ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「安田さん遅いで、待ちくたびれてもた」
 ヨンイルの訴えに全員そちらを注視する。
 レイジに蹴られて鼻血を噴いたヨンイルが鼻をつまんで天を仰いでいた。ヨンイルの首の後ろを手刀で叩いているのはホセだ。
 待ちくたびれた?
 どういうことだ。ヨンイルの口ぶりはまるで、安田が来るのを待っていたみたいじゃないか。安田の登場を待ちかねて騒動を長引かせたように聞こえるじゃないか。
 負傷者が医務室へと運ばれあとには血痕や武器のナイフや鎖が散乱する凄惨な風景が残された。閑散とした渡り廊下で一転主役を張っているのは西の道化と南の隠者、観客の注視を浴びて余裕ありげにふんぞり返るヨンイルの隣ではホセが微笑んでいる。
 「待ちくたびれたとはどういうことだ、私に用があるのか」
 僕とおなじ疑問を安田が口にする。怪訝そうに眉をひそめた安田と相対したヨンイルが笑う。
 「あるある。安田さんおびきだすために今回の騒動を仕組んだようなもんや。ま、こっちの予想に反して騒ぎでかなりすぎたのは計算外やけど終わりよければすべてよしって言うやろ」
 「は?」
 ヨンイルは何を言ってるんだ?理解不能の発言に戸惑えば、ホセが申し訳なさげに首を振る。
 「吾輩は反対したのですがね。医務室で騒動を察知したときから沸沸といやな予感はしていましたがヨンイルくんときたらお魚くわえたドラ猫のようにまっしぐらにとびだしていって……結果こうなってしまいました。力及ばず面目ない」
 「しゃあないやん。囚人が正面から訊ねてってもようこそおいでませって入れてくれへんやろ、副所長は。追い返されるのがオチや。せやから安田さんおびきだすために一芝居打ったんや。渡り廊下ではでに暴れれば東京プリズンの危機管理係安田はんが遅かれ早かれ駆け付けてくるて踏んで……」
 饒舌に説明するヨンイルに相槌を打つホセに当惑する。予想外の事態に直面した僕は混乱した頭で二人の話を整理しようとする。安田をおびきだすための一芝居。つまりヨンイルとホセが渡り廊下の抗争に加わったのは、レイジへの友情だけが動機ではなく他に隠された目的があるからか?ヨンイルとホセが渡り廊下に乱入した動機とは?
 額にゴーグルを押し上げたヨンイルが、床に突っ伏したレイジを一瞥する。
 「レイジがキレるんはさすがの俺も計算外やったけどな……安田はん来るまで時間稼ぎせなあかんかったんや。すまんななおちゃん、騙したみたいで」
 「待て、自己完結せず最初から順を追って説明しろ!つまり君たちは安田をおびきだすために渡り廊下の抗争に加わったと、そういうことか?そうまでして副所長に直談判したい用件とはなんだ?」
 語気荒く詰め寄る僕をよそにヨンイルとホセが顔を見合わせる。胸騒ぎがした。漸く嵐が過ぎ去ったと安堵したそばから、それを上回る嵐が接近していると思い知らされたような不穏な感じ。
 渡り廊下に居合わせた観客全員の視線がヨンイルとホセに注がれる。好奇と不審の眼差しを浴びたヨンイルとホセは、少しも物怖じせず泰然自若と落ち着き払っている。西と南のトップが揃い踏みした相乗効果で周囲の雰囲気がサッと塗り替えられる。
 嵐が接近している。
 看守数人がかりで取り押さえられたレイジは浅く肩を上下させ、ヨンイルとホセとを睨みつけている。ホセの肩に担がれたロンは疲れて気を失ったのか、最前までの暴れようが嘘のようにぐったりしている。
 安田を筆頭にした看守陣に包囲されたヨンイルとホセとを凝視して、僕は生唾を嚥下する。
 「安田さんと取引したいんや」
 「取引?」
 安田の眉間に皺が寄る。胡散臭そうな顔をした安田に気安く笑いかけるヨンイル。八重歯が特徴的な人好きのする笑顔に、裏があるように見えたのは錯覚か? 
 「今回のペア戦100人抜きは、元はといえばレイジくんが勝手に宣言したことです。吾輩たち他棟のトップは何も聞かされてないし本来関係ない立場。ですがレイジくんが順当に勝ち進めば必然決勝戦で吾輩たちと当たることになる。
 これはおかしい。そうは思いませんか?」
 如才ない笑顔でホセが問いかけ、安田の目が細まる。
 「俺は西のトップでホセは南のトップ。レイジが100人抜き成し遂げるには俺たち倒さなあかんやろ?俺たち倒せばレイジは目的達成、売春班撤廃の願いを聞き入れてもらえる。せやけど俺たちのメリットは?レイジに勝った場合の褒賞は?」
 口を挟みたいが、挟める雰囲気ではない。今しゃべってるこの男は、本当に僕の知るヨンイルか?漫画好きでなれなれしくて、手塚治虫を無邪気に崇拝する少年か?
 「そもそもレイジくんの100人抜きは、吾輩たちのまったく知らないところで可決された。100人抜きの見返りに売春班撤廃というのもレイジくんと副所長の間で取り決められたことです。
 少々不愉快と言わざるをえません。他棟のトップに何の断りもなく、レイジくんは独断で100人抜きを宣言した。東京プリズンは東西南北四棟の共同統治です、本来吾輩たちに一言あってしかるべしでしょう」
 ホセは終始にこやかだが、その声には有無を言わせぬ響きがあった。
 ホセもヨンイルもどこかおかしい、さっきまでとは別人のようだ。僕は彼らが手を組み、安田をおびきだすため騒動を大きくしたことも全く気付かなかった。ヨンイルとホセを味方だと思いこみ、いつのまにか気を許していた自分の失態が悔やまれる。警戒心が薄れていたから二人の変化に気付かなかった、ゴーグルの下で悪意を孕んだヨンイルの眼光もホセの笑顔の裏に潜む策略も。
 「てなわけで、俺らもちィとばかし頭きてもうて。決勝戦でレイジ以外のトップが勝うた際のお願い安田さんに聞いてもらおうかなーって」
 「深夜の図書室でヨンイルくんと相談したんです。まあ吾輩たちが図書室でこそこそしてたおかげでロンくん貞操の危機に間に合ったのは皮肉というか奇跡というか……幸運ですね」
 おどけて首を竦めるホセの隣で、ヨンイルが顎を引き、言葉の浸透度をはかるようにじっくりと周囲を見渡す。廊下に居合わせた看守は全員、何が進行しているんだかわからず愕然と立ち竦んでいた。表面上は平静を装っている安田も、眼鏡のブリッジに触れるしぐさから内心では動揺してるとわかった。
 床に押さえこまれたレイジは眉間に皺を刻んでいた。レイジもまた、初めてこの話を聞かされたものらしい。
 サーシャは例外として南と西とは友好的な関係を築いてきたはずのなのに、ヨンイルとホセはレイジの独断先行に内心不満を持っていた。彼らの主張も一理ある、100人抜きを成し遂げた暁には売春班を廃止するという取り決めはレイジと安田の間で行われたものでヨンイルもホセも何も知らされてなかったのは事実。
 レイジが100人抜きを達成するには二人の出場が前提なのに、肝心の本人に何の許可も得ず、レイジがその場の勢いで勝手に宣言してしまったのだ。

 ヨンイルとホセは、いつからこの計略を練っていたのだ?
 レイジを嵌め、安田と直接交渉する計略を。

 「それで?聞こうではないか、君たちの用件とやらを」
 「さすが副所長、気前がええ」
 ヨンイルが目を閉じ深呼吸し、場の緊張が高まる。全員が固唾を飲み、ヨンイルが口を開く瞬間を待つ。看守数人がかりで押さえこまれたレイジも、呆然と立ち竦んだ僕も、平静を装った安田も、身動ぎひとつせず道化と隠者を凝視する。
 そして、ヨンイルは言った。
 すっと人さし指を立て、口元に笑みを添えて。 

 「レイジ以外のトップが勝った暁には、そいつが東京プリズンの全権を握る」
 
 「気でも狂ったのか?」
 声が震えた。ヨンイルは今なんと言った?レイジ以外のトップが勝利した褒賞として東京プリズンの全権を譲れと、副所長の安田にそう言ったのか?
 ホセが気取った手つきで黒縁眼鏡をかける。分厚いレンズの奥で微笑む目は、策士のそれだ。
 「今日までの東京プリズンは東西南北危ういバランスの上に仮初の秩序を維持していました。だが、それも今日まで。レイジくんの自分勝手な振る舞いには吾輩いい加減頭にきました。レイジくんの独断先行を諌めるためには、トップを一人に絞る必要がある。
 誰が最強のトップかリング上で白黒つけようじゃありませんか?」
 「レイジが勝てば売春班撤廃、俺らが勝てばそいつが新トップ。東西南北四棟にトップが一人ずつ、なんてまどろっこしい話はなしやで?東京プリズンのトップはひとりでええ。正々堂々戦って、大観衆の眼前で誰がホンマのトップがはっきりさせるんや。トップの決定は絶対。俺がトップになった暁には北と南と東に漫画喫茶つくる」
 「素晴らしい計画です。なら吾輩がトップになった暁には西と東と北にジムを……」
 「待て、勝手に話を進めるな!」
 僕の抗議を無視し、ヨンイルとホセはすっかり意気投合している。彼らの中ではすでに決定事項なのだろう。自分がトップになった際の計画を楽しげに話し合っていたヨンイルとホセが、同時に振り返る。
 「北の意向はどうや、サーシャ」
 「異存ありますか」
 「……面白いではないか」
 両手に手錠を嵌められたサーシャがくつくつと肩を震わせる。笑っているのだ。腹の底から湧いてくるどす黒い哄笑を、自制心を総動員して堪えているのだ。銀髪を振りかぶり、毅然と顔を上げたサーシャの目に宿っていてのはむきだしの闘争心。
 大観衆が集結したリングでレイジを負かして東京プリズンのトップに立つという野望に魅入られた男の顔。
 東西南北四棟を完全に掌握し、本物の皇帝になれるチャンスをサーシャがみすみす逃すはずがない。
 「西の道化と南の隠者よ、その提案を受け入れよう。東西南北の民衆の眼前でこの下賎な雑種を痛め付けられるなど願ってもない。レイジさえ下せば私は真の支配者となれる、極東の監獄を支配する気高き皇帝となれる。
 素晴らしい、素晴らしいぞサバーカども!!」
 狂気の哄笑をあげるサーシャから怯えたように看守が身を引く。体を仰け反らせて哄笑するサーシャを見上げるレイジは、歪な笑みを浮かべていた。 
 狂っている。
 サーシャもレイジもホセもヨンイルも、東西南北のトップは全員狂っている。
 「南と西と北の意向は決まった。さて、東は?」
 腰に手をついたヨンイルが冷やかすようにレイジを一瞥する。看守に押さえこまれて身動きとれないにもかかわらず、気力で顔を起こしたレイジが獰猛に犬歯を剥く。
 「……最っ高に笑える冗談だぜ、道化の分際で王様に下克上かよヨンイル?いいさ、乗ってるよ。お前らの言うことも一理ある、北はともかく南と西に相談なしで100人抜き決めたのはマジだし」
 「さすがレイジくん、寛大です」
 「待てよ」
 満足げに首肯したホセを強い眼光で射抜き、レイジが唸る。

 「全力で殺しにかかるけど、後悔しねえな」
 
 その瞬間のレイジの顔は一生忘れられそうにない。
 レイジは嬉しそうに、この上なく嬉しそうに満面の笑顔を湛えたのだ。子供相手に手加減して遊んでやっていた大人がはじめて実力をだせるとでもいうように。
 「後悔なんかするもんかい」
 ゴーグルを下ろして両目を隠したヨンイルが挑戦的にほくそ笑む。
 「遅かれ早かれこの時がくると予期していました。いつかは四人のトップを決めなければいけません。東京プリズンは弱肉強食、強者が常に勝利する過酷な世界。極東の監獄に君臨する最強の王者を神聖なるリングで決定しようではありませんか」
 黒縁眼鏡のブリッジに触れたホセが不敵に笑う。
 「東西南北トップは意見の一致をみたで。副所長さえ頷いてくれたら万事オッケーや」
 腰に手をついた尊大なポーズで安田と対峙したヨンイルに、一斉に注目が集まる。
 安田はどうする?
 束の間呼吸するのも忘れ、安田の動向を探る。副所長は沈思の皺を眉間に刻み、沈痛な面差しで考え込んでいた。
 安田がゆっくりと目を開け、神経質な手つきでブリッジを押し上げる。
 「いいだろう。君たちの申し出を認めよう」 
 そんな。
 気付けば僕は、安田の胸に掴みかかっていた。
 「正気か貴様、後戻りできなくなるぞ!?こんなことは馬鹿げてる、即刻やめさせるんだ!」
 シャツの胸を掴んで訴える僕を、安田はどこか悲痛な面差しで見つめていたが、意を決したように僕の肩に手をかけ突き放す。
 「……私は副所長だが、できないこともある。彼らの決意は固い、どんなに時間をかけて言葉を尽くしたところで翻意させるのはむずかしい。わかってくれ鍵屋崎、囚人間の取り決めには副所長といえど口をだせないんだ。ましてや東西南北トップの意見が一致して、その上で申し込まれたのでは却下する理由がない。それに私が却下したところで、今日中には噂が出まわってしまう。レイジを倒した者が東京プリズンのトップになるという噂が何百何千という囚人に事実として認識されるんだ、そうなればどのみち取り返しがつかない!」
 激昂した安田が僕の肩を揺さぶる。悲痛な叫び声から、思い詰めた目から、安田の苦悩が痛いほどよく伝わってきた。
 副所長にも限界がある。
 東京プリズンの主役は看守ではなく、囚人自身なのだ。
 大衆は脅威だ。数は偉大だ。何百何千という囚人たちの間に噂が広まるのは時間の問題だ。
 渡り廊下の抗争の一部始終がヨンイルやホセの口からあるいは野次馬として居合わせた北の囚人や看守の口から東京プリズンの隅々まであまねく広められてしまえば、副所長にはなにもできることがない。現実に、気の早い看守の何名かがこの大事件を同僚に伝えに走り去ってしまった。
 もう、手遅れなのだ。
 絶望に打ちのめた僕の肘を安田が掴み、倒れないよう支えてくれた。
 床に押さえこまれたレイジ、ヨンイルとホセ、そしてサーシャ。
 東西南北トップの間に交差するのは、さまざまな思惑を孕んだ視線。憎悪、敵愾心、悪意、闘争心、そして……ゴーグルで両目を覆ったヨンイルが足元のブラックジャックを拾い上げ、丁寧に埃を払う。
 「ブラックジャックに傷つけた借りは高うつくで」
 ホセが薬指の指輪にキスをする。
 「そこで吾輩の勝利を祈ってください、マイワイフよ。吾輩は知恵ある隠者、道化にも皇帝にも王にも負ける気がしません」
 手錠をかけられたサーシャが喉が破裂したような奇声をあげる。
 「私はこの時を待っていた、心の底より待ち侘びていた!西の道化と南の隠者、そして東の王よ。お前ら三匹がトップとして私と肩を並べるなど言語道断、屈辱の極み。東京プリズンのトップは一人でいい、即ちこの私一人で十分だ!!必ずやお前たち下賎なサバーカを血祭りにあげてやる、鎖つきの飼い犬として拷問部屋に繋いでやる!!」 
 最後にレイジが呟く。
 「『主は自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおそるべき所を捨て去った御使たちを大いなる日のさばきのために永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。
ソドム ゴモラもまわりの町々も同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている』」 
 そこで言葉を切り、血まみれの顔でレイジが哄笑する。
 箍が外れたような笑い声が、荒廃した渡り廊下に殷殷と反響する。
 「火の刑罰を受けるのは俺か、見せしめになるのは俺か?ははははっはは違う、違うよなそいつは!火の刑罰を受けるのはお前らだ、なんにもしてくれない神様のかわりに裏切り者のユダを血祭りにあげるのは俺だ。いいね楽しくなってきた、そっちがその気なら思う存分殺ってやろうじゃんか。
 むさ苦しい野郎どもがカマ掘りあってる変態の巣窟、豚小屋より劣る最低の場所、人間よりネズミのが肥えてる下水道、糞にまみれた汚ねえ便所。
 そんなにこのソドムの頂点に立ちたきゃ王様が存分に相手してやらあ!!」
 レイジが引用したのは聖書の一節……
 「ユダの手紙」だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050930031520 | 編集

 ずっと血が滴り落ちるのを見つめていた。
 医務室のベッドに横たわるサムライの傍ら、折り畳み式の椅子に腰掛け、僕はずっと輸血パックを見つめていた。透明な袋に貯まった血液が輸血管を介し、毛布の上におかれたサムライの腕へと注入される。蒼白の瞼を閉じたサムライは死んだように動かない。あまりに静か過ぎて不安になり、鼻腔に手を翳して呼吸の有無を確認。
 かすかに呼吸しているのを確かめ、安堵の息を吐く。
 今日は色々なことがあった。まだ頭が混乱している。
 衝撃が冷めるにはまだもうしばらく時間がかかりそうだ。サーシャのもとにいたレイジ、北と中央の渡り廊下で起きた抗争、ヨンイルとホセの裏切り……一度にたくさんのことが起きて思考が整理できない。そういえば銃。僕としたことが、安田の銃のことを失念していた。不覚だ。天才にあるまじき失態だ。いつからだ?上半身裸のレイジがサーシャの房の扉を開けた時から、サーシャに殺し合いを強要されナイフを手に取った時から?わからない。疲労が澱のように沈殿した頭では思考が働かない。僕は最初安田の銃をさがしに北棟にきた。リョウに案内役を頼み、サーシャと直接交渉するつもりで北棟に赴いた。しかし成果はなにも得られなかった。安田の銃の行方はわからないまま、サーシャの協力をとりつけることもできず、僕は今こうして無力感に打ちひしがれて重傷を負ったサムライのそばに腰掛けている。
 「無様だな」
 自嘲の台詞にも覇気がない。ヨンイルとホセが安田に取引を申し入れてから何時間が経過しただろう?安田の指揮のもと、医務室へと運び込まれた重傷者は医師に治療を施されてる最中だ。その大半はヨンイルとホセに倒された北の囚人で、時折苦鳴とも悲鳴とも似つかぬ声が衝立越しに届いてくる。傷口に消毒液が染みるのか麻酔もろくにされず傷口を縫われてるのかわからないが、サムライに比べればいずれも軽傷だろう。
 「……」
 毛布の下に隠されたサムライの太股を気遣わしげに見下ろす。サムライは僕を庇い重傷を負った。サーシャのナイフで太股を刺され大量に失血したのだ。医務室に運び込まれたサムライに付き添った僕は、それからずっとサムライが目を覚ますのを待っている。医務室に運び込まれたサムライを見た医師の第一声は、「処置が的確だ」だった。応急処置の手際を誉められても嬉しくない。感心してどうするんだこのヤブ医者め、と嫌味のひとつも言いたかったがサムライの診療が済むまではと自重した。
 サムライはまだ目を覚まさない。眠ったままだ。
 ふと、このまま起きなかったらどうしようという不吉な想像が脳裏を過ぎる。サムライが二度と目を覚まさなかったら?……そんなはずはない。サムライは疲労と怪我が祟って深い眠りに落ちているだけだ、何時間後には必ず目を覚ます。そうに決まっている。
 サムライが目を覚まさないなんてこと、あってたまるか。胸裏に湧いてきた不安を打ち消すようにかぶりを振り、必死に他のことを考えようと努める。他のこと……ヨンイルとホセの裏切り?考えたくもない。認めたくはないが、僕はどうやらヨンイルに心を許しかけていたらしい。自覚はなかった。だが、図書室で過ごす時間が多い僕はヨンイルと話す機会も多く、いつのまにかヨンイルへの警戒を解いていたのは認めざるをえない。ヨンイル。西のトップ、漫画好きな道化。いつでもなれなれしく僕に話しかけてくる少年。
 彼が裏切っていた?ホセと組んでレイジを嵌めた?
 信じたくない、否定したい。だが僕はこの目で目撃してしまった。ヨンイルとホセは独断で100抜きを掲げたレイジに不満を抱いていた。レイジが100人抜きを達成するには必然的に西と南のトップを倒さねばならず、ヨンイルとホセのペア戦出場が前提条件となる。身も蓋もない言い方をすれば、ヨンイルとホセは本人の意向に関わらずレイジのわがままに付き合わされる羽目になったのだ。 

 『レイジ以外のトップが勝った暁には、そいつが東京プリズンの全権を握る』

 それがヨンイルとホセの望みか?表面上はにこやかなヨンイルとホセも、心の底ではずっとレイジを追い落とし王座を奪取したいと画策していたのか?
 「……っ、」
 嘘であってほしい、嘘であってくれたならどれだけ救われるだろう。ヨンイルとホセが渡り廊下の抗争に乱入したのはレイジへの友情が動機だったと今でも信じたい。
 衝立で遮られた隣のベッドに目をやる。隣のベッドにはロンが寝ている。肋骨を骨折して足首を捻挫した状態で渡り廊下まで自力で歩いてきた上に、リョウに覚せい剤を注射されてボロボロの体だ。医師の話によると、ロンに注射された覚せい剤の量はそれほど多くなく、また常習者でもないので副作用に関しては心配せずともよいらしい。ただ、しばらくは眩暈や吐き気などの症状に悩まされるらしく楽観はできない。
 レイジも医務室にいるはずだが、姿は見えない。
 ロンのベッドに寄りつこうともしない。
 あの二人はどうなってしまうんだろう、と不安が膨らむ。ロンとレイジがどうなろうが僕の知ったことではない、僕には関係ないじゃないかとい冷めた声で誰かが囁く。その通りだ。レイジとロンがどうなろうが僕には関係ないのだ、本来は。
 でも。
 『大嫌いだ、死んじまえ!!!』
 レイジにむかって絶叫したロンの顔には、極大の嫌悪が表出していた。いや、嫌悪感だけではない……憎悪、憤怒、そして嫉妬。ロンは自分では気付いてないかもしれないが、サーシャに対しはげしい嫉妬を感じていた。覚せい剤の影響で興奮していたからレイジに酷い言葉を投げつけてしまったのだろうが、それだけじゃない。あの叫びには、少なからずロンの本音が含まれていた。
 『お兄ちゃんが死ねばよかったのに』
 恵の声が脳裏に響き渡る。僕を冷たく拒絶する眼差しも。
 「………っ、」
 サムライのベッドに肘をつき、頭を抱え込む。思い出したくないのに思い出してしまう、ロンの顔と恵の顔が重なってしまう。ロンの叫びと恵の叫びが重なってしまう。死ね。死んでしまえ。お前には生きてる価値がない、何故まだ呼吸してるんだ図々しい。早く死ね死んでしまえばお前さえいなくなればすべてが上手くいく、さあ何を迷うことがある、今すぐに死んでしまえ。
 あの時のロンの表情は、恵と酷似していた。僕は恵とロンを混同していたのか、ロンを庇護することで恵を庇護していたときとおなじ安堵感に浸りたかったのか?そうまでして誰かに信頼されたかったのか?
 レイジとロンは、もうだめかもしれない。
 そんな諦観が脳裏を過ぎる。二人の関係は修復不可能かもしれない、いっそ別れたほうがお互いのためかもしれない。このまま二人が傷つけあうだけなら、憎しみあうだけなら……
 「どうすればいいんだ?」
 どうすればいいんだ?だれか教えてくれ。僕も自分の頭で考えて行動してみたが、限界だ。レイジとロンの和解は無理かもしれない。ロンは、レイジの上半身に印された痣を見てしまった。サーシャと一度ならず情事に溺れた罪の烙印……裏切りの烙印。ロンがタジマに襲われた夜もレイジはサーシャと情事に耽っていた。それは動かし難い事実なのだ。
 僕にできることは、もうなにもない。
 なにかしたくても、なにもできない。
 「なにが天才だ、なにがIQ180だ。無駄に高い知能指数に何の意味がある?サムライ、僕は君に戦わせてばかりだ。君を傷付けてばかりだ。ロンも守れなかった、レイジを説得することもできなかった。情けない、自分で自分に絶望する。吐き気がする」
 サムライのベッドで頭を抱え込み、連綿と独白する。サムライはどうして何も言わない、答えてくれない?頼むからサムライ、僕を責めてくれ。罵ってくれ。迷惑をかけてばかりのとんでもない友人だと、どうしてお前はそんなに無力な人間なんだと糾弾してくれ。 
 何故目を開けてくれないんだ?このままずっと、目を閉じたままなのか。
 怖い……怖い?何故僕は恐怖を感じているんだ?ナイフを握ったレイジと対峙した時もサーシャに襲われた時も心が麻痺して感じなかった恐怖を、今、強く強く感じる。サムライがこのまま起きなかったらどうしようと想像すれば、それだけで心臓が止まりそうになる。
 僕は君を失いたくない。
 独りになりたくない。
 「頼む目を開けてくれ、貢。僕は怖いんだ。君に死なれるのが怖くて怖くてたまらない。いつからこんなに臆病で惰弱な人間になったんだ?自分に吐き気がする。外にいた頃の僕はこんなに弱い人間じゃなかった。恵に頼られて、恵を守ることで、自分は強い人間だと確信できた。でも東京プリズンに来て守られる側になってから、僕は弱くなってしまった。君のせいだぞ、責任をとれ。僕を弱くしたのは君だ。聞いてるのか?」
 毛布の下に手をさしいれ、サムライの片手を握り締める。サムライの手は冷たかった。その手を僕の体温で温めようと、必死に包む。
 「僕を君なしではいられなくした責任をとれ。貢」 
 サムライの手を額に押し当て、目を閉じ、一心に祈る。
 サムライの指が震えた。
 「!」
 「…………直」
 サムライの目が薄く開いた。
 「起きたのかサムライ、怪我の具合はどうだ!?今医者を呼んで」
 「ここにいろ」
 椅子から腰を上げようとした僕の手を掴んだまま、サムライが頑固に命じる。どうあっても僕の手をはなそうとしないサムライに降参し、大人しく椅子に腰掛ける。僕の手を掴んだサムライが不審げに目を細め、口を開く。
 「俺の名前を呼んだか?」
 「え?」
 聞いていたのか? 
 まさか聞かれてたなんて思わなかった。僕はてっきりサムライが寝こんでいるものと思いこんで、それで本名を呼んだのだ。何度も何度も、くりかえし。怪訝そうにサムライに見上げられ、何故だか頬が熱くなる。待て、何故僕が照れる必要がある?友人同士名前で呼び合うには世間的には何も不自然じゃない、とても自然なことだ。堂々としてればいいじゃないか。
 しかし、僕の口からでてきた言葉は違った。
 「誤解するな、君の名前など呼んでないぞ。幻聴じゃないか?意識朦朧としてたならありえる話だ。第一何故僕が君の名前など呼ばなければならない、意思疎通するにはサムライの通称で十分だ。それとも君は通称で呼ばれるのが不満で本名で呼んでほしいのか?そういう子供じみた願望でもあるのか」
 「呼んでないならいい」
 僕の手を握ったサムライが瞼を閉じてため息をつく。意識は回復したものの体は辛そうだ。無理もない、大量の血を失っているのだから。毛布にくるまったサムライのらしくもなく気弱な様子に良心が咎め、僕はヤケ気味に叫ぶ。
 「~~っ、ああそうだ名前を呼んだ悪いか!世間では友人同士名前で呼び合うのが通例だ。僕が君の下の名前を呼んだところで何も不自然じゃない、そうだろう?異存はあるか」
 「そうか」
 サムライが安心したように砕顔し、感慨深げに呟く。
 「……本名を呼ばれるのは久しぶりだ。自分でも忘れかけていたのに、よく名前を覚えていたな」
 「……忘れるわけがないだろう。僕の記憶力を疑うなら円周率五千桁暗唱してみせるが」
 ベッドに横たわったサムライがふいに遠い目をする。柔和に凪いだ目を天井へと向けたサムライの横顔は、僕の知らない男のそれだ。おそらくは、すでにこの世にいない女性のことを思い出しているのだろう。
 過去にサムライを名前で呼んだ、もうひとりの人物を。
 胸が騒ぐのは何故だろう。僕の踏み込めない思い出に浸るサムライに、疎外感を覚えるのは何故だ。針で刺されるような痛みを胸に感じて押し黙った僕は、うしろめたげにサムライの表情を観察する。
 「……苗と間違えたのか?」
 僕は馬鹿だ、これではただの嫌味だ。
 怪我人を虐待するのは趣味じゃないと言ったくせに、重傷のサムライに毒舌を吐いてどうするんだ。サムライが思い出に浸るのは彼の自由で、僕に口だしする権利はない。サムライにとって苗との思い出は大切なものだ、僕にとっての恵がそうであるように。
 だからサムライが僕と苗を間違えたのだとしても全然……
 「……いや。目を開けて最初にお前の顔を見れたのが、ひどく嬉しかった。それだけだ」
 「……そうか」
 なんだこの妙な雰囲気は。
 サムライがあんまり優しく笑うものだから僕まで動揺してしまう。しっかりしろ天才、鍵屋崎直。相手は怪我人だ、多少おかしなことを口走ってもまともに請け合うな。熱でもあるに違いない。
 「サムライ、君はきっと熱がある。待ってろ、今体温計持ってくる」
 「直、」
 「待ったはなしだ。怪我人は大人しく言うことを聞け、これ以上僕の手を煩わせるな」
 「……すまん」
 ベッドに身を横たえたままサムライが頭を下げる。器用だ。なんて、妙なところに感心してる場合ではない。医師から体温計を借りてこようと椅子から腰を上げた僕の背に、サムライが未練ありげに声をかける。
 「待て」
 「まだなにかあるのか」
 「待ったはなしだ」と釘をさしておいてこれなのだから無視してもよかったのに、つい振りかえってしまった。僕にもロンのお人よしが伝染ったのだろうか?忸怩たる面持ちで黙り込んだ僕を見上げ、サムライが問いかける。
 「お前の怪我は大丈夫か?」
 「くだらない質問だな、人の怪我より自分の体を心配しろ。僕は軽傷だ、腹部の切り傷にはガーゼを当ててある。医師の話によると痕も残らないそうだ」
 「よかった」
 心の底から安堵したようにため息をつくサムライにあきれる。そんなに僕を守り通せたのが嬉しいのか、とまた皮肉を言いたくなる。ひどく満足げなサムライに対し沸沸と怒りがこみあげてきて、大股にベッドに引き返す。
 「サムライ、何か誤解しているようだが改めて言っておくが僕を庇って君が怪我をしても礼を言うつもりはないぞ。これっぽっちも。それ以前に僕は君に対しさっぱり感謝をしていない。僕を庇って負傷されても迷惑なだけだ。今回は命が助かったからいいようなものの、次があれば即絶交するからな」
 「かたじけない」
 「誠意が伴わない謝罪は耳が腐る」
 殊勝に顔を伏せたサムライを睨みつけ、吐き捨てる。僕に叱責されたサムライが沈痛に黙りこんでいるため、居心地悪い沈黙が落ちる。
 ベッドの傍らに立ち、サムライを見下ろす。
 さまざまな思いが胸裏でせめぎあう。サムライが無事でいてくれてよかった、友人を失わずにすんでよかった。だが、またこうしたことがあるかもしれない。その時も僕が耐えられる自信はない。
 自慢にならないが、少しもない。
 だから僕は思いきって口を開く。僕を守るためなら自分がどれだけ傷付いてもかまわないと刹那的に生きる男に、これ以上傷付いてほしくないという切実な願いをこめて。
 「……僕を独りにしないと、約束してくれ」
 こんな情けない台詞、吐きたくなかった。だがサムライには、単刀直入に言わなければ通じそうもない。本当にどうしようもない頭の固い男だ。それを聞いたサムライが一瞬虚を衝かれたような顔をしたあと、唇を引き結び、毅然と僕を見上げる。
 「約束する。武士の意地に賭けて、お前ひとりを残して逝かない」
 「武士の意地、か。いったい君は何回武士の意地に賭けてるんだ?たまには他のものに賭けてみたらどうだ」
 僕の皮肉に、サムライの口元が綻ぶ。
 「ならば、帯刀 貢の名に賭けて」
 「よし」
 その言葉を信じようではないか。僕は今度こそ踵を返し、衝立のカーテンを開ける。立ち去り際、サムライに背中を向けたまま呟く。
 「僕としたことが言い忘れそうになったが、結構いい名だと思うぞ。帯刀 貢」
 背後でサムライが笑った気配がした。いつも無表情で感情が読みにくい男でも、名前を誉められれば人並に嬉しいらしい。素早くカーテンを閉ざし医師のもとへ行こうとして、足を止める。
 ついでにロンの様子を見ていこう。
 誤解するな、僕はロンを心配してるわけじゃない。ただ僕には保護者代理として責任がある。ロンは僕たち四人の中で最年少で、今まではレイジが庇護者を自認していたが肝心のレイジが見当たらないのでは僕が面倒を見るしかないじゃないか。まったくいい迷惑だ、と胸中で毒づきながらカーテンを開ける。
 「ロン、眠っているのか」
 一応声をかけ、カーテンを閉ざす。応答がないということは、ロンはまだ眠っているらしい。覚せい剤の副作用で深い眠りに落ちているのか?少し心配になり、枕元に立ち、ロンの寝顔を覗きこんでみる。
 「……眠っているんだな。ならいい」
 何がいいんだか自分でもわからないが、悪夢にうなされてる様子がないので少しだけ安心する。踵を返して立ち去ろうとした僕の背後で毛布がめくれる気配がする。
 まずい、起こしてしまったか?
 だが予想に反し、ロンは起きあがってはこなかった。目は覚めているらしいが、じっとベッドに横たわり何事か考えに耽っている。その様子が気にかかり、立ち去るに立ち去れない。
 「………お前ら、仲いいよな」
 「は?」
 突然なにを言い出すんだと面食らったが、ロンは夢うつつに僕とサムライのやりとりを聞いてたらしい。
 なんとなく、ばつが悪くなる。
 「……盗み聞きは悪趣味だぞ」 
 「聞きたくなくても聞こえてきたんだよ、隣のベッドだから」
 どうも不穏な雰囲気だ。ロンの声はぞっとするほど暗く、目の焦点も定かではない。
 重苦しい沈黙が続いた。
 衝立に遮られた薄暗がりで、ベッドに身を横たえたロンはじっと暗闇を凝視していた。ひどく声をかけづらい雰囲気だ。力なく毛布においた手といい、放心した表情といい、どこか心を手放した人間のように虚ろだ。 
 唐突に、ロンがこぼした。
 「俺たちは、もうだめだ」
 「君とレイジのことか?」
 わざわざ聞き返した愚を呪う。確認するまでもなく、それ以外にないじゃないか。ロンは僕の声も届いてないのか、完全に自分の殻に閉じこもってしまっている。毛布にくるまり、じっと闇を見透かし、不明瞭にくぐもった声で呟く。
 「知らなかったんだよ、レイジがサーシャのとこにいたなんて。俺の見舞いにも来ずなにやってんだってひとりで腹立てて、馬鹿みたいだ」
 「それは……事実だが」
 フォローしようがない。
 「レイジのやつ、ずっとサーシャのところにいたんだな。俺がタジマに襲われた夜もサーシャとたのしんでたんだよな」
 「…………」
 「体に痣があった。お袋やメイファの体にもおなじもんがあった。男にもてあそばれた痕だ」
 「…………レイジは君に拒絶されたと思いこみ、自暴自棄になっていたんだ」
 「俺にフラれたのがショックで、サーシャに慰めてもらってたわけか」
 ロンが露悪的に笑う。童顔には似合わない笑い方だ。言葉を失い立ち尽くす僕へと鋭い一瞥をくれ、毛布を剥いで上体を起こしたロンが怒鳴り散らす。
 「ぼさっと突っ立ってねえで何とか言えよ鍵屋崎!なあ、本当のこと言ってくれよ。俺が全部悪いのかよ、俺がレイジを拒絶したからあいつおかしくなっちまったのかよ!?俺が大人しくレイジに抱かれてやってれば満足だったのかよ!!」
 「落ちつけロン、君はまだ覚せい剤が抜けてないんだ」
 ロンを寝かしつけようと肩に手をのばし、その手が乱暴に叩き落とされる。僕の手を邪険に振り払ったロンが泣きそうな顔になる。他人を傷付けることで自分も傷付けている、救いがたく悲痛な顔。
 片手で顔を覆ったロンが、切々と訴える。
 「いやだもう……あいつの考えてることわかんねえよ。俺はあいつが人殺しでも笑えなくてもかまわないって、今までどおりダチでやってこうって思って、鼻歌頼りに迎えに行ったんだ。それなのに何でこうなるんだよ畜生。人殺しでも笑えなくてもかまわねえって、そりゃたしかにそう言ったさ!でもサーシャと寝たのは許せねえ。ひとにさんざん心配させといて悪びれたふうもなくケロっとして挙句3Pとか、あいつにとって俺の存在ってなんだよ、どうでもいいのかよ!!?」
 答えられなかった。
 ロンの気持ちはよくわかる。レイジが人殺しでも笑えなくてもかまわない、そう自分の気持ちに整理をつけて迎えに行った矢先に裏切られたのだ。絶望して混乱して、今のロンは完全に自分を見失っている。
 自分の本当の気持ちも、レイジの気持ちもわからなくなっている。
 そんなロンを見るに耐えかね、ポケットをさぐる。手のひらに掴んだのは渡り廊下で拾った麻雀牌。レイジがお守り代わりに持ち歩いていたあの牌だ。
 ロンを刺激しないよう慎重に歩み寄り、顔を覆った手をどける。僕に手首を掴まれたロンが、うろんげに眉をひそめる。 
 ロンの手のひらに、牌を乗せる。
 「これ……」
 見覚えがあるはずだ。ロンの牌なのだから。
 僕自身混乱していた。ロンになんて言葉をかけたらいいかわからない。言いたいことは山ほどあるが、どれが正解で不正解か区別がつかない。説得するか、慰めるか、励ますか?どれが正解なんだ?
 僕は悩んだ。
 悩んで悩んで悩みぬいた末に、その言葉を舌に乗せる。
 「レイジのことは忘れろ」
 ロンの顔色が豹変した。
 大きく目を見張ったロンから顔を背け、罪悪感に苦しみながら一息に続ける。
 「今の君たちは、互いに傷付けあい憎しみあうだけの関係だ。そんな不毛な関係解消すべきだ。レイジに幻滅したんだろう?レイジがサーシャと寝てたと知ってショックを受けたんだろう?なら彼のことは忘れろ。レイジもきっと忘れたが」

 『討厭!!』 

 いやだ、とロンは叫んだ。
 物凄い目で僕を睨みつけ、掌中の牌をおもいきり床に叩きつける。サーシャに踏まれてひびが入っていた牌は、床に叩きつけられた衝撃で脆くも砕ける。
 そのさまを眺めた僕は、自分でもぞっとするほど冷たい声をだす。
 「その牌は、レイジが常に持ち歩いていたものだ。北棟に行ってもずっと手放さなかった。覚えているか?ペア戦開幕日の初試合、リングに上がったレイジがずっとポケットに手を入れてたことを。おそらくあの時から、レイジはお守代わりの牌を持ち歩いてたんだ」
 深く俯いたロンの表情は読めないが、僕の言葉に衝撃を受けているのが硬直した肩から見てとれた。
 「レイジが何故そんなにも牌を大事にしていたかわかるか?」
 微動だにせず俯いたロンを見下ろし、断言する。

 「『君の』牌だからだ」

 ロンが小さな声で何かを言ったが、よく聞こえなかった。
 ベッドに上体を起こし、独り言を呟くロンはそのままにカーテンを開ける。僕にできることはもう何もない、レイジとロンの問題にこれ以上僕が立ち入ることはできないのだ。 
 これは二人が解決すべき問題だ。僕は所詮、部外者だ。
 ロンは振り向かずに外へ出た僕の耳朶に、低い、低い呟きがふれた。
 懸命に嗚咽をこらえているような、かすれた声だった。

 『忘記比較好?』

 忘れたほうがいいのか?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050929031621 | 編集

 リカは自慢の娘だ。

 『修学旅行前夜の娘に洗濯物畳ませるってひどくない?』
 不満げに口を尖らせつつも、リカは慣れた手つきで洗濯物を畳んでゆく。
 『いやならそこらへんに放っときゃいいよ、俺があとでやっとくから。そろそろ休んだほうがよくないか?寝坊して飛行機に乗り遅れましたなんて洒落になんねえぞ』
 『やだなあ、お父さんと一緒にしないでよ。ばっちり目覚まし時計かけといたから大丈夫だって。それに私がやんなきゃ誰がやるのさ、お父さんが洗濯物畳んでる姿なんて想像できないし……目に浮かぶもん、私が「ただいまー」て玄関のドアを開けたら洗濯物が出てった時まんまに散らばってるとこ。それだけじゃないよ、どうせお父さんが脱ぎ散らかしたままにした汗臭いシャツとか腐った靴下とかが三日間放置された生ゴミ並の悪臭放ってるんだ。ご近所さんから苦情きたらどうするの、ねえ?』
 リカは口が達者だ。
 自分から言い出したくせに無精者の父親にはあとを任せられないと意地を張る娘に、これが難しい年頃というヤツかとひとり頷く。
 『なに笑ってんのお父さん。やーらしい』
 『父親にむかってやーらしいとはなんだ』
 『エッチなこと考えてたんじゃないの?お母さんが病弱なのいいことに外で浮気してたりしたら許さないから。もしお父さんが外で風俗行ったり女の人と浮気してたら私迷うことなくお母さんに離婚勧めるよ、そんでお父さんがどんだけ親権主張しても絶対お母さんについてって養育費がっぽりふんだくってやるから』
 『……リカなんだ、その世知辛い未来予想図は。実の父親に対してあんまりな言いようじゃないかそれは?お父さんちょっと傷付いたぞ』
 『傷付いたってことは心当たりあるの?』
 洗濯物を畳む手も休めず言い返すリカにぐっと押し黙る。あっさり父親をやりこめたリカは、膝の上で丁寧にシャツを畳みながら妙に大人びた表情で付け足す。
 『おんなじ女だもん、そりゃあお母さんの味方をします』
 そんなに信用ないのか俺は、と情けなくなる。
 本気で浮気を疑われているのだとしたら父親失格だ。ワイシャツの袖と袖を合わせ器用に折り返しつつ、がっくりうなだれた父親を澄まし顔で観察するリカだが目元は笑っている。
 フィリピン人との混血であるリカの肌は浅黒い。
 混血が進んだ日本では肌の色や髪の色にも多様性がでてきたが、外国人に根強い偏見や反感を抱く層が彼の世代には多い。実際彼が子供の頃は今日ほど混血が進んでおらず、外国人との混血児はクラスに一人いるかいないかという確率だった。それが今では一クラス五名の割合に増加したのだからつくづく日本も変わったものだと痛感する。

 いつしかこの国は、両親とも日本人というだけで優遇される時代に突入した。

 その次に偉いのは片親が日本人の子供で、最下位は両親ともよそ者……つまり外国人の子供。 それが世間の平均的価値観にして一般常識だ。
 リカの母親とは同僚に連れていかれたクラブで知り合った。
 第二次ベトナム戦争の戦火を逃れて日本に来たばかりの彼女は日本語が不自由で、人見知りをするタチなのか根が引っ込み思案なのか慣れない接客で失敗続きだった。うっかり手をすべらし客のズボンに酒を零したり、うっかり手をすべらしグラスに入れようとした氷を客の股間に落としたり……
 今でこそ笑い話だが、新人にありがちな初々しい失敗談を笑い飛ばせるほど気丈ではなかった若い妻は店の裏手でよく泣いていた。
 彼は彼女に恋をした。
 そうして彼はフィリピン人の伴侶を得て、程なく子供が産まれた。妻によく似た可愛い女の子だった。目鼻立ちのくっきりした彫り深い顔だちは母方の血が強く出たためだろう。一目で東南アジア系黄色人種との混血児だとわかる外見のリカは、親から偏見を刷り込まれた園児たちに仲間はずれにされては毎日泣いて帰ってきた。台中戦争やら第二次ベトナム戦争やら半島の経済破綻やらさまざまな経緯からおもに東アジアや東南アジア圏の国々から日本に逃れてきた人々を敵視する者は少なくない。
 彼ら戦争難民や出稼ぎ目的の外国人が二十一世紀前半に一挙に流れこんだせいで、都心には大規模なスラムができて治安が悪化して犯罪件数が激増したのだと一般に認識されているからだ。
 それもまた、事実ではある。
 なんでリカは他の子とちがうの、と泣いて訴えていた幼い頃の娘を思い出す。だが、ある日を境に変化が起きた。自分をいじめていたリーダー格の男の子を、リカが砂場で蹴倒して泣かしたのだ。男の子の親と保母には怒られたが、帰宅したリカはひどく誇らしげだった。
 なんでそんなことをしたんだ、と聞けばリカは憤然と言った。
 『だってあの子、おかあさんとおとうさんをバカにしたんだもん。日本人のくせに外国人とケッコンするなんてリカのおとうさんは裏切りものだなんて言うから頭にきたんだよ』
 いじめっ子を蹴倒す場面をリカに再現され、「将来こいつと結婚するヤツは大変だろうな」とまだ見ぬ娘の結婚相手に同情し、せめて夫婦喧嘩では旦那を足蹴にするなよと当時の彼は忠告してやりたくなったものだ。 
 『お父さん?』
 我に返った彼を疑わしげに見つめているのは、膝に洗濯物を乗せた現在のリカだ。
 『なに浸ってんのお父さん?ボケるには早いよ』
 『いや、なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけだ』
 咳払いでごまかし、わざとらしく新聞を広げる。そんな父の様子をリカは怪訝そうに眺めていたが、膝に乗せたズボンの裾を手のひらで撫で付けながらスッと目を伏せる。
 『……ごめん、さっきはちょっと言いすぎた。お父さんが浮気してるなんて本気で思ってるわけじゃないから安心して』
 『わかってるよ』
 『お父さんモテないもんね』
 ……さりげなくひどいことを言うなコイツ。本当にだれに似たんだこの毒舌。
 もしかしてこれが反抗期というやつだろうか?そうか、とうとうリカにも反抗期が訪れたかと新聞を読むふりをしながら冷や汗を流す。
 新聞で顔を隠し、洗濯物を畳むリカの横顔を盗み見る。
 親の欲目を除いてもリカは可愛い。ボーイッシュなショートヘアがくっきりとした目鼻立ちによく似合う。十年後、いや、五年後にはさぞかし気の強い姉さん女房になって彼氏を振り回すんだろうなとまだ見ぬ娘の恋人に同情して肩でも叩きたくなる。
 ……さっきから娘の旦那やら彼氏やらに同情してばかりだな、俺。
 それに加え、勝気で世話好きな性格から娘の恋人や旦那は年下に違いないと勝手に決めつけていることに思い至り自嘲する。たしかに自分は心配性だが、まだ見ぬ娘の彼氏や旦那への同情には幾許かの嫉妬がこめられているのも否定できない。
 同情は嫉妬の裏返しだ。
 リカは自分にはもったいないよく出来た娘だ。
 しっかり者の長女に彼ら夫婦はずっと助けられてきた。フィリピン人の妻は、リカが幼稚園の頃からホームシックにかかりふさぎこむようになった。体がだるい頭が痛いと奥の部屋で寝こむことが多くなった妻の代わりにリカは日常的に家事をこなすようになった。リカだって小学生の女の子だ。友達との約束を優先したい日や家事をさぼりたい日もあるだろうに、妻が辛い体を起こして台所に立とうとすれば「いいから、お母さんは寝てて」と背中を押し戻すようになった。

 リカは優しい娘だ。
 彼ら夫婦の自慢の娘だ。

 だからリカがこの家を去る日のことを考えると、男親の感傷だとわかっていても寂しいのだ。 
 父と娘が気まずく押し黙る。
 妻は奥の部屋で薬を飲んで寝ている。まだ頭痛が治らないのだ。医者は心因性の偏頭痛だと診断して心療内科への通院を勧めた。妻の頭痛は慢性的なものだ。今だに片言でしか日本語をしゃべれない劣等感と人見知りで内気な性格が災いし近所付き合いもできず、保護者会ではただでさえ排他的な日本人の親に疎外され、頼れる友達がひとりもいない環境での生活が愛する妻の精神を病ませているのだ。
 妻の頭痛にはもう市販の薬が効かなくなってる。医者の勧めにしたがい、心療内科に通院してみるべきかもしれない。いちばんいいのは一時的にでも故郷へ里帰りさせることだろうが、妻の故郷フィリピンは米軍侵略以降、反政府ゲリラとの熾烈な内戦が繰り広げられる銃弾飛び交う激戦地だ。
 そんなところに妻を帰すのはみすみす死にに行かせるようなものだ。
 苦りきった表情の父親に向き直ったリカが、洗濯物を畳む手を止めて揃えた膝におく。
 『ね、修学旅行のお土産なにがいい?リクエスト聞くよ』
 景気づけに膝を叩き、活発に笑うリカ。雰囲気を明るくしようと彼女なりに努力しているのだ。そんな様子がけなげでいじらしくて、ついぽろりと本音をこぼしてしまう。
 『無事に帰ってきてくれ』  
 リカが大きく目を見張る。いけない、せっかく娘が気を利かせて雰囲気を明るくしようとしているのに不用意な一言でまた暗くしてしまった。やけにしんみりと呟いた彼は、口にだしてしまってからそのささやかな願いを悔いる。
 なにを心配しているんだ俺は、リカはもうでかいんだ、迷子の三歳児のように親が気を揉むことはないんだこれっぽっちも。
 思春期を迎え、父親が浸かった風呂には三十分以上時間をおいてからじゃないと入らないという不可解な行動をとるようになったリカがどうでるかと彼は緊張する。
 『お父さん心配しすぎ。韓国なんてすぐそこだよ、日本のお隣さんじゃん。三日後には元気で帰って来るから大丈夫だって』
 怒られはしなかったが笑われた。これはこれで不愉快だ。
 父親が娘を心配してなにがおかしいのだと憮然とそっぽを向いた拍子に、新聞の隅に小さく囲われた記事が目にとびこんでくる。
 『修学旅行先で事故か事件に巻き込まれるかも知れねえだろ。最近物騒だからな、そこらじゅうで戦争やらテロやら起こってるし……お前が行く韓国だって例外じゃねえ。ほら、これ見ろ』
 リカの鼻先に新聞の記事を突き出す。新聞の隅に地味に存在していたのは、「釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず」という内容の記事だった。  
 『韓国だってテロが起きてんだぞ、他人事じゃねえぞ』
 『あーもううざいなー、お父さん心配しすぎ。修学旅行先で事件や事故に巻き込まれる確率なんて何千分の一にすぎないのにさあ……』
 畳に膝を崩したリカがあきれたように首を振る。新聞記事まで持ち出して自分に注意を促す父親を鬱陶しがるのは思春期の娘として当然の心理だが、彼とて後に引けない。娘に馬鹿にされたままでは父親の威厳が保てないと問題の記事を指さしてしつこく大人げなく食い下がる。
 『何千分の一ってことはゼロじゃないだろ、万一ってこともありえるだろ!いいか、よーく気をつけろよリカ。修学旅行の予定には祝併合三十周年パレードも入ってんだろ?友達と一緒だからって羽目外してはしゃぎすぎて、大統領の車追って道路にとびだしたりするんじゃねえぞ』
 『はいはいはいわかりました』
 『ハイは一度』
 『ヘイ』
 ……まったく可愛げのないヤツだ。諦観のため息をつき新聞を投げ出した彼の眼前では、してやったりとリカがほくそ笑んでいた。コイツは将来男をからかって楽しむ性悪女になるかもしれない、といういやな想像が脳裏をかすめてはげしく首を振る。父親をやりこめて満足したか、畳に行儀悪く寝転がって新聞をめくるリカ。毎日連載の四コマ漫画を熱心に読み、上機嫌に足を揺らすさまを眺め、苦笑する。
 『本当に漫画が好きだな』
 『大好き。だっておもしろいじゃん。あーあ、先生と結婚したいなあ』
 『先生?おまえ担任に片思いしてるのか』
 聞き捨てならない。小学五年生で担任教師に片思いだなんてませガキめけしからん、と眉を吊り上げた父親に軽蔑の眼差しを投げてリカが寝返りを打つ。
 『違うって、先生は先生でもブラックジャック先生ー』
 『なんだ漫画か』 
 娘の仮想恋人が漫画の登場人物だと判明し、安堵の息を吐く。父親の間抜けな勘違いに笑いの発作を噛み殺しながらリカが続ける。
 『だあってかっこいいんだもん先生、マジ惚れちゃう!法外な治療費ふんだくる無免許医だって世間から後ろ指さされてるのにホントはすっごく優しくて絶対最後まで患者さん見捨てたりしないんだよー最高じゃん?傷痕もセクシーだし白衣も似合うし……あ、でもいちばんはやっぱ黒マントかな?いいよねー。黒マントをあんなに自然に着こなせるの先生くらいのもんだよ。ああっ、ピノコになりたいっ』
 ……娘が別の意味でかなり心配だ。まあ、漫画の登場人物に片思いすることも思春期の女の子にはありがちな現象だと無理矢理納得しよう。
 そう思ったが。
 初恋の微熱に目を潤ませてブラックジャックを絶賛する娘がおなじ部屋にいればついつい釘をさしたくなるのが父親という生き物だ。
 『先生に恋するのは結構だが、どんなに好きでも漫画の登場人物とは結婚できないぞ』
 『お父さんの馬鹿、どうしてそう夢のないこと言うの!?娘の初恋ぶち壊してたのしいのっ』
 冷めた指摘に失望したリカが非難の声をあげる。勢い良く跳ね起きたリカを一瞥し、これまでさんざんおちょくられた意趣返しだと彼は意地悪くほくそ笑む。
 『リカも小5になったんならクラスに好きな男子のひとりやふたりいるんじゃないか?』
 図星だったようだ。
 赤面したリカが酸欠の魚のように喘ぐ。ブラックジャックが大好きというのも正直な告白だろうが、クラスに好きな男子がいるというのもまた事実なのだ。本命を暴かれた娘の反応が新鮮で彼はつい調子に乗ってしまう。
 『で、そいつとブラックジャックとどっちが好きなんだ?』
 『お父さんには関係ないじゃん、ひとの恋愛事情に口ださないでよっ!もう馬鹿最低、そういう冗談言うお父さん見損なった。いやがらせにキムチ大量に買ってくるから』
 『キムチ?』  
 訝しげに眉をひそめた彼を振り返り、極上の笑顔を湛えるリカ。
 『担任の先生が言ってたの、飛行機乗ると気圧の関係でキムチが爆発するかもしれないからお土産で持ちこむときは気をつけなさいって。蓋をぴっちり閉めて爆発寸前ってトコまで膨らませたキムチを日本に持ち帰ってお父さんの目の前で開けてやる』
 『……悲劇だな、そりゃ』
 『悲劇でしょ』
 真面目くさって相槌を打ったリカに我慢の限界が訪れ、彼は腹を抱えて笑い転げた。その下敷きになり新聞がぐしゃりと潰れ、釜山のテロを報じた記事が破れた。
 翌日リカは韓国へ旅立っていった。
 『お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて』とくどいほど念を押し、元気に手を振って。
 そして二度と帰ってこなかった。
 半島併合三十周年を祝うパレード中に起きた、あの忌まわしい事件に巻きこまれて。
 
 彼は職場のテレビでそれを知った。
 テレビでは半島併合三十周年を祝うパレードが生中継されていた。
 盛大な式典だった。社会主義に固執した朝鮮民主主義人民共和国が瓦解して韓国に併合されてから早いものでもう三十年が経つんだな、と彼は不味いコーヒーを啜りながら感慨に耽っていた。
 色とりどりの紙テープが風に散らされ華麗に吹きすさぶ中、鼓笛隊を先頭に幅広の道路を典雅に行進しているのは韓国大統領を乗せた黒塗りの高級車だ。後部座席の窓を開けた大統領が笑顔で観衆に手を振るたびに歩道は喝采に沸き拍手が起こる。
 大統領の顔から沿道の観衆へとカメラが流れると同時におもわず身を乗り出してリカをさがしてしまう、そんな自分に苦笑する。この何千何万という観衆の中にリカがいるのだ。不思議な感じだ。目立ちたがり屋のリカのことだからカメラを見つければ友達をつつき、大きく手を振り自分の存在を主張するかもしれないと期待してみたが、ついにリカを見つけることはできなかった。
 『五十嵐、やけに熱心だな。そんなに楽しいかよ、隣の国のパレードが』 
 『まあな』
 それでもまだ諦めきれず、紙コップを口に運びながらテレビ画面を眺める彼に同僚が声をかけてくる。
 ここは刑務所内に設えられた宿直室。
 彼は看守だった。
 初対面の人間に職業を言うと、決まって怪訝な顔をされる。幾許かの好奇心と不審感とが入り混じった表情だ。何故看守になったのか、なりたくてなったのか?疑問の焦点はそこに尽きる。社会の平和と秩序を守る正義の味方の警察官ならともかく、なりたくて看守になった人間は少ないだろう。
 ちなみに看守とは刑務官の階級の最下位にあたり、これでも一応国家公務員である。刑務官の採用試験は高校卒業程度を条件としていたため、成績がふるわず大学進学を断念せざるをえなかった彼も無事合格することができた。
 公務員の端くれなら食いっぱぐれることもないだろうし、実際に凶悪犯と格闘する刑事や警察官よりは、すでに逮捕されて反省の態度を示した囚人を監督するほうが向いてるだろうと自己分析した。
 それが志望動機といえば志望動機だが、冷静に振り返ってみればリカにも遺伝した世話好きな性格が影響してるのかもしれない。囚人間の彼の評判はとてもいい。他の看守のようにストレス発散目的で囚人を罰することも虐げることもなく、囚人の相談には親身に応じ、時に優しく励まし時に厳しく叱る彼は刑務所内でも一目おかれていた。
 今の仕事に特に不満はなく、実生活では妻と子供にも恵まれた。妻の精神状態が年々悪化して頭痛がひどくなっているとか悩みは絶えないが、リカの笑顔の前には全部ささいなことだ。
 『あの中に娘がいるんだ』
 テレビ画面に顎をしゃくり、少し自慢げに打ち明ける。対面の机に座った同僚が怪訝な顔をする。
 『修学旅行で今韓国に行ってるんだ。パレード見学も日程に入ってる』
 『ああ、そういうことか』
 合点がいったらしく、同僚が軽く頷く。
 宿直室備え付けのテレビには盛大な式典の模様が映し出されていた。
 パレードは着々と進行していた。大統領を乗せた車が幅広の道路をゆっくり移動してゆく。華々しく装った鼓笛隊がさしかかるたび沿道の観衆が喝采をあげ、幼児を肩車した家族連れや仲睦まじい恋人たちが大袈裟に手を振る。平和を絵に描いたような光景。
 『娘さん何歳だっけ』
 『十一歳、小五。生意気盛りで困っちまうよ。昨日もさんざんやりこめられた』
 『女の子はませてるからなあ。でも可愛いだろ』
 『そりゃまあな。うちの子はカミさん似なんだよ』
 『おまえのカミさんて水商売あがりのフィリピ―ナ?』
 悪気はないのだろうが、「水商売あがり」という余計な一言が癇にさわる。不快げに残りのコーヒーを啜る五十嵐の様子に失言を悔いた同僚が頭を掻く。
 『わりィ。口が滑った』
 『気にすんな。寂しい独身者の僻みだと思って寛容に聞き逃してやる』
 『うわ、むかつくなそれ……まあいいや。でもそれでわかった、娘がパレード見物してんならテレビから目えはなせないよな。画面の端っこに映りこんでるかもしれないと期待して目を凝らしちまうのが親心』
 『笑えよ親バカだって』
 照れ隠しに吐き捨て、テレビ画面へと視線を戻し、ふと違和感をおぼえる。同僚の指摘で画面の端へと目をやれば、野次馬と警官が押し問答していた。どうやら、大統領とお近づきになりたい一心で道路へとびだそうとした男を警官が必死に制止してるらしい。
 警官の背後を大統領の車が通りかかった瞬間、男が突飛な行動にでる。
 警官を突き飛ばし、テープをまたぎ、大統領の車の前にとびだしたのだ。
 危ない、轢かれる。
 おもわず椅子から腰を浮かしかけた彼の予想に反し、男がタイヤに巻きこまれる危機は回避された。観衆の声援に応えるため、車が速度を落としていたからだ。安堵に胸撫で下ろした彼の眼前、画面の中の男がふたたび奇妙な行動にでる。両手を広げて万歳、大声でなにかを叫ぶ。韓国語がわからない彼には意味不明だが様子が尋常ではない。
 なにが起こっているんだ?
 観衆の中にはリカがいるのに。
 画面の中で何が進行しているのか判然としないが、なにか、これからとてつもなく悪いことが起こりそうな予感がする。得体の知れぬ胸騒ぎにかられた彼が狂おしく見つめる中で、それは起きた。

 激震。
 
 地震……いや、違う。揺れているのは画面の中だけだ。正しくは、パレードの進行状況を延々と映していたカメラがはげしく上下に揺さぶられ横転したのだ。撮影者の手をはなれ地面に転がったカメラが淡々と映し出すのは異常な光景。血を流して倒れこむ男、腰を抜かして座りこむ若い女、親とはぐれて泣き喚く子供……騒然と入り乱れ逃げ惑う観衆。テープを突き破り歩道から車道へと殺到した何千何万という大観衆。
 なんだ?
 これはなんだ?
 『爆発だ』
 椅子を蹴倒して立ち上がった同僚が呆然と呟き、自分の発言に興奮したかのようにまくしたてる。
 『おい見たかよ五十嵐今の、大統領の車の前にとびだした男が何か投げたんだよ!よくわかんなかったけどあれ爆弾だよきっと、次の瞬間カメラがブレて……』
 熱に浮かされたようにしゃべりつづける同僚の声が途中で聞こえなくなった。彼は慄然と立ち竦み、手の中で紙コップを握り潰し、驚愕に目を見開いて画面を凝視した。爆発……爆弾?大統領の車の前にとびだした男が何か叫んで何か投擲したところまでは覚えている。あれが爆弾だったのか? 
 そして再び、画面が揺れた。今度は一回目よりもはげしく、衝撃が強かった。
 画面の外まで揺れが伝わってくるようだった。いったい向こうで何が起きているんだ?わからない……いや、わかりたくない。目から入った情報を脳が処理するのを拒絶している。だってあそこにはリカがいるのに、俺の娘がいるのに、こんな馬鹿げたこと起きるはずないじゃないか。何のための爆弾何のための爆発だ、今日は半島併合三十周年を祝うめでたい日のはずだろう?

 釜山でテロ 二十名死傷 韓国独立を掲げる革命組織の実体未だ解明できず

 『テロなのか、そうなのか?リカはテロに巻きこまれたのか?』 
 口が勝手に疑問を紡ぐ。頭は混乱していた。同僚は何も答えなかった。
 宿直室にいた他の看守も、横転したカメラから送られてくる衝撃的な映像に興奮して騒いでいる。そのやりとりも彼の耳にはただの雑音にしか聞こえない。画面では三度目、四度目の爆発が起きている。道路のコンクリートに亀裂が走りあるいは陥没し煙が濛々とたちこめ、親とはぐれた幼児が我先にと逃げ出す大人に突き倒され膝を擦りむき頭から血を流した恋人を抱いて女が号泣しあれは、あれは何だあの肉塊は?あれが本当に元人間?沿道に飛び散った血と肉片は?凄惨な惨劇を目撃した同僚がその場に手足をついて嘔吐する。
 正気じゃない。
 今日は半島併合三十周年を祝うパレードの日だ。沿道には何千何万という大観衆がつめかけていた。その中で爆弾を爆発させるなんて正気じゃない、爆弾を投げた奴は無差別テロが目的か?悲鳴と怒声と罵声と嗚咽と断末魔の絶叫と、画面の向こうから伝わってくるのは平和を絵に描いたような記念式典から一転、酸鼻を極めた光景。
 あの中にリカがいる。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050928031820 | 編集

 先生が言ってたの、飛行機乗ると気圧の関係でキムチが爆発するかもしれないからお土産で持ちこむときは気をつけなさいって。蓋をぴっちり閉めて爆発寸前ってトコまで膨らませたキムチを日本に持ち帰ってお父さんの目の前で開けてやる。
 お土産にキムチ買ってくるからたのしみにしてて。

 何かが崩壊した。 
 それはおそらく理性や自制心と呼び習わされる感情中枢で、次の瞬間彼は獣じみた雄叫びを発して一心不乱にテレビに掴みかかっていた。そんな彼に驚いた同僚が数人がかりで止めに入るが力づくで振りほどき狂気にかられてテレビを揺さぶる。
 『リカ、なんでそこにいるんだリカ?心配しないでも大丈夫だってお前昨日そう言ったばかりじゃないか、なんでよりにもよってそんなとこにいるんだよ!?修学旅行先で事件や事故にまきこまれる確率は何千分の一だって知ったかぶってたのは誰だよ、ははははそうだよなそのとおりだよな、だってありえねえもんなそんなこと。土産にキムチ買って帰ってくる言ったのにリカが帰ってこないなんてあるわけねえよな!?』
 『五十嵐落ち着け、テレビを放せ!』
 『そんな乱暴に揺さぶったら壊れちまうよ!』
 同僚数人がかりで押さえこまれてもテレビを手放さずに唾をとばして訴えかける、そのさまは痛切な悲哀に満ちて滑稽すぎて。
 自分が目にしてるものが信じられなかった。
 こんな現実、認めたくなかった。だってあそこにはリカがいるのだ、慣れた手つきで洗濯物を畳みブラックジャックに片想いし父親にからかわれればむきになり土産にキムチを買ってくると元気に手を振ったリカがいるのだ。

 リカ。俺の娘。
 将来はきっとカミさん似の美人になるはずだった。年下の恋人を振りまわし旦那を尻に敷くはずだった。いつかは家をでていくはずだった。
 幸せな結婚をして子供を産み育てて、穏やかに老いて死んでゆくはずだった。
 どこで間違ってしまったんだ?

 画面で何度目かわからぬ爆発が起こった。爆発は次々と連鎖してあちこちで膨大な煙が上がり車が道路が割れ車が衝突し負傷者がでた。流血の惨事というより歴史に残る惨劇。爆発に巻きこまれた女が子供が片腕を失い片足を失い、ある者は顔面を吹っ飛ばされある者は半身を吹っ飛ばされ道路に累々と散らばる。
 『あああああ、あ』
 お父さん。あどけない声が鼓膜に甦る。お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね。大人ぶって父親に説教するのが好きなリカは、まだ十一歳だった。十一年しか生きてなかった。
 そのリカはもう、生きてはいない。
 自分の目で確認したわけでもないのに手足の先から絶望が染みてきた。彼にはわかったのだ、直感的に。リカは爆発に巻きこまれて死んだのだ、爆弾に吹っ飛ばされて道路に散らばる肉片になったのだ。
 友達との楽しい思い出になるはずだった修学旅行で、何千分の一かの確率のテロに巻きこまれて。
 『あああああああああっああああああっあ、あ!!!!!』
 人間の喉からでているとは思えない奇怪な絶叫だった。絶望に音を与えたらきっとこんな声になるはずだ。リカが死んだ。死んでしまった。自分には何もできなかった、爆弾が爆発する瞬間を画面越しに愕然と眺めていただけだ。父親のくせに娘を救えなかった、むざむざ死なせてしまった。慙愧後悔憤怒憎悪恐慌、それらすべてを呑みこんで肥大する絶望。なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ?何故リカが死ななければならない何も悪いことなんてしてないのにまだ小学生なのに好奇心半分にパレードを見に行っただけなのに爆弾が爆発する寸前まで友達と無邪気に笑いあって大統領の車に手を振っていたリカが?
 テレビがすさまじい音をたて床に落下し、盛大に火花を散らして沈黙した。
 自分の手からテレビが滑り落ちたことにも気付かず、意志が消失した瞳で虚空を見据える。

 悲劇だな、そりゃ
 悲劇でしょ

 昨夜交わした他愛ない会話が運命の皮肉を示唆していたと気付き、放心した頬を一筋の涙が伝う。

 違うよリカ。
 こんなひどいこと、悲劇の二字で片付けられるものか。

 悲劇とは誰かの身に起きた出来事を外側から見た言葉だ。
 とんでもなく惨たらしいことを客観的に評した言葉だ。悲劇は同情の涙で報われるが、彼が直面したのは救いがたい現実だった。実際に誰がどれだけリカの死を嘆き遺族の心情を哀れんでも彼ら夫婦は救われなかった。
 修学旅行中にテロに巻き込まれた娘の亡骸を受け取りに韓国に赴いた彼ら夫婦と対面した検死医は、終始沈痛な面差しを伏せていた。自分たち夫婦を気の毒そうに見つめるあの目が忘れられない。
 娘に一目会わせてくれと半狂乱で医師に縋りつく妻の肩を支えながら彼もお願いしますと何度も頭を下げた。お願いします一目でいいから会わせてください、リカに会わせてください。夫婦揃って馬鹿の一つ覚えみたいに必死に懇願する彼らと対峙した医師は悲痛な面持ちで念を押した。
 『本当にいいんですか?
  申し上げにくいのですが、娘さんは人間の姿をしていませんよ』
 通訳はそう言った。
 どういうことだ、なんて質問は間抜けすぎてできなかった。彼は職場のテレビで見てしまった、気心の知れた同僚とコーヒー片手に歓談しながら凄惨なテロ現場を目撃してしまったのだ。道路のコンクリートには亀裂が走りあるいは陥没し大破した車からは濛々と白煙が上がる、老若男女が逃げ惑う血と肉片飛び散るテロ現場を。警察の話によると、リカのいた場所は二度目の爆発地点から5メートルしか離れていなかったという。沿道には細切れの肉片や臓物が散らばっていてかき集めるのに苦労したとそういえば誰かが言ってたな、と彼は弛緩した頭でぼんやり考えた。
 彼はとうとう、娘に直接会う勇気がわかなかった。
 生前の面影が完膚なく破壊された肉塊と化しても歯の治療跡はそのままだった。それが決め手となった。帰国後すぐに葬式を挙げた。リカの葬式。遺影の中ではリカが天真爛漫に笑っていた。あれはたしか公園で撮った写真だ、妻の体調が良い休日に家族で公園にでかけて映したのだ。
 遺影の写真も自分が手配したはずなのに、何故だか実感が湧かなかった。すべてが自分を放ったらかして進行してるような違和感が拭えぬまま焼香する参列者に惰性で会釈する。葬式にはマスコミが詰めかけており、遺影を抱えた自分にマイクが殺到したような記憶があるが何と受け答えしたのかさっぱり覚えていない。ただ、カメラのフラッシュが眩しかったことだけ覚えている。
 娘の同級生も葬儀に出席していた。生前リカと仲の良かった女子がお互い身を寄せ合って号泣する光景を喪主席から遠目に眺め、彼は心の中で呟いた。
 ああ、生き残りか。
 そう呟いてから、それがどんなに不謹慎で残酷な言葉が痛感する。リカの死を悼んで号泣する女の子達に申し訳なくなった。自分はどうかしてしまったのか?テロの衝撃も癒えぬのに娘の葬式に出席してくれた彼女らにこんな感情を抱くこと自体間違っている。理性ではちゃんとわかっている、わかっている。だが心が納得しないのだ。
 彼女らは生き残り、リカは死んだ。
 なにが両者の命運を分けた?何故リカが「そちら側」じゃないんだ?
 慌しく葬儀を終えて、リカのいない日々が始まった。彼は空虚な喪失感を抱え漫然と日々を過ごした。なにをしても張りがなかった。リカの死の一報を受けてから妻はずっと泣いていた、葬儀の間もずっとずっと泣いていた。葬儀が終わって一ヶ月二ヶ月が過ぎても妻の嗚咽が止むことはなかった。
 うるさい、いい加減に泣き止め。いくら泣いたところでリカは戻ってこないんだぞ。
 三ヶ月目に、結婚以来初めて妻に手を上げた。憤怒に声を荒げ、妻をはげしくぶったのだ。初めて夫に殴られた妻は恐怖に目を見開き信じられないものでも見るかのように硬直した。彼はすぐに後悔したが、つまらない見栄だか意地だかが邪魔してその場で謝罪することはどうしてもできなかった。
 いや、見栄でも意地でもない。再び妻と向き合い、糾弾されるのが怖かったのだ。
 何故リカを止めてくれなかったの、何故修学旅行に行かせたの?リカが死んだのはあなたのせいよ。
 激昂した妻が、華奢なこぶしで彼の胸を殴打しながら吐き捨てた台詞を思い出す。その台詞はこぶしより何より深く彼の胸を抉り致命傷を与えた。   

 リカの死を忘れたい。娘を死なせた罪悪感から逃れたい。

 彼は酒に溺れることで寝ても覚めても自分を苛む罪悪感を紛らわし現実逃避を試みた。彼は自暴自棄になった。ささいないことで妻に手を上げるようになり同僚と揉め事を起こすようになり囚人の相談にも生返事で対応するようになった。もともと酒には弱かっただけに、一度溺れてしまえば忘却の恩恵に浴すことができた。有り難かった。
 ある日、彼は職場で障害事件を起こした。同僚を殴ったのだ。
 あの日あの時、画面越しのテロ現場を同時に目撃した同僚だった。彼の妻を「水商売上がり」と呼んだ一言多い男だ。娘をテロで失ってからというもの生活態度が荒み、周囲と軋轢を起こすようになった彼を心配し、同僚が言ったのだ。
 『娘さんのことは残念だけど、よかったこともあるじゃねえか』
 なにを言ってるのかわからなかった。
 同僚はへらへら笑いながら続けた。
 『これで嫁と縁切る口実ができたろ。偏頭痛持ちの寝たきりフィリピ―ナなんて国に帰して今度は日本人の嫁さん貰えよ、なんなら俺がいい娘紹介してや』
 気付けば同僚に馬乗りになり、顔面をめちゃくちゃに殴り付けていた。同僚は鼻の骨を折る重傷を負い大問題になった。彼を庇う人間はだれもいなかった。程なく別の職場へと移された。わかりやすい厄介払いだった。その傷害事件をきっかけに、彼はいくつもの刑務所を転々とした。どの職場も一年と長続きせず、周囲と馴染めない憂さ晴らしに以前にも増して浴びるように酒を飲むようになった。
 リカが死んで何年目かに転機が訪れた。妻の自殺未遂が原因だった。
 ある日職場から帰宅してみたらざあざあと水の流れる音がした。風呂場からだ。水をだしっぱなしにしてるのかと訝しんで急行してみれば風呂の前廊下が水浸しだった。異常を察して風呂に駆け込んだ彼は慄然と立ち竦んだ。妻が浴槽にもたれかかるように片腕をひたし、ぐったりしていた。長時間シャワーを浴び続けた腕は白くふやけて、体温が低下した肌はひんやり青褪めていた。そばには剃刀が落ちており、シャワーの水に薄まり赤い液体がタイルの床を濡らしていた。 
 発見が早かったおかげで一命はとりとめたが、自殺未遂以降彼女は完全に壊れてしまった。夫婦の立場が逆転した。今度は妻が酒に溺れるようになった。妻を自殺未遂させるまで追い込んだ自責の念に駆られた彼は、献身的に妻の面倒を見るようになった。
 『お父さん浮気しちゃだめだからね、お母さんを哀しませちゃだめだからね』
 精神的に不安定な状態が続いた妻はことあるごとにヒステリックに夫を詰るようになった。夫婦喧嘩は絶えなかった。彼ら夫婦はボロボロだった。
 追い討ちをかけるように、何度目かの配置換えを通達された。
 今度の職場は悪名高い東京少年刑務所……俗称東京プリズンだった。
 周縁を無国籍スラムに囲まれた砂漠のど真ん中の刑務所、俗世間と隔絶された不落の要塞。東京プリズンに送られるということは看守にとっては実質左遷を意味するが、どうでもよかった。職場の環境が変化したところで堕ちるところまで堕ちた彼自身が変わることはないという諦観があったのだ。
 宿舎があるのも有り難かった。酒に溺れた妻の代わりに慣れない家事と仕事とを両立させてきたが、そろそろ限界だった。妻が待つ家には週末だけ帰ることにして、残りの日々は宿舎で過ごそうと決めた。傷付けあうだけ、憎しみあうだけの不毛な夫婦関係に依存するよりそちらの方がお互いのためだと理性的に判断したのだ。

 そして彼は、東京プリズンに来た。

 実際来てみれば東京プリズンは噂以上に酷いところだった。囚人が囚人をリンチしレイプし看守が囚人をリンチしレイプするのが日常化した実状に最初は愕然とした。堕ちるところまで堕ちたと自嘲していたが、自分にもまだ多少の良識と良心は残っていたらしい。 だが慣れてしまえば、それなりに居心地がよかった。
 少年刑務所の看守を体験するのは初めてだが、彼の世話好きな性格は囚人には好意的に評価された。札付きのワルも中にはいたが、貧困からやむをえず犯罪に手を染めたスラム出身者が東京プリズンの構成比率の大半を占めており、彼はそんな少年たちに同情し親身に接するようになった。いつしか彼は東京プリズンでは珍しく囚人を虐待しない看守として少年たちに慕われるようになった。 
 しばらくはおだやかな日々が続いた。
 束の間の平穏に波紋を投げかけたのは、ある日の出来事。
 その日、彼は宿直室で暇を持て余していた。残務処理を終えれば宿舎に寝に帰るだけの潤いのない生活も慣れれば苦ではないが、宿舎に帰っても特にやることがないし、悪夢にうなされる夜への恐怖が作用してなかなか腰を上げる決心がつかなかった。
 あくびを噛み殺して不味いコーヒーを啜っていたら、醜い容貌の男が尊大な大股で宿直室に入ってきた。
 同僚のタジマだった。
 タジマの机は彼の正面だった。タジマは彼が眺めている前で大きく足を広げ椅子に腰掛けた。何かいいことでもあったのかへたな鼻歌を口ずさんでいた。
 『どうした?いやに上機嫌じゃねえか』
 『へへへっ、そう見えるか?売春班で一発ヌイてきたあとだから血色いいだろうが』
 ……愚問を後悔した。渋面でコーヒーを啜る彼を無視し、鼻歌まじりにパソコンを起動するタジマ。太い指には似合わない素早い動作でキーを動作したタジマにため息をつき、それまで飲んでいたコーヒーの紙コップを捨てようと腰を上げる。ゴミ箱はタジマの机の横だ。中腰に屈んで空の紙コップを捨てる際、タジマが凝視するパソコン画面が偶然目に入る。
 『おいなんだよそりゃ!?』
 抗議の声をあげれば、タジマにすかさず口を塞がれる。彼が驚くのも無理はない、タジマが興味本位に閲覧していたのは完全部外秘の個人情報……東京プリズンに収監された囚人のデータを管理したファイル。勿論、許可なく閲覧するのは厳禁とされている。
 『そんなでっけえ声だすなよ五十嵐、ただの暇つぶしだよ』
 『暇つぶしってお前、上にバレたらどうすんだよ。処分されるぞ』
 『俺はコネがあるから見逃してくれるさ。ほらお前も見てみろや、面白いぜ。お前も東京プリズンに来て随分経つから知ってると思うが、まったくこの刑務所ときたら毛色の珍しい凶悪犯の巣窟だ。たとえば』
 タジマがマウスをクリックする。画面に現れたのは赤毛にそばかすの少年。あどけない童顔に茶目っけを足す大きな瞳が印象的だ。
 『こいつ見てみろよ、東棟の囚人で名前はリョウ。こんな可愛いツラして売春・恐喝・薬物のトリプル逮捕だと。まったく世も末だぜ。データによると渋谷スラムの母子家庭出身、父親は不明。母親は重度のヤク中娼婦で、その影響でコイツもガキの頃から小遣い稼ぎに体売っちゃあクスリを手に入れてたんだそうだ。十四歳にゃとても見えねえだろ?
 クスリのヤリ過ぎで骨がボロボロのスカスカで成長しないんだとよ。はは、長生きしそうにねえな。さらには渋谷を拠点にしたぺド専門売春組織のトップで、人には言えない趣味をお持ちの財政界の客とも互角に渡り合ってたんだそうだ。
 恐喝で巻き上げた金は五千万を超す、ってマジかよ羨ましい』
 自分のことは棚に上げて人の趣味を嘲笑うタジマに辟易する。個人情報の覗き見になんら良心の呵責を感じてないのはさすがだ。
 『いい加減にしろよタジマ、誰にだって人に知られたくない秘密のひとつやふたつあるだろ。そっとしといてやれよ』
 同僚の不正行為を見逃せず注意した彼に鼻白み、マウスを操作する手は止めず次々に囚人の個人情報を画面に呼び出しながらタジマが皮肉る。
 『てえことはお前にも人に言えない秘密があんのかよ、正義漢気取りの五十嵐さんよ』
 脳裏を一瞬リカの顔が過ぎる。
 『あるよ』
 タジマの手から強引にマウスを奪い取る。娘のことは職場のだれにも話してないし、また話す必要もなかった。いや違う。彼が意図的に伏せたのは娘がテロで死亡したという事実だけで、娘の存在は以前、家族のことを聞かれた時にうっかり口を滑らしてしまった。タジマにしつこくせがまれて渋々写真を見せたこともある。
 リカの写真を見たタジマが開口一番発した台詞は、『お前のガキにしちゃ可愛いじゃんか。あと十歳年食やさぞかし気が強くて踏まれ甲斐のある女王様になったろうに惜しいなあ』という意味不明なものだったが。娘は事故に巻き込まれて死んだ、と事前に告げておいての感想がそれなのだから彼がタジマに殺意を抱いたのは言うまでもない。
 タジマの手から奪い取ったマウスを性急に操作し、画面を強制終了しようとし、ふと動きを止める。次々と窓を閉じる途中で、慄然と立ち竦んだ彼を椅子の背凭れにふんぞり返ったタジマが不審げに見上げる。
 『どうした五十嵐、おっかねえ顔して』
 『こいつは……』
 手足の先からスッと感覚がなくなった。不吉な予感に胸が騒ぎ異常に血の巡りが早くなる。マウスを握り締めた手がじっとり汗ばみ、唇が興奮に乾く。戦慄。画面から目をはなせない。次々と窓を消してゆく過程で液晶画面に表示されたのはある囚人のデータ。黒いゴーグルをかけた短髪の少年で、八重歯が特徴的な快活な笑顔を振りまいている。五十嵐の脇から画面を覗きこんだタジマが得々と解説する。
 『ああ、こいつか。聞いて驚け、まだ若いが東京プリズン一の古株だ。わずか十一歳でテロ組織の活動に関与してとんでもねえ事件起こして厄介払いされてきたんだよ。
 お前も知ってんだろ、何年か前にあった韓国のテロ事件。そうアレだよ、半島併合三十周年を祝う記念式典中に起きた韓国犯罪史上最悪の爆弾テロ。コイツはなんとそのテロで使われた爆弾を作ってたんだな。
 信じられるか、たった11歳のガキがだぜ?言うなりゃ爆弾作りの天才だな。火薬の扱いにかけちゃ右にでる者なしって重宝されてたみたいだぜ。
 ま、テロ組織じゃヒーローでもここじゃ二千人殺した懲役二百年の大量殺戮犯だ。東京プリズンを生きて出られる可能性は万に一つもねえ……』 
 タジマの声が急速に遠のき、マウスにおいた手が小刻みに震え出す。
 液晶画面の中ではゴーグルをかけた少年が快活に笑っている。良心の呵責など一片もなく、二千人もの人間を大量殺戮した罪の意識とは無縁に。
 遺影のリカの笑顔が、目の前の少年に重なる。
 
 ああ、そうか。
 こんなところにいたのか。

 これは何の冗談だ。運命の皮肉、復讐の好機?リカを殺した人間がおなじ刑務所にいる。ここにいる。今でも呼吸をし飯を食べ笑っている、リカがもう二度とできないことを普通にやっているのだ。
 そんなことが許されるのか?
 許されていいのか?
 
 『そいつがお気に召したようだな。聖人気取りの五十嵐もカミさんとご無沙汰でタマってましたってか。お前にそっちの趣味あるなんて意外。手えだすなら止めねえけど、相手は東京プリズン一の古株で西のトップだから心してかからねえと返り討ちにあうぜ。念の為に縄でも持ってくか?スタンガンは?猿轡はどうする、ボールギグのがいいか。ボールギグのいいところは涎垂れ流しで声聞けるとこだな。
 俺のSM七つ道具貸してやるからよ……』
 勝手に勘違いし机の引き出しをかきまわすタジマの方は見もせず、上の空で返事をする。
 『ああ、そうだな』
 彼の目は少年だけを見つめていた。リカを殺した人間、リカを殺したくせに図々しく生き延びている大量殺戮犯……彼がこれから、この手で殺すことになる少年。
 『返り討ちにあわないように、ちゃんと準備しとかなきゃな』

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050927032046 | 編集

 サムライは十二針縫う重傷だった。
 大腿動脈が傷付いてれば失血死の可能性もあったが今は状態も安定し、命には別状がないから安心しろと医師に言われた時は深々と安堵の吐息を漏らしてしまった。医師の対面の椅子に腰掛け、絶対安静の患者本人の代理に話を聞く僕の傍らには安田がいた。
 安田とて暇ではない。渡り廊下で騒ぎを起こした囚人の更迭や事情聴取などやらねばならない仕事は山ほどあったはずだが、何故だかずっと隣にいた。心配されていたのだとしたら不愉快だ、プライドに関わる。
 安田に心配されるほど僕は落ちぶれてない。他人の善意に甘えて自己憐憫にひたるような惰弱で卑劣な真似はプライドが許さない、と拒絶しようとしたが真剣な顔で医師の話に相槌を打つ安田を見て気勢が殺がれてしまった。貴様はなんだ僕の父親にでもなったつもりか、保護者代わりのつもりか?と詰問したかったが、今それをしたらただの八当たりだ。
 今の僕はサムライが心配でひどく苛立ち、他者に対する攻撃的衝動が抑制できないため、一度口を開けば嫌味が止まらない危惧を抱いてただじっと俯いていた。
 「まあ、痕は残るだろうが大したことはない。応急処置の手際がよかったから命が危うくなるほど血を失う事態も防げたし、三週間ほど安静にしてればまた動けるようになるだろう」
 「三週間!?」
 おもわず声を荒げて椅子を蹴倒してしまった。とぼけた顔で医師が告げたのは完治にかかる日数
 ……三週間。三週間だと?
 「それではペア戦はどうなるんだ?今週末と来週末のペア戦にサムライはでられないじゃないか」
 「あたりまえだ。ペア戦なんかにでたら自殺行為だよ、友人を失いたくないなら全力で止めたまえ」
 なに当たり前のことを言ってるんだこの少年は、と胡散臭い顔で念を押された。
 脱力したように椅子に座りこんだ僕の脳裏では医師に告げられた言葉が巡っていた。サムライの完治にかかる時間は三週間、ということは今週末と来週末のペア戦出場は絶望的。ペア戦出場を断念せざるをえず、無念さで一杯だろうサムライの胸中を察し、沈痛に黙りこむ。それだけではない。サムライを抗争に巻き込み負傷させた自己嫌悪やまた足を引っ張ってしまった悔恨などが混沌と膨張して息苦しくなる。
 「彼はなかなか頑固者だね」
 医師の苦笑に顔を上げる。カルテの角を揃えながらこちらを向いた医師が感心したふうに首を振る。
 「傷を縫うときも麻酔はいらんの一点張りだ。麻酔など気休めにもならん、武士たる者気迫で怪我の痛みにも打ち克ってみせると断言し、実際そのとおりに耐えぬいた。額にびっしりと脂汗をかき目を瞑り奥歯を食い縛り……とんでもない少年だ。いやはや、ワシも医師歴は長いが麻酔なしで傷を縫われて悲鳴ひとつ漏らさない患者には初めて会ったよ。忍耐強いというか負けず嫌いというか」
 「馬鹿だ」 
 医師の感慨をそっけなく一蹴する。俯き加減に吐き捨てた僕へと二人の視線が注がれる。しまった、予期したよりもきつい独白になってしまった。動揺をごまかそうと眼鏡のブリッジに触れながら居心地悪い沈黙に耐えて上手い言い訳をさがす。
 「あの男はまだそんな子供じみたことを言ってるのか、手におえないな。麻酔なしで傷を縫うなんて自虐の骨頂だ、傷を縫われる痛みに素面で耐え抜いた自分に酔い痴れているのか気色悪い。マゾヒスティックな禁欲精神の産物、歪んだ自己愛の表出か?
理解できない。十二針を縫う重傷だ、普通なら失神してもおかしくないのに彼ときたら武士の意地とかいう名のつまらない見栄を張り、本来しなくていい痛い思いをしたのか。
 飽きれた、救いがたい低脳だ。そんな男は三週間といわず死ぬまで一生ベッドで寝てればいい、そちらの方が僕としても気がラクだ。だが頑固で人の言うことなどさっぱり聞かないサムライのことだ、僕の説得を無視して枕元の木刀を引っ掴み、這ってでも試合会場にやってくる可能性がある。僕の予測だと恐ろしいことに三十二.二%の確率で彼は試合会場にやってくる。
 待て、もしもの場合を考慮して拘束具の一時的使用も許可すべきか?患者が動けないようベッドに縛りつけておく拘束用のベルトで……」
 「ちょ、きみきみ待ちたまえ。ワシを無視して勝手に話を進めないでくれ」 
 口に出して思考を整理するのは天才の特徴というか僕の癖だ。思考に没入した僕を正気に戻そうとむなしく手を振る医師の前、人さし指で唇をなぞる。
 「僕もこんな野蛮な手は本意じゃないが仕方ない、そうでもしなければサムライはペア戦出場を諦めない。サムライと格闘するよりベッドに縛り付けて最初から動けないようにしたほうが患者の体にかかる負担も軽い。以上、効率重視の結論だ。
 事前に言っておくが怪我人だからと遠慮は要らない、サムライが木刀を手離さない場合は適量の睡眠薬の処方か適量の鎮静剤か麻酔の注入を勧める。貴方も医師の端くれだ、よもやそんな幼稚で初歩的な医療ミスは起こさないだろうが老齢による手の震えや痴呆症状なども考慮し今この場で改めて念を押す。
 絶対に量を間違えるな、注射の目盛りを読むときは老眼鏡をかけ忘れるな」
 執拗に「適量」を強調したのは未だに医師の技量に懐疑的だったからだ。薬指の恨みは深い。僕の饒舌に圧倒された医師を埒があかないと睨みつけ、キッと安田に向き直る。
 「副所長も何とか言ってください」
 話題を振られた安田が一瞬虚を衝かれたような表情を覗かせ、空白の表情を晒したのを恥じるかのように神経質にブリッジに触れる。眼鏡のブリッジに繊細な人さし指を押し当て、怜悧な双眸で僕を見据える安田の顔には一口に形容しがたい複雑な感情が浮かんでいた。
 この比喩は適切ではない、というか僕としても甚だ不本意だが、子の成長を微笑ましく思う半面取り残される寂しさを隠せない父親の微苦笑。
 「君は本当にサムライが好きだな」
 安田に同意と共感を求めたのがそもそもの間違いだった。憮然と押し黙った僕の前で咳払いをひとつ、気を取りなおした医師が事務的に説明する。
 「まあ、そういうわけで。私としてもできるだけ目を光らせるつもりだが、友人の君からも絶対安静だと言い聞かせてもらえると有り難い。いかに命に別状はないと言っても、無理をすれば傷口が開いて一生歩けなくなるからね」
 一生。僕にはなにより効力を発揮する脅しだった。僕のせいで、僕を庇って負傷したせいでサムライが一生歩けなくなるなんて冗談ではない。サムライへの罪悪感に苦しんで一生過ごさねばならないなんて屈辱以外の何物でもない。
だがしかし、半年以上サムライと密接に付き合ってきた僕には彼の今後の行動が容易に予測できてしまう。頑固なサムライはペア戦辞退を命じられても簡単には納得せず、医師や僕が目をはなせば枕元の木刀を引っ掴んで脱走を図る。サムライは僕を守ると信念に誓った。信念を貫きとおすためなら太股の傷口が開いて出血しようが二度と歩けなくなろうがかまわないのが帯刀貢という男だ。
 まったく、人の話を聞かない友人をもつと苦労する。
 懸念のため息をつき、医師と向き合う。
 「……わかった、サムライは僕が説得する。頑固で負けず嫌いな子供みたいな男に道理を言い聞かせるなど想像しただけで徒労を感じる不毛な行為だが致し方ない、場合が場合だ。一応僕は彼の友人だ、彼が怪我をした件に関しては友人として責任を感じないではないしやれるだけのことはやってみる。豊富な語彙を駆使し全力でサムライを説得し三週間の絶対安静を誓わせる」
 「頼りにしてるよ天才君」
 「不愉快な呼称はよせ、偽証診断医師が」
 そんななれなれしい呼称を使われるほど親密な関係でもない。レイジやヨンイルに至っては諦観が先行してるため反論の気力も湧かないが……そこまで考え、ふと胸の中を風が通り抜ける。レイジは二度僕を親殺しと呼んだ。その事に関し別にショックを受けているわけではない。東京プリズンでは僕を名前で呼ぶ人間のほうが圧倒的少数派で、大半の囚人は僕を「親殺し」の蔑称で呼ぶ。僕が両親を殺害したのは紛れもない事実なので、その呼称に関して訂正を訴えるつもりはさらさらない。
レイジに親殺しと呼ばれたぐらいでいちいちショックを受けていたのでは東京プリズンでは生きてはいけない。
 ただ、レイジにそう呼ばれた瞬間は喪失感にも似た胸の痛みを感じたが、それはきっと僕の感傷に起因する錯覚だ。
 そういえばレイジはどうしてるだろう。サーシャに切り裂かれた腕の傷はだいぶ深そうだった。医務室に姿があってもいいはずなのに、と椅子に腰掛けたまま周囲を見まわしてみる。
 医務室は患者の悲鳴と絶叫が飛び交う野戦病院の惨状を呈していた。
 医務室に運び込まれた負傷者の殆どは医師の治療を受けた後にベッドに寝かされているが、傷が痛むのか高熱にでも浮かされているのか転々と煩悶している。東京プリズンに常勤している医師は目の前のこの人物だけだが、今日に限っては医療知識のある看守や通いの医師も総出で治療にあたっている。
 だがそのどこにもレイジの姿はなかった。
 「どうでもいいことを聞くが」
 「なんだね」
 この医師は僕ほど性格が悪くないらしい、と人物評価を多少改める。僕ならまず間違いなく「どうでもいいことなら聞くな」と釘をさす。いや、たしかにどうでもいいことなのだが。
 「レイジはどこにいるんだ?医務室で治療を受けたんじゃないのか」
 努めて平静を装い、口を開く。意味はない、ただ聞いてみただけだ。レイジの所在など関心もないし興味もないしどうでもいいが、気まぐれに医務室を見まわしてみれば姿がなかったので疑問に思った程度の淡白さで質問すれば、医師が思慮深げに眉をひそめる。
 「ああ、彼なら治療を終えてすぐ帰ってしまったよ。君の友人ほどではないが重傷を負っていたから、しばらくは大事をとって休んでいくようにと強硬に勧めたのだが人の話を聞かなくてね……「女の香水くさいベッドならともかく消毒液くさいベッドに縛り付けられるのは性にあわねえんだよ」とかなんとか言い捨ててさっさと帰ってしまったよ」
 「レイジらしいな」
 いかにもレイジが吐きそうな軽薄で胸糞悪い台詞だった。とにかく、レイジが無事治療を終えていると判明し安堵した。安堵?待て、何故僕が安堵しなければならない?あんな男がどうなろうが僕には関係ないし興味もないと前言で主張したばかりなのに矛盾してるじゃないか、不可解きわまりない。
 椅子に腰掛けた僕の眼前では、人の話を聞かない患者に苦慮した医師がかぶりを振っている。
 「ついでに彼の様子も見に行ってやれくれんか?腕を五針縫ったんだ、はげしい運動は禁物だと釘をさしてやってくれ。まったく、君の友人たちは何故ああもマイペース揃いというか自己中なのかね?薬の力で痛みを和らげるなど軟弱な、と麻酔を拒んでベッドに寝ている彼といい包帯巻き終えたら用はないと去ってしまった彼といい……」 
 聞き捨てならない。
 「待て、友人たちとはなんだ?訂正しろ。サムライは確かに友人に定義できなくもないが、レイジと僕はまったく無関係の他人だ。友人『たち』などと複数形で括られるのは僕としても不本意かつ不愉快だ」
 医師の失言に憤慨し、荒荒しく椅子から立ち上がる。サムライと診療報告は受けた、ロンの様子も見た、レイジはここにはいない。従ってこれ以上医務室に長居する理由もない。
 「そうだ、名案を思いついたぞ」
 憤然と立ち去りかけた僕を、間延びした声で医師が呼びとめる。不快感を表明して振り返れば、皮張りの椅子に上体を沈めた医師が悪戯っぽくほくそ笑む。
 「そんなに友人が心配なら添い寝をしたらどうだね。ベルトで拘束するよりずっと紳士的な解決法じゃないか」
 医師は冗談のつもりだったようだが、僕は本気に解釈した。しばらくその場に佇み熟考し、結論に至る。
 「サムライとはすでに寝た。彼ときたら寝返りも打たず衣擦れの音も滅多にたてないから、僕が眠りにおちたら最後隣から抜け出したことにも気付かないだろう」 
 医師の提案はなるほど一理あるが、起きている時も寝ている時も殆ど気配を感じさせないサムライ相手ではむずかしいだろう。
そう合理的に判断し冷静に反駁すれば、予想もしない反応を返されて当惑する。医師は驚愕に目を見開き、あっけにとられように顎を落とし、なにやらカルテに書き込んでいたボールペンを握り締めたまま放心している。その傍らでは、衝撃のあまり思考が一時的に麻痺した安田が空白の表情で僕を見つめていた。
 なんだ、この妙な雰囲気は?
 サムライとおなじベッドで寝たことがそんなにおかしいか。
 たしかに同性の友人にしては密着しすぎたかもしれないし、サムライの腕に抱擁されて安眠したのは事実だが、医師と安田に二人して驚かれると居心地が悪くなる。
 「……まあ、貴方が試してみたいというなら止めはしないが効果は薄いだろうな。サムライは寝相がいいから、老体をベッドから蹴落とされる心配はないと保証しておく」
 「待て鍵屋崎今のはどういう、」
 背後で安田が何か言いかけるが、振り返らずにドアから廊下へ出る。僕の用件は済んだ、これ以上医務室に留まる理由はない。背後でドアの閉じる音が響いた。閑散とした廊下を見回し、足早に帰路を辿りながら考えを纏める。サムライは全治三週間の重傷で絶対安静を義務付けられている。ロンも同様だ。残存戦力は僕とレイジだけ。そのレイジも片腕に怪我をして、医師からはげしい運動は厳禁と言い渡されている。
 完全に追い詰められた。
 焦燥に炙られるように歩調を速める。渡り廊下の抗争に巻きこまれるなんて計算外だった。僕は安田がなくした銃の情報を入手しに北棟に赴いただけで、サーシャの房でレイジと再会することもその後の展開も予想できなかった。銃、そうだ。医師と安田に二人して凝視される気まずさから逃げるように医務室をあとにしたが、銃の行方も突き止めなければらない。問題は山積みだ。
 だが、今の僕が第一に優先すべきことは決まっている。
 「……様子を見に行くだけだ」
 医務室をでたその足で自分の房には直帰せず、東棟の廊下を歩き階段をのぼる。割れた蛍光灯の下、コンクリむきだしの壁に卑猥なスラングや女性器の絵が書き殴られた見慣れた光景が僕を迎える。記憶通りに廊下を歩き、正規の道順で目的地に辿り着く。
 鉄扉を控えめにノックしようとして、止める。
 来意を告げるより先に、鉄扉上部に穿たれた格子窓から中の様子が垣間見えた。格子窓に顔を近付け、固唾を飲んで中の様子を窺う。レイジはいた。片側のベッドに腰掛け、何かをしていた。もう片方のベッドを見たのは条件反射だ。いつもロンが使用しているベッドの毛布は行儀悪くめくれて枕の位置もずれていた。
 なにをしてるんだ? 
 不吉な予感に胸が騒ぎ、レイジに声をかけそびれる。言葉も発するのも忘れ、魅入られたようにレイジの横顔を凝視する。鑑賞物として審美眼を満足させるに余りある綺麗な横顔だった。甘く端正で彫り深い顔だちを僕はこれまで悪魔に喩えてきたが、今のレイジは善悪を超越した存在に見えた。
 殉教のキリストを彷彿とさせるような、恍惚とした聖性さえ帯びた横顔は声をかけにくく近寄りがたい雰囲気を纏っている。レイジの顔から手へと視線を転じた僕は、息を呑む。
 レイジが手に握っていたのは、ナイフ。
 血が付着してないからサーシャのナイフじゃない。渡り廊下でサーシャが見せたどれでもない、おそらくはレイジが個人的に所持していたのだろうナイフ。鏡の虚像と向き合うかの如く神妙な面持ちでナイフの刃に顔を映しながら腕を振る。包帯が巻かれた右腕ではなく、無事な左腕にナイフを持ったレイジが、何かを確かめるように手首を振る。
 怖い。
 怖い?待て、なにが怖いんだ。レイジはべつに異常なことをしてるわけじゃない、ベッドに腰掛けてナイフをもてあそんでるだけじゃないか。それだけなのに何故こんなにも恐怖を感じるんだ、体の芯が冷えるような戦慄を覚えるんだ?逃げたい。早くここから立ち去りたい。レイジと目が合う前に、レイジに標的と認識される前に……
 標的?
 銀光が一閃。
 「っ!!!」
 顔に風圧を感じた。僕が握り締めた鉄格子の真横に、直線の軌道を描いたナイフが突き立つ。レイジの腕が撓る瞬間もナイフが五指から解き放たれる瞬間も動体視力では判別できなかった。鉄格子の真横にナイフを投擲したレイジが、しなやかな肉食獣の大股でゆっくりこちらに歩いてくる。
 わかっている。レイジはわざと標的を外した。あの距離なら確実に鉄格子と鉄格子の隙間を抜け、僕の眉間を狙うこともできたのにあえてそれをしなかった。威嚇。脅迫。絶対的優位を誇示するための牽制攻撃。
 余裕ありげな物腰で鉄格子に歩み寄ったレイジが、何とも表現できない色の目でじっと僕を眺める。頭上の鉄扉に包帯を巻いた腕を凭せた前傾姿勢で僕へと顔を近付け、獰猛に笑う。
 「見たかよ?絶好調だ。利き腕じゃなくてもやれるもんだな」
 「レイジ、君はまさか……」
 いやな予感が徐徐に確信に変わりつつある。愕然と手で鉄格子を握り締めた僕をよそに、レイジは無事な左手を開閉していた。
 ナイフを投擲した左手。レイジは利き腕じゃなくても人を殺せる。 
 醒めた目と口元の笑みが、おそろしく整った顔に不均衡な違和感を付与する。左五指を開閉して腕の調子を確かめながら、唄うようにレイジが言う。
 「素晴らしき訓練の成果ってやつだ。早い段階で両利きに調整しといてよかったぜ。両利きに調整しときゃどっちかの腕切り落とされても相手にとどめ刺すことできんだろ?お前が好きな効率重視ってヤツだ。まあ、さすがの俺でも片腕怪我したままペア戦に臨むのはちょっと不安だから次からは武器使わせてもらうよ。ナイフで十分だよな」
 「ナイフを持っていたのか?」
 どうでもいいことを聞いてしまったのは、現実に浸透してくる得体の知れない悪夢を遠ざけたいから。ペア戦のリングに上がったレイジはいつも素手で戦っていた。武器といえば、監視塔でサーシャとぶつかった時に持参した聖書ぐらいのものだ。ナイフを持っているなんて意外だった。そんな殺傷能力のある武器を持っていたんなら何故最初から使わなかった、と詰問しかけて口を閉ざす。
 レイジが笑ったからだ。
 僕の無知を哀れむ憫笑。 
 「こんな便利なモン持ってたんならなんで最初から使わなかったのかって?決まってんだろ」
 レイジが鉄格子に顔を寄せ、身を引きたくなるのを自制心を総動員して堪える。鉄格子を挟んだ至近距離でレイジと対峙する。乱暴に引き抜いたナイフをためつすがめつしながらレイジが答える。
 『Because it does not want to murder you』
 殺さないためだ、とレイジは言った。
 そうだ、質問する前から僕には予想がついていた。レイジがナイフを使わない理由は敵を殺さないため、生かして倒すためだ。レイジはこれまでのペア戦でわざと手を抜いていた、試合で死者をださないよう手加減していたのだ。
 では、これからは?
 ヨンイルやホセ、そしてサーシャとの戦いでは?
 「レイジ。君はこれ以降もペア戦に出場するつもりなんだな」
 「決まってんだろ。俺が殺らずにだれが殺るのさ」
 なにをいまさらとあきれ顔をするレイジ。レイジの顔が目の前にあるせいで、睫毛の先端が顔をくすぐり吐息がかかり動機が速まる。レイジは本気だ。渡り廊下で狂気の哄笑をあげながら宣言した通り、本気でヨンイルやホセそれにサーシャを殺しにかかるつもりだ。他棟のトップを殺して自分が東京プリズンの頂点に立つつもりだ。
 「怪我はいいのか?五針縫う重傷で医師は安静にしてろと、」
 「じゃあお前がかわりにリングに上がってくれんのかよ」
 さも愉快げにレイジが笑い声をあげれば、褐色の喉仏が艶かしく上下する。僕は反論できず、歯痒げに唇を噛む。そうだ、僕らはどのみち引き返せない。
 どんな手を使っても100人抜きを達成しなければ訪れるのは破滅の未来、僕とロンは売春班に戻されて精神が壊れるか性病に罹患して使い物にならなくなるまで毎日毎日客をとらされ犯され続ける運命だ。サムライは両手の腱を切られて処理班に回され、レイジだって売春班にまで堕ちてくる。
 サムライとロンが戦えないなら、レイジがでるしかない。
 無力な僕に、口を出す権利はない。
 だが、ひとつだけ確かめたいことがある。
 僕がレイジの房に足を運んだのは怪我の程度をこの目で確認したいというのもあるが、レイジの真意を追求したいというのが一番の動機だった。レイジが利き腕を怪我してまでリングに上がり続ける理由はなんだ?今でも変わらずロンの為なのか、それとも変わってしまったのか?
 鉄格子を握り締め、唇と唇が触れそうな距離にまで顔を近付ける。
 「レイジ、君に聞きたいことがある。君がそうまでしてペア戦にこだわる理由はなんだ、片腕を怪我してもなおリングに上がり続ける動機は?君は最初ロンを売春班から救い出すために100人抜きを宣言した、その気持ちは今でも変わらないのか?それとも」
 「惰性だよ」
 答えはあっけなかった。そして、冷たかった。
 鉄格子越しにキスする角度でレイジの口の端がつりあがる。
 「ペア戦に出場する動機が知りたいんだろ?ほら教えてやったぜ、もう用はねえだろ。一度はじめたことを途中で放り出すのは気持ち悪いから惰性で最後までやりとげてやるさ。ロンのことはどうでもいい、あいつには完全に嫌われちまったし俺が100人抜き成し遂げたところであいつ抱ける望みは失せたし……この答えじゃ不満か?何て言えば満足?実はロンのためじゃなく、お前を売春班から救い出すために100人抜き宣言したんだとか甘く囁いてやりゃ満足かよ」
 鉄格子から伸びた手がサッと僕の顔を一撫でする。卑猥なさわり方にぞっとする。冷静になれ、挑発に乗るなと顔を伏せて自分に言い聞かせてから、一切の感情を交えず、淡々と事実だけを告げる。 
 「サムライとロンは重傷でペア戦に出場できない。しばらくは君と僕のペアで戦うことになりそうだ」
 「ペア?自信過剰だな天才。実際戦うのは俺で、お前は金網越しに突っ立ってるだけだろが」
 「舐めるなよ」
 自堕落な姿勢で鉄扉に凭れたレイジに反感が湧く。
 うろんげに眉をひそめたレイジを挑戦的に睨みつけ、一息に宣言する。
 「人殺しの天才と知略の天才が組めば無敵だ。君を相棒として認めるのは僕としても甚だ不本意だが危急の措置だ、やむをえない」
 「はははははははははははっはははははははははっ!!!!」
 レイジが爆笑する。
 平手で鉄扉を叩き肩を震わせ体を二つに折り、最高の冗談を聞いたとでもいうように哄笑をあげるレイジをひややかに眺める。レイジの哄笑が止むまで無言で待つ。何分が過ぎた頃だか判然としないが、笑いの発作が終息したレイジが肩を痙攣させつつ顔を上げる。
 目尻にうっすらと涙をためたレイジが、親愛と揶揄とをこめて耳元で囁く。
 「あーおもしれえおもしれえ、一生分笑わせてもらったぜ。知略の天才とは大きくでたなおい、色仕掛けの天才の間違いじゃねえか。俺とお前がペア組むなんてイエス様でも予想できない展開だ」
 「好きなように解釈したらどうだ」
 不敵に落ち着き払った僕を小馬鹿にするように鼻を鳴らし、鉄格子の隙間から手を潜らせるレイジ。鉄格子を通りぬけた両手を僕の両頬に添え、顔を傾げる。
 一連の動作は緩慢すぎて、抵抗するタイミングを逸した。
 「!!なっ、」 
 唇に触れた生温かい感触にすぐさま扉から飛び退く。手の甲で執拗に唇を拭う僕を眺め、鉄格子の向こう側にいる男がくぐもった笑いを漏らす。
 「よろしくな相棒」
 僕の唇を奪い、レイジは嫣然と微笑んだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050926032155 | 編集

 ペア戦開始一時間前。
 途中でレイジと合流してから地下停留場へと下りた。今僕がいるのは地下停留場へと繋がる通路の一本、コンクリむきだしの天井と壁とが平行に続く先には矩形の出入り口がある。
 出入り口の向こうはすでに観衆で賑わい始めている。地下停留場の中央に設置されたリングを囲むように十重二十重の人垣ができ、本日の試合結果をめぐり賭けが行われている。試合開始のゴングが鳴り響く瞬間を待ち侘び、興奮に上気した囚人がリングを仰ぐさまが僕の位置からでも幻視できた。
 いつもはリング脇に待機しているのだが、今日は通路で時間を潰すことにした。人目につかない通路に隠れていれば観衆に気付かれるおそれもない。レイジは今日の試合で武器を使用するが、ナイフを練習する姿を無防備に人目に晒すのは危険だ。敵に手の内を見せるのは得策ではないと彼なりに判断したのだろう。
 レイジにしては賢明だ。
 そのレイジはといえば、コンクリ壁に背中を凭せてナイフの握りを確かめている。袖を下ろしているから見た目にはわからないが、今も右腕には包帯が巻かれている。サムライほどの重傷ではないにしても、レイジも五針縫う重傷を負っているのだ。
 傷口が開きはしないかと憂慮し、さりげなくレイジの様子を観察する。
 レイジは右腕のハンデも感じさせず、体の一部のようにナイフを扱っていた。
 鼻歌まじりに器用にナイフを投げ上げるたびに照明を反射した銀の先端が鋭く輝く。レイジの頭上、宙空へと投げ上げられたナイフが旋回し、また手中へ落ちてゆく。
 投擲、掌握。投擲、掌握。
 それを何度も何度もくりかえす。一歩間違えれば手を切ってしまう危険な行為に、傍観者の僕の方が冷や汗を流す。レイジの指が切り落とされるところなど見たくない、正直血は見飽きた。余程「無意味な真似はやめろ」と注視しようとしたが、今のレイジには声をかけにくい雰囲気がある。
 僕の視線を意識してるのか、口元に薄く笑みを浮かべたレイジが挑発的にナイフを投げ上げる。中空に孤を連鎖させながら上昇と降下をくりかえす銀のナイフを眺めるレイジの目はひどく醒めていた。白けていた、と言ってもいい。
 コンクリートで固められた通路に気詰まりな沈黙が落ちる。
 「………」
 レイジは僕のことを無視している。性格がだらしなく時間にルーズなレイジがペア戦開始時刻までにちゃんと現れるか不安だったので、僕は今日わざわざレイジを房まで迎えに行った。前回のこともあったのでレイジとの接触には神経過敏になり、歩く時は最低1メートル以上距離をとるようにした。レイジはその間も低くかすかに鼻歌を口ずさんでいた。相変わらず音痴だな、と僕は感想を持った。あの鼻歌を好んで聞きたがるロンの趣味が今いち理解できない。
 そして今、僕たちは通路にいる。試合開始時刻が次第に近付いてくる。開幕のゴングが鳴れば片腕を負傷したレイジもリングに上がらざるをえない。
 サムライとロンは今も医務室のベッドで寝ている。僕の予想通りサムライは寸前まで「この程度の怪我かすり傷だ、俺も出場する」と頑固に主張したが、大腿動脈が傷付いてれば失血死の可能性もあった重傷で、現に十五針を縫い、抜糸も済んでないのでは甚だ説得力がない。
 枕元の木刀をひっ掴み、いざ出陣せんとするサムライを医師と二人がかりで取り押さえる。
 『君は怪我人なんだ大人しく寝ていろ、年上のくせに手を煩わせるんじゃない。第一リングで、いや試合会場に行く途中に傷が開いて貧血でも起こしてしまったらどうするんだ?いやだぞ、君をおぶさって医務室に戻るのも地下停留場に行くのも体力的に無理な相談だ。君が行き倒れたら僕は見捨てるからな。
 脅しじゃないぞ、確実に見捨てる。志半ばで行き倒れるのは君とて本意じゃないと思うがどうだ?』
 『かまわん、捨て置け。俺は這ってでも会場に行く』
 人の話を聞かないにも限度がある。サムライには説得が通じないと再確認し、返答に窮する。サムライはけして主張を譲らず自分も出場すると木刀を掴んでいるし、冷静な話し合いは成立しそうにない。困惑した医師に目配せし、例の物を用意させる。本来こんな卑怯な手は使いたくなかったがやむをえない。密かに行動を開始した医師を背中に隠した僕は、なかば無理だと諦観していながら最後の説得を試みる。
 『君が出なくても心配はない、レイジがでる。レイジの強さは君も十分知ってるだろう』
 『何故ここでレイジの名がでる?あいつは関係ない、俺の信念の問題だ』
 仏頂面で黙りこむサムライの枕元に立ち、途方に暮れる。サムライは強情だ。自分の身を犠牲にしても僕を守り通すと誓った言葉に嘘はない。信念を貫徹するためなら傷口が開こうが一生歩けなくなろうが本人はかまわないのだ。
 本人がかまわなくても僕がかまう。
 焦慮の皺を眉間に刻み、憂鬱にため息をつく。サムライを翻意させるのは生易しいことではない。こうなったらもう奥の手を使うしかないだろう、と僕の背後でごそごそしてる医師の気配に注意する。
 ベッドに上体を起こしたサムライは、気難しげに唇を引き結び、苦渋の面持ちで俯いていた。ベッドに起きあがるのも辛いだろうに、パイプに背中を寄りかからせることなく端正に背筋をのばしているのは武士の意地が成せる技か習慣か。膝を覆った毛布に思い詰めた目を落とし、片手に木刀を掴んだサムライがふいに口を開く。
 『……それに、お前とレイジを二人きりにさせるのは不安だ』
 予想外の台詞に目を見張る。
 『どういうことだ?レイジが僕に害を及ぼすとでも思っているのか。まさか、』
 考えすぎだと否定しようとしたが、言葉が続かない。サムライが気迫をこめた眼光で僕を一瞥する。
 『今のレイジなら何をしでかしてもおかしくない。そばにいる人間を手当たり次第に傷付けるかもしれない。俺の体調が万全ならレイジを諌めることもできるが、おまえ一人では……』
 『僕では役不足だと?』
 刺々しい口調で反駁する。サムライの考えも一理ある、サムライもまた渡り廊下でレイジの変貌を目の当たりにした。サムライが重傷で入院してる今、レイジの暴走を止められる人間は誰もいない。サムライが僕の身を案じてることは、その真摯な眼差しと真剣な表情から伝わってきた。僕自身、レイジとペアを組むことに不安を拭いきれない。はたして僕がレイジの抑止力になれるだろうか?レイジの暴走を阻止できるだろうか?正直言えば、一人は心細い。サムライが隣にいれば心強いと思う。だが隣にサムライがいればまた僕は縋ってしまう、頼ってしまう、負担になってしまう。僕はこれ以上サムライに依存したくない。
 サムライはもう僕のために十分戦い傷付いた、今は一時的にでもペア戦のことを忘れて体と心を休めて欲しいのだ。
 『見損なってもらっては困る』
 僕の口からでたのは、サムライを冷たく突き放す声。
 『サムライ、君は僕のことを舐めすぎだ。僕だってペア戦参戦表明をしたんだ、君ひとりに重責を負わせて自分ひとり安全圏に逃れるような卑劣な真似プライドが許さない。レイジが暴走したら僕が止める、抑止力になる。僕にもできることがあると証明してやる』
 僕は無力だが無能じゃない。これまでさんざん自分に言い聞かせてきた言葉を遂行するときがきたのだ。レイジが暴走したら止める、それが僕の役目。レイジがペア戦で人を殺さないように、取り返しのつかないことにならないように牽制するのが僕の使命。
 『僕がレイジの枷になる』
 そして必ずサムライのもとへ帰って来る、ロンのもとへレイジを帰す。それが僕の義務だ。
 毅然と決意表明した僕を仰ぎ、サムライがなにか言おうとした。その瞬間。
 『!!っ、』
 『できればこんな野蛮な手は使いたくなかったが、やむをえない』
 サムライがぐったり脱力し、ベッドにくずおれる。サムライの右腕に医師が注射したのは鎮静剤。ベッドに力なく身を横たえたサムライがむなしく手を伸ばす。
 『なお、』
 『麻酔に免疫がない人間に速効性の鎮静剤はよく効くだろう?君が目を覚ます頃にはペア戦も終了してる。恨みたければ恨め。夢の中で般若心境でも唱えていればあっというまだ』
 無念そうに瞼を閉じ、毛布に手をおろしたサムライに少し罪悪感を感じる。五指の握力が緩んだ隙にすかさず木刀を取り上げ医師に手渡す。実際問題、これ以上サムライの説得に費やしてる時間はないと効率優先の手段を採用したが、罪悪感を打ち消さんとサムライの耳元で囁く。
 『約束は守る。君以外の男に体を触れさせはしないから安心しろ』
 それを聞いて安堵したのか、サムライが完全に目を閉じた。嘘のように大人しくなったサムライの寝顔を見下ろし、ため息をつく。サムライに告げた言葉は真実だ。僕は約束を守る。レイジとのあれはその、事故だ。けして合意の上の行為じゃないし数に含めなくていいだろう、と自己暗示をかける。二度目はない。絶対にない。
 ふと視線を感じて振り返れば、木刀を手にした医師が呆然と立ち竦んでいた。
 『なにか言いたいことでもあるのか』 
 と威圧的に声をかければ、挙動不審に目をそらし、意味不明なことを口にした。
 『いやその、君たちはずいぶんと仲がいいんだね。目のやり場に困るというか聞かなかったことにすべきというか、とりあえず副所長には内緒にしておくよ』

 ……なにやら誤解してるようだが、なにをどう誤解してるのだかわからなかった。 

 ロンには結局会わなかった。ロンも僕の顔は見たくないだろう。僕とサムライのやりとりは聞こえていたはずだが、隣のベッドは無反応だった。
 壁に背中を凭せ掛け、器用にナイフを弄ぶレイジを興味もなく眺めながら考える。
 レイジとロンの関係はこじれにこじれてしまった。これから二人はどうなるのだろう?別に二人がどうなろうが僕には関係ないのだが、今も医務室のベッドで毛布にくるまっているロンのことを考えると胸が痛むのは何故だ。僕はいつからこんな感傷的な人間になったんだ?天才も堕落したな、と自嘲する。
 「上手いものだな」
 レイジに声をかけたのは、重苦しい沈黙に耐えられなくなったからだ。僕もそう口数の多い人間ではないが、いつもは騒がしいレイジが押し黙っていると得体の知れない不安が募る。
 「手先が器用なんだ」
 レイジは上の空で返事をする。その間もナイフを投げ上げる手は止まらず、銀の軌跡が孤を描く。
 ふと、その首元に覗く金鎖に目を移す。
 「そのネックレスも自分で毟り取っては繋いでいるのか?」
 「悪いかよ?いくら俺でも十字架胸にぶらさげたまま大暴れする気にはなんねえよ、ばつが悪い。マリア様には見て見ぬふりしてもらわなきゃな」
 「だから暴走時は十字架を外すのか。自己顕示欲旺盛なパフォーマンスかと思っていたが、一応理由はあったわけだ」
 つまるところレイジにとっての十字架は、狂気を制御する縛鎖なのだろう。レイジが自ら十字架を毟り取る行為が意味するのは狂気の解放と殺意の肯定。十字架を自ら毟り取ったレイジの変貌ぶりを思い出し、二の腕がぞっと鳥肌立つ。
 馬鹿か僕は、レイジに怯えてどうする?
 サムライとロンが復帰するまでの期間限定でも、僕はレイジの相棒になったのだ。レイジに怯えて相棒が務まるわけがないと自分を叱咤し、会話を続ける。
 「そんなに器用ならサーカスの曲芸師も務まるんじゃないか?性格的にはむしろ観客の失笑を浴びる道化の方がふさわしいがな」
 「たまには皮肉をまじえず素直に称賛しろよ、可愛げねえ。お前もやるか?暇潰しくらいにゃなるぜ」
 「断る。一歩間違えば指を切り落とされる危険性を伴う無意味な遊びにはとてもじゃないが興味をそそられない。君は恐怖心が麻痺しているのか?」
 「手癖が悪いから手え動かしてないと落ち着かないんだよ」
 試合開始時刻が刻一刻と近付いてくる。何百何千の観衆で賑わい始めた地下停留場は熱狂の坩堝と化し、興奮のさざめきが潮騒の喧騒となり僕らがいる通路にまで満ちてくる。僕でさえ少し緊張してきたというのに、レイジの顔は相変わらず涼しげで緊張感など欠片もない。
 レイジのナイフさばきは完璧だった。ナイフの落下地点には寸分の狂いもなく、あざやかに回転して手中に吸いこまれる。口元に薄く笑みを浮かべた顔は出入り口から射した一条の光に暴かれ、角度によってはひどく酷薄に面変わりする。
 何を考えてるのか外側からは全くわからない、他人に真意を読ませない笑顔。
 対面の壁に腕を組んで凭れた僕は、無言でナイフを見つめていた。脳裏を過ぎるのはつい先日の記憶、渡り廊下での死闘。僕との殺し合いに臨んだレイジ、サーシャに片腕を切り裂かれたレイジ。そして……
 「麻薬はもう抜けたのか?」
 脳裏を占めたのは、サーシャに口移しで麻薬を飲まされたレイジの姿。
 サーシャに両手首を拘束され壁際におさえこまれ、口で口を塞がれて満足も呼吸もできず、淫らな姿態で喘いでいたレイジを思い出し、なんとなくうしろめたくなる。
 「クスリには慣れてる。二度言わせるな」
 レイジの表情は変わらず、ナイフを投げ上げる手も止まらなかった。逆に僕のほうが狼狽した。この場で口にだすべき話題じゃなかったかもしれないと後悔し、視線を逸らす。
 「……ならいいが、くれぐれも無理はするなよ。君が片腕の激痛をそれほど感じてないのは麻薬の副作用かもしれない。覚せい剤は痛覚を鈍らせる、少量なら鎮痛剤にもなる。今はよくてもあとで傷口が開けば地獄を見るぞ」
 「心配してくれんの?」
 「自信過剰な上に自意識過剰だな。理解力が欠落した低脳のために特別に翻訳してやるが、僕に迷惑をかけるなと言っているんだ」
 レイジの片頬にはガーゼが貼られていた。僕に切り裂かれた傷がまだ癒えてないのだ。僕がレイジに対し奇妙なうしろめたさを感じるのはそのせいだ、きっと。それ以外に理由はな……
 唐突に、レイジが動いた。
 壁から背中を起こし、肉食獣のように優雅でしなやかな大股で僕へと歩み寄るレイジに緊張する。反射的に身構えた僕の視線の先でレイジはナイフ片手に微笑を湛えていた。
 「試してみるか」
 「なに?」
 正面で静止したレイジが、僕の顎に指をかけて顔を起こさせる。 
 「唾液が麻薬の味がするかどうか、試してみる?」
 硝子めいて色素の薄い瞳に覗きこまれ、心臓が止まる。間近で見ると本当に綺麗な瞳だ。魅入られそうだ。中身さえ知らなければ、レイジのまわりに女性が寄ってくる現象も理解できる。だが僕は男だ、同性に言い寄られて口説かれていい気持ちはしない。ひややかな眼差しでレイジを仰げば、本人が耳元で囁く。
 「麻薬の味のする唾液で酔わせてやるよ」
 声自体が甘美な麻薬のような囁きに耳朶が痺れる。僕の顎に手をかけ、嫣然と微笑む。甘さと精悍さとを黄金率で調合した端正な顔だちを笑み崩し、顔に顔を近付ける。
 時が停滞したかのごとく緩慢な接近。
 そのまま唇と唇が触れ合い―……
 「冗談はやめろ」
 触れ合う寸前に、レイジの手を叩き落とす。
 「つれねえな、この前は抵抗しなかったのに」
 「あれは事故だ。二度目はない」
 今の僕はとてつもなく不機嫌な顔をしてるはずだ。前回レイジにキスされたことは思い出したくもない。あの時は不意打ちで対処できなかったが、おなじ過ちは犯さない。レイジにとっては軽い挨拶程度の親愛表現でも、唇と唇とを接触させる行為には極大の生理的嫌悪が伴う。大して残念そうもなく舌打ちしたレイジを睨みつけ、口付けが未遂に終わった唇を無意識に拭い、断言する。
 「僕に触れるのを許可した人間はひとりだけだ」
 「サムライかよ。仲がよくて羨ましいぜ」
 茶化すように肩を竦めたレイジの双眸を凶暴な光が過ぎる。僕のなにが気に障ったのか、今のレイジは荒立っていた。口付けを拒まれたことを怒っているわけでもない証拠に、僕の台詞がきっかけでレイジの態度が豹変した。 
 そうか。
 「羨ましいなら君も早く和解したらどうだ。ロンに謝罪」
 余計な一言だったと、次の瞬間思い知らされた。
 横顔に風圧を感じ、目だけ動かして深々とコンクリ壁を穿ったナイフを凝視する。僕の顔の横にナイフを突き立てたレイジが、誰もを魅了する極上の微笑を湛える。
 「殺すぞ」
 「……生憎だが、君に殺されてやるほど人生に絶望してない」
 そうだ。堕ちるところまで堕ちて売春班では地獄を見たが、僕はまだ絶望してない。サムライがいる限り、友人がいる限り、僕が人生に絶望することはない。絶対に。
 荒い舌打ちとともに無造作にナイフが引き抜かれ、漆喰の薄片が足元に降り積もる。剥落した漆喰を蹴散らし、手慣れた様子でナイフを鞘に納め、一際歓声が大きくなった会場の方を振り向く。
 「俺たちの出番だぜ。手に手をとってエスコートしてやろうか、お嬢さん」
 「僕は男だ。君に守ってもらう必要はない」
 最後にレイジを睨みつけ、足音荒く通路を歩く。出入り口の光が大きくなり、白熱の奔流が網膜を焦がす。僕の横に並んだレイジがやれやれと首を振る。
 通路を抜けると同時に歓声が爆発した。
 試合開始だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050925032259 | 編集

 試合開始のゴングが鳴り響く。
 高らかに澄んだゴングを打ち消すのは常軌を逸した大歓声。地下停留場を隙間なく埋めた空前絶後の大観衆が一斉に足を踏み鳴らしこぶしを突き上げる。
 ペア戦の火蓋が切って落とされるまでは慎ましやかな興奮のさざめき、潮騒のように満ち引きをくりかえす雑音に過ぎなかったそれが今では鼓膜の破壊を目的とした暴力的な騒音と化している。
 熱狂の坩堝と化した地下停留場の中央。
 リングは四囲の高所から注がれる照明に晧晧と輝き、その威容たるや金属の檻に似せた現代のコロシアムと形容しても過言ではない。リングを十重二十重に囲んだ人垣ではすでに肩がぶつかったぶつからないの小競り合いが野次馬十数人を巻き込む乱闘へと発展し、場所を横取りされた報復に囚人同士が流血の殴り合いを繰り広げる。
 僕の記憶が正しければ、現在までに僕たちが倒したペアは45組。順調に勝ち進めばあと5組、残すところ10人を倒せば100人抜きが達成できる計算だ。
 正直、よくここまでこれたなと慨嘆したくもなる。勿論言うまでもなく、僕は何もしていない。リング脇の所定の位置にしてサムライやレイジの試合を見守り、時に声援をとばし時に助言を与え、ただそれだけで自分も参戦して勝利に貢献したという自賛の感慨に浸るのは愚かしい。
 僕たちが100人抜き目前まで到達できたのはすべてレイジとサムライ、そしてロンの戦績に拠る。僕自身はリングに上がり死闘に身を投じることなく、ずっと安全圏にいた無力な卑怯者だ。
 だが、漸くここまで辿り着けた。いわば今日の試合は準決勝、ホセとヨンイル、そしてサーシャらと当たる前の前座めいた意味合いを持つ。レイジが順調に勝ち抜けば今日じゅうに他棟のトップとあたる可能性も否定できない。
 今日のペア戦は僕らにとって重大な意味をもつ、僕らの命運を決する大事な試合だ。医務室のベッドで寝ているサムライとロンも、胸中では今日の試合の行方を憂慮していることだろう。サムライには鎮静剤を打ってきたからまさかありえないとは思うが、有言実行の彼なら自分で口にした通り這ってでも会場にやってきそうでなんとなく落ち着かない。
 焦慮に苛まれた僕の視線の先には、レイジが無防備に立っていた。
 「レイジ、いい加減おっ死ね!」
 「てめえが100人抜きしたら売春班撤廃実現しちまうだろうが、冗談じゃねえぞ畜生俺たち無視してかってに決めやがって!いくら東棟のトップだからってやりたい放題にも限度があるぜ、ちょっとは囚人の意見尊重しやがれこの暴君が!」
 「売春班潰れたら自分の右手でタマの汁抜きするっきゃねえだろ、いやだぜそんな寂しいムショライフ!売春班は俺たち女に飢えた囚人の唯一の娯楽なんだ、女みてえに小綺麗なツラした売春夫の股開かせてケツの穴にアレぶちこんで処女血流させるのが唯一の生き甲斐なんだよ!聞こえてんのか、王様」
 「売春班なくなったらてめえが全部まとめて相手してくれるんだろうな?こっちはそれでもいいぜ、願ったりかなったりだ」
 「知ってんだぜ、お前が北のトップと乳繰りあってたこと。もう東京プリズンじゅうに噂出回ってるよ、北のガキどもがアホみたいに流しまくってるぜ。拷問部屋からひっきりなしに喘ぎ声漏れてたってゆーけど、涼しいツラして下半身はおさかんだったワケか」
 「無視すんじゃねえよ、サーシャに犯られた感想聞かせろよ」
 金網を殴る蹴るしてレイジを挑発するのはリングを取り囲んだ囚人たち。レイジの敗北に大枚賭けて惨敗した連中が情けないことこの上なくも負け犬の遠吠えで憂さを晴らしている。金網を蹴りつけ殴りつけ、空気のように無視されどもめげずにレイジに罵詈雑言を浴びせる連中に辟易する。
 金網に守られていなければレイジを罵倒することさえできない腰抜けの臆病者をこれ以上のさばらせるのは不愉快だ、第一試合の邪魔だ。集中力が殺がれる。
 「おい貴様ら」
 金網によじのぼり、さかんに野次をとばす連中を注意しようと…… 
 「お前ら、しずかにせえ。発情期の猿やなし、お行儀よく見物したらどや?」
 「ヨンイルくんのおっしゃるとおり、君たちのはしゃぎぶりは大変見苦しい。無作法も度を越しています。レイジくんに相手にされなくて逆上し、悪し様に罵り注意をひきつけようだなんていまどき小学生でも赤面する幼稚な発想は慎んでください」
 金網越しにヨンイルとホセを発見する。リングを挟んだ対岸、人垣の最前列にトップの威光で忽然と踊り出たヨンイルとホセが口々に注意すれば、周囲の囚人が嘘のように大人しくなる。「ひっ!」「南と西だ、逃げろ!」と号令を発し、蜘蛛の子散らすように退散した囚人たちを笑顔で見送るホセ。
 こちらを向いたホセと、不可抗力で目が合う。
 「やあお久しぶりです。吾輩とヨンイルくんも準決勝を見に来ました。レイジくんの健闘を祈ってます」
 慇懃に会釈をしたホセの隣では、ヨンイルが「なおちゃんおーい」と両手を振っていたが完全に無視する。無視されても持ち前の図々しさゆえ挫けず、それ以前に僕の態度の硬化に気付いてもないヨンイルが金網にはりつく。
 「なおちゃんこれ見て、この前ナイフで刺されたブラックジャック徹夜で補修したで!表紙とページの破けたとこにちまちまセロテープはりつけて、気ィ遠くなったわーホンマ。ほれ見ィ目え充血しとるやろ?」
 徹夜明けの成果を自慢げに披露するヨンイルに疲労感を覚える。わざわざゴーグルを押し上げてまで充血した目を見せるな、セロテープで補修した単行本をこれ見よがしに頭上に掲げるな恥ずかしいという悪態が喉元まで出かけてぐっと自制する。
 というかヨンイルは、わざわざ僕に自慢するためだけに単行本を持参したのか?処置なしだな。
 「気安く話しかけるな裏切り者。君たちは敵だ、敵なら敵らしくレイジの戦いを分析して勝機を模索したらどうだ?今日の試合を終えれば次は君たちの番だぞ」
 「勿論そのつもりです。レイジくんは強敵ですからね、存分に試合を分析して勝機を掴ませて頂きます」
 しれっとホセが首肯する。僕らを裏切ったことに関してなんら良心の呵責はないらしいあっさりした態度に反感がもたげる。ヨンイルといえば、ブラックジャックの単行本を開いて既に漫画の世界に没入してしまった。「ピノコ生誕の回はなんべん読んでもグロいなーせやけどおもろいなー姉ちゃんの素顔謎のまんまで気になるわあ」と、独り言にしては大きすぎる感想を述べるのが道化の癖だ。傍迷惑だ。
 ホセが視界に入ると気が散る。笑顔の隠者から視線を外し、リング中央を注視する。
 観衆の注目を集めたリングでは、レイジと挑戦者が対峙していた。
 ゴングは鳴ったが、どちらも微動だにせず相手の隙を窺っている。手に汗握る緊迫感。
 「彼は南棟のブルータスくん。吾輩の十二番目の弟子です」
 ホセの声に顔を上げる。
 「十二番目の弟子?使徒か」
 「ロンくんから見れば兄弟子ですね。吾輩がいちからボクシングを仕込んだ優秀な弟子です。こぶしの破壊力それ自体が凶器ですが、彼も準決勝まで勝ち残ったことで欲が出て、本試合ではいつも以上に気合いを入れて」
 ホセが目顔で促すほうに視線を転じ、ぎょっとする。レイジ正面の挑戦者、その両手の甲を飾っていたのはブラスナックル……パンチの破壊力を倍増させる帯状金属で、第一間接から第二間接にかけての部分に巨大な棘が生えていた。あれで殴られたら間違いなく顔に穴が開く。
 ホセが苦笑した。
 「吾輩は感心しませんがね。こぶしに武器を嵌めるなどボクシングのリングでは退場を命じられる反則行為ですが、これはボクシングではない。事実上ルールが存在しない非情なペア戦です。勝つためには手段を選ばない、それもまたひとつの戦いの在り方」
 「レイジがリングに脳味噌ぶちまける羽目になっても自分は一切関知せえへんて、この腹黒は暗にそう匂わせとるんや。脅迫や、おっそろしィ」
 「人聞き悪いことおっしゃらないでくださいヨンイルくん。吾輩は善意からアドバイスをさしあげただけです」 
 気取った手つきで眼鏡のブリッジを押し上げ表情を隠したホセに舌打ちしたくなる。レイジと対峙した少年は、見るからに凶暴そうな面構えをしていた。野心的に輝く双眸と太い造りの鼻、分厚い唇。黒人の血を引く筋骨逞しい体躯は長身のレイジと比べても頭ひとつぶん高い。上着越しでも筋肉の躍動が感じられる胸板は、長い歳月をかけて鍛え上げた成果だ。
 眩い照明を浴びて睨み合う二人の囚人。 
 こぶしを掲げたブルータスが、挑戦的な眼光でレイジを射抜く。

 『I wanted to meet you.I am honored to be able to meet you』
 会えて光栄だぜ。
 『Thank you. I am glad.By the way, there is a question』
 ありがとう、嬉しいよ。ところでひとつ質問があるんだけど。
 レイジの口をついてでたのは美しい音楽のような英語。普段は違和感なく日本語をしゃべっているレイジが、米軍侵略後のフィリピンで生まれ育ったことを思い出す。
 そしてレイジは言った。
 友好の演技をかなぐり捨て、獲物の喉笛に食らいつく獰猛な笑顔に豹変して。
 『Who are you? A weak person does not know it than oneself.Please teach a name』
 お前だれ?俺より弱いヤツは知らないんだ、名前教えてくんない。
 
 ブルータスが吠えた。
 獣じみた咆哮を発したブルータスがリングを蹴り跳躍、強靭な足腰のバネを駆使して一気にレイジとの距離を詰める。ブルータスの右腕が風切る唸りをあげてレイジの顔面を急襲する。
 『I kill you!!』 
 準決勝まで勝ち残っただけあり、今までの挑戦者とは桁違いのスピードでレイジに肉薄したブルータスが凶悪な笑みを浮かべる。黒い肌と鮮烈な対照を成す白い歯が照明を反射してきらめき、大気を穿った右拳が砲弾の威力でレイジの顔面に―……
 『Is it possible for you?』
 お前にできるのか?
 レイジは一歩もそこを移動しなかった。リング中央に無防備に突っ立ったまま、敵の攻撃を甘んじて受けると見せかけて首の動きだけで軽く回避してみせた。肉眼では捉えられぬ速さで顔面に打ち込まれようとしたこぶしをかわせば、実力差を見せつけるパフォーマンスに場外の客がどよめく。
 『Shit!』 
 逆上したブルータスが口汚く悪態をつく。気のせいか視界の端のホセも残念そうな顔をした。ブルータスのこぶしを余裕で回避したレイジだが、安堵する余裕もない。大観衆の眼前で恥をかかされたブルータスが憎悪にぎらついた双眸でレイジを睥睨、息継ぐ間もなく猛攻を開始する。
 「レイジ!」
 金網を握り締め身を乗り出す。
動体視力の限界に迫る速度でブルータスが腕を振るい、両腕が交差する残像が網膜に転写される。凄まじい迫力だ。ホセがいちから鍛え上げた自慢の弟子なのだ、南棟ではホセに次ぐ実力者として認知されているらしいブルータスを後押しするように囚人たちが声援をとばす。レイジの横顔を掠めるように拳が大気を穿ち、余波で前髪が舞いあがる。
こぶしの摩擦熱で産毛も焦げそうだ。レイジは防戦一方、いや無抵抗で逃避に徹していた。序盤は様子見を決めこむつもりだろうか?
 口元に薄く笑みを浮かべ、目には嘲弄の光を宿し、軽快な舞踏を踊るように跳躍を繋ぐ。
 遊んでいるのか?からかっているのか?
 安堵と焦慮が綯い交ぜとなった複雑な葛藤に苛まれる。矛盾する感情が僕の中でせめぎあい交じり合いどちらか一方を駆逐しようとする。安堵。レイジが本気をださないなら相手が死ぬことはない。焦慮。手加減して、逆襲されたらどうする?相手を舐めてかかってレイジ本人が死ぬ可能性もあるじゃないか。
 「レイジ遊ぶんじゃない、できるだけ早急に決着をつけろ。君は体調が万全じゃない、持久戦は不利…」
 金網を揺すってこちらに注意を向けようとして、ハッとする。
 不安定な笑みを浮かべたレイジが、低く、なにかを口ずさむ。
 『イエスがまだ話をしておられるとき、群集がやってきた。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口付けしようとして、みもとに近付いた』 
 イエスの十二弟子。ホセの十二人の弟子。
 今漸く気付いた、僕は大きな誤解をしていた。レイジは眼前の挑戦者など見ていなかった、最初からホセだけを見ていた。
 自分を裏切った南の隠者、ユダだけを。
 レイジが跳躍するたびに上着の裾がはためき、首元の金鎖が泳ぐ。金鎖が涼やかな音をたてて宙に靡き、きらめく。上着の内側に十字架をぶらさげて狂気を抑えているが、もはやそれも限界だ。十字架があろうがなかろうがレイジの狂気は抑制できず暴走は阻止できない、それが残酷な現実だ。
 レイジはもう、取り返しのつかないところまで来ている。
 『だが、イエスは彼に「ユダ。口付けで人の子を裏切ろうとするのか」と言われた。イエスのまわりにいた者たちは事の成り行きを見て「主よ。剣で撃ちましょうか」と言った。そしてそのうちある者が大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした』
 レイジの呟きに鮮明に記憶が甦る。僕が連想したのはつい先日渡り廊下で目撃した惨劇の現場、サーシャに右腕を切り裂かれ血の海に没したレイジの姿。そうだ、あの時切り落とされそうになったのは右耳ではなく右腕だった。
 レイジはうっすらと微笑んだまま、額へ鼻へ脇腹へ鳩尾へ下腹部へと連続で打ちこまれるこぶしをかわしきる。レイジには凡人に目視できないこぶしを避けきることなど造作ない芸当だった。試合開始からかなりの時間が経過しても一発もレイジにあてることができず、体力を消耗したブルータスが咆哮する。
 『I crush you!!』
 汗を飛び散らせて急接近するブルータス、その声が大気を媒介にびりびりと鼓膜を震わせる。鉄の凶器を嵌めたこぶしをレイジの顔の中心に打ちこむ、と見せかけてその足が捻られる。
 「!!っ、」
 迂闊だった。それまでブルータスはボクシングの作法に則っていた為、足元への注意が疎かになっていた。レイジに一発も当てられず業を煮やしたブルータスがボクサーとしてあるまじき行為に走ったのだ。レイジの片足を思いきり踏みつけ、容赦なく踏み躙る。全体重をかけて足を踏み躙られる激痛にさすがのレイジも顔を歪める、その一瞬の隙に……
 「危ない!」
 苦悶に顔を歪めたレイジが僕の声に迅速に反応、間一髪首を仰け反らせる。横顔を掠めたこぶしが摩擦熱を生み、ガーゼが吹っ飛び、傷口が外気にふれる。頬の傷口はまだ塞がっていなかった。傷口に外気が染みるのか、苦痛の皺を眉間に刻んだレイジを見下ろし勝利の笑みを湛えるブルータス。そのままレイジにとどめを刺そうと腕を振りかぶる……
 リングに立ち尽くしたレイジが、深沈とした目でブルータスを見据える。
 虚無そのもののような、底知れない瞳。
 『するとイエスは「やめなさい、それまで」と言われた』
 いや、違う。これは、今のレイジは、虚無そのものというよりむしろ……
 レイジの手中でナイフが光る。銀の軌跡が跳ね上がり、ブラスナックルを弾いて火花を散らす。間一髪、ブラスナックルの表面にナイフを衝突させて軌道を逸らしたレイジが即座に体勢を立て直し攻勢に転じる。
 さっきの台詞は、聖書から抜粋したレイジなりの終結宣言だった。
 無知で無教養なブルータスにはそれがわからなかった、だから最後まで引かなかった。もしこの時点で引けば、本気になったレイジの恐ろしさを痛感することなく、五体満足で南棟に帰れたはずだった。だがそうはならなかった。
 『The winner is me!!』
 狂ったように首を振り、ブルータスが目にもとまらぬ高速で腕を振りかぶる。駄目だ、いけない、やめるんだ!金網にしがみついた僕は、声にならない声で愚かな挑戦者へと叫ぶ。惨劇を予期し、戦慄に強張った喉では意味ある言葉を発することもできない。
 ナイフが宙に銀孤を描く。
 誰もが息を呑んだ。勝敗は刹那で決した。ブルータスの鉄拳が穿った位置に既にレイジの姿はなく、いつのまにか懐へともぐりこんでいた。敵に肉薄したレイジが斜め左上からナイフを振り下ろせば、一呼吸遅れてブルータスの喉から血が迸る。血。鮮血。朱に染まった顔に酷薄な笑みをはりつけ、鉄錆びた血臭に恍惚と酔いながらレイジが呟く。
 『Good-bye, fool』
 あばよ、愚か者。
 一抹の憐憫と嘲弄とが囁きに宿る。ブルータスの喉を容赦なく掻き切ったレイジだが、それだけでは終わらない。一度解き放たれた狂気は簡単にはおさまらない。ナイフの刃を返り血に濡らし、髪と顔と上着に鮮血を浴びたレイジが、喉を両手でおさえて悶絶するブルータスを見下ろす。
 リングに蹲ったブルータスの顔が絶望に翳るのをよそに、淡々とナイフを振り下ろす―

 違う。これは、こんなのは試合じゃない。
 相手はすでに戦意喪失して敗北が決定してるのに、とどめをさす意味も理由も見つからない。 
 リングで人を殺したら、レイジはもうロンのもとには戻れなくなる。
 血で汚れた手では、ロンに触れることさえできなくなる。

 気付けば僕は叫んでいた。
 会場の歓声を圧する大声で、喉を振り絞り、今度こそレイジに届けと。

 ―『Do not kill him!!』―  

 渾身の力をこめて金網を打った僕の視線の先で、無情にもナイフが振り下ろされる。
 惨たらしい断末魔が大気を引き裂いた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050924032415 | 編集

 「ぎゃあああああああああああっあああっ、うあうあア!」
 僕の視線の先にはナイフを片手にさげたレイジがいた。
 その手は血に染まっていた。
 手だけではない、髪にも顔にも服にも返り血が付着していた。返り血で全身朱に染めたレイジは、優しげな微笑を湛えて己の足元にひれ伏したブルータスを見下ろしていた。
 ナイフの切っ先が逸れたのは偶然だった。僕の呼びかけが起こした不測の事態……奇跡だった。レイジは確実に致命傷を与えるつもりで、喉を負傷して敗北が決定したブルータスを刺殺すつもりでナイフを振り下ろしたが僕の声で集中力が殺がれて手元が狂った。結果、ブルータスは辛くも致命傷を免れたが、理性の箍が外れて狂気に蝕まれたレイジがそれで諦めるはずもない。
 一瞬の躊躇も一片の慈悲もなく、レイジはブルータスの片目を切り裂いた。
 ブルータスの瞼ごと眼球を貫いたナイフを握り締め、レイジはその瞬間も笑っていた。
 楽しげに楽しげに笑っていた。
 「あああっ、ひっ、うあ……shit,shit!目、目がいてえよお……」
 「可愛い声で囀るんだな」 
 最前での威勢が吹き飛んだブルータスが、両手で片目を覆い哀れっぽく嘆く。苦悶のうめきが掠れていたのは喉を切り裂かれたからだ。頚動脈を切り裂かれる致命傷は防げたが、声帯を掻ききられたのでは満足に声をだせるはずもない。
 濁声の喘鳴に酔い痴れながら中腰に屈みこみ、頭に手をおくレイジ。
 「でも、これで唄えねえな」
 敗者に屈従を強いる優しい声は、鞭ではなく飴で奴隷を躾るそれだ。
 緩慢な手つきでブルータスの頭を撫で、耳元で囁く。確かにブルータスはもう唄えない、はっきりと聞き取れる肉声でしゃべることもできない。喉を損傷したのでは日常生活にも支障がでるだろう。喉だけではない、日常生活に支障がでるという点ではむしろ片目の負傷のほうが深刻な影響を及ぼす。
 致命傷こそ免れたが、身のほど知らずの愚者はその奢りの代償として声と光を奪われた。片目を失い声を失い、それでも奇跡的に一命をとりとめたブルータスが極限まで目を剥く。
 奢り高ぶる挑戦者に万人を戦慄せしめる残虐な仕打ちで報いたレイジは、髪も顔も服も手も血に染めて恍惚と微笑んでいた。
 「ーっ、ひ!」
 片目と喉から血を滴らせ、脱兎の如く逃げ出すブルータスをレイジはあえて追わずにおいた。交代要員として無二の相棒が控える金網際に半死半生駆け戻ったブルータスが救いを求めて手をさしのべ、
 「来るな!!」
 何?
 血まみれの手で金網を掴んだブルータスの顔が絶望に強張る。無理もない、金網越しに惨劇を目撃していた相棒に蒼白の顔色で拒絶されたのだ。相棒の冷淡な反応に目と喉の激痛も一時的に忘れるほど逆上し、狂ったように金網を殴り付ける。
 「交代しろ、交代してくれ!はやく俺をこのリングからおろしてくれ、キチガイとおなじリングに立つのなんざごめんだ俺まで狂っちまうよ!ああ目がいてえ喉がいてえまるで焼けるようだ、はやく交代してくれよドナテロ!」
 ドナテロは嫌々と首を振る。腰は完全に引けていた。ドナテロの視線はブルータスを通り越してまっすぐレイジに注がれていた。これまで共に戦い背中を預け合い、二人一組の連携でペア戦準決勝まで勝ち抜き最強ペアを自負していたというのに、ドナテロは命惜しさにブルータスを見捨てた。
 だが周囲の人間の誰もドナテロを責められない。
 ブルータスと交代してリングに上がれば最後必ず殺されるという確信があるのだろう。それもとんでもなく惨たらしいやり方で、見世物にされて殺されるにちがいない。
 僕にはブルータスの気持ちもドナテロの気持ちもよくわかる。わかってしまう。
 僕だけではない。地下停留場を埋めた何百何千の大観衆ひとり残らず、レイジの圧勝を見せつけられた囚人の誰もが金網の内と外に隔てられた二人に共感していた。
 裏切り者の汚名を被されてもなおリングに上がるのを拒むドナテロの心情も、親友を生贄にリングに引きずり出して安全圏に脱しようとするブルータスの心情もどちらも察するにあまりある。
 二人とも怖いのだ、レイジのことが怖くて怖くて発狂寸前にまで追い込まれているのだ。
 「おいドナテロ、はやくこっちに来い!お前俺の相棒だろ、俺に命を預けるって言ったろ?二人でレイジぶっ倒して東京プリズン最強ペアの座に輝こうって約束したじゃねえか、ありゃ嘘かよ、土壇場で裏切んのかよこの野郎!意気地なしのカマ野郎が、タマなしの腐れ豚が、いいか今すぐこっちに来いさもねえと殺してやる俺のこぶしで頭蓋骨粉砕して脳漿ぶちまけて便所に流してやる!!」
 「なんとでも言えよ、俺まだ死にたくねえよ!冗談じゃねえよ畜生が、俺がペア戦に出たのはお前がどうしてもって言うから嫌々付き合わされただけでホントは最初から乗り気じゃなかったんだよ、いやだいやだ誰がリングになんか上がるかレイジと殺し合うなんざごめんだ生き残れるわけねえじゃんか、頼むブルータス身代わりに死んでくれ、外に女がいるんだこんなくそったれたトコで命捨てるわけにゃいかねえんだ!」
 金網を挟み、すさまじい剣幕の口論が繰り広げられる。
 あくまで交代を拒否するドナテロに業を煮やしたブルータスが力任せに金網を殴り付ければ針金の枠組みが陥没し檻全体が震動する。暴力衝動が沸騰したブルータスが手と足を一緒に出し金網を殴る蹴るし始める。
 「地獄に落ちろ裏切り者が、ケルベロスに臓物食われろ!!畜生そういうことだったのか、俺にばっか戦わせて自分はラクして美味しいトコどりかよ、覚えてやがれドナテロ今すぐにそっちに行って殺してやる二度と女に会われなくしてやる!」
 金網の隙間から片腕をのばしドナテロの胸ぐらを掴む。ブルータスに襟首を締め上げられてもドナテロはけして首を縦に振らず、頑固な子供のように嫌々とかぶりを振るばかり。 
 「いやだ、いやだ、リングになんか上がりたくねえ!そっち側には死んでも行きたくねえ、許してくれブルータス、お願いだからおとなしく死んでくれ俺の身代わりにレイジに殺されてくれよ!わかるだろ怖いんだよレイジの前に立った途端漏らしちまいそうにびびってるんだよ膀胱が破裂しちまいそうなんだよ、お前の二の舞になるのはごめんだぜブルータス、俺は五体満足で南に帰らせてもらう!」
 裏切られたショックか見捨てられた絶望か、ブルータスの指から力が抜けてゆく。ブルータスに絶縁宣言を叩きつけたドナテロが涙と鼻水を滂沱と垂れ流し人ごみの渦中に身を投じる、おそらくはそのまま南棟に逃げ帰ったのだろう。
 「ああ、行くなよ、見捨てないでくれよ」
 金網に凭れかかったブルータスが呆然と呟く。人ごみに呑まれてやがて見えなくなった相棒の背中に未練がましく追いすがり、金網の隙間から両腕を突き出し間接を曲げた五指で空を毟り取る。金網に体をぶつけてくりかえし相棒の名を呼ぶブルータスの姿が同情を誘う。
 「おいてくなよおお、助けてくれよおおおおおおドナテロおおおおおおっお!!」
 「話はおしまいか」
 狂乱に水をさしたのは、のんびりしたあくび。
 返り血にまみれた顔には不釣合いに弛緩した表情のレイジが、いつのまにか、ブルータスの背後に忍び寄っていた。相棒を呼び止めるのに必死なブルータスは接近の気配さえ感じ取れなかった。片目と喉から流血したブルータスが、恐怖に喉をひきつらせ、できるだけレイジから距離をとろうと金網に背中を預けて横這いに移動する。ブルータスの体重を支えた金網が騒々しい不協和音を奏で、緊迫感が高まる。敗者の自重で撓む金網越しに、僕は瞬きも忘れてレイジを凝視していた。
 レイジはうっすらと笑っていた。
 狂気と正気の間を振り子のように行き来する不均衡な笑顔が、今や完全に狂気に呑みこまれてしまっている。常軌を逸した言動を際立たせるのは、左手に持ったナイフ。
 ナイフから単調に滴り落ちる血の雫、レイジが身に纏うのは僕がいつかどこかで嗅いだ鉄錆びた血臭。
 「薄情なダチ持って可哀想だ。同情してやるよ。よかったな、タダで王様の同情買えてよ。あはは、本当は一瞬でラクにしてやるつもりだったんだけど苦痛長引かせて悪ィ悪ィ。イタイのイタイのとんでけー、っと。ナイフ使うの久しぶりだからまだ勘が戻ってないみたいだ」
 レイジが意味ありげに僕を一瞥する。
 「外野の雑音で手元が狂うなんて、人殺しの天才にあるまじき失態だ」
 レイジは何の誇張もなく、自分を人殺しの天才と称した。そのことに何故か、胸が痛む。ナイフを再び構え直し、肉食獣めいてしなやかな歩みでブルータスを追い詰める。右手で喉を押さえ左手で片目を押さえ、出血を防ぎながら距離をとるブルータスだが金網沿いに半周した地点でついに膝が崩れ尻餅をつく。
 ブルータスの唇が震え、たどたどしい言葉を発する。
 『Please do not kill me,Please forgive it,I do anything』
 殺さないでください、許してください、なんでもします。
 ブルータスの口をついて出たのは、プライドを擲った懇願。命乞い。恐怖で理性が蒸発したか、痴呆じみた表情を晒したブルータスの眼前でレイジが立ち止まる。
 『It is not to be afraid.You did your best well,You deserve praise.
  But I have you take responsibility.』
 怖がることはないさ。お前はよくやった、称賛に値する。でも責任はとってもらうぜ?
 『What?』
 なに?
 理解不能といった空白の表情で仰がれ、極上の微笑を湛える。

 『My name is rage.You reminded me of a meaning of my name.
  I am the human who can kill a person while smiling.
  I am the human who can kill a person while singing
  I forgot it for a while.I am a fool again, too.I am King of a fool.』 

 俺の名前はレイジ。お前は俺に名前の意味を思い出せてくれた。
 俺が笑いながら人を殺せるヤツだってこと、唄いながら人を殺せるヤツだってことを思い出させてくれた。
 ここしばらく忘れてたぜ。
 はは、愚か者だ。愚か者の王様だ。
  
 四囲の高所に掲げられた照明を浴び、地下停留場を埋めた大観衆の注視を浴び、レイジは大しておかしくもなさそうに笑っていた。肩を震わせ喉を仰け反らせて哄笑しながら、自分こそ愚か者だと、自分は愚か者の王様だと独白する。
 それは懺悔のようで。
 神に縋ることさえ許されない孤高の暴君が、神ではなく、ここにはいない誰かに懺悔しているようで。
 痛々しく笑いながら、献身的に許しを乞うているようで。 
 レイジの独白は淡々と続く。

 『You did an unnecessary thing to remind me of a meaning of my name.
  I wanted to forget it all the time.
  I wanted to misunderstand me if there was it near him when I could smile.』

 名前の意味を思い出させるなんて余計なことしてくれたな、ずっと忘れたままでいたかったのに。あいつの隣ではちゃんと笑えてるって、勘違いしたままでいたかったのに。
 
 僕は渡り廊下でレイジに叫んだ。君はちゃんと笑えていると、ロンの隣でいつも笑っていたじゃないかとそう言った。レイジ自身、そんなことはとっくにわかっていたのだ。ロンの隣でだけは無防備に笑えると、素の自分を晒しておもいきり笑うことができると薄々自覚し始めていた。
 暴君でも王様でも憎悪そのものの存在でもなく、ただのレイジとして、ロンの友人として笑うことができた。それがレイジにとってどれほど重大な意味を持つか計り知れない。
 レイジはロンに笑い方を教えてもらった。
 レイジがロンを大事にするのは、ロンが欠落を埋めてくれたからだ。文字通りに欠けがえのない人物だからだ。
 ロンを喪失し、レイジは笑顔を喪失した。
 喪失の代償は、あまりに大きい。大きすぎて到底レイジひとりでは贖いきれない。

 「……あきれたな。とんでもない頑固者だ」
 サムライが自分の身を犠牲にしても僕を守ろうとするように、レイジもまた自分の身を犠牲にしてもロンを守ろうとしている。狂気と喪失と孤独を抱えて戦おうとしている。
 惰性で戦い続けるなんて、本気じゃない。レイジは現に今もロンを守るために戦っている、ロンを売春班から救い出すために片腕を負傷して麻薬も抜け切らない体でリングに立っているのだ。
 僕がレイジの枷にならなければ、レイジは二度と戻ってこれなくなる。
 駄目だ、そんなことは認めない。そんなことはあってはならない絶対に。僕はレイジの相棒だ、レイジを必ずロンのもとへ連れ戻すと自身に使命を課せたのならそれを果たす義務がある。
 いや、義務とか使命とかそんな言葉は無意味だ。
 義務も使命も関係ない。他の誰でもないこの僕自身が、レイジを連れ戻したいと望んでいるのだ。レイジに戻ってきて欲しいと狂おしく願ってやまないのだ。
 両手で金網を掴み、唇を噛んで顔を伏せる。
 手が震えているのは何故だ?胸を苛むこの感情の名は?レイジに戻ってきて欲しい、彼を失いたくない。何故だ?最初は彼のことなどどうでもよかったのにいつのまにかレイジの笑顔に対する嫌悪感が薄れて身近に感じてさえいた。
 レイジが自身の笑顔を否定するなら、彼の笑顔に親近感めいたものすら抱きはじめていた僕の立場はどうなるんだ?僕は僕自身を否定したくない、絶対に。ロンの隣にいた時にレイジが見せた笑顔を偽物や演技や芝居だと決め付けて否定したくないのだ、絶対に。
 レイジに人を殺させてはいけない。
 レイジが人を殺すところなど、見たくない。

 「レイジ、冷静になれ。君は覚せい剤の作用で正常な判断力を失っているんだ、もういい、試合は終わったんだ!君の勝利だ、相手は負傷して戦意喪失してる。それ以上痛めつける必要がどこにある?どこにもない。早く戻って来いレイジ、君のそんな姿これ以上見たくない。なんだその無様な笑顔は、出来損ないの笑顔は?それで笑ってるつもりか、まったく不器用な人間だな貴様は。楽しくもないのに無理をするな、もう少し笑顔を出し惜しみしろ!!」
 こんなところで笑うな、楽しくもないのに笑うな。ロンの隣でしか笑えないくせに無理をするな、虚勢を張るな。そう伝えたくて懸命に金網をぶつ僕を無視してレイジが高々とナイフを振りかざす。照明を反射したナイフが銀の閃光を放ち、レイジの顔が刃の下で翳り……

 『Pray to God』
 神様にでも祈っとけよ。
 「やめっ……!!」

 笑みを含んだ死刑宣告に、金網から腕を突き出した僕の声が重なる。
 反射的に目を閉じた僕の耳朶にどよめきが押し寄せる。様子がおかしい。異変を察して慎重に目を開ければ、予想外の光景に直面する。
 「少々はしゃぎすぎですよレイジくん。
  これ以上愛弟子をいじめるつもりなら恥ずかしながら隠者がお相手しましょう」 
 金網に張り付いたブルータスの背後に神出鬼没のホセがいた。忽然とブルータスの背後に現れたホセが、金網の網目に片腕をくぐらせて、絶体絶命の窮地におかれた弟子の手に手を打ち合わせていた。
 手と手を打ち合わせるのは交代の合図。
 試合を一時中断し、補欠の相棒がリングに上がる合意の合図。 
 虚を衝かれたレイジとリングにへたりこんだブルータスとを見比べ、隠者が微笑む。
 「吾輩がいちから磨き上げたダイヤの原石に傷をつけた代償は高くつきます。
  容赦はしませんが、よろしいですね」
 ホセがにこやかに参戦表明した。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050923032531 | 編集

 歓声が爆発する。
 「認めないぞ!」
 むなしく叫ぶ僕の声は、ホセの参戦に沸き立つ大歓声にかき消される。
 貫禄と風格とを兼ね備えた足取りで檻の外側を半周、矩形の出入り口をくぐったホセが丁寧に会釈をする。四囲の高所に設置された照明を浴び、燦然と輝く現代のコロシアムに満を持して南の隠者が上がる。 
 駄目だ、ホセを行かせてはいけない。ホセとレイジを戦わせてはいけない。
 ホセとレイジが戦えばどちらかが確実に死ぬ。重傷を負う。
 脳裏で危険信号が点滅する。網目に食い込んだ指は握力のこめすぎで白く強張っている。喉が異常に乾き全身の血の巡りが早くなり惨劇の予感に心臓が高鳴る。
 レイジは利き腕じゃなくても人を殺せる、ホセは素手で人を殴り殺せる。
 そんな二人が正面からぶつかれば流血の惨事は避けられない。僕はつい先日渡り廊下でホセの実力の程を目撃した。哀れな囚人に馬乗りになり狂ったようにこぶしを振るうホセ、相手の鼻骨と顎を粉砕し顔面を陥没させてもなお暴力衝動が冷め遣らず返り血にまみれたこぶしを振るい続けるさまは近寄りがたく狂気じみていた。

 ホセとレイジを戦わせてはいけない。それは確実に、どちらかの死を意味する。

 「認めないぞこんな異常事態!第一ホセ、君はそこの少年の相棒でもなんでもない。
 レイジと対戦した少年の相棒は今さっき自棟へ逃げ帰ってしまった、そこの彼は無二の相棒に見捨てられたんだ。ペア戦は二人一組で参加する大前提、事前に登録した相棒の片割れが失踪した場合は試合続行不可能となり挑戦者の敗北が確定……」
 「ブルータスくんが一言でも『俺の負けだ』とおっしゃいましたか?』
 僕の抗議を遮ったのは温和な声。
 ブルータスと入れ替わり、リングへと足を進めたホセが落ち着き払って口を開く。
 「吾輩の記憶が正しければブルータスくんはただの一度として『自分の負けだ』と認めてはいません。ならば降参を表明したことにはならない。君はなにか勘違いしてらっしゃるようですが、試合はまだ続いていますよ?」
 ホセと入れ違いに一目散に場外に逃走するブルータス。片手で目を覆い片手で喉の傷口を塞ぎ、おびただしい血痕を地面に滴らせ金網の外へと退場しつつ『He is the devil, He is a monster, He is a killer!I do not want to approach him!』と喚き散らす。無事な片目は、常人の理解を超越した怪物との遭遇がもたらした恐怖に極限まで剥かれていた。
 ブルータスの片目に映った光景が僕にはありありと想像できる。
 優しく微笑みながら頭上にナイフを振り上げるレイジ。
 全身に返り血を浴びて恍惚と佇むその姿はおぞましくも美しく、ナイフで片目を抉られ視神経を切断される瞬間さえレイジの視線に呪縛され存在感に圧倒され指一本動かすことができなくて。

 『奴は悪魔だ、怪物だ、人殺しだ!奴には二度と近付きたくない!』

 医療班の手を薙ぎ払い、ブルータスが咆哮する。リング外の安全圏に脱してもなおレイジへの恐怖が拭い去れず手足を振りまわして暴れるブルータスが看守数人がかりで押さえこまれ、強制的に鎮静剤を打たれる。痙攣の発作のように喉を仰け反らせ四肢を突っ張らせたブルータスが口の端から唾液の泡を噴いて昏倒する。そのさまを哀れみ深く見届け、ホセが首を振る。
 「片目と喉を潰すとはやり口がえげつない。しかしまあ、切り落とされたのが腕ではなくて安心しました。腕を切り落とされてはボクサー生命が終わりますからね」
 そういう問題か?
 僕の疑問をよそに、ホセは一方的に話を続ける。
 「吾輩も南棟のトップを張っている手前、自棟の人間が東のトップに片目と喉を潰され殺されかけたのを見て見ぬふりで放置するわけにはいきません。ブルータスくんの仇は吾輩がとります。今から始まるのは東と南の面子を賭けた復讐戦。遠慮はご無用ですよ、レイジくん」
 噛み砕くように説明するホセ。唐突な展開に理解力が追いつかず、不穏げにざわめく満場の観衆が、いつしか人心を掌握する魅力的な声音を武器とするホセの演説に陶酔し、興奮に上気した面持ちでリングを見つめだす。
 コンクリートの絶海に浮かぶ孤島の如く、銀の金網に包囲されたリングを支配するのは周囲の喧騒とは無縁の静寂。
 「待て、勝手に話を進めるんじゃない!こんな唐突な展開承認されるわけ……」
 「認めるぞ!」
 どこからか怒号が上がる。反射的にそちらを向けば、地下停留場を埋めた空前絶後の大観衆が波涛のようにのたうちホセの飛び入り参加を歓迎する。
 「面白くなってきたじゃねえか、おい」
 「南の隠者と東の王様、二大トップ対決が早くも実現か。予定外のカードだが大歓迎だ、退屈な前座はおしめえだ。いけ殺っちまえホセ、レイジの鼻っ柱へし折っちまえ!」
 「決勝戦が一週繰り上がっただけだ、たいした問題じゃねえ。なあ賭けしようぜ、南のトップと東のトップどっちが試合に勝つか」
 「俺はホセに賭ける。素手でひと撲殺できる人間凶器、狂戦士ホセといや泣く子もひきつけを起こす地下ボクシング王者だ。レイジご自慢のツラが鉄拳粉砕されるとこ見たくねえか?」
 「不細工に整形してやれ!」
 「醜男の僻みかよ。俺はレイジに賭けるぜ、なんたって東京プリズン最強の男だ。南のトップだって目じゃねえよ。第一レイジはナイフを持ってる、素手とナイフじゃどう考えたって後者が優勢だ」
 「レイジを殺せホセ!」
 「ホセを殺せレイジ!」
 「殺しちまえ殺しちまえ、イカレた猛獣二匹情け容赦なく殺し合って存分に楽しませてくれよ!!」
 いつしかホセの参戦を歓迎する波涛は地下停留場全体へと及び、何百何千の大観衆がこぶしを突き上げ怒号を発し地震の如く足を踏み鳴らす。地下停留場が震動する騒音で鼓膜が破裂しそうだ。殺せ、殺せ、殺しちまえ。観衆の頭上を飛び交うのは手から手へと投げ渡される紙幣、レイジとホセどちらが勝つかを対象とした賭けが看守の取り締まりを無視して公然と行われ、あちこちで十数人規模の乱闘が勃発し負傷者が頻出し事態の収拾がつかなくなる。
 地下停留場に居合わせた誰もがレイジとホセの対決を期待してる、熱望している。南と東のトップが雌雄を決する歴史的瞬間、東京プリズンの勢力図が塗り替えられ秩序の均衡が崩れる瞬間を今か今かと待ち構えている。
 「……くっ、」
 観衆は大乗り気だ。ホセもまた、引く気は毛頭ない。大観衆に承認されたホセは、地下停留場を埋めた全囚人を味方につけたも同然だ。
 いつか安田が言った、副所長にできることは実はとても少ないと。副所長にできることは囚人を規則で締め付け暴走を抑止するだけ。だが抑止力にも限界があり、東京プリズンに現在収容されてる少年たち全員を規則に従わせることは難しい。
 東京プリズンの主役は、囚人なのだ。
 圧倒的多数派を占める彼らが一致団結したら、本来彼らを管理し監視する立場の副所長も看守も無力を噛み締めざるをえない。それがどんなに好ましくない展開でも、最悪の結果を生み出す展開でも、権威や暴力で押さえ付けることのできない規模の集団相手には道理を引っ込めざるをえない。
 数は暴力だ。集団は無敵だ。地下停留場を埋めた囚人が一丸となり血で血を洗う展開を祝福するなら、所詮は部外者である大人たちは苦汁を飲んで容認せざるをえない。
 地下停留場に赴いた囚人のだれもが、ホセとレイジの直接対決を望んでいる。二大トップ対決の実現を期待してやまない集団心理はよくわかる。だが僕だけは容認するわけにいかない、絶対に。僕はこれ以上レイジに遠ざかってほしくない、ロンとレイジの距離を開かせたくない。
 金網を掴んだ僕の視線の先、リング中央で対峙する二大トップ。
 「片目と喉を潰された弟子の敵討ち、か。隠者は優しいな」
 「性分なんです」
 気取った手つきで黒縁眼鏡を外し、ポケットにしまう。伊達眼鏡を外して素顔を晒したホセが、改めてレイジと向き合う。 
 「いずれにしても、君とはいつか決着をつけねばいけないと思っていました。東の地を治める王なら相手に不足はありません……今も医務室で寝ているロンくんのことを思えば少々気が咎めますがね」
 「御託はいいよ。はやく殺ろうぜ、ユダ」
 前説には飽き飽きしたとレイジが肩を竦める。
 「俺を倒して東京プリズンを統一したいんだろ?なら実行してみろよ」
 「ではお言葉に甘えて」
 ホセが微笑み、試合再開のゴングが高らかに鳴り響く。
 ゴングの余韻が大気に溶けるより早くレイジが行動を開始する。返り血が付着したナイフを片手に構え、頭を屈めた低姿勢で疾走しホセに肉薄。殺気を抑制し接近の気配を消し、肉食獣めいて敏捷な動作でホセに肉薄したレイジの左腕が下から上へと跳ねあがる。銀の軌跡を曳いたナイフがホセの下顎を切り付ける、と見えたのは錯覚でホセは後方に跳躍しあざやかにこれを回避。素手とナイフでは分が悪い、という大方の予想を裏切る並外れた反射神経を発揮して即座にボクシングの構えをとる。
 背筋に戦慄が走る。
 ホセの目に殺意の眼光が宿る。隠者から狂戦士へと一瞬で面変わりしたホセが鋭い呼気を吐き腕を撓め、次の瞬間レイジに殺到する気迫の風圧。  
 「避けろレイジ!」
 おもわず叫んでいた。僕のアドバイスが功を奏したか、レイジの姿が消失。片足を踏み込み腕を振りかぶるホセ、そのこぶしが穿つのは最前までレイジがいた虚空。ホセの運動神経も尋常じゃないが、レイジの運動神経はさらにそれを上回る。常人を凌駕する運動神経を持ち得た二人が交差し交錯し、ホセとレイジが一刹那すれ違う接点でナイフとこぶしが衝突すればキィンと歪な音が鳴る。
 指輪とナイフとが擦れ合う高音域の金属音。
 試合の加熱ぶりに比例して観衆も熱狂する。
 「殺せ、殺しちまえ!」
 「東京プリズン最強王者の椅子はお前のもんだ、ホセ」
 「がっかりさせんなよレイジ、こちとら100人抜きに大枚張ってるんだ!お前と心中すんのはおことわりだぜ」
 「勝て東!」
 「勝て南!」
 「どちから一方が息絶えるまで檻から出るなよ気狂いのケダモノが!」
 遅い、既に殺し合いが始まってしまった。金網に両手をかけた僕の眼前ではレイジとホセとが迫力の死闘を演じている。
 律動的なフットワークで後方に飛び退いたホセが床の血痕で靴裏を滑らせば、その一瞬で距離を稼いだレイジが凄惨な笑みを浮かべる。 
 『You are a betrayer. A betrayer has death.』
 裏切り者には死あるのみ。
 ホセの頚動脈を切り裂こうと斜め上方から振り下ろされたナイフだが、首の薄皮を裂くだけに留まる。確実に急所を狙い、致命傷を与えんと襲い来たナイフをホセのこぶしが撃ち抜いたのだ。斜め上方から急襲したナイフを懐に隠したこぶしで突き上げれば、ホセの腕力とレイジの腕力とが拮抗して両者膠着状態に陥る。
 ナイフと指輪とが擦れる金属音が耳を劈く。
 「……吾輩を怒らせましたね、レイジくん」
 押し殺した呟き。指輪に傷をつけるのは禁忌、ホセが激怒する兆候。
 「いいこと教えてやろうか、ホセ」
 前傾姿勢をとり、ホセの耳元に口を近付け、性悪な色男の顔でレイジが囁く。
 「お前のワイフと寝たぜ。情熱的な腰つきのラテン女」
 『Uooooooooooooooo!!』
 挑発、そして激昂。
 獣じみた咆哮をあげ、暴力衝動を解放する。膠着状態が破られた。嘘と分かっていても最愛の妻を侮辱された怒りはおさまらず、破壊の権化となったホセが猛然とこぶしを振るう。大気を穿つ砲弾、頑丈な骨で鎧われたこぶしが風切る唸りをあげてレイジの額へ頬へ胸郭へ鳩尾へ下腹部へと打ちこまれる。だがレイジはそのすべてを余裕でかわす、口元に笑みを絶やさずこぶしの軌道を見極めて最小限の動きでそれを回避。
 「実写版北斗の拳や……」
 声の方を振り向く。隣にヨンイルがいた。ヨンイルもまた会場の熱気にあてられたか、恍惚とした表情で無心にリングを見つめている。 
 「呑気な感想を述べてる暇があるなら止めろ、道化!ペア戦で死者をだしたいのか?」
 「アホ言うなや、ホセがキレたら最後だれにも止められへん。死にとうないなら大人しゅうしとれ」
 ヨンイルは役に立たない。
 耳を聾する大歓声が広大な地下停留場に反響する。興奮が絶頂に達した囚人が金網によじのぼり引きずりおろされ下品なスラングと狂騒の口笛とが死闘の伴奏になる。 
 「ワイフを侮辱した者は誰であろうと撲殺します。最愛の人の名誉を守り抜くなら何度返り血を浴び何度刑務所に入れられようと吾輩に悔いはない、しかしここは刑務所の中、すでにして檻の中。ワイフを侮辱した不心得者に鉄拳制裁を下したところで何人たりとも吾輩を咎める権利はない」
 目を血走らせたホセがこぶしを握り締め、破裂寸前まで手の甲の血管が膨張する。
 そしてホセは、朗々と宣言した。
 「愛のために、君を滅します」
 渾身のこぶしがレイジの顔面に迫り来る。速い。紙一重で避けたつもりが完全にはかわしきれず、レイジが体勢を崩す。それがホセの狙いだった。豪速のこぶしをこめかみに掠め平衡感覚を失わせるのが知恵ある隠者の作戦だったのだ。
 「!!!!!」
 ガシャン、と金網が鳴った。
 レイジが平衡感覚を失った一瞬に、鳩尾にこぶしが炸裂。衝撃に吹っ飛ばされたレイジの背中が、腕が、重力の法則に従い金網に叩きつけられる。
 腕。サーシャに切り裂かれた右腕が金網に激突し、たまらずレイジが苦悶の咆哮をあげる。レイジの右袖に滲んだのは、鮮血。金網に激突した衝撃で右腕の傷口が開き、目にもあざやかな血が染み出しているのだ。額を脂汗でぬらしたレイジが金網に背中を預け、くずおれるようにその場に座りこむ。
 負傷した右腕を庇い、激痛に声もなく無防備に座りこむレイジのもとへ歩み寄るホセ。
 白熱の照明に暴かれたその姿は、沈着な隠者の仮面を脱ぎ捨て、狂戦士の本性をむきだしたとつもなく物騒なもの。
 「やめ、ろ」
 やめろ、レイジを殺すな。殺さないでくれ。
 僕は、僕は一体どうすればいい?リングでは一歩、また一歩とレイジとホセの距離が縮まりつつある。右腕の再出血したレイジは試合続行不可能で、ホセはといえばそんなレイジを無表情に見下している。体の脇にたらしたこぶしからは血が滴り、大股に横切る道中に点々と血痕を残す。
 僕にはなにもできないのか?
 このまま指をくわえて見ていることしかできないのか? 
 違う、そんなわけがない。僕はレイジの相棒だ、レイジを助ける義務がある。レイジを生きてロンのもとへと連れ帰る義務がある。目を閉じ深呼吸し、心を落ち着かようと努める。
 ホセを止めなければ、レイジを救わなければ。
 「なおちゃん?」
 ヨンイルの不審げな声を無視し、顔を上げる。僕はこれからとんでもないことをしようとしてる、とんでもなく馬鹿げた行動をとろうとしてる。失敗したら命はない、二度とサムライのもとには帰れない。
 でも、やらなければならない。
 僕はけして無力ではないと証明するために、行動を起こさなければならない。
 今の僕を見たらサムライは笑うだろうか、取り乱すだろうか。
 きっと後者だ。
 だが、今ここにはサムライがいない。従って、僕を止める人間はだれもいない。
 そう決心し、ヨンイルをその場に残して全速力で駆け出す。間に合えと一心に念じつつ矩形の出入り口から檻の内側へと駆けこむ。
 金網に背中を預け、浅く呼吸するレイジの頭上に影がさす。
 緩慢に頭上を仰いだレイジの目がとらえたのは、照明の逆光になり、闇に沈んだホセの顔。
 『Adios』
 そして。
 必殺のこぶしが膨大な風圧を纏い、レイジの頭蓋骨が陥没― 

 「やめろ!!!!」

 両手を広げ、ホセの眼前にとびだす。
 歓声が途絶え、リングを取り囲んだ観衆の視線が一斉に僕へと注がれる。肩で息をしながらホセの眼前に立ち塞がれば、レイジに脳挫傷の致命傷を与えようと大気を攪拌したこぶしが鼻先で静止する。
 「おどきなさい」
 「どくものか」
 冷静になれ鍵屋崎直、こんなことには何の意味もない。体を張ってレイジを庇う行為には意味がない。頭の片隅、一握りの理性が囁く。まったくその通りだ。なんて無謀なことをしてるんだ、僕は。さあ早くリングを下りろ、何もなかったような顔で野次馬に混ざれ溶けこめ、それが最善の策で賢い対処法だ。
 だが、僕の足は一歩たりともその場から動かなかった。
 レイジを庇うように両手を広げ、ホセと対峙する。
 頭上に降り注ぐ照明が熱い。網膜が白く灼ける。
 深呼吸で肩を浮沈させ、しっかりと目を見開き、漂白されたリングに佇むホセを睨みつける。
 「レイジは右腕を負傷してる。今また出血が再開した、早く手当てしなければ危険だ」
 「だから?ブルータスくんは片目と喉を負傷して光と声とを失いました。金ヤスリで研いだような濁声では最愛の女性に愛を囁くこともできず、ナイフで抉られた片目は二度と最愛の女性を映すことがない」
 ホセがにこやかに続ける。
 「南の人間に損害を与えた代償は利子つきで払わせます」
 「言葉を返すが、今ここでその代償とやらを払わせる意味は?」
 落ち着け、鍵屋崎直。心を静めて交渉に臨め。僕は天才だ、豊富な語彙と辛辣な毒舌とを兼ね備えた僕なら必ずや一対一の交渉に勝つことができる。
 自己暗示で勇気を奮い立たせ、できうる限り理性的な説得を試みる。
 「ホセ、君は何故ここにいる?客観的意見を述べれば、君が本来ここにいること自体イレギュラーなんだ。君はブルータスの相棒じゃない、ブルータスの所属する棟のトップで親密な師弟関係にあるとしても交代要員として登録してなければ前提上リングにのぼれないはずだ。違うか?」
 頼む冷静になってくれ、頭を冷やしてくれ。
 ホセにひとかけらでも自制心が残っているなら、僕の説得が通じるはずだ。僕の説得で目が覚めて、怒りを制御できるはずだ。これ以上ホセを激昂させないよう摺り足で立ち位置を移動してレイジを背中に隠す。
 「自棟の人間を傷付けられ逆上する心理はわかる。が、今ここで決着をつけるのは時機尚早だ。遅かれ早かれ君とレイジは決勝戦で当たることになっている、ならばその時に代償を払わせればいいじゃないか。それとも何か、君は片腕を負傷したレイジに勝利して嬉しいのか?それで誇れるのか、自尊心を満たせるのか?」
 ホセは南のトップ、何千人という囚人の頂点に君臨する隠者、レイジと実力で拮抗しうる東京プリズンでは数少ない存在なのだ。ならば正々堂々レイジと戦って勝利してこそ、東京プリズン最強を自認できるんじゃないか?
 片腕を負傷して本調子ではないレイジを倒したところで、ホセが東京プリズン最強を名乗れるとは思えない。
 冷酷な狂戦士からお人よしの好青年へ、毒気をぬかれたホセが苦笑いする。
 よし、いい調子だ。あともう少しで、ホセを説得することができる。
 「焦ることはない、あと一週の辛抱だ。僕らが順調に勝ちぬけば来週にはトップ対決が実現する。よく考えろホセ、決定戦まで一週間の猶予があったほうが君にとっても有利じゃないか?一週間の準備期間があれば存分に英気を養い体調を万全に調え心身ともにべストの状態で試合に臨むことができる。
 一週間あればレイジの怪我もよくなる、君はレイジと同条件で戦った上で東京プリズン最強の称号を勝ち取れる。ここまで言っても僕の提案を受け入れる気はないか?
 双方ともに利益はあっても不利益はない提案だと自負するが」
 機を逃さず饒舌に畳みかければ、ホセが降参したというふうにかぶりを振りながら眼鏡をかけ直す。
 「……よろしいでしょう。献身的な友情に免じて本日のところは、」
      
 ホセの感慨を遮ったのは、僕の背後から投擲されたナイフ。

 「……え?」
 銀の放物線を描いたそれが、狙い定めたようにホセの片腕に刺さる。苦痛に歪むホセの顔、眼鏡のレンズに付着する血飛沫。片腕を押さえて膝を屈したホセ、その手の下から滲みだすのは鮮血。
 カチャンと軽い音をたて、ナイフが地面に転がる。
 なんだこれは?なにが起きたんだ。
 呆然と立ち竦む僕の眼前では、ホセが額にびっしり脂汗を浮かべて悶絶してる。
 「これで『おあいこ』だろ」
 声に反応し、緩慢に振り向く。
 ホセとおなじように片腕を抱いたレイジが、疲労の隈が落ちた顔に凄惨な笑みを刻んでいた。
 そうか。
 何が起きたのか、わかった。
 僕の背に庇われたレイジが、ホセめがけてナイフを投げた。
 僕を隠れみのにして、ずっと逆襲の機会を窺っていたのだ。

 『He is the devil, He is a monster, He is a killer!I do not want to approach him!』
 奴は悪魔だ、怪物だ、人殺しだ。奴には二度と近付きたくない。

 ブルータスの絶叫が耳の奥に甦り、世界が崩落するような眩暈に襲われた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050922033131 | 編集

 「卑怯者!」
 レイジに盾にされた衝撃から現実へと回帰した僕に、罵声がとぶ。
 「な……」
 金網によじのぼった何十人という野次馬が、一斉に僕を指さし口々に何かを喚いている。だが僕はそれどころではない。レイジに盾にされた。僕がホセとの交渉に臨んでいるあいだ、レイジは僕の言葉を一切斟酌することなく反撃の機会を窺っていた。僕の言葉はレイジに届かなかった、それが非情な現実。僕の訴えはレイジの内面に何の変化も起こさなかった。もう駄目なのか、レイジには説得が通じないのか、レイジは本物の怪物になってしまったのか?僕がレイジを背に庇いホセとの交渉に臨んだのはそんなことをさせるためじゃない、でも結果的にそうなってしまった、事態は僕の予想を裏切る最悪の方向に転がり出してしまった。
 「卑怯者が、てめえレイジの相棒の親殺しだな!?」
 「ホセ説得するふりしてレイジに反撃させるなんざ感心感嘆の頭脳プレイだな、恐れ入ったぜ」
 「レイジと仕組んでホセ嵌めるなんざどこまで悪賢いんだ、天才よお」
 「さっすがてめえを生み育てた両親ナイフでぐさっと殺っちまう鬼畜外道はやることえげつねえぜ」
 「地獄に落ちやがれ屑が!!」
 なに、を言ってるんだ?
 彼らは一体何を言ってる、僕は何を言われている?全く身に覚えのない濡れ衣をかけられ、愕然とリングに立ち竦む。違う、そんなつもりはなかったんだ。僕がリングに駆け込んだのはレイジを救いたいという一心で、これ以上レイジとホセの殺し合いを見たくないという一心で、僕の背中に隠れたレイジがナイフを投擲したのは予想外の出来事で。
 それが、彼らの目には裏切り行為に映ったのか?
 真摯に説得するふりで時間を稼いで、僕とレイジが二人で仕組んでホセを嵌めたように見えたのか?確かにそう見えないこともない、いや、客観的に見ればそれこそ正しいのだ。レイジが視界に入ればまたホセが逆上するに違いないと危惧した僕は慎重に立ち位置を移動して、片腕を負傷したレイジを背中に隠した。両手を広げて立ち塞がればその時点でレイジの姿は背中に隠れてしまいホセの位置からは死角になる。
 だがレイジは違った。金網に背中を凭せて座りこんだレイジは、下方から標的を見定めることができた。
 盲点。 
 「これは違う、」
 「違わねえよ屑が!!」 
 誤解が誤解を招き、僕は卑劣な裏切り者として周囲に認知された。ホセを説得する演技で足止めしてレイジにとどめを刺させようとした悪辣な策士、薄汚い裏切り者。僕と交渉中で死角から襲来したナイフを避けきることができなかったホセは、額におびただしい脂汗を浮かべて蹲っている。ホセは、ホセは大丈夫だろうか?ナイフで貫かれた片腕を抱き、苦悶のうめきを漏らすホセのもとへと……
 「!!っ、」
 反射的に後退する。第六感に起因する咄嗟の判断が僕を救った。足元に落下したペットボトルが床一面に大量の水をぶちまける。僕めがけてペットボトルを投げつけた囚人が的が外れて舌打ち、「裏切り者の屑のくせに生意気によけやがったぜ、あいつ」と悪態を吐く。
 水の飛沫がズボンの裾を濡らす。
 しっかりしろ、優先順位を間違えるな鍵屋崎直。自己憐憫に浸るのは後回しだ、今優先すべきはホセの怪我の程度を確かめることだ。はげしくかぶりを振り惰弱な心を否定し、ホセのもとへ駆け寄る。
 「大丈夫か、しっかりしろ!」
 「はは……さすがですレイジくん、ブラックワーク覇者の腕は鈍っていませんね。あの位置と距離から確実に腕を狙いましたか、サーシャくんにも匹敵する恐ろしい腕前です」
 ホセの背中に手を添え支え起こす。大儀そうに上体を起こしたホセが、蒼白の顔に強がりの笑みを浮かべる。ナイフが刺さったのは左腕だ。血染めの左腕をおさえて苦悶するホセの顔を覗きこみ、傷口周辺部の血管を指で圧迫する。幸い、傷は思ったより深くない。
 「腕はボクサーの命です。ボクサーとしてリングに立てない吾輩など……」
 「弱気になるな、たいした怪我じゃない。すぐに手当てすれば助かる。なにをしている医療班、すぐ来い!ホセは腕を負傷して血を……」
 「待てよ」
 金網の外へと呼びかける僕の眼前にレイジが立ち塞がる。足元のナイフを左手で拾い上げ、柄を掴み、器用に旋回させる。傷口が開いて流血した右腕は肩からだらりとたれたまま、筋肉が弛緩して使い物にならない状態だ。
 にもかかわらず、レイジは不敵に笑っていた。
 「まだ試合は終わってねえぜ」
 「正気か貴様」
 声が震えた。怒りのせいだ。僕を裏切りホセを裏切りすべてを台無しにくたせに反省の色などかけらもなく、大胆不敵に試合再開を促すレイジに視界が赤く染まる。レイジさえ余計なことをしなければすべてが丸くおさまった、決勝戦は次週に持ち越されレイジは今ごろ右腕の手当てを受けていたというのに……
 レイジはまだ、戦い続けるつもりなのか?
 「いい加減にしろレイジ、もう試合は終わったんだ。決勝戦は次週に持ち越しだ、殺し合いを繰り上げる意味などどこにもない。君は準決勝戦に勝利した、また一歩100人抜き達成の目標に近付いた、あと一歩でロンを救えるところまで到達できたんだ。今日の成果はそれで十分じゃないか、何が不満なんだ?これ以上他人を傷付け自分を傷付けても得られるものなど何もないとまだわからないのか!」
 僕を盾にして、ホセの片腕を切り裂いただけでは不満なのか?
 僕はレイジの枷になると誓った、レイジを必ずロンのもとへ連れ帰りロンに会わせると決意した。しかし今のレイジをロンに会わせるわけにはいかない、血で汚れた手でロンに触れさせるわけにはいかない。
 正気に戻れ、レイジ。そんな笑顔、君本来の笑顔じゃない。
 片腕を抱いたホセを背に庇い、レイジと対峙する。
 「どけよ」
 「断る」
 レイジが鼻白む。が、僕は一歩たりともそこを動かない。負傷したホセを背中に隠して立ち塞がれば、返り血にぬれたナイフが鼻先につきつけられる。
 四囲から降り注ぐ照明を浴び、鋭利な先端が白銀の閃光を放つ。
 だが僕の視線はナイフの切っ先を通り越し、終始レイジへと注がれていた。レイジの奇行に驚愕したか、金網に群がった野次馬が緊張の面持ちで口を閉ざし、食い入るようにこちらを凝視する。
 最前までの喧騒が嘘のように地下停留場が静まり返る。
 「どけ」
 「どきはしない」
 レイジが無造作に顎をしゃくる。僕は頑として拒否する。鼻先に擬されたナイフが物騒に輝き、心臓が高鳴る。喉仏が動けばナイフの切っ先が刺さりそうで唾を嚥下することさえできない。ナイフを構えたレイジは、つまらない出し物でも見るように退屈な顔をしていた。倦怠と侮蔑とが綯い交ぜとなった表情を飾るのは、口元の薄い笑み。
 けして怯まず、レイジの目をまっすぐ見据える。
 「偽善ぶるなよ親殺し」
 「偽悪ぶるなよ憎しみ」
 即座に言い返せば、レイジの笑みが消える。 
 僕はもうたじろがない。レイジに親殺しと吐き捨てられ、胸が痛むのは事実だ。だからなんだ?レイジがわざと僕を「親殺し」と呼んでることぐらいとっくにわかってる、僕を遠ざけようと偽悪的に振る舞ってることくらい最初からお見通しだ。だから僕もレイジの言いまわしを借りて応酬した、それだけのことだ。
 だから今ここで、改めて言わせてもらおう。
 逃げずにレイジと対峙し、逸らさずに目を見つめ、レイジに対する恐怖など微塵も感じさせない態度で。
 対等な立場の人間として。
 「僕の名前は鍵屋崎直だ」
 「俺の名前はレイジ。英語の憎しみ。名は体を表すって言うよな?最高に皮肉な格言だ」
 「君の名前の由来など興味もない。親から与えられた名前が気に入らない心情には共感する、だがそれと君の人生になんの関わりがある?僕は君の過去についてなにも知らないも同然だ、君がどんなに悲惨な幼少期を過ごして壮絶な体験をして地獄を見たか僕にはわからない。だがレイジ、君は本当にそれでいいのか?名前に運命づけられたとおり憎しみそのものの存在になって、それで満足なのか?」
 リングに立ち、照明の熱を痛感する。
 白熱の奔流がリングを眩く照らし出す中、僕は僕自身の運命を覆そうとでもいうように言葉を続ける。
 「名前に沿った人生を歩んで、それで満足なのか?君の名前が憎しみだろうが心まで憎しみで埋め尽くせるわけがない、親が勝手に与えた名前で運命を決定され人生を左右されるほど人は弱くないぞ。名前が憎しみなら名前に抗え、名前に負けるんじゃない」
 僕の本当の名前はカギヤザキスグル。
 鍵屋崎夫妻の長男に出生前から用意されていた名前。僕の名前はそれ以上でも以下でもないただの記号にすぎない。だが僕の身近には、僕を親しく呼んでくれる人間がいた。
 『おにいちゃん』
 大事な妹、恵。
 『直』
 大事な友人、サムライ。
 だから僕も、僕だって自分の名前は捨てたものじゃないと思えるようになったんだ。親しく名前を呼んでくれる人がそばにいれば名前などなんでもいいのだ、意味などなくてもかまわないのだ。
 大事なのは名前の意味じゃない。
 多くは望まない。たったひとりでいい。 
 心をこめて名前を呼んでくれる人間がそばにいれば、それだけで生きていける。
 どんなに救いのない人生にも耐えがたい現実にも、絶望せずにいられる。 
 僕は他のだれに親殺しと呼ばれてもかまわない、親殺しと蔑まれ罵られ唾吐きかけられてもかまわない。
 たった一人でいい。たとえこれから先なにが起きてもサムライが僕を「直」と呼んでくれる確信があれば、それを支えに生きていける。
 「レイジ、君にもいるだろう。いつも身近で名前を呼んでくれる人間が、うるさいくらいに名前を呼んでくれる友人が。その友人が、いちいち君の名前の意味など考えていると思うか?彼にとって君はレイジ以外の何者でもない、レイジという名の友人以外の何者でもない。思い出せ、レイジ。彼に名前を呼ばれた時、君は嬉しかったろう?ごく自然に笑顔を浮かべていたろう?」     
 だから僕はくりかえしレイジの名を呼ぶ。祈るように、呼ぶ。僕は何度親殺しと罵られようがかまわない、僕のそばには常にサムライがいる。周囲の人間すべてが僕を親殺しと蔑み罵り唾を吐きかけても僕が自分を見失わず鍵屋崎直のままでいられるのはサムライが僕の名を呼んでくれるからだ。

 サムライだけは変わらず僕の名を呼んでくれるという希望があるからだ。

 僕の呼びかけにもレイジは反応を示さなかったが、その目に波紋が生じたのを見逃さない。ナイフを構えた手がゆっくりと引かれ、やがて体の脇へとおろされる。
 僕の説得が通じたのか?レイジは元に戻ったのか? 
 「レ、」
 「死にやがれ!!」
 照明の光がふいに遮られる。
 金網越しの安全圏からレイジにブーイングを浴びせていた主犯格の囚人が、大きく腕を振りかぶりなにかを投げる。照明の逆光に塗り潰された落下物に目を凝らす。あれは……
 鉄パイプだ。
 危ない。 
 囚人が力任せに投擲した鉄パイプが金網を飛び越えて照明のひとつに激突、盛大に破片を撒き散らす。鉄パイプが命中した照明が不安定にぐらつき、落下。
 すさまじい轟音、衝撃。 
 視界が明滅して足元が揺れる。僕とレイジの中間に落下した照明の破片が四方に飛散、鋭利な破片が頭上に降り注ぐ。反射的に腕で顔を庇ったから細かい切り傷だけで済んだが、もしあれが頭上に落ちていたら間違いなく絶命していた。
 「は、ははははははは!ざまあみやがれ、腰抜けが。びびって漏らしちまったか、クソ眼鏡」
 金網に両手をかけた囚人が背を仰け反らせて哄笑をあげる。 
 だが僕を戦慄せしめたのは、足元に落下した照明器具でも狂ったように哄笑する囚人でもなく眼前のレイジ。片手にナイフを携えたレイジが体ごと金網に向き直り、豪腕で鉄パイプを投擲した囚人を見据える。
 レイジの雰囲気が豹変したことにも気付かぬ愚かな囚人は、なにかに取り憑かれたようにまくしたてる。
 「勝手に話進めやがって、無視するんじゃねえよ!準決勝の相手は南のガキだけじゃないぜ、46組目の俺さまはアウトオブ眼中かよ?どいつもこいつも人の見せ場横取りしやがって気にいらねえ、でしゃばりは死ね、むしろ殺す!!」
 ホセの飛び入り参加で自分の試合がうやむやとなった不満をここぞと爆発させる囚人に、レイジが微笑みかける。
 「そんなに死にたいのか」
 止めに入る余地もなかった。
 「………あ?」
 金網を掴んでがなりたてる囚人の脇腹から、ナイフの柄が生えていた。刃は半ばほど腹部に埋まっていた。無造作にナイフを引きぬくのを合図に、囚人が膝から崩れ落ち、栓をぬかれた傷口から血が噴出する。
 脂肪に濡れ光るナイフをひと振り、慣れた動作で血を払ったレイジが金網に寄りかかった囚人を容赦なく蹴り飛ばす。腹部を片手で庇った囚人が床に転倒、海老反りの絶叫をあげる。
 「あああああっいっいてええ、血、血がこんなにで……」
 「情けねえな、そんな体たらくでよくもまあ準決勝まで勝ちぬけたもんだ。裏で賄賂でも渡してわざと負けてもらったのか?」
 網目に片腕をくぐらせ目にもとまらぬ早業で46組目を屠ったレイジに勝利を誇る色はなく、ただただ楽しげに楽しげに笑っていた。足元一面に散乱した照明の破片を踏み砕き、靴裏をねじる。レイジの靴の下で薄氷が割れるように破片が砕け散る。
 レイジは今、正気と狂気の境界線上にいる。
 足元の薄氷を踏みぬいたら、底まで堕ちるだけだというのに。
 「ちょうどいい、せっかくだ。46組から先全ペアまとめて相手してやるよ。どうしたほら、かかって来いよ。さっきまでの威勢のよさはどうしたよ?俺のことさんざん馬鹿にして罵ってたくせにいざとなりゃ逃げ腰かよ、情けねえ。そこのお前」
 レイジが顎をしゃくった先には、ひとりの囚人。ついさっき、僕にペットボトルを投げつけた少年。
 「知ってんだぜ、お前が47組目だろ。入り口近くうろちょろして目障りだったからすぐわかったぜ。相棒はどうしたよ、お前ひとりほっぽりだして逃げ出したのか?」
 「ひっ………」
 反射的に背中を翻し逃走を図るが、レイジはその無防備な背中めがけてナイフを突き出す。肩甲骨と肩甲骨の間、痛点が集中する急所を抉られた少年が前傾のち転倒、上着の背中を真っ赤に染めて身悶えればレイジが口笛を吹く。
 いたずらに味をしめた子供さながら朗らかな笑顔。
 「さあ、文句があるヤツはでてこいよ。寂しがり屋の王様が遊び相手募集中だ」
 「い、いかれてやがる……!」
 「逃げろ、少しでも遠くレイジから離れろ!」
 「いやだ死にたくねえ、王様のお遊びに付き合わされて嬲り殺されるなんざ冗談じゃねえ!!」
 地下停留場が大混乱に陥る。
 我先にと逃げ出す囚人たち、先行者の後ろ髪を掴んで踏み倒し蹴散らし逃走する。レイジと目が合えば殺される、確実に刺される。恐怖に駆り立てられた囚人たちが溶岩流に襲われたソドムの住人のように怯え逃げ惑うさまにレイジは哄笑する。
 僕の目に映る光景は、地獄だ。
 「こら、大人しくしろ!言うことを聞かねえと独居房送」
 「どけよクソ看守、俺は命が惜しいんだよ!」
 「これ以上ここにいたら命がいくつあっても足りねえよ、血に飢えた暴君に嬲り殺されてたまるかよ!」
 激昂した囚人に看守が突き飛ばされ無様に転ぶ。転倒した看守の顔面を踏みつけ泥まみれにし雑踏を掻き分けるように前へ前へと四肢をくりだす囚人たち。混乱。恐慌。我先にと逃げ出した囚人たちが先行者を手荒く突き飛ばし殴り飛ばし聞くに堪えない罵声を浴びせて乱闘へと縺れこむ。額を割られ鼻骨を折られ顎を粉砕され顔面を血の朱に染めた囚人たちが互いの胸ぐらを掴み合い罵り合う。
 地獄を召還した地下停留場に血なまぐさい匂いが充満する。
 自らが騒乱のきっかけとなった阿鼻叫喚の戦場を睥睨し、レイジが満足げに呟く。

 地獄に君臨する暴君のように。
 褥に横たわる怠惰な悪魔のように。

 『私は見た。海から一匹の獣が上ってきた。これには十本の角と七つの頭とがあった。
 その角には十の冠があり、その頭には神の名を汚す名があった。
 私の見たその獣は豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に自分の力と位と大きな権威とを与えた。
 その頭のうち一つは打ち殺されたと思われたが、その致命的な傷も治ってしまった。
 そこで全地は驚いてその獣に従い、そして竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで「誰がこの獣に比べられよう、誰がこれと戦うことができよう」と言った。この獣は傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二ヶ月間活動する権利を与えられた。
 そこで彼はその口を開いて神に対するけがしごとを言い始めた』

 誰がレイジに比べられよう、憎しみそのものと戦うことができよう?
 返り血にぬれたナイフを頭上高く照明に翳してレイジが宣誓する。
 神への冒涜。
 この世の悲惨に目を瞑る神への呪詛、ヨハネの黙示録。
 
 『もう一匹の獣が地から上ってきた。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
 この獣は最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。
 また天と地に住む人々に致命的な傷の治った最初の獣を拝ませた。
 また人々の前で火を天から降らせるような大きなしるしを行った。
 またあの獣の前で行うことを許されたしるしを持って地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように人々に命じた。
 それからその獣の像に息を吹きこんで獣の像がものを言うことさえできるようにし、またその獣の像を拝ませない者を皆殺させた』
 腕の激痛も麻痺したか、レイジの独白はよどみない。
 狂気と虚無とに蝕まれ、絶望的に透徹した目にナイフの閃光が映える。
 『また小さい者にも大きい者にも富んでいる者にも貧しい者にも自由人にも奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた。またその刻印、すなわちあの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外にはだれも買うことも売ることもできないようにした。
 ここに知恵がある。
 思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。
 その数字は六百六十六である』
 レイジを止めなければ。
 呪縛が解けたのは僥倖だった。レイジの狂気に伝染して茫然自失と立ち竦んだ僕を正気に戻したのは、靴裏で破片が砕ける音。レイジに気圧されてあとじさった拍子に照明の破片を踏み砕き、弛緩した頭が現実に直面し、ハッと顔を上げる。 
 この場は僕が収拾をつけなければ。
 レイジを正気に戻せる人間は、もう僕しかいない。
 しかし僕になにができる、レイジの暴走を止めるにはどうすればいい?どれだけ言葉を尽くしても説得が無意味なら他に僕にできることは何も……
 待てよ。
 脳裏に一条の閃光が射す。諦めるのはまだ早い、手がないわけじゃない。どれほど望みが薄くてもレイジを正気に戻す手段が残されているならそれに賭けてみるしかないじゃないか。
 深沈と目を閉じる。
 脳裏に次々と浮かび上がる映像。褐色の手に十字架を握り締めたレイジの安らいだ顔、レイジが憑かれたように呟く聖書の言葉。そうだ、レイジはこれまでけして十字架を手放さなかった。どこへ行くにも、サーシャのもとへ赴くときさえ肌身はなさず持ち歩いていた十字架はレイジにとって命にも代えがたい重大な意味をもつ。心が乱れたとき、狂気に呑まれそうになったとき、レイジが小声で口ずさむ聖書の言葉。
 十字架を握り締める行為が狂気の抑止剤なら、聖書の暗唱は精神安定剤。十字架をまさぐる行為と聖句を唱える行為の相乗効果でこれまで何とか正気を保ってこれたのだとしたら……
   
 まだ、望みはある。
 レイジを悪魔でも怪物でも人殺しでもなく、ただのレイジに戻せる可能性がある。
 
 足元に散乱した照明の破片を踏み砕き、レイジを刺激しないよう、慎重に慎重を期して歩み寄る。
 「あぶない!」
 叫んだのはホセか、雑踏に揉まれるヨンイルか?どちらでもかまわない。制止の声を無視し、レイジとの距離を詰める。一歩、また一歩と歩を進めるにつれ恐怖が心臓を鷲掴みにする。全身の毛穴が開き、いやな汗が噴き出す。怖い、逃げたい。怯惰に竦む足を叱咤しひたすら前へと運び、虚勢をかき集めて毅然と前を向く。今の僕を支えているのはレイジから逃げるのを良しとしないプライド、レイジを必ずロンのもと連れ帰るという使命感、事態を混乱させた責任の一端を担いレイジを止めなければという責任感。
 いや、それ以上に。
 僕が、僕自身がレイジを止めたい。これ以上過ちをおかしてほしくない、他人を傷付け自分を傷付ける愚をおかしてほしくない。他罰と自虐の悪循環を断ち切らねばレイジは永遠に救われない、自分へとさしのべられるすべての救いの手を拒絶してどこまでもどこまでも堕ちてゆくだけだ。
 そんなこと、あってたまるか。
 僕が苦しい時はサムライが手を掴んでくれた、僕の手を掴んで闇から引きずりあげてくれた。
 だから今度は、僕の番だ。
 レイジが嫌がろうが抗おうが、全力で暗闇から引き上げてやろうじゃないか。
 そして僕は、全身朱に染めたレイジとふたたび対峙した。
 僕が枷となり、レイジをこちら側に留まらせるために。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050921033353 | 編集

 『もし、だれでも獣とその像を拝み自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を呑む』 
 意を決して口を開けば、コンクリートの天井高く殷殷と反響する。
 狂乱の坩堝となった地下停留場とは巨大な金網で隔絶された銀の檻、その中央にてレイジと対峙する。
 周囲の喧騒とは無縁の静寂、絶対不可侵の聖域。
 声が震えないよう自制するので精一杯だ。
 なんとか虚勢を保ち勇気を振り絞り、しっかりと目を見開いてレイジを睨みつける。現実から目を逸らしてはいけない、逃避してはいけない。ありのままの現実と向き合わねば、ありのままの現実を受け入れて戦わねば僕まで狂気に蝕まれて平常心を失ってしまう。理性で恐怖心を制御しろと惰弱な自己を叱咤し、怯惰に竦んだ足でリングを踏みしめる。
 心臓の鼓動が鼓膜に圧力をかける。
 レイジが緩慢にナイフをおろし、返り血にまみれた顔を正面に向ける。うろんげにこちらを向いた目はどこも見ていない。精巧な硝子めいた瞳には僕が映っていない。
 ただ、その瞳にあるのは虚無。
 感情が欠落した瞳は硝子質の透明さの眼差しで、僕の心をざわつかせる。
 正気に戻ってくれ、レイジ。
 これ以上地下停留場を混乱に陥れて何の意味がある、血に飢えた暴君を演じて何の意味がある? 
 周囲の人間を血祭りにあげて、それで心の空洞が埋められるのか?喪失が贖えるのか?他人にしたことは全部反射して自分に返ってくる。他者を傷付け害することでレイジ自身が傷付いてないわけがない、レイジ自身が救われるわけがない。
 ロンがいない今、レイジを救えるのは僕だけだと自負して自戒する。
 僕が枷になってレイジをこちら側に留まらせなければレイジはもう後戻りできなくなる、完全に狂気に呑みこまれて闇に溶けてしまう。自分の手さえ見えない漆黒の闇に囚われて分厚い鉄扉の内側に閉じ込められてしまう。 

 そんなことさせるか。
 僕がレイジの手を掴むんだ。

 レイジは虚を衝かれたようにその場に立ち竦み、無表情に僕を見据える。僕の口からでたのは聖書の言葉、ヨハネの黙示録。レイジの聖句に応酬する形で暗唱し、極限まで集中力を高めてレイジの表情を探り一挙手一投足に警戒しつつ、慎重に続ける。 
 『また聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある』
 『……おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる』
 レイジも乗ってきた。
 口元に浮かんだのは侮蔑の笑み、予想だにしない展開を面白がる軽薄な表情。挑発的な笑みを顔に上らせたレイジが片腕を振り上げ、ナイフで僕をさす。
 毒舌だという自覚はある、いまさらレイジに教えてもらうまでもない。
 見損なってもらっては困る、この程度で逆上するほど僕は狭量でも短気でもない。
 ゆっくりと呼吸し、内面を沈め、凪のように穏やかにレイジを見据える。
 『不従順で反抗する者に対して、わたしは一日中手をさしのべた』
 ローマ人への手紙、「イスラエルがつまずいたのは何のためか」。
 不従順で反抗する者、さしだされた手を頑なに拒む物、神の救いを拒絶して殻に閉じこもる者への献身の訴え。
 僕は聖書を偽善の集大成だと馬鹿にしていた。
 聖書の理念に感銘を受けたことなど一度もなかった。僕は無神論者だ、神も霊魂も非科学的な物は一切信じない主義だ。神も霊魂も全否定して十五年間築き上げた価値観がそう簡単に覆るわけもない、だが今この場だけは、この瞬間だけは言霊の存在を信じてレイジに呼びかけたい。

 レイジの心を手繰り寄せたい。

 精神状態が不安定になったとき十字架を握り締め聖書を口ずさむのがレイジの癖だ。
 なら、レイジを元に戻す鍵もきっとそこにある。
 言霊の神秘に一縷の希望を託し、言葉だけを武器に暴君に立ち向かう。
 金網の外では囚人が互いに足を引っ張りあい罵りあい暴虐の限りを尽くす光景が繰り広げられていた。硫黄と火とに追われた悪徳の都の住人のように、我も我もと雑踏を掻き分ける囚人たちの怒号と罵声と悲鳴とが大気を引き裂く。地下停留場が揺れているのは足音の怒涛のせいか、地震に襲われたかの如く床と天井が震動し、コンクリートの石片が降り注ぐ。

 崩壊の序曲。

 地下停留場が鳴動する轟音と阿鼻叫喚を伴奏に、孤高の暴君が朗々と宣言する。
 『さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ』
 神への供物に自身の肉を捧げようとするかのように、大仰に芝居がかった動作で両腕を広げる。
 一身に脚光を浴び鉄錆びた血臭に酔い痴れるレイジから目を逸らさず、楔を打つ。
 『神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください』
 神よ、もしいるならこの地獄からレイジと僕とを救い出してくれ。
 僕は無神論者だ。これまで神も霊魂も全否定してきたが、今この瞬間だけは力を貸して欲しい。縋らせてほしい。
 不在の神に祈りつつ、続ける。
 『あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私の魂はそれを守ります。みことばの戸が開くと光がさしこみ、わきまえのない者に悟りを与えます。
 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです』
 『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』
 『御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。
 私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。
 私の敵のゆえに、私を贖ってください』
 『神よ。あなたは私の愚かしさをご存知です。私の数々の罪過はあなたに隠されてはいません』
 レイジは金網を背に立ち尽くした。
 顔にも服にも血が飛び散っていた。感覚が失せた左腕は肩からだらりとたれさがったまま、自分の意志では持ち上げることすらできない。今レイジは気力だけで立ってる状態だ。おそらく長くは保たないだろう。天井から降り注ぐ石の粉末の驟雨に打ちひしがれ、浅く呼吸しながら立ち尽くすその姿は孤独が人の形をとったようだ。レイジの右腕からは今も血が流れつづけている。はやく止血しなければ危険だ。
 焦慮に気を揉む僕の視線の先で、レイジが鈍重に顔をもたげる。一挙手一投足が四肢の先々に水銀でも流しこまれたかの如く気だるげだ。
 二本足で立っているのも限界なのに、レイジが自発的にリングを下りる気配は微塵もない。血染めの右腕を懐に抱きしめ、前傾姿勢をとり、苦しい体勢から顔だけ起こして僕の視線を受け止める。

 半透明の膜が張ったように虚ろな目。
 色素の薄い綺麗な瞳が、疲労が極限に達した苦痛と倦怠感で濁り始めている。

 病み果てた眼差しとみすぼらしい格好をさらに痛々しく際立たせるのは、虚勢の笑み。
 『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました』
 やめろ、それ以上言うなと発狂したように叫びたかった。レイジ君は今しゃべれる状態じゃない、無理をするなと制止したかったが僕が抗弁したところでレイジの口は止まらない。片手にナイフをぶらさげたレイジは、疲労の隈が落ちた顔に痛々しい笑みを拵え、今にも膝が砕けそうな重圧の中で懸命に立ち続ける。
 それは懺悔に似ていた。
 僕に懺悔しているのか、僕を通り越してその遥か向こうにいる人物に懺悔しているのかはわからない。わかるはずがない。弛緩した右腕を懐に抱きしめ、汗で湿った額に髪を纏わりつかせ、不規則に乱れた呼吸を整え、口を開く。
 『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、鞭打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした』
 もうやめろ、やめていいんだ。
 叫びたかった。胸が絞め付けられた。激情がこみあげてきた。それでも僕は、レイジに近寄れなかった。指一本動かすことができず、銀の檻の磁力場にとらわれていた。
 静謐。静寂。
 特殊な結界が張られているかのように檻の中は別世界だった。
 不可視の結界に守られた正方形のリングは厳粛な雰囲気に支配されていた。地下停留場を半狂乱で逃げ惑う囚人の怒号も罵声も悲鳴も足音も銀の檻に閉じ込められた僕たちには干渉できなかった。
 足がふらつき、体が傾ぐ。右腕を庇ったまま、背後の金網に衝突。そのまま背中を預けてずり落ちるも、リングに尻をつく寸前、中腰の姿勢で持ちこたえる。
 呼吸が荒い。顔色が悪い。失血した右腕は、壊れた人形のそれのように肩の付け根からぶらさがっていた。辛いだろう、苦しいだろう、意識を保っているのが奇跡のような状態なのだから。
 金網に背中を凭せて頭上を仰いだレイジが、かすれて擦りきれた声をだす。
 浅い呼吸に紛れた独白、過去の告白。

 『ユダヤ人から三十九の鞭を受けたことが五度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に遭い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました』

 淡々とした独白の底から汲み取ったのは、壮絶なまでの孤独。物心ついたときからずっと虐げられ疎外され迫害されてきた人間の半生。
 僕にはわからない。僕は鍵屋崎夫妻の長男として生を受け、裕福な家庭で何不自由なく育てられた。鍵屋崎優と由佳利には子供への愛情が欠落していたが、僕のそばには常に恵がいた。大事な妹が心の支えとなり、僕に存在意義をくれたのだ。
 レイジには、そんな人物がいたのだろうか。
 名前以外の存在意義をくれる人物と、半生で出会えたのだろうか。
 僕はレイジの中に、自分を見た。
 サムライと出会えなかった自分、サムライを拒み続けた過去の自分、だれにも頼らずだれの手も借りずに過酷な環境をひとり生きぬこうと強さと弱さをはきちがえていた半年前の自分。
 ロンに拒まれて絶望したレイジは、もうひとりの僕だ。

 『だれかが弱くて、私が弱くないということがあるでしょうか』

 ブラックワークで無敵の強さを誇ったレイジすら完全ではなかった。心はひどく脆く、笑顔はひどく儚く、これまでロンに依存してどうにか正気を保ってこれたのだ。
 金網に背中を凭せ掛けたレイジの瞼は半ばまで下りていた。 
 照明が涙腺に染みるのか、眩げに目を細める。

 『だれかが傷付いて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか』

 レイジの優しさはひとりよがりで残酷だ。
 大事な人を傷付けたくなければ自分から離れるという究極の選択肢しか思いつけないのだから。
 傷付けたくないから、ロンから離れる。傷付けたくないから、僕を突き放す。
 そしてだれより、レイジ自身がいちばん傷付く。
 今度は迷わなかった。レイジに対する恐怖を克服し、足を動かす。ナイフを持っていても怖くはない、僕はレイジのことをよく知っている。さっきレイジが逆上したのはあの囚人が僕に危害を加えようとしたから、僕の頭上に照明を落とそうと鉄パイプを投げたからだ。
 照明が直撃していたら、間違いなく重量で圧死していた。
 レイジが次に刺したのは、僕にペットボトルを投げつけた囚人だ。
 二人の共通点は、僕に危害を加えようとしたこと。
 大丈夫だ、レイジは狂気に呑みこまれたわけじゃない。手当たり次第に他者を傷付けてるわけじゃない。一歩また一歩と足を踏み出し、着実に距離を詰める。最後まで希望は捨てない、レイジを元に戻す手段が残されているならけして諦めない。緊張に汗ばむ手を体の脇で握りしめ、血痕で足を滑らせないよう注意しつつ、慎重にレイジに歩み寄る。 
 金網に背中を密着させ、中腰の姿勢を維持し、危うい均衡で立ち続けるレイジの正面に立ち塞がる。
 はるかな天井を仰ぎ、大きく深呼吸して肺に酸素をとりこむ。
 そして、口を開く。
 『闇と死の陰に座す者、悩みと鉄の枷とに縛られている者、彼等は神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くさせた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった』
 祈りが言霊に昇華する瞬間を鼓膜で感じる。
 コンクリートの天井と壁に幾重にも反響する厳粛な声音。無意味な言葉の羅列が音を付与され真摯な祈りへと浄化され、地下停留場の鳴動と共鳴する。とうとう足で自重を支える限界が訪れたが、レイジがよろける。ぶざまに足を縺れさせたレイジの姿が、僕がたった今口にした聖書の内容と重なる。奇妙な符合の一致。
 ただひとつ異なるのは……
 反射的にレイジの腕を掴む。左腕を掴まれ助け起こされた拍子に五指からナイフがすべり落ちる。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 だが、レイジの前には僕がいる。レイジがよろければ、支える人間がいる。
 『この苦しみの時に彼らが主にむかって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた』
 レイジの腕から、肩から、体から、呪縛が解かれるように力がぬけてゆく。全身の筋肉が弛緩し、もはや立っていられなくなり、金網に背中を預けて力なく座りこむ。立ち上がる気力すら喪失したレイジの耳朶に口を近付ける。
 『主は彼らを闇と死の陰から連れ出し、彼らの枷を打ち砕かれた。彼らは主の恵みと人の子らへの奇しいわざと主に感謝せよ』
 長い長い暗唱もそろそろ終わる。瞼を閉じかけたレイジの耳朶で、結びの言葉を囁く。
 『まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄の閂を粉々に打ち砕かれた』

 扉は打ち砕かれた。閂は壊された。さあ、出て来い。

 『……Amen』
 放心したように呟き、レイジが僕の胸へと倒れこんできた。
 唐突だった。レイジの体を抱きとめようと両腕をのばしたが遅かった。視界が反転、背中に衝撃。レイジの下敷きになったはずみに眼鏡が鼻梁にずり落ち照明が滲んだ。
 漸く終わった。
 そんなに熱心に読みこんだわけでもないが、聖書の内容を全部暗記していてよかった。記憶力の勝利、頭脳に感謝しよう。レイジを沈静化させるには、言霊に言霊をぶつけて狂気を相殺するしかないと判断して賭けにでた。どのみち腕から出血していたのなら、数分と保たずに貧血を起こすだろうと予測して時間稼ぎをしたのだが成功して安心した。
 それはとにかく、いつまでものしかかれていたのでは重くてかまわない。僕を窒息死させるつもりか?
 まったく、どこまでも手がかかる男だと憤慨しながらどかしにかかる。
 「どけ、重いぞ。僕と君と何キロ体重差があると思ってる、このまま窒息死させる気か?まったく都合が悪いときばかり気絶して便利な……」
 ふいに言葉が途切れる。
 「レイジ?」
 おそるおそる声をかけ、レイジの顔を覗きこむ。おかしい、寝てるにしてはあまりに静か過ぎる。衣擦れの音はおろか寝息さえ聞こえてこない。僕の腹部に顔を埋めたレイジの様子に異変を悟り、戦慄が走る。
 嘘だ。
 こんな結末、認められるわけがない。
 漸くレイジを正気に戻すことができたのに、こちら側に引き戻すことができたのに、来週には決定戦も控えているというのに、100人抜き達成が目前まで迫ってるのに。

 そんなまさか。
 レイジが死、

 「世話かかる王様や。心配すな、寝とるだけや」
 照明が翳る。
 金網をよじのぼり、宙へと身を躍らせるヨンイル。滞空時間は一秒にも満たなかった。
 身軽に着地したヨンイルを、レイジを抱いたままあ然と見上げる。
 「……落ちるのが好きだな、君は。派手な登場で観衆の注目を浴びようと高所からの落下と着地という自己顕示欲旺盛なパフォーマンスを演じるのは結構だが時と場所を考えてほしい、不謹慎だ。第一普通に入り口から入ってくれば済むことだろう」
 「お説教は後回しや」
 僕を通り越しヨンイルが向かった先には腕から出血したホセがいた。額におびただしい脂汗をかいたホセの傍らに跪き、ヨンイルが苦笑いする。
 「手え貸そか、隠者」
 「かたじけないです、道化」
 苦しげな笑みを拵えたホセをよそに、上着の袖口を噛み、顎に力をこめて引き裂く。手首から肘にかけて袖を裂いて即席の止血帯を作り、手際よくホセの傷口に巻いてゆく。「よっしゃ」と満足げに首肯、器用に結び目をつくりホセに肩を貸して立ち上がったヨンイルが再び引き返してくる。
 照明を背中に浴びたヨンイル、そのむきだしの腕に目をひきつけられる。 
 手首から肘にかけて、日焼けした肌に映える龍の鱗が妙に艶かしい。
 「どれ、そっちは……」
 僕の横で中腰に屈み、レイジの額へと指をのばし……
 額に触れる寸前に、指が叩き落とされた。
 「生きていたのか。ならそう言え、まぎらわしい」
 すぐまた首をうなだれて前後不覚に陥ったレイジに苦笑を覗かせ、ヨンイルが腰を上げる。
 「『竜が獣に権威を与えた』んやろ。竜の言うことに従え」 
 四肢と胴体を龍に束縛された少年が軽口を叩き、僕を振り返る。
 「ホセもレイジも体から血ィのうなって貧血起こしてへろへろや。この場は一時お開きとしてはよ手当てせなまずいで」
 ホセに肩を貸したヨンイルに指摘されたのが不愉快で、憮然とブリッジを押し上げる。
 「そんなこと道化に言われなくてもわか、」 
 その時だ。
 「レイジを取り押さえろ!!」
 「副所長の命令だ、頭冷えるまで独居房にぶちこんどけ!!」
 場外から乱入した足音の大群が僕らのもとへ殺到、屈強な体躯の看守数人がかりで突進してくる。金網を背にうずくまった僕には逃げ場もない。何だ、何が起きたんだ?混乱する頭で事態の把握に努めるが、現状認識が追いつかない。場外から一斉に駆けこんできた看守が容赦なく僕を突き飛ばし床に転がす。視界が反転、眼鏡が落下する軽い音。金網に背中を凭せ、手探りで眼鏡を拾い、漸く上体を起こした僕の目に映った光景は信じ難いものだった。
 レイジが看守数人がかりで押さえこまれ、床に這わせられている。 
 背中に馬乗りになった看守が憤怒の形相で怒号をあげ、レイジの前髪を乱暴に掴み、床に顔面を打ちつける。別の看守が左腕を両手で押さえこんでコンクリ床に縫いとめ、別の看守が全体重をかけた膝で右腕を押さえこんでいる。別の看守が左足を、別の看守が右足を、その他にも二・三人の看守がレイジの脇を固める。
 膝がめりこんだ右腕から出血が再開し、レイジが苦悶に喘ぐ。レイジが低く低く苦鳴をもらすのを無視し、強制的に両腕を背中に回し、手首に手錠をかけ……
 「やめろ、彼は怪我をしてるんだ!もっと慎重に……」
 我を忘れてレイジに駆け寄ろうとした僕の眼前に、すっと誰かが立ち塞がる。
 足を辿って視線を上昇させれば、思わぬ人物がいた。
 安田。
 「彼には近付くな」
 「そこをどけ!怪我人にあんな乱暴な扱い非人道的にもほどが……」
 安田をどかそうともがけば、非情に肩を押し返される。安田の肩越し、銀の光沢を放つ手錠がレイジの手首へと次第に近付き……
 硬質な金属音が鳴り響く。
 手首に手錠を噛まされたレイジが首をうなだれ、コンクリ床に顔を埋める。僕をその場に残してレイジのもとへと歩み寄った安田が、銀縁眼鏡の奥から冷徹な眼差しを注ぐ。
 「独居房に入れておけ」
 情より理を重んじる冷酷なエリートの顔で、副所長は宣告を下した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050920033500 | 編集

 ペア戦開催日だというのに歓声が聞こえない。
 あたりまえだ、地下停留場とどんだけ離れてると思ってる?それでも淡い期待と一縷の希望を抱き、耳を澄ます自分の馬鹿さ加減にあきれる。医務室と地下停留場は距離がある、中央棟の医務室まで地下停留場の喧騒が届くわきゃないと頭じゃちゃんとわかってる。でも心の片隅では浅ましく期待してる、そんな自分を否定できない。

 くそ、なんでこんな優柔不断なんだ、俺は。

 女々しい自分に愛想が尽き、毛布を胸まで引き上げて寝返りを打つ。自分の曖昧さがいい加減いやになる。レイジが心配なのか?ちがう、あんなヤツどうなったっていい。死のうが怪我しようが俺にはもう関係ない、ひとの見舞いにもこずサーシャといちゃついてた薄情者がどうなろうが知るかってんだ。
 レイジなんか死んじまえ。ざまあみろ、いい気味だ。
 「………」
 俺は本当にそう思ってる、はずだ。あの時、レイジに対して目の前が赤く染まる憤怒を感じたのは事実だ。目を閉じればまざまざと思い出す。へたな鼻歌頼りに怪我した体に鞭打って渡り廊下に赴けば、阿鼻叫喚の地獄絵図が出現していた。ヨンイルが跳んだり跳ねたりしていた。その肢体には龍が踊っていた。ホセが殴ったり殴り続けたりしていた。指輪に血痕が付着していた。鍵屋崎がいた。サムライがいた。廊下の真ん中でふたりして寄り添いあっていた。お互い庇いあっていた。相変わらず仲いいな、と皮肉めいた感想を覚えた。
 そして、レイジがいた。
 サムライと鍵屋崎を背中に庇って、ぼろぼろになりながらサーシャと戦っていた。頬を切り裂かれて傷口には血が凝固して、上着のあちこちに鮮血が滴って全身朱に染まって、それでも二人を背中に守って戦っていた。
 レイジの顔を見た瞬間に、胸が一杯になった。絶叫したくなるような激情がせりあげてきた。この薄情者、なんで俺が目え覚めてから一回もツラ見せにこないんだよと胸ぐら殴って詰ってやりたかった。でもあの時の俺の体力じゃ無理な相談だった、俺は壁に寄りかかって立ってるだけで精一杯だった。
 そんな俺の前で、レイジがサーシャの前に膝を屈した。ありえないことが起きた。王様が皇帝に頭を垂れるなんて、東棟の人間として許容しがたい事態だった。気付けば俺はそばに転がってたナイフを拾い上げサーシャめがけて投げていた、そして俺は今度こそレイジの胸にとびこんだ。  
 まだ体が覚えている。レイジに抱擁されたぬくもりを、上着の胸に顔を埋めたときの汗臭い匂いを。汗だけじゃない、鉄錆びた血臭もした。レイジは鉄錆びた血臭を身に纏って、疲れてぼろぼろで、でも大丈夫なふりで俺を抱きしめてくれた。あの時は不覚にも涙がでそうになった。いや、正直言ってちょっと泣いた。だって本当に久しぶりだったから、レイジのツラ見て、レイジに抱かれるのは本当の本当に久しぶりだったから仏頂面が保てなくなったのだ。
 なのに、レイジのやつは。
 思い出したくもない光景が鮮明に甦る。
 『さあ誓え。私の足元に跪き頭を垂れ皇帝の犬になると誓え。なにをためらうことがある?数日前は自ら私のもとへ赴いてきたくせに、私の下で淫らな肢体を晒していたくせに』
 冷笑。
 『さあ犬に戻れレイジ、私の愛玩犬に戻れ。気まぐれに鞭でぶたれはげしく抱かれて甘く鳴く犬へと』
 嘲弄。
 サーシャに背後から抱すくめられされるがままになってたレイジを思い出す。どうしても、思い出してしまう。サーシャに背後から抱擁され上着の裾をはだけられ、暴かれたのは褐色の肌に映える淫らな烙印。いや、痣だけじゃない。鞭でぶたれたようなみみず腫れやひっかき傷までもが肢体に刻まれて倒錯的な色香を醸し出していた。サーシャに抱かれて淫らに喘ぐレイジの姿を連想し、やりきれない感情に襲われる。
 「なんでだよ、レイジ。どうしてサーシャなんだよ」
 俺じゃなくてサーシャなんだよ?
 たしかに俺が悪かったよ、お前のこと手酷く拒絶して傷つけた。ダチに『殺さないでくれ』なんて、絶対言っちゃいけない言葉だった。命乞いした瞬間から、ダチは他人になる。俺は馬鹿だ、なんでそんな単純なことに気付かなかったんだよ。俺の無神経がレイジを追い詰めた。俺の言動が、レイジを失望させた。だから、だからレイジは俺から離れてったのか?俺から離れて、俺を捨てて、サーシャのところへ行ったのか?
 俺がタジマに襲われた晩もレイジはサーシャに抱かれてた。
 はげしく責められて淫らに喘いでいた。だから俺の声も届かなかった、俺は心の中で何度も何度もレイジを呼んだのに、レイジに会いたい会わせてくれと気も狂わんばかりに願ったのにとうとう聞き届けてもらえなくて。
 毛布にくるまり、胎児の姿勢で縮こまる。
 『大嫌いだ、死んじまえ!!』   
 真実を暴露された瞬間、叫んでいた。レイジへの憎悪を容赦なく叩きつけていた。レイジもサーシャも大嫌いだ死んじまえ、そんなにサーシャのとこがよけりゃもう戻ってくんなとガキみたいに当り散らしたかった。俺に死ぬほど心配かけたくせに、俺を死ぬほど寂しがらせたくせに、俺が医務室で寝てるあいだレイジはずっとサーシャとたのしんでたのか?畜生そんなのアリかよ、許せるかよ、認められるかよ。俺がどんなにお前に会いたかったと思ってんだ、馬鹿にするな、見くびるな。
 女を寝取られた男の気持ちってこんなかな、と頭の片隅でぼんやり考えていた。あの時は相当ヤキが回ってて、馬鹿みたいに叫んで暴れてる自分を内側の自分が冷静に眺めてるような奇妙な距離感があった。衝撃が強すぎて現実逃避をして、俺は自分のことを他人のように眺めてるもうひとりの自分に気付いた。
 女を寝取られた?レイジが俺の女?
 「……はっ」
 馬鹿げた連想に失笑しようとしたが、笑顔をつくる元気もない。表情がみじめに崩れ、泣き笑いのように歪む。馬鹿だ、これじゃ嫉妬してるみてえじゃんか。やきもち焼いて拗ねて、ガキみたいだ、俺。みっともねえ、格好悪ィ。あんなにレイジに会いたくて会いたくてしょうがなかったのに、いざ会ってみりゃあれだ。俺の決意はその程度かよ、レイジへの想いはその程度?あいつのこと全部過去もひっくるめて受け入れるって決心したのに、サーシャとヤってたって聞いた途端にその決意が崩壊した。
 俺に死ねと罵られたレイジの顔を、今でもはっきりと覚えている。
 縄を切られた吊り橋の真ん中に取り残されたような、絶望的な顔。
 「……畜生、なんでいつもこうなんだよ。なんでうまくいかねえんだよ。今度こそうまくいくって思ったのに、元に戻れるって安心したのに、結局は俺が全部ぶち壊しちまったんじゃねえか」
 頭から毛布をかぶり、膝を抱え、泣き言をもらす。
 なんで俺はこんなに短気なんだ、我慢がきかないんだ?あの時冷静になってレイジと話し合ってりゃこんなことにならなかった、レイジにだってきっと事情があったんだ、好きでサーシャのとこなんかに行くはずないって俺が信じてやらなきゃレイジはいいわけもできないじゃんか。
 レイジが自分の意志でサーシャのとこへ行ったのが事実だとしても、それにはきっとワケがある。
 あいつは馬鹿だから、ひとり思い悩んで思い詰めて、俺を傷付けたくなくて俺に何も言わず離れちまった。そんなことされても全然嬉しくない、これ以上迷惑な思いやりはない。あいつはいつもそうだ、俺のことガキ扱いして年上風吹かして大事なことは全部ひとりで解決してなにも相談してくれない。あいつの問題に俺を立ち入らせてくれない。
 でも、レイジは、ずっと牌を持ってた。
 『その牌は、レイジが常に持ち歩いていたものだ』
 『覚えているか?ペア戦開幕日の初試合、リングに上がったレイジがずっとポケットに手を入れてたことを。おそらくあの時から、レイジはお守代わりの牌を持ち歩いてたんだ』
 鍵屋崎の言葉が耳に甦り、胸が苦しくなる。手のひらの牌は、鍵屋崎の指の温度が伝わってほのかに温かかった。俺の牌を、レイジは肌身はなさず持ち歩いていた。どこへ行くにも手放せないお守りがわりとして大事にしてくれたのだ。
 俺の分身として。
 「わかんねえよ、なにを信じたらいいんだよ。牌か?レイジか?鍵屋崎か?サーシャか?畜生あいつら全員好き勝手ぬかしやがって、俺はどうしたらいいんだよ、俺にどうしてほしいんだよ。俺だって精一杯やったんだ、凱と戦ってなんとか勝ってぼろぼろになってでもレイジは帰ってこねえし、タジマに襲われたときだって死に物狂いで抵抗して変態追い返したし、でもレイジは帰ってこねえし!怪我した体で迎えに行きゃ行ったでレイジはサーシャといちゃついてるし、くそ……」
 泣きたくなった。俺はもうボロボロだ。体だけじゃない、心もだ。リョウに打たれた麻薬がまだ効いてるのか、全身の激痛も麻痺して体はむしろラクだったが心がもうぼろぼろでこれ以上保ちそうにない。
 レイジなんか死んじまえ、リングで殺られちまえ。
 あんなやつ知るか、俺がいちばん苦しいときに男といちゃついてたやつのことなんか知るか、勝手にしやがれ。尻軽、無節操、軽薄、女たらし男たらし口説き上手。いや、口説き上手は誉め言葉か?ああもう、どっちもでいい。要するにレイジは最低やろうだってことだ。
 金輪際あいつの心配なんかするもんか。 
 違う。そうじゃない、俺はレイジに会いたい。会ってもう一度やりなおしたい。レイジとちゃんと話し合って色々聞きたい、聞かせてほしい。本当に俺を裏切ったのか、見捨てたのか、もういやになったのか?
 矛盾する気持ちに引き裂かれそうだ。どっちも正直な気持ちだ。レイジなんて知るか、サーシャとヤってろと心の中で罵倒する。レイジに会いたい、またあいつとバカやりたいと欲求が芽生える。
 俺は、俺はどうすればいいんだ?
 俺は本当は、どうしたいんだ?
 医務室はひどくしずかだった。他にも入院してるヤツが何人かいるはずだが、今は寝てるのか寝たふりしてるのか物音もしない。医者はどうした、また居眠りか?そういえば入り口近くからのんきな鼾が聞こえてくる。くそ、人の気も知らないで。
 静か過ぎて眠れない。悩んでも悩んでも答えがでない。出口が見えない。胸が苦しくて息が詰まりそうだ。自分の気持ちが見えない、わからない。それ以上にレイジの気持ちが見えない、わからない。
 毛布をにぎりしめ、小声で呟く。
 「もう、俺のこと、嫌いになっちまったのか」
 まさか信じたくない。あのレイジが、俺にべったりだったバカな王様が、俺を嫌いになる?
 考えたくない。想像しただけで吐き気がする。畜生なんでこんな胸が苦しいんだよ、一体どうしちまったんだよ。こんなの初めてだ、いや違う、以前もこれと似たようなことがあった。
 メイファ。
 俺はメイファが好きだった。恋とも言えない淡い想いだけど、メイファを救いたかったのは本音だ。でも俺の想いはメイファに伝わらずに空回りして、いやちがう、メイファは俺の想いなんかとっくにお見通しだった。全部わかった上で、俺の気持ちにはこたえられないとすまなそうに笑っていたのだ。
 嫉妬?焦燥?
 胸が焼けるようなこの感情には名前があるのか?教えてくれだれか、教えてくれレイジ。物知りな鍵屋崎なら知ってるだろうか、いや、あいつは鈍感だからわからないだろう。誰が教えてくれるんだ、この感情の名前を。誰が教えてくれるんだ、この感情に綺麗さっぱり始末つけるやり方を……
 「『哀別離苦』」
 え?
 毛布から頭をだし、声の方に向き直る。声は衝立の向こうからだ。隣のベッドに寝てるのは……
 サムライ。
 「仏教で言う八苦のひとつ、愛する人と離れ離れになる苦しみのことだ……今のお前とレイジの状態そのものだな」
 突然なに言い出すんだコイツ。
 「大丈夫かサムライ、熱でもあるんじゃねえか。その調子だと四十度はありそうだぞ」
 「無礼なことを言うな、俺は素面だ」
 機嫌を損ねたように返事をするサムライに応じ、毛布をはだけて上体を起こす。
 俺が薄気味悪げに黙ってると、柄にもないこと言ったと今ごろ恥ずかしくなったのか、サムライが咳払いする。それからばつ悪げに付け加える。
 「……すまん、聞いていた。鎮静剤の作用でまどろんでいたのだが、隣がうるさくて目が冴えてしまった。盗み聞きなどという無粋な真似は本意ではなかったのだが、面目ない」
 聞こえていたのか。
 まて、そりゃ聞こえるだろう。サムライはすぐ隣で寝てるんだ、気付かないほうがどうかしてる。ああ俺の馬鹿、ぶつぶつひとり言呟いてんじゃねえよ気色わりい。サムライにひとり言を聞かれた気恥ずかしさが手伝い、乱暴に吐き捨てる。
 「気色わりいこと言うなよ、だれがだれを愛してるってんだ?レイジのことなんかどうでもいいっつの、いなくなってせいせいしてるよ。んなことよりさっきは激しかったじゃねえか、サムライ。こっちも全部聞いてたぜ、鍵屋崎とのやりとり。どったんばったんうるさくて眠れねえのはおたがいさまだ、行かせろ行かせないの押し問答を飽きずに繰り返して犬も食わねえ痴話喧嘩ってあのことか。熱いねおふたりさん」
 こんなのただの八当たりだ。
 頭じゃわかってるが舌が止まらない。むしゃくしゃを晴らしたくて矢継ぎ早に皮肉を言えば、衝立の向こう側から低い声が流れる。
 「笑いたいなら笑え。俺は剣に賭けて鍵屋崎を守ると決めたんだ、友を守り通す信念ひとつ貫けずに何が武士か。恥じはしない、ごまかしもしない。俺が知らないところで大切な人間が哀しむのは我慢できん」
 サムライがこんなに饒舌になるなんて珍しい。心境の変化か?
 鎮静剤の作用で心が穏やかになってるのかもしれない。いつもより口数多いサムライに虚を憑かれたのは一瞬のことで、すぐさま茶茶をいれる。
 「いつのまにそんなに仲良くなったんだよ、笑えるぜ。鍵屋崎ときたら、おまえの枕元で『約束は守る。君以外の男に体を触れさせはしないから安心しろ』なんて約束して……」
 「なに?」
 衝立の向こう側で沈黙。
 やけに長い沈黙に違和感を感じて眉をひそめれば、やや遅れてわざとらしい咳払いが連発。 
 この反応はひょっとして。
 「……初耳か?」
 「……鎮静剤をうたれて数秒ほど、意識を失っていたからな」
 サムライの口ぶりはどこかよそよそしかった。うろたえてる?赤面してる?赤面するサムライなんて想像できねえ、でも試しに想像したらすげえツボにはまって腹の皮がよじれそうだ。
 「何を笑っている」
 「わ、わらってなんかねえよ。傷が疼いてうめいてるんだよ」
 笑いの発作をこらえるのに苦労した。だが表情までは我慢できない、毛布に顔を隠してくつくつ笑う俺をよそにサムライは咳払いをしていた。咳払いのしすぎて喉が嗄れるんじゃないかとこっちが心配になるほどだ。それがまたおかしくて、俺はとうとう声に出して笑った。 
 「は、はははははははっ!」
 「笑うな、不愉快だ。人の会話を盗み聞きするとは悪趣味だ、怪我人は大人しく寝ていろ」
 「うるせえ、自分だって怪我人のくせに。盗み聞きはおたがいさまだろ。つーかお前、意外とウブなんだな。ひょっとして童貞?」
 サムライが不機嫌に黙りこむ。
 「……答える義務はない。好きなように解釈すればいい。だが鍵屋崎がそんなことを言うとは」
 「意外?」
 「……少し」
 声が和んだ。鍵屋崎とのやりとりを反芻し、サムライは笑みを浮かべてるんだろう。想像して、笑い声が萎んだ。一瞬で愉快な気分が吹っ飛んだ。くそ、声にだして笑えるくらい元気回復したと思ったのに。
 沈黙が続く。
 医師はカルテによだれたらして居眠りしてるのか、のんきな鼾が聞こえてくる。患者ほうったらかして自分ひとり寝るなよ、職務放棄だろそれと抗議したくてもベッドから動けないんじゃ処置なし。
 辛気臭い雰囲気をどうにかしようと、俺は口を開く。
 「そんなに鍵屋崎が好きなのか」 
 直球を投げてみた。
 サムライはしばらく熟考していた。ひどく真剣に考えているようだった。  
 「……鍵屋崎は、おそらく俺にとっても初めての友人だ」
 「トモダチ?それだけかよ。それにしちゃべたべたしすぎだろ、初めてだから加減がわからねえなんて言い逃れはなしだぜ」
 なにこんなむきになってんだ、俺。レイジとこじれた苛立ちをサムライにぶつけてるだけじゃんか。そんな自分を心の中で嘲笑しつつ、サムライに食い下がる。
 「鍵屋崎が初めてのダチだってのはよくわかったよ。でも鍵屋崎のために命投げ出して自分が足に怪我して、それでもいいって思えるんならそれ友情以上だろ。なんてゆーんだ、そういうの。馬鹿な俺に教えてくれよ」
 教えてくれ、サムライ。おまえなら知ってるだろ。
 俺の胸を苛むこの感情の名前も、俺がこれからどうしたらいいかも。
 すがるように叫ぶようにベッドから身を乗り出し、衝立を凝視し、固唾を飲んで返答を待つ。 
 そしてサムライは、俺の頑固さに負けたかのように本音を口にした。
 「俺は鍵屋崎を、愛しく想う」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050919033701 | 編集

 びっくりした。
 どう反応すりゃいいかわかなかった。直球に直球を返され言葉を失った俺は、呆けたように衝立を凝視するばかり。
 生唾を嚥下し、口を開く。
 「愛しいって、……惚れてんの」
 「……よくわからない。だが鍵屋崎に対する気持ちを表現するなら、それがいちばん近い。俺は鍵屋崎が愛しい。愛しくて守りたい。誰かを心より守りたいと想ったのは、久しぶりだ」
 滅多に聞けないサムライの独白に、毒気をぬかれて耳を傾ける。
 サムライには昔惚れてた女がいた。俺も噂で聞いたことがある。
 はっきりしたことはわからないが、その女はサムライとの仲を無理矢理引き裂かれて木で首を吊ったらしい。本気で惚れた女にそんな死に方されたら、俺ならきっと耐えられない。それから先の人生、ずっと胸の空洞を抱えて自暴自棄で生きてくと思う。  
 サムライは強いから耐えられた。でも、それがいいことかどうかは判断しようがない。
 「俺はずっと考えていた。幼少時から剣一筋に修行を積んで、剣以外には生き甲斐もなく日々を過ごして、ずっとそれでいいと思っていた。それが武士として本来あるべき姿だと信じて疑わなかった」
 「違ったのか」
 「……わからなくなった」
 サムライが呟く。
 「苗が、死んでからだ」
 苗。いまだにサムライの心の奥底に根を張る亡き女の面影。
 惚れた女に死なれるなんて、どれほど悔しかっただろう。やりきれなかっただろう。自分の無力を死ぬほど呪ってこぶしを地面に叩きつけて、でもそれでも死んだ人は生き返らない。
 サムライは、最愛の女さえ守り通せなかった。
 衝立越しの声には、堪えても堪えきれない悔恨の苦渋が滲んでいた。
 「俺が苗を死なせたも同然だ。どんなに腕を磨いたところで人を守り通せない剣に何の意味がある?俺がしてきたことは全部無駄だった。ここに来てからもずっと考えていた。俺に武士を名乗る資格があるのか、剣を手に取る信念があるのかとずっと己に問いかけ続けていた」
 一呼吸おき、サムライが晴れやかに続ける。
 「だが、鍵屋崎と出会って吹っ切れた。今なら断言できる、俺の剣は人を守るためにあると。愛しい者を全力で守るためなら、迷わずに剣を手に取ると」
 サムライが深く、深く呼吸した。
 
 「直と出会えてよかった。俺は、あいつに救われた」

 感慨深い独白に、なにも言葉を挟めなかった。
 俺の沈黙を誤解したのか、余韻が醒めたサムライが遠慮がちに声をかけてくる。
 「長話に付き合わせてすまん」
 「……べつに。俺から聞いたんだし」
 妙な気遣いが鬱陶しい。いつからこんな優しくなったんだこいつ、鍵屋崎も最近やけに親切だしサムライと薄気味悪い影響与え合ってるのか?不貞腐れたようにゴロ寝し、すっぽり毛布を被ってサムライに背中を向ける。これ以上サムライとしゃべる気はないと意思表示すれば、空気を読まないサムライがさらに続ける。
 「お前もそうじゃないのか」
 「なんだと」
 「レイジと出会えて、救われたんじゃないのか」
 心を読まれた気がした。
 サムライはすごく、すごくいやなヤツだ。俺が今いちばん言って欲しくないことを口にして、いちばん触れられたくないところを無遠慮につついてくる。
 答える義務はない。毛布を被って会話を拒否した俺の背中に、ため息まじりの呟きが落ちる。
 「……なら、レイジだけか」
 「?」
 思わせぶりな台詞に毛布から頭を抜く。ベッドに体を起こし、先を促すように衝立を見つめる。
 「レイジはお前に出会って救われた。お前に出会って変わった」
 「……嘘つけよ」
 ひどく冷たい声がでた。
 「お前だって見ただろサムライ、あの時あの場にいたろ?レイジが渡り廊下でなにしてたかばっちり目撃しただろが。あいつこともあろうにサーシャのところにいたんだ、俺がタジマに襲われてるあいだも知らぬ存ぜぬでサーシャと乳繰り合ってたんだ。畜生許せるかよ、許せねえよ!!」
 駄目だ、限界だ。もう理性を保てそうにない。
 語尾は絶叫だった。急激に怒りがこみあげて目の前が真っ赤になった。今でも思い出す、夢に見る。渡り廊下の光景、サーシャにいいようにされてよがってるレイジの姿態。吐き気がする。認めたくない。レイジが俺よりサーシャを選んだなんて認めてたまるか。
 でも、
 「レイジは俺を裏切った、それが現実なんだ!」
 そうだ。レイジは俺を裏切った。
 俺を捨てた。
 「裏切るってことはどうでもいいってことだろ、平気で裏切れる人間ってのは所詮その程度のヤツってことだろ?ああ認めてやるよ、俺は今までずっとレイジのダチのつもりだったよ!王様のダチ気取りでいい気になって調子乗ってた、あいつと一緒にいるとうんざりさせられることも多かったけどすっげえ楽しかったよ!あいつすげえ馬鹿でお調子者で尻軽だけど、でも俺にはすっごく優しくしてくれたんだ!!」
 でも、全部勘違いだった。芝居だった。
 俺はもうなにを信じたらいいかわからない。レイジの笑顔が嘘ならこれまで俺に優しくしてきたことも全部嘘なのか?俺はずっと騙されてたのか?いやだそんなの、そんなわけあるか。否定したい、嘘であってほしい、嘘であってくれたらどんだけいいだろうと今でも思う。
 『お前なんか大嫌いだ、死んじまえ!!』  
 「くそ、あんなこと言いたくなかったよ……だってやっと会えたんだ、やっと会えたのに、なんであんなこと言わなくちゃなんねえんだよ。死んじまえなんて言いたくなかった、ホントはお前のツラ見れて安心したとか心配させた借り返せとか軽口叩いて今までどおりやりたくて、でもだめだったんだよ!」
 全部覚せい剤のせいにできたらどれだけ気がラクだろう。
 でも、俺がレイジを心の底から憎んだのは真実だ。すぐ正気に戻ったとしても、一度口にした言葉は取り返しがつかない。俺はまた、レイジを拒絶した。あんなに会いたかったのに、会いたくて会いたくてたまらなかったのに、いざ顔を会わせりゃ反対のことばっか言っちまう。舌を切り落としたい、正直になりたい。違うだろ、そうじゃないだろ。それよりもっと大事な、いちばんに伝えたいことがあるだろう。
 俺は本気でレイジに怒ってる。サーシャと寝てたことは許せない。
 でも、それ以上に。
 「ちくしょ……さんざん心配させたくせに、これ以上俺に心配かけんのかよ。かってにひとりで結論だして行っちまって、なんで何も相談してくれないんだよ。俺だって力になりたい、どうにかしたいよ。悩んでるんならちゃんと言えよ、ひとりで抱え込むなよ。頼むから、」
 我慢できなかった。
 毛布をにぎりしめ、上体を突っ伏す。息を吸うたび肺が焼けるようだ。めちゃくちゃ胸が苦しい。本当はあの時手をのばしたかった、レイジを引きとめたかった。
 瞼の裏側にレイジの背中が浮かぶ。 
 二度と振り向いてくれない背中。俺を置き去りにする背中。
 いやだ。行くなレイジ、戻って来い。ひとりぼっちはこりごりだ。もう怖がったりしないから、ひどいことしたり言ったりしないから見捨てないでくれ。
 お袋のように、メイファのように
  
 「頼むから、捨てないでくれよ…………っ」

 レイジに捨てられるのはいやだ。
 寂しい。戻ってきてほしい、そばにいてほしい、ダチでいてほしい。
 頼むから、お願いだから、許してほしい。レイジの過去のことでうじうじ悩んでた自分を殺したくなる。いまさら虫がいい願いかもしれない。二度もレイジを拒絶しといて、自分が見捨てられる側になった途端こんなふうに泣き喚くなんてみっともない。わかってる、わかってるよそんなこと。でもレイジと離れてやっとわかったんだ。俺は東京プリズンに来てからずっとレイジと一緒にいて、いつのまにかあいつの笑顔が隣にあるのがあたりまえになって、あいつと馬鹿やって騒いでそれで救われてた。
 あいつが隣にいなくちゃ、生きてけない。

 生きたいとも、思えない。
 
 「………どうしたらいいんだよ」
 答えを求めて虚空に問いかける。返事はない。隣で衣擦れの音。頭を抱え込んだ俺のほうへ、なにかが床を這いずってくる。
 「答えはもうでているだろう」
 緩慢に声の方を向けば、サムライが床に座りこんでいた。わざわざベッドをおりてこっちまで這いずってきたのか、ズボンの膝が汚れていた。おもわずその太股に目をやる俺を故意に無視し、ベッドにすがり、上体を起こす。俺の枕元に這いあがったサムライが、五指を開く。
 そこには牌の欠片が握られていた。
 「………何の真似だ」
 「お前が投げ捨てた牌を拾っておいた」
 「いつのまに?全然気付かなかった」
 「お前が寝ているときに拾ったから気付かなくて当然だ」
 「今までずっと持ってたのかよ。牌拾うにはベッドから下りて這いずってこなきゃいけねえのに、物好きだな」
 サムライが点滴を外し、パイプに手をかけて慎重に足を床におろし、太股の傷が開く激痛に耐え、床を這いずってくる光景を想像する。頑張り過ぎだ。 
 俺の手に牌の欠片をのせ、上から手を被せ、やわらかに包ませる。
 「俺は直がいるから頑張れる。命をかけて試合に臨める。だが、今のレイジにはだれもいない。知っているかロン、レイジはああ見えて頼りなく情けない男だ。相棒がそばにいないと不安で不安でたまらない世話の焼ける男だ」
 「お前も大概世話が焼けるよ。少なくとも鍵屋崎にとっちゃな」
 サムライが苦笑する。つられて俺も笑う。
 その笑顔に励まされ、決意した。

 「レイジとやりなおしたい」

 強く強く、牌を握りしめる。

 「元に戻りたい。前みたいに馬鹿やりたい。あいつの笑顔が見たい。あいつにおもいきり笑ってほしい。どついてどつかれて、たまには寝こみ襲われて枕投げたり投げ返されたり、そんな馬鹿みたいな日常に戻りたい」
 レイジが隣にいたから、東京プリズンの日常には救いがあった。
 俺はそこそこ、東京プリズンの日常をたのしむことができたのだ。
 でも、不安だ。本当に元に戻れるのか、レイジは許してくれるのか?俺はレイジを許せるのか、あいつの過去もサーシャと寝たことも全部ひっくるめて受け入れられるのか?
 牌をにぎりしめたこぶしを胸にあてがい、言葉を吐き出す。
 「大丈夫かな、元にもどれるかな?さんざんひどいこと言ったのに、いまさら元に戻れたりするもんなのか?俺のことなんかいい加減嫌いになって捨てたくなったんじゃ」
 「ロン」
 力強い声にハッと顔を上げる。サムライが真摯にこっちを見つめていた。
 そしてサムライは、まっすぐ俺の目を覗きこんだ。

 「レイジはお前を捨てない。俺が生涯剣を捨てることがないように」

 なによりも説得力のある言葉だった。
 泣きたいような笑いたいようなこの気持ちを、どう説明したらいいだろう。顔がみっともなく崩れて、安堵のあまり指が弛緩して、牌がこぼれおちそうになった。
 顔を俯けた俺の目に映ったのは、サムライの真剣きわまりない面持ち。
 「レイジが俺を捨てないって、マジで言ってんのかよ、それ」
 「ああ」
 「嘘じゃないよな。信じていいんだよな」
 「武士に二言はない」 
 「レイジが俺を捨てるなんて、絶対ない?」
 「そうだ」
 そこで深く息を吸い、虚勢の笑みを浮かべてみせる。
 泣くんじゃない、笑え。なにも泣くことなんかない、漸く決心がついたんだから。自分が本当にやりたいことがわかったんだから。
 「お前が鍵屋崎を捨てたりしないように?」 
 サムライが笑った。
 本当に珍しい、あたたかい笑顔。普段の仏頂面が綻べば、そこにいたのはとても優しい顔をした男。
 「俺が鍵屋崎を捨てることなど天地神明に誓ってありえん。だから安心しろ、ロン。龍の名が泣くぞ」
 ああ、こいつこんなふうに笑えるのか。
 そして俺は、サムライの胸に顔を埋めた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050918033827 | 編集

 「寝てたほうが都合がいい」
 通路に声が反響する。
 レイジは起きているのか眠っているのか反応がない。壁に背中を預けて無造作に手足を投げ出したレイジの正面に屈みこみ、しとどに血を吸った右袖をめくりあげる。
 袖の下から露出した右腕を見て、眉をひそめる。
 ひどい怪我だ。僕の持ち得る医療知識を総動員して応急処置にあたったところで気休めにすぎない、本当は今すぐ医務室に運んでちゃんとした治療を受けさせたいところだが本人が頑として拒否するのではやむをえない。まったく、駄々をこねる怪我人ほど迷惑な生き物はないと疲労のため息をつく。レイジもサムライもどこまでも世話のかかる男だ。
 二人とも僕より年上のくせに子供じみた言動で駄々をこねて、これではまるで僕が保護者だ。何が哀しくてこの僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直が医者の真似事をしなければならないと自分の境遇が恨めしくなる。
 鍵屋崎の家にいた頃は愛情が欠如した両親の代理として僕こそ恵の保護者を自認していたが、東京プリズンに来て何の縁もゆかりもない赤の他人の怪我の手当てをする羽目になるとは、僕の優秀なる頭脳をもってしてもさすがに予測できなかった。
 めまぐるしく過ぎたこの半年間を回想し、複雑な感慨にひたる。
 物思いに耽りながらも手は止めず、ズボンのポケットから包帯を取り出す。こんなこともあろうかと試合会場に赴く前に医務室から借りてきた。認めるのは悔しいが、ペア戦では僕は完全に戦力外だ。それならばせめて、後方支援としてレイジが負傷した場合の処置にあたりたいと思った。止血のやり方は全部頭に入っている。
 幸い、サムライの時ほど出血量は多くはない。見た目は派手だが、応急処置とその後の治療が的確なら大事には至らないだろう。   
 レイジの右袖を肘までまくり、ぱっくり開いた傷口を観察。純白の包帯を巻いてゆく。傷口を覆ったそばから包帯に血が滲みだす。二重三重に包帯を巻いて腕を保護したあとにテープで止め、額の汗を拭う。
 「よし、これでいい。傷口を手当てもせず放置しておいたのでは破傷風になるからな。
 現代では耳にすることも少なくなったが破傷風はおそろしい症状だ。
 知ってるか?破傷風とは嫌気性菌の破傷風菌(clostridium tetani)によってつくりだされる神経毒による神経麻痺症候群で、破傷風と診断するには菌の存在と毒素産生を促す局所病変と毒素に免疫のないことの三条件が必要となる。
 破傷風菌は傷口から体内に侵入するから自分でも見過ごしてしまいがちなかすり傷も舐めていけない。潜伏期は3~21日で……」
 不安を紛らわすため、ひとり延々と講義を続ける。いつもうるさいレイジが死んだように眠っているのはかなり異様な光景でなんとなく落ち着かない。長めの前髪で表情を隠し、昏々と眠り続けるレイジの沈黙が不吉だ。
 包帯が巻かれた右腕に目をやり、言い知れない焦燥に駆り立てられるように続ける。
 「破傷風は肩こり舌のもつれ顔がゆがむといった症状で始まり、多くは開口障害に発展。次第に嚥下・発語障害歩行障害が現れ、その後けいれん発作が起こり全身発作に進展……」
 『Doctor stop』
 講義を中断し、レイジの顔を覗きこむ。レイジが緩慢に顔をもたげ、両目を隠していた前髪が涼やかに額を流れる。コンクリ壁に背中を預け、弛緩した手足を投げ出して束の間のまどろみを貪っていたレイジがうっすらと目を開ける。
 そして、開口一番こう言った。
 『Is here heaven or hell?』
 ここは天国か地獄か?
 『Here is Tokyo prison』
 ここは東京プリズンだ。
 流暢な英語で応酬すれば、レイジが気だるげにかぶりを振る。正直、レイジが目を覚まして安堵した。一時はもう二度と目を覚まさないのではないかと不安に苛まれていた。そんな素振りは少しも見せず、普段通りの冷静さを装ってブリッジを押し上げた僕を、長い夢から覚めたような顔でレイジが仰ぐ。
 「……マリアかと思った」
 日本語に戻っていた。漸くここがどこか思い出したらしい。
 「マリア?聖母マリアか。くりかえし言うが、僕は男だぞ。性別が違えば当然声の音程が違うだろう、意識不明に陥ってたとはいえ錯覚にも無理がある」
 「違うよ、マリアってお袋の名前。寝てるあいだに夢見てたんだ、色んな夢を」
 夢の内容は聞かなかった。聞ける雰囲気ではなかった。 
 意識回復したレイジは、無防備な顔を晒して虚空を見つめていた。どことなく人を不安にさせる空白の表情。今のレイジはひどく危うく脆く不安定で目が離せない。長く優雅な睫毛が頬に影をおとし、疲労の色濃い顔が物憂げな風情を醸す。
 レイジの疲労は極限に達していた。消耗した体では指一本動かすのも辛いらしく、瞼は半ば以上上がらない。
 「で?なんで俺ここにいんの」
 僕を心配させないようにという配慮か、いや、それは考えすぎかもしれないがレイジが軽い調子で問う。
 「覚えてないのか?僕は医療班に応急処置を頼んで医務室に運ぼうとしたんだが、その途端君が一時的に覚醒して医務室だけは絶対行きたくないと拒否したんじゃないか!」
 愕然とする。あんなに大暴れしたくせに覚えてないのか、なんて無責任なと抗議すれば、さっぱり記憶がないらしいレイジが目を丸くする。
 「マジ?担いでんじゃねえの?全然覚えてねえ」
 「さんざん人の手を焼かせたくせに恥知らずにも記憶喪失のふりか。君の類稀なる神経の図太さに逆説的に敬意を表したい」
 きょとんとしたレイジに辛辣な毒舌を吐き、少しは気がおさまった。毒舌を自重するのはやはり体によくないなと痛感する。レイジの視線に先を促され、仕方なく続ける。
 「……認めるのは不愉快だが、僕らは道化に救われたんだ」

 『独居房に入れておけ』 
 リングに乗り込んだ安田がレイジの正面に立ち塞がる。
 看守数人がかりで取り押さえられ腕を背中に回され、手首に手錠を噛まされたレイジはその時点で気を失っていた。手錠で後ろ手に拘束されたレイジを強制的に引き立て、嵐のように立ち去りかける看守。急展開に現状把握が追いつかず、茫然自失と立ち竦んでいた僕は、看守に挟まれ連行されるレイジを追いかける。
 『待て!』 
 水を打ったように静まり返った地下停留場に、声が響く。
 場外で乱闘騒ぎを起こしていた囚人もパニックを起こして逃げ惑っていた囚人も、一斉にこちらを向く。レイジが昏倒し最大の危機が去り、彼らも平常心を取り戻したらしい。看守陣の最後尾を歩く安田へと駆け寄り、毅然と顔を上げて抗議する。
 『副所長、これはどういうことですか。何故レイジが独居房へ?レイジは腕を怪我してるんだ、まずは手当てを』
 『右腕の治療は看守の監視下のもと受けさせる、君が関知することではない』
 『中間管理職の典型たる答えですね。だが僕は部外者じゃない、当事者だ。僕はレイジの相棒だ、こうして一緒にリングに上ってるのがその証拠だ。ともにペア戦100人抜きに挑む相棒があんな非人道的な扱いをうけて、ろくな事情説明もうけずに独居房送りを告知されて、大人しく引き下がれるわけがない』
 あくまで引き下がらない僕の態度に眉をひそめ、安田が質問する。
 『君はレイジの友人なのか?』 
 頭に血が上った。
 『……僕に対する侮辱と受けとっていいのか、それは。僕と彼は特別親しくないし友人同士でもない。本来彼がどうなろうが知ったことではない、プラナリアの再生実験なみの関心すらそそられない』
 『では』
 『でも、僕には彼を連れ帰る義務がある!』
 先回りをして、力強く断言する。そうだ、僕にはレイジをロンのもとへと連れ帰る義務がある。ここで安田に渡すわけにはいかない、副所長の好きにはさせない。いくら安田の意向でもこんな決定には従えない。
 眩い照明を浴びたリングにて、安田と対峙する。今の安田は僕のことを気にかけ親身に接してくれる年の離れた兄のような存在ではない、東京プリズンの全権代理人たる合理主義の副所長だ。
 銀縁眼鏡の奥の切れ長の双眸が、剃刀めいて怜悧な眼光を帯び、緊張を強いる。
 眼光の威圧に怯まぬよう自己を叱咤し、挑むように安田の目を見る。今レイジを助けられるのは僕だけ、安田を説得できるのは僕だけだ。そう決心し、口を開く。
 『……レイジはもう十分頭を冷やしている。独居房に入れるのは行きすぎだ』
 『いや、妥当な処罰だ』  
 安田の返答はとりつくしまもない。無個性で画一的、垢染みた囚人服を身に纏った囚人たちばかりの中で三つ揃いのスーツを着こなす安田はひどく浮いていた。
 刑務所には場違いに洗練された風貌の副所長が、冷たい目でレイジを一瞥する。
 『彼は場外の囚人を二名殺傷した。それも殴る蹴るの単純な暴力ではなく鋭利な刃物を使った犯行で、彼に刺された囚人は重傷を負った。処置が早かったから幸い命には別状はないが、ペア戦を台無しにし、地下停留場を混乱させ間接的に多数の負傷者をだした罪は重く見なければならない……南のトップと対戦した時の常軌を逸した言動からも、しばらく独居房に隔離して頭を冷やさせる必要があると判断した』
 『レイジは元に戻った、彼が行くべき場所は独居房ではなく医務室だ』 
 『右腕の手当ては私が責任もって受けさせる。だがそれから先は、独居房に入れて経過を見る』
 安田の顔に苦渋が滲む。
 『いい加減自覚しろ、鍵屋崎。事態はもう君ひとりの手には負えない。私ひとりの手にもだ。レイジは地下停留場を埋めた満場の観客の前で凶行に走った、場外の囚人二名に重傷を負わせて事態を混乱させ多数の負傷者をだした、その責任はとらせなければ。けじめをつけなければ』
 安田の葛藤も心情的には共感できる。たしかに、レイジの言動が騒ぎを大きくして地下停留場の混乱を招いて多数の負傷者をだしたのは事実だ。何百何千の囚人が目撃者なのだから言い逃れは不可能だ。独居房送りは妥当な処罰だと頭ではわかってる、場外の囚人二名をナイフで殺傷したのは明らかに行き過ぎだ。
 だが、レイジは。
 『レイジは僕を庇ったんだ。だから、僕にも責任の一端がある』
 レイジが逆上したのは、あの二人が僕に手をだしたからだ。僕に危害を加えようとしたからだ。
 『僕はレイジの共犯者だ。裁くなら、僕を裁け』
 今のレイジを独居房に入れさせるわけにはいかない、絶対に。せっかくレイジを暗闇から連れ出したのに、これではまた逆戻りだ。それにレイジと罪状を分担すれば、処罰が軽減され独居房送りを免れるかもしれない。誤解するな、僕は別に自己犠牲精神に酔ってるわけじゃない。それが最も合理的な結論だと判断したから、ただそれだけだ。
 安田の顔が悲痛に歪んだのは一瞬のこと。すぐに無表情に戻り、僕に背中を向け歩き出す。
 『待て!話はまだ終わってない』
 懸命に安田に追いすがり、行く手に回りこみ立ち塞がる。
 『そこをどけ鍵屋崎』
 『断る』
 『私は忙しいんだ。君と話し合いをもつ時間はない』
 安田が僕にかまわず歩を進める。すさまじい威圧感。だが僕はどかない、このまま安田を行かせるわけにはいかない。レイジを連れていかせるわけにはいかない。僕の鼻先に安田が接近、僕がどかないと見るやそっけなく迂回する。待て、行くな!安田の背中にむなしく手をのばせば、看守に肩を小突かれる。
 『邪魔だ、ひっこんでろ』
 『そんなにダチに会いたきゃ独居房に見舞いにこいよ』
 駄目だ、レイジが連れていかれてしまう。後ろ手に手錠をかけられ強引に歩かされてるレイジの背中に、名伏しがたい衝動が突き上げる。駄目だ、ここでレイジを行かせてしまったらどんな顔でロンに会えばいい?床を蹴り、一散に走りながら叫ぶ。
 『なら、時間をくれ!一日だけでいいんだ!』
 『時間?』
 安田が怪訝そうに振り向く。浅く肩を上下させつつ安田の行く手に回りこみ、畳みかける。
 『レイジと話し合いたい。独居房に入れられたら面会できなくなるんだろう?それは困る、今後のペア戦のことも相談したいし……頼む、数時間だけでいいんだ。見逃してくれ。それが済んだら責任もって引き渡すから』
 体の脇でこぶしを握りしめ、安田に頭を下げる。他人に頭を下げるなどプライドが許さないが、なりふりかまってられない。ほんの数時間だけでいい、レイジと話し合う時間が欲しい、レイジを説得する最後のチャンスがほしいと切実な願いをこめて副所長に頼み込む。
 安田は躊躇した。眼鏡越しの双眸には葛藤が浮かんでいた。ブリッジを押し上げるふりで動揺を塗りこめ、副所長が続ける。
 『……いいだろう』
 『副所長!?』
 『ただし数時間だけだ。そうだな……明朝六時をタイムリミットしよう。話し合いが済んだら約束どおりレイジの身柄を引き渡してもらう、約束を破れば君も処罰する』
 驚いた看守に安田が腕時計を見ながら付け加える。明日の朝六時、それがレイジに与えられた自由の期限。
 承諾した。残り時間がどんなに少なくても、最後までけして諦めない。
 そう自分に確認し、安田を見上げて皮肉げな笑みを浮かべる。
 『見損なってもらっては困る。こう見えて僕は責任感の強い人間なんだ。逃げも隠れもするものか、期限が訪れたら必ずレイジを引き渡す。他人を売る行為に良心など痛まない』
 「他人」を強調すれば、安田が降参したというふうに苦笑いする。看守に指示をとばしてレイジを解放した安田がリングを去るのを見届け、執行猶予つきの寛大な処置に感謝し、レイジに歩み寄る。
 看守に手荒く背中を突き飛ばされ、よろけたレイジをとっさに支える。レイジは首をうなだれまま、僕の肩に体を預けるように立っている。まだ気を失ってるのかと訝りつつ、レイジをひきずってリングを下りようとして……
 『負けだ負けだ、お前らの負けだ!!』
 『何?』
 反射的に声の方を向けば、怒り狂った囚人数人、力任せに金網を揺さぶっていた。
 『親殺しと色ボケ王のコンビの敗北確定、100人抜きの夢パアだ!』
 『こんだけ騒ぎでっかくして地下停留場大混乱させたんだから責任とって辞退しやがれ』
 『いや、辞退表明なんかしなくてもどうせあいつらの負けだろ。知ってるか、ペア戦のルール以前の大前提大事な大事なお約束その一「補欠と交代するときは必ず手と手を打ち合わせて合図すべし」ってな。おいそこのメガネ、お前レイジと手え打ち合わせて交代したか?してねえだろ、勝手にレイジの前にとびだしてきたんだろ!そんな反則許されると思ってんのかっええっ』
 『ちげえねえ、あのメガネがレイジのピンチに勝手にとびだしてきやがったんだ。約束破りは当然反則負け、次週の決定戦はホセとヨンイルの不戦勝だな』
 『不戦勝!』
 『不戦勝!』
 『反則負け!』
 『反則負け!』
 『なっ……、』
 予想外の事態に戸惑う。興奮が冷めたあとに押し寄せたのは、自分の失態を悔いる気持ち。確かに僕がしたことは反則だ、ペア戦の前提を無視した行為だ。通常リングには二名しか上れない、実際に戦う人間しかリングに立つことが許されないのに僕はレイジの危機に反射的に体が動いてとびだしてしまった。
 まさか、そんな。僕のせいで、僕たちが敗北?100人抜きの目標が達成できず、こんなところで終わってしまう?
 目の前が暗くなった。眩暈を覚えた。レイジを抱いてよろけた僕の耳に不戦勝と反則負けコールがこだまする。言い逃れはできない、たしかに僕は反則した。どうすればいい?サムライとロンになんと言えば……
 『じゃあ、俺らも反則負けやな』
 のんびりした声がした。
 会場の怒号に水をさしたのは、ホセに肩を貸したヨンイルだ。いつのまにか僕の隣に来たヨンイルが、顎を引いて周囲を見まわす。
 『お前ら大事なこと忘れてへんか?そう、四人目の道化こと西のトップヨンイル様や。選手でもないにもかかわらずリングに上がったのはなおちゃんだけやない、俺も一緒や。ホセの大ピンチに勝手に体が動いてもうたわ。あー、俺も負けかあ。残念やわあ、レイジ倒して東京プリズン制覇して全棟に囚人憩いの漫画喫茶つくる野望が潰えたわー』 
 大袈裟に嘆くヨンイルに、周囲の囚人がざわめく。道化の一声で大人しくなった囚人たちを睥睨し、ヨンイルが悪戯っぽく笑う。
 『ま、そんなわけでホセ対レイジの一戦はなかったことにしようや。ややこしことになるからな。決着やったら日を改めてつければええやん?はい、そんなわけで今日はこれでおしまい。たのしいたのしい殺し合いの時間はしまいや、とっとと帰らんとヨンイルの手塚漫画夜話に強制参加させるで―』
 ヨンイルが軽快に手を打ち解散を命じれば、周囲の囚人がぞろぞろ引き上げ始める。普段は軽薄に振る舞っているが、ヨンイルの影響力は絶大だった。いや、たんにヨンイルの長話に付き合わされるのを忌避したのかもしれない囚人たちが口々に毒づきながら地下停留場を立ち去るのを見届け、ヨンイルがこちらに向き直る。
 『……何の真似だ、裏切り者が。それで恩を売ってるつもりか』
 『べっつに。ただ、こんなつまらんことで決勝戦フイになるのが惜しかっただけや。まあ、なおちゃんからおおきに聞けたら嬉しいけどな』
 『カムサハムニダ』
 憎めない笑顔のヨンイルをひややかに睨みつけ、足早に立ち去る。 
 『君は韓国人だから韓国語で礼を述べた。理にかなってるだろう』
 『なおちゃんのイケズ。まあええ、はやくそいつ手当てしたれ。顔色悪いで。ホセもはよ手当てしたらなボクサー生命の危機や』
 ホセを担いだヨンイルが最後に付け加える。
 『来週の決勝戦ではおたがい頑張ろや、なおちゃん』
 ヨンイルへの警戒心を捨てたくなるような、あきれるくらい無防備な笑顔だった。

 「……以上の経緯で、君には明日の朝六時までの自由時間が与えられた。安田は手強い交渉相手だったが、僕の頭脳の前では敵じゃなかった」
 「ヨンイルか。なに考えてんだよあいつ」
 レイジは人の話を聞いてない。まったく、せっかく説明してやったのに失礼な男だと憤慨しつつ包帯をしまう。レイジに無視されたのは不愉快だが、いつまでも拗ねてるわけにはいかない。僕らに残された時間は少ない、時間は有効利用しなければ。
 僕の焦りをよそに、レイジはぶつぶつ呟いていた。
 「ヨンイルもホセもわっかんねーよ、謎だらけだよ。俺に不満抱いてたなんてあん時が初耳だ。そりゃ他棟のトップに内緒で100人抜き決めたのは悪かったけど、にしたってこんなの……」
 「落ちこんでいるのか」
 「……サーシャはともかく、西と南のトップとはそこそこうまくやってたつもりだったんだけど。ホセともヨンイルとも付き合い長いし、あいつらの昔話も本人の口から聞いたことあるし、ブラックワークじゃ敵同士だけど普段はダチみたいな……ああ畜生、うまく言えねえ。お前がかわりに言えよキーストア、語彙が豊富な天才ならうまく説明できるだろ」
 「責任転嫁も甚だしい。それに僕には遠く及ばないまでも君の語彙も豊富じゃないか、聖書をすらすら暗唱できる暗記力は常人の域を凌駕してるぞ」
 「ガキの頃から読み聞かされてたから自然に覚えちまったんだよ。そういうお前もよく知ってたな。あれ全部丸暗記したのか。ひょっとしてキリスト教徒?」
 「僕は無宗教の無神論者で神や霊魂の存在には懐疑的だ。ただ聖書を覚えてると読書の際に便利だから暗記したまでだ、聖書といえば今なお読み継がれる世界最大のベストセラーで古今東西の書物に引用抜粋されてるからな。シェークスピアの作品を例にとればわかりやすいだろう?」
 「『空気のように軽いものでも嫉妬する者にとっては聖書の本文ほどの手堅い証拠になる』」
 「オセローか」
 ふと一抹の疑惑が脳裏を過ぎり心穏やかではいられなくなる。
 眼鏡のブリッジに触れて動揺を静め、そんなまさかと否定しようとする。まさかありえない、そんなわけがない。天地がひっくり返ってもそんな馬鹿なことあるはずがないじゃないかどうしてしまったんだ僕は?
 挙動不審な僕を訝しんだレイジが「どうした?」と覗きこんできて動揺が激しくなる。
 「レイジ、まさかそんなことはありえないと思うがひとつ質問していいか」
 「なんだよ」
 恐ろしい疑惑を払うため、動揺を静めるため、さらには僕のプライドを根底から揺るがす最大の危機を脱するため、この上なく深刻な面持ちで切り出す。
 「君はまさかひょっとしてそんなこと絶対不変的にありえないとは思うが僕より頭がいいんじゃないか」
 たぶん僕は世界に絶望したような顔をしてたんだろう。
 暗澹と黙り込んだ僕に虚を衝かれたレイジが、次の瞬間弾けるように笑い出す。
 「あ、はははははははっはははっ!馬鹿だなお前そんなこと気にしてたのか。ひょっとしてアレ、さっきのパフォーマンスひきずってんの?それで俺のほうがお前より頭いいかもしれないって悩んで思い詰めて存在意義揺らいでひとり悶々としてたわけ?かわいいなあ」
 「うるさい黙れ笑うな侮辱するなこの低脳、試しに聞いてみただけだ!
 聖書を全部暗記してるのならひょっとしたら僕に比肩しうるIQの持ち主ではないかとほんの一瞬、時間にして0.03秒ほど疑っただけだ!しかしこれではっきりした、僕が絶対的自信をもって断言するが君はただの馬鹿だ低脳だ。
 そのだらしなく弛緩した顔と下品な笑い方がいい証拠だ」
 そうだ、レイジがこの僕より頭がいいなんてことあるはずないじゃないかと無理矢理自分を納得させた僕の正面で笑い声が途切れ、レイジが疲れたように目を閉じる。 
 「俺、シェークスピアで好きな言葉あんの。知ってる?」
 「見当もつかない」
 まどろみの倦怠感に身を委ね、安らかに目を閉じたレイジが唄うように口ずさむ。

 「『嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?』
  『憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね』」

 「……ベニスの商人か」
 レイジらしいといえばレイジらしい。たしかにシェークスピアの台詞は真実の暗い一面を言い当ててる。
 憎ければ殺す、それが人間だ。
 レイジのように。僕のように。他のだれかのように。
 「……君の博学ぶりはよくわかった。だが、生憎と僕らには時間がない」
 沈鬱な雰囲気を払拭するように腰を上げる。ペア戦終了から一時間が経過し、無人の地下停留場からは歓声も聞こえてこない。閑散とした裏通路を見回し、周囲に人がいないのを確認してからレイジを見下ろす。
 「レイジ、ついてきてほしい」
 「だりい」
 「子供か。僕の胸で寝たくせに駄々をこねるんじゃない、君が拒否しても強制的に連れて行く」
 最後は命令になった。乗り気じゃないレイジに肩を貸して立ち上がらせ、急いた足取りで裏通路を歩く。
 「いつからそんな強引になったんだよキ―ストア、惚れちまいそうだよ」
 僕の肩にだらしなく凭れ掛かったレイジをひややかに一瞥、突き放すように答える。
 「バスケットコートだ」
 残り時間は少ない。今夜中にレイジを説得しなければ、僕たち東棟の四人に未来はない。
 理解不能といった顔のレイジに向き直り、きっぱりと断言する。
 「今度は僕の賭けに付き合ってもらう」
 そうえいば「あの人は本当は頭がいいから阿呆の真似ができるのね、上手にとぼけてみせるのは特殊な才能だわ」という台詞がシェークスピアにあったなと、レイジをひきずりながら僕は思い出していた。
 思い出したそばから不愉快になった。記憶力がよすぎるのも考え物だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050917034020 | 編集

 あれはいつだったか、晴天の空の下バスケットボールを奪い合った。
 あの時僕は半ば強引にレイジの暇潰しに付き合わされたのが不愉快で憮然としていたが本当は誇らしかった、涼しい顔で何でもオールマイティにこなしてしまう無敵の王様から自力でボールを奪い取ったのだから。
 あの頃からだ。
 いや、正確にはそれ以前からずっと鬱々としていた。
 無力感からくる自己嫌悪、劣等感、焦燥感。
 役立たずだという現実認識。
 どんなに知能指数が高く記憶力がよくても実際の試合では何の役にも立たない、実戦経験のない僕はレイジにもサムライにもロンにも劣る最弱の人間でその非力が恨めしかった。足手まといにはなりたくない、重荷になりたくない。彼らの足を引っ張らざるをえない非力が歯痒かった。
 僕は今までの人生で人を殴ったことはおろか他人と喧嘩したことすらなかった。
 戸籍上の両親であり事実上の養育者、鍵屋崎優と由佳利にすらめったに反抗した記憶がない。
 鍵屋崎夫妻から見た僕は従順で理想的な子供だった。それこそ、将来自分たちの研究を継がせて発展させる後継者としては非の打ち所のない優秀な子供。鍵屋崎夫妻が求めたのは愛情を注ぐ対象としての子供ではなく、自分たちが老いて引退した後の研究を受け継ぎ発展させる有望な人材だった。
 僕はその条件を完璧に満たしていた自負がある。
 血縁上のつながりなどどうでもよかった、鍵屋崎夫妻にとってはとるにたらない些細なことだ。
 後世に子孫を残すことに執着しなかった鍵屋崎夫妻が、自分たちの研究成果を譲渡する世代を欲した結果に生まれたのがこの僕、鍵屋崎直だ。その意味では恵は予定外の子供だった。恵が生まれたということは頻度は少ないにしろ鍵屋崎優と由佳利が夫婦生活を持っていた証明にもなるが、潔癖で神経質、かつヒステリックな性格の鍵屋崎由佳利は婚姻に伴い発生する配偶者間の義務だと性交渉をシビアに割りきっていた。
 恵が生まれたのは、鍵屋崎由佳利が避妊を失敗したからだ。
 女性である前に厳格な研究者だった鍵屋崎由佳利は日常的にピルを服用していたが、たまたまピルを飲み忘れて行為に及んだ結果予定外の第二子を妊娠してしまった。
 それが恵だった。恵は最初から、愛されて必要とされて生まれてきたわけではないのだ。だが僕にとっては愛情の欠損した家庭で唯一安らぎを与えてくれたかけがえのない妹だ。
 たとえ血がつながっていなくても僕は恵を唯一の家族だと思っている。
 僕が鍵屋崎夫妻に反抗せず理想的な息子を演じ続けたのは常に恵の傍らにあるため。僕は両親の期待と妹の尊敬に値する鍵屋崎直でいたいがために、物心ついたときからずっと自身の欲求を抑圧し願望を否定してきた。
 いや、もともとそんなものなかったのかもしれない。
 僕には恵がいればそれで十分で、他に欲しいものなどなかったのだから。
 両親に手を上げたことはおろか感情的に逆らったこともない僕が、両親を刺殺した罪で東京プリズンに送致されたのは半年前のこと。三歳のころから自宅で英才教育を受け、周囲の人間といえば鍵屋崎夫妻と同年輩の研究者が過半数を占める環境に隔離されて育った僕は、同年代の友人と喧嘩したことはおろか接触したこともなかった。

 バスケットボールはレイジに教えられて初めて知った。

 僕は東京プリズンでいろいろなことを知った。その内容は永遠に知らなくても一向にかまわないくだらないことから、知っておけば実生活に役立つことまで多岐にわたる。レイジにコーチされたバスケットボールはもちろん前者だ。認めたくはないが僕は運動音痴だ。少し走っただけで息切れして眩暈に襲われる体に、炎天下の球技はひどくこたえた。 地獄の特訓と言ったら大袈裟だろうか?……いや、けして誇張ではない。レイジに振り回され足が棒になるまで走り回され、あの時は本当に地獄を見た。

 そして僕は今、ふたたび中庭のバスケットコートに立っている。
 手の中にはバスケットボールがある。

 所在なく立ち尽くす視線の遥か先にはネットがぶらさがっている。
 距離にしておよそ50メートル。
 遠い。遠すぎる。この距離からボールを入れるなんて不可能だ。いや、しっかりしろ鍵屋崎直。不可能を可能にしてこそ天才だ、IQ180の本領を今こそ発揮しろ。
 この場で必要とされるのは知力よりもむしろ体力だが。
 「……なー、これから何始まるんだ。今夜のショーはお開きだろ。観客もいねえのに延長戦おっぱじめるつもりか」
 何も説明されず強引に引きずられてきた為、いまだ事情が呑みこめず、地面に手をついてだらしなく膝を崩したレイジは無視して深呼吸。
 一投目。
 大きな放物線を描いたボールが途中で浮力を失いあっけなく地面に落下。転々と跳ねながら戻ってきたボールを持ち上げ、ため息をつく。ため息?馬鹿な、最初の一回を失敗したくらいで嘆いてどうするんだ。先は長いというのに。
 二投。また失敗。  
 力なく地面で跳ねたボールを視線で追い、そちらへと歩み寄る。そんな僕を退屈そうに見送りながら催促する。
 「いい加減タネ明かししてくれよキーストア、秘密主義も程ほどにしねえと嫌われるぜ。俺をここまで引っ張ってきたからには理由があるんだよ、ひとりバスケなんて侘しい遊びに熱中してないで教えてくれよ」
 三投目。失敗。
 「無視?無視かよ、つれねーなあ。ひょっとして本格的に怒ってる?目も合わせたくなけりゃ口もききたくねえって意思表示?気持ちはよーくわかるよ、つーか全部俺のせいだけどな。ちょーっとばかし派手に暴れすぎちまったかな、今回ばかりは……独居房送り何回目だっけ。今回で三回か四回目?ああ、憂鬱だなあ。あそこ暗いし汚えし臭いんだよなあ。慣れてるからいいけどさ」
 四投目。失敗。
 「俺、駄目なんだよね。一回キレると後先考えずめちゃくちゃ暴れて自分に歯止めがきかなくなる。憎しみを抑えつけるのが絶望的に下手なわけよ。監視棟のときといい渡り廊下のときといい今回のペア戦といい、ハッと気付けば目の前で人間が血ィ流して倒れてる。殺ってるときは無我夢中で理性吹っ飛んでるから自覚ないんだよな。昔からそうだった。むかしっから」
 五投目、六投目、七投目。失敗。
 「ロンといるあいだは大丈夫だったんだよ」
 八投目、九投目、十投目。
 「ロンといるあいだは不思議と大丈夫だったんだ。気持ちが落ち着くってゆーか、なんか幸せーってかんじが持続して……脳内麻薬がでてんのかな。あいつがたまに見せる笑顔とかあいつがたまに見せる泣き顔とか、ころころ変わる表情見るのがたのしくて。
 早い話、ロンが俺の暴走抑止剤だったわけ。
 一年半おなじ房でおなじ空気吸ってるうちにいつのまにかあいつが隣にいるのが当たり前になって、あいつがいない毎日なんか考えられなくなった。あいつの罵り声が聞こえないと寂しくて寝つけない。
 知ってる?人間てさ、すごい疲れると夢も見ないんだ。
 泥のように眠るだけ。死んだように眠るだけ。
 女を抱いたあとならぐっすり眠れる。髪の匂い肌の匂い香水の匂い、そんなもんにくるまれて安心して熟睡できる。それでも悪夢を見て目覚めたら『どうしたの?』って慰めてくれる。今はそんなこともなくなったけど、ここに来る直前は特にひどくてさ……誰かとべったりひっついてないと全然眠れなくて、一度寝ても明け方近くに絶叫して目が覚めて相手叩き起こす始末で」
 十一投目、十二投目、十三投目、十四投目、十五投目。
 「渡り廊下で言ったろ?男でも女でも若くても年食っててもおかまいなしって、あれマジ。十対一の比率で女が多かったけど、男とも時々寝た。気持ちよけりゃ誰でもよかった、天国にイかせてくれるならだれでもよかった。女が多かったのは単純に柔らかくて抱き心地よかったから。聖母マリアみたいに優しい女の胸の中ならやなことさっぱり忘れて気持ちよく寝れるだろ」
 「無節操」
 「言うと思った」
 レイジがおどけたように肩を竦める。
 「否定はしねーよ。したって無駄だ、サーシャの房にいたとこ見つかっちまったもんな。喜べ、お前が第一発見者だ」
 「不愉快だ。思い出しくもない」
 レイジが苦笑いして十字架の鎖をなでる。
 「……ロンとうまくいかなくなってから、いや、具体的にはあいつが医務室に入院した頃から女の柔肌恋しい症候群もといだれかが添い寝してくれなきゃ熟睡できない症候群が再発した。あいつがいない房に一人じっとしてるのがいやで、からっぽのベッド眺めてるうちにむしゃくしゃしてきて、しまいにゃヤケになって」
 からっぽのベッド。うるさいロンがいない生活。
 房にいればいやでも無人のベッドが目に入る。
 いやでもロンの不在を思い知らされる。
 「だからか」
 僕の声に反応したレイジが物問いたげに目を細める。
 「だから、サーシャのところへ行ったのか」
 「ああ」
 レイジはあっさり首肯した。
 疲労の色濃く憔悴した面持ちに力ない笑みを浮かべ、自嘲する。
 「ロンのベッドをあのままにしといたのはつまらない感傷、くだらない未練だよ。出てった時のまんまにしといても自分がむなしくなるだけなのになあ……ロンのこと吹っ切ったつもりでも心のどこかじゃ浅ましく期待して、物欲しげにベッドを眺めてた。
 ばっかだよなあ、いつ帰って来るかわかんないのに。帰って来ても元通りになれるはずねーのに……」
 レイジに自己投影し、その光景を想像する。
 奇妙に広くよそよそしく感じられる房。行儀悪く毛布がめくれて枕がひっくり返ったままのベッドは、ロンが出て行ったときと寸分違わぬ状態で放置してある。
 ベッドに腰掛けてからっぽのベッドを眺めるレイジ。無為に過ぎる空白の時間。
 だれからも見放された孤独な背中。
 「耐えられなかった」
 「何故サーシャなんだ?ヨンイルでもホセでも他に候補がいたのに、よりにもよって最悪の選択肢を」 
 それがいちばん不思議だった。南と西とは比較的友好な関係を保っていたのに、ロンを失ったレイジがその足で訪ねたのは北のサーシャ。半年前はロンをおとりにレイジを監視棟におびきだし殺そうとし、以後もレイジをブラックワーク覇者の座から引きずりおろそうと付け狙う狂帝。そんな男のもとへ出向けばどんな仕打ちをうけるか、馬鹿でお調子者を演じていても意外と賢いレイジがわからないはずない。
 ボールを手に持った僕の疑問に、レイジは簡潔に答えた。
 「心配しないからさ」
 どういう意味だと困惑すれば、コンクリに手をついて仰け反ったレイジが首を振る。 

 「ヨンイルやホセんとこ訪ねてったらこんな夜中にどうしたって心配されんだろ?ま、ヨンイルはともかくホセはそのへん大人だから見て見ぬふりで放っといてくれるかもしれないけど、態度で気遣われてるってわかっちまうんだよな。
 なんかそういうの、うざったくて。
 サーシャはそのへん徹底してる。俺を束縛して支配して服従させるのが目的だから、俺の意志なんかハナから無視して自分のしたいようにやる。絶対に俺を心配したりなんかしない。行きすぎて殺しちまってもいいやって思ってる。サーシャにとっちゃ俺は犬、躾甲斐のある雑種の犬。犬は人間のコトバ話せないだろ?犬と人間がたのしくおしゃべりなんて普通ありえないよな。サーシャは俺を言葉でなぶって痛め付けるのにご執心で、なにがあったんだとかどうしてここへ来たとか余計な詮索一切しないから気が楽だった。
 麻薬漬けのセックスに溺れてるあいだはヤなこと全部忘れられたしな……
 俺の場合体がクスリに慣れてるからあんま効かなかったけど、気晴らしにはなった」

 悪びれたふうもなくさらりと言うレイジにあきれ返る。
 意外にプライドが高いのかヨンイルやホセに迷惑をかけるのを回避したのか、最終的にレイジが身を委ねたのは自他ともに天敵と認めるサーシャだった。
 皮肉な話だ。
 レイジもサムライと同様、ひとに弱みを見せるのがへたな人間なのだ。
 会話が途切れたのを機に集中力を高める。飛距離が足らずに落下したボールを舌打ちして拾いに行けばへたな鼻歌が耳につく。
 レイジが夜空を見上げ、のんきに鼻歌を口ずさんでいた。
 「音痴な鼻歌はやめろ。集中力が散る」
 苦々しく吐き捨て、再びボールを持つ。
 僕の注意など聞く耳もたずレイジは気持ち良さそうに鼻歌を口ずさんでいた。酩酊を誘う甘く掠れた独特の響きの歌声が流れる中、頭上に手首を掲げ、伸びあがるようにボールを放つ。
 「なあ、通路で賭けがどうのって言ってなかったっけ。いい加減教えてくれてもいいんじゃないか、その賭けの内容ってやつ。焦らし上手ってほめてもらいてーの?」
 ネットを掠めて落下したボールを目で追い、落胆に肩を落とす。足をひきずるようにボールを取りに行きがてらレイジの言葉を分析する。
 『耐えられなかった』
 あれは掛け値なしの本音だ。ロンがいなくて寂しい、耐えられない。それがレイジのありのままの気持ちだ。レイジだけではない、ロンもきっと耐えられない。
 サムライがいない僕が孤独に耐えられないように、レイジにはロンが、ロンにはレイジがいなければ耐えられない。
 なら、答えは出たも同然だ。
 最後に必要なのは、決断を促す推進力。 
 「賭けの内容はこうだ。僕がこの距離からシュートを決められたら、まっすぐにロンに会いに行け」
 「は?ちょ待て、なんだよそれ聞いてねえぞ!?異議あり、そんなこと勝手に決めんなよ」
 「異論反論は一切受けない、これはすでに決定事項だ。数時間前のペア戦でさんざん僕に迷惑をかけた責任をとって賭けに付き合ってもらう。賭けの内容とはこうだ。球技初心者の僕が約五十メートル離れたこの距離から一発でもシュートを決めることができたら医務室へ直行してロンと話し合いを持て」
 「舐めるな素人。この距離から入るわけねー」
 饒舌に畳みかけられ毒気をぬかれたか、レイジがあきれたように笑う。レイジの言い分は最もだ。バスケットボールに触れてから日が浅い僕が五十メートル離れた距離からシュ―トできる確率は限りなく低い、それこそ天文学的数値だ。
 が、やるしかない。
 数週間前、レイジはあっけにとられた僕の前で軽々とシュートを決めてみせた。レイジにできたことが僕にできないはずがない。公平を期すためあの日のレイジとおなじ距離を空けおなじフォームを模して手首を掲げる。何度も何度も投げるうちに次第にコツが掴めてきた。肘の高さと手首の角度と指の位置を調整し、今度こそ成功するはずと希望を託してボールを投げる。
 ボールがネットの背板に弾かれ、鈍い音が鳴った。
 『I am disappointed』 
 残念でしたとレイジが口笛を吹く。
 背板に跳ね返ったボールが寂しく地面を転がってくる。まだ終わらない、これで終わるわけにはいかない。決意も新たにボールを両手に拾い、胸に抱いて瞼をおろす。集中しろ、極限まで集中力を高めろ。肩をゆっくりと上下させ不規則に乱れた呼吸を整え、ボールを片手に預けて額の汗を拭う。気温の低い夜中だというのに、額はびっしょりとぬれていた。手の甲を上着の裾になすりつけ、ついでに眼鏡のブリッジを押し上げる。何回も何十回も懲りずにボールを投げて手首が吊った。手首の鈍痛に舌打ち、ボールを構え直す。
 「キーストア、聞いていいか」
 「なんだ」
 上の空で返事をする。
 そんな僕を退屈に倦み果てたように眺めながら、レイジが続ける。
 「何の為に、そんな頑張ってるんだ」
 レイジは本当に不思議そうだった。深夜の中庭、バスケットコートを独占して無謀な挑戦を続ける僕を面白がっている節もあった。
 コンクリートの地面に座りこんだレイジが首を傾げ、悪戯っぽい笑みを見せる。
 「俺の為?」
 「とんでもない誤解だ」
 自意識過剰な物言いに辟易する。レイジに背中を向け、五十メートル先のネットと一直線に対峙。ネットの正面に立ち、手首を慎重に掲げ、手首から肘へと重心を移す。
 闇のむこうに頼りなく揺れるネットを透かし見て、僕はそっけなく断言した。

 「僕たちの為だ」
 力を貸してくれ、サムライ。 
 扉を打ち壊して閂を壊したが、レイジはまだ怯んでいる。
 レイジの手を掴み闇から引き上げることができるのは、ロンだけだ。
 
 僕の手を離れたボールが虚空に長大な放物線を描き、半孤の軌道に乗じてネットへと吸いこまれてゆく。心臓が止まった。目が離せなかった。時間が停滞した一刹那、緩慢に虚空をすべるボールの行方を息を詰めて見守る。パサリと軽い音。背板にぶつかることなくネットへとすべりこんだボールが地面で跳ね、高く高く、夜空高く浮上する。
 やった。
 通算八十二回目でついに成功した、賭けは僕の勝ちだ。
 「レイジ見たか今の、入ったぞ!!信じられない、闇で視界が利かないにも関わらずこの遠距離からシュートを決めるなんて奇跡だとは思わないか!?バスケ初心者のこの僕が、」
 しまった、興奮のあまり略称を口走ってしまった。
 慌てて口を噤み、気恥ずかしさが先行して上気した顔を伏せた僕の視界にとびこんできたのは意外な光景。レイジが首を浅く振りながら睡魔と戦っている。唐突に目が覚めたか、ハッと顔を上げてきょろきょろあたりを見まわす。
 そして、最後に僕を見る。
 「見てなかったのか」
 レイジに口を開く間を与えず、怒気が氷結した声で確認する。
 「わざとか?わざとなのか?そういう姑息で小賢しい手を使う男だったのか、見損なった。いや見損なったは正確ではない、僕は君のことを買いかぶっていたわけでも尊敬していたわけでもない従って見損なう素地がない。もともと低かった評価がさらに失墜して底が抜けたのだからこの場合なんといえば……」
 憤懣やるかたなく肩を震わせる僕のもとへ生あくびをしながらレイジが歩いてくる。肉食獣のように優雅でしなやかな歩み。僕の手からボールを借りたレイジがあくびを噛み殺し、複雑そうな顔で逡巡。手の中のボールを角度をかえしげしげと観察、有無を言わさず僕をどかして場所を交替する。
 「お前、全然駄目。ボールの構え方がてんでなっちゃなくて危なっかしくて見てらんねえ。いいか?手首で投げるから失敗するんだよ、こうやって肘で構えて距離をとって……」
 レイジが鋭く呼気を吐き、地を蹴り、手首を返す。 
 靴裏が宙に浮き、上着の裾が風圧に舞いあがる。めくれた裾から覗いたのはしなやかな肢体、美しく筋肉がついて引き締まった腹部に淫らな痣。
 夜目にもくっきりと鮮明に浮上する姦淫の烙印。
 それは一瞬だった。靴裏が地面に接すると同時に、ガコンと鈍い音がした。背板に弾かれたボールが宙に投げ出されあさっての方向に転がってゆく。
 「……偉そうなこと言えねーな。キーストアに抜かれちゃざまあねえ、コーチ引退すっかな」
 レイジらしからぬ力ない笑顔に胸が騒ぎ、気付けば僕は歩き出していた。ボールに追いつき、拾い上げ、何食わぬ顔でレイジのもとへと引き返す。そして、あっけにとられたレイジの眼前にボールを突き出す。
 「スリーポイントシュートだろう?残り二回だ」
 半ば強引に胸に押し付けられたボールを受け取り、レイジが意を決して顎を引く。憔悴した面持ちから一転、挑戦的な笑みを覗かせ今度は確実にネットを狙う。
 二投目。レイジの手を放れたボールは飛距離が致命的に足らず、三分の一の十五メートルもいかずに落下してしまった。
 まだ終わりはしない。最後のチャンスが残っている。
 自然に足元へと転がってきたボールを拾い上げた僕は、レイジの様子に異変を悟る。
 「大丈夫か、腕を痛めたのか!?」
 おもわず声を荒げレイジに駆け寄る。右腕を庇って屈みこんだレイジの額には大量の脂汗が浮いていた。
 二回連続失敗もするはずだ、レイジは利き腕を怪我してるのだ。
 賭けに熱中するあまり失念していた、不覚だ。
 「傷口が開いたんじゃないか?見せてみろ」
 不意に、僕の手の中からボールが消失。力づくでボールをひったくったレイジが長々と息を吐き、疲労と苦痛で青褪めた顔で遠方のネットを仰ぐ。無理をするんじゃないと叱責しようとしたが、今のレイジには声をかけるのをためらわせる神聖さがある。
 力尽きたように瞼を下ろして首をうなだれたレイジが、両手に挟んだボールに切実な願いをこめる。
 「……最後の賭けだ」
 胸に抱いたボールに顎先を埋め、自分に言い聞かせるように小声で呟く。
 「これが入ったらお前に尻ひっぱたかれてロンに会いに行く。入らなかったら……」
 入らなかったら?
 ゆっくりと瞼を開ける。睫毛の先端が震え、瞼の奥から真剣な瞳が現れる。激痛を訴える右腕を励まし、苦痛に顔をしかめて呼吸を荒げながらボールを頭上に掲げる。血が乾き赤黒く変色した右袖がはらりとめくれ包帯があらわになる。

 『THE END』
 長い長い一瞬だった。

 レイジと二人肩を並べて見守る前で、夜空に弧を描いたボールが上下に旋回しながらネットへ吸いこまれてゆく。ネットをくぐりぬけたボールが直下の虚空に生み出され、地面で軽快に跳ねる。 
 文句のつけようがない見事なシュートだった。運さえ味方につけたかのような最後にして最高のシュートだった。三投目の初成功が信じ難いのか、ボールを投げた姿勢のまま呆然と立ち尽くしていたレイジが脱力したように手をさげおろす。 
 「……今の見たか」
 「……ああ」
 「入った、よな」
 「馬鹿にするなよ、僕の視力は裸眼では0.02だが眼鏡をかければ0.5に上昇する。シュートの瞬間を見間違えるわけがない」
 『I love God!!』
 突然だった。
 レイジが頓狂に叫んでいきなり抱きついてきた。それまでの疲労困憊ぶりが演技ではないかと疑いたくなるほどに、それまでの意気消沈ぶりが芝居ではないかと怪しまれるほどにレイジは狂喜していた。
 「やっべーすっげー今の見たか見ただろキーストアやっぱ俺天才だよ!顔だけじゃなく運動神経にも恵まれてるなんて反則だよな、神様に特別愛されちゃってるよな!?ああ畜生すげえ嬉しいぜ、まさか成功するとは思わなかった、自分でもこりゃちょっと無理かなあって半分諦めてたんだよ!!」
 「気色悪いからべたべたするな同性と密着して喜ぶ趣味はないぞ、抱擁するならロンにしろ、ただしロンは肋骨を折ってるからから控えめに!風圧と重力が作用したただの偶然を自分の実力と錯覚して優越感に酔い痴れるのは個人の自由だ認めよう、だが今はそれより先にすべきことがあるんじゃないか!?」
 レイジの胸に頭をおさえこまれて窒息しそうだ。サムライ以外の男に体を触れさせないと約束したのにまた破ってしまった、これで何度目だろうと数えてうんざりする。
 ふいに腕の拘束が緩む。
 僕の肩に手をかけて顔を上げ、レイジがまっすぐに目を見つめてくる。
 そして、微笑む。
 血に飢えた暴君から憎めない王様へと戻った屈託ない笑顔。 

 『Thank you.Thank you for saving me.You are my friend who is more reliable than God』
 ありがとう、救ってくれて。
 お前は神様より頼りになるダチだ。
 
 本当に久しぶりにレイジの笑顔を見た気がした。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050916095543 | 編集

 物心ついた頃からずっとひとりで寝てた。
 淫売のお袋は酔っ払いの相手に夢中で、コトがおっぱじまると俺は大抵戸外に放り出された。ガキは邪魔だ小便して寝ろ、それともこっちきて混ざるかと客に冷やかされ小突かれたことは数知れない。
 俺はお袋の情事が終わるまでアパートの廊下に捨て猫みたいに蹲っていた。
客がさっぱりした顔で帰るのを媚びた笑顔で送り出してから漸く中に入れてもらえるがまた客がくりゃ邪険に追い出されるくりかえし。漸く眠れるのは夜中の一時や二時を回った頃。寝室のベッドはお袋専用だから俺はどっかそこらへんの床に適当に寝た。
 ベッドなんて上等なもんは与えられてなかったし枕なんて便利なもんも以下同文で、俺に無造作に投げ与えられたのは薄汚い毛布一枚きり。色褪せ擦りきれて糸がほつれた粗末な毛布にくるまればいくらもしないうちに瞼がうつらうつら重くなった。
 俺は寝つきのいい子供だった。
 起きててもろくなことないんだから寝ちまうのにかぎる。淫売のお袋に気晴らしで殴られ蹴られヒステリックに物投げられて、気位の高いお袋につれなくされた客に当たり散らされて、全身痣だらけで関節が痛くて寝返り打つのも一苦労で、ろくでもない現実忘れるには寝ちまうのがいちばんと経験則で知っていた。
 客の選り好みが激しく好き嫌いが激しいお袋は、気に入らない客には傍から見ててもひやひやするようなつんけんした態度をとった。男と見りゃだれでも腰振る淫売のくせに、と捨て台詞を吐いた男が灰皿で額を割られる場面をガキの頃から飽きるほど見てきた。
 お袋は気性の荒い女だった。
 お袋のアパートを勘当同然でとびだしてからは路上で生活をした。俺と似たり寄ったりの境遇のガキはあちこちの路地にうじゃうじゃたむろってた。酒乱の親父の暴力で家庭崩壊、一家離散、親の暴力に耐えかねて命からがら逃げ出した年端もいかないガキまで年齢ばらばらな連中が、路地の軒下に身をひそめて、お互いの肌のぬくもりで暖をとっていた。俺はそこからも弾かれた。台湾人と中国人の混血だからだ。中国人の血が半分流れる俺は、さまざまな事情から路上で生活せざるをえないガキどもにすら仲間と認められず裏切り者と唾を吐かれ石を投げられた。
 ひとに嫌われるのも避けられるのも慣れていたから心は痛まなかった。 
 どこにも行くあてはなかった。何日もスラムを放浪して、疲れたら適当なところで寝た。他に人けのない路地裏、すえた異臭が充満するゴミ箱の横とかスクラップ置き場の廃車の中とか、雨風を凌げて最低限安全を確保できるならどこでもよかった。
 雨が降れば立ち入り禁止の廃ビルにも忍び込んだ。
 二十世紀初頭の大地震で半壊したまま、行政が取り壊し費用を出し渋って放置してたらいつのまにか周囲にスラムが形成されて手出しできなくなった六十階建てのビルで、台湾人のあいだじゃ通称「早上廟」と呼ばれていた。元の名前は朝焼けの英語読みだったらしい。
 いつも寝るときはひとりだった。だれかがそばにいた試しはなかった。ガキの頃から独り寝が習慣になってたから、東京プリズンに来た最初の頃は常に人が隣にいる環境に馴染めなかった。通常房は二人一組制で、俺は房にいるかぎりいやでもレイジと面突き合わせりゃならなくて、神経もちそうにないと辟易した。
 寝ても覚めてもあいつが隣にいる。隣で能天気に笑ってる。
 俺はそう信じて疑わなかった。いつのまにかすっかり東京プリズンの日常に馴染んでレイジの寝息を子守唄に眠りに落ちるのが習慣になってしまった。俺の隣にはいつもレイジがいた、それがあたりまえだった。
 隣からレイジがいなくなる日がくるなんて考えたこともなかった。 
 俺がよく眠れないのはレイジのせいだ。あいつが隣にいないからだ。

 昔は独り寝なんて全然寂しくなかった。 
 独り寝が寂しいなんて知らなかった。

 恩着せがましく同情を売り付けられるのはごめんだった、他人に干渉されたくなかった。だからレイジがいなくなってせいせいするはず、だった。女たらしの寝言を聞かされることもなく寝こみを襲われることもなくなってぐっすり眠れるはずなのに、意固地に目を瞑り毛布にくるまっても睡魔はなかなか訪れなかった。
 医務室は静か過ぎた。それが不眠の原因?ちがう。顔に毛布を引き上げ、雑念を散らそうと瞼を固く閉じる。目は冴えていた。頭は鮮明に覚醒していた。今の俺が安眠に縁遠いのはどっかのバカの寝言や寝息や衣擦れの音が聞こえてこないからだ。畜生、こんなこと永遠に気付きたくなかった。一生知らないままでいたかった。
 俺に「寂しい」なんて感情があるなんて、思い知りたくなかった。
 俺は今までずっとひとりで生きてきたつもりで、これから先もひとりで生きていくつもりで、寂しいとか哀しいとか苦しいとか弱音はずっと封印して平気なフリしてきたのにこのザマはなんだ?レイジがいないだけでなんでこんなに不安なんだ。
 鼻腔の奥を刺激する消毒液の匂い、ぱりっと糊が利いた清潔なシーツの感触。不潔で不衛生な房と医務室じゃなにもかもが違った。
 パイプベッドに寝転がって毛布にくるまって、どれ位が過ぎたのだろう。
 サムライはもう寝たのか?声をかけるのはためらわれた。さっきあんなことがあったあとだし、なんとなく気恥ずかしかった。
 枕元には牌が転がっている。
 俺が投げ捨て、サムライが拾った牌。
 「………」
 レイジはこの牌をずっと持ち歩いていた。北棟に行ってからもずっと。おそるおそる指をのばし、そっと牌に触れる。ひんやり硬質なプラスチックの感触。なめらかな表面に指が吸いつく。牌の表面をなでながら、ほんの数時間前、サムライの腕の中で聞いた言葉を回想する。
 『レイジはお前を捨てない。俺が生涯剣を捨てることがないように』
 サムライはそう約束した。そんなことはありえないと断言した。武士に二言はない、サムライは嘘をつかない。サムライの言葉に俺は救われた、支えられた。
 でも、どうしたらいい?
 俺はレイジに会いたい。今すぐレイジに会って、これまで起きたいろんなことを話したい。今の正直な気持ちを包み隠さず伝えたい。不器用でもいい、噛んでもいい。お前は俺の大事なダチだって本音を打ち明けて安心させてやりたい、笑顔を取り戻してやりたい。だけどそれには、レイジの方から会いに来てくれるのが最低条件だ。
 情けない話、俺の体はボロボロの限界でベッドに上体を起こすのも一苦労だ。自力で渡り廊下まで這いずってった無理が祟ったか、肋骨は折れて足首は捻挫して全身の関節が軋んで寝返り打つだけで悲鳴をあげそうな激痛に襲われる。
 さんざん無茶したツケがいっぺんに回ってきた。 
 絶対安静を強いられた俺が医師の説教覚悟でベッドを抜け出すのは自殺行為で、途中で行き倒れ確定だ。廊下で遭難は格好悪い。
 俺は今すぐレイジに会いたい、レイジの胸ぐら掴んで罵倒して素の自分を曝け出してすっきりしたい。我慢の限界だ、これ以上辛抱もちそうにない。頭から毛布被って気鬱に塞ぎこてても何も始まらない、何も進展しない解決しない。
 レイジが会いにきてくれれば。
 心の中で弱音を吐く。あの薄情者め、一回くらい見舞いにきたってバチあたらねえだろが。最後のチャンスを与えてくれよ、王様。ベッドに横たわり、戯れに牌をはじく。人さし指で弾かれた牌が枕元に倒れる。もう一回。牌を立てなおし、指を撓め、小気味よく弾く。先端の爪と牌の表面がかち合い、涼やかな音がなる。
 眠れぬ夜のひとり遊び。退屈をまぎらわす行為。
 ひとりあそびに耽る俺の脳裏にはレイジの顔が浮かんでる。
 今レイジは笑えているだろうか?
 今日の試合結果はどうだったんだ。
 試合はもうとっくに終わってるはずなのに鍵屋崎も報告にこねえし、まさかレイジの身になにかあったんじゃと急激に不安になる。そんなわけない、無敵の王様になにかなんて起こるわけないとはげしくかぶりを振って不吉な予感を吹き散らす。
 大丈夫だよな、レイジ。
 鍵屋崎がついてるんだから大丈夫だよな、無事だよな。
 怪我なんかしてねえよな。
 むなしい問いかけに答える人間はいない。
 衝立に仕切られた闇の中に、牌を弾く音が一定の間隔をおいて響く。 畜生、会いにこいよ。
 いい加減にしろよ、俺は短気なんだ、人に待たされるのが大嫌いなんだ。ちゃんとけじめつけにこい、俺が起きてるときにちゃんと顔見せに来い。この前みたいにひとの枕元で逃げ打つのは許さない、こんどはちゃんと俺が意識覚醒してるときに顔見せに来い、お互い納得いくまでとことん話し合ってやろうじゃんか。

 卑怯者。逃げるなよ。ダチをおいて、遠くに行くなよ。
 サーシャの腕の中なんかに。

 『……寂寞。我是幼稚、我是陰沈』
 台湾語で気弱に呟く。
 だれも聞いてないんだから弱音くらい吐いても許されるだろう、ため息を見逃してくれるだろう。
 レイジはどこにいるんだ、今どうしてるんだ、なんで会いに来ないんだ。胸が痛い。うまく呼吸ができない。寂しさに押し潰されそうだ。俺に拒絶されたレイジもこんな気持ちだったのか?重苦しく塞がれた鉛のような心。ああ、そうか。こんなどでかい鉛が胸に沈んでたんじゃ、笑えるはずないよな。
 『一輩子在一起』
 そこまで口走りハッと我に返る。
 一輩子在一起……ずっと、一緒に?
 それが俺の望みか、無意識の願望か?
 レイジとずっと一緒にいたい。
 口に出してから、そのあまりにも子供じみた願いに失笑する。
 俺は実際、思いあがっていた。
 そんなことわざわざ口に出さなくても、レイジはずっと一緒にいてくれると思ってた。
 いつになったら眠くなるんだ、瞼が重くなるんだ?毛布を羽織り転々と煩悶すれば、枕元の牌が床へと落下。カチャンと音が鳴る。やばい。慌てて毛布を跳ね除け、苦しい体を起こして床から牌を拾い上げようとして……
 驚愕に目を見開く。
 衝立に影が映っていた。
 心臓が止まった。衝立に映った影は微動だにせず立ち竦んでる。こんな時間にだれだ。見まわりの看守?医者?いや、消灯時間をとっくに過ぎて医者は宿舎に仮眠をとりにいった。じゃあ、衝立越しにすぐそこまで来てるあれはだれだ。まったく入室の物音をたてず接近の気配を感じさせず、衝立隔てた至近距離までやってきた不審人物の正体は?
 心臓がにわかに早鐘を打ち始める。緊張に喉が干上がり、全身の血液がざわざわと逆流する。四肢の先から体の芯へと染みてくる得体の知れない恐怖。思い出すのは数日前、これよく似た出来事。深夜、人目を盗んでこっそり医務室に忍びこんできたのは……
 タジマ。俺のケツをしつこく付け狙う変態看守。 
 またタジマか、あの時の復讐か?一度起きたことは二度ある、三度ある。いや待て、タジマは現在独居房にぶちこまれてるはずだ。いくらタジマでも独居房から抜け出せるはずがない。いや待て、相手はタジマだぞ?東京プリズン最低最悪の看守、東京プリズンに巣食う癌細胞だ。タジマなら決死の覚悟で独居房から脱出したその足で俺に復讐しにきてもおかしくない。
 「タジマか?懲りずにまたきたのかよ、変態やろう。怪我人いたぶるしか長い夜の楽しみないのかよ」
 誰何の声が震えた。指の関節が白く強張るほどに毛布を掴み、不自由な体をベッドに起こして衝立を睨みつけ、衝立越しの不審者を眼光で威迫する。様子が変だ。タジマなら何故すぐにでてこない、襲ってこない?衝立の向こうにいるあれは本当にタジマなのかと疑問が募る。
 「どうした、びびってんのかよ。こないだはさんざんでかい口叩いたくせに副所長にお説教されるのが怖いのかよ?独居房の感想聞かせてくれよ、タジマ。看守であそこにぶちこまれたのお前が初めてなんだろ、前人未到の地獄の感想は?」
 恐怖をごまかすため矢継ぎ早に悪態を吐く。理性が蒸発して舌が暴走した。やめろばか、挑発してどうするんだ?今度こそタジマに殺されちまう。混乱する俺をよそに、衝立の向こうの人影は逡巡してる。引き返そうか名乗りでようかそわそわと落ち着きない不審者に、俺は眉をひそめる。
 「タジマじゃない、のか」
 「…………俺で悪かったな」 
 ぶっきらぼうな呟きが落ちた。聞き覚えのある、懐かしい声だった。
 信じられない。力が抜けた五指の間を毛布がすりぬける。ぱさりと軽い音をたて膝に落ちた毛布に手をおき、大きく目を見開いて衝立を凝視する。
 「レイ、ジ?」
 夢を見てるのだろうか、現実離れした都合よすぎな夢を。だってこんなことありえない、レイジが俺に会いに来るなんて。俺はもう完全にレイジに見放されたと思いこんでいたのに、いまさらこんな夢みたいなこと起きるはずない。騙されてるに決まってる、だれかがレイジのふりして俺をからかってるに決まってる。
 「騙されねえぞ。そこにいるのホントはだれだ、ヨンイルかホセか、ひとの寝こみ襲ってタチの悪いイタズラしやがって安眠妨害で訴えてやる!!」
 「本当に俺だっつの」
 「声真似ならだれでもできんだろ、他に証拠はあるのかよ」
 「おま無茶言うなよ、証拠ってなんだよ!?一年半一緒に暮らした人間の声聞き忘れたのかよ、お前の耳元でさんざん甘く囁いて時には子守歌まで唄ってやったのに恩知らずが!」
 医務室が臨時法廷の様相を呈してきた。予想外の成り行きに俺自身はげしく動揺していた。すぐそこにレイジがいる。手を伸ばせば届く距離に会いたくて会いたくて仕方なかったヤツがいる。現実であってほしい、いや、夢じゃないのか?信じたい気持ちと信じられない気持ち、相反する感情が俺の中でせめぎあい反抗的な態度をとらせる。 
 「よし、鼻歌を唄え」
 「はあっ?」
 「いいから唄え。命令だ。鼻歌唄えないなら偽者だ、全力投球で牌投げつけて追い払う」
 実際に牌を握りこみ隙なく身構える。自分の身は自分で守るという信念に駆りたてられ攻撃体勢を整えた俺の視線の先で不審者は戸惑っていたが、やがて覚悟を決めて息を吸いこみ唄い出す。
 衝立越しに流れたのはへたくそな鼻歌。音程が外れまくって聞くに耐えない英語の歌、ジャズの女神が卒倒しそうなストレンジフルーツ。
 ああ、間違いない。
 胸に凝っていた恐怖が氷塊し、安堵のような歓喜のような感情の奔流が体の隅々まで満たしてゆく。絶望と希望とが相半ばする顔で目を閉じ、握りこぶしを上着の胸に押し当てる。
 
 こんなへたな鼻歌唄うやつ、ひとりしかいない。
 レイジのやつ、相変わらず音痴だ。

 「は、ははは」
 レイジのやつ、全然変わってねえじゃんか。今までどおりの、いつもどおりの、馬鹿で尻軽でお調子者でふざけてばかりいる俺のダチのまんまじゃないか。握りこぶしを胸にあてがい、顔を伏せ、肩を震わせ、笑いの発作に身を委ねる。
 レイジだ。レイジがいる。すぐそこにいる。手を伸ばせば届く距離に突っ立ってる。
 笑い声に嗚咽がまじりかけ、下唇を噛みしめる。牌が指に食い込み、痛い。漸くレイジに会えた。レイジは俺を見捨てたわけじゃなかった。こうして会いに来てくれた。
 強く強くこぶしを握り締め、縁が欠けた牌に痛切な一念をこめ、絶叫する。
 「待たせすぎなんだよ、待ちくたびれたよ!!
  さっさとツラ見せろよ東棟の王様、相棒!!」
 衝立のカーテンがかすかに揺れ、他の患者が寝静まった医務室に靴音が響く。
 カーテンを片手で押し上げ、ばつ悪げに顔を覗かせたのは……
 「……………ごめん」
 叱られた子供のようにうなだれたレイジだった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050915095811 | 編集

 ベッドの足元にレイジが所在なげに佇んでいる。
 レイジ、たしかにレイジだ。見間違えるはずもない。瞼を手の甲でこすり、瞬きをくりかえし、正面の暗闇に目を凝らす。暗闇に慣れた目がとらえたのはベッドの足元に途方にくれたように立ち竦んだ青年。あちこち跳ね癖がついた茶髪はほんの数時間前までリングで格闘してたからか?
 レイジの顔をもっとよく見ようと懐でこぶしを握りしめ身を乗り出す。
 よく見りゃレイジは全身擦り傷だらけで上着にもズボンにも赤黒く乾いた血が付着したみすぼらしい格好で、疲労の色濃く憔悴した面持ちで俯いていた。自分の体を支えるように腹に片腕を回し、衝立を背に何とか二本足でバランスを保つその姿はひどく不安定で危なっかしい。
 世界の不幸を一身に背負ってるような悲惨きわまりない姿をさらに際立たせるのは右腕に巻かれた包帯。
 怪我をしたのか?
 夜目にもあざやかに際立つ純白の包帯を見た瞬間、喉がひきつり、変な声を漏らしそうになる。無意識に自分を守るように腹に左腕を回して突っ立ってるレイジの右腕は関節が外れて筋肉が弛緩したように体の脇にたれさがっていた。その袖口が半ばまでだらしなくめくれ、腕に巻かれた包帯が覗いていたのだ。
 すぐに直感した、あれはこのまえサーシャに切られた場所だ。渡り廊下でサーシャと死闘を演じたレイジはその時深々と右腕を切り裂かれた。あの時の怪我がまだ完治してないのだ。
 レイジの馬鹿。深手を負ってるくせに、指一本曲げるだけでも激痛で意識が飛びそうなのに、あんな体でペア戦に出場したのか。格好つけすぎだ。だれにも弱みを見せずひとりで無茶して重荷を全部背負って、しまいにゃ自分がぼろぼろになって、何度も何度も命を落としそうになって、レイジはそれでもへらへら笑ってるようなヤツなのだ。
 それが東棟の王様、俺の相棒なのだ。
 レイジは人慣れない獣のように、ベッドから近すぎず遠すぎず距離を保っていた。
 こんな臆病なレイジ見たことがない。
 レイジの緊張が伝染したか、手のひらがじっとり汗ばみ、動揺がはげしくなる。
 俺に気付かれて仕方なく出てきたはいいものの、枕元にくる決心がつかないらしく、レイジはいまだベッドの足元で引き返そうかどうしようか逡巡していた。女々しいやつ、バレちまったんだから潔く腹を括れ。
 俺の焦燥なんかおかまいなしに、剣呑な殺気を纏いながらも微動だにせず、暗闇に溶けるように立ち尽くすレイジは、彫り深く端正な容貌も相俟ってそうしてるとまるで彫像みたいだ。
 均整がとれた長身を際立たせているのは上着越しに透けてみえるような実戦の筋肉。人に見せつるため誇張した筋肉ではない、俊敏な豹を彷彿とさせる優美でしなやかな肢体は必要最低限に絞りこまれて無駄な贅肉など一片も見当たらない。
 長めの前髪が俯き加減の顔を隠す。物憂げに黙り込んだレイジに言い知れぬ不安をかきたてられる。
 なんか言えよ、おい。なんか言いたいこと俺に会いにきたんじゃないのかよ、だんまりやめろよ。
 そんな情けない面して恨めしげな目をして首をうなだれて、天下の王様の名が泣くぜ。
 ほら、俺に言いたいことがあるんだろ?黙ってちゃわかんねえよ。
 レイジの唇がかすかに震え、物言いたげに開く。が、言葉を発することなくまた閉じられてしまう。
 レイジは気後れしている、自分から話しかける行為に腰が引けてる。俺と目が合いそうになりゃよそよそしく逸らしてしまうし、こっちにしても話しかけるとっかかりがない。
 重苦しい沈黙に喉を塞がれ、息が詰まる。
 なにか言わなきゃ。せっかくレイジと会えたんだ、これを逃したら次にいつ会えるかわからない。次に会える保証もない、これきりになるかもしれない。だめだ、レイジを引きとめなきゃ。俺はレイジに伝えたいことが山ほどある、レイジにかけたい言葉が山ほどある。
 ひりつくような焦燥に駆り立てられ、毛布を掴み、ベッドに膝立ちになる。勢いよく跳ね起きた反動で肋骨が軋み、足首が吊った。胸にのしかかる圧迫感に呼吸を忘れ、毛布をかきむしり、ベッドに上体を突っ伏して激痛が引くのを待つ。酸素を欲して大きく喘げば、生理的な涙が目尻に浮かんで視界がぼんやり滲む。 苦しい、息ができねえ。
 ゆっくりと呼吸し、五指から力を抜き、のろのろと上体を起こす。
 ぼやけた視界にレイジの姿をさがす。レイジはどこだ、どこにいる?まだいるよな、ここにいるよな、帰ったりしねえよな、俺をおいてったりしねえよな。すがるように一心に暗闇を見まわし、五感を全開にしてレイジの気配をとらえようと躍起になる。
 俺を捨てたりしないよな?お袋のようにメイファのように置いてったりしねえよな、俺が好きなやつはみんな俺をおいてけぼりにする、最後には俺を捨てる。レイジは?レイジもそうなのか、俺に愛想が尽きていやけがさしてこんな夜更けに絶縁状たたきつけにきたのか?
 いやだ……いやだそんなの、捨てられてたまるか、おいてかれてたまるか。
 どこだレイジ?
 恐怖で発狂しそうだ。レイジの名を呼びたくても胸が苦しくて声もだせない。畜生やっと会えたのにまたおいてかれてたまるか、俺はずっとお前に会いたかったんだ、お前に会っていいたいことがあったんだ。
 俺の願いが通じたのか、涙が引いた視界にレイジをとらえる。
 ああ、ちゃんといた。心配そうな顔で、俺のほうを窺ってる。でもけして近付いてこない、自分には指一本だって俺にふれる資格がないとでも言うように意固地にその場に踏み止まってる。
 くそったれ、
 「どのツラ下げて会いにきたんだよ、裏切り者の浮気者」
 口をついてでたのは予期しないきつい台詞。
 せっかく会えたってのにレイジが一向に近付いてこないのが悔しくて哀しくて、俺たちのあいだに距離が空いた現実を眼前につきつけられて、なんだか無性にやりきれなくて、嗜虐心に火がついた。体の奥底から突き上げてきたのは残虐な衝動、レイジをおもいきり罵倒したいという抑圧しがたい欲求。やめろ、言うな、本当に言いたいことはべつにあるくせに舌は言うことを聞かなくて、ベッドに膝立ちになった俺は血を吐くように絶叫する。
 「今さら何の用だよ、俺とお前はもう終わったんだろ!お前が枕元でかってにそう告げて出てったんじゃねえか。ひとが凱にさんざん痛めつけられてぐうの音もでねえのをいいことに言いたい放題言って、勝手に絶交したくせに今さら何様のつもりだよ。俺が入院してからずっと、ずっと見舞いにもこなかったくせに薄情者が!!」
 違う、こんなこと言いたいんじゃない。
 なのに一度堰を切った言葉の洪水と激情の奔流は止まらずに俺を席巻して、理性を一片残らず押し流してしまう。暴力的な衝動に突き動かされ、おもいきり腕をふりかぶり、レイジの胸めがけ手の中の牌を投げつける。
 レイジは黙ってそれを受けた。抵抗もしなかった。
 俯き加減に立ち尽くし、胸に跳ね返り床に落ちた牌の欠片を見下ろす。
 「お前はいっつもいっつもそうだ、俺に大事なこと言わずに自分勝手に決めて行動して俺はいつもいつだってなんにも知らずにただお前に守られてばっかで悔しくて、ペア戦参加表明したのだってお前と肩並べて戦いたいからなのに、ただ守られてばっかの足でまといに甘んじてるのが癪で、一人前の相棒になりたくて血反吐吐くおもいで必死に足掻いてきたのにお前は!!」
 そうだ、俺はずっとずっと血反吐吐くおもいで足掻き続けてきた。
 レイジの横に並びたくてレイジの相棒を自負したくてホセの地獄の特訓にも耐えぬいて凱をぶっ倒して実力で勝利をもぎとったのにその時はもうレイジは俺の視界からいなくなって、俺の相棒なんかお断りだって背中をむけて。 
 ぼろぼろの俺は、レイジを追うこともできなくて。
 レイジがいちばん辛くて苦しいときに、そばにいてやることもできなくて。
 俺が弱くて臆病なばっかりに助けてやれなくて、いちばん辛くて苦しいときに突き放して。
 だからレイジはサーシャのところへ行った。俺に突き放されてほかに行く場所がなくなってしかたなくサーシャに身を委ねた。レイジがサーシャに抱かれるよう仕向けたのは俺だ、この俺なんだ。 
 畜生、畜生。わかってる、こんなの八つ当たりだ。悪いのは俺、全部俺だ。あの時レイジの手の甲を安全ピンでひっかいたのは、反吐をもどしながら命乞いをしたのは、ダチを怪物扱いしたのは他でもないこの俺なんだ。
 罪悪感無力感劣等感喪失感、さまざまな感情が混沌と沸騰して獣じみた咆哮が喉を食い破る。
 レイジの胸で跳ねた牌がベッドに戻ってきて、俺はそれを鷲掴みにしてまたレイジに投げつける。容赦なくおもいきり。
 「行けよ、行っちまえ、もう戻ってくんな!そのクソ憎たらしいツラ二度と見せんじゃねえ、殺すぞくそったれが!サーシャんとこ行けよ、行ってたのしんでこいよ、麻薬漬けで鞭食らって嬲られて気持ちよくさせてもらってこいよ!俺がタジマに襲われた晩もサーシャとおたのしみだったんだろ、体じゅうの痣がその証拠だ。人に言えねえ口にだせねえ場所にばっちり痣こさえてきたくせに!!サーシャのナイフで体の中かきまわされるのはどんな気持ちだった、女抱くよりずっとよかったか?感想聞かせろよ!」 
 いますぐ舌を切り落としたい、自分を絞め殺したい。なんで俺はこんなどうしようもない奴なんだ。さっきまでレイジに会いたくて会いたくてレイジに会えるなら他になにもいらないって本気で祈ってたのに、いざ願いが通じればコレだ。
 でも駄目だ、レイジの顔見た瞬間渡り廊下の光景がフラッシュバックして、サーシャに背後から抱きすくめられ上着を暴かれて悩ましく悶えるレイジが瞼の裏にちらついて、今までためにためてた感情が爆発した。レイジは俺に罵られるがまま、じっと耐えて俯いている。腹に左腕を回し体の脇に右腕をぶらさげ、眉間に苦痛の皺を刻んだ表情が妙に被虐的でなまめかしくて暴言がエスカレートする。
 「ケツの穴に粉ぬられてイったんだろ、狂ったように腰振ったんだろ。恭喜、晴れてサーシャの犬になったんだな。可愛がってもらえよ」
 「ロン、」
 「お前なんか大嫌いだ、サーシャの下でよがってろ!!」
 ああ。
 こんなこと、言いたいもんか。俺の体にはまだ覚せい剤が残ってるのか、感情が異常に高ぶって衝動を制御できなくてくりかえし牌を投げつけ攻撃的な態度とってるのも覚せい剤の影響か?胸が苦しい。肋骨が疼くからじゃない。俺は今だれより俺自身を殺したい、俺自身の口を塞ぎたい。俺はいったい何度レイジを拒絶した、見捨てた、裏切った?レイジが会いに来てくれたのに素直になれなくて手足を振り乱して反抗してばかりで、見苦しくてみっともなくて。
 ベッドの傍らに立ち竦んだレイジが諦念するように目を閉じる。気が済むまで責めてくれと促すように。
 それを見た瞬間、俺は自分がしたことの重さと愚かさに打ちのめされた。
 「!!ロンっ、」
 異変を察したレイジが鋭く叫ぶのを無視、手の中の牌を素早く口腔に放りこんで…… 
 ベッドの脚が床に擦れる耳障りな騒音、揺れる視界、全身の激痛。背中からベッドに倒れた俺の上に長身の人影が覆い被さる。
 ガリッ、と異音がした。たしかな歯ごたえがあった。前歯が肉を抉る感触。 
 「こんバカっ、なに考えてんだよお前!!牌なんか食えるわきゃねえだろ、角砂糖と間違えるにしたって無理あるぜ!!」
 俺の口腔に指を突っ込み、牌をかきだしにかかるレイジの必死な形相。
 さんざん罵倒された直後だというのに、レイジは身を呈して俺を助けるのに一瞬たりとも躊躇しなかった。身軽にベッドに飛び乗り片腕で俺の肘を掴み顔の横に固定し、自重で身動きを封じてから顔に顔を近付け、前歯で皮膚を食い破られた指先に牌をつまむ。
 「噛、ほうとしひゃんやよ」
 「手が入ってるから聞こえねえよ、あとにしろ」
 二本の指で無遠慮に口腔をまさぐられ、窒素の苦しみに涙が浮かぶ。顔を左右に振って手から逃れようとするがレイジは容赦せず、喉の奥まで指を突っ込んでくる。口腔の粘膜をまさぐり奥歯を指圧し舌を揉み、淫猥にうごめく指が次第に抵抗力を奪ってゆく。
 奥歯で噛もうとした牌が二個とも、粘着質の唾液の糸をひいて口外に摘出される。 
 「よし、これで全部だな?」
 レイジが確認し、安堵のため息をつく。俺の口腔からとりだした牌には唾液の皮膜が張っていた。ズボンの腰に牌を擦りつけて唾液をぬぐったレイジが、あきれた眼差しをむけてくる。
 「どうかしちまったのか、おまえ。こんなもん噛んでも美味かねえよ」
 「歯を折ろうとしたんだ……」
 「え?」
 レイジに不思議そうに見つめられ、自己嫌悪に耐えられなくなる。頼む、おねがいだからこっちを見るな。今だけは放っといてくれ。俺の情けない顔を見ないでくれ。レイジの視線から顔を庇うように、両手を交差させ表情を隠す。俺は最低の人間だ。レイジにさんざんひどいことを言った。レイジを一度拒絶しただけじゃ飽き足らず二度三度と拒絶した、レイジをひどく傷付けてしまった。レイジは俺がどんなひどいこと言ってもじっと俯いて耐えてるだけでけして手を上げようとせず、すべてを許容するように微笑していた。
 俺は、淡々と言った。
 「歯が折れれば、これ以上ひどいこと言わずにすむ。お前を傷付けずにすむ。どうしても言葉が止まらなくて、舌を切り落としたくてもできなくて、だったら牌をおもいっきり噛んで歯を砕くしかないと思った。それで……」
 嗚咽に詰まり、最後まで言葉を続けられなくなった。俺は本当にどうかしてる。牌を噛み砕いて歯を折るなんて極端な行動にでなくても両手で口を塞げばすむことじゃないかと今気付いた。でも、レイジを罵倒してる最中はそこまで気が回らなかった。たまたま手の中に牌があったから、これを呑みこむしかないと思った。そうやって、責任をとるしかないと思った。
 「………ばあか。あれくらい屁でもねえよ、子猫に噛みつかれたようなもんだ。ひとに罵られんのは慣れてんだよ。とくに女殺しは最高の誉め言葉だ」
 俺を押し倒したレイジが、目と鼻の先で微笑む。
 疲れきった顔に優しげな微笑を湛えたレイジの下敷きになり、呼吸の速さで薄い胸を喘がせる。暗闇に沈んだ天井を背にしたレイジの襟刳りから大胆に鎖骨が覗き、首筋に沿って繊細な鎖が流れ落ち、俺の額に十字架が触れる。ひんやりした金属の感触が火照った額に心地よい。
 俺は今、十字架を通じてレイジと繋がっている。 
 額に落ちた十字架が、興奮の熱を冷ましてゆく。目の前にはレイジがいる。いつでも体を張って俺を受け止めてくれる相棒、俺がどんなにひどいことしても優しく見守って受け入れてくれるダチ。 
 俺はこいつのために、なにができる?
 なにをすれば、許してもらえる?
 「……レイジ」
 「なんだよ」
 レイジが優しく目を細めて聞き返す。俺がレイジを拒絶した過去は消去できない、事実は覆られない。時間はけして戻らないのだ。俺はレイジのためになにができる、なにをすればレイジを喜ばすことができる、引き止めておける?俺だって、レイジに何かを与えたい。レイジの傷を癒したい。
 その為には、レイジがいちばん欲しがっていたものをくれてやるしかない。
 心臓の鼓動が加速し、全身の血が羞恥に沸き立つ。四肢は痺れたように感覚を失って、頭は霞がかかったようにぼんやりして、目は恍惚と潤んで。ベッドに寝そべった俺は、無防備に手足を投げ出した姿勢のまま全身の力を抜く。
 俺がレイジにくれてやれるもんは、ひとつしかない。
 俺自身しかない。
 体の芯まで熱が浸透してくる。ゆっくりと瞼を持ち上げ、うっすらと目を開く。滲んだ視界に映ったのは、当惑したレイジの顔。気遣わしげに眉をひそめて俺を覗きこむその顔をきっかり見据え、喘ぐように口を開く。
 大丈夫、相手はレイジだ。怖くない。
 きっと、すぐに終わる。
 東京プリズンにいる限りいつかは体験することだ、力づくで男に犯されるか望んで男に抱かれるか選べと言われたら大半の人間は後者を選ぶだろう。後者のほうが乱暴じゃないだけまだしも痛みが薄れる。

 いつかはこの時が訪れると薄々予感していた。
 こんな形で実現するとは思わなかったけれど。
  
 深々と吐息をもらし、覚悟を決める。
 上にのしかかったレイジを挑むように睨みつけ、言葉にすれば短い決心を口にする。

 「俺を抱け」

 それが、レイジにしてやれる唯一のことだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050914100007 | 編集

 沈黙が落ちた。
 ベッドに無防備に寝転がった体勢からレイジを仰げば、レイジは信じ難いものでも見たかのような驚愕の相で固まっていた。
 俺の上に跨ったまま言葉を喪失したレイジの顔を、間近でしげしげと見つめる。
 長い睫毛に飾られた双眸には光の加減で淡い金茶に変わる硝子の瞳が嵌めこまれているが、今は暗闇に沈み、深く神秘的な色を湛えている。
長めの前髪に隠された完璧な造作の双眸は瞬きのたびに表情を変える奔放さでひとを魅了する。

 性別を超越した美形、まるで天使か悪魔のような。

 俺は知ってる、レイジが美しい容姿に生まれ落ちたのは褐色肌のフィリピン人と白人とが交じり合って血が混ざり合った産物。干した藁束のような明るい茶髪も不思議な色合いの瞳も彫り深く端正な容貌もエキゾチックな褐色の肌も、男女が国境をこえて睦みあった結果に生まれ落ちた雑種の外見特徴。
 血は血を淘汰する。
 血に血が混ざれば、両者の特性が備わるあたらしい人種が生まれる。両親どちらにも似てるようで似てないどっちつかずの中途半端な存在。
 レイジは俺の同類だ。俺とおなじ半端者だ。半端者同士傷を舐め合うみじめな真似はごめんだ、自分をむなしくするだけだと言い聞かせてレイジに背中を向けた日を懐かしく回想する。
 最初はそう思ってた、意固地にレイジを拒んでた。レイジがどんなに俺に優しくしてくれても素直になれなくて反抗的な態度とってばっかで、なのにレイジはそんな俺にむかつきもせず「しょうがねえなあロンは」と笑ってくれた。笑いながら受け入れてくれた。いつからレイジに心を開き始めたんだ、レイジの隣で安らぎを感じ始めたんだ?

 今はこいつがいない生活なんて耐えられない。

 レイジがいないあいだずっとずっと寂しかった、寝ても覚めてもレイジのことばかり考えていた。なんで俺のそばにいてくれないんだよ、寄り道してねえでさっさとツラ見せろよと何度心の中で名前を呼んだことだろう。でもレイジは来ちゃくれなかった、俺がタジマに襲われた晩もサーシャといちゃついてた。
 サーシャとのことはまだ許せない。絶対に許せそうにない。サーシャに抱きすくめられたレイジが喉をのけぞらせ艶かしく身悶える光景が忘れられない。
 
 でも、俺はそれでも、レイジを完全には嫌いになれない。

 レイジにそばにいてほしい。サーシャのとこへ行かせたくない。
 俺は卑怯で最低だ。ほかにできることがなにもないから、体でレイジを繋ぎとめようとしてる。衝立にちらりと目をやる。サムライはぐっすり眠ってるらしい、今なら大丈夫だ、バレるはずがない。いや、バレてもかまわない。
 今を逃したらもう二度とレイジと会えないかもしれない、今を逃したら二度とレイジを取り戻すチャンスは巡ってこない。
 憎悪と紙一重の執着が胸を焦がして、体から汗が蒸発してゆく。
 熱い。なんでこんなに熱いんだ?なんでこんなに心臓がうるさいんだ?レイジが目と鼻の先にいて、レイジの吐息が睫毛を湿らせて、レイジが膝を移動させたせいでベッドのスプリングが耳障りに軋んで、俺の背中が軽く跳ねる。
 「どうした?抱けよ」
 声の震えを押し殺して挑発する。レイジは俺の上に覆い被さったまま、金縛りにあったように動かない。俺の顔の横に両手をついて、腰を跨いで両足をベッドにのせた四つん這いの姿勢で固唾を飲む。
 「なん、でそうなるんだよ」
 レイジがいつになくうろたえた声で反駁する。らしくない、王様はいつでも堂々としてなけりゃ。下僕をリードするのも王様のつとめだろと虚勢の笑みを浮かべれば、レイジの顔がにわかに真剣味を帯びる。
 「本気で言ってんのか?」
 「本気も本気だよ。さあ、遠慮せずに抱けよ。ずっと俺とヤりたかったんだろ、今までさんざん待たせて悪かったな。さあ、煮るなり焼くなり好きにしろ。ケツに入れたことないから裂けるかもしれないけど、そんときはベッドで鼻血噴いたってごまかす」
 「正気かよ……」
 「目を見ろ、正気だよ。大マジだよ。情けないツラすんなよレイジ、ずっと俺とこうしたかったんだろ?いいさ、思う存分気が済むまで抱かれてやるよ。バックでも正上位でもケツひっぱたいて好きな体位とらせろよ、お袋がよくやってたように真似するからさ。コンドーム持ってるか?……まあ、女じゃないから要らねえよな。念の為聞いとくけど変な病気もってねえよな?うつされちゃたまんねーよ」
 「やめろよロン。どうかしてる」
 「レイジ、俺の目を見ろ。もっと顔近付けて、額くっつけて、目の奥を覗きこめ……ああ、お前睫毛長いな。女とキスするとき大変だろ。この距離からだと眼球に睫毛刺さりそうでひやひやしてる」
 「よく女に羨ましがられた」
 「やっぱな。なあレイジ、遠慮すんなよ。もう限界なんだろ、勃ってるんだろ。お前にやせ我慢は似合わねえよ。前に約束したよな、ペア戦100人抜き達成したら抱かせてやる、お前の女になってやるって」
 「あの約束は無効だろ」
 「違う、まだ生きてる」
 誘惑に抗うように首を振るレイジに噛みつき、自分の胸に手のひらをつきつける。
 「ここに生きてる」
 レイジが自分勝手に解消したつもりでも俺はそれに応じてない。
 虚を衝かれたレイジを見据え、深々と息を吸う。胸郭の上下にともない折れた肋骨が疼き、壮絶な激痛が胸を苛む。痛い、苦しい。弱音を吐いてる暇はない。
 ゆっくり息を吸ってまた吐いて、体の脇でこぶしをにぎりしめ、狂ったように叫ぶ。
 「それでも王様かよ、ちゃんと約束守れよ!お前から言い出したんだろ100人抜きの褒美に俺抱きたいっていいよ抱かしやるよ、俺なんかでよけりればいくらでも!
 俺が抱かせてやらなかったからサーシャのとこへ行ったんだろ、俺がいつまでも生意気言って逆らってばっかだから嫌になって、麻薬使ってすぐに気持ちよくしてくれるサーシャのところに行ったんだろ!?」
 サーシャにレイジを奪られたくない。
 やっとできたダチなのに、生まれて初めての相棒なのに。
 サーシャからレイジを奪い返すためならなんだってやる、どんな見苦しい醜態晒してレイジに辟易されてもかまうもんか、ケツが裂けても下肢を血が伝っても激痛に意識が飛んでもかまやしない、どんなにひどくされたってかまわない。なんなら肋骨のもう一本か二本折ったっていい、どんなにひどくされたって耐えてみせる。

 だからレイジ、俺を捨てないでくれ。

 いったん堰を切った言葉の洪水はとどまることなく理性を押し流して、俺はレイジの胸ぐらを引き寄せていた。
 親に捨てられた子供が二度とおいてかれまいとなりふりかまわず縋るように、勢いに任せて上着の胸ぐらを掴めばレイジが前傾して額に額がぶつかる。
 鈍い音、頭蓋骨が震動。
 「サーシャにとられてたまるか、お前は俺のもんだレイジ、だからお前も俺を自分のもんにしろ!知ってるんだぜお前が上着の下に痣隠してるの、その痣だれにつけられたか言ってみろよサーシャにつけられたんだろ、サーシャにねちっこく吸われたあとだろ!?
 なんでよりにもよってサーシャなんだよ、虐待する主人に懐く犬がどこにいるんだよ、おかしいよ。お前セックスは愛がなきゃ駄目だって言ってたじゃんか、あれは口からでまかせかよ、ほんとは気持ちよけりゃだれでもいいのかよ!!」
 焼き鏝をおしつけられたように額が疼く。レイジの胸ぐらを揺さぶり檄をとばす俺の脳裏には、サーシャに思うさま抱かれるレイジの扇情的な姿態がちらついてた。

 気持ちよけりゃだれでもいいのか、レイジ。
 お前を必要としてる人間じゃなくても、快楽を与えてくれる相手ならだれでも尻尾を振るのか?
 
 「気持ちよけりゃ、俺じゃなくてもいいのかよ!!」

 レイジの胸を力任せに殴り付ける。レイジは抗いもせず俺のこぶしを受け止め泣きそうに微笑んでいた。俺がこれまで見た中でいちばん綺麗で哀しい笑顔。諦念と慈愛が綯い交ぜとなった眼差しは、聖書にでてくるイエスを彷彿とさせた。もちろん俺は聖書なんか読んだことないし読んでも難解すぎてわけわからないとは思うが、レイジが日頃ベッドに腰掛けて退屈そうに読み耽ってる聖書をきまぐれに覗いてみたら、こう書いてあった。
 『汝、隣人を愛せよ』
 有名な言葉だ。汝隣人を愛せよ。今のレイジは聖書の教えを体現するように哀しげに愛しげに微笑んだまま、上着の胸ぐらを乱暴に揺さぶられて、両のこぶしで胸板を叩かれ、血を吐くように責められてもけして手を上げようとしない。
 レイジは隣人を、俺を愛してたのか?なら。俺のことを好きでいてくれたのなら、なんでサーシャのとこなんかに行ったんだ?
 溶岩のように沸騰した激情が血管内を巡り巡って体温が急上昇、歯止めが利かなくなった俺はめちゃくちゃにこぶしを振るってレイジを痛めつける。
 「サーシャとは寝たくせに俺とは寝れないのかよ、舐めるなよレイジ、いつまでもガキ扱いすんな!!ここに来た時から覚悟はできてたんだ、遅かれ早かれ男に犯られちまうって人生諦めてたんだから今さら貞操なんか惜しくねえよ、足開いてお前にくれてやるよ!」
 ここまで言ってもレイジはまだ汝隣人を愛せよなのか。片時も笑みを絶やさないレイジに頭の血管がぶちぎれて、俺はレイジの方へと身を乗りだしその股間に手をのばす。
 「!おまえどこさわっ……大胆すぎだろ!?」
 「勃ってんだろ、ズボンおろせばすぐできるんだろ、ならかかってこいよ足腰立たなくなるまで相手してやるよ!俺のほうがサーシャより何倍も何十倍もイイって思い知らせて一生離れられなくしてやる!!」
 慣れない手つきでレイジの股間を揉めばちゃんと反応が返ってくる。
 俺も男だ、人にさわられれば男でも女でも関係なしに反応しちまう生理現象はタジマで体験済みだ。思い出したくもないおぞましい記憶を打ち消すように固く目を瞑り、レイジの股間を揉みほぐす。思い出せ、お袋はどうやってた、どうやって男を悦ばせてた?
 思い出せ、メイファの手を。俺の股間をやさしく揉んでズボンを脱がせて股の間にすべりこんできた手を。お袋の手に俺の手を重ね、メイファの手に俺の手を重ね、飢えた獣のようにレイジの腰にしがみついてズボンをさげおろ……

 ―「ロン」―
 
 突然、噛みつくように唇を奪われた。
 顎に手をかけ顔を上向かせ、顔に顔を被せ唇で唇を塞ぐ。レイジはおそろしく手慣れていた、腰にしがみついた俺が名前を呼ばれて虚を衝かれた一瞬に貪欲に唇を求めてきた。
 唇をこじあけ強引に押し入ってくる舌、熱く柔らかい襞が前歯を這い、たちどころに舌を絡めとる。
 淫猥に蠢く舌が口の柔らかい粘膜をむさぼり歯の裏と表を這いまわる。こんなキス生まれてはじめてだ、俺がメイファにキスしたときはもっと遠慮がちにおそるおそる……
 「ふ、っう、く」
 遠慮を知らないレイジの舌が頬の内側の敏感な粘膜をつつき、体が崩れ落ちそうになる。レイジの胸に預けたこぶしから急速に力が抜けてゆく。
 レイジの首からぶらさがった鎖が俺の上着の内側に紛れこんで、汗ばんだ鎖骨と胸板に十字架が吸いつく。
 体の火照りを吸い上げ、十字架が熱を帯びる。
 苦しい。息ができない。頭に霞がかかったように意識が薄れてゆく。体の芯が蕩けそうに濃厚なキス。レイジの体にはまだ麻薬が残ってるのか、口腔へと注ぎ込まれた唾液を嚥下すれば、上着が素肌に擦れる感覚さえ、さんざん焦らされてお預け食らってるような甘い疼きへと昇華する。
 もう耐えられない、気が狂う。
 はなれろ、はなしてくれ、窒息しちまう。レイジの胸を突き放そうと両手を突っ張った俺の目を射貫いたのは、一刹那の銀光。

 え?

 舌を絡ませるキスで俺に注意がよそにむかないようにしたレイジが、腰の後ろに手を回し、迅速にナイフを抜き放つ。レイジが左手で背中から抜き放ったナイフが顔の横を掠めて薄皮を裂く、顔の横をちょっと切っただけで済んだのはその寸前に唇を解放されたからだ。
 支えを失い、均衡を崩した体が後ろ向きに倒れてゆく。
 宙にむなしく腕をのばして虚空を掴んだ俺の視線の先、ベッドに立ち上がったレイジが無造作にナイフを薙ぎ払う。俺を見下ろす目は冷たい。
 なにが起きたんだ?気が動転して肘であとじさる俺めがけて再びナイフが襲い来る。反射的に目を閉じる。走馬灯のように過去が脳裏を巡るなんてことはなく、目を瞑れば瞼の裏の暗闇に包まれるだけ。それが現実。ナイフで刺し殺される恐怖に固く固く目を閉じた俺の横でぼふっと空気が抜ける音、続き、なにか柔らかいものが頬をくすぐる。 

 おそるおそる目を開く。
 暗闇に、夜目にもあざやかに純白の羽毛が踊っていた。
 
 囚人服を血に染めてベッドに立ち上がるレイジの背景に盛大に舞い散るのは、おびただしい羽毛。俺の顔の横、枕のど真ん中には深々とナイフが突き立っていた。それで合点がいった、暗闇に舞い散る羽毛の正体は無残に裂かれた枕の中身だ。
 レイジは綺麗だった。
 命の危機に瀕したこんな時だってのに、俺はレイジの尋常じゃない美しさに見惚れていた。闇に吹きすさぶ羽毛を背負ったレイジは、翼をちぎられ羽をむしられた堕天使のようだった。聖書にでてきても不思議じゃない人間を超越した存在に見えたのは、死への恐怖が見せた幻影か?
 暗闇から生み落とされたように、ただありのままにそこにいたレイジが微笑する。
 「わかったふうな口きくなよ」
 俺のなにかが、レイジの逆鱗にふれた。
 「!やめ、」
 レイジが豹じみた敏捷さで俺の上にのしかかりおさえこみ、ナイフを乱暴に引きぬく。ナイフが抜かれた裂け目から羽毛が飛び散り俺の頭や顔や肘に付着する、レイジも俺とおなじように羽毛だらけだが、だれかの返り血で全身朱に染めたその姿は、翼をむしられた傷口から血を流す天使のようだ。
 レイジが怖い。今のレイジはなにやらかすかわからない。
 左手で器用にナイフを握りなおしたレイジが意地悪くほくそ笑む。
 「さっきまでの威勢よさはどこ行ったんだよ?俺に抱いてほしいって喚いて暴れてたじゃねえか。いいさ、お望みどおり抱いてやる。めちゃくちゃに抱いて抱きまくって俺なしじゃいられない体にしてやるから覚悟しろ。はは、お前さっき言ったよなあ。サーシャのナイフで体の中かきまわされてたくせにって」
 レイジが汗の匂いを嗅ぐように俺の首筋に顔を埋め、舌で舐める。
 「俺のナイフでかきまわして欲しいなら、そう言えよ」
 さっきとは雰囲気が豹変し、狂気に身を委ねたレイジが俺の顎を掴み、強引に上向かせる。口の端からもぐりこんできたのは無遠慮な指、俺の口に指をひっかけて限界まで広げたレイジが、あろうことかナイフの先端を突っ込んでくる。

 いかれてやがる。
 
 レイジは嬉々と笑っていた。
 「吐きそうでも我慢しろよ、いっぱいに開けておけ。じゃないと舌が細切れだ。舌がなきゃディープキスできなくて不便だろ?ああ、その前にしゃべれねえよな。もの食うときも大変だ。お前の舌が切れたら俺が口移しで餌与えてやるよ、それが飼い主の役目だもんな。
 なあロン、お前はなにもわかっちゃいねえ。俺の我慢を台無しにする気か?なんでそんな無防備なんだ、何回も何回も俺のこと信じるフリで裏切るんだ。
 お前今怖いだろ。口にナイフ突っ込まれて脅されて死ぬほどびびってるだろ。どうだ、漏らしちまってるんじゃねえか?」
 めいっぱい開けた口にナイフを突っ込まれて、閉じることもかなわず唾液を飲み干す俺の股間へと右手がのびる。
 怖い、気が狂いそうに怖い、口にナイフ突っ込まれた俺を見てレイジは愉快げに笑ってる。苦しい、そろそろ顎が限界だ、もう解放してくれと一心に念じる。

 「お前、なにもわかってないんだな。なんで俺がお前からはなれたのか、わからないなら教えてやろうか?お前をいつか殺しちまうのが怖かったからだ。俺はレイジ、憎しみを抑えつけるのがとんでもなく下手な人殺しの天才だ。お前との遊びに本気になって蹴りくりだしたとき、それを思い知った。
 またいつか、あれとおなじことが起こるかわからない。
 なあロン、俺が怖いだろ。口にナイフ突っ込まれて閉じれなくて、喉にたまった唾液にむせて、色っぽい涙目になって。いいぜその顔、めちゃくちゃそそる。噛み殺したいくらい可愛いよ。 
 無理すんなよ、素直になれよ。俺の前だからって格好つけるこたない、俺が怖いならフッていいんだぜ。
 正直に俺が怖いって言えよ。そしたら許してやる、見逃してやる。 
 俺の歓心めあてに抱かれてやる?俺のダチに戻りたいから体をさしだす?売春班に染まったんじゃねえかお前、それは娼婦の発想だろ。ロン、マジで俺を受け入れる覚悟があるのか?今ナイフを口に突っ込んでるみたいにはいかねえぜ、下の口に無理矢理ねじこまれるのはもっと痛くて苦しくて麻酔なしで切開手術うけてるようなもんだ」
 
 低く落ち着いた囁きが闇に流れる。

 「俺を中に入れる度胸があるのか?
  それでもまだ、俺のダチでいる覚悟があるのか?」
 俺のことを何も知らないくせに、これ以上踏みこんでくるな。 

 たしかに俺はレイジのことを何も知らない。何故幼少時のレイジが、糞尿垂れ流しの暗闇に訓練と称して隔離されていたのか。何故クソまずい缶詰で飢えをしのがなければならなかったのか。
 レイジは人殺しの天才。身のまわりあるものすべてを武器にして敵を打ち倒す。ずば抜けた運動神経とたぐいまれなる格闘センスの素地は生まれ持ったものだろが、それを磨いたのは環境だ。

 レイジは何故人を殺さなければならなかった?
 東京プリズンに来なければならなかった?
 
 俺は臆病だから、何も知らないままレイジを受け入れようとした。レイジの過去を知ってしまったら決心が揺らぐ気がしたからだ。今も耳を澄ませば音痴な鼻歌がどこからか聞こえてくる。闇の向こうから、現実と妄想の境から、膝を抱えた子供が口ずさむストレンジフルーツが流れてくる。
 
 駄目だ。
 駄目だ、あきらめちゃだめだ。ここで選択を間違えたらレイジとは二度と元に戻れない。俺たちは本当の本当におしまいだ。口をめいっぱい開いたまま、おそるおそる手を動かしてレイジの手首を掴む。 
 この手を放すもんか。
 サーシャのところへなんか行かせるもんか、暗闇に戻すもんか。
 五指に力をこめ、レイジの手首をどかす。あっけなく口腔から引かれたナイフからレイジへと視線を転じ、俺は言う。
 「……たしかに俺は、お前のことをなにも知らない。お前がなんで暗闇に閉じ込められてたのか銃声当てさせられたのかドックフードよりまずい缶詰むさぼってたのか知らねえよ、なら教えてくれよ、立ち入らせてくれよ!」
 激情で声がかすれる。ナイフを左手にぶらさげたレイジは困惑の色を目に湛えていた。 畜生鈍感め、まだわからないのかよ、最後まで言わなきゃわからないのかよ!毛布をはねのけて膝立ちになって、声を限りに叫ぶ。
 「お前はいっつもそうだ、ひとりで勝手に決めてひとりで勝手にいなくなって残された俺がどんなに心配するかとか寂しがるかとかちっとも考えねえ!!俺のこと傷付けたくないからよそへ行く?
 馬鹿にすんな、それがいちばんこたえるんだよ!夜中にお前が隣にいないと不安で寝つけなくて悪夢見て飛び起きるくりかえしでへたな鼻歌が聞こえないと妙に耳寂しくて、お前が隣で笑ってくれないと呼吸するのもいやになるんだ!
 考えてみろ、一年と半年だ。俺とお前が出会って毎日ツラ拝みながら暮らすようになって一年半、そばにはあたりまえのようにお前がいたんだよ!
 俺はここにくるまでダチもいなくて、ずっとひとりぼっちで、だれかが俺に、俺だけのために特別に笑いかけてくれることなんかあるわけねえって諦めてヤケになってたんだよ!
 愛想笑いじゃない、冷笑じゃない、ちゃんと俺の目を見て笑ってくれるやつなんか今までひとりもいなかった!お袋は冷たく俺を見下した、メイファは俺のむこうに恋人を見てた。俺のために、俺の前でだけ最高の笑顔を浮かべてくれるヤツなんて世界中さがしたっていないって」

 世界中さがしたって、そんな物好きいるはずない。
 俺を好きでいてくれるヤツなんか、いるはずない。

 「でも、やっぱり、何度見てもそうなんだよ」

 俺はあきらめてたんだ。俺のこと好きになってくれるヤツなんかどこにもいないって、俺に笑顔をくれるヤツなんかどこにもいないって。
 なのにレイジは違った。 
 レイジは俺の前で、いちばんいい顔して笑うのだ。
 俺の前でだけ、笑うのだ。

 「お前、自分じゃ気付いてないかもしれねーけど、俺の前で笑ってるときがいちばん楽しくて幸せそうに見えるんだよ。悩みなんかかけらもないって能天気なツラでげらげら笑い声あげて、こっちが憎らしくなるくらいで」

 俺は、俺がだれかのいちばんになれるなんて思ってもみなかった。
 嬉しかった、誇らしかった。だってそうだろ、俺もとうとうだれかのいちばんになれたんだ。俺を心の底から必要としてくれる人間が見つかったんだ。
 そいつが人殺しだろうが怪物だろうが関係ない、レイジはレイジだ、笑い上戸の王様だ。俺の裏切りがレイジの笑顔を奪ったのなら、俺はレイジに笑顔を返したい。またおもいきり笑って欲しい、ふたりで、いや、鍵屋崎やサムライやついでにホセやヨンイルもまじえてくだらないことしゃべりあって騒ぎたい。 
 なあレイジ、そっちよりこっちのが断然たのしいだろ。
 鍵屋崎やサムライやホセやヨンイルが、皆がいるこっちのほうがずっとたのしそうだろ。
 だから、

 ―「お前が笑ってくれないと、俺も一生笑えないんだよ!!」―

 ああ、大きな声だしたから胸が苦しい。声が肋骨にびりびり響く。俺はレイジに笑ってほしい。他人の悩みも吹っとばす能天気な笑顔で「愛してるぜロン」と言ってほしい。
 そしたら俺も、きっと笑える。
 今度こそレイジとふたりで、腹の底から笑える。
 重苦しい沈黙が続いた。
 ぐちゃぐちゃで気恥ずかしくてレイジの顔をまともに見れない俺の耳朶に、吐息がふれる。
 「……眠れない夜の子供に昔話をしてやるよ」 
 昔話。レイジの過去。
 レイジが人殺しの天才にならざるをえなかった理由。
 「後悔しないって約束できるか?」
 レイジが耳元で囁く。正直、レイジの過去を聞いて後悔しない確証が俺にはない。レイジが抱える狂気はすさまじすぎて、本人の口からその理由を聞いたら俺はきっとびびってしまう。
 だから俺は、レイジの目をまっすぐ見つめ、きっぱりと言う。
 「後悔しない約束はできない」
 間髪いれず却下されたレイジが拍子抜けしたように目をしばたたく。
 そんなレイジを真剣に見据え、俺は力強く断言した。 
 
 「でも、嫌いにならない約束をする」

 後悔はするかもしれない。
 でも、レイジの過去を知ったところで、俺はどうしてもこいつを嫌いになれる気がしない。
 どんなにイカレていても、どんなに人を殺していても、レイジは俺の隣にいる限りレイジなのだ。
 俺たちの自慢の、東棟の王様なのだ。

 それを聞いたレイジが何ともいえない笑みを浮かべる。
 救われたような、絶望したような、底知れない笑顔だった。
 肩からだらりと右腕をぶらさげたレイジが長々と疲労のため息をつき、俺の前に座りこむ。膝を崩して座りこんだレイジが、緊張した面持ちで黙りこむ俺に首を傾げ、イタズラっぽく笑いかける。
 「引くなよ」
 そしてレイジは、甘い酩酊を誘う独特の響きの声で長い長い話を始める。
 ストレンジフルーツの歌詞より、ずっと悲惨で救いのない話を。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050913100130 | 編集

 俺の名前はレイジ。英語の憎しみ。
 不吉だよな、憎しみなんて。子供の人生呪ってるような縁起の悪い名前だろ。
 普通、名前てのは産まれてきた子供に幸せになって欲しくて親が願いをこめてつけるもんだよな。お前の名前はロン、中国語で龍。強そうで格好いい。お前の親はきっとガキに強くて格好いい男になってほしくて龍の字をあてたんだよ。由来が麻雀の役名だからって恥じるこたない。
 俺、お前の名前好きだぜ。
 どこから話そうか。
 長い長い話になるから覚悟しろよ。途中で寝るなよ。はは、なんか改まって話すとなると緊張するな。お前とこうやってベッドに座りこんで向き合うの、変な感じ。肩の力抜いてリラックスして聞いてくれよ、今から気い張ってたら身がもたねえぜ。後ろ手ついて足を崩して、体がしんどいならパイプに背中凭せて。
 怪我人なんだから無理すんなよ、肋骨折れてんだろ。なに、怪我人にナイフつきつけてさんざん脅した人でなしはどこのだれだって?降参、一本とられた。そうカリカリすんなって、俺はただお前に大人しくして欲しいだけなんだ。
 音痴な鼻歌を聞くみたいに、俺の話に耳を傾けてくれたらいい。

 ロン。お前なんで東京プリズンに来た?

 いまさらなこと聞くな、知ってるくせに白々しいって?
 そう、知ってる。お前は池袋を縄張りにしてた武闘派チームの生き残り。親に捨てられたり親元から飛び出したり、行き場をなくした台湾人のガキどもで構成されたチームの一員だった。
 ロン。お前がここに来たのは、手榴弾で敵チームのガキどもを殺傷したからだ。
 偶然お前の手に渡って運命を変えた手榴弾は、もとは東南アジアのどっかの戦場に送られる予定だった。 

 今、東南アジア全土を巻き込む戦争が起きてるのは知ってるな。
 そう、第二次ベトナム戦争だ。
 話がとぶけどちゃんとついてこいよ。北朝鮮は三十年前に韓国に併合されて世界地図から消えた、これは世界共通の常識。でも、共産主義を信望する人間が絶滅したわけじゃない。北朝鮮崩壊前後の混乱期にどさまぎに乗じて国外逃亡した社会主義の残党は、手ごろな潜伏先として東南アジア各地に散らばった。
 日本やアメリカに渡った連中はすぐに挙げられたけど、東南アジア各地に散らばった連中はうまく地下に潜って社会主義再興を信じて活動をはじめた。
 北朝鮮には戻れない。
 戻ってもすでに北朝鮮という国は存在しなくて、韓国では自分たちの顔が連日ニュースで流され喧伝されてるから、里心がついて帰国しようものならすぐに面が割れて逮捕されちまう。
 故国の半島を取り戻すのが不可能なら、東南アジアの半島に理想の社会主義国家を打ち立てればいい。正気の沙汰じゃないけど、追い詰められた人間は誇大妄想を本気で実現しようとするもんだ。
 で、そいつらがまずはじめたの資本主義への攻撃。
北朝鮮が瓦解した最大の原因がアメリカ主導で強行された経済封鎖ってこともあって、潜伏犯の多くが社会主義の仇敵アメリカを恨んでた。
 結果、テロの標的になったのは東南アジア各地のアメリカ大使館で、もちろんアメリカがこれを黙って見過ごすわけがない。
 つまり、八十年前のイラク戦争とおんなじことが起きたんだよ。
 テロの報復の戦争。
 最初、アメリカ大使館をテロから守るために大量の兵器と米軍をおくりこんできた。その前からアメリカは東南アジアの国々をせっついて捜査に協力しろだのはやく捕まえろと圧力かけてたんだけど、東南アジア落ち延びた連中とその協力者は一万人にも達するって俗に噂されてて、東南アジアとアメリカが協力したところで地下に潜った一万人を早晩洗い出すのは無理な話で、業を煮やしたアメリカは「自分んとこの大使館は自分とこの軍隊で守る、役立たずの臆病者はひっこんでろ」 って、大量の軍隊送りこんでどっかり腰を据えちまったわけ。
 しばらくはテロとのいたちごっこが続いた。
 やらたらやり返す不毛なくりかえし、血で血を洗う悪循環。当然被害は逃亡先に選ばれた東南アジア各地におよんで、民間人が多数巻き添えくって命を落とした。
 事態が泥沼化して激怒した東南アジア諸国が手を組んで、「人の庭先で喧嘩すんな、おまえらでてけ」と抗議したんだけどアメリカは聞く耳もたない。
 逆に「俺たちは軍隊送りこんでテロの被害からお前ら東南アジアのイエローモンキー守ってやってんだ、ありがたい救世主さまにその態度はなんだ、気に入らねえ。お前ら実はこっそりテロリスト匿ってんじゃねえのか、だからいつまでたっても地下に潜ったネズミのしっぽが掴めないんじゃねえか」といちゃもんつけて、そっからさきはまあ予想どおりの展開。
 他人の喧嘩にわりこんだら、自分に矛先むくのが世の不条理。
 第二次ベトナム戦争って呼び方は正確じゃないけど、アメリカ側にとっちゃ第一次のリベンジの意味合いがこめられてるからあながち間違ってねえのかもな。
 
 ひどい戦争だった。

 テロリストが地下に潜ってでてこねえなら東南アジアのイエローモンキーともども根絶やしにするまでだ、なんて極端な危険思想にアメリカが走ったとは思いたくねーけど、実際そうとしか考えられない惨状で戦場だった。
 戦火は東南アジア圏をまるまる呑みこんだ。
 島国フィリピンも例外じゃない。
 フィリピンは過去アメリカの植民地だったから英語をしゃべれる人間がたくさんいて、キリスト教を信仰してる人間もたくさんいた。でも戦争になれば関係ない。米軍はフィリピンをあっというまに武力制圧して政権を乗っ取って、情け容赦ないテロリスト狩りを強行した。 
 共産主義思想のテロリストかテロリストの協力者とおもわれた連中は、片っ端から連行されて厳しい尋問をうけて大半は二度と帰ってこなかった。その殆どは濡れ衣かけられた無実の民間人で、テロリストでもなんでもなかった。 
 やられっぱなしで黙ってるわけにはいかない。親や兄弟や親戚、友人や恋人を官憲に強制連行された連中が頭にきて、民間ゲリラとして徹底抗戦をはじめた。
 第一次ベトナム戦争で米軍をさんざん苦しめたのもおなじ民間ゲリラだった。だから米軍は、徹底的にゲリラを叩いた。フィリピンはひどい内戦状態におちいった。
 それが十八年ばかり前。
 その頃、フィリピンのとある村に美しい少女がいた。
 年のころは十六・七歳、名前はマリア。マリアはとびぬけて別嬪なことをのぞけばごく普通の女の子で、親兄弟を手伝って畑を耕したり家事をしたり毎日平和に暮らしていた。マリアが生まれたのは牧歌的な土壌の田舎の村で、村人は気のいいやつばかりだった。
 マリアは熱心なキリスト教徒だった。
 日曜日は毎週欠かさず村でただひとつの教会に通った。ペンキが剥げ落ちて廃屋になりかけたみすぼらしい教会だけど、マリアは毎週末になると決まって信徒席の最前列に腰掛けて、胸の前で五指を組み合わせて、正面の壁に掲げられた十字架に祈りを捧げた。
 マリアの家族は皆信心深いカトリック教徒で、マリアは幼い頃から主の教えに背くことないよう厳しく躾られた。マリアの胸にはいつも黄金のロザリオがぶらさげられていた。
 マリアがほんの子供の頃、親に連れられてはじめて教会を訪れたとき、老齢のため引退する神父がこの幼い信徒の行く末に祝福あれと皺張った手で頭をなでて、ロザリオを握らせたんだそうだ。
 マリアはそのロザリオをとても大切にしていた。いつもどこへ行くにも肌身はなさず身につけてもう体の一部だった。
 神の教えに従順なマリアは、村でいちばん美しく優しい娘に成長した。膝をすりむいて泣いている子供がいればおぶさって家に送りとどけてやり、盲いた目の老人に乞われりゃ音楽みたいに綺麗な声で聖書を読み聞かせてやった。
 マリアは幸せだった。
 神への愛は揺らぐことなく、信仰に疑いを抱くことなく、やさしい両親と兄弟と村人たちに愛されて、いつかは村の男と結婚して家庭に入ることを無邪気に夢見ていた。

 幸福な日々に、突然終止符が打たれた。

 ある日、村が米軍に襲われた。都会からはなれてるし安全だって思いこんでたのに何故こんな田舎に、と女子供は驚いたけど、村の男どもはちゃんとそのわけを知ってた。
 女子供は知らなかったけど、村の男どもは実は反政府ゲリラとして活動していたんだ。都会に比べて平和とはいえ、近隣の村に米軍が攻め入って暴虐の限りを尽くしたとか不穏な噂も近頃じゃ耳にして村の男どもはぴりぴり殺気立っていた。
 やられる前にやれ。
 無抵抗で殺されるくらいなら、自分たちで米軍の侵攻から村を守ろう。
 そして村の男どもは、最愛の妻子や恋人を守るため村ぐるみの反政府ゲリラとして徹底抗戦を開始した。ツテを頼りひそかに武器を調達して物置小屋に隠して、妻子が寝静まった夜ともなれば村をぬけだして前もって調べておいた米軍野営地を襲撃して物資を強奪する。無謀にもそんなことをくりかえしてるうちに、本拠地の村を米軍に嗅ぎつけられた。
 THE END.
 マリアの村ではあたりまえのことがあたりまえに起きた。戦争には付き物のとるにたらない惨劇、ありきたりな悲劇。村はあっといいうまに米軍に占拠されて男は皆殺しにされた。村の広場に集められてマシンガンで蜂の巣にされて脳漿と臓物をぶちまけた。年寄りにも子供にも容赦なかった。男どもは必死に、死に際までみっともないくら必死に女子供はなにも知らないから見逃してくれと、全部俺たちが勝手にやったことだから妻や子供には手をだすなと哀願したがだれもそんな戯言真に受けなかった。
 ゲリラは根絶やしにしろ。
 米兵は徹底的に村を破壊し尽くして、土肌むきだしの田舎道の両側にこじんまりとした家が立ち並ぶ素朴で美しい景観を弾痕だらけの戦場へと塗り替えた。

 暴行、強奪、虐殺。

 若い女は犯され殺された。中の何人か、特別若くて美しい女はすぐ殺しちまうのは惜しいし、長く楽しみたいからと誘拐された。両親と兄弟を目の前で惨殺されたマリアは滂沱と涙を流した自失の状態で、血だまりにへたりこんでるところを米兵に連れてかれた。四肢に力が入らず抵抗もできなかった。結果的にそれがマリアの命を救った、赤黒い肉塊と化した家族の死骸に激情して米兵に逆らえばその場で撃ち殺されていた可能性もある。

 マリアにとっては、家族と一緒に撃ち殺されてたほうが幸せだったかもしれない。

 暴行、強奪、虐殺ときて最後にくるのはなんだと思う?
 ……そうだよ。強姦。戦争中にはありきたりなこと。若くて健康で綺麗な女は皆にまわせる極上の戦利品。犯して犯してボロ布になるまで犯しまくって飽きた頃には、大抵の女は頭がおかしくなってる。
 マリアは村でいちばんの別嬪だった。初恋もまだだった。マリアが生涯の愛を捧げてたのはイエスさまだけで、生身の男との恋愛もまったく経験してなかった。
 マリアは三日三晩、何人もの男にかわるがわる犯されつづけた。
 家族を殺した憎い兵士、家族を肉塊にした非道な連中に飲まず食わずで輪姦された。泣いても叫んでも無駄だった、だれも助けちゃくれなかった。マリアがヒステリックに泣き叫ぶほど、手足を振り乱してあばれるほど男たちは興がのった。
 そして三日後、マリアは捨てられた。
 全裸にボロ布のように引き裂かれた服をひっかけたあられもない姿で、青く抜ける空の下、乾燥した田舎道の途中でジープから放り出された。濛々と煙る砂埃の中、ジープはうるさい排気音をたててあっというまに走り去っていった。盛大に砂塵を蹴立てて走り去るジープの後部座席から身を乗り出した兵士のひとりが、道の真ん中に全裸同然で座りこんだマリアに投げキッスをした。

 『Good-bye, yellow bitch.I could meet you and was happy』
 あばよ、イエロ―ビッチ。あんたをいただけてたのしかったぜ。

 明るい藁束のような茶髪と茶色の瞳をした、若い兵士だったそうだ。 
 
 三日三晩の地獄を見たマリアは恐怖の塊になっていた。
 村は消滅した。家族は死んだ。帰る場所はどこにもない。
 行き場を失ったマリアはあてどもなく放浪し、流れ者が行き着くさいはての街に辿り着いた。内戦で荒廃した街には浮浪者と孤児と娼婦があふれて、家を失った人間は路地裏でひっそりと雨風をしのいでいた。
 マリアは物乞いをして命をつないだ。物乞いといっても、先を急ぐ通行人に哀れっぽく身の上話をしたり嘘泣きで注意をひく必要はない。
 マリアのように若くて綺麗な娘はただ道端に座ってるだけで人目をひいて小銭を恵んでもらえた。マリア本人は物乞いの自覚もなかったんだと思う。ただ、どこも見てない虚ろな目をして、童心に返ったように道端で膝を抱えた裏若い娘の前を素通りできない人間……特に男は、意外と多かった。事情を知らない通行人の目には薄幸の白痴娘とでも映ったんだろう。
 三ヶ月が経過した頃、マリアの体は変調をきたした。
 急激に吐き気をもよおしたり突然気分が悪くなることが続き、ある日、路地の奥に駆け込んではげしくえづいてるときに直感した。

 妊娠の兆候。

 マリアの腹はどんどんでかくなっていった。
 道端にうずくまり、放心したように通りを眺めているあいだにも腹は膨れて胎児は順調に成長してた。医者にはかかってなかった。そんな金もなかった。子供を堕ろすには金がいるが、マリアにはそんな気毛頭なかった。
 何故かって?キリスト教の厳格な宗派じゃ堕胎は禁忌だからさ。神の授かりものの命を親の都合で摘むなんざとんでもないって言い分。
 子供はみんな神の種って聖書にもあるんだろ?
 ……悪い、知らねえか。お前聖書読んだことないもんな。神様の教えとは無関係に生きてきたやつだもんな。
 うらやましい。俺もそうなりたかったよ。
 マリアの腹はどんどんでかくなっていった。でかい腹を抱えてマリアは途方に暮れていた。自殺の誘惑に心傾いたこともある。物乞いで得た金を握りしめて、闇医者を訪ねようかと苦悩したこともある。でもできない、それは神様の教えに背く行為だから。自分を愛してくれた神と神を愛した自分を裏切る行為だから。
 かといって育てることもできない。
 だってこの子は、本来産まれてきてはいけない子供だから。あやまちの子供だから。家族を殺害して村をめちゃくちゃにして、三日三晩自分を輪姦した兵士のだれかの子供。そう、だれの子供だかもわからないのだ。けど父親がだれにしたってこの子が罪の子であるのに変わりはない。
 マリアは腹の中の子供に、これっぽっちも愛情を注げない自分に愕然とした。
 腹の中で元気に育ってるまだ顔も見ぬ我が子のことが、少しも愛しいと思えない。愛情を感じない。いや、違う。これは……憎悪だ。腹の中の子が憎い。親の気も知らずにぬくぬくと羊水のまどろみをむさぼっている子供が憎い。憎くて憎くてたまらない、殺したい。

 何故私に宿ったの?
 ねえ教えて、あなたは一体だれの子なの。
 下品な言葉を吐きながら、笑いながら私を犯した何人もの兵士のうち一体だれの子供なの。私に口での奉仕を強制したあの男?私の前髪を掴んでひきずりまわしたあの男?私の背中にまたがってうなじに噛みついたあの男?
 強姦されてできた子供。愛してもいないどころか、心の底より憎んでいる男たちのだれかの子供。
 殺したい。
 殺意は子供と一緒に育っていった。私をこんな目にあわせた男たちを殺したい、復讐したい、地獄を味あわせたい。神様私がなにをしたんですか、私や私の家族がなにかお気にさわるようなことをしましたか。私は父や兄が反政府ゲリラとして活動していることも知らずに安穏と暮らしていた、これはその報いなのですか、罰なのですか。
 殺したい。子供が憎い。腹の中の子供に罪はない、本当にそう?断言する、私はこの子を愛せない。絶対に愛せない。お父さんお母さんお兄さん、あなた達を殺した男の子供が私の中にいるの。日に日に大きくなってるの、元気に育ってるの。もうおなかを足で蹴ってるのもちゃんとわかる。
 「これ」は、私の子供であると同時に親の仇。私を犯した兵士の子供。産みたくない。産みたくないです神様、どうか私をお救いください。助けてください。この子を流してください。

 マリアの祈りは天に通じなかった。気高く恵み深き主はマリアの祈りを無視なされた。マリアは絶望した。そして決意した。
 神が祈りを聞き届けてくれないなら、自分でやるしかないと。 
 自分の手で、我が子を殺そうと。
 ……矛盾してるよな。倫理が逆転してる。もちろん人殺しはキリスト教のご法度だ。堕胎を禁じてるんだからそもそも人殺しは絶対駄目に決まってるのに、マリアはすっかりおかしくなってた。
 子供を産み落としたらすぐに息の根をとめよう。なかったことにしてしまおう、それがいちばんだ。
 神様もきっと、お許しになられる。

 そしてついに、その時がきた。
   
 九ヶ月の時が満ちたことをしらせるように陣痛が始まった。人通りの少ない道端にぼんやりすわりこんでたマリアは身重の体で、なるべく人目につかない路地の奥へと逃げるように這いずっていった。手を地面について前へ前へと這い進むたび、胸にたれさがった十字架が頼りなく揺れた。粗末な外壁と外壁のあいだ、陽光がさしこまない路地は暗く湿っていて、すえた異臭がたちこめていた。
 路地の奥に辿り着いたマリアは、行き止まりの外壁に両手を突っ張り、額に脂汗をにじませ力一杯奥歯を食いしばった。固く目を瞑ったマリアの脳裏に次々と浮かぶのは、幸せだった頃の記憶。
 親に連れられてはじめて教会を訪れ、優しい神父に頭をなでられた。小さな手のひらに贈られた十字架。
 平凡で退屈で、でも平和で穏やかだった村での生活。日曜日にはかかさず礼拝に行った。信徒席の最前列に腰掛けて十字架に祈りを捧げた。主よ、どうかお守り下さい。
 お父さんとお母さんがいつまでも元気で健康でありますように、家族が末永く仲睦まじくありますように。そしていつか、あと五年後くらいには私にいい人が見つかりますように。
 愛する夫と愛する子供と、幸せな家庭が築けますように。
 最後は自分のことを祈った。祈りに雑念が入ったから、図々しいお願いをしたから、その報いをうけたのだろうか。だから今自分はこんな目にあってるのだろうか。
 愛する夫と愛する子供。そんなもの、永遠に手に入れられないのに。
 私はこの子を愛せない。世界に産まれいでようとしてる今この瞬間もこの子にちっとも愛情を感じない。
 目を閉じれば思い出す、笑いながら自分を犯す男たちの顔が。濛々と舞う砂埃の中、未舗装の田舎道をジープで走り去りながら手を振る軽薄な男の顔。

 『Good-bye, yellow bitch.I could meet you and was happy』
 
 憎い。
 憎しみを、抑えつけられない。
 あいつらに復讐できないなら、あいつらの血をひく子供に復讐してやる。
 どうせ悪魔の子だ。地獄に送り返してやるまでだ。
 
 産声があがった。

 壁に手をつき上体を預けた前傾姿勢から、大胆に開かれた足のあいだから産みおとされたのは元気な赤ん坊。壁に背中を預けて座りこんだマリアは、地面に寝転んで盛大に泣き続ける赤ん坊を見下ろす。
 なんの感慨も湧かなかった。我が子への愛おしさなんてひとかけらもこみあげてこない。
 疲労が極限に達して今にも失神しそうだ。気力で瞼を持ち上げ、ぼんやり薄目をあけて赤ん坊を眺める。
 男の子だった。 
 だから?どうせすぐ殺してしまうのだ、性別など確認する意味がない。心は麻痺していた。感情をどこかへ置き去りにしてきたようだ。地面に膝をついたマリアは、胎児と一緒に体外へ排出されたへその緒を手にとる。へその緒はまだ胎児と繋がっていた。このへその緒で首をしめればすべて終わる。弛緩した頭で奇妙に冷静にそう考え、羊水の皮膜で皮膚を守られた赤ん坊を見つめる。
 なんて小さい生き物だ。無力で非力な生き物だ。きっと簡単に殺せてしまう、それはもうあっけないほどに。ゆっくりと慎重にへその緒を赤ん坊の細首に巻きつける。
 そのままずいぶんと時が経った。
 何故かどうしても手が動かなかった。さっきまでうるさく泣き喚いてた赤ん坊はいつしか泣き止んで、安らかな寝顔を見せていた。首にへその緒をかけられてるってのにその寝顔があんまり無防備で、毒気をぬかれたのかもしれない。

 名前。 
 ふと、本当に唐突に、この子にまだ名前をつけてないことに気付いた。
 思案げに黙りこんだマリアの気配を察したように、赤ん坊がぱっちり目を開けた。
 赤ん坊が目を開けて、吸い寄せられるようにその目を覗きこんだ瞬間、だれが父親かわかった。

 髪の毛はまだほとんど生えてないから何色か判別できないが、この瞳の色は間違いない。
 硝子のように澄んだ茶色。
 ジープの後部座席から身を乗り出して手を振った、あの。
 
 『あなたの名前は、Rageよ』

 口がひとりでに言葉を紡いでいた。Rage、英語の憎しみ。これ以上この子にふさわしい名前はない。
 私の中に入っていたのは、人の形をした憎悪の塊だ。
 へその緒を握る手に力をこめ、徐徐に、徐徐に絞めつけてゆく。赤ん坊に名前を授けた行為に意味はない。名もなく死んでゆく我が子を不憫に思ったからではない、ただ、この無垢な目をした赤ん坊に、自分が産まれてきた理由をわからせてやろうと思っただけだ。
 赤ん坊の首にへその緒を巻きつけ、窒息させようと引きはじめる。
 赤ん坊はそんなマリアをきょとんと見上げていたが、ふいに、本当にふいに、

 笑ったのだ。
 
 『………』
 産まれたばかりの赤ん坊が顔をくしゃくしゃにして無邪気に無防備に笑ってる。母親に、笑いかけてる。産んでくれてありがとうとでも言うように、目を開けていちばん最初に見たのが自分で嬉しかったとでもいうように、天使みたいに笑ってたそうだ。
 
 赤ん坊は笑った。
 そしてマリアは、赤ん坊を殺せなくなった。

 へその緒をもつ手から力がぬけた。ぺたりと地面に膝をつけたマリアは、慣れない手つきでおそるおそる赤ん坊を抱き上げる。マリアの胸に抱かれた赤ん坊は安心したように瞼を閉じて寝息をたてはじめる。  
 マリアは赤ん坊を胸に抱いて、はるか頭上、路地の隙間から覗ぐ天を仰いだ。
 神に通じるはずの天は清冽に澄み渡り、この子の誕生を祝福してるようだった。

 子供の名前はレイジ。英語の憎しみ。
 マリアが産んだ子供は俺。兵士に強姦されてできた赤ん坊。人の形をした憎悪の塊。本来名前も与えられずへその緒で首絞められて窒息死させられてたはずのガキ。
 
 今の話は全部、マリアから聞かされた。
 俺は全然さっぱり覚えてないけど、首にへその緒かけて殺そうとしてるマリアと目が合った時、たしかにくしゃっと笑ったんだそうだ。たぶん目を開けて最初に見たのが若くて別嬪の女で単純に嬉しかったんだろう。

 あの時笑ったから、俺は生かしてもらえた。
 あの時笑ったから、聖母のようにやさしいマリアは俺を殺せなかったんだ。
 俺はたいして意味もない笑顔に命を救われた。
 
 笑うのは生きるため、生きのびるため。
 他に理由はない。
 だろ?

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050912100246 | 編集

 ロン大丈夫か?顔色悪いぞ。
 そんな真っ青な顔して無理すんなよ、まだ序盤だぜ。
 最後まで聞く?はは、上等だ。たいした度胸だな。あとで熱だしても知らねえぞ……よし。じゃあ続けるぞ。ええと、どこまで話したっけ?俺の出生の秘密までだっけ。
 種を明かしちまえば何てことない。俺はフィリピン人のマリアが米兵に強姦されてできた子供で、この世に産まれ落ちてすぐ殺される運命だった。名前もつけられずへその緒で絞め殺される運命だった。 
 そうならなかったのはたんなる偶然、きっかけはほんのささいなこと。俺はマリアの顔を見てくしゃっと笑った。猿みたいにちんまりした赤ん坊に顔をくしゃくしゃにして笑いかけられたらそりゃ殺意が萎えるだろ。
 聖母マリアは厩の藁床でイエスキリストを産んだ。俺はじめじめと薄暗い路地裏でマリアの股の間から落っことされた。
 赤ん坊を抱いたマリアは途方に暮れた。
 頼れる人間なんかだれもいない。俺は幸い一命をとりとめたけど、マリアはたぶん育てる気もなかったんじゃないかな。
 へその緒も切らずにどっかに捨てようと路地裏うろついたけど、なかなかいい場所が見つからない。雨風しのげる軒下とかいい場所見つけて置き去りにしようにもいざとなりゃ踏ん切りがつかない。だれにも見つけてもらえなかったら凍死か餓死だ。
 おかしいよな。さっきまで自分の手で息の根止めようとしてたのに、置き去りしたあとに独りぼっちで泣き喚く赤ん坊のこと考えたら手放せなかったらしい。
 母親って不思議な生き物だよなあ。まあマリアは聖母みたいに優しい女だから、一度正気に戻ったあとは我が子を置き去りにできない矛盾と葛藤に苦しんだ。
 赤ん坊を抱いたマリアは路頭に迷った。
 汚いボロ衣でくるんだ赤ん坊を胸に抱いて、放心したように虚ろな眼差しを通りに投げかけるマリアの姿は本当に聖母さまみたいで、通行人はみんなマリアに同情して小銭を恵んでくれた。
 ある日、そんなマリアにひとりの男が声をかけた。ナンパじゃないぜ?残念ながらそんな不埒な動機じゃない。道端に座りこんでガキに乳含ませてる女をナンパするのはさすがの俺でもちょっと勇気いる。
 要するに、マリアはスカウトされたんだ。
 人材さがしに街さまよってた反政府ゲリラの一員に、な。
 マリアが流れ着いた最果ての街には、米軍のゲリラ狩りで滅ぼされた近隣の村々から命からがら逃げてきた連中がたくさんいた。マリアとおなじように米兵に誘拐され犯されて飽きたらポイされた女はうじゃうじゃいた。失う物がなにもない連中は手段を選ばず命を惜しまないから、ちゃんと教育すれば優秀な兵士になる。
 家族を殺したやつらが憎くないか?村を滅ぼしてお前の人生を奪ったやつらに復讐したくないか?
 ゲリラのスカウトは生きる希望を失った浮浪者やら孤児やらを言葉巧みに誘惑して、ゲリラに勧誘して優秀な兵士に育て上げた。ひときわ目をひく美貌のマリアをゲリラのスカウトが放っとくわけがない。子持ちのマリアにも仲間に入らないかとお声がかかった。ゲリラとして立派に戦って、お前をそんな目に遭わせた連中を皆殺しにしたくはないか?マリアは断らなかった。どうせ他に行く場所も帰る場所もない、頼れる人間もいない。このままでは遅かれ早かれ母子ともに飢え死にするか野犬の餌食になっちまう。
 家族を惨殺して自分を孕ませた憎い男たちに復讐できるかもしれないという話は、マリアに生きる目的と一縷の希望を与えた。マリアは反政府ゲリラの一員として二度目の人生を歩みだそうと決心した。
 他にはもう何も残されてなかったから。
 選択肢はなかった。知ってる?民間ゲリラには年端もいかない女子供がたくさんいて、重要な戦力として重用された。
 女子供にも区別なく差別なく過酷な戦闘訓練を施し一人前の兵士に育て上げた背景には、かよわい女子供には敵も隙を見せ接近を許しちまう現状があった。狩りの対象として侮られがちな女子供がひとたび命を投げ捨て殺戮をためらわない兵士になれば、普通の男よりよっぽど手強い敵になる。とくにマリアは美人だから、ナイフの扱いを覚えりゃ敵が鼻の下のばしてるあいだに頚動脈掻っ切ることもできる。 
 以上の経緯で、マリアは米軍と熾烈な激戦を繰り広げる反政府ゲリラに迎え入れられた。もちろん俺も一緒だ。マリアはゲリラが拠点にしてるキャンプでいちから銃器の扱いをおぼえナイフの扱いを仕込まれて、日々厳しい訓練に耐えぬき人殺しの腕を磨いた。
 復讐心てのは偉大だ、時にはひとを生かす原動力になる。
 マリアは両親の仇に復讐したい一念でたゆまず訓練に励み、五指を組んで祈ることしか知らなかった華奢な手で拳銃の分解と組み立てを会得し、自分の上に跨った男の頚動脈をナイフで掻ききる技を覚えた。
 俺はゲリラのキャンプで育ったの。
 首都マニラから50キロほど離れたところにある民間ゲリラの村。
 ああ、そうだ、言い忘れてた。あとでわかったんだけど、マリアがスカウトされた理由は特別若くて綺麗な娘だって以外にもうひとつある。赤ん坊を抱いてたからさ。それもただの赤ん坊じゃない、一目で白人との混血だってわかる赤ん坊だ。
 同時期、上層部の人間はマリアとおなじ境遇の女を血道あげて集めてた。
 米兵に強姦されてガキ孕んで母子ともども路頭に迷ってる女をスカウトして、早い段階で母親と子供を引き離した。米兵は日常的に略奪と暴行と虐殺をくりかえしあちこちの村から女をかっ攫ってたから、望まぬ妊娠をした娘を見つけるのはむずかしくなかった。
 ゲリラの真の目的は母親よりむしろ、米兵に強姦されて産まれてきた望まれないガキども。だれからも祝福されず母親の股から産まれ落ちたガキどもを一箇所に集めて……
 さて、問題。なにしようとしたんだと思う?
 答え。子供の暗殺者を作ろうとしたのさ。
 物心つく前のガキの時分から徹底的に人殺しの知恵を叩きこんで、子供の暗殺者をつくる計画だったわけ。子供の暗殺者は有効だ。厳戒体勢を強いられた戦時中でもガキが相手なら大人は油断する。フィリピンの村々で略奪や暴行や誘拐をくりかえしてた米兵の中にも、不思議と子供には甘い連中がいるんだな。もともと子供好きなのか、自分の腰までもないチビなら危険もないと踏んだのか、道端にうずくまってる浮浪児に飴やらチョコやら握らせるヤツが米兵にも大勢いた。
 いたいけな子供が行き場を失い路上に座りこんでる姿は、実際同情を誘う。
 子供の暗殺者なら警戒されずに標的に近付くことができる。上の人間はそう考えて、俺とおなじ境遇のガキどもをあちこちから集めて訓練を施した。人殺しの訓練。いかに効率よくいかに迅速にいかに発覚しないよう標的を葬り去るか物心つくかつかないかのガキどもに非人道的に教えこんだ。
 前に話した、分厚いコンクリ壁で仕切られた暗い部屋に閉じ込めて、銃声あてさせるのも訓練の一環。俺と同時に放りこまれたガキの何人かは生きて日の目を見ることができず飢え死にした。暗闇と死と飢餓の恐怖で発狂して、使い物にならなくなったガキはもっと多い。
 そういうガキは面倒なんで始末された。バァン、と頭を撃ち抜かれてな。
 惜しいとか可哀想とかそういう感情はなかったんだろ。おなじ境遇のガキは現在進行形で増え続けてるし、混血のガキを抱えた若い母親は街にいきゃ普通にいる。石を投げれば米兵の落とし子にあたる現状じゃ必然命の値段も安くなる。俺たちに限っちゃタダ同然。いくらでも補充がきくんだから、必要価値のなくなったガキを始末するのにあちらさんは躊躇ないわけだ。
 もともと憎い米兵がフィリピン人強姦してできた子供、国の汚点だ。
 殺したところで良心の呵責もない。
 俺は物心ついた頃から来る日も来る日も人殺しの訓練を受けてきた。銃の分解と組み立て、缶撃ちで的に命中させる射撃の練習、ナイフでの近接戦闘じゃおなじ年頃のガキとも戦わされた。子供の手には余る大振りのナイフで、最初のうちは自重に振り回されてうまく狙いをつけることができなかった。
 右利きを両利きに矯正したのもその頃。正しくは自分の意志じゃなくて教官役の大人に強制されたんだけど、今じゃ感謝してる。
 両利きのほうが便利だもんな。女悦ばせるときとか……冗談だよ、おっかない顔すんなって。
 まあ、感謝してるのはマジ。おかげで右腕上がらなくてもあまり不自由は感じない、左腕がかわりを果たしてくれるからな。右腕を刺されたら左腕に、左腕を刺されたら右腕にナイフを持ち替えて戦闘続行できるようにってありがたーい教えだ。ブラックワークでおおいに役立ってる。
 自分で言うのもなんだけど、俺は人殺しの才能に恵まれてた。射撃訓練でもナイフを用いた近接戦闘訓練でも、他のガキなんか足元にも及ばない勘のよさを発揮した。過酷を極めた訓練にひとりまたひとりとガキが脱落してく中で、俺だけがどんどん人殺しの腕を磨いていった。銃でもナイフでも素手でも俺にかなうヤツなんかひとりもいなかった。
 俺はとくに期待をかけられてしごかれたんだよな。なんでだかわかる?
 俺さ、顔キレイだろ。こういう顔してるといろいろ「使い道」があるんだ。
 男も女も関係ない。ガキには性別とかあんまり関係ないわけよ。可愛い顔したガキはいろいろ得をする、器量のよいガキには下心あるなし拘らず大人がやさしくしてくれる。知ってる?死と隣り合わせの戦場じゃあ性欲が昂進して倒錯したセックスが流行るようになるんだとさ。戦争中は出生率がぐんと上がるってデータもある。
 後世に子孫を残すためには、保険かけてひとりでも多くガキ作っとかなきゃって種の保存本能が働くんだと。お勉強になったろ。
 あー……つまりさ。標的に取り入るには、容姿が重要なわけ。俺が将来有望と見込まれて重点的に暗殺術を叩きこまれたのは、見え見えの下心ありきの標的、違う意味で子供好きの変態に取り入らせるため。 
 十歳にも届かないガキが、ズボンの後ろに銃突っ込んでるとか普通思わないだろ。
 そういうガキが街うろついてるとこ見かけて、駄賃やるから遊ばないかとか言葉巧みに騙くらかして安宿に引っ張り込むぺドフィリアをベッドの上で殺すんだ。あっちは街で偶然見かけたガキに声かけただけと思いこんでるけど、実は違う。上の人間がちゃんと調査して、標的の性的嗜好を事前に洗い上げて、俺はわざとそいつの目につくところをうろちょろして声かけられるの待ってたわけ。
 銃かナイフを服に隠してな。
 俺が最初に寝たのはぺドフィリアの米兵だった。ゲリラの容疑をかけた村を襲っちゃあ年端もいかないガキを誘拐してレイプして裏市場に売り飛ばしてたヤツ。十歳の頃だよ。
 俺は周囲の大人の期待にこたえて、淡々と仕事をこなしていった。男と寝るのにべつに抵抗はなかった。最初は痛かったけどすぐ慣れた。仕事だし慣れなきゃやってらんねえよ。下心なしで純粋に優しくしてくれた標的もいた。祖国に俺とおなじくらいのガキを残してきたんだ、ってはにかんでた。ガキの写真引っ張り出そうってよそ見した隙にそつの額には穴が開いた。ぽかんとした死に顔してたな。殺される間際まで、頭のうしろから脳漿まきちらすその瞬間まで、全然これっぽっちも俺のこと疑ってなかったんだろうな。
 こんなガキが、自分の命を狙う暗殺者だなんて。

 この十字架はマリアがくれたんだ。
 私生児として生まれた原罪を贖うために肌身はなさず身につけておけって。訓練訓練で忙しくてマリアに会いに行く暇もなかったけど、俺はときどき折檻覚悟で訓練サボッてマリアの様子を見に行った。子供が母親慕うのはあたりまえだろ。マリアはよく聖書を読み聞かせてくれた。綺麗に澄んだ音楽みたいな声。家族を惨殺されて村を追われて犯されて妊娠して人生を狂わされても、マリアは神への信仰を捨てなかった。裏切られても縋って縋って救いを求めていた。
 マリアは俺のことどう思ってたんだろう。好きだったのかな、嫌いだったのかな。愛してたのかな、愛してなかったのかな。わかんね。一回は本気で殺そうとした。首にへその緒かけて絞め殺そうとしたけど、俺が物心ついた時から知ってるマリアはいつも穏やかな微笑を浮かべてて、俺にも大抵は優しくしてくれた。
 ただ時々、荒れることもあった。なにかの拍子にふいに過去の記憶がよみがえった時、村人が虐殺され家族が惨殺された光景やかわるがわる自分を陵辱する男たちの幻覚なんかを見た時には物凄く荒れた。
 過去の悪夢に苛まれて錯乱してる時に俺が隣にいると、精神的に耐えられなかったんだろうな。聖書を投げつけられたりぶたれたり蹴られたりひっかかられたり首を絞められたり……ああ、そうそう、髪の毛むしられたりもしたっけ。マリアはさあ、この髪の毛嫌いだったの。干した藁みたいな茶パツ。自分を犯した兵士とおなじ頭髪、たぶん俺の父親とおなじ色。たまんないよな、世界でいちばん憎んでる男の髪と目の色をそっくり受け継いだガキが隣にいちゃ当たり散らしたくもなるよな。おまけに髪と目の配色は父親譲りのくせして顔は自分似、マリアにとっちゃ俺は日に日に成長する過去の亡霊そのものだった。
 ……マリアに首絞められたときどうしたかって?
 ロン、逆に質問するぜ。お前、お袋にベルトで鞭打たれてるときどうしてた?こうやって両手でひしと頭庇って丸まって、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待ってたろう。ごめんなさい、許してください、もうしませんって死に物狂いで命乞いしながらさ。
 ちっちっ、それじゃ駄目なんだよ。怒りで我を忘れた女をなだめるには逆転の発想。
 狂ったように泣き叫ぶのは逆効果、ますます相手を逆上させて折檻をエスカレートさせるだけ。
 簡単なことさ、要は正反対のことをすればいいんだ……ああ畜生、悔しいなあ。もうちょっと早くお前に会えてたら教えてやれたんだけどな。いいか、すごい簡単なことなんだよ。きっとだれにでもできる。

 笑えばいい。

 ただ笑えばいい。自分に馬乗りになって首絞めてる女ににっこり笑いかければいいんだ。俺は何度も何度も笑顔で命を救われた。マリアに髪をむしられたときも首を絞められたときも聖書の角で目を殴打されたときも俺は笑ってた。まさか、現在形でさんざん痛め付けてるガキがその張本人に笑いかけるなんて思ってもみやしないから、大抵の人間はびっくりして攻撃の手を止める。不意をつかれて正気に戻る。 
 正気に戻ったマリアは、決まって俺を抱きしめて涙を流して謝罪してくれた。俺はべつによかったんだ。それでマリアの気が済むなら、マリアが過去の悪夢から逃れられるなら、折檻の行き過ぎで殺されかけるくらいかまわなかった。どうせ訓練じゃもっとひどい目に遭ってたし、死と隣り合わせの日常には馴染んでる。
 俺さあ、マジでマリアが好きだったんだ。愛してた。だって俺を産んでくれた女だもん。
 俺はマリアが大好きだから、マリアにも俺のこと好きになってもらいたかった。
 振り向いてもらいたかった。

 笑っていれば、俺は好きになってもらえる。
 笑っていれば、俺は愛してもらえる。

 ……おかしいか? 
 お前俺に初めて会ったとき言ったろ、「楽しくもないのに笑えるかよ」って。今でもはっきり覚えてる、衝撃だったから。そうか、そういう考え方もできるのかってびっくりした。でもさ、笑うのにはもうひとつ理由があるだろ?俺にとっちゃそっちの方がずっと重要で、「楽しいから笑う」って発想自体が致命的に欠落してたんだ。
 笑うのは、人に好かれたいからだろ。
 愛してもらいたいからだろ。
 生まれて初めて笑った時のことはもちろん覚えてないけど、たぶん、俺が本当に笑ったのはその一度きり。物心ついた時には笑顔が習性になってた。外敵の攻撃意欲を殺いで親近感をもたせる為の自衛の笑顔。マリアが俺を殺せなかったのは、俺が無邪気に笑ったからだ。あの時笑ってなかったら、何も気付かずすやすや眠ってたら俺は今頃ここにいない。ロンにも出会えてない。
 以来、ずっと笑ってる。楽しいとか嬉しいとか関係なくずっと。初めて人を殺した時も笑ってた。銃を握る手が自分の物じゃないみたいに震えて足も竦んでたのに、表情筋がひきつって、勝手に笑顔を作っちまった。おかしくもないのに。
 なあ。俺今どんな顔してる?
 正直に言っていいぜ。笑ってるだろ?怖いだろ。こんな悲惨な身の上話しながら笑ってるヤツまともじゃないだろ。頭がおかしいって敬遠するよな、普通。正解。たぶん俺、頭がおかしいんだ。とっくの昔に狂ってるんだよ、どうしようもなく。感情と表情が噛み合わない。だから今も自分が笑ってる気がしない。
 表面に笑顔を作るのと、心から笑うのは別物だろ?
 俺は今までの人生本気で笑ったことなんかなかった。この世に産まれ落ちた直後を除いて一度も。
 正直もう一生笑えないかなって諦めてたんだ。
 ロン、お前に会うまでは。
 お前が東京プリズンに来て、偶然だか運命だかで同房になって以来、笑顔の比重が「人に好かれたい」より「ただ楽しくて」に傾いてきた。人に好かれたいからなんて打算なしで、ただ単純に楽しいから笑う。お前と一緒にいるのが楽しくて楽しくてしょうがないから。お前と出会えたことが嬉しくて嬉しくて、いっそ神様に感謝したいから。
 鍵屋崎が言ったことは当たってた。俺、お前の隣なら普通に笑えるんだ。
 おもいっきり笑えるんだ。
 できればずっとお前の隣にいたかった。お前を見習って笑えるようになりたかった。
 でもさ、ロン。お前やっぱり、俺が怖いだろ?
 隠さなくていいんだよ、もう。とっくにわかってたんだ。俺を見る目の底に怯えがひそんでるの、お前も気付いてたろ。俺はレイジ。英語で憎しみ。ブラックワークで戦ううちにそこそこ手加減のコツ覚えたけど、憎しみ抑えつけるのがとてつもなくへたで、一度キレたら歯止めが利かないのはたぶんこの先一生変わらない。俺はいつか、うっかり手加減忘れてお前を殺しちまうかもしれない。そうならない保証はどこにもない。殺られなきゃ殺られるまでだって習性が体に根を張ってるから、相手がダチのお前だってことも忘れて、本気で殺しにかかる日がくるかもしれない。

 楽しげに楽しげに笑いながら、お前の首を絞めてる俺がいるかもしれない。
 楽しげに楽しげに笑いながら、お前をナイフで切り刻んでる俺がいるかもしれない。
 
 俺はお前を殺したくない。お前だけは、殺したくない。
 このままお前の隣にいれば俺はまたキレて、お前をひどく痛めつけるかもしれない。お前のことが好きなのに、ものすげえ好きなのに、キレた自分に歯止めが利かなくて狂ったように笑いながらナイフを振るってるかもしれない。
 
 もう笑えなくてもかまわない。
 この先一生笑えなくてもいいから、俺はお前のそばをはなれる。お前を殺さないために。お前に生きててほしいから。お前さ、ここ出て会いたいやつがいるんだろ。お袋まだちゃんと生きてるんだろ、会いに行ってやれよ。初恋の女でもいいよ。元気な顔見せに行ってやれよ、泣いて喜ぶぜ。お前はここを出られる可能性があるんだから、生きて外にでられる望みがあるんだから、命が惜しいなら俺なんかと一緒にいちゃけないんだ。
 頼むからロン、俺にお前を殺させないでくれ。
 憎ませないでくれ。
 俺は名前どおり憎しみを抑えつけるのがめちゃくちゃ下手だから、おまえの腹に蹴り入れたときみたいに、おまえを心の底から憎んで暴力振るうことがまた必ずある。
 いやだよ。なんで折角できた相棒を自分の手で殺さなきゃなんないんだよ。恨むぜ神様。
 
 もうわかったろ。この先俺と一緒にいたっていいことなんか少しもない。
 ペア戦の行方は心配すんな、ちゃんと100人抜き達成してお前と鍵屋崎を売春班から助け出してやるから。お前は何も心配せずぐっすり寝てろ。
 それがお前にしてやれる最後のことだから。
  
 告白はこれでおしまい。懺悔聞いてくれてサンキュ。おかげで決心がついた。
 最後に一言だけ、言っていいか?  
 じゃあ。
 愛してたぜ、ロン。
 短い間だけど、お前が俺の相棒でいてくれて嬉しかったよ。
 幸せにな。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050911100405 | 編集

 「幸せになじゃねえよ」
 長い、長い話が終わった。
 衝撃的な告白だった。俺はまだその衝撃から立ち直れなくて、腰を抜かしたようにベッドに座りこみ、膝の上でこぶしを握りしめてる。
 レイジは年端もいかないフィリピン娘が米兵に強姦されてできた子供だった。産まれてすぐへその緒で息の根止められる運命の子供だった。レイジがたまたま生き長らえたのはたんなる偶然でほんのささいな出来事がきっかけで、母親にむかってくしゃっと笑いかけたからだ。
 羊水の皮膜に包まれた猿みたいな赤ん坊が、ただでさえくしゃくしゃな顔をもっとくしゃくしゃに崩して母親に笑いかけた。無邪気で無防備で無垢な笑顔。
 だからレイジのお袋はレイジを殺せなかった、へその緒を首にかけた手が止まっちまった。
 レイジは自分でも覚えてないたいした意味もない笑顔に命を救われた。
 笑わなきゃ、生きてけなかったのだ。
 『Because I laugh, do not kill me』
 今ならレイジの寝言の意味がわかる。十字架の鎖が首に絡んで寝苦しく身悶えて、眉間に悩ましげな皺を寄せたレイジが英語で哀願したわけが今ならわかる。笑うから殺さないでくれ。あれは母親に向けられた言葉だった。笑顔を代償にさしだすから命を助けてくれと、自分を愛してくれという痛切な懇願。レイジは物心つく前のガキから笑わなきゃ生き延びれない環境で育って、物心ついた時には笑顔が習性になって、人を殺したときも母親にぶたれたときも顔から笑みがとれなかったのだ。
 それは、どれだけ深い絶望だろう。どれだけ救いのない地獄だろう。
 俺には想像もつかない。想像することもできない。俺の幼少期もそりゃ惨めでさんざんだったが、レイジに比べりゃ全然マシだ。レイジの過去と比べるのもおこがましい。お袋はガキの前でも平気で男と乳繰り合うとんでもないあばずれで酒乱の淫売で、男にフラれた気晴らしにベルトを持ち出しては俺を痛めつけた。
 両手でひしと頭を庇って鼻水たらして泣き喚くことしかできない俺に、殴る蹴るの容赦ない暴力を振るうことで憂さを晴らしていたのだ。
 俺はお袋が憎い。大嫌いだ。許せない。でも、やっぱりおなじくらいの比重で、いや、それ以上の比重でお袋のことが好きだった。お袋に振り向いてほしかった。
 レイジと一緒だ。
 レイジのお袋が裏切られても裏切られても神に救い求めて縋り続けたように、レイジは報われなくても報われなくても笑い続けた。それは俺とおなじだ。どこも違わない。
 そしてレイジは、今また俺と別れようとしてる。
 俺のそばからはなれる決心固めて、俺に最後の言葉を告げたつもりでいる。
 どこまで身勝手なんだよ。
 「幸せにな、じゃねえよ!!」
 自制心が吹っ飛んだ。目の前が憤怒で真っ赤になってこれ以上憎しみが抑えつけられなかった。
 「幸せにな?なんだよそれ、格好つけやがって、最後まで気障に決めやがって!
 自分勝手も大概にしろよ、お前それでけじめつけたつもりかよ、俺と別れられたつもりかよ!?」
 「ロン、」
 「お前なんで今夜ここにきたんだよ、俺と仲直りするためじゃなくてちゃんと別れ告げるためだったのか、俺が素面でいるときに改めてフリにきたのかよ!」
 俺は混乱していた。脳裏にはレイジに聞かされた悲惨な過去の光景が悪夢みたいに焼きついてる。途中何度も吐き気に襲われて耳を塞ぎたくなった、知らん振りしたくなった。 レイジの口から語られたのはリンチで殺された黒人がポプラの木に吊るされるよりずっと救いのない現実で、俺はそんな現実見たくも聞きたくも知りたくもなかった。でも俺が目を閉じようが耳を塞ごうが現実は変わらずそこにあって、レイジの過去は変わらなくて、レイジの狂気を癒す術も見当たらない。
 正直、俺はまだレイジの過去を消化できてない。悲惨すぎる出生を明かされた直後で、心が拒絶反応を起こしてる。
 でも。
 レイジは「後悔しないか」と聞いた、俺は「後悔しない約束はできない」と即答した。だが「嫌いにならない約束をする」と力強く請け負った。レイジを安心させようと首肯したのは否定しないが、それ以上にあれは本音だった。レイジの過去がどんなに悲惨で救いがなかろうが、俺はレイジを嫌いにならない。レイジがどんなに狂っていたところで、嫌いになれるはずがない。
 だって、レイジはレイジなのだ。俺の大事な相棒なのだ。
 だから俺はなおさら悔しい、なおさら悔しくてやりきれない。レイジはもうすっかり俺と別れるつもりでいる、それが俺のためだって身勝手に決めつけて俺のもとを去ろうとしてる。
 幸せにな?ふざけんな。愛してたぜ?過去形かよ、今はどうなんだよ。
 「ふざけんなよっ、勝手に思い詰めて勝手に結論だすんじゃねえよこの馬鹿が!!
 俺のこと傷付けたくないから俺の前からいなくなるってどうしてそうなんだよ、お前の名前が憎しみだからどうだってんだ、たかが名前じゃねえか、たかが名前に服従すんじゃねえよ王様!」
 「キーストアとおんなじこと言うんだな」
 俺に襟首掴まれたレイジが苦笑した。笑いより苦味が勝った笑顔だった。諦観を目に宿したレイジに胸かきむしられて、俺は肋骨の痛みも忘れてレイジの胸ぐらを両手で締め上げる。
 「お前はそれでいいのかよ、俺のためとかいいわけして自分の気持ちごまかしてそれで後悔しないのかよ?お前俺のこと好きなんだろ、俺を抱きたいんだろ。
 ほんとはずっと俺と一緒にいたいんだろ、俺のダチでいたいんだろ、俺の隣で笑ってたいんだろ。じゃあそうしろよ、ずっと一緒にいろよ、俺のダチでいろよ、俺の隣でへらへら馬鹿みたいに能天気に笑ってる東棟の王様でいてくれよ!!」
 上着の胸ぐらを両手で掴んで一息にぶちまければ、大人びた苦笑を浮かべたレイジが優しく俺の頭を撫でる。言うことを聞かないガキをなだめるような動作だった。
 「困らせるなよロン。駄目なんだってそれじゃ。俺は我慢がきかないから、手加減できないから、いつかお前を殺しちまうよ。
 お前のことが死ぬほど大事で好きなのに、俺以上に大事なのに、いつかみたいに髪引っ張られただけでブチギレて腹に蹴りいれて今度こそ内蔵破裂させちまう。お前だってほんとは俺が怖いくせにいきがるなよ。
 お前にはいいトモダチがいるだろ。キーストアはすげえともだち思いの頑張り屋で、サムライはすげえ頑固だけど実は思いやり深いヤツだ。
 あいつらがいるなら、安心してお前の前からいなくなれる」
 「綺麗にまとめようとすんなよ!!」
 なんでわかってくれないんだレイジ。なんでそんなにわからず屋なんだよ。
 レイジの胸に縋って、吠える。
 「お前の代わりなんかだれもいねえよ、俺にはお前だけなんだよ、お前がいなくなったら寂しいよ!!」
 「……いい加減にしないと怒るぞ。これ以上世話焼かせんな。いい年して駄々っ子の真似かよ」
 レイジの声が低まり、スッと目が細まる。酷薄な眼光に射貫かれ、背中に戦慄が走る。
 
 「俺と一緒にいたら不幸になるぞ」
 「お前と一緒じゃなきゃ幸せになれねえよ!!」
  
 レイジは自分の価値を低く見過ぎだ。
 レイジがいなきゃ、俺の幸せは考えられないのに。
 虚を衝かれたレイジの胸に顔を埋め、かすれた声を吐き出す。
 「ああそうだよ、俺はお前が怖いよ。腹に蹴り入れられたときはマジで殺されると思った。すげえ痛かったよあの蹴り、胃袋破裂したかと思った。だからなんだよ?俺だってキレるよ。キレておまえに当り散らすことあるよ、お互いサマじゃねえか。お前だけが特別じゃねえ。お前がそばにいないと寂しいんだ。もうどこにも行ってほしくない。サーシャのとこなんか行くなよ、ずっと俺のそばにいろよ。もう一人ぼっちはごめんなんだ」
 「ロン」
 俺の肩に手をかけ強引に引き剥がしにかかりながら、レイジが有無を言わせぬ口調で断言する。
 「俺は人殺しだぜ」
 「俺も人殺しだよ」
 間髪入れず言い返せば、俺をどかそうとしたレイジの手が止まる。 
 「そうだ。俺は人殺しだ。お前だけが特別なわけじゃない、それが漸くわかったんだ。俺達は人殺しだ。だから東京プリズンで出会えた。俺たちの出会いはたくさんの人の命の上に成り立った偶然で、だれからも祝福されるもんじゃないけど、でも俺は、お前と出会えて嬉しい。心の底から嬉しい。ああそうさ、何度だって言ってやる。だれに罵られようが蔑まれようが地獄に落ちようが、東京プリズンでダチができて嬉しいって喉すりきれるまで叫んでやる。罰あたりで結構だ」
 俺の肩に手をかけたまま、信じ難いものでも見るように硬直したレイジの目を少しも怯むことなくまっすぐ覗きこみ、この一年半、ずっと胸の内にしまっていた本音を探り当てる。
 暗闇に沈んだレイジの瞳は深く神秘的な色を湛えていた。
 虚無の深淵めいて底知れない目に魅入られるように、俺はレイジの胸に上体を預け、肩に手をかける。

 「お前と一緒なら、地獄だって悪くない」

 そして、のしかかるようにレイジを押し倒す。
 肩に手をかけられ、背中からベッドに寝転んだレイジの腰に跨り、抗議する暇も与えずその首筋にキスをする。塩辛い汗の味。自分から男にキスするのは初めてだ、いつもはレイジが先だった。レイジの腰に跨ったまま上体を起こし、上着の裾をめくりあげる。外気に晒されたのはしなやかに引き締まった腹部。淫らな痣やひっかき傷やみみず腫れが刻まれた腹部に一瞬怯むが、はげしくかぶりを振って、へその下あたりに顔を埋める。
 「ロンお前なにやってんだよ、騎上位は大胆すぎだろ!?」
 レイジがなにか吠えてるが無視する。俺は必死でそれどころじゃない。へその下の青痣を丹念に唇で辿り、舌で舐める。サーシャの痕跡を消したい一心で体中の痣や傷痕におずおずと舌を這わしていけば、稚拙な舌使いに快楽よりも戸惑いが先行したレイジが、俺の頭を片手で掴んで引き離そうとする。
 「やめろ、よ……無理すんなよ。お前が俺攻めるの無理だって!」
 「犯ってみなきゃわかんねえだろ!!」
 「わかるっつの、体格差と経験値の差を考えろよ!大体お前あんなに男と寝るのいやがってたじゃねえか、女のほうがイイって言ってたくせに俺の腹に顔埋めてなにやってんだよ!?」
 レイジの抵抗がはげしくなり、不意をつかれた俺は腰から振り落とされ、背中からベッドに倒れこむ。 
 ベッドに肘をついて上体を起こそうとすれば、スプリングが軋み、頭上に人影が覆い被さる。
 俺の上にレイジがいた。
 形勢逆転、最前まで俺がしてたのとまったくおなじ格好で俺の腰に跨ったレイジが冷ややかに笑う。
 「……聞き分けないガキだな。そんなに俺とヤりたいのかよ、まるでサーシャだな」
 サーシャ。その名を引き合いにだされ、体が嫌悪に強張る。
 「いいよ。これが最初で最後だ。そんなに俺とヤりたきゃ抱いてやる。女抱くのとは比べ物にならないくらいめちゃくちゃ気持ちよくさせてやるから、それで諦めろよ」
 「!レ、」
 ふたたび唇を奪われた。
 唇をこじ開け強引に割りこんできた舌がむさぼるように口腔を蹂躙する。レイジをどかそうと両手を振り上げかけ、その手を途中でおろす。顔の横に両手を寝かせ、体の力を抜き、レイジのしたいようにさせる。
 獣みたいなキスだった。二人分の唾液がまざりあい口の端からたれてシーツに染みを作る。息ができなくて苦しかった。さっきのキスなんか比べ物にならないくらい濃厚で獰猛で、生きながら食われてるみたいだった。レイジの唾液にはまだ麻薬が残ってるのか、喉を鳴らして嚥下したそばから体が火照ってきた。認めるのは癪だが、俺の体はレイジにキスされて切ないくらいに疼いてる。 
 レイジが犯りたいなら、犯らせてやる。
 諦観なのか絶望なのか、俺はすっかり抵抗する気力を失っていた。もうどうしたらいいかわからなかった。俺の言葉はレイジに通じない。レイジは俺を傷付けたくないから、俺をいつか自分の手で殺しちまうのが怖いから俺のそばからいなくなるつもりだ。俺はレイジに体をさしだして引きとめるしか方法が思い浮かばなくて、そんな自分がみじめで情けなくてやりきれなくて悔しくて、でもレイジが俺から離れていっちまうのはもっと怖くて、固く目を瞑り、爪を手のひらに食いこませ、レイジのキスに応じる。
 巧みな舌使いで口腔をまさぐられて頭に霞がかかったように意識がぼんやりしてくる。
 いろいろなことを思い出す。お袋。メイファ。鍵屋崎。サムライ。息が苦しい。窒息の苦しみに生理的な涙が滲む。俺はレイジになにをしてやれるんだろう。レイジの相棒として、なにをしてやれるんだろう。
 本当にこの方法しかないのか?
 口腔から舌が抜かれる。精一杯舌に舌を絡めてキスに応えたつもりだけどレイジの方が一枚も二枚も上手で、俺は巧みな愛撫に翻弄されるばかりだった。キスだけで体が溶けそうだった。おかしい、男とキスするなんて以前は考えられなかったはずなのに今はどうでもいいやと思える。  
 「なんで抵抗しないんだよ」
 俺の腰に跨ったレイジが途方に暮れたような顔で、哀しそうに呟く。
 伏せた睫毛が硝子の双眸を翳らせ、壊れ物めいて脆い笑顔がひどく胸をざわつかせた。
 ああ、レイジはこんな時でも笑ってる。
 そんな哀しい顔しかできないなんて、王様は不器用だ。
 だから俺は、この時ばかりは素直になることができた。キスで体が弛緩して、唾液にぬれた顎を手で拭う気力もなくぐったりとベッドに伏せって、よわよわしく呟く。

 「お前と、はなれたくないからだよ」
 レイジとはなれたくない。 
 それが、俺の答えだ。

 レイジの顔が奇妙に歪む。泣いてるような笑ってるようなぎこちない表情。 
 レイジは俺とおなじくらい、いや、俺よりもっと不器用な人間だ。
 俺よりもっと、臆病な人間だ。

 口から勝手に言葉があふれだす。
 「なあレイジ。俺はここに来る前ずっとひとりだった。お袋には無視されて、ダチなんかひとりもいなくて、いつでもどこにいてもひとりで、人生こんなもんかなって諦めてたんだよ」
 寂しい。
 俺のまわりにはだれもいない。俺はだれにも必要とされてない。たったそれだけのことがなんでこんなに寂しいんだ?いいじゃないか、だれにも必要とされなくたって。関係ないじゃないか、そんなの。
 寂しいわけあるか。俺は強いからひとりでも生きていける。ダチなんか必要ない。ひとりでも大丈夫。
 でも、東京プリズンに来てレイジと出会って。
 俺はそれが、ただの強がりだって思い知った。
 「畜生……寂しいよ。ずっとずっと寂しかったんだよ。俺はひとりでも生きてけるくらい強くなりたかったのに、だれにも頼らずひとりで生きてけるような強いやつになりたかったのに、お前が俺なんかかまうから、どんだけ邪険にしても懲りずにちょっかいかけてくるから、そんで全部おかしくなっちまった。
 レイジ、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。
 お前がいないあいだ、死ぬほど寂しかった。お前の笑い声が聞けなくて物足りなかった。へたっくそな鼻歌が聞こえなくてろくに寝つけなかった。俺はもうお前なしじゃ生きてけない体なんだよ。
 俺をお前なしじゃいられなくした責任とれよ。ずっとずっと一緒にいてくれよ。
 それが相棒のつとめだろ。違うのかよ」
 レイジの首に両腕を回し、自分の方へと引き寄せる。親に抱擁をせがむ子供のような動作だった。レイジは逆らうことなく、俺の腕に身を任せた。 
 目と鼻の先にレイジの顔がある。困ったような表情。
 「ロン。俺が怖いだろ」
 泣く子をなだめるように背中に片腕をまわし、優しくさする。素朴な愛情に満ちた、思いやり深い動作だった。お願いだからこれ以上俺を困らせないでくれよと言ってるような動作だった。

 「俺も、俺が怖い。
 いつかお前を殺しちまう俺が怖い。外にいた時、俺は人を殺すのが仕事だった。
 だから今でも、鉄錆びた血潮の匂いやナイフが肉にめりこむ感触やきな臭い硝煙の匂いが忘れられない。体の隅々にまで馴染んでるんだ、人殺しの極意ってやつがさ。
 今こうやってお前を抱いてるときだって、その気になればいつでもとどめをさせる。ナイフで頚動脈かききるか首を絞めて窒息させるか……
 さっきだって、舌を噛みちぎってたかもしれねえ」

 「でも、しなかった」
 「たまたまだよ。またいつ気まぐれが起こるかわからない、お前の腹に蹴り入れたときみたいに」
 「それでもいい」
 それでもいい。レイジの首に回した腕を強め、しっかりと抱き寄せる。俺はレイジに今の気持ちを伝えたい。レイジのぬくもりをむさぼるように体と体を重ね、意を決して口を開く。

 「たしかに俺は、お前が怖い。
 でも、お前がいなくなるほうがずっと怖い」

 「…………は、ははは」
 暗闇に力ない笑い声が流れて、すぐに途絶えた。俺の腕の中でレイジが肩をひくつかせて笑ってる。嗚咽みたいな笑い声だった。俺の胸に顔を埋めてるせいで表情は見えないけど、今のレイジは寄る辺ない子供のように小さく見えて、暗闇で凍えるレイジを温めるようにさらに腕の力を強める。
 俺に抱擁されたレイジが、乾いた独白を続ける。
 「なんでかな。なんでそういう殺し文句吐くかな。鍵屋崎にケツひっぱたかれて会いに来たけど、やっぱり別れるつもりだったんだよ。これ以上俺と一緒にいてもいいことないって、お前に教えてやるつもりだったんだ。俺と一緒にいたからマリアは幸せになれなかった。俺がいたからマリアは幸せになれなかった。お前はそうなっちゃいけない。お前は哀しいくらいマトモだから、笑えるくらいマトモだから、こっち側にひきずりこんじゃいけない。糞尿垂れ流しの暗い部屋にお前をひきずりこんじゃいけないって自分に言い聞かせて、格好よくけじめつけにきたつもりだったのに」
 首から流れ落ちた鎖が、俺の顎先に触れる。
 俺の胸に落ちた十字架。レイジが聖母から贈られた。
 「……格好つけすぎなんだよ」
 まったく手がかかる王様だ。大袈裟にため息をつき、俺は強がりの笑みを拵える。
 「お前が俺なしで生きてけるわけないだろ。レイジ」
 俺がお前なしで生きてけないように、お前が俺なしで生きてけるわけがない。
 そうだよな、レイジ?
 「そういえば。お前、渡り廊下で俺に肩抱かれたときなんて言ったんだ」
 俺の腕に抱かれて胸に顔を埋めたレイジの耳元で、渡り廊下で再会を果たした時からずっとひっかかってた疑問を口にする。あの時、俺に肩を貸されたレイジが英語で言った言葉。気恥ずかしげにそっぽをむいた横顔を思い出しながら問えば、軽く息を吸い、レイジが訳する。
 「『Please don't be afraid. Because I laugh, please love it』
  ……怖がらないで。笑うから、愛してくれよ」
 レイジの願いを叶えてやれるのは、俺しかいない。
 レイジの祈りを聞き届けてやれるのは、俺しかいない。 
 ひっこんでろ、神様。今はあんたが出る幕じゃない。レイジの願いを叶えてやれるのは、俺だけだ。
 仰向けに寝転がった体勢から首に回した片手をずらし、レイジの後頭部へともってゆく。俺はいつもレイジに頭をなでられてた。だれかの頭をなでるのは生まれて初めての経験だ。干した藁束のような茶髪は手触りがよくて、五指のあいだを流れる感触もすべらかで心地よい。
  
 ああ。
 レイジと出会えて、よかった。
 こいつがそばにいてくれたから、俺は東京プリズンで生きてこれたんだ。
 レイジは自慢の相棒だ。
 おかえり王様。

 「しょうがないから、愛してやるよ」
 自分より図体がでかい男を抱くのは変なかんじだ。でも今は、今だけは不快じゃない。 
 俺の腕の中で安心したように体の力を抜いたレイジが、顔は上げず、少しだけばつが悪そうに呟く。
 「……さっきのあれ、訂正していいか」
 「あれ?」
 不審げに眉をひそめた俺の腕の中、大きく肩を上下させ深呼吸したレイジが、いきなり顔を上げる。
 レイジは笑っていた。満面の、極上の笑顔。
 俺が見慣れた、俺だけに向けられる、心の底から幸福そうな、安息を得た笑顔だった。
 「愛してる、ロン。やっぱりお前がいなきゃだめだ。お前が俺の救い主だよ」
 そしてレイジは右腕に怪我してることも忘れて、俺が肋骨を怪我してることも忘れて、俺をおもいきり抱きしめた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050910100505 | 編集

 数時間が経過した。
 「…………遅い」
 遅い。なにをしているんだ。話し合うくらいすぐ済みそうなものなのに時間がかかりすぎる。腕組みして医務室前の廊下を行き来しながら苛立ちをこめて吐き捨てる。
 僕の説得が功を奏してレイジがロンとの話し合いを承諾してからもう悠に四時間が経過して夜明けも近いというのにレイジはさっぱり出てくる気配がない、医務室のドアの向こうはしんと静まりかえっている。
入院中の患者も寝静まっているのか不気味な静けさに支配された医務室の様子を探ろうとドアに耳を近づけたい誘惑にかられたが、こんなみっともないところを深夜徘徊中の囚人か見まわりの看守に目撃されたら一大事だ、僕のプライドに関わると懸命に自制する。
 落ち着け鍵屋崎直。レイジだって子供じゃない、感情的にならずに話し合いができるはずだ。
 相手は怪我人だ。ロンは肋骨を骨折した他に全身十三箇所の打撲傷を負って入院中の身でまさかそんな怪我人に感情的になって暴力を振るうほどレイジは短慮ではない。
 ……と信じたいが、ほんの数時間前、リングでの荒れようを間近に目撃した手前は断言できない。ここまでレイジに肩を貸して連れてきた責任もあるし、安田に身柄を引き渡すまでは見張っておく義務があると医務室前の廊下にたたずみ、無為に過ぎる時間にひたすら耐える。
 レイジは明け方には独居房へと強制連行される運命で、今夜を逃せばロンと和解するチャンスはない。これはレイジに与えられた最後のチャンスだ。いや、すでにレイジとロンだけの問題ではない。ことは僕たち四人の今後の運命を左右する難題だ。僕たち東棟の四人は運命共同体、だれかひとり欠けてもペア戦100人抜きは成し遂げられない。
 ロンとサムライが負傷して戦線離脱しても関係ない、僕たち四人が信頼で結ばれていなければ遠からずチームの連携は崩壊して敗北を喫してしまう。
 信頼、か。
 いつのまにかその言葉を使うことに抵抗がなくなった自分に苦笑する。思えば僕も変わったものだ。進化したのか、退化したのか。成長したのか、おちぶれたのか?
 ……わからない。天才の癖にわからないことがあるなどという現実は認めたくはないが、考えても考えても思考が空回るばかりなので答えは保留する。 
 医務室のドア横の壁に凭れ、青白い蛍光灯の下、物思いに沈む。
 いつだったか、サムライは僕の手を握り「自分を頼れ」と言った。自分を信頼するのがいやなら利用しろ、と。僕は今、サムライを信用している。信頼している。あれほど他人に心を開くのに抵抗を覚えていたのに、今はドアで隔てられていても、こんなにもサムライを身近に感じている。
 レイジもきっとおなじだ。ロンはレイジにとって、初めて心を許せた人間なのだろう。素の自分を無防備に晒せた人間なのだろう。だからあんなにもロンを大切にしている。ロンに依存している。献身的なまでにロンに愛情を捧げて報われなくても報われなくても尽くそうとしている。
 「みっともないな」
 みっともない男だ。ぶざまな男だ。ロンを振り向かせようと必死なレイジの醜態は正視に耐えなかった。僕は心の底からレイジのことを軽蔑していた。笑い声がうるさくて下品なスラングを吐いて音痴な鼻歌を口ずさんで人の気も知らずいつもいつでも軽薄に笑っていて、本当に救いようのない見下げ果てた男だと侮蔑していた。
 でも、意外とそんな彼のことが嫌いじゃない自分に気付いた。
 レイジは少し僕に似ている。僕はレイジの中に僕自身を投影していた。恵に献身的な愛情を捧げる僕自身。サムライに依存する僕自身。だがそれだけじゃない、僕は何故だか知らないがレイジを放っておけなかった。笑い声がうるさくて下品なスラングを吐いて音痴な鼻歌を口ずさむ軽薄な笑顔の王様を軽蔑していた癖に、いつ頃からか、僕はそんなレイジを好ましく思い始めていた。
 僕が彼に友情を抱いてるとは思いたくない。だが、さっき、レイジに抱擁されお前は最高のダチだと言われた時、不快感よりも先に戸惑いをおぼえてしまったのも事実だ。戸惑いだけではない。気恥ずかしさ、とでもいいだろうか。あまり体験したことがない感情だからうまく説明できないが、とにかく僕は、この半年間を共に過ごすうちにレイジの笑顔に対する嫌悪感が薄れ始めていたようだ。
 レイジはロンの隣だと、本当にいい顔をして笑う。
 あの笑顔がもう一度みたいと純粋に思った。    
 ……それにしても遅い。いったいなにをやってるんだ。話し合いにしても長すぎる。ひさしぶりに再会したのだからお互い照れもあるし積もる話があるのもわかるが、肌寒い廊下で待たされている僕の身にもなれ。
 深夜の廊下は寒い。青白い蛍光灯の光もひんやりとして、足元から冷気が這いあがってくる。
 くしゃみをした。
 「………」
 少し警戒して廊下を見まわす。幸い人はいなかった。くしゃみをしたところを人に目撃されるのはばつが悪い。なんとなくそわそわしながら、ずり落ちてもない眼鏡のブリッジを押し上げる。何回この動作をくりかえしたことだろう。我ながら無意味な行為だ。
 二の腕を抱き、壁に背中を凭せる。正確な時間はわからないがもうすぐ夜明けがきてしまう。刻々と近付く夜明けに焦りながら、壁越しに気配を探る。時折患者が寝返りを打ちスプリング軋む音と衣擦れの音、歯軋りと鼾の音が聞こえてくる以外は静かなものだ。待て、話し声がしないのは奇妙だ。ロンとレイジはなにをしている、もう話し合いは終わったのか?
 「……まったく、どこまで世話をかけるんだ」
 ぼやきながらノブに手をかけまわそうとして、寸前で思いとどまる。仮にロンとレイジが話し合い中なら、第三者の無粋な介入は避けたい。プライバシーの侵害だ。レイジとロンのプライバシーに配慮するならこのノブは引くべきではないと躊躇するが、中の様子がわからない以上実際この目で見てみるしかないのも事実。 
 どうしたらいいんだ?
 引こうか引くまいか苦悩する僕の背中に、ふいに声がかかる。
 「どうしたんだね」
 「!」
 一瞬心臓が停止した。
 反射的にノブから手をはなして振り向けば、見慣れた顔に直面する。白衣に身を包んだ医師がいた。白くなりはじめた眉を怪訝そうにひそめて微妙に強張った僕の表情を窺っている。
 「こんなに深夜に医務室に何の用だい。怪我でもしたのかね」
 「いや、僕は無事だ」
 たしかにペア戦では照明の破片を受けて切り傷を負ったが、わざわざ医務室で手当てをうけるほどの怪我じゃない。即答すれば、ますます不思議そうな顔をした医師が何事か思い至ったようにぽんと手を打つ。
 「そうか。なるほど。感心だ。見かけによらず友人思いな子ではないか」
 「……は?」
 医師の発言に不吉な予感が騒ぎだす。この耄碌医師は何かとてつもなく不快な誤解をしてる気配がする。 ドアを背に身構えた僕を微笑ましげに見やり、わかっているから皆まで言うなと鷹揚に頷く。
 「こんな深夜に友人の怪我を心配してこっそり見舞いにくるなんて、心の優しい少年だ」
 ……予感が的中した。
 「不愉快な誤解をするな。僕が貴重な睡眠時間を割いてまで友人の見舞いにくるような奇特な人間だとでも思っているなら誤解も甚だしい、買いかぶりすぎだ。鎮静剤を打たれたサムライは今ごろぐっすり眠っているはずだ、麻酔も受けつけない頑固者なら薬に免疫もないだろうし僕は良心の呵責なく彼を放置できる。
 まあ、老齢のためそろそろ視力が下降しているあなたが鎮静剤の量を間違えて注入してしまったのなら、こんな半端な時間にサムライが起き出してる可能性も否定できないが、その場合は単純な医療過誤で僕が責任をとる義務はない」
 医師の誤解をとこうとむきになって反論する。僕がサムライを心配して貴重な睡眠時間を削ってまで見舞いにきたと思われているなら不愉快甚だしい、ひどい侮辱だ。それではまるで僕がサムライにべったり密着してなければ生きてけない粘着質な人間みたいではないか。医師の発言は新手の人格攻撃とも解釈できる。
 プライドに賭けて反駁すれば、僕の剣幕にたじろいだ医師が気圧されたように一歩二歩と後退する。 
 「わかった、君が太股を縫った友人を心配して足を運んだわけではないのはよくわかったよ。じゃあ一体、何故こんなところにいるんだね」
 「それは……」
 墓穴を掘った。医師にあらぬ誤解をかけられ感情的に反論したのが裏目にでた。
 レイジは現在医務室にてロンと話し合い中だ。僕の言動が原因で第三者の詮索を招いて彼等の話し合いを妨害する事態はなんとしても避けたい。僕にも一応、見張り役の責任というものがある。
 咳払いし、毅然と顔を上げる。平静を装って医師と向き合い、口を開く。
 「あなたに質問したいことがあってここにきた」
 「質問?」
 はて見当もつかないと医師が首を傾げるのを無視し、一息に言う。
 「ヒトペストは腺ペスト・敗血症ペスト・肺ペストに大別されるわけだが、肺ペストの特徴として挙げられる症状四つのうちどうしても最後のひとつが思い出せず寝つけなくなってしまった。こんな砂漠のど真ん中の刑務所に隠居してるヤブ医者でも医者には違いないあなたなら、肺ペストの症状最後のひとつを知ってるに違いないと待ちうけていた。
 強烈な頭痛、嘔吐、39 ~41°C の高熱、急激な呼吸困難……さあ、肺ペストの四つの症状うち残るひとつはなにかすみやかに答えて安眠を与えてくれ」
 「鮮紅色の泡立った血痰を伴う重篤な肺炎じゃよ」
 ……医師はこともなげに言った。さらりと。
 まずい、非常にまずい。僕はどうやらこの医師を侮っていたようだ。東京プリズンにいるくらいだから大した医療知識ももたず腕もたいしたことはないヤブ医者に違いないと侮って、できるだけ長く足止めするために難問をふっかけたつもりがあっさり答えられてしまった。
 どうしよう。
 いや待て落ち着け鍵屋崎直、まだ策はある。できるだけ時間を稼げ、レイジとロンの話し合いが終わるまではなんとしても部外者の立ち入りを阻止しなければ。医務室のドアを体で塞いで医師と体面した僕は必死に頭を悩ませ、緊張に乾いた唇を舐め、話を続ける。
 「……そうだった。僕としたことが、そんな初歩的な病理知識を忘れるなどどうかしている。少し疲れがたまって頭の回転が鈍っているのかもしれない。由々しき事態だ。ついでに二・三聞きたいことがあるのだが、特に有効なペストの特効薬として挙げられる四種は」
 「ストレプトマイシン、テトラサイクリン、オキシテトラサイクリン、クロラムフェニコール」
 ……返答所要時間0.2秒か。侮れない男だ。医師に対する評価を改めなければならない。動揺をしずめるためブリッジに指を触れ、恬淡と取り澄ました医師の表情を観察する。存外この医師は無能ではない、どころか豊富な知識量に限れば有能な部類だ。初対面の印象が最悪なせいか僕は今の今まで医師に好感情を抱いていなかったが、僕の質問に即答できる実力は正当に評価しなければ。 
 焦慮に揉まれて視線をさまよわせながら次の話題をさがす。そろそろ医師も挙動不審な僕を怪しみはじめたらしく、目に警戒の色を浮かべてじっとこちらを凝視している。
 非常にまずい展開だ。
 「では質問を変えよう、これは病理学というより世界史の分野だがはたして答えられるか?中世ヨーロッパで猛威を振るい黒死病と恐れられたペストの最初の犠牲者がでたのは西暦何年と何月何日のどこ……」
 「いい加減入らせてもらうよ。風邪をひきそうだ」
 僕の長話に飽いたのか、医師が強引に僕をどかしてドアを開けようとする。
 「待て、話は終わっていない!逃げるのか卑怯者め、僕は西洋史とペストとの関連性を問うているんだ!あらゆる病理知識に通じた医師たるものペストがいつどこで発症したのか頭に入れておく資格が……」
 医師は僕の話など聞かずにドアを回し、勝手知ったる医務室へと入ってしまった。人の話を最後まで聞かない老人は度し難い。白衣の背中を向けた医師に舌打ちし、続いて医務室へと足を踏み入れる。一足先に入室した医師は壁のスイッチを手探りしてあかりをつけようとしたが、ふと異変を悟り室内を見まわす。
 「?」
 「どうした」
 心臓がにわかに早鐘を打ち始める。暗闇に沈んだ室内には、衝立に仕切られたベッドが整然と並んでいる。すべてのカーテンが敷かれているため個別ベッドの様子は窺えないが、殆どの患者は薬がよく利いてぐっすり安眠してるらしく、のんきな鼾が聞こえてくる。
 レイジはどこだ?
 焦燥に駆り立てられ、白い衝立がぼんやり浮上する闇を見まわす。ロンのベッドはサムライの隣、あそこだ。開け放たれたドアから射し込む蛍光灯の光を背にロンのベッドを透かし見るが、話し声は聞こえてこない。おかしい、話し合いはもう終わったのか?それなら何故さっさとでてこないんだ、寒い廊下で僕を待たせておいてと憤慨する。
 「……妙だな」
 独白した医師が、スイッチから手をはなし、迷いない足取りで医務室を突っ切る。医師が毅然たる足取りで歩み寄った先には、衝立に遮られたひとつのベッド……ロンのベッドだ。
 「ま、待て!話はまだ終わってないぞ、探求心旺盛な僕はペストの第一犠牲者の追求をあきらめたわけでは……」 
 「ペストの第一犠牲者が確認されたのは1347年9月、シチリアの港じゃよ」
 ……脱帽だ。さすがの僕も二の句が継げない。世界史にまで詳しいなんて予想外だった。
 ほんの一瞬だが医師への尊敬の念を抱いてしまったことに対し深刻な自己嫌悪に陥る。俯き加減に医師を追えば、本人は衝立のカーテンに手をかけ今まさに開こうとしていた。
 「!だめっ、」
 プライバシー侵害で訴えられるぞ、という間抜けな言葉が喉元まで出かかった。
 シャッ、と一気にカーテンが引かれ、医師の背後から射した光がベッドを過ぎる。
 「………」
 医師と肩を並べて立ち、あ然とした。
 ロンとレイジが寝ていた。ふたり折り重なり、この上なく幸せそうな顔をして。
 ロンの上になったレイジは、ロンを抱きしめる格好で背中に左腕を回し、包帯を巻いた右腕で頭を抱いていた。レイジの下敷きになったロンは何故か少しも寝苦しそうではなく、無防備に安心しきった寝顔を晒してレイジの腕に身を委ねていた。  
 かすかに規則正しい寝息が聞こえてくる。
 ふたり折り重なり睡眠をむさぼるロンとレイジの、安らかな寝息。 
 「…………………なんて人騒がせな」
 心配して損をした……今のは言葉の綾だ。実際は心配などしてない、僕がレイジを心配する理由が見つからない。レイジとロンの寝顔を見比べてるうちに緊張がとけ、肩と膝が弛緩して尻餅をつきそうになった。
 「よく眠っているね。起こすのは可哀想だからこのままにしておこう」
 医師が苦笑する。漸く気を取り直した僕は、あらためてロンとレイジの寝顔を見比べる。ふたり寄り添いあって、お互いの体に手を回して睡眠をむさぼる二人の姿は客観的には微笑ましい光景だった。レイジの髪や顔や服に乾いた血が付着していなければもっと微笑ましかったろう。
 ペア戦に二試合続けて出場したレイジは、とっくに疲労が極限に達していた。いつ倒れてもおかしくないのを気力で持ち応えていたのだ。ロンを抱いたまま眠りこけるレイジの様子から察するに、ロンと無事仲直りできた途端に気が緩んだのだろう。
 「……医師、質問だ。何故異変に気付いた」
 膝が脱力しそうになるのを気力で支え、さっきからひっかかっていた疑問を述べる。医師は電気を点ける前から異変に気付き、一呼吸もおかずにロンのベッドに直行した。その確信の根拠はなんだと不審の眼差しを向ければ、医師が謎めいた笑みを浮かべ僕の足元へと視線を落とす。
 つられて自分の足元を見る。何の変哲もないスニーカー。一体これがどうし……待てよ。
 そこまで考えてハッとする。
 そうか、わかったぞ。謎が解けた。
 「靴跡だな?」
 「ご名答」
 我が意を得たりと医師が微笑む。種を明かしてみれば驚くにも値しない単純なことだ。医務室に来る前、僕はレイジを中庭へ連行し、賭けと称してネットにボールを入れる実演をしてみせた。中庭にでたのだから、当然靴裏は汚れる。ということは、医務室の床にレイジの靴跡が付着する。靴跡の道順を辿れば必然侵入者の居所にたどり着く寸法だ。
 ……こんな単純なことに気付かないなんて本当に僕はどうかしてる。仮にも古今東西の推理小説を読み漁り名探偵の思考過程を完全になぞったはずなのに、推理で医師に負けるなんてプライドの危機だ。
 「ちなみに聞くが、推理小説は好きか?」
 「いや。見ればわかるだろう?」
 医師が顎をしゃくった方角を振りかえれば、開け放たれたドアから蛍光灯の光が射しこみ、医務室の床を明るく照らしていた。そして光の中には、鮮明に靴跡が浮かび上がっていた。  
 ……これは何かの間違いだ。僕が推理力で医師に負けるなどあってはならない絶対に。仮に事実だとしても認めない。眼鏡のブリッジに触れ、心の中で言い訳をしながらレイジとロンの寝顔を見下ろす。
 「長かったな」
 つまらない感慨が、おもわず口から零れた。
 本当に、長かった。だがこれで大丈夫だ。ふたりの話し合いの内容は知るべくもないが、こうして抱き合って寝ているということは、両者納得のいく結論に達したのだろう。ふと、レイジの右袖が肘までめくれて、素肌の一部を覆った包帯が露出してるのが目に入る。薄く血の滲んだ包帯が痛々しくて、そこだけ微笑ましい光景から浮いているようで、足音を忍ばせベッドに歩み寄った僕はそっと手をのばしてレイジの右袖を引き上げる。慎重に慎重を期して、ふたりを起こさないよう細心の注意を払って。
 「……優しいね」
 振り向く。背後に立った医師が、意外げな表情を覗かせていた。
 「誤解するなよ。着衣の乱れが目障りだっただけだ」 
 見られていたなんてばつが悪い。そっけなく吐き捨て踵を返した途端、
 『Thanks』
 振り向く。ロンの上にだらしなく覆い被さったレイジが、口元に弛緩した笑みを浮かべていた。
 なんだ寝言か。寝ながら礼を言うなんて行儀が悪い。
 「……礼なら素面で言え。無意識で礼を言われても対処に困る」  
 馬鹿らしくなって、今度こそレイジとロンに背を向ける。どうせ朝まで起きないだろう。明け方、安田が迎えにくるまで寝かせてやろうと安眠に配慮してカーテンを閉めれば、衝立に仕切られた隣のベッドが目に入る。
 サムライは寝ているのだろうか?
 「……鍵屋崎?」
 僕の心を見ぬいたように、衝立越しの呟きが落ちる。心臓が跳ねあがった。衝立に遮られてるのに何故僕だとわかったんだ、超能力者か?動揺した僕の隣で、医師がいらぬ茶目っ気を覗かせる。
 「ついでだ。話してきたらどうだね」
 「冗談じゃない。僕はこの足で房に寝に帰る」
 「医師命令だ。患者を起こした責任をとってもらおう」 
 ……なんでそうなるんだ。
 さっきはこれ以上廊下にいたら風邪をひいてしまうと人の制止も聞かずにいそいそ医務室に入ったくせに、今は勝手に気を利かせていそいそ出ていこうとしている医師に辟易する。人の話を聞かない年寄りはこれだから始末におえない。が、寿命はもって十年かそこらの老人の好意をはねつけるのも気が引ける。
 仕方がない。
 あえて医師には抗議せず、ため息まじりにカーテンを引く。バタンとドアが閉じる音がした。どうやら今現在起きているのは、サムライと僕二人だけのようだ。
 「いつから起きていた?」
 「………最初からだ。レイジがここに来た時には起きていた」
 「鎮静剤も効かないのか。どういう体をしてるんだ君は、一回解剖してみたいな」
 腕を組んで皮肉を言う。ベッドに伏せったサムライは、行儀よく毛布にくるまり天井を仰いでいた。 
 だが、様子がどこかおかしい。
 「どうした?」
 「……いや。ただ、ついさっきまで身の置き所がなかっただけだ」
 「レイジとロンの話を盗み聞きしていたのか」
 「無礼なことを言うな、断じて盗み聞きなどではない……隣にいたからたまたま聞こえてしまっただけだ。一部始終がな」
 わざとらしい咳払い。闇に紛れてよく見えないが、気のせいか頬が紅潮していた。
 変なサムライだ。
 「全部聞いてたならいまさら説明するまでもないが、レイジとロンは無事仲直りした」
 「ああ」
 「よかったな」
 「ああ」
 サムライの返答はそっけないほどに短く、なんとなく沈黙が落ちる。 
 不意にサムライが口を開いた。
 暗闇に沈んだ天井を、揺るぎ無い眼光を宿した目で見上げて。
 「………レイジが憎しみを抑えつけられなくなったら、俺が止める」
 サムライは、静かに決意を口にした。
 「そうか」
 医務室の外にいた僕はロンとレイジのあいだで話し合われたことを知らない。サムライが聞いた一部始終を知らない。だが、なんとなく察しはついた。
 レイジはだれよりも臆病な王様だ。その優しさは時として、ひとりよがりで残酷だ。
 だが僕は、そんなレイジがそれ程嫌いではない。きっとサムライもおなじ気持ちだ。だからこそ今ここで、僕を証人にして、友のために最善を尽くすと誓いを立てた。
 命を預けられる仲間のために、命を賭けて仲間をとめると。  
 闇に沈んだサムライの寝顔を眺めていると、胸に温かい感情がこみあげてくる。とても満ち足りて穏やかな気持ちに浸りながら、僕は恵のことを思い出す。
 恵。今は遠く離れた妹。僕の大事な家族。  
 恵、元気にしているか。僕には友人ができた。寡黙で不器用で世話の焼ける友人だ。その友人はとても思いやり深くて、とても仲間を大切にする時代遅れのサムライだった。
 そんな彼を、とても好ましく思う。 
 「写経が趣味のくせに日本語が不自由だな。そこは一人称複数形にすべきだろう」
 ベッドに横たわったサムライがうろんげにこちらを向き、物問いたげな視線を投げかける。
 片腕に点滴をさしたサムライを見下ろし、軽く息を吸い、誓いのようなものを口にする。
 「レイジが憎しみを抑えつけられなくなれば、『僕たち』が止める」
 「直………」
 闇の帳の向こうでサムライの目が意外げに見開かれる。ため息まじりの嘆声を発したサムライが、感に堪えかねたように呟いた。
 「笑っているのか?」
 「え?」
 意外な指摘に戸惑う。笑っていた?この僕が?
 「……僕は笑っていたのか?」
 全然気付かなかった。でもたしかに今僕は満ち足りた気分で、心からの安息を覚えていて、サムライが隣にいれば何も恐れるものはないと、レイジやロンがいれば何も欠けるものはないと思えてそれで。
 笑ったのか。
 そうか。僕でも笑えたのか。
 本当に嬉しいとき、喜ばしいとき、笑顔は自然に零れるものだ。偽物と本物に分ける意味はない。
 本当に嬉しくて楽しくて心から満ち足りて笑っているときは、自分自身、笑顔を浮かべていることに気付かないものなのだ。
 ロンの隣のレイジがそうだったように。 
 おもわず頬に手をあて表情筋の動きを確かめた僕をしげしげ眺め、枕に頭を預けたサムライが闇の中で砕顔する。
 そして。
 ただ、あたりまえのことをあたりまえに言うように、はじめて僕の笑顔を見た感想を口にした。
 「笑うと可愛いんだな」
 「!?なっ…………」
 頬に血が上る。ベッドに横たわったサムライが滅多にない光景を目撃した優越感だか何だかで満足げに口元を緩めているのに反感が沸騰し、氷点下の眼差しで射貫く。
 「鎮静剤をうつか?致死量に達するほどに」 
 「ご免被る」
 噛み合わないやりとりを続ける僕らの背後では、ロンとレイジの寝息がいつまでも続いていた。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050909100637 | 編集

 「めでたしめでたし」 
 ベッドに腰掛けて足を放り出せば、ビバリーがぎょっとする。
 「なんスかリョウさんいきなり」
 「ビバリー知らない?ロンとレイジがようやっと仲直りしたんだって」
 僕の額に手をあて熱をはかるビバリーに笑いかければ、合点がいったビバリーが「ああ、そのことっスか」と軽く頷いて床に胡座をかく。
 「知ってますよ、東棟じゅうで噂になってますよ。医務室のベッドで二人一緒に朝迎えたそうじゃないスか、熱々のラブラブっすね」
 二人の仲良しぶりにあてられたのか、手の平を返して天井を仰ぐビバリーはあきれ顔。
 気持ちはわかる。
 ペア戦準決勝ではしゃぎすぎたレイジが南の囚人を失明させ南のトップの腕を刺して場外の野次馬ふたりに重傷を負わせた一件は現場を目撃した囚人の口から口へと広められて一晩経った今じゃ東西南北の隅々まで行き渡ってる。
 僕は金網の死角に設置された隠しカメラ越しに一部始終を目撃したわけだけど、レイジのキレっぷりにはさすがに戦慄を禁じえなかった。
 不幸な囚人の返り血で髪も顔も服も全身べったり朱に染めた怒り荒ぶる暴君とカメラ越しに目が合った時はびびっておしっこちびりそうだった。
 キレたレイジの怖さは身に染みてる。僕は知ってる、ロンが来るまでレイジがそりゃもう無茶苦茶やってたことを。
 サーシャ入所時に起きた渡り廊下の抗争は記憶にあたらしい。今じゃだいぶ手加減のコツを掴んだとはいえ過去のレイジは敵に容赦するのがへたで、命だけは見逃してやったとはいえサーシャは背中に一生消えない敗者の烙印を負わされた。
 鼻歌まじりに愉快げに、残酷に残虐にサーシャの背中を切り刻むレイジを僕はまだ克明な悪夢のように覚えている。
 だから昨晩、準決勝でレイジが荒れに荒れて手をつけられなくなった時は「これで暴君に逆戻りかあ」と諦めにも似た感情に襲われた。
 仮初の平和と秩序は破られた、暴君の時代再来かってね。
 実際隠しカメラに映ったレイジは完璧箍が外れていて、狂気走って聖書を口ずさむさまは異様な迫力に満ち満ちていた。
 審判の時来たれりと胸で十字を切った僕だけど、どっこいそうはならなかった。
 鍵屋崎が暴君の手綱を引いたからだ。ナイフを携えたレイジと物怖じすることなく対峙して必死の説得を試みた鍵屋崎を思い出せば、大した度胸だなと口笛を吹きたくなる。
 鍵屋崎がいなかったら事態は収拾つかなかった、悔しいけどそれは認めよう。
 鍵屋崎が体を張ってレイジを止めなけりゃリングではハルマゲドンが起きて多数の死傷者がでていた。レイジは手当たり次第に周囲の人間を傷つけ血祭りにあげて後戻りできなくなってたはずだ。  
 鍵屋崎のお手柄だね。頑張りを誉めて拍手でもしたげよ。ぱちぱち。
 鍵屋崎とレイジのあいだに結ばれた美しき友情により、ハルマゲドンあわやの大惨事は間一髪免れたけど、主犯のレイジがお咎めなしってわけにはいかない。
 地下停留場を大混乱に陥れた罪は重い、いかにペア戦がルール無用とはいえ金網越しの野次馬が襲われるなんて前代未聞の異常事態で、副所長がリングに乗りこんでレイジに独居房行きを告げたのは妥当な処分といえよう。
 レイジは自業自得で同情の余地なしだ。
 ところが、ここで異議ありを唱えたのがお節介な鍵屋崎で副所長の安田に「一日、いや朝まで待ってくれ」と直談判した。
 安田は鍵屋崎の申し出を了承、かくしてレイジには明け方まで数時間の執行猶予が与えられた。
 僕が知ってるのは、カメラで見たそこまで。あとは噂に過ぎない。とにかくレイジとロンは仲直りして、明け方安田が医務室を訪れたときには、ふたり仲良く遊び疲れた子供のようにぐっすり眠ってたんだそうだ。
 レイジの下になったロンがちょっと寝苦しそうにうなされてたとか、ロンを抱いたレイジが幸せそうな顔してたとか、真偽が定かじゃない噂が出回ってるけど実際この目で見てないから想像の域をでない。
 ひとつ断言できるのは、ロンとレイジはめでたく仲直りした。
 だからといって、独居房送りが見逃されるはずもない。
 明け方医務室を訪れた安田および看守数名によりレイジは独居房へと強制連行された。 これはまあ仕方ない、時間厳守で約束を履行した安田にレイジと鍵屋崎はむしろ感謝しなきゃ。安田はきっちり約束を守ってレイジとロンが仲直りする執行猶予をくれたのだ。
 見た目は冷たいけど案外情にもろい副所長だ、どこかのだれかさんとおなじく。
 「レイジはもう親殺しに頭上がらないね、迷惑かけまくり面倒かけまくりでさ。ロンとの仲を取り持ってくれた恩人みたいなもんじゃん?まったく鍵屋崎は男に取り入るの上手いよ、いつからあんなに王様と仲良くなったんだ」
 「嫉妬はみっともないっスよリョウさん」
 「嫉妬?僕がだれに」
 聞き捨てならない台詞に気色ばめば、床に胡座をかいたビバリーがしれっとうそぶく。
 「レイジさんと親殺しの仲妬いてるんじゃないスか」
 「冗談。鍵屋崎タイプじゃないもん、あんなつんけん尖った可愛げないヤツお断りだね。だいたい不感症と寝てもたのしくないっしょ?売春班で男に慣らされてちょっとは感度よくなったって言ってもさ……」 
 「リョウさんはなんでそう下品な方向に話題をもってくんスか?セックスと恋愛は別物でしょう」
 ビバリーの戯言を鼻で笑って一蹴する。ビバリーは変に勘繰ってるけど僕が鍵屋崎に惚れてるなんて冗談じゃない、気色悪い誤解はやめてほしい。たしかに鍵屋崎は生意気で目障りで放っとけないヤツだしからかうと面白いけど、僕が親殺しに片思いしてるなんてありえない。だってママの手紙を破いたヤツだよ?
 「まあ、親殺しが気になるのは事実だけど……」
 両手を広げてごろんとベッドに倒れこむ。目に映るのは配管むきだしの殺風景な天井。 灰色のコンクリ壁に囲まれた狭苦しい房を眺め、枕元のテディベアを頭上に抱き上げ、拗ねたように唇を尖らす。
 親殺しもここに来たばっかの頃と比べてずいぶん図太くしぶとくしたたかになったもんだ。キレたレイジとも互角に渡り合えるくらいに成長したんだから……サムライのおかげ?なんだか面白くない。
 テディベアを高い高いしながら回想するのは、いつだったか、僕を壁際に追い詰めて誘惑した鍵屋崎の表情。ぞくっとするくらい色っぽい目つき、首筋への冷たいキス。
 鍵屋崎は堅物な見た目からは意外すぎるほどキスが上手くて僕はびっくりして一瞬流されそうになって、でもすぐ正気に戻った。
 だから、僕が鍵屋崎に惚れてるなんてありえない。
 雰囲気を変えるため、テディペアを高い高いしながら飄々と言い放つ。
 「それはそうと、王様には感謝してほしいよね。僕が副所長に証言してあげたおかげで渡り廊下の抗争主犯容疑で独居房送り免れたんだから。今となりゃ早いか遅いかだけの違いだったけど……」
 「リョウさんてほんと要領イイっすね。北棟に親殺し案内してって抗争に巻き込まれて、副所長が来た途端にすたこら逃げ出して。親殺しは渡り廊下に放りっぱなし、案内役として無責任な」
 「なんでそこまで鍵屋崎の面倒見なきゃなんないのさ?そりゃお金貰ってたら考えるけど、そもそも鍵屋崎を北に連れてったのは無償の善意でタダの親切心だよ。もともと鍵屋崎が言い出したことなんだし自分のお尻ぐらい自分で拭けっての」
 テディベアを胸にのせてむくれる。ビバリーの非難は見当違いもいいところだ。北への案内役を引きうけて抗争の巻き添え食った僕こそいい迷惑だと憤慨する。
 北と中央の渡り廊下で起きた抗争で主犯格のサーシャ他数名が独居房送りになったが、本来なら抗争への関与が疑われたレイジも事情聴取を受けて独居房送りを言い渡されるはずだった。
 レイジが独居房送りを免れたのは僕がこっそり副所長にご注進したから。 
 つまり僕はサーシャに忠誠を誓った舌の根も乾かぬうちにご主人サマを裏切ったことになるけど、まあ、これは僕なりのけじめ。案内役の責任を放棄して、修羅場まっただなかの鍵屋崎と愉快な仲間たちを置き去りにして、僕だけとっとと逃げ出してしまったのだ。 ビバリーには「僕が責められる謂れはない」と主張したけど、本音を言えば、ほんの少しだけ良心が痛まないでもない。
 一応僕も東棟の人間だ。
 ピンチの王様に恩を売っといて損はないと打算が働いたのも否定しないけどさ。
 「僕が医務室をでた副所長に『悪いのは全部サーシャ、サーシャが鍵屋崎とレイジに殺し合い命じて、レイジがそれを断って皇帝が逆上したのが抗争の原因。東棟の人間はとばっちり食っただけです』って証言しなきゃ、レイジはサーシャと一緒に独居房送りでお隣さんだよ?ロンと仲直りするチャンスも与えられず暴君に逆戻り。
 本人が知らないところで王様の危機を救った僕の功績を考えれば親殺しを見捨てたことくらいどうってことない。でしょ?」
 「レイジさんいつ出て来るんでしたっけ。三日後?」
 「一週間。決勝戦にはでてくる」
 「一週間!?うわあ、きびしいっすね」
 「一週間後にはサーシャもだされる。東西南北四トップが晴れてリングに集結」
 テディベアを高く高く放り上げて甲高い笑い声をあげる。
 ああ、今から楽しみで楽しみで期待に胸はちきれそうだ。東のレイジ、西のヨンイル、南のホセ、北のサーシャがリングに揃い踏みで何も起こらないわけがない。きっとなにか、皆の想像を絶した凄まじいことが起こる。
 東京プリズンの歴史に残る世紀の決勝戦が今から待ち遠しくてしかたがない。 
 さあ、だれが勝つ?だれが東京プリズンの支配権を握る、だれが本当の王様になる?
 「話がでかくなりすぎてついてけないっすよ、僕は」
 やれやれとかぶりを振りながらビバリーが嘆く。僕が仰向けに寝そべったベッドに頬杖つき、感慨深げにペア戦の経緯を振り返る。
 「レイジさんがロンさん救いたいが為に100人抜き宣言したのがそもそもの始まり。100人抜きの条件に売春班撤廃を要求したレイジさんに囚人の大多数は猛反対、レイジさんには味方がいなかった」
 「味方はいないけど仲間はいた」
 「そう、頼りになる仲間が。サムライ、親殺し、そしてロンさん。たった四人だけど、この四人は強い絆で結ばれた信頼関係にある四人。舐めてかかっちゃいけません。実際レイジさんは100人抜きまであと一歩、他の3トップを倒せばいいとこまで来てる」
 「簡単に言うけどね、ビバリー。3トップの実力を侮っちゃいけないよ?」
 ベッドに上体を起こし、揃えた膝の上にちょこんとテディベアを座らせてビバリーに向き直る。
 「前に見たっしょ、3トップの個人データ。ヨンイルは過去に二千人殺した懲役二百年の爆弾魔、普段は道化を装ってるけどその実力は未知数だ。ホセは地下ボクシングのチャンピオンで、素手で人を殴り殺せる人間凶器。東京プリズンにぶちこまれたのは、奥さんの浮気現場に踏みこんで浮気相手殴り殺したから。北のサーシャはもう説明するまでもないけど、ロシアンマフィアの暗殺者で超絶的なナイフの使い手。
 それぞれ戦い方の違う三人を相手に、サムライとロンを欠いたペアがどこまでイケるかな」 
 意地悪くほくそ笑みながら決勝戦の行方を予想する僕の視線の先で、ビバリーが気難しげに唸る。
 「ロンさんはともかくサムライさん不在は痛いっスね。太股十五針縫ったんじゃ決勝戦に復帰できそうにないし、今戦えるのはレイジさんと親殺しだけ……」
 堪えきれず吹き出す。
 「親殺しになにができるのさ?軟弱な坊やはひっこんでろよ」
 そう、所詮役立たずの鍵屋崎になにができる?金網越しの応援席でレイジやサムライに声援とばすことしかできない鍵屋崎がリングに上ったところで勝負にならない。まあ、鍵屋崎にしてはよく頑張ったって誉めてあげるけど四人の命運はすでに尽きたも同然だ。王様とサムライが組んで初めて100人抜き達成の可能性が生まれた。
 だけどサムライは太股を十五針縫う重傷でベッドから動けず、ペア戦には出場できない。サムライがいなけりゃ、万が一にも決勝戦に勝てる見込みはない。
 レイジひとりじゃ荷が重い。相手は西南北のトップだ。頂上対決の行方は現在東京プリズンにおける最大の関心事だけど、右腕に重傷を負った上に独居房から帰還したばっかで身も心もぼろぼろのレイジが三試合続けて出場すること自体無理無茶無謀だ。
 結論。レイジは3トップに勝てない。
 100人抜き達成の野望は潰え、鍵屋崎とロンは売春班に逆戻り。
 売春班の存続が決定し、囚人は大喜び。東京プリズンは平穏を取り戻す。  
 「奇跡でも起きない限り、レイジと鍵屋崎が100人抜き達成するなんてありえないね」
 「おなじ東棟の仲間として応援してあげましょうよリョウさん……」
 「やだ。親殺し嫌いなんだもん」
 「ほんとに愛情表現が子供なんだから……好きな子に意地悪してたのしむなんて歪んでるというか素直じゃないというか」
 ぶつくさ愚痴をこぼしながら背中を向けたビバリーの肩にテディベアをおく。
 「あいつらのこと仲間だなんて思ったこと一度もないね。僕には仲間なんかいないよ」
 テディベアの腕を操ってビバリーの肩を叩く。
 口調はふざけてるけど内容は本音。僕には仲間なんかひとりもいない、べたべたした馴れ合いはごめんだ。他人は利用するために存在する、それが僕の哲学。外でもここでもずっとそうやって生きてきたんだから今更変えられるわけがない。
 僕の言葉に反応してビバリーの肩が強張る。テディベアの腕を動かしてビバリーの肩を叩いてた僕は、ビバリーの雰囲気が豹変したことにたじろぐ。
 怒ったのかな?お茶目な悪戯なのに、笑って許してくれてもいいじゃん。
 テディベアの腕を引っ込め、庇うように懐に抱き、怯えた上目遣いでビバリーの様子を探る。
 「……どうしたのビバリー。怒ってる?」
 「怒ってますよ」
 おどおどと機嫌を窺えば、むすっとしてビバリーが答える。こっちを振り向きもしないビバリーの態度にテディベアを抱っこして途方に暮れる。なにが気に障ったんだか皆目見当がつかない。ちらちらビバリーを盗み見ながら、所在なくベッドにうずくまり、テディベアでひとり遊びをする。
 なんで怒るのさ、わけわかんない。僕なにかいけないこと言った?
 僕のどこが悪かったんだろうと拗ねたように唇を尖らして反芻する。
 あいつらのこと仲間だなんて思ったこと一度もない。僕には仲間なんかいない。仲間なんか……
 え?
 ひょっとして、ビバリーが怒ったのはそこ?
 「……………」
 テディベアをもてあそぶ手を止めて、じっとビバリーの後頭部を見つめる。僕には仲間なんかいない。ビバリーがへそを曲げたのはそう口を滑らした直後だ。ビバリーの後頭部から膝の上のテディベアへと視線を転じ、黒くつぶらな瞳を覗きこむ。
 テディベアの瞳に映ったのは独りぼっちの迷子のように心細げな僕の顔。愛くるしいテディベアの瞳を覗きこめば、脳裏に次々と記憶の断片が浮かび上がる。
 『リョウさん!』
 洪水が起きた下水道に、ビバリーは身の危険も顧みず僕を助けにきてくれた。
 心配させるなこの馬鹿って、ママにも殴られたことない僕を殴った。
 僕の手から力づくで拳銃を奪ったのは?僕のために真剣に怒ってくれたのは?おしゃべりでうるさくてハイテンションでたまにうざったくなるけど、僕がホームシックにかかって涙ぐんでると決まってくだらないバカ話して元気づけてくれるのは?
 ……ビバリーだ。
 「………ビバリー、機嫌なおしてよ。ね?」
 甘ったるい猫なで声でビバリーの機嫌をとる。ビバリーは僕を無視して憮然と黙りこんでる。ビバリーに無視されるのに慣れてない僕はおろおろ動揺して膝からテディベアを落としそうになる。
 わけわかんない、なんであんな一言で怒るのさ?なんでもいいからお話してよいつもみたいに、ねえビバリーってば。
 縋るような眼差しでビバリーを仰いではみたけど、反応はない。しびれを切らし、いても立ってもいられずビバリーの肩に手を触れる。
 「怒ったんなら謝るよ。おわびに騎上位でイかせてあげ」
 「もういいっス!!」
 肩から邪険に手を叩き落とされた。
 びっくりして言葉を失う。ビバリーに叩き落とされた手が痛くて、その衝撃で膝からテディベアが転げ落ちる。ベッドで跳ねて床に落下したテディべアに目を奪われた僕をよそに、ビバリーが憤然と立ち上がる。
 「……リョウさん、あんた本当にわからず屋だ。もう付き合いきれません。あんたの顔なんか見たくないっスよ」
 「え……え?え?ちょ、なんでそうなるのさ!?」
 ビバリーは本気で怒ってる。体ごと振り向いたビバリーにきつい目で睨まれて鼻腔の奥がつんとする。視界が曇るのは涙のせい?待ってよ、ビバリーに冷たくされたからって僕が泣く理由ないじゃんか。
 スプリングを軋ませベッドに立ちあがり、肩を怒らせてビバリーを睨みつける。
 体の脇でこぶしを握りしめ、毛を逆立てた猫のように精一杯ビバリーを威嚇するけど、目に涙が浮かんで変なしゃっくりがこみあげてきて、これじゃ全然さっぱり迫力がない。
 「わからず屋はどっちだよ、くだらないことで怒ってむきになって!僕悪くないもん、ビバリーが勝手にへそ曲げたんだよ。僕に仲間がいないのはホントのことじゃないか、それとも何、ビバリーは僕の仲間のつもりだったの?僕のトモダチのつもりだったの?」
 ビバリーの顔が怒りでサッと紅潮する。冷静にならなきゃと頭じゃわかってるけど舌が止まらない。
 ビバリーに無視されたのが哀しくて腹立たしくて、床のテディベアが無垢でつぶらな目で僕を見上げてるのがやりきれなくて、大粒の涙をためた目で挑むようにビバリーを見据える。
 今にも泣き出しそうに目を潤ませた僕に一瞬怯んだビバリーが、懐でこぶしを固め、もどかしげに反駁する。

 「―っ、僕はリョウさんのことが心配で!」
 「頼んでもないのにトモダチ面すんなよ、気持ち悪いんだよ!!」

 あ。
 まずい。
 反射的に口を塞ぐ。が、遅かった。両手で口を押さえた僕の正面では、ビバリーが愕然と立ち竦んでいた。空白の表情に浮かんだのは幻滅の笑み。
 ぎこちなく笑ったビバリーが、自嘲的に吐き捨てる。
 「そう、っスよね。トモダチでもないのに、迷惑っスよね。全部僕が勝手にやったことで、リョウさんには全然関係ないスもんね。調子にのってました。今まで」 
 言いすぎた。
 そんなつもりじゃなかったと後悔しても遅い。口から出た言葉は戻らない、もう取り返しがつかないのだ。むなしく宙に手をのばし口を開こうとした僕の正面で、中腰に屈んでテディベアを拾い上げるビバリー。 
 丁寧な手つきで埃を払い落とし、直接僕には渡さず、枕元におく。
 「ビバリー、ちが、今のはちがうんだって。ねえ、まさか本気にしてないよね?僕いつもビバリーにべったりひっついてるじゃん。頼りきってるじゃん。ビバリーがいなきゃ生きてけないってマジで」
 僕はおろおろするばかりだ。ビバリーは無言でテディベアを覗きこんでいたが、僕の方は振り向かず、テディベアに語りかけるように口を開く。
 「リョウさんは僕がいなくても生きてけます。図太くしぶとくしたたかな子ですから」
 やけにしんみりとした独白に胸がざわめく。冷たく突き放すというよりは、内省的で寂しげな口調だった。あまりにちっぽけな自分の存在に失望したようにテディベアを撫でるビバリーから目を逸らせない。はやく謝らなきゃ言い訳しなきゃと気ばかり急いて舌を噛んだ僕の前でビバリーがすっくと立ちあがり、鉄扉の方へと歩いていく。
 「どこ行くのさビバリー、おいてかないでよ!」
 追いすがる僕の呼びかけもむなしく、拒絶の響きを残して鉄扉が閉じる。ベッドから飛び下りたはずみにテディベアがまた転がり落ちたけど拾い上げる手間を惜しんで鉄扉に駆け付ける。両のこぶしで鉄扉に縋った僕は、そのまま鉄扉に額を預けて崩れ落ちる。
 今追えば間に合うかもしれない、という誘惑が脳裏をかすめたけどはげしくかぶりを振って追い払う。
 僕は悪いことしてない。謝るのはビバリーの方だ。ビバリーが「ごめんなさいリョウさん!」と泣いて謝るまで許してやらないんだからと心に決め、鉄扉から体を起こし、おもいきり蹴りを入れる。
 ガンと鈍い音、衝撃。
 「図太くしぶとくしたたかに生きて悪いかよ畜生、ひとの生き方に文句つけんなっ!」
 腹立ち紛れに鉄扉を蹴れば、足元から衝撃が突き上げてじんと痺れた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050908100743 | 編集

 免許証入れには娘の写真が入っている。
 もういない娘の。

 それを知っているのはごくわずかな人間だ。以前同僚のタジマにうっかり口を滑らし「娘がいたんだ」と過去形で語ってしまった。
 好奇心旺盛といえば聞こえはいいが、実態は他人のプラバシーを土足で踏み荒らすのが趣味の破廉恥漢は、彼が免許証入れに亡き娘の写真を入れていると知るや再三「見せろ」と要求した。図々しく迫られ断りきれず、半ば押し切られる形で写真を見せた彼は即座に後悔した。写真を一瞥したタジマの目が好色そうに輝いたのを見逃さなかったからだ。
 タジマの感想は、「あと十年経てばさぞかし気が強え踏まれ甲斐のある女王様になったろうに、惜しいなあ」だった。
 感慨深げにため息つくタジマの手から免許証入れを奪い取った彼は、二度と娘の写真をこいつに見せるものかと誓った。大切な思い出が汚されるのはごめんだ。
 東京プリズンに来てからの日々は一見穏やかに過ぎた。
 宿舎に居を移した彼は、夫婦仲の冷え切った妻と距離をおいたことで自分を冷静に眺めることができた。夫婦の問題が解決に至るには長い長い、それこそ気の遠くなるほど長い時間を要するとわかっていたが、彼は地道にやり直してゆくつもりだった。リカがいた頃のように笑い声の絶えない家庭をまた取り戻したいと儚い夢を見ているわけではない。
 テロに巻きこまれて死んだリカはもう戻ってこない。
 従って、なにもかも完全に元通りになるのは不可能だ。
 現実は非情だ。リカの死からもう五年が経過したなど信じられない。自分だけが時の経過から取り残されたように心が麻痺している。いや、心の一部が壊死しているのかもしれない。リカがいた頃はあんなに毎日が楽しかったのに、今ではなにをしても味けなくつまらない。
 当初、妻が待つ家には週末だけ帰ることにした。しかし宿舎に移って一ヶ月二ヶ月が経つにつれ、次第に帰宅の間隔が空くようになった。最初の頃は多少無理をしてでも必ず週末に帰っていたのがやがて二周間に一回になり三週間に一回になり、今では一ヶ月に一回の頻度にまで減ってしまった。
 原因は自分にあり、妻にもある。
 リカが死んでから夫婦の心はすっかり離れてしまった。リカがいない現実を直視できない自分は酒に溺れて妻に暴力を振るい、リカの不在に精神の均衡を崩した妻は生きる気力を喪失して自殺未遂をはかった。発見が早かった為幸い一命はとりとめたが、以来妻は家事を放棄して酒に溺れるようになり、リカの死の責任は彼にあると口汚く罵るようになった。
 彼は無言で妻の弾劾に耐えた。反論も反抗も一切しなかった。
 『お母さんと仲良くね、お父さん』
 だが、自分がそばにいたらよりいっそう妻を傷付けるだけだと気付いたのだ。
 自分がそばにいれば妻は必然三人でいた頃を思い出してしまう、リカがいた頃の幸福な記憶を反芻してやりきれない思いに苛まれる。それは自分もおなじだった。妻の顔を見るたび妻とよく似た面差しの娘のことを思い出して胃が鉛のように重くなる。リカは父親にも母親にも似ていた。容姿は母親に似ていたが、世話好きな性格はむしろ父親に似ていた。リカの中では両親から受け継いだ資質が絶妙に調和して、だから夫婦ふたりでいるとお互いの中にリカを投影し、お互いの中にリカをさがし、リカがいない現実をくりかえし突きつけられるのだ。
 それが辛くて、逃げるように妻から距離をおいた。
 自分は卑怯者だ。卑劣な夫だ。今では月末に様子を見に帰るだけの疎遠な関係になってしまった。精神に変調をきたした妻は日に日にアルコール量が増えて不眠症に悩まされるようになった。せめてもの罪滅ぼしに、悪夢とは無縁の安息の眠りを与えたくて、彼は妻のためによく効く睡眠薬をさがした。市販の睡眠薬はもう効かなくなっていたから、ドラッグストアの通称で刑務所内に薬を流通させる囚人に直接交渉した。
 刑務所内でも、需要と供給が成立するなら囚人の商売は黙認される。
 ドラッグストアの通称で薬を売買していたのは、ちびでやせっぽちの赤毛の少年だった。彼はたびたびその少年から睡眠薬を買うようになった。ドラッグストアは快く薬を卸してくれた。ラッシーなどと変なあだ名をつけられたのには当惑したが、客寄せの見せかけとはいえ、あの無邪気さは嫌いではなかった。
 どんなルートで薬を入手しているかは謎だが、たしかにドラッグストアの睡眠薬は効き目があった。今では妻が心配で様子を見に行ってるのか、睡眠薬を渡しに月一回帰宅しているのかわからなくなるほどだ。
 妻は間違いなく、後者を重視しているが。
 無意識にズボンの尻ポケットに手をやる。ここに免許証入れが入ってる、免許証入れには娘の写真が入っている。五年も前に死んだ娘の写真を後生大事に持ち歩いてる自分は女々しいだろうか。いや、そんなことはないとかぶりを振って否定する。自分に残されたのはリカの思い出と写真だけだ。ならば写真くらい、いつでも肌身はなさず持ち歩いてかまわないではないか。 
 心の中で言い訳がましく呟きながら、何かに急き立てられるように足を早める。
 リカはいない。もういない。だが、リカを殺した人間はのうのうと生きている。
 こともあろうに、この東京プリズンで。
 皮肉な偶然か運命の悪戯か、彼はつい先日それを知ってしまった。同僚のタジマが囚人の個人情報を無断で閲覧してるのを咎めたら、偶然目に入ってしまったのだ。
 あの時の光景は鮮明に覚えている。液晶画面に開かれた窓で笑っていたのは、黒いゴーグルをかけた短髪の少年。そして少年の履歴には、確かにあの事件が、あの忌まわしいテロ事件のことが記述されていた。
 首謀者ではない。実行犯でもない。だがあいつは、あの少年こそがリカをばらばらの肉片にして木端微塵に吹き飛ばした爆弾の製作者だった。いや、リカだけではない。テロの巻き添えになって死んだ二千人の犠牲者、すべてが彼に殺されたようなものだ。  
 朝鮮・韓国併合に異を唱え、韓国独立を掲げて活動する革命組織の一員にして爆弾作りの天才。
 当時わずか11歳の少年が逮捕されるまでに作った爆弾は、現在確認されているだけで五百個を超える。 組織のテロに使用された爆弾の殆どが少年とその祖父の手で制作されたものであり、従来の爆弾よりコンパクトでありながら、従来の爆弾をはるかに凌ぐ殺傷力を持ち得る特殊な設計を施されていた。
 間接的に二千人を殺した爆弾作りの天才。
 にも拘わらず液晶画面の中で、リカの命を奪ったテロリストは飄々と笑っていた。
 尖った八重歯が覗かせた活発な笑顔。
 「…………っ、」
 許せない。
 あいつが、あのガキがリカを殺した。俺の家庭をめちゃくちゃにした。リカの将来を奪っておいて、妻の希望を奪っておいて、俺の人生を奪っておいて、何故良心の呵責なく笑える?あんなさっぱりした顔で笑うことができる?リカはもう二度と笑えない。リカの笑顔は写真の中に封印されて思い出とともに色褪せるばかりで俺にはどうすることもできないのに。
 激烈な憎悪が冷徹な殺意へと固まるのにそれほど時間はかからなかった。 
 囚人の個人情報管理ファイルにアクセスして調べたところ、例の少年は西棟にいるらしい。ブラックワーク一班、ということは強制労働免除特権があり、一般の囚人が出払ってる昼間の時間帯には房にいるはず。 彼は今、中央と西を結ぶ渡り廊下を足早に歩いていた。
 もうすぐ西棟に辿りつく。西棟にはあいつがいる。パソコンに表示された写真で初めて顔を知ったリカの仇、俺の家庭を壊した元凶。房の場所は事前に調べてある。あとは訪ねるだけだ。
 鉄扉を叩いて、内側から開くのを待って、それで…… 
 「!」
 その時だ。
 偶然、廊下の前を行く背中が目に入った。慌てて振りかえれば、とっくに渡り廊下の終点に到達していた。自分はもう西棟にいる、後戻りはできない。ごくりと生唾を嚥下し、緊張の面持ちで歩き出した彼と、前方の少年との距離がぐんぐん縮まる。
 こんな時間に棟に居残ってるなんて珍しい。あの少年もまたブラックワーク勤務か?一班か二班か三班か、後ろ姿だけでは確証を持てずに想像を巡らすしかない。図書室から本を借りた帰りだろうか、夢中で漫画を読み耽っていてすぐ背後に接近した彼にも気付かない。
 本を読みながら歩いていて転ばないのだろうかと心配になり、彼は注意しようとした。
 「おい」
 本読みながら歩くなよ、転んでも知らねえぞ。
 そう一声かけてやるつもりだったのに、振り向いた少年を見た途端、硬直した。
 針のように立たせた短髪、両目をすっぱり覆った黒いゴーグル。訝しげに眉をひそめたその少年は、胸に庇うように漫画を抱いていた。
 リカも好きだった、手塚治虫の漫画。
 悪い冗談。
 「なんやあんさん、この漫画は俺が先に借りたんやで!?今からよこせ言われてもそうは問屋がおろさへん、そんなに読みたいんやったら腕づく力づくで西の道化もとい図書室のヌシから奪ってみたらどや!」
 やかましい関西弁でまくしたてる少年の正面で、彼は放心したように立ち竦んでいた。
 何故お前が手塚治虫を?
 リカが好きだった手塚治虫を?
 少年が胸に庇っているのはリカも好きだった手塚治虫の漫画。ブラックジャック。そうだリカはブラックジャックが好きだと言っていた、あれは五年前、五年も前のことだ……漫画の主人公に本気で惚れていたリカも五年も経てば恋をして彼氏を見つけて、そして何年後かには幸せな結婚をしていたはずなのに。 
 愕然と立ち竦んだ彼に溜飲をさげたか、何事もなかったように再び少年が歩き出す。手の中で漫画を開き、夢中で読み耽る無防備な横顔に、心の奥底の悪意が蠢く。
 悪意は憎悪へと燃え上がり、彼の視界は憤怒で真っ赤に染まる。
 こいつがリカを殺したんだ。俺の家庭をめちゃくちゃにしたんだ。少年の背中に大股に歩み寄り、体の脇でこぶしを握りしめる。こいつは何も気付いてない。今ならこいつを殺せる、だれにも、こいつ自身にも気付かれることなく殺せる。幸い周囲に人けはない、目撃者もいない。
 少年が歩く先には階段があった。
 不吉な階段。
 おそらくこの階段を下りて房へと戻るのだろう。思えばここで少年と出会えたのは僥倖だった。階段にさしかかった瞬間に背中を突き飛ばせば、事故に見せかけてこいつを殺すことができる。打ち所が悪ければ即死だ。仮に息があっても、俺がとどめを刺せばいいだけのことだ。大丈夫、できるさ。リカを殺した憎い仇だ、自分の手で娘の仇をとる機会が巡ってきたことにむしろ感謝しなければ。
 少年が一歩、また一歩と緩慢な足取りで階段に近付くごとに、ぴったり背後につけた彼の心臓も跳ねあがる。呼吸を押し殺し、早鐘の鼓動に駆り立てられるように足を速め、慎重に少年との距離を縮める。
 さあ、もう少しだ。もう少しで階段だ。
 すっと両手をかざし、いつでも少年の背中を突き飛ばせるよう準備する。だが、いざとなると決心がつかない。指が震えて、手首が固まって言うことを聞かない。
 情けない、しっかりしろ。リカの仇をとるんだろー……?
 
 その時だ。
 彼の目に、思いも寄らない光景が映ったのは。
 少年が笑ったのだ。
 いつだったか、タジマに見せられた写真とそっくりおなじ快活な表情で。
 尖った八重歯を覗かせた活発な笑顔。
 少年はすぐ背後に忍び寄った彼にも気付かず漫画に没頭しながら、心の底から楽しげな笑みを浮かべていた。漫画に没入するあまり周囲の光景など何ひとつ目に入らず、声を殺して笑っていた。
 おかしげにおかしげに、この上なくおかしげに。
 
 リカ。
 こいつは笑っているぞ。
 お前を殺しておきながら、お前の好きな漫画を読んで笑っているぞ?

 迷いは完全に吹っ切れた。つまらない逡巡など捨てた。
 殺意の衝動に突き動かされた彼は、片足が階段にかかったタイミングでおもいきり少年の背中を押していた。
 「!?なっ、」
 バランスを崩した少年の体が大きく傾ぎ、宙へと放り出される。少年の手から落下した漫画が、踊り場の床に叩き付けられ、ページがばさばさと音たててめくれる。彼は両手を突っ張ったまま、達成感も何もなく、呆けたように宙を落ちゆく少年の背中を眺めていた。手にはたしかに、少年の背中を突いた生々しい感触が残っていた。少年の悲鳴が耳にこびりついていた。 
 ああ。これで俺も人殺しか。
 だがしかし、思わぬことが起きた。
 彼が自分がしたことの恐ろしさに立ち竦んだ視線の先で、階段の最上段から転げ落ちたかに見えた少年が、膝を抱え込むような体勢であざやかに空中で一回転。空中で素早く体勢を立て直すや、踊り場の床に着地する。
 失敗した?……待てよ。
 全く不意をつかれて最上段から突き落とされたにも拘わらず、宙で一回転を決めて踊り場の床に着地した少年だがどうも様子がおかしい。着地の衝撃で足を痛めたのか、右足首を両手で庇って低く低く苦鳴をもらしている。
 階段の頂上から、踊り場にうずくまった少年をじっと見下ろす。
 額におびただしい脂汗をかき、ゴーグル奥の目を激痛に細め、苦鳴を噛み殺すように唇を噛んだ少年がこちらを見上げている。少年はどこまでも正確に自分が突き落とされたことを理解していた。だが何故突き落とされたのかわからず、心許なく困惑めいた表情で、説明を乞うように彼を仰いでいる。
 その眼差しに誘われるように、一段一段、階段を下りる。
 体が自然に動いた。手足が自分の物じゃないみたいだった。俺はなにをしてるんだ、なにをしようとしてるんだ?泡沫のように弾けて消える素朴な疑問。しかし足は止まらない、最後の段をおりて踊り場に立った彼は、足首を抱えて悶絶する少年とふたたび対峙する。
 「……あんた、俺の言うこと真に受けたんかい。力づくで手塚奪おうとした根性は立派やけど、ちィと大人げないんとちゃう?痛っ、あーもう足首イッてもうた……こんなんじゃ週末の試合出られるかわからん」
 少年の言葉に目をやれば、ズボンの裾から覗いた足首はたしかに痛々しく腫れていた。熱をもって疼きだす足首を両手で押さえ、背中を丸めこんだ少年の表情を観察する。
 脂汗でしっとりぬれた額、しかめた眉、想像を絶する激痛に襲われて無力に身悶えるしかない姿。
 今なら殺せる。
 リカの仇がとれる。
 「…………」
 少年の方へと手をのばし、一瞬躊躇する。だが再び決心し、手荒くゴーグルを押し上げる。ゴーグルを押し上げたことにとくに意味はない、タジマに見せられた写真でも少年はゴーグルをかけて素顔を隠していた。今なら素顔を暴けるという抗いがたい誘惑にかられて自然に手が動いた、というのが本当のところだ。
 ゴーグルの下から露出したのは、少年のあどけなさと青年の精悍さとを均等に宿した顔。
 外気に晒された双眸が極限まで細められているのは、今にも意識が飛びそうな足首の激痛を堪えているからだろう。顔に顔を近付け、少年の目に浮かぶ色を正確に汲み取る。苦痛、当惑、動揺、疑問……それらが混沌とまじり合い朦朧と濁った色。
 「痛いか?」
 少年の頬に片手をあて、無理矢理顔を起こさせ、聞く。少年は「アホか、あたりまえやろ」と強気に毒づくが、その額にはおびただしい脂汗が滲み、首をうなだれたかと思えば仰け反らせる動作の反復からは足首の激痛に翻弄されてることが窺えた。 
 今ならこいつを殺せる。
 心の中でだれかが囁く。殺してしまえ、と。それを寸前で思いとどまらせたのは、今ここで少年を殺しても、リカが味わった苦痛や無念には到底及ばないという躊躇。   

 今ここでこいつを殺しても、俺の気は済まない。
 復讐は今じゃなくてもできる。じきにきっと、機会が巡ってくるはず。
 
 今この場で少年を絞め殺したい衝動を自制し、少年の肩を乱暴に突き放す。
 「!?っあう、あ、ぐっう」
 その衝撃で後ろによろけた少年が尻餅をつけば、震動が足首に響いたのかみっともない悲鳴をあげる。目尻にうっすらと涙さえ浮かべて七転八倒する少年の姿に溜飲がさがる心地がしたが、ひとりで歩けない人間を放っとくわけにもいかない。偽善だと言われようが、今自分の正体を知られるのは得策ではない。
 復讐は完遂するまで勘付かれてはならない、絶対に。
 「悪い、手が滑ったんだ。大丈夫か?どれ、見せてみろ。こいつあ捻挫だな……ひとりじゃ歩けないだろ、医務室に運んでやる」
 階段から突き落としたことを適当に言い訳し、少年に肩を貸して立ちあがらせる。そのまま不恰好な二人三脚で歩き出そうとして、ぐったりと自分の肩に凭れた少年の顔を覗きこむ。
 「もう少しだから、保てよ」
 保ってもらわなければ困る。お前を殺すのは、俺だ。
 中腰に屈んだ姿勢から手塚治虫の本を拾い上げ、丁寧な手つきで埃を叩き落とし、有無を言わせず少年の胸に押しつける。気だるげに瞼を持ち上げてこちらを仰いだ少年が、彼から漫画を受け取り、おそらく無意識に呟いた。
 「……………おおきに」
 どういたしまして。人殺し。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050907100950 | 編集

 レイジの腕の中で朝を迎えた。

 ……誤解するな。深読みもするな。俺が言ったのはそのまんまの意味だ。
 なんらやましいところはない。
 そりゃ確かに一時の迷いというか熱のせいというか、俺がレイジに乗っかったり乗っかられたりしたの事実だが、一晩明けてレイジの腕の中で目を覚ましたときは完全に素面になっていた。昨晩の俺は熱に浮かされたように体が疼いて意識が朦朧としてたからどこまでが夢で現実かもわからないのだ。
 レイジが夜半こっそりベッドを訪ねてきたのは現実だ、その時俺はまたタジマがきたんじゃないかと警戒して衝立越しの不審者を追い返そうとした。
 衝立のカーテンに映った人影は潔く名乗りでようか引き返そうかとさんざん躊躇して俺をイラつかせたけど、いざ腹を括って衝立の影から姿を現したのはひどいなりをしたレイジだった。
 変な跳ね癖がついた茶髪と物憂げに伏せた切れ長の目、俯き加減に立ち尽くすそのさまは叱責に怯える子供のようで無敵の王様の威厳なんかさっぱり吹き飛んでいた。
 昨日はレイジと長い長い話をした。本当にいろいろな話を。
 今まで腹の底に溜まっていた澱をぶちまけるように言いたいこと言い合ったせいか、今日はすっきりと気持ちよい目覚めを迎えることができた。俺はレイジに洗いざらい本音をぶちまけてレイジも俺に悲惨な過去を話してくれた。
 俺たちは一応あれで仲直りした、のだと思う。
 なにせレイジと本気で喧嘩するのも仲直りするのもはじめてなので、未だに騙されてるようなキツネにつままれたような拍子抜けの感が否めない。ふざけあいの延長の喧嘩は日常茶飯事だけど、こんなに長くて深刻な喧嘩は十三年の人生で初体験で、鈍感で駆け引き下手な俺はとことん本音をぶつけてわだかまりをなくすしかレイジを引きとめる方法が思いつかなくて。
 なんというかその、かなり恥ずかしいやみっともないことをしたと、一夜明けてから殊勝に反省する。結果よければすべてよしと言うが、レイジの上にのしかかって股間揉んだりしたのはやりすぎだろ実際と思い返しても顔から火が出る。なにやってんだ俺と昨晩の俺を平手打ちして正気に戻させたくなる。
 他にも口に出せないことを色々したりされたりした。悪夢よけのおまじないだと適当な理由つけて額にキスされたことは前にもあったけど、舌に舌を絡める情熱的なキスは初めてで、俺は手も足も出ずレイジに翻弄されるばかりだった。貪欲な舌で口腔をまさぐられて体が蕩けるような快感を味わって、キスだけで腰が抜けそうだった。男でも女でも経験豊富なレイジのキスは巧みで、ベッドをともにする相手を悦ばす術を完璧に身につけていて、獣じみて獰猛なキスは生きながら臓物を暴かれてるような官能をもたらした。
 相手を食らって自分の体の一部にするような、貪欲なキスだった。
 飢えが極限に達して見境つかなくなってる豹に貪り尽くされそうだった。
 レイジは外に愛人百人いるとうそぶいていたが、まんざら嘘じゃないかもしれない。あれは間違いなく女を虜にするたらしのキス、誠意なんかかけらもなく口先だけで愛を囁く性悪男のキスだ。レイジの唾液にはサーシャに含まされた麻薬が溶け残っていたのか、口移しで唾液を飲まされた俺まで酔ってしまった。
 体がふわふわ浮ついて、まどろみの靄が頭に纏わりついてたのはそのせいだ、きっと。
 ……いや、レイジのキスがいかに達者だったかなんてそんなことはどうもでいいんだ。しっかりしろ俺。
 そんなわけでとやや強引に話をまとめるが、俺は今朝、レイジの腕の中で目覚めた。男の腕の中で朝を迎えるなんてしょっぱいなと客観的には思わなくないが、レイジに一晩中抱擁されていた俺は、しなやかな胸板に顔を埋めて、鉄錆びた血の匂いと汗とがまじりあった獣じみた体臭をかぎながら眠りに落ちて、自分を包み込んだ人肌のぬくもりに安息を感じていた。
 レイジは一晩中俺を手放さなかった。豹が猫を抱くみたいにして、小柄な俺の体に両手を回して、無防備に油断した寝顔を晒していた。はっきり言って、笑えるくらい間抜けヅラだった。幸せな夢でも見てるのか、頬と口元が柔和に緩んでくすぐったそうな笑みが浮かんでいた。
 俺はあえてレイジを起こさなかった。
 一瞬レイジの腕をどかそうかと体を起こしかけたが、無意識に非難するように不機嫌そうに唸ったのでやめておいた。寝た子を起こすな、さわらぬ豹に祟りなし。レイジは負傷した体でペア戦に出場して疲労が極限に達しているのだ、大人しく寝かせておいてやろうと、レイジのしたいようにさせて俺もふたたびベッドに横たわる。
 目と鼻の先にレイジの顔があった。
 睫毛と睫毛が縺れそうな至近距離に、口から涎をたらしたレイジの寝顔がある。俺の体にゆるやかに腕をまわし、ちょうど俺の肩に顎をのっけるようにうつ伏せたレイジが、むにゃむにゃと寝言を呟く。
 『愛してるぜロン』
 聞き飽きた口癖が、なんだか妙に面映くて。
 普段の俺なら怒り狂って叩き起こしてるところだけど、今日ばかりは気が済むまで寝かせてやることにした。仲直りした翌朝くらい、いいよな?男とべったりひっついて眠るのは気色悪いけど、レイジの体温は不思議と不快じゃなくて、だれかに庇護されてるみたいで心強くもあった。自分はひとりじゃない、という実感とでもいえばいいのだろうか。奇妙な安らぎに満たされて、レイジの規則正しい寝息に誘われ瞼を閉じる……
 『……今度抱かせて』 
 前言撤回。だれがレイジの腕の中で安らげるか、貞操の危機だっつの。
 こいつほんとに寝てるのか、意識があるんじゃないかと勘繰ってみたが鼻腔に手を翳して確認したところ本当に眠ってるらしい。爆睡。なんというか、夢の中でも節操がない男だとほとほと呆れた。
 『……100人抜き達成したらな』 
 寝言に律儀に返し、苦労して毛布をたくし上げる。レイジが上になってるため、自然とレイジの背中を覆う格好になった。レイジの背中に毛布を引き上げた俺は、とりあえず二度寝をすることにした。見ていて気持ちいいくらいに爆睡してるレイジはもうしばらく起きそうにないし、正直俺もまだ瞼が重かったのだ。
 だが次に目覚めたとき、レイジの姿はどこにもなかった。
 レイジが俺の上から忽然と消えてたときは、不安になってきょろきょろあたりを見まわして姿を捜し求めたが、レイジの姿は医務室のどこにも見当たらなくて、ひょっとしてあれは都合のいい夢だったのかと落胆した。だが、医者の話によるとレイジは昨晩たしかに俺のベッドで寝ていたらしい。
 ……医者にまで目撃されてたのかよ、と赤面したのは言うまでもない。
 俺が最初に目覚めたとき、まだ夜明けは訪れてなかった。医務室は暗かった。二度目に目覚めたときはもう昼近くて、医務室はすっかり明るくなっていた。
 医務室では歩いて食堂に行けない患者のために、係の看守の手で遅い朝食が配膳される。
 冷や飯という言葉がそぐわしい粗餐がワゴンに乗って届けられる頃には、大半の囚人は寝ぼけ眼をこすりながら起き出している。俺も例外ではなく、朝飯が届く頃にはベッドに上体を起こして、係の看守から押しいただくようにトレイを受け取った。
 現在、医務室に入院中の患者は少ない。
 医務室には閑古鳥が鳴いていて、医者はしょっちゅう居眠りをしてるという噂がまことしやかに流れているが、それにも一応ワケがある。左手首の骨折や右足首の捻挫、どこそこの骨にひびが入ったくらいでは東京プリズンでは怪我のうちに数えられず、強制労働を抜けられないのは常識。折れた足をひきずって医務室を訪ねたところで「完治三日だね」とすげなく追い返されるのが目に見えてるから、だれも最初から医務室を訪ねたりしないのだ。
 入院を許可されるのはつまり、捻挫や骨折以上の大怪我をした囚人に限られる。俺の場合は肋骨の骨折と全身十三箇所の打撲だが、もし肋骨が折れただけだったら入院の許可がでたか怪しいもんだ。サムライは太股を十五針縫う重傷で、大動脈すれすれを掠めていたから大事をとって入院を言い渡されたが、本人は至く不満げなご様子。
 来週の決勝戦までに、退院が間に合いそうもないのが悔しいのだろう。
 器用に箸を操るサムライの食事風景を眺めながら、毛布で覆った膝にのせたトレイから椀を持ち上げ、口をつけて啜る。今医務室にいるのは、俺とサムライの他にはつい先日の渡り廊下の抗争で重傷を負った北の囚人七名だが、俺たちのベッドからは幾重にも衝立を隔てて遠く隔離されている。まあ、渡り廊下では敵同士だったし、七名のうち何名かは俺の隣のサムライに骨を砕かれたか内臓を破裂させられたかしたわけで、医務室で乱闘を起こしたくなければベッドを隔てるのは妥当な処置といえよう。
 俺もまあ、なるべく距離が離れてたほうがいざこざに巻きこまれる恐れなく安心して眠れる。  
 薄味の味噌汁を啜りながらちらちらと隣のサムライを窺う。眉間に縦皺を刻み、常と変わらぬ渋面を作りながら器用に焼き魚を開いて骨を取る箸さばきのあざやかに見惚れる。
 さすが純血の日本人は違う。サムライはこんな時でもぴんと背筋が伸びていて、ベットに座した姿も目に染みるように凛々しい。
 サムライの手元に視線をやりながら、箸をくわえ、声をかける。
 「……なあ、サムライ。レイジどこ行ったか知らね?」
 サムライの動きがぴたりと止まる。うろんげにこちらを向いた目にはわずかばかりの動揺の色。
 「今日起きたら俺の上からいなくなってたんだ。薄情だよなアイツ、なんにも言わずにひとりで帰っちまったのかよ?最初に起きた時は上にいたのに、日が高くなってから起きたら体が軽くなってて、あれ、変だな?って思って毛布のけたら跡形もなくって……夢でも見てたのかなあ俺」
 箸をしゃぶりながら首を傾げる。
 「お前はどうだ?昨日レイジが入って来たとき起きてたか。起きてたんなら気付いたはずだよな。それに今日だって俺より早起きなんだから、レイジが出てくときには当然気付いたはずだよな。レイジ何か言って……」
 「レイジから聞いてないのか」
 「え?」
 サムライの深刻な声音に動揺し、口からぽろりと箸がこぼれる。虚を衝かれた俺を目の端で窺いながら、サムライが気を取り直して焼き魚を切り分ける。
 「な、なんだよ。レイジがどうかしたのかよ、まさかあいつまたなんかやらかしたのか!?」
 「独居房に入れられた。期限は一週間だそうだ」
 「は!?」
 寝耳に水だ。衝撃で気が遠くなり力が抜けた手から椀が落ちそうになる。独居房?なんでレイジが独居房へ?あいつ一体なにしたんだよ、昨日はそんなこと一言も言ってなかったじゃねえか!まさかまた俺に心配させまいと気を遣って独居房送りのこと伏せてたのかよあの野郎!!
 「くわしく聞かせろよサムライ、なんでレイジが独居房にぶちこまれてんだよ!?正気かよあいつ右腕怪我してんのに、前だって知ってるだろその目で見ただろサーシャにナイフでぐさっとやられたとこ!怪我人独居房に放りこむなんて安田は鬼かよあの冷血メガネ、ちょっとは囚人の話がわかる副所長だって信頼してたのに!」
 「レイジは昨夜リング上で対戦相手を失明させ、続いて出場した南のトップに重傷を負わせた。ほか、場外の野次馬二名を殺傷して地下停留場を大混乱に陥れた」
 「…………………………………………………マジで?」
 「マジだ」
 サムライは真顔で首肯する。箸を握ったまま俺は混乱していた。
 レイジが地下停留場で大暴れした。
 準決勝が行われたリングでキレて暴れて対戦相手に重傷を負わせて、場外の野次馬にまで手を出した。
 そりゃ、独居房行き確定だろう。
 「詳しくは知らん。俺が実際この目で見たわけではない。レイジが独居房送りになった経緯はすべて鍵屋崎から聞いた」
 「鍵屋崎もここに来たのか?」
 「昨夜な。お前たちが睦まじく添い寝した頃に」
 「添い寝って言うな」
 「ならば訂正しよう。お前がレイジの腕に抱かれて寝た頃に」
 「……わざとやってるのか?お前キャラ変わってるぞ」
 咳払いでごまかしたサムライの横顔を注意深く盗み見て、そういやこいつはどこまで知ってるんだろうと急激に不安になる。昨夜は久しぶりにレイジに再会した興奮で、俺自身取り乱して、とんでもないことを言ったりやったりした。今思い返しても顔から火が出そうだ。隣のベッドから反応がなかったからてっきりサムライは寝ているのだと思いこんでいたが、もし起きていたのだとしたら……
 まともにサムライの顔が見られない。
 「ロン」
 ふいに名を呼ばれ、びくんと肩が強張る。
 「俺とてこんな無粋なことは言いたくないが、今後ああいうことをするときは余所でやってくれ」
 ああいうことってどのことだ!?
 一体なにをどこまで知ってるんだこの好色侍吐け、いや吐くな、黙っといてくれ永遠に!
 俺とはけして目を合わせず咳払いしたサムライが、焼き魚の身をほぐしながら逡巡する。言おうか言うまいか迷ってる視線の揺れに悶々と妄想が膨らんでドキドキしてくる。
 「なんだ。その。眠れん」
 平静を気取った横顔とは裏腹に、内心の動揺をごまかすように箸の先端で焼き魚の身をほじくりかえしながら、意外と純情なサムライが言った。

 レイジが独居房送りなったなんて、知らなかった。
 あいつなんで俺には一言も言わないんだよ。試合結果だって教えてくれず、肝心なことはなにひとつ言わず行っちまってよ。気まぐれ猫科の性質と言っちまえばそれまでだが、きのう腹を割って話し合ったばかりの俺は納得できない。
 遅い昼食を終えたあと、ベッドに上体を起こした俺は、憮然と本を読んでいた。本、と言ってもヨンイルがさしいれた漫画だ。だがページをめくれどもめくれどもちっとも内容が頭に入ってこない、こんなこと言ったら鍵屋崎に「理解力不足が原因だ、低脳め」と笑われそうだがそれは違う。俺が漫画に集中できないのは、憑かれたようにページをめくりながらもレイジのことを考えているからだ。
 レイジが昨日、ペア戦ではでに暴れたことはサムライから聞かされた。
 暴君の時代に逆戻りしたレイジは血ぬれたナイフを振りまわして地下停留場を恐怖のどん底におとしいれて、世界の終焉を予言するが如く狂気の哄笑をあげたという。
 だが、俺に会いに来たレイジはまともだった。まあ、口にナイフを突っ込まれたり枕を裂かれたりしたがあれはまだ正気の範疇だろうと無理矢理納得する。
 サムライは多くを語らなかったが、レイジが正気を取り戻せたのはたぶん、鍵屋崎のおかげだろう。
 鍵屋崎がそばにいたからレイジは正気を保てた、暴君から王様に戻ることができた。それくらい俺にもわかる。鍵屋崎がついててくれなきゃレイジはあっち側に行ったまま戻って来れなくて、今ごろレイジは俺と再会することなく独居房に放りこまれて、完全に壊れちまってたはず。
 レイジのことは心配だが、今は信じるしかない。ベッドから動けない無力な俺には、相棒の無事を祈るしかできないのが悔しいかな現状だ。レイジはしぶとくしたたかだから、一週間くらい独居房でも余裕で耐えぬいてくれると信じよう。
 そして一週間経ったら。
 ……いや、一週間後のことはおいとこう。先走るのは俺の悪い癖だ。唇を噛んで焦慮を散らし、膝に広げられた漫画のページに目を落とす。  
 バタン、とドアが開く。迷いなく室内を突っ切る足音。
 「入るぞ」
 シャッとカーテンが引かれ、鍵屋崎が顔を出す。大人しく漫画を読んでた俺は、急に声をかけられびっくりする。が、鍵屋崎はおかまいなしにずんずん踏み入ってくるや、高圧的に腕を組み、俺の身のまわりを見まわす。
 「見舞いに来たのか?」
 俺の間抜けな質問を無視し、鍵屋崎が片手を突き出す。要領を得ない顔でその手のひらを見下ろせば、焦れた鍵屋崎が催促する。
 「忘れたのか?君に以前貸したハイデガーの哲学書の返却日だ。カードにも記してあったはずだが」
 「あ」
 忘れていた完全に。どこにやったっけ、と慌てて毛布をめくりベッドの周囲を改めれば、ベッドの下の床に本が落ちていた。
 ふっと埃を吹き散らした本を鍵屋崎に手渡し、とってつけたような笑顔で礼を述べる。
 「謝謝、為になった。おかげさまで少し頭がよくなった気がする」
 「何ページ何章何行目が為になったと言うんだ?」 
 ……まずい。
 本を抱えたままあさっての方向に視線を逸らせば、鍵屋崎がきつい目で睨んでくる。
 「質問がある。何故この本は埃をかぶっていた?本の状況を分析するに最低一週間はベッドの下に放置されていたように見えるが、それは日焼け防止策か?まさかありえないとは思うが、君はこの僕が入院中の気晴らしに、時間を有意義に使うようにと貸し出した哲学書を1ページも読みもせずベッドの下に放置していたというのか」
 「人聞き悪いこと言うなよ、ちゃんと読んだっつの」
 「感想を四百字以内で簡潔にまとめよ」
 「むずかしかった」
 やばい、簡潔すぎた。
 思ったとおりだ、と憂わしげにため息をついた鍵屋崎が本を受け取り表紙を開き、その瞬間気色ばむ。
 「……貴様、これは人類の叡智に対する冒涜だぞ」
 鍵屋崎が俺の鼻先に突き付けた本の1ページ目は、なにかが濡れて乾いたあとのように皺が寄っていた。
 「放置するだけならまだしも、本を枕にして寝たのか。この涎のあとが何よりの証拠だ」
 「降参、名探偵。おっしゃるとおりだよ、でも一応読もうとしたんだって、1ページ目で挫折したけど……だいたいこんな難しい本読めるわけねえだろ、今度来る時は漫画もってこいよ漫画それかエロ本!!」
 「漫画ならヨンイルが持ってきたのがあるだろう、たまには字のある本を読めこの低脳が」 
 いつのまにか凡人から低脳に格下げされてた。畜生。
 「知るかよハイデガーなんて、何人だよそいつ!?見舞いにきたんなら患者が喜びそうなもん持ってこいよ、天才ならちょっとはそのへん気ィ利かせろよ使えないメガネだな!」
 「マルティン・ハイデガー、哲学者。1889年~1976年。20世紀のドイツ哲学と実存主義に寄与をした人間。フッサールの助手を勤めながら古代ギリシャ、キルケゴール、ニーチェなどの哲学をもとに独自の思索を展開しヘルダーリン等の詩を研究……」
 「だれが作者の履歴解説しろっつったよ、それはそーと読書意欲失せる解説だなおい!?」
 肩を荒げながら淘淘と解説する鍵屋崎を遮れば、物足りなさげに口を閉ざした鍵屋崎が、哲学書を小脇に抱えて首を振る。
 「……君のような低脳に高尚な哲学を理解しろとは、酷な要求だったな。僕としたことが、迂闊だった」
 「それはそれで腹立つなあ」
 そもそも鍵屋崎との会話で腹が立たなかった試しがない。とてつもない疲労をおぼえてベッドに沈みこんだ俺の枕元で、鍵屋崎はぱらぱらとページをめくっていた。怜悧な知性を宿した切れ長の目を細め、難解な哲学書を斜め読みする姿はとても大人びて見えた。
 「鍵屋崎」
 そんな鍵屋崎に、迷った末に声をかける。
 「なんだ」
 本から顔も上げず鍵屋崎が促す。
 大きく深呼吸し、口に出す前に言葉を整理する。言いたいことはたくさんあった。鍵屋崎は昨晩、暴走したレイジを止めてくれた。鍵屋崎がついてたからこそ、レイジはこっち側に戻ってくることができた。
 俺は鍵屋崎に感謝してる。
 レイジを助けてくれてありがとうと、救ってくれてありがとうと、相棒の立場からちゃんと礼を言いたい。それが俺なりのけじめだ。
 読書に没頭する鍵屋崎をよそに喉で息をため、吐く。
 よし、決心がついた。
 「……謝謝。レイジのこと、ちゃんと連れ帰ってくれて」
 鍵屋崎がはじかれたようにこっちを見る。ばつ悪げに顔を伏せた俺は、膝の上の漫画を読むふりをしながら慌しくページをめくる。
 「あのさ、俺がこんな偉そうなこと言うのもなんだけど、お前ちゃんと役に立ってるぜ。なにもできなくなんかねえよ。お前がいてくれなきゃ俺たちとっくにバラバラだよ。サムライとレイジが喧嘩したときもそうだし俺たちが喧嘩したときもそうだ。お前が必死に仲取り持ってくれなきゃとっくに崩壊して、100人抜きなんか半分も達成できなかった。ええとだから、うまく言えねーけど」
 ああくそ、改めて言うと面映い。頬に血が上るのを感じながら焦りに焦ってページをめくる。俺はただ鍵屋崎に伝えたいだけなんだ、お前はちゃんと役に立ってるって、なにもできなくなんかないって。俺は薄々勘付いていた鍵屋崎も俺とおなじ、無力感に苛まれて苦悩していることを。
 強すぎる相棒をもつと、自分の存在意義がわからなくなる。
 相棒の足を引っ張るだけの役立たずの自分に嫌気がさして、自分なんかいないほうがいいんじゃないかと自己嫌悪の悪循環にとらわれてしまう。鍵屋崎は攻撃的な毒舌で悟られまいとしてるけど、サムライと並んだ時に見せる不安げな表情や心細げな目つきから、鍵屋崎が相棒に対して引け目を感じてることが如実に伝わってしまう。
 俺もおなじだから、鍵屋崎の気持ちはよくわかる。
 でも、鍵屋崎はけして無力でもなければ非力でもない。鍵屋崎はいつだって精一杯自分にできることをやっていた。レイジとサムライが仲直りできたのは鍵屋崎の説得あってこそだし、レイジと俺が仲直りできたのもまた、鍵屋崎が陰で心を砕いてたからだとサムライに教えられた。
 鍵屋崎は、立派に俺たちの仲間だ。
 そう面と向かって言うのは照れるから、かわりに。
 「鍵屋崎。お前もう、立派にサムライの相棒とレイジの調教係を名乗れるぜ」
 「……レイジの調教係に適任なのは君だろう。僕に世話を押しつけるな」
 本を閉じた鍵屋崎が柔らかく苦笑する。鍵屋崎でもこんな笑い方をするのか、と一瞬目を奪われた。冷笑と蔑笑しか知らない俺には、その笑顔はひどく新鮮に映った。 
 こいつ笑うと子供っぽくなるな、と妙に感心しながら鍵屋崎の顔を見上げていたら、不躾な視線に気分を害した鍵屋崎がブリッジを押し上げるふりで表情を遮る。
 「サムライの相棒、レイジの調教係……じゃあ僕は、君の保護者か」
 「あん?調子にのるなよ自称天才。ガキ扱いすんな、俺はもう女も知ってる一人前の男だっつの」
 「怪我人のくせにずいぶん威勢がいいな」
 気色ばんだ俺に肩を竦めた鍵屋崎の背後で、ドアが開き、バタンと閉まる。
 「いやはや困りました、片腕が使えないと案外不便ですねえ。日常生活にも支障がでますし可愛い弟子たちにボクシングの特訓もつけられません。レイジくんもずいぶん無茶したものです、まあ顔を狙わなかったぶん手加減してくれたのかもしれませんが……吾輩は逆に感謝すべきですかね?ワイフと再会したときに面相が変わっていればすぐに見抜いてもらえるかどうか。
 おやいけない、吾輩としたことが弱気なことを!吾輩とワイフの夫婦愛は無敵、強い絆で結ばれた夫婦なら片目が潰れていようが鼻がなくなっていようがすぐにわかるはず!と、そう信じることが大切です」
 「大袈裟やなあ、ちょいとナイフが刺さっただけやないか。ぐさっと。心配せんでもすぐに両腕使えるようになるわ、見た目ははでやけどたいしたことないて医者も太鼓判押しとったやろ。心配せんでも一週間後の決勝戦、は無理やけど二週間後には包帯とれて……」
 騒々しい話し声が医務室の平穏をかき乱す。 
 足音の接近に伴い、鍵屋崎の顔が険悪になり、雰囲気が硬化する。
 なんだか雲行きが怪しい。間違いなく、医務室に乱入した二人組が原因だ。ひやひやしながら鍵屋崎と衝立の向こうとを見比べる俺の耳に、底抜けに明るい声が響く。
 「ホセの診察のついでや、見舞いに来たったでえーロンロン」
 シャッとカーテンが引かれ、招かれざる客人がぬっと顔をだす。
 いやな予感、はいつも的中する。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050906101053 | 編集

 レイジは今朝方独居房に送られた。
 明け方医務室を訪ねた安田は、カーテンを開いた瞬間あ然とした。
 無理もない。
 カーテンを開けてみれば大方の予想を裏切る微笑ましい光景があったのだから。
 たがいの体に腕を回し、遊び疲れた子供のようにぐっすり眠るロンとレイジ。レイジの下になったロンは少し寝苦しげに眉間に皺を寄せてもがいていたが、ロンを懐に抱きしめたレイジはとてつもなく幸せそうににやけていた。
 見てるこっちが腹立たしくなるくらい平和な光景だった。
 腹の下に猫の子を庇う豹のような姿勢で寝そべったレイジに安田はため息をつき、安田の背後に控えた看守数名も言葉をなくす。
 昨晩リングで大暴れして地下停留場を大混乱に陥れた張本人を翌朝連行しにきてみれば、本人は自分がしたことも忘れてベッドで熟睡中だ。気も抜けようというものだ。
 『起こすのが可哀想だな』
 安田が苦笑まじりに感想を述べる。
 『見かけによらず優しいんですね』
 僕が淡々と指摘すれば、一瞬ばつ悪げな表情を覗かせ、咳払いで仕切りなおす。
 『時間切れだ。レイジを起こしてすみやかに独居房に連行しろ』
 腕時計の文字盤を一瞥した安田がてきぱきと看守に指示をとばす。安田の背後に待機した看守らが副所長の命令に即座に反応、容赦なくレイジの肩に手をかけ揺り起こそうとするのを『待て!』と遮る。
 一斉に注視を浴び、今度は僕がばつの悪い思いを味わうことになった。
 『……乱暴にするな。僕が起こす』
 視界の端で安田が微笑ましげに目を細めた気がしたがおそらく錯覚だろう。柔和な表情で僕を見守る安田に背を向け、看守らをどけてベッドに接近。そっとレイジの肩に手をかけ、中腰の姿勢から耳元で囁く。
 『レイジ起きろ、朝だぞ。安田に身柄を引き渡す時間だ』
 『ううん……もう少し寝かせて。キスしてやるから』  
 『しなくていいから起きろ。これ以上待たせるなら強行手段をとるぞ』
 少し力をこめてレイジの肩を揺する。僕の声が届いたのか、漸くレイジが覚醒する。長く優雅な睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
 いやな予感がした。
 僕の頬に手をかけたレイジが、寝起きの挨拶がてら唇を奪おうとする。  
 『正気に戻れ、相手を間違えてるぞ!』
 『確保!』
 僕が叫ぶのと安田の命令は同時だった。瞬く間に看守数名がレイジにとびかかる。
 唇が触れる寸前にレイジが拘束されて安堵した僕の隣で、何故か安田も胸をなで下ろしていた。
 『いてっ………いでででで!?なんだよ、せっかくいい夢見てたのに爽やかな目覚めが台無しじゃねえか!腕が痛いよ、乱暴にすんなよっ』 
 『自業自得だ』
 じたばた暴れるレイジの腕が後ろ手に回され手錠がかけられる。
 人違いでキスされてはたまらない……レイジのことだから相手が僕だと理解した上での確信犯的犯行という線も捨てきれないが。
 背中に回された右腕が痛むのか、涙目で身をよじるレイジが少し哀れだったが、ロンはいえばどういう神経をしてるのか周囲の騒ぎとは無縁にいまだにぐっすり眠れている。それだけ疲れているのか、久しぶりにレイジと会えた安心感から無防備に爆睡してるのかは謎だが、体の上から重しがのかされて寝顔が安らいだのが見て取れた。規則正しく健康的な寝息をたてるロンを名残惜しげに振り返るレイジだが、その寝顔があまりに幸せそうだったので、結局起こすのはやめたらしい。
 『またな、ロン。一週間後に。そん時は例の約束守れよ』
 後ろ手に手錠をかけられてロンに触れることができないかわりに、ロンの寝顔に顔を近付け、額にキスをする。愛情深い眼差しでロンを見守るレイジは、だれもが目を奪われる魅力的な微笑を湛えていた。
 本当に心を許した人間にだけ覗かせる貴重な微笑。
 おそらくそれがレイジ本来の笑顔なのだろう、大人の優しさと子供の無邪気さが絶妙に調和した非常に魅力的な微笑み。
 レイジに極上の笑顔を向けられているのにも拘わらず、だらしなく手足を投げ出し爆睡中のロンに哀れみにも似た感情をおぼえたのも束の間、相棒との別れを済ませたレイジがさっぱりした顔で周囲を見まわす。
 『さあ、これでもう思い残すことは何もない。独居房でもどこへでも好きなところにぶちこんでくれ。安田さん、俺が次でてくるのは?』
 『一週間後だ』  
 安田が淡々と期限を宣告する。
 一週間後、つまりペア戦決勝戦には間に合うのだなと楽観的に解釈した僕だが、すぐに冷静さを取り戻す。レイジは一週間独居房に入れられる。糞尿垂れ流しの狭苦しい暗闇で後ろ手に手錠をかけられ、鉄扉下部に取り付けられた矩形の搬入口からさし入れられた食事をみじめに犬食いする日々をこれから一週間も過ごすのだ。それだけではない、レイジは現在右腕に怪我をしている。
 体調はお世辞にも万全とはいえない。そんなレイジが独居房の劣悪な環境に一週間も耐えられるかどうか、仮に耐えられたとして一週間後に解放されたときはペア戦に出場できる体調なのだろうか……
 暗澹たる予想を巡らし、沈鬱な面持ちで俯いた僕のもとへ軽快な足音が接近。しなやかで隙がない大股、余裕ありげな物腰で僕のもとへ歩み寄ったのは、看守に脇を固められ、後ろ手に拘束されたレイジ。
 『心配すんなよキ―ストア。たった一週間だ。七日日が昇って落ちればあっというまだ、永遠の別れじゃないんだからそんなしんきくさい顔すんなっつの』
 強面の看守に挟まれていながらも、レイジは不敵に人を食った態度を崩さない。
 いつもの、いつもどおりのレイジだ。
 僕に心配かけまいと虚勢を張っているのか、独居房などたいしたことないとうそぶく笑顔は底抜けに明るい。
 『一週間後の決勝戦までには帰って来るよ。タジマとサーシャがご近所さんてのも考えれば愉快な状況じゃん、今から楽しみだ』
 『なんで君はそんなに気楽なんだ?』
 『深刻に悩んだって始まらねえよ。副所長決定は覆らない、だったら潔く腹括らなきゃ。独居送りはこれが初めてじゃない、お前が来る前に何度か体験してるけど現にこうしてぴんぴんしてるだろ?
 懲りないんだよ、俺は』
 『学習能力のなさを誇るな』
 『そうそう、バカは死んでも治らないってな』
 レイジがおかしそうに笑い、ふいに真顔になる。
 『俺がいないあいだ、ロンのことよろしく頼む』
 『保護者責任の譲渡か。いいだろう、一週間の期間限定で請け負ってやる。ただし一生はごめんだ、一週間後には義務を放棄するから必ず帰って来い』
 ロンがこの会話を聞いてたら子供扱いするなと激怒するだろうが、生憎本人は寝ている。寝相悪く毛布をけとばすロンを微笑ましげに眺めながら、ついで僕へと向き直る。
 『お前、実はいいやつ?』
 『不愉快だな』 
 僕はただ、レイジがいないあいだは保護者代理としてロンの様子を見ると約束しただけだ。それだけのことで「いい奴」などとあらぬ疑いをかけられてはたまらない。侮蔑の表情でレイジを睨みつければ、なにがそんなに嬉しいのか理解できないがレイジが笑い声をあげる。
 『また一週間後にな、天才』
 『一週間後に。王様』
 看守に挟まれたレイジが医務室から出て行き、バタンとドアが閉じる。あとに残された安田と僕は、ロンの寝息が流れる医務室にて沈黙を共有する。
 『鍵屋崎、ひとつ質問があるのだが』
 どれ位経ったろう。レイジという風除けが消えたせいで途端に寒くなったのか、行儀悪くめくれた上着の裾からへそを覗かせたロンがくしゃみをする。育ちが悪い人間は寝相も悪いんだなとあきれ、ロンの胸まで毛布を引き上げてやりながら「なんですか」と返す。
 『彼は、君の友人か』 
 彼とはレイジのことだ。
 毛布を引き上げる手を止め、振り向く。硬直した僕の視線の先、安田は腕組みをとき、体の脇に手をたらした姿勢で、真摯な眼差しを僕に向けていた。違う、と即座に否定することもできた。レイジが友人なんてとんでもない、あんな軽薄で無節操でお調子者な男が友人だなんて僕の人格が疑われると反論すべきだったのかもしれない。
 だが。
 毛布を掴み、ロンの寝顔を見下ろす。
 健やかに胸郭を上下させ、規則正しい寝息をたてるあどけない寝顔。
 レイジの笑顔を回想する。
 僕を全面的に信頼した屈託ない笑顔。
 僕は昨日レイジに教えられたバスケットボールにこの上なく真剣に取り組み、50メートル離れたネットにボールを入れるという偉業を成し遂げた。成功率の低い賭けだと僕自身そう思っていたが、けして諦めず、何度失敗を重ねても挫けることなく、ロンのもとへレイジを行かせたい一心でボールを投げ続けた。
 五指を広げ、手のひらを見下ろす。
 手のひらには豆ができている。
 運動音痴の癖に50メートル先からネットにボールを入れようと慣れないことをした証。
 僕は何故、そんなことをしたんだ。
 友人でもない他人のために、そんなことができたんだ?
 そんな無意味な行為を飽きずにくりかえすことができたのは、レイジとロンを仲直りさせたかったから。レイジとロンが和解に至る一縷の可能性に賭けたから。無力な僕にできることはとても少ない、ペア戦では役に立たない。だが、皆無ではない。僕にできることがあるなら全力でそれを成すべきだと、僕でもレイジとロンを救える可能性があるならば最後まで希望を捨ててはいけないと自分に言い聞かせてそれで。
 僕は何故、彼らのためにそれほど一生懸命になれた?
 東京プリズンで初めて出会った他人のために、家族でもない他人のために、恵でもない他人のために、一生懸命になることができたんだ?
 答えは、既にでた。本当はとっくにわかっていたが、僕が変わりゆく現実を追認するのが不愉快で、答えを保留してきたのだ。
 だが、ここまできたら認めざるをえない。
 彼は君の友人かと安田は問うた。真剣な表情で、真摯な眼差しで、逃げを許さない態度で。なにかを期待するように、なにかを待ち焦がれるように、静かに僕の返答を待っている。
 息を吸い、毅然と顔を上げる。逃げも隠れもせず、しっかりと安田を見据える。
 東京プリズンに来て僕は変わった。
 環境の影響が、他人との関わり合いが、サムライとのふれあいが、さまざまな要因が半年の時間をかけて僕を変えていったと今では認めざるをえない。その中にはレイジやロンとあたりまえに食堂のテーブルを囲む日常も含まれていて。
 僕はきっと、東京プリズンの日常を失いたくなかったのだ。
 だから彼らのために、あんなに一生懸命になることができた。
 「彼は君の友人か」。答えは既にでている。挑むように安田と対峙した僕は、三つ揃いのスーツを着こんだ副所長を意を決したように見上げる。
 『違います』
 はきはきと答えれば、安田が失望したような顔をする。僕の回答は安田が予期したものとは違っていたのだろう。
 そう、僕がさんざん回り道をして辿り着いた結論は安田の予想を裏切っていた。
 「彼」ではない。ひとりではない。
 『彼らは、僕の友人です』
 安田が驚いたように目を見開く。
 サムライは僕の大切な友人だ。僕を売春班の苦境から救ってくれた頼りになる友人。そしてまたレイジとロンも、僕の友人だ。彼らを友人と呼ぶのはまだ抵抗があるが、それ以外に彼らとの関係を定義する呼称がないのだから仕方がない。
 彼らは僕の友人で、おそらく仲間だ。
 だから僕は彼らのためにあんなに頑張れたのだな、と思う。こんなことは恥ずかしくて口に出せないが、レイジとロンがたがいの孤独を癒すように寄り添いあって眠る姿を見た時に感じた安堵は、長いあいだ喧嘩をしていた友人が仲直りをしたことに対しての感情で。
 自分がやってきたことが無駄じゃないと知り、救われた。
 「友人」と口にだしてから、安田の反応が不安になり、気まずげに表情を探る。
 口に出した途端に面映くなり、頬が紅潮するのがわかった。衝立越しのサムライにも聞こえただろうか?夜に訪ねたときは起きていたが、今は寝ているのだろうか。そういえば彼を含めて第三者に「友人」を紹介するのははじめてだなと思い至り、ひどく落ち着かなくなる。羞恥の感情をかきたてられ、その場から逃げ出したくなった僕の正面でふと空気が和む。
 安田が笑っていた。僕が今まで見たことのない、目に染みるように優しい微笑。
 『……そうか。いい友人に出会えたな』 
 安田は心からそう言った。眼鏡越しの双眸を柔和に細めた慈父の顔に、全然似ていない鍵屋崎優の顔が重なる。本心から喜ばしそうな安田を前に、返す言葉もなく口を開閉する。安田の中に鍵屋崎優の面影を見て動揺してるのか、あまりに優しい言葉をかけられ当惑してるのか、自分でもよくわからない。
 話題を変えよう。そうしよう。
 安田の笑顔が直視できず顔を伏せた僕は、眼鏡のブリッジに触れ、口を開く。
 『そういえば、銃の件ですが。現在も捜索も続けているんですが、依然有力な手がかりは掴めていません。でも近いうちに必ず』
 『銃のことはいい』
 途端に安田の笑顔が消える。僕とおなじ仕草で眼鏡を押し上げた安田が疲労のため息をつき、事務的な口調に思いやりを隠して僕を労わる。
 『君はよくやってくれた。後のことは私に任せろ。もとは私の不祥事だ、私自身が解決すべき問題だ。君は次週のペア戦に集中してくれ』
 そして安田は、医務室を立ち去った。 
 あとにはロンの寝息が響くのみ。

 副所長にレイジの身柄を引き渡した僕は、その数時間後に再び医務室を訪れた。
 時刻は昼近い。今朝方訪ねたときは寝静まっていた医務室も、患者の大半が起き出して活気付いていた。
 レイジと引き離されるときはまだぐっすり寝ていたロンも、昼近くとなればさすがに起きていた。僕がロンを訪ねたのは以前貸した本を回収するためだ。  
 医務室に来る途中、東棟の廊下を歩いていたら、すでにレイジとロンが添い寝した噂が広まっているらしく「ロンもついに王様の女に昇格かあ」「くっそう、レイジの女になる前に食っちまうんだった。惜しいことしたぜ」という会話が方々から聞こえてきた。
 ……ロンには知らせないほうがいいだろう。せめて、健康が回復するまでは。
 医務室をでれば自然と噂が耳に入ってしまう事態は避けられないが、レイジとできてるという誤解が東棟全体に広まってると知れば、ロンは卒倒するかもしれない。
 そんな良心的な判断を下した僕の胸中をよそに、ロンが僕へと突っ返した本はこの数日間読まれた形跡もなく埃をかぶっていた。
 おまけに表紙を開けば涎の乾いた跡があった。
 二度とロンに本を貸すものかと誓ったのは言うまでもない。
 ロンから本を受け取った瞬間、騒々しい足音が医務室になだれこんできた。
 「いやはや困りました、片腕が使えないと案外不便ですねえ。日常生活にも支障がでますし可愛い弟子たちにボクシングの特訓もつけられません。レイジくんもずいぶん無茶したものです、まあ顔を狙わなかったぶん手加減してくれたのかもしれませんが……吾輩は逆に感謝すべきですかね?ワイフと再会したときに面相が変わっていればすぐに見抜いてもらえるかどうか。
 おやいけない、吾輩としたことが弱気なことを!吾輩とワイフの夫婦愛は無敵、強い絆で結ばれた夫婦なら片目が潰れていようが鼻がなくなっていようがすぐにわかるはず!と、そう信じることが大切です」
 「大袈裟やなあ、ちょいとナイフが刺さっただけやないか。ぐさっと。心配せんでもすぐに両腕使えるようになるわ、見た目ははでやけどたいしたことないて医者も太鼓判押しとったやろ。心配せんでも一週間後の決勝戦、は無理やけど二週間後には包帯とれて……」
 いやに聞き覚えのある声だ。
 僕の予想が正しければ、今しも背後に接近してるのは僕が二度と会いたくない人間の足音だ。
 「ホセの診察のついでや、見舞いに来たったでえーロンロン」
 予感が的中した。
 勢い良くカーテンが開かれる。反射的に振り向けば、ヨンイルとホセがいた。
 「勝手にあだ名つけるな。ロンロンてだれだよおい」
 「怒ると体にさわりますよロンロン」
 ベッドに片膝立てて気色ばむロンをおっとりと宥めるホセの隣、僕を見咎めたヨンイルがなれなれしく挨拶する。
 「なんや直ちゃんもいたんかい。ちょうどよかった、話したいことがあったんや。都合がええ」
 「僕には話したいことなど全然これっぽっちもないが」
 人懐こい笑顔のヨンイルをひややかに睨みつける。ヨンイルとホセは僕の敵、裏切り者だ。友好的な態度に騙されてなるもかと警戒する僕をよそに、ベッドから身を乗り出したロンが早速ホセに噛みつく。
 「さっそく呼び方変わってんじゃねえか、お前影響されやすぎだ!それとも何かそりゃわざとか、俺んことおちょくってヨンイルと二人して楽しんでんのかよ!?くそ、怪我人からかって楽しむなんて悪シュ…」 
 ロンの言葉が不自然に途切れ、その視線がホセの片腕へと吸い寄せられる。
 「……それ、レイジが?」
 うってかわって心配げに眉をひそめたロンに、腕の包帯を撫でながらホセが微笑みかける。
 「うっかりよそ見してたらぐさっとやられてしまいました。レイジくんはダーツの才能もあります」  
 「見事な放物線描いとったなあ」
 ヨンイルがけらけら笑う。笑い事ではない。ホセの痛みを想像したのか、沈痛な面差しで黙りこくったロンが呟く。
 「……悪かったな」
 「ロンくんが謝る必要はありません。それに吾輩ホセ、伊達に鍛えてはいません。腕の強靭な筋肉にはじきかえされ傷が予想外に浅かったせいで、二週間後には包帯もとれて健康体へと戻れるとお医者さんも保証してくださいましたしね」
 「どこまでお人よしなんだ。彼は敵だぞ?」
 ロンのお人よしは死んでも治らない。
 ホセとヨンイルは今や完全に僕らの敵、100人抜き達成を阻む最大の障害だ。うんざりと首を振る僕を非難めいた目つきで睨み、ロンが反駁する。
 「けど、レイジが怪我させたのは事実だろ!?だったら相棒としてちゃんと詫びいれとかねーとすっきりしねえし」  
 「ロンの言い分が正しい。だれに対しても礼を欠くのをよしとしない姿勢は好ましい」
 衝立に遮られた隣のベッドから声がした。サムライだ。サムライまでロンの味方をするのかと反感が湧いた僕は、隣のベッドの衝立へと歩み寄り、声を荒げてカーテンを引く。
 「甘いぞサムライ。君だって目撃したろうヨンイルとホセが渡り廊下で僕らを裏切った瞬間、を……」
 あ然とした。
 カーテンの向こう側には意外すぎる光景。
 ベッドに正座したサムライと医師が、将棋の駒台を挟み、両者難しい顔で唸っていた。
 「………なにをしている?いやそれ以前に、その駒台はだれがどこから持ちこんだ」
 「いやあ、これはまずいところを見られてしまったね」
 言葉とは裏腹に全然まずいとは思ってない恬然とした表情で、医師が頭を掻く。 
 「客がこないので暇を持て余していたら、彼に将棋の心得があるというじゃないか。折角だからお相手願おうと宿舎で埃をかぶっていた将棋の盤を持ちこんで……」
 「患者を客と呼ぶな、倫理観が疑われるぞ……話を戻す。つまりあなたは患者がこなくて退屈だから太股を十五針縫う重傷を負ったサムライを無理矢理将棋に付き合わせているというわけか」
 「無理矢理とは人聞き悪い。合意の上だよ」
 さも心外そうに医師が訂正する。合意?納得いく説明を乞うようにサムライに視線を流せば、当の本人は慣れた手つきで盤面に駒をおいていた。詳しいルールはわからないがどうやら王手をかけたらしく、盤面の配置に目をやった医師が慌てふためく。
 「待った!」 
 「待たん」
 「君、ワシは医者だよ?君の傷口を懇切丁寧に縫ってやった恩人だよ?今後も快適な入院生活を送りたいなら一回や二回大目に見逃して……」
 「十五回目だ」
 「サムライ、君は……」
 もういい。相手にするのも馬鹿らしい。
 将棋に熱中するサムライと医師を無視してロンたちの方へと向き直れば、何故だか全員が同情的な顔をしていた。
 「大変やなあ」
 「大変ですね」
 「大変だな」
 「語尾だけ変えておなじことを言うな」
 全員に鎮静剤を打ちたい。
 背後ではパチン、パチンと駒をおく音が連続する。精神衛生上悪いので今すぐ医務室を離れたい。そんな僕の心を見抜いたように、ゴーグル越しの目をやんちゃに細め、ヨンイルが快活に笑う。
 「場所変えよっか?悪いけどロンロンは怪我人やから遠慮したって。ここでこうして直ちゃんと会えたんも手塚神のお導き、奇妙なご縁。直ちゃんとは一回じっくり話し合うて誤解ときたいなって思っとったんや」
 「待て、勝手に話を決めるな。僕に話したい用件とはなんだ、既に僕たちは敵同士で来週のペア戦でぶつかることが決定してる。君たちはどうだか知らないが、敵と馴れ合う趣味はない」
 「まあそう言わずに。ヨンイルくんのおっしゃるとおり、君は少し誤解してるようです。人間話し合えばわかります、人類愛の第一歩は話し合いからと吾輩のワイフも……」
 ホセの惚気話に辟易し、かくなるうえは一秒でも早くその場を離れようとヨンイルたちに背を向ける。
 「短気起こさんといてや、直ちゃん」
 図書室への一歩を踏み出した僕の背中に、真剣な声がかかる。
 振り向けば、腰に手をあてたヨンイルがあきれ顔で僕を見返していた。ヨンイルの隣のホセは、腕の包帯を無意識に撫でながら苦笑してる。
 ヨンイルは口元に笑みを浮かべていたが、ゴーグルに隠れた目はひどく剣呑な色を浮かべているようで。
 「たしかに俺たちは敵同士や。来週の決定戦では俺とホセのペアVS直ちゃんレイジがぶつかって、どちらか一方が生き残るまで戦う運命や。
 だからなんや?
 西の道化直々に話があるゆーとんじゃ、大人しくついてきさらせこのだあほ」
 「南の隠者は西の道化と違って紳士的なので脅迫などしませんが、君と話したいのは本心です。吾輩たちはまだ、ペア戦出場を決めた真の動機を打ち明けてない。それは少々アンフェアじゃないかと一週間後に決勝戦を控えた今になって気が咎めましてね」
 「真の動機?」
 謎めいた台詞に興味をひかれ、ロンと顔を見合わせる。急な展開についてけないのは僕だけではないようで、ロンもなにがなんだかさっぱりわからない顔をしていた。
 どういうことだ?
 ヨンイルとホセがペア戦出場を決めたのは、東京プリズンの全権を握りたいからじゃないのか?
 まだなにか、他に隠された理由があるのか?
 「…………わかった、いいだろう。
 本を返しに行くついでだ。君たちの言い訳とやらに付き合ってやろうじゃないか」
 「そうこなくっちゃ」
 逡巡の末に首肯した僕を見て、ヨンイルが軽快に指を弾く。
 会心の笑顔になったヨンイルの隣で、ホセがロンに会釈する。
 「ではしばらくお友達をお借りしますね、ロンロン」
 絶対わざとだ。
 南の隠者は腹黒い。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050905101236 | 編集

 図書室は閑散としていた。
 図書室のヌシの異名をもつヨンイルは勝手知ったる足取りで階段を上る。そのまま書架と書架の間に潜りこむのかと思えば、一階を見下ろす手摺へと腰掛ける。
 早々に図書を返却した僕は、一階のホールから二階の手摺を見上げる格好で立ち尽くす。ホセは一階と二階の中間、階段の真ん中あたりに腰掛けている。
 「早速用件を聞こうじゃないか。読書に費やす有意義な時間を割いて語彙の貧相な言い訳とやらを聞くんだ、退屈させないでくれないか」
 高圧的に腕を組みヨンイルとホセとを睨みつければ、道化と隠者は示し合わせたように肩を竦めた。
 「あせんな直ちゃん。お互いリラックスして腹を割って話そうや」
 「実力勝負の決勝戦に禍根を残すのは頂けませんからね」
 「知ったふうな口をきくなそこの裏切り者二名。だれのせいでレイジがあれほど荒んだと思っている?」
 僕はヨンイルとホセに対し本気で怒っていた。彼らのことを軽蔑していた。
 先日北と中央で起きた抗争を思い出す。飛び入り参加したホセとヨンイルの活躍により雑魚が一掃されたのは事実だが、その後の展開はだれもが予想だにしない方向に転がった。
 まさか、ヨンイルとホセが僕らを裏切っていたなんて。
 「……レイジは貴様らのことを、一応友人だと思っていたんだぞ」
 「一応てなんや一応て」
 鼻白んだヨンイルを無視して続ける。
 「レイジは真意の読めない男だが、西と南のトップである君たちには心を許して一定の信頼をおいていた。同じトップとして苦労を分かち合う立場の人間だけが共感できることもある。それを君たちは台無しにした、こともあろうにレイジの眼前で、ロンに拒絶されサーシャに痛めつけられ精神的にも肉体的にも極限状態に追い詰められたレイジの眼前で堂々裏切り宣言をして!少しは時と場所を考えて裏切れ低脳ども、おかげであの後レイジがどうなったか……ホセ、君はその身をもって味わったはずだ」
 冷たい眼差しで射貫けば、ホセは申し訳なさそうに頭を掻く。
 「いやはや面目ございません。ですが、あれにはわけがあるのです」
 「折角安田ハンにご登場願ったんや、機会を逃したら次がいつくるかわからへん。俺らに嘘つかれたて思いこんだレイジが大荒れに荒れるのは予想ついとったけど、まさかあそこまでとは……道化の失態や、王様甘く見とった。ホセの腕にナイフ命中させたときは血の気ひいたで」
 「待て、思いこんだとは?君たちは実際嘘をついたんだろう、嘘をついてレイジを騙したんだろう?」 
 ヨンイルとホセは二人で結託して、レイジを裏切った。
 最初は味方のふりをして僕たちに加勢して、安田が駆け付けた頃合に僕たちを裏切った。それが事実のはずだが、真相は違うのか?
 「ところで直ちゃん、安田はんの銃はめっかったか」
 二階の手摺に腰掛けたヨンイルが、足をぶらぶらさせながら質問する。
 「それとこれに何の関係が……」
 「見つかってへんのか。これだけ日数が経っても東棟から出てこんってことは、東の人間は白やな」
 知ったふうな口ぶりでヨンイルが推理を述べれば、ホセも賢しげに頷いて同意する。
 「でしょうね。もし東の人間が銃を所持していたのならそろそろ噂が流れてもおかしくないはず。いや、東の人間の手を経て他棟に流出した可能性もあるので一概には断言できませんが」
 「西も白や。全部の房ガサ入れしたけど見つからん」
 「南も白です。立ち入りを拒む不届き者は吾輩の弟子たちが少々手荒な真似をして排除して、すべての房を検証したんですが」
 「ということは、残るは北」
 名推理を披露するごとく人さし指を突き立て、ほくそ笑むヨンイル。
 「直ちゃんがこないだサーシャに会いに行った理由あてたろか。北で銃さがしてええですかってトップに許可とりにいったんやろ」
 「!何故それを、」
 「わからんほうがどうかしとる。西と南と東が白やと仮定して、最有力候補は残る北。北は恐怖政治を敷くサーシャのもと徹底した秘密主義を貫いとるし、銃の噂が他棟に広まらんでもおかしゅうない。なんせサーシャは他棟の人間を毛嫌いしとる、黄色い肌も黒い肌もお呼びでなしって門前払い食らわせるんが皇帝のやり方」
 「吾輩もサーシャくんと仲良くしたいんですが、なかなか」
 「自棟の囚人が銃持ったら普通噂が流れるはずや。娯楽の少ない東京プリズンには三度の飯より噂好きな連中がうじゃうじゃしとる、隠し事がでかければでかいほど鼻のええやつが嗅ぎつけて漏出するもんなんや。それが西でも南でも北でも流れへんちゅーことは、自然な流れで北に容疑がかかる」
 「黒とは申しませんが、灰色です」
 「なにが言いたいんだ?」
 北の人間が銃を持ってる可能性が強いと僕もおぼろげながら察しがついていた。だが僕はサーシャの不興を買った。今度北棟に足を踏み入れたら、生きて帰って来れる保証はない。確実に死ぬ。
 北に再潜入するのが命知らずの自殺行為でしかない現状、悔しいが僕にとれる手段はなにもない。サーシャとの交渉は失敗に終わった、どうやって……
 深刻な面持ちで考え込む僕を見下ろし、ヨンイルが軽快に宙を蹴る。
 「さて問題。北でいちばん偉いサーシャが睨みをきかす中、銃をさがす方法は?」
 そんな方法があるのか?
 一瞬虚を衝かれたが、ヨンイルは既に答えを知ってるらしく、にやにやと僕の反応を窺っている。ホセもまた階段の座席に腰掛けてにこやかに僕を眺めている。
 ふたりは答えを知っている。
 ヨンイルとホセは、僕を試しているのだ。
 だれあろう、この僕を。
 唇を人さし指でなり、思案を巡らす。サーシャ支配下の北棟で銃をさがすには、人がいないときを狙えばいい。北棟が無人になった隙に房を改めることができれば、北の人間が銃を持ってるか持ってないかはっきりするはず。そして北棟から人を払う最も有効な手段は……
 そうか、わかったぞ。
 「放火か」
 「「は?」」
 ヨンイルとホセが目を丸くする。
 「いつだったか、レイジとサムライが中央棟地下でしたように北棟でボヤ騒ぎを起こすんだ。故意に。火事ともなれば北の人間も先を競って逃げ出すはず、よって北棟にはだれもいなくなる。無人になればこっちのものだ、その隙にすべての房をすみずみまで……」
 「まてまてまて!」
 僕の視線の先、手摺から足をたらしたヨンイルがこめかみに人さし指をあて唸っている。とんでもない難問に直面したように眉間に皺を刻んだヨンイルが、ぐいとゴーグルを額に押し上げる。
 外気に晒された双眸には、何とも複雑な色が湛えられていた。
 「直ちゃん、あんた推理の才能ないわ。あれやな、金田一でいう佐木でコナンでいう小五郎」 
 「………人名に心当たりはないが、今のが僕に対する侮辱だということはわかったぞ」
 「吾輩は従来の常識にとらわれない柔軟で斬新な発想だと至く感激しましたよ?」 
 ホセも誉めてない。
 「コナンはすごいわー百二巻までいったんやで。まさか黒の組織のボスが三十五巻で死んだあの人やなんて」と興奮気味にまくしたてるヨンイルから話の主導権を譲り受けたホセが咳払いをする。
 「他には思い当たりませんか?
 サーシャくんの妨害を避け、北の人間に有無を言わせず房を捜索する方法」
 考えろ、考えれば必ずわかるはずだ。天才に不可能はない。不可能を可能にしてこそ天才だ。サー・アーサー・コナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エドガ―・アラン・ポー。古今東西の推理小説を読み漁り名探偵の思考過程を完璧に模倣した僕なら必ずや真相に辿り着けるはず。
 今度こそわかった。  
 「わかったぞ、水責めだな。下水道の配管を破壊し北棟に水害を巻き起こすんだ。配管に障害が発生すれば水道の水が氾濫して北は水浸しになりサーシャを筆頭に囚人全員が逃げ出す、」
 「とりあえず人為的災害はなしの方向で。つか配管傷付けたら北だけやなし西も南も東も水浸しやないか、んなことになったら俺が房にためとる漫画全部パアになってまうからやめてんか!」
 即座に正気に戻ったヨンイルが血相を変えて抗議する。推理に煮詰まった。悔しいが、考えても考えても答えがわからず迷宮の奥深く迷い込むばかりだ。
 「わからん?単純なこっちゃ」
 あきれたふうにかぶりを振るヨンイル。
 階段の座席に腰掛けたホセが思慮深げに顎をなでる。
 「北の囚人はサーシャくんの命令に絶対服従。サーシャくんの許しを得なければ銃の捜索を行うことができません。それは何故でしょう?答えは明白、サーシャくんが北棟でいちばん強くて偉いからです」
 脳裏でおぼろげながら像を結ぶものがあった。
 漠然とだが、ホセが言わんとしてることは察しがついた。いまだ警戒心を捨てきれず疑惑の眼差しでヨンイルとホセとを見比べれば、僕の当惑ぶりが余程面白いのか、道化と隠者が笑み交わす。僕を翻弄して楽しむなど意地が悪いにもほどがあると憤慨すれば、二階の手摺に尻をのせたヨンイルが大仰に両手を広げる。 
 「北の連中がサーシャに逆らえんのは、あいつがトップやから。
 ならサーシャ以外の人間がトップになれば問題ないんちゃうか?」
 「……ヨンイル、君はとんでもないことを言ってるぞ」
 眩暈を覚えた。さすがに僕もヨンイルとホセが言わんとしてることを完全に察した。
 荒唐無稽、本末転倒、支離滅裂。
 結論、ヨンイルとホセは僕が考えている以上に手段を選ばない人間だった。 
 その確信を裏付けるように、手摺に腰掛けたヨンイルが勢い良く宙を蹴る。
 「話は簡単や。俺かホセがトップになって北を治めれば、だれにも邪魔されることなく銃さがしできるやろ?サーシャにだって文句言わせん、トップの命令は絶対やもんな」
 ホセがにっこりと付け加える。
 「それが東京プリズンのルール、弱肉強食の鉄の掟です。ブラックワークの正規試合で勝利すれば東京プリズンの全権を握れる、ということはもちろん北棟でも自由に振る舞えるようになる。房をひとつひとつ改めてプライバシーを赤裸々に暴こうが誰にも文句は言わせません」
 「つまり君たちは、安田の銃を見つけるために、北のトップになりたいがためにペア戦出場を決めたんだな?」
 「ようやくわかったか。飲みこみ悪いで」 
 眩暈が酷くなった。
 片手で頭を支えた僕はヨンイルとホセの言葉を整理しようと試みるが、衝撃冷め遣らない頭ではますます混乱するばかりだ。つまりヨンイルとホセは、サーシャを追い落として北のトップになりたいがために参戦表明をした。北のトップになれば北棟で制限されることなく動き回れる、銃の捜索に全力投球できる。
 彼らの目的は、ただそれだけだというのか?
 「わからない、何故そこまでする?安田の銃さがしはもともと僕個人が請け負った依頼だ、本来なら僕ひとりで処理すべき問題なんだ。君たちがそこまでする義務はない、そこまでしてくれなんて頼んでない!
 たしかに僕ひとりでできることには限界があるが君たちが余計なことをしたせいで話が大きくなりすぎ……」
 「余計なこと?」
 ヨンイルの雰囲気が豹変する。
 人懐こい笑顔が薄まり、双眸がスッと細まる。刹那、勢い良く手摺を蹴った反動で宙に身を躍らせる。
 ヨンイルの上着の裾がめくれ、はためき、素肌に彫られた刺青が目に触れる。
 健康的に日焼けした腹部に毒々しく照り映える緑の鱗は、猛々しい生命の躍動を感じさせる芸術的完成度。 
 肢体に龍を飼った少年が、しなやかに身をよじり、二階の高さをものともせず僕の眼前に着地する。
 あっけにとられた僕の方へ、大股に近付いてくるヨンイル。

 「直ちゃん、大事なこと忘れとるんちゃうか。副所長から銃をスッた犯人はどこのだれや?北でもない南でもない東でもない、うちの棟のワンフーや。ワンフーが安田はんの銃スってもうた件に関しては、手癖を躾とかんかった俺の落ち度やて責められてもしゃあない。けどな、もし安田はんの銃が感心できんことに使われたら?
 安田はんの銃で人が殺されたら?
 それも全部ひっくるめて不始末しでかしたワンフーの責任は俺が負わなあかん。ワンフーが出来心で銃をスッた、のみならずそのへんにポイして知らん振りしたのがすべての元凶ならトップの面目丸潰れや。自分とこのガキが勝手したせいで人死に起きたらトップの面子にかかわる一大事やで、他棟に顔向けできんし最悪トップの座を返上せなあかん。そろそろマジにならな西の道化の名が廃るやろが」

 尊大な大股で僕に接近したヨンイルが無造作に腕をのばし、上着の胸を掴む。
 ヨンイルに胸ぐらを掴まれた僕は、体に彫られた刺青そのままに剣呑きわまりない道化の本性に息を呑む。
 ヨンイルの言い分には一応筋が通っている。たしかにすべての元凶はワンフーが出来心で安田の銃をスッたこと。スリ師の血が騒ぎ出したワンフーが誘惑に負けて安田の銃に手を出したはいいものの、後始末に困って地下停留場に放置したのが一連の騒動の発端だ。
 この上もし安田の銃で人が殺されたら、ヨンイルの責任は重大だ。
 西の人間の監視を怠って騒動の原因を作った上に、安田の銃で人が殺傷されるのを未然に防げなかったとしたら、無能なトップの烙印を押されるのは間違いない。
 どうやら事態は僕が思っていた以上に深刻なようだ。今回の銃盗難事件は安田と僕だけの問題ではなく、西棟を根底から揺るがし道化の地位を危うくする一大事だった。
 僕の胸ぐらを締め上げたヨンイルが、獰猛に犬歯をむく。
 剣呑に双眸を輝かせた好戦的な笑顔には、身の内の龍が発する精気が溌剌と漲っていた。
 「ことは直ちゃんだけに手におえる問題やない、首突っ込んだ俺も後戻りできんとこまできとるんや。西の人間の不始末はトップの責任、中途半端で放り出すわけにはいかん。だれもが納得する形できっちりけじめつけな西の道化の評判ガタ落ちや。
 安田の銃で人死に起きたらまず真っ先に責められるんはスった犯人のワンフーや。独居房送りだけで済めばまだ恩の字やけど、副所長の懐に手え出したっちゅーんは上の人間に喧嘩売ったも同然や。この先あいつが東京プリズンで生き残れる確率は低い、看守のリンチで始末されるんがオチやろ。そうなる前に銃を見つけ出して安田はんに返さんと」
 「ワンフーを心配しているのか?普段はふざけて見えて情が厚いじゃないか」
 ヨンイルの隠された一面を垣間見た気がした。
 ヨンイルがこんなに責任が強く面倒見がよいトップだったなんて少し意外だが、それならヨンイルが西の人間に慕われる理由がわかる。
 ヨンイルはきっと、西で絶大なる支持と人望を集める情の厚いトップなのだろう。どこかの王様とは大違いだ。
 しかしヨンイルは、とんでもない誤解だといわんばかりに鼻で笑い飛ばす。
 「アホぬかせ。俺はトップの座が惜しいだけや。万一このことがバレてトップの座を追われたらうまい汁吸えなくなる。強制労働免除特権も食堂席優先権ものうなるし、昼っぱらから図書室で漫画三昧の極楽ライフから地獄に転落や。
 俺はまだまだまだまだ漫画が読み足らんのや、死ぬまで漫画読んで呑気に笑って暮らすんが野望なんや。野望の実現の為にはこれから先もトップでい続けなあかん、つまらんことでトップの座から引きずり下されロミオとジュリエットみたく手塚と引き離されるのはごめんや」
 「シェ―クスピアの古典を卑近な話に引用するな、一気に俗っぽくなるじゃないか……まあいい、君の本心はわかった。だがそれならそれで何故事前にレイジに伝えておかない?事前にレイジに打ち明けておけば、彼の暴走は防げたはずだ。レイジが暴走した要因のひとつは、君たちが最悪の形で裏切った事実だぞ」
 昨晩のペア戦でレイジがあれほど暴れたのも、元を正せばヨンイルとホセが最悪のタイミングで裏切りを暴露したからだ。ヨンイルとホセの目的が銃さがしにあるのなら何故レイジに秘密にする必要が……
 「ご存知ですか?三は不安定な数です。公的な数、と言い換えてもかまいませんが」
 ホセがにこやかに三本の指を立てる。
 「二人なら生涯守り通せる秘密も、三人になればいずれ露見する。三人目を加えるのは秘密保持の観点からも感心できません。
 秘密を抱えた人間が二人なら互いを監視すればいい、ですが三人ともなると全員に目が行き届かず綻びが生まれるのは避けがたい事態。
 君もご存知かとは思いますが、レイジくんはああ見えてひどく単純で子供っぽいところがある。秘密を打ち明けたところでサーシャくんに知られず巧妙に隠し通せるか怪しいものです。他の人間には言わなくても、相棒のロンくんにだけはとポロッとこぼしてしまうかもしれない。それでは駄目です」
 「レイジはロンロンに甘々やからなあ」
 ヨンイルが殺気を引っ込めて苦笑する。たしかに、レイジがロンにひどく甘いのはだれの目から見ても明らかだ。共感をこめて頷けば、我が意を得たりとホセが笑みを広げる。
 「銃を盗んだのは西の人間ですが、なにかのきっかけで南の人間に銃が渡らないとも限らない。いや、吾輩が知らないだけで現に南の人間が隠し持っているのかもしれない。憎いだれかを殺そうと日頃銃を持ち歩いてるのかもしれない。
 吾輩がトップでいるあいだに発砲事件が起これば、南棟が根底から覆る混乱は避けて通れません。それは平和主義者にして博愛主義者、ワイフに生涯の愛を誓った吾輩が歓迎すべき展開ではない」
 「てなわけで、ホセと意見が一致したんや。今いちばん怪しい北棟を心おきなくとっ散らかすためには、北のトップになればええんちゃうかって」
 「木を隠すなら森の中。西と南が要求したのは東京プリズン全体を掌握する権利、ですが真の狙いは北棟のみ。残念ですが、サーシャくんには話し合いなど通用しない。ならばこちらも強行手段をとるしかない。北での捜索を円滑に進めるためには、多少卑怯な手を使ってでもサーシャくんにトップの座を退いてもらわなければ」
 ヨンイルとホセの言い分も一理ある。サーシャには話し合いが通じないと僕も身をもって痛感した。だがしかし、あまりにやり方が過激すぎやしないか?
 「それは、毒をもって毒を制すようなものじゃないか」
 生唾を嚥下し、声をひそめる。道化も隠者もとんでもない、理解の範疇を超えている。
 それとも僕の想像以上に、東京プリズンを構成する四棟の相互関係は危うい均衡の上に成り立っているのか?
 水面下ではそれぞれの思惑や打算が複雑に絡み合い、他棟を牽制して自棟の体面を維持するためなら手段を選ばないとヨンイルとホセをして言わしめるほどに事態は逼迫してるのか?
 正面に立ち塞がったヨンイルが「ちっちっち」と指を振り、威風堂々と言ってのける。
 「それを言うなら『龍をもって蛇を制す』や」
 龍はヨンイル、蛇はサーシャだ。
 肢体に龍を飼った少年が好戦的に微笑む。僕とそう身長が変わらないにも拘わらず、とんでもなく物騒なものを孕んだ威圧感がヨンイルの体を何倍にも大きく見せる。パッと僕の胸ぐらを突き放したヨンイルが、人懐こい笑顔に戻って階段席のホセを振り仰ぐ。
 「こんなもんでええか、ホセ」

 「補足しましょう。
 もし吾輩とヨンイルくんがレイジくんに敗北した場合は、東の人間であり副所長の銃さがしを引きうけた君自身がレイジくんに頼めばいい。まあ、それにはまずレイジくんがサーシャくんに勝利するのが前提となりますがね。吾輩かヨンイルくん、そしてサーシャくんの3トップのいずれかがレイジくんを倒せばその人間が東京プリズンの頂点に立つという噂はすでに全棟に広まっています。
 逆説的に言えば、我々3トップを下せばレイジくんこそが東京プリズンのトップに立つにふさわしい人間と認められる。他のトップを下して頂点に立てばだれも文句は言えません。サーシャくんは死ぬほど悔しがるでしょうが、気にすることはない。
 いかにサーシャくんがレイジくんを逆恨みしたところで、衆人環視のリングで戦って敗北した弱みがあれば、レイジくんのやることに金輪際ケチをつけられない」

 「負け犬が吠えたところで恥をさらすだけや。いくらサーシャがイカレとったかてそんなみっともないことできひんやろ。一握りでもプライドが残っとったら、な」
 ホセが気取った手つきで眼鏡の弦を押し上げる。分厚いレンズの奥の双眸は少しも笑っておらず、戦慄の眼光を放っている。
 「この頃北の専横が目に余るのも事実ですし、牽制には持ってこいの機会です」 
 そうか、わかった。
 すべてはレイジを嵌めるためではなく、サーシャを嵌めるために仕組まれた罠だったのだ。
 衝撃の事実が次々と発覚し、愕然と立ち尽くす僕の脳裏にある疑問が過ぎる。眼鏡のブリッジに触れ、一呼吸おいて顔を上げる。内心の動揺を悟られないよう平静を装い、沈着な物腰でヨンイルとホセとを見比べる。
 「……君たちがペア戦出場を決めた真の動機はわかった。だが、最大の疑問が残っている。ホセ、君はさきほど三は不安定な数だと言った。それが何故今になってそんな重大な打ち明け話をする?僕らを騙したことに対し良心が咎めて、一週間後に決勝戦を控えた今になって懺悔したくなったのか。 
 しかし、何故僕なんだ?レイジでもサムライでもロンでもなく、秘密を分かち合う三人目に僕を指名したんだ?」
 それが最大の疑問だった。レイジが独居送りになり、ロンとサムライが入院中の現在、自由に動き回れるのは僕だけだがそんな単純な理由でヨンイルとホセが僕を選んだとはどうしても思えない。
 僕が選ばれたのには理由があるはずだ。
 「なんで直ちゃんに秘密を教えたかて?簡単や」
 ヨンイルがなれなれしく僕の肩に手を置く。
 「直ちゃんは約束破らへんやろ」
 「え?」
 「今のは他言無用の内緒話や。サムライにもレイジにもロンロンにも言わんといて。どのみち決勝戦が終われば俺らからバラす予定や、たった一週間黙っといてくれたらええんや」
 至近距離で僕の目を覗きこんだヨンイルがにやりと笑う。
 「これでも人を見る目あるんやで、俺。直ちゃん、ホンマは俺たちのこと信じとったろ?俺たちがレイジ裏切ったのには他に理由があるんちゃうかって悩んで悩んで悩みぬいて非情に切り捨てられんかったろ。
 直ちゃんにだけ特別に教えたのは、おなじ手塚友達のよしみで一方的な友情の証。直ちゃんはプライド高い天才やから、周囲の凡人どもにぺちゃくちゃ人から聞いた話広めたり無節操な真似せえへんやろて信用しとるんやで」
 階段席から腰を上げたホセが、ゆったりとした足取りでこちらに近付いてくる。
 「昨晩、体を張ってレイジくんを止めた君の姿に吾輩いたく感銘を受けました。君に秘密を打ち明けたのは、昨晩の勇気ある行動に敬意を表した上でのささやかな返礼」 
 ホセが深々と頭を下げる。 
 「もしあのとき君が止めてくれなければ、吾輩は見境なくレイジくんを殴り殺していたでしょう。左手薬指の指輪が割れるまでこぶしを振るい続けていたことでしょう。今もこうして無事な姿で指輪が嵌まっているのは君の活躍のおかげです。誠意を尽くして感謝の念を表明せねばワイフに怒られてしまいます」
 つられてホセの薬指に目をやる。銀の指輪にはまだ乾いた血がこびりついていた。   「心配せんでも一週間後にはすべての決着がつく。銃は必ず見つけたる、道化が言うんや間違いない」
 自信ありげに断言したヨンイルが、ぽろりと本音をこぼす。
 「まあ、俺が勝利した暁には南と北と東に漫画喫茶つくるんは確定やけどな」
 ………これまでのは壮大な嘘で、それがいちばんの動機としか思えない口ぶりだった。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050904101443 | 編集

 「さて、吾輩はこれで失礼します」
 あきれかえって物も言えない僕にホセが暇を告げる。
 無骨なデザインの伊達眼鏡を押し上げ、如才ない笑顔で別れの挨拶をするさまは社交辞令に慣れたセールスマンを彷彿とさせる。
 「ボクサーたる者たゆまぬ努力と訓練を怠ってはいけません。
 無事な片腕だけでもサンドバッグを打ち続けて筋力が落ちぬよう鍛えておかなければ、次週の決勝戦にも差し障ります」
 「あんま無理すんなよホセ、完治二周間の大怪我やで」
 「心配ございませんヨンイルくん。吾輩には勝利の女神こと最愛のワイフがついております、ここに」
 自分の胸をこぶしで突いたホセが、今一度僕らに頭を下げて図書室を立ち去る。南棟に帰って特訓を再開するのだろう。
 ホセの足音が遠ざかり、図書室には僕とヨンイルだけが残された。
 ヨンイルと二人きりになった僕は表面上平静を装い、たった今聞かされた驚愕の事実を反芻する。
 ホセとヨンイルが結託してレイジを裏切ったように見せかけたのは偽りの芝居で真の目的は別にあった。ホセとヨンイルの真の目的とは、サーシャをトップの座から追放して北を牽制すること。銃の捜索を円滑に進めるためにはサーシャに代わるトップになればいいという持論は理にかなっている。
 しかし、ヨンイルとホセに負ければ100人抜きは達成できない。
 100人抜きを達成できなければ僕とロンは売春班に逆戻り、サムライは処理班に回される運命だ。レイジも今までどおり無敵の王様ではいられなくなる。
 なるほど、ヨンイルは西の面子を保つためトップの威信に賭けても銃を取り戻さねばならない必要に迫られている。手段を選んでいられない心情は理解できる。
 だが僕も、僕たちだって負けられない。
 いかにヨンイルとホセが相手でも、僕たちには負けられない理由があるのだ。けして譲れないものがあるのだ。
 頭の中で考えを整理してから体ごとヨンイルに向き直り、慎重に口を開く。
 「ヨンイル、質問だ。君かホセが勝利した場合、売春班の処遇はどうなる?」
 腰に手をあてたヨンイルが思いも寄らぬことを聞かれたとばかり、うろんげに僕を見る。
 「ああそうか、直ちゃんは元売春夫やったな」
 「その呼び方はやめろ。吐き気がする」
 呑気なヨンイルに刺々しく吐き捨て、屈辱に歪んだ顔を伏せる。そんな僕を表情の読めない目で眺め、口元に薄く笑みを上らせるヨンイル。
 「俺はべつに売春班のうなってもええで、男に興味ないしな。ワイフ一筋のホセも売春班通いとは無縁やし、俺らふたりとも売春班にはさっぱり未練ない……ちゅーか、直ちゃんにだけは特別に教えたる」
 子供が内緒話をするように僕の耳元に口を近付け、そっと囁く。
 「俺、童貞やねん」
 「………は?」
 童貞?それはつまり……
 「女性と性行為に及んだ経験が今まで一度もない、ということか?東京プリズンでは稀有な例だな」
 感心した口ぶりで呟けば、僕の反応を面白がるようにヨンイルが笑い出す。女性の体を知らないことに対してはなんら引け目を感じてないあけっぴろげな態度だった。ヨンイルほど劣等感と無縁に生きている人間も珍しいだろう。
 絶句した僕を愉快げに眺め、ヨンイルは笑い声を噛み殺して続ける。
 「男でも女でも生身に興味ないんや全然これっぽっちも。二次元の女やないとヌケへん難儀な体なんや。ま、11で東京プリズンに来たんやから無理ないけどな。せやから男を抱いたことはおろか女を抱いたこともないねん、生身の人間にはさっぱり欲情せえへんのや。可愛い女の子ぎょうさんでてくる漫画さえあれば売春班のうなっても困らんし、直ちゃんが売春班に戻るのいやなら潰したってもええで。
 愛妻家のホセも反対せん、ちゅーか全面的に賛成やろ」
 「なれなれしくさわるな、不愉快だ。漫画の読みすぎで指がインクで汚れてるぞ」
 肩からヨンイルの手を振り払う。おどけたように両手を挙げたヨンイルが、「さてどないする」と目で問うてくる。口元に浮かんだにやにや笑いは道化の本領発揮の胡散臭さ。
 ヨンイルを睨みつけ、逡巡する。
 ヨンイルとホセがペア戦出場を決めた動機はサーシャに代わるトップの座を欲したからで、100人抜きの条件に売春班撤廃というレイジの要求はそれに含まれない。が、本人が公言したとおりヨンイルもホセも売春班にさしたる未練がないのはおそらく事実。
 愛妻家のホセは売春班と無縁だし、男女問わず生身の人間に性欲を感じないヨンイルは売春班の存在自体に無関心。
 今ここで僕が頭を下げれば、ヨンイルが勝利した暁には売春班撤廃が実現するかもしれない。
 そんな誘惑がちらりと脳裏をかすめる。ヨンイルは僕のことを一方的に友人と認識し、なれなれしく接してくる。僕は売春班から抜け出したい、売春班の悪夢から永遠に解放されたいと強く望んでいる。
 売春班撤廃が実現するならどんな形であれ歓迎すべきだ。
 たとえレイジが負けたとしてもヨンイルホセが売春班撤廃をかなえてくれるなら、少なくとも僕とロンは救われる。
 だが、サムライは?
 「………」
 その後のサムライの処遇に思い至り、愕然とする。売春班がなくなれば少なくとも僕とロンは救われる、レイジも王様の地位を返上して売春班に堕ちずにすむかもしれない。だがサムライは?売春班がなくなっても処理班はなくならない、100人抜き達成不可能となればサムライは両手の腱を切られて処理班に回される運命だ。
 僕のためにペア戦出場を決めたサムライが、処理班に回される?
 両手の腱を切られ、二度と剣を握れなくなる?
 駄目だ。そんな現実は全否定だ、絶対に認められない。
 「馬鹿にするなよ道化。貴様などに頼らなくても、僕たち四人は必ず勝つ。必ずや100人抜きを成し遂げて正々堂々売春班を潰してみせる」
 僕ら四人が東京プリズンで生き残るためには100人抜きを達成するしか道は残されてない。
 今度という今度こそ覚悟を決めた。僕ら四人がだれひとり欠けることなく東京プリズンで生き延びるためには他のトップを下して決勝戦を生き残るしかないと自覚を持った。
 ヨンイルとホセ、そしてサーシャはたしかに強敵だ。
 しかし、僕ら四人には譲れない理由がある。絶対に勝ち残らねばならない理由がある。
 サムライは僕を守りたい、レイジはロンを守りたい。
 僕はサムライを守りたい、ロンはレイジを守りたい。
 それだけではなく、僕ら全員が自分以外の三人を守りたいと強く念じている。
 四人それぞれがかけがえのないだれかのために命賭けで戦う覚悟があるのなら、相手がだれであろうが今の僕たちが負ける気がしない。
 僕は仲間を守りたい。仲間とともに生き残りたい、最後まで勝ち残りたい。
 だれかひとりを犠牲にすることで他の三人が生き延びる、そんな選択肢は拒絶する。
 効率重視の僕らしくもない考え方だと自嘲するが、結論に悔いはない。
 全員が助からねば僕にとってもだれにとっても意味がないのだ。
 迷いを吹っ切った眼差しでヨンイルを射貫けば、僕の決心が固いと悟った道化が肩を竦める。
 「直ちゃんは強情やな。ま、そこがええんやけど」
 そして、犬歯を覗かせて人懐こく笑う。
 「手加減はせえへんで?わざと負けてもろても嬉しゅうないやろ。売春班潰したいんなら東棟の底力見せてみィ。遠慮はいらんから全力でかかってこい、道化がお相手したるわ」
 「僕は手負いの豹さえ飼い馴らした天才だ。龍にも負ける気はしないな」
 ヨンイルがふざけて僕の胸をこぶしで突く。犬歯が愛嬌を足す活発な笑顔は、無防備に気を許した同年代の友人へと向けるそれだ。
 ヨンイルの衒いない笑顔が眩くて、視線を伏せる。
 「話は済んだか?ならそろそろ解放してもらおう、さがしたい本があるんだ」
 ヨンイルから逃げたいがための口実ではない、さがしたい本があるのは事実だ。入院中で退屈してるサムライのために彼が好きそうな本を見繕いにきたのだ。
 断っておくが、医師に対抗心を燃やしてるわけではない。医師とサムライが将棋の駒台を挟んで親交を深める光景を見せつけられ、友人を奪われる危機感をおぼえたわけでは全然ない。
 大体サムライもサムライだ。太股を十五針縫う重傷のくせに正座なんかして足に体重をかけて馬鹿じゃないか、礼儀正しいのもほどほどにしろ。その点本ならベッドに寝転がって読めるし足に負担もかからない、怪我にもさわらない。入院中は読書に限る。
 写経も読経もできなくてストレスが溜まっているだろうサムライの心情を察して書架の奥へと迷い込み……
 どれくらいたったろうか。
 書架に凭れ、一冊ずつ本を改めているうちにだいぶ時間が経過した。漠然とサムライが好きそうな本をさがしていたがなかなかこれはというものが見つからない。個人の好みに合う本でないとロンに貸した哲学書のように涎のあとがつくおそれもあり、自然本選びは慎重になる。
 ヨンイルは二階にいるのだろうか?
 移動書架で出入り口を塞いだ狭隘な空間、別名「城」に引っ込んで手塚治虫の漫画でも読み耽っているのだろうか。
 手近な本を取り上げページをめくりながら、ヨンイルの本心に思い巡らす。
 普段ふざけているヨンイルは見かけによらず情に厚いトップだった。本人はトップの座が惜しいからとうそぶいていたが、ヨンイルが銃を見つけ出そうと必死なのはワンフーの為でもあるのだろう。
 「意外と仲間思いなんだな」
 本のページをめくりながら独り言を漏らす。 
 「だれが仲間思いなんだよ」
 背後で声がした。
 「!」
 背中が突き飛ばされ、書架に激突。その衝撃で書架が揺れ上段の本が落下、バサバサと音をたて頭上に降り注いだ本が視界を遮る。威圧的な声が背後で響いた、と思った次の瞬間には何者かにより背中を突き飛ばされ、片腕を腰に回され締め上げられていた。
 「!っあ、ぐ?」
 力一杯片腕を絞られる激痛に喉を仰け反らせて苦悶する。突然の展開に理解が追いつかない。一体僕の身に何が起きたんだ?混乱した頭であたりを見まわせば、僕の背後には見覚えある顔。
 これといって特徴のないあっさりした目鼻立ちの少年が二人、僕を挟んでいる。
 残虐兄弟。
 彼らのことは知っている、面識もある。数週間前に僕をボイラー室に監禁した凱の子分。食堂でも何回か顔を見かけたことがある。ロンは彼らのことを「残虐兄弟」と呼んでいた。物騒な通り名とは裏腹に、残虐兄弟は極めて平凡な容姿をしていた。
 だが、その表情はおそろしく陰湿だ。瓜二つの顔に悪意の滴るような笑みを浮かべ、僕の片腕を戒めて書架へと押さえこんだ残虐兄弟が嘲弄する。
 「こんなところにいたのかよ親殺し、さがしたぜ」
 「俺の言ったとおりだろあんちゃん。親殺しはネクラな本の虫だ、暇をもてあまして来るとこいったら図書室しかねえ。昼も必ずここにいると思ったんだよ」
 「でかした弟よ、誉めてやる。さすが俺の兄弟だ」
 「なん、で貴様らがここに?今は強制労働にでかけている時間だろう、サボれば厳罰が下るぞ」
 喘ぐように反駁すれば、残虐兄弟が盛大に哄笑する。
 「サボりなもんか、ちゃーんと現場監督の看守に話通してあるさ!賄賂渡して、な」
 「潔癖な親殺しは知らねえだろうけど、現場監督に賄賂渡しゃあ大抵のことは見逃してもらえるのさ。俺たちがわざわざ棟に居残ってたのは、お前と遊ぶためだよ」
 残虐兄弟がすぐ背後まで近付いてたのにも気付かなかった、不覚だ。考え事に気を取られていた。
 足音を忍ばせ気配を殺し僕の背後に歩み寄った残虐兄弟は、周囲に人けがないことを確認してから、僕の腕を引きずるように書架の奥へと連れてゆく。巨大な書架で囲われた最奥は、埃臭い匂いが充満する薄暗い一角だ。僕はよく足を運ぶが、分厚い哲学書が所蔵されたスペースを訪れる囚人は滅多になくいつ来てもひっそりと静まりかえっている。
 人に隠れていかがわしいことをするにはふさわしい場所だ。
 人に言えない行為をするには人目のない場所がいいに決まっている。残虐兄弟はそのことを重々承知していた。巨大な書架に遮られて照明の光も射さない図書室の最奥で、片腕を戒められた屈辱に歯噛みすれば、残虐兄弟が声高に笑う。
 「僕に何か用か?これでも忙しいんだ、邪魔をしないでくれないか。付け加えるが、ろくに本を読みもしない人間が図書室に足を踏み入れるな。不愉快だ、聖域を荒らされた気分だ」
 腕を締め上げる手に力がこもる。
 「生意気言ってんじゃねえよ卑怯者の親殺し。昨日のペア戦じゃあレイジと組んでずいぶん派手にやってくれたなオイ?レイジとグルになってホセを嵌めるなんざ、ずる賢い真似するじゃねえか」
 「誤解だ、共謀などしてない!僕はただレイジを……っあ!?」 
 背中に回された片腕に爪が食いこみ、皮膚を突き破られる激痛に体が跳ねる。
 苦痛に顔をしかめた僕の耳に舌打ちが届く。僕がレイジと共謀してホセを罠に嵌めたと誤解している残虐兄弟は、卑怯者の言い訳になど耳を貸す気がないと見え、書架に上体を凭せた僕にひややかな侮蔑の眼差しを注いでいる。
 「さすが、てめえの親をナイフでぐさりと殺っちまう腐れ外道は考えることえげつねえぜ。どうやってレイジをそそのかしたんだよ、え?僕がホセを足止めしてるあいだにナイフでぐさっととどめをさしてくれってか?てめえの手は汚さず相棒に手え汚させるなんざ最低だな、地獄に落ちやがれ」
 「あんちゃん、親殺しは元売春班の売れっ子だぜ。男そそのかすのなんて朝飯前だ。レイジもきっと親殺しの色香にイカレちまったんだよ。王様は尻軽だからな、親殺しが可愛いケツ貸してやりゃイチコロだろ」
 「羨ましいぜ畜生、俺だってこの可愛いケツ味わいてえよ」
 会話から推察するに、僕の背後で片腕を戒めてるのが弟、僕の傍らに立っているのが兄のようだ。
 残虐兄弟の兄の方が、ズボンの上から無遠慮に尻をまさぐる。柔肉を揉みしだく卑猥なさわり方に体が強張る。ズボン越しでも嫌悪感はまったく薄れない。
 「俺たちゃ凱さんから半々見張るように言われてたけど、親殺しも捨てがたがったんだよな。正直」
 「お高くとまった日本人を犯れるなんてまたとねえチャンスだしな」
 「だからさ、今日はリベンジだよ」
 僕の腰のあたりを執拗に撫でながら兄が言い、弟が口笛を吹く。
 「びびってんのか?なら助けを呼んでみろよ、だれも助けにきちゃくれねえよ。頼りのサムライは入院中、レイジは独居房だ。お前の味方はだれもいねえ」
 「俺たちが犯りそこねた半々のぶんまでたっぷり楽しませてくれよ。半々はお友達だろ?お友達の身代わりになれるなら本望だよな。昨日はレイジを庇ってホセの前に飛び出したんだから……それともあれは嘘かよ、ホセにとどめさすための芝居かよ」
 挑発だとわかっているが、怒りで体が熱くなる。
 「汚い手でさわるな低脳兄弟。君たちが都合いいように解釈するのは勝手だが、僕がレイジと共謀してホセを嵌めたと思いこんでいるのなら実に壮大な誇大妄想だな。
 東京プリズンの医者は見かけによらず優秀だ、手遅れになる前に脳の切開手術をうけたらどうだ?さぞかし皺の少ない綺麗な脳味噌をしてるんだろうな、ホルマリン漬けの標本になって兄弟仲良く並んでいろ」
 こんな低脳どもに理解されたいとも共感されたいとも思わないが、レイジと共謀してホセを陥れたなどと身に覚えのない疑いをかけられるのは我慢できない。
 あの時僕はただ必死で、いついかなる時も冷静沈着な天才にあるまじきことに後先考えずホセの前に飛び出してしまったのだ。
 彼らの言うような悪知恵を働かせてる余裕などこれっぽっちもなかったというのに。
 「あんちゃん、こいつまだこんなこと言ってやがる。懲りねえ親殺しだな」
 「そうだな。ちょっと痛い目見せてやる必要があるな、弟よ」
 突然、僕の背中が外気に晒される。上着の背中をめくりあげた兄が、舐めるような目つきで素肌を観察する。何をする気だ?裸の背中にひやりと手がおかれる。
 体じゅうを這いまわる手の感触、売春班でのおぞましい記憶……
 いやだ、思い出したくない。
 「やっぱりな。親殺しは綺麗な背中してるって噂に聞いたけど、マジだった。お前の処女奪ったヤツが前に自慢してたぜ。男のくせに白くてきめこまかい綺麗な肌して女みてえだってよ」
 聞きたくない。耳を塞ぎたい。
 聞けば思い出してしまう、おぞましい記憶が甦ってしまう。
 僕を最初に犯した男、売春班での一人目の客、イエローワークの元同僚。
 僕を洗面台に押さえ付け、前髪を掴んで顔を起こし、無理矢理鏡と向き合わせて背後から犯して……
 いやだ思い出すな思い出させるな!
 嫌悪感に喉が詰まり、胃が重くなる。頼むから思い出させないでくれと心の中で哀願する僕の背中を撫でまわす手の感触。
 肩甲骨の突起をさすり、背筋を按摩し、腰のあたりをいやらしく這いまわる。
 じっとり汗ばんだ手で背中をさわられるたび自分が汚されてく気持ちがした。売春班の時とおなじだ。
 「綺麗な背中だな……刺青の彫り甲斐あるってもんだ」
 「な、に?」
 喉がひきつった。書架から顔を起こして振り向けば、残虐兄弟がそっくりおなじ顔で笑っていた。不気味な笑み。兄が懐からとりだしたのは、一本の彫刻刀。
 鈍く輝く先端には、乾いた血が凝固していた。
 「俺様気に入りの彫刻刀だ」
 「あんちゃんは刺青彫るの上手いんだぜ。女体専門だけどな、俺たちがかわりばんこに犯りまくった女の体に『残虐兄弟』の四字を刻むんだ。この女は俺たちのモンだって一生消えない証をな。それが俺たちの通り名の由来だよ、お勉強になったろ親殺し」
 「ナイフよか彫刻刀のが使い勝手いいしな。字ィ彫るにはやっぱこっちだ」
 彫刻刀の先端が不吉に輝くが、それより禍禍しい眼光を放つ残虐兄弟の双眸に息を飲む。兄が弟に顎をしゃくり、僕の後頭部を押さえこむ。書架に額を付けた前傾姿勢をとらされた僕は、残虐兄弟の目に裸の背中を晒して固唾をのむ。
 逃げようと必死にもがけど片腕を掴む握力はすさまじく、非力な僕ではどうあがいても振りほどけそうにない。
 「はなせやめろ、馬鹿なことをするな!僕は体に刺青を彫る自虐的な趣味などない、それはマゾヒストの嗜好だろう!?消毒もしてない彫刻刀で肌を切りつければ感染症になるじゃないか、少しは病理学を勉強して出なおしてこい低脳ども!」
 僕も混乱しておかしなことを口走っている。
 このままでは無理矢理刺青を彫られてしまう。血に錆びた彫刻刀で肌を切り刻まれる激痛を想像すれば、恐怖のあまり全身が鳥肌立つ。自分の非力が恨めしい、なぜ腕を振りほどけない!?心臓の鼓動が乱れ、脈拍がはねあがる。肩を浅く上下させ不規則に息を吐く僕の背中に、彫刻刀を持った兄がのしかかる。
 肩甲骨のあたりにひやりとした鋼の感触。
 彫刻刀の先端が右の肩甲骨に擬される。あと少し力をこめれば皮膚がめくれ肉が抉れる。
 「やめ……てくれ」
 声がかすれる。恐怖で発狂しそうだ。固く目を閉じサムライの面影を思い起こす。サムライは今医務室だ、動けない体だ。都合よく助けに来るわけがない。
 このまま僕は、悪趣味な刺青を彫られてしまうのか?
 肩甲骨に擬された彫刻刀から冷気が伝わる。恐怖に足が竦み体が震えだすのを自分の意志では抑えられない。書架にすがるように上体を凭せた僕の背中に体を密着させ、彫刻刀を持った兄が囁く。
 「今度サムライに服脱いで見せてやれよ、びっくりして腰ヌカすぜ」 
 「!?痛っ、あう」
 肩甲骨付近に疼痛。まぶたの裏側で閃光が爆ぜる。彫刻刀でごく浅く皮膚を傷付けられた。ただそれだけで、凄まじい激痛に襲われた。先端が少しめりこんだだけで額に脂汗が噴き出し奥歯を食い縛らねばならなかったのだから、これからを想像すると気が遠くなる。まだ先は長い。途中で気を失わず最後まで正気を保っていられるだろうか……
 気を失ったら、なにをされるかわからない。
 脂汗が滲んだ額に前髪がはりつく。呼吸が浅く荒くなる。片腕を背中に回された苦しい体勢で書架に押さえ込まれた僕は、自分の背中を彫刻刀が切り刻むのを成す術なく見ているしかない。  
 どうして僕はこんなにも無力で非力なんだ?
 もがいてももがいても、振りほどくことができないんだ?
 「あんちゃん、どうせなら一字ずつ彫ってこうぜ。『残』を書いたら交替してよ、『虐』やるからさ」 
 「字ィ間違えんじゃねえぞ、お前馬鹿だからな」
 「字ィ間違えたらばってん付けてやりなおせばいいじゃんか」 
 弟の不満げな訴えに、皮膚に入れ込む角度で彫刻刀を傾けた兄が舌なめずりする。 
 「美しくねえだろ、それじゃ」
 彫刻刀が高々と振り上げられた。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050903101551 | 編集

 「うぎゃあっ!?」
 兄が彫刻刀を振りかざすと同時に、反撃にでる。
 背中で戒められた片腕はそのままに、自由に動く片腕を書架の上段に届かせ本を一掃する。今だ。本に気を取られて拘束が緩んだ隙に腕を振りほどき、頭を庇うように床に身を投げ出す。頭上を急襲した本の洗礼に残虐兄弟が情けない悲鳴を発して狼狽するのをよそに、床で連続横転して距離をとる。
 逃げなければ。
 埃を払い落としてる暇はない。とっさに本を薙ぎ払い残虐兄弟の注意を逸らすことに成功したものの油断はできない、一刻も早くこの場から逃げなければ。頭から埃をかぶり、床に手をつき跳ね起きる。
 今僕がいる場所は図書室一階の最奥、巨大な書架に囲われて照明の光さえろくに射さない薄暗い一角。出口まで最短距離で引き返すには元来た道を全力疾走するしかない。
 僕の足で残虐兄弟を巻けるか自信はないがやってみるしかない、自分の無力に甘えて物分り良く諦めたふりするのはもうやめだ、絶対に最後まで諦めない。
 最後まで足掻いて足掻いて足掻き続けてやる。
 いつまでも指をくわえてサムライの助けを待っているだけじゃ僕は永遠に彼の相棒を名乗れない、サムライの相棒を自負できない無力で非力な人間のままだ。
 それではだめだ、サムライの相棒を名乗るなら自分の身くらい自分で守る術を身につけねばならない。
 覚悟を決め、下唇を噛み、床を蹴る。 
 「させるかっ!」
 足に衝撃。
 背後から僕の足にしがみつく残虐兄弟の弟。体当たりで逃走を阻んだ弟の目は、卑怯者の親殺しに一杯食わされた怒りと恥辱で爛々と燃えていた。
 「よくもあんちゃんを……残虐兄弟怒らせたらどうなるか思い知らせてやる!」
 足に突撃された衝撃で前のめりにバランスを崩し、そのまま転倒する。
 体が浮遊感に包まれた、と思った次の瞬間には埃まみれの床に叩きつけられていた。意識が飛びそうな激痛。腕を下敷きにして顔を守ったから歯を折る事態は防げたが、肘から伝わった衝撃にじんと体が痺れた。
 転倒の際に眼鏡が鼻梁にずり落ちて視界がぼやけたがかまってる余裕がない、眼鏡のブリッジを押し上げる暇があるなら一歩でも遠く離れなければ安全を確保しなければと焦慮に駆り立てられ、無様に突っ伏した姿勢から肘を使って這い進む。
 みじめに這いずる僕の腰にだれかが跨り、力づくで後頭部を押さえこむ。
 「往生際が悪いぜ親殺し。せっかく刺青彫ってやろうってんだ、あんちゃんの好意を無駄にすんなよ」
 僕に馬乗りになった弟が、耳元でねっとりと囁く。熱い吐息が耳朶で弾け、全身にいやな汗が滲む。性急な靴音を響かせて正面に回りこむスニーカー。
 踵を履き潰したスニーカーの持ち主を確かめようと視線を上げれば、兄が立っていた。
 片目を押さえているのは、本の角で強打したからだろうか。僕の背中に覆い被さっていた兄は、避ける暇もなくまともに本の直撃を受けてしまったようだ。ゆっくりと慎重に顔から五指をどければ、瞼が青黒く鬱血し、片目は痛々しく塞がっていた。
 面相が変わった兄を見上げ、口の端に笑みを浮かべる。
 「よかったな、これで見分けがつくようになったじゃないか」
 顔に冷笑を浮かべて残虐兄弟を仰げば、片目が塞がった兄の顔が怒りでサッと紅潮し、僕の背中に跨った弟が険悪の形相に変じる。
 再び窮地に陥ったこの期に及んでも、みっともなく命乞いするのはプライドが許さない。床に這わされた姿勢からひどく苦労して顎を持ち上げ、生唾を嚥下して残虐兄弟の表情を探る。
 「………親殺しのクズの分際で、いい度胸だ。気に入った。お前には特別でっけえ刺青入れてやる。二度と人前でシャワー浴びれねえようにしてやるよ、覚悟しな」
 「当然麻酔なしだ」
 兄が再び彫刻刀を構え、僕の鼻先につきつける。尖った先端には乾いた血が凝固して、切れ味鈍さを彷彿とさせる錆が浮かんでいた。錆びた彫刻刀でゆっくりと生皮剥がれる激痛は想像するだにおぞましい。
 切れ味の鈍った彫刻刀はなかなか進まず途中で肉にひっかかり骨にぶつかり、その度に僕は麻酔なしで体を切り刻まれる地獄の苦しみにのたうちまわることになる。
 乾いた血がこびりついた彫刻刀が、不吉の象徴のように鈍く輝く。
 物騒な色を目に浮かべた兄が、言葉を失った僕を嬲るように鼻先に彫刻刀をちらつかせる。そうやって恐怖を煽りに煽り、手も足も出ない獲物を心おきなく嬲ることで残虐な優越感に酔い痴れているのだ。
 「鼻を殺ぎ落としてやろうか?顎を削ってやろうか?
 今この場で整形手術してやろうか。ああ、それとも……」
 ちらりと僕の股間に目をやる。
 「包茎手術のがいいか」
 「あんちゃん、親殺しは元売春夫だぜ?皮かぶってるわけねえじゃん。いくらケツの穴のほう使いこんでるからってさあ」
 「聞くにたえない下品な会話だな。耳が腐る」
 苦々しく吐き捨てれば、兄弟の視線が再び僕へと向く。ひややかに僕を見下ろした兄が弟へと顎をしゃくり、以心同心頷いた弟が片手で後頭部を押さえこみ片手で肩を押さえつけ完全に抵抗を封じる。
 僕は必死にもがいた、さかんに首を振り肩を揺さぶり背中に跨る人物を振り落とそうとしたが駄目だった。はげしく首を振るたび手綱のように後ろ髪を引っ張られ、毛根に激痛が走り、生理的な涙が目に滲む。
 「うあっ、痛……」
 苦鳴をこらえようにも、手で口を押さえることすらこの体勢ではむずかしい。容赦なく後ろ髪を引かれて何本か髪の毛が抜けた。苦悶に仰け反る僕の背中に、ひやりと外気が忍びこむ。上着の背中がめくられ、素肌が外気に晒される。
 先ほど浅く抉られた肩甲骨が、外気にふれてピリッと痛む。ほんのかすり傷程度でこれほど痛いのだ、本格的に抉られたら失神してしまうかもしれない。
 「おい見ろよ。色白の肌に血の赤が映えてすごく綺麗だ」
 「そうだなあんちゃん。きっと刺青も映える」 
 兄がうっとりと呟き、弟が同調する。おぞましい会話に耳を塞ぎたくなる。熱く火照った手が、無遠慮に腰をしごいて背中をまさぐる。 
 彫られる前から、肌が異常に敏感になっている。視線の熱に体が疼き始めるのを自分の意志ではどうすることもできない。背中を大胆に露出させた僕を舌なめずりせんばかりに見下ろしていた兄が、スッと肩甲骨に触れる。
 ぬるりとした感触。
 先ほど傷付けられた肩甲骨から一筋血が滴り、背筋を伝い落ちる感覚。口には出せないが、おそろしく淫靡な感覚。這うように背中を流れ落ちる一筋の血を指にすくいとり、兄がにたりと笑う。あざやかな血にぬれた人さし指が、ひたと僕の背中にあてがわれる。
 裸の背中にくすぐったい感覚が芽生えたのは、背中になにか血文字を記されているためらしい。どんなに首を捻っても、僕の位置からでは背中が見れない。
 だが、指の動きでわかる。
 「残」の次は「虐」、そして「兄」と「弟」が続く。
 血染めの指が動くたびに綴られてゆく新たな字。屈辱に胸が煮え立ち、恥辱で頬が熱くなる。僕は今なにをされている?
 他人に体を触られている。
 自分の血で、背中に字を綴られている。
 僕はまたサムライとの約束を破ってしまった、彼との約束を守れなかった。これで何度目だ?心の底から自分の不甲斐なさを呪う。 
 「よしできた。あとはこのとおりに彫るだけだ」
 僕の血に指を浸し、真紅の四字を綴った兄が快哉をあげる。
 「あんちゃん字ィきったねえなあ」
 「うるせえよ、コイツが震えるから歪んじまったんだよ」
 「かわりばんこっつにしようよ、ねえ。あんちゃんだけなんてずるいよ、俺にも彫らせてよう」
 「しつけえなあ。わかったよ、ただし一個ずつだかんな。がっつくんじゃねえぞ」
 残虐兄弟のやりとりがどこか遠く聞こえる。現実感が急速に薄れて今自分の身に起こってることが覚めない悪夢のような錯覚を覚える。
 このまま僕は成す術なく悪趣味な刺青を彫られてしまうのか?
 残虐兄弟にかわるがわる上に乗られて嬉嬉として彫刻刀で刻まれて、床を掻き毟り喉を仰け反らせ苦悶に喘ぐしかないのか?
 ああ、これでもうサムライには背中を触れさせることができなくなる。
 彼に背中を見せることができなくなる。
 「んな情けないツラすんなよ親殺し。刺青入れたらハクがついて東京プリズンで生きやすくなるぜ」 
 尖った先端が肉を穿ち骨を削る激痛を覚悟し、固く固く目を閉じる…… 
 
 その時だった。

 「ヒーロー見参、ヒーロー見参」
 頭上から声がした。
 「!」
 反射的に目を開け、床に這いつくばった体勢から頭上を仰ぎ見る。書架の上にだれかがいる。どうやってあそこに上ったのか、いや、そんなことはどうでもいい。
 忽然と書架の上に姿をあらわし、仁王立ちする少年には見覚えがある。針のような短髪。黒いゴーグルをかけて素顔を隠してはいるが、尖った犬歯が覗く快活な笑顔はまぎれもない……
 「助けにきたで、直ちゃん」
 ヨンイルだ。
 書架を蹴り宙に身を躍らせたヨンイルの姿が照明の逆光で塗り潰される。
 身軽に床に着地したヨンイルが、僕に覆い被さった残虐兄弟を一瞥、剣呑に呟く。
 「図書室のヌシの縄張りでなに好き勝手しとんじゃおどれら、いてもうたるど」
 「くっ………そおおおおおおおおお!!」
 突然の闖入者に気が動転したか、相手が西の道化だということも忘れて彫刻刀を振り上げる兄と襲いかかる弟。ヨンイルは腰に手をあて自分めがけ突進する兄弟を睥睨していたが、こりをほぐすように首を回し、ため息をつく。
 「いいところを邪魔しやがって!!」
 「てめえも彫って掘ってやる!!」
 目を血走らせた兄が大きく腕を振りかぶり半狂乱で彫刻刀を振りまわす。銀の軌跡が縦横斜めに交差する中、ヨンイルは余裕で後退。
 笑みさえ浮かべて身軽に飛び退いたヨンイルに逆上した兄が大股に間合いに踏みこみ、眉間を抉って致命傷を与えようと彫刻刀を振り上げる。
 「脳味噌かきまわしてやらあ!」
 「危ない!」
 上体を起こした僕が叫ぶと同時に、ヨンイルが行動を起こす。
 ヨンイルがしなやかに身を捩り彫刻刀の猛追から逃れるや、鋭い呼気を吐いて高く高く片足を振り上げる。自分の眉間の位置まで、ほぼ垂直に片足を振り上げたヨンイルがにっこり笑う。
 「成仏せえよ」
 龍が踊った。
 ヨンイルの回し蹴りが首に炸裂する。
 首の骨が折れてもおかしくない痛烈な一撃だった。回し蹴りの衝撃で軽々吹っ飛んだ兄が背中から書架に激突、大量の埃を舞い上げ盛大に本がなだれ落ちる。
 濛々とたちこめる埃の煙幕の向こう側から、四肢に煙を纏いつかせて歩み出たヨンイルが、白目を剥いて失神した兄の手から彫刻刀をもぎとる。
 そして、残る弟を振り向く。
 「……」
 ゴーグル越しの眼光に射竦められた弟は、金縛りにあったように硬直する。
 道化の全身から放たれる得体の知れない威圧感に呑み込まれ、一瞬で戦意喪失した弟が、ぱくぱく口を開閉しつつあとじさる。
 「!?うわっ、」
 弟が勝手に転ぶ。床に散乱した本を踏み付けたのだ。ぶざまに尻餅をついた弟の正面に立ち塞がったヨンイルが、彫刻刀を片手にその顔を覗きこむ。
 無造作に弟の胸ぐらを掴み、顔を引き寄せる。
 ヨンイルの口元は笑っていたが、ゴーグルに隠された目は少しも笑っていない。図書室を荒らされた怒りに燃えていることは僕でも容易に察しがついたが、それだけではない。
 恐怖で口もきけない弟の胸ぐらを吊り上げ、肩越しに振り返るヨンイル。視線の先には僕がいた。上着をはだけられ、背中を傷付けられ、首をうなだれて荒い息をこぼす僕を一瞥し、再び正面を向く。
 ヨンイルの雰囲気は、先ほどまで僕と親しげに話していた少年のそれではない。
 泡を噴いた弟の胸ぐらを掴み、背後の書架へと叩きつけ、ヨンイルが囁く。
 暴力沙汰を厭わないおそろしく剣呑な笑顔で。
 「額に肉って彫ったる」
 手中で物騒に輝く彫刻刀がひたと額に擬され、薄く皮膚が裂ける。
 「あ………や、やめてくれ、俺が悪かった、もう二度と図書室には来ねえよだから!!」
 滂沱の涙を流して弟が謝罪すれば、途端に鼻白んだヨンイルが乱暴に胸ぐらを突き放し、おまけとばかり尻を蹴飛ばす。ヨンイルに蹴り転がされた弟が、白目を剥いた兄をおぶさり捨て台詞を吐く。
 「くそったれが、くそったれの道化と親殺しが!!」
 一陣の旋風を巻き起こし、あっといまに逃げ去った兄弟の背中を見送り、ヨンイルが僕の方へとやってくる。 
 「大丈夫か直ちゃん、怪我ないか」
 「かすり傷だ。道化の同情はいらない」
 気まぐれで助けてもらったとはいえ、素直に礼を述べる気にはなれない。ヨンイルと僕とは一応敵同士だ、線引きはきっちりしておくべきだろう。虚勢を張って立ち上がりかけたそばから、肩甲骨に疼痛が走り、苦鳴を噛み殺して膝を折る。
 「言わんこっちゃない、見てて痛々しいわ。どれ、見せてみィ」
 「こら、許可なく人の体に触れるな!せめて手を洗ってから、」
 僕の抗議もむなしく、傍らにしゃがみこんだヨンイルが上着をめくりあげ裸の背中をじっくり観察。皮膚が剥けた右の肩甲骨を見咎め、顔をしかめる。
 「痛そうやな。ちィと我慢しィ」 
 「!な、」
 そして、思いがけぬ行動にでた。
 ヨンイルが僕の肩甲骨に口をつけ、血を吸う。
 傷口から血を吸い出したヨンイルが、床にぺっと唾を吐く。唾には血が滲んでいた。
 「貴様は蚊か!?気色悪いことをするんじゃない、離れろ!」
 正気に戻り、慌ててヨンイルを突き飛ばす。一瞬の躊躇も抵抗もなく、僕の肩甲骨に顔を埋め唇を浸し血を啜ったヨンイルはあっけらかんとしている。
 「消毒や、黴菌入ったら困るやろ。なんやねんそんなおっかない顔して、かすり傷に唾つけんの普通やろ。うちでやらんかったんか、妹だか弟だかが膝すりむいたら唾つけたったことは?」
 「見損なってもらっては困る、そんな不衛生な真似するわけないじゃないか。擦り傷に唾をすりこむなど育ちの悪い人間がすることだ、恵が転んで怪我をしたら僕が消毒して包帯を巻いて三日三晩介護する」
 「膝をすりむいただけで三日三晩は大袈裟やろ」
 さすがにヨンイルがあきれる。うるさい道化の分際で人の家庭事情に口をだすなと反駁しかけ、思いとどまる。上着をおろして僕の背中を覆ったヨンイルが、ゴーグル奥の双眸をやけに懐かしげに細めていたからだ。
 「懐かしいなあ。俺が外で遊んで怪我して帰ってきたら、じっちゃんがよくやっとった。こんなかすり傷唾つけとば治るの一点張り。おかげで俺、ガキん頃から医者かかったことないねん。刺青彫ったときも死ぬほど高熱だしてうんうん唸っとったけど、気合いで治したわ」
 亡き祖父との思い出を回想し、ヨンイルが苦笑いする。自然とゴーグルに目がいったのは、ヨンイルいわくそれが唯一東京プリズンに持ちこんだ祖父の形見だからだ。
 ヨンイルの全身には龍の刺青がある。
 健やかな四肢を束縛するように搦めとった龍は、生命の躍動を感じさせるそれは見事なものだが、全身に刺青を彫るような無茶をしたら三日三晩高熱をだしてもおかしくない。 刺青は皮膚の炎症なのだから、それが全身に及べば反動も大きい。
 ましてやヨンイルが刺青を彫ったのは五・六年前、十歳の頃だという。
 子供が全身に刺青を彫るなど、命がけの愚行ではないか。
 「……君はマゾヒストなのか?肌を傷付けることで自虐的な快感に酔い痴れるアブノーマルな人間なのか。詳しい事情は知らないが、たった十歳の少年が全身に龍の刺青を入れるなど正気の沙汰じゃない。十歳といえば恵とそう変わらない年齢じゃないか、僕の妹に限ってそんなことはけしてありえないとは思うがもし恵が刺青を入れたいなどと言い出したら僕は何をおいても全力で止めるぞ。ヨンイル、君の家族はその刺青を見てど」
 言葉が不自然に途切れる。
 ヨンイルが、彼らしくもなく黙りこんでしまったからだ。
 ……少し言葉が過ぎたかもしれない。ヨンイルは一応僕を助けてくれたのだ。事実上の恩人には形だけでも感謝しておかなければ。サムライも言っていたではないか、だれに対しても礼を尽くすロンの姿勢は好ましいと。よし。
 「……やっぱりバチが当たったんかなあ」
 間が悪く、ヨンイルが呟く。おかげで礼を言うタイミングを逸してしまった。  
 「……どうしたんだ、えらく殊勝じゃないか。気味が悪い」
 無意識にゴーグルに触れ、ヨンイルが立ち上がる。
 「なんでもない、ちィと昔のこと思い出してもうただけ。それより直ちゃん、その怪我ちゃんと手当てしたほうがええで。かすり傷でも油断できんからな。よっしゃ、西へ帰るついでに医務室に送ったる」
 「その必要はないぜ」
 突然、第三者の声がした。
 残虐兄弟が帰ってきたのかと肝を冷やしたが、違った。あらたに現れた三人目は、僕がまったく予期しない人物……
 ヨンイルをひややかに睨みつける五十嵐だった。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050902101700 | 編集

 「痛そうだな」
 五十嵐が顔をしかめる。
 「痛そうやな」
 ヨンイルも眉をひそめる。
 「感想はいいから、早く処置を始めてくれないか。裸を人目に晒すのは落ち着かない」
 場所をかえて、二階へと続く図書室の階段。
 段上の座席に腰掛けた僕は、好奇の眼差しに裸の背中を晒す居心地悪さに目を伏せる。 僕の上着の裾を掴み、肩甲骨が露出するまで大胆にめくりあげた五十嵐が懸念のため息をつく。
 「少し染みるぞ。我慢しろよ」
 そしてヨンイルに顎をしゃくる。五十嵐に命じられたヨンイルは一瞬物言いたげに口元を歪めるが、首をうなだれた僕が辛そうなのを察すると、反論を呑みこんで唯々諾々とそれに従う。
 五十嵐に代わり、無造作に僕の上着をめくる。容赦なく捲られた上着の裾からひやりと外気が忍びこむ。何度体験しても他人の手で上着をはだけられる感覚に慣れずに肌が粟立つ。
 きつく目を閉じ、売春班での苦い記憶を追い出そうと努めるがなかなかうまくいかない。日常生活では忘れたつもりでいても何気ないひとときにふと思い出してしまう、売春班で体験した一週間の生き地獄を僕の体はまだ鮮明に覚えている。
 素肌にふれる五十嵐の手を意識しないよう平静を装いつつも、耳の奥に甦る嘲笑が、忌まわしい過去を呼び起こす。
 『やっぱりな。親殺しは綺麗な背中してるって噂に聞いたけど、マジだった。お前の処女奪ったヤツが前に自慢してたぜ。男のくせに白くてきめこまかい綺麗な肌して女みてえだってよ』
 いやだ思い出したくない、あんなこと二度と思い出したくないなかったことにしてしまいたい。
 売春班ではじめて客を取った時の記憶がまざまざとよみがえり僕を苦しめる。
 鏡に映った僕の顔、前髪を掴まれ無理矢理顔を起こされ鏡と向き合わされた自分の顔。快楽と苦痛とが綯い交ぜとなった恍惚の表情、淫蕩に濁った目、物欲しげに喘ぐ唇……
 体の裏表を貪欲に這いまわる手の感触が厭わしい。
 僕を洗面台に押さえ付け背中に覆い被さった男の顔は朦朧と霞んでいるというのに、鏡に映った僕自身の顔が網膜に灼きついているのは何故だ?
 売春班で僕は何人もの男にさわられ抱かれ犯された。壁に両手をつかされ背後から、ベッドで上に跨るように、そしてシャワーのフックに吊られて……
 今でも覚えている、手首に食い込むロープのささくれだった感触を。
 僕の体を飢えたように這いまわる汗ばんだ手の感触を。
 普段忘れているつもりでも、サムライ以外の人の手にさわられれば思い出してしまう。 僕が汚れているという拭い難い事実を思い知らされ吐き気をもよおす。忘れろ忘れるんだ、今そんなことは関係ない。僕はもう売春班とは関係ない、サムライに救われ自由になったんだ、あんなことは悪い夢だ忘れてしまえと強烈な自己暗示をかけて顔を伏せる僕の背中にそっと手が被さる。
 気遣わしげに僕の肩甲骨に被さった手は、乾いていた。
 「なんでやられたんだ、これ」
 「彫刻刀だ」
 「ひでえな」
 短く答えれば、五十嵐がこの上なくいやな顔をする。
 五十嵐も東京プリズンの看守だ。弱肉強食の檻の中では、自分より立場の弱い人間に人がいかに残酷になれるかは熟知しているだろうがそれでも嫌悪感は薄まらないらしい。
 眉間に嫌悪の皺を刻んだ五十嵐が重くため息をつき、事務的に表情を改め、再び手を動かしはじめる。医者でもないのに五十嵐の手つきは正確かつ的確で、処置は迅速だった。
 消毒液を浸した綿で傷口をさっと拭き、慎重に丁寧に血を拭う。
 消毒液が傷口に染み、鋭い痛みが走るたび、体が強張る。そんな僕を気遣うように、「大丈夫か」と声をかけてくる五十嵐に強がりで頷く。
 必死に痛みを堪えていたら、力をこめすぎたせいか手のひらに爪が食いこんだ。無意識に手を握りしめ、表情を覗かれるのを避けて深々と俯く。
 「……っ、あく」
 どうしても噛み殺せない苦鳴がもれた。
 苦痛に翻弄される僕の気を紛らわすためか、僕の上着を持ち上げたヨンイルがどうでもいいことを口にする。
 「にしても五十嵐はん、あんたいつでもどこでも消毒液とガーゼの応急処置キット持ち歩いとんのかい。ご苦労なこっちゃな、医者でもないのに」
 「怪我人に肩貸して医務室に運ぶよりこっちのほうがラクだって気付いたんだよ、時間の節約にもなるしな。医務室に運ばなきゃいけないような怪我人ならともかく、かすり傷程度ならさっと消毒してバンソウコウ貼っときゃすむだろ。こう見えて手先は器用なんだぜ、俺」
 「さすが、親切やな」
 ヨンイルが意味ありげにほくそ笑み。
 気のせいかもしれないが、棘のある言い方だった。
 そしてまた五十嵐も、処置の手は休めず皮肉げに笑み返す。
 「お前ら囚人がしょっちゅう喧嘩して問題ばっか起こすから慣れちまったんだ」
 二人の会話に意識を集中したせいで、だいぶ苦痛が薄れた。
 ヨンイルと五十嵐は努めてさりげなく振る舞っているが、たがいを立ち入らせない一線を引いてることが如実に伝わってくる。  
 傷口の血を拭き取り、しずかにゆっくりとガーゼを押し当てながら五十嵐が呟く。
 そのさまを醒めた目で眺めながら、ヨンイルが呟く。
 「俺んときはそんなこと、してくれへんかったな」 
 「お前が階段から落ちたときか。馬鹿言えよ、捻挫の応急処置なんか知らねえよ。添え木でもあてりゃいいのか?生憎知識がなくてね。俺ができるのはかすり傷の手当てだけ」
 「階段から落ちた、か。あんさんにはそう見えたんか、あれが」
 ヨンイルがさもおかしげに笑う。喉をひきつらせるような奇妙な笑い方。僕の肩甲骨にガーゼをあてがった五十嵐が、物言わずヨンイルを睨みつつテープを貼ってゆく。傷口を覆ったガーゼにテープを十字に貼りつけ、「よし」と満足げに首肯。
 ヨンイルに目配せして上着をおろさせる。
 「これでいいだろう。たいしたことない怪我でよかったぜ」
 「ほんま、あんさんがタイミングよく現れてくれたおかげで助かったわ。なんや五十嵐はんとは図書室でよお顔あわすけど、あんさんホンマは俺のストーカーとちゃうんか」
 ふざけた口調でまぜっかえすヨンイルに、消毒液の瓶を戻しながら五十嵐が肩を竦める。 
 「バレちまったか。実はそうなんだよ」
 どこまで本気で冗談かわからない。
 しかし、五十嵐がきてくれて助かったのも事実だ。五十嵐の話によると、たまたま図書室付近を歩いていたら血相変えて逃げ出してきた残虐兄弟と遭遇し、何が起きたのか気になって足を向けてみたのだという。
 そして、ぐったり座りこんでる僕とヨンイルとを発見した。
 偶然にしてはタイミングがよすぎる。僕は全面的に五十嵐の証言を信じたわけではない、五十嵐が嘘をついてる可能性も捨てきれない。
 上着の皺をのばすふりをしながら、疑念を宿した目で、注意深くヨンイルと五十嵐とを見比べる。
 五十嵐はヨンイルを憎んでいる、はずだ。何故ならヨンイルは五十嵐の娘の仇、五十嵐の娘が死亡する原因を作った張本人なのだ。ヨンイルが作った爆弾で五十嵐の娘は死に、五十嵐は生きる希望を失い、東京プリズンに左遷されてきたのだとしたら…… 
 五十嵐がヨンイルを殺したいくらい憎む気持ちもわかる。
 僕が五十嵐の立場でもおなじだろう。最愛の存在、唯一の家族……恵。僕の心の支え、生きる希望そのもの。生きる目的そのもの。もし恵が五十嵐の娘とおなじように不条理な死に方をしたら、僕は到底納得できず、恵に死をもたらした人間に何をおいても復讐する。 
 そうだ。ヨンイルが憎くないはずがないのだ。
 「慣れているというだけあって、さすがに腕はいいな。応急処置の手際もいい。評価してやる」
 眼鏡のブリッジに触れながら尊大に言い放てば、五十嵐が苦笑する。
 「ありがとよ。まあ、あんまり自慢できることじゃねえけどな……一日でいいから喧嘩や事件に巻きこまれず東京プリズンで平和にやりたいもんだぜ」 
 「無理やろ。地獄で仏様拝むようなもんや」
 ヨンイルが挑発的に笑う。五十嵐が登場した瞬間からヨンイルの態度が硬化した。五十嵐がヨンイルを憎んでいるのは事実だが、ヨンイルもまた五十嵐を快く思ってないらしい。
 殺気立ったふたりを残し、僕ひとり図書室をあとにするのは心配だ。
 べつに僕が心配する必要はこれっぽっちもないのだが、五十嵐とヨンイルをふたりきりにして万が一のことでも起きたら困る。僕が席を外した途端にはげしい口論に発展した五十嵐とヨンイルが掴み合いの喧嘩をしないとも限らない。
 険悪な雰囲気のふたりを残してゆくのも気が引けるし、もう少し様子を見るべきだと判断し、階段の座席に大人しく腰をおろす。
 図書室に僕ら三人以外の人間はいない。
 整然と書架が並んだ一階には埃臭い静寂が漂い、僕ら三人のあいだにも気まずい沈黙が落ちる。
 「……ええ機会やな」
 沈黙を破ったのはヨンイルだった。
 「なにがいい機会なんだ?端的に独白せず、前後の文脈がつながるように説明しろ」
 ぼそりと呟いたヨンイルに怪訝な眼差しを向ければ、当の本人はどこか遠くを見るような目を虚空に馳せていた。ひどく大人びた眼差しに、何故だか急にヨンイルが遠くなった気がして心臓の鼓動が速まる。
 そしてヨンイルが、体ごと僕たちに、いや、正確には五十嵐に向き直る。
 「五十嵐はんにずっと聞きたかったんや。今日ここでこうして会うたんもなにかの縁、じっちゃんの導きや。さあ、腹を割って話し合おうか」
 突然なにを言い出すんだこの男は。せめて緩衝材になろうと、ふたりの間にじっと座っていた僕の努力を無駄にする気か?だがヨンイルの決意は固いらしく、五十嵐をまっすぐ射貫く目はひどく真剣だ。
 「五十嵐はん、ずばり聞くけど。なんで俺のこと殺そうとしたんや?」     
 単刀直入にもほどがある。
 瞬間、五十嵐の表情が豹変する。愕然と強張った顔は、囚人に慕われる看守のそれではなくけして口外できない後ろ暗い秘密を抱えた人間のそれだ。   
 しかしヨンイルは引かない。凝然と固まった五十嵐の方へすかさず身を乗り出し、早口に畳みかける。
 「忘れたとは言わせへんで。ちょっと前、俺が漫画読みながら歩いとる時に階段から突き飛ばしたやろ。おもいきり。背中をドンと突いて」
 「え?」
 驚愕の声を発したのは僕だ。五十嵐がヨンイルを階段から突き落としたなんて初耳だ。 衝撃の事実に狼狽する僕の視線の先でヨンイルは有無を言わせず五十嵐ににじり寄る。
 「俺が捻挫だけですんだのは持って生まれた運動神経のおかげやけど、打ち所悪かったら即死やで。洒落にならんでホンマ。東京プリズンの看守が囚人いじめて楽しむクズばかりやってのは常識やけど、あんさんはちゃうやろ。とてもそんなかんじに見えへん、囚人に好かれる看守や。
 西のやつらもあんさんのことはえらい慕っとる、みんなあんさんに恩を感じとる。みんな一度や二度、あんさんに助けられたことがあるからや。今もこうやって直ちゃん助けてくれた、俺もあんさんが皆に好かれるのはようわかる」  
 ヨンイルが淡々と独白するあいだ、五十嵐は無表情に押し黙っていた。だがその無表情は、腹の奥底で沸騰する激情を必死に押し殺してるように切迫したものだった。
 それに気付いているのかいないのか、もしくは気付かないふりをしてるのか、五十嵐と面と突き合わせたヨンイルは不可思議としか言いようがない顔をしていた。何故自分が恨まれるのかこれっぽっちも心当たりがないといったあっけらかんとした態度。
 五十嵐の顔を覗きこみ、ヨンイルが首を傾げる。
 「なんで、俺にだけ冷たくするん?」
 本当に不思議そうな声音だった。
 自分が恨まれる筋合いなどこれっぽっちもないと開き直った態度だった。  
 手のひらがじっとり汗ばみ、心臓の鼓動が高鳴る。ヨンイルはあまりに無防備だ。看守の五十嵐に対しても僕とおなじようになれなれしく接して憚らない。
 その無防備さが、命取りとなる。
 重苦しく押し黙った五十嵐の顔をまっすぐ見つめ、ヨンイルがさらに続ける。
 「言いたことあんならちゃんと言うてや、ええ年した大人がまわりくどいいやがらせしてみっともない。俺、あんさんになにか気にさわること言うかするかした?」
 大仰にかぶりを振りながらヨンイルが嘆く。
 「身に覚えのないことで恨まれちゃこっちも気分悪うてかなわ」
 
 ヨンイルが吹っ飛んだ。
 五十嵐におもいきり平手打ちされて。

 「ヨンイル!?」
 僕が立ち上がった時にはすでに遅く、ヨンイルの体は階段から落下していた。後ろ向きに倒れたヨンイルが凄まじい音をたて階下に叩きつけられる。下から三段目に座っていたので命拾いしたが、もう少し上にいたらと思うとぞっとする。
 反射的にヨンイルに駆け寄り、助け起こす。
 階下に転落したヨンイルが、背中を強打した衝撃ではげしく咳き込んでいた。幸い外傷は見当たらなかったが、五十嵐にぶたれた頬が赤く腫れていた。痛々しく腫れた頬をさすりながら頭上を仰いだヨンイルは、ただただ驚きに目を見張るばかりでとっさには口もきけない。
 段上に仁王立ち、傲然とヨンイルを見下ろす五十嵐。
 その目に渦巻いてるのは、底知れない憎悪。
 「……身に覚えはないんだな」
 「……ぜんぜん」
 低く押し殺した声で五十嵐が問えば、茫然自失のヨンイルが緩慢に首を振る。操り人形めいた動作でヨンイルが否定すれば、五十嵐が何とも複雑な色を目に浮かべる。悲哀とも苦渋ともつかぬ表情が覗いたのは一瞬のこと。
 尖った靴音を響かせ、大股に階段を下りた五十嵐が、ヨンイルの眼前に立ちはだかる。僕が知る五十嵐はどこにでもいる冴えない中年男のはずだった。しかし今の五十嵐はそうじゃない、皺だらけの制服はそのままだが顔つきがまるで違っている。
 今の五十嵐は、とても恐ろしくて。
 「人殺しのくせに、身に覚えはないんだな?」
 僕に優しくしてくれた五十嵐とは、別人のようで。
 これが本当に、ついさっき傷を手当てしてくれた五十嵐と同一人物かと疑りたくなる。片方の手を腰にかけた五十嵐が、肘をつき上体を起こしたヨンイルの胸ぐらを乱暴に掴み、自分の方へと引き寄せる。
 五十嵐が囚人に暴力を振るう現場をはじめて目撃した僕は、情けないことに体が硬直して、言葉を発することもできない。
 「人殺し、て。そりゃ俺はたしかに、人殺しやけど」
 この場でいちばん冷静なのはおそらくヨンイルだった。横っ面を殴られ階段から落とされたショックが大きすぎていまだに現実を呑みこめないのか、怒りよりも恐怖よりも当惑が勝った表情で五十嵐を見上げる。
 「でも、俺が人殺しなのとあんさんが俺を階段から突き落としたのは別の話やろ。かってに関連づけんなや。だいたい人殺し言うたら東京プリズンに入れられとるガキの八割九割がそうやろが、なんも珍しいことあらへんわ」
 困惑めいた眼差しでヨンイルが反駁すれば、五十嵐の口元に笑みが浮かぶ。
 「『珍しいことない』、か。たしかにそうだよな。そうだよな」
 ヨンイルは知らないのだ。自分が五十嵐に憎まれている本当の理由を。
 なんて愚かで浅はかな道化なのだろう。
 「……五十嵐はん、ええ加減手えはなしてくれへん?直ちゃんびっくりしとるやろ。俺もこの姿勢首絞まってきついんやわ。それともなに、窒息死させる気か?図書室で本に埋もれて死ねるなら本望やけどな、はは」
 ヨンイルが乾いた声で苦しげに笑う。五十嵐はそんなヨンイルを慈悲のかけらもない目で冷然と見下ろしていた。ヨンイルの胸ぐらを掴み、締め上げ、獣のような体勢でその上にのしかかった姿には鬼気迫るものがある。 
 「五十嵐、落ちつけ。自制心を取り戻せ。はやくヨンイルの上からどけ」
 五十嵐のこんな姿は見たくなかった。ようやく金縛りがとけた僕は、意を決して五十嵐に訴えかける。五十嵐が本当にヨンイルの首を絞めて殺してしまうんじゃないかとそればかりが心配だった。床に寝転んだヨンイルは、無造作に手足を投げ出して自分の上に跨った五十嵐を仰いでいる。
 五十嵐に頬を張られた際に切れたらしく、唇の端に血が滲んでいた。
 ヨンイルの唇に滲んだ血が僕と同時に目に入った五十嵐が、ごくりと生唾を嚥下する。
 「俺がお前を憎む理由、教えてやろうか」
 五十嵐の声は興奮にかすれていた。ヨンイルは無抵抗だ。ただ疑問の色に染め上げられた眼差しで、五十嵐の口の動きを観察している。僕は何もできない。ヨンイルと五十嵐に近寄ることさできない。今のふたりには第三者の介入を拒む何かがあった。
 五十嵐の親指が、そっと、唇の血を拭う。
 「!痛っ……」 
 切れた唇に触れられ、ヨンイルが眉をしかめる。 
 ヨンイルの抗議を無視し、親指に血をぬりつけ、顔へと滑らす。
 ヨンイルの頬に一筋なすられた鮮血に物欲しげに喉を鳴らし、五十嵐が言う。

 「俺がお前を憎むのは、嫌いだからさ」

 『嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?』
 『憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね』
 唄うようなレイジの声が眼前の光景に被さる。

 「アホ、言うな……嫌いって、嫌いになるにも理由いるやろ。具体的に俺のどこがどう嫌いか教えてくれな納得できひん」
 「全部だよ。お前の顔も声も性格も全部が。お前が今こうして俺の下でみじめにみっともなく足掻いてるということ自体が。なあヨンイル、お前なんで呼吸してるんだ?こうしてしゃべってるんだ?お前だって頬ぶん殴られりゃ痛いだろ、ちゃんと痛いって感じるだろ。血も涙もある人間だって証拠だよな、それ。なのに……」
 五十嵐の独白が不自然に途切れ、不吉な予感に胸が騒ぐ。
 「五十嵐、やめろ。やめるんだ」
 それしか言えない。僕も恵が殺されたら五十嵐とおなじ行動をとる。だから、五十嵐を制止はできても非難などできるはずがない。五十嵐の目はヨンイルさえも見ていない。自分の内側を覗いているのだろう深い闇を映した瞳は、復讐の狂気に魂を売り渡した人間のそれ。
 「ヨンイル、お前手塚治虫が好きか」
 突然、五十嵐が話題をかえる。  
 「大っ好きや」
 ヨンイルが即答する。
 「そうか。俺の娘もな、手塚治虫が大好きだったんだよ。ブラックジャックと結婚したいって言ってた。馬鹿だよな」
 「馬鹿ちゃうわ。ブラックジャックかっこええもん、そりゃ女やったら惚れるわ。俺男やけど惚れたもん。信念ちゅーか、生き方に。孤高を貫く無免許医なんてめちゃかっこええやん」
 「リカとおなじこと言うんだな」
 「あんさんの娘さんとは気が合いそうや。残念やな、生きとったらよかったのに」
 ヨンイルが朗らかに笑い、五十嵐の顔が泣きそうに崩れる。
 なにも知らないということは、なんて残酷なのだろう。
 僕はヨンイルの無神経を詰れない、無知を責められない。ヨンイルの過去はよく知らないが、彼もまた、やむをえず犯罪に手を染めた人間なのだ。それ以外の選択肢がなく、それ以外の生き方を知らず、自分が人を殺す凶器を生産している実感もなくただ命じられるがままに爆弾を作り続けていたのだとしたら。
 無知な子供の無邪気さで、毎日のように爆弾を作り続けていたのだとしたら。
 「……ヨンイル」
 五十嵐がやさしくヨンイルの名を呼ぶ。
 「お前もう手塚読むな」
 「は?なんでじゃボケ、手塚読めなくなるくらいなら死んだほうがマシじゃ」
 手塚治虫。ブラックジャック。五十嵐の娘が好きだった漫画を、ヨンイルもまたこよなく愛している。
 皮肉な現実に、五十嵐の心は耐えられない。
 この世でいちばん憎い人間が、既にこの世にない愛しい人間とおなじものを好む残酷な現実が、非情に徹しきれない五十嵐の心を無残に引き裂く。
 「………そうか。そうかよ」
 力なく笑い、ヨンイルの胸を突き放す。己に言い聞かせるような口調で何度も呟きつつ、ふらふらと立ち上がった五十嵐の目からは、正気の光が完全に失せていた。
 おそらく無意識だろうが、五十嵐が腰に手をおいてるのが妙に気になった。 
 消毒液を入れたポケットとは反対側に、庇うように手をおいた五十嵐の態度が何故こんなにも気になるのだろう。まるで、今まさになにかを取り出そうとしてるみたいな……
 かぶりを振って馬鹿な想像を蹴散らし、ヨンイルに声をかける。
 「ヨンイル、大丈夫か?」
 「だいじょぶだいじょぶ、ちょい死にかけただけや。今はぴんぴんしとる。あち、唇切れとるやないか。今日は味噌汁のめんな」
 呑気に笑うヨンイルに、安堵のあまり脱力する。間の抜けたやりとりに緊張を解いたか、深々と嘆息して腰から手をどけた五十嵐がふらつきながら歩き出す。
 その背中が、やけに遠くて。
 「五十嵐」
 気付けば五十嵐を呼びとめていた。五十嵐は振り向かなかった。悄然と肩を落としたその姿は急速に精気が萎えしぼんでひとまわりもふたまわりも小さく見えた。 
 声をかけたはいいものの、言葉が続かない。
 何か言わなければと気ばかり焦る。僕が五十嵐を呼びとめたのは、今を逃せば手遅れになるような錯覚に襲われたから。五十嵐がもう二度と戻って来ないような言い知れぬ危機感を抱いたから。
 五十嵐の背中を見つめ、むなしく立ち尽くし、目を伏せる。 
 「………その、僕もヨンイルの意見に同感だ。手塚治虫は素晴らしい。とくにブラックジャックは往年の最高傑作だと思う。ブラックジャックは人を寄せ付けない外見とは裏腹に医療の限界に苦悩する主人公で、とても人間らしい魅力にあふれている」
 「それがどうかしたのか」
 「あなたの娘が、彼を好きになった理由がよくわかる」
 五十嵐が首をうなだれる。
 「僕もその、漫画の登場人物にこんなことを言うのは面映いが、彼を尊敬してる……から」
 まったく僕は何を言ってるんだ?ここで告白をしてどうする。
 赤面した僕をよそに、五十嵐が再び歩き出す。ふらつく足取りで図書室の出口に向かいながら、最後の挨拶とばかりに肩越しに手を振る。
 「今度読み返してみるよ。リカが好きだったブラックジャック」
 五十嵐の言葉とは裏腹に、彼がブラックジャックを読み返すことは二度とない予感がした。
 バタンと鉄扉が閉じる。
 呆然と立ち竦んだ僕の背後で、ヨンイルが大きな声をあげた。
 「ふう。ホンマに殺されるかと思った」  
 まだわからないぞ、と僕は心の中で反駁した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050901101759 | 編集
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