ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

 試合終了のゴングが鳴った。
 怒号と歓声が入り乱れる熱狂の中心、正方形のリングでは凱とロンが倒れている。ロンの回し蹴りをこめかみに食らい脳震盪を起こした凱と力尽きて昏倒したロンに降り注ぐのは野次と罵声。「マジかよ!」「こんなのってアリかよ、鉄板だと思ったのによ」「凱に二万円賭けた俺の立場はどうなんだよ」「大損だぜ」と自己中極まりない理由で金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、意識不明の凱とロンとに抗議する囚人をよそに売春班の面々はお互い肩を抱き合い狂喜している。
 「やった、ロンが勝った!」
 「売春班の底力思い知ったか!」
 「もう誰にもタマなしのカマ野郎なんて言わせねえぞ!」
 「半半、おっとロンには足向けて寝れねえな!」
 滂沱と歓喜の涙を流す売春班の面々の隣ではホセが笑顔で拍手している。ヨンイルは感心したように口笛を吹き、僕はといえば驚愕のあまり言葉も忘れ呆然と立ち竦む。
 ロンが凱に鳩尾を殴られ、大の字に寝転んだ時はもう駄目かと思った。金網越しに見守っていた僕でさえ敗北の確信を強めたのだから、周囲の観客さえ誰一人としてこの逆転劇を予想できなかったはず。僕の声にも反応せず、大の字に寝転んだまま凱の接近にも気付かないように見えたロンが最後の力を振り絞り捨て身の反撃に転じた結果、圧倒的優勢だった凱はこめかみへの一撃で脳を揺さぶられて昏倒して試合続行不能となり、全身擦り傷だらけでボロボロのロンが奇跡的勝利を掴んだのだ。
 しかしこの結果もロンの機転、凱の懐にとびこんで太股に十字架を刺す行為なくしては実現しなかった。 僕に託された十字架を手のひらにしっかり握りこみ、凱の懐にもぐりこむと同時に力の限り振り下ろし太股に突き立て、凱の動きが止まったその一瞬に流れるような回し蹴りに移ったロンが鮮明に目に焼き付いてる。終盤はボクシングではなくただの喧嘩だが、ロンにはそっちの方が性にあっていたらしい。
 「人には向き不向きがあると吾輩ロンくんを見て痛感しました。にわか仕込みのボクシングより長年身についた喧嘩の勘が物を言うのですね。今回の結果はロンくんの特性を存分に生かした勝利と言えましょう」
 一人前のボクサーを育て上げるのには時間が足らなかったが、ロンの勝利を見届けたホセはひどく満足げだった。保護者的立場の人間としては、ロンの成長が純粋に嬉しいのだろう。
 が、ロンに拍手を送りながらもこう呟いたのを聞き逃さない。
 「残念無念、一人前のボクサーを育て上げるには時間が足りませんでした。かくなる上は一ヶ月といわず一年かけてみっちりボクシングの基礎から応用まで叩きこみダイヤモンドの原石を磨き上げ……」
 「ロンは断ると思うがな」
 僕らの横をすり抜け、二人がかりで担架を抱えた看守がリングに上がる。両者とも意識不明で自力で退場できない状態であり、またロンの方はひどい怪我をしてるので、このまま担架に乗せられ医務室へ運ばれることになるのだろう。凱を回収した担架に続き、ロンを寝かせた担架が僕らの目の前を通りすぎる。
 僕はたまらず駆け出していた。
 何故駆け出したのか、言葉ではうまく説明できない。ただ、ぐったりと担架に横たわるロンを見たら胸が痛くなり、何か一言かけてやらねばならないような使命感にかられ、気付いたら走り出していた。僕に続き、ホセとヨンイル、売春班の面々がロンに駆け寄る。
 「ロン、大丈夫か」
 大丈夫なわけがないし、意識を失ってるのだから答えられるわけがない。片方の瞼が青黒く腫れ、痛々しい擦り傷を無数に顔に作ったロンの手元を覗きこみ、言葉を失う。
 意識を失ったロンは、それでも片手にしっかりと十字架を握り締めていた。
 二度と手放さないと決意をこめるかのように、指が白く強張るほどに十字架を握り締めたロンは、何かをやり遂げたように満足げな表情をしていた。
 痛々しい擦り傷さえなければ、良い夢を見てるようにもとれる平和な寝顔。
 『レイジは理由があって来れないんだ』
 『これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと』
 自分がついた嘘が、空々しく残酷に耳に響く。
 ロンは馬鹿だ。
 僕の嘘をすっかり信じきって、この十字架がレイジに託されたものだと思いこんで、試合が終わった今も手に握り締めてはなさない。凱の血で先端が赤く変色した十字架を見下ろし、俯く。
 そんな僕をよそに、売春班の面々がぞろぞろと担架を取り囲む。
 「よくやったな、ロン」
 「おつかれさん」
 「半半とか馬鹿にして悪かったよ、おまえすげえよ、あの凱に勝っちまうなんてよ!はは畜生、思い出しただけで涙と鼻水がいっしょにでてくる」
 「汚ねえなおい」
 「そういうお前だって目から水でてんじゃねえか」
 「心の汗だよ」
 「今まで馬鹿にしてごめんな、悪く言ってごめんな。許してくれ」
 「お前は売春班の誇りだよ」
 「ゆっくり眠って疲れを休めてくれよ」
 興奮した面持ちである者は目尻にうっすらと涙を浮かべ、ある者は滂沱と涙を流し、ある者は笑顔を湛え、口々にロンを称賛する。ぐちゃぐちゃに髪が乱れたロンの頭を親愛表現でなで、かきまわし、『一級棒!』『了不起』と惜しみなく最上級の賛辞を送る。
 「ロンくん、よく頑張りましたね。ああでもグローブ投げ捨てたのはいただけません、吾輩の汗と血と涙と闘魂が染みたグローブを粗末に扱った罰として元気になったらうさぎ跳び二十周です」
 本気か冗談か判別つかない発言をし、ロンの傍らに立ったホセがいとおしげに目を細める。黒縁眼鏡の奥の目は、教え子の成長をよろこぶ教師のごとく慈愛に満ちていた。
 「俺的にはボクシングで決着つけてほしかったけど、ま、贅沢言えへんなあ。やることやって真っ白に燃え尽きたんや、本人に悔いはないやろ」
 腰に手をあてたヨンイルが苦笑いする。
 最後は、僕だ。
 担架の傍らに立ち、ロンの寝顔を覗きこむ。瞼が腫れ頬が腫れ唇が切れ、二目ともつかない有り様だ。凱にさんざん殴られ蹴られたのだから当たり前だ。凱だけじゃない。この地下停留場に居合わせた客殆ど全員が敵という苦しい状況で、ロンは自分ひとりの力で勝利をもぎとったのだ。
 レイジがいなくても、ロンは強い。
 ある意味、レイジよりずっと強いかもしれない。
 「………」
 何て声をかけたらいいかわからない。ロンは気絶してるのだから、意識のない人間に声をかけるなど愚の骨頂だと冷めた考えもある。だがしかし、何か言わずにはいられない。 ロンに聞こえなくても届かなくても、称賛してやりたい。
 そして僕は、自分でも意外な行動をとった。
 ごく自然に、十字架を握り締めたロンの手に手を重ねる。最初は触れるだけ、徐徐に力をこめ、ロンの手を握る。おかしい、何をやってるんだろう僕は。東京プリズンに来た最初の頃はあれだけ他人に触れるのがいやでいやで仕方なかったのに、いつのまに自分から接触を試みるようになったんだ?
 サムライに触られるは不快じゃないと学習して心境の変化でも起きたのだろうかと自己分析しつつ、どうにも慣れないぎこちない手つきでロンの手を握り締める。
 人肌の体温が不快で、すぐに手を放したくなるんじゃないかと危惧したが、そんなことはなかった。
 いつだったか、僕が風邪をひいたときにずっとそばについててくれた、恵の手のぬくもりを思い出す。
 本当なら、ロンの手を握るべき人間は僕じゃない。今ここにいてロンの手を握らなければいけない人間は別にいる。
 でも彼がいないなら、僕が代役をつとめるしかない。
 ロンはしっかりと十字架を握っていた。今ここにいないレイジの代わりに。
 だから僕は嘘をつく。
 眠っているロンに、嘘をつく。
 担架の傍らに屈みこみ、ロンの寝顔を覗きこみ、レイジに成り代わってその手を握り、レイジの言いまわしを真似てささやく。
 『Congratulations.Goddess of victory smiled.』
 おめでとう、勝利の女神が微笑んだぞ。
 今の僕は鍵屋崎直ではない、と自己暗示をかける。鍵屋崎直ではない、鍵屋崎直ではない、今の僕はあの軽薄で自己中で薄情で尻軽なレイジだ。東棟の王様だ。軽薄な笑顔が似合う無敵の王様、ロンの試合にも姿を現さなかった薄情な人間、人けのない裏通路で今もサムライと死闘を演じてる男だと目を閉じて自分に言い聞かせる。自分を殺し自我を殺し、レイジになったつもりで薄目を開ける。
 今の僕は鍵屋崎直ではない。
 ロンの勝利を祝いに駆け付けた、レイジだ。
 レイジはロンに約束した、「凱を倒したらご褒美のキスをしてやる」と。それは僕がついた嘘で、レイジはそんなこと一言も口にしなかったが、僕には嘘をつき通す義務がある。
 あくまで嘘をつき通し、それが真実だとロンに信じこませる義務がある。
 ロンの寝顔を覗きこみ、そっと、その額に唇をふれる。
 ほんの一瞬、ふれるだけのキスをして唇をはなせば、安心したようにロンの指から力が抜けて十字架がこぼれおちた。僕の奇行に売春班の面々があ然とし、ホセとヨンイルが目を丸くする。
 片手で床に落ちた十字架を拾い上げ、もう片方の手でしつこく唇を拭い、立ち上がる。
 「……誤解するなよ、約束を守っただけだ。自分がついた嘘の責任は自分で負わなければな」
 ロンの顔の横に十字架をおく。僕にキスされた瞬間レイジを思い出したのか、気を失ってるはずのロンが複雑そうな顔をした。こそばゆいような、気恥ずかしいような、何ともいえない表情だった。
 僕の演技もなかなかのものだ。
 「くそっ、半半のせいで大損だ!」
 「あいつの勝利なんかだれも望んでなんかねえのによ!」
 怒号の方角に目をやれば、凱の勝利に賭けてたらしい囚人が憎憎しげにこちらを睨んでいた。憤然とこちらにやってきた囚人から担架を守るように売春班の面々が立ち塞がる。
 「てめえら、なんで俺たちがはるばる地下停留場まで出向いたと思ってやがる?生意気な半半が凱にケツ剥かれてぶっといもんぶちこまれてひんひんよがる姿見たくて地下停留場くんだりまで出向いてきたのに、こんなシケた結末認められるかってんだ!」
 「仕切り直しだ、仕切り直し!」
 「半半叩き起こしてもっかいリングに立たせろや」
 柄の悪い連中に怒号を浴びせられ、うんざりとかぶりを振る。人さし指で眼鏡のブリッジを押し上げ、憤怒の形相で僕らを包囲した囚人を冷静に見渡し、言う。
 「黙れ低脳ども。試合は既に終了した、いくら吠えようが結果は覆られない。ロンは自分ひとりの力と機転で凱に勝利したんだ。天才が断言する、ロンは君たちより遥かに上等な人間だ。君たちは劣等だ。僕はこの目で見た、ただのギャラリーに過ぎない君らが金網越しにロンを嬲る姿を。試合に出場登録もしてない君たちが横から手をだし足をだし挙句こうして口をだすさまは大変みっともない、見苦しさではモーツァルトに嫉妬するサリエリに匹敵する。いやサリエリと比べては故人に失礼だ、耳障りに喚き散らし金網を叩いて騒音を奏でる不協和音の集合体に騒音防止条例が適用できないのが残念だ」
 「なっ……、」 
 怒りで顔が充血した囚人のひとりに襟首を掴まれる。その手を見下ろし、冷然と言う。
 「汚い手でふれるな、反吐がでる。誰が僕にふれることを許可した?僕がふれる人間も僕にふれる人間も僕が決める、君はその対象外だ。まずは爪を切って最低三十回手を洗って精液の残滓をおとしてこい、話はそれからだ」
 「~!!てんめえっ、」
 逆上した囚人が僕めがけて腕を振り上げる、と見せかけ、逆の手に隠し持っていたペットボトルを担架めがけて投げつける。
 「!」
 まずい。
 してやったりという笑顔の囚人の視線の先、担架に寝かされたロンの顔面めがけ、水入りのペットボトルが落下し…… 
 木刀で弾かれた。
 水滴をまきちらし、落下したペットボトルが木刀のひと振りで投げ飛ばされ、投げた本人の顔面を直撃。悲鳴を発してへたりこんだ囚人の鼻先に木刀を突きつけたのはサムライだった。
 「お前にロンを非難する資格はない」
 宙に舞ったペットポトルを猛禽の視力でとらえ、たちどころに馳せ参じたサムライが、鋭い双眸で周囲を威圧する。
 「ロンは立派に戦った。ロンを侮辱する者は俺が許さん、いざ尋常に名乗りでろ」
 サムライの脅しは効果抜群だった。
 サムライの眼光に怯えた囚人がそそくさと退散し、人が刷けた。「カタナキチガイが」「親殺しふたりと半半ひとり、除け者同士美しい友情だな」と捨て台詞を吐いて立ち去る囚人には興味が失せ、担架のロンを一瞥したサムライがかすかに微笑む。
 「よく頑張った」
 一瞬目を奪われるほどに、柔らかな表情だった。
 「サムライ、レイジはどうした」
 レイジの姿がないことに一抹の危惧を抱きながら問えば、柔和な微笑から一転渋面をつくったサムライが答える。
 「あんな頑固者は知らん」
 そう言ったサムライが、不自然な角度に顔を傾げてることに気付きそちら側へ回りこんだ僕は驚愕した。
 サムライのこめかみが切れ、流血していた。
 どうしたんだ、という言葉が喉元まで出かけたのをぐっと飲み下す。どうしたんだなどと今更聞くまでもない、レイジにやられたのだ。木刀を片手にさげ、もう一方の手で尻ポケットから手拭いをとり、こめかみに押し当てればたちまち血に染まる。こめかみの切り傷に手拭いをあてがったサムライがため息をつく。
 「俺のやり方で説得を試みたがてんで聞く耳を貸さん。レイジのことは当分放っておけ、頭を冷やす時間が必要だ」
 「しかし……、」
 ロンが目覚めたらなんて言えばいいんだ?
 ロンが目覚めたとき、隣にレイジがいなければ不審がるだろう。そう逡巡しながら視線を揺らせば、人ごみの向こう、地下停留場に繋がる通路の出入り口に人影を発見。
 通路の出入り口に佇んでいたのは僕のよく知る男。
 両の耳朶に連ねたピアスと明るい藁束に似た色合いの茶髪という派手な外見が人目を引く男が、腕を組み壁に凭れた格好でじっとこちらを見つめていたように思えたのは目の錯覚だろうか。 
 眼鏡を外し、目を擦り、かけ直す。
 再びそちらを見たときには、既にその姿は跡形もなくなっていた。
 「どうした」
 「いや……僕の視力は致命的に低下してるらしい。この場にいるはずもない人間の姿を幻視するなど、あまりに都合がよすぎて笑えてくる」
 自嘲的にかぶりを振った僕の視線の先、売春班の面々に送られながらロンを乗せた担架が搬出される。ロンの出番が終了しても次にはまだ試合が控えている。ロンの試合に時間がかかり、あと二・三試合しか消化できないのがかえって好都合だ。
 残り二・三試合なら、レイジが帰ってこなくともサムライだけで何とかなる。
 「残り試合、しかと引き受けた。ゆるりと休め」
 地下停留場から担架に寝かされ運び出されたロンを見送り、サムライが律儀に首肯。出番を促すゴングが鳴り響き、片手に木刀をさげ戦場へ赴くサムライの背中に声をかける。
 「サムライ、『自分以外の男に体をふれさせたらお前を斬る』と言ったな」
 「そうだ」
 「やむをえない事情があって、どうしても体の一部をふれさせなければいけない場合でもか」
 木刀を握り締めたサムライがくるりと振り向き、怪訝そうに眉をひそめる。
 「体の一部とはどこだ」
 「たとえば唇とか」
 「言語道断だ」
 想像するのも不快だとサムライが吐き捨て、憤然と歩き出す。
 手拭いで血をとめたサムライが大股に歩み去るのを見送り、ため息を吐く。
 「まったく、狭量な男だ」
 ロンにキスしたことは僕の身の安全とサムライの心の平安の為に黙秘すべきだ、と僕は賢明な判断を下した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051031004411 | 編集

 暗闇にガキがいる。
 涙と鼻水で顔をべとべとに汚して、こりずに手で擦った瞼は真っ赤に炎症を起こして、変な泣き癖がついたしゃっくりをあげてる。
 レイジじゃない。レイジは茶パツで、このガキは黒髪だ。
 思い出した。これは俺だ。
 ここはお袋の寝室だ。
 俺が立ち入りを禁じられていたお袋の仕事場。この部屋にはいい記憶がない。お袋は薄情で、まだガキだった俺がお袋の姿が見えずに不安がって寝室に迷い込めば猫みたいに蹴りだされた。
 徐徐に記憶がはっきりしてきた。 
 寝室の隅っこで膝を抱えるガキは俺。これはそうだ、客の不興を買って煙草の火を押し付けられた夜のことだ。
 思い出して、思い出したことを後悔した。心の底から。なんで今ごろになってこんな昔のこと思い出すんだ、一生忘れてたほうがマシだった。ただそこにいたってだけで客の不興を買って煙草の火で灸を据えられた。
 理不尽な折檻だ。
 それより何よりやりきれないのがお袋がただ笑いながら一部始終を見ていたことだ。
 ああ、本当に俺なんかどうでもいいんだなと子供心に痛感した。お袋への憎しみとか恨みとか言い出したらきりがないが、その時俺はただ寂しかった。俺がどんなにお袋のことが好きでお袋に付き纏ってもお袋は振り向いてくれやしない、微笑みかけてくれやしない、頭をなでてくれもしない。
 寂しい。
 たったふたりきりの家族なのに、俺にはお袋がすべてなのに、お袋は時々俺を産んだことさえ忘れて俺がいることさえ忘れてしまう。お袋にとっちゃ本当にどうでもよくて、自分が連れ込んだ客に殴られようが蹴られようが煙草で炙られようがどうでもよくて、時々視界の端にちらつくうざいガキくらいにしか認識してなかった。蝿や蚊と一緒だ。視界に入らないなら何とも思わないが一度目につくと不愉快でしょうがなくて、邪険に追い払うか徹底的に無視するかの二択しかない。
 お袋に一度もかえりみられることなかった子供時代を回想し、気分が鬱々と滅入った。 ほんの少しでもお袋が優しくしてくれたら俺だってひねくれずにすんだとか、十代前半で池袋のチームに仲間入りして手榴弾で人間ふっとばさずにすんだとか、いまさら恨み言吐いてもしかたないが。
 そういえば、お袋はどこだろう。
 ベッドから豪快ないびきが聞こえてきた。ヤることヤってぐっすり寝入った客の隣にお袋がいた。ベッドの背板に背中を凭せ、上体を起こし、煙草を片手に暗闇を透かし見るお袋はあきれ顔だ。
 暗闇に仄白く浮かび上がるお袋の横顔は、相変わらず綺麗だ。
 記憶の中のお袋は年をとらない。十六か七でガキを産んで、この頃は二十代半ばにも届かない若さ。
 『いいかげんにしてよ。泣き声が耳について眠れないじゃない』
 蓮っ葉に紫煙を吐き、うんざりと言う。お袋の視線の先、部屋の片隅にはガキの頃の俺がうずくまってる。ため息をつき、灰皿で煙草をすりつぶす。さっさと下着を身につけたお袋がひたひたと暗闇をよぎる。
 足音に反応し、ガキが顔を上げる。
 ひどい顔だ。目は真っ赤に腫れて、頬は涙と鼻水でべとべとだった。鼻水たらした俺の前で立ち止まり、腰を屈め、視線を合わす。
 ぶたれる。
 とっさに身構える。もう習性になっていた。両手を頭上で交差させた防御の姿勢をとり、恐怖に身を竦める。俺がいつまでも泣き止まないから怒ったんだ、ぶたれるに決まってる、いや蹴られるかもしれない、どっちにせよ痛いのはごめんだ……
 衣擦れの音がした。
 おそるおそる目を開ける。お袋はこっちに見向きもせず、床に落ちた服を拾い上げ放り投げ、手探りでなにかをさがしていた。
 麻雀牌だ。
 数日前、客が忘れていったものらしい。おはじきに夢中な女の子みたいに麻雀牌をひとつひとつ摘み上げ、ためつすがめつしてから床に置く。下着姿でしどけなく横座り、縦一列に牌を並べる。
 『見なさい』
 牌を並べ終えたお袋がひどく真剣な表情で命じ、人さし指で先頭の牌をつく。
 カタカタカタ、と小気味よく連鎖して折り重なり倒れてゆく麻雀牌。俺はぽかんと口を開け、その光景に見入った。カタカタカタ……カタン。最後の一個があっけなく倒れ、床に転がった。 
 『すごいでしょう』
 お袋の声は無邪気に弾んでいた。悪戯っぽい笑顔につりこまれるように頷けば、興に乗ったお袋が再び牌を並べはじめる。累々と散らばった牌を両手でかき集め、小山をつくり、その中から厳選した牌を縦一列に並べ、指でつつく。
 カタカタカタ……カタン。
 小気味よく連鎖して折り重なり倒れてゆく麻雀牌。さっきとおなじ光景。
 ただ牌を並べて倒すだけの単純な遊びを、お袋は飽きもせずくりかえした。いつもみたいに短気を起こさず、癇癪を爆発させることなく、俺がのってくるまで辛抱強くくりかえした。いつのまにかすっかり心奪われ夢中になり、もっとよく見ようと身を乗り出す。涙は乾いた。しゃっくりも止まった。全部お袋の読みどおり。まんまとお袋の思惑にハマった俺は、自分から手を出し牌をかき集め、見よう見真似で並べてみる。
 お袋とふたり、黙々と牌を並べる。
 傍から見たら奇妙な光景だろう。女とガキが二人、目も合わせず口もきかず、無心に牌を並べてるんだから。 
 『あんた男なんだからびぃびぃ泣くのやめなさい。あれしきのことで泣いてたらこの先もっと辛いことあるわよ』
 俯き加減に牌を見つめ、お袋が呟いた。
 よく言う、とあきれる。俺が煙草の火を押しつけられても助けちゃくれなかったくせに、かばってもくれなかったくせに。恨みがましい目つきで睨めばお袋が苦笑する。
 『その目つき、あんたの父親にそっくり。子供身ごもった私を捨てて行方くらました中国人のろくでなしにそっくりだわ。血は争えないってほんとうね』
 おかしそうに笑ったお袋がふと真顔になる。
 『あんたはああなっちゃ駄目。女と子供捨ててどっか行っちゃう男なんてクズよ。惚れた女と子供くらいちゃんと守ってやりなさい』  
 伏し目がちに牌を並べながら、物憂げに呟く。
 しっとり濡れた切れ長の目は黒曜の輝きで、横顔は儚げで。
 『せっかくかっこいい名前もらったんだから、それにふさわしい男になりなさい。龍』
 お袋が名前を誉めてくれたのは、それが最初で最後だった。
 頭をなでてくれたのも、それが最後だった。 
 そうか。
 今ようやく思い出した。
 俺がああも麻雀牌にこだわったのは、それが唯一、お袋とのたのしい記憶だったから。
 お袋がガキの遊びに付き合ってくれたのは、後にも先にもそれ一度きり。俺をなぐさめるために何かしてくれたのもそれ一度きり。だから俺は五十嵐に「なにか欲しい物がないか」と聞かれたとき、真っ先に麻雀牌を挙げたのだ。たいして考えもせず、思いつくまま口にした言葉が漠然と記憶に残っていた麻雀牌で、でも何故麻雀牌なんか欲しがるのか自分でもわからなくて、実際手に入れて当惑した。
 俺自身、すっかり忘れていた。
 煙草の火で焼かれる激痛をなかったことにしたくて、あの夜の続きもなかったことにしていた。
 ああ。
 お袋に優しくされたことがあったのか。
 お袋に遊んでもらったことがあったのか。
  
 場面が切り替わる。
 俺の目の前で、裸の女が下着を穿いてる。裸の背中に乱れ咲いた青痣が痛々しい。俺に背中を向け、腕を後ろに回して器用にブラジャーのホックをとめる。おそろしく慣れた娼婦の手つきだった。
 『いいかげん別れろよ』
 どこかで聞いた声がした。
 聞いたことがあってあたりまえだ。これは俺の声だ。
 『あんなやつと付き合っててもいいことねえだろ。体じゅう痣だらけになって商売にもさしさわるだろ、すっぱり別れちまえよ。そのほうがいいって、絶対』  
 『お節介ね』
 鈴のような笑い声が耳朶をくすぐる。俺が好きな笑い声。ベッドに腰掛け、慣れた手つきで下着を身につけ、服を着替えてるのはメイファ。初めて寝た女、初恋の相手。まわりが敵だらけの環境でただひとり優しくしてくれた女。俺に同情して抱かれてくれたメイファが本当は誰を好きなのか、そんなのわかっていた。俺がどんだけ説得しても笑って流されて、決して聞き入れちゃくれないこともよくわかっていた。
 メイファが惚れてる男は別にいる。たとえそいつが短気で喧嘩っ早い酒乱でも、メイファはそいつにぞっこん惚れてて、俺と寝たのは同情で。
 メイファは優しいから、慰められるふりで、慰めてくれた。
抱かれるふりで、抱かせてくれた。
 メイファは以前、肋骨を折った。酒乱の恋人に酒瓶を投げ付けられたのだ。メイファの体には痣と生傷が絶えない。綺麗な色白の肌をしてるのに痣だらけで可哀想になる。
 メイファを助けてやりたい。
 正直、恋なのか同情なのかわからない。でも、このまま見捨ててはおけなかった。放っとけば近いうちにメイファは殺される。酒乱の恋人に酒瓶で殴り殺されるか蹴り殺されてしまう。これ以上メイファの体に傷をつけたくない、あんなくだらないヤツの為にメイファが哀しむところなんて見たくない。俺は女の泣き顔に弱い、泣かれるとたまらない。 
 メイファがもうこれ以上泣かずにすむように、守ってやりたい。
 もうこれ以上痣をつくらずにすむように、守ってやりたいのだ。
 『……別れ切り出すのが怖いなら俺から言ってやるよ』
 『そんな』
 『いいってべつに。チームに未練ねえし、きっかけさえありゃいつでも抜ける心の準備ができてる。最初からのけ者だしな、俺。中国人との混血なんか台湾人のだれも本気で信頼しちゃねえし、目つきとか態度とか俺のこと良く思ってねえなってわかるんだよ。抗争の時も敵の足止めとか損で危険な役回りばっかだし、どうせ捨て駒だろ。別にお前のためだけじゃない、チームに入った時から気に食わなかったんだよアイツ。何かと言えば俺のこと半半、半半てまともに名前呼んだ試しなし。酔っ払って頭からビールぶっかけられたこともあるんだぜ?まわりの連中もとめもせず笑ってるし、あんなくそったれたチーム喜んでぬけてやら』
 『謝謝。気持ちだけもらっとく』
 『謝謝じゃねえよ、拝托って言えよ』
 頭に血が上り、メイファの肩を掴んで無理矢理振り返らせる。無抵抗のメイファをそのまま押し倒せば枕元に髪が散らばる。
 『いいから、俺を頼れよ。あんなやつと一緒にいても傷付くだけでいいことねえよ、お前今までさんざん苦労してきたじゃん、痣だらけ擦り傷だらけで見てらんねえよ。女に暴力振るう男なんて最低だ、俺が殺してやる』 
 肩にかけた手からメイファの体温が伝わってくる。メイファは放心した顔つきで俺を仰いでいたが、ふいにその口元が綻ぶ。
 『ロンはやさしいね』
 仰向けに寝転がったメイファが、そっと手をさしのべ、頬を包む。メイファの手のぬくもりが頬に伝わり、胸が痛む。俺がこんだけ言ってもメイファは首を縦に振らなくて、情けない話もうどうしたらいいかわからない。俺にできることが何かあるはずなのに、メイファはやんわりと拒絶して、遠まわしに余計なことをするなと釘をさす。
 自分は今幸せだと、だから放っておいてくれと微笑するのだ。
 『なんでだよ』
 それでもなお、駄々をこねるガキみたいに食い下がる。胸が苦しくて、恨み言を吐かずにいられない。
 『なんで言うこと聞いてくれないんだ。なんでそんなにされてもまだ好きなんて言えるんだ。わかんねえよ』
 『ロンにも好きな人できればわかるよ』
 『わかんねえ』
 『わかるから』
 メイファがしずかに瞼をおろし、また開き、やさしい目で俺を見る。
 『殴られたら痛いよ。蹴られるのはやだよ。そんなことされたら怖くて怖くて、ああ、こんな人には絶対近寄れないもう今度こそおしまいだって心から思う。でも、駄目なの。もし私がいなくなったらこの人どうなるんだろうって考えると、別れられなくなるの。そんな顔しないで。わかってるよ、バカだって』
 『だったら、』
 『ロンにはいないの?ロンがいなくなったら絶対困る、って人が』
 虚を衝かれた。
 『そのうちできるよ、きっと。結構すぐかもしれないし数年後かもしれないしずっと先かもしれないけど、きっとできる。ロンがそばにいなくちゃ駄目って人が。たぶんその人と喧嘩することあると思うし、ひどいこと言われて頭にきたりひどいことされて哀しくなったり、そういうこともあるはず。でも、どんなにひどいことされても本当にその人がロンを必要としてるなら、ひとりぼっちにしちゃだめ。ひとぼっちなんて思わせちゃだめ』
 『私はひとりぼっちが怖い。だからどんなにひどくされてもあの人のそばから離れられない。逃げ場はないけど、それでいい。逃げ道用意して人を好きになるなんて卑怯だよ』
 好きな人をひとりぼっちにしちゃだめ、とメイファはくどいほとくりかえした。
 それがまるで、この世でいちばん大切なことみたいに。
 俺の好きなヤツ。
 そんなヤツ、できる日がくるのだろうか。メイファには想いを告げることなく失恋した。それから俺は警察に捕まって裁かれて懲役十八年の刑で東京プリズンに送られて……
 同房になったヤツは、変なヤツで。
 初日の顔合わせでいきなり人のこと「笑えば可愛いのに」なんて失礼な発言かましやがって、「楽しくもないのに笑えるかよ」ってあたりまえのこと言い返したらぽかんとして、それから最高の笑顔になった。
 英語で「憎しみ」なんて、縁起の悪い名前を親からもらった男だ。
 俺の名前はロン。漢字で龍と書く。勇ましくて格好いい名前だ。お袋は俺も俺の名前も嫌ってたが、あの夜、たった一度だけ誉めてくれた。やさしく俺の頭をなでながら、せっかくかっこいい名前もらったんだからそれにふさわしい男になりなさいよと言い聞かせた。

 レイジには、名前を誉めてくれる人間がいたんだろうか。
  
 ガキの頃頭をなでてくれる人間がいたんだろうか、優しくしてくれる人間がいたんだろうか。誰もいなかったなんてそんなわけない、そんなふうには思いたくない。
 今も昔もひとりぼっちだなんて、レイジの本性は暗闇の子供だなんて、救いのない現実は受け入れたくない。
 『殺さないでくれ……っ』  
 いや、違う。
 レイジを暗闇に閉じ込めたのは、俺だ。俺の一言がきっかけで、レイジは暗闇に戻ってしまった。糞尿垂れ流しの暗闇でひとり膝を抱えてたガキの頃まで遡ってしまったのだ。
 俺はバカだ。
 俺はずっとひとりぼっちが寂しくてひとりぼっちが怖くて誰かに好かれたくてたまらなくて、お袋の気を引こうとまとわりついたりメイファを説得して力になろうとしたり、そりゃもうみっともないほどで。
 自分がひとりぼっちになるのは怖いくせに、誰かをひとりぼっちにすることには鈍感で。
 結局俺は、自分がされていちばんいやなことをレイジにしてしまったのだ。
 俺はレイジに出会ってひとりぼっちじゃなくなったのに。
 ひとり……………
 

 「……………」
 薄目を開ければ、視界にとびこんできたのは清潔な白い天井と白いカーテンの衝立、薬品を収納した棚。一瞬自分がどこにいるんだかわからず当惑したが、暗闇に目が慣れるにつれ頭に現実が染みてきた。
 ここは医務室で、今俺はベッドに寝かされてる。
 スプリングが利いたベッドは寝心地良く、シーツは糊が利いて清潔でかすかに消毒液の匂いがする。もっとよく周囲の状況を確かめようと上体を起こしかけたが、体が言うことを聞かない。それもそのはず、俺の両手には包帯が巻かれてあちこちバンソウコウが貼られて、毛布の下の足は固定されてる違和感があった。
 ギプス?ということは、まさか骨折?
 いや、骨折は大袈裟だ。せいぜい捻挫だろうと思うが、全身の間接がこわばり指一本自由に動かせず毛布をはねのけて確かめることもできない。
 顔にもバンソウコウが貼られていた。視界が半分ふさがってるのは片目にガーゼが貼られてるからだ。声はださずに口を開閉し、顔がぱんぱんに腫れてるのがわかった。顔筋を動かし表情を作ることもできず、植物人間のようにベッドに横たわった俺の周囲に人けはない。
 試合はどうなったんだ?
 周囲に誰かいたらまず真っ先に試合の結果を聞きたかった。凱に負けたのか勝ったのか、実のところよく覚えてない。肝心な部分の記憶がとんでる。目を瞑り、回想する。ホセにグローブを手渡され試合開始のゴングが鳴り響き凱にぶん殴られ金網に激突し、凱の子分どもに小突かれてぼろぼろで、もう起き上がる気力も尽きて大の字に寝転がり……

 俺を正気に戻したのは、手首で鳴った音。
 レイジに託された十字架の鎖がふれあう音。

 そうだ、あの十字架は?
 鍵屋崎が俺の手首に結わえ付けたあの十字架、俺が凱の太股に突き立てたあの十字架、俺の逆転勝利を呼びこんだ心強いお守り。レイジが肌身はなさず身に付けてた大切な十字架だ、あとでちゃんと返さなきゃ、なくしたら大変だ……レイジは俺の試合にも姿見せなかった薄情者だけど、俺のこと心配してお守り代わりの十字架をくれた。認めるのは悔しいが、俺が勝てたのはレイジのおかげだ。レイジが十字架を貸してくれなかったら起死回生の秘策も閃くことなく今ごろ凱にぶち殺されてた。
 待てよ。起死回生に逆転勝利ってことは、俺は勝ったのか?
 そうだ……そうだ勝ったんだ、レイジに貰った十字架で動きをとめたすきに回し蹴りくらわして、見事凱を倒したんだ。あの時の光景が鮮明に甦り耳の奥に歓声が甦り―……

 カーテンが引かれた。

 衝立のカーテンをめくり、誰かが枕元に立つ。誰だ?この目で確かめたいが、瞼が腫れてふさがってるんじゃ無理だ。声にだして誰何しようにも、ぱんぱんに顔が腫れて上手く舌が回らない。
 だから俺は、寝たふりをした。
 正直疲れていた。今は何も考えずぐっすりと眠りたい。勝利に酔いしれて良い夢を見たい。レイジに十字架を返すのはあとで……
 「ばあか」
 耳元で声がした。やけに聞き覚えのある声だ。甘く掠れた独特の響きがある……
 枕元に誰かが立ってる。何も言わず何もせず、じっと俺の寝顔を覗きこんでる。 
 「ほんっとバカ。手におえねえ。何でそんなぼろぼろになるまで頑張んだよ、そんなに俺に誉めてほしかったのかよ。バカだよお前。お前が凱と殴り合ってるとき俺がどこにいたか教えてやろうか?びっくりして軽蔑するぜ、きっと。俺のツラなんか二度と見たくねえって叫ぶに決まってる」
 ギシ、と音がした。俺の寝顔を眺めてたヤツが、そばの椅子に腰掛けたのだ。 
 「ひどい顔。笑えるぜ、今のお前。目のまわりに黒い痣ができて顔ぱんぱんに腫れて体じゅう包帯だらけだ。面会謝絶のフダでもさげとけよ。親からもらったカワイイ顔がだいなしだ。とてもキスする気なんか起きねえよ」
 なんだか安心する声だ。子守唄みたいに心地よい周波数で囁かれて、急速に眠くなる。
 「……眠ってるんならいいや。そのまま聞けよ。ロン、あの約束はなしだ。取り消し。100人抜き達成したら抱かせてくれるって話はなし。俺のこと嫌いなのに無理して抱かせてくれなくていいよ、俺もおまえなんか抱きたくねーしいいかげん愛想が尽きたし……それにさ、おまえ抱いても楽しくなさそうだし。俺の手ひっかくような行儀悪ィ猫だもん。舌入れたら噛みちぎられそうでおっかねーし、男知らねえヤツ抱くの面倒くさいし……痛い痛いってうるせえし」
 ため息まじりに言い捨て、身を乗り出し、間近で寝顔を覗きこむ。吐息がかかる距離に顔がある。
 瞼の向こうで、誰かが笑う気配がした。無理に作ってるような自嘲の笑み。
 「早い話、飽きた。おまえに興味なくなった。これからはもう、かまうのよすよ。おまえだってそっちのがいいだろ?俺のことうざがってたしなれなれしくすんなって吠えてたし、願ったりかなったりバンバンザイだろ。所詮野良だもんな、餌付けして可愛がったところで報われるはずねーのにさ……はは、おめでたいね俺。勘違いしてたんだ。結構本気で、」
 言葉が途切れる。
 「……いいや。過ぎたことだ、忘れてくれ。そんなわけで、これからはお互い干渉せずにいこう。俺は好きなようにするからおまえも好きなようにしろ。王様最後の命令。100人抜きはやりとげる、おまえのこと抜きにしても気に入らねーし安田の鼻明かすの楽しいし……俺なんか男でも女でもイケるクチだけど、男が男にヤられてしかもそれが毎日続くって普通に考えりゃ拷問だもんな」
 俺いまいち普通ってわかんないんだよね、と明るく乾いた口調でそいつは続けた。
 顔の横でちゃらりと音がした。小粒の鎖が流れ落ちる音。その音で初めて、俺の顔の横に十字架が寝かされてたと知った。
 「これ、返してもらうぜ。マリアの十字架」
 見舞いにきたんじゃない、十字架を取り返しにきただけだと言い訳してるように聞こえた。自分に言い聞かせてるようにも。
 沈黙が落ちた。
 顔に視線を感じる。枕元に立ち尽くし、寝顔を覗きこみ、囁くように言う。
 「なあ、ロン。もう俺に近付くなよ。俺いつか、おまえのこと殺しちまうよ。手加減できずに殺しちまうよ」
 感情の欠落した声だった。
 「レイジってぴったりの名前だよな。憎しみを押さえこむのが下手だからレイジ。あんま人に誇れる名前じゃないけどさ、結構気に入ってるんだ。本当は俺、名前なんかつけてもらえるはずなかったんだ。名前もらうまえに殺されるはずだったんだ。でも、こうしてしぶとく生きてる。今までしぶとく生きぬいたからここに来れたしおまえに会えたし、ダチみたいなヤツも何人かできたし……だからかな。東京プリズンの日常にどっぷり馴染んで忘れてたんだ、俺が筋金入りの人殺しだってこと。俺頭にきたら何するかわかんねーよ、今度こそ手加減できずにおまえ殺しちまうかも。怖いだろ?怖かったろ?本当に殺されると思って体の震えが止まらなかったろ?それでいいんだよ、それがまともなんだ。おまえはこっち側にくることない」
 小さく息を吐き、続ける。  
 「おまえはずっとまともでいてくれ。楽しくもないのに笑えるかって、そう言い続けてくれ。俺はずっと楽しくもないのに笑ってたからこれ以外の表情できないけど、おまえはちゃんと笑えるし泣けるし怒れるんだから。俺が抱きたかったロンは、そういうヤツだから」
 スプリングが軋む。俺の顔の横に片手をつき、前傾姿勢をとり、慎重に顔を寄せる。何をしようとしてるのか、おぼろげながらわかった。わかっていて、何もしなかった。抵抗ひとつせず眠ったふりを続けた。
 唇にやわらかい感触。
 長いようで短く、短いようで長いキスだった。唇が離れてもまだ寝たふりを続け、医務室のドアが閉まるのを耳で確認してからゆっくり目を開ける。
 「………バカはどっちだよ」
 もちろんレイジだ。
 お別れのキスなんて、かっこつけすぎだ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051030004519 | 編集

 「第一回名探偵ヨンイルと愉快な助手約二名の捜査会議はじめるでー」
 昼間の図書室には人けがない。
 図書室が活気づくのは夕食終了後の自由時間で、囚人の九割が強制労働に出払う昼間は閑散としてる。
 現在僕がいるのは図書室二階、書架と書架との狭間に存在する死角で別名ヨンイルの城。閉所恐怖症や暗所恐怖症患者なら確実に抵抗があるだろう両側に巨大な書架がそびえた手狭な通路だ。ネズミでもなし、ヨンイルは何故こんな薄暗く狭苦しいところに好んで身を潜めるんだと不審がっても始まらない。
 漫画好きなヨンイルが誰にも邪魔されることなく一日中好きな漫画を読み耽るために、移動式書架で出入り口を塞いだ秘密の隠れ家なのだから。
 「異議あり、前言に訂正を求める。誰が愉快な助手だ、僕は君の助手になったつもりも愉快な性格をしてるつもりもない。不愉快な誤解を招く会議名は取り消してくれ」
 「ええやん別にこまかいこと言わんで。しょっぱなからつまらんこと言うなや」  
 「つまらないことではない、重要なことだ。だいたい名探偵ヨンイルとはなんだ、過去に難事件を解決した実績もないくせに軽軽しく名探偵を自称するんじゃないこの虚言症。それに推理力ならIQ180の天才、古今東西の傑作推理小説を読み漁って名探偵の思考過程を完璧に学習したこの僕に軍配があがるはずだ」
 書架に背中を凭せた僕をゴーグル越しにうんざり見上げ、ヨンイルが嘆息する。
 「なおちゃんにはかなわんなあ。しゃあない、会議名変更や。名探偵鍵屋崎と愉快な助手の……」
 「却下だ」
 前半はともかく、僕はヨンイルを助手にした覚えなどないしするつもりもない。お調子者の道化にそっけない態度をとれば、出鼻をくじかれたヨンイルが二度目のため息をつく。これで僕が悪者だ。残念そうなヨンイルに向き直り、眼鏡のブリッジを人さし指で押し上げる。 
 「名前などどうでもいい、大事なのは本質だ。ヨンイル、そちらの捜査状況はどうだ?なにか進展はあったか」
 僕が貴重な読書時間を割いてヨンイルの緊急召集を受け入れたのは、西棟の囚人が銃を入手した可能性を考慮したからだ。鋭い眼差しで一瞥されたヨンイルが片手を振る。
 「あかん、お手上げや。一応うちの棟の連中当たってみたんやけど全部空振り、手応えなし。念には念をでガサ入れ決行したんやけどぜーんぶハズレ。ベッドの下や壁の隠し穴から出てくるのはエロ本白い粉注射器キムチエトセトラ……そや、聞いてや!」
 憤然とこぶしで膝を打ったヨンイルが怒りの形相で身を乗り出す。
 「ガサ入れ強行した結果、俺のコレクションから消えた手塚治虫と白土三平と原哲夫とあだち充発見したんや!なんとうちの棟の囚人が隠しもっとったんや、トップの目え盗んで図書室から無断で持ち出して……西棟じゃ殺人より図書の延滞のが重罪や、心やさしい俺もさすがにプチンときて不届き者に北斗七星拳を」
 かんだかい奇声を発し、変な身振り手振りで北斗七星拳やらをまねるヨンイルにあきれる。ヨンイルの隣に座りこんでるのは、安田から銃をスった張本人であり今回の騒動の発端でもあるワンフー。トップの奇行には慣れているのか、膝に広げた漫画から目も上げずに補足説明する。
 「ヨンイルさんは北斗一族じゃないから七星拳は打てないけど、図書延滞がバレた囚人がお仕置きされたのは事実。廊下に一列に正座して膝に本十冊のせられて半日放置、膝がしびれて立てなくなった囚人十余名の絶叫が西棟にこだました」
 「それだけやない、ドラゴンボール全キャラの名前暗記の宿題もだした。俺のお気に入りはカリン様」
 「マイナーすぎて知りませんよ、親殺しきょとんとしてるじゃないすか」
 「あ?おまえ俺の好きなキャラにケチつける気か、表でろやこら」
 咳払いで軌道修正をはかる。貴重な読書時間を割いて捜査会議に参加したのに漫画話題に費やされてはたまらない。
 「話を戻す。つまり、西棟の囚人は銃を持ってないと判明したんだな」
 「たぶん。俺たちの知らない隠し場所があるのかもしれないけど、」
 ヨンイルに胸ぐら掴まれたワンフーが苦笑いする。
 「ヨンイルさんこう見えて西のヤツらには結構慕われてるんだ。隠し事なんかしたらトップの制裁怖えし、賢いヤツならガサ入れ決行した時点で名乗りでてくるはず」
 「自首は罪が軽くなるからな」
 ひとまず納得する。ヨンイルは食えないお調子者で今いち信用ならない人物だが、自棟の住人に絶大な影響力をもつ西のトップだ。トップのヨンイルが本気を出して捜査に臨んでも犯人が割れないなんておかしい。いや、捜査の手が自分に伸びることを恐れた西の囚人が銃を人手に渡した可能性も捨てきれない。
 先日、僕は東棟のスリ師にワンフーを紹介され、渡り廊下封鎖以降他棟との交流は絶えたというのは誤った認識であり、水面下では棟の垣根をこえたコミュニティができていると知った。
 ということはつまり、銃の所持発覚をおそれた西の人間が他棟に銃を流したとも……
 「そっちはどうや」
 僕の推理に割りこんだのはヨンイル。
 「灯台下暗しって言うやろ。案外東のヤツが持っとるんやないか」
 人懐こい笑顔でヨンイルに指摘され、うんざりする。
 「……捜査に進展はない。一応事情聴取を進めているが、まともに取り合ってもらえないのが現状だ。東棟の囚人が銃を持っているなら、紛失から一週間以上経過した現在、情報が漏れてもよさそうなものだが……」
 「あいつに当たってみたらどや、情報屋の赤毛」
 リョウのことだ。
 「馬鹿にしてるのか?リョウは男娼兼情報屋として北のサーシャとも通じていた人間だ、もちろん真っ先に事情聴取を試みたが銃の行方については何も知らないと明言した。嘘をついてるようには見えなかったな」
 「騙されとるんちゃう?」
 「侮辱するなよ道化。確かにリョウは演技上手だが、僕の観察眼および洞察力のほうが数段優れてると断言する」
 古今東西の傑作推理小説を百二冊読みあさり、作中人物の探偵に自己投影し、事件解決に至る思考回路を学習したのだ。視力は0.02と眼鏡なしでは日常生活に支障がでるほど悪いが、人を見る目は確かだと自負したい。リョウは天性の嘘つきだがあの時点では情報を出し惜しみしてるようには見えなかった。
 しかし、あれからずいぶんと日数が経過してる。リョウが新たな情報を掴んでる可能性もあるし、再度接触を試みる頃合かもしれない。
 「俺もホセにあたってみるわ、南のヤツが持っとるかもしれんし」
 「尻拭いさせてすいません」
 「ホンマ、何が哀しゅうてミギ―のケツ拭いせなあかんかと思うと涙で文字くもって漫画読めへんわ」
 「原因はゴーグルだ。読書中くらい外したらどうだ」
 捜査会議が終了し、緊張が緩んで雑談に流れる。
 レイジは肌身はなさず十字架を持ち歩いているが、ヨンイルの場合はゴーグルだ。顔の上半分を覆うゴーグルという悪目立ちするアイテムが道化の個性を強烈に印象づけているが、あんな物をかけていては文字など読めないだろうに。
 しかし、僕の賢明なアドバイスなど聞く耳もたず、ヨンイルはゴーグルを指さす。
 「前に言わへんかったっけ?これじっちゃんの形見やねん」
 そういえば、以前そんなようなことを聞いた記憶がある。今は亡き祖父の思い出を語るヨンイルは得意げだ。
 「俺のじっちゃん、半島に渡るまえは大阪で花火師しとったんや。これはじっちゃんが使っとったゴーグル。よう見たら傷だらけであちこち傷んどるけど、ガキの頃からずっと憧れとって、じっちゃん死んだら絶対もらおて企んでたんや。俺のじっちゃんてのがそりゃもう頑固でな、ガキの俺が仕事場にもぐりこんで内緒で火薬いじっとるの見つかったらおもいきりゲンコツ落とされたわ。でもイチバンこたえたんは」
 ヨンイルが言葉を切る。ゴーグルをかけてるせいで俯き加減の表情までは読めないが、ヨンイルらしくもなく物憂げに黙りこみ、しんみりと述懐する。
 「イチバンこたえたんは、泣かれたとき。じっちゃんに内緒で体に墨入れたのがバレて」
 「怒って当然だ」
 一度入れた刺青は一生消えない、体に墨を入れてから後悔してもおそいのだ。ヨンイルにとっても祖父にとってもお互いが唯一の身内らしいし、大事な孫が自分に黙って刺青を入れたと発覚すれば激怒して当然だ。しかし何故ヨンイルは、全身に刺青など入れたのだ?ヨンイルは現在十六歳。僕はてっきり東京プリズンに来てから刺青を入れたに違いないと思いこんでいたが、ヨンイルの回想によれば祖父が存命だった頃すでに刺青を入れてたらしい。
 ヨンイルの祖父が他界する以前、ということは必然ヨンイルが東京プリズンに来る以前のことだ。
 「……素朴な疑問なのだが、何故そんな悪趣味な刺青を入れたんだ?刺青を入れた当時、逆算すれば君はわずか十歳ということになるが」
 「悪趣味ってひどい言いざまやな!かっこええやろ、龍。俺は組織に貢献したからその褒賞に刺青もろたんや。いや、俺だけやない。じっちゃんもお袋も親父もみんな……」
 「鍵屋崎、いるか?」
 書架の向こうで僕を呼ぶ声がした。演説するヨンイルをその場に残し、側面のハンドルを操作して書架を移動させる。書架をどかし、出入り口から外へでた僕はその足で手摺にむかう。手摺に手をおいて一階を見下ろせば五十嵐がいた。
 「静粛に」
 裁判官のように高圧的に言い放つ。書架の間を歩き回り、僕を捜していた五十嵐が驚いたようにこちらを仰ぐ。
 「図書室ではしずかにするのが常識だ。僕に何の用だ?」
 五十嵐のためにわざわざおりてく気にはなれない、用があるならあちらから来るべきだ。僕は一歩もここを動かないぞと態度で示し、傲慢な面持ちで見下せば、二階に僕を見つけた五十嵐が一瞬ばつ悪げな表情を覗かせる。タジマに脅迫されていたとはいえ、五十嵐が僕とロンの信頼を裏切りボイラー室を見張っていたのは覆しようない事実だ。あれ以来僕は五十嵐を避け続けているし、五十嵐も以前のようには親しげに声をかけてこなくなった。
 その五十嵐が、僕に何の用だ?
 階段を駆け上がり、二階に到着した五十嵐が接近。用件を切りだそうと口を開き、その表情が強張る。
 「?」
 僕の肩越しに何かを目撃した五十嵐が慄然と立ち竦む。五十嵐が何を見たのか、わざわざ振り向いて確かめるまでもなく足音が聞こえた。ヨンイルとワンフーが僕のもとへと駆けて来たのだ。
 「鍵屋崎、どうしたんだ?」
 「なんやねんなおちゃんいきなり、何も言わんと出てっ……」
 ヨンイルの言葉が不自然に途切れる。看守ひとりと囚人三人が昼間の図書室に居合わせ、気まずい沈黙が落ちた。妙な雰囲気だ。普段うるさいくらいに快活なヨンイルが五十嵐を微妙に警戒し、ヨンイルがこちらに駆けてくるのを見た五十嵐も挙動不審で、僕の当惑は深まる。
 ヨンイルと五十嵐は顔見知りらしいが、お互いに良い印象を抱いてないらしい。
 何故かはわからないが、そうとしか見えない。
 「……あー。久しぶりやな、五十嵐はん。あんたも漫画借りに来たん?」
 本当は無視したいが西棟のワンフーがいる手前大人げない態度はとれず、僕の隣に来たヨンイルが慣れない愛想笑いをする。
 回れ右した五十嵐が「用件はあっちで話す。ついてこい」と固い声で命じ、仕方なく後に続く。
 「ちょっと待て、なんで君たちまでついてくる?」
 「ついてきとるんちゃうわ、あっちに用があるんや。金田一の二十二巻とりにいくんや」
 おかしなことになった。僕を真ん中にヨンイルとワンフーが並び、五十嵐のあとに続く。先頭の五十嵐が手近の書架を曲がる。ヨンイルの目的は単行本の続きだが、ワンフーはただ好奇心から何となく僕らのあとをついてきたらしく、不安げな面持ちで五十嵐の背中とヨンイルの横顔とを見比べる。
 「道化のお守り役、か。君も大変だな」
 ほんの少しだけワンフーに同情した。一時的な気の迷いだ。
 書架を背に五十嵐が立ち止まり、僕らも立ち止まる。ヨンイルの目的地もここらしい。五十嵐と対峙した僕から少し距離をおき、ワンフーと一緒に単行本の続きをさがしだす。
 ヨンイルとワンフーは意図的に無視し、五十嵐が言う。
 「……副所長がおまえを呼んでる。医務室で待ってるそうだからロンの見舞いついでに行ってやれ」
 「安田が?」
 まずい、さん付けするのを忘れた。が、五十嵐は僕の失言を咎めるでもなく、かえって微笑ましげに苦笑する。
 「この時間なら図書室にいるはずだから呼んできてくれと頼まれたんだ。おまえのことなんでもお見通しだな、副所長は」
 「……気味の悪いこと言うな。彼は僕の保護者でもなんでもないし、ましてやストーカーでもない」
 「そうか?似た者同士だと思うけど」
 「似ているのは眼鏡だけだ、それ以外に共通点はない」   
 むきになって否定すれば、とうとうこらえきれず五十嵐が笑い出す。何がおかしいんだと不快になる。憮然とした面持ちで黙り込んだ僕に、ふいに改まった口調で五十嵐が言う。
 「このまえのこと、その、悪かったな」
 「謝ってすむ問題か?」
 「……いいや。けど、一言言っときたかったんだ。お前とロンには本当すまいことして、どう謝ったらいいか見当もつかないが……」
 ひややかに五十嵐を睨む。言い訳はみっともないと自覚したのか、五十嵐が毅然と顎を引く。
 「ロン、今入院してるんだろ?俺も見舞いに行っていいか」
 「僕に許可をとることじゃない。自分が行きたいならそうすればいい。ロンは僕とちがってお人よしだから消毒液くさい床に土下座でもすれば許してくれるかもしれないぞ」
 現在ロンは医務室にて、一週間の絶対安静を義務付けられてる。凱に殴られ蹴られて肋骨を折る重傷を負ったのだ。他にも全身十三箇所におよぶ打撲傷と左足首の捻挫など満身創痍の状態だ。先日僕も顔を見てきたが、顔の腫れがひどくて別人みたいだった。ちなみに凱は即日退院し、「半半に負けるなんざ一生の汚点だ、リベンジしてやる!」と吠えている。
 こりない男だ。
 「そうか」
 五十嵐の表情が安堵に緩んだ。本気でロンの怪我を心配してたらしく、複雑な気分になる。五十嵐は卑怯で卑劣だ。タジマに脅迫されて仕方なくとはいえ、僕とロンの信頼を裏切り、騙し、ボイラー室に閉じ込めた罪は重い。
 しかし、ロンの怪我を心底心配し、逃げずに僕に謝罪したのも事実で。
 ボイラー室の扉をへだて、今は亡き娘の思い出話を語り聞かせたのも五十嵐で。
 「―もういい、あなたに嫌味を言ってもはりあいがない。タジマに脅迫され嫌々見張り役の任に就いた人間を責めるのもむなしい。しかしこれだけは肝に銘じておけ、一度失った信頼を取り戻すのは容易ではない。僕はともかくロンは心底あなたを信頼していた、裏切られたショックも大きいだろう。本人の意識の有無にかかわらずちゃんと謝っておけ。いいな?」
 「ああ、わかってる」
 五十嵐が強い決意をこめて頷く。
 「ちょお邪魔、どいて」
 突然、ヨンイルが割りこんできた。
 「おっかしいなー、二十二巻見あたらへんで。前に読んだヤツが違うとこ戻したんやなきっと。あーもう腹たつわ、続き物の単行本は一巻から最終巻までずらっと並べとくのが漫画好きの美学で常識やろ!?ほんまにもうこの刑務所の連中はしょうもない……」
 ぶつぶつ言いながら漫画をさがすヨンイルから少し離れた場所で、「こっちにもありません」とワンフーが声をあげる。ふたり手分けして目的の本をさがすヨンイルとワンフーの熱意には、もはやあきれる通り越して感嘆するしかない。
 「なおちゃんも手伝うてや、金田一の二十二巻……」
 「本当に漫画が好きなんだな」
 ヨンイルの言葉をさえぎり、唐突に五十嵐が呟いた。感情を押し殺した低い呟き。
 その場の全員が五十嵐を見つめる。囚人の注視を浴びた五十嵐がかすかに微笑み、淡々と話し出す。
 「俺の娘も漫画が大好きだった。女のくせに、男が読むような漫画が大好きだった。最近復刊された手塚治虫の漫画も小遣いで買って、ブラックジャックかっこいいとかロックかっこいいとかきゃーきゃー騒いでたよ。そういうところは女だな」
 「へえ、五十嵐はんの娘さんも手塚ファンか」 
 手塚治虫と聞いては黙っていられないヨンイルが身を乗り出す。
 「手塚ではなにが好き?俺はブラックジャック好きやけどどっぷりハマるんなら大河長編火の鳥かな。女の子はどんなの好きなん」
 「ブラックジャックは人気だな。リカも先生に夢中で何回ピノコになりたい~って叫んだことか……漫画の登場人物に本気で恋するなんて、我が娘ながら将来が心配だ」
 はらはらしながら見守るワンフーをよそに五十嵐とヨンイルの会話は弾み、手塚治虫を話題の中心に盛り上がる。しかし僕は、どうにも拭い難い違和感を感じていた。ヨンイルは単純に手塚仲間を発見したことを喜んでるらしいが、どうも五十嵐の言動が不自然だ。KIAのテロに巻き込まれて死亡した娘がまるで今も生きてるように活き活きとした口ぶりで……
 背筋が寒くなった。
 「けど意外、五十嵐はんに娘がいたなんて初耳。もうちっと早く言うてくれたら俺のオススメ漫画紹介してやったのに……」
 ヨンイルが何気なく口にした一言で、五十嵐の表情が消える。
 虚ろな無表情をさらした五十嵐が、抑揚なく言う。
 「そいつは無理な相談だ。リカはもう、いないから」
 「え?」
 「五年前に死んだんだ。漫画の大半はリカと一緒に燃やしちまったよ」
 ヨンイルが愕然とする。沈痛な面差しで黙りこんだ五十嵐の隣、どうフォローしたらよいものか当惑したヨンイルが時間稼ぎでゴーグルを押し上げる。ゴーグルを額に押し上げるとき、はらりと袖口がめくれて手首が覗いた。
 毒々しく照り輝く緑の鱗。ヨンイルの全身に刻まれた刺青の一端。
 「……ええと。それはなんちゅーか、ご愁傷様やな」
 他人行儀にも聞こえるが、実際それしか言いようがない。
 「ああ……本当に」
 突然、五十嵐がヨンイルに接近した。ヨンイルに歩み寄った五十嵐がおもむろに片手を掲げ、表情の読めない不気味な目でヨンイルを見下ろし―

 殺される。
 ヨンイルが殺される。

 「!やめっ、」
 おもわず僕は叫んでいた。五十嵐の手がヨンイルの首にかかる光景を予知した気がした。その時は五十嵐がヨンイルを絞殺しようとしてるものと信じて疑わなかった。
 が、僕の予想は裏切られた。
 頭上に片手を掲げた五十嵐が、書架の上段から一冊の単行本を抜き取り、あっけにとられたヨンイルに手渡す。ヨンイルとワンフーがさんざん捜していた漫画の続きだ。
 「……本当に、ご愁傷様だな。お悔やみありがとよ。なにボ―ッとしてんだよ?これだろ捜してた本」
 「おおきに」
 五十嵐から漫画を受け取ったヨンイルが礼を言い、僕の全身から力がぬけた。なんだ、ただ本を取ろうとしただけか。勘違いもはなはなだしい、いったいぜんたい何の根拠があって五十嵐がヨンイルを殺そうとしてるなどと先走ったんだ?
 五十嵐にヨンイルを殺す理由などないはずだ。
 そう自分に確認し、ふとひっかかりをおぼえる。言葉では説明しづらい漠然とした違和感。
 本当に五十嵐は本をとろうとしただけか?なら、あの目は?僕は何か、とても大事なことを忘れていないか。とても重要なことを見落としていないか。
 五年前、韓国、テロ、KIA……
 「そろそろ行くぞ鍵屋崎。安田さんがお待ちだ」
 物思いに沈んだ僕に声をかけ、五十嵐がさっとその場を立ち去る。逃げるように足早に階段をおりた五十嵐に続き、ヨンイルとワンフーを残して歩きだし、途中で立ち止まる。
 「ヨンイル、君は何故東京プリズンに来たんだ。なにをしてこの極東の刑務所に送りこまれたんだ」
 胸騒ぎがする。
 これからなにか、とてつもなく不吉なことが起こりそうな予感にとらわれてヨンイルに詰問すれば、五十嵐に手渡された漫画を読み始めたヨンイルが上の空で返事を返す。
 「あー?なおちゃんは知らんかったっけ。ロンやレイジからとっくに伝わっとる思うとったけど」
 漫画を閉じ、顔を上げる。
 まっすぐ僕の目を見て、八重歯を覗かせ、笑う。
 懲役二百年の重犯罪者とは思えない明るい笑顔。
 「KIAにおけるテロ活動および爆弾作り」   

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051029004627 | 編集

 『これ?じっちゃんの形見や』
 『お前のじっちゃんてKIAの革命家だろ、ゴーグルがトレードマークだったのかよ。ずいぶんハイカラな年寄りだな』
 『革命家言うても前身は花火師や。大阪育ちの在日で朝鮮・韓国の併合と同時に半島に渡ってきたんやけどそれまでずっと難波の工場で火薬扱うてたからな、火花から顔守るためにもゴーグルは必需品』
 僕は馬鹿だ。今の今まで重要なことを忘れていた。
 ヨンイルが東京プリズン送りになった罪状を知り、点が線に結ばれた。以前、サムライに手紙を宛てた人間について情報収集していた僕が古株のヨンイルを訪ねたとき、偶然耳にしたレイジとの会話。レイジは確かにKIAと言った、ヨンイルの祖父が革命家だとも。
 ヨンイルは過去KIAにいた。
 KIAとは韓国の独立を目指し過激なテロ活動を行う革命組織であり、韓国ではKIAの爆弾テロによって一年平均千人の死者がでている。半島の景気低迷と経済破綻は韓国と朝鮮併合によるものだと強硬に主張する人間およびその思想に共感した人間が集まったKIAの実体は明るみにでていない。近年のテロ活動で韓国だけではなく世界中に悪名が広まった感はあるが、KIAの活動家は皆口が固く、逮捕されても黙秘を貫くか、どうかすると口を割る前に自決してしまい、組織の実体はいまだ謎に包まれている。
 五十嵐の娘はKIAのテロに巻き込まれて死んだ。小学校最後の楽しい思い出になるはずだった修学旅行先の韓国で、併合三十周年祝賀パレードを見物に行き、その他の民間人と一緒にテロの犠牲になった。
 大統領を狙ったテロは、千余名の犠牲者をだす韓国史上最悪の大惨事に発展した。
 近年稀に見る大規模であり被害も大きかったため世界中のメディアが事件を報道し、目的のためなら手段を選ばないKIAの脅威が一挙に知れ渡るきっかけとなった。
 ヨンイルが東京プリズンに送致されたのはKIAのテロ活動に関与したから。五十嵐はこのことを知ってるのだろうか?そう仮定すればヨンイルを逆恨みしてもおかしくない。五年前の事件に当時わずか十一歳のヨンイルが関与した根拠は希薄だが、ヨンイルの罪状には爆弾作りがふくまれており、五十嵐の娘を殺した爆弾はヨンイルかその近親者が作った可能性もある。
 隣を歩く五十嵐をそっと見上げる。ヨンイルと短い会話をしてから五十嵐の態度がおかしい。図書室を出てもどこか言動が不自然で、横顔は固く強張っていた。五十嵐とヨンイルの間には確実になにかある。やはり五十嵐はヨンイルがKIAのテロに関与したことを知っているのか?ヨンイルが間接的直接的にテロに関与したのが事実なら、五十嵐がヨンイルを敵視する心情には共感できる。
 早い話、ヨンイルは娘の仇なのだ。
 五十嵐から最愛の娘を奪い、生き甲斐を奪い、五十嵐の家庭を崩壊に導いた人間。想像したくもないが、もし恵が五十嵐の娘の立場だったら僕はヨンイルを殺すと断言する。なぜ何も悪いことをしてない恵が外国のテロに巻き込まれて死ななければならない?死亡当時、五十嵐の娘は恵とほぼ同年齢だったのだ。
 どれだけやりきれなかったか、どれだけ悔しかったか、どれだけ―……
 「どうした?」
 五十嵐が不審げに僕を覗きこむ。物思いに沈み、歩調が遅れていた。肩越しに振り返った五十嵐とまともに目を合わせ、言葉に詰まる。五十嵐と歩くのが苦痛で耐えがたい。僕は今冷静さを失っている、もし恵が五十嵐の娘の立場だったら僕ならどうしたかとありえない仮定に胸がざわめいて平静を装えない。
 「先に行ってください。僕は一度房に戻り本をおいてきます、本を抱えたまま副所長の前にでるのはみっともないし腕が疲れる」
 本心は早く五十嵐と離れたくて、ひとりになって頭を冷やしたくて嘘をつく。
 「わかった。先に行ってるからすぐこいよ、これ以上安田さん待たせたら俺がクビにされちまう」
 冗談めかして笑った五十嵐が廊下に僕を残して歩き出す。医務室の方角へ歩み去った五十嵐を見送り、そそくさと踵を返す。渡り廊下を引き返し、東棟にもどり、閑散とした廊下を逆に辿る。借りた本を抱えた僕は五十嵐とヨンイルの関係について思い巡らせ自分の房に辿り着き、鉄扉を開く。
 鈍い音をたてて鉄扉が閉じる。
 後ろ手に鉄扉を閉め、長々と吐息して背中を凭せる。ヨンイルと五十嵐の関係について、部外者の僕があれこれ頭を悩ませてもどうしようもない。それよりなにより第一に優先すべきは銃の捜索で、早く銃を見つけなければ安田は近日中に辞表を提出して東京プリズンを去らざるえない。優先順位を間違えるなと自分に言い聞かせ、気持ちに整理をつけ顔を上げ、硬直した。
 「よお、親殺し」
 僕のベッドにタジマが腰掛けていた。
 「…………」
 一瞬心臓が止まり、手に抱えた本を落としかけた。何故タジマがここに?わけがわからない。だいたいタジマは謹慎中で、現在は自由に出歩ける身分じゃないだろうに。事実この一週間僕はタジマの顔を見てなくてひどく安心していたのに何故僕の留守中僕のベッドに腰掛けている?まるで僕を待っていたというように泰然自若と開き直り、黄ばんだ歯をむきだし頬肉を弛ませた醜悪な笑顔で片手を挙げてる?
 もう一生、タジマと会わなくていいと思ったのに。心の底から安堵していたのに。
 それは僕の楽観的な思いこみにすぎなくてタジマはまだ東京プリズンにいて僕のベッドに腰掛けている、僕はまだ悪夢から解放されてなかった、タジマの執拗な監視から逃れてなかった。心臓の動悸が速まり腋の下に粘液質の汗が滲みだし、慄然と立ち竦んだ僕にタジマが言う。
 「ひさしぶりだな。一週間ちょっと遊んでやれなくて悪かったな、俺のモンが欲しくて欲しくて言葉でめちゃくちゃにいたぶってほしくて体が疼いてた頃だろう」
 「何故あなたがここに」
 固い声で聞く。混乱冷めやらない頭が早く逃げろと警鐘を鳴らす。しかし体が動かない、タジマの顔を見た瞬間から恐怖に身が竦み言うことを聞かない。表情だけは平静を繕い、生唾を嚥下する。
 「謹慎中のはずのあなたが何故ここにいる?僕の留守中に無断で房に入って許可なくベッドに腰掛けてなにが目的だ」
 「おいおいつれねえなあ、一週間ぶりだってのに」
 僕の発言がさもおかしいと腹を揺すって笑うタジマ。
 「そりゃ建前上は謹慎処分てことになってるが、俺は宿舎住まいだからな。俺だけじゃねえ、東京プリズンの看守のほとんどが宿舎住まいだ。砂漠越えの遠距離通勤じゃ時間もコストもかさんでしょうがねえから宿舎に間借りしたほうが全然利口だ」
 「謹慎中の人間がかってに出歩いてるのが見つかれば厳罰を下されるんじゃないか」
 「馬鹿言え。囚人が強制労働に出払った昼間の東京プリズンはすっからかんだ、俺がほっつき歩いたところで見咎められる心配ねえし同僚なら見逃してくれる。おかたい安田にさえバレなきゃいいんだよ、要は」
 タジマがベッドで尻を弾ませ、錆びたスプリングがいやな音をたてて軋む。タジマに反省の色はない。一週間前のペア戦の夜、ボイラー室の鍵を賄賂と引き換えに一部の囚人に貸していたことがバレて安田に謹慎処分を下され、囚人にリンチされたというのにまだ懲りてないのかと絶句する。なんてしぶとい男だ、なんて学習能力のない人間だ。こんな最下等の人間と付き合っていたら価値観が破壊され人格が汚染される、おなじ空気を吸うのさえけがらわしい。
 生理的嫌悪が爆発しかけ、後ろ手にノブをさぐり、逃げ出そうとしたその時。
 「まさか逃げる気じゃねえだろうな」
 僕の考えを見通したようにタジマがほくそ笑む。邪悪な笑顔。
 「逃げたきゃ逃げろよ、親殺し。お前が遊んでくれねえならロンのところに行くから」
 この男は真性の馬鹿か?
 タジマの正気を疑り、扉を背に声をひそめる。
 「ロンは今入院中だ。先日のペア戦で重傷を負い医務室にて絶対安静を義務付けられてる」
 「知ってるよんなこたあ、ペア戦じゃ凱相手にはでにやったって看守のあいだでも評判だ。だからどうした?ベッドにしばりつけられて動けねえんじゃかえって好都合だ、思う存分犯してやるよ」
 信じられない。
 僕のベッドに腰掛けたタジマは罪悪感などかけらもなく、劣情に顔を火照らせ、唾をまきちらして下劣な哄笑をあげている。ロンは凱戦で肋骨を折り全身十三箇所の打撲傷を負いひとりじゃ動けない絶対安静の状態だ。もし今タジマに襲われたらひとたまりもない、まったく抵抗できずに犯されてしまう。
 タジマは正気か。正気で本気で、ベッドに横たわった包帯だらけの怪我人を犯すつもりなのか。そこまで最低な人間なのか。僕を脅迫してるだけで、いくらタジマでも実行に移したりは……
 ……いや、それこそ甘い考えだ。タジマは確実にやる。
 僕はタジマの本性を知っている。売春班での一週間でさんざん思い知らされたのだ。
 喉がからからに乾く。片手に本を握り締め、片手でノブを掴み、決死の説得を試みる。
 「現在医務室には安田がいる、五十嵐もいる。医師もいる。僕につれなくされたその足で医務室に行ったら大変だぞ」
 「へえ、いいこと聞いた。それじゃロンを犯すのは安田がいなくなってからだ。五十嵐と医者はなんとでもなる、ちょっと脅しつければ一部始終見て見ぬふりしてくれるだろうさ」
 僕の焦りを手にとるようにタジマが嘲笑する。説得は逆効果だ。苦渋の面持ちで黙り込んだ僕をにやにやと眺め、タジマが畳みかける。
 「ロンが壊れても知るかってんだ。壊れたら取り替えりゃいい。お前ら囚人は俺たち看守のオモチャ、所詮取り替えのきく玩具なんだ。次から次へと新しいのが入ってくるから替えには困らねえしな」
 凄まじい憎悪が沸騰した。
 僕ら囚人のことを取り替えのきく玩具と言ってはばからないタジマは、僕が今この場から逃げれば確実にロンを犯す。肋骨を折り全身十三箇所の打撲傷を負い足首を捻挫し、ベッドに横たわり一歩も動けないロンの服を脱がして嬉々と犯すに決まっている。それでロンがどうなろうがタジマは一切関知しないし興味もない、自分の快楽を優先した結果ロンが壊れても新しいオモチャをさがせばいいだけだ。
 タジマに対する殺意を押し殺し、唇を噛んで俯く。タジマはにやにやと笑っている。
 ロンを救うも見捨てるもすべてお前次第だと威圧感をこめた笑顔。
 「命令だ、こっちへ来い。お前がおとなしく言うこと聞きゃロンは見逃してやる」
 タジマの言うことなどなにひとつ信用できない。が、今は従順に従うしかないと逡巡をふりきり苦渋の決断を下す。タジマに手招きされ、扉をはなれ、ぎこちなく歩き出す。
 ロンなどどうなってもかまうものか、自分さえ助かればそれでいいじゃないか、またサムライとの約束を破る気かと耳の裏で誰かが囁くが足は止まらない。僕は何故タジマの言うなりにタジマのもとへ歩いてるのだろう。今からでも遅くない、方向転換して扉へ急げ、廊下へ逃げろと脳裏で警鐘が鳴る。
 ロンの身代わりになるつもりはない。
 これはあくまで僕の判断で、僕が選択したことだ。他人に責任転換して見苦しく言い訳するなど天才のプライドが許さない。半面、サムライとの約束を破りたくないという気持ちが抑止力となりタジマのもとへむかう足を鈍らせ矛盾に引き裂かれそうだ。サムライ以外の男に体をさわらせるのはいやだ、不快だ、生理的嫌悪に耐えられない。
 体を這いまわる手の悪夢が脳裏にまざまざと甦り、歩きながら嘔吐感をおぼえる。
 タジマにさわられるのは苦痛以外のなにものでもない。
 タジマの手に服を脱がされ素肌をまさぐられ下肢をなでられ芋虫めいた指を後ろに―
 「よおし、上出来だ」
 手前で立ち止まれば、タジマが満足げに頷く。これから何をされるのか、どんなおぞましい行為を強制されるのか考えたくもないが考えてしまう。売春班の体験は遠い日の悪夢ではない。体を這いまわる手の感触はきっと一生忘れられず、下肢を引き裂かれる激痛を反芻するたびに恐怖で身が竦む。
 本当はタジマのところへなど来たくなかった。逃げたかった。
 しかし、もう遅い。僕は自らの意思でタジマのところへ来てしまった。タジマの笑顔を直視すれば吐き気をおぼえるのが必至で、片手に本を抱いたまま所在なげに立ち竦み、足元の床を見下ろす。 
 乾いた音が耳朶にふれる。ズボンのジッパーを下げる音だとすぐにわかった。続くベルトのバックルが触れ合う金属音。ズボンの前を寛げベルトを緩め準備万端のタジマが嬉々と命じる。
 「顔を上げろ」
 上げたくない。が、逆らえばなにをされるかわからない。固く目を閉じ決意を固め、ゆっくりと顔を上げる。目の前にタジマがいた。手前に立った僕に股間がよく見えるように両足を開いてベッドに腰掛ける。
 そして、自慰を始めた。
 「このまえは安田と組んで余計なことしてくれたな、親殺し」
 「安田と組んでなどいない」
 即座に反駁する。が、タジマは無視する。
 「お前が余計なことしてくれたせいでこちとら囚人どもにリンチされるわ謹慎食らうわさんざんだ、責任とってもらわなきゃ割にあわねえよ。おまえはこの一週間どうしてた、俺にさわってもらえなくて寂しかったろ?お前真性のマゾだもんな、俺に警棒で叩かれてうずくまって、でもしっかり股間はふくらんでたもんな」
 断じてそんなことはない、根拠のない言いがかりだ。が、タジマは僕に反論の余地も与えず饒舌な狂気に取り憑かれて妄想を垂れ流す。
 「俺に言葉でいたぶられて興奮してたくせに、俺に組み敷かれてちゃんと感じてたくせに、いまさら不感症ですなんて言い訳すんなよ。売春班じゃ飽きるほど妹の名前呼ばせただろうが。覚えてるか?めぐみぃいめぐみいぃ、っていい声で鳴いてたくせに今さら忘れましたは通用しねえぜ。で、どうだ?俺にヤられながら妹とヤッてるとこ想像したのか」
 「想像してない」
 衣擦れの音がひどく耳障りだ。目の前で行われるのは悪夢めいておぞましい光景。両手で股間を摩擦するタジマから目を逸らしたくてたまらないが、目を逸らしたら最後警棒がとんでくるのは必至。
 体の脇で手を握り締め、極大の生理的嫌悪に顔を歪め、褪せるほどに唇を噛んで懸命に吐き気と戦いつつ、早く終わってくれ気が済んでくれ解放してくれと一心に祈る。恵のことにふれるな、売春班での日々を思い出させるなと心が軋んで悲鳴をあげる。   
 慄然と立ち竦んだ僕を凝視し、嗜虐心を満足させたタジマが手は休めずに続ける。
 「隠すなよ、妹ひとり占めしたくて両親刺殺したってネタ割れてんだ。素直に吐いちまえよ、ラクになるぜ。想像の中じゃ何回も何十回も何百回も妹犯しまくったんだろ。ピンク色の乳首かじってひらたい腹をなめて毛も生えてない股開かせて何回もイッたんだろ」
 嘘だ、でたらめを言うな、僕は恵に対して恋愛感情など抱いてないし性欲を感じたことなど一度もない。恵は僕の大切な家族で僕が心を許した人間で大事な妹で庇護の対象で絶対汚したくない存在なんだ、頼むそれ以上言うな、言わないでくれ、恵を貶めるのはやめてくれ!
 想像の中で恵を汚すのはやめてくれ、僕ならいい、僕はもう既に汚れてるんだからこれ以上汚れようがないんだからどれだけ汚してもかまわない、でも恵まで巻きこまないでくれ恵には一生綺麗なままでいてほしい僕の庇護の対象でいてほしいのに!
 恥辱と憎悪が胸裏で燃え盛り発狂しそうだ。全身が熱く火照って頬に血が上って、体の脇で握り締めたこぶしがかすかに震え出す。本を抱いた手は力のいれすぎで血の気がひいていた。
 「そんな品よさげなツラして頭の中じゃ飽きずに妹犯しまくって……真性の変態だな、お前は。どうだ刑務所で男を知った感想はよ。ケツに突っ込まれる快感に目覚めて妹にも試してやろうって、」
 殺してやる。
 我慢の限界だった。これ以上変態の戯言は聞きたくない、警棒で殴り倒されてもかまうものかと足を踏み出した時だ。
 「!うっ、」
 低くうめき、タジマが達した。かってに満足したタジマが、弛緩した顔つきで虚空を見まわし、茫然自失の僕に笑みかける。僕が普段使ってる毛布と僕のズボンに白濁が散っていた。
 サムライが留守にした房でタジマと二人きり。
 タジマの笑顔はこれで終わりじゃないと告げていた。本番はこれからだと暗に示唆していた。
 手足の先から絶望が染みて、急速に現実感が薄れてゆき、僕は本を取り落とした。
 タジマに押し倒されたのは、その直後だった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051028004813 | 編集

 肩に手をかけられ押し倒され、ベッドで背中が弾む。
 隣のベッドに後ろ向きに倒れこめば、ズボンの前を寛げたタジマがのしかかる。
 「感謝しろ。特別にサムライのベッドで犯してやるよ」
 「!?」
 耳元で囁かれた言葉に体が強張る。僕をサムライのベッドに押し倒したタジマが土足で馬乗りになる。
 「サムライのベッドでサムライの匂い嗅ぎながらサムライの顔思い浮かべてイケるんだ。どうだ、興奮してきたか」
 「ば、かを言うな」
 おぞましい提案を固い声で拒絶する。今僕が押し倒されているのはサムライが普段使っているベッドだ。夜ともなれば強制労働で疲労した体を寝相よく横たえ朝には背筋を正して起床するベッドだ。几帳面なサムライは寝乱れたシーツと毛布をきちんと整えてから強制労働に出かけ、枕とて寝れば頭の来る完璧な位置に据え置く。が、囚人には折を見てシーツを取り替える贅沢は許されず、夜寒いからといって毛布を厚めのものへかえることもできず、サムライが日常寝起きするベッドにはその体臭が染み付くことになる。
 もし何も知らないサムライが強制労働から帰りベッドを見たらどう思うか。
 性行為を終えたあとに毛布を整え枕の位置を直しても洞察力の鋭いサムライは異変に気付く、僕が口に出さなくても必ずや違和感を感じ取るはず。体液の痕跡、汚れ、匂い。それらすべてを隠しきるのは不可能だ。
 サムライはどうする。嫌悪に眉をひそめる?僕を軽蔑する?約束を破った僕をはげしく唾棄する?
 僕とタジマが淫らな行為におよんだベッドに身を横たえるサムライを想像し、手足の先が急速に冷えてゆく。
 「―!ちっ、」
 「っ、あく」
 仰向けに寝転んだ体勢からタジマの胸を突き飛ばし、反転して逃げようとした。
が、遅い。邪険に舌打ちしたタジマが僕の片手首を掴み容赦なく締め上げる。手首を絞る激痛に口から苦鳴がもれる。
 「言うこと聞かねえとどうなるかまだわかってねえみてえだな。よし、もう一回教えてやら」
 嗜虐の悦びに目を爛々と輝かせたタジマが舌なめずりをする。
 「お前が逃げればそん時はロンを犯すまでだ、医務室で絶対安静を義務付けられて身動きできないロンをな。体じゅう包帯だらけだろうがケツの穴さえ使えりゃ事足りるんだ、余計な心配すんじゃねえ。あいつが壊れようがどうなろうが知ったことか。こっちにとっちゃ好都合だ。はねっかりでさんざ手を焼かせたロンが大人しく寝てるんだ、このチャンスを逃したらもう二度とロンを物にできねえかもしれね。抵抗ひとつできねえガキ犯すのはちょっと物たりねえが贅沢は言わねえさ、ケツの穴が裂けたら綿でもつっこんどきゃいいんだ、医務室にゃくさるほどあるだろが!」
 喉を仰け反らせ唾をまきちらし狂ったような哄笑をあげるタジマに組み敷かれた僕は、抵抗の無意味さを知った。僕が逃げればタジマは確実にロンを犯す。僕が抵抗すればロンが苦しむ。
 先日、凱との死闘を勝利で締めくくり、担架で会場を運び出されたロンの姿が脳裏に甦る。
 顔を別人みたいに腫らし、目の周りに青痣をつくり、切れた唇に血が滲んだ悲惨な顔。全身十三箇所の打撲傷と肋骨の骨折、無数の擦り傷。今も絶対安静を義務付けられ、体中に包帯を巻かれた状態で医務室のベッドで寝ているロンをタジマは欲望の赴くまま犯しに行く。凱に殴られ蹴られ囚人にリンチされ体はぼろぼろで、レイジに見捨てられ見放され心もぼろぼろで、瞼が塞がってるせいで目もろくに見えず、先日僕が訪ねたら夢うつつに一呼吸の間をおき「……レイジか?」と訊ね返された。
 すがるように悲痛な声音で、一縷の希望と絶望とを綯い交ぜにした目の色で。
 今も心の片隅でレイジを待ち続けるロンの姿を脳裏に思い浮かべ、試合を終えても十字架を握り締めた手を思い浮かべ、胸裏で激情が荒れ狂う。
 唇がかってに動き、言葉を紡ぐ。
 「ロンには手をだすな。僕が相手すれば十分だろう」 
 怯むことも揺らぐこともない冷徹な眼光で射竦められ、タジマの表情に一刹那動揺が走る。次の瞬間、高圧的な態度に逆上したタジマに音高く横っ面を張られる。頬で乾いた音が鳴り鋭い激痛が走った。殴られた衝撃で顔が横を向くが、すぐさま正面に戻し強圧の双眸でタジマを睨み続ける。絶対にタジマを行かせてはならない、ここで食いとめなければならない。僕は一週間前ロンと共に参戦表明した、にもかかわらず現状では何の役にも立たずロンとレイジの関係を修復することさえできなかった。
 僕は無力だ。サムライばかりか、ロンの役にすら立てない。僕は非力だ。サムライのように剣が強いわけでもなく、ロンのように喧嘩が強いわけでもない。無敵のレイジとは比較にすらならない。
 だがしかし、僕にもできることがあるはずなのだ。
何かができるはずだ。今はこんなことしか思いつかないが、僕を犯して満足したタジマがロンを諦めてくれるなら僕でも多少は役に立った証明になる。タジマがロンを諦めるはずはないと本音ではわかっている、でも今の僕にこれ以外なにができる、自分の体を売って時間稼ぎする以外どんな選択肢がある?今この場にいないサムライを頼るのは不可能だ、安田を巻き込むのは卑怯だ。安田は今失職の危機に直面してる、僕らの問題まで背負わせるわけにはいかない、処理能力の過負荷だ。
 なら、僕がタジマを相手するしかないじゃないか。
 「……いい心がけだな親殺し。感心感心……でも」
 「!」
 意味深にほくそ笑んだタジマが突然僕に襲いかかり、腕づくで上着を脱がしにかかる。あまりに素早く強引で、ろくに抵抗もできず腕から袖が引きぬかれ素肌が外気にふれた。上半身裸になった僕を乱暴に裏返したタジマが、両手を腰の後ろで一本にまとめる。
 まさか。
 「やめろ、」
 タジマが何をしようとしてるかわかってしまい、声がかすれた。甦るのは売春班の記憶。全裸になれと命令され、抵抗する気力も逆らう意志も失い服を脱ぎ、ベッドに腰掛けて待つ看守のもとへ歩み寄る。手首を重ねて突き出せば、卑猥な笑みを浮かべた看守が僕の両手にロープをかけ……
 いやだ、思い出したくもない。もう永遠に忘れていたいのに、上着で手首を結ばれしっかり固定されあの時の記憶がまざまざと甦る。さっきまで自分が身に付けていた上着、まだぬくもりが残る上着が拘束具となり手首をきつく縛り完全に抵抗を封じる。
あの時はロープでもっと痛かった、手首に食いこむざらついた縄の感触、擦りきれ鬱血した皮膚の痛み……手首にロープを巻いた僕を後ろから犯してあの看守は笑っていた……
 「どうだ喜べよ、縛られるの好きなんだろ?同僚が言ってたぜ、親殺しはロープで縛られるのが大好きな変態野郎だって。売春班が再開したらまたたっぷり遊んでやるって息巻いてたぜ。はは、俺の縛り方もなかなかのもんだろ。お前喜ばせたくて勉強したんだよ」
 「ほどけ、この低脳」
 荒い息をこぼし、よわよわしく反駁する。耳の横に手をあてたタジマが「あ?」とわざとらしく聞き返す。手首を縛られたせいで動きづらく、肩越しに振り向かなければタジマの顔を見ることすらできない。
 上半身裸でベッドに突っ伏せた苦しい体勢から振り向き、余裕を失い怒鳴る。
 「即刻手首をほどいて僕を自由にしろ、拘束の必要などない、僕に抵抗の意志はない。だれになにを吹き込まれて誤解してるかは知らないが縛られて興奮する変態的趣味はない、わかったか、わかったなら早くほどけ!」
 勝ち誇ったように哄笑が響き渡り、体の先から絶望が染みてくる。僕が抵抗するしないにかかわらず手首をほどく気などないとその瞬間理解した。必死の抗議を無視したタジマが手早くボタンを外しシャツをはだけ、裸の腹を露出し、僕の背中に覆い被さる。ズボンの後ろに勃起した股間を擦りつけ、タジマが言い聞かせる。
 「なにか勘違いしてんじゃねえか親殺し。お前ら囚人に拒否権なんて上等なもんはねえ、囚人全員看守にゃ絶対服従が東京プリズンの掟だろ。ほどいてほしかったら命令じゃなくてお願いしてみろや」
 冗談じゃない。こんな最低の人間になぜ頭を下げなければならない、懇願しなければならない?反抗的な目つきでタジマを睨めば、僕の背中に腹を密着させたタジマの片手が後頭部を押し、僕の顔をベッドに埋める。強制的に後頭部を押されベッドに顔をすりよせれば、鼻腔にもぐりこむのは毛布に染み付いたサムライの体臭。
改めてここが、今僕が犯されようとしてるベッドがサムライのベッドだと認識し、恥辱で全身が火照る。
 「さあ言ってみな。タジマ様おねがいしますほどいてください、なんでもしますから許してください、あなたの言うことならなんでも聞きます犬になります喜んでケツの穴もなめます。心ゆくまで僕をいたぶってください」
 耳元でタジマが残酷にくりかえす。ベッドに顔を埋め、唇を噛み締め恥辱に耐える。誰がそんなこと言うかと顔をそむければ、タジマのがさついた手が背中を這い、肩甲骨をなで、体の裏表を無遠慮にまさぐる。
 「っ、ふ」
 こらえきれず湿った吐息が漏れた。表側に回った手が円を描くように薄い胸板をなでまわし、突起をつねる。
 「男でも乳首いじられりゃ感じるだろ。不感症なんて大嘘じゃねえか、この淫乱」
 違う、と否定したかった。しかし言葉にならなかった。芋虫めいた指が体中を這い性感帯をさぐりねちっこい愛撫をし、呼吸が上擦りうっすらと体が上気しはじめる。タジマの手で感じてるなんて嘘だ、タジマの指で感じてるなんて嘘だと心が否定する脳が拒否する。が、売春班で敏感に慣らされた体はたとえそれが殺意を抱く男の手でも快楽を汲み取ってしまう。僕は不感症のはずなのに何故タジマの手にさわられて喘ぎ声を噛み殺している、相手はタジマなのに、ここはサムライのベッドなのに……駄目だ、今サムライを思い出すんじゃない、今サムライの顔を思い出したら耐えきれなくなる、僕は一生自分が許せなくなる。タジマの手に体をなでまわされ足の指でシーツを蹴り、固く固く目を閉じサムライを忘れ去ろうと自己暗示をかける。サムライのことなんか思い出すな、顔など思い出すな。
 我が身の危険をかえりみず罠だと承知で下水道に僕を助けに来た、僕が洪水に流されかけても決して手を離さず引きあげてくれた、売春班に僕を訪ね「頼むから俺を頼れ」と涙をこぼした、僕に木刀の握り方を教えてくれた友人など思い出すな。タジマに犯されながらサムライとの思い出を回想するのはサムライを汚す行為だ、僕は取り返しようもなく汚れてしまった、この上サムライまで汚したくない……
 本能と理性の葛藤で心が引き裂かれる。
サムライのことを思い出せばサムライを汚してしまう、でもタジマにさわられてるあいだ回想するのはサムライのことばかりで、記憶の洪水に歯止めがきかない。
 生まれて初めてできた友人、恵の次に大切な存在。
 生まれて初めて対等になりたいと望んだ人間。

 『他の男に体をふれさせるな。約束だ』
 『直にふれていいのは俺だけだ』

 すまないサムライ、約束は守れそうにない。
 今ここに彼がいないから、心の中では素直に謝罪が言える。今ここにいない人間に謝罪するのは無意味だと頭ではわかっていた、でもどうしても謝罪せずにはいられなかった。サムライ以外の人間にふれられるのはいやだ、不愉快だ、生理的嫌悪で吐きそうだ。その心に偽りはないのに、僕は現在進行形で約束を破っている。サムライにさわらせたことのない場所までタジマにまさぐられ暴かれている。
 「サムライの匂い嗅いで興奮してきたのかよ、変態が」
 タジマの手がズボンにもぐりこみ、下肢を這い、前へとのびる。敏感な場所をじかに揉まれ、シーツを噛んだ。絶対に声はだしたくない、声をだせばタジマが調子に乗る。自分がこの世で最も憎悪する人間の手にさわられて声をだすなど僕のプライドが許さない。口にシーツをくわえ、おもいきり歯で食い縛る。シーツに唾液が染み、乾いた布の味が口内に広がる。それを見たタジマが下劣に哄笑し、手の動きをはげしくする。
 「っ、うく……」
 苦しい、唾液が喉に逆流して咽そうだ。下肢を責め苛む熱と快感に裸の上半身をシーツにすりつけて抗う。早く終わってくれとただそれだけを念じていつ終わるとも知れない拷問に耐えていれば、耳の裏に吐息がかかる。
 「鍵屋崎。おまえ、裏でなにこそこそやってんだ」
 サムライとロン以外の人間に本名を呼ばれるのはひさしぶりだ。タジマは僕のことを「親殺し」と呼び、滅多に本名では呼ばないのと不審がり薄目を開ける。口にタジマの顔がある。股間を揉む手はとめず、もう片方の手で胸板をまさぐり執拗な愛撫を続けながら再度くりかえす。 
 「わかってんだよ、おまえと安田がこそこそやってんのは。安田の媚売ってんのか?安田にケツ貸して取り入ろうって腹か?囚人と副所長にしちゃお前らの関係変だし囚人使って調べてみたんだよ。そしたら案の定……」
 「!あっ、」
 口からシーツがこぼれ、とうとう声が漏れた。勝ち誇ったように笑ったタジマが続ける。
 「お前と安田が医務室で深刻に話してるとこ立ち聞きしたヤツがいるんだ。この頃ちょくちょく安田と会ってるみてえじゃねえか。夜中にこっそり房抜け出して医務室行って安田となにやってんだ、ナニやってんのか」
 「ちが、う。誤解だ、僕と安田は副所長と囚人の関係でそれ以上でも以下でも……っあ、ぐ」 
 反論しようとしたが、タジマがそれを許さない。片手は股間を揉みしだき、もう片方の手を顔にまわし口に指を突っ込む。シーツでは口寂しいだろうから指をくれてやる、というふうに。口腔で指が蠢く。最初は二本、そして三本。口をいっぱいに開けさせられ舌をつねられ歯列の表も裏もなぞられ蹂躙され、口の端から唾液が滴りシーツに染みをつくる。サムライが寝起きするシーツが唾液にぬれるさまに自己嫌悪が嵩む。
 耳の裏でタジマの哄笑が響く。片手で口腔を犯され、片手でいちばん敏感な場所を犯され、生理的嫌悪と淫蕩な熱と純粋な苦痛で目に涙の膜が張り視界が滲む。
 「安田とふたりなに企んでんだよ?吐けよ」
 そんなこと知ってどうするんだ、という単純な疑問が脳裏に浮かぶ。僕の目を見て察したのか、タジマが嘲弄の笑みを浮かべる。
 「安田を引きずり落とすエサにするに決まってんだろうが」
 「!」
 僕の背中に裸の腹を密着させたタジマが息を弾ませながら説明する、言葉で僕をいたぶり手で僕を追い上げ指で巧みに快楽を注ぎこみながら。
 「あの若造め、前から気に入らなかったがこのまえの一件で完全にキレたぜ。謹慎処分だあ?調子のりやがって……東京プリズンでいちばん偉いのはお飾りの所長でも副所長でもねえ、俺たち看守だ!いいか、看守の言うことは絶対だ。看守のやることに間違いなんてあるはずねえ。安田がいたら東京プリズンが駄目になっちまう、どんな手使っても副所長の座から引きずりおろしてやる。てはじめに……」
 タジマの目が陰湿な光をおび、炯炯と輝く。
 嗜虐的に底光りするけだものの瞳。
 「安田お気に入りの親殺しに弱みを聞き出してやるってタジマ様自ら出向いてきてやったんだ。はは、なんだよそのツラ。まさかロンの脅し本気にしたのか?いくら俺様でも怪我人に手え出すかよ……ってのは建前で、顔の腫れが引くまで我慢するさ。顔が崩れたまんまじゃ萎えるからな……」
 脳が目に映るすべての現実を拒絶し、タジマの声が遠のく。
 タジマは安田と僕の関係を嗅ぎつけた。このぶんではタジマが銃を紛失した事実を暴き出すのは時間の問題だ。それまでに銃を見つけなければタジマによって安田の失態が暴露され、安田は東京プリズンにおける居場所を失う。 
 僕がこれまでしてきたことは、全部無駄になる。
 僕は安田が東京プリズンからいなくなるのがいやで、安田を引きとめようと銃の捜索に手を貸した。が、タジマに知られたら全部おしまいだ。タジマが真実を知ったら最後、安田の失職は避けられない。
 安田が東京プリズンからいなくなる。
 いなくなってしまう。
 「どうだ?素直にしゃべる気になったか」
 唾液の糸を引いて口から指が引きぬかれ、はげしく咳き込む。苦しい。口腔を指で圧迫され満足に呼吸できなかったせいで目には生理的な涙が滲んでいる。背後のタジマを振りかえり、よわよわしく言い返す。
 「安田の弱みなど知らない、仮に知っていたとしても貴様に話す義務などない」
 「なんだと?」
 タジマの顔がひきつる。手首を縛られてるせいで手をついて上体を起こすこともできない。唾液まみれのシーツに顎を沈め腰を上げた犬の格好で、ひどく苦労して虚勢の笑みを浮かべてみる。
 呼吸を整え、心もち顎を持ち上げ、肩越しにタジマを見据える。手首を縛られていては、たったそれだけの動作もひどい苦痛を伴う重労働だ。
 気色ばんだタジマの目をまっすぐ覗きこみ、静かな、だが強い声で包み隠さず本音を述べる。
 「はっきり言うが、僕は貴様を軽蔑する。存在自体が猥褻物陳列罪に抵触する自覚はあるか?ゲス野郎とは貴様のためにある言葉だと断言する、自分の存在を反省して呼吸を自粛しろ。安田は貴様より余程上等な人間だ、公平で公正で囚人に暴力を振るうことも囚人を言葉で虐待することもない、売春班に男を買いに来たことなどもちろん一度もない。その意味では僕は、」
 続けるのを少しためらう。口にしたら最後、取り消せない気がした。口にしたらそれを真実だと認めることになるのが怖かった。目を瞑り、瞼の裏の暗闇に安田を思い浮かべる。深夜の廊下で立ち話をした、医務室で話をした。僕にとって安田はなんだ?副所長と囚人、それ以上でも以下でもないと自分に言い聞かせてきたのはサムライ以外の人間を認めるのにまだ抵抗があったからだ。
 ……が、もう言うしかない。
 もう認めてしまうしかない、はっきり言葉にして自認してそれが現実だと直視するしかない。僕は安田に共感を抱いてる、東京プリズンのどの大人よりも、いや、これまで僕の周囲にいたどの大人よりも共感を抱いて身近に感じているのだ。
 この感情を名付けるなら、きっと。
 そして僕は叫んだ。
 しっかりと目を見開き、タジマを睨みつけ、声振り絞るように本音を吐露した。
 「僕は安田を尊敬している、貴様の十倍億倍尊敬している!!安田ともっと話したい、安田のことを知りたい、安田に友人を紹介したい!僕と彼は囚人と副所長で、立場が違いすぎて、でもそれでも同じ人間だ!安田と貴様は違う、安田はストレス解消で暴力を振るったりしない、僕ら囚人を取り替えのきく玩具なんて思ってない、ちゃんと感情を持った人間として対等に扱ってくる!それだけでもすごいことだ、一体そんな人間が安田のほかに東京プリズンに何人いる!?安田は僕に言った、ここで生き延びたければ友人をつくれと……だから僕はサムライと友人になれた、安田は貴様の十倍も億倍も大切な人なんだ!!」
 そうだ。
 安田はいつでも大切なことを教えてくれた。
 サムライに怪我をさせた僕が自責の念にとらわれたとき、恵の描いた絵に僕がいなかったとき、隣に立って話を聞いてくれた。やさしい笑顔をむけてくれた。
 それだけで僕がどれほど救われたか、わかりもしないくせに。
 全身に敵愾心を漲らせてタジマを睨めば、逆上したタジマが僕のズボンを下着ごと太股まで引き下げ、手に力をこめ前を強く握り―
 「!!!!――っあ、あ」
 頭が真っ白になった。
 強すぎる快感が理性を吹き散らし、下肢が断続的に痙攣した。自分の身に何が起こったのか、頭が理解を拒んでいた。下半身の熱が急激に冷めてゆくにつれ、徐徐に頭に現実が染み、失意のどん底に突き落とされる。上半身は裸で、下半身は膝までズボンをさげられた格好でベッドに突っ伏した僕は、現実逃避の延長に芒洋と虚空を見つめるしかない。
 そっと肩に手がかかり、耳朶を噛まれた。
 「サムライのベッドで無理矢理イかされた気分はどうだよ」
 「サムライのベッド」をわざわざ強調され、体が強張る。
 おぞましい現実を突き付けられ、体の芯から凍えてゆく。
 ここはサムライのベッドで、僕は手首を縛られて犬みたいに上体を突っ伏して、タジマの手で無理矢理快感を注ぎ込まれて……
 瞼の裏側にサムライの顔が浮かぶ。僕のことを心配して、いつも僕を守ってくれた男の顔。今僕がこんな目に遭ってるとは知らず、下水道に潜ってる大事な友人。
 何故今彼のことを思い出すんだ?自分がますますみじめになるだけだというのに。
 涙はでなかった。眼球は乾いていた。涙腺も枯れたみたいだ。無防備に素肌を晒し、空白の頭をシーツに預け、呼吸が鎮まるのを待つ僕の背後でタジマが動く。
 まだ終わりではない。
 本番はこれからだ。
 タジマはこれから僕を犯す。安田の弱みについて口を割らせるために何より有効な手段を使って僕の体と心を痛めつけるつもりだ、容赦なく徹底的に。僕の両足を手で割って開かせたタジマが音たてて生唾を嚥下する。
 「サムライが帰ってきたら教えてやれよ、お前のベッドでタジマさんに犯されましたって。まあ言わなくてもわかるだろうがな、ご無沙汰で多少は出血するだろうし……ああ、でも」
 タジマが低く、低く笑う。
 「毎晩サムライとよろしくやって慣らしてるんじゃ大丈夫か。剣の腕はたしかでも下半身のカタナはどうだかな、見かけ倒しのナマクラガタナで物足りなかったんじゃね……」
 
 『他の男に体をふれさせるな。約束だ』
 『直にふれていいのは俺だけだ』

 サムライを侮辱され、理性の堰が決壊した。   

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051027004910 | 編集

 「サムライを侮辱するな!!」
 心から叫んでいた。
 頭が沸騰し視界が赤く染まり、タジマへの憎悪が極限まで膨張した。タジマはサムライを侮辱した、嘲笑した、人格を貶めた。寡黙に徹して僕を守ってくれた男を、僕の大事な友人を罵倒した。絶対に許せない、こんな男に抱かれてなどやるものか。
 タジマの手に体の裏表を貪欲にまさぐられ、普段人目に晒さない場所まで残酷に暴かれ快楽へと導かれ、僕はすっかり諦めきっていた。絶望には慣れた、失望にも慣れた。爪の汚れた不潔な手で素肌をまさぐられ胸の突起をつねられ腰を抱かれ乱暴に扱われることに慣れきり、心は麻痺して何も感じなかった。心が慣れなければ生きていけなかった、生き延びられなかった、男が男を欲望の対象にし日常的に犯す劣悪な環境に耐えられなかった。
 誰が好き好んで男に抱かれたいものか。
 しかし苦痛な性行為でも許容しなければどんな目に遭わされるか徹底的に体に叩きこまれ、抵抗する気力も逆らう意志も最後のひとかけらまで剥ぎ取られた。
 だから僕はタジマの手が素肌にふれたときも、半ば諦めていたのだ。抵抗は無駄で無意味だと売春班でさんざん学習した。大人しく従順にしていれば必要以上に酷くされない、進んで行為を受け入れれば酷く殴られることもないと自分に言い聞かせてベッドに横たわり目を閉じていた。不快な現実を見ずにすむように、サムライの約束を破った現実を受け入れずにすむように。
 だが、限界だ。
 「どわっ!?」
 手首を腰の後ろで縛られたまま、体を表返してタジマの腹部に蹴りを入れる。両手の自由は奪われていても両足は自由に使える、何故もっと早くこうしなかったのかと悔やまれる。そうだ、僕はタジマに怯えていた。売春班での体験はまだ心に影を落として、寝ても覚めても僕を責め苛む。
 タジマは僕の常連だった。本人は「贔屓にしてやってんだから感謝しろ」と恩着せがましくうそぶいていたが僕がタジマに感謝したことなど一度もない、断じてない。憎悪と嫌悪と恐怖と怯惰、それがタジマに抱く感情のすべてだ。今でもはっきりと覚えている、鮮明に体が覚えている。発情期の犬みたいに荒い息遣い、汗でぬめった腹の感触、体を這いまわる芋虫めいた指……タジマは加虐性愛嗜好の性的異常者で、僕は到底口にはだせないような性行為ばかり強いられていた。
 毎日が地獄だった。
 あの夜サムライが助けにきてくれなかったら完全に僕の心は壊れていた。
 あの日々には決して戻りたくない。ならば、必死の抵抗を試みるしかない。腹部を蹴られたタジマがひっくり返った瞬間に素早く跳ね起き、どうにか拘束を緩めようとはげしく身動ぎする。ロープだったらどんなに暴れたところでほどける見込みはないが上着なら何とかなるかもしれない。肩も外れよと両腕を動かし縛りを緩める最中、頭上に影がさす。
 「親殺しがっ、上等だあ!!」
 不意打ちで抵抗され、激怒したタジマがおもむろに警棒を振り上げる。
 よける暇もなかった。容赦なく肩を殴られ、勢いのままベッドから転落。視界が反転し体が浮遊感に包まれ、次の瞬間背中に衝撃。背中から床に落下し、肺が圧迫され息が詰まる。早く体勢を立て直さなければ今度こそ殴り殺される。焦燥にかられるがまま、背後に回された手をめちゃくちゃに擦り合わせる。摩擦熱で手首の皮がすりむけそうだ。
 早く、早くほどかなければ……
 「生意気に逃げやがって」
 舌打ちとともに床に降り立ち、僕を見下ろすタジマ。ズボンの前は寛げたまま、醜悪に怒張した性器が露出している。鼻梁にずり落ちた眼鏡越しにタジマの動向をさぐりつつ逃げるようにあとじさる。手首の拘束が緩み、手首と上着の隙間ができた。あと少しだ、頼むから間に合ってくれ……
 「気のある男を悪く言われて腹立ったのかよ」
 ヤニ臭い歯を剥いてせせら笑うタジマをきっと見返し、時間稼ぎに口を開く。
 「ゲスの勘繰りだな。僕は同性愛者じゃない、サムライに恋愛感情を抱いてるわけじゃない」
 「サムライたあヤったのか」
 「性行為になど及んでない」
 「そうかそうか、売春班でセックス漬けの毎日過ごしたせいでサムライのモンじゃ物たりねえか。毎晩毎晩からだが男欲しがって疼いて眠れねえか。可哀想になあ!女もろくに知らずにここに来てケツの穴に突っ込まれる快感やみつきになって、挙句俺なんかの手にアレいじくられて喘いで……」
 「それ以上言うな」
 「サムライだって男だ、お前とヤりたくてヤりたくてヤりたいに決まってる。あいつだっておんなじだ、お前裸にして四つん這いにしてめちゃくちゃに犯しまくりたいって頭の中じゃ妄想ふくらませて毛布の中でこっそり……」
 「サムライを貴様のような変態と同列で括るな」
 サムライを悪く言われ、残りわずかな理性がとびそうになる。怒りが頭が沸騰して正常に思考が働かずにあせりと苛立ちが募る。僕を追い詰める快感に酔い痴れながら警棒をもてあそぶタジマ。硬質な靴音がコンクリ床を叩き、後ろ手に縛られた僕のもとへとゆっくり……
 抜けた!
 「!!くそがっ、」
 僕が行動を起こすほうが、タジマの警棒が振り下ろされるより一瞬早かった。その一瞬の差が勝敗を分けた。床を蹴り加速し、タジマの足の間をくぐるようにサムライのベッドの下にすべりこむ。
 すずりがひっくり返り、墨汁の瓶が倒れ瞬く間に漆黒の染みが広がる。墨汁の飛沫がとぶのもかまわず更に手を突き入れ、木刀をしっかり掴む。
 「気い済むまでぶちのめして気絶させてから存分に犯してやらあ!!」
 反射的に体が動いた。
 怒号を発し、猛突進してきたタジマの脛を振り返りざま木刀で打ち据える。無防備な脛をしたたかに打たれ、自分の痛みには過敏なタジマが濁った絶叫を発し転倒。脛を抱えて悶絶するタジマをよそに、木刀を抱えて扉に走り寄る。早くここから逃げなければ確実に犯される、いや、犯されるだけではない。タジマに反抗したのだから今この場で殺されてもおかしくない。僕が死んだら処理班が呼ばれて死体は内密に運びだされる、サムライには何も知らされず、タジマは何ひとつ咎められることなく……
 いやだ。そんな現実は否定する。 
 ノブを捻り鉄扉を開け放ち廊下に転がり出る。今の自分が裸だとか気にする暇もない、どうせ廊下は無人で他に人目もない。少しでも遠くタジマから逃げなければ。タジマに捕まること即ち死を意味する、よくて半殺しですんでもタジマは必ず僕を犯す。犯されるのも殺されるのもごめんだ、自分に嘘をつくのはもう限界だ。サムライ以外の男に体をさわらせないと約束したんだ……
 房ですさまじい物音がした。
 「!?」
 反射的に振り返り、硬直する。床でのたうちまわっていたタジマが僕のベッドに衝突、その衝撃でベッドがずれ、ベッドの下に隠していた手紙が暴かれた。
 手紙。恵の担当医から届いた手紙。
 「なんだあこりゃあ……親殺しのくせに生意気に、身内からの手紙なんか隠し持ってたのかよ」
 「返せ!」
 頭で考えるより先に房にとびこんだ。今は何をおいても逃げるべきなのにできなかった、激痛が薄れたタジマがおもむろに立ち上がり手紙を拾い上げ、僕に無断で中を改めたからだ。嫌な、もう二度と思い出したくない記憶が甦る。永遠に葬り去りたい記憶。僕は実際にその現場を目にしたわけではないかロンの口から聞かされた。
 恵に宛てた手紙がライターで焼かれる光景。
 僕が綴った字がひとつ残らず灰になり、踏み躙られる光景。
 早く逃げなければ、と一方で誰かが叫ぶ。しかし一方の誰かが手紙を取り戻せと叫ぶ。早くタジマの手から手紙を取り返せ、そうしなければ取り返しのつかないことになる、おなじ過ちを二度くりかえすことになる。一度目は僕の不注意で手紙を落とし、二度目も僕の現実逃避で……恵が描いた絵に僕の姿がなくて、その現実を直視したくなくて、折角届いた手紙をベッドの下に投げこんでいた。
 だから、こんなことになったんだ。
 手紙にざっと目を通したタジマの顔に冷笑が浮かぶ。僕のことを完全に見下した邪な笑顔。
 「ああ、妹からの手紙じゃねえのか紛らわしい。しっかしこの医者偉そうでむかつくな、東京プリズンを何だと思ってんだ。なになに、恵ちゃんの描いた絵を同封します?これのことか……」
 「返せ!!」
 腕をのばし、なりふりかまわずタジマから手紙を奪い返そうとする。だがタジマの方が一枚も二枚も上手だって、必死な僕を翻弄するように頭上で便箋を振りまわし、恵の絵を封筒から抜き出す。がさがさと紙が鳴る音。手荒く紙を広げたタジマが大袈裟に顔をしかめる。 
 「うわっ、こりゃまたずいぶんとへたな絵……間違えた、前衛的な絵だな。天才の妹だけに俺たち凡人にゃ理解できねえ前衛的センスしてるな」
 「恵を馬鹿にするな、一生懸命描いたんだ!僕の妹の絵は下手じゃない、前言撤回しろ!」
 その絵は恵が心をこめて描いたんだ。僕はいないけど、僕の姿はどこにもないけど、恵は一生懸命願いをこめてその絵を描いたんだ。今は亡き両親とそうやって手をつなぎたかった幼い願望をこめて、決して叶わない夢を見て……恵の絵はたしかに稚拙だ、でもそれのどこが悪い、下品で無教養なタジマに絵画について語る資格など一片もない。
 絵を奪い返そうと必死な僕を見下ろし、笑みを噛み殺した表情でタジマが聞く。
 「そんなにこの絵が大事か?」
 「貴様には関係ない、答える義務もない!それは僕の所有物だ、僕の大事な妹が描いた大事な絵だ!精液がこびりついた汚い手でふれるなこの低脳!!」
 白い物が付着した手を絵に擦り付けながらタジマが笑う。タジマの手を汚すあれは、僕がだしたものだ。僕がだしたものが絵を汚してる。僕が恵を汚してる……いやだ、やめろ、やめてくれ。
 手の汚れを絵で拭くタジマ。
 「そんなに大事な物なのか」
 やめろ。
 「じゃあこうしよう」
 やめてくれ。
 僕の眼前で、タジマが絵をくしゃくしゃに握りつぶす。見せつけるように念入りに、両手で握りつぶす。そうして原形を留めない紙屑にした絵を、丸めて口に放りこみ、咀嚼する。
 なに、をしてるんだ? 
 目に映る光景が信じられない。タジマの奇行には慣れていたが、タジマが今、いかにも不味そうに顔をしかめて咀嚼してるアレは恵の絵だ。今しもタジマの喉を通り食道を下っているのは、恵の絵だ。
 「………はは、どうだ、これで取り返せないだろうが。どうだ悔しいか、え、悔しいかよ?なんだようつむいちまって張り合いのねえ、さっきまでの元気はどうしたよ」
 「………、」
 タジマの声が耳を素通りする。体が硬直し、指一本さえ言うことを聞かない。タジマが紙を食べた。恵の絵を飲み下した。恵が一生懸命描いた絵を…… 
 恵の夢を。
 俯き立ち尽くす僕の体が突き飛ばされ、そのままベッドに激突する。背中が軋んだ。痛かった。抵抗する気は起きなかった。頭は空白だった。心が麻痺したように何も感じなくなった。ベッドを背中にずり落ちた僕の顎を掴み、無理矢理上向かせてタジマが囁く。
 目と鼻の先でタジマが覗きこんでいる。僕をいたぶることが楽しくて楽しくてしょうがないという笑顔。 
「くそったれ親殺しの分際で妹が描いた絵をこっそり隠し持ってるなんてふてえ野郎だ。いいか、よく聞け鍵屋崎。両親殺したお前が家族に希望持つこと自体間違ってんだ。手紙に一言でも恵ちゃんが恋しがってるとか寂しがってるとか書いてあったか?ないだろ。お前のことなんて誰も恋しがってねえ、待ってもいねえ、それが現実だ」
 それが現実。
 顎に食い込んだ指が痛かった。僕を待つ人間などだれもいない、僕を必要とする人間などだれもいない、それが現実。タジマの目に映った僕は、完全に心を手放した表情をしていた。目は絶望で濁り、焦点を結んでいなかった。唇は何かを反駁しかけ、しかし言葉にできずに半ばむなしく開いていた。
 心に亀裂が入った人間の顔だった。
 「さあ、くりかえしてみな。僕は人間のクズの親殺し、妹にも見捨てられた情けない兄貴、だれにも待ち望まれてねえ要らない人間だって」
 「………、」
 「言え」
 タジマが冷酷に命令し、顎を掴む握力が増す。
 「!あぐっう、」
 血も引くような激痛が走る。タジマの革靴でおもいきり股間を踏まれた。反射的な動作で股間を庇えば、そんな僕を嘲笑するようにタジマの口角がつりあがる。
 「言えよ親殺し。言わなきゃもっと酷くするぞ」
 「………僕は、」
 「聞こえねえなあ!もっと大きな声で」
 「僕は」
 喘ぐように口を開くが荒い息にまぎれて言葉が続かない。胸が苦しい。引き裂かれそうだ。心なんか麻痺したはずなのに、それでもまだ痛いと感じるのは何故だ?顎が痛い、人に言えない場所が痛い、でもそれだけじゃない。これまで僕を支えていたプライドの芯が腐食して、一片ずつ剥げ落ちてゆくような喪失感。
 現実など見たくない。辛いだけだ。
 タジマの目に映る自分など見たくなくて、よわよわしく瞼をおろす。目を閉じ、口を開く。タジマの命令に従わなければこの苦しみは終わらない、タジマは決して僕を手放さない。
 言え。言ってしまえ。事実を事実と認めるだけじゃないか、それのどこに痛みを感じる?
 痛みを感じる資格なんて、僕にはないのに。
 「僕は人間のクズの親殺し、妹にも見捨てられた情けない兄、だれにも待ち望まれてない要らない人間だ」
 「もう一回」
 「僕は人間のクズの親殺し、妹にも見捨てられた情けない兄、だれにも待ち望まれてない要らない人間だ」
 「もう一回」
 「僕は……」
 かすれた声で棒読みして、それを何回もくりかえす。繰り返すごとに心が麻痺し、何も感じなくなり、自分の輪郭が大気に薄れて消えてゆく錯覚に襲われる。僕は人間のクズの親殺し、妹に見捨てられた情けない兄、だれにも待ち望まれてない要らない人間。それが真実。恵は最初から僕なんか必要としてなかった、僕は家族でさえなかった。じゃあ一体僕は何の為に両親を殺した?鍵屋崎優と由香利にとどめをさした?恵を守る、ただそれだけが僕の唯一の存在意義だったのに……
 催眠術をかけるようにタジマの言葉を復唱すれば、満足したらしいタジマが漸く顎から手をはなす。
 そして、違うことを命じる。
 「しゃぶれ」
 ぼんやりとタジマを仰ぐ。タジマは笑っていた。心底楽しげに笑っていた。こんなに楽しげに愉快げに笑う人間ははじめてだ、こんなにおぞましい笑顔も初めてだ。
 もう、なにもかもがどうでもよかった。
 なにもかも自分に関係ないことに思えた。自分などどうなってもよかった。鍵屋崎直なんて人間はもう誰の記憶からも抹消されて、今ここにいる僕はただの親殺しにすぎなくて、誰一人救えず誰一人守れない無力な人間で。
 天才である意味さえない。
 僕が、鍵屋崎直という固有名詞に固執する意味がない。
 「…………」
 震える手をタジマの股間にのばす。タジマがひどく満足げな表情をする。それに口を近付け、含もうとする。頭は朦朧としていた。目に映るものすべてに現実感が欠落していた。
 どうせ僕はここで朽ち果てる運命だ。運命を変えるのは不可能だ。なら、無抵抗に身を任せたほうがずっとラクだ。醜悪な物を見なくて良いようしずかに目を閉じ、舌を覗かせ……

 『俺はおまえに生き延びてほしい、生き残ってほしい』

 脳裏で閃光が弾けた。

 『俺は二ヶ月前に言った、生き残るために俺を頼れと。その言葉が気に入らないなら『利用しろ』と言い換えてもいい。鍵屋崎、そんなに俺は頼りないか?頼りにならない男なのか?いくら剣が強くても友人に頼られる価値もない男にサムライを名乗る資格はないとレイジに言われた。そのとおりだ』
 『頼むから頼ってくれ、直。今ここで頼ってもらえなければ、俺はもう友人でいる資格がない』
 売春班最後の夜に、血を吐くようにサムライが言った言葉。
 
 僕はタジマの言うように要らない人間か?
 誰にも待ち望まれてない、要らない人間なのか?
 
 ……いや、ちがう。
 人間のクズなのも親殺しなのも否定しない。が、誰にも待ち望まれてないなんて認めない。サムライはあの時たしかに言った、はっきり耳に届く声で僕が必要だと、僕が必要だから自分を利用しても生き延びてほしいと訴えたのだ。
 そのサムライとの約束を、僕はまた破るのか?
 僕を必要とする人間の信頼を裏切るのか?
 そんなことはできない、絶対に。
 天才のプライドに賭けて、鍵屋崎直個人の意志に賭けて、約束は守らなければ。
 
 薄暗い房に、耳破れんばかりの絶叫が響き渡った。
 この期に及んで僕に反撃されると思わずタジマはすっかり油断していた。即座にタジマの股間から顔を放し、血の混ざった唾を吐く。僕の血ではない、タジマの血だ。
 タジマの股間に顔を埋めるふりで、口に含み、歯を立てたのだ。
 股間を両手でおさえ悶絶するタジマから床に手をつきあとじさり、そばに転がった木刀を握り締める。
 サムライの教えを反芻し、しっかりと木刀を構え、叫ぶ。
 「僕にふれていいのはサムライだけだ!!」
 自分の声で痛いくらいに鼓膜が震えた。胸の動悸はおさまらず、呼吸が速くなった。それでも木刀は手放さず、股間をおさえてうずくまったタジマに木刀の切っ先をむける。体も心も貶められてもせめて最後の一戦は死守しようと心に決め、両手で木刀を構えて今の僕にできる精一杯で身を庇えば、ゆっくり股間から手をはなしたタジマが怒りに顔が充血した恐ろしい形相に変じる。
 僕への殺意をむきだしにした顔。
 「あああああああああああああっああああっ、そんなに死にてえええのかあああっ!!!」
 怒り狂ったタジマが全力で警棒を振り上げる。
 タジマの全力で振り下ろされた警棒を何とか木刀で受け止めるが、その反動で手が痺れた。眼前に構えた木刀で警棒を払い、踵を返して鉄扉へ疾走する。逃げなければ殺される、タジマは本気で僕を殺すつもりで手加減せずに仕掛けてきた。開け放した扉から廊下へ転げ出て、木刀を片手に持ち、背後の脅威に駆り立てられひた走る。逃げろ逃げろ逃げろ、速く速く速く!!心臓が爆発してもかまうものか、タジマにつかまり嬲り殺されるよりずっとマシだ。タジマに引きずり倒され犯されるよりずっと……
 「!!!っ、が」
 肩に激痛が走る。
 肩に警棒が的中し、木刀を持ったまま廊下に倒れ伏す。天井の蛍光灯が視界に映る。仰向けに寝転んだ僕は、すぐさま起き上がろうと廊下に手をついたが、肩の激痛がひかずに上手く体勢を持ち直せない。
 額に脂汗が滲む。タジマはすぐそこまで来てる。はやく起き上がらなければタジマに捕まる、今度こそ犯され殺される。僕はそれだけのことをしたのだから……
 「来るな」
 喉から制止の声が漏れた。一歩、また一歩とタジマとの距離が縮まり靴音が大きくなる。それ以上近付くな、近付いたら……どうする?僕の味方は木刀だけ。が、基礎しか習ってない剣技では所詮時間稼ぎ。僕はサムライじゃない、サムライのようには強くなく自分の身は守れない。なにが天才だ、肝心の時に役に立たない頭脳など……  
 靴音が途絶える。
 とうとう追い詰められた。僕はまだ立ちあがれない。肩がひどく疼いて、膝を起こそうとしたそばからよろけて尻餅をつく始末。そんな僕の背後に立ち、タジマが哄笑をあげる。それでもどうにか平衡感覚を取り戻し、片手で肩を庇い、片手で木刀をひきずり歩き出す。最後まで諦めるな、諦めたら終わりだ。サムライ以外の男にさわられるのはいやだ、いやなんだ!
 腰を蹴られた。
 「!!」
 体を折れば、すかさず膝を蹴られる。それでも倒れずに持ち応えれば、とどめとばかりに太股を蹴られる。力尽き、廊下に屑折れた僕の後頭部を靴裏で踏み、タジマが口笛を吹く。
 「最後までサムライの木刀を放さねえか、見上げた根性だ」
 僕の手を蹴り足を蹴り、四つん這いの格好にさせたタジマが素肌に執拗な視線を這わす。廊下の真ん中で犬みたいな格好を無理強いされる屈辱で頭が沸騰し、素肌が赤く染まる。上着は房に置いて来て、上半身は裸だ。埃まみれの床に手足をつき頭をたれた僕の手の下から力づくで木刀を抜き取り、タジマが言う。  
 「ご褒美に、サムライの木刀で開かせてやるよ」
 淫猥に舌なめずりしたタジマがぎこちない手つきで木刀を構え、無造作に僕の足を広げる。足の間に木刀をさしいれられ、僕が握り締めていたプライドの最後の一片が跡形なく蒸発する。
 サムライの木刀を奪われ、サムライの木刀をこんなことに使われたばかりか、サムライとの約束さえ守れないのか。
 自己嫌悪の泥沼に際限なく沈みこみ、床に肘をつき深く深くうなだれた僕の耳に乾いた音が響く。木刀を投げ捨てたタジマが僕の腰を抱え、腹を密着させ、そして……
 僕の耳元で、ねっとり囁く。
 「たっぷり犯してからじっくり殺してやるよ」
 おしまいだ。
 とうとうサムライとの約束を守れなかった。恵の絵も守れなかった。僕がしてきたことは全部無駄だった。諦念とともに目を閉じた僕のズボンが乱暴に引き下げられ、タジマが生唾を飲み込んだ……

 その時だ。

 廊下の前方に靴音が響き、二人の人間が現れる。
 「タジマ、おまえ……!」
 絶句した五十嵐と、
 「即刻鍵屋崎から離れろ。でなくば射殺するぞ」
 背広の内側に手をさしいれた安田だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051026005029 | 編集

 「ははっ、冗談でしょ安田さん」
 タジマは笑いながら両手を挙げた。降参のポーズ。
 前方、背広に片手をさしいれた安田は微動だにしない。知的な印象を加味する銀縁眼鏡の奥では怜悧な双眸が鋭い眼光を放つ。凄味を帯びた双眸でタジマを威圧する安田の隣では、放心状態から覚めた五十嵐が廊下に手をついた僕へと視線を移し、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
 「大丈夫か?」
 僕の傍らに屈みこみ、気遣わしげに声をかけ助け起こす。次いで厳しい顔でタジマを睨む。廊下の真ん中で三つ巴の睨み合いを続ける看守二人と副所長。廊下にたゆたう空気が帯電したように緊迫感が高まり、沈黙の密度がいや増す。僕はまだ悪夢でも見てるように現実感が希薄で、背中におかれた五十嵐の手を振り払う気力もなかった。僕を背に庇った五十嵐が、開け放たれた扉から房の中を覗きこみ血相を変える。
 ベッドの位置が移動し、床一面には墨汁が広がり、便箋が散乱した惨状。もはや隠蔽しようもない乱闘の形跡。瞬時に何が起きたか察した五十嵐が、我を忘れてタジマに掴みかかる。
 「お前っ、なんてことを……!!」
 五十嵐は真剣に怒っていた。憤怒の形相でタジマの胸ぐらを掴み、至近距離で顔を突き合わせる。だがタジマは動じない。ふざけて両手を挙げたまま、同僚の暴挙を小馬鹿にするような笑みを広げる。
 「あ?なにマジになってんだよ五十嵐、ほんの冗談だよ。ほら、売春班営業停止になってから仕事なくなった売春夫が昼間やることなくて退屈してるって聞いて、謹慎中の俺様が遊び相手になってやろうって」
 「だれがそんな勝手な真似を許可した」
 五十嵐とは対照的に安田の口調は静かだった。なにかとてつもなく物騒な物を内に抱え込んだ平板な声。 背広の内側に手を入れた姿勢はそのままに、安田がタジマと向き合う。
 「副所長の私の許可なく所内を出歩くことは職務規定に反する。君は今無期限で謹慎処分中の身だ、規定違反をすれば免職も視野に……」
 「いいんですかね、俺にそんな口聞いて」
 両手をおろしたタジマがいつになく挑発的に安田を睨む。不審げに眉をひそめた安田を卑屈な上目遣いで探り、タジマが発言する。
 「俺の兄貴が警察庁上層部の人間だって副所長も当然ご存知ですよね?いいんですか、上司に不当な扱いをされたと兄貴に泣いて訴えても。副所長こそ東京プリズンにいられなくなりますよ」
 タジマに兄がいたなんて知らなかった。それも警察庁上層部の人間だなんて。
 それで一部始終納得がいった、タジマが東京少年刑務所をやめさせられることなく主任看守の地位に居座り続けられるわけが。いくら主任看守でも賄賂と引き換えにボイラー室の鍵を無許可で貸し出したりリンチの行きすぎで囚人を嬲り殺したのが明るみにでればクビになる。しかしタジマには警察庁上層部の人間を身内に持つという強力な後ろ盾があった。タジマが東京プリズンでどんなことをしても公の場で裁かれることがなく今日まで過ごしてこれたのは、警察庁の兄が圧力をかけ、事実を揉み消していたからだ。
 だからタジマは今もこうして好き放題に振る舞っていられる。リンチで何十何百人という囚人を殺しても、何十何百人という囚人を自分の欲望を満たすためだけにレイプしても何ひとつ咎められることなく大手を振って出歩いてられるのだ。
 「いいこと教えてやるよ、親殺し。東京プリズンの看守はクズ揃いなんだ」
 何ひとつ反省することなく、何ひとつ後悔することなく、現在の生活に満足しきったタジマがうそぶく。
 「なにか不始末をやらかして中央から左遷されたヤツらの吹き溜まり、それがここ東京プリズンだ。囚人から賄賂を受け取った、囚人に手えだした、刑務所の金を横領した、リンチで囚人殺した……罪科はいろいろだが、表にだせねえ失敗や犯罪やらかして体面悪さに左遷されたヤツらが最後に行きつく場所なんだ。ここの看守が最低なのにはちゃあんと理由があったんだ、東京プリズンに左遷されるまえから筋金入りのワルばっかじゃてめえの運が悪いって諦めるしかねえよな!」
 同僚と副所長の眼前で東京プリズンの内実を暴露したタジマが、何か吹っ切れたように腹を抱えて爆笑する。謹慎処分を下されたことがきっかけで安田に対する不平不満が爆発したのだろう。警察庁の兄が味方についてるから大丈夫だと奢り高ぶり、狂った哄笑をあげるタジマから五十嵐があとじさる。
 「お前もそうだ、五十嵐」
 嗜虐心に火がついた目が爛々と輝き、今度は逆に五十嵐の胸ぐらを掴む。
 「五年前のテロで娘死でから酒に溺れて自暴自棄になって、同僚とはでに喧嘩して重傷負わせて、それでこーんな砂漠くんだりに流されてきたんだろ?お気の毒さまだなおい!で、アル中は治ったのか?」
 「この野郎……」
 ぎりっ、と音が鳴るほどに奥歯を食いしめ、タジマの胸ぐらを掴む手に力をこめる。
 「ははっ、アル中って夫婦で伝染するんだなあ。夫が酒と縁切ったと思ったら今度はフィリピ―ナの嫁さんが」
 「黙れ。殺すぞ」
 「おお、怖い怖い。お前がここに来たばっかで荒れてたころ思い出すなあ」
 凄んだ五十嵐の額に頭突きを見舞い、跳ね飛ばす。
 額と額が衝突する鈍い音が鳴り、五十嵐の顔面が仰け反る。
 「けどよ五十嵐、一度冷静になってお前が今胸ぐら掴んでる人間の面よーっく拝んでみろや。いいのかよそんな口きいて、あのことばらしてもいいのか」
 額を腫らした五十嵐が、それでも胸ぐらを強情に掴んだまま、凄まじい殺意をこめた目つきでタジマを睨み据える。
 「あのことばらされたらお前もうここにいられねえぞ、東京プリズンじゃ生きてけねえぞ。看守クビになったら酒に溺れたフィリピ―ナ抱えてどうやって生活費稼ぐんだ、警備員でもして地道に働くか?ははっ、馬鹿言えよ。おまえみたいにくたびれた中年雇う物好きがいるもんか、三十半ばすぎてからの再就職は厳しいぜ」
 芋虫めいた指に脅しの力をこめ、五十嵐の胸ぐらを締め上げ、低い声でタジマが囁く。
 「黙って俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ。看守クビになったら困るだろ、五十嵐。俺の機嫌とりしてりゃこの先ずっと美味しい思いができるんだ、東京プリズンでやりてえ放題できるんだ。なんならそこの親殺しを」
 僕へと顎をしゃくったタジマが、軟体動物めいた舌でねっとり唇を舐め、淫猥にほくそえむ。素肌を透かして内臓まで犯す視線に、心臓が強い鼓動を打つ。鳥肌立った二の腕を抱いて距離をとれば、同僚へと向き直ったタジマが親愛の笑顔を見せる。
 後ろ暗い秘密を共有する、共犯者の間に芽生えた連帯感。
 「ふたりで犯してたのしんでもい、」
 ―「タジマあああああああああ!!!」―
 タジマの提案は五十嵐の絶叫でさえぎられた。
 激怒した五十嵐が大きく腕を振りかぶる。タジマを殴り飛ばそうと前傾姿勢をとった五十嵐の腕を、背後から誰かが掴む。
 安田だ。
 顔色ひとつ変えず安田がそこにいた。いつのまにか背後へと接近し、背広から手を抜き、冷静にタジマと五十嵐とを見比べる。
 「……離してください副所長」
 五十嵐が、喉から声をしぼりだす。
 「こいつだけは許せねえ、こんな最低なヤツが同僚だと思うと自分の仕事に誇りが持てなくなる。頼むから腕をはなして一発殴らせてくれ。殴ったあとは、どうぞ好きなようにクビにしてくれ。こいつさえぶん殴ることができりゃ未練はねえ」
 五十嵐のこぶしは震えていた。俯き加減に立ち尽くした五十嵐の表情は読めないが、その声はくぐもっていた。怒りに体温が上昇し今にも心臓が蒸発しそうで、破裂寸前の殺意を制御するのに必死で、五十嵐の声は水分を失い乾いていた。
 「落ち着きたまえ五十嵐看守、感情的になったところで何も解決しない」
 「そうだ、落ち着けよ五十嵐。俺ぶん殴ったあとのことよォく考えてみろや。本当にクビになっていいのかよ、カミさんの酒代は誰が稼ぐんだよ?見知らぬ人間ばかりの異国の地でただでさえ寂しい思いしてる日本語もろくにしゃべれねえホステス上がりのフィリピ―ナを誰が養ってくんだよ」
 「………っ、」
 安田に窘められ、タジマに嘲弄され、五十嵐が屈辱に歯噛みする。やり場のない怒り、憂慮、葛藤。矛盾した思いに引き裂かれた五十嵐が長い長い逡巡の末、深く深く息を吐き、安田に促されてこぶしを下ろす。
 無念が淀んだ表情の同僚に、タジマが皮肉げに笑う。
 「腰抜けが」
 五十嵐の怒りが再沸騰する。忍耐の限界が訪れた五十嵐が再びタジマへと殴りかかるより早く、細身の影がスッと横を通りすぎる。三つ揃いのスーツを完璧に着こなした聡明な風貌の男が靴音高く響かせタジマに接近、腰に手をあて哄笑をあげるタジマの正面に立ち……
 
 安田がタジマを殴った。
 手加減せず、おもいきり。

 タジマの体が吹っ飛び、大股開きで床に転げた。完璧なストレートだった。しなやかかつ俊敏、目にもとまらぬ迅速な行動でタジマの顔面に渾身の一撃を見舞った安田がネクタイの位置を正し、何事もなかったように顔を上げる。
 呆然とした。
 インテリめいて聡明な風貌の安田がこんな暴力的手段にでるなんて、目を疑った。
 「但馬看守。君には反吐が出る」
 相変わらず平板な声で安田が告げる。無様にひっくり返ったタジマを傲慢に見下し、命令することに慣れた者特有の尊大に落ち着き払った物腰で述べる。
 「……君の処罰を軽減したのは所長の意向で、私は本意ではなかった。囚人から賄賂を受け取りボイラー室の鍵を無許可で勝ち出し、看守の信用を貶めた君がなぜ謹慎処分で済んだのか?勿論君の身内に警察庁の人間がいるからだ」
 安田の双眸は冷え冷えとしていた。取るに足らないつまらないものを見下す軽蔑の眼差し。眉間に刻まれたのは嫌悪の皺。
 「そして勿論、これは私の独断だ。所長の意向ではない。副所長の私が、いや、安田 順というひとりの男が君の人間性と下劣な振る舞いに自制心が振り切れた結果だ。文句があるなら直接言え、いつでも相手になろう。だが……」
 一呼吸おき、呆然と立ち尽くした僕を一瞥する。その目を過ぎったのは複雑な色。僕を気遣うような哀れむような、人間らしい感情の波紋。安田らしくもない表情だ。タジマへと視線を移した安田が表情を厳粛に改め、冷徹な副所長と潔癖な人間の中間、理性と感情のはざまを揺れ動く素顔を覗かせる。
 紛れもなく、安田は怒っていた。眉間に寄った皺も、苦渋の色を隠しきれず無表情を装うのに失敗した顔も、忌々しげに引き歪んだ唇も、すべてが安田の心情を代弁していた。
 ひどく人間らしい、等身大の表情。鏡の中に僕が見た、苦悩する人間の顔。
 「金輪際鍵屋崎には手を出すな。命令だ。もし次があれば君を射殺する、速やかに抹殺する」
 安田の声はひどく冷えていた。
 「正義の味方気取りかよ、若造が……」  
 安田の威圧に生唾を飲み下し、漸くタジマが言い返す。虚勢と媚とが入り混じった半笑いが、ただでさえ醜い顔をさらに醜くさせる。人間の醜い部分だけをかき集めたような見ているだけで吐き気を催す笑顔。
 タジマの笑顔に不快感をおぼえたのは安田も同様らしく、スッと、さりげない動作で背広の内側に手をもぐらせた。拳銃をとりだす真似に過剰反応したタジマが「ひっ」と悲鳴を発し、頭を抱え込む。
 「どうやら誤解しているようだな、但馬看守」
 廊下に突っ伏した但馬を冷然と見下ろし、初めて安田が笑みらしきものを浮かべた。
 「君を撃つときがあるとすれば、その理由はただひとつ。社会悪を断罪する正義感ではない、使命感でもない、また副所長の義務感でもない」
 安田、タジマ、五十嵐、僕。
 この四人以外は誰もいない廊下には、ひどく重苦しい沈黙が落ちていた。命乞いするように足元にひれ伏したタジマを見下し、背広に手をもぐらせた安田が口を開く。
 「私が引き金に指をかける理由はただひとつ……私自身が君に対して怒りを感じたときだ。理性では制御できないはげしい怒り。殺意の域に昇華した憎悪。ただそれだけが人が人を殺す動機となる」
 淡々と言ったタジマが、もうタジマには興味が失せたようにそっけなく付け足す。
 「私は今それを実行したい気分だ。今は理性で殺意をおさえこんでいるが、これ以上は保ちそうにない。射殺されるのがいやなら即刻この場から立ち去れ、私の視界から消えろ」
 タジマはただ震えていた。いつ背広から銃が抜き取られるか、いつ銃口を額に照準されるが、そればかりが気がかりで安田の言葉もろくに耳に届いてないようだ。
 そして安田は言った。 
 有言実行の重さで、淡々と。
 「君が賢明なら、私に引き金を引かせるな」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051025022144 | 編集

 背広の内側で手が動き、顔面蒼白のタジマが踵を返す。
 ズボンの前ははだけたまま、ベルトのバックルを耳障りに鳴らし、脱兎の如く逃げ出したタジマを見送り安田が手をおろす。ベルトをしないで廊下を疾走したせいで途中ズボンがずり落ち、足首に絡み、タジマが転倒する滑稽な一幕もあった。ズボンを両手で引き上げながら、一秒でもはやく安田の視線を振りきろうと、射程圏内を脱しようと恐怖に突き動かされたタジマの姿がやがて見えなくなる。
 廊下の奥からは、「覚えていやがれ」と捨て台詞だけが聞こえてきた。 
 「大丈夫か」
 僕を振り返り、安田が問う。その目を直視することができず、大股に廊下を引き返す。途中からは早足になり、次は駆け足になり、開け放した扉から中へとびこむ。 
 「鍵屋崎!?」
 五十嵐の声が追ってきたが無視する。転げるように床に膝をつき、ひりつくような焦燥にかられてあたりを見まわす。あった。床に上着が落ちていた。上着を手に持ち、一心不乱にベッドの片方へ駆け寄る。ベッドの傍らに屈みこみ、手にした上着で毛布とシーツを拭く。何度も何度も執拗に、神経質に。
 早く痕跡を消さなければ、汚れを拭わなければ。サムライが帰ってきたら一目でわかってしまう、ベッドに横たわればすぐに異変に気付く。タジマに無理矢理射精させられた痕跡がシーツに染み付いて、毛布に白濁が散って、サムライのベッドで僕が何をされたかすぐにわかってしまう。早く拭かなければ、消さなければ、なかったことにしなければ。そうだこんなことはなかったんだ、全部なかったことにするんだ。僕はサムライとの約束を破らなかった、今日ここでは何も起きなかった、僕は何もされてない、何も傷付いてない、何も……
 僕は、いつもどおりの僕だ。いつもどおりの鍵屋崎直だ。
 タジマに何もされなかったと思いこめば、僕はいつもどおりの鍵屋崎直でいられる。自分が思うとおりの、サムライが思うとおりの鍵屋崎直でいられる。ひたすら手を動かし上着で汚れを拭う。上着を毛布に擦り付け非常な集中力を発揮し、鼻梁にずり落ちた眼鏡越しに一滴たりとも見逃さず汚れをさがす。どれほど擦っても落ちなかった、乾いて毛布と一体化して拭うのは不可能だった。なら洗うしかない。サムライが帰って来るまでに毛布を洗い、汚れを落とし……
 物音に硬直。
 上着を鷲掴んだまま、はじかれたように顔を上げる。強張った表情で振り返れば、開け放たれたドアの向こうに安田がいた。五十嵐がいた。無言でふたり並んで、痛ましげな面持ちで、僕の奇行を凝視していた。
 何故そんな、哀れむような目をする?
 笑ってくれたほうがマシなのに、何故同情するふりをする?
 やめろ、僕を見るな、そんな目で見られるのは耐えられない。僕はそんな目で見らなければならない人間じゃない、今日ここでは何も起きなかった、僕の身には何も起きなかった。今日タジマは来なかった、僕はタジマに押し倒されなどしなかった。恵の絵は破かれなかった、サムライの毛布は……
 「やめろ」
 声がひび割れた。
 上着を握る手が白く強張る。わかっている。どんなに嘘で塗り固めても、何が現実で何がそうじゃないか本当はちゃんとわかっている。だがそれを認めたら僕は壊れてしまう、どうしようもなくなる。いやだ、安田と五十嵐の前で壊れるのはいやだ、第三者がいる前でみっともなく取り乱すのはいやだ。ただでさえこんなみっともないのに、ただでさえみじめなのに、上半身裸のこんな格好で上着を掴んで、床に座りこんで一心不乱にシーツを拭いて……
 これ以上みじめにするな。
 頼むから。
 「見るな」
 死んだほうがマシだ。
 「見るな……」
 死んだほうが。

 ―「見るな!!」―

 何かが切れた。
 振りかえりざま、安田めがけて上着を投げ付ける。僕が投げた上着は飛距離が足らず、安田の顔面に被さるはずがふわりと足元に落ちた。それだけ。
 なにからなにまで情けない。なにからなにまで救いがない。せめて上着で安田の視界を覆うことができたらいいのに、せめて五十嵐が見ないふりをしてくれたらいいのに、彼らは低脳で鈍感で無神経の三重苦だからそんなささやかな配慮もできない。
 こんな僕、僕だって見たくない。けど他にどうしようもない。
 僕が見たくない以上に、サムライに見せたくないのだ。 
 安田と五十嵐の視線に苛まれ、やりきれなくなって、立ち上がる。スニーカーの靴裏で墨汁を跳ね飛ばし、舞い散る便箋を踏み付け、大股に扉へ向かう。途中上着を拾い上げ、素早く袖を通す。わざと安田に肩をぶつけるように廊下に出ようとすれば、すれちがいざま腕を掴まれる。
 「まだ何か用か」
 僕の腕を掴んだ安田は何も言わない。
 「遠慮せず笑えばいいじゃないか。僕は滑稽だろう、みじめだろう。一体なにをしてるんだと声を大にして笑えばいい。あんな最低な男に組み伏せられ裸にさせられ、四つん這いで警棒に打ちのめされて……サムライの毛布を汚したのは僕だ。友人の毛布で粗相するなんて最低だろ。タジマならきっと笑うぞ、僕は犬にも劣る最低の……」
 自嘲の言葉が止まらない。あとからあとから洪水のようにあふれだす。俯き加減にそっぽをむき、安田の方は決して見ずに、ただ肘から伝わってくる手のぬくもりを感じる。なにをやってるんだ僕は。安田に言ってどうなることでもないのに、安田は関係ないのに。八つ当たりなんて大人げない、最低だ。
 ほら。タジマの言った通り、最低の人間じゃないか。
 サムライの友人にも恵の兄にもふさわしくない、最低の親殺しじゃないか。
 「……そこに立って、見ていたならわかるだろう。部屋の惨状を見れば何が起きたかすぐわかるだろう。僕は裸で、床は散らかり放題で、ベッドは乱れている。これ以上何を説明させたい、どんな詳細な説明を求める?僕に何て証言してほしいんだ、タジマを糾弾する証拠でも集めたいのか。なら体液を採取すればいい、精液でDNA鑑定をすれば……」 
 「泣け」
 耳を疑った。
 虚を憑かれたように安田を仰ぐ。
 「……なく?」
 何故泣く?何故安田が、それを命じる?
 僕の疑問をよそに、安田は淡々と続けた。
 「君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな」
 無理を言う男だ。苦笑したいが、上手く表情が作れない。表情の作り方に失敗し、泣いてるような笑ってるような表情を晒すのはごめんだ。だから僕は無表情のまま、安田から目を逸らす。
 「手を放せ」
 邪険に安田の手をふりほどき、廊下に出る。後ろは振り返られなかった。そうする必要もなかった。五十嵐が僕に声をかけようとして、安田に止められたのが気配でわかった。自分の靴音を他人のそれのように聞きながら、覚束ない足取りで廊下を歩く。一刻も早く安田と離れたくて、五十嵐と離れたくて、逃げるように立ち去る。 

 『君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな』

 脳裏で反響する安田の言葉。
 どこへ行ったらいいかわからない。房には帰れない。廊下に残ることもできない。僕は今どんな顔をしてるんだろう、安田に心配されるほど酷い顔をしてるのか、ロンより酷い顔をしてるのか?警棒を投げられた肩が疼き、なんだかぎこちない歩き方になった。痛む肩を片手で庇い歩き続け、ふと、渡り廊下を渡り終えたことに気付く。房には戻りたくない、先へ進むしかない。この先には医務室がある。今もロンが眠る医務室……
 廊下の前方に白いドアが見えた。医務室のドアだ。
 ノブを捻り、ノックもせず開ける。咎められるかと思ったが、医者は机に顔を伏せて居眠りしていた。侵入者にも気付かない医者など即刻クビにすべきだ。慎重に医者の背後を通過し、衝立の後ろに回りこむ。僕の他に人けはない。安田と五十嵐はいつまでたっても僕が来ないことを不審がり、房まで足を運んだものらしい。そして今なお室内の惨状に手をつけかね、廊下に立ち尽くしている。
 衝立のカーテンを引き、薄暗がりを覗きこむ。
 ベッドでロンが寝ていた。ロンの安眠に配慮し、そっとカーテンを閉める。何故ここに来たのかわからなかった。ロンの寝顔など見ても何の利益もないのにと自分の行動を怪しみつつ、枕元にたたずむ。
 衣擦れの音。
 ロンがゆっくりと目を開けた。間近で覗きこめば、顔の腫れはだいぶ引いていた。枕元に立つ僕を見咎めたロンが、寝ぼけた声で言う。
 「……鍵屋崎?」
 「レイジかと思ったか」
 語尾に疑問符がついていたからそう聞けば、ロンが黙りこむ。少しは期待していたらしい。そばの椅子に腰掛け、周囲の様子を窺う。タジマが医務室を訪ねた様子はない。無意識にここに来たのはタジマの言ったことが気になってたからかもしれない、とあとづけの動機を足す。タジマの気配がないのに安心して小さく息を吐けば、ベッドに横たわったロンが落ち着きなく身動ぎする。
 半端な時間に目覚めて眠れないらしい。
 「眠れないのか」
 「ああ」
 半端な時間に訪ねた僕のせいかもしれない、と少しは責任感を感じる。毛布にくるまったロンが、まだ痣の目立つ顔を正面の虚空にむける。
 「子守唄でも唄ってくれよ」
 ひどく唐突だった。
 「子守唄?」
 「お前に起こされたんだから責任とれよ。ええと、あれがいいな。いつもレイジが唄ってる……」
 ロンがかすかな声でメロディをなぞる。上手くもまずくもない鼻歌。
 「……これ。レイジは音痴だから全然メロディ違うけど、こっちがホントらしい。ビバリーに聞いた。レイジのヤツさ、機嫌いいとき絶対これ唄うんだ。ひとが寝てようが何してようがおかまいなしに。しょっちゅう唄ってっから変に耳についちまって、なんか、聞こえないと落ち着かなくて」
 言い訳がましい早口でロンが言い、気まずげに押し黙る。単純に怪我が疼いたのかもしれない。
 「……わかった」
 淡白に頷けば、信じられないものでも見たようにロンが目を見張る。
 「どういう風の吹き回しだ、熱でもあるんじゃないか?」
 「自分から言い出してその態度はなんだ。いくら僕でも怪我人の頼みを断ったりはしない、まあ本の読み聞かせを頼まれたなら君の顔面に本を伏せ窒息死寸前まで追いこんでもみるがたかが鼻歌だ、時間も手間もかからない」
 椅子に深く腰掛け、背凭れに背中を預け、静かに瞼をおろす。体重がかかり、椅子の脚が軋む音。カーテンの衝立に遮られた薄暗がりで、ロンはじっとベッドに横たわり、僕が唄うのを待っていた。
 ロン相手に緊張する必要もない。
 清潔な白い天井を見上げ、かすかに鼻歌を口ずさむ。ついさっき聞きかじったメロディーを即興でなぞったせいで微妙な違和感が付き纏ったが、ロンはひどく満足げな表情をし、「やっぱお前のほうが上手いわ」と持って回った称賛をした。レイジと比べられても嬉しくないのが本音だ。
 医務室はひどくしずかだった。僕の鼻歌以外にはなにも聞こえなかった。
 衝立に囲われた薄暗がりで、いつのまにかロンは目を閉じていた。まどろみをたゆたうロンのそばで、僕は椅子に腰掛け鼻歌を唄う。レイジの口癖だという英語の歌を、歌詞の発音だけは正確に流暢に……
 鼻歌が途切れた。
 「……鍵屋崎?」
 ロンがうっすらと目を開けた。急に鼻歌が途切れ、不審に思ったらしい。怪訝そうに僕を見上げるロンの横、ベッドに肘をつき両手を組み合わせる。五指を組んだ両手に額を預け、俯く。
 「なんでもない」
 本当に、なんでもない。
 声がかすれそうだ。続けるのが苦痛だ。肩が痛い、タジマに殴られた場所が痛い。心も体も限界だ。だが、ロンに言ってもどうしようもない。ロンの方がもっとボロボロだ。レイジは来ない。心細いに決まってる。
 深く息を吸い、再び口を開く。組んだ両手に額を預け、こちらを気遣わしげに窺うロンに表情を読まれぬよう俯き加減に鼻歌を再開する。レイジのそれのようにわざと音程を外そうかとちらりと脳裏をかすめたが、そこまでしてやる義務はない。
 だから僕は唄う、自分の声で。
 唄が心を癒したりはしないが、気を紛らわすことはできると信じて。 
 鼻歌を続ければ再びロンが目を閉じ、今度こそ寝入ってしまった。ロンが寝息をたてはじめても小さく小さく歌いつづけ、終わりまで歌ってから両手を強く強く額に押し当てる。
 最後の最後で、歌声が嗚咽になった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051024022626 | 編集

 砂漠の夜は寒い。
 防寒具としてはあまり役立たない薄手の毛布でもないよりはマシだ。囚人の中には同房の人間から力づくで毛布を奪い取り二枚重ねにして暖をとる者もいる。毛布をはだけて風邪をひけば自分の不摂生だと看守に責められる、当然強制労働は休めない。風邪をこじらせ肺炎を併発した患者が医務室に運び込まれる頃には大抵手遅れで、医務室の医療設備ではどうすることもできず数時間後には処理班が呼ばれ、死体が運びだされる。
 砂漠で夜を越すのは命がけだ。
 不潔な染み汚れが目立つ毛布でも贅沢は言えない、砂漠で夜を越して朝を迎えるためには欠かすことのできない必需品だ。シーツが体温でぬくもるまでのあいだ、肩から下の体面積を覆うだけの生地しかない毛布に膝を折り曲げた胎児の姿勢でもぐりこみ、うとうととまどろむ。夢とは睡眠の初期段階たるレム睡眠の時に見るものだと脳波の研究で判明したが、僕が夢を見るのは他の囚人が寝静まり物音ひとつしない深夜だ。
 東京プリズンに来てから僕はずっと不眠症気味だ。たまには熟睡したい。
 叶わない望みだと半ばあきらめている。僕が安眠を望むこと自体間違っている、両親を刺殺し恵を精神病院送りにした僕が良心の呵責なく安息の眠りなど手に入れていいはずがない。
 だが、今晩は別の意味で眠れない。理由は単純、毛布がないからだ。
 僕の毛布は今、ベッドのパイプにかけて乾かしてある。今日鉄扉を開けたら、サムライが留守中の房にタジマがいた。僕が普段使ってる片側のベッドに腰掛け、おそろしく卑猥な笑みを浮かべていた。タジマは僕を手招きして自慰を始め、すぐに射精し、毛布に白濁が付着した。毛布の汚れは洗っても洗ってもなかなか落ちず、何回も何回も揉み洗いして、水にうたれた手がかじかみ感覚を失う頃に漸く目立たなくなった。
 ベッドも使えない。僕が普段使ってるベッドには毛布からシーツに至るまで白濁の染みが付着して、ほんの数時間前にはベルトを緩めズボンの前を寛げ股間を露出したタジマが腰掛けていて、とてもじゃないが身を横たえる気がしない。
 サムライが強制労働を終えて帰って来るまでに、半日かけて房を片付けた。ベッドの位置を元に戻し、床に膝をついて墨汁を拭き、半紙を束にして便箋をかき集めた。
 全部自分ひとりでやった、他人の手は借りなかった。 
 今日あったことをサムライに知られてはならない、絶対に。
 サムライが知ったら僕を軽蔑する。
 『なにをしてるんだ』  
 房に帰ったサムライの、第一声がそれだった。その時僕はサムライに背中を向け、洗面台に手を突っ込み毛布を洗っていた。タジマの精液が付着した毛布など手を触れるのもおぞましいがそのままにしておくわけにもいかない、僕の毛布はこれ一枚きりでこれから先ずっと使わなければいけないのだから、今日中に汚れを洗い落とし乾かしておかなければ。
 『毛布に汚れが目立ってきたから洗ってるだけだ、他に理由はない』
 『ベッドの位置が変わってないか』 
 『気分転換に模様替えをした』
 苦しい言い訳だと思ったが、サムライはそれ以上詮索しなかった。毛布を洗いながら、とうとう僕は顔を上げサムライの目を見ることができなかった。洗面台の鏡越しに見たサムライは怪訝そうに眉をひそめ、若干位置の動いたベッドを見比べていた。サムライは目敏い。普通なら気付きもしないささいな変化でも即座に見破ってしまう、遠からずここで起きたことに勘付いてしまうかもしれない。そうしたらサムライは僕を軽蔑するだろうか、僕に失望するだろうか?僕はサムライとの約束を破りタジマに抱かれようとした、自分から進んでタジマを受け入れようとした。ロンを盾に脅されたからとはいえ、サムライとの約束を放棄し、信頼を裏切った事実に変わりない。
 サムライのベッドでタジマに押し倒され、手首を縛られた記憶が脳裏によみがえる。
 サムライの毛布も洗いたかったが、そんなことをすれば不審に思われる。シーツも取り替えたかったが、そんなことをすれば必ず「なんのつもりだ」と追及される。追及されても答えられない、答えられるわけがない。砂漠で夜を越すためには毛布は必要不可欠で、絶対手放せない防寒具で、理由も明かさず他人の毛布を洗うなど許されない行為だ。毛布がなくて凍えるのは僕だけでいい、サムライは何も知らないのだから何も知らないままにさせておけ。サムライの毛布とシーツは拭いた、それこそ何回も何回も執拗に汚れを拭き取り証拠隠滅をはかった。このままサムライが気付かずにいてくれればそれでいい、ここでは何も起きなかった、僕の身には何も起きなかった。

 そして、消灯時間が訪れた。 
  
 鉄扉越しに硬質な靴音が去り、静寂が深みを増す。消灯時間を過ぎたら囚人は床に就く決まりだ。日課の写経と読経を終えたサムライはベッドに戻り、僕もまたベッドに戻る。ベッドへ戻るサムライを後ろめたく目で追う。靴を脱ぎ毛布をめくり、ベッドに膝を乗せたサムライの後ろ姿に息をのむ。 
 『感謝しろ。特別にサムライのベッドで犯してやる』
 『サムライのベッドでサムライの匂い嗅ぎながらサムライの顔思い浮かべてイケるんだ。どうだ、興奮してきたか』
 ……なにを考えてるんだ僕はとかぶりを振る。毛布に手をかけたサムライがベッドに両膝をのせる。あのベッドで昼間タジマに押し倒された、服を脱がされ裸にされ、上着で手首を縛られ四つん這いにされタジマの手で射精させられた。
 毛布とシーツには汚れがこびりついてる。 
 僕の出した、体液の残滓がこびりついている。
 サムライは何も知らずベッドに身を横たえようとしている、僕とタジマが淫らな行為に及んだベッドで眠ろうとしている。昼間の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。声を噛み殺したシーツには唾液が染みて、毛布には白濁が散って、乾いて目立たなくなったとはいえ完全に痕跡を消しきるのは不可能で……
 「待て」
 毛布に潜ろうとしたサムライを、たまらず制止する。呼びとめずにはいられなかった。毛布に手をかけうろんげに振り向いたサムライと、この日初めて目が合う。ずっとサムライと目が合うのを避け続けてきたせいで、心臓が強い鼓動を打った。声をかけたものの、どう言葉を続けていいやらわからない。情けない、豊富な語彙をもつ天才の癖に言葉に詰まるなんて。忸怩たる表情で俯いた僕を見つめ、おもむろにサムライが提案する。
 「お前がこちらで寝ろ」
 「え?」
 「砂漠の夜は寒い。毛布がなくては眠れないだろう」
 「確かに僕の毛布は洗ったばかりで乾いてない、今日は毛布が使えない。しかし君のベッドに移るのは抵抗が……それに、君はどうする?僕がそちらのベッドを使うならどこで寝る」
 「床で寝る」
 とんでもないことを言いだす。が、サムライは頑固だ。一度言い出したことは撤回せず、僕がサムライのベッドに移ろうが移らなかろうが床で寝るつもりだろう。どうサムライを翻意させたものか頭を悩ますが、やがてため息をつき腰を上げる。心の奥底で安堵したのも否定できない、サムライが今晩ベッドを使わないなら見慣れない染み汚れに気付かれるおそれもない。
 サムライに知られるのが時間の問題でも、気休めにはなる。  
 サムライと入れ替わりに靴を脱ぎ、ベッドに横たわる。慎重に毛布に潜りこめばかすかな墨の匂いが鼻腔を突く。サムライの匂いだ。以前の僕なら他人のベッドに移るなど考えられないと拒絶したはずだが、今日は抵抗する意志さえ失せていた。体が消耗して心が磨耗して、口を開くのも億劫だった。大人しく毛布を羽織りベッドに身を横たえた僕の背後でサムライが頭上に手を翳し、あかりを消す。
 暗闇。 
 背後で衣擦れの音。サムライは本気で床で寝る気らしい。僕とベッドを交換するという選択肢もあったのに、あえて床で胡座をかき腕を組み睡魔の訪れを待つ。自分は武士なのだからこのくらい何ともないと代弁するかのごとくかたくなな態度だ。裸電球が消えた暗闇では異常に聴覚が敏感になる。サムライの息遣いやほんのささやかな衣擦れの音がひどく気になり、平常心をかき乱す。サムライがすぐそばにいるという安心感にもまして僕を不安にさせるのは、サムライに背中をむけているせいで彼の顔が見えない矛盾。
 サムライがすぐそばにいるのに、いないようで。
 「サムライ、いるか」
 さりげなく声をかける。
 「ああ」
 「寒くないか」
 「ああ」
 「嘘をつくな。砂漠の夜は冷えると自分で言ったくせに」 
 「俺は平気だ。ここに来て長いし修行を積んでる」
 なんの修行だ。
 「……虚勢を張るな。本当は寒いんだろう」
 「断じて寒くはない」
 「毛布が要るんじゃないか。毛布なしで夜を越すのは自殺行為だ、風邪をこじらせて肺炎を併発したら東京プリズンじゃ助かる見込みがないぞ。明日も強制労働があるんだから自重したらどうだ」
 「武士に二言はない。すでに寝床は明け渡した、今さら……」
 サムライがくしゃみをした。ばつ悪げに黙りこんだサムライを振り向く。いくらサムライでも毛布なしで砂漠の夜を越すのはつらい。人体には限界がある、人間には限界がある。一度こうと決めたら譲らない頑固なサムライにため息をつき、ゆっくりと上体を起こす。暗闇に目が慣れるのを待ち、こちらに背中を向けたサムライに提案する。
 「……一緒に寝ないか」
 腕組みをほどき、サムライが振り向く。無表情なサムライには珍しく、眉を上げ目を見開いた驚愕の表情だ。
 「風邪を伝染されるのはぞっとしない。生憎僕の毛布は乾いてない、今使えるのは君の毛布一枚きりだ。ならば効率を重視してもっとも賢い選択をした必然の結果、僕と君が毛布を共有し同じベッドに寝るのが誰もが納得する合理的結論というものじゃないか」
 サムライにベッドを譲られ安心したのは事実だが、それで風邪をひかれては困る。僕を守って怪我をするのも僕にベッドを譲って風邪をひくのも、たとえ本人がそれでよくても僕がよくない。それに裸電球を消せば暗闇に紛れて毛布のしみ汚れがわからなくなる。
 「……いいのか?」
 「質問の意図が不明だ。君のベッドだ、遠慮する必要がない。僕が邪魔だというならすみやかに自分のベッドに戻るが」
 「いや、そのままでいい」
 サムライも頑固だが、僕も頑固だ。サムライが首肯するまでは意地でも寝ないと意思表示してベッドに身を起こせば、諦念に至ったサムライが嘆息し、靴を脱ぎベッドに上がりこむ。サムライが膝に体重をかけたいせでぎしりとスプリングが軋む。
 一緒に寝ないかと提案してみたが、これはこれで落ち着かない。サムライの息遣いを耳朶に感じ、五感が冴える。毛布をめくり、隣に横たわるサムライによそよそしく背をむける。今度は近すぎて眠れない。一枚の毛布にくるまったせいで、サムライの存在を必要以上に意識してしまう。
 余計なことを考えるな、早く寝ろ。
 雑念を追い散らし睡魔に身を委ねようと固く目を閉じる。壁の方をむき、肩まで毛布をかけた僕の背後で衣擦れの音。サムライが居心地悪げに身動ぎする気配、予想だにしない展開に戸惑ってるらしい。シーツに顔を埋め、寝たふりをする。何故か心臓の動悸が速まり頭が覚醒し、瞼を下ろして視覚を遮断したぶん他の感覚が先鋭化する。かすかな墨の匂いが鼻腔を突き、衣擦れの音がひどく耳障りで、肌をこするシーツの質感が落ち着かなくて……
 首の後ろにひやりとした感触。
 「!」
 驚き、声をあげそうになった。肩越しに振りかえれば、サムライが僕の首の後ろに指をあてがい、小揺るぎもしない瞳で虚空の闇を透かしていた。
 「これはなんだ」
 歯型だ。先日レイジにつけられた歯型がまだ癒えてなかったのだ。首の後ろは敏感な部分だ。その敏感な部分に、無骨な指がふれる。サムライの指は男らしく節くれ立っていた。劣情の火照りを感じさせない、歯型の窪みをただなでさするだけの刷毛のような指遣い。乾いた指で首の後ろをさすられ、むず痒いようなくすぐったいような緩い快感が芽生える。皮膚の表面がひどく過敏になっている。指で感じるなんていやらしいやつだな、とタジマなら嘲笑するだろうと想像し、固く目を閉じてその想像を追い出す。
 「このまえレイジにつけられた歯型だ」
 ふざけて僕の首を噛んだレイジはあの時も笑っていた、豹とじゃれてる気分でぞっとしなかった。それを聞いたサムライが不機嫌になる。
 「やはり斬っておくべきだった」
 「斬るほどのことではない」
 「斬るほどのことだ」
 「何故怒るんだ。理解できない」
 「お前が体を粗末にしたからだ」
 なら、今日起きたことが発覚すれば激怒するだろう。他の男には体をさらわせないと約束したにもかかわらず、タジマに体を開こうとしたのだから。
 他でもない、サムライが日常寝起きするベッドで。
 重苦しい沈黙が落ちる。夜が深まり、闇の濃さが増す。サムライは寝たのだろうか?隣は物静かで衣擦れの音さえしない。寝返りも打たないのか、と不審に思う。どれくらい時間が経過した頃だろう。サムライに背中を向け、壁と向き合い、眠くもないのに眠ったふりを続ける。
 「寝たのか?」
 サムライは起きていた。僕とおなじで、なかなか眠れない体質らしい。寝たのか、と控えめに質問したサムライに返事しようと口を開いた瞬間、肩に激痛が走り体を二つに折る。
 「痛っ、」
 僕の無反応をいぶかしみ、本当に眠ってるのか疑問を抱いたサムライが、真偽を確かめようと肩に手をかけたのだ。悲痛な苦鳴を漏らして身を捩れば、当惑したサムライが突拍子もない行動にでる。はじかれたように跳ね起き、片手をのばし、僕の上着の背中をめくりあげる。上着をめくられた背中が肌寒い外気に晒され、肌が粟立つ。
 抗議する暇もない早業だった。いや、肩の激痛に身をよじりシーツを掻く僕は歯茎が軋むほど顎に力をいれ苦鳴を噛み殺すのが精一杯で、サムライに上着を鷲掴まれ裸の背中を凝視されても抵抗できなかった。
 「……これはなんだ」
 肩越しに振り返れば、サムライが愕然とした表情で呟いた。外気に晒された肩甲骨の右側にひどい痣ができていた。できてから数時間も経過してないあざやかな青痣、警棒を投げつけられたあとだ。
 「だれにつけられた?」
 声音は静かな怒りの波動を孕んでいた。サムライの視線と肌寒い外気とに背中を晒したまま、肩口の痣を庇う手段とてなく、生唾を嚥下する。
 闇を貫く猛禽の双眸に怒りの燐光を宿し、表情は厳しく引き締め、痣を凝視する。肩に視線の熱を感じ、肌が疼く。言い逃れはできない、サムライの追及をはぐらかすのは困難だ。サムライの手を振り解こうと暴れてみたところでサムライは決してあきらめず、肩の痣の理由を納得いくまで問い詰めるだろう。
 諦念のため息をつき、なげやりに呟く。
 「言いたくない」
 今日のことは話したくない、なかったことにしてしまいたい。上半身裸で廊下に逃げ出し、怒り狂ったタジマに警棒を投げつけられたなんて話せるわけがない。痣ができた理由を話せば必然その前後の経緯も明かさねばならない。サムライの留守中にサムライのベッドでタジマに犯されかけたなんて言えるわけがない。サムライは今も何も知らず、僕とタジマが肌を重ねたベッドに身を横たえているのだ。
 「言え」
 「どうでもいいじゃないか」
 「どうでもいいことがあるか」
 「僕は眠いんだ、話は明日にしてくれ。さあ早く上着をはなしてくれ、風邪をひいてしまう」
 「納得いく答えを得るまで放さない」
 「しつこい男だな」
 さすがに辟易し、邪険に肩を揺すりサムライの手を振り落としにかかる。サムライは動じない。裸電球が消えた闇に上体を起こし、僕の上着を掴み、体温の失せた目でじっと痣を観察している。上着の隙間から忍びこんだ骨まで染みるような冷気が肌を粟立たせ、背中を固く強張らせる。サムライの顔が見れない、目を直視できない。ひたすらシーツに顔を埋め無視と無関心を決めこみ、サムライが上着を手放してくれるよう祈る。頼むからこれ以上追及するな、関心を持つな、そっとしておいてくれ―……
 「直、こちらを向け。寝たふりをするな」
 無視する。背中にひやりとした感触。業を煮やしたサムライが上着の隙間から手を忍ばせ、肩甲骨に触れた。肩の痣を包むように五指を広げ、物憂げに畳みかける。
 「俺の顔を見ろ」
 「………」
 サムライの顔など見たくない。見れば決心が鈍り、心が惑う。毛布にくるまり壁を向き、頑固に背中を向け続ければ僕の注意を引こうと上着の内側で手が動く。ぎこちなく不器用な、真摯にいたわる手つきで痣を撫でるサムライ。骨張った指で肩甲骨を包まれ、やさしく痣を慰撫され、体が芯から溶ける。僕の体温が伝染したのか、サムライの指が徐徐にぬくもりをおび、くりかえし痣をなでさする動作が心地よいものへと変化する。ずっと昔、まだここに来る前、風邪をひいた僕の手を恵が握ってくれた。体が弱っている時は人肌のぬくもりも不快じゃない、逆に不安を和らげる効果もあるのだとその時初めて知った。
 恵が教えてくれたのだ。
 恵。僕の妹。大事な家族、かけがえのない存在、唯一の存在意義。恵名義で手紙が来た時は舞い上がって勘違いした、恵が僕を許してくれたんじゃないかと馬鹿な想像をして自分に都合よい解釈に酔い痴れさえした。恵名義で手紙が来たのは僕を喜ばせようという担当医の配慮で、結局はそれが裏目にでて、僕の期待はひどく裏切られた。
 でも、今なら言える。素直に肯定できる。それでも恵から手紙が届いて、恵の近況を知ることができて嬉しかったと。現在の恵について知ることができて安心した、恵が順調に回復してるとを知り周囲の人間に優しくされてると知り安心した。たとえ恵がそうは思っていなくても、恵は今でも僕の大事な家族で大事な妹だ。僕が一方的に思いこんでいるだけだとしても恵を大切だと思う気持ちは本物で、まぎれもなく鍵屋崎直という人間の一部だ。
 恵から届いた手紙を粗末にするんじゃなかった。無造作にベッドの下なんかに投げこんでおくんじゃなかった。絶対見つからない場所に隠しておくべきだったのに、タジマの手に届かない場所に厳重に保管しておくべきだったのに……今さら悔やんでも遅い。すべては僕の不注意が招いた事態だ、原因はすべて僕にある。手紙には恵の絵も同封されていたのに、恵が一生懸命描いた大事な絵も同封されていたのに、その絵は僕の目の前でタジマに握りつぶされ口に放りこまれ咀嚼されてしまった。今ごろはタジマの胃の中で消化されてるかもしれない。
 恵の絵。
 あれは、恵の夢だったのに。恵がこうあって欲しいと幼心に望んだ家族の肖像だったのに。
 「………直?」
 何故タジマから取り返せなかった、奪い返せなかった?僕は恵の兄で恵を傷付けるすべての者から妹を守ると誓ったのに、何があっても絶対守り抜くと誓ったのに、恵の絵すら奪い返せなかった。自分の力では何もできなかった。外では僕が守る側だった、庇護する側だった。誰かを庇護することで強くなれた気がした、恵に頼られることが純粋に嬉しくて居心地良くて、恵の為なら何でもできると嘘偽りなく思った。
 東京プリズンでは、僕は何の力もない。ただの無力な人間で、妹の絵さえ取り返せなくて、友人に守ってもらうばかり負担をかけてばかりの足手まといで、
 「どうした」
 今日だって何もできなかった、自分の足ではタジマから逃げきることもできなかった。安田と五十嵐が現れなければあのまま引きずり戻され犯されてたはずだ。今こうして身を横たえるサムライのベッドで、
 「直」
 結局僕は何もできない。天才のくせに誰も守れない、妹ひとり満足に守り通せず自分の身すら守り抜けず誰かが助けに来るのを待つしかない。無駄に高い知能指数が何の役に立つ、誰の役に立つ?自分の役にさえ立たないじゃないか。優秀な精子と卵子を試験管でかけあわせ遺伝子をいじくり最高の頭脳を手に入れてもここでは何の意味もない。僕は無意味な存在だ。もし僕が強ければ、たとえばサムライやレイジのように強ければ誰にも頼らずタジマから身を守れたはずだ。傷ひとつつけず恵の絵を奪い返せたはずだ。

 何故僕は無力なんだ?
 こんなにも無力なままなんだ?

 無力で非力でみっともなくて、すべてが終わってからみじめに足掻くしかないのが僕の現状なのか?ロンがひとりで戦ってるときもリング脇に突っ立っているだけで何もできなかった、参戦表明しても僕では戦力にならないどころか足手まといなのが実状だ。僕がサムライの足を引っ張っている、サムライに迷惑をかけている。ずっとサムライと対等になりたかった、恵に誇れる兄でいたくてサムライに頼られる友人になりたくて必死に足掻いていた。 
 でも、限界だ。
 恵許してくれ、限界なんだ。
 今の僕になにができる?なにもできない、なにひとつできない、それが明確な答えで残酷な現実。足掻いても足掻いても蹴落とされるだけ、サムライの隣に並ぶことはできない、恵のところへ帰ることもできない。
 僕の居場所はどこにある?僕はどこへ行けばいい?
 父さんと母さんが、鍵屋崎優と由香利が今の僕を見たら失望する。こんな無力で無能な人間に教育した覚えはないと幻滅する、僕に殺されたことを無念に思うだろう。
 天才ならどうにもならなかったこともどうにかできたはずなのに、と。
 「………っ、」
 胸が苦しいのは何故だ、喉が詰まるのは何故だ?砂でも噛んでるみたいに喉の奥がざらつくのは?タジマに殴られた肩が痛くて寝返りも打てない。手首にはまだ、上着で縛られた違和感が残っている。タジマに愛撫された場所にはまだ痣が残っている。鬱血した手形に唇で強く吸われた痕、淫らな行為の痕跡。
 サムライに体を見せたくない。僕は約束を破った、タジマと寝ようとした。最低の裏切り者だ。タジマにさわられて快感に流されて、プライドはどこへやった?
 これなら不感症のほうがマシだ……
 『泣け』 
 唐突に、安田の言葉が甦る。
 『君はまだ子供だ。泣きたい時は泣け。そんな痛々しい表情をするくらいなら我慢をするな』
 僕の肘を掴み、沈痛な面差しで安田は命じた。僕に人前で泣けと強要した。冗談じゃない、そんなプライドのない真似はできない絶対に。それに僕は泣き方を知らない、物心ついてから今まで泣いたことなど片手で足りるくらいで、人前で涙を見せたのは売春班最後の夜だけだ。廊下をさまよい医務室へ行き、ロンに頼まれて鼻歌を口ずさむ最中、胸が絞め付けられるように痛み、最後の歌詞が嗚咽になった。ロンがぐっすり眠っていたから泣けた。唇を噛み嗚咽を殺したから、とうとう最後までロンは気付かなかったはずだ。
 それでいい。
 それでいいんだ。
 なのに何故、胸が苦しいんだ。苦しくて苦しくて哀しみに溺れそうで、息もできない有り様なんだ?隣にはサムライがいる、サムライがいるのに嗚咽をこぼせるわけがない。泣く必要もない。意味もない。
 僕がすることは全部無駄で無意味だ。
 恵を守るために両親を刺殺したことも、リュウホウを救いたくて救えなかったことも売春班での日々も、タジマに抵抗したことさえ無駄で無意味だった。
 僕は無意味だ。
 僕の存在は無意味だ。鍵屋崎直は無意味な人間だ。だから鍵屋崎直なんて固有名詞は必要ない、便宜上の呼び名はただの「親殺し」で十分だ。僕には名前なんかもったいない、そんな上等なものは要らない。
 タジマは僕を「親殺し」と蔑む。他の囚人は僕を「親殺し」と罵る。
 人に呼ばれない名前に意味はない……
  
 「直」

 その時だ。
 背後からサムライに抱きしめられたのは。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051023022740 | 編集

 なんだこの展開は。
 何故僕はサムライに抱きしめられているんだ、同性愛者でもないのに。頭が混乱して思考がまとまらない、背後から腕ごと抱きすくめられ身動きとれず当惑する。サムライは一体何を考えているんだ、これまで同性愛者と疑いをかけるたびに「俺は男色ではない」と断固否定してきたのにあれは嘘か?だが不思議と不快感はなかった、タジマや他の人間にさわられたときのような生理的嫌悪とは無縁のぬくもりだけが腕から伝わってきた。
 サムライとの接触は不快じゃない、居心地良い。
 瞼を閉じ、以前風邪をひいたとき恵がずっと手を握ってくれた記憶を反芻する。心を許した人間との接触は心地よいものだ。誰かに守られてると実感できる、誰かがずっとそばにいてくれると安心できる。
 安心?僕が安心などしていいのか?
 僕は両親を殺害し東京プリズンに来た、人間の屑と唾棄され蔑まれる親殺しだ。僕が両親を殺したせいで恵は心のバランスを崩し精神病院に収容されたというのに僕が安心などしていいのか、人のぬくもりに甘えていいのか?
 サムライが何を考えてるかはわからないが、僕に性欲を感じてるわけではないと断言できる。サムライは不器用でやさしい男だ。挙動不審な僕を落ち着かせるために、自分に何ができるかを考えて実行に移したのだろう。サムライは僕より背が高く肩幅もあり体格がしっかりしている。僕を抱きすくめた腕は逞しく、僕の胸の前で交差した指は無骨に骨ばっている。闇の中で目を凝らして観察してみれば、サムライの手は僕よりひとまわりも大きく骨の造りがしっかりしていた。幼少時から刀を握り、日々ひたすら研鑚を重ねた手だ。手の平には深い刀傷がある。
 同性に抱擁されても嬉しくはないが、心休まるのは事実だ。二本の腕から伝わる安心感と心強い包容力、誰かに守られているという実感、重なる心音と体温の交流。ちょうど僕の心臓の位置にサムライの胸が来て、背中と胸とが重なり心臓の鼓動が同じ拍子を刻む。
 振りほどくことでもきたはずだ。そうしなければならなかった。
 僕が安心していいはずがない、誰かに心を許していいはずがないと誰かが頭の片隅で囁く。僕にそんな資格はない。僕は人殺しで親殺しの最低の人間なのだから、恵を見捨てたひどい兄なのだから、タジマに殴る蹴るされ嬲り者にされるのがあたりまえだと誰かが囁く。僕は恵を守り抜けなかった情けない兄だ、最愛の妹をすべての人間から守りきると誓ったくせに何もできなかった。僕がしたことは全部裏目にでて、僕は恵を傷付けてばかりで、今や鍵屋崎優と由佳里を殺した意味さえ失われた。
 妹の絵さえ守りきれなかった。友人との約束さえ守り通せなかった。
 泣けばラクになるのだろうか?わからない。泣いて何かが解決すれば苦労しない、涙で苦悩を洗い流すことができれば言葉など必要ないではないかと頭の片隅は冷め、心は空虚に乾いていた。今の僕は泣けない。胸が苦しくて息もできなくて、いっそ泣いてしまえばラクになると弱い自分に誘惑されてもプライドが邪魔をして一線をこえられない。
 僕は弱い人間だから、一線をこえれば引き返せなくなる。
 自分の惰弱さに甘えて涙に酔い痴れ自己憐憫にひたり、それで何が解決する?何も解決しない、何も改善しない。泣けば自分の弱さを肯定することになる、自分が今どうしようもなくみじめな境遇にあると認めざるえなくなる。  
 いやだ、絶対に。
 自分の惰弱さを肯定し、自分の卑劣さに甘え、現実から目を背ける人間にはなりたくない。
 そんなことをすれば、僕は僕自身を否定することになる。東京プリズンに来てからの半年と少しを自ら否定することになる。
 サムライと出会い成長した、この数ヶ月を。
 「……手をはなせ。僕は同性愛者じゃない、男に抱擁されても気色わるいだけだ」
 虚勢を張り、肩を強張らせ、呟く。口では反抗しても声はよわよわしく、自分の耳にさえそらぞらしく響いた。サムライは手の力を緩めることなく、背後から僕を抱きすくめ、放そうとしない。
 まるで、今手を放せば二度と僕にふれることができないみたいに。
 僕がサムライの手の届かない遠くへ行ってしまうのをおそれるように。
 「おい、まさかこの姿勢で寝たのか?いい加減に」
 「昔話をしていいか」
 唐突だった。
 サムライに抱かれたまま身動ぎし、首を動かして頭上を仰ぐ。僕に口を挟むのをためらわせる深刻に思い詰めた表情でサムライが口を開く。
 「昔……俺がまだ子供の頃の話だ。苗はその頃から俺の屋敷にいた。物心ついた時から共に育った。苗は気立てがよい娘で、俺が怪我をしたら真っ先に介抱してくれた。子供のつたない手つきで俺を井戸端につれていき傷を洗い流し、包帯を巻いてくれた」
 これは、サムライの子供の頃の話だ。まだ苗がいた頃、ふたりが子供だった時の懐かしい記憶。
 苗の思い出を語るサムライの目は柔和に凪いでいた。芽吹くことなく枯れた苗、芽吹けばさぞ美しい花を咲かせただろう苗。僕が知らないサムライの愛した女性、僕が知らないサムライを愛した女性、今はもういないサムライの想い人。
 下水道で聞いた、サムライの過去を回想する。リョウの説明では、サムライは仙台の名門道場の長男として、跡取りとしての期待を一身に負い、幼い頃から真剣を握らされてきた。サムライの祖父は人間国宝で、父親もまた優秀な剣の使い手だった。厳格な父親は幼い息子にも容赦なく剣を仕込み、過酷な修行に弱音を吐けば頭から井戸の水を浴びせ木刀で打ちのめし非情な折檻をしたらい。
 サムライの幼少期もまた幸福なものではなかったが、苗がいたから救いがあった。 
 「苗は優しかった。いつでも俺の身を真摯に案じてくれ、叱責を覚悟の上で父にかけあったりもした……苗には父が俺を理不尽に折檻してるように映ったのだろうな。父は使用人に容赦ない厳格な当主で、幼い苗とて意見すれば分相応なと怒鳴られ、時には殴られることもあった。苗は気丈だから俺の前では涙を見せなかったが、影ではよく泣いていた」
 君はどうなのだ、と少し気になったが口を挟むのは憚られた。幼い頃のサムライが折檻に耐えられず泣いたかなんて、人の心に踏みこむ無遠慮な質問だと自粛する。僕がサムライの涙を見たのは一度きりだ。売春最後の夜、僕を押し倒して涙を流したサムライの表情がぼんやり霞んでいるのは眼鏡をしてなかったせいだ。
 サムライもきっと、人前では泣けない子供だった。
 「……俺の遊び相手は苗だけだった。剣しか知らない俺に、苗はさまざまな遊びを教えてくれた。かくれんぼ、鬼ごっこ、お手玉、おはじき」
 「時代錯誤だな。それにお手玉におはじきなんて女の子の遊びじゃないか、恵でさえ興味を示さないぞ」
 「仕方ないだろう、時代錯誤な環境で育ったのだから」
 サムライが憮然とする。お手玉やおはじきをするサムライがうまく想像できないが、ぎこちない手つきで苗の遊びに付き合う子供の頃のサムライに思い馳せれば微笑ましい光景に自然と頬がゆるむ。家が絶えてからは市の観光名所として保存された日本庭園を擁する仙台の名門道場、時代に逆行するかのごとく閉塞的な環境で育ったサムライには使用人の苗が唯一の遊び相手だったのだな、と再認識する。
 ゆるく手を組んで僕を抱いたまま、耳に心地よい低音で昔語りを続ける。 
 「ある日、修行中に庭に犬が迷いこんできた。毛並みの荒れた野犬で腹を空かせていた。ちょうど父が離席していて、その場には俺と苗ふたりきりだった。苗は優しいから、こっそり台所に忍びこみ残飯を持ってきて手ずから与えた。危ないからやめろと言っても聞かなかった」
 「その頃からお節介だったんだな」
 「……不愉快なことに、苗は俺が怖がってると誤解した。野犬などべつに怖くはなかったが、苗に誤解されたままでは武士の名に恥じると決心してなでてみた。見た目は凶暴だが、意外と人に慣れていた。元は飼い犬だったのかもしれん。俺と苗は屋敷の者に内緒でその犬を飼うことにした。ちょうど屋敷の裏手に桜の老木があり、四方に立派な枝を広げていた。ここなら屋敷の人間の視界を枝がさえぎってくれるし、犬一匹くらい飼ってもばれないだろうと子供の浅知恵で考えて……苗は犬を可愛がった。名前もつけた」
 「なんて名前だ」
 「フセ」
 「滝沢馬琴の南総里見八犬伝か。作中人物は犬ではなく姫だが」
 「俺は正宗がよかった」
 「……伊達か?正直そのネーミングセンスは問題だ、致命的欠陥がある。レイジといい勝負だ」
 「レイジと比べるのはよせ、沽券に関わる……話を戻す。俺たちは犬を可愛がった。苗はとくによく面倒を見て、草履の鼻緒を細工した紐の首輪をつけてやった。俺も修行の合間を見ては犬の様子を見に行った。動物を飼うのははじめてで、子供心に嬉しかった。苗がいないところで正宗と呼んでみたが反応は今ひとつだった。あの犬はメスだな」
 「性別を確認したのか?」
 「いや。でも正宗のほうが格好いいだろう、それでも反応しないということはメスとしか考えられん」
 「……わかった、もう質問しないから続けてくれ」
 「使用人のすきを盗んで餌をはこんだり、芸を仕込んだり、一緒にじゃれあったり……そんな日々がしばらく続いた。平和な、たのしい日々だった。でも長くは続かなかった」
 一呼吸おき、サムライが表情を改める。過去を懐かしむ柔和に凪いだ表情から一変、思い出したくもない忌まわしい記憶を反芻する苦渋の面持ちに。
 「犬を飼っていたことが、父に発覚した」
 サムライの腕に無意識に力がこもる。本人は気付いてないだろうわずかな変化。これから語ることを忌避するように、畏怖するように、一抹の諦念とともに瞼をおろしてサムライが続ける。
 「ある日、俺の前に一匹の犬がひきだされた。見慣れた毛並みの犬で、首には赤い首輪があった。苗が手ずから作った首輪だ。フセだった。父は庭の裏手でこの犬を見つけたと行った。勝手に人の家の庭に忍びこんだ行儀の悪い野犬だ、餌漁りにきたにちがいないと言って、この犬を斬り殺せと俺の手に真剣を握らせた。父は全部承知だった、使用人に聞かされていた。全部承知の上で犬を斬れと命じたのだ」
 言葉を失った。
 実際には見てもいないその光景が、鮮明に脳裏に甦る。手に余る真剣を握った幼いサムライ。表情は硬く強張り、目には畏怖と恐怖を湛えている。サムライの傍らには父親が立ち、じっと様子を見守っている。
 そして、サムライの眼前には犬がいる。逃げ場を失い、狂犬病にかかったように興奮しヨダレをたらした犬が。もしくはサムライのことを信頼しきり、無邪気に尻尾を振る犬が。
 サムライと苗が一生懸命世話をし、可愛がった犬が。
 「……俺は斬った。苗が名前をつけた犬を、ふたりで世話した犬を。今際の鳴き声が今も耳にこびりついてはなれない。悲痛な吠え声だった。犬が言葉を話せたなら、きっと『裏切り者』と叫んだにちがいなかった。父は満足した。情に流されず躊躇なく犬を斬り伏せたことで、また一歩武士に近付いたと言われた。犬の返り血がひどいから井戸でよく洗っておけと言って父は立ち去り、あとには犬の死骸と俺だけが残された。やがて苗が来た。犬に餌をもってきたが裏庭に姿が見当たらずに表に回り、そして変わり果てたフセを発見した。何が起きたかは一目瞭然だった。俺は返り血にぬれて、真剣をさげたままで、犬はすでに息絶えていた」
 小石に足をとられながら、息を切らし、犬の死骸に駆け寄る苗。犬の死骸にすがりつき、懸命に揺り起こそうとする苗。傍らには心が麻痺したように呆然と立ち尽くすサムライ。その手には返り血にぬれた一本の刀。あまりに凄惨で悲惨な光景。
 「苗は一言も責めなかった。ただ、泣いていた。犬にすがりついて嗚咽をこぼしていた。俺たちはふたりで犬の死骸をひきずり、桜の根元に埋め、石をおいて墓をつくった。苗は黙って手をあわせ、俺も真似た。何故怒らないのかと聞けば、苗は哀しげに笑った」
 サムライが力なく苦笑する。後悔と慙愧とに苛まれた、儚い笑み。
 「苗は言った。俺は優しいから、悪戯に苦しませず犬を殺したんだと。そんな俺に感謝こそすれ責められないと」
 サムライの声はひどく心細げだ。僕を抱くふりで抱かれたがっているような、人間らしく疲れきった素顔が一瞬覗いた。サムライの双眸を翳らせたのが苗への哀惜の念か犬への贖罪の念かわからないが、物憂げな面持ちで黙り込んだサムライは僕を守り庇護する大人の男ではなく、僕とそう変わらない年齢のただの少年のように見えた。
 「……それから、犬の墓がある桜の木が俺たちの秘密の場所になった。何か哀しいことがあれば桜の木を見に行った。それがいつからか、苗に会いたい時に行くようになった。苗の顔が見たいとき、苗と話したいとき、俺は桜の木へ行った。苗も同じだと言った。恋仲になるのに時間はかからなかった」
 深々と息を吐き、しめやかに話をしめくくる。
 サムライの腕の中で、僕はどんな表情をしたらいいものやら逡巡する。
 「……第三者に苗との馴れ初めを聞かせてどうする気だ。のろけか?」
 嫌味にもいつもの冴えがない。サムライと苗の絆の深さを痛感し、苗への想いの深さを実感し、僕は気後れしていた。サムライの腕の中にいるべきなのは本来僕じゃない、サムライに抱かれる資格があるのは僕じゃない。僕がサムライに抱かれていいはずがない、それは苗の役目だという違和感が拭い去れず無口になれば、僕を抱きすくめたサムライが付け足す。
 「ひとつ、後悔していることがある」
 「なんだ」
 互いの顔も見えない闇の中、腕から伝わるだけがすべての闇の中に声が響く。
 耳に馴染んだ芳醇な低音、サムライの声。
 「犬を斬ったことか」
 「ちがう」
 「苗を救えなかったことか」
 「それは元より」
 「じゃあなんだ」
 サムライが覚悟を決めたように息を吸い、吐き、僕を抱く腕に力をこめる。
 おなじ過ちは二度とくりかえさないと己を律するように。
 「あの時、犬の死を悼んで泣く苗を抱きしめられなかったことだ」
 予想外の返答に目を見開く。 
 「犬を斬った俺が苗にふれていいものかと、ずっとそればかり考えて躊躇した。血ぬれた手で苗にふれれば汚してしまうと、ずっとそればかり悩んでいた。……馬鹿だな俺は。苗を泣かしたのは俺なのに、それでも苗を抱きたくて抱きたくて仕方がなかった。苗をなぐさめたくて仕方なかったんだ。ひどい男だ。正宗、いやフセに恨まれても仕方ない。あれから苗は滅多に泣かなくなって、とうとう苗をなぐさめる機会を永遠に逃してしまった。ずっと後悔していた。何故あの時我慢したんだ、遠慮したんだと己の意気地のなさを悔いた。あの時俺に苗を抱きしめる度胸があれば、苗は俺の胸の中で本音を吐露したのではないかと、俺が俺自身をそうしたように本音で責めてくれたのではないかと……それが、一生の悔いだ」
 サムライの気持ちがわかる。わかる気が、する。
 優しい言葉に甘えるより、いっそ責めてもらうほうが救われる時もある。サムライは犬を殺した自分が許せなかった、誰かに罰してほしかった。でもサムライの身をいちばんに気遣い案じる苗にはそれができなかった、苗はとうとうサムライを責める言葉を一言も発さず、気丈な微笑みを浮かべ続けた。
 そしてサムライは、泣く機会を失った。
 大切な者を悼み、大切な者に謝罪する機会を逸してしまった。
 サムライが僕の後ろに顔を埋める。親愛の表現ではない、性欲の発露でもない、ただそうせずにはいられないという切羽詰った情動に駆られて僕の首の後ろに顔を埋め、血を吐くように叫ぶ。
 「俺はもう二度と後悔しないと決意した。大切な誰かを抱きしめるのに躊躇しないと、大切な誰かを一生失うくらいなら抱きしめたまま手放すものかと。あんな思いはもう二度と味わいたくない、耐えられない。大切な人間が哀しんでいるときにはそばにいたい、頼ってほしい。手遅れになるまえに泣いてほしい、俺に非があれば責めてほしい」 
 こんな気弱なサムライを見たのは、売春班最後の夜以来だ。
 すがりつくように腕に力をこめ、背後から僕を抱きすくめ、かすれた声音で切々と心情を吐露する。感情表現が下手なサムライは、不器用なりに一生懸命、哀しくなるほど一生懸命僕に何かを伝えようとしている。声の響きは懇願に近く、おそろしく切迫したものを抱えていた。
 腕の力は強く、痛いほどだ。
 視界に覆い被さる暗闇の帳のむこうで、サムライの息遣いを耳朶に感じる。サムライの吐息が首の産毛をぬらす感覚も、二人の心音が重なり体温が交わる安堵感も、すべてを自分の一部のように身近に感じる。

 僕は人間のクズの親殺し、妹にも見捨てられた情けない兄、だれにも待ち望まれてない要らない人間。 
 違う。そうじゃない。
 それが事実なら、今僕を抱きしめている男はなんだ?
 もう二度と手放さないと悲愴な決意をこめ、腕に力をこめる男は?
 サムライは僕を必要としている。
 僕は、必要とされている。

 「ひとりで抱え込むな、直。泣くのを堪えるな。泣くのを堪えすぎて泣けなくなった人間は俺ひとりで十分だ」

 鍵屋崎直が今、ここにこうしていることには意味がある。
 無意味なことなんて何もない。サムライとの出会いには意味があった、サムライと共に過ごした数ヶ月には意味があった、僕のこれまでとこれからには意味がある。
 僕は無意味じゃない、要らない人間じゃない。辛い時、どうしようもない時、抱きしめてくれる人間がいる。泣いてもいいとさとしてくれる人間がいる。  
 僕にはサムライがいる。
 独りじゃない。

 「………この痣は、タジマにつけられたんだ」
 限界だった。
 哀しみが胸を食い破り、言葉が氾濫した。あとからあとから。
 「今日、君の留守中にタジマが来た。僕のベッドに座っていた。僕は手招きされて、逆らえなかった。僕が拒めばロンを犯すと言われて……ロンの身代わりになろうとしたわけじゃないが、僕は初めてじゃないし耐えきれると、売春班での日々に比べればマシだと自分に言い訳してごまかして、約束を忘れたふりをした」
 喉がひきつる。ここで泣いたらおしまいだ。色褪せるほどに唇を噛み、堪える。胎児のように膝を折り曲げ身を縮め、自分の肩に腕を回し自分を抱く。
 胸が熱い。涙腺が熱い。喉の奥が塩辛い。
 「タジマは僕の服を脱がせて裸にして、君のベッドに押し倒した。友達のベッドで犯してやるから感謝しろと笑っていた。抵抗すれば上着で手首を縛られた。顔を殴られた……言えないこともされた」
 「言えないこと?」
 「頼むから聞かないでくれ、説明したくない。でも、でも僕は毛布を汚したんだ、毛布だけじゃない、シーツにも染みた。タジマの、あんな男の手で」
 肩を強張らせた僕の反応ですべてを悟ったサムライが大丈夫だからと励ますように、先を促すように徐徐に徐徐に腕に力をこめる。
 「廊下に逃げれば追いかけてきた。肩の痣は、逆上したタジマに警棒を投げられたあとだ。タジマは恵の絵を食べた。信じられないあの男、本当にどうかしてる、気が狂ってる!絵を、紙を食べたんだぞ?咀嚼して嚥下して胃で消化したんだぞ!」
 「直」
 「恵が描いた絵なのに、たった一枚の家族の絵なのに、僕にはあれしかなかったのに!廊下に逃げたら追いかけてきて、僕を押し倒して、君の木刀で足を開かせた。褒美だと言われた。死にたいくらい恥ずかしかった、自分の無力が死ぬほど悔しかった」
 なんでこんなことを言ってるんだ、やめろ止まれ、こんな話サムライに聞かせたくない。僕がますますみじめになるだけじゃないか。プライドがあるなら沈黙しろ。
 いやだ、ひとりで抱え込むのはもう限界だ。憎悪や憤怒や恥辱や劣等感や自己嫌悪や、鬱屈した感情が汚泥のように沸騰し、胸を燻して血が燃える。激情の捌け口を求めて体を裏返し、腕の中で身を捩り、顔をあげる。
 「軽蔑したろう?僕は約束を破った、信頼を裏切った、友人でいる資格を失った。放してくれ、もう気が済んだろう放してくれ、君以外の男に体をさわらせないと約束したくせによりにもよってタジマなんかに抱かれようとしたんだ、怒って当然だ。責められるのは僕だ、罵られるのは僕だ、この鍵屋崎直だ!」
 突然、今までにない力でサムライに抱きしめられた。
 渾身の力をこめた両腕に抱きしめられ、必然、サムライの胸に顔を埋める格好になる。熱く鼓動を打つ胸に顔を伏せる、早鐘を打つ心音が耳の奥に響き渡る。苦しい、窒息しそうだ。息苦しさに腕の中で暴れる、苦鳴をもらし身を捩り惰力の抵抗をする。が、すぐに肩の力を抜き、こぶしを掲げた手をおろす。憑き物が落ちたように大人しくなった背中で腕がゆるみ、呼吸がしやすくなる。
 こぶしをほどき、五指を開き、サムライの上着の胸を掴む。何故そうしたのかわからなかった。何か縋るものが欲しかった、何かに掴まってないと奔騰した激情に辛うじて残ってる理性の最後の一片が押し流され、自分が何をしでかすかわからなかった。
 たまたま掴んだのがサムライの上着の胸だった、それだけだ。
 ただそれだけだ。
 最初は弱く、徐徐に力をこめ、上着の胸を掴む。力を入れすぎた指の関節が白く強張る。サムライの胸に顔を埋めた今なら表情を覗かれる心配はない。サムライに抱かれ、胸に顔を埋め、五指で上着に縋りつき、口を開く。
 最初は声がでなかった。一回閉じ、また開く。興奮に乾いた唇を何度も舐め、湿らせ、唾を嚥下して喉を潤す。体がばらばらになりそうだ、心がばらばらになりそうだ。プライドの芯が脆くも折れて、僕が僕じゃなくなってしまいそうだ。
 喘ぐように口を開き、また閉じる。それを何回もくりかえし、漸くかすれた声がでた。
 「……み、に」
 サムライが肩を抱く手を強める、僕が独りじゃないと思い知らせるように。サムライは何も言わず、僕が口を開くまで身動ぎせず、辛抱強く待ちつづけた。上着を掴む手に渾身の力をこめ、熱い胸に顔をすりよせ、心臓の鼓動に身を委ねる。
 「恵に」
 心臓の鼓動が強まる。サムライの胸に縋りつき、今にも蒸発しそうなプライドの最後の一片を握り締め、嗚咽にかき消されないはっきりした声をだす。

 「恵に会わせてほしい」

 限界だ。
 それまで僕を支えていた脆い糸がはじけ、心に亀裂が入り激情の堰が決壊した。喉の奥から嗚咽が漏れた。上着の胸に顔を伏せ、表情を暴かれるのを拒み、嗚咽をあげる。恵に会いたい、会って抱きしめたい。ひとりぼっちにして悪かったと謝りたい、絵を守れなくて悪かったと謝りたい。
 妹に会いたい。会わせてほしい。
 「会えるとも、必ず」
 サムライが力強く請け負った。何の根拠もないのに勝手なことを言うなと反論したかったが、嗚咽にまぎれて言葉にならなかった。目尻からあふれ頬を滴って涙が上着に落ち、点々と染みる。
 「タジマを殺してやる」
 心の底からそう思い、声が震えた。 
 タジマへの殺意を紛らわすため、憎悪を押さえこむため、無理して苦笑する。
 「紙を食べたんだ、今ごろ消化不良を起こしてるに違いない」
 「いい気味だな」
 涙で曇った視界ではよく見えなかったが、サムライも苦笑する。サムライの笑顔を見たら安心し虚勢が剥がれ落ち、視界が涙で滲んで何も、何も見えなくなった。サムライの上着を掴み、肩を上下させしゃくりあげる間じゅう、ずっと肩にぬくもりを感じていた。毛布がなくても冷えないよう僕の体と心を抱きすくめ、サムライが耳元で囁く。
 熱い吐息が耳朶を湿らせ、冷徹な声音が鼓膜を貫く。
 よく鍛えた鋼の真剣に似た、表面は冷たく、核心では灼熱の憎悪が流動する声。
 「タジマは俺が殺す。あんな下司、お前が手を汚す価値もない」   
 そしてサムライは、強く強く僕を抱きしめた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051022022855 | 編集

 翌日、医務室を訪ねた。
 昨日はタジマの一件で話し合うどころではなかった安田と面談するためだ。タジマに襲われた直後で錯乱していた僕は、廊下に佇む五十嵐と安田を押しのけ逃走した。
 あれから一日経ち、僕も落ち着いた。
 平常心を取り戻した今なら安田と冷静に話し合いをもてる。いや、それ以外にも安田に告げておかなければならない急を要する用件がある。
 その意味でも今日の面談は外せない。
 サムライが房を留守にした昼間、周囲に細心の注意を配りながら廊下を歩き、医務室へ向かう。昨日の今日でだいぶ神経過敏になっている。いつ背後からタジマに襲われるか、廊下の角からタジマがとびだしてくるかと一挙手一投足を警戒してしまう。
 タジマに襲われたショック冷め遣らぬ僕をサムライは心配し、強制労働で房を空ける寸前まで僕を一人にするのを渋り、強制労働を休もうかと真剣に検討してるようだった。
 あきれた男だ。
 『君は馬鹿か?健康状態も悪くない囚人が強制労働を休めるはずがないだろう。仮に看守に提案してみろ、謹慎中のタジマに強姦未遂された友人が心配だから一日休んでもよいかと口にした途端に右腕を折られるぞ。いや、右腕だけで済めばいいが気性の荒い看守なら左腕も折られるかもしれない。足かもしれない。五体満足でいたいならそんな馬鹿な理由で欠勤するのはやめろ、仮病を使うほうがまだ可愛げがある』
 『しかし俺の留守中またタジマが来たら、』
 サムライはなお躊躇した。余程自分の留守中に僕が襲われたことに責任を感じているらしい。サムライの留守中、僕が房に一人きりの機会を見計らい、性懲りなくタジマがやってこないとも限らない。
 用心棒の不在中に僕が襲われタジマに犯されてしまったらと考えるだけでサムライは険しい顔になる。憂慮の皺を眉間に刻んだサムライにうんざりとため息をつき、淡々と説得する。
 『いいから君は強制労働に行け。ブルーワーク勤務から看守の不興を買い格下げ処分されたらどうする、僕が心配なあまり欠勤したせいで君が処罰されるのは望まない事態だ。君はいつもどおり下水道に潜り勤勉に仕事をこなせ、僕のことは心配するな。生憎君なんかに心配されほど天才は落ちぶれてない』
 昨夜、サムライの腕に包まれ、サムライの胸に抱かれて子供のように泣きじゃくった気恥ずかしさも伴い、朝はまともにサムライの顔が見れなかった。サムライとまともに顔を合わせれば羞恥に熱くなった頬の赤さを知られてしまう、落ち着きなく泳ぐ視線を不審がられてしまうと危惧し、眼鏡のブリッジを押さえるふりで表情を隠す。
 『それに、今日は僕も用がある。医務室で安田と会う約束をとりつけた。昨日はタジマに邪魔されさんざんだったからな、仕切り直しだ。安田と行動を共にするなら安全だ、いくらタジマとて副所長と一緒にいるところに手を出さないはずだ。タジマは腰抜けの臆病者で自分の身がいちばん可愛い、安田に射殺すると脅迫された昨日の今日はベッドの中で震えているはず』
 『だといいがな』
 いまだ疑惑を拭い去れないようにサムライが言葉を濁す。僕の友人は頑固なだけではなく心配性だ。どうサムライを宥めたらいいものかと頭を悩ませ、俯き、仕方ないと覚悟を決める。
 もうすぐ出なければ強制労働に遅刻してしまうというのに、立ち去り難く正面に佇むサムライの目を覗きこむ。
 『……心配せずとも、約束は守る。君以外の男に抱かれるのはぞっとしないと昨日の一件で再確認した。同性に抱かれて心地よいと感じたのは君が初めてだ、サムライ。君は天才が認めた男だ、少しは自信を持て』
 サムライの腕の中は居心地良く、サムライの胸のぬくもりは僕が渇望した安息の眠りを与えてくれた。タジマや売春班で僕を陵辱した男たちとは大違いだ。
 サムライはただ僕を抱いてくれた。
 僕が泣き疲れて寝入るまでただずっと抱きしめてくれた。
 朝になり、サムライの腕の中で目覚めた時は、気恥ずかしさと同時に今まで体験したこともない満ち足りた安堵感が湧いてきた。誰かの体温をこんなに心地よく感じたのは久しぶり、そう、風邪で寝こんだ僕の手を恵が握ってくれたあの時以来かもしれない。家族でもない他人の体温をこんなに心地よく感じるなんて、といぶかしむ。
 力強い腕に身を委ね、あたたかい胸に顔を埋め、僕はぐっすり眠ることができた。
 東京プリズンに来てからついぞ無縁だった、安息の眠りを手に入れたのだ。
 『……わかった』
 やっとサムライが折れた。ため息をつき、未練ありげに双眸を翳らせ、物憂げな眼差しで僕を見守る。
 『だが、くれぐれもタジマには気をつけろ。あの男は正真正銘の異常者だ、おのれの性欲を満たすためなら何でもやる。性欲の化け物だ』
 『性欲の化け物か。うまいことを言うじゃないか』
 『笑い事じゃないぞ、お前自身に関わることだ。タジマに襲われたら一人で何とかしようとせず信頼できる人間に助けを求めろ、必ずお前の力になってくれる人間がいるはずだ。勿論俺も尽力する。強制労働の時間外はできるだけお前と行動を共にしタジマの動向に目を光らせる』
 『束縛されるのは好きじゃない』
 『好悪の問題ではない。昨夜とおなじことをもう一度言わせる気か』
 強情なサムライに反感を抱き、挑戦的に腕を組む。
 『もう一度言ってもらおうじゃないか』
 しまった、とサムライが顔をしかめる。が、武士に二言はないと常日頃豪語している手前みっともなく言い逃れするわけにも断るわけもにいかず、毅然たる態度で咳払いする。
 迷いを振りきるように顔を上げ、ひたと僕を見据える。真摯な双眸と誠実な面持ちには、過去に大切な者を亡くし、おなじ過ちは二度と犯さないと決意した男の覚悟が滲んでいた。
 『……俺はもう二度と後悔しないと決意した。大切な誰かを抱きしめるのに躊躇しないと、大切な誰かを一生失うくらいなら抱きしめたまま手放すものかと』
 言い終えたサムライが、羞恥に耐えかねたようにそっぽを向く。
 『狭量な男だと謗られようと、束縛していると非難されようと翻意はしない。言い逃れもしない。これは俺の覚悟だ。お前を手放し、他の人間に奪われるくらいなら……』
 サムライの横顔に苦渋の色が滲み、伏し目がちの双眸に葛藤が生じる。独占欲と悋気と純粋に誰かを想う思慕とが混沌と入り混じった、ひりつくような焦燥の色。だが瞬き一つ後にはそれも消え、僕へと向き直った顔には無骨な微笑みが浮かんでいた。
 『……いや、最後の言葉は忘れてくれ。俺もどうかしている』
 続く言葉を嚥下し、颯爽と踵を返すサムライ。ひたむきに思い詰めた眼差しで口にしかけた言葉は喉の奥で泡となり、遂に僕の耳に届くことはなかった。
 僕もどうかしている。サムライの言葉の続きが気になり、何故あの時肩を掴んで追及しなかったのか悔やむだなんて。そんなことをしたらサムライは確実に遅刻して看守に叱責されていたというのに……
 サムライが胸に秘めた言葉の続きを気にかけつつ、渡り廊下を経て中央棟に行く。図書室の行き帰りに見慣れた廊下を歩き、医務室への道順を辿る。じきに白いドアが見えてきた。ドアの前で立ち止まりこぶしを掲げ、軽くノックをする。
 「入りたまえ」
 促され、慎重にドアを開ける。医務室の中へと踏み込めば独特な消毒液の匂いが鼻腔を突く。白く清潔な天井と白く平板な床の合間にはデスクがあり、カルテが乱雑に散らばり積み上げられていた。少しは整理整頓しろと医師の襟首を掴みたくなる衝動をおさえ、足を進める。
 皮張りの椅子に腰掛けた初老の医師の向かいには安田がいた。三つ揃いのスーツを完璧に着こなし、インテリめいて聡明な風貌によく似合う銀縁眼鏡をかけている。怜悧な知性を宿した切れ長の双眸で僕を一瞥した安田が、無表情な顔をわずかに曇らせる。
 僕の顔を見て、昨夜のことを連想したのだろう。
 そんな顔をされると、必然嫌味を言いたくなる。
 「……副所長も暇ですね。今日中に片付けなければいけない書類仕事はないんですか、ジープに乗って視察には赴かないんですか?本来の職務を放棄して医務室で堂々サボリだなんて中間管理職も堕落したな」
 「嫌味を言う元気があれば大丈夫そうだな」
 安田が安心したように苦笑し、医師があきれ顔をした。後者は正常な反応だ。嫌味を言って喜ばれると複雑な気分だ。居心地悪げに立ち尽くした僕に気付いた医師が気を利かせて席を立つ。
 「話し合いの邪魔なら席を外すが……そうだ君、鍵屋崎と言ったね。なにか誤解してるようだから馴染みのよしみで一応フォローしておくが、副所長とて暇なわけではない。むしろ多忙だ。今日中に片付けねばならない書類は山積みで、午後には強制労働視察のルーティンワークも控えておる。貴重な時間を割いて医務室へ来たのだからあまりいじめないであげてくれ」
 「『いじめないでくれ』?心外だな、僕がいつ副所長をいじめたというんだ。彼には敬意を払って敬語で接してるつもりだが」
 言外に「あなたには敬意を払ってないから敬語も使わない」という嫌味を含め、医師を冷たく睨む。疲れたようにかぶりを振った医師が、立ち去り際呟いたのを聞き逃さない。
 「親御さんの顔が見てみたいね」
 何故か安田が咳払いした。
 ドアが閉じ、医師が退室した。医師が空けた椅子に腰掛ける。座り心地がよい皮張りの椅子に世田谷の実家で過ごした日々が甦り、鈍く胸が疼く。父の書斎にあった黒皮の椅子。鍵屋崎優はいつもあの椅子に腰掛け、僕が本を借りに書斎をノックしても気付かず、論文執筆や読書に没頭しているのが常だった。僕はいつも父の背中ばかり見ていた。
 鍵屋崎優の顔より背中の印象が強いのは、きっとそのせいだ。
 「……では、話し合いを始めよう」
 僕の物思いを経ち切ったのは落ち着き払った安田の声。事務的に用件を切り出した安田を見上げれば、若き副所長は無表情に話し出す。
 「昨日はとんだ邪魔が入り、話し合いが中断された。だから今日、ここで改めて話し合いの機会を持つことにした。それで鍵屋崎、例の件だが……」
 「あなたが不注意で紛失した銃のことですね。一応捜索は続けていますが、現時点では有力な手がかりは掴めてません」
 ワンフーのことは伏せた。悪戯心で安田の銃をスッたと発覚すればワンフーにどんな処罰が下されるかもわからないし、今重要視すべきは盗んだ犯人ではなく、現在銃を隠し持ってる人間だ。そちらのほうがより危険度が高い。
 「手がかりはない。ひとつもか」
 「なにひとつ」
 「そうか」
 心なしか安田は落胆したようだ。表情の読みにくい端正な面立ちにわずかに徒労の影が射した。
 「落胆には及びません。東京プリズンは広い、一週間やそこらで犯人を特定するのは難しいとわかりきってる。すべて想定内だ。東西南北どの棟の囚人が銃を持ってるかわからない現状ではひとつずつ地道に可能性を潰してゆくしかない。気の遠くなるような消去法だが、それがいちばん確実だ」
 気落ちした安田を励まそうというわけでもないが、一応フォローする。
 「とりあえず、西棟の囚人は銃を所持してないと判明しました。西の道化が全階全房捜索したんだ、信憑性は高い」
 「西の道化と顔見知りなのか?」
 「……ええ、まあ。図書室の常連なので」
 それで腑に落ちたと安田が頷く。
 「西の道化の人脈で、南のトップにもそれとなく銃の行方を聞いてみると取りつけました。ヨンイルは軽薄なお調子者で仮想と現実の区別がつかない男ですが、西のトップとして最低限の責任感はあります。秘密は守ってくれるはず……」
 「聞こえとるでー」
 間延びした声が割って入り、言葉を切る。おもむろに椅子を立ち声の方に歩みより、衝立のカーテンを引く。ロンが寝ているベッドの傍らにヨンイルがいた。折り畳み式の椅子に腰掛け、ベッドの枕元と足元の床に何十冊も漫画を積み上げている。
 ゴーグルをかけたまま夢中で漫画を読み耽るヨンイルにあ然とする。
 「何故ここにいるんだ!?」
 「見舞いや見舞い。入院中でロンもといアトムが退屈してるやろ思て、気ィきかせて漫画持ってきてやったんや。西の道化はどっかの王様と違て親切やろ、感謝せぇ」
 「アトムもといロンだ。逆だ逆」
 ベッドに上体を起こせるまで回復したロンが、漫画から顔も上げず訂正する。顔の腫れもだいぶ引き、憎まれ口を叩く元気も湧いてきたようだ。包帯はまだとれないが、歩き回れるようになるまであと少しといったところか。「どっちでもええやん、アトムのがかっこええし。百万馬力の科学の子やで」「名前馬鹿にすんなよ、割と気に入ってんだよ。由来は麻雀だけど」と口喧嘩するロンとヨンイルとを見比べ、昨日の記憶を反芻する。

 『まさかロンの脅し本気にしたのか?いくら俺様でも怪我人に手え出すかよ……ってのは建前で、顔の腫れが引くまで我慢するさ。顔が崩れたまんまじゃ萎えるからな……』

 僕の口腔に指に突っ込み、蹂躙しながらタジマは笑った。少なくとも、顔の腫れが引くまではロンに手だしはしないと明言した。タジマの言葉など信用できないが、それが事実だとしたらロンの回復を喜んでばかりもいられない。ベッドで寝たきりのロンが、夜、こっそり忍びこんだタジマに犯される光景を想像して気分が悪くなる。ベッドに起きあがれるまでに回復したとはいえ、ロンはまだ包帯もとれてなく、怪我も完全には癒えてない。骨折の完治には時間がかかる。ロンが自由に動き回れるようになるまであと数週間はかかるはず、その数週間のあいだにタジマに襲われたらひとたまりもないではないか。
 「どうかしたのか?」
 カーテンをたくし上げ、安田が顔をだす。僕がいつまでたっても帰ってこず、不審に思ったのだろう。訝しげに僕を覗きこむ安田を見上げ、緊張に乾いた唇を舐め、心を落ち着かせる。 
 「副所長、少しいいですか」
 「アトムのほうがかっこええて、改名しろ」「絶対いやだ。冗談はその馬鹿でかいゴーグルだけにしとけ」「アホ言うな、このゴーグルが馬鹿でかいのにはちゃんと意味が…」と喧々囂々議論を戦わせるロンとヨンイルを盗み見、安田を促して外にでる。ベッドから離れた壁際に安田を誘導し、二人並んで壁に凭れ掛かる。ここなら会話を聞かれるおそれもない。
 「なんだ?改まって。言いよどむなんて君らしくもない」
 「昨日のことですが」
 安田の目は見ず、言う。
 「……昨日、僕の房を訪ねた但馬看守が『ロンを犯す』と言いました。ロンがレイジと引き離され、医務室に入院中の今が絶好のチャンスだと。顔の腫れが引くまでは待つが、腫れが引き次第犯してやると」
 安田の眉間に嫌悪の皺が寄る。背広の胸で腕を組んだ安田が憂慮のため息をつくのを横目に、俯く。 
「但馬看守なら本当にやりかねない。タジマはロンに執着している、このまま放置しておけば必ずロンを犯しに来る。正直、僕には手に余る事態だ。どうすればいいかわからない。ロンは今絶対安静で動けない状態だ、タジマに襲われたらひとたまりもない。体重と体格が違いすぎる」
 「それで君はどうしたい?」
 胸の前で腕組みした安田が憂わしげにため息をつく。毅然と顔を上げ、しっかりと安田を見据える。
 「ロンを守りたい」
 「……」
 安田の眉が動き、かすかに意外げな表情が覗く。
 「誤解しないでほしい、僕はロンの友人じゃない。本来彼は関心の範疇外、ロンなどどうなってもいい。しかし今の僕たちは運命共同体だ。ロンとは共に参戦表明した、いや、ロンが参戦表明しなければ僕は永遠にリング脇でサムライの戦いを見守り続ける立場に甘んじていた。でも、もう引き返せない。ロンと僕、レイジとサムライの四人は今後も勝ち続けなければいけない。売春班をなくすために、生き延びるために」
 そうだ、僕の最終目標は生き延びること。
 生き延びてここを出て、いつか再び恵に会うこと。
 その為には売春班の悪夢を断ち切らねばならない。100人抜きを達成し、売春班を潰さなければ僕はこの先生き延びることができない。僕とロン、レイジとサムライの四人は運命共同体だ。誰か一人でも試合に負ければ100人抜き達成ならず、僕とロンは売春班に逆戻り、サムライは両手の腱を切られる。レイジも今までどおり自由に振る舞える王様ではいられなくなる。
 誰か一人欠けても駄目なのだ。僕たち四人で勝たなければ意味がないのだ。
 「……僕はロンの友人じゃないが、それでもロンを守りたいと思う。何とかしたいと思う。タジマに犯されると知っていながら何の手も打たず見殺しにするのはいやだ、リュウホウの時とおなじ間違いはしたくない。僕はリュウホウに何もしてやれなかった、彼の異変に気付いていたくせに自殺を止めることもできなかった。いやなんだもう、自分の無力に絶望するのは。最悪の事態を想定していながら保身にかまけて何もしない自分の卑劣さを憎むのは」
 傍観者に徹するのはラクだ、無関心を装えば安全だ。そうやって僕はリュウホウを見殺しにした、リュウホウの異変に気付いていながら救ってやれなかった。
 リュウホウはいつもいつだって救いを求めていたのに、僕を頼っていたのに。
 「僕は無力だが、何かができるはずだ。僕の決断で誰かが救えるはずなんだ、何かが変わるはずなんだ、これから起ころうとしている最悪の事態を防ぐこともできるはずなんだ」
 サムライは言った、周囲の人間を頼るのは恥ではないと、信頼できる人間に助力を乞うのは賢明な選択だと。ならばそうしよう、助けを求めよう。最悪の事態を回避するために、信頼できる大人に相談しよう。
 僕はロンを守りたい。
 レイジがいない今、ロンを守れるのはきっと僕だけだ。
 「副所長に頼みがあります、タジマの監視を強めてください。医務室を見張ってください。後ろ盾に守られたタジマは謹慎処分中でも平然と出歩いてる。数日中にロンを犯しにくる。タジマは性的異常者だ、真性の変態だ。僕と同じ目に遭えば最後、ロンが耐えられるとは思えない。今のロンは心も体も弱まってる、これ以上ロンがボロボロになるのはいやだ。ロンは短気で負けず嫌いでお節介でお人よしで心配性だが、でも十三歳だ。まだ十三歳なんだ」
 僕だってサムライがいなければ耐えられなかった。今、ロンのそばにはレイジがいない。レイジのいないロンが、タジマに犯されて平気でいられるはずがない。
 そんなことあっていいはずがない、絶対に。
 だから僕は安田の目を見て言う。体の脇でこぶしを握り締め、決断を迫るように一歩を踏み出す。
 「東京プリズンに正義があるなら貴方がその代行者になってください、安田副所長」 
 ロンを僕と同じ目には遭わせたくない。
 ロンは短気で負けず嫌いでお節介でお人よしで心配性で、ずっとそのままのロンでいてほしい。
 僕とおなじ地獄を見る必要なんて、どこにもない。
 痛みを堪える表情で頭を下げた僕を安田はじっと見つめていた。他人に頭を下げるのはこれで何度目だろう?だが不思議と屈辱感はなかった。僕はただ、安田の言葉を待っていた。
 「………私は不眠症でな」
 唐突に安田が呟いた。脈絡ない発言に驚き、虚を衝かれる。神経質な手つきで銀縁眼鏡の位置を直しながら安田が続ける。
 「医務室で睡眠薬を処方してもらっているが、寝つきはよくない。かすかな物音でも目覚めるほど眠りは浅い。どうしたらいいと思う?」
 「カウンセラーにでもかかったらどうですか。いい精神科医を紹介しますよ、仙台在住だから通院費がかかりますが」
 こんな時に何を言い出すんだと苛立てば、安田が冗談ぽく苦笑する。
 「それより、ベッドを替えてみるのはどうだ?医務室のベッドは寝心地がよさそうだ。ベッドが替われば不眠症も改善されるかもしれない」
 「………」
 「今日から早速医務室に泊り込んでみる。場所は……そうだな、扉のそばにするか」
 扉のそばなら誰が入ってきてもすぐわかる。
 言外にそう匂わせ、不敵な笑みを浮かべる安田に言葉をなくす。毒気をぬかれたように口を開閉する僕の隣、壁に背中を預けた安田が背広の胸をさぐる。
 「医務室は禁煙だ」
 指摘された安田がばつが悪そうに黙りこみ、微妙な沈黙が落ちる。安田とふたり並んで壁に凭れ掛かった僕はこの場に最もふさわしい言葉をさがす。そして漸く見つけたその言葉を、口にしたものかどうか迷う。
 逡巡は五秒ほど続いたが、落ち着かなく背広の胸をさぐる安田の横顔を窺い、決断する。
 「感謝します。副所長」
 背広の胸に手をおいたまま、安田が目を細める。 
 「……君は変わったな」
 安田の口元が綻び、柔らかい笑顔になる。年の離れた弟を見守る兄みたいな、若い父親のような表情。
 「だいぶ敬語が抜けてきた。良い兆候だ」 
 それか。
 脱力した僕は、ふとあることに気付く。安田の手元にはまだ銃が戻ってきてない、それは確かだ。だが昨日、安田は背広に手を突っ込み今すぐ視界から消えなければ射殺するぞとタジマを脅した。あれは一体……
 「質問があります。副所長は現在銃を携帯してない、昨日但馬看守を脅したのは……」
 背広の内側に手を潜らせた安田が意味ありげに目配せし、手を引きぬく。握りこぶしを僕の眼前に突き出し、指を開く。 
 シュボッ、と空気が燃焼する音とともにライターの炎が揺らめいた。
 「ハッタリだ。実力行使する価値もない相手には見せかけの芝居で十分だと思わないか」
 「……今まで外見に騙されていましたが、意外と食えない性格をしてるんですね」
 ちゃっかりライターで煙草に点火して紫煙をくゆらせながら、安田は皮肉げに笑う。
 「他人とは思えないな、鍵屋崎」
 失礼な男だ。肺がんになっても知らないぞ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051021023122 | 編集

 ざまあねえ。
 凱との試合から数日、俺はいまだにベッドに寝たきりの生活を強いられてる。ベッドのパイプに背中を凭せて漸く起き上がれるようになったものの、捻挫が完治せず自由に歩き回るのを禁じられてる状態だ。腫れた足首には包帯が巻かれている。他にも全身包帯だらけバンソウコウだらけでみっともない。名誉の勲章と言や聞こえは良いが、ちょっと前まで片目が腫れて視界が半分塞がっていた。ガーゼが外れたのは昨日だ。瞼はまだ腫れぼったいが、何とか視力は回復した。
 凱は容赦なく一方的に俺を痛めつけた。口達者な半々なんかに負けちゃ中国人の恥だとさんざん子分どもにうそぶいてたんだから当然だ、凱にとってはこないだのぺア戦が自分の実力を証明し、他棟に権勢をアピールする絶好のチャンスで一世一代の晴れ舞台だった。凱だけじゃない、自己顕示欲旺盛な凱の子分どもにまで金網越しにさんざん殴る蹴るされ手も足もでず、諦めかけた俺の窮地を救ったのは手首で輝く十字架から得た閃き、修羅場で鍛えた喧嘩の勘と咄嗟の機転。レイジに託された十字架を太股に刺し、動きを止め、その一瞬の隙に回し蹴りで反撃に転じ逆転勝利。
 その後の記憶はふっつり途切れている。やたら照明が眩しくて目に染みたとか歓声で鼓膜が痺れたとか、どうでもいいことばかり覚えてる。俺を取り囲む何人ものガキを見た。売春班の見慣れた面子の中に笑顔のヨンイルとホセが混じっていた。鍵屋崎もいた。口々に俺の勝利を祝い褒め称えていた、ような気がするが意識朦朧としてたせいで確信は持てない。
 意識を失う寸前、額にやわらかな感触が落ちた。
 忘れもしない唇の感触に薄情な王様を思い出したのは、いつだったかレイジが悪夢を追い払うおまじないだとかほざいてふざけ半分に額にキスしたからだ。あの場にいないレイジが俺にキスしたとも思えないが、じゃあ誰がキスしたんだと言われると答えに窮する。永遠の謎だ。

 意識を失い、目覚めたら医務室だった。

 あれから数日が経ち、自力でベッドに起き上がれるくらいには回復した。正確な日数がわからないのは暇な一日ベッドに横たわり単調に過ごしてるせいで、時間の感覚が狂ってるからだ。医者に説明されたが、俺は肋骨を折っていたそうだ。他にも全身十三箇所の打撲傷を負っていて、完治には時間がかかる。一日でも早く治したいなら絶対安静が必須だと念を押された。東京プリズンの看守はとことん非人道的で囚人が腕を折ろうが肋骨を折ろうが強制労働を休ませてくれない鬼だが、売春班休止中ではなから体が空いてた俺は「まあいいか」と見逃してもらった。東京プリズンの看守は賭博好きだ。大穴狙いで俺の勝利に賭けて大儲けした看守が贔屓してくれたんじゃないかと密かに疑ってるが真相はさだかじゃない、ことにしておく。
 そんなわけで、俺は今医務室のベッドに寝ている。麻酔もなしに傷口を縫うヤブ医者だと思い込んでいたが実際かかってみたら意外と処置は的確で、評価を改めざるえなくなった。くたびれた見かけとやる気のなさに反比例して腕は確かだという噂は本当だったわけだ。看守に圧力をかけられて骨折を捻挫と偽ったりもするがくさっても医者として最低限の職業意識はあるらしい、とほんのちょっとだけ見直す。
 あくまでほんのちょっとだけだが。
 さすがに肋骨が折れてたんじゃ無碍に放り出すわけにもいかず、俺は結構いい待遇で入院中だ。強制退院も覚悟していたから有り難い。東京プリズンは地獄だが、地獄に仏がいるように監獄には医者がいる。ひとつ勉強になった。ベッドに寝たきりで暇してたら、売春班の面々やホセやヨンイルがちょくちょく見舞いに来た。たまに鍵屋崎も来た。売春班の面々はともかくホセとヨンイルは暇潰し、鍵屋崎は図書室帰りのついでだろう。その証拠に毎回本を抱えていた。  
 レイジは来なかった。べつに落ちこんでない。
 ガキじゃあるまいし、レイジが見舞いに来なくてがっかりするわけない。レイジが俺の入院中にどこで何やってようが知るか。あいつはあいつのやりたいようにやってるんだろう、俺がいてもいなくてもおかまいなしに。
 「………」
 医務室で目が覚めた直後に見たあれは、幻覚だったのだろうか。俺がそうあって欲しいと望んだありもしない幻覚だったのだろうか。枕元にレイジがいた。椅子から腰を上げじっと俺を覗きこんでいた。俺の顔の横から十字架を取り上げ、小粒の金鎖が流れる涼やかな旋律が耳朶をくすぐり、そして…… 
 「………まさかな」
 無意識に唇に触れ、苦笑する。
 レイジが俺にキスするなんて、夢だとしたらとびきりの悪夢だ。現実だとしたら、とびきりタチの悪い冗談だ。そうとしか思えない、それ以外の感想はない。レイジにキスされて嬉しいわけない、男同士でキスなんて気色悪い。でも、男でも女でも唇のやわらかさはおなじなんだなと人さし指で唇をなぞる。
 レイジはもう、俺に近付くなと言った。不幸になるだけだから、もう俺にかまうなと。
 体が言うことを聞けば一発殴ってやりたかった。引きとめてやりたかった。でもできなかった、体を動かせば肋骨がひどく痛んで悲鳴をあげそうだった。夢か現実かも区別がつかず頭が朦朧として、とうとうレイジを呼び止めるタイミングを逸してしまった。
 今ごろ後悔を噛み締めても遅い。レイジはあれから一回も顔を見せない。俺は完全にレイジに嫌われてしまった。いや、嫌われた、とは違うだろうか。だがレイジが俺を遠ざけようとしてるのは事実で、それは俺を傷付けたくないからで……くそ、また思考の悪循環に嵌まってる。
 俺を傷付けたくないから俺を遠ざけるってなんだそりゃ、意味わかんねえ。
 「同房の相棒なら一回くらいツラ見せにこいっての」
 まあ、十字架を取り返しに一回は訪ねたわけだが、あれは勘定に入れたくない。お別れのキスなんて格好つけすぎで虫唾が走る。あれが最後だなんて思いたくない、認めたくない絶対に。レイジがよくても俺がよくない、全然さっぱり納得できない。
 あんな自己完結な別れ方、俺は承知しない。
 レイジに文句を言いたくてもベッドから動けないんじゃどうしようもない。
 あいつが顔見せに来るをじっと待つか、俺が自分の足でレイジのとこへ行けるようになるまで待つか、どっちにしろ辛抱が肝心だ。こうなりゃ根比べだ。遅かれ早かれ、俺はちゃんとレイジと向き合わなきゃならない。レイジへの恐怖を克服して、ちゃんとあいつの目を見て、今の本当の気持ちを告げなきゃならない。
 だからそれまでは、ゆっくりと体を休めたい。
 「………けっ」
 レイジが顔見せに来なくて寂しいなんて思うわけがない。ただ、相棒の見舞いにも来ない薄情な王様に腹を立ててるだけだ。十字架取り返せばもう俺には用ないってか?あの十字架そんなに大事な物なのかよ。マリアの形見だとか言ってたけどマリアってどこの誰だよ、聖母マリア様かよ。昔の女の贈り物?今も肌身はなさず身につけてるってことはよっぽど大事な女だったんだな、レイジがたぶん本当に愛した数少ない…
 馬鹿か俺は。ヤキモチか。  
 悶々と頭を抱え込み、毛布の中に潜る。そりゃ俺は女から何か貰ったことなんて一度もねえし、レイジが羨ましくないと言ったら嘘になる。でもこれじゃ、レイジに贈り物した女に嫉妬してるみたいだ。いいじゃんか別に、レイジが誰に十字架貰っても。レイジにだってそりゃ女くらいいるさ、外じゃさぞかしモテただろうし……なんだ、別に俺が心配することないじゃんか。レイジの名前を呼んでくれる女なんて世界中いくらでもいるんだろうし。
 ああ、ちくしょう眠れない。これも全部レイジのせいだ、責任とれよ。今は夜だ。独り身で宿舎住まいの医師はこの時間帯も大抵医務室にいるが、今は不在。一度宿舎に帰って仮眠をとってくると俺に告げて出て行った。他に空きベッドがいくつもあるんだし医務室で寝ろよと言えば、「患者の使うベッドを医者が利用するわけにはいかない」ときっぱり断られ、不覚にも見なおしてしまった。
 だから今、医務室には俺ひとりだ。
 消灯時間を過ぎ、電気は既に消されている。視界が明るいとよく眠れないだろうと医者が配慮してくれた。結構いいヤツだ。今までさんざんヤブ医者扱いしたことにちょっと気が咎める。
 ヤブ医者はヤブ医者でもいいヤブ医者だ。うん。
 消毒液の匂いがほのかに漂う医務室には暗闇と静寂が満ちていた。
 医者は気を利かせてくれたが、目が冴えてどうにも寝つけない。静か過ぎて落ち着かないのだ。房にいた頃は壁越しの寝息や鼾や歯軋りや衣擦れの音がうるさくて、隣のベッドから聞こえてくるレイジの寝言がうるさくて枕を投げ付けたこともあったが、一人になると不安でしょうがない。この静けさにはいまだに慣れない、衝立の外の世界が消失したような空白の感覚なのだ。かすかに鼓膜を震わすのは規則正しい空調の音だけで、レイジが隣にいた頃が無性に懐かしくなる。
 「またレイジかよ」
 静か過ぎて、独り言も呟きたくなるというものだ。むなしい一人つっこみ。目を閉じてため息をつく。せめて夢の中でレイジに会ってぶん殴りたい、そしたら少しはすっきりするだろう。顎の下まで毛布を引き上げ、蜂の羽音に似た空調の唸りを聞きながら睡魔の訪れを待つ……
 物音。
 「?」
 暗闇の中、うっすらと目を開ける。今、物音がした。ドアの外、廊下からだ。毛布にくるまり顔だけ動かし、衝立に遮られたドアの方を向く。足音だ。コンクリの床を叩く硬質な靴音が殷殷と反響し、徐徐に近付いてくる。次第に大きくなった靴音がドアの前で止む。医者が帰って来たのだろうか。それにしちゃやけに早いなといぶかしむ。ついさっき出て行ったばかりなのに……軋り音とともにドアが開き、肌寒い外気が吹き込んできた。冷えた廊下の空気が首筋を撫で、鳥肌が立つ。衝立の向こう側でドアが閉じ、誰かが動く。耳障りな衣擦れの音と荒い息遣い、せわしく歩き回る靴音。
 医者じゃない。
 脳裏に閃光が射すように直感する。医者がこんなふうに落ち着かなく歩き回るはずがない、だいたい医者が帰ってきたんなら俺に一言も声をかけないのが不自然だ。急患か?いや、急患にしても様子がおかしい。靴音の主はひどく興奮しているが、焦燥の気配はない。
 誰だ?
 心臓が強く鼓動を打ち、全身にいやな汗が滲む。医務室が用があるなら何故入室前に声をかけない、断りをいれない?ノックもしないで勝手に入って、勝手に動き回ってる人物はだれだ?医者は不在だ。今、ここには俺しかいない。不吉な予感に胸が騒ぎ、緊張に喉が乾く。おかしい、何かが変だ。衝立の向こう側でさかんに衣擦れの音がする。深夜、医務室に侵入した何者かがなにかを捜して行ったり来たりを繰り返す。
 シャッ、と音がした。いちばん手前のカーテンが手荒く引かれる音に続くのは舌打ち。いやな予感が募り、体の芯が冷たくなるような恐怖に襲われる。二番目のカーテンが引かれる。また舌打ち。違う、ここじゃない、ここも外れだ。急いた手つきで次から次へとカーテンを開けベッドを改める侵入者。違う、ここじゃない、誰もいない。ここも外れ……
 誰なんだ?
 暗闇で敏感になった聴覚がほんのかすかな物音にも反応し恐怖を倍増する。靴音がだんだん近付いてくる。シャッ、シャッとカーテンを引く音が連続する。邪険な舌打ち。次から次へとベッドを覗きこむ何者か。
 シャッ。耳朶を切るような鋭い音がすぐそばでした。次は俺のベッドだ。いやだ、こっちへ来るなと叫びたい衝動に駆られるが声帯が強張り声がでない。その代わり全身で靴音の主を拒絶し、頭からベッドにもぐりこむ。毛布が視界に覆い被さり何も見えなくなる。目の前は真っ暗闇。毛布の繊維が頬をくすぐる感覚にもましてじれったいのは体がちっとも動かないこと。体が言うことを聞くなら今すぐ跳ね起きて逃げ出したい、廊下にとびでて助けを求めたい。でも無理だ、今の俺は絶対安静で、肋骨は折れていて……
 シャッ。
 カーテンが引かれる音がした。舌打ちはしなかった。かわりに、誰かが鼻息荒く枕元を覗きこんできた。恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうだ。俺の頭上をじっと見つめてるヤツは誰だ?レイジ?まさか。そんなことあるわけない。レイジは豹みたいにしなやかに歩く、こんな鈍重な歩き方はしない。毛布に視界を遮られてるせいで何も見えない。毛布越しに俺を覗きこんだそいつが確かに笑った気配がした。
 いやな笑い方だ。悪意の波動を孕んだおぞましい笑顔。
 俺の頭上に手がのび、毛布を掴む。やめろ、と声にだそうとして肋骨がひどく疼く。目も眩む激痛に毛布を掴んだ指が緩む。
 たやすく毛布が剥ぎ取られ、侵入者の正体が暴かれる。
 「見舞いにきてやったぜ」
 ああ、この声は忘れもしない。暗闇に目が慣れるのを待つまでもなく、侵入者の正体を確信する。ぎしりとスプリングが軋み、ベッドに震動が伝わる。俺の顔面から毛布を剥ぎ取ったそいつが、図々しくベッドに腰掛けたのだ。
 タジマだった。
 「………な、んでお前がここに」
 声をだすのも苦しかった。心臓が蒸発しそうだった。医務室には今俺ひとりきり、いや、タジマと二人きりだ。医師は留守にしている。俺が何をされようが、大声で助けを呼ぼうが無駄なのだ。タジマはそれを見越して医務室を訪ねた。けど、なんでタジマが?謹慎中じゃないのかよ。
 「お前、安田に罰食らって当分出歩けないんじゃねえのかよ」
 「ああ?ばれなきゃいいんだよそんなの。謹慎処分ってのは表向きだ、実際は自由に出歩いていいんだぜ。俺には強力な後ろ盾があるからな」
 「後ろ盾?」
 「こっちの話だ。おいおい、そんなにびびるなよ。せっかく見舞いにきてやったんだから喜べよ」
 恩着せがましくタジマが言い、身を乗り出す。ベッドに上体を起こした俺は、パイプにはりつくように距離を取る。今タジマに襲われたらひとたまりもない。俺は怪我をして動けない、肋骨に響くから大声もだせない。ちくしょう、あのヤブ医者本当にヤブ医者だ。なんだって肝心なときにいないんだよ?
 「顔の腫れ、だいぶ引いたな。可愛い顔に戻ってきたじゃねえか」
 ふいに、タジマの手が頬に触れた。気色悪いさわり方にぞっとする。タジマの手を払おうと身を捩った途端、肋骨に激痛が走り悲鳴をあげる。タジマがもう片方の手を俺の上着の胸にのせ、軽く圧迫したのだ。
 パイプに背中を凭せた俺を至近距離で覗きこみ、ゆっくりと頬をなでさする。いやらしい手つきだ。目尻から頬から、顔の輪郭をすべりおち切れた唇をさする。痛いと顔をしかめれば、嗜虐心が疼いたタジマが嬉々と笑み崩れる。 
 「そうだ、その顔だ。たまんねえな、勃ちそうだ」
 「さわんなよ変態、贅肉でたれたてめえの胸でもなで……痛っ、」
 胸におかれた手に徐徐に、徐徐に力が加わる。頼むやめてくれ、と声にならない声で懇願する。肋骨の骨折箇所を手のひらで圧迫され、今にも気絶しそうな激痛が胸を責め苛む。額に脂汗が滲み、喉から苦鳴が漏れる。漸く胸からどいた手が、今度は上着をはだけ、脇腹へともぐりこむ。素肌に外気がふれるひやりとした感覚に身の毛がよだつ。
 「寝たきり生活でタマってんじゃねえか。ヌいてやろうか」
 「余計なお世話だ」
 「ベッドにはりつけで便所に行けないんじゃし瓶の世話になるっきゃねえよな、恥ずかしい」
 「!このっ……、」
 恥辱に頭が火照り我を忘れる。俺の上着を胸まではだけ、痣にむしばまれた素肌をじっくり観察し、満足げに吐息をもらすタジマ。自分で見下ろした裸の上半身には青や黄色や黒やさまざまな痣が散らばっていた。恍惚とぬれた目で痣だらけの上半身を視姦し、タジマが手をすべらす。
 「!?くあ……っ、」
 痣に手を這わし、腹部を圧迫。臓腑を抉る激痛に踵が跳ねる。
 「ふざけんなこの変態、深夜のお医者さんごっこは趣味じゃねえんだよ……」
 「馬鹿言え、痛いのが好きなくせに。痣さわられて興奮してんだろ。もっと下のほうも触ってやろうか」
 「やめ、」
 俺の拒絶を無視し、タジマの手がズボンにもぐりこむ。ズボンの内側にもぐった手が、軟体動物が這うように太股をなでさする。
 「肋骨折れてんじゃ抵抗できねえだろ。顔の腫れが引くまで待ってやったんだから感謝しろよ、ロン。ケツの穴さえ使えりゃ問題ねえ」
 「冷静になれよタジマ、こんなことして安田にバレたらどうすんだよ。お前の看守生命終わりだぜ。ただでさえ謹慎処分食らってんのに……っう」
 「安田の若造がなんだってんだ、お前といい親殺しといい何かっちゃあ安田安田……気にいらねえんだよ。ああそうだ、いいこと聞かせてやるぜロン。昨日鍵屋崎を犯しに行ったんだ」
 「!?」
 なんだと。
 パイプから背中がずり落ち、ベッドに肘をついた体勢でタジマを見上げる。俺の股間をまさぐりながらタジマは笑っていた。吐き気をもよおすほど醜悪な変態の笑顔。
 「留守中こっそり房に忍びこんで待ち伏せして、図書室帰りの鍵屋崎をとっちめてやった。見モノだったぜ、あれは。裸にして上着で手首縛って、サムライのベッドで四つん這いに跪かせて、さんざ言葉でいたぶってやった。さすがの親殺しも参ってたぜ。サムライの木刀で足開かれちゃそりゃ……」
 「うるさいそれ以上しゃべるな耳が腐る、変態の自慢なんか聞きたくねえ」
 「冷血な親殺しのくせに、アレしごかれてたまんねえって顔してたぜ。今のお前と一緒だ。口じゃいやだいやだ駄々こねてもほんとは感じてるんだろ、息荒げて物欲しげに腰振ってんのがいい証拠だ。はは、俺の手は気持ちいいだろ?男の手で感じるなんてお前も変態の仲間入りだな、喜べ」
 「感じてねえよ」
 「レイジ以外の男じゃ感じねえってか?妬けるね。でも肝心のレイジには捨てられたみたいじゃんか」
 レイジに捨てられた。
 残酷な事実を突き付けられ、体が強張る。大人しくなった俺に気をよくしたタジマが耳元で囁く。
 「レイジに捨てられたって素直に認めちまえよ、ラクになるぜ。で、これからどうするんだ?レイジに捨てられて、どうやって東京プリズンで生活してくんだ?今までお前がだれにも犯されず殺されずやってこれたのは王様が守ってくれたからだ、王様に捨てられてこれから先どうやって生きてくんだよ」
 耳朶が熱い吐息に湿る。タジマの手を起点にねばっこい快感が下肢に広がる。
 「もうそろそろあたらしく擦り寄る相手さがしたらどうだ。主任看守の俺なんかどうだよ、いろいろよくしてやるぜ。俺専属売春夫になりゃ他の客とらなくていいんだ、悪い話じゃねえだろうが」
 「っあ、ふ」 
 唇を噛んで喘ぎ声を殺そうとして、タジマの手に邪魔される。快感はどんどん強くなる。この快感に身を任せちまえばラクになれるんだろうか、という悪魔の誘惑が脳裏をかすめる。タジマに体を許せば、レイジに捨てられても生きていける?俺は東京プリズンで生き残ることができる?
 レイジはやっぱり、俺に飽きたのだろうか。
 俺のことなんかどうでもよくなったのだろうか。だから試合も見に来なかったんだろうか。だから一度も見舞いに来ないんだろうか。
 レイジは薄情だ。自分が言いたいことだけ言って、俺には何も言わせてくれない。
 「どうだロン、決めるのはお前だ。レイジを選ぶか俺を選ぶか、ふたつにひとつだ」
 タジマは何故か俺を気に入ってる。素直にハイと頷けば、俺はきっとタジマ専属売春夫になるんだろう。毎日のようにタジマに犯されて感覚が麻痺して、いつからかそれを当たり前のこととして受け入れてしまうんだろう。
 鍵屋崎が見た地獄を俺も見るのか。
 「さあ、どっちだ」
 タジマの舌が耳朶を舐め、唾液をこねる淫猥な音が響く。股間でうごめく手を見下ろし、低く呟く。
 「お断りだブタ野郎。ブタはブタらしくてめえのクソでも食ってるのがお似合いだ」  
 タジマの手が止まる。
 腫れぼったい片目をしばたたき、笑顔の虚勢でタジマに向き直る。
 「レイジは俺の相棒だ。今ここでハイって頷いて俺がいなくなれば、レイジはどこに帰ってくりゃいいんだよ?ああ見えて王様は寂しがり屋なんだ、帰る場所残しといてやんなきゃ可哀想だろ」
 レイジは必ず帰って来る、そう信じてる。
 レイジは俺を捨てたわけじゃない、そう信じる。タジマの甘言に騙されて俺からレイジを捨てるのは本末転倒だ。レイジは必ず帰って来る、俺とレイジはまだやり直せる。
 嘘でもそう信じなきゃ、やってられないじゃんか。 
 「……選択を間違えたな。いいぜ、俺をフッたことじっくり後悔させてやる」
 タジマの声が冷たくなり、股間をまさぐる手が乱暴に引きぬかる。怒りに任せて俺を押し倒したタジマにされるがままに目を閉じて、レイジの顔を思い浮かべる。俺はまだあいつに言いたいことが山ほどある……
 シャッ、とカーテンが開き、眩い光が闇を切り裂く。
 「そこまでだ」
 俺の上でうごめいていたタジマが背後からの声に固まる。予想外の人物の登場に、ベッドに肘をついた俺は目を疑う。
 そこにいたのは、懐中電灯を抱えた副所長の安田だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051020023303 | 編集

 なんで安田がここに。
 懐中電灯の丸い光に照らされたタジマは驚愕の表情をしていた。俺とおなじ疑問に心とらわれてるらしい。俺もびっくりした、いつ入って来たんだこいつ?
 「いつ入ってきたんだ!?」
 「最初からいた。君らが気付かなかっただけだ」
 懐中電灯を構えた安田があきれ顔をする。
 「予想が的中した。最初は扉のそばのベッドで見張ろうと思ったが、それでは埒があかない。但馬看守、執念深い君はロンを諦めない。今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日と目的を達成するまで足を運ぶだろう。ならばいっそ早晩決着をつけるべきと方針を変更した。奥に潜んで君を油断させ、現場を取り押さえることにした。懇意の医師も快く協力してくれた」 
 突然のことで何が何やらさっぱりわからない。冷静沈着に落ち着き払った安田の口ぶりから察するに、タジマが襲いにくることを事前に予知していたみたいだ。でも、どうして?何もかもお見通しの安田に脳の奥で疑問が膨らむ。予想外の展開についていけない俺の上、胴に跨ったタジマが凶暴に歯軋りする。
 「鍵屋崎の野郎、ちくったな」
 合点した。昨日タジマは鍵屋崎を襲いにいった。サムライが強制労働にでかけ、鍵屋崎が図書室通いで留守にした房で鍵屋崎を待ち伏せし、口にするのもおぞましいことをした。その時調子に乗って、入院中で手も足もだせないロンを犯してやると得意満面宣言したんだろう。それが鍵屋崎の口から安田へ伝わり、安田は俺をおとりに罠を仕掛け、タジマをはめた。
 「さあ、ベッドをおりて床に跪け但馬看守。君の職務規定違反の現場は副所長の私がこの目で目撃した、もう言い逃れはできないぞ。近日中に会議にかけ厳罰を下す。今度は謹慎処分ではすまない、覚悟しておきたまえ」
 懐中電灯を持った安田が淡々と命じ、ベッドを下りるようタジマを促す。安田とタジマの睨み合いが続き、緊迫感が高まる。タジマに組み敷かれた俺は中途半端に肘を起こした姿勢で生唾を嚥下する。懐中電灯の光に浮かび上がる安田は冷徹な無表情、対するタジマは醜悪に引き歪んだ憤怒の形相。タジマが観念したようにベッドを下りる……
 と、見せかけて反撃に転じた。
 「!!」
 安田の体が軽々と吹っ飛んだ。タジマに突撃され、懐中電灯ごと跳ね飛ばされたのだ。華奢で細身の安田は激突の衝撃によろけ、衝立を巻き添えに転倒した。床に倒れた衝立が騒がしい音をたて、安田の手から落下した懐中電灯が床を転がる。床に倒れた安田に馬乗りになったタジマは完全にキレていた。狂気に目を血走らせ興奮に鼻息荒くし、相手が副所長だろうがおかまいなしに背広の胸ぐらを掴み上げる。
 「覚悟しろだあ?もう我慢ならねえ、いい気になるなよ若造が。てめえも俺とおなじ中央から左遷された身の上だろうが、なのに囚人の味方する気かよ、ええっ?」
 「手を放せ但馬看守、命令だ」
 「命令?偉そうに命令できる立場かよ、今の自分の格好よく見下ろしてみろや安田さん」
 痛快に笑ったタジマがおもむろにこぶしを振り上げ、安田を殴る。耳にこびりつく鈍い音。俺は目の前の光景にただあ然としていた。タジマが安田を殴っている、一介の看守が副所長に暴力をふるってる。こんなこと許されるのか。タジマは完全にイカレてる、怒りでわけがわからなくなってる。
 早く止めなきゃ安田が殴り殺されちまう。 
 「おいやめろ、自分が殴ってる相手をよく見ろ、相手は副所長だぞ!」
 「けっ!どいつもこいつも副所長副所長で気にいらねえ、東京プリズンでいちばん偉いのは副所長じゃねえ、この俺様だ!!」
 ベッドに身を横たえて制止の声をあげた俺の方など見向きもせずタジマが吠える。床に倒れた安田に馬乗りになり、相手に反撃の隙を与えず殴り続ける。鈍い音が連続し、安田の顔が仰け反る。安田は暴力とは無縁の世界で生きる線の細いエリートで、体格でまさるタジマに押し倒されたらどうしようもない。頭上で腕を交差させ防御の姿勢をとるが、タジマの猛攻の前には屈服せざるをえない。
 暴力の愉悦に目を爛々と輝かせ、弱者を虐げる歓喜に満面の笑みを広げ、タジマが叫ぶ。 
 「ロン、ここに来て一年かそこらのお前は知らないだろうから教えてやる!安田がくるまで東京プリズンは俺の天下だったんだ、俺はそれこそやりたい放題だった!こいつがきてから何もかも変わっちまった、俺のやることなすこと口うるさく取り締まるようになって東京プリズンが変わっちまった!くそ笑えるぜ、東京プリズンの副所長なんて偉くもなんともねえよ。本人は三つ揃いでめかしこんでエリート気取っちゃいるがコイツはとっくに出世街道外れてんだ、砂漠の最果てにとばされたのがいい証拠じゃねえか。どんな不始末しでかしたんだか知らねえがコイツも俺たちとおなじ左遷組だ。なのに一人だけ格好つけやがって、ずっと気に入らなかったんだよ!」
 暗闇に響く鈍い音、無抵抗の安田を一方的に殴りつける音。安田の顔面にこぶしを打ちこみながらタジマは狂喜していた。
 俺が来る前の東京プリズンのことなんか何も知らない、俺と出会う前のレイジのことを何も知らないのと同様に。でもひとつだけ断言できる、俺と出会う前のレイジは今よりずっと危ないヤツで、安田が来る前の東京プリズンは今よりもっとひどい場所だった。
 安田のおかげで、東京プリズンは改善されたのだ。
 安田を助けなければ。このまま放っとけば殺されちまう。
 タジマの凶行を阻止せんと焦燥にかられて視線をめぐらせる。視界にとびこんできたのは、ベッド横の戸棚。ベッドから乗りだしガラス戸を開け放ち、手近の瓶を掴み取る。
 「どけ!!」
 絶叫。
 タジマめがけおもいきり瓶を投擲する。虚空に放物線を描いた瓶がタジマの肩に命中、タジマが悲鳴をあげて安田から飛び退く。今だ。だがせっかく逃走のチャンスをつくってやったのに安田は逃げようとしない、あの野郎なにもたついてるんだと苛立てば、タジマが肩を庇いつつ立ち上がる。
 「怪我人は怪我人らしく寝てろや……それとも一生寝たきりになりてえか」
 やばい。
 タジマが怒号を発しベッドに突進、激突の震動にベッドが揺さぶられる。毛布が膝からずり落ち、ズボンの裾がめくれ、包帯を巻いた足首があらわになる。その足首を、タジマの手にむんずと掴まれる。
 「!!!―ああああっ、」
 骨が軋む激痛にたまらず仰け反る。俺の足首を掴んだタジマがそのまま引きずり落としにかかる、タジマの手に引かれて体が傾ぐ。天井がはげしく揺れる。いや、揺れているのは俺の視界だ。激痛に暴れる俺の視線の先、醜悪な笑みを広げたタジマの背後に何者かが接近。
 安田だ。
 「!?なっ、」
 タジマのうろたえた声。背後から安田にしがみつかれ、そのまま引きずり倒される。タジマの手から足首が抜ける。タジマの悪足掻き、引き離される間際に五指で掻き毟った包帯はだらりと緩んでいた。
 安田を救おうとして逆に救われた。体当たりでタジマを引きずり倒し俺の窮地を救った安田が濛々と埃を舞い上げて床に倒れる。上下逆転しながら床を転げまわるタジマと安田、奇声を発し手足を振り乱し顔といわず腹といわず安田をめちゃくちゃに殴り付けるタジマの剣幕は凄まじい。仰向けに寝転がった安田がタジマのこぶしを防御しようと手探りでもがく、タジマの肩や腰が壁やベッドにぶつかり戸棚が震動し、消毒液の瓶が上下する騒々しい音が暗がりに響く。
 「君の横暴は目に余る!」
 タジマに殴られ、眼鏡に亀裂が入った安田が叫ぶ。几帳面に撫で付けたオールバックが乱れ、秀でた額に一房二房とたれ、まるで別人のようだ。
 「勘違いも甚だしい、ここは君の城ではないし囚人は君の奴隷じゃない!ここは刑務所だ、罪を犯した少年たちのために設けられた更正施設だ!」
 「政府の建前だろうがそんなの、ここはただのゴミ捨て場だ!外国人が増えて犯罪増えて日本がめちゃくちゃになって、キレた政府が砂漠の真ん中におったてたゴミ捨て場だ!黄色い肌だろうか黒い肌だろうが白い肌だろうが関係ねえ、東京プリズン送りになるってことは戸籍を抹消されたも同然、社会から抹殺されたも同然だ!」
 「違う!」
 「違わねえよ、現に鍵屋崎がいい例じゃねえか!」
 タジマの下敷きになった安田の顔にひどく人間らしい葛藤の色が浮かぶ。顔の前で腕を交差させこぶしを受け止め、必死に抵抗する安田の胸ぐらを掴み、無理矢理上体を起こさせる。眼鏡のレンズに亀裂が入り、オールバックが乱れた安田の顔は擦り傷だらけで唇には血が滲んでいた。疲労と苦痛とが入り混じった安田の顔をたっぷり堪能し、嗜虐心が疼いたタジマが舌なめずりをする。
 お高くとまった副所長を完膚なきまでに叩きのめし、下克上の快感に酔い痴れたゲスの笑顔。
 「そうだ、あの親殺しだ、てめえの両親ナイフでぐさっと殺っちまったIQ180の爆弾のことだ。政府もとんでもないお荷物抱えこんだもんだよなあ、同情するぜ。末は博士か大臣か、日本の将来しょって立つ優秀な人材として期待してたガキが両親刺殺だなんてスキャンダル起こしたせいで信用ガタ落ち。これがそんじょそこらのガキなら大した罪には問われなかったんだろうさ。だがIQ180の天才児なら話がちがう。無駄に高い知能の持ち主であると同時に親殺しの危険因子の持ち主、そんなガキが十年かそこらの懲役で放り出されたら将来どんな大それた犯罪しでかすかわからねえ。なんたってIQ180だ、どんな完全犯罪だってやってやろうと思えば不可能じゃねえ。だから鍵屋崎は東京プリズンに送られた、懲役八十年とか無茶な判決下されてな!」

 そうか。そうだったのか。

 タジマが暴露した東京プリズンのからくりが、すとんと腑に落ちた。いまどき親を殺したくらいで懲役八十年なんて判決は下されたりしない、犯人が生粋の日本人ならなおさらだ。でも鍵屋崎は懲役八十年の判決を下されてここに来た。
IQ180の天才的頭脳と倫理観が欠落した犯罪者の因子が結びつけば出所後の将来どんなおそろしいことをしでかすかわからないと危惧した政府の決定で。
 最初からすべて仕組まれていたのだ。
 法律上未成年者への死刑が適用されない日本で、懲役八十年は死刑判決にひとしい。鍵屋崎が生きてここを出られる見込みはない。鍵屋崎をここに送りこんだ人間はすべて見越していたのだ。東京プリズンに収容されてる囚人の殆どはスラム育ちの外国人かその混血で、鍵屋崎みたいに育ちのよい日本人の坊やがそんな環境に放りこまれたら一ヶ月ともたずリンチで殺されるか自殺するはずだと予想して、事実そうなってほしくてこの砂漠のど真ん中の刑務所にあいつを送りこんだ。鍵屋崎に外にでられちゃまずいから、自分たちが手を汚すのはいやだから、最初から手が汚れてるここの囚人に殺してもらおうと……
 ふざけやがって。
 そんなの、間接的な死刑じゃないか。
 鍵屋崎はまだ外にでることを諦めてない、妹に再会することを諦めてない。なのに鍵屋崎を送りこんだ奴らにとっちゃ鍵屋崎はもうとっくに死んでる人間で……
 だから、どうなってもいいのか?
 タジマにどんなむごい仕打ちをされても、売春班で毎日男に犯されても、もうとっくにこの世にいないはずの人間で戸籍も破棄されてるんだからかまわないとそういうわけかよ。
 ちくしょう。
 「ちくしょう!!」
 やり場のない怒りにかられ、絶叫する。なんだよそれ、そんなのありかよ。そんなのあんまりじゃねえかよ。鍵屋崎が死んだ人間だってことは、俺やレイジも死んだ人間だってことだ。東京プリズンの囚人は外じゃ誰も彼も死んだことにされてるんだ。凱が自暴自棄になる気持ちもわかる、どんなに血を分けたガキに会いたくても死んだ人間にゃ無理な相談だ。
 鍵屋崎も俺も生き残ろうと必死なのに、生き延びようと必死なのに、そんな俺たちを馬鹿めと嘲笑ってる奴らがどっかにいるってのかよ。
 「鍵屋崎はもう死んだも同然の人間だ、お前だってそうだぜロン、生きてここを出られる望みなんか万に一つもねえんだ。潔く腹くくっちまえよ。ここは地獄だ。まわりにいるのは世間に用済みの烙印おされた死人ばかりだ。一度死んだ人間が二度死のうが三度死のうがどうでもいいじゃねえか、生きてここを出るのが不可能ならせめて地獄で楽しくやろうや。毎日毎日セックス漬けにして外のこと全部忘れさせてやら」
 ここが地獄ならタジマは鬼だ。
 金棒のかわりに警棒を持った暴悪な獄吏、東京プリズンの狂気の象徴。
 安田の首を絞めながらタジマが哄笑する、大量の唾を撒き散らし仰け反り笑う。タジマに首を締められた安田の顔が蒼白になり、窒息の苦しみに喘鳴を漏らす。タジマの手を掻き毟り瀕死の抵抗をするがタジマが慈悲をたれる様子はなく握力をゆるめる気配もない。タジマのやつ本気で安田を殺すつもりか?完璧いかれてやがる、あいつは東京プリズンの狂気に取り憑かれてる。
 安田を助けられるのは、俺しかいない。
 「!」
 迅速に決断し、行動にでる。
 パイプを掴み、慎重に床に足をおろす。床に足裏をおろした途端、肋骨に激痛が走りその場に蹲る。胸を庇い、呼吸を整える。へこたれてる暇なんかない、早く安田を助けなければ……膝で床を這い、徐徐にゆっくりとタジマの背中に近寄る。俺に背中を向けたタジマは安田の首を絞めるのに夢中で気付いてない。肋骨の激痛をこらえ、苦痛にかすむ目を凝らしてタジマに這い寄る途中、足首の包帯を手にとる。包帯の端と端を両手に掴み、ぴんと伸ばす。眼前でまっすぐはりつめる純白の包帯。タジマの背中はすぐそこだ。
 今だ。
 「!?ぐぎいっ、」 
 手応え。
 背後からタジマに擦りより、両手に持った包帯を体前にくぐらせ、絞める。容赦なく、渾身の力で。タジマの喉が絞まり包帯が首に食いこむ。包帯が食いこんだ周囲の皮膚が白く変色し静脈が浮き立つ。首を絞められたことはあるが首を絞めるのは初めての体験だ、加減がわからない俺はただただ必死で、安田の上からタジマをどかしたい一心でタジマの首を絞めつける。タジマの首を絞める途中、さまざまな断片が脳裏を過ぎる。
お袋の顔、鍵屋崎の顔、サムライの顔……レイジの顔。今まで出会ったいろんなヤツのいろんな表情。
俺はタジマに殺意を抱いていた、殺しやりたいほど憎かった。タジマが俺にしたいろんなこと、もう二度と思い出したくもないおぞましいことがあとからあとから浮上する。タジマに自慰を強要された、煙草の火を体の三箇所に押しつけられた、酷暑の砂漠に裸で立たされた、安全ピンで嬲られた、手錠に繋がれた、あとは……あとは……たくさんありすぎて数えきれない。こんなヤツ死んで当然だ、死んだほうがいいに決まってる。こいつが死ねば俺も鍵屋崎も泣かずにすむ、タジマの脅威に怯えることなく東京プリズンで暮らせる。
 だから、いっそ、殺しちまおう。
 どうせ初めてじゃない、俺はもう立派な人殺しだ。手榴弾を投げ、敵チームのガキどもを細切れの肉片にしてフッ飛ばした。いまさら一人くらい殺したってどうってことない……
 そして俺は、指の力を強め。

 『おまえはずっとまともでいてくれ』 
  
 耳の奥に声が響く。
 試合終了後、医務室のベッドで夢うつつに聞いた独白。

 『楽しくもないのに笑えるかって、そう言い続けてくれ。俺はずっと楽しくもないのに笑ってたからこれ以外の表情できないけど、おまえはちゃんと笑えるし泣けるし怒れるんだから。俺が抱きたかったロンは、そういうヤツだから』

 まともってなんだよレイジ。教えてくれよ。
 俺はまともじゃねえよ、まともならこんなとこ来てねえよ。こんなことしねえよ。お前が言うまともの基準ってなんだよ、俺のどこがまともなんだよ。
 俺はまともなんかじゃない。だって、人殺しだ。もう人を殺してるんだ。取り返しのつかないことしちまったんだ。俺が殺したヤツらにも家族がいて、人生があって、将来があったのに。
 俺がみんな台無しにしちまった。
 頼むから、お願いだから俺がまともだなんて言うな。まともな俺が抱きたいとか言うな。自分の意志でタジマを殺したらきっと俺はまともでいられなくなる、お前が言う意味のまともな人間じゃいられなくなる。自分の手でタジマを殺したら俺はきっとこれから先、楽しいことがあっても笑えなくなる。怒りたいときに怒れなくなる。人を殺すってそういうことだろ?自分の手で人を殺すってそういうことなんだろ?
 レイジもそうだったんだろ?
 タジマを殺したい、それは本音だ。こいつが鍵屋崎にしたことや俺にしてきたことを振り返れば、こんなやつ死んで当然だと思う。タジマに自慰を強要された夜、俺は泣きながら誓った。いつか絶対タジマを殺してやると、復讐してやると。
 それが今だ。さあ、殺れ。

 『おまえはずっとまともでいてくれ』

 腕の力が抜け、包帯が落ちた。
 「…………っ、」
 あと少し、あと少し力をこめればよかったんだ。そうしたらタジマを殺せたんだ、息の根止められたんだ。でもできなかった、どうしてもできなかった。
 手に力をこめようとしたらレイジの声が甦って、脳裏にレイジの笑顔が浮かんで。
 レイジが今の俺を見たらどんな顔をするだろう、タジマを殺そうとしてる俺を見たらどんな顔をするだろう。そう思ったらもう駄目だった、それ以上力を加えることができなかった。
 こんなのレイジが好きな俺じゃない、まともな俺じゃない。
 俺はずっと、レイジに好きでいてほしい。だから、タジマを殺せない。
 レイジの言うまともの基準はきっと狂ってて、きっとどうしようもなく狂ってて、本物の笑顔と偽物の笑顔でレイジはまともかそうじゃないか区別してるけどそんな単純な話のわけがない。でもタジマを殺したら、俺はもう笑えなくなる。味方が全滅して追い詰められて、無我夢中で手榴弾を投げた時とはわけが違う。 
 今度は自分の手で首を絞めて人を殺すんだ。
 人を殺そうと思って人を殺すんだ。

 まともじゃねえよ。
 レイジに嫌われるのは、いやだ。

 「!!」 
 衝撃。
 呼吸が止まった。息を吹き返したタジマに突き飛ばされた。ベッドの脚に背中から激突し、肋骨に想像を絶する負荷がかかる。痛い……目が眩む。息ができない。全身の毛穴が開いて脂汗が滲んで、俺は酸欠の金魚みたいにぱくぱく口を開閉するしかない。ベッドの脚に背中を預け、体を二つに折って悶絶する俺のもとへゆっくりとタジマが近付いてくる。
 鬱血した首をさすり、腰の警棒を引きぬき、目には殺意の業火を宿して。
 「俺の首絞めるなんざ十年早いんだよ…絞まりがいいのはケツの穴だけで十分なんだよおおォおおお!」
 おしまいだ。
 風切る唸りをあげて警棒が振り上げられ、頭上を急襲する。
 ああ―……殺される。  
  
 最後にもう一回レイジに会いた   

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051019023520 | 編集

 い、
 「じゃかあしい!!」
 医務室のドアが蹴破られ、何かが放りこまれ、乾いた破裂音が連続。
 空中で次々と破裂した玉から噴き出したのは大量の煙。
 「なんじゃこりゃあ!!」
 錯乱したタジマが衝立を薙ぎ倒しベッドに激突、悲鳴だか怒号だか区別のつかない奇声をまきちらす。煙幕越しに聞こえてくるのは深夜の静寂をぶち破る騒々しい物音、煙を肺に吸いこんだ人間のはげしい咳。開け放たれたドアの向こう側、廊下の蛍光灯を背に仁王立ちしているのはでかいゴーグルをかけたガキ。憤然と腰に手をつき、煙が充満した室内をぐるりと見まわす。
 「深夜になにやっとんじゃこンだあほっ、どったんばったんうるそうてかなわんわ!」
 ヨンイルだ。
 医務室に殴りこんできたのはヨンイルだった。シーツにしがみつき煙を避けながら、売春班での出来事を思い出す。タジマにヤられかけた俺を颯爽と助けに来たレイジが通気口に転がした煙玉、あれも確かヨンイルが作ったものだ。中に仕込まれていた煙には催涙効果もあるらしく、ひどく涙腺に染みて視界が曇る。咳をすると肋骨に響く。喉の奥に物が詰まったような異物感を堪えてシーツに顔を埋めれば、ヨンイルがふと俺に気付く。
 「怪我人ならおとなしゅう寝てろ!」
 「無茶言うな、寝れるもんならそうしてえよ!寝かせてもらえねえんだよ!」 
 とんでもない誤解だ、なにも好き好んで騒いでるわけじゃない。タジマに無理矢理起こされたりしなけりゃ今ごろ夢の中でレイジを殴ってた頃だ。俺に怒鳴り返されたヨンイルの眉間に皺が寄り、ぐるりと闇を見まわす。
 白煙たなびく暗闇に顔を巡らせたヨンイルめがけ、床を蹴り加速し、低姿勢で突っ込んでいくのは。
 「よけろ道化!」
 「どけえ!!」
 タジマだ。体当たりでヨンイルを跳ね飛ばして逃げ出そうって魂胆か。怒り狂ったタジマが暴走、ヨンイルをどかそうと風切る唸りをあげて腕を振りかぶる。タジマの行く手に立ち塞がったヨンイルに動揺の色はない、まだよく状況が呑みこめてないのかぽかんとその場に突っ立ってる。
 ヨンイルが危ない。
 タジマが咆哮をあげ、こぶしが無防備な顔面を狙い、ヨンイルが仰け反る幻覚を見た。上体を起こし、反応の鈍いヨンイルに迫り来る危機をしらせようと……
 した、瞬間だ。
 「!!」
 廊下から射した蛍光灯の光を浴び、晧晧と暗闇に浮かび上がったヨンイルがいっそ無造作に片足を振り上げる。ヨンイルは柔軟性に恵まれてるらしく、足が半弧を描き、高々と頭上に達する。殆ど垂直に振り上げたせいで足と額が接してるように見えたが、それも一瞬のこと。
 ヨンイルの踵が、闇に半弧の軌跡を描いてタジマの後頭部を直撃した。
 タジマの後頭部に踵落としが炸裂。無防備な後頭部に痛恨の一撃をうけ体勢を崩したタジマに肉薄、流れるような動作で次の攻撃へ移る。たたらを踏んだタジマの背後に回りこんだヨンイルが鋭い犬歯を閃かせ―
 跳んだ。
 冗談みたいな脚力で床を蹴り、落下の加速をつけた片足をタジマの背中に振り下ろす。その瞬間、ズボンの中にたくしこんでいたシャツが風圧にめくれ、広がり、ヨンイルの背中が暴かれる。
 廊下から射した蛍光灯の光と懐中電灯の丸い光とが交差する中、盛大に上着がはだけ、刺青が晒される。
 日焼けした背中に映えるのは鮮烈な緑の鱗、獰猛に蛇腹をくねらせる一頭の龍。
 ヨンイルが踊れば、龍も踊る。
 「ぐあっ、」
 床に突っ伏したタジマの背中を踏み、ヨンイルが着地。風を孕んだめくれあがった上着がふわりと背中に落ち、刺青を隠す。
 「なんやねんいきなり、事情もはなさんと人襲って。そんなに飢えとんの、タジマはん」
 ヨンイル登場からタジマが床を舐めるまでおそらく十秒もかからなかった。あっけらかんとしたヨンイルに脱力し、ベッドにもたれかかる。西の道化は強かった。さすが西のトップを張ってるだけのことはある、ただの漫画オタクじゃなかったんだなと見直す。
 「いやはや何事ですか、こちらの方からただならぬ物音が聞こえてきましたが……」
 ヨンイルの横からひょいと顔を覗かせたのはホセだ。なんでこいつまで?と当惑した俺ににこやかに片手を挙げ、「今晩はロンくん」と挨拶。
 「お前らこんなとこで何してんだ!?」
 「図書室でホセと捜査会議開いとったんや。そしたら医務室のほうから悲鳴と物音聞こえてきて……夜分遅く迷惑な輩がおるなー、よっしゃ、ちょっとひとっ走りしてとっちめてきたろ!って」
 「捜査会議?」
 「ヨンイルくん、例の件はお口にチャックです」
 ホセがわざとらしく咳払いしヨンイルをつつき、ヨンイルが「あ」と口を塞ぐ。どうやら俺に知られちゃまずいことらしい。
 「ずいぶん派手にやりましたねえ。何が起きたんです?」
 手庇をつくり、医務室の惨状を見渡したホセが顔をしかめる。白煙が腫れた医務室には濛々と埃が舞い、衝立は倒れて折り重なり、ベッドの位置は移動していた。床に筋をつけ、大幅に位置のずれたベッドを一瞥して嘆かわしげにかぶりを振るホセの横、ヨンイルが驚く。
 「あ、安田さん」
 ぐったりと床に伏せていたのは、背広を乱し、オールバックを乱した安田。小さく咳をしながら上体を起こした安田が、神経質な手つきで眼鏡の位置を直す。
 「消灯時間をすぎてからの外出は規則で禁じられてるはずだが」  
 「俺らが出歩いてへんかったらあんたピンチやったで」
 副所長をあんた呼ばわりなんて、度胸があるのかただの馬鹿か。背広の埃をはたき落とし、なんとか立ち上がった安田はみすぼらしい風体だった。タジマに殴られた顔は腫れ、唇は切れ、オールバックが乱れて前髪がたれていた。前髪をおろすと意外と若く見えるんだなと感心し、同時に違和感を感じる。
 前髪をおろすと、ますます鍵屋崎に似てくる。年の離れた兄弟か、親子でも通じそうだ。
 他人の空似ってあるんだな。
 ネクタイの位置を正し、疲労困憊立ち上がった安田がため息をつく。タジマにひどくやられたせいで眼鏡に亀裂が入った副所長を見上げ、怒鳴る。
 「なんで逃げなかったんだよ、さっき俺が瓶投げたとき!絶好のチャンスだったのに」
 それがひどく不満だった。俺が痛む体で無理をおし、そばの戸棚から瓶を抜き取りタジマに投げた直後なら逃げ出すチャンスはあった。タジマは俺への怒りで我を忘れ、肩の激痛で動きが止まり、安田から完全に注意が逸れていた。あの時とっとと逃げてりゃ、背広をぼろぼろにすることもなかったのに。
 体が言うこと聞くなら襟首でも掴んでやりたい心境だった。こぶしでベッドを殴り付け、不満げに黙りこんだ俺を一瞥。壊れた眼鏡を外し、亀裂の入ったレンズを指でなぞり、副所長が言う。
 「そんなことはできない」
 「なんで」
 「囚人を残し、副所長が逃げだすことなどできない」
 「……は?」
 レンズに付着した埃を拭い、続ける。
 「但馬看守を捕まえるため私は君をおとりにした、何も知らせず危険な目に遭わせた。その私が重傷で動けない君一人医務室に残し、逃げ出すわけにはいかない。絶対に」
 そう、か。だから安田は逃げなかったのか。ベッドから動けない俺ひとりをこの場に残し、副所長の自分が逃げ出すわけにはいかないと、責任感の強い安田はタジマに殴られ続けた。結果スーツはぼろぼろになって、オールバックはぐちゃぐちゃになって、眼鏡は壊れて顔は擦り傷だらけで……
 「……ばっかじゃねーの」
 「私もそう思う」
 安田がため息をつき、背広の胸ポケットに眼鏡をしまう。気だるげに前髪をかきあげ、タジマのもとへ歩み寄る。気絶してるのか、床にうつ伏せたタジマはぴくりともしない。 
 終わったのか。
 最悪の夜だった。衝立のカーテンが開き、顔面の毛布を毟り取られ、タジマに覗きこまれた時は心臓が止まるかと思った。タジマは執念深い。入所当初からずっと俺に目をつけて絡んできて、俺が肋骨折ってベッドから動けない今が絶好のチャンスだったのだ。おとりにされたのは腹が立つが、今晩決着をつけなきゃタジマはまた懲りずに何度も足を運んできた確信がある。そして俺は、医務室のベッドでタジマに犯されてた。
 「あ、」   
 遠くから足音が聞こえてくる。医務室の騒ぎに気付いた看守が遅れ馳せながら駆け付けてきたらしい。全部終わってから来ても遅いっつの、と胸中毒づきながら、安田に声をかける。何か言おうとして口を噤んだ俺へと向き直り、眼鏡がないせいで別人みたいな安田が目を細める。
 「いい友人を持ったな」
 「え?」
 レイジのこと、か?
 「ヨンイルとホセのこと言ってんならとんだ誤解だ、こいつらはダチでもなんでもねえ。ただの漫画オタクと七三メガネだ」
 むきになって抗弁すれば、安田が苦笑する。
 「……いや、わからないならそれでいい」
 「お互い自覚はないようだな」と意味不明のことを感慨深く呟く安田を不審がる。「ただの漫画オタクってそらあんまりや、俺は一流の漫画オタクの自負持っとんのに」「ひどいですよロンくん、吾輩と君とは心の友と書いて心友同士ではないですか!忘れたのですか、こぶしで友情を語り合った青春の日々を」と騒ぐヨンイルとホセはこの際ほっとこう。相手にするとうざいし。
 「!痛っ、」
 安心したら肋骨の激痛が再発した。苦痛に顔をしかめた俺に「大丈夫か」と安田が声をかけ、背中に手を添え、ベッドに戻るのを手伝おうとした。
 瞬間だった、タジマが復活したのは。
 「あああああああァあああああァ頭くらあああ!!」
 脳震盪がおさまったタジマが跳ね起き、
 「!但馬看守を取り押さえろ」
 医務室になだれこんだ看守連中に安田が指示をとばし、
 「おとなしくしろ!」
 「お前謹慎中だろうが、手え煩わせるのもいい加減に」
 と逆上した看守が数人がかりでタジマを組み伏せようとし、腕の一振りで逆に跳ね飛ばされ、ある者は壁に背中から叩き付けられある者はベッドに激突しある者は床でひっくり返る。打ち所が悪かったのか、意識が回復したタジマは同僚だろうがベッドだろうがおかまいなしに殴り付け、めちゃくちゃに暴れだす。俺を犯しに来た現場を副所長に目撃され、囚人に蹴りを食らい、同僚も敵に回り、四面楚歌のタジマは完全に冷静さを失っていた。虚勢をかなぐり捨て、理性を投げちぎり、ベッドを蹴飛ばしてひっくり返し衝立を薙ぎ飛ばし戸棚を横倒しにし、狂ったように咆哮をあげる。床に横転した戸棚のガラスに亀裂が走り、砕け、消毒液の瓶が床一面に足の踏み場もなく散乱する。消毒液の瓶を踏んだ看守が悲鳴をあげ手を泳がせ、尻餅をつく。
 タジマの暴走がさらなる混乱を招き、事態の収拾がつかなくなった。 
 ベッドの脚によりかかった俺は胸の激痛をこらえるのに必死で、タジマを止める術もない。タジマが医務室をめちゃくちゃに破壊してくさまを指をくわえて傍観するしかない。
 「ちっ、」
 舌打ちし、安田が行動にでた。ただでさえぼろぼろなのに、再びタジマにとびかかってゆく。タジマを背後から羽交い絞めにし、凶行を止め、安田が叫ぶ。
 「但馬看守、君は正気じゃない!完全に狂ってる、頭がおかしい!」
 「俺が狂ってる?そんなの承知だよ、狂ってて何が悪いんだ!東京プリズンじゃ看守も囚人も狂わなきゃ生きてけねえんだよ!!」
 東京プリズンの狂気の象徴たるタジマが、背中にしがみついた安田を振り落とそうと腰に回転をかけ身をよじる。タジマに振りまわされる安田、だがその手はタジマを羽交い絞めにしたまま決して放そうとしない。
 「はなせよ若造、俺はロンを犯しにきたんだ、邪魔するとてめえも犯っちまうぞ!」
 「放すわけにはいかない、これ以上君の横暴を放置できない!私は東京少年刑務所の副所長だ、看守を管理し監督すべき立場の人間だ!看守が不当に囚人を虐待する光景を見逃すなどあってはならない事態だ。私は鍵屋崎に約束した、ここにも確かに正義はあると証明すると!但馬看守、今の自分をよく見ろ。深夜の医務室に侵入し絶対安静の怪我人を犯す、そんな非人道的な行為許されるはずがない!」
 「許されるはずがない?面白えこと言うじゃねえか。ここは砂漠のど真ん中のゴミ捨て場だ、だれがなにしようが勝手だろう、俺がなにしようが自由だろうが!?いったい全体どこの誰サマが許さないって、」
 「私だ!!」
 安田がタジマを殴った。
 顔面を殴られ、タジマの巨体がよろめく。衝立ごと奥のベッドへと背中から倒れたタジマを見下ろし、肩で息をして立ち尽くす安田。前髪をかきあげる余裕もなく、額には汗が浮かび、呼吸は不規則に乱れていた。背広を脱ぎ捨て、片手で器用にネクタイを緩め、シャツの胸元を寛げる。続き、シャツの袖を肘までめくりあげ、中腰の姿勢から慎重に足を開く。
 「よく聞け、但馬看守」
 冷徹な眼光を放ち、こぶしを握り締める。
 「二度と鍵屋崎に手を出すな、ロンに手を出すな。私はこの東京少年刑務所の副所長だ、彼らを更正に導き社会復帰させるのが私の役割だ。私はそれを誇りに思う。誰になんと謗られようが嘲られようが誇りに思う」
 その言葉に嘘はないのだろう、安田は誇らしげに言いきった。
 「金輪際、私の囚人に手を出すな」
 ああ、これが。
 これが、信頼できる大人ってやつか。
 壁に背中を預け、床に横たわり、ベッドの脚によりかかり、看守がほぼ全滅した状況でタジマと対峙する安田の背中には、どんな手を使ってもタジマを止めなければという覚悟が滲んでいた。
 「………くっ、」
 俺にはなにもできないのか?
 胸を押さえ、ベッドに突っ伏した俺の視線の先じゃタジマと安田が睨み合ってる。安田がタジマに殴り殺されるのはいやだ。ベッドに手をつき上体を起こし、安田と一緒に戦おうとして……
 俺の行く手を遮ったのは、ヨンイルとホセの背中。
 「怪我人は大人しゅう寝とれ」
 「でも、」
 「道化と隠者におまかせください」
 不安を拭いきれない俺の眼前、ヨンイルとホセがゆっくり動き、壁に沿うように二手に分かれる。
 「は、はははは」
 タジマの哄笑が響く。絶望的に乾いた笑い声、自暴自棄の前兆。
 「あはははっはははっははははあ!格好いいなあ安田さん、あんまり格好よすぎて腹の皮よじれちまいそうだ。俺の囚人に手えだすな?いつから囚人を所有格で語れるほど偉くなったんだよ、え」
 ぎしりとベッドに上体を起こしたタジマと安田の肩越しに目が合う。
 精力旺盛にぎらついた目、脂でぎとついた顔。けだものに堕した人間の顔。
 「勘違いすんなよ安田…ここの囚人はお前の所有物じゃねえ、全員ひとり残らずこの俺サマの所有物だ」
 タジマが床に足をおろし、安田と向き合う。腰の警棒を引き抜き、鼻息荒く構える。あれで安田をぶん殴る気だ。衝立を蹴りどかし、消毒液の瓶を蹴飛ばし、大股に突き進む。安田との距離が徐徐に狭まり、殺気が膨張する。
 タジマの手に掲げられた警棒が、尋常ならざる握力にみしりと軋む。
 万力めいた握力で凶器を握り締め、憤然と安田に歩み寄り、目を爛々と輝かせる。
 「あばよ副所長。あんたがいなくなりゃ、ロンも鍵屋崎も壊れるまで犯りたい放題だ」
 くそ、なんで体が言うこと聞かないんだ?このままじゃ安田が殺されちまうってのに!
 一歩、また一歩と確実に安田との距離を縮めつつ、恐怖心を煽るように警棒をもてあそぶ。タジマの手の中で警棒が回転、安田の頭上へとおもむろに振り上げられ―……

 ―「副所長の椅子は俺のもんだああああぁあああああぁっ!!」―

 勝利の咆哮をあげたタジマの体が、吹っ飛ぶ。
 床を滑ったベッドと衝突して。 
 
 「!」
 ベッドが滑ってきた方角を振り返れば、ヨンイルが会心の笑顔で親指を立てていた。背格子と壁との隙間にもぐりこみ、壁に背中を預けた反動でおもいきりベッドを蹴ったのだ。
 人影が、跳ぶ。
 ベッドで跳躍したホセが、タジマの背中めがけて落下。ホセとタジマが埃まみれでもつれあい転げまわる、うるさい物音で看守が意識を取り戻す。 
 「くっ、」
 安田が足元の背広を拾い上げ、内側をさぐる。銃をだすつもりだ。実際射殺するつもりがなくても脅しには使える、足止めにはなる。その動作ではじめて安田が銃を持ち歩いてると思い出したらしく、ホセの下敷きになったタジマの顔が「しまった」と強張る。 
 が、予想に反し、安田は銃をださなかった。
 「今撃たなくてどうするんだよ!?」
 背広に手を突っ込んだまま躊躇する安田。と、背広から手を引き抜いた安田が一散にタジマに走り寄る。銃に頼らず素手で決着つけるつもりか?んな無謀な。
 「但馬看守を取り押さえろ!」
 号令をかけられ、看守が一斉にタジマにとびかかる。漸くホセをどかしたタジマが鈍重な体躯に似合わぬ素早さで跳ね起き、開け放たれたドアへと全力疾走。
 「吾輩ホセ、少々頭に来ましたよ」
 タジマに髪を毟られ、七三分けを乱したホセが剣呑に呟く。タジマに襲いかかる看守数名をよそに、床に片膝をつき、左手薬指の指輪にそっと口付ける。
 「力を貸してくださいマイワイフ。靴下に穴の開いた独身者なんかに負けるものですか」
 ホセがベッドに飛び乗ると同時に、ドアまであと五歩の距離にタジマが接近し、その背中に追っ手が覆い被さる。ベッドのスプリングで高度を上昇させ、ホセが跳躍。タジマを追跡する看守の背中を踏み、蹴り、また跳ぶ。看守の肩と背中に足跡をつけ、一気に距離を詰めたホセがタジマの行く手に回り込み……
 「どけえええええ!!」

 切れ味鋭いアッパーカットが、タジマの顎に炸裂した。

 「タジマはん……おまえはもう死んでいる」
 格好つけて腕を組み、ヨンイルが言った。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051018024730 | 編集

 開いた口がふさがらない。
 「なんだそのオチ」
 昨晩起きた出来事、医務室の大乱闘の顛末をビバリーが報告する。
 「フィクションなんてとんでもない!なんだそのオチって言われましてもそれが真実っス。深夜、こりずにロンさんを犯しにきた歩く性欲の権化こと東京プリズン最凶の看守タジマが道化と隠者の連携プレイでノックアウト。隠者のアッパーカットで白目剥いたタジマは現在独居房に監禁中。自業自得っスね」
 ま、ビバリーが喜ぶのもわかる。東京プリズンの囚人でタジマに恨み持ってないヤツなんかいない。地震雷火事タジマ。東京プリズンで猛威を振るう自然災害の一種だと思えばまだ諦めがつくが、犠牲者の数は年々増えこそすれ減りはしない。
 そのタジマも、遂に悪運尽きた。
 東京プリズン最凶と悪名高い看守が道化と隠者の最強コンビに倒され、その場に居合せた安田の指揮で独居房に放りこまれたニュースは棟から棟へと伝わり、囚人たちはバンザイと狂喜した。なんで謹慎中のタジマが普通に出歩いてるの?なんていまさらな疑問抱くヤツはいない、タジマならいつどこで何しでかしてもおかしくない。
 一部じゃ有名な話。タジマには警察庁高官の兄貴がいて、愚弟の不祥事は身内の恥だから圧力かけて揉み消してたわけだ。上からお咎めないのをいいことに殺りたい放題犯りたい放題の看守の暴君には東京プリズン殆どすべての囚人がうんざりしていた。
 だから、タジマが独居房に放りこまれたのはすごく嬉しいんだけど。
 「ヨンイル、最後の台詞言いたかっただけじゃないの」
 「リョウさんもそう思います?」
 「思う、てか絶対そうにちがいないって。道化の性格からして」
 ヨンイルがパクッたのは二十世紀に流行った漫画の名台詞。僕は読んだことないけど、外で売春してた時に客から教えてもらった。その客ってのが正真正銘のバカで、憧れの主人公まねて胸に七つ星の刺青入れてたのも今となっては懐かしい。若気の至りといやヨンイルも全身に龍の刺青入れてるらしいけど直接お目にかかったことないから半信半疑の噂の域を出ない。長袖長ズボンの囚人服を着てたら肌を露出する機会もないし真偽は今もってさだかじゃないけど、めったに図書室からでてこない漫画オタクが全身に彫った龍の刺青ってなんだかちぐはぐな組み合わせだ。
 「大体さあ、道化はともかく隠者はなんで図書室にいたわけ?消灯時間過ぎてたのに」
 「さあ、わかりません。何はともあれ、お二人の活躍によりロンさんの貞操は救われ害虫が一匹駆除されました!道化と隠者には感謝しなきゃ、東京プリズンの平和を守ってくれてサンキューベリーマッチ!」
 虚空に投げキッスするビバリーをよそにパソコンによりかかる。
 「甘いよ、タジマはゴキブリ並にしぶといんだ。どうせまたすぐ独居房からでてくる」
 看守が独居房に収容されるなんて前代未聞の例外的措置だ。
 安田もよっぽど頭にきたんだろう、タジマの頭が冷えるまで独居房に入れておけと独断で命令を下した。糞尿垂れ流しの独居房で後ろ手に手錠かけられクサイ飯を犬食いする数日間を送ればさすがにタジマも懲りるかもしれない、なんて世間の厳しさをよく知る僕が甘っちょろい期待をするわけない。あのタジマが独居房送りを食らったところであっさり反省するわけない、狂気が加速してさらに手におえなくなるだけだと冷めた見解を挟めば、ビバリーがちっちっちっと舌打ちする。
 「ポジティブシンキングでいきましょうよ、リョウさん。東京プリズンから一匹変態が消えたんだ、めでたいじゃないスか。ほんの数日間でもタジマがいなけりゃ天国っス」
 「そりゃそうだ」
 ほんの数日間でもタジマがいないのは嬉しいし、口臭くさい息に晒されることなく過ごせるのは喜ばしい。パソコンに背中を凭せ、ビバリーに共感する。
 「でもさ、レイジも薄情だよね。ロンのピンチだってのに結局姿現さなかったんでしょ?ちょっと前までロンにべったりで他棟の連中からさんざ色惚けキングって囃されてたのにロンがタジマに犯されてもどうでもよかったのかね。一度も見舞いにきてないってゆーし」
 「最近レイジさん見てませんねえ。食堂でも廊下でも図書室でも全然」
 「房にこもりっきり?」
 「さあ?」
 ビバリーもお手上げ。僕もここ最近レイジの姿を見てない。廊下ですれ違うこともなし、食堂で顔を見ることもなし、遭遇率が激減してる。僕とビバリーの指定席、食堂の二階からは一階の様子がよく見渡せて、ちょうど手摺の真下が鍵屋崎とサムライ、レイジとロンが指定席にしてるテーブルなんだけどそこにも姿がない。席に着いて食事をとってるのは鍵屋崎とサムライだけで、入院中のロンはもとよりレイジの姿はどこにもない。
 「どうしちゃったんだろ、王様」
 「またロンさんと喧嘩したんすかね」
 「いつもの喧嘩ならとっくに仲直りしてる。今度のはやけに長引くじゃん」
 レイジの姿がないのも不自然だ。落ち着きないレイジは用があってもなくても鼻歌まじりに廊下ほっつき歩いてることが多いのに、ここ数日、いや正確にはロンと凱の試合翌日から全然さっぱり姿を見せず消息を絶ってる。こりゃ事件だ、大事件。
 「貼り紙でもだす?『王様行方不明』って」 
 「ふざけないでください、マジなら一大事っスよ。入院中のロンさんほっぽりだしてどこでなにやってんだかレイジさんは……まったくもう!」
 お人よしなビバリーはロンにひどく同情し、一度も見舞いにこないレイジに憤慨してる。僕はロンに同情しないけど、レイジ失踪事件には好奇心を刺激される。次のペア戦まで間がない。ここまでレイジたちは順調に勝ち進んで、予定試合も残りわずか。あと一週間か二周間後には西南北の3トップとぶつかる可能性が浮上した。
 決勝戦を目前に控えた大事な時期に、出場者のレイジが消えた。
 ロンが入院中でレイジが行方不明中の現在、まともに戦えるのはサムライしかいない。鍵屋崎は戦力外。もしレイジが帰って来ないまま試合当日を迎えれば、サムライと鍵屋崎の二人だけで戦うことになる。
 結論。勝てるわけない。
 「あーあ、折角ここまで順調に行ってたのに残念!100人抜き惜しくも達成ならずで親殺しは売春班に逆戻り、毎日のように男に犯される地獄の日々再開か。お気の毒さま」
 笑いを噛み殺した表情で言い放てば、「リョウさんあんた全然気の毒がってないっしょ」とビバリーに指摘される。ご名答。本音を言えばざまあみろ。他人の不幸は蜜の味、鍵屋崎の不幸は麻薬の味。鍵屋崎が不幸になればなるほどうっとりしてもっともっといじめたくなっちゃう、それが僕の愛情表現。
 軽いノックが響いた。
 「ん?」 
 誰だろう、とビバリーと顔を見合わせる。夕食終了後の自由時間、規則で縛られた囚人に許された数少ない娯楽の時間。ビバリーとの雑談に興じていた僕は、てっきり客が訪ねてきたんだと勘違いして立ちあがる。ドアに向かいながらビバリーに目配せ、パソコンを隠すよう指示。ベッド下にパソコンを収納したビバリーが、客と入れ違いに房を出ようと僕の背中に続く。
 「悪いねビバリー、どっかで適当に時間つぶしてきて」
 「毎度毎度のことで慣れてまス。僕が廊下うろついて風邪もらうまえにヤること済ませてくださいよ」
 ビバリーは頑固だ。ベッドの下に隠れてタダ見していいよって進めても頑として首を縦に振ろうとしない。僕は3Pしてもいいんだけどね、なんてどうでもいいことを考えながらノブを握りドアを開く。
 「いらっしゃい、お一人様ごあんな……」 
 接客スマイルでドアを開け、固まる。そこにいたのが鍵屋崎だったから。
 「客と勘違いしたのか。不愉快だな」
 眼鏡越しに注がれるのは絶対零度の侮蔑の眼差し。針のように鋭利な眼差しに貫かれ、接客スマイルも強張る。
 「なんか用?」
 「中で話す。部外者には聞かせたくない用件だ」
 噂をすれば影。ドアを開けたらそこにいた鍵屋崎が「さあ入れろ」と顎をしゃくる。偉そうに、何様のつもりだよ。嫌われ者の親殺しのくせに相変わらず態度でかいなコイツ、と心の中で悪態をつきながら鍵屋崎を招き入れる。
 「ええっと、僕はどうしたら」
 「話があるのはこの男娼兼情報屋だけだ。率直に言うが、君には関心がない。のみならず君が視界に入ると集中力が散る、三秒以上黙っていられない躁病傾向の人間を交えて話し合いをもてば内密の用件を不特定多数の人間に口外されるおそれがある……僕としたことが少々前置きが長かったな。簡潔に訳せば三文字だ。『でてけ』」
 あ然とする。
 それ人にものを頼む態度じゃないよとつっこみたくなった僕の横をすりぬけ、しょんぼりうなだれたビバリーが出てく。
 「あはは……そうっスよねえ、僕はいつもいつでもお邪魔虫なんだ。いつでも仲間外れで除け者でお二人の話にまぜてもらえない可哀想なビバリー・ヒルズ……僕のお友達はロザンナとサマンサだけ」
 哀愁漂う背中を廊下に閉め出したときはさすがに良心が咎めた。後ろ手に鉄扉を閉め、気を取り直し鍵屋崎と向き合う。
 「で、ご用件は」
 「リョウ、君は北のサーシャと交流があったな」
 突然昔の話を蒸し返され、たじろぐ。いきなり何言い出すんだこいつ?鍵屋崎の口からサーシャの名前がでてくるとは思わなくて動揺する。鍵屋崎は腕を組み、ひややかな眼差しで僕を見つめてる。優れた観察眼と優れた洞察力とを兼ねた聡明な眼差しは嘘を看破する名探偵のそれだ。
 「半年前、君は北のスパイとなりレイジを嵌めた。ロンをおとりにレイジを監視棟におびきだし、一網打尽にしようとした。今でもよく覚えている」
 「だからどうしたの。いまさら復讐しにきたの?」
 皮肉げな笑みを浮かべ、鍵屋崎を真似て腕を組み、開き直る。
 「サーシャと君の関係は今でもまだ続いてるのか」
 「……言いたいことがよくわかんないけど、答えはノー。半年前の失敗で僕はサーシャに切られた、あれからサーシャとは会ってない。役立たずのスパイ飼ってても意味ないっしょ」
 自嘲的に言い放てば、鍵屋崎がなおも食い下がる。
 「君とサーシャは面識がある。たとえ一時期でもサーシャは君をスパイとして利用していた、君の情報収集能力を見込んでレイジの身辺をさぐらせていたのは事実。……ここからが重要だが、僕がサーシャと交渉するなら仲介人をおく必要がある」
 「サーシャと交渉だって?ちょっと待ってよメガネくん、話にさっぱりついてけないよ。最初からちゃんと話して」
 独走する鍵屋崎に不満を訴える。神経質な手つきで眼鏡の位置を直し、ためらいがちに視線を揺らす。ため息をつき、覚悟を決め、毅然と顔を上げる。 
 「前回話したろう。副所長の安田がさる大事な所持品を紛失した、よりにもよって人で混雑した地下停留場でだ。現在、その所持品をどの棟のだれが所持してるかは全く不明の状態だ。ヨンイルの助力を得て西棟を捜索したが見つからない、東棟と南棟は現在捜索中だが有力な手がかりは掴めない。残るはサーシャがトップに君臨する北棟だけだ」
 点が線になった。
 こないだ鍵屋崎は、情報屋の僕なら何か情報を掴んでるにちがいないと一縷の希望を手繰りこの房にやってきた。副所長の安田がペア戦が催された地下停留場で大事な所持品を紛失した、その行方を知らないかと無茶を言ってきた。その時はまだ何も知らなかった。
 安田のなくし物が銃で、ビバリーが銃を持ってることも。  
 安田のなくし物が銃なら鍵屋崎も必死になるわけだと納得した。ビバリーが拾った銃には六発弾丸が装填されていて、ぶっちゃけ乱闘なんかに使われたらすぐ火を噴ける状態だった。
 鍵屋崎はまだ知らない。安田の銃をビバリーが拾い、ビバリーが五十嵐に渡し、今ごろは五十嵐の手を経てとっくに安田に返されてるはずなのにそれすら知らされてない。
 とんだピエロだ。
 「?なにがおかしいんだ」
 「気にしないで、こっちの話」
 こいつ、格好つけてるくせに間抜け過ぎる。鍵屋崎が必死になって捜してる銃はとっくに安田の手に戻ってて、鍵屋崎が今やってることは全部骨折り損のくたびれ儲けなのにさ。むくわれないのに頑張ってる鍵屋崎がおかしくておかしくて笑いを噛み殺すのに苦労した。安田と鍵屋崎のあいだに行き違いがあって情報が錯綜してるのかもしれないが、じきに鍵屋崎も自分がやってることが全部無駄だったって思い知ることになる。それともまだラッシーが返してないとか?……まさか。人望厚いラッシーがいまだに銃なんて物騒な凶器持ち歩いてるはずがない、殺したい相手がいるなら別だけど。
 「それで、折り入って君に相談がある。サーシャとの仲介役を頼めないだろうか」
 「へ」
 間抜けな声をだしてしまった。が、鍵屋崎は本気らしい。 
 「サーシャは東棟の人間を敵視している。特に僕は地下停留場でレイジの隣にいるところを目撃されている。僕が直接交渉に行くのは危険だ、サーシャが冷静でなければ話し合いが成立しない。僕は一日も早く、一刻も早く安田の盗難品を見つけだしたい。北の囚人がそれを所持してると仮定した場合、トップの助力を乞わないことには捜査が進展しない」
 「北との仲介役頼もうとしたんならお生憎サマ。言ったでしょ、サーシャは僕のこと憎んでるって」
 「君しか心当たりがないんだ。君に協力を頼むのは僕としてもはなはだ不本意だが致し方ない。東棟の人間で最もよくサーシャを知るのは君だ、サーシャと気安くしていたのは君だ。仲介役にはリョウ、君が適任だ」
 物言いは威圧的だけど、声には一途にすがる響きがある。そんな鍵屋崎を見ていたら悪戯心が芽生え、多少自分の身を危険にさらしても遊んでやりたくなる。
 好奇心猫を殺す。
 「そこまで言われちゃ仕方ないなあ」
 参りましたとかぶりを振り、わざとらしくため息をつく。わかってる、僕もどうかしてる。命惜しさにサーシャに近付きたくないって言ったのはついこないだのこと。サーシャの身辺をうろついてるのがバレたら最後僕は顔をナイフで切り裂かれ誰だかわからなくされる運命だ。わかってるよそんなこと、自分が危険な橋渡ろうとしてることぐらい。鍵屋崎をおちょくるのが楽しくて、利口なつもりで単純で、騙されやすい鍵屋崎を嘘でふりまわすのが快感で、僕は今からとんでもないことしようとしてる。
 「引きうけてくれるのか?」
 一縷の希望と淡い期待とをこめ、鍵屋崎が僕を見る。そんな鍵屋崎に笑いかけ、首を振る。
 「仲介役は引き受けらンない。そのかわりと言っちゃなんだけど北棟を案内したげる」
 「何?」
 「知ってる?半年前までサーシャは僕の常連だった。サーシャが買いにきたのは情報だけじゃない。サーシャは僕の体目当てにわざわざ東棟まで足を運んだ。そして僕も」
 挑発的に舌を覗かせ、唇を舐めあげる。 
 「僕も、二・三回だけ北棟に足を踏み入れたことがある。サーシャにとって東棟は敵地、憎きレイジがおさめる敵の本拠地。アウェイよかホームでヤるほうが心身ともにリラックスできるっしょ」
 東棟の人間で北棟に足を踏み入れたのはレイジ以外では僕しかいないはずだ。
 僕は記憶力がいい。サーシャの房への道のりは今でもちゃんと頭に入ってる、鍵屋崎を案内することもできる。鍵屋崎を北棟の目的地に案内したら、そこでほっぽりだして物陰に隠れてればいい。鍵屋崎がサーシャのナイフの餌食になろうが北の人間に捕まって二度と帰って来れなくなろうが知ったこっちゃない。
 鉄扉に背中を凭せ掛け、腕を組み、小首を傾げる。鍵屋崎がどうでるか、期待と不安とが入り交じった複雑な気分で上目遣いに表情を観察。鍵屋崎は眉間に皺を寄せて逡巡していた。僕が案内役なのが不安なのか、直接北に乗りこむ無謀ともいえる行為に抵抗を感じるのか、眼鏡越しの双眸に葛藤が生じる。
 「僕はどっちもでいいよ、メガネくんの判断に任せる。でもさ、安田さんのなくし物なにかは知らないけどよっぽど大事な物なんでしょ?一日も早く取り返さないとやばいんでしょ?だったら……」
 猫のような動作で鍵屋崎にすりより、耳元で囁く。
 「北に行こうよ」
 一緒にイこうよ。
 耳朶に吐息を吹きかけ、誘惑する。鍵屋崎が諦念のため息をつき、そっけなく僕をどかす。眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、表情を隠し、呟く。
 「わかった、案内を頼む。サーシャとは直接交渉する、それ以外に方法がないなら仕方ない」
 とうとう鍵屋崎が決断を下した。僕に案内役を頼み、北に潜入し、サーシャに直接交渉するという決断。
 実際には東京プリズンの誰も銃なんか持ってないのに、どの棟の囚人も銃なんか持ってないのに、ありもしない銃のために危険を承知で北棟に乗り込もうとしてる鍵屋崎がおかしくておかしくてちょっと油断するとすぐ顔がにやけてしまう。サーシャと鍵屋崎を引き合わせたらあとは知らない、鍵屋崎が鉄扉をノックしてサーシャがでてくる前にさっさと逃げてしまえばいい。僕には関係ない、責任もない。全部鍵屋崎が自分の意志で決めて自分の判断で行動した結果、鍵屋崎自身の浅慮が招いた不幸だ。  
 僕に踊らされてるとも知らないで、ばかな親殺し。
 「じゃあ、決行は明日の昼。昼なら一部の囚人以外出払ってるし、人いないほうが都合いいっしょ。待ち合わせ場所は……図書室がいいか。昼間空いてるもんね。中央棟の渡り廊下通って北棟行けるし、」
 ピクニックを計画するみたいに明日の予定を決める僕に鍵屋崎は逆らわなかった。東京プリズンで最も冷酷なトップが仕切る北棟に潜入することになり、鍵屋崎なりに緊張してるらしい。切迫した表情は崖っぷちに立たされた人間のそれだ。
 明日の予定を決め、鍵屋崎を送り出すため鉄扉を開く。思い詰めた目の色の鍵屋崎が肩越しに振り返り、まったく関係ないことを聞いてくる。
 「ついでに質問だ。レイジを知らないか」
 「知らないよ。最近姿見てないねって、君が来る直前までビバリーと話してたとこ。そっちこそ、レイジがどうしてるか知らないの?気になるなら房訪ねてみたら」
 「友人でもない男のためにそこまでする理由が存在しない。時間の無駄だ」
 自分から聞いてきたくせに怒る理由がわからない。
 レイジのことなど思い出したくもないとはげしくかぶりを振り、憤然と立ち去る鍵屋崎を見送る。今の質問で判明したが、鍵屋崎もレイジの消息は知らないらしい。レイジは誰にも何も告げず、僕らの前からふっつり消えてしまった。
 まったく、人騒がせな王様だ。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051017024942 | 編集

 「ならん、断じてならん」
 サムライは頑固だ。
 房に帰った直後、墨を磨り半紙と向き合い日課の写経に勤しむサムライに明日の予定を報告した。リョウに案内役を頼み、北に潜入し、トップのサーシャに直談判する計画を話せばみるみる表情が険しくなった。
 筆を折りそうな握力をこめ、墨汁の飛沫を半紙にとばして乱暴に叩きつけ、体ごと僕へと向き直るサムライ。こんな時だというのに、体の中心線を歪ませることなく端然と正座した姿に見惚れる。
 眉間に険悪な皺を刻み、眼光鋭く僕を牽制するサムライに淡々と言葉を返す。
 「君が反対しても計画は変更しない。これは既に決めたこと、僕の意志で決めたことだ。独断先行は天才の専売特許だ、この僕が人にとやかく言われてあっさり翻意するような優柔不断な性格をしてるわけないじゃないか。見損なわないでくれないか」
 そう、僕の心は既に決まっていた。いまさらサムライに何を言われようが翻意するつもりはないと決意を固め、強調する。
 「誤解するなよ。これは相談じゃない、ただの報告だ。僕の用心棒を自称する心配性の友人に何も言わず単独行動したのが後に発覚すれば斬られるから、事前に予防策を講じただけだ」
 「俺はお前の用心棒だ。お前ひとりを北に行かせん、明日は俺も仕事を休む」
 やっぱり。徒労を感じ、ため息をつく。ベッドに腰掛けた僕は、膝の上で五指を組み、話し合いの体勢を整える。サムライは床にじかに正座しており、僕はベッドに腰掛けている。サムライを見下ろしながら話をすることで精神的優位を得て会話の主導権を握るためだ。膝の上で五指を組み替え、伏し目がちに俯き、慎重に言葉を選ぶ。
 「馬鹿を言うな、強制労働を休めるわけがないだろう。肺炎になっても強制労働は休めない、それが東京プリズンの常識だ。僕より古株の君がそんな当たり前のことを知らないはずがない。冷静になれサムライ、君はイエローワークでの精勤が認められてブルーワークに昇格した。これまで一日も休まず勤勉に勤め上げてきた、そんな君が欠勤などしてみろ、これまで地道に積み上げてきた評価がたった一日で台無しになるぞ」
 僕がいちばん憂慮していたのがそれだった。
 サムライはイエローワークでの精勤が認められ、異例ともいえる出世を成し遂げた。
 ブルーワークは強制労働の中で最も内容が軽く、品行方正で勤勉な囚人が優先的に就かされる仕事だ。サムライはこれまで一日もさぼらず、勤勉に強制労働を勤め上げて周囲の評価を築いてきた。
 それなのに、僕のために仕事を休むと言う。
 仕事を休んで僕に付き合う覚悟があるという。
 そんな覚悟をされてもちっとも嬉しくない、僕に付き合って強制労働を欠勤すればサムライ自身の評価が暴落する、のみならず罰をうける。東京プリズンの看守はとかく囚人に厳しくつらくあたる。たった一日の欠勤でも見逃してはくれず、翌日復帰すればひどく殴られ蹴られる。骨折程度ですめばまだしも幸いだ。いくらなんでも独居房送りはないと思うが、加減を知らない看守の体罰も十分におそろしいものだ。
 顔の形が変わるまで殴られた挙句、腕や足を折られたサムライなど見たくない。
 たった一日の欠勤がここでは命取りになる。サムライは今日まで真面目に仕事を勤め上げてきた。酷暑の砂漠でも寒い下水道でも文句ひとつ言わず弱音ひとつ吐かず、刀にかえてシャベルを握り、無骨に節くれだった指にバールを握り、配水管の水漏れを修復してきた。
 安田の銃さがしは本来僕が請け負ったことだ。
 サムライは関係ない。サムライを巻きこんではいけない。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、表情を隠す。僕自身、不安がないといえば嘘になる。北棟は未知の領域だ。図書室のある中央棟と東棟以外出入りしたことのない僕が、レイジの権力が及ばない北棟に乗りこむ行為は無謀ともいえる。
 東京プリズンで最も冷酷なトップが支配する北棟、超絶的なナイフの使い手たるサーシャが独裁主義を敷く排他的な棟。足を踏み入れたらば最後生きて帰ってこられる保証はない。北棟は危険な場所だ、それはわかる。サーシャ以下の囚人は特に東棟の人間を敵視していると監視棟の一件で学習済みだ。
 東棟の人間がうろついてるのを目撃されればどんな目に遭わされるか……想像したくないのが本音だ。
 はっきり言って、怖い。サーシャのナイフで瞼を切り裂かれた灼熱感を想起すれば、恐怖を克服できずに決心が鈍りそうになる。北棟に足を踏み入れるのは怖い。リョウは信用できない。リョウは僕を快く思ってない、そんな人間に案内役を頼むのは愚かだという自覚もある。
 おそらくリョウは地理に不案内な僕を北棟に置き去りにし、自分はサーシャに見つかる前に素早く逃げ帰る算段だろう。
 動揺をしずめようと眼鏡の弦に触れれば、こちらを一途に見つめるサムライと目が合う。表情を厳しく引き締めたサムライ、双眸には一抹の翳り。僕の身を案じるひたむきな眼差し。
 サムライから目を逸らし、平静を装い、淡々と命じる。
 「サムライ、明日はいつもどおり仕事にでろ。僕のことは気にするな。子供じゃないんだからお守りは必要ない。他棟に出向くくらいどうということはない、渡り廊下を渡ればすぐそこだ。北と東とを繋ぐ渡り廊下は現在封鎖されているが、中央棟を経れば普通に行き来できる。何故他棟との交流がもっと活発化しないのか不思議なくらいだ。僕はひとりで大丈夫だ、サーシャとは初対面じゃない。まあ彼は重度の薬物依存症で自分のことを気高きロシア皇帝と吹聴する誇大妄想狂の異常者で、ナイフで人肌を切り裂くことで性的興奮をおぼえる冷酷かつ残忍きわまりない人格破綻者だが」
 誤解しないでほしい、僕はサーシャの人格を不当に貶めてるわけじゃない。すべてありのままの事実だ。サムライを安心させるつもりが、逆に不安をあおってしまったようだ。険しい顔のサムライからよそよそしく視線を外す。
 「……覚せい剤を服用してないときなら話し合いが成立するだろう。サーシャも北のトップをつとめる男だ、他棟の人間が訪ねてきたのを邪険に追い払っては体裁が悪い。用件くらいは聞いてくれるはずだ」
 「危険だぞ」
 「わかってる」
 サムライに言われなくてもわかってる。だが、これ以外に方法を思いつかない。捜査は行き詰まり、銃の手がかりは何ひとつ得られない。現状を打破するためには、危険な賭けにでるしかない。
 気まずい沈黙が落ちた。
 サムライは憮然と押し黙り、不快感を表明するように腕を組んでいる。瞼をおろした顔にたゆたっているのは、何でもひとりで勝手に決めて実行する僕への不満と反感。友人として、用心棒としての存在意義に悩んでいるのかもしれない。
 「……安田は約束を守ってくれた」
 小さく、だがはっきりと呟く。腕組みをしたまま瞼を上げ、うろんげに僕を一瞥するサムライ。ベッドに腰掛けた僕は膝の上で五指を組み替え、続く言葉を口にしたものか躊躇する。指と指とを絡めて心を落ち着かせ、サムライに表情を観察される居心地悪さをごまかし、たどたどしく本音を打ち明ける。
 「昨夜、安田は僕との約束を守り医務室を見張ってくれた。身を挺してロンを助けてくれた。安田がいなければロンは確実にタジマに犯されていた。安田はぼろぼろになりながら、それでも約束を守り、東京プリズンでも正義は行われると示してくれた」
 昨夜、医務室で起きた乱闘の一部始終は、囚人の口から口へと伝わり瞬く間に東京プリズン中に出まわった。安田は僕との約束を守り医務室に張り込み、ロンを襲いにきたタジマと戦った。僕との約束通り、体を張ってロンを守ってくれたのだ。
 僕は安田に感謝する。安田は僕を裏切らなかった、信頼に応えてくれた。安田はただの囚人にすぎない僕との約束を誠実に果たしてくれた、決して軽んじたりしなかった。
 僕も安田のために何かをしたい。安田がそうしたように、約束を履行したい。
 「僕は約束を守りたい。安田は僕との約束を守りロンを救ってくれた、だから僕にも約束を果たす義務がある。安田は東京プリズンの副所長にふさわしい人物だ、彼以外の誰も副所長として認めたくない。最初は自己保身を優先する中間管理職の典型だと思っていた、でも違った。安田はおそらく、東京プリズンで数少ない信頼にたる人物だ。信頼できる大人だ。僕は」
 うまく言えない。この複雑な感情をうまく整理して言い現すことができない。語彙は豊富なくせに肝心な時に言葉がでてこないなんて、と焦りながら続ける。
 「……僕は、安田を助けたい。安田のために何かをしたという自負を持ちたい。それが自己満足にすぎなくても、自分にできる限りのことをして約束を履行したと誇りを持ちたいんだ。次に安田と顔を合わせるときは対等な立場になりたいんだ」
 言い終えると同時に頬が熱くなり、上着の裾で眼鏡を拭くふりで顔を伏せる。サムライ相手になにを語ってるんだ、僕は?汚れてもない眼鏡のレンズを拭い、咳払いして顔にかける。レンズの向こう側にサムライがいた。先ほどまでの不機嫌な面持ちから微妙に変化し、眉間に沈思の皺を刻んだ難しい顔をしている。
 「……やはり俺も行く」
 「何故そうなるんだ?」
 声に非難がましい響きがまじる。サムライときたら手におえない、僕が何を言っても聞く耳を貸さない。言葉が通じない苛立ちをこらえ、ベッドから腰を浮かせ、床に正座したサムライに語気荒く詰め寄る。
 「いいか、僕は明日ひとりで北棟にいく。これは決定事項だ、誰が何と言おうが覆さない。君は僕の保護者か、思春期の娘の門限を決める父親か?違うだろ、僕と君とは赤の他人だ。僕の行動を制限する権利も僕を束縛する権利も君にはない、君を伴い北棟に行くなど冗談じゃない。君は強制労働にでろ、いつもどおり働け。安田の銃さがしは僕個人が引き受けた問題で君は本来無関係な立場だ。強制労働を欠勤してまで僕に付き合う理由なんかどこにも、」
 「ここに在る」
 僕の説得をさえぎり、自分の胸に手のひらをおくサムライにたじろぐ。
 「俺が、俺の心がそうしたいと望んだ。お前を守りたいと望んでるんだ」
 「……馬鹿だな君は。僕の想像をはるかに凌駕する馬鹿だ」
 「馬鹿で結構」
 サムライの口元が綻び、目には柔和な光が宿る。馬鹿と言われて何がそんなに嬉しいのか、ひどく満足げな微笑を浮かべたサムライが歯痒くなる。僕はサムライに迷惑をかけたくない、巻きこみたくない。
 僕の無力は僕の責任で、サムライが責を負うのは間違っている。 
 ベッドから腰を上げ、サムライの眼前に立ち塞がる。体の脇でこぶしを握り締め呼吸を整える。深呼吸で激情をおさえこみ、最後の説得を試みる。
 「君はペア戦を控えた大事な体だ、くだらない理由で怪我をしてほしくない。僕らはもうすぐ100人抜きを達成できるところまで来ている。レイジが姿を消した今、ペア戦に出場できるのは君だけだ。ロンは入院中でベッドから動けないし、認めるのは不本意だが僕は戦力外だ」
 「試合には勝つ。100人抜きも達成する。お前も守る」
 「……ここまで言ってもわからないのか、君の頭の悪さには絶望する。理解力不足も甚だしい。強制労働を休めばどんな罰をうけるかわからない、看守にひどく殴られ怪我をするかもしれない。そこまでして僕に付き合う理由はない、君にはペア戦に集中してほしい。ペア戦に勝つことだけ考えてほしい」
 「できん」
 「!―っ、」
 何故わかってくれないんだ、君が心配なのに。
 頑として首を縦に振らないサムライに逆上し、衝動にかられるがまま胸ぐらを掴む。僕に胸ぐらを掴まれてもサムライは少しも動じず、ひたと僕を見据える眼光は信念を貫徹する武士のそれだ。共感を求めず理解を求めず、どこまでも頑なに自分の意志を貫き通そうとするサムライに感情が爆発し、表面上の冷静さをかなぐり捨て、至近距離に顔を近付ける。
 「ペア戦と僕とどちらが大事なんだ!?」
 「お前だ!!」
 指から力が抜けた。
 サムライは即答した。一瞬たりとも迷うことなく、きっぱりと断言した。僕の手を振り払い、上着の胸元を撫で付け、威儀を正して付け加える。
 「……お前が危険な目に遭うのは耐えられない。俺の目の届かぬところでつらい思いを味わうのは耐えられない。ペア戦も勿論大事だ。しかし、お前のほうが数段大事だ。俺がペア戦出場を決めたのはお前を苦境から救いたい一念だ、他には何もない。名誉も称賛もいらん、そんなものは他の連中にくれてやる。お前を他の男に抱かせぬために俺は100人抜きを成し遂げる、金輪際他の男に触れさせぬために必ず100人抜きを成し遂げる」
 床に片膝つき、おもむろに立ちあがる。気迫をこめた眼差しに気圧されてあとじされば、膝裏がベッドにぶつかりそれ以上後退できなくなる。ベッドを背に追い詰められた僕の手首を掴み、顔に顔を近付けるサムライ。一重の双眸には苛烈な志、どこまでも自分の信念に忠実で揺るぎない眼差し。
 「必ずやお前を守ると剣に誓った。信念なくして武士を騙るは恥辱の極み、愚の骨頂。俺の目の届かぬところでお前が傷つくのは我慢ならん。俺の剣はお前を守るため、ただそれだけの為に常に傍らに在る」
 頑健な五指で手首を握り締められ、指から手首へとサムライの体温が流れこむ。
 サムライの腕の中で泣いたあの夜、サムライは決して僕を手放すものかと抱擁する腕に力をこめた。あの時とおなじ強さとぬくもりで僕の手首を掴み、愚直なまでにひたむきな、信念で鍛えた刀のように真っ直ぐな眼差しを注ぐ。
 「共に行かせてくれ、直」
 サムライの声には切迫した響きがあった。置き去りにされることを恐れる子供のような、大事な人間を失うことに怯えるような、悲痛な表情が覗いたのは目の錯覚か。
 「それはできない」  
 「……っ、」
 サムライの顔が苦渋に歪む。痛みを堪えるような顔をしたサムライをまっすぐ見据え、「そのかわり」と呟く。
 「帰って来なければ、君が迎えに来てくれるんだろう」
 サムライが虚を衝かれ、手首から五指がほどける。サムライの五指から手首を引きぬき、そっとなでさする。手首にはまだサムライの体温が残っていた。途方にくれたように立ち竦んだサムライにかぶりを振る。
 「何か誤解してるようだから、ここではっきりさせておこう。常に共にあるのが友情?常に共にあるのが友人?それは違う。僕は君のことを信用してる、僕が北棟に行ったまま帰ってこなければ心配性の友人が必ず迎えに来てくれると信用してるんだ。これから僕がしようとしてることには未知の危険が伴う、でも君が迎えに来てくれるなら怖くない」
 いつもより自分の声がやさしくなってることに気付いた。頑固な子供にごく当たり前のことを教え諭すような声音だ。小さく息を吐き、顔を上げる。
 目の前にサムライがいた。
 冷静沈着なサムライには珍しく狼狽していた。ここまで言ってもわからないのだろうか?サムライの理解力のなさに頭痛をおぼえ、人さし指をこめかみに押し当てる。もうはっきり言うしかないと開き直った僕は、挑むようにサムライの目を見る。

 「君を信頼してるから、君から離れることができるんだ」 
 僕が帰ってこなければ、必ずサムライが迎えにきてくれる。そう信じてる。

 サムライが強制労働を休めば罰を免れない。ペア戦準決勝を目前に控えた大事な時期に負傷すれば、100人抜きは達成できず、僕たちがこれまで頑張ってきたことや積み上げてきたものすべてが無駄になってしまう。安田の銃さがしは本来僕一人が請け負ったことだ、ならば僕一人が北棟にいくべきだ。
 サムライ流に言えば、これが僕の信念だ。
 僕もだいぶ友人に影響されたものだな、と皮肉げな笑みを浮かべた僕の視線の先でサムライが動く。
 「……わかった。そこまで言うならやむをえん」
 僕へと歩み寄ったサムライが、少し寂しげに呟く。
 「友人に似て頑固なんだ」
 そう切り返せば、サムライが降参したように苦笑する。この半年と少しでサムライもずいぶん人間くさい笑みを浮かべるようになったな、と感心する。
 サムライの顔から笑みがかき消え、表情が厳しく引き締まる。峻厳な光を目に宿したサムライが、声音に静謐な気迫をこめる。
 「無事に帰ってこい」
 「ああ」
 「無事に帰ってこなければ、何を置いても助けにいくぞ」
 「ああ」
 裸電球の薄明かりの下で、ふとサムライの眼差しが翳る。不安を拭い去れない面持ちで俯いたサムライが、自らの惰弱さをかなぐり捨てるようにかぶりを振り、毅然と顔を上げる。
 そこにいたのは、一人の武士。
 僕の身に危険が及んだ場合は何をおいても助けにいくと、揺るぎない決心を胸に秘めた武士。
 そしてサムライは、最後に言った。
 胸中の葛藤を押し殺し、不器用に表情を笑み崩し、僕を力づけるように笑顔を拵え。
 「頑張ってこい、直」
 サムライの、精一杯の励ましの言葉だ。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051016025053 | 編集

 『Do cat eat bat,do bat eat cat』
 書架に寄りかかり、不思議の国のアリスの一節を復唱する。
 ルイス・キャロル作の名作童話不思議の国のアリスは僕のお気に入りの一冊、小さい頃からママが読み聞かせてくれたお気に入りの本。アパートにあった本は何回も何回も手垢がつくまで読み返したから、作中に登場する詩もそらで口ずさめる。
 蝙蝠は猫を食べるか、猫は蝙蝠を食べるか。
 日本語じゃ意味不明の一文だけど英語でくりかえしてみると小気味よく韻を踏んでることがわかる。ドゥ・キャット・イット・バット、ドゥ・バット・イット・キャット……書架に背中を凭せてくりかえし口ずさんでいると懐かしい記憶が甦る。ママの膝の上で、ママのぬくもりを感じながら絵本を読んだ子供の頃の記憶。六歳の時から小遣い稼ぎに体を売ってた僕にもそんな無邪気で平和な子供時代があったのだ。
 ロング・タイム・アゴ―のお話。
 ああ、早く外に出たい。早く外にでてママに会いたい、「リョウちゃん会いたかった」って頬ずりして抱きしめてほしい。それだけを楽しみに僕は生きてる。希望なんて転がってない東京プリズンでも夢を見るのは個人の自由で僕の勝手だ。もし生きてここを出られたら僕は真っ先にママに会いに行く、ママに抱きしめてもらいにいく。新しい恋人なんて知るもんか。僕にはママだけで十分、ママには僕だけで十分。子供の頃からずっとママと二人支え合って慰め合って生きてきたんだ、僕とママの間に他人がもぐりこむ余地なんてない。ママはものすごい寂しがり屋だから人肌恋しくなればすぐ男と寝ちゃうけど、僕が帰ってくれば他の男にあたためてもらう必要なんかない。子供の頃みたいに小さなベッドでママとふたり寄り添いあって眠ればきっともう悪夢も見ない、ママは他の男のところになんかいかない。ずっと僕のそばにいてくれる。
 それにしても、あいつ遅いな。
 書架から背中を起こし、あたりを見まわす。せっかく強制労働をズル休みして鍵屋崎の予定に付き合ってやったのに、肝心の本人がさっぱり姿を見せない。何様のつもりだあいつ。僕が早く来すぎたのかもしれないけど、閑散とした書架の片隅で絵本を閲覧し、時間を潰すのにも飽きてきた。生あくびを噛み殺し、不思議の国のアリスの絵本を書架に戻す。昼間の図書室はさすがにしずかだ。強制労働終了後の自由時間には一回の閲覧机を占領し、下ネタとばして騒ぎまくる連中で活気づく図書室も、一部の例外を除いて大半の囚人が出払った今はしんとしてる。
 今日ここに来ることをビバリーには当然知らせなかった。ビバリーはお人よしだから、今でも鍵屋崎が必死に銃をさがしてることを知れば真相を明かさずにいられなくなる。そんなのつまんない。鍵屋崎の勘違いを訂正する必要なんてない、鍵屋崎はこれから実際にはありもしない銃の手がかりを求めて北棟に行く。そしてサーシャに八つ裂きにされる、もしくは北の連中につかまり嬲り者にされる。
 そっちのほうがずっと面白いじゃないか。
 ビバリーのお節介で僕のお楽しみを邪魔されたくない、計画を狂わされたくない。だから真相は伏せとく、馬鹿な天才には永遠に勘違いさせたままでおけばいい。ここじゃ自分の勘違いが原因で身を滅ぼしたところで誰も同情なんかしてくれないし、こぞって笑い者にされるのがオチだ。
 いい気味。
 「ドゥ・キャット・イット・バッ……あ、きた」
 鍵屋崎は一階にいた。等間隔に配置された書架の間を練り歩き、本を捜していたらしい。片手に本を抱いた鍵屋崎が二階の手摺から身を乗り出した僕に目をとめる。
 「二階にいたのか。どうりで気付かないわけだ、紛らわしい」
 「待ち合わせ場所は指定したけど階までは指定しなかったもんね」
 東京プリズンの図書室は無駄に広い。三階まで吹き抜けの広壮な空間のどこに鍵屋崎がいるかなんてぱっと見わかるわけがない、お互い違う階にいたんじゃなおさらだ。スキップするように軽快な足取りで階段を降り、床に着地。身軽に一階に降り立った僕をよそに、カウンターで図書を帯出する手続きを済ました鍵屋崎がこちらに向き直る。
 「約束通り来たが、君はいいのか」
 「うん?」
 「強制労働を休んで支障はないのか」
 ああ、そのことか。不審顔の鍵屋崎に意味深な笑みを覗かせ、唄うように言う。
 「お休み一回、フェラチオ一回」
 「なに?」
 鍵屋崎が上品に眉をひそめる。売春班にいたんだしまさかフェラチオ知らないってオチはないだろうけど、親切に説明してやる。
 「僕は温室担当の看守に贔屓されてるんだ。僕がおねがいすればズル休みも見逃してくれる、他の囚人とちがって特別扱いしてくれる。男娼で磨いたテクが役に立つ一例さ」
 頭の後ろで手を組み悪戯っぽく微笑めば、僕の説明に納得した鍵屋崎が嫌悪もあらわに僕から距離をとる。勝った、その顔が見たかったんだ。実際僕は温室担当の看守に贔屓されてる。温室担当の曽根崎は恐妻家の少年愛好者で、前も僕の体と引き換えにサムライの過去を教えてくれた……わけだけどそれは伏せて、話題をかえる。
 「ねえ、なんかおかしくない?昼間図書室来たことないからよくわかんないけど、今日静かすぎない?図書室のヌシはどこ行ったのさ、漫画に熱中して城にこもりきり?」 
 西の道化ことヨンイルなら、白昼堂々図書室で漫画を読み耽ってるはずなのに今日はどこにも姿が見えない。書架を漁って漫画を物色してる姿もないなんて様子がおかしいと不審がれば、何てことないというように鍵屋崎が答える。
 「ヨンイルはここにはいない。現在出張中だ」
 「図書室のヌシが出張?」
 変なことを言う。あ然とした僕にそれ以上の説明は省き、鍵屋崎がくるりと踵を返す。北棟に行く気満々ってわけか……て、待てよ。
 「ちょっとメガネくん、本持ったままサーシャに会いにいくわけ。失礼だよそれ、皇帝に首はねられても知らないよ。サーシャのヤツ、下々の礼儀にうるさいから」
 「勘違いするな、これは僕が読むんじゃない」
 「?」
 わけわからないと疑問符を顔に浮かべた僕の視線の先、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、鍵屋崎が言う。
 「北棟に行く前に寄りたいところがあるんだ」
 
 鍵屋崎が寄りたいところは医務室だった。
 「なんでこんなとこに。どっか怪我してるの。それとも視力検査にでもきたの」
 「黙ってろ」
 僕の軽口をそっけなく一蹴し、軽くノックして入室許可を得てから扉を開ける。先に入室した鍵屋崎に続いて医務室へ踏みこむ。入ってすぐのところに机があり、皮張りの椅子があり、眠たそうな顔をした初老の医師が腰掛けていた。 
 「また君かね」
 「また僕だ。悪いか」
 どうやら顔見知りらしく、鍵屋崎の物言いは遠慮ない。まあ鍵屋崎はだれにでもこんなかんじだけど。
 医師に目配せした鍵屋崎が、奥へと足を進める。鍵屋崎に続こうかその場に留まろうか躊躇した僕と医師の目が合う。カルテに記入する手をとめて僕に向き直った医師が首を傾げる。
 「君も見舞いにきたのか」
 「僕『も』?」
 僕も、ってことは鍵屋崎も?
 「違うのかね?あの眼鏡の少年、態度は傲慢で物言いはそっけないがなかなかどうして面倒見のよい性格をしている。ロンと言ったか……肋骨を折ってここに運び込まれた少年を心配して、二日に一度は見舞いにきて暇を持て余した患者の話し相手になってやっておる」
 「へえ」
 新事実発覚だ。あの冷淡でとっつきにくい鍵屋崎が、お高くとまった鍵屋崎が、肋骨折って入院中のロンのために足しげく見舞いに通ってるなんて。ロン対凱の試合以来、ぱったり消息絶ってしまった王様よりよっぽど情に厚くて面倒見がいいじゃないか。初期の鍵屋崎を思い出し、人間変われば変わるものだとおかしくなる。僕の笑みを好意的に解釈した医師が、皺深い顔を綻ばせる。
 「彼が入院してから医務室もずいぶんと賑やかになったものだ。眼鏡の少年に、漫画好きの少年に、七三分けの少年に……いや、あれは青年か?見た目は老けているが、東京プリズンに収監されてるということは一応十代の未成年なのか?しかし左手薬指に指輪をはめていた、ということは既婚者……」
 何かぶつぶつ呟き始めた医師に背を向け、鍵屋崎を追う。医師の独り言はボケの兆候だからほっとこう。医務室の奥には等間隔のベッドが並んでいた。カーテンの衝立で仕切られたベッドのひとつから賑やかな声がもれてくる。カーテンを開け、中を覗きこむ。
 ベッドを取り囲だ全員が一斉に振り向く。
 「おお、赤毛。またの名をユニコ誘拐犯」
 西の道化ことヨンイルと、
 「いやはや、歓迎します。人数が多ければ多いほどお見舞いには賑やかになります、さあどうぞ適当に腰掛けて、といいたいところですが既に椅子はふさがってるので恐縮ですがそのへんに突っ立っていてください」
 南の隠者ことホセと、
 「お前まで何の用だよ。ベッドから動けずにこいつらのおもちゃになってる俺笑いにきたのか」
 ベッドに上体を起こして不機嫌なロンと、
 「………」
 鍵屋崎。
 「つーかこれみんなロンの見舞い客?大人気じゃん」
 しかもうち二人は南と西のトップだ。東棟じゃ嫌われ者で肩身狭い思いしてる半々も南と西のトップに目をかけられてるのは心強い。VIP二人を交え、ロンのベッドの周囲は盛り上がっていた。ベッドの周辺の床には乱雑に漫画が積み上げられて足の踏み場もないほどだ。これ全部ヨンイルが持ちこんだ本だろう。
 「なるほど、出張ってそういう意味」
 「入院中でベッドにしばりつけられとるコイツのために大量の漫画持ちこんだんや。ちょっとばかしちらかっとるけど医師も大目に見てくれるやろ」
 「吾輩もロンくんのコーチとして怪我の具合が心配で、こうしてたびたび様子を見にきてるんです。で、どうですかロンくん骨折の具合は。昨晩の一件で傷口がまた開いたのではないかと吾輩どきどきひやひやして」
 「奇跡的に生きてる」
 ロンの返事はつれない。膝の上に広げた漫画から顔も上げずホセに答えるが、よく見ればその足首や手首には真新しい包帯が巻かれていた。昨晩タジマに襲われて傷口がまた開いたせいだろう。ベッドのパイプに背中を凭せて漫画のページをめくりながら、ついとロンが視線を滑らす。
 「鍵屋崎、こいつらどっか連れてってくれ。うるさくて迷惑だ」
 「なんてことぬかすんやお前、俺が全二百冊の漫画医務室に持ちこむのにどんだけ苦労したと」「ロンくん薄情ですよ、吾輩コーチとして君のリング復帰を心より願いこうして足を運んでいるのに」とヨンイルとホセが口々に抗議するのを無視し、うんざりと鍵屋崎に懇願するロン。
 その膝の上に、一冊の本がおかれる。
 「?」
 膝の上から漫画をどかし、あらたにおかれた本へと目を落とすロン。ロンの膝の上に本を置いたのは、それまで沈黙を守っていた鍵屋崎だ。
 「なんだこれ」
 「退屈してるだろうと思って本を持ってきてやった。漫画ばかり読んでいると知力が低下する、これは僕おすすめの哲学書だ。未完の名著、ハイデガーの『存在と時間』。当初構想された3分の1しか書かれていないが内容は厚くなかなか斬新な視点が提示されている。何故ハイデガーは挫折したのか、これより先の空白部分には何が書かれる予定だったのか想像するのも一興……」
 「謝謝、要らない」
 「特別に貸してやる。感謝しろ」
 「気持ちだけもらっとく」
 「本体も受け取れ」
 「要らねえ」
 「漫画ばかり読んでると馬鹿になるぞ。たまには難解な哲学書を読んで知的好奇心を充足させ学究意欲向上をはかったらどうだ?知識と教養を脳に詰めこむだけ詰めこんでおけば社会にでたとき役に立つぞ」
 どうやら鍵屋崎は、運動を制限され暇を持て余したロンのためにおすすめの一冊を貸そうとしてるらしい。それも表紙めくっただけで眠くなりそうな難解な哲学書。ロンはいい迷惑だ。しばらく鍵屋崎と要る要らないと押し問答していたが遂に堪忍袋の緒が切れ、両手に抱いた本をあらぬ方向に投げ飛ばす。
 「字のある本読むと眠くなる体質なんだよ俺は!」
 「ロンくん、折角のご好意を無駄にするのは感心しません。借りた本には目を通すのが礼儀、届いたラブレターには返事を書くのが礼儀というのが吾輩とワイフの見解の一致。たとえどんなにつまらなくとも難解でも眠い目擦って全ページ読破して、最低二百字以内で感想を伝えるのが人として正しい在り方かと」 
 「こんな本よか寄生獣がよっぽど哲学してるけどなー」と、本をキャッチしたヨンイルがけらけら笑う。その手から本を奪い返し、有無を言わさぬ笑顔でロンへと押しつけるホセ。ホセの笑顔には問答無用の迫力があって、ロンもつい気圧されて両手で受け取ってしまった。押しに弱いヤツだ。
 「図書室から借りた本だから大事に扱え。間違ってもヨダレの染みなんかつけるなよ」
 「図書室から借りた本ひとに貸すなよ」
 ロンのつっこみには聞く耳もたず、用を終えた鍵屋崎がさっさと立ち去ろうとする。その背中にロンが「あ」と声をかける。カーテンを引き出ていきかけた鍵屋崎が、制止の声に反応して振り向く。ベッドに上体を起こしたロンがためらいがちに俯き、視線を揺らす。呼びとめはしたものの、続く言葉を口にしようかどうしようか逡巡してるらしい。
 一同の視線がロンへと集中する。
 パイプに背中を凭せ掛けたロンが、気まずげに呟く。
 「……その。レイジ、どうしてる?」
 鍵屋崎の目に複雑な色がよぎる。どう答えたものか一瞬躊躇し、そして鍵屋崎は真実を言う。
 「知らない。ここ最近レイジとは会ってない」 
 「え?会ってないってどういう、」
 「東棟で姿を見てないということだ。どこにいるのか見当もつかない。食堂にも姿を現さない、廊下を出歩いてるところも見ない、図書室にもいない。世に言う行方不明だな」
 淡々と告げる鍵屋崎に、無意識に毛布を掴んだロンが絶句する。無理もない。自分の見舞いにもこない薄情な王様が今どうしてるかと勇気を振り絞り聞いてみれば本人は行方不明だという。ここ数日、東棟の誰も姿を見てないという。続く言葉を喪失し、むなしく口を開閉するロンを痛ましげな面持ちで見つめる鍵屋崎。ヨンイルとホセもレイジの行方は知らないのか、お互い顔を見合わせている。 
 「行方不明って……だってあいつ、どこにいるんだよ。東棟のトップが行方不明とか、そんないい加減でいいのかよ。次のペア戦まで間がないのに、あと少しで100人抜きできる大事な時期に自分勝手に行方くらまして、アイツ何考えてんだよ!?」
 「大きな声をだすと怪我に響くぞ」
 鍵屋崎がひややかに指摘するが、ロンの激昂はおさまらない。何かをこらえるように唇を噛み締め、毛布を両手に握り締めて俯く。そんなロンの様子を直視するのに耐えかねたか、言い訳がましく付け加える。
 「……心配することはない。レイジは発情期の猫並に節操がなく神出鬼没な男だ、ふらりといなくなったかたと思えばふらりと姿を現すのが常だ。じきにまた戻ってくる、何事もなかったようにしれっとした顔をして君のもとを訪ねるに決まってる。僕が断言するんだ、間違いない。天才を信じろ」
 優しく残酷な嘘をつき、今度こそ本当に鍵屋崎が踵を返す。鍵屋崎は鍵屋崎なりにロンを励まそうと一生懸命なのだ。でも、レイジがロンを見捨てた事実は変わらない。入院中のロンを放り出して自分勝手に行方をくらました事実は変わらないのだ。ロンの横顔は固く強張り、噛み締めた唇からは血の気が失せていた。レイジにとって自分がどうでもいい存在だと思い知らされ、その事実の重さに打ちのめされた痛々しい横顔。
 「……体がちゃんと動けば、殴ってやりてえよ」 
 手のひらをこぶしに握り締め、ロンが吐き捨てる。レイジがどこにいるかもわからないのに、そのレイジを力一杯ぶん殴りたいと言うロンに背中を向け、鍵屋崎が外へ出る。鍵屋崎に続き、僕もカーテンを抜ける。  
 「用は済んだ。北棟へ行こう」
 鍵屋崎が事務的に言い、さすがの僕も眉をひそめる。
 「いいの?ほうっといて」
 「ロンのそばにいるべき人間は僕じゃない。これ以上医務室にいても無意味だ」
 「おっしゃるとおりで」
 おどけて首を竦めれば、すっぱり感傷を切り捨てた鍵屋崎が足早にドアへ向かう。もう背後を振り返りもしなかった、ロンが真の意味で必要としてるのは自分じゃないと痛いほどよくわかってしまったからそうするしかなかった。鍵屋崎の背中を追いかけて医務室をでる間際、カーテンの向こう側からロンの呟きが聞こえてきた。
 「レイジのやつ、どこ行ったんだよ」
 自分だってぼろぼろなのに、純粋にレイジを心配してるような切迫した声だった。

 中央棟からは東西南北各棟へ渡り廊下が接続されてる。
 東西南北四つの棟を直接つなぐ渡り廊下は抗争の激化に伴い封鎖されて久しいが、中央棟を経れば誰でも自由に棟と棟とを行き来できると、建前ではそういうことになっている。他棟への出入りは規則で禁じられてるわけでもなし、本来なら誰でも自由に好きな時に他棟へ足を踏み入れていいはずなのだ。 
 だが、東京プリズンの囚人はそれをしない。答えは簡単、単純に命が惜しいからだ。
 なんの後ろ盾もなく他棟へ足を踏み入れるのは自殺行為、それが東京プリズンの常識で暗黙の掟。他棟へ足を踏み入れたら最後五体満足で帰ってこられる保証がないというのが通説だ。
 「君はよく無事に帰ってこれたな。片腕くらいは失ってもおかしくないのに、」
 隣を歩く鍵屋崎がいぶかしむ。
 「そりゃサーシャが隣にいたからだよ。半年前までサーシャは僕の常連だった。僕はサーシャのお気に入りで、サーシャが自分の房でヤりたいって言うならはいそうですかってついてった。もちろん送り迎えは万全、北の連中が僕に手だししないようにサーシャとその手下が目を光らせてくれたから無事生きて帰ってこれたわけだけど」
 そこで言葉をきり、二の腕を抱くふりをする。
 「正直、探検気分で北棟に行くのはぞっとしないね。偉大なる皇帝のご加護がなけりゃ僕なんて北の連中に犯られて殺られてポイされてたよ。他棟のヤツってのはパッと見ただけでわかるのさ。知らない顔だな、見たことないやつがいるぞ、なんだか雰囲気がちがうぞ。そんだけで敵愾心むきだしにした連中がうじゃうじゃ寄ってきて、気付いたら後にも引けず前にも進めない絶体絶命のピンチ」
 鍵屋崎は素直に首肯しながら僕の話を聞いていた。今僕と鍵屋崎は中央棟から北へと繋がる渡り廊下を歩いてる。渡り廊下は荒廃していた。蛍光灯が割れてるせいで全体に薄暗く、コンクリート壁には陰惨な染みが浮き出てる。不気味な雰囲気が漂う渡り廊下を見まわし、ついでに北棟の特徴について説明する。 
 「東京プリズン入所からまだ半年っきゃたってない眼鏡くんに教えたげる。東京プリズンには東西南北四つの棟があり四人のトップがいる。その中のひとつが北棟、トップのサーシャはロシア出身の誇大妄想狂。完璧頭がイカレてて、自分のことを偉大なるロシア皇帝だと思いこんでるナイフの名人。性格は最も冷酷かつ残忍で、ブラックワーク覇者のレイジを敵視してる……って、これは当然知ってるね」
 「半年前に学習済みだ。説明の重複は時間の無駄だ」
 「うわむかつく。それはそうと北棟についてただけど、北の人間は大部分白人。白人といってもおもにロシア人。二十一世紀になって、経済破綻したロシアから北海道へ大量の人間が移り住んできたのは有名な話だよね。最初北海道に上陸したロシア人はそっから日本中へ広がってったわけだけど、北棟にいるのはほとんどその子孫のロシア系二世三世。だからまあ、ロシア人至上主義を唱えるサーシャの影響力は絶大なわけよ。北棟じゃ有色人種は人間扱いされてないね、実際」
 僕もくわしいこと知ってるわけじゃないけど、ロシア人至上主義のサーシャにしてみりゃ有色人種の血を引く人間なんて犬も同然だ。白人と黄色人種の混血のくせに自分を追い抜いてブラックワークトップに君臨してたレイジを目の敵にしてたのはそういうワケで、ラテンのノリで騒がしい南棟やざっくばらんな西棟と比べて北棟は殺伐としてる。
 「こんな噂もあるんだよ。北棟には拷問部屋があるって」
 「拷問部屋?」
 物騒な発言に関心を示した鍵屋崎にしてやったりと笑みを浮かべる。 
 「そ、拷問部屋。サーシャを侮辱したり、皇帝に不敬なことをやらかした囚人をサーシャが罰する部屋。リンチだか自殺だかで囚人が死んで空きができた房を利用してるみたいだけど、サーシャが思う存分ナイフで獲物をいたぶるために特別に誂えた部屋があるらしいって噂がまことしやかに流れてる」
 「実際に見たのか?偽証してるんじゃないだろうな」 
 「心外だね」
 鍵屋崎を騙してるのは本当だけど、これはかなり信憑性の高い噂だ。この噂が真実だとすれば、北棟の空気がやけに血生臭いのにも納得いく。そうこうしてたら渡り廊下の終点に辿り着いた。境界線を踏み越えればいよいよ北棟だ。やや緊張した面持ちの鍵屋崎の隣で深呼吸する。はは、足が震えてら。鍵屋崎をここまで導いてきた僕も完全には恐怖心を克服できてないらしい。
 床を蹴りつけ、足の震えをごまかし、あっさりと境界線をまたぐ。渡り廊下から北棟へと足を踏み入れた僕へ続き、鍵屋崎が慎重に歩を踏み出す。幸い昼間だから人けはなく、僕ら二人の足音だけがコンクリむきだしの殺風景な廊下に硬質に響く。目を閉じ、記憶の襞をさぐり、サーシャの房への道のりを反芻する。
 以前サーシャに案内されたとおりに右に左に角を曲がり、あるいは直進すれば、じきに見なれた光景が出現する。 
 「あそこだ」
 小さく呟く。
 僕の記憶力は正確だった。サーシャに連れてこられたのはかなり前だけど、ちゃんと道を覚えていた。
 コンクリむきだしの壁に等間隔に鉄扉が並んでいる。右側、いちばん手前がサーシャの房だ。トップの住居も外観は他の囚人の房と変わりない。サーシャは中にいるだろうか?
 「ここがサーシャの房か」
 案内してきた僕に礼も言わず、鍵屋崎がこぶしを掲げる。早速ノックして来意を告げるつもりか。僕がまだ心の準備も逃げる準備もできてないのに、大胆不敵というか馬鹿というか天才の思考回路にはついてけない。ちょっと待て、と叫ぼうとしたが遅かった。硬質なノックが廊下に響き、心臓が凍る。やばい、早いとこ物陰に隠れよう、サーシャに見つかるまえに避難しよう。
 そして僕は鍵屋崎を置き去りにし、廊下の角に隠れようとし。
 耳障りな軋り音をたて、ゆっくと鉄扉が開く。 
 「!」
 遅かった、間に合わなかった。不測の事態に直面し、頭が真っ白になり、心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。足は恐怖に凍りつき、顔は緊張に強張り、鍵屋崎の隣から一歩も動けない。冷静に落ち着き払った鍵屋崎の視線の先で徐徐に、徐徐に鉄扉が開いてゆく。
 「はいはいはーい?んだよ昼っぱらから、寝かせろよ」
 寝ぼけた声とともに扉が開くにつれ、鍵屋崎の顔に驚愕の波紋が広がる。サーシャにびびってるのか?違う、この表情はそうじゃない。サーシャに恐れをなしたというより、もっと別の……
 思いも寄らぬ場所で思いも寄らぬ人物に再会し、驚愕を通り越し、戦慄した人間の顔。
 「何故だ」
 心ここにあらずといった口調で鍵屋崎が呟く。やがて完全に扉が開ききり、内側のノブを握った人物の正体が暴かれる。その人物は、僕もよく知る人間。僕だけじゃない、東棟の人間なら知らないヤツなんて誰一人もいない男。
 そりゃ親殺しも驚くはずだ。
 北のトップの房にいたのが、東のトップだなんて。
 「何故君がここにいるんだ、レイジ」  
 サーシャの房の扉を開けたのは、上半身裸のレイジだった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051015025232 | 編集

 「はいはいはーい?んだよ昼っぱらから、寝かせろよ」
 禁断の扉を開けたのはレイジ。
 昼過ぎまで惰眠を貪っていたらしくぼんやりした顔で、半眼に下ろした瞼は重い。寝癖だらけの茶髪を手櫛で梳きながら、片手で扉を支え生あくびを噛み殺すレイジには阿片の煙のように退廃的な空気が纏わりついていた。
 サーシャとナニしてたか一目瞭然だ。
 「何故君がここにいるんだレイジ」
 鍵屋崎の表情は固かった。無理もない、サーシャの房の扉を叩いたらレイジがでてきたのだ。数日前から行方不明で、相棒の見舞いにも行かず、ペア戦続行の意志さえあやしい男が天敵サーシャの房に入り浸っていたのだ。
 驚愕に目を見開いた鍵屋崎を見下ろし、寝ぼけ顔で立ち尽くすレイジ。
 が、突然行動にでる。
 「!リョウ、押さえろっ」
 「は!?」
 間一髪、扉が閉まりきる前に片足突っ込んで阻止した鍵屋崎が肩越しに振り返る。鍵屋崎に応援を頼まれた僕は頭で考えるより早く外側のノブを掴んでおもいきり引っ張っていた。
 鍵屋崎に命令されて反射的に手足が動くなんて、不覚。
 足腰踏ん張り顔を赤くし力一杯ノブを引っ張れば、扉の内側と外側で力が拮抗し耳障りな軋り音が鳴る。レイジも僕とおなじようにノブを引っ張ってるらしい。
 「この期に及んで逃げ隠れするんじゃない、往生際が悪いぞ!」
 「うるせえなっ、俺はこれからひと眠りするんだよ寝かせろよ!」
 「もう十分睡眠をとっただろう!」
 「僕無視して話すすめないでよっ、とりあえず出て来い王様腕ちぎれる!」
 鍵屋崎は必死だ。片足をドアの隙間に突っ込み、片腕を無理矢理ねじこみ、房の内側に半身乗り出してレイジに呼びかける。鉄扉に挟まれた鍵屋崎を後ろから見るとかなり間抜けで笑えるが、今はそれどころじゃない。二人がかりで鉄扉を引っ張ってるのに内と外の力はほぼ互角で、レイジのヤツどんだけ握力強いんだよと疑問になる。ちびでやせっぽちの僕が脱臼しそうな勢いでノブを引っ張っても悔しいかな埒があかない。
 「この場で最も賢い選択は無条件降伏だ!君が潜伏する房は完全包囲されている、徹底抗戦する構えなら付き合うが二対一の持久戦に持ちこめば体力的にそちらが不利だ。僕がまだ温厚に説得する精神的余裕があるうちに出てきたほうが利口だぞ、わかったか、わかったなら出てこいこの低脳!」
 「完全包囲ってたった二名だろ!?」
 つっこむ余裕もない僕のかわりにレイジがつっこんでくれた。喧々囂々押し問答しながらノブの引っ張り合いを続けること五分、ふっとノブの抵抗が消失して扉が外側に開く。鍵屋崎の執念深さに辟易した、もとい熱意に負けたレイジが肩で息をしながら扉に寄りかかっていた。疲労困憊、憔悴した面持ちのレイジと対峙した鍵屋崎もまたレイジ以上に酷い顔色をしていた。左半身をねじこみ、体を張って扉が閉まるのを阻止した鍵屋崎に根負けしたか、レイジがため息まじりに両手を挙げる。
 「……しつけーな、負けたよ。はい降参です。これで満足かよ。で、何の用だ」
 呼吸を整えつつレイジを凝視する鍵屋崎、その目にあるのは困惑の色。鉄扉の閉まる音が鈍く響き、空気に伝染して鼓膜を震わせる。ふらりと廊下にさまよいでたレイジが、腕を組み鉄扉に背中を凭せ掛けた怠惰なポーズで鍵屋崎を見返す。
 レイジは平然と落ち着き払っていた。
 今ここに鍵屋崎がいることにも今ここに自分がいることにも何ひとつ疑問を感じないと飄々とした態度で、口元には人を食った笑みを浮かべて。
 「……レイジ、君は」
 肩で息をしながら鍵屋崎が口を開き、言葉を失う。言いたいことがたくさんありすぎて何から切り出せばいいのかわからない。どう切り出せばいいのかもわからない。普段さんざん威張り散らしてる自称天才のくせに肝心な時に言葉がでてこない矛盾に苦しみ、喘ぎ、鍵屋崎の顔が歪む。
 「行方不明になってからの数日、ずっとここにいたのか。北棟の、サーシャの房にいたのか」
 「ああ」
 レイジはさらりと答えた。良心の呵責とも罪悪感とも無縁のさっぱりした顔だった。そんなレイジと相対し、鍵屋崎の目つきが鋭くなる。
 「先日、入院中のロンがタジマに襲われた。知っていたか」
 鉄扉に寄りかかったレイジは欠伸を噛み殺すのに集中して鍵屋崎の話を聞いてないように見えたが、「知ってるよ」と一応頷いてみせた。
 退屈な話に付き合わされ、目をしばたたいて眠気をこらえてる顔。
 ロンのこととなれば目の色変えてた以前とは別人のようにそっけない態度。
 「ロンが襲われたことを知っていたんだな。何故助けにこなかったんだ」
 「馬鹿言えよ、俺はずっとサーシャの房にいたんだ。医務室とどんだけ離れてると思ってんだ、物音なんか聞こえねえよ。ロンが襲われたことは後から知ったんだ」
 「ロンが襲われたとき君はなにをしていた」
 「わざわざ聞かなくてもわかるだろ。それとも……言わせたいの?」
 レイジが悪戯っぽく流し目を送る。艶かしい目つきにぞくっとする。
 裸の胸にぶらさがった十字架を手繰りながら含み笑う。
 シャープな首筋に、形よい鎖骨に、程よく鍛えた胸板に、引き締まった脇腹に、しなやかな肢体の至る所に。
 サーシャに食まれ、啄ばまれ、噛まれた痕。
 生理的嫌悪に耐えかねたか、レイジの上半身から顔を背けて鍵屋崎が吐き捨てる。
 「つまり君はロンがタジマに犯されようとしてるまさにその瞬間、サーシャとの性行為に溺れてたんだな。快楽に溺れてそれどころじゃなかったと、ロンのことなどどうでもよかったと、そういうわけだな」
 「お楽しみ中断してまであいつ助けにいく義務ないだろ」
 胸の十字架をさぐり、口元には薄く笑みを浮かべ、レイジは冷淡な台詞を吐く。
 「……ロンは、ずっと君が見舞いにくるのを待ってたんだぞ」
 鍵屋崎が俯く。
 「ふーん」
 十字架の鎖を指に絡めながら愛想のない返事をする。
 「そりゃお生憎さま。ロンの見舞いなんかいかねえよ」
 「何故だ」
 「飽きたから」
 鍵屋崎に詰問され、胸元の十字架をまさぐりながら酷薄な笑みを返す。
 「ロンとはすっぱりさっぱり縁切ったんだ。俺たちはもうとっくに終わったの。ダチでも恋人でもない何の関係もない他人なワケ。何の関係もない赤の他人が怪我しようが襲われようがどうでもいいだろ、別に。俺さー、やっと気付いたんだ。誰か一人に操立てるなんて柄にもないことして馬っ鹿だよなあ。短い人生なんだし一人でも多くのヤツと一回でも多く遊んだほうが楽しいに決まってるのに、なんだかんだと駄々こねてヤらせてくれないガキなんかに熱上げて……懐きもしない猫振りむかそうって必死で、ひとり空回りして。
 あーやめやめ、ロンにかまうのやめ!あいつヤらせてくれないしつまんねーんだもん。どんだけ優しくしてやっても可愛げない態度ばっかとるし、ありがとうの一言もねえし……色々してやったの全部無駄、みたいな」
 「見返りが欲しかったのか」
 俯き加減に立ち尽くした鍵屋崎が、喉から声をしぼりだす。胸に穴が開いたように絶望的に暗い声。
 「見返りが欲しくて、今まで親切にしてたのか。監視塔にロンを助けにきたのも売春班に乗りこんでロンを助け出そうとしたのも動機はロンの体目当てで、君がロンによくしてたのはロンを抱きたいから、ただそれだけだの理由だったのか」 
 「そうだよ」
 鉄扉に凭れたレイジが微笑む。
 性悪な色男の笑み、あるいは人間を誘惑する悪魔の笑み。
 「それ以外に理由必要?俺はロンを抱きたかった、だからあいつに親切にしてた、それだけ。今じゃなんであんなにあいつにこわだってたのか自分でも不思議。ちょっとかわいいツラしてるしからかえば面白い反応するけど、それだけだもんな。冗談にすぐムキになるし、俺がやり返さないのいいことにすぐ手え上げるし、とんでもないはねっかえりで……はは。本当に、なんでロンなんかに夢中になってたんだろ。あんなガキに」
 あんなガキ。
 乾いた笑い声をあげるレイジの顔は見ず、鍵屋崎はずっと俯いていた。鍵屋崎とレイジの真ん中に所在なく立ち竦んだ僕は、対照的な様子の二人を見比べながらどうしようもない違和感を拭い去れなかった。

 『俺はロンを抱きたかった、だからあいつに親切にしてた、それだけ』
 レイジは下心があったんだろうか。
 僕にはそうは思えない。二人の関係はとてもそんなふうには見えなかった。ロンといる時のレイジは単純に楽しそうで、純粋に嬉しそうで、能天気にはしゃいで馬鹿みたいに騒いで周囲にうざがられて、でも本人はひどく幸せそうだった。
 少なくとも、ロンが来る前のレイジはあんなふうには笑えなかった。
 ロンと出会う前のレイジは、笑い方を知らなかった。
 ロンが来てロンと出会ってレイジは変わった、無防備に大口あけて、顔をくしゃくしゃにして、そりゃもう幸せそうに嬉しそうに、見てるこっちが憎らしくなるくらいあけっぴろげに笑えるようになった。
 美形を台無しにするくしゃくしゃの笑顔。
 生まれてから一度も本気で笑ったことのない暴君が、ロンの隣でだけは素の自分を晒しておもいっきり笑うことができた。偽物とか本物とか笑顔を区別することなく、何も考えず頭をからっぽにして、ただ笑いたいから笑うことができた。  
 今、僕の目の前にいるレイジは違う。
 まるで昔に戻ってしまったようだ。レイジはきっともう心の底から笑えない、ロンの隣にいた時みたいに笑うことは一生できないと確信を抱く。裸の胸にぶらさがった十字架を手慰みにまさぐり、指に鎖を絡めるあいだも、レイジの口元には薄く笑みが浮かんでいる。何か楽しいことがあって笑ってるわけじゃない、無意識に表面に浮上する笑みには何の意味もなく何の感情も伴わず、虚無を映した目は奈落のようで。

 無表情より何倍も冷たくよそよそしく見える、心の存在が疑わしくなる笑み。

 「手の傷は治ったみたいじゃないか」
 鍵屋崎の声でふと我に返る。顔を上げた鍵屋崎がじっと見つめていたのは、レイジの手の甲に薄く残る傷痕。半ば消えかけたひっかき傷。落ち着きなく十字架をまさぐっていたレイジが、鍵屋崎の指摘につられふと手元に目を落とす。瞬間、色素の薄い目に感情の波紋が生じる。
 かぶりを振り、前髪で目の色を隠す。
 五指に十字架を握り締めたレイジが、未練を断ち切るように顔を上げる。
 「傷が治れば、ロンと俺をつなぐものは何もなくなる。そうだろキーストア?俺はロンに何もくれてやらなかった、ロンは俺に何もくれなかった。『求めよ、されば与えん』。聖書の有名な言葉。でも、現実はそうじゃない。そう簡単にいけば誰も苦労しない。どんなに欲しがっても手に入らないもんってのはあるんだよ、実際」
 耳に心地よい涼やかな音を奏で、五指から金鎖が零れ落ちる。
 「求めよされば与えん、訊ねよされば見出さん、叩けよされば開かれん?
 全部嘘。聖書はインチキだ。あれに書いてるあるのはキレイ事だけ、鵜呑みにするのは狂信者だけ。現実は求めても与えられない、訊ねても見出せない、叩けば手が痛くなるだけ。どんなに叩いたって扉は開かない。ずっと闇、ただの闇。キーストア、天国の扉叩いたことある?笑えるぜ、天国の扉は鉄でできてるんだ。鋼鉄。分厚くて頑丈で叩いても押してもびくともしない、明かりなんか少しも射さない。
 爪を立てたら割れるだけ、剥がれるだけ」
 レイジは何を言ってるんだろう。
 何故だかぞっと二の腕が鳥肌立った。レイジの言ってることは意味不明だ。意味不明なのに、耳を塞ぎたくなるのはどうして?とんでもなくおぞましい告白を聞かされてる気分になるのは?僕の隣で鍵屋崎は言葉を失い凝然と立ち竦んでいた。顔からはすっかり血の気がひいて、体の脇で握り締めたこぶしは力の入れすぎで、指の関節が白くなっていた。
 「ロンは、君の友人じゃないのか」
 ようやく鍵屋崎が声を発した。ひどくかすれて聞き取りにくい声だった。一縷の希望に縋るように切羽詰った声音で問われ、レイジは虚を衝かれたように目をしばたたく。大股に一歩を踏み出し、毅然と顔を上げてレイジの眼前に立ち塞がる鍵屋崎。
 眼鏡越しの双眸には、耐え難い苦痛の色がある。
 「君たちは友人同士じゃなかったのか?危険を顧みず監視塔にロンを助けにきたのは、売春班の扉を蹴破ったのは、他の誰でもない君だろうレイジ。食堂で行儀悪くふざけあってたのは、僕が何度注意してもロンのトレイから好物を奪おうと意地汚い真似をするのをやめず手をひっぱたかれていたのは、ひっぱたかれてなお笑っていたのは、音痴な鼻歌をロンにからかわれてムキになっていたのは、ロンのために本まで借りて麻雀のルールを勉強したのは、いつもいつでもロンのために一生懸命になりふりかまわず、ロンと一緒にいたくて必死だったのは君だろう。君はいつでもロンに好かれたくて、ロンの前で笑っていたんだろう」
 気迫をこめ、必死な面持ちで詰め寄られ、レイジの口元から笑みが消える。
 「誤解するな、僕は貴様の笑顔が大嫌いだ。率直に言って反吐がでる。何ひとつ悩み事がなさそうな能天気な笑顔を見るたび絞め殺したくなった、聞くに耐えない音痴な鼻歌もそうだ、なんだあの音程が外れまくった鼻歌は!?一般に人間の耳に聞こえる周波数範囲は約20Hz~20kHzであると言われていて音の大きさをdBと言う単位で表し、その音波の圧力を音圧と称している。人間の聴覚は約0.0002μbar、即ち大気圧の50億分の1という極めて小さい圧力を聞く事ができ、これを音圧の基準値としているが君の鼻歌ははっきり言って規格外、鼓膜が拒絶反応を起こす!」
 「そこまで言うことねーだろ、音圧とか耳慣れない単語持ち出してさ……」
 音感のなさを酷評され、さすがに傷付いたレイジが情けない顔になる。
 そんなレイジを無視し、廊下中に反響する大声で鍵屋崎が叫ぶ。
 「でもロンは、そんな音痴な鼻歌じゃないと眠れないんだ!!」
 レイジがあ然とする。僕もあ然とした。あ然としてないのは鍵屋崎だけで、肩で息をしながら鉄扉の前に立ち竦んでいる。いつでも冷静沈着な天才が人が変わったように、今も医務室のベッドで寝てるロンのために、自分には何の関わりもない他人のために滑稽なまでに一生懸命になってる。
 「僕が反吐がでる笑顔が見たいと、音痴な鼻歌じゃないと眠れないと言うんだ。僕が見舞いに行ったときロンがなんて言ったかわかるか、鼻歌を唄ってくれと頼まれたんだ、いつも君のへたくそな鼻歌を聞かされてたから静か過ぎて落ち着かないと言い訳して……それがどういうことだかわかるかこの低脳。ロンは君がいなくて寂しいと言ってるんだ、口にはださなくてもそう言ってるんだ。目の表情で、顔色で、しぐさで、君が隣にいなくて寂しいと言ってるんだ」
 「でたらめだ」
 「僕の観察眼を甘く見るなよ、推理小説の濫読で磨いた洞察力を侮るなよ。ロンは単純な性格をしてるから彼が考えてることはひどくわかりやすい。自分だってぼろぼろなのに、凱との一戦で肋骨を骨折し全身十三箇所の打撲傷を負い他人を心配する余裕なんかないはずなのにそれでも君のことが心配でたまらないんだあの度し難いお人よしは!ロンは本当に馬鹿だ、救いようのない馬鹿だ。タジマに襲われたショックも冷めてないというのに、今日ここに来る前に医務室に寄ったらまた君のことを質問された。レイジはどうしてるかと訊ねられた」
 「しつこいんだよ」
 煩わしげに眉をひそめたレイジに、おさえにおさえこんだ激情が爆発する。至近距離に近付いた鍵屋崎が発作的にレイジの胸ぐらを掴む。
 「僕は君が大嫌いだ」
 レイジを吐息のかかる距離で凝視し、鍵屋崎が呟く。
 「だが、ロンは君が好きだ。君のように最低の人間のことが心配で心配でたまらないのがその証だ、自分が医務室で襲われていたときサーシャと快楽に溺れていた薄情な友人のことが心配でたまらず僕と顔をあわせるたびにくりかえし同じ事を聞くのがその証だ。ロンはおそらくこの世界で唯一、君の鼻歌を好む人間だ。君の鼻歌でなければ眠れないと不平を言う貴重かつ希少な人間だ。君の笑顔が、」
 耐えきれないように顔を伏せる。レイジは黙って鍵屋崎の言葉に耳を傾けていた。つまらない説教でも聞いてるように白けた顔で、口元には薄く笑みを浮かべて。
 でも、その目に純粋な悲哀が塗り篭められているように見えたのは錯覚か?
 「……君に裏切られて捨てられてもなおその笑顔を信じたいと、その笑顔が好きだと言える人間だ」
 ロンは今もベッドに上体を起こし、レイジを待ってる。
 医務室前の廊下に足音が響けば期待し、反射的に耳をそばだててしまう。医務室前の廊下に音痴な鼻歌が聞こえはしないかと、心の片隅で希望を抱き続けてる。
 「……ロンに会いに行け。命令だ。拒否権は認めない」
 レイジの胸ぐらを掴んだ指に力がこもる。僕の目には鍵屋崎が一方的にレイジに縋ってるように見えた。レイジは微笑んでいた。
 優しく残酷な微笑み。他人を傷付け、それ以上に自分自身を傷付ける諸刃の笑顔。
 「君はロンの友人だ。こんな場所にいるべき人間じゃない。今すぐロンに会いに行ってやれ」
 命令だと言いつつ、声には懇願の響きをこめ、無反応のレイジに畳みかける。鍵屋崎はちゃんとわかってる、今いちばんロンのそばにいなきゃいけない人間が誰かよくわかってる。だからこそレイジに取り縋るように、馬鹿の一つ覚えみたいに「ロンに会いに行け」とくりかえしているのだ。
 くどいほど、くりかえしているのだ。
 「ロンにはダチがいるじゃん」
 よわよわしく顔をもたげた鍵屋崎の目に映ったのはレイジの微笑。その笑顔があまりにやさしくて、毒気をぬかれたように指の力を抜く。慎重な、しかしきっぱりした手つきで鍵屋崎の指をもぎはなし、安心したようにレイジが笑う。
 「俺なんかよりもっと、ずっといいダチがいるじゃん」
 だから自分は必要ないんだ、とでも言いたげだった。
 「…………っ、」
 抵抗する気力も尽きたか、反論する威勢も萎えたか、鍵屋崎はもう何も言い返さなかった。
 「で?お前らなにしに北棟にきたんだよ。サーシャに用があるなら伝えとくぜ」
 「サーシャには僕が直接交渉する、君の協力は今後一切請わない」
 扉に片肘ついてよりかかったレイジの申し出を鍵屋崎がぴしゃりと拒絶する。レイジへの不信感をあらわにした頑なな態度で無理矢理に話題を変える。
 「サーシャはどこにいる?房の中にいるのか」
 「いや。今サーシャは、」
 「なにをしている」
 氷点下の声に心臓が凍る。
 不覚だった。鍵屋崎とレイジのやりとりに気を取られ、永久凍土の皇帝がすぐそこまで迫ってることにも気付かなかった。逃げ遅れた僕は、サーシャに見つかったらやばいと反射的に鍵屋崎の背中に隠れる。
 反対側の曲がり角から、威風堂々たる足取りでこちらへ歩いてきたのはサーシャ。湿った墓土の匂いのする骸骨めいて陰惨な風貌の北のトップ。一歩また一歩とサーシャが接近するにつれ、何か、液体が滴るような単調な旋律も近付いてくる。なんだろ?鍵屋崎の肩越しにひょこっと顔を覗かせ、音の正体を確認。
 ぎょっとした。
 サーシャが片手にさげたナイフからコンクリ床へと赤い血が滴っている。音の正体は、これだった。
 「おかえりサーシャ」
 鉄扉に凭れたレイジが意味ありげな笑みで皇帝を迎え、片手を挙げてみせる。当然鍵屋崎を意識してのことだ。サーシャとレイジを見比べながら、実際のところ僕はめちゃくちゃ焦っていた。
 まずいことになったぞ、早いとこ逃げないと。でもどこへ?サーシャはもうすぐそこまで来てる。より具体的に言えば鍵屋崎の背中からとびでたその瞬間に僕の頚動脈を掻ききれる距離。

 好奇心猫を殺す。
 好奇心に殺される猫は鍵屋崎じゃなくて、この僕だ。

 そして鍵屋崎の正面で立ち止まり、開口一番サーシャが発した言葉は。 
 「殺されにきたのか?」
 ……殺されにきたんじゃないです。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051014025431 | 編集

 廊下に立ち塞がったのは北のロシア皇帝サーシャ。
 東京プリズンで最も非友好的なトップ、重度の薬物依存症で誇大妄想狂の完璧異常者。 サーカス育ちの暗殺者で凄まじい冴えを見せるナイフの名手。サーシャを形容する言葉には事欠かない。冷酷、残忍、卑劣、悪辣、傲慢……およそありとあらゆる負の形容詞を並べ連ねてもその本質の邪悪さは表現しきれない。美しい銀髪に映えるアイスブルーの瞳は人を寄せ付けない氷点下の冷光を宿し、薬物の過剰摂取で灰褐色に乾燥した肌と妙にちぐはぐな印象を抱かせる。 
 そして、片手には血の滴るナイフ。たった今まで不幸な誰かの肌を切り裂いて血に染めていた証。
 「殺されにきたのか?」
 「違う。サーシャ、君に話があってきたんだ」
 顔色ひとつ変えず問われ、冷静な声音で返す鍵屋崎。物怖じしない態度でサーシャと対峙した鍵屋崎はやや緊張した面持ちをしていたが、鍵屋崎の背中に隠れた僕は正直今にもおしっこちびりそうなくらいびびってた。やばいよやばいよやばいよ、こんなの僕の計画に入ってない。北棟に鍵屋崎を案内したらとっとと逃げ帰る算段だったのに、思わぬ場所で思わぬ人物に出会った衝撃でついうっかり逃げ遅れてしまった。これも全部レイジのせいだと責任転嫁して王様を睨めば、鉄扉によりかかって腕を組んだレイジは謎めいた笑みを浮かべていた。
 だから他棟で長居なんてするもんじゃない。
 好奇心猫を殺す。鍵屋崎をはめるつもりが自分がピンチに陥ってどうする?自分の馬鹿さ加減にあきれ頭の悪さを呪う。パニックに陥って、鍵屋崎の背中にぴったりはりついた僕とサーシャの目が合う。
 一瞥で魂を殺せる氷点下の瞳に、殺意が結晶する。
 「これは珍しい。半年前に私の手を噛んだ無礼者の犬が、皇帝の住居に土足で踏み入るとは……お前はまだ懲りてないのか。そんなに私のナイフの餌食になりたいのか。いいだろう、そこへ跪け赤毛の裏切り者め。お前をナイフの錆にしてやる」 
 淡々と殺人予告をし、ナイフを横薙ぎに払うサーシャ。虚空を切ったナイフか血が飛び散り、鍵屋崎の足元に点々と染みを作る。僕を庇うように、いや違う、サーシャと冷静な話し合いを持つためには僕を視界に入れて逆上させるのは得策ではないと計算した鍵屋崎が慎重に立ち位置を移動する。この期に及んで文句は言えない、鍵屋崎じゃ盾には心もとないけど身を隠す役には立つ。鍵屋崎の肩に両手をのっけて首を竦め、サーシャの視線から顔を守る。そんな僕をよそに、鍵屋崎が口火をきる。
 「用があるのはリョウじゃない、この僕だ。人と話すときはちゃんと目を見ろ。皇帝は礼儀にうるさいと聞いたが、自分の行儀には無頓着なようだな」
 「なに?」
 サーシャを物怖じしない態度で叱りつけ、眼鏡の位置を直す。レイジは隅に退いて傍観者に徹していた。鍵屋崎とサーシャのやりとりに手はおろか口だしする気もないと表明する態度で、面白い見世物でも眺めるように二人を見比べてる。ため息をつき、鍵屋崎が顔を上げる。緊張に汗ばんだ手を開閉し、きちんと顔を上げてサーシャと向き合う鍵屋崎が一回り大きくなった気がした。 
 「僕が今日北棟を訊ねたのは君に話があるからだ。サーシャ、実は折り入って君に相談がある。話せば長くなるが僕は現在、副所長の安田に頼まれて彼の盗難品をさがしている。先々週のペア戦当日、人で混雑した地下停留場で安田は自らの不注意が原因で大事な所持品を紛失した。僕は僕自身の意志で、安田の盗難品さがしを請け負った。一日も早くそれを見つけ出さなければ副所長の地位も危うい、安田は遠からず東京プリズンを追われる羽目になる。なんとしてもその事態だけは防ぎたい」 
 「へえ、安田が落し物?初耳」
 レイジが独り言を呟く。几帳面な安田がらしくもない失態を演じたことを面白がってるような、愉快な響きの声音。そんなレイジを殺気走った目で睨みつけ、サーシャに向き直る。
 「その盗難品を東西南北どの棟の誰が持ってるかは現時点では特定できない状態だ。ヨンイルとホセの協力を得て現在西と南は捜索中、東棟でも聞きこみ調査を続けてる。残るはここ、北棟のみ」
 「だからどうした」
 「君に協力してほしい」
 鍵屋崎が毅然と切り出す。
 「正直東西南北すべての棟をひとりで探索するのは手に余る。一棟の収容人数は千を超え、さまざまな派閥ができている。北棟を探索するためにはトップの協力をとりつけるのが早い。それが最も効率を重視した賢明なやり方だ。北棟で絶大な権力とカリスマ性を誇る君が命令を下せば、北の囚人も従順に……」
 「この私に、偉大なる皇帝に庶民の遊戯に加われと?失せものさがしの愚劣な遊戯に付き合えと?誰に口を聞いているんだ、東の愚民が。身分の程をわきまえ即刻立ち去れ」
 必死の説得にもサーシャは耳を貸さない。片手に下げたナイフから血を滴らせ、冷ややかさを増した眼光で鍵屋崎をねめつける。だが鍵屋崎も負けてはいない。コンクリートの床を踏み、サーシャの眼光に気圧されぬようその場に留まり、しつこく食い下がる。 
 「君の協力が必要なんだ、サーシャ。東西南北の誰が盗難品を隠し持っているが僕にはわからない、何の手がかりも得られてないのが現状だ。もし北の囚人が犯人だとすれば、トップの協力なしに捜査を進めるのは無謀すぎる。君が命令を下せば、北の囚人は忠実な犬のように従うだろう。サーシャ、北における君の影響力は絶大だ。皇帝の一声で、北の囚人は房を改めさせてくれる」
 「お前の言うことは支離滅裂だ。第一、安田の盗難品とはなんだ?実態もわからぬ盗難品を私に捜させるつもりか」
 「それは……、」
 痛いところをつかれ、鍵屋崎がぐっと押し黙る。そりゃ盗難品が銃だなんて言えるわけない。六発弾丸が装填されていつでも人を殺す準備万端の凶器をなくしたことがサーシャにばれれば、瞬く間に噂が広がって安田は東京プリズンにいられなくなる。
 「……それは、今は言えない」
 「言えない?」
 サーシャが剣呑に目を細める。
 氷点下の殺気を身に纏ったサーシャが無造作に鍵屋崎に接近、腕を一閃。銀光を放つナイフが鍵屋崎の横顔に触れる。逃げる暇もない早業で頬にナイフを擬され、鍵屋崎の顔が強張る。
 「言えないとはどういうことだ愚民。皇帝と直接交渉に赴いておきながら肝心の正体については伏せる、そんな人を食った態度で話し合いが成立すると本気で思っているのか?反吐がでるほど自己中心的で楽観的な考え方だ、気に入らん。今この場で不敬罪に問うてもいいのだぞ」
 「……事情があるんだ」
 ナイフの冷たさが頬に染みるのか、硬質な鋼の感触に舌も縮むのか、鍵屋崎がたどたどしく反駁する。鋭利なナイフをつきつけられ、いつ銀光が翻り頚動脈を切り裂いてもおかしくない状況で表面上だけでも冷静さを保っていられるのだから大した度胸だ。たとえそれが虚勢だとしても。
 「……とにかく、大事な物なんだ。それがなければ困るんだ。見つからなければ一大事だ、重大な責任問題に発展する。のみならず、死傷者もでるかもしれない」
 喘ぎながら鍵屋崎が言い、サーシャがうろんげに眉をひそめる。その様子を鉄扉に凭れて見比べていたレイジが、あっさりとクイズの答えを口にする。
 「キーストア。安田のなくし物って、ひょっとして銃か」 
 レイジは馬鹿だ。鍵屋崎の虚勢が瞬間に吹き飛び、レイジ以外の全員が沈黙する。鍵屋崎の頑張りを台無しにしたレイジは、一同の注視を浴び、当惑する。
 「え?だって安田のなくし物で、見つからなけりゃ一大事の責任問題で死傷者がでるって、それ銃しか考えられないだろ。お前ヒントくれすぎ。もうちょっと出し惜しみしろよ、クイズにしても簡単すぎて張り合いねえ……」
 「誰がいつクイズをだしたんだ、だしてもないクイズに勝手に答えるんじゃない!!」
 鍵屋崎が激怒する気持ちはよくわかる。正解を口にしたレイジにしても悪気はなかったんだろう、すさまじい剣幕で怒鳴られて「え?え?俺なんか悪いことした?」と腕組みほどいてたじろいでる。きょろきょろあたりを見まわして動揺するレイジから鍵屋崎へと視線を転じ、サーシャが低く呟く。
 「……なるほど、銃か。たしかに、人には口外できないなくし物だ。東京プリズンではとくに」
 サーシャの独白に生唾を嚥下する鍵屋崎。肩にかけた手から緊張が伝わってくる。鍵屋崎の背中に隠れた僕は、上目遣いにサーシャの表情をさぐる。人の顔色を窺うのは得意だ。僕は外でもここでもずっと人の顔色を窺って生きてきたから、目の表情だけでサーシャが何を考えてるのかわかる。
 疑心から理解へ、そして策謀へ。
 何かよからぬことを閃いたらしいサーシャが、ゆっくりと緩慢な動作で片手をおろし、鍵屋崎の頬からナイフをどかす。頬からナイフの重圧が取り除かれ、鍵屋崎が安堵の吐息をもらす。
 が、それも束の間。薄い唇が割れ、爬虫類めいて残忍な笑みを刻んだのは危険な兆候。人をいたぶることにかけて天才的な才能を発揮する、真性のサディストの笑顔。
 低温の笑みを口元に漂わせたサーシャがナイフを掌中で回転させ、意味ありげな目つきで鍵屋崎とレイジとを見比べる。
 よからぬことを思いついた蛇の笑顔。
 「……安田がどうなろうが知ったことではない」
 上半身裸で鉄扉に凭れたレイジと廊下に佇んだ鍵屋崎とを視線で行き来しながら、うっそりと呟く。
 その間も血にまみれたナイフを弄び、眼光を研ぐ。
 「あの男が身を滅ぼそうがどうなろうか知ったことか、私には関心がない。偉大なる皇帝は世俗の些事には一切関知せず玉座の高見から下々の悲喜劇を眺めるものだ。劣等人種の分際で気取った副所長が、銃を紛失した咎で吊るし上げられた挙句に東京プリズンを追われるならこれほど滑稽な劇もないな」
 「……っ、」
 失職の危機に直面した安田の現状を嘲られ、今も銃さがしに必死になってる自分を蔑まれる屈辱に顔が歪む。悔しげに唇を噛み締め、自制心を総動員し怒りをこらえた鍵屋崎と対峙したサーシャは笑っていた。そのプライドの高さから屈辱に歪んだ顔を覗かれるのをよしとせず、強情に俯いた鍵屋崎を無遠慮な視線で嬲り、嗜虐心を満たした皇帝が提案する。
 「だが、皇帝は寛容だ。私と直接交渉すべく後ろ盾もなく北棟に乗りこんだ無謀ともいえる行為、蛮勇紙一重の愚行、その勇気に免じて今回は特別に頼みを聞いてやる」
 マジで?
 耳を疑った。ついでにサーシャの正気も疑った。
 鍵屋崎を案内してきてなんだけど、予想外の展開だ。驚愕を通り越した放心状態で僕はあんぐり口を開ける。鍵屋崎も驚きを禁じえず、眼鏡越しの目を見開いてサーシャを凝視してる。サーシャに「頼みを聞いてやる」と言われても単純に喜べないのは、その変わり身の早さを疑ってるかららしい。半年前、監視塔の一件でサーシャがいかに卑劣で残虐な男か鍵屋崎は身をもって学んだ。瞼の傷と引き換えに痛みを伴う教訓を得た。レイジに対する激烈な殺意と強烈な憎悪を糧に執念深く作戦を練り、手下を配置し、ロンを拉致し、レイジを王座から引きずり下ろすべく行動にでた。そんな男が、意外にもあっさりと、不自然すぎるくらいあっけなく鍵屋崎への協力を申し出たのだ。
 裏に絶対なにかある。
 「ただひとつ、条件がある」
 手のひらを返すように態度を変えたサーシャに不審を抱きつつも、一抹の期待をこめ、眼鏡越しの目を輝かせる鍵屋崎。そんな鍵屋崎とは対照的に、不吉な予感に胸高鳴る僕。
 「条件?」
 鸚鵡返しにくり返す鍵屋崎の耳元に口を近付け、囁く。
 「メガネくん、しっかりしなって。サーシャの条件なんてろくでもないことに決まってる、のせられたらまた痛い目見るよ」
 「君は黙っていろ、これはサーシャと僕の問題だ。サーシャの交渉相手は僕だ」
 聞こえよがしに舌打ちする。人が親切心からアドバイスしてやったのに何てヤツだ。サーシャへの不信感は拭い去れないが、銃の手がかりが何ひとつ掴めず、捜査が行き詰まった現状に追い詰められた鍵屋崎はサーシャの返答に一縷の望みを託している。溺れる者が藁をも掴む切迫した一念で、サーシャに切実に訴えかける。
 「その条件さえ飲めば、捜査に協力してくれるんだな。北棟をさがしてくれるんだな」
 「ああ」
 「条件とはなんだ」
 アイスブルーの瞳の魔力に魅入られ、熱に浮かされたように興奮した面持ちで畳みかける。人間の目を曇らせるのは絶望よりむしろ希望だ、と言った偉い人は誰だったっけ。冷静になりなよ親殺し、と上着の背中を引っ張っれば邪険に振り払われる。前言撤回、こいつ天才じゃなくてただの馬鹿だ。安田を救いたい一念でまわりが見えなくなってる。サーシャの雰囲気が変わったことにも廊下の気温が低下したことにもレイジの目が据わったことにも気付かず、愚直に思いつめた眼差しでサーシャに詰め寄る。
 「鍵屋崎、」
 我慢できずレイジが口を開く。ここ数日間サーシャと過ごした成果か、抜群の嗅覚が成せるわざか、サーシャの変化を敏感に感じ取ったレイジが鉄扉から背中を起こす。王様もお人よしだ。自分を言いたい放題罵った親殺しなんか放っときゃいいのにそれができない甘さが命取り。キーストアなんて変なあだ名じゃなく、鍵屋崎って呼んだのはそれだけレイジが真剣になってる証拠だってのに肝心の鍵屋崎はそれに気付きもしない。
 これは、本格的にやばい。
 胸の動機が速まり異常に喉が乾き、鍵屋崎の肩を掴んだ手が強張る。こんな展開予想してない、不測の事態だ。僕はただの案内役なのに、トラブルに巻き込まれちゃたまらない。今すぐ鍵屋崎を放り出して逃げるんだ、それが一番賢いやり方だ。頭じゃわかってるのに棒立ちに竦んで足が言うこと聞かない。 
 「簡単な条件だ」
 氷河の瞳をした皇帝が冷笑する。
 サーシャの笑顔を見た途端背筋に戦慄が走る。とても人間が浮かべてるとは思えない笑顔。レイジの笑顔が虚無の奈落なら、サーシャの笑顔は悪意の吹き溜まり。目にした者すべてをとりこみ破滅へ導く……
 カチャン、と軽い音がした。
 鍵屋崎の足元に投げられたのは一本のナイフ。全員の視線がそのナイフへと集中する。
 「……?」
 不審顔の鍵屋崎の後ろで、僕は悪夢が現実をむしばんでゆくさまをじっと見ていた。凝った模様を柄に施されたナイフは殺傷の武器というより高価な装飾品に見えたが、銀光を放つ刃は十分に鋭利で、悪戯に指をふれればざっくり切れそうだ。 
 カチャン。また軽い音がする。今度はレイジの足元で。
 レイジの足元に投げられたのはもう一本のナイフ。鍵屋崎に投げ与えられた物とおなじ、柄に凝った紋様のある値の張りそうなナイフ。大振りの刃の先端は鋭利に尖っている。
 『条件は簡単だ』 
 そう言ってサーシャは微笑み、レイジと鍵屋崎にナイフを一本ずつ投げ与えた。犬に餌を投げ与えて芸を仕込むような動作だった。サーシャの行動の真意が、僕にはすぐさまわかってしまった。サーシャのヤツ完璧いかれてる、完全に頭がおかしい。
 狂ってる。
 そして皇帝は、芝居がかった動作で腕を広げる。
 不審顔の鍵屋崎とレイジとを見比べ、この上なくこの上なく愉快げに声なき哄笑をあげ。

 「殺し合え」
 鍵屋崎とレイジに殺し合えと、サーシャは宣言した。
 それが条件だと、鍵屋崎に言った。  

 「…………な、」
 沈黙は長かった。
 さすがの鍵屋崎も狼狽を隠せない。顔色は青褪めていた。無理もない。ついこないだまで食堂で馬鹿やって騒ぎ合ってたレイジと、東京プリズン最強の称号を持つ男と、無敵な王様と殺しあえと強要されて心の準備ができるはずもない。ほらだから言ったじゃん、ろくでもないことに決まってるって。人の言うこと聞かないからだよ、なんていまさらぼやいても遅い。
 「なにを言ってるんだ。何故そんな意味もない、」
 「意味ならある。私が楽しいからだ」
 喘ぐように反駁した鍵屋崎にサーシャが微笑みかける。
 「私はナイフで人肌を切り裂くのが好きだ。血潮のぬくもりに愉悦を感じ鉄錆びた血臭に甘美に酔い痴れる。たった今も秘密の部屋で、北の人間を嬲ってきたところだ。昨日、食堂で私の足を踏んだ無礼者がいた。よりにもよって気高き皇帝の御足を踏みつけにした愚劣で愚鈍な男がいた。私はその男をさる房に監禁し、思う存分嬲ってきた。とてもとても楽しかった、最高だった。今もまだ耳には断末魔の悲鳴がこびりついている、今もまだ目には苦痛に歪む顔が焼きついてる」
 サーシャは正真正銘の異常者だ。僕らと会う直前まで拷問部屋に監禁した囚人を嬲っていたと、ナイフを体に這わせ肌を切り裂き性的興奮をおぼえていたと威風堂々明言してはばからない。サーシャのナイフをぬらしていたあの血は、ただ足を踏ん付けたという理由で拷問部屋に捕らえられ慰み者にされた不運な囚人のものだった。
 コンクリ床に穿たれた血痕を見下ろし、ぞっとする。
 拷問部屋に連れこまれた囚人がその後どうなったのか想像したくもない。
 おそらく、正気は保っていられないだろう。
 サーシャの提案を蹴れば、僕らもまた同じ運命にある。拷問部屋で断末魔の絶叫をあげた囚人とおなじ末路を辿ることになる。僕らはもう引き返せないところまで来てしまったのだ、と絶望的に確信する。
 重苦しく黙り込んだ僕をよそに、サーシャの演説は続く。
 狂気に恍惚とぬれた目をして、病的に殺げた頬に血の色を上らせ、大仰な身振り手振りをまじえて。
 「ナイフで肌を裂かれた人間の苦痛に満ち満ちた絶叫、灼熱の血潮と激痛に歪む顔。これほど素晴らしいものは世の中にない。そうは思わないか?私の高尚なる嗜好が凡百の愚民に理解されないのは無理からぬことだが、たまには趣向を変えてみるのもいいだろう。さあ、ナイフを手にとり戦え。思う存分殺し合え。私の渇望を満たしてくれ」
 「狂ってる。君がいるべき場所はおなじ檻の中でも刑務所じゃなく精神病院だ」
 「言いたいことはそれだけか」
 「くだらねえおふざけはやめようぜサーシャ。今ここでコイツと殺しあって、廊下を血に染めて何の得があるよ?壁と床と天井に前衛的なアートを描きだす気か。ピカソも真っ青だな」
 鍵屋崎が顔面蒼白で吐き捨て、レイジがやる気なさそうに肩を竦める。
 だが皇帝の意向は変わらない。
 廊下の真ん中に立ち竦んだ鍵屋崎と後ろに隠れた僕とをねめつけ、優位を誇示するように両手を開く。
 「愚民に選択権はない。生きて帰りたいなら命令に従え、実力で私の歓心を勝ち取れ。お前が勝てば条件を飲もうではないか、快く銃の捜索に協力しようではないか」
 鍵屋崎の目に逡巡の色が浮かぶ。 
 サーシャの手を借りれなければ、北棟の探索は絶望的。安田を救うためにはどうしてもサーシャの手を借りなければならない。廊下に立ったサーシャがレイジに流し目を送る。
 肌と肌を重ねすべてを貪欲に知り尽くした者同士にだけ通じる合図。
 もしくは飼い犬に芸を強制するような、有無を言わさぬ脅迫。 
 「お前も私の犬になったのだから、寝台での遊戯以外に芸を見せてみろ。それとも所詮犬は犬、淫売の血が流れる下賎な私生児には無理な注文か。監視塔で私を跪かせたナイフの冴えはどうした、たった半年で腕が鈍ってしまったのか?芸無しの犬だな。本当に使えない。そんな役立たずの犬は全裸で鎖に繋いで飼い殺しにすべきだな」
 『………fack.』
 舌打ちし、中腰に姿勢を屈め、レイジがナイフを手に取る。レイジとサーシャの間にははっきりした上下関係ができていた。今のレイジはサーシャに逆らえない。一度組み敷かれた王様は、皇帝に反逆できない。
 従順なレイジに満足げに目を細め、鍵屋崎へと向き直るサーシャ。
 鍵屋崎はまだ迷っていたが、目を閉じて心を落ち着かせ、その場に屈みこむ。迷いながらもナイフへと手をのばし、震える指で柄を握り締め、立ち上がる。
 「……わかった、条件をのむ。どのみちここから生きて帰るにはそれしか方法がない」
 指の震えをごまかすように強く強くナイフを握り締め、鍵屋崎が決断を下す。
 殺し合いのはじまりだ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051013025611 | 編集

 コロッセオは古代ローマ時代の建造物で、ローマ帝政期に造られた円形闘技場をさす。
 このコロッセオでは流血を伴う野蛮な見世物が催され、大衆の絶大なる支持を集めた。 剣闘士と呼ばれる戦闘奴隷同士を競わせまたは猛獣と戦わせ、どちらか一方が生き残るまで苛烈な戦いを繰り広げ、市民を熱狂させたのだ。

 そして今、狂気の皇帝の演出により、コロッセオの戦いが再現されようとしている。

 剣をナイフに持ち替えて対峙する僕とレイジ。だがここは階段状に客席を巡らせた豪壮な円形闘技場ではなくただの渡り廊下にすぎない。中央棟と北棟の狭間にある平行な空間。天井には等間隔に蛍光灯が設置されているが、大半は無残に割れ砕けて廊下にガラスの破片をばらまいている。北棟の治安も東棟に負けず劣らず悪いようで、殺風景なコンクリ壁は卑猥なスラングや稚拙な落描きに埋もれていた。
 戦場に佇む廃墟のように陰惨に寂れた渡り廊下の中央に立ち、ゆっくりと慎重にあたりを見まわす。渡り廊下の両側、左右平行の壁に沿って並んでいるのは大勢の囚人。物見高い野次馬は総勢三十名もいるだろうか、一般の囚人が強制労働に出払ってる時間帯にどこから湧いてでたのか疑問になる。
 「北棟の囚人は暇人なのか」
 緊張に汗ばんだ手にナイフを握り締め、呟く。
 「何故昼下がりの時間帯にこんなに多くの囚人が残っている、大半の囚人が強制労働で留守にしてる時刻に」
 「この者どもは私の忠実なる家臣だ」
 僕とレイジの中間、どちらからも等距離に位置する壁に背中を凭せたサーシャが満足げにあたりを睥睨する。サーシャの周囲に侍った囚人はいずれも白色人種、さかんに交わされる私語はロシア語だ。 
 「皇帝の身辺を警護するために、皇帝に娯楽を饗するために、私が常にそばに侍らせている忠実なる者どもだ。強制労働などという無粋な些事は当然免除されてしかるべし、看守には私が許可をとった」
 「君の独断で?」
 「とくと聞け、東の愚民よ」
 腕を組み壁に凭れた格好のサーシャが眼光の威圧を強める。
 「私は北のトップ、実力で頂点を極め絶大なる権力を掌握した北のロシア皇帝だ。その私が直々に看守にかけあい今ここにいる者どもの自由を勝ち取ってやったのだ」
 「サーシャ様には感謝してます」
 「すべてサーシャ様のおかげです」
 「サーシャ様は最高だ、素晴らしいお方だ、俺が今ここにこうしていられるのも全部サーシャ様のおかげです。偉大なる我らが皇帝が特別にとりはからってくれたからです」
 「熱砂の砂漠で汗水たらして穴堀りせずにすんだのは我らが皇帝の恩寵あってこそ」
 「業火の焼却炉に炙られて火傷を負わずにすんだのは我らが皇帝の慈悲あってこそ」
 「極寒の下水道で凍死する運命を免れたのは我らが皇帝の寵愛あってこそ」
 「すべてサーシャ様のおかげだ」
 「皇帝万歳!」
 「「皇帝万歳!」」
 熱に浮かされたようにひとりが呟けばまたひとり、またひとりと口々にサーシャを褒め称え始める。絢爛な美辞麗句で飾った称賛の言葉が、ざわめきからどよめきへ、そして鼓膜を震わす大合唱へと膨れ上がる。ツァー・ウーラ、ツァー・ウーラ……皇帝万歳、皇帝万歳とロシア語で合唱する囚人たちは皆サーシャに心酔しているらしく、新興宗教の集会を彷彿とさせる熱狂の面持ちで高々とこぶしを突き上げる。恍惚とぬれた目で、興奮に上気した頬で、陶酔した面持ちで、集団催眠にでもかかったような一糸乱れぬ統制ぶりでこぶしを掲げてサーシャを褒め称える囚人たちの様子に背筋が寒くなる。彼らは皆心からサーシャを崇拝し尊敬している。たとえサーシャにナイフで切り刻まれる羽目になっても本望だという目の狂熱は、カリスマ的指導者に扇動された民衆のそれだ。
 狂気は伝染する。
 完全なる狂人たるサーシャが支配する北棟には、狂気が蔓延っている。 
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 渡り廊下を揺るがす大合唱。皆が皆サーシャを囲み、これから催される出し物をたのしみにしている。僕に逃げ場はない。サーシャにナイフを渡され、レイジとの殺し合いを命じられたのはほんの数分前、ついさっきの出来事だというのに奇妙に現実感が希薄で悪い夢を見ているようだ。サーシャの家臣を名乗る連中に脇を固められ、わけもわからぬまま渡り廊下へと強制連行された。何故わざわざ場所を移したのか?サーシャに聞かずともわかる、目の前に明解な答えが提示されている。囚人の房が並んだ廊下より渡り廊下のほうが幅広く、観客を多く収容でき、殺し合いに適している。
 サーシャは僕らの殺し合いを、見世物にする気だ。
 サーシャの房から渡り廊下へと場所を移し、今再びレイジと向き合う。片手にナイフを握り締めたレイジは場違いにリラックスしたポーズで佇んでいた。緊張感などかけらもない顔で、口元には笑みを浮かべている。房の扉を開けたときは上半身裸だったが、今はちゃんと上着を身につけ、金の十字架をシャツの内側に隠している。対する僕は、予想外の事態に動転していた。
 『殺し合え』
 冷酷な声音でサーシャに命じられ、僕はナイフを拾い上げてしまった。あの時はそうするより他になかった。僕が殺し合いを拒めばサーシャは激怒する、そして僕はサーシャに殺されていた。皇帝は自分に逆らう者に容赦しない。僕に拒否権はない。生きて北棟をでるためにはサーシャの言うとおり戦うしかない。
 僕の相手はレイジ。東京プリズン最強の男、無敵無敗のブラックワーク覇者。
 「………」
 心臓の鼓動が高鳴り、腋の下に不快な汗が滲む。何故レイジと戦わなければいけないんだ?そんな理由どこにもないのに。サーシャの房を訪ね、レイジが応対にでたときは怒りに我を忘れた。レイジときたら上半身裸で、首筋に鎖骨に胸板に脇腹に、至るところに散った淫らな痣を隠しもせずに、あくびを噛み殺して僕の前にでてきたのだ。レイジが行方不明になってからずっと僕は気を揉んでいた。レイジの居場所がわからず焦燥を募らせ、もしロンにレイジの様子を聞かれたらなんて答えればよいかと深刻に悩んでいた。それなのにレイジときたらよりにもよってサーシャの房に、半年前に自分を本気で殺そうとした男のもとに入り浸り、倒錯した情事に耽っていたのだ。
 殴りたかった。
 おもいきり殴って目を覚まさせてやりたかった、レイジを殴るのは不可能だとわかっていたがそれでも怒りがおさまらなかった。レイジときたらロンがタジマに襲われた夜も、ロンの身の上に起きてることなど何も知らずにサーシャに抱かれて快楽に溺れていたのだ。ロンは肋骨を骨折して、全身十三箇所の打撲傷を負って、ベッドから動けずただでさえ心細い思いをしているというのにレイジがその間なにをしていたかといえば一度もロンの見舞いに行かずにサーシャとの情事に溺れていた。サーシャにはげしく抱かれて理性を散らされ、ロンのことなど頭からさっぱり消し去っていたのだ。
 ロンはずっと、レイジを待っていたのに。
 レイジの帰りを待ち続けていたのに。
 レイジが元気な顔を見せてくれる日を心待ちにして、今もベッドに上体を起こして廊下の物音に耳をそばだてているに違いないのに、レイジは「ロンの見舞いには行かない」と公言した。ロンなどもうどうでもいいと、懐かない猫には興味を失ったとあっさり言ってのけたのだ。
 だがしかし、レイジとの殺し合いなど僕は望んでいない。レイジがどう思ってるかはわからないが、少なくとも僕はレイジとの殺し合いなど望んでないのだ。
 「レイジ」
 今ならまだ間に合う、馬鹿げたことはやめるんだ。ナイフを捨て、冷静に話し合いをもつんだ。
 頭の片隅で理性が囁く。歓声がこだまする渡り廊下にて、対峙したレイジに声をかける。
 「一緒に東棟に帰るんだ」
 「やだ」
 レイジの返事はひどくあっさりしていた。
 「ロンの見舞いに行け。ロンは君のことを心配し、首を長くして帰りを待っている」
 「やだね」
 ナイフをもてあそびながら答えるレイジに苛立ちが募り、声を荒げる。
 「駄々をこねるんじゃない、子供か君は!?どうしてしまったんだ一体、君とロンの間になにがあったんだ?覚えているだろうレイジ、ついこのあいだのことだ。無駄に体力のありあまった君に無理矢理バスケットボールに付き合わされた」
 目を閉じれば思い出す。汗でぐっしょりぬれた上着が背中にはりついていた。外で寝転がるのは生まれて初めての体験だった。体は疲れていたが、不思議と気分爽快だった。青空が目に染みた。蒼穹は高く高く、どこまでも頭の上に広がっていた。乾燥した青。上着の背中を通して感じたコンクリートの熱さやざらついた質感が甦り、胸が絞め付けられる。
 あの時隣に寝転がったレイジは、笑っていた。
 運動して汗をかき、気持ち良さそうに笑っていた。
 上着の胸を上下させ、呼吸を整え、コンクリートの地面に大の字に手足を投げ出して、普通の少年みたいに笑っていたじゃないか。
 「レイジ、覚えているだろう。忘れたとは言わせない、君はあの時僕の隣に寝転がってこう言ったな。自分とロンは同じだ、ロンは初めて会った時に大事なことを教えてくれた。当たり前のことを当たり前に言ってくれた。だからロンが大事だと、すごく大事だと、笑顔でのろけていたじゃないか」
 つい数週間前のことが、何年も昔のことのように遠い。
 あの時僕の隣にいたレイジと今僕の目の前にいるレイジは本当に同一人物なのだろうか?別人であってくれたらどれだけ救われるか知れない。レイジは僕の言葉にも心動かされた様子なく、退屈そうにナイフをもてあそんでいた。口元に目を凝らせば、いつもの鼻歌を口ずさんでいた。 
 奇妙な果実。
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「レイジ、こちらを見ろ。顔を上げろ、僕の話を聞け。一体どうしてしまったんだ?数週間前とは別人だ。ロンとのあいだになにがあったかは知らない、僕に口出しする権利はないし義務もない。だが、」
 だがなんだ?言葉を続けようとして、慄然と立ち竦む。
 レイジはひとりぼっちで唄っている。
 なんて寂しい歌だ。
 渡り廊下にはこんなに人がいるのに、サーシャとその手下が今か今かと開幕の合図を待っているのに、レイジ一人別世界にいるかのようだ。救いがたく孤独で、近寄りがたく静謐で、周囲の大合唱とは無縁の歌声。甘くかすれた独特の響きの歌声は魅惑的で、郷愁が胸に染みて、何故だかロンの顔を思い出す。  
 今もベッドに上体を起こして、何日もやってこないレイジを待ち続ける横顔。

 『俺、ロン好きだよ』
 「あれは嘘なのか」

 『あいついいヤツだもん』 
 「ずっと、ロンを好きな演技をしていたのか」

 『お節介でお人よしで心配性で負けず嫌いで意地っ張りで、でも根っこじゃ本当にいいヤツなんだ』
 「ロンを抱くのだけが目的で、それ以外はどうでもよくて、上辺だけ親切に接していたのか。半年前危険を顧みず監視塔にきたのも、売春班の扉を蹴破ったのも、ペア戦100人抜きを宣言したのも……体目当てにロンの歓心を買いたくて、ただそれだけだったのか」
 「それだけだよ」
 レイジが薄く微笑む。
 「知ってたキーストア?俺すっげえ淫乱なんだ。男相手でも女相手でもセックスが大好きなの。気持ちいいことが大好きで、十歳のガキの頃から何人もと寝てきた。男も女も変態も相手には不自由しなくて一通りのセックスは試してみた、突っ込むのも突っ込まれるのもしゃぶるのもしゃぶらせるのもちょっとここでは言えねーようなことも……詳細は想像に任せるけどな」
 なにがおかしいのか、くっと喉を鳴らす。
 「ロンに手を出したのは遊びだよ。たった十三歳のガキが男ばっかの檻の中に放りこまれて、野郎どもがケツ掘りあってる環境に染まらずに……からかい甲斐あんだろ?すぐムキになるから面白いし、結構退屈しなかった。東京プリズンじゃ珍しくまともなヤツだから、俺みたいにどっか壊れてるヤツはちょっかいかけたくなるんだよ」
 こめかみを指さし、続ける。
 「俺がどんなにちょっかいかけてもなびかねえし、男になんか興味ねえの一点張り。面白かったぜ、あいつおちょくるのは。悪夢よけのおまじないって額にキスすりゃ殴り返してくるし、寝入りばな押し倒しゃ顔面に枕投げつける脊髄反射の過剰反応だ。育ちは悪ィけど擦れてないつか、根っこがホントまともなんだよな。ママのおっぱい恋しさに飛び起きる普通のガキだ」
 口元に意地悪い笑みが浮かぶ。
 ロンのことなど暇つぶしの玩具としか思ってない酷薄な笑み。
 「あいつがあんまりまともだから、めちゃくちゃにしてやりたかったんだよ」
 やめろ。それ以上聞きたくない。
 「押し倒して組み敷いてめちゃくちゃに感じさせてみたかったんだ。もうやめろ、やめてレイジって俺に泣いて頼むようになるまで躾てやりたかったんだ。わかるだろ?野良気取りの生意気な子猫を手懐けてみたかったんだ。ヤってヤってヤりまくって頭ん中俺のことだけでいっぱいにしてやりたかった、さんざ突っ込んでしゃぶらせて俺なしじゃ生きてけない体にしたかった」
 今僕の目の前にいる男はだれだ?
 気持ちが悪い、吐き気がする。眩暈に襲われてよろけた僕の視線の先では男が邪悪に笑っている、レイジの顔をした悪魔が笑っている。
 洗練された動作で片腕を掲げ、横薙ぎにナイフを一閃。銀の軌跡を描いてナイフが閃き、虚空を切り裂く。ナイフを扱うレイジの手つきは暗殺者のそれだった。あざやかな軌跡が虚空で交差し、腕が上下する風圧に前髪が舞いあがる。
 長く優雅な睫毛に縁取られた切れ長の双眸、色素の薄い瞳。 
 その目に宿るのは、人を見下す傲慢な色。

 「そういう遊びだよ」
 僕の目の前にいるのは、王様じゃない。
 暴君。

 「………そうか」
 レイジは昔に戻ってしまった。僕と出会う遥か前、ロンと出会う少し前、暴君と呼ばれていた時代に。深呼吸し、汗でぬれた手にナイフを構え直す。今のレイジは僕のよく知る王様じゃない、鼻歌まじりにサーシャの背中を切り刻んだ暴君だ。
 だが、逃げるわけにはいかない。
 ここで逃げたら、敗北を認めることになる。
 「レイジ。改めて言わせてもらうが、僕は君が大嫌いだ」
 「ありがとう。俺も嫌いだよ」
 「ならお互い遠慮なく殺し合えるな」
 「手加減しなくていいの?死ぬよ」
 レイジが小さく笑う。僕の心は奇妙に落ち着いていた。さっきまであれほどうるさかった心臓の音が静まり、集中力が高まり、周囲の喧騒が遠のいた。目を閉じれば、瞼の裏の暗闇にサムライの顔が浮かぶ。
 僕のことを心から心配する友人。
 僕を待つ、友人。
 こんな殺し合いは無意味だと頭の片隅に一握り残った理性が囁く。僕とレイジが殺し合う理由などどこにもない、と頭ではわかっている。そうまでしてサーシャの命令に従うなんて天才のプライドはどこへやった、鍵屋崎直?
 ……違う。
 ゆっくりと目を開け、まっすぐにレイジを見据える。
 「医務室へ行く気がないのはよくわかった。なら、医務室送りにすればいいだけだと気付いたんだ。そうすれば必然的にロンと顔を合わすことになるからな。どうだ、合理的結論だろう」
 サーシャの命令に従うのはプライドが許さないが、レイジから逃げるのはそれ以上の屈辱だ。 
 勝ち目のない戦いだとわかっている。へたしたら死ぬかもしれないと考えてもいる。だが、今ここから逃げ出したらレイジとロンは一生すれ違ったままだ。
 僕は知っている、今もロンがレイジを待ち続けていることを。
 時々ふと顔を上げ、ドアの方を振り返り、音痴な鼻歌が聞こえてこないかと耳を澄ましていることを。
 僕は知っている、青空の下で「ロンが本当に大事だ」とレイジが語ったことを。さっき僕が「ロンに会いに行け」と詰め寄った時、レイジが嬉しそうに笑ったことを。ロンに自分以外の友人ができたことを喜んで、思わず笑ってしまったことを。
 
 知っているのは僕だけだ。
 どうにかできるのは僕だけだ。

 「準備はできたか、二匹のサバーカ」
 氷点下の声が響く。壁から背中を起こしたサーシャが僕ら二人を見比べる。
 「上等だぜ、クレイジー・エンペラーがびっくり仰天して腰ぬかすとっときの芸を見せてやら」
 あざやかにナイフを回転させ、鋭利な切っ先をサーシャに擬すレイジ。
 不敵に宣戦布告したレイジに笑みを返し、尊大に腕を組んだサーシャが吐き捨てる。
 「ナイフをむける相手が違うぞ、馬鹿な犬め。次に不敬な真似をしたら白い粉をふりかけたナイフを舐めさせる。舌が切れないよう用心しろ、私のモノを舐めるよう丁寧にやれ。お前が本気をだせばありえない事態だが、万一負けた場合は罰を下す」
 「罰ってどんな」
 「聞きたいか?」
 『……I'm sorry My emperor.I do not hear it.』
 おどけて首を竦めたレイジから僕へと視線を移したサーシャが厳粛に首肯し、大股に歩み出る。僕とレイジの間に立ったサーシャがぐるりを睥睨すれば、それまでの喧騒が嘘のように囚人が大人しくなり、水を打ったように静まり返る。 
 サーシャが儀式めいた動作で片手を振り上げる。その手に握られていたのは一本のナイフ。渡り廊下に居合わせた全員が固唾を飲んで見守る中、頭上にナイフを捧げたサーシャが宣言。

 「さあ、存分に殺し合え二匹のサバーカよ。容赦も慈悲も無用だ、皇帝の名の下に互いの喉笛を噛み千切れ。皇帝の威光しろしめす闘技場にて血の雨降らす殺し合いを演じてみせろ。
 ここは監獄の廊下にあらず、煉獄の吊り橋なり。
 ここより先に光はなく、ここより先に希望はない。
 生きて北を脱するには実力行使あるのみ、その手のナイフで煉獄の炎を薙ぎ払い道を切りひらけ」

 サーシャが鋭く腕を一閃、銀の軌跡をひいたナイフが足元へと直下する。
 細腕に見合わぬ握力のなせる技か、コンクリ床を深々抉ったナイフに歓声が爆発する。
   
 『ЧРАААーーーーーーーーー!!!!!!』

 ロシア語の「万歳」が渡り廊下を揺るがすのと、僕が床を蹴るのは同時だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051012025732 | 編集

 「ツァー・ウーラ!」
 「ツァー・ウーラ!」
 「曲芸犬二匹の競い合い、じっくりたっぷり楽しませてもらうぜ!」
 廊下に集結した囚人が囂々と叫びたてる。彼らは血を渇望している、情け容赦ない殺し合いを期待している。耳も割れんばかりの歓声が渡り廊下を揺るがす中、サーシャが床にナイフを突き立てる。
 それを合図に、一散に駆け出す。
 床を蹴り加速し、一気に助走してレイジとの距離を縮める。策も何もなく突っ込んでいくのは無謀だという自覚があった。が、僕がナイフを片手にぶらさげたまま立ち尽くしていたらサーシャの不興を買い立場が悪くなるのは必至。今も背中にサーシャの視線を感じる。僕の一挙手一投足に目を光らせ、逃げれば即罰すると脅しをこめた氷点下の双眸。サーシャは狂人だ。サーシャの逆鱗にふれたら最後、僕はナイフで嬲り者にされ血祭りに上げられる。サーシャの命令に従う以外僕に生き残る術はない。
 生きて北を脱するためにはレイジに勝たなければならない、レイジを倒さなければならない。
 東京プリズン最強の称号をもつ無敵無敗のブラックワーク覇者、冷酷なる暴君。
 ペア戦のリング上で、続けざまに敵を屠っていたレイジを回想する。半年前には監視塔にたった一人で乗りこみ、数十人から成るサーシャの手下を一掃した。レイジは強い。怪物じみて、強い。正直レイジに勝てる気はしない、並外れた運動神経と磨き抜かれた格闘センスとが結合したレイジに少し本気をだして走れば息切れする虚弱な僕がかなうはずがない。
 でも、やるしかない。もう後には引き返せない。
 ロンは今も医務室のベッドでレイジを待っている。それをわからせるためにも、僕は全力を賭して戦わなければならない。ペア戦では僕は戦力外だ、サムライがどんなに傷付いて疲弊しても金網越しに指をくわえて見てるしかない立場だった。ロンは凱との一戦でぼろぼろになり全身十三箇所の打撲傷と肋骨を折る重傷を負ったが、試合に勝利して自らの成すべきことをちゃんとやり遂げた。
 なにもしてないのは僕だけだ。戦ってないのは僕だけだ。
 金網越しの安全圏に避難して漠然と試合を眺める日々には自己嫌悪が嵩む。僕もサムライやロンと同じように自らの身を危険に投じ、傷つき、ぼろぼろになり、そしてそんな自分を誇りたい。
 自己満足かもしれない、欺瞞かもしれない。でも僕は、これ以上逃げたくない。
 譲れない目的の為に、戦いたい。
 全速力で廊下を疾走し、レイジに肉薄する。視界の真ん中にレイジをおさめ、ナイフを握る手に力をこめる。右手に左手を被せ、両手で柄を握り締める。僕が本気をだしたところでレイジにかすり傷ひとつ負わせるのはむずかしい、だが足止めくらいには―

 『直、なにをする気だ』

 「!?―っ、」
 心臓が止まった。
 唐突に耳に甦るのは聞き慣れた声、人に命令するのに慣れた人間の声。教養深いバリトンがどこか傲慢に響き、掌中のナイフが汗ですべりそうになる。
 『なにをする気だ』
 『なにをしているの』
 不審げな男の声に訝しげな女の声が重なる。咎めるような声の響きに眩暈を起こし、ナイフを握る手が勝手に震えだす。これは……忘れるわけがない、両親の声だ。あの日あの時、自宅の書斎で僕に刺し殺された鍵屋崎優と由佳利の声だ。咄嗟の判断で恵からナイフを奪った僕は続けざまに両親を刺して致命傷を与えた、二人とも殆ど即死だった。だが僕に刺し殺される寸前まで、僕に刺し殺されるなど露ほども思っていなかった二人の声が今も耳にこびりついて離れない。
 僕は今、あの時とおなじ構え方で、あの時とおなじ格好でナイフを握り締めている。
 『おにいちゃんが死ねばよかったんだ』 
 やめろ、思い出すんじゃない、今は思い出すんじゃない!それどころじゃない、目の前の敵に集中しろ。相手はレイジだ、一瞬の油断が命取りだぞ。頭ではそうわかっている、でも体が言うことを聞かない。両親を刺し殺した僕の判断は間違っていたのか、恵の代わりに彼らを殺した僕の行為は間違っていたのか?
 だから恵は、
 「よう」
 眼前にレイジがいた。僕の隙につけこみ、頬すれすれをナイフで掠める。
 「くっ、」 
 「ボケッとしてんなよ親殺し。顔の横から歯茎が覗くぜ」
 殺気走った眼光と口元の笑みが不釣合いなレイジが耳元で囁き、素早くナイフを引き戻す。レイジは僕を親殺しと呼んだ、蔑称を吐き捨てた。初対面の時、「キーストア」なんて変なあだ名をつけられた。最初は抵抗を覚えたがそのうち馴染んでしまって、僕はレイジの呼びたいようにさせていた。
 あだ名を呼ぶのが気を許した証なら、今の僕はレイジにとってなんなんだ?
 「キーストア」からただの「親殺し」へと呼称が変わり、 
 「逃げてばっかじゃつまんねーぜ、観客へのサービス精神不足だ。反撃してみろよ、親殺し」
 僕はまた、僕だけの名前を呼んでくれる人間を失ったのか?
 「っ、」
 レイジの動きは異常に速く、動体視力も追いつかない。肉眼が残像をとらえる頃には僕の手足をナイフが掠め、四肢の薄皮を切り裂く鋭い痛みが生じている。長袖長ズボンの囚人服で肌が防護されているが気休めにすぎない、目にもとまらぬ速さで閃くナイフが手足を刺し貫くのは時間の問題だ。レイジの反射神経は並外れてる、いや反射神経だけではない。跳躍力、敏捷性、柔軟性……オールマイティに優れている。リングの外で見ているだけではわからなかったが実際一対一で戦ってみれば、レイジは人を殺す為だけに生まれ人を殺すために特別な訓練を受けた人間としか思えない。
 これは、現役の暗殺者だ。
 ぞっとした。
 レイジは人を殺すことに抵抗を覚えない人間だ、と確信する。より効率よく人を殺傷するためには何をすればいいか、どうやって接近しどうやって肉薄しどうやってとどめを刺せばいいか呼吸の自然さで心得ている。痛点が集中する人体部位はもちろん、筋肉を断ち切り動きをとめるにはどの程度の深さまでナイフで抉ればいいか、人を効率よく殺傷するためのありとあらゆる知識が経験則として身についているのだ。
 勝てるわけがない。
 「サムライがいなきゃなにもできねえか」
 緩慢に顔を上げる。片手でナイフをもてあそびながら失笑するレイジ。僕は逃げるだけで精一杯で、ナイフが手足を擦過するたび後退を余儀なくされる。  
 「いつもでかい口叩いてるくせに用心棒がぴったりついてなきゃなにもできねえんだな。つまんねえヤツ、がっかりだ」
 ため息まじりに嘆いたレイジの目が、鼠をいたぶる猫のように細まる。
 「で?サムライとは寝たのか」
 理性が蒸発した。
 陰険に目を細めたレイジが、片手でナイフをもてあそびながら嘲弄する。 
 「なんだ、まだか。サムライも意気地なしだな、とっととヤっちまえばいいのに……やせ我慢は体壊すぜ。なあ親殺し、お前だってまんざらじゃねーんだろ。売春班じゃ売れっ子だったんだ、奥手な男リードすんのはお手のもんだろ。俺も今は後悔してるよ、なんで無理矢理にでもロンヤッちまわなかったのかって。女も男もおんなじだよ、一度ヤッちまえばころりと態度変えて俺に懐いてくる。はは、可愛いよな。みんな俺の見た目に騙されてセックスのよさに溺れて、俺がどんだけイカレたヤツか見抜けないでやんの」
 「私は見ぬいていたぞ、お前の本性がどれほど淫らで卑しいか」
 うっそりと口を挟んだのは、壁に凭れて戦いを見物していたサーシャ。無表情に腕を組んだサーシャをちらりと一瞥し、レイジが笑みを浮かべる。発情期の豹のように獰猛な笑顔。片腕を横に薙ぎ払い、銀の軌跡で半弧を描く。早くも疲労困憊の僕を蔑むように見下し、レイジが舌なめずりする。
 「サムライがぐずぐずしてんなら、俺が横取りしちまうぜ」
 扇情的に唇を舐め上げるレイジから目がはなせない。汗ばんだ手にナイフを握り、慎重に体勢を立て直す。上着やズボンはあちこち裂けて素肌が覗いていた。よく目を凝らせば薄く皮膚が裂けて血が滲んでいた。たいした怪我じゃない、かすり傷だ。僕はまだ戦える、殺し合いは始まったばかりだ。
 本番はこれからだ。
 殺し合いはまだ序盤だ。レイジは僕を嬲るのをたのしんでいて、本気をだしていない。レイジが本気をだせば僕など開始五分以内に殺されていた。顎から滴り落ちた汗が点々と床に染みを作るのを見下ろし、手の甲で顔を拭う。
 レイジは汗ひとつかいてないというのに、この差はなんだ? 
 「僕はサムライと約束した」
 全身が熱い。血が燃え盛り、体が火照る。胸が苦しい。何故僕は北棟の渡り廊下にいるんだ、レイジと殺し合いを演じているんだという根源的な疑問が泡沫のように意識野に結んで弾ける。僕が必死にナイフを振り回してもサーシャとその手下が喜ぶだけだというのに……
 「約束したんだ」
 耳に響くのは大歓声、ツァー・ウーラ、ツァー・ウーラの連呼。ロシア語のスラングが喧しく飛び交い、僕とレイジに罵倒が浴びせられる。はやく殺し合いを再開しろ、ぐずぐずするな、はやく決着をつけろ。どうした殺し合いは、情け容赦ない殺し合いは、東の犬同士の殺し合いは……
 ヤポーニャ、サバーカという単語が時折まじる。壁際に居並ぶ囚人たちがこちらを指差し、下劣に笑い合っている。そんなに僕らの殺し合いが面白いか、一方的に嬲られる僕が面白いか?
 くだらない、とるにたらない連中だ。周囲の雑音に惑わされるな、自分の心音だけを聞け。不規則に脈打つ心臓の音が内耳に響き、頭が空白になり、潮が引くように雑音が遠のく。
 僕にはサムライがいる。
 サムライが僕の帰りを待っている。
 その当たり前の事実を自分の胸に確かめ、薄目を開ける。 
 「心配性の友人のもとへ、必ず無事に帰ってくると」
 負けるわけにはいかない、死ぬわけにはいかない。サムライとの約束が守れなくなる。
 僕は絶体絶命の窮地に立たされている。場所は北棟の渡り廊下で、目の前にはレイジがいて、周囲にはサーシャ率いる北の囚人がいる。全員敵だ。僕の味方は誰もいない。
 本当にそうか?
 僕の味方はいないのか?
 「自信過剰だな。今の状況よく見てみろ、お前絶体絶命のピンチじゃんかよ。服はあちこち切り裂かれて素肌が覗いて、そんな格好でサムライんとこ帰ったらナイフで脅されてレイプされましたって言ってるようなもんだ。いや……その前にサムライんとこに帰る気満々でいる神経疑うぜ」
 「楽勝だなんて思っていない。生憎僕はそこまで楽観的じゃないし、どちらかといえば性善説より性悪説を支持する人間だ。君と殺し合いをした場合、僕の勝率は限りなく低い。おそらく3%にも満たないな。こうして追い詰められて手も足もでないのがいい証拠じゃないか」
 「じゃあなんでそんな落ち着いてるんだよ」
 レイジが小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、芝居がかった動作で両手を開く。
 「よーく見まわしてみな、お前の味方なんて誰もいねえ。全員敵だ。ここは俺がトップを張ってた東棟じゃない、残忍かつ冷酷な皇帝サマが治める北棟だ。俺たちは殺し合いをしてるんだ、命がけの芸をさせられてるんだ」
 「だからどうした?」
 口元に不敵な笑みが浮かぶ。
 「……わっかんねーな。その自信と余裕の根拠はなんだよ」
 レイジがあきれ顔で肩を竦める。勝てる見込みも生きて帰れる保証もない、にもかかわらず冷静さを失わない僕が理解できずに戦意喪失したレイジと向き合い、足元へと目を落とす。視線の動きにつられ、レイジも下を向く。
 僕の足の下、遥か下にサムライがいる。今も下水道に潜り、僕の無事を祈り続ける男が。
 僕を信頼して送り出してくれた男が、いつも心配してくれる友人が。
 「友人がいるからだ」
 そうだ、僕には大切な友人がいる。レイジが相手でも負ける気がしない。
 手にしたナイフの存在も忘れ去り、呆然と立ち尽くしたレイジへとゆっくり向き直る。
 「君が捨てた大事なものを、まだ持っているからだ」
 ナイフを持ったのとは逆の手を胸におく。昨日、サムライがそうしたように。
 「ここに」
 今ここにいないサムライの存在を、はっきりと隣に感じる。
 サムライの存在を身近に感じることができる限り、レイジにだって負ける気がしない。
 「………はは、はははは」
 虚勢じみた乾いた哄笑をあげるレイジ。と、その手首がおもむろに跳ねあがり、無造作にナイフを投げ上げる。直上に投げ上げたナイフを逆の手でキャッチし、また元の手へと返す。 
 「ははははははははははははははっ!
  笑えるぜ親殺し、いつからそんな熱くなったんだよ気色悪ィ。俺が捨てた大事な物ってなんだよ、俺は最初から何ひとつだって持っちゃいないんだよ。いまさら失うもんなんかねえよ。『knocking on hevens door』?馬鹿言え、開くもんか。ないものねだりはもうやめだ、自分がむなしくなるだけだ」
 「開く」
 ナイフをもてあそぶのをやめたレイジがうろんげに顔を上げる。怪訝そうに眉をひそめたレイジをまっすぐ見つめる。
 「君が諦めてもロンは諦めない。手が痛くなるまで扉を叩き続ける。君の代わりに、君の分まで叩き続けている。何故だかわかるか」
 不審から困惑へと微妙に変化したレイジの表情をさぐりつつ、残酷な現実をつきつける。
 「『locking on hevens door』……かたくなに扉を閉ざしているのは他の誰でもなく君だ、レイジ」
 「さすが天才、英語の発音も完璧だ」
 ふざけて拍手するレイジに言葉を失う。
 「退屈だ。どうしたサバーカども、殺し合いを続けろ」  
 「OK」
 壁に凭れたサーシャが命令し、レイジが再びナイフを構える。レイジを説得するのは無理なのか?
 ……ならば戦いを続行するしかない。 
 勝ち目のない戦いに臨む決意を新たにした僕のもとへと、低姿勢で疾走するレイジ。僕の頭上へとナイフが振りかざされ、風圧で前髪が泳ぐ。間一髪後ろに退いてことなきをえたが、逃げ遅れた前髪が切断され髪の毛が宙に散った。一瞬の躊躇が命取り、0.3秒反応が遅ければ鼻をそぎ落とされていた。
 恐怖に立ち竦む暇もなく次が来る。床に片膝ついて僕の懐へもぐりこんだレイジが、ナイフを跳ね上げる。僕の下顎を切り裂くつもりだ。
 「!っあ、」
 ナイフで下顎ごと舌を貫かれる恐怖に腰が引け、結果的にそれが僕の命を救った。レイジの舌打ちが聞こえた。僕の腰が泳いだせいで手元が狂い、下顎を貫くはずの切っ先がずれ、眼鏡を弾き飛ばす。
 突如として視界がぼやけた。
 眼鏡が床に落下する音がどこかで聞こえた。眼鏡ー……眼鏡はどこだ?眼鏡がなければ何も見えない、攻撃をよけきれない!床に屈みこみ手探りで眼鏡をさがす僕の頭上に影が覆い被さり、
 押し倒された。
 「はなれろレイジっ、」
 獣のように僕の上体にのしかかっているのはレイジ。僕の肩に両手をかけ、体重をかけて押し倒す。背中に衝撃。盛りあがる歓声。レイジを上からどかそうと手を振りまわし抵抗すれば、手首ごと掴まれ顔の横に叩きつけられる。
 「っう、あ」
 手首の骨が粉砕されたような激痛に苦鳴がもれ、喉が仰け反る。片手で僕の右手を縫い止めたレイジが、顔に顔を近付ける。裸眼の視界が曇ってよく見えないが、睫毛と睫毛が縺れる距離にぼんやりレイジを確認する。床に仰向けに寝転がり無力にもがく僕の上、胴に馬乗りになったレイジが予想外の行動をとる。
 首筋を這う舌の感触。
 「なに、をしてるんだ……!?」
 「味見」
 熱い吐息が耳朶をくすぐる。わけがわからない。まさかこの大観衆の前で、渡り廊下で僕を犯すつもりか?レイジはそこまで狂っているのか?生理的嫌悪が爆発した僕は、レイジを振り落とそうと背中で床を這いずり喚き散らす。
 「即刻僕の上からどけレイジ、僕からはなれろ!気色の悪い真似をするんじゃない、ふざけるのもいい加減に……」
 ぐいと顎を掴まれ、強引に顔を反らされる。僕の顎に手をかけたレイジが、首筋にキスをする。
 「下にサムライがいるんだろ。下水道まで喘ぎ声が届くか試してやろうか?死ぬ気で泣き喚きゃ医務室には届くかもしれないぜ」
 「ロンに知られてもいいのか!?」
 ナイフを持ったのとは逆の手でレイジの顔を引き離しにかかりながら叫べば、失笑の気配が伝わる。 
 「ロンを羨ましがらせてやろうぜ」
 「見ろ。さかりのついたサバーカ二匹、埃まみれの床で縺れあい雄同士で快楽をむさぼっているぞ」
 「いいぞそこだ、ヤッちまえ!」
 「服を剥いで裸にして四つん這いに跪かせろ」
 「ナイフをケツの穴に突っ込んでひんひんよがらせてやれ」
 さかんに交わされる口笛、僕とレイジの絡みに欲情した囚人たちが床を踏み鳴らし騒ぎ立てる。喝采に沸く湧く渡り廊下、埃まみれの床で転げまわり縺れあううちに体力の限界が訪れる。僕の腕力ではレイジをどかせない、このままでは僕の負けだ。サムライとの約束も守れそうにない……
 「っ、あう」
 「感じてんのか?やらしい」
 ナイフを握る指から力が抜けてゆく。熱い唇が首筋を辿り頭に朦朧と霞がかかる。もう何も考えられない、考えたくない。僕の顔が周囲によく見えるよう顎に手をかけ上向かせたレイジが、普段髪に隠され人に見せることも触れられることもない耳の裏側を舐め……

 「バスケを思い出せ」

 え?
 その呟きが、快楽の波にさらわれかけた僕を現実に引き戻す。
 呟いたのはレイジだ。勝利の秘訣を囁くように僕に耳打ちし、上体を起こす。
 今だ。
 手首の拘束が緩んだの幸いに、ナイフを握る手に力をこめる。しなやかな五指を振りほどき、肘を跳ね起こす。服が破ける乾いた音、ギャラリーが息を呑む気配。レイジが僕の上からどいた。床に片膝つき素早く上体を起こし手探りで眼鏡をさがす……
 「メガネ行ったよ!」    
 「!」
 リョウの声だ。
 カチャン、と足元に何かがぶつかる。即座にそれを拾い上げかけ直せば視界が拭われたように明瞭になる。声がした方を振り向けば、野次馬の股の間をくぐりぬけたリョウがいた。ということは、床を滑らして僕に眼鏡を届けたのは彼か。
 悠長に推理してる時間はなかった。
 「ちっ、ドジっちまった。お前の体に夢中で油断してた」 
 正面にレイジがいた。上着の胸元が裂けているのは、僕のナイフが掠めたからだ。反省の色のない顔で笑いながら、レイジが宣言する。
 「まあいいや、お楽しみは後回しだ。そろそろ本気でいくぜ」
 レイジの動向をさぐりながら体勢を立て直す。優位を見せつけるつもりかギャラリーへのサービスか、両手にナイフを投げ渡しつつ僕へと近付いてくる。レイジの両手を見比べ、右から左へ左から右へとめまぐるしく移動するナイフに目を凝らす。極限まで集中力が高まり眉間が疼くが、それでもナイフから目を逸らさず、レイジの両手を見比べる。

 『バスケを思い出せ』
 右から左へと移動するボール。
 左から右へと移動するナイフ。

 ボールをナイフに持ち替えただけだ。そう自己暗示をかければあれほど騒がしかった心臓の鼓動が不思議と沈静化する。数週間前、バスケットボールをプレイしたことを思い出す。レイジと一対一でバスケットボールを奪い合った。レイジは僕が上達したと評価した。
 ボールをナイフに持ち替えただけだ、おそるるにたらない。
 レイジの素早さに動体視力が追いつかない?嘘だ、それは先入観に起因する思いこみだ。レイジの両手に目を凝らせばそれがわかる。今の僕にはレイジの一挙手一投足が把握できる、予め軌道が読める。
 恐怖に目を曇らすな、怯えるな。

 「行くぜ」
 レイジが床を蹴り加速し一気に接近、僕めがけてナイフを振り下ろす。今度は完全にかわすことができた。何日もレイジのお遊びに付き合い遂にはボールの奪取に成功したのだから自信を持て鍵屋崎直、お前は天才だ、一度学んだことを忘れるものか。
 レイジのお遊びに付き合わされ、僕の反射神経は鍛えられ、動体視力は磨かれた。
 「やるじゃんか、」
 バスケを思い出せ。
 レイジが腕を引く。引いたら次は、来る。腕を引くのは投げる合図、次の瞬間には頭を飛び越えたボールが逆の手へと移動する。
 「おなじ手は食わない」
 僕の読み通りレイジの右手首が跳ね上がり、頭上にナイフが舞う。敵の右手に集中すれば、左側に隙ができる。これとおなじ手でさんざんレイジに翻弄されたのだ、おなじ過ちはくりかえさない。
 レイジは確実に隙を狙う。
 左手のナイフをくりだし無防備な左脇腹を、
 「!!!」
 今だ。
 レイジがナイフをキャッチする直前、宙へとさしのべられたその左手を蹴る。レイジの手首がはげしくぶれ、掴みそこねたナイフが大きな放物線を描いて遠方に落下。
 武器をなくし、無防備に立ち尽くしたレイジの顔面めがけ掌中のナイフを振り下ろす―
 「上出来」
 レイジが嬉しげに笑った次の瞬間、僕の手首にまで血が飛び散った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051011025908 | 編集

 手首に血が散る。
 誰もが驚愕に目を見張る。
 東のトップ、東京プリズン最強の男、無敵無敗のブラックワーク覇者。
 レイジを飾る称号は枚挙に暇がない。レイジの強さは怪物じみていて、金網越しのリング上では誰もレイジに指一本触れることができずかすり傷ひとつ負わせることができず試合開始五分以内に倒されていた。
 そのレイジが、頬を切り裂かれた。
 僕の手により、傷を負わされた。
 僕が突き出したナイフが頬を切り裂き、血が飛んだ。人肌を切り裂く確かな手応えがあった、頬の皮膚が裂ける感触があった。レイジの片頬に赤い斜線が走り血の雫が盛りあがる。ぱっくり開いた傷口から溢れた血が顔の輪郭に沿い、顎から滴り落ちる。僕は自分がしたことに気が動転し、レイジの顎先から血が滴るさまを凝視していた。
 手首が痺れた。
 指は力を入れすぎて間接が白く強張っていた。ナイフを手前に引いて腕をさげおろすことも忘れていた。慄然と立ち竦んだ僕の眼前でレイジは相も変わらず笑っていた。横顔を朱に染めた凄惨な笑顔。
 と、ふざけたしぐさでレイジが両手を挙げ、肩を竦めた。
 「うわこっえー、降参」
 拍子抜けするほどあっけなく降参を表明したレイジに、観衆が不満を訴える。
 「ふざけんなよお前、東のトップがちょっと頬ぺた怪我したくらいで降参だあ!?」
 「東の人間だからって手加減しやがって、甘いんだよ王様!」
 「とっとと殺し合い再開しやがれ、スカした眼鏡切り刻んで俺たち楽しませてくれよ!」
 「それとも何か、王様ご自慢のキレイなツラに傷つけられたのがんなショックかよ。笑わせるぜ色男」
 金縛りがとけた観衆が喧々囂々騒ぎ出すのを冷めた目で睥睨し、レイジがへらへらと笑う。
 「お前ら、ちょっとはこっちの身にもなれっての。お望みどおりの流血の惨事だ、これ以上俺にどうしてほしいわけ。ナイフは手元にねえし俺は自慢のツラに大怪我して傷心だし、とてもじゃねえけど愉快な殺し合いなんか続けらんねえな。お前らと違ってデリケートにできてるんだよ俺は。外に肌の色目の色よりどりみどりの愛人待たせてるもんでね、俺の顔に一生消えない傷痕残ったら女どもが泣くだろ」
 肩の高さに両手を掲げたレイジが、意味ありげな目つきで僕を見る。僕の機転を誉めているような満足げな表情。その時気付いた、レイジがわざと隙を見せたのだと。観衆へのサービスで僕を押し倒すふりをして耳元で勝利の秘訣を囁き、僕に反撃する隙を与えたのだと。 
 レイジは僕を、生きて北から帰そうとしている。
 観衆の不興を買い罵倒を浴び、一人も味方のいない逆境に立ち尽くしてもなお笑顔を絶やさず道化役を演じ、自分の身を犠牲にしてまで僕を生還させようとしている。
 暴君が王様に戻った。
 「レイ、」
 「だからこのふざけたお遊戯はおしまいだ」  
 目配せで僕を黙らせたレイジが、ゆっくりと両手をおろしぐるりを見まわす。レイジと目が合った囚人から順に冷水を浴びせられたように黙り込む。
 「親殺しは生きて東に帰す。命令だ、俺の棟の人間に手を出すな」
 レイジの雰囲気が豹変する。
 口元の笑みが薄まるのに反比例し、威圧の眼光が強まる。  
 「手を出したヤツは殺す」
 頬の傷口から流れる血もそのままに、レイジが宣言する。笑みを含んだ口元から発せられた声は真剣そのもので、北の囚人が顔面蒼白になる。廊下の真ん中に立ち竦んだ僕の周囲で囚人が不穏にざわめき、レイジに注がれる視線が硬化する。北の人間の反感を煽る真似をしたレイジのもとへ、大股に歩み寄るのはサーシャ。恐慌をきたした家臣らがどよめく中、周囲の混乱をものともせずにレイジのもとへ歩を進める。
 「逃げようよメガネくん」
 背後に接近する人の気配。僕の背後へと忍び寄ったリョウが耳の裏側で囁く。
 「今がチャンスだよ、レイジがサーシャひきつけてるうちに全速力で渡り廊下抜けるんだ」
 「できない」
 「なんでだよ!?」
 「君ひとりで行け、僕は残る」
 上着の背中を引っ張り抗議するリョウを邪険に振りほどく。そうだ、僕にはまだやることがあると自分の心に確認する。レイジを北に残して逃げ帰るわけにはいかない、ロンは今も王様を待ってる。僕がレイジを連れ帰らなければ……鬱陶しくまとわりついてくるリョウを無視し、正面のレイジへ歩を進める。レイジは僕を殺すと見せかけて反撃の隙を与えてくれた、起死回生のアドバイスをくれた。大丈夫だ、レイジは変わってしまったわけじゃない。今ならまだやり直せる。
 レイジにはロンがいるのだから。
 「レ、」
 今一度レイジの名前を呼ぼうと口を開いたその瞬間だ。
 甲高く乾いた音が響き、レイジの顔が仰け反った。手加減なく、サーシャに顔を張り飛ばされたのだ。傷口の上から頬をぶたれ、僕の足元まで血が飛んだ。殷殷と天井に響き渡った音が消えるよりも早く、視界からレイジが消えた。サーシャに突き飛ばされ、背中から壁に激突したのだ。鈍い音、震動。レイジが壁に激突した衝撃が天井へと伝わり、蛍光灯がはげしく揺れた。はげしく上下する蛍光灯が埃を降らす中、壁に背中を預けたレイジの顎が手荒く掴まれる。
 「手を抜いたな」
 憎悪にかすれた声でサーシャが吐き捨てる。唇を引き歪め、血色の悪い顔に怒気を漲らせ、目を爛々と輝かせた凄まじい形相。アイスブルーの瞳に渦巻くのは狂気。壁に背中を凭せたレイジの顎を掴み、強引に顔を起こす。
 「抜いてねえよ」  
 「主人を謀る気か」
 顎を掴む力が増し、レイジの喉が仰け反る。壁に背中を預けたレイジが激痛に声もなく身悶えるさまを堪能し、サーシャが呟く。
 「以前言ったな、私以外の人間がお前の体に傷をつけるのは許さないと。覚えているかこの犬め。ペア戦が催された地下停留場の裏通路で、こうしてお前の顎を掴んで執拗に言い聞かせたろう。私以外の人間がお前の体に傷をつけることは許さない、指一本でもお前に触れること許さない、何人たりとも許さないと……それがどういうことだかわかるか、堕落した王よ」
 片手でレイジの顎を掴み、もう片方の手で前髪を毟る。顎に指が食いこむ激痛と前髪を毟られる激痛とに苛まれ、レイジがたまらず苦鳴をもらす。被虐の皺を眉間に刻んだ顔を見下ろしてサーシャが舌なめずりをする。   
 「どういうことだか教えてやろう、『体に傷ひとつつけず勝利しろ』ということだ」
 「無茶言うなって、無傷で殺し合いなんかできるかよ……」
 「無茶?無茶なものか、お前ならできたはずだ東の王よ。正義果つる極東の監獄で最強の称号を得たお前なら、こんな親殺しなど余裕で殺せたはずだ。体に傷ひとつつけることなく殺せたはずだ。違うか」
 息も絶え絶えに反駁したレイジに顔を近付け、サーシャが淡々と続ける。
 「こともあろうに、お前は皇帝の眼前で手を抜いたのだ。恐れ多くも主人を謀ろうとしたのだ。馬鹿な犬め。私が気付かないとでも思ったか、見逃すとでも思ったか?侮られたものだな。躾が足りなかったのか。いいだろう、今一度思い知らせてやる。皇帝に反逆した愚か者がどうなるかを」
 レイジを壁際におさえこんだ体勢からポケットをさぐり何かを取り出す。サーシャの手元に目を凝らす。サーシャが取り出したのはごく薄いセロハンを貼り合わせた透明な袋で白い粉末が入っていた。
 白い粉末。
 「あれは……、」
 隣のリョウが息を呑む。その顔色は青褪めていた。僕にも袋の中身が何か察しがついた。サーシャは重度の薬物依存症で覚せい剤が手放せず、常に持ち歩いていてもおかしくない。
 なにをする気だ?
 目の前の異常な光景を脳が拒絶してるのか、手足が硬直して一歩も動けない。サーシャは何をするつもりだ。僕とリョウ、その他の囚人が固唾を飲んで見守る中、サーシャが口で袋を破き、白い粉末を口に注ぎ込む。サーシャの顔の上で袋がひっくり返り、白い粉末が振り落とされる。僕はサーシャの口腔へと白い粉末が吸いこまれる光景をあ然として眺めていた。誰もの度肝を抜く奇行を演じたサーシャが、レイジへと向き直る。壁に背中を預けたレイジは片手で顎を掴まれ片手で前髪を毟られ苦しい体勢を強制され、今にも膝が崩れ落ちそうだった。膝で体重を支えるのもそろそろ限界だろうレイジの顔を覗きこみ、サーシャが笑う。
 背筋に戦慄が走った。
 「やめろ!!!」
 廊下に絶叫がこだまする。僕の声だ。瞬間金縛りがとけ、僕はサーシャのもとへ駆け出していた。いや、正しくは駆け出そうとしておなじく金縛りがとけた囚人に羽交い絞めにされた。背後から頑丈な腕に絡めとられ、「サーシャ様の邪魔をするな」「殺すぞ」と脅される。隣のリョウもおなじように羽交い絞めにされていた。
 「やめろ、レイジからはなれろサーシャ!君は完全に狂ってる、そんなことをして何の意味が……」
 羽交い絞めを振りほどこうと暴れるも、頑丈な腕はびくともしない。むなしく宙に手をさしのべた僕の視線の先、制止の声を無視したサーシャがレイジの顔に顔を被せ、唇を奪う。
 「!?っ、ぐ」
 窒息しそうに深い深いキス。壁を背にしたレイジが両手を振り上げて抵抗するが、サーシャに手首を掴まれる。顔の横に手首をおさえこまれ、完全に抵抗を封じられたレイジの喉が絶頂に達したように仰け反る。
 麻薬を溶かした唾液を、口腔を介して喉へと注ぎ込む。
 吐きだそうにも口で口をふさがれては不可能だ。麻薬の味のする唾液を嚥下したレイジの眉間に皺が寄り、口腔で溢れた唾液が透明な筋をひき顎からしたたる。快楽に溺れているようにも苦痛にもがいているようにも見える官能的な表情が劣情を刺激し、サーシャの行為がエスカレートする。いやがるレイジをおさえこみ、舌に舌を絡める。レイジの口腔を貪るさまが僕らによく見えるように角度をかえ扇情的に演出する。
 吐きそうだ。
 「やめろ、離れるんだサーシャ!頼む離れてくれ、もうやめてくれ、そんな姿を見せないでくれ」
 レイジのこんな姿見たくない、
 「レイジには大事な人間がいるんだ、今もレイジを待ち続けてる人間がいるんだ!レイジのことを心配してベッドに上体を起こしてる人間がいるんだ、廊下に鼻歌が聞こえないかと耳を澄まし続ける友人がいるんだ!頼む帰してやってくれ、もうレイジを解放してやってくれ。この数日間で気が済んだろう、満足したろう?もういいじゃないか、」
 もういいじゃないか。レイジもロンも十分傷付いた、たがいのことを思いやるばかりに自分がひどく傷付いてぼろぼろになって、本当に馬鹿な人間だ。
 「レイジをロンのところへ帰してやってくれ。ロンはぼろぼろなんだ、体も心もぼろぼろで今にも挫けてしまいそうなんだ。ベッドに体を起こしてるのも辛いんだ、レイジの鼻歌が聞こえなくてろくに寝つけないんだ。レイジのことが心配でたまらないんだ、ひとりが寂しいんだ」
 ロンだけじゃない、レイジだってそうだ。本当は寂しいくせに意地を張って虚勢を張って平気なふりをしている。
 ロンなんかどうでもいい?飽きた?興味が失せた?全部嘘だ。
 僕にはレイジがロンを悪く言うたびに、ロンなんかどうでもいいと吐き捨てるたびに、ロンが好きだと叫んでいるように聞こえた。ベッドに寝たきりのロンが目の色や表情やしぐさでレイジがいなくて寂しいと訴えていたように、レイジも目の色や表情やしぐさでロンがいなくて寂しいと言っているのだ。
 「レイジ、君は嘘をついている!僕にはわかる、推理小説の濫読で洞察力を磨いて観察眼を鍛えた僕には最初からお見通しだ!そんな下手な演技に騙されるものか。ロンが嫌いだと口先では言いながら心の底では全く反対のことを叫んでいるじゃないか、ロンが好きだと、今すぐロンのもとへとんでいきたい抱きしめたいと正直に叫んでいるじゃないか!」
 僕にはわかる、わかってしまう。レイジは笑いながら嘘をついてる。完璧な笑顔で僕らの目をくらまして本心をごまかしたつもりでいる。
 騙されるものか。
 「レイジ、君が笑えないなんて嘘だ!!君はロンの隣でいつも笑っていたじゃないか、あの笑顔が嘘だと言うならこの世に本当なんか何もない!ロンの隣ではあんなに幸せそうに笑っていたくせにいまさら嘘をつくな!君はもうとっくに笑えてるんだ、心の底から笑えているんだ!!」
 声をからして叫ぶ、レイジへ届けと叫ぶ。  
 レイジはなにも答えなかった。実際には答える余裕がなかったのだ。口を口でふさがれ息も満足にできず、充血した顔が蒼白に変色する。苦しいだろう、麻薬を溶かした唾液を喉の奥深くに注ぎ込まれているのだから。酸素不足の頭に僕の声が届いてるかはわからない、僕の声に耳傾ける余裕などないかもしれない。
 でも、叫ばずにはいられない。

 「君はちゃんと笑えるんだ!」

 むなしく絶叫が反響する。
 僕の視線の先でレイジとサーシャが離れ、口の端から唾液の糸がたれる。透明な糸で繋がれた二人を凝視、放心状態で立ち竦む。
 壁に背中を預けてずり落ちたレイジを傲然と見下ろし、サーシャが吐き捨てる。
 「あとで例の部屋に来い。罰を下す」
 例の部屋……拷問部屋。
 颯爽と背中を翻し、家臣を引き連れ渡り廊下を立ち去るサーシャ。僕を羽交い絞めにした囚人が慌てて後に続く。乱暴に突き飛ばされ、不安定な前傾姿勢をとった僕の眼前にサーシャの背中がある。
 「ちょっと待ちなよ皇帝サマ、例の約束は?」
 隣で飄々とした声がした。ひどい疲労を感じて顔を起こせばリョウがいた。頭の後ろで手を組み愛想笑いを浮かべ、無邪気にサーシャを呼びとめる。
 「約束だと」
 身のまわりに家臣を侍らせたサーシャが振り返る。リョウは笑顔を絶やさず続ける。
 「殺し合いに勝ったら銃さがしに協力してくれるって言ったっしょ。とぼけるのはなしだよ皇帝サマ、メガネくんは約束守ったんだ。君に命令されたとおり殺し合いしてぼろぼろになってレイジに勝利したんだから、お願いくらい聞いてあげたら」
 リョウが僕を庇うなんてどういう風の吹きまわしだ。
 困惑した僕の隣で、リョウは額に汗をかいていた。身のほど知らずにも皇帝を呼びとめたのだ、不敬な輩めとナイフで血祭りに上げられてもおかしくない。案の定サーシャの忠実なる下僕たちが「生意気な赤毛め!」「サーシャ様に無礼を働く気か!?」と逆上する。
 そんな彼らを制止したのは、意外にもサーシャ本人。
 「いいだろう」
 リョウから僕へと視線を移したサーシャが、恩着せがましく微笑む。
 「結果は不満だが、そこの親殺しはよく健闘した。曲芸犬としての功績を認め褒美をつかわそう。私の寛容さに感謝しろ、東の犬め」
 「心得ておりますラストエンペラー。素晴らしきサーシャ様、皇帝万歳、ツァー・ウーラ!」
 両手を頭上に掲げて飛び跳ねるリョウ。リョウの万歳三唱に見送られ、優雅に立ち去るサーシャ。渡り廊下を去る間際、壁に背中を預けて座りこんだレイジをちらりと一瞥する。
 この後どうやってレイジを嬲ろうかと愉快な想像を巡らす陰湿な目つき。
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「「ツァー・ウーラ!!」」
 「サーシャ様万歳、皇帝万歳!!」
 北の囚人がサーシャを取り囲み合唱する。家臣の称賛に酔い痴れたサーシャが満足げに微笑し、優雅に背中を翻す―
 
 その背中を見た途端、脳裏で閃光が弾けた。

 「!?ばっ、めがねく」
 足元に落ちたナイフを拾い上げ、腰だめに構える。背中を追いかけてくるリョウの声を無視し、床を蹴る。助走をつけ、サーシャとの距離を詰める。無防備な背中を晒したサーシャはすぐそこだ。僕の接近に気付いた北の囚人がヒステリックに叫び交わし、何人かが身を挺してサーシャを庇おうと両手を広げる。 
 視界の端をレイジの顔が過ぎる。
 驚いた顔で何かを叫んでいる。何を言ってるかは聞こえなかった。僕にはサーシャの背中しか見えていなかった。あと10メートル、5メートル……ゆっくりと振り向いたサーシャが僕を見咎めて大仰に目を見開く。 
 
 「直!!!!!」
 
 目を覚まさせたのは、名を呼ぶ友人の声だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051010030028 | 編集

 「直!!!」
 すべてが一瞬のうちに起きた。
 ナイフの切っ先が鈍り、肩越しに僕を見咎めたサーシャの表情が豹変。
 同時にサーシャの腕が半弧を描く。恐慌をきたした北の囚人が騒然と入り乱れる中、ナイフが僕の頚動脈へと―
 誰かに背後から抱きとめられた。片腕で僕を抱きすくめた人物が横ざまに身を投げ出す、その腕に抱かれた僕も床に横転。
 眼鏡がずれ、視界がぶれた。
 鈍い音、体に衝撃。
 僕の腰あたりに腕を回して床へと引きずり倒した人物の背中が視界を占める。
 精悍に引き締まった背中。端正な姿勢。
 一見細身に見えるが僕を抱きすくめた腕の力は強く、僕を床に引きずり倒した力はもっと強かった。
 腰に巻かれた腕から伝わってきたのは、決して僕を手放さないという固い決意。
 甲高く苛烈な音が散った。
 床に転倒した際に落としたナイフはそのまま捨て置き、眼鏡の位置を直し、上体を起こす。 
 眼前には驚くべき光景。
 サムライが、サーシャと対峙している。
 サムライの眉間の位置に水平に掲げられていたのは木刀。飴色の刀身が受け止めているのは鋭利なナイフ。さっきのあれは木刀とナイフが衝突する音だったのだ。
 木刀の背に切りこんだナイフ、その向こうにはサーシャがいた。
 僕が自分にナイフを向けたことに激怒し、ナイフを抜いたのだ。
 僕がサムライに抱擁され引きずり倒されるまで三秒もない。その短時間にサーシャはナイフをとりだし鞘を抜き放った。即断即決。サーシャは一瞬たりとも復讐を遅らせず殺戮をためらうこともなかった。サムライがもしこの場に現れなかったら僕は確実に頚動脈を切り裂かれていた。
 ぞっとした。
 僕が奇跡的に即死を免れたのはサムライが庇ってくれたからだ。
 「何故君がここに!?」
 疑問をそのまま声に出していた。
 頭が混乱している。都合のよい白昼夢でも見ているのか?強制労働終了時間までにはだいぶある、本来サムライがこんな場所にいるわけない。こんな場所……僕とレイジの殺し合いが行われた北と中央の渡り廊下。床には血痕が残っている。
 「強制労働はどうしたんだサムライ、今は下水道に潜ってるはずだ!」
 「さぼった」
 なんでもないことのようにさらりとサムライが言い、耳を疑った。
 「今さぼったと言ったのか?さぼったって……強制労働を!?」
 僕に背中を向けたサムライが憮然と呟く。
 「お前のことが心配で仕事が手につかなかった。おのれの心に嘘はつけん」
 心なしか言い訳がましく聞こえた。
 「馬鹿か君は、なにを考えてるんだ!?自分がしたことを胸に手をあててよく考えてみろ、強制労働をさぼったんだぞ!精勤の評価を台無しに、地道な努力を無に帰す真似をしたんだぞ!?まったく君という男は理解に苦しむ、昨晩僕は約束したじゃないか、子供じゃないんだからお守はいらない必ず無事に帰って来ると」
 「その結果がこれだ」
 サムライの顔が渋くなる。
 「昨晩お前と約束し、俺は今朝強制労働にでかけた。だが下水道に潜っても、いつもならするはずもない失敗の連続でひとときも気が休まらなかった。ボルトのネジ加減を誤り配管を壊し、顔面に水を浴びたりもした。コケで足を滑らし下水に転落もした。
 幸い水が少なく流れが穏やかだったから助かったが、下水道で尻餅をつくなど初めての体験だ。今日の俺は朝から注意力不足で失敗の連続で、なにをしていてもお前のことが頭から離れなかった。つい先刻、現場監督の看守に早退を申し出た。当然却下された、体調を悪くしたわけでもなく怪我をした様子もないのに早退は認められんとすげなく一蹴された。……いや、たとえ理由を告げたところで厳格な看守が許可するとは思えん。
 だから、殴り倒して逃げてきた」
 「殴り倒……」
 絶句した。まさかサムライがそんな真似を?冗談であってくれと願ったが、サムライの眼光は真剣極まりない。
 そして、真顔で続ける。
 「後悔はしてない、あのままあそこにいたら焦燥に焼き殺されていた。途中看守数人に制止されたが何とか無事突破した」
 「無事じゃないだろう全然!」
 今漸く気付いたがサムライの横顔には誰かに殴られたとおぼしき擦り傷ができていた。おそらく看守数人がかりで取り押さえられた痕跡だ。サムライの愚行を聞かされ眩暈をおぼえた。まさかこの男は、心配性の友人は、生真面目な武士は、僕を心配するあまり矢も盾もたまらず強制労働を抜け出してきたということか?
 混乱が冷めれれば、目の前の男に対しはげしい怒りが湧きあがる。
 「何故ここに来た、何故僕を助けにきた!?頼んでもいないのにお節介な男だ、たった三つの年齢差もないのに保護者気取りも大概にしろ!自分がしたことがわかっているのか君は、東京プリズンで強制労働をさぼるということがどんなことか、看守に逆らうということがどういうことか!明日から看守に睨まれ生きにくくなるぞ、今までどおりブルーワークで働けるかもわから……」
 「どうでもいい」
 糾弾をさえぎったのは沈着な声。頑健な背中にたゆたうはしずかな闘気。木刀を眉間に捧げ持ったサムライが断言する。
 「俺が今ここにいるのは信念に殉じるためだ。刃に賭けて信念を貫くこともできずになにが武士か、大事な者を守りぬくこともできぬぐらいなら切腹したほうがマシだ」
 「時代錯誤だ……」
 呆然と呟く。まったくこの男は救いがたい愚か者だ、僕もとんでもない男を友人に持ってしまったものだ。強制労働の途中放棄は重罪だ、東京プリズンでは看守の許可なく仕事をさぼった囚人には厳罰が与えられることになっている。過酷なイエローワークを耐え抜き、勤勉な仕事態度が認められ、レッドワークを飛び越してブルーワークへと特例の出世を成し遂げたサムライ。今回の一件で彼が失ったものは計り知れない。
 明日以降ブルーワークに復帰できる見込みはない。
 へたらしたら独居房送りになるかもしれない。
 サムライは甚大な犠牲を払ってまで、僕を、僕なんかを助けに来た。
 看守の信用を失うのも承知で、精勤の評価を損なうのも承知で、看守を殴り倒すなどという命取りにもなりかねない振るまいをして……
 「礼は言わない」
 礼を言う気分じゃない。
 僕は昨夜サムライに約束した、僕は無事帰るから心配するなと、僕のことは気にせず強制労働にでろと執拗に言い聞かせた。だがサムライは今ここにいる。僕はまたサムライの足を引っ張ってしまった、彼の評価を貶める遠因になった。たとえサムライに救われたのだとしても、サムライがここに現れなければ即死していたとしても、手のひらを返したように感謝するわけにはいかない。
 そんな卑劣な真似プライドが許さない。
 だが。
 「……礼は言わないが、実のところ君の声が聞けて安心した」
 それもまた、本音だった。
 サムライにあきれるより怒るより先に、サムライの声が聞けて安堵した。サムライに名前を呼ばれた瞬間、指から力が抜けナイフの軌道が狂った。心の奥底で僕はサムライを待ち続けていた。
 声が聞きたい、顔が見たい、手に触れたいと希求していた。
 今も医務室のベッドでロンがそうしているように。
 無意識な動作でサムライの上着の背中を掴む。さっきはサムライが僕を抱いた。決して手放さないと決意をこめ、しっかりと抱きすくめた。サムライの上着の背中を握り締める行為は無意味で、自分でも何故こんな不可解な行動をとったのか説明がつかなくて、でも不思議と手からぬくもりが伝わり安らいだ。
 サムライに守られているという確かな実感が、なによりも心強い。
 「四匹目のサバーカか。皇帝の領土を土足で踏み荒らすとは、東の犬は礼儀知らずの駄犬ばかりだな」
 その声が僕を現実に引き戻す。サムライの上着の背中を握り締め、ハッと顔を上げる。 木刀が軋り、微塵の木片が散る。
 力と力の拮抗、はげしい鍔迫り合い。サムライもサーシャも細腕には見合わぬ剛力の持ち主だ。床に片膝ついた体勢から頭上で木刀を支えるサムライと片腕の膂力でナイフを押しこむサーシャの間に殺気が交流する。
 「お前の顔には見覚えがあるぞ。レイジと組んでペア戦に出場した物好きだな」
 「いかにも」
 木刀が削れる音はひどく殺気立っていた。
 注射針の痕が目立つ腕に静脈を浮きあがらせたサーシャが、陰惨な笑みを刻む。
 「東の犬は色情狂ばかりだ。レイジが100人抜きを宣言した理由は同房の囚人を救うため、売春班を潰すため。噂ではお前も同じ目的で試合に挑んだそうではないか。お前の背に庇われているその囚人、眼鏡をかけた無表情な少年、地味で印象の薄い顔だちばかりのヤポーニャにしては上品かつ聡明な顔だちをしている。
 ずいぶんと毛並みのよさそうな犬だが、血統書付きか?」
 「なんだと」
 サムライの目が据わり、声が低まる。サムライの頭越しにサーシャと目が合う。
 氷点下の双眸には侮蔑の色、僕を人間と認めず徹底的に犬扱いして見下す目。
 「東が迎え入れた親殺しの噂は北にも届いたぞ。両親ともまじりけなしの日本人で家名をもっているなら即ちこの国では血統書つき……ははははははっ、笑えるな!
 闇のように不浄な黒髪と黄色い肌、一様に無個性で見分けのつかん風貌の黄色人種が血の優劣を競って何の意味がある!
 いいかよく聞け、この世界で最も賢く美しく気高い民族はロシア人だ。ロシア人こそ至高の人種だ、他はすべて不浄の血の流れる汚らわしい雑種だ。私が最も憎悪するのは」
 サーシャが壁際へ視線を流す。レイジは壁に背中を預けぐったりと座りこんでる。麻薬を溶かした唾液を喉に流しこまれ、無理矢理嚥下させられたのだ。強烈な快楽で頭が朦朧としているのか、四肢が弛緩して立てないのか、壁に背中を凭せて無造作に手足を投げ出したさまは、子供に乱暴されて壊れた人形のようだ。
 「そこの男のように、高貴なる白き民族の血と黄の肌の淫売の血とが不浄に混ざり合った出自卑しき私生児だ。
 しかもその男は淫売の私生児の分際で、薄汚れた髪と目と肌の雑種の分際で、こともあろうにこの私を見下しブラックワークの王座に君臨した!そればかりではない、卑しき雑種の分際で私の背中を切り刻み生涯消えない傷痕をつけた。
 私から奪い取ったナイフで鼻歌まじりに上着を切り裂き背中を切り刻み人生最大の屈辱を与えたのだ!!」
 サーシャが勝ち誇ったように口角をつりあげる。
 「だが、やつも今や私の犬だ。主人の言うことに忠実かつ従順な去勢された犬だ」
 犬。
 レイジが犬?
 木刀にナイフが切りこみ、上下で力が拮抗する。ナイフを押し返す力と木刀を押しこむ力とはほぼ互角、どちから一方が腕の力を緩めればその瞬間に勝負が決する。サムライの動揺を誘う魂胆か、いや、たんにレイジを罵倒するのが楽しいらしいサーシャが炯炯と眼光を強める。
 「お前ら東の犬どもの首領がどれだけ淫らな男か教えてやろうか。私に組み敷かれどれだけ淫らに喘いだか、両手でシーツを掻き毟り全身に薄らと汗をかきいやらしく上気した顔で私に挿入を懇願したか」
 「嘘だ!」
 やめろ聞きたくない、そんなことは知りたくない。耳を塞ぎたい衝動にかられて叫び返せば、演説を邪魔されたサーシャが不快げに目を細める。
 「嘘なのものか。東の王は私のもとに下った、今や主の命令に絶対服従の飼い犬だ。たまに反抗することがあれば拷問部屋の鎖に繋いで存分に調教し上下関係を叩き込む、それが北の流儀だ」
 「胸糞悪い流儀だな」
 サムライが吐き捨てる。木刀を両手で支えた体勢から身を捩り、背後の僕と壁際のレイジとを見比べる目には憂慮の色。自暴自棄のレイジを真摯にいたわる半面、サーシャのもとへ下ったことを嘆く悲痛な色。
 サムライも顔には出さないがずっとレイジのことを心配していた、レイジが消息を絶ったこの数日間というもの食堂では正面の空席が気になりろくに箸も進まなかった。
 そのレイジが北棟にいた。
 東の人間を犬扱いしてはばからない、最も冷酷なトップのもとに匿われていたのだ。
 驚愕・混乱・当惑・幻滅・憤怒……数日ぶりにレイジと対面した僕とおなじく、さまざまな感情が胸に渦巻いているのは想像に難くない。苦渋の面持ちで押し黙るサムライを傲然と見下し、優越感に酔ったサーシャが哄笑をあげる。
 「お前の背後に匿われている犬も私が飼ってやろうではないか。東京プリズンでは珍しく毛並みの良い犬だ、物覚えもよさそうで芸の仕込み甲斐がある。そうだ名案を閃いたぞ、レイジと一緒に拷問部屋の鎖に繋いで飼ってやる。一生飼い殺しにしてやる。
 主人に逆らえば鞭打つぞ、それでも懲りぬならナイフで肌を裂く。
 餌は犬食いだ。手鎖に縛られた体勢で上体を突っ伏し、みじめに残飯を貪り食え。手を使うのは認めん、犬の分際で人間の真似をし匙やフォークを使うなど滑稽きわまる」
 饒舌に妄想をしゃべりたてるサーシャが、驚くべき発言をする。
 「『元』東の王は命令に忠実だった。お前も見習え」
 にわかには信じられなかった。サーシャが冗談を言ってるのかとも疑ったが、もとから正気の沙汰でないサーシャが嘘をつくわけない。サーシャは以前にもレイジを拷問部屋に連れこんで虐待した。
 僕がまだ足を踏み入れたことのない禁断の部屋、北棟のどこかにひっそりと存在する血生臭い部屋。おそらく、レイジに幼少期の記憶を喚起させる悪臭と闇が淀んだ部屋。
 一度ならず二度までも、レイジをそこに閉じ込めるつもりか。
 ロンの声が届かない暗闇に幽閉するつもりか。
 認めない。
 「認めないぞ!」
 頭で考えるより先に体が動いた。劣勢になりはじめたサムライの横に片膝つき、両腕で木刀を支える。サムライの手に手を重ねるように木刀を握り締め、奥歯を食い縛り、渾身の力で押し返す。
 僕の行動に狼狽したのはサーシャだけではない、サムライもまた目を見張っていた。
 「僕は犬じゃない、鍵屋崎直だ。レイジは貴様の犬じゃない、東棟の王様だ。鎖に繋がれて飼い殺しにされるなどごめんだ、僕は絶対に東棟に帰る!異論反論は一切認めない、これは予定された未来を述べているにすぎない決定事項だ」
 壁に背中を預けて座りこんだままのレイジを振り返る。 
 「ついでにレイジも連れ帰る。トップ不在だと力の均衡が崩れ東棟の治安が悪化する、東棟におけるレイジの存在は意外に重要だ。貴様が思っているよりずっとレイジは必要とされている。100人抜きを達成するためには彼の力が不可欠、個性が強烈な囚人ばかりの東棟を治めるにはマイペースな王様が適任、僕とて認めるのは癪だが彼には彼にしかできないことがたくさんある」

 なにより、レイジを待つ人間がいる。
 今も医務室のベッドでレイジの帰りを待ち続ける人間がいる。

 「レイジに会わせたい人間を待たせているんだ、天才のプライドに賭けて王様を連れ戻す!」
 僕の決意がサムライにも伝わったか、木刀を掴む手に力が加わる。サムライの手のぬくもりを感じ、サムライと心をひとつにし、二人分の力で木刀を押し返す。
 油断していたところを突き上げられ、ナイフが弾かれる。
 白銀の弧を描いて宙に舞ったナイフをむなしく振り仰ぎ、サーシャが歯軋りする。 
 「サバーカの分際でよくも……」
 「直を犬呼ばわりするのは即刻やめろ」
 サムライの目に燐光がともる。
 「直は無二の友人、刃に賭けて守り貫くと決めた生涯の友、俺の半身にひとしい大事な人間だ。断じて犬などではない。
 今一度直を侮辱すればその時は北の皇帝とて容赦せん……斬る」
 「小賢しいヤポーニャめ、皇帝の怒りを思い知らせてくれる」
 気迫をこめた双眸でサムライに睨まれ、サーシャが優雅に手を翳す。腕のひと振りで劇的な変化が起き、北の囚人が僕らを包囲する。  
 「メガネくん!」
 リョウの声がした。振り向けば、リョウが羽交い絞めにされ人質にとられていた。
 「ちょっとこれなんとかしてっ、北の案内役なんて損な役目引き受けたばっかりにこんな目に遭ってるんだから助けてよ!ねっさっき助けてあげたっしょ、今すぐ恩返しを」
 「案内役を承諾したのは君自身だ。君が今そうして羽交い絞めされてるのは自分の注意力散漫が原因だろう。だいたい僕をおいて東に逃げ帰ればそんな目に遭わずにすんだのに前出の会話の時点ですぐさまそうしなかったのが不可解だ」
 「バカメガネっ!!」
 何故僕が罵られなければならないのか理解に苦しむ。不可解かつ不愉快だ。さっきは僕を庇うふりをしたり今度は助けてくれと注文したり、リョウの言動には矛盾が多い。こんな時でさえなければ徹底的に矛盾点を追求し分析してみたいのだが、北の囚人に包囲され退路を絶たれた現状ではそうもいかない。
 「サムライ、策はあるか」
 輪の中心にサムライと背中合わせで追い詰められた僕。
 「ある」
 「なんだそれは、あるなら具体的に説明しろ」
 生きて北を脱する策があると明言したサムライに畳みかければ、無言のまま木刀を正眼に構える。
 いやな予感がした。
 「実力行使で正面突破」
 いやな予感は往々にして的中する。木刀を正眼に構えたサムライがとんでもない無茶をしようとしてると察し、振り向きざま声を荒げる。
 「なにを考えてるんだこの低脳、実力行使の正面突破など無策の代表例じゃないか!いいかよくまわりを見回し冷静に考えろ、相手は何人いる?ナイフの名手サーシャ率いる北の囚人三十名前後、この大人数を相手に無傷で切り抜けるなど不可能だ。つけくわえればここは広さに制限がある渡り廊下、監視棟の時ほど上手くいくはずがない。重傷を負えばペア戦に影響が、」
 「黙ってついてこい」
 有無を言わさず命令したサムライが、少し首を傾げ、僕の目を見据える。
 「お前が隣にいれば、俺は無敵だ」
 臆面もなく恥ずかしい台詞を吐くサムライに動揺し、何故だか頬が熱くなる。だがサムライは本気だった。言葉には信念の重みがあり、眼光は真剣だった。
 武士に二言はない、サムライは嘘をつかない。
 ならば彼を信じるしかないと覚悟を決め、サムライの隣に並ぶ。
 「まったく頑固者だな。君のように強情な男を友人にもった僕の身にもなってみろ」 
 「すまん」
 律儀に頭を下げて謝罪するサムライから顔を逸らし、中指で眼鏡のブリッジに触れる。

 「……誤解するなよ。迷惑だが、後悔はしてない」

 それを聞いたサムライが薄く笑った。
 心強い味方を得たとでもいうようなひどく満足げな微笑だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051009030149 | 編集

 「殺せ」
 サーシャの号令のもと、北の囚人が枷から解き放たれる。
 「直、レイジを頼む!」
 木刀を正眼に構えたサムライに頷き、壁際に座りこんだレイジのもとへと走り出す。
 「大丈夫か、しっかりしろ」
 レイジの肩に手をかけ揺さぶる。口移しで覚せい剤を飲まされたのだ、意識が混濁しててるのかもしれない。はげしく肩を揺さぶっても反応のないレイジに舌打ちしたくなる。
 「レイジ、いい加減に起きろ!これ以上ロンを待たせる気か」
 『ロン』。
 かすかに瞼が震えた。長く優雅な睫毛に縁取られた切れ長の瞼が持ち上がり、薄目が開く。半透明の膜がかかったようにぼんやりした目。緩慢に顔を起こしたレイジの正面に回りこむ。とりあえず体に異常がないか確かめなければ、胃洗浄が必要なら医務室へ運ばなければ。片手をとり、脈をはかろうと袖をめくり……
 その時だ。
 「!」
 レイジの背中が壁からずり落ち、体が傾いだ反動でポケットから何かが零れ落ちた。
 麻雀牌だった。
 何故こんな物がレイジのポケットに入ってたんだと訝りながら、手首に五指を巻き脈をとり終える。少し速いが、この程度なら問題ない。
 「頭くらくらする……」
 「それだけで済むなら大した物だ、どういう免疫機構をしてるんだ貴様は」
 「クスリには体が慣れてんだ、っても自白剤だけどよ……」
 片手で頭を支え起こしたレイジが強がりで笑う。こんな時に笑える神経を疑う。レイジに肩を貸し立ち上がらせ、ついでに足元の牌を拾う。
 「落ちたぞ」
 苦しげな表情に虚勢の笑みを浮かべ、レイジが呟く。
 「それ、俺のじゃない。ロンの物だよ。ちょっと前に失敬して、ずるずる返しそびれてたんだ。かわりに返しといてよ」
 『ロンの物』
 レイジがそっけなく吐き捨てた言葉を反芻し、記憶の襞をさぐる。いつだったか、もうずいぶん昔の出来事に思えるがあれはまだほんの数ヶ月前のこと。食堂でロンの隣の低位置に座ったレイジが、麻雀のルールブックを借りてくると言った。ロンの遊び相手になるために麻雀を勉強すると言った。

 ペア戦開幕日、意気揚揚とリングに上がったレイジを思い出す。

 あの時レイジは、一度もポケットから手を抜かなかった。僕はそれを余裕のあらわれととった、無敵の王様が身のほど知らずの挑戦者に力の差を見せつけているのだと先入観から誤解した。
 だが実際は違ったのだ。レイジがあの時ポケットから手を抜かなかったのは、他に理由があったのだ。
 100人抜きの幕開けとなる初試合、リングに上がってからもずっとポケットに手を入れていたのは……
 「レイジ、君は」
 片腕でレイジを支え、もう片方の手に牌を握り締め、呆然と立ち竦む。サーシャに覚せい剤を使われた後遺症か、レイジは意識が朦朧としていた。半眼に落ちた瞼の奥には恍惚とまどろむ目があった。頬の傷口からあふれた血は上着の胸元まで染めていた。憔悴したレイジの腕を肩にかけ、抱え上げる。
 「君は全然、昔と変わってないじゃないか。以前と変わらずロンが大事で、大好きなままじゃないか」
 あの時、レイジがずっとポケットに手をいれていたのは、ロンの牌が入ってたからだ。
 お守りがわりにロンの牌を握り締めていたからだ。
 人には見えないところで、わからない場所で、レイジは昔も今も変わらずロンを大切に思っている。
 「人間そう簡単に変われねえよ」
 レイジは細身だが重かった。当然だ、僕より身長が高いのだ。レイジをひきずるように歩き出そうとして、唐突に立ち止まる。僕にぐったりと体を凭せたレイジの五指を無理矢理こじ開け、牌を握らせる。
 「何故僕が君とロンの仲介役をしなければならない、冗談じゃないぞ。他人の痴話喧嘩に巻きこまれて被害をこうむるのはごめんだ。これは自分で渡せ、ちゃんとロンの顔を見て自分の手で返すんだ」
 「会いたくねえよ」
 「嘘をつけ」
 「会いたくない」
 「聞き飽きた」
 「会ったら駄目になる」
 まったく手のかかる王様だ。子供のように駄々をこねるレイジを叱りつけようとして、口を噤む。
 「会わないって決めたのに、もう一度会ったら駄目になる。俺もロンも取り返しつかなくなる。王様が一度言ったこと取り消すなんてカッコ悪ィことできるかよ、愚民どもに示しがつかねえだろ。だからこのままでいいんだ、お前が優しいのはよくわかったからもう放っといてくれよキーストア。ロンにはこっち側にきてほしくないんだ、ひきずりこみたくないんだ。ずっとマトモなままでいてほしいんだよ」
 俯き加減の表情はよく見えなかったが、口元には儚い笑みが漂っていた。
 レイジは愚かだ。
 人との距離のとり方がわからなくて、大事な者を傷付けたくなくて、それには自分がいなくなるのが一番だと勝手に結論を下してしまった愚か者。
 その優しさはひとりよがりで残酷だ。
 「正常と異常、正気と狂気。かってに境界線をひいてけして相容れないと区別して、貴様何様のつもりだ。王様ならまだしも神様のつもりか。いいか、僕にしてみれば君たちふたりとも同類の低脳だ。君とロンはなにも変わらない、知力の低さとなれなれしさではどちらもいい勝負だ」
 レイジをひきずるように歩き出す。意識が混濁したレイジは重く、一歩踏み出すのにも苦労した。絶対レイジを放すものか、医務室で待つロンのもとへ連れていくのだと腕に力をこめる。レイジが物問いたげに僕を見る。
 「まだわからないのか?君たちは似合いの友人だと言ってるんだ」
 レイジの顔が歪んだように見えたのは目の錯覚か。耐え難い苦痛に苛まれているかのような悲哀の表情が浮かんだのはきっと幻覚だ。
 何故ならレイジの口元は笑っていたから。
 「いいヤツだな、キーストア。体が弱まってるときにやさしい言葉かけるなんて反則だ、ロンがいなけりゃ惚れてたかも。キスしてやりてえけど、こんな具合じゃ無理っぽい」
 「それを聞いても全然残念じゃないな」
 レイジに不敵な笑みを返し、足を踏み出した……
 瞬間だ。
 「!!直、よけろっ」
 次々と襲いくる囚人を木刀で薙ぎ払い応戦していたサムライ、その頭上を飛び越える白銀の閃光。
 サーシャが鞭のように腕を撓らせ投擲したナイフが、大きな弧を描きサムライの頭を越え、僕の頭上を急襲する。
 「反逆者は斬首刑に処す」
 全身の血の気がひく。レイジを抱えていてはかわしきれない。ナイフはすぐそこまで迫っている………
 死ぬ。
 「ブーメラン!!」
 サーシャの頭上を越えサムライの頭上を越え、渡り廊下に入り乱れた囚人の頭上を旋回しながら飛び越えた一冊の本が、僕の頭上を急襲したナイフをあっけなく弾き飛ばす。抜群のコントロールがなせる技かそれとも幸運な偶然か、僕をナイフから守る盾となった本が床に落下する。
 漫画だ。
 メスを構えたブラックジャックの表紙に、深々と突き立っているのはナイフ。
 ということは、この本を投げた人間は……
 渡り廊下に入り乱れた全員が、本が投げられた方角を凝視する。中央棟への入り口に、腰に手をつき立ち塞がっていたのは黒いゴーグルをかけた短髪の少年。僕らが固唾を飲んで見守る前で、苛立たしげにゴーグルを毟り取った少年がすさまじい剣幕で吠える。
 「お前ら、心ん底から尊敬する手塚治虫の本俺に投げさせた罪は重いで。道化怒らせた覚悟はできとんのやろな、サーシャの手のひらで踊らされとる北のガキども!!」
 ヨンイルだった。
 本気で怒ったヨンイルを初めて見た。僕を守る為にとっさに本を投げたらしいが、投擲してから後悔に襲われたしく「くそっ俺のアホっ!!本を粗末に扱なんて図書室のヌシ失格や死にさらせボケっ」と頭を掻き毟り地団駄踏む。
 尊敬する手塚治虫の本を投げ飛ばした自分が許せず自身を口汚く罵るヨンイルにあきれかえる。僕が言いたことすべて言われてしまっては呆然と口を開けるしかない。渡り廊下に居合わせた囚人も毒気をぬかれたようにヨンイルの狂乱を眺めていた。
 「ああもう死にさらせボケがっ、お前らうるさいんじゃ読書の邪魔じゃ廊下でしゃべるな押すな駆けるなて常識やろ!!どったんばったんうるそうて医務室まで響いてきたわ、いったい何事やてすっとんできたらこの有り様!ええか耳の穴かっぽじってよお聞けこのアホたれども、俺はええとこで読書中断されるんがこの世でいちばんむかつくんじゃ!!」 
 「ど、どうしますサーシャ様!?」
 「殺せ」
 サーシャの返答は短く、声は凍えていた。
 「遊戯の邪魔をするな西の道化よ。北に盾突くつもりなら容赦はせん。お前を微塵に切り刻んでやる」
 気のふれたように哄笑したヨンイルが、顔にゴーグルをかけ目の位置まで下げおろす。
 「おもろいこと言うやんサーシャ。読書邪魔されて最高に気分悪いんや、手加減できひんで」
 「吾輩もお手伝いしましょう」
 ゴーグルで両目を覆ったヨンイルの隣には黒髪七三分け、温和な風貌の囚人……ホセ。渡り廊下の騒ぎを聞きつけヨンイルと共に駆けつけたものらしい。血痕したたる渡り廊下の惨状に眉をひそめたホセが、ふとその視線を遠方の僕らへ飛ばす。サムライの背中に庇われた僕、僕の肩に体重を預けきってるのは横顔を朱に染めたレイジ。
 「あはは。なんか久しぶりだな、ふたりとも。西と南は相変わらず仲いいね」
 お調子者を装いふざけて挨拶したレイジだが、そのしぐさはあまりに痛々しかった。この数日間でさんざんサーシャに痛めつけられた上に麻薬を呑まされて最悪の体調なのだ、憔悴の面持ちで虚勢を張っても説得力がない。僕におぶわれたレイジを見たヨンイルとホセが対照的な表情を浮かべる。
 「レイジくん、しばらく見ない間に痩せたんじゃないですか?ちゃんとご飯食べさせてもらってますか」
 ホセは大人の余裕を漂わせた苦笑い。
 「北に越境しとるなんて知らんかったで、ダチに何も告げんで姿消して水くさい……とっとと東に帰れやレイジ、サーシャの犬ごっこはつまらんやろ。また和登派とピノコ派で手塚ヒロイン決定戦開こうや」
 ヨンイルはしかめ面。
 ついさっきレイジと対面した僕のように衝撃を受けることなく、泰然自若と構えたトップの風格に圧倒される。それ以外にもひとつわかったことがある。
 かける言葉こそ違っていたが、ヨンイルもホセもレイジを心配している。
 「私を無視して話を進めるな。不敬罪で処刑されたいか」
 不機嫌に毒づいたサーシャが、手にしたナイフをまっすぐヨンイルとホセに向ける。
 ナイフの反射光がサーシャの顔を陰惨に隈取る。   
 「渡り廊下よりこちらは北の領地、他棟のトップが足を踏み入れることを許可した覚えはない。東の王は私のもとへ下った、どうぞ犬にしてくださいと私の足元に跪いた。レイジはすでに私の物だ、皇帝の財産だ。お前らは何様のつもりだ?私の飼い犬にくわえてほしいなら床に跪いて尻尾を振ってみせたらどうだ、誠意の示し方次第では越境を許可してもよい」
 「サーシャ様は偉大だ!」
 「サーシャ様は寛大だ!」
 「サーシャ様ほど皇帝にふさわしい人はいない。サーシャ様こそ生まれながらの皇帝、正統なるロシアの末裔、あまねく威光をしろしめしこの監獄を総べられるお方だ」
 「サーシャ様万歳!」
 「皇帝万歳!」
 「皇帝万歳!」
 「「じゃあかあしい!!」」
 渡り廊下を揺るがす大合唱を一蹴したのはヨンイルだ。高々と両手をかざし、一種の集団催眠状態に陥りサーシャを褒めたたえる北の囚人たちを一喝する。
 「かかってこいやサーシャの犬ども、道化が遊んだる」
 獰猛に犬歯を剥き、ヨンイルが宣戦布告。
 「お付き合いしますよヨンイルくん。吾輩ホセ、ロンくんのコーチとして責任を果たせねばなりません。寝たきりの愛弟子のために力づくでもレイジくんを連れ帰らねば」
 ホセが気取ったしぐさで眼鏡を外し、弦を畳んでポケットにおさめる。
 道化と隠者がこっそり顔を見合わせほくそ笑む。二人を繋ぐのは共犯者の絆。 
 『ペーペー!!』
 ロシア語で「殺せ」と誰かが叫ぶ、それが開戦の合図だった。僕らを取り囲んだ集団の後続が方向転換し、廊下を全力疾走してヨンイルとホセに立ち向かう。ある者は鎖を振りまわしある者はナイフを抜き放ちある者は素手で、ヨンイルとホセを一網打尽にしようとする。
 「ふたりとも逃げろ!」
 ヨンイルもホセも素手だ、いかに西と南のトップでも大人数相手にかなうわけがない。
 「サーシャの制裁怖さとはいえ、道化相手に正面から突っ込んでくる火事場のクソ度胸は買うたる」  
 ヨンイルが頭上にこぶしを掲げ、ぱっと五指を開く。
 「ーでもな、もうちょい利口になれや。喧嘩売ってええ相手の見分けもつかんのかい、北の犬どもは」
 「うわああっ!?」
 「前が見えねえっ、」
 ヨンイルが手のひらから濛々と煙が漏出する。大きく腕を振りかぶり、何かを投げる。放物線を描いて宙に舞った玉が三秒足らずの滞空時間に大量の煙をまきちらし、廊下に入り乱れた囚人を文字通り煙に巻く。煙に視界を覆われ何も見えない囚人の間に動揺が伝染する。
 「俺から離れるな、直!」
 「わかってる!」
 サムライの声を頼りに進む。ヨンイルが囚人を煙に巻いてくれたおかげで、包囲網の綻びから脱出することができた。肩にかかる体重が重く、一歩一歩がこたえる。レイジをおぶって息を切らした僕の隣にわざわざ引き返したサムライが、反対側からレイジを支える。
 「手の焼ける男だな」
 「はやく医務室へ運ぼう」
 レイジは気を失ってるのか、とくに抵抗もしなかった。力なくうなだれたレイジの顔を覗きこみ、気遣わしげに眉をひそめ、サムライが首肯する。サムライが片腕を持ってくれたおかげでだいぶ体が軽くなった。二人がかりでレイジを支え、医務室へ足をむける……
 「!くっ、」
 煙を吹き散らし、前方から飛んできたのは楕円を連ねた鎖。僕の足元をかすめた鎖が煙幕の向こう側へ素早く引っ込み、今度はサムライの鼻先をかすめる。どうする?レイジを抱いたままでは動きがとれない。
 『ペーペー!!』
 ロシアの語の「死ね」とともに鎖が飛来する。風切る唸りをあげたそれが前髪を掠め、おもわず目を閉じる。だが予想に反し、顔面を鎖が直撃する事態は避けられた。
 濛々と煙る渡り廊下を疾走し、僕の眼前に出現したヨンイルが、片腕に鎖を絡めとったからだ。
 「うわっ!?」
 片腕に鎖を巻きつけたヨンイルが、煙幕の向こう側から伸びた鎖をもう片方の手でぐいと掴み、無造作に引っ張る。たたらを踏んでまろびでた囚人が、道化と対面して青ざめる。
 「ご愁傷さま」
 ゴーグル奥の目が笑みを含んだように見えたのは錯覚か?やけになった囚人が奇声を撒き散らし手足を振りまわしヨンイルに突撃するのと、ヨンイルが片腕の鎖を振りほどくのは同時。鎖の抵抗が消失し、平衡感覚を失った囚人が前傾姿勢でつんのめる。不運な囚人が最後に見たのは、自分の鳩尾めがけはねあがるつま先。
 一瞬の出来事だった。
 鳩尾に痛恨の蹴りを入れたヨンイルの上着がめくれ、健康的に日焼けした背中が晒される。背中一面に彫られているのは獰猛に蛇腹をくねらせる龍の刺青。
 鱗一枚一枚が瘴気じみた執念で隈取られた、入魂の刺青だった。 
 「ぼさっとしとるんやない、とっととそのふぬけを医務室へ連れてけ!」
 「この場は吾輩とヨンイルくんに任せてください!」
 次第に煙が晴れてきた渡り廊下にて、多勢で殺到する囚人にボディブローを入れながらホセが叫ぶ。「ぺーぺー!」「ぺーぺー!」と怒号を発し、次から次へと攻めてくる敵を蜂のようにかわし、あるいは獣の俊敏さで肉薄し顔面や腹部に鉄拳を見舞う。肉と肉がぶつかる鈍い音が響き、ホセの額に汗が光る。
 ヨンイルが踊れば龍も踊る。ヨンイルが床に手をつき前転し起き上がり囚人の背中を蹴り倒す。はげしく暴れるヨンイルの上着が風圧にめくれ、外気に晒された背中で龍も躍動する。その龍を掴まえようとでもするかのように背後に忍び寄った囚人を振り向きざま頭突きで目潰し、たまらず目を覆いよろめいた囚人を情け容赦なく殴り飛ばす。ヨンイルの手と膝に返り血が付着する。
 ホセもヨンイルと背中合わせで戦っていた。
 七三分けが乱れ、前髪が一房額にはりついている。眼鏡をとったホセは別人のように精気に溢れ、ひょろりと頼りなく見えた体躯が極限まで脂肪を殺ぎ落とし筋肉を研鑚した獣のそれへと変貌する。二人がかりでホセへと突っ込んできた囚人が隙だらけの動作で大きく腕を振りかぶる。予めその軌道を読んだホセが頭を屈めて腕をかわし、体勢を低め、稲妻めいた速さで敵の懐に潜りこむ。
 ホセのこぶしが顔面に炸裂した。
 鼻血を噴出した囚人が両手で顔を覆いしゃがみこむ。ホセの消失に動転したもう一人の囚人の鳩尾に鉄拳がめりこみ軽々と吹っ飛ぶ。ホセが腰をよじるたび、体重の乗ったこぶしが囚人の顔面を穿ち、鼻骨を粉砕する。肉と骨がぶつかる鈍い音が連続し、ホセの顔やこぶしに返り血が付着する。
 強すぎる。
 圧倒的だ。
 「行ったでホセ!」
 ホセとヨンイル、西と南のトップの連携プレイに驚嘆する僕の視線の先、命からがらヨンイルから逃げ出した囚人の前に悠然とホセが立ち塞がる。こぶしから血の雫を滴らせたホセに行く手を阻まれ、顔面蒼白の囚人があとじさる。
 「吾輩ホセ、なるべくなら平和的な解決を望む温厚な人間なのでここはひとつ和解の握手でも」
 「うわあああああ寄るなああああ!!」
 血まみれの手をぬっと突き出され、恐怖が爆発した囚人が死に物狂いでナイフを振りかざす。敵がナイフを持っていてもホセは動じず、フットワーク軽く後退する。
 カチン、とかすかな金属音が鳴る。
 刹那、ホセの表情が豹変した。温厚な笑顔から冷酷な無表情へと変貌したホセが、緩慢な動作で左手薬指を見下ろす。
 ナイフが薬指の指輪をかすめ、傷をつけたのだ。
 「……傷をつけましたね」
 ホセの声は穏やかと言ってよかったが、その眼光はとてつもなく物騒なものを孕んでいた。口元だけに笑みを浮かべたホセがいとおしむような手つきで薬指の指輪をなでる。 
 「夫婦愛の証に傷をつけましたね」
 「だからどうだってんだよ、そんな安物の指輪!!」
 再び凶器が振り下ろされるが、ナイフがホセの体に到達することは遂になかった。
 「ぐあああああっ、あっ、ああ!?手首、手首がつぶれっ……」
 囚人の手首を万力めいた握力で締め上げ、無理矢理指をこじ開ける。手首の骨が軋む激痛に滂沱の涙を流す囚人を見下ろし、ホセが無表情に呟く。
 「吾輩とワイフの愛を邪魔する者は神が許してもキューピッドが許しません。指輪に傷をつけただけでも万死に値する重罪ですが、君はさらにワイフを侮辱した。吾輩の薬指に嵌まっている指輪は、寝るときも食べるときも用を足すときも肌身はなさず嵌めている伴侶の分身です。それをこともあろうに『安物』と吐き捨てた」
 これは、本当にホセか?変な一人称と敬語が特徴的なしゃべり方の、七三分けに黒縁メガネをかけた穏やかな風貌の男か。
 絶句する僕をよそに、南の隠者が宣言する。
 「夫婦愛の名のもとに、撲殺します」
 「あああああっ、ああ!!」
 笑顔の威圧に最後の一握りの理性が蒸発したか、ホセと相対した囚人がめちゃくちゃにナイフを振り回す。
 パキリと、硬い物に亀裂が走る音がした。
 目にしたものが信じられなかった。ホセがナイフの側面を殴り付けると同時に、刃に亀裂が走る。もともと安物だったのだろうナイフの刃は想像以上に脆く、ホセのこぶしの破壊力に折れ砕ける。
 素手でナイフを砕く、という人間離れした芸当に極限まで目を剥いた囚人の顔が、次の瞬間大きく仰け反る。ナイフを鉄拳粉砕したホセが、怒りの一撃を囚人の顔面に叩きこんだのだ。鼻血を噴出した囚人の上に馬乗になり、気の済むまでこぶしを見舞うホセ。戦意喪失した囚人を容赦なく殴り続ける姿はまさしくコロッセオの歓声を浴びるにふさわしい狂戦士。  
 「はよ行けなおちゃん!」
 ヨンイルの叫びで我に返る。サムライはすでに道を切り開いていた。片腕でレイジを支えた不自由な体勢で木刀を振るうサムライに目配せする。
 「行くぞ」
 「ああ」
 たがいに頷き合い、呼吸を合わせて走り出す。渡り廊下を抜ければ医務室まで距離はない。これでやっとロンにレイジを会わすことができる、サムライと東棟に帰ることができる……
 「待て」
 ヨンイルとホセがその他の囚人を相手どる中、悲鳴と怒号飛び交う渡り廊下の混乱とは無縁に落ち着き払った声に呼びとめられる。
 渡り廊下を抜けるまであと十歩、というところで僕らの前に立ち塞がったのは北の皇帝……サーシャ。
 「北棟の秩序を乱し皇帝を侮辱し、渡り廊下を混乱に陥れた代償は払ってもらう。生きて帰りたくば私を倒せ、サバーカよ」
 なにを言ってるんだ?
 「正気か君は!?君の注文どおりレイジと殺し合いを演じただけじゃ不満なのか、冗談じゃない、こんなところでぐずぐずしている暇はない!レイジには今すぐ医務室に行きロンに会う義務が……」
 僕の足元に放り投げられたのは一本のナイフ。柄の模様には見覚えがある。さっき僕がレイジの頬を切り裂いたナイフだ。それが証拠に、刀身はべったりと血に染まっていた。
 「犬に拒否権はない。主人が相手をしてやると言っているのだ、光栄に思いこそすれ歯向かうなど言語道断。生きて帰りたければ私を倒せ、私と殺し合え」
 「狂ってる」
 僕がナイフを手に取るまでサーシャはその場を動かないつもりだ。本気で僕と殺し合うつもりだ。生唾を嚥下し、腰を屈め、震える指をナイフへ伸ばす。
 ナイフに手が届く寸前、木刀が手首を押さえつける。
 「馬鹿なことはやめろ、死ぬぞ。この場は俺に任せ、お前はレイジを連れて先に医務室へ行け。俺ならば多少の時間稼ぎができる」
 「君をこれ以上危険な目に遭わせたくない。北棟に足を踏み入れたのは僕の自己判断かつ自己責任だ、危険な目に遭うのは自業自得だ。君こそ医務室へ行け、レイジの手当てを最優先に……」
 小声で言い争う僕とサムライの肩から重しが取り除かれる。
 「レイジ?」
 サムライと不審顔を見合わせ、レイジの動向を探る。僕とサムライに二人がかりで肩を担がれてたレイジが、くずおれるようにその場に屈みこむ。前髪に隠されて表情はよく見えないが、ひどい顔色だ。汗も大量にかいているらしく、上着がぐっしょりぬれて素肌が透けていた。
 もう力尽きたのか?だらしがない、医務室まで我慢しろ。苛立ちをこらえてレイジをおぶいなおそうとして、慄然と立ち竦む。
 手探りで床をさぐり、ナイフを拾い上げ、しずかに立ち上がるレイジ。
 「なにを……」
 「腐っても王様なんでね、俺は」
 ナイフを手にしたレイジが、僕とサムライを庇うように立ち位置を移動する。
 そして蒼白に近い顔で、不敵に笑う。
 「せめて自分トコの人間くらい五体満足で帰さなきゃ、格好つかねえだろ」
 馬鹿な。
 こんな状態で、サーシャと殺し合う気か?

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051008030324 | 編集

 ひどい。あんまりだ。
 「ちょっとひどいんじゃないこの扱いはっ、ねえ聞いてるそこでボカスカ勝手に大乱闘はじめちゃってる人たち!?メガネくんは可愛くお願いしても助けてくれないし道化と隠者の乱入で僕の存在すっかり忘れ去られて人質とられたまんま放置プレイだしねえねえっ、聞いてる?聞いてますか可哀想な僕のお話!!」
 ぜえはあ息を切らして抗議しても周囲の人間は聞く耳もたない。
 まあ決戦場と化した渡り廊下の中心でその他大勢扱いの僕が叫んでも罵声や怒声の騒音にかき消されて届くわけもないんだけど、そうなるといっそう自分の存在を主張したくなるのが人情というもので。
 むかつくことに、鍵屋崎のヤツときたら僕を見捨てやがった。さっきはせっかく庇ってやったのに、蛇に睨まれた蛙の心境で冷や汗かきながらサーシャと交渉して北棟探索の約束まで取りつけてやったってのに、親殺しのヤツ感謝するどころかとんでもない行動にでやがった。
 サーシャが家臣を引き連れ背中をむけた瞬間、僕の制止を振り切り駆け出したかと思いきやその手にはナイフ。そう、親殺しのヤツときたらなにをとち狂ったんだかサーシャを刺そうとしたんだ。サーシャが無防備な背中をむけた瞬間に怒りで目が眩んで理性が蒸発したろうことは想像に難くない。サーシャときたらそりゃもうやりたい放題で、良識とか慈悲とかそんなもん一切合財切り捨てて、自分の娯楽最優先でレイジと鍵屋崎に殺し合いをさせたのだ。
 サーシャには他者への思いやりが欠落してる。
 サーシャにとっちゃ鍵屋崎もレイジも犬でしかない。芸を披露して主人を楽しませるのが飼い犬の義務だと思いこんだサーシャは、レイジと鍵屋崎がナイフ片手に死闘を演じるあいだ満足げに微笑してた。
 あの笑顔は見たことある。
 ずっと前、まだ外にいた頃、ぺドでサドの変態客と何人かお尻合いもといお知り合いになったことがある。その時僕は一桁の年齢でたぶん十歳にも届いてなかったけど、ぺドでサドの変態客に運悪くあたったら最後なにされてもじっと我慢して目を瞑るしか生き残る術はない。僕は十歳そこそこの年齢で人生の教訓としてそれを学んでいた。乳首に針通されても縛られても後からもう一人の客が乱入していきなり3Pに発展しても「約束が違う!」なんて叫ぶだけ無駄なのだ。
 そういう客は僕が可愛い顔を鼻水と涙とヨダレでべとべとにして必死に抵抗するのを心の底から楽しんでいるのだ。
 大人と子供じゃ体格差は圧倒的で、腕力じゃあかないっこない。一度おさえつけられたらどんな痛いことされてもどんなひどいことされても相手の気が済むまで我慢するっきゃない。セックスには忍耐が肝心。
 サーシャの笑顔は、僕を犯りたい放題いたぶった客のそれと酷似してる。絶対服従させたペットに芸を仕込んで、それを眺めて優越感にひたる傲慢な色。主人の命令に逆らえない飼い犬を視線でいたぶり、嗜虐心を満足させ、背徳的な興奮をおぼえる変態の笑顔。 
 吐き気がした。
 レイジと鍵屋崎が殺し合いしてる最中、僕はなんとサーシャの隣にいた。房の前で運悪くサーシャとはち合わせして、そのまま鍵屋崎と一緒に僕まで渡り廊下に強制連行された。蛇のように執念深いサーシャは半年前のことを忘れちゃいなかった。
 サーシャにしてみれば僕は薄汚い裏切り者。北のスパイとしてサーシャ達を手引きしたくせに、風向きがやばくなったら自分ひとりさっさと逃げ出して独居房行き免れた姑息な卑怯者。
 それだけじゃない。
 『リョウよ。私になにか言いたいことがあるのではないか』
 まわりくどい口調でサーシャに探りを入れられ、心臓が凍った。サーシャと並んだ僕の眼前では、劣勢の鍵屋崎が不器用にナイフを構えて防御に徹してる。
 ナイフとナイフが衝突する金属音が響く。
 熱狂の坩堝と化した渡り廊下にて、手に汗握る殺し合いのスリルに北の囚人が歓声をあげる中、僕は全身にびっしょり汗をかいていた。べつに鍵屋崎とレイジの殺し合いに熱狂してるわけじゃない。現実に隣にいるサーシャの威圧感というか、氷点下の眼光とか、とにかくそんなかんじの目に見えないものにびびりまくってたのだ。
 『なんのことでしょう偉大なるサーシャ様、さっぱり身に覚えがないのですが』
 おどけた敬語で、でも絶対サーシャとは目を合わせずに聞き返す。氷点下の視線を横顔に感じる。サーシャからややぎこちなく視線をそらした僕は、ぶっちゃけ生きた心地がしなかった。
 『半年前のことだ。忘れたとは言わせない。私はあの薄汚い雑種をブラックワークの王座からひきずりおろすため、東京プリズン最強などという分不相応な称号をやつから奪取するために罠を仕掛けた。手引きをしたのはお前だ。私はずいぶんお前によくしてやった。実際お前は利用価値のある犬だった、主人に媚びるのが上手くベッドで披露する芸には高い金を払うだけの価値があった。だがしかし』
 ほらきた。
 おいでなすったぞと首をすくめる。殺し合いが白熱し歓声が大きくなるのに反比例し、サーシャの声が低まり、周囲の気温がひんやり低下する。尊大に腕を組んで壁に凭れたサーシャは永久凍土の氷を削り出した彫像のようだ。ただ執念深く狂気渦巻く眼光だけが、サーシャが生身の人間であると告げている。
 『お前には失望したぞ、リョウ』 
 『なんで』
 『恩を仇で返したからだ』
 白状するけど、この期に及んでもまだ僕はしらを切り通す気だった。とぼけた返事をした僕に殺意の一瞥をくれるサーシャ。視線の硬度が増して横顔に痛みを感じる。これ以上サーシャと一緒にいたら半身に霜が張ってしまいそうだ。
 サーシャはじわじわと、真綿で首を絞めるように僕を追い詰めていく。
 『半年前、北の兵隊を集めてレイジを一網打尽にしようとした目論みは失敗した。私が目覚めた時にはすでにレイジは跡形もなく、死屍累々と無能な兵隊が散らばる荒廃した戦場の風景だけがあった。私と兵隊どもは独居房送りという屈辱の仕打ちを受けた。リョウ、お前は独居房に入ったことがあるか』
 『ありがたいことに、ないね』
 『そうか。なら一度体験してみるといい。糞尿垂れ流しの悪臭たちこめる部屋に、後ろ手に手錠をかけられ丸太のように転がされてみるがいい。飢えと恐怖に苛まれて自分の大便をむさぼり悪夢を見て絶叫し鉄扉に頭をぶつけ、人の尊厳を一片残らず徹底的に剥奪されてみるがいい。人生観が変わるぞ』
 サーシャの口から人間の尊厳なんて聞くとは思わなかった。悪い冗談。
 『なにがおかしい』
 『気にしないで、続けて』
 こみあげる笑いを噛み殺し続きを促す。他人を人間扱いしないヤツに限って自分が屈辱を味わうと生涯根に持つんだから手におえないよ。
 『私は無事独居房から生還したが、兵隊の大半は頭がおかしくなっていたな。まあそれはどうでもいい。リョウ、お前私たちが監視塔で気絶しているときに私物に手をつけたな』
 『あはは。やっぱりバレてたんだ』
 乾いた笑い声をあげる。サーシャは質問ではなく確認してるにすぎない、この時点で言い訳するのもごまかすのも得策じゃない。そりゃバレるだろ、僕が監視塔で気絶した連中の懐を漁って金目の物を失敬したのは事実だしそれを裏に流してあこぎに稼いだのも事実だ。
 どうしようどうしようどうしよう。
 ほんとは笑ってる場合じゃない、返答次第で僕の頚動脈は切り裂かれて二度とママと会えなくなる。ああもうなんで鍵屋崎の頼み引きうけてのこのこ北棟に出向いてきたんだよ僕のバカ、って怒涛のように押し寄せる後悔に身を任せて現実逃避したくなる。
 頭を抱えて蹲ってそのまま石になってしまいたい、物言わぬ貝になって人魚の胸を飾ってたのしくすごしたい。
 なんてバカなこと考えてる場合じゃない、なんとか上手くこの場を切り抜けなきゃ。僕はまだもうちょっと長生きしたいんだ。早鐘を打つ心臓をどやしつけ、無邪気を装った笑顔でサーシャを振り仰ぐ。
 『ごめん、つい魔がさしたんだ。今は反省してる。でもサーシャの持ち物には手をつけなかったよ?偉大なる皇帝サマの財産ネコババするなんてそんな恐れ多いコト天使のように純真な僕にはできないもの』
 涙で潤んだ上目遣いでサーシャを仰ぎ、胸の前で五指を組む。お祈りのポーズ。客にこれやるとイチコロだった。サーシャに効くかどうかわかんないけど、やってみる価値はある。
 『悪魔のように狡猾な男娼だな』
 効かなかった。別の手を考えよう。
 侮蔑の眼差しで吐き捨てられ、懲りた芝居でうなだれる。僕はもう完全にサーシャの信用を失ってしまったらしい。いや、最初から信用されてたかどうか疑問だけど以前のサーシャは少なくとも僕に利用価値を認めていた。今はそれさえない。皇帝の寵愛を失ったら最後ギロチンにかけられるのが愛人の末路だ。
 『サーシャはもう僕のこと嫌いになった?』
 床にのの字を書きながら寂しげに呟く。眼前では上着のあちこちを切り裂かれた鍵屋崎が疲労困憊で立ち尽くしてる。懲りずにレイジを説得してるらしいが、この距離からじゃ歓声にかき消されて何言ってるんだか聞こえない。あちこち切り裂かれた上着からは薄く血の滲んだ素肌が露出して、男の欲望を刺激する肌の白さが際立った。
 『二度と軽口叩けぬよう舌を切り落としたい程度だ』
 『……そうだよね、僕裏切り者だもんね。役立たずだもんね。半年前は僕なりに一生懸命やったつもりだったけど、結局失敗しちゃったし。最初にレイジ嵌めるって聞いたときはびっくりしたよ、正直怖かった。だって相手はキレたらなにしでかすかわからない東棟の王様だよ?笑いながら怒れるヤツだよ?僕怖くて怖くて、心配で心配で……』
 『心配?』
 ここが正念場だ。うろんげに眉をひそめたサーシャの表情を注意深く探りつつ、俯く。
 『もしサーシャが怪我したらどうしようって』
 『私がレイジに敗北すると事前に予想していたと、そう言いたいのか』 
 『違う違う。そうじゃなくて……サーシャが強いのは十分わかってる、東京プリズンじゃ右にでる者なしのナイフの名手だもの。レイジにだって負けるはずないって信じてた。でも僕心配性だから、ひょっとしたらって考えちゃうんだよ。
 サーシャがレイジに怪我させられたらどうしよう?レイジの姑息な作戦にひっかかって重傷負っちゃったらどうしよう?って。
 僕サーシャのことが心配で、サーシャのことだけで頭いっぱいで……北の人間の私物に手をつけたのは、サーシャとつながり保ちたかったからだよ。
 僕が北の人間の私物に手をつけたことがバレれば、サーシャがお仕置きにきてくれるでしょ。そしたらまたサーシャと会えるでしょ。それを期待して、僕、つい……』
 芝居に興が乗ってきた。自分の嘘に酔いながら切々とサーシャに訴える。胸の前で五指を組み、目尻に涙を浮かべ、嗚咽を堪えるように唇を噛み、恋人の誤解を解こうと必死な演技をする。
 涙は心を溶かす武器。
 絶対凍土の鎧で覆われたサーシャの心を僕の嘘泣きで溶かすことができるかは演技力次第。
 沈黙は長かった。
 押し合いへし合いする人垣の向こう側には鍵屋崎とレイジが対峙してる。怒声と罵声と歓声とが交錯し喧騒に湧きかえる渡り廊下で、僕は息を殺してサーシャの反応を窺っていた。いつナイフが翻り頚動脈を切り裂かれるか生きた心地がしない。汗ばんだ手を握り締め慈悲を乞う演技をする僕を見下し、皇帝が口を開く。
 『主人の歓心をつなぎとめるために盗みを働くとは、愚かな駄犬だな』
 うわ信じちゃってるよこの人。本物のバカだ。
 侮蔑的な笑みを浮かべたサーシャだが、その声は予想外に満足げだった。僕が心よりサーシャを崇拝してると思いこんでるおめでたい皇帝に心の中でガッツポーズ。演技力の勝利。
 サーシャの致命的欠陥はたぶん、周囲の人間が無条件に自分を崇拝してるという先入観だ。自分は偉大なる皇帝なのだから自分と出会う人間はすべて例外なく自分にひれ伏すはずだという誇大妄想。
 おかげで助かった。
 『……しかし赤毛の駄犬よ、寛容な皇帝は主人に忠実な犬は嫌いではないぞ。お前の心がけ次第ではまた飼い犬にくわえてやらぬこともない。私はお前の情報収集力を高く買っている。男娼の仕事柄、看守とも囚人とも肉体関係をもつお前はあらゆる情報の中継点となる。お前をスパイとして飼っていた期間はなにかと北に有利な情報を入手できたのも事実』 
 『交渉成立だね』 
 なんだ、サーシャも内心僕を手放すのを惜しがっていたのだ。心配して損した、全部杞憂だったんだ。あっさり誤解がとけた僕は、サーシャに惨殺される危機が去り金払いのいい上客を取り戻し有頂天になっていた。僕に案内役を頼んだ鍵屋崎に感謝したいくらいだ。今日こうして北棟にこなけりゃ一生サーシャに怯えて暮らさなきゃいけない羽目になったのだ、それを汲めば鍵屋崎は僕の命の恩人ということになる。
 『じゃあ仲直りのしるしに』  
 サーシャの正面に膝をつき、接客スマイルを浮かべる。早速サーシャのズボンに手をかければ、さすがに不審がった皇帝サマが『なんのつもりだ』と疑問を挟む。サーシャのズボンに手をかけたまま周囲を見まわす。北の囚人は殺し合いに熱中してだれもこっちに注目してない。これならバレないだろうと楽観し、媚びた上目遣いでサーシャを見上げる。
 『仲直りのフェラチオ。半年間たまってたっしょ?最高に気持ちよくさせてさせてあげる』
 合点した、というふうにサーシャの警戒心が霧散する。仲直りのキスなんていまどき流行らない、仲直りのフェラチオのが即物的でずっとイイ。サーシャに飼われてたのも半分は性欲処理が目的だったんだから、自分の役割に忠実な飼い犬として皇帝への忠誠心発揮しとかなきゃ。
 サーシャもこの成り行きを歓迎してるようだ。壁に背中を凭れ、愉悦に目を細め、片手を僕の頭においてる。従順な飼い犬をなでるみたいな手つきだった。そして僕はサーシャのズボンを下げ……
 ようとした、瞬間だった。足元にメガネがぶつかったのは。
 『ん?』
 『どうした』
 行為を中断されたサーシャが不機嫌げに呟く。足元のメガネを拾い上げる。囚人の足の間をすりぬけ床を滑ってきた眼鏡には見覚えある、鍵屋崎の銀縁眼鏡だ。
 『ごめん、急用ができた。ちょっと待っててね』
 何故その時腰を上げたのか自分でもわからない。考えるより先に体が動いてた。眼鏡をなくした鍵屋崎は今ごろ苦労してるはず、そう考えたら自然に足が動いて人垣を抜けてた。
 『メガネいったよ!』
 親殺しに親切するつもりはないんだけど、放っといてもよかったんだけど、眼鏡がなけりゃなにも見えない鍵屋崎がレイジに刺し殺されるのは寝覚めが悪い。だからまあ、あれは魔がさしたというか、ほんの気まぐれだったんだ。そうとしか説明がつかない。野次馬の足の間を滑らし、鍵屋崎に眼鏡を届ける。予想どおり鍵屋崎は手探りで眼鏡を探して、僕の声にすぐさま反応した。素早く眼鏡を拾い上げ顔にかけた鍵屋崎、その眼前に出現したのはレイジ。
 『!』
 おしまいだと思った。
 レイジが床を跳躍、直線で疾走。鍵屋崎と決着をつけるつもりだ。まさか王様、本気で鍵屋崎を殺す気かよ?目を疑う僕をよそに、レイジは一気に距離を詰め鍵屋崎に肉薄。親殺しなにしてるの、さっさと逃げなよ!このままじゃ殺られちゃうよ。じっとその場に立ち尽くして動かない鍵屋崎にしびれを切らし、叫ぼうした……
 その時、意外なことが起きた。
 レイジの右手から左手へナイフが移り変わるその一瞬の隙をつき、鍵屋崎の片足が跳ねあがる。鍵屋崎の蹴りはレイジの左手首に命中、容赦なくナイフを弾き飛ばす。中空に大きな放物線を描いたナイフが遠方に落下、素手のレイジが無防備に立ち尽くす。気のせいかレイジが笑った。一転ピンチに直面したというのに焦りも恐怖も感じさせないイカレた笑顔だった。
 次の瞬間、嬉しげに笑ったレイジの頬がざっくり裂けた。
 鍵屋崎の握ったナイフが、レイジの頬を切り裂いたのだ。だいぶ深くイッたらしく、出血が多かった。レイジの血を見て鍵屋崎も我に返ったらしく、凝然と目を見開き硬直していた。そんな鍵屋崎の前でレイジはあっさりと手を上げ、驚くべき発言をした。
 『うわこっえー、降参』
 王様は食わせ者だと、この一件で痛感した。なにが降参だ、普通にヤったら負けることなんてありえない鍵屋崎にわざと負けてみせたくせに。レイジが本気だせば鍵屋崎なんか三秒で死んでた。それを長引かせたのは観客サービスに見せかけた延命作戦だったのだ。
 激怒したのはサーシャだ。サーシャがこんな展開許容するはずない、皇帝への侮辱とってレイジを痛めつけるのは予想できてた。たぶんレイジが両手を挙げた瞬間に、サーシャの頭から僕のことなんか吹っ飛んだ。サーシャにとっては良くも悪くもレイジが一番で、その意味でレイジは皇帝の寵愛を独占してるといえる。
 問題はそれから先の展開。
 サーシャとレイジのディープキスを見せつけられる羽目になるとは思わなかった。しかもサーシャの唾液には麻薬が溶けていた。口移しでクスリ飲まされたら普通の人間は足腰立たなくなる。鍵屋崎は取り乱した、羽交い絞めされた上に大声で喚き散らす醜態を晒してまでふたりを引き離そうとしたけど無駄だった。
 たぶんそれで、キレちゃったんだろう。
 レイジに飽きたサーシャが背を翻したとき、足元に落ちたナイフをとっさに拾い上げ、一散に走り出した。あの時の親殺しは完璧イッちゃってて、冷静な判断力やら正常な思考力やらの一切を失ってた。
 サムライが止めに入らなきゃ、親殺しはサーシャに殺されてた。
 で、現在。
 
 「むかつく。みんなして僕のことけものにして意地悪してむかつく。僕のこと無視してなにそれ新手のいじめ?親殺しはサムライとらぶらぶだしレイジは酔っ払ってるし道化と隠者はキレてるし僕の存在意義ってなにさ!漫画でいうとコマの端っこでボコられていつのまにか退場してる脇役!?ひどいよ、あんまりだ、ビバリーに言いつけてやるっ」
 「しずかにしやがれ赤毛っ、口閉じないと殺すぞ!」
 「できるもんならやってみなよ腰抜け、サーシャの犬が吠えても怖くないね!」
 僕を羽交い絞めしたガキに猛然と食ってかかる。ガキがぐっと黙りこんだところを見ると、こいつは北の兵隊どもの中じゃ下っ端にあたるらしい。だから僕の拘束役なんてさっぱり見せ場のない損な役押しつけられたのだ。ま、見せ場がないのは僕もおなじだけどさ。
 ほんと調子狂う。せっかくサーシャと仲直りしかけて全部がうまくいくはずだったのに、親殺しがとち狂ったせいで台無しだ。僕のバカ、鍵屋崎なんか庇うんじゃなかったよ。鍵屋崎のこと大嫌いなくせになんであの時余計なこと言っちゃったのさ?
 いまさら自分の馬鹿さ加減呪ってもはじまらない。とにかく、一刻もはやく逃げ出さなきゃ大乱闘に巻き込まれて死にかねない。けど非力な僕がどんだけ暴れてもがっちり羽交い絞めされてたんじゃ振りほどけないし、体力消耗するだけだ。さてどうしたもんだろ。
 ひらめいた。
 「あ、サーシャ様が大変な目に!?道化め、皇帝の頭を本の角で一撃なんてひどすぎる!」
 「なんだと!!?」
 ちょろいな。
 僕を拘束してた囚人がパッと腕を放す。その隙にとっとと逃げだす。馬鹿な囚人が後ろでなにか吠えてるけど無視無視。じきにその声が聞こえなくなったのは、敵味方入り乱れての大乱闘に巻き込まれたものらしい。さあ、サーシャに見つかるまえにはやく逃げようと頭を低めて引き返し……
 「腐っても王様なんでね、俺は」
 振り向けば、ちょうどレイジが立ちあがったところだ。
 「せめて自分トコの人間くらい五体満足で帰さなきゃ、格好つかねえだろ」
 ひどい顔色に虚勢の笑みを浮かべ、宣戦布告する王様。その手に輝くのはナイフ。レイジの正面にはサーシャがいた。こちらもナイフを手に、渡り廊下の中央に悠然と立ちはだかっている。
 そうか。
 さっきのは、第一幕。これから切って落とされるが第二幕。今から始まるのが本当の殺し合いだ。
 北と東の決戦、サーシャとレイジの真剣勝負、どちらか一方が倒れるまで終わらないー……

 レイジとサーシャが交錯し、ナイフが閃いた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051006030511 | 編集

 振り向けば殺し合いが始まってた。
 突然だった。疑問を挟む余地も言葉を介入する余地もなかった。ナイフを手にしたレイジとサーシャが殺気走った眼光を放ち、床を蹴る。動体視力の限界に迫る敏捷さで二人がすれ違うと同時に硬質な金属音が弾ける。ナイフとナイフがかち合い火花を散らす音。レイジとサーシャが交差し、ナイフとナイフが衝突したのだ。
 殺し合いの第二幕が切って落とされた。
 第一幕が児戯だとしたら今僕の眼前で繰り広げられてるこれは本物の殺し合いだ。流血を厭わず死に直面した壮絶無比の殺し合い、純粋な闘争。鍵屋崎相手には手加減してたレイジもサーシャ相手ではよそ見する余裕すらない。レイジは不利だ。それは一目でわかる。顔色はひどいし額には汗が浮いてるし呼吸は不規則に乱れてる。サーシャに口移しで飲まされた覚せい剤が全身に回って神経過敏になってるのかもしれない。
覚せい剤を摂取すると体の隅々まで神経が冴えに冴え渡り、全能感に酔い痴れることができる。五感が鋭敏に研ぎ澄まされ運動神経が一時的に飛躍したような錯覚に陥り、ひとたび走り出せば周囲の光景がおそろしくゆったりと停滞してるように見える。体の内側と外側で流れるスピードが違うというか、自分以外のなにもかもが止まってるように感じるのだ。
 レイジもたぶんおなじだろう。自分以外の動く物なにもかもが停滞して見えるはずだ。が、レイジが劣勢なのは動体視力が飛躍したのはともかく覚せい剤の副作用で息切れが速く体力の消耗がはげしいから。本当は廊下を全力疾走できるような体調じゃないのだ。無理をしたらぶっ倒れてもおかしくない。
 東棟の人間を生きて帰すという王様の意地。それだけが今のレイジを支えている。
 「苦しそうだな」
 サーシャの嘲弄が響く。天性の冴えを見せるナイフさばきでレイジを追い詰めながら皇帝が哄笑する。
 「さっき含ませたばかりなのに、もうクスリが欲しくなってきたのか」
 「そっちこそ息が切れてんじゃねえか。お注射の時間ですよ」
 「まだそんな減らず口をきく余力が残っていたとは、さすがに雑種はしぶといな。お前が私のもとにきたこの数日間というもの一日一度は拷問部屋の鎖につなぎ麻薬を溶かした水を含ませたというのに……」  
 「言ったろ?ガキのころさんざん自白剤使われたから体が慣れてんだ。麻薬なんかへっちゃらだ。俺に効くクスリは美女の涙とダチのお説教だけだ」
 「ダチのお説教」で、レイジがちらりと鍵屋崎を一瞥した。レイジのはるか背後、サムライと寄り添う合うように殺し合いを見守っていた鍵屋崎が何か言いかけて一歩を踏み出し、サムライの木刀で遮られる。咎めるような眼差しでサムライを見上げた鍵屋崎が怒鳴り、サムライが渋面をつくり首を振る。おそらく鍵屋崎がレイジを助けようとしてサムライに諌められてるのだ。この場はサムライが正しい。鍵屋崎がのこのこ出てっても戦いの邪魔になるだけで役に立ちゃしない、軟弱な坊やはひっこんでなと顰蹙買うのがオチだ。
 それ以前に、レイジとサーシャの戦いは凄まじすぎて第三者がわりこむ余地がない。
 再びサーシャに向き直るレイジ。刹那、銀の軌跡が半弧を描きレイジの鼻梁をまたぎ、前髪が数本宙に散る。とっさに上体を反らしていなければレイジの顔面はざっくり切り裂かれ美形が台無しになっていた。
 「なにを勘違いしているんだ雑種の王。お前に友人などいるわけなかろう」
 「俺もそう思ってたんだけどよ」
 冷たく吐き捨てたサーシャにレイジが苦笑いする。眼前にナイフを跳ね上げ、鋼刃の背でサーシャのナイフを受け止めながらぐるりを見まわす。道化と隠者のコンビが抜群の連携プレイで北の兵隊どもを蹴散らし、背後では鍵屋崎とサムライが固唾を飲んでこちらを見守っている。渡り廊下の惨状を視界におさめたレイジが、子供みたいな顔で笑う。
 「俺、自分で思ってたより人気者だったみたい。モテるのは女だけじゃないって証明されたろ」
 「お前は私の犬だ。友人などもつ必要はない、私だけを崇拝し私だけを敬愛し私だけに服従すればいい」
 「独占欲強い男は嫌われるぜ。おまけに嫉妬深いときた、性格直さなきゃロシア女も寄ってこないぜ」
 「どうせ私が外にでられる見込みなどない。ならばこの極東の監獄に皇帝として君臨し、権力を振るったほうが楽しいではないか」
 「金髪美人のマトリョ―ショカより俺を愛しちゃってるなんて趣味疑うぜ」
「愛している?」
 悪い冗談でも聞いたようにサーシャの口角がひきつる。青白い炎が揺らめくようにサーシャの全身から噴き上がったのは、殺気。ぎらつく白目に毛細血管を浮かせ、憤怒の形相に変じたサーシャが華麗な舞踏を踊るように身を捩り、フェンシングの選手のようなポーズで切っ先をレイジのそれにぶつける。
 レイジの反応は迅速だった。ナイフを立て、即座にサーシャの剣先を受ける。ナイフとナイフの衝突音が苛烈に響き渡り、音の波紋が殷殷と共鳴する。手首が痺れる衝撃など感じさせず余裕ありげなサーシャが、苦しげに呼吸するレイジを傲然と見下す。
 レイジの人権を剥奪し、徹底的に犬扱いする侮蔑の眼差し。 
 「反吐がでる誤解だな。私がお前を愛しているわけがない……憎んでいるのだ」
 「そうかよ。そりゃ嬉しいな、嬉しくて嬉しくて笑いが止まらねえぜ。お前みたいな変態に好かれるよりか憎んでもらうほうが億万倍マシだ」
 「主人を変態よばわりか。お前はよほど拷問部屋が恋しいらしいな。鎖につながれていたぶられることに悦びを感じていたくせに自分だけ正常なふりをするか、笑わせる」
 「悦びなんか感じてねえよ。痛みに慣れてるから平気に見えただけだっつの。女でも男でも変態でも相手はだれでもいいけど愛のあるセックスが好きなんだ、俺は」
 ナイフを紙一重でかわしながらレイジが憮然と吐き捨てる。鋭利な風が頬をかすめて前髪を浮かせ、周到にレイジを追いこんでゆく。サーシャのナイフさばきは神業の域に達していた。幼少期はモスクワのサーカスにてナイフの芸を仕込まれ、成長してからはロシアンマフィアに飼われた暗殺者として何人何十人もの人間を闇に葬ってきた。その意味ではサーシャこそ、常にだれかに服従と忠誠を強いられてきた飼い犬だった。
 だから現在のサーシャは、幼少期の報復をするように他者に服従と忠誠を強いるようになったのか?
 僕にはよくわからない。
 サーシャは完全に狂ってて、僕の想像力が追いつかない。
 僕にわかるのはただ、サーカスの曲芸犬がいつしか組織の飼い犬となり、今は極東の地で数多の犬を飼い殺す皇帝にまでのしあがったという皮肉な事実だけ。
 そしてその皇帝が、最も執着する犬がレイジだった。
 サーシャは本気でレイジを自分のものにしたがってる。体も心も完全に掌握して自分の所有物にしたがってる。憎しみと紙一重の愛なのか愛と紙一重の憎しみなのか、本人だって区別はつかないだろう。
 「!ちっ、」
 レイジが舌打ちする。サーシャのナイフがズボンの太股を切り裂き、素肌が外気にふれたのだ。レイジは窮地に陥っていた。口移しで飲まされた覚せい剤が全身に回り、視界もぐらつく酩酊状態にあるのだ。サーシャに応戦しようにも視界が朦朧と歪み、平衡感覚が狂うせいで猛攻をかわすだけで精一杯だ。レイジの体調が万全ならサーシャと互角以上に戦えたはずなのに、と傍で眺めてる僕まで歯痒くなる。東棟の王様が大ピンチなのだ、東棟の人間なら気を揉むのがあたりまえだ。
 「どうしたレイジよ、お前の実力はその程度か。半年前に私を跪かせたナイフの冴えはどうした?渡り廊下で私の背中を切り刻んだときの残酷性は?」
 勝利を予感したサーシャが嬉々として笑い、風切る唸りをあげてナイフを振り上げる。静脈の浮いた細腕を頭上に翳し、レイジの眉間めがけて振り下ろす……
 「!?」
 レイジの眉間を抉るかに見えたナイフの軌道が狂い、サーシャの腕が横に流れた。サーシャの死角でレイジが足を蹴り上げ、サーシャの腰を直撃したのだ。腰を蹴られた反動で前のめりに姿勢を崩したサーシャに最大の隙が生まれる。おそらくこの機を逃せばレイジに形勢逆転のチャンスは訪れない。
 絶好のチャンスだ。
 「レイジ、行け!」
 「やれレイジ!」
 鍵屋崎が叫んだ。いや、ひょっとしたらヨンイルかもしれない。ホセかもしれない、サムライかもしれない、全員一緒かもしれない。声援に後押しされるようにサーシャの懐にとびこんだレイジが伸び上がるように上体を起こし、サーシャの首筋めがけナイフをー……
 しかし、サーシャの頚動脈が切断され、鮮血が噴きあがることは遂になかった。 
 サーシャに隙が生まれた一瞬、レイジは獣めいて俊敏な身のこなしでサーシャに肉薄、頚動脈をナイフで掻き切ろうとした。が、サーシャの首筋をナイフで切り裂こうとした瞬間、不測の事態が起きた。
 レイジのポケットから何か、白くて四角い物が床へとおちた。
 「!」
 レイジの注意がそちらに逸れた。馬鹿なにやってんだ、と叫びたかった。こんな大事なときによそ見なんてどうかしてるよ王様、と焦燥にかられた僕の視線の先、動きが鈍ったレイジの片腕から血が飛び散る。
 サーシャのナイフが、袖ごとレイジの腕を切り裂いた。
 「……痛っう、」 
 ぱっくり裂けた袖の下にはざっくり裂けた傷口があった。片腕を庇いレイジが膝をつく。腕を流れ落ちる鮮血が床に赤い筋を描く。もはや勝敗は決した。レイジは起死回生、形勢逆転のチャンスを自ら放棄した。サーシャの懐にとびこんだとき、一瞬たりともためらわず頚動脈を掻ききってれば片腕を怪我することもなかったのに、大事な時に限って足元へと注意が逸れたのだ。
 レイジの足元には四角形のプラスチックが落ちていた。あれは……麻雀で使われる牌だ。
 「わけわかんないよ、なんで牌なんか持ってるのさ。なんであんな物に……」
 無敵の王様が膝をついた。勝てる勝負を、捨てた。
 その事実に動揺を隠しきれない僕の眼前、床に膝を屈したレイジを見下すのはサーシャ。
 「殺し合いの勝者は私だ。お前は負け犬だ」 
 「……は、ははははは。異議なしだ」
 片腕を押さえたレイジが苦しげに笑う。実際認めるしかないだろう、こうしてサーシャに膝を屈しているのだから。虚勢なのか自暴自棄なのか、乾いた笑い声をあげるレイジに鼻を鳴らし、髪を無造作に掴むサーシャ。
 アイスブルーの目で燃え盛るのは氷点下の憎悪。
 「飼い主に歯向かうとは躾が足りなかったようだな。麻薬漬けにしてほしいか。半端に理性が残っているから皇帝に忠義を尽くせないのだろう。そうだ今決めた、お前にいちから服従心を叩きこむために今日から一週間拷問部屋に幽閉する。お前は好きだろう、あの部屋が」
 『拷問部屋』
 その名を恍惚と口にするサーシャとは対照的に、レイジの笑みが強張った。中腰の姿勢に屈んだサーシャがレイジの頬に両手を添え、そっと顔を起こし、耳元に口を近付ける。
 「独居房もおそろしいが北の拷問部屋はもっとおそろしいぞ。あれは思う存分囚人をいたぶるために特別に誂えさせた部屋だ。一週間幽閉した囚人で正気を保っていられた者は今だかつていない。格子窓は内側から目張りしてある。中は一条も光もささない暗闇だ。目を閉じても開けても暗闇が続く生き地獄だ」
 「脅してるつもりかよそれで。なめられたもんだな俺も、暗闇なんかいまさら怖くねえよ。気楽に鼻歌でも唄ってるさ」
 不敵に笑み返したレイジには王様の矜持と自信が少し戻ってきていた。背後に鍵屋崎とサムライがいることを思い出したんだろう。東棟の人間に、それも自分を心配する鍵屋崎とサムライに情けない姿を見せるわけにはいかないと強気に宣言したレイジが気に入らないのか、サーシャの目がすっと細まる。
 ゆっくりと腰を上げるサーシャ。その靴裏が、足元の牌を踏みつける。
 「!」
 レイジの表情が豹変した。
 「どうした。この牌が大事か」
 表情の変化に目敏く気付いたサーシャが、残虐な笑みを浮かべる。なにをすれば人に最大の苦痛と屈辱を与えられるか、冷静に計算し実行に移す暴帝の笑顔。牌を靴裏に踏みつけたサーシャが、片腕を庇ったレイジの表情をさぐりながら、徐徐に足に力をこめる。
 足裏に体重をかければ、牌が不吉に軋む。
 「やめろ」
 レイジが低く呟く。サーシャはそれを無視し、足裏に体重をかける。牌が軋む音が耳障りだ。
 「お前はさっき、もう少しで私にとどめを刺すことができた。頚動脈を切り裂き失血死させることができた。にもかかわらず、牌が落ちた瞬間にそちらに注意が向いた。私が気付かないとでも思っていたか?気付くに決まっているだろう、浅はかな犬め。お前はこの私の命ではなく、こんな安物の牌を選んだのだ」
 サーシャが憎悪にかすれた声で吐き捨てる。片腕を負傷したレイジの顔色は青褪めて、犬みたいに荒い息を吐いている。腕から血が流れ出して今にも貧血を起こしそうだ。
 サーシャの足元に跪いたレイジが、虚無の深淵を覗いたように暗い目になる。
 「汚い足をどけろサーシャ。半年前とおなじ目に遭いたいのかよクソ皇帝、今度は左手に風穴開けるぜ」
 抑揚を欠いた口調でレイジが言い捨て、今度はサーシャの顔から笑みが消失。
 鈍い音がした。
 サーシャのつま先が無造作に跳ね上がり、レイジの顎を蹴ったのだ。大きく仰け反ったレイジの髪を掴み、正面に戻したサーシャが興奮に乾いた下唇を舐める。   
 「口を慎め、雑種め」
 サーシャがポケットからとりだしたのは、覚せい剤の袋。口で袋を破き、手にしたナイフを横に寝かせ、白い粉末をふりかける。なにをやってるんだ?白い粉末の付着したナイフを角度を変えためつすがめつし、頷いたサーシャがレイジへと向き直る。
 「舐めろ」
 レイジの鼻先につきだされたのは、ナイフ。
 「…………」
 「そこに跪きナイフを舐め、皇帝に生涯の忠誠を誓え。そうすれば足をどけてもよい」
 「レイジ、サーシャの命令に従う必要などない。サーシャは異常者だ、異常者の妄想にひきずりこまれて君まで狂うことはないんだ」
 鍵屋崎の必死の説得がむなしく響く。僕は生唾を嚥下する。レイジは何かに憑かれたようにナイフを見据えていた。虚ろな目だった。激痛で頭が朦朧として、思考が働かなくて、これが現実なのか夢なのか判別つかなくなってるのかもしれない。夢だとしたらあまりに無味乾燥だし、現実だとしたらあまりに救いがない。
 「さあどうする。私の飼い犬になるか、私の物になると誓うか?」
 僕が見ているこれは、はたして現実なのだろうか。
 あのレイジが、無敵の王様が、いつでも大胆不敵な東棟のトップが、サーシャの足元に跪いてる。犬みたいに頭をたれてサーシャに見下されてる。こんな情けないレイジはじめて見る。
 サーシャの足の下で牌が床と擦れ、軋む音がした。
 無言で選択を迫るサーシャの足元で、レイジは深くうなだれる。
 「…………足をどけろ」
 「どけてほしければ命令に従え。服従しろ」
 「どけろよ」
 「交換条件だ」
 レイジにはもう、腕づくでサーシャの足をどける気力も体力も残ってない。サーシャの足をどけたければ命令に従うしかない。前髪の隙間からぼんやりとした目でナイフを透かし見るレイジの表情には、人の心をひどくざわつかせる危うく儚いものが漂っていた。
 レイジが動いた。
 衣擦れの音がやけに耳につく。床に手をついて身を乗り出したレイジが、顎を傾げ、ナイフを舐めようとする。従順な犬のような姿勢で這いつくばったレイジに、サーシャが会心の笑みを浮かべ……

 『不要這様!』

 絶叫とともに、ナイフが飛んできた。
 サーシャのつま先をかすめるように深々と突き立ったのは三本目のナイフ。おそらく鍵屋崎が落として、そのままにしていたやつだろう。自分の足元をかすめたナイフにサーシャが戦慄し、ナイフを舐めようとしたレイジもまた動きを止める。
 叫んだのはだれだ?ナイフを投げたのはだれだ?
 鍵屋崎じゃない。鍵屋崎はサムライと一緒に呆然と突っ立ってるだけだ。ヨンイルでもホセでもない。ふたりは北の兵隊どもを片付けるので手一杯だ。当然僕でもない。
 廊下に居合わせた全員が、声の方角を振り向いた。
 そして、何人かが驚愕に目を見張る。そこにいたのが、そこにいるはずのない人間だったから。ひとりで歩けるはずもない人間、絶対安静を義務付けられベッドに寝たきりの人間、肋骨を骨折して医務室に入院中の……
 ロンが、渡り廊下の壁にすがるようにしてそこに立っていた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051005030639 | 編集

 鼻歌が聞こえた。
 「………」
 「どないしたん」
 顔の前で手を振るヨンイルを無視し、じっと衝立の向こう側を凝視する。
 「……いや。たぶん空耳だ」
 俺もヤキが回った。あいつの鼻歌が聞こえるわけないのに。
 さっき鍵屋崎が医務室に寄って、話していったことを思い出す。さりげなくレイジはどうしてるかと訊ねたら鍵屋崎のヤツは深刻な面持ちで黙りこんで、「この数日間レイジを見てない」とぬかしやがった。レイジは誰にも何も告げず東棟から姿を消した。俺の見舞いにも来ずに今ごろどっかをほっつき歩いてるのだ。
 なのに一瞬、レイジの鼻歌が耳朶をかすめた気がした。一度聞いたら忘れられない音痴な鼻歌、奇妙な果実。虚空に顔を向けた俺は、鼻歌の続きが聞こえないかと耳を澄ます。膝に広げた漫画の存在も忘れ、ベッドの周囲にたむろったヨンイルとホセの存在も忘れ、あの鼻歌が聞こえないかとむなしく期待する。
 レイジの鼻歌。しょっちゅう聞かされて耳について、寝ても覚めても忘れられない歌。
 ものすごい騒音がした。 
 医務室じゃない、少し離れたところからだ。位置的距離的に中央棟から他棟へと伸びた渡り廊下の方角から、なにかが転倒するような鈍い音が続けざまに聞こえてくる。それだけじゃない、さっきから潮騒のように寄せてくるアレは歓声だろうか。どうやら大人数の人間が派手に騒いでるらしく、さっきからひっきりなしに怒声やら悲鳴やらが届く。
 「あああああっ、もう堪忍できん!!」
 ヨンイルがキレるが早く椅子から立ちあがる。せっかく漫画にのめりこんでいたところを現実に引き戻されて怒り心頭、手荒く閉じたブラックジャックを小脇に抱えカーテンを引く。
 「昼間っから近所迷惑にどんちゃん騒ぎしくさってアホたれどもが、読書の邪魔なんじゃ!あったまきた、図書室のヌシが鉄拳制裁くだしたる!」
 憤然とドアへと向かうヨンイルを見送り、ホセも椅子から腰を浮かせる。読書を妨害されたのが単純にむかついたらしいヨンイルとは対照的に、思慮深げに眉をひそめる。
 「……なるほど。中央と北をつなぐ渡り廊下が騒音発生源らしいですね」
 「中央と北?北でなんかあったのか」
 「さあ、それは行ってみなければわかりませんが……」
 好奇心を刺激されて身を乗り出した俺に一瞥くれ、眼鏡のブリッジを押さえるホセ。
 「ロンくん。レイジくんは今、どこにいらっしゃると思いますか」
 一瞬ぎくりとする。ホセは勘が鋭い。俺がどこからかレイジの鼻歌が聞こえないかと耳を澄ましてたことも見抜かれてるかもしれない。俺はパイプに背中を凭せ、ばつ悪げに目を伏せる。レイジのことを心配してるんじゃないかとか、レイジがいなくて寂しがってるんじゃないかとか勘繰られるのは癪だ。膝に広げた漫画のページをめくりながら、努めて平静に言葉を返す。
 「知るかよ。ひとの見舞いにも来ない薄情者の行方なんか知りたくもないっつの、尻軽レイジのことだから他棟の愛人とこにでもフケこんでんじゃねえか」
 「ふむ」
 苛立たしげにページをめくる俺の枕元に立ち、ホセは感心したように唸る。片手で顎をなでながら思案を巡らす姿は鍵屋崎なんかよりよっぽど名探偵の貫禄がある。
 たんに外見が老けてるからかもしれないが。
 「その予想、あながち的外れでもなさそうですよ」
 「へ」
 ページをめくる手を止める。
 しげしげとホセを眺めれば、謎めいた笑顔ではぐらかされた。
 「レイジくんと付き合いが長い吾輩には、彼が今どこにいるかおぼろげながら予想がつきます」
 「マジかよ?」
 疑い深く聞き返す。本当にレイジが今どこにいるかわかるのか?自称天才の鍵屋崎だって困惑してたのに……半信半疑の眼差しでホセを仰げば、黒縁メガネの名探偵はおどけたように首を竦める。
 「あくまで推理の域をでませんがね。……さて、ロンくん。君とレイジくんの間になにがあったか話してもらいましょうか」
 心臓が止まった。
 いきなりなに言い出すんだこいつ。なんで俺とレイジの間になにかあったってわかるんだよ、そんなこと一言だって口にしちゃいないのに。ホセとヨンイルの前じゃ俺は今までどおりいつもどおり振る舞ってきたのに、レイジが来なくて寂しいとか恨めしいとかそんな弱音一言だって吐いたことなかったのに、七三探偵はなんでもかんでもお見通しってワケか?
 人に心を読まれるのは不愉快だ。
 不機嫌に押し黙った俺を微笑ましげに見守りながら椅子に腰掛ける。膝の上で五指を組み、包容力に満ち溢れた微笑を湛えるホセをちらちら盗み見る。ホセはなにをどこまで知ってるんだ?カマをかけてるだけか?俺には知るよしもない。南の隠者の二つ名は伊達じゃない。ホセは思慮深く知的で、観察眼は鋭く洞察力に優れている。たとえ初対面の人間が相手でも「こいつは信用できる」「こいつは信頼できる」と安心感を与える風貌がホセの魅力だ。
 ホセは急かすでもなく、促すでもなく、ただじっと俺が口を開くのを待っていた。
 だから俺は決心した。
 実際ひとりで抱え込むのはもう限界だった。心の奥底では誰かに聞いてほしかったのかもしれない。俺は隠し事が得意じゃないし嘘をつくのも下手だ。レイジと何もなかったフリで周囲をごまかし通すのは予想以上にしんどくて、ただでさえ痛め付けられた体にひどくこたえた。
 俺は堰を切ったように語り出した。
 以前レイジが話した暗い部屋のこと、悲惨で凄惨で陰惨な子供時代の記憶。そんな過酷な体験を何故笑いながら話せるんだとレイジに疑問を持ったこと。
 それから徐徐に歯車が狂い出した。
 俺はレイジがちょっかいかけてきても以前のようにはあしらえなくなって、俺とレイジの間に沈黙が居座るようになった。俺はレイジに背中を向けてレイジを無視することが多くなって、お気楽なレイジが俺の異変を察してたかどうかわからないけど、やっぱりどこかで俺の心が自分から離れてるって感じて、それであの夜、ホセに合格点を貰ったあの夜レイジなりのやり方で仲直りしようとした。
 でも。
 「あの夜、俺は有頂天になってた。お前に合格点貰って、一人前になった気がして、怖い物なしの最高の気分で……凱にはもちろん、レイジにだって負ける気がしなかったんだ。だからレイジがいっちょ揉んでやるって言い出した時、二つ返事でOKした。王様なら相手に不足はなしだ。俺の実力を証明するいい機会だって、俺を馬鹿にしてた連中見返す絶好のチャンスだって、はりきっちまって」
 ホセの顔を直視する勇気が湧かずに下を向く。膝に広げた漫画の内容が全然頭に入ってこない。
 脳裏に浮かぶのはあの夜の光景。
 俺とレイジの間が決定的におかしくなった夜の出来事。   
 俺は調子に乗ってた。それは認める。ホセに誉められて、凱にも勝てる気がして、これでだれにも馬鹿にされず東京プリズンで生きてけるって、東京プリズンで生き抜いていつか外にでることができるって思いこんだ。おめでたいヤツだと自分でも思う。だからレイジが俺の実力を見てやるって言い出した時、相手が無敵の王様でもひょっとしたら勝てるんじゃないかって一縷の希望を抱いて無性に試してみたくなった。
 「とんでもない思いこみだよな。俺がレイジに勝てるわけないのに、あの時はひょっとしたらって思いこんでた。レイジを負かすことはできなくてもかすり傷ひとつくらいつけれるんじゃないかって、そしたらレイジも俺のこと見直してガキ扱いしなくなるんじゃねえかって」
 俺はがむしゃらにレイジに突っかかってった。
 無敵の王様に挑戦するのがどんなに無謀なことか、俺はまだよくわかっちゃいなかった。俺にとってレイジは同房の相棒で、威厳なんかこれっぽっちもない尻軽な王様で、レイジと喧嘩したことはあっても敵対したことは一度もなかった。おめでたいことに、王様を敵に回すのがどんなに命知らずで怖い物知らずな行為か俺はあの時点でちっとも飲みこめてなかったのだ。
 「最初はたちうちできなかった。レイジの動きはすばしっこくて、全然追いつけなかった。めちゃくちゃ悔しかった。レイジのヤツときたら余裕で鼻歌なんか唄いやがって、俺の神経逆撫でして、意地でもなんでもかすり傷ひとつくらい負わせてやるってムキになっちまって」
 そして俺は、レイジの後ろ髪を引いた。
 あの瞬間、勝利を確信した。レイジの隙につけこんでレイジの体に触れることができた、それだけでも快挙だった。リングに上った対戦相手は、レイジに指一本触れることができずにヤられた奴ばかりだったから。 
 「めちゃくちゃ嬉しかったよそりゃ。だって俺が、まわりの連中からさんざん半々だの腰抜けだの馬鹿にされてるこの俺が、レイジの体にさわることができたんだぜ?あともう一歩でレイジに勝てるとこまでいったんだぜ!?」
 興奮に声が弾み、毛布を握り締める手に力がこもる。
 レイジの後ろ髪を掴んだ瞬間の高揚感が甦り心臓が騒ぎ出す。レイジの背中に庇われてばかりの俺が、守られてばかりの俺が、自分ひとりで生き抜ける力を身につけたのだ。ガキの頃からずっと欲しくて欲しくてたまらなかった、自分の身を守り大切なだれかを守る力を手に入れたのだ。
 大切なだれかを守る力?
 ちょっと待て、おかしいじゃねえか。俺が強くなったのならなんで、レイジとこんなことになってるんだ。俺が手に入れたこの力は自分だけじゃなく大切なだれかを守り通すために必要な力じゃないのか。
 俺の大切な誰か。お袋?メイファ?違う。お袋ともメイファとも再び会える可能性は低い、俺が生きて外にでられる可能性はもっと低い。じゃあ俺が手に入れた力は無意味なのか、大切なだれかを守りたくてホセに特訓受けて手に入れたこの力は結局役立たずなのか?
 違う。そうじゃない。俺には他に、大切なダチがいる。
 家族でも恋人でもなくて、でもそいつは大切なヤツで、たぶん生まれて初めてできた俺のダチなのだ。 

 でも、その誰かはもういない。
 俺のそばから、いなくなってしまった。

 「勝てると思ったんだ。今思えばマジで馬鹿だけど、一瞬本気で勝てると思ったんだ。でも駄目だった。振り向いたレイジと目が合った瞬間、体が言うこと聞かなくなった。恐怖で足が竦んで、口もきけなくなった。あんなおっかない目初めて見た。俺が知ってるレイジはあんな目しなかった。いっつもへらへら笑ってる能天気なヤツで、あんなレイジ知らなかった」
 人殺しの目だった。
 それもひとりやふたりじゃない、何十人という人間を殺してきた怪物の目。
 あの眼光に射抜かれた瞬間、避けがたい死を予感した。レイジに殺されると信じて疑わなかった。
 抵抗しなきゃ殺される、抵抗しなきゃ殺される。 
 だって相手は怪物なんだから、人間の言葉が通じるわけない。
 説得も命乞いも通じるわけない。
 「情けねえよちくしょう」
 嗚咽を堪えるみたいに声がかすれた。膝の上から漫画がすべり落ちて床に落下した。鳥肌立った二の腕を抱きしめて丸くなった俺の頭の中には、あの夜の光景が鮮明に浮かんでる。レイジに腹を蹴られて吹っ飛んで、吐瀉物の海に突っ伏した俺。抵抗しなきゃ殺される殺されるとそればかり考えていた、それ以外になにも考えられなかった。
 殺られる前に殺れ。
 殺られる前に殺れ。
 床一面の吐瀉物の海で足掻き、手のひらに安全ピンを握りこんだ瞬間の記憶が閃光のように爆ぜ、たまらず俺は叫んでいた。
 「情けねえよちくしょう、なんで俺こんなにかっこ悪ィんだよ!?今も昔も変わってねえよ、かっこ悪いまんまじゃねえよかよ!レイジなんかにびびって、あいつが近寄ってきた時も頭真っ白でわけわかんなくなって、安全ピンでおもいきり手え刺して!レイジは殺すつもりなんかなかったのに、俺に手を貸して立ちあがらせようとしただけだったのに、俺はそのレイジの手を安全ピンでおもいきりひっかいたんだ!!」
 言葉の洪水は止まらなかった。堰を切ったようにあとからあとから言葉が溢れ出した。胸が苦しかった。レイジは俺を助けようとしたのに、俺に手をさしのべてくれたのに、俺はその手を叩き落とした。
 それだけじゃない、俺は。
 「レイジにひどいこと言ったんだ」
 「なんて」
 ホセの穏やかな声が鼓膜に染みる。毛布を握り締めた手が震え出す。激情に理性が押し流され咆哮したくなる。レイジはいつも俺に優しかった。監視塔に助けにきてくれた、眠れない夜は額にキスしてくれた、俺に手紙をくれた、売春班から救い出してくれた。
 いつも、音痴な鼻歌を聞かせてくれた。
 なんでレイジを信じきれなかった、信じてやれなかった?あいつの笑顔が怖いとかどこまで本気かわからないとかそんなのどうでもいいことじゃないか、レイジはずっとずっとずっと、出会ってからずっと俺に優しくしてくれたじゃないか。俺のことをいちばんに考えてくれたじゃないか。
 いいダチじゃないか。
 俺なんかにはもったいないぐらいの、

 「『殺さないでくれ』」

 容赦なく胸を抉る辛辣な言葉。自分で口にだして、その言葉を噛み締めて、強く強く二の腕を抱きしめる。『殺さないでくれ』。ダチに言う言葉じゃない。命乞いなんて、ダチにするもんじゃない。
 俺は最低のやり方でレイジを裏切った。
 だからレイジは離れていった。自業自得だ。
 「くそっ、くそっ……なんでだよ、なんでこんなことになったんだよ!?なんであの時あんなこと行っちまったんだよ、命乞いなんかしちまったんだよ。あの時レイジひどい顔したんだ、俺が見たこともない笑顔だった。レイジは絶望しながら笑えるから、泣いたり怒ったりしないから……」
 「レイジくんが泣いたり怒ったりすればおもいきり言いたいことが言えたのに?」
 ホセの声はどこまでも穏やかに凪いでいた。俺はホセの言葉にただ頷いた。レイジがあの時泣くか怒るかしてくれたら俺だって反論しようがあったのだ、これは違うんだ、そうじゃないんだと主張することができたんだ。でもレイジは笑っていたから、絶望したから、俺は言葉を喪失した。
 なにを言っても無駄だと諦念してしまったのだ。
 「あきらめなけりゃよかった、」

 あの時あきらめなけりゃ、レイジは今も隣にいた?

 「ちゃんと誤解をとけばよかった。みっともなくてもかっこ悪くても情けなくても、レイジにすがりついて誤解をといてりゃよかったんだ。お前なんか全然怖くねえ、今のは嘘だ間違いだって言ってやればよかった」

 勘違いすんなよレイジ、お前なんかちっとも怖くねえよ。
 今のは冗談だよ。お前の顔、傑作だったぜ。俺にフラれてショックだったろ?ざまあみろ。
 だからそんな、泣いてるみたいな顔で笑うなよ。
 おかしいよ。

 「笑えなくてもイカレてても関係ない、お前は俺のダチだって言ってやればよかった!!」

 医務室の天井に絶叫が響いた。
 二の腕に指が食い込んで鮮明な痛みを与えた。皮膚に爪が食いこむ痛みが俺を現実に繋ぎとめてくれた。
 レイジにあんな痛い笑顔させたのは、俺だ。レイジを追いこんだのは俺だ。本当ならベッドの上でじっとしてる場合じゃない、今すぐレイジを捜しに行きたい。レイジをぶん殴りに行きたい。
 そして、お前は俺のくそったれたダチだって言ってやりたい。
 ベッドの上にうずくまった俺のそばにホセは無言で腰掛けていた。が、おもむろに腰を上げるや、床に落ちた本を拾い上げて俺の枕元に置く。
 「今からでも遅くはありません」
 緩慢に顔を上げる。枕元に立ったホセが、むかし懐かしむように遠い目をして呟く。
 「以前、レイジくんがこう言いました。『殺さないでくれ』はおしまいの合図だと」
 「………は?」
 「吾輩にも意味はよくわかりません。だがしかし、殺さないでくれと誰かが言い出したらおしまいなんだとレイジくんはおっしゃっていました。いつものように笑いながら、でもほんの少し寂しげに……だからでしょうね。ロンくんに『殺さないでくれ』といわれたとき、レイジくんは別れを切り出されたように感じたんでしょう。最後通牒を突き付けられたように感じ、これ以上ロンくんのそばにはいられないと結論を下し、だれにも何も告げず行ってしまった」
 殺さないでくれはおしまいの合図。
 ホセの言ってることはわからないことだらけだった。でもひとつ、わかったことがある。
 俺があの時口にした一言は、絶対言ってはいけない一言だった。    
 レイジにとって致命的な一言だったのだ。
 自分が口にした言葉の重さに打ちひしがれ、悄然とうなだれた俺を優しく見守りつつホセが続ける。
 「でもロンくん、本当にこのままでいいんですか?レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい。以前、吾輩のワイフが家出をしたことがあります。原因は夫婦喧嘩。吾輩は一晩中ワイフを捜しまわりました。声が嗄れるまでワイフの名を呼び続けて、足が棒になっても走るのをやめず、絶対に諦めませんでした」
 ホセがにこりと微笑む。
 「そうして再びワイフと出会えたのです」
 ホセの言いたいことが漠然とわかった。ホセが俺を励ましてくれてることも、痛いほど伝わってきた。最後に俺の頭を撫でようとしたホセの手から逃れたのはガキ扱いされたくない条件反射だ。苦笑したホセがぽんと俺の肩を叩き、カーテンを開ける。今からヨンイルを追うつもりだろう。渡り廊下の喧騒は途絶えることなく、盛りあがるばかりだ。
 医務室のドアが閉じる。ベッドにひとり取り残された俺は、放心状態で正面の虚空を見つめる。周囲の床にはヨンイルが放り出した漫画本が散乱して足の踏み場もない。ふたりとも行っちまった。医者は居眠りでもしてるのか、衝立越しにのんきな寝息が聞こえてくる。 
 『でもロンくん、本当にこのままでいいんですか』
 「いいわけねえ」
 『レイジくんは誤解しているだけです。ならば今からでも遅くない、誤解をとけばいい』
 「七三メガネに言われなくても、とっくにわかってたっつの」
 そうだ、とっくにわかってたのだ。俺がレイジを迎えにいくしかないと。
 レイジがどこにいるかわからない。案外近くもしれないし、俺が思ってもみないところかもしれない。
 でも、俺が行動を起こさなきゃなにも始まらない。折れた肋骨がどうした?動けないわけじゃない。毛布をはだけ、パイプにすがり、慎重に床に足をおろす。片足ずつ床におろし、壁に背中を凭せて立つ。
 大丈夫、歩ける。意地でも次の一歩を踏み出してやる。
 胸の激痛を堪え、歯を食いしばり、足をひきずるように歩き出す。必ずレイジを見つけてやる。夢の中でぶん殴るだけじゃ気が済まない、俺は現実にレイジに会いたいのだ。空耳じゃない鼻歌を聞きたいのだ。
 このままでいいわけない。
 「ああいいさ、もうヤケだぜくそったれ。認めてやるよ、レイジがいなくて寂しいって。文句あるかよ」
 乱暴にカーテンを引き、ドアを目指して歩き出す。ドアまでの道のりが気が遠くなるように長かった。一歩踏み出すごとに胸の激痛がはげしくなり全身の間接が軋んで悲鳴をあげたくなった。下唇を噛んで苦鳴を殺し、かすんだ目を凝らしてドアへ向かう途中、俺の耳朶をかすめたのはかすかな鼻歌。
 幻聴か?
 いや、違う。これは鼻歌だ。レイジがいつも口ずさんでるあの……
 レイジの居所がわかった。この鼻歌が聞こえてくる場所だ。
 「待ってろよレイジ、今すぐぶん殴ってやるからな」
 神様のお導きなんて信じない俺を、神様に見捨てられた男の鼻歌が導いてくれる。 
 皮肉な話だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051004030746 | 編集

 渡り廊下は戦場だった。
 「…………」
 悲鳴と罵声と苦鳴と絶叫、沈没船のネズミのように恐慌をきたした一部のガキが意味不明のロシア語で喚き散らす光景に愕然とする。
 流血沙汰の乱闘騒ぎなんて東京プリズンじゃ珍しくもない年中行事だが、こんだけ規模がでかいのは年に一・二回だ。一体全体なにがあったんだと呆然と立ち竦んだ俺の鼻先に吹っ飛んできたのは誰かの後頭部。後ろ向きに転倒したガキを間一髪かわせば、物凄い音をたてて床に頭をぶつけた。
 白目を剥いたガキの顔を覗きこみ、煙に遮られた前方に目を凝らす。 
 煙に目が慣れ周囲の喧騒に耳が慣れ、おおかた状況が飲みこめてきた。渡り廊下に散らばってる囚人の大半はサーシャ配下の北のガキどもで何人か監視塔で見たツラも混ざっていた。そいつら相手に大暴れしてるのはヨンイルとホセだ。
 次第に煙が薄れて廊下の惨状が暴かれてゆくつれ、俺は叫びそうになる。
 二対三十なんて無茶だ。勝ち目がない。
 でもヨンイルとホセは、その無茶をらくらくこなしてる。大人数で攻めてくる北のガキどもにも物怖じせずに身軽に跳躍し機敏に走り回るヨンイル。生き生きと素早い動きでヨンイルが跳べば風を孕んだ上着がめくれ、背中や腹部や胸板から刺青が覗く。
 ヨンイルを抱きすくめているのは、長大な蛇腹を蠢動させる一頭の龍。
 鱗一枚一枚から瘴気じみた執念が噴き出しているかのような渾身の刺青。龍の神通力まで身の内に宿したように凄まじい戦いぶりを見せるヨンイルが、大声で叫ぶ。
 「行ったでホセ!」
 ヨンイルが取り逃したガキがホセの眼前に転がり出る。
 「吾輩ホセ、なるべくなら平和的な解決を望む温厚な人間なのでここはひとつ和解の握手でも」
 「うわあああああ寄るなああああ!!」 
 絞殺されるとでも思ったか、錯乱したガキがその手を叩き落とす。よりにもよってナイフを握った手で、だ。ホセは俊敏にこれをかわしたが、カチンと金属音が鳴った。フットワーク軽く後退したはずみに左手の指輪をナイフがかすめたらしい。  
 ホセの表情が豹変する。
 「夫婦愛の証に傷をつけましたね」
 暗澹と沈みこんだホセが口元だけに微笑を上らせる。肌にびりびりくる殺気がホセの全身から放たれる。俺の視線の先にいるアレは本当にホセだろうか?七三分けに黒縁メガネをかけた老け顔の、温和で温厚な恐妻家だろうか。闘志が青白く燃え盛る双眸でガキを睥睨したホセが口を開く。
 「夫婦愛の名のもとに、撲殺します」
 有言実行の撲殺宣言だ。目の前で展開されるスプラッタな光景と耳をつんざく悲鳴に腰が引ける。夫婦愛の証の結婚指輪に傷つけられたのがバーサーカーモードへ切り替わるきっかけとなったらしく、白目剥いたガキの顔面に容赦なく鉄拳をぶちこむホセには近寄りがたい。
 阿鼻叫喚の地獄絵図が眼前で繰り広げられる。
 「こんなとこにほんとにレイジがいるのかよ……!?」
 半死半生で渡り廊下に辿り着いたものの、阿鼻叫喚の地獄絵図に突入する決心がつかず壁に肩を凭れて様子を見守る。自力で歩ける体調でもないくせに医務室から這いずってきた無理が祟り、胸が激痛を訴える。
 錐で胸を貫かれるような疼痛に苛まれながら、壁にすがり体勢を保つ。
 額に滲んだ脂汗が目に流れ込んで視界がぼやける。呼吸するだけでも肋骨がずきずき疼いて苦しかった。ここまで辿り着けたのが奇跡のようだ。全身の間接が軋んで悲鳴をあげて、折れた肋骨に激痛が走って、一歩ごとに休んで体調の回復を待たなけりゃならなくてここにつくまでえらく時間を食った。壁によりかかり一歩ずつ慎重に足を踏み出し、ようやく目的地に到着した俺の眼前では予想外の事態が起きていた。戦争。北のガキどもが廊下を端から端まで占拠して暴れまわっていて、ヨンイルとホセもちゃっかり参戦してた。
 こんなところに、本当にレイジがいるのか?
 鼻歌に導かれてのこのこやってきた俺はいまさら不安になる。医務室で聞いた鼻歌、一度聞いたら忘れられない音痴な鼻歌。この鼻歌をたどればレイジのところへ行けると、一縷の希望を手繰るように怪我した体に鞭打ち決死の思いで歩き出した。
 あの時はレイジをぶん殴りたくていてもたってもいられなかった、ベッドで寝てる場合じゃないと思った。でも冷静に考えてみたら、レイジの鼻歌が聞こえるわけない。医務室の扉は固く閉ざされて、あの時廊下には人の気配がなくて、ベッドで寝たきりの俺のもとにどこにいるんだかわからないレイジの鼻歌が届くわきゃないのだ。
 だけど聞こえたんだ。空耳でも幻聴でもかまやしないが、俺には、俺にだけははっきり聞こえたんだ。他の連中がだれも気付かなくても、他の誰にも聞こえなくても、この俺がレイジのどへたな鼻歌を聞き間違えるはずがない。
 レイジはきっと、ここにいる。
 俺は自分の耳を信じる。
 逡巡を振り切り、不安を押し殺し、上着の胸を掴んであたりを見まわす。レイジはここに、北と中央を繋ぐこの渡り廊下にいるはずだ。今の俺を支えているのはレイジが身近にいるという予感だけ、レイジに会えるかもしれないという期待だけ。さがせ、さがすんだ。レイジは絶対にここにいる。北と中央をつなぐ渡り廊下は死屍累々の惨状を呈していた。煙に巻かれた視界に横たわるのは白目を剥き泡を噴き鼻が曲がり顎を砕かれ腕や足があらぬ方向に曲がった北のガキども。苦鳴と絶叫と断末魔とが響き渡る地獄の一本道を、壁に手をかけ、意を決して進む。煙に視界を覆われたせいで誰が味方で敵か区別がつかず、同士討ちを演じたガキが同時に床にぶっ倒れる。ヨンイルとホセはまだ戦ってる。時折聞こえてくる鈍い音はヨンイルかホセのどっちかが敵を殴り付ける音。
 レイジはどこだ?
 「くそ、痛てえ……」
 胸が圧迫され呼吸もままならない。本来俺は動ける体じゃない、ただ歩くだけで重労働の不便な体なのだ。ここらで引き返したほうが無難だ、という誘惑がちらりと脳裏をかすめる。無理すんなよ、おとなしくベッドで寝てればこんな痛くて苦しい思いしなくてすむのに物好きだなお前は。俺もそう思う。まったく同感だ。なんで俺こんな頑張ってるんだ、馬鹿じゃないか。ひとの見舞いにもこねえ薄情な王様なんか放っとけよ、未練がましいんだよ。心の片隅にいる露悪的な俺が自嘲の台詞を吐く。壁に寄りかかり、床でのびたがキどもを跨ぎ、疼痛を訴える胸を片手で庇い、ひたすら前進する俺を嘲笑う。
 「はっ、……」
 壁に肩を預けたままずり落ちそうになる。ひどい疲労を感じて膝が挫けそうだ。胸を押さえてうずくまった俺の耳にとびこんでくるのは、ロシア語の罵声と意味不明の絶叫。
 『以前、吾輩のワイフが家出をしたことがあります。原因は夫婦喧嘩。吾輩は一晩中ワイフを捜しまわりました。声が嗄れるまでワイフの名を呼び続けて、足が棒になっても走るのをやめず、絶対に諦めませんでした』 
 朦朧とした頭でホセの言葉を反芻する。
 『そうして再びワイフと出会えたのです』
 声が嗄れるまで呼びつづけ、足が棒になっても走るのをやめず、最後まで絶対に諦めない。
 「上等だよ。これしきのことでへこたれるか、レイジのバカ連れ戻してぶん殴ってやるって決めたんだ。喉がすりきれて血を吐こうが足が棒になろうが首ねっこ引っ掴んでやろうじゃんか」
 壁に手をつき、ふらつく足で立ち上がる。体調は最悪だ。一歩踏み出すごとに錐で肋骨を貫かれる疼痛が走り、陽炎のように視界が歪んで悪酔いする。 
 今の俺を突き動かすのは、レイジをぶん殴りたいという衝動。
 レイジのツラを見たいという妄執じみた一念。
 「どこにいるんだよくそったれ、怪我人働かせんじゃねえよ……!」
 
 キン、と耳の痛くなる金属音がした。

 「!」
 はっとして顔を上げる。今のはナイフとナイフが切り結ぶ音だ。ヨンイルとホセにあらかた一掃されたのか、北のガキどもが累々と倒れ伏した渡り廊下は格段に見晴らしがよくなってた。煙が薄れ、視界が晴れた渡り廊下に目を凝らす。
 廊下の中央に対峙する、あれは……
 「レイジ、行け!」
 「やれレイジ!」
 誰かと誰かが同時に叫んだ。やけに聞き覚えのある声だった。鍵屋崎か、あいつもここにいるのか?当惑した俺の視線の先、渡り廊下の中央で人影が交錯する。
 レイジ。
 レイジなのか?
 壁に片手をつき、上体を起こす。あそこで戦ってるのはレイジなのか。心臓が騒ぎ出し血の巡りが早くなり、気付けば俺は一縷の希望に縋るように上着の胸を掴んでいた。あのバカこんなところでなにやってんだ、ナイフなんか持って危ないじゃんか。そんな物騒なもん早く捨てろよ、捨てちまえよ。声にだして叫ぼうとして、胸の激痛にうずくまる。くそ、肝心なときに声がでねえなんて……これじゃレイジを振り向かせることもできないじゃんか。
 「やっと会えたのに、こんなオチってありかよ」
 頼む気付いてくれ、俺はここだ。壁に手をつき中腰に屈み、廊下中央で切り結ぶ二人を凝視する。あれはレイジだ。会いたくて会いたくてたまらなかったレイジ、殴りたくて殴りたくてたまらなかった男。まともにしてりゃ美形なのに卑しい笑みで台無しで、甘い囁き声も悪かないのに音痴な鼻歌で台無しで、
 でも俺は、あいつの笑顔も鼻歌も嫌いじゃない。
 そう伝えたいのに、伝えてやりたいのに、なんで肝心なときに限って声がでないんだよ?叫べ喉、動け舌。殺し合いなんかやめさせろ。
 レイジやめてくれ、気付いてくれ、俺を見てくれ。
 レイジの相手ははサーシャだ。
 冷酷無比な北のトップ、薬物依存症で誇大妄想狂のナイフの名手。よく見ればレイジは怪我をしてた。頬が切り裂かれて傷口から出血して、上着の胸元まで赤く染まっていた。レイジは苦戦してた。呼吸は荒く乱れ、額に汗をかき、追い詰められた獣めいた光を目に宿したレイジは俺の知る無敵の王様じゃない。
 弱さと強さを併せ持つ、危うく儚い人間だ。  
 レイジはサーシャの相手に必死でこれっぽっちも俺に気付いちゃない。くそ、動けよ足!なんで言うこと聞かないんだよ、レイジのところに連れてってくれよ!包帯が巻かれた足首は倍に腫れて、俺の意志に反して一歩も動いちゃくれなかった。
 
 そして、俺が成す術なく見ている眼前で。
 サーシャがレイジの片腕を切り裂いた。
 
 「!!っあ、」
 自分が目撃した光景が悪い冗談のように思えた。片腕から血が噴き出し、飛び散り、レイジががくりと膝をついた。サーシャのナイフはレイジの片腕を深々と切り裂き、鋭利な傷口から鮮血が滴り落ちた。赤い……赤い血。レイジの膝を染め床へと流れだしサーシャのつま先まで広がる血だまり。
 あのバカ、よそ見してんじゃねえよ。どうしたんだよ王様、らしくねえよ。半年前はサーシャに余裕で勝てたくせに今のこのザマはなんだよ、どうしちまったんだよ。喉元に殺到する罵倒の文句も、動揺に舌が縺れて音声化できない。
 レイジがサーシャにやられた……敗けた?嘘だそんなの、ありえない。
 混乱冷めやらぬ俺をよそに、事態は最悪の方向へと転がっていた。
 床に膝を屈したレイジの髪を掴んで顔を起こさせるサーシャ。勝者の愉悦に酔い痴れた陰惨な笑顔。サーシャがレイジを口汚く罵倒する、侮辱する、蔑笑する。
 人の尊厳を貶め矜持に泥をぬり犬として扱う聞くに堪えない台詞の数々。
 「飼い主に歯向かうとは躾が足りなかったようだな。麻薬漬けにしてほしいか。半端に理性が残っているから皇帝に忠義を尽くせないのだろう。そうだ今決めた、お前にいちから服従心を叩きこむために今日から一週間拷問部屋に幽閉する。お前は好きだろう、あの部屋が」
 言われ放題になってんじゃねえよ。
 やり返せよ言い返せよ、格好いいとこ見せてくれよ王様。調子乗りまくりのサーシャをぶん殴って気障ったらしい決め台詞吐いてくれよ。だが俺の願いむなしく、レイジが起きあがることはない。レイジはひどい顔色で、全身にびっしょり汗をかいて、息が苦しげだった。
 レイジの異変に気付いた俺の心臓が不穏に暴れ出す。サーシャになにかされたのか、だからあんなに弱ってるのか?そうに違いない。助けなきゃ……このままじゃレイジが殺されちまう。
 ちくしょう、俺がぶん殴るまえにサーシャに殺されてたまるかよ。
 床を手探りして武器をさがす俺の視線の先じゃサーシャが存分にレイジをいたぶってる。言葉で、蹴りで、レイジが片腕怪我して体調悪くて無抵抗なのをいいことにそりゃもう楽しげに楽しげに笑いながら。
 「さあどうする。私の飼い犬になるか、私の物になると誓うか?」
 誓うな、
 「…………足をどけろ」
 低くかすれたレイジの声。
 「どけてほしければ命令に従え。服従しろ」
 「どけろよ」
 「交換条件だ」
 衣擦れの音がした。不吉な予感にかられてそちらに目をやれば、レイジが驚くべき行動にでた。サーシャに言われるがまま従順に床に手をつき、眼前に突き出されたナイフを舐めようとする。
 いやだ。
 レイジのこんな姿見たくねえ。
 その時、おもいきり腕をのばせば辛うじて届く距離にナイフが転がってることに気付いた。刹那の躊躇もなく、おもいきり腕をのばしてナイフを掴み取る。

 視界の端を掠めたのは、敵を服従させた優越感に酔い痴れるサーシャの笑顔。
 床にひれ伏したレイジが舌をだし、ナイフに顔を近付けるさまを眺める陰険な目つき。
 飼い犬に芸を仕込むようなその……

 サーシャへの憎悪が爆ぜ、喉灼く絶叫が迸った。
 『不要這様!』   
 余力を振り絞り、大きく腕を振りかぶる。俺が全力で投擲したナイフは大きな放物線を描きサーシャの足元に突き立った。渡り廊下に居合わせた全員の注意が俺に向いた。それまで俺の存在に気付いてなかったヤツらが全員、愕然と俺を注視する。
 「ロン、何故君がここに!?」
 最初に叫んだのは鍵屋崎。その隣でサムライも目を見張る。
 「いけない子ですねロンくんは、お医者さんの言うこと聞かない悪い子は痛い注射をされますよ。絶対安静の怪我人が渡り廊下に出張するなんて寿命を縮める無謀です」
 咎める言葉とは裏腹に俺がやってくることを予想してたらしく、ホセはあきらめ顔だ。
 鍵屋崎の声もホセの声も俺の耳を素通りした。壁に肩を預けて立ちあがった俺はただレイジだけを見ていた。数日ぶりにまともに顔を合わせたレイジ、頬と片腕を切り裂かれ流血に染まった凄惨な姿。
 この場の誰よりレイジが驚いた。あっけにとられたような間抜けヅラで、ぽかんと口を開けていた。ああくそ、めちゃくちゃぶん殴りてえ。ひとにこんだけ心配させといて、そんな間抜けヅラ……
 胸が詰まり、言葉が詰まった。言いたいことは山ほどあるのに、まともにレイジのツラ見たら鼻腔の奥がつんとして。
 「ばっかやろう」
 壁に爪を立て自制心をかき集め、その場にしゃがみこまないよう膝を励ますのが今の俺にできる精一杯だ。レイジのツラを見たら開口一番言ってやろうと思ってた言葉が喉にこみあげ、ひどく胸が苦しくなった。 
 「レイジの分際で、俺に寂しい思いさせんじゃねえよ!!!!」
 そうだ、俺は寂しかったんだ。
 レイジがいなくて寂しかった。レイジの笑顔が見れなくて、鼻歌が聞けなくて、お前とバカやれなくてずっとずっと寂しかったんだ。文句あるか、
 「!!!ロン、危ないっ」
 「!」
 叫んだのは鍵屋崎だ。振り向くと同時に、鼻先に旋風が吹きつける。
 「とりゃあああああっ!!」
 いつのまにか背後に忍び寄った北の残党が、俺の顔面を武器の鎖で一撃しようとしたのだ。それを阻止したのはヨンイルだった。昇龍のように飛翔したヨンイルが華麗なドロップキックを決めて床に着地、鎖を片手に巻いたガキが錐揉みしながら吹っ飛ぶ。錐揉みしながら中空吹っ飛ぶヤツなんて漫画でしかお目にかかったことないから度肝を抜かれた。
 「アホボケカスが世話焼かすんやない、怪我人はおとなしゅうベッドで寝とれ!」
 「冗談言うなよ道化、てめえらだけ先にとっとと行っちまって怪我人に肩貸す情もねえヤツが偉そうに説教か!?西のトップもおちぶれたもんだな」
 「はっ、そんだけ憎まれ口叩く元気があんなら長生きすんで」
 不敵に笑うヨンイルのもとへホセが駆け付ける。
 「ロンくんはレイジくんのもとへ!」
 「往復ビンタで喝入れてこい」
 こぶしを返り血に染めたホセとゴーグルに手を触れたヨンイルが真剣に叫ぶ。背中合わせの道化と隠者を取り囲むのは幽鬼めいた形相の北の残党。手に手に鎖を持ちナイフを持ちどこから調達したのか鉄パイプまでひっさげた連中がずらりとホセとヨンイルを包囲する。
 「もうひと働きやな、ホセ」
 「ご苦労さまですヨンイルくん。道化と隠者が雁首そろえ、北如きに敗北するなど言語道断」
 「じっちゃんの名に賭けて」
 ヨンイルが隙なくゴーグルを装着する。
 「ワイフへの愛に賭けて」
 ホセが指輪にキスをする。
 「「残党の殲滅を宣言せり!!」
 二人の声が揃い、旋風が巻き起こる。ヨンイルがとびだす瞬間もホセが敵の懐にもぐりこむ瞬間も肉眼じゃ把握できなかった。ヨンイルの上段蹴りが首の後ろに炸裂、よろけたガキの背中を踏み台に跳躍し次々と迫り来る敵の肩に上方から蹴りを見舞う。ヨンイルがはでに暴れれば上着の裾も舞い上がり、日焼けした肌に映える刺青が惜しげもなく晒される。ホセも負けてはいない。接近の気配も悟らせず敵に肉薄し懐にもぐりこみ顎を粉砕するアッパーカットを見舞い、次なる敵の顔面に鉄拳を打ちこむ。顔に返り血が飛んでも指輪に血が付着しても一度目覚めた戦士の血は冷め遣らず、双眸は好戦的な輝きを増すばかり。
 ホセとヨンイルが残党を食い止めてる間に姿勢を低めて包囲網を突破する。
 「薄汚い雑種の分際で皇帝に盾突くか」
 胸を押さえ、廊下を疾走する。行く手にはサーシャが立ち塞がっていた。レイジから俺へと標的を替え、ナイフに舌を這わしている。血に飢えた爬虫類の目に射抜かれて戦慄が走る。が、止まらない。止まるわけにはいかない。ホセとヨンイルの気持ちを無駄にしたくない、なにより俺はレイジをぶん殴りたい。
 「あああああああああああああっあ!!!」
 もう少しで、レイジに手が届くんだ。
 あきらめてたまるかよ。
 「黄色い皮を剥いでやる」
 サーシャの手の中でナイフが輝き、俺の頭上に振り上げられ……
 「!!ちっ、」
 ナイフの軌道が狂い、サーシャが邪険に舌打ち。床に身を投げてサーシャの足にしがみつく鍵屋崎、鍵屋崎を守るように木刀を構えるサムライ。 
 「ロン行け!レイジを説得できるのは君だけだ、僕がどれだけ豊富な語彙を尽くして翻意を求めてもレイジはけして首肯しなかった、IQ180の僕が言うことは難解すぎて言語野で処理しきれなかったんだ。レイジと同等の知能レベルの君なら下品なスラングを介して意思疎通が成立するはず、理性的な説得が通じないなら多少手荒くとも君に任せるしかない、頼んだぞ、レイジを東棟の王様に戻してくれ!」
 『了解!』
 必死な形相で叫ぶ鍵屋崎に頷き、床を蹴る。あの鍵屋崎が、いつもお高く澄ました鍵屋崎がサーシャの足にしがみついてる。自分の身の危険もかえりみずサーシャを食いとめて俺を行かせてくれた。鼻腔の奥がつんとするのはなんでだ、視界が滲むのは?

 「レイジ!!」

 声を振り絞り、名前を呼ぶ。俺の大事なダチの名前。英語で憎しみ。かまうものか憎しみでも怒りでも、誰にも愛された痕跡がなくても大事なダチの名前なんだ。目の前にレイジがいる、頬と片腕から血を流し披露困憊で床に座りこんでる。ひどい顔色だ、ちょっと見ない間に痩せたかもしれない。こっちを向いたレイジの目に驚きの波紋が生じ、唇が物言いたげに震える。
 強く強くこぶしを握り締め、渾身の力で殴ろうとして……

 「……ロン?」

 指から力が抜け、こぶしがほどけた。
 反則だ。こんな時に名前を呼ぶなんて反則だ。レイジはずるい。そんな情けない顔で名前呼ばれたら殴れないじゃんか。絶望と希望が混沌とした、安堵と幻滅とが均等に去来した顔で名前を呼ばれたらもう殴れないじゃんか。
 胸が痛かった。呼吸が苦しかった。もう限界だった。
 足が縺れ、体が傾ぎ、レイジの胸へと倒れこむ。
 「俺のツラ見て、なんか言いたいことあるだろ!!」
 頭は怒りで沸騰して、やりきれない想いに苛まれて、俺はただレイジの胸にしがみついた。鉄錆びた血と汗の匂いがむせかえるように鼻腔をついた。レイジは困ったような顔で俺の肩に手をかけ、目を閉じ、じっくりと俺の言葉を咀嚼する。そっと瞼を下ろした睫毛の長さに見惚れ、上着の胸の熱を感じ、じっと耳を澄ます。

 そして。

 「愛してるぜ、ロン」

 今度こそレイジを殴った。
    
 「その前に『ごめんなさい』だ、おまえはいつも順番間違えてんだよ!!」
 鼓膜にびりびりくる大声で怒鳴られたというのに、レイジは嬉しそうに笑っていた。俺がよく見慣れた、この世に悩みなんかひとつもない能天気な笑顔だった。俺の肩になれなれしく手をおいたレイジが、俺が抵抗しないのをいいことにそのまま背中に腕を回して抱きしめてくる。
 「間違えてねえよ。言わなきゃいけない台詞より言いたい台詞をとっただけさ」  
 レイジは笑った。
 いい顔だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051003030904 | 編集

 ああ。
 こいつ、こんなふうに笑えるんじゃねえか。
 レイジの胸は熱かった。呼吸を整える間、上着越しの心音がひどくうるさかった。レイジの腕の中で俺はうなだれていた。ようやく母親に出会えた迷子のガキの心境、なんて言ったらおかしいだろうか。今の安堵感をどう表現すればいいだろう、どう表現すれば伝わるだろう。背中に回されたレイジの腕のぬくもりに包まれて、俺は嗚咽を堪えるのに必死で喉の奥から変な喘鳴が漏れた。レイジの胸にしがみつき、腕に身を委ね、体と体がひとつに溶け合うような不思議な安らぎにひたる。
 「心配させんじゃねえよ」
 レイジの腕の中で肩を上下させながら恨み言を吐く。
 「顔見せずになにやってんだよ。見舞いくらいこいよ」
 「悪ィ」
 「薄情者、尻軽、無節操、女たらし、お調子者。レイジ、お前なんか大嫌いだ。人の気も知らずいっつもへらへら笑いやがって、とか思えばふらりとどっか行っちまうし、どこまで本気で冗談かわかんなくて振りまわされるこっちの身になってみろよ。怪我人心配させんじゃねえこの人でなし」
 「悪ィ」
 お前がそばにいなくて不安で。
 「胸が痛くて痛くて満足に呼吸もできなかった。肋骨折ったからじゃなくて、お前のことが心配で、ずっと胸の調子がおかしかったんだよ。そのへたっくそな鼻歌聞けなくてろくに眠れなくて、しまいにゃ空耳まで聞こえてきて、俺おかしくなっちまったんじゃねえかってさんざん悩んだんだ。で、久しぶりにツラ見りゃそんなぼろぼろの血だらけでお前どこまで俺に心配かけさせる気だよ?」
 「悪ィ」
 お前がそばにいなくて寂しくて。
 「くそったれ、死ね。お前のツラ見たら唾吐きかけてやろうって心に決めてた。さんざん俺のこと振りまわしたくせに見舞いにもこねえで、一方的に別れ告げておしまいにしてなんだよそりゃ。あんな縁の切り方納得できねえよ、俺の気持ち無視して勝手に話進めやがってよ。そりゃ俺も悪かったよ、お前にひどいこと言ってあんなツラさせて……覚えてるか?お前あん時ひどいツラしたんだ。俺に安全ピンでひっかかれて、怪物みてえに遠ざけられてショックだったろ。殺さないでくれの一言が物凄いショックだったんだろ。じゃあ罵ってくれよ、無理して笑って平気なフリすんじゃねえよ。あんな痛い笑顔見たくなかった、あんな顔されるよか口汚く罵られたほうがずっとマシだった」
 今でも思い出す、夢に見る。俺に拒絶されたレイジの顔、絶望が焼き付いた目。足元から世界が崩壊してゆくような喪失感に自我を呑まれ笑顔が空洞になったレイジ。
 「罵ってくれてよかったんだ、なにすんだこの恩知らず、安全ピン人の手ぶっ刺してとんでもねえヤツだって怒ってくれりゃよかったんだ。むかついたろ?傷付いたろ?なら我慢すんなよ」
 「我慢するよ。俺が本気だしたらお前死ぬ」
 なだめるように俺の肩に手をおいたレイジが苦笑する。
 そんなレイジを見かねて吐き捨てる。
 「お前がそばにいなくなるくらいなら、殺されかけたほうがずっとマシだ」
 レイジがいなくて寂しかった。寂しくて寂しくて気が狂いそうだった。俺は今までずっと独りで生きてきた、他人を信用せず信頼せずひとりで突っ張って生きてきたつもりだった。人に寄りかからず生きてきたことが俺の短い人生のささやかな自慢で、それはここに来てからも変わらなくて、レイジの優しさに甘えることにずっと抵抗を感じてた。  
 でも俺は、ずっとレイジに救われていたのだ。
 生まれて初めてできた俺のダチ。初めて俺に優しくしてくれた他人。俺の頑張りを認めて誉めてくれる人間。レイジがずっとそばにいてくれたから、俺は東京プリズンで生き抜いてこれた。レイジの背中に庇われてばかりでなにもできない無力な自分が情けなくて、いつか絶対レイジを見返してやるってむきになってたのも事実だけど、俺は心のどこかでレイジに依存してた。レイジと一緒にいることに安らぎと喜びを感じ、いつのまにかすっかりレイジのペースにはまってた。
 皺が寄るほど上着の胸を掴み、鼻水を啜り上げる。くそ、情けねえ。俺の涙腺はゆるみっぱなしだ。レイジと会えたってのに泣くことあるかよ。レイジのツラ見た途端に緊張の糸が切れて、足が萎えて、吸いこまれるようにレイジの胸に倒れこんじまった。不覚だ。
 「泣き虫ロンちゃんめ。俺がいなくて寂しかったか」
 揶揄が耳朶をくすぐる。親愛の情が滲んだ甘い囁き声に反感がもたげ、上着の胸でおもいきり洟をかむ。
 「思いあがるな、寂しくなんかねえよ。自信過剰も大概にしやがれ」
 「俺は」
 上着の胸から顔を起こし、緩慢にレイジを見上げる。鼻水がこびりついた胸元にもいやな顔ひとつせず、レイジは俺の肩を抱いていた。愛情が枯渇した人間がだれかを抱きしめることで自分を抱きしめてるような抱擁だった。
 レイジはこうやって、ずっと自分を抱きしめてきたんだろう。
 ひとりが心細いのはだれもおなじだ。誰も抱きしめてくれないなら自分で自分を抱きしめるしかないと人間は本能でわかっている。二の腕を抱きしめ、膝を折り、胎児のように身を縮めて、ガキの頃のレイジは暗い部屋の片隅にじっとうずくまっていた。泣けど喚けどけして開かない鉄扉を空虚な瞳で見据え、糞尿垂れ流しの暗闇でひとり膝を抱えていた。
 俺もおなじだ。
 暗い部屋の片隅で膝を抱えお袋の情事が終わるのをひたすら待っていたのは俺もおなじなのだ。擦りむいた肘を舐め、寝台が軋む音もはしたない嬌声も日常の雑音として聞き流し、諦念を宿した卑屈な目つきで闇を見据える俺。
 レイジと俺は、どこも違わない。
 それをようやく思い出した。
 暗闇でひとり膝を抱えたガキの気持ちが、俺には痛いほどよくわかる。
 「寂しかったよ。お前がいなくて死ぬほど寂しかった。寂しくて寂しくて気が狂っちまいそうだった。はは、ざまあねえな。敵を騙す前にはまず味方からって言うけど悪役にもなりきれないんじゃ王様失格だ。格好悪ィな。俺もうお前とはなれて生きてけない体みたいだ。これでも頑張ってたんだ、一生懸命自分に言い聞かせて我慢したんだ。ロンと会ったら駄目にしちまうからもうこれでおしまいにしようって、お前が寝てるあいだにきっぱり別れ告げてすっぱり姿消そうって心に決めて」
 「勝手に決めんな」
 レイジの腕は流血に染まっていた。抱擁は鉄錆びた血の匂いがした。俺の肩に額を寄せたレイジの息遣いは不規則に乱れてひどくつらそうだった。膝をぬらす液体の感触にぎょっとして足元を見下ろせば、レイジの腕から滴り落ちた血が床を染めていた。出血はかなり多い。止血しなけりゃ、と慌てて腕をどかそうとしたら本人にかぶりを振って拒まれる。 
 「しばらくこのまま抱かせてくれ」
 「ばか言え死ぬぞ、体じゅうの血全部流れ出したらどうすんだよ!?ったく手のかかる王様だな、ガキみたいに駄々こねやがって……つらいならやせ我慢せずそう言えよ、ケチなプライドなんか捨てちまえ。年上のくせに世話ばっか焼かすな」
 「はは。世話女房だ」
 「もう一回殴ろうか」
 レイジをどつきまわすのは後回しだ。俺にだってそれ位の分別はある。レイジの腕をふりほどき、慎重に床へおろす。憔悴の面持ちで俯いたレイジの様子をさぐりながら、上着の袖口をくわえ、顎に力をこめる。布の裂ける乾いた音とともに上着の袖がちぎれる。即席の止血帯で片腕の傷口を包み、不器用な結び目をつくる。布を巻いたそばからじわじわ鮮血が染み出してきて狼狽する。俺を心配させたくないレイジは笑顔で軽口叩いてるが、腕の傷は予想以上に深い。早く医務室に運んで応急処置しなければ危ないかもしれない。
 「行くぞレイジ、立てるか」
 レイジに肩を貸して立ち上がらせる。
 「あたぼうよ相棒。お前こそ大丈夫か、怪我治ってないんだろ。肋骨折ってるのに無理すんなよ、いい子はベッドでおねんねしてな」
 空元気を装いレイジが軽口を叩く。上等じゃねえか、と口元に不敵な笑みが浮かぶ。レイジひとりくらい医務室に運べなくてこいつの相棒が名乗れるか。レイジを担いで歩き出そうとして、胸の激痛にたまらず膝を折る。レイジが言わんこっちゃないと首を振る。くそ憎たらしい、せっかく助けにきてやったんだからもっと感謝しろってんだ。口に出す元気はないから胸中で毒づき、足をひきずるように歩みを再開する。俺とレイジじゃ身長が違いすぎて、どっちがおぶってんだかおぶわれてんだか謎なアンバランスな歩行になった。
 「なあロン」
 「なんだよ」
 レイジと質疑応答できる体調じゃないが、律儀に返事をしちまうのは条件反射というか、癖だ。つくづくお人よしな自分がいやになる。自嘲の笑みをこしらえた俺の耳元で、思い詰めた目のレイジが打ち明ける。
 「ひとつ頼みがあるんだけど、いいか」
 「聞くだけ聞いてやる」
 数日ぶりにレイジと再会できた安堵が勝っていたからか、俺は妙に寛大だった。俺の肩に寄りかかったレイジが、焦点の合わない目を虚空に馳せる。どこを見つめてるかわからない茶色の瞳は硝子のように透明で、あまりに綺麗すぎて不安になる。なに焦らしてるんだこいつ、らしくねえ。数呼吸の沈黙をいぶかしみ疑惑の視線をむければ、レイジが沈痛に顔を伏せる。
 裏切られても裏切られても一縷の希望が捨てられず人を信じようとする子供のように。
 
 『Please don't be afraid. Because I laugh, please love it.』

 英語かよ。
 「……おまえ俺に喧嘩売ってんのかよ、なんで英語なんだよ。台湾語か日本語で言えよ!?」
 短気な俺が激怒すれば レイジが大袈裟に笑い出す。 
 「恥ずかしくて素面で言えるかっつの」
 自嘲的に吐き捨てたレイジになお食い下がろうとした俺の足元に、誰かが猛烈な勢いで吹っ飛んできた。
 鍵屋崎だった。
 「!?大丈夫かよおいっ、」
 俺の足元で体を二つに折ってるのは鍵屋崎だ。レイジをその場におろし、片腕を腹に回した鍵屋崎の傍らに屈みこむ。改めて観察すりゃ鍵屋崎もぼろぼろだった。上着やズボンはあちこち裂けてナイフで切られたらしい血の滲んだ素肌が露出していた。鍵屋崎の腕をどけて腹部を見下ろし、息を呑む。
 上着の腹部が横一直線に裂け、真新しい傷ができていた。そんなに深くはないが一直線の傷口から鮮血が滲みだし上着の裾を赤く染めていて、蒼白の顔色と相まりぞっとする眺めだった。
 「行かせるものか」
 氷点下の声が廊下に響き渡る。たった今鍵屋崎を倒し俺たちの行く手に立ち塞がったのは北の皇帝サーシャ。ナイフを握った手で鍵屋崎を薙ぎ払い、邪険に蹴飛ばし、俺たちのもとまで容赦なく吹っ飛ばしたのだ。
 「それは私の犬だ。おいていけ」
 「いやだ。レイジはてめえの犬じゃねえ、東棟の王様だ。意地でも連れ帰ってやる」
 鍵屋崎を助け起こしながら毒づく。サーシャの目的はレイジだ。サーシャはレイジに異常な執着を見せてる、レイジを独占したくて躍起になってる。なんで渡り廊下で戦争が起きたのか、サーシャとレイジが一緒にいたのか今いち呑みこめてないが今はそんなことどうでもいい。今俺がすべきことはレイジと鍵屋崎を医務室に運ぶこと、それ以外のことはあとでゆっくりレイジに聞き出すなり鍵屋崎に質問するなりすりゃいい。鍵屋崎ふうに言うなら優先順位を間違えるな、だ。二人ともボロボロで自力で歩けそうになくて、肋骨折った俺が比較的軽傷に見える有り様なのだ。  
 床に片膝つき鍵屋崎の背中を支え起こし、注意深くあたりを見まわす。北の残党はヨンイルとホセの活躍であらかた一掃されたらしく渡り廊下は閑散としている。ぴんぴんしてるのはサーシャだけだ。
 サーシャさえ倒せば生還できる。
 「なにを考えている?まさかサーシャさえ倒せば生還できると楽観的な先入観に目が眩んでいるんじゃないだろうな。冷静になれロン、サーシャは北のトップで超絶的なナイフの使い手で到底君がかなう相手じゃない。たとえるなら君は白血球だ、知ってるか、白血球は外部から体内に侵入した異物の排除を役割とする造血幹細胞由来の細胞で寿命は4~5日とごく短い。大きさは7から25μm。数は正常血液1mm3あたり4000から8500個だ。サーシャは全身に転移した癌細胞だと思え、すでに体内に蔓延した癌を外敵の排除を目的とする白血球が駆逐することはできない。癌細胞の排除は不可能だ、白血球なら白血球らしく慎ましく」
 「黙れ屁理屈メガネ、まわりくどい比喩してんじゃねえ!!」
 鍵屋崎を一喝し、レイジを床に座らせ、サーシャと対峙する。サーシャは無傷に近い状態でその場に立ってた。忠実なる家臣どももとい北の犬どもが身を挺して皇帝サマを庇ったんだろう。手下を盾にした呵責など少しも感じさせず涼しげなサーシャが、残虐な光を目に点す。
 「もう一度訊くぞ。レイジをおいていけば命だけは見逃してやる」
 答えは決まっていた。
 『拒絶!!』
 サーシャのナイフが鋭利に翻り、俺の顔面を急襲する。
 「危ない!」
 床と天井が反転し、視界が揺れた。背中に鈍い衝撃を感じた俺が上体を起こすより早くサーシャが肉薄、ナイフの風圧が体を掠め去る。俺の命を救ったのは鍵屋崎の機転、サーシャのスピードについてけずぼさっと突っ立った俺の足にしがみつき引きずり倒したのだ。
 「なおちゃん!」
 「ロンくん!」
 ヨンイルとホセの声がだぶる。二人はどこにいるんだと視線を巡らせばだいぶ離れたところで北の生き残りと戦っていた。あれで最後だろう、背水の陣に追い詰められた北のガキ三人が手負いの獣めいた形相で西と南コンビ相手に大立ち回りを演じてた。サーシャ様のために命をかなぐり捨て、意味不明の奇声を発して突っかかってくる狂信者相手にさすがの二人も手こずっている。俺たちの窮地に間に合いそうもないホセとヨンイルが焦れたように叫ぶ中、サーシャが猛攻を開始する。
 「ちっ、」
 「どうした雑種め、威勢がいいのは吠え声だけか。レイジを迎えにきたのではないのか、私のナイフもかわせずよく北の領地に足を踏み入れたものだ。その無謀さにはある意味敬意を表するな。偉大なる皇帝がお前如きを誉めているのだ、今すぐその場にひれ伏し血の涙を流して感謝しろ」
 「血の涙なんか流せるかよ、そんなに血が見たけりゃてめえの血尿鑑賞してな」
 中指を立て挑発すれば、激昂したサーシャが猛然とナイフを振るう。逃げてばっかじゃはじまらねえ、やり返さなきゃ。胸の激痛で呼吸もできない俺をなぶるように追い詰めるサーシャ、風切る唸りをあげる刃が頭上できらめき……
 「単純な」
 まずい。
 つられて上を見上げた俺の目が、ナイフの反射光に眩む。蛍光灯の光に鋭くきらめいたナイフが、俺の鼻先をかすめるように中空を流れ、無防備にうずくまった鍵屋崎へと標的を転じる。 
 「!!鍵屋崎よけろっ、」
 俺は馬鹿だ、フェイントを真に受けちまうなんて。
 驚愕のあまり硬直した鍵屋崎の頚動脈へと、あざやかな弧を描いてナイフが吸いこまれてく。駄目だ、おしまいだ。鍵屋崎の首筋から血が噴き上がる光景を幻視し、戦慄にかられた俺の眼前を人影が過ぎる。
 広い背中が鍵屋崎へと覆い被さり、鍵屋崎を懐に庇い、押し倒す。
 一瞬の出来事だった。
 鍵屋崎の命を奪うはずだったナイフの軌道が途中変化し、銀の軌跡を描いてサムライの腿へと落ちる。布が裂ける乾いた音、鋭利な刃で切り裂かれた皮膚から噴き出す血、血。鮮血。サムライの腿に突き立てられたナイフの下から湧き出し床に広がる大量の血。 
 「サ、ムライ?」
 サムライに抱きしめられた鍵屋崎が呆然と呟く。目の前で起きていることが理解できない、いや、理解したくないという放心の表情。サムライは鍵屋崎を守るためまっしぐらに駆け付けてきた、木刀でナイフを受け止めるのが間に合わないと見るや迷うことなく鍵屋崎を押し倒し身を挺して鍵屋崎を庇った。
 そして今、サムライの太股にはナイフが深々と突き立っている。 
 「あ、ああ、あ」
 「……ぐっ、う」
 サムライの腿が脈打ち、凄惨な傷口から鮮血が流れ出す。サムライの血に染まった鍵屋崎は気が動転して、舌が麻痺して、言葉が声にならなかった。
 「な、んで」
 サムライの腿から流れ出した血だまりに膝をついた鍵屋崎が、悲痛に顔を歪める。
 「なんで、なんで僕なんかを庇った?僕がサーシャにしがみついて足止めして、君はその隙に誰か人を呼んでくると、そういう作戦だと耳打ちしたじゃないか。なんで戻ってくるんだ」
 「お前ひとりおいてはいけん……いや、違う。俺は武士だ。仲間を見据てて戦場を離脱するのは恥だ」
 「戦力外の僕ならサーシャも油断する。サーシャはナイフで人をいたぶることで性的興奮をおぼえるサディストだ、僕のように非力な人間が相手ならすぐにとどめをさしたりせずじっくり時間をかけていたぶるはずだ。だから時間稼ぎには僕が適任だった、東棟ではレイジに次ぐ実力者たる君がサーシャの前に立てば、サーシャはおそらく全力で仕掛けてきて短時間で勝敗が決してしまう。それに第一、君は僕を庇って北の残党とも戦ってひどく体力を消耗して、持久戦は不利だと踏んだんだ。だから……」
 血だまりに突っ伏したサムライを抱き起こそうとする鍵屋崎だが、非力な腕ではサムライの体重を支えきれない。何度も何度も失敗しそれでも諦めきれず、意識朦朧としたサムライを抱き起こそうと必死になる。
 鍵屋崎の手がべったりと血に染まり、サムライの体が血だまりに突っ伏すたび赤い飛沫が跳ねて眼鏡に付着する。眼鏡のレンズが赤く煙るのも気にする余裕がなく、鍵屋崎が震える声で叫ぶ。
 「サムライ、しっかりしろ!僕の声が聞こえるか、大丈夫か?まったくなんて馬鹿なんだ君は、どうしようもない男だ、なんで戻ってくるんだ!?僕は先に行けと言ったじゃないか、くどいほどくりかえしたじゃないか!!天才が言うことは絶対だ、素直に命令に従えばこんなことにはならなかった、僕なんかを大事にするから君まで傷ついてぼろぼろになって……ふざけるなよ、これで君に死なれたら僕はどうすればいい、僕はまた独りになってしまうじゃないか!!」
 あのプライドの高い鍵屋崎が、太股から出血して気を失いかけたサムライに別人みたいに動揺してる。鍵屋崎を庇って力尽きたサムライにはもう木刀を握る気力もない。おびただしい脂汗を額に浮かべ、苦痛の皺を眉間に刻み、青褪めた瞼を閉じて鍵屋崎の腕に体を預けたサムライに愕然とする。
 自分の腕の中に体を預けたサムライを見下ろし、鍵屋崎がむなしく叫ぶ。
 「聞いてるかサムライ、友人の言葉を無視するな!みつぐ……貢、起きろ貢。それが君の名前だろう、とっくの昔に捨て去った本名だろう?君がこのまま無視し続ける気ならこちらにも考えがある、耳元でしつこく本名を呼びつづけるぞ。しっかりしろ貢、目を開けろ、死ぬんじゃない!!」
 こんな鍵屋崎初めて見る。狂気に蝕まれた目の光、サムライの名を呼び続ける口、血まみれの手でサムライを揺さぶる姿はこの世でいちばん大事な者を失う恐怖に取り憑かれて心が自閉した人間のそれだ。
 「ふん。不浄な血でナイフが汚れたではないか」 
 サムライの腿から無造作にナイフを引きぬき、横に寝かせた刃を舐めるサーシャ。
 生贄の血に飢えた眼光が次に射抜いたのは……俺。
 「血は血で拭うのが私の流儀だ」
 「あ、ああ、っあ」 
 サーシャの眼光に威圧され、あとじさる。殺される殺される殺される、俺もサムライの二の舞だ。サムライの名を呼ぶ鍵屋崎の声が遠くで聞こえ頭蓋骨の裏側で鼓動が反響しそれがどんどん大きくなる。無理だ、俺がサーシャにかなうわけない。相手は北の皇帝だ。サムライを倒した男だ。
 本能的に身を引いた俺にすっと目を細めるサーシャ。その視線が俺を通り越し、背後に注がれていることに漸く気付く。反射的に振り向こうとしたが、時すでに遅かった。
 「!!っく、」
 皮膚を貫く疼痛が左腕に走る。俺の背後に忍び寄った何者かが、器用に腕を回して俺の袖口をはだけて血管に注射したのだ。注射……注射器?なんだよこれ、なんでこんなもんが腕に刺さってるんだ?
 「そんな怖い顔しないで。すぐに気持ちよくなるよ」
 耳の裏側でだれかが囁く。振り返れば見なれたヤツがいた。鼻梁に濃いそばかすが散った童顔、愛嬌たっぷりの笑顔……
 「天国にイッといでよ」
 リョウの笑顔が悪夢みたいに歪曲し、俺は猛烈な吐き気と眩暈と灼熱感と高揚感と頭痛とを一緒に感じて四肢が弛緩して体の芯が溶解してなんだこれ気持ち悪嘔吐感眩暈感浮遊感恍惚感………

 俺の体が床に倒れる鈍い音が、どこか遠くでした。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051002031043 | 編集

 血の海に溺れる。
 『なにるすんだ直』
 『なにするの直』
 懐かしい声がした。両親の、鍵屋崎優と由佳利の声だ。
 脳裏に鮮明に甦るあの日の光景、床一面血の海となった父の書斎に愕然と立ち竦むのは僕だ。外で聞こえるのは単調な雨の旋律、雫が滴る窓ガラスに映るのは血の飛沫で顔と手を汚した僕の放心した表情。
 僕の背後、書架の影に隠れるようにしているのは恵だ。驚愕に見開かれた目は捕食される小動物のように純粋な恐怖に彩られて、半開きの唇は声にならない悲鳴を発し、ワンピースの裾を掴んだ手は震えていた。
 大丈夫だ恵、ふたりは殺した。もう何も心配することはない。これで恵を傷付ける人間はいなくなった、安心してくれ。実の娘にさえ愛情を注がない冷淡な両親なんて死んで当然だ。彼らの無関心が今日までどんなに恵を傷付け追いこんだか、距離をおいて両親を観察してきた僕にはよくわかる。鍵屋崎優と由佳利は死んで当然の人間だ。だって恵を愛さなかったのだから、僕の恵をまるでそこにいない者のように無視し続けたのだから。
 両親はいなくなった。僕が殺した。恵を害する者はもう誰もいない。
 僕は自分の手を汚し罪をかぶってまでも最愛の妹を守り通したかった。恵を無傷で守り通すことこそ僕の存在意義だった。
 誰にも疑われてはならない、誰にも見ぬかれてはならない絶対に。
 大丈夫だ、真実が発覚するわけがない。鍵屋崎優と由佳利は僕がこの手で殺した。恵は書架の影に隠れ、恐怖に立ち竦み、ただじっと殺人現場を目撃していただけだ。
 わずか十歳のいたいけな少女を、兄の凶行を止めず両親を見殺しにしたと糾弾するほど世間の連中は冷たくないだろう。世間は偽善者であふれかえっている、それが救いだ。
 良識的な人間だという自負をもつ偽善者どもは常に表面上の事実しか見ず、その下の真実を掘り出したりはしない。
 恵、なにを怯える?もうなにも心配しなくていいんだ。もう両親から叱責されることもぶたれることもないんだ、恵は安心していいんだ。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 え?
 恵の唇がわななき、予想もしなかった言葉を紡ぐ。 
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに、なんでふたりを殺したの。恵の家族を奪ったの』
 違う、そうじゃない。誤解だ恵。僕はただ恵を守ろうと必死で、あれは咄嗟の判断で。
 『人殺し人殺し寄らないで人殺しそんな血だらけの手で恵にさわらないで』
 そんな。
 『血のつながりもない他人のくせにお兄ちゃんヅラしないでよ吐き気がするこの親殺し、ねえなんで恵のパパとママを殺したの恵をひとりぼっちにしたのそんな権利あんたにないのによそ者くせに』
 違う、これは僕の妄想だ。僕の罪悪感が作り出した恵の幻影だ。何故なら恵はこんなおぞましい顔をしたりしない、憎悪と嫌悪が渦巻く表情であどけない顔を醜く歪めて僕を罵倒したりしない。恵はこんなことを言ったりしない、恵は僕と血のつながりがないことを知らなかった、恵にとって僕は本物のお兄ちゃんで本人は疑うことなくそれを信じきって僕を頼りにしてそれが嬉しくて。
 恵を守るためなら、犯罪者になることも辞さなかった。
 殺人者になることも辞さなかった。
 それなのに何故こんなことになったんだ。教えてくれ恵、母さん父さん、僕のなにが悪かった?僕はどこで道を間違えた?何故僕の手は血で汚れてるんだ、これは誰の血なんだ。鼻腔の奥を刺激する鉄錆びた血臭も膝をぬらす生温かい液体の感触もひどく馴染みのものだ、これは、これは僕が恵に代わりとどめを刺した両親の体から流れ出す血液なのか?
 「いやだ違う、」
 なにが違う、なにも違わない。僕は人殺しの親殺しで血のつながりのない他人でよそ者。恵の言ってることは全部事実だ。僕はとうとう最後まで恵の家族になれなかった、なりきれなかった。無様だな鍵屋崎直、他人に期待するなんて愚かしい。恵も結局は他人だった、僕の家族なんて世界に誰一人も存在しない。それともどこにいるかわからない国籍不明の精子提供者と卵子提供者のことを父さん母さんと呼ぶか、養育者の鍵屋崎夫妻を便宜上そう呼んでいたように?
 濃厚な血臭が鼻腔にもぐりこみ、脳裏に赤い靄がかかる。これは誰の血だ?やけに出血量が多いなと他人事のようにぼんやり考える。思考が現実逃避に傾いてる。いや、それは正しい。僕の周囲で起きることすべて所詮は他人事なのだ。誰が怪我をしようが死のうが僕の周囲で起きることは関係ない世界の……
 『直』 
 違う。そうじゃないだろ鍵屋崎直、現実から目をそらすな。現実から逃げるな。
固く目を閉じて不規則に乱れた呼吸を整える。心臓の鼓動が早鐘を打ち、全身から粘液質の汗が噴き出す。そうだわかっていた、現実を否定して妄想に逃げ込んだところで何も始まらない。自己嫌悪に苛まれるのも自己憐憫にひたるのも後回しだ、僕がやるべきことは他にある。
 僕は鍵屋崎直だ。試験管で生まれたIQ180の人工の天才、そして……
 呼吸を落ちつけ、しっかりと目を開く。足元にサムライが突っ伏していた。僕を庇ってサーシャに刺された愚かな友人。自己犠牲精神を発揮して重傷を負った本人は満足かもしれないが僕は満足とは程とおい。いや、僕は今怒っていた。体の中で暴風のように激情が荒れ狂い最後の一握りの理性が押し流れそうだ。サムライ何故戻ってきた、身を挺して僕を庇った?彼の行動は自己満足の産物だ。僕は彼を先に行かせようとした、そういう作戦だったのだ。それなのにサムライは約束を破り戻ってきた、僕の窮地に脇目もふらず駆け付けてきた。
 「なんて馬鹿な男なんだ君は。さすがに寛容な僕も愛想が尽きたぞ、意識が回復したら絶交してやる」
 落ち着け鍵屋崎直、お前は天才だ。現実を直視して今この場でなすべきことをやれ。的確に正確に、自分の頭脳を信じて。自己嫌悪とは縁を切ろう、自己憐憫など振り切ろう。まずサムライを助けるのが先決だ。袖口を噛み、歯を食い縛り、布を裂く。囚人服の袖を裂いて即席の止血帯をつくり、患部にあてがう。太股の傷は深い。大動脈が傷付いてるなら失血死の危険性もある。
 思い出せ鍵屋崎直、お前が今日まで学んだ医学知識を総動員して応急処置にあたれ。
 「止血とは文字通り血液の流出を止めること、怪我などで出血してしまったときに応急処置として失血を防ぐ目的でされる。特に動脈出血の場合、多量の失血が予想され命にも関わってくるので、一刻も早い止血が要求される。直接止血法。ガーゼなどをあてがい、出血している箇所を直接圧迫しながら包帯などで巻いて止血する」
 包帯がないから布切れで代用する。不衛生だが贅沢は言えない。サムライの患部に布きれを巻き、血管を圧迫する。
 「出血の95%は直接圧迫で止血できるため、他の方法を覚えることに時間を費やすよりは直接圧迫一つを覚えた方が効率がよい。僕はいついかなる時も効率を優先する、君もきっと助かるはず」
  サムライの顔色は蒼白で全身に大量の汗をかいていた。床にぐったり横たわったサムライの顔を覗きこみ、憂慮に眉をひそめる。太股に巻いた布はあっというまに赤く変色してしまった。早く医務室に運び適切な処置をしなければ……
 「何故戻ってくるんだサムライ。そうまでして僕を庇うことなんてないのに、君は」
 胸が詰まって言葉が続かない。とりあえずできるだけのことはした。サムライの額に手をおき、汗を拭う。いつだったか恵が風邪で寝こんだ時にそうしたみたいに用心深い手つきで。  
 サムライの額はびっしょり濡れていたが、汗が冷えてつめたかった。
 「僕なんかを友人にして、本当に馬鹿だ。なんでそんなに優しいんだ。恨み言ひとつ吐かず弱音ひとつ吐かずに床に倒れ伏して、そんな姿見せられたんじゃ毒舌で口撃もできないじゃないか。怪我人を虐待するほど悪趣味じゃないぞ、僕は」
 額の汗を拭い、そのまま手をおろして優しく瞼を閉じさせる。サムライは逆らわなかった。激痛と失血で意識朦朧としてるのだ、逆らう体力とて残ってないだろう。血だまりに倒れ伏せたサムライの姿に胸が絞め付けられ、発作的にその手を握り締める。
 「必ず助ける。約束する。怪我人は足手まといだ、そこで寝ていろ」
 サムライの片手を両手で握り締め、誓う。サムライは身を挺して僕を守ってくれた。次は僕が助ける番だ。サムライの手を名残惜しげにはなし、顔を上げる。
 リョウがいた。リョウの腕の中ではロンがぐったりしていた。
 「あれ、こいつほんとに初めてだったんだ。いまどき珍しいね」
 悪びれたふうもなくリョウが言い、ロンの寝顔を覗きこむ。ロンの袖がめくれ、露出した腕には注射の痕が残っていた。
 「よくやったぞ赤毛の犬め、誉めてつかわす」
 「サーシャ様のよしなに。これで僕の忠誠心が証明されたっしょ?半年前の汚名返上、少しは役にたつとこ見せなきゃギロチンにかけられちゃうしね。ロンも馬鹿だよねえ、サーシャにびびって僕がうしろに忍び寄ってるのに気付かなかったんだから」
 「ロンになにをした?!」
 抗議の声を発した僕へとリョウとサーシャの視線が注がれる。僕が声を発したことで初めて僕の存在に気付いた、という虚を衝かれた表情。子供が人形を抱きしめるようにロンを抱擁したリョウがにっこり笑う。
 「おクスリ注射しただけ。かわいいよね、一発でおとなしくなっちゃって……マジで免疫なかったんだ覚せい剤。量はそんな多くないからショック死とかないと思うけど」 
 リョウの手の中では銀の注射針が鋭い輝きを放ってる。売春班最後の夜、強制的に覚せい剤を注射されかけた忌まわしい記憶が甦り戦慄が走る。サッと表情を変えた僕に愉快げに目を細めてリョウが言う。
 「ごめんねメガネくん。君の案内役よりサーシャのスパイのが実入りいいから寝返っちゃった。怒んないでね?僕は常に利益が見こめるほうの味方なの。サーシャと仲直りのしるしにいいとこ見せようって、結果的に君たち東棟の仲間裏切ったことは謝るからさ」
 謝って済む問題じゃない。第一リョウは反省などしていない、おどけて舌を覗かせる態度がいい証拠だ。
 「くそっ、」
 下品に舌打ち、リョウの腕からロンを取り返そうと起き上がりかけた僕の体が反転する。サーシャに蹴られたのだ、と自覚したのは床にひっくり返ってからだ。上着の背中とズボンの膝裏を血に染めた僕から、床に座りこんだままのレイジへと視線を転じ、サーシャが口を開く。
 「さてどうする東の王よ。お前が寵愛する猫はリョウの腕の中だ。私の一声で絞め殺すこともできる」
 「やめ、ろ……」
 床に手をつき、ひどく苦労して上体を起こしたレイジが叫ぶ。
 「ロンから手をはなせよクソ皇帝、そいつは俺のもんだ。人のもんに手え出すな」
 口を開くのも辛い最悪の体調で、それでもリョウの腕からロンを奪還せんとむなしく腕をのばすレイジをサーシャが容赦なく足蹴にする。よりにもよって、止血帯が巻かれた腕を。
 「!がっ、う」
 「哀れで愚かな王め、まだ自分の立場がわからないのか。皇帝に命令するなど身のほど知らずな不敬もいいところだ」
 腕を蹴られ、たまらず上体を突っ伏したレイジを傲然と見下すサーシャの口元は喜悦に歪んでいた。
 「東京プリズン最強の称号をもつ無敵無敗のブラックワーク覇者、東の王よ。今のお前になにができる?口移しで麻薬を呑まされ腕を切り裂かれ血の海でもがくことしかできない雑種のサバーカになにができる、下僕一匹取り返すこともできないではないか。皇帝に命令などとんでもない。願いを聞き入れて欲しくばそれに相応しい謙虚な態度を示せ」
 止めたくても止められない、狂気が加速したサーシャには近寄りがたいものがある。サーシャがリョウに目配せすれば、心得たりとリョウが頷き、後ろからロンを抱きしめた手が上着の裾へともぐりこむ。なにをするつもりだと怪訝に思った僕の視線の先で、手際良くロンの上着をはだけたリョウが淫らに微笑む。
 「知ってるかな?クスリ使うと勃ちっぱなしになるんだって。一回で終わらず射精の快感がずっと続くの。セックスの快感は並の比じゃないんだって……試してみようか」
 「やめ、ろ……」
 素肌を這いまわる手の不快感に目を覚ましたか、ロンがよわよわしく反駁する。覚せい剤が全身に回り、舌が縺れて言葉も紡げないのか、たどたどしく制止したロンを無視してリョウの手がズボンの内側へともぐりこむ。扇情的にうごめきズボンの内側へともぐりこんだ手が強烈な快感を与えてくるらしく、ロンの喉が仰け反り、リョウの腕の中で熱に苛まれて身悶える。
 「やめ、てくれ」 
 「やめろリョウ!」
 僕が叫んだ一瞬、リョウの手が鈍る。が、すぐに気を取りなおして愛撫を再開する。こうなったら力づくでもロンを取り戻そうと立ち上がり、間抜けなことに血だまりで足を滑らせ転倒する。スニーカーの靴裏を見ればべったり血が付着していた。  
 血。
 「どうする東の王、いや、私の飼い犬よ。このままずっと赤毛の男娼に猫を蹂躙させておく気か。愉快な見世物だから私はかまわないがな」
 「サーシャやめろ、ロンは関係ないだろが。ロンだけじゃない、キーストアもサムライも全員関係ねえ。お前が欲しいのは俺だけだ、憎いのは俺だけだ。だったら他のヤツは……」
 自分の足首にしがみついたレイジの髪を掴み、無理矢理顔を起こさせる。
 「私の犬になると誓うか」
 究極の選択を迫るサーシャの目には狂気が渦巻いていた。レイジが首肯しなければ、その瞬間にロンの頚動脈を切り裂く準備ができているとばかりに片手のナイフを傾ける。ナイフの反射光に射られたレイジが眩げに目を細め、犬みたいに荒い息をこぼす。王様にも限界はある。片腕の失血と本調子ではない体の悪条件が重なればレイジはサーシャにたちうちできない。
 レイジが体力的に自分に逆らえないのを見越し、優越感に酔い痴れながらサーシャが続ける。
 「犬になると誓えば、他の連中は東に帰してやる」
 「レイジ頷くな、嘘に決まってる!」
 サーシャに髪を掴まれたレイジの目が曇り始めた。自分さえ頷けば僕らを帰すことができるという甘美な誘惑に心が傾き始めているのだ。レイジの視線の先ではロンが一方的に陵辱されている。リョウの手でじかに股間をまさぐられ息を荒げ、淫らに乱れるさまをレイジや僕に見せ付けられる恥辱に頬を染めている。 
 「レイジ見るな……」
 浅い息を吐きながら、嫌々するようにかぶりを振るロン。耐え難い苦痛に苛まれてるかのような表情にレイジが覚悟を決め、苦渋の決断をする。
 レイジが首肯した。
 「私の犬になるんだな」
 サーシャが嬉々と哄笑し、手荒く掴んだレイジの髪を揺さぶる。髪を毟られる激痛に顔をゆがめ、それでも苦鳴だけは殺そうと奥歯を噛み締め、されるがままのレイジが呟く。
 「俺はサーシャの犬に……」
 「続きは」
 サーシャが冷徹に命じる。それ以上言うなレイジ、君のそんな姿見たくない。僕の願いが通じたのか、途中まで言いかけて口を噤んだレイジにサーシャが鼻白みリョウへと顎をしゃくる。合点したリョウが手の動きを速めれば、快楽に翻弄されたロンが膝から崩れ落ちそうになる。
 「ちゃんと勃ってるじゃん。男の子だね」 
 「ふ……っう、」
 嗚咽か喘ぎ声か、判然としないうめきがロンの口から漏れる。リョウを睨みつけた目にはうっすらと涙が浮かんでいた。その光景に目を奪われたレイジを荒荒しく突き放し、中腰に屈んだサーシャが手にしたのは楕円の輪を連ねた鎖。北の囚人が武器として使っていたものが、持ち主の手をはなれて足元に落ちていたのだ。
 「!!」
 レイジの首に、鎖がかけられた。
 「私の犬になるのだな」
 鎖が擦れる音が耳朶にこびりつく。レイジの首に鎖を巻き、レイジの背中を足で踏み付けたサーシャが畳みかける。そのさまはまるで、飼い犬を虐待する横暴な主人のよう。鎖で首を絞められる苦しみに酸素を欲して喘ぐレイジを無慈悲に足蹴にし、先端の鎖を引っ張る。鎖に引かれたレイジの体が仰け反り、たまらず苦鳴を漏らす。
 「っ、ぐ……絞め殺す気か、よ」
 「とんでもない。飼い殺す気だ」
 窒息の苦しみに首を掻き毟るレイジの耳元で、サーシャがうっとりと囁く。愛情と勘違いしそうに優しい声。
 「さあ誓え。私の足元に跪き頭を垂れ皇帝の犬になると誓え。なにをためらうことがある?数日前は自ら私のもとへ赴いてきたくせに、私の下で淫らな肢体を晒していたくせに」
 ロンの目が大きく見開かれる。驚愕……絶望。
 「うそ、だろ?うそだよな、レイジ。でたらめだよな」
 レイジ自らサーシャのもとへ赴いたと知り、衝撃に打ちのめされたロンを見上げ、レイジが悲痛な顔になる。レイジの抵抗が止んだ隙にサーシャの手が裾へともぐりこみ、手際良く上着をはだけて素肌を暴く。ロンの目に晒されたのは一糸纏わぬ上半身……鎖骨にも胸板にも脇腹にも淫らな痣が烙印された褐色の肢体。
 「さあ犬に戻れレイジ、私の愛玩犬に戻れ。気まぐれに鞭でぶたれはげしく抱かれて甘く鳴く犬へと」
 「くそったれ……」
 前髪で表情を隠したレイジがはげしく毒づき、皇帝が眉をひそめる。リョウに陵辱されながらも、ロンは愕然とレイジの上半身を見つめていた。情事の痕が烙印された男の肢体、サーシャと一度ならず関係を持った証。
 すべて暴かれてしまった。
 レイジがロンにだけは知られたくないと必死に隠してきたことが、最悪の形で暴かれてしまった。
 「あれは演技だよ」
 自暴自棄で吐き捨てるレイジの声は、ぞっとするほど暗く。
 「思いあがるなよサーシャ。乱暴にすりゃ感じるとでも思ってんのか、お前のお粗末なテクでイくわけねえだろ。あんまり下手なんで感じてる演技するのに骨が折れたぜ、はは、どうだった俺の演技力は?最高だったろ。偉大なる皇帝サマがころりと騙されちまって笑えるぜ」
 露悪的な笑顔を湛え、レイジが呟く。
 「お前、速すぎて物足りねえもん」
 
 サーシャが悪鬼のように咆哮した。

 「レイジ!!」
 激怒したサーシャがレイジめがけてナイフを振り下ろす。風切る唸りをあげるナイフを見た瞬間、反射的に手が動く。
 「!?ぐうっ、」
 サムライの木刀を投擲、肩に命中。肩の激痛によろめいたサーシャの手から鎖が解き放たれる。今だ。床を蹴り、低姿勢でサーシャの脇を走りぬけ、レイジを押し倒す。鎖が床に落下する鈍い音が鼓膜に響く。突然の事態にぽかんと口を開けたリョウは無視し、レイジがはげしく咳き込みながら鎖をほどくのを手伝う。
 「身のほど知らずのサバーカがあああああっ!!」
 逆上したサーシャがナイフを構え直し、僕らと距離を詰めようと床を蹴った瞬間。
 「足元の注意が疎かだぞ」
 僕の口元に会心の笑みが浮かび、サーシャが床で足を滑らせる。レイジとロンに注意が向いてるあいだ、サムライの血だまりに尻餅ついて放心したふりをしながら、手で血をすくいとり床になすりつけていた。サーシャが後ろによろめけば足を滑らしてバランスを崩すように計算していたのだ。
 血は脂質ですべりやすく落ちにくい。血で靴裏を滑らしたサーシャがすさまじい騒音をたて床に横転、同時にほどいた鎖を片手に巻き付けたレイジが不敵に微笑む。
 「飛び道具は得意なんだよ」 
 レイジが鋭い呼気を吐き手中の鎖を投擲。一直線に飛来した鎖が、今まさに立ち上がろうとしたサーシャの足首に巻きつく。レイジが鎖を引けば足首を束縛されたサーシャも引きずり倒される。
 形勢逆転だ。
 終わった、これで無事帰れると安堵した僕の隣からレイジが消失。
 いやな、とてもいやな予感がした。
 その予感は的中した。瞬間移動めいた敏捷さでサーシャの頭上に立ったレイジの手には血まみれのナイフが握られていた。転倒の際にサーシャが取り落としたナイフを素早く拾い上げたものらしいが、あれでなにをする気だ。もう勝負は決してるのに、まさか……
 
 「サーシャ。もう、手加減しなくていいよな」

 やめろレイジ、はやまるな。
 血だまりを跳ね散らかし腕をのばしレイジを止めようと走り出す。レイジが何をしようとしてるかわかってしまった。あの笑顔……完全に狂気に呑みこまれたあの笑顔、人間らしさ一切合財をかなぐり捨てた微笑み。駄目だ、せっかくロンと会えたのにこれではすべて台無しだ。レイジは今まさに自分の手で今まで築き上げてきた何もかもを壊そうとしている、サーシャに対する怒りが制御できず過去の自分が憑依してる。
 やめろレイジ、はやまるな。
 ロンが見ているまえでそれをしたら、二度と元には戻れなくなる。
 「レイジ思い出せ、ロンがいるんだ!!」
 僕が声を限りに叫ぶのも届かないのか、鎖が足首に絡みつきみじめに床を這うしかない皇帝の傍らに片膝つき、頚動脈にナイフをあてがう。サーシャの目が極限まで見開かれる。氷点下の瞳に初めて波紋を生じさせた感情の欠片は……恐怖。
 レイジに対するまじりけない恐怖。
 「やめっ…………!!!」
 レイジが腕を一閃した直後、渡り廊下に駆け込んできた複数の足音が戦いの終焉を告げた。
 遅かった。  

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20051001031515 | 編集
    © 2005 ロールシャッハテストB  Designed by 意地天