ロールシャッハテストB

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二十九話

(2005/08/31)
 医務室に嗚咽が響く。
 「ひぐっひぐっ……ねえロンもひどいと思わない思うでしょ、ビバリーってばわけわかんない、あんなつまんないことで腹立ててさ。僕が一生懸命話しかけてもずっと無視で返事もしてくれないんだよ」
 俺の枕元で涙ながらに訴えるリョウをうんざり眺める。
 「つかお前なんでここにいんだよ。ビバリーと喧嘩したのはわかったけど違うとこ行けよ、俺とお前ダチじゃねえし親しくもなんでもねえだろ。いや、それ以前にお前こないだ俺にしたこと忘れたのか?背後から抱きしめて股間まさぐって腕にぶすっと痛いお注射してくれたよな」
 「ロン冷たい、大目に見てくれたっていいじゃんー。笑って許してよあれくらい」
 「あれくらい?」
 こめかみに血管が浮き立つ。
 「そんなことよりビバリーだよ!もうほんっと頭きた、ビバリーが泣いて謝るまで絶対帰ってやんないんだから。僕悪くないもんね、僕が謝る必要ないよね。ねえロンもそう思うっしょ」
 「野郎の飴玉恋しいなら他あたれ男娼。ぶん殴るぞ」
 ビバリーと喧嘩したんだかなんだか知らないが、枕元でめそめそ泣かれるのは鬱陶しい。行く場所もなく頼る人間もいないリョウが医務室にふらふら吸い寄せられたのは泣き落としにかかる人間を邪険にできない俺のお人よしな性格につけこんだからだが、どっこい俺はこないだリョウにされたことを根に持ってる。
 ついこないだ渡り廊下で起きた抗争でリョウが俺にしたこと……思い出すのもおぞましい。
 俺の背後に忍び寄ったリョウが人懐こい笑顔で腕を掴まえて袖をめくりあげて注射針の鋭い先端を突き刺す。血管に注入された覚せい剤がやがて全身に巡り、意識が朦朧として体がぐったり弛緩して、膝が砕けるようにくずおれた俺を背後から抱きしめたリョウのツラがまだ鮮明に脳裏に焼き付いてる。
 それだけじゃない、リョウは意識が朦朧と霞んだ俺の体を好き放題に弄んでくれた。ズボンの内側に手を突っ込んで俺の股間をまさぐって、鍵屋崎やレイジやサーシャが見てる前でさんざん辱められた。
 今思い出しても恥辱で頬が熱くなり、リョウへの憎悪で瞼の裏側が真っ赤に燃える。
 リョウが医務室に入って来た途端、より正確に言うならカーテンをシャッと開けた瞬間に全身の血が逆流して頭が沸騰して、漫画を放りだしベッドに跳ね起きた俺は、自分でも意味不明な奇声を発してリョウに殴りかかろうとしたが、リョウがいきなり腰にとびついてきたもんでそうもいかなくなった。
 一応、俺は怪我人だ。肋骨を骨折した上に全身十三箇所の打撲傷を負って絶対安静を義務付けられた不自由な体だ。そんな俺が腹にタックル食らってベッドに押し倒されたところを試しに想像してみてくれ、ぶっちゃけ死ぬかと思った。怪我人の腹に突撃するなんざお前は鬼かとリョウの胸ぐらを掴んで罵倒したかったが、肋骨が圧迫された激痛にのたうちまわるしかない俺には無理だった。
 で。リョウは今、俺の枕元にちゃっかり腰掛けてる。
 見舞い客用の折り畳み式椅子に腰を据えて、さっきからめそめそぐすぐす泣きっぱなしだ。リョウが支離滅裂に訴えたところをまとめると、ビバリーと喧嘩して、一方的に無視される気まずさ所在なさに耐えかねて房をとびだしてきたらしい。
 時刻は夕方。強制労働が終了して、囚人が続々と引き上げてきた頃だ。
 俺はいい加減うんざりしていた。リョウときたら俺がベッドに寝たきりなのをいいことに強制的に泣き言に付き合わせて憂さを晴らしてるとしか思えない。
 その証拠に涙と鼻水でべっとり顔を汚して、子供っぽいしぐさでごしごし頬をこすり、時々しゃっくりの発作めいた変な嗚咽をあげ、ビバリーがいかに人でなしか思いやりのないヤツか切々と訴えてるのだ。演技が大袈裟すぎて同情を引こうって魂胆が見え見えだ。哀れっぽく鼻を啜り上げながら俺の顔を覗きこむ動作がなんだかリスっぽくて庇護欲をくすぐるが騙されちゃいけない。斜め四十五度に計算し尽くされた角度で小首を傾げるのはリョウの作戦だ。
 つぶらな目を涙で潤ませ、めそめそ泣きべそをかきながらも、男に媚売るのを忘れないしたたかさはさすがだ。言っとくが、俺はこいつが嫌いだ。大嫌いだ。男に縋らなきゃ生きてけないところなんて俺がこの世でいちばん嫌い女、すなわちお袋そっくりだ。男に依存して甘い汁吸おうって魂胆が透けて見える媚びた笑顔もお袋そっくりだ。
 「俺の手足がちゃんと動くなら鼻と前歯へし折って、男相手に商売できないようにしてやりたい」
 本気だった。
 ベッドに上体を起こした俺は、体を満足に動かせない悔しさに歯噛みする。
 リョウに殴りかかろうと片腕振り上げただけで、みっともない悲鳴をあげずにはいられない激痛に襲われたのだ。苦痛に顔を歪めてベッドに突っ伏した俺をひややかに見下ろし、「馬鹿じゃんロンなにやってんの。死ぬよ」と言い捨てたリョウの軽蔑の表情が忘れられない。健康体に戻ったらお礼参りしてやる。
 だが、この体じゃ無理だ。悔しいが、腕づくでリョウを追い払うこともできない。リョウを殴ったら逆に手首が折れちまいそうだ。リョウを無視して大人しく寝てるのがいちばん賢い選択なんだろうが、喧嘩っ早くて気が短い俺には生憎できかねる相談だ。
 「お前うざいよ、他あたれよ。房に帰りたくないんなら客のベッドにもぐりこんでりゃいいだろ、売れっ子なんだからよ。男たらしこむの得意なんだろ?俺にひっつくのはやめろ、迷惑だ、うざったい。お前の面見てるとストレス溜まるんだよこっちは」
 「そんな気分じゃないよ……」
 「知るか」
 俺に泣きつかれても困る。
 だいたいリョウには反省の色がかけらもない、渡り廊下じゃさんざん人を弄んで見世物にしてくれた癖にそんなことまるっきり忘れたみたいに、いや、それどころか最初からなかったみたいにまったく悪びれない態度が神経を逆撫でする。 
 枕元の椅子に腰掛けたリョウが、ぐずぐず鼻水を啜りながらポケットをさぐる。
 「これあげる。お見舞い」
 意外な言葉に耳を疑う。
 「……なにその疑心暗鬼の眼差し。傷つくんだけど」
 リョウの手のひらには草苺……いちごがのっかっていた。
 いちご。たしかにいちごだ。ほのかに甘酸っぱい匂いも漂ってくるし。
 「どうしたんだよこれ」
 「イエローワークの温室でとれた。欲しいって言ったらくれるって言うから貰ってきた。ひとりで食べるつもりだったけど、その……」
 リョウが言い淀む。叱られた子供みたいに首をうなだれた姿に孤独なレイジが重なる。
 リョウが言わんとしたことに察しがついた。
 リョウの尻ポケット一杯に詰まってたいちごは、ビバリーと半分こしようとわざわざ持って帰ったものだった。いちごのお裾分けをきっかけに仲直りできたらいいなと考えたんだろうが物事はそう簡単にはいかなくて、結局リョウは逃げるように房をとびだして現在に至るわけだ。
 ひとりでいちごを食べるのは寂しいから俺にも食え、とそういうわけか。
 実際、ふたりで食べる予定で狩って来たいちごをひとりで摘むのはみじめだろう。ちょっとだけリョウに同情する。いちごを半分こして仲直りという発想は幼稚だが、半面けなげでいじましいといえなくもない。
 「……しかたねえな食うよ、食ってやるよ!それで満足するんだろうが。うざってえからこれ食ったらむこう行けよ」
 リョウを追い払いたい一心でヤケ気味に叫び、いちごをむんずと掴み取る。
 そのまま口に放りこもうとして、はたとやめる。
 「……腐ってないよな」
 「失礼だね、とれたて新鮮だよ。僕が毎日ホースで水やって育てたいちごなんだから」
 「毒入ってないよな」
 「……いいよもう食べなくて」
 リョウがふてくされる。
 「冗談だよ。食うよ食うっつの」
 だが、なかなか口に放りこむ決心がつかない。見た目はたしかにいちごだ。赤い表面に黒い粒粒の可憐な果実。だがリョウのことだ、またなにかよからぬこと企んでる可能性も捨てきれない。
 こいつ、また俺をはめようとしてるんじゃないか?
 顔に疑念がでたらしい。
 気分を害したリョウが憤然と椅子を蹴り、俺の手からいちごをもぎとりにかかる。
 「ああもうビバリーもロンも頭くるっ、人の親切疑って無駄にして!そんなに僕が信用できないならいいよ、いちご返してよ!ぼくひとりで欲張って食べておなか壊してやるっ」
 「なんだよお前が先に言い出したんだろ、こらさわんなこれはもう俺の手に渡ったんだから俺のいちごだよ!いちごなんか見るのも食うのもひさしぶりだししみじみ感慨に浸ってただけだよ、食いたくないってかってに決めつけんなよ!」
 「嘘つき、ほんとは食べたくないくせに!いやな顔してたくせに!」
 「いてててて指こじ開けにかかんなよ怪我人にゃ親切にしやがれこの男娼!?」
 「ああっ信じらんないっ、いちごに唾かけたばっちい!」
 「これで俺以外食えねえだろざまあみろ、いちごは俺のもんだ!」
 子供っぽい上に意地汚さ全開の喧嘩だ。
 得意げに開き直った俺に降参したか、がっくり肩を落とし、椅子にへたりこむリョウ。勝った。ささやかな勝利の余韻に酔い痴れながら、ゆっくり五指を開いて口にいちごを放りこもうとして愕然とする。
 いちごが手の中で潰れていた。
 『………………煩死了』
 リョウとの攻防で指に力をこめすぎ振りまわしたのが原因らしい。
 五指から滴る赤い汁がシーツに点々と染みる。くそ、こんなオチってありかよ。いちごにお目にかかるのなんて何年ぶりだかわかんねえのに。落胆した俺は、手のひらに舌をつけて甘酸っぱい汁を啜る。舌でねぶるように一本ずつ指をしゃぶり、丁寧に汁を舐め取り、いちごを頬張る。
 よく熟れていて、美味かった。
 「……意地汚いよロン。育ちの悪さがまるわかり」
 「だってもったいないだろ。
  形が悪くても味は変わんねえし、食いもん残すなってお袋に厳しく躾られたんだよ」
 むきになって反論すれば、こらえきれずにリョウが吹き出す。
 前にいちごを食べたのはいつだったっけ……もう思い出せないほど昔、俺がまだガキの頃。客が土産に持参したいちごがテーブルにおかれてて、お袋の目を盗んでつまみ食いしたことがあったっけ。
 手のひらに顔を埋め、夢中で汁を舐め取りながら、ふと呟く。
 「あいつにも食わせてやりたかったな」
 レイジはちゃんと飯食ってるだろうか。後ろ手に手錠かけられたまんまじゃさぞかし飯も食いにくいだろうに。俺ばっかいちごを味わって、ひとりじめして、後ろめたい。
 そんな俺を見て、リョウがあきれたふうに首を振る。
 「お熱いね。のろけてんのそれ?」
 「なんだよ、独居房にぶちこまれたダチの心配して悪いか」
 「ダチねえ」
 ベッドにだらしない姿勢で頬杖つき、小馬鹿にしたように鼻を鳴らすリョウ。
 「どいつもこいつもダチだとか相棒だとか仲間だとか僕に言わせりゃくだんないね。自分以外の他人に対する評価は利用価値があるかないかだけでしょ?使えないやつはぱぱっと切り捨てる、使えるやつはかわいがる。違うの?そうじゃないの?ねえロン、教えてよ」
 今日のリョウはやけにからんでくる。ビバリーと喧嘩した八つ当たりだろうか。挑発的な上目遣いで覗きこまれ、胸に反感が湧きあがる。自分の分のいちごをベッドにばらまき、すぐに食べるでもなく指でつついて転がし、ひょいと摘み上げては下方から覗きこむ。食い物で遊ぶなってお袋に教わらなかったのか、と一喝したいのをぐっとこらえる。
 リョウの目が、ひどく寂しげだったからだ。
 「わけわかんないよ、もう。なんでレイジがロンみたいに使えないやつ大事にするのか。ロンなんてなんにもできない、ただの足手まといじゃないか。レイジに比べりゃ喧嘩なんか全然弱いし、豹に守られてばっかの甘ったれの子猫。王様の懐でしっぽ逆立ててにゃーにゃー暴れるしかない乳臭い子猫じゃん」
 淡々とした指摘が、容赦なく胸に突き刺さる。
 リョウの言葉はどこまでも真実だ。今の俺はどこからどう見ても立派に足手まといで、レイジに比べれば全然喧嘩も弱くていつだってあいつに守られてばかりだ。俺だって強くなりたい、レイジの相棒として恥ずかしくないくらい強くなりたい。レイジが売春班撤廃の条件に100人抜き宣言したのも元はといえば俺が原因で、本来なら俺はこんなところで呑気に寝てる場合じゃないのだ。 
 「使えないねロン。ほんとーに使えない。レイジが100人抜き宣言したのだって元はいえば君のせいじゃん。ねえ教えてよ、どうやって王様たらしこんだの。僕がどんだけ口説いてもダメだったのに、君ときたらレイジと出会ってからたった一年半で骨抜きにしちゃって。野生の豹を手懐けるなんてすっごい調教師の才能でもなきゃ不可能だよ。
 ああ、そういえば」
 リョウがにっこりとほほえむ。
 男を翻弄して愉悦にひたる、底意地悪い娼婦の微笑。お袋がよく、この手の笑顔を浮かべていた。
 「決勝戦もうすぐだよね。大丈夫なの、勝てるの?右腕怪我してるんだよね。そんな状態で西と南のトップに戦い挑むなんて自殺行為じゃない、命投げてるよ。そんなに死にたいのかな、レイジってば。まあ可愛い可愛いロンちゃんのためなら喜んで死んでくれるだろうけどさ」
 「だまれ」
 「ホセとヨンイルだけじゃない、いちばんおっかないのはサーシャだ。サーシャは本気でレイジ潰しにかかるよ、殺しにかかるよ。ロンはそれでいいの?レイジは君のために命がけでリングに上るのに、君は応援も行かずベッドでじっと寝てるつもり?あんまり薄情じゃない、それ。相棒を名乗る資格あるの?」
 「だまれよ」
 「ねえロン、レイジが死んだら次はだれにすりよるの?レイジがいなくなったら次はだれにケツ貸すの?最有力候補は凱かな。東棟じゃサムライに次いでナンバー3の実力者で取り巻きもいっぱいいるし相手に不足はない。相棒とか友達とか仲間とかどうせ口先だけだよね、レイジが死んだら途端にレイジのこと忘れて次のパトロンさがすんだよね?君がよく口にする相棒って言葉も所詮、馬鹿な王様をつなぎとめとくための餌なんでしょ?」
 リョウがいちごを口に含む。
 「レイジ、ああ見えて寂しがり屋だもんね。ひとりぼっちは怖いだろうね。君のことを絶対手放したくないから、そりゃペア戦だって頑張るだろうさ。体ぼろぼろになっても笑顔を絶やさずに、全部君のために、君だけのために。ロン実は頭いいよね。仲間とか相棒とかレイジがそういう言葉に弱いって知ってて、軽い見た目に反してそういうのに人一倍こだわる甘いやつだって見ぬいて、お前は俺の大事な相棒だとかこれみよがしに言って聞かせてるんでしょ?」
 「違う、レイジは俺の相棒だ。嘘じゃない、マジでそう思ってる!」
 「ほらまた。僕にまで嘘ついてごまかしてる。ホントは自分さえよけりゃレイジのことなんかどうでもいいくせに。レイジだけじゃない、鍵屋崎もサムライもほんとはどうだっていいんでしょ?自分だけ助かるなら東京プリズンで無事に生き残れるなら、仲間を犠牲にしたってかまわないって利己的に計算してるくせに罪悪感から逃れたくて綺麗事ばっか」  
 いちごを口の中で転がしながら、椅子の背凭れに背中をあずけ、リョウが肩を竦める。
 俺のことはなんでもお見通しだと言わんばかりの達観した表情。
 「正直に吐いちゃいなよ。腹ん中じゃレイジのことうざったいって思ってるんでしょ?鍵屋崎もサムライもうざったいって思ってるんでしょ、自分には仲間なんかいらないって思ってるんでしょ。ロンも僕とおんなじだよ、友達とか仲間とか相棒とか言葉には反吐がでるタイプの人間」
 唾液に濡れ光るいちごを口から引っ張り出したリョウが、唇の端を邪悪につりあげる。  
 「仲間なんかくだらないね。くだらない仲間のために死ぬつもりでいるレイジもくだらない」
 
 頭の血管が切れた。
 発作的に、リョウの胸ぐらを掴む。

 「……前言撤回しろ、レイジはくだらなくねえ」
 舌にいちごをくるんだリョウが驚いたように目を見張る。滑稽な芝居。
 「どうしたのロン、そんなおっかない顔して」
 「黙れよ男娼」
 くだらない?くだらなくなんかない。
 「くだらないもんか、レイジは俺の相棒だ。俺に相棒を名乗る資格がなくてもそうなんだ。あいつはいつだって俺のこといちばんに考えてくれるどうしようもないイイやつで、ときたまそれが空回って身勝手に結論だしちまうこともあるけど、でもそれだって俺のためなんだよ」
 「なにそれ自慢、のろけ?」
 リョウの挑発を鼻で笑い飛ばし、言い返す。
 「ああそうだよ、自慢だよ。のろけてるんだよ。俺はいい相棒持って幸せだなってダチのいないお前に自慢してやってんだよ、どうだ、死ぬほどうらやましいだろ。いいかよく聞けよ男娼、レイジはくだらなくなんかねえ。あいつは最高だ。俺の人生は今だってかなり最低だけど、あいつがいるからどん底から救われたんだ。俺は東京プリズンに来てから何度も何度も何度もレイジに救ってもらって助けてもらって、そんでいつのまにかあいつのことがめちゃくちゃ大事になった。あいつのことがめちゃくちゃ好きになった」
 お袋よりもメイファよりもずっと、俺にとっちゃなくてはならないやつで。
 俺の人生にはなくてはならないやつで。
 大きく深呼吸し、揺るぎない眼差しでリョウを睨みつける。
 「あいつは俺を裏切らないし、俺はレイジを裏切らない」
 レイジが俺を裏切るときは、俺のことが嫌いになったとき。
 俺がレイジを裏切るときは、レイジのことが嫌いになったとき。 
 だからそんなことはありえない。絶対に。
 「リョウ、お前はどうなんだよ。そう思える相手いるのかよ。いないのか?可哀想にな。俺は今までの人生ろくなことなくて、しまいにゃ東京プリズンに送られてずっとヤケになってたけど、レイジと出会えた今はそれなりに人生楽しいよ。あいつがいてくれて幸せだよ」
 まっすぐリョウを見つめ、皮肉げに笑う。
 「その分だと、お前の人生はつまんないだろうな」
 リョウの顔が怒りで紅潮する。
 椅子を蹴倒して立ち上がったリョウが、体の脇でこぶしを握りしめ、肩で息をしながら俺を睨みつける。
 「ロンもレイジも鍵屋崎もサムライもみんな死んじゃえ、お前ら全員ペア戦で心中すればいいんだ!!」
 残りのいちごを床にぶちまけたリョウが、ベッドの脚をおもいきり蹴飛ばし走り去る。
 医務室のドアが乱暴に閉じられ、靴音が急速に遠ざかってゆく。 
 床一面に散らばったいちごを見下ろし、ため息まじりに呟く。
 「…………………ガキ」
 一応年上だよな、あいつ。


【少年プリズン】
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三十話

(2005/08/30)
 「そんなことがあったのか」
 サムライが慨嘆する。
 「そんなことがあった」
 僕は疲労のため息をつく。
 衝立に仕切られたベッドの傍ら、見舞い客用の折り畳み椅子に腰掛け今日の出来事をサムライに相談する。
 ヨンイルは結局、怪我の手当てを拒んで西棟に帰ってしまった。僕は五十嵐に殴られ怪我をしたヨンイルを医務室に担ぎこもうとしのだが、ヨンイルときたら「かすり傷やから心配すな」とやんわり拒んで人の好意を無駄にしてくれた。僕に心配かけまいと強気に振る舞っていたのか本当に気にしてないのか、快活な笑顔からはわからなかった。 
 僕はどうしたらいいんだ?
 ヨンイルを見る五十嵐の目。
 あの目を昔どこかで見た。
 見覚えがあるはずだ。ヨンイルを見る五十嵐の目は、あの日窓ガラスに映った僕の目とおなじ色を湛えていた。両親を刺殺した直後、自分がしたことの恐ろしさに愕然と立ち竦む僕が緩慢に振り向けば、雨滴の伝う窓ガラスに自分の顔が映っていた。鮮血にぬれたナイフを片手にさげ、放心した眼差しを窓ガラスに投げかける僕の双眸には、ヨンイルにのしかかった五十嵐とおなじさまざまな感情が渦巻いていた。
 激情に翻弄されヨンイルに暴力を振るう五十嵐の姿に、僕は戦慄した。本当は止めなければいけなかった。しかし僕は、ヨンイルが五十嵐を暴行する現場に居合わせながら止めにも入らず立ち尽くしていた。
 自分の無力に甘んじるのはいやだとあれほど言っていたくせに、肝心な時に体が動かなかった。
 五十嵐の怒りはそれほど衝動的で、五十嵐の憎しみはそれほど圧倒的で、情けないことに恐怖に足が竦んだ僕は五十嵐に近寄ることさえできなかった。
 「口先だけで共感するのは卑怯者だが、少なくとも僕には、五十嵐の気持ちが想像できる」
 伏し目がちに続ける。
 「五十嵐にとってヨンイルは憎い娘の仇だ。最愛の娘をテロで不条理に奪われた五十嵐の絶望ははかりしれない。気持ちが整理できなくて当然だ。一生かかったって整理できるはずがないんだ。僕が五十嵐の立場でもたぶん同じ行動をとる。想像したくもないがもし恵がそんな死に方をしたら、恵が死亡する原因を作った人間と日常的に顔を合わせるような環境にいたら、僕はどんな手を使ってもその人間を殺す」
 淡々とした告白。
 ベッドに上体を起こしたサムライは思慮深げな面持ちで僕の言葉に耳を傾けていた。非難も賛同もせず、ただ耳を傾けてくれる姿勢が有り難かった。サムライになら僕は本音で話せる、自分の奥底の汚い部分や卑劣な部分を率直に曝け出すことができる。サムライは僕を裁かない、罰しない。理解しない、共感しない。あくまで冷静に客観的に、僕の話が終わるまでじっと耳を傾けてくれるのだ。
 冷徹な無表情が、淡白すぎる態度が、どれだけ僕を救っているか知れない。
 サムライがただ聴いてくれるから、僕は自分でも気付かずにいた自分の本音と逃げずに向き合うことができるのだ。これまで目を背け続けてきた現実を直視することができるのだ。
 「……だが、僕は何故だかヨンイルを憎めない。手塚治虫が好きな人間に悪い人間はいないと安直に結論づけたりはしないが、手塚治虫の話をするときのヨンイルは本当に無邪気で心の底から楽しそうで。いつからか僕は、彼と手塚治虫の著作について意見を交わすのを楽しみにしてる自分に気付いた」
 サムライが真摯な眼差しでこちらを見つめている。
 サムライはこんな時でも惚れ惚れするほど姿勢がよい。ベッドに背中を起こして凛と背筋をのばして、端然と座した姿には清冽な気品すら漂っているかのようだ。触れれば切れる刃物のような緊張感のある男、というのがサムライの第一印象だった。それは今も変わらない。
 だが今のサムライは、冷徹な無表情を装ってはいても、不器用な気遣いの色を隠せないでいる。
 サムライは不器用な男だ。
 本当は、だれより優しい男だ。
 「だから僕は、どうしたらいいかわからないんだ」
 こんな情けないこと言いたくはなかった。
 どうしたらいいかわからないなんて無能の常套句じゃないか。自分の頭を使って解決策を練ることができない無能の言い訳じゃないかと僕はずっと心の中で嘲笑してきたのに、今は僕自身がその台詞を口にしている。堕ちたな天才、ぶざまだな鍵屋崎直。自分で自分に吐き気がする。
 膝の上でこぶしを握りしめ、唇を噛む。
 「サムライ知ってるだろう?僕はIQ180の天才だ、遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎優と由佳利の長男で将来有望な後継者だった人間だ。それなのに僕は東京プリズンに来てから自分の無力にうちのめされ屈辱を味わってばかりいる。今だってそうだ、IQ180の優秀な頭脳があれば僕には不可能なことなど何もないと思いこんでいたのに現実はそうじゃない。
 ペア戦では僕は常に足手まといで君たちの負担になってばかりいる。それだけじゃない、自信過剰な物言いで安田の銃さがしを請け負ったくせに今だに問題を解決できず結果をだせないでいる。僕は安田の信頼を裏切り期待を裏切った最低の人間だ、自分が言ったこと約束したことを何ひとつ実行できないのがその証明だ。
 今日だってそうだ、僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っていた。その理由も十分わかっていた。にも拘わらず、ヨンイルを殴る前に止めることもできなかった。知っているだけじゃ駄目なんだ、力が伴わなければ東京プリズンでは駄目なんだ。僕が君みたいにレイジみたいに強ければ、体を張って五十嵐を止めることもできたはずなんだ。五十嵐とヨンイルを力づくで引き離すこともできたはずなんだ、それなのに!」
 屈辱を噛み締め、深々と俯く。
 僕は五十嵐にもヨンイルにも傷付いてほしくない。五十嵐は僕に優しく接してくれる面倒見のよい看守で、恵への手紙をちゃんと届けてくれた。僕は彼にとても一言では言い表せないほど感謝している。数週間前のペア戦ではタジマに脅されて不承不承見張り役を引き受けていたが、僕は五十嵐の人間的な弱さを軽蔑しこそすれ完全には嫌いになれなかった。
 今でも覚えている、ボイラー室のドア越しに交わした会話を。照れ臭げに娘の自慢をする五十嵐を。
 僕はあの時、ほんの少しだけ五十嵐の娘を羨ましく思った。五十嵐みたいな父親がいる子供は幸せだと、鍵屋崎優に五十嵐の五十分の一でも父親としての愛情があれば恵は寂しい思いをせずにすんだのにと、僕たち兄妹の境遇と比較して淡い羨望を抱いた。恵がまともに人の目を見れず自己主張もできない卑屈な性格になったのは実の両親の無関心が原因で、もし鍵屋崎優と由佳利が五十嵐のように子供に愛情を注いでいたのならあんな結果にはならなかった。
 今なら言える。僕は五十嵐の中に理想の父親を見ていた。
 こうあってほしかった、鍵屋崎優の幻影を。
 僕が五十嵐を憎めないのは、五十嵐の中に鍵屋崎優の幻影を追い求めているからだ。僕は無意識に鍵屋崎優と五十嵐を混同していたのだ。僕は物心ついた時から両親に甘えたことがなく、両親と親しくふれあった記憶もなく、鍵屋崎優に対しては父親というより厳格な教師にして研究者という認識が強かった。
 だから父親というものに対して、未熟で幼稚な憧れを抱いていたのかもしれない。五十嵐がもし恵の父親だったら、今は亡き娘にそうしたように恵を愛してくれたらと想像したのはきっとその延長だ。
 「サムライ、笑うなよ」
 「笑わない」
 疑い深く念を押した僕に、サムライがきっぱりと断言する。
 力強く請け負ったサムライの表情を注意深くさぐりながら、吶々と呟く。
 「僕はその、自分でも意外なのだが……五十嵐のことがそれほど嫌いではないみたいなんだ」  
 サムライは笑わなかった。
 僕のまわりくどい言いまわしに当惑しただけだった。
 三秒ほど僕の言葉を咀嚼してからようやく腑に落ちたようで、切れ長の双眸に理解の光がともる。先を促すように頷いたサムライから視線をそらし、眼鏡のブリッジに軽く触れる。
 「五十嵐だけじゃない。ヨンイルのこともそれほど嫌いではないみたいなんだ」
 「………」
 「何故黙りこむ」
 おかしなサムライだ、五十嵐のときはとくに反応しなかったのに。
 憮然と押し黙ったサムライに当惑する。不愉快そうに瞼を閉じて腕を組んだ姿はどこか近寄りがたい。
 「君が不機嫌になる理由がわからない、理解不能だ。嫌いではないと言っても好きに直結するわけじゃない、もとより同性に恋愛感情を抱くわけがない。誤解しないでくれないか。ただ僕は、彼らのことがそれほど嫌いではないと最近自覚しはじめてそれで」
 「それで?」
 おかしい、なんだこの空気は。何故僕がうしろめたくならねばならない。言い募る口調も自然言い訳がましくなる。腕を組んだサムライに冷たく一瞥された僕は、小さく呟く。
 「………五十嵐とヨンイルが互いに傷つけ合う姿など見たくない」
 今回は決定的な破綻は避けられたが、五十嵐が爆発するのは時間の問題だ。
 もうあまり時間はない。それがどんな形で訪れるかわからないが、おそらく最悪の形だろう。五十嵐はヨンイルのことを殺したいほど憎んでいる。もし次に五十嵐とヨンイルが直接顔を合わせることがあれば……
 五十嵐の指で顔に血をなすられたヨンイルを思い出し、ぞっとした。
 「僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っている、その理由も知っている。だがヨンイルは何も知らない、何故自分が五十嵐に憎まれているのかその肝心なところをちっとも理解していない想像力の欠如した人間だ。サムライ、僕はどうしたらいい?ヨンイルに真実を話すべきか。五十嵐に憎まれている理由を教えて注意を促すべきか、それが来るべきる破綻を避ける最善の方法なのか!?」
 衝動的に椅子を蹴倒し、相手が怪我人だということも忘れ、語気荒くサムライに詰め寄る。 
 ヨンイルは何も知らない。自分が五十嵐に憎まれている本当の理由を、自分が五十嵐の娘の仇だという残酷な事実を。だからあれほど無邪気に無防備に振るまえる、深刻に思い詰めた五十嵐を逆上させるような真似ができる。破綻を回避するために、ヨンイルが事実に直面する事態は避けて通れない。
 だが、それでいいのか?
 本当にそれでいいのか?
 真実を知ったヨンイルがショックを受けたら、それが原因でヨンイルの笑顔が失われてしまったら?
 ヨンイルの笑い声が図書室から消えたら?
 僕の決断が誤まっていたらもう取り返しがつかないのだ。知らずにすむことなら知らせずにおきたいという消極的な考えを僕は完全には否定できない。ヨンイルはたしかに人殺しだ。ヨンイルの作った爆弾で二千人以上の人間が死んだ。だがそれはヨンイルひとりの責任か、ヨンイルひとりの罪か?偽善ぶってヨンイルを糾弾し贖罪の人生を生きろと迫る資格が人殺しで親殺しの僕にあるのか? 
 僕には重すぎる決断だ。
 だから迷う、迷ってしまう。
 どうしても迷ってしまう。僕の一言がきっかけでヨンイルが変わってしまうことが、何より怖い。
 真実を知ることに耐えられない人間は、少なからずいる。
 僕もその一人だから、わかる。
 痛いほどわかってしまう。
 「……馬鹿だな僕は。サムライ命令だ、今言ったことは全部忘れてくれ。君に相談してもどうしようもないのに頼らずにいられないなんて惰弱さの証明だな、自分の情けなさに反吐がでる。IQ180の天才のくせに、僕は現在抱えた問題をひとつも処理できず悪化するまま看過している。全身に転移した末期の癌細胞を放置しているようなものだ。ブラックジャックに軽蔑されるな」
 ブラックジャックは関係ない。どうやら僕も精神的にだいぶ参ってるようだ。
 自嘲の笑みを口元に浮かべた僕をサムライは物言いたげに眺めていたが、ふとその眉間に皺が寄る。
 「直」
 「?」
 唐突に名を呼ばれ、顔を上げる。

 「脱げ」

 「………は?」
 有無を言わせぬ命令口調だった。
 サムライは真剣だった。冗談を言ってるような感じではない。
 「……解熱剤を飲むか?通常は食後に二錠服用だが遠慮することはない、十五錠でも二十錠でも飲んでくれ、ただし命の保証はできない」
 「ごまかすな。肩のあたりに怪我をしているだろう」
 何故わかったんだ?
 動揺が顔にでたらしい。僕が肩甲骨に怪我をしたことを見ぬいたサムライが、眉間に剣呑な皺を刻んで首を振る。
 「ここに来た時から歩き方が変で気になっていた。右の肩甲骨を庇うようなぎこちない歩き方を妙に思わないほうがどうかしている」
 僕としたことが失態だった。図書室で五十嵐に応急処置を受けたが、彫刻刀で削られた肩が疼いて、必然ぎこちない歩き方になってしまったのだ。鈍感そうでいて洞察力の鋭いサムライは僕の変化をたちどころに見抜いてしまった。 
 言い逃れ許さじと怖い顔をしたサムライに、そっけなく言い訳する。
 「たいした怪我じゃない。君に見せるほどのことはない」
 「見せるほどのことがあるか否かは俺が決める。お前が判断することではない。お前は強情だからどれほど痛くてもひとりで我慢して平気なふりをしているとも考えられる」
 「邪推だ、僕が大丈夫だと言ってるんだから少しは信用しろ。心配しなくてもちゃんと消毒してガーゼを貼ってあるから黴菌が入ることもない。それにサムライ、わざわざ君に見せたところでその行為に何の意味があるというんだ!?僕は露出狂じゃないぞ、人前で服を脱ぐなど冗談じゃない。第一風邪をひいたらどうする?」
 「ならば脱がせるまでだ」
 ……サムライは熱があるのではないだろうか。
 そんなに僕の背中が見たいのか怪我の具合が気になるのか、一度言い出したらきかないサムライが僕の方へと手を伸ばしてくる。
 なんだこの展開は。サムライときたら強引にもほどがある。
 混乱した僕ははげしくかぶりを振りサムライの手から逃れながらも、それが時間稼ぎにしかならないことを悟り、ヤケ気味に叫ぶ。
 「強情だな君は!わかった脱げばいいんだろう、それで納得するんだな!?僕が自分でやるから怪我人はベッドで安静にしていろ、同性の服を脱がそうとしてベッドから転落なんて醜態を晒したくなければな!」
 人の手で脱がされるくらいなら自分で脱いだほうがマシだ。
 何故サムライがそれほど僕の背中にこだわるのか理解できない。いや、僕の背中に執着しているわけではなく傷の程度を自分の目で確かめたいのだと頭ではわかっているが不愉快なことに変わりはない。 
 サムライに背中を向け、憤然と上着の裾に手をかけ、一瞬躊躇する。
 背中にサムライの視線を感じる。
 サムライが小揺るぎもせず僕の背中を凝視している。上着越しでも視線の熱を感じるようだ。
 はげしくかぶりを振り、サムライの視線を断ち切り、上着の裾を掴む。この行為に特別な意味はない、相手は同性の友人だ。サムライが僕に欲情するわけがない、これでも一応サムライに信頼をおいているのだ。
 時間をかけて、ゆるやかに上着をめくりあげる。
 まずは細い腰、そして生白い腹部、続く胸板と鎖骨が覗く。もとから小食なせいか筋肉がつきにくい体質なのか、背は伸びても体格は一向に逞しくならず、四肢は貧弱なままだ。劣等感の塊でもある華奢な手足が目に入らぬよう肘を動かし、上着を頭から抜く。
 ひどく緩慢な動作で上着を脱げば、生傷と青痣の絶えない裸の上半身があらわになる。
 売春班で受けた傷は殆どが癒えたが、先日のペア戦でできた切り傷や残虐兄弟との格闘で負ったかすり傷が、裸身のあちこちに新旧大小の痣と混ざって穿たれている。
 上着から頭を抜き、袖に腕を入れたまま、サムライに背中を向け立ち尽くす。
 醜い烙印めいた痣と生傷だらけの裸身を、いかに同性の友人にとはいえ無防備に曝け出すのは落ち着かない。貧弱な手足は劣等感の塊だ。イエローワークの強制労働では少々日焼けしたが、売春班に移ってからは以前にも増して肌が漂白された。 

 サムライは何も言わず、ただじっと僕の背中を見つめていた。

 熱心な視線が右の肩甲骨に集中しているのが、肌が粟立つ感覚でわかる。
 傷口に貼られたガーゼの上に、サムライの視線を感じる。
 「触れていいか?」
 サムライが低く問い、体が強張る。何故さわる必要がある、と抗議しようかとも思ったが、サムライの声音があまりに思い詰めていたので言葉を呑むしかなかった。
 「痛くするなよ」
 サムライがさわりたいならさわればいい。
 僕は半分ヤケになっていた。一刻も早くこんな馬鹿らしい意味のないことは終えたかった。 
 背後で衣擦れの音、サムライが動く気配。膝這いににじり寄ったサムライが、そっと、右の肩甲骨に手をおく。
 ガーゼの上に優しく包むようにおかれた手からぬくもりが広がり、徐徐に緊張がほどけてゆく。
 サムライの手が触れた個所から癒されてゆくようだった。
 無骨に節くれだった指が、慎重な動作で肩甲骨を撫でる。ほのかなぬくもりが何よりも心地よく、安堵の吐息がもれる。
 「なにがあったんだ?」
 サムライに嘘をついてもすぐばれてしまう。仕方ないと観念した僕は、そっけなく呟く。
 「図書室で凱の仲間に絡まれた。残虐兄弟とかいう悪趣味な通り名の二人組だ。頼んでもないのに僕の背中に刺青を彫ってやると言い出して彫刻刀で」
 サムライの指がぴくりと震える。
 「心配には及ばない、たいした怪我じゃない。もうほとんど痛くない、このぶんなら二・三日中には完治するだろう。悪趣味な刺青を彫られずに済んで本当に安堵した。彼等のような低脳に刺青を彫らせたら字を間違われるに決まっている。『虐』の七の下がヨになる確率が高いとみた」
 「直、ひとりで大丈夫か?俺とロンは入院中、レイジは独居房。現在東棟にはお前しか残っていない。飯時はどうしている?ひとりで食べているのか」
 「それがどうかしたか?生憎僕は集団で馴れ合わなければ食事も喉を通らないほど繊細な神経の持ち主じゃない、これでも多少は東京プリズンで鍛えられたんだ。まあ肘をぶつけられたり足を踏まれたり味噌汁をかけられたりする程度のいやがらせは受けているが」
 「……程度か?」
 「もう慣れたからな」
 「そうか」
 僕の肩に手をおいたままサムライが黙りこむ。
 そして。
 「守ってやれなくて、すまん」
 深い悔恨に満ちた声音で、謝罪した。
 肩越しに振り向けば、慙愧に耐えずに俯いたサムライがいた。
 悄然と肩を落とし、一文字に唇を噛み締めるサムライに絶句する。その双眸は暗く翳り、眉間には苦悩の縦皺が刻まれ、普段から厳しい顔がさらに険しい形相へと変じていた。
 おのれの無力を全身全霊で恥じているような、潔い姿だった。
 「馬鹿を言うな、怪我人に守ってもらうほど僕は落ちぶれてないぞ。君は余計なことを考えず怪我の治療に専念しろ」
 「しかし」
 「君が早く退院してくれないと毒舌を吐く相手がいなくてストレスがたまる。精神衛生上悪い」
 何か言いかけたサムライを遮り、素早く服を着る。 
 サムライが変なことを言い出すから急に気恥ずかしくなった。羞恥心をかきたてられ、恥辱に頬を熱くし、慌てて腕に袖を通し裾をさげおろす。
 そんな僕をよそに首をうなだれてベッドに正座したサムライが、顔に苦渋を滲ませ吐き捨てる。
 「俺がいないあいだにお前の体に傷がつくのは耐えられん。この上は切腹も辞さん」
 「木刀で裂けるものなら裂いてみろ。物理的に不可能だ」
 本気のサムライにそっけなく切り返せば怖い目で睨まれた。
 サムライに顎をしゃくられ、ため息まじりにベッドに腰掛ける。まだ何か言いたいことがあるのか?もうすぐ消灯次間がきて自由時間が終了するというのに。うんざりした僕に体ごと向き直ったサムライが、枕元の木刀をひったくり、なかば強引に僕の胸へと押しつけてくる。
 「持っていろ」
 「は?唐突に何を言い出すんだ、これは君の木刀だろう。武士の命も同然の刀だろう」
 「いいから持っていろ。身を守る役には立つ」
 サムライは一度言い出したら聞かない頑固者だ。
 サムライに説得されて、しぶしぶ木刀を受け取る。慣れない手つきで木刀を持つ僕の正面、膝の上でこぶしを固めたサムライが深く俯く。
 僕を守れないおのれの不甲斐なさを呪うように唇を噛み、屈辱にこぶしを震わせるサムライの姿はどこまでも高潔に信念を貫く武士そのもので。
 縋るように僕を見上げる眼差しには、切迫した一念がこめられていて。  
 「俺がいないだ、せめて俺の代わりとしてそばにおかせてくれ」
 サムライは血を吐くように言った。
 「お前と離れているのが、辛いんだ。俺の目の届かぬ場所でお前の体に他の男が触れていると思うと夜も眠れん。本音を言えば俺自身が今すぐ退院したいのだがそれが叶わぬ望みなら致し方ない。直、お前に武士の命を預ける。俺の半身を委ねる。だからどうか」
 そこで言葉を切り、うっすらと頬を染める。
 「……どうかこれ以上、俺を惑わさないでくれ。お前の無防備さは、危険だ」
 そしてサムライは、頭を下げた。
 挨拶の見本のような非の打ち所のない動作。いかにサムライが幼少期から厳しく躾られていたかわかろうというものだ。サムライから木刀を預かった僕は一瞬躊躇した後、苦笑する。
 「心配性だな。わかった、いいだろう。それで君が満足するというなら一時的に木刀を預かってやる。僕もなるべく危険な目に遭わないよう身辺には注意するから、君は安心して将棋でもしていろ」
 木刀を預かったところで剣道の心得がない僕がとっさに反撃できる自信はないが、サムライの気持ちを無駄にしたくはない本心を隠して頷く。
 さて、もうすぐ消灯次間だ。そろそろ医務室を出なければ。
 「待て」
 木刀を片手にさげてベッドから腰を上げた僕を、サムライが呼びとめる。
 まだ何かあるのかと露骨に不愉快な顔で振り向けば、ベッドにきちんと膝をそろえて座したサムライが、
この上なく重大なことでも伝えようとするかのように真剣な面持ちで口を開く。
 「あまりひとりで抱え込むな、直。お前は十分よくやっている」   
 膝の上でこぶしを握り固め、僕の方へと身を乗り出し、サムライは無骨に微笑んだ。
 「自分では気付いてないかもしれないが、お前は優しすぎるくらいに優しい俺の自慢の友だ」
 「……寝る前に解熱剤の服用をすすめておく。脳炎になりたくなければ、十錠二十錠といわず一瓶飲み干しておけ」
 最後に皮肉を言い、乱暴にカーテンを閉じる。
 まったく。改まって何を言い出すかと思えば、そんなくだらないことで人を呼びとめるんじゃない。サムライがおもむろに変なことを言い出すものだから、僕にまで風邪が伝染ってしまったじゃないか。
 顔が火照っているのは熱のせいだ、きっと。
 房に戻ろうと踵を返した僕は、足元の床に奇妙な物体を発見する。
 中腰に屈んで拾い上げ、しげしげと手の中の物体を観察する。
 「何故こんなところにいちごが……」
 反射的に隣のベッドを見る。
 「ロン、いるのか?」
 いちごが落ちていた場所はロンのベッド寄りの位置だ。奇妙に思いながらカーテンを引き開けてベッドを除けば、ロンが両手でひしと耳を塞いでベッドに突っ伏していた。
 「どうしたんだ君まで。顔が赤いが、熱でもあるのか?サムライの風邪が伝染ったんじゃないか」
 枕から顔を起こしたロンがきっと僕を睨みつけ、とんでもない暴言を吐く。
 「この鈍感野郎、乳繰り合うなら人の耳がないところでやりやがれ!」
 ……わけがわからない。
 これだから低脳は。


【少年プリズン】
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三十一話

(2005/08/29)
 みんな死んじゃえばいいんだ。

 医務室をとびだしてからどこをどう歩いたのかわからない。
 ただでさえ東京プリズンの内部は迷宮のように入り組んでいて、平坦な天井と壁と床が延々と続く変わり映えしない景色が方向間感覚を狂わせる。コンクリむきだしの殺風景な空間には灰色以外の色彩の印象が持てない。
 寂れた廃墟のごとく荒涼とした印象の通路をあてどもなくさまよい歩いてるうちに僕は帰り道を見失い本当の迷子になってしまった。舌打ち。これも全部ロンのせいだ。やつあたりで逆恨みだと自分でもわかってるけど腹立ちはおさまらない。ロンのやつ何様だよ、偉そうに。自分だってついこないだまでレイジと喧嘩してたくせに今度は僕にお説教か?
 豹の懐に爪を立てるしかできない子猫のくせに調子のりすぎ。
 そうだよ。ロンなんかレイジがいなけりゃ何もできない、ただの足手まといのガキじゃないか。
 鍵屋崎だってそうだ。サムライがいなきゃ何もできない自称天才の足手まといだ。
 相棒なんて笑っちゃうよ、ロンと鍵屋崎が何をしたっていうの?戦力面では足手まといもいいところ、ロンと鍵屋崎の存在は100人抜き達成を危うくする重荷だとレイジもサムライも腹の底で承知してるくせに、なんだってあの二人ばかり守られて庇われて大事にされる?
 むしゃくしゃする。気分がひどくささくれだっている。なにかにおもいきり八当たりしたい、ストレス発散したい。
 そんな衝動に駆られ、手近の壁を蹴り付ける。
 一発だけじゃ足りない。二発、三発、四発と続けて蹴りを見舞うが足が痺れただけで憂さ晴らしにもならない。
 頭の中ではさっきロンに言われたことがぐるぐる回っている。
 『リョウ、お前はどうなんだよ。そう思える相手いるのかよ。いないのか?可哀想にな。俺は今までの人生ろくなことなくて、しまいにゃ東京プリズンに送られてずっとヤケになってたけど、レイジと出会えた今はそれなりに人生楽しいよ。あいつがいてくれて幸せだよ』
 勝ち誇った声、哀れみの眼差し。
 『その分だと、お前の人生はつまんないだろうな』
 「うるさい」
 うるさい、お前になにがわかるんだよ。知ったふうな口聞くなよ、王様の愛玩猫が。
 気付けば声に出していた。ロンを訪ねたのは失敗だった。ビバリーと喧嘩した僕は、無視される辛さに房をとびだしてから他に行くあてもなくついふらふらと医務室に吸い寄せられた。極度のお人よしのロンなら無碍に追い返されることもないだろうと踏んで頼ったのは事実だが、ロンが怪我してベッドから動けない今なら愚痴をぶちまけるにはちょうどいいと思ったのだ。適当に客をあたって一晩泊めてもらおうかとも思ったけど、今の僕はとてもじゃないが男に跨ったり跨られたりしゃぶったりしゃぶられたりする気分になれなかった。その点ロンなら安心だ。僕から誘っても絶対なびかない身持ち固いヤツだしね。
 僕の読みどおり、ロンは不満たらたらの顔してたけど、邪険に僕を追い払ったりはしなかった。ベッドに上体を起こして、時々ツッコミを入れながら僕の愚痴に付き合ってくれた。
 ロンはいいヤツだ。むかつくぐらい、いいヤツだ。
 だから僕はロンに意地悪したくなった。どんなに酷い目や痛い目にあわされてもけして挫けず心が折れず、レイジの相棒を自負してレイジの身を真摯に案じるロンを見てたらいてもたってもたまらなくなって、ロンをめちゃくちゃに傷付けてやりたくなった。
 ロンはなんで、恥ずかしげもなく「相棒」だとか「仲間」だとかクサイ台詞が吐けるんだ?自信満々にレイジの相棒を名乗れるんだ?レイジの相棒に見合う実力もないくせに、レイジの相棒に見合う活躍もしてないくせに。そりゃ凱を負かしたのはすごいけど、それがなんだっての?レイジだったら十五分以内に凱を倒せたはず、涼しげな笑顔を絶やさずかすり傷ひとつ負わず楽々と勝利できたはずなのだ。ロンがでしゃばる必要なんかこれっぽっちもなかった、全部王様に任せときゃよかったのにでなくていい試合にでてしなくていい怪我してばかみたいだ。
 要らない苦労ばっか背負い込んで、ばかみたいだ。お人よしも度が過ぎる。
 王様に溺愛されてるくせに、ぬくぬく抱っこされてるくせに。豹のしっぽにじゃれついてる子猫がいきがるんじゃないよ、笑っちゃう。なにが相棒だよ、嘘つくなよ。レイジを利用してるだけのくせに。
 独りぼっちになるのが怖いから、独りぼっちで生きてく自信がないから、強者に寄りかかっておこぼれ貰おうとしてるんだろ?
 僕はちがう、ひとりでも生きてける。ロンみたいに鍵屋崎みたいにだれかによりかからなくても生きてける、他人に依存しなくてもひとりで立派に生きてける。生き抜いてみせる。現に今までだってそうだった、僕はずっとひとりぼっちでゴミ溜めみたいな世界を生き抜いてきた。他人を信じたら裏切られる、付け込まれる、利用される。それが僕が生きてきた世界の常識、他人に弱みを見せたら即座に引きずりおろされるのが鉄則の世界で生き抜くためには僕が出しぬく側にまわるしかない。僕はずっと、今までずっと、東京プリズンに来る前も来てからもずっと命がけで他人を出しぬいてきた。
 お友達ごっこしてる暇なんかないんだよ、くだらない。
 ロンも鍵屋崎もすっかり腑抜けになっちゃって面白くない。最初の頃はあんなに突っ張ってたのに、今じゃロンはレイジがいなきゃ生きてけない、鍵屋崎はサムライがいなきゃ生きてけない依存体質に成り下がった。ロンに至っては僕にむかって「レイジがめちゃくちゃ好きだ」とか言い出す始末。
 「おもしろくない。みんな死んじゃえばいいんだ」
 苛立ちをこめて吐き捨てる。
 ロンも鍵屋崎もレイジもサムライもビバリーも死んじゃえばいいんだ。仲間だとか友達だとか気色悪いこと言い出すやつは、僕の生き方を偉そうに非難するやつはみんな。そしたらさぞすっきりするだろうな、と妄想を膨らませて溜飲をさげる。
 そして、気付いた。
 僕を取り巻く空気が微妙に変容してることに。
 コンクリむきだしの殺風景な通路は東京プリズンのどこでも目にする見慣れた光景だけど、言い知れない違和感が付き纏う。灰色の天井と壁と床に囲まれた閉塞的な空間にかすかに漂う異臭、耳を澄ませば廊下の奥から聞こえてくる不気味な唸り声。  
 しまった。
 まず最初に頭に浮かんだのはそれだった。今になって僕はようやく自分の失態に気付いた。今すぐ回れ右しなければ、後戻りしなければ、一刻も早くこの場から遠く離れなければと脳裏で警鐘が鳴り響くが情けないことに足が恐怖で竦んで一歩も動けない。
 僕はいやというほど知ってる。この先になにがあるか、どんな地獄が待ちうけているか。生唾を嚥下し、廊下の奥から漂い出す異様な雰囲気に気圧されるよう一歩二歩とあとじさる。ビバリーが待つ房から遠ざかりたい一心で考え事をしながらあてどもなくさまよっているうちに、普段は足を踏み入れることのない東京プリズンの最奥にもぐりこんでしまった。
 周囲に人けがないのはとっくに消灯次間が過ぎてるせいだけじゃない。通路が閑散としてる最大の理由を僕は知っている。この先はだれもが近付きたがらない禁断の場所、だれもが無言の内に避けて通る地獄への一本道。
 例に漏れず、僕も慌てて回れ右しようとして、ぴたりと立ち止まる。
 待てよ、今帰ってどうなる?ビバリーは房にいる。この時間帯だとまだベッドの上でパソコンをやってるはず。今房に帰ればビバリーと顔を合わす事態は避けられない、いやだ絶対に、ビバリーに無視されるのはこりごりだ。あんな重苦しい雰囲気はごめんだ。
 なら、足を進めるしかない。
 人がいないなら好都合じゃないか。そうだ、この場所にはだれも立ち寄らない。消灯次間を過ぎて出歩いてる物好きな囚人も、蛍光灯が不規則に点滅し壁には陰鬱な染み汚れが浮き出し、さながらモルグのような腐敗臭が漂うこの場所にはけして立ち寄らない。暗黙の内に皆が避けて通るあそこなら隠れるには持って来い、ビバリーが寝るまで時間を潰すには最適だ。 
 体の脇で手を握りしめ、意を決して足を進める。
 一歩ずつ足を運ぶたび、うるさいくらいに心臓の鼓動が高鳴った。コンクリ壁に挟まれた通路に靴音が反響する。距離はほんの十メートルばかりだというのにひどく長く遠く感じられた。
 遂に終点に辿り着いた。
 廊下の終点。Т字路の分岐点、その左側。
 延々と伸びる廊下の両壁に並んでいるのは、頑丈な鉄扉。コンクリ壁に等間隔に穿たれた鉄扉には通常の房とは違い窓がなく、完全な密閉状態になっている。が、この通路を覗きこんだ瞬間むっと押し寄せてきた鼻の曲がりそうな悪臭の正体は間違いない。
 さっきまで僕がいた通路とは、雰囲気が一変していた。
 なにかが腐敗してるような強烈な悪臭がたちこめる空間、鉄錆びた扉の内側からは意味不明の唸り声や獣じみた咆哮や嗚咽などが混沌と聞こえてくる。英語、日本語、中国語……さまざまな国の言語が入り乱れたそれはもはや言葉の体を成さない耳障りな雑音にすぎない。だれか中の人間が扉に頭でも打ちつけているのか、ガンガンという轟音がしつこく連続している。
 「だせっ、だしやがれクソ野郎!俺にこんなことしてただじゃ済まさねえぞ安田ああ、そのエリートぶったツラにクソなすりつけて背広ひっぺがしてズボンひきずりおろしてやるからケツ洗って待ってやがれ、副所長気取りの若造が!」
 息を吸いこむだけで狂気が伝染しそうな、重苦しく陰鬱な雰囲気がたちこめるこの場所こそ、東京プリズンで最も恐れられる場所……独居房が設けられた区画だ。
 東京プリズンの独居房は、東西南北各棟の最も奥まった場所に人目を憚るように設けられている。それぞれの棟で問題を起こした囚人を一時的に隔離して反省を強いるための独居房だけど、普段、どんなに好奇心旺盛なヤツでもこの場所には滅多に近寄らない。
 怖いもの見たさより我が身可愛さを優先するのが人間の本能だ。
 口さがない連中に「動物園」と呼び習わされるここはその名の通り、昼夜問わず野太い咆哮やら発狂した笑い声やら絶叫やらが響き渡る禁断の領域なのだ。
 正気の沙汰の人間がくるところじゃない。
 東京プリズンの囚人に最も忌避される「動物園」……暗闇と孤独の恐怖から逃れるため、魂を狂気に売り渡し、動物へと退化した人間たちが本能むきだしの咆哮をあげる区画へと迷いこんだ僕は、嫌悪感を隠しきれず顔を歪める。早くも選択を後悔しはじめた。
 他に行くところがないからっていくらなんでもここはないんじゃない?もうちょっとマシなところがいくらでも……
 「ん?」
 視線の先で人影が動く。
 看守の制服を着た中肉中背の男が、廊下に片膝ついて屈みこんで何かをやってる。看守の手元に目を凝らせば何をやってるかすぐにわかった。 
 「餌」を与えてるんだ。
 鉄扉には格子窓がないかわりに、鉄蓋がついた空洞が下部に設けられており、そこから一日二回食事がさしいれられる。だけどトレイを押しこんでしまえばすぐに鉄蓋が閉まっちゃうから、外の光が射すのはほんの一瞬、わずかな時間だ。独居房に放りこまれた囚人は一日の大半を気の遠くなるような暗闇で過ごす羽目になる。 
 鉄扉を一個ずつ移動して、食事を盛ったトレイを押しこんでる看守には見覚えがあった。
 「気をしっかりもてよ、あと三日の辛抱だ。三日たちゃ外にでられるんだ、娑婆の空気が吸えるんだ。まあ刑務所の中だから娑婆ってのもおかしいけどよ……だからそれまで耐えるんだ、ほら、飯持ってきてやったからちゃんと食えよ。体力つけとかねえとこっから出るとき転んじまうぜ」
 「うう……うう……もうやだ、こんなとこいやだ……くさくて鼻が曲がりそうだ、目を閉じても開いても変わりゃしねえ暗闇だ。後ろ手に手錠かけられて寝返りも打てなくて、全身の筋肉ががちがちだ。五十嵐さん、なあ頼むからここ開けてくれよ。手錠が食い込んで肉が抉れてるみたいなんだ、手首の肉が腐って爛れて蛆虫に食われてるみてえなんだ。痛てえよちくしょう、なんとかしてくれよ五十嵐さんよう」
 「無茶言うなよ、こっちも仕事なんだ。だしてやりたいのは山々だけど、そしたら俺が罰則食らっちまう。また様子見にきてやるからそれまで耐えろ、な」
 「こんな格好じゃ飯も満足に食えねえよ、どうやって味噌汁飲むんだよ、こぼしちまうよ。ちくしょうひどいよ、こんなのってねえぜ。そりゃ俺は外じゃいろいろ無茶やってきた、強盗もした、殺しもやった、女を犯って姦ってヤりまくった。
 でもだからってこんなのねえだろ?手錠かけられてうつ伏せのまま放置されて、飯は犬食いで、糞尿垂れ流しの暗闇で一日中うめいてるしかねえなんてあんまりだ……東京プリズンの看守にゃ人の心ってもんがねえのかよ!?」
 「人間だから」
 嗚咽まじりの呪詛を吐く扉の内側の人物に、看守がぽつりと呟く。
 「人間だから、人間にひどいことができるんだよ」
 鉄蓋が閉じ、完全に光が遮断される。
 また暗闇に逆戻りした囚人が絶望的な悲鳴をもらす。 
 切れ切れに嗚咽が漏れる鉄扉を見つめ、複雑な顔をした看守の背後に忍び寄り、声をかける。
 「今日は五十嵐さんが飼育当番なんだ」
 はじかれたように振り向いたのは、僕とも面識のある看守の五十嵐だった。
 「……言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」 
 「じゃあ餌係って言いなおそうか?」
 下唇を舐め、挑発的な上目遣いで五十嵐を見上げる。
 商売柄、男の庇護欲をくすぐる媚びた表情をつくるのは得意だった。けど五十嵐には通じなかった。疲労のため息をつき、五十嵐が腰を上げ、右隣の鉄扉へ移動する。 
 「お前、なんでここにいるんだ。なんか悪さでもしたのか」
 「人聞き悪いこと言わないでよ、おりこうさんの僕が悪さなんかするわけないじゃん。万一悪さしたってボロださなきゃ、独居房に放りこまれるような最悪の結果にはならないね」
 「じゃあとっとと失せろ。仕事中だ」
 「同情するよ五十嵐さん。同僚に煙たがれてると損な役目ばっか押しつけられて大変だね、餌やり手伝ったげようか」
 五十嵐の肩にしどけなく凭れかかり、耳元で囁く。
 そんな僕を鬱陶しげに振り払い、五十嵐が淡々と仕事を再開する。脇においたトレイを片手で持ち、鉄蓋を押し上げ、ドアの内側へと放り込む。
 「飯だぞ。食え」
 そっけないが、深い思いやりに満ちた言葉。
 「……飯?ちょっと前に食ったばっかの気がするけどそうか、もうそんなに時間経ってたんだ。この分じゃ一週間なんてあっというまだね」
 この声は。
 「レイジ、お前寝てたのかよ。声が眠そうだぞ。よくそんな環境で眠れるな」
 「しかたないじゃん、他にやることないし。こう暗いと時間が経つのもわからねえな、今が昼だか夜だからもはっきりしなくて体内時計が狂いっぱなしだ。手錠かけられてたんじゃ自分で慰めることもできねえし……でもま、たった一週間の辛抱だ。もう三日四日過ぎてるだろ?つーことはあと四日か三日後には手錠の戒めから解き放たれて娑婆の空気吸えるわけだ、大手を振ってロンを抱きにいけるわけだ」
 「真っ先にやることがそれかよ。お前らしいな」
 五十嵐が苦笑する。
 「いちばん大事なことをいちばん最初にやるだけさ。俺って我慢できないタチだから、一週間もロンと会えないとなると辛くて辛くて。この頃はロンの夢ばっか見てるよ、具体的には口に出せない夢だけど……正夢だな、これは。一足先に夢で未来を見せてやるから男らしく実行しろってゆー神様の思し召しだ。 
 そうとなりゃ話は決まった、体力落とさないよう残さず飯食ってロンを悦ばせてやんなきゃ」
 体力落とさないよう残さず飯食って決勝戦に備えるんじゃなく、ロンを悦ばすほうを優先するなんてレイジらしい。独居房に放りこまれても王様は相変わらずだ。へこたれた様子もなく飄々としてる。
 その時だ。
 「……ずいぶんと余裕ではないか、東の王よ」
 地の底から湧き上がる悪霊めいた声。妄執じみた呪詛。
 レイジが入れられた房のちょうど正面、反対側の壁に穿たれた鉄扉の奥から声がする。サーシャの声だ。
 そうだ、サーシャも独居房に閉じ込められてたんだった。
 それも皮肉なことにレイジのごく近く、会話が成立する距離に。
 「糞尿垂れ流しの暗闇で不埒な妄想を膨らませておのれを慰めているのか?節操のない雑種がやりそうなことだな。レイジよ、忘れたわけではあるまいな?お前がここを出されるのは一週間後、決勝戦の日だ。北に君臨する気高き皇帝たる私をはじめ、西の道化と南の隠者という強敵を倒さねば、お前とお前が愛玩する猫に未来はないとわかっているのだろうな」
 「何だよサ―シャ、まだ生きてたのか。気高き皇帝のお前なら、後ろ手に戒められた上に糞尿まみれの屈辱に耐えきれずにとっくに舌噛みきって死んでると思ったのにがっかりだ。プライドの高さは口先だけか」
 「決勝戦のリングで存分にお前を切り刻めるなら、数日間の屈辱にも耐えてみせる。お前を倒せば私は東京プリズン全棟を掌握する権力者となる、東も西も南もすべて私の言うがままだ。そんな素晴らしい機会、今を逃したら永遠に訪れるものか」
 サーシャが歯軋りをする。
 「私はずっとずっと、気も狂わんばかりにこの時を待っていたのだ。満場の観衆の眼前でお前の顔を切り刻み手足を切り落とし、血だまりの舞台で見世物とする瞬間を。お前を殺して東京プリズンの頂点を立つという野望がもう少しで達成できるところまで来ているのだ!ああ、想像するだに愉快でたまらず高揚を禁じえない。
 永久凍土と唄われた私の心までもが溶け出すようだ。手足が自由になるのなら、この扉が開くのなら、今すぐお前のその薄汚い肌を無残に切り刻んで鉄錆びた血潮を浴びたい。その瞳を抉り出して口に含みたい」
 「お前もう狂ってるよ、手遅れだ。俺が保証してやる。さんざん無茶な抱かれ方されて狂わされた俺が言うんだから説得力あるだろ」
 レイジの声は笑いさえ含んで余裕だが、対するサーシャの声は不安定な精神状態が影響するが如く振幅がはげしかった。
 一呼吸おいて噴出したのは、憎悪を凝縮した呪詛。
 「私がお前を倒した暁には、王が寵愛する猫を舞台に引きずり出してやる。寵愛する猫が無残に臓物さばかれるさまを見せ付けられれば、お前とてさすがに冷静ではいられまい。私は慈悲深く寛容な皇帝だから王に敬意を表して要望を聞いてやる。
 まず最初にどこを裂いてほしい?
 可愛い猫の顔に傷が付くのがいやなら、てはじめに服を剥いて……」
 「ロンに手を出してみろ」
 氷点下の殺気を纏わせたサーシャに返されたのは、低く落ち着いた声。
 微笑さえ滲ませた柔和な声で、レイジは宣告した。

 「嬲り殺すぞ」 

 哄笑が弾けた。
 サーシャの笑い声だ。鉄扉の内側で膨れ上がった哄笑が壁に殷殷と反響し、陰鬱な廊下全体を悪夢のように呑みこんでゆく。蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い廊下にて、向かい合う鉄扉の内側と内側で殺気が極限まで膨張する。 

 「嬲り殺すときたか、面白い!主人に逆らったらどうなるか、再びその体に思い知らせる必要があるようだな!まったく、雑種を躾るには苦労する!ナイフの刃がこぼれるまで、鞭の革が擦りきれるまで仕置きしてやるから覚悟しろ!!お前の主人は私ひとりだけだ、他の人間に心を移すのは許さん、心も体も永遠に縛り付けて生涯所有してやる!あの拷問部屋から出さずに生涯苦痛と快楽を味わせてやるぞ、東の王よ、汚らわしい雑種めが!一生鎖に繋いで飼い殺しにしてやる!!」 

 「そいつは無理な相談だな、俺に快楽をくれるのはこの世にひとりロンだけだ。今まで数え切れないほどの女や男と寝てきたけど、どんな経験豊富な相手とのセックスよかただあいつと添い寝するほうが幸せだったんだよ。ただあいつを抱きしめて眠るほうが幸せだったんだよ。だからサーシャ、お前が俺からロンを取り上げるってんなら容赦しねえぞ。嬲って嬲って殺してやる、苦しめて苦しめて苦しめて地獄に落としてやる。お前が俺にしたことなんて目じゃねえ本当の地獄を味あわせてやるよ」

 感情を解放したサーシャの声と、感情を抑制したレイジの声。
 動と静の気迫が拮抗する。 
 サーシャの哄笑が殷殷と響き渡る中、あれだけうるさかった周囲の騒音がいつのまにか消えていた。唸り声も叫び声も嗚咽も、だれかが鉄扉に頭をぶつける音さえも途絶えたのは、おそらく独居房に閉じ込められた全員がサーシャの異常さに圧倒されたためだ。
 その場に居合わせた全員を戦慄せしめる哄笑がこだまする通路にて、生唾を飲み込み確信する。
 
 決勝戦でサーシャとレイジがぶつかる。
 そして、どちらかが死ぬ。


【少年プリズン】
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三十二話

(2005/08/28)
 東京プリズンにはシャワー室がある。
 壁を取り払って房を十個繋げた空間で配管むきだしの天井と灰色の壁の殺風景な内観は日常見慣れたものだが、プライバシー保護の建前を尊重したのか、定員一名のブースごとに人目を遮蔽する間仕切りとスイングドアが設けられてる。
 一般の囚人がシャワーを浴びれるのは二日に一回だけと規則で決まっている。
 潔癖症の僕などは二日に一回とはいわず毎日シャワーを浴びて汚れを落としたいのだが、規則に従わない囚人には厳罰が下されるのが東京プリズンの鉄則。
 看守の命令に逆らえば容赦なく警棒が振ってくるのと同様に、規則を破れば東京プリズンの囚人だれもが恐れる独居房送りを課されかねない。
 独居房送りほど東京プリズンの囚人に忌避される罰はない。
 東西南北の棟の最奥、殆ど人通りがない薄暗い区画に設けられた独居房は、口さがない連中に「動物園」と揶揄されている。格子窓がないにも拘わらず、密閉された鉄扉の内側に充満した悪臭が廊下へと漏れ出して、不規則に蛍光灯が点滅する通路には糞尿と吐瀉物のすえた匂いが沈殿している。
 ひどい悪臭が充満する通路の両壁に等間隔に穿たれているのは、外観だけなら通常の房とそれほど違わない造りの鉄扉だが、この鉄扉には決定的な違いがある。
 前述したが、窓がないのだ。完全に密閉された構造の鉄扉の下部には一日二回食事をさしいれるための矩形の口が設けられているが、トレイを放りこめばすぐ鉄蓋が下りて、一条の光明さえ残酷に遮断される仕組みになっている。
 独居房は常に満員御礼だ。
 それだけ東京プリズンで問題を起こす囚人が多いということだ。乱闘騒ぎを起こした囚人は罰と称して一条の光さえ射さない独居房に放りこまれる決まりだが、独居房に一度送りこまれたら最後正気を保ち続けるのはむずかしく、再び外に出された時には八割の囚人が発狂してるという。
 囚人が寝静まった深夜、静寂に呑みこまれた通路に殷殷と反響する獣の唸り声を辿れば、独居房に行き着くというのが東京プリズンの定説。
 廃人化せずに独居房から生還できる幸運な人間はよほど肝が据わった者か……もしくは最初から狂っていて、それ以上狂いようがないごく一部の者に限定される。
 今、音痴な鼻歌を口ずさみながらシャワーを浴びている男は後者だったようだ。
 十個房を繋げた広広とした空間で、気持ち良さそうにシャワーを浴びているのはその男だけだ。
 壁に固定されたシャワーから迸るのは絶妙な温度に調節された温水。
 顔を仰向け、高所から降り注いだシャワーを手で受けた男が、水滴を跳ね散らかしかぶりを振る。
 「あー、すっげえ気持ちいい。極楽だね。地獄から天国ってかんじ」
 レイジだった。
 レイジが独居房に放りこまれてから一週間が経過した。
 そして今日、レイジは無事独居房から生還した。
 廃人化することなく、正気を保ったままで。
 期限を全うし、大手を振って独居房を後にしたレイジが真っ先に向かったのはシャワー室だった。独居房から出された直後のレイジは垢と汚れ塗れの状態だった。糞尿まみれの服は不潔に黒ずみ、全身から吐き気をもよおす異臭が放たれていた。
 憔悴の色濃い面持ちで足元もおぼつかないレイジは、独居房からの生還者の常として日常寝起きする房には直帰せず、手錠で抉れた手首を治療しに医務室に寄る事もなく、シャワー室にとびこんだ。
 それは正しい選択だった。
 独居房から出された直後のレイジは、とても見られた風体ではなかった。
 一週間もシャワーとは無縁の不衛生な環境に寝転がっていたのだから、これ以上悪臭を振りまいて通りすがりの囚人を不快にさせる前にシャワー室に赴いたのは賢い選択だった。
 僕は今、レイジのシャワーに強制的に付き合わされている。
 妙なことになったぞ、と腕組みしながらため息をつく。
 レイジの身柄引き取り人になったのは僕だった。同房のロンは重傷で入院中のため、独居房から出されたレイジの身柄を譲りうけるのは消去法で僕の役目となった。
 後ろ手に手錠をかけられたレイジが、看守に挟まれて通路を歩いてきた時、僕はそのあまりに変わり果てた姿に怯んでしまったが、レイジ本人に独居房送りを命じた責任者としてその場に居合わせた安田は表情ひとつ変えなかった。
 レイジが一歩近寄るごとに、鼻腔の奥を刺激して涙腺に染みる悪臭がひどくなる。憔悴したレイジがふらふら近付いてくる姿を目の当たりにして動揺を隠しきれない僕に、安田は小声でアドバイスした。
 『レイジは独居房から出された直後で体調が万全ではない、シャワーを浴びるにも何をするにしても補助がいるだろう。鍵屋崎、レイジの友人なら力になってやれ。レイジがシャワーの途中で倒れないか見張っておけ』
 『僕もシャワー室に入るんですか?』
 おもわず抗議の声をあげてしまった。
 シャワー室に入る、ということはレイジがシャワーを浴び終えるまでじっと監視するということだ。安田の言い分が一理あるのはわかるが、いかに同性とはいえ、他人を裸を見るのは抵抗がある。難色を示した僕を眼鏡越しに一瞥し、安田は事務的に付け加えた。
 『一緒にシャワーを浴びろと言ってるわけじゃない、少し離れた場所でレイジを見張っておけばいい。万が一レイジが倒れたら助けを呼ぶ必要があるだろう?全裸で失神して長時間だれにも発見されずシャワーに打たれていたら風邪をひいてしまう。そうしたら今晩の決勝戦に臨めない、違うか?』
 決勝戦。
 安田が発した言葉は、ひどく重々しい響きを伴っていた。
 そうだ、今晩にはペア戦決勝戦が予定されている。東京プリズンの歴史に残る試合、ブラックワークの前例を覆す前代未聞の試合、他の3トップを下して勝ち残った者が東西南北を掌握するという取り決めのもとに行われる東京プリズンの分岐点となる試合。
 今日の試合にすべて勝てばレイジは100人抜きを実現し、僕たち四人は晴れて自由の身となる。
 僕とロンは売春班に二度と戻れなくてすみ、サムライも両手の腱を切られることなく今までどおり刀を振るうことができ、レイジは東棟の王様として悠悠自適な生活を謳歌できる。
 僕らは絶対に、今晩の試合に勝たなければならない。勝ち残らねば生き残れないのだ。
 僕は渋々納得した。たしかに、シャワーの途中でレイジに倒れられたら困る。湯冷めなんてとんでもない。
 現時点におけるレイジの退場は、僕ら四人の運命をも左右する重大な損失。
 僕にはロンとサムライの分までレイジを監視する義務がある。復活したレイジを無事リングに送りとどけ、決勝戦の一部始終を見届ける義務がある。
 だから僕はこうしてシャワー室の壁に凭れ、憮然と押し黙ってレイジの鼻歌を聴いている。聴けば聴くほど音痴な鼻歌にあきれかえる。シャワー室ではよく声が反響するため、コンクリ壁に跳ね返った鼻歌が殷殷と余韻をおび、わずかな時間差をおいて鼓膜へと押し寄せる。
 ふと、スイングドアに腕を凭せ、レイジが身を乗り出す。
 「キーストアも一緒に浴びね?気持ちいいぜ」
 「遠慮しておく。僕は君と違って人前で肌を露出して倒錯的な快感に浸る趣味はない」
 「ひとを変態みてえに言うなよ、傷付くなあ。俺だってなにも好き好んでお前の目の前でシャワー浴びてるわけじゃねえ。勘違いすんなよキ―ストア、お前が勝手に中までついてきたんだろ」
 「安田に言われたからだ。僕は気が進まなかった」
 「可愛げねえの。俺のヌード、タダで鑑賞できるんだからもっと喜べっつの」
 「重大なことを忘れてないか?僕は不感症だ、同性の裸を見たところで性的興奮など覚えはしない」
 「興奮するのは妹のヌードだけってか」 
 「……恵を侮辱する気か貴様」
 壁から背中を起こし、腕組みをといてレイジを睨みつける。
 「近親相姦の誤解を招く発言はよせ、僕の恵に対する気持ちは純粋な親愛の感情だ。僕は恵の裸に興奮したりしない、妹の裸に浴情するなど兄失格だ。今の発言は取り消せ、前言撤回しろ。僕は恵に対し君がロンを対象とするようなやましい妄想を抱いたことなど一度も……」 
 「冗談だよ。むきになるとかえって怪しいぜ」
 スイングドアに腕をかけたレイジが肩を竦める。
 からかわれていたと知り、一瞬殺意が芽生えた。赤面した顔を眼鏡のブリッジを押し上げるふりで隠した僕の目に、レイジの胸に垂れ下がった十字架がとまる。
 水滴を弾き、まばゆい金色にきらめく十字架。
 「シャワーを浴びるときも外さないんだな」
 あきれ顔の僕に、レイジは軽薄に笑ってみせる。
 「お守りだからな」
 気取った手つきで十字架を捧げ持ち、キスをする。裸でさえなければ、信心深いとでも表現できそうな神聖な場面。
 幸福そうな笑顔で十字架に口付けるレイジの裸身に不覚にも目を奪われる。
 シャワーに濡れてしっとり額に纏わりついた前髪、長時間の湯浴みで仄赤く上気した肌。
 恍惚と潤んだ艶かしい眼差しを翳らせるのは、切れ長の双眸を縁取る驚異的に長い睫毛。精悍に引き締まった肢体を惜しげもなく晒したレイジは、伏し目がちに感傷に浸るかのように掌中の十字架を見つめている。
 男にこんな表現を使うのはおかしいが、レイジは綺麗だった。
 腰はスイングドアで隠されていたが、猫科の肉食獣めいてしなやかな筋肉がついた体と完璧に均整がとれた四肢は、誰もの目を奪わずにはおれない芸術的な彫刻美を体現していた。極上の絹めいた張りと艶のある褐色肌には、若い生命力を凝縮した精気がみなぎっていた。
 レイジの全身から湯気に乗じて漂いだす野生の色香。 
 水に濡れて額に纏わり付く髪も、淫蕩に上気した肌も、柔和に凪いだ眼差しも虚心の表情もかすかに笑みを湛えた口元も。
 すべてが薄靄の湯気に包まれる。
 「……聞いていいか」
 ためらいがちに口を開く。
 「なんだ」
 湯気の帳の向こうから声がする。奇妙に反響する声の主はレイジ。口にしたものの、僕は質問を続けようか否か迷っていた。湯気で湿った壁に凭れ、腕を組んで考え込む。本来僕が踏みこむべき問題ではない、だが今を逃したら改めて聞き出す機会は訪れない予感がする。
 眼鏡を外し、白く曇ったレンズを上着で拭う。
 綺麗に拭ったレンズを目の位置に翳し、湯気の向こうを透かし見る。シャワーの温水に打たれながら、レイジは怪訝そうな表情でこちらを眺めている。
 よし。
 眼鏡をかけなおし、決心する。
 「あの夜、ロンと何を話したんだ?」
 ずっと疑問だった。あれほど荒れていたレイジが、僕の説得にも耳を貸さずにリングで暴威を振るったレイジが、ロンとの話し合いを経て元に戻った経緯には無関心ではいられない。あの夜、レイジとロンの間にはたしかになにかがあった。
 レイジとロンの間に起きたことに関しては漠然と察しはつくと以前僕は言ったが、レイジの口から真相を聞きたい気持ちも心の片隅に存在していた。
 思い出すのは、衝立のカーテンを開けた時。
 ロンのベッドで幸せそうに眠りこけるレイジの姿。安心しきった寝顔。
 実際にはレイジの方がロンを抱いていたのでこの喩えは正確ではないが、聖母の胸に抱かれたキリストのように安らかな寝顔だった。
 レイジとロンの間になにがあったのか、知りたい。
 レイジとロンの件に関しては僕もさんざん振りまわされたのだから、それくらいは要求してもかまわないだろう。ロンは僕がどう足掻いてもなし得なかったことをたやすく成し遂げてしまった。
 血に飢えて暴れ狂う豹を、ほんの数時間の話し合いで従順に飼い馴らしてしまった。たった数時間の話し合いで暴君を改心させてしまったのだ。
 レイジとロンがどういった経緯で和解に至ったのか、好奇心を刺激されないほうがおかしい。 
 スイングドアに腕をかけ、レイジはしげしげと僕を眺めていた。
 核心をつく質問に驚いた様子もなく、スイングドアから腕をどかし、気だるげに髪をかきあげる。なにげない一挙手一投足にさえ付き纏う退廃的な色気。水に濡れそぼった髪を緩慢な動作でかきあげ、かぶりを振って水を弾く。スイングドアから身を乗り出したレイジが、片腕を虚空にさしのべ、人さし指を折り曲げる。
 「?」
 「知りたいんだろ。来いよ」
 レイジがにっこりと微笑む。
 わざわざ呼びつけずとも十分声が届く距離なのにもってまわったことを、と舌打ちしながら歩き出す。極上の笑顔で僕を出迎えたレイジが、もっと近くに寄るようにと人さし指を動かす。
 レイジに促され、緊張の面持ちで顔を近付ける。
 裸の上半身を乗り出し、僕の耳元に顔を寄せ、レイジが囁く。
 「内緒」
 「……………………………………………そんな幼稚な真似をするためにわざわざ八メートルの距離を歩かせたのか、君は」
 瞬時に怒りが沸騰した。まったく無自覚にレイジの悪戯にひっかかってしまった僕自身にも。
 不愉快この上ない表情の僕をレイジは遠慮なく笑い飛ばしてくれた。
 「ははははははははは、かっわいいなーキーストア!もうちょっと人を疑うこと覚えろよ天才、頭いいくせに単純すぎる。それとも何、俺には気を許しちゃってるわけ?だからこんな簡単に手が届く至近距離まで近寄ってこれたわけ?無防備にもほどがあるぜ。サムライも気が休まる暇ねえな、同情するぜ」
 「今はサムライは関係ないだろう」
 頬を染めて言い返せば、笑い声を引っ込めたレイジがいきなり顔を突き出す。
 僕の目を挑発的に覗きこむ色素の薄い瞳。
 底知れない虚無を秘めた双眸。
 「少しは警戒心もてよ、キーストア。この距離なら確実にお前殺れるぜ、俺」
 レイジの双眸に物騒な光が過ぎる。殺意の眼光。
 裸の胸に十字架をさげたレイジが殺しの手段を厭わない暗殺者の顔で囁けば、鼻先にナイフを突き付けられた忌まわしい記憶がよみがえり、こめかみを冷や汗が伝う。
 怯むものか。
 奥歯を噛みしめ、しっかりと床を踏みしめる。僕はもうレイジに怯えないと決めた。準決勝のリングでどんなに変貌してもレイジはレイジだと確信に至ったではないか。この僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直がレイジに怯える理由などないのだこれっぽっちも。
 それを今ここで証明しなければ、僕はレイジの仲間でいられない。
 安田に友人だとレイジを紹介したことまで、嘘になってしまう。 
 「君は僕を殺せない」
 口元に笑みを浮かべ、自信ありげにレイジを見返す。皮肉げな笑顔を向けられたレイジが当惑する。
 「どうしてそう思うんだ」
 シャワーに背中を打たせつつ、だらしない姿勢でスイングドアに凭れかかったレイジが探るように僕を見る。疑問の色に染め上げられた眼差しと怪訝な表情からは、僕の自信の根拠を純粋に不思議がっている内心が見てとれた。
 だから僕は言ってやった。
 そんなあたりまえのこともわからないのかと小馬鹿にした口調で、尊大に腕を組んで。
 「僕を殺したらロンが哀しむ。ロンを溺愛する君が彼を哀しませるようなことをするはずがない、絶対に。俗な言い方をすれば、そう……惚れた弱みだな」
 「ははははははははははっはははははっ!キーストアそれ面白い最高、ツボった!」
 レイジが爆笑する。
 喉を仰け反らせ肩をひくつかせ大袈裟に笑い転げるレイジを、僕は冷めた目で眺めていた。べつに面白いことを言ったつもりはない、ありのままの事実を述べたまでだ。壁を平手で叩いて哄笑するレイジの肩がゆっくりと浮沈し、深呼吸とともに笑いの発作が終息する。   
 壁に片手をついた前傾姿勢でこちらを振り返ったレイジが、悪戯っぽく微笑む。
 「……そうだな、そのとおりだ。お前を殺したらロンが哀しむ。ロンが泣いたら俺も哀しい。だから特別にお前のこと殺さないでやる、感謝しろ」
 「この場合は一応礼を述べておくべきか?それとも貴様何様だと声を荒げて罵るべきか判断に迷うな」
 「もうひとつあるぜ、お前を見逃してやる理由」
 「なんだ」
 スイングドアが揺れる。
 水に濡れた手で僕の頬に軽く触れるレイジ。ごくさりげない親愛の表現。僕の頬に手をおいたレイジの瞳に視線をとらわれる。悪戯っぽい笑みを含んだ薄茶の瞳には、どことなく憎めない愛嬌がある。
 「ロンには及ばないけど、お前のこと結構気に入ってるんだよ。気が向いたら愛人にしてやってもいい」
 「断る」
 「即答かよおい。じゃあ一回寝てやってもいいに変更」
 「僕に拒否権はなしか?それ以前に、好悪の判断基準は性行為に及びたいか否か究極の二択に集約されるのか?どこまで下世話な男なんだ君は、品性のかけらもない。たまには下ネタをまじえず話ができないのか、万年発情期め」
 嘆かわしげにかぶりを振りレイジの手を叩き落とす。
 手をはたかれたレイジが舌打ちするが、口元がにやけているので取り合わない。
 「さっきの話だけどさ」
 レイジが唐突に話題を変える。
 視線をやや上向きに、湯気がたゆたう天井を仰ぎ、思い出したように言う。
 「ロンは許してくれたんだ」
 「は?」
 その呟きがやけに深刻に聞こえ、まじまじとレイジの顔を見る。
 シャワーの湯気を四肢に纏わりつかせたレイジが、五指と五指を交差させ、腕を一本によりあわせ、豹のように伸びをする。
 レイジの胸で輝いているのは、水滴に濡れた十字架。
 贖罪の証。
 「俺がそばにいてもいいって、俺にそばにいてもらいたいって言ってくれたんだ。馬鹿だよな、俺のことホントは怖いくせにそれでもいいからそばにいてほしいって頑固に言い張ってさ。俺がいつまたキレてあいつに手を出すかわかんないのに、そんなくだらないことうじうじ悩んでるんじゃねえって一喝されちまった。カッコ良かったぜ、あいつ。ガキだガキだって侮ってたけど、ちょっと見ないあいだにすげえ成長してた。相変わらず背は伸びねえけど、あれくらいの方が懐に抱いて寝やすいから問題なしってね」
 ああ、そうか。ようやく腑に落ちた。
 レイジはずっとだれかに、自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを乞いたかったのだ。自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを得たかったのだ。
 おのれの罪深さを告白して、懺悔したかったのだ。
 そして。
 こんな罪深い自分でもそばにおいてはもらえないだろうかと、一縷の希望に縋った。
 「ロンは俺に許しを与えてくれた。俺の懺悔を、最後までちゃんと聞いてくれた。耳をふさがずに、まっすぐ俺の目を見て。怖かったと思うよ。あいつまともだから、すげえいいヤツだから、俺の狂った過去とか聞かされて後悔したと思う。でも全部ひっくるめて受け止めた上でそばにいてほしいって言ってくれたんだ。いちばん欲しい言葉をくれたんだ」
 レイジの笑顔は澄んでいた。 
 永い苦悩から解放された、晴れ晴れとした笑顔。
 「ロンは俺の救い主なんだ。今までさんざん人殺してきてこんなこと言うのもアレだけど、俺は誰かに許してもらわなきゃこのさき生きてく資格がないって思いこんでて、とんでもないことしでかした俺を許してくれそうなお人よしをずっと待ってたんだ。それがロンだった」
 十字架を握りしめ、締めくくる。
 「俺はロンに、笑顔を貰ったんだ」
 感傷を振りきるようにコックを締めて顔を上げる。コンクリ床を叩く水音が途絶え、シャワーが止む。
 「キーストア、タオルとって」
 「僕はホテルのボーイじゃないぞ」
 「だろうな。その性格で客商売に就いたら三日でクビだ」 
 いちいち癇にさわる男だ。
 文句を言いたいのをこらえ、タオルをレイジに投げる。虚空に手をのばしてタオルを受け取ったレイジが、高らかに宣言する。
 「勝つぜペア戦、やるぜ100人抜き」
 あざやかにタオルを羽織り、スイングドアを蹴り開けたレイジが、挑発的な流し目を僕にくれる。 
 「天才と王様が組めば不可能はない。だろ?」
 大胆不敵な面構えで言いきるレイジにため息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「あたりまえのことを言わせるな。時間の無駄だ」

 今晩ついに、僕らの運命が決まる。


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三十三話

(2005/08/27)
 運命の夜が始まる。 
 もうすぐ決勝戦が始まる。東京プリズンの頂点に立つ人間を決める最後の試合が始まろうとしている。
 東京プリズン最大の娯楽として囚人たちを熱狂させたペア戦も今日が最終日、泣いても笑っても今日が最後なのだ。
 思い返せば波乱万丈の数週間だったなと感慨深げにため息をつく。
たった数週間、されど数週間。俺はこの数週間で十年分の経験を積んだ気がする。
 いや、十年分の気苦労をしょいこんだと言ったほうが正確だろうか。レイジとサムライの喧嘩、ボイラー室での騒動、酒の勢いで参戦表明。レイジへの不信、暴君の過去、渡り廊下の抗争、そして……
 レイジと仲直りした一週間前の夜を思い出すたび頬が熱くなる。
 あの時はレイジを引きとめるのに夢中でまわりの耳目を気にする余裕もなかったが、一週間経って冷静に振り返ってみればとんでもない無茶やらかしたもんだと自分の大胆さにあきれる。俺にはどうやら火事場のクソ度胸が備わっていたらしく、あの時の俺はレイジを引きとめるためなら本当になんでもする覚悟で、自分の体を代償にしてもいいやと諦観して鼻水たらして泣きじゃくってレイジに縋りついた。
 ほんの一週間前の記憶がまざまざとよみがえり、恥ずかしくて死にたくなる。
 赤面した顔を毛布に埋め、両手で頭を抱え込む。ああもう俺の馬鹿恥ずかしい、なんて真似すんだよと一週間前の自分を殴り付けたくなる。レイジを引きとめようと必死だった俺は、自分からすすんでレイジに抱かれようとまでしたのだ。そればかりか、レイジにその気がないなら俺から犯ってやるとあいつに馬乗りになっちまった。 
 それから色々なことがあって、俺はレイジの過去を聞いた。壮絶な過去。地獄という形容が生やさしく感じるほどにレイジの幼少期は悲惨なものだった。レイジは物心ついた時から立派な暗殺者になるべく特殊訓練を施されてきて、十歳の時にはもう標的をたぶらかして安宿に連れ込んで、相手が行為中に隙を見せたらナイフで頚動脈かっさばくか銃で脳天を撃ち抜くかという血なまぐさい暗殺稼業を淡々とこなしていた。
 俺はレイジが抱えた暗闇の一端を覗き見た。レイジが抱えた狂気の核に触れた。レイジが今でも憎しみを抑えつけるのが下手で、ひとたび怒りが爆発すれば暴君の狂気に翻弄されざるえないのは、過去の体験が積み重なった故の哀しい性。
 殺らなければ殺られる。生か死か究極の二者択一。
 それがレイジが慣れ親しんだ世界の掟、レイジの血肉となって吸収された生き方。
 人の喉笛を噛みきるために調教された豹の習性。
 レイジは暴君になりたくてなったんじゃない。結果的にそうなってしまったのだ。それ以外の人生が選べなかったのだ。
 お袋に殴られ蹴られた俺の子供時代が甘ったるく感じられるほど、レイジの過去には救いがなかった。レイジの口から過去を聞かされた俺は動揺した。レイジが抱えた暗闇の底知れなさを見せつけられて、言葉を失ってしまった。
 でも、レイジと一緒にいたいという気持ちに変わりなくて。
 レイジとはなれたくないという狂おしい気持ちに変わりはなくて。
 『俺はお前が怖い。でも、お前がいなくなる方がずっと怖い』  
 気付いたら、そう叫んでいた。泣いて叫んでレイジに縋りついていた。
 それがさんざん回り道して辿り着いた俺の結論だった。俺が見つけた答えだった。たぶんレイジに対する恐怖心を完全に拭い去ることはこれから先もできないけど、それでもかまわなかった。たしかに俺はレイジが怖いがその何倍も何十倍もレイジが好きだった、心の底からレイジを必要としていた。
 レイジと離れたくない理由なんてそれだけで十分だ。
 だけど一週間経って冷静に振り返ってみれば、俺はだいぶ恥ずかしいことを言ったりやったりして、しかも一部始終を隣のベッドで狸寝入りしてたサムライにばっちり聞かれちまったらしい。死ぬほど恥ずかしい、穴があったら埋まりたい。だれか土をかけてくれお願いだから。
 一週間前の夜の出来事を回想するたび、恥ずかしさに身悶えて顔から火がでそうだ。この一週間というもの寝ても覚めてもあの夜のことが脳裏によみがえり、恥ずかしさに耐えかねてベッドに突っ伏したり頭からすっぽり毛布をかぶったり枕にぼかすかやつあたりした。怪我人のくせに元気だなと自分でも呆れるが、ベッドの上で手足を振りまわして暴れるたび、肋骨に激痛が走って悶絶したのも事実だ。
 そして今日、レイジが帰って来る。
 俺は一週間ぶりにレイジと顔をあわせることになる。
 「………」
 くそ、柄にもなく緊張してきたじゃねえか。
 レイジとまともに顔あわすのはあの晩以来だ。一週間前は最初に目が覚めたらレイジの腕の中で、次に目が覚めたらレイジはもういなくなってて、ぬくもりが残るベッドに上体を起こした俺は困惑した。レイジが独居房に連れてかれたことは、遅い朝飯の最中にサムライから聞かされた。俺はまたなにも聞かされてなかった、レイジは俺に黙って行っちまった。俺に心配かけまいと気を利かせたんだろうが、生憎ちっとも嬉しくない。
 長い一週間だった。
 俺はただひたすらレイジの帰りを待ち続けた。この一週間大人しくしてたおかげか怪我もだいぶ良くなり、足首の捻挫も癒えた。骨折の完治にはもうしばらく時間がかかりそうだが、俺は育ち盛りだから回復も早いと医者も太鼓判をおしてくれた。今じゃ医務室の中を歩き回れるぐらいには体力が戻ってきたし、迂闊に寝返りを打つたび肋骨への負荷で悲鳴をあげることもなくなった。
 「レイジをぶん殴れるくらいの体力は戻ってきたな。よし」
 試しに口に出して言ってみる。
 俺に別れの挨拶もせずトンズラぶっこいた借りはきちんと返してもらう。一週間もご無沙汰してたんだ、ご自慢のツラに一発見舞うくらいは許してほしい。
 レイジはもうすぐここに来る。鍵屋崎がレイジを連れてくるのだ。
 俺とサムライが重傷で入院中の現状、鍵屋崎が身柄引き取り人になったのは当然というか不幸というか、本人にとっちゃ災難だ。独居房から出された直後の囚人は一様にひどく憔悴してて、多くは自力で歩けず口もきけない状態で、補助役がいないと十中八九真ん中で行き倒れちまうのだそうだ。
 ああ見えて鍵屋崎は面倒見がいい。レイジの首に縄つけて必ずここまで引っ張ってきてくれるはず。
 レイジがツラ見せたら、いちばんはじめになんて言おう。
 緊張をごまかすため、どうでもいいことを真剣に考える。
 「久しぶりだな」?「待ちくたびれたぜ」?どうもしっくりこない。もっと洒落た台詞があるんじゃないか、もっときつい罵倒を浴びせてやったほうがよくないか?なんたって俺はこの一週間、寝ても覚めてもレイジのことばかり考えていたのだ。レイジが元気に戻ってくる日を待ちかねて、独居房で腹を空かせてないかとか悪い夢にうなされてないかと心配して、寝不足のあまり目に隈までつくっちまった。
 ああくそ、レイジ相手に緊張する必要なんかねえってのに。頭を掻き毟ってベッドに突っ伏した俺の隣じゃ、サムライが憮然と腕を組んで目を閉じている。カーテンを取っ払ってるため、気難しい渋面をつくったサムライを身近に感じる。口には出さないし表情にも出さないがサムライもまた緊張してるんだろう、いや、それとも決勝戦を辞退せざるをえないおのれの不甲斐なさを呪っているのだろうか?眉間に縦皺を刻み、堅苦しく腕を組み、むっつり黙りこんだ顔はいつも以上に近寄りがたく厳しい印象を与えた。
 「サムライ、起きてるか」
 「無論だ。見ればわかるだろう」
 「いやわかんねっつの」
 素早くつっこむ。
 サムライは生来口数少ないのか字数の節約でもしてるのか、必要最低限の単語しか発さないため会話が成立しにくい。だが俺が話しかければちゃんと答えてくれるし、基本的には面倒見がいい奴なのだろうと好意的に解釈する。レイジが来る前からそわそわ落ち着かない俺は、緊張をほぐすためにサムライに食い下がる。
 「残念だったな、試合でれなくて。怪我してるからしかたないっちゃそれまでだけど、悔しいだろ」
 「見ればわかることを言うな」
 「……お前最近鍵屋崎に似てきたな。ダチの影響ってやつ?」
 よろしくない兆候だ。サムライにつれなくされた俺は、不服げに口を尖らせる。
 「ここ最近ずっと機嫌悪いのも、自分が決勝戦に出れないのが悔しいからだろ。鍵屋崎と一緒に行動してるレイジのことやっかんでるんだ。わかりやすいな、お前」
 「黙れ。俺は武士だ、武士が嫉妬などするものか」
 「口先だけだね。本当は試合にでたくてでたくてたまんねえくせに、医者にダメだしくらって鍵屋崎に説教されたじゃ、不満たらたらでもベッドで大人しく寝てるしかねえってか?武士はつらいよ」
 サムライの眉がぴくりと動く。 
 「……俺とて試合にはでたい。今の状況には我慢ならん。俺は鍵屋崎を守ると約束した、武士の信念に賭けて全力で鍵屋崎を守り抜くと誓ったのだ。にも拘わらず、おのれの未熟さ故に怪我をして安静を余儀なくされるなど汗顔の至り。友が死闘に赴く夜もこうして何もできず瞑想に耽るだけなど、屈辱の極み。この上生き恥を晒すならいっそのこと武士らしく切腹」
 「ベッド汚すなよ。臓物かきあつめるの大変だろ」
 サムライはいちいち言うことが大袈裟だ。ついてけないぜと内心ため息。まあ大上段に構えているが、サムライが現状を歯痒く思っていることは間違いない。今のサムライにできることはただひとつ、医務室のベッドでただひたすら友の無事を祈るしかない。太股の傷口が塞がって包帯の量が減ったとはいえ、サムライがいまだに絶対安静を言いつけられた重傷患者であることに変わりない。怪我の経過は順調だそうだが、無茶をしたらせっかく塞がりかけた傷口が開いて泣きを見るぞと医者に脅されている。
 「そんな難しい顔してむっつり黙りこんでるくらいなら医者と将棋でもしてろよ、辛気くさくてかなわねえよ。こっちまで滅入っちまう」
 「……こんな状態では将棋にも身が入らん」
 「おや残念、もう一勝負と将棋台を持ってきたのに」
 噂をすれば影、絶妙のタイミングでひょっこり現れたのは初老の医師。準備万端将棋の駒台を持参したのに、サムライにすげなく断られて哀しげな顔をする。
 「お前らいつのまにそんな仲良しになったんだよ。暇さえありゃ二人でぱちぱち将棋打ちやがって、考え事してるとき気が散るんだよ。どうせなら麻雀にしやがれ、麻雀なら俺にもルールわかるし」
 「仲間にまざりたいのかね」
 「本格的にボケ始めたのか耄碌ジジィ。目障りだって言ってんだよ」
 だれが仲間にいれてほしいもんか。
 あらぬ疑いをかけられ、医者をきつく睨む。だが医者は俺の威嚇をさらりと受け流し、あまつさえ俺のベッドによっこらしょと爺臭いかけ声つきで腰を下ろしちまった。おいこら、俺のベッドは年寄りの休憩所じゃねえぞ。
 こめかみに血管を浮かせた俺をよそに、懐に駒台を抱えた医者が、恬然とした表情で話し始める。
 「患者にも気晴らしは必要だよ」
 「あ?」  
 脳天から間の抜けた声を発した俺を一瞥、悪戯っぽく微笑み、将棋の台を叩く医者。
 「そこの彼はとくに思い詰めるタチだからね、放っておくのはよくないと長年の経験から判断してまでさ。患者の気晴らしに付き合うのも医者の義務だろう?病は気からという言葉もある。暇な一日くよくよ思い悩んでいては体も心も弱りきり、治る怪我も治らなくなってしまう。長い入院生活に気分転換は欠かせんよ」
 この医者は。
 実は、ヤブじゃないのかもしれない。
 ベッドに起きあがった俺は、珍しいものでも眺めるようにしげしげと医者を見つめちまった。今俺はさぞかし意外げな表情をしてることだろう。のほほんとして見えて、この医者は患者の精神面もばっちりケアしてくれてたわけか。サムライが深刻に思い詰めるタチだと見抜いて、患者の苦悩をほんの少しでも晴らしてやろうとわざわざ将棋の台を持ち出して気分転換させてたわけか。
 素直に感嘆し、医者に対する見方を改めた俺に水をさしたのは他ならぬ本人。
 「まあ、ワシが暇で暇でしかたなかったのもあるのだが」
 前言撤回。過大評価しすぎた。
 どっちかと言うとそれが本音だろう飄々とした口ぶりで、悪びれずに暴露した医者に脱力する。
 「君も将棋を覚えんか?いやあ、彼は強くてね。とてもじゃないがワシはかなわん、だがしかし見るからに単純そうな君になら容易に勝てそうな」  
 「ロンは賭け事強いぜ」
 この声は。 
 「!」
 ベッドに片膝立ち、はじかれたように顔を上げる。衝立の向こう、ドアの位置を凝視。こちらに近付いてくる足音はまぎれもない……
 レイジ。そして鍵屋崎。
 「博打運と悪運の強さじゃ右に出るやついねえよ。だよな、ロン?」
 鍵屋崎に肩を貸されたレイジが、俺にむかって器用に片目を瞑ってみせる。一週間前とおなじ軽薄な笑顔で、一週間前とおなじ不敵な態度で、軽く片手を掲げて挨拶するレイジに絶句する。
 言いたいことは山ほどあった。
 なんで俺になにも言わなかったんだとか別れの挨拶くらいしてけとか文句をつけたいことは山ほどあって、レイジのツラ見たら一発ぶん殴ってやると心に決めていた。でもその全部がレイジのツラを見た途端綺麗さっぱり吹っ飛んで、さまざまな感情が一挙に沸騰して、胸が苦しくなった。
 喘ぐように口を開き、また閉じる。酸欠の金魚のようにぱくぱく口を開閉しながら、俺はレイジの顔を見つめていた。この上なく不機嫌な顔をした鍵屋崎に肩を貸されたレイジは、この上なくお気楽なツラをしていた。だが憔悴の色は隠しきれず、頬がこけたせいで顔の輪郭が鋭くなっていた。
 独居房ではよく眠れなかったのだろうか?寝ても悪夢ばかり見て、うなされていたのだろうか。
 レイジの目の下には隈が浮いて、いつでも自信に満ちた表情が沈痛に翳っていた。一年と半年レイジの笑顔を見てきた俺には痛々しく無理してることがすぐにわかった。
 「ばかやろう」
 最初にでてきた言葉が、それだった。
 「ばかやろう、お前一週間前なんて言った。もう俺のそばから離れないって、俺をひとりにしねえって約束したよな?なに言ったそばから裏切ってんだよ!俺が最初目が覚めたらお前がいて、だから安心して二度寝したのに次起きたらもういなくなってて、なにがあったかわかんなくて混乱して!サムライに聞いて初めて独居房送りになったって知ったんだ、俺はまたお前においてかれたんだ!何回おいてけぼりにすりゃ気が済むんだよ、薄情も度が過ぎるぜくそったれの王様!」 
 「寂しがり屋の子猫ちゃんだな」
 「殺すぞ」
 だれが子猫ちゃんだ尻軽が。
 ふざけて肩を竦めたレイジを殺意をこめて睨み付ける。俺はこの一週間本気でレイジのことを心配して、レイジが無事に独居房からでてくるようただそれだけを一心に念じ続けたのだ。結果として俺の願いは通じたわけだが、レイジときたら俺の心中なんかさっぱり知らねえで、懲りない軽口を叩きやがって。
 くそ。なのになんで、こんななんでもないやりとりが嬉しいんだよ。
 「さて、私はそろそろ失礼するよ。カルテの続きを書かなくては」
 医者が腰に手を添えて立ち上がる。
 医者と入れ違いに、ベッドにレイジを座らせた鍵屋崎がそっけなく言う。
 「ぺア戦が始まるまでまだ少し時間がある。一週間ぶりの再会だ、話したいこともあるだろう。僕はサムライのベッドにいる。一応カーテンを引いてプライバシー保護の建前を尊重するが、良識にそむく破廉恥な会話をするなら第三者を不快にさせないよう声を低めろと忠告しておく」
 「その言葉そっくり返す」
 鍵屋崎にだけは言われたくない。
 即座に嫌味を返せば、鍵屋崎が鼻を鳴らす。小馬鹿にした態度も今はそれほどむかつかない。だって、鍵屋崎がほんとはいい奴だって知ってるから。鍵屋崎がシャッとカーテンを閉じ、隣のベッドを覆い隠す。視線を遮るカーテンの向こうからぼそぼそ聞こえてくる会話。鍵屋崎もまた、決勝戦を控えて思うところがあるのだろう。 
 大きく深呼吸し、レイジと向き合う。
 ベッドの足元に腰掛けたレイジは、少し照れ臭そうだった。気持ちは俺もおなじ。一週間ぶりに顔を合わせて、どんな会話をしたらいいかわからないのだ。
 「体、大丈夫か」
 だからとりあえず、無難なことを聞いた。
 「おおよ、ぴんぴんしてるぜ」
 「どこも痛くないか、怪我してないか。飯はちゃんと食ってたか」
 「飯は一日二回ちゃんと食ってたぜ。後ろ手に手錠かけられて床に転がされてたから、最初のうちは手を使わず犬食いするの不便だったけどすぐに感覚を取り戻した。縛られ慣れてるからな、俺」
 自然とレイジの手首に目がいく。
 レイジの手首には赤い溝ができていた。手錠が食いこんで肉が抉れた痕。
 「ちゃんと消毒したのかよ」
 憂慮に眉をひそめた俺の視線の先、猫科の動物のしぐさで手首の傷痕を舐めるレイジ。唾をつけて傷を癒そうというのか、血が滲んだ傷痕に舌先をあてがい、平然とうそぶく。
 「唾つけときゃ治るよ。試合に支障はねえ」
 「てきとー言うなって、黴菌入ったらどうすんだよ」
 「心配?」
 「一応な」
 「じゃあロンが治してよ」
 なに?
 レイジの手首をひったくった俺の眼前で、王様がにっこり微笑む。
 「ロンが舐めて治してくれよ。愛の力で治りも早い」
 いつもなら「くだらねえこと言うな馬鹿、とうとう頭に蛆が沸いたか」と一笑に伏せてた。レイジもそれを想定して軽口を叩いたんだろうが、俺はレイジの手首を掴んだまま真剣に考え込む。
 そして。
 レイジの手首を手に取り、おそるおそる、傷口に舌をつける。 
 レイジの手首を取り巻く凄惨な傷痕、金属の手錠が食いこんで肉が抉れた痕におずおずと舌先を這わせ、唾液をすりこんでゆく。鉄錆びた血の味が舌で溶け、眉をしかめる。吐き気をこらえ、手首に口をつけ、舌を蠢かせる。唾液と混ざった血が薄赤く滲んでゆく。
 レイジはびっくりしたように目を丸くしていた。
 「ほら、消毒してやったぜ。これでいいんだろ」
 まずい。
 手の甲で口を拭い、乱暴にレイジの手首を突き放す。
 口にはまだ血の味がわだかまってる。唾液に濡れ光る手首を見下ろし、レイジが呟く。 
 「……サンキュ」
 妙な沈黙が落ちた。
 「ロン、ちょっと大胆すぎねえ?びっくりしちまったよ。こないだなんか俺の上にのっかるし」
 「言うな。忘れろ。今すぐ忘れろ、一生の汚点だ」
 レイジが声をたてて笑う。レイジの笑い声を聞くのはひどく久しぶりな気がした。
 ぎし、とスプリングが軋み、ベッドが弾む。ベッドに片膝のせたレイジが、俺のほうへと身を乗り出し、なれなれしく頬に手をかける。甘い微笑を湛えた端正な顔が目の前にある。完璧に整った顔の造作に、同性だとわかってても目を奪われちまう俺はだいぶヤキが回ってる。 
 瞬きのたび物憂げに震える色素の薄い睫毛。
 優雅に長い睫毛に沈んだ双眸は、神様みたいに柔和な光を湛えている。
 「ロン、約束覚えてるか」
 「ああ」
 約束。100人抜き達成したら抱かせてやるとなかばヤケで啖呵を切った夜のことが、何故だかひどく昔のことのように感じる。薄茶の目をまっすぐ見つめて頷けば、安心したようにレイジの顔が綻ぶ。 
 レイジの手に包まれた頬に、ぬくもりを感じる。
 心地よいぬくもり。安息を与えて孤独を癒してくれる、長いこと焦がれてやまなかった人肌のぬくもり。
 レイジのぬくもり。
 「今日の試合が終わったら抱かせてくれよ」
 約束を確認するように、最後の念を押すように、やけに真面目くさった顔でレイジが言う。それがおかしくて、くすぐったくて幸せで、笑いを噛み殺すのに必死で。
 頬を包みこんだ手に手を重ね、頷く。
 「100人抜き達成したらちゃんとご褒美くれてやるから、安心して帰って来い」
 「よっしゃ。それ聞いてむちゃくちゃヤる気でてきた」 
 俺の頬から手を外したレイジが床に降り立ち、シャッとカーテンを開く。照明の光が一気に射しこんで眩しかった。漂白された視界の中、俺に背中を向けたレイジに慌てて呼びかける。
 「レイジ!」
 肩越しに振り向いたレイジめがけ、こぶしに握りこんだものを投げつける。
 放物線を描いてレイジの手中にとびこんだそれは、医者から借りた接着剤でくっつけた麻雀牌。前に俺が床に叩きつけて割ったやつを慣れない手つきで補修したもの。
 「今度はなくすなよ、ちゃんと返しにこい」
 虚を衝かれたレイジに、手の中の牌を掲げてみせる。俺がレイジに投げ渡した牌の片割れ。
 尊大に言い放った俺の眼前で、レイジが牌を放り上げる。蛍光灯の光を反射した牌が眩くきらめき、吸いこまれるようにレイジの手の中に落ちてゆく。
 「最強のお守りだ。十字架より効き目ありそ」
 言いたいことは山ほどあった。でも、きりがないからやめとく。
 心配しなくてもレイジは必ず俺のところへ帰って来る。俺にできることはレイジの帰りを信じて待つだけだ。隣のベッドのカーテンを開け放ち、鍵屋崎が立ち上がる。鍵屋崎とふたり肩を並べたレイジがひらひら手を振りながら医務室をあとにする。
 「速攻戻ってきて処女いただいてやるからケツの穴洗って待ってろよ」
 「ほざけ」
 ドアが閉まる直前、レイジが振り向く。
 晴れ晴れとした笑顔。
 『我愛弥、龍』 
 あいつ、いつのまに台湾語覚えたんだ。
 あきれかえった俺の耳にドアが閉まる音が響き、医務室に静寂が舞い戻る。
 ベッドに残された俺は、こみあげる不安をごまかすように手の中に牌を見下ろし、強く強く五指に握りこむ。
 そうだ、なにも心配ない。レイジ自身もそう言ってたじゃないか。
 肩越しに振り向いたレイジの笑顔を見た瞬間、不吉な予感が過ぎったなんてなにかの間違いだ。考え過ぎだ。そう懸命に言い聞かせても不安は拭えず、指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。

 まさかそんなことあるわけない。
 レイジがもう、二度と帰ってこないだなんて。


【少年プリズン】
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三十四話

(2005/08/26)
 動物園は空気が淀んでいる。
 後ろ手に手錠をかけられた囚人が汚物まみれの床に転がされて、手錠が手首の肉を抉る激痛にのたうちまわり獣じみた唸り声を発し、堕ちるとこまで堕ちた自らの境遇を呪っている。それぞれの鉄扉の奥から嗚咽や絶叫や呪詛が漏れ聞こえるさまは刑務所というより表に出せない狂人を隔離する精神病棟のようだ。 
 ここはくさい。なにかが腐ってく匂いがする。
 「人間が腐ってく匂いだ。そう思わない、ラッシー?」
 五十嵐の肩にしどけなく寄りかかり、耳元に吐息を吹きかける。
 僕が誘惑しても五十嵐はつれない、こっちを見ようともしない。
 首に腕を回して背中におぶさった僕を振り向きもせず淡々と餌やりを続けている。中腰に屈んだ姿勢から鉄扉下部の蓋を開けて食器ごとトレイを押しこむ、廊下の端に辿り着いて鉄扉が尽きるまで延々とそのくりかえし。
 つまんない仕事。
 五十嵐は損な役目ばっか押しつけられて可哀想。囚人に親身に肩入れして相談にのってやってる五十嵐は、囚人のことなんか虫けら程度にしか思ってない同僚に煙たがられて看守の間で浮いてる。
 大半の看守にとって囚人は殴る蹴るしてストレス発散するおもちゃにすぎなくて、僕たち囚人を対等な人間扱いする五十嵐は東京プリズンじゃ異端なのだ。 
 東京プリズンの看守としては異端で異質な存在の五十嵐は、今日もこうして文句を言わず、動物園の猛獣の世話をしている。五十嵐の背後に止まったワゴンには夕食のトレイがのせられてる。
 犬も食わない残飯。
 「毎回思うんだけどさあ、東京プリズンの食事ってまずいよね。ゲロみたい。僕舌が肥えてるからこんなの受けつけないよ、ラッシーから献立改善してくれるように上に言ってよ。僕たち育ち盛りなのにマッシュポテトと焼き魚の日替わり定食じゃあんまりだ、僕の背がちっとも伸びないのはそのせいだ」
 「ヤクのやりすぎだろ」
 正解。
 五十嵐のつれない答え、そっけないつっこみに肩を竦める。
 「それもあるけどさあ……そういえばラッシー最近痩せたんじゃない?頬がこけてるよ。目の下に隈ができてるけどちゃんと眠ってる?夜ちゃんと眠れないなんて悩み事でもあるの。副所長の安田さんはときどき医務室にクスリもらいにいってるみたいだけど…… あ、クスリっていってもいけないオクスリじゃないよ?ただの睡眠薬だよ。もっとも僕の扱う睡眠薬より全然効かないヤツだけど。
 安田さんもバカだよねえ、天国逝った気分でぐっすり眠りたいならボケたおじいちゃん医者じゃなくてドラッグストアを頼ればいいのに。そしたら合法非合法問わず効き目抜群の睡眠薬おろしたげるのに」  
 五十嵐の首に腕を回してぶらさがったまま、饒舌にまくしたてる。
 ここに来る途中、ロンにひどいこと言われて泣きながら医務室をとびだした僕はとりあえず気分を落ち着かせるため覚せい剤を注射した。その効き目がやっとでてきたらしい。 躁状態の僕は、とくに五十嵐の反応がなくてもかまわず言葉を続ける。
 五十嵐がつれないのはいつものことだ、いちいち落ちこんでたらきりがない。僕はビバリーの待つ房に帰りたくない、他に行くところがない。
 ならむなしい独り言でも五十嵐を相手に時間を潰すしかないじゃんかと開き直り、パパにおんぶをせがむ子供のように五十嵐の背中に上体を預ける。
 「ラッシーにもクスリあげよっか、睡眠薬でもドラッグでもなんでもこいだよ。今度不眠症の奥さんにもドラッグすすめてみたら?ヤなことなんか一発で全部まるごと忘れられるよ、人生薔薇色だよ。
 ドラッグ使ってセックスすれば普通のセックスの何倍も何十倍も何百倍も気持ちよくなれるよ、天国に届くよ。ラッシーんとこ、ずいぶんとご無沙汰なんでしょ。何年奥さんとヤッてないの?ダメだよそんなの、ラッシーまだ三十代の男盛りじゃん。奥さんとヨリ戻すために、下半身の勢い盛り返すためにドラッグに挑戦してみるのも悪くないって」
 「ひとの家庭の事情に口だしすんな」
 「あれ?ラッシーが寝不足なのって家庭が危機一髪で、奥さんに離婚迫られてるからじゃないの」
 てっきりそう思いこんでたのに。
 五十嵐の家庭が荒みきってるのは東京プリズンの囚人のだれもが、とは言わないけど八割は知ってる有名な噂だ。
 僕も詳しいことは知らないけど五十嵐は何年か前に最愛の一人娘を事故でなくして以来フィリピ―ナの奥さんとうまくいかなくなって、前にいた刑務所じゃ同僚と揉め事起こして東京プリズンに左遷されてきたらしい。
 五十嵐は宿舎住まいで奥さんに会いに帰るのは月末一度きりだし、それだって奥さんが自殺してないかどうか生存確認の意味合いが強いから夫婦仲は冷めきってる。
 口さがない看守や囚人に離婚は秒読みだろうと噂される五十嵐の横顔を観察する。
 たしかに最近、五十嵐は目に見えて痩せた。やつれた、と表現したほうが正しいか。
 頬がげっそりこけて目の下には隈ができて、体がひとまわり薄くなったような錯覚さえ覚える。夜もろくに眠れないらしく、神経質に血走った眼球が飢えた獣のように凶暴な光を放っている。
 やせ衰えた顔の中、目ばかり異様にぎらつかせた五十嵐に背筋が寒くなる。 
 五十嵐の様子はどこかおかしい。どこがどうおかしいと明確には言えないけど、絶対おかしい。この五十嵐はなにかちがうという根本的な違和感が拭い去れない。
 これが本当に、囚人に親身に接してくれる人望厚い看守?
 囚人によくしてくれると評判の看守の五十嵐?

 ―「五十嵐!!」―

 破れ鐘のような怒声が響く。
 鉄扉の内側で破裂した怒声が、どこか切迫した五十嵐の横顔に魅入られていた僕を正気に戻す。
 聞き覚えのある声だ。
 うろんげに目を細め、五十嵐の肩越しに身を乗り出して鉄扉を凝視。
 扉の内側では、糞尿まみれの暗闇に両手を拘束されて転がされた人物が怒り狂っている。
 「なにちんたらやってんだ、こちとら腹ぺこなんだはやく飯食わせろや!まったくてめえはなにやっても愚図で使ねえな、そんなんだから同僚から煙たがれてハブにされるんだよクズが!ガキどもに慕われてるからって調子のってんじゃねえよ、それともなにか、てめえはガキに優先して餌やって恩売ってるつもりなのか?餌付けかよ、餌付け!
 見所あるガキども餌付けしてフィリピ―ナの嫁さんとご無沙汰なぶん囚人のケツで楽しむつもりか、恐れ入ったぜおい!」
 扉の内側で弾ける下劣な哄笑、五十嵐へと浴びせ掛けられる下卑た揶揄。扉がガンガン鳴っているのは、独居房に放りこまれた人物が全力で体当たりしてるためだろう。
 うるさい哄笑の主は、東京プリズン最低最悪の看守……タジマ。
 そういえばタジマも独居房に入れられてたんだっけ、と僕は今ごろになって思い出す。性懲りなく大怪我で入院中のロンを襲って、キレた安田に独居送りを命じられたタジマは、おおかたの予想通り反省するどころか逆ギレして、言いがかりとしか思えない無茶を五十嵐になすりつけてる。
 「いいかげんにしろよタジマ、近所迷惑だ。周囲の房の連中がびびってんだろ。看守の威厳はどこにやったんだ、普段あんだけ警棒ふりまわして威張り散らしてるんだから独居房の中でも毅然としてろよ」
 五十嵐が疲労のため息をつく。学習能力のなさを証明するように鉄扉に突撃をくりかえすタジマにあきれかえっているのだろう。
 何度となく鉄扉に頭突きを食らわしては「いてえじゃねえかよ畜生、ただの鉄くずの分際で!いいか覚えてろよ、ここ出たらバーナーで溶かしてやっからな!」と吠え猛るタジマに僕もげんなりする。
 ガンガンと衝突音が連続し、鉄扉が震動する。
 嘆かわしげに首を振りつつ鉄蓋を開ける五十嵐。味噌汁がこぼれないよう慎重な手つきで食器ごとトレイを押しこめば、飢えて凶暴になったタジマが生唾を飲む気配が伝わってくる。
 がつがつと食欲旺盛にものを咀嚼する音がしばらく続く。
 下品に音たてて味噌汁を啜り、残飯を犬食いするタジマの姿を想像すれば、口元に笑みが浮かぶのをおさえられない。いい気味だ、ざまあみろ。汚物まみれの床にみじめに這いつくばり残飯犬食いするタジマを想像し、こっそり溜飲をさげた僕の耳に、五十嵐のおせっかいが届く。
 「よーく噛んで食えよ、喉詰まらせねえように」
 その言葉におもわず吹き出す。
 「ラッシーてば、お父さんみたい」
 たいした意味はなかった。 
 でも、五十嵐は僕の一言で硬直した。僕は五十嵐の横顔がぎくりと強張った一瞬を見逃さない。
 自分でも見て見ぬふりしてきた欺瞞をつかれたような反応。
 「ラッシーってばどうしたの、そんなぎょっとした顔しちゃって。僕はただラッシーが囚人みんなのお父さんみたいだから、それで……」
 早口で言い訳すれば、鉄扉と向き合った五十嵐がぼそりと呟く。
 「お父さんじゃねえよ。もう」
 どこを見てるかわからない虚ろな目。救いがたく暗い声。放心した顔つきで虚空を眺める五十嵐を現実に呼び戻したのは、むしゃぶりつくような勢いで残飯をがっつくタジマの催促。
 「五十嵐、この愚図が!サービス悪いんだよお前は、なにボケッとしてんだよ、俺が手錠かけられて手え使えねえの知ってて放置プレイしてんのか。同僚ならこの鉄蓋開けて匙持って飯食わせろよ。あーん、あーん」
 喘ぎ声じゃない。タジマは間抜けに大口あけて、五十嵐が匙を運んでくれるのを待ってるらしい。
 なんだか、聞いちゃいけない台詞を聞いちゃったみたいだ。
 呆然とした僕をよそに、これ以上タジマに付き合ってられないと判断した五十嵐がため息まじりに腰を上げる。五十嵐が立ち去る気配を察したのか、鉄扉の内側でタジマがあせる。
 「てめえなに俺様のこと無視してんだ、その態度はなんだ!?下僕のくせにご主人様に反抗する気かよ、いつからそんなに偉くなったんだよ、娘見殺しにした親父がよ!」 
 え?
 五十嵐の顔色が豹変する。殺意の眼光を双眸に宿した五十嵐が、しずかに問う。
 「……今なんて言った」
 「ああなんべんでも言ってやら、娘見殺しにした父親が俺様に逆らうなんざ十年早いぜ。忘れたとは言わせねえぜ、お前の大事な大事な一人娘が死んだのはお前のせいだ。お前があの日笑いながら送り出したりしなけりゃ、かわいいかわいい一人娘のリカちゃんは今も元気にしてたってのによ。惜しいなあ、今ごろはきっとフィリピ―ナのカミさん似の美人に成長してただろうによ!
 娘が死んだのは全部お前のせいだ、お前が止めなかったせいだよ!
 リカちゃんも可哀想になあ、ようやっとアソコに毛が生え始めた年齢だってのにこんなクズでどうしようもねえ父親もったせいで処女のまんま死」
  
 鉄扉に凄まじい蹴りが炸裂した。

 憤怒の形相に変じた五十嵐が、鉄扉の真ん中に容赦なく蹴りをいれたのだ。
 はげしい怒りに駆り立てられ、暴力衝動を抑制できず鉄扉に蹴りを入れた五十嵐の眼球は狂気に血走って異様にぎらついていた。沸沸とこみあげる激情を押し殺そうとでもいうように、震えるほどにこぶしを握りしめ、鉄扉を睨みつける。
 正しくは、鉄扉の向こうにいるタジマを。
 「リカのことは言うな」    
 苦渋に満ちた声で吐き捨て、五十嵐が深呼吸する。
 「今度リカの名前をだしたら、お前も殺すぞ」
 ………お前「も」?
 五十嵐の言いまわしに微妙な違和感を感じる。お前もってことは、タジマだけじゃないってこと?他にだれか殺したい人がいるってこと?混乱する僕をよそに、手荒くワゴンを押して立ち去る五十嵐。背後でタジマがなにか吠えてるけどもう振り向きもしない。
 「待て待ちやがれ五十嵐、俺様にこんなことしてただですむと思ってんのか!忘れたのか、脅迫のネタ握られてること!あのことがバレたらお前東京プリズンにいられなくなるぞ、いや東京プリズンだけじゃねえ、どこの刑務所からもお呼びかからなくなってフィリピ―ナの女房ともども路頭に迷うしかなくなるんだぜ!お前の生命線は俺に握られてるんだ、東京プリズンにいたけりゃ大人しく言うこと聞いとけ!」
 ガンガンと鉄扉に体当たりし、なりふりかまわず五十嵐に食い下がるタジマに辟易する。 
 再び鉄扉が揺れた。
 今度は五十嵐じゃない、僕が蹴りを入れたから。高々と足を振り上げ、扉の真ん中あたりに渾身の蹴りを見舞えば、僕と同時に頭突きを食らわしたらしいタジマがその衝撃をモロに受けて失神する。白目を剥いたタジマの姿は鉄扉に遮られて見えないけど、低いうめき声が漏れてきたから間違いない。
 僕が蹴ったことがバレたらあとで復讐されるに決まってるけど、タジマにはこっちが見えないから安心。
 「ざまあみろ。豚は豚らしく下品に鼻鳴らして残飯あさってろ、ゲス野郎にはお似合いだ」
 おまけに一発見舞い、素早く背中を翻す。そんな僕を五十嵐はあきれたように眺めていたが、すべての房に配膳を終えたと見え、ワゴンを押して立ち去りかける。
 車輪が廊下を擦る音がやけに大きく反響する。
 五十嵐の背後に歩み寄った僕は、頭の後ろで手を組み、さりげなく訊く。
 「ちょっと気になったんだけど、ラッシー」
 「なんだ」
 「今、だれか殺したい人いるの」
 図星だ。
 ワゴンの取っ手を掴んだまま、五十嵐が立ち止まる。微動だにせず立ち竦んだ五十嵐の背後に忍び寄り、声をかける。   
 「水臭いじゃん、なんで相談してくれないのさ。僕とラッシーの仲なのにさ。ラッシーこの頃様子おかしいからバレバレだよ。決め手はさっきの一言だけどね。
 リカちゃんて娘さん?可愛い名前だね。きっと可愛い子だったんだろうね。死んだのって何年前だっけ?死んだリカちゃんのことひどく言われたら腹立つの当たり前だよ、同情するよ」
 大袈裟に眉をひそめ、嘆かわしげにかぶりを振り、五十嵐に同情したふりをする。もちろん演技だ。
 僕はただ好奇心から五十嵐の本心を探ろうとしただけ。五十嵐が殺したい人物がだれか知りたいだけ。
 だから僕は嘘をつく。平然と。
 「可哀想なラッシー」
 「……可哀想?」
 五十嵐が怪訝な顔になる。僕に言われたことが理解できないといった様子。放心した顔つきで僕を見下ろす五十嵐に体をすりよせ、腕に腕を絡める。
 「僕知ってるもん、ラッシーがほんとはいいひとだって。囚人を虐待して憂さを晴らす腐った看守ばっかの東京プリズンで殆どすべて