ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 医務室に嗚咽が響く。
 「ひぐっひぐっ……ねえロンもひどいと思わない思うでしょ、ビバリーってばわけわかんない、あんなつまんないことで腹立ててさ。僕が一生懸命話しかけてもずっと無視で返事もしてくれないんだよ」
 俺の枕元で涙ながらに訴えるリョウをうんざり眺める。
 「つかお前なんでここにいんだよ。ビバリーと喧嘩したのはわかったけど違うとこ行けよ、俺とお前ダチじゃねえし親しくもなんでもねえだろ。いや、それ以前にお前こないだ俺にしたこと忘れたのか?背後から抱きしめて股間まさぐって腕にぶすっと痛いお注射してくれたよな」
 「ロン冷たい、大目に見てくれたっていいじゃんー。笑って許してよあれくらい」
 「あれくらい?」
 こめかみに血管が浮き立つ。
 「そんなことよりビバリーだよ!もうほんっと頭きた、ビバリーが泣いて謝るまで絶対帰ってやんないんだから。僕悪くないもんね、僕が謝る必要ないよね。ねえロンもそう思うっしょ」
 「野郎の飴玉恋しいなら他あたれ男娼。ぶん殴るぞ」
 ビバリーと喧嘩したんだかなんだか知らないが、枕元でめそめそ泣かれるのは鬱陶しい。行く場所もなく頼る人間もいないリョウが医務室にふらふら吸い寄せられたのは泣き落としにかかる人間を邪険にできない俺のお人よしな性格につけこんだからだが、どっこい俺はこないだリョウにされたことを根に持ってる。
 ついこないだ渡り廊下で起きた抗争でリョウが俺にしたこと……思い出すのもおぞましい。
 俺の背後に忍び寄ったリョウが人懐こい笑顔で腕を掴まえて袖をめくりあげて注射針の鋭い先端を突き刺す。血管に注入された覚せい剤がやがて全身に巡り、意識が朦朧として体がぐったり弛緩して、膝が砕けるようにくずおれた俺を背後から抱きしめたリョウのツラがまだ鮮明に脳裏に焼き付いてる。
 それだけじゃない、リョウは意識が朦朧と霞んだ俺の体を好き放題に弄んでくれた。ズボンの内側に手を突っ込んで俺の股間をまさぐって、鍵屋崎やレイジやサーシャが見てる前でさんざん辱められた。
 今思い出しても恥辱で頬が熱くなり、リョウへの憎悪で瞼の裏側が真っ赤に燃える。
 リョウが医務室に入って来た途端、より正確に言うならカーテンをシャッと開けた瞬間に全身の血が逆流して頭が沸騰して、漫画を放りだしベッドに跳ね起きた俺は、自分でも意味不明な奇声を発してリョウに殴りかかろうとしたが、リョウがいきなり腰にとびついてきたもんでそうもいかなくなった。
 一応、俺は怪我人だ。肋骨を骨折した上に全身十三箇所の打撲傷を負って絶対安静を義務付けられた不自由な体だ。そんな俺が腹にタックル食らってベッドに押し倒されたところを試しに想像してみてくれ、ぶっちゃけ死ぬかと思った。怪我人の腹に突撃するなんざお前は鬼かとリョウの胸ぐらを掴んで罵倒したかったが、肋骨が圧迫された激痛にのたうちまわるしかない俺には無理だった。
 で。リョウは今、俺の枕元にちゃっかり腰掛けてる。
 見舞い客用の折り畳み式椅子に腰を据えて、さっきからめそめそぐすぐす泣きっぱなしだ。リョウが支離滅裂に訴えたところをまとめると、ビバリーと喧嘩して、一方的に無視される気まずさ所在なさに耐えかねて房をとびだしてきたらしい。
 時刻は夕方。強制労働が終了して、囚人が続々と引き上げてきた頃だ。
 俺はいい加減うんざりしていた。リョウときたら俺がベッドに寝たきりなのをいいことに強制的に泣き言に付き合わせて憂さを晴らしてるとしか思えない。
 その証拠に涙と鼻水でべっとり顔を汚して、子供っぽいしぐさでごしごし頬をこすり、時々しゃっくりの発作めいた変な嗚咽をあげ、ビバリーがいかに人でなしか思いやりのないヤツか切々と訴えてるのだ。演技が大袈裟すぎて同情を引こうって魂胆が見え見えだ。哀れっぽく鼻を啜り上げながら俺の顔を覗きこむ動作がなんだかリスっぽくて庇護欲をくすぐるが騙されちゃいけない。斜め四十五度に計算し尽くされた角度で小首を傾げるのはリョウの作戦だ。
 つぶらな目を涙で潤ませ、めそめそ泣きべそをかきながらも、男に媚売るのを忘れないしたたかさはさすがだ。言っとくが、俺はこいつが嫌いだ。大嫌いだ。男に縋らなきゃ生きてけないところなんて俺がこの世でいちばん嫌い女、すなわちお袋そっくりだ。男に依存して甘い汁吸おうって魂胆が透けて見える媚びた笑顔もお袋そっくりだ。
 「俺の手足がちゃんと動くなら鼻と前歯へし折って、男相手に商売できないようにしてやりたい」
 本気だった。
 ベッドに上体を起こした俺は、体を満足に動かせない悔しさに歯噛みする。
 リョウに殴りかかろうと片腕振り上げただけで、みっともない悲鳴をあげずにはいられない激痛に襲われたのだ。苦痛に顔を歪めてベッドに突っ伏した俺をひややかに見下ろし、「馬鹿じゃんロンなにやってんの。死ぬよ」と言い捨てたリョウの軽蔑の表情が忘れられない。健康体に戻ったらお礼参りしてやる。
 だが、この体じゃ無理だ。悔しいが、腕づくでリョウを追い払うこともできない。リョウを殴ったら逆に手首が折れちまいそうだ。リョウを無視して大人しく寝てるのがいちばん賢い選択なんだろうが、喧嘩っ早くて気が短い俺には生憎できかねる相談だ。
 「お前うざいよ、他あたれよ。房に帰りたくないんなら客のベッドにもぐりこんでりゃいいだろ、売れっ子なんだからよ。男たらしこむの得意なんだろ?俺にひっつくのはやめろ、迷惑だ、うざったい。お前の面見てるとストレス溜まるんだよこっちは」
 「そんな気分じゃないよ……」
 「知るか」
 俺に泣きつかれても困る。
 だいたいリョウには反省の色がかけらもない、渡り廊下じゃさんざん人を弄んで見世物にしてくれた癖にそんなことまるっきり忘れたみたいに、いや、それどころか最初からなかったみたいにまったく悪びれない態度が神経を逆撫でする。 
 枕元の椅子に腰掛けたリョウが、ぐずぐず鼻水を啜りながらポケットをさぐる。
 「これあげる。お見舞い」
 意外な言葉に耳を疑う。
 「……なにその疑心暗鬼の眼差し。傷つくんだけど」
 リョウの手のひらには草苺……いちごがのっかっていた。
 いちご。たしかにいちごだ。ほのかに甘酸っぱい匂いも漂ってくるし。
 「どうしたんだよこれ」
 「イエローワークの温室でとれた。欲しいって言ったらくれるって言うから貰ってきた。ひとりで食べるつもりだったけど、その……」
 リョウが言い淀む。叱られた子供みたいに首をうなだれた姿に孤独なレイジが重なる。
 リョウが言わんとしたことに察しがついた。
 リョウの尻ポケット一杯に詰まってたいちごは、ビバリーと半分こしようとわざわざ持って帰ったものだった。いちごのお裾分けをきっかけに仲直りできたらいいなと考えたんだろうが物事はそう簡単にはいかなくて、結局リョウは逃げるように房をとびだして現在に至るわけだ。
 ひとりでいちごを食べるのは寂しいから俺にも食え、とそういうわけか。
 実際、ふたりで食べる予定で狩って来たいちごをひとりで摘むのはみじめだろう。ちょっとだけリョウに同情する。いちごを半分こして仲直りという発想は幼稚だが、半面けなげでいじましいといえなくもない。
 「……しかたねえな食うよ、食ってやるよ!それで満足するんだろうが。うざってえからこれ食ったらむこう行けよ」
 リョウを追い払いたい一心でヤケ気味に叫び、いちごをむんずと掴み取る。
 そのまま口に放りこもうとして、はたとやめる。
 「……腐ってないよな」
 「失礼だね、とれたて新鮮だよ。僕が毎日ホースで水やって育てたいちごなんだから」
 「毒入ってないよな」
 「……いいよもう食べなくて」
 リョウがふてくされる。
 「冗談だよ。食うよ食うっつの」
 だが、なかなか口に放りこむ決心がつかない。見た目はたしかにいちごだ。赤い表面に黒い粒粒の可憐な果実。だがリョウのことだ、またなにかよからぬこと企んでる可能性も捨てきれない。
 こいつ、また俺をはめようとしてるんじゃないか?
 顔に疑念がでたらしい。
 気分を害したリョウが憤然と椅子を蹴り、俺の手からいちごをもぎとりにかかる。
 「ああもうビバリーもロンも頭くるっ、人の親切疑って無駄にして!そんなに僕が信用できないならいいよ、いちご返してよ!ぼくひとりで欲張って食べておなか壊してやるっ」
 「なんだよお前が先に言い出したんだろ、こらさわんなこれはもう俺の手に渡ったんだから俺のいちごだよ!いちごなんか見るのも食うのもひさしぶりだししみじみ感慨に浸ってただけだよ、食いたくないってかってに決めつけんなよ!」
 「嘘つき、ほんとは食べたくないくせに!いやな顔してたくせに!」
 「いてててて指こじ開けにかかんなよ怪我人にゃ親切にしやがれこの男娼!?」
 「ああっ信じらんないっ、いちごに唾かけたばっちい!」
 「これで俺以外食えねえだろざまあみろ、いちごは俺のもんだ!」
 子供っぽい上に意地汚さ全開の喧嘩だ。
 得意げに開き直った俺に降参したか、がっくり肩を落とし、椅子にへたりこむリョウ。勝った。ささやかな勝利の余韻に酔い痴れながら、ゆっくり五指を開いて口にいちごを放りこもうとして愕然とする。
 いちごが手の中で潰れていた。
 『………………煩死了』
 リョウとの攻防で指に力をこめすぎ振りまわしたのが原因らしい。
 五指から滴る赤い汁がシーツに点々と染みる。くそ、こんなオチってありかよ。いちごにお目にかかるのなんて何年ぶりだかわかんねえのに。落胆した俺は、手のひらに舌をつけて甘酸っぱい汁を啜る。舌でねぶるように一本ずつ指をしゃぶり、丁寧に汁を舐め取り、いちごを頬張る。
 よく熟れていて、美味かった。
 「……意地汚いよロン。育ちの悪さがまるわかり」
 「だってもったいないだろ。
  形が悪くても味は変わんねえし、食いもん残すなってお袋に厳しく躾られたんだよ」
 むきになって反論すれば、こらえきれずにリョウが吹き出す。
 前にいちごを食べたのはいつだったっけ……もう思い出せないほど昔、俺がまだガキの頃。客が土産に持参したいちごがテーブルにおかれてて、お袋の目を盗んでつまみ食いしたことがあったっけ。
 手のひらに顔を埋め、夢中で汁を舐め取りながら、ふと呟く。
 「あいつにも食わせてやりたかったな」
 レイジはちゃんと飯食ってるだろうか。後ろ手に手錠かけられたまんまじゃさぞかし飯も食いにくいだろうに。俺ばっかいちごを味わって、ひとりじめして、後ろめたい。
 そんな俺を見て、リョウがあきれたふうに首を振る。
 「お熱いね。のろけてんのそれ?」
 「なんだよ、独居房にぶちこまれたダチの心配して悪いか」
 「ダチねえ」
 ベッドにだらしない姿勢で頬杖つき、小馬鹿にしたように鼻を鳴らすリョウ。
 「どいつもこいつもダチだとか相棒だとか仲間だとか僕に言わせりゃくだんないね。自分以外の他人に対する評価は利用価値があるかないかだけでしょ?使えないやつはぱぱっと切り捨てる、使えるやつはかわいがる。違うの?そうじゃないの?ねえロン、教えてよ」
 今日のリョウはやけにからんでくる。ビバリーと喧嘩した八つ当たりだろうか。挑発的な上目遣いで覗きこまれ、胸に反感が湧きあがる。自分の分のいちごをベッドにばらまき、すぐに食べるでもなく指でつついて転がし、ひょいと摘み上げては下方から覗きこむ。食い物で遊ぶなってお袋に教わらなかったのか、と一喝したいのをぐっとこらえる。
 リョウの目が、ひどく寂しげだったからだ。
 「わけわかんないよ、もう。なんでレイジがロンみたいに使えないやつ大事にするのか。ロンなんてなんにもできない、ただの足手まといじゃないか。レイジに比べりゃ喧嘩なんか全然弱いし、豹に守られてばっかの甘ったれの子猫。王様の懐でしっぽ逆立ててにゃーにゃー暴れるしかない乳臭い子猫じゃん」
 淡々とした指摘が、容赦なく胸に突き刺さる。
 リョウの言葉はどこまでも真実だ。今の俺はどこからどう見ても立派に足手まといで、レイジに比べれば全然喧嘩も弱くていつだってあいつに守られてばかりだ。俺だって強くなりたい、レイジの相棒として恥ずかしくないくらい強くなりたい。レイジが売春班撤廃の条件に100人抜き宣言したのも元はといえば俺が原因で、本来なら俺はこんなところで呑気に寝てる場合じゃないのだ。 
 「使えないねロン。ほんとーに使えない。レイジが100人抜き宣言したのだって元はいえば君のせいじゃん。ねえ教えてよ、どうやって王様たらしこんだの。僕がどんだけ口説いてもダメだったのに、君ときたらレイジと出会ってからたった一年半で骨抜きにしちゃって。野生の豹を手懐けるなんてすっごい調教師の才能でもなきゃ不可能だよ。
 ああ、そういえば」
 リョウがにっこりとほほえむ。
 男を翻弄して愉悦にひたる、底意地悪い娼婦の微笑。お袋がよく、この手の笑顔を浮かべていた。
 「決勝戦もうすぐだよね。大丈夫なの、勝てるの?右腕怪我してるんだよね。そんな状態で西と南のトップに戦い挑むなんて自殺行為じゃない、命投げてるよ。そんなに死にたいのかな、レイジってば。まあ可愛い可愛いロンちゃんのためなら喜んで死んでくれるだろうけどさ」
 「だまれ」
 「ホセとヨンイルだけじゃない、いちばんおっかないのはサーシャだ。サーシャは本気でレイジ潰しにかかるよ、殺しにかかるよ。ロンはそれでいいの?レイジは君のために命がけでリングに上るのに、君は応援も行かずベッドでじっと寝てるつもり?あんまり薄情じゃない、それ。相棒を名乗る資格あるの?」
 「だまれよ」
 「ねえロン、レイジが死んだら次はだれにすりよるの?レイジがいなくなったら次はだれにケツ貸すの?最有力候補は凱かな。東棟じゃサムライに次いでナンバー3の実力者で取り巻きもいっぱいいるし相手に不足はない。相棒とか友達とか仲間とかどうせ口先だけだよね、レイジが死んだら途端にレイジのこと忘れて次のパトロンさがすんだよね?君がよく口にする相棒って言葉も所詮、馬鹿な王様をつなぎとめとくための餌なんでしょ?」
 リョウがいちごを口に含む。
 「レイジ、ああ見えて寂しがり屋だもんね。ひとりぼっちは怖いだろうね。君のことを絶対手放したくないから、そりゃペア戦だって頑張るだろうさ。体ぼろぼろになっても笑顔を絶やさずに、全部君のために、君だけのために。ロン実は頭いいよね。仲間とか相棒とかレイジがそういう言葉に弱いって知ってて、軽い見た目に反してそういうのに人一倍こだわる甘いやつだって見ぬいて、お前は俺の大事な相棒だとかこれみよがしに言って聞かせてるんでしょ?」
 「違う、レイジは俺の相棒だ。嘘じゃない、マジでそう思ってる!」
 「ほらまた。僕にまで嘘ついてごまかしてる。ホントは自分さえよけりゃレイジのことなんかどうでもいいくせに。レイジだけじゃない、鍵屋崎もサムライもほんとはどうだっていいんでしょ?自分だけ助かるなら東京プリズンで無事に生き残れるなら、仲間を犠牲にしたってかまわないって利己的に計算してるくせに罪悪感から逃れたくて綺麗事ばっか」  
 いちごを口の中で転がしながら、椅子の背凭れに背中をあずけ、リョウが肩を竦める。
 俺のことはなんでもお見通しだと言わんばかりの達観した表情。
 「正直に吐いちゃいなよ。腹ん中じゃレイジのことうざったいって思ってるんでしょ?鍵屋崎もサムライもうざったいって思ってるんでしょ、自分には仲間なんかいらないって思ってるんでしょ。ロンも僕とおんなじだよ、友達とか仲間とか相棒とか言葉には反吐がでるタイプの人間」
 唾液に濡れ光るいちごを口から引っ張り出したリョウが、唇の端を邪悪につりあげる。  
 「仲間なんかくだらないね。くだらない仲間のために死ぬつもりでいるレイジもくだらない」
 
 頭の血管が切れた。
 発作的に、リョウの胸ぐらを掴む。

 「……前言撤回しろ、レイジはくだらなくねえ」
 舌にいちごをくるんだリョウが驚いたように目を見張る。滑稽な芝居。
 「どうしたのロン、そんなおっかない顔して」
 「黙れよ男娼」
 くだらない?くだらなくなんかない。
 「くだらないもんか、レイジは俺の相棒だ。俺に相棒を名乗る資格がなくてもそうなんだ。あいつはいつだって俺のこといちばんに考えてくれるどうしようもないイイやつで、ときたまそれが空回って身勝手に結論だしちまうこともあるけど、でもそれだって俺のためなんだよ」
 「なにそれ自慢、のろけ?」
 リョウの挑発を鼻で笑い飛ばし、言い返す。
 「ああそうだよ、自慢だよ。のろけてるんだよ。俺はいい相棒持って幸せだなってダチのいないお前に自慢してやってんだよ、どうだ、死ぬほどうらやましいだろ。いいかよく聞けよ男娼、レイジはくだらなくなんかねえ。あいつは最高だ。俺の人生は今だってかなり最低だけど、あいつがいるからどん底から救われたんだ。俺は東京プリズンに来てから何度も何度も何度もレイジに救ってもらって助けてもらって、そんでいつのまにかあいつのことがめちゃくちゃ大事になった。あいつのことがめちゃくちゃ好きになった」
 お袋よりもメイファよりもずっと、俺にとっちゃなくてはならないやつで。
 俺の人生にはなくてはならないやつで。
 大きく深呼吸し、揺るぎない眼差しでリョウを睨みつける。
 「あいつは俺を裏切らないし、俺はレイジを裏切らない」
 レイジが俺を裏切るときは、俺のことが嫌いになったとき。
 俺がレイジを裏切るときは、レイジのことが嫌いになったとき。 
 だからそんなことはありえない。絶対に。
 「リョウ、お前はどうなんだよ。そう思える相手いるのかよ。いないのか?可哀想にな。俺は今までの人生ろくなことなくて、しまいにゃ東京プリズンに送られてずっとヤケになってたけど、レイジと出会えた今はそれなりに人生楽しいよ。あいつがいてくれて幸せだよ」
 まっすぐリョウを見つめ、皮肉げに笑う。
 「その分だと、お前の人生はつまんないだろうな」
 リョウの顔が怒りで紅潮する。
 椅子を蹴倒して立ち上がったリョウが、体の脇でこぶしを握りしめ、肩で息をしながら俺を睨みつける。
 「ロンもレイジも鍵屋崎もサムライもみんな死んじゃえ、お前ら全員ペア戦で心中すればいいんだ!!」
 残りのいちごを床にぶちまけたリョウが、ベッドの脚をおもいきり蹴飛ばし走り去る。
 医務室のドアが乱暴に閉じられ、靴音が急速に遠ざかってゆく。 
 床一面に散らばったいちごを見下ろし、ため息まじりに呟く。
 「…………………ガキ」
 一応年上だよな、あいつ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050831101918 | 編集

 「そんなことがあったのか」
 サムライが慨嘆する。
 「そんなことがあった」
 僕は疲労のため息をつく。
 衝立に仕切られたベッドの傍ら、見舞い客用の折り畳み椅子に腰掛け今日の出来事をサムライに相談する。
 ヨンイルは結局、怪我の手当てを拒んで西棟に帰ってしまった。僕は五十嵐に殴られ怪我をしたヨンイルを医務室に担ぎこもうとしのだが、ヨンイルときたら「かすり傷やから心配すな」とやんわり拒んで人の好意を無駄にしてくれた。僕に心配かけまいと強気に振る舞っていたのか本当に気にしてないのか、快活な笑顔からはわからなかった。 
 僕はどうしたらいいんだ?
 ヨンイルを見る五十嵐の目。
 あの目を昔どこかで見た。
 見覚えがあるはずだ。ヨンイルを見る五十嵐の目は、あの日窓ガラスに映った僕の目とおなじ色を湛えていた。両親を刺殺した直後、自分がしたことの恐ろしさに愕然と立ち竦む僕が緩慢に振り向けば、雨滴の伝う窓ガラスに自分の顔が映っていた。鮮血にぬれたナイフを片手にさげ、放心した眼差しを窓ガラスに投げかける僕の双眸には、ヨンイルにのしかかった五十嵐とおなじさまざまな感情が渦巻いていた。
 激情に翻弄されヨンイルに暴力を振るう五十嵐の姿に、僕は戦慄した。本当は止めなければいけなかった。しかし僕は、ヨンイルが五十嵐を暴行する現場に居合わせながら止めにも入らず立ち尽くしていた。
 自分の無力に甘んじるのはいやだとあれほど言っていたくせに、肝心な時に体が動かなかった。
 五十嵐の怒りはそれほど衝動的で、五十嵐の憎しみはそれほど圧倒的で、情けないことに恐怖に足が竦んだ僕は五十嵐に近寄ることさえできなかった。
 「口先だけで共感するのは卑怯者だが、少なくとも僕には、五十嵐の気持ちが想像できる」
 伏し目がちに続ける。
 「五十嵐にとってヨンイルは憎い娘の仇だ。最愛の娘をテロで不条理に奪われた五十嵐の絶望ははかりしれない。気持ちが整理できなくて当然だ。一生かかったって整理できるはずがないんだ。僕が五十嵐の立場でもたぶん同じ行動をとる。想像したくもないがもし恵がそんな死に方をしたら、恵が死亡する原因を作った人間と日常的に顔を合わせるような環境にいたら、僕はどんな手を使ってもその人間を殺す」
 淡々とした告白。
 ベッドに上体を起こしたサムライは思慮深げな面持ちで僕の言葉に耳を傾けていた。非難も賛同もせず、ただ耳を傾けてくれる姿勢が有り難かった。サムライになら僕は本音で話せる、自分の奥底の汚い部分や卑劣な部分を率直に曝け出すことができる。サムライは僕を裁かない、罰しない。理解しない、共感しない。あくまで冷静に客観的に、僕の話が終わるまでじっと耳を傾けてくれるのだ。
 冷徹な無表情が、淡白すぎる態度が、どれだけ僕を救っているか知れない。
 サムライがただ聴いてくれるから、僕は自分でも気付かずにいた自分の本音と逃げずに向き合うことができるのだ。これまで目を背け続けてきた現実を直視することができるのだ。
 「……だが、僕は何故だかヨンイルを憎めない。手塚治虫が好きな人間に悪い人間はいないと安直に結論づけたりはしないが、手塚治虫の話をするときのヨンイルは本当に無邪気で心の底から楽しそうで。いつからか僕は、彼と手塚治虫の著作について意見を交わすのを楽しみにしてる自分に気付いた」
 サムライが真摯な眼差しでこちらを見つめている。
 サムライはこんな時でも惚れ惚れするほど姿勢がよい。ベッドに背中を起こして凛と背筋をのばして、端然と座した姿には清冽な気品すら漂っているかのようだ。触れれば切れる刃物のような緊張感のある男、というのがサムライの第一印象だった。それは今も変わらない。
 だが今のサムライは、冷徹な無表情を装ってはいても、不器用な気遣いの色を隠せないでいる。
 サムライは不器用な男だ。
 本当は、だれより優しい男だ。
 「だから僕は、どうしたらいいかわからないんだ」
 こんな情けないこと言いたくはなかった。
 どうしたらいいかわからないなんて無能の常套句じゃないか。自分の頭を使って解決策を練ることができない無能の言い訳じゃないかと僕はずっと心の中で嘲笑してきたのに、今は僕自身がその台詞を口にしている。堕ちたな天才、ぶざまだな鍵屋崎直。自分で自分に吐き気がする。
 膝の上でこぶしを握りしめ、唇を噛む。
 「サムライ知ってるだろう?僕はIQ180の天才だ、遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎優と由佳利の長男で将来有望な後継者だった人間だ。それなのに僕は東京プリズンに来てから自分の無力にうちのめされ屈辱を味わってばかりいる。今だってそうだ、IQ180の優秀な頭脳があれば僕には不可能なことなど何もないと思いこんでいたのに現実はそうじゃない。
 ペア戦では僕は常に足手まといで君たちの負担になってばかりいる。それだけじゃない、自信過剰な物言いで安田の銃さがしを請け負ったくせに今だに問題を解決できず結果をだせないでいる。僕は安田の信頼を裏切り期待を裏切った最低の人間だ、自分が言ったこと約束したことを何ひとつ実行できないのがその証明だ。
 今日だってそうだ、僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っていた。その理由も十分わかっていた。にも拘わらず、ヨンイルを殴る前に止めることもできなかった。知っているだけじゃ駄目なんだ、力が伴わなければ東京プリズンでは駄目なんだ。僕が君みたいにレイジみたいに強ければ、体を張って五十嵐を止めることもできたはずなんだ。五十嵐とヨンイルを力づくで引き離すこともできたはずなんだ、それなのに!」
 屈辱を噛み締め、深々と俯く。
 僕は五十嵐にもヨンイルにも傷付いてほしくない。五十嵐は僕に優しく接してくれる面倒見のよい看守で、恵への手紙をちゃんと届けてくれた。僕は彼にとても一言では言い表せないほど感謝している。数週間前のペア戦ではタジマに脅されて不承不承見張り役を引き受けていたが、僕は五十嵐の人間的な弱さを軽蔑しこそすれ完全には嫌いになれなかった。
 今でも覚えている、ボイラー室のドア越しに交わした会話を。照れ臭げに娘の自慢をする五十嵐を。
 僕はあの時、ほんの少しだけ五十嵐の娘を羨ましく思った。五十嵐みたいな父親がいる子供は幸せだと、鍵屋崎優に五十嵐の五十分の一でも父親としての愛情があれば恵は寂しい思いをせずにすんだのにと、僕たち兄妹の境遇と比較して淡い羨望を抱いた。恵がまともに人の目を見れず自己主張もできない卑屈な性格になったのは実の両親の無関心が原因で、もし鍵屋崎優と由佳利が五十嵐のように子供に愛情を注いでいたのならあんな結果にはならなかった。
 今なら言える。僕は五十嵐の中に理想の父親を見ていた。
 こうあってほしかった、鍵屋崎優の幻影を。
 僕が五十嵐を憎めないのは、五十嵐の中に鍵屋崎優の幻影を追い求めているからだ。僕は無意識に鍵屋崎優と五十嵐を混同していたのだ。僕は物心ついた時から両親に甘えたことがなく、両親と親しくふれあった記憶もなく、鍵屋崎優に対しては父親というより厳格な教師にして研究者という認識が強かった。
 だから父親というものに対して、未熟で幼稚な憧れを抱いていたのかもしれない。五十嵐がもし恵の父親だったら、今は亡き娘にそうしたように恵を愛してくれたらと想像したのはきっとその延長だ。
 「サムライ、笑うなよ」
 「笑わない」
 疑い深く念を押した僕に、サムライがきっぱりと断言する。
 力強く請け負ったサムライの表情を注意深くさぐりながら、吶々と呟く。
 「僕はその、自分でも意外なのだが……五十嵐のことがそれほど嫌いではないみたいなんだ」  
 サムライは笑わなかった。
 僕のまわりくどい言いまわしに当惑しただけだった。
 三秒ほど僕の言葉を咀嚼してからようやく腑に落ちたようで、切れ長の双眸に理解の光がともる。先を促すように頷いたサムライから視線をそらし、眼鏡のブリッジに軽く触れる。
 「五十嵐だけじゃない。ヨンイルのこともそれほど嫌いではないみたいなんだ」
 「………」
 「何故黙りこむ」
 おかしなサムライだ、五十嵐のときはとくに反応しなかったのに。
 憮然と押し黙ったサムライに当惑する。不愉快そうに瞼を閉じて腕を組んだ姿はどこか近寄りがたい。
 「君が不機嫌になる理由がわからない、理解不能だ。嫌いではないと言っても好きに直結するわけじゃない、もとより同性に恋愛感情を抱くわけがない。誤解しないでくれないか。ただ僕は、彼らのことがそれほど嫌いではないと最近自覚しはじめてそれで」
 「それで?」
 おかしい、なんだこの空気は。何故僕がうしろめたくならねばならない。言い募る口調も自然言い訳がましくなる。腕を組んだサムライに冷たく一瞥された僕は、小さく呟く。
 「………五十嵐とヨンイルが互いに傷つけ合う姿など見たくない」
 今回は決定的な破綻は避けられたが、五十嵐が爆発するのは時間の問題だ。
 もうあまり時間はない。それがどんな形で訪れるかわからないが、おそらく最悪の形だろう。五十嵐はヨンイルのことを殺したいほど憎んでいる。もし次に五十嵐とヨンイルが直接顔を合わせることがあれば……
 五十嵐の指で顔に血をなすられたヨンイルを思い出し、ぞっとした。
 「僕は五十嵐がヨンイルを憎んでいることを知っている、その理由も知っている。だがヨンイルは何も知らない、何故自分が五十嵐に憎まれているのかその肝心なところをちっとも理解していない想像力の欠如した人間だ。サムライ、僕はどうしたらいい?ヨンイルに真実を話すべきか。五十嵐に憎まれている理由を教えて注意を促すべきか、それが来るべきる破綻を避ける最善の方法なのか!?」
 衝動的に椅子を蹴倒し、相手が怪我人だということも忘れ、語気荒くサムライに詰め寄る。 
 ヨンイルは何も知らない。自分が五十嵐に憎まれている本当の理由を、自分が五十嵐の娘の仇だという残酷な事実を。だからあれほど無邪気に無防備に振るまえる、深刻に思い詰めた五十嵐を逆上させるような真似ができる。破綻を回避するために、ヨンイルが事実に直面する事態は避けて通れない。
 だが、それでいいのか?
 本当にそれでいいのか?
 真実を知ったヨンイルがショックを受けたら、それが原因でヨンイルの笑顔が失われてしまったら?
 ヨンイルの笑い声が図書室から消えたら?
 僕の決断が誤まっていたらもう取り返しがつかないのだ。知らずにすむことなら知らせずにおきたいという消極的な考えを僕は完全には否定できない。ヨンイルはたしかに人殺しだ。ヨンイルの作った爆弾で二千人以上の人間が死んだ。だがそれはヨンイルひとりの責任か、ヨンイルひとりの罪か?偽善ぶってヨンイルを糾弾し贖罪の人生を生きろと迫る資格が人殺しで親殺しの僕にあるのか? 
 僕には重すぎる決断だ。
 だから迷う、迷ってしまう。
 どうしても迷ってしまう。僕の一言がきっかけでヨンイルが変わってしまうことが、何より怖い。
 真実を知ることに耐えられない人間は、少なからずいる。
 僕もその一人だから、わかる。
 痛いほどわかってしまう。
 「……馬鹿だな僕は。サムライ命令だ、今言ったことは全部忘れてくれ。君に相談してもどうしようもないのに頼らずにいられないなんて惰弱さの証明だな、自分の情けなさに反吐がでる。IQ180の天才のくせに、僕は現在抱えた問題をひとつも処理できず悪化するまま看過している。全身に転移した末期の癌細胞を放置しているようなものだ。ブラックジャックに軽蔑されるな」
 ブラックジャックは関係ない。どうやら僕も精神的にだいぶ参ってるようだ。
 自嘲の笑みを口元に浮かべた僕をサムライは物言いたげに眺めていたが、ふとその眉間に皺が寄る。
 「直」
 「?」
 唐突に名を呼ばれ、顔を上げる。

 「脱げ」

 「………は?」
 有無を言わせぬ命令口調だった。
 サムライは真剣だった。冗談を言ってるような感じではない。
 「……解熱剤を飲むか?通常は食後に二錠服用だが遠慮することはない、十五錠でも二十錠でも飲んでくれ、ただし命の保証はできない」
 「ごまかすな。肩のあたりに怪我をしているだろう」
 何故わかったんだ?
 動揺が顔にでたらしい。僕が肩甲骨に怪我をしたことを見ぬいたサムライが、眉間に剣呑な皺を刻んで首を振る。
 「ここに来た時から歩き方が変で気になっていた。右の肩甲骨を庇うようなぎこちない歩き方を妙に思わないほうがどうかしている」
 僕としたことが失態だった。図書室で五十嵐に応急処置を受けたが、彫刻刀で削られた肩が疼いて、必然ぎこちない歩き方になってしまったのだ。鈍感そうでいて洞察力の鋭いサムライは僕の変化をたちどころに見抜いてしまった。 
 言い逃れ許さじと怖い顔をしたサムライに、そっけなく言い訳する。
 「たいした怪我じゃない。君に見せるほどのことはない」
 「見せるほどのことがあるか否かは俺が決める。お前が判断することではない。お前は強情だからどれほど痛くてもひとりで我慢して平気なふりをしているとも考えられる」
 「邪推だ、僕が大丈夫だと言ってるんだから少しは信用しろ。心配しなくてもちゃんと消毒してガーゼを貼ってあるから黴菌が入ることもない。それにサムライ、わざわざ君に見せたところでその行為に何の意味があるというんだ!?僕は露出狂じゃないぞ、人前で服を脱ぐなど冗談じゃない。第一風邪をひいたらどうする?」
 「ならば脱がせるまでだ」
 ……サムライは熱があるのではないだろうか。
 そんなに僕の背中が見たいのか怪我の具合が気になるのか、一度言い出したらきかないサムライが僕の方へと手を伸ばしてくる。
 なんだこの展開は。サムライときたら強引にもほどがある。
 混乱した僕ははげしくかぶりを振りサムライの手から逃れながらも、それが時間稼ぎにしかならないことを悟り、ヤケ気味に叫ぶ。
 「強情だな君は!わかった脱げばいいんだろう、それで納得するんだな!?僕が自分でやるから怪我人はベッドで安静にしていろ、同性の服を脱がそうとしてベッドから転落なんて醜態を晒したくなければな!」
 人の手で脱がされるくらいなら自分で脱いだほうがマシだ。
 何故サムライがそれほど僕の背中にこだわるのか理解できない。いや、僕の背中に執着しているわけではなく傷の程度を自分の目で確かめたいのだと頭ではわかっているが不愉快なことに変わりはない。 
 サムライに背中を向け、憤然と上着の裾に手をかけ、一瞬躊躇する。
 背中にサムライの視線を感じる。
 サムライが小揺るぎもせず僕の背中を凝視している。上着越しでも視線の熱を感じるようだ。
 はげしくかぶりを振り、サムライの視線を断ち切り、上着の裾を掴む。この行為に特別な意味はない、相手は同性の友人だ。サムライが僕に欲情するわけがない、これでも一応サムライに信頼をおいているのだ。
 時間をかけて、ゆるやかに上着をめくりあげる。
 まずは細い腰、そして生白い腹部、続く胸板と鎖骨が覗く。もとから小食なせいか筋肉がつきにくい体質なのか、背は伸びても体格は一向に逞しくならず、四肢は貧弱なままだ。劣等感の塊でもある華奢な手足が目に入らぬよう肘を動かし、上着を頭から抜く。
 ひどく緩慢な動作で上着を脱げば、生傷と青痣の絶えない裸の上半身があらわになる。
 売春班で受けた傷は殆どが癒えたが、先日のペア戦でできた切り傷や残虐兄弟との格闘で負ったかすり傷が、裸身のあちこちに新旧大小の痣と混ざって穿たれている。
 上着から頭を抜き、袖に腕を入れたまま、サムライに背中を向け立ち尽くす。
 醜い烙印めいた痣と生傷だらけの裸身を、いかに同性の友人にとはいえ無防備に曝け出すのは落ち着かない。貧弱な手足は劣等感の塊だ。イエローワークの強制労働では少々日焼けしたが、売春班に移ってからは以前にも増して肌が漂白された。 

 サムライは何も言わず、ただじっと僕の背中を見つめていた。

 熱心な視線が右の肩甲骨に集中しているのが、肌が粟立つ感覚でわかる。
 傷口に貼られたガーゼの上に、サムライの視線を感じる。
 「触れていいか?」
 サムライが低く問い、体が強張る。何故さわる必要がある、と抗議しようかとも思ったが、サムライの声音があまりに思い詰めていたので言葉を呑むしかなかった。
 「痛くするなよ」
 サムライがさわりたいならさわればいい。
 僕は半分ヤケになっていた。一刻も早くこんな馬鹿らしい意味のないことは終えたかった。 
 背後で衣擦れの音、サムライが動く気配。膝這いににじり寄ったサムライが、そっと、右の肩甲骨に手をおく。
 ガーゼの上に優しく包むようにおかれた手からぬくもりが広がり、徐徐に緊張がほどけてゆく。
 サムライの手が触れた個所から癒されてゆくようだった。
 無骨に節くれだった指が、慎重な動作で肩甲骨を撫でる。ほのかなぬくもりが何よりも心地よく、安堵の吐息がもれる。
 「なにがあったんだ?」
 サムライに嘘をついてもすぐばれてしまう。仕方ないと観念した僕は、そっけなく呟く。
 「図書室で凱の仲間に絡まれた。残虐兄弟とかいう悪趣味な通り名の二人組だ。頼んでもないのに僕の背中に刺青を彫ってやると言い出して彫刻刀で」
 サムライの指がぴくりと震える。
 「心配には及ばない、たいした怪我じゃない。もうほとんど痛くない、このぶんなら二・三日中には完治するだろう。悪趣味な刺青を彫られずに済んで本当に安堵した。彼等のような低脳に刺青を彫らせたら字を間違われるに決まっている。『虐』の七の下がヨになる確率が高いとみた」
 「直、ひとりで大丈夫か?俺とロンは入院中、レイジは独居房。現在東棟にはお前しか残っていない。飯時はどうしている?ひとりで食べているのか」
 「それがどうかしたか?生憎僕は集団で馴れ合わなければ食事も喉を通らないほど繊細な神経の持ち主じゃない、これでも多少は東京プリズンで鍛えられたんだ。まあ肘をぶつけられたり足を踏まれたり味噌汁をかけられたりする程度のいやがらせは受けているが」
 「……程度か?」
 「もう慣れたからな」
 「そうか」
 僕の肩に手をおいたままサムライが黙りこむ。
 そして。
 「守ってやれなくて、すまん」
 深い悔恨に満ちた声音で、謝罪した。
 肩越しに振り向けば、慙愧に耐えずに俯いたサムライがいた。
 悄然と肩を落とし、一文字に唇を噛み締めるサムライに絶句する。その双眸は暗く翳り、眉間には苦悩の縦皺が刻まれ、普段から厳しい顔がさらに険しい形相へと変じていた。
 おのれの無力を全身全霊で恥じているような、潔い姿だった。
 「馬鹿を言うな、怪我人に守ってもらうほど僕は落ちぶれてないぞ。君は余計なことを考えず怪我の治療に専念しろ」
 「しかし」
 「君が早く退院してくれないと毒舌を吐く相手がいなくてストレスがたまる。精神衛生上悪い」
 何か言いかけたサムライを遮り、素早く服を着る。 
 サムライが変なことを言い出すから急に気恥ずかしくなった。羞恥心をかきたてられ、恥辱に頬を熱くし、慌てて腕に袖を通し裾をさげおろす。
 そんな僕をよそに首をうなだれてベッドに正座したサムライが、顔に苦渋を滲ませ吐き捨てる。
 「俺がいないあいだにお前の体に傷がつくのは耐えられん。この上は切腹も辞さん」
 「木刀で裂けるものなら裂いてみろ。物理的に不可能だ」
 本気のサムライにそっけなく切り返せば怖い目で睨まれた。
 サムライに顎をしゃくられ、ため息まじりにベッドに腰掛ける。まだ何か言いたいことがあるのか?もうすぐ消灯次間がきて自由時間が終了するというのに。うんざりした僕に体ごと向き直ったサムライが、枕元の木刀をひったくり、なかば強引に僕の胸へと押しつけてくる。
 「持っていろ」
 「は?唐突に何を言い出すんだ、これは君の木刀だろう。武士の命も同然の刀だろう」
 「いいから持っていろ。身を守る役には立つ」
 サムライは一度言い出したら聞かない頑固者だ。
 サムライに説得されて、しぶしぶ木刀を受け取る。慣れない手つきで木刀を持つ僕の正面、膝の上でこぶしを固めたサムライが深く俯く。
 僕を守れないおのれの不甲斐なさを呪うように唇を噛み、屈辱にこぶしを震わせるサムライの姿はどこまでも高潔に信念を貫く武士そのもので。
 縋るように僕を見上げる眼差しには、切迫した一念がこめられていて。  
 「俺がいないだ、せめて俺の代わりとしてそばにおかせてくれ」
 サムライは血を吐くように言った。
 「お前と離れているのが、辛いんだ。俺の目の届かぬ場所でお前の体に他の男が触れていると思うと夜も眠れん。本音を言えば俺自身が今すぐ退院したいのだがそれが叶わぬ望みなら致し方ない。直、お前に武士の命を預ける。俺の半身を委ねる。だからどうか」
 そこで言葉を切り、うっすらと頬を染める。
 「……どうかこれ以上、俺を惑わさないでくれ。お前の無防備さは、危険だ」
 そしてサムライは、頭を下げた。
 挨拶の見本のような非の打ち所のない動作。いかにサムライが幼少期から厳しく躾られていたかわかろうというものだ。サムライから木刀を預かった僕は一瞬躊躇した後、苦笑する。
 「心配性だな。わかった、いいだろう。それで君が満足するというなら一時的に木刀を預かってやる。僕もなるべく危険な目に遭わないよう身辺には注意するから、君は安心して将棋でもしていろ」
 木刀を預かったところで剣道の心得がない僕がとっさに反撃できる自信はないが、サムライの気持ちを無駄にしたくはない本心を隠して頷く。
 さて、もうすぐ消灯次間だ。そろそろ医務室を出なければ。
 「待て」
 木刀を片手にさげてベッドから腰を上げた僕を、サムライが呼びとめる。
 まだ何かあるのかと露骨に不愉快な顔で振り向けば、ベッドにきちんと膝をそろえて座したサムライが、
この上なく重大なことでも伝えようとするかのように真剣な面持ちで口を開く。
 「あまりひとりで抱え込むな、直。お前は十分よくやっている」   
 膝の上でこぶしを握り固め、僕の方へと身を乗り出し、サムライは無骨に微笑んだ。
 「自分では気付いてないかもしれないが、お前は優しすぎるくらいに優しい俺の自慢の友だ」
 「……寝る前に解熱剤の服用をすすめておく。脳炎になりたくなければ、十錠二十錠といわず一瓶飲み干しておけ」
 最後に皮肉を言い、乱暴にカーテンを閉じる。
 まったく。改まって何を言い出すかと思えば、そんなくだらないことで人を呼びとめるんじゃない。サムライがおもむろに変なことを言い出すものだから、僕にまで風邪が伝染ってしまったじゃないか。
 顔が火照っているのは熱のせいだ、きっと。
 房に戻ろうと踵を返した僕は、足元の床に奇妙な物体を発見する。
 中腰に屈んで拾い上げ、しげしげと手の中の物体を観察する。
 「何故こんなところにいちごが……」
 反射的に隣のベッドを見る。
 「ロン、いるのか?」
 いちごが落ちていた場所はロンのベッド寄りの位置だ。奇妙に思いながらカーテンを引き開けてベッドを除けば、ロンが両手でひしと耳を塞いでベッドに突っ伏していた。
 「どうしたんだ君まで。顔が赤いが、熱でもあるのか?サムライの風邪が伝染ったんじゃないか」
 枕から顔を起こしたロンがきっと僕を睨みつけ、とんでもない暴言を吐く。
 「この鈍感野郎、乳繰り合うなら人の耳がないところでやりやがれ!」
 ……わけがわからない。
 これだから低脳は。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050830102031 | 編集

 みんな死んじゃえばいいんだ。

 医務室をとびだしてからどこをどう歩いたのかわからない。
 ただでさえ東京プリズンの内部は迷宮のように入り組んでいて、平坦な天井と壁と床が延々と続く変わり映えしない景色が方向間感覚を狂わせる。コンクリむきだしの殺風景な空間には灰色以外の色彩の印象が持てない。
 寂れた廃墟のごとく荒涼とした印象の通路をあてどもなくさまよい歩いてるうちに僕は帰り道を見失い本当の迷子になってしまった。舌打ち。これも全部ロンのせいだ。やつあたりで逆恨みだと自分でもわかってるけど腹立ちはおさまらない。ロンのやつ何様だよ、偉そうに。自分だってついこないだまでレイジと喧嘩してたくせに今度は僕にお説教か?
 豹の懐に爪を立てるしかできない子猫のくせに調子のりすぎ。
 そうだよ。ロンなんかレイジがいなけりゃ何もできない、ただの足手まといのガキじゃないか。
 鍵屋崎だってそうだ。サムライがいなきゃ何もできない自称天才の足手まといだ。
 相棒なんて笑っちゃうよ、ロンと鍵屋崎が何をしたっていうの?戦力面では足手まといもいいところ、ロンと鍵屋崎の存在は100人抜き達成を危うくする重荷だとレイジもサムライも腹の底で承知してるくせに、なんだってあの二人ばかり守られて庇われて大事にされる?
 むしゃくしゃする。気分がひどくささくれだっている。なにかにおもいきり八当たりしたい、ストレス発散したい。
 そんな衝動に駆られ、手近の壁を蹴り付ける。
 一発だけじゃ足りない。二発、三発、四発と続けて蹴りを見舞うが足が痺れただけで憂さ晴らしにもならない。
 頭の中ではさっきロンに言われたことがぐるぐる回っている。
 『リョウ、お前はどうなんだよ。そう思える相手いるのかよ。いないのか?可哀想にな。俺は今までの人生ろくなことなくて、しまいにゃ東京プリズンに送られてずっとヤケになってたけど、レイジと出会えた今はそれなりに人生楽しいよ。あいつがいてくれて幸せだよ』
 勝ち誇った声、哀れみの眼差し。
 『その分だと、お前の人生はつまんないだろうな』
 「うるさい」
 うるさい、お前になにがわかるんだよ。知ったふうな口聞くなよ、王様の愛玩猫が。
 気付けば声に出していた。ロンを訪ねたのは失敗だった。ビバリーと喧嘩した僕は、無視される辛さに房をとびだしてから他に行くあてもなくついふらふらと医務室に吸い寄せられた。極度のお人よしのロンなら無碍に追い返されることもないだろうと踏んで頼ったのは事実だが、ロンが怪我してベッドから動けない今なら愚痴をぶちまけるにはちょうどいいと思ったのだ。適当に客をあたって一晩泊めてもらおうかとも思ったけど、今の僕はとてもじゃないが男に跨ったり跨られたりしゃぶったりしゃぶられたりする気分になれなかった。その点ロンなら安心だ。僕から誘っても絶対なびかない身持ち固いヤツだしね。
 僕の読みどおり、ロンは不満たらたらの顔してたけど、邪険に僕を追い払ったりはしなかった。ベッドに上体を起こして、時々ツッコミを入れながら僕の愚痴に付き合ってくれた。
 ロンはいいヤツだ。むかつくぐらい、いいヤツだ。
 だから僕はロンに意地悪したくなった。どんなに酷い目や痛い目にあわされてもけして挫けず心が折れず、レイジの相棒を自負してレイジの身を真摯に案じるロンを見てたらいてもたってもたまらなくなって、ロンをめちゃくちゃに傷付けてやりたくなった。
 ロンはなんで、恥ずかしげもなく「相棒」だとか「仲間」だとかクサイ台詞が吐けるんだ?自信満々にレイジの相棒を名乗れるんだ?レイジの相棒に見合う実力もないくせに、レイジの相棒に見合う活躍もしてないくせに。そりゃ凱を負かしたのはすごいけど、それがなんだっての?レイジだったら十五分以内に凱を倒せたはず、涼しげな笑顔を絶やさずかすり傷ひとつ負わず楽々と勝利できたはずなのだ。ロンがでしゃばる必要なんかこれっぽっちもなかった、全部王様に任せときゃよかったのにでなくていい試合にでてしなくていい怪我してばかみたいだ。
 要らない苦労ばっか背負い込んで、ばかみたいだ。お人よしも度が過ぎる。
 王様に溺愛されてるくせに、ぬくぬく抱っこされてるくせに。豹のしっぽにじゃれついてる子猫がいきがるんじゃないよ、笑っちゃう。なにが相棒だよ、嘘つくなよ。レイジを利用してるだけのくせに。
 独りぼっちになるのが怖いから、独りぼっちで生きてく自信がないから、強者に寄りかかっておこぼれ貰おうとしてるんだろ?
 僕はちがう、ひとりでも生きてける。ロンみたいに鍵屋崎みたいにだれかによりかからなくても生きてける、他人に依存しなくてもひとりで立派に生きてける。生き抜いてみせる。現に今までだってそうだった、僕はずっとひとりぼっちでゴミ溜めみたいな世界を生き抜いてきた。他人を信じたら裏切られる、付け込まれる、利用される。それが僕が生きてきた世界の常識、他人に弱みを見せたら即座に引きずりおろされるのが鉄則の世界で生き抜くためには僕が出しぬく側にまわるしかない。僕はずっと、今までずっと、東京プリズンに来る前も来てからもずっと命がけで他人を出しぬいてきた。
 お友達ごっこしてる暇なんかないんだよ、くだらない。
 ロンも鍵屋崎もすっかり腑抜けになっちゃって面白くない。最初の頃はあんなに突っ張ってたのに、今じゃロンはレイジがいなきゃ生きてけない、鍵屋崎はサムライがいなきゃ生きてけない依存体質に成り下がった。ロンに至っては僕にむかって「レイジがめちゃくちゃ好きだ」とか言い出す始末。
 「おもしろくない。みんな死んじゃえばいいんだ」
 苛立ちをこめて吐き捨てる。
 ロンも鍵屋崎もレイジもサムライもビバリーも死んじゃえばいいんだ。仲間だとか友達だとか気色悪いこと言い出すやつは、僕の生き方を偉そうに非難するやつはみんな。そしたらさぞすっきりするだろうな、と妄想を膨らませて溜飲をさげる。
 そして、気付いた。
 僕を取り巻く空気が微妙に変容してることに。
 コンクリむきだしの殺風景な通路は東京プリズンのどこでも目にする見慣れた光景だけど、言い知れない違和感が付き纏う。灰色の天井と壁と床に囲まれた閉塞的な空間にかすかに漂う異臭、耳を澄ませば廊下の奥から聞こえてくる不気味な唸り声。  
 しまった。
 まず最初に頭に浮かんだのはそれだった。今になって僕はようやく自分の失態に気付いた。今すぐ回れ右しなければ、後戻りしなければ、一刻も早くこの場から遠く離れなければと脳裏で警鐘が鳴り響くが情けないことに足が恐怖で竦んで一歩も動けない。
 僕はいやというほど知ってる。この先になにがあるか、どんな地獄が待ちうけているか。生唾を嚥下し、廊下の奥から漂い出す異様な雰囲気に気圧されるよう一歩二歩とあとじさる。ビバリーが待つ房から遠ざかりたい一心で考え事をしながらあてどもなくさまよっているうちに、普段は足を踏み入れることのない東京プリズンの最奥にもぐりこんでしまった。
 周囲に人けがないのはとっくに消灯次間が過ぎてるせいだけじゃない。通路が閑散としてる最大の理由を僕は知っている。この先はだれもが近付きたがらない禁断の場所、だれもが無言の内に避けて通る地獄への一本道。
 例に漏れず、僕も慌てて回れ右しようとして、ぴたりと立ち止まる。
 待てよ、今帰ってどうなる?ビバリーは房にいる。この時間帯だとまだベッドの上でパソコンをやってるはず。今房に帰ればビバリーと顔を合わす事態は避けられない、いやだ絶対に、ビバリーに無視されるのはこりごりだ。あんな重苦しい雰囲気はごめんだ。
 なら、足を進めるしかない。
 人がいないなら好都合じゃないか。そうだ、この場所にはだれも立ち寄らない。消灯次間を過ぎて出歩いてる物好きな囚人も、蛍光灯が不規則に点滅し壁には陰鬱な染み汚れが浮き出し、さながらモルグのような腐敗臭が漂うこの場所にはけして立ち寄らない。暗黙の内に皆が避けて通るあそこなら隠れるには持って来い、ビバリーが寝るまで時間を潰すには最適だ。 
 体の脇で手を握りしめ、意を決して足を進める。
 一歩ずつ足を運ぶたび、うるさいくらいに心臓の鼓動が高鳴った。コンクリ壁に挟まれた通路に靴音が反響する。距離はほんの十メートルばかりだというのにひどく長く遠く感じられた。
 遂に終点に辿り着いた。
 廊下の終点。Т字路の分岐点、その左側。
 延々と伸びる廊下の両壁に並んでいるのは、頑丈な鉄扉。コンクリ壁に等間隔に穿たれた鉄扉には通常の房とは違い窓がなく、完全な密閉状態になっている。が、この通路を覗きこんだ瞬間むっと押し寄せてきた鼻の曲がりそうな悪臭の正体は間違いない。
 さっきまで僕がいた通路とは、雰囲気が一変していた。
 なにかが腐敗してるような強烈な悪臭がたちこめる空間、鉄錆びた扉の内側からは意味不明の唸り声や獣じみた咆哮や嗚咽などが混沌と聞こえてくる。英語、日本語、中国語……さまざまな国の言語が入り乱れたそれはもはや言葉の体を成さない耳障りな雑音にすぎない。だれか中の人間が扉に頭でも打ちつけているのか、ガンガンという轟音がしつこく連続している。
 「だせっ、だしやがれクソ野郎!俺にこんなことしてただじゃ済まさねえぞ安田ああ、そのエリートぶったツラにクソなすりつけて背広ひっぺがしてズボンひきずりおろしてやるからケツ洗って待ってやがれ、副所長気取りの若造が!」
 息を吸いこむだけで狂気が伝染しそうな、重苦しく陰鬱な雰囲気がたちこめるこの場所こそ、東京プリズンで最も恐れられる場所……独居房が設けられた区画だ。
 東京プリズンの独居房は、東西南北各棟の最も奥まった場所に人目を憚るように設けられている。それぞれの棟で問題を起こした囚人を一時的に隔離して反省を強いるための独居房だけど、普段、どんなに好奇心旺盛なヤツでもこの場所には滅多に近寄らない。
 怖いもの見たさより我が身可愛さを優先するのが人間の本能だ。
 口さがない連中に「動物園」と呼び習わされるここはその名の通り、昼夜問わず野太い咆哮やら発狂した笑い声やら絶叫やらが響き渡る禁断の領域なのだ。
 正気の沙汰の人間がくるところじゃない。
 東京プリズンの囚人に最も忌避される「動物園」……暗闇と孤独の恐怖から逃れるため、魂を狂気に売り渡し、動物へと退化した人間たちが本能むきだしの咆哮をあげる区画へと迷いこんだ僕は、嫌悪感を隠しきれず顔を歪める。早くも選択を後悔しはじめた。
 他に行くところがないからっていくらなんでもここはないんじゃない?もうちょっとマシなところがいくらでも……
 「ん?」
 視線の先で人影が動く。
 看守の制服を着た中肉中背の男が、廊下に片膝ついて屈みこんで何かをやってる。看守の手元に目を凝らせば何をやってるかすぐにわかった。 
 「餌」を与えてるんだ。
 鉄扉には格子窓がないかわりに、鉄蓋がついた空洞が下部に設けられており、そこから一日二回食事がさしいれられる。だけどトレイを押しこんでしまえばすぐに鉄蓋が閉まっちゃうから、外の光が射すのはほんの一瞬、わずかな時間だ。独居房に放りこまれた囚人は一日の大半を気の遠くなるような暗闇で過ごす羽目になる。 
 鉄扉を一個ずつ移動して、食事を盛ったトレイを押しこんでる看守には見覚えがあった。
 「気をしっかりもてよ、あと三日の辛抱だ。三日たちゃ外にでられるんだ、娑婆の空気が吸えるんだ。まあ刑務所の中だから娑婆ってのもおかしいけどよ……だからそれまで耐えるんだ、ほら、飯持ってきてやったからちゃんと食えよ。体力つけとかねえとこっから出るとき転んじまうぜ」
 「うう……うう……もうやだ、こんなとこいやだ……くさくて鼻が曲がりそうだ、目を閉じても開いても変わりゃしねえ暗闇だ。後ろ手に手錠かけられて寝返りも打てなくて、全身の筋肉ががちがちだ。五十嵐さん、なあ頼むからここ開けてくれよ。手錠が食い込んで肉が抉れてるみたいなんだ、手首の肉が腐って爛れて蛆虫に食われてるみてえなんだ。痛てえよちくしょう、なんとかしてくれよ五十嵐さんよう」
 「無茶言うなよ、こっちも仕事なんだ。だしてやりたいのは山々だけど、そしたら俺が罰則食らっちまう。また様子見にきてやるからそれまで耐えろ、な」
 「こんな格好じゃ飯も満足に食えねえよ、どうやって味噌汁飲むんだよ、こぼしちまうよ。ちくしょうひどいよ、こんなのってねえぜ。そりゃ俺は外じゃいろいろ無茶やってきた、強盗もした、殺しもやった、女を犯って姦ってヤりまくった。
 でもだからってこんなのねえだろ?手錠かけられてうつ伏せのまま放置されて、飯は犬食いで、糞尿垂れ流しの暗闇で一日中うめいてるしかねえなんてあんまりだ……東京プリズンの看守にゃ人の心ってもんがねえのかよ!?」
 「人間だから」
 嗚咽まじりの呪詛を吐く扉の内側の人物に、看守がぽつりと呟く。
 「人間だから、人間にひどいことができるんだよ」
 鉄蓋が閉じ、完全に光が遮断される。
 また暗闇に逆戻りした囚人が絶望的な悲鳴をもらす。 
 切れ切れに嗚咽が漏れる鉄扉を見つめ、複雑な顔をした看守の背後に忍び寄り、声をかける。
 「今日は五十嵐さんが飼育当番なんだ」
 はじかれたように振り向いたのは、僕とも面識のある看守の五十嵐だった。
 「……言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」 
 「じゃあ餌係って言いなおそうか?」
 下唇を舐め、挑発的な上目遣いで五十嵐を見上げる。
 商売柄、男の庇護欲をくすぐる媚びた表情をつくるのは得意だった。けど五十嵐には通じなかった。疲労のため息をつき、五十嵐が腰を上げ、右隣の鉄扉へ移動する。 
 「お前、なんでここにいるんだ。なんか悪さでもしたのか」
 「人聞き悪いこと言わないでよ、おりこうさんの僕が悪さなんかするわけないじゃん。万一悪さしたってボロださなきゃ、独居房に放りこまれるような最悪の結果にはならないね」
 「じゃあとっとと失せろ。仕事中だ」
 「同情するよ五十嵐さん。同僚に煙たがれてると損な役目ばっか押しつけられて大変だね、餌やり手伝ったげようか」
 五十嵐の肩にしどけなく凭れかかり、耳元で囁く。
 そんな僕を鬱陶しげに振り払い、五十嵐が淡々と仕事を再開する。脇においたトレイを片手で持ち、鉄蓋を押し上げ、ドアの内側へと放り込む。
 「飯だぞ。食え」
 そっけないが、深い思いやりに満ちた言葉。
 「……飯?ちょっと前に食ったばっかの気がするけどそうか、もうそんなに時間経ってたんだ。この分じゃ一週間なんてあっというまだね」
 この声は。
 「レイジ、お前寝てたのかよ。声が眠そうだぞ。よくそんな環境で眠れるな」
 「しかたないじゃん、他にやることないし。こう暗いと時間が経つのもわからねえな、今が昼だか夜だからもはっきりしなくて体内時計が狂いっぱなしだ。手錠かけられてたんじゃ自分で慰めることもできねえし……でもま、たった一週間の辛抱だ。もう三日四日過ぎてるだろ?つーことはあと四日か三日後には手錠の戒めから解き放たれて娑婆の空気吸えるわけだ、大手を振ってロンを抱きにいけるわけだ」
 「真っ先にやることがそれかよ。お前らしいな」
 五十嵐が苦笑する。
 「いちばん大事なことをいちばん最初にやるだけさ。俺って我慢できないタチだから、一週間もロンと会えないとなると辛くて辛くて。この頃はロンの夢ばっか見てるよ、具体的には口に出せない夢だけど……正夢だな、これは。一足先に夢で未来を見せてやるから男らしく実行しろってゆー神様の思し召しだ。 
 そうとなりゃ話は決まった、体力落とさないよう残さず飯食ってロンを悦ばせてやんなきゃ」
 体力落とさないよう残さず飯食って決勝戦に備えるんじゃなく、ロンを悦ばすほうを優先するなんてレイジらしい。独居房に放りこまれても王様は相変わらずだ。へこたれた様子もなく飄々としてる。
 その時だ。
 「……ずいぶんと余裕ではないか、東の王よ」
 地の底から湧き上がる悪霊めいた声。妄執じみた呪詛。
 レイジが入れられた房のちょうど正面、反対側の壁に穿たれた鉄扉の奥から声がする。サーシャの声だ。
 そうだ、サーシャも独居房に閉じ込められてたんだった。
 それも皮肉なことにレイジのごく近く、会話が成立する距離に。
 「糞尿垂れ流しの暗闇で不埒な妄想を膨らませておのれを慰めているのか?節操のない雑種がやりそうなことだな。レイジよ、忘れたわけではあるまいな?お前がここを出されるのは一週間後、決勝戦の日だ。北に君臨する気高き皇帝たる私をはじめ、西の道化と南の隠者という強敵を倒さねば、お前とお前が愛玩する猫に未来はないとわかっているのだろうな」
 「何だよサ―シャ、まだ生きてたのか。気高き皇帝のお前なら、後ろ手に戒められた上に糞尿まみれの屈辱に耐えきれずにとっくに舌噛みきって死んでると思ったのにがっかりだ。プライドの高さは口先だけか」
 「決勝戦のリングで存分にお前を切り刻めるなら、数日間の屈辱にも耐えてみせる。お前を倒せば私は東京プリズン全棟を掌握する権力者となる、東も西も南もすべて私の言うがままだ。そんな素晴らしい機会、今を逃したら永遠に訪れるものか」
 サーシャが歯軋りをする。
 「私はずっとずっと、気も狂わんばかりにこの時を待っていたのだ。満場の観衆の眼前でお前の顔を切り刻み手足を切り落とし、血だまりの舞台で見世物とする瞬間を。お前を殺して東京プリズンの頂点を立つという野望がもう少しで達成できるところまで来ているのだ!ああ、想像するだに愉快でたまらず高揚を禁じえない。
 永久凍土と唄われた私の心までもが溶け出すようだ。手足が自由になるのなら、この扉が開くのなら、今すぐお前のその薄汚い肌を無残に切り刻んで鉄錆びた血潮を浴びたい。その瞳を抉り出して口に含みたい」
 「お前もう狂ってるよ、手遅れだ。俺が保証してやる。さんざん無茶な抱かれ方されて狂わされた俺が言うんだから説得力あるだろ」
 レイジの声は笑いさえ含んで余裕だが、対するサーシャの声は不安定な精神状態が影響するが如く振幅がはげしかった。
 一呼吸おいて噴出したのは、憎悪を凝縮した呪詛。
 「私がお前を倒した暁には、王が寵愛する猫を舞台に引きずり出してやる。寵愛する猫が無残に臓物さばかれるさまを見せ付けられれば、お前とてさすがに冷静ではいられまい。私は慈悲深く寛容な皇帝だから王に敬意を表して要望を聞いてやる。
 まず最初にどこを裂いてほしい?
 可愛い猫の顔に傷が付くのがいやなら、てはじめに服を剥いて……」
 「ロンに手を出してみろ」
 氷点下の殺気を纏わせたサーシャに返されたのは、低く落ち着いた声。
 微笑さえ滲ませた柔和な声で、レイジは宣告した。

 「嬲り殺すぞ」 

 哄笑が弾けた。
 サーシャの笑い声だ。鉄扉の内側で膨れ上がった哄笑が壁に殷殷と反響し、陰鬱な廊下全体を悪夢のように呑みこんでゆく。蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い廊下にて、向かい合う鉄扉の内側と内側で殺気が極限まで膨張する。 

 「嬲り殺すときたか、面白い!主人に逆らったらどうなるか、再びその体に思い知らせる必要があるようだな!まったく、雑種を躾るには苦労する!ナイフの刃がこぼれるまで、鞭の革が擦りきれるまで仕置きしてやるから覚悟しろ!!お前の主人は私ひとりだけだ、他の人間に心を移すのは許さん、心も体も永遠に縛り付けて生涯所有してやる!あの拷問部屋から出さずに生涯苦痛と快楽を味わせてやるぞ、東の王よ、汚らわしい雑種めが!一生鎖に繋いで飼い殺しにしてやる!!」 

 「そいつは無理な相談だな、俺に快楽をくれるのはこの世にひとりロンだけだ。今まで数え切れないほどの女や男と寝てきたけど、どんな経験豊富な相手とのセックスよかただあいつと添い寝するほうが幸せだったんだよ。ただあいつを抱きしめて眠るほうが幸せだったんだよ。だからサーシャ、お前が俺からロンを取り上げるってんなら容赦しねえぞ。嬲って嬲って殺してやる、苦しめて苦しめて苦しめて地獄に落としてやる。お前が俺にしたことなんて目じゃねえ本当の地獄を味あわせてやるよ」

 感情を解放したサーシャの声と、感情を抑制したレイジの声。
 動と静の気迫が拮抗する。 
 サーシャの哄笑が殷殷と響き渡る中、あれだけうるさかった周囲の騒音がいつのまにか消えていた。唸り声も叫び声も嗚咽も、だれかが鉄扉に頭をぶつける音さえも途絶えたのは、おそらく独居房に閉じ込められた全員がサーシャの異常さに圧倒されたためだ。
 その場に居合わせた全員を戦慄せしめる哄笑がこだまする通路にて、生唾を飲み込み確信する。
 
 決勝戦でサーシャとレイジがぶつかる。
 そして、どちらかが死ぬ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050829102141 | 編集

 東京プリズンにはシャワー室がある。
 壁を取り払って房を十個繋げた空間で配管むきだしの天井と灰色の壁の殺風景な内観は日常見慣れたものだが、プライバシー保護の建前を尊重したのか、定員一名のブースごとに人目を遮蔽する間仕切りとスイングドアが設けられてる。
 一般の囚人がシャワーを浴びれるのは二日に一回だけと規則で決まっている。
 潔癖症の僕などは二日に一回とはいわず毎日シャワーを浴びて汚れを落としたいのだが、規則に従わない囚人には厳罰が下されるのが東京プリズンの鉄則。
 看守の命令に逆らえば容赦なく警棒が振ってくるのと同様に、規則を破れば東京プリズンの囚人だれもが恐れる独居房送りを課されかねない。
 独居房送りほど東京プリズンの囚人に忌避される罰はない。
 東西南北の棟の最奥、殆ど人通りがない薄暗い区画に設けられた独居房は、口さがない連中に「動物園」と揶揄されている。格子窓がないにも拘わらず、密閉された鉄扉の内側に充満した悪臭が廊下へと漏れ出して、不規則に蛍光灯が点滅する通路には糞尿と吐瀉物のすえた匂いが沈殿している。
 ひどい悪臭が充満する通路の両壁に等間隔に穿たれているのは、外観だけなら通常の房とそれほど違わない造りの鉄扉だが、この鉄扉には決定的な違いがある。
 前述したが、窓がないのだ。完全に密閉された構造の鉄扉の下部には一日二回食事をさしいれるための矩形の口が設けられているが、トレイを放りこめばすぐ鉄蓋が下りて、一条の光明さえ残酷に遮断される仕組みになっている。
 独居房は常に満員御礼だ。
 それだけ東京プリズンで問題を起こす囚人が多いということだ。乱闘騒ぎを起こした囚人は罰と称して一条の光さえ射さない独居房に放りこまれる決まりだが、独居房に一度送りこまれたら最後正気を保ち続けるのはむずかしく、再び外に出された時には八割の囚人が発狂してるという。
 囚人が寝静まった深夜、静寂に呑みこまれた通路に殷殷と反響する獣の唸り声を辿れば、独居房に行き着くというのが東京プリズンの定説。
 廃人化せずに独居房から生還できる幸運な人間はよほど肝が据わった者か……もしくは最初から狂っていて、それ以上狂いようがないごく一部の者に限定される。
 今、音痴な鼻歌を口ずさみながらシャワーを浴びている男は後者だったようだ。
 十個房を繋げた広広とした空間で、気持ち良さそうにシャワーを浴びているのはその男だけだ。
 壁に固定されたシャワーから迸るのは絶妙な温度に調節された温水。
 顔を仰向け、高所から降り注いだシャワーを手で受けた男が、水滴を跳ね散らかしかぶりを振る。
 「あー、すっげえ気持ちいい。極楽だね。地獄から天国ってかんじ」
 レイジだった。
 レイジが独居房に放りこまれてから一週間が経過した。
 そして今日、レイジは無事独居房から生還した。
 廃人化することなく、正気を保ったままで。
 期限を全うし、大手を振って独居房を後にしたレイジが真っ先に向かったのはシャワー室だった。独居房から出された直後のレイジは垢と汚れ塗れの状態だった。糞尿まみれの服は不潔に黒ずみ、全身から吐き気をもよおす異臭が放たれていた。
 憔悴の色濃い面持ちで足元もおぼつかないレイジは、独居房からの生還者の常として日常寝起きする房には直帰せず、手錠で抉れた手首を治療しに医務室に寄る事もなく、シャワー室にとびこんだ。
 それは正しい選択だった。
 独居房から出された直後のレイジは、とても見られた風体ではなかった。
 一週間もシャワーとは無縁の不衛生な環境に寝転がっていたのだから、これ以上悪臭を振りまいて通りすがりの囚人を不快にさせる前にシャワー室に赴いたのは賢い選択だった。
 僕は今、レイジのシャワーに強制的に付き合わされている。
 妙なことになったぞ、と腕組みしながらため息をつく。
 レイジの身柄引き取り人になったのは僕だった。同房のロンは重傷で入院中のため、独居房から出されたレイジの身柄を譲りうけるのは消去法で僕の役目となった。
 後ろ手に手錠をかけられたレイジが、看守に挟まれて通路を歩いてきた時、僕はそのあまりに変わり果てた姿に怯んでしまったが、レイジ本人に独居房送りを命じた責任者としてその場に居合わせた安田は表情ひとつ変えなかった。
 レイジが一歩近寄るごとに、鼻腔の奥を刺激して涙腺に染みる悪臭がひどくなる。憔悴したレイジがふらふら近付いてくる姿を目の当たりにして動揺を隠しきれない僕に、安田は小声でアドバイスした。
 『レイジは独居房から出された直後で体調が万全ではない、シャワーを浴びるにも何をするにしても補助がいるだろう。鍵屋崎、レイジの友人なら力になってやれ。レイジがシャワーの途中で倒れないか見張っておけ』
 『僕もシャワー室に入るんですか?』
 おもわず抗議の声をあげてしまった。
 シャワー室に入る、ということはレイジがシャワーを浴び終えるまでじっと監視するということだ。安田の言い分が一理あるのはわかるが、いかに同性とはいえ、他人を裸を見るのは抵抗がある。難色を示した僕を眼鏡越しに一瞥し、安田は事務的に付け加えた。
 『一緒にシャワーを浴びろと言ってるわけじゃない、少し離れた場所でレイジを見張っておけばいい。万が一レイジが倒れたら助けを呼ぶ必要があるだろう?全裸で失神して長時間だれにも発見されずシャワーに打たれていたら風邪をひいてしまう。そうしたら今晩の決勝戦に臨めない、違うか?』
 決勝戦。
 安田が発した言葉は、ひどく重々しい響きを伴っていた。
 そうだ、今晩にはペア戦決勝戦が予定されている。東京プリズンの歴史に残る試合、ブラックワークの前例を覆す前代未聞の試合、他の3トップを下して勝ち残った者が東西南北を掌握するという取り決めのもとに行われる東京プリズンの分岐点となる試合。
 今日の試合にすべて勝てばレイジは100人抜きを実現し、僕たち四人は晴れて自由の身となる。
 僕とロンは売春班に二度と戻れなくてすみ、サムライも両手の腱を切られることなく今までどおり刀を振るうことができ、レイジは東棟の王様として悠悠自適な生活を謳歌できる。
 僕らは絶対に、今晩の試合に勝たなければならない。勝ち残らねば生き残れないのだ。
 僕は渋々納得した。たしかに、シャワーの途中でレイジに倒れられたら困る。湯冷めなんてとんでもない。
 現時点におけるレイジの退場は、僕ら四人の運命をも左右する重大な損失。
 僕にはロンとサムライの分までレイジを監視する義務がある。復活したレイジを無事リングに送りとどけ、決勝戦の一部始終を見届ける義務がある。
 だから僕はこうしてシャワー室の壁に凭れ、憮然と押し黙ってレイジの鼻歌を聴いている。聴けば聴くほど音痴な鼻歌にあきれかえる。シャワー室ではよく声が反響するため、コンクリ壁に跳ね返った鼻歌が殷殷と余韻をおび、わずかな時間差をおいて鼓膜へと押し寄せる。
 ふと、スイングドアに腕を凭せ、レイジが身を乗り出す。
 「キーストアも一緒に浴びね?気持ちいいぜ」
 「遠慮しておく。僕は君と違って人前で肌を露出して倒錯的な快感に浸る趣味はない」
 「ひとを変態みてえに言うなよ、傷付くなあ。俺だってなにも好き好んでお前の目の前でシャワー浴びてるわけじゃねえ。勘違いすんなよキ―ストア、お前が勝手に中までついてきたんだろ」
 「安田に言われたからだ。僕は気が進まなかった」
 「可愛げねえの。俺のヌード、タダで鑑賞できるんだからもっと喜べっつの」
 「重大なことを忘れてないか?僕は不感症だ、同性の裸を見たところで性的興奮など覚えはしない」
 「興奮するのは妹のヌードだけってか」 
 「……恵を侮辱する気か貴様」
 壁から背中を起こし、腕組みをといてレイジを睨みつける。
 「近親相姦の誤解を招く発言はよせ、僕の恵に対する気持ちは純粋な親愛の感情だ。僕は恵の裸に興奮したりしない、妹の裸に浴情するなど兄失格だ。今の発言は取り消せ、前言撤回しろ。僕は恵に対し君がロンを対象とするようなやましい妄想を抱いたことなど一度も……」 
 「冗談だよ。むきになるとかえって怪しいぜ」
 スイングドアに腕をかけたレイジが肩を竦める。
 からかわれていたと知り、一瞬殺意が芽生えた。赤面した顔を眼鏡のブリッジを押し上げるふりで隠した僕の目に、レイジの胸に垂れ下がった十字架がとまる。
 水滴を弾き、まばゆい金色にきらめく十字架。
 「シャワーを浴びるときも外さないんだな」
 あきれ顔の僕に、レイジは軽薄に笑ってみせる。
 「お守りだからな」
 気取った手つきで十字架を捧げ持ち、キスをする。裸でさえなければ、信心深いとでも表現できそうな神聖な場面。
 幸福そうな笑顔で十字架に口付けるレイジの裸身に不覚にも目を奪われる。
 シャワーに濡れてしっとり額に纏わりついた前髪、長時間の湯浴みで仄赤く上気した肌。
 恍惚と潤んだ艶かしい眼差しを翳らせるのは、切れ長の双眸を縁取る驚異的に長い睫毛。精悍に引き締まった肢体を惜しげもなく晒したレイジは、伏し目がちに感傷に浸るかのように掌中の十字架を見つめている。
 男にこんな表現を使うのはおかしいが、レイジは綺麗だった。
 腰はスイングドアで隠されていたが、猫科の肉食獣めいてしなやかな筋肉がついた体と完璧に均整がとれた四肢は、誰もの目を奪わずにはおれない芸術的な彫刻美を体現していた。極上の絹めいた張りと艶のある褐色肌には、若い生命力を凝縮した精気がみなぎっていた。
 レイジの全身から湯気に乗じて漂いだす野生の色香。 
 水に濡れて額に纏わり付く髪も、淫蕩に上気した肌も、柔和に凪いだ眼差しも虚心の表情もかすかに笑みを湛えた口元も。
 すべてが薄靄の湯気に包まれる。
 「……聞いていいか」
 ためらいがちに口を開く。
 「なんだ」
 湯気の帳の向こうから声がする。奇妙に反響する声の主はレイジ。口にしたものの、僕は質問を続けようか否か迷っていた。湯気で湿った壁に凭れ、腕を組んで考え込む。本来僕が踏みこむべき問題ではない、だが今を逃したら改めて聞き出す機会は訪れない予感がする。
 眼鏡を外し、白く曇ったレンズを上着で拭う。
 綺麗に拭ったレンズを目の位置に翳し、湯気の向こうを透かし見る。シャワーの温水に打たれながら、レイジは怪訝そうな表情でこちらを眺めている。
 よし。
 眼鏡をかけなおし、決心する。
 「あの夜、ロンと何を話したんだ?」
 ずっと疑問だった。あれほど荒れていたレイジが、僕の説得にも耳を貸さずにリングで暴威を振るったレイジが、ロンとの話し合いを経て元に戻った経緯には無関心ではいられない。あの夜、レイジとロンの間にはたしかになにかがあった。
 レイジとロンの間に起きたことに関しては漠然と察しはつくと以前僕は言ったが、レイジの口から真相を聞きたい気持ちも心の片隅に存在していた。
 思い出すのは、衝立のカーテンを開けた時。
 ロンのベッドで幸せそうに眠りこけるレイジの姿。安心しきった寝顔。
 実際にはレイジの方がロンを抱いていたのでこの喩えは正確ではないが、聖母の胸に抱かれたキリストのように安らかな寝顔だった。
 レイジとロンの間になにがあったのか、知りたい。
 レイジとロンの件に関しては僕もさんざん振りまわされたのだから、それくらいは要求してもかまわないだろう。ロンは僕がどう足掻いてもなし得なかったことをたやすく成し遂げてしまった。
 血に飢えて暴れ狂う豹を、ほんの数時間の話し合いで従順に飼い馴らしてしまった。たった数時間の話し合いで暴君を改心させてしまったのだ。
 レイジとロンがどういった経緯で和解に至ったのか、好奇心を刺激されないほうがおかしい。 
 スイングドアに腕をかけ、レイジはしげしげと僕を眺めていた。
 核心をつく質問に驚いた様子もなく、スイングドアから腕をどかし、気だるげに髪をかきあげる。なにげない一挙手一投足にさえ付き纏う退廃的な色気。水に濡れそぼった髪を緩慢な動作でかきあげ、かぶりを振って水を弾く。スイングドアから身を乗り出したレイジが、片腕を虚空にさしのべ、人さし指を折り曲げる。
 「?」
 「知りたいんだろ。来いよ」
 レイジがにっこりと微笑む。
 わざわざ呼びつけずとも十分声が届く距離なのにもってまわったことを、と舌打ちしながら歩き出す。極上の笑顔で僕を出迎えたレイジが、もっと近くに寄るようにと人さし指を動かす。
 レイジに促され、緊張の面持ちで顔を近付ける。
 裸の上半身を乗り出し、僕の耳元に顔を寄せ、レイジが囁く。
 「内緒」
 「……………………………………………そんな幼稚な真似をするためにわざわざ八メートルの距離を歩かせたのか、君は」
 瞬時に怒りが沸騰した。まったく無自覚にレイジの悪戯にひっかかってしまった僕自身にも。
 不愉快この上ない表情の僕をレイジは遠慮なく笑い飛ばしてくれた。
 「ははははははははは、かっわいいなーキーストア!もうちょっと人を疑うこと覚えろよ天才、頭いいくせに単純すぎる。それとも何、俺には気を許しちゃってるわけ?だからこんな簡単に手が届く至近距離まで近寄ってこれたわけ?無防備にもほどがあるぜ。サムライも気が休まる暇ねえな、同情するぜ」
 「今はサムライは関係ないだろう」
 頬を染めて言い返せば、笑い声を引っ込めたレイジがいきなり顔を突き出す。
 僕の目を挑発的に覗きこむ色素の薄い瞳。
 底知れない虚無を秘めた双眸。
 「少しは警戒心もてよ、キーストア。この距離なら確実にお前殺れるぜ、俺」
 レイジの双眸に物騒な光が過ぎる。殺意の眼光。
 裸の胸に十字架をさげたレイジが殺しの手段を厭わない暗殺者の顔で囁けば、鼻先にナイフを突き付けられた忌まわしい記憶がよみがえり、こめかみを冷や汗が伝う。
 怯むものか。
 奥歯を噛みしめ、しっかりと床を踏みしめる。僕はもうレイジに怯えないと決めた。準決勝のリングでどんなに変貌してもレイジはレイジだと確信に至ったではないか。この僕が、IQ180の天才たる鍵屋崎直がレイジに怯える理由などないのだこれっぽっちも。
 それを今ここで証明しなければ、僕はレイジの仲間でいられない。
 安田に友人だとレイジを紹介したことまで、嘘になってしまう。 
 「君は僕を殺せない」
 口元に笑みを浮かべ、自信ありげにレイジを見返す。皮肉げな笑顔を向けられたレイジが当惑する。
 「どうしてそう思うんだ」
 シャワーに背中を打たせつつ、だらしない姿勢でスイングドアに凭れかかったレイジが探るように僕を見る。疑問の色に染め上げられた眼差しと怪訝な表情からは、僕の自信の根拠を純粋に不思議がっている内心が見てとれた。
 だから僕は言ってやった。
 そんなあたりまえのこともわからないのかと小馬鹿にした口調で、尊大に腕を組んで。
 「僕を殺したらロンが哀しむ。ロンを溺愛する君が彼を哀しませるようなことをするはずがない、絶対に。俗な言い方をすれば、そう……惚れた弱みだな」
 「ははははははははははっはははははっ!キーストアそれ面白い最高、ツボった!」
 レイジが爆笑する。
 喉を仰け反らせ肩をひくつかせ大袈裟に笑い転げるレイジを、僕は冷めた目で眺めていた。べつに面白いことを言ったつもりはない、ありのままの事実を述べたまでだ。壁を平手で叩いて哄笑するレイジの肩がゆっくりと浮沈し、深呼吸とともに笑いの発作が終息する。   
 壁に片手をついた前傾姿勢でこちらを振り返ったレイジが、悪戯っぽく微笑む。
 「……そうだな、そのとおりだ。お前を殺したらロンが哀しむ。ロンが泣いたら俺も哀しい。だから特別にお前のこと殺さないでやる、感謝しろ」
 「この場合は一応礼を述べておくべきか?それとも貴様何様だと声を荒げて罵るべきか判断に迷うな」
 「もうひとつあるぜ、お前を見逃してやる理由」
 「なんだ」
 スイングドアが揺れる。
 水に濡れた手で僕の頬に軽く触れるレイジ。ごくさりげない親愛の表現。僕の頬に手をおいたレイジの瞳に視線をとらわれる。悪戯っぽい笑みを含んだ薄茶の瞳には、どことなく憎めない愛嬌がある。
 「ロンには及ばないけど、お前のこと結構気に入ってるんだよ。気が向いたら愛人にしてやってもいい」
 「断る」
 「即答かよおい。じゃあ一回寝てやってもいいに変更」
 「僕に拒否権はなしか?それ以前に、好悪の判断基準は性行為に及びたいか否か究極の二択に集約されるのか?どこまで下世話な男なんだ君は、品性のかけらもない。たまには下ネタをまじえず話ができないのか、万年発情期め」
 嘆かわしげにかぶりを振りレイジの手を叩き落とす。
 手をはたかれたレイジが舌打ちするが、口元がにやけているので取り合わない。
 「さっきの話だけどさ」
 レイジが唐突に話題を変える。
 視線をやや上向きに、湯気がたゆたう天井を仰ぎ、思い出したように言う。
 「ロンは許してくれたんだ」
 「は?」
 その呟きがやけに深刻に聞こえ、まじまじとレイジの顔を見る。
 シャワーの湯気を四肢に纏わりつかせたレイジが、五指と五指を交差させ、腕を一本によりあわせ、豹のように伸びをする。
 レイジの胸で輝いているのは、水滴に濡れた十字架。
 贖罪の証。
 「俺がそばにいてもいいって、俺にそばにいてもらいたいって言ってくれたんだ。馬鹿だよな、俺のことホントは怖いくせにそれでもいいからそばにいてほしいって頑固に言い張ってさ。俺がいつまたキレてあいつに手を出すかわかんないのに、そんなくだらないことうじうじ悩んでるんじゃねえって一喝されちまった。カッコ良かったぜ、あいつ。ガキだガキだって侮ってたけど、ちょっと見ないあいだにすげえ成長してた。相変わらず背は伸びねえけど、あれくらいの方が懐に抱いて寝やすいから問題なしってね」
 ああ、そうか。ようやく腑に落ちた。
 レイジはずっとだれかに、自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを乞いたかったのだ。自分の身近にいるかけがえのないだれかに許しを得たかったのだ。
 おのれの罪深さを告白して、懺悔したかったのだ。
 そして。
 こんな罪深い自分でもそばにおいてはもらえないだろうかと、一縷の希望に縋った。
 「ロンは俺に許しを与えてくれた。俺の懺悔を、最後までちゃんと聞いてくれた。耳をふさがずに、まっすぐ俺の目を見て。怖かったと思うよ。あいつまともだから、すげえいいヤツだから、俺の狂った過去とか聞かされて後悔したと思う。でも全部ひっくるめて受け止めた上でそばにいてほしいって言ってくれたんだ。いちばん欲しい言葉をくれたんだ」
 レイジの笑顔は澄んでいた。 
 永い苦悩から解放された、晴れ晴れとした笑顔。
 「ロンは俺の救い主なんだ。今までさんざん人殺してきてこんなこと言うのもアレだけど、俺は誰かに許してもらわなきゃこのさき生きてく資格がないって思いこんでて、とんでもないことしでかした俺を許してくれそうなお人よしをずっと待ってたんだ。それがロンだった」
 十字架を握りしめ、締めくくる。
 「俺はロンに、笑顔を貰ったんだ」
 感傷を振りきるようにコックを締めて顔を上げる。コンクリ床を叩く水音が途絶え、シャワーが止む。
 「キーストア、タオルとって」
 「僕はホテルのボーイじゃないぞ」
 「だろうな。その性格で客商売に就いたら三日でクビだ」 
 いちいち癇にさわる男だ。
 文句を言いたいのをこらえ、タオルをレイジに投げる。虚空に手をのばしてタオルを受け取ったレイジが、高らかに宣言する。
 「勝つぜペア戦、やるぜ100人抜き」
 あざやかにタオルを羽織り、スイングドアを蹴り開けたレイジが、挑発的な流し目を僕にくれる。 
 「天才と王様が組めば不可能はない。だろ?」
 大胆不敵な面構えで言いきるレイジにため息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 「あたりまえのことを言わせるな。時間の無駄だ」

 今晩ついに、僕らの運命が決まる。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050828102240 | 編集

 運命の夜が始まる。 
 もうすぐ決勝戦が始まる。東京プリズンの頂点に立つ人間を決める最後の試合が始まろうとしている。
 東京プリズン最大の娯楽として囚人たちを熱狂させたペア戦も今日が最終日、泣いても笑っても今日が最後なのだ。
 思い返せば波乱万丈の数週間だったなと感慨深げにため息をつく。
たった数週間、されど数週間。俺はこの数週間で十年分の経験を積んだ気がする。
 いや、十年分の気苦労をしょいこんだと言ったほうが正確だろうか。レイジとサムライの喧嘩、ボイラー室での騒動、酒の勢いで参戦表明。レイジへの不信、暴君の過去、渡り廊下の抗争、そして……
 レイジと仲直りした一週間前の夜を思い出すたび頬が熱くなる。
 あの時はレイジを引きとめるのに夢中でまわりの耳目を気にする余裕もなかったが、一週間経って冷静に振り返ってみればとんでもない無茶やらかしたもんだと自分の大胆さにあきれる。俺にはどうやら火事場のクソ度胸が備わっていたらしく、あの時の俺はレイジを引きとめるためなら本当になんでもする覚悟で、自分の体を代償にしてもいいやと諦観して鼻水たらして泣きじゃくってレイジに縋りついた。
 ほんの一週間前の記憶がまざまざとよみがえり、恥ずかしくて死にたくなる。
 赤面した顔を毛布に埋め、両手で頭を抱え込む。ああもう俺の馬鹿恥ずかしい、なんて真似すんだよと一週間前の自分を殴り付けたくなる。レイジを引きとめようと必死だった俺は、自分からすすんでレイジに抱かれようとまでしたのだ。そればかりか、レイジにその気がないなら俺から犯ってやるとあいつに馬乗りになっちまった。 
 それから色々なことがあって、俺はレイジの過去を聞いた。壮絶な過去。地獄という形容が生やさしく感じるほどにレイジの幼少期は悲惨なものだった。レイジは物心ついた時から立派な暗殺者になるべく特殊訓練を施されてきて、十歳の時にはもう標的をたぶらかして安宿に連れ込んで、相手が行為中に隙を見せたらナイフで頚動脈かっさばくか銃で脳天を撃ち抜くかという血なまぐさい暗殺稼業を淡々とこなしていた。
 俺はレイジが抱えた暗闇の一端を覗き見た。レイジが抱えた狂気の核に触れた。レイジが今でも憎しみを抑えつけるのが下手で、ひとたび怒りが爆発すれば暴君の狂気に翻弄されざるえないのは、過去の体験が積み重なった故の哀しい性。
 殺らなければ殺られる。生か死か究極の二者択一。
 それがレイジが慣れ親しんだ世界の掟、レイジの血肉となって吸収された生き方。
 人の喉笛を噛みきるために調教された豹の習性。
 レイジは暴君になりたくてなったんじゃない。結果的にそうなってしまったのだ。それ以外の人生が選べなかったのだ。
 お袋に殴られ蹴られた俺の子供時代が甘ったるく感じられるほど、レイジの過去には救いがなかった。レイジの口から過去を聞かされた俺は動揺した。レイジが抱えた暗闇の底知れなさを見せつけられて、言葉を失ってしまった。
 でも、レイジと一緒にいたいという気持ちに変わりなくて。
 レイジとはなれたくないという狂おしい気持ちに変わりはなくて。
 『俺はお前が怖い。でも、お前がいなくなる方がずっと怖い』  
 気付いたら、そう叫んでいた。泣いて叫んでレイジに縋りついていた。
 それがさんざん回り道して辿り着いた俺の結論だった。俺が見つけた答えだった。たぶんレイジに対する恐怖心を完全に拭い去ることはこれから先もできないけど、それでもかまわなかった。たしかに俺はレイジが怖いがその何倍も何十倍もレイジが好きだった、心の底からレイジを必要としていた。
 レイジと離れたくない理由なんてそれだけで十分だ。
 だけど一週間経って冷静に振り返ってみれば、俺はだいぶ恥ずかしいことを言ったりやったりして、しかも一部始終を隣のベッドで狸寝入りしてたサムライにばっちり聞かれちまったらしい。死ぬほど恥ずかしい、穴があったら埋まりたい。だれか土をかけてくれお願いだから。
 一週間前の夜の出来事を回想するたび、恥ずかしさに身悶えて顔から火がでそうだ。この一週間というもの寝ても覚めてもあの夜のことが脳裏によみがえり、恥ずかしさに耐えかねてベッドに突っ伏したり頭からすっぽり毛布をかぶったり枕にぼかすかやつあたりした。怪我人のくせに元気だなと自分でも呆れるが、ベッドの上で手足を振りまわして暴れるたび、肋骨に激痛が走って悶絶したのも事実だ。
 そして今日、レイジが帰って来る。
 俺は一週間ぶりにレイジと顔をあわせることになる。
 「………」
 くそ、柄にもなく緊張してきたじゃねえか。
 レイジとまともに顔あわすのはあの晩以来だ。一週間前は最初に目が覚めたらレイジの腕の中で、次に目が覚めたらレイジはもういなくなってて、ぬくもりが残るベッドに上体を起こした俺は困惑した。レイジが独居房に連れてかれたことは、遅い朝飯の最中にサムライから聞かされた。俺はまたなにも聞かされてなかった、レイジは俺に黙って行っちまった。俺に心配かけまいと気を利かせたんだろうが、生憎ちっとも嬉しくない。
 長い一週間だった。
 俺はただひたすらレイジの帰りを待ち続けた。この一週間大人しくしてたおかげか怪我もだいぶ良くなり、足首の捻挫も癒えた。骨折の完治にはもうしばらく時間がかかりそうだが、俺は育ち盛りだから回復も早いと医者も太鼓判をおしてくれた。今じゃ医務室の中を歩き回れるぐらいには体力が戻ってきたし、迂闊に寝返りを打つたび肋骨への負荷で悲鳴をあげることもなくなった。
 「レイジをぶん殴れるくらいの体力は戻ってきたな。よし」
 試しに口に出して言ってみる。
 俺に別れの挨拶もせずトンズラぶっこいた借りはきちんと返してもらう。一週間もご無沙汰してたんだ、ご自慢のツラに一発見舞うくらいは許してほしい。
 レイジはもうすぐここに来る。鍵屋崎がレイジを連れてくるのだ。
 俺とサムライが重傷で入院中の現状、鍵屋崎が身柄引き取り人になったのは当然というか不幸というか、本人にとっちゃ災難だ。独居房から出された直後の囚人は一様にひどく憔悴してて、多くは自力で歩けず口もきけない状態で、補助役がいないと十中八九真ん中で行き倒れちまうのだそうだ。
 ああ見えて鍵屋崎は面倒見がいい。レイジの首に縄つけて必ずここまで引っ張ってきてくれるはず。
 レイジがツラ見せたら、いちばんはじめになんて言おう。
 緊張をごまかすため、どうでもいいことを真剣に考える。
 「久しぶりだな」?「待ちくたびれたぜ」?どうもしっくりこない。もっと洒落た台詞があるんじゃないか、もっときつい罵倒を浴びせてやったほうがよくないか?なんたって俺はこの一週間、寝ても覚めてもレイジのことばかり考えていたのだ。レイジが元気に戻ってくる日を待ちかねて、独居房で腹を空かせてないかとか悪い夢にうなされてないかと心配して、寝不足のあまり目に隈までつくっちまった。
 ああくそ、レイジ相手に緊張する必要なんかねえってのに。頭を掻き毟ってベッドに突っ伏した俺の隣じゃ、サムライが憮然と腕を組んで目を閉じている。カーテンを取っ払ってるため、気難しい渋面をつくったサムライを身近に感じる。口には出さないし表情にも出さないがサムライもまた緊張してるんだろう、いや、それとも決勝戦を辞退せざるをえないおのれの不甲斐なさを呪っているのだろうか?眉間に縦皺を刻み、堅苦しく腕を組み、むっつり黙りこんだ顔はいつも以上に近寄りがたく厳しい印象を与えた。
 「サムライ、起きてるか」
 「無論だ。見ればわかるだろう」
 「いやわかんねっつの」
 素早くつっこむ。
 サムライは生来口数少ないのか字数の節約でもしてるのか、必要最低限の単語しか発さないため会話が成立しにくい。だが俺が話しかければちゃんと答えてくれるし、基本的には面倒見がいい奴なのだろうと好意的に解釈する。レイジが来る前からそわそわ落ち着かない俺は、緊張をほぐすためにサムライに食い下がる。
 「残念だったな、試合でれなくて。怪我してるからしかたないっちゃそれまでだけど、悔しいだろ」
 「見ればわかることを言うな」
 「……お前最近鍵屋崎に似てきたな。ダチの影響ってやつ?」
 よろしくない兆候だ。サムライにつれなくされた俺は、不服げに口を尖らせる。
 「ここ最近ずっと機嫌悪いのも、自分が決勝戦に出れないのが悔しいからだろ。鍵屋崎と一緒に行動してるレイジのことやっかんでるんだ。わかりやすいな、お前」
 「黙れ。俺は武士だ、武士が嫉妬などするものか」
 「口先だけだね。本当は試合にでたくてでたくてたまんねえくせに、医者にダメだしくらって鍵屋崎に説教されたじゃ、不満たらたらでもベッドで大人しく寝てるしかねえってか?武士はつらいよ」
 サムライの眉がぴくりと動く。 
 「……俺とて試合にはでたい。今の状況には我慢ならん。俺は鍵屋崎を守ると約束した、武士の信念に賭けて全力で鍵屋崎を守り抜くと誓ったのだ。にも拘わらず、おのれの未熟さ故に怪我をして安静を余儀なくされるなど汗顔の至り。友が死闘に赴く夜もこうして何もできず瞑想に耽るだけなど、屈辱の極み。この上生き恥を晒すならいっそのこと武士らしく切腹」
 「ベッド汚すなよ。臓物かきあつめるの大変だろ」
 サムライはいちいち言うことが大袈裟だ。ついてけないぜと内心ため息。まあ大上段に構えているが、サムライが現状を歯痒く思っていることは間違いない。今のサムライにできることはただひとつ、医務室のベッドでただひたすら友の無事を祈るしかない。太股の傷口が塞がって包帯の量が減ったとはいえ、サムライがいまだに絶対安静を言いつけられた重傷患者であることに変わりない。怪我の経過は順調だそうだが、無茶をしたらせっかく塞がりかけた傷口が開いて泣きを見るぞと医者に脅されている。
 「そんな難しい顔してむっつり黙りこんでるくらいなら医者と将棋でもしてろよ、辛気くさくてかなわねえよ。こっちまで滅入っちまう」
 「……こんな状態では将棋にも身が入らん」
 「おや残念、もう一勝負と将棋台を持ってきたのに」
 噂をすれば影、絶妙のタイミングでひょっこり現れたのは初老の医師。準備万端将棋の駒台を持参したのに、サムライにすげなく断られて哀しげな顔をする。
 「お前らいつのまにそんな仲良しになったんだよ。暇さえありゃ二人でぱちぱち将棋打ちやがって、考え事してるとき気が散るんだよ。どうせなら麻雀にしやがれ、麻雀なら俺にもルールわかるし」
 「仲間にまざりたいのかね」
 「本格的にボケ始めたのか耄碌ジジィ。目障りだって言ってんだよ」
 だれが仲間にいれてほしいもんか。
 あらぬ疑いをかけられ、医者をきつく睨む。だが医者は俺の威嚇をさらりと受け流し、あまつさえ俺のベッドによっこらしょと爺臭いかけ声つきで腰を下ろしちまった。おいこら、俺のベッドは年寄りの休憩所じゃねえぞ。
 こめかみに血管を浮かせた俺をよそに、懐に駒台を抱えた医者が、恬然とした表情で話し始める。
 「患者にも気晴らしは必要だよ」
 「あ?」  
 脳天から間の抜けた声を発した俺を一瞥、悪戯っぽく微笑み、将棋の台を叩く医者。
 「そこの彼はとくに思い詰めるタチだからね、放っておくのはよくないと長年の経験から判断してまでさ。患者の気晴らしに付き合うのも医者の義務だろう?病は気からという言葉もある。暇な一日くよくよ思い悩んでいては体も心も弱りきり、治る怪我も治らなくなってしまう。長い入院生活に気分転換は欠かせんよ」
 この医者は。
 実は、ヤブじゃないのかもしれない。
 ベッドに起きあがった俺は、珍しいものでも眺めるようにしげしげと医者を見つめちまった。今俺はさぞかし意外げな表情をしてることだろう。のほほんとして見えて、この医者は患者の精神面もばっちりケアしてくれてたわけか。サムライが深刻に思い詰めるタチだと見抜いて、患者の苦悩をほんの少しでも晴らしてやろうとわざわざ将棋の台を持ち出して気分転換させてたわけか。
 素直に感嘆し、医者に対する見方を改めた俺に水をさしたのは他ならぬ本人。
 「まあ、ワシが暇で暇でしかたなかったのもあるのだが」
 前言撤回。過大評価しすぎた。
 どっちかと言うとそれが本音だろう飄々とした口ぶりで、悪びれずに暴露した医者に脱力する。
 「君も将棋を覚えんか?いやあ、彼は強くてね。とてもじゃないがワシはかなわん、だがしかし見るからに単純そうな君になら容易に勝てそうな」  
 「ロンは賭け事強いぜ」
 この声は。 
 「!」
 ベッドに片膝立ち、はじかれたように顔を上げる。衝立の向こう、ドアの位置を凝視。こちらに近付いてくる足音はまぎれもない……
 レイジ。そして鍵屋崎。
 「博打運と悪運の強さじゃ右に出るやついねえよ。だよな、ロン?」
 鍵屋崎に肩を貸されたレイジが、俺にむかって器用に片目を瞑ってみせる。一週間前とおなじ軽薄な笑顔で、一週間前とおなじ不敵な態度で、軽く片手を掲げて挨拶するレイジに絶句する。
 言いたいことは山ほどあった。
 なんで俺になにも言わなかったんだとか別れの挨拶くらいしてけとか文句をつけたいことは山ほどあって、レイジのツラ見たら一発ぶん殴ってやると心に決めていた。でもその全部がレイジのツラを見た途端綺麗さっぱり吹っ飛んで、さまざまな感情が一挙に沸騰して、胸が苦しくなった。
 喘ぐように口を開き、また閉じる。酸欠の金魚のようにぱくぱく口を開閉しながら、俺はレイジの顔を見つめていた。この上なく不機嫌な顔をした鍵屋崎に肩を貸されたレイジは、この上なくお気楽なツラをしていた。だが憔悴の色は隠しきれず、頬がこけたせいで顔の輪郭が鋭くなっていた。
 独居房ではよく眠れなかったのだろうか?寝ても悪夢ばかり見て、うなされていたのだろうか。
 レイジの目の下には隈が浮いて、いつでも自信に満ちた表情が沈痛に翳っていた。一年と半年レイジの笑顔を見てきた俺には痛々しく無理してることがすぐにわかった。
 「ばかやろう」
 最初にでてきた言葉が、それだった。
 「ばかやろう、お前一週間前なんて言った。もう俺のそばから離れないって、俺をひとりにしねえって約束したよな?なに言ったそばから裏切ってんだよ!俺が最初目が覚めたらお前がいて、だから安心して二度寝したのに次起きたらもういなくなってて、なにがあったかわかんなくて混乱して!サムライに聞いて初めて独居房送りになったって知ったんだ、俺はまたお前においてかれたんだ!何回おいてけぼりにすりゃ気が済むんだよ、薄情も度が過ぎるぜくそったれの王様!」 
 「寂しがり屋の子猫ちゃんだな」
 「殺すぞ」
 だれが子猫ちゃんだ尻軽が。
 ふざけて肩を竦めたレイジを殺意をこめて睨み付ける。俺はこの一週間本気でレイジのことを心配して、レイジが無事に独居房からでてくるようただそれだけを一心に念じ続けたのだ。結果として俺の願いは通じたわけだが、レイジときたら俺の心中なんかさっぱり知らねえで、懲りない軽口を叩きやがって。
 くそ。なのになんで、こんななんでもないやりとりが嬉しいんだよ。
 「さて、私はそろそろ失礼するよ。カルテの続きを書かなくては」
 医者が腰に手を添えて立ち上がる。
 医者と入れ違いに、ベッドにレイジを座らせた鍵屋崎がそっけなく言う。
 「ぺア戦が始まるまでまだ少し時間がある。一週間ぶりの再会だ、話したいこともあるだろう。僕はサムライのベッドにいる。一応カーテンを引いてプライバシー保護の建前を尊重するが、良識にそむく破廉恥な会話をするなら第三者を不快にさせないよう声を低めろと忠告しておく」
 「その言葉そっくり返す」
 鍵屋崎にだけは言われたくない。
 即座に嫌味を返せば、鍵屋崎が鼻を鳴らす。小馬鹿にした態度も今はそれほどむかつかない。だって、鍵屋崎がほんとはいい奴だって知ってるから。鍵屋崎がシャッとカーテンを閉じ、隣のベッドを覆い隠す。視線を遮るカーテンの向こうからぼそぼそ聞こえてくる会話。鍵屋崎もまた、決勝戦を控えて思うところがあるのだろう。 
 大きく深呼吸し、レイジと向き合う。
 ベッドの足元に腰掛けたレイジは、少し照れ臭そうだった。気持ちは俺もおなじ。一週間ぶりに顔を合わせて、どんな会話をしたらいいかわからないのだ。
 「体、大丈夫か」
 だからとりあえず、無難なことを聞いた。
 「おおよ、ぴんぴんしてるぜ」
 「どこも痛くないか、怪我してないか。飯はちゃんと食ってたか」
 「飯は一日二回ちゃんと食ってたぜ。後ろ手に手錠かけられて床に転がされてたから、最初のうちは手を使わず犬食いするの不便だったけどすぐに感覚を取り戻した。縛られ慣れてるからな、俺」
 自然とレイジの手首に目がいく。
 レイジの手首には赤い溝ができていた。手錠が食いこんで肉が抉れた痕。
 「ちゃんと消毒したのかよ」
 憂慮に眉をひそめた俺の視線の先、猫科の動物のしぐさで手首の傷痕を舐めるレイジ。唾をつけて傷を癒そうというのか、血が滲んだ傷痕に舌先をあてがい、平然とうそぶく。
 「唾つけときゃ治るよ。試合に支障はねえ」
 「てきとー言うなって、黴菌入ったらどうすんだよ」
 「心配?」
 「一応な」
 「じゃあロンが治してよ」
 なに?
 レイジの手首をひったくった俺の眼前で、王様がにっこり微笑む。
 「ロンが舐めて治してくれよ。愛の力で治りも早い」
 いつもなら「くだらねえこと言うな馬鹿、とうとう頭に蛆が沸いたか」と一笑に伏せてた。レイジもそれを想定して軽口を叩いたんだろうが、俺はレイジの手首を掴んだまま真剣に考え込む。
 そして。
 レイジの手首を手に取り、おそるおそる、傷口に舌をつける。 
 レイジの手首を取り巻く凄惨な傷痕、金属の手錠が食いこんで肉が抉れた痕におずおずと舌先を這わせ、唾液をすりこんでゆく。鉄錆びた血の味が舌で溶け、眉をしかめる。吐き気をこらえ、手首に口をつけ、舌を蠢かせる。唾液と混ざった血が薄赤く滲んでゆく。
 レイジはびっくりしたように目を丸くしていた。
 「ほら、消毒してやったぜ。これでいいんだろ」
 まずい。
 手の甲で口を拭い、乱暴にレイジの手首を突き放す。
 口にはまだ血の味がわだかまってる。唾液に濡れ光る手首を見下ろし、レイジが呟く。 
 「……サンキュ」
 妙な沈黙が落ちた。
 「ロン、ちょっと大胆すぎねえ?びっくりしちまったよ。こないだなんか俺の上にのっかるし」
 「言うな。忘れろ。今すぐ忘れろ、一生の汚点だ」
 レイジが声をたてて笑う。レイジの笑い声を聞くのはひどく久しぶりな気がした。
 ぎし、とスプリングが軋み、ベッドが弾む。ベッドに片膝のせたレイジが、俺のほうへと身を乗り出し、なれなれしく頬に手をかける。甘い微笑を湛えた端正な顔が目の前にある。完璧に整った顔の造作に、同性だとわかってても目を奪われちまう俺はだいぶヤキが回ってる。 
 瞬きのたび物憂げに震える色素の薄い睫毛。
 優雅に長い睫毛に沈んだ双眸は、神様みたいに柔和な光を湛えている。
 「ロン、約束覚えてるか」
 「ああ」
 約束。100人抜き達成したら抱かせてやるとなかばヤケで啖呵を切った夜のことが、何故だかひどく昔のことのように感じる。薄茶の目をまっすぐ見つめて頷けば、安心したようにレイジの顔が綻ぶ。 
 レイジの手に包まれた頬に、ぬくもりを感じる。
 心地よいぬくもり。安息を与えて孤独を癒してくれる、長いこと焦がれてやまなかった人肌のぬくもり。
 レイジのぬくもり。
 「今日の試合が終わったら抱かせてくれよ」
 約束を確認するように、最後の念を押すように、やけに真面目くさった顔でレイジが言う。それがおかしくて、くすぐったくて幸せで、笑いを噛み殺すのに必死で。
 頬を包みこんだ手に手を重ね、頷く。
 「100人抜き達成したらちゃんとご褒美くれてやるから、安心して帰って来い」
 「よっしゃ。それ聞いてむちゃくちゃヤる気でてきた」 
 俺の頬から手を外したレイジが床に降り立ち、シャッとカーテンを開く。照明の光が一気に射しこんで眩しかった。漂白された視界の中、俺に背中を向けたレイジに慌てて呼びかける。
 「レイジ!」
 肩越しに振り向いたレイジめがけ、こぶしに握りこんだものを投げつける。
 放物線を描いてレイジの手中にとびこんだそれは、医者から借りた接着剤でくっつけた麻雀牌。前に俺が床に叩きつけて割ったやつを慣れない手つきで補修したもの。
 「今度はなくすなよ、ちゃんと返しにこい」
 虚を衝かれたレイジに、手の中の牌を掲げてみせる。俺がレイジに投げ渡した牌の片割れ。
 尊大に言い放った俺の眼前で、レイジが牌を放り上げる。蛍光灯の光を反射した牌が眩くきらめき、吸いこまれるようにレイジの手の中に落ちてゆく。
 「最強のお守りだ。十字架より効き目ありそ」
 言いたいことは山ほどあった。でも、きりがないからやめとく。
 心配しなくてもレイジは必ず俺のところへ帰って来る。俺にできることはレイジの帰りを信じて待つだけだ。隣のベッドのカーテンを開け放ち、鍵屋崎が立ち上がる。鍵屋崎とふたり肩を並べたレイジがひらひら手を振りながら医務室をあとにする。
 「速攻戻ってきて処女いただいてやるからケツの穴洗って待ってろよ」
 「ほざけ」
 ドアが閉まる直前、レイジが振り向く。
 晴れ晴れとした笑顔。
 『我愛弥、龍』 
 あいつ、いつのまに台湾語覚えたんだ。
 あきれかえった俺の耳にドアが閉まる音が響き、医務室に静寂が舞い戻る。
 ベッドに残された俺は、こみあげる不安をごまかすように手の中に牌を見下ろし、強く強く五指に握りこむ。
 そうだ、なにも心配ない。レイジ自身もそう言ってたじゃないか。
 肩越しに振り向いたレイジの笑顔を見た瞬間、不吉な予感が過ぎったなんてなにかの間違いだ。考え過ぎだ。そう懸命に言い聞かせても不安は拭えず、指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。

 まさかそんなことあるわけない。
 レイジがもう、二度と帰ってこないだなんて。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050827102351 | 編集

 動物園は空気が淀んでいる。
 後ろ手に手錠をかけられた囚人が汚物まみれの床に転がされて、手錠が手首の肉を抉る激痛にのたうちまわり獣じみた唸り声を発し、堕ちるとこまで堕ちた自らの境遇を呪っている。それぞれの鉄扉の奥から嗚咽や絶叫や呪詛が漏れ聞こえるさまは刑務所というより表に出せない狂人を隔離する精神病棟のようだ。 
 ここはくさい。なにかが腐ってく匂いがする。
 「人間が腐ってく匂いだ。そう思わない、ラッシー?」
 五十嵐の肩にしどけなく寄りかかり、耳元に吐息を吹きかける。
 僕が誘惑しても五十嵐はつれない、こっちを見ようともしない。
 首に腕を回して背中におぶさった僕を振り向きもせず淡々と餌やりを続けている。中腰に屈んだ姿勢から鉄扉下部の蓋を開けて食器ごとトレイを押しこむ、廊下の端に辿り着いて鉄扉が尽きるまで延々とそのくりかえし。
 つまんない仕事。
 五十嵐は損な役目ばっか押しつけられて可哀想。囚人に親身に肩入れして相談にのってやってる五十嵐は、囚人のことなんか虫けら程度にしか思ってない同僚に煙たがられて看守の間で浮いてる。
 大半の看守にとって囚人は殴る蹴るしてストレス発散するおもちゃにすぎなくて、僕たち囚人を対等な人間扱いする五十嵐は東京プリズンじゃ異端なのだ。 
 東京プリズンの看守としては異端で異質な存在の五十嵐は、今日もこうして文句を言わず、動物園の猛獣の世話をしている。五十嵐の背後に止まったワゴンには夕食のトレイがのせられてる。
 犬も食わない残飯。
 「毎回思うんだけどさあ、東京プリズンの食事ってまずいよね。ゲロみたい。僕舌が肥えてるからこんなの受けつけないよ、ラッシーから献立改善してくれるように上に言ってよ。僕たち育ち盛りなのにマッシュポテトと焼き魚の日替わり定食じゃあんまりだ、僕の背がちっとも伸びないのはそのせいだ」
 「ヤクのやりすぎだろ」
 正解。
 五十嵐のつれない答え、そっけないつっこみに肩を竦める。
 「それもあるけどさあ……そういえばラッシー最近痩せたんじゃない?頬がこけてるよ。目の下に隈ができてるけどちゃんと眠ってる?夜ちゃんと眠れないなんて悩み事でもあるの。副所長の安田さんはときどき医務室にクスリもらいにいってるみたいだけど…… あ、クスリっていってもいけないオクスリじゃないよ?ただの睡眠薬だよ。もっとも僕の扱う睡眠薬より全然効かないヤツだけど。
 安田さんもバカだよねえ、天国逝った気分でぐっすり眠りたいならボケたおじいちゃん医者じゃなくてドラッグストアを頼ればいいのに。そしたら合法非合法問わず効き目抜群の睡眠薬おろしたげるのに」  
 五十嵐の首に腕を回してぶらさがったまま、饒舌にまくしたてる。
 ここに来る途中、ロンにひどいこと言われて泣きながら医務室をとびだした僕はとりあえず気分を落ち着かせるため覚せい剤を注射した。その効き目がやっとでてきたらしい。 躁状態の僕は、とくに五十嵐の反応がなくてもかまわず言葉を続ける。
 五十嵐がつれないのはいつものことだ、いちいち落ちこんでたらきりがない。僕はビバリーの待つ房に帰りたくない、他に行くところがない。
 ならむなしい独り言でも五十嵐を相手に時間を潰すしかないじゃんかと開き直り、パパにおんぶをせがむ子供のように五十嵐の背中に上体を預ける。
 「ラッシーにもクスリあげよっか、睡眠薬でもドラッグでもなんでもこいだよ。今度不眠症の奥さんにもドラッグすすめてみたら?ヤなことなんか一発で全部まるごと忘れられるよ、人生薔薇色だよ。
 ドラッグ使ってセックスすれば普通のセックスの何倍も何十倍も何百倍も気持ちよくなれるよ、天国に届くよ。ラッシーんとこ、ずいぶんとご無沙汰なんでしょ。何年奥さんとヤッてないの?ダメだよそんなの、ラッシーまだ三十代の男盛りじゃん。奥さんとヨリ戻すために、下半身の勢い盛り返すためにドラッグに挑戦してみるのも悪くないって」
 「ひとの家庭の事情に口だしすんな」
 「あれ?ラッシーが寝不足なのって家庭が危機一髪で、奥さんに離婚迫られてるからじゃないの」
 てっきりそう思いこんでたのに。
 五十嵐の家庭が荒みきってるのは東京プリズンの囚人のだれもが、とは言わないけど八割は知ってる有名な噂だ。
 僕も詳しいことは知らないけど五十嵐は何年か前に最愛の一人娘を事故でなくして以来フィリピ―ナの奥さんとうまくいかなくなって、前にいた刑務所じゃ同僚と揉め事起こして東京プリズンに左遷されてきたらしい。
 五十嵐は宿舎住まいで奥さんに会いに帰るのは月末一度きりだし、それだって奥さんが自殺してないかどうか生存確認の意味合いが強いから夫婦仲は冷めきってる。
 口さがない看守や囚人に離婚は秒読みだろうと噂される五十嵐の横顔を観察する。
 たしかに最近、五十嵐は目に見えて痩せた。やつれた、と表現したほうが正しいか。
 頬がげっそりこけて目の下には隈ができて、体がひとまわり薄くなったような錯覚さえ覚える。夜もろくに眠れないらしく、神経質に血走った眼球が飢えた獣のように凶暴な光を放っている。
 やせ衰えた顔の中、目ばかり異様にぎらつかせた五十嵐に背筋が寒くなる。 
 五十嵐の様子はどこかおかしい。どこがどうおかしいと明確には言えないけど、絶対おかしい。この五十嵐はなにかちがうという根本的な違和感が拭い去れない。
 これが本当に、囚人に親身に接してくれる人望厚い看守?
 囚人によくしてくれると評判の看守の五十嵐?

 ―「五十嵐!!」―

 破れ鐘のような怒声が響く。
 鉄扉の内側で破裂した怒声が、どこか切迫した五十嵐の横顔に魅入られていた僕を正気に戻す。
 聞き覚えのある声だ。
 うろんげに目を細め、五十嵐の肩越しに身を乗り出して鉄扉を凝視。
 扉の内側では、糞尿まみれの暗闇に両手を拘束されて転がされた人物が怒り狂っている。
 「なにちんたらやってんだ、こちとら腹ぺこなんだはやく飯食わせろや!まったくてめえはなにやっても愚図で使ねえな、そんなんだから同僚から煙たがれてハブにされるんだよクズが!ガキどもに慕われてるからって調子のってんじゃねえよ、それともなにか、てめえはガキに優先して餌やって恩売ってるつもりなのか?餌付けかよ、餌付け!
 見所あるガキども餌付けしてフィリピ―ナの嫁さんとご無沙汰なぶん囚人のケツで楽しむつもりか、恐れ入ったぜおい!」
 扉の内側で弾ける下劣な哄笑、五十嵐へと浴びせ掛けられる下卑た揶揄。扉がガンガン鳴っているのは、独居房に放りこまれた人物が全力で体当たりしてるためだろう。
 うるさい哄笑の主は、東京プリズン最低最悪の看守……タジマ。
 そういえばタジマも独居房に入れられてたんだっけ、と僕は今ごろになって思い出す。性懲りなく大怪我で入院中のロンを襲って、キレた安田に独居送りを命じられたタジマは、おおかたの予想通り反省するどころか逆ギレして、言いがかりとしか思えない無茶を五十嵐になすりつけてる。
 「いいかげんにしろよタジマ、近所迷惑だ。周囲の房の連中がびびってんだろ。看守の威厳はどこにやったんだ、普段あんだけ警棒ふりまわして威張り散らしてるんだから独居房の中でも毅然としてろよ」
 五十嵐が疲労のため息をつく。学習能力のなさを証明するように鉄扉に突撃をくりかえすタジマにあきれかえっているのだろう。
 何度となく鉄扉に頭突きを食らわしては「いてえじゃねえかよ畜生、ただの鉄くずの分際で!いいか覚えてろよ、ここ出たらバーナーで溶かしてやっからな!」と吠え猛るタジマに僕もげんなりする。
 ガンガンと衝突音が連続し、鉄扉が震動する。
 嘆かわしげに首を振りつつ鉄蓋を開ける五十嵐。味噌汁がこぼれないよう慎重な手つきで食器ごとトレイを押しこめば、飢えて凶暴になったタジマが生唾を飲む気配が伝わってくる。
 がつがつと食欲旺盛にものを咀嚼する音がしばらく続く。
 下品に音たてて味噌汁を啜り、残飯を犬食いするタジマの姿を想像すれば、口元に笑みが浮かぶのをおさえられない。いい気味だ、ざまあみろ。汚物まみれの床にみじめに這いつくばり残飯犬食いするタジマを想像し、こっそり溜飲をさげた僕の耳に、五十嵐のおせっかいが届く。
 「よーく噛んで食えよ、喉詰まらせねえように」
 その言葉におもわず吹き出す。
 「ラッシーてば、お父さんみたい」
 たいした意味はなかった。 
 でも、五十嵐は僕の一言で硬直した。僕は五十嵐の横顔がぎくりと強張った一瞬を見逃さない。
 自分でも見て見ぬふりしてきた欺瞞をつかれたような反応。
 「ラッシーってばどうしたの、そんなぎょっとした顔しちゃって。僕はただラッシーが囚人みんなのお父さんみたいだから、それで……」
 早口で言い訳すれば、鉄扉と向き合った五十嵐がぼそりと呟く。
 「お父さんじゃねえよ。もう」
 どこを見てるかわからない虚ろな目。救いがたく暗い声。放心した顔つきで虚空を眺める五十嵐を現実に呼び戻したのは、むしゃぶりつくような勢いで残飯をがっつくタジマの催促。
 「五十嵐、この愚図が!サービス悪いんだよお前は、なにボケッとしてんだよ、俺が手錠かけられて手え使えねえの知ってて放置プレイしてんのか。同僚ならこの鉄蓋開けて匙持って飯食わせろよ。あーん、あーん」
 喘ぎ声じゃない。タジマは間抜けに大口あけて、五十嵐が匙を運んでくれるのを待ってるらしい。
 なんだか、聞いちゃいけない台詞を聞いちゃったみたいだ。
 呆然とした僕をよそに、これ以上タジマに付き合ってられないと判断した五十嵐がため息まじりに腰を上げる。五十嵐が立ち去る気配を察したのか、鉄扉の内側でタジマがあせる。
 「てめえなに俺様のこと無視してんだ、その態度はなんだ!?下僕のくせにご主人様に反抗する気かよ、いつからそんなに偉くなったんだよ、娘見殺しにした親父がよ!」 
 え?
 五十嵐の顔色が豹変する。殺意の眼光を双眸に宿した五十嵐が、しずかに問う。
 「……今なんて言った」
 「ああなんべんでも言ってやら、娘見殺しにした父親が俺様に逆らうなんざ十年早いぜ。忘れたとは言わせねえぜ、お前の大事な大事な一人娘が死んだのはお前のせいだ。お前があの日笑いながら送り出したりしなけりゃ、かわいいかわいい一人娘のリカちゃんは今も元気にしてたってのによ。惜しいなあ、今ごろはきっとフィリピ―ナのカミさん似の美人に成長してただろうによ!
 娘が死んだのは全部お前のせいだ、お前が止めなかったせいだよ!
 リカちゃんも可哀想になあ、ようやっとアソコに毛が生え始めた年齢だってのにこんなクズでどうしようもねえ父親もったせいで処女のまんま死」
  
 鉄扉に凄まじい蹴りが炸裂した。

 憤怒の形相に変じた五十嵐が、鉄扉の真ん中に容赦なく蹴りをいれたのだ。
 はげしい怒りに駆り立てられ、暴力衝動を抑制できず鉄扉に蹴りを入れた五十嵐の眼球は狂気に血走って異様にぎらついていた。沸沸とこみあげる激情を押し殺そうとでもいうように、震えるほどにこぶしを握りしめ、鉄扉を睨みつける。
 正しくは、鉄扉の向こうにいるタジマを。
 「リカのことは言うな」    
 苦渋に満ちた声で吐き捨て、五十嵐が深呼吸する。
 「今度リカの名前をだしたら、お前も殺すぞ」
 ………お前「も」?
 五十嵐の言いまわしに微妙な違和感を感じる。お前もってことは、タジマだけじゃないってこと?他にだれか殺したい人がいるってこと?混乱する僕をよそに、手荒くワゴンを押して立ち去る五十嵐。背後でタジマがなにか吠えてるけどもう振り向きもしない。
 「待て待ちやがれ五十嵐、俺様にこんなことしてただですむと思ってんのか!忘れたのか、脅迫のネタ握られてること!あのことがバレたらお前東京プリズンにいられなくなるぞ、いや東京プリズンだけじゃねえ、どこの刑務所からもお呼びかからなくなってフィリピ―ナの女房ともども路頭に迷うしかなくなるんだぜ!お前の生命線は俺に握られてるんだ、東京プリズンにいたけりゃ大人しく言うこと聞いとけ!」
 ガンガンと鉄扉に体当たりし、なりふりかまわず五十嵐に食い下がるタジマに辟易する。 
 再び鉄扉が揺れた。
 今度は五十嵐じゃない、僕が蹴りを入れたから。高々と足を振り上げ、扉の真ん中あたりに渾身の蹴りを見舞えば、僕と同時に頭突きを食らわしたらしいタジマがその衝撃をモロに受けて失神する。白目を剥いたタジマの姿は鉄扉に遮られて見えないけど、低いうめき声が漏れてきたから間違いない。
 僕が蹴ったことがバレたらあとで復讐されるに決まってるけど、タジマにはこっちが見えないから安心。
 「ざまあみろ。豚は豚らしく下品に鼻鳴らして残飯あさってろ、ゲス野郎にはお似合いだ」
 おまけに一発見舞い、素早く背中を翻す。そんな僕を五十嵐はあきれたように眺めていたが、すべての房に配膳を終えたと見え、ワゴンを押して立ち去りかける。
 車輪が廊下を擦る音がやけに大きく反響する。
 五十嵐の背後に歩み寄った僕は、頭の後ろで手を組み、さりげなく訊く。
 「ちょっと気になったんだけど、ラッシー」
 「なんだ」
 「今、だれか殺したい人いるの」
 図星だ。
 ワゴンの取っ手を掴んだまま、五十嵐が立ち止まる。微動だにせず立ち竦んだ五十嵐の背後に忍び寄り、声をかける。   
 「水臭いじゃん、なんで相談してくれないのさ。僕とラッシーの仲なのにさ。ラッシーこの頃様子おかしいからバレバレだよ。決め手はさっきの一言だけどね。
 リカちゃんて娘さん?可愛い名前だね。きっと可愛い子だったんだろうね。死んだのって何年前だっけ?死んだリカちゃんのことひどく言われたら腹立つの当たり前だよ、同情するよ」
 大袈裟に眉をひそめ、嘆かわしげにかぶりを振り、五十嵐に同情したふりをする。もちろん演技だ。
 僕はただ好奇心から五十嵐の本心を探ろうとしただけ。五十嵐が殺したい人物がだれか知りたいだけ。
 だから僕は嘘をつく。平然と。
 「可哀想なラッシー」
 「……可哀想?」
 五十嵐が怪訝な顔になる。僕に言われたことが理解できないといった様子。放心した顔つきで僕を見下ろす五十嵐に体をすりよせ、腕に腕を絡める。
 「僕知ってるもん、ラッシーがほんとはいいひとだって。囚人を虐待して憂さを晴らす腐った看守ばっかの東京プリズンで殆どすべての囚人に慕われる理想の看守。東京プリズンの囚人はみんなラッシーのことお父さんみたいに慕ってる。僕だってそうだよ?僕は物心ついたときからママとふたりきりの母子家庭でパパの顔も知らないけど、ラッシーと話すたび、ラッシーがほんとのパパだったらいいのにって思ってる。ラッシーみたいに子供思いで頼り甲斐のあるパパがいたら、東京プリズンなんか来なくてすんだのにって」 
 口からでまかせだ。
 僕にはママひとりで十分、ママがいればあとはなにもいらない。パパなんて最初からいなくていい。
 でも、全部が全部嘘じゃない。東京プリズンの囚人の多くが五十嵐の中に理想の父親を見てるのは事実。父性を感じさせる五十嵐の物腰に絶対的な信頼をおいてるのも事実。
 その五十嵐が、多くの囚人から実の父親のように慕われてる五十嵐が、殺したいほど憎んでいる人間は一体だれだろう?
 ……なんてね、実はもうわかってる。そんな人間、フィリピ―ナの奥さんしか思い当たらない。五十嵐と奥さんの仲が険悪なのは有名で、ふたりのあいだじゃ喧嘩が絶えないそうだ。噂によれば五十嵐の奥さんは過去に手首を切ったことがあるっていうし、情緒不安定な奥さんを抱えておちおち浮気でもきない五十嵐の心情は察するにあまりある。下半身はまだまだ現役なのに、奥さんへの罪悪感から浮気もできず離婚もできず男盛りの三十代を浪費してるんなら、さんざん思い詰めた挙句に殺意が芽生えてもおかしくない。
 気弱でへたれな五十嵐の性格を考えても間違いない。
 どうだ、鍵屋崎なんかとは比べ物にならない名推理っしょ?
 「僕はラッシーの味方だよ」
 五十嵐にしつこくまとわりつき、悪魔の誘惑を囁く。
 覚せい剤の副作用だろうか、今の僕はだれかに意地悪したい気分になっていた。たまたま運悪く居合わせただれかを口先でそそのかして、おもいきり苦しめてみたい気分。
 五十嵐の腕に頬ずりし、甘ったるい猫なで声で続ける。
 「安心して、僕が保証してあげる。ラッシーは悪くない。悪い人間はべつにいる。ラッシーに殺したいほどだれかを憎ませたそいつが悪いんだ。だってラッシーはこんなにいい人なのに、そのラッシーがだれかを殺したいほど憎むなんてよっぽどのことでしょう。きっとそいつは、とんでもないことをしたんだね。ラッシーの気持ちを踏み躙っていい気味だざまあみろって高笑いするような性悪は死んで当然。ラッシーが思い余って殺しちゃってもだれも文句言わないよ、だってラッシーは今まで十分苦しんできたんだもん」

 ひょっとしたら、ビバリーへの仕返しなのかもしれない。

 ビバリーに無視された怒りと哀しみを他のだれかにぶつけて憂さを晴らそうとしてるだけなのかもしれない。子供っぽいやつあたり。この場に鍵屋崎がいたら幼稚だと笑われるだろうか?どうでもいい、鍵屋崎は今関係ない。
 五十嵐の肩に手をかけ、つま先立ち、耳朶に顔を近付ける。
 五十嵐は僕にされるがまま、逆らう素振りもない。悪魔に魂を売り渡したように虚ろな目で、虚無に呑み込まれた表情で、呆然と立ち尽くすばかり。
 「ラッシーは悪くない。リカちゃんが死んだのもそいつのせいなんでしょ」
 そう、ラッシーは悪くない。リカちゃんを殺したのはお父さんじゃなくてお母さんのほう。やなこと全部をラッシーに押しつけて、酒に溺れて夫にあたりちらすばかりの奥さんのほう。
 「全部ラッシーのせいにして、やなこと全部ラッシーに押しつけて責任逃れなんて卑怯だよ。ラッシーはもう十分苦しんだ、だから今度は相手が苦しむ番。でしょ?ラッシーがやることは正しいよ。ラッシーが今までどんだけ苦しんだのか相手に思い知らせてやるんだ、力づくでわからせてやるんだ」
 そうだ、力づくでわからせてやれ。
 自分がどんだけ辛く苦しい目にあったのか、悩んで悩んで悩みぬいたのか思い知らせてやれ。
 自分だけ不幸になるのは不公平だ。だったら他人も引きずりこんでやるまでだ。
 この生き地獄に。
 「殺しちゃいなよ、そんなクズ。ずるずる生かしとく価値ないよ。ずるずる生かしといたらまたまわりが不幸になるよ、リカちゃんときみたいにさ」
 現に五十嵐はもう不幸になってる。このまま離婚もできず奥さんとずるずる一緒にいたらますます荒んでくだけだ。
 五十嵐の肩に指を食いこませ、声を低め、心の堰を壊すとどめの一言を吹き込む。
 「みんなのお父さんなんだから、自信もって」
 五十嵐の双眸に不穏な光が宿る。
 「そう、だな。殺したほうがいいよな」
 「殺したほうがいいって、絶対」
 五十嵐の決断を後押しするようににっこり笑う。そこでふと、あることを思い出す。
 「そういえばラッシー、前に預けた銃ちゃんと安田さんに返してくれた?」
 「ああ、安心しろ。ちゃんと返しといたぜ。どこで見つけたんだってさんざん詰問されたけど適当にごまかしといたから安心しろ、ダチにもそう言っとけ」
 「ダチじゃねえよ」
 自分でもびっくりするほど冷たい声だった。
 突き放すように吐き捨てれば、五十嵐が目を丸くする。
 やばい。
 「よかった、ちゃんと安田さんに返してくれて。やっぱラッシーは他の看守と違って頼りになるね。あ、これお礼。そんなしょげた顔してないで僕が作ったいちごでも食べて元気だしてよ」
 ポケットに片手を突っ込み、いちごをとりだす。ビバリーと半分こしようと思ってお土産に持ってきたいちごの残り。他のいちごは怒りが爆発して医務室の床にぶちまけてきたから、これが最後の一個だ。
 五十嵐が見ている前で、いちごを口にくわえ、爪先立つ。 
 「!?んぐっ、」
 伸びあがるように五十嵐に顔を近付け、無理矢理いちごを含ませる。口移しでいちごを食べさせられた五十嵐は手足をばたつかせて必死に抵抗するが、口を口で塞がれちゃあどうしようもない。
 いちごを喉に詰まらせた五十嵐が涙目で咳き込む様子がおかしくて、けらけら笑いながら走り出す。
 「じゃあねラッシー。眠れない夜は僕んとこ訪ねてきてよ、一発ヌカせてあげる」
 時刻は深夜に近い。気は重いけど、そろそろ房に帰らなきゃ。
 軽快に駆けながらも、心は陰鬱に沈んでゆく。僕に背中を向けて毛布にくるまったビバリーのことを考えれば、心細いやら腹立たしいやらでまた泣けてくる。
 それにしても、いきなりキスされていちごを喉に詰まらせたというのに五十嵐は何も言ってこない。
 どうしたんだろうと不安になって廊下の終点で振り向けば、手のひらにいちごを吐きだし、ぼんやり虚空を見つめていた。
 生ける屍の目だ。
 僕の視線に気付いた五十嵐が、緩慢にこっちを向き、ぎこちない笑顔を作る。
 目は虚ろに死んだまま、口元だけに力ない笑みを浮かべて。
 「ありがとうよ、リョウ。おかげで決心がついた」
 五十嵐は、僕へと礼を述べた。
 ぞっとした。
 
 それがつい数日前の出来事。
 そして今晩、ついに東京プリズンの運命を左右する決勝戦がはじまる。
 だれかが生き残りだれかが死ぬ、運命の夜がはじまる。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050826102512 | 編集

 「ちくしょーいてえよ」
 レイジが苦痛に眉をしかめる。
 「自業自得だ、我慢しろ。あとで泣き言を漏らすくらいなら医務室で素直に手当てをうけておけばよかったんだ。ロンに弱みを晒すのがいやで虚勢を張ったツケが回ってきたんだ、余裕ぶって退室した途端に痛い痛いと弱音を吐いて情けない男だな。本当に東京プリズン最強の男、無敵の王様か?」
 決勝戦を間近に控えた地下停留場に繋がる通路の一本にて、僕は今レイジの治療にあたっている。コンクリ壁に背中を凭せたレイジは自分の手首に純白の包帯が巻かれてゆくさまを眺めながら「いてえよ、もっと愛をこめて丁寧にやってくれよキーストア。白衣の天使になったつもりでさあ」などと戯言をほざいていたが相手にせず、少々手荒に包帯を巻いて傷口を覆ってゆく。
 医務室で手当てをうけるのはいやだとレイジが駄々をこねるものだから、人目を避けてここまで引っ張ってきて処置を施しているのだが、まったく何故僕が医者の真似事をと腹立たしくなる。たしかに僕は幼少期から医学書を読みあさり広範囲の医学知識に精通してる自負があるが、だからといって赤の他人の怪我の手当てを経験したことなど殆どない。唯一の例は恵が転んで膝を擦りむいた時に消毒してバンソウコウを貼ったくらいだ。
 膝の痛みを訴えて涙ぐむ恵をなだめながら、消毒液を含ませた綿で傷口の汚れを拭った記憶を反芻する。
 幸せな思い出に浸っていた僕に水をさしたのはレイジの絶叫。
 「痛いキーストア痛えって、お前サドかよ!?俺が痛いってさんざん訴えてんだから耳あんなら無視せず聞けよ、もうちょっとお手柔らかに包帯巻いてくれよ!そんなぎゅうぎゅう絞め付けたら手首の傷にさわんだろうが、男に縛られて悦ぶ趣味はねえんだよ俺はっ」
 「注文の多い患者だな。痛みには慣れてるんじゃなかったのか」
 目にうっすら涙まで浮かべて僕を非難するレイジにあきれる。レイジときたら僕が傷口を消毒して薬を塗るあいだにもさかんにかぶりを振るわ暴れるわで処置しにくいことこの上ない。涙目で僕を睨みつけるレイジを嘲るように鼻を鳴らし、刺々しく吐き捨てる。
 「君はロンの前で格好つけすぎだ。ロンを心配させたくない気持ちは殊勝だが、君が意地を張るたび手を焼く僕の身にもなってみろ。いい迷惑だ」
 だいたい拷問部屋ではサーシャに縛られ嬲られていたくせに「縛られる趣味はない」などと主張しても説得力に乏しい。衝立越しの会話でも「縛られ慣れている」などと言っていたではないか。
 思っていることが顔にでたのか、レイジが不服げに口を尖らせる。
 「縛られ慣れてるってのは拷問や訓練でだよ、好きで縛られるわけねえだろ!俺は尻軽で無節操で男でも女でも体の相性よけりゃおかまいなしのタラシだけどSMは嫌いなんだよ、ガキの頃に死ぬほど痛い思い味わったから懲り懲りで飽き飽きなんだよもう。今は愛のあるセックスっきゃしたくないね」
 「サーシャとのセックスにも愛があったのか。ロンが聞いたらどう思うだろうな」
 「サーシャとのセックスにあったのはむしろ愛憎。愛憎から愛をとったら残るは憎しみだけってな。ちょっと上手くね、これ?」 
 「君のセックス論はどうでもいい。とりあえず動くな、包帯が巻けない」
 そっけなく釘をさせば、「自分から聞いたくせに」とレイジが不満げに黙りこむ。レイジが大人しくなった隙を逃さず、二重三重に包帯を巻いて手早くテープで留める。
 これでよし。
 処置が完了した僕は安堵のため息をつき、ふてくされたレイジに向き直る。
 「治療は完了したが、念の為あとで医務室へ行き怪我の具合を診てもらえ。あの医者は食えない性格をしてるが、意外と腕はいい。素人の僕が慣れない手つきで包帯を巻くよりよほど信頼が」
 「いや、お前の腕は確かだったぜ」
 世辞にしてはあっさりとレイジが称賛する。
 「……おだてても無駄だ。いいか、これは命令だ。君より僕のほうが数倍医学知識に通じてる、天才の言うことは素直に聞いておけ」
 「さすがブラックジャックの弟子は違う」
 「漫画の登場人物、二次元の存在に弟子入りできるわけがないじゃないか。君は頭がどうかしてしまったのか?持ち上げても駄目だ。君がロンの前で弱みを晒したくない気持ちはわかる、話が進まないから一応わかったことにしておく。だがそれでも言わせてもらう、くだらないプライドや見栄より治療を優先しなければそのうち手首が腐って爛れてもげ落ちて」
 「グロイ想像すんなよ」
 「事実を述べたまでだ。
 二度と手が使えなくなったら不便だろう、ただでさえ右腕に重傷を負ってるのに」  
 眼鏡のブリッジを押し上げ、袖に隠されたレイジの右腕を一瞥する。袖をめくりあげればレイジの右腕には包帯が巻かれている。一週間の独居房生活で見る影なく汚れきった包帯を取り替えたのは他ならぬ僕なのだから間違いない。自分で言うのも何だが僕は献身的すぎるほどにレイジに尽くしていると思う。レイジが医務室で治療を受けたくないと拒めば、医者から包帯を貰ってこうしてロンの目の届かない場所で手当てをしてやった。怪我人の願いを無碍にできないとはいえ、最近僕はレイジのわがままに付き合わされてばかりだ。否、正しくは振り回されてばかりと言うべきか。
 当のレイジは、袖の上から右腕をさすりながら眉をしかめている。目の下には憔悴の隈が浮き、頬もやつれていたが、そんな表情は妙に艶っぽい。眉間に苦悩の皺を刻んだレイジに束の間見惚れていたら、王様が憮然と呟く。
 「ロンのことだけじゃねえよ。前にあの医者にこっぴどい目にあわされたんだ」
 「ひどい目?」
 初耳だ。あの医者は存外したたかで食えない性格をしているが、囚人にひどいことをしたという噂は聞いたことがない。まあ、武士の意地だか見栄だからくだらない理由で麻酔を拒んだサムライの傷口を平然と縫ったりはしたが。  
 疑問の眼差しを投げかける僕をキッと睨み付け、当時の恐怖が甦ったらしいレイジが食ってかかる。
 「信じられるか、あの医者俺が前に怪我して医務室行ったとき傷口にドバって赤チンぶっかけたんだぜ!加減あやまって一瓶まるごとさ!その理由聞いて驚け、たまたま老眼鏡忘れて治療にあたって手元がよく見えなかったんだと!あん時は床に転がって悶絶したよ、染みて染みて染みて思い出しただけでも全身が鳥肌立つ。脳天まで突き抜けるような激痛だった。つーかイマドキ赤チンだぜ赤チン、それもやけに染みるなあと思って涙目でラベルに目を凝らしたら使用期限が十年も前に切れてる赤チン!で、頭にきて問い詰めたらあの老いぼれ何て言いやがったと思う?」
 「『老眼鏡がなくてわからなかった』」
 「そうだよそう言ったんだよ、老眼鏡忘れたせいでラベル見えなくて使用期限切れてるのわかんなかったんだと!『気の毒に、運が悪かったね』なんて悪びれもせずのたまいやがって、あんなヤブ医者信用できるかっつの!素人だろうが自称天才だろうがお前のがよっぽど信頼できるぜ」
 「だが僕は医師免許をもってないぞ」
 「ブラックジャックは無免許だけど腕がいい。だろ?」
 レイジが悪戯っぽく僕へと笑いかける。自信に満ち溢れた不敵な笑顔は僕の見慣れた王様のそれ。 
 「…………漫画と現実を混同するなんてヨンイルの病気が伝染ったんじゃないか?」
 なんとなく気恥ずかしくなり、レイジから目を逸らして包帯を片付ける。包帯を回収してからふとあることに思い至り、疑惑の眼差しをレイジに注ぐ。
 「……まさか君が今までロンの見舞いにも行かず医務室を避けつづけていたのは、医者と顔を合わせるのがいやだったからか?」 
 「お前馬鹿だな」
 レイジがあきれたふうに首を振る。馬鹿に馬鹿呼ばわりされる筋合いはないぞこの低能めと叫び出したいのをぐっとこらえ、平静を装い続きを待つ。怪我人相手に大人げなく取り乱すのはみっともない。
 右腕を抱えたレイジが、おのれの内面に沈みこむように深い眼差しで微笑する。
 「そんなくだらない理由なら、俺は真っ先にロンに会いにいってたよ。迷うことなくあいつをおもいきり抱きしめにいってた。俺にとってロンは、俺自身より百万倍大事で守りたいヤツだから」
 「のろけか」
 「のろけだよ。羨ましいか?」
 「理解不能だ」
 「お前もサムライのことのろけていいぜ」
 「意味不明だ」
 『Child dish』
 むっとする。
 ため息まじりにレイジが呟いた英語は、「子供っぽい」を意味する揶揄。つまり僕は「お子様だな」と言われたことになる。たしかに僕はレイジより年下だが、人に怪我の手当てまでさせておいて侮辱するとはとんでもない男だとおおいに憤慨する。表情を険しくした僕を見上げ、レイジが笑う。
 「まあいいや。サムライのそばにいりゃそのうちわかるよ」
 そして、光射す通路の出入り口を振り向く。
 「もうすぐはじまるんだな」
 「ああ」
 何がとは訊かなかった。訊かなくてもわかる。あと三十分後には決勝戦がはじまる、あと三十分後にはレイジがリングに立たなければならない。百人抜きを達成して僕とロンを売春班から自由にするため、レイジは満身創痍で死闘に臨もうとしている。
 本当にこれでいいのか?
 胸裏で膨れ上がる不安と葛藤。憔悴の色濃いレイジの横顔を注意深く盗み見る。一週間の独居房生活を経た直後に試合に臨むのだ、レイジの疲労は既に極限に達している。試合が始まる前から体も心も限界だ。レイジにこれ以上無理をさせたら命に関わる、それはよくわかっている。最悪の場合、リングに上がった途端に倒れてしまうかもしれない。
 僕になにができるだろう?
 レイジが独居房に入れられてからただそれだけをずっと考えていた。苦悩と葛藤の日々。僕にもできることが必ずあるはずだ、僕でも役に立てることが必ずどこかにあるはずだ。僕は医務室で安静を余儀なくされたサムライとロンの分も頑張らねばならない、彼らの分までレイジを補佐して戦わねばならない。
 金網越しの安全圏で、ただレイジを応援するだけでいいのか?
 僕はロンと共に参戦表明をした時を除いて一度もリングに上がってない。ロンは立派に凱と戦い、取り巻きの妨害にもめげず逆転勝利をおさめた。サムライは渡り廊下で僕を守り重傷を負ったが、それまでの戦いで十分すぎるほどに責務を果たした。
 僕はなにをした?
 彼らのために、僕自身のために、なにをしてきた?
 このままでいいのか本当に、レイジだけに戦わせていいのか?レイジは僕の仲間だ。レイジだけではない、サムライとロンも僕の仲間だ。今の僕を支える大事な仲間たちだ。
 僕の成すべきことは、金網越しの安全圏からレイジを応援することではない。
 今にも倒れそうなレイジを支えて、リングに上がることではないか?
 その疑問がずっと脳裏に纏わりついて離れない。今日独居房から出されたレイジの顔を見た瞬間から胸に覆い被さる不吉な予感。今日レイジをリングに上らせたら二度とは下りられない予感がする、そんな気がしてしかたがない。一時は考えすぎだと自己暗示をかけてごまかそうとしたが、レイジの笑顔を見るたび名伏しがたい不安が膨れ上がり、不吉な予感は最悪の確信へと形を変える。
 レイジをひとりで行かせてはならない、絶対に。
 レイジをひとりで行かせたら、もう戻っては来ない。
 サムライ、僕はどうしたらいい?
 目を閉じ、今も医務室で決勝戦にでれないおのれの不甲斐なさを呪っているだろう友人に問いかける。刻々と試合開始時間が迫り、焦燥に駆られているのはサムライだけではない。僕も彼とおなじ気持ちだ。重傷を負ってベッドでの安静を強いられるサムライよりも、レイジのそばにいながらにして何もできない僕のほうがより心境は複雑だ。
 サムライ、僕はなにをしたらいい?
 レイジを失わないために、ようやくできた仲間を失わないために、なにをすべきなんだ?
 「よ、お二人さん。しんきくさい面並べてどないしたん、通夜みたいやで」
 底抜けに明るい声が通路に響き渡る。
 背後から声をかけ、なれなれしく僕の肩を抱いた少年は額にゴーグルをかけていた。ヨンイルだ。
 「神出鬼没な道化だな。なれなれしくさわるんじゃない、敵と馴れ合う趣味はないんだ」
 「えっ、こないだネタバレしたんにまだ敵扱い?なおちゃんつれへんなあ、傷つくわーホンマ。俺は試合前によろしくやろて挨拶しにきただけや、そんなぴりぴりせんでも笑顔で迎えてくれたらええやん。なあレイジ」
 『Please disappear in front of me. Here is not the place where you should be. Come back in a circus』 
 レイジが爽やかな笑顔で言い放つ。 
 「なんちゅーたの、今」
 「無知で無教養な貴様のために特別に翻訳してやる。『俺の前から消え失せろ。ここはお前にふさわしくない、道化はサーカスに帰りやがれ』だそうだ」
 英語で悪態を吐いたということは相当怒ってるらしい。まあ狂言とはいえホセとヨンイルに最悪のタイミングで裏切られたことを踏まえれば無理もない。レイジはいまだに誤解したままだ。
 腰に手をあてたヨンイルが大袈裟にかぶりを振る。
 「大人げないなあ、過ぎたことをいつまでも根に持って。王様やったらもっと太っ腹に裏切りのひとつやふたつ笑い飛ばすくらいの度量もてや。そんなんやからロンロンといつもええとこまでいくのに本懐遂げられへんのやで、情けない」
 「くたばれ道化」
 「おお怖」 
 ヨンイルが肩を竦める。その背後から颯爽と歩み出たのは、艶のある黒髪をきっちり七三に撫でつけたホセ。二人同時に登場すればレイジの神経を逆撫でするだけと予測して、ヨンイルの背後に隠れてタイミングをはかっていたものらしい。相変わらず計算高い。
 僕を手招きしたヨンイルが、耳元でそっと囁く。
 『直ちゃん、俺らが決勝戦にでるホンマの理由レイジに教えてへんのやな』 
 『教えたほうがよかったか』
 『いや、このままでええ』
 そう訊き返せば、意味ありげにほくそえんだヨンイルが即座に否定する。
 『レイジにいらん前知識与えんなや、おたがい本気だせへんようになるやろ。レイジに手加減されて勝っても嬉しゅうないわ、レイジのアホには勘違いさせたままにしとこ。そっちのがおもいきり戦えて勝うたとき気分ええわ』
 ヨンイルはとんだ食わせ者だとその笑顔で痛感する。
 『ホセもおなじ気持ちや。レイジが独居房に送られてから一週間一日たりともリハビリ欠かかさんで、無事な片腕でサンドバッグ殴り続けて体力キープ。ベストの状態で試合に臨む気や、おっそろしい』
 「聞こえてますよヨンイルくん」
 黒縁眼鏡の奥の目は柔和な笑みを溜めている。皮肉げな笑顔で腕を組んだレイジと向き合ったホセが、ズボンの腰で片手を拭い、友好の握手を求める。
 「今日の試合では過去の遺恨は水に流しおたがい最善を尽くしましょう。ああ、吾輩のワイフがこの場にいないのが残念です。いればきっと東京プリズンの歴史に残る試合に涙を流して感激したことでしょう、吾輩はせめてワイフの分までリングの照明を浴びて頑張らねば」
 「お前のワイフは今ごろ違う男の下で腰振ってるぜ」
 「…………大人げないですよレイジくん。そのお綺麗な顔をすりつぶされたいですか」
 レイジの大人げない対応にホセが声を低め、険悪な雰囲気が漂いはじめる。
 尊大に腕を組んで握手を拒み続けるレイジにあきれたか、スッと片手をおろしたホセが、苦笑しつつ眼鏡のブリッジに人さし指をあてる。
 「君がそのつもりなら容赦はいたしません。一週間前に君に刺された片腕はまだ若干痛みますが、たゆまぬ特訓の成果か無事な片腕だけでほらこのとおり」 
 友好的な笑顔は絶やさず洗練された動作で片腕を振り上げ、そして。
 通路が震動した。
 ホセが水平に掲げた腕が、砲弾の勢いで壁を直撃。衝撃が天井に伝わり蛍光灯がはげしく揺れ、大量の埃が降ってくる。笑みを絶やさず壁を殴り付けたホセがこぶしを抜けば、壁には亀裂が走り、濛々と粉塵が舞いあがる。
 「頭の悪さまるだしのパフォーマンス。恥ずかしくね?」
 レイジが口笛を吹けば、丁寧な動作でこぶしを拭ったホセがおだやかに付け加える。
 「勘違いしないでください。君が一週間前、吾輩の不意をついてナイフを投げたことに関して罪悪感を抱いているのなら申し訳ないなと思い、リングではくれぐれも手加減せぬようご忠告しただけです」
 「手加減しなくていいのか?死ぬぜ」
 「ご冗談を」
 ホセがにっこり微笑む。
 「死ぬのは君のほうです、愚者の王」 
 ……ホセがレイジを裏切ったのは、本当に目くらましの狂言なのだろうか。
 ふたりのやりとりを傍観してるととてもそうは思えない。気のせいかヨンイルも引いている。両者口元に笑みを湛えたまま、威圧的な眼光で睨み合うレイジとホセを正気に戻したのは、地下停留場の大歓声。
 通路に殷殷と反響する大歓声は、主役の登場を今か今かと心待ちにし、時間の経過とともに盛り上がる観客の期待感を代弁してるようだ。
 「さあ、ファンの皆様がお待ちかねです。これ以上待たせては可哀想だ、そろそろ行きましょう」
 黒縁眼鏡の弦に触れたホセが、分厚いレンズの奥で剣呑な眼光を放つ。
 「ワイフを侮辱した人間には死あるのみです。覚悟はよろしいですね、レイジくん」
 「お前を倒してからお前のワイフを抱いてやるよ。隠者がのろけるくらいなんだからさぞかしイイ女なんだろ?」
 「おや、ロンくんのいないところでそんなことを言っていいのですか?それとも女性は浮気の勘定にいれないとでも」
 「浮気は別腹だよ」
 「……全然反省の色がないな。腕の傷口を縫うまえにそのよく動く舌と口を縫合してもらったらどうだ、先が思いやられる」
 あきれかえった僕の視線の先、ホセと肩を並べたレイジが優雅な大股で歩き出す。しなやかなネコ科の肉食獣をおもわせる歩みで地下停留場へと赴くレイジの背後、ヨンイルが僕の肩をつつく。
 振り向けば、ヨンイルが人懐こく笑いながら片手を突き出していた。
 「何の真似だ?」
 「なにて握手や握手。正々堂々全力尽くして戦いましょうってな」
 「僕は潔癖症なのだが、それを承知で言ってるのか?漫画の読みすぎでインクで汚れたこの手を握れとそう強要しているのか?どこまで図々しいんだ君は、その無神経極まる言動はいっそ犯罪だぞ」
 「つれないなあ直ちゃん。それとも」
 ヨンイルがにやりと笑う。体の奥底から闘志が湧き上がるような挑戦的な笑み。  
 「道化と殺りあうのが怖いんか」
 頬をぶたれた気がした。 
 あらためてヨンイルの片手を見下ろす。握手を求めて僕の眼前に無防備に突き出された右手。この手を取るも払いのけるのもすべては僕個人の判断にかかっている。
 決断を下すのは僕だ。
 決めるのは僕だ。
 ヨンイルの手を握ればもう後戻りはできない。生唾を嚥下し、ヨンイルの片手を凝視。微動だにせず立ち竦んだ僕の脳裏をさまざまな映像が過ぎる。
 レイジ、ロン、そしてサムライ。僕の仲間たちの顔。

 このままでいいはずがない。 
 いつまでも自分の無力に甘んじて逃げ続けていいはずがない。
 
 サムライは言った、「あまりひとりで抱え込むな、直。お前は十分よくやっている」と。だが僕は納得しない、他のだれもがそう言っても他でもないこの僕自身が納得できない。現状では不十分だと、こんな僕では満足できないと、こんな僕ではサムライの友人を名乗れずレイジとロンの仲間を名乗れないという衝動がこみあげてくるのだ。
 もう逃げ続けるのはやめだ。
 僕はレイジひとりに戦わせたくない、彼ひとりに重荷を背負わせたくない。僕はレイジの相棒だ、レイジの仲間だ。ロンとサムライが怪我をして動けない分までレイジを助けなくて仲間を名乗れるわけがない。
 さまざまな苦悩から脱し、毅然と顔を上げ、まっすぐにヨンイルを見つめる。
 慎重に片手を上げ、ヨンイルの手をとり、握る。
 ヨンイルの手のひらはほのかに汗ばんでいた。人肌の不快さに顔をしかめたいのをぐっとこらえ、できるだけ平静を装い、しずかに宣言する。
 「君の相手は僕だ」  
 ヨンイルと戦うのは、この僕だ。
 揺るぎない決意をこめて断言すれば、ヨンイルが会心の笑顔で僕の手を握る。
 手を通して何かを受け渡すように強い力をこめて。
 「よろしゅうな。直」
 道化に呼び捨てにされたのは、これが初めてだ。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050825102632 | 編集

 レイジは笑っていた。
 『我愛弥、龍』
 愛してるよロン、と台湾語で言って。
 最後の台詞がそれかよ、格好つけやがって。キザで気取り屋の王様らしいスカした別れの文句だ。扉が閉まる直前、肩越しに振り返ったレイジは俺の目をしっかり見据えて微笑んだ。
 極上の笑顔。
 言いたことは山ほどだった。でも言えなかった。
 レイジの顔を見た瞬間胸が一杯になって喉が詰まって、この一週間心の奥底に溜めこんでたさまざまな感情が噴き上がって、言いたいことの五分の一も満足に言えなかった。
 満足に気持ちを伝えられなかった。 
 だから俺は、無理矢理にでも思いこもうとした。レイジは必ず無事に帰って来る大丈夫、五体満足で帰って来るから大丈夫。へらへら笑いながら俺のとこに戻ってきて「ちょっと手こずっちまったけどヨンイルもホセもサーシャも所詮俺の敵じゃなかったぜ」と不敵にうそぶきながら、俺の頭をなれなれしくかきまわすに違いないと思いこむことにした。
 なんで一週間前なにも言わずに行っちまったんだこの尻軽めとか、溜めに溜めこんだレイジへの罵倒は全部が終わってから盛大にぶちまけてやるつもりだった。レイジが決勝戦に勝利して、俺と鍵屋崎が売春班からぬけて、サムライが処理班に回されることなく大団円を迎えてから言いたい放題レイジを罵倒してやるつもりだった。
 すべてが終わったあとに、俺たち東棟の四人が医務室に集合してから、そこで。
 レイジはきっと懲りない軽口叩いて、そんなレイジに鍵屋崎は軽蔑の表情を浮かべて、ベッドに上体を起こしたサムライは鍵屋崎とレイジのやりとりを微笑ましく見守って。
 俺は「こいつらが仲間でよかったなあ」と幸せに浸りながら、なれなれしく肩を抱いてくるレイジの手を邪険にはたいて。
 そんなくだらない日常が、また戻ってくると信じていた。
 でも。
 「…………まさかな」
 声にだして呟く。
 俺の手の中には麻雀牌がある。無事に帰って来いと願いをこめてレイジに渡した牌の片割れ。以前、激昂した俺が床に叩きつけて割れ砕けた牌を接着剤でくっつけたものだ。手先が不器用な俺は、接着部分が目立たないよう元通りにするのに非常な集中力と長い時間を要したが、苦労した甲斐あってなかなか見事な出来映えだった。
 この牌は、かつてレイジが持っていたものだ。
 俺が五十嵐から貰った牌を、レイジが内緒でパクってポケットに仕込んでいた。レイジが北棟に行った時もズボンの尻ポケットにはずっとこの牌が入っていた。
 俺たちふたりを繋ぐ牌。絆の証。
 だから俺は丁寧に時間をかけて、心をこめて、自分の手で壊した牌を再びくっつけなおした。
 医務室で寝てなきゃいけない俺の代わりにレイジを守ってくれるよう願いをこめて。
 縁担ぎなんて柄じゃないが、今の俺は信じてもない神様にも縋りたい心境だった。扉が閉まる直前、レイジの笑顔を見た瞬間から不吉な予感が拭い去れない。
 不吉な笑顔だった。
 これが最後の別れだといわんばかりの。
 俺はレイジの笑顔に死相を見た。
 「………っ!」
 まさかそんな、レイジが死ぬなんてありえない。なにかの間違いに決まってる。なあそうだろ、そうだと言ってくれ。俺の勘違いだとだれか笑ってくれ、考えすぎだと呆れてくれ。そうしたら俺は救われる、安心してレイジの帰りを待つことができる。あいつを説教する準備を整えて、ベッドに上体を起こしてられる。
 牌を握りこんだこぶしに額を預け、深々とうなだれる。
 どうしてこんなに不安なんだ?俺はレイジの強さをよく知ってる、東京プリズンでレイジにかなう奴なんかだれもいない。道化も隠者も皇帝も王様の敵じゃない。レイジは入所以来何年間も連戦連勝、無敵無敗のブラックワーク覇者の座にあり続けた東京プリズン最強の男なのだ。
 レイジが負けるなんてありえない、絶対に。
 レイジが負けるとこなんて想像できない。
 何度も何度もくりかえし自分に言い聞かせ、焦燥に波立つ心を落ち着かそうと努める。 レイジは負けない、絶対に。その言葉が何故こんなにも言い訳がましく響く、根拠のない気休めに聞こえる?俺はだれよりもレイジの強さをよく知ってる、だれよりレイジの身近にいて怪物じみた強さを見せ付けられてきたのだから自信をもって断言できる。
 そうだろ?
 なあ、そうだろ?
 「勘違いだ。気のせいだ。レイジが死ぬなんてありえない、レイジは殺しても死ぬやつじゃねえ。ひょっこり医務室に帰ってきて、拍子抜けするようなお気楽な笑顔で、挨拶代わりの下ネタ二・三発かますに決まってる」 
 牌に念をこめるように固く目を閉じ、勝手な想像が現実になるよう真摯な祈りを捧げる。レイジ、頼むから無事帰ってきてくれ。俺の不安を蹴散らしてくれ。また笑顔を見せてくれ。
 これっきりなんて、なしだ。
 俺はもうお前と離れたくない。お前と離れて生きてけない。
 「……ロン、起きているか」
 「!」
 衝立越しの声が祈りを中断する。
 反射的に顔を上げ、カーテンを引く。
 隣のベッドに起きあがったサムライが、怪訝そうにこっちを見てた。
 「起きていたのか」
 「眠れるわけねえだろ、この状況で。下じゃもうすぐ世紀の決勝戦が始まるってのに」
 まさかカーテンを仕切って祈りに没頭してたなんて言えない。困った時の神頼みなんて我ながら調子がいいというか、柄にもないことするもんじゃないと呆れる。サムライの目から牌を隠すように右こぶしを毛布の下にしまい、努めてさりげなく話題を変える。
 「さっき鍵屋崎となに話してたんだ?」
 俺の手元からサムライの注意を逸らそうと水をむければ、サムライがほんのわずか気まずそうに目を伏せる。
 「他愛ないことだ」
 「なんだよ、気になるじゃねえか」
 「言いたくない」
 「言えないようなことなのかよ。さてはこないだの乳繰り合いの続きか?」
 下卑た笑顔で邪推すれば、サムライの顔に朱がのぼる。
 「ゲスな想像をするな、乳繰りあってなどおらん。それを言うならお前とレイジだろう、一週間前の夜のことを忘れたとは言わせん。乗る乗らない犯る犯らないと今思い出しても耳をふさぎたくなる破廉恥な会話の数々を隣で聞かされる俺の身になれ、いたたまれん」
 「なっ……」
 一週間前の夜のことを持ち出されて絶句する。
 たぶん俺の顔は今真っ赤になってることだろう。羞恥心をかきたてられ赤面した俺は、サムライに反論しようとぱくぱく口を開閉したが生憎言葉がでてこない。サムライの言うことはすべて事実だからだ。
 けどだからって今この場で暴露することねーだろ、俺だって一刻も早く忘れたい忘れようって日々自分に言い聞かせて一晩の過ちの記憶を封じこめてきたのに。
 一週間前、レイジを引きとめようと必死のあまり奴に跨った記憶がまざまざと甦り、頭を抱え込んでベッドに突っ伏したくなる。
 ちくしょう思い出させんなよ、顔から火が出そうだ。頬の火照りを冷まそうとぶんぶん首を振りながら、きっとサムライを睨みつける。
 「ひとのこと言えたクチかよ、お前だってついこないだ鍵屋崎といちゃついてただろうが!衝立越しに聞こえてきたぜ赤面モンの会話、背中を見せてくれ脱がないなら脱がすまでだ痛くするなこれ以上惑わせるなって何をどうすればそーゆー会話になるんだよ!?いつも眉間に皺刻んだとっつきにくい仏頂面してるくせにこのむっつりスケベの色ボケ侍が、お前もレイジといい勝負の節操なしだ!」
 「俺に男色の趣味はない」
 「嘘つけ、男が好き好んで男の背中見たがる理由なんか他にあるか!隣でお前らのやりとり聞かされる俺の身にもなってみろ、恥ずかしくて死んじまいそうだったよ!今度鍵屋崎の服脱がせるときは俺の目と耳の届かないとこでやってくれよ、隣のベッドから野郎同士のなまなましい音が聞こえてきたんじゃたまったもんじゃねえ」 
 一息に憤懣をぶちまけ、腹立ちまぎれにシーツを蹴る。子供っぽいやつあたりだという自覚はあったがまだ怒りはおさまらない。一週間前の夜のことを何から何までサムライに聞かれてたばつの悪さから無口になれば、視界の端でサムライが首をたれる。
 「……鍵屋崎と約束をした」
 「約束?」
 サムライへと向き直り、鸚鵡返しに問う。伏せた双眸を過ぎるのは、不安と焦燥とが綯い交ぜとなった苦渋の色。レイジと一緒に地下停留場に下りた鍵屋崎の身を真摯に案じ、重傷故医務室で寝てなければならないおのれの不甲斐なさを呪いながら、サムライは口を開く。
 「俺のもとへ生きて帰って来る約束だ」
 生きて帰って来る約束。
 また元気な姿を見せてくれという約束。
 「……鍵屋崎はなんて言った?」
 声を低めて慎重に問えば、束の間思考したあと、思いきったようにサムライが答える。
 「神妙に聞いていた。俺が話し終わるまで一言も口をきかなかった。いつもの毒舌を控え、とても真面目に、少しだけ心細そうにそこの椅子に座って」
 サムライが目線で促した方向には、訪問者用の折り畳み椅子がおかれていた。
 サムライの眼差しはとても優しかった。
 今はからっぽの椅子に鍵屋崎の幻影を見てるかのように、包容力のある微笑が口元に漂っていた。
 「俺が話し終わると同時にこう言った」

 『僕は子供じゃない。
  君が迎えに来なくても、ちゃんと歩いて戻って来れる。君に無理矢理押し付けられた木刀を返すという義務があるからな』

 鍵屋崎の口ぶりを真似して、サムライが言う。
 ああ、そうか。
 サムライの横顔とからっぽの椅子を見比べてるうちに、すとんと疑問が腑に落ちた。鍵屋崎はサムライを怪我させたことにずっと負い目を感じていた。サムライは鍵屋崎を庇って太股に怪我をしてペア戦に出場できなくなった、鍵屋崎はずっとその罪悪感に苦しんでいた。 
 自分を迎えに来たせいでサムライが怪我をしたのなら、今度は自分の足で帰ってこなければ。
 「意地っ張りめ。ほんとは鍵屋崎を行かせたくなかったくせに平気なふりしやがって……白状しちまえよ、本音を言や今すぐ地下停留場にとんでって人ごみかきわけて鍵屋崎の腰にむしゃぶりつきたいくせに」
 「無論だ」
 あっさり肯定され、俺のほうが動揺する。  
 「……むしゃぶりつきたいの?腰に?」
 「額面どおりにとるな、言葉の綾だ」
 なんだ、びっくりした。安堵に胸撫で下ろした俺をよそに、サムライは苦悩の皺を眉間に刻む。
 「……鍵屋崎は自分の足で帰って来ると約束したが、俺は今すぐにでもあいつに追いつきたい。あいつを迎えに行くのではなくともに戦いたい。レイジだけに責を負わせたくはない、鍵屋崎だけに辛い思いをさせたくない。俺たちは仲間だ。仲間の窮地に馳せつけず安穏と床に伏せっているなど武士の名折れ、俺は今すぐにでも地下停留場にとんでいき人ごみをかきわけ、そして」
 「そして?」
 間髪いれず食いつけば、サムライがしずかに瞼をおろす。
 「ひと振りの刃として、直が征く道を切りひらきたい。
 たとえその先にいかなる辛苦が待ちうけていようと、ひと振りの刃として直を守り賭せるなら本望だ」
 ゆっくりと瞼を開けたサムライの双眸には、強靭な意志が宿っていた。
 凛冽と眼光を放つサムライの横顔にしばし魅入られた俺は、皮肉げに笑う。
 「おまえ、本当に幸せそうに鍵屋崎のこと話すんだな。だいぶイカレちまったな」
 鍵屋崎のことを話すサムライは本当に幸せそうだった。鍵屋崎のことを話す時だけ猛禽じみて鋭利な双眸が柔和な光を宿し、頬が緩み、口元に微笑が浮かぶのを見逃さない。
 「失敬なことを言うな。だらしなく鼻の下をのばしてお前のことをのろけるレイジの比ではない」
 「お前も鼻の下のびてたぜ」
 笑みを噛み殺して冷やかせば、サムライがぎくりとする。
 「……まぎらわしい嘘をつくな」
 「今ちょっと信じたろ?ばーか」
 単純。とっつきにくい見た目に反してひっかけに弱いサムライは、自分がからかわれたと知ってこの上なく不機嫌に黙りこむ。シーツを蹴飛ばして笑い転げる俺を射殺さんばかりに睨んでいたが、俺を相手にするのが馬鹿らしくなったのか、大仰にため息をついてドアの方向に目を馳せる。
 つられてドアの方を向く。
 「試合、始まったかな」
 「さあな」
 「……レイジたち、勝つかな」
 「ああ」
 「ちゃんと帰って来るかな」
 「ああ」
 「レイジたち」
 サムライと同じ方向を見つめ、口にだしかけた言葉を続けようか否か迷う。不自然に言葉を切った俺に訝しげな一瞥を投げたサムライに向き直り、真剣な面持ちで口を開く。
 五指に牌を握りしめ、一縷の希望に縋るように。
 「レイジたちと、また会えるよな。これっきりなったりしないよな、これで最後なんてそんなしまらないオチねえよな。またあいつらと馬鹿騒ぎできるよな。俺、レイジに言いたいこと五分の一も言えてねえんだ。俺のことガキ扱いすんな、ちゃんと相棒って認めろ、もうサーシャと浮気すんなよ、独居房行く時は一言断りいれてけ、それから」
 それから。
 言いたいことはやまほどある、でもきりがないからやめておいた。
 それは嘘だ、本当は希望を繋ぎたかったのだ。俺たちに明日があるという希望、未来が拓けてるという楽観的な絵図。レイジが100人抜きを達成して俺と鍵屋崎が売春班からぬけてサムライも処理班に回されずにすんで、鍵屋崎に肩を抱かれたレイジが呑気に片手を挙げながら「よ、待たせたな」と医務室に戻ってきて、四人で馬鹿騒ぎできる未来を信じたかった。
 だから俺は、喉元まででかけた言葉を飲み込んだ。これで最後じゃない。きっと次がある、俺はまたいつでもレイジに会える。だから言いたいこと全部ぶちまけちまわないで残しとこうって自制を利かせて、俺は大人しくレイジの帰りを待つことにした。
 レイジの帰りを信じて、無事を祈りながら。
 「それから、俺、レイジのことが好きで。一週間前にちゃんと伝えたつもりだったけどまだ足りなくて、あいつ馬鹿だからよくわかってないみたいで、俺のこと守るためなら自分なんかどうなってもいいやって平気で自分の体粗末にしたりするから、腹立って腹立ってしょうがなくて!!レイジのツラ見てもう一度ちゃんと言いたいんだ、俺の気持ち伝えたいんだ。俺だけ無事に生き残ってもお前がいなきゃなんにもなんねえよって、お前に死なれたら残された俺はどうにかなっちまうよって、あの馬鹿で尻軽でどうしようもねえ王様ぶん殴って思い知らせてやりたいんだ!!」
 今までこらえにこらえてた衝動が、体の奥から急激に突き上げてくる。
 「ロン、なにをする気だ!?」
 サムライが取り乱すのを無視し、毛布を蹴りどけてベッドを飛び下りる。
 「決まってんだろ、地下停留場に行くんだ!レイジと鍵屋崎がペア戦にでるってのにじっとしてられるかよ、肋骨あと二・三本折れたってかまうもんか、レイジには俺がついてなきゃだめなんだよ!」
 「馬鹿な、お前は怪我をしてるんだぞ!医者からも安静を言いつけられてるだろう、年寄りの意見は尊重しろ!」    
 「知るか!止めても無駄だぜサムライ、なんならほふく前進で追ってこいよ!俺は育ち盛りだから怪我の治りも早いんだよ、もうぴんぴんしてるぜ!レイジが100人抜きなんて無茶したのは俺が原因なんだ、他でもない俺自身が結末見届けてやんなきゃ今までの苦労が報われねえだろうが!」
 上着の胸を押さえ、足をひきずるようにしてドアを目指す俺を行かせてなるものかとサムライが毛布をはだけてベッドから飛び下りて……

 「ちわっス!ペア戦実況DJこそ皆さんお待ちかねのビバリー・ヒルズ登場っス!」

 あ然とした。
 はげしく揉み合う俺とサムライの視線の先で勢いよくドアが開け放たれ、脇にパソコンを抱えたビバリーが出現する。ちょっと待て、なんでビバリーがここに?思いがけぬ闖入者にあっけにとられた俺たちをよそに、パソコンを抱えたビバリーが大股に医務室をよこぎる。
 医者は地下停留場にて治療班の指揮にあたってるため、現在医務室には俺とサムライ他数名の入院患者しかない。俺とサムライの他の患者は自力で起き上がることもできない重病人か重傷人で、比較的元気な俺たちが派手に騒ごうがカーテンを開けるために指一本動かす労力さえ厭うて無視と無関心を決めこんでる現状だ。
 「待て、待て待て!なんでおまえがここにいんだよビバリー、決勝戦見にいかなくていいのかよ?ペア戦最終日ってんで東京プリズンほとんどすべての囚人が大挙して地下停留場に押しかけてるのに、こんなとこで油売ってていいのかよ?」
 「あはは、ロンさんは遅れてまスね!ほかの囚人はともかく時代の最先端を走る天才ハッカーことこのビバリー・ヒルズは、大混雑した地下停留場にわざわざ出向くようなナンセンスな真似はしませんス!」
 「今の駄洒落かよ?」 
 「感謝してくださいよロンさんサムライさん、入院中で退屈してるお二方のためにビバリー・ヒルズが特別出血大サービス!医務室のベッドにいながらにしてペア戦の実況がたのしめる便利アイテムを用意しました」
 いつにも増してハイテンションなビバリーが饒舌な口上でまくしたて、かってに俺のベッドに飛び乗る。
 「てめえ勝手にひとのベッド乗ってんじゃねえよ、下りろよおいこら!つーかリョウはどうしたんだよ、野郎の飴玉しゃぶりが得意のあの赤毛の男娼はよ!?お前らいつも一緒にいたじゃねえか、知らないとは言わせないぜ」
 「知りません。リョウさんの行方なんて興味もありません。僕たちもう絶交したんスから」
 ベッドのど真ん中にどっしり胡座をかくビバリー。正面にパソコンを据えて電源を入れれば、液晶画面の真っ暗闇が途端に明るくなって見覚えある光景が映し出される。
 驚愕した。
 ビバリーの肩に手をかけ身を乗り出した俺の目にとびこんできたのは、今まさに決勝戦が行われようとしてる地下停留場の光景。どういうことだ、なんでビバリーのパソコンに地下停留場が映ってるんだ?
 わけがわからず混乱した俺の耳に、ビバリーのマシンガントークが炸裂する。   
 「房でひとりぼっちで決勝戦観るのもひきこもりの自慰みたいでむなしいし、相棒が決勝戦に挑むって大事なときにベッドから動けずに医務室で腐ってるにちがいないロンさんとサムライさんのために天才ハッカー兼カリスマDJことこのビバリー・ヒルズが実況中継してあげようとロザンナ連れてきたんス!感謝してくださイ」
 俺の肩越しに液晶画面を覗きこみ、そこに映し出された光景に目を見開くサムライ。
 「さあ、お二人ともこの四角い画面にご注目。僕の予想が正しければペア戦決勝開幕まであと三十秒。あと三十秒後には東京プリズン最強の囚人を決める、血も涙もない殺し合いの火蓋が切っておとされまス」
 熱に浮かされたような口調でビバリーが言う。
 ベッドに手足をつき、液晶画面に顔を近付け、リングの周辺を舐めるように観察する。
 いた。
 「レイジと鍵屋崎だ!」
 「どこだ!?」
 ビバリーを挟んで両側から画面を覗きこむ。液晶画面の隅、金網越しに見え隠れする後姿はまぎれもない……レイジ。レイジの正面にいるのは鍵屋崎。なんだか険悪な雰囲気だ、ふたりして何かを言い争ってる。
 「もっと音でかくできねえのかよ、聞こえねえよポンコツ!」
 「ロザンナを侮辱するのはやめてください、ボリューム上げればいいんでしょう!?」
 かってにキーをいじくろうとした俺を制し、ビバリーがパソコンに抱きつく。ビバリーがパソコンのボリュームを上げれば、それまで聞こえなかった地下停留場の喧騒が人声から衣擦れの音に至るまで猥雑に伝わってくる。眉間が痛くなるほど集中して聴覚を研ぎ澄まし、雑音の渦中からレイジと鍵屋崎の声を拾い上げる。
 『……てねえよ、こっちは!お前本の読みすぎで頭どうかしちまったのかよ、医務室で寝てこいよ!』
 『聞いてなくてあたりまえだ、言ってなかったからな。事前に知らせたら君は反対するだろう』
 『開き直んなよ!』
 激昂したレイジが鍵屋崎の胸を突く。レイジに押された鍵屋崎がよろけ、サムライが気色ばむ。危うくパソコンに掴みかかる気配を見せたサムライを遮るようにビバリーがカウントダウンを始める。
 「あと二十秒」
 『Fack,shit!どうして今ごろになってそういうこと言い出すんだよ、お前がリングに上がったところで勝てるわきゃねえだろうが!なあキ―ストア理解してるか。これは決勝戦、初戦の相手はヨンイルだぜ?お前がどう足掻いたところで勝てる相手じゃねえよ、ヨンイルをただの漫画好き道化だと見くびったら死ぬぞ』 
 「!………な、」
 サムライが絶句する。俺も自分が耳にした言葉が信じられない。鍵屋崎が決勝戦にでる?ヨンイルと対決する?なんでそんなことになってんだよおい。予測不能な展開に度肝を抜かれた俺とサムライの眼前で事態は最悪の方向へ転がってゆく。
 『僕はヨンイルを見くびってなどいない。彼の実力はこの目で確認した』
 『だったら!』 
 画面の中、レイジに詰め寄られた鍵屋崎が毅然と顔を上げる。
 まるでレイジの後ろに俺たちがいると見抜いてるかのように強い眼差しで、鍵屋崎が宣言。
 『だが、僕はもう逃げないと決めたんだ』
 「じゅう」
 二人の会話に挟まれるカウントダウン。
 『僕だっていつまでも逃げてばかりはいられない。いつかは戦わなければならない』
 「きゅう」
 『その「いつか」は「今」だ』
 「はち」
 『レイジ、今の君は体調が万全ではない。独居房から出された直後で消耗してるのにくわえ、右腕には怪我をして足元もおぼつかない。そんな状態で決勝戦に臨めば100人抜き達成できるかどうか不安が残る、なら僕がヨンイルの相手をして時間を稼ぐしかない。そうだろう、それが効率重視の結論というものだろう?君とサムライが100人抜きに挑んだのは僕たちのため、僕とロンを売春班から助け出すため』
 「なな」
 『いいか、よく聞けよ。君たちが身も心もぼろぼろになりながら、それでもリングに立ち続けなければならない原因を作ったのは僕たちなんだ。ロンは凱戦で立派に戦って責任をまっとうした、だが僕は何もしてない、君とサムライに守られてばかりの無力で非力な情けない人間じゃないか!他人に庇護される立場に甘んじるのは屈辱以外のなにものでもない、僕は君たちと対等になりたい、君たちが苦しいときに僕が助力してなにが悪い!?』
 鍵屋崎の剣幕に気圧され、レイジがあとじさる。
 『僕は仲間を見殺しにしない』
 「直」
 サムライが呆然と呟く。
 鍵屋崎に翻意を求めてるようにも聞こえる呟き。
 「ろく、ご、よん」
 ああ。
 鍵屋崎は変わった。初対面のときとは見違えるように成長した。レイジの目をまっすぐ見つめ、レイジの後ろにいる俺たちをまっすぐ見つめ、「仲間だ」と言えるようになった。
 俺はどうだ?あいつと出会った頃となにか変わったのか?レイジに守られてばっかの飼い猫からちょっとは強く逞しくなったのかよ?
 「さん」
 『どけ、レイジ。怪我人は休んでいろ、僕の邪魔をするな』
 「に」
 『天才の実力を証明する良い機会だ。凡人は指をくわえて傍観していろ』
 「いち」
 ビバリーのカウントが終了する直前、レイジの肩越しに目撃した鍵屋崎はたしかに笑っていた。
 底知れぬ自信に満ちた不敵な笑み。 
 したたかでずる賢くて、他者を傲慢に見下してはばからない尊大な表情。
 『IQ180の頭脳が持てる知力を総動員して無能な仲間を救ってやろうじゃないか』
 高らかに高らかにゴングが鳴り響き、鍵屋崎がリングに上がった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050824102743 | 編集

 歓声が爆発する。
 網膜を灼いた白熱の奔流の正体は金網の高所に設置された照明の光線。
 四囲から威圧的にリングを俯瞰する巨大な照明器具の下、銀の檻に囲われた正方形のリングは流血を尊ぶ現代のコロシアムとなる。平日ともなれば強制労働に赴く囚人を送迎するバスが忙しげに出入りする地下停留場だが週末の夜は様相が一変し、普段は東西南北に分かれて行き来もない囚人たちが一堂に会する闘技場となる。
 棟同士の抗争を防ぐため渡り廊下が封鎖されて以降、表面的には交流断絶した東西南北の囚人が、生の殺し合いを観たい一心で地下停留場にわきだしてくる。
 東京プリズンの囚人は血に飢えている。
 今までにない人口密度の地下停留場。その中央に設置されたリングにて、ヨンイルと対峙する。
 ヨンイルは腰に手をついたふてぶてしい態度で僕を出迎え、にやにや笑いながら口を開く。
 「策はあるんか、直ちゃん。まさかその手の中の木刀で戦うつもりとちゃうよな」
 満場の注目を集めたリングの中心、公衆の面前で僕をちゃん付けする。不敵な挑発。僕のプライドを刺激して神経を逆撫でしようという道化の浅知恵。ヨンイルの挑発はとりあわず、手の中の木刀を見下ろす。
 僕の手の中におさまってるのは一振りの木刀。
 しなやかに反った切尖と渋い飴色の艶を帯びた刀身。眩い照明を燦然と弾き返す木刀は、先日サムライから譲り受けたものだ。重傷を負って決勝戦を辞退せざるをえない自分の代わりに、日々鍛錬を重ねて手垢が染みたこの木刀を決勝戦に持参するようにと僕はサムライに頭を下げて頼まれた。
 友人の頼みは断れない。怪我人の頼みならばなおさらだ。
 どうやら僕は自分で思っている以上にお人よしな性分だったらしく、サムライに礼儀正しく頭を下げられたら嫌とは言えなかった。
 剣の扱いを知らない僕が木刀を持っていたところで戦いには生かせない、有利にはならない。そんなことは百も承知だ。僕は有利な立場に立つのが目的で木刀を持ちこんだわけではない、ただなんとなく手放せなかっただけだ。理解不能の奇妙な行動に自分でもあきれる。
 木刀を持参してリングに上がった行為に理由を見出すなら、心細かったからだ。
 木刀にはまだ、サムライのぬくもりが残ってる気がした。
 もちろんそれは僕の錯覚にすぎない、先入観からくるただの思いこみだ。サムライから木刀を譲りうけてから既に数日が経過している、サムライに手渡されたときのぬくもりなどとっくに失せてしまっている。 
 だが、僕はまだ、サムライのぬくもりに縋っている。
 胸裏にこみあげる不安をごまかすべく木刀を握る五指に力をこめ、瞼を落とし、サムライの顔を回想する。地下停留場に下りる前、医務室に寄ってサムライと短い会話をした。決勝戦を控えた緊張をごまかすため、僕たちは本題を避けて他愛ないことを話し合った。
 話の内容よりも印象に残ったのは、僕の緊張をほぐそうとというサムライの気遣いだ。自分も怪我をして辛い体だというのに、決勝戦を目前に控えた僕を心配して真摯に労わってくれた。彼なりの不器用なやり方で、精一杯一生懸命に。
 その時心に決めた。
 僕はサムライの分まで戦わねばならない。いつまでも庇護されていてはだめだ、いつまでも守られていては駄目だ。僕はサムライが信頼して背中を預けられる相棒になりたい、その為には自分の足でリングに立つのが大前提だとようやく気付いたのだ。
 僕はヨンイルに勝つ。
 僕の持てる力を総動員して、サムライに誇れる相棒になってやる。
 『HEY Baby,Come back!』
 ガシャンと金網を殴り付ける音。
 そちらに目をやれば、レイジが手足を振り乱して暴れていた。試合開始十秒前に突然僕が参戦表明して、制止する暇もなくリングに上がってしまって、場外に取り残されたレイジは激昂していた。説得にも耳を貸さずリングへと上がった僕の振るまいは、レイジの目には裏切り行為とでも映ったのだろう。 
 両手の指を鉤のように曲げて金網を掴んだレイジが、憤怒の形相で大口あけ、盛大に唾をとばす。 
 「ついにヤキが回ったのかよ天才、トチ狂ってんじゃねえよ!猛獣の檻に入るのは俺ひとりで十分だ、お前は外で指くわえて待ってろよ。いいかキーストアよく聞け、これから始まるのはなんだ、子供のお遊びか?ヘルズキッチンのままごとか?違うだろ、そうじゃねえだろ、これからはじまるのは俺たちの未来を決める大事な試合だよな。ペア戦の終幕を飾る3トップとの対決だよな」
 眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たく光るレンズ越しにレイジを一瞥する。
 「僕を侮辱するな、君が今述べたことは当然予備知識として委細漏らさず頭に入っている」
 癇癪を起こしたレイジが金網を蹴りつける。
 「だったらなんで檻の中にいんだよ、ヨンイルに食われにいくんだよ!いいか、まだ間に合う、馬鹿な真似はやめてとっとと戻って来い。俺の中の暴君が起きねえうちに、俺がまだ寛容さを売りにした王様でいられるうちに速攻戻ってきな世間知らずのスカした坊や。今ならまだ許してやる。会場を湧かす前座、お茶目なジョークだって笑って許してやるよ」
 蒸発寸前の理性を繋ぎとめ、ぎこちない笑顔で手招くレイジにむかって吐き捨てる。
 「冗談を言うな。さっきとおなじことを二度言わせる気か?僕が今ここにいるのは自分の意志だ、外野がうるさく吠えたところでいまさらリングを下りたりはしない。どうしてもと言うなら力づくで下ろしてみろ。ただし忠告しておくが一度リングに上ったら最後、手と手を打ち合わせてだれの目にも明らかな形で合図しないかぎり選手交代ができないのがペア戦のルールだ。君が周囲の制止を振りきり強引にリングに上れば即退場となり、今までやってきたこと全部が無駄になる。付け加えれば、これは命令ではなく脅迫だ」
 言わずもがなのことを噛み砕いて説明するのは疲れる。
 徒労のため息をつき、レイジを見据え、付け足す。
 「まだわからないのかレイジ?僕が一度リングに上がったら、ヨンイルを倒すか倒されるかしないかぎり下りることはできないんだ。絶対に」
 『Fack!!』 
 レイジの怒りが爆発した。
 育ちの悪さが知れるスラングで悪態を吐き、申し分なく長い足で金網を蹴る。現状に納得してない証拠にこめかみでは血管が脈打ってるが場外から手を出せないのではどうしようもない。いい気味だ、レイジもたまには金網越しにリングを傍観するしかない無力さと屈辱とを味わえばいい。少しは僕とロンの気持ちがわかるだろう。
 溜飲をさげ、ふたたびヨンイルに向き直る。
 怒り心頭のレイジと対照的に冷静な僕とを興味深げに見比べながら、ヨンイルは口元の笑みを絶やさずにいた。不敵な笑顔を余裕のあらわれととった僕は露骨に気分を害す。
 すでにゴングを鳴らした看守は退場した。今リングにいるのは僕とヨンイルだけだ。
 ヨンイルがいつ攻撃を仕掛けてきても即時対応できるよう、道化の一挙手一投足に細心の注意を払いながら、腰を落として身構える。サムライの握り方を模し、眉間の延長線上をよぎるよう木刀を立てる。
 「手加減いるか?」
 スニーカーのつま先で軽快に床を叩きながらヨンイルが問う。
 木刀を正眼に構えた姿勢で微動だにせず、僕は言い放つ。
 「手加減などされたら天才のプライドに傷がつく、もし万が一僕に一方的な友情を感じているなら手を抜くなと忠告しておく」
 「ほな」
 ヨンイルが口角をつりあげ、楽しげに笑う。  
 「いくで」
 ヨンイルが飛んだ。
 いや、跳んだ。足腰のバネを生かし、コンクリ床をおもいきり蹴り、飛距離を稼ぐ。俊敏な跳躍で瞬時に僕に肉薄したヨンイルが鋭い呼気を吐き半回転。
 腕に衝撃が伝わる。
 右側部を急襲したスニーカーの踵をとっさに木刀で受けたはいいものの、あまりの衝撃に腕が痺れる。体重の乗った重い蹴り。こめかみに炸裂していたら失神は免れなかったろう。
 獰猛に犬歯を剥き、僕へと襲いかかるヨンイル。その眼光は、身の内に宿した龍の狂気に侵されたかのごとく苛烈。目を爛々と輝かせたヨンイルは、硬い木刀で足を払われても痛手を被った様子もなく飄然としてる。どれだけ骨が頑丈なんだ、レントゲンを撮りたい。
 いや、今はそんな場合じゃない。冷静になれ、現実を見ろ。 
 さかんにかぶりを振り現実逃避の妄想をしめだす。痺れた腕を叱咤し、慎重に木刀を構え直し、切っ先をヨンイルに向ける。
 ヨンイルは口を尖らせ、何か考え込むような顔つきをしていた。思慮深げに眉をひそめたヨンイルは、木刀を持った僕の眼前に無防備に身を晒している。隙だらけだ。今ならやれる、倒せる。緊張に汗ばんだ手で柄を握り、高々と振り上げ―……
 「!」
 信じがたいことが起きた。
 ちょうど僕が振り下ろした木刀とすれちがうように、ヨンイルがしなやかな身ごなしで木刀の下をかいくぐり、伸びあがるように僕の肩に手をかける。
 あっと叫ぶ暇もない一瞬の早業、道化の名にふさわしくサーカスの軽業師めいた芸当。
 僕の肩に手をおいたヨンイルが、むなしく地を穿った木刀を踏み台にし、ひらりと跳躍。僕の肩に手をおいて逆立ちした体勢から目を疑う柔軟さで背後へと降り立つ。
 ヨンイルの手のひらに押された肩が沈み、腰が前に泳ぎ、体勢が崩れる。
 「直ちゃん、育ちええやろ」
 脳裏で警報が鳴る。
 「ガキの頃から本の虫で、まともに喧嘩したこと一回もないやろ」
 背後で気配が動く。耳につく衣擦れの音。木刀を取り直し、体ごと振り返った時にはすでに遅い。
 大気に溶ける寸前の残像を網膜に投じ、ヨンイルの姿が消失。
 「はっ、舐められたもんやな俺も。西の道化怒らせたら後悔すんで?」
 空気を縫って伝わる失笑の気配。反射的に足元を見下ろす。地面に這うような低姿勢で屈みこんだヨンイルが目にもとまらぬ速さで足を一閃。
 足首に衝撃。
 後退する余裕さえ与えられなかった。足払いをかけられた僕はぶざまに足を開いて尻餅をつく。
 頭上に靴裏の影がさした。
 顔面に迫るスニーカーの靴裏。ヨンイルがまったく無造作に僕の顔を踏もうとしている、僕の鼻面を靴裏で圧迫して窒息させようとしている。
 冗談じゃない、窒息させられてたまるか!
 「お?」
 ヨンイルが目を丸くする。
 地面に仰臥した姿勢から木刀を両手で支え、ヨンイルの靴裏を受け止める。唇を噛みしめ、なんとか肘をつき上体を起こそうと努力するがヨンイルに靴裏を押しこまれてるためこれ以上腕が進まない。渾身の力をこめ、腕を励まし、ヨンイルの靴裏を押し返そうと浅い息を吐く僕の耳に地鳴りが轟く。
 「「西!」」
 「「西!」」
 「「西!」」
 「東の親殺しなんか殺っちまえヨンイルさん、東京プリズン最強は西だって他棟の連中に思い知らせてやってください!」
 「日頃ヨンイルさんのこと手塚信者の漫画オタクって馬鹿にしてる他棟の奴ら見返してやってください」
 「一生ついてきますヨンイルさん!」
 「東京プリズンのトップに立つのはやっぱヨンイルさんでなきゃあ、俺たちヨンイルさん以外のトップの下につくのなんて嫌ですから」
 「東の色ボケ王も南の腹黒隠者も北のキチガイ皇帝もヨンイルさんの敵じゃありません、ヨンイルさんが本気だせば全員まとめてひとひねりですよ!」
 「「ヨンイル!」」
 「「道化!!」」
 「「ヨンイル!」」
 「「道化!!」」
 地下停留場を揺るがす大歓声、一糸乱れぬ合唱。十重二十重にリングを囲んだ人垣からヨンイルに声援を送っているのは西棟の囚人だ。結束をはかるように肩を組み、変声期を終えた者も終えてない者も喉が嗄れるまで声をはりあげてヨンイルを応援している。
 「……すごい人気じゃないか。うちのトップにも人望を分けてほしいな」
 東棟のトップを自認しているのに周囲に敵ばかりのレイジとは凄まじい差だ。
 「直ちゃんの応援団もおるで。ほら」
 僕の応援団?
 ヨンイルが顎をしゃくった方角につられて目をやれば、人垣の最前列に押し出された囚人が数人、口の横に手を当てなにかを叫んでいる。周囲の騒音にかき消されて最初はなにを言っているか聞き取れなかったが、唇の動きに目を凝らし、注意して意を汲み取る。
 「頑張れ、負けんじゃねえ!」
 「売春班ぶっ潰すためにもお前には勝ってもらわなきゃ困るんだ、お前は俺たちの希望、夢そのものなんだよ!またあんな生き地獄に突き落とされるのはごめんだ、野郎に犯される毎日に逆戻りはうんざりだぜ」
 「せっかくここまで来たんだ、あと三人倒せば百人抜き達成できるとこまできたんだ、夢がかなう一歩手前まで来たんだ!しっかり応援してやるから根性見せろよ親殺し、お前には売春班の仲間がついてる!」
 「ばかっ、親殺しじゃねえよカギャ―ザキだよ」
 「あ、そうか。くそ、日本人の名前は発音しにきィぜ」
 人垣の最前列に陣取った囚人たちには見覚えがある。売春班でおなじ生き地獄を味わった囚人たち、ボイラー室に拘禁されたロンの救出作戦に加わった少年たち。一児の父親たるルーツァイを筆頭に集合した売春班の懐かしい面々が「鍵屋崎!」「鍵屋崎!」と馬鹿のひとつ覚えみたいに僕の名前を連呼する。
 恥ずかしい真似をするんじゃない、と内心叫び出したかった。
 「ええ仲間に恵まれて幸せやな」
 「……いい迷惑だ。だいたいアクセントの打ち方が間違ってる、中国語の訛りが顕著で聞いてられない。カギヤザキがカギャ―ザキになっているじゃないか」
 本当に、いい迷惑だ。リング外に生還できたら売春班の面々の発音を矯正したい。ふと、木刀でヨンイルの靴裏を押し返そうと必死な僕の目に顔に傷のある囚人が映る。売春班の同僚であり、安田の銃を盗んだ張本人でもある西棟のワンフーだ。彼も売春班の面々に混ざって決勝戦を観にきていたらしいが、どうも挙動不審だ。僕へと声援をとばす売春班の面々と、ヨンイルを応援する西棟の面々とを見比べつつ、この上もなく情けない顔で途方に暮れている。
 そうか、どちらを応援しようか迷っているのか。
 ヨンイルはワンフーが属する西棟のトップで、僕は売春班の同僚。ワンフーはどちらの味方もできない、どちらか一方を応援すればすなわち一方を裏切ったことになる。
 「ワンフー、てめえどっち応援すんだよ!?」
 「男らしく白黒決めやがれ!」
 煮え切らないワンフーに激怒した西棟の囚人が語気荒く食ってかかる、応援を中断したルーツァイがワンフーの胸ぐらに掴みかかる。
 「で、できねえよどちらか一人に決めるなんて!だって俺ヨンイルさん尊敬してるし親殺しには恩があるし……だからそうだ、二人とも応援するよ!これで解決」
 「「しねえよ馬鹿!!」」
 同時に怒鳴られ、ワンフーが萎縮する。「優柔不断は女に嫌われるぜ」「娑婆に残してきた女が今のお前見たらがっかりして他の男に走っちまうな」と懇々と説教されたワンフーが意を決したように顔をあげ、僕とヨンイルを見比べ、口の横に手を当てる。
 「ヨンイルさん、加油!!」
 「………西の人間は裏切り者ぞろいだな」
 「俺は勘定にいれんなて。渡り廊下のアレはサーシャだまくらかすための芝居や」
 ヨンイルを選んだワンフーを非難するつもりはない。だが、軽蔑するのは僕の自由だ。
 軽口を叩きながらも、ヨンイルは徐徐に靴裏に体重をかけて踏みこんでくる。もう腕が限界だ、痺れて感覚がなくなっている。コンクリ床に背中を付けて仰向けに寝転がり、木刀を頼りにヨンイルの靴裏を押し返そうとするが、時間稼ぎの悪あがきにすぎない。
 ヨンイルが刀身に乗せた足をぐっと踏みこみ、額に木刀が触れる。
 照明の逆光になったヨンイルの表情が、酷薄に翳る。  
 「つまらん」
 感情の失せた声でヨンイルが吐き捨て、鋭く切りこむ角度で木刀の下に足をくぐらせる。
 手の中から木刀が消失した。
 ヨンイルに蹴り飛ばされた木刀が高々と宙に舞い、飴色の刀身が照明を反射する。
 サムライの木刀が。
 必ず返しに行くと約束したのに。
 手の届かぬ遠方へと蹴り飛ばされた木刀へと目を奪われたのは失態だったと悔やんでも遅い。乾いた音をたてコンクリ床に落下した木刀の方へと腕をのばしたそばから、上着の胸ぐらを掴まれ強引に立たされる。
 目と鼻の先にヨンイルの顔がある。
 「直ちゃん、俺が西のトップに就いてるのはなんでやと思う」
 「東京プリズンに最も長くいるからか?」
 ヨンイルがにっこり笑う。
 だれもに好感をもたせる人懐こい笑顔。   
 「はずれ」
 
 衝撃。 
 視界がブレた。

 何が起きたか一瞬わからなかった。腕の骨が折れたかと危ぶむほどの衝撃に体ごと吹っ飛ばされ、背中から金網に激突。金網に背中を預けてずり落ち、力なくコンクリ床にうずくまり、遅ればせながらヨンイルに蹴られたのだと理解する。蹴りが炸裂した左上腕を片手で庇い、骨が折れてないかどうか確かめる。幸い骨は折れてないが、激痛ゆえすぐさま立ちあがれない。
 片腕を庇って座りこんだ僕のもとへ、大仰に両手を広げ、ヨンイルが近付いてくる。
 「単純な話や。東京プリズン至上の掟は弱肉強食、ここじゃ弱い奴から先に死んでくのが常識。俺が西でトップ張っとるんは単純にいちばん強いからっちゅーただそれだけの話や。ああ、勘違いすなよ?俺は外にいた頃からめちゃくちゃ暴れとったわけはない、そりゃ外でもつまらんことで喧嘩したことはあるけどガキがこぶしで殴り合う微笑ましいもんや。鉄パイプなんて物騒なもん持ち出したこともない」
 これは、本当に僕がよく知るヨンイルだろうか。
 脳裏に一抹の疑惑がよぎる。僕が知るヨンイルは手塚治虫の漫画が好きな図書室のヌシで、なれなれしくてずうずうしくて、僕のことを「直ちゃん」などと気色悪い愛称で呼んで子供扱いする不愉快な人物で。
 しかし、今のヨンイルは。
 大股に接近したヨンイルが、足を開いて屈みこむ。まずい、起きあがらなければ。頭ではわかっているが体が言うことを聞かない、手足に力が入らない。金網に背中を凭せ掛け、片腕を庇い、唇を噛んで荒い息をごまかしながらヨンイルを睨みつける。 
 「『ここ』で喧嘩を覚えたんや。俺は」
 ヨンイルが懐かしげに周囲を見渡す。地下停留場の大群衆を薙いだ視線が一巡して僕へと戻ってきた頃に、ヨンイルが口を開く。
 「ここに来たばっかの頃の俺は11歳のガキで、もちろん最年少。直ちゃん、刑務所で真っ先に狙われるんがどんな奴か知っとる?腕力がないガキや。こう見えても最初の頃は苦労したんやでえホンマ、洒落にならん地獄やった。
 ま、幸い俺は育ち盛りやったからその時点でいくらでも強うなれる見込みがあった。実際東京プリズンで11のガキが生き延びるには強うなるしかなかったんや。寝こみ襲われたら返り討ち、力づくで飯をぶんどられそうになったら命がけで取り返さなあかん。そんなこと続けとるうちに一年たち二年たちあら不思議、いつのまにか五年が経って俺は西のトップに成り上がりましたっちゅーわけ。
 東京大学物語もとい東京監獄物語・第一部完」
 「くだらない過去話は省略して結論を述べろ」
 金網に背中を寄りかからせ、片腕を庇った格好で立ちあがる。遠方に落ちた木刀へと視線をとばす。距離的に取りにいくのは不可能だ。口惜しさに歯噛みする僕の眼前に立ちふさがり、ヨンイルが首を傾げる。
 「直ちゃん。俺、西の道化やねん」 
 少しだけ申し訳なさそうな笑顔。
 僕を通り越してヨンイルの目に映ってるのは、人垣の最前列に陣取った西棟の囚人たち。顔を真っ赤にして自分へと声援を送る少年たちを大人びた目つきで眺め、述懐する。
 「トップとして、西のガキどもにええトコ見せたいんや。わかるやろ?けじめはちゃんとつけなあかん。東の人間相手にわざと負けたりしたら俺はあいつらを裏切ることになる、俺の勝利を信じて今も一生懸命応援してくれはるあいつらを裏切ることになる」
 「君がそんなに情の厚い人間だったとは、意外だな。どうりで慕われるわけだ。レイジは東棟の囚人全体ではなく、一人限定しか愛さないからな。ロンに注ぐ過剰な愛情が分散すれば凱にも慕われるトップになれるのに、もったいない男だ」
 僕の目をまっすぐ見据え、ヨンイルがまったく悪びれることなく言う。
 「直ちゃんは図書室のヌシのダチで、西の道化の敵。
 今の俺は、道化や」
 膝を撓めた低姿勢からコンクリ床を蹴り、逆光を背に宙に身を踊らせたヨンイルの上着の裾がめくれ、龍の刺青が覗く。龍の顎に腕の付け根から食いちぎられる幻覚に襲われた僕は、苦渋の決断を下す。
 この手だけは使いたくなかったが、仕方がない。
 上着の裾をはでにはためかせながら身軽に着地したヨンイルが流れる動作で肉薄、上段蹴りの構えをとると同時にズボンの後ろに手を回し……
 
 視界に亀裂が入った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050823103200 | 編集

 「あ?」
 ヨンイルが目を丸くし、会場中が息をのむ。
 脳天から間の抜けた声を発して硬直するヨンイル、風切る弧を描いて宙を薙いだ足が僕のこめかみ手前で静止する。自分が目撃した光景が信じられぬかのように驚愕に目を見開き、顎も外れんばかりに大口を開けたヨンイルの足は正確無比に僕の右側頭部を急襲した。脳を揺らして昏倒させてからじっくりいたぶるつもりだったのか、いや、ヨンイルのさばさばした性格から考えてそんな真似はしない。
 ヨンイルはサーシャのように性格破綻した陰湿なサディストではない、僕が脳震盪を起こしてリングに膝を屈した時点で戦意喪失したと見て、多少手荒な真似をしてでも降参表明させるつもりだったのだろう。
 だがヨンイルの思惑は外れた。
 トップの勝利を信じて疑わない西の応援団の眼前で、迅速に勝負を決しようという道化の目論みは裏切られ、地下停留場を埋めた満場の観衆だれも想像しえない不測の事態が起きた。
 鋭い呼気を吐いて攻勢に転じたヨンイルが、僕のこめかみめがけて足を繰り出した刹那、僕の手は上着の裾をはねあげズボンの後ろへと回され腰に挟んだ本を抜き取っていた。
 僕の窮地を救ったのはとっさの機転、イエローワークで毎日のようにいやがらせを受けて鍛えられた反射神経。僕の足をひっかけようと地面をシャベルがかすめるたびに間髪入れず飛び退き難を逃れてきた、毎日毎日悪意に晒されて進歩ないいやがらせを受け続けるうちに僕は足払いをかけられても平然と対処できるようになった。
 運動音痴を克服するのはむずかしいが、反射神経は訓練を積めば磨ける。皮肉な話だが、こめかみを叩く風圧に本能的な危機を察した僕がとっさに発揮した反射神経は、単調ないやがらせの反復で磨かれたものだった。
 反射神経は、環境によって磨かれる。
 それがイエローワークの過酷な強制労働を経て僕が得た教訓だ。
 絶体絶命の危機に直面した僕がとった行動はおそらく誰もが予想だにしないものだった。ヨンイルの蹴りの軌道を正確に予測、コンクリ床を離れた足が大きな弧を描いてこめかみへを狙いくるのを読んで、腰の後ろに挟んでいた本を抜き取り、顔の横に翳す。
 水平の衝撃。
 ヨンイルの蹴りをまともに食らったら脳震盪を起こすのは確実、意識を喪失したら最後これ以上を続行できない。それは駄目だ絶対に、僕はここで負けるわけにはいかない。仲間たちのために相棒のために、僕ら四人の未来のためにも敗退するわけにはいかない。
 この試合には僕ら四人の明日が賭かっている、たとえ西の道化の異名をとるヨンイルが相手でも逃げるわけにはいかない。
 怯惰など捨てろ、現実を見ろ、前だけを見ろ。
 何があってもヨンイルに倒されるわけにはいかない、道化風情に負かされるわけにはいかない。
 僕自身のプライドのためにも、この試合には勝たなければ。
 ヨンイルに必ずや勝利して、サムライに誇れる相棒になると僕は自分の心に誓った。彼に誇れる僕になると誓ったのだ。一方的に庇護される対象ではなく対等な友人として、安心して背中を預けられる相棒として実力を証明する機会を僕は狂おしく待ち焦がれていた。
 ようやくその機会が訪れたのだ。逃す手はない。
 右側頭部に翳した本に強烈な回し蹴りが炸裂。厚みのある単行本を挟んでいても凄まじい衝撃が伝わってきた。だが、脳震盪は起こさなかった。単行本を盾に蹴りの衝撃を殺した僕は、迅速に次の行動に移る。
 避ける時間がないなら防げばいい、それだけのことだ。考えてみればあたりまえのこと。常識。緩衝材の単行本が蹴りの衝撃を吸収してくれたおかげで脳に直接ダメージはない。ヨンイルは僕が翳した単行本に目を吸い寄せられ、茫然自失と立ち竦んでいる。
 ぱくぱくと無様に口を開閉し、震える人さし指で僕の手の中の本を指さす。
 「ななななななななな直ちゃんそそそそそれはもしやまさか、俺が命の次に大事にしとった手塚治虫のアレとちゃうんかい!?」
 「正解。奥付けによると1981年9月5日発行の『七色いんこ』第一巻だ」
 ショックのあまり気が動転したヨンイルが半泣きになる。西の応援団がトップの異変を察してざわめきだすのを尻目に単行本を頭上に掲げる。反射的に単行本を取り返そうとふらつく足取りで僕の間合いに踏みこみ頭上へ腕をのばすヨンイル。
 釣れた。
 今だ。
 「俺の手塚、」
 うわ言のように呟くヨンイルからは最前までの殺気が霧散していた。本当ならこんな下品な手は使いたくなかったがしたがない、現状では他に選択肢がない。単行本につられたヨンイルが亡者めいた足取りで僕に接近、さらに前進して僕にぶつかる。いや、亡者というよりは空を掻き毟り糧を乞う餓鬼の行進だ。ヨンイルと接触した僕は、慎重に足を動かし、ヨンイルの股間に膝を割りこませ……
 
 絶叫。

 「痛っあああっうううううううううぐう、い、きん、金的蹴り……!?」
 股間を両手で庇い、首を仰け反らせまたうなだれて、全身で地獄の苦しみを表現し悶絶するヨンイル。コンクリ床に転倒し、芋虫のようにのたうちまわるヨンイルの醜態に、金網に群がった囚人が顔面蒼白となる。
 股間に膝蹴りを食らった痛みを想像してしまったのだろう。
 苦悶のうめきを漏らし、股間を押さえてコンクリ床を転げまわるヨンイルに怯えた囚人が、一斉に股間を庇いあとじさる。
 間抜けな格好で後退した囚人たちの中にレイジを捜せば、彼も片手で金網を掴み、もう一方の手で股間を隠した格好で笑っていた。微妙にひきつった笑顔で僕へと向けた眼差しには薄ら寒い畏怖がこめられていた。
 「お、俺以上に容赦ないんじゃないかキーストア……?見てるこっちが縮みあがったぜ、どこがとは言わねーけど」
 「心外だな。ヨンイルを黙らせるため、この場で最も確実で有効な手段を採択しただけだ。男性の急所に容赦なく蹴りを入れればどれほどタフな人間でもあまりの激痛に失神しかねない。医学的にも信頼性がおける症例だ」
 僕に裏切られた怒りはどこかに吹き飛んでしまったのだろう。よいことだ。僕はよいことをした。
 単行本をおろし、体の脇にさげ、地面で悶絶するヨンイルへと歩み寄る。本来、敬愛する手塚治虫の本をこんなふうに使いたくはなかった。本を武器にするなど文化人として最低の行いだ。苦渋に満ちて俯き、視界の右半分に亀裂が入ったと再認識。 
 ヨンイルの蹴りの衝撃で、眼鏡のレンズが片方割れたらしい。
 盾代わりの単行本でも完全に防ぎきることができないとは凄まじい威力だなとあきれる。しかし、眼鏡の修理を考えると気が重くなる。以前眼鏡を壊したときはリョウに修理を頼んだが、正直トラブルメーカーの彼とはもう関わり合いになりたくない。
 ここはやはり、壊した張本人たるヨンイルに弁償を請求すべきか。
 形勢逆転した僕は、余裕の表情で地面に這いつくばったヨンイルを見下ろす。
 どうにか口がきけるまでに回復したヨンイルが、額におびただしい脂汗を滲ませ、苦痛の色を宿した双眸で僕を仰ぐ。
 「な、直ちゃんひとつ聞かせてや……そりゃペア戦はルール無用の無差別格闘技でリングには何持ち込んでもOKやけど、図書室のヌシ的に漫画は反則や。第一、なんでズボンの後ろに漫画なんか挟んでリングに上ったんや?わけわからんわホンマ。レイジの影響か」
 「それは人格攻撃と受け取るべきか?レイジに感化されたなど甚だしい誤解を受けるのは僕としても不本意だ」
 神経質に眼鏡のブリッジを押し上げ、淡々と解説する。
 「人類の叡智の結晶たる本を武器に戦うなど、どこかのレイジのように野蛮な振るまいを僕は心底軽蔑している。僕が今日本を持参した理由はただひとつ、君に返却するためだ。忘れたのかヨンイル、この本はもともと君が持ち込んだものだ。入院中で退屈しているロンのためにと君が山ほど持ち込んだ漫画の一冊。医務室の床に散らばっていたそれをなにげなく開いてみたら、返却期限が今日になっていた」
 推理を開陳する名探偵のように、傲慢に腕を組んで続ける。
 「今日は決勝戦だ、君とはどうせ地下停留場で顔をあわせることになっている。ならばその前に、返却期限のすぎた本を図書室のヌシに突き返そうとわざわざ持参したまでだ。勿論、いやがらせの一環としてな」
 「……ええ性格してはる」
 「だいたい僕は本を粗末に扱う人間が気に入らない。ヨンイル君ときたら図書室のヌシを自負するくせにまるでなってない、医務室の床に大量の漫画本を放置して埃にまみれさせるなど書物に対する冒涜行為だぞあれは!」
 思い出すだに怒りが湧きあがる。
 ロンのベッドの周辺、床一面に散乱した大量の漫画本。ヨンイルが置いていった山ほどの漫画本。僕も図書室で借りた本をロンに貸した前科があるが、間違っても本を床におくなど汚いことはしなかった。
 床に放置された漫画本の一冊をたまたま取り上げ、返却期限をチェックしたのは、図書室のヌシを自称するわりに本に敬意を払わないヨンイルに反感を抱いたから。 
 もともと僕は完璧主義者でいい加減なことが大嫌いな性分だ。
 図書室のヌシだからといって本を粗末に扱っていい言い訳にはならない。
 「ズボンの後ろに挟んでいたのは単純に両手が使えなかったから。僕はここに来るまで衰弱して自力で歩けないレイジに肩を貸していた、もう一方の手には木刀を持っていた。両手がふさがっていたから、本はしかたなくズボンの後ろに挟んでおいた。上着に隠してな」
 そこでため息をつき、かぶりを振る。
 「本当はさっき、通路で遭遇したときに返却したかったのだが……一触即発のレイジとホセとに目を奪われて機会を逸してしまった。付け加えるなら、僕は試合直前までレイジと言い争っていた。天才にあるまじき失態だと遺憾に思うが、この時もやはりレイジとの口論に夢中で本のことを失念していた」
 ちらりとレイジに目をやる。金網にはりついたレイジが不服そうに口を尖らす。  
 「つまり直ちゃんは、ズボンに本挟んだこと忘れたままリングに上ったと?」
 「忘れていたわけではない。不毛な口論に時間をとられて、ズボンから抜き取る暇がなかっただけだ」
 すべては偶然が積み重なった結果だ。断っておくが、僕の動きが鈍かったのは運動音痴なせいだけではない。腰の後ろに本を挟んでいて動きにくかったのだ。ヨンイルの蹴りをかわしきれなかったのは断じて運動音痴が原因ではない。
 さて、ここからが本題だ。
 「こちらからも質問させてもらおうヨンイル……いや、西の道化」
 口調を厳粛に改め、表情を消してヨンイルを見下ろす。冷たく光るレンズ越しに一瞥を投げれば、長い煩悶の末に股間の痛みがおさまったらしいヨンイルが、コンクリ床に手をついて体を起こす。
 眉間に皺を寄せ、不審と不信がこもった眼差しで僕を仰ぐヨンイル。
 その視線をまともに受け、中腰に屈みこむ。無造作に腕をのばし、上着の胸を掴み、無理矢理顔を起こす。暴力の行使に慣れない僕は、本来こんな乱暴な真似はしたくなかったのだが、ヨンイルを牽制する意味もこめ、指に力をこめる。
 相手に対等な立場と認めてもらわねば、話し合いは成立しない。
 ヨンイルの物問いたげな視線を浴びながら、声を低め、審問する。

 「何故本領を発揮しない?」

 ヨンイルが眉をひそめる。
 さすが低能だ、言葉の意味がすぐさまわからないとは。理解不能といった顔のヨンイルの胸ぐらを掴み、強制的に立たせる。周囲に会話が漏れるのを避け、ヨンイルの耳朶に顔を近付ける。
 「天才を侮るなよ低能の分際で。君が本領を発揮してないことは試合開始直後からお見通しだ、僕は今の今までずっと疑問に思っていた。僕は『手加減などいらない』と先刻断言したが、それなら君の行動に矛盾が発生する。ヨンイル、君はさっき僕の肩に手をつき中空で逆立ちをした。そして素晴らしい柔軟性を発揮し、僕の背後に降り、完全に死角をとった」
 「すごいやろ、身のこなしには自信が」
 「黙れ道化、最後まで話を聞け。先刻君は僕の背後をとった、僕はあの時体勢を崩していて後ろはがら空きだった。敵に無防備に背中を晒すという致命的な失態を犯したんだ」
 さっき、自分の身の上に起きたことを思い出す。
 僕の肩に手をおいてあざやかに逆立ちしたヨンイル、サーカスの軽業師めいた芸当で宙で一回転して背後に降り立つ。僕が振り返るまで、攻撃する時間はいくらでもあった。しかしヨンイルは、僕が木刀を拾い上げ振り向くまで攻撃をしかけてこようとしなかった。
 いや、もっと奇妙なことがある。
 ヨンイルの耳朶に唇を近づけ、低く押し殺した声で囁く。
 「ヨンイル、君は当然知っているはずだ。僕は先日背中に怪我をした、図書室で残虐兄弟につかまって彫刻刀で背中を傷付けられた。よもや忘れたとは言わせない、僕の背中を舐めたのはほかならぬ君自身だ。知っていながら、どうして急所を攻撃しなかった?傷が癒えてない肩甲骨を殴るか蹴るかすれば僕を倒すことはたやすい、しかし君はそれをしなかった!」
 「せやからそれは」
 「手加減したな、手を抜いたな?何故決勝戦で手加減できた、相手が僕だから友情を感じたなどという戯言は聞きたくないし認めない!ヨンイル、君はまだ本領を発揮してない。実力を隠している。なるほどたしかに君は強い、それは認めよう、自分の身をもって味わったのだから認めてやろうじゃないか!
 だが、この戦い方は違う。ヨンイル、君は何故ここに来た?何故11歳の若さで東京プリズンに送られてきた?さっき君自身が証言したじゃないか、喧嘩のやり方は東京プリズンで覚えたと。君は外で傷害事件を起こして東京プリズンに送致されたわけじゃない、もっと大それたことをしでかして最年少11歳の若さでこの極東の監獄に入れられた」
 そうだ、ヨンイルは僕相手に全然本領を発揮していなかった。僕を傷付けたくないという気遣い故か一方的な友情かはわからないが、ヨンイル本来の戦いぶりはこんなものではない。
 ヨンイルは、過去に二千人を殺した史上最悪の爆弾魔だ。
 爆弾作りの天才として東京プリズンに収監されたヨンイルが、何故爆弾を使わない?僕はこの目で見た、レイジとサムライが売春班に乗り込んできたときに地階の廊下を混乱に陥れた煙玉はヨンイルが制作したものだ。どうやって材料をかき集めてるかは知らないが、ヨンイルは東京プリズンに収監されて以降も爆弾を作り続けている。
 ろくな材料がないため殺傷力は極端に低いだろうが、今でもヨンイルが反省の色なく爆弾を作り続けているのは事実。
 五十嵐の娘を殺しておきながら、今でも。
 上着の胸ぐらを掴む手が震える。ヨンイルの耳朶が吐息で湿る。僕の吐息。
 「ヨンイル、決勝戦の舞台で君が爆弾を使わないはずがない。爆弾は君の最大の取り柄、ならばその取り柄を最大限生かした戦い方をしてこそトップの面目が立つんじゃないか?」
 悔しいが、殴る蹴るの喧嘩では僕に勝ち目はない。実際ヨンイルにはまったく歯が立たなかった。
 ならば戦い方を変えるまでだ。
 僕の武器は舌鋒、相手を挑発して意のままに操る饒舌さだ。僕に胸ぐらを掴まれたヨンイルは、いつになく真面目な顔で矢継ぎ早の説得に聞き入っていた。
 ヨンイルの目が、爛々と輝きだしたのを見逃さない。
 そうだ、いいぞ、その調子だ。それでこそ道化、西のトップだ。ヨンイルの反応に味をしめしながら、片手で胸ぐらを掴み、もう一方の手で肩を掴み、畳みかける。
 「君は過去二千人を殺した爆弾魔、凶悪なテロリストだ。爆弾作りの天才だ。自分が作った爆弾の威力を見せびらかしたくないはずがない、違うか?本当はこんな戦い方は望んでないくせに。相手が僕だからと実力を出し惜しみすることはない、本当は爆弾を使いたくてうずうずしてるんじゃないか?」
 僕の言葉に反応し、ヨンイルの指がぴくりと動く。
 「祖父譲りの爆弾の威力を試したくて、見せびらかしたくて、我慢できないんじゃないか」
 視界の端、金網を両手で掴んだレイジが生唾を嚥下する。地獄耳の彼には会話が聞こえているのだろうか。どちらでもかまわない、これは僕とヨンイルの戦いだ。天才と道化の対決だ、王様の出番はない。
 ヨンイルの目をしっかり見据え、断言する。 

 「さあ、遠慮せずに本領を発揮してみろ。
  道化の本気で、僕を楽しませてくれ」
 
 「……かなわんなあ。最初からわかっとったんか」
 ヨンイルが笑み崩れる。降参したとでもいうふうな諦観の滲んだ笑顔。
 スッとヨンイルの手首が上がり、袖が落ちる。袖の下から現れた手首には、毒々しい暗緑の鱗が移植されていた。
 ヨンイルの手が怪しく宙を泳ぎ、僕の首にかかる。
 「東京プリズンで漫画っちゅう生き甲斐見つけても爆弾とは縁切れんまま、か」 
 自嘲的に呟き、苦笑いするヨンイル。だが、双眸には沸沸と闘志が滾りはじめている。
 この場に五十嵐がいて会話を聞いてたらどう思うだろう?そんな考えが脳裏をかすめ、慌てて首を振る。 
 ヨンイルの五指が、僕の首を撫でる。
 龍が気炎を吐くように、指の火照りが伝わってくる。
 「直ちゃん、ゲームせえへん?」
 「ゲーム?」
 いやな予感がした。とてつもなくいやな予感。
 鸚鵡返しに問うた僕の首に手をやったまま、淡々と呟く。
 「このまま直ちゃんをこてんぱんに痛めつけるだけじゃ観客も退屈やろ。最初の段階で勝敗わかりきった勝負ほどつまらんもんはない。だから考えたんや。俺とゲームしようや直ちゃん、地下停留場の観客巻きこんだ派手なゲーム。体力勝負やなくて頭脳勝負なら直ちゃんも実力だせるやろ?このゲームに勝利したら、今度から道化を倒した男名乗ってええわ」
 「どんなゲームだ」
 「宝さがし」
 ヨンイルが尖った犬歯を剥き出し、獰猛に笑う。
 そして、道化は提案した。
 身の内に宿した龍の狂気に侵されたかの如く、恍惚と熱に浮かされた口調で。
 「もしこのリングのどっかに時限爆弾仕掛けたっちゅーたらどないする?」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050822103325 | 編集

 「……本気かヨンイル」
 「本気も本気。冗談言ってる顔に見えるか、これが」
 見える。だから確認したのではないか。
 脈をはかるように僕の首に手を触れ、ヨンイルは愉快げに笑っていた。額に被さったゴーグルの下、強い輝きを放つ双眸はこれから起きる大惨事に不謹慎な好奇心を覗かせている。ヨンイルは僕を試している。こともあろうにこの僕を挑発し、自分の思惑どおりに動かそうとしている。僕がこれから起きる大惨事を食い止められるか否か、当事者の立場から優越感をもって観察する愉快犯の目つき。
 爆弾のありかを知る前提で優位に立っていることを隠そうともせず、僕がこれからどんな行動をとるか、どれほどみっともなく足掻くかをたっぷりと余裕をもって見物しようという意地悪い目つき。
 今目の前にいるのは、本当にヨンイルなのか?
 ふと脳裏に疑問が根ざす。僕が親しんだヨンイルは図書室のヌシを自称するなれなれしい男で、心の底から漫画を愛し、漫画の神様手塚治虫を崇拝する妄想と現実の区別がつかない男で。
 男女問わず生身の人間には興味がないと断言し、二次元の登場人物にしか性的に興奮しないと嘘かまことか吹聴してはばからない人を食った男で。
 だれにも警戒心を抱かせないざっくばらんな性格で、だれもが付き合ってくうちに自然と気を許してしまうそんな不思議な魅力がヨンイルにはあった。少々なれなれしいきらいがあるにしても分け隔てなく接し、漫画の貸し借りで親愛を表現し、興が乗れば一時間でも二時間でも三時間でも人の迷惑を顧みず延々手塚治虫の素晴らしさを語り続けるヨンイルを表だって嫌う人間は少ない。レイジでさえホセとヨンイルの裏切りが表面化するまでは彼らのことを信頼しきっていた。
 そして僕も。
 認めたくはないがこの僕も、ヨンイルに気を許し始めていたことを否定できない。先日残虐兄弟に木刀で切り付けられた時みたいにヨンイルからの接触を許すようになっていたのは、なれなれしく接してくる彼に対する嫌悪感と警戒心が日毎に薄れつつあったからで、先日ヨンイルに背中を舐められた時でさえ僕は心のどこかで「ヨンイルならば仕方ないか」と諦観していた。相手がヨンイルなら蚊に吸われたとでも思えば諦めがつくと、悪びれもせず開き直ったヨンイルに抗議するのをよした。どうやら僕は心を許した人間には無防備になる傾向があるらしいと最近自覚しはじめたが、気付いた時には手遅れだった。
 もう逃げられない。
 僕は竜の顎にとらわれている。
 隙を見せれば食いちぎられる、気を抜けば骨を噛み砕かれる。腰に手をおいて仁王立ちしたヨンイルには年にそぐわない貫禄と迫力があった。道化の二つ名の威光か、囚人服の下にひそむ龍の瘴気か判然としないが、好戦的な眼光と口元の笑みとで隈取られた形相はこの一語に尽きる。
 禍禍しい。
 禍禍しいとしか表現しようのない形相に変じたヨンイルが、すっと僕の首から指をどける。龍の瘴気にあてられたかのように金縛りにあった僕は、驚愕に目を見張り、手に汗握ってヨンイルを見つめるだけ。嘘だと信じたかった。ヨンイルの言葉は僕の理解を超越していた、想定の埒外だった。
 「ヨンイル、君は本当にリングに爆弾を仕掛けたのか?」
 「気付かなかったんか」
 ヨンイルが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
 「まあ気付かなくても無理ないな、直ちゃんはレイジとの口喧嘩に夢中で俺のほうなんかちいとも見とらんかったし。ゴングが鳴るまで俺がどこで何してたかさっぱりわからんでも不思議はない」
 「まったく理解しがたい、そんなことをして何になるというんだ?地下停留場で爆発騒ぎを起こして、君に何か利益があるというのか?君の行動は矛盾しているぞヨンイル、狂ったのか道化」
 「アホ言うな、俺はマトモや」 
 自分のこめかみを指さしたヨンイルが、こみあげる笑いを噛み殺して説明する。
 「俺が仕掛けた爆弾は時限爆弾。ちゅうても刑務所じゃたいした材料集められんかったから大した威力はない、そうやな……直ちゃんが間に合わずに爆発してもうても周囲の十人程度が巻きこまれる程度」
 「大惨事じゃないか!」
 怒りが沸騰し、声を荒げてヨンイルに詰め寄る。物騒なことをさらりと口にしたヨンイルは、僕の慌てぶりを楽しげに眺めながら続ける。
 「直ちゃん、なんで生かさず殺さず今の今まであんたを嬲り者にしたんやと思う?俺はサーシャみたいなサディストやない、喧嘩の弱い直ちゃん一方的に痛めつけて背徳的な快感にひたる趣味はない」
 「ならば何故」
 「時間稼ぎや」
 けろりと白状したヨンイルが、大仰な素振りで会場中を見渡す。つられ、四囲の金網に沿うように視線を一巡させる。地下停留場を埋めた満場の観衆が僕らのやりとりに興味津々、先を競うように金網に群がっている。東京プリズンの運命を左右する分岐点、数週間にわたり開催されたペア戦の終幕を飾る最終試合だということもあり普段より人出が多く会場がこみあってるのは一目瞭然。正確な人数はわからないが、少なくとも一万は下らない囚人が現在地下停留場にいる。
 人口過密状態の地下停留場で爆弾を爆発させればどうなるかわからないほどヨンイルは浅慮ではない。そう信じたい気持ちがまだ心のどこかにあったが、続く言葉は僕の期待を裏切るものだった。
 「ぎょうさん客が見にきとるんや、派手にやらな損やろ損。男なら一生にいっぺんどでかい花火を打ち上げてみたいって、これ死んだじっちゃんの口癖や」
 祖父の口癖を真似してはにかむように笑う。亡き祖父への追憶に沈んだ双眸は寂しげに伏せられていた。 僕はヨンイルの祖父を知らないが、ヨンイルが心から祖父を慕っていたことは彼の言動の端々や普段の態度から如実に伝わってくる。祖父の人となりを語るさばさばした口調には、気丈なヨンイルらしくもない感傷が隠されていて、その度僕は祖父がどれだけヨンイルの人生に影響を及ぼしたか痛感する。
 ヨンイルは物心ついた頃から、ずっと祖父と二人支え合ってきた。
 亡き祖父がヨンイルに与えた影響は計り知れない。 
 祖父が他界した今でもヨンイルはその影響を受け続け、今まさに祖父の口癖を実現させようとしている。
 おそらく、亡き祖父が思ってもみない最悪の形で。
 「できるだけ直ちゃんが爆弾に気付く時間遅らせたかった。タネ明かしを焦らしたかった」
 「御託はいい、爆弾が爆発するまであと何時間だ?」
 ヨンイルが一本指を立てる。
 「一時間!?そんな無茶な」
 「はは、直ちゃん冗談きついわ」
 顔の前に立てた人さし指を小気味よく振りながら、ヨンイルが訂正する。
 「十分や」
 ………正気の沙汰じゃない。
 東京プリズンのトップは狂人ぞろいだ。レイジに異常な執着をみせる北の皇帝、最愛の妻を侮辱した人間は容赦なく撲殺する南の隠者、暴君の狂気に侵された東の王様。
 西の道化とて例外ではなかった。身の内に宿した龍の狂気に侵されて、ヨンイルはこれから恐ろしいことをしようとしている。会場中を大混乱に陥れる惨劇を演出せんとしている。
 「十分以内に爆弾見つけて解除したらそっちの勝ちやけど、迷探偵にわかるかな?」
 「……宣戦布告を受けて立とうじゃないか」
 ヨンイルがその気なら、相手に不足はない。
 単純な体力勝負なら僕が勝てる見こみはないが、合理的な推理の手順を踏んだ失せもの捜しならどうにかなるはず。必ず時間内に爆弾を見つけだし死傷者を一名もだすことなく解除できるはずだ。ヨンイルは前もってこの展開を予想していたのか、僕の返答を聞くと満足げに首肯して、満場の注目を集めるように天にむかって片腕を突き上げる。
 地獄の底と直結してるかのように地下停留場の上方は闇の帳に閉ざされていた。
 闇が蟠る天井へと腕を突き上げたヨンイルが、朗々と響く声で宣言する。
 「今この場におる連中におしらせや。今からたのしいたのしい催しがはじまるで、道化VS天才の究極推理対決。金田一少年も驚いて腰抜かすわ。ええか、よお聞けよ。このリングのどっかに今から十分後に爆発する時限爆弾仕掛けられとる。俺の目の前にいるこの名探偵は、なんとか時間内にその爆弾見つけ出して解除するつもりや。万一こいつが爆弾を見つけ出せたら俺は道化の名を返上して勝ちを譲ったってええ。でも、時間内に爆弾の隠し場所に辿り着けんかったら……」
 虚空を毟り取るように五指を閉じたヨンイルが、腹黒くほくそ笑み、ぱっと五指を解き放つ。

 「ぼん、や」
 その一言が、会場中を大混乱に陥れた。

 「ヨンイル、お前なに勝手なことやってんだ!決勝戦で目立ちたいからって独断先行も大概にしやがれ」
 「だいたい時限爆弾なんて物騒なもんいつのまに、」
 衝撃の事実が発覚し、血相変えた看守がヨンイルを罵倒する。囚人主導のペア戦ではできるだけ口をださず手をださず傍観を決めこむ体制の看守勢も、これにはさすがに我慢の限界が訪れたらしい。あたりまえだ、囚人の自由裁量で武器の持ちこみが認可されるペア戦では少量の火薬を用いた戦いは許容範囲だが、ことが爆弾となると無差別に周囲の人間を巻き込み被害を拡散させる恐れがある。檻の中での殺し合いは過激な見世物として囚人看守ともに賭けの対象になりえるが、見物人が巻きこまれるとあっては見過ごすわけにもいかない。 
 「ぎゃあっ!?」
 激昂した看守が数人、ヨンイルを取り押さえようとリングに踏みこみかけ、折り重なるように転倒する。
 人ごみが逆流する。
 「正気かよ西の道化、リングに爆弾仕掛けるなんて……俺たち巻き添えにする気かよ!?」
 「逃げろ逃げろはやく逃げろ、ペア戦どころじゃねえ早く逃げろ!!」
 「くそっ、四トップの中じゃいちばんまともに見えたからころっと騙されたぜ!このままここにいたら細切れのミンチにされちまう、いやだぜこんなところで死ねるかよ、外に女待たせてんだ!」
 「死ぬのは道化と親殺しと逃げ遅れた間抜けだけで十分だ、俺たちゃ先上がらせてもらうぜ!」
 「おいチャン、俺のこと見捨てる気か!?待てよおいてくなよ畜生っ、俺も連れてってくれよおおお!」
 絶叫、罵声、怒声、悲鳴。
 リングに爆弾が仕掛けられたと知った囚人たちが、互いに足を引っ張り合い罵り合い我先に会場を逃げ出そうとする。友人を犠牲にして自分だけは助かろうと薄情に背中を向けるもの、足蹴にされてもなお諦めきれず執念深く足首にしがみつき地面をひきずられてゆくもの……
 阿鼻叫喚の惨状を小手をかざして見晴るかし、ヨンイルが呟く。
 「直ちゃん、はよしたほうがええで」
 「黙れ低能、推理に集中させろ」
 「さっきのアレ、訂正や。正確にはこのリングの半径50メートル内に爆弾仕掛けたんや」
 は?
 推理を中断し、ヨンイルを見上げる。虚を衝かれた僕を気の毒げに一瞥し、ヨンイルが肩を竦める。
 「つまりな、このリングの中だけとは限らん。リングに上がる前に接触したヤツのポケットにぽいと爆弾放りこんだ可能性もあるっちゅーこと。ええの?容疑者逃がして。ついでに言うなら、爆弾がちょいと早めに爆発する可能性もなくはない」
 それを早く言え。
 駆け出そうとして一瞬迷い、ヨンイルに手塚治虫の本を預ける。よし。床を蹴り加速して金網の手前に駆け付け、最前列の人垣へと腕をのばす。駄目だ、届かない!金網に阻まれてそれ以上は接近できず手も届かない僕の眼前で、人垣は原形を留めず崩れて、囚人が混沌と入り乱れる。
 口惜しさに歯噛みし、汗をかいた左手で金網をしっかり掴み、右手を精一杯虚空へ伸ばす。悪足掻きだとわかっている、だが足掻かずにはいられない。
 所詮悪足掻きにすぎなくても最後まで諦めるわけにはいかない。僕にはヨンイルを挑発しその気にさせた責任がある、ならば責任をとらなければならない。時間内に爆弾の在り処を突き止め爆発を未然に防ぎ、一人も犠牲者をだすことなく試合に勝たねば僕はサムライの相棒として失格だ。
 サムライ、力を貸してくれ。
 腕が攣りそうだ。しかし諦めない、諦めたらそこでおしまいだ。諦めたらヨンイルに敗北を認めることになる、試合放棄してヨンイルに敗北を認めるのは僕のプライドが許さない。単純な体力勝負ではなく頭脳の優劣を競う推理対決なら僕にも勝利の可能性がある、満身創痍のレイジのため医務室で僕らの無事を祈り続けるサムライとロンのためにも僕は絶対に勝たねばならないのだ。  
 そう心に決め、執拗に自分に言い聞かせ、肩から腕が外れそうなほど必死に虚空を掻き毟る。金網にはりつき、針金を変形させ無理矢理網目に腕をもぐりこませ、手近の囚人をつかまえようとみっともなく足掻き続ける僕の体が大きく前傾する。
 轟音と埃を舞い上げ、金網の柵が倒れる。
 「!?っ、」
 濛々と舞い上がる埃の煙幕が視界を覆い、何も見えなくなる。正方形のリングを囲んでいた金網の一面が、周囲で渦巻く人ごみに圧迫され、自重を支えきれずに倒れたのだ。
 「愚図が!さっさとそこどけよ、あとつかえてんだよ!」
 「どういうことだよ、何があったか説明しろよ!なんでリング近くのやつ逃げてんだよ、決勝戦は始まったばかりじゃねえか!」
 「説明なんかしてたらあっというまにミンチだぜ、そんなに死にてえのかこの死にたがりが!」
 会場から逃げ出す囚人と何が起こったのか今だに呑みこめず当惑する囚人とが衝突し、逆流した波が金網を圧迫し、リングと会場とを隔てる金網が正方形の展開図のように次々と開かれていく。
 埃と轟音を舞い上げ次々と倒れる金網の柵に折り重なるように押し潰された囚人が数十人、地面に這いつくばってもがいている。金網に体を押しつけていた僕はとっさに対応できず、体が前のめりに倒れるまま、重力の法則に身を委ねた。固いコンクリ床に顔面衝突を予期し、反射的に目を瞑った僕の体がだれかに抱きとめられる。力強い腕、細身だがしなやかな筋肉を感じさせる体つき。
 僕が女性ならさぞかし寝心地よく感じる広さの胸板に顔を埋めれば、汗の匂いが鼻腔をつく。
 「おかえりキーストア。ロンも羨む熱い抱擁で歓迎してやる」
 「さっさとこの汚い手を放せ」
 顔を上げればレイジがいた。金網越しにずっと僕とヨンイルのやりとりを見守っていたレイジは、僕を抱きしめたままうそぶく。
 「話は全部聞かせてもらった」
 「相変わらずの地獄耳だな。加えて問うが、プライバシー侵害という概念はないのか?」
 「プライバシーより命を優先する生き物だ、人間は。しかしヨンイルもなに考えてんだか……地下停留場に爆弾なんか仕掛けたら大惨事になるってわかりそうなものなのによ。いよいよイカレちまったのか?」
 レイジの笑顔も苦い。
 そんなこと僕が聞きたい。僕がヨンイルを挑発したのはこんな展開を望んだからではない、事態の混乱などもとより望んでない。僕はただ体力勝負を避けたい一心でヨンイルに翻意を求め、戦い方の変更を促したのだ。ヨンイルの本領は爆弾をばらまいて文字通り相手を煙に巻くやり方で、それは売春班のボヤ騒ぎで身をもって痛感した。
 ならばヨンイルが懐から爆弾を抜き取る隙にとどめをさせばいいではないかと僕は楽観的に考えていたのだ。
 自らの甘さを思い知り、苦渋に顔を歪める僕を覗きこみ、レイジが提案する。
 「金網は倒れちまったけど手と手を合わせて交替はまだ有効だよな」
 「なに?」
 不審げにレイジを見上げる。周囲の人ごみから庇うように背中に腕を回し、僕を懐に抱え込んだレイジが耳元で囁く。
 「キーストア、俺と交替しろ。今ならまだ間に合う、気狂いピエロをお仕置きして力づくで仕掛け花火のありか吐かせてやる」
 レイジの口元は笑っていたが目は本気だった。ぞっとした。囚人が恐慌をきたして逃げ惑う地下停留場の喧騒とも無縁に、凶暴極まりない暴君の本性を垣間見せ、レイジは殺気を放ちはじめる。
 「断る」
 即答した。
 「は!?お前馬鹿かよ、こんな時まで意地張ってんじゃねーよ!見栄っ張りもほどほどにしねえと命落とすぜ天才、正気かよお前わかってんのかよ、残り時間は十分切ってるんだぜ?この短時間でリングの半径50メートル以内に仕掛けられた爆弾さがすなんて無理無茶無謀もいいところだ、よくまわり見回してみろ、自己中な囚人どもが大人げなく足の引っ張り合いくりひろげて我先にと逃げ出す大混乱のさなかでどうやって爆弾のありか突き止めるんだよ!?」
 「君の知ったことではない、外野はひっこんでいろ。天才には天才にしかなしえない画期的な勝利法があることを忘れるな、なんでも力づくで解決しようとする王様がリングに上がれば事態がますますもって収拾つかなくなる」
 「金網倒れてリングと会場の境目なくなったのに外野もクソもあるかよ!」
 癇癪を起こしたレイジが叫ぶ。僕の強情さにしびれを切らし、片手で頭を掻き毟り、地団駄踏みながら吠えるレイジを冷めた目で眺める。レイジが大仰な身振り手振りで説得を試みても僕は頑として首を縦に振らず、荒れる王様と対峙する。
 「よく聞けよレイジ、これは僕の試合だ」
 不敵に落ち着き払った物腰でレイジを諭す。
 「僕が僕であるために避けて通れない大事な試合なんだ。僕のプライドを守るために、僕がサムライの相棒として君の仲間として自分に誇りを持つために絶対勝たねばならない試合なんだ」
 「つまんねえことにこだわってんじゃねえよ、目的はきちがえてんだよお前は!いいか、なんで俺とサムライのペアが100人抜きなんて無茶に挑んだと思ってる?全部お前とロンを売春班から救い出すため」
 「わかりきったことを説明する愚を犯すな」
 両手を広げて訴えるレイジを眼鏡越しに睨みつける。レイジの言い分は最もだ、僕がしてることは本末転倒だとわかっている。わかっているが、いまさら引き返せない。ヨンイルに勝たねば僕は一生自分を軽蔑し続けることになる、サムライの相棒としてレイジの仲間としての自信を持てなくなる。
 恵に誇れる兄ではいられなくなる。
 レイジの目をまっすぐ見据え、周囲の喧騒とは裏腹にしずかに口を開く。
 「君が自分の身を犠牲にしてまでもロンを守りたいように、僕にも守りたいものがある。譲れないものがある」 
 「教えてもらおうじゃんか」
 僕の肩に手をかけ、至近距離で顔を突き合わせたレイジが凄む。眼鏡のブリッジに人さし指をあてありもしない余裕を演出した僕は、毅然と正面を向き、答えを口にする。
 「プライドだ」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050821103431 | 編集

 僕が守りたいものはプライド、僕を僕たらしめるプライド。
 IQ180天才として、将来有望と目された鍵屋崎優の後継者として、いやそれより何より恵の兄としてサムライの友人として僕は誇りを持ちたい。鍵屋崎直の実力を証明して、僕は無力なばかりの人間ではないと主張したいのだ。
 もうこれ以上一方的に庇護されるのは我慢ならない、本来対等な立場の友人の足を引っ張り仲間の重荷になるのは我慢ならないと心が訴える。僕がサムライの負担になっているのは認めたくないが事実、これ以上なく事実なのだ。
 名誉挽回のチャンスがようやく訪れたのだ。サムライと対等になれる機会がようやく訪れたのだ。
 今足掻かずに、いつ足掻く?
 「色狂いの王様は大人しくしていろ、飼い馴らされた豹のようにそこに寝そべっていればいい。僕は戦う、まだ戦える。僕はまだヨンイルに負けていない、敗北を認めていない。最後の最後の瞬間まで足掻いて足掻いて足掻いてやる、無様にみっともなく死に物狂いで、プライドに賭けて足掻ききってやる」
 「~~~っ!勝手にしやがれ、もう面倒みきれねえよ」
 床に唾を吐いたレイジが乱暴に僕の肩を突き放す。渋々ながらレイジも納得したようだと僕は内心安堵して周囲を見渡す。この地下停留場のどこかに爆弾が仕掛けられている。ヨンイルはリングの半径50メートル以内と限定した、その言を信用するなら爆弾が仕掛けられた場所はそう遠くないはず。
 レイジの手は借りられない。僕ひとりで見つけ出すしかない。気が遠くなるような話だが、僕の闘争心は萎えてはいない。なんとしても時間内に爆弾を見つけ出し解除せねばという使命感に駆られ、ふてくされたレイジに背中を向けて走りだす。
 どこだ、どこだ、爆弾はどこだ?気ばかり焦って空回る僕を嘲笑うかのように時間は刻々と経過する。ふと振り返り、地下停留場を脱出する大群の頭越しにリングを透かし見れば、リング中央に突っ立ったヨンイルがこちらに手を振っていた。
 あとで覚えていろと胸中で吐き捨て、爆弾さがしに奔走する。人ごみを掻き分け押しのけ前に進もうともがけばもがむほど、地下停留場から逃げ出す群衆に巻きこまれ呑みこまれ、逆方向へと押し流されてしまう。くそ、こんなことで時間をとられてる場合じゃないのに!
 「どけ、頼むどいてくれ、一刻も早く爆弾を見つけねば」
 「無駄だっつってんだろ!!」
 制止の声もむなしく肩にかけた手を荒らしく振りほどかれ、とどめとばかりに鳩尾に肘打ちを食らう。目も眩む激痛によろめき、腹部を庇ってうずくまった僕の背中を踏み付け踏み倒し、囚人たちが逃げてゆく。
 「命が惜しけりゃてめえも逃げろや親殺し、それともヨンイルと心中するか!?」
 「龍に巻かれて昇天しろや、極楽浄土に逝けるだろうさ!」
 「馬鹿言えお前ここをどこだと思ってる、この世の地獄の東京プリズンだ!地獄で死んだ人間が天国逝けるわきゃねえだろうが、地獄で死んだらもっと深くて救いがねえ無限地獄に堕ちるまでだ。業火に灼かれて苦しめ親殺しが!」
 頭上に浴びせ掛けられる唾と罵声に耐え、地面に手をついて上体を起こす。上体を起こしたそばから、後ろから大挙してやってきた囚人に背中を踏まれわざと蹴り飛ばされ体が頼りなく傾ぐ。 
 五指を握りこみ、手のひらに爪を立てる。
 諦めてたまるか。
 だれになにを言われても絶対に諦めない、今ここで諦めたら他でもない僕自身を裏切ることになる。既にリングと会場とを区別する境目の柵は倒れ、神聖不可侵のリングまで発狂したように逃げ惑う囚人に踏み荒らされる始末。試合は無効になるかもしれない、僕がやってきたこと全部が無駄になるかもしれない。はげしくかぶりを振り、最悪の想像を脳裏から閉め出す。今は爆弾を見つけ出すことに集中しろ、余計なことは考えるな。優先順位をはっきりさせ、呼吸を整えて立ちあがる。
 ヨンイルはリングから半径50メートル以内のどこかに爆弾があると言った。
 目を閉じ、集中力を高め、ヨンイルの言葉を反芻する。リングに上がる前のヨンイルの行動は知らないが、西の応援団との語らいがあったかもしれない。ならば容疑者として有力候補なのは西の人間だが、人望厚いトップとして慕われるヨンイルが仲間に爆弾を仕掛けるような真似をするだろうか?まかり間違えば西の人間が爆弾の犠牲になる危険性もあるのに。ヨンイルの性格を考慮すればそれはありえない。いや待て、僕に「ありえない」と錯覚させミスリードに導くのが目的なら逆にありえるのか?
 「くそっ、人を食った真似を!」
 下品な悪態も吐きたくなるというものだ。舌打ちをし、いまいましくヨンイルを睨みつける。リング中央に仁王立ちしたヨンイルはにやにやと腕を組み、苦戦中の僕を遠目に見物している。
 殴りたい。
 待て、ヨンイルを殴るのはあとまわしだ。今はそれどころじゃない。時間は刻々と過ぎている。体感時間では既に五分以上が経過した、残りあと五分で爆弾を見つけねば流血の大惨事が起きる。
 どこだ、どこに爆弾がある?
 怒涛のごとく出口を目指す人ごみの渦中に踏みとどまり、焦燥に駆られて全包囲を見渡す。靴跡の泥にまみれたコンクリ床、床に倒れた金網と落下した照明器具……一見、どこにも異状はない。爆弾が仕掛けられた痕跡は見られない。ヨンイルの手口は巧妙だ、爆弾を仕掛けた場所がすぐにはわからないよう隠蔽してる疑いも捨てきれない。もう時間がない、爆弾が爆発するまであと三分もない!
 無為に過ぎゆく時間にあせりつつ、周囲を見渡す僕の目にとびこんできたのは、ひとりの看守と小柄な囚人。中肉中背のくたびれた看守と特徴的な赤毛の囚人が、たがいに寄り添いあうように突っ立ってる。
 五十嵐とリョウだ。
 五十嵐とリョウが試合前からあそこにいたのだとしたら、ヨンイルの不審な行動を目撃してるかもしれない。その可能性に一縷の希望を託し、五十嵐とリョウのもとへ駆け付ける。僕の顔を見たリョウが驚いたように目を見開き、なにか言いかけるのを制し、肩を掴む。
 「リョウ、君は試合前からここにいたのか!?ヨンイルの不審な行動を目撃してないか!!」
 「い、痛いよメガネくん放してよ!肩に指が食い込んでるっ」
 リョウの肩を強く掴んだまま、ぐっと顔を寄せる。
 「もっと痛い目に遭わせてやろうか?知っていることがあるなら包み隠さず述べろ、僕は心が広いから十秒待ってやる」
 「全然広くないじゃん!」
 リョウが金切り声で抗議する。話にならない、リョウに関わってる時間が惜しい。リョウの肩を掴んだまま五十嵐を振り仰ぎ、おなじことを聞こうと……
 五十嵐を見上げ、言葉を失った。
 「またか」
 五十嵐はリングを一心に見つめていた。ひどく思い詰めた暗い眼差し。絶望と虚無とが綯い交ぜとなった双眸には、ヨンイルだけが映っている。
 「また、なのか」
 五十嵐の唇がわななく。現実に起きてることが信じられない、信じたくないといった拒絶の響きを宿した声だった。僕には五十嵐の絶望が想像できる。ヨンイルは絶対にしてはいけないことをした、地下停留場に居合わせた五十嵐の前でこのどこかに爆弾を仕掛けたと飄々と言い放ったのだ。反省の色などかけらもなく、過去の罪悪感に苦しむ様子もなく、葛藤とは無縁の爽やかな笑顔で。  
 過去に五十嵐の娘を殺しておきながら、またおなじことをしようとしている。
 笑いながら過ちをくりかえそうとしている。
 五十嵐の表情を直視するに耐えかね、視線を逸らす。僕はどうしたらいいんだサムライ、と心の中で問いかける。今も医務室のベッドで寝てるはずの友人を思い浮かべ、上着の胸に手をあて、そっと目を閉じる。
 『無事に帰って来い』
 サムライはそう念を押した。必ずまた元気な顔を見せてくれと僕に言った。
 僕はサムライとの約束を守りたい、彼から預かった木刀を持ってサムライに会いに行きたい。だが、今の状態で彼のもとに帰ることなどとてもできやしない。
 苦悩する僕のもとへ背後から靴音が近付いてくる。
 「いやはや、ヨンイルくんも無茶をなさる。感心するやらあきれるやら」
 振り向けばホセがいた。
 ヨンイルと僕とを見比べながら、胡散臭い笑顔でホセが述べる。
 「吾輩の二つ名は隠者。ご存知ですか、タロットカードの隠者が象徴するキーワードは『経験』『過去』『蓄積』……そう、一見地味な隠者とはまさしく叡智を体現するカードなのです」
 「占い談義に興味はない、わざわざ僕を苛立たせにきたのならその試みは成功してるが」
 「タロットカードの隠者が意味する状況は『己で道を見い出すより他に選択肢がない』……わかりやすく言えば八方塞りということ。ですが、吾輩はヨンイルくんほど人が悪くない。八方塞りの逆境に立たされた君に、活路を切りひらくきっかけとなるヒントをあげましょう」
 浅黒い肌に映える白い歯を覗かせ、ホセが人さし指を立てる。
 「タロットカードで道化にあたる『The Fool』の意味は、愚行、無思慮、無規律、不親切、空約束、冒険癖……すべてヨンイルくんにあてはまります。ヨンイルくんが今行っているのは冒険癖に端を発した愚行、会場全体に不要な混乱を招く無思慮で無規律な振るまいに他ならない。おまけにヨンイルくんは不親切だ、重要なカードを伏せて言葉の陥穽で君を翻弄してるにすぎない。そして……」
 思わせぶりに言葉を切ったホセが、人さし指をおろし、笑みを含んだ目で僕を見つめる。
 『The Fool』。愚か者のカードが示唆するキーワードはすべてヨンイルに合致する。ヨンイルはただ「リングから半径50メートル以内のどこかに爆弾を仕掛けた」とだけ言った、僕はそれを真に受けてリングをとびだしたがそもそもそれが間違いだったのだ。先入観に惑わされた僕は、「このリングのどこか」という言葉をまともにとって、おそらくはリングを囲む金網か試合前にヨンイルと接触した人間があやしいと睨んでいたが、それこそただの思いこみだった。
 『空約束』。そう、すべてはハッタリだったのだ。
 ホセの言葉で目が覚めた。ホセに礼も言わずリング中央に引き返した僕は、余裕ありげな物腰で腕を組んだヨンイルと対峙する。
 「木の葉を隠すなら森の中か」
 答えは単純だった。もっとはやく気付けばよかった、すぐさま気付かない方がどうかしている。試合前、レイジと口論をしてる最中はヨンイルから注意が逸れていたといえど、ヨンイルがリング周辺で不審な行動をしたら目立つはずだ。だが僕は全然気付かなかった、ヨンイルが金網に細工してる様子も西の人間に不自然に密着してる様子もなかったのだから当たり前だ。
 木の葉を隠すなら森の中。爆弾を隠すなら……
 「キーストア、どうしたんだよ!?悠長に睨めっこしてる場合かよ、はやく爆弾見つけださねえと死人がでるぜ。ヨンイルの爆弾の威力を舐めてかかるな、過去に二千人殺した危険きわまりねえ代物だ」
 レイジが金網を殴り付け警戒を促すが、無視してヨンイルに歩み寄る。
 「爆弾の隠し場所がわかった」
 「おめでとう。せやけどこんなとこで呑気にやっとってええのん、はよ解除せなまずいんちゃうか」
 「その必要はない」
 ヨンイルの手前で立ち止まり、推理を述べる。
 「『このリングのどこかに爆弾を仕掛けた』と君は明言した。なるほど、その言葉に嘘はない。後付けで範囲を広げたのは感心しないが、僕の目をくらます作戦のうちだったんだろう。だが、金網のどこにも爆弾は仕掛けられていない。もし金網に爆弾が仕掛けられているならさっき倒れたショックで爆発してもおかしくない。君自身が言ったんだ、刑務所では大した材料を集められなかったから性能が保証できず時間がくるまえに爆発してしまう可能性もあると。性能な不安な爆弾なら、金網が倒れた衝撃で爆発する危険性は大いにありえる。だが、金網が倒れた時は異状はなかった。ならば金網には爆弾が仕掛けられてない。
 会場の人間はどうだ、君が試合前に接触した人間が爆弾を所持してる可能性は?
 残念ながらそれもない。
 ペア戦では試合開始30分前に入り口での待機が義務付けられている。この規則にのっとって、君も反対側の出口に待機していたはず。そこから遠くへ行くことはできず、移動範囲は制限される。君が待機していた場所はちょうど僕らの反対側、真正面に位置する。
 いくら僕が口論に熱中してたとはいえ、視界の端で不審な行動をする人物がいたら気付かないはずがない。おまけに君は目立つ容姿をしている、針のように立たせた髪と顔半分を覆う黒いゴーグルという風貌が人ごみに埋もれるはずがない。相手に知られず爆弾を預けるのは不可能だと断言していい。また、いくらトップの命令とはいえ爆弾をすすんで預かるような人間がいるとは思えない」
 推理の包囲網でヨンイルを追い詰め、眼鏡のブリッジに触れる。
 「以上の過程から導き出された結論はひとつ」
 ヨンイルの表情がぴくりと動く。ヨンイルの間合いに踏みこみ、抗議する暇を与えず、無造作にズボンに手を突っ込む。囚人服のズボンのポケットは深く、スタンガンを丸々収納する余裕がある。
 ヨンイルのポケットをまさぐり、手ごたえをおぼえる。
 あたりだ。
 推理も佳境にさしかかる。ゆっくりとポケットから手を抜き、外堀を埋めるようにヨンイルを追い詰めつつ、言う。
 「『このリングのどこかに爆弾を仕掛けた』と君は言った。このリングにいたのは僕と君二人だけ、つまり『このリングのどこか』と明言したならば前提として自分も含まれる」
 何故もっと早くヨンイルの言葉の矛盾に気付けなかったのだと自分の愚かさを呪う。
 「リングに爆弾を仕掛ける余裕はなかった。だからあえて『リングのどこか』という曖昧な表現を使った、『このリングに爆弾を仕掛けた』でも『地下停留場に爆弾を仕掛けた』でもなく、不特定な『どこか』という漠然とした表現を用いた」
 『どこか』には『ここ』が含まれる。ヨンイルがいる『ここ』こそ推理の原点にして終点、最終的に行き着いた場所。
 ヨンイルのポケットから抜いた手を高々と頭上に掲げる。
 「つまり、爆弾は最初から君が持っていたんだ。以上、証明終了。異論があるなら聞くが?」
 爆弾を頭上に掲げてヨンイルを睨めば、西の道化が砕顔する。
 「おめでとさん。おなじIQ180の金田一少年にも負けん名推理や」
 試合は、僕の勝利だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050820103549 | 編集

 ビバリーを力づくでどかそうと肩に手をかけたまま、俺はぽかんと口を開け、液晶画面に見入っていた。
 ビバリーいわく地下停留場の金網に超小型カメラと集音機を仕掛けて決勝戦の模様を生中継してるらしく、正方形のリングの中央じゃヨンイルと鍵屋崎が対峙していた。
 最初は鍵屋崎がやられる一方だった。喧嘩の弱い鍵屋崎はサムライに借りた木刀で応戦しようとしたが、西のトップを張るヨンイルにかかりゃ赤子同然で、簡単に背後をとられて足払いをかけられひっくり返されちまった。
 会場の歓声が大きくなり観客が盛り上がる中、コンクリ床に背中から激突した鍵屋崎の顔面にヨンイルの靴裏が被さる。ヨンイルはにやにや笑いながら、木刀を掲げて必死に抵抗する鍵屋崎をいたぶっていた。それを見たサムライが激昂し、普段の冷静さをかなぐり捨て、唾をとばして怒鳴る。
 「直、起て!」
 「ああんサムライさんロザンナを揺さぶっちゃめっす、ロザンナはデリケートなんスから!回線ショートしたら責任とらせますよ!?」
 興奮のあまり膝立ちになったサムライが手荒くパソコンを揺さぶり、画面の向こうの鍵屋崎を叱咤する。こめかみに血管を浮かせてヨンイルを視殺するサムライの剣幕に、ロザンナの貞操危うしと泡を食ったビバリーが慌ててサムライを押さえこむ。
 「はなせ無礼者、俺には直の戦いを最後まで見届ける義務がある!」
 「画面を見るときは部屋を明るくして離れて見てねって教わりませんでしたか!?」
 「教わらなかった!」
 画面の中じゃヨンイルに追い詰められ絶体絶命の鍵屋崎が、両腕を突っ張って必死の抵抗を試みてる。サムライから預かった木刀を頼りに、奥歯を食い縛りヨンイルの足裏を押し返す鍵屋崎の顔は充血していた。
 そろそろ腕も限界なのだろう、体重をかけて徐徐に足を踏み込んでくるヨンイルにこれ以上抗う術もなく、地面に伏せた鍵屋崎の顔が苦渋に歪む。非力ながらも鍵屋崎の健闘を伝える迫真の映像に固唾を飲んだサムライが、強く強く五指を握りしめる。
 「直……!」
 鍵屋崎の無事を心より祈る切実な叫び。
 喉を振り絞るように鍵屋崎の名を呼ぶサムライ、伏せた双眸には己の不甲斐なさを恥じ入る含羞の色。足を負傷して鍵屋崎の窮地に駆けつけられない現状を呪うサムライは、今も身を切られるような焦燥を感じているのだ。
 膝にこぶしを叩きつけ、屈辱に耐え、歯噛みするサムライ。俺にはサムライの気持ちが痛いほどよくわかる、俺もサムライとおなじ気持ちだ。俺は今サムライとおなじ焦燥を味わってる、サムライとおなじ葛藤に悩まされている。大事な相棒が決勝戦にでるという肝心な時に、医務室のベッドでじっとしてなきゃならないなんて冗談じゃない。俺だって今すぐ会場に駆け付けて鍵屋崎を応援したい、レイジについていてやりたい。
 食い入るように画面を覗きこみ、レイジの姿をさがす。いた。レイジはすぐに見つかった。リングを囲む金網にはりついて、鍵屋崎にむかってなにか大声で喚いてる。
 レイジも心配なのだ、鍵屋崎のことが。鍵屋崎が怪我をしちまわないか死んじまわないか心配して、早く帰ってこいと地団駄踏んで催促してるのだ。
 まったく、ガキかよ。
 「あ」
 画面の中で変化があった。俺はサムライと競うように膝を乗り出し、画面を見つめる。
 大きな弧を描き、蹴り飛ばされた木刀が宙に舞う。鍵屋崎の手から逃れた木刀が照明を反射して輝き、乾いた音をたてコンクリ床に落下する。鍵屋崎の手の届かぬ遠方へと蹴り飛ばされた木刀にサムライが息をのむ。万事休す、鍵屋崎は唯一身を守る武器を失った。木刀を持っていてもかなわなかったのに素手でヨンイルに勝てるわけがない。
 ヨンイルが鍵屋崎の胸ぐらを掴み、強引に引きずり起こす。
 上着の胸を掴まれ、無理矢理立たされた鍵屋崎は体力の消耗がはげしく肩で息をしていた。相変わらず持久力のないやつだ。
 「親殺し絶体絶命危機一髪断崖絶壁、相手はあの西の道化、過去二千人を殺した凶悪極まりないテロリストにして爆弾作りの天才ヨンイル!さあ、親殺しに逆転のチャンスは!?」
 興がのりはじめたか、手を振りまわして実況するビバリーがうるさい。「うるせえよビバリーヒルズ、酔っ払ってんじゃねえよ」と片手で顔を押しのけ、上気した顔でパソコンの正面に陣取る。
 無防備に突っ立っていた鍵屋崎の上腕に、ヨンイルの回し蹴りが炸裂。華奢な鍵屋崎はひとたまりもなく、蹴りの衝撃に吹っ飛ばされて金網に激突する。子供に弄ばれたボロ人形のように背中からずり落ちた鍵屋崎にサムライ息をのむ。
 意識を失ってるのだろうか、ぐったりと四肢を弛緩させた鍵屋崎のもとへ両手を広げたヨンイルが近付いてくる。威圧するような大股で鍵屋崎に歩み寄ったヨンイルが、鍵屋崎の正面に屈みこみ何事か囁く。
 何を言ってるんだかこの距離からじゃ聞こえないのが歯痒くて、ビバリーをせっつく。
 「もっと音でっかくできねえのかよ!?」 
 「これ以上は無理っスよ!」
 ビバリーが情けない声で弁解する。俺たちが喧々囂々言い争ってるあいだに鍵屋崎が金網に凭れて立ちあがり、きっとヨンイルを睨みつける。実力差は圧倒的であるにも拘わらず鍵屋崎の瞳は負けてない。
 鍵屋崎はまだ勝負を捨ててない。
 「直、お前はどうして自ら傷付きに行く!?」
 サムライがこぶしで膝を打つ。鍵屋崎の窮地に何もできない自分が歯痒くてたまらないのだろう。いたたまれない心境のサムライをよそに、ヨンイルが鍵屋崎へとびかかる。勢い良く床を蹴り跳躍、上着の裾をはためかせて鍵屋崎へと肉薄。高々と宙に弧を描いた足が、鍵屋崎の右側頭部を急襲……
 切れ味鋭い蹴りに、だれもが鍵屋崎の敗北を予感した。
 『!危湿、』 
 しかし、そうはならなかった。
 ヨンイルの蹴りを間一髪防いだのは、こめかみに掲げられた一冊の本。鍵屋崎がズボンの後ろに手を回して抜き取った本が、盾代わりにヨンイルの蹴りを防御したのだ。
 あの本は。
 「あいつ、ひとに断りもなくいつのまに!?」
 鍵屋崎がこめかみに翳したあれは、ヨンイルが俺のベッドに持ちこんだ漫画本じゃねえか!今もベッド周辺の床にはヨンイルが持参した漫画本が大量に散乱して足の踏み場もないが、鍵屋崎が本をパクったなんて今の今まで気付かなかった。まあ、こんだけあるんだから一冊くらいなくなってても気付きゃしないが。
 にしても、サムライの木刀より漫画本のが役に立つなんて皮肉な話だ。
 「残念っスねサムライさん、気合い空回って親殺しの役に立てなくて。親殺し絶体絶命のピンチを救ったのはサムライさんが愛と友情をこめた木刀ではなく漫画の神様・手塚治虫の霊験あらたかな漫画本でした。サムライ魂の敗北、つまりは愛の力が足りなかったというこういうわけっスね!」
 「斬るぞ」
 会場の熱狂が伝染したか、ハイテンションにまくしたてるビバリーにサムライが吐き捨てる。心中複雑そうに黙りこむサムライをよそに、前かがみに画面に集中する。鍵屋崎が頭上高く腕を掲げ、漫画本に釣られたヨンイルがふらふらと間合いに踏みこみ……
 『痛!』
 「アウチっ!」
 ビバリーと同時に叫び、股間をおさえこむ。
 鍵屋崎が、ヨンイルの股間におもいきり膝蹴りを食らわす。まったく容赦がない力加減だった。ヨンイルの絶叫がびりびりと鼓膜を震わせ、全身からざざっと血の気が引く。
 「か、鍵屋崎ってキレると怖いんだな……」
 「……そのようだな」
 サムライも一見落ち着き払っていたが、心なしか顔色が青褪めていた。マジで金玉が縮んだ。おそるおそる股間から手をどかし、ビバリーと肩を並べ、あらためて画面を見る。金網に囲われた正方形のリングでは、ヨンイルが股間の激痛に悶絶していた。両手で股間を庇ってのたうちまわるヨンイルのもとへ歩み寄る鍵屋崎、眼鏡のレンズが片方割れてるのがちょっと間抜けだ。
 おもむろに手をのばし、ヨンイルの胸ぐらを掴み、無造作に引きずり起こす鍵屋崎。鍵屋崎によって強引に立たされたヨンイルが目にうっすら涙を浮かべて何かを言う。鍵屋崎がそれに答える。小声で交わされる二人の会話……ちくしょう、注意して唇の動きに目を凝らしても何を言ってるんだかわからねえ! 
 やきもきする俺とサムライの眼前で、ヨンイルと鍵屋崎の距離が縮まる。
 ヨンイルが鍵屋崎の耳元で、なにかを囁く。
 「俺、お前のこと好きやねん」
 はじかれたようにビバリーを振り向けば、俺たちへのサービスのつもりか、ヨンイルと鍵屋崎の会話の内容を勝手に捏造していた。
 ヨンイルの手が、そっと鍵屋崎の首元に添えられる。
 二人の間にほとんど距離がないせいか、ヨンイルが鍵屋崎の首に指を触れてるせいか、リングを俯瞰するカメラから送られてくるのはひどく扇情的な映像だ。それに妄想の産物としか思えないビバリーの解説がつくと、本当にそんな会話がされてるんじゃないかと錯覚に襲われるから不思議だ。
 艶っぽい目つきのヨンイルが、すっと指を動かし、鍵屋崎の首筋を撫でる。
 「ホンマ綺麗な首やなあ。蚊になった気分でちゅーて吸いつきたいわ。あんさん血も綺麗そうやしさぞかし鉄分多くて美味なんやろなあ。ああ、なんちゅー手触りよい肌や。つやつやのすべすべで上質の絹のさわりごこちや。失礼してちょいと味見を……」
 ヨンイルの顔がどんどん鍵屋崎に近付いてく。
 画面越しに顔と顔が接近するさまを見せつけられたサムライは平静を装おうにもうまくいかず、ヨンイルと鍵屋崎を引き裂こうにも手が出せずに憤死寸前。画面の中には手を伸ばせど届かず、おのれの無力を噛み締めながらヨンイルを睨めつけるしかない。火に油を注ぐビバリーの解説は続く。鍵屋崎の首に手をかけたヨンイルが睦言を囁くように耳朶へと顔を近付け、囁く。
 「ああ、怖がらんでえ。痛くはせえへん。なんや、そんな色っぽい顔して。目え潤ませてやらしく頬上気させて、さわられただけで感じとるんか?涼しい顔して淫乱やな……」
 ヨンイルの口真似をしながら、上着の胸に手をあて、自己陶酔にひたりながら熱演するビバリー。サムライのこめかみで血管が脈打ち始め、膝の上においたこぶしが震え始める。危険な兆候だ。ビバリーの口を塞がなけりゃ、と危機感に駆られた俺が行動を起こすより早くビバリーが地雷を踏む。
 ヨンイルの指が怪しく動き、鍵屋崎の喉仏が官能的に嚥下する。
 「敏感肌やな」
 「けしからん!!」
 サムライが怒髪天を衝いた。
 普段の冷静沈着さをかなぐり捨て、憤怒の形相で立ちあがるサムライ。太股の激痛も吹っ飛んだのか、ビバリーの胸ぐらを掴んで力づくで解説を中断する。至近距離でサムライに檄をとばされたビバリーは目を白黒させ、窒息の苦しみに手足をばたつかせて暴れる。自業自得だ。
 「冗談っスよ!怪我で入院中で決勝戦にでれないサムライさんの退屈をまぎらわしてあげようという生まれながらのエンターティナー、ビバリー・ヒルズのお茶目なジョーク、リップサービスっスよ!」
 「根も葉もない戯言をほざくな下郎め、直が俺との約束を破るはずがない!直はけして下心のある男におのれの体を気安くさわらせたりは……」
 「さわられまくりじゃねーか」
 画面を指さす俺を前に、サムライがぐっと言葉に詰まる。鍵屋崎が「他の男に体をさわらせない」なんて、独占欲まるだしのサムライとの約束を気にかけてるんなら画面で進行中の出来事が説明つかない。それとも鍵屋崎は亭主関白に振る舞う嫉妬深いサムライにうんざりして、サムライへの反抗も兼ねて公衆の面前でヨンイルといちゃついてるんだろうか?だとしたら鍵屋崎のヤツ、見かけによらず駆け引き上手だなと妙なところに感心する。
 ふと場外に視線をとばせば、レイジが金網にしがみつき、神妙に聞き耳を立てていた。
 耳の横に手をやってヨンイルと鍵屋崎の内緒話をふむふむと拝聴するレイジに、肩の力が抜ける。
 「デバガメかよ!レイジめ、色ボケもそこまでくると重症だぜ」
 さっきまで本気でレイジを心配して損した。リングじゃヨンイルと鍵屋崎が仲睦まじく乳繰り合ってるし、場外じゃレイジが耳の横に手をあて二人の会話を盗み聞きしてるし、おまえらまとめて東棟の恥さらしだと罵りたくなる。はっきり言って、レイジも鍵屋崎も見損なった。明日を悲観して頭を抱え込みたくなった俺の隣じゃ、サムライがじりじりしながら鍵屋崎とヨンイルとを見比べている。視線に熱量があるならヨンイルなんかひと睨みされただけで残り滓もださず蒸発しちまいそうだ。
 「待って、様子がおかしいっスよ?」
 ビバリーが眉をひそめる。鈍感な俺には睦言を交し合ってるようにしか見えないが、鍵屋崎の表情は真剣そのもので、はげしい口ぶりでヨンイルに食ってかかる様子はひどく切迫してる。
 「マジでなに話してんだよ、大の男がキスしそうに顔くっつけて内緒話はやめろってんだよ気色悪ィ!」 「破廉恥な喩えを言うな!」
 苛立ちをこめてベッドを殴り付けた思いが通じたのか、キスの一言に狼狽したサムライの心中を汲んだのか、画面の中で動きがあった。 
 すっと鍵屋崎から体をはなしたヨンイルに、サムライが安堵に胸撫で下ろすのも束の間。
 脚光を浴びてリング中央に踊り出たヨンイルが、芝居がかった動作で会場を見渡す。
 『今この場におる連中におしらせや。今からたのしいたのしい催しがはじまるで、道化VS天才の究極推理対決。金田一少年も驚いて腰抜かすわ。ええか、よお聞けよ。このリングのどっかに今から十分後に爆発する時限爆弾仕掛けられとる。俺の目の前にいるこの名探偵は、なんとか時間内にその爆弾見つけ出して解除するつもりや。万一こいつが爆弾を見つけ出せたら俺は道化の名を返上して勝ちを譲ったってええ。でも、時間内に爆弾の隠し場所に辿り着けんかったら……』
 ヨンイルが虚空を毟りとるように指を閉じ、ぱっと解き放つ。
 『ぼん、や』
 「な……」
 絶句したのは俺だけじゃない。一緒に画面を見てたビバリーもサムライも、驚きを通り越してあきれてる。これが本当の爆弾発言?いや、駄洒落で現実逃避してる場合じゃねえ!衝撃冷め遣らぬ俺が手をつかねて見守る眼前、パニック起こした囚人どもが我先にと地下停留場から脱出を図る。大惨事を予感した囚人が一斉に逃げ出したせいで怒涛のごとく波と波が衝突し、地下停留場は阿鼻叫喚の地獄となる。
 「正気かヨンイルのやつ、イカレてんじゃねえのか!?地下停留場で爆弾爆発したらどうなるかわかってんのかよ、死人と怪我人でるに決まってんだろ!場外の連中も巻き込むつもりかよ、レイジよかタチ悪いぜっ」
 先に爆弾見つけた方が勝ち?そんなのありかよ、ヨンイルが勝手に決めた試合ルールじゃねえのか?だいたい十分以内に爆弾見つけて解除するなんて無茶だ、不可能だ、天才にだってできることとできないことがある。俺にだってそれくらいわかる、鍵屋崎は全能の天才じゃない、俺たちとどこも変わらない脆弱な人間だ。万一鍵屋崎が間に合わず、爆発に巻きこまれて死んじまったら……
 「大丈夫っスかロンさん、顔色悪いっスよ?」
 「……なんでもねえ、ちょっとむかしのこと思い出しただけだ」
 無口になった俺を気遣い、ビバリーが背中をさする。くそ、ヨンイルが変なこと言うから思い出しちまったじゃねえか。むかし、俺が投げた手榴弾でひとが死んだ。敵チームのガキどもめがけて投げつけた手榴弾が爆発して、ガキどもが細切れの肉片になった。
 臓物ぶちまけて肉片撒き散らして絶命したガキども、その体から流れ出た大量の血だまりにうずくまった俺は、警察が駆けつけるまで何度も何度も吐いた。しまいにゃ吐くものがなくなって酸っぱい胃液しかでてこなくなってもしつこく吐き続けた。
 あの時のことを思い出し、不吉な予感が現実味を帯び、どうしようもなく体が震え出す。いやだ、俺はもう二度と人間が破裂する光景なんか見たくない。
 あんな凄惨な光景、目の当たりにしたくねえ。
 さっきまで元気に笑ったり怒ったり精一杯生きてたやつらが、原形留めない肉塊と化すさまは見たくねえ。
 想像しただけで胃袋が縮んで吐き気がこみあげてくる。
 もし鍵屋崎が爆発に巻きこまれでもしたら?サムライでも見分けがつかねえ肉片になっちまったら?いやだ、絶対にいやだ!鍵屋崎だけじゃない、レイジだって危ない。レイジは今地下停留場にいる、金網にはりついて鍵屋崎の試合を見守ってる。
 放っとけない。
 「!?ちょっとロンさん、あんた怪我人のくせにどこ行くんだよ!」
 「地下停留場に決まってんだろ、ヨンイルの馬鹿とっつかまえて張り倒してやら!」
 「ロンさん肋骨折ってるくせに、ひとりで歩けないくせに何言ってんすか!?無茶したら入院長引くだけっスよ、仲間のピンチをただじっと見てるだけで辛いのはわかりますがここはぐっとこらえて」
 「仲間を見殺しにできるかよ!!」
 気付けば、さっきの鍵屋崎とそっくりおなじことを言っていた。
 俺は吠えた、ビバリーに噛みつくように。そうだ、俺が行かなきゃだれが行く?だれがレイジについててやれる、鍵屋崎を応援してやれる?あいつらには味方が少ない、だから俺が応援してやらなきゃ、あいつらの勝利を信じて試合を見届けてやんなきゃ駄目なんだ!
 「もうっ、言うこと聞かない悪い子にはお注射打ちますよ!?」
 「ああ打てよ好きなだけ、ケツにでもどこにでも痛いお注射プレゼントしてくれ!注射器刺さったまま根性だして這いずってくからな!」
 うしろから俺を羽交い絞めにするビバリーを振りほどこうと、はげしくかぶりを振って暴れまくる。めちゃくちゃに虚空を蹴り、体をさかんに揺さぶり、覚せい剤の禁断症状がでた患者のように全身で抗う俺の目に驚くべき光景が映る。
 「!あっ、」
 俺が衝立を蹴り倒すのと、画面の中で金網が倒れるのは同時だった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050819103735 | 編集

 足にぶつかった衝立が騒々しく床に倒れ、自重に耐えかねた金網が濛々と埃を舞い上げコンクリ床を直撃。凄まじい轟音、画面のブレ。金網に仕掛けられた小型カメラが、転倒の衝撃で故障したらしく、画面に送られてくる映像には砂嵐が混ざっていた。 
 「鍵屋崎は、レイジはどうなったんだよビバリー!?」
 「わ、わかりませんよそんなの!ナンセンスなこと聞かないくださいっス!」
 粒子が粗い映像に目を凝らして鍵屋崎とレイジをさがすが、気が急いて見つからない。雑音まじりの音声が臨場感たっぷりに伝えてくるのは罵声と悲鳴が交錯する地下停留場の混乱のみ。鍵屋崎はどうなったんだ、無事なのか?まさか金網の下敷きになって圧死……最悪の想像が脳裏を過ぎり、暗澹たる不安を煽る。
 重苦しい沈黙を破ったのは、サムライの一言。
 「俺が征く」
 有無を言わせない決断。俺が我に返ったときにはサムライは既に立ちあがっていて、負傷した片足をひきずるようにドアへと急いでいた。動転した俺はサムライの背中にむなしく手を伸ばし、叫ぶ。
 「待てよ忘れたのか、お前怪我してんだろ!?医務室でじっとして鍵屋崎の帰りを待つって約束したんだろが、舌の根も乾かねえうちに約束破るつもりかよ、武士として最低だ!」
 「友を窮地を捨て置けん」
 きっぱりと言いきるサムライの背中は潔い。もう俺が何を言っても無駄だろうと思わせる揺るぎない決意をこめ、奥歯を食い縛り太股の激痛をこらえ、サムライが一歩を踏み出す。無理をして傷口が開いたのか、サムライのズボンにじわりと鮮血が滲みだす。それでもサムライは立ち止まらない、歩調を緩めもしない。
 肩を喘がせて荒い息をこぼし、確実に一歩ずつドアとの距離を狭め、言う。
 「直は俺の相棒だ。レイジは俺の仲間だ。仲間が必死で戦っているときにおのれの不甲斐なさを呪うしかないのは、卑劣な臆病者のすることだ。俺は戦う、たとえこの足が腐って爛れ落ちようが最後の最後まで戦いぬく、おのれの身をひと振りの刃にかえて友を守り抜く」
 「格好つけすぎだよ、なんでそこまでできんだよ!」
 鼻の奥がつんとする。本当に、サムライときたら格好つけすぎだ。自分だって十分しんどいくせに無理してるくせに、それでも虚勢を張って鍵屋崎を助けにいこうとしてる。太股の激痛をこらえ、必死に平気なふりして、俺たちに心配かけないよう気丈に振る舞ってる。強情すぎて手におえねえ。
 ドアの手前で立ち止まったサムライが、ノブに手をかけ、顔を伏せる。
 追憶に沈むように首をうなだれたサムライの表情は読めないが、たぶん、昔の恋人の面影を反芻してるんだろう。サムライとの仲を無理矢理引き裂かれて自殺した、愛しい女の面影を。
 そして、サムライが口を開く。
 迷いを振りきり、毅然と顔を上げ、自分の信念をどこまでも一途に貫き。
 「俺は直を愛しく思う。
  愛しい者を欲するのは男として当然ではないか」
 サムライが苦く笑った。
 鋼の強靭さに隠れた弱く脆い一面を覗かせる、自嘲的な笑み。ドアが開き、サムライが廊下に出る。バタンとドアが閉じ、サムライの姿が視界から消える。俺は何も言えなかった、言葉を発することさえできなかった。ベッドに膝立ちになりむなしく虚空を掴んだまま、呆然とサムライを見送り、自分の心に問いかける。俺は本当にこのままでいいのか、ここでじっとしてていいのか?サムライは行っちまった。太股に怪我して一歩進むごとに失神しそうな激痛に襲われるありさまなのに、鍵屋崎を助けたい一心で前だけ見て行っちまった。
 俺はどうなんだ?
 答えはすぐにでた。今すぐレイジを助けにいきたい、レイジのそばについててやりたい。レイジの相棒として恥ずかしくないよう胸を張りたい。レイジには俺がいなきゃ駄目なんだ、俺にはレイジがいなきゃ駄目なんだ。
 『愛しい者を欲するのは男として当然ではないか』
 サムライの言葉で、ようやく決心がついた。
 上着の胸にこぶしをあて、迷いを振り捨て、スニーカーに足をもぐらせようとして……
 『Unbelievable!!』
 ビバリーのすっとんきょうな叫びにずっこかけかける。
 「あーもう、気分台無しだ!変な声だしやがってなんだってんだよいったい、俺にもサムライみたいに格好つけさせてくれよ!」
 片足にスニーカーをつっかけたままベッドにとびのり、腹立ちまぎれにビバリーの肩を掴む。だがビバリーは無反応、画面に映し出される光景を凝視したまま、酸欠の金魚よろしくぱくぱく口を開閉してる。ビバリーが震えながら指さす先をうろんげに一瞥した俺は、愕然とする。 
 『……不可能把……』
 信じられない。
 横転したカメラから送られてくる粒子の粗い映像。地下停留場を逃げ惑う人間の足、足、足。金網を踏み倒しカメラを蹴飛ばして逃げ惑う囚人たちの悲鳴がノイズまじりに響き渡る中、俺の目に映ったのは……
 一丁の拳銃だ。
 傾いだカメラに映し出されたそれは、黒光りする拳銃。ズボンの尻ポケットから半分ほど覗いたそれをばっちり目撃したビバリーが、ごくりと生唾を嚥下する。銃を持ってるのはだれだ?紺色のズボンは、看守の制服の特徴。じゃあ、看守のだれかが銃を持ってるのか?まさか。東京プリズンで銃を持ってるのは安田だけだ、一介の看守が銃なんて物騒なもん持ってるはずがない。でもそれじゃ、現に今起きてることが説明つかない。くそっ、カメラがもうちょっと上に移動すれば銃を持ってるやつの正体が一発でわかるのに!
 「五十嵐さん、まだ返してなかったんスか!?」
 「え?」 
 脳天から間抜けな声を発し、ビバリーに向き直る。
 「ビバリー、今五十嵐って言ったのか?間違いないのか、銃を持ってるのは五十嵐なのか!?」
 ビバリーの肩を乱暴に揺さぶり、唾のかかる距離で詰問する。ビバリーは一瞬「まずい」という顔で失言を悔いたが、もう遅い。俺の剣幕に恐れをなしたビバリーがしゅんとうなだれて白状する。
 「はい、間違いありません。銃を持ってるのは看守の五十嵐っス、僕がこないだ手渡したんだから間違いないっス」
 「だって東京プリズンで銃を持ってんのは安田だけ……」
 「ご存知ないんスかロンさん?親殺しから聞いてないんスか」
 ビバリーが意外そうに目を見張る。くそ、なんだか癪にさわる。
 「数週間前のペア戦で地下停留場に乗りこんだ安田さんが銃をなくしたんスよ。で、それを偶然見つけたのが何を隠そうこのビバリー・ヒルズ!こんな物騒なもん放置しとけないと拾ったはいいものの、始末に困った挙句に五十嵐さんを介して副所長に返そうとしたんス」
 「ホラ吹くなよ、返ってねえじゃん!」
 「返したんスって、ホラ吹いたのは僕じゃなくて五十嵐っス!」
 ビバリーが首をふりふり反論する。五十嵐がホラを吹いた?囚人に分け隔てなく親切に接して絶大な人望を勝ち得てるあの五十嵐が?なんで?五十嵐ならビバリーが口止めすりゃ、銃を拾った囚人の名前は伏せてきちんと安田に返してくれるはず。今の今まで隠しとおして、銃を持ち歩く意味がどこにある?
 「……思い出した、たしかに鍵屋崎とサムライがそんなこと話してた。途中まで寝ぼけててよく聞いてなかったけど、たしかに『銃』って単語がでてきた。消えた銃がどうとかって、このことか……でも待てよ、おかしいじゃねえか。わからねーことだらけだぜ。安田がなくした銃さがしを鍵屋崎が請け負った、お前は偶然銃を拾って五十嵐のツテを頼りに副所長に返してくれるよう頼んだ。そこまではいい。問題はそっからさきだ、五十嵐のやつなんで肝心な銃を返してねーんだよ!?万一暴発しちまったらどうする、確実に死人がでるぜ!!」
 「僕に言われて知りませんて、ビバリー・ヒルズは裁判にかけて無実っス!」
 「裁判にかけて無実のやつが刑務所にくるかよ、洗いざらい吐きやがれ!」
 ビバリーの肩をがくがく揺さぶりながら食い下がるが、ビバリーときたら知らぬ存ぜぬの一点張りで首を振るばかり。俺たちが怒鳴りあってるあいだもカメラからは映像が送られてきて、囚人に蹴り飛ばされたカメラがひっくり返る。 
 「!!リョウさんっ、」
 ビバリーが目をひん剥き、パソコンに掴みかかる。
 反転したカメラに映し出された赤毛は、見間違えようもないリョウの髪の色。あんだけあざやかな、燃えるような赤毛の囚人は東京プリズンでも珍しいから一発でわかる。リョウの隣にいるのは……五十嵐。ズボンの腰に手をかけた不恰好な体勢で凝然と立ち竦み、リングの方向を見つめている。
 銃を隠し持った人物の正体が暴かれた。今にもポケットから銃を抜き取り、リングに銃口を向けようとしてる五十嵐の様子に鬼気迫るものを感じたビバリーがベッドを飛び下りる。
 「ちょ、待てよビバリー!怪我人はじっとしてろってさんざん俺に説教したくせに今度はてめえが、」
 ビバリーの襟首掴んで引き戻そうとした俺の五指が、すかっと空を切る。
 目と鼻の先にビバリーの顔がある。
 すさまじい剣幕で振り向いたビバリーが、俺の額に額をぶつけ、上着の胸ぐらを掴む。
 「見てわかんないんスかロンさん、五十嵐の様子がマトモじゃないって!」 
 こんなマジなビバリー、見たことない。
 焦燥に目を血走らせ、鼻息荒く俺と額を突き合わせるビバリーの表情は真剣そのものだ。ビバリーに言われて画面を見た俺は、絶望的に暗い五十嵐の表情に息を飲む。
 これは、極限まで追い詰められた人間の顔。今から最悪の選択肢を選ぼうとしてる人間の顔だ。
 五十嵐はもう、到底ひき返せないところまできちまってる。
 「……くそっ、リョウさんてば世話ばっかり焼かせて!人騒がせなトモダチもつと苦労します!」
 ビバリーが苦渋に満ちて吐き捨てる。 
 そうか。ビバリーにとっては、リョウは今でもダチなんだ。危険に巻きこまれるのが承知で放っとけない大事なダチなんだ。リョウの隣には正気を失った五十嵐がいる、いつ銃を発砲してもおかしくない五十嵐がいる。ビバリーが冷静でいられるはずがない、金網が倒れた瞬間のサムライとおなじくその心中は察するにあまりある。
 「……トモダチ思いだな」
 「ロンさんとおなじくお節介なだけっス」
 俺が苦笑すれば、ビバリーも苦笑する。
 そうだ、俺たち二人とも苦境のダチを放っとけないお節介同士だ。はは、意外と相性よさそうじゃんか。 胸ぐらからビバリーの指をもぎはなし、俺はきっぱりと言いきる。
 「俺も行く」
 「!ロンさんっ、あんた怪我を」
 「怪我がどうしたんだよ?それがダチを見捨てる言い訳になんのか」
 レイジを真似て不敵に笑ってやる。ビバリーがリョウを助けたい一心で危険にとびこんでくなら、俺が立ちあがらないわけにはいかない。医務室のベッドでじっとして自分の無力を呪うのはもううんざりだ。俺が今やるべきことは、ベッドの上でじっとしてレイジの無事を祈り続けることじゃない。レイジの勝利を信じて寝返りを打つことじゃない。 
 ただ、レイジの隣にいてやること。
 レイジをひとりぼっちにさせないことだ。
 「説得しようったって無駄だぜビバリー、俺は一度言い出したら聞かねえんだ。もちろん、お人よしのビバリー・ヒルズはひとりじゃ歩けねえ怪我人に肩を貸してくれるよな?」 
 降参したようにため息をついたビバリーが、俺の片腕を首の後ろに回し、肩に担ぐ。
 「いくら僕がお人よしでもロンさんには負けますよ」
 ああ。
 ビバリーはいいヤツだ。リョウがいちごを半分こしたくなる気持ちがよくわかる。

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 金網が倒れて見通しよくなった僕の前で、鍵屋崎とヨンイルが対峙している。
 鍵屋崎は満場の観衆が固唾を飲んで見守る中、劇的に勝利した。
 てのは言いすぎか。この場に集まった誰も固唾を飲んでなんかいないし鍵屋崎の勝利には無関心だし試合の行方に注目してもいない、それも当たり前っちゃ当たり前無理からぬ話で、ヨンイルが「この地下停留場のどっかに爆弾仕掛けた、はよ逃げな十分以内にぼんや」なんて文字通りの爆弾発言したせいで会場は大騒ぎだった。
 まったく人騒がせな話だと、爆弾騒ぎが杞憂で済み、悪態を吐く余裕ができた僕は憤慨する。人を馬鹿にするにもほどがある。
 結局は全部ヨンイルの一人芝居、狡猾で巧妙な狂言、道化のハッタリだったんじゃないか。道化の二つ名が体現するとおりヨンイルは人を煙に巻く天才、人を詐欺にかけておちょくることに才能を発揮する天性の愉快犯なのだ。
 爆弾は最初からヨンイルが持っていた。試合見物に来て爆発に巻きこまれちゃたまったもんじゃないと、先を競って逃げ出した囚人たちの中でそんな拍子抜けの結末を予想できた者が何人いるだろう。
 僕も全然予想できなかった。
 パニック起こして地下停留場の出口に殺到する他の囚人と同様、「うわあどうしよう爆発に巻きこまれたらミンチになっちゃう助けてママ!」とテンパってただけだ。 
 そんな僕の隣にいたのが五十嵐だ。
 話は数時間前に遡る。ビバリーにフラれた、もとい喧嘩中の僕は房の沈黙に耐えかねてふらふら試合会場にやってきた。こないだまではビバリーにお願いしてペア戦生中継を視聴させてもらってたんだけど、今晩はとてもビバリーに話しかけられる雰囲気じゃない。 頑固でわからず屋のビバリーはまだ僕に腹を立てていてはまともに目を合わせようとしないし、おしゃべりだって成立しない。
 ビバリーに無視されるのがいたたまれなくて、ビバリーの隣に居場所がなくなって房をとびだした僕は、ひとりで決勝戦を見に来たのだ。
 ビバリーなんかもう知ったこっちゃない、勝手にしろ。
 心の中で毒づいて地下停留場に下りた僕が、五十嵐を発見したのは偶然だった。試合開始一時間ほど前から地下停留場には人ごみができていて、五十嵐はリングを十重二十重に囲む人垣の最前列に陣取っていた。もちろん要領のいい僕が五十嵐を見逃すはずはなくて、「やっほーラッシー偶然だね!ラッシーも決勝戦見に来たの?」なんて適当に声かけて、試合の一部始終を観戦できる五十嵐の横をゲットした。何食わぬ顔で隣にきた僕を面倒くさそうに一瞥しても、お人よしの五十嵐は邪険に追い払ったりせず、とくに何も言わなかった。僕は五十嵐の好意にちゃっかり甘えて一緒に試合観戦することにした。
 ほら、ビバリーがいなくても大丈夫。こうして生で試合観戦できるんだし、こっちのがずっといい。
 僕にはビバリーなんか必要ない、ビバリーがいなくても一向にかまわない。不自由はない。
 僕の隣には五十嵐がいる、囚人にも分け隔てなく親切にしてくれるできた看守の五十嵐が。ビバリーの協力が得られないなら今度から五十嵐をパトロンにすればいい、猫かぶりの色仕掛けで五十嵐に取り入って顎でこき使ってやる。
 意地悪くほくそ笑み、五十嵐の腕に腕を絡める。ざまあみろビバリー、うらやましいだろ。僕と五十嵐がいちゃついてるとこ見れなくて残念。今も房でひとりぼっち、パソコンを抱えてるに違いないビバリーを想像してこっそり優越感に浸るけど、本音は虚しい。
 ビバリーがいなくて寂しい?
 まさか、そんなわけない。僕は鍵屋崎やロンのように相棒にべったり依存してない、ビバリーとはギブアンドテイクのドライな関係だったはずだ。ビバリーと今までどおりいかなくなったからって落ちこむ謂れがない。
 ビバリーのことなんかどうでもいいもんね。関係ない。
 さて、決勝戦第一試合に話を戻す。第一試合で実現したのは鍵屋崎VSヨンイルの異色な組み合わせ、誰がどう考えたって鍵屋崎の勝ちはありえない無謀な対決。だってそうでしょ?相手は西の道化だ、天才気取りの軟弱な坊やがどう足掻いたって勝てる相手じゃない。
 ヨンイルは強い。
 単純に喧嘩でも敗けなし、加えて爆弾作りの天才ときた。ヨンイルが東京プリズンに送致されたのは爆弾で二千人殺したからだって真偽不確かな伝説があるくらいで、過去の試合でもヨンイルは爆弾を巧みに用いた戦法で敵をかく乱していた。煙幕で敵の視界をくらましてとどめをさすという卑劣だけど効果的な戦い方。
 何故鍵屋崎にそれをしなかったのは謎だ。ヨンイルが提案したのは爆弾さがしゲーム、制限時間十分以内にこの地下停留場のどこかに仕掛けた爆弾を見つけ出せば鍵屋崎の勝ちという異例の勝負。ヨンイルに持ちかけられたこの悪趣味なゲームを鍵屋崎は自信満々に受けて立って、有言実行、制限時間十分以内に爆弾を見つけだしてしまった。
 お見事。ぱちぱちと拍手でもしてあげたいくらい。
 「勝負は決着した。試合は僕の勝ちだ」
 一目瞭然の事実をわざわざ口に出して言う鍵屋崎。自分の勝利を強調したいの?結構自己顕示欲旺盛だね。周囲に自分の勝利を印象づけるためか知らないけど、爆弾を手に持った鍵屋崎は余裕の表情。危険物が手中にあることを感じさせない落ち着き払った物腰で、冷ややかにヨンイルを眺めている。
 「いかにも君が好みそうな幼稚で悪趣味なゲームだ。が、突飛な発想には敬意を表する。いつ爆発するかわからない爆弾を自分で持ち歩いて一人芝居を演じきるなど頭が狂った人間にしか不可能な芸当だ」
 ヨンイルのゲームを幼稚で悪趣味と吐き捨てた鍵屋崎の顔は苦かった。鍵屋崎自身、爆弾さがしなんて死と隣あわせの危険なゲームに付き合わされて怒りをおぼえているのだろう。不愉快そうに目を細めた鍵屋崎を前にしても道化は悪びれもせず飄々としてる。氷針の眼光に射貫かれてもたじろがないなんて大した度胸だねと口笛でも吹きたくなる。
 「直ちゃん、ええんか」
 ヨンイルがにやにや笑いながら鍵屋崎の手中を指さす。ヨンイルに促されて自らの手中に目を落とした鍵屋崎が顔に疑問符を浮かべる。当惑した鍵屋崎を愉快げに眺めながら、ヨンイルがしれっと指摘する。
 「残り時間、あと二十秒もないで」
 「それを先に言えこの低能!!」
 「ヨンイルのバカ、知ってんならなんで親殺しの長話を中断しないのさ!?」
 鍵屋崎と同時に非難の声をあげる。爆発まであとたった二十秒っきゃないって正気かよ、今からじゃどこに逃げても間に合わない、地下停留場にいるヤツら全員が爆発に巻きこまれちゃう!
 真っ青になった僕の隣、茫然自失と立ち尽くした五十嵐の指がぴくりと動く。ズボンの腰に手をかけた体勢でヨンイルを凝視する五十嵐の様子は切迫していて、ヨンイル以外の何も見えてないように目が血走っていた。
 「ラッシーはやく逃げなきゃ、爆発のとばっちり食ってミンチになりたいの!?」
 五十嵐の腕にすがり、揺さぶる。だけど五十嵐は僕の必死の訴えを無視し、憑かれたようにヨンイルを凝視するばかり。充血した目でヨンイルを追い続ける五十嵐の様子は普通じゃない。一体なにがどうしたっての、わかんないことだらけだよ!とりあえずパトロン候補に死なれちゃ困る、一刻も早く五十嵐を正気に戻して地下停留場から脱出しなけりゃ他の観客どもども爆発の巻き添えでミンチになること請け合い。
 「ラッシーぼさっと突っ立ってないで早く逃げるよ、このまま死にたいの!?ラッシー死んだら奥さんどうなるの、ひとりぼっちになっちゃうよ!娘さん死んだうえに旦那にまで先立たれたんじゃ奥さんまた手首切っちゃうよ!」
 「逃げられないんだよ、俺は」
 「え?」
 五十嵐がぼそりと呟く。片腕にすがりついた僕へと向き直った顔には、諦観の笑みが滲んでいた。
 「あいつを殺すまで、逃げられない」
 「あいつ……?」
 五十嵐はおかしい。異常だ。腕を掴んだ五指から力が抜け、膝が砕けそうになる。腰砕けにへたりこみそうな足を叱咤し、その場に踏み止まり、五十嵐に食い下がる。
 「あいつってだれさ、ラッシーが殺したい人間ってだれさ?ここにいるヤツ、僕の知ってるヤツ!?」
 「ああ」
 五十嵐の目が狂気の光を帯びる。
 口元に柔和な笑みを湛え、双眸に狂熱を宿し、五十嵐がゆっくり口を開く。
 「すぐそばにいる」
 ぞっと二の腕が鳥肌立つ。こんなに近くいるのに五十嵐を遠く感じるのは何故?僕と五十嵐の間に聳えるのは正気の人間と狂気に侵された人間とを隔てる壁。五十嵐は理性的に狂ってる、自分が狂い始めたことを理解しながら平常な人間を装い日常に溶け込み復讐の機会を窺っている。
 五十嵐が復讐したい人間って、だれだよ?
 五十嵐の肩越しに対峙する鍵屋崎とヨンイルを見比べる。さっき五十嵐はずっとヨンイルを見ていた、執拗に見つめ続けていた。五十嵐が復讐したい人間がヨンイルだとしたら、看守と囚人、立場の違う二人を結びつける因縁の真相は? 
 「ラ、」
 僕が言いかけると同時に、地下停留場は再び大混乱に陥る。
 「死にたくねえならはやく逃げろ、一刻も早く逃げろ!」
 「もうペア戦なんかどうだっていい、決勝戦なんか勝手にやってろ!」
 「爆発の巻き添え食ってミンチになんのだきゃごめんだぜ、親だって見分けがつけねだろうさ!」
 爆弾はまだ解除されてない、いや、今からじゃ解除するのも不可能だ。生き延びるには逃げるしかない、逃げるが勝ちと判断した囚人たちが地下停留場の出口に大挙する。押し合いへし合い罵り合い、あちこちで乱闘騒ぎが勃発して流血の惨事へと発展し、暴徒化した囚人たちがはしゃぎまくって収拾がつかなくなる。地下停留場の惨状を見渡して恐れおののく僕をよそに、平常心を失わなかった人間が四人いる。
 鍵屋崎とヨンイル、ホセとレイジ。
 「レイジは逃げないの!?」
 「あったりめーだろ」
 声をはりあげて問えば、レイジはしれっとうそぶく。
 「ダチを見捨てて逃げらんねーよ。ロンにケツ蹴られちまう」
 余裕を滲ませた微笑、無敵の自信のあらわれ。レイジが今なお笑っていられるのは、死と隣あわせの極限状況を鼻歌まじりに生き残れる自信があるからだろうと痛感する。  
 「次試合は吾輩の出番です。戦わずして逃げだしたらワイフに軽蔑されてしまう」
 ホセがおどけて肩を竦める。東棟の王様と南の隠者はここから逃げ出す気はこれっぽっちもないらしい。でも、鍵屋崎は?あいつは僕とおなじ一般人、非力で無力な普通の人間。頭脳以外は何一つ特別なところのない脆弱な人間がヨンイルに立ち向かったところで返り討ちされるのがオチなのに、鍵屋崎はまだリングを下りてない。
 試合を続ける気だ。
 「かっこつけんのもいい加減にしろよ親殺し、とっととリングから下りなきゃ妹にも会えずに死ぬよ!」
 僕の叫びが聞こえているのかいないのか、鍵屋崎はこっちを振り向きもせず、颯爽と駆け出す。爆弾はまだ鍵屋崎の手元にある。もう十秒は経過した。残り十秒、だめだ、間に合わない!今からじゃどこか遠くに爆弾を捨てようにもとても無理、鍵屋崎は爆発に巻きこまれて死んじゃう。
 いやだ、こんなところで死ぬのはやだ、ママ、ママ……
 地面にへたりこみ、両手で耳をふさぎ、膝に顔を埋める。今から逃げたって間に合わない、ちびでやせっぽちな僕じゃ地下停留場の混雑に呑みこまれて出口に辿り着くのは不可能。僕は鍵屋崎と心中する運命だ。
 固く目を閉じ、来るべき衝撃に備えた僕の脳裏を、ビバリーの笑顔が過ぎる。

 ああ、死んじゃうまえに仲直りしとくんだった。
 いちごも半分こできずビバリーと永遠に別れ別れなんて……

 「伏せろ!!」
 鍵屋崎の声が、僕の目を開かせた。
 甲高い快音が響く。
 激震。
 大気が震え、重低音が足元を揺らす。
 「うわあっ!!?」
 「ば、爆発か!?」
 悲鳴と絶叫が交錯する中、頭上から瓦礫が降ってくる。
 鍵屋崎はバットを振りかぶる要領で、腰を捻り、木刀を構えていた。
 サムライの木刀を。
 「……つまり、サムライの木刀をバッド代わりにして爆弾を投げ飛ばしたってわけ?んな無茶な!」
 開いた口が塞がらない。天才のやることは滅茶苦茶だ。腰を抜かして地面にへたりこんだ僕が抗議の声をあげれば、木刀を下ろした鍵屋崎が、眼鏡のブリッジに指をあてつつ振り返る。
 「僕はこの場で最も効率よい方法を選んだまでだ。爆発まで残り二十秒ではどこに捨てに行っても間に合わず、囚人で溢れたこの地下停留場内で爆発するのは避けられない事態。ならば、人がいないところに爆弾を遠ざければいいだけのこと。柔軟な頭脳が成せる逆転の発想だ。上空ならば人はいない、何もない虚空で爆発すれば被害は最小限で済む。まわりを見まわしてみろ、僕の言ったとおりになったろう」
 「これが最小限って?冗談言うなよ!」
 上空で爆発した爆弾の衝撃で、天井の一部が崩落し、瓦礫と粉塵が降り注ぐ。こぶし大の瓦礫の直撃を避け、出口までの道のりに頭を庇って倒れ伏す囚人たちを見渡し、理解不能と首を傾げる鍵屋崎。
 「死者はでてないじゃないか」
 何か問題があるのか、とでもいうような顔と口ぶりだった。
 「逆転場外ホームランだな」
 呑気に口笛を吹くレイジだが、片手は十字架を握りしめていた。爆弾抱えた鍵屋崎が心配で神様に祈りでも捧げてたんだろう。軽薄な口ぶりで鍵屋崎を労い、小首を傾げる。
 「けど、サムライから預かった木刀そんなふうに使っていいの。バレたら説教されないか?正座で」
 「……危急の措置だ。他に飛距離を稼げる長物が見つからなかったから木刀で代用するしかなかった。サムライの木刀は前に握ったことがあるから手に感覚が馴染んでいて、失敗が許されない局面で実力を最大限発揮できた」
 「話すりかえてね?」
 「サムライは自分の身を守れと木刀を貸した。僕は言うとおりにしただけだ」
 うわ開き直りやがった。
 木刀で爆弾をかっ飛ばす、なんて無茶をやらかした鍵屋崎に囚人どもは呆然としていた。ふとホセを振りかえれば音のない拍手で鍵屋崎をたたえていた。 
 「すごい直ちゃん、ドカベンみたいやわ」
 腹を抱えて笑い転げるヨンイルをひと睨みし、鍵屋崎が言い捨てる。
 「さあ、これで本当に決着がついた。幼稚なお遊戯はおしまいだ、僕は今日から『道化を倒した男』を名乗らせてもらうぞ」
 ゴングが鳴り響き、決勝戦第一試合が終了した。
 木刀ひっさげてリングを下りた鍵屋崎をレイジが笑顔で出迎え、私語を交わす。第二試合が始まるまでの間に進行役の看守が今の試合が無効か有効かを協議し、別の看守たちが金網の柵を立て直す。金網の柵が元通りになった頃、ゴングを鳴らして試合の開始と終了を告げる役の看守がリング中央に立ち、咳払いの後に宣言。 
 「えー、協議の結果今の試合は有効!」
 「ちょっと待て、そんなのありかよ!親殺しは場外に出てただろうが、選手はリング外にでちゃいけねえってルールはどうしたんだよ!?」
 「ひっこめ審判、試合はやりなおしだやりなおし!ヨンイルさんが敗けるなんてありえねえ!」
 ―「じゃかあいしい、黙っとれアホたれども!!」―
 結果が不満で喧々囂々野次をとばす西の応援団を一喝したのは他ならぬヨンイル。威圧的に腕を組みぐるりを見まわし、西のガキどもに懇々と言って聞かせる。
 「審判の取り決めは絶対や。俺は直ちゃんに敗けたんや、お前らも大人しゅう納得せえ」
 「でも」
 「自分から言い出したゲームで敗けたんや、これ以上言いがかりつけられへんやろ。みっともない」
 「ペア戦に参加した選手が独自のルールを採用するのは規則で禁止されてない。金網が倒れてリングと会場の境目がつかなくなったのは不測の事態だが、選手がリングの半径十メートル内に常にいたことを考慮して今の試合を有効と見なす」
 「話がわかるやないか審判」
 鍵屋崎よりむしろヨンイルのが嬉しそうだ。レイジの隣に戻った鍵屋崎は自分が勝利したというのに手中に木刀を抱え、複雑な顔で黙りこんでる。まあ、微妙な勝ち方をして素直に喜べないのは心情的にわかる。
 次は第二試合。
 ヨンイルに代わってリングに立つのは南の隠者ことホセ。素手で人を殴り殺せる人間凶器。
 「お疲れさまですヨンイルくん。お次は吾輩にお任せあれ、仇をとってさしあげます」
 「頼むわホセ。レイジは手加減いらんらしいから、おもいっきりやったって」
 黒縁眼鏡の奥で柔和に目を細めたホセが、ヨンイルに会釈をし、リングへと上る。すれちがいざまホセの肩をぽんと叩いたのはヨンイルなりの励ましなのだろう。
 「よっしゃ、次こそ俺の出番だな。キーストアはひっこんでろよ、ホセの腕の一二本へし折って快音響かせてや……」 
 
 ―「待て!!」―
 レイジの参戦を妨げたのは、地下停留場に響いた大声。

 全員がおなじ方角を振り返る。地下停留場の出口に仁王立ちした人影が、人ごみを突っ切るように一直線にリングへと歩いてくる。ぽかんと口を開けたレイジの隣では、木刀を手にした鍵屋崎が呆然と立ち竦んでいる。目にした光景が信じられないとでもいうような驚愕の表情。
 「僕は幻覚を見ているのか。馬鹿な、何故君がここに!?」
 地下停留場に乱入したのはサムライだった。
 ズボンの太股に鮮血を滲ませながらも、負傷した片足をひきずるように鍵屋崎の正面までやってきたサムライがきっぱりと断言する。
 「次の試合にでるのは、俺だ」
 そして、サムライとホセの対決が実現した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050817104009 | 編集

 サムライの薄情者め。
 「トロイよお前、ちゃっちゃっと歩けよ使えねーなあもう!」
 「無茶言わないでくださいっスロンさん、せっかく肩貸してやってるのに人の好意足蹴にするようなこと言うと廊下にほっぽりだしますよ!?だいたい身長違うんだからびっこになるのはしかたないじゃないスか、ガマンしてくださいっス!ほら行きますよ二人で呼吸合わせていっせーのっせ」
 「やってられるか、俺はとっとと地下停留場行ってレイジを応援しなきゃなんねーのにこんなとこで時間食って、この分じゃ会場辿り着く頃にはペア戦終わっちまってるよ!ああくそサムライの薄情者め、あの人でなし足に怪我してるくせにとっとと先行っちまいやがって後追う身にもなれっての。マジでほふく前進で這ってったわけじゃねーだろな」
 「ロンさん余計なこと考えない、次の一歩に集中して。二人で呼吸を合わせて足を踏み出して、ひっひっふー。ひっひっふー」
 「ラマーズ法じゃねえかよ!!」
 付き合ってられるか。
 今、俺は医務室から地下停留場へと向かう廊下の途中で立ち往生してる。
 医務室を出てからまだ50メートルも来てないってのにぜえぜえ息切れして汗まみれの体たらくなのは、数週間におよぶ入院生活で体力落ちてるからだ。
 俺はまだ本調子じゃない、くどいかもしれないが本来なら絶対安静を言いつけられて医務室のベッドでしてなきゃいけない体だ。凱との試合で負った怪我はまだ完全に癒えてなくて、一歩足を進めるだけでも立ち眩みに襲われて、その場に倒れこみそうになる。
 肋骨骨折他に全身十三箇所の打撲という重傷。目立つ怪我は癒えて包帯もとれてはきたが、まだ体のあちこちに黒ずんだ痣が残っていて、ただ交互に足をくり出すだけの動作に全身の間接が軋む苦痛が伴う。二足歩行も困難な俺がどうにか歩けるのはビバリーのおかげだが、身長が違うせいか呼吸がばらばらなせいか、二人三脚がうまくいかずちっとも先に進まない。
 不恰好な二人三脚でえっちらおっちら歩いてるが、廊下を半分進むのに無駄に時間がかかり、比例して苛立ちが募る。俺がもたもたしてる間に試合が終わっちまったらどうしよう、レイジの出番がきちまったらどうしようと考えるといてもたってもいられない。自由に動かない体が憎らしい、言うこと聞かない足が恨めしい。体調が万全なら今すぐレイジのとこに飛んでって喝を入れてやるのに、今の俺にはそれさえできない。ビバリーに肩を借りなきゃ歩くこともできなくて、あんまり情けなくてやりきれなくなる。
 レイジ、頼むから無事でいてくれ。
 鍵屋崎、レイジのことちゃんと見ててくれ。
 二人に届かないことを承知で、気も狂いそうに懇願する。いや、声は届かなくて想い届くかもしれない。切実な一念は通じるかもしれない。俺の願いが通じるならどうか、どうかレイジを死なせないでくれ。
 俺のレイジを、殺さないでくれ。
 俺からレイジを奪わないでくれ。
 レイジがいなきゃ生きてけない、もしあいつが俺の隣からいなくなったと思うと、空気が急に薄くなったみたいに脈が乱れて息苦しくなる。俺にとってレイジは空気も同然、絶対なくちゃならないもの、生きてくのに欠かせないもの。普段は意識しなくても、離れてみてよくわかった。
 レイジがいない日常なんて考えられない、王様がいない東京プリズンなんて考えられない。
 願をかけるように強く強く牌を握りこむ。五指の間接が白く強張るほどに力をこめ、掌中の牌を握りしめ、胸から喉にかけてを重苦しく塞ぐ不安をごまかそうと固く目を閉じる。
 大丈夫だよな、レイジ。死んだりしねえよな、無事に帰って来るって約束したもんな。
 二度とおいてったりしねえよな?
 「……レイジさんのこと心配っスか、ロンさん」
 気遣わしげな声に顔を上げる。心配そうに顔を覗きこんでいたのは隣を歩くビバリー。ビバリーと体を密着させて歩いていた俺は、レイジの身を案じて物思いに沈んでいたことを見ぬかれ、気恥ずかしくなる。
 ビバリーは意外と勘がいい。身近な人間の表情の変化に敏感だ。
 ばつの悪さをごまかすため、ビバリーの方へずいと顔を突き出し、ぶっきらぼうに言う。
 「……そういう自分はどうなんだよ。リョウとは喧嘩してるんじゃなかったのか?絶好したってさっき言ってたよな。絶好済みの元ダチ、現赤の他人のために危険を顧みず地下停留場に行くなんて物好きだよな。お節介な性分てやつか」
 「ロンさんにだけは言われたくありません」
 ビバリーがむくれる。日頃からかわれてばかりの俺が他人をおちょくれる機会なんて滅多にない、ビバリーは可哀想だがたまには俺が美味しい目見たってバチはあたらない。
 悪ノリした俺は、ビバリーの至近距離に顔を近付け、品性下劣な薄笑いを浮かべてみせる。
 「リョウのやつ、こないだ俺んとこ来たぜ。ビバリーに追い出された~って泣きついてきた。ビバリーに無視されておしゃべりできなくて寂しいって、俺の枕元でしくしく泣いてやんの。安眠妨害だよこっちは」
 「ロンさんのところに?」
 「困ったもんだよ男娼にも。彼氏と喧嘩して房に帰れなくて、しかたなしに俺んとこに来たんだとさ。信じられるか?どうなってんだよあいつの思考回路、俺にしたこと覚えてねえのかよ。北と中央の渡り廊下、サーシャやレイジが見てる前で俺を後ろから抱きしめて好き放題にまさぐって……」
 「ま、まさぐったんスか!?」
 「おおよ!とどめに覚せい剤でぶすっとお注射ときた、たまったもんじゃねえ。お前もリョウの彼氏ならちゃんとしつけとけよ、表でも裏でも悪さばっかりしてるんだからさ」
 「僕はリョウさんの彼氏になったつもりもなるつもりもありませン、誤解を招く発言はよしてください!」
 「じゃあ何だよ、お前たちの関係って。男娼と客じゃねえだろな」
 ビバリーの肩に凭れ、目を据わらせて追及する。リョウにはさんざんひどい目にあわされたんだ。ビバリーには今後もリョウのお目付け役として期待をかけてるんだから、リョウに対する態度を白黒はっきりさせてもらわなきゃ困る。
 とばっちり食うのは俺なんだ、俺。
 「僕とリョウさんは……」
 俯き加減に黙りこみ、苦々しげに吐き捨てる。
 「ただの同房者っス」
 突き放すようにそっけない答えに肩透かしを食う。何か言おうと口を開き、ビバリーの異変を察する。俺の片腕を首の後ろに回し、肩に担いだビバリーの様子が変だ。俯き加減に交互に足をくりだすビバリー、その歩調がどんどん速くなりしまいにゃ俺を振り落としそうになる。尖った靴音を響かせ、憤然と大股に歩きながら、怒りで頬を上気させたビバリーが本音をぶちまける。
 「リョウさんは僕のことトモダチとも仲間とも思ってないって、こないだ自分でそう言ってました。自分は強いからひとりで生きてける、トモダチも仲間も必要ないって断言しました!ええそうですともリョウさんのおっしゃるとおりっス、人生経験豊富なリョウさんの言うことはおしなべて正しいっス、説得力ありまス!僕なんかリョウさんにとっちゃどこまでいっても赤の他人にすぎないんでしょうよ、マンホールから救出した時だって体を張ってロシアンルーレット阻止した時だって何で僕がマジギレしたのか全然わかってないんでしょうよ!」
 「ビバリー痛いいてえって、もっとゆっくり歩いてくれよ、転んじまうよ!怪我人に気ィ遣えっ」
 俺の抗議にも聞く耳貸さず、ビバリーがさらに加速する。俺は足早に歩くビバリーに振り落とされないようにするだけで精一杯で周囲を見る余裕がない。ビバリーは自分勝手なリョウに本気で腹を立ててるらしく、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 「リョウさんはマザーファッカーっス、リョウさんにとって大事な人間はママだけで他はどうでもいいんス!この僕だってどうでもいいんス、ビバリー・ヒルズは所詮賑やかしの脇役にすぎませんからリョウさんにトモダチ認識されてなかろうが仲間扱いされなかろうがショックは受けません!そうっスよ、あれは全部僕が勝手にやったことっス。リョウさんに頼まれたわけじゃない、ただ単にリョウさんのことが放っとけなくて考えるより先に体が動いちゃっただけっス!リョウさんに恩を売るつもりなんかない、ましてやトモダチとして見てくれなんて贅沢な願いだってわかってまス!でも」
 「ビバリー」
 俺の声に反応し、虚を衝かれたように顔を上げたビバリーの額にデコピンが炸裂。ぎりぎりまで撓めた指を放ち、ビバリーの額を弾いた俺は、会心の笑みを浮かべる。
 「リョウのやつ、見舞いになに持ってきたと思う?」
 「え?……ストロベリー味のコンドーム?」
 「惜しい、近い……て、ちょっと待て、ストロベリー味のコンドームなんて実在するのかよ。マジかよ、聞いたことねえぜ」
 「リョウさんが集めてますよ?その他にもパインやマンゴーやココナッツなどよりどりみどり」
 咳払いで話を戻す。片手で額を庇い、ぽかんとしたビバリーの間抜け面を指さし、言ってやる。
 「いちごだよいちご、とれたて新鮮のビニールハウス産のい・ち・ご。ずっとてのひらに持ってたせいでぬるくなってたけど、甘酸っぱくてすっげー美味かったぜ。苺なんて食うの何年ぶりだっけかな、外にいた頃以来だよ。惜しいことしたなビバリー、あれ本当はお前の分だったのに」
 「え?」
 「リョウがビニールハウスからとってきたいちごは、お前と仲直りする口実。半分こしてご機嫌とりしようとしたんだろうな、食い物で釣ろうだなんてリョウらしい発想だ」
 ビバリーの鼻を人さし指でつつく。
 鼻に人さし指をつきつけられたビバリーはきょとんとしてる。他人のことには敏感なのに自分のことにはとことん鈍感なんてこいつも苦労性だなと親愛の笑みを零す。俺の片腕を肩に担いだビバリーへと向き直り、ため息まじりに真相を教えてやる。
 「今いちわかってないみたいだから噛み砕いて説明してやる。リョウはお前と仲直りしたくてビニールハウスからわざわざいちご摘んできたんだよ、仲直りのしるしにお裾分けしようと思ってな。さてここで質問だ、東京プリズンでいちごっつったら普通の囚人には手が届かねえ高級品。看守のモンくわえこんで贔屓されてる囚人が、優先的にビニールハウスの水やりに就かされるのは知ってるよな?ビニールハウス配属の囚人ならおやつ代わりにいちご食べれるけど、他の囚人はひょっとしたら一生いちごなんか食えねーかもしれねえ」
 ビバリーの目を見て説教しながら、なんで俺がリョウを弁護してるんだと自分の行動を不可解に思う。リョウは俺の天敵だ、渡り廊下じゃレイジや鍵屋崎の前で服脱がされて体じゅうまさぐられてひどい目に遭った。とどめに覚せい剤を強制注射だ。量を間違えたらショック死するかもしれないってのに、リョウときたらにやにや笑いながら俺の腕に注射針を刺しやがった。意地悪くほくそ笑むリョウの顔を思い出して、悪夢にうなされたこともある。
 でも。
 俺はリョウが憎いが、ビバリーのことまで憎んじゃない。
 ビバリーは憎めないヤツだ。今もこうして文句を言わず、俺に肩を貸してくれてる。俺を地下停留場で待つレイジのもとまで連れてってくれようとしている。
 ビバリーはいいヤツだ。だから、誤解をといてやりたい。他に行く場所がないからとひとの枕元を襲撃したリョウに関しては好きにしろだが、ビバリーが悩んでるんならなんとかしてやりたい。
 「リョウがお前にいちごを食わそうとしたのは単純に喜んでほしかったからだ。
  リョウは自分じゃ絶対に認めねえだろうけど、お節介でお人よしで苦労性のビバリー・ヒルズを結構マジで気に入ってるんだよ」
 ビバリーと面と向き合い、唾をとばして発破をかける。俺に喝を入れられたビバリーは鼻先につきつけられた指を払いもせず目をしばたたいてたが、やがてその目が潤みだし、平静を装おうと努めて失敗した顔が滑稽に笑み崩れる。泣き笑いに似た、どっちつかずの微妙な表情。安堵に溶け崩れた顔に素直な感謝の念を浮かべたビバリーが、ぐすりと鼻水を啜り上げ、気丈な笑顔を見せる。
 だれもが好感をもたずにはいられない爽快な笑顔。
 『Thanks,』
 ―「どうりで淫売くせえと思ったらこんなとこで何してやがんだ、売春班上がりの半々がよお!」―
 ビバリーが礼を述べるのをさえぎり、破れ鐘のような濁声が無遠慮に鼓膜を叩く。 
 この頭の悪そうな大声は、間違いない。
 大気をびりびり震動させ、コンクリ壁に殷殷と共鳴して廊下に轟き渡った怒声の主は眼前にいた。俺たちの行く手に威圧的に立ちふさがっていたのは、忘れもしない……凱。
 俺を目の敵にしてさんざんいやがらせを仕掛けてきた囚人。
 分厚い筋肉で鎧われた胸を反らし、見上げるような巨体で行く手をふさぐ凱の出現に、俺とビバリーは呆然とする。凱ひとりじゃない、凱のまわりに侍る囚人は総勢十人。いずれも見覚えがある、食堂じゃあ凱の付近の席を占めてるボス猿の命令に忠実な子分どもだ。パッと見区別がつかねえ瓜二つの容姿の残虐兄弟をはじめ、凱の右腕を自認するニキビ面のヤンとかえげつない連中ばかり揃ってやがる。
 まずいことになった。
 脳裏で警鐘が鳴る。本能的な危機感を察してあとじさった俺とは対照的に、周囲に仲間を侍らせた凱が大股に一歩を踏み出す。凱と顔を合わせるのはこないだの直接対決以来だが、俺にやられた怪我はすでに完治してるようで歩行に支障はない。どんだけ回復力が強いんだよ、とあきれる。
 尊大に顎をしゃくり子分どもを散開させた凱が、不器用に肩を竦めてみせる。
 「久しぶりだなあロン、元気にしてたか。こちとらお前に刺された太股が疼いて疼いて夜も眠れなかった。窮鼠猫を噛むって日本の諺があるがレイジの飼い猫に太股噛まれるなんて、この俺様としたことが油断したぜ。見てみろよ」
 ドスの利いた声で凄み、ズボンの裾に手をかけ、太股まで一気にまくりあげる。
 外気に晒された凱の太股へと反射的に視線を吸い寄せられた俺は、赤黒い肉が露出した醜悪な患部を目の当たりにする。違う、凱は特別回復力が強いわけでも治癒が早いわけでもない。凱は虚勢を張ってるだけだ、自分を崇拝する子分どもの手前激痛を堪えて平気なふりをしてるだけだ。その証拠に俺が十字架で抉った傷はまだ癒えてなくて、ズボンの下から露出した太股には、肉が潰れて変形した赤黒い穴が穿たれていた。
 「覚えてるだろ?忘れたとは言わさねえ。これはお前がつけた傷だ」
 凱の顔が醜く歪む。おそらく笑ったんだろう。
 「ペア戦の晴れ舞台、囚人環視のリングで俺に恥をかかせてくれたこと、まさか忘れたわけじゃねえだろうな。あの時きゃあしてやられたぜ、生意気なクソガキ一匹片腕でひねりつぶしてやれると高を括ってたのが間違いだった。結果、俺はこいつら子分どもが見てる前でてめえなんぞに敗けて大恥かかされた。まったく、計画狂っちまったよ!本当なら今ごろ決勝戦の舞台に立ってるのは西の漫画オタクでも南の恐妻家でもねえ、東棟最大の中国系派閥のボス、三百人の可愛い子分どもに慕われる俺様だってのに!」
 「お生憎さまだな」
 両腕を広げ、天井を仰いで怒鳴り散らす凱を睨みつけ、皮肉たっぷりに笑う。
 「可愛い可愛い愛娘にレイジを下した自慢話ができなくて残念だな。俺ごときに負けちまうなんて口ほどにもねえな、取り柄は図体と態度のでかさだけかよ?いいか、オツムの足りない中国人に教えてやる。子分の多さがイコール実力だとか勘違いしてんならお笑いだぜ。三百人の大応援団がついてたくせに半々の俺ごときにも勝てないクズが偉そうに吹くんじゃねーよ。往生際が悪い親父だな」
 「ロンさん、シャラップ!!」
 ビバリーに脇をつつかれた時には遅かった。俺の減らず口は死ぬまで、いや、死んでも治りそうにない。
 娘の話題は禁忌だ。凱のこめかみで血管が脈打ち、殺気走った眼光が俺たちを睥睨する。
 「自分が置かれた立場がよくわかってねえみてえだな」
 凱の言葉の真意を探るより早く、背後に回った囚人に乱暴に肩を突かれ、前のめりにたたらを踏む。
 「!ビバリー、」
 「ロンさん!」
 体勢を崩した俺の目にとびこんできたのは、凱の子分にがっちり羽交い絞めにされ、人質にとられたビバリー。ビバリーを取り返そうと一心不乱に駆け寄れば、瞬く間に人垣が築かれ人質の姿を覆い隠す。囚人の頭越しにむなしく手をのばし宙を掻き毟るビバリー、なんとかその手を掴もうと爪先立ちながら叫ぶ。
 「ビバリーは関係ねえだろ、はなせよ!」
 「おいおい、そっちじゃねえだろ。お前の相手は俺だ」
 背後に気配が接近。反射的に振り向けば、鼻面を圧迫する至近距離に凱が肉薄していた。すっと頭上に翳された肉厚の手が、無造作に頭を掴み、万力で緩慢に締め上げるように徐徐に握力をこめてゆく。
 俺の頭を鷲掴み、首を捻るように無理矢理自分の方へと向かせた凱が邪悪にほくそ笑む。
 「前回のリベンジといこうや、ロン。幸い廊下にゃ俺たち以外にだれもいねえ、皆地下停留場に決勝戦を見にいっちまったよ。好きなだけ泣き叫ぼうが骨をへし折られてのたうちまわろうが、頭蓋骨を叩き割られて脳漿ぶちまけようがだれも助けにきやしねえよ。本当は医務室に襲撃かける予定だったんだが、こうして廊下の途中でお前と出会えたのもなにかの縁だ。ちょうどいい、ここで決着つけようや」
 「……負け犬の遠吠えは耳が腐るぜ。決着ならとっくについてるだろうが、当の本人が忘れた頃にお礼参りなんてかっこ悪すぎだ。何週間前の話持ち出してんだよ、え?しかも懲りずにぞろぞろ集団引きつれてきやがって、一対一で再戦に臨もうってな殊勝な心がけはどこにやったんだよ中国人」
 背中を汗が伝う。冷や汗。くそ、こんなつまらないことで時間食ってる場合じゃねえのに!とうとう俺の悪運も尽きたのか?地下停留場までは先が長い、凱の相手をしてる暇はねえ。だがビバリーはどうする、人質にとられたビバリーを見捨てて俺ひとり逃げ出すわけにはいかない絶対に。
 「そうだ、ついでにいいこと教えてやる」
 いやらしい手つきで俺の頬を撫でつつ、耳元でねっとりと囁く凱。 
 熱い吐息が耳朶に絡み、生理的嫌悪に全身が総毛立つ。

 「タジマが独居房から逃亡したそうだ」

 「……は?」
 タジマが独居房から逃げた?どういうことだ、独居房には鍵がかかってるんじゃないのか。タジマが独居房から出される日はまだ当分先のはず、それなのに……逃げた?逃げたってどういうことだよおい。
 頭が混乱し、にわかに現実感が薄れてゆく。タジマ。東京プリズン最低最悪の変態看守が独居房から脱走した?今も野放しになっている?タジマは神出鬼没の変態だ、いつどこに現れるかわからない。
 ひょっとしたら俺の背後に……
 「う、そつくなよ。タジマが独居房から逃げたってそんな馬鹿なことあるかよ、あいつは医務室に殴りこんで俺を剥こうとして、決定的瞬間を安田にばっちり目撃されて、副所長もさすがにキレて独居房行きを命じて……出てくるのがいつだか詳しくは知らねえけど、タジマの処分が決定するまでだからまだ当分先のはず。そうだよ、なんであいつが独居房から逃げたんだよ、そんなことが可能なんだよ!?独居房は厳重に施錠されてて、錠を外さないかぎり扉に頭突き食らわそうが血を吐くまで叫ぼうが中からは絶対に!!」
 待てよ。
 中から無理、なら外からは?
 だれかが安田に無断で独居房の鍵を開けて、わざとタジマを逃がしたのだとしたら?
 でも、だれが何のためにそんなことを?
 タジマを逃がして得する人間なんて、すぐさま思いつかない。
 俺の疑問を汲んだ凱が、喉の奥でくぐもった笑い声をたてる。   
 「俺たち以外にも決勝戦を邪魔したい人間がいるってことだろうさ」
 背後で悲鳴があがる。不吉な予感。胸騒ぎに襲われて振り向けば、後ろ手に拘束された腕をぎりぎりまで絞め上げられたビバリーが、額に脂汗を滲ませ苦悶に喘いでいた。腕の肉を巻きこみ雑巾絞りされる激痛に耐えかね、充血した目に涙をためたビバリーが悲痛な絶叫をまきちらす。 
 「ああああああああああっ、い、ひぎっ、アウ……腕、腕がちぎれっ……ロ、ロザンナああ!」
 「うるせーよ黒子」
 「やめろっつってんだろ!!」
 怒りが爆発した。
 まったく力を緩めることなく、ビバリーの腕を捻り続ける囚人に殴りかかろうとしたら、襟首を掴まれ体を引き戻される。後ろに凱がいた。俺の襟首を摘み、猫の子のように片腕でぶらさげ、凱がうそぶく。
 「ダチを助けてえか?」
 凱の目が嗜虐的に細まり、狂気を帯びて爛々と輝きだす。
 「ここを通りてえか?」
 俺が頷くのを待たず、凱が口を開く。
 「なら、土下座しろ。俺たちみんなが見てる前で、床に額をこすりつけて、自分がどんだけクズで弱くてゴミみたいな存在か認めやがれ。レイジの飼い猫になりあがる前はドブで溺れてた捨て猫だったんだ、俺様の足元に這いつくばって床を舐めるくれえわけねえだろ」 
 視界がぶれ、床に落下した衝撃が体を襲う。
 無造作に腕を薙ぎ払い、猫にでもするみたいに俺を投げ飛ばし、凱は豪快に哄笑した。
 どうしてこう、東京プリズンの囚人はみなイカレてやがるんだ?

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050816104119 | 編集

 「残り時間、あと二十秒もないで」
 「それを先に言えこの低能!!」
 大事なことはもっと早く言え、物事の優先順位もつけられないのか。
 目の前の男に対する怒りが爆発し、感情もあらわに怒鳴り散らしていた。
 今、僕の手の中には爆弾がある。道化の異名をもつ西のトップ、過去二千人を殺した凶悪な爆弾魔ヨンイルから奪い取った手製の爆弾だ。複雑に銅線が絡まった無骨な形状の爆弾はそれ自体殆ど重さがないが、ヨンイルの言を信用するならあと二十秒以内に爆発して周囲に被害を及ぼす危険物。
 ヨンイルの爆弾の威力は売春班のボヤ騒ぎで実証済み、もしこの爆弾がヨンイルが全身全霊を注いで完成させた自信作なら十分殺傷に足る代物のはず。
 落ちつけ鍵屋崎直、冷静になれ。手の中の爆弾をどう処理すべきか考えろ考えるんだ。
 今ここで爆弾が爆発したら僕はもとより至近距離のヨンイル、金網越しで事の成り行きを見守っているレイジにまで無事では済まなくなる。いかにレイジが幸運だといえ……いや、訂正しよう。いかに悪運が強いからとは言え目先で爆弾が爆発して五体満足でいられるわけがない、腕の一本や二本ちぎれとぶに決まっている。
 今ここで爆弾が爆発したら最後、被害が拡散して多くの死傷者をだす最悪の事態は防げない。惨事を回避するためにどんな手段をとるべきか深刻に考えあぐねた僕は、手中の爆弾を持て余しつつ、忙しくあたりを見まわす。

 とりあえず、爆弾を遠ざけなければ。
 少しでも危害の及ばないところへ、被害の少ないところへ、人がいないところへ捨てなければ。

 ヨンイルの説教は後回しだ、残り二十秒では避難する時間もない。リングの中央で爆弾が爆発したら周囲の囚人が巻きこまれるのは目に見えている、ならばできるだけ爆弾を遠くに捨てて被害を最小限に留めればいい。
 そう懸命な判断を下した僕の脳裏に、素晴らしい打開策が閃く。
 気忙しげにあたりを見まわした僕の目にとびこんできたのは木刀。さっきヨンイルに蹴り飛ばされ、手の届かぬ遠方へと落下したサムライからの預かり物。
 腕力に自信がない僕では、素手で爆弾を投げたところで遠くへとばせない。5メートルもいかずに虚しく落下する推測が成り立つ。
 なら、他に力を加えるまでだ。
 ごく初歩的な物理法則、静止した物体に運動する物体をぶつければ衝突による加速で飛距離が延びる。小学生でもわかる単純な原理、それを忠実に実践するまでだ。
 サムライ、力を貸してくれ。
 どうか間に合ってくれ。
 床を蹴り、全速力で走る。木刀に駆け寄りざま拾い上げ、柄を掴む。ここまでが十秒、残りあと十秒。僕の手の中で爆発が起こるまであと十秒もない、つまりは僕の命の期限もあと十秒ということだ。
 くそ、こんなところで死んでたまるか。
 恵にも会えずサムライにも会えずこんなところで犬死にしてたまるか!
 「僕を舐めるなよ」
 得意顔で腕を組んだヨンイルを視界の端にとらえ、毒づく。余裕たっぷりな物腰が憎らしい。爆発が起きたら至近距離の自分も巻き込まれるというのに、ヨンイルは少しも表情を変えず、自信に満ちた笑顔を崩さない。
 僕と心中するのがそんなに嬉しいのか?
 いや、僕だけではない。爆発が起こればリング周辺の囚人全員が犠牲になる、細切れの肉片と化して吹き飛んでしまう。まさかヨンイルは集団自殺を計画して、この悪趣味なゲームを持ちかけたのではあるまいなと勘繰るが、はげしくかぶりを振って否定する。
 自殺にしては手がこみすぎだ。
 第一、ヨンイルの自殺の動機など想像もできない。
 脳裏でめまぐるしく交錯するさまざまな考えにも動きを鈍らせることなく、腕を振り、頭上に高々と爆弾を投げ上げる。宙高く放り上げた爆弾が照明の逆光になり、黒く塗り潰される。
 皆既日食のようだ、と馬鹿なことを思う。
 集中力が極限まで高まり、地下停留場を脱出する囚人の悲鳴や罵声が飛び交う周囲の状況から切り離された僕は、宙に投げ上げた爆弾が眼前に落ちてくるまでの間に木刀を構える。
 僕ならやれる、できるはずだ。
 刹那の判断の遅れが命取りとなる状況で躊躇はできない。強い衝撃を与えればタイムリミットを待たずに爆発が起こるかもしれないと危惧したが、どうせこのまま放っといても爆発は起こるのだからと決断して賭けにでる。僕が木刀を振るのが早いか爆発するのが早いかそれだけの違いだ。
 深呼吸し、腰を捻り、両腕に持った木刀をおもいきり振りかぶる。
 完璧にタイミングを計り、風切る唸りをあげて振りかぶられた木刀が中空の爆弾に衝突。たしかな手応えを感じると同時に、胸が透くような快音が鳴り響く。木刀に命中した爆弾は長大な放物線を描いて遥か彼方へと投げ飛ばされ、そして。  
 轟音、衝撃。
 「「ぎゃああっ!?」」
 「体感マグニチュード8.7だあ!」
 凄まじい震動が地下停留場全体を揺るがし、大気を攪拌する。激震した地下停留場に濛々と粉塵がたちこめ、天井の一部が崩落し、累々と倒れ伏せた囚人たちの頭上に大小の瓦礫が降り注ぐ。
 中空で爆発した爆弾の衝撃波が、重低音を伴う震動となり、足元のコンクリ床を伝わってくる。
 「……やった」
 まさかここまで上手くいくとは思わなかった。
 呆然と呟いた僕の耳に、レイジの声が響く。
 「逆転場外ホームランだな」
 興奮の面持ちで金網を掴んだレイジが、快哉を叫ぶ。木刀を下げたままヨンイルを振り向けば、拍手の真似をして僕を労う。
 「すごい直ちゃん、ドカベンみたいやわ」
 ヨンイルに誉められても全然嬉しくない。かえって馬鹿にされた心境だ。
 腹立ちまぎれにヨンイルを睨み、精一杯皮肉をこめて吐き捨てる。
 「さあ、これで本当に決着がついた。幼稚なお遊戯はおしまいだ、僕は今日から『道化を倒した男』を名乗らせてもらうぞ」
 試合終了のゴングが鳴り響く。僕の勝利だ。
 ヨンイルに背中を向け、憤然とリングを下り、レイジのもとへ赴く。こんな勝ち方は本意ではない、喜べるわけがない。ヨンイルが本気をだしてないのは一目瞭然だ。
 つまり僕はヨンイルにとって全力を尽くす価値もない相手ということだ。
 馬鹿にするにも程がある。ヨンイルが今の試合で本気を出したとはとても思えない、最初から爆弾を用いるなり僕を痛め付けていればヨンイルの勝利は確定していたというのにあえてそれをせず僕を泳がせていたのは何故だ。
 手加減したのか?この僕に?
 「侮辱も甚だしい」
 そうだ、これは侮辱以外の何物でもない。その証拠にヨンイルは試合中も余裕の表れの笑顔を絶やさなかった。
 「くそっ!!」
 口汚く悪態を吐き、衝動的にコンクリ床を蹴りつける。瞬間、靴裏でパリンと音がした。なんだ?不審がりながら足をどければ、地面に硝子片が散っていた。どうやら、何かを踏みつけて割ってしまったらしい。
 中腰の姿勢で地面を検分し、たった今自分が踏み割ったものが、望遠鏡のレンズによく似た形状の円筒形の物体だと確認する。なんだこれは?周囲の状況を鑑みるに、地面に倒れた金網に括りつけられていたようだが……
 「荒れてるなキーストア。勝ったんだからいいじゃん、素直に喜べよ可愛げねえ」
 背後に忍び寄る影。いつのまにか後ろに回ったレイジが、あきれたように笑っている。
 「勝った?今のは聞き間違いか」
 ズボンの尻ポケットに手を突っ込み、リラックスした姿勢で僕の前に佇んだレイジに反感を抱き、足音荒く距離を詰める。サムライの木刀がコンクリ床と擦れないよう慎重に切っ先をもたげつつ、交互に足をくりだし、レイジの眼前で立ち止まる。
 胸は恥辱で沸騰していた。今の僕はきっと、この上なくやりきれない顔をしてることだろう。レイジの言う通り素直に勝利を喜べるわけがない、こんな不本意な勝ち方をして喜べるほど僕はおめでたくない。  
 ヨンイルは僕を生殺しにして、プライドに泥を塗った。
 「僕は勝ってなどいない。勝たせてもらったんだ」
 西の応援団と談笑するヨンイルを睨みつけ、前言を訂正する。
 「試合に勝って勝負に負けたってか。そんなちっちぇえことでくよくよ悩んでんの?むずかしい年頃だねえ」
 「ヨンイルは僕に手加減した。本気をだせば僕などヨンイルの敵ではなかった、試合は道化の圧勝だった。ヨンイルの実力は北との抗争で見知っている、ヨンイルが本気で戦えば僕など一瞬で倒されていた。違うか?論理に矛盾があるか?ないだろうこれっぽっちも、そうだ矛盾などあるはずがない、僕の観察眼を甘く見るなよ低能どもが。
 ヨンイルはいつでも僕を殺すことができた、殺さないでも意識を失わせることができた。何度も何度もそのチャンスはあったのにみすみす逃してきたのは、わざと僕を逃してきたのは何故だ!?」
 レイジに掴みかかりたいのを自制し、至近距離に詰めより、声を荒げる。
 胸が苦しかった。自己嫌悪に肺を押し潰されて息も満足にできない。僕はヨンイルに哀れまれたのか、同情されたのか、それ故手加減されたのか?僕は常にサムライやレイジと対等な立場にありたいと願って、自分の無力を克服しようと必死に足掻いてきたのに、肝心の試合でヨンイルに手加減されたら台無しじゃないか。
 ヨンイルはわざと手を抜いたのか、わざと負けたのか?
 僕は、道化ごときに同情されなければならない人間なのか?
 そんな人間はサムライの隣に立てない、彼の相棒にふさわしくない。
 レイジやロンの仲間ではいられない、誰もが認める形で試合に勝利した彼らの友人を名乗れない。
 僕はヨンイルに負けたのだ。これ以上なく、どうしようもなく、敗北を喫したのだ。
 惨敗だった。
 「こんな勝ち方ちっとも嬉しくない、誇れはしない!これは僕の戦いだ、僕のプライドを証明する大事な戦いだったのにヨンイルが手加減したせいで台無しじゃないか!
 僕は傷付いたってかまわなかった、サムライや君やロンが傷付いた分、いやそれ以上の怪我を被っても全然かまわなかったんだ!もともとこれは僕の戦いだ、君とサムライがペアを組んで100人抜きを宣言したのは売春班をなくすため、僕とロンを取り戻したいがためだろう?僕だってもう売春班には戻りたくない、毎日毎日無理矢理男に犯されて気が狂いそうな日々に戻るのはごめんだ想像もしたくない!
 だけどだからこそ、いちばん傷付くのも戦うのも僕自身でなければいけなかったのに!!」
 みっともない、僕は何故レイジに子供じみた本音をぶつけている?レイジ相手に怒りをぶちまけている? 
 わかっている、頭ではわかっている。ヨンイルが全力で試合に挑めば僕には勝ち目がなかった、僕が勝利する望みなど少しもなかった。そして僕はヨンイルに殺されていた。僕が敗北すれば必然的に100人抜き達成不可能となりロンは売春班に逆戻り、レイジもまた売春班で客をとらされてサムライに至っては両手の腱を切られて死体処理の汚れ仕事に就かされる。
 僕以外の誰にも、僕の参戦は歓迎されなかった。
 僕はだれにも望まれない人間、だれの役にも立たない人間。だれかのために尽くせば尽くすほどに自分の愚かさとみじめさを露呈して自己嫌悪の深みに嵌まるしかない無能な人間だ。
 恵に必要とされたように、僕も、僕だってサムライに必要とされたかった。
 仲間に必要とされたかった。自分の存在意義を確かめて、自分の存在価値を示したかった。
 結局は、すべて徒労に終わってしまったが。
 最終的には恵に必要とされなくなったように、誰からも必要とされなくなって。
 「なにが天才だ、なにがIQ180だ。笑えレイジ、いつもみたいに騒がしい笑い声をあげて僕を馬鹿にしろ。僕はこんな醜態を晒したくてリングに上ったわけじゃない、こんな結果を望んでヨンイルの前に立ったわけじゃない!!僕は、」
 額に衝撃が炸裂。
 反射的に片手で額を庇い、当惑に目を見開く。僕の眼前で指を折り曲げ、してやったりとほくそ笑むレイジ。人さし指の先端で額を弾かれたのだと一呼吸遅れて気付いた僕は、鼻梁にずり落ちた眼鏡の位置を直すのも忘れ、子供っぽい悪戯をしたレイジに食ってかかる。
 「ひとが真剣に話してるときに幼稚な真似を、」
 「謙虚になれよ」
 は?
 目をしばたたき、じっとレイジを見つめる。毒気をぬかれたように自失した僕と向き合い、レイジは微笑を薄める。
 長く優雅な睫毛に飾られた双眸で輝くのは、冷徹に澄みきった硝子の透明度の瞳。
 「死ななかっただけ儲けもんだ。だろ?お前が納得いかねえのもわかるよ、悔しい気持ちも十分わかる。けどな、リングを一旦下りちまえば何を言おうが負け犬の遠吠えだ。この際だからはっきり言わせてもらうぜキーストア」
 喉を仰け反らせ、ゆっくり息を吸い、改めて僕を見る。
 「お前のプライド、くだらなさすぎだ」
 言葉を失った。あまりに唐突な言い草に、怒りもこみあげてこなかった。レイジは僕のプライドがくだらないと吐き捨てた。今まで僕を支えつづけてきたこのプライドが、僕が鍵屋崎直たる所以のプライドがくだらないものだと嘲笑したのだ。
 口元の笑みとは裏腹にレイジの目は据わっていた。
 油断すれば即座に喉笛を噛み千切る、相対した者に警戒を強いる物騒な笑顔。

 「せっかく生き残れたんだから喜べよ、笑えよ。
 感謝します神様僕を生き残らせてくれてありがとうって祈りのひとつでも捧げてみろよ。ヨンイルに殺されなくてよかったじゃねえか、俺もサムライもロンも大喜びだ。ダチを失わずに済んで大喜びだ。お前以外のだれもがお前の生還を祝して浮き足立ってるってのになに当の本人がシケたツラしてんだよ?
 お前が俺を振りきってずんずんリングに上がっちまった時はひやひやしたぜ、生きた心地がしなかった。もう二度とこっち側に帰ってこないんじゃねえかって焦りまくった。
 思い出せよキーストア、お前がペア戦に参加した本来の目的をさ。
 それはくだらないプライドを守るため、プライド守り通して格好良く死ぬためか?
 全力を賭してヨンイルと殺りあって満場のギャラリーが見守る中名誉の戦死を遂げるためか、真っ白に燃え尽きるためか?違うだろ、そうじゃねえだろ。お前はどんな手を使っても売春班から抜け出したくて、俺とサムライにゃ任せとけなくて自分からしゃしゃりでてきたんだろうが。弱肉強食の東京プリズンでしぶとくで生き残るために、したたかに生き延びるためにペア戦参加を決めたんだろ?
 なら結構じゃんか!お前自身が認めようが認めなかろうが、お前は道化に勝利したんだ。たとえその勝利に不満が残ろうが納得いかなかろうが知ったこっちゃねえよ、大事なのはお前が今こうして生き延びて俺と馬鹿話してる事実と現実だけだ」
 
 ぐいと僕に顔を近付けたレイジが、挑発的な光を宿した双眸で凄む。
 「それ以外は要らない。だろ?」
 「………僕にプライドは不要だというのか」
 「よくできました、お利口さん」
 肩の位置に両手を掲げ、レイジがしれっと言う。何か言い返そうとして、何も言葉でてこないことに愕然とする。僕はレイジの詭弁に圧倒されていた、矛盾だらけのレイジの持論に不覚にも納得させられてしまった。
 たしかに僕は、忘れていたと認めざるをえない。
 東京プリズンでなにより優先すべきはまず生き残ること、話はすべてそれからだ。
 プライドは二の次だ。
 たとえ不本意な勝利でも、納得のいかない試合結果でも、僕はヨンイルに殺されずに済んだことを感謝せねばならないのかもしれない。祈る神をもたない無神論者の僕が感謝すべき対象は、自らが持って生まれた幸運に他ならない。
 冷静さを取り戻した僕は心もち目を伏せ、自嘲の笑みを吐く。
 「……君の言い分も一理ある。東京プリズンではまずは生き残るのが先決だ。ヨンイルは僕を殺そうと思えばいつでも殺せたのにそれをせず、気まぐれに生かし続けた」
 西の囚人たちと和気藹々と談笑するヨンイルを眺め、呟く。
 「認めたくはないが、僕は道化の気まぐれで命拾いしたんだ」
 「パーフェクト。おまけに忠告、謙虚に現実と向き合わなきゃ大事なものを見落としちまうぜ」
 大事なもの。
 レイジの何気ない一言で反射的に脳裏に思い浮かべたのは懐かしい友人の顔。懐かしい?馬鹿な、彼と別れてからまだ数時間しか経ってないというのにもう恋しくなったのか? 
 動揺する僕のもとに不穏げなどよめきが届く。爆弾騒ぎが一件落着し、出口に殺到した観客が引き返し始めた地下停留場に縫って伝わってきたどよめきに不吉な胸騒ぎをおぼえる。
 ―「待て!!」―
 どこかで聞いた声が響く。
 ここにいない人物がここにいるかのような奇妙な錯覚。既視感。
 まさか。
 慎重に振り向いた僕の目に映ったのは、まさしくここにいないはずの友人の姿。地下停留場に通じる出口のひとつから、息を切らしてよろばいでてきた男は……サムライ。医務室のベッドで伏せってるはずの重傷患者で僕の友人。
 「僕は幻覚を見ているのか。馬鹿な、何故君がここに!?」
 何故ここにサムライがいる、太股を怪我して歩けないはずのサムライが!?おもわずサムライの太股に目をやればズボンに隠された患部に痛々しく血が滲んでいた。傷口が開いて出血している、無理をした証拠だ。まったくなんて男だ、あれほど心配するなと言ったのに、僕の帰りを大人しく寝て待っていろと言い聞かせたのに!
 我を忘れて駆け寄ろうとした僕を遮るように、脂汗にまみれた顔を毅然と上げ、眼光鋭くぐるりを睥睨し、サムライが宣言する。
 「次の試合にでるのは、俺だ」
 「な、に……?」
 自分が目にした光景が、耳にした台詞がにわかには信じられない。何故だ?何故こんなことになったんだ、サムライは僕を信用して、物分りよく大人ぶって送り出したはずじゃなかったのか?あれはすべて演技だったのか、僕を安心させて騙すための芝居だったのか?
 本当は自分こそが怪我を押して決勝戦にでるつもりで機を窺っていたのか?
 サムライは僕を信用してなかったというのか?
 「サムライ、君の視床下部には直径3センチほどの腫瘍がある疑いがある。即刻摘出手術をしろ、手遅れになる前に。いや、その分ではもう手遅れかもしれないが」
 「……まわりくどい言い方やめろ。言いたいことがあるならはっきりと」
 「頭がおかしいぞ君は、気でも違ったのか!!?」
 サムライの行く手に両腕を広げて立ち塞がり、怒鳴る。どうしてだ、どうして僕を騙した、僕を裏切った?何故そんな無茶をする、二度と歩けなくなるかもしれないのに。サムライは太股に重傷を負っている、医務室まで地下停留場まで歩いてきたせいで今また傷口が開いて出血が再開した、こんな最悪の体調で試合に臨むなんて自殺行為だ。
 しかも相手はホセだ。サムライに勝ち目はない。
 だから僕は叫ぶ、血を吐くように必死に。サムライを行かせてなるものかと。
 「サムライ、視線を落とせ。太股を見ろ。ズボンに血が滲んでいる、傷口が開いて出血が再開している、早く手当てしなければ危険だ。貧血を起こすぞ。今の君は体調が万全ではない、無理をすれば命に関わる。冗談で言ってるんじゃない、脅しでもない、ちらりと覗き見た医者のカルテに記載された所見をありのままに述べているだけだ。傷口から黴菌に感染して破傷風になったらどうする、医療設備もろくにない東京プリズンの不衛生な環境では八割の確率で命を落とすぞ」
 「知れたことを」
 「知っているなら医務室に戻れ、今すぐに!怪我人を試合にださせるわけにはいかない、それなら僕が出たほうがまだ」
 「お前を守ると誓ったからだ」
 まただ、またいつもとおなじ繰り言だ。サムライはいつもおなじことを言う、僕を苗と重ねて見ている。サムライは苗を守り通せなかったことを心中深く悔いている、だから僕を守り通すことで苗への贖罪を果たそうとしている。

 結局どこまでいっても僕は苗の身代わりにすぎなくて、
 サムライと対等な友人にはなれなくて。

 ―「何故、僕には守らせてくれない!?」―

 静まり返った地下停留場に、鈍い音が響く。 
 手中の木刀をおもいきり床に投げつけ、はげしく肩を上下させ、俯く。自分の足元めがけて投げ付けられた木刀を見下ろすサムライの目は哀しげだが、かといって引き返したりはしない。
 中腰に屈み、木刀を拾い上げ、困ったように眉を下げてこちらを見る。唇が動き、僕の名前を呼ぼうとして、やめる。
 僕だってサムライを守りたかった。生まれて初めてできた友人が傷付くところをこれ以上見たくない、それが僕の為だというならなおさら。
 首をうなだれた僕の背中に、場違いにのんびりした声が覆い被さる。
 「おとりこみ中恐縮ですが、吾輩のお相手は誰ですか」
 「俺だ」
 「おや?しかし君は足に怪我をしていますね。はたしてそのような状態で戦えるかどうか……」
 「関係ない。手の中に刀がありさえすれば俺は無敵だ」
 「それは自信過剰というものです」
 澄まし顔で黒縁眼鏡の弦に触れたホセが、袖の下に隠された自分の片腕を一瞥し、わざとらしくかぶりを振る。
 「実は当方も片腕を負傷しています。前回の試合でレイジくんにナイフで刺されたあとがまだ癒えておらず、じくじくと疼きます。吾輩ホセ、腐ってもボクサー。殴り合いで両腕が使えないのでは残念ながら実力の十分の一も発揮できません……が、君にも同じことが言える。君は片足を負傷している、一歩前に進むだけでも脂汗をかいて息を切らさねばならない様子からお察しするに本来動ける状態ではないのを気力で持ち応えているのでしょう」
 レイジ、僕、サムライの順に視線をおいたホセが金網越しに微笑む。
 「隠者」の二つ名の通り、真意の読めない不気味な笑顔。
 「ならばここは公平を期し、おたがい互角の条件で勝負に挑みませんか?吾輩も君もハンデなど気にせず、持てる力を最大限発揮できるに違いない名案があるのですが」
 「聞こうではないか」
 サムライが顎を引き、話を聞く体勢を整える。地下停留場に居合わせた観客の視線を独占したホセは、芝居がかった動作で片腕を掲げ、力一杯五指を握りこむ。
 上着の袖越しに上腕二頭筋が盛りあがり、筋肉の瘤ができる。
 そしてホセは、突拍子もない提案を口にした。
 「吾輩は片腕が使えない、君は片足が使えない。ならば話は簡単だ。自由に動く体の部位、無傷の片腕と片腕で決着をつければいい」
 黒縁眼鏡の分厚いレンズの奥に邪悪な思惑を宿し、ホセの双眸が細まる。
 「『Arm wrestling』でお相手いたしましょう」
 つまり腕相撲だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050815104234 | 編集

 「どけよ木偶の坊、目障りだ」
 俺には行かなきゃいけないところがある。
 まっしぐらに駆けていかなきゃならない場所がある。眩い照明を浴びたリング上、レイジが孤高を気取って臨む決戦の舞台、熱狂に沸く地下停留場。
 足止め食ってる暇はない、かかずりあってる暇はない。今の俺には一分一秒が惜しい。レイジに会いたくて、レイジの無事をこの目で確認したくて焦燥で気が狂っちまいそうだ。図体のでかさを利して行く手に立ち塞がる凱を射殺さんばかりに睨みつけるも、凱はてんでとりあわず嘲笑う。
 「土下座が先だ」
 頑として主張を譲らず、土下座を強要する凱。
 タジマを彷彿とさせるおそろしく卑猥な笑顔に二の腕が鳥肌立つ。
 上着の二の腕を抱いてあとじさりたくなるのをこらえ、その場に踏みとどまり、決死の覚悟で特攻を仕掛ける。
 床を蹴り加速、凱にめがけて疾駆。
 小柄な俺じゃ図体のでかい凱を激突の勢いではねとばすこともできないが、もうこれ以上自分の無力に甘んじて焦燥に焼かれるのはごめんだと、きっと前を向く。
 レイジと鍵屋崎を見殺しにしてサムライを先に行かせて、俺だけベッドでじっとしてなきゃなんねえなんてもう懲り懲りだ。俺がベッドでお行儀良くしてるあいだにレイジは死線をくぐらなきゃならない、ひょっとしたら死ぬかもしれない、俺が知らないところでぽっくりあの世に逝っちまうかもしれない。
 牌を片手に握りしめたまま。
 「ああああああぁああああああぁっ、どけよ凱、守りたいヤツがいねえ人間はひっこんでろよ!てめえにゃ三百人の子分がいるけど俺にはレイジしかいねえんだ、俺の相棒は世界中さがしたってレイジただひとりなんだよ!だけどな凱、耳の穴かっぽじってよく聞けよ!レイジはてめえがぞろぞろ引き連れてる三百人の子分どもよかずっと頼り甲斐がある、てめえの子分どもが三百人よってたかってかかったところで勝てやしねえ最強無敵の王様なんだ!」
 片腕を大きく振りかぶり、喉もはりさけんばかりに絶叫する。
 「俺の自慢のレイジなんだよ!!」
 レイジを所有格で語っていいのは俺だけだ。レイジは俺のもんだ。
 大きく片腕を振り上げ、今の俺がだせる全力で凱の鳩尾に叩きこもうとして、失神しそうな激痛に襲われる。腕が痛い、胸が痛い、体中が痛い。体中の関節という間接が、骨という骨が軋みをあげている。
 「ロンさんっ!」
 視界の端、羽交い絞めで拘束されたビバリーが半狂乱に身を捩り、必死な形相で叫ぶ。 人質にとられたビバリーの前で情けない姿を晒すわけにはいかない、醜態を見せるわけにはいかない。俺にも意地がある、いや、今の俺を支え続けるのは気力に拠って立つ意地だけだと言っていい。
 顎が沈むほどに奥歯を食い縛り、胸を苛む激痛をこらえ、余力を振り絞るようにこぶしで空を切る。
 なんとしても凱の鳩尾に渾身の一発を叩きこんでやる。
 風切る唸りをあげたこぶしが虚空を突き進み、無防備な鳩尾へと吸いこまれ……
 「どうしたよ。長い入院生活の尿瓶の世話になってるうちに、下半身ともども腕が鈍っちまったのか」 
 凱の目が嘲弄の色を宿した一刹那。
 「!!!!あがっ、ぐ」  
 鳩尾を狙って叩きこんだはずのこぶしは凱の片手で止められていた。
 片腕だってのに凄まじい怪力だ。手首が捻り潰されちまいそうだ。
 万力めいた握力で手首を締め上げられ、口から苦悶のうめきが漏れる。
 五指で血管を圧迫され、血流を塞き止められた手首がみるみる青黒く変色してゆく。
 視界がはげしくブレた。
 凱に薙ぎ飛ばされ、手形の痣ができた腕を庇って蹲る。
 畜生、これじゃさっきと同じじゃねえか。なんで体が満足に動かないんだ、と悔しさに歯噛みする。俺の体なら主の言うこと聞いてちゃんと動け、命令に従えよ。一度凱に勝てたら今度もまた勝てるはず、通路に立ち塞がる凱を力づくでどけてレイジのもとへ駆け付けることもできたはずなのに、最後まで希望を捨てずに捨て身の勝負を挑んだ結果がこれだ。このザマだ。情けなくて涙がでてくる。
 全身の間接が軋んで悲鳴をあげている。折れた肋骨が痛い、打撲傷を負った手足が痛い。俺の体で痛くない場所なんかどこもない。
 「さあ、土下座しろよ。凱さま素敵に無敵だ万歳って俺さまをたたえやがれ、半々の淫売が」
 顎の下に靴を挟まれ、強引に顔を上げられる。耳に水でも詰まったみたいに声が聞こえにくいのは意識が朦朧としてるせいだろうか。凱の周囲に居並んだガキどもが、口々に野次をとばして囃し立てる。
 「床に手足ついてケツ持ち上げていい格好だな、半々。なんだよそりゃ、俺のモンが欲しいってねだってんのかよ?だったらもっと可愛くお願いしてみな、俺のペニスしゃぶりながら」
 「コイツのペニスは苦いぜ、口に入れた途端吐いちまうよ。こいつの腐れペニスにゃ唾吐きかけて、売春犯仕込みのテクで俺のモンしゃぶってくれよ。飴玉みたいに甘い俺のペニスならきっとお前の舌に合うはずだ」
 ふざけてズボンをひっさげ、汚れたトランクスを覗かせる囚人の近隣で、悪意に満ち満ちた哄笑の渦が巻き起こる。
 大袈裟に腹を抱えて笑い転げる囚人どものうち、何人かは笑いすぎて涙を流していた。
 際限なく膨らむ哄笑の中、ただひとり俯いていたのはビバリーだ。
 「どうせレイジとできてんだろうが」
 ビバリーに目を奪われてたら、いきなり背中を蹴られる。背後に接近した人物が、汚い靴裏で俺の背中を蹴倒し、囚人服の背中に泥まみれの靴跡を刷ってくれた。
 残虐兄弟の……どっちだ、わからない。薄れかけた意識じゃどちらとも判別つかない。
 額に脂汗を滲ませ、冬眠に入る動物のように身を縮こめ、無意識に体を庇う。
 そんな俺を嗜虐的に舌なめずりしながら見下し、残虐兄弟の兄だか弟だかわからない片割れが吐き捨てる。
 「東棟じゅうの、いや、東京プリズンじゅうの噂だぜ。医務室でふたり抱き合って寝たんだろうが。当然ヤられちまったんだよな、手の早いレイジと一晩おなじ布団の中で過ごして処女だなんてしまらねえオチありえねえ。畜生が、レイジに先越されたぜ!」
 「むかつくね、あんちゃん」
 俺の背後に忍び寄ったもうひとりが、そっくりおなじ顔をした囚人と並び、頷く。
 「巷じゃ最低最悪のレイプ犯兄弟、女を犯して殺して背中に刺青刻む二人一組強姦魔と恐れられた俺たち、狙った獲物は逃がさねえのが信条だったのに……ひとの獲物横取りしやがって、くそレイジが」
 今度は頭を踏みつけられる。靴裏で頭を押され、床に顔を埋め、息苦しさにもがく。
 苦しい、痛い、もうやめて終わりにしてくれはやくはやく解放してくれ俺が意識を保ってられるうちにレイジのもとへ行かせてくれ!
 指の関節を折り曲げ、床に爪を立て、頭を押さえ付ける重しと全身の激痛に声もない俺の耳元で、凱が囁く。
 「いいこと考えたぜ」
 足首の捻挫個所を覆った包帯が弛み、凱が引っ張れば抵抗なくほどける。
 「な、にするきだ」
 足首に触れる外気が冷たい。骨にまで染みこむようだ。
 漠然とそんなことを考えながら、苦労して顎を起こし、かすんだ目で凱を見上げる。 
 唐突に目に暗闇が覆い被さった。  
 「!!?っあ、」
 すぐにわかった、包帯で目隠しされたのだと。手足を振りまわし暴れても無駄だ、満身創痍の怪我人のよわよわしい抵抗など残虐兄弟ふたりがかりでたやすく押さえこまれてしまう。肩を押さえつけられ、背中を踏まれ、頭の後ろで包帯をきつく結ばれる。目隠しをずりおろそうと手を前に持ってこうとしても、周囲の囚人に拘束されて自由が利かない。
 視界が真っ暗になる。
 何も、何も見えない。正面にいるはずの凱も周囲の囚人もビバリーも、通路にたむろった連中全員の姿が見えない暗闇にただひとり。
 視覚を閉ざされたせいで他の感覚が過敏になり、異常に研ぎ澄まされ、匂いや音や触感などさまざまな刺激が一挙に殺到し、あわや精神が崩壊しかける。 
 周囲で蠢く大勢の人間の気配、衣擦れの音、意地の悪い忍び笑い。
 「くそっ、ほどけよ、外せよ!俺に目隠ししてなにするつもりだ、なにさせるつもりだよ!?」
 売春班にいた頃、空腹の俺を餌で釣って、鉄扉をぶち破ったタジマを思い出す。
 興奮に鼻息荒く俺の上にのしかかり、汚いハンカチを顔に回し、そして……
 あの時の恐怖がまざまざと甦り、冷水を浴びせ掛けられたような戦慄に襲われる。
 「せっかくだから、その格好で土下座しろよ」
 凱の非情な命令に喉がひきつる。それが凱の望みなのか、土下座さえすりゃ解放してくれるのか、許してくれるのか、レイジのとこに行かせてくれるのか?
 一縷の希望に縋るように顔を上げた俺は、凱がいるはずの暗闇へと目を凝らし、乾いた唇を開く。
 背に腹はかえられない。
 くだらないプライドなんか捨てちまえ。
 大丈夫、恥をかくのは慣れてる、笑い者にされるのだって。これから何が起きてもきっと耐えぬける、耐えぬいてみせる。だって俺はレイジのとこに行かなきゃなんないんだから、あいつのそばについててやんなきゃいけないんだから。
 「…………っ、」
 恥辱に頬を熱くし、唇を噛み、頭を垂れる。
 目の前は暗闇、一寸先も見えない真っ暗闇だ。
 今ならできる、視力を奪われた今なら。
 ためらいを振りきり、床においた手を広げ、深々と頭を下げる。
 「もっともっともっとだ」
 熱に浮かされたように凱が呟けば、周囲の囚人が呼応し、「凱さんは不満だそうだ、ちゃんと頭下げろよ」「誠意の見せ方がなってねえな」「額が削れるまで床に擦りつけろよ」と口々に言い、俺を小突き回す。
 両腕を突っ張り、最後の一握りのプライドを捨て去るように首を打ち振り、深く深く頭を沈める。
 包帯の奥で目を閉じれば、二重の闇に内包される。
 床に擦りつけた額に、ひんやりと硬質な感触を感じる。  
 「ロンさん!!!」
 ビバリーの泣き叫ぶ声。
 「これで満足だろ。さっさとそこをど」
 「け」を言い終える前に、おもわず悲鳴をあげそうになった。後ろから腋の下に突っ込まれた手が、かってに上着をはだけ、腹をまさぐる。誰だ、耳元でねちっこい息を吐きながら俺の腹を揉みしだいてるのは?
 熱い吐息を俺の耳の裏側に吹きかけ、ねっとりと腹をこねまわしながら、そいつは言う。
 「土下座続けろよ。凱さんがいいって言うまで顔上げんなよ」
 「この声……てめえヤンだな、なに勝手にひとの体まさぐってやがる!?とっとと離れねえと、っあ!」
 ズボン越しに、股間を握り潰される激痛。
 俺の背中にぴったり体を密着させ、のしかかるように被さったヤンが、固く勃起した股間を尻の狭間にあてる。ズボンさえずりおろせば今すぐ挿入できそうな位置。
 「濡れた声あげんなよ。興奮してきちまったじゃねえか」
 「ずりいよヤン、俺にもやらせろよ」
 「売春班仕込みの淫乱な体がどれほどのもんか、皆で味わってやろうぜ」 
 「レイジがこなしてくれたケツの穴をみんなで味わうのも一興だな」
 かってなことほざくな、俺はレイジにこなされてなんかいねえ。俺の入院中に東京プリズン全体に出まわったのはでたらめな噂だと反論したいが、前後左右から伸びてきた腕という腕に体のあちこちを無遠慮にまさぐられ、薄い胸板を撫でられ腹筋を擦られ上腕を抓られ、はては股間を扱かれて、強制的に注入される快感にたまらず体を二つに折る。
 やめろと声を大にして振り払いたかったが、指一本動かすのさえ苦痛で、喉が掠れて悲鳴もでない。
 「っ、あ……熱、痛っ……はなせ、変なとこさわ、な……あっ!?」
 情けない。
 なんで俺は自分ひとりの力で先に進めない、レイジのとこに辿り着けない?自分の手足さえ見えない暗闇に這って、顔といわず背中といわず胸といわず腹といわず太股といわず這いまわる手と指に犯されなきゃならない。
 答えは簡単だ。
 俺が弱いからだ。
 「!ひっ、ぐ」
 だれかが髪を掴んで引っ張り、毛根を毟られる激痛に喉が仰け反り、苦鳴が迸る。一体いつになったら終わるんだ、飽きるんだ?俺はいつまで床に額を擦りつけて土下座してりゃいいんだ。今ごろもう次の試合が始まってリングにレイジが上って……
 「待て、そいつ手になに持ってる?」
 暗闇の中で目を見開く。
 『不要這様』
 やめろと制止しても遅かった。慌しい衣擦れの音とともに何人かが素早く動き、俺の手を無理矢理こじ開ける。固く強張った五指の隙間から転がり落ちたものが、床で弾み、澄んだ音をたてる。
 レイジと分け合った麻雀牌。
 中腰に屈みこんだ凱が、牌を拾い上げ、うろんげにためつすがめつする気配。
 「返せ、それは俺の牌だ、俺のもんだ!ザーメンくさい手で触れてイカくせえ匂いつけんじゃねえ!!」
 はげしく肩を揺さぶりさかんに首を振り、半狂乱の体で抗いながら、凱の手から牌を取り戻そうと声を限りに叫ぶ。常軌を逸した俺の狂態に気圧された囚人が手を緩め、四肢の拘束が解かれる。
 突き放されるように床に倒れこんだ俺は、縋るように虚空に手をのばし、五指を開いて牌をさがし求めるも、一連の行動を前もって読んでいた凱は微塵も余裕を失わない。
 「この安っぽい牌が、そんなに大事かよ」
 やめろ。
 「床に叩きつけりゃ一発で壊れちまいそうな脆いプラスチックの塊がそんなに大事なのかよ」
 やめてくれ。
 焦燥に焼かれる俺の鼻先に凱が近付いたのが、吐息の湿りけでわかる。
 そして凱は、ある提案を口にした。
 「ゲームをしようぜロン。この牌を今からおもいきり遠くへぶん投げるから、床に手をついて、犬の姿勢でそれを拾って来い」
 「……そんなの簡単じゃねえか、馬鹿にしてるのか」
 「そうだな、ただ拾ってくるだけなら簡単だ。だが」
 包帯に手をかけ顔からずり剥がそうとした俺の指が、凱によって邪魔される。
 包帯が外れた一瞬に俺が目撃したのは、至近距離に迫った凱の、嗜虐の官能に蕩けた顔。
 「目隠しをしたままならどうだ?」
 タジマそっくりの、反吐がでる笑顔だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050814104348 | 編集

 「怒っているのか?」
 あたりまえだ。
 いちいち怒っているかなどと当たり前のことを聞くな、僕を怒らせるようなことをしておいて。殊勝に目を伏せたサムライに言葉を返すのも煩わしくて、コンクリ床に片膝ついた僕は、首をうなだれた彼を意図的に無視してズボンの裾をたくしあげる。鮮血が滲んだズボンを太股の付け根までたくしあげれば、出血が再開した傷口が露出する。北と中央の渡り廊下で身を挺して僕を庇い、サーシャに刺された傷痕。本来サムライは出歩ける状態じゃない、医務室で大人しく寝ていなければならない重傷患者だ。傷が癒えるまで絶対安静を義務付けられたサムライが医師の言いつけに背き、医務室から地下停留場までの長距離を自力で歩くなど、自分の身を顧みない愚かしい行為でしかない。
 開いた傷口をじっくり検分し、眉をひそめる。試合開始前に看守にかけあい五分の猶予を貰い、僕はサムライに応急処置を施すことにした。次を急かす観客の声に負け、治療の許可を出し渋るい看守を説得したのは、先にリングに立ったホセだった。
 『吾輩はべつにかまいませんよ。太股の傷を治療する時間くらい与えてあげましょう、足から血を垂れ流した怪我人相手に全力を出すのは吾輩も本意ではない。リングに上がった途端に貧血など起こされては、ワイフに勝利を捧げんと誓った吾輩の見せ場がなくなってしまう』
 左手薬指に光る指輪に唇を触れ、ホセがにこやかに続ける。
 『どうかその頑固で強情な試合相手をリングに立てる状態にして送り出してください。吾輩が情け容赦なく戦えるようにね』 
 胡散臭い笑顔でホセが言い、結果として僕らは敵に哀れみをかけられる形で五分間の猶予を手にした。 
 金網の入り口付近に黙然と佇んだサムライ、その足元に屈みこみ、足の付け根まで血染めのズボンを捲り上げて傷口を外気に晒す。太股に開いた傷口からは今も血が滲みだし、脚線を伝って地面に滴りおちる。
 「ひどい怪我だ。よくこんな状態で歩いてこれたな」
 脱脂綿で血を拭い、傷口の周囲を消毒しつつ、独り言を言う。断じてサムライに返事を求めたわけではないが、彼はそう思わなかったようだ。足元に跪いた僕を見下ろし、ばつ悪げな顔をする。
 「……歩いてきたわけではない」
 「歩いてきたわけじゃない?じゃあどうし、」
 途中まで言いかけて口を噤む。答えは目の前にあった。片足に負傷して歩行に支障をきたしたサムライは、肘を動かして廊下を這ってきたのだ。その証拠に、上着の袖がひどく汚れている。
 「ほふく前進してきたのか!?」
 「途中までな。地下停留場の近くまで来て、さすがにほふく前進で入場はみっともないと気付き、壁に手を添えて立ち上がった」
 「うわー見たかったなそれ。物凄くマジな顔して廊下をずるずる這いずってくるサムライ面白かったろうに」
 口笛を吹く真似で茶茶を入れるレイジを睨みつけ、サムライと向き合う。
 「まったくなんて無茶をする男なんだ君は、僕の理解と想像を大幅に超えている。とても常識でははかれない男だ。足が動かず二足歩行できないからほふく前進か、そうまでして地下停留場に来ても意味などないのに!太股に重傷を負った君が勝てる可能性など少しもない、1%もない。大人しく医師の言いつけを守り、僕との約束を守ってベッドに伏せっていればよかったんだ!君がいなくてもあとはホセとサーシャを倒せば100人抜き達成という局面に来ている、重傷患者は決勝戦を欠場して医務室で本でも読んでいれば良かったんだ。馬鹿騒ぎする囚人と無縁の医務室の環境は読書に最適だ、少々消毒液くさいが清潔なシーツと暖かい毛布があってこれ以上なにが不満なんだ!?」
 サムライがわざわざ出向いてくる意味などこれっぽっちもなかった。わざわざ地下停留場に出向き、無理を押してリングに上がりホセとぶつかり、ぼろぼろに傷付く理由などこれっぽっちもなかった。彼が今ここにいること自体まったくの不条理で不合理、不可解な行動だ。
 僕はただサムライに傷付いてほしくないだけなのに。
 本心を上手く言葉にして伝えられないのが歯痒い。第一、「負傷した体で試合にでる君が心配だ」などと恥ずかしい台詞を口にできるわけがない。そうまでしてサムライが痛い思いをする義務はない。これ以上サムライが苦しみ、怪我を被るのは不条理だ。サムライがペア戦出場を決めたのは売春班から僕を救いたいがためで、本来なら僕こそが自分の運命に打ち克つためリングに立たなければならないのに、だれより対等でありたい友人に責務を肩代わりさせてばかりの自分が情けない。
 自己嫌悪に苛まれつつ、サムライの傷口を消毒し、包帯を巻く。そっと傷口に包帯をあてがい、二重三重に太股に巻いて患部を覆い隠し、「よし」と頷く。ズボンを引き下げて足を隠し、呟く。
 「……できるだけのことはしたが、はげしい運動は禁物だ。すぐに傷が開いて出血が再開する。これ以上出血すれば貧血を起こしかねない、そうなれば何度包帯を巻こうが無駄だ。試合中の休憩は認められない、一度リングに上がれば最後、手と手を合わせて相棒と交代しないかぎり下りれないぞ」
 「心得ている」
 眼光鋭い一瞥をくれ、サムライが顎を引く。僕がどれほど翻意を促しても決心は揺るがないらしい。まったくどこまで強情な男なんだと舌打ちしたくなる。僕の背後のレイジは、「痴話喧嘩には口だししねー主義なんだ」と適当なことを言って傍観を決め込んでいる。  
 サムライの治療など医療班に任せておけばよかった。何も僕自ら彼の手当てをしてやることはなかったと、処置を完璧に終えてから後悔する。ポケットにレイジに巻いたぶんの残りの包帯が残っていたのが災いした。医療知識が豊富なだけの素人が頑として譲らず、手ずから包帯を巻いたのは、つまらない矜持だ。
 サムライの友人であるという矜持。
 サムライの友人でありたいという切願。
 「……君を軽蔑する」
 当惑したサムライの方は見ず、下を向いて言葉を吐き出す。
 「君は僕の信頼を裏切り、約束を破った。医務室のベッドで僕の帰りを待ってると言ったのはだれだ、他ならぬ君だろう、僕を笑顔で送り出したのは君だろうサムライ!?僕は君の言葉を信じて、ちゃんと自分の成すべきことをして君のもとへ帰ってこようと決心したんだ!君の友人として相棒として恥ずかしくないように、君の隣に立つにふさわしい人間でありたいがために、君とおなじ戦場に立ちたくてそれで!!」
 「直」
 戸惑ったようにサムライが呟き、僕の方へと手を伸ばす。サムライの手が肩にかかる寸前にはげしく振り払い、あとじさる。僕はサムライとの約束を守りたくて、サムライの信頼に応えたくて、サムライにふさわしい友人でありたくて、レイジの反対を振り切りヨンイルとの試合に臨んだ。
 レイジは僕のプライドを「甘え」だと切り捨てた。当初の目的を忘れるな、ここでは生き残ることこそ肝心だと、ただ生き残ることこそ他のすべてに優先すると言った。
 それは真実だ、どうしようもなく真実だ。ここではまず生き残らねば始まらない、試合の勝ち負けにこだわるのは愚かしいことだと頭でわかっている十分すぎるほどに理解している。
 だが僕は、
 「僕は、君に甘えたくない!恵が僕にそうしたように甘えっぱなしでいたくない、僕と恵の関係は相互依存以外の何者でもなくて、僕は恵を溺愛して恵は僕に頼りきりになって他のことが何も見えなくなった!!
 その結果はもう知ってるだろう?」
 激情が沸騰し、頭が熱くなる。
 サムライと距離をとり対峙し、きっかりと目を見据え、今まで腹の底に溜めこんでいた本音を吐露する。 荒れ狂う感情に振りまわされた僕の視界にはあっけにとられたような周囲の観客の顔もレイジの顔も目に入らない。僕はただサムライだけを見つめ、憎しみをこめた咆哮をあげる。
 すべてが思い通りにならない現実に対する憎しみ。
 恵を守りきれなかった自分に対する、サムライをここに来させてしまった自分に対する、殺意にひとしい激烈な憎悪。 
 東京プリズンに来てから自分の無力さを思い知らされてばかりの僕は、いつからかサムライと僕の関係に、外にいた頃の僕と恵の関係を投影するようになっていた。恵、可愛い妹。僕の心の支え、存在意義そのもの。僕は両親の叱責から恵を庇うことで存在意義を見出し、作られた天才ではなく、鍵屋崎直というひとりの人間としてのプライドを維持していた。
 恵は僕に依存していたが、僕もまた恵に依存していた、僕らは互いに離れられない兄弟だった。
 違う、そうじゃないだろう鍵屋崎直。
 逃げるな、現実を見据えろ。恵をあそこまで追い詰めたのは……
 「恵を追い詰めたのは僕だ」
 恵にナイフを取らせたのは僕だ。
 「僕は恵に依存していた。甘えていたのは僕の方なんだ。恵には僕さえいればそれでいいと、両親などいらないと勝手に思いこむことで自己の存在価値を高めて優越感に浸って、何が起きても恵にだけは捨てられることはないと安心を得ていたんだ」
 恵、僕の妹。この世でいちばん大事な人間、僕の生きる意味そのもの。
 「だけどそうじゃなかった」
 そうはならなかった。恵は僕を捨てた、僕を拒絶した。両親ではなく僕が死ねばよかったのにと吐き捨てた。恵をあそこまで追い詰めたのは僕の責任だ。
 東京プリズンに来たら、今度はサムライがすべての敵から僕を守ろうとしている。
 僕がすべての敵から恵ただひとりを守ろうとしたように。
 「僕は他人に甘えたくない、他人に甘えることを自分に許したらそれでおしまいだ!またおなじことの繰り返しだ、今度は君が僕で僕が恵でおなじことのくりかえしだ!君が僕を守ろうと無理をすればするほど、ここに来る以前の自分を見ているようで辛くなる。耐えられなくなる。そして恵もまた今の僕とおなじように、常に傍らのだれかに守られることで何もできない無力を思い知らされ、自己嫌悪に苦しんでいたとしたら……」
 僕は恵に、こんな思いをさせていたのか。
 こんな苦しい、やりきれない思いを味あわせていたのか。
 嫌でもそのことを思い知らされてしまう、無自覚に恵を傷付け追い詰めていた自分の愚かさを思い知らされてしまう。だから僕は、勝てる見こみのない試合に臨んだ。公私混同していると思う、これは決勝戦で、もし僕が負ければレイジもサムライもロンも巻き添えになるとわかっていたが、どうしても逃げるわけにはいかなかった。
 認めるのは不愉快だが、僕はヨンイルに気を許していた。心のどこかで彼に他人以上友人未満の親近感を抱き始めていた。ヨンイルの手加減を期待して試合にでたわけではないのは確かだ。なら僕はどうやって彼に勝つつもりだった、最初から勝ちを投げて、寝ても覚めても付き纏う自己嫌悪から逃れたい一心でリングに上ったのか? 
 手のひらに爪が食いこむほど五指を握りしめ、憎悪をこめた目でサムライを睨みつける。
 「そうさわかっているさ、僕のプライドがくだらないことくらい!レイジにお説教されるまでもなくわかっている、殴り合い以外の方法でヨンイルに勝つつもりでいた甘さも十分に!だけどそれでもこんな勝ち方は本意じゃなかったんだ、こんな結末は望んでいなかった!IQ180の天才である僕が、鍵屋崎夫妻の後継者として幼少期から英才教育を施されてきた僕が、頭脳で遥かに劣る凡人に負けるはずはないと証明したかった。僕にも君たちに釣り合うものがあると証明したかった!」
 おなじ過ちはくりかえしたくない。このままでは僕は、恵のようになってしまう。このまま何もさせてもらえなければ、何もできない人間になってしまう。
 そしていつしか、僕はサムライを憎むようになる。恵が心の底から僕を憎んでいたように。 
 僕の肩に置こうとした手を邪険に払われたサムライは、一瞬哀しげに目を揺らめかせたが、すぐに元の無表情に戻る。顔筋は動かさず、目だけに真摯な労わりの色を浮かべて僕を見つめている。
 喉から迸りでた声が殷殷と反響し、鼓膜に染みる。
 視界の半分に亀裂が入っている。ヨンイルとの試合で片方のレンズが割れたからだ。実際戦ってみたら、僕の想像以上にヨンイルは強かった。あれで全力をだしてないというのなら、ヨンイルが万一実力をだした場合、僕が勝てるはずがないのだ。
 馬鹿なことをした。
 本当に、僕は馬鹿だ。
 それでも僕は、
 「僕は!!」
 名伏しがたい衝動に駆られて一歩を踏み出し、縋るようにサムライの目の奥を覗きこむ。深淵の色を湛えた黒瞳に魅入られた僕は、続く言葉を喪失し、唇を噛む。

 言えるわけがない。 
 また捨てられるのが怖かったなんて。

 僕はサムライに捨てられるのが怖かった。僕が愛した恵は僕を捨て、いつからか僕を憎むようになった。鈍感なことに、僕は恵の変化に気付かずさらに彼女を追い詰めてしまった。
 僕の存在が鬱陶しくなったから、僕の庇護が要らなくなったから、恵は僕を捨てた。
 サムライはどうだ?僕を捨てないという保証があるか?僕がサムライに依存すればするほど、サムライが僕に依存すればするほど、僕らの関係は外にいた頃の鍵屋崎直と恵の関係に酷似してしまう。 
 君に依存しなくても大丈夫だと証明しなければ、いつか君は、僕を捨てることになる。
 今の僕たちの関係はとても正常とは言えない歪なものだ。いつ亀裂が生じてもおかしくないものだ。だから今ここでどうにかしなければ……
 「……君を見てると、時々外にいた頃の自分を思い出して耐えられなくなる。
  恵を守ることでしか存在意義を見出せなかった僕を。だれよりも愛しい妹を無自覚に追い詰めていた愚かな鍵屋崎直を。サムライ、僕は恵のようにはなりたくない。いつどこにいても恵の兄としての誇りを失いたくないんだ。それがたとえ恵の重荷にしかなり得なくても、僕は恵の兄以外にはなりたくない。
 今でも僕には恵を守れる力があると、錯覚していたいんだ。
 君はそれを駄目にする、駄目にしてしまう。僕を駄目にしてしまう。恵以外に大事な人間など欲しくなかった、僕は常に『守る側』でありたかったのに!!」
 サムライと出会って僕は弱くなった。どうしようもなく弱くなった。
 こんな姿、恵に見せられない。
 常軌を逸した僕の言動に圧倒されたか、周囲が静寂に包まれる。
 サムライの目を直視できずうなだれた僕は、緩慢な動作で足元に転がった木刀を拾い上げる。
 「行くんだろう、サムライ。僕が何を言ってもどうせ無駄だ、僕を守るために死ぬ覚悟がある人間を止めるのは不可能だ。だがサムライ、君にとって僕はなんだ?僕には、鍵屋崎直という固有名詞の人間には、苗の代替品以上の価値があるのか?」
 サムライの顔が強張り、鉄面皮の裂け目から悲痛な表情が覗く。
 僕の方へと一歩を踏み出したサムライが今度こそ肩に手をかけ、僕の目を覚まそうとでもいうように強く揺さぶる。
 「お前を苗の身代わりだと思ったことはない、お前は俺の友だ、相棒だ!!」
 「嘘をつくな」
 木刀を持ったまま、よわよわしくサムライを見上げ、口を開く。
 長いあいだ腹の底に溜めこんでいた本音を感情に任せて吐き尽くした疲労のあまり、僕は自暴自棄になっていた。サムライにとって僕は苗の代替品に過ぎない、サムライは僕を通して苗を見てるに過ぎない。
 過去に自分が守り通せなかった、最愛の女性を。

 「君は過去に生きている。苗のいる過去に」    

 言ってはいけない一言だった。
 その刹那、サムライの手から力が抜け、僕の肩をすべりおちて体の脇に垂れ下がる。
 「苗と僕とを混同してるからそんなにも誰かを守ることにこだわるんだろう?ある意味君もおなじだ、僕たちは似たもの同士だ。僕は自身に恵を重ねて、君は僕に苗を重ねている。サムライ、もし君が僕に恋愛感情を抱いてるのだとしたら、それは無意識に僕と苗を重ねている証拠だ。君が好きなのは僕じゃなくてとっくの昔に死んだ苗という女性だ」
 悔しげに唇を引き結んだサムライの目には、絶望と悲哀とが宿っていた。そして一抹の怒り。
 僕への未練を断ち切るように背を向け、サムライがリングに上る。木刀を手に抱えた僕は、茫然自失とサムライの後ろ姿を見送る。放心したように立ち竦んだ僕の隣にやってきたレイジが、手庇をつくり、サムライの後ろ姿に視線を投げかける。
 「いつかの俺よりよっぽどきついこと言うじゃん、キーストア。サムライだいぶしょげてるぜ」
 「……ありのままの事実を指摘したまでだ。サムライが僕を苗の代替品と認知してるのは事実だ、そうでなければ同性に恋愛感情を抱くなどありえない。サムライは僕を守ることで、苗を守りきれなかった無念を晴らそうとしてるにすぎない」
 胸裏に苦い感情がこみあげる。
 苗、サムライの愛した女性。サムライがいまだに忘れられない女性。
 死んだ人間には勝てない。
 「!」
 今僕はなんと言った?死んだ人間には勝てないと心の中で言わなかったか。馬鹿な、何故勝つ必要がある?これではまるで、僕が苗に嫉妬してるみたいじゃないか。
 「……くそっ、サムライが僕を惑わすからだ!」
 いつかサムライに言われたのとおなじ台詞を口にし、苛立ち紛れにコンクリ床を蹴り付ける僕の横で、レイジがやれやれと首を振る。
 「試合開始!」
 とうとうゴングが鳴り響き、サムライがリング中央に立つ。
 急遽リング中央へと持ちこまれた机を挟み、手と手を組んで対峙するホセとサムライ。全身に闘志を漲らせた二人を見比べ、看守がゴングを鳴らす。
 そして、決勝戦第二試合の火蓋が切って落とされた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050813104459 | 編集

 「そら、とってこい!!」
 凱の咆哮がコンクリ造りの通路に威勢よく轟き渡る。
 愉快な見世物の幕開けだ。
 やんやと喝采を送るギャラリーの姿も目隠しされた俺には見えなくて、包帯で覆われた視界には潜在的恐怖を煽る無明の闇が被さり、不安ばかりが募っていく。
 固いコンクリ床に五指を開いて置き、頭を垂れた犬の姿勢をとる。
 四つん這い。
 視界がふさがれてるのが唯一の救いだ、凱のにやけ面と子分ども下卑た面、俺の名前を連呼して泣き喚くビバリーの面を見なくて済む。凱のおふざけで犬の真似を強要されて言われるがまま四つん這いになった自分の情けない恰好を見ずに済む。
 恥は捨てろ、プライドなんか捨てちまえ。
 この場を切り抜けるにはこれしか方法がない、凱の言葉に従って犬の真似をするしか打開策が見あたらないんだ。
 俺は一刻も早くレイジのもとに飛んでいきたくてレイジに会いたくて気が急くばかりで、冷静な判断力や思考力を完全に失っていた。
 俺が犬の真似をすりゃ満足するんだな、くそったれたお前らは溜飲をさげて引き下がってくれるんだな?道を開けてくれるんだな?怪我人の俺じゃあ力づくで凱をどかすのは無理だ、万一健康体であったとしても凱とその子分ども全員を敵に回して突破口を開くのは不可能だ。
 背に腹はかえられない。
 「……レイジのためなら、犬にでもなってやろうじゃんか」
 俺は決心した。
 包帯の奥で目を閉じ、先刻の光景を回想し、凱が牌を投げた方角と位置をおおざっぱに把握。よし。頷き、這い這いを覚えたばっかの赤ん坊のように廊下をじりじりと移動する。
 全然進まなくてじれったい。
 肘を使って前進するのがこんなに体にこたえる行為だとは想像だにしなかった。両肘を交互にくりだし、上体を引っ張り上げるように持っていき、下半身を起こす。
 目隠しされてても今の自分がどんな屈辱的な姿勢をとらされてるか漠然と想像できる。 挑発的に尻を突き上げ、従順に頭を垂れた犬の姿勢、後背位で交尾に臨む雌犬のように淫らな恰好。四つん這いになった俺の周囲には凱の子分どもが並んでるらしく、不器用に肘を繰って必死に這い進む俺に嘲笑を浴びせ掛ける。
 「いいザマだなあ半々、可愛いケツを高く上げて俺たち誘ってんのかよ?」
 「いいぜ、これが終わったらお望みどおりマワしてやるよ。ズボン剥いでパンツずりおろして、小ぶりで形いいケツにかわりばんこにご挨拶してやらあ!」
 「売春班で男銜えこむのに慣れてんだろうが、ケツが裂けてザクロみてえになるまで楽しませてくれよ」
 「どうせもうレイジにヤられちまったんだろ?医務室のベッドで何回も何十回もお楽しみたあ近所迷惑なやつだな、お前の喘ぎ声とベッドが軋む音で入院患者全員寝不足だって言うじゃねえか」
 カッとした。
 「!ホラ吹くんじゃね、」 
 衝撃、顔面圧迫。
 レイジとの仲を揶揄した囚人へ声を頼りに食って掛かった途端、靴裏を顔にねじこまれた。視覚を奪われた俺には避ける暇すらなかった。両側の壁にずらりと並んで俺に嘲笑を浴びせ掛けてた連中のひとりが、俺が手も足もだせないのもいいことに顔を踏ん付けてきやがった。 
 俺の顔に容赦なく靴裏をねじ込ませ、そいつは笑う。
 「おーおー、看守にも囚人にも手当たり次第に股開いてた売春夫上がいっちょまえに恥ずかしがるか?」
 「レイジにヤられた気分はどうだよ、よかったのか悪かったのかはっきりしやがれ。レイジのペニスはどんな味がしたよ、そうかそうか、熟れた無花果みたいに甘かったか」
 頬の柔肉をスニーカーの靴裏で残忍に踏み躙られる激痛に、たまらず苦鳴を漏らしそうになるが、根性で奥歯を食い縛る。
 悲鳴をあげたら負けだ。
 ねちねちとひとをいたぶって股間を固くしてる変態どもに負けてたまるかってんだ。
 手のひらに爪を立て、五指を握りこみ、悲鳴ひとつあげず理不尽な仕打ちに耐えぬく。
 俺の頬をしつこく踏み躙りながら、包帯越しで顔の見えないそいつは、熱に浮かされたようにしゃべる。
 「レイジのものをお口一杯にしゃぶった感想は?でかかったか、小さかったか?短かったか、長かったか?なあ教えてくれよ、俺たちだれもレイジのお相手したことねえんだよ。王様ご自慢のアレがマジでそんなご大層なモンなのか実際目で確かめたお前に訊いてんだよ。だんまり決め込むんじゃねえ」
 「……ヤッてねえよ」
 口の中に混じりこんだ泥を吐き捨て、腹の底でうねり狂う憎悪を押さえこみ、低く言い返す。
 「俺はレイジとヤッてない。性欲持て余したお前らが妄想たくましくしてるだけだ」
 「!このっ、」
 自分が置かれた状況も顧みず生意気にも口答えした俺に、逆上したガキが暴力的手段に訴える。
 風切る唸り、前髪を掠める鋭利な風。
 今度は事前に避けられた、鼻っ柱をへし折ろうと顔面めがけて繰り出された蹴りを反射的に頭を低めて回避することができた。
 ぐずぐずしてる暇はない。言いたい放題のギャラリーなんか相手にするな、時間がいくらあっても足りない。
 そう自分に言い聞かせ、蹴りが不発に終わってバランズを崩したガキの足元を通過。一心不乱に牌の落下地点を目指す。
 文字通りの盲進。
 「……っ、くう」
 包帯で覆われた顔の上部分が不快に蒸して、汗が滲む。
 あともう少し、もう少しなんだ。
 牌の落下地点に辿り着くまでどうにか保ってくれと気も狂わんばかりに一心に念じ、ひたすら肘を交互に動かして這い進む。犬の恰好にはもう抵抗を感じなかった。衆人環視の中さんざん辱めを受けて羞恥心が麻痺したのかもしれない。
 肘で全体重を支えるのはとんでもない苦行、気の遠くなるような拷問だ。
 固いコンクリ床と接した肘の皮膚が摩擦熱で剥けて、床に肘をついて歯噛みして体を持ち上げるたび、傷口に塩をすりこまれるに等しい激痛を味わうことになる。
 ひどい徒労を味わいながらも、ひどい苦痛に苛まれながらも、着実に一歩一歩牌の落下地点へと近付いてゆく。俺の執念深さを舐めてもらっちゃ困る。
 てんで学習能力のない凱の子分どもが足を突き出して進路妨害しようが、髪を引っ張って無理矢理上向かせた顔をたっぷり堪能しようが、俺はもう一切相手にせずただ前だけを目指して這い進む。
 息が荒い、体が熱い。胸が、全身の間接が痛かった。肋骨の骨折箇所はまだ完全にくっついてなくて、打撲傷も治癒してなくて、体のどこかを動かすたびどこかに苦痛が生まれた。
 今すぐ床に突っ伏して失神しちまいたかった、なにもかも放り出して知らん振りしたかった。ああ、早くラクになりてえ。今にも意識が途切れちまいそうに頭が朦朧として、なまぬるい泥に浸かったみたいに体がだるくて、そろそろ呼吸も続かなくなってきた。
 レイジ。
 レイジ。
 「……こんなとこで、ぶっ倒れるわけにいくかよ」
 今すぐラクになりたい。医務室のベッドで寝たい。そんな誘惑を固く目を閉じて閉め出し、甘えた考えを捨てる。
 俺はもうレイジを独りにしないと誓った、あいつのそばについててやると決めた。もう二度とあいつに哀しい笑顔をさせないって、あいつを見捨てないって覚悟を決めたんだ。
 あいつと一緒に地獄に堕ちる覚悟を。
 「付き合うなら、地獄の底の底までだ」
 牌は、牌はどこだ?わからない、何も見えない。
 どこに顔を向けても真っ暗闇が付き纏うばかり、牌はおろか両側に延々と続く壁も無機質に蛍光灯が連なる天井も、凱を筆頭に大勢の囚人がたむろった通路の様子そのものも見えない。暗闇は怖い、ひとりぼっちは怖い。
 レイジも同じ気持ちだったのだろうか?糞尿垂れ流しの暗い小部屋に閉じ込められた最初の頃は、今の俺とおなじようにパニックに襲われて、だれでもいいから助けてくれと絶叫したい衝動に駆られたんだろうか。
 レイジはいつ頃どうやって暗闇の恐怖を克服したんだ、小部屋に閉じ込められて何日目に恐怖を食らって暗闇に慣れたんだ?
 俺はレイジほど適応力が高くないらしく、いつまでたっても暗闇に馴染めず、視界が利かない恐怖に慣れ親しむことができない。
 レイジの面影を脳裏に描き、手探りで牌をさがしもとめる。たしかこのへんに落ちたはずだ、俺はこの目で見た、凱が力任せにぶん投げた牌が放物線を描いて落ちた場所を。
 「!」
 そして漸く、床に這いつくばって捜し求めていた物と巡り会う。
 角張った固形物の手ざわり。プラスチックのなめらかな表面。
 まぎれもない、牌だ!
 『伐到!!』  
 見つけた!
 喜びのあまり、台湾語で快哉を叫んでがばりと身を起こす。
 よかった、これで道を通してもらえる、先に行かせてもらえる。くだらないお遊びには蹴りがついた。さあ、手の中の牌を凱に見せて早く解放してもらおう。眼前に証拠品の牌を突きつけられちゃ、さしもの凱も文句のつけようがないだろう。
 「見つけたぜ凱、これで文句ねえだろうが!俺は俺の手で牌を取り戻したんだ、お前にもだれにも文句を言わせるもんか、お前にもだれにも俺を止められるもんか!!」
 俺は狂喜していた。
 体の芯から湧き上がるような、震えがくるような喜び。目隠しをひっぺがし、素顔をさらけ出し、頭上高く手を掲げてぐるりに牌を見せつける。
 畜生嬉しい、めちゃくちゃ嬉しい。
 漸くレイジに会える、念願の決勝戦に間に合うんだ。
 はやる気持ちを抑え、上着の胸にこぶしを預け、もう一方の手を凱の顔面に突き出す。
 「さっさとビバリーを放してそこどけよ、俺はきっちり約束守ったんだ、犬の真似までして恥かいて麻雀牌を掴んだんだ!凱、東棟でレイジとサムライに次ぐナンバー3を自認するお前なら子分どもの前で約束破ったりしねえよな?一度言ったこと覆したりは」
 「なに人の許可なく目隠し外してんだよ」
 え?
 傲然と腕組みした凱が、小馬鹿にするように鼻を鳴らして俺を見下す。
 「言ったろ、『四つん這いで犬の真似をして、牌をくわえてもどってきたら通してやる』って。全部やり終えてないのに勝手に目隠しはずしてんじゃねえよ、それともゲーム放棄か、途中退場か?こっちはいいぜ別に、お前が途中で抜けようが止めるつもりはねえよ。お楽しみがくりあがるだけだからな」
 下卑た笑みを湛え、俺の背後へと顎をしゃくる凱。
 つられて視線を流せば、残虐兄弟やヤンを始めとする囚人たちが続々と俺の方へと接近していた。
 「凱さんは『くわえてもどってこい』って言ったんだ。中国語がわからないのかよ、半々」
 なれなれしく俺の肩を抱き、頬ずりをするヤン。
 「台湾語とほとんど変わらねえんだからちゃんと意味通じるだろ、すっとぼけてんじゃねえ」
 俺の手から牌をひったくり、蛇みたいに舌なめずりする残虐兄弟の片割れ。予期せぬ展開に混乱した頭じゃ弟と兄の区別もつかない。
 「口開けろよ」
 背後に佇んだ残虐兄弟のもう一方が、片腕を俺の首に回し、片手で口を開かせる。
 抵抗しようとした、でもできなかった。牌に気を取られて周囲が見えなくなっていた俺は、いつしか凱の子分どもに完全包囲され逃げ場を失って、徐徐に狭まりつつある輪の中心に追い詰められていた。
 「!あぐっ、」
 ぬるりと口腔に侵入した指が歯列をなぞり、歯茎を手荒くしごく。口腔に侵入した異物が上下の歯を噛み合わすより早く舌を抓り、生殺しの刺激を与えてくる。苦しい、吐きそうだ。口腔いっぱいに指を突っ込まれてるため噎せることもできず、涙の膜が張った目を虚空に凝らすしかない俺の視界に、白い光沢の牌が近付いてくる。
 「凱さんの言うとおりにくわえろよ。ものくわえるのには慣れてるだろ」
 あからさまな嘲弄に追従するように周囲のガキどもが笑う。今俺の目の前にいる残虐兄弟の兄だか弟だかわからない方の目が怪しく輝き、俺は近く自身に訪れる運命をはっきりと悟る。
 さすが凱の子分ども、考えることがえげつない。
 やつらは俺に、牌を噛ませることだ。おもいきり。当然プラスチックの牌なんか容易に噛み砕けるわけがない、たぶん欠けるのは俺の歯の方だ。
 ああ、歯が欠けたら今度レイジにキスされたときわかっちまうな。
 絶体絶命の窮地にはそぐわないくだらない考えが脳裏をよぎり、牌の形を借りて迫り来る恐怖に耐えきれず、頭が狂いかけてることを自覚する。
 手が近付く。牌が鼻先に触れる。
 「あう、ん、んんっ!!」
 もがけばもがくほど拘束がきつくなり逆効果だとわかっているが、この期に及んでも最後の抵抗をせずにはいられない。口に指を突っ込まれてるせいで上手くしゃべれない、舌が回らない。凱はひとり輪の外でにやついている、俺の歯が欠ける瞬間を心待ちにしている。
 もうここまでか。俺はレイジについててやれないのか。
 口の中で蠢く指が気持ち悪くて吐きそうだ。吐き気を堪えて目を閉じた俺の耳朶に、熱い吐息と囁きが触れる。
 「牌を噛ませて歯ぁへし折って、俺たちのモンしゃぶりやすいように改造してやる」
 レイジ―……

 ―『I can fly!!』―

 今この瞬間だれからも存在を忘れられてたビバリーの調子っ外れのかけ声が、俺の窮地を救った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050812104611 | 編集

 「試合開始!」
 ゴングが鳴り響き、うねり狂う熱気に蒸された地下停留場が地獄の釜底と化す。
 四囲から照射された光線がリングの全貌を暴き出し、中央の台座を挟んで対峙するサムライとホセとに強烈な存在感を付与する。
 「指が折れても知りませんよ。吾輩に賠償金を請求されたところで罪悪感のかけらもなくしらばっくれるのでそのつもりで」
 台座に肘をつき、試すように五指を開閉しながらホセが微笑む。
 「痴れ者が。赤子の手を捻るようなものだ」
 同じような前傾姿勢をとり、台座に肘をつき、五指を開閉して自分の意志のままに動くか確認しつつサムライが吐き捨てる。前屈みに面と向かった二人の間で眼光が火花を散らす。
 「では、失礼して」
 ホセが礼儀正しく断りを入れ、軽く会釈。肘から上を立てたサムライの手のひらを握る。儀礼的な握手。 サムライの指に指を絡め、がっちりと握る。互いの指の股に指を通して掌握してしまえばもう生半可なことでは外れない、勝負の決着がつくまでホセとサムライの手は離れ離れになることはない。
 ホセはサムライと指を絡めた瞬間も口元の笑みを絶やさず、温和な仮面の奥に本心を隠し続けていた。
 きっちり撫で付けた七三分けの下、センスを度外視した野暮ったい黒縁眼鏡の奥では、垂れ目がちの柔和な双眸が微笑んでいる。片手と片手で組み合ったホセとサムライは互いに気を抜くことなく、全身全霊で相手を警戒していた。気迫で相手を牽制して少しでも有利に立とうとでも言うかのように、サムライの眼光は鋭窄まり、よく研いだ刀の如き鋭利な殺気が全身から放たれていた。
 「見ていてください、マイワイフ」
 神に祈りを捧げるように真摯な面持ちでホセが呟く。
 「最愛の伴侶に、吾輩のすべてを賭けた勝利を捧げます」
 それが、始まりの合図だった。
 「!!―っ、」
 瞬間、だが確かに、ホセに変化が起きた。それまで被っていた温和な仮面をかなぐり捨て、狂戦士の本性を全開にし、サムライに本気を叩きつける。足腰を踏ん張り、重心を安定させ、逞しい上腕二頭筋を盛りあがらせ、サムライの指を折り砕こうと凄まじい握力を発揮する。ホセなら片手で林檎を握り潰すこともわけないだろう、それどころか鉄塊でもプラスチックでも容易に捻じ曲げてしまうのではないか?素手でナイフの刃を折れるホセが本気を出せば、脆い骨と繋ぎの筋肉、内臓とで構成されたやわな人体など一発で破壊されてしまう。自身の肉体そのものを過激に鍛えぬいて凶器の域まで高めた男は、額に脂汗を滲ませ、奥歯を食い縛り、必死に抗うサムライの指を粉砕しようと手に力をこめる。 
 「!サムラ、」
 サムライに呼びかけようとして、途中で止め、唇を噛む。僕にはサムライの名を呼ぶ資格はない。忘れたのか、さっき自分がしたことを?さっきサムライにした仕打ちを。僕は試合に赴くサムライに優しい言葉ひとつかけてやれなかった、くだらない自意識が邪魔をして彼を励ますことさえできなかった。
 『君は過去に生きている。苗のいる過去に』 
 さっきの言葉は本音だ。サムライと共に過ごすようになってから漠然と感じ始めていたこと、薄々気付き始めていたことだ。サムライは、いや、帯刀貢の心の中では苗はまだ生きている。苗の貞淑な面影は帯刀貢の心の奥底に深く根付いていて、どう足掻いたところで僕はサムライと重ねた歳月の質量で苗の足元にも及ばない。東京プリズン収監に伴い名前と一緒に過去を捨てたつもりのサムライだが、苗との思い出まで捨てることはできなかった。サムライが僕の中に苗を投影して庇護対象として見るかぎり、僕は苗の呪縛から逃れなられない。
 本質的にはだれもだれかの代わりにはなれない。よくできた模造品にはなれても代替品は務まらない。
 僕にサムライの思い出に口だしする権利はないと頭ではわかっている、サムライを非難した僕とて恵のことを忘れられないのだからお互いさまだ。僕に他人を非難する資格はない、サムライの思い出はサムライだけのものだ。
 頭ではわかっているのに、心が許容できない。苗はサムライにとって至上にして唯一の女性で、常に傍らにあり支えてくれた特別な存在だ。僕は苗のようにはなれない。苗と僕とは性別も生い立ちも性格もなにもかもすべてが違いすぎる。それ以前に、自覚的に他人を真似るなど僕のプライドが許さない。
 大人しく庇護対象に甘んじていれば、僕はこれ以上傷付かなくて済むとわかっていた。サムライに逆らわず彼のしたいようにさせておけば、従順にサムライの背中に庇われていれば、僕は身体に傷を負うことなく東京プリズンで安らかに過ごすことができた。だがそれは、僕が僕自身を裏切る行為だ。僕が僕自身のプライドを裏切り、サムライの思い出を汚し、今は亡き苗に成り代わる卑劣な行為だ。
 そんなこと、できるわけがない。
 僕は男だ。サムライの相棒だ、友人だ。彼とは常に対等な立場にありたいと努力してきた、サムライの背中に庇われているだけでは何も変わらないと、少しでも現状を改善するため足掻き続けてきた。そのすべてが無駄だったとは思わないし思いたくない。
 「浮かないツラすんなよ、通夜みたいに沈みこんでさ」
 「縁起でもないことを言うんじゃない」
 隣に立ったレイジがからかってくる。僕の視線の先ではホセとサムライが互角に組み合っている。序盤、ホセの膂力に押されかけたサムライだが、気力と体力を振り絞り戦局を持ちなおし、腕まくりした片腕に血管を脈打たせ、徐々にホセを押し返す。
 額に玉の汗を浮かべ、浅い息を吐くサムライ。体調は悪そうだ。無理もない、片足を負傷してるのだ。太股の大動脈を掠めるようにナイフが刺さったのだ。せっかく塞がりかけた血管がまた破れたらどうする、傷口が開いて出血が再開したら?最悪の可能性として失血死もありうる。実際、僕が手をつかねて見守る前でサムライのズボンからはじわじわと血が滲みだしている。
 「なんてわからず屋で頑固な男なんだ、大人しくベッドで寝ていればいいものを……こんなに自己顕示欲旺盛な男だとは思わなかった、無理をして決勝戦にでても死んでしまったら何にもならないじゃないか」
 やり場のない苛立ちをこめ、こぶしで金網を殴りつける。
 「サムライが死んだら、僕が殺したようなものじゃないか!!」
 僕を信頼してくれたと思ったのに。
 僕を笑顔で送り出したあれは、「必ず帰って来い」と微笑みかけたあれは演技だったのか。僕は最初からサムライに信頼などされてなかったのか。
 わかっている。本当はわかっている。サムライが僕を信頼できないのは、僕が弱いからだ。どうしようもなく弱いからだ。独りでは東京プリズンで生き残れないほどに脆弱で惰弱な生き物だからだ。
 だからサムライは僕を守らなければならず、僕は半永久的にサムライの庇護対象から抜け出せなくて。
 「つまんないことにぐだぐだこだわってんなよキーストア」
 はっとして顔を上げる。
 隣にレイジがいた。僕の心を見透かしたようにちらりと笑顔を覗かせたレイジが、片肘を頭上に掲げ、だらしない姿勢で金網に凭れ掛かる。
 「さっきも言ったろ?お前はいつまでもつまんねーことにこだわりすぎだ。サムライの過去の女の話まで持ち出してさあ……サムライ可哀想に。あれ、顔にはださねえけど結構こたえてたぜ」
 「以前サムライと喧嘩したときに君もおなじことをした記憶があるが」
 「俺に言われるのとお前に言われるのとじゃ重さがちがうだろ」
 金網に凭れたレイジが大仰にかぶりを振る。ふとレイジの掌中に目を落とす。レイジの片手に乗っていたのは一個の牌。北と中央の渡り廊下でレイジのポケットからこぼれ落ち、僕がロンへと渡した牌。
 ロンから貰った牌を手の中でいじくりまわしつつ、レイジが続ける。
 「ま、お前の言うことにも一理ある。サムライは今でも昔の女を忘れられない、昔の女とお前をごっちゃにして『守る』行為に特別な感情を抱いてるのは間違いない。サムライは悔しいんだよ、惚れた女を守りきれなかった自分の不甲斐なさが。惚れた女を助けられなかった自分の愚かさが」
 「知ったふうな口をきくじゃないか。そういう君はどうなんだレイジ、まさかロン以前に恋愛経験がないわけでもあるまい?以前世界中に愛人がいると自慢していたが、ロンと仲直りして幸福の絶頂にある現在は彼女らのことなどどうでもいいのか?彼女らの存在を記憶から完全に抹消して最初からなかったように扱えるか?僕には刑務所に入れられた男を献身的に待ち続ける女性の気持ちが理解できない、いつ出てくるともしれない男を指折り数えて待ち続ける不条理な感情など理解できるはずがない。
 しかし、世界中に散らばった君の愛人の中には君の帰りを待ち続ける奇特な人物もいるだろう?」
 挑むようにレイジの目を見据え、口を開く。
 「君はどうなんだ?東京プリズンでロンと出会えた現在が幸せだから、現在だけが大事だからとそれ以前の過去を切り捨てることができるか?一抹の未練も躊躇もなく、過去に関わり合った人々を切り捨てることができるのか。君が得意げに愛人呼ばわりする女性たちの心中を想像したことがあるか?」
 歓声が一際大きくなる。
 興奮した囚人が金網に殺到し、盛大に唾をとばし、高々とこぶしを突き上げる。リング中央、台座に肘をついたホセとサムライは片腕の膂力のみで熾烈な攻防戦を繰り広げていた。少しでも油断すれば逆転される、敗北が確定する。ホセの額から汗が飛び散り、サムライの顔が充血する。
 「ホセさん、頑張れ!東の刀キチガイを血反吐の海に沈めてください!」
 「片腕のみといわず両手両足へし折って下さい、頭蓋骨を膝で砕いて脳漿ぶちまけてやってください!」
 「俺たちホセさんを信じてますから!!」
 ラテン系の囚人たちが互いに肩を組み歌を唄い陽気なノリで声援をとばす中、ホセは口元に笑みを浮かべる。
 「ね?可愛い弟子たちでしょう。吾輩の自慢です」
 「騒々しい輩だな。試合の邪魔だ、いね」
 にべもなく吐き捨てたサムライに苦笑し、ホセが腕の角度を変える。手首を返すように器用にサムライの手を押さえこみ、ゆっくりと倒してゆく。信じられない、サムライが握力で負けている。片足の怪我が原因で踏みこみが利かないせいか、サムライは思うように全力をだせず苦しんでいる。まさかホセはこの展開を見越して、一見したところ双方にとってフェアな腕相撲という試合形態を望んだのでは?
 だとすれば、南の隠者は相当な知恵者だ。狡猾な策士と言い換えてもいい。ホセは先の先まで読み、裏の裏まで読み、片腕と片腕で勝敗を決める「腕相撲」を双方にとってフェアな条件として提示し、度量の広さをアピールしたのかもしれない。
 しかし子供騙しの腕相撲も、ホセとサムライが全力をだせば片時も目を離せない緊迫した勝負となる。 
 「……昔の女に嫉妬したってしょうがねえだろ」
 「は?」
 レイジの意味不明な発言に眉をひそめる。レイジは嘆かわしげにかぶりを振ると、片手の牌をひょいと放り上げ、虚空で華麗にキャッチする。
 「恋愛に疎いから気付いてないんだな。キーストア、お前のそれはただの嫉妬だよ。サムライの昔の女にヤキモチ焼いてんだ、自分だけのサムライでいてほしくて駄々をこねてるんだ」
 嫉妬?この、胸を灼く感情が嫉妬?
 ひどい侮辱だ。僕は苗に嫉妬などしてない。激怒した僕は荒荒しく金網を殴り付けレイジに食って掛かろうとしたが、叱責を発する前に、唇に人さし指を押し当てられる。
 「最後まで聞けよ。お前がサムライの昔の女に嫉妬するのは、昔の女と自分とを比べてるから。サムライにとってどっちが大事か、どっちの存在がより重いかといつも比べてるから」
 唇に触れた感触だけ残して人さし指を引き、レイジが微笑む。
 「キーストア、お前天才のくせに実はちっとも自分に自信がないよな。俺に言わせてもらえば自分の価値を低く見積もりすぎ。お前が外でどんな暮らししてたか詳しく知らねえけど、相当愛情に飢えた生活してたんじゃねえか?身の回りにだれも信頼できる人間がいなくていつも独りぼっちだったんじゃねえか?」
 「違う、僕のそばにはいつも妹の恵が……」
 恵、僕の大事な妹。自分の身を犠牲にしてまでも守りたかった存在。
 逆上して反駁すれば、レイジが軽薄に肩を竦める。
 「妹がそばにいてもお前は独りぼっちだった。いい加減認めろよキ―ストア、お前はたしかに妹を愛してたかもしれない。けど、妹に愛情の返済を求めるのは酷ってもんだろうか。献身の代価に愛情を要求するなんてスマートじゃねえ、妹が隣にいようが誰が隣にいようがお前の孤独は癒されなかった」
 レイジの目がはてしなく遠くを見る。
 硝子のように人の心を反射する透明な瞳。
 「俺もおなじだからわかるよ。駄目だったんだよ、結局。俺じゃマリアを救ってやることができなかった。だからマリアは違う男を選んだ。だれかに尽くせば尽くすほど重荷になるって現実にあるんだよな。お前とサムライの場合はこの逆。サムライは不器用で他にやり方を知らないから、尽くす代わりに守ることで、お前が大事だと伝えてるんじゃないかな。昔の女を忘れられないのはまあ、許してやれよ。だれにだって消えない傷のひとつやふたつあるだろ?」
 「僕は」
 何を言おうとしてるんだ?勝手に口が開き、手のひらが緊張に汗ばむ。レイジの視線に耐えきれず下を向き、目を閉じる。
 「サムライに、僕自身を見てもらいたいんだ。僕自身を好きになってもらいたいんだ」
 ごく自然にその言葉が口から滑り出て、レイジが口笛を吹く。茶化すような口笛で我に返った僕は、自分がひどく誤解を招く発言をしたことに思い至り、頬を染めて訂正する。
 「違う、訂正だ!好きになってはもらいたいと言っても恋愛対象ではなくひとりの人間として、そう、友人としてだ!だから僕は、苗と僕が違う人間だと証明しなければならない!苗はサムライの背後にいて、僕はサムライの隣にいるべき人間だと思い知らせたいんだ!!」
 「お前はもうサムライの隣にいるよ」
 なに?
 訝しげに眉をひそめ、探るようにレイジを見る。
 「サムライはお前のいる今を生きてる。そりゃ昔の女とお前を重ねて悶々とすることもあるだろうけど、今のサムライはちゃんと前向きに生きてるよ。キーストア、なにか誤解してるみたいだから言っとくがサムライは好き好んで死にに行ったわけじゃねえ」
 リング中央へと視線を投じたレイジが、迷いのない瞳できっぱりと断言する。
 「お前と生きる未来のために、勝ちに行ったんだ」
 レイジのその言葉で、嘘のように悩みが晴れていった。
 僕は、レイジの言葉を信じていいのだろうか?僕はサムライの相棒に足る資格があると、自信を持っていいのだろうか。サムライが今も逃げずに闘っているのがその証だと、思いあがっていいのだろうか。
 僕の位置から見えるサムライの背中は何も語らない。
 でも、語らないことで語っている。溢れんばかりの想いを、迸る熱情を。サムライの背中を見ればわかる。サムライは常に前を見ていた。百人抜きを成し遂げて僕を売春班から救い出すため、その目的を達するためにリングに上がり続けたのがいい証拠じゃないか。
 未来を信じていなければ、そんなことはできない。
 未来に希望を抱けなければ、どれほど身体がぼろぼろになっても執念と信念だけでリングに上がり続けたりはしない。
 気付けば金網を掴み、身を乗り出していた。
 リング中央ではホセとサムライの対決が過熱している。会場の盛り上がりは最高潮に達し、耳も割れんばかりの大歓声が異常な熱気を伴い天井を押し上げる。
 負けるな、サムライ。
 「僕は馬鹿だ」
 針金に痛いほど指を食いこませ、俯く。
 「漸くわかった。サムライは、生きるために死にに行ったんだ」
 それが武士だ。それが侍の生き様だ。
 リング中央、台座に肘を立てたサムライの顔色は青褪めていた。太股の出血が再開し、軽度の貧血を起こしているのだ。疲労困憊の様子で台座に凭れたサムライに、正面のホセが笑いかける。
 「フィニッシュです」
 僕はこの目で目撃した。ドーピングでもしたみたいにホセの上腕二頭筋が膨張し、硬質化した筋肉が脈打ち、サムライと絡めた手に膨大な力がこもる。サムライの指が軋む音がここまで聞こえてくるようだった。 「!っあ、」
 苦痛に顔を歪め、こらえきれず苦鳴を漏らすサムライ。その間もホセは容赦なく腕に力をこめ、万力の如く指を締め上げられる苦悶にのたうつサムライの至近距離に顔を突き出す。
 「将来ここを出てだれかと婚約を交わした時のために、左手薬指だけは見逃してさしあげます」
 ホセの左手薬指の指輪が白熱の照明を反射し、一条の光線が僕の目を射た。 
 瞬間、我に返った僕は声を限りに叫んでいた。
 両こぶしで金網を殴り付け、身を乗り出し、友人にむかって。

 ―「サムライ、頑張れ!!!!」―

 疲労で濁りかけたサムライの目に生気が戻った。


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050811104732 | 編集

 「もっと丁寧にしゃぶれよ、男のモンくわえこむのは得意中の得意だろうが」
 太い男の指で口腔を犯される。
 唾液にふやけた指が肥えた芋虫のように奇怪に蠢き、舌の裏側にもぐりこみ、敏感な粘膜を揉み解す。
口腔の粘膜はひどく感じやすく、他人に見られたこと触れられたことのない場所まで指で容赦なく暴かれて、俺のプライドは粉々になった。
 口の中で蠢く異物の生理的嫌悪に何回も戻しかけるが、腕の関節を極められてがっちり拘束されてる上、後頭部に覆い被さった手で顔を正面に固定されて、現在の俺は殆ど身動きとれない状態。逃げ場はない。
 せめて怪我が治癒してたら、体調が回復してたら、俺の状態が万全だったら、こいつらから逃れきれないまでも仕返しに一発見舞ってやるぐらいのことはできたのに。それで俺のこぶしの骨が砕けたとしても未練はない、逆にすっきりするだろう。このままやられっぱなしなんて冗談じゃない、そんな胸糞悪い現実認めてたまるか。凱の子分どもに吊るし上げられて、凱が余裕の物腰で腕を組んでにやにや高見の見物を決め込んでる前で、俺は今両腕をしめあげられ頭を押さえ込まれた前傾姿勢をとらされ、おもいきり牌を噛まされようとしている。
 プラスチック製の硬い牌。無機質な固形物。
 牌を口腔に投げこまれ、おもいきり歯を噛み合わせたらどうなるか……想像したくもねえ。柄の俺の歯は砕けるか欠けるかして根っこからイカレてしまうだろう。
 当然口の中は血まみれで俺は残り一生歯欠けで過ごす羽目になる。悪ふざけのお遊びにしちゃ度がすぎてるだろ、と凱とその子分どもを罵倒したかったが、口に指を突っ込まれてるため舌も回らず、哀願にも似た響きのくぐもったうめきになるばかり。
 捕えられた姿勢で手も足もでず、狭苦しい通路にひしめく連中の嘲笑と悪罵に晒されながら、ゆっくりと徐徐に、だが確実に眼前へと迫り来る牌を凝視する。
 俺の眉間に翳された白い光沢の牌、奇妙にのっぺりとした四角い表面。
 指を触れたときのすべすべした感触がまざまざと甦り、大きく腕を振りかぶり、床へと投げ付けた時の映像が脳裏に甦る。
 床に激突した衝撃で脆くも割れ砕けた牌、欠けた牌。次は、俺の歯がそうなる運命だ。眉間に牌を翳された瞬間もまだ覚悟はできてなくて、動悸は不規則に乱れて、体は恐怖に硬直していた。四肢の間接は糊付けされたように固まって、後にも引けず前にも進めなくて、ただその場に愕然と突っ立ってるしかない俺の周囲で耳障りな哄笑が弾ける。恐怖に青褪めた俺を指さし、凱の子分どもが大笑いしてる。畜生、人の気もしらねえで。耳を塞げない代わりにぎゅっと目を閉じ、やがて訪れるおぞましい現実を拒絶する。全身の毛穴が開き、大量の汗が吹き出す。冷や汗でべったりぬれたシャツが素肌にはりついて気持ち悪いが、そんなささいなことにかまってる暇はない。
 「お前の歯がポロッと取れちまったら、記念に持ちかえって大事に飾ってやるよ」
 俺の右腕を締め上げたガキが、不潔に黄ばんだ歯を覗かせる。
 「俺たちみんなで美味しくしゃぶってやってもいい。それとも、お前がしゃぶるか?いっそ呑みこんじまうか?てめえの体の一部なら汚くねえだろが、歯だって立派にカルシウムだ、自給自足のお手軽栄養補給だ。そしたらお前の背だってちょっとはのびるかもしれねえぜえ、いつまでたってもチビで可愛い半々のロンちゃんよ」
 「ばかだなあんちゃん、元々てめえの体の一部だったモン呑み込んだって意味ないじゃん。栄養補給ってどこらへんがだよ」
 残虐兄弟の談笑。意外にも的確な弟のツッコミに、こんな時だというのに感心してしまう。やばい、ツボに嵌まった。無性に笑いたくなった、待て、口に指を突っ込まれたこの状態で笑いの発作に襲われたら吐きたくても吐けねえ生殺しの目にあうぞ。
 俺はたぶん、もうどこかおかしくなりかけてる。頭がまともなヤツなんかただのひとりもいやがらねえこのイカレた状況に毒されて、精神が崩壊しかけているのだ。
 周りは全員敵。涙目でもがき苦しむ俺を方々から指さし、嗜虐の愉悦と暴力の快感とに酔い、高笑いするガキども。
 くそ、ここまでか。
 ここまでなのか、こんなしまらない終わり方しかねえのかよ。
 最悪のオチだ、最低の幕切れだ。俺は何しにここまでしゃしゃりでてきたんだ、痛いの我慢して這いずってきたんだ?レイジに会いたい一心で、レイジに檄をとばしたい一心で無理してベッドから抜け出しても、地下停留場に辿り着くことさえできやしない。
 まったくの無駄。
 ビバリーに迷惑かけただけだ。俺がこうしてるあいだもレイジと鍵屋崎はふたりで頑張っていて、他棟のトップ相手に苦戦を強いられていて、サムライは不自由な片足を引きずってまで鍵屋崎を助けに行って。

 じゃあ俺は?俺にできることだって、何かあるはずだろ。
 あいつらの仲間なんだから。レイジの相棒なんだから。

 いちばん年下だからとか怪我をしてるとかそんなの関係ない、全部言い訳だ、心意気次第でどうとでも克服できるはずだ。あいつらが死ぬほど頑張ってるのに俺が医務室のベッドでのうのうと寝てていいわけがない、ぬくぬくとまどろんでいていいわけがない。
 そんな怠慢が許されるわけがない、他の誰が「おまえは役立たずだから寝てろ」と言おうが他ならぬ俺自身が納得しない。
 俺はまだ諦めない。
 「そんなにおっかないのかよ、こんなちっちぇえプラスチックの塊が」
 「はは、産まれたてで目が開かない子猫みたいに震えてやがる」
 「おもしれえ、びびってやがる」
 俺はまだ諦めない。諦めきれない。だって、俺が今こうしてる間もレイジは戦ってる。鍵屋崎とサムライは戦ってる。それぞれの決勝戦に全身全霊を賭けて挑んでいる。俺が凱一党にからまれてつまんないことで時間食ってる間も試合は着々と進行していて、レイジや鍵屋崎やサムライは傷を負っているのだ。
 仲間を見殺しにしてたまるか。漸くできた仲間なんだ、俺の大事なダチなんだ。ガキの頃からずっと欲しくて欲しくてたまらなかったダチなんだ、
 口は悪いけど実は面倒見のいい鍵屋崎も、口下手で無愛想で不器用なサムライも、ナンパで尻軽で、でも決める時は決めるレイジも。
 あいつらは俺の自慢の仲間だ。
 暴力と裏切りが蔓延する東京プリズンの肥溜めで見つけた、出会えた、心から信頼できるヤツらなんだ。
 手放してたまるか、逃してたまるか。みっともなかろうが、みじめったらしかろうが、最後まで足掻いて足掻いて足掻き続けてやる。それが今の俺にできる唯一のことだ。
 恐怖をかなぐり捨て、しっかりと目を見開き、至近距離に迫った牌を睨みつける。逃げるのはごめんだ、最後まで目を見開いて立ち向かってる。
 せめて最後までレイジの相棒としてふさわしくありたい、「頑張ったな、ロン」とレイジが笑いかけてくれるような相棒でありたい。
 歯の根元がぐらつき、口内が鉄錆びた血で満たされる戦慄の瞬間まで……
 ―『I can fly!!』―
 俺の窮地を救ったのはビバリーの一声。
 凱の子分どもは俺を嬲るのにかかりきりで、その場の誰からも存在を忘れ去られていたビバリーが、唐突な声を発したことにぎょっとする。
 背中に冷水を浴びせ掛けられたように全員が同一方向を振り向く。腕の間接を極められた俺も、のろのろと顔だけ動かしてビバリーがとっ捕まってるはずの方向を仰ぐ。
 ビバリーが跳んだ。
 驚愕の瞬間。
 通路にたむろった全員の注意が、俺へと向いていたのが幸いした。愉快な見世物に熱狂するあまり、お守り役のガキが拘束の腕を緩め、一瞬ビバリーから注意が逸れたことで致命的な隙が生まれた。
 反撃の隙。
 「ぎゃああああっ!!?」
 凄まじい悲鳴が通路を駆け抜ける。
 コンクリ壁と天井に殷殷と反響しつつ、その場に居合わせたガキどもを戦慄せしめた悲鳴の主は、ビバリーのお守り役をおおせつかったガキ。捨て身の反撃に転じたビバリーが、羽交い絞めにされた体勢から肘を後ろ向きに突き上げ、ガキの鳩尾に命中させる。
 たまらずビバリーを突き放し、千鳥足でよろめくガキだがこれだけでは終わらない。
 ビバリーの上着の裾がふわりとめくれ、ズボンの尻ポケットから黒い物体が抜き取られる。ビバリーが高々と振り上げた黒い物体に目を凝らせば双眼鏡だった。何故こんなとこに双眼鏡が、と疑問に思う暇もない。風切る唸りをあげて空を薙ぎ払った双眼鏡が、鈍い音をたて、お守り役の顔面にめりこむ。
 「目、目がああああああああっ!!!!」
 再びの絶叫。目潰し。
 腕振りの加速をつけ、お守り役の両目の位置へと水平に叩きこまれた双眼鏡の威力は絶大だった。真っ赤に充血した両目をおさえて蹲ったガキを飛び越え、ビバリーを取り押さえようと一斉に行動を開始する凱の子分ども。通路を疾駆してビバリーへと肉薄したガキどもが無造作に腕をのばすが、すばしっこいビバリーは造作もなくこれをかわす。
 腕と腕の間を頭を屈め姿勢を低めてひょいひょいとすりぬけ、手前のガキの股下から滑りこむように俺の前へと転げ出たビバリーが、目で合図を送る。
 「ロンさん、今っすよ!」
 「「りょうふぁい!」」
 了解と言ったつもりが、口に半ば指を突っ込まれていたため意味不明な内容になった。不明瞭な発音で請け負い、正気に返った俺は些かもためらうことなく反撃に転じる。俺を拘束した奴らが、突如出現したビバリーに気を取られてあんぐり口を開けてる隙に、腰に捻りをくわえて腕を振りほどく。
 「!!?あああああああっああああうぐああああっうあ、あ!?」
 悶絶。
 唾液にまみれた指が乱暴に口腔から引き抜かれ、背後のガキが股間をおさえて蹲る。
 ええいままよと後ろ向きに踵を蹴り上げて股間に一発見舞った俺は、続き、正面のガキへと標的をかえる。虚空に牌を翳したまま、ぽかんとした間抜け面をしたそいつの手から力づくで牌をひったくり、こぶしで握りこむ。
 「俺のお守りに汚い手でさわるんじゃねえ。ご利益が失せるだろ」
 レイジとおそろいのお守りだとはさすがに恥ずかしくて口にできなかったが、その分怒りをこめ、渾身のこぶしを顔面に叩きこむ。鼻骨がひしゃげる感触、勢いよく噴出する鼻血。さっきまで下劣なにやにや笑いを浮かべ、俺を弄んでたガキを殴り飛ばした気分は痛快だった。
 腕をおろし、溜飲をさげた途端、肋骨が疼きだした。
 「ところでビバリー、お前なんで都合よく双眼鏡なんか持ってんだよ!鈍器持ってんならもっと早く使えよ!」
 「サマンサにそんなひどい仕打ちができますか、ロンさんあんた鬼だ!?」
 「サマンサってだれだよ。まさか双眼鏡の名前か?」
 いや、パソコンに名前をつけて後生大事に恋人扱いしてるビバリーなら十分ありえることだ。双眼鏡だのパソコンだの無機物に恋してるビバリーはヨンイルといい勝負の変態だ。ビバリーの肩に凭れて歩いてるあいだどうも腰のあたりがごつごつすると思ったら尻ポケットにこんな凶器、もとい鈍器を隠してやがったのかとげんなりした俺の視線の先、双眼鏡を胸に抱きしめたビバリーが唇を噛む。
 「……リョウさんに貸そうと思って、持ち歩いてたんス。リョウさんちびだから、ひとりで会場行ったところで最前列とらなきゃ試合見れないし、僕の自慢のサマンサ貸してあげようと思って。双眼鏡があれば遠くからでも試合の様子わかるし、ありんこみたいにチビなリョウさんのお役に立つかなって……
 頼まれてもいないのにお節介焼いただけっス」
 ああ、そうか。
 ビバリーがパソコン抱えて医務室を突撃訪問したのは、リョウの居場所をさがしてたから。
 直接会場に行く前にリョウが顔見知りの俺らがいる医務室に寄ってるかもしれないと淡い期待を抱いて。
 たのか。たとえ絶交中でも喧嘩をしてても、ビバリーはやっぱりお人よしで、どうしたってひねくれ者で自分勝手なリョウを見捨てられないのだ。
 俺とおんなじくらいの苦労性だ。
 「なんか、他人とは思えねえな」
 「そうっスね。ロンさんと僕、案外相性よさそうっスね」
 「お互い相棒から乗り換えねえか?尻軽で浮気性で下ネタ好きなレイジよかお前の方がよっぽどダチにし甲斐があるぜ」
 「そうっスね、尻軽で浮気性で下ネタ好きでキレたらめちゃくちゃ怖いfackinなキング、歩く性病感染源と東京プリズンじゅうの囚人から恐れられる王様何様レイジ様よりか、ロンさんのピンチにまっしぐらに駆け付けるこの僕のほうが百万倍友達にし甲斐がありますね!」
 親愛の情をこめ冗談まじりの軽口を叩けば、油でも塗ったみたいによく動く舌でビバリーが賑やかにまくしたてる。大仰な身振り手振りをまじえ、芝居がかった動作でかぶりを振りつつ、レイジをけなし倒すビバリーにむっとする。
 「おい待てよ、いくらなんでもそりゃ言いすぎだろ。レイジはあれで結構きちんとしてるんだぜ?たしかにレイジが尻軽で浮気性で下ネタ好きでキレたらめちゃくちゃ怖いfackingだってのは賛成だけど、歩く性病感染源てのはあんまりだ。
 前にレイジ本人が言ってたけど、あいつ女とヤるときは必ずコンドーム付けるんだぜ?感心したよ、ほんと。その一点に関しては俺も見習いたいくらい、ってもまだ一回しか経験ないけどさ……」
 ああくそなに要らねえことまで暴露してんだ俺、レイジ庇おうとして墓穴掘ってんじゃねえよ。レイジの名誉を挽回しようとひどく焦りながら反論を試みれば、意地の悪いにやにや笑いを浮かべたビバリーが肘で俺の脇腹を小突いてくる。
 「ロンさんまさかそれ信じてるんスか、冗談とも本気ともつかない王様の戯言を?嘘ついてロンさんからかったのかもしれないじゃないスか、証拠あるんスか?あるんなら今ここで僕の目の前に提出してください、レイジさんが後生大事に保管して持ち歩いてるという例のコンドームを!!」
 「なんで俺がレイジからコンドームの分け前もらわなきゃなんねえんだよ!!」
 「だってロンさんとレイジさんそういう関係、」
 「凱の子分どもにいい加減なこと吹きこまれて頭っから信じてんじゃねえ、でまかせだでまかせ!俺とレイジはなんでもねえ、まだヤッてもねえしヤられてもねえ清い健全な関係だっつの!あ、いや待て、あれは未遂か……」
 「身に覚えがあるんスね、破廉恥な!」
 「ああもうしつけえな、前言撤回だ!お前みたいに好奇心旺盛で野次馬根性丸だしなダチなんていらね」
 悪乗りしたビバリーにむきになってつっかかり、レイジとの仲を邪推された恥ずかしさから、赤面して喚きたてる。くそっ、まだ女とだって一回しか体験してないのにビバリーも凱も凱の子分どもも、いや、ことによると東京プリズンの全囚人が俺とレイジがもうとっくに出来てるって誤解してんのか?そりゃ俺だって最近じゃレイジの過激かつ過剰なスキンシップにも免疫ができて笑いながら受け流せるようになったし、あいつに髪撫でられたり抱きしめられたりするのも不愉快じゃなくなったし、それどころかあいつの腕の中で、無意識とはいえ胸に頬すりよせて、日溜りの藁床の猫みたいにぐっすり熟睡しちまったし……
 ああ、くそ、反論できねえ!
 頭が混乱して顔が沸騰する。舌が上手く回らない悔しさから、地団駄踏み踏みビバリーに食って掛かった俺の目にとびこんできたのは……
 復讐の炎を燃やし、ビバリーの背後に忍び寄る怪しい人影。
 残虐兄弟。
 『!危険、』
 残虐兄弟のどちらか片方……弟だか兄だかが、ビバリーの頭蓋骨を陥没させようと、風切る唸りをあげて鉄パイプを振り下ろす。
 ビバリーの死角を狙い、狂気と殺意にぎらつく目で狂気を振り下ろした残虐兄弟の片割れに気付いた瞬間、即座に行動にでる。
 「わぷっ!?」 
 妙な声をあげたビバリーの頭に手を持っていき、力づくで無理矢理屈めさせる。
 いきなり頭を押さえ込まれたビバリーがわけもわからず手足をばたつかせるが、無視。ビバリーと立ち位置を入れ替えるように前方へと身を乗り出し、鉄パイプを空振りした残虐兄弟の片割れに肉薄。
 「!このっ、半々のくせに人様の獲物に手えだしやがって!」
 慌てて体勢を立て直し、再度鉄パイプを振りかぶる片割れだが、時すでに遅い。片割れの間合いに踏みこんだ俺は、手首をおもいきり蹴り上げる。いい角度で蹴りが入り、片割れの手から鉄パイプが吹っ飛ぶ。
 「半々のくせに半々のくせにってうるせえんだよ、中国人が!!喧嘩の強い弱いに国も人種も関係あるか!!」
 俺にだって、できることがある。鍵屋崎のように、サムライのように。
 仲間のために体を張れる。命を張れる。
 さっき、ガキの手からとり返したお守り代わりの牌を握りこんだ鉄拳を全力で顔面に叩きこむ。
 鈍い音、こぶしが顔面にめりこみ肉が潰れる感触。
 ひとを殴るのは久方ぶりだが、すぐに感覚が戻ってきた。長いこと慣れ親しんだ感覚、喧嘩に明け暮れて磨かれた第六感。胸は苦しかった、折れた肋骨がずきずき疼いて吐き気がこみあげてきた。でも大丈夫、まだやれる、俺はまだ戦える、レイジのところへでもどこへでも自分の行きたい場所に自分の足で行ってやる!
 決心を改め、顔を上げる。
 「ロンさん、危ないっス!」
 「!?―っ、」
 さっきとは立場が逆になった。咄嗟にビバリーに押し倒されてなけりゃ、今ごろ俺の頭は鉄パイプでへこまされてた。俺の背後に立ち塞がっていたのは、おなじく鉄パイプを構えた残虐兄弟の片割れ。くそ、こんな物騒な得物どこに隠してやがった?そこらへんに転がしてあったのなら兄弟揃ってつまずきゃよかったのに。
 「ふたりがかりなんて卑怯だぞ残虐兄弟、そっくりおなじ顔しやがって気味わりいんだよ!一発で見分けつくように額に兄か弟か書いとけ!」 
 「可愛い弟の仇だ、強姦魔はツラとペニスが命なんだよっ」
 「あんちゃんいてえよう、はなぢ、はなぢぃー」
 鼻血で顔面朱に染めた弟が滂沱の涙と鼻水を垂れ流し、腰砕けに床にへたりこみ、天井を仰いで泣き出す。逆上した兄が怒りに任せて鉄パイプを振りまわし、旋風を伴う残像が俺の前髪を舐めてゆく。
 鉄パイプを避けて後退しかけた刹那、足首に激痛。まだ完全には治ってない捻挫の痛みが再発したらしい。
 まずい、逃げ遅れた。
 足首に気を取られ、無防備に突っ立ったままの俺めがけ、横殴りに風が叩きつけてくる。首の側面に鉄パイプを入れて頚骨を折る気か?

 『Do you remenber Beverly Hills!!』
ビバリー・ヒルズを忘れるな。
 
 俺を突き飛ばし、両手を広げて立ちはだかったのは……ビバリー。
 物怖じしない瞳で鉄パイプを睨みつけ、きっと唇を引き結び、床に尻餅ついた俺を庇うように立ち塞がったビバリーの首めがけ、ほぼ水平に鉄パイプが打ちこまれる。普通なら首の骨が折れてもおかしくない、致命傷になりかねない衝撃だった。
 だが、ビバリーは死ななかった。首の骨をへし折られることもなかった。
 一瞬たりとも鉄パイプから目をそらさず、軌道を完全に見極めたビバリーは、身を挺して俺を庇い、そしておのれ自身をも鉄パイプから守り通した。ビバリーが首からぶら下げた双眼鏡がちょうど横にきて、鉄パイプを受け止めたのだ。双眼鏡のレンズが粉微塵に砕け、硝子の破片が舞い落ちる。ビバリーの首の骨がへし折れずに済んだのは、偶然か計算か、持ち主の身代わりとなり鉄パイプを防いだ双眼鏡のおかげ。
 リョウに双眼鏡を貸そうと持ち歩いてたことが、元を正せばビバリー自身のお人よしな性格が、絶体絶命の窮地における奇跡的な幸運をもたらしたのだ。
 ビバリーの行動は素早かった。双眼鏡を破壊した兄がうろたえた隙に、急所の股間に蹴りを見舞う。
 「あ、あんちゃん!タマだいじょうぶかああああっ」
 「だ、だいじょうぶなもんかいおとうとよ……俺のきんたまが、強姦魔の命がああああ」
 「ロンさん、今のうちっス!どさまぎで逃げますよ!」
 仲良く折り重なった残虐兄弟は一顧だにせず、いてもたってもいられないと俺の手を引っ張るビバリー。ビバリーに急かされて正気に戻った俺は、真面目くさって頷き、ビバリーに肩を借り、地下停留場の方角目指し、足並み揃えて歩き出す……  
 通路に足音の大群がなだれこんできたのは、その時。
 「何の騒ぎだ、これは!?」
 「くそ、囚人どもは全員決勝戦見に地下停留場におりてるはずじゃなかったのかよ?」
 「とりあえず倒れてるガキども起こして連れてけ、あとで話を聞く。暴れて手におえねえやつは独居房行きだ。ああもう、こんなことやってる場合じゃねえのによ!はやく脱走したタジマ見つけねえとこちとら大目玉……」
 口々に悪態を吐きつつ、前方の角を曲がって通路に殺到したのは看守が数人。話の内容から推量するに、独居房から脱走したタジマを捜してる途中、現場の騒動を聞きつけてここまで駆けてきたものらしい。
 「やべえ、看守だ!とっ捕まったら面倒なことになるぞ!」
 「独居房行きはごめんだぜ、畜生め!」
 「ひとまず退散だ、てめえら凱さんに迷惑かけねえよううまく看守を巻けよ!」
 看守の姿を確認した生き残りの子分どもが我先にと逃げ出し、ただでさえ道幅が狭く窮屈な通路は、大混雑の大混乱を極める。ビバリーともども人ごみに揉みくちゃにされた俺は、半死半生、這いずるようにして横脇の通路に身を隠す。
 「ロンさん、これからどうします?看守が通せんぼしてるんじゃ地下停留場行けませんよ、僕たちも見つかり次第とばっちりで独居房に……」
 「黙ってろ、今考えてんだよ!」
 くそ、凱の次は看守か。つくづく邪魔が入る運命だ。通路のど真ん中を封鎖した看守をどかさないかぎり俺とビバリーは地下停留場に行けない、かといって医務室へ逆戻りもできない。不用意に通路にとびだせば、たんに巻き添え食った俺とビバリーまで騒動の主犯と目されて独居房送りにされかねない。
 どうする?
 前門虎、後門の狼という諺が脳裏をよぎる。今ここからとびだすのは危険だ、危険すぎる。頭ではわかっている、わかってるんだ。けど、ずっとここに隠れてたってどうしようもない。
 レイジに会いたい。今すぐに会いたい。
 こうなったらイチかバチか……
 「「わあっ!?」」
 ビバリーがすっとんきょうな声をあげる。馬鹿っ、そんな大声だしたら外で見張ってる看守どもに気付かれちまうだろうがと叱責しようとして、危うく俺も腰を抜かしかける。
 たった今脇道にとびこんできたのが、東棟最大の中国系派閥のボスであり、ついさっきまでしつこく俺を嬲ってくれた張本人……
 「こんなところに隠れてやがったのかよ、肥溜めのドブネズミが」
 凱だったからだ。
 
 はは。俺が本気だしてレイジに会おうとすると、とことん邪魔される運命らしい。
 どこまでツイてないんだよ?畜生。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050810104859 | 編集

 「光あれと神は叫んだ」
 「は?」
 レイジが意味不明なことを言う。いや、意味不明なことではない。聖書を齧った者なら誰でも知ってる世界的に有名な創世記の一説だ。
 だが何故今この場でそれを言う、この一大事に関係ないことを言う?僕がレイジの正気を疑ったのは無理からぬことだ。リング中央ではホセとサムライが腕と腕を交差させ、五指と五指を組み合わせ、両者一歩も譲らぬ気迫をぶつけ合っているのに。
 サムライとホセから放たれる熱気がリングに陽炎を生み出して、眼鏡越しの視界が歪んでいるような錯覚に襲われる。
 太股の負傷がやはり体調に影響しているのか、足腰の踏みこみが利かずに全力がだせず、一時は劣勢に追いこまれたサムライだが、僕の声援をきっかけに徐徐に持ちなおしつつある。
 サムライはホセと互角に闘っている。
 南の隠者にも引けを取らず、立派に闘っている。
 苦しいだろう、辛いだろう、だが何とか保ってくれと上着の胸を掴んで狂おしく願う。試合直前に僕に拒絶されたことも体調に影響してるのだろうか、僕にきつい言葉を投げかけられたことで動揺したのだろうか?リングへと赴く寸前、孤高の背中を見せたサムライへと浴びせた罵倒を思い出す。  
 『君は過去に生きている。苗のいる過去に』
 あれは確かに本心だった、僕の嘘偽らざる本音だった。
 サムライは苗が健在だった頃を忘れられない、優しい恋人の面影を忘れられない。
 帯刀貢はこれからも永遠に、芽吹くことなく死んだ苗の面影を胸に抱いて生きてゆくのだ。
 正直、心の中ではまだ完全には割りきれてない。
 サムライが僕と苗を重ねてるのは事実で、僕は本来対等な立場の友人に庇護対象として認識されている現状に耐えきれなかった。サムライが僕の為に必死になればなるほど自己嫌悪に苦しんだ、無力感に吐き気がした。
 だってそうじゃないか。僕は外では恵を守る立場だったのに、冷淡な両親の代わりに恵を庇護すべき兄としての責任があったのに、東京プリズンではその責任を放棄してのうのうと他人に甘えている。
 他人の庇護下にある現状に甘んじている。
 両親を殺害しておきながら、恵を不幸にしておきながら、当たり前の顔をして他人に甘えるなど僕のプライドが許さない。本当はヨンイルにだって正々堂々と、だれもが納得するやり方で勝利したかった。だが出来なかった、出来なかったんだ。そんな僕がサムライに「頑張れ」などと無責任なことが言えるわけがない、ヨンイルに勝つこともできなかった僕がさも偉そうに「次は君の番だ」などと責任転嫁できるはずがない。
 でもそれでも、僕はサムライの勝利を信じたい。
 サムライが無傷で僕のもとに帰ってくれるよう願ってやまない。
 僕はサムライに伝えたい言葉がある、伝えたい気持ちがある。だから絶対、彼には無事に帰ってきてもらわなければ困る。
 大丈夫、必ず勝つ。帯刀貢は僕の自慢の友人だ。
 片手で上着の胸を掴み、もう一方の手で金網を握りしめる。何か縋るものが欲しい、僕を支えるものが欲しい。まったく、僕はいつからこんな惰弱な人間に成り果てたんだ?隣にサムライがいなければ不安で不安でしょうがないなんて、とんでもない依存体質に成り下がったものだ。針金に指を食いこませ、金網に顔を近付け、狂おしい一念でサムライの背中を見守る。
 屹立した巌のように荒削りな武士の背中。
 周囲の雑音にも惑わされず、ただ己の信念のみに忠実に、どこまでも一途に「僕を守る」という初志を貫徹しようという背中。
 「光あれと神は叫び、地上にあまねく光をもたらした」
 いつのまにか僕の隣にレイジがきていた。僕に寄り添うように並んだレイジが、金網の上方に手をかけ、サムライの背中を一瞥する。試合は白熱していた。試合開始からだいぶ時間が経ち、両者とも疲労の色が濃いが、どちらか一方の手の甲が台に接するかと思いきや寸前で踏み止まり、一気に盛り返すくりかえし。 
 ホセと互角に渡り合うサムライも凄いが、ホセも凄い。
 仮に僕とサムライが腕相撲すれば、手首がたちどころに挫かれてしまうだろう。一日も欠かさず木刀を振るい、腕と勘が鈍らぬよう鍛錬に励み、日頃から腕の筋肉を鍛えてきたサムライと普通の人間がやりあえば、極端な話手首を骨折しておもかしくない。遠距離から箸を投げて命中させる手腕の持ち主と、生半可な鍛え方で互角にやりあえるはずがない。 
 つまりホセは、サムライと同等以上の怪力の持ち主ということだ。
 サムライにとって、ホセは最大の強敵だった。
 力と力が衝突し、相殺し、サムライの手首がホセの手首を押えこんだ次の瞬間にはホセが奮起してサムライの手首を組み伏せる。
 純粋な力と力のぶつかり合い。
 「お前は頑張れと叫び、サムライに光をもたらした」
 「まだ続いてたのか?聖書を引用するのは結構だが不自然な個所で文脈を区切るな、紛らわしい」
 こんな大事なときにくだらないことを言うな、と気楽な王様にあきれる。
 レイジが言うほど話は単純じゃない、僕の一声がサムライに勝機をもたらすなど都合のいい展開は期待できない。
 金網越しでは手も足もでず、ただサムライの勝利を念じるしかない僕の隣で、十字架をいじくりながらレイジが微笑む。
 「俺の救世主はロンだけど、サムライの救世主はお前だな」
 掌にのせた十字架にロンの面影でも重ねているのか、レイジの微笑はこの上なく優しかった。離れていても心はロンと一緒か、と皮肉を言おうとしたが途中で馬鹿らしくなって口を噤む。
 どうせ僕が言い返せば倍の惚気を聞かされることになるのだ。結論、時間の無駄だ。
 しまりのないにやけ顔で惚気話をするレイジを想像して気分を害した僕をよそに、十字架を揉みしだき、レイジが飄々とうそぶく。
 「シケた面すんなよ、サムライはじきぴんぴんして帰って来るよ。王様が断言する。相棒が闘ってるのに肝心のお前が信じてやらなくてどうするんだよ。他のだれが頑張れって声かけてもサムライは勝負に夢中でそれどころじゃないしぶっちゃけ試合の邪魔だろうけど、お前の応援なら話は別だ。お前の『頑張れ』は俺の『愛してる』と同じくらいの重さだぜ?」
 「窒素並の軽さだな」
 「馬鹿、ロン限定の『愛してる』だよ」
 少し考え、結論を下す。
 「フッ素並に軽いじゃないか。君が日常ロンにむかって連発する誠意なき『愛してる』に一体どれほどの価値があるというんだ、ないだろう価値なんて。君も少しはサムライを見習え、サムライは必要最低限の単語しか口にしない寡黙な男だが本当に大事なことは出来うる限り率直に伝え……なんだそのにやけ顔は」
 「惚気?」
 「邪推するな、ありのままの事実を述べただけだ。君の饒舌ぶりとサムライの寡黙さとを比較したら後者のほうが断然好感がもてる、一緒にいて読書の邪魔にならないからな。君と同房のロンが気の毒だ、凱との一戦で怪我をしたのは気の毒だがたとえ一時的にでも医務室に隔離されて、環境を変えることができてよかったんじゃないか?医務室に入院してるあいだは君に寝込みを襲われることもなく、ぐっすりと熟睡……」
 唐突にレイジが顔を上げる。
 虚空に固定された横顔が俄かに真剣味を帯び、双眸が鋭さを増す。
 「キーストア、今なにか聞こえなかったか?」
 「は?」
 どうしたんだ、とうとう頭までおかしくなったのか。レイジの顔はひどく真面目だが、十字架を握りしめ、せわしなくあたりを見まわす様子は挙動不審と言うしかない。突如豹変した態度に疑問を挟む余地もなくレイジが僕へと向き直る。
 「ロンの声がしなかったか?」
 「……幻聴だろう、ロンは医務室で寝ているはずだ。肋骨を骨折して全身十三箇所の打撲傷を負って、覚せい剤の後遺症も残っている。とても動ける状態じゃない、だれかの助力がなければ地下停留場までやってこれないはずだ。隣のベッドのサムライが今ここにいるということは、現在、ロンに手を貸す人物はだれもいないという消去法の推理が成り立つ。無論、ロンの性格上君を心配するあまり無理をしてでも地下停留場に這ってこようとするだろうが……実際不可能だろう、人体の限界を超越してる」
 「サムライはほふく前進で人体の限界とやらを超越したぜ」
 「彼は武士だからな」
 「ちょっと待て、一瞬納得しそうになったけどおかしいだろそれ」
 「知っているか?江戸時代の武士には割腹自殺の風習があったそうだ。主君に仇なした場合や家名に泥を塗った場合、自らの手で恥をすすぐべく切腹するんだ。自らの手で短刀を腹に突き立て、横一文字に切り開いて。そんな忍耐力の限界に挑戦するような奇行が五百年余りをかけて習慣化及び伝統化した武士なら、患部の痛みを克服して長距離を這いずってきてもおかしくない」
 僕の淘淘とした説明を聞いているのかいないのか、レイジは心ここにあらずといった様子で虚空を仰いでいる。十字架を手のひらに抱き、呆けたように立ち尽くすレイジの横顔に、漠然と不安をかきたてられる。
 どうしてそんな怖い顔をする?ロンは医務室で寝ているはずじゃないか、安全な場所にいるはずじゃないか。この上ロンの身にまで何かよからぬことが起きているなど想像もしたくない。
 「幻聴に決まっている。一度聴力検査を受けたらどうだ、現実にいない人物の声が聞こえるのは病気の一種、それもかなり進行した精神病の症状だ。この地下停留場のどこにロンがいるというんだ、よく見まわしてみろ。と言っても彼は身長が低いから、仮にいたとしても人ごみに埋もれて見えないだろうが」
 「わり、俺ちょっとぬけるわ」
 突然何を言い出すんだこの低脳は。
 片手を挙げて離席を告げたレイジに愕然とする。
 「ふざけるな、どこへ行く気だ!?リングではサムライが独り戦ってるんだぞ、君が観てやらなくてどうするんだ!元を正せばサムライは君の相棒だ、二人一組でペア戦100人抜きを宣言した相棒を見捨ててロンの見舞いに行って、それで肝心のロンが喜ぶとでも思うのか!?」
 怒りが爆発した。断言するが、レイジが聞いたのは幻聴だ。それが証拠に、地下停留場のどこにもロンの姿は見当たらなかった。しかしレイジは納得せず、不吉な胸騒ぎだか第六感だかあてにならないものに駆られて、リング上で苦戦を強いられるサムライを見捨て、この場を離れようとしている。
 それで、東棟の王様を名乗るつもりか?
 僕らの王様を名乗るつもりか?
 「だってなんか、うまく言えねえけどやーな感じすんだよ!さっき確かに声が聞こえたんだ、この前の試合の夜みたいに必死に俺を呼ぶ声が!レイジって俺の名前呼んでたんだよ、助けを求めるみたいに!じゃあ聞くけどキーストア、なんでロンが医務室にいるって言いきれる?今ここにいるお前が何を根拠にロンの居場所を断言するんだよ、ロンが今どこにいるかなんて超能力者でもねえお前にわかるはずねえだろ!!」
 興奮したレイジが僕の胸ぐらに掴みかかるのを、割れたレンズ越しにひややかに眺める。
 「確かに僕は超能力者ではない、君たち凡人と比べて頭脳は遥かに発達してるが、未だに超能力に目覚める兆候もなければ不可解な幻聴に悩まされることもない。いいかレイジ、さっきのは空耳だ。今ここにいない人間の声が聞こえるはずがないんだ、ロンは現在医務室にいる、僕たちが試合に勝利して全員無事に帰ってくるのを待っているんだ!!」
 絶対にレイジを行かせてなるものか、絶対に食いとめなければ、全身全霊を賭けて引きとめなければ。僕にはレイジをこの場に留まらせる責任がある。
 もしレイジが医務室に行けば当然次の試合には間に合わず、自動的に僕たちの敗北が確定する。レイジが試合に間に合わなければ残るサーシャの不戦勝となり、僕ら全員が破滅する。
 「けど、ロンが呼んでるなら俺が行ってやんなきゃ!俺の腕引っ張って暗闇から連れ出してくれた借り返さなきゃ、」
 「そんなにロンと僕を売春班に戻したいのか!?」 
 はっとした。
 言い過ぎた、と思った時には遅かった。俯いたレイジの指の間から金鎖が零れ落ち、涼やかな音を奏でる。重苦しい沈黙。先に顔を上げたのはレイジだった。ロンへの未練を断ちきり、今自分が成すべきことに優先順位をつけたらしく、さっぱりした顔だった。
 「……そうだな。俺、王様だもんな。サムライが戦ってるの放ったらかしたら、お人よしのロンに怒られちまう」
 ばつ悪げにはにかみ、正方形のリングを隔てた対岸へと視線を転じる。ちょうど金網を隔てたホセの背後に、配下を従えて佇んでいたのはサーシャ。配下の多くは先の抗争で怪我を負い、頭や腕に包帯を巻いていたが、サーシャはもう全快したようで顔に傷痕すら見当たらなかった。
 高所に設置された照明から、網膜も焦がさんばかりに白熱の奔流が降り注ぐ。
 照明の反射で王冠を被せたように白銀の髪を輝かせ、満身創痍の配下十数名を身辺に侍らせたサーシャは、鉤のように曲げた指で金網を掴み、ただじっとレイジだけを見つめていた。いつかとおなじように金網を隔て、こちら側にいるレイジだけを執念深く見つめ続けていた。
 妄執に狂ったアイスブルーの瞳が物語るのは、レイジへの尽きせぬ憎悪。
 サーシャの唇が無音で動く。
 「なんて言ってんだ?」
 いかに地獄耳なレイジといえど、地下停留場を埋める大観衆が喉を嗄らして歓声をあげる状況では、サーシャの意を汲み取れなかったらしい。
 サーシャの唇の動きを正確に読み取った僕は、特別に翻訳してやる。
 『Rage again』 
 レイジが不審げに眉をひそめる。物分りの悪いレイジに、眼鏡のブリッジを押し上げつつ補足する。
 「私をまた怒らせたな、と北の皇帝は言ってるんだ」
 『Crazy again』
 レイジが獰猛な笑顔を覗かせる。狂ってやがる、と吐き捨てて。
 氷点下の冷気を纏ったサーシャと四肢に殺気を通わせたレイジとが一触即発で睨み合う中、両手で金網を掴んで身を乗り出した僕は、一瞬たりとも気を抜けずに試合の行方に剋目していた。
 「しぶといですよ、未婚者のくせに」
 「伴侶の有無は関係なかろう」
 リング中央、満場の注目を浴び、台を挟んで対峙するサムライとホセ。ホセの額には玉の汗が浮かび、心なしか笑みを浮かべた口元がひきつっている。僕に背中を向けたサムライの表情はこの位置からはよく見えないが、おそらく、相対した人間の心胆寒からしめる猛禽の双眸をしてることだろう。
 よく研磨した真剣の如く眼光鋭くホセを威圧し、下顎に力をこめて奥歯を食い縛り、上腕の筋肉を盛り上げる。
 「おおありですよ。吾輩には守らなければならない伴侶がいる、守らなければならない家庭がある。外に吾輩の帰りを待つワイフがいる限り吾輩は百人力、こんなところでは死ねません。吾輩の死に場所はワイフの膝の上と心に決めているのです」
 渾身の力でサムライの腕を押し返しつつ、虚勢を張るホセのこめかみを幾筋も汗が伝う。  
 「吾輩は必ず生きて外にでて、ワイフに今日のことを自慢しなければならない。地下ボクシングでは無敵で鳴らした吾輩が腕相撲ごときで負けたと知れば、ワイフはたいそう嘆き哀しむことでしょう。いいですか?よくお聞きなさい未婚者風情が」
 大きく肩を上下させ深呼吸したホセが、底知れぬ笑みを浮かべ、サムライを見据える。
 ぎらつく闘志を剥き出した、狂戦士の本性全開の笑顔。
 「吾輩の腕はワイフを抱く為にある。過去にワイフを抱いた腕で敗北を喫するなど、既婚者のプライドが許さない」 
 秀でた額に一房髪をはりつかせ、疲労困憊の顔色で息を荒げつつ、ホセが勝負にでる。逆転を賭けた最後の猛攻。まずい。これ以上の持久戦は不利と踏み、一気に勝負をつける気だ。
 ホセのパンチには瞬発力がある、それは渡り廊下での抗争で実証済みだ。ホセが素手でナイフを砕いた瞬間を僕はこの目で目撃しているから間違いないが、腕相撲となると話が違う。ホセの誤算か、いや、早期に決着をつけるつもりがサムライの頑張りに苦戦を強いられたのか、持久戦に持ちこめばどちらか一方の体力が底を尽くまでの純粋な体力勝負となる。
 この場で求められるのは瞬発力よりもむしろ持久力なのだ。
 「!っ、ぐ」 
 サムライの顔が苦痛に歪み、ホセに押えこまれた手首が急激に高度を下げてゆく。万力めいた握力でサムライの指を締め上げ、手首に圧力をかける。サムライの額に脂汗が滲み、ズボンの太股に滲みだした鮮血の染みが広がりつつある。今にも砕けそうな膝を気力のみで支え、今にも挫けそうな肘を気力のみで支え、全身全霊でホセに抗う。
 仲間を守りたいがために。
 僕を守りたいがために。
 胸が熱くなる。体が熱くなる。サムライが僕と苗を重ねている。だからなんだ、それでもサムライは必死に僕を守ろうとしている。サムライがそうまでして僕を守ろうとするのは、僕が苗の身代わりだからじゃなくて。
 多分、僕が彼の友人だからで。
 僕にとってのサムライがそうであるように、彼にとってもまた、僕は必要な人間で。
 ああ、わかった。
 天才のくせに、今頃こんなことに気付くなんて遅すぎる。
 
 ―「負けるな帯刀貢、君はこの天才が認めた唯一の男だ、君にはこの鍵屋崎直がついている!!この僕に信じて頼られることを誇りに思え、僕の体に触れられることを誇りに思え、貢!!」―

 僕らは互いを必要としている。
 今はそれだけで十分だ。
 鍵屋崎直は、帯刀貢を必要としている。胸が苦しくなるくらいに。

 そしてとうとう、試合終了のゴングが響き渡った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050809051442 | 編集

 「こんなところに隠れてやがったのか、半々」
 脇道の通路に転がりこんできたのは凱。俺の宿敵、因縁の相手。
 東京プリズン入所以来憎い台湾人の血を半分受け継ぐ俺を目の敵にして、大勢の子分どもに顎をしゃくってさんざんちょっかいかけてきた。レイジとサムライに次ぐナンバー3の実力者で東棟最大の中国系派閥のトップ、 傘下に子分三百人を擁する大所帯のボスだ。
 凱にはこれまでさんざん酷い目に遭わされてきた。
 食堂でわざと肘をぶつけられて食器類をぶちまけたことだって一度や二度じゃない、イエローワークの肉体労働後の空きっ腹に飯抜きはひどくこたえて、ささやかな塩分補給に指の皮を剥いて食べた。
 廊下ですれちがいざま小突かれたり唾吐かれたりは日常茶飯事で、「半々」の蔑称で呼び習わされることにもすっかり慣れちまって、この頃じゃあ反感も持たなくなっちまった。
 鍵屋崎が来たばかりの頃、イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけた。頭上に大量の砂をぶっかけられた、目や穴や口、服の内側にまで砂が入りこんでじゃりじゃりした。労働放棄した野次馬どもがやんやと喝采をあげる中、ズボンをひっぺがされてケツを掘られそうになった。
 あの時のことは鮮明に覚えてる、忘れようったって忘れられねえ。
 凱さえいなきゃ俺は今よりいくらか東京プリズンで平和に過ごせたはずだ、安息の日々とやらが訪れたはずだ。俺のムショ生活を灰色にした二大悪たる張本人はタジマと凱で、俺はどっちも大嫌いだ。
 いや、大嫌いなんて言葉じゃ生易しい生ぬるい。
 今まで凱やタジマにされてきたこと、舐めさせられた屈辱の数々を思い返せば、頭が瞬間沸騰して理性が飛びそうになる。
 その凱が、俺のムショ生活を灰色に変えた張本人の凱が、現実に目の前にいる。
 コンクリ壁を背に追い詰められた俺は、ごくりと音たてて生唾を嚥下する。緊張で手のひらが汗ばみ、体が強張る。凱相手にびびってるのか?情けねえ。虚勢と自嘲とが入り混じった笑みを強いて浮かべようとし、失敗した。
 俺の身に危機が迫っている。これ以上ない危機が。
 無敵の救世主が現れるなんて都合いい展開は期待できない。
 そんな展開はありえない。
 俺は四面楚歌の状況で、周りには敵しかいなくて、背後は行き止まりの壁で鼻先には凱が立ち塞がって、狭苦しい脇道に追いこまれて逃げ場がない。
 表通路じゃ既に大捕り物が始まってる、凱の子分どもと看守勢が入り乱れた大乱闘。
 「この野郎大人しくしやがれ、看守に逆らったらどうなるかわかってんだろうな!」
 「後ろ手に手錠かけて独居房にぶちこんでやるから覚悟しろ、看守に手え上げたんだ、最低三日は丸太みたく汚物まみれの床に転がして自分のクソ食わしてやる!!」
 「はっ、いきがんじゃねえよ無能のくせに!タジマ一匹見つけられねえくせに囚人相手だと途端に態度でかくなるんだな、警棒振りまわして囚人脅すしか能がねえ看守どもは引っ込んでろよ!」
 「俺たちゃ凱さんのリベンジ戦観に来たんだ、その為にわざわざここに集まったんだ!邪魔すんなよ肥満腹、そんな脂肪太りした体で強制労働で鍛えた俺た囚人サマを捕まえられると思ってんのかよ!?」
 口汚く罵声を浴びせる看守を中指突きたて挑発する囚人。
 残虐兄弟がぴたりと呼吸の合った連携プレイで看守に足払いをかけて上に跨り滅多打ち、まだ看守に取り押さえられてない生き残りのガキどもが二手に分かれ、先鋒の組が派手に暴れて陽動してるあいだに後続の組が死角に回りこみ、一気に攻め入る。
 「あんちゃん、今だ、いけっ!残虐パンチをお見舞いしてやれ!」
 弟の声援に気を良くした兄貴が、こぶしに吐息を吹きかける。 
 「任せとけ弟よ、目ん玉かっぽじって兄ちゃんの勇姿を見とけ!」
 いや、目ん玉かっぽじったらそもそも見えねえし。
 心中突っ込んだ俺をよそに、表通路は乱戦模様を呈し始めた。
 逆上した看守ども歯向かう囚人。常日頃から対立する二大勢力がぶつかりあい濛々と埃を舞い上げて取っ組み合いを始める。
 始末に負えない。
 凱の子分どもはトップに負けず劣らず好戦意欲旺盛な馬鹿揃いで、殴る蹴る頭突く喧嘩に使う体力持て余していた。手がでる足がでる鉄パイプが空を切るスタンガンが火花を散らす。独居房にぶちこまれるくらいなら死ぬ気で歯向かってやると捨て身の反撃にでたガキどもが、目をぎらぎら輝かせて看守にとびかかる。
 罵声と悲鳴と絶叫、こぶしが肉を打つ鈍い音、鉄パイプが壁を穿つ音。
 表通路は阿鼻叫喚の戦場と化した。
 殺伐と荒廃した空気が漂う表通路に不用意に飛び出せば最後、鉄パイプで頭蓋骨陥没は必至。
 今飛び出すのは危険だ、あまりに危険すぎる。
 俺は命知らずの馬鹿じゃない、あたりまえに命は惜しい、戦場のど真ん中に身ひとつで飛び出してくような自殺行為には意味がない。
 けど、このままここにいたって状況は変わらない。
 即ち絶体絶命危機的状況、都合よく助けなんかきやしない。俺の鼻先には威風堂々と凱が立ち塞がってる、小柄な俺を圧する凱の巨体が尊大にふんぞり返って正面を塞いでる。
 壁に背中を付け、顎を引き、考える。
 こんなとこで愚図愚図してる場合じゃない、凱に絡まれてる暇はない。今の俺は一分一秒が惜しい身の上、一刻も早く地下停留場にとんでいって最終決戦に挑むレイジを激励してやらなきゃいけないのだ。
 俺には大事な役目がある。俺しかできないこと、俺じゃなきゃ駄目な仕事、他の誰にも転嫁できない一世一代の大仕事が目先に控えているのだ。そうだ、レイジの背中を押すのは他の誰でもなく俺じゃなきゃ駄目なんだ。 
 他人に肩代わりさせてなるもんか。レイジを戦場に送り出すのは、生還の約束を取り付けるのは、俺じゃなきゃ駄目なんだ。

 レイジには、俺がついててやらなきゃ駄目だ。
 王様はあれで、寂しがり屋だから。

 「でかい図体で道塞いでねえでとっととそこどけよ、凱」
 王様に発破をかけて、必ず帰ってこいよって本音を伝えて。
 俺にはレイジが必要だ。レイジには俺が必要だ。どちらか一方が欠けても駄目だ、俺が今日まで東京プリズンで生き延びれたのはレイジがいたからでそれはつまりレイジのおかげで。
 俺はレイジに、借りを返さなきゃいけない。
 今まで世話になりっぱなしだった借りを、迷惑かけっぱなしだった借りを。
 一人前の相棒としてレイジに認めてもらうためにも、あいつの背中を守ってやらなきゃ。  
 あいつが帰る場所を守ってやらなきゃ。
 大きく息を吸い、固い決意を宿した目で凱を見据える。正直怖かった。俺はびびっていた。
 凱に立ち向かうのは怖かった。
 こうして相対して圧倒的な体格差に気圧されて、顎の角張った威圧的な面構えで見下ろされて、無意識にあとじさりそうになった。
 凱に対する恐怖はまだ完全に拭い去れてない。
 イエローワークの砂漠でケツを剥かれて犯られかけた。強姦未遂。展望台から帰る途中の廊下で服に手を突っ込まれて人に言えない場所をあちこちまさぐられた。強姦未遂。
 未遂未遂、奇跡的に幸運な未遂の連続。
 だが、今度も未遂で済む保証はない。
 足腰が萎えそうだ。逃げ出したい衝動と戦いながら、唇を噛みしめ、精一杯の虚勢を張って凱と対峙する。凱は怖い。だからなんだ、それがどうした?凱をどかさなきゃレイジに会えない、あいつのところへ行けない。
 はなから選択肢はない。結論はもうでてる。
 あとは、決断するだけだ。
 「どうしたんだよおっかない顔して。俺にのしかかられてびびってんのかよ」
 壁に片手をついた凱が上体を屈め、前傾姿勢をとり、俺へと顔を近付ける。 無精髭の濃い顎を突き出し、至近距離から顔を覗きこまれ、喉がひきつる。
 唇と唇が接触寸前だ。気色悪い、むさ苦しい顔近付けるんじゃねえと叫びだしたい衝動を自制心を振り絞りどうにか堪えた。
 目の前に凱がいる。壁に片手をついて、俺に覆い被さるようにしてにやにやと顔を覗きこんでいる。
 分厚い唇を捻じ曲げた野卑な笑顔。
 「こちとらとんだ計算違いだぜ。決勝戦が始まってる今なら看守も試合見物を決めこんで、警備がおろそかになってると踏んだのによ。医務室がお留守になってる今なら、前回のリベンジ戦を心おきなくたっぷり行えるって意気揚揚と出向いてきたってのに、いいところで邪魔が入りやがった」
 混乱の極みの表通路を一瞥し、凱が舌打ち。露骨に不快げな態度。
 そりゃそうだろう。
 凱にしてみりゃ、子分どもの前で恥かかされた前回のリベンジ戦のつもりで、地下停留場に向かう通路の途中で俺を待ち伏せしてたのだ。
 いや、待ち伏せという表現は正しくない。凱は子分どもを率いて医務室に攻めこむつもりで、その途中でばったり俺と出くわしたのだから。
 凱にしてみりゃ長い道のり歩いて医務室へ乗り込む手間が省けて万万歳だ。

 目隠しして、牌を遠方に放り投げて、犬の真似をさせて。

 仲間が笑いながら観てる前で存分に俺を嬲り者にして、溜飲をさげたところで興醒めな邪魔が入り、凱が不機嫌になったのもわかる。
 凱はまだ、このくだらないお遊戯を続けるつもりだ。執念深い凱はまだ前回の敗北を根に持ってる、まだまだ俺を痛め付けなきゃ気が済まない物足りないと妄執に狂った目が語っている。
 「どうせもう少ししたら俺の居所もばれちまう。看守に見つかるのは時間の問題だ。けど、その2・3分がありゃあたらしく骨をへし折るには十分だよなあ?」
 凱の語尾が上擦り、片手で頭を鷲掴みにされる。
 万力めいた五指でぎりぎり締め上げられ、頭蓋骨が軋む。激痛。凱の手を外そうと手首を掴むが、とんでもない怪力で押そうが引こうがびくともしない。化け物じみた握力。赤ん坊の頭くらい容易に捻り潰せそうだ。 
 「ロ、ロンさん!?」
 「ひっこんでろビバリー、これは俺の喧嘩だ!」
 慌てふためいたビバリーを一喝して黙らせる。
 そうだ、これは俺の喧嘩だ。俺が買った喧嘩だ。部外者はひっこんでろ、指をくわえて見物してろ。
 ビバリーが要らぬ口だしをしてとばっちりをくったら、と牽制したのもある。
 でもそれ以上に俺は、喧嘩を横取りされるのがいやだったのだ。俺だって地元池袋じゃ悪名高い武闘派チームで場数を踏んだ前科の持ち主だ。
 凱に負けてたまるか。
 喧嘩じゃ先に目を逸らした方が負けだ。
 喧嘩に肝要なのはハッタリだ。
 ハッタリを利かせた物腰で窮地を切りぬけるのは俺の得意技だ。心の奥底じゃ日々降り積もった凱に対する恐怖が払拭できなくても、虚勢を張って、努めて平気なふりで対峙することはできる。
 力を貸してくれレイジ。
 手のひらに牌を握りしめ、切実な一念をこめる。
 俺には牌がある。レイジに渡した牌の片割れ、お揃いのお守り。だから大丈夫だ、俺にはレイジがついてる。
 深呼吸で心を静め、顎を引き、しっかりと目を見開いて凱を見据える。
 どこまでも愚直に一途に、意志を貫く眼光で。
 『不要客気』
 凱が妙な顔をする。俺の言葉に耳を疑ったようだ。
 「遠慮はいらねえ。どこでもへし折りたきゃへし折れよ。頭蓋骨でも腕でも足でもお望みのところをへし折りゃいいだろ、薪みたいに乾いたいい音がするだろうさ」
 「ちょ、ロンさん頭どうかしたんスか!?」
 ビバリーが目ん玉ひん剥いて身を乗り出すのを片手で制し、低く押えた口調で続ける。
 心は不思議と落ち着いていた。凪の状態だった。
 一度覚悟を固めたら、気のせいか肋骨の激痛も薄らぎ始めた。決心を固めるのに少し時間が要ったが、自分が口にしたことに後悔はなかった。
 当惑したのは凱の方だ。ビバリーとおなじく俺の正気を疑うように目を細め、手の力を抜く。
 弛緩した凱の手をゆっくり頭から外し、顔を上げる。
 今の俺には笑みを浮かべる余裕さえあった。たとえそれが虚勢の笑みであっても。
 「それがお前の望みなんだろ。それでお前は満足なんだろ。さあいいぜ、どこでもへし折って間接増やしてくれよ。こないだお前に折られた肋骨もまだ完全にはくっついてねえけど、かまやしねえ。けど」
 言葉を切り、一呼吸おく。
 そっと瞼を閉じれば、レイジの面影が脳裏に浮かぶ。
 俺が腐るほど見慣れた能天気な笑顔。今は遠いところにある笑顔。
 レイジのところに行かなくちゃ。あいつをひとりにするのはいやだ。
 俺の相棒は恰好つけたがりのくせにひどく寂しがり屋だから、俺がそばにいなきゃ不安で不安でしょうがなくて。
 「体じゅうの骨をへし折ったくらいで、俺を止められると思ったら大間違いだ」
 痛いほど手に牌を握りしめ、凱を直視する。
 「俺は這ってでも地下停留場に行く、試合会場に行く。お前が何度邪魔しようが何度蹴り倒されようが殴り倒されようが関係ねえ、ささいなことだ。俺はもう一度レイジに会うためなら手段を選ばない、レイジの笑顔のためなら他のなにを売り払っても惜しくない。
 あいつの笑顔にはそれだけの価値がある。いまさら骨の一本や二本、三本や四本五本折れようが俺があきらめるとでも思ってるのかよ?その程度のことで、レイジをあきらめるとでも思ってるのかよ!?」
 発作的に凱の胸ぐらを掴む。
 俺の剣幕に気圧された凱が驚愕に目を剥く。いつもやられっぱなしの俺が、なにをとち狂ったのか自分の胸ぐらを掴み、啖呵を切っているのだ。
 俺は無我夢中だった。もう一度レイジに会う為なら手段を選ばないと本気で口にして、前言を実行するのに一瞬の躊躇もなかった。
 「東棟最大の中国系派閥のボス、三百人の子分を抱える裸の王様凱の恥ずかしい秘密を今ここで暴露してやる!凱ごときを崇拝してる中国人のガキども、耳の穴かっぽじって風通しよくして拝聴しやがれ!!」
 「!?なっ、」
 凱の胸ぐらを掴んだまま、大口開けて叫ぶ。そんなことすりゃ自ら居場所を知らせることになると重々承知していたが、やめなかった。背に腹はかえられない、手段は選んでいられないと自分で言ったばかりじゃないか。
 「東棟最大の中国系派閥のボスとして日頃威張りくさってる凱が、実は娘にベタ惚れのバカ親父だってことは割と知られてるが、今から半年ばかし前廊下歩いてるときに娘の写真おっことして!」
 「わーーーーー!!!!」
 凱がみっともなく取り乱すが、やめない。口を塞ごうと迫りくる凱の手におもいきり噛みつき、続ける。
 「ズボンの膝が汚れるのにも頓着せず必死こいて捜しまくって!」 
 「てめえくそふざけんなただじゃおかねえぞこの半々っ、写真のこた黙ってろって約束したじゃねえかくそ、最悪のタイミングで暴露しやがって看守だっていやがるのに!?」
 凱は完全に気が動転してた。最前までの余裕は綺麗さっぱり消し飛んでた。凱が娘を溺愛してることは写真を見せられた子分どもには周知の事実だろうが、写真を紛失した凱が何時間も廊下を行ったり来たりしてたことは俺たち二人だけの秘密だ。
 少なくとも今この瞬間まではそういう取り決めになっていた、言うなりゃ暗黙の了解ってやつだ。
 こうなりゃヤケだ。だんだん楽しくなってきた。凱をおちょくる機会などこの先いつ訪れるかわからない。ならばこの機会に悔いなく積年の恨みを晴らさねば。
 「なあ教えてくれよ凱。俺が拾った写真涎でべたついてたんだけど、あれひょっとしてお前がキスしたからじゃねえか?自分そっくりの可愛い可愛い娘の顔にぶちゅうってキスしたんだよな、子分どもに隠れてこっそりと!!そりゃそうだよな、娘可愛さに鼻の下のばした腑抜け面なんざ人前に晒せないよな!」
 『不可以説!!』
 しゃべるな!!
 『没有忘記!!』
 忘れられるか!!
 俺をとっ捕まえようと凱の腕がのびてくるのをかいくぐり、ビバリーへと駆け寄る。足が縺れ、バランスを崩し、転倒寸前にビバリーに肩を支えられる。 ビバリーに肩を抱かれて顔を起こした俺は、してやったりと笑い、怒り心頭の凱を仰ぐ。
 その意気。いい調子だ。
 「凱、取引だ。これ以上恥ずかしい秘密をばらされたくなかったら言うことを聞け」
 こめかみの血管を脈打たせ、静脈が浮き立つほどに両こぶしを握りしめ、怒りに充血した面相でもはや声もなく口を開閉する凱に間髪入れず畳みかける。
 「『半々の分際で俺さまに命令たあ何様のつもりだ』って言いたいのか?ざまみろ、代わりに言ってやったぜ。気が済んだろ、今度は俺の番だ」
 表通路のどよめき。
 「まさかあの凱さんが!?」
 「親バカなのは知ってたけど娘の写真にキスって……マジかよ」
 「引くぜ」
 「あんちゃん、涎まみれの写真てばっちいな。写真なんか舐めても美味くねえのにな」
 「同感だ弟よ」
 凱の素顔を知らされた子分どもの間に動揺が広がる。
 今さら表にでれない、それこそ晒し者になりにいくようなものだ。
 壁を背に目を白黒させる凱へと詰めより、胸に人さし指をつきつけ、真面目くさって命令する。
 「お前、俺を地下停留場に連れてけ」
 命令、というより脅迫に近かった。凱に拒否権はないのだから。これ以上恥ずかしい秘密を暴露され子分どもの人望を失いたくなければ俺の言うことに従うしかないとわかりきっているのだから。
 俺を担いだビバリーが寝耳に水の発言にぎょっとする。
 「ロンさんあんた正気っスか、お熱あるんじゃないスか!?ひょっとしてサマンサの呪いっスか、無念の死を遂げたサマンサの霊魂がロンさんに祟りをなして……」
 「さあどうする、俺はいいんだぜ別に、お前が廊下を行ったり来たりして写真一枚のために汗水流してるさまを詳細に記述してやっても!普段威張りくさってるお前がどんだけ親バカか子分どもに思い知らせてやっても!」
 気迫をこめた面構えで圧力をかけ、決断を迫る。四面楚歌の窮地に追い込まれた凱はぐっと煮詰まり、射殺さんばかりの目つきで俺を睨んでいたが、舌打ちの後で顔を伏せる。
 「……おんぶかだっこか選べ」 
 「は?」
 「おんぶでふぁいなるあんさー!」
 語尾を横取りしたのはビバリーだった。
 次の瞬間、体が浮遊感に包まれ、足裏が浮く。俺の体をひょいと肩に担ぎ上げた凱が、苦虫をまとめて十匹は噛み潰した表情で吐き捨てる。
 「……ふざけやがって。今すぐ殺しちまいたいのが本音だが、俺にも守りてえ威厳ってもんがある。この場は譲歩して顔を立ててやるが、お前を地下停留場に連れてって決勝戦が終わった後にでもじっくりたっぷり心ゆくまで殺してやるよ」
 凱なりの死刑宣告。
 「ああああああああああああっくそおおおおおっ親バカの何が悪いんだよ、娘の写真に接吻なんて世の親父どもが普通にやってることじゃねえかよおおおおお!!!!」
 狂える咆哮がびりびりと大気を震わし通路に響き渡る。
 凱の怒号に看守と囚人全員が動きを止めた時には既に遅く、地響きの足音をたて表通路にとびだした凱が怒り荒ぶる双眸で周囲を睥睨する。
 凱の眼球は獰猛に血走っていた。鼻息は暴れ牛のように荒かった。
 「と、取り押さえろ!」
 「手錠かけて独居房にぶちこんどけ!」
 「こらおとなしく、ぶっ!?」
 なりふりかまわず暴れて並居る看守を突き飛ばし蹴散らし、のみならずたまたまそばに居合わせた子分までも巻き添えで蹴倒して憤然と突き進む。
 凱の名を連呼する子分どもも凱を制止しようとさかんに叫び交わす看守も一切視界に入ってないのか、いや、見えていながら無視しているのか、俺とビバリーを二人一緒におぶった凱が地鳴りめいた足音を響かせて長い長い通路を疾駆する。
 「ちょ、凱さん凱さん!僕はともかくロンさんは怪我人なんですからもっと丁重に扱ってくださいっス、はげしい運動は骨に響きまス!!」 
 「贅沢言うんじゃねえ、パシってやってるだけ感謝しろ!」
 お人よしのビバリーが俺が言いたことを代弁してくれた。まったくそのとおりだ、少しは怪我人をいたわれってんだ。
 俺たちを振り落とさんばかりの勢いで凱が全力疾走する中、左右の景色が残像を曳いて後方に飛び去り、やがて床が傾斜。
 凱が大股に階段を駆けおりる途中、段差に足裏が着地するたび背負われた体が弾んで肋骨に響いた。
 図体でかいくせに凱の足は速かった。
 ビバリーに縋り、医務室からぜえはあ息を切らして歩いた距離が嘘みたいにあっというまに地下停留場までの道のりを走破してしまった。
 灰色のコンクリ壁が左右に延々と続く矩形の通路を走り続ければ、前方に光。
 地下停留場に通じる出入り口。
 『快鮎!』
 急げ!
 『了解!』
 わかってる!
 凱が加速する。振り落とされないようしっかり背中にしがみつく。振動が直に肋骨に響き、胸が苦しかった。全身の間接が軋んで悲鳴をあげた。
 もうすぐだ、もうすぐレイジに会える。レイジの笑顔が見れる。
 凱の背中に顔を埋め、牌を握った方のこぶしをおのれの顎下にあてがう。
 どうか間に合ってくれ。レイジとの約束を確かめるチャンスをくれ。
 いるならどうか、神様―……

 『今日の試合が終わったら抱かせてくれよ』
 レイジ―……

 光を抜けた。
 強烈な照明が網膜を射り、視界が漂白される。
 同時に地下停留場全体を揺るがす喝采があがる。
 一際澄んだゴングの甲高い音色。試合終了の合図。
 サムライの試合が終了したのだ。
 「サムライは!?」
 レイジは、鍵屋崎は?みんな無事なのか?凱の背中からずり落ちるようにコンクリ床に足裏をつければ、固い地面に平衡感覚が狂い、よろめく。
 反射的に俺を支えたのはビバリー。きょろきょろとあたりを見まわしつつ、数え切れないほどの人の頭越しに伸び上がるようにリングを窺い、そして。
 リングを指さしたビバリーの顔が燦然と輝く。

 『The winner is Samurai!!』

 ゴングが鳴り終わったあと、最後までリングに立っていたのは……
 サムライだった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050808041424 | 編集

 「俺とて譲れないものがある。守りたいものがある」
 地下停留場の雑音を圧して凛とした声が湧きあがる。
 ホセと五指を組んだサムライが凄烈な眼光を放ち、額に汗して正面の敵を射竦める。
 大動脈をすれすれをナイフがざっくり掠めた大怪我で、本来なら医務室のベッドに伏せってなきゃいけないのに、鍵屋崎を守りたい一心で、武士の信念とやらを貫き通したい一念で長い廊下を這いずってきたのだ。
 恐ろしいまでの執念。
 そうまでしてサムライを突き動かすのは誰かを守りたいという一途な信念、自分の身を犠牲にしてまでも全身全霊を賭して大事な人間を守り抜かんと死地に赴く武士の生き様。
 凄絶の一語に尽きる生き様。
 サムライにとって鍵屋崎の存在はそれだけ重要だった、他の何物にも替え難いかけがえのないものだった。
 俺にとってのレイジがそうであるように、そう、それこそサムライが言った通りに絶対譲れないもの。
 俺が東京プリズンに来てレイジに出会ったのは全くの偶然で、ただの皮肉な偶然で、俺は東京プリズンでレイジに出会えたことが運命だなんて甘っちょろい感傷に浸ったりはしない。
 俺とレイジが出会ったのはただの偶然。俺たちは人殺しだ。人を殺した罪で裁かれてこの砂漠のど真ん中の刑務所に送られた。逆に言えば、俺が人殺しでさえなければ一生涯レイジと出会うことはなかった。
 あの時手榴弾の栓を抜かなければ、手榴弾を投げなければ、俺の運命は変わっていた。
 俺には別の人生があった。
 今ここにいない人生、東京プリズンとは無縁の平凡な人生、レイジと出会うことなく終わった人生が。
 俺たちの出会いを「運命」なんて恰好つけて呼んじゃいけない、それは俺たちが殺した人間への冒涜だ。死者への侮辱だ。これは運命なんかじゃない。ただの皮肉な偶然だ。ここは刑務所で俺たちは人殺しで、それは到底動かし難い事実でごまかしの利かない現実で。
 だから俺は、この偶然に感謝する。
 レイジに出会えた偶然に感謝する、サムライに出会えた偶然に感謝する、鍵屋崎に出会えた偶然に感謝する。生まれも育ちも全然違う、半生に何の共通点もない俺たちが極東の砂漠のど真ん中にあるくそったれた刑務所で出会った偶然に声を大にして万歳と叫びたい。
 リンチやレイプが横行する劣悪な環境で、看守の虐待や囚人間のいじめが日常化した疑心暗鬼の毎日で、レイジやサムライや鍵屋崎と出会い、仲間めいた連帯感を抱けたことに感謝する。
 俺たちの絆は鎖のように繋がっている。
 鎖のように繋がった偶然を必然と呼べるなら、俺たちの出会いはきっと、東京プリズンで生き残るための必然だったんだろう。
 手錠で繋がれた仲間。手錠で繋がれた相棒。
 「俺は決して、この勝負に敗けるわけにはいかん」
 サムライの腕に渾身の力がこもる。憔悴の隈を落とした目に凛冽たる眼光を湛え、挑むようにホセを見据える。だがサムライの目はホセを見ていない。ホセを通り越してどこか遠くを見ているかのように透徹した眼差しが向かう先は己が心の深淵か、それとも……
 鍵屋崎。
 「俺に伴侶はないが、最高の相棒がいる!!」
 サムライの絶叫が会場を駆け抜ける。
 勝敗は一瞬で決した。全身に闘志を漲らせたサムライが豪語し、腕に力をこめる。サムライの気迫に圧倒されたホセに一瞬の隙が生まれ、次の瞬間、限界まで引き絞られた弦のように腕を撓めたサムライが満を持して力を解き放つ。
 「!?っ、そんなまさか!」
 ホセが何かを叫ぶが、遅かった。ホセの腕は完全にサムライに組み伏せられ手の甲が台に接していた。決着。あっけない幕切れ。それがゴングが鳴る直前、黒山の人だかりの頭越しに俺が目撃した一部始終。
 決勝戦第二試合はサムライの逆転勝利で幕を閉じた。
 「サムライ!」
 気付けば俺は叫んでいた。熱狂の渦に包まれた地下停留場は人口密度過剰で、ざっと見渡したかぎりじゃ東京プリズンのほぼすべての囚人が集合してるようだった。
 リング周辺にごったがえす野次馬を掻き分け、前へ前へと手をのばし、無我夢中でサムライに駆け寄ろうとする。
 駄目だ、届かない!小柄な俺じゃ人ごみに埋もれてとてもサムライのとこまで行けそうにない、くそ、サムライはすぐそこにいるのに!すぐそこにレイジと鍵屋崎がいるのに、折角レイジの試合に間に合ったってのに!こんなとこで足止め食ってちゃサムライに労いの言葉をかけることはおろかレイジを激励することもできやしない。
 くそ、動け足、前へ進め!
 「!」
 すっ、と俺の腋の下に何かがもぐりこむ。
 隣にはビバリーがいた。サムライの勝利に浮き足立って、俺は今の今までビバリーの存在を度忘れしてた。薄情者だと自分にあきれる。医務室から廊下の途中まで俺に肩を貸して歩いてくれた恩人の存在を度忘れしちまうなんて、舞いあがりすぎだ。 
 「ほんと薄情っスよロンさんは、こんな頼りになる助っ人の存在忘れちゃうなんて」
 ビバリーが苦笑する。照れ臭げな笑顔。俺の腋の下に腕をくぐらせ、首の後ろに腕をかけるように担ぎなおしたビバリーが「よし」と意を決して前を向く。真剣な顔。
 「いいのか?リョウ捜さなくて」
 そうだ、わざわざビバリーが地下停留場までやってきたのは何も親切心からじゃない。ひとりじゃ歩けない怪我人を放っておけなかったからじゃない。確かにビバリーはお人よしだが、レイジに会いたいと我侭言って自分勝手に医務室とびだした俺の尻拭いをするほど間抜けじゃない。
 ビバリーがここにいるのは、五十嵐と一緒にいるリョウが心配だからだ。
 五十嵐は銃を携帯してる、安田が前回だか前々回だかのペア戦で盗難に遭って紛失した銃を。五十嵐がすぐ銃を安田に返却せず、今の今までひそかに持ち歩いてたのには五十嵐にしかわからないワケがあるはずだ。五十嵐にしかわからない事情があるはずだ。
 もし五十嵐が、安田の銃を何か、悪いことに使うつもりなら。
 安田の銃を用いて何か事件を引き起こす気なら、一緒にいるリョウが危ない。
 こうして大人しくおぶわれてる今もビバリーの焦りは手にとるように伝わってくる、目はきょろきょろとさまよい人ごみに埋もれた赤毛のちびを捜している。
 本音じゃ今すぐ人ごみ掻き分けて五十嵐見つけ出してリョウの安否を確かめたいはずなのに、リョウの無事をその目で確認したいはずなのに、俺なんかにかかずりあって時間潰してる場合かよ?
 俺だって人のことを言えた身分じゃないが、ビバリーときたら底抜けのお人よしだ。
 「……リョウさんはきっと無事っす。あのしぶとくしたたかなリョウさんが、そう簡単にズドンやられるわけありませんて。ロンさんを仲間のもとに届けるぐらい三分もかかりませんよ、リョウさんを捜すのはそれからでも遅くはありません」
 肩からずり落ちかけた俺の腕を担ぎなおし、ビバリーが努めて明るく、さりげなく言う。
 「ロンさんにはリョウさんがさんざん迷惑かけましたし……リョウさんの尻拭いは相棒の役目っス」
 リョウのことを気負いなく相棒と言い、ビバリーがはにかむ。いい奴。本当にリョウにはもったいないくらいのいいダチだ。実際地下停留場まで運ばれてくる途中凱に手荒く扱われて体がしんどいのも事実だし、俺は素直にビバリーの好意に甘えることにした。ビバリーの肩にぐったりと体を凭せ、呟く。  
 『謝謝』
 『Youre welcome』
 台湾語のありがとうに返されたのは、英語のどういたしまして。いくらバカな俺でもそれくらい知ってる。初歩の初歩だ。片手で俺の腰を抱え、片手で俺の腕を掴んだビバリーが大股に人ごみを突っ切る。迷いなく一直線に雑踏を突きぬけ突き進み、行く手を邪魔する奴がいれば素早く迂回するか股下をくぐるかして、よどみない歩調でリングを目指す。
 サムライは、レイジは、鍵屋崎は?俺の仲間はどこにいる?
 リングが近付いてきた。いた。白熱の照明を浴びてリングに膝を屈し、背中を丸めているのはホセだ。ホセの周りをわらわらと取り巻いてるあれは、浅黒い肌が特徴の南の囚人ども。
 「大丈夫ですかコーチ!?」
 「お怪我はありませんか!」
 「腕の骨は折れてませんよね!?」
 「気を落とさないでください。あんなの敗けたうちに入りませんよ、コーチの伝説は永久に不滅です!俺たちはコーチの勇姿をばっちりこの目に焼き付けました、遠い空の下でコーチの帰りを待ってる奥さんだってきっとコーチの頑張りを誉めてキスの嵐を降らせますよ!」
 「コーチ万歳!」
 「「コーチ万歳!!」」
 皆で揃って意気消沈したホセを慰めてるらしい。弟子に恵まれてるな。リングに膝を屈して落ちこんでいたホセが、弟子たちの声援を受けてゆっくりと顔を上げる。復活の兆し。弦に触れ、眼鏡の位置を直して顔を起こしたホセの目は感動の涙で潤んでいた。
 「有り難い声援の数々いたみいります……不肖このホセ、試合には負けてしまいましたが素晴らしい弟子に恵まれた現状とワイフへの真実の愛を確認できただけでも収穫があったというもの。吾輩は幸せ者です」
 うわ。ホセの奴マジで泣き出しやがった。引くぞこれ。
 しかし、俺の予想を裏切り南の囚人たちは全員目を潤ませていた。感動の嵐。中には下品に鼻を噛んでる奴もいる。
 俺にはお涙頂戴の嘘芝居にしか見えないが、根が単純な南の囚人どもは見事にころりと騙されちまったようだ。
 それが証拠に、わざわざポケットから取り出したハンカチでそそと目尻を拭い、大仰に鼻を噛むホセの口元は笑っていた。
 転んでもただでは起きあがらない腹黒隠者め。
 リング上で繰り広げられる盛大な嘘芝居をよそに、もう一人の主役は早々と退場していた。リングを下りたサムライが向かう先は鍵屋崎とレイジのもと。片足をひきずるように歩くサムライは既にいつ倒れてもおかしくない状態で、危なっかしくふらついていた。疲労困憊。太股の出血は酷くて、ズボンが真っ赤に染まっていた。
 「サムライ!」
 鍵屋崎が叫び、サムライが来るのを待ちきれず駆け出す。片手には木刀を抱えていた。サムライの木刀。サムライが鍵屋崎の手に託した信頼の証。いつものお高く取り澄ました表情が嘘のように、冷静沈着な態度が嘘のように、リングを下りたサムライを一目見た瞬間に鍵屋崎の余裕は消し飛んでいた。
 おいおい、いつもの落ち着き払った物腰はどこ行ったんだよ?とツッコミ入れてる暇はなかった。俺も鍵屋崎とおなじだ。レイジの面を一目見た瞬間から理性が吹っ飛んで、まっしぐらに駆け出していたのだから。
 「レイジ!」
 鍵屋崎に遅れること二秒、俺は我を忘れて駆け出した。ビバリーの制止の声に背を向け、虚空に手をのばし、一直線にレイジを目指して。
 俺の声に反応して振り返ったレイジはぽかんとしていた。なんで俺がここにいるのか理解できないといった呆然とした顔。驚愕。こんな時じゃなかったら吹き出しちまうくらい、折角の美形が台無しの間抜けヅラ。
 サムライのもとへ駆け寄る鍵屋崎、レイジのもとへ駆け寄る俺。
 互いが互いの相棒のもとへ、まっしぐらに。
 レイジの肩越しに俺の目に映ったのは、サムライの面食らった顔。慌てふためく鍵屋崎なんて見るのはまれだからおったまげたんだろう。
 「ロン!」
 衝撃から冷めたレイジが信じられないといった面持ちで目前に迫った俺の名前を呼ぶ。レイジまであと少し、手を伸ばせば指先が触れる距離。もう少しでレイジに届く。足を前に繰り出すたび肋骨が軋んで激痛が走った。
 錐で胸を貫かれるような、心臓を生絞りされるような激痛にもめげずに足を前にくりだす。
 レイジが両腕を広げて俺を迎え入れる体勢をとるのが、朦朧とした視界に映る。
 俺がレイジの腕にとびこむのと、サムライが鍵屋崎の胸に倒れこむのは同時だった。
 「どうしてこんな無茶するんだよ!?」
 「どうしてこんな無茶をするんだ!?」
 レイジと鍵屋崎が同時に怒鳴る。鍵屋崎の胸に凭れるように顔を埋めたサムライが「……すまない」と呟く。誠意をこめた謝罪。サムライはいつもおそろしく姿勢がよかった。背筋はいついかなる時もぴんと伸びていた。錬鉄した精神の在り処を示すように一本芯の通った背中だった。
 その背中が、いつも鉄板を仕込んだみたいに真っ直ぐ伸びていた背中が、今はぐったりと丸まっている。ホセとの試合でひどく体力を消耗し、直立不動の姿勢を維持するのが難しくなったのだろう。
 「ロン、お前医務室で寝てるはずだろ!肋骨折れてる怪我人がなに地下停留場まで出張してきてんだよ、だれも呼んでねーのに目立ちたがりも大概にしねえと」
 「呼んだろ!?」
 レイジの腕の中で声も限りに叫ぶ。
 レイジの腕に縋るように上体を起こし、レイジの目をきっと見据える。レイジに抱擁され、レイジのぬくもりに包まれ、泣きたくなるような安心感を覚える。気を抜けば涙腺が緩んで視界が曇りそうになる。
 やっとレイジに会えた。間に合った。
 レイジがリングに上がる前にもう一回会うことができた、言葉を交わすチャンスを貰えた。
 謝謝神様。あんたはひょっとしたら、どこかにいるかもしれない。
 案外俺たちの近くに。
 「嘘つけよ、お前が呼んだから俺はここにいるんだよ、ここまで必死こいて息切らして走ってきたんだよ!なんだよ医務室でるとき恰好つけやがって、なんだよ我愛弥ってふざけやがって、別れ際に愛してるなんて遺言みてえで縁起悪いじゃねえかよ!お前は言いたいこと言って試合にでて、俺のために戦って死んで満足かもしれねーけど、じゃあ俺はなんなんだよ!?俺は相棒が死にそうな思いしてるときに医務室のベッドで寝てるだけなのか、何もできず指くわえて見てるだけなのか、じっとしてるだけなのか!?」
 俺の剣幕に気圧され、レイジがたじろぐ。
 レイジはいっつもそうだ、いつだってそうだ。
 自分ひとり恰好つけて、俺を置き去りにする。俺はもうレイジに置き去りにされるのはいやだ、ごめんだ。大事な人間に置き去りにされるのはごめんだ、耐えられない。
 発作的にレイジの胸ぐらを掴み、顔を引き寄せる。
 「恰好つけて『我愛弥』じゃねえ、本当は俺に会いたくて会いたくてしょうがなかったくせに我慢してんじゃねえよ!独りが不安で不安でしょうがなくて、リングに上るのが怖くて怖くて小便ちびりそうなくせに無理して平気なふりしてんじゃねえ!お前と一年半も付き合ってんだ、嘘ついてるって笑顔みりゃすぐわかるんだよ、一発で見ぬけんだよ!俺はいやだぞ、相棒を見殺しにして自分だけぬくぬく毛布にくるまってるような意気地なしに成り下がるのだけはごめんだ、冗談じゃねえ!!」
 盛大に唾をとばし、一息にまくしたてる。
 俺に胸ぐらを掴まれたレイジがあんぐり口を開けて固まっている。返す言葉もないってか?ざまみろ。
 「俺についてて欲しいなら最初からそう言えよ、俺のためだとか言い訳すんじゃねえ、俺のこと一番に考えて我慢する必要なんかねえんだよこれっぽっちだよ!俺だってお前と一緒にいたいんだよ、お前についててやりたいんだよ、お前のことが心配でおちおち寝てられねえんだよ!お前のことが、」
 続く言葉を喪失する。
 いきなりレイジに抱きしめられたから。
 「………サンキュ」
 俺の背中に腕を回し、頭に顎をのせたレイジが呟く。俺はもう胸が一杯で何も言えず、汗臭い上着に顔を擦りつける。レイジの顔を見たら言ってやろうと決めていたことが山ほどある。

 お前が心配だ。
 お前が大事だ。
 お前と離れたくない。
 お前を失いたくない。
 お前が、

 「………好きなんだよ」
 「知ってたよ」
 王様は自信過剰だ。俺がもてる勇気を振り絞って一世一代の告白をしたってのにしれっとしてやがる。でも、本音じゃ嬉しい証拠に顔がにやけていた。
 レイジの腕を掴み、瞼を閉じ、涙を引っ込めて顔を上げる。胸が疼くのは折れた肋骨のせいばかりじゃない。照明に淡く輪郭を溶かしたレイジの笑顔が目に染みたから。
 「生きて帰ってこいよ。必ず」
 「ああ」
 「守れよ。約束」
 「ああ」
 レイジがポケットをまさぐり、俺の鼻先にこぶしを突き出す。ゆっくりと五指が開き、手のひらに置かれた牌が現れる。
 別れ際、お守り代わりにと俺が投げ渡した牌。
 俺もおなじようにポケットをまさぐり、牌をとりだす。レイジに渡した牌の片割れ。地下停留場の喧騒が遠ざかる。
 煌煌と照明が降り注ぐ中、レイジと対峙した俺は、牌を摘んだ指先を無言で虚空へとさしのべる。正面の虚空へと牌を翳した俺にならい、レイジが片腕をさしのべる。
 安物のプラスチックでできた牌と牌がかち合い、澄んだ音が鳴る。
 レイジの凱旋を祈るように。
 ゆっくりと腕をさげおろし、深々と息を吐き、レイジが顔を上げる。
 心残りを全部片付け、未練を一切合財吹っ切った、さっぱりした顔だった。
 「生きて帰って、必ずお前を抱くよ」
 これでいいんだ。
 レイジは俺を抱くために必ず帰ってくる。
 レイジの生還を念じ、五指の間接が白く強張るほどに牌を握りしめる。牌をポケットにしまったレイジが最後にぽんと俺の頭を叩き、猫科の肉食獣をおもわせるしなやな歩みでリングへ赴く。
 いよいよ決勝戦最終試合、王様と皇帝の対決が実現する。
 「レイジ!」
 白い照明に溶けこむように、俺から遠ざかるレイジの背中へと声をかける。
 レイジに駆け寄りたいのを寸手のところで自制し、レイジによく見えるようこぶしにした片手を高々と突き上げ、叫ぶ。
 ずっとレイジに伝えたかった想いを。
 今のありのままの気持ちを。
 
 『我也一様我愛弥!我認識弥眞好!!』
 俺も愛してるよ。お前と会えてよかった。

 肩越しに振り向いたレイジの顔が、笑み崩れる。 
 はにかむような笑顔。心の底から幸せで満ち足りて、それ以上言葉なんか必要としない笑顔。
 牌を握りしめたこぶしを高々と空に突き上げた俺は、その場を一歩も動かず、まっすぐにレイジを見送る。俺のもとを離れてリングに上がるまでずっと、リングに上がってからもずっと、レイジはズボンのポケットに片手を突っ込んで握り拳を作っていた。
 俺とレイジ、二人分の願いとぬくもりがこめられた牌をポケットの内側で握りしめて。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050807210026 | 編集

 試合はサムライの勝ちだ。
 足の怪我のせいで苦戦を強いられてたサムライが後半一気に巻き返して逆転勝利をおさめ、会場は湧きに湧いていた。
 会場の興奮は最高潮に達している。
 とどまるところをしらない天井破りのハイテンション。周囲の囚人が派手に歓声を上げ暴れるせいで地下停留場の気温が急上昇したような錯覚を受ける。 地下停留場全体が揺れているような錯覚。振動。一斉にコンクリ床を踏み鳴らし喧々囂々と罵声を浴びせて野次をとばす囚人たちはもういつ爆発してもおかしくない状態で、あちこちで乱闘騒ぎが勃発しては警棒持った看守が駆り出されている。
 「サムライの勝利、か。これで99勝目、いよいよあと一勝で100人抜き達成か。すごいね」
 皮肉まじりの口笛を吹く。
 本音じゃ僕はちっともサムライの勝利を祝してない。
 当たり前だ、僕はサムライの味方でもない。
 レイジも鍵屋崎も僕の仲間じゃないし味方じゃない、僕は誰の味方でもない中立的な立場。ネズミにも鳥にもなりきれないどっちつかずの蝙蝠、狡賢い日和見主義者だ。
 僕は常に利益が見込める側の味方、僕自身に有利な条件を提示する側の味方だ。
 決勝戦第一試合、ヨンイルと鍵屋崎の対戦は予想外の結果に終わった。なんと鍵屋崎の勝利。ヨンイルが提案した悪趣味なゲーム……このだだっ広い地下停留場のどっかに時限爆弾を仕掛けて、制限時間内に捜してこいというくだらないお遊戯に、なんと鍵屋崎は勝ってしまった。僕に言わせりゃただの偶然の結果、幸運の女神が微笑んだだけ。だってヨンイルとまともに戦ったら鍵屋崎が勝てるわけない。
 鍵屋崎がヨンイルに勝てた理由はただひとつこれに尽きる。道化の気まぐれ。 
 鍵屋崎の後を継ぐ形で出陣したサムライは、ホセが提示した条件を呑み、腕相撲で勝敗を決することになった。やれやれホセは腹黒い。根が実直なサムライよか南の隠者は一枚も二枚も上手。
 ホセはレイジに刺された片腕が使えない、サムライはサーシャに刺された片足が使えない。一見条件フェアだけど、どっこいそうじゃない。
 互いにハンデを負ってるが故に互いにフェアな条件を申し出たと見せかけて、ホセは何もかも計算尽くだったのだ。腕相撲だからって何も腕しか使わないわけじゃない。足腰の踏ん張りが利かなきゃ自重が支えられず、試合に集中できず、全力を出しきれない。この場合片腕が利かないのはそんなに不利じゃない、少なくとも片足が使えないよりか全然。
 第一、ホセなら片腕一本で敵の首の骨を折ることも容易いはずだ。
 けど、サムライは試合に勝った。鍵屋崎の応援に力を得て、勇を鼓して、片足の激痛に耐えて。文句なしの勝利。サムライは衆人環視のリング上でホセの手首を組み伏せて鮮やかな逆転劇を演じ、ふらふらと覚束ない足取りで鍵屋崎のもとへ帰っていった。
 サムライは現在、鍵屋崎に介抱されてる。鍵屋崎ときたら、自分の顔を見た瞬間、安堵のあまり顔を緩めて胸へと倒れこんできたサムライに口うるさく小言を言いながら、コンクリ床に寝かせて額の汗を拭ってやってる。
 コンクリ床に片膝つき、顔面蒼白のサムライの寝顔を覗きこんだ鍵屋崎が、心配げに顔を曇らせる。
 「まったくなんて無茶をするんだ、人体の限界を軽く超越してる、大動脈すれすれを怪我してるくせに……血管が破れて傷口が開けば失血死してもおかしくない大怪我だというのに!どうして僕に手間ばかりかけるんだ。僕は君専属の看護士じゃない、付け加えるが外科医でもない!それとも君は今ここで糸と縫い針とを持って血管の縫合をしてもらいたいのか、無麻酔で公開手術をしてほしいのか?」
 サムライがいないあいだ相当不安だったんだろう。
 リング上で戦うサムライをただ見送るしかなかった鍵屋崎が、刺々しく苛立ちをこめて吐き捨てる。サムライがいないあいだずっと孤独に苛まれ、自責の念に駆られて沈痛に黙りこんでいたというのに、サムライが帰ってきた途端にいつもの調子を取り戻したらしく毒舌全開だった。
 コンクリ床に仰臥したサムライの額にはおびただしい脂汗が浮かんでいる。傷口の出血は既に止まり、ズボンを染めた血は赤黒く乾き始めていたが安心はできない。
 袖口でサムライの額の汗を拭い、思案顔で黙りこむ鍵屋崎。
 「………何故、僕に心配ばかりかけるんだ」
 眼鏡越しの双眸が沈む。僕が見慣れた無表情じゃない、もっとずっと人間らしい表情。 
 「すまない」
 「謝るな。どうせ反省してないんだろう?」
 図星なのか、サムライがぐっと押し黙る。確かにサムライは反省も後悔もしてない。サムライは自分がどれだけボロボロになっても、どれだけ傷付いて死にかけても、鍵屋崎さえ守り通せればそれでいいのだ。
 サムライの傍らに屈みこんだ鍵屋崎が、眼鏡越しの双眸を伏せ、ためらいがちに視線を揺らす。
 眼鏡越しの双眸を過ぎるのは、葛藤と逡巡。
 「……さっき言ったことだが、一部訂正する」
 サムライが虚ろな眼差しで鍵屋崎を見上げる。サムライは朦朧としていた。物問いたげに鍵屋崎を仰ぐ目にはまどろみの膜が落ちていた。
 ホセとの試合で全力を使い果たしたサムライは腑抜けになっていた、自分の意志じゃもう指一本だって動かせそうにないほど消耗しきっていた。
 無理もない。
 大動脈すれすれをざっくりやった命に関わる大怪我で入院を強いられてたのに、鍵屋崎に会いたい一念で地下停留場までの長い道のりを這いずってきたのだから。鍵屋崎を守りたい一念でリングに立ち続けたのだから。
 瞼を半ばまで下ろしたサムライが、焦点の合わない目で鍵屋崎を見る。
 急かすでも促すでもなく、ただ辛抱強く鍵屋崎の言葉の続きを待つ。サムライはいつもそうやって鍵屋崎を優しく包み込む。
 鍵屋崎が顔を伏せ、表情が前髪に隠れる。
 「僕はさっき、君が僕と故人を混同してると言った。僕と苗を同一視して、苗の代替物として僕を認識してると一方的に責め立てた。君の言い分も聞かずに一方的に非難した、感情的に怒鳴りつけた。君にとって苗は最愛の恋人で、物心ついた時から常にそばにいた幼馴染で、安らぎを与えてくれる人間で!」
 鍵屋崎の声が震える。
 「君が苗と僕とを混同するのは仕方ないと自分を納得させようとした、納得させようとしたんだこれでも!だって苗は君の恋人で、君にとってかけがえのない女性で、僕とは比べ物にならない大事な存在じゃないか?君の思い出は君だけのものだ。僕が踏みこむ権利はない、僕が口だしする権利はないと頭ではわかってる。だけど僕は、」
 膝にこぶしを置いた鍵屋崎が唐突に顔を上げる。片方のレンズが割れた眼鏡越しに、思い詰めた眼差しをサムライに注ぐ。
 「……僕は、苗に嫉妬していたんだ」
 「直」
 「よく聞けサムライ。君は僕の生まれて初めての友人だ、僕が生まれて初めて信頼した他人だ。この十五年間というもの、僕には恵しかいなかった。妹の恵だけがすべてだったんだ。それ以外の人間はいないも同然だった、見ていても見えてなかった。僕に人の目をまっすぐ見ることを教えてくれたのは君だサムライ、信頼するに足る他人がいることを教えてくれたのは君なんだ!恵を失った今の僕には君がすべてなんだ、僕は帯刀貢のすべてを独占したかったんだ!!」
 鍵屋崎の顔が悲痛に歪む。今にも泣きそうな、やりきれない表情。
 ああそうか。鍵屋崎はずっと独りぼっちだったのか。
 今の今まで、十五年もずっと独りぼっちで、本気の本音で付き合える友達なんかひとりもいなくて、ただ妹だけを支えに生きてきたんだ。
 サムライを手放したくない。
 失いたくない。また独りぼっちになりたくない。
 十五年間待ち望んで、やっとできた最初の友人。
 鍵屋崎の本質は孤高の天才じゃない。
 愛情に飢えた、孤独な子供だ。
 「……君が苗の代替物として僕を見てるというのは、確かに僕自身が抱いた感想だ。それは否定しない。だが、それがすべてじゃない。僕が完全に苗の代替物なら、鍵屋崎直個人のために君がここまで無茶をする理由が存在しない。動機が成立しない」
 鍵屋崎がサムライの手を取り、真剣に訴えかける。
 「覚えてるかサムライ?下水道に僕を助けにきたことを。元はと言えば自業自得の僕のために土下座までしたことを。覚えてるかサムライ、売春班から僕を救い出しに来たことを。あの時君は僕の上で泣いた、すまなかったと謝罪した。頬に落ちた涙は熱かった。体に触れた指に負けないくらい」
 その時のぬくもりを懐かしむかのように、サムライの手を頬にあて、鍵屋崎がそっと目を瞑る。 
 眼鏡越しの双眸が柔和な光を含み、口元がかすかに綻ぶ。
 心を許した者にだけ見せる優しい笑顔。
 「あの熱が嘘だとは、思いたくない。タジマに襲われた夜、君の腕の中で感じたぬくもりが偽りだとは思えない」
 無骨に節くれだったサムライの手を包み込み、鍵屋崎が頭を垂れる。
 それは懺悔に似ていた。
 地下停留場の喧騒からサムライと鍵屋崎のまわりだけが切り離されてるようだった。心なしかサムライも笑みを浮かべ、声にはださず鍵屋崎の名前を呼んだ。
 『直』、と。
 二人にはそれで十分だったのだろう。十分に互いの想いが通じたのだろう。
 鍵屋崎の頬に触れたサムライの指がぴくりと震える。指一本だって動かすのが辛いくせに、サムライは鍵屋崎の顔へと手を伸ばし、物言いたげに口を開く。   
 「?なんだ」 
 吐息に紛れた囁きを聞き取ろうと、サムライの口元へ無防備に顔を近付ける鍵屋崎。頬に手を添え、吐息のかかる距離へと鍵屋崎の顔を導いたサムライが不器用に笑う。
 瞼が落ちる直前、最後の力を振り絞り、男らしい笑みを。
 「お前が愛しい」
 「……は!?」
 驚き、言葉を失う鍵屋崎の頬から力尽きた手が滑り落ちる。どうやら意識を失ったらしい。胸郭を上下させ、荒い息を吐きつつ苦悶にうめくサムライを見下ろして我に返った鍵屋崎が慌てて医者を呼びに行く。サムライの傍らから飛び起き、医療班が待機する場所へと駆け出す鍵屋崎とすれちがう。  
 一瞬だった。
 鍵屋崎は僕に気付きもしなかった。ただ、横顔が赤くなっていた。 
 地下停留場の雑踏に立ち尽くし、どんどん遠ざかる鍵屋崎の後ろ姿を見送り、舌打ち。
 「ふん、見せつけてくれちゃって。やってらんないよ」
 変だ、なんで僕こんなにむしゃくしゃしてるんだろ?腹立ち紛れに地面を蹴りつけ、鍵屋崎が消えた方向を睨みつける。
 ふと背後を振り返ればレイジとロンが何やら深刻に話しこんでた。
 ん?ちょっと待て、なんでロンがこんなとこにいるのさ?肋骨折って医務室で寝てるはずじゃないの。
 レイジとロンをしげしげと眺める。レイジが尻ポケットをまさぐり、何かを取り出す。ロンが頭上に片手を翳し、レイジもおなじように片手を翳す。ロンとレイジの指先に摘まれてるあれは……白く四角い物。
 麻雀牌?
 高く澄んだ硬質な音が鳴る。互いが手にした牌と牌とを打ち鳴らし、満足げに笑うレイジ。ロンもまんざらじゃない顔をしてる。
 第三者を寄せ付けない雰囲気。気に入らない。
 鍵屋崎はサムライとラブラブで、ロンはレイジとラブラブで、なんだか気に入らないことだらけだ。幸せ一杯のレイジのにやけヅラがむかつく。本当は嬉しいくせにむくれたふりしてるロンがむかつく。コンクリ床に寝てるサムライがむかつく。サムライの為に医療班を呼びに行った鍵屋崎がむかつく。
 なんだよあいつら、人殺しのくせに。全員人殺しのくせに。
 「……気分悪い」
 会場の熱気にあてられたわけじゃない。人ごみに悪酔いしたのでもない。沸沸とこみあげてくる怒り、やり場のない苛立ち。サムライの手とり、自らの頬にあてがい、僕が見たことのない顔で微笑む鍵屋崎。鍵屋崎の頬に手を添え、はっきり「愛しい」と口にしたサムライ。
 牌と牌を神妙に打ち鳴らし、凱旋の儀式を執り行うレイジとロン。 
 僕だけ除け者かよ。仲間はずれかよ。
 脳裏にビバリーの顔が浮かぶ。ここんとこずっとビバリーとは口を聞いてない。
 本当言うと決勝戦はビバリーと一緒に観に来る予定だった。今頃僕の隣にはビバリーがいたはずだった。
 鍵屋崎にサムライがいるように、ロンにレイジがいるように、頼りになる相棒が。
 ……忘れよう。
 はげしくかぶりを振り、弱気を払拭する。ビバリーなんてどうなっても知るもんか、勝手にすればいいんだ。僕だって勝手にするから。やつあたりで床を蹴飛ばし、きょろきょろとあたりを見回す。そういえば五十嵐の姿がない。さっきまで一緒にいたのに……はぐれちゃったのかな。
 「おーいラッシー、いるんならお返事してよー」 
 間延びした声で迷子のラッシーを呼ぶ。まあ、実際迷子になったのは僕の方なんだろうけど。ラッシーといえば、鍵屋崎の試合中からどうも様子がおかしい。挙動不審だ。サムライの試合中もずっとぶつぶつと独り言を呟いてて、僕が話しかけても生返事を返すばかりだった。
 やっぱ奥さんとうまくいってないのかな?いいクスリあげたのに。
 「名犬ラッシーってば、ご主人様が呼んでるんだからすぐに……」
 いた。
 金網を隔てたリングの向こう側に五十嵐の姿がちらついてる。五十嵐の隣にいるのは見間違えようない、額にでかいゴーグルをかけた西の道化ことヨンイル。五十嵐と道化。思いも寄らぬ組み合わせだ、これまで一度だってヨンイルと五十嵐が楽しくお喋りしてるところなんか見たことないのに。
 現に今も和気藹々と歓談してるふうにはとても見えない。これから始まるペア戦締めくくりの最終決戦、レイジとサーシャのどっちが勝つか意見交換して予想してるふうにも見えない。
 五十嵐もヨンイルもやけに深刻な雰囲気で話し込んでる。様子がおかしい。 胸騒ぎ。 
 とてつもなく嫌な予感。
 「………」
 ごくりと生唾を飲み込む。リングを迂回して五十嵐に駆け寄ろうとして、僕はそれ以上近づけなくなる。何故?わからない、足が勝手に動かなくなったのだ。
 今の五十嵐に近寄るのは危険だ。とても危険だ。
 五十嵐の様子は普通じゃない、僕の視線の先にいるあれはいつもの五十嵐じゃない。
 五十嵐と二言三言を交わしたヨンイルが不承不承頷き、先に立って歩き出す。どこへ行くんだ?つられてヨンイルの後ろ姿を追う。
 一度も人とぶつかることなく身軽に雑踏を抜けたヨンイルが足を向けたのは、地下停留場に接続する通路の出入り口。ちょっとちょっと、これからレイジ対サーシャの最終決戦が始まるって大事な時にどこ行く気さ一体?
 会場の盛り上がりに背を向け、通路の薄暗がりへと足を踏み入れたヨンイルに続き、五十嵐もおなじ通路へと吸いこまれてゆく。
 人気のない通路に消えたふたりに好奇心を刺激されて走り出す。ヨンイルと五十嵐め、二人してどこへ行く気さ?
 「道化と看守の間に商談成立、サーシャとレイジが殺し合いしてるあいだ通路の薄暗がりでお楽しみ……ってわけじゃないよね」
 まさかと苦笑する。どこかのタジマと違って五十嵐はまともだ。いくら奥さんとうまくいってないとはいえ、囚人に手を出したりはしないだろう。
 狭苦しい廊下に靴音が反響し、天井に連なる蛍光灯が不規則に点滅する。
 五十嵐とヨンイルは一体どこへ……
 「あ」
 いた。
 見つけた。
 地下停留場の喧騒遠く人気のない通路のど真ん中で、たった5メートルの距離を隔て、五十嵐とヨンイルが対峙している。
 変なの。まるで今から決闘でもおっぱじめるみたいじゃないか。
 さしずめレイジ対サーシャの裏試合ってところ? 
 そんなまさかね。
 「ひどいよラッシー、会場のど真ん中に僕ほうったらかして!もう少しで人ごみに押し潰されて窒息死しちゃうとこだったよ。ラッシーがついててくれなきゃちびでやせっぽちの僕が最前列の特等席とれるわけないじゃない、せめて決勝戦終わるまでは保護者として……」
 廊下の真ん中で立ち竦む五十嵐の背後へと無警戒に歩み寄る。
 一歩近付くごとに違和感が増す。五十嵐だけじゃない、ヨンイルも様子が変だ。なんでさっきから微動だにせず、廊下のど真ん中に愕然と立ち竦んでこっちを凝視してる?
 信じられないものでも見たかのように。
 信じられないことでも起きたかのように。
 「近寄るなリョウ」
 振り向きもせず、そっけなく五十嵐が言う。
 「つれないこと言わないでよラッシー。僕のお守りほっぽりだしてヨンイルとお楽しみなんてずるいじゃん。そうだ、どうせなら僕も混ぜてよ?」
 かまわず足を踏み出す。五十嵐の背中が次第に大きくなる。違和感がどんどん膨れ上がる。五十嵐は両腕を前に突き出した恰好で足腰を踏ん張り、何かを構えていた。何だ?
 五十嵐へと歩み寄る僕の靴音が通路に反響する。
 靴音が止む。
 「………マジ?」
 五十嵐の背後で立ち止まり、半笑いで呟く。五十嵐が両手に構えていたのは……拳銃。一発で人の命を奪う殺傷力を秘めた鋼鉄の塊。黒光りする凶器。五十嵐が構えてる拳銃には見覚えある、あれは確かビバリーが地下停留場で拾った安田の銃で今ごろは五十嵐の手を介してとっくに安田のもとに返ってるはずの……
 「は、はははははははっ!返ってないじゃん。ねえ、どういうことこれ?聞いてないよ、こんなびっくりどっきり隠し弾」 
 こめかみを冷や汗が伝う。不吉な予感に胸が騒ぎ出す。乾いた笑い声をあげる僕をよそに、五十嵐がわずか5メートルの距離を空けてヨンイルに銃口を突きつけている。
 ああ、そうか。
 だからヨンイルは一歩も動けなかったんだ。動いた途端に眉間に穴が開くから。
 拳銃の引き金に指をかけ、五十嵐が言う。
 殺意の衝動に駆り立てられ、他を圧倒する狂気に取り憑かれ、理性が蒸発して乾いた目で。
 「お前が言ったんだぜ、リョウ」
 いつ弾丸が発射されてもおかしくない銃口をヨンイルに擬し、五十嵐は淡々と無表情に続けた。
 「こんな奴生かしとく価値ない。ずるずる生かしといたらまたまわりが不幸になる……リカのときみたいに」 
 五十嵐の口元が綻び、笑みが浮かぶ。
 あの時、五十嵐にかけた言葉を思い出す。五十嵐が殺したいほど憎んでる相手が別居状態の奥さんだと思い込んだ僕は、頭を抱え込んで苦悩する五十嵐の耳元でこう囁いたのだ。 
 「『みんなのお父さんなんだから、自信もって』」
 五十嵐はゆっくりと引き金を引いた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050806185903 | 編集

 リング中央にて東京プリズン二強が対峙する。
 興奮が最高潮に達した地下停留場の中央に設置された銀の檻は神聖な闘技場、現代に出現したコロシアム。
 かつてギリシアの円形闘技場は好戦意欲に湧いた市民に娯楽を饗するために、鎖で繋がれた猛獣と足枷を嵌めた奴隷闘士とを引き出して壮絶なる殺し合いを演じさせた。
 どちらか一方が勝ち残るまで続けられる殺し合いは、階段席を埋めた客にとっては熱狂の見世物だったかもしれないが、足枷で自由を奪われ、傷つき血を流した闘士にとっては苛烈を極めた生存競争以外の何物でもなかった。
 勝ち残ることと生き残ることは同義だ。
 ローマの円形闘技場では少なくともそうだった。それは現代でも変わらない。ローマ隆盛の時代から何世紀をも経た極東の砂漠に存在する劣悪な刑務所、退廃と背徳が蔓延したこのソドムでも変わらずその定義は生きている。
 勝者すなわち生者、敗者すなわち死者。
 勝利と生存が同義ならば逆もまたしかり。
 敗北と死は同義だ。
 今宵、レイジとサーシャの戦いが始まり、どちらかが敗ける。
 そして、死ぬ。
 「……いよいよだな」
 緊張で喉が渇く。金網を握り締める手が震える。
 そうやって何かを掴んでいなければ、何かに縋っていなければ膝が萎えてその場に崩れ落ちてしまいそうだったから。
 左隣のロンとておなじ心境だろう。
 レイジを心配するあまり、医務室を抜け出して地下停留場までやってきたロン。肋骨骨折および全身十三箇所の打撲という重傷でありながら、レイジを応援したい一心で地下停留場へとやってきたロンにあきれこそすれ責められはしない。僕がロンの立場でもおなじ行動をとっただろう確信がある。
 僕らの視線の先ではレイジとサーシャが対峙している。猛獣を閉じ込める檻にも似た金網の柵の内側にて立ち尽くし、互いの表情を隙なく探っている。 
 王と皇帝の様子は対照的だった。
 レイジは余裕の表情、サーシャは警戒の表情。
 レイジは腰に片手をあて、もう片方の手をポケットに潜らせたリラックスしたポーズで突っ立っていた。
 レイジには求心力があった。
 たちどころに満場の客を魅了する類稀なるカリスマ性、ただ立っているだけで人を惹きつける魅力。
 もちろん、外見に起因するところも大きい。レイジは極上の部類に属する美形だった。彫刻めいて彫り深く端正な顔だちには性悪な笑みがよく似合った。
 今もレイジは笑っている。ロンに向ける人懐こい笑顔ではない、僕らに向けるなれなれしい笑顔ではない……
 油断ならざる笑顔。
 「久しぶりだな、サーシャ。元気してたか」
 「久しぶり?妙なことを言うな。独居房では壁を挟んで隣にいたではないか」
 「実際に顔を見て、こうしてさしむかいで話すのは久しぶりだろ」 
 レイジは飄々としていた。少なくとも表面上は見えた。最終決戦へのプレッシャーなど微塵も感じてないかのように振る舞っていた。
 白い歯を見せて両手を広げたレイジのポーズを挑発ととったか、サーシャが不愉快そうに眉をしかめる。
 「独居房じゃあお前の歯軋りがうるさくてよく眠れなかったから、今日顔合わせたらまず真っ先に文句言ってやろうって決めてたんだよ」
 レイジが懲りずに軽口を叩けばサーシャが不敵に笑う。 
 「それはこちらの台詞だ。独居房では壁の向こうからうめき声が聞こえてきて毎晩睡眠を邪魔された。どうした?王らしくもなく悪夢に悩まされていたのか。私に怯えていたのか」
 「『怯える』?」
 満場の客を抱擁するかのように、満場の視線を迎え入れるかのようにサーシャが優雅に両手を広げる。
 「私はこの日を待ち望んでいた。杭を打たれた柩のような独居房の闇に閉じ込められ、床の汚物にまみれつつ狂おしく待ち望んでいた。
 出自卑しい雑種を至高の王座から引きずりおろし、この私こそが、正当ロシアの末裔、偉大なるロシア皇帝こそが王座にのぼる日を狂おしく夢見ていた。狂おしく狂おしくお前を血祭りに上げる日を待ち望んでいたのだ。
 生贄の祭壇に捧げたお前の手足をナイフで切り落とし、切断面に焼き鏝を押し付けて敗者の烙印を刻む宵を!!」
 アイスブルーの目を憎悪を剥き出し、狂気走った身振り手振りで大上段に演説をぶつサーシャに呼応するかのように地の底が鳴動する。
 鼓膜を突き破らんばかりに大気を震わし膨張する咆哮。
 「なんだ!?」
 反射的に耳を塞ぎ、異状を察して周囲を見渡す。
 リングを離れ、照明の光も届かぬ地の底の暗がりに没した何百何千という観衆が波涛のうねりに身を任せて一斉にこぶしを突き上げる。
 「サーシャ様万歳!」
 「サーシャ様こそ東京プリズンの頂点にふさわしいお方!」
 「東と南と西を制圧して東京プリズンにロマノフの繁栄をもたらす偉大なる皇帝!」
 「東の王など取るに足らぬ、出自卑しき穢れた雑種などサーシャ様には取るに足らぬ!!」
 「祝砲をうて、喝采をあげろ、我らが皇帝の凱旋を期して!!」
 「サーシャ様万歳!」
 「サーシャ様万歳!!」
 「ツァー・ウーラ!」
 「ツァー・ウーラ!!」
 「イカレてやがる……」
 金網を掴んだロンが畏怖と嫌悪の入り混じった表情で舌打ち。地下停留場は熱狂の坩堝だった。地の底の闇に溶けこんだ、何百何千という膨大な数にのぼる北棟の囚人が口を揃えてサーシャを称えている。
 褒美の飴をくれずに鞭に徹した恐怖政治の賜物。洗脳の成果。
 炯炯たる眼光で地下停留場を埋めた北の囚人を睥睨したサーシャは満足げに微笑む。
 「北の者どもは私が王座に上がる日を狂おしく待っている。私がお前を切り刻んで東京プリズンの真のトップに立つ瞬間を心待ちにしている」
 瘴気が噴き上がるように双眸に青白い炎が燃えあがり、サーシャが呪詛を吐く。
 「王の時代は終焉だ。今宵を境に王は皇帝へと位を明け渡し、処刑台の露と消える。何か言い残したことはあるか、東の王よ。寛容なる皇帝の足元に跪き泣いて許しを乞えば命だけは助けてやる。私の飼い犬としてお前を永遠に飼い殺してやる。貴様にふさわしく誂えた鉄の鎖に繋いで、な」
 サーシャが舐めるようにレイジを見る。
 頭の先からつま先までじっくり時間をかけてレイジを視線で犯してゆく。ぞっとするほど陰険な目つき。僕まで視線で犯されてるような錯覚に襲われ、鳥肌立った二の腕を無意識に庇う。
 冷血な爬虫類の目。生きながら獲物を呑みこむ蛇の目。
 レイジは腰に手をつき、唇の端をめくり、余裕の表情でサーシャの挑発を受け流した。虚勢を張ってるふうには見えない。レイジは本当にリラックスしてるように見えた。あくびを噛み殺すような表情でサーシャを見返したレイジが、ややあって口を開く。
 「恥ずかしくね、あれ。時代遅れのパフォーマンスも大概にしろよ。サーカスじゃあるまいし」
 暗がりに沈んだ会場を親指の腹でさし、レイジが含み笑う。
 歓声は止まない。
 「皇帝万歳!」「皇帝万歳!」と熱に浮かされたように喝采をあげる北の囚人たちに哀れっぽい眼差しを向け、レイジがかぶりを振る。   
 「めでてえなサーシャ。お前なにか勘違いしてねえか?北の囚人を総動員してウラーウラー連呼させて、ど派手なパフォーマンスで俺のことびびらそうってんならお生憎さま。俺には北の囚人百人分、いや、千人分に匹敵する勝利の女神がついてるんだよ」
 首元の鎖を手繰ってレイジがシャツの内側から取り出したのは、黄金の十字架。
 天から降り注ぐ光を受け、レイジの前途を祝福するかのように輝く栄光のしるし。鎖を五指に絡め、手のひらにのせた十字架に顔を近付け、気取ったしぐさでキスをする。

 レイジの唇が黄金の十字架にふれる一瞬。官能的な光景。

 レイジの手から零れ落ちた鎖がきらめき、虚空に十字架がぶらさがる。指に鎖を絡めて十字架を眉間に翳したレイジが、黄金の反射に眩しそうに目を細める。
 その光景は神との対話にも真摯な祈りにも似ていた。
 「今の俺は敗けねえ。敗ける気がしねえ。お前が何千何万兵隊連れてきたって、無敵の王様が本領発揮で蹴散らしてやる。鼻歌まじりに蹴散らしてやる。なあサーシャ、お前になにがあるんだ?なにもないだろ。お前は完全に狂ってる。いかれてやがる。お前の世界にはお前ひとりしかいないんだ、荒唐無稽な妄想に取り憑かれたお前には他の人間なんか見えてやしないんだ。
 何千何万兵隊がいてもひとりも味方がいないなんてお笑いぐさだな」
 「知ったふうな口をきくではないか。お前はどうなのだ?かつて鼻歌まじりに私の背中を切り刻んだお前が、先の抗争では自暴自棄に振る舞い渡り廊下を恐慌におとしいれたよもやお前が狂ってないとでも言うのか?レイジ、自分を知れ。狂っているのはお前だ。だれからも理解されない狂人はお前の方だ」
 サーシャが嘲笑する。
 それに応えたレイジの声と表情は穏やかだった。
 「……そのとおりだよ。俺は狂ってる。もうどうしようもなくいかれてる。鼻歌まじりにお前の背中を切り刻んだのがいい証拠だ。けど、だからなんだ?俺が狂ってるってのが、俺が勝てない理由にでもなるのか?たしかに俺は狂ってる。頭がどうかしてるんだろうさ。
 けど、俺には大事な奴がいるんだ。
 こんな俺のことを好きだって言ってくれる最高の相棒が」
 レイジがゆっくりと腕をさげおろし、柔和に凪いだ目でサーシャを見据える。
 「俺をまともでいさせてくれる相棒が。俺を俺でいさせてくれる相棒が」
 「………っ、」
 ロンが唇を噛んで顔を伏せる。
 「俺は狂ってるけど、あいつを守りたい気持ちは嘘じゃない。本物だ。あいつを好きな気持ちは本物だ。だからもう、狂っててもいいんだよ。俺がいかれてようが狂ってようがあいつがそばにいてくれるなら、あいつが俺を見てくれるなら、俺はこれから一生死ぬまで笑ってられる」
 レイジの笑顔が深まる。
 今を生きるだれかと共に生きようとする、前向きな笑顔。 
 「どうしようもなく狂ってる俺を、あいつが許してくれるなら」
 上着の胸元に十字架をたらしたレイジが、深呼吸して前を向く。
 「さあ、殺ろうぜサーシャ。俺は100人抜き達成してロンを抱くって決めたんだ。胸くそ悪ィ売春班をぶっつぶして東京プリズンにLove and peaceをばらまいてやるって決めたんだ」
 「くだらない」
 サーシャがはげしく唾棄し、腕を一閃。
 再び現れた手にあったのは一振りのナイフ。
 手に馴染んだナイフで虚空を払い、サーシャが大股に前進。
 「甘いぞ東の王よ。戯言は聞き飽きた、はやく一刻も早く殺し合いを始めようではないか。一片の慈悲もなく微塵の容赦もない殺し合いを、東と北の因縁を断つ一戦を、試合の名を借りた王の処刑を!」
 「皇帝の望むがままに」
 「武器はあるのか」
 「ロンへの愛」
 「……あの野郎」
 金網に額をつけたロンのこぶしがわなわなと震えだす。僕は密かにロンに同情した。
 「―てのは冗談」
 軽薄に肩を竦めたレイジが、口元の笑みは絶やさず腕を一閃してポケットから何かを抜き取る。腰を掠めるようにレイジが抜き放ったのは……
 前回の試合で用いたナイフ。
 「武器も女も付き合い長くて扱いなれたもんがいちばんだよな」
 レイジが不敵に笑い、サーシャを招くように手にしたナイフの切っ先を振る。いよいよ試合がはじまる。ゴングが鳴る。リング周辺に緊張の糸がはりつめ、静電気に似た戦慄が背筋を駆け下りる。僕の左隣にはロンがいた。金網を両手で握りしめ、身を乗り出し、食い入るようにレイジの後ろ姿を見守っている。思い詰めた眼差しでレイジの動向をさぐるロンから、右隣のサムライへと向き直る。
 「起きあがって大丈夫なのか?」
 「……ああ。少し気分がよくなった」
 サムライの太股には真新しい包帯が巻かれていた。傷口は再び縫合され、血は止まっていた。金網に背中を立て掛け、手探りに木刀を掴み、大儀そうに上体を起こしたサムライの顔色は少しだけよくなっていた。
 どうやら口を利くだけの体力は回復したらしい。
 安堵の吐息を漏らす僕をよそに、リングで対峙するレイジとサーシャに一瞥くれたサムライが気だるげに口を開く。
 「レイジの試合か」
 「ああ」
 「最後の試合だな」
 「ああ」
 「心配せずとも必ず勝つ」
 サムライは確信こめて断言した。レイジの勝利を信じて疑わない揺るぎ無い眼差しだった。
 「俺にはお前がいる。レイジにはロンがいる。最高の相棒がいる、最高の仲間がいる。俺たちが敗ける理由など何処にもない」
 サムライが一途に僕を見上げる。その眼差しにひきこまれ、サムライの正面に片膝つく。正直不安だった。不安で不安で今にも心臓が止まってしまいそうだった。万一レイジが敗ければ僕とロンは売春班に戻され、レイジとサムライも甚大な代償を支払わねばならないことになる。
 万全な状態ならいざ知らず、片腕を怪我した現在のレイジがサーシャ相手に実力を発揮できるかどうか……
 ふと、僕の手がぬくもりに包まれる。
 驚いて目を落とせば、サムライが僕の片手を握りしめていた。
 「案ずるな、直。俺たちはただ待てばいい。王の凱旋を信じて待てばいい。
 俺はお前がいたから試合に勝てた。お前が背中を守ってくれたからこそ死力を尽くして戦うことができた。レイジにはロンがいる。愛しい者がいる。俺がお前を愛しく思うように、レイジもまたロンを愛しく思っている」
 おもわずロンの顔に目をやる。
 レイジの後ろ姿を一心に見つめ続ける思い詰めた横顔。
 「レイジは勝つ。俺はそう信じる。お前を愛しく想う気持ちと同じくらい強く」
 「…………そうだな」
 サムライの手を握り返したのは潜在的な不安をごまかそうとしたからか、それともただぬくもりを欲したからか。
 サムライの正面に片膝ついて手を握り返した僕は淡々と呟く。 
 「レイジはこの僕が認めた王様だ。最強を自負する東棟の王様だ。
 彼が敗北することなど、僕が恵を嫌いになるのと同じ位ありえない」
 「それはありえないな」
 サムライが苦笑する。
 「ブラックジャックがオペをミスする可能性とおなじくらい低い」
 「それは低いな」
 サムライの手はあたたかかった。この手がずっと、僕を守ってきたのだ。この傷だらけの手がずっと僕を守ってきたのだ。サムライの手を両手で包み込み、額にあてがい、祈るように目を閉じる。

 レイジが敗北することなどありえない。
 レイジが死ぬことなどありえない。絶対に。

 「僕が君を嫌いになるくらい、ありえない」
 最終決戦の開幕を告げるゴングが鳴り響いた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050805030631 | 編集

 とうとう最終決戦がはじまった。
 泣いても笑ってもこれが最後、本当の本当に最後の試合なのだ。
 東京プリズンの命運を分ける一戦、俺たちの明日を決める一戦。
 数週間にわたり開催された東京プリズン最大の娯楽行事、三度の飯より喧嘩が好きなガキどものストレス発散のために地下停留場で行われたルール無用の殺し合い……ペア戦。
 極東の砂漠に存在する刑務所の地下で週末の夜毎催される人種も国籍も問わない壮絶無比な殺し合い。
 無法地帯にして治外法権、日本の法律どころかどの国の法律だって及ばない砂漠のはての刑務所だからこそ許された血みどろの殺し合い。
 東京プリズンでは毎日死者がでる。
 危険が付き物の強制労働では事故やら何やらで人が死に、看守による行き過ぎた体罰やら囚人によるリンチやらで人が死ぬ。砂漠に掘られた穴はそのまま熱中症でぶっ倒れた囚人を埋める墓穴になる。処理班の仕事は尽きない。
 さらに付け加えるなら東京プリズンの衛生環境は劣悪で、水道水をがぶ呑みした囚人や食事にあたった囚人が食中毒を起こしてぽっくり逝っちまうのは日常茶飯事。処理班の仕事は尽きない。
 東京プリズンでは死が日常化してる。死が常に身近にある。
 いつだれがどこでどんな死に方をしても不思議じゃない、いつだれが脱落してもおかしくない。
 だが、俺が今挙げた奴らは何も好きで死を選んだわけじゃない。なかには東京プリズンの狂気にあてられて首を吊っちまう奴もいるが、大半の人間は自分から死を選んだわけじゃなく強制的に選ばされたのだ。
 唯一の例外が、自ら名乗りを挙げてブラックワークに出場するガキども。
 奴らは死にたがりだ。命賭けで生き残りを賭けた殺し合いに挑んで何が得られるのか俺にはさっぱり理解できない。
 対戦相手をぶちのめした爽快感とかぶち殺した熱狂とか、俺にはさっぱり理解できないものに酔わされてるんだろう。
 そういう奴らの目は完璧イッちまってる。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
 正気の沙汰じゃない。狂ってる。いかれてる。戦慄の眼光。
 そして今、サーシャと対峙したレイジの目もまた同じだった。完璧イッちまった目。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
 いつも通り軽薄な言動で他の連中の目はごまかせてもおれの目はごまかせない、東京プリズン入所以来ずっとレイジの隣でレイジを見てきた俺の目だけはごまかしきれない。
 「そうだ、大事なこと忘れてた」
 「俺としたことがドジったぜ」とぼやきながらサーシャへと片腕をさしだすレイジに満場の注目が集まる。何の真似だ?心臓が跳ねあがる。
 もうゴングは鳴っている、試合が始まって十秒が経過する。
 東京プリズンの歴史に残る最終決戦の火蓋が切って落とされたというのに、レイジは余裕の表情を崩さず、ナイフを持ったのとは逆の手をなれなれしくサーシャにさしだしたではないか。
 「……この私に『お手』でもしろと?」
 サーシャの眉間に不快な皺が寄る。肩に流した髪が瘴気を噴き上げる白蛇に似て逆立つ怒りに駆られ、剣呑に目を細めたサーシャにもレイジは物怖じせず、悪びれたふうなくしれっと言ってのける。
 「握手だよ握手。互いの健闘を祈ってな」
 「あの馬鹿、余裕ぶっこくのもいい加減にしろ!!」
 レイジの笑顔に感情が急沸騰した俺は、こぶしで金網を殴り付けて叫んでいた。金網を殴り付けた拍子に肋骨に激痛が走り、胸を押さえて蹲る羽目になった俺を鍵屋崎があきれ顔で見下ろす。 
 「ゴングが鳴ってから握手なんて順番逆じゃねえか、敵に隙見せてどうするよ?」
 しかも相手はサーシャだ。
 握手を求めて片腕さしだしたらぐさりとやられるに決まってる。
 「まったく同感だ。一応訊くが、起てるか?」
 「起てるよ!」
 くそ、むかつく。鍵屋崎の足元には金網に背中を立て掛けたサムライが座りこみ、気難しげに腕組みして試合の様子を見守っている。眉間に深い縦皺を刻んだしかつめらしい顔には声をかけるのをためらわせる雰囲気がある。
 近寄り難い沈黙。
 唇を一文字に引き結び、ただらぬ気迫をこめた真剣な面持ちでリングを凝視するサムライから視線をひっぺがし、レイジの背中を睨みつける。
 「あいつまさか俺の前だからって恰好つけてるのかよ。呑気に握手なんかしてる場合じゃねえだろ、わかってんのかよ、最終決戦なんだぞ。泣いても笑ってもこれが最後の試合なんだぞ!?」
 そうだ、これが本当の本当に最後の試合なんだ。今まで俺たちがやってきたことの総仕上げ。レイジがサーシャを倒せばその瞬間に俺たちの勝利が確定して100人抜きの偉業達成、売春班をぶっ潰すことができる。そしたら俺と鍵屋崎はもう売春班に戻らなくてすむ、また大手を振って表を歩けるようになる。
 けど、もしレイジが負けたら?
 サーシャに殺されちまったら?
 ありえない話じゃない。そりゃあレイジは滅茶苦茶強い。ブラックワーク無敗の伝説を打ちたてた無敵を誇る東棟の王様だ。
 けど、今のレイジは万全の状態じゃない。片腕を怪我して、一週間も独居房行きを食らって、今晩独居房から出された足でろくな休息も挟まずリングに上がったんだから体はボロボロの状態のはず。
 レイジが今こうして立ってるのだって奇跡に近いのだ。俺はレイジに勝ってほしい。レイジに生き残ってほしい。勿論売春班に戻りたくないからでもある。でもそれより何より俺はレイジを失うのが怖いのだ、俺の隣からレイジがいなくなるのが怖いのだ。
 もう二度とレイジの笑顔を見れなくなるのが怖くて怖くてたまらないのだ。
 レイジはいつも俺の隣で能天気に笑っていた。
 悩み事なんか一個もない平和なツラで、自分が抱えた暗闇なんかこれっぽっちも見せずに、ただ俺を安心させようと笑っていた。ずっとずっとそうやって笑ってくれていた。俺は自分では気付かずレイジの笑顔からいつも元気を貰ってた。希望を分けてもらってた。
 俺はいつもレイジの笑顔に守られてた。レイジの笑顔に救われていた。
 レイジは俺の心の支えだった。
 大丈夫、レイジはきっと勝つ。俺はレイジの勝利を信じてる。そう自分に言い聞かせながらも、悶々とこみあげてくる不安をごまかしきれない。
 レイジの勝利を信じるふりをしながら無事を祈るふりをしながら、医務室での別れ際に兆した不吉な予感を拭えずにいる。
 レイジの相手はサーシャだ。
 蛇のように執念深くレイジを付け狙う北の皇帝。レイジを王座から引きずりおろして自分こそが東京プリズンの頂点に君臨するという野望を抱く男。  
 サーシャは試合にかこつけて、本気でレイジを抹殺にかかる。
 邪魔なレイジを消しにかかる。
 レイジを倒せばサーシャが東京プリズンの頂点に立てる。そうして東京プリズンには狂える皇帝が支配する暗黒の時代が訪れる。反逆者は軒並み処刑される独裁政権のはじまり。サーシャの天下の幕開け。
 これはもう俺たちだけの問題じゃない。東京プリズンの命運をも左右する重要な試合なのだ。
 「くだらない」
 「俺は礼節を重んじる王様なんだよ」
 唇を歪めて吐き捨てたサーシャに、おどけたふうに肩を竦めるレイジ。気を悪くした様子はない。握手を求めてさしだした手を引っ込める気配もなくにこにこと笑いかけている。
 ここで意外なことが起きた。
 満場の観衆が目を疑う。逡巡の末、ナイフを構えた腕をさげたサーシャが一歩二歩とレイジに歩み寄り、もう片方の手をさしだして握手に応じようとする。まさか。信じられない。犬猿の仲で知られる皇帝と王の握手が実現するなんて夢でも見てるんじゃないだろうか?実際、目に映る光景が信じられない数人の囚人が自分の頬をつねって悲鳴をあげている。
 鍵屋崎は不審げに目を細めていたし、サムライの眼光は抜かりなく鋭かった。俺はあ然としていた。間抜けに口を開けて、レイジとサーシャが握手する決定的瞬間に見入っていた。
 レイジとサーシャの距離がまた一歩狭まり、握手が交わされ……
 「下賎な雑種めが、皇帝の気高き御手に触れられるとでも思ったのか」
 サーシャの双眸で火花が弾ける。
 背筋を悪寒が駆け下りた。
 ―「危ねえ!!」―
 魔性に魅入られたようにサーシャの表情が邪悪に歪む。
 金網を両手で揺さぶりレイジに危機を知らせようとした俺の眼前で、それは起きた。サーシャの腕が高々と振り上げられ、ナイフの切っ先が照明を反射して燦然と輝き、鋭利な銀光が矢のように目を射る。 
 やっぱり芝居だったのか、握手すると見せかけてレイジに先制攻撃を仕掛けるつもりだったのか!くそ、レイジの馬鹿アホ間抜け!こんな肝心な時に握手なんて余裕ぶっこいてるから……
 「さらばだ東の王よ」
 死刑宣告と同時にサーシャの腕が振り下ろされる。
 「っ!」
 反射的に目を閉じる。俺にはレイジの頚動脈が切り裂かれて爆発的な勢いで血が噴き出す幻覚さえ見えた。だが、実際は違った。レイジの頚動脈が切り裂かれることもなければ俺のもとまで血飛沫がとんでくることもなく、東の王の壮絶な最期を目撃した観衆がどよめく気配もない。
 かわりに耳に押し寄せたのは、熱狂の歓声。
 おそるおそる瞼をこじ開けてみた俺は、今度こそ絶句する。   
 リングに片膝ついたレイジが顔前にナイフを翳し、サーシャの先制攻撃を受けていた。
 「相変わらずせっかちだな、サーシャ。気が短えのはベッドの上でもリングでも変わらないってか」
 ナイフの反射光で顔を隈取ったレイジが不敵に笑う。
 力と力が拮抗し、ナイフとナイフが軋る。
 「俺、一応お前のこと立ててやったんだぜ。何千何万のファンが見てる前で誇り高い皇帝サマに恥かかせちゃ可哀想だろ。ここはひとつ大人な態度で握手交わして、固唾を飲んでこっち見てるファンに度量の広さアピールさせてやろうって王様の心遣いがわかんねーかな」
 「要らぬ配慮だな」
 ため息まじりにかぶりを振るレイジに返された声は、大気を白く曇らせるほどに凍えていた。片腕の膂力でナイフを押しこみながら眼光をぶつけあうレイジとサーシャ。ふとサーシャの笑顔が歪み、瀕死の獲物をいたぶる蛇のごとく陰湿な悪意が双眸にこもる。
 「私の度量の広さは他でもないお前がいちばんよく知っているではないか。躾の悪いお前が私の背中に爪を立てた時、私が折檻したか?寛容に見逃してやったではないか」
 レイジの双眸に険が宿り、笑顔が凄味を増す。サーシャと寝たことはレイジにとって触れられたくない話題だった。忘れてしまいたい過去だった。
 俺だって聞きたくなかった。サーシャに抱かれたレイジがその背中に爪を立てただなんて、爪痕を残すほどに激しく抱かれたなんて知りたくなかった。耳を塞いで知らないふりをしてしまいたかった。
 「……サーシャ、お前は大きな勘違いをしてるぜ」
 レイジがいっそ気だるげに、ゆっくりと口を開く。説明するのも面倒くさそうな口調だった。顔前に翳したナイフで殺意の波動を受け止め、床についていた膝を慎重に起こす。
 金属の刃と刃が掠れ合う耳障りな軋り音。
 刃に乗せられて叩きつけられた殺意の波動を余裕の表情で受け流しつつ上体を起こしたレイジが、嘲弄の光を目に宿す。
 「あれは『わざと』だよ。お前の抱き方が乱暴で腹立ったから仕返しに、な。ちょっとしたお茶目ってやつだ。自分のテクを過信してたんならお生憎さま。自分が気持ちよくなることしか考えてねえ自己中な抱き方で俺を満足させられるとでも思ったのかよ、早漏が」
 サーシャが咆哮した。
 カキンと音が鳴り、火花を散らしてナイフが放れる。
 それまで一触即発の気迫でせめぎあっていたナイフとナイフが激突、高音域の軋り音を奏でて切り結ぶ。肉眼ではとらえられない苛烈な接戦。動体視力の限界に迫る敏捷さでサーシャの腕がひるがえりナイフが半弧を描く。
 足腰の強靭なバネを駆使して瞬時に飛び退くレイジ。殺意の波動を全開で叩き付けたサーシャがレイジめがけて凄まじい剣幕で猛進。大気をびりびり震わす獣じみた咆哮を撒き散らして大股に突き進み、片手のナイフを振るう。
 縦横無尽に虚空を切り裂き交差する銀の残像。
 あまりに速すぎて動体視力が追いつかない。
 「微塵の肉片に変えてやるぞ、千々に切り刻んで跡形もなくしてやるぞ!!」
 「へえ、やれるもんならやってみろよ!」 
 レイジは楽しそうだった。心の底から楽しそうに哄笑していた。鬼気迫る笑顔。獲物の喉笛に食らいつきごっそり噛み千切る猛獣の笑顔。
 野生の豹を手懐けることなどだれにもできないと絶望させる笑顔だった。
 笑顔に凄味を増したレイジが素早く後退してサーシャから距離をとる。
 ナイフをパートナーにダンスを踊るような足取り。優雅で華麗なステップ。足を縺れさせるような間抜けな真似はせず、背中に目でもついてるかのように後ろに跳躍したレイジがナイフを引き寄せて鋭い呼気を吐き、あざやかに反撃に転じる。
 レイジが狙い定めたのはサーシャの脇腹、腎臓の位置。
 「がらあきだぜ!」
 「罠に決まっているだろう!!」
 サーシャが狂喜する。肩に流した銀髪が千匹の蛇のように波打つ。無防備な脇腹に狙い定めて一直線に突き込まれたナイフが、甲高い音をたてて弾かれる。片足を一歩踏み出した前傾姿勢をとり、釣り込まれるように手首を突き出すのを読んだサーシャが即座にナイフを振り下ろしたのだ。
 「!」
 ガシャン、と金網が傾ぐ。
 汗ばんだ手で金網を握りしめた俺の視線の先、身を乗り出したレイジの手首から鮮血が噴き出したと思ったのは錯覚で、実際にはその寸前にレイジは手を引っ込めていた。危なかった。あと0.1秒でも反応が遅れていればレイジの手首にはぱっくりと口が開いていた。
 心臓に悪い。
 安堵の息を漏らして金網に体を預けた俺の隣で、鍵屋崎が冷静に呟く。
 「……これまでの試合が遊びに見えるな」
 鍵屋崎の物腰は落ち着いていたが、こめかみを流れ落ちる一筋の冷や汗までは隠せない。
 鍵屋崎の言いたいことはよくわかった。俺と凱、鍵屋崎とヨンイルの試合とは迫力が比べ物にならない。なにせ今リングで戦ってるふたりは生え抜きの暗殺者なのだ。外では当たり前に人殺しを生業にしてきたのだ。
 レイジは人殺しに躊躇しない。サーシャは人殺しに逡巡しない。
 物心つくかつかないかの子供の頃から呼吸するように人を殺してきたサーシャとレイジが死力を尽くしてたがいの命を奪いあう光景は壮絶を極めた。
 油断も隙もない獣の眼光。リング上で交錯する二匹の獣。
 レイジは恐ろしくナイフの扱いに長けていた。ナイフはぴったりとレイジの手に馴染んでレイジの意志通りに動いた。
 ひるがえり泳ぎ踊るナイフ。
 鮮烈な軌跡を描く銀光。
 片腕を怪我したハンデなど殆ど感じさせない俊敏な身のこなし。
 レイジの耳朶をナイフが掠める。鋭い擦過音。
 しかし、あたらない。レイジはナイフに身を晒して平然としてる。恐怖心を捨て去ったかのように余裕綽々と構えている。サーシャの焦りが募り、攻撃が加速する。サーシャの腕が鞭のように撓り、残像を曳いたナイフが正確にレイジの心臓を狙う。刺突。サーシャの腕がまっすぐに伸びきり、手の先に握られたナイフがぎらつく。
 「レイジ!!」
 喉振り絞り叫ぶ。
 どよめき。
 大方の予想とは裏腹にレイジは無事だった。憎たらしいほどぴんぴんしていた。
 「無茶にも程があるぜ、王様……」
 腰砕けにへたりこみそうになった。
 「さっすが、ロシアの殺し屋は筋がいい」
 冷や汗ひとつかかずにレイジが口笛を吹く。レイジの心臓めがけて突きこまれたナイフは、レイジが寸前に蹴り上げた片足により阻まれていた。正確には、レイジが履いたスニーカーによって。
 王様はとんでもない無茶をやらかす。もし片足を蹴り上げるのが一瞬でも遅れていれば、いや、スニーカーの側面を貫通したナイフが足を刻んでいたら……想像しただけで眩暈を覚える。
 薄っぺらいゴム底を貫通してスニーカーの側面を突き破ったナイフに一瞥くれ、レイジが悪戯っぽく微笑む。
 「サーシャ、俺が前に言ったこと覚えてるか?」 
 「なんのことだ?」
 サーシャが不機嫌に問い返す。ゆっくりと片足を引っ込めてナイフを抜いたレイジが淡々と続ける。
 「監視塔でやりあったときに言ったろ。『お前はアマチュアで俺はプロだ。だからお前は俺に勝てない』って」
 そういえばたしかにそんなことを言っていた。監視塔でサーシャとナイフを交えたレイジがあざやかに勝ちを決めて言い放った言葉。
 「どういう意味だか知りたくないか」
 レイジがキスを迫るようにサーシャに顔を近付ける。レイジのスニーカーからナイフを引き抜いたサーシャが眉間に皺を刻む。
 サーシャが不審がる気持ちもわかる。サーシャはアマチュアで自分はプロ。レイジは平然とそう言ってのけたが、サーシャもかつてはロシアンマフィアの父親の命令で暗殺を請け負ってきたのだ。
 暗殺を生業にしてきたという点ではレイジとおなじプロだろうに。
 「お前はサーカスで育った。ガキの頃からナイフ投げの見世物で食い扶持稼いできた。そこが俺とお前の違い。お前のナイフ投げは所詮サーカスの客を楽しませるための子供だましの芸の域をでてない。お前だって何も最初から人殺しの技術を仕込まれたわけじゃない、最初は全然そんなつもりなかったはずだ。だろ?違うか?」
 サーシャの顔色が青ざめる。
 レイジはあっけらかんと続ける。
 「俺はそうじゃなかったんだ。俺が物心ついた時から仕込まれてきたのは単純に人を殺す技術。人を喜ばす必要なんてない、楽しませる必要なんかこれっぽっちもない、人を殺すためだけの。そこが俺とお前の違い。お前は途中から人殺しになったけど、俺は最初から人殺しだった。効率よく人を殺すためだけに技を磨いて身に付けた」
 レイジの笑顔に狂気渦巻く深淵が開く。
 「途中で人殺しに転身したお前が、生まれつきの人殺しにかなうわけないんだよ」
 二の腕に鳥肌が立った。 
 「でもまあ、サーカス仕込みの曲芸のわりにはなかなかイケてたぜ。健闘に敬意を表してアマチュアからセミプロに格上げしてやってもいい……」
 二の腕が鳥肌立ったのは、レイジの笑顔に気を呑まれたからじゃない。サーシャの眼光に圧倒されたから。サーシャと目が合ったから。
 地獄のような目だった。
 レイジの言葉を遮るようにサーシャが腕を振りかぶり、ナイフを投げ放つ。サーシャが宙に投擲したナイフが一直線に向かう先にいたのは……俺。
 「「ロン!」」
 サムライと鍵屋崎の声が重なる。逃げようとした。でも、足が竦んで一歩も動けなかった。金縛り。視線の先でレイジが慌てて駆け出し、サーシャに背中を向ける。あの馬鹿、こんな大事な時に敵に背中を向けてどうする?それこそ襲ってくださいと言ってるようなもんだろ。
 笑顔を引っ込めたレイジが何かを叫んで全力疾走する。あの距離から間に合うわけない。サーシャの奴、正気か?場外の人間を攻撃したら即失格なのに…… 
 ガシャン、と金網が鳴った。
 慄然と立ち竦んだ俺の目と鼻の先でナイフが止まった。柄の部分がひし形の網目に嵌まりこんだのだ。助かった、と安堵したのも束の間。
 俺は気付いてしまった。サーシャの策略に。
 「レイジ、後ろだ!」
 転げるように駆けて来るレイジに叫ぶが、遅い。俺の無事を確認したレイジの顔が安堵に溶け崩れる。畜生、腑抜けたツラしやがって。リングでよそ見なんかしてんじゃねえよ。サーシャはレイジの行動を全部読んでいた。俺めがけてナイフを投げたらレイジが血相変えて駆け出すに違いないと踏んで、距離的に間に合わなくても俺を助けようとしゃにむに走り出すに違いないと踏んで、レイジの注意を逸らして隙を導くために………。
 レイジはまんまとサーシャの罠にひっかかった。
 窮地に陥った俺を放っとけずに、自分がおかれたのっぴきならぬ状況も度忘れして、敵に背中を曝け出すという致命的なミスを犯した。  
 金網に挟まったナイフと俺の顔とを見比べて胸を撫で下ろしたレイジの背後に影がさす。
 サーシャが持ってるナイフは一本じゃない。
 レイジが振り向いた時には、既に遅く。
 「無様だな」
 サーシャが振り上げたナイフがレイジの片腕を容赦なく切り裂き、包帯が宙に泳ぐ。
 サーシャが切り裂いたのは、レイジが怪我したほうの腕だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050804023707 | 編集

 レイジの野郎、速攻約束破りやがって。
 無事帰ってこいって言ったじゃねえかよ、さんざん言い聞かせたじゃねえかよ、くどいほど念を押したじゃねえかよ。
 俺はレイジが心配だ。心配で心配でいてもたってもいられない。
 レイジは自分の価値を安く見積もり過ぎだ。自分の命を安く見積もり過ぎだ。俺を守り抜くためなら自分がどれだけ傷付いてもかまわないと、たとえ自分が死にかけたところで一片の悔いもないと、あいつは腹の中じゃそう思ってる。今でも思い続けている。
 俺はレイジの相棒だ。だからあいつの考えてることはよくわかる、他のだれよりレイジの身近にいてレイジの表情を読むのに長けた俺だからこそレイジが口には出さない本音がわかっちまう。
 結果、レイジは敵に背中を見せるという致命的なミスをおかした。
 サーシャは最初から全部見ぬいていた。レイジから隙を引き出したければレイジ本人ではなく俺を攻撃すればいい。そうすればレイジは冷静な判断力を失い、俺を助けることを何より優先して無防備になるに決まってるのだ。
 サーシャはレイジの弱みにつけこんだ。レイジの弱みは俺だ。俺はまたレイジの足を引っ張っちまった。
 「くそっ……!」
 俺はどうしてこう役立たずなんだ、レイジの足を引っ張ってばかりなんだ?なんですぐに避けなかった、逃げなかった。
 折れた骨折がうずいてとっさに後退できなかった。
 体の怪我を言い訳にするつもりか?
 情けない。
 自分が情けない。
 レイジのために何もしてやれない自分が情けない、無力が歯痒い。
 今の俺に何ができる?相棒ただひとりをリングに上がらせて自分は金網越しに指くわえて見てるだけ、傍観者の立場に甘んじてるだけ。
 俺にはただレイジを応援することしかできないのか、無責任に「頑張れ」とほざくことしかできないのか。
 レイジは今だって十分すぎるほどに頑張ってるのに、片腕の激痛を堪えて頑張りすぎるほどに頑張ってるのにこの上まだ無理を強いるつもりなのか。
 「自分のことを足手まといだとでも思っているのか。自己憐憫に酔っている余裕があるならちゃんと顔を上げて現実を直視したらどうだ」
 冷淡な声にはじかれるように顔を上げ、隣を見る。鍵屋崎は身動ぎせず立ち竦んでリングを見つめていた。
 眼鏡越しの双眸を思慮深く細めてリングを凝視していた。息を詰め、鍵屋崎の様子を窺う。努めて平静を装っているが、完全には動揺を封じ込められてない証拠に体の脇でこぶしを握りしめていた。
 深刻な面持ち。
 金網越しの安全圏にありながら、自分もまたリングに上がってレイジとともに闘っているような厳しい表情だった。眼鏡のブリッジに人さし指を添えて俺へと向き直った鍵屋崎は、感情の窺えない低い声で淡々と畳みかける。
 「逃げるな、甘えるな、目を逸らすな。自分の無力を呪うのは後回しだ。
 今君がすべきことはそんなくだらないことか、自身の無力を呪い自身の非力を憎み自己憐憫に溺れて自虐的な快感に浸ることか?そうやって首をうなだれて金網に寄りかかって現実逃避することか?違うだろう、そんなわけがない」
 鍵屋崎の言葉は厳しかった。叱咤よりも叱責に近かった。物静かな口調でありながら鞭打つような響きがあった。どこまでも率直に俺を奮い立たせる言葉。
 片方割れたレンズの奥で目を細め、レイジに共感するように一瞬痛ましげな表情を覗かせた鍵屋崎が、すぐまた無表情に戻って続ける。
 「君は無力で非力だ。とるにたらない存在だ。だから何だ、それがどうした、君が無力で非力なことがレイジを見捨てる免罪符になるのか?
 ちゃんと顔を上げろロン、目を閉じるんじゃない、レイジの唯一無二の相棒として義務と責任を完遂しろ。自己嫌悪など振りきれ、くだらない。自己憐憫から脱却しろ、くだらない。いいかロン」
 鍵屋崎が吐息のかかる距離に顔を寄せる。鍵屋崎の背後にはサムライがいた。金網に背中を立て掛けて疲労困憊の様子で荒い息を零していた。
 血が乾いたズボンを足の付け根までまくりあげ、剥き出しの太股に真新しい包帯を巻いていた。
 サムライは無言で鍵屋崎の背中を見守り、鍵屋崎と対峙する俺とを見比べていた。包容力に溢れた力強い眼差し。油断ならぬ猛禽の眼光を宿した双眸が鍵屋崎の背中に注がれる時だけは角がとれて柔和に凪いだ。
 正面から俺の目を覗きこみ、極力抑えた口調で鍵屋崎が言う。
 「自信をもて。君は無力で非力でとるにたらない凡人だが、それでもレイジの相棒だ。僕にとってサムライがかけがえのない相棒であるように、レイジにとっては君が他の何物にも替え難いかけがえのない存在なんだ。
 レイジを暗闇から引きずり出したのは君だろうロン。僕にはレイジを助けることができなかった、レイジを暗闇から連れ出すことができなかった。
 しかし君はたった一晩でそれを成し遂げたじゃないか、レイジの手をあやまたずに掴んだじゃないか。君はもっと誇っていいんだ、正当に自負していいんだ。君自身に特別な価値を見出していいんだ」
 あっけにとられた俺を前に急に気恥ずかしくなったのか、わざとらしく咳払いした鍵屋崎が体ごと金網に向き直り、死闘が繰り広げられるリングに視線を投じる。
 とりつくしまもない無愛想な横顔はそれ以上の詮索を拒絶していたが、鍵屋崎が不器用なりに俺を気遣ってくれてることはよくわかった。
 「……雑談はおしまいだ。くだらないお喋りに時間をとられて大事な試合を見逃しては本末転倒だ。前を向けロン、まだ試合は終わりじゃない。レイジの闘志は依然衰えてない。相棒の君が真っ先にレイジの敗北を確信してどうする?王様が知ったら憤慨するぞ」
 「……けっ。お前に説教されなくてもわかってるっつの」  
 鍵屋崎の毒舌で元気がでてくるなんて俺もやきが回った。
 今ならわかる、鍵屋崎は鍵屋崎なりの不器用なやり方で俺に発破をかけたんだろう。
 平手で頬を叩いて喝を入れる。いい音が鳴った。
 そうだ、鍵屋崎の言うとおりだ。レイジの相棒の俺が、だれよりも今いちばんにレイジを信じてやらなきゃいけない俺が真っ先に勝負を投げてどうする?
 鍵屋崎のお説教で目が覚めた。
 ポケットに手を潜らせ、手探りで牌を掴み、握りしめる。この牌だけが唯一俺とレイジを繋ぐもの、絆の形。レイジもこれとおなじ牌をポケットの中に持っている。手のひらに牌を握り、一心に念じる。
 レイジの勝利と生還を。
 「優しいな」
 牌に願掛けする俺の耳朶にふれたのは、笑みを含んだ呟き。
 振り返ればサムライが微笑んでいた。サムライの笑顔なんか滅多に見れないからあ然とした。何のことを言ってるんだろうと不審がった俺の隣、ひどく気分を害したらしい鍵屋崎が不機嫌に吐き捨てる。
 「侮辱するな」
 プライドを傷付けられたといわんばかりの言い草だった。
 胸の前に持ってきた手の中で牌を温め、再びリングを睨む。サーシャに腕の包帯を切り裂かれたレイジだが、すぐに腰から下の安定を取り戻して防御に徹する。幸いナイフは包帯を掠めただけらしく安堵したが、腕に包帯を絡めてサーシャの猛攻をかわすレイジの動きが鈍りはじめたのは明らか。
 「スタミナ切れか。無理もない、腕に重傷を負っているのに激しい運動を続ければいずれこうなるとわかりきっていた」
 寸評を挟む鍵屋崎の顔も苦い。サムライの顔には物憂げな翳りがあった。レイジは次第にサーシャに追い詰められていた。切り裂かれてばらけた包帯の下からは、鋭利な刃物でざっくりやられた傷口が覗いていた。痛そうだった。
 包帯がはだけて外気に晒された傷口が疼くのか、動体視力の限界に迫る速さで繰り出されるナイフを間一髪避けつつレイジが顔をしかめる。
 化膿した傷口に外気が染みる。息が上がる。
 苦痛と焦燥とが綯い交ぜとなった表情、眉間に刻まれる被虐の皺。
 「どうした、息が上がっているではないか。私の下で淫らに喘いでいたときの威勢はどうした?」
 サーシャの嘲弄が冷たく響く。銀の軌跡を曳いて虚空を薙ぎ切る刃の残像。
 「『淫らに喘いでいた』とか普通に言っちゃうなよ恥ずかしい」
 「事実を言ったまでだ」
 レイジの軽口など問題にせず鼻で笑い捨てサーシャが狂ったようにナイフを振るう。冴えに冴え渡るナイフの切れ味。レイジはすれすれでナイフをかわしているが、次第にそれも難しくなってきた。
 鋭利な刃があざやかにひるがえり、滑降し、レイジの脇腹を擦り抜ける。
 「!痛っ、」
 切り裂かれたシャツの下の素肌に淡く血が滲む。ナイフが擦過したあと。
 続けてサーシャがナイフを振るう、一瞬たりとも手を止めず緩めず、レイジの体力が回復するのを待たずに。毒牙を剥いた蛇のように変則的な手の動き、腕の関節など無いかのような柔軟かつ奇怪な動き。
 毒蛇が呼気を吐くような風切る唸りをあげて襲い来る刃がレイジのシャツを掠め皮膚を裂き血を滲ませる。
 殆ど一方的といっていい攻撃にレイジは歯向かう術をもたない、反撃の機が掴めない。そもそもサーシャが反撃の隙を与えないのだ。
 胸の内側で感情が沸騰する。
 俺の目の前でレイジが成す術なく追い詰められている。
 いつも不敵に余裕ぶっこいた無敵の王様が、あろうことかサーシャごときに追い詰められて絶体絶命の窮地に立たされてる。
 悪い冗談だ。おかしいだろこんなのって、ありえないだろ。
 「レイジなにちんたらやってんだよ、お前らしくねえよこんなの、いつもみたく余裕で終わらせよ!」 
 俺は無茶を言ってる、頭ではわかってる、ちゃんとわかってる。
 レイジは一杯一杯なんだ、腕の傷口は化膿してじくじく疼いて理性も吹っ飛びそうな激痛に絶え間無く襲われて、レイジは今二本足で立ってるだけで精一杯なんだ本当は。わかってるよそんなこたあ畜生、でもじゃあどうするんだよ、このままサーシャにやられっぱなしで終わっちまうのかよ!!
 「くそったれが!!」
 「え?」
 叫んだのは俺じゃない。癇癪を起こして金網を蹴り上げたのも俺じゃない。いつのまにか俺の隣にやってきていた凱だ。怒りに真っ赤に充血した顔の凱をきょとんと振り仰ぐ。
 「お前なんでこんなとこに、」
 言葉は続かなかった。唐突に凱に胸ぐら掴まれて、足裏が浮くまで吊られたのだ。
 「なんでこんなとこにだあ、お前が俺をパシらせたからに決まってるじゃねえかよ!!俺のケツ蹴飛ばして地下停留場までパシらせたくせに礼ひとつ言わず乗り捨てて無視か、ド忘れか?てめえ何様だこの半々が、用済みになった途端にひとのこと綺麗さっぱり忘れやがって!!」
 「うっせえな、こちとらそれどころじゃねえんだよ!運賃要求すんならあとにしやがれ、今はレイジの試合中だ、他のことなんか考えてらんねえよ!試合終わったら気が済むまで付き合ってやるよ、約束どおり気が済むまで俺のこと殴って蹴ってめためたにすりゃいいだろうが!」
 売り言葉に買い言葉で威勢よく吠える。実際今の俺には凱に関わりあってる余裕がなかった、あたりまえだ、相棒の一大事に凱の相手してやるほどお人よしじゃない。
 俺の胸ぐら掴んだ凱の手をこじ開け、やり場のない衝動に駆り立てられて咆哮する。
 「とっとと手え離せよ親馬鹿暴れ牛が、俺は最後までレイジに付き合う覚悟決めたんだ、何もできなくても役立たずでもレイジのそばにいてやるって決めたんだよ!」
 「半々のくせに、」
 舌打ちした凱の横顔にぴたりと木刀がつきつけられる。
 「そこまでだ」
 凱の背後、木刀を携えて立ちあがったサムライが鬼気迫る眼光を放つ。 
 「レイジの試合中に無粋な真似をするな。失せろ」
 静かな怒りを漲らせたサムライが言葉少なに命じ、鍵屋崎が同感だと隣に並ぶ。この場の全員から不興を買った凱が、非難の眼差しを跳ね返すようにふてぶてしく唇を捻じる。
 「……は、この俺様をみくびってもらっちゃあ困るぜ。口の減らねえ半々を痛めつけるのは後回しだ。
 そういう約束だからな」
 「だったらなんで、」
 「気に入らねえんだよ、試合の成り行きが」
 足元の床に唾を吐いた凱が、忌々しげにリングを睨む。金網の向こう側ではサーシャの猛攻により劣勢に追い込まれたレイジが、体前に翳したナイフで凶刃を弾きつつ肩を喘がせていた。
 「ふざけんなよ糞が。あれが東棟の王様かよ、東棟のナンバー1かよ、東京プリズン最強の男かよ。俺が何度喧嘩ふっかけても鼻歌まじりに返り討ちにしてくれた無敵の男かよ。なんだよあのザマは情けねえ、サーシャにやられっぱなしで手も足もでねえじゃねえか!なあロン、これは一体なんの冗談だ?ありゃ本当に俺の知ってるレイジと同一人物か、片腕の怪我くらいで音をあげる根性なしが!?」
 凱は激怒していた。地団駄を踏み、何度も金網を蹴り付ける。レイジの注意を引こうとでもいうように、図体でかい子供が駄々をこねるように。鍵屋崎はぽかんとしていた。サムライの殺気は霧散していた。
 「畜生が、あんな腑抜けが東棟の王様だなんて認めねえ、天地がひっくりかえっても認めてたまるかよ!!どうしたレイジやり返してみろ、鼻歌まじりに俺たち蹴散らしたときみてえにサーシャぶちのめせよ!レイジをトップの座から引きずりおろすのは他のだれでもねえこの俺様だ、サーシャに見せ場横取りされてたまるかよ!俺はいつかレイジの顔を擦りつぶして東京プリズンの天下とるって決めたんだよ、それが夢だったんだよ!!」 
 眼中にない俺を突き飛ばして金網を揺すりたて、悲愴な形相で怒鳴る。
 『加油、不要客気!!』 
 レイジ遠慮はいらねえ、やっちまえ。
 頑張れ。
 凱の心からの叫び。偽り無い本音。その時俺は腑に落ちた。凱が俺を目の敵にしてしつこくちょっかいかけてきた本当の理由が、最大の動機が。
 それは俺が台湾と中国の混血だからじゃなくて、薄汚い淫売の股から産まれた半々だからじゃなくて、レイジに反感を抱いてたからだ。
 レイジとサムライがいるかぎり凱はいつまでたってもナンバー3どまりで、どんだけ手下集めて数を嵩にきても王様にはかなわなくて。
 凱にとってレイジは決して超えられない目標で。
 でも、いつか超えたい目標で。
 「俺以外の奴に負けたら承知しねえぞ、王様!!」
 凱も心の底では、密かにレイジを認めてたのだ。子分どもの手前おおっぴらにできなくとも嫉妬と羨望の入り混じった複雑な感情をレイジに抱き、小突きやすい俺をその捌け口にしていたのだ。
 自分以外の男にレイジが倒されることなどあっちゃならない絶対に。
 『……加油』
 口が勝手に動いていた。「頑張れ」。頑張れ負けるな、レイジ。
 こぶしに握りこんだ牌を胸にあてがい、凱の巨体をおしのけるようにその腋の下に割り込む。腋の下に潜りこんだ俺にぎょっとした凱が大口開けて罵倒を浴びせかけたが、すかさず抗議を封じて叫ぶ。
 手のぬくもりをおびた牌に全身全霊で祈りを捧げ、レイジに想いが届けと。
 『加油、我祈祷弥的勝利!!』
 頑張れ、勝利を祈ってる。
 レイジがびっくりしたようにこっちを向く。無理もない、犬猿の仲の凱と二人一緒に応援してるんだからおったまげるはずだ。だが、すぐさま驚きから覚めたレイジの顔に広がったのは……場違いに晴れやかな笑顔。
 次にレイジがとった行動は予想外のものだった。
 レイジが人さし指と中指を唇にあて、宙に投げ放つ。
 「投げキッスって……あのやろう時と場所考えてふざけろよ!?」
 かなり深刻に頭を抱え込みたくなった。一瞬、レイジに告白したことを後悔した。鍵屋崎とサムライもあきれ顔だった。ああ、顔から火がでそうに恥ずかしい。満場から注がれる好奇の視線にいたたまれなくなり、レイジとは他人のふりで顔を俯けた俺の耳朶にどよめきが押し寄せる。
 はっと顔を上げた。
 「……首を刎ねてやる」
 双眸に憎悪を滾らせたサーシャが獲物にとびかかる獣のように腰を低め、跳弾の瞬発力で床を蹴る。助走、加速。サーシャの腕が俊敏に半弧を描き、ナイフの表面が照明を反射してぎらりと輝く。
 虚空に銀弧を描いた凶刃が凄まじい速度で振り上げられ振り下ろされ、レイジが体前に掲げた刃と衝突して火花を散らす。
 甲高い軋り音。金属質の残響。
 虚空に振りあげた腕が滑降の軌道上で加速、舌先の割れた蛇の如く幾条もの銀の鞭がレイジの体を撫で斬る。
 嬲り者。あるいは見世物。
 レイジの防御は殆ど意味を成さなかった。致命傷を防ぐだけで精一杯。ナイフが耳朶を掠めて血が飛び散る、ナイフが肩口を掠めて服が裂ける。
 裂傷裂傷裂傷……無数の裂傷。
 レイジの四肢が、全身の皮膚が切り裂かれて赤い線がひかれる。
 圧倒的なサーシャの優勢。
 序盤は互角だった。しかし、今や完全に立場が逆転した。
 時間が経てば経つほど持久力が切れたレイジは不利になる。
 「首を刎ねろ!」
 「首を刎ねろ!」
 「革命を起こせ、王を処刑台に送れ、暴君を血祭りにあげろ!」
 「一片の慈悲もなく微塵の容赦もなく些末な憐憫もなく!」
 「革命を起こせ!」
 「革命を起こせ!」
 「我らが求めるは出自卑しき雑種の王にあらず、正当ロシアの末裔、偉大なる皇帝サーシャ様!」
 「サーシャ様万歳!サーシャ様万歳!」
 「万歳!万歳!」
 狂気に伝染した北の囚人たちが次々と腕を突き上げ歓呼の声をあげる。異常な熱狂と興奮。統率された軍隊の動きで波涛を生み出した北の囚人たちがウーラン……ロシア語の万歳をただひたすらにくりかえす。
 「てめえら黙れよくそが、馬鹿のひとつおぼえみたいにウラウラウララくりかえしやがって!!」
 凱が癇癪を爆発させるが効果は薄い。リング上では歓声に後押しされたサーシャが一方的にレイジを追い詰めている。レイジの服はあちこち切り裂かれて肌が覗いていた。
 「淫らな恰好だな」
 サーシャが生唾を呑みこむ。包帯がひっかかった片腕を庇い、金網に背中を預け、肩で息をするレイジ。すごい汗だ。ひどい顔色だ。浅く浮き沈みする肩も広い胸板もよく引き締まった脇腹も申し分なく長い足も、レイジの体でナイフに舐められてない場所などどこにもなかった。
 皮膚が切り裂かれて血を滲ませてない場所など皆無だった。囚人服はボロ切れ同然で体を隠す役に立たなかった。
 無残に切り刻まれた囚人服の裂け目からしっとり汗ばんだ褐色の肌が覗く。
 扇情的な光景。
 「だからその『淫らな』って多用すんのやめろよ、聞いてるこっちが恥ずかしいっつの」
 片腕を抱えて苦しげに笑うレイジのこめかみを汗が一筋滴り落ちる。 
 「相変わらずの減らず口だな。そんなに口枷が恋しいのなら私の物でも咥えるか?大衆の面前だからとためらうことはない。この試合が終わればお前は私の飼い犬となる、皇帝手ずから首輪を嵌められ所有物となる。第一、私のもとにいた時もさんざん奉仕したではないか。私の足元に跪き私の前に頭を垂れて、去勢された犬のように従順に私に奉仕したではないか」
 サーシャが喉を仰け反らせて哄笑する。
 間違いない。サーシャは俺に聞かせるために、俺を意識してわざと周囲に聞こえる声で言ったのだ。いい性格してやがる。囚人服の十数個所を切り裂かれ、傷口を外気に晒し、金網に背中を預けたレイジが喉の奥でくぐもった笑いを泡立てる。
 「さあ、犬に戻れレイジ。私の物になれ。お前は飼うよりも飼われるほうがふさわしい。猫など捨てろ。待遇は保証する。鉄の鎖に繋いで気まぐれに鞭をくれて可愛がってやる」
 サーシャが芝居くさい動作で片腕を広げてレイジを迎え入れる体勢をとる。声音優しく招かれたレイジが前髪の隙間から虚ろな視線を返す。そして……
 口の端に指をひっかけ、歯茎を剥き出す。
 サーシャの眉間に皺が刻まれたのを確認し、口から指を抜いたレイジがしてやったりとほくそ笑む。
 「ほざいてろよサ―シャ。俺はお前のような変態と違って愛あるセックスじゃねえと興奮しねえタチなんだよ。俺が今抱きたい奴はロンだけだ。それ以外の奴に突っ込まれるのも突っ込むのもお断りだね。ロンはああ見えてやきもち焼きだから、今度浮気したら本格的に愛想尽かされちまうよ」
 金網に寄りかかるように上体をずり起こしたレイジが宣言する。

 「ぶっちゃけ、お前とヤるよかロンの応援のが百倍勃つよ」
 サーシャの膝がレイジの鳩尾にめりこんだのは、次の瞬間だった。

 「かはっ……」
 体を二つに折ってはげしく咳き込むレイジのもとへ、片手にナイフをひっさげ優雅に歩み寄るサーシャ。金網に背中を預け、腹を抱えて床に座りこんだレイジの髪を一束手荒く鷲掴み、顔を起こす。胃袋を吐き戻す勢いで咳き込むレイジの目には生理的な涙が浮かんでいた。額には脂汗が滲み、顔にはおくれ毛がはりついていた。
 「命乞いの機会を与えてやったのだがな」
 酷薄な笑顔でサーシャが言い放ち、前髪を毟る手に力をこめる。
 頭皮ごと引き剥がす激痛にレイジが堪えようもなく苦鳴を漏らすが握力は緩めない。興奮に乾いた唇を舌で舐め、尊大に顎を引き、目を細める。
 瀕死の獲物を嬲る蛇の視線がレイジの四肢に纏わりつく。
 苦痛の皺を刻んだ眉間、目尻に涙を溜めた双眸、倒錯した官能を引き起こす被虐の表情。服の裂け目から露出した皮膚には十数箇所もの切り傷ができていた。
 傷物の肢体。
 じっくり時間をかけてレイジの全身を舐め尽くしたサーシャが、レイジの首の後ろに手を回し、そっとうなじをなで上げる。
 「………ふっ……、」
 「感じているのか」
 レイジの耳朶で囁く。
 その間も愛撫はやまず、レイジの首の後ろをくすぐる。
 「ロン、どこへ行くんだ!?」
 勝手に体が動いていた。発作的に飛び出そうとした俺の肘を後ろから掴み、鍵屋崎が制止する。
 「うるせえよ、サーシャの好き勝手にさせてたまるかよ、忘れたのかよ渡り廊下のこと!?サーシャはマジでいかれてる、マジでレイジを殺そうとしてる!このままじゃあいつ……、」
 「君が飛び出していけばレイジは即失格だぞ、冷静になれ!」
 「じゃあこのまま見て見ぬふりしろってのかよ、俺の相棒がサーシャに犯されて殺されても指くわえて見てろってのかよ!?」
 頭に血がのぼる。リング上じゃサーシャが好き勝手やってる、好き放題にレイジの体を弄んでいる。レイジの首の後ろに指をすべらせ、耳朶をつねり、揉み、しまいにはシャツの内側に手を潜らせる。
 「公衆の面前で犯る気かよ?露出趣味ねえんだけど、俺……痛あ!」
 レイジの語尾が悲鳴に変わる。鍵屋崎と同時にリングに向き直り、慄然と立ち竦む。レイジの服の裾をはだけて脇腹に手を潜りこませたサーシャが、ナイフが裂いた皮膚に爪を立て、ぎりぎりと抉る。
 「二度とその減らず口をきけないようにしてやる」
 首を仰け反らせて苦悶に喘ぐレイジの懐から手を抜き、サーシャが偉そうに宣言。ナイフを表返し、逆の手でポケットから取り出した透明な袋を口へと運び、犬歯を突き立て、噛み千切る。
 透明な袋。白い粉末。あれは……サーシャが常用してる覚せい剤の粉。
 何をする気だ?背筋を悪寒が駆ける。
 袋を逆さにし、ナイフの表面に白い粉末をふりかける。
 サーシャは嬉嬉としていた。目は爛々と輝いていた。
 覚せい剤の粉末をナイフの表面に塗ったサーシャが、片手でレイジの前髪を掴み、自分の足元へと跪かせる。不可抗力でサーシャに膝を屈したレイジの鼻先へと突き出されたのは、ナイフ。
 「舐めろ。お前の餌だ」
 サーシャは何を言ってる?覚せい剤を塗ったナイフを舐めろとレイジに強制してるのか、ナイフに付着した粉末を犬みたいに舌を出して舐め取れと強要してるのか?レイジが黙ってままでいることに機嫌を損ねたサーシャが、中腰の姿勢からレイジの顔へと手をのばして口をこじ開けにかかる。
 「どうした、また口移しでのませてほしいのか。生憎だが、今の私はおまえに優しくしてやる寛容さは持ち合わせてない。躾の悪い雑種が無礼を働いて気分を害しているのだ。これ以上痛い目に遭いたくなければ命令に従え、ナイフを舐めて飼い犬になると誓え、従順に運命を受け容れろ。
 そうだ、これは儀式だ。お前が私の物になる儀式、私に絶対忠誠を誓う儀式!私に奉仕する心がけで丁寧にナイフを舐めろ、お前は舐めるのが得意だろう、さんざん仕込んでやったからな」
 サーシャは狂喜していた。
 熱に浮かされたように饒舌にまくしたてつつ、唾液にまみれた指でレイジの口腔を蹂躙する。畜生なにやってんだよレイジやられっぱなしになってんじゃねえ、立てよ、立ちあがれよ!

 ―『站!!』―
 立てよ!!

 ガリッ、と音がした。実際にはこの距離から聞こえるはずもないが、俺にはたしかに聞こえた。レイジがサーシャの指を噛む音。
 「……!!」
 動揺したサーシャが力一杯レイジを突き飛ばして口腔から指を引きぬく。レイジが背中から金網に激突、振動。だらけきった姿勢で金網に寄りかかり、手の甲で顎を拭い、顔を起こす。
 口の端を滴る血をひと舐め、レイジが中指を立てる。
 『Lick my ass, if I want me to lick a knife』
 俺に舐めてほしけりゃケツの穴を舐めろよ。 
 「それが答えか」
 「これが答えだ」
 サーシャの目が急激に冷えこんでゆく。危険な兆候。烈火の如き怒りではない、むしろその真逆、氷結地獄の怒り。サーシャを中心に霜を降らせて絶対凍土を広げる怒り。周囲の気温が急速に低下してゆくような錯覚に襲われたのはサーシャから放たれる闘気が凍気へと変わったせいだ。
 鳥肌をしずめようと無意識に二の腕を抱いた俺の視線の先、冷ややかにレイジを見下したサーシャが高々と片足を振り上げ……
 「!レ、」
 サーシャが無造作にレイジの片腕を蹴り上げ、靴裏に体重をかけて執拗に踏み躙る。
 腕の骨が軋む音がここまで聞こえてきそうだった。
 サーシャが情け容赦なく踏み躙ったのは、レイジが怪我したほうの腕だった。
 「!!!っ、ああっぐ、う」
 尖ったつま先が傷口を抉る。踵が腕にめりこむ。レイジが悲痛に身悶えて上体を突っ伏す。激痛なんて言葉が生易しく聞こえる壮絶な痛み。首を仰け反らせ、うなだれる。レイジは必死にもがいていた、化膿した傷口を踏みにじるサーシャの足をどけようと泥溜めのミミズのように這いずりまわっていた。 
 だが、膝が立たない。肘を起こせない。無様な四つん這いからどうしても上体を起こすことができない。干した藁束に似た明るい茶髪は汗でぐっしょり濡れそぼり、朦朧と濁った目にはうっすらと涙の膜が張り、口角には白濁した唾液の泡が付着していた。
 「もう、いい」
 もうたくさんだ、おしまいにしてくれ。金網を両手で掴み、力任せに揺さぶる。こんな光景、これ以上見たくない。レイジから離れろサーシャ、俺のレイジから離れろくそったれ!!
 「もういいレイジ、我慢すんな!もう負けでいいよ、お前のそんな姿見たくねえよ、王様にそんな恰好似合わねえよ!だから、」
 だからなんだ?はいそうですかと負けを認めて俺のもとに帰ってこい?
 喉が詰まる。言葉が詰まる。喉に吸い込んだ途端に空気が砂になったようだ。どうして?レイジは無敵の王様じゃなかったのか、東京プリズン最強の男じゃなかったのか、それがなんでどうしてこんなことに俺のせいか俺が悪いのか俺がレイジを行かせたから物分りよくリングに送り出したから?
 俺が止めなかったから?
 「ひっ、い……ぐ……あ!」
 「そうだ、もっといい声で鳴け、もっともっと泣き叫べ。眉間に眉を寄せて苦痛に抗え、首を仰け反らせて慟哭しろ、私の足元にひれ伏してもがき苦しめ!ははははははははっ、いい顔だなレイジよ、私はずっとその顔が見たかったんだ!!お前の自信を突き崩し余裕を奪い去りプライドを引き裂き、恥辱の泥濘に這いずり回らせてみたかった!覚えているかレイジよ、私の背中を切り刻んだ日のことを?
 私は片時たりとも忘れたことがない、あの日私は心に誓った、必ずや東京プリズンの頂点に立ちお前に復讐してやると!お前が私にそうしたようにお前にも生涯癒えぬ烙印をくれてやると!!」
 漸く足をどけたサーシャがレイジの手首を踏みつけて床に固定する。
 「体の一部を失うならどこがいい。目を抉り取るか、耳を殺ぎ落とすか、それとも……」
 ナイフの刃を水平に寝かせる。
 「腕か」
 「……腕、は勘弁してくれよ。ロン、との約束が、守れなくなる」
 息も絶え絶えにレイジが口を挟む。瞼を押し上げるのも億劫らしく目は瞑ったまま。サーシャに踏み躙られた腕は泥と血にまみれてひどい有り様だった。傷口はぱっくり開いていた。いや、サーシャに無理矢理こじ開けられたというべきか。
 化膿した傷口をつま先で抉られ、体重かけて踵を捻じ込まれ、失神してもおかしくない激痛を味わって。
 それでもレイジがリングが下りないのは、俺がいるからだ。
 俺が。俺のせいで。
 「この試合が終わったら、抱いてやるって約束したんだよ」
 いい夢を見てるように口元に微笑を浮かべ、コンクリ床に頬を付ける。指の感覚も失せているのか、握力が入らずにそれまで辛うじて握っていたナイフを取りこぼしてしまう。レイジの手から落下したナイフがコンクリ床で跳ねて澄んだ音をたてる。
 終焉の合図。
 「そうか」
 満足げに首肯したサーシャがレイジの腕を裏返し、手術の執刀にあたる外科医のようにナイフをふりかざす。
 化膿した傷口を今まさににナイフで押し広げんと鋭利な切っ先を添え、サーシャが独りごちる。
 「犬と抱擁する趣味はない」   
 麻酔代わりの麻薬を表面に塗布したナイフが腕を舐めて血膿でぬかるんだ傷口に粉末が溶けこむ。
 斜めに開いた傷口に刃をなすりつけて粉末をぬりこみながらサーシャが呟く。
 何でもないことのように、至極あっさりと。
 「ならば、この腕は無用だな」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050803213207 | 編集

 人けのない通路で看守と囚人が対峙する。
 五十嵐は手に銃を握っていた。こないだビバリーが地下停留場で拾って僕の口利きで五十嵐から安田へと返されるはずだった銃。
 なんで五十嵐が銃を持ってるの、もうとっくに安田に返されたものと信じて疑わなかったのに。何がどうなってるんだ一体、さっぱり理解力が追い付かず思考が空転して混乱の深みに嵌まる。
 五十嵐が約束を破るなんてそんなまさか。僕は五十嵐を信頼してた。いや、信頼してたという言い方は変かもしれない。僕には友達なんか必要ないって今まで突っ張ってきたのに「信頼」なんて言葉簡単に使っちゃいけない。
 他人を信じたら裏切られる、それが世界の鉄則。世間の常識。他人を信じたら馬鹿をみる、他人に心を許したら付け込まれる。弱みを見せるな弱音を吐くな、他人を信頼するな、利用しろ。
 そうだ、僕はこれまでずっとそうやって生きてきた。
 娑婆にいた頃も東京プリズンに来てからも他人を騙して陥れて賢くしたたかに生き抜いてきたんだ。僕には友達なんかいらない、必要ない。友達なんかいざって時邪魔になるだけだ、そんなうざったいもん要らない。絶体絶命の窮地を切り抜ける機転さえあれば足手まといでお荷物な友達なんか必要ない。
 ビバリーだってそうだ。
 お人よしでお節介で口うるさいパソコンオタク。同房の相棒。だから何?僕とビバリーはただそれだけのドライな関係だ。レイジとロン、サムライと鍵屋崎みたくべったり依存してるわけでも必要以上にひっついてるわけでもないさっぱりした関係なのだ。そりゃ僕もビバリーにちょっかいかけることもある、ビバリーのノーマルな反応や動揺ぶりが面白くて肩にしなだれかかって猫なで声で甘えたこともある。
 けどそれだって、ビバリーが靡かない前提があるからこそ安心してちょっかいかけられるんだ。

 ビバリーは何?
 僕の何?

 ただの同房者でそれ以上でも以下でもない、はずだ。じゃあなんで僕はこんなに落ちこんでるの、ビバリーがそばにいなくてこんなに不安なの?今この場所にビバリーがいてくれたらどれだけ心強いかなんて無意識にありもしないこと想像してるの、むなしい期待をかけてるの?今ここにいるのは僕と五十嵐の三人だけ、他の連中は地下停留場に殺到して試合に夢中になってる。今まさにサーシャ対レイジの死闘が行われてる地下停留場からは潮騒のような歓声が聞こえてくる。
 数週間にわたり大々的に開催されたペア戦の締めくくり、北の皇帝サーシャと東の王様レイジの対決は今晩最大の目玉で、地下停留場にこぞって沸いてでた囚人たちは片時もリングから目を離さず試合に集中してる。まさか今この瞬間に、人けのない裏通路で別の対決が行われてるなんて夢にも思わず。
 やれやれめでたいね、人の気も知らずに。
 とりあえず、落ちつこう。状況を整理しよう、分析しよう。深呼吸で動悸をしずめた僕は、五十嵐の背中と正面のヨンイルとを見比べながらおずおず口を挟む。
 愛想笑いは忘れずに。
 「ねえ、これなんの冗談なわけ?決勝戦のトリ、レイジとサーシャの試合をほうっぽって看守と囚人がこんな裏通路でさ」
 引き金にかけた指がぴたりと止まる。
 安堵に胸撫で下ろした僕は、芝居がかった動作で両手を広げ、五十嵐の背に歩み寄る。
 「ねえ五十嵐さん、どうしてヨンイルに銃口つきつけてるの?その銃、安田さんのだよね。僕がこないだ副所長に返しといてってお願いしたブツだよね」
 「て、お前が持ってたんかい!」
 ヨンイルが驚きあきれた顔をするのに肩を竦めて反論。
 「人聞き悪いこと言わないでよ、濡れ衣だよ。銃を拾ったのは僕じゃなくて同房のビバリーさ。前々回だかのペア戦の翌日に地下停留場行って、バスが出た駐車場に銃が転がってるの偶然見つけて、こんな物騒なもん放ったらしてちゃまずいって懐に隠して持って帰ってきちゃったわけ。でも、房に持ち帰ったはいいけど後始末に困って僕に泣きついてきたから仕方なく……」
 曖昧に言い淀んで五十嵐を一瞥する。僕は五十嵐を信頼していた。いや、信頼してたという言い方がおかしいなら信用していた。信じて頼ることはできなくても信じて用いることならできる看守だと評価していたのだ。けど五十嵐は僕を裏切った。どんな事情があるにせよ僕との約束を破り、今の今まで制服の懐に拳銃を隠し持っていたのは事実。
 五十嵐は東京プリズンの良心だ。東西南北の垣根を超えて囚人に慕われる親切な看守。他の看守みたいに囚人をクズ扱いして殴る蹴るの暴行を働かず、親身になって相談に乗ってくれる頼れる大人。
 その五十嵐が、囚人皆から慕われる五十嵐が何故ヨンイルに銃口を向けている?東京プリズンで人望を集める五十嵐がなにをとち狂ってヨンイルのどたまに銃口つきつけている?
 目を疑う。驚愕。信じられない。
 手足の先から冷えてゆくような感覚。戦慄。喉を鳴らし生唾を飲み込み、ヨンイルを振り仰ぐ。
 「ヨンイル、君、なにかラッシーの気に障るようなこと言うかするかしたの?」
 「はあ!?」
 心外なといわんばかりに大仰に目を剥いてヨンイルが抗議の声をあげる。だってそれしか考えられない、五十嵐が囚人の眉間に銃口つきつけるなんて。五十嵐が今日まで誰にも内緒で銃を持ち歩いてた件に関してはとりあえず保留。おおかた仕事が忙しくて安田に会う暇なくて返し忘れてたとか、種明かしすれば「なあんだ」と肩透かし食うような内容のはず。五十嵐だって人間だ、物忘れもすればドジも踏む。弾をこめた銃をうっかり返し忘れてずるずる日が経っちゃうことも絶対ないとは言いきれない。

 五十嵐がヨンイルに銃を向けたのは、「たまたま」かもしれない。

 ヨンイルの無神経な言動に逆上した五十嵐が、たまたま懐にあった銃の存在を思い出して、衝動的に引き金に指をかけたのかもしれない。すべては偶然だ。不幸な事故だ。念入りに練りこまれた計画殺人であるわけがない。五十嵐がヨンイルを殺すために銃を返さずに持ち歩いてたなんて、そんな、まさか。
 第一五十嵐にはヨンイルを殺す動機がない。五十嵐にとってヨンイルは、西の道化という特別な地位にあることを除けばその他大勢とおなじくただの囚人でしかない。
 「だってそれしか考えらんないじゃん、ラッシーがこんなに怒るなんてさ。可哀想にラッシー、ヨンイルにひどいこと言われて傷付いたでしょ。なんて言われたの?奥さんと離婚秒読みだってからかわれたの、髪の毛にフケ浮いてるとかデリカシーのないこと言われたの?フケなんて気にすることないって、独り暮らしの中年男が一日や二日風呂入るの忘れたり頭洗いそびれるのはよくあること……」
 「アホぬかせ」 
 ヨンイルが白けた顔をする。銃口をつきつけられているのに堂に入った態度だ。肩の位置に両手を挙げたヨンイルが僕から五十嵐へと視線を転じる。油断ない目つき。
 「俺はただ、美味しい餌に釣られてコイツについてきただけや」
 「美味しい餌?」
 五十嵐の表情をさぐりながらヨンイルが続ける。
 「ついさっき地下停留場で声かけられたんや、突然。俺にええ話があるって。リョウ、お前知っとるか?東京プリズンの図書館にあるブラックジャックにはピノコの姉の素顔でてきいひんのや。が、五十嵐がもっとる秋田文庫版にはピノコの姉の素顔がばっちり出てくるらしい。五十嵐はな、俺にその秋田文庫版をやる自分についてこいてそうぬかしよったんや。地下停留場の人ごみで手渡して万一なくしたら困るから人けのないところで取り引きをって……」
 「ブラックジャックを餌に釣られたわけ?」
 「早い話、そうやな」
 ヨンイルは馬鹿だ。深刻な顔でなに話し込んでるんだと興味を覚えてついてきた僕も馬鹿みたい。まぎらわしいっちゃないよまったく、人騒がせな。脱力してよろけた僕は、「待てよ」と疑問を感じて踏み止まる。そうなると、五十嵐はブラックジャックを餌にヨンイルを裏通路におびきだしたことになる。現在地下停留場ではサーシャ対レイジの最終決戦が行われてて、観客の目はそっちにいってて、僕らを除いて人っ子ひとりいない裏通路はしんと静まり返っている。五十嵐は注意深く人目を避けて閑散とした裏通路にヨンイルを誘い込んで、そして……
 引き金に指をかけた?
 最初からヨンイルを殺すつもりで?
 「……………っ、」
 全身の毛穴が開いていやな汗が噴き出す。冷や汗。まさかそんな。信じられない。さっきから何度口の中で唱えただろう。けどもう誤魔化すのは無理だ、不可能だ、限界だ。目の前の現実がはっきりと物語ってるじゃないか。五十嵐はヨンイルに殺意を抱いてる。最初からヨンイルを殺すつもりで地下停留場で接触して、目撃者のいない裏通路へと言葉巧みに誘導した。
 ヨンイルは図書室のヌシの異名をとるほどの漫画オタクで特に手塚治虫に傾倒してる。五十嵐が持ってるブラックジャックにピノコの姉の素顔が載ってると聞けばいてもたってもいられず、ほいほい尻軽についていってしまうのも十分ありえる。
 「あ、ははははははは。でも、どうして?肝心の動機が全然わかんないんだけど」
 そう、動機だ。それが最大の疑問。五十嵐がヨンイルに殺意を抱いてたなんて初めて知った。今までそんな素振りなんか少しも見せなかったのに、囚人に分け隔てなく親切に接して信頼を獲得してたのに、それ全部今この時のための伏線だったなんてそんなのアリ?
 ヨンイルに怪しまれず近付いて殺すための周到な罠だったなんて……そんなオチ、アリなの?
 「だってラッシーが殺したい人間て奥さんのはずでしょ。アル中でヒステリーで夫婦喧嘩のたんびに手当たり次第に物投げてラッシーを罵り倒す奥さんのはずでしょ。ラッシー、これまでも度々僕のところにクスリもらいにきたよね。よく効く睡眠薬をもらいにきたよね、寝つきのよくない奥さんのために。でも、ラッシーがどれだけ尽くしたところで奥さんとの仲はもう元通りにならなくて、それでずっと離婚しようかどうしようか悩んでたんじゃないの?僕にはわかるよ、ラッシーの気持ちが。すっごくよくわかる」
 まったくのデタラメだけど。
 心の中で舌をだし、情感たっぷりに頷いてみせる。五十嵐を刺激しないよう無防備に両手を広げて背後に歩み寄り、心の隙間に付け入るしんみりとした口調で続ける。
 「辛かったねラッシー。奥さんのためによかれと思ってしたことが報われなくて腐るのは当然だよ。リカちゃん死んでつらいのは奥さんだけじゃないのに、ラッシーの気持ちなんかちっとも考えず当たり散らすばかりで……
 でもラッシーは優しいから、離婚できなかったんだよね。浮気もできなかったんだよね。フィリピン生まれの奥さんを親類縁者がひとりもいない異国に放り出すなんて酷い仕打ちできなくて、ずっとずっと我慢してたんだよね」
 悲劇の芝居に酔いながら、胸に手をあて大袈裟にかぶりを振る。
 舌先三寸で詐欺を働くのは得意だ。人の弱みにつけこむのも。
 とりあえず、ラッシーを懐柔して銃をしまわせなきゃ。裏通路で発砲騒ぎが起きたら好奇心から現場に居合わせた僕まで巻きこまれて最悪独居房送りになっちゃう。冗談じゃない、僕は無実で無関係だ。五十嵐がヨンイル殺したいならどっか他の場所でやってくれ、僕の目の届かない場所でずどんと片付けてくれ。勝手についてきたくせに無茶言ってる自覚はあるけど、五十嵐とヨンイルの睨み合いはひどく緊迫してて、僕の足は棒みたいに竦んで、今更後戻りもできない。
 状況はよく飲み込めないけど、僕が五十嵐を説得するしかないみたい。
 損な役回りだよまったく。
 心の中で舌打ち、顔には慈愛に満ちた微笑を湛えて五十嵐の背後にたたずむ。今の僕はきっと、背中に翼を生やして祝福のラッパを吹き鳴らす天使みたいな笑顔でいることだろう。無垢に潤んだ上目遣いで五十嵐を仰ぎ、天に祈りを捧げるように胸の前で五指を組む。
 「ラッシー、一生のおねがい。はやくその物騒なオモチャをしまって。僕、ラッシーが人を殺すところなんて見たくない。そんなことしたらきっと天国のリカちゃんも哀しむよ」
 あえて娘の名前をだしたのは、五十嵐の親心に訴えかける効果を期待したから。僕の予想はまんまと当たり、五十嵐の指が引き金から外れ、腕がゆっくりと垂れ下がる。やったね、僕の勝利。指を弾いてほくそ笑みたくなるのを堪え、首をうなだれて立ち尽くす五十嵐へと救いの手をさしのべる。
 「さあ、銃を返して。大丈夫だよ、心配いらな……」

 脳裏で火花が散った。
 頭蓋骨を揺さぶる衝撃、激痛。ぱっくり裂けた眉間から一筋、鼻梁に沿って生温かい液体が滴り落ちる。 

 「え?え??な……」
 痛い。ちょっとこれマジ痛いよ、洒落にならない。おそるおそる顔に手をのばし、熱く脈打つ眉間を庇う。いつだったか、これと同じことがあった。ちょっとしたデジャヴュ。いつだったか、売春班帰りの鍵屋崎を通路で呼びとめて喧嘩売ったことがある。
 『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
 反応は激烈だった。あの冷静沈着な鍵屋崎が僕の挑発にキレて、理性をかなぐり捨てて掴みかかってきたのだ。鍵屋崎に胸ぐら掴まれ押し倒される。
 反転した視界に映る汚い天井、一瞬の浮遊感、床と激突した背中に衝撃。僕の顔面めがけ狂ったようにこぶしを振るう鍵屋崎の顔、眼鏡越しの双眸は憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝いて……
 振り上げ振り下ろされるこぶしに飛び散る返り血。僕の血。
 こぶしが顔面にめりこむたび額が裂けて口の中が切れて鼻血を噴いて、
 『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
 あの時と同じだ。まったく同じだ。僕の眉間めがけて銃身を振り下ろした五十嵐の冷酷無比な顔、憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝く双眸。足が縺れ、よろめく。片方の肘が背後の壁に衝突し、そのまま壁に背中を預けるようにずり落ちて尻餅をつく。
 壁際に力なくへたりこんだ僕を見下ろして、五十嵐が口を開く。
 「知ったふうな口をきくな小僧。うざいんだよ」
 感情の削げ落ちた平坦な口調。腰が抜けてすぐさま立てなかった。銃身で殴打された眉間がずきずき疼いた。おそるおそる眉間から手をどけて見下ろしてみれば、手のひらはべったり血で汚れていた。出血が多い。額の怪我は傷が浅くても出血が派手だとどこかで聞いたことがある、だから僕の怪我だって大したことはない……はずだ。はずだけど、痛い。はは、膝が笑っちゃってどうにも立てないや。壁に縋って上体を起こそうと何回何十回となく頑張ってみても、膝に力が入らずどうしても挫折しちゃう。
 どうしようビバリー、どうしようママ。
 だれか助けて。どうしよう怖いよ、滅茶苦茶怖いよ、だって五十嵐普通じゃないもん、僕の説得も全然通じなくて切れた額からは血が滴って服に染みて五十嵐は片手に銃を持って引き金に指をかけていつでも撃てる状態で!!
 「あう、あう……」
 舌が萎縮して口が上手く動かない。赤ん坊帰りしたみたいにあうあうと意味不明な発声をするばかり。あんまり異常な出来事が立て続けに起きておしっこ漏らしちゃいそうだ。おしっこちびるのなんて子供の頃ふざけ半分にロシアンルーレットされて以来だ。
 立ちあがらなきゃ。逃げなきゃ一刻もはやくここから逃げなきゃ安全な場所に避難しなきゃ地下停留場に行って危険を知らせなきゃ!
 五十嵐の様子はどう見たって普通じゃない。正気じゃない。今の五十嵐なら誰彼構わず手当たり次第に発砲しかねない。遠く歓声が聞こえる。通路のコンクリ壁に反響して僕らのもとに届く潮騒めいた歓声。会場の奴らは人の気も僕の気も知らずに浮かれ騒いで試合に夢中で、本当なら僕もあそこにいたはずなのに、ビバリーと一緒に試合見物してたはずなのに!
 「リョウ、お前が言ったんだぞ。お前が俺の背中を押したんだぞ。殺したい奴がいるなら遠慮なく殺せ、そうしたところで誰も俺を責めない、俺は悪くない。俺がこいつに復讐するのは間違ってないってそう言ったんだぞ」
 「ふく、しゅう?」 
 言ってないよそんなこと、ありもしないこと捏造するなよ。そりゃ僕はたしかに決勝前夜に五十嵐とばったり出くわして、ビバリーと喧嘩した憂さ晴らしにあることないこと吹き込んだ。調子にのりすぎたって認める、反省する。でも一言だって、五十嵐の復讐が正しいなんて肯定した覚えはない。そもそも復讐ってなにさ、五十嵐とヨンイルのあいだにどんな因縁があるって言うのさ。
 血が流れこんだ片目を塞ぎ、床にぺたりと座りこんだ姿勢で物問いたげに五十嵐を見上げる。
 僕の鼻先から銃口をどけ、体ごと振り返る。五十嵐の腕が上がり、再びヨンイルへと銃口が向く。
 「リョウ、お前は勘違いしてたんだ。俺は一言だって殺したい相手が家内だなんて漏らしてない。俺が殺したい奴はまったくの別人で、お前がよく知る人間だ。図書室に行きゃ毎日会える愉快な道化だよ」
 「あー……ちょっとええか?」 
 五十嵐の演説を遮ったのは銃口を向けられた当のヨンイル。遠慮がちに挙手したヨンイルが、自分に向けられる銃口の圧力などものともせずあっけらかんと言う。
 「話をいちばん最初に戻すけど。あんたが秋田文庫版ブラックジャックもっとるっちゅーんのはデタラメで、俺をおびきだすための餌で」
 「デタラメじゃねえ。秋田文庫版ブラックジャックはちゃんと持ってた。ピノコの姉の素顔もこの目で確認したぜ」
 「ホンマか!?」
 ゲンキンにもヨンイルの顔がぱっと輝く。五十嵐に掴みかからんばかりの剣幕で一歩を踏み出したヨンイルが、銃口など眼中にないかのように片手で跳ね除けて続ける。道化め、暴発が怖くないのかよ。あきれかえった僕の視線の先、興奮したヨンイルが身振り手振りをまじえて饒舌にまくしたてる。
 「どやった感想はピノコの姉っちゅーくらいやからやっぱり顔似て美人、いやまって言わんといて、自分の目で確かめるから!!さあ早く約束のブツをこっちによこせよこさんかい、もう待ちきれへん、これ以上焦らされたら気が変になってまうさあ早く秋田文庫版ブラックジャックを!!」
 完全に度を失い鼻息荒くしたヨンイルが五十嵐の肩を掴んで前後に揺さぶる。銃口もはげしくぶれる。もし五十嵐の指がうっかり滑って引き金を引いちゃったら……
 「馬鹿っ、暴発したらどうすんだよ!流れ弾がとんできたら責任とれよ、てかヨンイル僕とラッシーのやりとり聞いてなかったのかよ、君ラッシーに命狙われてんだよ、銃口向けられて絶体絶命危機一髪のピンチなんだよ!?」
 ヨンイルを取り押さえようと飛び出しかけた僕の眼前でそれは起きた。
 「!あ、」
 五十嵐がヨンイルのゴーグルをひったくる。ゴーグルを取り返そうと頭上に手を伸ばしたヨンイルに致命的な隙ができる。
 五十嵐の目に殺意が奔騰、銃を持った腕がひるがえる。
 ああ駄目だ、間に合わない。
 絶望的な予感に苛まれて目を閉じた僕は、いつまでたっても銃声が聞こえないことを不審がって慎重に目を開ける。
 予想外の光景があった。ヨンイルは撃たれてなかった。少なくとも、まだ。
 ヨンイルの口に抉りこまれた銃口。
 五十嵐が引き金を引けば、たちまちヨンイルの顔が爆発して血と肉片が周囲に飛び散る。  
 「ひとの話は最後まで聞けよ」
 五十嵐の口元に笑みが浮かぶ。悪意を篭めたどす黒い笑み。グリップを支える手に力をこめて銃口をごり押し、鼻息荒く顔を近付ける。ヨンイルは口を全開にして銃筒の三分の一までを受け容れたが、どうしてもそれ以上は入らない。しかし五十嵐はかまわず、ヨンイルの顔が苦痛に歪むのを眺めつつ、鋼鉄の銃口で粘膜をひっかく。喉の奥深く達するまで銃口を突っ込み、首を仰け反らせたヨンイルが嘔吐の衝動に抗い目に涙を浮かべるさまを観察しつつ五十嵐は囁く。
 「お前に言ったことは嘘じゃない。俺はたしかに秋田文庫版ブラックジャックを持っていた、その中にはピノコの姉の素顔もばっちり出ていた。でも、今は手元にない。どこにもない」
 五十嵐の顔が泣き笑いに似た歪み方をする。
 「あれはリカが集めた本だ。リカが小遣いで買い揃えた漫画だ。だからリカと一緒に燃やした」
 ヨンイルの目が大きく剥かれる。口がきければ「なんちゅーことを!」と怒鳴り散らしてたかもしれない。だが実際には口一杯に銃を突っ込まれていたため声を発せず、非難がましくうめいただけ。ヨンイルから取り上げたゴーグルを頭上に掲げた五十嵐が、硬い銃身で口内の粘膜を削りながら、ヨンイルの耳元に口を近付ける。 
 「ヨンイル、まだわからないか。どうして俺がお前を階段から突き落としたのか、その理由が。わかるなら言ってみろよ、なあ。あててみろよ」
 粘着質に囁いた五十嵐がヨンイルの口腔から銃を引き抜く。唾液の糸を引いて口腔から抜かれた銃をよそに、体を二つに折ってはげしく咳き込むヨンイル。手の甲で無造作に顎を拭い、五十嵐の表情を注意深く観察する。
 僕は五十嵐の狂気に魅入られていた。これが本当にあの五十嵐だろうか、囚人に親切なことで知られる人望厚い看守だろうか。ヨンイルの口腔に銃を突っ込んでかき回せて呼吸困難にさせて、もがき苦しむさまを冷ややかに眺めていたコイツが本当に五十嵐と同一人物?
 壁に背中を預け、床に両手をつき、愕然と目を見開いて五十嵐を凝視する。
 ヨンイルが足元に唾を吐く。コンクリ床に吐き捨てた唾には血が滲んでいた。無理矢理銃を突っ込まれてかき回されたせいで口の中が切れたらしい。鉄錆びた後味に顔をしかめたヨンイルが、きっぱりと宣言する。
 「知らんわ、あんたが俺を一方的に目の敵にする理由なんか。俺には心当たりも身に覚えもない。気に入らんことあるならはっきりそう言ってくれたらええんや、こんな回りくどい手え使う必要なんかどこにもない。ホンマ気分悪いわ。なんで俺があんたの誘いに乗ったと思う、それもこれもピノコの姉の素顔見たい一心で、秋田文庫版ブラックジャック読みたい一心やないか!図書室のヌシが漫画に賭ける情熱舐め腐りよって…ハートブレイクンや。漫画の神様手塚治虫の名を騙って道化をおびきだすなんて言語道断やで!」
 ヨンイルは本気で腹を立てていた。アホここに極まれり。 
 自分の胸に人さし指をつきつけ、地団駄踏んで悔しがるヨンイルを前にスッと五十嵐の表情がなくなる。
 「…………そうか。なら教えてやるよ、俺がおまえを殺したいほど憎む理由ってやつを」
 虚無と絶望とが綯い交ぜとなった、底の見えない目。
 「…………!」
 どん、と鈍い音が鳴る。背後の壁に背中を叩き付けた僕は、ひきつけを起こしたように硬直し、ヨンイルと五十嵐とを素早く見比べる。五十嵐の横顔は良心の最後の一片までもが消し飛んだように冷ややかだった。ヨンイルの胸を銃口で突いて無理矢理顔を起こさせた五十嵐が、無表情に口を開き、命令する。
 僕もヨンイルも予想だにしないことを。

 「服を脱げ」

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