に死屍累々と倒れた囚人の惨状を呈した食堂にこれ以上居残っていてもどうしようもない。覆水盆に帰らず。ひっくり返ったトレイは元には戻らない。
 食堂から帰ったその足で洗面台に直行し髪と顔を洗った。服も洗った。執拗に手で擦っても味噌汁の染みはなかなか落ちずに苛立ちが募った。外にいた頃は洗濯は家政婦に任せていた、自分の手で私物を洗うという行為が習慣化したのは東京プリズンにきてからだ。鍵屋崎の家では戸籍上の両親は研究に講義にと忙しく、とても家事にまで手が回らなかったのだ。鍵屋崎優の助手として研究に加わっていた僕も例外ではない。ここに来るまで僕は自分の靴も洗ったことがなかった。自分でやってみて初めて、手揉み洗いも結構むずかしいんだなと実感した。新発見だ。
 夕食後は自由時間だ。
 強制労働から解放された囚人が廊下や階段の踊り場や自分の房で、賭けや読書や猥談や各自の趣味に耽るこの時間帯が東京プリズンは最も騒がしい。鉄扉越しに廊下の喧騒を聞きながら、味噌汁の染みを洗い落とした上着を見下ろし、満足の吐息をつく。完璧主義な性格ゆえか、神経質な性向ゆえか、たまたま目についたほんのちょっとした汚れでも完全に落とさなければ気が済まないので手洗いを終えるのに時間がかかった。
 蛇口を締め、水を止める。力をこめて水を絞り、パイプベッドに接近。吊るす物がないので、パイプベッドのパイプに上着をかけておく。
 これでよし。あとは乾くのを待つだけだ。
 一仕事終えた満足感と爽快感に額を拭う僕の背後、サムライはその存在を忘れさせる静けさで黙々と墨を擦っていた。今日もまた日課の写経に励んでいるのだ。
 ペア戦参戦表明をしたところで、東京プリズンでの日常は変わらない。
 周囲の囚人の態度が若干変化したぐらいのもので、僕自身の生活に多大な影響がでたわけではない。少なくとも、現時点では。
 それはともかく、今日のサムライは何故だかいつも以上に近寄り難い仏頂面をしている。食堂の一件からずっとこうだ。さっきの会話のどこが気に障ったのか理解不能、意味不明だ。僕がボイラー室に監禁され凱の子分にキスマークをつけられたと話した時からずっと不機嫌に墨をすり続けている。
 「何が気に障ったんだ。延々墨をすり続ける奇行で現実逃避するくらいなら率直に話してくれ、傍で見ていてとても不気味だ」
 「気に障ってなどおらん」
 「嘘をつくんじゃない、なんだその眉間の皺は。鏡を見てみろ、今の君はこの上なく不愉快な顔をしてるぞ。不愉快な君と沈黙を共有する僕こそ不愉快だ。沈黙の相乗は相手を不快にさせるだけだといい加減気付け」
 指摘され、ますます眉間の皺が深くなる。サムライは本心の読みにくい仏頂面だが、この頃は僕の前ではよく感情を表すようになった。半年付き合ってみればひどくわかりやすい男だ。凛と背筋をのばし、端然と正座した姿勢で手を前後させ墨をするサムライの背中に歩み寄れば、僕の方も見ずに返事を返す。
 「……男に気安く肌をさわらせるなど警戒心がたりん」
 「ボイラー室の一件がへそを曲げた原因か?」
 「接吻の痕のことだ」
 「古いな。キスマークといえ」
 現代、「接吻」などと口にする日本人はサムライくらいのものだ。遅れてきた武士らしく堅苦しく古臭い物言いに失笑すれば、墨をおいてこちらに向き直ったサムライが憤然と言う。
 「おまえは迂闊すぎる。合意の上だか何だか知らんが、ここは外とは違う。……本当に惚れてもいない人間と安易にそういう行為に及べば必然自分の身を危険に晒す。平気で自分を粗末にする真似は感心しない」
 「僕を守って自分をぼろぼろにした人間が言っても説得力がない」
 間髪入れず返せば、痛いところを衝かれたサムライが渋面をつくる。
 「……あれはやむをえん。友を守るために死地に赴かねば武士の誇りが貫けん」
 「矛盾してないか?」 
 ややわざとらしく咳払いしたサムライが、真剣極まりない顔でまっすぐに僕を見据える。
 「……もっと自分を大事にしてくれ、直。でなければ俺も戦い甲斐がない」
 『守り甲斐がない』
 最後の台詞が、僕にはそう聞こえた。
 寡黙で口下手なサムライが珍しく長文をしゃべる。ひどく真面目な顔つきで、ひとつひとつ言葉を吟味して、自分の気持ちを正しく僕に伝えようと不器用なりに努力してる。サムライは感情表現がへただ。東京プリズンに来るまでずっと剣一筋の人生で過酷な修行に耐えてきて、身内以外の人間とは触れ合う機会がなかったのだから無理もない。僕とて似たり寄ったりの環境で育った。
 本当に心を許せる人間はただひとり、恵だけ。サムライにとって苗がそうであるように。
 サムライの気持ちはよくわかる。痛いほどよくわかる。半面、どうにもやりきれないものを覚える。
 眼鏡の弦に手を触れ、できるだけ平静を保ち、ひややかにサムライを見る。
 「何か勘違いしてないか。僕はもう『手遅れ』だぞ」 
 そうだ、僕は既に手遅れだ。売春班での一週間でさんざん複数の男に弄ばれた身だ。耐え難い日々の記憶は鮮明に脳裏に焼きつき、寝ても覚めても何をしていても肌を這いまわる手の感触が体と心を責め苛む。
 「既に十数人の男に抱かれた身だ。今さら他の男と寝ようが体が汚れようが抵抗はない。必要とあらば誰とでも寝る、僕はもうそうして生きてくしかない」
 ボイラー室でのあれは仕方なかった。必要に迫られての行為だ。僕は最も効率的な手段を採用しただけで、あの時あの場にいなかったサムライにとやかく言われる筋合いはない。それを聞いたサムライが悲痛な顔をした。サムライは優しい男だ。僕が虚勢を張ってることがわかって、僕が本当は自己嫌悪に押し潰されそうなことを知って、他人の心の痛みに敏感に物憂げな表情を浮かべているのだろう。
 サムライは優しい。
 だから時々、いやになる。耐えられなくなる。今の自分がみじめでしょうがなくなる。
 だからつい、口を滑らせてしまったのだ。侮るように嘲るように。
 「君は苗にもそう言ったのか。他の男に肌を見せるな、他の男と口をきくな、節操がないぞと口うるさく。意外と独占欲が強いんだな。苗は君にとって姉的立場の人間だろう、弟みたいに思っていた人間に小言を言われるのは不愉快―」
 
 すずりがひっくり返り、床一面に漆黒の墨汁が広がった。

 「………、」
 サムライが衝動的に立ち上がった反動ですずりがひっくり返り、墨汁が床を染める。胸ぐらを掴まれ、窒息の苦しみを味わう。外では日常的に真剣を握ってたせいか、サムライの握力は強い。床から足裏が浮く体勢で吊られ、驚愕の表情でサムライを見上げる。
 サムライは激怒していた。
 感情の読みにくい仏頂面でいることが多いサムライが、今は怒りをむきだしている。その全身に迸るのは、不浄の血にぬれた刀を払えば巻き起こる風めいてなまぐさい殺気。猛禽の双眸に憤怒を煮え滾らせ、痛苦と慙愧とが入り混じった正視に耐えないほど悲痛な表情で、サムライが口を開く。
 漏れたのはかすれた声。
 「二度と言うな」
 「?……なにをだ」
 僕は混乱していた。何故これほどサムライが怒るのかわからない、激烈な反応の意味がわからない。どの個所が気に障ったんだ?意外と独占欲が強い?それとも……
 『苗は君にとって姉的立場の人間だろう、弟みたいに思っていた人間に小言を言われるのは不愉快―』
 憑き物が落ちたようにサムライの指から力が抜ける。
 小さく嘆息し、サムライが背中を翻す。そして、常になく取り乱したことを恥じるように顔を伏せる。
 「俺はただ、これ以上お前に傷付いてほしくないだけだ。お前はもう十分すぎるほど傷付いた」
 再び正座したサムライが尻ポケットから手拭いを取り出し、床に這いつくばって墨汁を拭き取る。こんな時でも几帳面な男だとあきれる。サムライと背中合わせに屈みこみ、拭く物がないかと周囲を捜せば写経用の半紙が目に入った。半紙を手に取り、床の墨汁を吸わせる。墨汁が染みた半紙を見下ろし、呟く。
 「僕は悪くないぞ。謝罪もしない」
 無言のサムライにうしろめたさを覚え、俯く。
 「だが、今のは失言だった。僕は天才だから凡人に頭を下げなどしないが犯した過ちは謙虚に認める」
 苗の名前にサムライが過剰反応するのは無理ない、それだけ苗はサムライにとって大切な女性だったのだから。苗を侮辱したレイジを殴り飛ばした僕が同じ過ちを犯した皮肉に思い至れば、背中合わせのサムライが手際良く墨汁を拭きながら言う。
 「ならば今度から他の男に気安く肌を見せるな。くりかえすが、お前は警戒心がなさすぎる」
 説教にむっとし、陥穽を指摘する。 
 「『他の男』とわざわざ限定したということは、君になら肌を見せてもいいんだな」
 「!なっ……、」
 「そういう意味だろう。違うのか」
 「断じて違う。俺に男色の趣味はない、男の肌など見てもつまらん」
 「君も男だな。やっぱり女性のほうがいいのか。レイジにさんざん童貞呼ばわりされていたが真相のほどは」
 「ゲスな詮索に答える義務はない」
 ふと振り返れば、サムライの横顔が赤く染まっていた。この手の話には免疫がないらしい初々しい反応だ。別にサムライの初体験がいつで相手が誰だろうがどうでもいいが、サムライの精神的優位に立てる機会などそんなにない僕はさらに追及しようと。
 「囚人集合!!」
 廊下で大声が響いた。なんだろう?サムライと顔を見合わせ、二人して廊下に出る。看守の指示に従い、囚人が廊下に整列。僕とサムライも二人して列に加わる。
 「上から連絡事項。喜べ、いい知らせだ。睡眠薬支給の認可がおりたぞ」
 僕たち囚人を廊下に並べた看守が告げた台詞に、いつだったか安田に聞かされた内容を思い出す。夜もよく眠れない囚人のために希望者には睡眠薬を配ろうと検討中で、僕はその試験台として睡眠薬をもらったのだ。囚人の睡眠に配慮した良心的提案は安田の取り計らいで実現に至ったらしい。 
 「睡眠薬が欲しい奴は医務室へ行ってその旨伝えること。念の為言っとくがこつこつ貯めて睡眠薬自殺なんざ考えるなよ、てめえら罪犯してぶちこまれた囚人がラクに死のうなんざ虫がよすぎだ。よっぽど不眠症に苦しめられてる奴じゃなきゃ認可がおりねえらしいからその点は大丈夫だろうがな。おいそこ、油性マジックで目の下塗って寝不足の隈つくろうとか話してんじゃねえ、しっかり聞こえてるぞ」
 警棒で肩を叩きながら看守が説明し、一列に並んだ僕たちを見まわし最後に付け加える。
 「現実は地獄なんだ。せめて夢の中じゃ楽しめるといいな」
 にやりと笑い、あとはもう用はないと手で追いたてて看守が解散を告げる。その足で医務室へ直行する者、それぞれの房に戻る囚人、廊下に居残りトランプゲームを再開する囚人と解散後の行動はさまざまだ。「睡眠薬かー」「俺あとでもらってこよ」「寝過ごして点呼に間に合わなかったら睡眠薬のせいにすりゃいいのか」「ばーか。それで勘弁してくれるわきゃねえだろ」……おもいおもいの感想を述べつつ立ち去る囚人を見送り、サムライと一緒に房に引き返す。
 「貰ってこなくていいのか」
 「後でいい。今は囚人で混んでるはずだ」
 僕がよく眠れないことを気に病んでたらしいサムライに訊ねられ、そっけなく返す。
 「睡眠薬の効き目は折り紙つきだ。よく眠れないときは君も試してみればいい」   
 「?まるで飲んだことあるような口ぶりだな」
 「それは、」
 そうだ。サムライには安田に睡眠薬をもらったことを言ってなかった。手錠を外すため、見張り役の囚人に口移しで睡眠薬を飲ませたことも。
 睡眠薬を飲ませた数秒後には僕の膝の上でいびきをかいていた囚人の寝顔を思い出し、口元に自然と笑みが浮かぶ。愉快さを噛み殺しきれずに浮上した笑み。
 「実際に飲んだのは僕ではないが、モルモットで試したところ効果抜群だった」
 サムライは釈然としない顔をしていた。

                       + 
   
 
 深夜。そっとベッドを抜け出す。
 パイプにかけた上着はまだ完全には乾いてないが、贅沢は言えない。生渇きの袖に腕を通し、裾を下ろす。スニーカーを履く。隣のベッドに視線を転じる。サムライはよく眠っているようで、かすかに規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライの安眠に配慮し、物音をたてぬよう慎重にドアへと向かう。
 廊下には冷え冷えと蛍光灯が輝いていた。囚人が寝静まった廊下はおそろしくしんとしてる。消灯時間を過ぎて外を出歩いてるのがばれたら処罰は避けられないが、僕は運が良いらしく深夜徘徊を看守に咎められたことはない。それに今の時間なら医務室も空いてるはずで、行列に並ばなくても睡眠薬が手に入る。効率を重視するなら多少の危険を犯しても深夜に医務室を訪ねるのが賢い。
 医務室に行って戻ってくるまで、急げばそう時間はかからない。 
 東棟の廊下を歩き、渡り廊下に至る。前回はこの渡り廊下を渡りきったところで凱たちに遭遇した。看守よりむしろ警戒しなければならないのは、階段の踊り場や物陰などで話しこんでる囚人だ。僕と同じく消灯時間を過ぎても寝つけない夜行性の囚人はたくさんいる。
 緊張して渡り廊下を渡る。周囲に注意を配り、いつどこから何が飛び出てきても対処できるよう身構えていたが、幸い何も起こらなかった。渡り廊下を渡り、中央棟に到着。医務室の方角に足を向ける。
 『何か勘違いしてないか。僕はもう『手遅れ』だぞ』 
 脳裏に響くのはさっきの自分の言葉。自嘲の台詞。 
 『既に十数人の男に抱かれた身だ。今さら他の男と寝ようが体が汚れようが抵抗はない。必要とあらば誰とでも寝る、僕はもうそうして生きてくしかない』
 苦いものが口の中にこみあげる。今ごろになって、自己憐憫に酔って自暴自棄を気取った自分の言動に吐き気をおぼえる。確かに僕は手遅れだ。すでに十数人の男に犯されて体も心もぼろぼろに擦りきれた。
 しかし、自分で手遅れだと認めたらおしまいだ。
 サムライが戦い続ける限り、僕に抗う気力がある限り、決して手遅れなどではないと信じなければ僕がやってきたこともサムライがやってきたことも全部無駄になるじゃないか。
 僕もペア戦参戦表明をした。これからはサムライと共に戦うと決意した。
 自分の身は自分で守る。そんな単純で当たり前のこともできない僕など、鍵屋崎直を名乗る資格がない。恵の兄でいる資格がない。僕は強くならなければ。サムライの足手まといにならないように、サムライにあてにされるように―
 その為にはまず、自分の身を守る方法を学ばなければ。
 僕の武器はこの天才的頭脳だが、いざ押し倒されたり絞め殺そうになった時などいくら知能が高くてもどうにもならないと昨日嫌というほど学んだ。のみならず、レイジのボールを奪取するのさえ不可能な今の状態ではまた窮地に陥ってサムライの足を引っ張るだけだ。
 最悪の事態が発生した場合にそなえ、自衛の術を身に付けておいて損はない。
 一連の思考過程を踏み、結論に至った僕の前方に医務室のドアが現れる。しばらく歩き、医務室に到着。 さて、あの耄碌医者はまだいるだろうか?噂ではほかに家族もおらず、東京プリズン敷地内の職員宿舎に寝泊りしてるようだから中にいる可能性が高いが……そう考え、ドアをノックしようとこぶしを掲げ。
 「本当にやめるのかね」
 中から声が聞こえてきた。しわがれた医師の声だ。
 おもわずノックを引っ込め、中の声に耳を澄ます。
 「……ああ。私はもう、東京プリズンにいる資格がない」
 「そんなに思い詰めることでもないと思うが……」
 医務室には先客がいるらしい。医師とふたりきりで何やら深刻に話しこんでる。
 「既に辞表は書き終えた。あとは所長に提出するだけだ」
 「きみがいなくなると寂しくなる。常連をひとり失うことになるからね」
 「刑務所の職員が医務室の常連になるなど誉められたことではない」
 「こんな職場環境で精神を病まないほうが異常だと思うよ。不眠症は罪悪感の証明だ。こんなことを言っても説得力はないだろうが、ワシも診断を偽るたびに良心の呵責に苦しんでおる。いくら看守に脅されたからとはいえ、骨折を捻挫と偽り指のヒビを何でもないと偽り負傷した囚人を強制労働に向かわせ……」
 医師の懺悔に驚く。
 僕たち囚人のことなど何も考えず、見て見ぬふりの自己保身を最優先してるように見えた医師がそんな風に思っていたなんて。彼もまた人間だったということだろう。
 「きみと懇意にしてる囚人には悪いことをしたよ。なんと言ったか……かぎや……かぎや?」
 「鍵屋崎。鍵屋崎 直」
 突然自分の名前をだされ、心臓が跳ねあがる。
 ドアの向こうでは平然と会話が続いてる。廊下に立ち尽くした僕の存在には気付かずに。
 「そう、鍵屋崎。ここに来た最初の頃、イエローワークで怪我をして訪ねてきたのだが指のヒビを適当に診て返してからというもの嫌われてしまってね……どうにも信用されてないようだ。無理からぬ話ではあるが。しかし、彼もたった半年でずいぶんと逞しくなった。こないだ手首を捻挫した友人を担いで来たときは驚いた。このヤブ医者めと怒鳴られてしまったよ」
 「悪気はないが思ったことをすぐ口にだす性格だからな」
 医師の話し相手が苦笑する。僕のことをよく理解してるような口ぶりで。
 「半年あれば人も変わる。特にこんな環境では変わらざるをえない。……徐徐に表情豊かになってゆく彼の変化を見届けられないのは少し残念だが、それもこれも私が撒いた種だ」 
 この声、聞き覚えがある。平板に落ち着いた口調、教養深い声。
 「今まで世話になった」
 「君も元気で。睡眠薬が欲しくなったらまたいつでも来てくれ」
 「はるばる砂漠を越えてか?睡眠薬を手にするまえに夜が明けそうだな」
 冗談めかしたやりとりのあと、話し相手が席を立つ気配。何かに気付いた医師が「おっと」と声をあげる。
 「背広を忘れているよ」
 「……私としたことが迂闊だった」
 心臓の動悸が速まり、喉が緊張に乾く。いやな予感に胸がざわめく。この声、つい最近どこかで聞いた。
 今日の昼中庭で、僕が落としたバスケットボールを拾って。
 『……元気でいてくれ』 
 その瞬間、僕はノックもせずドアを開け放った。廊下で立ち竦んだ僕に医師がぎょっとして椅子から腰を浮かし、その手から背広を受け取ろうとしていた男がこちらに向き直る。
 オールバックにした髪、銀縁眼鏡の奥の怜悧な双眸、皺ひとつないスーツ。副所長の安田がそこにいた。
 「どういうことだ」
 混乱のあまり敬語を使うのを忘れていた。どういうことだ一体、今の会話はなんだ?目に映る光景が理解できない。いや、頭が理解を拒んでいる。僕に注意を奪われた医師の手からするりと背広が落ち、床に広がる。背広の内ポケットからこぼれ落ちた封筒の表には、はっきりとこう書かれていた。
 僕とよく似た、右上がりの潔癖な筆跡で。

 『辞表』
 
 辞表……辞職?
 安田が辞職する?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051122000113 | 編集

 「……どういうことだ?」
 口の中が乾く。
 目に映るのは何の変哲もない医務室の光景。開け放たれたドアの向こうでは椅子から腰を浮かせた医師と安田が驚愕の表情でこちらを凝視。そして、医師の手からすべり落ちた背広からはみでたのは一通の封筒。

 辞表。安田が東京プリズンをやめる?

 「辞表」の意味を理解し、現実として受け止めるのに数秒を要した。深夜、睡眠薬をもらいに医務室を訪ねたついでに医師と話しこんでいたらしい安田が、椅子の背凭れに手をかけて目を見開いている。
 気付けば荒荒しく医務室に踏みこんでいた。ドアも閉め忘れたまま、肌寒い外気が吹き込んでくる中に混乱した頭で歩を進める。視線の先には安田がいた。医師などはなから眼中にない。名伏しがたい衝動に足を繰り出せば心臓の動悸が速まり頭蓋の裏で鼓動が鳴り響く。
 時間がひどく緩慢に静謐に進行する錯覚が安田に至る道のりをはてしないものに思わせる。
 安田を目指し憤然と歩を進め、立ち止まる。安田と対峙する位置で立ち止まった僕は、緊張に汗ばんだ手を体の脇で握り締め、動揺を表にださないよう顔を伏せ呼吸を整え、安田の前でみっともなく取り乱さぬよう冷静になろうと自制する。
 「なんですかこれは」
 ひどく平板な声だった。頂点に達した怒りを理性で冷却して切り出せば、椅子の背凭れからゆっくり手をはなした安田が怪訝そうな顔をする。鈍い反応に苛立ちをこらえ、足元の背広を見下ろす。
 内ポケットからはみでた辞表を。
 「外で立ち聞きしていました」
 それを聞いた安田がわずかに目を見開く。椅子から腰を浮かせた中途半端な体勢の医師が咎めるように眉をひそめる。
 「副所長がここを、東京少年刑務所をやめるとは本当ですか?正気ですか貴方は、いったい何の理由があって……」
 だめだ、冷静であろうと思ったのに言葉の洪水が止まらない、自分の意志で制御できずにあとからあとからあふれだす。理性の箍が外れて頭に血が上り指に力がこもる、力をこめすぎた指が白く強張る。何故安田が辞職する?理由はなんだ?何の理由があったとしても安田が東京プリズンを去る決意を固めていることは間違いない、覆せない事実で動かしがたい現実だ。扉越しの会話からでも安田が既に辞職の決意を固めてることがよくわかった。安田が東京プリズンを去るということは二度と安田と会えなくなるということだ。イエローワークの視察に赴くこともなく医務室で偶然顔を合わすこともなく蛍光灯が冷え冷えと輝く廊下で立ち話することも今日を限りになくなる?
 何故僕はこんなに動揺してるんだ?
 安田が去ることに狼狽し、恐怖に近い感情に囚われているんだ?
 「君、何の用かね。消灯時間はもうとっくに過ぎたはずだ、用があるなら明日出直して……」
 「ヤブ医者は黙ってろ、診療偽証罪で医師免許を剥奪するぞ!」
 横から口を出した医師を感情に任せて一喝すれば、僕の剣幕に気圧された医師がびくりと首を竦める。消灯時間を過ぎて僕が医務室を訪ねた目的は混雑を避けて睡眠薬をもらいにきたからだが今やそんなことどうでもいい、些末な問題だ。今第一に優先すべきは安田の真意を確かめることだ。
 「話してください。何故突然辞表を?つい先日までは僕と普通に会話してたじゃないか、」
 安田にむかって一歩を踏み出す。痛ましい眼差しの安田は何も言わない。叱責にも耐え、罵倒にも耐え、殊勝な態度で立ち尽くす安田に胸を衝かれる。何だこの感情は、この感情の名前は?裏切られたような見捨てられたような、誰かの手を掴もうとしてその手が眼前から消失したような喪失感。
 「廊下で立ち話したついこないだ、貴方は僕に偉そうに説教したじゃないか。僕のことなど何も知りもしないくせにまるで父親のように偉そうに、年の離れた兄のように賢しげに。冗談じゃない、僕の家族は恵だけだ。年の離れた兄など存在しない、いや、両親だって僕には最初から存在しなかったも同然だ。それなのに何もかも見通したような口ぶりで人を心理解剖して適当な助言を与えて、」
 最初の出会いからつい先日までの記憶が鮮明に脳裏によみがえる。東京プリズンに到着した最初の日、僕を所長室に案内したのは安田だった。それから色々なことがあった、本当に色々なことがあって僕を取り巻く環境はめまぐるしく変化した。僕がイエローワークに配属されてからしばらくして、砂丘の頂上で安田と話をした。安田は「生き残るために友人をつくれ」と僕にアドバイスした。その時は反感しか持たなかった、友人など僕には必要ないと、この天才的頭脳があれば一人でも生きていけると過信して。
 「貴方はいつもそうだ。突然人の前に現れてはでたらめを言って僕を惑わせる神出鬼没の愉快犯だ、覚えているか、イエローワークの砂漠で僕に『友人をつくれ』と言ったな?東京プリズンで生き残る秘訣は信頼できる友人をつくることだ、信用ではなく信頼できる人間をつくることだと」
 「そうだ」
 「それからもたびたび僕の前に現れてはいい加減なことを言った。何様のつもりだ本当に、僕はIQ180の天才、遺伝子工学の権威たる鍵屋崎優に後継者と期待された鍵屋崎 直だぞ!?他人に心配されるほど落ちぶれてない、知能指数で劣る凡人に上から見下ろされて不愉快きわまりない!」
 何を言ってるんだ本当に、意味不明だ。僕は頭がおかしいんじゃないか、これじゃまるで自暴自棄の八つ当たりじゃないか。安田が辞職すると聞いた時から、衝動的にドアを開けて背広から落ちた辞表を目撃してから頭が混乱して考えを整理できなくて、今まで鬱積した安田に対するさまざまな感情が沸騰して。
 酷暑の砂丘で、深夜の廊下でふたりきりになれば安田は意外なほどよくしゃべり時折は親愛の笑顔さえ見せたのに。
 『元気でいてくれ』
 「こんな突然、」
 胸が苦しくなり、言葉に詰まる。喉に空気の塊がつっかえたみたいに呼吸が荒くなる。なにを取り乱してるんだ僕は?安田がいなくなる。それがどうした、どうでもいいじゃないか。僕は安田のことを刑務所の不正に目を瞑り自己保身を最優先する中間管理職だと軽蔑していた、決して好感情を抱いてなかったはずだ。当たり前だ、安田はこの東京プリズンの副所長なのだ。砂漠のど真ん中に隔離された劣悪な環境の刑務所で、売春班の存在を必要悪と認知して看守の横暴を見逃し、僕たち囚人を苦しめる権威の象徴なのだから。
 安田が東京プリズンを去る。結構なことじゃないか。
 「こんな突然、何も知らせず、逃げるみたいに辞めることはないだろう」
 なにを僕に知らせる必要がある?僕と安田は何でもなかったのだから、副所長とただの囚人の関係でそれ以上でも以下でもなかったのだから。
 でも、僕の口から迸りでた言葉は違った。心の奥底、自覚ないままに埋もれていた本心が音を与えられ、喉振り絞る悲痛な叫びとなる。

 「僕はまだ、貴方に友人を紹介してない!」
 
 『生き残るために友人をつくれ』
 あの時、イエローワークの砂漠で安田は僕に指針を与えてくれた。東京プリズンで生き残るための指針を。リュウホウに先立たされ、精神的に追い詰められた極限状況で、食べ物さえろくに喉を通らなくて寝れば悪夢に責め苛まれ、本当にどうしようもなくて。
 そんな時に、安田は言った。友人をつくれと。
 僕は最初鼻で笑った。友人など必要ないと、足手まといになるだけだと。僕にはこの素晴らしい頭脳がある、鍵屋崎優と由香利夫妻が知能の優れた何百何千万何億人の中から厳選した精子と卵子を試験管でかけあわせ、遺伝子の設計段階から手を加えて作り上げた頭脳が。この頭脳さえあれば僕はここで生き残れると、誰にも頼らずとも一人で生き抜けると確信していたのだ。
 その確信が揺らいだのは、サムライが僕の中に入ってきたからだ。いつのまにかサムライがかけがえのない大事な存在になっていたからだ。
 安田に「友人をつくれ」と言われ、僕は友人をつくった。僕にはもったいない友人だ。優しくて寡黙で少し不器用で、おそらくは僕が生まれて初めて信頼した人間だ。
 僕は彼を誇りに思う。安田に自慢したいと思う。
 「僕はまだ友人を紹介してない。僕に友人を紹介する機会も与えずひとりで勝手に東京プリズンを去るつもりか?自分の言動がもたらした結果も見届けずに逃亡する気か?いつからそんな臆病者の腰抜けに成り果てたんだ、僕に人を信頼させた責任をとらずに逃げるなんて許さないぞ」
 ドアを背中にし、両足で床を踏み、安田の前に立ち塞がる。納得いく説明を聞くまでここから帰さないぞという意思表示。安田をどこにも行かせない。今行かせたら僕は残り一生檻の中で後悔する、僕はまだ安田に話したいことがたくさんある。
 今安田を行かせてしまったら、もう二度と会えないじゃないか。
 ドアを背に庇い、毅然と安田を睨みつける。安田は唖然と立ち竦み、医師は当惑していた。先に正気を取り戻したのは医師で、ドアの前に立ち塞がる僕をあきれ顔でなだめる。
 「いい加減にしたまえ、ほら、睡眠薬をあげるから大人しく帰りたまえ」
 「そんな子供だましの手が通用するか、飴でも握らせるみたいに睡眠薬を手にねじこむな!」
 「手におえんな。睡眠薬をもらいにきたと思って渡そうとすれば逆上するし、一体なにが目的なんだね」
 肩から医師の手を払い落とし、安田の目をまっすぐ見つめ、言う。
 「副所長とふたりきりで話し合いたい」
 沈黙はずいぶんと長かった。
 「……いいだろう。悪いが席を外してくれ」
 「君がそう言うならいいがね……念の為鎮静剤の場所を教えておこうか」
 「余計な気遣いをしてる暇があるなら老後の人生設計でも考えておけ」
 ちらりと僕の方を窺った医師に皮肉を浴びせ、医務室から追い出す。ドアが閉まり、完全に安田とふたりきりになった。腰を屈め、床から拾い上げた背広に袖を通し、安田がため息をつく。
 「……医師が気の毒だな。老人に廊下の寒さはこたえるだろう」
 「手短に済ませます」
 一呼吸おき、口を開く。
 「僕には正直に言ってください、東京プリズンを辞めるわけを」
 「………」
 安田はまだ迷っていた。彼の立場を考えれば無理もないが、優柔不断な男だと今度は僕がため息をつく。
 「……僕になら言ってもかまわないでしょう。どうせ一生ここから出られないんだ。だからこの前も東京プリズンの極秘機密を明かすことができた。懲役八十年の僕がここを生きて出られる望みがなく、世間に口外されるおそれがないと楽観し」
 安田の顔色が変わる。そこまで見ぬいていたのか、という風な驚嘆の表情に馬鹿にするなと気を悪くする。僕を誰だと思っているんだ?鍵屋崎直だぞ。
 「さあ、話してください。貴方と僕ふたりきりの秘密だ。口外しないと約束する」
 「………いつもとは立場が逆だな。私が君に気圧される日がくるとは」
 安田が苦笑して、医師が座っていた椅子に腰掛ける。つられ、僕もその正面の椅子に腰掛ける。沈痛な面差しで黙りこんだ安田が自分から口を開くまで無言で待つ。
 「私はとんでもない失態を犯した」
 おもむろに安田が言った。  
 「なんですか、その失態とは」
 いまさら何を聞いても驚かない。日常と非日常が逆転した東京プリズンでは何が起きても不思議じゃない。看守が囚人を脅迫したり囚人に暴行を加えるのがあたりまえの環境で副所長の安田がどんな大それた失態を犯しても顔色ひとつ変えず受け止める自信がある。
 椅子に腰掛け、身を乗り出して安田の顔を覗きこむ。 
 おもむろに安田が背広をめくり、内側をさらし、違和感を感じる。
 そこにいつも入ってる物がない。いつ誰に襲われてもおかしくない東京プリズンで、安田がいつも肌身離さず持ち歩いてる―
 「拳銃を盗まれた」 
 ……大失態じゃないか。
 「……待て。待て待て待て、今『拳銃を盗まれた』とそう言ったのか」
 「ああ」 
 安田が首肯する。安田が肌身離さず拳銃を持ち歩いてることは当然知ってる。のみならず、この目ではっきりと目撃した。半年前イエローワークの砂漠で囚人入り乱れての大乱闘が生じたとき、たった一発の銃声で暴動をしずめたのが安田だった。護身のため、暴動鎮圧の威嚇のため、安田が拳銃を持ち歩いてるのは囚人のだれもが知る事実だ。
 「盗まれたのは東京プリズンで間違いないのか」
 「間違いない」
 固い声で確認をとる。安田が面目なさそうに顔を伏せる。
 「いつ盗まれたか心当たりはありますか」
 「ある。昨夜、ペア戦が催された地下停留場に赴いたときだ」  
 昨夜の光景を思い出す。僕はリング脇にいたから余程近くにくるまで安田の接近に気付かなかったが、何百何千の囚人でごった返した地下停留場を抜けてきたのだから、それはもう数えきれないほど多くの囚人と接触する機会があっただろう。つまり、あの時あの場にいたすべての囚人に犯行が可能だということだ。
 「……まったく迂闊だった。ボイラー室の惨状に憤り、但馬看守を問い詰めようとその足で試合会場に向かった時に盗まれたとしか考えられない。リングに辿り着くまで、人ごみをかきわけ途中何人もにぶつかりかなり時間がかかった。盗まれたとすればその時しか考えられない」
 「……たしかに、昨夜の地下停留場には人があふれていた。囚人だけじゃない、看守もだ。あの時あの場所なら本人に気づかれずに銃を盗むのも不可能じゃない。故意にぶつかったとて不審には思われない」
 「盗まれてすぐ気付かない私もどうかしてた。あの時は頭に血がのぼり冷静さを失っていた。但馬看守があまりに、」
 「あまりに下劣で最低な人間の屑で?」
 「……そこまでは言ってないが、それに近いな」
 安田が何度目かわからぬため息をつく。顔には色濃い疲労が滲んでいた。
 「……拳銃がなくなっているのに気付いたのは人が刷けてからだ。閑散とした地下停留場で自分の愚かさを呪ったよ。何故すぐに気付かなかったのか、何故こんな場所に拳銃を持ってきたのかと。習慣とは恐ろしい、いつのまにかどこへでも拳銃を持ち歩くのが癖になっていた。……以前囚人に襲われたことがあって、以来拳銃が手放せなくなったんだ。臆病者と笑ってくれてかまわない」
 背広の胸ポケットからライターと煙草をとりだし、口にくわえて火をつける。
 いつもの余裕を失い、焦りと苛立ちをあらわに安田が煙草を吸う。追い詰められた男の顔で。
 「落としたとは考えられませんか」
 「まさか。拳銃だぞ、落としたら気付かないはずがない。念の為一晩かけて地下停留場を捜してみたがどこにもなかった。……どのみち見つからないということは、既にだれかの手に渡ってるにちがいない」
 「弾は入っていましたか」
 「入っていた」
 「何発」
 「六発」
 安田の返答に舌打ち。
 「最高六人の人間が殺せるな」
 医務室の天井に紫煙がたちのぼる。
 「……全責任は私にある。ボイラー室の鍵を持ち出した但馬を責められない。私が危機管理を怠ったせいで拳銃は盗まれんだ」
 「そのとおりだ。反省しろ」
 敬語を使うのを忘れるほど僕はイラついていた。
 事態は僕の予想以上に深刻だった。状況を整理しよう。安田は昨夜、地下停留場の試合会場で拳銃を盗まれた。盗んだ囚人は特定できない。あの時あの場所にいた囚人に限定しても東京プリズンの八割にあたる。
 拳銃には弾が六発。上手くすれば六人の人間が殺せる。
 東京プリズンに送られる囚人は外で凶悪犯罪を犯し、更正不可能の烙印をおされた少年たちに限定される。罪を反省するどころか、常に暴れたりない欲求不満を抱え込み、日常的に暴力沙汰を起こす囚人ばかりが集まった東京プリズンで拳銃が盗まれたということは。
 盗まれたということは。
 「確実に人が死ぬ」 
 「誰かが殺される」
 僕の結論を安田が肯定する。盗難された銃が喧嘩に使われたら?囚人が囚人に、囚人が看守に発砲したら?副所長の不注意で銃が盗まれ、刑務所内で殺人事件が発生したら……
 「明日、辞表を提出する。それしかない。このことがマスコミに漏れ公になれば東京プリズンは破滅、刑務所の存続も危うくなる。事は私ひとりの問題では済まない。刑務所の危機管理を担当する副所長の地位にありながら銃をなくすなどあってはならない事態だ、所長に辞表を提出したらその足で何としても銃を見つけに…」
 「馬鹿を言うな。副所長でなくなった人間が出歩いてたらどんな目に遭うのかもわからないのか、犯されて殺されるぞ」 
 冷静になれ、冷静に。
 膝の上で指を組替え心を落ち着けようと自己暗示をかける。深呼吸し顔を上げる。一晩で心労が募り、顔色を悪くした安田に向き直る。
 「辞表を提出するのはしばらく待て、貴方が辞めたところで何も解決しない。副所長の責務を果たしたければ銃を盗んだ犯人を見つけ出すのが先決だ。もう一度聞くが、銃を盗んだ人間に心当たりはないか」 
 「心当たり……」
 心ここにあらずといった口調でくりかえし、煙草を灰にする安田。降り積もる静謐。
 再び安田が口を開いたのは、煙草の穂先が半ば以上燃え尽きた時。
 「……参考になるかわからないが、私がリングへ向かう途中君の棟の赤毛の少年を見かけた。たしかリョウといったか……売春と薬物の不正所持で逮捕された少年だ。近くにいた彼なら何かを目撃してるかもしれない」
 「不審な人物を目撃してるかもしれない?」
 「そうだ」
 安田から事情を聞き終え、椅子から腰を上げながら付け加える。
 「僕も手伝います」
 「え?」
 虚を衝かれたような安田を見下ろし、こめかみを指さす。
 「犯人捜しには驚異的推理力をもつ天才的頭脳、名探偵が必要不可欠でしょう。推理小説の常識です」
 何故安田に協力を名乗り出たのか、自分でもよくわからない。
 ただ、このまま放っておけば安田は確実に明日辞表を提出するだろう。銃を紛失した責任をとって東京プリズンを去ってしまうだろう。
 それは嫌だ、絶対に。今だから言うが、僕は安田と立ち話する時間がそれほど嫌いではないのだ。
 椅子の背凭れに手を添えて立ち上がった僕を見上げ、安田は少し驚いた顔をした。今まで一方的に何かをしてやっていたのに、いつのまにか立場が逆転し自分が助けてもらっている。その事実を噛み締めるように俯いた安田が、膝の上で指を組み、深く頭を下げる。
 「……すまない」
 そうして安田は、心の底から謝罪した。 
 「大人が子供に謝るんじゃない、みっともない」
 頭を下げたままの安田を気恥ずかしく叱責し、急遽変更した明日の予定を復習する。
 明日はリョウに会いにいこう。男娼兼情報屋のリョウなら、安田の手を放れた拳銃について何か知ってるかもしれない。 
 しらをきるなら吐かせるまでだ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051121000223 | 編集

 ホセは鬼コーチだ。
 俺に課された特訓メニューは血も滲む過酷なもんで初日こそ中庭五十周ですんだが翌日からはこれに腹筋百回、腕立て伏せ百回、背筋百回、縄跳び連続百回が加算された。
 普通に死ねる内容だ。
 鞭でぶたれて体中に包帯巻いてた俺に中庭走らせるのも酷い話だが、若くて治りが早いせいか今日には包帯も取れた。包帯取っ払って練習場の中庭にやってくれば、ホセに「ああ、よかった。怪我人虐待するのは良心が痛みますし、初日はただ走るだけの退屈なメニューにしたんですが今日は体調万全ですね」とにっこり微笑まれてうそ寒くなった。レイジもとんでもないコーチを紹介してくれたもんだ。
 ホセの監視もとい監督のもと中庭の日陰で腹筋、腕立て伏せ、背筋のメニューをこなす。「いーち、にーい、さーん」とホセが間延びしたカウントをとるが今にも死にそうな俺には数をかぞえる余裕もない。十分に死ねる練習量で猛特訓したところで凱との試合に間に合うかわからない。次の試合までに腹筋六つに割るのは不可能っぽいし、昨日と今日で目に見える変化といや屋外で運動して日に焼けたくらいだ。
 焦りと不満が顔にでたのか、腹筋を途中で止めて物思いに沈んだ俺にホセが説教する。
 「喧嘩もボクシングも大事なのは基礎です。基礎を固めるには反復練習あるのみです。今は辛いでしょうが、基礎体力を高めるためには必要な訓練と苦渋を飲んで頑張ってくださいねロンくん」
 「強くなるまえに死んだらどうする。過労死か日射病で」
 「日射病予防のために日陰に入ってるじゃありませんか。中庭走るときは日の下にでなきゃいけませんがそれだって吾輩のペースでノルマを果たせば三十分もかかりません。過労死についてはこれでも十分手加減してるつもりなので、それでもぽっくり逝かれた場合はまあ運が悪かったんだと諦めて下さい」
 「手加減してんのかよ……」
 本気になったホセがおそろしい。頭の後ろで手を組み、中途半端に上体を起こした姿勢でため息をつけば、そばに付き従ったホセがどっから調達してきたんだか首に下げたホイッスルをくわえる。
 「休憩終了。現在腹筋三十九回目、最初からやり直しです」
 ……鬼コーチめ。ホセはサドじゃあるまいか、俺をいじめて楽しんでるんじゃなかろうか。鬼コーチのしごきに耐えに耐え、何とか腹筋腕立て伏せ背筋のノルマを達成した頃には俺の足元はふらついて情けない話体力も底を尽きかけていた。腹筋が痛い。背中も痛い、ずっとコンクリートに寝てたからだ。俺がホセに延々腹筋やら腕立て伏せやらの反復練習をやらされてたのは中庭の隅、見まわせば渡り廊下でぐるりと繋がったひとつの巨大建造物である囚人収監棟の日陰だ。太陽が容赦なく照り付けるコンクリートの上で長時間運動するなんざ命を縮める行為でしかない。俺はまだもうちょっと生きたい、いくら強くなりたいとはいえ自分から命を投げ出す行為は辞退したい。じゃあなんで凱に試合を挑んだんだと矛盾が発生するが、当時の記憶がすっぽり抜け落ちてるから酒に酔って気がでかくなってたんだろうと想像するっきゃない。
 レイジを庇ったわけじゃない。絶対に。
 俺が庇わなくてもレイジは十分に強い、俺が心配する必要なんてどこにもない。レイジならきっと笑顔で50組100人をやり遂げてしまうだろう。涼しく笑いながら、ポケットから手も抜かずに。
 「おつかれさまです。次はコレ」
 いつでもどんな時でも余裕綽々なレイジを想像し、ひとり勝手に腹を立てた俺に手渡されたのは縄跳び。
 そうだ、まだ縄跳び百回が残ってたっけと思い出してうんざりする。俺はたぶん物凄くいやな顔をしたんだろう、タオルを首に巻いたホセが苦笑する。
 「いやな顔しない。明日のためのその五です」
 「中庭五十周がその一、腹筋がその二、腕立て伏せがその三、背筋がその四?」
 「正解」
 ……馬鹿らしくなってきた、なにが正解だ。ホセときたら白い歯を光らせて親指立ててるし、こんなコーチについてて本当に大丈夫なのかよ。不平不満を飲み下し、縄跳びを両手に持ち気乗りせずに練習再開。ただ跳ぶだけだと舐めちゃいけない、一度もひっかからずに跳ぶのは意外とむずかしくて俺は何度も足をひっかけちゃあホセの号令で最初からやり直しの悪循環。縄跳び100回のはずが、失敗が嵩みに嵩んでもう200回には達してるんじゃないかと疑問がふくらむ。
 「つか、レイジはどこ行ったんだよ!?俺をおまえに預けて自分はのんきに昼寝かよっ」
 縄跳びに足を取られそうになりつつレイジの不在に怒れば、懲りずに失敗をくりかえす俺のそば、暇を持て余して地面に体育座りしたホセが振りかえる。
 「レイジくんならさっきメガネくんと一緒にいました。ふたり仲良くバスケットボールをしていましたよ。青春ですねえ、若いっていいなあ」
 「鍵屋崎と?」
 メガネといえば鍵屋崎だ。おもわず手を止め、ホセの顔を見つめる。日中は図書室に行ってる鍵屋崎が屋外でバスケットボールなんてどんな心境の変化だ?あらかた本を読み尽くしてさすがにあいつも退屈したのだろうか。縄跳びを手にぶらさげた俺に微笑みかけ、ホセが命令。
 「吾輩に無断で手を休めたので最初からやり直し」
 「……おいこのラテン黒縁メガネ、調子にのるなよ。似合ってんだか似合ってないんだか微妙な七三分けしやがって」
 「失敬な。気に入ってるんですよこの髪型、ワイフも『あなたの七三分けとってもセクシーだわ、おでこがキュートよ』と絶賛してくれましたし。吾輩の七三分けを馬鹿にするということは最愛のワイフを侮辱されたも同然です、覚悟はよろしいですねロンくん」
 威圧感をこめた口調とにわかに鋭くなった目つきに腰が引ける。言葉遣いこそ温和で丁寧だが、口元だけに笑みを浮かべた表情からはどす黒いオーラが放たれている。だからレイジの同類は苦手なんだ。カッとして地面に叩き付けた縄跳びを不承不承拾い上げ、やけくそで叫ぶ。
 「~~わかったよ跳ぶよ跳びゃいいんだろ鬼コーチの言うとおりにさ!やってらんねーよ恐妻家」
 「愛妻家とおっしゃってください」
 しれっとホセが訂正し、俺はむきになって縄跳びをする。足裏すれすれを一瞬だけ地面を掠めた縄跳びが通りぬける。たかが縄跳び、されど縄跳びでやってみるとこれが結構しんどい。一回もつまずかないようになるまでには時間がかかる、連続百回のノルマを克服するには月並みだが習うより慣れろ。コツを掴むのが大変だ。しかし、基礎の繰り返しばかりで文句を言いたくなるのが人情。
 「……なあ、こんなちんたらやってて次の試合に間に合うのかよ。一週間切ってもうあんまり時間ないんだぜ。腹筋とか腕立て伏せとか地味な練習は飽き飽きだ、もっとぱぱっと強くなる方法ないの」
 「ラクして強くなろうだなんて都合よすぎです。ロンくんは浮世の常識もわからないアホの子ですか」
 「そりゃそうだけど早く実戦入ってくんなきゃ凱にはかなわ……ちょっと待て、だれがアホの子だ?」
 お偉いコーチ様は口は出すが手は出さない方針らしく、「よそ見してると危ないですよ」とお節介に注意する他はただ笑ってるだけだ。野暮ったい黒縁メガネの奥には柔和に謎めく目。特徴的な七三分けと黒縁メガネを除けばどこにでもいる平凡な容姿の男なのに、レイジはホセを「素手で人を殴り殺せるバーサーカー」だと言った。そして東のトップ自らホセの実力を見こんで俺のコーチに抜擢したということは、南のトップは俺が思ってた以上の実力の持ち主でなおかつ危険な人物にちがいない。
 「………」
 とてもじゃないが今目の前にいるこの男が、そんな凶暴かつ凶悪な人物とは思えない。噂の人物像にホセ本人から受ける印象がまるで当てはまらないのだ。東京プリズンの一角をなす南のトップでありながら俺がホセに軽口叩けるのはまったくこれっぽっちも恐怖を感じないからだ。それもそのはず、トイレと間違えて股間押さえてボイラー室に飛び込んだドジの正体が割れたところで初対面時の情けない印象は拭いがたい。
 だが、噂が真実だとしたら、ホセは外で五人の人間を殴り殺したことになる。
 何故五人もの人間を殴り殺す暴挙に及んだのか動機は不明だが、レイジとおなじで一度怒らせたら手がつけられないヤバイ人間なのか?
 ホセの顔を見つめ、惰性で縄跳びする俺のもとへ足音が近付く。
 「おもろいことしとるな、自分ら」
 「やあヨンイルくん。珍しいですね、図書室のヌシが中庭に出張だなんて」
 今の時間に出歩いてるいいご身分の囚人は東西南北のトップぐらいのものだ。他の囚人は皆強制労働に出払ってる。片手を挙げて挨拶したホセの横に足を投げ出したのはでかいゴーグルをかけたガキ。タワシみたいな短髪にゴーグルの組み合わせが胡散臭いガキの名前はヨンイル、レイジと仲が良い西のトップだ。
 「渡り廊下の窓からお前らの練習風景見えたんでふらっとな。たまには外で読書もええやろ、気分転換に」
 「結局漫画かよ。そればっかだな」
 「なんてこと言うんや。漫画は人類最大の娯楽財産で手塚治虫は神やで、神様冒涜したら罰当たるがなこの罰当たりが」
 ヨンイルのまわりにはわざわざ図書室から持ってきた漫画が何冊か散らばってる。
 結論。東西南北のトップは変わり者ぞろいでまともな会話が成立しない。
 ヨンイルに冷やかされ、ホセに応援され、何とか過労死せず無事縄跳び百回のノルマを達成した頃には体から湯気がたっていた。縄跳びを投げ出し、地面に尻餅ついてそのまま大の字に寝転ぶ。心臓が爆発しそうで、汗の染みができた囚人服の胸を喘がせ呼吸を整える。はげしい運動で体が火照り、全身にびっしょりと汗をかいていた。疲労困憊で起き上がる余力もない俺をよそに、見物席のヨンイルとホセは和気藹々としゃべってる。    「せやけどホセ、レイジの頼み聞いたるなんてどういう風の吹き回しや。俺たち一応敵同士やろ、ブラックワークじゃ上位競う関係やし。敵に塩おくる真似ちゃうんか」
 「べつに吾輩とロンくんがぶつかるわけじゃないですし」
 タオルで顔の汗を拭きながらホセが首を竦める。どうでもいいが、ホセがやったことといや体育座りで俺を応援するだけで大して汗もかいちゃないだろ。 
 「吾輩も最近暇でしたし、レイジくんにはワイフとの離婚危機を手紙で取り持っていただいた恩もありますし。吾輩ホセ、受けた恩のぶんは出来る限り友人にお力添えしたく思います。週末の試合だけじゃ体がなまってしょうがないですし、ロンくんを鍛えることでいい運動になってちょうどいいですよ」
 「いい運動かよこれが、地獄の特訓メニューだろ」
 突然、視界が暗くなる。
 「まだまだ序の口です」
 顔からタオルを取って上体を起こせば、ホセが黒縁メガネを光らせて不吉な予言をした。ホセから受け取ったタオルで汗を拭きながらうんざりすれば、例の台詞が唐突に脳裏によみがえる。
 『笑うから殺さないで』 
 ペア戦開幕前夜、悪夢にうなされたレイジが口走った寝言。レイジは一体だれに、どんな状況で「笑うから殺さないで」と懇願したのだろう。俺はレイジの過去について何も知らない。レイジとは一年と半年の付き合いになるが、レイジが自分の過去について話したことは殆どない。暇となればくだらないことを話しかけてくる饒舌なレイジが、東京プリズンに来た経緯や自分の過去については極力触れないようにしてる。
 俺もレイジの過去についてあれこれ詮索するのは慎んできた。正直気にならないといえば嘘になる。一年と半年も付き合ってれば、東京プリズンに来る前のレイジがどこで何してたか知りたいと好奇心が疼きはじめる。でたらめな強さの根拠や喜怒哀楽の「楽」が突出した笑顔の理由が猛烈に知りたくなる。
 でも、誰にだって知られたくない過去や言いたくない秘密がある。
 俺だって過去のすべてをレイジに話したわけじゃない。絶対言えないこと、口に出すだけでおぞましく二度と思い出したくない出来事もある。レイジはこれまで一度だって俺の過去を無理に聞き出そうとはしなかった。聞かないでくれたのだ。
 だから俺も聞けない。本人に直接聞くのが怖い。   
 でも、目の前のこの二人なら?タオルで首筋を拭きながらホセとヨンイルとを見比べる。俺より遥かにレイジと付き合いの長いふたりなら、レイジの過去について何か知ってるんじゃないか。でたらめな強さの根拠とか笑顔の理由とか、俺が知らないレイジを知ってるんじゃないか。
 「なあ」
 ホセとヨンイルに声をかけ、振り向かせる。二人同時に注視され、気まずさを覚えて顔を伏せる。
 「俺が来る前のレイジって、どんなかんじだった」 
 ホセとヨンイルが顔を見合わせる。
 「……そういえば、ロンくんは以前のレイジくんを知らないんですね」
 「本人から聞いたことないんか?」
 俺は首を振る。俺が東京プリズンに来た一年半前からレイジはずっとあの調子で、くだらないこと言って下ネタ吐いてへらへら笑ってた。俺が来る前のレイジがどんなやつだったか知らないが、今と大差ないふざけた性格だったんだろうという見解は裏切られた。
 「昔のレイジはやんちゃだったでー」
 「ナイフみたいに尖ってて触れるもの皆傷つけてましたねえ」
 「……マジかよ?」
 手からタオルが落ちた。返ってきたのは予想の斜め上を行く答えだ。昔のレイジとやらを回想したのか、ヨンイルとホセが苦笑いする。今は更正したとんでもない悪ガキの所業を指折り数えるように。
 地面に手をつき、無造作に足を投げ出したヨンイルが後ろに反りかえる。
 「ホンマに知らんのかい、レイジと仲ええくせにくせにちょっと驚き。まあ話しとうない気持ちもわかるけどな、昔のレイジ今以上にめちゃくちゃで東棟の連中にびびられとったし。今はどっちかちゅーと舐められとるけど……暴君やな、アレは」
 ヨンイルは東京プリズン一の古株だ。伊達に十一歳の時から五年間ここで生活してない。年に似合わず感慨深げなヨンイルにホセが問いかける。
 「覚えてます?サーシャくんがここに来たばかりの頃、『東京プリズンに四人のトップは要らん、私ひとりで十分だ』と宣言して」
 「北棟制圧した数日後に仲間引き連れて東棟に乗り込んだ。手始めにレイジに喧嘩売りにいったんや」
 「そんなことがあったのか」
 レイジとサーシャの因縁が開示され、俺は驚きを隠せない。そんなこと一言もレイジは言わなかった、俺は白人至上主義のサーシャが一方的にレイジを敵視してるんだとばかり思ってた。新事実が発覚し、食いつき良く身を乗り出した俺の目の前で、昔を懐古するホセとヨンイルの会話は弾む。
 「当時からレイジくんはブラックワーク首位独走してましたし、サーシャくんはそれが気に入らなかったんでしょうね。南より西より先に東棟に乗りこみました。吾輩も実際にこの目で見てないんですが、それはそれは派手だったみたいですよ。東と北を繋ぐ渡り廊下のバリケードを突破して配下には鉄パイプやナイフや釘バッドを持たせて……火炎瓶をばらまいたせいで渡り廊下が炎上。戦場の光景だったそうです」
 「逃げ道断ってレイジ追い詰めたつもりやったんやろな。仲間には野次馬払いに行かせて、渡り廊下の前後に包囲網敷いて……サーシャの武器は秘蔵のナイフ、レイジの武器もナイフ。当時のサーシャはフェアプレイ精神にのっとって敵にナイフ貸す余裕があったんやな。ま、それが仇になるんやけど」
 「凄まじい戦いだったそうです。ロンくん、サーシャくんの体にナイフの傷があるのご存知ですか?」
 「ああ」
 素直に頷く。ご存知もなにも、監視棟の一件ではっきり目撃した。火炎瓶を投擲され炎上するサーシャの背中、上着を脱ぎ捨てれば夜目にも白い背中が闇に浮上。きめ細かい白磁の背中にはナイフで切り刻まれたおびただしい古傷が。
 まさか。
 ある可能性に思い至り、息を呑む。燃え落ちた上着を踏みつけ、息荒く仁王立ちしたサーシャの背中には敗者の烙印の如く無数の傷痕が刻まれていた。一体だれにやられたのか、肌を切り刻む愉悦に酔った狂える刃の痕跡には見た者すべてが戦慄を禁じえない。
 だれがこんな恐ろしいことを。
 だれがこんな残酷なことを。
 「レイジくんですよ」
 ホセがあっさりとその名を告げた。サーシャの背中を完膚なきまでに切り刻んだ犯人がレイジだと、いつもへらへら笑ってるレイジだと、そう言ったのだ。
 「まあ、全部が全部レイジくんではないですが四割は確実にそうでしょう。今のレイジくんならある程度手加減できますが当時はできなかった。彼は憎しみをおさえつけるのが下手だから、気に入らない人間にはとことん残酷に残忍になれます。サーシャくんを踏み付けてから平然とその背中を切り刻む残虐な仕打ちもできるのです」
 「昔のレイジは怖かったからなー。笑ってるんやけど笑ってない。逆に怒れば怒るほど笑顔が深まる、みたいな。おまえが来てからやで、あいつが普通に笑うようになったの。以前よりキレなくなったし」
 ヨンイルが冗談ぽく俺の胸をつつく。いまだ衝撃が冷めやらず俺は混乱していた。ホセの言うことは本当だろうか?レイジがサーシャの背中を踏み付け、生皮を剥いだってのは。今のレイジからは想像できない。レイジはそこまで残酷なやつじゃない、監視棟の時だってサーシャの片手を貫くだけで許してやったじゃないか。いや、あれも相当酷い真似には違いないが、既に勝利を確信した相手の背中を踏み付け、あまつさえ相手に貸してもらったナイフで微塵に切り刻むなんて正気の沙汰じゃない。
 いかれてる。
 まるきり他人の痛みに鈍感な暴君じゃないか。
 「サーシャくんも可哀想なんですよ」
 俺の心の中を見抜いたようにホセがしんみりと呟く。
 「ご存知でしょうか、サーシャくんが東京プリズンに来たわけを。彼はもともとモスクワ生まれ、日本から遠く離れた極北ロシアの地が故郷なんです。母親はサーカスの花形でロシアンマフィアの幹部の愛人。そのサーカスというのが資金稼ぎを目的にマフィアが運営していたもので、サーシャくんは幼少時から徹底的に芸を仕込まれ危険な見世物に出演する非人道的な環境で育ったんです」
 「体の傷も残り六割はサーカスでしごかれた名残り。おかんは早くに亡うなってマフィアの幹部の父親には放任されて、殆ど肉親に見捨てられた環境で育ったみたいやな。ナイフ投げもいちばん最初にサーカスで習ったせいで手首に癖がついて、後で矯正するのに苦労したらしい」
 「そんな孤独な幼少期を過ごした後、何年ぶりかで会いに来た父親にナイフの腕を見込まれて引き取られた。肉親の情愛からじゃない、彼を暗殺者として有効に使うためです。彼をサーカスに預けっぱなしにしたのも物心ついた時からナイフを仕込んで暗殺者として徹底的に鍛え上げるためだとか」
 「結局は使い捨てにされたけど」
 「使い捨て?」
 どういう意味だと眉をひそめる。東西南北トップの繋がりか秘密の情報網でもあるのか、サーシャの過去に妙に詳しく、悲惨な身の上話を語りながらヨンイルがゴーグルを押し上げる。外気に晒されたのは稚気と凄味を均等に宿した双眸、少年と青年の中間の横顔。
 「マフィア幹部の親父が日本に勢力のばそうと目論んで、邪魔者消すためにいちばん始めに送りこんだんがサーシャなんや。北海道も今は半分がロシア人の街になっとるし、おんなじロシアンマフィアのライバルやら日本のヤクザやらが入り乱れて勢力争いしてややこしいことになっとるんやて。サーシャは日本上陸のとっかかりに邪魔者消してこいと送りこまれたんやけど、そこで暗殺に失敗して本国の組織に切られた」
 「足手まといには容赦ないで、組織は」とヨンイルが呟く。ほんの少しだけ寂しげに。
 「仕事には失敗し組織には切られ、生まれ故郷のロシアには居場所がない。迎えてくれる家族もいない。自暴自棄になったサーシャくんは巡り巡ってここ東京プリズンに送られた。故郷に見捨てられた腹いせに多くの人間を殺して傷付けて」
 ホセがため息とともに身の上話を締めくくり、景気の悪い沈黙が落ちた。
 北のロシア皇帝、薬物中毒のサーシャは組織に切り捨てられ、誰も頼る者とてない極東の地に放逐されたナイフ使いの暗殺者だった。マフィアの幹部として君臨するサーシャの父親にとって、サーカスの愛人に生ませた息子はその程度の存在価値しかなかったのだろう。話に聞くサーシャの父親にお袋の面影が重なり、胃がもたれるような不快感が腹の底に凝る。
 サーシャは父親に捨てられ組織に切られ、自暴自棄の末路で東京プリズンに送りこまれた。 
 じゃあ、レイジはどうして東京プリズンに来た。
 「……サーシャとレイジの因縁はわかった。俺と出会う前のレイジが今より遥かに危ないやつだってことも、」
 「そうや、お前と会ってからレイジは爪を切られた豹みたいに丸くなった。もっと詳しく知りたいんならホラ、あれや、お前の棟の赤毛に聞くといい」
 「リョウか?」
 東棟で赤毛といや一人しかいない。怪訝に念を押せば、「そそ、リョウ」と軽く頷いたヨンイルが人さし指をたてる。
 「あの赤毛なら当時の現場に居合わせたはず、サーシャ対レイジの結末を断然詳しく知ってるはず。俺もホセも所詮は他棟の人間、今言うたことぜーんぶ噂や。実際この目で見たわけちゃうし、聞きかじりでてきとー言うとるだけ。生で立ち会うた人間の証言には到底かなわへん」
 たしかに、俺より以前に東京プリズンにぶちこまれたリョウなら当時のレイジについてよく知ってるはずだ。何故そんな単純なことに思い至らなかったんだと自分の頭の悪さが恨めしくなる。リョウの性格から考えて東京プリズン入所当初から男娼兼情報屋で荒稼ぎしてたろうし、さらに勘繰れば他棟に噂を流した張本人の可能性もある。
 よし。今日の特訓を終えたら真っ先にリョウに会いに行こう。レイジには内緒で、昔のレイジがどんな奴だったか聞きこみに行こう。そん位なら罪のない好奇心で許される範囲だ。
 練習後の予定を決め、膝に手をついて立ちあがる。俺の視界の端でホセも立ちあがる。
 「さあ、休憩終了。次は中庭五十周です、吾輩に遅れずについてきて!」
 ……また座りこみたくなった。
 呼び止める暇も与えずに走り出したホセを見送り、辟易して立ち尽くした俺の肩を誰かが叩く。振り向けばヨンイルがいた。ゴーグルを顔に戻し、にんまりと口元を緩め、俺の胸に何冊か重ねた漫画本を押し付けてくる。
 「何の真似だ」
 「明日のためのその一。試合で勝つために特訓中なら明日のジョー完読せな嘘や。寝ても覚めてもジョー漬けの毎日を送れば必ず勝つ秘訣が見つかる、試合に挑む心構えも。お礼?ああ気にせんといて、これ全巻読んで感想聞かせてくれれば十分やから。力石の最期は何度読んでも泣けるでー感動モンや」
 熱に浮かされたように饒舌にまくし立てるヨンイルに、半ば強引に漫画本を受け取らされる。ひどく満足げなヨンイルと対峙し、ジョー漬けって何かの漬物みたいだとかくだらないこと考えてぼけっと突っ立ってたら背後に檄がとぶ。
 「ロンくん、ヨンイルくんと明日のジョーの素晴らしさを語り合う暇があるなら足を動かして下さい!」
 『!不好意思、』
 とっさに台湾語で謝罪、50メートル前方で足踏みするホセを目指し、地面を蹴ってひた走る。その背に浴びせられるのは口の横に手をあてたヨンイルの声援。
 「ヒムネラー」 
 たしか韓国語で「がんばれ」の意だ。ヨンイルに背を向けて走りだし、両手に漫画本を抱えたままでいるのに気付いたがもう遅い。漫画本の重みが手にずっしりこたえるが、ジョーを放り出すわけにもいかない。
 ……くそ、何が明日のためのその一だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051120000332 | 編集

 「またきてねー」
 廊下に送り出した客ににこやかに手を振り、いなくなってから中に引っ込む。鉄扉に背中を凭せ、ため息をつく。
 「二度とくんな早漏」
 客の顔が見えないところじゃ営業スマイルを脱ぎ捨て毒舌も吐きたくなる。早漏の客ほど前戯がねちっこくて辟易する。体力と持久力に自信がないからそのぶんテクで補おうと必死こいて足掻いてみっともないったらありゃしない、あれじゃ娑婆の女にだって鼻で笑われて相手にされないだろう。アレで満足させる自信がないから耳朶舐めたり足の指一本一本しゃぶったり、必要以上に前戯に時間をかけてるくせに舌使いはガキの飴玉しゃぶりみたいにお粗末なもんだった。
 体の火照りを持て余し、だるい足取りでベッドに戻る。毛布が赤裸々にはだけたベッドの床下には上着が落ちていた。
 上着を拾い上げ、袖に腕を通してキスマークを隠す。手首まで袖を下ろせば注射針の痕も見えなくなる。東京プリズンにきてからもくるまえも僕の腕には注射針の痕が絶えない。ほんの小さい頃から覚せい剤ヤってたから今じゃクスリがなきゃ生きてけない体だ。クスリ漬けの体じゃ長生きできないっスよ、なんてビバリーはさも心配そうにお説教するけど余計なお世話。
 ベッドに腰掛け、ぼんやり虚空を眺め、倦怠感に浸る。
 セックスの後は心に空洞ができたみたいに寂しく虚しい。ひとつに繋がっていた体がはなれ、次第に熱が引いて朦朧と霞みがかった頭が醒め、灰色の現実が戻ってくる。小遣い稼ぎで男に体を売るのは今に始めたことじゃない、僕は子供の頃から男に媚売って稼いできたし東京プリズンにぶちこまれたそもそもの罪状も薬物の不正所持と売春だった。
 僕は過去渋谷の売春組織を仕切っていた。売春組織なんて言っても上は十四、下は八歳のぺドフィリア専門のグループで客は金払いのいい変態ばかり。知ってる?金持ちには変態が多いんだ。あらかた女を知り尽くして男にも手をだしてそれでも飽き足らずに最終的に子供に行き着く客の多いこと多いこと。今はわざわざ秘密のツアーに申し込んで東南アジアに子供買いに行く必要もない、渋谷じゃちょっと裏道に入れば股に毛も生え揃ってない小便くさいガキを扱う売春窟が平然と存在してた。
 僕が東京プリズン送りになったのは、まあ運が悪かったんだ。ただの売春だけなら公も見逃してくれたのかもしれないけど調子にのったのが運の尽きだ。僕の組織に頻繁に子供を買いに来てた客の中に某政治家がいて、「やばい性癖ばらされたくなきゃお金ちょうだいよ」とその政治家を恐喝したら裏から手を回されて逮捕された。恐喝・売春・薬物所持のトリプルで逮捕された僕の懲役が短期間ですんだのは、僕に熱を上げてる代議士のパトロンが警察上層部に圧力をかけてくれたからだ。
 感謝しなきゃね、上辺だけでも。
 なんて、東京プリズンに来る前の出来事にあれやこれやを回想しながらベッドに腰掛けていたら控えめなノック音。またお客?ちょっとうんざりする。もうちょっと時間をおいて来てほしい、まだケツが痛いってのに。てきとー言って追い返そうかなとベッドから腰を上げ、踵を履き潰したスニーカーで歩く。
 鍵を外し、鉄扉を開け、目を疑った。
 「……うわあ、珍しい」
 感嘆の声を発した僕の眼前、付かず離れずの微妙な距離で廊下に並んだ二人はおたがい気まずい顔をしてた。右側にいるのは癖の強い黒髪に目つきの悪いガキ、そこそこ可愛い顔してるのにふてくされた態度のせいで台無しで損してるねってのが第一印象。左側に突っ立ってるのはお高く取り澄ました風貌にメガネが似合う、いかにも品よさげに大人びた少年。 
 ロンと鍵屋崎だ。
 「ふたり一緒に何の用。3P?」
 「「ちがう」」
 声を揃えて否定された。つれない。ふと手元を見下ろせば、何故か二人ともが本を抱えていた。ロンは漫画、鍵屋崎は推理小説。
 「ええと、図書室帰りかな?ロンの漫画はともかく、メガネくんが推理小説読むなんて新鮮だ。ミステリは大衆の娯楽なのに」
 「どういう意味だよ」
 「だってきみ絵のない本読まない、つーか読めないじゃん」
 漫画を小脇に抱えたロンが鼻白むが、事実だから反論できない。推理小説を五冊捧げ持った鍵屋崎が、両手がふさがってるせいで鼻梁にずり落ちたメガネを押し上げることもできず、少し苛立たしげに言う。
 「推理の基礎を学ぶために資料を借りてきた。名探偵の思考をなぞることにより事件解決の糸口が掴めるはず。とりあえず傑作、古典と呼ばれる種類の推理小説を借りてきたが名探偵の代名詞シャーロック・ホームズシリーズは外せない。個人的に親近感をおぼえるのは灰色の脳細胞と呼び習わされるエルキュール・ポアロだが、」
 「はい名探偵談義はおしまい。その先はオトモダチのサムライに話してあげて」
 付き合いきれない。鍵屋崎の長ったらしい述懐を翻訳すると、「推理の基礎は名探偵に学べ」って単純な帰結で大量の推理小説を借りてきたらしい。失せ物捜しでもする気か?どうでもいいが、鍵屋崎の行動原理はズレてる。どうしてこう天才って非常識な生き物なんだろ。
 「ぼくはなにも名探偵談義をしにきたのではない。君に聞きたいことがあってわざわざ足を運んだんだ」
 「『わざわざ』強調しないでよ、相変わらず恩着せがましくまわりくどい嫌な性格」
 「入らせてくれないか?」
 僕の嫌味を無視し、中へと顎をしゃくる。べつに鍵屋崎を入れる義理はない、ここで追い返してもかまわない。……まあ、さすがに大人げないか。この前は迂闊に鍵屋崎を中に入れて酷い目にあったけど、ロンがいるなら過ちは起きないだろうと楽観的な結論を下す。
 「ロンはなにしにきたのさ」
 「鍵屋崎とおなじ。お前に聞きたいことあるんだよ」
 「じゃあ入って」
 そっけなく顎をしゃくり、入室を促す。房に足を踏み入れた鍵屋崎が眉をひそめ、ロンがきょろきょろとあたりを見まわす。鍵屋崎の視線の先にはあらわにはだけた毛布とベッド。入室前にあそこで何が行われてたのか想像したんだろう、お気の毒さま。
 さすがにベッドに座るのは抵抗があり、床にじかに腰を下ろす。鍵屋崎は立ったままだが、ロンは僕の正面に座る。育ちが良い奴と悪い奴の差。不衛生な床に座るのを拒んで立ち続ける鍵屋崎に手のひらを返してみせる。
 「で、用ってなにさ」
 「……いや、僕の用件はあとでいい。ロン、先に君の用件を済ませてくれ」
 驚いた。まさか、あの鍵屋崎が遠慮するなんて。
 鍵屋崎が他人に順番を譲るところを初めて見た。仰天したのは僕だけじゃないようで、ロンも目を見開いてぎょっとしてた。
 「どうしたんだ、おまえが順番譲るなんて熱でもあるんじゃないか」
 「失敬だな。僕の場合話が長くなりそうだから譲ってやったというのに、たまには素直に人の好意を受けたらどうだ」
 ひょっとして、ロンに聞かれたくない話なのだろうか。
 鍵屋崎の好意なんてありもしないものを鵜呑みにするほど僕は馬鹿じゃないが、馬鹿なロンは真に受けたようだ。鍵屋崎に感謝し、姿勢を正して正面に向き直り、まっすぐ僕を見つめて単刀直入切り出す。
 気迫をこめ、上体を乗りだし。
 「おまえ、俺が入ってくる前にはもうここにいたよな。俺が来る前のレイジについて当然知ってるよな。前のレイジがどんな奴だったか、聞かせてくれないか」
 なんだそんなことか。今さら改まって聞くようなこともでないだろうに、ロンの真剣な態度がおかしくなる。膝を崩して床に座りこんだ僕は、見当違いな質問に適切なアドバイスをくれてやる。
 「本人に聞けばいいじゃん。そっちのがずっと早いよ」
 「本人に聞きにくいからお前に聞いてるんだろ。知らないならべつにいいけど、」
 「知らない?きみきみ僕をだれだと思ってンの、東京プリズン一の情報通のリョウさまだよ」
 人さし指を振り、ロンの早とちりを訂正。再び正座させてから人さし指を顎において天井を仰ぐ。
 「いちおー僕情報屋だし、情報と引き換えに何か貰うことにしてるんだけど……きみ何も持ってないぽいね。いいよ、特別におまけしてあげる」
 営業スマイルにはわけがある。何も知らないロンに以前のレイジがどんな奴だったかバラし、その反応を楽しみたいという悪企みもといほんの悪戯心。意地悪な試みを知ってか知らずか、レイジの過去に興味津々なロンが膝の上でこぶしを握り固め好奇心旺盛に身を乗り出す。そんなロンを焦らすように顎に人さし指をあて、記憶の襞をなぞるふりで目を細める。
 「むかしのレイジはね、怖かった。今の比じゃない」
 そう、むかしのレイジは怖かった。今と比べ物にならない。ロンと出会ってレイジは変わった、爪を抜かれて調教された豹のように大人しくなった。
 目を閉じ、僕がここにきたばかりの頃を回想する。その頃からレイジはここ、東京プリズンにいた。孤高かつ孤独な王様。ずば抜けて容姿に恵まれてずば抜けて強くて、すべての人間が自分の足元にひれ伏すことをさも当然と思ってる倣岸な目つき。
 まさしく暴君。 
 「ロンは知らないかな、いちばん最近起きた戦争のこと。きみが来るちょっとまえにサーシャが兵隊連れて東棟に乗り込んできたんだ。渡り廊下のバリケード強行突破してね。どこで仕入れたんだか火炎瓶まで用意して東棟に殴りこんだ、名実ともにトップの座からレイジをひきずりおろすために」
 今じゃ事件があった渡り廊下もすっかり改装され、火炎瓶で焼け焦げた痕も補修されてるから一年と半年以内の新入りが知らなくても無理はない。サーシャは僕にちょっと遅れて入所したが、入所したその日に北の元トップを倒してトップの座を奪取。東京プリズンにトップはひとりでいいと宣言し、ナイフで強さを知らしめた北棟の人間を従えて他棟制圧に乗り出した。
 北の反乱だ。
 「すごかったよーマジで。渡り廊下炎上、逃げ惑う囚人、入り乱れて飛び交う罵声と悲鳴と絶叫。戦場だねアレは。何人怪我人でたか詳しくわかんないけど、巻き添えくらって火炎瓶で火傷したやつだけどもかなりいたよ。僕もちょっと火傷しちゃった。よりにもよって自慢の顔に……参っちゃった、大事な商売道具なのにさ。まあ愚痴はおいといて、さすがにはしゃぎすぎたサーシャを止めにやってきたのがレイジ。看守なんか役に立たないし、その時はたまたま安田さんいなかったんだよね。よその刑務所視察に行ってるとかで留守にしてたの、そのあいだに起きた大事件なわけ。無能な看守は我が身可愛さに宿舎にひきこもるし、馬鹿な囚人は渡り廊下の騒ぎに便乗して暴れ出すし……手がつけられない惨状だった」
 当時の惨状がまざまざと脳裏によみがえり、二の腕に鳥肌が浮く。僕の顔色が豹変したのに気付いたか、ロンが音たてて生唾を嚥下する。
 「レイジとサーシャの対決は東と北の渡り廊下で行われた。炎が壁を舐める中、目に染みる煙が充満する中で。僕ね、たまたまそこにいたの。煙に巻かれて逃げ遅れて、うつ伏せに倒れてたせいでサーシャの兵隊にも見落とされて。だからばっちり目撃しちゃった、対決の一部始終をね」
 恐怖心を制御できず声が震える。平気な顔で話してるつもりでも、心の奥底じゃまだ完全には恐怖を克服できてない。炎上する渡り廊下、煙に巻かれて死屍累々と倒れ伏す囚人たち。地獄の再現かと見まがう悪夢の光景。癖のない銀髪を肩に流したサーシャと襟足で髪をひとつに縛ったレイジが戦場で対峙。炎に照り映えるサーシャの銀髪は美しく、炎に映えるレイジの横顔はそれ以上に戦慄を禁じえない美しさで。
 僕は、息をするのも忘れて目を奪われた。
 「レイジはサーシャからナイフを借りた。当時のサーシャは今ほど荒んでなかったから公平を期して敵に武器を渡した。それが仇になったんだね、戦いは二十分でカタがついた。サーシャは疲労困憊でその場に倒れ伏して、もう誰がどう見てもレイジの勝利は確実で、でも王様は容赦しなかった。サーシャの背中を踏み付けてナイフを振り上げて」
 網膜に焼き付いてはなれない光景。
 廊下に腹這いになった僕の視線の先、降参したサーシャの背中を踏み躙るレイジの背中。
 切れ切れに耳に届く会話。息も絶え絶えのサーシャと笑いを含んだレイジの話し声。 
 『……殺すなら殺せ。敗者としてみじめな生を永らえるのは恥辱の極み、誇り高い皇帝は死を望む』
 『自分で誇り高いとか言っちゃうなよ、恥ずかしい。なあ、今の自分の格好よく見てみろよ。俺に踏み付けられて身動きできねーお前の誇りなんかコーラ一本分の値段だよ』
 『なにがおかしい、なにを笑う?そんなに今の私がおかしいか、みじめに這いつくばり死を待つのみのこの身が滑稽か?』
 『ああ、滑稽だね。おかしくておかしくて腹がよじれそうだ。俺に喧嘩売って返り討ちにあってどうすんだよ、本末転倒じゃんか。お前もう北棟に帰れねーよ、だけじゃなくこんなに騒ぎでかくしちまったんじゃ独居房行き確実。俺が手を下すまでもなくお前死ぬよ。お前の居場所なんてここにもどこにもないんだ、潔くあきらめちまえ』
 居場所なんてどこにもない。
 いさぎよく諦めろ。
 その言葉が、サーシャに活力を注ぎ込んだ。憎悪という名の生への執着、絶望をねじ伏せる生命力。
 『………話に聞いたとおりだ』
 『?』
 床に手をつき、肘を立て、苦しげに上体を起こしたサーシャが言う。
 『東のトップはいつでも、どんな時でも笑っていると。何が起きてもへらへら笑って気持ちの悪い男だと。人を殺すときも、おそらくは自分が殺される時でも貴様はそうやって笑っているのだろうな。ああ、本当になんて気持ちの悪い笑顔なんだ。見ているだけで吐き気がする。居場所がない?それは貴様もおなじだろう。人が棲まうところに居場所がないから地獄に堕ちた、しかし地獄にも居場所がないなら……』 
 『遺言にしちゃ長くね?』
 レイジは笑っていた。綺麗な笑顔だった。綺麗なだけの笑顔。
 『もういいよ、聞き飽きた。そろそろ終わりにしよう』
 そうしてレイジは無造作にサーシャの上着をめくった。外気に晒されたのはきめ細かい背中。何年も前の古傷が刻まれた背中に恍惚と見とれ、ナイフの柄を握り直す。
 『綺麗な背中。白人て色白いよな、あたりまえだけど。この傷なに?痛そうだ』  
 『……羨ましいか雑種風情が。一目でわかったぞ、不浄の血が流れる雑種だと。その茶色い肌と髪と瞳は黄色人種と白色人種が交合した副産物だ。白と黄色が混じった不潔な色だ。母方が白人か、父方が白人か?どちらにせよ、貴様が中途半端な存在であることに変わりはない。貴様はどちらにも歓迎されない、どちらにも容認されない出来そこないの混じりものだ』
 背中を踏まれているというのにこの期に及んでもなおサーシャの威厳は失われなかった。煤で汚れた顔に残忍な笑みを刻み、苦しい体勢で振り返り。
 『どこにも居場所がないのは、貴様のほうだ』  
 凍てついた声で宣告。渡り廊下じゃ業火が荒れ狂っているというのに、サーシャとレイジの周囲だけに氷点下の沈黙が降りた。冷笑。悪魔のように綺麗な顔に心ない笑みを浮かべれば、レイジは誰よりも残酷になれる。器用な手つきでナイフを弄び、残忍にサーシャを蹴倒す。レイジに蹴倒されたサーシャの額が床に激突、額が割れて出血。血の飛沫が廊下を汚し、炎を避けて床に横たわる僕の鼻先までとんできた。
 『居場所がない?結構だね。東京プリズンを俺の城にすりゃ問題なし』
 サーシャの背中を踏みつけ踏み躙り、泥の靴痕で上着の背中に敗者の烙印を押すあいだ、禁じられた遊戯に熱中する子供のようにレイジは嬉々としていた。精巧な色硝子の瞳が勢いを増す炎に映えて魔性の金に染まる。壮絶に美しく壮絶に獰猛で、こうなったら最後だれもレイジを止められない。
 一度キレたら手がつけられない暴君なのだ、レイジは。
 レイジは高々と、いっそ無造作に腕を振り上げた。刃の銀光が眩い残像を曳く。絶叫。轟々と荒れ狂う炎さえ圧する断末魔は、死が迫る恐怖よりむしろ純粋な苦痛に彩られていた。振り上げ振り下ろす、その動作を淡々と、狂気に憑かれたように繰り返す。
 レイジの顔に血が飛ぶ。サーシャの血。
 『東京プリズンにトップは四人も要らない?勘違いすんなよ、トップは最初からひとりだ』
 血塗られた刃の向こうに薄らと笑みを浮かべたレイジの顔がある。首からぶらさげた十字架にも血の飛沫が付着するがレイジは気にしない、胸の前にたれた十字架を邪魔っけに振り払いサーシャの背中を切り裂く遊びに無心に没頭する。
 『最初から「俺」ひとりだ。西も南も俺の下、もちろん北も例外じゃない。文句あんならブラックワークで勝ってみろ、いつでも相手してやるよ』
 縦に横に斜めに肌を切り刻まれたサーシャの背中は既に血まみれ、爪が割れるほどに床を掻き毟り這いずり絶叫を撒き散らしていたサーシャも、もはや叫ぶ気力を喪失しぐったりとひれ伏すのみ。レイジの気が済んだのはあまりの激痛にサーシャが失神した頃合で、遊びに飽きた子供のあっけなさでナイフを放り捨て、王様は行ってしまった。血塗られた手をズボンに擦り付け、親指で十字架を拭い、僕の頭上を通り過ぎた王様は小声で歌を口ずさんでいた。
 音痴な鼻歌だった。楽しげに愉快げに、レイジは歌いながら去っていった。自分がサーシャにしたことに関してなんら罪悪感に苦しんでないとおおっぴらに表明する態度で。
 レイジが去り、廊下に残された人間の中で意識を保ってるのは僕ひとりだけとなった。煙を吸って昏倒した囚人が死屍累々と倒れ伏せる中、四つん這いでサーシャに接近。鼻腔に手を翳し、呼吸を確認。かろうじて生きてるみたいだ。背中一面の傷も失血死には至らない程度、今すぐ医務室に運べば助かる。放っといてもじきにサーシャの手下が戻ってくる、数分後には消火器持って看守も駆け付けてくる。
 そのまえにやることやっとかないと。
 『……痛い?』
 膝這いの姿勢で顔面蒼白のサーシャを覗きこむ。青褪めた瞼が震え、サーシャが薄目を開け、またすぐに閉じた。瞼を持ち上げる余力もないみたい。背中一面の激痛で意識朦朧としたサーシャに同情したわけじゃないが、北のトップに恩を売っといて損はないと打算が働き、そっと尻ポケットに手を忍ばせる。
 尻ポケットからとりだした錠剤を舌にくるみ、サーシャの顔を両手で挟み、慎重に起こす。  
 サーシャの顔に顔を近付け、唇に唇を重ね、口移しで錠剤を呑ませる。喉仏が上下したのを確認、ゆっくりと頭を寝かせる。夢うつつのまどろみをたゆたうサーシャの頭を撫で、やさしく言い含める。
 『知ってる?ドラッグは鎮痛剤にもなるんだよ』  
 よわよわしく薄目を開け、アイスブルーの瞳に僕を映し、生死の境をさまようサーシャが唇を開く。
 『Спасибо』
 スパシーバ。ロシア語の「ありがとう」だ。
 それがサーシャと僕の出会いで、持ちつ持たれつの関係のはじまり。サーシャに飲ませたドラッグは効き目抜群で、クスリに味をしめたサーシャはわざわざ東棟に出向き、クスリを手に入れるついでに僕を抱くようになった。いろいろ試してみたけど僕が扱うクスリがいちばん質がよくて種類豊富なんだそうだ。他棟の人間がこっちに出向くのは勇敢通り越して命知らずな行為だけど、そこまでする価値はあるらしい。
 僕の体とクスリには。 
 「……ちょっと脱線したけど、ま、以上の経緯で僕は金払いのいい上客をゲットしてレイジとサーシャは宿命のライバルになったわけ。おーいロン、聞いてる?」
 顔の前でひらひら手を振れば、目の焦点が一点に定まりロンが正気に戻る。僕の過去語りが与えた衝撃が相当強かったらしく、ロンの顔色は気のせいか青褪めていた。マジでレイジから何も聞かされてなかったらしい。ロンを溺愛するレイジが以前の自分について口を噤んでた気持ちもわかる、以前のレイジを知ったら常識人のロンはどん引きするだろう。
 衝撃冷めやらぬロンが深く深く息を吐く。そうすることで自分の気持ちを落ちつかせ心に整理をつけるように。
 「……ヨンイルが言ってた。むかしのレイジはやることなすことめちゃくちゃな暴君だったって」
 「そうだね、ずいぶん変わったよ。むかしのレイジは手加減がへただったけど今はだいぶ上手くなったし……きみが来てからだよ、レイジがとっつきやすい王様になったのは。やりたい放題の王様骨抜きにしちゃうなんて男に興味ない顔してロンもやるじゃん」
 「今でも興味ねーっつの」 
 吐き捨て、憤然と立ち上がる。用件が済んだらしく、鍵屋崎を残して鉄扉を開けたロンを見送りに廊下にでる。話を終えたというのに、いまだ立ち去り難い様子で廊下に佇んでるロンを不審に思って声をかけようとしたら、何か決意したようにきっぱりと顔を上げる。
 「あのさ、」
 「うん?」
 「笑わないと殺される状況ってどんな状況だとおもう?」
 ひどく真面目な顔のロンに面食らう。質問の意図が理解できない。謎かけ?笑わないと殺される状況なんてとっさに思い浮かばない。難解な質問に頭を悩ませた挙句に面倒くさくなり、てきとーに答える。
 「どんな状況もなにもそのまんまの意味っしょ。ウケ狙いのギャグ言って笑いを強制されてるとか、泣くとうざったいから哀しくても笑ってろとか。わかんないけど」
 「わかんねーよな」
 「だと思った」とため息まじりにロンが零す。なんだよ一体。落胆したロンが足をひきずるように去るのを見送り、中に取って返して扉を閉める。
 鍵屋崎がいた。僕とロンが話しこんでるあいだ、ずっと推理小説を読み耽っていたらしい。鉄扉が閉まる音で集中力が切れ、本の世界から現実に回帰した鍵屋崎が虚を衝かれる。
 「で、次はきみの番だ。ロンに聞かれたくない用件ってなあに?」
 無防備な一面を晒したことを恥じるように本を閉じ、推理小説を纏めて小脇に抱え、鍵屋崎がこっちを向く。扉を背にした僕と対峙する位置に移動し、毅然たる態度で僕を見つめ、切り出す。
 「容疑者に事情聴取だ」
 はあ?

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051119000451 | 編集

 「なんの容疑がかかってるの、さっぱり心当たりないんだけど」
 余裕ぶって腕組みし、壁に背中を凭せる。口には半端な笑み。
 推理小説に影響されて探偵の真似事でもしたくなったのか?鍵屋崎は動じず、憎たらしいほど落ち着き払ってる。本を抱いたまま立ち話するのは腕が疲れるからと置き場所をさがし、結局足元の床に置く。鍵屋崎の場合、手を触れて読む本を不衛生な床に置くのだって我慢ならないくせに。
 あとで本と床の接触面を拭く光景が目に浮かぶ。
 本足元に置き、手ぶらになった鍵屋崎が腕を組む。僕に対抗したんだか知らないが、そうするとますます偉そうでむかつく。僕と対峙する位置に立った鍵屋崎が、中指で眼鏡のブリッジに触れて口を開く。
 「昨晩のことだ。きみはペア戦会場で安田を目撃した」
 「安田?」
 意外な人物名に驚く。さっきは「心当たりない」なんて嘘ついたけど、実際はいくつか心当たりがある。心証は真っ黒でないにしても灰色、僕はお世辞にも品行方正な囚人じゃないし裏じゃクスリの売買もやってる。これまでさんざん僕に酷い目に遭わされてきた鍵屋崎が真っ先に僕を疑うのも当然だ。けど、安田って?鍵屋崎が僕を訪ねた動機には安田が関係してるの?
 「そりゃ、たしかに昨日僕は会場にいたよ。ビバリーも一緒。ふたりしてペア戦見物に行ったんだ。いやー見モノだったよ、鞭でびしばししばかれるサムライ。いつも余裕ぶって澄ましてる武士が手も足もでずに追い詰められなくて、あとちょっとで負けちゃいそうで。笑えたよ、ざまあみろって」
 くっくっと喉を鳴らし、肩を揺らす。予想どおり、サムライを揶揄された鍵屋崎が眉をひそめる。大事なお友達を悪く言われて腹を立てたんだろう、お生憎様。眼鏡越しの双眸で睨まれて快感おぼえる僕はちょっと変態入ってるのかも。くぐもった笑い声を漏らす僕へと歩み寄った鍵屋崎が目と鼻の先で立ち止まる。
 「僕の用件はひとつ、昨晩安田を目撃した時に不審な人物に気づかなかったか?」
 「不審な人物?」
 「前提として、君は最初から『不審な人物』の枠内に入ってるぞ」
 鍵屋崎の指摘に鼻白む。
 「失礼だね、僕のどこが不審人物?天使みたいに可愛い少年にむかって酷い言い草じゃん、傷付いた」
 「そうやって話を逸らしてるつもりか?見苦しいな」
 全然話が見えてこない。当惑した僕は壁によりかかり、ため息まじりに手のひらを返す。
 「最初からわかりやすく話してよ。たしかに僕は昨日安田を見かけた。で、安田さんがどうしたの?安田さんに何かあったわけ?そこから話してくれなきゃ、いきなり『不審人物を目撃したか』とか問い詰められてもちんぷんかんぷん」
 僕の発言にも一理あると認めたか、鍵屋崎が顎を引き、ひどく真剣な顔つきで僕の目を覗きこむ。
 「昨晩、安田は会場である大事な物をなくしたんだ」  
 「大事なものってなに。貞操?」
 「ちがう」
 下劣な冗談を鍵屋崎は即否定。つれない反応だ。
 「……詳細は伏せる、現時点では大事な物としか言えない。とにかく安田は絶対なくしてはいけない物を地下停留場で紛失し、しかも盗難された可能性が高い。昨晩のことをよく思い出せ、安田に故意に接触したとおぼしき不審人物に心当たりはないか?きみは安田のすぐ近くにいたんだろう、怪しい人物が接近すれば気付いたはずだ」
 饒舌に畳みかける鍵屋崎はいつになく必死だ。鍵屋崎が他人の為に必死になるなんて珍しいこともあるもんだ、と白けた感想を抱く。しかも相手は安田。副所長と囚人、エリートと元エリート。安田と鍵屋崎にどんな繋がりがあるのか知らないが、高度な教育を受け、東京プリズンの環境にも染まらないインテリメガネ同士意気投合したんだろうか?安田と鍵屋崎の関係に一抹の疑惑を抱き、卑猥な笑顔を浮かべる。
 「メガネくん、安田とできてるの?他人に無関心なきみが赤の他人の失せ物捜し手伝うなんてどういう風の吹き回し?心でも入れ替えたつもりかよ」
 「安田とできてる」なんて疑惑をかけられたのに、鍵屋崎は表情ひとつ変えなかった。この手の揶揄には免疫ができたんだろう、ブラックワークじゃもっと卑猥な言葉を覚えさせられたのだから。僕の挑発にも取り乱すことなく、至って冷静に続ける。
 「僕と安田の関係については第三者が関知することではない。個人のプライバシーにまで踏みこんでくるな、不愉快だ。僕が安田の失せ物捜しに協力したのはあくまで僕自身の自由意思、自発的行為だ。だれに強制されたからでもない、安田に媚びてるわけでもない。どこかの男娼みたいに人に媚びる生き方に堕したくないからな」  
 鍵屋崎の口元に薄い微笑が浮かぶ。冷笑。生意気な態度に反発し、すうと目を細める。
 「それ、僕のこと言ってんの。ひとに物を聞きに来てその態度はなに?頭くるよ」
 鍵屋崎はいやなやつだ。完璧僕のこと見下して、冷笑的な態度を崩そうとしない。現に今だって偉そうに腕組みして、モルモットでも観察するみたいに冷徹な目で大して興味もなく僕を眺めてる。鍵屋崎に見つめられると視線のメスで解剖されるみたいで落ち着かない。
 気に入らない。
 いつからこんな生意気な態度とるようになった?いつから僕にこんな偉そうな口きくようになった?男が男を襲うのが日常化した環境に馴染めず、常に神経質に苛立ってた鍵屋崎のままでいい。お前は一生狩られる側の獲物でいいのに、男に犯されて嬲られて、何もできない無力と非力を噛み締めてればいいのにいつのまにこんなに強くなった?

 僕を出しぬいて成長した? 
 以前は僕が見下すほうだったのに、いつから見下されるようになった?

 僕に口答えするなんて生意気だ。何様のつもりだこいつ、自分の方が偉くなったつもりか?笑わせるね。鍵屋崎より僕のほうがよっぽど悲惨な体験して人生経験積んでる。鍵屋崎が売春を強制されたのはたった一週間だけど僕は六歳のときから八年間ずっと、ずっとだ。クスリ漬けの体はぼろぼろで、骨が成長しなくて背も伸びなくて、先月十五歳になったってのに変声期なんか訪れやしないボーイソプラノのまんま。
 十五歳。鍵屋崎とおなじ年だ。
 なのにどうしてこんなに違うんだ、東京プリズン入所当初と比べて鍵屋崎はだいぶ背が伸びて大人びた。顔から甘さが消えて輪郭が鋭くなった。外見的な変化だけじゃない、中身だってたった半年で劇的に成長した。僕は何も変わってない、どんなに足掻こうとも決して鍵屋崎に追いつけず追い越せず成長は停滞してる。
 あとから来た鍵屋崎に追い越されるのがいやで、色々やって足を引っ張ってきたのに。
 僕の努力は、全部無駄になったってわけ?
 「………さっきも言ったけど、メガネくんはちょっと勘違いしてるみたいだね」
 気に入らない、気に入らないことだらけだ。僕は鍵屋崎に劣等感を抱いてる。認めたくないけど、鍵屋崎に嫉妬してる。だから鍵屋崎を蹴落とそうと、二度と這いあがれないどん底に蹴落とそうと色々汚い手を使ってきた。だってずるいじゃん。鍵屋崎は何でも持ってる。ちゃんとした戸籍を持った日本人として生まれて衣食住の充実した環境で育ってパパとママがそろってて、将来を約束された天才的頭脳の持ち主で、周囲の人間から大事にされて期待されて。僕が欲しかったもの全部最初から持ってたくせに、自分からそれを捨ててこんなところにやってきて。

 いじめたい、いたぶりたい、思い知らせてやりたい。
 世間知らずのエリートに、東京プリズンの本当の怖さを思い知らせてやりたい。

 残虐な衝動にかられ、壁に背中を預け、芝居けたっぷりに天井を仰ぐ。錆びた配管が這いまわる殺風景な天井。
 「僕は情報屋だよ。男娼はほとんど趣味みたいなもんだけど、情報屋は趣味でやってるわけじゃない。ロンは見逃してやったけど普通の客からはちゃんと情報と引き換えのブツ貰ってる。メガネくんはなにか持ってる?情報と交換できるブツを。手ぶらで情報引き出そうなんて虫よすぎで笑っちゃう。僕たちそこまで仲良しじゃないでしょう」
 ゆっくりと気だるい動作で正面に視線を転じる。今の僕は年下の男を手玉にとる娼婦のような顔をしてるはず。客を焦らすのは得意だ。焦らしに焦らしてもう我慢できないってとこまで追い詰めて、苦痛と焦燥に歪んだ顔をたっぷり堪能するのが僕の楽しみ。手ぶらの鍵屋崎は無言で立ち尽くすばかり。そりゃそうだ、情報と引きかえる物なんて何も持ってないんだから。鍵屋崎が何も持ってないと見越して物々交換を申し出た僕も相当性格が悪いと、反省する代わりに笑い声をたてる。
 さあ、どうでる名探偵。言っとくけど、僕は手ごわいよ。客あしらいに慣れたベテラン娼婦を相手にする気構えで臨まなきゃ、手がかりひとつ引き出せないよ。
 「!」
 突然、顔の横に手が置かれる。僕の顔の横、壁に片手を叩き付けた鍵屋崎の顔が急接近。吐息がかかる距離でささやく。
 「またキスでもしてほしいか」
 「………、」
 動転のあまり、とっさに言葉がでてこない。僕の顔の横に手をつき、前傾姿勢をとった鍵屋崎はとても冗談を言ってるようには見えない。僕が頷けば本気でキスしそうな距離と気迫。眼鏡越しの双眸はどこまでも冷徹に冴え渡り、理知的に整った顔には傲然と人を見下す表情が浮かんでる。
 予想外の展開に頭の回転が追いつかない。
 これじゃ追い詰められてるのは僕の方じゃないか。調子が狂う。潔癖症の鍵屋崎がこんなに顔くっつけて、吐息の湿りけさえ感じられる距離で僕に迫ってる。僕はといえば、壁を背にして鍵屋崎に追い詰められどこにも逃げ場がない状態だ。
 冷徹な眼光に容赦なく射竦められ、こめかみを冷や汗が伝う。
 「……情報料のかわりにキス?お約束すぎない、それ。だいたいきみ潔癖症じゃ、」
 「たしかに僕は潔癖症だ。汗や垢などの老廃物で汚れた肌に唇を触れるなど不潔な行為としか思えない。……が、背に腹は変えられない。効率重視の僕は二者択一で常に利益が望める方を選ぶ。キスしたあとはよくうがいをすればいい」
 鍵屋崎が傲慢な目つきで僕を見下ろす。モルモットの生態観察をする科学者の目。
 「覚えているか?以前僕にキスしたことを。一度目は君から、二度目は僕から。一度目は唇に、二度目は首筋に」
 心臓の鼓動が高鳴り、脇の下がじっとり汗ばむ。
 鍵屋崎が怖い。以前の鍵屋崎なら絶対こんなこと言わなかった、こんな、男を知らない女を誘惑するみたいな台詞を平然と連ねたりしなかった。言葉の内容はまんま口説き文句なのに声音はあくまでも淡々としてて、朗読の授業でもしてるみたいだ。
 鍵屋崎が怖いなんて、そんなまさか。悪い冗談だろ?たった半年で。
 混乱して頭が真っ白になった僕の眼前に鍵屋崎の顔が迫る。唇、鼻、睫毛。僕の顔のパーツをひとつひとつ観察、鍵屋崎が言う。 
 「三度目はどこがいい?」
 「!!―っ、」
 手首に激痛が走った。
 鍵屋崎に両方の手首を掴まれ、壁に強打される。その衝撃で、鍵屋崎の目を盗んでポケットから取り出した注射器を落としてしまった。足元に落下した注射器がころころと床を転がる。 
 「……学習能力がない。君がポケットに注射器を隠してることはお見通しだ。半年前、イエローワークの砂漠で囚人に注射しただろう。察するに君は、最後の自衛手段を失ったみたいだな」
 手が届かなくなった注射器に舌打ち。両手を掴まれ、バンザイで吊られた姿勢で鍵屋崎を睨み付ける。ピンで留められた標本箱の虫になった気分。反撃の機会を奪われた僕はそれでも虚勢を張り、片頬笑む。
 「……柄にもないことするなよ。いつからそんな強気になったのさメガネくん、似合わないよ。妹の名前呼びながら男に犯されるほうが似合ってるよ」
 売春班でのトラウマを抉れば、鍵屋崎の双眸が不快げに細まる。やったね。鍵屋崎に一矢報いたことに溜飲をさげ、肩をひくつかせて失笑を漏らす。   
 「僕を抱く度胸もないくせにでかい口叩くなよ」
 どんなにでかい口叩いても鍵屋崎は所詮鍵屋崎だ、甘さが抜けきらないエリート崩れ。そう舐めてかかった僕の予想は次の瞬間裏切られた。
 「抱いて欲しいのか?」   
 「……っ、」
 手首に握力がこもり、苦痛に声をだす。甘いのは僕の方だった。僕の目をまっすぐ見つめ、低い声で訊く。軽蔑と嫌悪が入り交ざった傲慢な目つき、僕の拒否権なんて認めない高圧的な口調。脅迫。鍵屋崎は焦ってる、脅迫手段の暴力を厭わないほどに追い詰められてる。なんで?なんで安田のためにそこまでする、安田が大事な物なくしたからそれがなに、どうでもいいじゃないか。鍵屋崎自身には何も関係ないじゃんか。
 「なんで安田のためにそこまでするのさ、きみにとって安田はなんなのさ!?」
 手首の痛みに耐えかね、気付けば僕は叫んでいた。疑問の声に虚を衝かれた鍵屋崎が、その一瞬だけひどく人間らしいためらいの表情を覗かせる。
 「……安田は、」 
 顔を伏せ、曖昧に言い淀む。
 「神出鬼没で現れては何も根拠のない適当な助言を与え、嫌煙家の僕の前で無神経に煙草を吸って肺がん発症率を上昇させ、効率主義のエリートを気取っているくせに冷徹になりきれない中途半端な男で、厳重に管理すべき囚人に対し非情に徹しきれない優柔不断な人間で、」
 人間らしく痛切な表情で、激情に翻弄されながら安田への思いを吐露する鍵屋崎の目には孤独に思い詰めた色がある。
 人の心を軽んじる天才ではなく、ただの人間の顔。大切な人間を失う現実に怯える、弱くて頼りない少年の顔。
 「でも彼は、安田は、東京プリズンでは僕と対等に口論できる唯一の人間なんだ!鍵屋崎直を認めてくれた大人、僕をひとりの人間として、将来研究を継がせる人材としてじゃなく鍵屋崎直一個人として扱ってくれた初めての大人なんだ!彼がいなくなったら僕は誰と口論すればいい、語彙と教養で僕に比肩する人間は安田だけだ、安田と口論できなくなれば東京プリズンの日常に張り合いがなくなるだろう」
 そして口を噤み、自分に確かめるように小さく繰り返す。
 「それだけ、ただそれだけだ。でも重要なことなんだ、僕にとっては」
 言葉で気持ちを偽るように、ただそれだけと繰り返す。本当はただそれだけじゃないくせに、自己暗示をかけるように。安田を庇って必死な鍵屋崎に脱力、降参のため息をつく。ふたりの関係はよくわからないが、今の激烈な反応で鍵屋崎にとっての安田が大事な人間だってのはよくわかった。安田のために何かしたいと思い詰める鍵屋崎の気持ちに嘘はない。なにか情報を提供しなければこの手をはなしてくれないだろう。
 「……わかったよ、わかりましたよ。タダで情報あげるから」
 「本当か?」
 鍵屋崎が疑り深く念を押す。そこまで信用ないかね、僕。希望が見えた鍵屋崎が指を緩めたすきに邪険に手を振りほどく。相当強く握り締められたせいで手首に痣ができていた。手首の痣に吐息を吹きかけ、顔をしかめる。
 「昨日のこと話せばいいんでしょ?昨日たしかに僕は会場にいた、リングに歩いてく安田を見てた。ロンが乱入したせいで会場は大騒ぎで、盛りあがりに盛りあがってたもんだからリングに着くまでに揉みくちゃにされて安田も苦労してた」
 「不審な人物を目撃しなかったか」
 「安田にぶつかった人間ならたくさんいた。てか、あの状況じゃ人にぶつからずに進むの不可能だし。前に後ろに右に左に、たくさんの人間が安田のまわりにいたよ。その中の誰が安田の大事な物盗んだかなんてわかんないよ、さすがの僕もお手上げさ。ご期待にそえなくて悪いけど」
 見たままありのままを素直に話す。たしかに僕は地下停留場にいた、リングに歩いてく安田を目撃し、鍵屋崎に接触するまでの一部始終を見守った。リングに到着するまで安田は数えきれない人間にぶつかったが、それでも五秒以上は立ち止まらなかった。五秒以内に所持品を盗んだんだとしたら、そいつは相当な腕前のスリ師ということになる。
 ごく自然に、偶然を装って安田とすれちがうと見せかけて所持品を掠め取ったのだから。
 「蛇の道は蛇」
 「なに?」
 不審げな鍵屋崎の前でにっこり人さし指を立て、助言を与える。
 「安田に気付かれもせず所持品を盗んだんだとしたら、そいつにはスリの前科があると見て間違いない。近くで見てた僕はおろか、安田本人さえ気付かない一瞬の早業で所持品を盗み取れるスリ師。メガネくん知ってる?東京プリズンに限定しなくても刑務所じゃおなじ犯罪やらかしたやつが自然と寄り集まってグループ作る傾向にあるんだ。強姦魔は強姦魔、強盗傷害犯は強盗傷害犯ってぐあいに」
 人さし指を引っ込め、上目遣いに鍵屋崎を見上げる。
 「きみとサムライもそうでしょ?親殺し同士、いつのまにか意気投合してんじゃん」
 「……つまり、犯人はスリの前科がある囚人だと?」
 「間違いないだろうね。気になるなら食堂で当たってみたら?スリ師グループを見分けるのは簡単。たとえば食堂なんかで大人数集まったとき、決まって話題になるのは前科の自慢話。これ刑務所の常識。財布に大金入っててラッキーだった、成金オヤジの財布スッたら小銭しか入ってなかったとかおしゃべりしてる連中にあたればいい」
 お話おしまい、鍵屋崎には退散してもらお。鍵屋崎の背中を押すように鉄扉へと持ってけば、本を小脇に抱え、片手をノブにかけた鍵屋崎が肩越しに振り向く。
 礼でも言う気か?まさか、鍵屋崎に限ってそれはないか。
 「まだなにか?」   
 「さっきの発言だが、似た者同士が集う現象を言いたいなら『蛇の道は蛇』ではなく『類は友を呼ぶ』を使用すべきだ。辞書でも読んで正しいことわざの使用法を学んだらどうだ」
 ……ほらね、言ったとおりでしょ?
 ちょっとでも期待した僕が馬鹿だった。鉄扉を開き、用は済んだとばかり足早に出ていこうとした鍵屋崎の背中に無駄だとわかっていながらうんざり声をかける。
 「……あのさあ。タダでいいこと教えてあげたんだからお礼がわりにキスのひとつでもするとか、そういうお約束は」
 鉄扉に手をかけ、鍵屋崎を見送りにでた僕の頬に唇が触れる。儀礼的でそっけないキス。
 「これでいいのか」
 僕にキスしたあと手の甲で唇を拭うのはやめてほしい。たぶん房に帰ってからうがいするんだろうな、と半ば放心状態で頷く。
 「……どうも」   
 「……なるほど。君は東京プリズン一の情報通だが、毎回手続きが面倒くさいな」
 キスは冗談だよ、真に受けるなよ。いや、冗談とわかっててやったのか?僕を翻弄するのが面白くて?鍵屋崎をからかうのは僕の特権のはずなのに、いつのまに立場が逆転したんだ。最後にしたたかな笑顔を浮かべ、本を抱えた鍵屋崎がすたすた立ち去る。
 「くそっ、」
 頬を手の甲で拭い、もう見えなくなった鍵屋崎の背中に毒づく。姑息な真似しやがって、あれで勝ったつもりかよ。いつか絶対泣かせてやる、僕の足元に跪かせてフェラさせてやる。腹立ち紛れに鉄扉を閉め、床を蹴り付ける。視線の先にぽつんと転がってるのは注射器だ。
 「………」
 半年前、監視棟の手摺に座ってサーシャにクスリを打ったことを思い出す。
 ロンには伏せた事実がいくつかある。いくら東と北の渡り廊下が修復され、事件の爪あとが隠蔽されたとしても囚人の口から口へと噂が伝わるのはふせげない。東京プリズンの囚人はおしゃべりだ。そんな大事件があったら一年と半年たった今も語り草になってるはず。にもかかわらず、ロンがなにも知らなかったというのはおかしい。
 答えは簡単。だれかが緘口令を敷いたからだ。
 サーシャにとって、レイジとの最初の対決は二度と思い出したくない屈辱的な記憶。敗北は汚点だ。のみならず、最も憎い男の手によって背中を切り刻まれ一生消えない傷を負わされたのだ。以前うっかりとそれに言及し、サーシャの逆鱗にふれた北のガキがナイフで目玉をくりぬかれたらしい。
 サーシャだけじゃない。いや、むしろ……
 「惚れた弱み、か」
 ロンにはからきしの情けない王様を思い浮かべ、口元を緩める。サーシャとの最初の対決について、因縁の発端について、お前ら口外するなよと無言の圧力を与えていたのは我らが王様レイジ本人だ。ロンが知ったら怖がるから、避けられるかもしれないからと先手を打って。
 ロンと今までどおりの関係を保ちたくて、暴君の過去を隠して。
 「妬けるね」
 独りごちた僕の背後に足音が接近。顔を見なくてもわかる、軽快な足音の主はビバリーだ。
 「リョウさーん、ただいまっス!」
 「はいお帰り」
 鉄扉を開き、笑顔でビバリーを迎え入れる。
 「悪いね、お客がきてるあいだ無理言って出払ってもらっちゃって」
 「いえいえ、デバガメはもうこりごりっスから!僕の見えないとこ聞こえないとこで乳繰りあってくれるぶんには全然OKっスから!」
 「なんなら3Pしてもよかったんだけど、」
 「しません」
 ビバリーもつれない。ふくれ面の僕とは対照的にビバリーはひどく上機嫌で、ポケットから何かを取り出す。
 「リョウさん、それよりこれこれ!」
 「なにこの秘密道具」
 会心の笑顔のビバリーが僕の鼻先に突き出したのは、コード付きの集音マイクと顕微鏡のレンズみたいな謎の物体。眉をひそめて集音マイクをつまみあげた僕に、興奮しきったビバリーが説手振り身振りを交えて説明。
 「馴染みの看守に調達してもらったんス。これをちょいちょいといじくれば何も試合会場まで出向くことはありません。房にいながらにしてペア戦観戦ができる優れ物、その名も超小型盗撮カメラと盗聴マイク」
 じゃじゃーん、とベタな効果音つきでカメラとマイクを掲げたビバリーに絶句する。
 ひょっとして、ビバリーは僕の為にカメラとマイクを?人でごった返した地下停留場じゃまともに試合観戦できないちびの僕を気の毒がって、それで……
 『Thank you, and I love you!!』
 「うわっ、リョウさんとびつかっ、ぐえっ、首が!?」
 どうしよう、頬が緩む。感激のあまりビバリーの首ったまにかじりつき、体当たりで喜びを表現。首を絞められたビバリーが手をばたつかせてよろめく。カメラとマイクさえ仕掛ければここにいながらにして試合観戦できるVIP待遇に昇格、他の囚人と競って地下停留場に行かなくてよくなる。
 『OH,my god……』
 おもいきり首を絞められ、口から泡を噴いたビバリーに感謝のキスをする。
 キスの瞬間、反射的に鍵屋崎を思い浮かべたのはまだ唇の感触が残ってたからだ。
 それ以外の理由はない。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051118001146 | 編集

 レイジに暴君の時代があった。
 衝撃は冷めやらない。俺が入所する前に起きた戦争のこと、渡り廊下を戦場にした北と東の最初の対決、因縁の発端。リョウの話を聞いてすべてが腑に落ちた。サーシャがあそこまでレイジを憎悪するわけもレイジがああまで東棟の連中に恐れられるわけも。大体おかしいのだ、いくらレイジが化け物じみて強くて連戦連勝無敵無敗のブラックワークトップでも、普段はくだらないこと言っちゃ笑い転げてるバカな王様なのだ。
 威厳なんてこれっぽっちもないにやけ面の王様が、東棟はおろか他棟の連中にまでびびられるにはそれなりの根拠があった。
 早い話、レイジには前科があったのだ。人を傷つけることなどなんとも思ってない冷酷な暴君の過去、人肌を切り刻み血にまみれることで残忍な快楽に酔う怪物の過去。レイジの過去を知る連中が戦々恐々レイジを避けるのはそりゃあたりまえだ。

 さわらぬ王様に祟りなし。寝た暴君を起こすな。

 でも、おかしい。なんで今まで、俺が入所してからの一年と半年、噂好きな囚人どもの口に一言も渡り廊下の対決がのぼらなかったんだ?東京プリズンの囚人はどいつもこいつも好奇心旺盛、野次馬根性旺盛で娯楽と刺激に日々飢えてる。皇帝と王様、北と東の二大トップが渡り廊下で一戦交えたなら今でも語り草になってるはずなのに……
 リョウに種明かしされてもいくつか疑問は残る。ヨンイルとホセ、そしてリョウは俺と出会ってレイジが変わったと証言した。人の肌を切り刻む行為に一片の躊躇もなく、むしろ嬉々として手を血に染めていた暴君が俺との出会いで劇的に変化したと言ったのだ。
 でも、俺はレイジに何もしちゃいない。俺との出会いでレイジが変わったってんなら、俺のなにがレイジを変えたんだ。俺の言動がレイジに影響をもたらすなんてにわかには信じがたい。レイジに影響されたのは俺の方だ。東京プリズン最強の男が身近にいて、寝ても覚めてもおなじ空気吸って生活する毎日でいやというほど自分の非力を痛感した。レイジに比べて俺は全然弱い、弱いから凱やタジマにしつこく付け狙われレイジに世話をかける悪循環から脱したくて酒の勢いを借りて参戦表明までしちまった。
 今の俺じゃレイジの足元にも及ばない。それが悔しくて情けない。ただの足手まといの現状がいたたまれない。レイジと並ぶのは無理でもせめて相棒として恥ずかしくないくらいに強くなりたい、強い俺になりたい。レイジの負担にならない一人前の相棒になりたい。
 ……なんだかこっぱずかしいこと言ってるな、俺。顔から火が出そうだ。
 話を戻す。レイジは俺との出会いで変わったと皆が口をそろえて言う。ヨンイルもホセもリョウもだ。俺は以前のレイジを知らない。俺と出会う前のレイジがどんな奴だったのかレイジがどういった経緯で東京プリズンにやってきたのか、あいつのことを何も知らないのだ。
 俺だけが何も知らず、レイジの相棒気取りでいたんだとしたら?
 これまでの一年と半年で、俺はレイジのことをなにもかもわかったつもりでいた。お笑いぐさだ。俺とレイジが一緒に過ごした期間はたった一年半で、レイジにはそれ以前にも十数年の人生があるのに、俺はたった一年半のレイジしか知らずにあいつのことを語っていたのだ。偉そうに、知ったかぶって。
 レイジのことを何も知らずに、あいつの相棒だって言えるのか?
 何も知らない今の状態のままで、あいつの相棒だって胸をはれるのか?
 「どうしたんだロン、眉間に皺よせて」
 「!」
 噂をすれば影だ。
 目の前に上半身裸のレイジがいた。俺の眉間を指でつついて変な顔してる。どうでもいいが何で裸なんだ?物思いに耽っててレイジが脱いだのにも気付かなかった俺はぎょっと仰け反る。
 「なんで裸なんだよこの露出狂」
 「サービス?」
 「前も聞いたけど男にサービスされても嬉しかねえ」
 とぼけた回答を冷たくあしらえば、「冗談だよ」とレイジが笑み崩れる。俺だけに見せるあけっぴろげな笑顔。そんなに無防備でいいのかよとこっちが心配になる笑顔なのに、ヨンイルやホセやリョウはこの笑顔が嘘だという。レイジの本性は残忍な笑みを浮かべて人肌を切り刻む暴君で、俺が見慣れた笑顔は本性を偽る仮面で。
 そんなことあってたまるか、と心の中で強く否定する。この笑顔が嘘なわけない、以前のレイジがどんだけ頭のとち狂ったやつか知らないが今のレイジは口と尻が軽いふざけた男で、こうしてなれなれしく俺に笑いかけてくる。
 「ひとっ走りして汗かいたからシャワー室行ってきた。上着はほら、あそこに干してある」
 顎をしゃくったレイジにつられて目をやれば、パイプベッドのパイプに生渇きの上着が掛けてあった。特権階級の王様ともなればいつでも自由にシャワーを利用できる。二日に一度しかシャワーを浴びれない俺にしてみりゃ羨ましい話だ。
 上半身裸の王様は気軽に断りもなく俺の隣に腰掛ける。
 「だれが座っていいって言った。自分のベッドに座れよ、ひっつくんじゃねーよ」
 「いいじゃん、俺とロンの仲だし」
 「さも既成事実あるよなまぎらわしいこと言うんじゃねえ。俺とお前の仲ってなんだよ、犬猿の仲か?」
 「寝込み襲ったり襲われたりする仲」
 平然とうそぶいたレイジの顔面に枕をぶつける。
 「だれがお前なんか襲うかっ、襲われてんのは一方的に俺だ俺!」
 「顔真っ赤」
 枕と顔面衝突したレイジが鼻の頭を赤く染め、性懲りなく笑い転げる。俺の方を指さして笑ってるってことは今俺は赤面してるのか?なんで?意味不明だ畜生。レイジの顔面からずり落ちた枕がベッドに落下して間抜けな音をたてる。レイジに付き合ってられるかとベッドに胡座をかいてそっぽを向き、その瞬間、ある事実に思い至る。
 「レイジ、おまえ今日一日中鍵屋崎とバスケしてたの」
 「今日だけじゃない、昨日もだ」
 振り向きざまに確認をとれば、ベッドに手をつき、後ろに反り返った姿勢で床に足を投げたレイジが返事をする。なんたる暇人。俺が必死こいてホセに特訓受けてるあいだじゅう、トロい鍵屋崎を相手にボール遊びしてたってのか?ひとにコーチ紹介しといてその態度はなんだ、余裕ありすぎだろくそったれ。
 最初から強いレイジには特訓なんざ不要だ。俺が一週間地獄の特訓メニューをこなしたところで土台レイジに追いつくのは不可能なのだ。余裕綽々なレイジに反発をおぼえ、幾許かの嫉妬をこめ吐き捨てる。
 「王様は余裕でいいよな、俺に鬼コーチ押しつけて自分は一日中タマ遊びかよ。万能無敵の王様はバスケも得意なんだろ、どうせ。なにかひとつくらい世の中にできないことないの、おまえ?」
 やっかみ半分に皮肉れば、物言わず俺の横顔を見つめてレイジが思案する。物思いに耽る時の癖で、裸の胸に下げた十字架に指を絡めながら。
 「あるぜ。できないこと」
 十字架の鎖を指に巻きながらレイジが呟く。謎めいた微笑を添えて。
 「なんだよ、度を越した音痴で歌が唄えないとか?」
 俺の横顔から正面の虚空に視線を転じ、芒洋と目を細める。口元に微笑を湛えた横顔に束の間見惚れる。不覚だ、いくら綺麗な顔してるからって男に見惚れるなんてどうかしてる。自己嫌悪に苛まれる俺をよそに無心に鎖で遊ぶレイジ。金に艶めく鎖を二重三重と指に巻き、女に飽きた色男の手つきでそっけなく十字架をひと撫で。
 「笑顔」
 さらりと言った。
 「………、」
 絶句した。 
 「……笑顔って、おまえいつでも笑ってんじゃん」
 「そう?そうだな、そうだよな」
 「てきとー言うなよ。おまえくらいへらへら笑ってる人間、他に世界中さがしたっていねえよ」
 「そうかな」
 「そうだよ」
 「そう見えるか」
 「ああ」
 なんだろう、この雰囲気。何でもない言葉のやりとりで口内に唾が沸く。こんなに近くにいるのにレイジがひどく遠ざかった気がする。隣にいるのは本当にレイジか?俺が知ってるレイジか?
 強制労働が終わり、夕食が終わり、短い自由時間を満喫しに廊下にあふれでた囚人の話し声が扉越しに伝わってくる。静寂。
 ふいに、レイジがこっちを向いた。信じてもない神に縋るように十字架を握り締めたまま、ちょっとだけ首を傾げ、微笑む。
 「今の俺、上手く笑えてる?」
 「……笑顔に上手い下手とかあるの?質問が意味不明」
 レイジの問いかけにあきれる。あんまり笑うのが得意じゃない俺が言っても説得力ないが、楽しけりゃ遠慮せず笑えばいいし哀しけりゃおもいきり泣けばいい。上手い下手の問題じゃない、あたりまえに単純なことじゃないか。笑顔も涙も本来感情に直結した生理現象で、作り笑いも嘘泣きも俺はどっちも好きじゃない。レイジはなんだって突然こんなことを聞いてきたんだ、俺にどんな答えを期待してるんだ?
 『おまえが来てからやで、あいつが普通に笑うようになったの』
 耳によみがえるヨンイルの言葉。俺が来てからレイジは普通に笑うようになった。じゃあ、その前は?俺が来る前はどうしてたんだ、どうだったっていうんだ。
 俺が知るレイジはいつも笑っていた。俺が東京プリズンに来た時からずっと、同房になったときからずっと。そうだ、あの時だって。
 あれはレイジと同房になって三日後、イエローワークに配属された俺が一日中シャベルを振って手に豆を作って、豆が痛くて痛くて匙が握れないせいでろくに食事もできなくて、今にもぶっ倒れそうに腹を空かして、空腹をごまかそうとベッドで寝返り打ってたらレイジが顔を覗きこんで。
 『ロンって中国人?名前は中国人だよな』
 そうだ、レイジはしょっぱなからなれなれしかった。俺が空腹でへばってるのにもおかまいなしで、無神経に声をかけてきた。しかも、俺がいちばん聞かれたくないことを聞いてきやがった。レイジの首からぶらさがった十字架が頬に触れ、ひんやり冷たかったことを覚えてる。タジマに殴られて倍に腫れてたから熱冷ましにちょうどいい。
 『……台湾と中国の混血だよ、悪いかよ畜生』
 鼻先に落ちた鎖がうざったくて、目の前にちらつく十字架が鬱陶しくて。なにより蛍光灯を背にしたレイジの笑顔が眩しく、目を細めて吐き捨てる。
 『じゃあ俺とおなじだ』 
 光を透かせば金に輝く茶髪よりなお眩しい笑顔。おなじ?なにがおなじなもんか。俺はおまえみたいに能天気じゃない、出会って三日しか経たない人間になれなれしく話しかけてあけっぴろげに笑いかけることができるほど器用じゃない。俺は疲れていた。東京プリズンに来てまだ三日、なにもかも慣れないことだらけでなにをするにもひどく苦労した。派遣先の砂漠じゃシャベルをあちこちにぶつけて初日から痣だらけ、食堂じゃ先に席を取られ、食事終了時間ぎりぎりまでトレイを持ってうろつく羽目になった。
 ああ、ここにも俺の居場所はないのか。
 そう悟ったら急になにもかもどうでもよくなって、なんにもする気が起きなくなった。
 『おい、せっかく同房の相棒になったんだから仲良くしようぜ。死んだ魚みたいな目すんな、三日もたつんだから自己紹介くらいやっとこうぜ。俺はレイジ、フィリピンとアメリカの混血。特技は女を口説くこと、一部男でも可。好みの女のタイプは気の強い女豹系、好みの男のタイプは気の強い野良猫系……』
 『レイジ?日本人みてーな名前だな』
 『よく言われる。でも英語』
 『英語?』
 仰向けに寝転がったままさして興味もなく鸚鵡返しに問えば、俺の傍ら、中腰の姿勢で顔を覗きこんだレイジが笑う。人に好かれたがってる子供みたいな笑顔。
 『Rage.「憎しみ」って意味の英語。かっこいいだろ』

  レイジ。子供に「憎しみ」なんて名付ける親、どうかしてる。
  
 俺の名前のほうがまだマシだ、ろくでもない親父がつけた麻雀の役名のほうがまだ縁起がいい。なんだってレイジはそんな不吉な名前をつけられたんだ?普通名前ってのは子供に幸せになってほしくて親が祈りと願いをこめてつけるものだろ。
 レイジはまるで、この世に産声をあげたその瞬間から不幸を望まれてるみたいだ。
 俺はレイジのことをなにも知らない。ひた隠しにしてた暴君の過去も、それ以前も。レイジの両親がちゃんと生きてるのかここに来る前はどこでなにしてたのか、こいつのことを何ひとつだってまともに知っちゃいない。
 「……レイジ」
 俺は知りたい、俺と出会う前のレイジのことを。時々無性に不安になる、レイジが今俺に見せてる笑顔か本物かそれとも作り物か見分けがつかずに怖くなる。くだらない冗談言って腹を抱えて笑い転げてるレイジが本当のレイジなのか、リングで脚光を浴びためらいなく凱を絞め殺そうとしたレイジが本当のレイジなのか区別がつかなくなる。自分の目に映る光景が信じられず、レイジの笑顔を鵜呑みにできず、胸が不吉にざわめくのだ。
 唾を嚥下し、上着の胸を掴み、遠くに行ってしまったレイジを引き戻すように名を呼ぶ。遠くへ?馬鹿な、レイジはすぐそこにいるじゃないか。肘と肘が接する距離で隣に座ってるじゃないか。なのになんでこんな不安なんだ、レイジの名前を呼ぶ声が俺の耳にさえ空虚に響くのは何故だ?
 舌で唇を湿らし、慎重に口を開く。
 長い長い逡巡の末に、本人に直接疑問をぶつけてみる。
 「おまえ、ここに来る前はどこでなにしてたんだ」
 「赤い糸を辿って世界一周。終点は東京プリズンで運命の相手は隣に」
 「殴るぞ」
 こぶしを掲げて殴る真似をすれば、十字架を握り締めたレイジが遠い目を虚空に馳せる。長めの前髪越しに透けて見える双眸は天然で色素が薄く、色硝子みたいに透明感のある茶色。レイジの瞳を覗きこむたび茶色ってこんなに綺麗な色だったっけ、毎度新鮮な驚きをおぼえる。サーシャはレイジのことを汚い汚いと罵るが、そんなことはない。光の加減で金に透ける茶髪も濁りない瞳も、顔だちさえ目を疑うほどに綺麗で。
 こんなにどこもかしこも綺麗なのは神様に愛された人間か、悪魔に魂を売ったやつくらいだろう。 
 「……あ。今、右三つ隣で電球が割れた」
 「はあ!?話そらすなよ」
 人が真面目に聞いてるのにそのふざけた回答はなんだ。全然関係ないことをほざいたレイジに抗議の声をあげ、ふと不審に思う。右に三つ先で裸電球が割れた?そんな音、俺の耳には全然届かなかった。あたりまえだ、鉄扉越しの廊下は囚人でごった返して喧騒に湧いてるし房と房の境目には分厚いコンクリート壁が存在してる。
 右に三つ先で裸電球がパリンと割れた音なんて本来聞こえるはずがない。
 「てきとー言うなよ、よく考えたらこの距離から聞こえるわけねーだろ」
 「嘘だとおもうなら確かめてこいよ。地獄耳を信じろ」
 耳を指さし、自信ありげに断言するレイジに半年前の記憶が鮮明に甦る。監視棟に呼び出されたレイジは遠く離れた地上にいながらにして会話を聞き分けた。外ヅラだけじゃなく五感にも恵まれてるなんて天は二物を与えないんじゃなかったのかよと文句をつけたくなる。
 「鍵屋崎も耳いいけどおまえはそれ以上だな。地獄耳は生まれつきか」
 「いんや。暗闇で聴覚を鍛えた」
 「?」
 いきなり何言い出すんだこいつ。不審の眼差しでレイジを見れば、レイジはいつもどおり涼しげな顔でベッドに後ろ手つき、床に足を投げて天井を仰いでいた。
 錆びた配管が這いまわる天井を仰ぎ、静かな口調でレイジが語る。
 むかし懐かしむように、記憶の輪郭を手のひらで撫でまわすように十字架をさぐり。
 「ガキの頃、聴覚を高める訓練をしたんだ。真っ暗い部屋に閉じ込められて外から鍵かけられて。ちょうどここと似たかんじのコンクリートの部屋。広さはどんくらいかな、真っ暗で何も見えないからはっきり言えないけど端から端まで子供の足で歩いて五歩だから……広かったのかな、狭かったのかな。わかんね。とにかく、暗い部屋だった。あんまり暗いんで自分が目を閉じてるのか開いてるのかわかんなくなった。おまけにひどい匂いがした。クソも小便も端っこの溝に垂れ流しで、すえた匂いがこもってた。扉は鉄でできてた。扉の下には四角い口があって、一日二回そこから飯がさしいれられんだけどタダじゃもらえない。飯にありつくためには外から聞こえる銃声が何発か当てなきゃなんない」
 「銃声?」
 「そう、銃声。一日二回外から銃声が聞こえてくる。それが何発か当てなきゃ飯はもらえない、暗闇で飢え死ぬだけ。銃声がしたらおなじ数だけ扉をノックする。コンコン、コンコンコン。当たりゃ飯がもらえる。ドッグフードみたいな味の缶詰のコンビーフ。外れたら当然おあずけ」
 こぶしを掲げて虚空をノックし、レイジがいたずらっぽく微笑む。
 「それ以外にやることないから壁にぴったり耳をくっつけてみたら、隣からもその隣からも泣き声がした。隣の部屋にもその隣の部屋にも、俺と同じくらいのガキが放りこまれてるんだってわかった。みんなわんわん泣いてた。泣いてないのは俺だけ。どれくらい居たんだろうな、あそこに。一週間か二周間か……一ヶ月かな?よくわかんないけど、ずっと閉じ込められてた。最初の日はガキの泣き声がうるさいくらいだったのに、一日経つごとにどんどん細くなって、しまいには隣からもそのまた隣からも声がしなくなって……他のガキが生きてるのか死んでるのかもわかんなくて、真っ暗闇の密室で完全な孤立状態」
 レイジはあくまで淡々と話す。微笑さえ湛え、おぞましいことを話す。途中何度も耳をふさぎたくなった。これ以上聞いちゃいけない、聞いたらきっと後悔する、とびきりの悪夢を見てしまう。これがレイジの過去、子供時代の思い出?糞尿垂れ流しで異臭が淀む真っ暗い部屋に監禁され、飯は一日二度まずいコンビーフが与えられるだけで、それさえ扉越しの銃声を当てなきゃありつけなくて。右隣にも左隣にも隣の隣にも同じような部屋が延々続いてて、一部屋にひとりガキが閉じこめられ、恐怖と飢えに苛まれて発狂寸前まで追いこまれて。
 悪夢みたいな現実を、レイジは淡々と、懐かしげに語る。
 柔和に凪いだ表情で、穏やかな目で、手のひらの十字架を見つめ。
 「そのうち銃声だけじゃなく、扉越しの話し声もあてさせられるようになった。最初の頃はよく外してたけど、最後の方じゃ外すこともなくなった。そりゃこっちは命がけだよ、一日二食の飯が賭かってるんだから。こめかみが痛くなるくらい集中して息を押し殺して、扉にぴったり耳をくっつけて……そうやって訓練して、飯にありつきたい一心で耳を鍛えたんだ。生まれつきじゃない、後天性の地獄耳」
 一転、いつもの能天気な笑顔に戻ったレイジがおどけたように肩を竦める。
 「だから俺、独居房があんまり怖くないんだよね。一週間くらいならへっちゃら。タジマ殺して独居房送りになって、それでロンの貞操守れるなら安いかなって」
 「ばか」
 話が終わった頃には背中にびっしょりと汗をかいていた。いやな汗だ。今のがレイジの過去、子供時代の思い出?コーラの空き瓶を的にパチンコやってたレイジと、泣けど喚けど光射すことがない部屋にうずくまるレイジが上手く重ならない。
 最大の疑問。 
 レイジは一体全体だれに、何の為にそんな非人道的訓練をさせられたんだ?
 缶詰のコンビーフが一日二食のご馳走だったんなら、レイジが缶詰ばっか貯めこむのも納得いく。缶詰の味が特別好きなわけじゃなく、誰ひとり救いの手をさしのべない暗闇で子供心に学習した飢えに対する回避行動。
 そんなの、あんまり悲惨じゃないか。
 「さて、そろそろ乾いたかな」
 レイジが腰を上げ、スプリングが軋む。素早く上着を身に付けて素肌を隠したレイジをよそに、俺はその場から逃げるように腰を上げる。
 「どこ行くんだよ」
 「図書室」
 嘘だ、本当はどこでもない。ただレイジから逃れたい一心で、ひとりになって考える時間が欲しくて、レイジに適当言って鉄扉を開ける。鉄扉を閉める瞬間、ベッドの傍らに突っ立ったレイジの唇がかすかに動き、歌を口ずさむ。
 ストレンジ・フルーツ。奇妙な果実。
 愉快げに鼻歌を歌いながらサーシャの背中を切り刻むレイジを思い浮かべ、わざと乱暴に鉄扉を閉じる。廊下で頭を冷やそうと行くあてもなくさまよいでて、右に三つ先の房のまえを通りかかれば、偶然中の騒ぎが耳に入る。
 「ああもう、どうすんだよこれ!?おまえが枕なんか投げるからだぜ、ちゃんとガラス集めとけよあぶねーえなあ」
 「てめえがエロ本ぶんどったりするからだろうが!」
 「いいか、俺が帰って来るまでにちゃんと掃除しとけ。看守呼びに行って新品取り付けてもらうから」
 「二度と帰ってくんなボケ。俺の愛人に汚え汁つけやがって」
 「けっ、なにが愛人だ。そんなイカくせえエロ本要るか、ケツ拭いて便所に流しちまえ」
 喧嘩腰のやりとりのあと鉄扉が開き、囚人がとびだしてくる。廊下を駆け去る囚人から開け放たれた扉の内側へと視線を転じ、床の真ん中で割れ砕けた裸電球を目撃。天井から落下した衝撃で床一面に裸電球の破片が散らばった惨状に「くそっ」と毒づいてるのは、エロ本ぶんどられた腹いせに枕を投げて裸電球を粉砕した張本人らしい。
 『右に三つ先の房で裸電球が割れた』
 レイジの言ったことは本当だった。分厚いコンクリ壁で遮られていても、廊下がどんなに騒がしくても、右に三つ隔たった房で裸電球が割れ砕ける音がレイジには一瞬で判別できたのだ。
 ぞっとした。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051117001401 | 編集

 今日は通常より早く食事を終えた。
 前回みたいに喧嘩に巻きこまれては馬鹿らしいと静かに食器を置き、まだ食事中のサムライを残して席を立てば、おなじテーブルのレイジがにんまり満足げに笑う。
 「おお、キーストアがいちばんのりか。しごいてやった甲斐があるね」
 「ああ。君が主導するくだらないタマ遊びで消耗したからな」
 椅子を引いて立ちあがりしな皮肉を言う。一昨日と昨日と今日の三日間、僕はレイジの提案に半ば強引に付き合わされ広い中庭でバスケットボールを追いまわしていた。
 いい迷惑だ。
 売春班休止中の現在、体が空いた日中は趣味の読書で知的好奇心を充足させたいのにレイジときたら僕の意向などまるきり無視でバスケットボールを持ってやってくる。無駄に元気がありあまってる小学生男子か貴様はと罵りたくなるが、「バスケもいっちょまえにできねーなんて天才のくせに恥ずかしい、妹に知られたらどうすんだよ」と揶揄されるとついカッとして「天才に不可能があるものか、証明してやる」と返してしまうのだ。おかげでこの三日間ひどい目にあった。運動神経抜群のレイジからボールを奪い取るのは困難を極め、ボールに手を触れることさえかなわない。レイジの動きに追いつけず翻弄されるばかりだった初日に比べればだいぶマシになったが……
 「明日も揉んでやるよ」
 レイジが頭の後ろで手を組み、椅子に凭れた格好で笑みを浮かべる。
 飄々と言ってのけたレイジに反感を持ち、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「……べつにまったく頼んでいないし野蛮なタマ遊びに付き合わされるのはこりごりだが、退屈を極めて活力を持て余した君が爆発しないよういやいや不承不承渋々息抜きの相手をしてやる。大事な読書時間を割いてまで野蛮なタマ遊びに付き合ってやると言ってるんだ、感謝しろこの凡人」
 「キーストアって意外と負けず嫌いだな、ロン」
 「……ああ」
 失礼な男だ、僕のどこが負けず嫌いだというんだ。不愉快な誤解を招く言動は慎んでもらいたい。東棟の人間である以上トップの提案に拒否権はない。たとえそれが退屈しのぎの気まぐれとしか思えなくても付き合わざるをえない苦い現実が葛藤を生む。まったく、責任感の強い人間は損をする。
 ……それに、妹の名前をだされると冷静でいられなくなるのは否定できない。
 トレイを抱え持った僕を盗み見てロンに耳打ちしたレイジだが、ロンの様子はどうもおかしい。レイジへの相槌もいつもよりそっけなく、他のことに心奪われて食事も手につかないといった様子。今日食堂で顔を合わせた時からずっとこんな感じで妙な雰囲気だ。無口に沈みこみ、食事がはかどらないロンの様子を不審に思いながらも腰を上げた僕に、箸でたくあんを摘んだサムライが声をかける。
 「どこへ行くんだ」
 「大事な用があるんだ」
 「用?」
 「君に口外できない用件だ。深く詮索するな」
 怪訝なサムライを無視し、そっけなく背を翻す。サムライに説明する時間が惜しい。口の固いサムライなら安田の銃が盗難された件を話したところで周囲に吹聴するおそれもなし、快く相談に乗ってくれるだろうことは僕にも予想がつく。だが警戒を怠ってはいけない。サムライが口外しなくても、誰が聞き耳を立てているかもしれない食堂で安田の銃盗難事件を口にだすのは愚かしい。
 安田の失職を招きかねない迂闊な言動は慎むべきだ。
 これは僕ひとりの問題ではない、僕の失言で甚大な被害を被るのは辞表を胸で温めてる安田なのだ。物言いたげなサムライをテーブルに残し、カウンターに直行してトレイを返却。手ぶらになって周囲を見まわす。安田の背広から銃を盗んだ犯人にはスリの前科があるとリョウは言った。彼の言葉を信用するなら、スリの前科がある囚人をあたれば事件解決の糸口が掴めるはず。安田の手元から消えた銃が今現在誰の手に渡りどこにあるかは不明だが、最悪の可能性を考慮して迅速かつ慎重に行動すべきだ。

 安田の銃が他人の手に渡り、死傷者がでる事態はなんとしても未然に防がねば。
 そんなことが起きたら、安田は確実に東京プリズンにいられなくなる。

 スニーカーの靴裏で食堂の床を踏み、周囲の喧騒に耳を澄ます。手近のテーブルを占拠した囚人が五・六人、下品な笑い声をあげている。
 「で、俺がいちばん最初に目をつけた女ってのが幼馴染でさ。しょっちゅうお互いのうち行き来してたもんだからそん時も簡単に上がりこめた。一度あがりこんじまえば思うつぼ、茶菓子戸棚から出してるとこ後ろから襲っちまえばいいんだよ」
 「うわー鬼畜。幼馴染になんてことすんだよ、一生トラウマだその子」
 「なに他人事みてーに言ってんだよこの腐れ強姦魔」
 「うるせえ、てめえだって強姦魔だろうが」
 「股ががばがばになった年増専門のくせに。三十こえた女襲ってなにが楽しいんだよマザコンが」
 ……違う、これは強姦魔だ。東京プリズンに来るまでに強姦した女性の数を競う連中に愛想を尽かし、足を進める。
 「……で、台湾系チームとの抗争でこっちは死者3人だけどあっちは死者8人。死人じゃあっちのが多いんだ、ざまあみろ。うちひとりは鉄パイプでおもいきり脳天へこましてやったぜ」
 「人間スイカ割りだ」
 「グロっ」
 これは傷害暴行犯の会話だろうか?違う、スリグループではない。耳に届く会話を選り分けながら焦燥にかられて足を進める。食堂は広く、一階も二階も席は余す所なく埋まっている。この中からスリグループを見分けるのは至難の技だ。しかし今日を逃せば時間はない、一日も早く安田の銃を見つけなければ状況は悪くなる一方だ。東棟の囚人が全員集合するのは一日二回、朝食と夕食の時間をおいて他にない。
 容疑者を炙り出す機会は、今しかない。
 「……で、財布の中になにが入ってたと思う?」
 ふいに、その言葉が耳に届いた。振り向けば、少し離れたテーブルに五・六人の囚人が陣取っている。
 「なにが入ってたんだよ」
 「コンドームだよ。札なんて一枚も入ってねえしょぼい中身でがっかりだ、外側立派だから期待したのに……だってさあ、蛇皮だぜ蛇皮。黒光りする蛇皮の財布。見た目いかにも高価そうなのに中開けてみりゃコンドームだけってそりゃないよな」
 「小銭よかコンドームのが重要度高かったんだろ。蛇皮の財布いれて後生大事に持ち歩いてるくらいだ、よっぽどの色男の財布だったんだろうさ」
 「残念だったな、あてが外れてよ」
 腹を抱えて爆笑する囚人のテーブルに慎重に歩み寄る。オチを披露して笑いをとった囚人の背後に忍び寄り、口を開く。
 「おい」
 笑い声が途絶え、テーブルに陣取った全員が怪訝そうに僕を見る。不審の色をありありと顔に浮かべた囚人のひとりが、「こいつ親殺しだ」と声をひそめて囁く。他の囚人の顔が嫌悪に歪むのを見逃さない。
 「親殺しが何の用だよ」
 排他的な沈黙の鎧を着込んだ仲間を代表し、僕に最も近い席の囚人が椅子の背もたれに腕をかけて振り向く。招かれざる客への態度としてはすぐに殴りかかってこないだけ紳士的といえる。
 僕は滅多に名前を呼ばれることはない。僕の名前を呼ぶのはロンとサムライとレイジで、下の名前に関して言えばサムライが何か大事なことを告げたいときに口にするくらいだ。それさえも本名ではなく、東京プリズン入所に際して読み方を変えた偽名だ。
 東京プリズン入所から半年が経過し、周囲に定着した僕の呼び名は「親殺し」だ。
 その事について特に反論する気はない。僕が親殺しなのは覆せない事実、動かし難い現実で「親殺し」の蔑称に異論を唱える気は毛頭ない。そんなことより今重要なのは、得意満面に互いの前科を披露していた彼らスリグループに接触し、安田の銃の行方について知りはしないか探りを入れることだ。
 緊張に乾いた唇を舐め、毅然と前を向く。
 「四日前の夜、ペア戦会場となった地下停留場で安田の所持品を盗んだ者はこの中にいるか?いるなら五秒以内に白状しろ」
 「……は?」
 テーブルに陣取った囚人が奇妙な顔になる。頭が悪すぎて言ってる内容が理解できなかったのだろうか。頭の悪い彼らのためにもう一度ゆっくりと、噛み砕いて説明してやる。
 「四日前の夜、推定時刻23:55分頃に安田は地下停留場である大事な物を紛失した。安田の証言によるとその所持品はその時その場にいた囚人に盗まれた可能性が高い。安田の所持品を一瞬で盗めるのはスリの前科がある囚人と見て間違いない。よって容疑者として挙げられるのは今さっきまでさも得意げに自慢げにスリの前科を披露していた君たちということになる。以上証明終了、異論はあるか。ないならさっさと白状しろ。僕は寛容な天才だから五秒の猶予時間を与えてやったが、すでに五秒が経過しても名乗りでる者がいないということは……」
 「頭がどうかしちまったのか、親殺し」 
 突然、胸ぐらを掴まれる。
 「薄汚え親殺しの分際で俺らにいちゃもんつけやがって、てめえのツラ見ると飯がまずくなるだろうが。安田のなくし物だ?なんだそりゃ、初耳だ。スリの前科があるってだけで勝手に俺ら犯人扱いしてんじゃねーよ。喧嘩売ってんのか、え?」
 「汚い手をはなしてくれないか」
 できるだけ穏便に注意すれば、何が気に障ったのかわからないが胸ぐらを掴んだ囚人の顔が怒りに充血する。何か言い方がまずかったのだろうか。借りた推理小説を参考に、極めて黒に近い灰色の容疑者への事情聴取をとりおこなったのだが……
 僕への心証を悪くした連中が乱暴に椅子を引き、騒々しく席を立つ。険悪な雰囲気だ。 箸を投げだし食事を中断し、敵愾心をむきだした連中に取り囲まれた僕は冷静に続ける。
 「君らが犯人でないというなら質問を変える。安田の所持品をスッた犯人に心当たりはないか?もし心当たりがあるなら包み隠さず話せ、事態は急を要するんだ」
 「それがひとに物を頼む態度かよ」
 「そのつもりだが」
 僕を取り囲んだ何人かが舌打ち、何人かが「噂以上にふざけたやつだな」「売春班でひでえ目にあって懲りてないのかね」と口汚く悪態をつく。状況は不利だ。僕の言動は無自覚に彼らを逆上させてしまったようだ。こんなことをしてる場合ではないのに、と僕こそ舌打ちしたくなる。
 「どうなんだ、心当たりはないか。大事なことなんだ」
 急きたてるように畳みかければ僕の胸ぐらを掴んだ囚人に鼻で笑われる。
 「なんで安田のためにそんな一生懸命なんだよ、おまえ。安田とデキてんのかよ」
 「売春班の売春夫は男たらしこむのがうまいからな」「副所長に媚売ってんじゃねーぞ」と下卑た野次がとぶ。嘲笑を浴びせられ罵られても動じず続ける、正面の囚人を挑むように睨みつけ、一言一言に重きをおいて強硬に主張する。
 「―安田とは少し面識があるだけだ、それ以上でも以下でもない。しかし僕は安田に約束した、彼が紛失した所持品を必ず見つけ出すと」
 「関係ねえよ俺らには。安田のなくし物がどうだってんだ、それ見つけたら褒美でもでんのかよ。おまえが売春班仕込みのテクでお相手してくれるとか」
 「それが望みか」
 卑猥な笑みを浮かべた少年がその表情のまま一瞬固まり、周囲に飛び交っていた罵声と野次が止む。食器と食器がぶつかる音や椅子の脚が床を擦る音がやけに耳につく静寂の中、しばし逡巡。ため息をつき、返答。
 「……考えてやってもいい。ただし交換条件としてだ、安田の所持品を盗難した犯人に心当たりがないなら君たちは頼らない。独力で捜査を進める」
 あ然と立ち尽くす囚人の手をやんわり外し、皺の寄った胸元を丁寧に伸ばす。乱暴に胸ぐらを掴まれたせいで眼鏡が鼻梁にずれた。眼鏡の弦を少し傾げ、レンズに埃が付着してないか確認。
 上着で拭った眼鏡越しに、今この場にいる人数を正確に把握する。一人、二人、三人……六人か。僕の体を代償に情報が得られるなら、犯人の手がかりが掴めるなら彼らの相手をしてやってもかまわない。
 どうせ初めてじゃない。
 体を代償に利益が望めるなら、何も得るものなく体を弄ばれるだけの売春班での日々よりマシだ。
 「ブラックワーク仕込みの見返りか……悪い話じゃねえな」
 それまで僕を嘲笑うだけだった囚人たちの間に微妙な変化が起きる。僕と対峙した少年が物欲しげに生唾を嚥下、誘惑に弱い囚人が性欲旺盛に目をぎらつかせる。
 ブラックワーク仕込みの汚点を切り札に転じることができるとは、売春班にいた頃は思いもしなかった。
 口元に自嘲の笑みを覗かせた僕は、周囲の視線を意識し、気だるく腕を組んだポーズで返答を待つ。ゆるやかに腕を組んだ僕の顔から顎、そして首筋へとむず痒い視線が這う。 性的対象として同性の視線に晒されることにも慣れた。
 あとはただ、待つだけだ。
 「……わかった。そこまで言うんならこっちもムゲにゃあできないな。俺らにゃ心当たりないが他棟のやつはどうだか知らねえ。あたってみて損はないだろ」
 「他棟の人間とも交流があるのか?」
 「あたりまえだ。渡り廊下が封鎖されてるからって関係ねえよ、おんなじ前科でぶちこまれたモンのあいだにゃ棟の垣根こえた交流が生まれんだよ。自慢じゃねえが他棟のスリグループにも顔利くんだぜ、俺。な、だからさあ……」
 露骨な下心が透けてみえる親愛の笑顔でなれなれしく僕の肩を抱き、体を密着させる。僕の胸ぐらを掴んだ時とは態度が豹変、猫なで声でささやく。
 「このあと房にこいよ、フェラでも何でもしてくれるんだろ?おまえ色白いし腰細いし、いれる穴違うだけで女だと思えば……」
 肩に回された腕に力がこもり、固い股間を太股に押しつけられたその時だ。
 「ぎゃああああっ!!!!?」
 僕の肩を抱いた囚人が悲痛な絶叫をあげ、その場に倒れこんだ。テーブルを越え、一直線に飛来した箸が僕の肩に置かれた手の甲に突き刺さったのだ。箸の先端が突き刺さり手の甲から出血し、激痛にのたうち回る囚人のもとへ歩いてきたのはおそろしく姿勢の良い男。僕に遅れること五分、食事を終えたサムライがトレイを左手に持ち右手に残り一本の箸を握っていた。箸の片割れは今、足元の床で悶絶する囚人の手を貫いてる。
 「なにをしていた」
 足元の囚人から興味を失せたように顔をあげたサムライが、針の如く剣呑な眼光で僕を射抜く。サムライがたった今まで座っていた席を振り返れば、二つテーブルを挟みかなりの距離があった。
 「……無茶苦茶だな。あの距離から箸を投げてしかも命中させる人間がいるか」
 「頭に血が上ったからだ」
 「なぜ血が上ったんだ」
 「おまえが、」
 何か言いかけたサムライの顔が苦渋に歪み、そっぽを向く。
 「……おまえが気安く肩を抱かれていたからだ。先日注意したのに何も反省してないのか、あきれたな。胸に手をあててみろ直、今のおまえはレイジより節操がない。危なっかしくて放っておけん」
 「心外だな、よりにもよってレイジと比べることはないだろう。ミジンコと比較された気分だ」
 本気で気を悪くした僕をよそに、仲間に肩を貸され助け起こされた少年が激痛に潤んだ目で捨て台詞を吐く。
 「~~ちきしょうふざけやがって、最初から嵌めるつもりだったのか!安田のなくし物の手がかり欲しくて俺に近付いてきて、ピンチになりゃ頼れる彼氏が颯爽とご登場か!」
 「!違う、誤解だ!これはサムライが勝手に、」
 「行くぞてめえらっ、メガネの戯言に付き合ってやる義理はねえ。早く医務室行って手当てしてもらわなきゃ出血多量で死んじまう」
 少しの出血を大袈裟がり、手から箸の先端を引き抜いた囚人が吼える。盛大に悪態を吐きつつ食堂を立ち去りかけたスリグループを後追いすればサムライが口数少なく制止。
 「待て」
 「なんでそんなに冷静なんだ、わかってるのか君は僕の邪魔をしたんだぞ!?あと少しで安田の銃の手がかりが、」
 しまった、興奮のあまり盗難品が銃だと口走ってしまった。
 慌てて口を塞いだ僕を足早に追い抜き、スリグループまで追いぬいて進路方向に立ち塞がるサムライ。憤然と通路を突き進んだスリグループの先頭、出血した手を庇った囚人が「どきやがれクソ野郎!」と怒号を発し―
 その眉間に、ぴたりと箸の先端が擬される。
 サムライの手中に握られていた、残り一本の箸。
 眉間に揺るぎなく箸を突きつけられ、リーダー格の囚人が顔面蒼白で硬直。周囲のテーブルに偶然居合わせた囚人が、手にした箸や食器を取り落としかねない驚愕の表情でサムライの奇行を凝視。
 「鍵屋崎の用件はすんでない」
 これでいいのだろう、と威圧的な目つきでサムライが僕を一瞥。理由はわからないが、何故だか物凄く不機嫌そうなサムライの隣に立ち、今度こそ人に物を頼む態度で懇願する。
 「頼む、心当たりがあるなら教えてくれ。ことは一刻を争うんだ。他棟のスリグループに僕を紹介してくれないか」
 「俺も行く。話はよく飲みこめんが、お前をひとりにしてはまたいつ間違いが起きるかわからず読経に身が入らん」
 心もち頭を下げた僕の隣で憮然とサムライが呟く。視線の先、サムライに箸を突き付けられた囚人の喉仏が動き、緊張の面持ちで生唾を嚥下。いつ眉間を貫通するか知れない箸の脅威から逃れたい一心でヤケ気味に怒鳴り散らす。
 「~~~わかったよ、連れてきゃあいいんだろうが!けっ、心強い用心棒持って幸せだな親殺しっ」
 地団駄踏んで暴れる囚人の眉間から箸を引っ込めたサムライが言う。
 「……好きで用心棒をしてるわけではない」 
 何が気に入らないのか、不満げな面持ちと憮然とした呟きだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051116001555 | 編集

 「用心棒など不要だ」
 「放っておけばまた厄介ごとに巻きこまれるに決まっている。同じ房のよしみとして無視できん」
 「ロンのお節介が伝染ったんじゃないか?きみの心配性も重症だな」
 怒っているにもかかわらず、僕が話しかければ律儀に答えを返すサムライを鼻で笑う。
 「心配性ではない。現にお前をひとりにすればまたさっきのように、」
 「なんだ」
 余程言いにくいことなのか、そっぽを向いた横顔は苦渋に歪んでいた。てこでも本心を明かさない頑固なサムライにため息をつく。さっきからずっとこの調子で会話が成立せず手におえない。サムライが一度へそを曲げるとなかなか直らないことはレイジとの予想外に長引いたレイジとの不和で痛感したが、自分で体験すると面倒くさいことこの上ない。サムライは元来寡黙な男だから何か不愉快なことがあれば口にだすより態度に表すのだろうが、僕に背を向けて延々墨をすり続ける奇行にはいかに天才といえど対処しようがない。
 あきれ顔であたりを見まわす。現在僕らが歩いてるのは中央棟へと至る渡り廊下。先行するのはさっき食堂でサムライに箸を突きつけられたスリの前科持ちの囚人だ。
 眼光鋭くサムライに脅され、ふてくされた態度でいやいや案内役をつとめる囚人の行く先は知らない。僕はただ彼に従うのみだ。仮に行き先を尋ねたとしても彼の様子じゃまともな会話が成立するはずなく、かえって反感を煽るのは明白。
 焦らずとも目的地はそのうちわかる、と楽観的に構えて足を繰り出せる理由の一つは隣にサムライがいるからだ。
 認めたくはないが、サムライが隣にいてくれると心強い。
 彼の庇護を重荷に思い、友人の負担になりたくないと念ずる自分がいる半面、サムライに守られていることに安らぎを覚える自分もまた否定できない。 
 以前は恵が与えてくれた安らぎを、今はサムライの隣で感じるなんて妙なことになった。
 複雑な感慨に耽る僕の隣でサムライは黙々と歩いてる。食堂の一件から会話が弾まない。いつも無口な侍がいつもよりさらに無口なせいだ。いい加減機嫌を直せ、なにが気に入らないんだと詰問したい衝動をぐっと堪える。大人げないぞ鍵屋崎直、むきになったらこっちの負けだ。頑固で強情なサムライなど放っておけ、お節介にかまうことなどない。
 そう自分に言い聞かせて怒りを静めた僕の周囲が暗くなる。
 「!」
 先頭の案内役がおもむろに廊下を曲がり、その後を無意識に追ったせいだ。唐突に暗くなったのは蛍光灯の殆どが割られて照度が落ちているせいで、荒廃したコンクリ壁が冷え冷え続く廊下は不気味に薄暗い。東京プリズンの内部構造は複雑だ。さながら前世紀に香港に存在し、今は伝説上の廃墟と化した九龍城のように大小無数の通路が複雑に入り組み迷宮を形作る。今僕がどこにいるか、現在地がはっきりと把握できないのもそのせいだ。現在地は中央棟のどこか、と漠然としか言えない。
 廊下の最奥は行き止まりで、一際濃く闇が蟠っていた。
 無残に割れ砕けた蛍光灯の破片が廊下に散乱し、荒廃した様相を呈する廊下の終点に数人、いや十数人か人影が群れている。賑やかな話し声、時折混じる笑い声。廊下の行き止まりにはふさわしくない活況を呈した中へ、案内役はためらいなく歩み入る。
 「よう、やってんな」
 「おうチェン、お先に盛りあがってるぜ。誰だよ後ろの客は、新入りか」
 目ざとく背後の僕らを発見した少年が、なれなれしく声をかけてくる。その一言を皮きりに、好奇心旺盛な野次馬が「東の新入りか?」「おまえ前科何件だ、おれは八十二件」「おれは九十件」「先輩の挨拶はないのかよ」とぞろぞろ群がってくる。
 「汚い手で気安くさわるんじゃない、服が汚れるだろう」
 べたべた肘にさわってきた囚人の手を邪険に叩き落とせば、その囚人がむっとする。
 「歓迎してやってんのにその態度はなんだよ、生意気な後輩だぜ」
 「後輩扱いされるおぼえはない」
 「ちっ、」
 舌打ちした囚人が僕から離れてゆく。おそらく他棟の人間だろう見知らぬ囚人に取り囲まれ、輪の中央で立ち竦んだ僕とサムライを振り返り、案内役の少年がにやりと笑う。
 「そいつらは仲間じゃねえよ。聞いて驚け、あの有名な親殺しとサムライだ」
 案内役の発言に周囲の囚人がどよめく。
 「?」
 なんだこの反応は、とサムライと顔を見合す。不審げな僕らをよそに、周囲に殺到した囚人が好奇心と嫌悪感を綯い交ぜにした表情で口々に叫ぶ。
 「マジかよ、これが」
 「東の王様と組んで100人抜き宣言した人斬りサムライとその彼女かよ」
 「てめえを生み育てた両親とち狂って刺し殺して東京プリズン送りになった日本人?」
 「へえ、元エリートってだけあって線細いし色白いしインテリな顔立ちしてんな」
 「日焼けしねえ体質なのか?どれ、下脱がしてみ」
 背後に立った囚人が無造作に僕のズボンに手をかけ、強制的に引きずり下ろそうとする。やめろ、と僕が抗議の声をあげるより早くサムライが行動にでた。木刀を持たずともサムライは強い。僕のズボンを断りなく下げおろそうとした囚人の手首を手刀で痛打、「ぎゃっ!!」と悲鳴をあげさせる。
 「鍵屋崎に触れるな」
 サムライは怒っていた。僕を庇うように立ち位置を移動し、周囲に群がる囚人を睨みつける。考えたくはないが、もしこの場に彼がいなかったら全裸にされていたかもしれない。その点では頼りになる用心棒といえなくもない。
 「知らなかったのか?てんで身に覚えねえって間抜けヅラしやがってよ。お前ら今じゃ東京プリズン中の有名人だぜ」
 大袈裟に両手を広げた案内役が、虚を衝かれた僕とサムライを見比べおどけて言う。 
 「売春通りで100人抜き宣言して、こないだの試合にゃ乱入して参戦表明して。現場に居合わせなかった連中もてめえらの名前と前科くらい噂で知ってるよ。東棟じゃ王様と並ぶ有名人だぜ」
 「なるほど。確かに僕が参戦表明した地下停留場には東京プリズンの約八割の囚人がいた、噂が広まってないほうが不自然だな」
 「どっこい、勘違いすんなよ。お前らに好感もってる物好きは少数派だ」
 仲間が増えて精神的優位を回復したか、サムライが背後にいたときは表だって反抗しなかった案内役が今は好戦的に目をぎらつかせている。危険な兆候だ。周囲の囚人を見まわせば、案内役の言葉を証明するように陰湿な目つきで険悪な雰囲気を醸していた。
 「目立ちたがり屋は憎まれるのが常だ。特にてめえら、腐れ親殺しと時代遅れのサムライ気取りはむかつくんだよ。てめえの肉親殺しちまうような鬼畜のくせに身のほどわきまえずに偉そうに、売春班撤廃だの100人抜きだの寝言ふかしてんじゃねえぞ。売春班撤廃に賛成してるやつなんざお仲間の売春夫だけだ、東京プリズンの囚人の大半は売春班に世話になってんだ、売春班なくなったらどこでタマの汁ぬきゃいいんだよ」
 憎憎しげに唇をねじ曲げて罵倒を浴びせられた僕は、平然と落ち着き払っていた。今や敵愾心をむきだした案内役と対峙し、余裕を見せつけるように腕を組む。
 「君の右手にはスリ以外にも自慰の用途があるだろう。売春班がなくなったら右手の世話になればいい。女性の体に触れることなくペンを握って学習するでもない君の右手にはスリと自慰の用途しかないんだ、折角の機会に活用しなくてどうする?」
 「………!!!」
 案内役の顔が怒りに紅潮、憤然たる大股で僕との距離を縮める。鼻息荒く僕に接近した案内役が耳元で呪詛を吐き、
 「いい気になんだよクソが」 
 「!―っぐ、」
 すれちがいざま、肘打ちを食らった脇腹に激痛が走りたまらず膝を折る。脇腹を庇ってしゃがみこんだ僕の頭上に案内役が嘲笑を浴びせ、周囲の野次馬も笑い声をあげる。痛い。激痛に眩暈がし額に脂汗が滲みだす。すれちがいざま肘で抉られた脇腹には、こないだ凱にスタンガンを押しつけられた火傷がある。まだ傷が癒えてない患部をシャツの上から痛打され、俄かには立ち上がれない僕の痛がりようを大げさにとった案内役が鼻白む。
 「マジで口だけだな、他愛もねえ。脇腹に一撃くらったくらいでしゃがみこみやがって同情引こうって魂胆が見え見え、」
 調子に乗って僕を蹴倒そうとした案内役の前髪が風圧に浮き、額に赤い斜線が走る。斜線から盛りあがった血の雫が、鼻梁に沿い、顎先から滴り落ちる。片手で脇腹を押さえた僕は、もう片方の手でサムライの左肘を掴んで制止。サムライの右手はまっすぐ伸び、その先端には箸が握られていた。
 案内役の額が切れたのは、箸が薄皮を裂いたからだ。
 「……知っているか。気迫をこめれば箸とて剣に代えるのが武士の強みだ」
 サムライは物静かに言うが、とっさに僕が肘を掴んでいなければ額が切れるだけじゃすまなかったはずだ。まったく、剣呑な男だ。僕は事情聴取にきたのだ、喧嘩をしにきたわけじゃない。先走られてはたまらない。深呼吸し、激痛が薄らぐのをひたすら待つ。脇腹から片手を外し、緩慢に立ちあがる。
 額を切られ、顔面蒼白でぱくぱく口を開閉する案内役を正視し、本題に入る。
 「僕は喧嘩をしにきたわけじゃない、話を聞きにきたんだ。君についてくれば他棟のスリグループに面会できる、安田の紛失物の手がかりが掴めると予想して。期待を裏切らないでくれないか」
 「……て、めえ」
 サムライが箸を引っ込めると同時に案内役の顔が醜悪に歪み、気炎を吐く。額を切られた痛みと恥辱に満面を染めた案内役が周囲の仲間を振り仰ぐ。
 「頭にきたぜ親殺しが、無傷で東棟に帰れると思うなよ!!やっちま、」
 「待て!!」
 「え」を言わせずに野次馬の輪から飛び出したのはひとりの囚人。優しげで頼りない顔だちには見覚えがある。売春班で共に生き地獄を味わい、先日のぺア戦では共にロン救出作戦を行ったスリ師のワンフーだ。
 間一髪、僕とサムライを背に庇ったワンフーが凄味を利かせて案内役を睨みつける。
 「勝手に仕切んなよチェン。いつからてめえがリーダーになったんだ、しょぼい前科の持ち主がえばんなよ」
 「な、」
 肩越しに僕を振り返ったワンフーが器用に片目を瞑ってみせる。
 「知ってるか?スリ師の序列はスった財布の数で決まるんだぜ。チャン、おまえの前科は三十件で俺はその倍の倍の倍だ。文句あんなら俺とおなじ数だけ財布スッてこいよ」
 つまり僕たちを案内してきた少年はワンフーよりはるかに格下で、序列が上のワンフーには逆らえないらしい。怒りに震えるこぶしを無理矢理押さえこんだ案内役から僕へと向き直ったワンフーが、事の成り行きに興味津々な野次馬を見回す。
 「聞いたとおりだ。こいつは売春班時代の同僚でいわば俺の顔見知りだ、何の用があっておれらの会合場所にきたんだか知らねえが話くらい聞いてやれ」
 ワンフーの頬にはバンソウコウが貼ってあった。ボイラー室前の廊下で暴れた名残りだ。数日前のペア戦会場にてタジマ更迭に立ち会ったワンフーがぼろぼろだったことを思い出し、小声で聞く。
 「……怪我は大丈夫なのか」
 あの後医務室に運ばれたはずのワンフーが「ああ」と笑顔で首肯する。その顔には錯乱して鏡に突っ込んだ痕跡が残っていたが、何かを成し遂げたように表情は晴れやかだった。
 「心配いらねえよ。見た目ほどひどくなかったんだ、バンソウコウも包帯も明日には全部とれる。凛々がよ、夢ではげましてくれたんだ。夢で膝枕でいたいのいたいのとんでけーのおまじないしてくれたんだ、全快しなきゃ俺の凛々への愛が証明できねえだろうが」
 売春班の隔離房から担架で運び出される際は、虚空に手をのばし恋人の名を連呼するばかりだったワンフーがここまで回復した。人間変われば変わるものだ、と実感する。僕とて例外ではない自覚がある。
 さて、仕切り直しだ。
 他棟のスリグループとこうして面会できたのだから、絶好の機会を逃す手はない。 
 「君たちに聞きたいことがある」
 好奇心と嫌悪と不審と。 
 さまざまな表情を浮かべた囚人の輪を見まわし、物怖じせず顔を上げる。隣にはサムライがいる。いつ何が起きてもいいように、木刀代わりの箸を右手に握り締めている。
 「先日、ペア戦が催された地下停留場にて安田はある大事な所持品を紛失した。その所持品は盗難された可能性が高く、安田本人に気付かれず彼が身に付けてる物品を盗める人間はよほどの腕前のスリという結論に達した。率直に聞く、この中に犯人はいないか」
 僕の重大発言にスリグループがどよめく。ある者は疑心暗鬼に苛まれある者は反発もあらわにたがいに顔を見合わせる。
 「安田のなくしもんってなんだよ?」
 「それは、」
 口を噤む。
 「……言えない」
 「それじゃわかんねーよ!」
 顔を伏せた僕に降り注ぐ非難の嵐。この展開も予測の範囲内だ。安田の所持品が盗まれた、しかしその所持品が何か明らかにできないとなれば公平性を損なうと僕とてわかっている。しかし安田が盗まれたのは拳銃、自分の身を守り人を殺すための武器だ。武器は凶器と同義だ。そんな物騒な物が大勢の人間が居合わせた空間で紛失したとなれば、安田は管理責任を問われ東京プリズンを追われることになる。
 東京プリズンの囚人は口が軽い上に噂好きだ。とてもじゃないが、安田が銃をなくしたなど言えない。
 「言えないが、盗んだ本人にはちゃんとわかっているはずだ。どうだ、身に覚えがある者はないか」
 「知るかよ」
 「なになくしたか言ってくんなきゃ答えようがねえよ」
 「身に覚えだけなら腐るほどあるしな、俺ら」
 周囲の囚人が軽口を叩く中、唯一ワンフーだけが親身に僕を案じてくれた。無駄足だったかと落胆した僕の顔を覗きこみ、励ますように言う。 
 「理由はわかんねーが気い落とすなよ、なくし物ならじき見つかるって。俺がスッた銃だって今ごろ手元に戻ってるはず、」
 ………………………なんだって?
 「今の台詞もう一回」
 耳を疑い、平板にくりかえす。僕ににじり寄られたワンフーが目をしばたたき、当惑顔で口を動かす。
 「え?だから俺がスッた銃も今ごろ安田んとこに戻ってるはず……」
 「犯人は貴様か!!」
 言われるがままに同じ台詞をくり返したワンフーに激怒、衝動的に襟首を掴む。普段の僕らしからぬ暴力的な振る舞いと剣幕にワンフーがぎょっとするが襟首から手をはなさない。頭が混乱し憤怒で視界が赤く染まる。目の前のこの男はこの低脳はなにを考えているんだ、なにを考えて安田の銃をスッたんだと最大の疑問が脳裏で膨れ上がり激情に押し流されるがまま指に力をこめる。
 「貴様なにを考えてるんだ、その頭に詰まってるのは窒素かヘリウムか!?何故安田の銃をスッた、返答次第では許さないぞ!!」
 すさまじい剣幕で僕にどやされ、襟首を掴まれ揺さぶられたワンフーの顔から血の気がひく。普段無表情な僕が冷静さをかなぐり捨て感情を奔騰させ、唾がかかる距離で怒鳴り散らしているのだから動揺して当然だ。いや動揺してもらわなければ困る、僕は本気で怒っているもし今力加減を誤ってワンフーを絞め殺してしまっても後悔はないほどに怒りが沸騰して頭は真っ白で周囲の光景も目に入らない。冷静な判断力を失い感情任せに叫ぶ僕の唾を浴び、ワンフーが首を竦める。
 「え、え?安田のなくし物って銃だったのか?なくし物にしちゃでけえし、てっきり財布か万年筆かと思ってたよ。銃なんて目立つからとっくに手元に戻ってると、」
 「言い訳はいい無責任な言い逃れなど聞きたくない、僕が聞きたいのは盗難の動機と現在の在り処だ!何故安田の銃を盗んだ、吐け!」
 「ほ、ほんの出来心だったんだ!信じてくれ嘘じゃねえっ、あん時たまたま安田が近くにいて……ボイラー室に通りかかった安田が俺たちをお付きの看守に運ばせて地下停留場に連れてきてタジマを処分したろ?あん時だよ、盗んだのは」
 あの時ワンフーは安田の最寄りにいた、安田の背広から銃をスるなら至近距離がベストだ。ぎこちない作り笑いで顔面をひきつらせたワンフーが、どうにか僕を宥めようと苦しい言い訳につとめる。
 「スリ師のサガってのかな……後先考えずに指が疼いて手が動いちまって。ただの囚人が副所長とお近づきになることなんて滅多にねえし、緊張してたのもあんだけどそれよりドキドキして。安田がいつも拳銃持ち歩いてることは知ってた。で、安田が油断してる今ならひょっとしたらスれるんじゃねえかって、そう閃いたら我慢できなくなっちまって」
 ワンフーの顔にあまり反省の色はなく、口ぶりは飄々としてさえいる。その態度が僕の反感をかきたて火に油を注ぐとも気付かずに愚かなワンフーが続ける、卑屈な愛想笑いとともに。
 「東京プリズンにぶちこまれてだいぶ経つから、スリの腕なまってねえか確かめたくなったんだよ。お前に言われて五十嵐から鍵スる大仕事やりとげたあとだったし興に乗ってる今ならできんじゃねーかって、うまくすりゃ安田に気付かれずに銃をスれるんじゃねえかって……猛烈に試したくなったんだ。安田には悪いことしたけど、」
 「悪いことだ?ふざけるなよ」
 ふざけるなこの低脳が、後先考えずに行動し人に迷惑をかけたくせに何をぬけぬけと。安田を窮地に追い込んだ張本人が今僕の前でぬけぬけと弁明してる、悪気はなかったと、悪い癖がでちまっただけだと反省の色などなく飄々とうそぶいてるのが我慢できない。ワンフーの胸ぐらを強く強く掴む、指が白く強張るほどに上着を締め上げワンフーの顔に顔を近付ける。鼻の先端が接する距離でワンフーを覗きこめばワンフーの吐息で眼鏡のレンズがぼんやり曇る。
 「忘れたのか?安田は僕を、僕たちを助けてくれたんだぞ。ボイラー室前で懸命に戦ってた君を助けてくれた恩人だぞ、タジマの横暴を裁いて僕らを救った公平な男だぞ!?恩に仇を返すとは貴様の行為をさす言葉だな、恩を仇で返す指など良心的に切り落としてしまえ!」
 頭が沸騰する。はげしい口調で罵れば、ワンフーの目が当惑に揺れる。何故僕がこれほど怒っているのか、何故これほどまでに自分が怒られてるのかよくわかってない顔だ。副所長の銃を盗むことでただ純粋にスリの力量を試したかっただけ、というワンフーの主張に嘘はない。嘘がないぶんタチが悪い。 
 ワンフーの襟首を掴んだ手に力をこめ、背中から壁に叩き付ける。ワンフーの上に覆い被さり、声を低める。
 「……吐け。安田の銃はどこだ、君がスッた銃は今どこに保管されている?即刻僕に渡せ」
 「し、知らねえよ」
 「とぼける気か」
 ワンフーの出来心で安田は窮地に追い詰められた、一晩で見違えるように憔悴し辞表を書くまでに追い詰められたのだ。ワンフーの出来心のせいで安田が失職したら僕は一生ワンフーを恨む、ワンフーに名前を教えたことを永遠に後悔する。指が軋むほどに力をこめ、壊れた照明の下、ひんやり冷たい壁にワンフーを押し付ける。鼻と鼻の先端が接する距離で、唇さえふれそうな距離で、ワンフーがよわよわしく喘ぐ。
 「嘘じゃねえ、マジだよ。安田から銃をスッたはいいけど、こんなあぶねえモン持ってんのもおっかねえし独居房送り間違いなしだし……安田に返そうにも、一度ヤっちまった手前言い逃れできねえし処分はまぬがれねーだろ。そのへんに落ちてましたよなんてバレバレの嘘安田は鋭いからすぐ見ぬいちまうし、第一銃なんか落としたらゴトリと音鳴って気付くはずだし、看守に『落し物です』って届けでようにも追及されたらおしめえだし、困った挙句に捨てたんだ」
 「捨てた?」 
 今なんと言った、この人騒がせな愉快犯の低脳は。銃を、こともあろうに安田の銃を、人を殺傷するための武器を凶器を地下停留場に捨てたというのか。だれか人手に渡る危険性がある地下停留場に無責任に放置したというのか。
 汗が冷や汗にかわり、てのひらと腋の下がじっとり汗ばむ。いやな胸騒ぎが高まり、緊張に口が乾く。
 「捨てたと、今そう言ったのか」
 自分の台詞がいやに平板に耳に届いた。混乱が極まり、感情が漂白された声。棒読みの台詞。
 僕の態度が豹変し、ようやく事態の重大さが飲み込めてきたワンフーが冷や汗をかく。
 「ああ、捨てた。いや、捨てたっつーか放ったらかした。あとはしらねえよってそっぽ向いて足元に落っことして、人目にふれちゃまずいからバスの下に蹴りこんだんだ。安田の命令で医務室に連れてかれる途中、足に怪我したふりしてびっこ引いて懐から銃引っ張り出してスの下に……バスなら朝イチで動かすし、そん時銃も見つかるだろ。安田がなくした銃がバスの下からでてくりゃ誰も俺がスッたなんて思わね、」
 ワンフーの愛想笑いに何かが切れた。
 おそらく、理性の糸が。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051115001810 | 編集

 「鍵屋崎!」
 いつのまにか背後に回ったサムライが肘を掴む。ワンフーを殴ろうと腕を掲げた僕は、サムライに肘を掴まれた不自然な体勢で固まる。
 「……手をはなせ。僕は今、脳細胞の六割が蒸発しそうなほど怒っている」
 平板な声とは裏腹に僕の胸裏には激情が荒れ狂っていた。怒りと嫌悪と憎悪が綯い交ぜとなった暴力衝動。ワンフーが許せない。彼の出来心とやらのせいで安田は窮地に追い詰められた、ひとつ間違えば東京プリズンを追われるかもしれない立場になったのだ。安田は売春班の境遇に同情し、タジマを公平に裁き、東京プリズンでも正義が行われる可能性を現実のものにしてくれたのに。
 僕ら囚人に希望を持たせてくれたのに。
 「……安田が貴様になにをした?なにもしてないだろう。貴様の出来心のせいで安田は、」
 言えない。言えるわけがない。ワンフーの出来心が発端で、安田が東京プリズンを永遠に去るかもしれないなんて。口にだせば最後、最悪の想像が現実化するかもしれないじゃないか。深呼吸し怒りを静め、少しだけ冷静さを取り戻す。サムライに促されてこぶしをおさめ、低く呟く。
 「………話はわかった。無責任に銃を放置したあとは、その行方について何ら知りはしないと、君はそう証言するわけだな。ならもう用はない」
 壁に背中を預けたワンフーが痣になった首をさすりながら、怯えと不審が入り混ざった顔で僕を見つめる。これ以上ワンフーの顔を見ていたら何をするかわからない、また首を絞めてしまうかもしれない。用を追えたからには一刻も早くこの場を立ち去るべきだ、これ以上この場に留まっていても利益ある情報は入手できないのだから。
 ワンフーに背を向け、あ然としたスリグループに声なく見送られ、混乱した頭を整理すべく足を進める。
 ワンフーの証言が本当だとするなら、銃は既に見つかっていなければおかしい。ペア戦が行われたのは四日前の夜。翌朝にはバスは出払ってしまうのだから、銃がそのままバスの下に留まっていればその時点で発見されるはず。しかしいまだに銃は行方不明、安田から銃をスッた犯人のワンフーも銃を手放したあとは行方を知らないという。 
 ……ということは、四日前の夜から三日前の朝にかけて、銃はすでに誰かの手に渡ったことになる。
 安田の銃が喧嘩に使われて死傷者がでれば手遅れだ。安田は失職を免れず、副所長の椅子を追われる。
 「くそっ、どうすればいいんだ!!」
 苛立ちが頂点に達し、こぶしで壁を殴りつける。震動にこぶしが痺れたが痛みさえ感じなかった。状況は時間経過にともない悪化する一方だ。日が経てば経つほど僕には不利だ、すでに銃は誰かの手に渡り隠匿されたものとみて間違いない。平常心を失った僕の傍ら、物言わず付き従っていたサムライがふいに呟く。
 「……そうまで安田が心配か」
 「心配してるんじゃない。捜索は僕の自発的行為、そう、レイジのバスケットに付き合うのとおなじ退屈しのぎの暇潰しだ」
 「退屈しのぎの暇潰しのわりには焦っているみたいだが」
 「……貴様、僕を馬鹿にしてるのか」
 違う、冷静になれ、頭を冷やせ鍵屋崎直。こんなのただの八つ当たりだ、サムライは何も関係ないじゃないか。壁にこぶしを置き、ゆっくり深呼吸して沸騰した頭を冷ます。そして、ワンフー事情聴取の場に居合わせたサムライが安田の銃盗難事件を知った事実に思い至る。その割には動揺してないように見えるのは、心を読みにくい無表情のせいか。落ち着き払ったサムライを一瞥、壁に背中を預けて呼吸を整え、言う。
 「……聞いてのとおりだ。安田の紛失物は銃だ。安田の銃が人に向けて発砲されれば、安田は責任を逃れられず東京プリズンを辞めることになる。安田の失職を防ぐため、僕は一刻も早く銃を取り戻さねばならない」
 「ずいぶんと安田に肩入れするな」
 「安田は、」
 言葉が続かず、気まずく顔を伏せる。背中に固いコンクリートの感触。サムライは僕が口を開くまで、ただ黙って正面に立っていた。急かすでも問い詰めるでもなく、僕の心の整理がつくまで静かに寄り添ってくれた。足元の床を見つめ、心の奥底に沈んだ言葉をさらう。安田に対するこの感情を何と表現すればいいのか、親愛の情でもなく尊敬の念でもなく、いや、そのどちらでもあるような気さえする複雑な心情。
 近いようで遠いような独特の距離感。 
 「……うまく言えないが、僕は安田を失いたくない。五十嵐ほど親身ではなくタジマほど横暴でもなく、安田は常に一定の距離をおいて囚人に接する人間で、僕はその距離感がいちばん心地いい。正直僕は東京プリズンの副所長としていちばん相応しいのは安田だと思ってる。銃を紛失したのは安田の不注意だが、それが原因で安田が東京プリズンを去ることになれば僕は」
 僕はなんだ、何が言いたいんだ。自分でもよくわからない。今はただ、安田に去られるのが怖い。戸籍上の両親にさえ心を開かずにいた僕が安田には次第に心を許し始め、恵のことやサムライのことを打ち明けるようになった。
 安田はたぶん初めて僕が認めた大人で、安田が東京プリズンを去ることになれば僕は。
 「……僕は、残念だ」
 サムライは無言で僕を見守っていた。荒廃した廊下に沈黙が降り積もり、背中を預けた壁が冷たさを増す。天井の蛍光灯が点滅する下、薄暗がりの廊下で対峙したサムライが一歩を踏み出す。
 「……ならば、辞めさせなければいい」 
 「!」
 ゆるやかに顔を上げる。僕の正面に立ったサムライが淡々と、さも当然のことのように言う。
 「なにも案じることはない。銃はまだ使われたわけではない、必ずや東京プリズンのどこかにあるはずだ。たしかに東京プリズンは広いが、それがどうした。東京プリズンの誰かが銃を持ってる可能性が高いならその人物を見つけ出し取り戻すまでだ。銃が手元に戻れば安田は辞表を出さなくてすむ、お前も哀しまずにすむ」
 驚いた僕からわずかに視線を逸らし、サムライが付け足す。真摯で誠実な口ぶりに、不器用な思いやりをこめ。
 「……及ばずながら、俺も助太刀する」
 まるで、僕を哀しませたくないと言ってるように聞こえた。
 協力者としてサムライが名乗りでてくれたことは心強いが、これ以上迷惑をかけたくない。たださえサムライには週末のペア戦が控えているのだ、僕が持ちこんだトラブルに巻き込みたくはない。目に浮かんだ逡巡の色で僕の葛藤を読んだのか、僕が口を開く前にサムライが先回り。
 「直。改めて言わせてもらうが、これは俺の意志だ。誰に強制されたからでも命令されたからでもない、俺がしたいから、お前の力になりたいから助力を申し出たんだ。……あの時とおなじように」
 『あの時』がいつを指してるのが、すぐにわかった。
 売春班の仕事場、パイプが錆びたベッドの上で、スプリングを軋ませながら。僕の上に覆い被さったサムライが乾いた唇で慣れない愛撫をし、首筋をたどり、鎖骨にふれ。  
 『頼むから、俺を頼ってくれ』
 あの時耳に注ぎ込まれた思い詰めた声音がよみがえり、僕は決意を固めた。
 「……探偵助手には心もとないが、いないよりはマシだな。ワトソン程度の活躍は期待してる」
 不安を打ち消すように笑みを浮かべれば、サムライも応え、心強く微笑する。しかしすぐに笑みを消し、憮然とした顔になる。
 「……助太刀に際して一言言っておく。これからは俺の目の届くところでも届かないところでもなれなれしく他の男に体をさわらせるな」
 「は?何故そうなるんだ」
 わけがわからない。僕が他人と接触して、それのどこに不利益を被るというんだ?サムライには関係ないじゃないか。唐突な話題転換に困惑した僕と意思疎通できない不満を募らせ、サムライの目に険が宿る。
 「危険だからに決まっている。お前は警戒心がたりん、食堂では他の男に肩を抱かれるがままになり抵抗ひとつせず……俺が手を出さなかったらどうなってたか自覚はあるか」
 「それも考慮していた。体を代償に情報が得られるならいいじゃないか」
 「良いわけがない」
 「売春班で男を知ったんだ、普通じゃないセックスを体験して男を受け入れるのにも慣れた。僕の体と引き換えに情報入手できるなら安い、」
 「直!!」
 廊下中に大声が響き渡り、肌に痛いほどに空気が震動する。
 鼓膜が割れるほどの大音声で怒鳴ったサムライに体が竦み、驚愕に目を見開く。正面のサムライが怒りもあらわに、青白い殺気を放つ双眸でまっすぐ僕を見つめる。
 「お前がよくても俺が不愉快なんだ。いいか、俺を助手にするなら軽軽しく他の男に体を許すな。自分の体を粗末にする真似は許さん」
 「小姑みたいだな」
 「友人としての忠告だ」
 「粗末にするな、か。『汚れたら洗えばいい』と言ったのは君じゃなかったか、それともやはりこんな汚れた人間を友人に持つのは……」
 「お前は汚れてなどない、その考えは今も変わらない」
 一呼吸おいたサムライが耐え難く悲痛な目で僕を見据え、苦い声で吐き捨てる。
 「……しかし今のお前は、率先して自分を汚そうとしてるみたいだ」
 顔をぶたれた気がした。
 姿勢を正して僕へと向き直ったサムライが、僕の肩に手をおき、まっすぐに顔を見る。自分を偽ることない潔白な眼差し、一文字に結ばれ強靭な意志を感じさせる口元。僕の肩を握り締め、正面に視線を固定させたサムライが、この上なく大事なことを告げるように口を開く。
 「約束してくれ、直。今後は決して他の男に抱かれないと、自分を粗末にしないと」
 「……わかった」 
 サムライの目があまりに真剣で、手にこめられた力が強く、もはや言い逃れできずに頷く。サムライの手が緩み、唇から安堵の吐息が漏れた。そしてサムライは僕の肩に手をかけたまま、念を押す。
 「約束を反故にすれば斬るぞ」
 「待て、君が言うと冗談に聞こえないのだが」
 「本気だ」
 「斬られるのはぞっとしない、針千本にまけてはくれないだろうか」
 サムライの目は真剣だった。よもや木刀で斬られることはないと思うが、サムライは有言実行の男だ。約束を破った場合、斬られる可能性を否定できずに動揺した僕は妥協案で手を打とうとする。しばし思案の末、「仕方ない」とサムライが頷きホッとする。針千本の入手経路には考え及ばなかったようで、サムライが馬鹿で助かったとこっそりほくそ笑む。
 そうだ。
 「サムライ、君に頼みがある。剣を教えてくれないか」
 唐突な申し出にサムライが戸惑うが、この機を逃さずに続ける。
 「僕もペア戦参戦表明をしたんだ、いざという時身を守るために剣の使い方くらい学んでおくべきだろう。僕にはIQ180の天才的頭脳という素晴らしい武器があるが、腕力で勝る敵を相手にするには自己防御のひとつくらい身に付けておかなければリングに上がる資格はない」
 「だから剣を学びたいと?」
 「そうだ」
 本当はそれだけじゃない。サムライの負担を減らすためには、僕自身強くなる必要があると痛感した。せめて自分の身は自分で守れるくらいに強くならなければこれまで同様これからもサムライの足を引っ張ってしまう。
 それだけはいやだ、絶対に。僕のプライドが許さない。
 僕の決意が固いと悟ったのか、束の間黙考した末に諦念の嘆息。サムライが柔らかく苦笑する。
 「強情だな。お前は一度言い出したら聞かない男だ、翻意させるのはむずかしい。自分の身を守る方法くらいは写経の手が空いたときにでも伝授してやろう」
 「強情なのはお互い様だ」
 「似た者同士ということか」
 サムライに誘われるように苦笑し、締めくくる。
 「『類は友を呼ぶ』だ」 
 とはいえ、事態はなにも進展してない。
 安田が紛失した銃の行方は杳として知れない。一体東京プリズンのだれが、何の為に、安田の銃を持ち去ったのだろうか。
 用心棒兼助手を得ても名探偵への道のりは遠い。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051114001932 | 編集

 闇。
 そこにはただ闇があった。生臭く湿った汚物の匂いがする闇。糞尿の異臭がこもった闇の中で聞こえてくる音といえば自分の息遣いと心臓の鼓動、あとは何も聞こえない。
 闇を手探り、おそるおそる壁に触れてみればコンクリートのざらついた質感が四方を囲んでいた。どうやらここはコンクリート造りの小部屋で、俺はいつからかわからないが何らかの理由でこの独房に閉じ込められてるらしい。
 視界一面重苦しい闇に塞がれて、呼吸するたびに気道に闇を吸いこんで体の内側から蝕まれていくみたいだ。圧倒的な闇、視界が利かない不安。目を閉じても開いてもそこには変わらず闇があるだけで自分の手足も見えずに恐怖で理性が蒸発しそうになる。怖い怖い怖い、だれか助けてくれ。体中の穴という穴から闇が入りこんで体の内側を蚕食する、自分の内側と外側の境界線が曖昧に溶け出して俺の自我が食われて存在が薄れてゆく。ここはどこだ、どうして誰もいないんだ。誰でもいいから声が聞きたい、音が聞きたい、俺以外にもこの世界に人間がいると、生きて呼吸して動いてしゃべる人間がいると確信を得て安心したい。孤独感に押し潰されそうで不安感に息もできなくて、汚物にまみれた床を芋虫みたいに這いずって壁に縋りつきぴったり耳を押し付ける。お願いだからだれか、なにかしゃべってくれ。俺が一人じゃないと、一人ぼっちじゃないと教えてくれ。爪を掻き毟るように上体を起こし、壁に耳を密着。押し殺した息遣いは獣じみて心臓の鼓動は跳ね、壁に立てた爪がひび割れて激痛が生じる。
 壁越しにかすかな物音が聞こえてきた。
 分厚いコンクリ壁の向こうからかすかに漏れ聞こえたのは今にも死に絶えそうな啜り泣き、子供の嗚咽。壁向こうで誰かが泣いている。俺とおなじように壁に縋りついて、あるいは隅っこで膝を抱え、他にどうしようもなく啜り泣いている。空腹に苛まれて胃袋は縮み、気が狂ったように壁や扉を叩いた手は痺れて感覚が失せ、誰からも救いの手はさしのべられることない絶望のどん底でしゃくりあげている。壁の向こうにもそのまた向こうにもここと同じ造りの部屋が存在し、子供が一人ずつ閉じ込められてるとそれでわかった。
 たどたどしくすすり泣く声が壁を越えて鼓膜に押し寄せ、耳を塞ぐ。皆が泣いてる、まだ年端もいかないガキがたった一人空きっ腹で暗闇に閉じ込められ、糞尿にまみれた汚い床にしゃがみこんで泣きじゃくってるのだ。ここから出してくれと力ないこぶしで壁を叩き、遂には力尽きて平手を壁につきその場にしゃがみこみやがて動かなくなり。
 いやだ。俺もそうなるのか。
 こんなところで、自分の手足さえ見えない闇の中で、汚物にまみれて一生を終えるのか?なんで俺がこんな目に、俺が一体全体なにをした。だれか、だれでもいいだれか助けてくれなんでもするから助けてくれここから出してくれ。目を開いても閉じても変わらない暗闇じゃ呼吸するのも苦しい、息を吸うたびに体の底に闇が溜まってゆくみたいだ。一体いつになればここから出してもらえる、解放してもらえる?ぴたりと耳を塞ぎ膝に顔を埋め、そのままじっと動かず……。
 いつのまにか、泣き声が止んでいた。
 嗚咽が途絶えたあとに訪れたのは先刻とは比較にならない完全な静寂。耳から手をおろし、周囲を見渡す。音が聞こえない。壁の向こうからは衣擦れの音ひとつせず、生き物の気配がしない。不審に思い、おそるおそる壁を叩く。コンコンと耳に響く軽いノック。反応は皆無。不吉な予感が胸に覆い被さり異常に喉が乾く。おかしい、どうして返事がない?もう泣き声あげる元気もなくなったってのか?それともまさか俺一人残して全員が死んじまったってのか?
 何かが壊れた。
 お願いだから誰か返事をしてくれ、答えてくれ、声を聞かせてくれ。嘘だろ、俺ひとり残して全員がいなくなっちまったなんて嘘だ、そんな現実が現実であってたまるか。いやだ置いてかないでくれ、正気を保ったまま真っ暗闇に置き去りにされるのはいやだ。五感はまだ正常に働いて聴覚は鋭敏で嗅覚は過敏で、視覚以外の感覚が恐ろしいほどに冴え渡ったこの状態でひとり暗闇に放置されるのは拷問だ。俺のこぶしが壁を殴打する音がむなしく響くが答える者はだれもいない、完全な無反応。手が痛いがそれよりなにより恐ろしい、もう一生死ぬまでこの部屋から出られないんじゃないかと思うと全身の毛穴から汗が噴き出して心臓が爆発しそうに高鳴って、気付けば俺は喉を振り絞り、今ここにはいない誰かに哀願していた。
 誰かいるんだろ誰か、俺の声が聞こえてるやつが。ぶざまな俺をどこかで嘲笑ってるやつが。なあ頼むからここを開けてくれ、この扉を開けてくれ。鉄で出来た分厚い扉を開けて外にだしてくれ。
 叫びすぎて喉が嗄れて声がかすれて、それでも諦めきれず叫び続ける。顔の見えない誰かにただひたすら許しを乞い願う。助けてくれ助けてくれお願いします助けてくださいなんでもしますからここから出して、いやだ怖い暗くて怖いなにも見えない誰か助けて。
 お袋。
 あんたが男と乳繰り合ってるときに勝手に部屋に入ってったりしないから、大人しくしてるから、だからいい加減ここから出してくれ。土下座でもなんでもするから、口をきくなってんならそうするから扉を開けてくれ。
 ひとりにしないでくれ。
 こんな死に方はいやだ、こんなみじめな死に方はいやだ。異臭が充満した暗闇で糞にまみれて餓死なんて救いのない死に方はいやだ。だれか、だれか―

 だれだ?

 部屋の片隅にガキがうずくまってる。いつのまに現れた、どこからどうやってもぐりこんだ?扉は外側から鍵をかけられて、四面を塞ぐ壁には割れ目なんか存在しないのに。暗闇に目を凝らし、ガキの背中を見つめる。
 そのガキは泣いてもなかった。喉が嗄れるまで泣き叫んだ様子もなく、闇に溶け込むように膝を抱え、ぼんやり虚空を見つめていた。自分の手足も見えない真っ暗闇なのに、どういうわけだかそのガキの輪郭はくっきりと浮きあがって見えた。華奢な背中、細い首、干した藁束のような色合いの明るい茶髪。おかしい、色なんか識別できない闇の中でどうして髪の色がわかる?
 そうか。俺はこいつを知ってる。
 そのガキは泣いてもなかった。喉が嗄れるまで泣き叫んだ様子もなく、闇に溶け込むように膝を抱え、ぼんやり虚空を見つめていた。怯えるでも怖がるでもなく、ごく自然に、まるでそれがごくありふれた日常であるかのごとく闇に馴染んでいた。俺の視線に反応したガキが誰かに呼ばれたように顔を上げ、ゆっくりと、緩慢な動作で振り向く。気だるく振り向いたガキと目が合った瞬間、戦慄が走る。 

 虚無。
 これは人間の目じゃない、心ない怪物の目だ。
 
 ガキは薄らと笑みさえ浮かべていた。年齢にそぐわない、ひどく大人びた微笑。底無しの瞳。
 怖い。目の前のガキが怖い。俺のすべてを見通すような全能の微笑が怖い。心を麻痺させることで闇に対する本能的恐怖を克服した、人間として大事な部分が致命的に欠落したおぞましい笑顔。
 闇よりなにより、目の前のガキが恐ろしい。扉を背に追い詰められた俺を見てガキは笑ってる。お前のことは全部お見通しだとでもいうように透き通った微笑を浮かべている。なまじ綺麗に整った顔だちをしてるせいかおさら笑顔の薄気味悪さが際立った。
 怪物。
 人の姿を借りた怪物がこっちに歩いてくる。かすかに鼻歌を唄いながら、床に垂れ流しの糞尿を裸の足裏ではね散らかし、極上の微笑を湛えて俺のもとへ近づいてくる。この歌、聞いたことがある。子供の甲高い声が唄うひどく音痴な鼻歌。リンチで殺された黒人の死体が木の枝にぶらさがってる、まるでそれは奇妙な果実のよう……スキップするように汚物まみれの床を歩きながら鼻歌をなぞる。口元に微笑を絶やさず、闇と戯れるような振り付けで歩いてくる。
 やめろ、こっちに来るんじゃない。
 床を足で蹴り遠ざかろうとして、背後に扉があるせいでそれ以上後退できず追い詰められる。来るな来るな来るな!頭を抱え込んで絶叫する、全身で拒絶する。恐怖で頭が割れそうだ、心臓の鼓動が高鳴り全開の毛穴から汗が噴き出し体の芯が凍えてかってに四肢が震えだす。得体の知れないガキが歩いてくる、のんきに鼻歌なんか歌いながら歩いてきやがる。なんでこの状況下で笑える、糞まみれの闇の中で笑うことができる?やめろそれ以上近付くな頼むからこっちにくるな、怖い、怖い―

 ああ、殺される。

 ―「!!!!!」― 
 そこで目が覚めた。
 全身がぐっしょり濡れていた。悪夢にうなされて大量の寝汗をかいたせいだ。毛布をはねのけ、ベッドに跳ね起きる。一瞬自分がいる場所がどこかわからなくなった。視界は闇に包まれてる。まだあの小部屋にいるのかと勘違いして一瞬心臓が止まったが、落ち着いて見まわしてみれば裸電球を消した俺の房だった。闇に沈んでいるのは見慣れたベッドと洗面台で、天井の配管の位置もベッドにもぐりこむ前となにも変わってない。
 震える手で毛布を掴み、大きく深呼吸をくりかえす。体の芯は恐怖に凍えていた。やけに生々しい夢だった。コンクリート壁のざらざらした質感を手が覚えている。手入れのよくない家畜小屋よりなお環境が悪い部屋だった。あるのは闇と壁だけ、他にはなにもない殺風景な部屋。まるで独房。あの部屋から抜け出せたことに心の底から感謝したい。
 時間は深夜。隣ではレイジがぐっすり眠ってる。
 ホセの特訓開始から四日目。日中しごかれて疲れてるはずなのに、俺は全然眠れない。眠れば確実に悪夢を見てしまう。昨日レイジに聞かされた子供の頃の話が夢の形を借りて頭の中で再現され、実際に体験してない俺まで夢に取り込まれてレイジの過去を追体験させられる。
 ひどい夢だった。
 泣いても叫んでもなにをしても無駄だった。誰も助けにきちゃくれなかった。怖くてひもじくて気が狂いそうだった。俺が夢の中で体験したのはほんの数時間に過ぎないのに、レイジはほんのガキの頃にあれを最短一週間体験したのだ。
 ガキの頃、癇癪持ちのお袋にクローゼットに放りこまれたことが何度かある。お袋の折檻怖さに自分から逃げ込んだこともある。最初の数分はいい、でもじきに心細くなる。空腹に耐えられなくなり尿意に耐えられなくなり、なにより誰にも気付かれない不安と恐怖に心が軋んで世界で自分ひとりぼっちになったような錯覚に陥り、一時間が経つ頃には出してくれと泣き喚く始末だった。お袋はガキが泣き喚いたところで扉を開けてくれるほど優しくなくて、お袋の気まぐれ次第で最長半日クローゼットに閉じ込められたこともある。でも半日、たった半日だ。レイジと比べりゃ屁でもない。
 だけどその半日で、十年分の恐怖を味わった。
 もう一生ここから出してもらえないかもしれない、閉じ込められたきりかもしれない。お袋は俺のこと忘れちまうんじゃないか、じきに誰も彼もが俺のことを忘れて俺がいたことさえ忘れられちまんじゃないか。そう考えたら怖くて怖くて、体が震え出して止まらなくなった。自分で体を抱いて止めようとしても無駄だった。
 それなのにレイジは、真っ暗闇の小部屋に一週間以上閉じ込められた記憶を笑いながら回想した。俺なら二度と思い出したくない忌まわしい体験を笑顔で口に上らせたのだ。
 レイジはおかしい。普通じゃない。
 なんだってあんな悲惨な体験を笑いながら話せる?隣のベッドですやすや寝息をたてるレイジを振り返る。人の気も知らず平和なツラで眠ってる。あれがレイジの作り話という可能性はないだろうか?だっておかしいじゃないか。いつもへらへら笑ってるレイジが、下ネタと冗談と口説き文句しか言わない軽薄なレイジが過去にあんな壮絶な体験をしたなんて俄かには信じ難い。糞尿垂れ流しの小部屋に監禁され訓練と称して家畜以下の扱いを受け、身も心も徹底的に貶められ人間性を最後の一片まで剥奪されて何故トラウマにならない?俺が知る限りレイジは暗所恐怖症でも閉所恐怖症でもない、悪夢にうなされたことだってペア戦前夜の一回こっきりで俺よりよっぽど寝付きがいい。
 俺より格段に悲惨な体験をしたくせに、なんでそれを笑いながら話せるんだ?
 レイジはおかしい、普通じゃない。普通とは違う、俺とは違う。夢で遭遇した子供時代のレイジが脳裏によみがえり、二の腕が鳥肌だつ。レイジは闇の中で笑っていた。音痴な鼻歌を唄いながら、ガキのレイジは微笑んでいた。実際のレイジも笑っていたのか、糞尿垂れ流しの真っ暗闇に監禁されてなお微笑を絶やさず鼻歌を口ずさんでいたのか。レイジは暗闇が怖くないのか、恐怖心が欠落してるのか?
 暗闇の中で鼻歌を口ずさむレイジ、鼻歌を唄いながらサーシャの背中を切り刻むレイジ。
 俺の知らないレイジの一面、俺が見たことのないレイジの一面。いつもへらへら笑って俺にちょっかいかけてくるレイジと鼻歌まじりに敵を切り刻むレイジ、どっちが本当のレイジなんだ?もし仮に、今まで俺に見せてきたレイジの笑顔が偽りの仮面だとしたら。
 俺を油断させる演技だとしたら。
 『今の俺、上手く笑えてる?』
 ……まさか、ありえない。強く否定しようとして、否定しきれない自分に動揺する。あの時は上手い下手の問題じゃないと抗弁したが、俺が日常見慣れたレイジの笑顔が本心と切り離した演技だとしたら上手い下手で評価するかしかない。レイジの笑顔は上手い。上手いんだろう、たぶん。笑みを浮かべてる限りどこまで本気で冗談か、いちばん身近にいる俺にも区別できないくらいなんだから。
 ……わからない。不安になる。俺はレイジのことをわかったふりして、今まで何ひとつわかっちゃなかった。レイジの過去を何も知らず、レイジの笑顔を深く追及せずにやり過ごしてきた。が、それもそろそろ限界だ。俺はもうレイジの過去に立ち入っちまった、暗い過去を覗き見たら最後あの笑顔を額面通りに受け止められずに常にもやもやと疑惑が付き纏う。 
 今、レイジは本心から笑ってるのか?俺と馬鹿話するのが楽しくて、本心から笑ってるのか?
 レイジが楽しくもないのに笑ってるんだとしたら、楽しくもないのに笑ってるレイジに付き合わされる俺はただの道化だ。俺は心の底からレイジを笑わせたいが、その方法がわからない。レイジを笑わせたいと模索する俺自身笑うのがあんまり得意じゃないのだ。お袋や周囲の人間に常に「かわいげがない」と言われて来て、物心ついた時にはもう素直に笑えなくなってた。正直レイジみたいにあけっぴろげに笑えたらと羨ましくなることもあったのに、そのレイジ本人がこれまで一度も心の底から笑ったことがないんだとしたら。
 「ううーん……」
 ベッドに腰掛け、物思いに耽っていた俺を我に返したのはレイジの寝返り。ごろんと寝返りを打ったレイジが暗闇で薄目を開ける。
 「……まだ起きてたのか。眠れねえの」
 「ああ」
 欠伸をしながら上体を起こしたレイジをベッドに腰掛けた姿勢でぼんやり眺める。東京プリズン最強の男、連戦連勝無敵無敗のブラックワークトップなんて仰々しい称号を連ねてみたところでレイジの本質は語れない。俺が知ってるレイジはいつもへらへら笑って、隙さえあらば人の寝こみを襲う節操なしで。 
 ただのバカで、けど、結構いいやつで。
 俺が売春班の仕事場に閉じこもった時、レイジは缶詰持って見舞いにきてくれた。力づくで扉を開けて、心を許したダチにそうするように俺に笑いかけてくれたのだ。
 嬉しかった。あの時、俺はレイジの笑顔で救われたのだ。
 あの笑顔が嘘だなんて、偽りだなんて思いたくない。
 複雑な気持ちでレイジを見つめれば、ベッドに起き上がったレイジが俺の視線に気付き、いたずらっぽく笑う。
 「眠れないならキスしてやろうか」
 「気色わりい」
 「遠慮すんなよ」
 「いや、本当に気色わるいから」
 「はいはい、素直じゃないね。俺が100人抜き達成したときはそれなしだぜ」
 人の意見などてんで聞かずにスニーカーに足を突っ込み、こっちへ歩いてくるレイジ。このバカ、マジでキスするつもりか?寝こみを襲われた経験は腐るほどあるが、俺がぱっちり目え覚ましてるときにちょっかいかけてくるなんていい度胸じゃねえかくそ。豹のようにしなやかな足取りでレイジが接近、中腰に屈み、俺の顎に手をかけて外人の親愛表現よろしく頬にキスしようとして。
 瞬間、最前まで見ていた夢の光景が現実に重なる。
 スキップするような足取りでこっちにやってきたガキ。口元には微笑を湛え、俺の方へと手をさしのべ、その手が首にかかり。
 
 殺される。

 「!?―っ、」
 手に衝撃が伝わった。
 頬に唇を落とす寸前、おもいきり突き飛ばされたレイジが床に尻餅をつく。平手を前に突き出した俺は、放心状態で足元のレイジを凝視。だらしなく両足を投げだし、床に寝転んだレイジはあ然としていた。ちょっと俺をからかうつもりが容赦なく突き飛ばされ、ろくに受け身もとれずに床に転倒したのだ。眠気が吹っ飛んだレイジが驚きに目をしばたたき、両手を前に突き出した姿勢で硬直した俺は、ひどく苦労して口にたまった唾を嚥下する。
 「近付くな」
 不均衡な沈黙が落ちた。
 自分の言動が不可解だ。あれはただの夢だ、現実のレイジが俺を殺そうとするはずない。頭ではわかってる、でも冷静な判断力が回復するより早く勝手に体が動いてレイジを突き飛ばしていた。顎に手がかかった瞬間に夢で味わった恐怖がまざまざとよみがえり、頭が真っ白になって、やらなきゃ俺がやられるとそう思って。
 床に尻餅ついたままのレイジを見下ろし、言い訳がましく付け足す。
 「……約束は守る。100人抜き達成したら抱かせてやる、だからそれまでさわんな。野郎にキスされても嬉しかねえよ。いい夢見られるおまじないなんか要るか、失せろ」
 「へーへーっと」
 早口にいい終えた俺の前、腰をさすりながらレイジが立ち上がる。
 「恥ずかしがり屋だなロンは、キス程度で赤くなっちまって」
 「赤くなってねえ」
 「そうか?暗くてよく見えねーから口では何とでも言えんな」
 「暗くてよく見えねーのに顔の赤さはわかんのかよ」
 身に覚えのない疑惑をかけられて憤慨すれば、軽く肩を竦めたレイジがまんざらでもなさげに笑う。
 「暗闇でもロンの顔は見える」
 自信をもって断言したレイジの言葉が冗談に聞こえず、ぞくりとした。さっき見た夢の中、糞尿垂れ流しの暗闇でレイジは一直線に俺を見つめていた。自分の手足の先さえ判別できない無明の闇で、俺の顔だけは見分けがつくというふうに得意げな笑顔で。 
 「……俺には見えねーよ、お前のツラなんて」
 レイジに背を向け、毛布を羽織る。毛布にくるまった俺にやれやれとかぶりを振り、レイジが去る足音を背中で聞く。続く衣擦れの音で、レイジが自分のベッドに戻ったのを確認。警戒を解き、体の力を抜く。
 再び寝息をたて始めたレイジをよそに、ひとり毛布にくるまり反芻する。
 俺にはレイジが見えない。
 笑顔の下のレイジの本心が、ちっとも見えない。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051113002244 | 編集

 太陽が燦燦と照りつける空の下、今日も今日とてボールを追う。
 レイジ提案のくだらない遊戯に付き合わされはや五日が経過した。次のペア戦まで残り二日というのに何をやってるんだ僕は、と焦りと苛立ちが募る。一方レイジは大人が子供を相手にするようにバスケット初心者の僕を翻弄し、次の試合にそなえてグラウンドを走ろうとか腹筋千回しようとか殊勝な心構えは全然さっぱりないらしい。
 「動きがよくなってきたじゃん」
 「誉められても嬉しくない。微生物に絶賛された気分だ」
 「いや、喜べよ誉めてやってんだから。トロイトロイと思ってたけど五日徹底的にしごいた甲斐あって上達したよ、お前。反射神経よくなってきてんじゃん」
 一対一で僕と対峙したレイジが皮肉げに笑う。完璧に見下して何様のつもりだ貴様、王様がそんなに偉いのか、十五年間バスケットボールにろくに触れたことない僕が汗びっしょりで走りまわる姿がそんなに無様で滑稽かと襟首掴んで問いただしたい衝動に駆られるが馬鹿を相手に怒ってもしょうがないと自制する。 
 コンクリートの中庭にバスケットボールの跳ねる音が響く。
 レイジの手の中で小気味よく弾むバスケットボールに目を凝らし、慎重に足を開き腰を屈めその瞬間に備える。この五日間、くだらないお遊戯に参加させられレイジに翻弄されるうちに次第に呼吸が飲み込めてきた。レイジの動きは異常に素早く、猫科の肉食獣のように敏捷かつ獰猛。右へ左へとフェイントをかけられ息が切れるまで奔走し、不毛に体力を消耗した自覚が生まれるくらいには僕も成長した。 
 あと少しでレイジのボールを奪える。
 予感は確信に近い。初日はレイジの動きに全く付いていけずにボールにさえ触れなかったが、五日間の猛特訓の末、レイジに接近しボールに触れることができるようになった。ほんの一瞬といえど目ざましい進歩だ。
 どうやら僕は意外と負けず嫌いな性格らしい。レイジの指摘を事実と認めるのは不愉快だが、現実にこうしてボールに執着してる。意地でもレイジのボールを奪取してやろうと、汗みずくになり息を荒げ、レイジに隙が生まれる瞬間を虎視眈々と狙っているのだから。
 「いい顔になってきたじゃん」
 ボールを弄びながらレイジがにんまり笑う。無敵の王様の余裕の表情。運動神経抜群でスポーツ万能らしいレイジは体の一部のように自由自在にボールを操る。鞭が撓るようにしなやかで機敏な体捌きと動体視力の限界に近いドリブルには随分と手こずらされた。 
 「きみは相変わらず不愉快な顔だな。たまにはその軽薄な笑顔を慎んだらどうだ、僕だけ大量の汗をかいて呼吸を荒げて必死なさまを露呈して不公平かつ不愉快だ」
 「この顔しかできねーんだよ」
 「可愛げがない」
 もしこの場に第三者がいたら僕が一方的に必死になってるように映るのが明白で不愉快極まりない。少しくらい焦ればレイジも可愛げがあるのに、王様はいつでもどんな時でも飄々とした笑顔を崩さず不敵に構えている。まったく腹立たしい男だ。
 五日間で上達したとはいえ、僕の技量がレイジの足元にも届かない現状では無茶な注文ではあるが。
 「僕とボール遊びしてる暇があるならロンを特訓してやったらどうだ。次のペア戦まであまり時間がないだろう」
 「ロンには特別に鬼コーチを紹介してやった。俺が出る幕ねえよ」
 「わざわざ紹介の労をとったのか、親切だな。しかし随分と回りくどいじゃないか、東京プリズン最強の称号を保持してるくせにコーチは別の人間に頼むのか?理解に苦しむ矛盾した言動だ」
 ありのままの疑問を述べれば、口元の笑みはそのままにレイジの目に複雑な色が過ぎる。
 「いいや、これでいいんだよ。俺はコーチに不向きだから」
 「人を見下して憚らない不遜な男に謙遜などという高等技術ができたのか、意外だな」
 「自称天才の辞書に『謙遜』なんて載ってたのかよ。驚き」
 「僕の辞書は語彙豊富だ、記載されてない言葉などありはしない」
 レイジの揶揄に憤然と返す。無造作にボールを突きながらレイジがさらりと言う。
 「だって、俺がコーチになったら手加減できねーから。手加減忘れてロン殺しちまうかもしれないし、」
 冗談みたいな軽さで物騒な言葉を口走ったレイジに一瞬の隙が生まれた。今だ!レイジの注意がボールから外れた瞬間に助走して地面を跳躍、一気に距離を狭めボールにとびかかる。レイジが気付いた時には遅かった、至近距離に迫った僕にハッとしたレイジが慌てて後退して距離をとろうとしたが、距離が1メートル以上開く前に間合いに踏みこんでボールめがけて手を伸ばす。指の先端がボールの表面に触れ、両の手の平がボールを挟み、しっかりと包み込む。
 やった、取った!
 五日間の猛攻の末やっと、やっとレイジのボールを奪取した歓喜に快哉を叫ぼうとしたのも束の間、一直線に加速してレイジに突っ込んだせいで重心がぐらつき体が前傾。危ない、と思った時には遅く、前傾した上体は制御が利かずにレイジもろとも転倒。下がコンクリートの割には衝撃が弱かったのも道理で、痛みにうめきながら上体を起こした僕の下ではレイジが大の字になっていた。勢い余った僕に押し倒され、背中から転倒したものらしい。 
 レイジが下敷きになったせいで転倒の衝撃が緩和されたのか。
 「い、っててててててて……あーもう何すんだよっ、背中から倒れたからいいようなもの顔からイッてたら一大事だぜ!俺の顔にキズついたら世界中の女が号泣する大損害だ、慰謝料請求するからな」
 「不愉快だから一秒でも早く離れてくれないか。君と接触するとぞっとする」
 「それが白昼堂々、外でひと押し倒して言う台詞かよ」
 「これは事故だ、誤解を招く言い方をするんじゃない。それ以前に僕にも好みがあるし大前提として同性愛者じゃない」
 「俺は体の相性があえばどっちでもいい派だけどお前みたくお高くとまったヤツはタイプじゃないね」
 「見解の一致だな。迅速に離れよう」
 「おおとも、間違いが起こるまえにな」
 言葉とは裏腹に、レイジは無意識に僕の背中に片腕を回していた。何が哀しくて白昼の屋外で男に抱擁されなければならない?背中に回された腕を邪険に払いのけ、レイジの上から素早く退く。膝から重しが除かれたレイジが地面に手をついて上体を起こし、転倒の際、僕の手から落ちたボールを振り返る。
 「Congratulations!やればできる子は好きだぜ」 
 僕へと向き直ったレイジが極上の笑顔で祝福。僕はといえば地面に尻餅をついたまま、手のひらに残るボールの感触を反芻する放心状態からまだ回復してなかった。ほんの一瞬といえど、三秒に満たない時間といえど、レイジの手から実力でボールを奪い取ったのはれっきとした事実。僕が体験した現実。五日前はボールに触れることもできなかったのに、とうとう今日はこの手にしっかりとボールを抱くことができたのだ。
 「バスケットボールのルールを勉強した甲斐があった」
 レイジには聞こえぬよう小声で呟く。一日と欠かさず通う図書室で、いつもは素通りするスポーツ関連書籍の棚で立ち止まり、ルールブックに熱心に目を通したのは秘密だ。外ではバスケットボールなどしたことがなく、東京プリズンに来て生まれて初めてボールに触れたのだから、振りかえれば奇妙な話ではある。
 複雑な感慨に耽る僕の隣、上体を起こしたレイジが突然理解に苦しむ行動をとる。素早く上着を脱ぎ上半身裸になり、その場に大の字に寝転んだのだ。無造作に上着を脱ぎ捨て、日に熱されたコンクリートに仰臥したレイジにぎょっと目を剥けば、上半身裸のレイジがうろんげにこちらを仰ぐ。
 「キーストアも脱がない?汗まみれで気持ち悪くない、それ」
 レイジに顎をしゃくられ上着の胸元を見下ろせば、言われた通り汗でぐっしょり濡れて色が変わっていた。しかし人前で服を脱ぐのは抵抗がある。僕は同性の前だろうが異性の前だろうが平然と裸身を晒せるレイジほど開放的な性格をしてない。
 「僕はこれでいい」
 「ヌードはサムライにしか見せないってか」
 「?どういう意味だ、サムライが裸を見たがったことなど今だかつてないぞ」
 意味不明なことを言う男だ。首を傾げた僕にあきれたふうにかぶりを振り、無防備に四肢を投げてレイジが寝転がる。ボールを奪取するのに全力を尽くし、疲労困憊した僕もレイジを真似て地面に背中を付ける。普段の僕なら地面に寝転がるなどとい行儀の悪い真似は絶対にしないが、場合が場合だ。体力が回復するまでラクな姿勢で休息しても罰はあたらないだろう。そういえば、屋外に寝転がる行為自体が生まれて初めての体験だ。東京プリズンに来てから僕は生まれて初めてのことばかりしている。
 レイジと少し離れた位置に仰臥、呼吸に合わせて胸郭が上下。
 空が高い。
 視界一杯に広がる乾燥した青、乾いた空の色。砂漠よりもなお広く無限に続く空の下、レイジと並んで寝転がった僕は、その場でじっと動かず、無心に空の青さを見つめ呼吸が鎮まるのを待つ。
 空を見つめていると自分が溶けて消えてしまいそうで不安になる。
 レイジに話しかけたのは、だからほんの気まぐれだ。体が粒子に分解され空に吸いこまれそうな不安を解消するための、ただの暇潰し。
 「バスケットボールが上手いな。外で習ったのか」
 「どうでもいいけど長いからバスケって略したら?」
 「何でもかんでも物事を略すのは労を厭う惰弱さの表明だ」
 「……うざいなあお前、そっちのがラクかなってちょっと言ってみただけじゃん。なんでもかんでもお説教しなきゃ気が済まないのかよ。んな性格だからサムライしかトモダチできねーんだよ」
 「質問に答えてない」
 「しつもん?ああ、外で習ったのかってアレか。そう、外で習ったんだよ」 
 「子供の頃からボールに馴染んでいれば上手いはずだな」
 「はは、そりゃ勘違いだ」
 「?」
 さもおかしげにレイジが笑う。地面に背中を預けて笑い声の方に目をやれば、裸の胸に十字架をたらしたレイジが最高の冗談を聞いたとでもいうふうに愉快げに喉を鳴らしていた。過不足なく引き締まった四肢、服を着ているときは華奢に見えたが脱げば綺麗に筋肉が付いているのがわかる。人に見せるために鍛え上げた誇張された筋肉ではない。贅を殺ぎ落とし骨格を研鑚し実戦で引き締めた、強靭かつしなやかなバネを感じさせる精悍な体躯。 
 褐色の肌に薄らと汗をかき、裸の胸に落ちた十字架を手探り、レイジが語る。
 「初めてボールに触れたのは12か3のとき。ガキの頃はボールに触れたこともなかった。どころか、普通のガキみたいな遊びなんて何ひとつ知らなかった。来る日も来る日も人殺しの訓練ばっかで飽き飽き」
 「人殺しの訓練?」
 聞き捨てならない物騒な台詞に眉をひそめれば、十字架を握り締めたレイジが「そ」と相槌を打つ。
 「コーラの空き瓶並べて倒すのだって遊びに見せかけた訓練だよ、的に弾あてる初歩訓練。ガキの頃からそんなのばっかり。暗い部屋に閉じ込められて耳鍛えたり空き瓶撃ち落したり……銃の分解と組み立ても嫌ってほどやらされたな。今でも手先が、指が覚えてる。だからかな、こうやってしょっちゅう何かさわってないと落ち着かない」
 レイジの話に引き込まれ、胸元を這う指を注視。心の奥底の不安をごまかすように落ち着きなく十字架をまさぐる指。レイジは何を話してるんだ?これがレイジの子供時代の記憶?僕はレイジの過去について何も知らない。僕がレイジについて知ってることはフィリピン人とアメリカ人のハーフでフィリピン出身ということくらいだ。それ以外は東京プリズン送致が決定した経緯も何も知らない。
 いつだったか、医務室前の廊下で安田が話した内容を反芻する。
 東京プリズンの極秘機密。東京プリズンは政府に盾突く重罪を犯して祖国に追放された、国際指名手配級犯罪者の流刑地として機能している。
 レイジもまた、何らかの理由で祖国を追われた重犯罪者のひとりなのだろうか。
 レイジの回想は続く。
 懐かしげに目を細め、口元には微笑を添え、過酷で悲惨なばかりの子供時代を語る。
 「いちばん辛かったのは痛みに慣れる訓練」
 「痛みに慣れる訓練?」
 不吉な予感に胸が騒ぐ。レイジは何故笑っているのだろう、笑いながら話せるのだろうという単純な疑問が脳の奥で膨張する。そばで聞いてる僕でさえ耳を塞ぎたい衝動にかられるのに、レイジは本当にさりげなく、淡々と話す。自分の身の上に起きたこととは思えないあっけらかんとした口ぶりで、乾いた笑いさえ交えて話す。
 「くわしくは話さねーよ、胸糞悪い。想像に任せる。……平たく言っちゃえば、官憲とか軍とか万一トチって敵にとっ捕まって拷問されても情報漏らすなよって体に叩き込む訓練。ガキの頃から訓練訓練訓練……いい加減飽き飽きしてた俺にバスケを教えてくれたのが親父代わりのマイケルだ。米軍ドロップアウトしてこっち側にやってきた物好きなオッサンで、自分と同じ名前ってだけでマイケル・ジョーダンを偏愛してた。ドリブルもカッティングもスリーポイントシュートも全部マイケルから教わった」
 レイジの手首が反りかえり、虚空にボールを投げる真似をする。ボールを投擲する動作につられ、十字架の鎖が鎖骨を流れる。胸元に輝く十字架を眺め、声をひそめる。
 「親父代わり、ということは本当の父親は……」
 無粋で不謹慎な質問だ、という自覚はあった。レイジの家族構成について無知な僕は、しかし、好奇心を隠せず控えめに疑問を呈する。レイジはちょっと小首を傾げてみせる。
 「さあな。候補が五人いるから」 
 「五人!?」
 「マリアには父親が誰だかわかってるみてーだけど……あ、マリアって俺のお袋。聖母マリア様みたいなすっげー美人」
 ふと、レイジは母親似なのではないかと思った。僕の視線の先でレイジが一房前髪をつまみ、自嘲的ともとれる笑みを口の端に上らせる。
 陽射しに透ければ金に見える髪は、干した藁にも似た明るい茶髪。東南アジア系黄色人種の特徴、黒髪黒瞳が過半数を占めるフィリピン人には珍しい配色。フィリピンで生まれ育ったならさぞ目立ったろう。
 「俺の髪と目は父親ゆずりなんだって。珍しいだろこの色、茶色にも金色にも見えるどっちつかずの髪の毛。白人の血が混ざってるとこういう色になるんだって。キーストアは頭いいから知ってるよな」
 「……言葉は悪いが、劣性遺伝の法則と似たようなものだな」
 「劣性遺伝、か。傑作だ」
 うまいことを言ったつもりはないが、レイジはくすぐったそうに笑った。肩を揺らし喉仏を震わせ、胸の十字架を日に反射させ、おかしくもないのに笑い転げた。笑いすぎて目に涙さえ浮かべたレイジが、笑みを噛み殺した表情で僕を振り返り、明るく朗らかな声で言う。
 「気付いてる?俺もロンとおんなじなんだよ、お互い憎しみあってる国の血が混ざってるの。何が言いたいかってーと劣性遺伝の雑種でもあいつとおなじなら悪くねーかなって……ほら、お揃いってやつ?」
 「本当にロンが好きなんだな」
 深刻な身の上話から一変、のろけに転じたレイジにあきれて上体を起こす。皮肉をこめて応酬すれば、否定するでもごまかすでもなく、その通りだといわんばかりに得意げな顔で笑う。
 僕がよく見慣れた裏のある笑顔ではなく、いちばん身近の大切なものを誇る笑顔。
 「あいつ、初めて会ったときに大事なこと教えてくれたんだ。当たり前のことを当たり前のように言ってくれたんだ。すっげー大事。俺、ロン好きだよ。あいついいヤツだもん。お節介でお人よしで心配性で負けず嫌いで意地っ張りで、でも根っこじゃ本当にいいヤツなんだ。東西南北のトップ以外じゃあいつだけだ、俺に付き合ってバカやってくれる相手」
 「……そうだな。君のお遊戯に無理矢理付き合わされた僕はその中に入らないな」
 僕の不満を無視し、レイジが立ち上がる。そばに転がったボールに大股に歩み寄り、拾い上げてから体ごと向き直る。ボールを両手に構えたレイジの視線を追えば、遥か30メートル前方にネットがぶら下がっていた。
 馬鹿な、この距離からシュートを決める気か。
 「見てろよキーストア。このボールが一発で入ったら100人抜き達成、俺はロンを抱ける。もし外れたら100人抜き無理無理、俺はロンを抱けない」
 「抱く抱けないはふたりの問題だから関知しないが、100人抜き成るか成らないかには僕とサムライの将来が関わってくる。安易に賭けの対象にしないでくれないか」
 僕の賢明な忠告を聞き入れる気などまったくないレイジは、ボールを抱えた手を慎重に上下させ、ネットとの距離を測る。無茶だ、この長距離から入るわけがない。あきれ顔の僕の視線の先でレイジの胸郭が上下し、人生最大の山場に臨むようにゆっくりと大きく深呼吸。決して敗北が許されない真剣勝負に挑むような気迫のこめようで、ペア戦以上に緊張した面持ちでまっすぐにネットを見つめる。
 そして、僕が固唾を飲んで見守る中。
 レイジが高々と跳躍し、手首が撓り、青空に長大な放物線を描いたボールがネットに落下した。
 『It‘s a miracle!』
 快哉を叫んだレイジが感激のあまり僕にとびついてくる。 
 「見たかキーストアすごいだろ一発だ、すげえすげえ、この距離から一発でシュート決まるなんてついてるぜ、愛してるぜ神様愛してるぜロン!」
 「貴様離れろ、同性に抱擁されて喜ぶ趣味はないぞ!汗臭い肌を密着させるんじゃない、こんなところを第三者に目撃されたら誤解されるだろう!抱きつくならロンにしろ、僕は無関係の他人だ!」
 上半身裸のレイジに抱きつかれて身動きできず、僕は無力にもがくしかない。房に帰ったら即手を洗おう、服を脱いで服も洗おう。レイジを引き剥がそうと青空の下暴れながら、僕は今この場にサムライがいないことに心の底から感謝した。 
 『約束してくれ、直。今後は決して他の男に抱かれないと』
 昨日の今日で約束を破ったら、サムライは激怒する。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051112002404 | 編集

 特訓開始から五日目。
 五日目ともなりゃ体も慣れてきてグラウンド五十周も腹筋背筋腕立て伏せ縄跳びの地獄の特訓メニューもそんなに苦じゃなくなった。暴走特急ホセはマイペースハイペースに中庭突っ走って俺に対する思いやりなんか相変わらずかけらもないが、初日は一周以上差をつけられてたのがだんだん縮まり、今では周回遅れの失態を晒すこともなくなった。ホセとの距離は最長200メートル、東京プリズンの中庭はだだっ広いからそれだって大した進歩だと自画自賛してみる。
 しかし、こんなにちんたらやってていいのだろうかと走りながら不安になる。肩にかけたタオルをそよがせながら「ファイトーファイト―」と間抜けな声あげてるホセの背中を疑り深げに見つめる。この五日間俺がやったことと言やホセについてぐるぐる中庭走りまわったり腹筋背筋腕立て伏せ縄跳びの基礎体力作り、そしてホセに付き合ってボクシングの真似事。外にいた頃はもちろん腹筋背筋腕立て伏せの日課なんかなかったし暇を持て余した挙句にそこらへんを走りまわる奇行にでることもなかった。暇を持て余したら喧嘩だ。幸いか不幸か相手には事欠かなかった。憎まれっ子世に憚るで俺には敵が多かった。台湾と中国の混血でどっちからも恨みを買ってる俺には味方なんかはなから存在しなかった、というか味方でさえ敵だったのだ。俺が所属してたチームは池袋を本拠地に暴れる台湾系のガキの集まりで、中国人の血が入ってる雑種はひどく肩身が狭かった。敵との抗争のときだって逃走の際のケツ持ちとか損な役割ばかり押しつけられた。なんでそんな居心地の悪いチームに身を寄せてたのかだって?簡単だ、そこっきゃ居場所がなかったからだ。
 お袋のアパートを飛び出したはいいものの、他に行くあてもなく路地をさまよってた一時期を回想する。
 路上生活者にも縄張りがあり、新参者はつまはじきにされるのが鉄則だ。帰る家もなく迎えてくれる家族もいないガキが路上で野垂れ死にしないためには、家に代わる新しい仲間を見つける必要があった。 
 まあ、あいつらのことを仲間だなんて思ったことは一度もなかった。それに関しちゃお互い様だろう、チームの連中だって本気で俺のことを仲間に迎え入れたわけじゃない。同胞の血が半分入ってるてまえ気は進まないが仕方ない、という消極的な理由。
 レイジには仲間がいるんだろうか?
 ふと、脳裏に疑問が浮かぶ。ここ何日か、レイジとのあいだがぎくしゃくしてる。いや、俺が一方的にレイジを拒んでいるのだ。できるだけレイジとの接触を避け、レイジの顔を直視しないよう心がけて生活してるが勘のいい鍵屋崎あたりは何か気付いてるかもしれない。俺の様子が不審なことに、レイジに対する態度の硬化に。毎日食堂で顔を合わせるたびに何か言いたげにじっと顔を見てきてうざったいっちゃない。
 勘の鋭い鍵屋崎は気付いてる、俺とレイジのあいだに溝ができたことに。レイジ本人さえ気付いてない深くて暗い溝の存在に、嵌まったら二度と抜け出せない溝の存在に。レイジは馬鹿だから俺の態度の変化にもてんで気付いてない、それとも気付かないふりをしてるのか俺にはわからない。
 俺にはレイジがわからない。
 レイジの笑顔を鵜呑みにできなくて、レイジがわからなくて、レイジと一緒にいるのが苦痛になる。俺が今まで見てきたレイジはなんだったんだ、一年半付き合ってわかったつもりになってたレイジはなんだったんだ?レイジの過去を聞いた日から、以前のようにはレイジと付き合えなくなった。どうしても腰が引けてしまう。夢で見たガキの笑顔が脳裏に焼き付いてはなれない。暗闇の中で笑う子供。膝を抱えて鼻歌を唄い、世界に自分ひとりぼっちだろうがおかまいなしに……
 レイジの音程が狂ってるのは、レイジ本人が狂ってるからか?
 「ランニング終了ー」
 はっとした。
 考え事に熱中してたらいつのまにかランニングが終わっていた。前方じゃホセが立ち止まって膝の屈伸をしてる。無意識に腕を振り足をくりだし中庭を走っていた俺は、ホセの隣で停止。
 首にかけたタオルで顔の汗を拭いながらホセが振り向く。心配げに顔を曇らせ。
 「ロンくん、なにか悩み事でもあるんですか」
 見ぬかれてた。
 心配事が顔にでるほど思い悩んでたんだろうか、俺は。ばつの悪さにそっぽを向けば、お人よしなホセがずいと顔を覗きこんでくる。
 「気のせいかお顔の色が優れませんが胃腸の調子でも。吾輩いい胃薬を持っているのですがもしよろしければ」
 「胃腸は健康。てか胃薬持ちのボクサーってどうなんだよ」
 「吾輩ホセ、これでも試合前は人並に緊張するのですよ……」
 ホセは地下ボクシングの王者とか言ってたな、そういえば。
 わざとらしく胃のあたりを押さえたホセにため息をつき、日陰に腰を下ろす。休憩。ホセは文句も言わずに後についてきた。かってに休憩に入っても目くじら立てないのはやつなりの気遣いだろう。ホセと並んで日陰の地面に座りこみ、燦燦と輝く太陽の下、乾いた青空と鮮烈な対照を成すコンクリートの中庭を眺める。
 「悩み事なら吾輩力及ばずながらお力添えいたしますが」
 「カウンセリングもメニューに入ってるのか。ケア万全だな」
 「いえ、これは吾輩の自由意志。気まぐれで暇潰しで退屈凌ぎ、顔色の晴れない友人を純粋に心配した善意の行動です」
 「気まぐれで暇潰しで退屈凌ぎのカウンセリング、ね。あてにならねえ、まだ東京プリズンのヤブ医者んとこ行ったほうがマシだ」
 ホセは正直なんだか馬鹿なんだか時々わからなくなる。ちなみに東京プリズンの専属医ってのは結構な年の爺さんで、捻挫だろうが骨折だろうが唾つけときゃ治るの適当方針でン十年ことなかれ主義を通してきたせいか、囚人には至って評判が悪い。あれで意外と処置は的確だって噂もあるが実際この目で見なきゃ噂の域でねえし。
 がっくりうなだれた俺の隣、ホセが「さあ、なんでも頼ってください」と鼻息荒く頬を紅潮させる。人の相談事に乗るのが大好きって物好きな輩がたまにいるが、どうやらホセもその手の迷惑な連中のひとりらしい。俺に頼って欲しくて準備万端、大いに乗り気なホセを無視するのは気が引ける。五日間世話になったコーチをムゲに扱うのも恩知らずと言えなくないし、観念してため息をつく。
 「レイジのことだよ」
 「……無念です。吾輩ホセ、人様の痴話喧嘩には口をださない頑固一徹な方針で」
 「痴話喧嘩じゃねえ」
 途端に気が弱くなったホセを睨み付け疑惑を断固否定、続く言葉を飲み下して顔を伏せる。ホセとレイジは長い付き合いだ。少なくともホセは、俺が東京プリズンに来る前のレイジを知ってる。俺が知らないレイジを知って、俺が知らないレイジについて語ることができる貴重な人物だ。
 この機を逃す手はない。
 「ホセ、お前レイジがなんで東京プリズンに来たか知ってるか」
 真剣な顔で、慎重な口調で、単刀直入に聞く。付き合いの長いホセならレイジが東京プリズンに来た経緯について何か知ってるかもしれない。サーシャの身の上話をぺらぺらしゃべったんだから、ちょっとつつけばレイジの生い立ちだってぺらぺらしゃべりだすはずだ。
 しかし予想を裏切り、返答は冴えないものだった。
 「レイジくんの入所理由ですか?さあ、詳しいことは存じ上げません。レイジくんは吾輩が来た頃には既におりましたし、東西南北トップではヨンイルくんに続く古株ですしねえ」 
 「使えねえな」
 舌打ち。態度が悪いのはあてが外れて苛立ってる証拠。正解に近付いたと思ったらまた振りだしだ、俺はいつになったらレイジの過去の全貌を解き明かすことができる、本当のレイジに辿り着くことができる?
 落胆した俺に気を遣ったのか、場をとりなすような笑顔でホセが付け足す。
 「お役に立てるかどうかわかりませんが、以前レイジくんがこうおっしゃってました。自分の仕事は人殺しだと」
 「人殺し?」
 肝が冷えた。レイジが言うと冗談も冗談に聞こえない。ぎょっとした俺を安心させるようにホセが微笑みかける。
 「嘘か誠か、子供の時から人殺しが仕事だったそうですよ。本でも人を殺せるようになったのは子供時代の訓練の賜物だとか……」
 淡々と話すホセの声が遠のき、ベッドに腰掛けて過去を語るレイジの横顔が脳裏に甦る。胸元の十字架をまさぐり、懐かしげな目をし、口元には微笑を湛え。作り笑いにしちゃ自然すぎる笑顔で、悲惨すぎる過去を語るレイジに胸が絞め付けられる。真っ暗闇の部屋に外から鍵かけられて放りこまれて、銃声あてなきゃ飯も貰えずに飢え死ぬだけで、寂しくてひもじくて恐ろしくて、俺の想像を遥かに絶する地獄の日々。
 俺なんかには、到底耐えられない日々。
 「訓練って何の訓練だよ、わかんねーよ。誰がレイジにそんなことやらせてんだよ!」
 体の奥底から咆哮の衝動が湧き上がり、気付けば大声をあげていた。それでもまだおさまらず、激情に任せてコンクリの地面をこぶしで殴り付ける。なんだってレイジがそんな目に遭わなきゃならない、理由はなんだ?訓練ってなんだよそりゃくそったれ、ガキに飯も食わせず糞尿垂れ流しの小部屋に放りこんで偉そうになにが訓練だよ馬鹿野郎、レイジもそれで納得すんじゃねえよ、笑うなよ、怒れよ。怒っていいんだよ、それだけの目に遭ったんだから。ちゃんと怒る権利があるんだよ、こぶしを振り上げて蹴飛ばして絶叫してキレて暴れていいんだよ!
 笑うなよ。
 普通の人間なら笑うところじゃない、泣くところだ。怒るところだ。そうだろ?俺、間違ったこと言ってないだろ。なんでレイジは泣かないんだ、怒らないんだ、笑ってるんだ?俺ならそうする、俺をそんな目に遭わせたヤツのこと殺したいほど憎悪してはらわた煮えくり返るほどの怒りをおぼえる。八つ裂きにしたい、首を絞めたい、肉片にしたい、頭をかち割って脳味噌ぶちまけたい、生きながら臓物ひっぱりだして犬に食わせてやりたい、豚の餌にしてやりたい。殺意を抱いて当然だ、それが「あたりまえ」なんだ。
 レイジは「あたりまえ」じゃない。普通とは、俺とはちがう?
 「なんで笑えるんだよ、もうわかんねーよ……いっつもへらへらしやがって、なにが本気で冗談なのか一個もわかんねーよ。笑顔しかできないって、そんな人間いるかよ。レイジだってガキの頃は泣いたり怒ったりしたはずなのに、今は笑顔しかできないなんて、だれがそんなふうにしちまったんだよ。畜生」
 おかしい、俺はどうかしてる。頭を抱え込み、うずくまる。レイジのことでむしゃくしゃして、腹が立ってしょうがなくて……馬鹿らしい、俺がレイジの代わりに激怒して殺意をおぼえてどうなるんだ。レイジをそんな目に遭わせたヤツを殺したくても、レイジの過去がわからないんじゃどうしようもない。俺には誰がレイジにそんな酷いことしたのか、それさえわからないのだ。
 俺には何もできない。畜生、ちくしょう。
 「……泣いてます?」
 「……泣いてねーよ、腹が立ってるんだ」 
 目は充血していた。涙腺が焼き切れそうだ。怒りが暴走して頭がおかしくなりそうだ。なにやってんだ俺、レイジ本人がどうでもいいやって笑ってることでこんなにムキになって取り乱して恥ずかしい。
 でも、俺にはどうでもよくない。見なかったふりなんかできない、聞かなかったふりなんかできない大事なことだ。俺まで「どうでもいい」で済ましちまったらレイジの過去が報われない。
 どうでもよくなんかない。どうでもいいことなんか、世の中にない。
 瞼が真っ赤になるまでこぶしで目を拭う俺の隣でホセが立ちあがる。おもむろに立ち上がったホセが、肩のタオルに手をかけて顎をしゃくる。
 「立ちなさい、ロンくん」
 威圧的な声音でホセに促され、不承不承腰を上げる。どこかでドリブルの音が連続。俺の目の届かない中庭のどこかでレイジが鍵屋崎を相手にバスケをやってるんだろう。人の気も知らずにあの暇人め……いや、鍵屋崎を含めりゃ暇人どもか。
 俺と対峙したホセが、スッと黒縁メガネを外す。中庭を走っても乱れなかった七三分けの下、秀でた額と人のよさげな眉と柔和な目。顔のパーツはどれも変わりないのに、メガネをとっただけでがらりと印象が変わる。
 なにをやらせる気だ?
 不審げな俺をよそに、メガネを尻ポケットにしまったホセが正面を向く。柔和な温顔から精悍な顔つきへと変化を遂げたホセが、肩のタオルを握り締め、音吐朗々と宣言。
 「五日間の特訓の成果を見せてください」
 丁寧な物言いとは裏腹にホセの目には獰猛な闘志が漲り、四肢の端々まで精気が通った。メガネをとったホセはまるで別人だ。ホセの気迫に押されがちに、緊張の面持ちで身構える。ボクシングの基礎はホセに習った。足を開き、腰を落とし、重心を安定。右こぶしを前に、左こぶしを胸に引き付けたにわか仕込みのファイティングポーズ。ホセもおんなじポーズをとったが、年季が違うだけありさすがに決まってる。
 「なーんちゃって」
 ずっこけた。
 照れ隠しに頭を掻きながらファイティングポーズを解いたホセがのほほんと笑う。
 「今のはほんのお茶目、ロンくんの緊張をほぐそうという微笑ましい試みです。だいたい吾輩とまともにやりあったらロンくん死にますよ、友人をこぶしで撲殺なんて血なまぐさい友情の終焉はこりごりです。よろしいですか?」
 そこで一呼吸おき、表情を引き締めてホセが顔を上げる。仕切り直し、今度こそ本番。タオルの端をぐっと掴んだホセが、余裕の微笑を湛えて宣言する。
 「今からこのタオルを投げます。制限時間はこのタオルが落ちるまで、吾輩のパンチを一発もうけず見事かわしきってください。吾輩のパンチから逃げ切ったら合格、まともに受けてしまったら不合格」
 「そんなんでいいの?」
 拍子抜けした。てっきり正面からやりあうものとばかり思ってたのに、張り合いがない。少し残念だ。俺の声が不服げに聞こえたのか、微笑から苦笑へと表情を切り替えたホセが「ではいきますよ」と首の後ろからタオルを引きぬき、そして。
 青空高く、日の光を眩く反射し、タオルが舞いあがった。
 空高く浮上したタオルに反射的に目を奪われた俺の前髪が風圧に舞い上がる。突然のことで何がなんだかわからなかったが、半歩後退したのは幸いにして反射神経に恵まれてたから。1秒、いや、0.5秒でも遅ければ俺の顔面は鉄拳で抉られて鼻骨が粉砕されていた。 
 「!」
 目の前にホセがいた。 
 いつのまに肉薄したんだか全然気付かなかった。タオルに目を奪われた一瞬の隙にでたらめなバネで地面を跳躍したんだろう。間一髪、僥倖に恵まれて最初の攻撃はしのいだものの楽観できない。前髪を掠めたこぶしの速度は冷や汗もので、まともに食らったら最後俺の顔は足の下のビスケットみたいに破壊される。
 「ちっ、」
 鋭く舌打ち、ホセから少しでも距離をとろうと後退するが間合いを抜けることができず二撃目が来る。宙を擦過して肌にびりびりくる風圧を巻き起こした右こぶしが再び顔面に迫る。
 懲りずに正面から来やがった。馬鹿にすんなよ、と不敵にほくそ笑んで首を横に倒せば、最前まで顔があった位置をこぶしが通りぬける。
 やった、と安堵したのも束の間。顔面を狙ったこぶしはフェイント、獲物にとびかかる肉食獣の迅速さで懐にとびこんだホセが左こぶしを鳩尾に叩きこまんとする。本当の狙いはこっちか!
 「卑怯だぞ両刀使い!」
 「人聞き悪いです、終末の日が訪れるまでワイフ一筋が吾輩の信念!」
 「週末まで!?一週間しか持たねーのかよっ」 
 俺の言葉がホセに火をつけたようだ。口は災いのもと、って一体何度痛感したら気が済むんだよ俺!?タオルの滞空時間はあと何秒だとかのんきに上見上げて確認する暇はない、殺気のオーラを纏った鉄拳がすさまじい速さで顔やら脇腹を掠めてぞっと毛穴が縮む。脇腹を掠っただけで微電流の刺激が通った、まともに食らったら内臓損傷で吐血くらいはするんじゃなかろうか。ホセのこぶしは武器じゃない、凶器だ。今ならわかる、ホセが素手で五人殺したのは誇張された作り話でもなんでもないありのままの事実だ。
 怖い。このままじゃ、ホセに殴り殺されちまう。
 頭を屈め姿勢を低め、こめかみぎりぎりの距離でこぶしをやり過ごせば脳震盪を起こしそうになる。弾丸が至近距離を抜けるとまれに脳震盪を起こすことがあるという、あれとおなじ原理か。人体の限界を超越してやがる。
 「夫婦喧嘩も命がけだな!」
 「吾輩がワイフに手を上げるわけないじゃないですか、愛妻家を舐めないでください!」
 俺の減らず口は死ぬまで治りそうにない。この期に及んでホセを逆上させてどうするんだ、絶体絶命の窮地に追い込まれただけじゃないか。何とかすれすれでこぶしをよけてきたが、それも限界だ。そろそろ体力が尽きかけてる。ただこぶしをかわすだけで疲労困憊だなんて情けないが、ホセの移動速度は尋常じゃない。こぶしを見極める暇など与えられず次から次へと猛攻を仕掛けてくるから視覚を頼らず勘でよけるしかない。
 考えるな、感じろ。目で見るな、肌で感じろ。
 肉眼で捕らえるのは不可能だ、視覚情報が脳に伝達されるまでの一瞬の遅れが命取りだ。右に左に前に後ろに、腕の軌道を読んでめまぐるしく移動。顎先から滴った汗が地面に落ちるまでのほんの一瞬でホセが距離を詰め、殺るか殺られるかの攻防戦を展開する。集中力が限界に達してこめかみの神経が焦げ付く。びびったら負けだ、びびるんじゃない。そう自分に言い聞かせ、しっかり足腰を踏ん張ってその場にとどまり―
 ホセが。
 ホセが、目と鼻の先に出現した。 
 「覚悟はよろしいですか」
 敵への情けなど一片たりとも持ち合わせない冷酷な声でホセが言い、こぶしが顔面へー
 殺られる。
 固く固く目を閉じ、強く強く手を握り、顔面を襲う衝撃を覚悟する。が、いつまでたっても衝撃は訪れず、俺の顔面は原形をとどめたまま。鼻も顎も歯もなにひとつ欠けてない。
 おそるおそる目をこじ開ければ、鼻の先端でこぶしが停止していた。腰が抜け、その場にへたりこんだ俺の膝の上に真っ白いタオルがのっかっていた。ふわりと落下したタオルを一瞥、こぶしを引っ込めたホセがさっぱりした顔で笑う。
 「ちょっとからいですが、合格点をあげましょう」
 「………ごうかくだあ?」
 放心状態でホセの言葉を反芻する。今合格ってぬかしやがったのかこのラテン七三分け黒縁メガネは、人を撲殺未遂して何様のつもりだ。ああそうか、鬼コーチ様さまか。
 安堵のあまり腰が抜け、しばらくその場から立てなかった。どうにかこうにか全部のパンチをしのぎきった。俺の反射神経と五日間の特訓成果と多分に僥倖があってこそだ。試しに頬に触れてみれば火傷しそうに火照ったかすり傷ができていた。
 ぞっとした。
 「……レイジがおまえのことバーサーカーって呼んだのは、そのまんまの意味だったんだな」
 憎まれ口にも気合が入らない。お情けで合格点を貰えたとはいえ、ホセのこぶしの威力のまえじゃ負け犬の遠吠え。バーサーカー、狂戦士。ホセにはぴったりの二つ名だ。   
 「吾輩のパンチを全部よけられたのなら次の試合も心配要りません、勝利を信じましょう。吾輩このホセが五日間徹底的に地獄の特訓メニューを手ほどきしたのです、これで負けたら拳骨ぐりぐりの刑です」
 「お前にやられたら脳挫傷で無難に死ぬ」
 黒縁メガネをかけ直したホセが、両手をこぶしにして虚空で回す。ため息をつき、ようやく立ち上がった俺になまぬるい眼差しを投げてホセが言う。
 「レイジくんに報告してあげなさい、ホセの特訓から無事生還したと。吾輩のパンチをすべてよけきったと知れば驚きますよ、きっと」
 レイジが喜ぶ顔がまざまざと脳裏に浮かび、俺はそっぽを向いた。
 「……気が向いたらな」 
 やっぱり俺は、レイジの笑顔を疑いたくない。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051111002608 | 編集

 シャワーは二日に一度と東京プリズンの規則で決まってる。
 今日は二日に一度のシャワー日。ホセの特訓で汗をかいたからシャワーは有り難い。強制労働終了後のラッシュに巻きこまれないよう早めの時間にとっとと行って戻ってきたらレイジがいた。
 気まずい。
 なにも気まずくなる必要はないんだがレイジの過去を聞いてから顔を合わせづらく、ここ何日かというもの俺はずっとレイジを避けまくってた。昨日の夜なんかふざけてキスしようとしたレイジを「近付くな」と突き飛ばしちまった。レイジが俺のことからかうのには慣れていて、あの程度でむきになるなんてらしくない。東京プリズンで生活するには我慢が肝要なのに。  
 今日、ホセと話して少し吹っ切れた。レイジの過去をぐだぐだ気に病んでても埒が明かない、レイジの笑顔を疑い出したらきりがない。疑心暗鬼に苛まれてこれまでどおりレイジと付き合えなくなるのはごめんだ。レイジは馬鹿で尻軽で無節操な女たらしだけど結構いいやつで、俺のことを親身に気にかけてくれる大事なダチだ。こんなこっぱずかしい台詞とても本人にゃ面と向かって言えないけど、でも俺はレイジが嫌いじゃない。嫌いになりたくない。鼻歌まじりにサーシャの背中を切り刻む残忍な本性がレイジに隠されててもびびっちゃいけない、ダチにびびったらおしまいだ。
 鉄扉が閉じる音がやけに耳にこびりついた。鉄扉の震動が壁に伝わり、鈍い残響が空気を震わす。レイジは自分のベッドに腰掛けて本を読んでいたが、扉が閉まる音に反応して顔を上げた。本を閉じ、脇におき、「よお」と親しげに笑いかける。気安げな笑顔。この笑顔が嘘なんてオチ、あってたまるか。
 「なに読んでたんだ」
 唾を嚥下し、房の中へ歩み入りながらできるだけさりげなくレイジに声をかける。シャワーを浴びた直後のせいで体は火照っていた。髪からはまだ水滴が滴ってる。不安をごまかすためにしっとり湿った髪に意味なく触れ、撫で付ける。その足で自分のベッドには帰らず、レイジの正面に立つ。レイジなんか怖くないと他ならぬ自分に証明するために、レイジを怖がる必要なんかこれっぽっちもないと自分にわからせるために。大丈夫、普通に話ができる。今までどおり、これまでどおり、レイジと普通に話ができる。警戒しなくても緊張しなくてもいいんだ、相手はレイジだ、警戒したり緊張する必要がどこにある?
 「へミングウェイの短編集。お前も読む?あとで貸してやるよ」
 「要らない。漫画しか読まない主義だ」
 「読まず嫌いは人生損するぜ。殺し屋の話とかおもしろいのに」 
 『殺し屋の話』
 シャツの下で心臓が跳ねる。自分から振ったくせに話題に乗ってこないつれない俺に、レイジは軽く肩を竦めた。殺し屋、レイジの仕事は人殺し。それは殺し屋ということか、レイジはむかしだれかに命令されて人を殺してたのか?ガキの頃からずっと?糞まみれの真っ暗闇に何日も何十日も閉じ込められ聴覚を高める訓練は、効率良く人を殺すため、後天的に五感を磨く訓練だったのか?
 「……鍵屋崎も本好きだけど、お前もいい勝負だな。寝る読む食う以外やることねーの」
 「殺る」
 「引く、そのオチ」
 冗談のつもりが冗談に聞こえない。本を片手に持ったレイジがちらりと俺を見上げる。意味ありげな目つきが気になり、「なんだよ」と眉をひそめれば、俺の注意を引いたことに満足したレイジがしてやったりと微笑する。
 「ロン気付いてた?鍵屋崎が俺らを低脳よばわりしなくなったの」
 「え?」 
 ……言われてみれば、たしかに。ここ最近鍵屋崎に面と向かって低脳呼ばわりされてない。サムライはもとより俺とレイジ、この三人に対してはどういう心境の変化か低脳呼ばわりを控えるようになった。ベッドに腰掛け、優雅に長い足を床に投げたレイジが断言する。
 「低脳から凡人にグレードアップしたんだ」
 「グレードアップって言うのか、それよ」
 「こまかいこと気にすんな、鍵屋崎が俺たちにも心許し始めたって証拠じゃねえか」
 「心許し始めてるふうには見えねーけど、初めて会った頃よかマシになったな」
 以前の鍵屋崎なら俺が1メートル範囲内に接近しただけで黴菌にでも感染したような拒絶反応を示しただろうが、今は品よく眉をひそて控えめに不快感を表明するだけだ……いや、実はあんまり変わってないか。
 まあ、近くに寄っても追っ払われないだけ有り難い。鍵屋崎もサムライの尽力で潔癖症が改善され、東京プリズンの悪環境に馴染んできたんだろう。そう結論してひとり頷いてれば、レイジが気まぐれに話題を変える。
 「そっちはどうだ?ホセのしごきに耐えてペア戦デビュー果たせそうか」
 「ああ、順調だ。最後の仕上げ、バーサーカーホセのパンチ全部よけきったぜ」
 虚空にこぶしを打って今日の成果を報告する。声から得意げな響きを汲み取ったレイジが「マジで?」と目を見張り大袈裟に驚く。ホセが言ったとおり、レイジは大層喜んでくれた。
 「すげえじゃんロン、たった五日で大進歩だ。成長期だね、気のせいか背も伸びたんじゃない?あ、シャワー浴びたばっかで髪の毛立ってるだけか」
 「汚い手でさわんな馬鹿。背だって0.2ミリぐらい伸びてんだよたぶん」
 発作的にベッドから腰を上げたレイジが嬉々として叫び、俺の頭の上にてのひらを通過させる。頭の上を往復するレイジの手を乱暴に払い落とし、可愛げないと評判の三白眼で睨みを利かす。このやりとりも随分と久しぶりだ。レイジにからかわれるのは不愉快だけど、心のどこかじゃレイジと馬鹿やる居心地のよさも感じてる。
 俺にホセを紹介したレイジは、この結果に大満足。ホセのパンチを無傷でよけきれたのは俺が思った以上の偉業らしく、語彙が少ないレイジは「すげえすげえ」を馬鹿みたいに連発してはしゃぎまくってた。いや、そんなに喜ぶなよ恥ずかしいと俺の方が幾分冷静さを取り戻して遠慮したくなる。
 「五日で成長したな、ロン。次のペア戦もばっちりだ、応援してるぜ」
 「ああ、凱なんか一発でのしてやる。応援席で指くわえて見てろよレイジ、てめえの出番なんかねえぞ」
 「おっと、背は小さいくせにでかくでたね」
 「殺すぞ。ホセの特訓地獄から生還した俺は怖い物なし、凱だってお前だって屁じゃねーよ」
 レイジの胸を指でつついて挑発したのは、今の自分が以前の自分とちがう確信があったからだ。この五日間、情け容赦ない鬼コーチに徹底的にしごかれた今の俺には怖い物なんかない。レイジの笑顔も悲惨な過去もちゃんと受け止めてやる。決意を新たに毅然とレイジと向き合えば、いたずらっぽい笑みを口元に添え、さりげなくレイジが提案。
 「試してやろうか?」
 「?」
 「お前がどんだけ強くなったのか王様が試してやる、って言ってんだ。怖いならやめとくか」
 「はっ、笑えるぜ。お前みたいにへらへら笑ってる腰抜けたまなし野郎にびびっちゃおしまいだ、都下最大スラム池袋育ちを甘く見んなよフィリピ―ナ」
 腰に手をあてて啖呵を切れば、俺の心意気に満足したレイジが「よし」と膝の屈伸運動を始める。俺のデビュー戦を間近に控えたほんの準備運動、俺の力量を見極めるテスト。喧嘩っ早くて負けず嫌いな俺の性格を見越して喧嘩吹っかけてきたレイジにびびるなんて冗談じゃねえ、俺のこの五日間を無駄にしないためにも乗せられたふりで乗ってやろうじゃんか。売られた喧嘩は買う、相手がレイジだろうが関係ない。東京プリズン最強の王様自ら揉んでくれるってんなら有り難く挑戦受けてやる、俺自身自分がどれだけ強くなったのかはっきり目に見える形で結果が欲しい、どんだけ強くなったのか知りたくて試したくて体がうずうずしてる。
 体が疼いて血が騒いで目の前に相手がいるなら、タマ抜かれた犬みたいに逃げ隠れする理由はどこにもない。レイジを凱だと思って、東京プリズン入所以来ためにためこんだ積年の恨みを晴らしてやる。 
 やる気満々の俺のまえでサッと両手を挙げ、レイジがルールを説明する。
 「簡単なテストだ。俺は一切手だししない、お前はどうぞお好きなように。パンチでも蹴りでも頭突きでも何でもこい、王様の度量で受け止めてやる」
 「手加減してくれるってか?有り難いねくそったれ、遠慮せずにかかってこいよ」
 「遠慮?ちがう、保険だよ。お前を殺さないための保険」
 なめやがって。
 こめかみの血管が熱く膨張する。余裕かましてられんのも今のうちだ。レイジは腰に手をついてにやにや笑ってる。「さあ、いっちょ揉んでやるか」という大胆不敵なポーズにはらわた煮えくりかえる。鼻歌まじりにサーシャの背中を切り刻んだ?だからどうした、全然怖くねえ。今レイジはナイフを持ってない、武器なんか何も身に付けてない無防備な状態を晒して涼しげなツラに意地でも一発お見舞いしてやらなきゃ腹の虫がおさまらねえ。
 「本気だしてこいよ」
 裸電球の下、房の真ん中に立ったレイジが不敵に笑う。くそむかつく、今まで心配させられたぶん倍の倍にして返してやる。コンクリ壁に四囲を塞がれた狭苦しく息苦しい房で、レイジは奥の壁を背にモデル立ち、俺は扉を背に身構える。均整のとれた優美な体躯に垢染みた囚人服を纏い、裸電球の光で干した藁に似た茶髪を輝かせ、耳朶に連ねたピアスを鈍くきらめかせ、レイジが怪しく笑う。右腕を虚空にのばし、端から順順に指を折る。
 『Come on baby』
 「fackingがほざくな!」
 十字架へのキスを合図に床を跳躍して加速、レイジに接近。ファックな王様は余裕の笑みを浮かべて右足を軸に半回転、がむしゃらに突っ込んだ俺がたたらを踏むさまを嘲笑う。くそ憎らしい。足腰を踏ん張りその場に踏み止まり体勢を立て直すが早くレイジの鳩尾にこぶしをくりだす。ホセ仕込みのこぶしの威力は絶大、まともに食らえばその場に膝を折るはず。
 「!ちっ、」
 舌打ち。鳩尾を狙ったこぶしはラクにかわされた。ステップを踏んで後退したレイジが十字架の鎖を虚空にそよがせて言う。
 「その程度かよ。ガキのままごと遊びじゃねえんだぜ、退屈させんなよ」
 ……殺す。絶対殺す。
 こぶしを握り固め再びレイジに突進、右頬めがけてこぶしを放つ。「おっと」と呟いたレイジが首を倒してこぶしをかわし、風圧におくれ毛がそよぐ。レイジが首にかけた十字架が蛍光灯の光を反射して眩しい。監視塔でサーシャが敗北を喫したのは十字架の光に目を射られて動きに一瞬の遅滞が生じたからだ。レイジの胸元をまともに見るな、十字架を直視するな。裸電球に輝く十字架に目を細め、腕を戻すより早く片足を振り上げる。
 「!」
 レイジの太股を蹴ろうとして失敗。レイジはおそろしく勘がいい、パンチだろうが蹴りだろうが呼吸のリズムでたちどころに読まれてしまう。野郎、音痴なくせに音感がいいなんて反則だと歯噛みしつつ焦りを隠せずレイジの隙をさがす。
 隙がない。
 傍目にはだらしなく突っ立ってるようにしか見えないのに、壁を背に腰に手をおいたラクな姿勢で寛いでるようにしか見えないのに、どこにも隙がない。そんな馬鹿な、隙がない人間なんているもんか、さがせばきっとあるはずだ。集中力を極限まで高めてレイジの隙をさがす、レイジの隙、隙―
 畜生、見つからない。こんなに焦って血走った目でさがしてるのに何も見つからない。あたりまえだ、そんなものはなからないのだから。隙を見せたらおしまいだ、一瞬の隙が命取りだとレイジはだれよりもよく知ってるに違いない。だから隙がない。無防備にリラックスしたポーズをとりながら四肢の端々まで殺気を循環させ、口元には薄笑いを浮かべてるにもかかわらず双眸には冷徹な判断力を宿し。
 「っ、」
 逃げるな、しっかりしろ俺、ここで引いたら負けだ。レイジの目をまともに見るな、深淵にとりこまれる。頭の片隅の理性が脳裏で警鐘を鳴らす。こいつはやばいやばいやばい……危険だ怪物だ逃げろ逃げるんだ馬鹿!馬鹿はどっちだ、いまさら逃げられるかやめられるかレイジ相手にびびってたまるか!逃げ腰の自分を叱咤し、右左正面へとめちゃくちゃにこぶしを放つ。こぶしだけじゃない、脛に膝に太股に鳩尾に蹴りをくれようと交互に足を振り上げる。
 なんで当たらないんだ。もう十分は経過してる。一発くらい当たっても、掠ってもいいだろ?
 焦りが混乱を招き恐慌状態に陥る。息が苦しい、肺が干上がりそうだ。俺が一方的に動き回って体力消耗してるだけで、レイジは暇そうに突っ立ってるだけ。実力差は歴然、所詮俺じゃレイジの足元にも及ばないのか?五日間血反吐吐く思いで地獄の特訓に耐えてもレイジにかかりゃ赤子同然、本気だす価値もない相手なのか?
 くそ。
 諦めてたまるか、引いてたまるか。俺だって腕に覚えがある、東京プリズンにくる前はさんざん暴れた前科持ちだ。レイジに守られて庇われて凱になめられるのはこりごりだ、俺も強くなったんだって、俺もお前の相棒を名乗れるくらい強くなったんだってレイジに証明してやる。
 レイジに翻弄され、息を切らして駆けずりまわる。頭を低め首を竦め肩を逸らし猫みたいに身を捻り、蹴りもこぶしも全部回避。レイジの反射神経は尋常じゃない、ほんのちょっとした息遣いの乱れで次の攻撃を読んで退避する。苦しい、息が限界だ。シャツの内側も外側も汗でぐっしょりぬれてる。シャワーが台無しじゃねえか。もう降参しちまいたい……いや、まだまだだ。まだイケる、倒れるまでイケる。根性で弱音をねじ伏せ姿勢を低めて床を跳躍、レイジに何度目かの突進―
 耳朶を歌が掠めた。
 レイジの鳩尾にこぶしを叩きこもうとした俺の耳朶を掠めたのは、へたな鼻歌。甘く掠れた声の独特の響き自体は決して悪くないのに音痴なせいで台無しの歌声が低く、かすかに流れてる。
 俺のこぶしをよけながら、蹴りをかわしながら、レイジはずっと鼻歌を口ずさんでいた。
 サーシャの背中を切り刻んだ時に唄っていた、夢の中で唄っていた英語の歌。
 ストレンジフルーツ。
 「……ふざけやがって、」
 理性が一片残らず蒸発した。もう手段は選ばない、本気で全力でレイジに挑んで吠え面かかせてやる。ひとおちょくるのも大概にしろ、のんきに歌なんか唄いやがって。鼻歌まじりに手ほどきされるやつの身にもなってみろ。
 心臓の鼓動が高鳴り、全身の血液が燃え滾る。体が発火しそうだ。レイジに対する怒りが爆発し、目の前が真っ赤に染まり、奇声を発してレイジに突っ込む。大きく腕を振りかぶればレイジが「その手にはのらねえよ」といわんばかりにふっと身をかわす。

 隙ができた。
 虎視眈々と、俺が狙っていた隙が。

 自慢の瞬発力を発揮し、迅速にレイジの背後に回りこむ。パンチはフェイント、パンチをかわした直後に生じた隙につけこんで背後をとった俺は形勢逆転の勝機に歓喜し、レイジの後頭部に手を伸ばす。 
 「!!」
 襟足で一本に結わえた後ろ髪をおもいきり掴む。手加減はしない、頭皮から剥がれんばかりに容赦なくおもいきり力をこめて。後ろ髪を引かれたレイジの後頭部が仰け反り、無理矢理振り向かされたレイジの顔面めがけて会心の一撃を見舞おうとし……
 その瞬間、戦慄が走る。 

 虚無。
 これは人間の目じゃない、心ない怪物の目だ。

 後ろ髪を掴まれ、勢い良く仰け反ったレイジと一瞬目が合う。なんて目だ。ぞっとする。人を人と見てない冷酷な目、なんて綺麗な目だ、吸いこまれる―
 


 衝撃。



 ………か、はっ」

 頭が真っ白になった。
 何が起きたのか理解できなかった。理解できないまま、鳩尾を襲った衝撃に吹っ飛ばされ床に叩き付けられて背骨が軋む。蹴られた腹を無意識に庇う動作で理解した、体ごと振り返りざまレイジに蹴られたと。
 まさか。レイジが俺を、蹴った?
 何メートルくらい吹っ飛んだんだろう、1メートル以上は吹っ飛んだ気がする。痛い、なんてもんじゃない。つま先で鳩尾を抉られ、胃袋が圧迫され、その場に手をついて嘔吐する。胃の内容物全部をぶちまけてもまだ嘔吐感が食道をせりあがって口腔じゃ唾液と胃液がまじりあって、口の端から粘着の糸を引いた。
 痛い。目が眩む。額に脂汗が滲んで四肢が痙攣する。肘をついて上体を起こそうとして吐瀉物にすべり、みじめに突っ伏す。自分が吐いた物の海にうずくまり、片腕で鳩尾を庇い激痛に耐える。
 死んほうがマシな激痛って本当にあるんだ。今まで食らった誰のどんな蹴りより、レイジの蹴りがいちばん痛かった。お袋よりお袋の客より敵チームのガキより凱より誰より、レイジの蹴りがいちばん的確に急所を抉って意識が吹っ飛ぶ激痛を与えた。
 咳をすれば腹筋が痛む。ふと気付けば頬がぬれていた。激痛に涙腺が緩み、生理的な涙が後から後からあふれてくる。痛い、痛すぎてすぐさま立ち上がれない。床に手をついて上体を起こしかけては吐瀉物にすべってぶざまに突っ伏すくりかえしで、いまだに体勢を直せない。
 なんでこんなことに?
 そりゃ卑怯な手は使ったけど、手は出さねえって約束したじゃんか。
 激痛に思考が散らされ頭が錯乱し、本能的恐怖に理性が駆逐される。ガキの頃から馴染んだ身近な感情、言葉の通じない人間に対する恐怖と嫌悪と服従心。理屈が通じない強者に屈従を強いられる屈辱。
 
 唐突に、頭上に影がさした。     

 眼前にレイジがいた。レイジの表情は裸電球の逆光で見えなかった。闇に沈んだレイジの顔を見上げ、芋虫が這うように必死にあとずさる。
 レイジが怖い。
 あの目は怪物の目だ。レイジは怪物に戻った、俺のせいだ、だから俺を殺す。
 『暴君やな、アレは』
 サーシャの背中に刻まれた無数の傷痕。残忍きわまる敗北者の烙印。
 だれがこんな恐ろしいことを。
 だれがこんな残酷なことを。
 『レイジくんですよ』
 「―っ、あ」
 ヨンイルはレイジが暴君だと、言葉の通じない暴君だとそう言った。ホセも肯定した。リョウはなんて言った?
 『むかしのレイジはね、怖かった。今の比じゃない』
 『レイジはサーシャからナイフを借りた。当時のサーシャは今ほど荒んでなかったから公平を期して敵に武器を渡した。それが仇になったんだね、戦いは二十分でカタがついた。サーシャは疲労困憊でその場に倒れ伏して、もう誰がどう見てもレイジの勝利は確実で、でも王様は容赦しなかった。サーシャの背中を踏み付けてナイフを振り上げて』
 振り上げて、それからどうした?……刺したんだ、切り刻んだ。敗北したサーシャに一片の慈悲もかけず、同情もせず、鼻歌まじりに笑いながら。
 俺も、そうなる?
 そうだ抵抗しなきゃやられる、無抵抗でいたらやられちまう。いつも今までもそうだった、外でもここでもずっとそうだった。やらなきゃやられる殺らなきゃ殺られるいやだ死にたくない死んでたまるか!!
 吐瀉物につかり、片腕を腹に回し、芋虫が這うように床を逃げながら服の胸元をまさぐり、震える指先で安全ピンを毟り取る。誰も助けてくれない、なら自分でやるしかない。痛い、痛すぎて気がおかしくなりそうだ。口内に苦い胃液がたまり、猛烈な吐き気がこみあげてくる。抵抗しなきゃ殺される。一歩間違えばさっきの蹴りで胃袋が破裂してた。
 眩暈がする、視界が歪む。ああ、喉が焼ける……
 レイジがすぐそこまで近付いてた。表情は翳ってわからないが、暗闇に沈んだレイジの顔が夢の中のガキと重なり鼻歌の幻聴が聞こえて。
 レイジがゆっくりと動き、俺の方へ、首へと手をのばす。
 夢の中のガキがそうしたように、俺の頚骨を折ろうと首に手をかけて―
 いやだ殺されるのはいやだこんな殺され方はいやだ近付くなさわるなあっちへいけ、頼むこっちにくるなお願いだから!! 
 恐怖で頭が真っ白になり、衝動が抑制できずに奇声を発し、レイジの手の甲を容赦なく叩き落とす。 
 「!っ、」
 翳った口元から苦痛のうめきが漏れる。レイジの手の甲に血が滲む、俺がおもいきり安全ピンでひっかいた痕。安全ピンを握り締めた指が小刻みに震え、やがてその震えは全身に広がってゆく。喉が乾き心臓が鼓動を打ち呼吸が浅く速くなり、頭からその場に突っ伏す。
 頭をたれた負け犬のように、神様に祈りを捧げるみたいに、プライドをなげうち許しを乞い。
 
 「殺さないでくれっ……」

 咳のしすぎで喉が嗄れ、かすれた声しかでなかった。が、レイジの動きを止めるには十分だった。手が腕が肩が体が、全身ががたがた震えていた。汗でぬめった手に安全ピンをしっかり握り締め、決してレイジの顔は見ずに。
 俺にはレイジの足元しか見えなかった。呆然と立ち竦む、その足元しか。
 その足元に、点々と血が落ちた。レイジの手の甲から滴り落ちた、あざやかな血。
 ああ。レイジにもやっぱり、赤い血が流れてるのか。
 「…………」
 レイジの無反応が不安になり、ゆっくり、ゆっくりと顔をあげてみる。レイジは目と鼻の先にいた。俺の方に片手をさしのべた間抜けなポーズのまま、手の甲から滴り落ちる血もそのままに立ち尽くしている。
 「……あは、はは」
 レイジの口から乾いた笑い声がもれた。
 「ごめん、俺やっぱ手加減へただ。ついカッときて約束破っちまって、気付いたら蹴りくれてた。相手がロンだってことも頭から吹っ飛んで、マジになった。ごめんロン、本当に。謝って済むことじゃないけど、えっと……」
 誰かに言い訳してるみたいに、誰かに急きたてられてるみたいな早口でレイジが続ける。混乱してわけがわからなくなった子供のように、ただただ必死に、泣きたくなるくらい必死に。
 俺に掴まれることなく虚空にさしのべていた手を引っ込め、レイジが顔を伏せる。
 俺の、レイジの心の揺れに感応したように裸電球が点滅する中、薄暗い房の真ん中でうなだれて繰り返し謝罪する。感情を押し込めた、悲痛な声で。
 「ごめん。もうさわらないから、さわろうとしないから」
 ああ、もうすぐ何かが終わる。
 次の一言で何かが決定的に壊れてしまう。これまで俺とレイジのあいだにあった何かが、跡形もなく。
 俺はただ床にじっと横たわり、恐怖と怯惰が入り混じった顔でレイジを仰いでるしかなかった。鼻水と涙と唾液と吐瀉物で汚れた俺の顔は酷い有り様だろうが、レイジの比じゃない。
 よわよわしく顔を上げたレイジの表情が、裸電球の光に残酷に暴かれる。
 笑いたくないのに無理して笑ってる、それしかできない悲痛な笑顔。
 なにからなにまで完璧すぎて、泣きたくなる笑顔。
 「……怖がらないでくれよ」   
 
 その時初めて気づいた。
 さっきさしだされた手は、俺にとどめをさす手じゃない。
 俺に手を貸して立ちあがらせるための、俺を助けるための手だったのに。

 気付いた時にはなにもかもが手遅れだった。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051110002716 | 編集

 「ほんッま、すまん」
 今、僕はヨンイルに拝み倒されている。
 ヨンイルの隣で気まずげに俯いてるのはつい先日二度と顔を見たくないと宣言したワンフーで、場所は地下停留場の片隅。試合開始まで10分を切り、人で賑わい始めた地下停留場の片隅に僕を引きずり、頭をさげている二人は西棟の囚人。
 ヨンイルとワンフーだ。
 西のトップを任ずるヨンイルは配下の不始末を詫びに地下停留場に降りた僕を拉致拘束、僕が抗議の声をあげても完全無視でワンフーが待つ片隅へと強制連行したわけだ。
 ワンフーが西棟の人間だと、その時初めて知った。
 中央棟地下の売春通りには東京プリズンの四つの棟、東西南北すべてから囚人が集められて客をとらされていたから、隣人がどの棟の人間でもおかしくはないのだが……
 「お前なにひとの背中に隠れとんじゃ、元はといえばお前の悪ふざけが原因で親が頭さげとんやろが。ちィとは反省このドあほ」とヨンイルに頭を小突かれ、僕と正面対峙したワンフーが落ち着きなく視線をさまよわせる。ワンフーの怯えた態度に苛立ち、もはや口をきくのさえバカらしくて無言で回れ右すればすかさずヨンイルが腕を掴む。
 「漫画の読みすぎでインクが付着した汚い手で触れるな、服に染みがつくだろう」
 「なおちゃんどうどう」
 「なにを誤解してるんだか知らないが僕は至って冷静だ。ペア戦当日に余裕を見て地下停留場に降りてみたら突然わけもわからず拉致拘束され強制連行、顔を見るだけで不愉快で反吐が出るスリ師崩れと引き合わされて沈黙を共有する羽目になったからといって腹を立てるわけがない。僕は怒れば即暴力的手段で短絡的解決策をとる貴様らとは違いいついかなるときも冷静沈着な天才なんだ」
 ヨンイルの手を邪険に振りほどき、さらにヨンイルが触れた個所を黴菌にでも感染したようにはたく。黴菌扱いされたヨンイルが苦笑いし、所在なげに立ち尽くしたワンフーへと顎をしゃくる。
 「話はぜんぶこいつから聞いた。本人も悪気はなかったみたいやし今回は俺の顔に免じて許したって、な?このとおり」
 「その顔に免じてというならまずは素顔をさらせ、ゴーグルをしたままよくそんな矛盾した台詞が吐けるな」
 ただの言いがかりだとわかっているがどうにも腹立ちがおさまらない。ワンフーのせいで安田は失職の危機に直面し一晩で目に隈ができるほど憔悴し、辞表を書くまでに追い詰められたのだ。
 それもすべてワンフーが出来心で安田の銃をスッたせいだ。しかも出来心のスリが発覚して処罰されるのをおそれたワンフーが責任逃れに地下停留場に放置したせいで銃は行方知れずとなり、僕とサムライの捜索むなしくいまだ手がかりひとつ得られない。
 それなのに、よくもぬけぬけと顔を出せたものだと今更ながらワンフーの図々しさにあきれる。ワンフーを庇うヨンイルにも反感を持つ。腰に手をあてた尊大なポーズでヨンイルとワンフーとを見比べれば、観念したヨンイルが無造作にゴーグルを押し上げる。
 ゴーグルの下から露出したのは稚気と凄味とを均等に宿した双眸、少年と青年の中間の顔だち。
 僕の指摘に謙虚に応じ、素顔を晒したヨンイルがワンフーを弁護する。
 「堪忍したってやなおちゃん、こいつ病気なんや。ミギ―が寄生しとるんや。外にいるときもここにきてから盗癖治らへんで、西棟でもの消えたら真っ先にワンフー疑えて鉄則ができたくらいや。安田さんの銃パチったんも本人言うとおり魔がさしたんやろ。こいつが売春班落ちしたんも深い理由があってな」
 わざとらしくため息をついたヨンイルが、もぞもぞ身動ぎするワンフーを指さす。
 「某看守とすれちがいざま病気がでて、条件反射でスリ働いてもうたんや。スったんは財布。まあ財布の中には小銭しか入ってなかったから大したことないんやけど、一緒に入ってたモンが問題で……その看守、売春班のガキに女装させた写真持ち歩いとったんや。ナース、セーラー、ワンピース、ボンテージにランジェリー。その女装写真が西のガキどもんあいだに流出して、ワンフーに財布スられた看守はしっしっ、ばっちィこっち寄んなの変態扱い。それに激怒した看守が囚人締め上げて犯人炙り出して、ワンフーを売春班に推薦したんや。独居房送りじゃ気ィ済まんかったんか、自分で復讐するつもりやったんか定かやないけど……」
 赤面したワンフーの肩を叩き、ヨンイルが盛大に笑う。
 「ま、そんなわけで!外の恋人一筋のワンフーは売春班に転落、痔になるまでケツの穴もてあそばれても病気は治らんで手遅れでしたってオチや」
 「僕にワンフーの身の上話を聞かせてどんな反応を期待してるんだ?同情すればいいのか、共感すれば満足か」
 ワンフーのスリの腕は天才的だ、五十嵐からボイラー室の鍵をスッたときの手際良さには脱帽した。ワンフーがいてくれなければボイラー室に拘禁されたロンを助け出せなかった、ワンフーの協力あったからこそ元売春夫一丸となった救出作戦は成功したのだ。その点ではワンフーを見直したが、安田の銃を盗んだ事実が発覚し上がりかけた株が大暴落した。
 今現在安田が失職の危機に直面してるのはすべてワンフーのせいだ。出来心でスッた銃の処分に困ったワンフーが、朝になれば誰かが見つけてくれるだろうと、無責任な考えで現場に放置したせいだ。
 「過ぎたことうだうだ言うてもしゃあないやろ。よっしゃ、こうしよ。子の不始末は親の責任、子の尻拭いは親のつとめ。俺もチャカさがしに乗ったる」
 「君が?」
 「ヨンイルさんが?」
 ワンフーと同時に聞けば、ヨンイルが思案げに腕を組む。
 「銃めっからんと安田のクビは間違いなし。今回の騒ぎは俺の監督不行届きが原因や。俺も一応西の道化なんて仰々しい二つ名もちでアタマ張っとるし、うちの人間がバカやったせいで発砲騒ぎが起きた挙句死人がでよった日には他棟にしめしがつかん。西の人間のケツ拭いもトップの仕事、や」
 「待て、かってに決めるな。たしかに人手が増えれば捜索範囲も広がるし効率もよくなるが、捜査はごく内密に進めなければならない。一歩間違えば安田が職を失う、君の軽はずみな言動がきっかけで西の人間に今回の事件を知られては……」
 「だーいじょうぶやって、まかせとき」
 眉をひそめて難色を示せば、提案者のヨンイルがおおいに乗り気で請け負う。
 「図書室の平和のため東京プリズン平和のため、じっちゃんの名にかけて事件解決したるさかい安心してや。せやけど漫画みたいやなあ、刑務所で銃盗難事件やなんてわくわくするなあ!」
 八重歯を覗かせた活発な笑顔で先走るヨンイルにもう反論する気も失せる。図書室の平和が東京プリズンの平和に優先するのも彼らしいが、本音は後半だろう。漫画と現実の区別がつかない人間はこれだから手におえないと、どうせまた漫画の引用だろうどこかで聞いたフレーズに酔いしれるヨンイルを冷めた目で眺める僕に、おずおずとワンフーが寄ってくる。
 「あの、その……こないだのこと、なんだけど。本当、ごめん」
 「……口先だけの謝罪と猿でもできる反省はよく似ている」
 「……言い訳できねえな、はは。夢の中で凛々にも怒られちまった。恩人の財布に手をだすなんてワンちゃん最低よ、って……あ、ワンちゃんって俺の愛称だけど」
 「のろけはいい、結論を聞きたい」
 照れ隠しに頭を掻いたワンフーを冷ややかに睨めば、深呼吸し顔を引き締め、ワンフーが毅然と前を向く。傷痕が目立つ顔を固く強張らせ、誠実な面持ちで僕と相対し、体の脇でこぶしを握り締めて決意表明。
 「俺にできることあったらなんでも言ってくれ。スッた本人がいまさら何ほざいてんだってかんじだけど、今回の騒ぎは全部俺の責任だ。安田は俺を助けてくれた、俺だけじゃない、タジマに苦しめられた売春班のガキども全員を助けてくれたんだ。こともあろうにその安田に、俺はとんでもないことしちまった。取り返しがつかねえことやっちまった。ヨンイルさんはああ言ってくれたけど、俺がしでかした不始末は俺がきちんとケリつける。お前ら手伝って銃を見つけ出して、ちゃんと頭下げて安田に返す。じゃなきゃ娑婆で凛々にあわす顔がねえ」
 ワンフーの視線の先にはヨンイルがいた。
 ワンフーの感謝の眼差しにも気付かず、「よっしゃ、金田一全巻読んで勉強や!」と息巻いている。
 どうでもいいが、手当たり次第に推理小説を借りて古今東西の名探偵にあやかろうとした僕とヨンイルの思考回路が似ている事実に動揺を隠せない。 
 呼んでもいないヨンイルが興味本位に首を突っ込んだせいで妙な展開になったが、協力者が現れたのは有り難い。僕とサムライだけでは出来ることに限界がある。ワンフーが放置した銃がだれかに持ち去られたのは確実。その誰かが東西南北どの棟の囚人か特定できない現状では、西棟に捜索範囲を広げられるだけでも大進歩だ。
 ヨンイルとワンフーの二人一組には西棟で銃を隠し持ってる者がいないか当たってもらい、僕とサムライは東棟をくまなくさがす。北棟と南棟の囚人が銃を持っていた場合は……またあとで考えよう。
 ヨンイルとワンフーをその場に残し、地下停留場の隅をはなれる。
 とうとうロンと凱の対決日がやってきた。
 ロンと僕が衆人監視のリングで参戦表明してからはや一週間、ロンは今日ペア戦デビューを果たす。試合開始まで10分を切った現在、初陣を切るロンと凱はすでにリング脇に待機してるはず。地下停留場の人ごみを突っ切り、ロンが待つリングへと急ぎながら、めまぐるしく過ぎたこの一週間を回想する。
 この一週間、売春班休止中で体が空いた昼間はレイジに誘われてバスケットボールをし、夜ともなればサムライを助手に地下停留場におりて銃を捜索した。ワンフーが地下停留場に銃を放置してから既に日数が経過し、誰かに持ち去られてるのは確実なのに地下停留場におりたのはそこしか捜す場所を思いつかなかったから。東棟の囚人は皆親殺しの僕を蔑視してるし、まともに事情聴取したところで情報を入手できるはずもなく、鼻で笑われるか邪険に追い払われるだけだ。
 東棟の囚人に全面拒否されては、現場検証に一縷の望みをかけるしかない。
 銃はなくても、銃を持ち去った犯人を示す手がかりが残されてるかもしれない。 
 それをサムライに話したら、
 『推理小説の読みすぎだ』 
 とあきれた顔をされた。まったく失礼な男だ、僕が読んだ推理小説では被害者の大半が死体発見現場に真犯人を示すダイイングメッセージを書き記していたのに……推理小説の犯人もそうなのだから、現実の犯人だってささいな見落としで現場に痕跡を残してそうなものじゃないか。
 僕の考えに間違いがあるはずない、天才に間違いなどあってたまるか。
 僕が現場検証とバスケットボールに費やした一週間、ロンもまた無為に過ごしていたわけではない。詳しくは知らないが、レイジに紹介されたコーチについて猛特訓したらしい。凱戦に臨む意気込みは十分というわけだ。
 ロンとともに参戦表明した僕にとっても他人事ではない。
 今日の第一試合に予定されているのはロン対凱のカードで、それ以降はサムライとレイジが出場すると合意に至った。僕の出番はない。認めたくはないが、今の僕がリングに上がっても勝てる可能性はない。結局また応援席に回されて、ロンやレイジやサムライに指示をとばすことでしかできないのが現状だ。
 しかし、いつかは僕の出番が回ってくる。僕がリングに上がる日がやってくる。
 それは来週かもしれないし再来週かもしれない。レイジとサムライが順当に勝ち進めば来週も再来週も試合が組まれ、僕がリングに上がらざるをえない日が必ずくる。
 その日までにサムライに教えを乞い、自分の身を守る術を学ばなければ。
 決意を新たにリングへ向かう途中、ふと、人だかりができ始めたリング周辺に知人を見つける。
 眼鏡越しの目を細め、そちらを注視。レイジだ。おかしい、何故あんなところにいる? ロンはすでにリング脇に待機してるはず。いつものレイジなら真っ先にロンのところへとんでいってスキンシップ過剰にねぎらうはずなのに、今日は一定の距離をとり、ロンの視界に入らない人ごみに埋もれてる。
 「……」
 そういえば、ここ二日ほどレイジとロンの様子がおかしかった。
 食堂でも一切会話を交わさず、互いに目も合わせようとせず、よそよそしい距離を保ってる。二人の間に何かあったんだろうか?レイジの行動を不審に思い、近付こうとした僕はハッとする。
 レイジの正面に誰かがいる。背の高い銀髪の男だ。灰褐色にくすんでがさついた肌は薬物依存症の特徴。半年前は静脈が透けるほど白い肌をしていたその男は、レイジを憎悪する北の皇帝……ロシア人至上主義の誇大妄想狂で重度の薬物依存症、半年前監視塔にて王様と死闘を演じた人物、超絶的なナイフの使い手。
 サーシャだ。
 サーシャの姿を確認し、不吉な予感に胸が騒ぐ。
 何故サーシャがここに?レイジと何の話をしている?半年前、深夜徘徊中に拉致され巻き込まれた監視塔の死闘を思い出す。
 まさか、半年前の再現をするつもりか?
 地下停留場が血の海になる光景を幻視し、あたりを見まわしサムライを捜す。
 サムライの姿はない。地下停留場におりるまでは一緒だったのだが、ヨンイルにひきずられ片隅に連れていかれて、否応無く離れ離れになってしまった。ロンの試合が始まる頃には戻ってくるだろうが、今彼がどこをうろついてるか皆目見当がつかない。   
 サムライとはぐれた自分の愚かさを呪い、舌打ち。レイジとサーシャの抑止力となる人間が他に思い当たらず、焦りがいや増す。はっきり言おう、ヨンイルはあてにならない。僕はまだヨンイルを信用してない、何故彼のようにふざけた人間が西のトップにおさまってるのか理解に苦しむというのが本音だ。自分が信用できない人間に抑止力の期待ができない以上、サーシャとレイジがぶつかった場合、ふたりを止められる人間はだれもいない。
 ひとり気を揉む僕をよそに、レイジとサーシャがふたり連れだって人ごみを抜ける。
 「?」
 どこへ行くつもりだ、もうすぐ試合が始まるというのに。考えるより先に僕はふたりを尾行していた。あえて理由をさがすなら、サーシャとレイジを二人きりにするのは危険だと本能が警鐘を鳴らしたからだ。
 人ごみに紛れ、ひっそりと通路に吸いこまれたふたりを追う。通路に入った途端に照明が届かず視界が薄暗くなる。天井には一応蛍光灯が取り付けられているのだが、大半が割れ砕けて床や壁に不気味な陰影を投じている。人けのない通路を歩き、やがて角を曲がり、二人の背中が視界から消える。
 いやな予感に急かされ、足を速める。サーシャに促され先に角を曲がったレイジ、レイジに続いて角を曲がったサーシャ。
 試合開始10分前。観客が地下停留場に集中し、だれも目もくれない通路でなにを……
 「デートの約束はしてないはずだけどな」
 レイジの声がした。
 壁から顔を覗かせ、ほそい通路を覗きこむ。蛍光灯が割れ、殆ど光がささない薄暗い通路にふたりはいた。壁に背中を預けたレイジの正面にサーシャが立ち塞がっている。
 レイジは笑っていた。壁に背中を凭せ掛けたポーズで、片手をだらしなくポケットに入れている。
 「懲りない皇帝だな、ボイラー室が立ち入り禁止になりゃ今度は別のところに俺連れこんで……用があんならちゃっちゃとすませてくれよ」
 「その手はなんだ」
 「手?」
 サーシャの視線に促され、手の甲に目を落としたレイジが「ああ」と腑に落ちたように頷く。
 指摘され、初めて気付いた。
 レイジの手の甲に走る赤い線、乾いた血が凝固した痛々しい傷痕。
 「俺の怪我心配してくれたの?見かけによらずやさしいね」
 「どうしたのか言え」
 「……猫にひっかかれたんだ」
 東京プリズンに猫がいるはずない。
 レイジの言葉が意味する真実に思い当たり、ロンの顔を思い浮かべる。僕とおなじ真実に至ったらしいサーシャが皮肉げに微笑む。
 「王の道楽で飼ってる雑種の猫か。飼い主の手をひっかくなど躾がなってない」
 「放任主義なんだよ」
 壁を背にしたレイジが肩を竦め、用は済んだとその場から立ち去ろうとする。が、その手をサーシャが掴むほうが早かった。
鈍い音、壁を伝わる震動。
 レイジの腕を引っ張り、その勢いで壁に背中を叩き付けたサーシャの瞳が異様な輝きを増す。アイスブルーの双眸に狂気を宿し、レイジの手に手を携え、自分の口元に導く。
 ひび割れ乾燥した唇が、そっと手の甲に触れる。サーシャの唇が、ゆっくりと、傷痕を啄ばむ。最初は触れるだけ、赤い線に沿って唇を滑らしていたのが次第に熱をおびた愛撫に変化。上唇と下唇で食み、傷痕に舌を踊らす。唇で繊細に愛撫し、濃厚に唾液をすりこんだ上で軽く歯を立て官能的に甘噛み。
 見てはいけないものを見ている気分だ。
 サーシャは一体なにをしてるんだ?人けのない裏通路にレイジを連れこんで、壁際に追い詰めて、その手をとって傷痕を舐めて。レイジも何故無抵抗で、笑みさえ浮かべてサーシャの奉仕を眺めてるんだ。
 まるでそれが王様の特権だというように、舌での奉仕を享受してるんだ?
 軟体動物めいて淫猥に蠢く舌が手を這い、傷痕が唾液に濡れ光る。淫靡に濡れ光る傷痕を見下ろし、サーシャの舌が指に絡むたびにくすぐったそうに体を揺らし、レイジが笑みを深める。
 「なぐさめてくれんの」
 甲高く乾いた音が響く。サーシャがレイジの頬をぶったのだ。手加減せず、おもいきり。
 「血の穢れた雑種の分際で私を愚弄する気か」
 サーシャの声は怒りの波動を孕んでいた。
 レイジに対する純粋な憎悪と殺意、それが高じた独占欲。
 「何故気高き皇帝が身分不相応の口をきく雑種をなぐさめなければならない?調子に乗るなよ東の王。いいか、これは消毒だ。お前の体に傷をつけて良い権利を有するのはこの私だけ、飼い犬に鞭をくれていいのは飼い主だけだというのに、お前ときたら黄色い飼い猫に手を噛まれて菌を伝染される体たらく。今日地下停留場でお前のその傷痕を見た時から怒りで気が狂いそうだった。肝に銘じろ東の王よ、お前はいつか近い将来私の飼い犬となる運命だ。皇帝手ずから首輪をはめられ玉座のそばにつながれる運命にあると自覚しろ」
 サーシャを狂気に走らせるのはレイジに対する異常な独占欲。憎悪なのか愛情なのか、本人にも区別がつかない激情の洪水。憎憎しげに呪詛を吐くサーシャとは対照的に、レイジはぶたれたまま横を向いて無言。長めの前髪が邪魔してその表情は見えないが、口元はかすかに笑っていた。
 ぶたれてもなお余裕なレイジが気に入らなかったのか、サーシャの眉根が寄り、険悪な表情に豹変する。
 「お前の手に傷をつけた雑種に思い知らせてやらなければ」
 「なにするつもりだ」
 「お前に傷をつける日を心の底から待ち遠しく思っていた。覚えているか?お前に背中を切り刻まれたときからそれが、ただそれだけが私の悲願だった。お前を虐げて跪かせて犬のように扱うこと、それこそが私の野望にして復讐。私がお前を殺すまでお前はだれにも殺されてはならない、西のトップにも南のトップにも殺されてはならない。お前を切り刻んでいいのはお前に切り刻まれた私だけだ。それをあの中国人は、ロンとか言う名の雑種は、私を出しぬいてお前の体に傷をつけた。誰の目にもあきらかな痕を残した」
 熱に浮かされたように両手を広げ饒舌に演説し、狂気の坩堝と化した瞳を爛々と輝かせるサーシャ。
 「一度思い知らせてやる必要がある、誰が誰の飼い主か、誰が誰を虐げていいのか。たしかあの中国人は今日のペア戦に出場するな。ならば試合が終わったあとだ、いや、試合終了まで待つことはない。今すぐ会場に引き返しあの中国人をつかまえ、誰が誰のものだか教えてやる。はっきりと思い知らせてやる。この服を脱いで背中の傷を見せ、お前の本性を教えてやる。お前が笑いながら私の背中を切り刻んだときのことを話してやる。そうすれば二度とお前に手を上げたりはしない、皇帝のものに手だしをしない」
 サーシャは完全に狂ってる。レイジを独占するためなら手段を選ばないと宣言してるようなものだ。爬虫類めいて残忍な笑みを浮かべたサーシャが踵を返した瞬間。
 「やめろ」
 サーシャがゆるやかに振り向き、うろんげにレイジを凝視する。通路の薄暗がりに佇んだレイジは、前髪に表情を隠し、俯き加減にくりかえす。
 「やめてくれ」  
 レイジのこんな声、初めて聞いた。レイジが誰かに懇願するところを初めて見た。壁に隠れた僕の視線の先、片手に十字架を掴んで立ち尽くすレイジは大胆不敵な王様ではなく、暗闇においていかれた子供のように孤独で頼りなげで。
 とても、危うげで。
 サーシャを引きとめるためなら手段を選ばない覚悟で、十字架を握り締めているように見えた。
 「…………誰に命令している?」
 平静を装い、壁際に引き返したサーシャがぐいとレイジの顎を掴む。無理矢理顔を上げさせられ、前髪が流れ、レイジの表情が暴かれる。驚き、わずかに目を見開いた表情。虚を衝かれた、という表現がいちばん正しい空白の表情。
 瞳にはただ、吸いこまれそうな虚無があった。
 そしてレイジは瞳に虚無を湛えたまま、口元に笑みを浮かべる。
 「勘違いしてるのはお前だ、サーシャ。ロンなんかもう、どうでもいいんだよ」
 え?
 レイジは何を言ってるんだ?ロンなんかどうでもいいと、今そう言ったのか?……まさか。レイジの口からでた言葉とは思えずに耳を疑う。驚愕した僕をよそにレイジは淡々とくりかえす。
 「俺がいなくても、いや、俺がいないほうがいいんだ。いいに決まってる。試合なんてどうでもいいよ、わざわざ見に行く価値もない。暇潰しにもならねえ。だからさ……」
 困惑したサーシャの首に手をかけ、禁断の果実を齧るような笑顔を浮かべる。
 「今ここで、たのしませてくれよ」 
 今、自分が見ている光景が信じられない。
 これじゃまるで、レイジが誘惑してるみたいじゃないか。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051109002841 | 編集

 「どういうつもりだ」
 サーシャは無表情だ。
 「ボイラー室の再演をするつもりか?二度もおなじ手にのるほど私は愚かではない」
 「今度は噛みついたりしねえよ」
 サーシャの頬に手をそえたレイジが淫らに微笑む。もう片方の腕はサーシャの首に回し、自分から抱擁をせがむような愛撫をねだるような姿勢をとる。目の前で繰り広げられるおぞましい光景から目を背けたい。が、背けられない。レイジの瞳には求心力がある。底無しの虚無を宿した色硝子の瞳はあまりに綺麗で吸いこまれる。目の前の光景は僕の理解を超えた、僕の理解を拒む光景だというのに金縛りにあったようにその場を動けず不吉な予感に胸が高鳴る。
 レイジはどういうつもりだ?もうすぐロンの試合が始まるというのに、ロンがリングに上がらなければならない大事な時にこんな人けのない通路でサーシャを誘惑して、試合などどうでもいいとうそぶいて……試合に無関心な演技をしてるのか、本心から試合に興味を失ったのか謎めいた笑顔からは推し量れずに当惑が深まる。
 僕は慄然とその場に立ち尽くし、驚愕に目を見開き、イヴをそそのかす蛇のようにサーシャの首にレイジの腕が絡みつく淫猥な光景を見守るしかない。壁を背中に預けたレイジに覆い被さるサーシャが、爬虫類めいて残忍な笑みに口角をつりあげる。
 「もうすぐ試合が始まる。観にいかなくていいのか、出場するのは王が寵愛する猫だろう」
 「懐かない猫には興味が失せた」
 レイジは軽薄に肩を竦めた。ロンに一抹の未練もないと宣言するように、そっけなく言いきる。
 「いくら可愛がっても餌やっても懐きもしねえで飼い主の手をひっかく猫だ。野良は野良、都合よく飼い馴らそうとした俺がばかだった。大丈夫、あいつは強いからひとりで生きてける。俺の世話なんかいらない。いや、違うな」
 サーシャの頬に手をあてたレイジが自嘲的に笑う。
 「あいつにとっちゃ俺の存在が迷惑でしかないって、俺のすること全部余計なお世話でしかないってようやくわかったんだ。だからもういいんだ。いつか懐いてくれるんじゃないかって期待して尽くしてばかみたいだ。これからは俺がしたいようにやる、ロンなんかどうでもいい、あいつがどうなろうが関係ねえ」
 可笑しそうに笑い声をあげるレイジに戦慄が走る。レイジは本気で言ってるのか?本気でロンを見捨てるつもりなのか?馬鹿な。ロンにはこれから大事な試合が控えているのに応援に駆け付けもせず、こうしてサーシャと遊んでいるつもりか?
 ふたりの間に何があったかは知らない。何があったとしても部外者の僕が口を挟む問題じゃない。が、今の台詞はレイジらしくない。晴天の空の下に寝転がり、本当にロンが大事だとはにかむような笑顔で僕に打ち明けたレイジらしくない。レイジにとってロンはかけがえのない大事な存在じゃなかったのか、こんなに簡単に見限ってしまえる程度の存在だったのか?
 サーシャの首に腕を絡めたレイジが卑屈な笑みから嫣然たる微笑へと表情を切り替える。優雅に長い睫毛に縁取られた切れ長の双眸を恍惚と濡らし、挑発的に唇を舐めるさまは獲物を狙う豹さながら獰猛。上着の胸にぶらさがった十字架がただでさえ背徳的な行為をなおさら疚しいものに見せる。胸元で揺れる十字架には目もくれず、淫蕩な熱に浮かされたようにサーシャを見上げ、囁く。
 「遊ぼうぜサーシャ。試合が終わるまで相手してくれよ。会場には戻りたくないんだ、やなこと全部忘れさせてくれ」
 レイジの目はいたずらっぽく笑っていた。サーシャの頬からすべりおちた手が首筋をなで、肩にかかる。蛇が這うようにゆっくりといやらしい手つきだった。
 突然、サーシャが予想外の行動にでた。
 「!―っ、」
 力任せにレイジが首にさげた十字架を毟り取るや、もう片方の手で素早くレイジの両手首を纏め上げ頭上の壁に縫いとめる。頭上の壁に容赦なく叩き付けられ、手首が軋む激痛にレイジの体が跳ね、綺麗に整った顔に苦痛の色が浮かぶ。苦痛に顔をしかめたレイジに一片の慈悲をかけることなく、鈍くきらめく金鎖を頭上に固定した両手首に二重三重に巻き付ける。どんなに暴れても自力では解けないよう、執拗な念の入れようで締めつければ手首に鎖が食い込む激痛にレイジがたまらず苦鳴をもらす。
 「無知で無教養な雑種に二度もおなじ手を食えば皇帝の権威が失墜する、お前が二度と過ちを犯さぬよう戒めさせてもらう。ぶざまな格好だな東の王よ、ゴルゴダの丘で磔刑に処されたキリストのようだ。笑えるぞ、汚らしい淫売の股から生まれた劣等の混血がキリストの真似か。その格好では私からナイフを奪えまい、抵抗できまい」
 「……しつこい男はいやだね、まだむかしのこと根に持ってんのかよ」
 肌身はなさず身に付けていた十字架が仇となり、ネックレスの金鎖で手首を束縛されたレイジが舌打ちする。おそらく、僕やロンの入所以前に渡り廊下で起きた戦争のことを指してるのだろう。
 「当たり前だ。だから半年前もナイフを貸さなかったのだ、初戦とおなじ過ちをくりかえすのは愚の骨頂だ。ボイラー室でもそうだ。娼婦顔負けの芝居ができるおまえは信用ならない、また唇を噛みちぎられてはたまらない」
 狂気の燐光を目に宿したサーシャが、レイジの両手を一本に纏め上げ、至近距離でその顔を覗きこむ。
 「こうでもしなければ、存分に犯せない」
 「縛られて興奮する趣味ねーんだけど」
 「お前の意向など尊重せん」
 人けのない裏通路の暗がりに身を潜めたサーシャが、一本に纏めた両手を頭上に高々と掲げられたレイジをじっくり隅々まで視姦する。
手首を鎖で束縛され、壁を背中に預けた無防備な姿勢を強いられたレイジはそれでも笑っていた。
 黄色人種と白色人種の混血の産物の天然の茶髪、長めの前髪に隠れているのは色素の薄い睫毛に物憂く沈んだ双眸。端正な鼻梁と薄く整った口元、形よく尖った顎。甘さと精悍さが絶妙に入り混じった顔だちは、笑みを薄めれば薄めるほどに鋭く研磨され、個々のパーツの精妙さが際立つ。
 舐めるようにレイジを見つめ、顎から首筋にかけて視線を下降。緩んだ襟刳りから伸びた首筋はきめ細かく、汗の匂いすら官能的に思える。
 サーシャの喉仏が上下し、音たてて生唾を嚥下。緩んだ襟刳りから覗いた肌の色香に劣情を刺激され、欲望に火がついたのだろう。サーシャの手がレイジの上着をたくしあげ、内側へともぐりこむ。はだけた上着から覗いたのはなめらかな褐色肌、豹のように精悍でしなやかな肢体。自分の上に覆い被さり、欲望の虜となって夢中で手を這わすサーシャを見下ろしながらレイジは歌を口ずさむ。
 ずっと聞いてると悪酔いしそうに音痴な歌で、僕は壁に背中を預け、力なくずり落ちた。レイジはなにを考えてるんだ、なんのつもりだ?何故サーシャとこんなことを?ロンの試合は本当にどうでもいいというのか。      
 されるがままのレイジに胃がむかつくような吐き気をおぼえ、壁に寄りかかった僕の耳に乾いた音が響く。サーシャが再びレイジをぶったのだ。
 「唄うな。興が殺がれる」
 「なんで。気分でない?」
 二度頬をぶたれてもレイジは懲りずに笑っていた。頬を薄赤く腫らしても反省の色のないレイジに逆上しかけたサーシャが、深呼吸で怒りを鎮めたのち提案する。
 「……良いことを考えた。口寂しいお前のために特別にはからってやる。半年前監視塔で、北の可愛い配下を葦のように薙ぎ倒しながらお前は聖書の文句を唱えていたな。汚らしい雑種の分際で、混血の私生児の分際で、肉の快楽に溺れる淫売の分際で聖句を唱えるなど神への冒涜だ。が、皇帝は寛容だ。そんなに唱えたければ好きなだけ唱えるがいい、存分に神に縋るがいい。ただし、」
 レイジの前髪を手荒く掴み、無理矢理顔を上げさせる。
 「行為の最中に聖句が途切れたら酷くするぞ、覚悟しろ。痛い方が気に召すならそれもいいがな」
 「今も痛いって」
 不満げな抗議を無視し、前髪を揺さぶってサーシャが強要する。
 「さあ、言え。神に祈りを捧げて助けを求めろ、苦境から救い上げてくれと喉が嗄れるまで泣き叫べ」
 凍てついた声で命令され、前髪を掴まれたレイジが喘ぐように口を開く。両手首を鎖で戒められて、サーシャに押さえ込まれて身動きできず、はだけたシャツから薄ら汗をかいた素肌を覗かせた扇情的な姿態で。
 瞼をおろし、神に祈る。
 「……『いま、聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい、あなたを憎む者に善を行いなさい』」
 衣擦れの音がする。片手でレイジの両手首を拘束し、もう片方の手で胸板をまさぐり、口で首筋を辿る。相手を気持ちよくさせることより自分の快楽を優先するサーシャの前戯は性急で、レイジの表情もむしろ苦痛の色が濃い。手首に食い込む鎖が痛いのか、わずかに眉をしかめた被虐の表情が官能的だ。
 「『あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい』」
 上着を胸まではだけられ、殆ど上半身裸になったレイジに覆い被さったサーシャが浅く呼吸を乱して征服者の愉悦に酔いしれる。
 「続けろ」
 愛撫がはげしさを増す中サーシャが冷徹に命令し、レイジは従順に続ける。
 「『上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません』」
 ルカの福音書、汝の敵を愛せよ。
 壁に寄りかかった僕はその場から一歩も動けず、口の中で呟いた。
 レイジは続ける。狂気に取り憑かれたように饒舌に、上着をはだけた格好でサーシャに身を委ね、性急な愛撫にともすれば理性を散らされそうになりがら、サーシャの肩口に顔を埋めて。
 「『すべて求める者には与えなさい』」
 サーシャが耳朶を噛み、レイジがくすぐったそうに肩を揺らす。
 「『奪い取る者からは取り戻してはいけません』」
 執拗に耳朶を舐めていた舌が、濃厚な唾液の糸を引いて首筋を這う。軟体動物めいた襞の動きが正視に耐えないほど淫らでおぞましく、生理的嫌悪に吐き気を催す。
 「『自分がしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。そうすればあなた方の受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いから……』……っ、」 
 「続きはどうした」
 僕には見えない角度でサーシャが何かをしたらしい。快楽に流され、余裕を失いつつあるレイジがそれ以上声を漏らさないよう唇を噛めば、その強がりが可笑しいのか、死角の手が愛撫のはげしさを増す。
 「……お前、ほんっっとうにいやなヤツだな」
 不敵な笑みを取り戻したレイジが、押し殺した息遣いの下から毒づく。そして、詠唱を再開。
 「『あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい』……終わった。ほら、これで満足だろ。拍手でもしてくれよ」
 「褒美をやろう」 
 意味ありげな笑みを深めたサーシャがレイジの手を解放する、と見せかけて、鎖で括った腕を自分の首の後ろに通し体が離れないようにする。両手が自由に使えるようになったサーシャが、おもむろにレイジの片足を抱え上げる。
 「東の王がこれほど淫らな男だとは知らなかったな」
 「はは、舐めるなよサ―シャ」
 片足を抱え上げられた苦しい体勢でレイジが笑う。絶望的に乾いた笑い声だった。もう何もかもどうでもいいと全部を放り出してしまった人間の哄笑。
 殆ど光が射さない裏通路の暗がりで、サーシャに腰を抱え上げられ、十字架の手枷で束縛されたレイジが獰猛に犬歯を剥く。性急な愛撫に息を上げ肌を紅潮させ、汗にぬれた前髪を額にはりつかせ、とんでもなく淫乱な本性をさらけだした笑顔で。
 「まだ序の口だ、本番はこれからだ。きっちり躾る自信がないなら手枷を外せよ、逆に食ってやるから」
 サーシャの顔が憎悪に歪み、息を呑むほどに美しいアイスブルーの瞳に残虐な光がよぎる。
 「……お前は余程酷くされるのが好きらしい。ならば望みどおりにしてやる、誰が誰の飼い主か徹底的に仕込んでやる」
 サーシャの唇がいびつに綻び、陰惨きわまりない笑顔を形作る。
 「お前は私のものだ」 
 低く宣言したサーシャの肩越しに、レイジと目が合う。いつから僕の存在に気付いていたのか、僕と目が合ってもレイジは少しも動じなかった。サーシャの首に腕を回し、腰を抱え上げられ、立ったまま行為に及ぼうというその体勢から僕を見つめ、苦しげに笑う。

 『Do not you come here, too?』 
 お前もこっちに来ないか?
 
 「……………!」
 背中に戦慄が走った。
 駄目だ、我慢の限界だ。他の男に腰を抱かれながら僕を誘惑したレイジに、生理的嫌悪が限界に達する。見間違いではない、レイジの口はたしかにそう動いた。お前も一緒にどうだと誘いかけたのだ。
 衣擦れの音が再開し、レイジにサーシャが覆い被さる。そこから先は見たくもなくて、一刻も早くレイジから離れたい一心で廊下をひた走る。腕を振り床を振り通路の出入り口めざして疾走する。
 脳裏にはまだ、レイジの笑顔が焼き付いている。
 サーシャに体をまさぐられ、奔放に喉を仰け反らせるレイジの淫らな姿態が……
 「かはっ、」
 会場までもたなかった。
 通路の途中で耐えきれず、壁に手をついてしゃがみこみその場に嘔吐する。気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。あんなレイジ知らない、あんなレイジは見たことがない。自分に殺意を抱く相手に身を任せきり、快楽に溺れ、頬をぶたれても鎖で縛られても無抵抗に……
 あれはなんだったんだ?
 僕はいったい、なにを見てしまったんだ?
 『あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい』
 「っ、」
 両手でしっかり耳を塞ぐ。しかし、幻聴は止まない。直接頭蓋骨の裏側に響くように殷殷とこだまし、僕を深淵にひきずりこもうとする。
 『あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい』
 『すべて求める者には与えなさい』
 通路の壁に両手をつき、肩で息をしながら考える。
 レイジは一体、どうしてしまったんだ?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051108003001 | 編集

 もうすぐ試合が始まる。
 試合開始の時間が迫るにつれ緊張が高まる。ペア戦会場となる地下停留場には既に物見高い囚人が集まり始めている。がやがや騒ぎながら口さがなく本日予定試合の勝敗予想をする連中を尻目に、俺はじっとリング脇に待機していた。
 巨大な地下停留場の中央に臨時に設置された金網の檻、頂点に据えられた照明に晧晧と浮かび上がる通称リングには二つ出入り口があり、片方には俺が、もう片方には凱とその子分どもが控えている。
 リング脇、所定の位置にてゆっくりと深呼吸をくりかえす。遂にこの日が来てしまった。あと十数分後には自分がリングに上がるなんて実感はとんと湧かない。一身に脚光を浴び観客の罵声と野次を浴び、因縁深い凱とやり合うことになるなんて言われても今だに誰かに騙されてるみたいな半信半疑の心持ちだ。

 やっぱり騙されてるんじゃないか、俺?

 いや、ちゃんと現実を見ろ。今俺はリング脇にいて、対岸には凱とその子分どもが陣取ってだべっている。時折こっちを見ては「薄汚ねえ半半が、調子にのりやがって」「目に物見せてやってください、凱さん」「中国人の心意気を証明してやりましょう」と悪態をついている。子分どもに叱咤激励された凱は殺る気満々、剣呑に殺気走った眼光でまっすぐ俺を睨んでる。
 往生際が悪い、と自分を戒めてかぶりを振る。俺はもう後戻りできないところまで来ちまった、敵前逃亡はプライドが許さない。それに、凱には積年の恨みがある。東京プリズン入所当初から俺を目の敵にしてイエローワークの砂漠じゃ何度も生き埋めにされかけたし、シャベルを脛にぶつけられて青痣を作ったり食堂でわざと肘をぶつけられて食器をぶちまけたり、廊下ですれちがいざまケツをさわらたり素肌をまさぐられることも日常茶飯事でいい加減堪忍袋の緒が切れた。生粋の中国人とやらがそんなに偉いのか、両親とも中国人だってのがそんなに偉いのことなのかよ?たしかに俺は薄汚い半半の混血児で、ろくでもない博打好きの親父ととんでもないあばずれの母親のあいだに生まれたガキだ。

 それがなんだ、だからどうした?俺が俺であることに変わりない。

 両親とも中国人だってだけで俺に優越感持って威張り散らしてる連中に劣ってるとはちっとも思わねえ、もううんざりだ、名前もろくに覚えられず蔑称の「半半」呼ばわりされるのも廊下ですれ違いざま唾吐きかけられる屈辱の日々も我慢の限界だ。
 東棟最大派閥、三百人を超す中国人の親玉の凱と一対一できっちり決着つけてやる。
 ……なんて言えば、「私怨を試合に持ちこむのは感心しない」と鍵屋崎が小言をたれそうだ。私怨を持ちこんで悪いかよ畜生。凱や凱の子分どもにケツ狙われる毎日はうんざりだ、衆人監視のリングで凱を叩きのめして、二度舐めた真似できねえように思い知らせてやる。俺だってこの一週間なにもせず漫然と過ごしてたわけじゃない、鬼コーチホセの猛特訓の成果を発揮してやる。
 凱に目に物見せてやる、と自覚的に闘志を煽りたて、試合に臨む決意を固める傍らきょろきょろをあたりを見まわす。試合開始まで残り十数分を切り、リング周辺には人だかりができはじめている。金網に寄りかかり猥談するヤツ、コンクリートの床にしゃがみこんだヤツ、場所取りのいざこざの末に喧嘩をおっぱじめるヤツ……行儀がいいとはお世辞にも言えない東京プリズンの囚人の中に、見慣れた顔をさがす。

 レイジがいない。
 どこにもいない。

 「………」
 ……どうかしてる、レイジのツラが見えなくて不安になるなんて。金網のフェンスを握り締め、唇を噛んで俯く。先日来、レイジとの仲がぎくしゃくしてる。俺がレイジを拒絶した夜以来、レイジの様子がおかしい。まともに俺の顔を見ようとせず、できるかぎり会話も避け、レイジは単独行動をとるようになった。
 レイジが変によそよそしい態度をとるようになったのは、俺のせいだ。
 猛特訓の成果を見せてやると意気込んだ俺が、レイジに一発も食らわすことができず逆に鳩尾に蹴りをお見舞いされた二日前の夜以来、レイジの態度は変によそよそしくそっけない。朝は俺が起きるより先に起きてひとりで勝手に食堂に行っちまうし、食堂で顔を合わせりゃ合わせたで、挨拶は「よ」の一言だけ。俺が何か話しかけても「へえ」「ふうん」なんて気のない返事で流されて会話は空回るばかり。
 ふてくされてる、というふうには見えない。そっけなく相槌を打ちながら、レイジの目は俺を通り越してここではないどこかを見ていた。俺に興味を失ったみたいに視線は俺を素通りして、何もかも全部もうどうでもいいと投げ出した腑抜けヅラのレイジに強くでれないのは、その原因が俺にあるからだ。
 レイジの手には今も、乾いた血が凝固した痛々しい傷痕がある。
 鳩尾に蹴りが入って恐慌状態に陥った俺が、レイジの接近を阻みたい一心で安全ピンでひっかいたあと。
 『殺さないでくれっ……』 
 あの時の恐怖がまざまざと甦り、体の芯が凍える。あの時は本当にレイジに殺されると思った。レイジに対し、生命を脅かされる純粋な恐怖を感じた。長い足を交互にくりだし、吐瀉物にまみれた俺のもとへ優雅に歩いてきたレイジが得体の知れない怪物にしか見えなくて、何をされるかわからなくて発狂しそうに怖かった。レイジを遠ざけるためなら何でもした。理性は完全に麻痺して思考が正常に働かなくて、レイジの瞳に呪縛され激痛に支配されその場にうずくまり、震える手に安全ピンを握りこんで必死の抵抗をした。
 安全ピンで手の甲をひっかかれた瞬間、レイジがどんな表情をしたかはわからない。とてもレイジの表情を観察する余裕はなかった。俺はただただ必死だった。自分が助かりたくて生き延びたくて、その為なら手段を選ばなかった。
 レイジの血が床に滴り、我に返った時には手遅れだった。
 『怖がらないでくれよ』
 あの時の顔が、脳裏に焼き付いてはなれない。安全ピンで手の甲をひっかかれ、足元に血が滴るままに立ち尽くしたレイジは途方に暮れたように笑っていた。俺に拒絶され、手に怪我をして、笑顔なんか浮かべられる心境じゃないだろうにそれしか表情を作れなくて。
 奈落みたいな笑顔だった。  
 目は絶望に濁っていた。口元は笑みを留めていた。不規則に点滅する裸電球に暴かれてはまた闇に沈みをくりかえし、レイジは静謐に笑っていた。何もかもを放棄したような、人を人たらしめる感情さえ一片残らず捨て去ってしまったようなからっぽの笑顔だった。
 後悔した。
 一度口にした言葉は取り消せない。俺がレイジを拒絶したのは事実で、手に怪我を負わせたのは現実で、あれからレイジはおかしくなった。変わってしまった。俺にちょっかいをかけてこなくなった、俺に話しかけなくなった。たったそれだけの変化。でも、決定的な溝。

 なによりあの夜から、レイジは俺の目を見なくなった。

 「………ふざけんなよ、腰抜けが」
 ちゃんと目を見てもらわなきゃ、謝罪のきっかけも掴めないんじゃんか。
 謝る時はちゃんと人の目を見なけりゃ誠意が伝わらない、まっすぐ目を見つめなきゃ意思疎通がはかれない。なんでこんなことになったんだ?何度も何度も反芻した疑問、埒の明かない自問自答。俺がレイジを怖がったから、レイジの手を払いのけたから、俺たちのあいだにあった何かが変わってしまった。壊れてしまった。全部俺が原因だ。俺があの時口にした一言は、何があっても絶対言っちゃいけない言葉だったのだ。
 『殺さないでくれ』なんて、ダチに言うセリフじゃない。
 相手はレイジなのに。しょっちゅう俺にちょっかいかけてきて、悪ふざけに寝こみを襲い、くだらない冗談言っちゃあ笑い転げてる尻軽な王様なのに、俺はまるで言葉の通じない怪物に命乞いするように、『殺さないでくれ』と絶叫したのだ。 

 もう取り返しがつかないのか?
 いまさら悔やんでも遅いのか?

 レイジは俺に謝罪の機会さえ与えてくれない、俺はどうしようもない。いや、レイジに謝罪したいと思ってる俺自身レイジに対する恐怖をまだ完全には払拭できない。脳裏にはまだ、あの夜の目が焼き付いてる。
 虚無を映したレイジの目はあまりに綺麗で、とりこまれそうで。
 あれがレイジの本性だとしたら、俺が知ってるレイジは一体何だったんだ?くだらない冗談言って笑い転げて俺にどつかれて大袈裟にしかめ面してベッドに腰掛けて本を読み耽る、俺がよく知るレイジは何だったんだ?
 俺を油断させる芝居、日常に溶け込む演技?
 「どうした、むずかしい顔をして」
 ハッとする。
 声をかけられるまでサムライがすぐそこにいるのに気付かなかった。ペア戦出場者は試合開始30分前には所定の位置についてる決まりだ。初戦は俺と凱のカードが予定されてるが、その後にはサムライが控えている。木刀を片手にさげ、リング周辺の人ごみを抜けてきたサムライがうろんな顔をする。
 「……べつに。試合のこと考えてたんだ」
 「案ずることはない」
 とっさに嘘をつけば、俺を安心させるようにサムライが首肯する。
 「鍵屋崎から聞いたが、この一週間修行に励んだのだろう。ならばあとはおのれの信念に恥じぬよう全身全霊を賭して試合に臨むのみ、さすれば道は拓ける」
 「信念とか堅苦しい言葉好きだなお前。言ってて恥ずかしくねえ?」
 いちいち言うことが大袈裟なサムライにあきれる。そういえば、隣に鍵屋崎がいない。いつも一緒なのに珍しいなとあたりを見まわす。
 「鍵屋崎はどこだよ。あいつも観にくんだろ」
 「途中ではぐれた。不覚だ。地下停留場におりるまでは一緒だったのだが……」
 自分の迂闊さを恥じるようにサムライが顔を伏せる。忸怩たるものを口調に滲ませたサムライをよそに人ごみをさがしてみたが鍵屋崎は見当たらない。迷子になってるのだろうか?メガネは方向音痴だからそれもありうる。いや、別の可能性も……
 「いいのかよ用心棒、鍵屋崎ひとりにして。ナンパされてたらどうするよ」
 「その点は心配ない。直と、」
 「不味い」という顔をしたサムライが、咳払いで表情を改め、スッと背筋をのばす。
 「……鍵屋崎と約束をした。安易に他の男についていくな、と。あいつも子供ではない、時間になればここに戻ってくる」 
 泰然自若としたサムライに口笛を吹く。
 「ずいぶん余裕じゃんか、いつのまにゆびきりげんまん針千本飲ますほど仲良くなったんだよ。でもさ、わかんねーぜ?鍵屋崎あぶなっかしいし、本読みながら歩いてるとこ物陰にひきずりこまれたりしたら…」
 「……そんなことはありえん」
 「なんで言いきれるんだよ」
 「ありえんと言ったらありえん。武士に二言はない」
 「今ごろ他の男といちゃついてるかも」
 「断じてありえん。斬られたいか」
 冗談を真に受けて斬られちゃたまらない。調子に乗った俺が悪かった、と両手を挙げて降参する。しかし、冷静沈着なサムライが動揺をあらわにするなんて珍しい。鍵屋崎が他の男といちゃついてるかも、と言った瞬間に一瞬覗いたのは生臭い嫉妬の表情だった。これ以上ない渋面を作ったサムライを盗み見、さりげなくを装って話題を変える。
 「レイジ見なかった?」
 「一緒ではないのか」 
 逆に聞き返された。事情を知らないサムライには、俺にひっつくのが大好きなレイジが今この場にいないのが奇異に思えるんだろう。
 「一緒じゃねえから聞いてるんだよ。どこほっつき歩いてるんだアイツ。俺のデビュー戦見ねえつもりかよ、薄情者だな」
 「地下停留場に降りるときは一緒じゃなかったのか」
 「……ひとりで先行っちまったんだよ」
 だんだんむかむかしてきた。大事な試合前だってのに、なんでレイジのことで頭一杯にしなきゃなんない?試合のことだけに集中したいのにレイジが姿見せないせいでどうにも落ち着かなくて、視界の隅を茶髪が過ぎるたびについ目で追ってしまう。
 「……あーもう、なんだよアイツ。頭くるな本当に。だいたい100人抜き言い出したのはアイツなのに、俺が勝とうが負けようがもう興味ねえってかんじだし今日なんか俺になにも言わずにさっさと行っちまうしさ!つきっきりで応援してほしいわけじゃねえけど試合前に顔くらい見せるのが礼儀だろが。自己中な王様はこれだから……なんだよ」
 「……いや。わかりやすい性格をしてるな、と感心しただけだ」
 「お前に言われたくねえ」
 ばつ悪げにそっぽを向けば、視界に見慣れた顔がとびこんできた。地下停留場の人ごみに揉まれ、ふらふら歩いてきたのは鍵屋崎。今までどこをほっつき歩いてたのか、心なし顔が青ざめていた。
 「鍵屋崎、今までどこへ行っていた」
 鍵屋崎の顔色の悪さに眉をひそめたサムライが、無意識に力をこめ木刀を握る。さっき、俺が冗談で言ったことが頭にあったのだろう。鍵屋崎を見守る顔には労りと悋気が入り混じった複雑な色がある。
 「……どこでもいいだろう、僕の行動範囲について他人にとやかく詮索されたくない。保護者気取りで束縛するのも大概にしろ。たとえば僕が図書室に本を借りにいくときでも君に逐一告げなければいけないのか、借りた本の題名に至るまで報告義務があるのか?わかった、なら教えてやろう。先日僕が借りた本はアガサ・クリスティのアクロイド殺し、アーサー・コナン・ドイルのホームズ全集、マイナーどころではバリンジャーの歯と爪。感想を求めるなら二百字以内で簡潔に要約するが、」
 「わかった、疑った俺が悪かった」
 「わかればいい」
 鍵屋崎の長口舌に嫌気がさしたか、サムライがうんざりとため息をつく。今日の鍵屋崎は何故だかいつも以上に刺々しい。鍵屋崎が苛立ってるのを察しいったん口を噤んだサムライだが、鍵屋崎の首筋にキスマークが残ってないかうしろめたげに確認してるのをばっちり目撃しちまった。
 「顔色悪いけど、何かあったのか」
 「人ごみに揉まれて気分が悪くなっただけだ。すぐ治る」
 俺が聞けば、鍵屋崎がそっけなく答える。俺のデビュー戦だってのにレイジは顔見せないし鍵屋崎はつれないしサムライは鍵屋崎しか眼中にないし、なんだかだんだん腹が立ってきた。なんだこの扱いの悪さは。
 そうだ、一応鍵屋崎にも聞いとこう。
 「なあ、レイジ知らない?」
 鍵屋崎がぎくりとした、ように見えたのは錯覚だろうか。
 「どこほっつき歩いてるんだよ、あいつ。もうすぐ試合始まっちまうのに……今日の試合、あいつもでるんだろ。まあ俺が凱に勝ったらの話だけどさ……あ。まさか、はなから俺が勝つなんてありえねえって手前勝手に決めこんで図書室でフケてたりして」
 「それはないない」
 鍵屋崎を押しのけ、顔をだしたのはヨンイル。隣にはちゃっかりホセもいた。
 「今日はレイジ見かけてへんで。図書室にもおらんかったし、地下停留場に下りとるもんやと思いこんでたけど」
 「ロンくんのデビュー戦だというのに姿を見せないなんてレイジくんらしくありませんねえ。あ、わかりました、ロンくんの勝利を願掛けにいったんですよ。ご存知ですかヨンイルくん、東京プリズンの七不思議。東棟三階五号房こと別名開かずの房の前に煙草をワンカートンおそなえするとリンチで殺された囚人の幽霊が願いを叶えてくれるという噂。煙草の銘柄はアメリカンスピリット」
 「そんな七不思議聞いたことねえしリンチで殺された囚人の幽霊って生々しすぎだし東京プリズンに何人いるんだ」
 つっこみで息が切れた。
 てきとー言うなとホセを睨みつける。俺をリラックスさせようとホラ話を吹いたホセが「ほんのお茶目なのに」と哀しげな顔をする。とは言え、ヨンイルとホセが応援にきてくれて何とか格好がついた。応援団の威勢と人数じゃ完璧凱に負けてるが、西のトップと南のトップの二強が味方についてるのは心強い。
 「地獄の一週間を経て猛特訓の成果を披露する日がやってきました。頑張ってくださいね、ロンくん」
 「俺の一週間を地獄にしたのはお前だけどな」
 ふと、ホセが持ってる物に目を落とす。ホセが持参したのはグローブとヘッドギア。
 なんだこれ。
 「吾輩が外で愛用していたグローブとヘッドギアです。吾輩迷信深いのでね、ちょっとした縁起担ぎですよ。地下で行われていた賭けボクシングでは22試合20勝2敗、そのうち15試合KO勝ちの戦績を残した吾輩の血と汗と涙とそれ以外のものがしみついたグローブをはめればすなわち無敵、何も恐れるものはありません」
 「それ以外のものってなんだよ、変な汁じゃねえだろうな」
 背中に手を隠して警戒すれば、ホセがにっこり笑う。
 「闘魂です」
 なるほど。ホセから手渡されたグローブをしげしげ観察すれば、よほど使いこんだと見えてボロボロで、執念とか怨念とか呼ぶにふさわしい瘴気が漂ってきそうだ。
 「ボクシングやったことないんだけど」
 「気合でなんとかなります」
 「喧嘩は素手がいちばんだって俺の信念は」
 「こぶしが砕けます。完治一ヶ月はかかります」
 ……不承不承ヘッドギアを装着する。完治一ヶ月の骨折はご免被りたいのが本音だ。グローブをはめ、紐を口にくわえて結ぼうとしてさんざん試行錯誤する俺を見かねたホセがため息をつき横から手を出す。
 「手のかかる子ですね、ロンくんは」
 お袋みたいなことを言う。いや、俺のお袋はこんなことやっちゃくれなかったが。手際良く紐を結び終えたホセが「これでよし」と満足げに頷き、顎をひく。
 「ではいってらっしゃい。吾輩友人としてコーチとして、リング脇にて精一杯の声援を送らせていただきます。正々堂々お相手をぶちのめしてきてください」
 「武運を祈る」
 俺とホセのやりとりを黙って見つめていたサムライが重々しく口を開く。
 「明日のジョーかがんばれ元気か1ポンドの福音かはじめの一歩か……漫画の主人公になりきっていてもうたれ、どつきどつかれどつきまわされるのも人生勉強や。真っ白に燃え尽きてこい」
 腰に手をあてたヨンイルがけらけら笑う。ヘッドギアを装着し、グローブを嵌め、準備完了。あとは試合開始を待つばかりの俺のもとへ大勢の人間が近付いてくる。
 売春班の面々だ。
 なんでこいつらがこんなところにと驚く。売春班での悪夢の一週間、「裏切り者」「卑怯者」と通気口から罵声を浴びた苦い記憶がよみがり喉が詰まる。また因縁つけにきやがったのか、とガンをとばせば中のひとりが俯き加減に進みでる。
 「ルーツァイ」
 鍵屋崎が呟く。それがこいつの名前か。ツラを見て思い出した、俺の初恋のメイファとおなじ名前のガキがいる囚人だ。
 「喧嘩売る気なら買、」
 『加油』
 「え」
 中国語で「頑張れ」と言われて面食らう。毒気をぬかれた俺をわらわらと取り囲み、壁越しの生き地獄をともに体験した元売春夫たちが口々に言う。必死の形相で、興奮にはやる口調で、一斉に謝罪する。  
 「その、いまさらこんなこと言う資格ねえけど、俺たちみんなお前に頑張ってほしくて」
 「売春班にいたときゃひでえこと言ったなって反省してるんだ。本当に」
 「俺たちが男にヤられなくてよくなったのも東のトップが100人抜き宣言したからだし、お前にはでっけえ借りがある」
 「だから、お前がペア戦でるって知っていてもたってもいられなくて応援にきたんだ」
 輪の中心で叱咤激励され、呆然とする。紅潮した顔をぐるりに並べ、唾をとばし、一生懸命まくしたてる連中から助けを求めるように鍵屋崎へと目を転じればあきれた顔をされる。
 「覚えてないだろうが、ボイラー室に監禁された君の窮地を救ったのは彼らだ。彼らが一致団結して救出作戦に臨まなければ、君はあのまま凱の子分どもに嬲り殺されていた」
 「マジかよ」
 「マジだ。感謝しろ」
 感謝しろと命令され、はい感謝しますと言えるわけがない。『加油』と連呼されてもやっぱり俺は仏頂面で黙りこむしかなくて、でも何故だか顔が熱くなって気分が高揚して、素直に喜びを表現できないけれど胸がむずがゆいこの感覚を名付けるなら「照れ臭い」とか「気恥ずかしい」で。
 その、こういうのも、まんざら悪くない。
 「男にケツ売るしか取り柄のねえ売春夫崩れが調子のるんじゃねーよ」 
 頬をぶたれた気がした。
 なまぬるい空気が一瞬で凍りつく。声は対岸からだ。対岸の入り口に陣取った凱の子分が、態度悪く足元の床に唾を吐き陰口を叩き、あるガキは胸糞悪いにやにや笑いを浮かべ、あるガキは怒り肩で金網を蹴り付、売春班の面々に取り囲まれた俺に罵詈雑言を浴びせる。 
 「リングとベッドではりきる場所間違えてるんじゃねえか」
 「性病持ちの売春夫崩れが、なよなよしたカマ野郎どもが、お仲間の晴れ舞台にこぞって駆け付けてぴいぴいさえずりやがってよ!」
 「おっと、あそこにはいんのが俺が贔屓にしてるガキだ」
 金網にしがみついたひとりが顔面蒼白のルーツァイを指さす。
 「ひさしぶりだなー痔は治ったか。覚えてるだろ、初客のツラくらい。思い出すなあ、初めて犯してやったときのこと。お前ときたらガキの名前呼びながらびいびい泣き喚いて、あんまりうるせえから顔面ぶん殴ってやったら奥歯が根っこからポロッととれてそのまま飲みこんじまったんだよなあ。まあ問題ねえだろ、カルシウムでできてんならいい栄養分になったはず……」

 ―『看不起』―

 「……なんだと?」
 あれだけうるさかった野次がぴたりと途絶える。金網を揺すりたて、地響きたてて足を踏み鳴らし、俺を始めとする売春班の面々と口汚く罵倒してた中国人どもが険悪な表情に豹変。
 「聞こえなかったかゲス野郎。ならもう一回だ」
 怒りが限界を超えれば逆に冷静になる。心は奇妙に落ち着いていた。笑みを浮かべる余裕さえあった。ああ、そうか、こういうことなのかと自分でやってみて実感する。
 心の底から怒っていても、不思議と笑みを浮かべることはできるもんだな。
 レイジも俺も、違わないじゃないか。
 「『看不起』……俺の国の言葉で、お偉い中国人サマ軽蔑しますと言ってさしあげたんだよ!」
 自分の絶叫でびりびり鼓膜が震えた。
 怒気の風圧におされるように凱の子分の何人かがあとじさり、何人かが吼えた。俺のまわりにいる奴はぽかんとしてた。鍵屋崎もサムライもヨンイルも売春班のガキどもも、俺の剣幕に圧倒され目を丸くした。ただひとりホセだけが、教え子の成長をよろこぶ教師のように満足げに微笑した。
 「外野はひっこんでろ、中国人の野次はレイジの鼻歌よか耳障りな雑音だ。発情期の馬だってもうちょっと上品な声で鳴く。ああそうだ、俺も思い出したぜそこのガキ。どっかで聞いたことある声だと思ったら通気口から漏れてきた声とおなじだよ、『イク、もうイク、イッちまーう』ってはでによがり声あげてたなあこの早漏。てめえの声がいちばん大きかったからよっく覚えてるぜ。なんなら今ここでバラしてやろうか、お前が何回イクイク連呼して何回イッたのか」
 「!……くっ、」
 恥辱に赤面したガキの横で哄笑が弾ける。見れば凱が腹を抱えて笑っていた。
 「言うじゃねえか、俺たちにびびって逃げ隠れしてた半半が。猫かぶるのはやめたのか」
 「こいよ凱、おまえにケツ狙われるのはいい加減うんざりだ。腐れ縁に蹴りつけてやる」
 一呼吸おき、凱をグローブで手招きする。
 『我叫龍、不是半半』 
 俺はロンだ、半半じゃねえ。
 不敵に鼻を鳴らした凱が、子分どもの声援と喝采に送られてリングに上がる。リングの照明が強まり、ゴングを抱えた看守が急ぎ足でリング中央に参じ、売春班のガキどもに見送られて俺も歩き出す。鍵屋崎とサムライの前を通り過ぎるとき、俺の試合などさっぱり興味がないと取り澄ました鍵屋崎が小声で呟いた。
 『小心、龍』
 気をつけろ、だと。
 言われなくてもわかってるっつの、お節介め。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051107003230 | 編集

 「お待ちかね、ロンくんの登場だね」
 ビバリーの肩越しに液晶画面を覗きこむ。
 薄暗い房の中、青白く発光する液晶画面に映し出されたのは地下停留場の映像。
 より正確に言うなら囚人でごった返した地下停留場の中央にある正方形のリングで、リングの真ん中では二人の人間が睨み合ってる。ゴングが鳴る前から喧嘩腰でガンとばしあう二人はどっちも東棟の人間。
 片や三百人の同朋を従える大派閥のボスの凱、片や台湾と中国の混血でどっちからも除け者にされてる可哀想なロン。
 立場も境遇も全然違うふたりが今日のよき日にリングで血生臭い死闘を演じることになるなんて誰が予想したろう?一週間前には誰も予想しえなかった意外な展開だからこそ関心もいや増すらしく、カメラの可視範囲には大勢の人間が映りこんでた。 
 金網にしがみつき金網によじのぼりあるいは床にしゃがみこみ、今か今かと試合開始の瞬間を待つ観客に「おつかれさま」と微笑みかけてやる。
 画面越しに微笑んでも気付かないだろうけどね。
 「映像受信ぐあいは良好、音声はどうっスかね」
 床に座りこんだビバリーがヘッドホンを装着し、ノリノリでリズムをとる。落ち着きなく体を揺らすビバリーがキーをひと撫で呪文をかければあら不思議、ボリュームが上がって会場の音声がはっきり届く。罵声と怒声と揶揄が飛び交う喧騒がスピーカーからもれだして臨場感満点だ。
 『Great!』
 二人同時に歓声をあげ、手のひらを打ち合わす。地下停留場が人で賑わい始めるまえ、金網の檻が出来上がった直後に盗聴機とカメラを取り付けにいったビバリーがにんまりほくそ笑む。
 「どうスかリョウさん、房にいながらにして観戦気分が味わえるなんて贅沢でしょう。僕の人脈とひらめきに感謝してくださいス」
 「サンキュービバリー、愛してるっ」  
 ビバリーの首に腕を回せば、「気色悪いから離れてください」とつれない返事。感謝のキス拒否発言にふくれっ面をしてビバリーの隣に膝を折る。
 「キスは冗談としてビバリーにはほんっと感謝してるんだ。ちびな僕のために特別サービスで盗聴機とカメラを仕掛けてくれて……ビューティフルでグレイトフルな友情に涙がちょちょぎれるよ。持つべきものは世界を震撼させた天才ハッカーの相棒だね」
 「いえいえそれ程でも」
 「それ程でもあるって!なんだっけ、きみがばらまいたウィルスの名前。マザーテレサとシスターアンジェラだっけ」
 「ブラザーマルコムとファーザーキングっス!」
 そうだった。ビバリーがばらまいたコンピュータウィルスの名前はブラザーマルコムとファーザーキング、言うまでもなくマルコムXとキング牧師に由来してる。マルコムXはともかくキング牧師の名前を借りるなんてバチ当たりだね、なんて感想はおくびにもださず気を取り直して画面を見つめる。
 明晰な画面の中、リング中央で対峙したふたりはやる気満々にゴングの合図を待っている。ふと、ロンがへんな格好をしてるのが目に入る。赤いヘッドギアを装着してグローブをつけたボクサーみたいな格好。 
 「コスプレ?」
 格好つけたロンに失笑する。似合ってるんだか似合ってないんだか微妙な線だ。それにしてもあんな物どっから持ち出したんだと不思議に思えば、審判がゴングを鳴らす寸前に「ちょい待ち!」と飛び入り参加したガキがいる。野次馬どもが好奇心むきだしで注視する中、一触即発でガンつけあうロンのあいだに割って入ったのはでかいゴーグルをかけた短髪の少年。
 西の道化ことヨンイルだ。
 「なになに?ボリューム上げてよ」
 「イエッサー」
 ビバリーをせっつけば、ふざけた返事とともに会場の音声が届く。
 『かたっぽだけヘッドギアしてグローブはめてやる気満々でも片っぽ素手やったら肩透かしや、ほら、お前にもコレ持ってきてやったさかいあんじょー気張りや』
 『頭沸いてんのか西の道化。ボクシングの真似事なんか興味ねえよ、俺は素手でやらせてもらうぜ。コスプレで恥さらすのは半半一匹で十分だろうが。俺には三百人の子分がいるんだ、んなみっともねえ格好できるかよ』
 『みっともねえって言うな、俺だって好きでこの格好してるんじゃねえ。ホセがどうしてもって言うから仕方なく』
 『じゃかあしいワレいてもうたるど。しのごのぬかさず言うとおりにせえ。素手で殴り合うだけじゃ芸なしでつまらん、たまには趣向変えてサービス精神発揮してもバチあたらんやろ。なあ頼む、コレ付けて。力石VSジョーも宮田VS一歩の対決が見たいんや俺は、ボクサーがグローブせえへんでどないする!?』
 「……なに言ってんのヨンイル」
 「理解不能っス」
 パソコンに届いた映像を見た限りでは、グローブとヘッドギアを抱えたヨンイルが駄々をこねてるらしい。リングの真ん中で地団駄踏むトップの姿を見かねたか、『恥ずかしいからやめましょうよヨンイルさん、西の恥さらしですよ』『漫画と現実ごっちゃにしないでください』と西の人間が数人駆けこんでくる。『はなせ、はなさんかい、宮田VS一歩の対決見るまで死ねへんで俺は!』と暴れながら、数人がかりでリング外に連れ出されたヨンイルが足元に落としていったグローブとヘッドギアを見下ろし、凱がため息をつく。
 『……西のトップたっての頼みとあっちゃ断れねえな。まあいいや、グローブつけてようが素手だろうが結果は変わんねえ。半半の口から一本残らず歯ァとって俺のモンぶちこんでやるよ』  
 『その言葉そっくり返すぜ、裸の王様』
 凱がグローブとヘッドギアを身に付ける。西の道化の要望で、本日の初試合はボクシングとなるらしい。審判をあいだに気迫をこめた目つきで睨み合う凱とロンに会場の緊張が高まる。
 「レディゴー」
 ゴングが高らかに鳴り響く。試合開始。ビバリーと並び、画面を見つめる。リングの死角に取り付けられた超小型カメラがロンの背中を映す。カメラは遠隔操作が可能だ。二人とも場数を踏んでるだけあり、戦いの火蓋が切って落とされてもすぐには行動にでず慎重に隙を窺っている。先走りは命取り、あせりは禁物。 
 動きの少ないロン達からビバリーに視線を転じ、さりげなく訊ねる。
 「鍵屋崎はどこかな」
 「リング脇にいるんじゃないっスか」
 「カメラ動かしてみて」
 カメラの角度が変わり、視界からロン達が消える。横に移動したカメラの視界に映りこんだのは金網越しに試合を見守る応援席の面々で、その中には鍵屋崎もいた。隣には用心棒のサムライがついてる。心なし鍵屋崎の顔色が悪い気がしたけど、顔色のいい鍵屋崎なんて見たことないからそんなに気にならなかった。
 違和感を覚えたのは、当然いるべき人物の姿が見えないことだ。
 「……変だね。我らが王様はどこ行ったの、いとしのロンちゃんの晴れ舞台だってのに」
 「本当だ。レイジさん見当たりませんね」
 金網越し、緊張の面持ちでリング中央を見つめる鍵屋崎と、そんな鍵屋崎に心配そうに寄り添ったサムライという仲睦まじい光景がなんとなく気に入らない。ロンの初試合にレイジが姿を見せないのは不自然だ。ロンに甘々な王様なら当然デビュー戦に駆け付けるはずなのに応援席に姿がないとなると、考えられる可能性は。
 「サーシャといちゃついてたりして」
 「冗談きついっスよリョウさん。北と西のトップが犬猿の仲なのは有名な話っス、サーシャさんとレイジさんがいちゃついてるのが事実なら東京プリズンがひっくりかえる前兆っス。マグニュチュ―ド7の地震がきます」
 「わかってるよ、ほんの冗談。サーシャとレイジがそんなことになるなんてゴシップのネタでも信憑性ないしね。マジバナだったら面白いけどさあ」
 「想像したくないっスねえ」
 僕が真っ先にレイジとサーシャの仲を疑ったのはボイラー室のことが頭にあったからだ。レイジとサーシャが二人ともリング周辺にいない奇妙な偶然の一致が合意の必然だとしたら面白いな、と想像が飛躍しただけ。ロンのデビュー戦をフケたレイジが人目につかないところでサーシャといちゃついてるんなんて本気で考えたわけじゃない、ぶっちゃけありえないっしょそれは。
 「……サーシャがいないなら直接試合見に行ってもよかったかも」
 「……リョウさん、あんたってひとは人の苦労を水の泡にする爆弾発言をさらりと」
 床に手をつき、ラクな姿勢で足を崩す。鉄扉の外からは物音ひとつ聞こえてこない。囚人が皆出払ってるせいか廊下はしんと静まり返ってる。裸電球の下、隅々まで光の届かない房の真ん中にビバリーと二人ぼっち、肩を寄せ合い画面を見つめる。
 「僕が地下停留場に行くの渋った最大の理由、背がちっこくて毎回ひどい目にあうってのも勿論だけどサーシャと顔合わせたらどんなお仕置きされるかわかんなくてブルッたってのもあるんだよね。ほら、試合会場には東西南北の囚人が集まるし誰といつすれ違ってもおかしくないじゃん?事実こないだもレイジに絡んでるサーシャ見かけたし、念には念を入れて対応策考えとかなきゃ」
 「リョウさん裏切り者ですしねえ。今まで賢く逃げ回ってたけど、会場でつかまえられたら言い逃れできませんね。ナイフで顔切り刻まれてどの棟の誰だかわからなくされたうえに裏通路に死体遺棄が妥当スか」
 「僕は常に利用価値のある人間の味方だよ」
 人聞きの悪いビバリーに飄々とうそぶく。こないだは好奇心に負けてサーシャとレイジについてったけど、監視塔の一件以降サーシャとの邂逅はできるだけ避けたいのが本音だ。蛇のように執念深いサーシャならレイジに敗北したのは僕のせいだと逆恨みしてるだろうし、見つかり次第ナイフで喉かっさばかれるのは確実。
 いや、それだけじゃない。
 「こないださ、ユニコ取り戻しにきたヨンイルにうっかりバラしちゃったんだよね。いつだったか、ビバリーが囚人の個人情報データベースハッキングして呼び出した資料あったでしょ?アレに掲載されてたサーシャの生い立ちを」
 「リョウさん口軽すぎ」
 「仕方ないじゃん。ヨンイルすごい怒ってたし、ケツの穴に指つっこんで奥歯がたがた言わせただけじゃおさまりそうになかったし……サーシャの秘密教えたげるからカンベンしてよ、ね?っておてて合わせて命乞いしたんだよ。東京プリズンに四人っきゃいない自分と肩並べるトップの生い立ち、気にならない方が嘘だもん」 
 「人の生い立ち話本人の承諾なくぺらぺらしゃべってデリカシーに欠けます、反省してください」
 「はあい、反省します」
 ビバリーに叱責され、反省するふりで舌を出す。ヨンイルはおしゃべりだから今ごろは別の人間にサーシャの生い立ち話が伝わっててもおかしくないけど、まあ過ぎたことを悔やんでもしょうがない。サーシャにバレたらと考えるとおっかないけど、要はバレないよう上手く立ちまわればいいんだ。大丈夫、要領よく逃げ回るのは子供の頃からの得意技だ。これまでもこれからもしっぽ掴まれることなく上手く逃げきってみせる、まあ見てなって。
 画面で動きがあった。
 「!」
 先に動いたのは凱だった。
 睨み合いに焦れて特攻、猛然とロンに殴りかかる。おたけびを発して突進した凱が大きく腕を振りかぶりロンをぶん殴ろうとするが、すばしっこいロンは敏速に反応。顔面ぶん殴られる寸前に軌道を脱し、難なくかわす。反感を持った凱が次々にパンチをくりだすが、ロンは物怖じせずこぶしを見極めて軌道を読んで右へ左へと素早く移動する。
 「やるね」
 口笛を吹く。前からすばしっこいヤツだったけどこの一週間で格段に動きがよくなった。やればできる子じゃないか、と感心した僕の隣じゃビバリーが「イエア!」と興奮してる。眩い照明に晧晧と映えるリングにて、凱を相手にロンは健闘してる。レイジとサムライには劣るとはいえ凱は東棟で三番目に強い男だ。こぶしが威力を発揮する肉弾戦ではサムライをも上回ると一部じゃ噂される。その凱を相手に、試合開始十分が経過しても一発も貰わず逃げ回ってるんだからロンも大したものだと拍手を贈りたくなる。
 ま、逃げ回ってるだけじゃ勝てないけど。
 悪戯心が芽生え、ビバリーの肩をつっつく。
 「どっちが勝つか賭ける?」
 「賭けになりませんよ」
 「どっちが勝つか一緒に言ってみる?せ―の、」
 「「凱」さん」
 ぴたりと声が揃った。ロン残念。予想に反してなかなかやるねと見直されてるはいるけど期待はされてないロンが不憫で忍び笑いをもらせば、画面の中で歓声が爆発する。
 「?」
 なにが起こったんだと身を乗り出せば、画面の中じゃ予想外の事態が起きていた。素早い動きで凱を振りまわしていたロンが、凱が腕を振りかぶり体勢を立て直すまでの時間差につけこみ反撃に転じ、凱の鳩尾にこぶしをめりこませていた。抉りこむような一撃に顔を苦悶にゆがめ、よろけた凱に肉薄して今度は顔面にパンチをお見舞いしようとする。
 まさか、決着?
 「そりゃないっしょ、凱の勝利に3万賭けた僕の立場は!?」
 「そりゃないっスよ、凱さんの勝利に1万5千賭けた僕の立場は!?」
 ビバリーと同時に立ち上がり、パソコンを揺さぶって文句を言う。万一凱が負けたら大損だ、冗談じゃない、僕の三万円を返せと怒鳴りかけたその時だ。
 鳩尾の打撃に耐え、足腰踏ん張った凱が憤怒の形相で顔を上げる。好戦的にぎらついた目が殺気を放ち、一気呵成に凱の間合いにとびこんだロンが「しまった」という顔をした時は既に遅く、その右頬にこぶしが炸裂。
 ロンの体が軽々吹っ飛んだ。 
 ロンと凱の体格差は歴然、それこそ大人が子供を相手にしてるようなもんで体重も倍は違う。小柄なロンなんか鉄拳の一撃で脳震盪を起こしたっておかしくない。凱のパンチの威力は絶大で、画面越しに見てる僕にも総毛立つ迫力が伝わってきた。
 凱が一矢報いたことにより中国人多数派の会場は大いに盛り上がり、「いいぞ凱、生意気な半半に目に物見せてやれ!」「台湾人はクズだ、クズはクズらしく死んでろ!」と嘲笑に沸く。
 ロンの味方は少ない。
 「王様がついてりゃ心強いだろうに」
 ほんのちょっとロンに同情する。レイジの姿はどこにもなく、ロンはひとりぼっちで戦ってる。唇の端に血が滲んだ悲痛な顔で、負けず嫌いの本領を発揮して唇を噛み、強気な眼差しで凱を睨みつける。
 『無簡単』
 小声でロンが呟いたが、何て意味だかさっぱりわからない。台湾語は範疇外だ。
 「ちょ、勝手にいじんないでくださいよ!」
 「ボリュームおっきくするだけだよ。ズームアップはどうするんだっけ」
 ビバリーの抗議を無視し、キーに指をすべらす。見よう見真似でキーを叩いてみたけどカメラが遠隔操作できずに当惑した僕に激怒したビバリーがパソコンを両腕に抱え込む。
 「汚い手でマイラバーを蹂躙するな、ロザンナは僕の指じゃないと感じないボディなんス!」
 僕の魔手からいとしのロザンナを庇うようにひしと抱きこんだビバリーの懐から何かが落下。
 驚愕のあまり言葉を失う。
 ビバリーが懐に隠し持っていたのは、銃だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051106003627 | 編集

 画面越しの歓声がにわかに遠のき、現実感が褪せる。 
 「……なあに、ビバリーの股間をおしあげてたこの黒くて大きくて固い物体は」
 ビバリーの足元に落下したのは黒光りする拳銃、派手なリアクションでパソコンを抱え込んだ拍子にズボンにさしてたのが落ちたものらしい。僕もあ然とした。なんでビバリーが銃を持ってるんだ、拳銃なんか一体全体どうやって何の目的で手に入れたのさと当惑する。
 「ビバリーの人脈広いのは知ってたけど、銃まで手に入れられるなんて驚きだ」
 床にしゃがみこみ、おそるそそる指を触れてみる。ビバリーの体温でほんのりあたたまった固い鋼鉄の感触。メタリックに輝く銃身を慎重な手つきで掴み、拾い上げる。ずっしりとした手応え、意外と重い。鉄でできてるんだから当たり前か。銃を見るのは初めてじゃないけどさわるのは生まれて初めてだ。当惑が冷めればお騒がせな好奇心が疼きだし、生まれて初めて手に持った銃の感触がたのしくてあちこちべたべたさわってみる。最初はおっかなびっくりだったのが徐徐に大胆になり、安全装置が働いてるのを確認してから銃口に人さし指を突っ込んで片目をくっつけて覗きこむ。
 闇だ。
 円筒形の闇がずっと奥まで続いてる。
 「誤解っスよリョウさん、裏ルートで仕入れたわけでも盗んだわけでもありません!拾っただけっス!」
 「拾ったってどこでさ。銃なんて物騒なモノそこらへんに落ちてたらすごい目立つと思うけど。東京プリズンの囚人ならすさまじい争奪戦を繰り広げるね、銃の不法所持や銃刀法違反でつかまったガンスミスやガンフリークも多いことだし」
 僕の手から銃をひったくったビバリーが唾をとばして抗弁する。
 「先週のペア戦で、リョウさん追っかけてバスからおりたとき足にぶつかったんスよ。バスの下をすりぬけたみたいなんスけど、こんな物騒なモンそのまま放っとくわけにもいかないんでつい持ち帰っちゃったんです」
 ビバリーの証言を整理するとつまりこういうことだ。ひとり勝手に先に行っちゃった僕を「仕方ないなあ」と追いかけてバスから下りたビバリーの足に、バスの下をすりぬけた銃がぶつかった。混乱を極めた人ごみでは落とし主など皆目見当つかず、かといって意外と責任感が強く心配性なビバリーはこんな物騒な物を放置したら確実に血が流れると予想して反射的にシャツの下に隠してしまった。ズボンに銃を突っ込んだビバリーは今日に至るまでの一週間、僕に気取られることなく自然に振る舞ってたんだから演技力と度胸の良さに脱帽する。
 「話はわかった。けどさ、なんで一週間たった今も後生大事に持ち歩いてるわけ?身近の看守にワケ話してとっとと返せばいいじゃん」
 「冗談言わないでください、そんなことしたら何故僕が銃持ってたのか疑われて最悪独居房送りっス」
 ……言えてる。東京プリズンの看守は囚人を信用してない、仮にビバリーが馬鹿正直に落し物を届け出ても「誰から盗んだんだ」とあらぬ疑いをかけられるに決まってる。正直者は馬鹿を見る。東京プリズンだけじゃなく世間サマでも通じる常識だ、覚えとこうね。
 持て余し気味に銃をいじりながら苦悩のため息をつくビバリー。その顔色は冴えず、一週間も隠し事を続けたせいで心労が募ってるのがよくわかった。
 「冷静に考えてみれば銃を持ってる人間は東京プリズンにひとり、副所長の安田さんだけっス。だったら安田さんに直接返すべきなんスけど神出鬼没だしまたいつ会えるかわかんないし……第一、盗んだとかスったとかあらぬ疑いかけられたらいやじゃないスか。どうしようどうしようと悩んで顔色青くなっちゃって」
 「大丈夫、黒いまんまだよ」
 うんざりしたビバリーとその手の中の銃を見比べながら推理を働かせる。先日、ビバリーの留守に僕を訊ねた鍵屋崎はなんと言った?安田の落し物をさがしてると言った。先週ペア戦が行われた地下停留場で副所長の安田がある大事な物を紛失したと。
 安田の紛失物は銃だ。間違いない。
 確信する。安田がなくし物が銃なら鍵屋崎が必死になるのも道理だ、囚人でごった返した地下停留場で銃を紛失するなんて上の立場の人間にあってはならないとんでもない不祥事で、ことが公になれば安田はまず間違いなくクビで副所長の椅子を誰かに明け渡さなければならない。今なら鍵屋崎のあせりが手に取るようにわかる。眼鏡越しの思い詰めた目で、真剣な面持ちで、暴力も辞さずと僕の両手を壁に縫いとめた鍵屋崎の剣幕を思い出し、口元に意地悪い笑みが浮かぶ。そりゃ強硬手段に訴えたくもなる、一刻も早く銃を見つけなければ安田は失職を免れない。
 あの鍵屋崎が自分を顧みず手段を選ばず、人の為に力を尽くすなんて変われば変わるもんだ。いや待て、自分が役に立つと証明して副所長の好感度を上げようとしたのか?打算的で気に入らない。副所長に贔屓されれば、人間のクズと唾吐きかけられる親殺しでも東京プリズンで生きやすくなる。
 それが目当て?
 「さすが天才、頭が回る」
 感心した口ぶりで鍵屋崎を揶揄し、パソコン画面に一瞥を投げる。画面の隅っこ、金網越しに試合を見守る鍵屋崎は当然僕の嫌味なんか気付きもせずサムライと並んでる。そうかわかった、鍵屋崎が安田の銃をさがしていたのは善意じゃない、本当の動機は安田に贔屓されたいからだ。副所長を味方につければ怖い物なし、食事中に肘ぶつけられたり足ひっかけられたりしてトレイをひっくりかえさずにすむ。
 気に入らない。
 ああ、なんてむかつくんだ。心強い用心棒がいるくせにこのうえまだ不満で味方を増やす気?サムライだけじゃ物足りないっての?贅沢な。
 画面の隅じゃ鍵屋崎とサムライが物静かに隣り合ってる。口を開かずとも信頼の絆で結ばれていることが明白な画で、二人の間にもはや距離は存在しない。鍵屋崎は独りじゃない、自分の為に体を張ってくれる頼りになる友人がいる。
 僕とは違う。
 「!あ、」
 「ゲームしない?」
 会場が盛り上がり、ビバリーの注意が逸れた一瞬の隙をつき、銃を奪い返す。虚空に手をのばしたビバリーが銃を取り戻そうと片膝立て、その眉間に銃口を突き付ける。
 ビバリーが息を飲み、硬直。裸電球の光が届くところと届かないところで陰影の濃淡ができた床に座りこんでビバリーと向き合う。僕の顔はきっと、裸電球の光にぼんやり浮かび上がって何を考えてるかさっぱりわからない微笑みをたたえてることだろう。
 「ゲームってまさか」
 「ロシアンルーレット」
 ビバリーの死角で弾倉を回し、弾丸を排出する。カチリ、と金属音を鳴らして弾倉が回転。片方の手のひらに弾丸を握りこみ、片方の手に力をこめ、銃口の圧力を増す。
 「悪ふざけが過ぎますよリョウさん……」
 「本気だよ僕は」
 ビバリーの喉がひきつり、生唾を嚥下する音がやけに大きく響く。ビバリーのびびりようが面白くて、興に乗って引き金を引く。ガチン。手応えむなしく撃鉄の音が響き、ビバリーの顔が青ざめる。今度は自分のこめかみに銃口を押し当て、ぎょっとしたビバリーをよそに引き金を引く。ガチン。はずれ。
 「お互いラッキーだ。弾丸はあと四発、頭蓋骨に穴が開くのはどっちだろうね」
 「リョウさんあんた……」
 信じられないものでも見るようにビバリーが目を見開く。そんな悪魔でも見るような顔しないでほしい。ビバリーが逃げられないよう、ちょっとでも身動きしたらぶっ放すよという脅しをこめて眉間に銃口をめりこませる。
 「むかし話をしようか」
 画面越しの歓声がここじゃない世界の出来事のように遠のく。画面の中、眩い照明が降り注ぐ正方形のリングではロンと凱が一対一の死闘を演じてる。本来ペア戦は二人一組で挑むルールだし、凱の側にも交代要員が控えてるんだけど当の本人は戦線離脱をよしとせず、自分ひとりでロンをぶちのめすことに執着してる。ロンもまた臆病風に吹かれて逃げ帰ることなくリングに立ち続けている。
 音声だけで会場の様子を探りながら、片手にグリップを握り締め、口を開く。
 「僕が外で売春して、お客さんとってた頃の話。クスリ欲しさの小遣い稼ぎがいつのまにか本業になって、僕は十歳で立派な男娼だった。まあ、客をとった場所が場所だからろくなヤツいなかったけどね。客の大半がぺドでサドの二重苦で僕もさんざんいじめられた。そん時の常連に渋谷を根城にしたマフィアがいた。売春窟経営したりチンピラにクスリをおろしてる裏社会の一員」
 今じゃ顔もろくに思い出せないかつての客との情事を反芻する。顔はぼやけてるくせに、好きな体位とかフェラチオでイッた回数とかはちゃんと覚えてる。ぺドでサドの二重苦を背負ったそいつは週に三回は安ホテルの一室を予約して僕を指名したわけだけど、年端もいかない子供をいじめるのが大好きなクズ野郎で、過去にはクスリ漬けにされて使い物にならなくなったガキが何人もいるらしい。
 「いつだったか、全部終わったあとにそいつが背広から抜いて見せてくれたんだ。本物の拳銃。指紋がつくからってさわらせてくれなかったけど」
 過去語りとともに鮮明に記憶が甦る。嗜虐的な笑みを浮かべた上半身裸の男が、悪戯半分に僕のこめかみに銃口を突き付ける。全裸でベッドに座りこんだ僕は、逃げも隠れもできずにただ震えてた。
 「客にしてみりゃ軽い冗談のロシアンルーレット。僕を全裸にしてベッドに座らせて、こめかみに銃口を突きつけ引き金をひく。ガチン、ガチン、ガチン」
 撃鉄が上がる音が耳にこびりついてる、こめかみにめりこむ固い銃口の感触も。引き金を引きながら客は笑っていた。最高の喜劇でも観るように口を弛緩させヨダレをたらして、頭のネジが一本二本はずれたようなけたたましい哄笑をあげていた。
 そして今、銃を握ってるのは記憶の中の男ではなく、この僕だ。ビバリーの眉間に銃口を押し当て、生殺与奪の権を掌握してるのはこの僕。他人の命を自由にできる優越感に酔いながら引き金に指をかける。
 「!!」
 ビバリーが固く目を閉じる。はずれ。緊張から安堵へ、恐怖から安息へと表情を塗り替えたビバリーをよそに自分のこめかみに銃口を移して引き金を引く。ガチン。弾倉が回り、ビバリーの顔筋が強張る。
 「あと二発でどっちかが死ぬ」
 「や、めましょうよリョウさん……」
 気弱に制止するビバリーの額に銃口を突き付ける。やめる?とんでもない、せっかく楽しくなってきたのにと舌なめずりをする。 
 「話の続き。先にロシアンルーレットを始めたのは客で、五発目もハズレだった。全弾六発。ということは、六発目の僕があたるのは確実。今とそっくりおんなじ状況だ」
 床にへたりこんだビバリーが膝で這うようにあとじさろうとするのを銃口で制し、片膝乗り出す。青白い液晶画面では試合が生中継され、地下停留場の賑わいが耳障りな雑音として漏れ聞こえる。裸電球の光熱は房全体を照らすにはあまりに乏しく、壁や床や天井の隅には埃っぽい闇が蟠ってる。
 怪物がひそむ深淵に似た不気味な闇。 
 裸電球の周囲だけ明るい房の真ん中に対座し、胡散臭い微笑とともに引き金を引く。ビバリーが下唇を噛み、俯く。弾は出なかった。五発目もはずれ、残り一発。額におびただしい脂汗を浮かべたビバリーが背骨を引きぬかれるような脱力感とともに尻餅をつく。安堵のあまり腰が抜けたらしい。上着の胸を喘がせ、呼吸を浅くするビバリーに鼻を鳴らし、自分のこめかみに銃をあてがう。
 「その客は残り一発の銃を僕のこめかみに突き付けた。僕はがたがた震えた。怖くて怖くて震えが止まらなくてなんでもするから許してと命乞いした。喉の奥までペニスをくわえこんで吐きそうになっても我慢するから、スカトロでもなんでも嫌がらないから助けてと涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして命乞いした。でも客は全然聞いてくれなくて、すごい楽しそうな笑顔で引き金を引いて」
 ガチン。記憶の中で聞いた鈍い音が耳によみがえる。
 その途端、股間から迸り太股をぬらした熱い液体の感触も。恐怖で頭が真っ白になり、腰が抜けて立てず、おしっこをもらした僕を見てそいつは大笑いした。湯気たてるシーツにへたりこみ、羞恥に赤面した僕は唇を噛んで俯くしかなくて、目が涙で潤んで視界が滲んで、だから客の顔が思い出せないのかと回り道の理解に至る。
 「残念、今度も僕の負けみたい」
 寂しげに微笑み、引き金にかけた指に圧力を加える。ビバリーが何かを叫び両手を広げて僕へと覆い被さる―
 『Stop!!』
 押し倒された衝撃に視界が反転した。 
 後頭部と背中が床に衝突、僕に馬乗りになったビバリーが指をこじ開けて銃を毟り取りおもいきり投げる。銃が壁に跳ね返る鈍い音。壁に跳ね返り、ベッドで弾んだ銃が僕の顔の横に落下する。僕の胴に跨ったビバリーが怒りに紅潮した顔で怒鳴る。
 『Fack,Fack you!!』
 両手で襟首を掴み、僕を引きずり起こしたビバリーが唾をとばしてがなりたてる。
 「あんたなに考えてんだ、頭おかしいんじゃないスか、自殺するつもりっスか!?ふざけんな、あんたが自殺したら脳漿かき集めるのは僕なんスよ、リョウさんの死体を処理班に引き渡すのなんかいやっス、僕の目の前で自殺されたら一生トラウマになります、冗談じゃない東京プリズン出てからも悪夢で付き纏われなきゃなんねーなんてお断りっス!!」
 意識がぼんやりして、ビバリーのお説教が子守唄みたいに心地いいのはきっと頭を打ったせいだ。僕に銃口を突き付けられたくせに、笑いながら引き金を引かれたくせに、なんでビバリーはこんな一生懸命になれるんだろう、僕なんかために一生懸命怒ってるんだろう?直接本人に聞きたい欲求を押し殺すのに苦労した。ビバリーは本気で怒っていて、目尻に薄らと涙さえ浮かべていて、僕が余計な口をきこうものなら横っ面張り飛ばしかねない剣幕だ。たった今自分が殺されかけたってのに、自分を殺しかけた張本人を心底心配して、身を呈して庇ってバっカじゃないか。
 本当にもう、救いようのないバカだ。
 「……マジになんないでよ、ビバリーてば。ほんの冗談。弾なんて入れとくわけないじゃん」
 「は?」
 襟首を掴まれ、息苦しく言い訳すればビバリーの目が点になる。握力が緩んだ隙にビバリーの手をふりほどき、皺くちゃの上着を手のひらで撫で付ける。
 「六発ともちゃんと抜いといた。引き金引いても弾なんかでるわけなかったの、最初から」
 割食って自殺する気なんかさらさらない、ビバリーを殺す気もない。抜かりなく全弾抜いたうえでロシアンルーレットを提案したんだからどっちも死ぬわけないのだ。悪ノリしたのは認めるけど鵜呑みにするビバリーも間抜けだ。まあ僕の演技にころりと騙されたんだと思えば悪い気はしない。
 反省の色などかけらもなく、しれっと取り澄ました僕の視線の先でビバリーがあんぐり口を開ける。ちょっと悪いことしたなと、今さら後悔の念が押し寄せる。
 それはそれ、これはこれ。
 そばに転がった銃を拾い上げ、愉快な想像を巡らす。
 「さて、この銃どうしよっか。東京プリズンには看守に恨み持ってる囚人がわんさかいるし囚人間でも争いが絶えないし裏に流せばお金になる……あっ」
 手の中から忽然と銃が消失。
 放心状態から覚醒し、正気に戻ったビバリーが慌てふためき銃を取り上げたのだ。
 「だからヤだったんスよリョウさんにバラすのは、ろくでもないことしか考えないんスから!決めた、この銃は安田さんに返します!リョウさんに銃渡したら確実に死人がでます、間接的にも直接的にも殺人行為に関与するのは良心の危機です」
 「そんなあ!つれないこと言わないで、お金は山分けするからさ」
 「駄目ったら駄目っス」
 ビバリーに断固拒否され、不服げに唇をとがらす。
 「安田に返すって具体的にどうすんのさ、副所長の執務室直接訪ねても入れてくれるわけないじゃん。犬と囚人お断りなんだからさ」
 「直接渡すのが無理なら信用できる人間にお願いすればいいだけっス」
 「信用できる人間なんて東京プリズンにいたっけ。地獄で慈善家さがすようなもんじゃない」
 「信用できる看守にはひとり心当たりがあります。囚人の人望厚く親切で気が利いて、僕が銃拾ったこと伏せてくれる素晴らしい看守サンが!」
 ビバリーの説明で誰だか予想がついた。そんな看守、東京プリズンにはひとりしかいない。なるほど、彼に銃を預ければ安全安心万全だ。銃は安田のもとに戻り、失職の危機は回避。
 「ま、いっか。金にできないのは残念だけど、鍵屋崎の思惑はずれてざまあみろだし」
 「?親殺しに何の関係が」
 「気にしないで、こっちの話」
 好奇心旺盛なビバリーにつれない返事をすれば、ロシアンルーレットに無理矢理付き合わされた意趣返しか、はいそうですかと素直に納得できないビバリーが「リョウさんあんたまだ何か隠してるんじゃ」と怖い顔で食い下がり―……
 その時だ、画面の中で異変が起きたのは。
 画面を隔ててもうるさいほどに歓声が膨れ上がり、異様な熱狂に会場が沸き、さかんに殴り合っていた二人のうち片方ががくりと膝をついた。
 先に倒れたのは、ロンだった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051105003744 | 編集

 「まずい」
 焦燥に身を焦がされ、呟く。
 「まずいな」
 サムライも同意する。
 状況は極めて不利だ。
 眩い照明に暴かれ、満場の注視を浴びたリングの中央では疲労困憊のロンが膝を屈している。序盤こそ持ち前の敏捷性を生かした素早い動きで凱を翻弄し、死角をとった攻撃で互角に渡り合っていたロンだが、逆上した凱が猛攻を仕掛けだして空気が一変した。レイジとサムライには劣るとはいえ凱は東棟三番手の実力の持ち主、傘下三百人の大派閥のボスに成り上がった男だ。一週間の猛特訓から生還したといえどロンがかなうわけがない。
 体格差が克服できない以上ロンに勝ち目はない。
 凱の猛攻開始から十数分、顔前で腕を交差させた防御姿勢を崩そうものなら骨に響く打撃を食らうため、ロンは一瞬たりとも気が抜けない。交差させた腕で顔面を庇った体勢から反撃に転じるのはむずかしい。防戦一方の窮地に追い詰められたロンをよそに凱の快進撃は続く、動体視力さえ追いつかない猛攻で右こぶし左こぶしを交互にくりだし顔面や腹部を狙う。一瞬でも反応が遅れ防御が綻べば凱の攻撃をまともに受けてしまう。
 そして遂に、ロンは一撃を食らってしまった。
 顔面にくる、と予想したパンチが鼻先をかすめるように軌道を変えて鳩尾に抉りこんだのだ。防御が間に合わず、急所を痛打されたロンは、額におびただしい脂汗を浮かべた苦悶の表情でその場に膝を折った。相当痛かったのだろう、腹に腕を回しリングに片膝ついた体勢からすぐには立ち上がれず、苦鳴を噛み殺すように唇を引き結んでいる。
 そんなロンに嗜虐心をかきたてられたか、ゆっくりと両手をおろした凱が残虐な笑みを浮かべ、へたりこんだロンのもとへ歩み寄る。苦痛の色濃い眉間の皺、ふさがりかけた瞼をこじ開け、朦朧とかすんだ目を凝らして自分を見上げたロンめがけて足を振り上げる。
 「!がっ、」
 ロンの肩を邪険に蹴り飛ばす。痙攣する腹を庇い、激痛に耐えてしゃがみこんだロンは受け身もとれず、背中から金網に衝突した。無意識に金網を握り締めた僕の手にも衝撃と震動が伝わる。視線の先、金網を背にずり落ちたロンはぐったり顔を伏せたまま動かない。
 気絶してるのだろうか?脳震盪を起こしてるのかもしれない。
 「もう終わりかよ。減らず口叩いたわりには大したことねえな」
 疲労に息を荒げた凱がロンの頬を平手で叩く。頬をぶたれてもロンは反応を示さず、金網に背中を凭せ掛け、無造作に両足を投げ出した格好のまま浅く肩を上下させるのみ。反応がないのに苛立ったか、グローブを放り捨てた凱がロンのヘッドギアを毟り取り前髪を鷲掴み、無理矢理顔を起こす。前髪を掴まれ、強制的に顔を起こされたロンの表情が激痛に歪んで抗議とも苦鳴ともつかないうめきが口から迸る。絶頂を迎えた女性のように喉が仰け反り、頭皮ごと引き剥がそうとでもするかのような手を振りほどこうと暴れるが、凱の怪力のまえでは無駄な抵抗でしかなく、ロンがもがけばもがくほど興を添えることになる。
 「薄汚い半半の雑種が生粋の中国人にかなうわきゃねえだろうが。いつの時代も雑種よか純血種が尊ばれるのが世の習いだ、てめえも俺たちに媚売ってケツ貸してりゃあ痛い目見ずにすんだのによ」
 「……おまえの頭に詰まってんのはツバメの巣か」
 前髪を掴まれ、顔を起こされたロンが苦しげに笑う。
 「ケツは出すもんで入れるもんじゃねえ、男にヤられるなんてごめんだ」
 「毎晩レイジとたのしんでるくせに今さら処女気取りたあお高いね」
 「……なんだと」
 凱の嘲笑にロンの目が据わり、生気がよみがえる。反抗的な目つきが気に入らなかったのか、片腕一本で軽々ロンの体を吊り上げた凱が勢いをつけロンの背中を金網に叩き付ける。ロンの体重を受け止めた金網がガシャンと撓み、周囲のギャラリーが距離をとる。金網に背中を預け、ひどく苦労しつつ上体を起こしたロンの眼前に立ち塞がった凱が手庇をつくり、芝居がかって大仰な素振りであたりを見まわす。
 「で、肝心のレイジはどこだよ。姿が見えねえけど、そろそろ飽きられて捨てられたのか」
 わざとらしく周囲を見渡す凱の姿に、金網越しのギャラリーから意地の悪い忍び笑いがもれる。片手を金網にひっかけ気力を振り絞り、何とか二本足で立ってるロンが唇を噛み締める。しっとり汗にぬれた前髪の下、気の強い猫を彷彿とさせる双眸に苦渋が滲む。
 「残念だったな、いとしの王様が応援にこなくて。寂しいだろ、哀しいだろ?王様がそばについてなきゃなんにもできねえもんな腰抜けのロンちゃんは、参戦表明したのもそばにレイジがくっついてたからだろ。王様にケツ貸す見返りに守ってもらってたのにポイッと見捨てられてこれからどうするよ、ええ?」
 「レイジは関係ねえ。今リングに上がってるのは俺だ」
 苦渋の滲んだ顔で吐き捨てたロンが、まっすぐ凱を見つめて深呼吸。 
 「お前に言いたいことがある」
 毅然と顔を上げたロンは、強い意志を宿した目をしていた。
 「刑務所で男のケツ追っかけて、看守に賄賂おくって気に入らないやつはリンチで殺って、三百人の子分にさん付けで仰がれて調子のって……それ、ガキに自慢できるか」
 「………」
 子供の話題をふられ、凱の顔色が豹変。にやにや笑いをひっこめ、険悪な形相に変じた凱にも怯まず、ロンは淡々と続ける。説教くさい内容とは裏腹に、その口調はどこか哀しげだった。
 「外にガキいるんだろ、ガキが今のお前見たらどう思うか考えてみろよ。なにやってんだよこんなとこで、まだ小さいガキほったらかしてケツ掘ったりレイジ目の敵にしたり……ばっかじゃねーか。親父が刑務所送りになったってだけでめちゃくちゃ恥ずかしいのに」
 「黙れよ半半」
 「東京プリズンで成り上がるよか先にガキに手紙書いてやれよ。待っててくれる家族がいるくせに何やってんだ本当に。ガキにバレなきゃなにやっても恥ずかしくないってか、タジマと手を組んで俺を罠にかけてレイジの足引っ張ろうが子供にバレなきゃ親父の威厳は損なわれないってか?はは、笑えるぜ凱。お前が鼻の下のばして俺のケツ追っかけてるあいだに刑務所の送りの親父もったガキが石投げられていじめられてんのに、」
 「黙れ半半、偉そうに人様の家庭の事情に口だししやがって。オスとみりゃ人間だろうが犬だろうがかまわずヤりまくる台湾の淫売の股から産まれたくせに」
 筋骨隆々の体躯に殺気を漲らせた凱が、爛々と目を血走らせて金網に縋りついたロンを罵倒する。
 が、ロンは黙らない。
 万力めいた怪力で下顎を掴まれ、苦痛と恥辱とが入りまざった顔をギャラリーに堪能されても、僕たち以外に味方のいない四面楚歌の局面で罵声と野次とを一身に浴びても引き下がろうとしない。どんなに侮辱され罵倒され唾吐きかけられてもリングを下りようとせず、奥歯に力をこめた強情な顔つきでキッと前だけを見続ける。
 大胆不敵なロンに凱がたじろぐ。自分が睨みつければ誰でも目を逸らすのに、小柄な体格のロンに物怖じせず睨み返され動揺してるのだ。眼光の威圧にあとじさることなく、凱の目をまっすぐ見つめ返してロンが言う。
 「お前みてえなクズ親父に持ったガキが可哀想だ。どんな最低な親だっていなけりゃほんのちょっと寂しいって感じるんだよ、会いてえって思う一瞬があるんだよ。ガキがちっちぇえならなおさらだ。お前のガキ匙だって満足に持てねえじゃんか。匙もろくすっぽ握れねえガキほっぽりだして何やってんだ中国人、食事の作法に厳しいお国柄のくせに」
 「うるせえ」
 「後生大事にガキの写真持ち歩いてるくせに、ムショにぶちこまれてもガキのこと忘れられないくせに、子分どもの前じゃずいぶん強気なフリしてんじゃねえか。凱、白黒はっきりつけろよ。お前のイチバンはなんだ、レイジをぶっ倒して東のトップになることか、今ここで俺をぶち殺して中国人のすごさを見せつけることか?違う、そんなの全部暇潰しのごまかしだ。東京プリズンじゃ他にやることねえから、ストレス発散の仕方他に知らねえから俺やレイジを目の敵にしてしつこくちょっかいかけてくるんだろ。聞かせろよお前の望み、レイジぶち殺して俺ぶち殺してそれで満足なんて笑わせるなよ、東京プリズンにいるかぎり永遠に満足なんかしねえよ!」
 「うるせえ!!」
 外に残した子供という急所をつかれ、完全に冷静さを失った凱がロンの横っ面を張り飛ばす。が、ロンは止めない。東京プリズン入所から一年半、毎日のように凱とその子分にいやがらせされた恨みを晴らすように怒号をぶちまける。
 血を吐くように必死な声音で、説教より説得にちかい真摯な響きで、凱に対する本音を文字通り体当たりでぶつける。
 「本当はガキがいちばん大事なくせに、ガキに会いたくてたまんねえくせに無理だからってあきらめて、俺にイライラぶつけて……腰抜けはどっちだ、縮んだ金玉犬に食わせちまえ!」
 『焦燥!!』   
 イライラする、と怒鳴った凱がロンの胸を突き飛ばす。
 はでな音をたてて金網に激突したロンがそのままずり落ちる。胸を強打されて息が詰まったらしい。上着の胸をおさえてうずくまったロンの様子が尋常ではなく、肋骨が折れたのではないかと危惧する。額に脂汗を浮かべ眉をしかめ、息遣いを整えようと喘息めいた呼吸をくりかえすロンの頭上に大柄な影がさす。胸を圧迫された激痛でいまだに立ち上がれないロンを挑発するように凱が笑う。手負いの獲物をなぶる快感に酔いしれた残虐な笑み。
 「降参か。リングで土下座して俺のモンしゃぶりゃあ半殺しで許してやる」
 「……てめえのモンなんかしゃぶったら舌が爛れちまう」
 片腕で金網に縋り、なんとか腰を上げた姿勢でロンが強がるが憎まれ口にも覇気がない。顔色は蒼白で呼吸は荒い。脂汗が冷えた額は蝋のように白く、べっとりぬれた前髪が両目に被さって視界を遮っている。
 前髪をかきあげるのさえ億劫なのか、立っているだけでやっとのロンに舌打ちした凱が尊大に顎をしゃくる。金網越しに子分に合図したのだ。
 「!」
 ガシャン、と耳障りな音が鳴る。ロンの背後、凱を応援していた東棟の住人がおもいきり金網を蹴ったのだ。金網に寄りかかり、束の間休息をとっていたロンは無防備な背中を蹴られ、くぐもった苦鳴とともに片ひざ折る。
 「卑劣な真似を」
 サムライが苦い顔をする。
 一発だけではない。二発三発四発と蹴りは連続して金網に衝撃が走り、金網に凭れ掛かったロンは後頭部といわず肩といわず背中といわず靴跡の泥にまみれてゆく。背中を起こせばいいと頭ではわかっているが体が言うことを聞かないのだろう、指一本自分の思うとおりにならない苦境で、意識が混濁したロンは力尽きて座りこんだままだ。
 「格好わりいな半半」
 「あぐっ、」
 凱の子分が金網越しに蹴りを入れ、ロンの体がぐらりと傾ぐ。
 「お前ごときが凱さんに勝てるわきゃねえだろ」
 金網に肩で寄りかかるロンの右肩をスニーカーの靴底で蹴り付ける。
 「レイジの女なら大人しく守られてろ、試合にしゃしゃりでてくんじゃねえ。目ざわりなんだよ」
 「っ、ふ」
 蹴り。
 「台湾人は淫売くせえって本当だな」
 「あっ」
 蹴り。
 「ほら、早く土下座しろよ。そこに這いつくばって凱さんの黒くて太くて固いモノ喉の奥までくわえこんで俺たちたのしませてくれよ。ゲロ吐いたらゲロも食わせるからな」
 「かほっ、」
 蹴り。
 もはや何発食らったのかわからない。蹴りを食らうたびに右へ左へとロンの体が傾いで金網に衝突し鈍い音をたてる。僕は今この目ではっきりと目撃して確信した。東棟の囚人の殆どは凱の味方で、ロンを応援する物好きは大穴狙いの賭博師を除いて僕らしかいない。凱を贔屓する囚人の大半は中国人だが、東棟の台湾人もロンを庇うような言動はこれっぽっちも見せず、むしろロンがボロボロになるほどに仲間内でつつきあい愉快そうな笑い声をあげる。右から左からロンに蹴りを入れ、口汚く罵倒する囚人たちの不快さに断言する。
 「僕の認識は誤っていた。これは一対一の試合じゃない、実質三百対一の公開リンチだ」
 台湾と中国の血が混ざったロンは、どちらでもありどちらでもなく、どちらからも歓迎されない。
 台湾人が憎い中国人は混血のロンにあたり、中国人が憎い台湾人はロンにあたる。どちらも東棟における多数派である中国人と台湾人が直接ぶつかれば流血の惨事に発展するが、台湾からも中国からも厄介者扱いされるロンをいやがらせの標的にするかぎり両者間の不干渉が保たれる。
 「スケープゴート、か」
 生贄の羊。いやな言葉だ。しかし、現在のロンの境遇をあらわすのにこれほど的確な名称もない。リング外の囚人ですら、凱の号令で一致団結して無抵抗のロンを嬲っている。頭を蹴られ肩を蹴られ背中を蹴られ、ロンの体で蹴られてないところなどもうありはしないというのにそれだけでは飽き足らず、背中を蹴られたロンが前のめりに倒れてリングに突っ伏せば、頭上に水が降り注ぐ。
 「誰が気絶していいって言ったんだよ」
 金網越しにペットボトルを振りかざし、ロンの頭上に水をぶちまけた囚人が哄笑すればつられたように周囲が爆笑する。頭に水をかけられ、服がびしょぬれになってもロンは立ち上がらない。僕の位置からでは気を失ってるのかどうかもわからない。 
 「武士道に反する」
 隣を見る。憮然とした面持ちのサムライが、力をこめ木刀を握り締め、朗々と声をはりあげる。
 「我慢できん、俺がでる。ロン、戻って来い」
 「聞こえるかロン、すぐに戻るんだ!このままでは負けてしまう、迅速にサムライと交代しろ」
 水たまりに突っ伏したロンが僕らの声に反応し、ゆっくりと顔を上げる。リングに手をつき、肘を立て、大儀そうに上体を起こす。虚ろに酩酊した目、痣と生傷だらけの顔は正視に耐えない痛々しさで、嬲り者という言葉の定義をこの上なく的確に体現していた。底を尽きかけた気力をかき集め、震える肘を叱咤し腕を伸ばし、罵声に耐えて上体を起こしたロンがぼんやりとこちらを見る。 
 意識が薄らぎつつあるらしく、瞼は半ばまで下りていた。頬の腫れが酷く、唇の端には血が滲み、前髪の先からはぽたぽた水滴が滴っている。
 「ロン、帰って来い!」
 『拒絶!』
 な、に?
 ロンに拒否され、当惑する。なにを言ってるんだロンは?正気を保ってるのが奇跡のようなぼろぼろの有り様で、まだ戦い続けることができると、まだ勝利をあきらめてないとそう言うのか。馬鹿な。実質三百対一で勝てる見込みなどありはしない、つまらない意地を張るのはいい加減にしろと金網を握り締める。
 「そんなボロボロの状態で試合を続行できるわけがない、サムライと交代すれば凱に勝てるかもしれない!選択を誤るな、100人抜きには僕たちの未来が賭かっている。目先の勝敗にとらわれず冷静に戦局を判断しろ、ここで負ければ100人抜きの目標は達成できず売春班に逆戻り……」
 「メガネとサムライはひっこんでろ!!」
 手の甲で顎を拭い、ロンが絶叫する。そんな大声をだす気力がどこに残っていたのか、小柄な体躯からは想像でもきない苛烈な声だった。
 「一度買った喧嘩を払い戻せるか。これは俺の喧嘩だ、だれがなんて言おうが絶対にリングをおりねえぞ」 
 ロンの目に火がついた。まだやれる、まだいけると口の中で呟き、ひどく時間をかけて二本足で立ち上がったロンがぬれた前髪の隙間から鬼気をこめた双眸が垣間見える。
 「レイジがいなくても戦えるって今ここで証明しねえと、俺は一生こいつらに馬鹿にされる。腰抜けの半半て笑われて足蹴にされる運命だ。はは、冗談じゃねえぞ。レイジに甘えて守られて、それがあたりまえの顔して一生通すなんて我慢できねえ。俺だって守りたいんだよ、自分以外の誰かを守りたいんだ、惚れた女とか将来できるかもしれないガキとか守りたいんだよ!」
 今にも崩れそうな上体を膝に両手をついて支え、危うい前傾姿勢をとったロンが自嘲的に笑う。
 「……東京プリズンにぶちこまれたら最後、こっから出られる可能性は低い。この先惚れる女も自分のガキもできないかもしれない。けど、ここに来て、家族じゃないけど守ってやりたい奴ができたんだ」
 「誰だ」
 うわ言のように呟くロンに凱が鼻を鳴らす。 
 居丈高に問われ、ロンが笑う。泣いてるような笑顔になったのは、切れた唇が痛んだせいらしい。
 「暗闇で泣いてるガキ」

 『コーラの空き瓶並べて倒すのだって遊びに見せかけた訓練だよ、的に弾あてる初歩訓練。ガキの頃からそんなのばっかり。暗い部屋に閉じ込められて耳鍛えたり……』
 数日前、青空の下に寝転がって聞いたレイジの台詞がよみがえる。
 暗い部屋に閉じ込められた子供の頃のレイジ。
 暗闇の中で泣いてる子供。
 そうか。
 そういうことだったのか。

 「自分ひとり守れないやつが自分以外の誰かを守ろうとしても説得力ねえよ。だからこの試合は勝たなきゃ意味ねんだ、俺ひとりの力でお前倒して自分納得させなきゃ意味ねえんだ、お前を倒して自分の身くらい守れるって証明しなきゃ泣いてるガキを暗闇からひきずりだすこともできねえ。俺はずっと暗闇のガキにびびったままで、ずっとぎくしゃくしたままで……」
 誰と、と言わなくてもわかる。
 これは、ロンの賭けだ。自分ひとりの力で凱を倒し試合に勝利することで、ロンは他ならぬ自分自身にレイジに怯える必要などないと納得させたいのだ。現在のレイジにはかなわなくとも、暗闇の中でひとり膝を抱えた子供を守れるくらいには強くなったと証明したくて勝ち目のない戦いを挑んでいるのだ。
 公私混同もいいところだ。
 本当に、ロンは救いようのない馬鹿だ。今この場にいないレイジのために、目の周りに痣をつくり頬を腫らし唇に血を滲ませ、全身擦り傷だらけで必死になって。
 本当に、馬鹿だ。
 「どこへ行く鍵屋崎」  
 「同房の人間が満身創痍で戦っているのに姿を見せない薄情者の捜索だ。用心棒はついてこなくていい、ロンが再起不能になった場合にそなえ待機してくれ」
 不審げなサムライに命令し、肩を並べて試合を傍観してるホセとヨンイルとを見比べる。
 「僕がいないあいだロンを見ていてくれ。誤解するなよ、べつに彼を心配してるわけじゃない。ただ彼に昏倒されると後が面倒なだけだ。彼が負ければ100人抜きが達成できず僕たちは売春班に逆戻りだ、ロンの敗北という最悪の事態を回避するために早急にレイジを連れ戻す必要がある。僕は目に見えない絆や信頼関係の概念には懐疑的だが、あんな男でもいないよりはマシなはずだ」
 「言い訳はええからはよ行ってこい」
 ヨンイルが苦笑する。 
 「きみが提案しなければ吾輩が捜索に赴くところでした。ボクサーとセコンドは切っても切り離せない関係、ロンくんが今いちばん会いたい人間がセコンドにいなければ意味がありません。不在中の応援はお任せ下さい。おっと、その前に」
 ホセが気取った手つきで黒縁メガネをとり、柔和な微笑みを浮かべて金網の向こう側を見る。肩をぶつけあい金網にしがみついてるのは、ロンをしつこく蹴っていた凱の子分だ。
 「お行儀良く観戦できない子にはお仕置きも辞さないのが吾輩のルールです」
 黒縁メガネをズボンの尻ポケットに収納したホセが、物静かに金網を迂回し、凱の子分のもとへ接近。その後ろ姿を見送り、僕へと向き直ったヨンイルが苦笑を上塗りする。
 「ホセ、ああ見えて意外と気が短いんや」
 事態は一刻を争う、ぐずぐずしている暇はない。ヨンイルに別れを告げ、サムライに背を向けて走り出した僕の耳に、ホセに鉄拳制裁を下された連中の悲鳴がとびこんでくる。
 「因果応報だ」
 肩越しに振り返れば、惨劇の現場を目撃したサムライが口の中で般若心経を唱え、片手を立てて拝んでいた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051104003858 | 編集

 レイジはどこだ。
 天井の蛍光灯は不規則に点滅し、コンクリむきだしの壁は殺風景な灰色で床には埃が積もっている。荒廃した裏通路を片っ端から覗きこみレイジを捜す。いない、ここにもいない。どこにもレイジの姿が見当たらずにあせりと苛立ちが加速する。
 レイジとサーシャが淫らな行為に耽っていた裏通路はどこだ?
 レイジ捜索に奔走する間も時間は無為に過ぎ、会場の歓声がコンクリートの通路に反響してかすかに鼓膜に届く。ロンはまだ自分の足で立っているだろうか、意識を失っていないだろうか?気絶したならそれでもいい。
 ロンが意地を張ってリングに立ち続け、最悪嬲り殺されるよりはずっとマシだ。
 しかし現状では、ロンがサムライと交代しないかぎり僕らに打つ手はない。手と手を打ち合わせて交代の合図をしない限り途中退場は許されないのがペア戦のルールだ。
 はやくレイジを連れ戻さなければ、ロンが負けてしまう。
 脳裏に焼き付いてるのはどこまでも孤独にリングに立ち続けるロンの姿。
 殴られても蹴られても泣き言ひとつ言わず、切れた唇を食いしばり、強い眼光で前だけを見続ける孤高の立ち姿。
 『守ってやりたいヤツができたんだ。暗闇で泣いてるガキ』
 ボロボロで口をきくのを苦しいはずなのに、ロンはそう言って少し笑った。暗闇で泣いてる子供を助けたいと決意して、その為には自分が強くならなければと覚悟を決めて、凱に無謀な戦いを挑んでいるのだ。
 これ以上ロンをひとりで戦わせてはだめだ。ロンが今、いちばんそばにいて欲しい人間がそばにいなければ何の意味もない。レイジにはロンのそばで試合の一部始終を見届ける義務がある。
 誰が何と言おうが、ロンがいちばん信頼してるのはレイジなのだ。たとえ本人が否定しようが、僕にはそうとしか思えない。両者の間に何があったのかわからない。決定的な誤解を生む行き違いがあったのかもしれない、誤解が誤解を生んで完全に心がすれ違ってしまったのかもしれない。
 でもそれでも、ロンはレイジを嫌いになったわけではない。あのあきれるほどのお人よしが、一年半も身近にいた男をそう簡単に嫌いになれるわけがない。
 今ならまだ間に合う、試合終了までにレイジを連れ戻すことができれば…… 
 「!」
 慄然と立ち止まる。
 通路の壁に背中を預け、床に両足を投げだし、座り込む人影。距離は二十メートルほど離れていたがすぐに誰だかわかった。こんな時間にこんなところで暇そうにしてる男はひとりしかいない。生唾を嚥下し、慎重に足を踏み出す。一歩、二歩、三歩……緊張をごまかすため、頭の中で歩数をかぞえる。獰猛な本性を隠した豹に接近する人間の用心深さで歩を進め、対象との距離を縮める。
 レイジだった。
 上着は脱いだままで、上半身は裸だった。一糸纏わぬ上半身はなめらかな褐色で、猫科の獣のようにしなやかに引き締まっていた。造形美が人の形をとったような優美な肢体は同性の目にも魅力的に映る。通路に響く硬質な靴音も聞こえないのか、僕がすぐそばまで接近してもレイジは顔を上げようとすらしなかった。 ひんやり固い壁に背中を預け、両足を投げたポーズで俯いたまま、陰鬱に俯いている。だらしないポーズで座り込んだレイジを「行儀が悪い」と開口一番叱責しようとして、上半身に目がとまる。

 裸の上半身には無数の痣。

 淫らな行為の痕跡を留め、薄赤く発色した痣が首筋にも胸板にも脇腹にも至るところに散らばっている。これとおなじ痣を売春班でつけられたことがある。
 キスマーク。
 「……相当酷くされたみたいだな」
 レイジの上半身から目を逸らし、呟く。声に反応し、初めてそこに僕がいることに気付いたみたいに振り向いたレイジが「よぉ」と笑う。親しげで気安げで、いつものレイジと変わりない笑顔。
 猥褻な行為を見られたことに関してはなんら恥ずかしくないのか、そもそも羞恥心や倫理観や道徳観念が欠落してるのか、レイジは飄々と振る舞っていた。眼前に立ち塞がった僕を壁に凭れ掛かったまま仰ぎ見て、そろえた両手を突き出す。
 「キーストア、悪いんだけどこれほどいてくんない」
 レイジの手首は鎖で縛されていた。レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架の金鎖だ。そういえばサーシャの姿が見当たらないなと周囲を見渡せば、ため息まじりにレイジが言う。
 「サーシャは行っちまった」
 「鎖もほどかずに?」
 「手首縛ったまま放置プレイなんて難易度高いぜ」
 眉をひそめた僕の問いに笑いながら肩を竦めるレイジ。鎖が食いこんだまま長時間放置された手首は鬱血し、変色を始めていた。
 「……気持ちが悪い」
 「あん?」
 「裏通路で淫らな行為に及んだ後始末を誰あろうこの僕に、IQ180の天才たるこの鍵屋崎直にさせるとは貴様何様のつもりだ?
 僕は変態じゃないからSMには詳しくないし興味もないが売春班にいた関係で多少は知識もあるし経験もある。放置プレイとは通常、サディストとマゾヒストの合意で行われるものだ。貴様にそんなきわどい趣味があるとは知らなかった、軽蔑する。貴様の顔を見ただけで虫唾が走るし第三者的立場で放置プレイに関与して鎖をほどくのも不愉快だ。
 結論を言おう、貴様の存在自体が不愉快極まりない。即刻僕の前から立ち去れ、視界から消えろと命令したいが現在の状態を鑑みるに物理的に不可能な要求だ。
 なら選択肢はひとつ」
 踵を返し、足早に立ち去る。
 「帰る」
 「ちょ、おい待てかってに帰んなよ!せめて鎖だけでもはずしてくれよ、あと合意ってどこをどうすりゃそう見えたんだ、鎖で縛られたのは合意じゃねえっつの!聞こえねーふりすんなよロバの耳!」
 レイジの抗議を無視して廊下の途中まで戻り、そこで立ち止まる。一瞬の逡巡。答えはすぐにでた。怒りにかられて優先順位を間違えるなんていつでも冷静沈着が信条の天才にあるまじき失態だ。諦念のため息をつき、努めて平静を装いレイジのもとへ引き返し、その場にしゃがみこむ。きょとんとしたレイジの目は見ず、視線を合わせるのも避けて言い訳する。
 「……誤解するなよ。もし今この場に他棟の人間が通りかかったら、貴様は東棟の恥さらしだ。上着を脱いでだらしなく座りこんで気力をなくして、挙句にあちこちにキスマークをつけて手首は縛られて何をされたか一目瞭然の破廉恥な姿じゃないか!僕も一応東棟の人間だ、トップの醜聞は避けたい」
 それに、このままレイジを放っておくわけにもいかない。僕の本来の目的は会場に連れ戻すことであって、腑抜けたレイジを叱責することではない。こうしてる間も地下停留場のリングではロンがひとりで戦っている。試合終了までにレイジを連れ帰るのが本来の目的なのだから、叱責は後回しにすべきだ。
 理性で言い聞かせ怒りを冷却し、通路に屈みこむ。鎖と手首の間に指をもぐらせ、束縛を緩める。手首の皮膚に鎖が食いこんで痛いのか、レイジが顔をしかめる。結び目は固い。精神的にも肉体的にもレイジを束縛したいというサーシャの願望のあらわれか?
 「痛っ……」
 「我慢しろ」
 ロンの方がもっと痛い。サーシャとレイジが互いの体を貪り快楽に溺れているあいだも、たったひとり戦っていたのだから。手首と鎖が擦れる痛みにレイジが弱音を吐き、額にうっすらと汗が滲む。苦痛の色濃く吐息を噛み殺すレイジの表情は被虐の官能に酔い痴れてるようにも……何を言ってるんだ僕は、レイジの表情を観察してる暇があるなら手先に集中しろ。じれた手つきで鎖をいじり、ひどく苦労して結び目をほどく。
 ようやくほどけた鎖が手首をすべりおち、鈍くきらめきながら床に落下。
 「ふう。晴れて自由の身だ」
 鬱血した手首に吐息を吹きかけるレイジをよそにそばの上着を拾い上げ、投げる。頭に上着が被さったレイジを一瞥、そっけなく命じる。
 「服を着ろ。着たら行くぞ」
 「どこへ」
 上着に袖を通しながらレイジが聞く。
 「試合会場に決まってる。今リングではロンが戦っている。戦局は不利だ。ロンの相棒なら彼の試合を見守る義務が……」
 「行かねえ」
 ……なんだと。
 耳を疑った僕をよそに、上着を纏ったレイジが壁に背中を預けて薄暗い天井を仰ぐ。足元に落ちた十字架のネックレスにはもはや見向きもせず、何もかもどうでもいいと投げ出し、かすかに微笑み。
 「……何故だ」
 レイジの横顔に魅入られ、上の空で聞き返す。いや、本当に魅入られたのはその瞳だ。灰色の壁を通り越し、ここではないどこかを見ているように漠然とした目つき。
 色硝子の瞳に映るのは、茫漠と広がる虚無。
 「飽きた」
 片膝を立て、もう片方の足を伸ばし、レイジはさらりと言った。
 「飽きたんだよ、それだけのこと。ペア戦もロンもどうでもいい、俺がいなくても全部なるようになる。ロンにひっついてうざがられてどつきあいして、それが結構楽しくて、いつのまにか東京プリズンの生活にすっかり馴染んだ気でいたけどやっぱこういう生ぬるいの性にあわないんだわ、俺」
 レイジは淡々と言う。一抹の未練もなく、ひとかけらの感傷もなく、明日の天気の話でもするように現在の心境を語る。壁に背中を凭せ掛け、鬱血した手首をさすりながら、乾ききった笑顔で続ける。
 「笑顔のフリもしんどくなってきたし、ここらが引き際かなって思うんだ。お前だって気付いてんだろ天才、俺の笑顔がぎこちないこと。ロンはとっくに見破ってたみたいだけど……やっぱ俺、あいつのダチのフリするの無理。限界」
 頭が真っ白になった。
 「貴様、正気か」
 レイジは今、ロンの友人のふりをするのは無理だと、もう限界だと吐露した。友人のふり?僕の目に映るレイジは、とてもロンの友人のふりをしてるようには見えなかった。本当の友人のように見えた。青空の下に寝転がり、ロンが本当に大事だと打ち明けたはにかむような笑顔はにせものだったのか?ロンの前で見せた、あの子供っぽい笑顔すらも全部偽りの芝居だったと言うのか?
 胸裏で激情が荒れ狂う。行き場のない焦燥に苛まれ、白く強張るほどに五指を握り締め、俯く。
 「ロンは今、ひとりで戦ってる。君がいなくて不安がってる」  
 「うそつけ。俺がいなくて不安がるわけねーよ、安心するならわかるけど」
 「安心する?」
 不審げに問い返した僕へとレイジが微笑む。残酷なまでに優しい笑顔。
 「殺されずにすんで安心したろ」
 
 限界だった。

 理性が一片残らず蒸発し感情が爆発し、気付けばレイジに殴りかかっていた。腕を振りかぶりこぶしを握り固め、丸腰で座り込んだレイジの顔面めがけて殴りかかったはずが僕のこぶしは虚しく空をきり、腰が泳いだ。眼前から消失したレイジが尋常ならざるスピードで背後に回りこみ僕の両手首を腰の後ろで一本にまとめ抵抗を封じる。 
 後頭部の髪を掴み、壁面に顔を押し付ける。
 両手は腰の後ろに回され、レイジの左手でひとまとめに拘束される。獣じみた敏捷性を発揮し、抜群の瞬発力で僕の死角をとったレイジが耳元で囁く。
 「二度もおなじ手食うかよ」
 「意外と学習能力があるじゃないか。一度殴られて懲りたのか?」
 挑発的に口角をつりあげ、背中で両手首を押さえこまれた苦しい体勢から肩越しに振り返る。レイジは活き活きと笑っていた。欠伸しそうに退屈な演技をかなぐり捨て、獰猛な本性を曝け出し、壁に凭れるような前傾姿勢をとった僕の背中に体を寄せる。
 「……悪いが遊んでる暇はない、僕は必ず君を連れ帰るとサムライに約束した。ロンは今もひとりで戦っている。君たち二人の間になにがあったかは知らないし第三者の僕が関与するのは本意ではないが、」
 レイジの体温は高い。上着越しでも、火照った肌の温度が背中に伝わってくる。体と体が密着し心音が重なり、レイジの息遣いで耳朶が湿る。
 僕の説得がレイジに伝わるか自信はない。
 が、やってみる価値はある。
 乾いた唇を舌で湿らし、慎重に唾を嚥下し、無言のレイジに再度説得を試みる。
 「冷静になれレイジ、君は自暴自棄になっている。君とサーシャの性行為を目撃した直後に僕は吐いた」
 「ひとの情事見て吐くなよ、失礼だな」
 「黙れこの低能、天才の話は謙虚に最後まで聞け。自己分析の結果、ひとつの回答に辿り着いた。僕が嘔吐した本当の理由は、サーシャに体を許した君の姿に自分が重なったからだ」
 そうだ。レイジとサーシャの性行為を目撃した僕が逃げるようにその場を後にしたのは、サーシャに体を許したレイジの姿が自分と重なったからだ。銃の情報を入手するために僕は体を売ろうとした。性行為に対する抵抗がなくなり、自分の体を粗末にすることに抵抗がなくなり、自分で自分の価値を貶めていた僕と今のレイジはよく似ている。
 僕は馬鹿だ。
 レイジを見て初めて、それまで自分がしてきたことがどれだけ滑稽か自覚するなんて。
 自分で自分を傷つける自罰行為で、得られるものはなにもないというのに。
 喪失を喪失で埋めようとするから、心が虚無に呑まれるのに。
 「レイジ、自分に嘘をつくな。君が本心からロンをどうでもいいと思うはずがない。サーシャとの性行為に溺れてる間もロンのことが脳裏を離れなかったくせ、に……!?」
 熱い唇が首のうしろに触れ、言葉が途切れた。
 「知ったふうな口きくなよ」
 手首を掴む五指に握力がこもり、骨が軋む激痛にたまらず苦鳴が漏れる。何をされているんだ僕は、何をしているんだレイジは?僕の首の後ろに唇を這わせ、レイジが呟く。
 「ロンなんかどうでもいいって言ったろ。もう飽きたんだよ、懐かない猫かまうのは。一度きりの人生だ、ひとりでも多くの人間と一回でも多く気持ちイイことしたほうが楽しいってわかったんだ。だからサーシャとも試してみた。三回。アイツはやくて物足りなかったけど、鎖で縛られた俺にナイフ這わせて興奮してたぜ」
 「変態の寝言など聞きたくな、い」
 「よっく言うぜ。俺たちがヤッてるとこ見て勃ったくせに」
 「僕は不感症だ、反応するわけがない!」
 レイジの手を振り解こうとはげしく暴れるが、壁際に押さえこまれた体勢では無駄な抵抗でしかなく、暴れれば暴れるほどレイジを喜ばせることになる。熱い唇が敏感なうなじを愛撫し、甘く湿った吐息が漏れそうになるのを唇を噛んでこらえれば、壁に顔を埋めて快楽に逆らう僕の強がりが面白かったのか、レイジが低く笑う。 
 「きれいなうなじ」
 「!っあ、く」
 首の後ろを噛まれた。
 汗を味見する甘噛みではなく、鮮明な歯形を残す噛み方。執拗に首のうしろを舐めていたレイジが、空いた片手を前に回し、僕の上着の内側へともぐりこませる。手際良く上着をはだけた手が脇腹を撫で、ズボンの内側にもぐりこんで下肢を這い、巧みな動きで性感帯を探る。
 「男と男がヤッてるとこ見ても勃たないんだよな?じゃあ男の手でも勃たねーよな。本当かどうか試してやる」
 気持ちが悪い、吐きそうだ。骨張った手で太股をまさぐられ、嫌悪感が膨張する。レイジは何を考えてるんだ、ロンのことは本当にどうでもいいのか?ロンは今も必死に戦ってるのに、リングに立ち続けてるのに、レイジは今……
 「最低だ」
 憎悪で声がかすれる。僕は必ずレイジを連れ戻すとサムライに約束したのに、ロンに誓ったのに……
 「試合のことなんか忘れちまえよ、最高に気持ちよくしてやるからさ」
 上着の内側にもぐりこんだ手が愛撫のはげしさを増し、首の後ろを強く吸われ、恥辱に体が火照る。サーシャと三回もしたくせにまだ物足りないのかと罵りたいがその余裕もない。くそ、僕には何もできないのか?レイジを説得し連れ帰ることもできず、ロンを安心させることもできず……
 「そこまでだ」
 レイジの手がズボンにかかると同時に固い声が響く。
 「!」
 レイジの首に小揺るぎもせず木刀を突き付け、行為を中断した人物は他でもない……
 「退け下郎。直にふれていいのは俺だけだ」
 怒りをあらわにしたサムライだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051103004015 | 編集

 「退け下郎。直にふれていいのは俺だけだ」
 衣擦れの音もなく接近の気配すら感じさせず、唐突に現れたサムライがぴたりとレイジの首に木刀を突き付ける。殺気を凝縮した切っ先を首に擬され、レイジが目を細める。
 「用心棒到着ってか。遅いよお前、もう少しでキーストア俺にヤられちまうとこだったぜ。それとも」
 熱い手で素肌をまさぐられ腰が砕けそうになるが、壁に凭れ掛かった前傾姿勢でどうにかこらえる。気を抜くと声が漏れそうで、恥辱に顔を熱くし、下唇を噛み締める。サムライの眼前で他の男に体をまさぐられ、湿った声をだすなんてプライドが許さない。サムライの前で醜態を晒したくない一心で唇を噛んで快楽の波に逆らえば、後ろから僕の耳朶を甘噛みし、レイジが囁く。
 「キーストアが俺にヤられるとこ見たくてわざわざ遅れてきたの」
 サムライが木刀を一閃。
 服からサッと手を引き抜き、レイジがとびのく。一瞬反応が遅れていれば鼻を殺ぎ落とされていた。両手首を解放され、上着をはだけた格好で壁に寄りかかった僕を庇うように立ち位置を移動したサムライが木刀を正眼に構える。
 猛禽の双眸で燃えるのは、不吉な燐光に似た憎悪の炎。
 「汚い手で直に触れるなと言っている。レイジ、俺は怒っている。寄らば斬るぞ。さっさと会場へ戻れ、お前を待つ人間がいる場所へ」
 「俺を待つ人間なんていねーよ」
 僕を背中に庇い、レイジとわずか五歩を隔てて対峙したサムライが命令すれば、サムライの剣幕に降参したように両手を挙げたレイジが言う。
 「サムライどうして……、」
 上着の乱れを直し、サムライの背中に問う。
 「ロンが再起不能になった場合にそなえて会場で待機するよう命じたはずだが、何故ここへ」
 「ロンも心配だがお前も心配だ」
 僕に背中を向けたまま、憤然とサムライは言う。
 「それに……ロンが今いちばんそばにいてほしい人間は俺ではない」
 サムライの背後に立った僕にも、その全身から噴き上がる気炎が幻視できた。もう二度とレイジが手を出せぬよう、指一本でも触れられぬよう僕を背後に庇ったサムライが瞼を下ろして呼吸を整え、武士の覚悟をこめて木刀を握り締める。
 「レイジ、お前だ」
 木刀の切っ先が示した方角にはレイジがいた。普段の冷静さをかなぐり捨てたサムライの姿が面白いのか、自分に木刀を向ける度胸に感心したのか、必死の面持ちのサムライと相対したレイジが低く笑う。
 「なにを笑うことがある」
 サムライがうろんげに訊く。レイジの笑い声は止まない。空虚な笑い声がコンクリむきだしの天井と壁に反響してかえって静寂が深まる。ひとしきり笑い終え満足したらしいレイジが、笑みを薄めてサムライを正視する。
 「お前、うぜえ。ロンがどうなろうが知ったことかよ。さっきから何回おなじこと言わせんだよ、ロンには飽きたんだよ、俺が優しくしてやりゃ調子のってつけ上がりやがって、いつのまにかそれが当たり前のような顔して俺のダチ気取りで、挙句」
 レイジがスッと片手を掲げる。レイジの手の甲に走った赤い斜線。乾いた血が凝固した痛々しい傷痕を僕らに見せつけるように手の甲を翳し、レイジが言う。
 「飼い主の手をひっかくようなクソ生意気な野良猫だ。今まで優しくしてやったの全部無駄だったんだって、ダチの芝居も全部無駄だったんだって、最悪のかたちで思い知らされたんだよ。もうアイツの顔なんか見たくねえ。凱と戦いたいなら俺が見てないところでどうぞお好きなように、だ。煮るなり焼くなり好きにされちまえ」 
 「本気で言ってるのか?」
 「本気だとも」
 レイジが首肯する。嘘か冗談かわからない真意の読めない笑顔だが、ただひとつ断言できることがある。レイジは僕の説得を受け入れず、試合終了までこの場に留まり続ける気だ。会場に姿を見せロンを応援することなく、ロンの試合などどうでもいいと投げ出して通路の真ん中に座りこみ続ける気だ。
 レイジとロンの間の溝は、想像以上に深い。
 今もロンは満身創痍でリングに立ち続けてるというのに、この通路までは声援が届かず、ロンがどれほど凱に殴られ蹴られ嬲られボロボロになってもレイジが自分の足で会場に赴かない限りその姿は見れない。
 二人の心は完全にすれ違ってしまった。
 「―っ、」
 現在の会場の様子はわからない。ロンはまだ自分の足で立っているだろうか、降参してないだろうか?……まさか。負けず嫌いのロンが素直に降参するわけがない。意地でもリングに立ち続けているはずだ。ロンを安心させるためにレイジを呼びに来たのに結局僕はなにもできない。
 不甲斐ない。
 自分の無力に絶望する。僕も参戦表明したのに、レイジとサムライとロンと戦うとそう決意表明したのに、これじゃ相変わらず役立たずの足手まといのままじゃないか。
 レイジと睨み合うサムライの背後で俯けば、ふたりの中間の床で何かが光る。レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架のネックレス。サーシャに毟り取られ手首を縛られたせいで鎖がちぎれたネックレスが僕の視線の先、通路の床に落ちている。
 鈍くきらめく金鎖を見た途端、閃いた。
 サムライとレイジは五歩隔てて対峙したまま、どちらも微動だにせず睨み合っている。
 「嫉妬は見苦しいぜ」
 先に口を開いたのはレイジだった。嘲笑されたサムライがこの上なく不機嫌そうに眉根を寄せる。
 「うろんなことを言うな。誰が誰に嫉妬していると?」
 「サムライが王様にだよ。いまさらとぼけるなよ、俺にヤられかけたキーストア見て頭に血が上ってわけわかんなくなったって素直に認めろよ。意外と独占欲強いんだな、知らなかったぜ。『直に触れていいのは俺だけだ』って、それが本心か」 
 「……!」
 サムライの双眸に怒気が漲り、レイジに向ける殺気が殺意の域まで高められる。木刀を握り締め、いつでもレイジを斬り伏せられる正眼の構えをとったサムライがため息をつく。
 「そうだ」
 「キーストアを他の男の手に渡すのは我慢できね?」
 「そうだ」
 「キーストアが他の男のモノになるのは認められね?」
 「そうだ」
 「お前にとってキーストアって何」  
 ふざけ半分にレイジに問われたサムライが沈思黙考する。長い逡巡の末、毅然と面を上げたサムライは、刃に賭けて大切なものを守り通すと誓った誇り高い武士の顔をしていた。
 「刃に賭して守り貫く、大切な存在だ」
 刀は武士の命だ。
 そしてサムライは僕のことを、刃に賭して守り貫く大切な存在だと断言した。武士の命にも等しい存在だと宣言したのだ。
 「俺は鍵屋崎の友だ、鍵屋崎の刀だ。鍵屋崎を傷付けるものから鍵屋崎を守る一振りの刃、それこそ俺が東京プリズンで見つけた存在意義だ」
 あまりに気高いサムライの横顔に魅入られ、息を呑む。薄暗い裏通路にて、不規則に点滅する蛍光灯に暴かれてはまた闇に沈むをくり返すサムライの横顔は一振りの刀さながら鋭く研ぎ澄まされ、苛烈に信念を貫く刃の魂を眼光に宿した、まごうことなき武士のそれだった。
 「レイジ、お前にとってロンとはなんだ?俺が鍵屋崎を守りたいと思うように、以前のお前もロンを守りたいと思っていたはずだ。ロンがお前のすべてだったはずだ。何故そうも変わってしまった?」
 「うるせえよ」
 「ロンは今苦戦している。お前が試合を見届けてやらずにどうする、友人の窮地に駆け付けず薄暗い通路に座りこんで死魚の目で虚空を見つめる、王の本性がそんな腑抜けだとは思いたくはない。なにをぐずぐずしているレイジ、お前がいるべき場所はここではない、リングで孤独に戦うロンのそばだろう」
 「うるせえよ」
 レイジは笑いながら怒っていた。腰に手をあてた余裕のポーズで通路の真ん中に佇み、犬歯を剥いた獰猛な笑顔を覗かせ、木刀を構えるサムライを挑発。対するサムライは正眼の構えを崩さず、怜悧な眼光を放つ双眸でレイジを見据えている。
 「なあサムライ、おまえキーストアがいちばん大事だって言ったよな」
 「ああ」
 そしてレイジは言った。下卑た薄笑いを浮かべ、サムライを逆上させる一言を。
 「昔の女とどっちが大事?」 
 サムライの姿が消失した。
 と見えたのは錯覚で、実際には動体視力さえ追いつかぬスピードで床を疾走しレイジに肉薄。裂帛の気合とともに木刀を振り上げてレイジを斬り伏せようとするが、サムライをも上回る反射神経は持ち主たるレイジはこれを悠々と回避。頭を低めて木刀を回避、猫科の肉食獣の身ごなしで追撃をかわしてサムライの脇腹に蹴りを入れようとする。
 「サムライ!」
 僕の声に素早く反応したサムライが木刀で脇腹を庇いレイジの足をはねのける。嬉々と笑いながらサムライの攻撃をかわすレイジ、レイジに一太刀浴びせようとサムライが床を跳躍、入れ替わり立ち替わり狭苦しい通路で熾烈な攻防戦を繰り広げる二人をよそに頭を低めて駆け出す。
 床に落ちた十字架をすくいあげ、手にしっかりと握りこむ。
 今のレイジには何を言っても無駄だ。それより何より、今のレイジを無理矢理会場に連れ出してもロンが哀しむだけだ。レイジが活き活きと笑いながらサムライと戦っている今も、リングではもうひとつの戦いが進行中でロンは絶体絶命の窮地に追いこまれている。
 早くロンのもとへ帰らなければ。レイジを連れ帰るのが不可能なら、せめて僕だけでもついていてやらなければ。
 でも、サムライは?
 「行け、直!」
 僕の葛藤を見抜いたように、木刀でレイジの蹴りをさばきながらサムライが叫ぶ。木刀を持ったサムライと素手のレイジの戦いは現時点で互角、しかしこれから後どうなるかわからない。裏通路ではげしくやりあう二人を残し、僕だけ会場に帰還していいものかという逡巡が足を鈍らせる。
 「君はどうするサムライ!」
 「俺に気を遣うな、ロンが心配なら会場へ戻れ!」
 サムライに一喝され、決断する。サムライも心配だがロンも心配だ。が、サムライは強い。木刀を手にしたサムライなら素手のレイジと互角に戦えると信じ、より劣勢なロンのもとへ急ぐのが賢明な判断だと優先順位をつけて走りだし、通路の途中で振り返る。
 サムライに言い忘れていたことがある。
 通路の途中で急停止し、レイジと互角に渡り合うサムライに大声で叫ぶ。
 「僕も、君以外の人間にふれられるのはいやだ!!」
 僕に触れていいのはサムライだけだ。
 サムライの手のぬくもりは不快じゃない、サムライとの接触なら不快じゃないと伝えたくて通路に殷殷と反響する声を張り上げれば、レイジの回し蹴りを縦にした木刀で受け止めたサムライが虚を衝かれる。 
 次の瞬間、サムライが砕顔した。
 口元が綻び、目が和み、驚くほど優しい顔つきになったサムライに背を向けて再び走り出す。
 レイジの体温を帯びた金鎖を手のひらに握りこみ、地下停留場の方角へ向け、薄暗い通路を疾走する。
 頼む間に合ってくれとただそれだけを念じ、延々と続く灰色の天井と壁の通路を抜ければ会場の歓声が届く。近い。盛り上がる歓声に導かれて通路の出入り口から地下停留場へとびだし、人ごみを掻き分け突き進む。試合は今どうなってるのだろう、ロンは気絶してないだろうか、試合を続行できる状態なのだろうか?
 人ごみに溺れ、熱気にあてられ眩暈をおぼえ、照明に映える金網の檻を目印にそれでも足を進める。あまりに強く握りすぎたせいか、手のひらが汗ばんで不快だ。人ごみを掻き分け押しのけ、ひどく苦労して前へと進めば銀の檻が徐徐に大きくなり観客の頭越しにリングが見えてくる。
 ようやく辿り着いた。
 リングを迂回し、ヨンイルとホセの姿をさがす。いた。ヨンイルとホセを発見し、人垣の綻びからそちらへまろびでる。
 「試合はどうなってる!?」
 「おお、おかえりなおちゃん」
 のんきな声をだすヨンイルを絞め殺したくなる。ヨンイルを突き飛ばし、金網にしがみつく。眩い照明を浴びたリングには二人の人間がいた。
 凱とロン。
 ロンは僕が会場を離れる前に目撃した姿よりさらにボロボロになっていた。足元はふらついて、立っているのが不思議な状態だ。片方の瞼が腫れ上がり視界を圧迫してるせいか、何度も蹴躓いて観客の嘲笑を浴びてる。
 「ロンくんはよく頑張っています。たったこれだけしか味方がいない状況で、決して諦めず、何度でもつっかかっていって……むかしの吾輩を思い出します」
 しんみり呟いたホセのこぶしからは血が滴っていた。ロンを嬲った連中に鉄拳制裁を下した痕跡だ。
 こぶしから滴る血もそのままに、心配げにロンを見守るホセとヨンイルとを見比べる。
 「相談がある。五分、いや、三分でいい。ロンをこちら側に引き戻す時間をとれないか?」
 「三分でええんか」
 お安いご用やと気軽に頷いたヨンイルが金網を迂回、凱の側の金網に手をかけ足をかけよじのぼり頂上にまたがる。
 「お前の母ちゃんでべそー」
 ……頭が悪すぎる。今しもロンにとどめの一撃を見舞おうと腕を振りかぶった凱が、ヨンイルを振り仰ぎ大笑する。
 「馬鹿か韓国人、そんな古臭い手で挑発しようたって無駄だ!」
 「お前のガキ超ブサイク」
 「……なんだとこら、もういっぺん言ってみろや」
 ヨンイルが続けた一言で凱の表情が豹変、ロンにとどめの一撃を見舞うのを中断してヨンイルへと歩み寄る。ヨンイルが凱を引きつけてる隙にロンを呼び戻そうとさかんに金網を揺さぶる。
 「ロン、今のうちに戻って来い!」
 「交代はしねえぞ……」
 「大丈夫だ、サムライ不在につき交代したくてもできない現状だ!」  
 僕の説得に耳を貸し、ヨンイルと凱が喧々囂々のやりあいをしてるあいだにロンがこちらへ戻っくる。足をひきずるように引き返したロンを間近に見て、あまりに悲惨な風体に言葉を失う。瞼は青黒く腫れ上がり目は半ばほど塞がり唇には血が滲み、全身擦り傷だらけの酷い有り様だ。
 よく、こんなになるまで戦えたものだ。
 僕たちしか味方のいない四面楚歌の局面で、レイジが姿を見せない心細い状況下で、嬲り者にされ失笑を買い罵声を浴び揶揄を投げられ、それでもテンカウントをとる審判の声に反応して這いあがるように立ちあがり、何度でも凱に挑んで返り討ちにされて。
 ロンは、強いじゃないか。   
 ロンは強いと、さすがの僕でも認めざるをえないじゃないか。
 周囲の歓声が遠のき、僕たちのまわりだけ奇妙に静まりかえる。金網に凭れるように体を預けたロンが、荒い息をこぼしながら訊く。
 「……レイジのツラ見えねえけど、どこにいるんだ。会場にいんのか」
 半ば瞼がふさがりかけ、痛々しく腫れた顔でロンに仰がれ、胸が詰まる。唾を嚥下し、指をほぐし、言葉を吐き出す。
 「……レイジは理由があって来れないんだ」
 「理由?」
 「蛇に噛まれたんだ。今、医務室に血清をうちにいってる」
 「は……?東京プリズンに蛇なんて出んのかよ」
 「出たんだ」
 サーシャも蛇のようなものだ。執念深さでは蛇にも劣らない生き物だ。 
 そう自分に言い訳し、不審げな顔つきのロンに言い聞かせる。
 「レイジは蛇に噛まれ毒に汚染され医務室に運ばれた、だから会場には来れないが本心から君のことを心配してる。これを」
 網目に手首をくぐらせ、汗ばんだ五指を開き、ロンの眼前に十字架を突き出す。
 レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架。
 「これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと」
 僕は大嘘つきだ。
 レイジは本当は、そんなこと一言も言わなかった。ロンのことなどどうでもいいと、懐かない猫には飽きたとうそぶいて通路に座りこんでいただけだ。この十字架も僕が勝手に拾ってきただけで、レイジに託された物などではなくて……
 自分に殺意すら芽生える。何故こんなくだらない嘘をつかなければならない?
 嘘に嘘を塗り重ねるほど自分がみじめになるのに。
 理由は簡単だ。
 本当のことなど、言えるわけがない。
 『ロンがどうなろうが知ったことかよ。さっきから何回おなじこと言わせんだよ、ロンには飽きたんだよ、俺が優しくしてやりゃ調子のってつけ上がりやがって、いつのまにかそれが当たり前のような顔して』
 『俺のダチ気取りで』
 「……レイジ、他になにか言ってた?」
 ロンの声で我に返る。
 凱のほうを一瞥すれば、騒げど喚けど金網から下りてこないヨンイルに業を煮やして脱いだグローブを投げつけてきた。金網に凭れたロンに顎をしゃくり、手首をさしだすよう促す。言われるがまま、ロンがさしだした手首に金鎖を巻き付けてブレスレットにする。グローブを嵌めたままのロンに代わり、鎖が短くなった十字架をその手首に巻きつけ、結ぶ。
 手首に金鎖を回し十字架を結わえ付けてから、まっすぐにロンの目を覗きこみ、皮肉げに微笑む。
 「凱を倒したらご褒美のキスをしてやる」
 「……はっ。あいつが言いそうな寝言だな」
 おかしそうにロンが笑った。瞼が塞がり頬が腫れ唇が切れた痛々しい顔で、少し嬉しそうに、少し哀しそうに笑った。ロンの笑顔に胸が痛み、それ以上直視できずに俯けば、それまで金網に凭れていたロンが「よし」と上体を起こす。ロンが立ち上がると同時に手首で金鎖がきらめき、十字架が眩く光った。
 「試合再開です」
 立ち去るロンを見送り、ホセが呟く。ヨンイルの時間稼ぎに限界が訪れ、腹立ちまぎれに金網を蹴りつけた凱が憤然とリング中央へ戻ってくる。 
 「ロン!」
 金網をこぶしで打ち、ロンの背中に声をかける。
 「天才の言うことを信じろ。君は負けない、負けるはずがない。必ずや凱に勝ち、今日まで君を馬鹿にしてきた連中を見返すことができると断言する」
 目を閉じ深呼吸し、目を開く。
 僕はレイジの代わりになれないが、でもそれでも、僕にしかできないやり方でロンを励ますことができる。
 鍵屋崎直のやり方でロンの力になることができるはずだ。
 『龍是有男子気概的人』
 凱と対峙したロンに台湾語で告げれば、肩越しに振り向いたロンが驚いた顔をし、そして。
 『……謝謝』 
 周囲の目を気にしながら恥ずかしそうに礼を言った。
 「?なんておっしゃったんです」 
 「極秘機密だ」
 ホセの追及をそっけなくかわし、何食わぬ顔で眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「かっこいいぞ」なんて、口が裂けても言えない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051102004132 | 編集

 頭が朦朧とする。
 視界が半分翳ってるのは片目が塞がってるからだ。凱に殴られた瞼が倍に腫れて、瞬きもろくにできない。
 もし今この場にレイジがいたら、「男前が上がったな」と笑うだろうか。
 おまけにさっきから耳鳴りが止まない。鼓膜は破れてないと思うが耳鳴りがうるさくて試合に集中できない。周囲の歓声をかき消すほど大きい耳鳴りが頭蓋の裏側でわんわん反響して鐘の中に閉じ込められたような錯覚に襲われる。どうしちまったんだ俺、大丈夫か?答えはすぐにでた。大丈夫なわけあるか。自分で言うのも何だが二本の足で立ってるのが奇跡のような状態で、次に一発食らえば意識が吹っ飛んでぶっ倒れてもおかしくない。
 なんで俺こんなに頑張ってるんだろう?
 ささやかな疑問が脳裏を過ぎる。もういいじゃんか、リングを下りちまえよ耳の裏で誰かが囁く。こんなに頑張ってもどうせ報われないんだから、だれも誉めちゃくれないんだから、お前の人生これまでずっとそうだったんだからと耳の裏で執拗に囁いて誘惑する。大人しくリングを下りればラクになれると頭じゃわかってる、でも心が納得しない。もし今ここで尻尾を巻いて逃げ帰れば、凱と決着つけるまでリングを下りないと心に決めた自分自身を裏切ることになる。
 だから俺はリングに立ち続ける。
 凱に殴り殺されるのは怖い。小便ちびっちまいそうにおっかない。でも今ここで逃げ出したら俺は一生腰抜けの半半のままで、暗闇のガキにびびってレイジの笑顔を信用できないまんまで、レイジとの仲もずっとぎくしゃくしたまんまで、何ひとつも状況は変わらない。凱に馬鹿にされるのは懲り懲りだと心が吠える。台湾人のお袋と中国人の父親のあいだに生まれた雑種だからどうしたってんだ、満場を埋めたギャラリーの眼前で凱をぶっ倒して雑種の根性見せてやると意気込んでリングに上がったのだから、俺は絶対に引き返せない。無力に甘んじてレイジに依存して、挙句レイジを拒絶してあいつを傷付けて、それからレイジは変わってしまった。
 俺の目をまともに見なくなって俺と口をきかなくなって態度も変によそよそしくて、俺はもうレイジのダチでいられなくなった。
 レイジは前みたいに、俺に人懐こく笑いかけてこなくなった。
 それが、無性に哀しい。
 悔しくて歯痒くてやりきれなくて、俺はまたレイジの笑顔が見たいと渇望する。俺は何故あの時レイジの手を振り払ってしまったんだ?レイジは俺を助けようとしたのに、俺に手を貸して立ちあがらせようとしただけなのに、安全ピンで手をひっかかれて。
 俺は気も狂わんばかりにレイジに命乞いした。
 俺に怪物扱いされるのを心の奥底でなにより恐れていた臆病な王様を、人の形をした怪物として扱ってしまった。あの時のレイジの顔が脳裏に鮮明に焼き付いてる。
 『頼むから怖がらないでくれよ』 
 声の響きは哀願に似ていた。そして俺は、レイジを深く傷付けたと理解した。俺を怖がらせるのがいやで、俺に怯えられるのがいやで、俺の前じゃ能天気な笑顔を絶やさなかったレイジ。お調子者の芝居を上手く演じた王様。
 『殺さないでくれっ……』
 俺の一言が、レイジがこれまで隠してきたすべてを暴き出し、レイジがこれまで積み上げてきたすべてを無にしてしまったのだ。
 後悔しても遅い。レイジの心は完全に俺から離れてしまった。レイジの心を引き戻す方法を俺は知らない。謝ればいいのか、抱かせてやればいいのか?そんな単純なことで、本当に解決できるのか?
 俺は馬鹿だから他にやり方を知らなくて、さんざん回れ道をしなきゃ結論に辿り着けなくて、レイジを暗闇から引っ張り出す方法を考えた末に「自分が強くなるしかない」って決断を下して、今こうしてリングを踏んでる。凱にさんざん殴られ蹴られてボロボロで、視界なんか半分見えなくて、足元がふらついて吐きそうで、こんな情けない姿レイジに見られるの癪だからあいつが今ここにいなくてよかったかもって、ほんの少しだけ感謝する。
 ああ、何言ってんだ俺。本格的にやばいぞこりゃ。レイジのことなんか今どうでもいいじゃんか、雑念を蹴散らして目の前の敵に集中しろ。ぼやける視界に凱の姿をさがす。いた。俺の正面に立ち塞がってる。
 「い、いい加減降参しろよ……これ以上手こずらせるんじゃねえ……」 
 犬みたいに息を荒げながら、疲労困憊の凱が言う。全身汗みずくで、汗にぬれた囚人服がべったり胸板にはりついて分厚い筋肉で鎧われた胸板と六つに割れた腹筋が透けていた。
 「疲れたんなら代われよ」
 俺の声はひどくかすれていた。口の中が切れて、うまく発音できないからだ。凱の後方に顎をしゃくり交代を促せば、俺と対峙した凱がふてぶてしく笑う。
 「冗談言うなよ。これは俺の喧嘩だ、半半と中国人のどっちが偉いか誰の目にもはっきりわかるかたちで白黒つける歴史に残る一戦だ。半半をぶち殺す美味しい役目、他のヤツにくれてやったりするもんか」
 「負けず嫌いだな」
 「お互いさまだ」
 凱の挑発に負けじと無理して笑う。顔の筋肉がひきつる感覚で、限界にきてるんだなと再認識する。凱にぶん殴られた顔は腫れて口の中は切れて、足元に吐いた唾には血が滲んでいた。俺の体はそろそろ限界にきてる。ちょっと気を抜けばふっと意識が途切れて、そのまま暗闇に堕ちてしまいそうだ。一度暗闇に堕ちたら這い上がるのは困難を極める。
 俺がまだ自分の足で立てるうちに、決着をつけなければ。
 ぎしぎし痛む関節に鞭打ち、ホセに教え込まれたファイティングポーズをとる。付け焼刃のファイティグポーズじゃ虚勢にもならないが、鍵屋崎の隣で試合を見守っていたホセが頷いたから、それなりに様になってるんだろうなと安堵する。
 はは。こんなになってもまだ周囲に目を配る余裕があるなんて、変なの。
 「こいよロン。お前の歯ァ全部へし折って顔潰してやらあ。カワイイ顔が台無しで王様もがっくりだろうな」
 「ほざけ」
 俺を手招きして挑発する凱に頭に血が上り、リングを蹴って跳躍。大きく腕を振りかぶり凱の顔面に右拳を叩きこもうとして―
 「ぬりぃパンチだな」 
 凱の手で、パンチが受け止められる。グローブごと俺の手を握りこんだ凱が、手首で光る十字架に目をとめる。
 「なんだそりゃ、お守りか。苦しい時の神頼みなんて信心深くて感心感心。けどよ」
 「!」
 俺の右拳を握りこんだまま、懐にもぐりこむように急接近した凱が吠え猛る。
 「東京プリズンにゃ神様なんかいねえんだよ!!」
 視界が反転し、体が浮遊感に包まれた。
 凱のパンチを食らうのはこれで何度目かわからない。途中から数えるのをやめた。一塊の鉛めいたこぶしで容赦なく鳩尾を殴られ、胃袋が圧搾され、強烈な嘔吐感にむせる。胃液が逆流して食道が焼け口の中に酸味が広がる。
 衝撃。
 背中からリングに落下した。頭上に強烈な照明が降り注ぎ、白熱の洪水が網膜を灼いた。背中からリングに叩き付けられた衝撃で肺腑が圧迫され、限界ぎりぎりまで背骨が反った。そんな俺を見て、金網越しのギャラリーは爆笑した。爆笑の渦にのまれた会場の一隅で、鍵屋崎とホセとヨンイルと売春班の面々だけがただじっとこっちを見つめていた。
 鍵屋崎は無表情で、ホセは口の横に手をあて声援を送りながら、ホセは拳を握り締めて。
 売春班のやつらは心配そうに寄り集まって、口々に何か喚いてる。
 「ロン、立て!」
 「加油!」
 「加油!」
 「凱の子分にケツ裂けるまでヤられた俺たちの仇とってくれ!」
 うっるせえよ、勝手なことぬかしやがって……仇打ちなんかてめえでやれ、人任せにすんじゃねえ。
 そう言い返したくても、最後まで声が出なかった。
 痛い。全身が痛くて痛くて当分起き上がれそうにない。凱にぶん殴られたところや蹴られたところ、凱の子分どもに寄ってたかって小突かれたところが痛くて痛くてたまらなくて、全身の間接が激痛を訴える。
 
 リングに大の字に寝転がり、天井を仰ぐ。

 耳鳴りが止み、突然静寂が訪れた。 
 鼓膜が麻痺したのか、周囲の歓声も嘘のようにかき消され、物音ひとつしない異常な静けさに支配される。犬みたいに荒い息遣いと早鐘を打つ鼓動と、俺の耳に届くのはただそれだけ。いや、外側から聞こえてくるんじゃないから「耳に届く」ってのは変か。
 これは俺の体の中から聞こえる音だ、俺の体の中で共鳴して直接内耳に響いてるんだ。
 体が熱くて熱くてたまらない。今にも全身の血が燃焼し心臓が蒸発し頭が沸騰してしまいそうだ。髪は汗だか水だかでべとついて、上着は汗みずくで体にへばりついて薄い胸板が上下するのが見えた。

 無理だ。
 これ以上戦えねえ。

 起きあがるのがひどく億劫だ。このまま意識を失ってしまえたらどんなにラクだろう。所詮凱にはかなわない、一週間やそこらの猛特訓で強くなった気でいた俺が倒せる相手じゃないのだ。
 格好悪い、俺。
 リングに戻る前、鍵屋崎は言った。俺の手首に十字架を結わえ付け送りだし、台湾語で叫んだ。
 『龍是有男子気概的人』  
 鍵屋崎は嘘つきだ。
 格好よくなんか、ない。凱にやりたい放題やられて、凱の子分どもにさんざん小突かれて嬲り者にされた挙句頭に水ぶっかけられて晒し者にされて、からっきしいいとこなしじゃんか。
 凱をぶちのめるなんてでかい口叩いたくせに反対に自分がやられて、俺ひとりの力で凱をぶちのめしてレイジへの恐怖を克服するなんてうそぶいたくせに……
 ああ。
 もう全部、どうでもいいや。
 目を開けているのも億劫で、しずかに瞼をおろす。瞼の裏の暗闇に逃げ込めば、自分が今いる場所がどこかもわからなくなる。いやなこと全部忘れて、ここでずっと眠っていたい。
 痛いのも怖いのも全部忘れていっそ暗闇に溶けてしまえ、存在ごと暗闇に溶けてしまえば暗闇を怖がることもなくなる……
 「立て、立つんやロン!!」
 暗闇の向こうで誰かが叫ぶ。
 「気をつけろ、凱はとどめをさすつもりだ!早く起き上がって体勢を立て直すんだ!」
 誰かが叫んでいる。
 「いつまで寝ているつもりですかロンくん。吾輩のしごきに耐えに耐えぬいた地獄の一週間に比べればこんなのお遊戯も同然です、十秒以内に起き上がらないとグランド十周追加ですよ」
 誰かが叫んでいる。
 誰かが俺の名前を連呼してる。「加油」「加油」の大合唱。がんばれがんばれと、大の字に寝転んだ俺を一生懸命応援してる。うるさい、放っといてくれ。俺は寝たいんだ、頼む寝かせてくれ、呼び戻さないでくれ……
 暗闇の向こうで誰かが俺を呼んでる。俺を暗闇から呼び戻そうと金網を叩き地団駄を踏み絶叫する。うるさい、黙れ、しずかにしろ。こんなにうるさくちゃ眠れないだろと無意識に手を掲げ、鬱陶しい羽虫を追い払うように……
 
 手首で、涼やかな音がした。
 小粒の金鎖がふれあう涼やかな音、手首に巻かれた鎖と十字架が奏でる綺麗な旋律。

 『レイジは理由があって来れないんだ』
 『これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと』

 「……」
 ゆっくりと瞼を上げ、薄目を開ける。長く目を閉じていたせいか、光が淡く滲んだ。
 俺の手首には、レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架がある。
 レイジが鍵屋崎に託し、鍵屋崎が俺の手首に結んだ十字架。
 レイジの分身。
 「くそ………」
 勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、頑張ってくれ。
 願うなよそんなもん、信じるなそんなありえないこと、人の気も知らないで頑張れなんて言うんじゃねえ。レイジときたらどこまでいってもとことん無責任で自己中で、俺がボロボロになって戦ってるのに顔ひとつ見せねえで、鍵屋崎に十字架託して言伝頼んで……
 むかつくったらありゃしねえ。
 「………っ、う」  
 指を動かし、神経が死んでないか確認する。まだいける、まだやれる。口の中でくりかえし念じ、リングに寝転がったままあたりを見まわす。凱がすぐそばにいた。俺にとどめをさそうと近付いてくる。
 「凱、やっちまえ!」
 「頭蓋骨砕いて脳漿ぶちまけちまえ!」
 「殺せ!」
 「殺せ!」
 「殴り殺せ!」
 「蹴り殺せ!」
 「嬲り殺せ!」
 「ざんざん苦しませて殺してくれ!」
 凱贔屓の連中が金網に殺到し、唾をとばして訴える。鍵屋崎たちの声はもう聞こえない、凱を焚き付ける大歓声にかき消されて耳に届かない。あたりまえだ、俺の応援団と凱の応援団じゃ人数の桁が違う。こっちは両手で足りる数で、あっちは三百人だ。
 だからなんだってんだ?
 俺には鍵屋崎がついてる、ホセがついてる、ヨンイルがついてる、売春班のやつらがついてる。
 手首にはレイジの分身の十字架が輝いてる。
 俺は独りじゃない。それがわかっただけで十分だ、それ以上なにを望む?
 「再見、龍。東京監獄と地獄とどっちがマシか、ちょっくら見てきてくれよ」
 俺にはレイジがついてる。
 仲間がいる。
 不敵な笑みを浮かべた凱がリングに寝転がった俺の頭を片足で踏み、無防備な眉間に鉄拳を―

 今だ。

 「!?どわっ、」
 台湾語で、あきらめることを「死心」と書く。
 心が死ぬ。あきらめる。なんて的を射た言葉だと感心しながら猫のように身をよじり三回連続横転、眉間を外れた鉄拳がリングを穿ち凱が狼狽した隙に跳ね起き、口で紐を緩めたグローブを即座に投げ捨てる。
 「糞が……まだ死んでなかったのかよ、ロおおおおォおおおン!!」
 逆上した凱が鉄拳に殺意をこめ、猛然と突進。すさまじい剣幕で猛進してくる凱から目を逸らさず、グローブを脱いだ手に十字架を握り締め、その瞬間を待つ。
 凱との距離が限界まで狭まるその瞬間を。
 来た。
 怒涛の足音が鼓膜を叩き凱の鼻息が顔を撫でこぶしの風圧を感じたその瞬間、しっかり目を見開き凱の太股の位置を見極めて右手に握りこんだ十字架をおもいきり容赦なく振り下ろす。
 濁った絶叫が響き渡った。
 凱の太股に刺さった十字架の先端からじわりと血が滲み出す。
 レイジが肌身はなさず身に付けていた十字架を凶器に変え、その先端で容赦なく太股を抉れば、凱の動きが一瞬止まる。
 太股を抱えて身悶える凱は完全に無防備で、十字架を手放した俺が流れる動作で片足振り上げたのも見過ごした。
 「知ってるか、凱」
 付け焼刃のボクシングより、やっぱこっちのほうが体に馴染んでる。
 流れる動作で振り上げた片足にスピードをつけ、俺の全力を注ぎ込んだ回し蹴りを凱のこめかみに見舞う。脳に衝撃が伝わるこめかみを狙って全力の蹴りを叩きこんだ甲斐あって、太股を庇って身動きとれない凱はそのまま吹っ飛んだ。もろに回し蹴りを食らった凱が濛々と埃を舞い上げてリングに沈み、大の字に寝転がる。脳震盪を起こしたらしく口から泡を噴いた凱の頭上を覗きこみ、言う。
 「雑種はしぶといんだぜ。台湾人の根性と中国人の執念を受け継いでるからな」   
 凱が倒れる瞬間を目撃し、リング周辺に沈黙が落ちた。
 まさか信じられない、そんなアホなという驚愕の表情を浮かべた囚人たちの中に見慣れた顔をさがす。
 鍵屋崎がいた。ヨンイルがいた。ホセがいた。売春班のやつらもいた。こっちを指差して、興奮しきった様子で何か喚いてるのは……ルーツァイとかいう子持ちの売春夫だ。
 ルーツァイの隣のホセに視線を移せば、俺にむかってぐっと親指を突き立て、満面の笑顔を湛えてた。
 ホセの笑顔を見た途端、安心して気が抜けて、体がぐらついて。
 ゴングを抱えた審判がこっちに駆けて来て、テンカウントをとる間は何とか踏み止まっていたが、もう限界だ。
 瞼が下りる直前に目撃したのは、ゴングを十回鳴らし終え、俺の方を向いた審判の顔だった。
 「勝者、ロン!!」
 審判が下した判定に歓声だか怒号だかが爆発し、俺は今度こそ気を失った。
 リングに倒れる間際手首の鎖がかすかに鳴って、脳裏にレイジの顔が浮かんだ。
 俺がよく見慣れた、俺がいちばん好きな、人懐こい笑顔だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051101004303 | 編集
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