ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 ドゥ・キャット・イット・バット。ドゥ・キャット・イット・バット。

 頭の中でぐるぐると同じ言葉が回ってる。
 猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠は猫を食べるか。
 不思議の国のアリスにでてくる謎めいた詩の一説、ナンセンスなくりかえし。猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠を食べるかの謎を解くのは簡単、英語に変換してみりゃいい。英語に直せばほらテンポよく韻を踏んでるのがわからずでしょ、病み付きになるリズムってやつ。ドゥ・キャット・イット・バット、ドゥ・キャット・イット・バット……
 連綿と続く意味不明な謎かけ、延々と続く終わりない問いかけ。最後が必ず「ト」で終わって座りがいいから、物心ついて最初に不思議の国のアリス読んだ時からこの謎かけが頭にこびりついて離れなかった。ママの膝の上にちょこんと腰掛けて、子守唄みたいに優しいママの声に陶然として、小さい頃の僕は心地よいまどろみの中でそれを聞いた。

 ねえママ教えてよ蝙蝠さんは猫さんを食べるの、どうして二匹は仲良くできないの?
 そうねリョウちゃん、種族が違っても仲良くできたらいいのにね。
 二匹一緒に遊んだほうが賑やかで楽しいのに。

 でも実際は違った。現実は甘くなかった。小さい僕の素朴な疑問に夢見がちなママは微笑んで共感してくれたけど、僕はそれから暫くして種族の違う動物の共存は無理だって痛感した。
 蝙蝠は猫を捕食する、猫は蝙蝠を捕食する。
 おたがい抜け駆けしあって食いあって共に自滅の道を辿るのが最後まで仲良くできない蝙蝠と猫の哀しい運命だった。
 おとぎばなしの皮肉な結末。可哀想な末路。
 猫は蝙蝠を食べなきゃ、蝙蝠は猫を食べなきゃ生きてけない。
 共存共栄なんておとぎばなしの幻影。食う心配せず裕福な親に依存してるガキの戯言で綺麗ごと。弱肉強食が幅を利かす過酷な世界じゃ狡猾な蝙蝠も媚び上手な猫も稼ぎの手段を選ぶような贅沢は許されず、ただただ必死にお互いを出しぬき合う。共存なんかはなからムリ。そんな甘っちょろいこと言ってたら命がいくつあっても足りない。猫はしっぽを逆立てて蝙蝠の喉笛に食らいつき、蝙蝠は漆黒の翼を広げて猫の目をくらます。ニャンニャンキーキーと激しく諍いあう両者の悲鳴が聞こえる。生き残るのはどちらか片方。おたがい手に手とりあって友達ごっこなんて無理だよママ。蝙蝠と猫は永遠に友達になれない。今ならわかる、蝙蝠と猫が互いを食い合うのは種族が違うからじゃない、極論すれば別の体に別の魂を宿す固体だから。
 猫には蝙蝠が理解できない。僕には人の気持ちが理解できない。何故なら、共感は危ういから。他人に共感して同情して「じゃあ僕と友達になろうよ」って手をさしだしたら、相手が途端に牙を剥くことを僕はよく知っている。
 僕は今まで他人を一切信用せずに生きてきた。
 いや、信用せずに生きてきたってのには語弊があるから言いなおそう。僕はこれまで一切他人を信頼せずに生きてきた。「信じて用いる」のと「信じて頼る」のじゃ全然意味が違う。僕は他人の有用性を見極める眼力に長けてたから世の中利口に渡ってこれた。他人は信じるものじゃなく利用するものだ。利用して利用して利用し尽くして利用価値がなくなったら未練なくポイッと捨てるもの。
 他人を信じたら裏切られるに決まってる。現に僕はこれまで裏切られ続けてきた。
 ママ、もう男の人連れてこないって言ったじゃん。
 ママの彼氏、言うこと聞けばぶたないって言ったじゃん。
 おじさん、フェラすれば一万くれるって言ったのにたったこれっぽっち?話が違うよ。
 あの売人、騙しやがって。なにが高純度のコカインだよ、舐めてみたら小麦粉じゃんか。
 猫と蝙蝠はおたがい食い合うけど、人間はもっとタチが悪い生き物だ。なにせ共食いするんだから。
 はは、とことん腐ってやがる。はらわたに蛆でも沸いてそうな腐臭が匂ってくる。人間て馬鹿で面白いね。

 けど、現在僕が巻きこまれてる状況は面白くもなんともない。
 
 『Pardon?』
 僕が不信感まるだしで聞き返した気持ちも汲んで欲しい。 
 目の前じゃ引き続き五十嵐がヨンイルに銃をつきつけている。蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い通路のど真ん中で、裏切り者を処刑する映画のワンシーンみたく直立不動でヨンイルの胸に銃口を埋めてる。これが映画なら五十嵐は役にのめりこみすぎで完全にイッちゃってる。呼吸は100メートルを全力疾走みたいに荒くて、制服の下で胸が上下していた。眼球は異様に血走っていた。
 これは、明確に殺意を剥き出した復讐者の顔だ。
 「……っ、」
 戦慄でぞわりと二の腕が鳥肌立ち、唇を噛む。どうしてこんなことになっちゃったのか本当にわからない。僕には五十嵐の動機も行動もまったく理解できない。五十嵐の変貌がただただ恐ろしかった。奥さんのためと睡眠薬を貰いにきた五十嵐に当たり前に軽口叩いてた頃が懐かしい。今の五十嵐は殆ど別人だ。少なくとも以前の五十嵐と同一人物だとは覚えない、五十嵐を皮を被った怪物だと言われたほうが腑に落ちる。
 僕が知る五十嵐は東京プリズンいち親切な看守で、囚人に分け隔てなく優しく接してくれて、五十嵐に欲しい物言えば大抵都合つけてくれると評判で。
 頼もしい「お父さん」だった。
 囚人の人気も高く人望厚い五十嵐が何故こうも突然に豹変したのか、僕にはさっぱりわからない。だがこれだけは言える、五十嵐の変貌には西の道化ことヨンイルが間接的か直接的か関わっている。
 目を見れば一発でわかる。
 ヨンイルに向ける五十嵐の目には憎しみと殺意が濃縮されていた。  
 そして五十嵐はヨンイルに銃口をつきつけ、「服を脱げ」と命じたのだ。
 「ラッシー正気かよ?奥さんと夜の営みご無沙汰でついにヤキが回っちゃったってわけ。ここでヨンイルの服脱がしてどうするのさ、そのまま物陰に引っ張りこんで犯っちゃう気?あははそっか、聖人君子気取りの五十嵐さんも変態タジマの仲間入りってわけ、囚人脱がせて調教するアブノーマルな趣味に目覚めちゃったわけ!?」 
 壁に背中を付け、腹筋に力を入れて叫ぶ。挑発。命知らずな真似だとわかってるけど、とにもかくにも五十嵐に銃を下ろさせないことには話し合いも成立しない。
 その為にはまず、ヨンイルから注意を外さなけりゃ。
 これ以上一触即発の睨み合いが続いたんじゃこっちの心臓がもたないよと心の中でぼやきつつ、続ける。
 「ねえ聞いてんのラッシー、リカちゃんのパパ、囚人の人気者、東京プリズンの良心!おい無視すんな五十嵐、調子のってんじゃねーよ。はやくその物騒なモンおろせって言ってんの、流れ弾が壁か天井に跳ねかえってあんたの股間をズドンとやっちゃったらどうすんのさ。ぶっちゃけ銃なんかに頼らなくてもあんたの下半身にはご自慢のピストルがあるっしょ」
 蓮っ葉な口調で揶揄するが、五十嵐はてんで反応しない。五十嵐の目はただヨンイルだけを見ている。異常な情熱。ヨンイルは肩の位置に両手を挙げ、わずかに強張った顔で五十嵐を見上げている。
 降参のポーズ。
 「聞こえなかったのか韓国人。ハングル語で言ってほしいのか」
 口角を意地悪く吊り上げた五十嵐が鉄の銃口でヨンイルの胸を突く。ヨンイルが不安定によろめく。足裏で踏ん張ってなんとか持ちこたえたヨンイルがきっと五十嵐を睨み、緊張がはりつめる。
 「アホぬかせ変態。なんで俺がヌード披露せなあかんねん、こんな通路のど真ん中で……」
 「俺がおまえを憎む動機、知りたいんだろう」
 五十嵐の口調は平板だった。ぞっとした。が、空気の読めない西の道化はこの答えが不満だったらしく、いきのいい関西弁で猛然と五十嵐に食ってかかる。
 「それとこれとは話が別や、通路のど真ん中で腹踊りなんてアホな真似して風邪ひいたらたまらん。もし万一くしゃみして漫画のページに鼻水ひっかけたら大損害やないか」
 片手を胸においたヨンイルが物怖じしたふうもなく銃を構えた五十嵐に意見する。
 異様な光景だった。
 東京プリズンに来るまでどれだけ修羅場をくぐりぬけたんだか知らないが、ヨンイルの肝の据わり具合は半端じゃない。胸に銃口をつきつけられたくらいじゃさほど動揺してないようにも見える。
 絶体絶命の窮地で虚勢を張るには生半可でない度胸がいる。
 「もし俺の鼻水がピノコやラムちゃんの顔にひっついたらショックや、初恋の女の目の前で自慰するくらいショックやわ。ピノコやラムちゃんが鼻水ひっかむるくらいなら俺はここで撃ち殺され、」  
 刹那、五十嵐が腕を一閃。
 「「!」」
 五十嵐の片腕が残像を曳き、ゴーグルを放擲。鈍い音をたて壁にぶつかったゴーグルが床へと落下、衝撃で蛍光灯が揺れる。震撼する通路。蛍光灯が不規則に点滅し、五十嵐の顔が明と暗とに塗り分けられる。
 愕然と立ち竦むヨンイルの顔も同じく。
 「ごたごたぬかさず脱げよ。お前の裸が見たいんだよ、今すぐ」
 足元に落下したゴーグルを五十嵐が踏みにじる。ヨンイルに見せつけるように。ヨンイル自慢のゴーグルが次第に泥だらけに汚れてゆく。だが五十嵐は足をどけず、ヨンイルの目を十分に意識して執拗にゴーグルを踏みにじる。靴裏に体重がかかり、ゴーグルが不吉に軋む。
 「やめ、ろ」
 ヨンイルが呆然と呟く。
 心臓を鷲掴みにされた表情。
 「足をどけろどけんかい、おどれだれに断ってひとのゴーグル踏んどるんじゃいこのボケカス、ケツの穴に指つっこんで奥歯ガタガタいわすだけじゃすまさん、おどれの膝に漫画百冊乗せて骨へし折ったる!!」
 ヨンイルがゴーグルを取り返そうと無我夢中で手をのばすが、そのたび胸を銃口で押し返される。  
 五十嵐は無表情だった。何の感慨もない酷薄な目でヨンイルの狂乱を眺めていた。
 「脱げよ。俺はお前の裸が見たいんだ、上着もシャツも脱いで素っ裸になれよ。お前を脱がしたくて気が狂いそうなんだよ俺は、上着の裾強引に掴んで脱がしたくて脱がしたくてたまらないんだよ。お前の薄い体覆ってる布きれをひっぺがして胸板さらして腹筋さらして、納得ゆくまで眺めたいんだよ」
 ラッシー、正気?
 だってそんな、知らなかったよラッシーがそんなヨンイルの体に興味津々なんて。僕が積極的に迫ってもてんでなびかないからとことんノーマルな性的嗜好の持ち主だねと感心してたのに。 
 銃口でヨンイルの胸を小突き、再び五十嵐が命じる。ゴーグルを情け容赦なく踏みにじりながら。
 「さあ、脱げよ。上着とシャツを脱いで貧相な体をさらけだせ。通路のど真ん中でな」
 「………………っ、」
 苦渋に顔を歪め、舌打ち。反感をこめた目つきで五十嵐を睨みつけ、逡巡しつつも上着の裾に手をかける。決断を遅らせるように生唾を飲み込み、上着の裾に手をかけたまま、上目遣いに五十嵐の表情を盗み見る。タジマ以上に冷酷無比な看守の顔。
 ヨンイルは深呼吸で覚悟を決める。

 ―「我が生涯に一片の悔いなし!!」―

 上着とシャツを脱ぎ捨て、裸の上半身をさらして仁王立ちしたヨンイルの目には五十嵐に対する激しい怒りが燃え盛っていた。
 ヨンイルは思ったよりいい体をしてた。
 平らな胸板、引き締まった腹筋、適度に筋肉が付いた肢体からは健康的な汗の匂いが立ち上っていた。
 何より僕の目をひいたのは、ヨンイルの腕と胴体に絡みつく巨大な龍。 
 長大な蛇腹をくねらせ、螺旋を描くようにヨンイルの四肢に纏わりついた刺青の龍。暗緑色の鱗一枚一枚が毒々しく美しい魔性の光沢をおびて妖しく照り映えて、内側から瘴気が噴き出すような錯覚に襲われた。
 健康的に日焼けした肌の上を、蛇腹をのたうたせて万里の龍が這いずる倒錯的な光景。
 「お望みどおり脱いだで。はよ足どけろや」
 やぶれかぶれにヨンイルが吐き捨て、五十嵐が顎をしゃくり、重ねて促す。
 「下もだ」
 「足が先や」
 「ズボンをおろせ」
 「はよ汚い足どけろ」
 「トランクスをさげろ」
 「じっちゃんの形見なんやで」
 「剥くぞガキ」
 「犯る気か中年」
 ヨンイルの目つきが凄味をます。五十嵐が銃口に圧力をくわえる。僕は何もできず、指一本動かせず、壁にはりついて二人の駆け引きを見つめていた。逃げなきゃ。立ちあがらなきゃ。
 五十嵐の手元が狂って指が引き金引いて流れ弾がとんでくる前に、厄介ごとに巻きこまれる前にとっとと逃げなきゃ。ママ、助けてママ。腰が抜けちゃったよ。パンツが湿ってるのはちょっとおしっこ漏らしたからみたい。失禁。はは、恐怖でちびるのなんて子供の頃ふざけ半分の客にロシアンルーレットされて以来。
 ママ。
 ママ、なんで答えてくれないの。助けてくれないの。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 すぐ耳元で声がする。耳朶にかかる吐息さえ感じるような柔和な声。これは……ママの声だ。テディベアを抱いて嗚咽をこぼしてるママの後ろ姿が脳裏にありありとよみがえり、通路のど真ん中で対峙する五十嵐とヨンイルの姿がぼやけてゆく。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ここにいるよママ。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ねえ、こっち見てよ。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ねえってば!!
 「ママ、」
 変なふうに喉が鳴る。なんで?なんで振り向いてもくれないの、こっちを見てもくれないの。僕のことなんかもうどうでもいいの、ママまで僕のこと見捨てるの。ぼろぼろのテディベアみたいに、ポイって。ママは僕に背中を向けたまま、膝にのせたテディベアをいじくってて振り返ってもくれない。僕の声なんか最初から届いてないみたい。
 違うママ話を聞いて、僕がいけないことしたのにはちゃんと理由があったんだ。だって僕が体売ってお小遣い稼がなきゃ、ママはすぐ家に新しい男連れこんでお金渡しちゃうから僕がママの代わりに稼がなきゃご飯食べられなかったんだよ。それにそう、覚せい剤も欲しかった。お砂糖と間違えて舐めてるうちに病み付きになって止まらなくなってもっと欲しくて欲しくてたまらなくてしょうがなかったんだ、だって僕知らない、知らなかったんだもん、男に体売るのだめだとか覚せい剤舐めるのはだめだとか誰も教えてくれなかったんだもん!!
 「いやだよ、捨てないでよ」
 見捨てないでママ。僕はぬいぐるみじゃない、おなかに入ってるのは綿じゃない。だからおなかが減るんだ、しかたないじゃんか、おなかが減ったら美味しいもの食べたいじゃん、だからお金が要ったんだよ。
 ママにも美味しいもの食べさせてあげたくて。
 ママは全然僕の話を聞いてくれない、僕の言い訳を無視して虚脱したように座りこんでるだけ。ふわりと肩にかかる赤毛は僕とお揃いの天然パーマ。覚えてるでしょママ、鏡台で髪を梳かしてあげたときのこと。
 
 ねえ。
 なんで僕のそばには誰もいないの?

 「なんで助けてくれないの呼んでも答えてくれないの五十嵐は変でヨンイルは裸で通路の蛍光灯は点滅して、僕はもう怖くて怖くて発狂寸前でまともに物考えられなくて、こうやって助けてってお願いしてるのに!ママ、ママ、ビバリー、助けてよ!僕のこと助けにとんできてよ、もうやだ怖いよ、銃なんていつ暴発するかわからないものキチガイにもたせとく物じゃない怖い助けて怖い血、撃たれる、やだ、また血がでてきた!?ねえママ舐めて、僕のこと抱っこしてよしよしして、ちっちゃい頃みたいに痛いのとんでけして!」
 恐怖が破裂した。限界だった。
 視界がぼんやり曇ってたのは涙のせいだと漸く自覚した。両手で耳を塞ぎ狂ったようにかぶりを振りながら泣き叫ぶ最中、僕は鍵屋崎のことを考えてた。
 親殺しのくせに、あいつには頼れる相棒がいる。助けてと声をあげれば真っ先にとんできてくれる相棒がいる。なんで?なんで鍵屋崎ばかり恵まれてるのずるいじゃん不公平じゃんあいつパパとママ殺したくせにそんなのってずるい、僕はママを殺さなかった、殺すなんてとんでもない、僕にはママしかいなかったのに!そうさ僕は鍵屋崎が大嫌いだった、友達いっぱいいる鍵屋崎が羨ましかったんだよ畜生!!
 さっき地下停留場で目撃した思い出したくもない光景を、脳が勝手に再生する。

 サムライを気遣う鍵屋崎。鍵屋崎を気遣うサムライ。
 いたわりあう二人。共食いなんかしないふたり。理想的な共存。
 
 鍵屋崎には相棒がいる、友達がいる、共食いする必要ない仲間が。
 僕はずっと鍵屋崎が妬ましかった、羨ましかったんだよ、僕だってあんな―……

 『リョウさん!』 
 ビバリー。

 「ちくしょう」
 畜生、なんでビバリーなんか思い出すんだよ。あんなやつ友達でもなんでもないのに、もう絶交しちゃったのに。今更悔やんでも遅い。ビバリーは謝ったところで許しちゃくれない。
 目尻からあふれた涙が頬を伝い、膝の上においたこぶしに滴り落ちる。
 額からの出血と涙と鼻水が混ざって顔がぐちゃぐちゃだ。頭もぐちゃぐちゃだ。
 僕このまま死んじゃうのかな?ビバリーと仲直りできず五十嵐にずどんとやられちゃうのかな? 
 猫と蝙蝠が仲良くすることなんて、やっぱりできないのかな。

 「そうだ、その刺青だ」
 はじかれたように顔を上げ、五十嵐に注視を浴びせる。片手に銃を預けた五十嵐が、上半身裸のヨンイルを舐めるように見まわす。ねっとりと肌に絡みつくようなタジマの視線とはまた違う、冷徹な観察者の目。 ヨンイルの全身を隅々まで見まわして刺青の出来を確認する表情。
 「その刺青こそがお前を憎む動機だよ、ヨンイル……尹 龍一。知ってるぜ、お前のことはなんでも。韓国で使ってた本名も、祖父ともどもKIAにいたことも、お前の遊び半分で作った爆弾で二千人が死んだことも」
 五十嵐の目に言い知れぬ感情が渦巻く。
 「お前は天才だった。鍵屋崎とはまた違った意味のな。お前の祖父は元在日で、半島統一をきっかけに韓国に帰化した。けど日本の習慣やら訛りが馴染んじまって、家族で半島に渡ったものの生活がうまくいかなくて、だいぶ苦労したそうじゃねえか」
 「まずまっさきにKIAに傾倒したのはお前の母親。
 惚れた男がKIAの一員で、若い恋人が唾をとばしてくっちゃべる革命の理想とやらを聞かされてるうちにすっかり夢中になっちまった。恋は盲目ってやつだ。で、お前の母親は若さゆえの情熱持て余して惚れた男を追っかけて、後先考えずKIAに入っちまった。お前の祖父は大事な娘が男追いかけて危ねえ組織に入ったって知って、娘を取り返したい一心で自分もまたKIAに入った。
 けど、その頃にはもう娘の腹の中にゃお前がいた」
 「これはあとでわかったことだけど、KIAのメンバーが娘に近付いたのは親父を組織に引きずり込む作戦のうちだったんだ。KIAの情報収集力ってのがまた大したもんで、半島に渡ったはいいもののハングルに馴染めず生活困窮してた中年男が、日本にいた頃は一流の腕をもつ花火師だって調べ上げてた。花火師なら当然火薬の扱いに慣れてるし、爆弾組み立てさせるのに都合がいい。だからまず最初に娘に近付いて孕ませて、親父の逃げ道断ったんだよ。
 うまい手だぜ。大事な娘を人質にとられちゃあ言うこと聞くしかねえもんな」 
 「ヨンイル、お前は刑務所で産まれたんだ。いや、政治犯収容所だっけか?……どっちもでいいや。どうにか娘を助けたいって親父の願いむなしく、娘は収容所にぶちこまれて、お前を産んですぐぽっくり逝っちまった。お前の親父も同時期に収容所送りになって、二年後に拷問……いや、謎の不審死を遂げてる」
 五十嵐は何かに取り憑かれたように饒舌にしゃべった。ヨンイルの過去を、ヨンイルが大量殺戮を犯す経緯を。ヨンイルはただ下唇を噛み、目ばかり獣じみて輝かせて五十嵐を睨みつけていた。
 「天涯孤独の身となった男のもとに残されたのは忘れ形見の赤ん坊だけ。
 そして哀れな男は、KIAに一生を捧げる羽目になった。
 政治犯として死んだ娘の忘れ形見を育てるにゃあKIAの庇護をうけるしかなかったんだろ」 
 「おおきに、俺の身の上話代わりに語ってくれて。拍手でもしたろか」
 ヨンイルが不敵に笑う。
 健康的に日焼けした四肢を締め上げた龍が、鱗の内側から瘴気を噴き上げ、蠢動したかに見えたのは錯覚だろうか。親の代どころか祖父の代まで遡って五十嵐に過去を言い当てられたというのに、ヨンイルは大して動じてない。
 いや。
 五十嵐に対する激しい怒りが内心の動揺を圧倒し、不敵に振る舞わせているのだろうか。
 至近距離で対峙する五十嵐とヨンイル。
 いつ崩れてもおかしくない危うい均衡。
 そしてついに、その時がきた。

 「!」

 五十嵐の胸ぐらが掴まれるのと、ヨンイルの額に銃口がめりこむのは同時だった。

 「……………痛っ、」
 ヨンイルの顔が苦痛に歪む。鈍い音をたて眉間にめりこんだ銃口に徐徐に圧力を加えながら、もう片方の手で制服の懐をまさぐり、黒革の免許証入れをとりだす五十嵐。
 「俺の自慢の娘を紹介するぜ、ヨンイル。可愛いだろう、カミさん似だ」
 哀切な微笑みを浮かべた五十嵐が奇妙に凪いだ声音で言い、免許証入れを上下に開き、ヨンイルの鼻先につきつける。黒革の免許証入れに挟まれていたのは、数年前に撮られたとおぼしき色褪せた写真。写真に写っているのは活発そうなショートヘアの女の子で、溌剌な子鹿みたいにくりっとした瞳が印象的だった。

 これがリカちゃん。
 五十嵐の自慢の娘。
 五十嵐が失った、大事なもの。

 ヨンイルの額に血がでるまで銃口をめりこませ、もう片方の手に免許証入れを掲げ、五十嵐は言った。
 限りない愛情に満ち溢れた、慈父の笑顔で。
 「五十嵐リカだ。韓国併合三十周年パレードで尹 龍一に殺された俺の娘だよ」
 衝撃的な告白だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050731054810 | 編集

 「悦べレイジ、奴隷の烙印をくれてやる」
 狂える皇帝サーシャが灼熱の腕をひと振り、残像の弧を曳いたナイフから微塵の火の粉が舞い飛ぶ。真っ赤に熱した焼き鏝と化したナイフから視線を逸らせない。目を離せない。あれはもう人の肌を裂く武器じゃない、奴隷に生涯癒えぬ烙印を押す拷問具の焼き鏝。
 サーシャは正気じゃない。完全に狂ってる。
 サーシャの絶技をもってすればレイジを苦しめず殺すこともできたはず、喉首かき切って即死させることもできたはずだ。
 なのにあえてそれをせず長く苦しめて殺す方法をとった。生かさず殺さず、できるだけ苦しみを長引かせる方法を選んだ。俺は今の今までずっとサーシャはレイジを殺すに違いないと思ってた。
 サーシャにとってレイジは殺しても殺したりない憎い男で、かつて自分の背中を鼻歌まじりに切り刻んで生涯癒えぬ烙印を残んだ前科がある。皇帝に無礼を働いた人間が五体満足で生還できるはずがない、衆人監視の処刑場でギロチンにかけられるに決まってる。
 黄色人種と白色人種の混血、薄汚い淫売の股から産まれ落ちた雑種の私生児の分際でサーシャをさしおき東京プリズン最強と呼ばわれていたレイジへの恨みは根深い。
 サーシャが東京プリズン最強になるには、名実ともに東京プリズンのトップとなるためにはレイジを排除せねばならない。
 邪魔なレイジさえいなくなればサーシャは王座に上れる、東京プリズンのトップになるという長年の野望を叶えることができる。
 サーシャがレイジを生かしておく理由はない。殺したほうが都合がいい。
 けど、違う。サーシャはすぐにレイジにとどめをささなかった、安全確実に息の根止めず蛇が獲物を絞め殺すようにじわじわ嬲りものにする方法を選んだ。
 サーシャはレイジを飼い殺しにするつもりだ。
 特注の首輪を嵌めて飼い殺しにするつもりだ、血で汚れたナイフを四つん這いのレイジに舐めさせて陰湿な優越感に酔うつもりだ。
 愛憎表裏一体の妄執。
 サーシャにとってレイジは憎んでも憎みたりない男、殺しても殺したりない男。ならばあっさり殺したりせず、できるだけ長く自分のそばで屈辱と苦痛を舐めさせるはず。それこそ気まぐれに駄犬を足蹴にする暴帝の奢り。
 サーシャにとって重要なのはレイジを殺すことではなくレイジを服従させること、従順な飼い犬のように絶対服従を誓わせ身も心も飼い馴らすこと。
 「!ロン、待てっ」
 鍵屋崎が背後で何か叫ぶが聞いちゃいない、それどころじゃない。
 俺にはもう会場の喧騒も鍵屋崎の制止も届かなくて、耳の裏側で喧しく鼓動が鳴り響いて異常に喉が乾いて全身が熱くなって、発作的に金網に足をかけ身軽によじのぼっていた。
 すばしっこいのが俺の唯一の取り柄だ。
 この程度の高さの金網その気になりゃいつでも越えられる、ひょいと金網を越えてレイジを助けにいける。もっとはやくこうすりゃよかったとやりきれない後悔が押し寄せる。サーシャにレイジを渡すもんか、サーシャなんかにレイジをやるものか。レイジは俺の相棒で俺の支えで俺の、

 『約束守れよ』
 『勝ったら抱かせてくれよ』

 「………っ、」
 別れ際の笑顔が瞼の裏側によみがえる。
 あまりに綺麗すぎて切ない笑顔、本当にこれが最後なんじゃないかと疑わせる儚い笑顔。照明を透かした茶髪が金色に輝いてたことを覚えてる。背後に降り注ぐ照明効果で顔の輪郭が淡く滲んで後光がさしてるみたいだった。
 あれが最後だなんて思いたくない認めたくない、俺はこれから先もずっとレイジと一緒にいてやると心に決めた、もう二度とレイジを寂しがらせないと決めた。
 いやそんなのは詭弁だ、本当は俺が、俺自身が独りぼっちになりたくないんだ。レイジと離れたくないんだ、相棒を失いたくないんだ。俺は東京プリズンに来て偶然レイジと出会うまでずっと独りきりで、残飯あさりの野良猫みたいに荒みきった生活をしてて、俺の人生にこれから先いいことなんか起こるはずねえと早々に諦めてた。
 でも違った。レイジと出会えた。
 最高の相棒ができた、自慢できる仲間ができた。
 見ろよお袋俺にもダチができたんだぞもうひとりぼっちなんて言わせねえ。 もし東京プリズンを出てメイファと顔あわす機会があったら刑務所でできたダチのこと話してやろうって、俺の初恋は実らなかったけど、今の俺ならメイファが言ったことが少しはわかるようになったって教えてやろうと思ってたのに。
 『ロンにもいつか大事なひとができるよ』 
 メイファが言ったことは本当だった。命以外に失う物なんか何もないと斜に構えて世間を見てた俺が、東京プリズンでレイジに会って、鍵屋崎とサムライと出会って、最高の仲間をもって、いつのまにか「失ったら怖いもの」がたくさんできていた。大事な人間。大事な仲間。自分でもくさいこと言ってると思う、畜生わかってるよそんなこと、でも俺にとってレイジがかけがえのない大切な人間なのは事実でだれもレイジの代わりになんかなれなくてレイジがいなくなったら俺は!!
 「ロン!」
 金網がうるさく鳴る。
 金網に手をかけ足をかけよじのぼろうとした俺の背後から手が回され、突然抱きとめられる。サムライだった。俺の腋の下に手をさしいれ後ろから抱擁する恰好でひしと抱きとめてる。つんと鼻腔をつく酸っぱい汗の匂い、サムライの匂い。胸に回された腕から伝わってくるサムライの熱。
 「くそはなせよ、はなしやがれサムライ、お前は鍵屋崎だけ守ってりゃいいだろ用心棒らしく!用心棒契約してねえ俺にまでかまうこたねえだろ、ほうっとけよ、行かせてくれよ!もう我慢できねえ冗談じゃねえこのままここでじっとしてるなんてこりごりだ、レイジがやりたい放題なぶられて血を流してうめいてるのに放っとけるかよ、お前ら見てわかんねえのか、あいつ痛がってるだろ今にも死にそうに青白い顔してんだろ!?」
 サムライの腕の中で滅茶苦茶に暴れる。
 サムライの腕を掻き毟り死に物狂いでもがき、サムライの脛を後ろ足でおもいきり蹴りあげる。
 鍵屋崎が何か言いたげに口を開きこっちに寄ってこようとしたのを目で制し、抱擁の腕力を強める。サムライの身長はレイジより高くて190cm以上あり、サムライに抱きとめられた俺はどれだけ足掻いたところで腕から抜け出すことができない。
 癇癪もちのガキが手足振り乱して駄々こねるのを余裕であやしてる大人みたいで、ますます腹が立って、懸命に手を伸ばせども金網に阻まれてレイジに届かないのが悔しくてたまらなくて視界がぼやける。
 「なんで止めるんだよ、レイジのとこに行かせてくれよ、俺がそばにいてやらなきゃ駄目なんだよあいつには俺がいなきゃ駄目なんだよ!俺はその為にビバリーに肩借りてぜえはあ息切らして医務室からやってきたんだ!」
 「しずまれ、怪我にさわる」
 耳の裏側で囁かれた落ち着いた声音が癪に障る。俺の怪我を本気で心配してることが伝わる真摯な声音。
 サムライはいい奴だ、レイジと喧嘩したときも親身に慰めてくれた。俺が前向きになれたのはサムライの助言あってこそで、レイジと仲直りできたのは鍵屋崎とサムライが俺の目の届かない場所で俺の知らないところで苦労してくれたおかげで。
 わかってるよそんなこと、いい仲間をもって幸せだよ俺は、もったいないくらいだよ。その気持ちは嘘じゃない、仲間を誇りに思う気持ちは嘘じゃない。
 鍵屋崎もサムライも大好きだ。
 でも今この瞬間だけは、俺を抱きとめるサムライが憎くて憎くてしょうがなかった。
 目の前が真っ赤に煮立つ憎悪。
 自分だって鍵屋崎を助けたい一心で試合にでたい一心でしゃしゃりでてきたくせに、長い道のりを肘で這いずって地下停留場にやってきたくせに、偉そうにお説教かよ?何様だよサムライ、この刀キチガイが!
 怒りが急沸騰し、金切り声で喚き散らし、サムライの腕の中で身をよじる。サムライの腕におもいきり爪を立てひっかけば、長く伸びた爪が腕の肉を抉る激痛にサムライが顔をしかめる。
 前髪がざんばらにかかる額に脂汗を滲ませ、苦痛の縦皺を眉間に刻み、苦鳴を漏らさぬよう奥歯を食い縛り、それでもサムライは意地でも腕をはなさなかった。抱擁に見せかけた拘束。怒りでわけがわからなくなった。
 なんでサムライはわかってくれない、行かせてくれない?
 俺がリングに上ればレイジが即失格だってわかってる、さっき鍵屋崎が言ったとおりこれまでしたきたことが全部無駄になるってわかってるよ。

 けど。

 俺の視線の先じゃ興奮に息を喘がせたサーシャが片手にナイフをひっさげ、レイジの背中を踏んでいる。上着を断たれた背中はところどころ皮膚が裂けて薄く血が滲んでいた。失神寸前で辛うじて意識を保ってるレイジは、苦痛で朦朧と濁った虚ろな目でサーシャの掌中のナイフを見つめてる。

 はやくしなきゃ手遅れになっちまう。
 今度こそ本当に手遅れになっちまう、レイジがサーシャの物になっちまう。

 「離せよクソザムライ、刀キチガイの朴念仁、頑固で融通きかねえバカ野郎!不要阻碍、討厭!!お前だって鍵屋崎がおんなじ目に遭えば血相かえてとんでくくせに俺のことは止めるのか、行くなってのかよ、いい子でおとなしくレイジが帰ってくるの待ってろってのかよ!どいつもこいつもガキ扱いしやがって畜生、ああそうさ俺はガキだよいちばん年下だよ、だから何だよ、俺がレイジ思う気持ちがお前が鍵屋崎思う気持ちに負けてるってのか!?」
 涙腺が熱い。涙で視界が滲む。
 自分の無力が歯痒い。サムライの腕ひとつ自力じゃほどけず、ただ喚き散らすだけ。やつあたりだ、みっともねえ。相棒助けたい気持ちはおなじなのに、サムライは強いから実行できて俺は弱いから実行できなくて、ただ見てるだけで。折れた肋骨がずきずき疼く。はげしく身をよじり手足を振りまわせば激痛が全身を襲い悲鳴をあげそうになる。俺がもっと強ければサムライをひっぺがすことができた、今すぐ試合に乱入してレイジとサーシャをひっぺがすことができた。
 相棒が苦しんでるのに何もできないなんて。
 好きな奴が苦しんでるのに、何もできないなんて。
 「!!っ、」 
 かくなるうえはとサムライの腕に噛みつく。
 「サムライ!?ロンいい加減に、」
 「いいんだ」
 鍵屋崎が目の色変えて寄ってきて、俺とサムライのあいだに割り込もうとする。
 それを制したのは他ならぬサムライだった。激怒した鍵屋崎をしずかに制し、おもてを伏せ、腕の肉を噛まれる激痛に耐える。俺はまだサムライの腕に噛みついていた。もうこれしか手段が思いつかなかった。
 おもいきり噛みつけばさすがに痛みと驚きで手をはなすだろうと思ってたのに、サムライは抱擁をやめることなく、俺の前髪を掴んで無理矢理顔を上げさせることなく、恐るべき忍耐力と自制心とを持って腕の柔肉に尖った犬歯が食いこむ激痛に耐えている。
 「俺のことは気が済むまで罵ってもらってかまわない」
 その言葉に怯み、犬歯を引きぬく。ゆっくりと顔を上げ、首仰け反らせてサムライを仰ぐ。
 「……お前の言うとおりだ、ロン。俺は身勝手な人間だ。本来ベッドで寝てるはずの怪我人でありながら鍵屋崎を助けにきた俺が、お前に説教するのはおかしい。今リングにいるのが鍵屋崎でレイジとおなじ目に遭っていたら、俺は迷わず金網を飛び越えてサーシャを斬りにいくだろう」
 俺の体に腕を回し、俺の頭のてっぺんに顎を埋めたサムライが吶々と思いの丈を語る。誰のことを想起してるのか、自責の念にでも苛まれてるかのように苦渋に顔を歪め。
 「俺は昔も今も身勝手な人間だ。ちっとも変わっとらん。おのれにできないことを他人にしろという、ここは黙って耐えろと言う。卑劣な卑怯者だ。武士の風上にもおけん。俺の言動は矛盾している。
 怪我人の身でありながら試合にでたい一念でここまで這って来たのは鍵屋崎を守りたいからだ。お前とておなじだロン、肋骨が折れていても全身が痛くてもレイジを放っておけない気持ちはよくわかる。
 だがそれでも俺はお前を止めねばならない。今ここでお前を行かせれば、鍵屋崎は売春班に戻らざるえなくなる。俺は、」
 サムライの語尾がかすれる。
 俺の頭に顔を埋めてるせいで表情は読めないが、抱擁の腕に力がこめられ。
 「俺はもう、直を他に男に抱かせたくない」
 俺にだけ聞こえる声で、しかしはっきりとそう言った。
 「レイジとてそれはおなじだ、お前が売春班に戻るのを望んでいない。無理を承知で言う、耐えてくれロン。俺とて我慢ならない、今すぐにでもとびだしてレイジを助けにいきたい、サーシャに斬りかかりたい衝動を必死におさえこんでいるのだ。鍵屋崎もそうだ」
 俺を抱く腕に力をこめたサムライが、血を吐くように懇願する。
 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでくれと、無理を承知で申し入れる。どうか、このとおりだ」
 サムライの声は咳をしすぎたみたいに嗄れていた。
 俺をしっかり腕に抱いたまま、サムライが深々と頭を下げる。体に回された腕は熱く火照っていた。双眸は沸沸と滾っていた。
 サムライだってレイジがどうでもいいって思ってるわけじゃない、今すぐレイジを助けにいきたくて救いにいきたくて気が狂いそうなのだ。金網を颯爽と飛び越えリングに下り立ち、サーシャを成敗したくてたまらないのだ。
 サーシャに斬りかかりたい衝動を必死に抑制し、爛々と血走った双眸でリングを睨みつける形相には鬼気迫るものがあった。
 蝿みたいに金網にたかっていた野次馬連中が数人、サムライの全身から滲み出る殺気と迫力に気圧され、顔面蒼白でとびのく。鍵屋崎も言葉を失い慄然と立ち竦んでいた。サムライは頭を下げたままだった。誠心誠意をこめ、全身全霊でおのれの不実を詫びるかのように、深々と頭を垂れたまま一向に面を上げようとしなかった。
 「…………っ、」
 胸が苦しい。そんなふうに謝罪されたんじゃ、俺はもうサムライを罵れない。サムライも鍵屋崎も俺と気持ちは同じ、今すぐリングに踏みこんでレイジを助けたいのだ。それがわかってしまったからもう何も言えなかった、言ったらさらに虚しくみじめになるだけだと思い知った。
 サムライの腕の中で首をうなだれ、足元に目を落とす。
 さっきまでサムライの腕を振りほどこうと躍起になって暴れてたのに、今はこうして俺を支えてくれるサムライの腕が有り難かった。
 「すまん、ロン」
 俺の耳元でサムライが謝罪する。俺が倒れないよう体に腕を回してしっかり支え、自責の念に苛まれて。
 「俺を恨んでくれ」
 サムライを恨めるわけがない。サムライの腕をふりほどけない俺が悪いのだ。喉に魚の小骨がひっかかったように呼吸が苦しくなり、目尻にこみあげた涙をサムライの腕に顔を擦りつけ、拭う。鍵屋崎はサムライの傍らに立ち、ただじっと俺とサムライの抱擁を見守っていた。
 誰も何も言えなかった。
 歓声が盛り上がる。わずかに入り混じる悲鳴と怒号。
 「ああ、くそう、とうとう東棟の王様やられちまうのかよ!?」
 「こんなん見てられねえよ胸くそわりぃ、ただの公開拷問ショーじゃねえか!」
 「立てよレイジ立ちあがれよ王様、いつまでも寝てんじゃねえよ根性なし、100人抜きまであと一歩のとこまで来てんのにゴール直前でへばんなよ!!」
 「お前がやられちまったら俺たちまた売春班に逆戻りじゃんか、いやだぜもう男にケツ掘られるのは、痔が悪化しちまうよ!!」
 北の軍勢がサーシャに捧ぐ声援にかき消されて切れ切れにしか聞こえないが、このだだっ広い地下停留場にごくわずかだがレイジを応援する人間がいる。レイジの味方がいる。
 凱、売春班のガキども、一攫千金狙いでレイジの100人抜き達成に賭けた博打うち。
 全体比からすりゃ一割か二割に満たない少数だが、レイジに肩入れしてる物好きも確実に存在するのだ。
 金網を蹴り付け殴り付けよじのぼり、周囲の喧騒に負けじと盛大に唾を撒いてレイジに声援をとばしてるのは売春班の連中だ。レイジに救われた恩義を少なからず感じてるらしい売春班のガキどもが、最前列に殺到した野次馬に揉みくちゃにされながらも頑固に場所を譲らずレイジを応援してる。
 『加油大王!』
 『加油大王!』
 『弥是我的希望!』
 がんばれ王様。
 がんばれ王様。
 お前は俺たちの希望だ、と売春班の面々が叫ぶ。
 『弥是我的目標!』
 お前は俺の目標だ、と凱が叫ぶ。
 熱狂と興奮に湧き返る地下停留場を睥睨したサーシャが、満場の観衆を抱擁するかのごとく優雅な動作で腕を広げて恍惚と声援を浴びる。
 もう誰もサーシャを止められない、レイジを助けられない。
 手足の先に絶望が染みて体の芯が凍る。レイジ、と口を動かして名前を呼ぶ。レイジなあ起きろよおい、いつまで寝てんだよ、なんてザマだよ。サムライの腕に抱かれたまま、ポケットに手を入れて指先で牌をさぐる。
 どうか神様。プラスチックの安物でもお守り代わりの牌に願いをこめれば通じると、今この瞬間だけは嘘でも信じこませてくれ。指の骨も砕けよと牌ごとこぶしを握りこみレイジの無事を祈る俺の視線の先、金網を隔てた向こう側でサーシャがゆっくりと屈みこみ、片手でレイジの背中を押さえ付ける。
 レイジ、生きてるのか?起きてるのか?なら返事しろよ、気付けよ!
 畜生レイジの分際で俺を無視しやがって寝ぼけてるのかよ!
 焦燥に焼かれ、サムライの腕の中ではげしく身悶える俺の呼びかけもむなしく、真っ赤に焼けたナイフが徐徐に背中に接近……
 灼熱の刃の先端で火の粉が爆ぜ。
 『モーイ・サバーカ』

 絶叫。

 じゅっ、と音がした。よく熱した鉄板に水を一滴零したみたいな音、水分が瞬時に蒸発する音。レイジの背中、ちょうど右の肩甲骨のあたりに刃を寝かせる。真っ赤に熱された金属の焼き鏝が肩甲骨に接着、たんぱく質が融けて脂肪が溶けて、肉の焼ける甘い匂いが鼻腔の奥を刺激する。
 「ひっ、あっ、あああああっあああああっひ!!?」
 レイジが喉を仰け反らせ全身を波打たせて絶叫する。それまで意識が混濁してぐったりしてたのが、裸の背中に焼き鏝押し付けられた激痛で覚醒したらしい。爪がひび割れるまでコンクリ床を掻き毟り、肘で這うようにサーシャから逃れようとするも、傷が開いた片腕のせいで前進できない。
 肩甲骨が焼け爛れる絶後の苦しみに全身の毛穴が開いて汗が噴出、涙と涎を滂沱と垂れ流して悶絶するレイジを眺めつつ、サーシャがさらにナイフをおしあてる。
 耳を塞ぎたくなる悲鳴。肉が焼け焦げる独特の臭気。
 この匂いはいつか嗅いだことがある、あれはそう、ガキの頃お袋の客にタバコを押し付けられたとき。タバコを腹に押し付けられただけで死ぬほど熱く痛かったのに、火でじっくり炙った金属の刃を裸の背中に置かれるなんて……
 「う、ぐあ」
 胃袋が痙攣する。嘔吐の衝動。
 周囲のガキどものうち何人かがコンクリ床に跪いて胃の内容物をぶちまけてる。いくら喧嘩慣れしててもナイフといえば刺す道具で、こんな狂った使い方普通思いつかない。鍵屋崎も口を手で押さえ懸命に吐き気と戦っていが、目は挑むようにリングを見つめたまま、決して逸らそうとはしなかった。 
 「涙と涎と鼻水を滂沱と垂れ流し、絶頂に達した女のように背骨を撓らせ背中を仰け反らせ、今のお前はなんと淫らな姿をしてるんだ!!そうだ喚け叫べ喘げ、もっと淫らによがり狂え、爪が剥がれるまで床を掻きむしり苦悶にのたうちまわり、皇帝に屈するみじめさを痛感しろ!はははっ、雌犬を犯してる気分だ!」
 「ひっ、いっあ、ああああっ!?」
 レイジの喉から悲鳴がほとばしる。何度目かの絶叫。
 レイジの首の付け根に灼熱の刃を添えたサーシャが、じっくりと時間をかけ、火の粉爆ぜる焼き鏝を一直線におろしてゆく。
 サーシャは舌舐めずりせんばかりの満面の笑顔。レイジの背中を踏み付け踏み躙り床に這わせ、真っ赤に熱したナイフを緩慢に滑らせて、見るも無残な火傷の烙印を刻んでゆく。もう片方の手でレイジの後頭部を掴み、無理矢理顔を上げさせ、狂喜の哄笑をあげる。
 「王の処刑を待ち望んでいた檻の外の愚民どもによく見せてやれ、みっともなく口を開け発情期の犬のごとく息を喘がせ、涙とよだれとに溶け崩れた悲痛な面相を!どうした私の指が欲しいか、自分で悲鳴が殺せないなら代わりに私の指を咥えていたいか?浅ましい犬め、物欲しげに飢えた目をして!
 そうかそうかさっき含ませた麻薬がだいぶ効いてきたか、狂おしく燃える体が私を求めてやまないか!いっそここで犯してほしいか、満場の観衆が固唾を飲んで趨勢を見守る中で私の物になりたいか!?ならばいいだろう、宴の余興だ、烙印の施しが終われば思う存分に犯してやるぞ!!」
 「『また、ソドム・ゴモラおよび周囲の街々も彼らとおなじように好色にふけり不自然な肉欲を求めたので、永遠の火の刑罰を受けてみせしめにされています』」
 レイジの背中の上で反りかえり、狂喜の哄笑をあげるサーシャを眺めて鍵屋崎が言う。いつだったか渡り廊下でレイジが口走った聖書の文句。火の刑罰を受けてみせしめにされるなんて、これ以上なく今の状況にふさわしいじゃんか。泣き笑いしたい気分だ。
 もうどうしようもない。悔しいけど、手も足もでねえ。
 眼鏡越しにサーシャを眺め、沈着な口ぶりで鍵屋崎が呟く。
 言霊の力でサーシャの邪悪を払いレイジの魂を救おうとでもいうかのように切迫して。
 「『それなのにこの人たちもまたおなじように夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者を罵っています。御使いのかしらミカエルはモーセのからだについて悪魔と論じ言い争ったとき、あえて罵りさばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました』
 サーシャを戒めるものはない。
 十字を切って神様に頼んでも無駄だ。
 「『しかしこの人たちは自分には理解できないことをそしり、わきまえのない動物のように本能によって知るようなことのなかで滅びるのです。忌まわしいことです』」
 牌に願掛けしても無駄だ。肉の焼ける甘い匂いが周囲に充満する中、レイジの背中を縦断したナイフが位置をかえる。肩甲骨の下辺に添えられたナイフが、先の火傷と交差する形で背中を横切ってゆく。  
 「あ、あ、ああっあああっあっあ」
 レイジの目尻から大粒の涙がこぼれる。汗でぐっしょり濡れそぼった髪が額に被さり、憔悴した顔をおくれ毛が縁取る。首からたれた十字架の鎖がコンクリ床でうねる。焼き鏝に蝕まれた背中は赤黒く焼け爛れて外気に晒されていた。
 このままじゃ本当にレイジが死んじまう。
 「淫売の股から産まれた薄汚い私生児の分際で後生大事に十字架を下げているお前に、贖罪の十字架を背負わせてやる」
 「!」
 それで漸くわかった、サーシャはレイジの背中に十字架を描いてた。首の付け根から尾てい骨まで伸びる縦の筋と中央で交わる横の筋。
 真っ赤に焼け爛れた巨大な十字架がレイジの背中に出現する。
 焼き鏝で十字架を描く悪魔の所業。
 『俺、神様に嫌われてるから』
 耳の奥によみがえるレイジの声。少し寂しげな笑顔。
 『ロンが俺の救い主だよ』
 そうだ。神様が救ってくれないなら、俺がレイジを救うしかない。俺にしかレイジを救えないんだ。なに弱気になってんだ、諦めてたまるか。手も足もでなくても口はちゃんと動く、喉擦りきれて血を吐くまでレイジに呼びかけることができる。
 「レイジてめえもう浮気しねえって約束したよな、浮気したら絶交だって指きりげんまんしたよな!?」
 サムライに抱かれたまま、限界まで身を乗り出し、怒鳴る。
 「あれは嘘かよ、俺の目の前でサーシャにもてあそばれてんじゃねえよ、体好きにされてんじゃねえよ!親から貰った大事な体に傷付けてんじゃねえよ、お前俺を抱くんだろ、ちゃんと生きて帰って約束通り抱くんだろ!?起きろよレイジ、約束守ればちゃんとご褒美くれてやるから、抱かせてやるから!朝から晩まで足腰が立たなくなるまで付き合ってやるから……いいのかよこんなとこで終わっちまって、こんなとこで終わっちまってどうするんだよ!マリアに言いたいことあるんじゃねえのか、娑婆に残してる愛人どもが泣くぞ、レイジお前色男気取るなら女泣かせるんじゃねえよ、お前に惚れた馬鹿な女哀しませるんじゃねえよ、甲斐性見せろよ!!」
 レイジ。レイジ。頼む起きてくれ、目を開いてくれ、立ちあがってくれ。俺にまた元気な顔見せてくれ、こんなのなんでもねえよ、冗談だよ、ひょっとしてマジ心配した?ってお気楽に笑いかけてくれ。 
 お前が「ただいま」を言えば、俺は「おかえり」を言うから。
 牌ごと握りこんだこぶしを胸にあて、金網に顔をくっつけ、肺いっぱいに空気を吸い込み…

 ―「俺を抱いてくれよ!!」―

 鍵屋崎がぎょっとしたようにこっちを見る。サムライの腕の力が緩む。かまわねえ、レイジが大変なときにいちいち恥ずかしがってられるか。レイジを起こすためなら俺は何だってする、恥くらいいくらでもかいてやる。サムライの腕をふりほどき、鍵屋崎を突き飛ばし、がしゃんと音たてて金網を掴む。 
 片腕を突き上げ、照明に映えるよう白い光沢の牌を翳す。 
 『弥有護身符!!』
 お守りを持ってるだろ!!
 なめらかな表面で照明を弾いた牌の反射光が偶然レイジの目を射る。色素の薄い睫毛の先端がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開く。朦朧と薄目を開けたレイジが不思議そうに首を傾げ、正面の俺を見つけ、そして……

 銃声が鳴った。

 「え?」
 頭上に掲げた腕はそのままに肩越しに振り返る。鍵屋崎もサムライも周囲のガキどもも、地下停留場に居合わせた全員がほんの一瞬おなじ方向を注視する。サーシャでさえ例外ではない。突然の銃声に狂気に水をさされたかのごとく哄笑をやめ、足に敷いたレイジから顔を上げ、うろんげに虚空を凝視……
 刹那。
 他の連中より一瞬早く正面に顔を戻した俺が目撃したのは、膝を撓め床を蹴り、豹じみた脚力でナイフの落下地点へ急ぐレイジ。俺以外の全員の注意が自分から逸れた一瞬にあざやかに反撃に転じたレイジがナイフを奪取、サーシャの形相が一変、びりびり大気を震わす奇声を発して灼熱の刃を振り上げ………
 『мой победа!!』
 『I win!!』
 銀の軌跡と真紅の軌跡が交錯、ともにナイフを下向きに構えた白い腕と褐色の腕が動体視力の限界を超えて交差。俺は見た、レイジが下向きに構えた刃がサーシャの右の眼窩を深々と抉る瞬間を。サーシャの右目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる。
 そして、同時に。
 サーシャが下向きに構えたナイフがレイジの左の眼窩を深々と抉り、目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる瞬間を。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050730212753 | 編集

 「目があああああああああああああああああっあああああっ!!!」
 僕は見た、サーシャの右目が血飛沫を噴く瞬間を。
 レイジが右目を切り裂く刹那を。
 背中の足をどけて跳ね起き、生皮剥がれた獣が最期の力を振り絞るかのごとく猛然と疾駆、電光石火でナイフをすくいとる。
 鋭利に研ぎ澄まされた刃の鏡面が決死の覚悟を表したレイジの横顔を写し取る。脂汗に濡れた額に前髪を被せ、寝乱れたおくれ毛で顔を縁取り、憔悴の色を滲ませた横顔。
 背中には重度の火傷を負っていた。ライターの炎で炙った高熱の刃を裸の背中に押し付けられたのだ。焼き鏝で烙印を付すにも似た残虐な拷問。
 レイジがいまだに意識を保っているのが不思議だった、普通の人間なら途中で失神してもおかしくない激痛なのにレイジはしぶとく正気を保ち続けた。
 幼少期に施された過酷な訓練の成果、拷問の苦痛に慣れていることが裏目にでたのだ。レイジは痛みに強い。苦痛に耐性のある人間だ。万一暗殺に失敗して敵の捕虜となった場合、拷問で自白を強要されても屈しないよう、子供の頃からあらゆる苦痛に慣らされてきたといつだったか本人が笑いながら語った。
 生きながら背中を焼かれる地獄の責め苦を味わい、おのれの皮膚が焦げゆく悪臭を嗅いでも、レイジは気絶できなかった。目には朦朧と膜がかかり、半分意識を失いかけていたが、焼き鏝が背中に押し付けられて皮膚が赤黒く捲れるたびにこの世ならぬ絶叫をあげて上体を跳ねあげた。
 痙攣。焼傷のショック症状。
 レイジは危険な状態だった。化膿した片腕を抉られ踏みにじられ、覚せい剤をすりこまれ、焼き鏝と化したナイフで背中を十字に焼かれて、普通の人間ならとっくにショック死してもおかしくない重傷を負っているのだ。
 この場合痛覚が生きてることは不利にしか働かない、レイジは現在指一本動かすだけでも神経が焼き切れる焦燥に苛まれているはず。
 一糸纏わぬレイジの背中には十字架の烙印が刻まれている。暴帝の足元に四つん這いにひれ伏して焼き鏝を押されたあと、贖罪の十字架。神の祝福を受けた聖痕か忌まわしい烙印か、そのどちらともつかぬあまりに無残なしるし。背中に十字架を負ったレイジがナイフを構えて疾駆、それに気付いたサーシャが獣じみた奇声を発してナイフを振り上げる。
 脱皮した白蛇のように銀髪が逆立ち、掌中のナイフが剣呑に輝く。
 『мой победа!!』
 私が勝者だ!
 『I win!!』
 俺が勝者だ!
 光集めたナイフの切っ先に殺意を託して腕と腕が交錯、風切る唸りをあげて宙を斜めに、互い違いに振り下ろされる。銀に研ぎ澄まされた残像の弧を曳いて交錯、ナイフの片方が容赦なくサーシャの眼窩を抉る。右目が血飛沫を噴く。鋭利な刃物で切り裂かれた右目を反射的に押さえるサーシャ、その手のナイフは容赦なくレイジの左目を貫いていた。レイジは無防備にこれを受けた、自分の片目を犠牲にしてサーシャの隙を誘い致命傷を与えんとしたのだ。防御も何もなかった。レイジは起死回生の勝機を得るため、サーシャに逆襲するために自分の片目を捨てたのだ。
 光を捨てたのだ。惜しげもなく。
 自己犠牲。献身。神が天に両腕をかざして光あれと叫んでも無駄だ、もう光は戻らない。
 サーシャのナイフはレイジの左目を容赦なく切り裂いて大量の血を滴らせて完全に光を奪い去った。失明の危機。だが、サーシャとて無事ではすまない。レイジと刺し違えた片目の傷は深く、視界の半分が塞がっている状態だ。条件は互角。両者とも視界を半分奪われた状態で試合を続行せねばならない。
 「くそっ!」
 下品な悪態を吐き、金網を殴る。
 レイジが傷付くことは覚悟していた、命がけでロンを守ると誓ったレイジなら如何なる犠牲を払ってでもそれを成し遂げると予期していた。だがこれは、これは……酷いじゃないか、あまりにも。片腕の怪我は悪化、背中には重症の火傷、そして片目は失明。レイジは既に五体満足といえない。そればかりか、無事に生還できる見こみすらないのだ。
 レイジがサーシャに打ち克ち100人抜きを成し遂げたところで彼が死んでは何の意味もない、彼一人の犠牲を代償に僕らの安全が保証されたところで特典を甘受できるわけがない!
 僕ら四人が全員生還してこそ初めて100人抜きに意味がある、誰か一人欠けても無意味だ、勝利に犠牲が付き物など痴れ言だ、くそくらえだ!
 レイジは僕の仲間だ。いいだろう、おおいに癪だが認めてやろうじゃないか。あんなふざけた男でも僕の仲間だ。時には喧嘩をして時には激しく罵り合って時には背中を預けてペア戦をここまで勝ち抜いてきた仲間なのだ。
 もしもレイジが死ぬようなことがあれば、僕は。僕たちは。
 「犬め、サバーカめ、梅毒に感染した淫乱な雌犬め!またしてもまたしても飼い主に手をあげたな、私に噛み付いたな無礼者めが!!」
 「ああ噛みついてやったさ、それがどうしたよラストエンペラー!?どうしたんだよそんなうろたえて、そんなに片目なくしたのがショックかよ、物凄い悲鳴あげやがって!」
 眼窩からナイフを引き抜き、迅速に飛び退く。片目を押さえて悶絶するサーシャと五歩離れて対峙、全身に闘志を漲らせて嬉々と笑うレイジ。だが彼もまた、ナイフで貫かれた左目を五指で覆っていた。
 「はっははっはは!これで俺たちお揃いだな、右と左で世界を半分こだ!飼い犬とお揃いで嬉しいだろ皇帝サマ、飼い主冥利に尽きるだろ?俺とおなじ暗闇に堕ちた気分はどうだよサ―シャ、右の眼窩が地獄と通じた居心地は?」
 レイジが肩で息をしながらナイフを構え直す。手で押さえたままの片目からはしとどに五指を染めて鮮血が滴っている。
 「これ以上変態の悪趣味に付き合わされるのはうんざりなんだよ。公開SMショーでさんざん恥かかせやがって……お婿にいけなくなっちまうだろうが」
 「家畜に婚姻の自由を認めた覚えはないがな。それにお前とて私に踏みにじられ背中を焼かれて、はしたない鳴き声をはりあげてよがり狂っていたではないか。歓喜の涙まで流したくせによもや忘れたとは言わせん」
 殺戮の余韻に恍惚と酔い痴れ、狂気に濡れ光る隻眼を虚空に据えたサーシャに、レイジがうんざりため息をつく。
 「おいおい、あれが本当にそう見えたってのか。笑えるぜ皇帝。今ここでもう片方の瞳を抉りとってやろうか?禊の泉みたいに綺麗でも真実を歪めて映す瞳なんざ無いほうがマシだね」
 残る片目を眇め、涙が乾いた頬をひくつかせ、レイジが皮肉げに笑う。
 「あれはただたんに『痛すぎて』泣けたんだ。よすぎたからじゃねえ」
 レイジとサーシャのあいだで殺気が撓む。試合再開。乾いた銃声が鳴り響き、全員の注意が逸れた一瞬の隙にサーシャの支配から脱したレイジだが、体力はそろそろ底を尽きかけている。残る片目を半眼にしてサーシャを睨みつけてはいるが、外気に晒した背中がひどく痛むらしく、足で体重を支えきることができずに何度も膝から崩れかける。
 「もったいない。二人とも綺麗な瞳をしていたのに」
 「!」
 背後に気配を察して振り向けばホセがいた。サムライとの試合以降姿が見えないと思ったら人ごみに紛れて接近していたらしい。まったく、油断も隙もない。
 「何の用だ、南の敗者が。君の試合は終了したんだからもう地下停留場に用はないはずだろう。それとも、嫌味を言いにきたのか」
 「そう邪険にしないでくださいよ。弟子の様子が心配で観にきたです。ほら」
 ホセが顎で促したほうを見れば、ロンが金網にしがみつき、真っ赤に充血した目で食い入るようにリングを見つめていた。まるでそうしてないと永遠にレイジを失ってしまうと強迫観念にとらわれてるかのごとく、片時たりともレイジのそばを離れずレイジから目を逸らさず、金網に額を預けていた。
 「まるでロンくんのほうが死んでしまいそうな顔色じゃありませんか」
 ホセの言う通りだ。レイジと痛みを共有してるかのようにロンの顔色は酷い。いや、これは……僕にはまるで、ロンがレイジの痛みを分担してるように感じられた。本来レイジ独りで抱えこばねばらない激痛を、金網を挟んだロンが自らすすんで請け負ってるように感じられた。
 苦難の連続に耐えるように目を瞑り、悲痛に顔をしかめ、胸に片方のこぶしをあて、天に祈りを捧げるように頭をたれる。
 死ぬなレイジ。死なないでくれレイジ。
 勝敗など二の次に、ただそれだけを一心に祈り続ける孤独な後ろ姿。
 「ロンくんを哀しませないためにも、レイジくんには健闘してほしいですね」
 僕の隣に立ったホセが同情をこめ、その実、本心が読めない口調で言う。黒縁メガネの奥の目は深沈と謎めいている。本当にレイジの無事を祈ってるのかどうか人あたりよい微笑からは推し量れない。
 いついかなる時も社交的な笑顔を絶やさない南の隠者、ホセ。
 脳裏を一抹の疑問が過ぎる。いつだったか、ヨンイルとホセとが共同宣戦を布告した真相を知ったときからずっと脳の奥に巣食っていた疑問。
 ホセの本当の目的はなんだ? 
 僕に語ったほかに、隠された真の目的があるのではないか?
 僕の心を見抜いたようにホセが向き直り、微笑みかける。 
 「悔しいですが、吾輩たちにできることはもう何もありません。レイジくんが倒れるかサーシャくんが倒れるか……どのみち時間の問題な気もしますが、吾輩たちにできることはただこうして金網越しに試合を観続けるだけ。せめて神に祈ろうではありませんか、サーシャくんとレイジくんが無事こちら側に生還できるように」
 ホセが黒縁メガネの弦にふれる。
 「すべて神のみぞ知る、です」
 「それで綺麗にまとめたつもりか?ふざけた話だ。神が全知全能だと誰が決めた、そんな俗説僕は認めない。第一神が存在する根拠がない。僕は神の存在を信じない、すべて神のみぞ知るなどと詐称しておのれの選択に伴う結果まで他者に責任転嫁するのは我慢ならない」
 僕らの未来を、神などといういい加減なものに託してたまるか。
 僕らの運命を、現実にいもしない神などに決められてたまるか。  

 出会いが人を変えて、人が運命を変えるのだ。
 人が運命を動かすのだ。

 今の僕にはそれがわかる。サムライと出会えてかけがえのないものを得た僕なら。あらかじめ定められた運命と心中するくらいなら死ぬ気で抗ってやるとそう決めたのだ。もとより僕は運命論者ではないが、東京プリズンに来ておのれの頭脳をもってしてもどうにもならないことの数々に直面するうちに、いつのまにか「どうにもならない現実」を許容することに慣れてしまった。
 だが違う、そうじゃないんだ。諦めてはいけないんだ、抗い続けねばならないんだ。それを教えてくれたのはサムライだ。ロンだ。レイジだ。売春班の面々だ。僕が東京プリズンで出会った信頼のおける仲間たち、僕が得た仲間たちだ。
 失ってなるものか、絶対に。
 手放してなるものか、絶対に。
 「レイジ!!」
 激しい衝動に駆りたてられ、ロンの横に並び、金網を掴む。レイジは僕の仲間だ。いつもくだらない冗談をしてふざけて笑っている調子のいい男だが、僕はいつのまにか彼に心を開いて、彼のことを身近に感じていて。
 失いたくない。
 僕らのもとへ帰ってきてほしい。東棟へ凱旋してほしい。
 帰ってこい。王様。迎える準備はできているから。
 「レイジ、敗北したら承知しないぞ!準決勝では僕にさんざん手を焼かせた貴様が、背中の火傷と片目の失明と片腕の怪我くらいで膝を屈するものか!レイジ、貴様は王様だ!僕らを代表する東棟の王様、東京プリズン最強の男、ロンの相棒、僕が心を許した友達だ!」
 胸が熱くなる。周囲の人がいるのに、大勢の人間が見ているのに、こんなに取り乱してみっともない。だが、言わなければ。伝えなければ。手が届かないならせめて言葉を伝えなければ。レイジが死ぬのは嫌だ、レイジの死と引き換えに手にする勝利など無意味だ。僕とロンが売春班からぬけられてもロンの隣にレイジがいなければ何の意味もない、レイジの笑い声が聞こえなければ何の意味もない!
 「レイジ、また鼻歌聞かせてくれよ」
 ロンが呟く。切なる願いをこめるように胸にこぶしをあて、真っ赤に充血した目をしばたたき、涙を呑みこむ。声はかすれていた。語尾は震えていた。泣くのを必死に我慢して笑みを浮かべて、金網を揺すり、吶々とレイジに訴えかける。
 「俺、やだよ。お前の鼻歌が聞けねえなんてやだよ、あのへったくそな鼻歌がなけりゃぐっすり眠れないんだよ。ビリー・ホリディのストレンジ・フルーツ、だっけ。お前さ、笑っちまうくらい音痴だよな。ビバリーが口ずさんだのと全然違うじゃん。レイジ覚えてるか?前に言ったよな、俺がなんでも上手くこなせるお前のこと羨ましがって嫌味言ったら自分にもできないことあるって言ったよな?お前ド忘れしてるよ、できないことまだあるだろ笑顔のほかにも沢山さあ!?」
 ロンが肩をひくつかせて金網を殴る。痙攣する背中。奥歯を噛みしばり嗚咽を殺し、ロンは続ける。
 「ちゃんと練習して音痴直して、いつか、ほんとのストレンジ・フルーツ聞かせてくれよ。お前が好きな歌。俺まだほんとのストレンジ・フルーツ知らないんだ、お前がいつも唄ってるデタラメなやつしか知らないんだ。歌だけじゃない、俺まだお前のこと何にも知らないよ、一年半ずっと一緒にいたけどまだまだ沢山知らないことあるよ!!」
 「俺とてそうだ!」
 僕の隣でサムライが叫ぶ。片手に木刀を握り、激情に駆りたてられるがまま。
 「死ぬな、レイジ。直が売春班送りになったとき、どうすべきかと煩悶していた俺に喝を入れたのはお前だ。お前がいたから俺は今ここにいる、直の隣にいられる、信念をまっとうできるのだ!お前には言葉では言い尽くせぬほど感謝している、何度土下座してもたりないほどの恩義を感じている。レイジよ、俺が恩を返しきるまで死ぬなど許さんからな!彼岸に渡るなど言語道断だ!」
 ロンの歯型がついた手で、渾身の力をこめ木刀を握る。僕、ロン、サムライ。三人金網を掴み身を乗り出し、喉を絞り、声を嗄らしてレイジに呼びかける。僕らの声援がせめてレイジの支えになればいいと、レイジを後押しする動力になればいいと。
 「レイジ、勝てよ!サーシャごときに負けるなんざ東棟の大恥だ、リングでくたばったらてめえの死体に小便ひっかけてやるからな!」
 凱がこぶしを突き上げ、濁声で怒鳴る。売春班の面々も口々にレイジを応援する。それまでサーシャに注ぐ声援に圧倒されていたが、最前列で声を張り上げる僕らに感化されたものか、周囲にたむろっていた東棟の囚人が目配せを交わし、そして……
 「王様」
 最初は小声だった。周囲の喧騒に紛れて消えそうな泡沫の呟き。 
 「王様」
 熱狂は空気感染する。
 最前列にて声をはりあげる僕とロンとサムライと、金網によじのぼり、照明に近い位置で両手を振り回す凱と、肩を小突かれようが髪を毟られようが梃子でも動かずレイジを応援し続ける売春班の面々と。
 レイジの名を連呼する僕たちにあわせ、周囲の人ごみに埋没していた東棟の囚人がまたひとり、またひとりと歩み出る。狂騒の熱に浮かされ、夢遊病者めいた足取りで歩み出た囚人の中には見覚えある顔も混じっている。
 食堂でわざと僕に肘をぶつけた囚人。ロンに味噌汁をかけた囚人。
 普段レイジを嫌ってる囚人も、僕らを敬遠してる囚人も。
 自身が帰属する棟のトップ、東棟の王様絶体絶命の窮地に見栄も体裁もなげうち、一夜限りの協同戦線を組んで隙なくリングを取り囲む。照明の光線も届かぬ地下の暗がりにこれ程東棟の人間に埋もれてたのか、と驚く大群が怒涛をうってなだれこむ。
 「王様!!」
 誰かが腕を突き上げる。
 「王様!!」
 呼応するかのように腕が上がる。何本も何本も。
 「「王様!!」」
 「「王様!!」」
 「なにちんたらやってんだ、てめえそれでも東棟のトップか、俺達のてっぺんに立つ最強の王様かよ!」
 「北の皇帝ごとき鼻歌まじりに殺っちまえよ!」
 「王様は最強だ!」
 「東棟は最強だ!」
 「東棟が一番だ!」
 「王様万歳!」
 「「王様万歳!!」」
 鼓膜が痺れるほどに膨れ上がる声援。他棟の囚人を力づくで押しのけ蹴散らし、掴み合いの乱闘の末にリング周辺を占拠した東棟の囚人勢が床を踏み鳴らし野次をとばし盛大に騒ぎ立てる。全員が全員レイジを応援している。王様の勝利を信じている。
 我らが東棟のトップが他棟に膝を折るわけがないと熱狂的に確信してる。
 「『王様が死んだ、王様万歳』か」
 レイジが笑みを浮かべる。皮肉げな口調とは裏腹に、嬉しそうな笑顔。
 「はは、驚きだね。俺、自分で思ってたより人望あったみたいだ。見てみ、すごいだろサーシャ。お前の軍隊にだって負けてねえ」
 サーシャが面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
 「東の間抜けどもがいくら吠えたところで無駄だ。レイジよ、改めて自分を見ろ。その怪我で戦うつもりか、試合を続行するつもりか。腕と目と背中に重傷を負い立っているのはおろか意識を保っているのが奇跡に近い瀕死の状態で、身のほど知らずにも北の皇帝に仇なすつもりか!!?」
 怒り荒ぶる咆哮をあげ、片目から手をどけるサーシャ。抉れた傷痕が痛々しい片目を瞑り、顔の右半面を朱に染めた凄惨な形相でレイジを睨みつけ、頭を屈めた低姿勢で疾駆。体前にナイフを引き付け、鋭い呼気を吐く。レイジは即座にこれに応じる。片目から手をどけ、咄嗟にナイフを立て、サーシャの刃を受ける。
 刃が刃を研磨する軋り音。
 潰れた片目から血を垂れ流し、顔の半面を朱に染め、北の皇帝と東の王が宿命的に対峙する。
 「何故だレイジよ、何故そうまでして私に逆らう?私の犬になれば苦しまなくて済むというのに……度し難い愚か者め、駄犬め!ああ貴様が憎い、憎いぞレイジ!!私はいつも貴様が憎くて憎くてたまらなかった、卑しい雑種の分際で、混血の私生児の分際で、お前はいつもいつもそうやって私を見下す!!」
 サーシャの顔が屈辱に引き歪み、ナイフを押し進める腕に尋常ならざる力が篭もり、いびつな軋り音を奏でる。
 「サーシャ、ひとつ訂正だ」
 レイジの口調は落ち着いていた。刃に乗せて叩き付けられた殺意の波動を手首の調節で受け流し、右目に悪戯っぽい光を宿し、サーシャの耳元に顔を近付ける。
 「俺、犬科じゃなくて猫科なんだ。豹なんだよ。猫科を飼い馴らすのは無理だろ」
 サーシャの耳朶に吐息を吹きかけ、嫣然と微笑む。サーシャの隻眼に憎悪が炸裂、甲高い音をたてナイフが離れる。サーシャが奇声を発する。蛇が毒液を吐くにも似た鋭い呼気を発し、鞭のごとく柔軟に腕を撓らせ、肩口を脇腹をレイジの死角を急襲する。だが、レイジはこれを回避。刃に前髪を切り裂かれ毛髪が数本宙に散る、刃に頬を切り裂かれ血の筋が滲む。刃が触れた人体部位からじゅっと蒸気が噴きあがり焦げ臭い匂いがたちこめる。
 もし今心臓を切り裂かれたらどうなる、サーシャの刃で心臓を刺し貫かれたら?レイジの背中を焼いた高熱の刃が体内に侵入して心臓を貫通すれば……血液が蒸発、細胞が壊死。レイジは即死。今度こそ間違いなく死亡。ロンが泣いても叫んでも僕が肩を揺さぶり名前を呼んでもレイジは二度と目を開けず、二度とこちら側に戻ることはない。
 「………っ、」
 心臓の鼓動が速鳴る。胸が苦しい。周囲の酸素濃度が薄くなって息が苦しくなった錯覚さえ覚える。心臓を鷲掴みにするこの感情の正体は……恐怖。僕はレイジを失うのが怖い、レイジが死ぬことを恐れている。
 「大丈夫だ」
 肩を抱く力強い腕、抱擁のぬくもり。隣にはサムライがいた。僕を庇うように寄り添い、しっかりと僕の肩を抱いている。サムライの目はリングを見ていた。壮絶な死闘を演じるサーシャとレイジを追っていた。僕の方は見ず、肩を抱いた腕に力をこめ、強い眼光を宿してサムライが断言する。
 「俺たちがついている。王が敗けるわけがない」
 言霊というものがもしあるとすれば、僕はサムライの声の響きにこそそれを感じ取った。僕たちがついてる。レイジが敗けるわけがない。口の中でくりかえし、深く息を吸い、顔を上げる。
 その瞬間、僕の眼前の金網にレイジの背中が激突。
 「!?な、」
 サーシャに追い詰められたレイジが、金網に背中を付け、ナイフの柄を持ちなおしている。やはり無理があったのか、片腕と片目と背中に重傷を負って立ち続けるのはおろか意識を保ち続けるのもむずかしい状態で試合を続行するのは無茶だったのか?疲労困憊のレイジが金網に背中を預け、ずり落ち、尻餅つく寸前でどうにか膝を支える。
 「レイジっ!」
 見かねたロンが僕を押しのけて金網にとびつき、ひし形の網目に強引に腕をくぐらせ、レイジの肩に触れた……次の瞬間。

 レイジが振り向き、金網越しにロンの唇を奪った。

 唇が触れ合ったのは一瞬だった。瞬き一回にも満たないごくわずかな時間。だが、それだけで十分だった。金網を挟んでロンの唇を奪ったレイジが、憔悴の色濃い顔に虚勢の笑みを浮かべる。
 「サンキュ。元気でた。ロン分補給完了だ」
 そう言って金網越しに手を翳し、ロンと手のひらを合わせる。
 手と手が重なる。指と指が触れあう。互いのぬくもりを求めるように指と指を組み、握りしめる。
 「……ばかやろう、ちゃっかりひとの精気吸ってんじゃねえよ。あとで倍にして返してもらうからな」
 ロンの顔が泣き笑いに似た崩れ方をする。仕方ないな、と苦笑する温かみのある表情。レイジの顔もおなじ崩れ方をする。
 ひとつに重なった手と手から互いのぬくもりが流れこむ。
 「死んだら絶交だかんな。忘れんなよ」
 「忘れねえよ」
 「守れよ約束。俺を独りにするなよ。折角抱かれてやる気になったんだから、がっかりさせんなよ」
 「おおとも。土壇場で泣いても許してやんねーからケツ洗って待ってろよ」
 レイジが息を吸い、吐き、顔に垂れた前髪の隙間から爛々と光る隻眼を覗かせる。
 「もうすぐ終わるから」 
 「睦言を交わしてる場合か?」
 蔑笑を孕んだ嘲弄。ロンとのやりとりに水をさし、レイジの前にサーシャが立つ。抉れた傷痕も無残な片目を前髪で隠し、狂気渦巻くアイスブルーの隻眼を細める。右の眼窩から飛び散った血痕がサーシャの顔を斑に染め上げて悪趣味な化粧を施している。「「ウーラン!」」「「ウーラン!」」「「ツァー・ウーラン」」……皇帝を崇拝する北の囚人が喝采をあげる中、横薙ぎにナイフを一閃。演舞と見紛う優雅な動作で血糊を払い腰を落としてレイジと対峙、いつでもとびかかれるよう膝を撓める。
 「お前を私の物にするには腕と目を奪ったくらいでは足りないか、もう片方の腕と目も取り上げれば主人に逆らおうとなどという世迷言は思わぬはず。犬の腕を切り落としても寝台遊戯に支障はない、目が見えずとも困らない、私の目的は東京プリズンの皇帝になること、そしてお前を手に入れること!お前がもう決して私のもとから逃げられぬよう私の手に噛みつかぬよう四肢を切断して調教をやりなおす!」
 「こいよサ―シャ。調教してくれよ」
 金網に背中を凭せ掛け、挑発的にサーシャを手招きするレイジ。前髪にはべったり血が付着して顔の左半分が朱に染まっている。ナイフを左手に持ち、構え、蛇がいつとびかかってきてもいいように腰を落とす。
 ―「東京プリズンを掌握するのはこの私、王座に上がるのはこの私だ!!」―
 アイスブルーの隻眼で閃光が爆ぜる。
 颯爽と銀髪を靡かせ、頭を屈めた低姿勢で疾走するサーシャ。ナイフを構えた右腕が斜め上空から滑降、大気を切り裂く鋭い音。金網を背に、体前に構えたナイフで兇刃を受け止める。腕が痺れる衝撃にレイジが奥歯を噛みしばり足で体重を支える。
 火花散る刃軋り。
 刃と刃が擦れ、噛み合い、至近距離に迫った互いの顔を銀の鏡面に写し取る。
 僕は見た、ナイフの刃に映ったレイジの笑顔を。サーシャの攻撃を受け止めつつ、レイジが鼻歌を口ずさむ光景を。周囲の歓声にかき消されてはっきりとは聞こえないが確かに唇が動いている。
 歌を口ずさんでいる。
 「ストレンジ・フルーツだ」
 刃越しにレイジの唇の動きを読んだロンが生唾を嚥下する。
 「なんてこった。こんなときに歌ってやがる。さすが王様、肝が据わってる。正真正銘の馬鹿だ」
 あきれたような感心したような口ぶりで、中途半端な笑顔でロンが寸評する。レイジは気に入りの歌を口ずさみながら、左腕一本でナイフを巧みに操り、サーシャの攻撃をかわす。ひとり踊っているかのように軽快な足取りで後退、口元には夢見るような微笑を湛え、前髪のかかる隻眼に稚気を閃かせる。
 「さっき擦りこまれた覚せい剤が効いてきたかな。痛みも感じねえし、すっげえご機嫌な気分。一晩中でも踊れそう」
 「痴れ言を」
 サーシャが唇を歪めて吐き捨て加速、レイジとの距離を詰める。サーシャから距離をとろうと後退したレイジの肘が金網にぶつかり、背中が金網に激突。行き止まり。勝利を確信したサーシャが隻眼に喜色を浮かべ、レイジが結わえた髪を掴む。襟足で一本に結った髪を掴まれ、吊られ、頭皮から毛髪が剥がれる激痛にレイジがもがき苦しむ。
 「吊られた男ですね」
 「まだいたのか隠者!?」
 僕の背後、顎に手をあてたホセが訳知り顔で頷き、僕らを等分に見比べて講釈をたれる。
 「ご存知ですか、タロットカード『吊られた男』の解釈を」
 「タロットカードの意味などどうでもいい、第一僕は占いなど実証根拠に乏しい非科学的なものは信じない!時と場所を考えて講釈をたれろ、可及的速やかに視界から消え……」
 僕の抗議を無視し、顎に手をあてたホセが淡々と呟く。
 眼鏡越しの双眸は油断ならぬ鋭さを帯びて、サーシャに後ろ髪を吊られたレイジを観察している。
 「逆位置における『吊られた男』の定義。状況を変えたいが、自分では何もできない。問題や障害はますます大変になり気が滅入る。自分では何もできない状況に悲観的になる」
 「この……!!」
 頭に血が上った。不要な知識をひけらかして僕らの不安を増長させるようなことを言ったホセに怒りが沸騰、声を荒げて詰め寄れば片手で遮られる。
 「ここからが本題です。『吊られた男』正位置の定義とは」
 眼鏡の弦に指を触れ、胡散臭い笑顔を浮かべ、ホセが続ける。
 「努力。忍耐。困難。障害。奉仕。慈愛。救済。成果。良い結果。自己犠牲が報われ、それ相応の結果を手にする。今までの努力や苦労が報われ状況は光り輝く……」
 状況は光り輝く。
 何もかも見通したホセの笑顔に胸騒ぎを覚え、慌てて正面に向き直る。金網に背中を付けたレイジ、襟足で一本に結わえたその髪を片手で吊り上げ、もう片方の手で頚動脈を掻き切るべく刃を閃かせるサーシャ。
 「さらばだ、王よ。血の海で溺れ死ね」
 「レイジっっっ!!!!」
 ロンが絶叫する。サムライの顔が苦渋に歪む。レイジの敗北はもはや避けられない事態なのか、予定された未来なのか?絶望に打ちひしがれ、よろけた僕の耳に届いたのは…… 
 
 「かかった」
 この場でただひとり勝利を確信した王様の独白。

 会場中誰もが目を疑った。
 後ろ髪を掴まれ喉をさらし、頚動脈をかき切られるのを待つばかりと見えた王様が、ナイフの刃を跳ね上げる。襟足で一本に結わえた髪を根元から切断、毛髪が盛大に宙に散る。サーシャの手に残ったのはゴムで括られた一束の藁、否、毛髪だけ……
 「!!!このっっっ、」
 サーシャの足が縺れ、腰が泳ぎ、重心がぐらつく。レイジの毛髪を掴んで宙吊りにしていたのに、それを根元から切り落とされ、レイジの頚動脈めがけて急接近したナイフの軌道がぶれる。サーシャの手元が狂った瞬間を見逃さず、レイジが反撃を仕掛ける。コンクリ床に片膝ついた体勢から強靭な脚力で伸びあがり、逆手にしたナイフの柄でサーシャの右目を刺突。
 先刻、自らが切り裂いた右の眼窩を。
 「ああああああああぐううああああああああっあああああっ、あああっ、ああああ!!!」
 凄まじい絶叫が会場中に響き渡る。ナイフの柄の部分で右目の傷口をつかれ、業火に灼かれた蛇の断末魔のごとく苦悶に身をよじるサーシャ。だが、レイジは容赦ない。あまりの激痛にナイフを放り捨て両手で右目を覆い、血痕が染み広がる床に膝を屈したサーシャの首に刃を添える。
 「いっ、ひいっ、あ……目、目が、私の目があああああああああっああっ!?この、殺してやる、殺してやるぞ!!よくも私の目を、皇帝の目を、たかが雑種の分際で!!」
 両手で庇った右目からぼたぼたと血の雫が滴り落ちる。狂気じみた呪詛を吐き、血だまりに膝を浸けて悶絶するサーシャの首筋にナイフの刃をあてがい、薄く皮膚を切り裂く。冷たい刃が皮膚を裂き、体内へと侵入する戦慄にサーシャが硬直。両手で右目を押さえたまま、虚ろな隻眼で上方を仰ぎ……
 レイジがいた。
 頚動脈の位置に正確にナイフを擬して、サーシャの首筋に浮いた朱線を眺めていた。
 
 優しい微笑みを浮かべ、レイジが訊く。
 『Dead or Alive?』
 
 歌声にも似た響きの死刑宣告。四囲から注がれる脚光を浴びて、足元に跪いたサーシャの首筋にナイフを添えて、いつでも頚動脈を切り裂けると笑顔で暗示し。
 サーシャが凝然と目を見開く。先ほど放り捨てたナイフを取りに戻る時間はない、指一本でも動かせばその瞬間に頚動脈を切り裂かれる。誇り高く奢り高い皇帝の隻眼に葛藤が渦巻く。
 誰もが固唾を飲み、サーシャが口を開くのを待っている。
 生か死か究極の二者択一。
 プライドをとるか命をとるかの葛藤が恐怖に駆逐されるまでそう時間はかからなかった。レイジが首筋に添えた刃に圧力をくわえ、緩慢な動作で横に引いたのだ。血管が裂け、真紅の雫が零れる。一本の管のように開いた喉から呼吸音が漏れ、隻眼で光が揺らめき、そして……

 「『……Alive』。私の、敗けだ」
 
 糸が切れたように首をうなだれ、血だまりにひれ伏したサーシャが苦渋の決断を下す。降参表明。誇り高く奢り高い皇帝の最期。
 ゴングが鳴る。僕の耳にはまるで王の凱旋を祝う銅鑼の音に聞こえた。
 審判がリングに上がり、震える足を叱咤してレイジとサーシャのあいだに割りこみ、両者を引き離す。
 「勝者レイジ!!」
 100人抜き達成の瞬間だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050729220537 | 編集

 二つ折りの免許証入れをめくり、五十嵐が娘を紹介する。
 あくまで穏やかで優しい笑顔で、あたかも娘が生きてるかのように。
 「五十嵐リカだ。韓国併合三十周年パレードで尹 龍一に殺された俺の娘だよ」
 ヨンイルの眉間に免許証入れを翳し、頼りになる父親の顔でそう言った。

 伊龍一、それがヨンイルの本名。
 五十嵐リカ、それが五十嵐の娘の名。

 点が線になった。
 五十嵐本人の口からヨンイルを殺したいほど憎む真の動機が明かされた。
 壁際に力なくへたりこみ、五十嵐とヨンイルとをおっかなびっくり見比べていた僕の中で、五十嵐の衝撃告白が起爆剤となり猫をも殺す好奇心がまた騒ぎだす。
 五十嵐の娘の顔をよく見たい欲求に駆られ、腹の脇でこぶしを固めて身を乗り出した僕の視線の先、通路のど真ん中で一歩も譲らず対峙する五十嵐とヨンイル。
 蛍光灯が不規則に点滅する通路には、いつ引き金にかけた指が痙攣して銃が暴発してもおかしくないほどきなくさく濃密な殺気が漂っていた。
 壁に背中をくっつけて生唾を嚥下、慎重に体を動かす。
 耳障りな衣擦れの音。おしっこでびしょ濡れになったズボンが太股にぴっちりへばりついて気持ち悪い。
 ああ、パンツ洗わなきゃ。それにズボンも。おしっこちびるなんて何年ぶりだろうまったく、ママに叱られちゃうよ。現実逃避の思考の脱線。壁から背中を起こし、生唾を嚥下。五十嵐がヨンイルの眉間に翳した写真を盗み見る。
 目がぱっちりした可愛い女の子だった。
 色褪せた写真からでも快活な笑い声が聞こえてきそうな笑顔だった。ボーイッシュなショートヘアがよく似合う活発な印象の女の子……
 五十嵐と全然似てないな、とまず最初にどうでもいいことを思った。
 そういえば奥さん似だって言ってたっけ、自慢げに。
 娘の話をする五十嵐はいつも本当に嬉しそうだった。
 親ばかにのろけた笑顔といい照れくさげに頭を掻く仕草といい、僕たちが憧れてやまない普通の父親みたいだった。
 東京プリズンに来る囚人の殆どが治安極悪なスラムの崩壊家庭で生まれ育ったのは統計的な事実で、そいつらには片親しかいないのが普通で、両親揃ってるガキが逆に珍しいくらいだった。
 よくある話父親が他に女作って逃げちゃって、仮に父親がいたとしてもそいつは大抵ヤク中かアル中のどっちかで、妻子に殴る蹴るの暴行働いて社会から落伍した憂さを晴らす人間のクズだった。偉そうに父親ヅラされるよかいっそいないほうがマシな人間だった。物心ついた時分から最低の父親しか知らないガキどもは、ヤク中でもアル中でもない普通の父親が羨ましいのだ。

 でも、五十嵐は違う。五十嵐は本当にいい父親だったのだろう。

 家族思いで娘思いの父親、血反吐でるまで子供を蹴ったり殴ったりなんか絶対しない父親。生前の娘の写真を今も大切に持ち歩いてるのがその証。娘の思い出話をする愛情深い眼差しからは五十嵐がいかに良い父親だったかしみじみ伝わってきた。
 その五十嵐が、ヨンイルの胸に銃口をつきつけている。
 立て続けに衝撃的な出来事が起きて頭が混乱してる。お尻をずらし、背中を起こし、ヨンイルと五十嵐を見比べる。ヨンイルは五十嵐の娘の仇だった。
 情報通の僕は当然ヨンイルがなにして東京プリズンに放りこまれたか前科をばっちり把握してる。天才ハッカービバリーにお願いして個人情報データベースに忍びこみ、極秘管理されてるファイルを盗み読んだこともある。
 ヨンイルの個人データは極秘事項扱いで特に厳重に管理されていて、さしものビバリーもハッキングに手こずっていた。

 ヨンイル。伊龍一。

 祖父は韓国・朝鮮併合を機に半島に帰化した在日二世。
 半島の景気低迷を朝鮮併合による弊害として韓国独立を目指す過激テロ組織にかつては祖父ともども身をおいていた。十一歳で逮捕されるまでのあいだに総計二百個の爆弾を製造、KIAのテロ活動に関与して世間を震撼させた。
 ヨンイルがばらまいた爆弾の巻き添えくった犠牲者の数は二千人をくだらない。
 僕はヨンイルの前科を知ってる。僕だけじゃない、東京プリズンの囚人のあいだじゃ有名な話だ。ヨンイルは間違いなく東京プリズンでいちばん多く人を殺した前科持ちだ。レイジだってかなわないぶっちきりイチバン。
 だからそう、ヨンイルに身内を殺されたと私怨を抱く人間がいても不思議じゃないのだこれっぽっちも。
 けど、それはおとなり韓国の話。
 まさかこの刑務所で、天文学的極少確率の偶然で、娘を殺された父親と犯人とが出会ってしまうなんて。
 復讐が実現するなんて。
 「…………は?」
 ヨンイルはぽかんとしていた。
 口を半開きにした間抜けヅラ。五十嵐の口から真相を聞かされてもにわかに呑みこめないといった放心の表情。五十嵐の言葉が脳裏に浸透するにつれ、ヨンイルの顔に驚きの波紋が広がっていく。
 ヨンイルの表情の変化を苦笑まじりに観察しつつ、免許証入れを閉じ、懐に写真をしまう。
 「覚えてなくても無理ねえか。パレード中に爆弾爆発させたのはお前じゃねえ、お前はあの時テロ現場にいなかったんだから。でもな、リカはあの時あの場にいたんだ。修学旅行先で運悪く居合わせちまったんだ。修学旅行の日程がタイミングよく……いや、悪くか……韓国併合パレードの期日と被ってたんだ」
 五十嵐はあくまで淡々と語る。
 人間として大切な一部分が完全に欠落してしまった違和感ばりばりの口調。口元は薄く笑ってたが目は酷く醒めていた。
 ヨンイルは神妙な面持ちで五十嵐の語りに耳を澄ましていた。
 ヨンイルの胸に銃口を埋め、乾いた哄笑をあげ、五十嵐がヤケ気味に続ける。
 「リカは友達と一緒にパレードを見にいった。そして運悪くテロに巻き込まれた。運悪く、運悪く、運悪く……はは、聞き飽きたぜ。リカが死んでから五年、毎日毎晩考え続けた。俺の娘が死ななきゃならなかったわけを、たった11歳で将来棒にふらなきゃならなかった納得いく理由ってやつを。
 でも、どんだけ考えたってそんなもん見つからなかったよ。
 運悪く。
 まわりの連中だれもかれもが口を揃えてそう言った。リカちゃんは運が悪かったんだ、自分を責めるな五十嵐、お前はなにも悪くない。あのテロはだれも予想できなかったんだ、リカちゃんはたんに運が悪かったんだよ、あの時あそこにいなけりゃ……せめて爆発地点からあと5メートルか10メートル離れてりゃあ一命とりとめたかもしれねえのに。可哀想にリカちゃん」
 五十嵐の目に悲痛な光が宿る。
 銃口に圧力をくわえる。
 肋骨に銃口がめりこむ激痛にたまりかねてヨンイルがよろける。
 だが、五十嵐は動じない。ヨンイルの胸を銃口で小突き、畳みかける。
 「なあヨンイル、これってどういうことだ。リカは『運』なんて目に見えない、形のないものに殺されたってのかよ?そんはずあない。違うか?運に人は殺せない。人を殺すのは人だ。この五年間ずっとずっと考えてたんだよ、リカが死ななきゃならなかった理由を、俺がリカの死を割りきれるちゃんとした理由を。でも、駄目だった。どんだけ考えても埒が明かなかった。
 だってリカは、きちがいどもの馬鹿騒ぎに巻き込まれただけなんだから。リカ自身はなにも悪くないんだから。だれかになにかひどいことしたわけじゃねえ、だれかを騙したり傷付けたりしたわけじゃねえ。修学旅行にでかける前の夜もリカは洗濯物畳んでたんだ、具合悪くて寝こんでる母親の代わりにせっせと洗濯物畳んでたんだよ。そんなリカがなんだってあんな死に方しなきゃならねえ、面影なんかこれっぽっちも残らねえ肉片にならなきゃなんねえ?」
 グリップを破壊せんばかりに手に力がこもる。
 銃口で顎を押し上げ上向きに固定したヨンイルの顔を覗きこみ、自嘲の笑みを吐く。
 「ここでお前と会った時、柄にもなく運命を感じたよ。すっごい偶然だよな、考えてみりゃ。俺は看守でおまえは囚人。はるばる海越えた砂漠くんだりの刑務所で、憎い娘の仇とおなじ空気吸うはめになるなんて悪い冗談にもほどがあるぜ。ありえないよな実際、こんな偶然。運命って呼んでもいいよな。それか宿命か……まあ、どっちでもいいか」
 五十嵐が深呼吸する。
 「お前のデータ読むまで、俺はリカを殺した犯人についてなんにも知らなかった。当局にしつこく食い下がってもなんにも教えちゃくれなかった。日本と韓国のあいだでそういう取り決めがあったんだろうな……今となっちゃどうでもいいことだがよ。五年前、本当はすえながく記念すべきめでたい日になるはずだったパレード中に爆弾ばらまいた実行犯はもういない。あの時あの場にいた大勢の人間を巻き添えに自爆しちまった。でも、爆弾造った張本人はこのとおりぴんぴんしてやがる。毎日漫画読み放題で浮かれてやがる」
 ヨンイルの下顎を銃口で抉り、威圧的に顔を近付ける。
 引き金に指をかけて脅迫され、凄味の利いた目つきで睨まれても、ヨンイルは決して視線を逸らそうとしなかった。
 銃口ではなく、五十嵐の目をまっすぐ見つめ、じっと糾弾に耐えている。
 「ずるいよ、お前」 
 語尾がかすれる。
 アルコール依存症患者のように手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 五十嵐の顔が悲痛に歪み、双眸で光が揺れる。
 どれだけ憎んでも憎みたりない、どれだけ殺しても殺したりない娘の仇を前に、引き金を引きたい衝動に抗いながら切々と心情を吐露する。
 「リカはもう漫画が読めねえのに、あんなに好きだった手塚治虫読めねえのに、お前ときたら通路歩きながら漫画読んでけたけた笑い声あげやがって……俺はもう、お前に漫画読んでほしくないんだよ。手塚治虫にふれてほしくないんだよ。お前を最初に見た時もそうだった、お前漫画読んでたんたな、漫画読みながら笑ってたな?頭にかあっと血が上ったよ。くそったれの人殺しのくせに、爆弾で二千人殺した鬼畜外道のくせに、お前ときたらまるきり普通のガキみたく笑いやがって。リカが好きだった漫画をリカ殺した張本人が面白がるなんて認めねえ、リカとお前がおなじ手塚治虫好きだなんて許せねえ絶対に!」
 激昂した五十嵐が硬い銃口でヨンイルの脇腹をつく。
 「いいかよく聞け、ブラックジャックはリカのもんだ、お前のもんじゃねえ。人殺しが手塚治虫を読むな、語るな、横取りするな。さも自分こそイチバンのファンだってツラすんじゃねえ。お前も読んだんなら知ってるだろヨンイル、ブラックジャックは立派な医者だよな、最高にかっこいい無免許医だよな。リカが惚れる気持ちがよくわかるよ、お前が憧れる気持ちもわからなくねえよ。けどな、お前には、お前にだきゃあ手塚治虫を読む資格がないんだよ。リカはお前のせいで手塚治虫が読めなくなったんだから、あんなに好きだったブラックジャックが二度と読めなくなったんだから!」
 言ってること滅茶苦茶だ。支離滅裂だ。
 五十嵐はもうヨンイルの憎しみでまわりが見えなくなってる。
 唾とばしてヨンイルを口汚く罵りながらあちこち銃口で小突き回す。
 銃床が肩を殴打、ヨンイルが痛みに顔をしかめ前かがみの姿勢になる。
 銃口がへそを圧迫、ヨンイルが体を二つに折って激しく咳き込む。
 腹を抱えて咳き込むヨンイルの視線にあわせて屈みこんだ五十嵐が、手首に捻りを加えて乳首を押し潰す。
 「…………っ、あ」  
 「痛いだろ」
 いい気味だといわんばかりに五十嵐が嘲笑う。
 卑屈な顔。嗜虐の悦びに爛々と輝く目と低温の笑み。額に脂汗をかき、意志の光失わない反抗的な目つきで五十嵐を睨むヨンイル。その正面に屈みこみ、苦痛に息を荒げるヨンイルの表情を舌なめずりせんばかりに観察しつつ、ごりごりと銃口を回して乳首に重圧をかける。
 「資料に詳細に書いてあったよ。お前がかつていた組織……反政府テロ組織KIAに入るには避けて通れない儀式のことが。組織への絶対忠誠と服従を生涯誓わせるため、KIAじゃ正式メンバーの体に刺青彫るんだってな。
 老若男女関係なくKIAのメンバーの体にはどこかしらに龍の刺青が入ってて、その大きさは組織への貢献度によって異なる。KIAの実態は今だ謎に包まれてて当局も手を焼いてるそうだが、逮捕した連中を徹底的に取り調べてくうちに全員の体におなじ刺青見つけて、事の次第が発覚したんだそうだ」
 五十嵐が銃口をどける。ヨンイルの乳首は切れて血が滲んでいた。
 切れた乳首を一瞥、今度はじかにヨンイルの体に触れる。
 肉付きを確かめるように脇腹を揉み、まさぐる。胸板を撫でる。そうやってヨンイルの体に好き放題さわりつつ、熱に浮かされたように呟く。
 「お前の刺青もそうだ。KIA正式メンバーになる時に彫った龍の刺青……二千人を食い殺した龍だよ。その全身の刺青こそ、お前がだれよりKIAに貢献した消し去りがたい証だ。ヨンイル……日本名で龍一たあよく言ったもんだな、お前はたしかに人食い龍だよ、二千人の血肉を食らって成長した恐ろしい龍だよ!リカは飢えた龍に食い殺されたんだ、腹を空かせた龍の餌食にされちまったんだよ!」
 ヨンイルの体に刻まれた龍の刺青、その鱗を爪で掻き毟り剥がそうとする五十嵐。
 龍のあぎとをこじ開けて喉に手を突っ込んで娘を吐き出させようとでもするかのように必死な形相で、ヨンイルの腕に肩に脇腹に爪を立てる。
 五十嵐の爪で引っ掻かれた肌に赤い筋ができる。
 「吐き出せよ。お前がむかし食い殺した二千人今ここで吐き出せよ、まさか消化しちまったなんて言うなよ、まだたった五年しかたってないんだ、今ならまだ間に合うはずだ、龍の胃袋はでけえからリカは溶けきってないはずだ!なあ返せよ、返してくれよヨンイル、リカを、俺の娘を!」
 五十嵐が爪に力をこめ、龍の鱗を掻き毟る。
 娘を返してくれ、返してくれと馬鹿の一つ覚えみたいに訴えるさまはただ惨めで、救いがたく惨めで、僕は何度も顔を背けたくなった。
 その姿がまるで、殺したいほど憎いヨンイルになりふりかまわず縋りついてるようだったから。
 ヨンイルは同情めいた眼差しを五十嵐に投げかけぼんやり床にうずくまっていた。見るもの不安にさせる掴み所ない表情。体のあちこちを引っ掻かれ、爪で抉られた皮膚に赤い筋が浮いても、痛みを凌駕した驚きのために抗弁できずにいる。

 僕より誰よりヨンイルがいちばん驚いたのかもしれない。

 かつて自分が造った爆弾が五十嵐の娘を殺したと知り、予想だにしない衝撃の事実に打ちのめされ、さっきまでの威勢よさが嘘みたいに虚脱しきっていた。
 両手を腹に回して背中を丸め、額にびっしょりと脂汗をかき、体の鱗を剥がされる激痛に耐えるヨンイル。五十嵐の爪がヨンイルの二の腕に食い込み、痛々しい引っ掻き傷ができる。だが、五十嵐が意地になって鱗を剥がそうとしてもヨンイルの体に刻まれた刺青はかわらずそこにある。
 ただ、ヨンイルの体が傷付くだけ。
 「……はっ、……」
 ヨンイルの目尻が朱を刷き、うっすらと涙の膜が張る。
 なんで反抗しないのヨンイル、突き飛ばさないのさ?
 ヨンイルはまったくの無抵抗で、通路の真ん中に片膝ついて、五十嵐に刺青引っ掻かれるまま唇を噛んで耐えていた。ヨンイルは西の道化、五十嵐がヨンイルの刺青から目を離さずにいる今なら反撃の手段なんかいくらでもあるはず。五十嵐の股間を蹴り上げるか、手を蹴り上げて銃を落とすか……
 方法はなんだっていい、とにかくヨンイルなら五十嵐から銃を取り上げるのなんて簡単なはず。でもヨンイルはそれをしない、他に考えがあるのかどうか遠目に見てる僕にはちっともわからないが、ただ五十嵐にされるがまま通路のど真ん中にうずくまって全身に爪が食いこむ激痛に耐えている。
 首を仰け反らせ、首をうなだれ、ぎりっと音鳴るほどに奥歯を食い縛り。
 こめかみを一筋二筋汗が滴り、みみず腫れに似た赤い筋が全身に浮く。
 「言えよ。もう二度と手塚を読みませんて」
 ヨンイルの肩に手をおき、もう一方の手に銃を預け、そっと囁く。
 「手塚治虫はリカのもんだ。ブラックジャックはリカのもんだ。お前に漫画読む資格はねえ。俺はもう二度と、一生死ぬまで、お前に漫画を読んで笑ってなんか欲しくないんだよ。お前が殺した二千人のこと度忘れして楽しい思いなんかしてほしくねえんだよ」
 「いやじゃボケ」
 深呼吸で意を決したヨンイルが頑固に首を振る。強情な顔つき。
 即答したヨンイルを醒めた目で見下ろし、銃口を下ろす五十嵐。
 ヨンイルの胸板をつ、と滑らせ、へそを縦断した銃口をズボンの中に突っ込む。ズボンの股間に突っ込まれた銃口にヨンイルがぎょっとする。恐怖と驚愕に強張った顔。床に後ろ手ついてのけぞったヨンイルに跨るように前傾姿勢をとり、重ねて脅迫する。
 「言えよ。俺はもう二度と手塚治虫を読みません、語りませんて」
 銃の引き金に指をかけたまま、いつでも発砲できるぞと脅しをかけ、萎縮した股間をつつく。
 もし僕がヨンイルならおしっこちびるの確実。実際、壁にべったり背中付けて傍観してるだけでペニスが縮み上がった。 
 ヨンイルが首肯すればすべてはまるくおさまる。
 五十嵐は正気になって銃をしまうかもしれない、元通り話のわかる看守になって安田に銃を返しにいくかもしれない。
 ヨンイルなにもたもたしてんのさ、さっさと頷いちゃえよ!
 ヨンイルが「はい」って言えばすべてがまるくおさまるんだ、もう二度と手塚治虫読みませんて、漫画と縁切りますって誓えばそれで五十嵐は納得、一件落着の大団円なんだ!
 ああ、イライラする。焦燥で神経が焼ききれそうだ。
 腹を抱えて通路にうずくまったヨンイルは僕がこれまで見たこともない真剣な顔で葛藤してる、深刻な様子で苦悩してる。
 ちょっと待て、これってそんな悩むような二者択一?手塚をとるかイチモツをとるか……イチモツで即決だろ? 
 「………五十嵐。間抜けな話やけど、俺、あんたに恨まれてる理由今の今までこれっぽっちも知らんかった。俺があんたの娘殺した爆弾つくったなんて、想像もせんかった」

 ゆっくりと顔を上げ、ヨンイルが独白。
 未練と葛藤が綯い交ぜとなった目で五十嵐を凝視。

 「こっちきてから五年、俺もヤキ回ってもうた。自分がむかしやったことすっかり忘れて、漫画三昧の極楽ライフ送っとった。あんたが俺を殺したいほど憎むのは無理ない。俺、あんたに階段から突き落とされても自分に非があるなんて気付きもせんかった。あんたに恨まれる心当たりないなんて、神経逆撫ですること平気で言うとった。ホンマ、阿呆や。たった五年間ですっかり腑抜けになってもうた。あんたにはちゃんと俺を憎む理由あったんやな」
 ヨンイルが深く息を吸い、体ごと五十嵐に向き直る。
 だれになにを言われても信念を譲らない目。 
 「せやけど、それだけは断る。俺は手塚が大好きや、じっちゃんの次に手塚尊敬しとる!いくらあんたの頼みでもこのさき手塚を読めなくなるなんてお断りじゃ、手塚は俺のすべて、爆弾造りしか知らんかった俺が東京プリズンで見つけた生き甲斐なんじゃ!!俺には手塚のおらん人生なんか考えられん、このさき漫画読めなくなるくらいなら今ここでイチモツ吹っ飛ばされたほうがマシじゃ!!」

 道化のおおばかろう。
 手塚とイチモツはかりにかけて手塚選びやがった。

 威勢よくこぶしを振り上げ、片膝立ちで啖呵を切るヨンイルに開いた口が塞がらない。
 だって、そんな……アホな。
 五十嵐もぽかんとしてる。絶句。まさかズボンの股間に銃口突っ込まれて危機一髪、もとい危機イチモツの状態で啖呵を切り返すやつがいるとは夢にも思わなかったんだろう……ああ、くだらないこと言っちゃった。危機イチモツって最低のギャグだ。死んだほうがマシだ僕……
 いや、今のは言葉の綾。本当は死にたくない。殺さないでお願い。
 「お前、正気かよ。命と漫画はかりにかけて漫画選ぶのか?お前にとって漫画って、そんなに大事なもんなのかよ。人生に欠かせねえほど大事なもんなのかよ。他にもなにかあるだろうよ、人生に欠かせないもんが!?」
 五十嵐の手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 僕の位置と距離からでも五十嵐の顔が真っ赤に充血してるのがわかった。
 五十嵐は激怒していた。
 もう無理して平静を装う必要も殺意の衝動を抑制する余裕もなかった。
 ヨンイルへの憎しみを剥き出した醜悪な形相で五十嵐が叫べば、ヨンイルが凄まじい剣幕で反論する。
 「今の俺に漫画より大事なもんなんかあるかボケ、今の俺には漫画がすべてなんじゃ!!五年前まで俺の人生に欠かせんもんは爆弾やった、物心ついたときからじっちゃんの背中見て、じっちゃんに憧れて見よう見真似で爆弾造ってきたんや!じっちゃんみたいになりとうて、じっちゃんが造ったみたいな爆弾造りとうて、毎日毎日寝る間も惜しんで手ぇきなくさくなるまで火薬と銅線いじってきたんじゃ!!」
 衝動的に立ち上がったヨンイルが五十嵐と対峙、発達した犬歯を剥く。
 「せやけどじっちゃんはもうおらん、俺が爆弾造りにこだわる理由ものうなった、俺にはなんもなくなった!そん時見つけたんが漫画なんや、そんな時出会ったんが漫画の神様手塚治虫や!悪いか人殺しが漫画読んで漫画読んで声あげて笑ったら、しゃあないやんオモロイんやもん、最っ高にオモロイんやもん!俺がど腐れ外道の人殺しでも好きなもんは好きなんじゃ、読みたいもんは読みたいんじゃ!!」
 ヨンイルの剣幕に気圧された五十嵐が顔強張らせてあとじさり、ゴーグルから足がどく。その隙を逃さずスライディング、腹這いに床を滑ってゴーグルをひったくる。
 埃まみれでゴーグルを取り返したヨンイルが会心の笑顔になる。 
 犬歯があどけない笑顔。
 「!!!!くそがっ、」
 その笑顔で、なにかが切れた。
 怒髪天を衝く咆哮をあげた五十嵐が両手でグリップを支え、ヨンイルの眉間に銃口を定める。危ない!今度こそ五十嵐は本気だ、本気だヨンイルを殺すつもりだ!
 ゴーグルを腹に庇ったヨンイルがぎょっと目を剥く。
 駄目だ、間に合わない!五十嵐が引き金にかけた指を手前に……
 乾いた銃声が通路に響き渡る。
 「リョウさんっ!」
 「え?」
 懐かしいビバリーの声。ママより誰より今僕がいちばん会いたかった人の声。一瞬幻聴かと疑った。だってあんまりタイミングいいもんだから。
 耳から手をどかして顔を上げた僕の視線の先、五十嵐の腰にしがみついているのは……ビバリー。嘘、ええっ、なんで?!自分が見てる光景がにわかに信じられず試しに頬をつねってみたらちゃんと痛かった。夢じゃない。ビバリーがいる。どっから湧いて出たのか……いや、目を閉じる前にこっちに駆けてくる足音を聞いた。たどたどしく僕を呼ぶ声も……
 ひょっとして、助けにきてくれたの?絶交中の僕を?
 ビバリー、ほんといい奴。
 「なにボ―ッとしてるんすか、こいつ取り押さえるの手伝ってください!」
 前言撤回。
 「ちょ、それが腰抜かしてへたりこんでる赤毛の美少年に言うせりふ!?大丈夫っスかとかどこも怪我ないっスかとかさんざんおっかない思いさせてごめんやっぱり僕が悪かったっスとか他に、」
 ビバリーの顔見た途端、安堵で泣きたくなった。
 けど、再会の感動で泣きべそかくのも恥ずかしいから、壁に肘をついて体を起こしがてら毒舌を返す。五十嵐の腰にひしとしがみついたビバリーはいいように振りまわされて酔いはじめていた。たしかに銃声が聞こえた、銃口が硝煙を噴いてるし五十嵐が発砲したのは間違いないがヨンイルはぴんぴんしてる。
 弾はどこいったとあたりを見まわせば、天井に穴が開いて弾丸がめりこんでいた。間一髪、ビバリーが腰にしがみついた衝撃で銃口がブレたんだろう。
 よし。
 「手伝うよ、ビバリー!」
 生渇きのズボンを気にしてる暇はない。
 五十嵐の手から銃を取り上げなきゃビバリーが危ない。助走して五十嵐にとびかかり、両手で腕にぶらさがる。さっきまで腰が抜けてへたりこんでたのが嘘みたいに恐怖心は消し飛んだ。ビバリーの顔を一目途端に体の底から元気が湧いてきて、ビバリーが頑張ってるんだから僕も頑張らなきゃ相棒失格だと対抗心をかきたてられ、無我夢中で五十嵐にしがみつく。
 「どけ、リョウ!俺が殺したいのはヨンイルだけだ、巻き添えになりたくなきゃ引っ込んでろっ」
 「やだよ!ラッシーに銃預けたの僕じゃん、ラッシーがひと殺したら僕とビバリーが大目玉くらっちゃう!」
 五十嵐が舌打ち、僕とビバリーを振り落とそうと滅茶苦茶に暴れだす。腰を捻り、腕を振り、奇声を発して暴れる五十嵐に必死にしがみつく。
 銃床が額を強打、出血再開。
 かち割れた額から飛んだ血がビバリーの顔にかかる。
 「リョウさん、大丈夫っスか!?」
 「最初にそれ言ってよ!」
 あはは、変なの。こんな状況だってのに、おかしいや。脇腹くすぐられてるみたいに後から後から笑いがこみあげてくるのはどうして、頬が緩むのはどうして?ビバリーが心配してくれるのが嬉しい、僕に声かけてくれるのが嬉しい。無視せず話しかけてくれる、たったそれだけのことが凄く嬉しい。 
 ビバリーがそばにいるだけで体の底から元気が湧いてくる。
 「邪魔すんじゃねえ!!」
 怒り狂った五十嵐が大きく腕を振りかぶる。視界が反転、無重力の浮揚感。背中に衝撃。ああ、やっぱ二人がかりでも駄目か。ちびでやせっぽっちの僕とビバリーが本気をだした大人にかなうわけないのだ。床に転落した僕は、肘をついて上体を起こし、眩暈がおさまるのを待ち……
 「ああああああああっああああああっいいいいいっがらしいいいっ!!」
 招かれざる闖入者。
 「!!」
 ビバリーと同時に振り向く。
 通路の奥、今しも角を曲がって姿を現したのは、全身糞尿にまみれて凄まじい悪臭を放つ……タジマ。タジマ?え、ちょっと待って、なんでタジマがここにいるの?独居房に閉じ込められてるはずじゃあ……
 「だれかが独居房の鍵開けて逃がしたんスよ!」
 「だれだよ、人騒がせな!」
 「俺だよ」
 ビバリーと同時に五十嵐を見上げる。
 正面に顔を据え、卑屈な半笑いでタジマを迎える五十嵐。どんな迷走経路を辿ったんだか、副所長指揮下の看守の追跡を巻いて地下停留場へと繋がる通路へ姿を現したタジマが、酩酊した足取りでこっちにやってくる。
 「……なんでそんなこと?」
 「時間稼ぎだよ」
 にべもなく五十嵐が述べる。
 「タジマを独居房からだせば看守の注意は全員そっちにいく。タジマが暴れてくれればくれるほどこっちにとっちゃ好都合だ。だからタジマを逃がした。俺は動物園の餌やり係で鍵の管理を任されてる、その気になりゃいつでもタジマを逃がすことができたんだ」
 たった、それだけのために。
 時間稼ぎが目的で、タジマを檻からだしたっていうの?
 ぞっとする。五十嵐は正気じゃない。ヨンイルへの憎しみが暴走した挙句、破局にむかってまっしぐらに突き進んでる。
 タジマも正気じゃない。最初は普通の歩幅で、徐徐に大股になり、10メートル付近から全速力で駆け出す。
 タジマに銃口を向ける五十嵐。
 威嚇。
 射殺するつもりはない、銃口を向ければさすがにタジマも大人しくなるだろうと……
 「止まれタジマ」
 だが、タジマは止まらない。五十嵐の制止を無視して全速力でこちらに……
 「止まれ!!」
 五十嵐の顔に焦りが浮かぶ。タジマは止まらない。地鳴りめいた足音を轟かせ、肥満した腹を弾ませ、五十嵐を抱擁するかのように両腕を広げてこちらに駆け寄ってくる。
 白目を剥いた顔、弛緩した口元……
 「危ないっ!!」
 ビバリーが僕の上に覆い被さる。ビバリーの懐に抱かれて続けざまに横転、壁に衝突した脳裏で火花が爆ぜる。ビバリーの腕の中から僕は見た、タジマと五十嵐が衝突する瞬間を。タジマが五十嵐をはねとばす瞬間を。両腕広げて五十嵐押し倒したタジマが力づくで銃をひったくり、ぎらぎら輝く目で銃口を覗きこむ。
 「ごろじてやる」
 タジマの目は五十嵐を通り越してどこかを、だれかを見ていた。
 「あの若造、殺してやる。俺様に恥かかせたこと後悔させてやる。囚人どもが間抜けヅラ並べて見てる前で口に銃突っ込んで脳漿ぶちまけてやる、俺様を独居房にぶちこんでクサイ飯食わせたことたっぷり後悔させてやらあ!!」
 床に転倒した五十嵐が起きあがるのを待たずタジマが走り出す。片手に銃を持ち、地下停留場へと通じる出入り口めざして。僕にはわかった。タジマがだれを殺そうとしてるか、五十嵐から奪った銃でだれに復讐するか。
 安田。
 タジマに独居房行きを命じた東京プリズン副所長。
 「まずいよビバリーこのままじゃ、今のタジマが安田ひとり殺すだけでおさまるはずない、地下停留場で手当たり次第に発砲してまわりの連中巻きこむに決まってる!」 
 「わかってますよそんなこと、ああもう次から次へと!?」
 ビバリーが僕の手を掴んで助け起こし、きっぱり断言。
 「行きましょう、リョウさん。地下停留場が血の海になる前にタジマ食いとめなきゃっス!」
 「ちょっとビバリー、いつからそんな格好よくなったの?惚れそうだよ」
 ビバリーの手をしっかり握り返し、皮肉げに笑う。銃床で殴られた額はまだ疼くけど、かまやしない。
 迷子にならないようビバリーが手を握ってくれるなら。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050728044159 | 編集

 「勝者レイジ!!」
 審判役の看守がゴングを打ち鳴らし、レイジの腕をとり高く掲げる。
 最後までリングに立っていたのは東棟の王様レイジだった。
 レイジは最高に最強だった、俺が知ってるレイジだった。余裕綽々鼻歌まじりでとはいかなかったが、背中を焼かれても目を刺されてもサーシャに実力で劣ることなく劣勢ひっくりかえす逆転劇を演じてみせた。
 瞼の裏側には勝利の瞬間が焼き付いてる。
 流れるような一連の動作で襟足で束ねた髪を切断、サーシャの掌中に一束の毛髪だけ残して間合いから飛び退いたレイジの手に銀光閃く。
 サーシャの首筋にひやりと吸いつく銀の刃、切り裂かれる皮膚、一筋流れる血。
 そして皇帝は、王に膝を屈し降参を宣言した。
 だれの目にもあきらかなサーシャの完敗。サーシャは命惜しさに敗北を認めてレイジの足元にくずおれた。
 晒し者。
 コンクリ床に手をつき首をうなだれたサーシャには既に興味が失せたようにナイフを引っ込め、気持ち良さそうに目を細め、惜しみない喝采を浴びる王。
 「王様万歳!」
 「王様万歳!」
 「くそったれレイジがやりやがった、サーシャくだして東京プリズンのトップに立ちやがった!」
 「それでこそ俺たちの王様だ、東京プリズン最強を名乗る東棟の王様だ!」
 「調子いいの」
 リング周辺を占拠した東棟の囚人どもがてのひら返したように労いの言葉をかけるのを見まわし、レイジがまんざらでもなさげに苦笑。
 金網によじのぼったガキどもが口の横に手をあて快哉を叫び、できあがった酔っ払いみたいに肩を組んだガキどもがご機嫌に唄いだす。
 胸が熱くなる。瞼がじんわり熱をおびて目に涙が浮かぶ。
 くそ、人前で泣くなよ恥ずかしい。手の甲で乱暴に目をこすり、涙を拭く。 マジでレイジが死んじまうかと思った、もう二度と帰ってこないんじゃないかと不安になって途中何度も心臓が止まりそうになった。レイジが生きててよかった、とても五体満足とはいえない姿だけど元気に笑っててよかった。
 さあ、帰ってこいレイジ。
 お疲れさんて言ってやるから、おかえりなさいて言ってやるから。
 東棟の面目躍如で盛大に出迎えてやるから。
 金網越しにレイジと目が合う。俺を見つけてレイジが微笑む。
 やること全部やり終えてさっぱりした笑顔。悔いを残すことなくやること全部やり終えた……
 え?
 笑顔の残像も儚く、ぐらりとレイジの体が傾ぐ。
 あっと言うまもなかった。レイジの重心がぐらつき、均衡を失った体が二三歩よろめき、うつ伏せに転倒……鈍い音。振動。濛々と舞いあがる埃。
 「!?レイジっ、」
 力尽き倒れたレイジ。裸の背中は無残に焼け爛れて赤黒い肉を晒してる。まともな神経の持ち主なら正視に耐えない火傷のあと。
背中だけじゃない。
 血糊がべったり付着した前髪でふさがれた左目も、傷口を無理矢理こじ開けられた片腕も……
 大怪我だ。今まで二本足で立ってられたのが不思議なくらいの。
 「気絶したか」
 安堵の表情をかき消して鍵屋崎が呟く。リング中央でうつ伏せに倒れたレイジのもとへ担架を持った医療班が駆け付ける。気絶したのはレイジだけじゃない、ほぼ同時にサーシャも昏倒していた。無理もない、レイジほどじゃないとはいえ片目から大量出血してるのだ。
 担架に乗せられ運び出されたレイジのもとへ、一目散に走りだす。
 「おい大丈夫かよ、ちゃんと息してるのかよ!?」
 人ごみをかきわけおしのけ、邪魔なやつにはすね蹴りをくれ、レイジの安否を確かめたい一心で担架へいそぐ。リングから運び出された担架に仰向けに寝かされたレイジの顔が目にとびこみ、胸がぎゅっと絞め付けられる。
 苦しげな寝顔だ。
 悪夢にうなされてるみたいに脂汗をびっしょりかいてるのに顔色はひどく青ざめていた。
 ぞっとした。
 間近で見たレイジはそりゃ酷いありさまだった。
 血と汗でぐっしょり濡れそぼった前髪が左目に貼りついてるが、斜めに抉れた傷痕は惨たらしく、いくら俺が鈍感でもレイジが危険な状態だと一発でわかって。
 「目え開けろよ」
 嘘だ、こんなの。
 声が震える。足が竦む。
 約束したじゃんか。抱かれる俺の顔見るまで目をなくすわけにいかないって笑ってたんじゃんか。
 嘘だ。レイジの左目がもう開かないなんて嘘だ、どうか嘘だと言ってくれ。 担架の傍らに腰が抜けたようにへたりこみ、おそるおそるレイジの顔を覗きこむ。
 「また見えるようになるんだよな?」
 だれにともなく、一縷の希望に縋るように聞く。
 俺の右隣の鍵屋崎が深刻に黙りこむ。左隣のサムライが沈痛に顔を伏せる。なんだってそんなシケた顔するんだよ、しんきくさいツラするんだよ。担架の傍らに片膝ついて身をのりだし、体温が低下した手をとり温める。
 冷たい手。悪い予感。胸騒ぎ。
 「また見えるようになるんだよな。左目、ちゃんと治るんだよな。傷口縫えば元通りちゃんと物見えるようになるんだよな、瞼開くようになるんだよな、人の顔見分けられるようになるんだよな?なあ、なにか言えよ、どうして黙ってるんだよ。なんとか言ってくれよ鍵屋崎、お前医学書読んでいろいろ知ってるんだろ、俺よか何倍も何十倍も物知りなんだろ?いつも威張ってるじゃねえか、自分は天才だって、不可能を可能にする天才だって。じゃあ不可能を可能する天才の力でレイジの目を治してくれよ、また見えるようにしてくれよ。簡単だろ、お前なら」
 「ロン」
 鍵屋崎を庇うように木刀に手をかけてサムライが歩みでる。
 わかってる、無茶を言ってることは先刻承知だ。
 世の中にはだれがどんだけ頑張ってもどうにもならないことがある、諦めて受け容れるしかない現実がある。
 でも。
 胸裏で激情が沸騰する。喉元に悪態が殺到する。くそ、くそ、くそ……レイジの手を必死に擦る。脳裏に過ぎる凄惨な光景、レイジとサーシャが目を刺し違えた瞬間の映像。あの時俺は金網越しにレイジの左目が切り裂かれる瞬間を目撃して、レイジの顔面が鮮血に染まる瞬間を目撃して、それでも金網飛び越えて助けにいく踏んぎりがつかなくて、結局またレイジを見殺しにして。
 「治るんだろ。また見えるようになるんだろ」
 胸が痛い。痛くて苦しくて呼吸ができない。
 担架の傍らに膝をつき、意識不明のレイジの手をとり、執拗に擦り続ける俺に憐憫の眼差しを投げかけるサムライと鍵屋崎。担架を担いだ治療班も、わざわざ首を捻って俺を見下ろしてる。同情の眼差し。
 レイジの手に両掌を被せて額に導き、頭をたれる。
 額の火照りがレイジに伝わるようにと目を閉じた俺の姿は、手を介して生気を注ぎこむ儀式めいて連中の目に映ったことだろう。
 そばには医者がいた。東京プリズンの医務室でしじゅう居眠りしてるヤブ医者だ。老眼鏡を傾げ、気遣わしげにレイジを覗きこみ、血糊で塞がれた左目を調べる。
 「………」
 重たい沈黙が肩にのしかかる。
 医者は何も言わない。細心の手つきで傷の周辺部に触れて怪我の程度を確かめている。サムライと呑気に将棋やってた時とは人が違ったみたく厳しい顔。ひどく苦労して生唾を飲み込み、医師の診断を待つ。
 鍵屋崎とサムライも不安げな面持ちで医者を見つめていたが、二人の目の底には最悪の事態を予期した諦念がたゆたっていた。
 俺たちが見つめるまえで、レイジの顎に手を添えた医者が無念そうにかぶりを振る。
 「残念だが、手遅れじゃ」
 手遅れ?
 レイジの手を握ったまま、ぼんやりと医者を見上げる。周囲の喧騒がにわかに遠ざかり雑音が消滅する。担架に乗せられたレイジは呼吸してるかどうかも不確かな状態で意識の有無も判然としない。
 「手遅れ、って」
 「傷が深い。早急に処置したところで左目の失明は免れない。それに彼は大量の血液を失っている、はやく輸血しなければ命に……」
 「手遅れって、ふざけんなよ!?」
 やり場のない怒りに駆られて怒鳴る。
 手遅れ。それはつまりこの先一生レイジの目が見えなくなるってことで、顔に傷痕が残っちまうってことで……
 失明。頭が混乱する。

 『俺としたことが肝心なこと忘れてたぜ、そうだよ、そうだった、俺まだロンを抱いてないじゃん』
 そうだよ。抱いてないじゃん。
 『ここで目え抉られたらロンが感じてるとこ一生見れないじゃん、やばい、うっかりしてた』
 うっかりしすぎだぜ、王様。

 レイジの左目はもう一生見えない。もう一生開かない。
 硝子みたいに綺麗な瞳だったのに。俺の大好きな目だったのに。
 医師が下した非情な診断結果に衝撃冷めやらぬ俺は、放心状態でその場にうずくまり、レイジの前髪をすくいとる。
 小刻みに震える手で前髪をどける。
 外気にふれた左目には無残な傷痕ができていた。担架に寝かされたレイジを間近で覗きこみ、憔悴の色が滲んだ寝顔にほんの数時間前の面影を重ねようとするが、うまくいかない。
 ほんの数時間前まで俺の隣で元気に笑ってたレイジの面影が急激に薄れていって、掴み所なく漠然としたものへと変わってく。
 一年と半年かけて積み重ねた記憶が指をすりぬけていく。
 ほんの数時間前のことなのに、ほんの数時間前までレイジの目は両方ともちゃんと見えてたのに。
 両目ともちゃんと瞼を開けてたのに、両方の目に俺を映してたのに、俺はもう両目を開いたレイジの顔が明確に思い描けなくなってることに気付いて愕然とする。
 そんな馬鹿な。信じたくない。
 俺が一年と半年見慣れたレイジの輪郭がぼやけて違うものへとすりかわる。
 勝利の代償はあまりに大きすぎた、レイジは身体の一部を犠牲にして勝利を掴んだのだ。レイジの左目はもう二度と見えない、勝利の代償に永遠に光を失ってしまった。
 「医者なら治せよ」
 ひどく胸が疼いた。折れた肋骨のせいじゃない、俺自身の不甲斐なさのせいだ。なんで助けてやれなかった、レイジが目を切り裂かれる瞬間を指くわえて見てた?なんで体を張って止めてやれなかった、相棒のくせに。
 塩辛い涙と鼻水が一緒くたに鼻腔の奥をぬらす。
 泣いてたまるか。
 大勢が見てるのに、野次馬どもに取り囲まれてるのに、泣いてたまるか。
 奥歯を噛みしばり涙を嚥下、白衣の胸ぐら掴んで力任せに医者を揺さぶる。
 「あんた本当は名医なんだろ、なら治せよ、レイジの目がまた見えるようにしてくれよ!頼むこのとおりだ、一生のお願いだ!」
 「無茶だよ」
 「あんたこいつの目え見たことないのかよ、すっげえ綺麗な瞳えしてるんだよ、こんな試合で失っちまうにはもったいないくらいさ!じっと見てる吸いこまれそうで、おっかないくらい澄んだ目で、なにもかもすべてお見通しってかんじで……ああくそっ、なんでだよ、なんで肝心なときにうまい言葉がでてこないんだよ!?くそ……本当に、おっかないくらい綺麗な瞳なんだよ。最初はこいつの目が嫌いだった、俺が隠してる本音とか全部見通されてるみたいで落ち着かなくて」
 そうだ、最初の頃はレイジの目が嫌いだった。
 レイジの目にじっと見つめられるのが怖かった。レイジに怯えてることまで見ぬかれてるみたいで時々たまらなくなった。
 でも。いつからか俺は、レイジの目に映る俺の表情が柔らかくなってることに気付いて。
 俺を宿す目の色が日増しに柔らかくなってることに気付いて。
 レイジの目に見入られて、レイジの瞳に魅入られて。
 「今は大好きなんだよ、レイジの目も笑顔も俺になくちゃならない大事な物なんだよ!だから治せ、気合いと根性で治せ、さっさと手術して傷口縫合して……できるだろ、やれるだろ?ヤブ医者の汚名返上で本領発揮しやがれ耄碌ジジィ、医者なら手遅れなんて言い訳せずとことん悪足掻きして患者救えよ!」
 「ロン、いい加減にしろ」
 すぐ耳元で鍵屋崎が囁き、俺を羽交い絞めにして医者から引きはなす。
 それでもまだ気はおさまらない。白衣の胸を掴んで激しく揺さぶりをかけた医者が咳き込むのを睨み、滅茶苦茶に手足を振りまわす。
 「畜生、ブラックジャックならできたのに!ブラックジャックはどんな難しい手術だって成功させたのに、絶対助からないって言われてる患者だって救ったのに……怪我の具合見ただけで匙投げてんじゃねえよヤブ医者、助けてくれよ、助けてやってくれよ!レイジの目がもうだめなら俺の目くれてやるから、左右色違いの目になっちまうけどいいよな、見えなくなるよりマシ……」

 ―「ブラックジャックにもできないことはあるんだ!!」―

 鍵屋崎に一喝され、体の力が抜けた。
 耳のすぐそばで叫ばれたせいで鼓膜が麻痺した。
 緩慢な動作で肩越しに振り向けば、俺を羽交い絞めにした鍵屋崎が、片方割れたレンズ越しに真剣な眼差しをむけてくる。
 心の一部を毟られるかのように悲痛な光を宿した双眸。
 「……現実を受け容れろ、ロン。ブラックジャックにも不可能はある。手術を失敗したことだってある、力及ばず死なせた患者もいる。レイジは片目を失ったが命をとりとめた。それだけで十分じゃないか」
 「……十分だと?」
 「ああ」
 衝動的にこぶしを振り上げるが、途中で動きをとめる。俺を羽交い絞めにした腕から鍵屋崎の震えが伝わってきたから。下唇を噛んで顔を伏せた鍵屋崎が、努めてそっけなく平板な口調を意識して俺の説得を試みる。
 「レイジは助かった。僕たちのもとへ帰ってきた。片目を失っても背中を焼かれても約束どおり戻ってきた。誉めてやれ、ロン。よくやったと労ってやれ。ここは怒る場面じゃない、みっともなく取り乱す場面じゃない。きみがまず真っ先にしなければならないことは幼稚なやつあたりか、医者に無理難題をふっかけて痴呆の老人を困らすことか?」
 鍵屋崎が拘束をとき、俺を解放する。ふらつく足取りで担架に接近、その場にへたりこむ。担架をぐるりと取り囲んだ野次馬が興味津々俺とレイジとを見比べる。周囲の野次馬が不躾に好奇の眼差しを浴びせる中、担架の傍らに膝をつき、レイジの額にてのひらを翳す。
 「…………」
 鍵屋崎の言うとおり、レイジは約束を守った。約束通り帰ってきた。片腕と目と背中を怪我してぼろぼろになりながらもこうして帰ってきた。
 額にそっと手をおく。てのひらを被せた風圧で睫毛が震え、まどろみから浮上した右瞼が動く。
 試合を終えたレイジに最初にかけてやる言葉は決めていた。
 ゆっくり深呼吸し、しっとり汗ばんだ額を優しく撫でる。
 レイジがいつ目を開けてもいいようにひどく苦労して笑顔をつくり、そして……
 
 『歓迎回来』
 おかえり。

 長かった。
 憑き物が落ちたように肩の力がぬけた。レイジは相変わらず目を閉じたままだったが、先ほどと比べてだいぶ呼吸がラクになり、口元には笑みが覗いていた。
 安らかな寝顔だった。
 「まさかくたばっちまったんじゃねえだろな、レイジ!!」
 野次馬をおしのけ蹴散らし、怒涛の足音をたて憤然と駆けて来たのは凱。ちょうど立ちあがりかけた俺を突き飛ばして担架の脇に屈みこみ、勝手に勘違いして悲鳴をあげる。
 「……なんてこった。くそ、しっかりしろレイジ、俺がお前倒して東棟のトップにのしあがるまでくたばるんじゃねえぞ!勝ち逃げなんて卑怯な真似許さねえぞ、聞いてんのか王様!?」
 凱が怒声を浴びてもレイジの瞼はぴくりとも動かず、傍目には死んだようにも見える。
 「俺と決着つけるまで死なせてたまるかよ……東棟最強の座はこの俺様のもんだ、てめえをトップからひきずりおろすまでは懲役満了しても娑婆にでねえって決めてんのに……俺を一生東京プリズンに縛り付ける気かよ、東京プリズンの地縛霊にする気かよ。冗談じゃねえ、そんなことになったら俺に会うのたのしみにしてる可愛い可愛い娘と永遠にはなればなれになっちまうじゃんか!?」
 動揺した凱がレイジの肩に手をかけ身をのりだし、この場に居合わせた全員の度肝をぬく行動にでる。 
 
 凱が、レイジの唇を吸う。

 「………は?」
 大きく息を吸って胸郭を膨らませた凱が、再びレイジの肩に手をかけ、口移しで息を吹き込もうとする。ああそうか人工呼吸ねなるほど……なるほどじゃねえよ!?
 「凱てめえ俺に断りもなく何やってんだ、とっととレイジから離れろ!!」
 頭の血管が三本くらいまとめてぶち切れた。今まさに二回目の人工呼吸をおこなおうとしてる凱の背中に体当たり、衝撃ではねとばす。両腕広げてレイジを背中に庇う俺の足元、むくりと上体を起こした凱が獰猛に歯軋り。
 「どけよ半々、今こいつに死なれたら困るんだよ!レイジにはいやでも生き返ってもらわなきゃ俺は一生東棟の三位どまり、東京プリズン制覇は無理でも東棟制覇の野望は必ずなしとげるって娘に誓った手前示しがつかねえじゃんか!?」
 「んな傍迷惑なこと誓われる娘も可哀想だ!だいたい人工呼吸っておま、発想飛躍しすぎなんだよ心臓に悪いもん見せんじゃねえよ、まわりよーく見まわしてみろ野次馬が吐いてるだろうが!?」
 「じゃあお前がやれよ、子供騙しのキスで眠り姫が目覚めるたあ到底思えねえけどな!肺活量は俺のが数段上だ、無理矢理にでも空気吹きこんでやりゃほら……」
 凱が顎をしゃくった方角をつられて見れば、担架に肘をついて上体を起こしたレイジが、至近距離に迫った凱の唇にぎょっと仰け反り……
 「……マジ、それだけは勘弁」  
 それだけ言って、今度こそ本当に昏倒した。
 「………なんて醜い光景だ。餓鬼の宴、愚の骨頂だ」
 「同感だ」
 レイジの唇を争い掴み合いの喧嘩をする俺と凱を見比べ、嫌悪に眉をひそめる鍵屋崎の横でサムライが頷く。ああくそ、こんなことやってる場合じゃねえ!レイジの怪我の具合が心配だ、手当て終わるまでついててやらなきゃ…
 「!?痛でっ、この半々!」
 「レイジの唇の借りだ!」
 凱のすねをおもいきり蹴り上げて宙に襟首吊られた姿勢から床に着地、担架を追って走りだそうとした俺の背後で鍵屋崎が疑念を呈する。
 「そういえば、先ほどの銃声は……」
 銃声。
 そうだ、すっかり忘れてた。鍵屋崎に知らせなきゃいけないことがあったんだ。医務室のベッドの上、パソコンに映しだされた光景……銃をもった五十嵐。
 「五十嵐」
 鍵屋崎とサムライがこっちを向く。慌ててあたりを見まわすが、地下停留場のどこにも五十嵐の姿は見当たらない。ばかりか、看守の姿自体が見当たらない。変だ、どうして看守がこんなに少ないんだ?さっきの銃声といい俺たちの目の届かないところでなにかとんでもないことが起こってるんじゃ……
 「なにか心当たりがあるのか?」
 「鍵屋崎。さっきの銃声、たぶん五十嵐だ。五十嵐が銃を撃ったんだよ」
 鍵屋崎が驚愕する。サムライが目を細める。一気に表情を険しくした二人を窺いつつ、たどたどしく説明する。
 「ビバリーが医務室に持ち込んだパソコンに偶然映ったんだ。ちょうどお前とヨンイルの試合のときだ、隠しカメラしかけた金網が倒れて、五十嵐が銃に手をかけた瞬間が映って……お前たしか言ってたよな、安田の銃が盗まれたとかなんとか。俺も詳しいことはよくわかんねえんだけど、とにかく今銃を持ってるのは五十嵐で間違いない。ええと、たしか最初はビバリーが拾ったんだ。で、シャツに隠して房に持ちかえったものの後始末に困って、話のわかる五十嵐から安田に返してもらおうと……鍵屋崎大丈夫か?真っ青だぜ」
 「致命的欠陥のある君の説明を補足するとこうなる。最初、ビバリーが地下停留場で銃を拾ったのち五十嵐に相談して返却を頼んだ。しかしそれだと時間経過が矛盾する、安田が銃を紛失したのは三週間以上前、いかにビバリーが銃を隠蔽していた期間が長くとも返却に三週間もかかるはずが……」
 「故意に隠していたのだ」
 眼鏡のブリッジにふれて考えをまとめる鍵屋崎にサムライが助言する。
 「そうとしか考えられん。五十嵐はあえて安田に銃を渡さず持ち歩いていた。しかし、何の為に……」
 「復讐」
 「え?」
 サムライの語尾を奪い、鍵屋崎が断言。はじかれたように鍵屋崎を見れば、本人は偏頭痛をこらえるかのようにこめかみに手をあて、意味不明なうわ言を呟いていた。
 情緒不安定に思い詰めた目を虚空に凝らして。
 「そんな、まさか。そんなことあるはずがない、あっていいはずがない。看守が私怨で囚人に復讐、副所長の銃で囚人を殺害?そんなことをすれば五十嵐もただでは済まない、間違いなく処分をうけるはず……吊られた男。努力。忍耐。困難。障害。奉仕。自己犠牲と引き換えた成果。救済。五十嵐にとっての?復讐が救済となりうるか?復讐は自らの首を絞める行為だというのに……」 
 「おい、どうしたんだよ天才。お前いつも以上に言ってることおかしいぞ」
 「五十嵐はそこまで彼を憎んでいるのか、自己犠牲の上に成り立つ復讐を望んでいるのか!?」
 聞いちゃいない。
 話にさっぱりついてけない俺を無視して鍵屋崎があたりを見まわす。視線を彼方にとばしてだれかを捜してるみたいだが一向に見つからないらしく、もはや平常心を完全に失った鍵屋崎が怒涛の流れに逆らい地下停留場の人ごみをかきわける。
 「ヨンイルはどこにいる、何故五十嵐とヨンイルの姿が一緒に消えてる!?五十嵐はまさか……くそ、手遅れになるまえに止めなければ。僕にはもう既に最悪の想像しかできない!!」

 ―「見つけたあ!!」―
 
 二度と聞きたくない声がした。聞いただけで体が拒絶反応を起こす声。
 地下停留場を埋めた野次馬が不穏にどよめき、人垣が真っ二つに割れる。
 サムライに腕を掴まれた鍵屋崎が頬をぶたれたように顔をあげる。慄然と立ち竦んだ俺と鍵屋崎の視線の先、凄まじい悪臭を撒きちらして一歩、また一歩とこちらに足を運ぶのは……

 俺たちに銃口を向けたタジマだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050727194543 | 編集

 タジマが僕たちに銃口を向けている。
 「……なっ……、」
 絶句する。
 何故タジマがここに?タジマは本来ここにいるはずのない人間だ。
 前回タジマはロンに強姦未遂を働いた現場を安田に目撃されて、無期限の独居房行きという厳重処分を下された。タジマが正式に独居房から出されたという話は聞いてない。もし正式に許可がおりてタジマが独居房を出れば僕ら囚人の耳に届かないはずがない。僕の記憶が正しければ、反省の色が見られないタジマは現在も独居房で謹慎中のはず。
 そのタジマが何故ここに?
 一体全体僕の預かり知らぬところで何が起こっている?
 予測不能の事態が次から次へと起こる。五十嵐が安田の銃を持っていたことといい、五十嵐とヨンイルの姿がほぼ同時に地下停留場から消失したことといい……とてつもなく悪い予感がする。いやな胸騒ぎがする。最悪の事態が別の場所で同時進行してるような漠然とした不安、焦燥感。
 タジマはひどい恰好をしていた。脳天からつま先まで糞尿に汚れきり凄まじい悪臭を放つ姿はまともな神経の持ち主なら到底正視に耐えないものだ。
 タジマは完全に理性を喪失していた、錯乱していた。痴呆じみて弛緩した口元から唾液の泡を噴き、真っ赤に充血した目を爛々と光らせている。
 「見つけたぞ……見つけたあ………こんなところにいやがったのかあ」
 呂律が回らぬ口調でタジマが言い、一歩、また一歩とよろけるように僕らのほうへ歩み寄る。右手に銃を構えたまま、覚束ない足取りで僕らに接近するタジマを遠巻きに眺める囚人の誰一人寄ってこようとしない。
 タジマは悪臭の塊、歩く汚物と成り果てていた。
 独居房から出たその足でシャワーも浴びず地下停留場に乗り込んだらしく、タジマが一歩進むごとに強烈な臭気が漂ってくる。
 「だれかが独居房の鍵開けて、タジマを逃がしたんだよ」
 僕の隣、恐怖と驚愕に強張った顔でロンが口早に説明する。ロンは食い入るようにタジマを見つめていた。一歩、また一歩……着実に縮まる距離、狭まる間隔。タジマが僕らのもとに辿り着くまでもういくらもない。
 残り5メートル、3メートル……
 鼻腔を刺激する下水の臭気に吐き気をもよおす。嘔吐の衝動を覚えて腹部に手をやった僕の隣、サムライが木刀に手をかけタジマを牽制。
 無意識に僕の肘を掴み、怯えきった顔でロンが言う。
 「けど、わかんねえ。わかんねえことだらけだ。おい鍵屋崎、なんでタジマが銃なんて物騒なもん持ってんだよ?さっきまで銃は五十嵐が持ってた、俺がちゃんとこの目で確認したんだから間違いねえ、マジだよ嘘じゃねえよ、ビバリーにも確認してみろって!?銃は五十嵐が持ってたんだ、それがなんでちょっと目えはなした隙にタジマなんかに渡ってんだよ、独居房から出た直後で頭イカレてるタジマに銃なんか渡したら誰彼構わず手当たり次第に……」
 「落ち着けロン、狼狽するな。冷静に状況を分析しろ。タジマが銃を入手するに至った経緯の明言は避けるが、今重視すべきはタジマが銃を持ってるという看過しがたい事実。他の看守はどこに行った?くそ、肝心な時に姿が見えないなんて使えない連中だ!一目見ればわかる、タジマは完全に正気を失ってる、今のタジマに銃を持たせておくのは危険……確実に死傷者がでる!」
 他の看守はたぶん、独居房から脱走したタジマを捜しに散っているのだろう。地下停留場をざっと見まわしてみたところで周囲に群がっているのは戦々恐々とタジマの動向を窺う囚人ばかり、看守の姿はごく少数。
 地下停留場にわずか残った看守にしてみたところで、タジマが銃を手に乗りこんだ事実に狼狽して無能に立ち尽くすばかり。
 東京プリズンの看守が無能なのは今に始まったことではないが、せめてもう少し彼らに機転が利けば、手分けして安田を呼んでくるなり団結してタジマを取り押さえるなり迅速に行動を起こしたはずだ。
 どうする?
 焦燥で神経が焼ききれそうだ。着実に縮まる距離、強まる悪臭。タジマは完全に理性を喪失していた、地下停留場を埋めた大群衆のどよめきもその耳には届いてない。来るな、こっちに来るな。頼むから来ないでくれ。足が竦む。全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出す。
 狂人に銃口を向けられてる事実より何より僕を戦慄せしめたのは不安定な足取りで接近してくるタジマの存在そのもの。タジマの顔など二度と見たくなかった。タジマの声など二度と聞きたくなかった。
 『お前は酷くされるのが好きなんだろう』
 やめろ。
 『妹のこと考えながらイった気分はどうだよ、変態』
 やめろ。
 『これからも毎日毎晩お前を買いにきて犯してやるお前のケツは俺のもんだお前は俺以外じゃ満足できないカラダに毎日調教して従順に躾て』
 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!
 耳を塞ぎたい。幻聴か現実か区別がつかないタジマの哄笑が頭蓋の裏側に響き渡る。怖い。僕にとってはタジマの存在そのものが恐怖の象徴、東京プリズンにいるかぎり逃れがたい恐怖の象徴なのだ。
 タジマの声を聞いただけで二の腕が鳥肌立ち、金縛りにあったように体が硬直する。やめろ、もう二度と僕に近付くな、売春班の悪夢を喚起させるな!
 タジマからあとじさるように半歩退いた僕の隣、木刀を正眼に構えたサムライが独白。
 「お前は、俺が守る」
 「どけえええええええええっ、用があんのは親殺しだああああああっ!!」
 タジマが猛然と疾駆、突撃。太股を庇うように腰を落として身構えたサムライが鋭い呼気を吐いて木刀を一閃。袈裟懸けに振り下ろされた木刀がタジマの手首を―……
 「!?ぐあっ、」 
 遅かった。木刀が手首を弾くより速くサムライの懐にとびこんだタジマが、銃床で太股を強打。傷が開き、さっき巻いたばかりの新しい包帯にあざやかに血が滲みだす。
 「サムライ!?」
 額にびっしりと玉の汗を浮かべ、太股の激痛に膝を折ったサムライが、それでもタジマを食いとめようと
むなしく片腕をのばす。だが、惜しくも届かない。サムライの手から遠ざかるタジマの背中。
 「直っっ!!」
 絶叫。虚空に翳した手で空気をむしりとるサムライへと僕も腕をのばす。あともう少し、もう少しで届くのに。嫌だ、もうサムライと引き離されるのはいやだ!公約通り100人抜きを達成したのに、これで売春班を潰すことができるのに、サムライのもとに帰れるのに、これですべて終わったはずなのに!
 サムライの手をとろうと精一杯腕をのばす。自由に動かない片足を引きずるようにコンクリ床を這ったサムライが、タジマの肩越しに悲愴な顔を向ける。
 「貢、」
 「下の名前で呼びあう仲たあ羨ましいな」
 衝撃、首に圧迫感。サムライへ駆け寄りかけた僕の背後に回りこみ、首に片腕を回し、徐徐に力を加えてて絞め上げる。こめかみにめりこむ銃口の感触。耳朶にかかる吐息。背後にタジマがいた。僕の肩に顎をのせ、引き金に指をかけ、こめかみに銃口をつきつける。  
 「鍵屋崎っ!」
 「手えだすな。ダチが脳漿ぶちまけるとこ見てえのか」
 僕の首に腕をまわし、後ろ向きに歩みながらロンを恫喝する。銃口を一巡させて周囲の野次馬を威嚇しつつ、リングに上がりこむ。レイジとサーシャが流した血だまりに足跡をつけ、僕をひきずるように中心に立つ。
 獣じみて荒い息遣いがタジマの興奮を伝えてくる。
 リングには僕とタジマ二人きり、金網越しの地下停留場では何千何万の大群衆が息をひそめてこちらに注目してる。異常な緊迫感。タジマは銃を所持してる、へたに刺激すれば銃を乱射して大量の死傷者をだす大惨事を招きかねない。
 冷静に、冷静に対処しなければ。
 唇を舐め、生唾を嚥下。首に巻かれた腕に手をおき、上目遣いにタジマの表情をさぐる。
 「貴様、なんのつもりだ?僕を人質にとって、これから何をしでかす気だ。わざわざ地下停留場に乗りこんでリングの中心で大群衆の視線を独占するとは自己顕示欲旺盛なことだが、目撃者が多数いる前で副所長の銃を囚人の頭につきつけるとは無謀な行為といわざるえない。それだけじゃない、反省の色もなく無断で独居房を脱走した罪は重い。今度は独居房送りでは済まない、免職を覚悟したほうが……っ!?」
 「黙れよ」
 銃口に圧力がかかり、こめかみが削れる。
 「いいかよく聞け鍵屋崎、俺は今怒ってるんだよ、最高に腹が立ってるんだよ……鍵屋崎、お前独居房入ったことあるか?ねえだろうそうだろう、なら教えてやるよ動物園の実態を!
 独居房送りになった囚人は寝返りもうてねえ狭苦しい穴ぐらで後ろ手に手錠かけられて、上のお許しがでるまでてめえの糞尿にまみれて過ごすんだよ!!俺が説明するまでもなくお利口さんならお前なら知ってるだろうが、うさぎはストレス溜まるとてめえの糞食べ出す習性があるんだそうだ。
 独居房の囚人だってそうだ、ああそうだ、俺は自分の糞だって食ったぜ!!スカトロだスカトロ、目え開けようが閉じようが真っ暗なのに変わりなくて、身動きできずに転がされて、恐怖とストレスで発狂しそうになってよお……ははは、なんでこの俺様がそんな目に遭わなきゃなんねえ?最強看守のタジマ様が独居房でスカトロしなきゃなんねえんだよ畜生、これも全部安田の若造のせいだ、あいつが東京プリズンに来てから全部狂いはじめたんだ!!」
 大量の唾をとばしてタジマが喚く。
 極限まで目を剥いて怨念に塗れた呪詛を吐くタジマの剣幕に周囲の囚人が圧倒され、戦々恐々と距離をとる。
 僕の背中に腹を密着させ、腕に力を加えて首を絞め上げる。
 気道が圧迫され、息が苦しくなる。タジマの腕を掻きむしり身悶えて解放を訴えても無駄だ、タジマはまるで聞く耳もたず続ける。
 「馬鹿にすんな、伊達に長く看守やってねえ、東京プリズンのことなら全部まるごとお見通しだ……ああ、そうだよ。五十嵐とヨンイルの関係もお前と安田の関係も、ぜーんぶお見通しだ」
 「僕と安田の関係?」
 思わせぶりな言動に眉をひそめる。五十嵐とヨンイルの関係はともかく、僕と安田の関係とは?僕と安田は副所長と囚人、それ以上でも以下でもない関係のはず。たしかに僕は安田に好感をもってはいるが、ただそれだけの……
 「知ってるんだぜ。お前、安田とできてるんだろう」
 絶句。
 「斬新な発想だな。僕と安田が肉体関係を持ってると疑惑を抱いてるなら妄想甚だしい。僕は囚人で安田は副所長、それ以上でも以下でもない関係だ」
 「嘘つけよ。ただの囚人に接する態度にしちゃあヤケに親切じゃんか、お固いエリートの副所長が数多いる囚人のなかでお前にだけ特別目えかけてるのにはそれ相応のワケがあるに違いねえ。正直に吐いちまえよ、安田とできてるんだろう?安田にケツ貸す見返りに贔屓してもらってんだろ」 
 身に覚えのない疑いをかけられた反発に体が火照る。
 安田は潔癖なエリートだ。どこかのタジマと違って囚人に肉体関係を強要したり肉体関係を見返りに特定の囚人を庇護したりなどしない。
 僕と安田が関係を持ったなど、どこからそんな奇抜な発想が湧いてくるのか理解に苦しむ。
 大きく息を吸い、肺を膨らませる。
 割れた眼鏡越しにタジマを睨みつけ、僕のプライドと安田の名誉に賭けて反論。
 「くだらない妄想だな。腐った性根が透けて見えるゲスな詮索だ。僕と安田が肉体関係を持っているだと?僕が安田に抱かれる見返りに彼の庇護を受けているだと?馬鹿にするなよ、看守風情が。この僕を誰だと思っている、IQ180の天才として誉れ高い鍵屋崎直、プライドの高さでは他に類を見ない自負がある鍵屋崎直だ。いいかよく聞け但馬看守、僕は売春班に落ちてからというもの毎日毎日無理矢理男に抱かれ、毎日毎日無理矢理犯されて身も心も汚れきってしまった。だが」
 タジマの腕に爪を立て、毅然たる態度で宣言する。
 「身も心も汚れた今でも、売春夫の生き方に堕したつもりはない」 
 僕にはサムライがいる。かけがえのない友人がいる、仲間がいる。
 売春夫に堕落して彼らを裏切ることはできない、絶対に。金網越しにこちらを見つめるサムライと目が合う。木刀に手をかけたサムライは、傷が開いた太股を庇うように腰を落とし、歯痒く僕の身を案じている。
 僕はサムライと約束した。もう決して他の男に体を許さないと。
 「はっ!俺の下じゃあさんざんよがってたくせによ」
 嘲るように喉を鳴らし、こめかみから銃口をどけるタジマ。なにをする気だ?ぎょっと仰け反った僕の反応を楽しみつつ、上着の裾に銃口を潜らせる。
 「は、なせ」
 冷たい鉄の棒が素肌をまさぐる。銃口で上着をはだけたタジマが、よわよわしく喘ぐ僕と金網越しに固唾を飲む群集とを見比べつつ、僕の股間を見下ろす。ズボンに銃口をひっかけ、下方にずらす。
 「口ばっか達者な親殺しの天才気取りにゃもう一回思い知らせてやる必要がありそうだな。売春班の躾で足りねえなら今ここで改めて犯してやろうか?よーくまわり見まわしてみろ。東京プリズンの囚人が大集合した地下停留場のど真ん中、照明降り注ぐリングの上で服はだけられる気分はどうだ?」
 「やめろ、」
 タジマはやめない。さかんに首を振って拒絶の意志を訴えたところで、腕を引っ掻いて抵抗したところで、絶対にやめはしない。
 僕の太股に押し付けられる固い股間。
 ジマは勃起していた。僕の上着をはだけてズボンを脱がしながら固く勃起した股間をぐいぐい太股に押し付けてくる。
 銃口を潜らせたズボンが下にずれて、貧弱な太股があらわになる。タジマが音たてて生唾を嚥下、僕の太股をしごく。キメ粗く乾燥した手のひら、不快にざらついた手のひらでやすりがけされた太股が赤く擦りむける。
 手も足もでずタジマにされるがままの僕の視線の先、たった数メートルの金網の向こう側には一万人以上の大群衆がいる。最前列にはサムライとロンが並び、タジマに太股を撫でられ、目にうっすら涙をためて快楽に息を荒げる僕を凝視してる。
 視線が肌に刺さり、体が狂おしく火照りだす。
 金網を隔てた向こう側に顔を並べた囚人が、タジマの手に体の表裏をまさぐられる僕を食い入るように眺めている。性欲を剥き出して爛々と輝く獣の目。視線に犯される戦慄。
 大勢の人間が見ている前で。
 サムライが見ている前で。
 「僕に露出趣味はない、離せ、冗談じゃない、一万人以上の大群衆の前で痴態をさらす気など毛頭ない!見世物になどなりたくない、晒し者になどなりたくない、早く一刻も早く一秒も早くその汚い手をどけろ友人の前で恥をかかせるな!!」
 性急に太股をしごかれ、快楽と苦痛に息を荒げながら抗議すればタジマが鼻で笑いますます調子に乗る。僕の太股が赤く染まったのを確認して今度は下着の内側に銃口を突っ込む。
 「一万人の大群衆の前で素っ裸の股間さらして、俺の手にしごかれてイッちまえばお前も少しは大人しくなるだろうさ」
 「………………な、」
 タジマは本気か?
 一万人以上の大群衆が固唾を呑んで凝視する中、僕のズボンと下着を脱がして……公開、強制自慰?嫌だ。タジマの手で扱かれて射精するなど冗談じゃない、大群衆が見ている前で、サムライの眼前でタジマの手に扱かれて射精したら二度と立ち直れない!
 死に物狂いで首を振りタジマの腕をふりほどきにかかる、首に巻き付く腕に爪を立てて容赦なく肉を抉る。大群衆の眼前で下着を脱がされるなど冗談じゃない、サムライが見ているのに!そんな僕を嘲笑い、トランクスのゴムに銃口をひっかけてゆっくりと下方にずらしていくタジマ。
 やめろ!
 もがいもがいてもがいて、暴れて暴れて暴れて、必死にタジマの手から逃れようとする。
 股間に潜りこんだ銃口がペニスを探り当てる。
 冷たい鋼鉄の塊が、恐怖に縮み上がったペニスを揉みしだく。 
 「思い出せよ鍵屋崎。お前に自慰させたことあったろ」
 タジマが耳元で囁けば強烈な口臭が匂ってくる。
 僕の背中に脂肪が段になった腹を密着させ、勃起した股間を太股に擦りつけ、熱に浮かされたように卑語をまくしたてる。
 「俺が妹の写真持ってきて、お前は妹の写真見ながら自慰したんだ。あの時のお前ときたら傑作だった、妹の写真に汁とばして涙流してよがりやがって……鍵屋崎、目え閉じてないでよーくまわり見まわしてみろ。地下停留場の野次馬どもが、股間に銃突っ込まれてよがり狂うお前のことじィッと見てるぜ。どうした顔赤くなってるぜ恥ずかしいのかよ、売春班じゃもっと恥ずかしいことだって平気でやっただろうが!もっと強く揉んでやるから今度は声あげろよ、連中にサービスしてやれ」
 「はっ、うあ………」
 四囲から注がれる視線が肌に刺さり、羞恥心に火がつく。
 死ぬほど恥ずかしい。タジマの腕の中で無力に身悶えるしかない僕に金網越しの大群衆が興奮する。サムライは足が言うことを聞かない焦燥に苛まれて金網にこぶしを打ちつけ、ロンが悔しげに歯噛みする。
 見るな。
 こんな僕の姿を見るな、タジマの手に犯される僕を見るな!
 「暴れんなよ。引き金の指が滑って大事なモンが吹っ飛んじまうかもしれねえからな」 
 興奮に息を喘がせたタジマが徐徐に、徐徐に手首をさげていく。
 僕が成す術なく見ている前でトランクスが捲れ、青白く貧弱な下肢が外気に晒される…… 
 「但馬看守、なにをしている!!?」
 地下停留場に殺到する複数の足音。タジマの腕に縋って顔を上げた僕の目にとびこんできたのは、今しも通路の入り口から安田を先頭に地下停留場に駆け込んできた看守陣の姿。リングに上がったタジマを目撃して看守陣が愕然とする。
 安田とて例外ではない。
 リング中央に立ったタジマとその腕の中との僕を見比べ、剣呑に眼鏡を光らせる。
 「但馬看守、君に聞きたいことは山ほどある。だれが独居房の鍵を開けたのか、何故君が銃を所持しているのか……しかし、今言いたいことはただひとつだ」
 冷徹に研ぎ澄まされた眼差しでタジマを射竦め、安田が厳命する。
 「副所長命令だ。即刻鍵屋崎を解放しろ」
 「やなこった」
 答えはそっけなかった。いつでも絞殺できると見せつけるように僕の首に腕をかけ、こめかみに銃口を押しあて、安田らを牽制。
 地下停留場に乗り込んだ看守数十名と安田を威嚇しつつ、のんびりとうそぶく。
 「鍵屋崎の命が惜しいならお前一人で来い、安田。ここはひとつ、穏便に話し合いといこうや」
 沈黙。タジマが申し出た交換条件に苦悩する安田。眼鏡のブリッジに指を添え、ため息まじりに顔を上げた副所長と視線が絡みあう。冷徹なエリートの顔が一瞬だけ崩れ、眼鏡越しの双眸に悲哀の色が浮かぶ。
 「承諾した」
 「副所長!?」
 背後に控えた看守が一斉に抗議の声をあげる。気でも違ったのか、と副所長の決断を非難する声。気色ばむ彼らを目線で制した安田が、ふたたび正面に向き直り、僕のこめかみに銃口を擬したタジマを視殺。
 「君たちはここにいろ。但馬看守が他の囚人に銃を向けた場合に備えて警護にあたってくれ、会場の混乱が暴動に発展しないよう囚人をおさえてくれ。私は副所長だ。東京少年刑務所の安全を預かる立場だ。交渉は私の務めだ」
 有無を言わせぬ口調と威圧感をこめた眼差しで数十名から成る看守を下がらせた安田が、地下停留場の人ごみを突っ切り、一直線にリングに赴く。安田が一歩進むごとに群集の波が引いて道ができる。囚人自ら副所長のために空けた道を靴音高らかに歩き、リングに上がる。
 地下停留場に居合わせた全員が囚人看守の区別なく息を呑み、安田とタジマの対峙を見守る。 
 タジマを刺激しないよう距離をおきつつ、冷静に説得を試みる。
 「さあ、鍵屋崎を離せ。人質を解放しろ。無関係の囚人に危害を加えるな。君に独居房行きを命じたのは私だ、憎いのは私一人………」

 銃声が轟いた。

 タジマが銃を発砲した。安田の左肩が血をしぶく。安田の肩に命中した銃弾……スーツに滲みだす鮮血。
 撃たれた肩を庇い、コンクリ床に膝を折る。上体を突っ伏して苦悶に喘ぐ安田の額にはびっしり脂汗が浮かんでいる。極限の苦痛に歪んだ顔には冷徹なエリートの面影などどこにもない。
 硝煙たちのぼる銃口を虚空に擬してタジマが哄笑をあげる。
 「そんなにこいつが大事かよ、こいつの身と引き換えにお偉い副所長サマ自らしゃしゃりでてくるほど大事か。なあ、やっぱりお前らできてんだろ?こそこそ密会してデート重ねて医務室のベッドでしっぽり楽しんでるんだろうが。なあに今更隠すこたねえ、東京プリズンは俺の城だ、俺の城で起こってるこたあ全部お見通しだ。なあ安田さん、あんた何回鍵屋崎を抱いた?鍵屋崎を裸にひん剥いてケツにあれぶちこんだ、あれしゃぶらせた?類は友を呼ぶってことわざにもあるよな。スラム育ちの洟垂れガキには目もかけねえあんたでも、元エリートで特別毛並みのいい親殺しは別格……」
 「違う、そうじゃない」
 血が迸る肩を押さえ、苦痛に顔をしかめて安田が叫ぶ。銃弾が埋まったスーツの肩に急速に広がる赤い染み。今にも崩れ落ちそうな肩を片手で庇い、片手を床につき上体を起こし、縋るように必死な面持ちでこちらを振り仰ぐ。
 安田がまっすぐに僕を見る。激しい葛藤に苛まれた眼差しで、等身大に苦悩する人間の顔で。
 「鍵屋崎は私の、」
 『私の』?
 続く言葉は聞けなかった。僕をひきずって大股に安田に歩み寄ったタジマが、その肩を蹴倒す。副所長が悲鳴をあげて床に身を投げだす。床に倒れ伏した安田はそのまま動かない。タジマに蹴られた肩には銃創が開いて背広の下のシャツにも血の染みが広がっている。
 「貴様っ……肩に銃創を負った安田に暴行を働くなど卑劣にも程がある、貴様こそ真に唾棄すべき最下等の人間だ、恥を知れ!!」
 「ははっいいザマだあ、これで動けねえだろ!?俺が鍵屋崎犯すとこそこに寝転がって指くわえて見てろや。いや、待てよ、もっといいもん出し物思いついたぜ。ただ犯すだけじゃ芸がねえもんな、ははっ」
 ぐったり横たわる安田に唾を吐き、タジマが咆哮をあげる。
 「ロン、上がって来い!折角だからお前も仲間にいれてやるよ。こないだは安田に邪魔されてお預け食ったが今度はそうはいかねえ、俺が独居送りになったのだって元はといえばお前が原因だ、俺が独居房送りになったのは全部お前のせいなんだよ!さあ、観念して大人しくでてこい、言うこと聞かねえと鍵屋崎がどうなるかわかってんだろうな!?」
 「ロン、異常者の言動を真に受けるな!君が出てこようが出てこまいがどのみちタジマは僕を犯して殺す、安田の前で僕を犯して殺して復讐を成就するつもりだ!君がリングに上がったところで事態は好転しない状況が悪化するだけだ、大人しくレイジの看病でもしていろ!」
 タジマの腕にきつく絞め上げられ窒息しそうだ。出てくるなロン。タジマの脅迫に屈するな、挑発にのるな。安田は僕を助けようとしてタジマに撃たれた、このうえロンまで巻き添えになるなど……考えたくもない。ペア戦は終わった、もう全部終わったんだ。レイジはよく頑張った、持てる力を最大限発揮してボロボロになりながらも勝利を手にした。ロンはレイジのそばについてればいい、看病してればいい。
 頼むから、僕にかまうな。
 「……ここだよ」
 「!」
 金網が鳴る。僕の願いむなしく、ロンがリングに上がる。まったく、底抜けのお人よしめ。救いがたいお節介め。肋骨が折れてるくせに、全身の間接が痛んで悲鳴をあげてるくせに、片手で金網を掴んで無理を強いて歩を進めて……わかっている。こうなるだろうと予想はついていた。僕を人質に脅迫されて、ロンが見て見ぬふりできるはずなかったのだ。
 捻挫した足をひきずるようにリング中央に歩み出たロンが、荒い息を零しつつ、タジマに要求する。
 怒りと憎しみに燃える目。
 「鍵屋崎を離せよ」
 突然、タジマが僕の背中を突き飛ばす。一歩二歩、前傾姿勢でよろけて面前に迫ったロンと接触。
 「!?っ、」
 視界が反転、衝撃。ロンの顔の横に手をつき押し倒す体勢となった僕の後頭部にめりこむ硬い感触。
 僕の後頭部に銃口つきつけ、圧力をかけて頭蓋骨を抉りながら、タジマは恐るべきことを命じる。

 「鍵屋崎。お前、ロンを犯せ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050726145212 | 編集

 「鍵屋崎。お前、ロンを犯せ」
 タジマは正真正銘の異常者、真性の変態。
 俺の目と鼻の先に鍵屋崎がいる。
 後頭部に銃をつきつけられて、俺の腰に跨り、顔の横に手をついてる。転倒した時俺が鍵屋崎の下敷きになり自然とこういう姿勢になったんだが、鍵屋崎はそのままどく気配もおりる気配もない。俺の腰に跨ったまま表情の読めない目でじっとこっちを見つめてる。片方割れたレンズが普段から表情に乏しい鍵屋崎の本心をさらに読めなくしてる。
 ひびの入ったレンズ越しに俺を見下ろす双眸に爆ぜる葛藤、逡巡、躊躇。
 だがそれも目の錯覚を疑わせる一瞬のこと。
 鍵屋崎はすぐに無表情に戻り、体をずらして位置を移動、俺の腰を這いずって騎乗位になる。
 「まさか、本気じゃねえよな」
 手足の先から冷えてゆく感覚……戦慄。目に映る光景が信じられない。いや、信じたくない。コンクリ床に仰向けに寝そべったまま、肘で上体を支えて起きあがろうにも鍵屋崎が腹に跨ってるせいで体に力が入らない。畜生、どけよ。舌打ちしたい気分で鍵屋崎をどかそうと試みるが、鍵屋崎は俺の上に乗ったまま梃子でも動かない。
 言うこと聞かない手足が恨めしい、自由に動かない体が憎らしい。
 逃げろと脳が命令を発してるのに体が従わない矛盾。葛藤。
 そうだ、わかってる。俺の体はもうボロボロで限界だった。折れた肋骨はまだ完治してなくて、胸はずきずきと疼いて、指一本動かすだけで全身の間接が痛んで軋んで地獄を見た。
 鍵屋崎を突き落とそうと腕を振り上げてみたところで全く力が入らないんじゃ意味がない。
 心臓の鼓動が速鳴る。緊張で喉が乾く。
 汗でびっしょり濡れた背中のシャツが素肌にへばりつく。ひどく耳鳴りがする。誰かが頭蓋骨を撥で叩いてるみたいだ。耳鳴りがうるさくて周囲の喧騒がよく聞こえない。鍵屋崎に哀願する自分の声さえよく聞こえない。
 「いくらタジマに命令されたからって、銃で脅されてるからって、まさか本気で俺を犯すわけないよな鍵屋崎」
 みじめったらしい懇願。鍵屋崎がまさかそんなことするはずがない。鍵屋崎は口は滅茶苦茶悪いけど付き合ってみりゃ案外いい奴で、意外なほどいい奴で、俺はいつしか鍵屋崎に心を許し始めて、今では仲間だと認めていて……
 そうだ、鍵屋崎はいい奴だ。すごくいい奴だ。俺なんかには勿体無いくらいできたダチだ。医務室に入院中の俺が暇持て余してる時に本を貸してくれた、字ばっかの糞つまんねえ哲学書だけど俺のこと気にかけてくれた鍵屋崎の親切心は純粋に嬉しかった。
 他にも鍵屋崎には世話になった、たくさん世話になった。
 俺が売春班の房に篭もりきりでいた時も通気口越しに励ましてくれた、威勢良い毒舌で気力を奮い立たせてくれた。鍵屋崎一流のひねくれた励まし方で。
 俺だってわかってる、身に染みてる。鍵屋崎の毒舌は優しさの裏返しで、鍵屋崎は本当はすごくいい奴で……
 だから、そんな鍵屋崎がタジマに言われて無理矢理俺を犯すはずがないと嘘でも信じこみたかった。
 「どうした?さっさと犯れよ、ギャラリーがお待ちかねだ」
 タジマが銃口に圧力を加えて鍵屋崎の頭を屈めさせる。鍵屋崎の頭越しに仰いだタジマはにやにやと笑っていた。反吐がでそうなゲスの笑顔。心の底からこの悪趣味な出し物をたのしんでやがるのは明白。
 くそ、体が言うこと聞けば今すぐタジマの憎たらしいツラをぶん殴ってやるのに。
 「鍵屋崎、どけよ」
 物言わぬ鍵屋崎に必死に訴えかける。顔が半笑いに崩れる。これから鍵屋崎に犯されるなんて冗談じゃねえ、俺はまだレイジとの約束を守ってねえ。レイジが勝ったら抱かせてやるって約束したんだ、100人抜きのご褒美に抱かれてやるって開き直ったんだ。
 強く目を閉じれば瞼の裏側に隻眼の寝顔が浮かぶ。
 左目を失ったレイジの寝顔。
 レイジは左目を犠牲にして勝利を掴んだ。
 背中に十字の烙印を焼き付けられて傷の開いた片腕を踏み躙られてボロボロになってまで、俺と鍵屋崎を守るために、売春班をぶっ潰すために公約どおり100人抜きを成し遂げた。俺との約束を守ってくれた。

 だから俺も、約束を守らなきゃ。

 「鍵屋崎、どけって。腹に乗んなよ、苦しいよ。おい、なんの冗談だよこれ?タジマの命令に唯々諾々と従って今から公開レイプって、マジでそんなこと考えてんのかよ。サムライだって見てるんだぜ。サムライだけじゃねえ、地下停留場には決勝戦観にきた囚人どもがごまんといるんだ。そいつらがはあはあ息荒げて見てる前で、本気で俺のこと犯すつもりかよ?お前にできんのかよ、そんなこと」
 卑屈に喉が鳴る。
 恐怖で喉が引き攣ったのが嘲笑に聞こえたらしい鍵屋崎がすっと目を細める。剣呑な表情の変化に背筋が寒くなる。 
 様子がおかしい。
 さっきまでの鍵屋崎とは別人みたく雰囲気が一変してる。いや、これは……そうだ、東京プリズンに来たばかりの頃の鍵屋崎だ。俺が出会ったばかりの頃の鍵屋崎に戻っちまった。
 人を人とも思わない傲岸な眼差し、自分には人を見下す特権があると信じて疑わない傲慢な天才の表情。
 俺の言葉は、鍵屋崎の「何か」に触れたらしい。おそらく、鍵屋崎の核心に。
 鍵屋崎に跨られた体勢から片肘立てて顔だけ起こし、早口で反駁。 
 「売春班じゃ男に犯られる一方だったお前が犯り方知ってんのかよ、無理すんなよ不感症のくせに、似合わねえよ。お前だってタジマに言われて無理矢理なんて絶対やだろ、反吐がでるって腹の中じゃ思ってるだろ。俺だってそうだよ、タジマに言われてお前に抱かれるのなんざまっぴらごめんだ。それにさ、レイジと約束しちまったんだよ。100人抜き成し遂げたら抱かせてやるって」
 ああ、なに言ってんだ俺。舌が勝手に動いて汚い唾をまきちらしてる。俺の唾が顔にかかっても鍵屋崎は動じない。片方割れたレンズの向こう側から、剃刀めいて鋭い切れ長の双眸が瞬きもせず俺を凝視する。
 完璧な無表情。
 そうだ、東京プリズンに来たばっかの頃の鍵屋崎はこんな奴だった。
 俺がくだらない冗談とばしてもつまらない話題振っても表情は殆ど変わらなくて、俺が対等な人間とはこれっぽっちも思ってない尊大な物腰で余裕ありげに構えていて……意思の疎通ができなかった。
 鍵屋崎と俺じゃ根っこから違う人間で、到底わかりあえるはずもないと絶望させる冷淡な顔。
 徹底的に共感を拒絶する無表情。
 「今ここでお前に犯られるわけにゃいかないんだよ、レイジとの約束守れなくなるだろうが。俺をいちばん最初に抱く奴はレイジじゃなきゃ駄目なんだよ、そう決まってるんだよ!俺だってやっと納得したんだ、レイジになら抱かれてやってもいいかなって思えたんだ、あんなに頑張ってぼろぼろになったレイジになら……どけよ鍵屋崎、とっとと俺の上からどきやがれこのクソ天才!!お前だって本当は嫌なくせにタジマのお遊びに嫌々付き合わされてるくせに、嫌ならさっさとどけよ、頭に銃つきつけられてるからなんだってんだ、俺とお前ふたり力合わせて反撃すりゃあタジマだっていちころだよ銃ひったくることだってできるよだから!」
 「黙れ」
 突然、口を塞がれる。息ができなくて苦しい。
 何が起きたのかと頭が混乱する。俺の口を片手で塞いだ鍵屋崎の顔が急接近、じかに吐息のかかる距離にくる。
 片方割れたレンズ越しに俺を射竦める鋭利な眼光……冷徹に研ぎ澄まされた眼光。
 「僕に選択肢はない。拒否権もない。タジマの命令に逆らえばその瞬間に脳漿を撒き散らすこと確定だ」 
 耳元で鍵屋崎が囁く。暗示をかけるように低い声。これが本当にあの鍵屋崎か、俺が知ってる鍵屋崎か?
 「……仕方ないだろう。僕だってこんなこと本意ではないが、タジマに命令に従わなければ確実に死ぬ。今タジマに逆らうのは得策ではない、それがどれ程不愉快なことであろうがタジマの命令に従うしかない」
 諦観の眼差しで苦々しく吐き捨てる鍵屋崎を前に、俺の中でなにかが爆ぜた。
 「!くそっ、」
 鍵屋崎を胴から振り落とそうと滅茶苦茶に暴れる。
 両腕を限界まで突っ張って鍵屋崎を押しのけようとする、足を勢い良く蹴り上げた反動で鍵屋崎を落とそうとする。
 だが駄目だ、無駄だ。なにをやっても無駄だ。
 鍵屋崎は俺の上からどかない。どんなに暴れたところで本調子じゃない俺が身長で勝る鍵屋崎をどかせるわけがない。いや、奴ひとりならどかすこともできたんだろうが背後には銃を持ったタジマがいて、「いきがいいなあ結構だが、これ以上手え焼かせるんじゃねえよ」と嘲弄。
 体重かけて俺の足首を踏みつける。
 「!?あああっああっ、っあ、ぐ……」
 コンクリ床に固定された足首が軋み、たまらず悲鳴をあげる。
 痛いなんてもんじゃない。タジマが踏んだのは俺が捻挫した足首、まだ包帯もとれてない足首だ。足首の骨が軋む激痛で視界が真っ赤に染まり、全身の毛穴が開いて脂汗が噴き出す。
 抵抗がやんだ隙にタジマが横柄に顎をしゃくるのが目に入る。  
 衣擦れの音。俺に跨った鍵屋崎が緩慢に動きだす。
 「やめ……」
 荒い息遣いに声がかき消される。
 鍵屋崎の手が一瞬止まるが、銃口で頭を小突かれ、まだすぐ動き出す。
 上着の裾をはだけて潜りこむ冷たい手のひら。
 ああ、鍵屋崎の体温は低いんだなとどうでもいいことを思った。冷え性なのかコイツ。いや、今そんなこと関係ない、本当にどうでもいい。
 「お前、頭おかしいよ。タジマの狂気が伝染っちまったのかよ」
 「心外だな。僕は狂ってなどいない。自分の判断に基づき行動してるだけだ」
 鍵屋崎の口調は淡々と落ち着いている。
 「売春班で僕は数え切れないほどたくさんの男に抱かれ、さまざまな種類のセックスを体験した。生憎売春班では抱かれるほう専門だったが、回数を重ねるごとに同性の性感帯は熟知した。良い機会だ。受動態のセックスには飽きてきた頃だ、能動態のセックスを試してみるのも悪くない」
 なん、だって?
 耳を疑う。目を疑う。鍵屋崎はタジマに銃で脅されて嫌々無理矢理俺を犯してるはずじゃないか、なら今の台詞は……

 「良い機会」?「悪くない」?

 どういう意味だよそれ。なあ、俺にわかるようにちゃんと説明してくれよ。 鍵屋崎お前、頭がどうかしちまったのか。一万人の大群衆の前でタジマに股間揉まれて、頭の血管が二三本まとめてぶちんと切れちまったのかよ。俺は嫌だ、鍵屋崎に抱かれるのなんて嫌だ、レイジ以外の男に抱かれるなんて考えただけでぞっと鳥肌立って生理的嫌悪が爆発する。お前だってそうだろ、売春班じゃ毎日泣いてたじゃないか、悲鳴あげて痛がってたじゃないか。
 泣いても喚いてもてんで取り合ってもらえず、男に無理矢理犯されるのがどんだけ最低最悪のことか、お前がいちばんよくわかってるはずだろ?
 「正気に戻れよ」
 戻ってくれよ、お願いだから。
 こんなことやめてくれ、俺の上からどいてくれ。
 恐怖にかすれた声で懇願しつつ、震える腕で鍵屋崎を押しのけようとすれば、邪魔っけに振り払われる。助けを求めて檻の外に目をやる。
 売春班の面々がいた。凱がいた。東棟の奴らがいた。ホセがいた。そして、サムライがいた。
 売春班の奴らは一箇所によりそいあって、慄然とこっちを見つめてる。
 凱は口を開けっぴろげにした間抜けヅラで、その他大勢の東棟の奴らは鼻息荒く興奮の面持ちで、くんずほぐれつする俺と鍵屋崎に見入ってる。ホセは笑っていた。胡散臭い笑顔だった。
 「直」
 サムライは震えていた。
 太股の傷が開いて立ちあがれず、何もできない無力感に歯噛みして、その場に蹲っていた。自分が見てるものが信じられないといった驚愕の表情。サムライに呼びかけられても鍵屋崎の動きはとまらない。
 俺の上着をはだけて腹部をまさぐりながら早口に言う。
 「君はそこで傍観していろ。わざわざこちら側に救助にこようなどと考えるな、迷惑だ」 
 「あーあ、可哀想に。ふられちまったなサムライ」
 タジマが濁声の哄笑をあげる。視界の端にちらつくサムライの顔……苦渋に歪んだ表情。
 鍵屋崎の手が上着の裾にもぐりこむ。
 上着が捲れあがり、薄い胸板が露出する。
 「!」
 鍵屋崎の顔が強張る。無理もない、俺の胸板には白い包帯が巻かれていた。胸だけじゃない。外気に晒された裸の上半身のあちこちに醜い痣がちらばっていた。俺はいみじくも痣だらけ傷だらけの醜い体を目の当たりにした鍵屋崎がおもいっきり引いてくれることを期待した、萎えてくれることを期待した。
 「萎えたろ?汚いし気持ち悪いだろ、痣だらけで。だからさ、抱くなよ。無理して俺抱いたっていいことなんかなにもないって、お互い後味悪いだけだよ。それに俺はじめてだしケツが裂けて血だって出るし、ほら、後始末大変だし。そうなったら、俺とお前……」
 俺とお前は、もう二度ともとの関係に戻れなくなる。今までどおりダチでいられなくなる。俺は殺したいほど鍵屋崎を憎む。殺しても殺しても殺したりないほど鍵屋崎を憎む。
 「手が止まってるぞ。はやく先進めよ。もう俺辛抱できねえ、股間が張ってしかたねえんだよ、はやくイきたくて仕方ねえんだよ。さあ、下を脱がすんだ。ロンを素っ裸にして股開かすんだ。できるだろ、やれるだろ、天才に不可能はねえんだから。なんなら包帯ほどいてロンの手首縛っちまえよ、そうしたらちょっとは大人しくなるだろうさ、犯りやすくなるだろうさ!!
 売春班のこと思い出せ鍵屋崎、お前が泣きながら男に犯されてるときロンは何してた?見て見ぬふり聞こえぬふりでダチ見殺しにした卑怯者だぜコイツは、そんな奴に情かける必要なんざねえ、これっぽっちも!ロンだってどうせお前の喘ぎ声オカズにしてマスかいてたに決まってる、コイツは俺に煙草の火ィ押しつけられてよがってた淫乱の半々だからな!」
 今すぐタジマの口を縫いつけたい、それが叶わないなら歯を全部ひっこぬいてやりたい。顔から火がでそうな羞恥に苛まれた俺へと罵詈雑言の礫が浴びせられる。

 「犯っちまえ、眼鏡!」
 「口ばっか達者なはねっかえりの半々なんか犯しちまえ!」
 「ケツ剥いてぶちこんじまえ!」」 
 「俺は眼鏡が犯るほうに賭けるぜ、日本人はキレたらおっかないからな」
 「自分の身が可愛いなら犯すに決まってる」
 「人が見てようが何人いようが関係ねえ、犯っちまえ!」
 「「犯れ!犯れ!」」
 「「殺れ!殺れ!」」
 「「犯れ!犯れ!」」
 「「殺れ!殺れ!」」 
 
 くそくらえ。
 東京プリズンの囚人はどいつもこいつも最低野郎ぞろいだ。タジマ乱入の混乱が公開レイプへの期待と興奮に取って代わられたらしく、見渡す限り会場を埋めた大群衆が口々に犯れ殺れと喚いてる。周囲の乱痴気騒ぎに加わらず重苦しく沈黙してるのは売春班の面々とサムライだけだ。
 「生き残りたければ僕の言うことに従え」
 「!っ、やめ、」
 声援の後押しで覚悟を決めたらしい鍵屋崎が反論を許さぬ口調で断言する。鍵屋崎の顔が急接近……払いのける暇もなかった。鍵屋崎が強引に唇を奪う。瞬時に理性が吹っ飛んだ。眼鏡のレンズが吐息で曇って鍵屋崎の表情を完全に覆い隠してしまった。俺は今なにをされてる?キス?口で口を塞がれてる?積極的に押し付けられた唇の感触が気持ち悪い、と思う間もなく唇を割って潜りこんできたのは……舌。
 「んっ、ふ」

 『生き残りたければ僕の言うことに従え』。

 さっき鍵屋崎に言われた言葉が脳裏をぐるぐる回ってる。俺が生き残るためには見世物になるしかないのか。一万人の大群衆が鼻息荒く股間を固くして見守る中、鍵屋崎に犯されて派手に喘ぎ声あげるしかないのか。
 苦しい、息ができない。口移しで注ぎ込まれた大量の唾液が逆流して噎せ返りそうになる。嫌だ、こんなキスは嫌、舌入りのキスなんてレイジにしかされたことねえってのに畜生、メイファとだってやってねえのに!
 こぶしで鍵屋崎の胸を叩き、息が続かなくて苦しいと懸命に訴える。
 漸く唇を離して舌を抜いた鍵屋崎が、手の甲で顎を拭いつつ冷笑する。
 「幼稚なキスだ。レイジを悦ばせたいならもっと練習を積め」
 「……はっ……余計なお世話、っあ!?」 
 言い終わる暇も与えられず、ズボンに手がかけられる。
 下着ごと引きずりおろす気か?それだけは勘弁してくれとズボンを掴んで抵抗する。公衆の面前で裸の股間なんか晒したら俺はもう東京プリズンで生きてけない、首吊ったほうがマシだ。そんな生き恥かくくらいなら舌噛んで死んだほうがマシだ。
 「鍵屋崎頼むから正気に戻ってくれよ、お前そんな奴じゃなかったろ、タジマに言われた通りに俺犯すようなプライドない奴じゃなかったろ!?お前はいつだって異常にプライド高くて付き合ってるとうんざりすることもあったけど、でも、お前の融通利かないとこ結構好きだったのに……」
 「無駄だロン、観念しろ。親殺しはお前のこと犯したくて犯したくてもう辛抱たまらんそうだ。どうだロン、お前だって本当は興奮してるんだろ、びんびんに勃起して今すぐイっちまいそうなんだろ?それバレるのが嫌で必死に抵抗してんだろ、ズボン掴んで駄々こねてるんだろ?お前に自慰させた時とおんなじだ、あの時のお前ときたら傑作だった、俺の言うとおり股間に手え持ってって涙目でしごきやがって……いやらしくてたまんなかったよ、オナニー中のお前の顔!」
 嗚咽まじりの抗議にも鍵屋崎は聞く耳もたない。タジマの哄笑が大きくなる。犯れ殺れ犯れ殺れ……会場の群集一丸となってタジマと鍵屋崎をけしかける。ここはどこだ、地獄か?じゃあ蜘蛛の糸がふってきてもいいだろうに。
 体じゅうが痛い。全身の間接が痛い。手足を滅茶苦茶に振りまわして暴れるたび、包帯がほどけて縺れて絡み合う。
 ズボンにかかった鍵屋崎の手が下着ごとずり下ろして……
 
 え?

 今のはなんだ。目配せ?鍵屋崎が誰かに目配せした。誰に?金網の外に待機してる人物……サムライ。
 その刹那。
 「!?ぎゃああっ、」
 サムライがおもいきり投擲した木刀が宙高く舞い、照明が翳る。サムライが投げた木刀はタジマの頭上に落下。激突の衝撃でタジマが銃を手放して倒れる。
 「今だ!」
 生気が甦った鍵屋崎が俺を突き飛ばして一目散に走り出す。
 タジマが起き上がるより速く床を蹴って加速、銃の落下地点へ腕をのばす。間に合うか?床に手をつき上体を起こしたタジマが怒りの咆哮をあげて鍵屋崎に襲いかかる。危ない!気付けば俺も走り出していた。幸いすばしっこさには自信がある、俺の唯一の取り柄といっても過言じゃない。あっというまに鍵屋崎を追いぬき、タジマの股下をくぐり抜けて銃をとる―……
 『殺してやる』
 銃を手にした瞬間、殺意が爆ぜた。タジマを殺してやる。殺したい殺したい殺す殺してやる絶対に、俺と鍵屋崎をさんざん苦しめやがったこの変態野郎に鉛弾ぶちこんでやる許せねえこいつだけは絶対許せねえ!
 タジマに命じられて自慰させられた夜、ベッドで膝抱えながら誓った。
 いつか必ずタジマを殺してやると。復讐を果たしてやると。
 それが今だ。絶好のチャンスだ。今しかない今を逃したら後はない俺の手の中には銃がある、さあタジマの眉間に銃口を定めて引き金引け!!感情が急沸騰、引き金に指をかけ奇声を発して反転―……

 ―『不可以拉!』―

 引くな。
 だれかが耳に懐かしい台湾語で叫んだ一瞬、指が鈍る。衝撃。だれかがおもいきり俺にぶつかってきた。激突の衝撃で跳ね飛ばされて視界が反転、白熱の照明が網膜を灼く。床に尻餅ついた俺の指をこじ開け、銃をひったくろうと頑張ってるのは……鍵屋崎。何の真似だ。なんで鍵屋崎はこんな怖い顔をしてる、殺意に爛々とぎらついた目で銃口を覗いてる?俺の手をひっかいて俺の指をこじ開けて銃をふんだくって、それで何をする気だ?
 だれを殺す気だ?
 答えはすぐにでた。鍵屋崎が殺したがってる人間なんてひとりしかいない……タジマだ。
 「放せ鍵屋崎余計なことすんなタジマを殺すのは俺だ、俺がタジマを殺すんだ!東京プリズンに来てから今の今までタジマにはさんざん酷い目にあわされてきた、二度と思い出したくもないことばっかされてきた!こいつが死んだところでだれも哀しまねえんだからいいじゃねえかもう殺しても、もういいじゃねえか、俺だって限界まで我慢したよ、でももう限界なんだよ、こいつ殺さない限り俺はもう東京プリズンで生きてけない、俺たちが生き残るには俺たち苦しめる元凶絶つしかねえんだよ!!」
 目が溶けそうに熱い。東京プリズンに入所してから今日まで、タジマにされてきた数々が走馬灯のように脳裏をよぎる。タジマがいるだけでタジマがいるせいで毎日が地獄だった。イエローワークの強制労働でタジマに殴られない日はなかった、生傷と痣が絶えない毎日だった。
 俺が売春班に落とされたのだってタジマの逆恨みの計略だ。それだけじゃない、医務室に入院中の俺を性懲りなく襲いにきた。今ここでタジマを殺さなきゃ俺は一生後悔する、このさき一生タジマに付き纏われる。ああいやだいやだ冗談ねえ畜生おことわりだそんなの、きっぱりさっぱり縁切ってやるよ、お前なんか俺の人生に要らないんだよタジマ!!
 「ああああああああああああっああああああっ!!!!」
 死ね、タジマ。頼むから死んでくれ、俺の視界から消えてくれ、東京プリズンから消えてくれ!
 腹の底から咆哮して引き金を引く。腕に伝わる反動、地下停留場に轟く乾いた銃声。殺ったか、死んだか?タジマの生死を見極めようとよろばいでた俺に鍵屋崎が足払いをかける。
 視界が反転、背中に衝撃。俺の手から銃をひったくった鍵屋崎が硝煙たちのぼる銃口を一瞥、無言でタジマへと歩み寄る。床に大の字に伏せったタジマはぴくりとも動かない、遠目には生死もわからない。
 慌てて起きあがり、鍵屋崎を追う。
 そんな俺の前で、鍵屋崎が思いがけぬ行動をとる。
 いまだ硝煙たちのぼる銃口をタジマの眉間に翳して、言う。
 「君に殺人は荷が重い」      
 眼鏡越しの目は静謐に凪いでいた。あまりに穏やかで、不安になる眼差し。
 とてつもなくいやな予感がする。何故鍵屋崎はあんなすっきりした顔をしてる、すっきりした顔でタジマの眉間に銃口をつきつけている?まるで、これまで自分がしてきたことにもこれから自分がすることにも悔いはないといわんばかりに……
 「痛う…………ロンと鍵屋崎のクソガキャ、舐め腐った真似を……ふたり並べてケツ剥いて犯」
 タジマはまだ死んでなかった、数秒間気を失ってただけだった。俺が満腔の殺意を込めて放った銃弾は惜しくも逸れたらしい。床に肘をつき、大儀そうに上体を起こしたタジマの目が驚愕に剥かれる。
 カチャリと銃口が鳴る。
 タジマの前に立ち、眉間に銃口を固定。ゆっくりと慎重に引き金に指をかけ、宣告する。

 「タジマを殺すのは僕だ」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050725130704 | 編集

 「タジマを殺すのは僕だ」
 動揺、狼狽、当惑、好奇、驚愕……戦慄。
 地下停留場の暗がりに夜行性の獣のように身を潜めた群集を包み込む緊迫の静けさはやがて不穏などよめきへと変化する。
 引き金にしっかり指をかけ、矯める。
 僕の背後ではロンが愕然と立ち竦んでいる。目に映る光景が信じられないといった驚愕の表情。金網の向こう側には売春班の面々とサムライがいた。売春班の面々は不安げな面持ちで僕とタジマとを見比べて、サムライは歯痒げに唇を噛んでこちらを見つめている。地下停留場に集った大半の人間とおなじく、あまりに急すぎる事態の推移についていけないといった困惑の様子。
 急展開に取り残されておろおろ混乱するばかりの無能な少年たちから標的へと視線を戻す。
 だれも僕を止められない。サムライも止められない。
 今僕がすべきことはただひとつタジマを確実に殺すこと、後腐れなくこの世から葬り去ることだけだ。
 「へっ………へっへっへっ。冗談だろ?」
 肩を揺らしてタジマが笑う。機嫌とりの習性が染み付いた媚びへつらいの笑顔。虫唾が走る。なんて卑小で矮小な人間だ、こんな人間がこの世に存在すること自体間違いだと思わせる人間の醜い部分を全部かき集めた笑顔だった。
 「なあにとち狂ってんだよ親殺し。はやくその物騒なもんしまえよ。いい子だから、な、こっちに渡せ。だいたい銃の撃ち方なんて知ってんのかよおまえ、身のほど知らずなことすんじゃねえよ」
 「銃の撃ち方など知識でしか知らない。実践経験はない。が、この距離からでは外さないだろう」
 タジマの眉間に銃口を密着させる。タジマが生唾を飲み込む。銃口に加えた圧力を介して僕の本気が伝わったようだ。床に尻餅ついたままあとじさるタジマを追い、一歩二歩と距離を詰める。
 逃がすものか。 
 「お、俺を殺したら大変なことになるぜ。囚人が看守を撃つなんざ前代未聞の大事件だ、んなことしたらお前だってただじゃすまねえぜ、処分されるに決まってる」
 「たかが看守の分際で副所長を撃った男の台詞じゃないな。分不相応にも下克上を企んだのか?」
 往生際の悪いタジマに失笑する。
 安田は出血の酷い肩を押さえて床に這いつくばっている。肩の肉は爆ぜて背広の下のシャツにも鮮血が滲んでいた。負傷した肩を庇い、苦しげに呼吸しつつ上体を起こした安田の顔はいちじるしく青褪めていた。
 胸の内側で感情が沸騰する。これは、怒り。安田を撃ったタジマに対する、ロンを痛めつけたタジマに対する怒り。
 胸の内で飼い殺すには激しすぎる憎悪。
 タジマの目に浮かぶのは紛れもない恐怖。刻々と迫りくる死に対する剥き出しの恐怖。生への貪欲な執着。タジマの目を覗きこむ。極限まで開かれたタジマの目に映ったのは……僕の知らない僕。いや、違う。以前にも一度これと同じ顔を見たことがある。
 すぐに思い当たった。鍵屋崎優と由佳利を殺した時だ。
 あの時、両親の目に映った僕も今とおなじ顔をしていた。
 全くおなじ無表情と虚無の眼差しだった。
 「と、とりあえず銃をおろせ。それから話し合おう。な、頼むよ?人間話し合えばわかるって、人類みな兄弟って言うだろ。俺たちのあいだにはそう、でかい誤解があるんだよ。俺がさっきお前にさせたことだってほんの冗談のつもりだったんだよ、最後までさせる気なんかこれっぽっちもなかった、お茶目な余興のつもりだったんだ……まあ、悪乗りしすぎたのは認めるけどよ。体のすみずみまで知り尽くした俺とお前の仲だ。笑って許してくれてもいいじゃねえか、なあ?」
 「余興だと。一万人の大群衆の前でロンを強姦する、それが単なる余興だというのか。ロンは肋骨を折ってたんだぞ。全身十三箇所の打撲傷を負い足首を捻挫していたんだぞ。満身創痍という言葉が易く思える大怪我だ。それを貴様はロンの肋骨が折れて砕けてもかまわないと、ロンの足首が捻れてもう二度と歩けなくなってもかまわないと、そのつもりで僕に強姦を命じたのか?」
 タジマの眉間を銃口を抉りながら苦汁を呑んで確信する。
 タジマには人の痛みがわからない。タジマは人の痛みに共感できない、しようとも思わない人間だ。人の痛みに共感したところで得るものはなにもないと開き直った男だ。
 タジマのそれはある意味正しい。
 他人の痛み苦しみ悩みに共感したところでなんら利益がないというのは正しい。あくまで自分中心に考えるなら、自分の偉大さとやらを世に知らしめたいなら、他者を見下すことによって自己肯定の優越感に酔いたければその生き方は正しいのだ。
 他者を貶めることにによってしか自尊心を維持できない、自己を肯定できない惰弱な人間。
 タジマは自己中を突き詰めた人間だ。
 タジマを生かしておけばこれからますます犠牲者が増える、僕のようにロンのように安田のようにその他の囚人のように不幸になる人間が増えるだけだ。タジマにされたことを思い出せ鍵屋崎直、売春班の記憶を喚起せよ。
 僕がこれまでタジマにされてきたこと、強制された屈辱的な行為……
 こめかみの血管が熱く脈打つ。
 売春班でタジマに犯された。
 何度も何度も何度も嫌になるほど気も狂うほど一日も早く死にたいと願うほど。僕を犯しながら妹の名前を呼ばせながらタジマは笑っていた笑っていたタジマの笑顔が忘れられない網膜に焼きついてはなれない。
 酷い耳鳴り。
 記憶と悪夢が混沌と溶け合い、タジマの揶揄が耳によみがえる。

 『妹の名前を呼べば許してやるぞ』
 憎い。
 『さあ言えよ』
 憎い。
 『言えよ』
 憎い憎い。
 『男にヤられながら妹の名前呼ぶなんて変態だな。本当はずっと妹とヤりたかったんだろう。妹のひらたい胸を揉んでかわいく窪んだヘソを舐めてまだ毛も生えてない股に突っ込んで喘がせたかったんだろう。はは、残念だったな!妹ヤるまえに男にヤられちまったら世話ねえな。
 妹独り占めしたくて堅物の両親殺したくせに目論見外れてがっかりだろ。まあ諦めろ、一度東京プリズンにきちまったんなら腹括って俺のご機嫌とりに徹すんのが吉だ。そうそう、そうやって素直に股開いて腰振って言うこと聞いてりゃいい。なあ、男に抱かれんのは癖になるだろ?なんだ、泣いてんのか。もうイッちまいそうってか。まだ駄目だ、俺がイくまでイかせられねえな。もうちょっとそのまま我慢してろよ。不感症のくせに不能じゃねえなんて都合いいカラダだな、本当に』
 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!

 一言一句違わず今でも思い出せる記憶している、一生かかっても忘れられそうにない。夢の中まで僕を苦しめる嘲笑、下劣な笑顔、体の表裏を這いまわる乾燥した手。タジマのがさついた手の感触など早く忘れたい、でもできない、体に刷り込まれてるんだ、肉体が消滅しないかぎり体に刷り込まれた触感は拭えないんだ畜生!!!
 僕がロンの手から銃を奪ったのは善意じゃない、ロンを庇いたかったからでも守りたかったからでもない。僕は純粋にタジマが憎くて殺したくて気付けば無我夢中でロンの手から銃をひったくっていた。
 僕は善人じゃない、聖人君子じゃない。
 僕は人殺しだ、ただの人殺しだ。だから今度もタジマを殺せるはず、両親の時のようにうまくやれるはずだ!
 綺麗ごとはよそう。僕はタジマが憎い、とてつもなく憎い。
 これは僕の意志だ。
 殺人の動機まで他人に転嫁してたまるか、他人に依存してたまるか。今ここでタジマを殺さなければまたおなじことが起こる、どこまでいってもおなじことのくり返しだ。
 タジマはまたしつこくロンや僕に付き纏う、僕らを犯して殺そうと執念深く付き纏う。ロンはきっとまたタジマに襲われる。
 今度は未遂じゃ済まない、間違いなく犯される。
 売春班が廃止されてもタジマが東京プリズンにいるかぎり僕らに安息の日々は訪れない。これからもこのさきもずっとタジマの気配に怯えて暮らすくらいならいっそ……
 「命乞いは無意味だ」
 タジマの眉間に銃口を押し付け、低い声で言う。
 「貴様が低脳らしく貧相な語彙を尽くして命乞いをしたところで、僕は確実に引き金を引く。決定は覆らない。僕は人殺しだ。過去に両親を殺害して懲役八十年を言い渡された。今さら殺人の罪科が加算されたところで些細な問題でしかない。どうせ僕は一生死ぬまで東京プリズンから出られないと確定してる、終身刑も同然の身の上だ。東京プリズンに送致された時点で戸籍は抹消された。僕はもう日本にいない人間、社会的に抹殺された人間だ。ならば……」
 意識して口角を吊り上げ、酷薄な笑みを作る。
 「もう、いいじゃないか」
 社会的に抹殺された僕が、社会復帰の見込みがない僕が、生きて再び恵にまみえる可能性のない僕が。
 人を殺したところで、どうだというんだ?
 自嘲の笑みはそのままに、諦念の淀んだ口調で吐き捨てる。もう、いい。覚悟は決まった。いまさら殺人の罪科がひとつふたつ追加されようがたいしたことじゃない。だいたい誰が僕を裁くというんだ?鍵屋崎直の罪を正当に裁いてくれるというんだ。僕は社会的には既に死亡した人間扱いで、公式に裁判を受ける権利すらない。僕が今ここでタジマを射殺したところで、どうやって死人を裁くというんだ?
 しずかに目を閉じる。迷いはなかった。心は冷めきっていた。両親を殺害した時はただただ必死だった、恵を守らなければとただそれだけを考えていた。だが、あの時と今では状況が違う。
 今の僕には失う物などなにもない。
 恵を失いたくなくて、恵を守りたくて両親を殺害したあの時と今では状況が異なる。誰かを守るためじゃない、誰かの身代わりじゃない。僕がタジマを殺すのは純粋にタジマが憎いから、殺したいほど憎いから。
 正義に唾を吐け、偽善に砂をかけろ。
 殺人を正当化する動機など要らない。
 僕が引き金を引くのは僕がそう望んだからだ。
 ほかならぬ僕自身が、だれより切実にタジマを殺したいからだ。
 「僕は人殺しだ。親殺しだ。今さら屑一人殺したところで痛むような良心など、生憎持ち合わせてない」
 「鍵屋崎ィ……」
 タジマの顔が絶望に暮れる。ズボンの股間から蒸気が立ち上る。
 命の危機に瀕した恐怖のあまり失禁したらしい。ズボンの股間に広がる染みを見下ろして眉をひそめた僕に、かぶりを振りながらタジマが懇願する。
 「頼むよ、このとおりだ。命だけはどうか見逃してくれ。今までお前にしてきたことなら謝るよ、だから……」
 「解せないな。僕がいつ謝罪など要求した?懺悔の芝居などしなくていい、余興にもならない。貴様が後悔する必要などなにもない、悔い改める必要などどこにもない。僕を後ろから犯しながら貴様は笑っていたな。下品に口を開けて哄笑をあげていたな。心の底からおかしくておかしくて、愉快で愉快でたまらないといった具合に」
 「頼むから聞いてくれよ……」
 「僕の体には満足したか?それはよかった。僕が抵抗しようが哀願しようが貴様はかまわず押し入ってきた、僕を押さえ付けて無理矢理押し入ってきた。肛門が裂けて出血してシーツが赤く染まろうが一切手加減せず、僕が暴れれば容赦なく殴り付けて黙らせて、いつだって自分の好きなように、暴君のように振る舞って……独占欲は満たされたか?征服欲は満たされたか?」
 「アレはお前が暴れるからだよ、俺だって本当は暴力なんかふるいたくなかった。本当は優しい男なんだよ俺は。でも、抵抗されるとついカッときて……」
 「僕の裸を見るか。売春班にいた頃貴様につけられた痣や痕がまだ体のあちこちに残っている。今でも疼くんだ、痣が。貴様に噛まれた痕が。疼いて疼いて眠れないんだ」
 「体が俺を欲しがってる証拠だよ。調教の成果……」
 卑屈な愛想笑いを浮かべて僕を見上げたタジマをひややかに一瞥、満腔の悪意を込めて銃口をねじる。
 「脳とは脊椎動物の頭にある神経細胞の集まった部分を指す。脊椎動物では脊髄と共に中枢神経系をなす。中枢神経系の細胞は複雑に接続しあって情報を伝達・処理しており、脳は感情・思考・生命維持の中枢とされる。そこに鉛弾を撃ちこんだらどうなると思う?運がよくて脳死、悪ければ即死だ」
 「ひっ……」
 感情の伴わぬ口調で脅迫すれば、顔面蒼白のタジマが尻で這うようにあとじさる。逃がさない。右手に預けた銃をタジマの額に擬して、左手で上着の裾を掴み、じらすように捲り上げる。あらわになったのは生白い肌と痩せた腹筋、筋肉の発達してない貧弱な肢体。
 そして、下半身の青痣。
 「覚えているだろう、僕を殴りつけながら犯した時のことを。一度だけじゃない。二度、三度、四度……正確な回数は覚えてない。素手で、警棒で。僕を殴打しながら笑っていたな」
 「勘弁してくれ……」
 タジマはすでに涙目だ。
 自衛の本能で頭を抱え込んで胎児のように身を丸め、歯の根の合わない反論を試みる。  
 「お、お前だって楽しんでたじゃねえか。さんざん俺の下でいい思いしたじゃねえか、なのに全部俺のせいにするのか、俺だけ悪者にするのかよ?割にあわねえぜ畜生!俺の膝に跨って弾んでたのは誰だよ、狂ったようにケツ振ってたのはだれだよ?ケツに極太バイブ突っ込まれてあんあんよがり狂ってたくせに、妹の写真に汁とばして自分でイッたくせに!!そうだお前も共犯だ、俺と一緒に楽しんだから同罪だよ!ほ、ほんとは悪い気しなかったんだろ?お前は真性のマゾだから俺に言葉で嬲られてぶたれて、本当は感じてたんだろ?びんびんに勃起してたんだろ?不感症治してやったんだから感謝されこそすれ恨まれるすじあいは」
 「黙れ」
 押し殺した囁き。グリップを握る手に力がこもり、引き金にかけた指が怒りで震えだす。だが、恐慌をきたしたタジマは従わない。汚い唾をとばし、爛々とぎらつく目を剥いて、会場じゅうに響き渡る声で絶叫する。
 「白状しちまえよ、お前だって感じてたんだろう。俺に犯られて勃ってたのがいい証拠じゃねえか!いい子ぶるんじゃねえよ、てめえはもう汚れちまったんだ、俺とおなじとこまで堕ちちまったんだ」
 「黙れ黙れ黙れ!!」
 「お前はもう立派な売春夫だよ!どんだけ足掻いたところで今さら後戻りできねえ、引き返せねえとこまで来ちまったんだ。今だってほら、俺に言葉でいたぶられて興奮してるんだろ?乳首勃ってんだろ?はははっはあはっはははっははっ、おいてめえら、檻の外で間抜けヅラさらしてるガキども、よおく見ろ!お前らの中にもコイツ抱いた奴いるはずだ、コイツのケツで楽しんだ奴が混ざってるはずだ!」
 檻の外から注がれる視線を痛いほどに感じる、体が意識してしまう。
 やめろ、そんな目で僕を見るな。
 僕は売春夫じゃない、売春夫じゃない、タジマに犯されて感じてなどない絶対に!
 「でたらめを言うな、僕は感じてなどない、気持ちよくなどなかった少しも貴様に触れられるたび虫唾が走った反吐がでそうだった後ろから貫かれるたび激痛で失神しそうだった!!」
 「嘘つけ、活きのいい海老みてえに背中仰け反らせてよがってたくせに!シーツ掻き毟って悶えてたくせに!エリート面して気取るなよ親殺しが、てめえなんぞ売春夫で十分だ、一生俺の言うこと聞いてりゃいいのに飼い主の手え噛むような生意気な真似しやがって……くそっ、どいつもこいつも馬鹿にしやがって!!安田もお前も気にいらねえ、お高く取り澄ましたエリート面で俺のこと見下しやがって兄貴とそっくりだ畜生めが!!悪かったな不肖の弟で悪かったな、どうせ俺は兄貴に比べたら屑だよおおおっぉっおおっ!?」
 劣等感の塊となったタジマが猛然と僕に掴みかかる。

 殺らなければ殺られる。  
 引き金をひかなければ。

 「!っ、」
 引き金を引けばすべて終わる、悪夢に蹴りをつけることができる。さあ、ここで決着をつけるんだ。額の中心に銃口を定め、予定通り引き金を引く―……

 ―「やめろ!!」―

 耳元でだれかが叫び、後ろから僕を抱きすくめる。だれだ?邪魔をするな!背中に覆い被さった誰かが僕の手から銃を取り上げようと指を締める。させるものか、あともう少しでタジマにとどめをさすことができるのに!
 「どけっ、邪魔をするな!」 
 「銃をはなせ鍵屋崎、冷静になれ!」
 僕の背中に覆い被さっていたのは……安田。オールバックに撫で付けた前髪が乱れ、脂汗に濡れた額に一房垂れ下がっている。何故安田がここに?動ける体調でもないだろうに。スーツの肩に鮮血を滲ませた安田は、普段の沈着な物腰をかなぐり捨て、悲壮感漂う必死な形相で僕の指をこじ開けにかかる。
 銃のグリップを発矢と掴み、安田と激しく揉みあいつつ絶叫。
 「僕はタジマを殺す、今ここでどうしても殺さなければいけないんだ!僕が生き延びるにはこれしか方法がないんだ、タジマを抹殺するしかないんだ!嫌なんだもうこの男とおなじ空気を吸うのは嫌なんだ耐えられないんだ、嫌なんだ、視界にちらつくのが許せないんだ!売春班が潰れたってこの男が東京プリズンにいるかぎりなにもなにも変わらない、なにも根本的には変わらない、この男を駆除しなければ!!」
 どうしてわかってくれないんだ安田は、どうして余計なことばかりするんだ。
 こみあげる激情のままに、衝動的にこぶしを振り上げて銃創が穿たれた肩を殴りつける。
 「あなたは理解できない、僕が僕たちがどれだけこの男に苦しめられてきたか虐げられてきたか何もわかってない!!この男が、こいつが、こいつのせいで、僕はサムライの隣にいる資格を失くすんだ!こいつのせいで全部台無しだ、軽蔑されるのが嫌でずっと隠してきたのに、タジマに何をされたか言わないでいたのに畜生!!」
 見るな。こんなぶざまでみっともない僕を見るな、サムライ。
 めちゃくちゃに手足を振りまわして安田を殴り付けて子供のように泣き喚く、情けない僕を見るな。全部サムライに知られてしまった、暴露されてしまった。畜生畜生と口汚く悪態を吐き、何度となくこぶしを振り上げ振り下ろす。生温かい液体が頬をしたたり、口の中に流れこむ。
 涙と鼻水が溶けた塩辛い味に喉が詰まる。
 安田は僕の背中にしっかりと腕を回し、無言で殴打に耐えていた。銃創が開いた肩を殴られてもわずかに顔を歪めてくぐもった苦鳴を漏らすだけで、決して僕を放さない。献身な抱擁。それが悔しくて哀しくて無性に腹が立って、安田の腕の中で狂おしく身をよじる。そんな僕を力強く両腕で抱きしめて安田が声を荒げる。
 「こんな男君が手を汚す価値もない!」
 「父親でもないくせに保護者ヅラをするな!」
 僕は見た。ほんの一瞬、目の錯覚かと疑う一刹那、安田の傷付いた顔を。
 「私は!」
 『私は』?
 こぶしの軌道が狂い、眼鏡を弾く。安田の顔から外れた眼鏡がカチャンと音をたて床に落ちる。眼鏡の弦で引っ掻いた頬に一筋血を滲ませた安田が、冷徹な眼光で僕を射竦める。
 「……私は、東京プリズンの副所長だ」
 「鍵屋崎、もういいよ!お前がそこまですることねえよ!」
 僕と安田を引き離したのはロンだ。僕の背中にしがみついて動きを封じるロンを引き剥がそうと体ごと振り返り、ロンの頭を押し返しながら苛立ちをぶつける。
 「君だって……君だって、タジマのことを殺したいほど憎んでるんじゃないのか!?」
 「ああそうだよ、憎いよ、殺しても殺したりないほど憎いよ!!」   
 「だったら、」
 「でも、お前が人殺しになるのはいやだ!!」
 「僕はもう人殺しだ!!」
 「お前はただの天才だよ、恐ろしく口が悪くて恐ろしくプライド高いただの天才のカギヤザキナオ、いつだってだれかのために一生懸命で自分をかえりみる余裕なんかこれっぽっちもない俺の……」
 ロンが深呼吸する。
 「俺たちの、大事なダチだよ!!」
 指の力が抜けた。僕の背中に縋り付くロンがあまりに必死で、その叫びがあまりに悲痛で。
 力を失い垂れた指から銃のグリップが抜け落ちる。銃が床にぶつかる重く鈍い音。視界の端、それまで腰が抜けたようにへたりこんでいたタジマの唇が動く。
 『しめた』
 「!っ、」
 銃の落下地点にタジマが頭から滑りこんでグリップを握る。銃を手に跳ね起きたタジマが狙うのは、ロンの無防備な背中。まずい。考えるより先に体が動いた。ロンの肩を掴み強引に脇にどかし、弾道に身を晒した僕の眉間にタジマが銃口を掲げる―……
 「鍵屋崎っっっ!?」
 慌てふためくロン、僕へと精一杯腕をのばす安田。だが、間に合わない。僕の眉間を弾丸が撃ちぬき即死が確定するまであと三秒、二秒、一秒……  
 「遅参した」
 「え?」
 凄まじい轟音、足裏に伝わる振動。地震に襲われたのかと錯覚する衝撃が地下停留場を揺るがす。何が起きたのか知覚する先に殺気を纏った烈風が吹き、タジマが悲鳴をあげて拳銃を投げ捨てる。
 タジマの手首は変な方向に曲がっていた。骨折した手首を庇って悶絶するタジマから隣へと視線を転じれば、そこに思いがけぬ人物が立っていた。サムライだ。何故?サムライは檻の外、金網の向こう側にいたはず。いつのまに瞬間移動した?周囲の状況を把握しようと素早く視線を巡らした僕は、側面の金網が倒れたのを目撃。そして、こちら側の床に折り重なって倒れているのは……売春班の面々。   
 そうか。売春班の面々が金網に一斉突撃、自重に耐え切れず金網が倒れたのか。
 「いけっ、サムライ!」
 「カギャ―ザキを頼む!」
 ルーツァイが威勢よくこぶしを振り上げ、その下敷きになったワンフーが急きたてる。身を呈して突破口を開いた売春班の面々に感謝の念を込めて会釈、体ごとタジマに向き直る。
 憤怒に燃え立つ双眸で上段の構えをとり、サムライが断言。
 「外道が。お前など、直が手を汚すに及ばん」
 「まっ………」 
 命乞いを遮るように木刀が振り下ろされた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050724152525 | 編集

 ビバリーと手に手をとりあって逃避行。
 「リョウさんもたもたしないでください事態は急を要するんス、早くはやく一分一秒もはやくタジマに追いつかなきゃ地下停留場にでなけりゃ乱射騒ぎで血祭りフィーバーっスよ!?」
 「ちょ、ま、待ってよおいてかないでよビバリーってばこの薄情者!人でなし!ビバリーだって僕が持久力ないの知ってるっしょ、こっちはヤクのヤリ過ぎで体力底ついてるんだからもうちょっと思いやりの心持っておんぶしてくれたっていいじゃん!使えない相棒だなあ本当にもう!」
 「なんスかなんスかその言い草は、だれがリョウさんの大ピンチに盾にやってたと思ってるんスか!?それとも僕は所詮弾除けっスか、リョウさんは僕のこと利用するだけ利用してボロ雑巾のようにポイと使い捨てるつもりっスか!」
 「んなこと言ってないじゃん今、ビバリーのことはそこそこ使える相棒だなあって今さっき見直したとこなのに現在進行形で評価大暴落だよ!あーもう疲れた~走れない~おんぶ~」
 「駄々っ子っスか!斜め四十五度の角度で小首傾げても駄目、目え潤ませておててすりすりしても駄目!親父キラーの手練手管は先刻承知っス、リョウさんもラクすることばかり考えずたまには自分の足で走ってください!はいイチ二ッイチ二ッ」
 「イチ二ッイチ二ッてそんなかけ声いまどきアリかよ、白い歯と爽やかな汗がうそ臭いよビバリー…」
 廃墟特有の寂れた空気を醸し出す地下通路にこだまする二重の足音。
 息せききってひた走る僕とビバリーの足音。
 コンクリ打ち放しの天井に等間隔に連なる蛍光灯、延々と左右平行に続く壁。長い間交換もされずに放置中の蛍光灯の幾つかは寿命が切れてるし、辛うじて点っている蛍光灯だって虫の息で瞬いてる。
 手に手をとりあって逃避行なんて洒落た言い回しをしてみたけど実際はそんなロマンチックなもんじゃない。より忠実に現実に即して言うならビバリーに手を引っ張られた僕が嫌々不承不承走らされてるってのが正しい。
 んもうビバリーてば強引なんだから、と誤解を招く言い方してみたり。
 まあ、ハイエナの追跡を巻こうと必死な駆け落ちの光景に見えなくもない。ビバリーに手を引っ張られて強制的に走らされながらそれでもまんざら悪い気はしなかった。
 ビバリーは絶対僕を見捨てない。
 僕がごねても冷淡に突き放したりはしない、キレて手を上げたりしない。こうして不平不満をたれてもぎゅっと手を握ってはなさずにいてくれる。
 ビバリーの手のぬくもりが心強い。人肌のぬくもりが心地いい。
 もうビバリーと離れ離れになるのは嫌だと素直にそう思えた、五十嵐に銃を向けられて痛感した。
 僕にとって、ビバリーはなに?
 ビバリーにとって、僕はなに?
 「…………」
 わからない。わからないよ。そっと目を瞑り、ぎゅっとビバリーの手を握り返す。僕らの関係を表すにはきっとすごく簡単な言葉があるんだろう。すぐそこに答えが転がってるんだろう。
 でも今は知らんぷりをする、見て見ぬふりをする。
 僕はまだ理性と感情に折り合いをつけられない、生き方を変えられない。
 だってそうでしょ?いきなり人生を宗旨替えできないよ。僕はこれまで他人を利用して利用して、徹底的に利用して自己中を極めて生きてきた。僕は子供の頃から薄々気付いてた、だれかが僕に優しくしてくれるのは下心があるからだと。その人の目当ては僕の体だったりママの体だったりママが箪笥に隠してるお金だったり色々で、下心ぬきに僕に優しくしてくれる人間なんかこの世にいるわけないと思っていた。
 騙される前に騙すのが賢く生きる鉄則、世界の法則。
 東京プリズンに来てからもそれは変わらなかった。騙される前に騙さなきゃ生き残れない、東京プリズンじゃだれもかれもがだれもかれもの足を引っ張って出しぬきあってるんだから。
 けど、ビバリーは。
 「ビバリー」
 深刻に呟けば、ビバリーが即座に振り返る。心配げな表情。僕がさんざん「疲れたー」「おんぶー」とねだっても鼻にもかけなかったくせに、僕が本当に伝えたいことには酷く敏感で。
 ああ、いいヤツだなあ。
 ほんと、鼻につくくらいいいヤツ。
 なんだか無性にやるせなくなった。泣きたいような笑いたいようなどっちつかずの複雑な気分。言うなら今しかない、ともう一人の僕がけしかける。今を逃したらずっと言えなくなる、こんな恥ずかしいこと言えなくなる。ビバリーが通路のど真ん中で立ち止まり、訝しげに僕を見る。 
 「あの、ええと、その……」
 赤面した顔を伏せ、頬を掻きつつ、言う。
 『…………………Im sorry』
 ばつ悪げに謝った僕に返されたのは、心外な反応。 
 「はあ?リョウさん頭でも打ったんスか。そういえばおでこに血が滲んでますけど」
 ビバリーが奇異の眼差しを向けてくる。なにさそのあきれ顔、失礼しちゃうよ。僕がもてる勇気を振り絞って、めちゃくちゃ恥ずかしいのを我慢してごめんなさいをしたのに。あんまりじゃないか、と食ってかかろうとした僕にビバリーが急接近。
 心臓が跳ねあがる。キスされるのか、と反射的に身構えた僕の予想を裏切り、間延びした声が聞こえる。
 「いたいのいたいのとんでけー」
 銃床で殴打された額に人肌のぬくもりが覆い被さる。
 目を開ける。ビバリーが僕の額に手を被せて優しく撫でる。ビバリーはひどく真剣な顔で子供だましのおまじないに取り組んでいた。本当に僕を心配してるのが伝わってくる思いやり深い手つきだった。
 ガキ扱いすんな、とビバリーの手を邪険にどかすこともできたはずなのに敢えてそれはしなかったのは、ママの手の感触を思い出したからだ。僕が熱を出して寝こんだ時、ママもよくこうしてくれた。僕の枕元に付きっきりで寄り添ってくれた。
 いい匂いのする手で、僕の額を撫でてくれた。 
 「ほら、これで大丈夫っスよ。いきましょうリョウさん」
 鼻腔の奥がつんとする。ビバリーの手はママみたいにいい匂いはしなかったけど、条件反射でママを思い出して、無性に涙がこみあげてきた。服の袖で乱暴に目を擦り、涙をふく。こんな涙もろいキャラだっけ、僕?違うっしょ、そうじゃないっしょ。しっかりしろ。
 「ビバリーの手、すごいね。魔法の手だ」
 優しくさしのべられた手をとり、強気に笑ってみせる。
 「そうでしょうそうでしょう、僕のフィンガーテクでロザンナはショート寸前っスよ」
 「言ってろ電脳ハッカー」
 指に指を絡め、力強く握る。ビバリーと頷き合い、再び走り出す。
 床を蹴る足を速めれば、灰色の壁と天井が瞬く間に後ろへ飛び去っていく。足裏が床を叩く振動が壁に伝わり天井の蛍光灯を揺らす。点滅が激しくなる。
 微塵の埃が舞い散る通路をビバリーと前後して疾走。全身の血が沸騰する。心臓が爆発しそうだ。惰性で足を蹴り出しながら朦朧と歪む視界にビバリーの背中を映す。
 ビバリーは前だけ見て猛然と突っ走っていた。
 自分には何の得も利益もないのに、他のだれかのためにいつでもいつだって一生懸命なビバリーは、タジマの凶行を事前に食い止めるためにびっしょり汗かいて走ってる。
 間に合うか?わからない。微妙なところだ。
 五十嵐から銃をふんだくったタジマの目は憎悪で爛々と燃えていた、復讐に燃え盛っていた。タジマに銃を持たせたのはまずかった。今のタジマはなにをしでかすかわからない、満員御礼の地下停留場であたりかまわず銃を乱射して血の海に変えても不思議じゃない。
 銃の件に関しては僕もちょっとだけ責任を感じないでもない。それに、あの銃は元はといえばビバリーが拾ったものだ。もしタジマが銃をぶっぱなして死人がでたらビバリーもただじゃすまない。急げ、急がなきゃ。ああ、体じゅうの細胞が蒸発しそう。頭がゆだって目が回る。左右の壁が物凄い速さで後ろに飛び去っていく。
 「出口っス!」
 ビバリーが快哉を叫ぶ。はじかれたように顔を上げれば、遠く前方に矩形の光。地下停留場へと繋がる出口が見えてきた。ラストスパート。脳内麻薬が過剰分泌されたせいか、僕は酷く爽快な気分で、疲労は既に感じなかった。光がどんどん近付いてくる。
 あと少し、もう少しで天国の扉に手が届く―……
 『Open the  door!!』
 ビバリーと手と手をとりあい、跳躍。光の洪水の中へと身を躍らせる。 
 薄暗い地下通路を抜ければそこは混沌と熱気渦巻くだだっ広い空間、ペア戦のリングが中央に設置された地下停留場。空前絶後の大群衆でごった返す地下停留場に立った僕は、目が明るさに慣れるまで一時停止を強いられる。 
 「タジマはどこ!?」
 「あそこっス!」
 眉間に手庇を翳してビバリーが言う。僕を引きずるように足早に歩き出すビバリー。ビバリーに手を引っ張られて人ごみを抜けながら、光に目が慣れつつあった僕は周囲の異常な気配を感じ取る。
 空気感染する高揚、興奮……熱狂。
 なに、これ?ペア戦はもうとっくに終わったはずなのに波が引かないのはどうして、だれも帰ろうとしないのはどうして。何かが明らかにおかしい、いつもと違う。異質な空気に取り巻かれた二の腕が粟立つ。
 これからとんでもない事件が起ころうとしてる予兆。
 東京プリズンを根底からひっくりかえす出来事が起ころうとしてる前兆。
 リングを中心に嵐の兆しの波紋のように広がる不吉なざわめき。
 「ねえ、変だよビバリー。絶対変だってば、雰囲気がいつもと違う、みんなおかしいよ。もうとっくに試合終わったはずなのになんだって一人も帰ろうとしないの?みんなしてリングを見てるの?リングで一体何が……、」
 人ごみから転げ出て、絶句する。
 目に映る光景は信じがたいものだった。どよめきの渦中のリングでは異常な出来事が起きつつあった。
 「ひっ、ひぎっ、やめっ……頼む勘弁してくれこの通りだ、謝るよ、謝るよだから!!」
 金網に背を寄りかからせ、頭を抱え込んで泣きじゃくるタジマの頭上に容赦なく振り下ろされる木刀。凶暴な唸りを上げて鋭利に風を切り、タジマの頭を、腕を、肩を、脇腹を、全身を無慈悲に打ちすえる。
 暴風の如く荒れ狂い、裂帛の気合いを込めて木刀を振るっていたのは、仁王の形相のサムライだった。
 「………え?な、にこれ」
 サムライのそばには鍵屋崎がいて、片方割れたレンズ越しに呆然とサムライの背中を凝視している。放心状態で立ち尽くす鍵屋崎のそばには肩から流血した安田とロンがいて、その全員が固唾を呑んで、サムライの凶行を傍観していた。だれも止めに入らなかった。止めに入れなかった。
 「わ、悪かったよ!ほら謝った、これでいいだろう!お前の鍵屋崎には金輪際手だししねえって約束するよ、鍵屋崎の半径1メートル以内に近付かねえって約束するよ!この通り土下座するから、」
 床に額を擦り付けたタジマを見下ろすサムライの双眸には、冥途の篝火の如く青白い炎が揺らめいていた。 
 背中に冷水を浴びせられた。
 戦慄で足が竦み、反射的にビバリーにしがみつく。
 「ビバリー、あれ、ホントにサムライ?僕が知ってるサムライと同一人物?わかんない……わかんないよ、わかんないことだらけだよ、なんでサムライがタジマ滅多打ちしてるのリングの上で大群衆の前で!?」
 「落ち着いてくださいリョウさん」
 「異常だよ……サムライの目を見た?普通じゃないよ、完璧イッちゃってるよ!怖い……怖いよ、あんな目のサムライ知らない、あんな物騒な目のサムライ知らない。まるで……」
 まるで、人斬り。
 「!っ」
 僕が手をつかねて見てる前で再びサムライの腕が上がる。
 舞のように優雅な挙措、無駄なく隙のない身ごなし。耳朶がちぎれそうな風鳴り。絶叫。頭を抱えて身を縮こめたタジマの肩を木刀が打ちすえて服が裂ける。肩の肉が爆ぜた激痛に涙と鼻水を滂沱と垂れ流して悶絶するタジマを見下ろし、呟く。
 「外道が」
 物静かな口調だった。だが、僕にはわかった。サムライは激怒していた。僕がこれまで見たことがないほどに、手がつけられないほどに怒り狂っていた。不自然に抑圧された口調は胸の内で吹きすさぶ激情の裏返し、極限まで膨張した怒り憎しみの反動。
 「痛っ、いでっいだっでえててえっててっ、やめてくれ頼むそれ以上したら死んじまう!」
 「この程度でか。張り合いがない」
 「ぎゃあっ!!」
 木刀で鳩尾を刺突。渾身の一撃でタジマが吹っ飛び、もんどり打って転げる。ぶざまにひっくりかえったタジマの服はあちこち裂けて血の滲んだ素肌が覗いていた。何回、何十回殴打されたのか。裂けた額から垂れた血が、鼻梁に沿って滴り落ちる。手のひらで血を受けて悲鳴をあげたタジマのもとへ緩慢な歩調で赴き、殺気を吹かせて上段の構えをとる。
 「畜生道に堕ちろ」
 「やめっ、」
 木刀が肉をぶつ鈍い音が連続、僕の足元に血が飛んでくる。血。タジマの血。タジマの顔面は血まみれだった。これが本当にあのタジマかと疑いたくなる情けない顔だった。這うようにあとじさるタジマの尻を追いかけるサムライの歩調は澱みない。
 ざんばらに乱れた前髪の奥、剣呑に眇めた双眸は憎しみの炉と化していた。
 衣擦れの音さえたてぬ足さばきでタジマに忍び寄り、鬼気迫る眼光で射竦める。贅肉など何処にもない、鞭のように引き締まった痩身のすみずみまで殺気で満たして、気流と戯れるように眉間に木刀を翳す。  
 「獄にて私利私欲を貪り尽くす餓鬼めが。命乞いなど言語道断。お前がこれまで直にしてきたことを思えば釣りがくる」 
 「ぎゃっ、ぐ」
 一回、二回、三回、三回、四回、五回。
 「痛いか。苦しいか。その痛み苦しみ、とく噛み締めて冥途の土産としろ」
 タジマの返り血が顔に跳ねてもサムライは眉一筋動かさず鉄面皮を保つ。
 六回、七回、八回、九回、十回……
 無造作に木刀を振り下ろす。タジマが床に這いくばり顔掻き毟り痙攣をはじめても打擲をやめず、次第に勢いを増して。
 「血があ、血がこんなに……いてえよう畜生、血が目に入って見えねえよう」
 「お前が味わう痛み苦しみなど取るに足らぬものだ。直のそれと比べたら釣りが来る」
 サムライは本気でタジマを殺す気だ。一万人の大群衆が息を詰めて見守る前で、鍵屋崎と安田とロンが身近に見守る前で殴り殺す気だ。
 「もっとはやくこうすべきだった」
 苦渋に満ちた独白。悔恨と自責に苛まれて、目に悲哀を宿してサムライが言う。自分こそが地獄の業火に灼かれてるように痛切に顔を歪めて。
 「俺は躊躇すべきではなかった。もっと早くに剣をとるべきだった、お前を斬るべきだった。俺は馬鹿だ。どうしようもない愚か者だ。直がお前になにをされてるか知らずに、守る守るとただそればかりを経文のごとく繰り返していた。それどころか、俺は満足すら感じていたのだ。今度こそは間に合ったと、手遅れになる前に間に合ったと……想いを懸けた人間が業火に焼き尽くされて灰燼に帰す前に、炎に手を入れて地獄から引き上げることができたと」
 頬に返り血が跳ねる。タジマの返り血を浴びて朱に染まったサムライが、口の端に笑みらしきものを浮かべる。
 だがそれは、笑みというにはあまりに儚くて。あまりに暗く、救いがなくて。
 虚無の深淵が開くような笑顔だった。
 「とんだ思い違いだ。直はまだ、地獄にいるじゃないか」
 「あ、あしがああっあっああ!?」
 タジマの体が跳ね、首が仰け反る。左腕と右足が折れ、逆方向に曲がる。骨が折れ砕けた手足をひきずり、毛虫めいた動きでサムライから逃げるタジマを目の当たりにし、野次馬どもが悲鳴をあげて逃げ惑う。大恐慌。肩を突き飛ばされ頭を小突かれて人ごみに揉みくちゃにされて、それでも足が竦んで動けずに、僕はビバリーに抱き付いていた。サムライの手に握られてるのはただの木刀だ、人を斬り殺すなんて到底できない木刀だ。でも、サムライの手を介して殺気が通った木刀は、外見はそのままに本質が真剣に変異したかの如く異様な迫力があった。
 「俺の手が焼け爛れようとも助けだすつもりだったのに」
 これが最後だと直感した。
 サムライが瞼をおろし、また開く。左手で柄を掴み右手を添えた上段の構え。足を折られたタジマは立ちあがれない、逃げ出せない。もがいてもがいてもがき苦しんで、のたうちまわって唾液の泡を噴いて、「ひいいいィいい」と断末魔をあげる。極限まで目を剥いたタジマの顔に不気味な影が落ちる。
 サムライの影絵がゆっくりと動く―……
 「もういいサムライ、やめてくれ!」  
 「!」
 鍵屋崎がサムライの背中に抱きつく。サムライの腕から木刀を取り上げようと必死に指をこじ開けにかかる。
 「止めるな直、この男を斬らせてくれ!」
 鍵屋崎を振りほどこうとサムライが悲痛に叫ぶ。
 「今ここでタジマを斬らねば俺は一生後悔する!俺はタジマが許せん、この男が許せん!!タジマがお前にしたことを聞いて腸が煮えくり返った、いや、そんな生易しいものではない、地獄の業火に灼かれたほうがまだマシだとおもえる熱が体の奥底から噴き上げてきた!お前を傷付けたタジマが許せん、お前を苦しめたタジマが許せん!!」
 「武士の誇りはどこにやった、無抵抗の人間を殺すつもりか!?武士の信念を放棄してまでこんな男殺す価値もない、君がそこまですることはない!!」
 「お前を抱きながら誓った、いつか必ずタジマを殺すと!!」
 激しく揉みあううちにサムライの手から木刀がこぼれ、頭を抱え込んだタジマのそばへと転がる。激昂したサムライが鍵屋崎の肩を掴む。
 強く強く、力をこめ。
 「あの夜俺は誓った、いつか必ずタジマをこの手で殺すと、さんざんお前を苦しめてお前の誇りを汚したタジマをこの世から葬り去ると!それが今だ。武士の誇りがなんだ、信念がなんだ。お前の傷を癒せぬ誇りなど要らん、お前を地獄から救えぬ信念など要らん!俺には武士であることよりお前の友人であることのほうが大事だ、俺は武士の前に友でありたい、お前を守れる友でいたい!!」
 鍵屋崎の肩を掴んで引き剥がし、木刀を拾い上げたサムライの行く手に両手を広げて回りこむ。
 はからずもタジマを背に庇うように立ち塞がった鍵屋崎をどかそうと肩に手をかける。

 「何故わからない、お前を守りたいのに!」
 「守ってなんかくれなくていい、嫌わないでいてさえくれればそれでいい!!」 

 木刀が指をすりぬける。
 サムライの胸に体重を任せ、必死に縋り付く。サムライのシャツを掴み、胸に顔を埋め、深呼吸する。
 「僕は、怖かったんだ」
 鍵屋崎の肩は震えていた。鍵屋崎は怯えていた。
 サムライを失うかもしれない恐怖に。
 「ただ、怖かったんだ。生まれて初めて出来た友人に軽蔑されるのが、事実を暴露されるのが。君に嫌われるのが怖かったんだ。さっき僕は、タジマを殺してもいいと思った。こんな男死んで当然だと思った。僕にはもう失う物などなにもないから、タジマを殺したところで失うものなど何もないから、今なら引き金を引けると思った」
 サムライの胸をこぶしで叩き、きっぱりとかぶりを振る。
 「大間違いだ。天才にあるまじき思い違いだ。失う物がなにもないだって?とんでもない。あるじゃないか、ここに。いるじゃないか、ここに。
 僕が引き金を引けば、その瞬間にすべてが終わる。
 僕が今まで築き上げた君との関係、君と積み重ねた記憶のすべてが一切合財砕け散ってしまう。跡形もなく終わってしまう。
 人を殺すとはそういうことだ。自分の手で、自分のこれまでを否定することだ。鍵屋崎夫妻を殺した時と同じだ。鍵屋崎夫妻を殺した瞬間に彼らの息子じゃなくなった、カギヤザキスグルじゃなくなった、恵の兄でいられなくなった。さっき僕は、それと同じことをしようとしてたんだ」
 嗚咽にかすれた声で訴え、サムライの胸に顔を伏せる。
 サムライはしばらく茫然自失の体で立ち竦んでいた。木刀を拾い上げる気はなく、殺気も霧散していた。 
 肩を手で庇った安田が、包帯のほどけたロンが息を呑んで見守る前で、胸に縋り付く鍵屋崎の肩に手をかけるサムライ。
 引き離すためではなく、包むために。
 「僕を否定するのか、サムライ。君がかつて帯刀貢を否定したように、帯刀貢という名のもう一人の自分を切り捨てたように、僕たちのこれまでを否定するつもりか?僕たちの関係を断ち切るつもりか。そんなことは認めない絶対に。これからもずっと、君は僕の友人だ。タジマの口から真相を暴露された今でも僕を嫌わないでさえいてくれるなら、君はこれからもずっと、僕の……」
 顔を上げ、まっすぐにサムライの目を見る。
 挑むように、祈るように、縋るように。
 ぼろぼろに傷付いた素顔を曝け出して、真実を曝け出して。
 
 「僕の、サムライだ」
 「お前は俺の、直だ」 
 
 満場の観衆が見守る中、ロンと安田が見守る中、僕とビバリーが見守る中。
 
 「俺の直だ」

 サムライは鍵屋崎を抱きしめた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050723215318 | 編集

 鍵屋崎とサムライが抱き合ってる。
 「僕のサムライだ」
 「俺の直だ」
 鍵屋崎はサムライを所有格で語る。サムライもまた鍵屋崎を所有格で語る。
 お互いを所有格で呼び合う鍵屋崎とサムライの距離が接近、視線が絡み合う。
 サムライの腕に身を任せた鍵屋崎が安らかな顔で瞼を閉じる。
 鍵屋崎のこんな穏やかな顔、初めて見た。俺が知ってる鍵屋崎はいつも感情の薄い無表情か眉間に皺寄せた気難しいしかめ面で、笑顔を見せることはおろか無表情を崩すことだって滅多にないのに、サムライに抱擁された鍵屋崎は安堵に頬緩ませてあるかなしかの微笑すら湛えていた。
 瞬き一つで吹き消されてしまいそうな儚い微笑だった。
 「俺の直だ」
 ゆっくりと噛み締めるようにサムライが繰り返す。心に沁み込むように重たい言葉。
 そして、鍵屋崎の肩に腕を回す。最初は優しく加減して、徐徐に力をこめて抱きすくめる。他の誰にも鍵屋崎を渡さないと決意するかのように、他の誰にも鍵屋崎を抱かせないと決心するかのように、力強く。
 細く華奢な鍵屋崎の肩を腕に包み込み、しっかりと抱き寄せる。サムライの胸に顔を埋める恰好になった鍵屋崎は、サムライのシャツの胸を掴み、ただ黙って首をうなだれていた。
 細く華奢な肩がかすかに震えているのは、残りわずかな自制心を振り絞って嗚咽を堪えているからだろうか。人前で声をあげて泣くなどみっともない、恥ずかしい。異常にプライドの高い鍵屋崎はそう自分に言い聞かせて、サムライの胸に顔を伏せて涙を拭いていた。
 全身の関節痛も忘れ、呆けきったようにリングに立ち尽くして二人の抱擁を凝視しながら、鍵屋崎にもこんな優しい顔ができるのかと意外に思った。
 虚勢がすっかり剥げ落ちたあとに残ったのは、ひどく脆くて傷付きやすい繊細な素顔。
 特別に心を許した人間にだけ見せる素顔。
 サムライの胸に必死に縋り付く鍵屋崎の背中はあまりに孤独で痛々しくて、今まで塞き止めていた感情が堰を切って溢れ出して、鍵屋崎自身を翻弄してるみたいだった。傷付き疲れ果てぼろぼろとなった鍵屋崎を、サムライは迷うことなく迎え入れた。武士の命の木刀を惜しげもなく放り出してまで、自分に許しを乞うた鍵屋崎を選んだのだ。
 サムライの胸に身を委ねた鍵屋崎の肩に腕を回し、体を摺り寄せる。長身のサムライが鍵屋崎を抱擁すると背中を丸める恰好になる。いつもぴんと伸びた、人ごみでもすぐにわかる真っ直ぐな姿勢が、今この時ばかりは前屈みになっていた。俺にはサムライが一人の男に見えた。一振りの刀に信念を賭して戦いぬく孤高の武士じゃない、そんな偉いもんじゃない、どこにでもいるただの男に見えた。

 ああ、そうか。
 鍵屋崎の前でだけ、サムライはただの男に戻れるんだ。
 武士の虚勢を捨てて、ありのままの自分を曝け出せるんだ。
 傷付き疲れ果てぼろぼろとなったありのままの自分を曝け出して、鍵屋崎の傷を癒すことができるんだ。

 「……………恥ずかしい奴ら」
 惚気にあてられたのか、一万人の大群衆がぽかんと口を開けて凝視する前で、鍵屋崎とサムライはまだ抱き合っていた。お互いの体に腕を回して、もう二度と離れたくないといった具合に互いのぬくもりを貪っていた。あんまり長く抱き合ってるもんだからじっと見てるのがうしろめたくなった。
 別に野郎同士が抱き合ってる場面見て興奮してるわけじゃない、むらむらするわけがない。
 当たり前だ、俺はまともだ。けど、鍵屋崎とサムライは俺たちすっかり置いてけぼりにして二人の世界に没入してる。サムライには鍵屋崎しか見えてないし鍵屋崎にはサムライしか見えてない。盲目。長い長い回り道を経て漸く結ばれた二人は、一万人の大群衆にじろじろ見られてようが、安田が焦れようがお構いなしに熱い抱擁を続けてる。おい、ちょっとは周りの連中のことも考えろっての。
 ああもう、尻がむず痒い。
 「ん?」
 目のやり場に困ってそっぽを向けば、耳朶にふれる衣擦れの音。
 床に突っ伏した安田が肘を使って移動している。
 目指すは5メートル先の銃の落下地点。額に大量の汗を滲ませ、撃たれた肩を庇い、じりじりと銃の落下地点に這いずってく安田に注目する人間はいない。野次馬どもの注意はサムライと鍵屋崎が引きつけてくれてる。今ならイケる。絶好のチャンス。
 安田の応援に行こうと反射的に駆け出す。
 こうしてずっと蚊帳の外にいても埒があかない。勝手にやってろお二人さん。二人の世界を邪魔する気は毛頭ないが、状況が状況だ。ぼけっと突っ立ってラブシーン見物するよかやるべきことがあるはずだ。
 「怪我人は大人しく寝てろ、銃なら俺が取ってくる!」
 無理が祟って副所長に失血死されちゃ元も子もないと激しくかぶりを振る。
 安田は肩を撃たれて怪我してる、肘を使って遅々と這いずりながら激痛に顔をしかめてる。安田が這いずったあとに点々と落ちた血痕を飛び越えてあっというまに安田を追い越す。銃はすぐそこだ、手を伸ばせた届く距離だ。ずきずき疼く肋骨を押さえ、片手をおもいきり銃へと伸ばす。こんな物騒なもんが人目につくとこに転がってたらまた面倒なことになる。
 早いとこ安田に返さなきゃ……

 「!?」
 驚愕。眼前から銃が消失。

 何が起きたか咄嗟に理解できず、はじかれたように顔を上げた俺の目に映ったのは意外な人物。五十嵐。いつからそこにいたのか全然気付かなかった。多分、サムライがタジマを滅多打ちしてるどさくさに倒れた金網を踏んで乗り込んだんだろう。やばい。理屈じゃなくそう感じた、直感した。俺の指先が触れる寸前に強引に銃をひったくった五十嵐の目は狂気を宿して爛々と輝いていた。様子が普通じゃない、完全にイッちまってる。これが本当にあの五十嵐か、俺が知ってる五十嵐と同一人物なのかと気が動転する。
 分け隔てなく囚人に接してくれる親切な看守、東京プリズンでいちばんお人よしな看守。
 その五十嵐がなんで俺の手から拳銃をひったくった、怖い顔して銃を取り上げた?
 その銃で一体全体なにをする気なんだ。
 「五十嵐おま、」
 言葉が途切れて語尾が宙吊りになる。五十嵐が考えてることがわからずに当惑の度を深めた俺の肘が勢い良く引かれる。誰だ?後ろから肘を引かれ、足が縺れてバランスを崩す。肘に巻いた包帯がほどけてそよいで視界を過ぎる。
 「伏せろ!」
 視界にたなびく包帯の向こう側で声がする。叫んだのは鍵屋崎。ということは、俺の肘を引いたのも?振り返って確かめる暇もなく、後頭部を押さえこまれて顔を伏せられる。視界がめまぐるしく反転する。ゴン、と鈍い音とともに衝撃が下顎を突き抜ける。鍵屋崎の手に押さえ込まれて顎を強打したのだ。
 間一髪、舌を噛まなくてよかった。
 「この野郎どういうつもりだ邪魔すんな、サムライと乳繰りあってろ!」
 「心外だな乳繰りあってなどいない軽く抱擁しただけだ、それより頭を伏せておけ!」
 ひりひり疼く顎を持ち上げて罵倒すれば即座に言い返される。咄嗟に俺を庇って背中に覆い被さった鍵屋崎が真剣な面持ちで正面を凝視、つられて顔を上げた俺は衝撃のあまり言葉を失う。

 五十嵐がいた。
 そして、ヨンイルがいた。

 どこから潜りこんだのか……いや、側面の金網が開放されて誰でも出入り自由でヨンイルがいてもおかしくないわけだがこんな修羅場にひょっこり顔だすなんて飛んで火にいる夏の虫じゃねえか。道化は真性の馬鹿か?胸ぐら掴んで説教してやりたいが、鍵屋崎に押さえこまれてちゃそうもいかない。
 くそ、東京プリズンの囚人は死にたがりか?命を粗末にしやがって!
 銃を手にゆっくりと立ち上がった五十嵐は奇妙な笑みを浮かべていた。自我が崩壊していく音が聞こえそうな奈落の笑顔だった。五十嵐はおしまいだ、と耳の裏側でだれかが囁く。五十嵐は自分から破滅の道を選んでまっしぐらに突っ走って、もう引き返せないところまで来ちまったと頭の回転が鈍い俺にも漸く呑みこめてきた。
 「今日でペア戦はおしまいだ」
 「五十嵐看守、銃を渡せ」
 「ちょうどいい機会だ。俺とお前の因縁にも、今日で蹴りつけようぜ」
 「五十嵐看守、誰の許可を得て銃を所持している?それは私の銃だ、私が護身用に携帯してる銃だ。銃を紛失したのは私の落ち度だと全面的に認める。言い訳はしない、今回の不祥事についてはどんな処分も甘んじて受けるつもりだ。だが、私から奪った銃を囚人に向けたと発覚すれば……君とてただでは済まないぞ」
 必死の説得を試みる安田の肩に鮮血が滲む。背広を真っ赤に濡らして腕を染め上げる鮮血が肩に穿たれた銃創の深さを物語っている。床に突っ伏した姿勢から片肘ついて上体を起こし、焦慮に揉まれた苦悩の表情で五十嵐を振り仰ぐ。眼鏡をとると若く見えるな、なんてどうでもいい発見に驚いてる場合じゃない。
 「今ならまだ間に合う、死傷者がでてない今なら君の行動を不問に伏すことができる。銃を返せ、五十嵐。副所長命令だ」
 抑圧した声音で安田が言い、最大の切り札を発動する。だが、五十嵐は動じない。情緒不安定に揺れ動く目と口元の曖昧な微笑は、五十嵐がもはや完全に俺の手の届かないとこに行っちまったと告げていた。
 「『まだ間に合う』だって?違いますよ福所長。もう全部終わってるんですよ。五年前、リカが死んだときに」
 淡々と語りながら体ごとヨンイルに向き直り、銃口を定める。ヨンイルは逃げなかった。恐怖で足が竦んでるわけでも戦慄に顔を強張らせるわけでもなく、目に複雑な色を湛えて弾道に身を曝していた。
 ヨンイルは何故か上半身裸で、あちこちに爪で引っ掻かれた痕ができて血が滲んでいた。痛そうだった。
 刺青が彫られた上半身を外気に晒したヨンイルは、体の脇に腕をたらし、無防備に弾道に立ち竦んでいた。逃げも隠れもせず潔く無抵抗に、五十嵐が向けた銃口の前に立ち、煌煌と照明を浴びていた。
 俺にはヨンイルが全く知らない人間に見えた。ヨンイルのこんなマジな顔、初めて見た。銃口を越えて五十嵐へと注ぐ眼差しは酷く大人びて諦念の色さえ含んでいた。
 「俺の中では五年も前にとっくに終わってるんですよ」
 右腕を水平に保ち、ヨンイルに照準を定める。満場の観衆が急展開に息を呑む。暗がりに沈んだ地下停留場に走るどよめき、混沌と渦巻く不穏な気配。俺もさっぱりわけわからないが、檻の外で見物してる野次馬はもっとわけわからないはずだ。
 なんでどうして五十嵐がヨンイルに銃を向けている、平の看守が囚人に銃を向けている?野次馬どもの思惑の外で着々と進行してるのは誰もが予期しない現実、理解を超えた出来事。
 あの五十嵐が、優しくて頼りになる看守の五十嵐が、囚人に銃を向けるなんてあっちゃならない絶対に。
 腐った看守ばかりの東京プリズンでただ一人五十嵐だけは自分たちの味方だと信じてたのに、その五十嵐があろうことかヨンイルに銃をつきつけてる。
 「わけわかんねえ、意味不明だ。なんで五十嵐が銃なんか持ってんだよ、ヨンイル撃とうとしてんだよ」
 「なにかの間違いだろ?そうだよきっと、あの五十嵐が人殺せるわけねえ、虫も殺せねえお人よしなのに……悪い夢だよなきっと。だった俺、五十嵐にエロ本調達してもらったことあるのに。内緒だぜって煙草もらったことあるのに」
 「バスケの審判頼んだら二つ返事で引きうけてくれて」
 「外から来た手紙で兄貴が死んだって聞かされて俺が泣いてた時だって、ずっと一緒にいてくれたのに」
 「五十嵐が囚人に銃向けるなんて嘘だよな。悪い冗談だよな。おいだれか、頬抓ってくれよ……痛てえッ!?」 
 地下停留場に参じた囚人のあいだに波紋が広がる。動揺、当惑、驚愕。誰も皆信じられないといった放心の表情で五十嵐を仰いでいる。どよめきはどんどん大きくなる。
 「五十嵐、嘘だよなこんなのって!お前が囚人に銃向けるなんて嘘だ、お前は、お前だけはいつもいつだって俺たちの味方でいてくれるって信じてたのに!くそったれの看守ばかりの東京プリズンでお前だけは俺たち囚人の気持ちになってくれるって信じてたのに……畜生がっ!」
 「看守なんか信じるんじゃなかった、地獄に仏なんかいるはずねえのに」
 「最悪の裏切りだ。人のいいツラして俺たちに近付いて信頼勝ち取って、挙句にこれかよ。こんなしまらねえオチかよ。卑怯者、裏切り者。あんたのこと、信じてたのに。東京プリズンでたった一人、俺たちのこと人間扱いしてくれる看守だってマジで尊敬してたのによ!」
 喧々囂々浴びせられる罵声と非難。東京プリズンの囚人で五十嵐に一度も世話になったことない奴なんかいない、多かれ少なかれ五十嵐に好感もってない奴もいない。けど、五十嵐は俺たちを裏切った。現にヨンイルに銃を向けてるのがその証拠。五十嵐に失望した囚人どもが怒りに駆られて最前列に殺到、語彙の限りを尽くして口汚く罵倒する。
 「だんまり決め込んでねえでなんとか言えよ五十嵐、反論してみろよ!」
 「最初からそのつもりで、俺たち裏切るつもりで優しくしてたってのかよ!」
 「俺に煙草くれたのもエロ本くれたのもキャラメルくれたのも全部嘘だってのかよ、クソ野郎!!」
 悲痛な顔で吠えたてるガキどものうち何人かは目に涙を浮かべていた。五十嵐の裏切りに酷く傷付いて、虚勢を装う余裕もなくなったんだろう。
 五十嵐の裏切りに衝撃を受けたガキどもが癇癪を起こして金網を殴り付ける、蹴り付ける。暴動。地下停留場に配置した看守は役に立たない、囚人の勢いに流されてあっちへこっちへ右往左往するばかりだ。最悪の展開。地下停留場には現在一万人以上の大群衆がいてそれは実に東京プリズンの収容人数の九割を占めて、地下停留場で暴動が起きたらいくら無能な看守を寄せ集めたところで収拾がつかないのだ。
 鬼に金棒、看守に警棒なんて言うが看守が死に物狂いで警棒を振るったところでいったんブチギレた囚人は止められない。
 「お前なんか死んじまえ!」
 ガキがペットボトルを投げる。
 金網を軽々と越えたペットボトルが五十嵐の背中に衝突、鈍い音が鳴る。
 それを皮きりに五十嵐めがけて投げられる無数のペットボトル。地下停留場を揺るがす「死ね死ね」の大合唱とともに、何十本ものペットボトルが放物線を描いて宙を舞い、五十嵐の肩や背中や腹や足にぶつかる。
 「うわっ!?」
 頭を抱え込んで床に伏せる。視界の端を颯爽と走りぬけた人影はサムライで、床に倒れ伏した安田の前に回りこむや、頭上に落ちてきたペットボトルを一つ残らず木刀で弾き返す。
 「……面倒なことになったな。本格的に暴動が始まりそうだ」
 「冷静に言ってる場合かよ、こんなとこで暴動が起きたら最後十人や二十人の死人じゃすまないぜ!?」
 こんな時まで落ち着き払った鍵屋崎にいらつく。
 鍵屋崎にあたってもしかたないと頭じゃわかってるがむかつくんだからしょうがない。くそ、漸くペア戦が終わったのに、100人抜き達成したってのに、あとからあとから問題が持ち上がりやがる!俺だって一刻も早くレイジのとこに飛んでいきたいのを我慢して、まんじりともせずリングに伏せってるってのに……
 「鍵屋崎どういうことだよ、さっぱりわかんねーよ!なんだって五十嵐がヨンイルに銃向けてるんだ、二人のあいだに何あったんだよ!?」
 「五十嵐はヨンイルを憎んでいる。殺したいほどに」
 「ヨンイルが図書室の本私物化して勝手に持ち出したり房にためこむのに腹立てて?心狭いな、手塚好き同士仲良くやれよ!」
 鍵屋崎の腕に頭を敷かれたまま叫び返す。背中に覆い被さった鍵屋崎は、片方割れたレンズ越しに五十嵐の様子を隙なく探っていた。油断ない眼光。
 四囲から厳しく責め立てられて窮地に追い込まれた五十嵐は、それでも銃口を下ろさず、執拗にヨンイルだけを見つめていた。

 ぞっと二の腕が鳥肌立った。

 「五十嵐にはヨンイルを殺す動機がある」
 動機?なんだよそれ。五十嵐とヨンイルとを素早く見比べる。
 1メートルの距離を隔てて対峙する五十嵐とヨンイルの間には、部外者が入りこめない異常な緊迫感が立ち込めていた。殺気と言い換えてもいい。ヨンイルと五十嵐の周囲だけ重力が増してるかのように息苦しくて、おいそれと近付くこともできない。
 「五十嵐は……」
 「お前のこと実の親父みてえに思ってたのに!!」
 絶叫。檻の外、最前列に控えた囚人が大きく腕を振りかぶり、渾身の力を込めてペットボトルを投げる。あっ、と叫ぶ間もなかった。
 長大な放物線を描いて金網を飛び越えたペットボトルが、五十嵐の後頭部に激突。
 唐突に、あたりが水を打ったように静まり返る。
 全身水浸しとなった五十嵐が、廃人めいて緩慢に顔をもたげる。
 「俺だって、父親でいたかったさ。父親になりたかったさ」
 暗い穴のような目を虚空に凝らす。深い深い虚無を湛えた目。それまで口汚く五十嵐を罵倒してた連中が金縛りにあったように硬直する。
 暴動が止む。一万人の大群衆が息を詰めて凝視する中、五十嵐が疲れたようにため息をつく。
 「俺は、ずっと父親でいたかった。でも、駄目だった。リカは五年前に死んじまった。気違いどもが首謀した馬鹿げたテロに巻き込まれて殺されちまった。韓国併合三十周年を祝うパレードを見に行って、偶然あのテロに巻き込まれちまったんだよ。まだ十一歳だったのに」
 一気に老け込んだようにかぶりを振る。地下停留場に居合わせた観客全員が五十嵐の言葉に集中していた。凱も売春班の連中も、鍵屋崎もサムライも安田も俺も固唾を飲んで五十嵐の告白を聞いていた。

 いや、違う。これは……告発。
 五十嵐は、ヨンイルを告発してるのだ。

 「長かった。この五年間ずっと、死んだように生きてきた。飯食っても味がわかんなくて、テレビ見ても面白いと感じなくて、寝ても疲れがとれなくて、そんな毎日が延々と続いた。楽しいとか嬉しいとか幸せだとか、リカがいた頃はすぐそこに転がってたもんがいつのまにか手の届かないところに行っちまって、気付いたら俺はひとりきりだった。
 誰を恨んだらいいのかわかんなくて、誰に気持ちをぶつけたらいいかもわかんなくて、袋小路に迷い込んでぐるぐる同じところを回ってた。
 自分が垂れたクソのまわりを堂々巡りする犬とおなじことを五年間も続けてたんだ」
 五十嵐がふっと微笑む。
 「けど、お前に会って世界がひっくり返った。俺はリカの父親として、最後にやるべきことを見つけたんだ。リカが死んだとき、俺はなにもできなかった。馬鹿みたいに口開けてテレビの前に突っ立って、滅茶苦茶に引っ掻きまわされたパレードの惨状見てるしかなかった。でも、今なら」
 五十嵐が深呼吸、ヨンイルをひたと正視。
 「今ならできる。やれる。お前を殺してリカの父親に戻ることができる」
 「五十嵐の娘はヨンイルに殺されたんだ」
 痛ましげにヨンイルと五十嵐を見比べて鍵屋崎が囁く。
 「ヨンイルは元KIAの一員で祖父ともども爆弾作りを請け負っていた。ヨンイルが製造した爆弾は五年前、韓国併合三十周年を祝うパレードで使われて大量の死傷者をだした。その中にちょうど修学旅行に出かけてた五十嵐の娘が混じってたんだ」   
 「!んなまさか、偶然にしたって出来すぎ……」
 「だが、事実だ」
 鍵屋崎がきっぱり断言する。
 「五十嵐はヨンイルを憎んでいる。ヨンイルは娘の仇、パレードの最中に爆弾をばらまいて祝祭を惨劇に塗り替えたKIAの元メンバーだ。間接的に娘を殺した犯人だ。五十嵐がヨンイルを殺す動機は単純明解な一語に尽きる………『復讐』だ」
 衝撃の真相を知らされ、会場がざわつく。五十嵐とヨンイルの因縁が開示されて誰も彼もが衝撃を受けていた。安田もこの事実は知らなかったのだろう、サムライに肩を貸されて立ち上がりながら愕然と呟く。
 「本当か、五十嵐看守。君の娘が五年前のテロの犠牲者というのは……」
 「本当ですよ。副所長もご存じなかったんですか?」
 サムライに肩を貸されて立ち上がった安田を一瞥、自嘲の笑みを覗かせる。
 「……無理もねえか。俺が東京プリズンに左遷されたのは、リカが死んでからやけになって荒んだ生活してたから。五年前はまさか俺が東京プリズンに来る羽目になるなんて思ってもみなかった。
 俺が東京プリズンに左遷されたのは皮肉な偶然、ムショで不祥事起こした看守が厄介払いされるとこって言ったらここしかねえ。同僚殴り付けて左遷された平看守の資料に洗いざらい目を通すような物好きいるはずねえ。副所長のあんただって例外じゃねえ、まさか俺とこいつの間にこんな因縁あるなんざ思いもしなかったはずだ。
 誰も彼もが見落として気付きもしなかった盲点って奴さ。ここの管理体制は杜撰だから、往々にしてそういうことがありえる。世間様じゃあっちゃならねえことが悉くありえる、それがここ東京プリズンだ!」
 「……面目ない、すべて私の落ち度だ。責任は私がとる」
 サムライの肩に凭れ掛かり、殊勝に顔を伏せる安田。
 「しかし、責められるべきは私であって彼ではない。ヨンイルは確かに過去KIAに身を置いて爆弾を作っていた、ヨンイルの爆弾で多くの犠牲者がでたのは事実。だがそれは不可抗力だった、ヨンイルは何も知らず、深く考えずに爆弾を作っていたんだ。物心ついた頃からKIAの監視下に置かれて、爆弾作りの師たる祖父の影響もあって……」
 「黙れ!!」
 それ以上聞きたくないと五十嵐が激しくかぶりを振る。 
 「『何も知らなかった』?そんな繰り言は聞き飽きたぜ。何も知らなけりゃ罪にならねえってのか、人を殺しても悪くねえってのか。はっ、万能の言い訳だな」
 銃を構えた五十嵐が大股にヨンイルに歩み寄り、会場に緊張が走る。反射的に駆け出しかけた安田をサムライが引き止める。賢明な判断だ。肩に怪我した安田が止めに入ったところで五十嵐に撃たれて即死するのがオチだ。
 「五十嵐のヤツ、マジでヨンイルを撃つつもりか?一万人がいる地下停留場で、リングの上でずどんと殺るつもりか。自分の手で看守生命断ち切ってヨンイルに復讐するつもりかよ」
 五十嵐を止めなきゃと気ばかり焦って体が動かない。いや、体が動かないのは単純に上に鍵屋崎が乗っかってるせいだ。くそ、重いっつの!じたばた暴れる俺を背中に乗って押さえこみ、鍵屋崎が説明する。
 「目を見てわからないのか?五十嵐は本気だ。本気でヨンイルに復讐するつもり、娘の仇を討つつもりだ。さっき裏通路で聞こえた銃声とリング上で発砲した回数を合わせて……残りの弾丸はあと三発。1メートル以内の至近距離で外れる確率は0.1%以下だ。ヨンイルは確実に死ぬ」
 死。俺が手も足もでず見てる前でヨンイルが死ぬ、五十嵐に撃たれて死んじまう?
 頭からさっと血の気が引く。
 ヨンイル。なれなれしくて図々しいヤツ。あけっぴろげな笑顔に似合いのやかましい笑い声。入院中で退屈してた俺のもとに大量の漫画を持ち込んで長時間居座って……でも、あれはあいつなりに気を利かしてくれたからで。
 五十嵐。凱の子分どもにさんざん小突かれてぼろぼろになって、とぼとぼ歩いてた俺に声かけて、麻雀牌を恵んでくれた。いつもひとりぼっちでいた俺のこと心配して何くれと良くしてくれた。
 五十嵐がヨンイルを殺すなんて、嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 「くそっ……どうにかなんねえのかよ、五十嵐から銃取り返すことできねえのかよ!?俺はまた何もできず見てるしかないのかよ、レイジの試合の時みたいにただ黙って見てるしかねえのかよ!」
 自分の無力が歯痒い。悔しい。鍵屋崎に押さえ込まれた俺が指一本意思通りに動かせず見守る中、五十嵐とヨンイルの距離は着実に狭まっていく。
 一歩、また一歩と五十嵐が進むごとに緊張が高まり張り詰めた静けさがいや増す。
 俺の耳に届くのは荒い息遣いと衣擦れの音、規則的な靴音だけ。サムライに抱かれた安田はひどく困憊した様子で、顔色は真っ青で、早く処置しなきゃ本格的にやばそうだった。安田を担いだサムライは、いつでも五十嵐にとびかかれるよう隙なく木刀を構えていた。俺の上にのしかかった鍵屋崎は非常な集中力でもって五十嵐を探っていた。
 靴音が止む。 
 とうとう五十嵐が立ちどまる。
 「服を脱げ」
 「は?」
 五十嵐が発した命令に耳を疑う。だってヨンイルは、既に上半身裸になってるじゃないか。この上何を脱げと……五十嵐の言動を不審がりつつ視線を下ろし、硬直する。ヨンイルも同じことに思い至ったんだろう、驚きに目を剥いて五十嵐を見上げる。 
 その胸を銃口で小突き、重ねて命じる。
 「全裸になれ」
 まさか。
 一万人の群集が熱っぽく見つめる前で、ヨンイルに全裸になれってのか?
 上も下も脱いで素っ裸になれってのか?
 ヨンイルが躊躇する。当たり前だ、一万人の群集が息を詰めて凝視する中で素っ裸になれと言われたら抵抗を覚えるに決まってる。
 「……アホらしい。そんなに裸見たいなら自分で脱がせばええやん、なんで俺が自分から恥かきにいかなあかんのや」
 無理難題を押し付ける五十嵐への反抗心がもたげて、わずかに顔を赤らめてヨンイルが吠える。
 「撃たれたいか?命令に従え」
 「嫌じゃボケ」
 「口が減らねえな」
 噛みつくように返すヨンイルに五十嵐が苦笑、きょろきょろと視線をさまよわせる。五十嵐の視線がヨンイルから逸れてリングの隅に落ちる。つられてそっちを向いた俺の目にとびこんできたのは……
 ブラックジャックの単行本。
 「しまった。回収し忘れていた」
 リングに放置された単行本は鍵屋崎が持参したものだった。目に見えて顔色の変わったヨンイルから単行本へと銃口を転じ、五十嵐が低く言う。
 「命より大事なブラックジャックに穴が開いてもいいのかよ」
 「ブラックジャックを人質にとるとは卑怯な!」
 「待て、お前本気で言ってんのか?あとアレ人質じゃなくて本質だろ!?」
 くそっ、つまんねえこと言っちまった。気色ばんだ鍵屋崎の視線の先、単行本に銃を向けた五十嵐が、ヨンイルの表情を横目で探りながら引き金に指をかける。
 究極の二択の葛藤に揺れ動き、苦悩を深めるヨンイルを挑発。
 「どうした?さっき言ったよな、お前にとって大事なもんは漫画だけだって。なら漫画のために命賭けて体張ってみろよ、さっきの言葉が嘘じゃねえって一万人の群衆が見てる前で証明してみろよ。それともアレは嘘か、漫画のために命張れるってありゃあその場凌ぎのハッタリかよ。西の道化が漫画に捧げる情熱とやらはその程度のモンだったのか。手塚治虫もがっかりだな」
 「なんやとこら」
 神と崇める手塚治虫の名前をだされ、ヨンイルの目に火がつく。
 「だってそうだろ。漫画が生き甲斐だって豪語したくせに、ここイチバンで漫画の為に体張れないなら嘘じゃねえか。お前本当は漫画なんかどうでもいいんだろ、ただの暇潰しの道具くらいにしか思ってねんだろ、ブラックジャックのことなんか尊敬してねえんだろ。お前が漫画に賭ける情熱なんざ所詮その程度のもんさ、爆弾作りから漫画に鞍替えしたところでお前は……」
 「道化を怒らせよったな」
 何かに憑かれたように饒舌にまくしたてる五十嵐の前で、ヨンイルがズボンに手をかける。檻の外の野次馬がぐっと身を乗り出す。
 ズボンに手をかけて深呼吸を二回、ヨンイルがゆっくり顔を上げる。
 「ブラックジャックのためなら火の中水の中、素っ裸にだってなったるわ。それが俺の生き方じゃ」
 ヨンイルは一気にズボンを脱ぎ去った。下着も一緒に。
 「!!」
 ヨンイルが投げ捨てたズボンとトランクスが顔に落ちかかって、瞬間真っ暗闇に包まれた。どよめき。視界に被さったトランクスを振り落とした俺は、ヨンイルの裸を見て絶句する。

 龍がいた。
  
 燦燦と降り注ぐ照明に鱗一枚一枚が毒々しく照り映える、一頭の龍。
 下肢を螺旋状に絞め上げて腰に巻きついて、引き締まった腹筋に蛇腹をのたうたせて、脇腹から肩へと上昇する龍。
 ヨンイルの体に彫られた刺青の全貌が暴かれた。天からの光を浴びて艶々と輝く鱗一枚一枚が瘴気を噴いてるかのような、それ自体が人知を超えた神通力を宿してるかのような、獰猛なまでの生命力と躍動感に満ちた刺青だった。
 健康的に日焼けした背中には、あぎとを開いた龍の顔が位置していた。
 地下停留場に居合わせた全員がヨンイルの刺青に目を奪われていた。健康的に日焼けした肌と引き締まった体を扇情的に引き立たせる刺青に忘我の境地で見惚れていた。
 素っ裸の股間を隠すでもなく体の脇に腕をたらし、毅然と顎を引き、檻の外を睥睨するヨンイル。
 「さあ、拝め。有り難う目に焼き付けろ。こいつが俺の体に棲んどる龍、道化の身の内に宿る人食い龍や」
 視線が一巡して五十嵐に戻ってくる。五十嵐が無表情に銃口を掲げる。
 「ずっと会いたかったぜ、伊 龍一」
 「おおきに」
 ヨンイルが寂しげに笑う。過去に決別した自分と巡り会ったような、諦念を含んだ笑顔だった。
 五十嵐はヨンイルではなく、ヨンイルを束縛した龍に挨拶していた。かつて自分の娘を含む二千人を食い殺した残忍な人食い龍を、語り尽くせぬ想いを込めて眺めていた。
 「お前と会えてよかったよ。そう思わなきゃ、やってらんねえ」
 ヨンイルの眉間に銃口を埋めて五十嵐が独白する。
 「……俺を殺せば気が済むんやな」
 ヨンイルがため息をつく。いつも能天気なヨンイルらしくなくしんみりした口調だった。額にかけたゴーグルに手をやり、撫でる。俯き加減に黙りこんだヨンイルをひややかに眺め、五十嵐は続ける。
 「ああ、そうだよ。お前を殺せば全部終わる、俺の五年間が終わる。リカの弔いに捧げた五年間がやっと終わるんだ。俺は今日ここに、かつて二千人を食い殺した龍を弔いに来たんだよ」
 なんとかしなきゃ。五十嵐が引き金を引くまであと十秒もない。はやいとこ鍵屋崎の下から抜け出ようと半狂乱でもがく俺の視線の先、五十嵐とヨンイルが互いの目をまっすぐ見つめて言葉を交わす。

 『アンニョンヒ カセヨ』
 『アンニョンヒ ケセヨ』

 韓国語はわからないが、雰囲気で直感した。これは別れの挨拶、逝く人へと告げる最期の言葉。   
 ヨンイルが瞼を閉じる。何もかも全部受け入れた穏やかな顔で。 
 ゴーグルに触れた手を力なく体の脇におろし、ふと思い出したように薄目を開ける。
 「ああ、そうや。最期に一言。十年前に絶版になった手塚治虫の『ガムガムパンチ』読みたかっ、」
 
 最後まで言わせず銃声が轟き、ヨンイルが血を噴いて倒れた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050722213328 | 編集

 均衡を破ったのは一発の銃声。
 「ヨンイル!!」
 ヨンイルが吹っ飛ぶ。たった一瞬の出来事がスローモーションのように脳裏に投影される。
 体感時間はひどく間延びしていた。実際にはヨンイルが吹っ飛ばされて床に倒れるまで三秒にも足らなかった。
 両腕を虚空に差し伸べて後ろ向きに倒れゆくヨンイルの視界に最後に何が映ったのかはわからない。
 ロンの頭を押さえこんでリングに伏せった僕の眼前、手を伸ばせば届く距離でヨンイルは最初から死を覚悟していた。
 遅かった。間に合わなかった。
 「認めないぞこんな展開!」
 ヨンイルの死に際して僕が何もできなかったなんて嘘だ。僕は天才なのに、IQ180の優秀な頭脳を持つ天才なのに、むざむざヨンイルを見殺しにしてしまった。
 ヨンイル。西の道化、図書室のヌシ。
 漫画を読んだことない僕に手塚治虫の素晴らしさを教えてくれた、半ば強引にブラックジャックを貸してくれた。図々しくてなれなれしくて不愉快な男。そうだ、僕はヨンイルのことが嫌いだった。彼のことを常々不愉快に思っていた。饒舌でバイタリティに溢れて、僕のことを事もあろうにちゃん付けして、たかが低脳の分際で天才を愚弄するにも程があると不満を抱いていた。
 だが僕は、いつのまにか彼に親近感を抱き始めていて。
 『ブラックジャックは最高やろ直ちゃん。手塚治虫晩年の傑作や。名エピソードには事欠かないけど俺的ベスト3挙げるなら「コルシカの兄弟」と「勘当息子」と「サギ師志願」で……』
 ヨンイル。
 『ええ加減素直になったらどや直ちゃん。漫画おもろいやろ?新しい世界が拓けたろ。世の中にはまだまだぎょうさんおもろい漫画が埋もれとるんや。俺の野望はな、古今東西の漫画ぜーんぶ読み尽くすことなんや。当面の目標は手塚治虫の著作全冊制覇!東京プリズンに来てから毎日たのしいで、嘘ちゃう、ホンマや。暇な一日漫画読み放題で幸せ噛みしめとる。いつか俺が死ぬときは本に埋もれて大往生したいなあ……』
 「笑わせる」
 ヨンイルが死ぬわけない。こんな現実は認めない。僕はヨンイルの死を全否定する、たとえどれほど可能性が低くても望みが薄くてもヨンイルの生存を祈る。
 弾かれたように跳ね起き、床を蹴る。
 「「鍵屋崎!?」」
 全速力で駆け出した僕をロンとサムライが同時に呼ぶ。だが、止まらない。僕にはヨンイルしか見えていなかった、まわりの光景など見えていなかった。両手に銃を構えて放心した五十嵐の足元、仰向けに寝そべったヨンイルの傍らに屈みこむ。
 「起きろ、道化!」
 ヨンイルは瞼を閉じていた。顔には血飛沫が散っていた。耳元で呼びかけても反応はなく、指一本動かない。額にかけたゴーグルにも血痕が付着していた。死。即死。そんなまさか。そんなことがあってたまるか。ヨンイルの頭を抱えて膝に乗せ、青褪めた顔を覗きこむ。ヨンイルの四肢はだらりと弛緩して無造作に投げ出されて、揃えた膝に頭を抱え上げても瞼はぴくりとも動かなくて。
 「ヨンイル、君は以前言ったな?君の野望は本に埋もれて死ぬことだと、大往生を遂げることだと!ならこんな所で死ぬな、ここは図書室じゃないぞ、君の死に場所じゃないぞ!野望はどうしたんだ、世の中に溢れる古今東西の漫画を読み尽くすという壮大に馬鹿げた野望を放棄していいのか!?」
 「そんな、ヨンイルさんが……畜生、こんなことって!まだ俺ヨンイルさんに恩返ししてないのに!」
 ヨンイル突然の死に西の囚人がどよめく。中には号泣する者もいる。ワンフーが力なく金網に凭れてくずおれる。ヨンイルの死が与えた衝撃で気力が折れた囚人が膝から崩れ落ちる。
 ヨンイルは人望あるトップだった、面倒見がよい性格から西の囚人皆に慕われていた。東西南北のトップでは最も人望と信頼を勝ち得ていた。レイジよりもサーシャよりもホセよりも自棟の囚人に慕われていた親しみやすいトップだった。
 「俺、ヨンイルさんに尻拭いさせてばっかで、何ひとつ返すことできなくて……ヨンイルさんは言ってくれたんだ、俺が出来心で安田の銃スッて、それがバレて落ちこんでるときに背中叩いて励ましてくれたんだ。
 『過ぎたことくよくよ気にすんな。お前の気持ちはわからんでもない、俺かてとおりすがりの古本屋に82年初版ガムガムパンチがおいてあって、手持ちの金足りんかったらスッてまうわ』って……ヨンイルさんらしい微妙な慰め方だけどそれでも嬉しかったんだよ、凛々にも愛想尽かされたどうしようもない俺のこと見捨てないでくれて最高に嬉しかったんだよ!!」
 ワンフーが金網を殴る。最前列に詰めかけた西の囚人が金網にしがみ付き、口々にヨンイルに訴えかける。

 「ヨンイルさん!」
 「ヨンイルさん!」
 「しっかりしてください、こんなオチなしっスよ、ヨンイルさんいつも言ってたじゃないっスか死にオチと夢オチはご法度だって」
 「読者に希望と夢を与えるオチじゃなきゃ俺は認めんて豪語してたじゃないすか」
 「復活してくださいよ」
 「主人公は不死身ってのが漫画のお約束でしょう」
 「一見死んだように見えて実は死んだふりしてるとか、よくある展開じゃないすか」……

 「聞こえるかヨンイル。こんな展開、読者は望んでないぞ」
 声が震える。僕に膝枕されたヨンイルは瞼を開けようともしない。
 ヨンイルは死んだ。
 もう、手遅れだ。
 「あれが、あんなのが遺言か?他にもっと言うことはないのか。君は最期の最後の瞬間まで手塚に未練を残して、自棟の人間のことや僕のことは何も考えてなかったというのか。遺される人間の心情を考慮しなかったというのか?
 なんて配慮の足りない、デリカシーに欠けた人間なんだ。社会不適合者の典型症例だな。現実と漫画を混同するのは君の悪い癖だ。君にとって漫画は現実逃避の手段だった、君は架空の世界に没入することで過去に犯して罪から目を背けた」
 頼む起きてくれヨンイル。
 ヨンイルの肩に手をかけ、最初は弱く、次第に激しく揺り動かす。自問自答は虚しい。君の声が聞けないと寂しい。図書室に君がいないと物足りない。僕はまた君と漫画の話がしたい、手塚治虫について討論したい。
 胸が熱くなる。手が震える。
 ヨンイルの肩を揺さぶり、懸命に呼びかける。
 「また逃げるのか君は?それで罪を償ったつもりか、二千人を殺した罪を龍に着せて自分だけ逃れたつもりか。なんて卑劣な人間なんだ!僕は認めない、死と引き換えた贖罪など欺瞞だ、ただの自己陶酔の自己満足だ!いいかよく聞けヨンイル、君は過去爆弾で二千人を殺した大量殺戮犯だ。
 僕は綺麗事が嫌いだから率直に言う、この世には確かに死んだほうがいい人間がいる、死んだほうが無害な人間が確実に存在する。
 それはおそらく僕で、おそらく君だ。過去二千人を殺した君も、IQ180という恵まれた頭脳を持ちながら両親を殺害した僕も、その他大勢の幸福を望むなら死んだほうがマシな人間には違いないんだ」
 そうだ、僕は死んだほうがいい人間だ。
 恵も僕の死を願っている、僕の死を望んでいる。
 だが僕は、それでも生きていたい。たとえ恵に憎まれても、恵に死ねと言われても、生への執着を捨てきれない。
 死にたくない。死ぬのは怖い。死は未曾有の虚無だ。理解を拒む虚無だ。
 自我が分解される圧倒的な恐怖、想像すら及ばない未知の恐怖。
 いや、違う。僕が死を恐れるのはそんな漠然とした理由だけじゃない、もっと具体的な理由がある。
 「聞け、ヨンイル。僕には友人がいる、仲間がいる。サムライがいてレイジがいてロンがいる。なるほどここは確かに地獄だ。けど、地獄にだって救いはある。一握りの希望がある。僕はそれを信じる!」
 だから目を開けろ。息を吹き返せ。
 ヨンイルの頭をかき抱き、胸に埋める。
 僕は神を信じないが、ヨンイルが心酔する漫画の神なら信じてもいい。

 「手塚治虫の著作を全冊制覇せず逝くなんて、道化の名が廃るぞ!!」

 ブラックジャックを庇って死ぬなんて、ヨンイルらしい死に方かもしれない。道化に似合いの最期、あっけない幕切れ。だが僕はまだヨンイルに死んでほしくない、ヨンイルを失いたくない。僕はヨンイルに親近感を抱き始めたばかりで、これからもっと彼と語り合いたいことがあって……
 ヨンイル。何故死んだ。何故こんなことになった。
 「!………っ」  
 膝に乗せたヨンイルの頭を抱きしめる。ヨンイルの死に顔は眠ってるように安らかだった。いつ瞼を開けてもおかしくないほどに……
 「…………う、」
 「!」
 懐でうめき声がした。驚愕、はっと顔を上げる。僕の腕に抱かれたヨンイルが緩慢に瞼を開ける。芒洋と薄目を開けたヨンイルの眉間を一筋血が伝う。ヨンイルの鼻梁に沿って顎先から滴り落ちた血……
 奇跡が起きた。ヨンイルはまだ死んでいなかった。鼻腔に手を翳して呼吸の有無を確認、シャツに手をおけば胸郭が浅く上下していた。生命反応は微弱だが、ヨンイルはまだ息があった。 
 そして、いくらか冷静さを取り戻した僕は気付いた。
 額のゴーグルに弾痕が穿たれて亀裂が入っていた。ヨンイルの眉間から流れ出した血は、着弾の衝撃で飛び散ったゴーグルの破片が額に刺さったものだった。ヨンイルの頭を膝に置いてゴーグルを毟り取れば、眉間を貫通して一面に血と脳漿を撒き散らすはずだった銃弾は、額に浅くめりこんで薄皮を裂いただけだった。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。それに加えてゴーグルが防壁となってヨンイルは即死を免れた。凄まじい強運……いや、違う。これは偶然などではない。
 肉眼では捉えられなかったが、一瞬、銃口がブレたのだ。
 「くそっ、くそおっ」
 今にも泣きそうに惨めな顔で、五十嵐が銃を構えている。失神したヨンイルにまっすぐ銃口を向け、震える指で引き金を掻いている。
 指で引き金を弾く音が虚しく響く。
 この場の誰より五十嵐自身が動揺していた。明確な殺意を込めて引き金を引いたはずが、ほんの一瞬の躊躇が指を鈍らせて銃口がずれたのだ。 
 「なんでだよ、なんで外れるんだよ、こんな大事な時に!漸く五年越しの復讐が果たせるってのに、リカの仇をとれるって肝心な時になんで指が言うこと聞かねえんだよ畜生!?」
 目元を神経質に痙攣させながら五十嵐が吠える。口汚く悪態を吐いてやり場のない怒りをぶちまける五十嵐の姿はどこまでも惨めで滑稽で同情を誘った。引き金から指が滑った事実を認めたくないばかりに、失神したヨンイルに銃口を向けて喚き散らす五十嵐に満場の注目が集まる。
 畏怖、当惑、敬遠……つい先日まで五十嵐に無邪気に懐いていた囚人が今はよそよそしく距離をとり、正視に耐えない醜態を晒す五十嵐を遠巻きに包囲している。五十嵐と囚人の間には不可視の壁が出来ていた。
 嫌悪に顔を強張らせ、畏怖の色を目に宿した囚人たちを睥睨し、五十嵐が絶叫する。

 「なんで……なんでそんな目で俺を見るんだよ、畜生が、どいつもこいつも畜生めが!俺は五年間死んだように生きてきたんだ、リカがいなくなってから何もかもうまくいかなくなって、何をする意欲もなくなって……俺の人生はこいつに台無しにされたんだ、俺たち家族はこいつに滅茶苦茶にされたんだ!
 こいつが遊び半分の手慰みに作った爆弾のせいでリカは細切れの肉片になった、かき集めるのも大変な肉片になって路上に散らばった!
 こいつは人殺しだ、くそったれだ、こいつが生きてるだけで俺は苦しいんだ、憎しみで窒息しそうなんだ!リカを殺したくせに不幸にしたくせになんだってお前はまだ生きてるんだヨンイル、図々しく生き長らえてやがるんだ、そんなこと誰も望んでねえのによ!?
 そうだ、お前が肉片になりゃあよかったんだ、自分が作った爆弾で自爆すりゃあよかったんだ、そうすりゃ因果応報の自業自得だって無理矢理にでも納得することができたのに……リカのいない人生になんとか折り合いつけて生きてくことができたのに!!」

 五十嵐は泣いていた。
 心の底に長年かけて蓄積された怒り哀しみ憎しみ、それら全部が涙に溶けて澱のように流れ出した。目尻から零れた涙が滂沱と頬を濡らして、点々と床に沁みた。
 右手で銃を構え、左手でそっと胸に触れる。 
 看守服の胸ポケットにしまってあるのは……亡き娘の写真を挟んだ免許証入れ。いつだったか、照れ臭げに笑いながら娘の写真を見せてくれた。「カミさんに似て美人なんだ」とまんざらでもなく惚気ながら、色褪せた写真を見せてくれた。ほんの数ヶ月前のことがやけに遠く懐かしく思い起こされる。
 あれから僕は変わってしまった。五十嵐も変わってしまった。どうしようもなく変わってしまった。

 もう、取り返しがつかないのか?

 『ああ。かわいいだろ、カミさん似だ』
 嬉しそうに。
 『「生きていれば」お前と同じ位だ」』
 寂しそうに。
 僕は、五十嵐を裁けない。五十嵐の行動を非難できない。五十嵐にはヨンイルを殺す動機がある、ヨンイルは殺されても仕方のない人間だ。僕だって恵が殺されたらどんな手を使っても犯人に復讐する、恵の無念と苦痛を犯人に味あわせて生への執着に足掻く姿を眺めながら徹底的に嬲り殺してやる。

 五十嵐と五十嵐の娘の人生を滅茶苦茶に破壊して。
 二千人の人生を滅茶苦茶に破壊して。

 ヨンイルは、殺されても仕方がない。
 人を殺したものは、いつか人に殺されても仕方がない。
 胸に手をやったまま、五十嵐が瞼を閉じる。手のひらに感じる心臓の鼓動とぬくもり。五十嵐の中で今もたしかに生き続ける娘の息吹。
 「次は外さねえ。これで最後だ」
 再び銃口を掲げ、呼吸を整える。
 おしまいだ。手足の先から絶望が沁みてくる。五十嵐の目は救い難い悲哀を帯びて翳っていた。これからヨンイルを殺そうというのにまるで自分のほうが痛みを感じてるような、ヨンイルを射殺することで自分の心をも撃ち抜こうとしてるかのような、悲愴な決意を映した顔だった。
 ただただ、痛々しい姿だった。
 「どけ、鍵屋崎。そんな奴を庇って死ぬつもりか?娑婆に妹がいるんだろう。生きてここを出たいだろう。なら、そこをどけ。道化が脳漿ぶちまける瞬間を大人しく見物してろ。ヨンイルが死ぬとこ見たくなけりゃほんのちょっとだけ目を閉じてりゃいい。三秒もかからねえさ」
 僕は、どうする?銃口で脅されて、五十嵐の命令通り素直に場所を空ける?
 ヨンイルの頭を胸に抱き、焦燥に焼かれて目を閉じる。
 五十嵐。僕に手紙を届けてくれた。僕がいちばん苦しくて辛い時に希望を運んでくれた。僕が今ここに在るのは五十嵐がいたからだ、僕は五十嵐に救われたのだ。
 その五十嵐が、ヨンイルを殺したいという。
 ヨンイルを殺して娘の仇をとりたいという。
 「…………」
 いいじゃないか。五十嵐が殺したいと言うならそうすればいい。
 五十嵐の復讐は正当なものだ。ヨンイルが作った爆弾でかつて二千人の人間が殺された。ただパレードを見にきただけの市民が大規模なテロの巻き添えで殺された。こんな奴、生かしておく意味などない。ヨンイルは過去二千人を殺した大量殺戮犯で、倫理観の欠落した犯罪者で……
 そうだ。ヨンイルこそ本当の意味で、死んだほうがマシな人間だ。
 ヨンイルが死ねば五十嵐が救われる。五十嵐は僕の恩人だ。ヨンイルを殺して五十嵐が救われるなら、それでいいじゃないか。なにを迷うことがある、ためらうことがある、鍵屋崎直?ヨンイルは僕の友人でもなんでもない、東と西に分かれて敵対する立場の人間じゃないか。 
 瞼を開け、ヨンイルの寝顔を覗きこむ。安らかとさえ表現してもいいだろう寝顔。 
 
 かつて二千人を殺しておきながら、僕の膝で呑気に寝てるヨンイルなど死ねばいい。
 死んだほうがいい。
 それで五十嵐が救われるならば、それはいいことなのだ。

 『直ちゃんは図書室のヌシのダチで、西の道化の敵。
 今の俺は、道化や』 
 いいことなのだ。  
 『さあ拝め。有り難う目に焼き付けろ。こいつが俺の体に棲んどる龍、道化の身の内に宿る人食い龍や』
 いいことのはずなんだ。
 『おおきに』
 いいこと……

 「………はずが、ない」
 いいことの、はずがない。
 「…………なんだと」
 五十嵐がうろんげに眉をひそめる。気色ばんだ問いに顔を上げ、五十嵐を正視。
 「僕はどかない。ここをどくわけにいかない。僕がどいたら、貴方は確実にヨンイルを殺す。僕はヨンイルの死を望んでない。彼に生きて欲しいと願っている。だから命令に従うわけにはいかない、絶対に」
 命令を拒否した僕の眼前、五十嵐の顔に怒気が滾る。
 「―っ、お前も殺してやる!!!」
 怒りに駆られてまわりの状況が見えなくなった五十嵐が咆哮、力一杯腕を振り上げる。撃たれる。そう直感し、ヨンイルの頭を抱いて目を閉じる。
 サムライ。ロン。レイジ。安田。恵。脳裏を過ぎる複数の顔…

 「鍵屋崎!!!」

 悲鳴じみた絶叫が耳を貫く。そんなに叫んで喉が嗄れないか?誰かがこちらに駆けてくる。誰だ?一人じゃない。二人、三人……
 「………お、まえらは、なんなんだよ」
 うろたえきった五十嵐の声が鼓膜を頼りなく叩く。用心深く薄目を開ける。ヨンイルを胸に庇った僕の右側にサムライが、左側にロンが、背後に安田がいた。サムライとロンは床に片膝つき、両側から僕を支えていた。重傷の安田は荒い息を零しつつ、僕が倒れないよう肩を掴んでくれた。

 ヨンイルを守りたいのは、僕一人じゃない。

 サムライも、ロンも、安田も。怪我でぼろぼろで、体力も気力も尽きて果てそうなのに。二本の足で立てるのが奇跡に近い体調なのに、僕とヨンイルを庇うように弾道に身を曝している。
 強い意志を双眸に宿した、真剣な顔で。
 「なんなんだよ…………なんなんだよおっ!!お前らみんな死にたがりかよ、どうしてしゃしゃりでてくんだよ、銃が怖くねえのかよ!どうしてこんなやつのためにそこまでするんだ、ヨンイルなんか死んだっていいじゃないか、お前らが命捨てて盾になる意味ねえじゃねえか!」
 五十嵐が身を灼かれて悲鳴をあげる。僕らの行動が理解できないといった戦慄の表情。安田の手に重ねて僕の右肩に手をおいたサムライが、今一度自らと向き合うように目を閉じる。 
 再び瞼を上げた時、サムライの目には強靭な意志と崇高な矜持が宿っていた。
 「俺は直を守る。直が守りたい人間も守る。ヨンイルが死ねば直が泣く。俺は直が泣くのを望まない、これ以上直が嘆き哀しむ姿を見たくない」
 眼光鋭く、まっすぐに五十嵐を射抜くサムライの双眸に一片たりとも迷いはなかった。サムライの眼光に気圧された五十嵐が、ロンへと矛先を転じる。
 「ヨンイルはレイジのダチだ。ヨンイルがくたばれば、レイジが哀しむ」
 僕の左肩に縋り、ロンが微笑む。
 「……それに、ヨンイルは俺に漫画をもってきてくれたんだ。入院中の俺が退屈してると思って、足の踏み場もねえくらい沢山の漫画を土産にさ。馬鹿だよな、こいつ。死ぬほど漫画が大好きで、手塚治虫が大好きで……そうだ、前にこんなことがあったんだ。俺が明日のジョー夢中で読み耽ってたら、近くにいたコイツがネタバレして、力石とジョーの対決の行方とかジョーの最期とか全部ぶちまけちまって。
 マジで腹立ったよ、あの時は。
 とんでもねえよ、コイツ。先のたのしみ奪いやがって畜生、漫画好きの風上にもおけねえって……けどさ。やっぱり、こいつがいなくなるの嫌だ。寂しい。図書室にコイツの姿がないと、なんだか落ち着かねえんだ。コイツの笑い声が聞こえないと物足りねーんだ。静かになって、かえっていいはずなのにな。おかしいよな」
 折れた肋骨が痛むのか、苦しげに顔をしかめながら、それでも身を乗り出してロンが言う。言い残すことを恐れるように、五十嵐に必死に訴える。
 「俺さ、結構コイツのこと好きなんだ。だから、殺さないでくれよ」
 一つ言葉を絞りだすのにも胸が軋んで激痛に襲われて、僕の肩に凭れて呼吸を整えて、それでも続ける。
 「ヨンイル死んだら、寂しいよ。すっげえ寂しいよ」
 「…………っ、」
 追い詰められた五十嵐が助けを乞うように安田に視線を投げる。  
 「……私は、なにも偉そうなことを言えない。今回の不祥事はすべて私の責任だ。私の不注意で銃が紛失して、こんなことになった。私は君を説得する言葉すら持たない、既に副所長の資格を失くした人間だ。東京少年刑務所に本来いるべきでない人間だ」
 片手で肩を押さえた安田が、複雑な色を湛えた目で五十嵐を見る。
 「……正直、君のしてることが間違っていると断罪できない。テロの巻き添えで子供を亡くした父親の心情を十分に理解してるとは言えない。でも、おそらく。これは仮定だが、私が君の立場でも同じ事をする。不条理な理由で子供を奪われたら、目的の為なら手段を問わずに犯人に復讐したいと思う」
 激しい葛藤に揺れ動きながら、安田が何故か僕を見る。
 いつもきっちり撫で付けたオールバックが乱れ、憔悴の色濃い顔に落ちかかる。一房額にたれた前髪をもはやかきあげる気力もなく、苦渋に満ちて吐き捨てる。
 「……子供には、幸せになってほしかったのに」
 「なら!!あんたならわかるだろう俺の気持ちが、俺の身になって考えることができるあんたなら引き金を引かせてくれるだろう!?俺はずっとヨンイルを殺したくて殺したくてたまらなかった、リカの仇をとりたくてしかたなかったんだよ!リカを不幸にした代償を払わせたくて、リカの父親として最後に誇れることをしたくて」
 「これが誇れることか!?」
 安田が激昂する。
 鞭打つように叱責された五十嵐が慄然と立ち竦む。
 「人殺しが誇れることか、五十嵐看守?君は本当にそう思っているのか。君を父親のように慕う囚人の信頼を裏切り、私怨で銃をとることが誇れると?君がなりたかったのは、そんな父親か。正義を語って騙って、殺人を正当化するのが理想の父親だとでもいうのか」
 「知ったふうな口を利くな、俺たちの五年間を知らないくせに!!」
 発狂したように叫ぶ。口角泡をとばして首を巡らせて、世界を全部敵に回したように恐怖を剥き出して安田を罵る。檻の外側にも内側にも五十嵐の居場所はない。五十嵐の居場所はもはや東京プリズンの何処にもない。手の震えが銃に伝わり、照準が激しくブレる。
 僕、サムライ、ロン、安田を順繰りに巡った銃口をヨンイルに固定して、嗚咽まじりの悲鳴をあげる。

 「俺たち家族の五年間を知らないくせに、知ったかぶりをするなよ!子供がいねえあんたに何がわかる、わからないだろう子供を亡くした父親の気持ちなんて、父親でいられなくなった父親の気持ちなんて!俺はずっとリカの父親でいたかったんだよ、リカに『お父さん』て呼んでほしかったんだ。将来彼氏連れてきたら普通の父親がそうしてるみたいにヤキモチ焼いて、あいつの結婚式じゃどもりながらスピーチして、いつかは孫をあやして抱いて……何ひとつ高望みなんかしなかった、家内とリカがいりゃそれでよかった。
 リカが死んでからもっとああすりゃよかったこうすりゃよかったって毎日毎晩自分を責めたよ。あいつが小遣い上げてくれてって頼んできたとき聞いてやりゃよかったとか、修学旅行の前の夜に洗濯物畳んでたとき、もっと他に言うことあったんじゃねえかって……リカはブラックジャックが初恋だったんだよ。ブラックジャックと結婚したいって言ってたんだよ。俺は笑いながらそれを聞いてた、今はこんなこと言ってるけどリカはすぐにでかくなって他の男のもんになっちまうだろうなって寂しく思いながら……
 ところがどうだよ。リカは死んじまった。くだらねえテロに巻き込まれて殺されちまった。畜生、なんであの時止めなかったんだよ!こうなるってわかってりゃ止めたのに、リカが泣こうが喚こうが絶縁されようが行かせなかったのに逝かせなかったのに!!」

 五十嵐が怒鳴る。
 サムライもロンも安田も五十嵐に対する反発と共感を等分に抱いて沈痛に黙りこんでいた。 
 五十嵐は泣いていた。自制の箍が外れて感情の堰が決壊して、泣きたくても泣けずにいた五年分の涙を流しているようだった。沈黙の内に自分を見守る観客の視線を薙ぎ切るようにかぶりを振り、両腕をまっすぐに伸ばして銃を構え直す。
 「お願いだよ、殺させてくれよ。こいつ殺せば終わるんだ、自分を許せるんだ。ラクになれるんだ」
 「できない」
 僕は首を振る。
 「なんでだよ!!?」
 五十嵐が叫ぶ。
 「……五十嵐。こんなことをして、天国の娘が喜ぶと思うか」
 平板な口調で問いかければ、五十嵐が自嘲の笑みを吐く。
 「ガキのくせに、お前まで俺にお説教垂れるつもりかよ?その台詞は聞き飽きたぜ。そんなことをしてなんになる、正気に戻れ五十嵐、今のお前を見て天国のリカちゃんが喜ぶと思うか?
 はっ、くだらねえ。リカが天国にいるってなんでわかるんだよ、大体どこにあるんだよ天国って。行って見てきたわけでもねえくせに、死んだリカが今でも生きてるみてえに脅しかけて、それで復讐思いとどまらせようなんざ反吐がでるほど卑劣なやり口だと思わねえか。偽善臭がぷんぷん匂うぜ。
 いいか?リカはもういねえんだ。死んじまったんだ。もうとっくにこの世にいねえ人間が、この世から消された人間が、哀しんだり喜んだり泣いたり笑ったりできるわけねだろ。生きてる人間が当たり前にやってることを、当たり前にできるわけねえだろ。
 『こんなことをして死んだリカが喜ぶと思うか』だと?くそくらえだ。どうやったらリカが喜べるんだよ。リカは死んだんだぜ。哀しいとか悔しいとか嬉しいとか楽しいとか、暑いとか寒いとか痛いとか苦しいとか、一切合財感じることできなくなったんだぜ。さっぱり無くなっちまったんだぜ」
 「その通りだ」
 あっさり肯定すれば、五十嵐が大仰に目を剥く。
 サムライもロンも安田も、僕の正気を疑うようにこちらを見つめている。 
 「くだらない。実際口にしてみて痛感したが、偽善の集大成の薄っぺらい言葉もあったものだ。今すぐ口をすすぎたい。
 『こんなことをして死んだ人間が喜ぶと思うか』?倫理破綻した、矛盾した言葉だ。古今東西で最も卑劣極まる、最低の説得方法だな。人は死ねば蛋白質の塊になるだけだ、思考停止した蛋白質の塊が喜怒哀楽を感じるわけがない。僕は無神論者だ。神も霊魂も天国も信じない。人は死ねば無くなる、自我が分解されて消えてしまう、それだけだ」
 僕にはわかる。
 五十嵐は娘の為ではなく、自分の為にヨンイルを殺すのだ。
 「ヨンイルを殺したところで娘は帰ってこないとわかっていながら引き金を引くのは、娘の無念を晴らすという大義名分があるからじゃない。 
 そんなものはどこにもない、どこを探したところで見当たらない。死者を代弁した復讐など、自分が罪を負いたくない卑怯者がやることだ。自分で罪を負う覚悟がない偽善者がやることだ。
 五十嵐、今貴様がしてることは正義でもなければ大義でもない。そんな偽善はどこにもない、貴様はただ単純に純粋にヨンイルが憎くて引き金を引こうとしてる。僕は貴様を裁けない。僕は人殺しだ、親殺しだ。この手で鍵屋崎優と由佳利を、僕を十五年間育てた両親を殺害したんだ」
 二人を刺した時の感触はまだ手に残ってる。一生かかっても拭えない。
 瞼の裏側に甦る鍵屋崎優の顔、由佳利の顔。僕は恵を守る為に彼らを殺した、殺さなければならなかった。

 父さん、母さん。

 「僕は人殺しだから、これから人殺しになろうという貴様を裁けない。憎ければ人を殺す、それが人間本来の在り方ならヨンイルを殺すのは正しい!僕だって恵が殺されたら同じことをする、哀しくて悔しくてやりきれなくて、足掻いて足掻いてみっともなく足掻き続けて、恵が味わったのと同じだけの苦しみを、いや、それに倍する苦しみを犯人に与えてやる!!救われないとわかっていてもそうせずにはいられない、恵を殺した人間が目の前で自然に生きて笑っていて、僕だってきっとそんな現実には耐えられない!」

 僕がしたことには取り返しがつかない。
 父さんと母さんは戻ってこない。

 わかってる、そんなこと。わかってるに決まってるじゃないか。僕を誰だと思っている、IQ180の天才鍵屋崎直、鍵屋崎優と由佳利の自慢の息子だぞ。 
 両親を殺してしまった僕が、ヨンイルの同類の人殺しの僕が、五十嵐に何を言える?テロの巻き添えで子供を亡くした父親の絶望の深さを測れる?
 五十嵐に言うべき言葉など何ひとつ持たない僕が、五十嵐に言えることはただひとつ……
 「だからこれは、僕のわがままだ」 
 五十嵐リカを引き合いにだしてヨンイルを殺すなとは言えない。そんな卑劣なこと、口にできない。死者を代弁する脅迫は偽善の骨頂だ。だから僕は言う、僕の腕の中で眠るヨンイルを守りたい一心で本音を言う。

 「ヨンイルが死んだら僕が哀しむ。頼む、ヨンイルを殺さないでくれ!!!」 
 
 ヨンイルが死んで哀しむのは五十嵐リカではなく、この僕だ。ロンであり、サムライであり、レイジであり、西の囚人たちだ。
 「……………そう、だ」
 檻の外で固唾を飲んで事の成り行きを見守っていたワンフーが、呟く。
 「ヨンイルさんが死んだら俺が哀しい、俺が泣く!ヨンイルさんがいなくなったらつまんねえよ、いやだよ、殺さないでくれよ!ヨンイルさんは確かに阿呆で馬鹿で無神経なとこあるけど、俺と一緒に鍵屋崎に謝ってくれたんだ!俺の分まで鍵屋崎に頭下げてくれたんだ、安田の拳銃スッたのは俺なのに、そんな俺のこと最後まで面倒見てくれたんだよ!『しゃあない奴っちゃなあ』って笑いながら!」
 「五十嵐、ヨンイルさん殺さないでくれ!どうしてもって言うなら俺がヨンイルさんの代わりに撃たれるから、ちょっと痛えくらい我慢するから、それで勘弁してくれよ!ヨンイルさんがあんたの娘の仇だってのはよくわかったよ、俺にも外に残してきたガキいるから気持ちわかるよ、でも俺ヨンイルさんのこと好きなんだ、時々しょうもねえトップだけど……俺が東京プリズンで今日まで生き残れたのはヨンイルさんのおかげなんだよ、ヨンイルさんは恩人なんだよ!」
 「ヨンイルさんが死ぬのはいやだ!」
 「笑かし騒がし役の道化がいなきゃ毎日しんきくさて息が詰まっちまうよ!」
 「ヨンイルさん!」
 西の囚人たちが金網に縋り付き、懸命に叫ぶ。ヨンイルの無事を祈る声は次第に大きくなり、遂には会場中に行き渡る。
 「…………うっ、くぅ……」
 五十嵐の口からひび割れた嗚咽が漏れ、だらりと腕がたれさがる。床に膝を屈した五十嵐の胸ポケットから、黒革の免許証入れが落ちる。免許証入れが開き、古い写真が現れる。
 五十嵐リカは泣きながら笑っていた。
 そう見えたのは、床に手を付いてうなだれた五十嵐の涙が写真に落ちたからだ。
 あとから、あとから、とめどなく。

 終わった。

 「……拳銃をとってくる」
 「怪我は大丈夫ですか」
 低く呟き、腰を上げた安田を目で追う。
 「これは私の役目だ。他人に任せるわけにはいかない」
 前だけ見て毅然と言い放った安田は、既に人を寄せ付けないエリートに戻っていた。肩を片手で庇い、慎重に五十嵐に歩み寄る。そんな安田の背中を、僕はサムライに抱かれて無言で見送っていた。
 「よくやった、直」
 サムライが耳元で囁く。
 「すごい奴だよ、お前」
 ロンが僕の肩に凭れかかる。
 限界値まで張り詰めた緊張の糸が切れてその場にへたりみ、ため息まじりに言う。
 「低脳に称賛されると侮辱された気分にな、」

 視界の隅で何かが動く。

 「!!」
 そちらを向いた僕は見た。這う這うの体のタジマが懐から手錠を取り出すところを、投げるところを。
 タジマが力一杯投げた手錠は狙い違わず五十嵐の手首を直撃、拳銃を弾き飛ばす。
 「俺だけのけ者にして大団円なんて認めねえ、どうせもう俺はおしまいだ、だが俺だけじゃねえ、親殺しも半々もエリート気取りの若造もお前ら全員道連れにしてやらあああっああっあっあ!!!!」
 拳銃が高く高く浮上する。
 僕たちの頭上を越え、放物線を描き、檻の外側に落下しつつある拳銃にタジマがとびかかる―……
 
 「タジマに銃をとらせるな!」
 「心得た!」
 「駄目だ、間に合わねえ!!」
 
 サムライがタジマの背に駆け寄る、僕とロンも駆け寄る。
 タジマが金網に激突、自重で金網が倒れる。振動、衝撃。濛々と舞いあがる埃。銃はどうなった、誰の手に渡った?埃にむせながら顔を上げた僕の前にいたのは―……
 『Really!?』
 両手で銃を抱えたリョウだった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050721154658 | 編集

 手の中で拳銃が弾む。
 『Really!?』  
 突拍子もない声をあげてしまった。
 いきなり僕の手の中にとびこんできたのは見間違えようもない拳銃、グリップにはまだ五十嵐の手のぬくもりが残っている。
 視界に立ち込めた埃が晴れ、次第に視界が明瞭になる。
 おったまげた。目と鼻の先にタジマが迫っていた。
 「ひいっ!?」
 どうしよう!?
 タジマを顔に感じる。うわ、ちょっと顔近付けんなって口臭きついし目に毒だから!いや、それより今どうにかしなきゃいけないのは拳銃だ、僕の手の中の物騒な代物。いつ暴発したっておかしくない危険な凶器。銃の始末に困ってきょろきょろあたりを見まわしてみたけど、周囲のガキどもときたら完全にびびって逃げ腰で、舌打ちしたくなるくらいに使えない。
 「ビバリーねえちょっと調子よく他人のふりしないでよ、これ、この拳銃どうしよう!?」
 「僕に聞かれても知りませんて振らないで下さいよ、どっかそのへんにうっちゃっちゃえばいいじゃないスか!」
 「だって投げ捨てたショックで暴発とかしちゃったらやばいじゃん怖いじゃん、弾どこに飛ぶかわかんないし……嫌だよぼく股間ズドンとやられるの、イチモツ商売道具なのに!!」
 「これがホントの危機イチモツ、ってくだらないこと言わせないでください!!」
 「自分が勝手に言ったんじゃん、なんだよそのセンス最低最悪の駄洒落はあ!?」
 パニックのあまり僕もビバリーもおかしなこと口走ってる。いっそ笑えてきた。口角をひくつかせつつ、少しでもタジマから距離をとろうとあとじさる。ビバリーてば頼りにならない。さっき見直してもう見損なった。僕の隣で泡食ってるだけ。さっき見直してもう見損なった。物凄い速回しのパントマイムみたい。タジマはすぐそこまで迫ってる、床を踏み鳴らして突進してくる―……
 万事休す。観念して目を閉じる。サヨナラ、ママ、ビバリー。きっと僕はこのままタジマに轢き殺される運命なんだ……
 「銃を渡せ、リョウ!!」
 「へっ?」
 脳天から間抜けな声を発して目を見開く。弾かれたように顔を上げた僕の視界の隅に割り込んできたのは、サムライに肩を抱かれた鍵屋崎。相変わらず仲いいねお二人さんと嫉妬まじりに口笛でも吹きたくなる密着ぶり。
 いや、今そんなことどうでもいい。サムライと鍵屋崎が一万人の大群衆置いてけぼりにして親密に抱擁しようが告白合戦くり広げようがどうでもいいんだ。かぶりを振り振り脳裏に湧いた抱擁シーンを払拭、溺れるモノが藁をも掴む心細い気持ちで、恐れと焦りが入り混じった顔で鍵屋崎を仰ぐ。
 片方眼鏡のレンズが割れたせいで表情が読みにくくなっていたが、圧倒的な気迫は伝わってきた。加えて、鍵屋崎の焦燥は手にとるようにわかった。
 鍵屋崎が決死の形相で叫ぶ。
 「何を愚図愚図してるんだ、脳の命令が指先の神経に伝わるまで何秒要してるんだこの低脳め!銃を渡せといったら即反応しろ、0.3秒以内に銃を手放して頭を屈めるのが常道の反射行動じゃないか!!」
 高飛車な命令にカチンときた。つんけんした態度に反発が湧いて、無性に腹が立って、すぐそこまで迫ったタジマの存在を忘れてしまった。ったく鍵屋崎ってばやることなすこと癪にさわる、ちょっとはしおらしく落ちこめば可愛いものを人を上から見下すように威圧的に……
 「リョウ!!」
 「うるさい!!」
 大体鍵屋崎はいつもそうだ、僕は最初から鍵屋崎が気に入らなかった、なんだって皆こぞってあいつをちやほやするのか理解に苦しんだ。鍵屋崎が来てからまったく腹の立つことだらけ、そうだ、僕が最大のピンチに陥ってるのだって全部鍵屋崎が悪いんだあいつが原因なんだ!
 逆恨み?やつあたり?上等だよ。これがもし「お願い」なら聞いてやってもよかったけど「命令」なら話は別、だれが鍵屋崎の命令なんか聞いてやるもんか。男娼の意地にかけて鍵屋崎の思い通りになんかなってやるもんか。
 見てろ。
 「えいっ!」
 そして僕は、気合いを入れて銃を投げた。
 タジマ背後の鍵屋崎にではなく、ビバリーへと。
 「!?なっ、」
 鍵屋崎が絶句する。鍵屋崎の肩を抱いたサムライも驚愕に目を剥く。
 頭上を仰いだ二人の目に映ったのは、照明の光をはね返して鈍色に輝く銃身。鍵屋崎とサムライだけじゃなくその背後のロンも安田も、周囲の人間が示し合せたように上を向く。当然、タジマも例外ではない。
 鼻先を掠めるように高く高く浮上した銃めがけて跳躍……
 「させますかあああああああーーーーーー!!」
 唐突にビバリーが動いた。 
 「ぬあっ!?」
 タジマが奇妙な悲鳴をあげる。それはちょうどバレー選手が中空でボールを奪い合う光景に似ていた。タジマと同時に床を蹴ったビバリーが、持ち前の身軽さを生かして高く高く、信じられないほど高く跳ぶ。夢を見てるみたいだった。
 『I can fly!!!!』
 「僕は飛べる」……有言実行、ビバリーは飛んだ。跳んだ、というより飛んだと表現したほうが正しい高度の上昇だった。すごい、こんな特技があったなんてと驚嘆する僕の目の前でタジマの手から銃をひったくるビバリー。
 危ない!銃を掴んで安堵したのか、ビバリーが不安定にバランスを崩す。中空で大きく仰け反り、手足を振り回しながら後ろ向きに転倒……
 視界が反転、衝撃。咄嗟にビバリーの背後に回りこみ、背中を支える。無防備な後頭部を打たないように僕がクッションになったおかげでビバリーは大事に免れた。僕の背中に尻餅ついたビバリーが「アウチッ!」と顔をしかめてみせる。
 「こっちの台詞だよ。それよかはやくどいてよ、重たいよ。僕男を尻に敷くのは好きだけど尻に敷かれるのは趣味じゃな……」
 ビバリーの手元を覗きこみ、違和感を感じる。
 「あれ。拳銃は?」
 「え?」
 青褪めたビバリーと顔を見合わす。ビバリーの手中から忽然と銃が消失。おかしい、僕が見てる前でビバリーは確かに銃を掴んだはずなのに一体どこへ消えてしまったの?
 「なんじゃこりゃあああああ!」
 野太い絶叫。いやな予感。声のほうを振り向けば予想はばっちり当たっていた。ビバリーの手からすっぽ抜けた銃がとんでいったのは……
 こともあろうに、凱のところ。
 たまたま僕らのすぐそばにいた凱は、新たな持ち主として銃に選ばれてしまった。やばい。血気さかんな凱が銃なんて物騒なもん持ったらどうなるか……僕と同じ展開を予期したか、凱の周囲で大恐慌が巻き起こる。
 そりゃそうだ。相手は血の気の多いことで知られる東棟のナンバー3。レイジほど極端じゃないにしろ、キレたら何しでかすかわからないと恐れられる中国人。凱も自分の身に何が起こったか完全には理解してないみたいで、騒然と入り乱れ逃げ惑う野次馬と手中の銃とを見比べる。
 「おいてめえらなに逃げてんだよ置いてくなよ、俺様をどこの誰だと思ってやがる、東棟のナンバー3と名高い三百人のカシラの凱様だ!娑婆にいた頃は喧嘩の度に牛を解体する要領で青龍刀振りまわして相手びびらせて、逃げる奴あ片っ端から捌いて挽き肉にして高田馬場峠の人肉饅頭に……」
 「凱てめえっどさくさ紛れに自慢話してんじゃねえ、都市伝説ぽく脚色した自分語りに酔ってる暇あんならその銃よこしてやがれ!!」
 凱の演説に水をさしたのは、威勢いい声。
 ロンがいた。肋骨折れてぼろぼろの体のどこにあんなでかい声だす気力が残ってたのかとびっくりする。逆巻く人の流れの渦中にぽつねんと取り残された凱は、顔に怒気を滾らせて、数人の頭越しのロンに食ってかかる。
 「てめっ、半半のくせに生意気だぞ!今の話のどこに脚色入ってるってんだ、俺はありのままの事実を話したまでだ!聞いて驚け、娑婆にいた頃あ高田馬場の暴れ牛として……」
 「お前が高田馬場の暴れ牛なら俺は池袋のボス猫だよ!!」
 「ちっちぇえナリして吹かしてんじゃねえ、お前なんか頑張ったところで池袋の餌付け猫だ!!」
 「俺は十一から野良でやってきたんだよ人の手から餌もらうほど落ちぶれてねえよ、ふざけたこと言ってっとモツにして煮込むぞ、ちょうど屋台で食った薬敦排骨の味が懐かしくなってきた頃だ!!」
 「~~~鍋にぶちこんで煮込んでやらああああ、そしたら珍味猫鍋の完成だ!!」
 売り言葉に買い言葉で喧嘩勃発。
 ロンも凱も喧嘩っ早すぎ、いったん頭に血が上るとまわりが見えなくなるタイプの似た者同士だ。中指立てた挑発に激昂した凱が、野次馬を憤然と薙ぎ倒してこちらに向かってくる。
 ああもう、二人とも冷静になれよ、つまらない喧嘩なんかやってる場合じゃないっしょ!?凱もロンも手におえない馬鹿、医者も匙投げる極め付けの馬鹿だ。だれか二人にお灸据えてくれる……
 いた。
 「語彙の貧困さを露呈する知能指数の低い喧嘩はそこまでだ、天才権限で即刻打ちきる!!」
 ロンと凱のあいだに割り込んだのは、鍵屋崎。
 ロンを背に庇うように仁王立ち、肩で浅く息をしつつ凱を睨みつける。怖い顔だった。おそろしく真剣な顔だった。
 地下停留場は混乱の極みだった。次から次へと銃が人手に渡り、まかり間違って指が滑ったら流れ弾がどこに飛んでってもおかしくない状況で、レミングの恐慌を来たした囚人たちは我先にと地下停留場を逃げ出した。先行者を蹴倒し踏み倒し、逃走路を塞ぐ障害物は囚人だろうが看守だろうが構わず手当たり次第に薙ぎ倒して、数箇所しかない出口に大挙する。罵詈雑言が喧しく飛び交い、殺気立った足音が怒涛のごとく鼓膜を叩く極限状況下にて凱とロンとに説教をかます。
 「低脳ぶりもここに極まれりだ、場違いな喧嘩をしてる暇があるなら他にすべきことがあるだろう!優先順位を間違えるなロン、凱!」
 「……っ、」
 くるりと凱に向き直り、叱責をとばす。
 「さあ、銃をこちらに渡せ!拒否権は認めない、銃の所有者は君ではない、副所長の安田だ。君のように二十四時間ドーパミン過剰分泌で好戦意欲旺盛な危険人物に銃を持たせておけば被害が拡大する、元の持ち主に返すべきだ!!」
 ロンは脊髄反射だけど、鍵屋崎は天然だ。天然で凱に喧嘩を売ってる。本人に自覚がないぶんタチが悪い。馬鹿と天然は死んでも治らないって、ばかに真実味を帯びた俗説をしみじみと噛み締める。なるほど鍵屋崎の言い分は正論だ、血気さかんな凱に銃を持たせといたらどうなるかわかったもんじゃない。万一タジマと銃の取り合いになったら……
 「!そうだ、タジマ」
 「あそこっス!」
 ビバリーが指さす方を振り返ればタジマが雑踏に逆流して足止めを食っていた。出口に殺到する人ごみに埋もれて揉まれて、二進も三進もいかなくなってる。けど、時間稼ぎも三分が限界だろう。じきにタジマは辿り着いてしまう、腕力も体格もほぼ互角の凱とタジマが銃の争奪戦をくりひろげたら……暴発。乱発。血祭り。タジマが銃を手にしても凱が銃を手にしても最悪の結末しか思い描けないのは両者の人徳のなさが原因?それ以外ありえない。
 「銃を返せ!」
 「はっ、俺に命令するたあいつからそんな偉くなったんだ親殺し!?娑婆じゃ将来見込まれたお偉いエリートだったかもしれねえが、ここじゃあただの男娼崩れじゃねえか!生っ白い日本人は身の程わきまえて男に組み敷かれてりゃいいんだよ!!」
 説得は逆効果だ。皮肉なことに、鍵屋崎の言葉は火に油を注ぐ効果しかもたらさない。見かねたサムライが木刀をひっ掴み、凱の成敗に行こうとする。実力行使で銃を取り上げるつもりか?ごくりと生唾飲んで緊迫の展開を見守る僕とビバリー。
 「待てよ。凱に理屈は通じねえ、頭に血が上ってるんじゃなおさらだ」
 素早くサムライの行く手に回りこみ、自信をもってロンが断言。
 「ここは俺に任せとけ。あいつの性格は天敵の俺がいちばんよく知ってる、五秒で攻略してやらあ」
 まんざら虚勢とも思えない確信を込めた口調だった。疑わしげに互いの表情をさぐる鍵屋崎とサムライから体ごと凱へと向き直り、はきはきした切り口上で言う。
 「凱、銃なんかてめえには過ぎた代物だ!万一つるっと指すべって引き金引いちまったらどうするよ、指が一本残らず吹っ飛んじまったらマスかくときクソするときどうするんだ!てめえのナニもしごけねえケツも拭けねえ体たらくじゃムショ生活に支障でまくりだよな、それだけじゃねえ、お前がムショ出て真っ先にガキに会いに行ったときどうやって抱っこするんだよ!?銃の暴発で指が欠けちゃあ抱っこも高い高いもできねえぞ、親父失格だ!!」
 「……っ!!」
 ロンの顔は活き活きと輝いていた。対する凱はといえば、ロンの脅しが相当こたえたらしく大量の冷や汗をかいて型どおりに構えた銃を見下ろしてる。凱の弱みをまんまとついた心理作戦……いや、そんなごたいそうなもんじゃないか。とにかく、ロンの方が一枚上手だった。凱が銃を放り出すまで予言通り五秒もかからなかった。
 「親父失格の烙印押されるくれえなら潔く親バカを自称するぜ!!」
 ただ、誤算だったのは凱が必要以上に大きく腕を振りかぶったこと。
 開き直りの捨て台詞を吐き、凱が力任せにぶん投げた銃はロンの頭向こうへと落下……
 「俺かよ!?」
 絶望のうめきを洩らしたのは確かワンフーとか呼ばれてた西の囚人でヨンイルの腹心だ。反射的に手を突き出して銃をとったはいいものの、どうすればいいのかうろたえきっている。
 「安田の物は俺の物、安田は俺の物、東京プリズンは俺の物……今ここにあるもの全部俺の物だ、てめえら囚人の汚い手に触れさせてたまるかあああっあああっ!!」
 「ひいいっ!!」
 狂える咆哮をあげて手当たり次第に囚人を投げ飛ばし、タジマが突進。タジマに目を付けられた気の毒なワンフーは顔面蒼白、両手でひしと銃を抱きしめて、女々しく潤んだ目で周囲に助けを乞う。だが、皆逃げるのに必死でワンフーに構ってる暇などない。
 薄情な仲間の背中へと未練ありげに一瞥くれ、ワンフーが首を振る。
 「俺っ、俺まだ死にたくねえ、生きてここを出て凛々抱くまで死ねえって心に決めてんだよ!だからだから俺、凛々幸せにするために今度こそ真人間になるって約束して、スリで稼いだ金でアパート借りて結婚前提に同棲始めるまではくたばれねえから!」
 「発言は前提からして矛盾だらけだ!真人間になりたいならスリで敷金を稼ぐな!!」
 「前金だけ!!」
 「前金だけでもだ!!」
 僕が言いたいことを鍵屋崎が代弁してくれた。サムライの肩を借りてワンフーに走り寄ろうとした鍵屋崎とロンだが、三人の行く手を阻むように人の流れが渦巻いて、それ以上近付けない。
 傷だらけの顔を焦燥に歪めたワンフーが銃口を一瞥、続き鍵屋崎を一瞥、言い訳がましく呟く。
 「だからだからだからそのっ……悪ィ、ここでくたばるわけにゃいかねえんだ!!」
 「「あっ!!」」
 ビバリーと声が揃う。綺麗に唱和した僕とビバリーの視線の先、ワンフーが投げ捨てた銃が南の囚人の手に渡る。あれは確か……ルーツァイ。そんな名前の囚人だ。
 「ワンフーてめえ!?」
 「悪く思うなルーツァイ、俺には荷が重すぎる、お前が始末つけてくれ!一児の父親と見込んで頼む!」
 「タジマに銃を渡すなルーツァイ!」
 鍵屋崎の悲鳴。
 「銃は俺の物だ!!」
 タジマの罵声。 
 ルーツァイは動揺していた。鍵屋崎は渡すなといいタジマは渡せといい、そのどちらもが人ごみを掻き分けて徐徐に接近しつつある。
 危なっかしい手つきで銃をもてあそび、慎重にあとじさる。ルーツァイは優柔不断な性格らしく、鍵屋崎と五十嵐を見比べて今にも泣きそうに躊躇していた。迷う必要はない、鍵屋崎に銃を渡せばいいと十人が十人ともそう言うだろう状況下でルーツァイから正常な判断力を奪っていたのはタジマの脅威に他ならない。
 タジマはすでに人間ではなく人災だった。
 「しっ、死にたくねえ!死にたくねえ死にたくねえ死にたくねえ、メイファに会うまでは死にたくねえ!俺まだ親父らしいことなんにもしてねえのに、あいつまだちっちぇえから俺の顔だってろくに覚えてねえのに……刑務所でくたばった親父だってメイファに一生涯記憶されるなあごめんだっ」
 首振り人形と化したルーツァイが四囲に素早く視線を走らせ、苦渋の決断を下す。最もそれは、この場の誰の目にも暴挙としか映らない慮外の決断だった。
 鍵屋崎が「まずい」と舌打ち。人ごみに揉みくちゃにされて、だらしなく弛緩した襟刳りから鎖骨を覗かせて、脇目もふらずルーツァイに駆け寄ろうとする。サムライとロンも後に続く。サムライとロンを従えて一目散にルーツァイに駆け寄った鍵屋崎だが時既に遅し。
 「子供抱き上げる手で銃を撃つなんざ死んでもお断りだ!!」
 ルーツァイが大きく腕を振りかぶる。
 「またかよ!?」
 「まただ!」
 ロン脱力のつっこみにサムライが鋭く切り返す。呼吸ぴったりだ、などと妙に感心しつつ、照明の眩しさに目を細めて遥か頭上を仰ぐ。タジマと鍵屋崎が人ごみを抜けて踊り出すのは同時。銃はまた二人の頭上を軽々と飛び越えて、燦然と照明を照り返して、長大な放物線を描く。

 望まぬ者の手に身を委ね、欲する者の手には決して届かぬ拳銃。

 タジマは喉から手がでるほど拳銃を欲していた。拳銃があれば安田にとどめをさすことができると信じて疑わなかった。鍵屋崎は銃を取り返そうと必死だった。
 鈍い音。床を伝わる振動。
 幾人もの頭上を飛び越えて床に落下した拳銃にタジマが舌打ち、即座に方針転換する。拳銃を取りに行く時間は既にない。タジマの四囲には元同僚の看守が人ごみに紛れて忍び寄っていた。拳銃争奪戦に振りまわされて周囲に目を配る余裕がなかったタジマは、たった今までそのことに気付かず、もはや完全に包囲されてしまった。東京プリズンの看守も無能なヤツばかりじゃない。タジマに翻弄されるふりで油断を誘って、気付かぬ内に包囲網を敷く知恵があるヤツもいるのだ。
 「……くっ、そおおおおおおおおおおおっ!!」
 タジマがブチギレる。
 僕の位置からでもこめかみの血管が膨張するのが見えた。もうヤケクソだ、そんな心の叫びが聞こえた。かつての同僚を敵に回して、一分の隙なく取り囲まれて、タジマは完全に余裕を失っていた。
 僕らが銃の行方に目を奪われた一瞬にタジマは行動を起こした。
 「痛っ!?」
 タジマが目を付けたのは手近なロンだった。鍵屋崎とサムライは比較的軽傷だが、なんといってもロンは肋骨骨折の怪我人で、人質にはいちばん適してる。
 そう、人質。タジマはロンを道連れに心中するつもりだ。
 「ははっ、はははっはあはっ。どうせ俺はおしまいだ、副所長を撃ったんだから処罰されるに決まってる。だが一人じゃ逝かねえ。コイツも道連れにしてやる」
 タジマは笑っていた。破滅へとひた走る狂気に冒されていた。
 ロンを人質にとられて鍵屋崎は動きを封じられた。鍵屋崎が動けばロンが死ぬ、タジマに縊り殺される。タジマはロンの首に片腕をかけて締め上げて、徐徐に力を加えていた。
 「とうとう抱けずじまいだったが、時間はこれからたっぷりあらあ。まず最初にこいつを縊り殺して、地獄送りにしてやる。次はお前だ鍵屋崎。最後が安田だ。ロンとお前と安田を地獄に送りこんだあとに俺さまが下りていって、お前ら三人ケツひん剥いて順番に犯してやるさ。
 いいか、東京プリズンは俺の城だ。俺の物だ。だから東京プリズンにいる囚人も全部俺のもんだ俺の奴隷だ下僕だ肉便器だ、ここでいちばん偉いのは俺だそうだ俺なんだよ兄貴じゃなくて俺が俺こそいちばん誰も俺と兄貴を比べたりしねえ、ああ、ここは天国だなあ!!」
 「イカれてる……」
 ビバリーの腕に抱きつく。タジマはイカレてる。言動は正真正銘筋金入りの異常者のそれだ。ロンの首に腕を巻き付けて、胸の位置まで軽々吊り上げて、顔が青黒く変色してくさまを覗きこんでいる。
 「ひ、ぐ………はう」
 窒息の苦しみにロンがもがく。勢いよく宙を蹴り上げて首に絡んだ腕を掻き毟って、風の音に似て耳障りな喘鳴をもらす。だが、タジマは手加減しない。鍵屋崎を牽制するように、同僚たちを威嚇するように、絞殺一歩手前の凶悪な力を込めてロンの気道を圧迫する。
 ロンの抵抗が激しくなる。口から唾液の泡を噴いて、目には透明な涙の膜が張って、顔は青黒く膨れ始めていた。タジマは本気だ。ロンを殺すつもりだ。 
 「東京プリズンは犯り放題殺り放題の天国、兄貴が俺にくれた最高の職場なんだよ!俺は一生死ぬまで東京プリズンにい続けてやる、一生死ぬまでお前ら犯しつづけてやる!東京プリズンは俺の物」

 「『俺の物』?違う、『俺の物』だ」

 皮肉げな声が響いた。不敵な自信が表れた声だった。
 僕には即座に声の主がわかった。弾かれたようにそっちを向いた僕の目にとびこんできたのは、衝撃的な光景。
 レイジがいた。立っていた。そんなまさか。サーシャに背中焼かれて片目刺されて重傷なのになに平然と立ってるんだよ、ぴんぴんしてるんだよ。ついさっき気絶して担架で運びだされたくせに、もう治療終わったっての?
 いや、それより驚くべきことに。
 レイジの手の中に銃があった。ルーツァイが放り出したあの銃だ。勢いあまって床を滑って足元にぶつかった銃を拾い上げ、交互に手に渡して感触を馴染ませる。レイジの左目は白い眼帯で覆われていた。裸の上半身はガーゼと包帯で覆われて殆ど肌が見えなかった。
 レイジの手が高速で動く。慣れで五感を制した流れる動作。
 両腕をまっすぐ伸ばして銃を構える。
 しなやかに引き締まった体躯に純白の包帯を纏わせ、眼帯に覆われてない右目に精悍な光を宿して、レイジは大胆に笑う。

 「お前生きて……とことん俺の邪魔しやがるガキだ、けど無駄だ、お前のロンは俺の腕の中で死!!」
 『Good-bye.
 This gun sings a song of eternity for you who go for death.』
 この銃は死に逝くあなたに永遠の歌を唄う。 

 レイジには一分の隙もなかった。狩猟本能を備えた野生の豹のように四肢は強靭なバネを感じさせた。
 耳の奥に歌声が甦る。レイジがよく唄ってる音痴な鼻歌……あれはたしかストレンジ・フルーツ。甘く掠れた独特の響きの声は麻薬のように人を酔わす。
 堕落と退廃のローレライの歌声。
 レイジは今この瞬間も声にださず唄っていた。リズミカルに足拍子を踏みながら例の鼻歌を口ずさんでいた。
 機嫌よく唄いながら銃口を上向け、微笑む。

 『I shoot strange fruits』
 奇妙な果実を撃ちぬいてやる。

 タジマが絶叫した。人語を解さない怪物の断末魔をかき消したのは、一発の銃声。レイジの腕が俊敏に跳ね上がり、反動で四肢に巻いた包帯が生あるもののように激しく泳ぐ。
 四肢の包帯をたなびかせたレイジの顔は、銃火に照らされた瞬間も笑っていた。
 だが、タジマは生きていた。ぴんぴんしていた。胸にも眉間にも穴はひとつも開いてない。
 おそるおそる自分の胸を探ったタジマの顔が卑屈に笑み歪む。
 「おどかしやがって!!どうしたレイジ、ギャラリー大勢集ってる前で見事に外したなあおい、さすがの王様も長年のムショ暮らしで腕が錆びつ」
 轟音。
 タジマの演説を遮り、照明器具が落下した。天井の一隅に設置された巨大な照明器具だった。大外れなんてとんでもない、大当たりだ。レイジが放った弾丸は狙い違わず照明器具の設置個所を撃ちぬき、タジマの頭上を直撃。照明器具のガラス片が鋭利にきらめき、一面に飛び散る。照明器具に押し潰されたタジマはもはやぐうの音もでず、白目を剥いて失神してる。
 「……ばかげてる。距離と位置考えてあたるわけない、20メートルは離れてるじゃん。こんな人でごった返した場所で、正確に照明だけを撃ち落すなんて……どんな腕前だよ。50メートル先からスリーポイントシュート決めるよか難しいよ」
 ロンは照明器具がぶつかる前にタジマの腕から脱してかろうじて無事だった。
 床にへたりこんだロンのもとへサムライと鍵屋崎が駆け寄り、気遣わしげに助け起こす。残る右目を細めてロンの安否を確認、安堵の表情を覗かせた王様が手の中の銃を持て余し気味に舌打ち。
 「やっぱ片目ないと調子狂うな。慣れるのに時間かかりそうだ」
 そして、銃口から立ち上る硝煙をひと吹きした。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050720010814 | 編集

 「げほっ、がほごほっ!」
 「大丈夫か!?酸素を取りこんで肺を拡張、呼吸を安定させろ!」
 さすが天才、無茶を言う。
 などと妙なところに感心半分あきれ半分、青膨れの痣ができた首をさすりながら激しく咳き込む。
 漸く呼吸がらくになった。一時は本気で死ぬかと思った。
 タジマの腕が首にめりこんで絞め付けが一段と強くなって、酸素不足の呼吸困難で視界が急速に翳り始めて……
 ああ、これでおしまいか。
 とうとうおしまいか、と俺はなげやりに死を予期した。どんだけ足掻いても到底避けがたい死とやらを漠然と予感した。タジマの腕の中で死に物狂いに足掻きながら、体を反り返らせ宙を蹴り上げ必死に抵抗しながら、最後に脳裏に思い浮かべたのはお袋の顔、メイファの顔……レイジの顔。
 急速に翳りゆく視界と朦朧と薄れゆく意識の中、レイジの笑顔を反芻する。
 死ぬのは嫌だった。
 こんなところで死んでたまるかと心が悲鳴をあげた、生きたいと本音を絶叫した。生への渇望、衝動。酸素を欲して喘ぎながら、タジマの腕の中で首を仰け反らせてもがき苦しみながら俺はレイジを呼んだ。心の中でレイジの名前を呼んだ。
 タジマに絞め殺されるのは嫌だ、俺はまだ約束を守ってねえ、全身ぼろぼろになって戦いぬいたレイジに何も返してやってねえ。レイジとの約束守るまで死ねるか、と反発が湧いた。絞め付けはどんどん強くなる、きつくなる。
 タジマの腕が喉を絞めて息を塞き止めて、陸揚げされた魚のように勝手に体が跳ねた。窒息の苦しみ。最初は喉のあたりが窮屈になって、それから喉の内側が爆発するような圧倒的な膨張の感覚に襲われて、口の端から唾液の泡が零れた。
 苦しい、苦しい。
 死に瀕して生存本能に火がついた。俺はタジマの腕の中で無茶苦茶に暴れた。それこそ尻尾を引っ張られた猫みたいに無我夢中でタジマの腕に爪を立て、深々と容赦なく引っ掻いた。
 爪が腕の肉を抉る生々しい感触。手応えはたしかにあったがタジマは腕の力を緩めなかった、俺を絞め殺すのに夢中になって他のことは何も見えてないみたいだった。
 タジマは自暴自棄になっていた。
 俺を殺して鍵屋崎と安田に後追わせて、最悪自分も死ぬつもりだった。 
 「地獄に逝けよ、ロン。心配すんな、俺もすぐ行ってやらあ。ダチの鍵屋崎と安田にも後追わせてやらあ。お前ら三人並べてケツひん剥いて順番に犯してやら、誰の汁がいちばん遠くまで飛ぶか競争だあ!」
 俺の耳朶に熱い吐息を絡めてタジマが囁く。口臭が強烈だった。ヤニ臭く黄ばんだ歯を剥いた下劣な笑顔は醜悪そのものだった。
 たっぷり贅肉の付いた二重顎、弛んだ頬肉、狡猾で残忍な細い目は性欲を剥き出して爛々と輝いていた。腕の中で苦悶する俺を覗きこんで、タジマは凝りもせず嗜虐心を疼かせていた。
 俺の尻にあたる硬い感触……タジマは勃起していた。ズボンの股間がはちきれんばかりに膨張していた。こいつ、正真正銘の異常者だ。真性の変態、怪物だ。俺の首絞めながら悦んでやがる。舌なめずりせんばかりにご満悦の笑顔と股間の膨らみがその証拠。
 タジマに絞め殺されるなんざ癪だ、なんとかしなきゃ、俺はまだレイジとの約束も守ってねえ……こんなところで死んでたまるか、くそっ!
 その時だった、一発の銃声が響いたのは。
 「―え?」
 唐突だった。何が起きたのか瞬時にわからなかった。
 涙の膜が張った視界が朦朧とぼやけていて、息の通り道を塞がれた喉からは間延びした喘鳴がひっきりなしに漏れていた。力なく瞼を上げて薄目を開けた俺は、銃声の出所を探って視線をさまよわせる。鍵屋崎もサムライもきょとんとしていた、他の看守連中だってそうだ。
 不可思議な現象が起きていた。
 俺たち全員が振り仰いだ方角、地下停留場にごった返した人ごみが二手に割れて一本の道が出来ていた。地下停留場の人ごみを貫いた一本道の起点にはレイジがいた。両腕をまっすぐ伸ばして銃を構えていた。俺がよく見慣れた余裕の笑顔。
 百獣の王成る無敵の自信が表れた、不敵な笑顔。
 百獣の王ってのは普通獅子を指すだけど、レイジは豹だった。獰猛なる狩猟本能を備えた野生の豹、決して人に手懐けられることないしなやかでしたたかな美しい獣。俺の目は自然とレイジが構えた銃に吸い寄せられた。まっすぐこっちに向いた暗い銃口からは、一筋硝煙が立ち昇っていた。
 直前に弾丸が発射された痕跡があった。でも、弾はどこへ……
 俺の疑問を打ち消すように、虚勢が見え見えの哄笑をあげるタジマ。
 「おどかしやがって!!どうしたレイジ、ギャラリー大勢集ってる前で見事に外したなあおい」
 外れたのか?そんなまさか。レイジにできないことなんてないのに……
 俺はレイジの銃の腕に全幅の信頼をおいてる。そりゃ実際レイジが銃を撃つとこ見たこたないが、売春班の仕事場の扉を蹴破って俺を助けに来た時、指にかけたゴムを引き延ばして……
 レイジは撃ち放って、
 「さすがの王様も長年のムショ暮らしで腕が錆びつ」
 見事にタジマの額を撃ちぬいて。
 タジマはまだ笑っていた、勝利の快感に酔い痴れた哄笑をあげていた。
 肥満した腹を波打たせて、俺の首に片腕をかけて、汚い唾をまきちらして。 だから気付かなかったのだ、頭上の異変に。
 「!!」
 そうか。そういうことか。 
 俺の判断は早かった。タジマの腕が緩んだ隙に思いきり爪を立てる、タジマが短く悲鳴を発して俺を落とす。
 今だ。
 タジマが腕をはねのけた瞬間を逃さず猫のように身をよじり床に着地、姿勢を低めて安全圏に転がり出る。背後でタジマが何かを叫び、俺の肩へと手を伸ばす―
 轟音。
 「ぎゃああああああっあひいいいいいいあああああっあっ!?」
 俺の肩にタジマの指先が触れる直前、照明器具が落下した。レイジが見事撃ちぬいた照明器具。レイジが銃を撃った直後から頭上の照明が不安定にぐらつき始めたことに俺はすぐ気付いたが、タジマは全然気付かなかった。
 逃げ遅れたタジマは照明の直撃を受けて、ぐるりと眼球が裏返った。
 失神。圧死してもおかしくない衝撃だったのにしぶといヤツだと辟易する。いや、レイジは最初からこれを狙ってたんだ。タジマは俺を捕えてた、俺を盾代わりに鍵屋崎たちを足止めしてた。タジマの胸を狙うのは不可能、眉間を狙うにしても万が一弾が逸れたら俺が犠牲になる。
 だから敢えて頭上の照明を狙った、何より俺の身の安全を優先した結果タジマを殺さずに止める方法を選んだ。簡単にタジマを殺すこともできたのに。
 間一髪、間に合った。俺はタジマに絞め殺されずに済んだ。ったく、どんだけ悪運強いんだと自分でも笑えてくる。床一面に散乱した微塵のガラス片が、照明の反射で鋭利に輝く。
 鍵屋崎は俺の傍らに片膝つき、慣れない手つきで背中を擦ってくれた。
激しく咳き込む俺を心配して、ぎこちなく脈をとってくれた。
 ブラックジャックが乗り移ったみたいに、本物の医者みたいに真剣な顔だった。
 「大事はない。脈は正常だ、心拍数も平常値に戻った。ロン、君の生命力の強さは尋常じゃないな。何度命の危機に瀕してもしぶとくしたたかに生き延びて……トカゲの尻尾は切られてもまた再生してプラナリアは分裂増殖する。まったく君のしぶとさときたら唯一の取り柄である自己再生能力の他は右脳も左脳もない、思考活動をしない単細胞生物並だ」
 「微妙に嬉しくねえ、その誉め方」
 「誉めてるんじゃない、あきれてるんだ」
 嫌味を言いつつも鍵屋崎の顔は和んでいた。
 安堵の息を吐く鍵屋崎の隣、サムライもまた肩の力を抜いていた。サムライもまた、俺を心配してくれたのだろう。
 「い、いでででででででででででででででっ!」
 「!?」
 レイジの声だった。
 弾かれたように顔を上げ、跳ね起きる。ぐらっときた。足で体重を支えられず一歩二歩と前のめりによろめいた。平衡感覚が狂っているのだろうか?指一本曲げるだけで全身の間接が軋んで大小の腱が焼き切れる激痛に襲われた。がくりと膝を折った俺の右脇に鍵屋崎が屈みこみ、左脇にサムライが屈みこみ、二人とも無言で俺の体を持ち上げる。
 「お前ら……」
 「善意じゃない。君を放置してさらに無茶をされると、監督不行き届きで保護責任が問われるからな」
 鍵屋崎が無愛想に言い放ち、サムライが苦笑する。
 二人の間に流れる空気はとても親密で柔らかい。そりゃ一万人の目の前でひしと抱き合ってたんだから柔らかくもなるよなと納得する。
 鍵屋崎とサムライに肩を抱かれて歩く。
 一歩ずつ一歩ずつ人ごみを泳いで慎重にレイジに歩み寄る。
 両脇を支えるぬくもりが心強かった。サムライは鍵屋崎の負担にならないようさりげなく、軽々と俺の体を担ぎ上げていた。鍵屋崎はそれに気付いてるのか、はたまた気付かないふりをしてるのか、仏頂面で前だけを見ていた。
 一歩一歩、着実にレイジに近付く。
 レイジは右腕を押さえてうめいていた。
 体を反り返らせ、また突っ伏し、七転八倒していた。
 「あー痛てえよ畜生、今のでまた傷口開いた!腕にびりっと反動きた、骨イッたかもしれねえ。くそ、この上骨にひびまで入ったらロン抱きしめることもできねえじゃん」
 「バカ言うなバカ」
 レイジが反射的に顔を上げる。虚を衝かれた間抜けヅラ。なんだか無性に笑いがこみあげてきた。思ったより元気そうじゃんか、コイツ。担架に仰向けに寝かされてるの見た時はマジで死んじまうかもと不安になったのに、あれこれ深刻に思い詰めた俺のほうがバカみたいじゃんか。
 「生きてたのかよ、お前。とっくにくたばっちまったのかと思ったよ、そんなナリで」

 そんなひどいなりで。ぼろぼろのなりで。

 全身包帯だらけで、左目は眼帯で覆われて、あちこちに乾いた血がこびりついて。よく動けたなと感心する。鍵屋崎とサムライから離れ、ぺたんと床に膝をつく。胸に満ちる温かい感情……安堵。レイジが生きててよかった。またこうして会えて、口が利けてよかった。本当によかった。
 「おおよ、このとおりぴんぴんしてるよ。ま、無傷ってわけにはいかねえけど……正直言うと今さっき目覚めたんだよ。会場がうるさくておちおち寝てらねえっつの、ちょっとは怪我人の安眠に気を遣えっての。で、目が覚めたら覚めたで会場見まわしてみりゃロンがなんだか大変なことになってるし……あのさロン、お前ちょっとはゴキブリコイコイみたく自分が振りまいてるフェロモンに気付けよ。トラブル巻きこまれ体質ってのか、ちょっと目をはなすとすぐ厄介事に巻きこまれて貞操の危機に……」
 レイジときたら、人の気も知らず軽口叩いてやがる。
 俺がどれだけ心配したか知らないで、平気な面でお説教してやがる。何様だこいつ。ああそうか、王様か。なら仕方ねえ。でもさ、俺、死ぬほど心配したんだぜ。お前がいなくなっちまったらどうしようって、またひとりぼっちになっちまったらどうしようって……

 もう二度と、こんなふうに馬鹿話できなくなっちまったら。
 もう二度と、お前の笑顔が見れなくなっちまったらって。

 俺の気持ちなんか知らずにレイジは上機嫌にぺらぺらしゃべってやがる。死の淵から生還した反動か、いつもより陽気に饒舌に、能天気な笑顔をふりまいて。でも、ナイフで切り裂かれた頬にはまだ血がこびりついていて、片目は眼帯でふさがれていて、他にも全身至るところにガーゼが貼ってあって。
 レイジの体で、傷がないところのほうが少ないくらいで。
 笑顔と口調が底抜けに明るいだけに、血の滲んだ包帯とガーゼが余計に痛々しくて。
 あの眼帯の向こうの目は、もう二度と見えないのに。永遠に光を失っちまったのに。 
 「……聞いてるのかロン?シケた面して黙りこんでんなよ、説教聞く態度ってのがあるだろちゃんと。ほい、ここに正座。お手。違う、お手は犬か。ロンお前ちゃんと反省しろよ、危なっかしくてしょうがねえよ。俺の目の届かないところでタジマやら凱やらにちょっかいだされてヤられちまったらって心配で心配で、こちとら三分以上気絶もできねえよ!ま、こんなザマになっちまったからこのさき目の届かない範囲が広がりそうだけどな」
 そう言って、自分の顔を指さして屈託なく笑う。
 取り返しのつかないことまでも冗談にしちまう残酷な優しさで。
 「聞けよロン。俺の左目が見えないからって左側で浮気したら承知しね、」
 『多句了!!』
 
 レイジに抱きついた。
 胸が破れそうに苦しくて、そうせずにはいられなかった。

 いきなり抱きつかれたレイジが後ろ手をついてバランスを崩す。慌てて駆け寄ろうとした鍵屋崎をサムライが目配せで諌める。俺はレイジの背中に腕を回して、しっかり抱擁して、汗臭い胸板に顔を擦り付けた。
 胸板に巻かれた包帯が頬にざらざらした感触を与えてきた。  
 『多句了、多句了』
 もう十分だ。十分だよ。
 無理するなよ。笑わなくていいよ。おかえりレイジ。生きててくれてよかった。十分だよ。
 「………泣き虫め。鍵屋崎とサムライがあきれてるぜ?いいのかよ、人前で」
 「放っとけよ。あいつらのほうが一万倍恥ずかしいことしてたから」
 「そうなの?やっべ、見逃した」
 「一万人の大群衆の前でひしと抱きついて離れなかった。完璧二人の世界入ってたぜ。まわりの連中みんなぽかーんとしてた。開いた口が塞がらないってヤツだ。鍵屋崎には自覚ねえみたいだけど、あれ、全員ひとり残らず出来てるって誤解したぜ。これから東棟で肩身狭くなるだろうな」
 「俺とお前だって似たようなもんじゃん」
 「どこがだよ」
 「これから見せつけてやるんだから」
 レイジが俺の頭に手をおき、甘やかすみたいに撫でる。俺に安心を与えてくれる優しい手。
 次の質問には勇気が要った。漸く搾り出した声はみっともなく掠れていた。
 「………目、痛くないか?体どこも変じゃないか。麻薬は抜けたのか」
 「正直言って、痛え。体のそこらじゅう冗談みたいに痛え。でも、気持ちいい。やること全部やり終わって気分爽快で、今すぐ天国に飛びたてそうに心が軽いから、ロンが重しになってくれてちょうどいいよ」
 「吹かすなよ。お前が天国にいけるわけねえだろ」
 「そうだな。そうだよな」
 レイジが俺の体に腕を回し、抱きしめる。褐色の肌に映える包帯の白さが目に焼き付く。レイジは体じゅう傷だらけでぼろぼろで、自慢の顔だってガーゼとバンソウコウだらけでとても見られたもんじゃなかったけど、相変わらずその微笑みだけは何ものにも侵しがたく綺麗だった。
 「神様がいる天国よりロンがいる地獄を選ぶよ。俺は」
 レイジのシャツを握り、ぬくもりを乞うように胸に顔を埋める。そばで鍵屋崎とサムライが見てようが人目があろうが気にしない。関係ない。俺はレイジを手放したくない、引き離されたくない。ずっとこうしていた……
 「なにやっとるかね君は、勝手に抜け出しちゃ駄目じゃないか!!」
 い?
 「やべ、バレた!」
 俺を胸からひっぺがしてレイジが急に焦りだす。声の方を振り仰げば、白衣を翻して医者が駆けて来たところだった。息を切らして駆けて来た医者は俺とじゃれてるレイジを見つけるや、烈火の如く怒りだす。
 「会場の騒ぎでちょっと目を離した隙にいなくなって……自分の立場がわかってるのかね君、背中に重度の火傷を負って右腕に怪我をして、他にも全身至るところに裂傷と打撲を負って!自分で勝手に点滴抜いて這い出してこんなところで何してるんだね?困った患者だよ!!」
 「おま、治療終わったんじゃねえのかよ!?」
 びっくりした。どうりで包帯が中途半端にほどけてると思ったら、治療の途中で勝手に抜け出してきやがったのか。そりゃあいつも温和な医者もキレるはずだ。
 「担架でじっと寝てるの性にあわねえんだよ、いつ誰に悪戯されるかわかんねえし!実際俺がちょっと気絶してる間に悲劇が起きたし……凱に唇奪われるなんざ一生の不覚だ、ああもうこの先ずっと夢に見ちまいそうだぜ最悪!!」
 「言い訳はあとで聞く。とりあえず戻りたまえ」
 「ロン抱くまで帰らねえ」
 「いや、帰れよ」
 「君が帰りたくなくても医者の威厳にかけて無理矢理連れ戻す!さあ医療班の諸君脇を固めて、元気良すぎる患者の腕をがっちり固めて……必要とあらば拘束も辞さないぞワシは!!」
 「いでででえいでっ、待てやめて本気で傷開くからそれ!?なに手錠手錠なの、怪我人に手錠ってひどくないかこのマッドサイエンサディスト!?俺をベッドに戻してえなら網タイツの似合う美脚ナースつれてこいよ、女神の胸枕ならぐっすり安眠できる!」 
 「そんなナースがいたらワシが後妻にしたいよ。我侭言わずワシの膝枕で我慢しなさい」
 『Oh my god!!Please please hear my request!!』
 レイジが俺へと手を差し伸べながら医者に引きずられてく……なんというか。最後までかっこよく決められないところがレイジらしい、と言えなくもない。脱力した俺の隣にやってきた鍵屋崎が、したり顔で首を振る。
 「元気そうで何よりだ……いい機会だから脳の切開手術でも受けたらいいんじゃないか?彼は」
 「キーストア!」
 鍵屋崎が顔を上げる。レイジが腕を一閃、鍵屋崎の腕の中に飛びこんできたのは……安田の拳銃。 
 「それ安田に返しといてよ。あと、その銃……」
 「医療班、担架を!怪我人を早急に処置しろ、輸液パックの用意はいいか!?」
 何かを言いかけたレイジの声はてきぱき指示をとばす医師にさえぎられた。それきりレイジは人ごみに消え、あとには銃を手にした鍵屋崎と俺とサムライが取り残された。
 銃を取り戻した鍵屋崎の背後では、気絶したタジマが照明の下から引きずりだされて担架が呼ばれていた。即死こそ免れたがタジマは重傷だった。少なくとも今晩は復活する見こみはないだろう。
 あとは安田に銃を返せばすべて終わる。
 「………」
 レイジについてようか、鍵屋崎と一緒にいようか迷う。レイジは人ごみの向こうで「俺を寝かしつけてえなら美脚ナースの胸枕かロンの子守唄だ!」とまだ騒いでる。俺に子守唄唄えってか?無茶な要求だ。
 「行って来い。あとは俺たちに任せろ。お前はレイジについててやれ」
 俺の心を見透かしたようにサムライが言い、念押しの笑顔で畳みかける。
 「王に褒美をくれてやれ。レイジを癒せるのはお前だけだ」
 決心がついた。後のことはサムライと鍵屋崎に任せよう、俺はレイジについててやろう。サムライの褒美がなにを指してるのかは漠然と察しがついたが、深く追及しないことにした。
 サムライに頷き返し、レイジを追おうと方向転換しかけて振り返れば、リング上ではヨンイルが素っ裸で寝ていた。風邪ひかないかあいつ?そのそばには五十嵐がいた。腑抜けた顔をさらして芒洋と虚空を仰いでいた。安田は医療班に肩の手当てを受けていた。どうやら大事には至らなかったらしいと安心する。リング付近には他に凱と売春班の面々もいた。
 ホセの姿は見当たらなかった。神出鬼没の隠者め、今度はどこへ……
 まあいい。ペア戦は終わったんだ。全部片がついたんだ。俺はレイジについててやろう。
 そう心に決めて、未練を断ち切り走り出す。
 「待てよ藪医者、王様なだめるの老体にゃ骨が折れるぞ。俺にまかせ……」
 人ごみに見え隠れする白衣の背中に声をはりあげ、一瞬動きを止める。途中、見覚えあるヤツとすれ違ったから。そいつは人ごみに身を隠して、足早に鍵屋崎の背後へと歩み寄っていた。なんだか胸がざわついた。まだ何か起こりそうな予感。幕が下りた舞台の裏側でもう一騒動持ち上がりそうな予感……
 まさか。考えすぎだ。激しくかぶりを振り、不安を打ち消す。「あいつ」がここにいること自体は全然不自然じゃない。鍵屋崎に歩み寄ったからって何も不思議じゃない。鍵屋崎とは当然顔見知りだろうし、「お疲れ様」とでも労いの一言をかけにいったに違いない。
 そうだ。この上「あいつ」が何をしでかすってんだ?
 サーシャとレイジは医務室に運ばれて、ヨンイルは気絶して。
 残る「あいつ」一人でなにができるってんだよ?
 「まさかな」
 考えすぎだと自分の考えを嘲笑い、地下停留場を抜ける通路へととびこむ。レイジを乗せた担架は医務室へと運ばれてく。背後の喧騒が遠ざかる。足を早めて担架に追い付き、ポケットに手を突っ込み、無意識に牌をまさぐり不安をごまかす。
 ペア戦は終わった。タジマの復讐劇にもヨンイルと五十嵐の因縁にも片が付いた。
 大団円。一件落着。それで万事よしじゃないか……
 
 その時だった。
 背筋に電流を通されたみたいな戦慄に襲われたのは。

 思い出したのは、目だ。

 俺と気付かずすれ違った瞬間の「あいつ」の目。黒ぶち眼鏡の奥、分厚い瓶底眼鏡の奥の眼光……
 油断ならない光を湛えた、鋭すぎる双眸。
 「大団円」?「一件落着」?いや、まだだ。まだ終わってない。東と北と西のトップが人事不省に陥っても、「あいつ」だけはぴんぴんしてる。「あいつ」だけは余力を蓄えて無傷で生き残ってる。
 それが何を意味するかわからないが、俺が今しがた背を向けた地下停留場で、とてつもなく不吉なことが起こりそうな予感がする。
 そして。
 通路の真ん中に呆然と立ち竦んだ俺の背後で、はっきりとそれは聞こえた。
 「五十嵐、俺を殺せ」
 断固とした、ヨンイルの声だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050719012031 | 編集

 「キーストア!」
 レイジが僕へと銃を投げる。
 「それ安田に返しといてよ。あと、その銃……」
 何か言いかけたレイジの腕を引っ張り強引に人ごみへと連れ込む医師。
 「医者生活三十余年でこんなに元気な患者は見たことないよまったく、大人しく寝てないと鎮静剤を打つよ」
 「ひでえ横暴だ、人権無視だ、断固抗議!ロンと俺の仲を裂こうとするてんで性悪キューピッドめ!」
 「患者に人権はない!」
 医師と口論しつつ人ごみに連れこまれたレイジは、雑踏に紛れる最後の瞬間まで往生際悪く足掻いていた。ロンは僕とレイジを見比べて逡巡していた。複雑で不安げな面持ちだった。レイジを心配する気持ちと僕らに遠慮する気持ちが相半ばしてロンの顔を曇らせていた。
 ロンの心情を察した僕は銃を胸に抱えて口を開こうとして……
 「行って来い。あとは俺たちに任せろ。お前はレイジについててやれ」
 サムライに先回りされた。
 「王に褒美をくれてやれ。レイジを癒せるのはお前だけだ」
 物静かだが有無を言わせぬ口調で促され、ロンが決心する。きつく唇を結んで顔を上げ、サムライを見上げる。そして、駆け出す。レイジを追って人ごみに身を投じたロンの姿がやがて見えなくなるにつれ、緊張の糸が緩む。
 体が傾いだ。
 手中に抱えた銃の重量のせいか、疲労が溜まっていたせいか……そうだ、今晩だけで色々なことが起こりすぎた。僕の優秀なる頭脳の許容量を超える異常な出来事が次々と。だが、全部終わった。もう何も心配することはない、僕が憂うことは何もない。
 今日は特別な夜だった。
 東京プリズンにとっても僕にとっても、今この場にいる誰にとっても特別な意味を持つ運命の夜。
 東京プリズンの命運を分ける一戦が行われ、ペア戦に決着がつき、複雑に絡まり合った五十嵐とヨンイルの因縁も解かれた。
 今夜の出来事は正式な記録に残らずとも長く記憶に残る予感がする。
 看守と囚人の区別なく今晩この場に集った人々の記憶に残り続ける確信に近い予感がする。たった一晩の出来事が多くの人々の人生を左右することがある、たった一晩の出来事が価値観を根底から覆して目に映る光景を劇的に塗り替えてしまうことがある。それが今日、今晩だったのだ。
 僕の体には澱のように疲労が蓄積されていた。
 脆く繊細な神経は酷く張り詰めて、過度の緊張を強いられ通したせいで、すべてが終わった途端に安堵から来る眩暈に襲われた。急に床が傾いだ錯覚に襲われて平衡感覚が狂って、あっと思った瞬間には体が浮揚感に包まれていた。 床で足を滑らせた僕は、背中が床に激突する衝撃を予期して固く目を瞑る。
 ところが、そうはならなかった。
 後ろ向きに倒れた僕を力強い腕が支える。
 腋の下にさしこまれた二本の腕の主は僕の背後であきれ顔をしていた。
 「何もないところで転ぶとは器用だな」と感心してるようにも見えた。
 心外だ。
 「手を放せサムライ。肉体的接触なら先程のあれで十分だ」
 無様だ。なんたる失態だ、鍵屋崎直と羞恥に頬を染めて内心歯噛みする。
 気が緩んだ途端にこれだ、もう恥をかくのは沢山だというのに。
 思えば今晩だけで一生分の恥をかいた、かき尽くした。タジマには銃を発砲するぞと脅されて、一万人の大群衆が固唾を飲んで見守るリング上で痴態を晒された。その上ロンを強姦しろと命令されて甚だ不本意なことに屈辱的な芝居までする羽目になった。
 タジマを騙して油断を誘うために仕方なかったとはいえ口腔内の生温かい温度と感触が不快だった。冷静に考えれば凡人にもわかるだろう、僕がロンに欲情などするわけがないじゃないか、天才のプライドに賭けて断固否定する。鈍感なロンはズボンを脱がされる段階になってもまだ気付かなかったようだが、僕はただ演技をしていただけだ。
 タジマと群集を騙してサムライにだけ真意を伝える巧妙かつ狡猾な演技、それもこれもIQ180の優秀なる頭脳が発案したタジマの裏をかく計略だったのだ。
 でも、最も恥ずかしいのは……
 「同じことを二度言わせる気か?手を放せというんだこの低脳め、もう平衡感覚を取り戻した、ちゃんと二本の足でバランスをとって立つことができる。君の手を借りずに秒速3メートルで房に歩いて帰ることもできる。大体君は足に怪我をしてるじゃないか、さっき銃床で殴られてまた傷が開いたんじゃないか?くそ、何度包帯を替えればいいんだ。これぞ資源の無駄遣いというものだ、少しは反省しろ」
 「すまない」
 サムライが律儀に頭を下げる……素直に詫びられたら詫びられたでばつが悪い。これでは一方的に怒ってる僕のほうが悪者だ。
 「……前言撤回だ。訂正しよう、別に君が謝ることでも反省することでもないな。反省する必要があるのはタジマだ。しかし、これだけの大事件を起こしたんだ。いくらタジマに強力なコネがあっても、看守職への復帰は絶望的に不可能。それだけは喜ぶべきことだな」
 眼鏡のブリッジを中指を押し上げ、吐き捨てる。
 だが、サムライに両腕を掴まれて背後から吊られていてはさまにならない。サムライの腕を邪険に振り解き、苛立たしげに上着の裾を払って立ち上がる。あちこち転げまわったせいで全身埃だらけだった。眼鏡のレンズも片方割れて視界半分に亀裂が生じていた。
 鏡に映してみるまでもなく今の自分がひどい有り様だと察しがついた。
 レンズにひびが入って視界が利がないのが惨めだ。眼鏡を顔から外し、割れたレンズをじっくり観察する。早急に修理に出す必要があるな、と考える。
 「………君が、その」
 眼鏡の弦をいじくり回しつつ、口を開く。
 サムライがうろんげに僕を見る。横顔に視線を感じて頬が熱を帯びる。
 手元に意識を傾け、神経を集中する。ヨンイルに蹴られた衝撃でレンズが割れた眼鏡をあちこち角度を変えて矯めつ眇めつしつつ、努めてさりげなく、本心を口にする。
 「君がタジマを殺さなくて、良かった。君の剣はあんなふうに使うものじゃない。汚い男の汚い血で君の手と剣が汚れるなど到底耐えられない。僕はこれからもずっと、君と一緒にいたい。共にありたい。友人として……その、だからつまり、端的かつ理論的なおかつ合理的に結論すれば」
 言葉が淀む。高熱でも発したように頬が熱くなる。
 こんな訥弁、僕らしくもない。いつもみたいに自信を持って、威圧感を込めた口調で淘淘と言いきりたいのに、どうしてもそれができない。落ちつきなく眼鏡をさわりながらふと顔を上げて照明の落下地点に一瞥くれる。
 タジマは既に担架に乗せられ運び去られていた。後にはただ床一面に照明の破片が散らばり、後片付けを任された看守が慌しく行き交っているだけ。
 これで当分タジマと顔を合わせずに済むという安堵にも増して僕を救ったのは、サムライがタジマを殺さなかったという事実。
 狂気に取り憑かれて木刀を振るうサムライ、復讐に燃える眼光、返り血を浴びた般若の形相……
 もしあの時サムライがタジマを殺していたら、僕らはもう一緒にはいられなかった。
 サムライは僕にとってかけがえのない大事な存在だ。大切な人間だ。彼と離れ離れになるのは耐えられなかった。彼を失いたくないと痛感した。
 眼鏡をかけ直し、サムライの目をまっすぐ見つめる。
 「僕は」
 今の気持ちをサムライに伝えたい。
 さっきの抱擁だけじゃ足りない、伝えきれなかった気持ちを。
 サムライが無言で僕を見る。見つめ返す。
 サムライは僕の中に苗を見てるのだろうか、苗の幻影を重ねているのだろうか?……かまわない。それでもいい。
 僕を癒せるのはサムライだけだ。そしてまた、現在を生きるサムライを癒せるのも僕だけだと自負していいだろうか?自負することを苗は許してくれるだろうか?
 視線と視線が絡み合う。距離が接近する。胸の鼓動が高鳴り、手のひらがじっとりと汗ばむ。周囲の喧騒が潮騒のように遠のき、僕とサムライのまわりに不可侵の静寂が満ちる……
 「鍵屋崎、そろそろ銃を返してほしいのだが」
 咳払いとともに不機嫌な声が介入。
 振り向けば安田がいた。背広を脱いでシャツ一枚になっている。そのシャツもボタンが数個しか掛けられておらず、血の滲んだ包帯が扇情的に映える色白の素肌が覗いていた。はだけたシャツの隙間から薄い胸板と鎖骨を覗かせた安田が、看守二人に両脇を支えられてこちらにやってくる。
 「銃?勿論返すつもりだった、忘れるわけがない。僕が優先順位を間違えるはずないじゃないか、弾倉にはまだ一発残ってる、暴発の危険もある銃の存在を手に持ったまま忘れるはずがないじゃないか!」
 「わかったから、早く返したまえ」
 安田があきれ顔になる。なんだその顔はと文句を言いたくなる。元はといえば貴様が不注意だから僕がしなくてもいい苦労をする羽目になったんじゃないか、おかげでさんざんな目に……
 まあいい、過ぎたことだ。
 憮然たる態度で安田の手のひらに銃を置こうとして、ふと思い止まる。
 「副所長、貴方が銃を紛失したことは皆に知れ渡ってしまった。タジマが暴露してしまった」
 「ああ」
 首肯した安田を探るように見上げる。安田は意外にも落ち着き払っていた。何故だか清清しい顔をしていた。長年の苦悩から解放されたような、達観した表情だった。
 「自業自得の但馬看守はともかく、貴方にも相応な処分が下される。刑務所内で銃を紛失したのは副所長のミスだ、今回の騒動の発端はそもそも貴方が注意を怠って軽率な振るまいに及んだからだ」
 「こいつ、囚人のくせに生意気な!」
 「いい。続けたまえ」
 怒号を発した看守を遮り、安田が先を促す。僕は淡々と続ける。
 汗ばむ手のひらを隠すよう体の脇で握りこみ、喉の乾きを唾で潤し、挑むように顎を引く。
 「貴方は一体、どうなるんだ?当然無罪放免というわけにはいくまい、貴方にもなんらかの処罰が下される。たとえ貴方の銃で怪我したのが貴方自身を除いて誰もいなくても、刑務所内で看守が囚人に銃を向けたという事実こそ問題視されるべきだ。本来ありえざる由々しき事態として取り沙汰されるべきだ。ことは東京プリズンの日常の一部と化したリンチ及びレイプとは訳が違う。貴方はどう今回の責任をとるつもりだ?まさか……」
 そこで言葉を切り、切迫した眼差しで安田を仰ぐ。
 「まさか、東京プリズンを辞めるつもりじゃないだろうな?」
 「鍵屋崎。私は何故か君が他人とは思えない。君のことはまるで息子のように近しく思うよ」
 「答えをはぐらかすな、僕は副所長の進退問題について真剣に討議……」
 背中に衝撃。
 「!?」
 「鍵屋崎っ!」
 サムライが僕を呼び、安田が咄嗟に手をさしだす。僕の体を受け止めようとしたのだ。誰かが僕の背中にぶつかった、いや、突進してきたといったほうがいい。一人じゃない、二人、三人……立て続けにだ。視界が上下にぶれ、安田の腕に向かって倒れこむ。安田の腕に縋って顔を上げれば、眼鏡越しの双眸が憂慮の色を湛えてこちらを覗きこんでいた。
 「大丈夫か?君は少し体重が軽すぎる、ちゃんと栄養を摂ったほうがいい」
 「なら東京プリズンの食事事情を改善しろ、芋と菜と米と魚では献立が貧しすぎだ。こんな粗食で体が造れるわけがない、いいか、僕らは成長期なんだぞ?その点を重々考慮して献立の改善を要求……」
 ゴトリ、と鈍い音が鳴る。何か重たい物、たとえばそう、鉄の塊が床に落下した音……
 驚き、五指を広げた手を見る。
 拳銃がない。消失。
 顔から血の気が引く。いつどこで?「今」だ。今さっきだ。誰かが僕の背中にぶつかった、衝突のはずみで僕はよろめいて安田の腕の中に倒れこんだ。僕の背中にぶつかった人間はすでに人ごみに紛れこんで特定しがたいが手の中の拳銃は忽然と消えている。
 盗まれた?落とした?
 「鍵屋崎?」
 僕の肩を乱暴に揺さぶる安田が、拳銃の消失に気付いて血相を変える。
 「銃をさがすんだ!」と両脇の看守に指示、今にも膝が萎えて崩れ落ちそうな僕の肩を支える。本物の父親みたいに力強い手、ぬくもりと安心感を与えてくれる手……その時ふと、本当に唐突に、荒唐無稽な考えが脳裏を過ぎった。あとから考えれば現実逃避に過ぎない、根拠も何もない、ただそうあってほしいというだけの儚い希望。

 安田が僕の父親ならよかったのに。

 「あそこだ!」
 「!」
 サムライの声で一瞬にして我に返った。
 サムライの視線を追えば確かに銃があった、無造作に転がっていた。事もあろうにリングの上に。床に手を付いて首をうなだれた五十嵐の鼻先に。
 何故あんなところに?愕然とする。
 いくらなんでも距離が離れすぎている、床を滑ったにしては遠くに行き過ぎだ。誰かが故意に蹴飛ばしたとしか考えられない。しかし誰が、何の目的で?安田の腕から上体を起こし、犯人を特定しようとあたりを見まわす。
 無駄だ、僕の背中に突進した犯人も銃を蹴飛ばした犯人もわからない、人が多すぎる!
 「くそっ!」
 衝動的に安田を突き飛ばして走り出す。
 突然、胸騒ぎに襲われた。安田とサムライと看守二名が僕の後に続く。彼らも直感したのだ、五十嵐の目の届く範囲に銃を放置しておくのは危険だと。
 僕らが接近する足音に反応したか、五十嵐が緩慢に顔をもたげる。
 五十嵐が拳銃に目をとめる。死んだ魚のように濁った目に物騒なものが漣立つ。五十嵐がゆっくりゆっくりと拳銃に手をのばし、指を触れる…
 「やめろ五十嵐、銃に触れるな!」
 走りながら叫ぶ、五十嵐に今一度復讐を思い止まらせようと。
 銃に手を置いたまま、五十嵐がこちらを見る。固く強張った表情。手を引っ込めるべきか再び銃をとるべきか思いあぐねた、逡巡の表情。五十嵐もまた激しい葛藤に苛まれて自分では答えを出せずにいた、目の焦点は虚空をさまよって誰かに助けを求めていた、必死に縋っていた。

 救いの手は思いがけぬところから伸びた。

 「ええで五十嵐。撃てや」
 リングに上がろうとして、立ち止まる。
 リングを中心に低いどよめきが広がる。ヨンイルが薄目を開ける。
 五十嵐の手に被さったのは、ヨンイルの手。五十嵐に銃を掴ませたのは、命を狙われるヨンイル自身の手。寝ぼけているわけでもないらしく声はしっかりしていた。
 リングを囲んだ観客が慄然とする中、ゆっくり起きあがったヨンイルが無意識にゴーグルをさぐる。僕の手により首元に引き下げられたゴーグルには無残な亀裂が生じていた。
 弾丸が貫通したあとだ。
 弾痕が穿たれたゴーグルを名残惜しげに撫でつつ、ため息をつく。さんざん辛酸を舐めて人生に疲れきった年寄りのような、澱のように疲労が沈殿した吐息。
 たった一瞬で何十年もの歳月が経過したように老成した顔つき。
 「な、んで?」
 五十嵐のかすれた問い。驚愕に目を見開き、信じ難い面持ちで道化を仰ぐ。ヨンイルは少し困ったように笑う。
 「なんで、て。あんた、俺のこと殺したかったんやろ。娘さんの仇をとりたかったんやろ。なら撃てや。遠慮はいらん。眉間でも胸でも股間でも好きなとこ狙え。俺の体に棲んどる龍の息の根止めてくれ」 
 「何故そうなるんだヨンイル、僕に断りもなく勝手に結論をだすんじゃない!!」
 僕は動転していた、混乱していた。何故ヨンイルは今更こんなことを言い出す、すべてが片付いた今になって既に終わったことを、決着がついたことを蒸し返す?
 リングに一歩踏み出し、両手を広げる。
 「もう全部終わった、片が付いたんだ!君は助かったんだヨンイル、五十嵐の復讐は終わったんだ、君が間の抜けた寝顔をさらしてるあいだに問題は滞りなく処理されたんだ!それなのにわざわざ自分の命を危険に晒してこれは一体何の真似だ、君の言動は理解しがたい、支離滅裂の極みだ!
 君に放たれた弾丸は形見のゴーグルが代わりに受けた、君は奇跡的に無傷で窮状を切り抜けた、非常識なほどの悪運の持ち主だ!わかったか、わかったならさっさと戻って来い、ワンフーをはじめとする西の囚人が道化の帰還を待ち侘びているぞ!」
 僕を無視するヨンイルに苛立ち、最後は悲鳴のような叫びになった。
 僕にはヨンイルの行動が理解できない、何故この期に及んで自分の身を危険にさらすような真似を、五十嵐に復讐を促すような真似を?
 リング周辺の囚人が僕の叫び声に感化されてざわめきだし、場が緊迫する。
 思い詰めた面持ちで自分を見つめる西の囚人を睥睨し、ヨンイルは呟いた。
 「もう、ええ」
 かすかに笑みさえ含んだ、力ない声だった。
 ヨンイルが五十嵐の手ごと銃を握る。そうやって強引に銃を握らせる。ヨンイルにされるがまま、五十嵐が銃を手にとる。ヨンイルが満足げに頷き、傍らの免許証入れに一瞥くれる。正確には、上下に開いた免許証入れの写真に。
 「俺、全然気付かんかったんや。すっかり忘れとったんや、自分がしたこと」
 ヨンイルが目を伏せる。
 「あんたが怒るの無理ないわ。ここに来てから毎日毎日たのしくて、漫画読み放題で人生謳歌して、せやから忘れとったんや。……いや、ちゃうな。自然に忘れたんやなくて、心のどっかで忘れたがってたんやろな。
 さっき直ちゃん言うたろ、一生懸命俺に呼びかけとったろ。
 ちゃんと聞こえとったで。俺にとっての漫画はただの現実逃避の手段やて、きっついこと言うなあて内心苦笑したけど、その通りや。俺はなにか辛いことや苦しいことあるたび、現実に知らんぷりして漫画の世界に逃げこんだ。漫画の神様手塚治虫が作り出した世界に寝食忘れて浸りきって、俺もすっかり二次元の登場人物になりきって……」
 ヨンイルは淡々と語る。五十嵐リカの写真を見つめ、首をうなだれて。 
 「そうやって、取り返しのつかんことから逃げ切ろうとしてた。
 現実なんてつまらん、二次元のほうがなんぼマシか知らん。ホンマのことなんか知らんほうがええ。
 俺は阿呆やから、じっちゃんの口癖の意味はきちがえとったんや。ずっとずっと、長いこと勘違いしとったんや。じっちゃんの口癖。『いつか、どでかい花火を打ち上げるのが俺の夢じゃ』て爆弾いじくりながら言うとって……せやから、勘違いしてもうたんや。じっちゃんが言うとる花火は爆弾のことで、どでかい花火を打ち上げたいちゅーんはつまり、最高の爆弾作りたいてことかと…」
 ヨンイルは全裸だった。
 残り三つの照明が、龍に巻かれた肢体に艶やかな光沢を塗っていた。
 ヨンイルがそっと、首からさげたゴーグルにふれる。
 祖父との思い出を懐かしむように、口元を綻ばせて。
 「紛らわしいっちゅーねん、あのくそじじぃ。ホンモンの花火のこと指してるなんて阿呆やから気付きもせんかったわ、俺。死に際に枕元に呼ばれて『阿呆、アレは花火のことや』てお説教されたかて手遅れやっちゅーねん。
 俺はじっちゃんの口癖真に受けて、いつか最高の爆弾作ってじっちゃんの鼻明かしてやろて、じっちゃんびっくりさせたい一心で爆弾作りに明け暮れとったのに……なんやねん、それ。もっと早く言うてほしかったわ。そんなら俺、花火作ったのに。爆弾やなくて、花火作りに励んだのに。
 俺はただじっちゃんみたいになりとうて、他のこと何も見えてへんガキで、爆弾なんかどうでもよかったんや。俺はただ、じっちゃんに誉めてもらいたかったんや。『すごいな、さすが俺の孫や』て頭撫でてもらいたかったんや。
 はやく一人前になってじっちゃんに認められて……」
 ヨンイルの言葉が途切れる。
 「俺は、ピノコや。ブラックジャックのまわりちょこまかしてなんでも真似したがる、一人前と認められたくて必死に背伸びするピノコやったんや。けど、ピノコは爆弾作ったりせん。爆弾で二千人殺したりせん。じゃあ、俺はなんや?」
 ヨンイルが顔を上げ、まっすぐに僕を見る。
 僕なら核心から目を背けず欲しい言葉をくれるだろうと確信をこめ。
 「直ちゃん。俺はなんや」
 「人殺しだ」
 「そうや。人殺しや」
 我が意を得たりとヨンイルが頷く。
 「正直、俺はまだ死にとうない。世の中の漫画全部読み尽くすまで死にたくないてのが本音や。けど、あんたが俺を殺すのは正しい。正しいと言い切れなくても、少なくとも間違ってはない。あんたに殺されるなら納得できる、あんたの手で地獄に落とされるならまあしゃあないなって笑いながら逝ける」
 「悟りすぎだよ、お前」
 震える手で銃を掲げて、五十嵐がいびつに笑う。泣きたいのを我慢して笑ってるようなぎこちない笑顔。そんな五十嵐の前に無防備に身を晒し、無造作に手足を投げ出してヨンイルが笑う。
 「だってここ、東京プリズンやろ。東のはての砂漠のど真ん中の地獄やろ。ここに送られたら最後、どうせ生きては出られん。俺の懲役は二百年、どのみち生きて出れる見こみは限りなく低い。世の中に数かぎりなく何億冊何兆冊と漫画が溢れとっても、図書室の漫画はあらかた読み尽くしてもうた。手塚治虫の絶版本『ガムガムパンチ』はここにいる限り手に入らん。
 なら、ここであんたに殺されるのもそんなに悪くないかなって……少なくとも、最悪の死に方やないやろ」
 「ヨンイル、それでいいのか!?ゴーグルを盾に、祖父に救われた命じゃないか!!」
 五十嵐が引き金を絞り、ヨンイルの眉間に銃口を固定。リング周辺から地下停留場の奥へと足元を這うように低いどよめきが広がる。西の囚人が口々に悲鳴をあげる。
 金切り声で叫ぶ僕を無視し、ヨンイルは五十嵐に語りかける。
 「俺はあんたの娘を殺した」 
 ただ、ありのままの真実を。
 残酷に胸を抉る真実を。
 「だから、俺を殺してもええんや。みんなが見てるまえで娘の仇をとってええんや。あんたの娘は、五十嵐リカは、もっと生きててもいいはずだった。くだらんテロなんかに巻き込まれずに済んだら今も元気で暮らしてるはずだった。あんたの免許証入れに挟まった写真は一年ごとに新しくなって、今ごろは和登さんみたいにボーイッシュなべっぴんになったリカちゃんが笑いかけとるはずだった」
 「そうだよ。そのとおりだよ。わかってるじゃねえかヨンイル、腐れ外道の人殺し。リカはお前に殺されたんだ、お前が勘違いで作りつづけた爆弾で殺されたんだよ。だからリカの写真はこれ一枚きり、リカは永遠に十一歳のまま、俺の記憶と写真に残り続けなきゃいけなくなった。ヨンイル。五年前のお前はほんのガキだった、物の道理のわからねえ子供だった。さぞかし腕白で人の言うこと聞かねえ、じいちゃん泣かせのガキだったんだろうな」
 「大当たり。じいちゃんにはいつもゲンコツ落とされとった。痛いんやで、アレ。目から火花がでたわ」
 「リカは、いい子だった」
 「うん」
 「親の言うことをよく聞く、聞きすぎるほどによく聞く、全然手のかからねえ……」
 「うん」
 「俺には勿体ないほどの」
 「うん」
 「なんでも一人でやって、十一歳て年齢以上にしっかりしてて、将来こいつを嫁に貰う男は幸せだなあってやきもち焼いたくらいに」
 「…………」
 「リカの父親になれて、幸せだった。あいつが俺たちの娘に生まれてきてくれて、本当に嬉しかった」
 五十嵐が深く息を吸う。指の震えはいつしか止まっていた。ヨンイルを射殺する決心が固まったのだ。
 弾丸は全部で六発、残り一発。至近距離で眉間に撃ち込めばヨンイルは即死。
 やめろ、と叫びたかった。しかし声が出なかった。僕が崩れ落ちないよう肩を支える安田もサムライも、食い入るようにヨンイルと五十嵐を見比べていた。
 ヨンイルはすでに覚悟を決めていた。五十嵐に銃を持たせたのはヨンイル自身だ。それがわかるから僕らは何も言えなかった、ヨンイルと五十嵐の最後のやりとりをただ見守ることしかできなかった。
 最期の会話というにはあまりに和やかで微笑ましい内容だった。ヨンイルと五十嵐の表情は、気の置けない者同士が他愛ない話でもしてるように柔らかかった。ヨンイルは相変わらず全裸で、素肌の至るところに痛々しく血が滲んでいた。
 天からの光に晧晧と映える刺青は、鱗を剥がされた龍が断末魔の苦しみにのたうちまわっているようにも見えた。龍の胴体から滴り落ちる血をそのままに手足に伝わせて、ヨンイルは安らかに目を閉じた。
 「リカは、いい子だったんだ」
 五十嵐の声が嗚咽にかすれる。
 「聞いとる」
 ヨンイルが優しく言う。 
 「ヨンイル、悪い。やっぱり駄目だ。お前のこと殺さずに済みそうにない。鍵屋崎にも迷惑かけた。俺のこと必死に説得してくれたのに、結局こうなっちまった。それだけじゃねえ。俺のこと信頼してくれた連中のこと、いちばん酷いやり方で裏切っちまった。こんな、最悪の形で……俺、やっぱり父親に向かねえよ。かっこいい父親になろうと俺なりに頑張ってみたけどてんで駄目で、みんなをがっかりさせちまった」
 「直ちゃんは許してくれる。俺の自慢のダチやし」 
 ヨンイルが八重歯を覗かせて笑った。
 一生僕の瞼の裏に焼き付くことになる笑顔。
 『アンニョンヒ ケセヨ』
 五十嵐が韓国語で別れを告げる。ヨンイルの眉間に銃口がめりこむ。ヨンイルが手探りに床をさぐり、免許証入れを拾い上げる。額に銃をつきつけられたまま薄目を開ける。ヨンイルの手の中で笑っているのは、五年前のテロに巻き込まれて殺された五十嵐の娘……五十嵐リカ。
 ヨンイルはそのまま暫く、じっと写真に目を落としていた。
 そして。

 『ミハンハムニダ』
 ごめんなさい、と言った。
 五十嵐リカに、自分がかつて殺した二千人の人々に、心の底から謝罪した。
 謝って済むことではないとわかっていても、死ぬ前にどうしてもこれだけは言いたいと衝動に駆られて、嗚咽でも命乞いでもなく口から零れた一言だった。
 命と引き換えた、潔い謝罪だった。
 
 僕の中で何かが切れた。
 
 「あああああああああっああああああああっあああああああ!!!!」
 
 五十嵐は引き金を引いた。
 今度こそ、本当に、ヨンイルは死んだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050718220929 | 編集

 ペア戦から二週間が経過した。
 今日でやっと二週間なのかもう二週間なのか俺にはどっちともつかない。
 あれから二週間経っても俺にはわからないことだらけ。頭の中はとっちらかって、まるで整理がついてない状態なのだ。だからまあ、わかってることだけを簡潔に単純に話そうと思う。後日談ってやつだ。支離滅裂な個所もあるかもしれないが、勘弁してほしい。前述したが、俺にもわからないことだらけなのだ。
 なんであいつが生き残ったのか、あいつが東京プリズンを去ったのか……
 こっちが聞きたいっつの。
 まあ、良かったこともある。レイジが無事100人抜きを達成したおかげで俺と鍵屋崎は晴れて売春班免除、大手を振って表を歩けるようになった。
 売春班は廃止された。
 安田はちゃんと公約を守った。噂じゃ売春班常連の看守の猛反対や一部囚人の猛反発にあったらしいが、断固これだけは譲らず、副所長権限で売春班撤廃に踏みきった。安田もやるときゃやる男だとちょっと見方を改めた。
 ちなみに、安田の肩の怪我は全治三週間。思ったほど重傷じゃなくて安心した。タジマは全治四ヶ月はかかるらしい。
 もっと延びても良かったのにな。ゴキブリ並のしぶとさだ。
 けど、タジマが主任看守として復帰できる見込みは絶望的に低い。
 一万人の観客が見てる前でずどんと副所長を撃ったのだ、いくらタジマに強力なコネがあってもまるきりお咎めなしってわけにはいかない。クビ確定。自業自得。
 タジマがいなくなってせいせいした。万歳、謝謝、高興!感謝感激雨あられ。タジマとの腐れ縁がすっぱりさっぱり切れて、俺はここ二週間すこぶるつきの上機嫌だった。
 東京プリズン入所以来俺のケツを狙ってしつこく付き纏い続けたタジマ。
 イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたことや目から火花でるまで警棒でぶん殴られたこと、医務室で襲われたことも今ではいい思い出……
 いや、いい思い出じゃねえ全然。生憎まだそこまで割りきれない、達観できねえ。東京プリズンからタジマが消えても俺はまだタジマに追われる悪夢にうなされるし、廊下の曲がり角でタジマの生霊と遭遇してぎょっとした。目をしばたたいてよくよく見てみりゃ壁の染みだった。
 現実のタジマはいなくなった。
 腕と足を骨折した上に照明の直撃を受けて内臓破裂、背骨はへし折れた。  辛うじて息してるのが不思議なくらいの大怪我で、タジマは東京プリズンより遥かに医療設備の整った病院に移送された。
 タジマは生涯下半身付随の障害が残るかもしれないらしい。それがどういうことかっていうと、タジマご自慢のペニスが一生使い物にならなくなったワケだ。もし億にひとつの確率で東京プリズンに出戻ったところで、売春班のガキどもを掘って掘って掘りまくった下半身の暴れん坊がしゅんと萎えしぼんだタジマなんか恐るるに足らずだ。
 タジマはもはや完全に跡形もなく東京プリズンを去った。
 俺はもうタジマを恐れずにすむ。それだけは本当に良かった。
 俺にとっても鍵屋崎にとっても、東京プリズンのすべての囚人にとっても。

 夕方、西空が茜色に染まる頃。
 イエローワークに無事復帰した俺は、ちょうどシャワーを浴びて一日の汗と汚れを流してきたところ。売春班のガキどもはそれぞれ元いた部署に戻った。売春班廃止の朗報がもたされた時は売春班の奴ら全員が歓声をあげて、ひしと抱き合って喜んだ。
 感動的な光景だったんだろうが、いい年した野郎どもが涙と鼻水を滂沱と流して抱き合ってるさまが見苦しくて、俺と鍵屋崎は他人のふりで距離をとっていた。
 壁に背中を凭れて腕を組んだ鍵屋崎は、喜びを分かち合う売春班のガキどもを冷めた目で眺め、ただ一言「よかったな」と呟いた。そっけない口ぶりだった。俺は頷いた。なんだか照れ臭くて、鍵屋崎の顔をまともに見れなかった。胸がじんわりと熱かった。多分俺も、ほんのちょっとだけ感動してたんだと思う。
 殆ど役に立たなかったとはいえ、100人抜き達成には微力ながら俺と鍵屋崎も貢献したのだ。 
 俺たちは俺たち自身の手で勝利を掴み、未来を切り開いたのだ。
 一掴みの希望を毟り取ったのだ。
 『おい、お前らなにボサっと突っ立ってんでんだよ!?売春班から抜けれて嬉しくねえのかよ、もっと喜ぼうぜ、ノリ悪いなあ!』  
 ……なんて、鍵屋崎のとなりでしみじみ喜びを噛み締めてたらワンフーに見つかった。隣のガキの肩を叩いて叱咤激励してたルーツァイも、壁際に突っ立ってる俺と鍵屋崎の存在に気付くや否や、こっちを指さして叫ぶ。
 『胴上げだ、胴上げ!見事100人抜きを成し遂げた功労者を俺たちで胴上げだ、やんややんやと東京プリズン中を練り歩くぜ!』
 『は?マジかよ』
 『そんな馬鹿騒ぎに参加する義務もなければ意志もない。中世の凱旋行進では捕虜の引きまわしが恒例の出し物だったというが、胴上げで東京プリズン一周などされては僕らこそいい晒し者だ。いや、この際ロンはどうでもいい、彼は身長155cmに届かない小柄な体躯で体重も軽いから胴上げもしやすいだろう。好きにしろ。一周でも十周でも気が済むまで回って来い。ただ僕を巻き込むのはよしてくれ、眼鏡が落ちて割れでもしたら困る』
 鍵屋崎に売られた。この人でなしめ。
 おかげでさんざんな目に遭った。くそ、思い出したくもねえ。あれから二週間経って俺の怪我はほぼ完治、肋骨も無事くっついたとはいえ、胴上げで傷が開いたらどうしてくれるんだ?俺が手足振りまわして抗議してもワンフーもルーツァイも聞く耳持たず、神輿に担いで東京プリズンをぐるり一周して……

 悪夢だ。一分一秒も早く忘れてえ。思い出しただけで顔から火がでる。

 だから俺はすたすた急ぎ足で廊下を歩いていた。売春班の奴らにとっ捕まったらまた神輿に担がれるかもしれねえ。目指すは医務室。鍵屋崎はいつのまにか消えていた。とばっちりを恐れて退散したんだろう、薄情者め。勝手知ったる東京プリズン、二週間通い詰めた医務室までの道のりは完璧に頭に入ってる。目を閉じてても行ける自信がある。俺の怪我はめでたく完治して気分は絶好調で、なのに何で医務室に用があるかって言うと東棟の王様が特別待遇で入院してるからだ。
 特別待遇、つまり重患。
 中央棟と東棟を繋ぐ廊下を渡りきり、廊下を歩く。やがて前方に白いドアが見えてきた。殺風景な灰色の壁からそこだけ唐突に浮いたドアだ。
 「おーい、レイジいるか。見舞いに来てやったぜ。土産はなしだ」
 ノック代わりにドアを乱暴に蹴りつける。ドンドンドンガンガンガン。白い表面に二重三重と靴跡が穿たれる。七発目で漸くドアが開いた。中から顔を覗かせたのは初老の医者で、これ以上ない渋面を作っていた。   
 「君、ここは医務室なんだがね。親御さんからノックの仕方を習わなかったのかね」
 「ドアは蹴破るもんだろ。入るぜ」
 むっつり黙りこんだ医者を肩で押しのけて中に入る。
 一歩足を踏み入れた途端、消毒液の刺激臭がつんと鼻腔をついた。ほのかに漂うアルコールの匂い。左右の壁際に等間隔に整列したベッドは八割方怪我人か病人で埋まっていた。
 医務室は今日も盛況だ。
 東京プリズンでは暴力沙汰が絶えず、囚人は生傷が絶えない。衝立のカーテンを開けたベッドの上では、骨折した足を吊られた囚人や頭にぐるぐる包帯を巻いた囚人がうんうん唸っている。野戦病院の図だ。
 「レイジの調子はどうだ」
 背後についてくる医者にさりげなく聞く。
 「経過は順調だよ。早ければあと二・三日で退院できそうだ。背中の火傷もだいぶよくなったしね」
 「そっか」
 安堵に頬を緩め、そっと息を吐く。
 「目はどうだ?」
 背後で靴音が止む。肩越しに振り返れば、医者が残念そうにかぶりを振っていた。
 「……そっか」
 聞くまでもなくわかっていたのだ。俺は医務室にくるたび、二週間飽きもせずこのやりとりをくりかえしている。
 今日聞けば結果が違ってるんじゃないか、明日聞けば結果が違ってるんじゃないかと淡い期待と儚い希望を込めて延々と同じ質問をくりかえしている。
 だが、結果は変わらない。医者の診断は覆らない。
 「視神経が傷付いていたからね……へたすれば脳に障害がでていたところだ。左目の失明だけで済んでよかったとプラスに考えなければね。まあ、日常生活に慣れるまでは何かと不便だろうが……距離感が掴めず壁にぶつかったり転んだり生傷が絶えないだろうが、暫くの辛抱だ。大丈夫、人間は常に環境の変化に順応していく生き物だ」
 慰めてくれてるのだろうか。
 この医者は、実は結構やさしい。俺がレイジの怪我のことでしょげてると、こうしてさりげなく元気づけてくれる。俺は人に優しくされるのに慣れてないから居心地悪いけど、たまには素直になってみるのもいいだろうと深呼吸で決心。
 「ヤブ医者」
 「ん?」
 白衣のポケットに手を入れ、医者が振り返る。
 「謝謝」
 ぶっきらぼうに礼を言う。医者がぽかんとする。なんだよその間抜けヅラは、間抜けな反応は。じろじろ見んなっつの。足早に医者の横を通りすぎてレイジのベッドへと向かえば、声が背中を追いかけてくる。
 「君は行儀が悪いんだか良いんだかわからないねえ!」
 「あーうるせえ今のはなしだなしっ、とっとと仕事に戻りやがれヤブ医者!尿瓶もって患者の小便汲んでこい!」
 しっしっと医者を追い払い、レイジのベッドに顔を出す。
 「元気だなあ。入ってきた瞬間からわかったぜ、にゃーにゃーうるさく鳴いてるから」
 「そりゃ猫語か?俺は台湾語と日本語しか喋れねえ、俺が今話してる言葉がマジでそう聞こえるなら耳垢たまりすぎだ。中耳炎になってんじゃねえか」
 「もののたとえだよ、本気で怒るなって。来てくれて嬉しいよ、ロン。毎日こうして顔見せに来てくれておれ愛されてるなって実感してるよ。愛の力で治りも早い……」
 「くたばれ王様」
 行儀悪く足を開いて傍らの椅子に跨る。レイジはベッドに上体を起こしていた。上着を脱いで上半身裸になっていたが、まだ包帯がとれてなくて、背中一面にはべたべたガーゼが貼られていた。気のせいか少し痩せたみたいで、顔の輪郭が鋭くなっていた。
 「調子はどうだ?」
 医者に聞いたのと同じことをぞんざいに聞く。レイジは飄々とうそぶく。
 「絶好調。今すぐ退院できそう。治りかけの火傷がちょっと痒いけど」
 「治りかけって……そんなすぐ治るのか?相当酷い火傷だろ。ちょっと見せてみろ」
 椅子から腰を浮かせてレイジの背後に回る。レイジの肩に手をかけ、背中を覗きこみ、眉をひそめる。
 予想通り、いや予想以上に背中の火傷は酷かった。サーシャのナイフで焼かれたあとが、背中一面を覆う十字の烙印となって無残に穿たれていた。
 「……嘘つくなよ。全然治ってねえじゃん」
 「ちょっとはよくなったんだってこれでも。少し前は背中が痛くて痛くて仰向けに寝れなかったし……仰向けに寝れないって不便だよな。騎乗位ができね、」
 「黙れ。それ以上言うと速攻帰りたくなるから黙れ。俺にそばにいてほしいなら黙れ」
 『I understood it. Please do not leave me.』 
 レイジが両手を挙げて降参のポーズをとる。聞き分けよくて結構。レイジの背後に回りこんだ俺は、ほどけかけた包帯を慣れない手つきで巻きなおす。俺が二週間医務室に通い詰めてるのは王様の世話をするためだ。医者もあれで忙しくて、レイジだけにかかずりあってるわけにはいかない。患者はあとからあとからひっきりなしにやってくる。必然、俺が王様の世話係になった。包帯を取り替えたり水差しの水を飲ましてやったりクスリを塗ってやったり……手とり足とり甲斐甲斐しくレイジに奉仕してやってる。
 不器用な俺がひどく苦労しながら包帯を巻きなおしてる最中も、レイジはぽんぽん質問をぶつけてくる。
 「それでロン、サムライとキーストアはどうしてる?キーストア、ちゃんとイエローワークに戻れた?」
 「ああ、戻れたよ。イエローワークの砂漠で元気に……いや、たまに貧血起こして死にそうにながら何とか働いてるよ。売春班の連中も元いた部署に戻ったよ。これも全部王様のおかげだって大袈裟なくらい感謝してた。俺なんか胴上げで東京プリズン一周されて大恥かいちまった」
 「うわー見たかったな、それ」
 レイジが舌打ちする。くそ、人の気も知らねえで。
 「サムライは、」
 そこで言葉を切り、続けようかどうか迷う。レイジが肩越しに振り向き、「続けろ」と目で促す。
 「……サムライはレッドワークに降格処分。こないだ仕事サボッたのが致命的だったらしい。独居房送りにならなくて済んでよかったけど、気の毒だよな。東京プリズンに来てからコツコツ汗水流して働いてきて、イエローワークからブルーワークへ大出世成し遂げたのに」
 「いいんじゃね?キーストア救えたんだし、ブルーワークに未練ないだろ」
 レイジの口調は拍子抜けするほどからっとしていた。片目を失ったのが信じられないほどに。
 下水道の配水管を点検修理するブルーワークから、危険物を加熱処理するレッドワークへ格下げされたサムライは、それでも恨み言ひとつ漏らさず毎日勤勉に働いてる。
 サムライらしいな、と思う。
 たぶんレイジの言う通り、サムライはブルーワークに未練がないのだろう。太股の傷も今じゃすっかり塞がってぴんしゃんしてる。
 サムライは無欲だ。けして多くを望まない。
 鍵屋崎さえ隣にいればそれでいいと満ち足りた日々を送っている。気のせいか、この頃サムライの顔つきが穏やかになった。猛禽めいた眼光が柔らかになって、時折ひどく優しい笑顔を覗かせるようになった。
 サムライも鍵屋崎も確実に変わってきている。
 いい方向に。
 「タジマは病院送り。全治四ヶ月の重傷で下半身付随の障害が残るかもって」
 「ふーん。自業自得だな。同情の余地なし。今までさんざ売春班のガキどものケツでたのしんだから、去勢されても文句言えねえな」
 「ああ。タジマがいなくなってせいせいする」
 「ロンの処女も守られたし」
 「処女って言うな」
 「だって処女だろ?まだ」
 「…………『まだ』を強調すんな」
 「忘れたわけじゃねえよな、約束」
 憮然として包帯を巻く。もちろん忘れたわけじゃない。100人抜き達成したら抱かせてやるって約束。
 「………………………………………………………………退院したらな」
 ずっと入院しててほしい。
 「そうか。つまりあと二・三日後にはロンを抱けるんだな、いただけるんだな、ロンの処女を俺の物にできるんだな!?サンキュー神様、愛してるぜ!!」
 「うわっ!お前いきなり動くなよ、ベッドに立ち上がんなよ馬鹿っ!?ああほら包帯ほどけちまったこれ以上世話焼かせんなよ、お前ホントは不死身だろ、入院とか必要ねえだろ!?目からビームとか出せるだろ、正直に言えよ!」
 慌ててレイジを取り押さえる。こんなに元気がありあまった怪我人もめずらしい。レイジのベッドに飛び乗り、埃を舞い上げて転げまわる。包帯がもつれて絡んで、めまぐるしく上下逆転する俺とレイジの手足が結ばれる。っとに、手のかかる王様だ!ガキかよこいつ。二週間の入院生活でストレスたまってるのはわかるけど、また傷が開いたらどうするんだ。 
 こうなりゃ実力行使、強硬手段だ。
 「大人しく寝とけレイジ、じっとしてねえとベッドに縛り付けるぞ!」
 レイジの胴に土足で馬乗りになり、これ以上暴れないよう、ベッドパイプに右手首を縛り付ける。お次は左手首。両手首をパイプに縛り付ければさすがのレイジもじっとしてるっきゃない。
 「縛り付けるっていてっ、いててててててっ!?痛いロンいてえよ、もうちょっと優しくしろよ!」
 「優しくしたらつけあがるだろ」 
 とことん往生際の悪いレイジを鼻先で笑い捨て、左手首に包帯を結ぼうとした……
 瞬間だった。
 「!」
 レイジの左目を覆った眼帯がずれて、無残な傷痕が外気に晒された。
 もう二度と開かない瞼、光を映さない眼球、生涯残り続ける傷痕……
 「……………ロン?」
 パイプに右手首を縛り付けられたレイジが不安げに俺を仰ぎ、小声で問いかける。もとは襟足で一本に結わえていた干し藁の茶髪が切断されて、うなじが丸見えになっている。
 劣情を煽る、妙に艶かしい眺め。
 「………………あ、」
 何か言いかけて、むなしく口を閉ざす。何て言おうとしたのか自分でもわからない。気ばかり焦って空回って、レイジにかけるべき言葉が見つからない。なにやってんだ俺?レイジの腹の上に飛び乗って包帯で手首を縛って今まで通りじゃれあって……今まで通りでいられるはずねえのに、そんなの絶対無理なのに、今の今までそのことすっかり忘れて、頭からすっぽり抜け落ちてて。
 間抜けなことに。
 二週間ぶりにレイジの左目を見て、はじめてそれに気付いた。
 レイジは俺を庇ってペア戦に出てサーシャとやりあって左目を失ったのに、もう一生目が見えないのに、背中の火傷は癒えないのに、俺は今まで通りレイジの相棒でいられるとめでたい勘違いをして……
 「ロン、大丈夫か?目え開けながら眠ってんの?」
 無言で包帯をほどき、ベッドパイプに結わえ付けたレイジの手首を外す。
 手首をさすりながら上体を起こしたレイジは妙な顔をしていた。左目の眼帯は相変わらずずれていた。
 左目の傷痕が目立つレイジの顔を正視できず、臆病に顔を背ける。折れた肋骨はとっくにくっついたのに、なぜだかひどく胸が痛んだ。
 「……悪い。俺、調子のって。もう行くから、ゆっくり怪我治せよ。例の約束は気にすんなよ。うん」
 レイジの上から下り、床に立ち、逃げるように踵を返した俺の肘が後ろから掴まれる。
 俺を引き止めたのはベッドから身を乗り出したレイジだった。
 「どうしたんだよ、ころっと態度変えて。なんでそんなびくついてんだよ、俺の顔色窺ってんだよ」
 「窺ってねえよ。俺はただ早く食堂行きてえだけだ、ここには二・三分寄ってすぐ食堂行くつもりだったんだ、じゃないと席とられちまうから」
 「ちゃんと俺の目を見て言えよ。何さっきからずっと顔そむけてんだよ、そんなに俺の顔見たくねえのかよ。らしくねえよお前、全然らしくねえ。お前ときたらとんでもねえはねっかえりの意地っ張りで、俺がちょっとからかっただけでも凄い剣幕で吠えかかってきたくせに、いっぱしの野良が借りてきた猫みてえに大人しくなっちまって……」
 「鍵屋崎とサムライが待ってるんだよ。ああそうだ、知ってるかレイジ?食堂の献立に中華が加わったんだ。副所長の粋なはからいだ。酢豚と炒飯とトリガラスープと」
 「なんだ中華かよ、俺の好物のティラピアは……て、いい加減にしねーと怒るぞロン!」

 ―「じゃかあしい!!」―

 隣のカーテンがシャッと開け放たれた。
 レイジと同時に振り向けば、ベッドに片膝ついたガキが怒髪天を衝く勢いでこっちを睨んでいた。毛布を跳ねのけてベッドに起き上がったそいつは、怒りに震えるこぶしをぐっと握り固め、一息にまくしたてる。
 「おどれら痴話喧嘩するならちょっとは場所考えんかい、医務室は図書室の次に私語厳禁て決まっとるんや!いや、俺が今決めた!おどれらがどったんばったん騒ぎまくるせいでこちとら集中して漫画も読めんわ、俺から漫画とったらあと何が残るんや、真っ白に燃え尽きた残り滓やろ、道化の絞り滓やろ!?」 
 針のように逆立てた短髪、つり目がちの精悍な双眸。 
 犬歯を剥いて喧々囂々吠えたてるそいつをうんざりと眺めていれば、レイジがベッドから身を乗り出し、銃に見たてた人さし指でそいつの額をちょんと突く。
 「お前、悪運強いよなあ。何回地獄の淵から甦ってくりゃ気が済むんだよ?一回ぐらい素直に死んだってイエスさまはお怒りにならねーぜ」
 そして、意味ありげに笑う。何もかもを見透かした、とんでもなく意地の悪い微笑。
 「まあ、お前が死ぬわけなかったんだけどな。肝心の銃に弾入ってなきゃ人殺せねえもんな。銃を持った瞬間にわかったよ。六発目、最後の一発が込められてねえって。わざわざシリンダー覗いて確認するまでもねえ。『重さ』が違うんだよ」
 「アホぬかせ。鉛弾一個の重さなんてアルミの一円玉五個ぶんとおなじ、シリンダーに込めたら殆どわからん……」
 レイジが皮肉げに笑い、自信を込めて断言する。
 「『わかる』んだよ俺には。銃を構えた瞬間にピンときた。どっかで落っことしたのかだれかが抜き取ったのかはわからない。一度シリンダーに込めた弾丸が落ちることは滅多にないからだれかが抜き取ったって考えたほうが自然だろうな。なんで?知るか。気まぐれだろ、多分。俺たちが生きてる世界じゃ時々そういうことが起こり得るんだよ。運命の悪戯。神様の恩寵。悪魔の気まぐれ。本来ありえない偶然がいくつか積み重なって、ドミノ倒しみたいに連鎖して、誰も予想できない皮肉な結果がでることが。
 俺はあの時、鍵屋崎に伝えようとした。この銃一個弾丸が入ってねえよって、そのへんに落ちてるかもしれねーから注意してよく見てみろって。そうだよ、あの時あそこにいる大勢の人間の中でただひとり俺だけが、いや違う、ただ二人俺と『犯人』だけがわかってたんだよ。鍵屋崎に返した銃で人を殺すのが無理だって……弾が込められてない銃で人を殺すのは物理的に不可能だって」
 額から人さし指をおろし、レイジは言った。
 「だよな、道化?」
 二週間前、ゴーグルの破片で切った額をさすりながらヨンイルは肩を竦めた。 
 「かなわんな、王様には」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050717004533 | 編集

 「今だにわからんのや、なんで俺が生き残ったんか」
 枕元に置かれたゴーグルをちらり一瞥、ヨンイルは続ける。
 「あの時はもう駄目やと思った。額に銃つきつけられて、おっかない顔の五十嵐が目の前にいて、ああ、これで俺の人生おしまいやサイナラサイナラって腹括った。でも、そうはならへんかった。音がせんかったんや。匂いもせんかった。ツンと鼻腔を突く独特の匂い、硝煙のきな臭い匂い。あれ、なんか変やなって思うて薄目開けたらみんな阿呆みたいに口開けてぽかんとしとった」
 銃は不発だった。ヨンイルは奇跡的に生き残った。
 至近距離で銃をつきつけられて、もしあのまま弾丸が発射されていればヨンイルは確実に死亡していた。頭蓋骨が割れ砕けてあたり一面に脳漿をぶちまけるはずだった。
 だが、実際にはそうならなかった。
 五十嵐が引き金を引いても弾丸は発射されなかった、ヨンイルはまたも絶体絶命の危機を切り抜けた。一度目はゴーグルに命を救われて、二度目は偶然に命を救われて、あれから二週間が経過した現在は悠悠自適の入院生活を送ってる。
 ベッド周辺には西の囚人が見舞いと称して持ちこんだ漫画本が山積みになって、通行人に蹴り崩された一部が床一面に足の踏み場もなく散らばっていた。 ヨンイルは暇な一日好きな漫画を読み耽って快適に過ごしている。
 西の囚人どもがワンフーを筆頭に毎日通い詰めて経過と体調を心配してるが、風邪が少し悪化した程度で二週間まるまるベッドを占領してるんだから図々しいなとあきれる。
 まあ、四・五日前までは本当に危なかったのだ。
 一時は肺炎の併発も危ぶまれたほどで、痰が絡んだ咳はひどく苦しげだったが、峠を越えた現在はけろりとしてる。
 ベッドに上体を起こしたヨンイルは悪びれず言ってのける。
 「ホンマ、西の連中には悪いことした。反省しとるんやで、これでも。こないだ見舞いにきたワンフーにこっぴどく叱られたわ。
 ワンフーだけやない、あとからあとからひっきりなしに西の奴らが訪ねてきてガミガミお説教たれるんや。なに考えとんじゃいこのボケカスど阿呆腐れ道化トップの自覚もたんかい、俺が死んだら誰が西の奴ら引っ張ってくんやって……涙と鼻水どばどば垂れ流して、ひしっと抱きついて。
 俺、四十度の高熱でうんうんうなされとったけど、不思議とあいつに言われたこと覚えとる。一言一句漏らさず覚えとる。直ちゃんも来た。枕元に立って見下ろして一言、『死んだら絶交だからな』て吐き捨てよった。うんざりした顔しとったな。直ちゃんには迷惑かけ通しで頭が上がらんなあ…」
 漫然とページをめくりつつもヨンイルの目はここではないどこかを見ていた。
 瞼裏に浮かんでいるのはおそらく自分に銃を向けた五十嵐の顔。激しい葛藤に引き裂かれた苦渋の形相。絶体絶命のピンチから奇跡的に生還できたというのにヨンイルの顔色は冴えず、悪運に生かされても手放しで喜べないといった複雑な表情が浮かんでいる。
 当然、生き残れて嬉しくないはずがない。
 でも、何故生き残れたのか腑に落ちない。
 そのへんのもやもやが寝ても覚めても脳裏に纏わりついてヨンイルを一日中苛んでいるのだ。
 道化の腕に繋がれた点滴の管に目をやり、ため息まじりに愚痴る。
 「マジ死んだと思ったよ、あの時は。嫌な予感がしてとっさに引き返そうとしたんだけど、レイジに腕掴んで止められて……」
 二週間前の夜を回想する。
 あの時、理屈ぬきの胸騒ぎに襲われた俺はとっさに引き返そうとした。地下停留場にはまだ鍵屋崎とサムライ、五十嵐とヨンイルが残っていたが、何より俺を不安にさせたのは途中すれ違ったホセの危険な目つき。あんなやばい目つきのホセは見たことがなかった。黒ぶち眼鏡の奥の双眸は怜悧に研ぎ澄まされて、よく切れる剃刀のように攻撃的な眼光を放っていた。
 そして、その直後に聞こえてきた声。
 「五十嵐、俺を殺せ」というヨンイルの叫び。
 危険な匂いを嗅ぎつけた俺は、本能が赴くまま地下停留場に引き返しかけて、担架に仰向けに寝転んだレイジに引きとめられた。
 『はなせレイジ!今の聞いたろ、ヨンイルがイカレたこと口走って……くそ、止めなきゃ!ここでヨンイルが死んだら鍵屋崎の頑張りが全部無駄になっちまう、そんなの絶対許さねえぞ!!』
 『ヨンイルは死なねえよ』 
 後ろから俺の肘を掴み、小さくかぶりを振る。
 『なんでわかるんだよ!?』
 自信を込めて断言したレイジに食って掛かれば、予想外の答えが返ってきた。
 『だって、弾入ってねえから』 
 レイジはしれっとうそぶいた。王様は全部なにもかもお見通しだ。そしてヨンイルは不本意な偶然の結果生き残ってしまった。
 本当ならあの時五十嵐に射殺されて人生を終えるはずだったのに、ヨンイル自身も諦念して死を受け容れたのに。
 行儀悪く足を開いて椅子に跨り、じっとヨンイルを見る。
 やつれた横顔を気まずく眺め、言おうか言うまいか迷い、口の開け閉めをくりかえす。
 「―五十嵐のことだけど」
 意を決して口を開く。ヨンイルの指が一瞬止まり、すぐまた動きだす。表情は殆ど変わらなかったが、ヨンイルが聴覚に全神経を集中してるのがわかった。こほんと咳払いし、喉の調子を整えて続ける。
 「やっぱ、東京プリズンにいられなくなるらしい。一万人の囚人や同僚の看守が見てる前であんなことしたんだからあたりまえっちゃあたりまえだし、クビは間違いねえだろうって思ってたけど……噂じゃ自分で辞表を提出したらしい。責任とって東京プリズンやめるって、安田に辞表渡して頭を下げて……」
 そこで言葉を切り、物思いに沈む。
 正直、心中は複雑だ。俺は五十嵐を嫌いになりきれない。五十嵐は俺によくしてくれた。俺に麻雀牌をくれた、欲しい物があれば気前よく都合してくれた。五十嵐がいなくなるのは寂しい。でも、仕方ないんだろうなという諦めの気持ちもある。
 変な感じだった。今の気持ちを一口で表すのはむずかしい。寂しいような哀しいような、胸にぽっかりと穴が開いたような……そんな月並みな台詞じゃ到底表せない複雑な気持ち。喪失感。寂寥感。無力感。
 なんだかため息ばかりこぼれちまう。
 「五十嵐、まだ東京プリズンにおるんか」
 唐突にヨンイルが聞く。漫画に目を落としたままページを繰る手を再開して、努めてさりげなく。
 「いないんじゃねーの。最近顔見てねえし」
 「他に行き場あるんか」
 「知るかよそんなこと。ま、看守としてやってくのは無理だろうな。大勢が見てる前で囚人に発砲なんて事件起こしちまったんだ、他のムショにも移れねーだろ」
 「五十嵐だって覚悟の上さ。それを承知で安田に辞表だしたんだよ」  
 レイジが首を突っ込んでくる。
 ベッドから身を乗り出し、至近距離でヨンイルの顔を覗きこむ。
 眼帯に覆われてない右目は清冽に澄んでいた。人の心の奥底までも映し出す硝子の瞳。ヨンイルに顔を近付け、至極ゆっくりと一回だけ瞬きする。

 あやしく艶めいた睫毛が震える。
 瞼を上げた隻眼が湛えているのは、清濁併せ呑む憐憫の情。 

 「『主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者』……
 ヨンイル、お前は罪のない者の血を流した。五十嵐は邪悪な計画を細工した。お前ら二人とも悪へと走るに速い足を持っていた。要するにだ、お前ら二人とも神様に嫌われたんだよ。それが証拠にサイコロの目は常に逆だった。五十嵐はお前を殺したくて殺したかったけど一度目の弾は外れて二度目は出なかった、一度は死を受け容れたお前も何故だか生き残っちまった。
 今ごろ手え叩いて大笑いしてるだろうぜ、神様は。お前も五十嵐もイエス・キリストの手のひらで踊らされてたんだよ、オーマイゴッドの暇つぶしのサイコロ遊びさ。
 だから気にすんな、ヨンイル。
 お前が生き残ったのはたんなる偶然、それでいいじゃねえか。喜べよ。はしゃげよ。唄えよ。お前が生き残ったのは……きっといいことなんだからさ」

 最後の台詞は少し面映げだった。
 がらにもなく照れてやがる、こいつ。おもしれえ。
 枕元に無造作に転がるゴーグルを一瞥、ヨンイルは吹っ切れたように笑う。
 「―せやな。五十嵐に殺されなくてすんでよかったて感謝せなバチあたるわな。おおきに、王様」  
 「ところでそれ、手塚治虫の?」
 レイジを押しのけてヨンイルの手元を覗きこむ。
 さっきから気になっていたのだ、ヨンイルが膝に広げてる漫画が。絵柄は手塚治虫によく似ているが、図書室で見かけたことない漫画だ。
 「朝起きたら枕元にあったんや。だれかがこっそり置いてったらしい」
 その誰かがわかってるらしい口ぶりだった。
 漫画のページをぱらぱらめくりながら、ヨンイルは心ここにあらずといった口調でぼんやり呟く。  
 「憎い真似すんなあ、あいつ」
 タイトルは「ガムガムパンチ」だった。

 東京プリズンに夜が訪れた。
 鍵屋崎サムライと一緒に賑やかな食事を終えて房へと戻る。
 夕食の献立は中華だった。味付けが薄すぎると不評の酢豚だが俺は美味しくいただいた。なにせイエローワークの強制労働後で空腹だったのだ。
 東京プリズンの献立に中華が加わっていちばん喜んだのは東棟最大派閥の中国勢で、凱なんか周囲の連中のトレイをぶんどって十人前だかぺろりとたいらげちまった。どんな胃袋してるんだ。
 売春班がなくなったことを除けば俺の生活は二週間前とそんなに変わらなかった。朝六時起床、点呼をとって食堂で飯かっこんでバスに乗って強制労働に出かけて帰還後に夕飯、それから自由時間。窮屈で変わり映えしない毎日のありがたみをじっくり噛み締めながら俺は一日一日を大事に過ごしてる。
 また日常に帰ってこれた。
 それが、たまらなく嬉しい。レイジがいて鍵屋崎がいてサムライがいて、四人一緒に過ごす日常がずっと続くなら東京プリズンでの生活もそう悪くない。レイジもじきに退院する。
 怪我の経過は良好だ、早けりゃ今週中には……

 『ロン、大丈夫か?目え開けながら眠ってんの?』

 「!」
 虚を衝かれた。
 脳裏によみがえる医務室の光景、レイジの胴に跨って腕をパイプに縛りつけようとして偶然見ちまった。
 顔にずり落ちた眼帯、外気に晒された左目の傷痕。
 「………忘れてた」
 何がこれまで通りだ、これまで通りでいられるわけがないのに。俺が日常に帰って来れたのはレイジのおかげで、つまり俺の日常はレイジの犠牲に成り立っていて、その代償はあまりに大きすぎて。
 房の扉を開け、すぐに閉じる。
 扉に背中を預けてそのままずり落ちる。
 豆電球も点けず、薄暗い房にひとりしゃがみこみ、医者の言葉を反芻する。
 『視神経が傷付いていたからね……へたすれば脳に障害がでていたところだ。左目の失明だけで済んでよかったとプラスに考えなければね。まあ、日常生活に慣れるまでは何かと不便だろうが……距離感が掴めず壁にぶつかったり転んだり生傷が絶えないだろうが、暫くの辛抱だ。大丈夫、人間は常に環境の変化に順応していく生き物だ』
 医者の言葉通りいつかは、いつかは慣れるんだろう。
 徐徐に慣れていくんだろう。
 でも現実にレイジは左目を失って、これからの長い人生片目だけで過ごさなきゃいけなくなった。背中には一生消えない火傷を負った。東京プリズンの医療水準じゃ皮膚移植で火傷を治すのは不可能で、同じ理由で義眼も入れられないと宣告された。

 レイジの目は見えない。火傷は治らない。
 もう一生。

 「…………畜生」
 固めたこぶしで膝を打つ。脳裏にちらつく左目の傷痕、もうけして開かない瞼、光を映さない眼球。俺のせいだ。あの時止めに入ってればレイジは左目を失わずに済んだかもしれない。今さらこんなこと言っても意味ないってわかってる、でも悔しい、どうしようもねえ。
 廊下のざわめきが次第に遠のいていく。消灯時間が迫っているのだ。俺もベッドに行かなきゃ。でも、立ち上がる気力が湧かない。鉄扉に背中を凭せ掛け、放心状態で床に蹲ったまま、時折思い出したように膝を殴る。殴る、殴る、殴り付ける。膝が腫れてもこぶしが腫れてもかまうもんかとヤケになっていた。レイジが味わった痛みに比べたらこんなもの屁でもねえ。
 これからどうしたらいいんだ。どうレイジと付き合ってけばいいんだ。
 レイジがここに戻ってきたら俺はまた毎日レイジと顔つきあわせて、二人一緒に行動することになる。俺はレイジと一緒に歩く。レイジは笑う。俺は怒る。何も変わらず今まで通りに……できるのか?
 左目に眼帯かけたレイジをまともに見ることができるのかよ?俺は。
 背中越しのざわめきが途絶えて廊下が静寂に包まれる。囚人どもはそれぞれ房に寝に帰ったらしい。じきに看守が見まわりにくる、それまでにベッドに入ってないと大目玉を食らう。
 鉄扉に手をつき、のろのろと腰を上げる。薄暗い房を歩き、いつも使ってるベッドに向かう。片方のベッドはからっぽだ。
 踵の潰れたスニーカーを脱ぎ捨て、毛布をはねのけてベッドに潜りこむ。
 久しぶりの強制労働で体はぐったり疲れてるのに頭が妙に冴えてぐっすり眠れそうにない。
 ベッドに横たわり、頭からすっぽり毛布を被る。固く目を瞑る……
 
 コン。

 暗闇にかすかな音が響く。
 「?」
 なんだ?反射的に毛布を蹴りどけ、上体を起こす。闇に顔を巡らせて音源をさぐる。
 コン。まただ。鉄扉に何か、固くて小さな物がぶつかる音。何の音だか見当つかずに不審感が募る。誰かがノックしてる?違う、何かを投げつけてるんだ。誰だよ人騒がせな、消灯時間も過ぎたってのに……
 「用があんならはっきり口に出して言えよ、イライラすんなあ」
 くそ、だんだん腹が立ってきた。スニーカーに踵を潜らせ、足音荒く鉄扉に歩み寄り、廊下の光射す格子窓に顔を近付ける。レイジの留守中に凱が襲いに来たのかと警戒心を強めつつ格子窓を覗き、廊下を見回してあ然とする。
 鉄扉の表面に麻雀牌が跳ね返り、放物線を描く。
 コン。
 コン。
 一定の間隔をおいてくりかえされるのはプラスチックの牌が鉄扉にぶつかる音。音たてて生唾を飲み込み、興奮のあまり鉄格子を掴む。鉄格子で仕切られた矩形の窓に顔をくっつけ、蛍光灯が輝く廊下に目を凝らす。そいつは鉄扉の正面に位置する壁際にだらしなく座りこんでいた。
 軽く手首を振り、牌を投げる。鉄扉に跳ね返った牌が安定した放物線を描いて手元に戻ってくる。
 「安眠妨害だっつの。寝不足で明日ぶっ倒れたらどうしてくれるんだよ、砂漠に埋められるのはごめんだぜ」
 「今夜は寝不足も覚悟しろよ。念願成就の夜なんだから」
 鉄扉に牌を投げていたのはレイジだった。
 「歩いて来たのかよ、重傷のくせに……消灯時間過ぎてうろついてるのバレたらやばいだろ」
 「医者には内緒な」
 唇の前にひとさし指を持ってくるレイジに肩を落とす。どうやら医者が居眠りしてる隙にこっそり抜け出してきたらしい。「医者に見つかる前にとっとと帰れ」とどやそうとした俺の手の中に鉄格子をすり抜けて牌がとびこんでくる。
 「おっと、」
 手を前に突き出し、危なっかしく牌を受け取る。胸の前で牌を握りしめてホッと息を吐けば、足元の床に影がさす。はじかれたように顔を上げれば、いつのまにかレイジが鉄扉に接近して、鉄格子の隙間から俺を見下ろしていた。
 「開けてよ」
 「帰れ怪我人」
 自堕落な姿勢で鉄扉によりかかり、芝居がかった動作で首を振るレイジ。
 「おいおいそりゃないだろ、こちとら命がけで医務室脱出してきたのにさ。看守と医者の目欺いた深夜の決死行だぜ?煉獄の試練にも等しかったよ」
 「ケルベロスはいなかったか?食われりゃよかったのに」
 「いれてよ」
 「ヤンキーゴーホーム」
 「フィリピ―ナだっつの。ま、半分はアメリカ人だけどさ……どうでもいいやそんなこと。いい加減にしろよロン、扉挟んで押し問答やってる暇ねーんだよこっちは。看守が見まわりにくる前にコレ開けて中に入れろ。独居房送りはこりごりだ」
 「はっ、その手にのるか。うまいこと丸めこもうとしやがって」
 「『入れろ』。蹴破ってもいいんだぜ」
 声に威圧感が込もり、腰が引ける。レイジならマジで鉄扉を蹴破って殴りこみかねない。ためらいがちに頭上を仰ぐ。
 しなやかな動作で鉄格子に摺り寄り、残る右目に酷薄な光を湛えて口角を吊り上げるレイジ。
 腹ごなしに猫をいたぶる豹のごとく嗜虐の愉悦に酔った笑み。
 剣呑に隻眼を細めたレイジと鉄扉を挟んで対峙、ノブに手をかけてどうしたものかと逡巡する。今ここでレイジを迎え入れて匿ってそれで、それからどうする?今夜のレイジは様子が変だ。どこか切羽詰っていつもの余裕が感じられない。扉を開けるのは危険だ、という考えがちらりと脳裏を過ぎる。
 まさか。相手はレイジだ。俺の相棒……、
 「!?やばっ、」
 「!」
 レイジが急に焦りだす。
 鉄格子を掴んでレイジが振り返った方角を爪先立って仰ぎ見れば、廊下の奥から規則的な靴音が響いてきた。看守が見まわりにきたのだ。規則正しい靴音とともに徐徐に人の気配が近付いてくる。腰に警棒ひっさげて片手に懐中電灯をもった看守が廊下の角を曲がり姿を見せるまであと五秒、四秒、三秒……
 頭が真っ白になる。背中を冷や汗が伝う。
 レイジが出歩いてるのが見つかればまた面倒なことになる。くそ、仕方ねえ!汗ですべる手でノブを捻り、勢い良く扉を開け放つ。
 「入れレ、」
 看守が通過するまでレイジを匿おうと決心、扉を開け放った視界に長身の人影が覆い被さる。レイジ。お前何のつもりだ、と抗議する暇もなく手のひらで口を塞がれ押し倒される。鉄扉が閉じる音が暗闇に響く。鉄格子の隙間から一瞬だけ射した懐中電灯の光は、手前の床に折り重なって倒れてる俺たちを照らすことなくあっというまに通過しちまった。
 間延びしたあくびが聞こえた。
 看守も寝ぼけてるらしく、暗闇に沈んだ房の全貌を確かめることなく行っちまった。
 次第に靴音が遠ざかり、静けさがいや増す。
 耳に痛いくらいの静寂を乱すのは俺とレイジの息遣い、赤裸な衣擦れの音。重い。早くどけ、と怒鳴りたかったが手で口を塞がれたままで声が出ない。レイジは相変わらず俺の上にのしかかって退く気配がまるでない。
 頭が混乱する。心臓が騒ぎだす。俺の上でレイジが動く。腰で這いずるように慎重に移動して、仰向けに寝転がった俺の耳元で囁く。
 「約束」 
 「………………」
 胸が強く鼓動を打つ。約束……100人抜きを達成したら抱かせてやるっていう例の約束。
 俺にも漸くわかった、レイジが房を訪ねた目的が。動機が。
 熱く湿った吐息が耳朶に絡む。格子窓から射す廊下の光を背に、影になった顔がどんな表情を浮かべてるかはよくよく目を凝らしても判別しがたいが、なんとなく笑みを浮かべてる気がした。
 口元に薄く笑みを湛えて、俺を見下ろしてる気がした。
 互いの顔が見えないのがいっそう不安をかきたてる暗闇の中、口を覆っていた五指がゆっくりと外され、そして……
 「抱かせろよ。ロン」
 「!レ、んっく」
 名を呼ぶことすら許さない強引さで唇を割り、舌が潜りこんできた。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050716182720 | 編集

 「!レ、んっく」
 唇をこじ開けて潜りこんできたのは熱い舌。
 体の一器官でありながらそこだけ独立した生き物のように卑猥に蠢く舌が唇の隙間に割りこみ、容赦なく口腔を犯す。
 一体全体今俺は何されてるんだ。
 レイジに舌突っ込まれて息ができずに苦しがってるのか?
 レイジが医務室を訪ねた夜のことを思い出す。
 カーテンの影に隠れて立ち尽くしたレイジ、叱られたガキみたくばつ悪げな表情……そして、突然俺に襲いかかった。豹変。あの夜と同じ、いや、それ以上の激しさでレイジは俺の口腔を犯している。もう辛抱きかないと切迫した様子で、体の奥底から込み上げる衝動に突き動かされて……
 扉を開けるんじゃなかった、と快感に痺れ始めた頭で後悔する。
 無防備に扉を開けてレイジを迎え入れるんじゃなかった。
 俺は心を鬼にしてレイジを追い返すべきだったのだ。
 なんたって相手は怪我人だ、今もってベッドでいい子にしてなきゃいけない重傷患者だ。勝手に医務室抜け出してほっつき歩いていい立場じゃない。扉を開ける前にしっしっと追い返してたらきっと俺はこんな目に遭わず、レイジはぶちぶち愚痴をこぼしつつも医務室に取って返したはずだ。俺は油断してた。相手がレイジだから無意識に隙が生まれていた。レイジは俺の相棒だ。相棒のレイジがまさかこんな蛮行に及ぶはずないと、夜這いをかけてくるはずないと高を括っていたのだ。

 暴君を侮った俺の失態。俺の甘さが敗因。
 レイジを甘く見たら火傷すると、とっくの昔にわかってたはずなのに。

 「っは、あっ……レイジおりろ、息ができねえよ」
 よわよわしく手足を振って暴れながら、窒息の苦しみをレイジに訴える。
 鉄格子の隙間から射した蛍光灯の光が殺風景なコンクリ床に縦縞の影を映す。鉄格子の隙間から落ちた光の筋の中で微塵の埃が循環してる。綺麗だった、この世のものとは思えないほどに。ただの埃がなんであんなに綺麗なんだろう、と霞み始めた意識の彼方で朦朧と考える。レイジは相変わらず俺の上からどかず腰に尻を据えたまま、房に立ち込める暗闇に表情を隠してる。
 沈黙が不気味だ。空気の重苦しさで胸が押し潰されそうだ。
 今夜のレイジは変だ。
 壁際にぽつんと蹲ったレイジを一目見た瞬間から漠然とした胸騒ぎを感じていた。本音と建前が噛み合ってないアンバランスな笑顔が違和感の原因。
 今夜のレイジには笑顔を浮かべる余裕なんかない、野生の本性を剥き出して扉を開けた途端に襲いかかったのがいい証拠じゃねえか。
 レイジは執拗に俺の唇を舐めていた。獲物を味見してるみたいに濃厚なキス。
 「看守はもう行ったぜ、いい加減医務室に戻れよ。俺に麻雀牌返しにきたんならもう用は済んだろ、今なら医者も気付かない、お咎めもない。なんにもなかったふりでベッドに潜りこんでわざとらしく寝息立ててりゃまるくおさまる」
 この期に及んでもまだ俺はレイジが別の用件で訪ねてきたと信じたかった、嘘でもいいからそう信じこみたかった。
 勿論、レイジが今夜房を訪ねた目的は牌を返すためじゃない。本当の動機は別にあるといくら鈍い俺でも察しがついていた。
 だが、俺は尻込みしていた。いつかはこの時がくるんだろうなと諦めと不安が入り混じった気持ちを抱いてはいたが、こんなふうにその瞬間が訪れるなんて予想だにしなかった。なにもかも突然すぎて性急すぎてついていけねえ。
 思い立ったら即行動なんてレイジらしいなと思うけど俺はまだ心の準備ができてねえ、体のほうだってちっとも準備できてねえ。
 体の準備……って、具体的に何をどうすりゃいいんだ?見当もつかねえ。とりあえずシャワーは浴びた。強制労働のあとで一日の汗と汚れを落として気分爽快……だったのに、レイジと縺れ合って床転がってるうちにびっしょり汗かいて台無しだ。
 「レイジ、扉開けてやるからさっさと帰れよ。お前怪我人なんだから無茶すんなよ。ベッドに寝たきりで退屈だってさんざんぼやいてたのに、勝手に出歩いたのがバレてまた退院延びたら……っ、ぐ!?」
 「くだらないおしゃべりに舌使う余裕あるならキスに応えてくれよ」
 低い囁き声。
 そこらの女なら一発で腰砕けにまいっちまうだろう甘い囁き。
 暗闇に沈んだ表情は見えないが、今夜のレイジはひどく切羽詰って王様を王様足らしめるいつもの余裕を失っていた。
 レイジは本気だ。本気で俺を抱きにきた。ただそれだけの為に医務室を抜けて長い時間と道のりかけてはるばる房にやってきた。まだ包帯もとれてねえくせに、背中の火傷も治ってねえくせに、無茶しやがって。  
 レイジの下から脱け出て、豆電球を点けに行けるかちらっと考えた。答えは不可能。豆電球を点ければちょっとは視界が明るくなるのに、レイジに対する得体の知れない恐怖と不安も薄れるのに、互いの顔が見えない暗闇じゃあ声を頼りに本心を探るっきゃない。
 「……お前、どうかしてるよ」
 レイジが怖い。ただ、純粋に怖い。今夜のレイジはなにをしでかすかわからない、なにをしでかしても不思議じゃない。
 背中を寝かせた床が俺の体温で徐徐にぬくもり始めている。
 レイジに両手を掴まれて顔の横に固定された仰向けの体勢から、緩慢に視線を上げる。
 「どうかしてる?どうかさせたのはお前だろ、さんざんじらしやがって」
 心外なといわんばかりに自嘲の笑いをまじえて吐き捨てる。目が暗闇に慣れてきた。闇からおぼろげに浮かび上がるレイジの顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 「お前言ったよな、ペア戦始まる前の夜に。100人抜き達成したら抱かしてやるって」
 「………ああ」
 「守れよ」
 「守るよ。お前の怪我が治ったら、」
 「またそれかよ。そうやってずるずる引き延ばして、しまいに忘れたふりすんじゃねえだろうな」
 ぎくりとした。レイジの指摘は的を射ていた。視力がいいレイジは暗闇の中で俺の表情を見て取ったらしく、鼻を鳴らす。
 「そんなこったろうと思ってたよ。今日、お前の様子がおかしかったから気になってたんだ。いや、今日だけじゃねえ。ペア戦終わってから二週間というものずっとだ。お前ときたら俺とまともに目えあわせようとしねえし俺が約束のこと振れば妙によそよそしくなるし、マジで約束守る気あるのか疑ってたんだよ。ロン、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。俺は一年半も前からこの日を待ってたんだ。お前を抱きたくて抱きたくて俺だけの物にしたくて気が狂いそうだった。正直、お前が抱けるなら片目くらいくれてやるって思ってた」
 「冗談でも言うな、そんなこと」
 「冗談なもんか。マリアに誓って真実だ」
 レイジを追い詰めたのは、俺だ。俺の優柔不断な態度がレイジを怒らせた。レイジが今夜房に来たのは俺の本心を確かめる為、俺に約束守る気があるかどうか体に聞くためだ。暗闇に慣れた目がレイジの顔を映し出す。
 焦燥に歪む顔、理性と本能の間で激しく揺れる葛藤の表情。
 「いいだろ?抱かせろ。最高に気持ちよくしてやるから」
 「!まっ、」
 待て、と叫ぶ暇もなく再び口を塞がれた。
 熱くて柔らかいレイジの唇の感触、優しく舌を啄ばむ繊細な愛撫が徐徐に熱を帯び激しさを増して口腔を蕩かせる。洗練された舌の動き。唾液を捏ねる音が淫猥に響き、羞恥心を焚き付ける。
 レイジから逃れたい一心で狂おしく身をよじってはみるが、体重かけて四肢を組み敷かれていては無駄な抵抗でしかない。レイジは俺の気持ちいいところを完璧に知り尽くしていた、口の中の性感帯を知り尽くしていた。
 頬の内側の敏感な粘膜、普段外気に晒すこともない舌の裏側、そして……数え上げればきりがない。こんなの、はじめてだ。メイファとキスした時はもっとおそるおそる遠慮がちに……

 ぼんやり霞みがかった脳裏にメイファの顔が浮かぶ。
 俺の初恋の女。

 「……………ふっ、んっ………」
 熱い。体じゅうが火照ってる。
 キスひとつで自分の体がこんなになるなんて、と信じられない気持ちでいっぱいだ。悔しいけど、本当に上手い。一体何人何百人の女とキスしたらこんな絶妙な舌遣いができるようになるんだ?レイジの経験値は半端じゃない。10歳かそこらのガキの頃から半端じゃない数の男や女と寝てきたんだ、ノーマルアブノーマル問わずさまざまなセックスを体験してきたんだ。そりゃ必然上手くもなるだろう。なんだか頭が朦朧としてきた。
 体の芯がふやけて蕩けて、心地よい浮遊感に包まれる。
 「息、できねえ……」
 こぶしでよわよわしくレイジの胸を叩く。
 「息なんかすんなよ」
 「無茶言うな、死ぬよ」
 「死なせねえよ」
 俺の抗議を鼻で一蹴して、レイジはキスを続ける。
 呑みきれない唾液が口の端から零れて透明な糸を引く。
 本当に、このまま死んじまうんじゃないだろうか。レイジの腕の中で窒息死しちまうんじゃないか、と本能的な危惧を抱いて体が強張る。
 レイジは骨の髄まで俺を貪り食うつもりだ。
 レイジの胸を叩き、何とかして俺の上からどかそうと試みる。苦しい、本当に苦しい、息が続かねえ。唾液に溺れちまう。いい加減に唇を離せレイジ、舌を抜け。だが、レイジは一向にどかない。俺の胴に跨ったまま、キスの世界最長記録に挑むように時間をかけて口腔を貪り尽くす。
 「ふっ、ん、うく……う!」
 「キスだけでイッちまいそうってか」
 レイジが皮肉げにせせら笑う。悔しいが、本当にそうなりそうだ。体じゅうが火照って疼いてもうたまらない。自分の口の中がこんなに敏感にできてるなんて知らなかった、知りたくもなかった。俺は巧みな舌遣いに翻弄されるばかりで、どんなに腕を突っ張ってもレイジをはねのけることさえできない。どうすればいい?このままされたい放題レイジに犯されてそれでいいのか?

 冗談じゃねえ。

 男に犯されるなんざごめんだ、強姦されるなんざ恥だ。
 男の意地にかけて抵抗してやる。手足が使えなくてもいくらでも反撃のしようはある、たとえば……
 「!っ、」
 レイジが顔をしかめ、とびのく。
 積極的に舌を絡めてきたレイジに応じるふりで舌を噛めば、俺の口の中にも鉄錆びた血の味が広がる。
 唾液に溶けて口腔に満ちるレイジの血の味。
 胸焼けして吐きそうだ。不味かった。それを我慢して唾液を嚥下、床を横転してレイジの下からぬけだす。腰が抜けたように床にへたりこみ、尻で這いずって距離をとる。背中に鈍い衝撃、物音。後退してるうちにベッドにぶつかったらしい。
 暗闇に響く衣擦れの音、性急に弾む呼吸、早鐘を打つ心臓。
 俺にはレイジがわからない。なんでレイジがこんなに焦ってるのか、突然こんな真似をしたのか、理解に苦しむことばかりだ。こんなの全然レイジらしくねえ。座高の低いベッドに背中を預け、虚空に顔を向ける。
 シャツの胸を掴んで深呼吸をくりかえし、かすれた声を絞り出す。
 「ふざけんな。こんなのレイプとおなじじゃねえか」
 手の甲で顎を拭いてたレイジがぴくりと反応する。
 「力づくで無理矢理なんて、凱やタジマとおんなじじゃねえか。レイジ、お前は俺を抱きに来たんじゃない、犯しにきたんだ。こんなやり方ずるいよ、俺が何回嫌だって言っても関係なく舌突っ込んできやがって、今のお前タジマや凱とどこも変わんねーよ」
 「違う」
 「違わねーよ。お前が望んでたのってこんなことかよ、俺が泣こうが叫ぼうがてんで無視して、さかった犬みてえにはあはあヨダレ垂らして息荒げてのしかかって……ああくそっ、滅茶苦茶びびったぜ!まだ心臓がばくばくしてる。勘弁してくれよレイジ、こんな夜中に……明日も早いのに」
 ゆっくり深呼吸をくりかえしてるうちにいつもの調子が戻ってきた。暗闇に目が慣れたせいか、レイジに対する得体の知れない不安と恐怖も多少は薄らいだ。目の前にいるのはやっぱり相棒のレイジで、なんだか浮かない顔して、無造作に足を投げ出してる。
 俺と絡み合った際に上着の袖がめくれたのか、白い包帯が巻かれた手首が覗いていた。 
 微妙な沈黙が落ちる。レイジは拗ねて黙りこんでる。長く伸びた前髪が両目にかかって表情を読みにくくしてるが、眼帯で覆われた左目の隣、右の隻眼を過ぎるのは……一抹の疑念。
 「お前、ずるいよ」
 ぎくりとした。
 「ずるいって、なにがだよ」 
 語気強く問い返す。本当はわかっていた。レイジが何を言おうとしてるのか俺は薄々勘付いていた。でも、知らないふりをした。俺とレイジが一年半かけて築いてきた何かが壊れちまうのが怖くて、一線越えて後戻りできなくなるのが怖くて、卑怯だとわかっていながら聞き流そうとした。
 レイジが深々とため息吐いてかぶりを振る。
 「約束したじゃんか、前に。ペア戦始まる前の夜に。だから俺、頑張ったんだぜ。勿論それだけが目当てじゃねえけど、下心あったのは事実だ。思い出せよロン。お前、サーシャとの試合の時何回も顔真っ赤にして叫んでたろ。勝ったら抱かせてやるって、約束守れよって、まわりの連中のことド忘れしておもいっきり恥ずかしいこと叫んでたろ」
 「こっぱずかしいこと思い出させんなよ」
 「だから俺、死にかけながら頑張ったんだよ。今ここで死んだらロンが抱けねえ、ロンの喘ぎ声聞けねえって自分に言い聞かせて汗と血ですべる手でナイフを取ったんだ。左目刺されても背中焼かれても俺が最後まで戦いぬけたのはロン、お前がいたからだ。お前との約束がなけりゃ正直あそこで死んでもいいかなって、妙に吹っ切れた気分だった」
 「馬鹿、言うなよ。お前、命捨てるつもりだったのか?」 
 思わず声が上擦る。レイジは笑ってる。どこか寂しげに微笑んでいる。
 「俺、どうせここ出れねえし。ここに居てもここ出てもどのみち長生きできねえだろうし」
 「殺しても死なねえタマのくせに何言ってんだ」
 レイジに掴みかかりたいのをこぶしを握りこんで我慢して、そんなはなずはないと食ってかかる。
 暗闇に呑まれた笑顔は儚げで不吉だった。
 手を伸ばして掴もうとしたそばから闇に吸いこまれちまいそうな、漠然とした不安感を抱かせる笑顔。俺も本当はわかっていた。レイジには少なからずそういうところがある。こうして笑っていても、刹那的で破滅的な生き方しかできない危うさが闇に溶けて漂っている。
 「報われないのは慣れてるけど、それだったら最初から期待なんかさせんなよ。思わせぶりなふりすんなよ。お預け食うのはつらいぜ。お前ときたら肝心な場面になるたび適当言って逃げまくって、俺がどんだけイラついてるか考えもしねえ。ごまかすなよ。逃げるなよ。これ以上期待させんなよ。俺に抱かれたくないなら怒らねえからそう言えよ。俺のツラまともに見て、俺の目をまっすぐ見て、『お前なんか大嫌いだレイジ消えちまえ』っていつかみたいに言ってくれよ」
 ひどく思い詰めた目で俺を見据える。一途に縋るような、救いを乞うような眼差し。俺は、知らなかった。一日でも約束の期限を引き延ばそうと適当言ってごまかしてた俺の態度が、レイジをここまで苛立たせてたなんて思いもしなかった。レイジは最初からわかっていた。俺の怯えや恐れや不安、一線越えて後戻りできなくなることに対する躊躇を的確に見ぬいて究極の選択を迫っているのだ。
 俺の本気を試してるのだ。
 耳朶にさわる衣擦れの音。レイジがおもむろに身を乗り出して俺の肩を掴む。
 「俺のこと嫌い?」
 『不是』
 「じゃあ好きか」
 『……不了解』
 「どっちだよ」
 逃げを許さない力で俺の肩を掴み、苛立たしげに吐き捨てる。
 俺は迷っていた。目の前にはレイジがいて、暗闇にぼんやりと顔の輪郭が浮かんでる。左目は純白の眼帯に覆われていた。眼帯の下には瞼を斜めに跨いで縫い付けた無残な傷痕が残る。
 レイジの左目はもうけして開かない、俺の顔を映すこともない。
 レイジが光を失ったのは俺のせい、視界の半分を失ったのは俺のせいだ。
 なら、レイジの期待にこたえてやるべきじゃないか?レイジは十分すぎるほど頑張った、頑張ってくれた。報われたっていいはずだ。俺を抱きたいって言うんなら抱かせてやれよ、減るもんじゃなしと頭の片隅でだれかが囁く。
 いや、ケツだってすりへるだろ実際?そんな簡単に決めていいのかよ。そりゃ前もって約束はしてたけど、こんないきなり……
 隻眼が漣立つ。
 業を煮やしたレイジが肩に五指を食いこませ、手荒く揺さぶる。
 「俺に抱かれたくないなら嫌いだって言っちまえ、遠慮なく突っぱねろよ。顔見ただけで反吐がでる、むこういけってヒステリックに叫べよ。どっちなんだよロン、はっきりしろよ。俺に抱かれるのが嫌なら最初から約束なんかすんじゃねえよ、無駄な期待させんじゃねえよ!報われない願いと叶わない祈りを積み重ねたところで救いに届くわけねえってわかってるよ、でも懲りずにもしかしたらって期待しちまうんだよ!ああ畜生かっこわりィ最悪、情けねえ、みっともねえ、こんな恥ずかしいこと言わせんじゃねーよ!?」
 「勝手に言ってるんじゃねーかよ!」
 レイジは聞く耳持たない。思い詰めた光を隻眼に宿して力任せに俺を揺さぶってる。
 目が回る。体がぐらつく。
 レイジが手を動かすたびに首からぶら下げた鎖が跳ねて清涼な音が鳴る。
 格子窓の隙間から射した光を浴びて十字架は神秘的に輝き、耳朶のピアスも光を弾いて綺麗にきらめく。そんな、どうでもとこにばかり目がいく。
 俺はレイジに揺さぶられるがまま顔を俯け、唇を噛んで黙りこくっていた。 レイジの気持ちは痛いほどわかる。でも、どうしたらいいかわからない。
 正直、俺は怖い。レイジに抱かれるのが怖い。
 サーシャとの試合の時はただただ夢中で、レイジに勝って欲しい一心で、いや、レイジに死んで欲しくない一念で約束を持ち出した。あれから二週間が経って俺の頭も冷えて、最近ではそんな約束をしたこと自体忘れはじめていた。 違う、忘れたかったのだ。
 俺たちの関係が変わっちまうのが怖くて、決定的に壊れちまうのが怖くて、レイジに聞かれるたびすっとぼけて姑息に逃げ続けていたのだ。 

 卑怯だ、俺は。レイジの言う通り、ずるいやつだ。
 最低だ。

 「……そうか、わかった。お前、最初からそのつもりだったんだな」
 「え?」
 おもわず顔を上げる。俺の肩を掴んで首をうなだれたレイジが暗い笑みを吐く。
 「美味しい餌で俺を釣って、ペア戦に出させるつもりだったんだな。そうやって餌で引っ張って戦わせるつもりだったんだな、自分の為に。はっ、一本とられたぜ。ころりと騙されちまった。俺に抱かれる気なんかこれっぽっちもなかったくせにそれらしいこと言ってけしかけて……飴と鞭だ。お前の約束は豹の牙も溶かす甘い飴だ。俺を飼い馴らすには体で釣るのがイチバンだろうって考えたんだろ。末恐ろしいぜ」
 「なっ……レイジてめえ、言っていいことと悪いことがあんだろが!?」
 「キレたってことは図星かよ。やっぱり、お前が俺に体許すはずねえって思ってたんだよ。お前、まともだもんな。男にヤられるのなんか冗談じゃねえって口癖みたく言ってたもんな。ある意味キーストア以上の潔癖症だ。野郎に突っ込むのも突っ込まれるのもお断りだって意地張って東京プリズンで生きてきた野良猫だ。懐かない野良にはいい加減愛想が尽きたぜ、お前なんか……」
 頭に血が上り、胸が煮えくり返る。
 渾身の力で突き飛ばせば、バランスを崩したレイジが派手な音をたてて床に転がる。悲鳴があがる。転倒した時に先の試合で痛めた個所でも打ったんだろう。レイジが片手で頭を支え起こして何か言いかけ、硬直。
 「いいぜ。抱けよ」
 上着の裾に手をかけ、勢いよく脱ぎ捨てる。
 床に肘をついて上体を起こしたレイジの眼前に上半身裸で仁王立ち、宣言。
 「守ってやろうじゃんか、約束。いいぜ、来いよ王様」
 「………いいんだな?本当に、いいんだな」
 レイジが慎重に確認。
 体の脇でこぶしを握りこみ、頷く。いまさら引き下がれねえ。レイジの挑発で決心がついた。抱かれてやろうじゃんか畜生と半ばヤケになっていた。
 闇を縫い伝わる衣擦れの音、コンクリ床を叩く足音。肉食獣めいてしなやかな動作で摺り寄り、優しく肩に手をおき、レイジが耳元で囁く。
 「後悔するなよ」
 ぞくりとした。
 本音を言えば、今すぐここから逃げたくて逃げたくてたまらなかった。でも、レイジから逃げたい心とは裏腹に俺の足は床に根ざしたようにその場から一歩も動かなかった。
 腋の下にいやな汗が滲みだす。恐怖と緊張で手足の先が震えてきた。
 どうした、さっきの威勢はどこにやった?しっかりしろ、顔を上げろ、目を見開け。逃げるな俺。心臓の鼓動が高鳴り、異常に喉が乾き、全身の毛穴が開いてドッと汗が噴き出す。
 レイジが不意に動く。
 さりげなく肩に添えた手に力を込め、ベッドの方に押し倒す。
 スプリングが軋み、背中が軽く弾み、薄暗い天井が視界に映る。
 「体の力抜けよ」
 「……無茶、言うなよ」
 眉間に皺を刻んで固く目を瞑る。
 ベッドのスプリングが錆びた軋り音を鳴らす。二人分の体重に音を上げるスプリングにも躊躇せず、俺の腰に跨り、前戯を再開するレイジ。赤裸な衣擦れの音が耳に響く。しっかり目を閉じていても、首筋を這う舌の感触や体をまさぐる手の感触まで意識から閉め出せるわけもない。変な、感じだ。体が熱い。微熱を帯びたように体の間接が気だるくて、勝手に息が上がっちまう。
 「はっ………、っう」
 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。目なんか絶対開けられねえ。目を開けたらまず間違いなくとんでもねえ光景がとびこんでくるに決まってる。
 頼む、はやく終わってくれとそればかり念じながらシーツを掻き毟り快感に抗う。レイジの舌と手を感じる。淫猥に濡れ光る唾液の筋を付けて、鎖骨の起伏を舐める舌。俺の腹筋を揉みしだいて、体の輪郭に沿って緩慢によじのぼっていく手。
 「!!あっ、」
 鋭い性感が芽生える。
 驚き、目を見開いた俺の視界に映ったのは信じられない光景。俺の胸板に顔を埋めたレイジが乳首を口に含んで舌で転がしてる。こいつなにやってるんだ、母猫の乳にしゃぶりつく子猫か?違う、そんな可愛いもんじゃねえ。大体男の乳首なんかしゃぶって何が楽しいんだ?
 「ちょ、待て待て待て待て!!お前なにやってんだ、そんなとこ舐めて……」
 一瞬で正気に戻った。レイジを押しのけようと躍起になって手足を振りまわすが、無駄だった。
 「男でも気持ちいいだろ?」
 「………っあ、よく、ねえ……っ!」
 勝ち誇ったように微笑み、胸の突起をついばむ。
 口に含み、舌で転がす。軽く前歯を立てて痛みを与えたあとは前にも増して優しく舐める。最初は何も感じなかったのに、少しずつ体に変化が起き始めた。熱い口腔に含まれた乳首が痛いくらい尖りきって、頭がどうかしちまいそうだった。むず痒いような、くすぐったいような……じれったい快感。
 病みつきになる快感。
 「感じてるのか」
 レイジが悪戯っぽく問いかける。
 感じてる?男同士でヤるのはこれが初めてなのにそんなのわかるわけねえだろ、と反発が込み上げる。俺は乳首舐められただけで感じるような淫乱じゃない、そりゃ体の半分には淫売のお袋の血が流れてるけど……
 お袋。
 ガキの頃こっそり覗き見たお袋の濡れ場を思い出す。
 俺はまだガキで、男と女のことなんかちっともわかんなくて、偶然濡れ場に立ち会ってもお袋と客が何してるのかさっぱりわかんなかった。素っ裸で絡み合う男と女。床の上でベッドの上で椅子の上で、お袋の膝を掴んで股を広げて……

 『淫売の子は淫売になるって産まれた時から決まってるんだ』
 タジマのせせら笑う声がする。
 『女の子ならよかったのに。お客とらせることもできたのに』
 お袋が冷たく吐き捨てる。

 「……ロン?」
 レイジの心配げな声音が俺を現実に引き戻す。
 片腕を目の上に置き、表情を隠す。違う。俺は淫乱じゃない、淫売じゃない。お袋と同じ生き物じゃない。あの時、お袋の身代わりに男に襲われた時から心に決めていた。スラムの路地裏で膝を抱えて、寒空を見上げながら心に誓った。これからの人生何があっても体だけは売らないと、お袋と同じ道だけは歩まないと。
 なのに。
 「………嫌だったのに」
 ぽろりと本音が口を突いて出た。
 「お袋みたいにだけはなるもんかって思ってたのに、男に体売るのなんざ冗談じゃねえって思ってたのに、情けねえ。これじゃお袋と一緒だ、タジマが言った通りの淫売だ。こういう時、どうやって喘げばいいんだ?どうやって喘げば男は、お前は悦んでくれるんだよ。わかんねえよ。上手くヤれる自信ねえよ。お前、きっとがっかりするよ。こんなもんだったのかって拍子抜けして、俺に愛想尽かすよ。こういう時のためにお袋に色々教わっときゃよかったのかな。小遣い稼ぎに体売ってればよかったのかな」
 何も見たくない、聞きたくない。
 ベッドに仰向けに寝転がり、顔に片腕を置き、途切れ途切れに呟く。
 「恥ずかしい、死ぬほど恥ずかしいよ畜生。ヤってらんねえよ。さっきからなんか、体が疼いて変な感じで、唇噛んでも声が漏れそうで……乳首舐められただけであんな声上げて、これじゃまるっきりお袋と一緒じゃねえか」
 レイジを落胆させるのは嫌だ、幻滅させるのは嫌だ。
 けど、どうしたらいいか肝心な所がわからねえ。自慢じゃないが俺はこう見えてとことん奥手で、メイファとヤる時だって酒の勢いを借りなきゃとても無理だった。どうすりゃいい?お袋みたいに擬声を張り上げて大袈裟なくらい感じてるふりすりゃ男は悦ぶのか、レイジは満足するのか?
 できねえよ、床上手の芝居なんて。
 俺はひとりしか女知らなくて、抱かれる側に回るのは今回初めてだってのに……
 「大丈夫だから」
 額に柔らかい感触。俺の額に唇を落とし、レイジが優しく微笑む。
 「お前はそのままでいいんだよ。我慢も無理もしなくていい、気持ちよくなけりゃよくないで俺に気を遣う必要なんかねえ」
 「………痛くすんなよ」
 疑り深く念を押せば、微笑を苦笑に切り替えてレイジが首を傾げる。
 「それはちょっと無理。一度は通る道だって諦めろよ」
 「皮剥けた時とどっちが痛え?」
 「処女失ったとき」
 やっぱり。くだらない質問しちまった。
 自己嫌悪で押し黙った俺をよそに、俺の腰に沿って手を滑らすレイジ。
 「なに、するんだよ」
 喉が詰まる。レイジは微笑んだまま答えない。意味ありげな微笑を口元にたくわえたまま俺のズボンを掴み、下着ごと膝までさげおろす。ひやりとした外気が下肢に触れて肌が粟立つ。これで俺は上も下も素っ裸、全裸になっちまった。上半身はともかく、下半身に何も身につけてないと足の間を風が通りぬけて落ち着かない。
 視線を下げれば自然、貧相な太股と萎縮した股間が目に入る。
 びびって縮み上がったペニス。反射的に股間を手で隠そうとしたが、間に合わなかった。レイジが俺の手首を掴んで頭上で一本に纏め、壁際に吊り上げる。キメ粗くざらついたコンクリ壁が裸の背中にあたり、否が応にも恐怖をかきたてる。
 至近距離にレイジの顔がある。
 俺の顔をまっすぐ捉えて、片方の目だけで笑っている。 
 「このままじゃ使い物になんねーだろ?使い物になるよう一人前に仕立て上げなきゃ」
 『使い物』にならない物を『使い物』に足る状態に仕上げる。何を意味するか一発でわかった。
 『梢等一下!有問題、台湾華語聴有無?別開玩笑、我不要了!』
 ちょっと待て、とみっともなく震える声で制止する。唾をとばして喚き散らす俺に一瞥くれて微笑を深めたレイジが、おもむろに股間に顔を埋め、そして……
 舌を使い始めた。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050715213239 | 編集

 熱狂に湧いたペア戦が五十嵐の発砲事件で幕を閉じたのが二週間前で、それを転機に東京プリズンは激変した。
 筆頭に挙げるべきはタジマの入院と無期限謹慎処分。
 巨大な鉄塊に潰されたタジマは背骨と頚椎を損傷、緊急要請されたヘリコプターで郊外の病院に搬送された。
 リンチの行き過ぎで死亡したら砂漠の穴に遺棄されるしかない囚人とは雲泥の差だ。警察長官の兄という強大なコネが多分に影響していることは日頃の行いには不相応な特別待遇をみても明らかだった。
 怪我の程度からみて復職は絶望的。生涯下半身不随の障害が残る可能性があるそうで、奇跡的に回復しても車椅子生活を余儀なくされるというのが噂に伝え聞いた医師の見解だ。
 自業自得だ。タジマは去勢されたも同然だ。
 彼の性器が勃起しないならそれにこしたことはないと僕を含めた売春班の面々は深く安堵している。
 タジマは失意のうちに東京プリズンを去った。もう二度と戻ってこないことを切に祈るばかりだ。タジマの帰還を喜ぶ者など東京プリズンには誰一人としていないのだから。
 タジマの抑圧から解放された囚人たちは以前にも増してのびのびと東京プリズンの空気を吸っている。主任看守のタジマが悲惨な最期を遂げたことで、タジマの二の舞にはなりたくないと多くの看守が考えを改めて規則の締め付けを緩めたのだ。
 だが、いいことばかりではない。
 看守の抑圧が和らいだことに加え、東西南北を治めていた四人のトップが一人にまで絞られた結果、それまで辛うじて保たれていた四棟のパワーバランスが崩れて頻繁に小競り合いが起きるようになった。それまでは各トップの自治と采配に委ねられていた東西南北の権力がレイジに一極集中したことにより、トップの代替わりを認めない他棟の反発を招いてしまったのだ。
 内乱の時代の幕開け。
 縦系列の支配が緩めば横同士の派閥争いが激化するのが社会法則だと世界史を紐解けば明らかなように、東京プリズンでは現在囚人間の対立と抗争が激化して風紀が乱れに乱れている。「風紀」?いや、東京プリズンに元々そんなものはなかった。あるのはただ弱肉強食の掟のみだ。
 ならばこれこそが東京プリズンの真実の姿、正しい在りようなのだと言えなくもないが……

 ともあれ、僕の感想はこの一言に尽きる。
 くだらない。どこまで退行したら気が済むんだ野蛮な低脳どもめ、クロマニョン人を見習え。

 東京プリズンの囚人に比べれば人類の進化途上段階であるクロマニョン人のほうがまだしも高等知能生物に思える。本来東西南北四棟を制圧して手綱をとるべき王様は背中の火傷と左目失明で入院中でまったく役に立たない。
 使えない男だ。
 しかし、レイジの100人抜き達成のおかげで公約通り売春班は廃止されたのだからその功績はしぶしぶ認めざるをえない。
 売春班の面々は全員元いた部署に戻された。売春班廃止については一部看守や囚人の猛反発にあったようだが、安田が独断で押し通した。
 僕とロンは晴れてイエローワークに復帰した。炎天下の砂漠で鍬やシャベルを用いてただひたすら穴を掘り続ける不毛な農作業も以前ほど苦ではなかった。売春班で地獄を体験して、どんな過酷な労働でも耐え抜ける自信と免疫力がついたのだろう。
 ロンは元気に働いてる。彼にはもともと体を動かす作業が性に合ってるらしく売春班にいた頃より活き活きしてる。僕はといえば、一日三度は貧血を起こしながらもなんとか倒れずに働いている。看守の締め付けが緩んだ結果、それまでは厳しく監視されていた水分補給が許されたのだけが救いだ。
 水。そうだ、H20。
 僕らがイエローワークを離れていた間に砂漠にも変化が起きていた。
 なんとオアシスができていたのだ。以前僕とロンが掘り当てたあの水源が今では立派なオアシスとして機能しているのだ。砂漠に湧いたオアシスは井戸兼貯水池として活用されて今では里芋栽培に欠かせないものとなっている。
 僕らがイエローワークを離れていたたった数ヶ月の間にオアシスから用水路が引かれて砂漠に張り巡らされ、いくつか畑ができていたのだ。
 これはあまり一般には知られていないが、砂漠でも水源さえ確保できてれば作物を育てるのは不可能ではない。
 代表的なのが品種改良された芋類で、僕がイエローワークに復帰した時には数ヶ月前に植えられたジャガイモが収穫期を迎えていた。
 僕らが掘り当てたオアシスが重宝されているのを見るのは、なんだか感慨深い。今やあのオアシスは恵みの泉として砂漠での農作業になくてはならないものと見なされている。

 だが、良いことばかりではない。

 僕とロンは無事イエローワークに復帰できた。
 が、サムライはそうはいかない。ブルーワークの勤務を放棄して僕の救出に駆け付けたサムライには、罰としてレッドワークへの降格処分が下された。
 レッドワークといえば都会から運ばれてきた危険物を加熱処理する部署で、作業中の事故による死傷者が最も多いことで知られている。
 サムライは何も言わないが、彼がブルーワークに落とされた原因は僕にあると痛感している。
 サムライだけではない。安田とて無事では済まない。
 そもそもタジマと五十嵐の暴走は安田の監督不行き届きが原因だ。
 安田はこの頃頻繁に「上」から召喚を受けて、銃を盗まれた責任を追及されているらしい。
 安田の処分はまだ決まっていない。副所長の不注意で銃を盗まれた上に刑務所内で発砲事件が連続したなど、「上」にとっても表沙汰にしたくない不祥事であるのに変わりない。安田の進退は敏感な問題だ。そのため採決が下されるのに時間がかかっているのだろう。
 僕はこの頃安田と顔を合わせてない。安田を東京プリズンで見かけないのだ。イエローワークに戻ればまた視察に赴いた安田と話す機会が得られると内心期待していたのだが、考えが甘かったと悔やんでいる。
 そして、五十嵐。彼もまた東京プリズンを去ることになった。万単位の目撃者がいる前で囚人に銃を向けたのだから責任逃れはできない。噂では五十嵐自ら安田に辞表を提出したらしい。それが五十嵐の決めたことなら僕には口だしする権利がないが……

 なんとなく、すっきりしない。

 ヨンイルは結局無事だった。
 あの時、五十嵐が引き金を引いた時は本当に死んだと思った。だが、実際にはそうならなかった。五十嵐は確かに引き金を引いた、しかし銃弾は発射されなかった。あとで安田に確認したが、紛失当時には弾丸は六発ちゃんと入っていたらしい。安田の証言を信用するなら、人手から人手へと渡るうちに誰かが銃弾を一個抜いた事実が浮かび上がってくる。
 誰が、何の為に銃弾を抜いた?
 わからない。まさか五十嵐がヨンイルに銃を向ける事態を予期してたわけでもないだろうに……謎は深まるばかりだ。現実にはペア戦が終了してもまだ多くの謎と不安材料が残されている。
 あの男の不審な行動も、また。
 
 東京プリズンに夜が訪れた。
 消灯時間が過ぎて囚人が寝静まった深夜、そっとベッドを抜け出す。
 物音をたてぬよう用心しつつ毛布をどけて、スニーカーを履く。ちらりと隣のベッドに目をやる。サムライは寝ているらしい。僕に背中を向けて毛布に包まっている。サムライは寝相がよく、殆ど動かない。僕が見ている間は寝返りも打たない。
 そのまま寝ていろと念じつつ、毛布をきちんと整えてベッドを離れる。サムライの眠りを妨げぬよう十分配慮して、足音を潜めて房を横切る。鉄扉に穿たれた格子窓から廊下の光が射し込んでくる。
 看守に見つからずに待ち合わせ場所に辿り着ければいいが……
 「………直?」
 衣擦れの音に続く寝ぼけた声。ノブに手をかけた姿勢で硬直、振り返る。サムライがベッドに上体を起こし、腫れぼったい目でこちらを窺っていた。
 十分気をつけたつもりだったが、起こしてしまったらしい。
 「こんな時間にどこへ行く。風邪をひくぞ」
 「君こそ大人しく寝ていろ。僕がどこへ行こうと勝手だろう」
 僕の目的地をサムライに知られるのはまずい。知ればきっと、サムライはついてくると言い張る。鉄扉を背にして睨みを利かせば、僕の態度に不審を感じ取ったのか、寝ぼけ眼が一瞬にして鋭くなる。
 「俺に言えない用事で房を抜け出すとは、穏やかではないな」
 サムライは頑固だ。一度こうと言い出したら決して自説を曲げない。
 まずいことになったぞ、と心の中で舌打ち。今回の件はサムライが知らない間に終わらせるはずだったのに、予定が狂った。
 裸足にスニーカーをつっかけ、暗闇の中を大股に歩いてくるサムライ。衣擦れの音すら殆ど立てない洗練された歩き方。枕元の木刀を忘れず携え、僕のもとへと歩いてきたサムライにうんざりする。
 「散歩だ。よく眠れないから外の新鮮な空気を吸いたくなっただけだ」
 「独り歩きは危険だ。連れて行け」
 わざとらしくため息を吐き、迷惑な本音を隠しもせずサムライを睨みつける。
 「束縛されるのは好きじゃない、門限を守る義務もない。サムライ、君は過保護すぎる。僕はただ途切れがちなレム睡眠にうんざりして気分転換に出かけようとしているだけだ。用心棒の監視など要らない、君が隣にいたらリラックスできないじゃないか」
 「最近は物騒だ。警戒するに越したことはない」
 サムライは頑として譲らない。後ろ手にノブを掴んだ僕はサムライをどう言いくるめたものかと逡巡する。小脇に木刀を下げたサムライは眼光に気迫を込めて、真剣な面持ちで僕と対峙している。
 仕方がない。
 サムライに嘘やごまかしは通じない、真実を話すしかないだろう。できれば彼を巻き込みたくなかったのだが……眼鏡のブリッジに中指を押し当て、嘆息。小さくかぶりを振りながら口を開く。
 「わかった、房を空ける目的と動機を話せばいいんだな。そうすれば満足するんだな」
 鉄扉から背中を起こし、サムライに歩み寄る。サムライは唇を固く引き結んで暗闇に溶けこんでいた。
 サムライの肩に手をかけ、耳朶に口を寄せ、声を低めて囁く。
 サムライの顔に驚きの波紋が広がる。
 サムライの肩から手をどけた僕は、淡々と補足する。
 「―というわけだ。僕が一人で出かけようとした理由がわかったろう。君がついてくると色々ややこしくなる、また話が複雑化するに決まっている。いいか?交渉には一対一で臨まなければフェアではない。一対複数の交渉はむしろ脅迫か威圧に近い、相手の本心を引き出したいなら一対一で向き合うべきだと心理学的にも実証されている。つまり、君は邪魔だ。不要だ、蛇足だ、余計だ。胃腸の消化を妨げる盲腸みたいな存在だ。ついてくるなよサムライ、僕は彼と二人きりで……」
 突然、手首が掴まれる。サムライだった。ノブに手をかけ扉を開こうとした僕の手首を掴んで引き止め、サムライが断言する。
 「なおのこと捨て置けん。俺も行く」
 「!だから、」
 「行くと言ったら行く」
 「…………くそっ、勝手にしろ。睡眠不足で足元がふらついて溶鉱炉に落ちても知らないぞ。溶鉱炉の温度は最も熱いところで960度、君など骨も残らないだろうな」
 押し問答してる暇はない。もうあまり時間がない、約束の時刻を過ぎれば相手が帰ってしまうかもしれない。サムライは一度言い出したら聞かない強情な男だ、彼の説得に時間を割いていては朝になってしまう。
 サムライの手を乱暴に振りほどき、鉄扉を開け放つ。
 廊下には無機質に蛍光灯が点っている。
 寒々しい灰色のコンクリ壁が続く廊下をサムライと前後して歩く。途中、看守とはすれ違わなかった。毛布に隠れて巡回中の看守が行き過ぎるのを待っていたのだから当たり前だ。他に出歩いてる囚人とも遭遇しなかったのはありがたい。蛍光灯の光に青白く発光する廊下は不安になるほど静かだった。
 東と中央を繋ぐ渡り廊下を歩く間も僕たちは言葉を交わさなかった。交わせなかったのだ。僕の手は緊張で汗ばんで喉がひりつくように乾いていた。一歩ずつ着実に目的地に近付いている実感が精神的重圧をかけてきて、房に引き返したい衝動を抑え込むのが大変だった。 

 中央棟に渡る。
 目指すは図書室。

 「本当に来るのか?」
 「そう思いたいな。来なければ逃げたと蔑むだけだ」
 体の脇でこぶしを握りこみ、苦々しく吐き捨てる。図書室の扉を開く。主が不在の図書室は異常な静けさに包まれていた。深夜でも電気は点いていた。
 警戒を強め、細心の注意を払って図書室に足を踏み入れる。背後で重厚な扉が閉じる。書架が十重二十重に並んだ一階を流し見たが、僕らの他に人影はない。   
 「決着をつけなければ」
 口に出して決意を表明する。
 ペア戦は終わった。しかしまだ決着はついてない、後始末が残っている。
 あの時、僕が安田と立ち話してた時、背後にぶつかってきた人物の正体。
 心神喪失状態の五十嵐の眼前に銃を蹴り飛ばした犯人の正体を突き止めて企みを暴かねば事件は終結したと言いがたい。
 「ペア戦は終わったが、事件はまだ終わってない。名探偵には最後の謎解きが残っている」
 だれが安田の銃を蹴り飛ばしたのか?だれが五十嵐に銃を撃たせたのか?
 僕には真相がわかっている。わからないのは動機だ。何故「彼」があんなことをしたのか仮説を組み立てることはできるが、所詮それは想像の域をでない机上の空論だ。
 僕は真実を知りたいのだ。
 「彼」が何故あんな真似をしたのか本当の理由を、ロンの信頼を勝ち得ていた「彼」が何故あんな―……
 その時だ。
 「直、止まれ」
 「!」
 鞭打つような叱責に息を呑んで立ち止まる。サムライが木刀で僕の脛を押さえ、油断ない眼光で虚空を見据える。
 「これはこれは。夜分遅くに呼び出しを受けて来てみれば、デート場面に遭遇してしまいましたか」
 二階の手摺に誰かが腰掛けていた。
 光沢ある黒髪を七三に撫で付けた胡散臭い男だ。トレードマークの黒ぶち眼鏡の奥で糸のように目を細くして笑っているが、どこか真意の窺えない、不気味な笑顔だった。
 「呼び出したのは僕だ。ルーツァイに伝言を頼んだんだ」
 ルーツァイ。元売春班の同僚で一児の父親、南棟の囚人。ルーツァイなら「彼」に接近する機会があった、周囲の目を気にせず人に怪しまれず自然に接触する機会があった。
 二週間前より他棟と緊張関係が続く東棟の囚人である僕が南の元トップと話し合いを持ちたければルーツァイに仲介役を頼むしかなかったのだ。
 だが、彼が今晩ここに現れるかどうかは確率半々の賭けだった。
 結果として、僕は賭けに勝った。だが、勝負はここからだ。
 「貴様が今ここにいるということは、ルーツァイはちゃんと役目を果たしてくれたようだな。感心だ。一児の父の面目躍如といったところか?」
 「そうですとも。ルーツァイくんはちゃんと伝言を届けてくれましたよ。ロンくんのお友達が吾輩に用があるから図書室に来て欲しいと、この件はくれぐれも内密に頼むと……」
 「確かにそう言った。だが、それは僕の安全の為というよりむしろ君の保身の為だ。元南のトップに問うが、真相を暴露されて西と北と東を敵に回すのは君とて望まぬ事態だろう」
 首筋を冷や汗が伝う。手摺に腰掛けた男は頬杖ついて僕の推理を聞いている。謎めいた笑みを含んだ口元には余裕が漂っている。
 分厚い瓶底眼鏡の奥の双眸はしかし、もう笑っていない。おそろしく物騒な、身の毛もよだつほどに危険な眼光を孕んで炯炯と輝いている。
 二階と一階で距離がはなれてるのに、この言い知れぬ威圧感はなんだ?
 もしサムライが隣にいなければ膝が萎えてその場に崩れ落ちていたかもしれない。
 深く息を吸い、顔を上げる。眼鏡のブリッジに触れて心を落ち着かせる。
 「僕が今日君をここに呼んだのは他でもない。何故あんなことをしたのか、真実を知りたいからだ」
 「『あんなこと』とは?」
 「とぼけるな」
 お茶目に首を傾げた男をひややかに睨みつける。  
 「僕は全部なにもかもお見通しだ。天才に不可能はない、名探偵に解けない謎はない。二週間前、ペア戦決勝戦が行われた地下停留場で僕はレイジから銃を手渡された。そして、安田に返そうとした。その瞬間だ、誰かが僕の背中にぶつかってきた。偶然の事故じゃない、故意に衝突してきたんだ。衝突の衝撃で僕は銃を手放した、次に発見した時銃は五十嵐の前に移動していた。落下のはずみで床を滑ったにしては距離が空きすぎている、だれかが故意に蹴り飛ばしたに違いない。
 でも、誰が?一体何の為に?」
 「さあ、見当もつきません」
 「とぼけるなと言っている」
 本当に腹黒い。急激に込み上げる怒りを自制、努めて冷静に話を続ける。
 「舐めるなよ隠者風情が、僕の洞察力と観察力を持ってすれば解けない謎などない。推理の材料さえ揃えば真犯人を特定するのは難しくない、フェルマーの最終定理を解くより簡単な子供だましの真相だった。
 あの時、僕の背中にぶつかった人物は周囲の人ごみに紛れこんで特定できなかった。だが、そこれそまさに盲点……目の錯覚を利用した幼稚なトリックだったんだ。木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中。そう、肌の色が同じならなおいいな。俗に白色人種は黄色人種の見分けがつかないというが、逆も言える。肌の色が同じ群集の中に溶け込んでしまえば個人の特定は困難、言うなればカメレオンの保護色の原理だ」
 「ふむ、なるほど。興味深い推理です」
 顎を揉みながら隠者が頷く。
 二週間前、人で賑わう地下停留場の様子を回想する。
 レイジとサーシャの試合に満場の観客が熱狂してる頃、リング脇で試合を観戦していた僕にホセが接触を図った。その時は別段不審に思わなかった、ホセは神出鬼没な男だからと特に気に留めなかった。
 そして、ホセの周囲には肌の浅黒い南の囚人が群れていた。
 その時はやはり気に留めなかったが……あれは、作戦だったのだ。人の壁を築く作戦。今から思い返せば僕の視界の端には常に浅黒い肌がちらついていた、南棟の囚人がうろついてたことになる。地下停留場は満員で東西南北すべての囚人が集まっていたのだから勿論南棟の囚人がいてもおかしくないのだが、僕が安田と立ち話をしてる時の状況は異常だった。

 周囲には、浅黒い肌の囚人ばかりがいた。
 浅黒い肌の囚人しかいなかった。

 たとえば、南棟の囚人がわざと僕の背中にぶつかってもすぐに同胞の中に逃げ込めるように。
 同じ肌色の壁で匿えるように。
 
 「見事な人海戦術じゃないか、拍手を所望ならしてやるぞ。おそらく、君はこう指示したんだ。僕の背中にぶつかって銃を奪え、五十嵐の前にそれとなく移動させろと。南の囚人はトップの命令に忠実にそれを実行した、心神喪失状態の五十嵐が再び銃を目にすればどうなるか……手の届く場所に銃が出現したらどうなるか、君はそこまで読んでたんだな。
 一度は自ら復讐を諦め銃を捨てた、しかし今再び銃が現れた。
 偶然にしてはできすぎている。これはひょっとして目に見えない大いなる力が、『運命』や『宿業』と呼び習わされる大いなる力が自分に復讐を望んでいるんじゃないか?やはり自分は銃を手にとるべきじゃないか、復讐を遂げるべきじゃないか?人間心理の陥穽を鋭く突いた作戦だな。自らの手を汚すことなく邪魔者を始末できるなら越したことはない。
 君は五十嵐にヨンイルを射殺させるつもりだった、いやそれだけじゃない、サーシャとレイジが相討ちで死んでくれることをも望んでいた!それも全て自分がトップになりたいがため、東京プリズンの支配者になりたいがためだ!
 どうだ異論反論はあるか、言いたいことがあるなら言ってみろ南の隠者!!」

 全身の血液が沸騰する怒りに駆られて、ホセに人さし指をつきつける。
 隠者は笑っていた。ただ微笑んでいた。
 「………いやはや。参りましたね、これは。バレてしまいましたか」
 そう言って、照れくさげに頭を掻く。
 僕は怒っていた。ホセに殺意さえ抱いていた。ホセは人の心を踏み躙り利用した、五十嵐の無念とヨンイルの誠意を利用した、邪悪に笑いながら人の心を玩んだ。許せない。こいつだけは許せない。五十嵐とヨンイルだけじゃない、ロンのこともずっと、ずっと騙していたのだ。
 ロンの信頼を裏切って、ヨンイルの友情を裏切って。
 そうまでして、トップの座が欲しかったというのか?
 視界が真っ赤に染まる。体の脇で握りこんだこぶしが震える。全身の血液が逆流して体が熱く火照りだす。
 サムライが心配げな面持ちで僕の肩を掴む。
 僕が倒れないようにしっかりと支えてくれる頼もしい手。
 「おっしゃるとおりですよ、名探偵。吾輩はヨンイルくんの死を望んでたのです。ヨンイルくんだけじゃない、レイジくんとサーシャくんにもこの世から消えてほしいと切に望んでいたのです」
 「何故だ?」
 声が震えた。僕にはホセの考えが理解できなかった。サムライの手を振り払い、手摺を掴んで階段を駆け上がりかけ、必死に叫ぶ。
 「君は、貴様は言ったじゃないか!君とヨンイルがペア戦に出ると決意したのはサーシャを牽制するためだと、北の専横を阻止するためだと言ったじゃないか!!あれは嘘だったのか、虚偽の証言だったのか?真の目的は別にあったというのか!」
 ホセは哀れみをこめた目で僕の狂乱を眺めていた。
 二階の手摺に腰掛け、宙に足を垂らして、緩慢に眼下を睥睨する。
 ホセのいる位置からは図書室全体が見渡せる。
 階段の手前でサムライに取り押さえられた僕も、整然と並んだ書架も、反対側に設けられた二階部分の手摺と三階部分の手摺もすべて。
 黒ぶち眼鏡の弦に指を添え、隠者は感慨深げに述懐する。
 「『敵を騙すには味方から』。しかし、吾輩には最初から味方などいませんでした。ヨンイルくんもレイジくんも『敵』の想定内だったんですよ。ヨンイルくんもレイジくんも吾輩の真の目的は見破れなかった。
 我輩はね、敵の全滅こそ望んでたんです。
 サーシャくんとレイジくんが共食いして、ヨンイルくんは五十嵐に殺される。吾輩の予想では北と東の対決でどちらかが死にどちらかが怪我で引退するはずだったんですが、どうしてどうして、レイジくんもサーシャくんも詰めが甘い。お二人にはがっかりです。最後の弾丸が入ってなかったのもね」
 顔から眼鏡を外し、素顔で微笑む。
 背筋に戦慄が走る極悪な微笑。
 「まあ、レイジくんのほうがより残酷だと言えなくもない。家臣の前で醜態をさらした元皇帝、片目を失ったサーシャくんが北棟で生き残れるかどうか…今ごろ輪姦されてなければいいですがね」
 眩暈がした。階段から足が滑り、視界が傾いだ。背後のサムライが慌てて僕を抱きとめる。 
 「大丈夫か?」
 「……大丈夫だ。別の意味で反吐がでそうだが」
 階段から転落しかけたところをまたもサムライに救われた。
 サムライの手を借りて起き上がった僕は、気丈に顎を上げてホセを睨みつけ、苦々しく皮肉を言う。
 「貴様の目的は、他棟のトップを抹殺して東京プリズンのトップになることか?ならば思惑が外れて残念だな、結果として五十嵐はヨンイルを殺さずレイジとサーシャは生き残ってしまった。隠者の野望は未遂に終わった」
 「はたしてそうでしょうか」
 ホセが手摺を下りて靴音高く階段に歩を向ける。
 開放的に高い天井に靴音が反響する。
 「確かにヨンイルくんは生き残った、サーシャくんもレイジくんも生き延びた。しかし、彼らに何ができるのです?ヨンイルくんは今回の一件で罪悪感の重荷を抱え込んだ、今回の一件は末永く彼のトラウマになるでしょう。レイジくんは背中に火傷を負って片目を失った、これは大変な痛手です。身体が回復するには時間がかかる上に決して元の状態には戻れない。サーシャくんは言うに及ばず……」
 ホセが自信に満ちた力強い足取りで階段を下りてくる。
 怪しくほくそ笑みながら、すでに次の策謀を練りながら。
 「これは終わりではなく、始まりに過ぎない。そうは思いませんか?」
 「ロンには手を出すな」
 階段の上と下でホセと対峙する。サムライに肩を支えられた僕は、ホセの通り道に敢然と立ち塞がる。ホセがスッと目を細める。剃刀めいて剣呑な眼光が僕の顔をひと撫でする。
 僕はホセに恐怖を感じていた。得体の知れない、底の読めない……手強い相手。ホセが本性を曝け出した今なら、ホセと対峙した今なら実感としてわかる。東西南北四人のトップのうちで最も警戒せねばならないのはレイジの狂気でもサーシャの残虐性でもヨンイルの無邪気さでもない。

 ホセの悪意だ。
 目的のためなら手段を選ばない、人あたりよい笑顔の裏に潜む邪悪さだ。

 レイジよりもサーシャよりもホセは邪悪だ。蝿の王のように邪悪だ。
 規則的な音を響かせてホセが階段を下りてくる。余裕漂う緩慢な歩み。障害物など視界に入ってないような自信に満ちた力強い足取り。
 「吾輩を呼び出して直接真相を究明した君の勇気に免じて、特別に教えてさしあげましょう。吾輩は実は、本来ここにいるべき人間ではない。東京プリズンは吾輩本来の居場所ではない。吾輩は『ここにいてはいけない』人間なのです」
 「は?」
 何を言ってるんだ。疑問の眼差しでホセを仰げば、にこりと感じよい微笑みを返される。
 「吾輩は二十四歳。東京プリズンは十二歳から二十歳までの犯罪者を収容する施設、二十歳を越えれば郊外の刑務所に移送される手筈になっています。しかし、吾輩はいまだにここにいる。東京プリズンにいられる年齢をとっくに過ぎてもトップとして君臨し続けている。何故だかわかりますか」
 ホセが、本当は二十四歳だった?どうりで老けてると思った……
 いや、違う。今重要なのはそんなことではない。
 ホセが次第に接近してくる。
 片手を手摺におき、片手を体の脇にたらし、謎めいた笑みを浮かべて……
 僕とすれ違う間際、耳元で囁く。
 「東京プリズンには秘密があるのです。とても重大な秘密がね」
 「東京プリズンの秘密?」
 なんだそれは。
 東京プリズンの秘密。
 僕がまだ知らない東京プリズンの真実の姿。
 日本を震撼させる……世界を震撼させる……秘密?
 僕の傍らで立ち止まり、ホセが視線を向ける。僕の表情をつぶさに観察しつつ、慎重に言葉を選んで続ける。
 「変だと思いませんか?何故こんな砂漠の真ん中に限られた年齢の少年ばかり収容する刑務所があるのか。何故東京プリズンの地下がこんなに広いのか。何故東京プリズンは日本に見捨てられたのか……」
 「君は、その秘密を探っているのか?その秘密が知りたいから、東京プリズンのトップになりたいのか」
 興奮のあまりホセの肩を掴んで問いただす。僕が知らない東京プリズンの実態、真実の姿。そんなものがもしとあるとすれば……

 僕は。僕らは一体、何故ここに集められた?

 「これから先は言えません。吾輩としたことが、少々おしゃべりしすぎてしまいました」
 僕の手を無礼にならない力加減ではねのけてホセが再び歩き出す。
 サムライの制止を振りきり、その背中に食い下がる。
 「約束しろ隠者、今後ロンとレイジには手だししないと!いや二人だけじゃない、ヨンイルを追い詰めるような真似もするな!彼らはまだ君の本性を知らない、いや、薄々勘付いていて知らないふりをしてるのかもしれないがとにかく君を信頼して!」
 靴音が止む。図書室の扉の前で僕に背中を向けて立ち止まり、ホセが深々と息を吐く。大気を伝わってきたのは失笑の気配。みっともなく追いすがる僕を振り向き、ホセが眼鏡を外す。
 口元から白く清潔な歯が零れる。
 驚くほど若々しく野蛮な素顔でホセは言った。

 「ロンくんを犯して殺したら、レイジくんは発狂してくれるでしょうかね」
 宣戦布告。

 風切る唸りをあげて木刀が飛来したのはその直後だ。
 僕の頬を掠めて投擲された木刀がホセの手首を直撃、眼鏡を弾きとばす。苦鳴をあげて膝を屈したホセへと大股に歩み寄り、流麗な所作で木刀を拾い上げるサムライに呆然とする。
 手首を押さえて立ち上がり、レンズが割れて弦が曲がった眼鏡を拾い上げる。
 「……冗談ですよ。吾輩はいついかなる時もワイフ一筋、浮気などもってのほかです」
 床に散らばったレンズの破片を情けない顔で見下ろして、ホセが首を振る。
 「………前から疑問に思っていたのだが。ワイフとは空想上の人物、虚構の存在ではないのか?」
 「失礼な、ヨンイルくんと一緒にしないでください」
 何事もなかったように割れた眼鏡をかけ直したホセが頬に血を上らせて憤慨する。木刀を取り返したサムライが無言で僕の隣に並ぶ。僕たちが黙って見送る中、ホセが扉を開けて肌寒い廊下に出る。
 「忠告だ。俺の仲間に手出しすれば貴様とて容赦せん。ゆめゆめ用心を怠るな」
 扉が閉まる直前、サムライが警告を発した。無意識に木刀を構え、いつでも斬りかかれるよう全身に殺気を漲らせて。閉まりゆく扉の向こうでホセが苦笑、体の脇で腕を揃えて丁重にお辞儀する。
 「ご忠告どうも。肝に命じておきましょう」
 猛禽の眼光と肉食獣の眼光が一刹那だけ交錯。
 扉が閉まる音が重たく響き、我知らず安堵の息を吐く。
 「……直、あの男には用心しろ。あれは策士だ」
 「わかっている。ホセの陰謀など片っ端から僕が叩き潰してやる、大丈夫だ、頭脳勝負には自信がある。僕の灰色の脳細胞をもってすればホセに先んじることなどたやすい……何故笑う。ここは笑う場面じゃない、エルキュ―ル・ポワロも卒倒する僕の名推理に脱帽する場面だろう。まったく空気の読めない男だな君は!」
 「いや、すまん。お前があんまり一生懸命なのがおかしくて」
 「『おかしくて』?」
 失礼な男だ、僕は大いに真面目なのに。尖った声で抗議すれば、こぶしを口にあてて笑いを噛み殺したサムライが深呼吸でこちらに向き直り、優しい眼差しを向けてくる。
 「人のために一生懸命になれるのが、お前の良いところだ」
 「……前々から指摘しようと思っていたが君の発言には読点が多すぎる。聞いててイライラする」
 急に改まって何を言い出すのだ、サムライは。さあ、用は済んだ。はやく房に帰ろう、明日も強制労働があるのだ。サムライに背中を向けてノブを掴む……
 「直」
 「なんだ」
 サムライが僕を呼ぶ。振り返りもせず、不機嫌に問い返す。どうせまたくだらない話だろう。背後にサムライの気配を感じる。サムライが僕の肩に手をおく。
 反射的に振り向く―

 衝撃。

 背中に鉄扉がぶつかり、鈍い音が鳴る。何が起きたのか瞬時にわからなかった。視界に覆い被さる人影、顔に被さる顔……鉄扉に押し付けられた僕の上にサムライが覆い被さっている。至近距離にサムライの顔がある。先刻の優しい眼差しとは一転、ひどく思い詰めた眼差し。生きながら心臓を焼かれてるような切迫した表情、男性的な荒荒しさを剥き出した必死な形相……
 どけ、と叫ぶ暇もなかった。
 目を閉じる暇も与えられなかった。
 唇に唇が重なる。前歯があたる。不器用で性急なキスに痛みを感じる。ただ触れるだけのキスだったのに、サムライの唇の火照りが伝染ったのか僕の唇にも血の気が射していた。
 「……サ、ムライ?」
 今、何が起きた?
 サムライが、僕の唇を奪った? 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050714174048 | 編集

 「ふあっ……!?」
 口から変な声が漏れた。
 自分の声だなんて信じられなかった。
 レイジは何ら抵抗なく裸の股間に顔を埋めた。萎えたペニスを右手で支え持ち、左手を根元に沿えて立ち上げて、ゆっくりと口腔に含み、ぴちゃぴちゃ下品な音たてて捏ねくり回す。
 レイジの口の中は熱かった。舌がぬるぬると動いていた。とろりとした唾液がペニスに絡みついてすごく変な感じだった。
ふいに昔の記憶が甦る。
 俺が生まれ育った池袋スラム、日本に根付いた台湾人の街。線香の煙が濛々と立ち込める廟の一角には揚げ餅や駄菓子を売る屋台が出ていて、やたら滅多ら威勢のいい男たちが胴間声をはりあげてガキ相手に商売していた。
俺が思い出したのは、水飴だ。
 透明な壜に入ったとろりと光沢のある水飴、人さし指につけて舐めると歯が根元から溶けそうに甘かった。屋台の親父はその水飴を一壜いくらで叩き売ってたんだが、お袋に飯抜かれて腹ぺこだった俺は、何回かその壜をくすねたことがある。勿論水飴じゃ腹はふくれないが、ちびちび大事に舐めてれば少しはひもじさをごまかせる。でも、すぐに手がべとべとになるのには辟易した。
 手のひらに水飴を零せば指と指が粘ついて、五指を開け閉めするたびにちゃにちゃ透明な糸を引くのだ。
 たとえば、割り箸に水飴を絡めるところを想像してほしい。割り箸をたっぷり水飴に浸して舌で引き延ばしていくところを想像してほしい。フェラチオはちょうどあんなかんじだ。水飴が唾液で、割り箸がペニス。
 ただ違うのは、俺のペニスは水飴を絡めた割り箸みたいに甘くないってことだ。
 正直、こんな物を平気で口にできるレイジの正気を疑う。
 「うっ………は、あ」
 変な、感じだ。体が熱い。レイジの口の中では唾液が泡立っていた。やっぱりレイジはこの手のことにおそろしく慣れてる。きっとレイジなら虱の沸いた売女の股間だろうが綺麗に剃毛された尼僧の股間だろうが、醜悪さに眉ひそめることなく、不潔さに抵抗を覚えることなくさらりと口をつけて体液を啜ることができるんだろう。蚊みたいに。
 レイジは行為中も上目遣いに俺の反応を確かめながら、顎の角度を調整したり舌の動きを変えたりとたゆまぬ工夫を凝らしていた。サービス精神旺盛な男娼。野郎、余裕と自信ありまくりで癪にさわる。レイジの肩に手をかけ押し返そうとしたが、ペニスに絡み付く舌がそれをさせてくれない。ねちっこい。ぺちゃぺちゃ唾液を捏ねる音が暗闇に響く。排尿感に似たもどかしさを覚え、レイジの肩に爪を立てる。
 「レ、イジお前ふざけるのも大概にっ……し、ろ!」
 喘ぎ声を噛み殺し、息も絶え絶えに反駁する。男の意地に賭けて断言するが、俺は早漏じゃない。早漏じゃないが、そろそろやばい。レイジの口の中でペニスが勃ち上がりかけて、先端に血が集まりだしたのがむず痒い感覚でわかる。
 小便を限界まで我慢して膀胱がはちきれそうになった時によく似た、尿道の掻痒感。 
 レイジは手と舌を巧みに連動させて用いてあっというまに俺のイチモツを「一人前」の状態に仕立てあげちまった。ひょっとしたらお袋よりメイファより上手いかもしれない、何がってフェラチオが……いや、そんなことはどうでもいい!万一レイジの口の中で射精しちまったら男の沽券に関わる一大事、俺はこれから一生レイジの顔をまともに見れなくなる。だってまだフェラチオが始まって五分も経ってねえのに畜生、これでイッちまったら早漏決定じゃんか!
 羞恥心に火がついた。
 これ以上レイジの好きにさせてたまるかと決心。腕に渾身の力を込め、無理矢理レイジを引き剥がす。必死の抵抗。これ以上体を好きにされるのはたまらない、こんな卑猥な行為耐えられないと頭の片隅に居座った理性が悲鳴を上げる。
 そりゃ確かにレイジは経験豊富で滅茶苦茶上手くて、舌の使い方や指の添え方に至るまで文句の付け所がなくて、俺を最高に気持ちよくさせることもわけないんだろう。
 レイジが本気を出せば十秒で俺をイかすこともできる。だが、奴は手加減した。すぐにイッたらつまんないからと手を抜いていた。ツラを見ればわかる。俺のペニスをしゃぶってる間じゅうレイジは満足げに、優越感に酔って笑っていたのだから。
 「お前まともじゃねえよ、よくこんな物しゃぶれるな!?」
 俺は怒っていた、それ以上に混乱していた。レイジがこんなに上手いなんて知らなかった。そりゃ本人が自慢してたし話にも聞いてたが、実際体験してみて初めて真実味を帯びて迫ってきたというか、体に思い知らされたというか……くそ、うまく言えねえ。
 とにかく、ここで一発ガツンとかまさねーとますます王様が調子にのっちまう。レイジの肩を掴み、呼吸が整うまでしばらく待ち、続ける。
 「こんな……こんな、汚ねえだろ普通に考えて!?そりゃ俺だって童貞じゃねーしフェラチオやってもらったことくらいあるけどその、まあなんだ、男同士でこういうのはちょっとどうかと思うよ!やっぱナシ、こういうのナシでいこう、約束はきっちり守るから俺が目え瞑ってるうちにぱぱっと済ませてくれよ!ちょっと後ろ向いて我慢してりゃすぐ終わるだろ、こんなコト意味ねえ……」
 「意味ならあるぜ。ロンが気持ちよくなんなきゃ始まんねえ」
 レイジが意味ありげに笑う。
 「お前勘違いしてねーか。セックスってのはおたがい気持ちよくなんなきゃ意味ねーの。一方だけ気持ちよくなったんじゃ相手の体使って自慰してるのと一緒だろ?ま、中にはそういうのがイイ奴もいるけど……一夜を共にする相手には頭のてっぺんからつま先まで舐め尽くして最高に気持ちよくなってもらうのが俺のやり方なんだよ」
 悪魔みたいにほくそ笑むレイジをあらんかぎりの憎しみ込めて睨みつける。視線に熱量があるならたちどころに灰にできそうな眼力を込めてはみたが、やっぱり俺じゃどうしたってレイジに太刀打ちできない。どうしようもない現実、力の壁。さっきからレイジに翻弄されてばかりで悔しい、情けねえ、みっともねえ。レイジの前で足開いてペニス咥え込まれて、俺は壁際でじっとしてるだけか?喘ぎ声我慢して唇噛んでるだけかよ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。半端に理性が残ってるのがなおさら辛い。
 観念して目をとじて、後頭部をコンクリ壁に預ける。
 「恥ずかしいよ……」
 「暗闇だから気にすんな」
 レイジが喉の奥で笑い声を立て、再び股間に顔を埋める。反射的に足を閉じようとしたが、レイジに手でこじ開けられる。そうはいくかと太股に力を込めて対抗する。力比べに勝利したのはレイジで、俺の両膝に手をかけてぐいと強引に押し広げる。いくら暗闇で見えなくても恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ馬鹿、こんなポーズとらせるんじゃねえよ。股間にじっと視線が注がれてるのがわかる。願いが叶うなら今すぐ発狂したかった、全身の血が燃え立つ恥辱を味わって閉じた瞼から涙が滲み出た。
 首を傾げて俺の股間を覗きこんでいたレイジが、人さし指を先端にひっかけて揶揄。
 「可愛いペニス」
 『可愛?!』
 待て聞き捨てならねえ台詞だ。可愛い?悪かったな可愛くて、そりゃお前のご立派なモンと比べたらお粗末だよ。なんだ、自慢か?さりげなく自慢か?自分のほうが男として格上だって自慢してるのかコイツ。いいのかよ俺言われっぱなしで、ガツンと一発……
 「!ひっ、あ」
 矢のように鋭い性感が尿道を貫き、脳天に抜ける。体が撓り、踵が跳ねる。シーツを掻き毟り、悩ましげに悶える俺をレイジは愉快げに眺めていた。意地悪くほくそ笑んで見物を決めこんでいた。熱っぽく潤んだ目に憤怒を滾らせて、王様の涼しげなツラを睨みつける。
 信じらんねえ。こいつ、俺のイチバン敏感な部分を指でピンと弾きやがった。痛い。マジ痛い。五指で掻き毟ったシーツに皺が寄り、性感の喘ぎか忍耐の苦鳴か、自分でも判然としない声が口から漏れる。
 もうこれ以上体がもちそうにない。限界だ。早くイかせてほしい。中途半端でやめられるのがいちばん辛い。生殺しだ。レイジの手で強引に開かれ両足の間、素っ裸の股間にはみっともないモノが勃ちあがってる。レイジのそれとは比べ物にならないほど軟弱なペニスに劣等感を抱きつつ、切れ切れに催促する。  
 「ふざ、けるなよ……お前のお遊びに付き合ってる暇ねえんだよ、とっとと本番入れよ」
 「いいのか?体馴らしとかないと後が辛いぜ。あせるなロン、せっかちは嫌われる。物事には順序がある、セックスには順番がある。前戯すっとばしたらお楽しみが半減だ」
 「恥ずかしいんだよこの格好、何度も言わせるなよ!」
 こめかみの血管が熱く脈打つ。レイジは完全にこの場の支配権を握っていた、さながら暴君のように俺の上に君臨してた。俺が泣こうが喚こうが吠えようが暴れようがてんで意に介さず、ただ笑ってる。
 苛立ちをこめ、体の脇でこぶしを握りこむ。
 暗闇の中で羞恥心の熾き火をかきたてられ、全身の血が沸騰する。
 嗚咽の衝動が急激に込み上げてきた。泣いてたまるか。我慢しろ。根性で涙腺を引き締めろ。もうこれで勘弁してくれ、イかせてくれとレイジに頭を下げて懇願したい欲求をねじ伏すのが大変だった。
 口腔の粘膜がペニスを包みこんで、五指が繊細な動きで竿を扱き上げる。息が上がる。びくりと体が強張る。片手を口にあてて声が漏れるのを防ごうとするが、駄目だ。
 「んっ、んっ、んっ……う!」
 指を噛んで声を堪えても、腰が快感に弾んでしまう。
 「気持ちいいのか」
 「よく、ねえ……あっ!」
 「強情っぱり」
 レイジがあきれ顔になる。うるせえ。意地でも「気持ちいい」なんて言うか。コンクリ壁に後頭部を預け、首を仰け反らせる。肩が断続的に跳ね上がり、呼吸が性急に速まる。頭がおかしくなりそうだ。熱くて熱くて気が狂いそうだ。股間がむず痒い。下半身に血が溜まっていく。レイジの舌を感じる。貪欲に柔軟に、レイジの口の中で動く舌。蛭の吸引力でペニスに絡み付いたかと思えば素早く離れて、亀頭を舌先でくすぐり、唾液の筋を付けて竿を這い、先端から根元にかけて根元から先端にかけてくりかえし舐め上げる。
 「本当はどうなんだ。気持ちいいんだろ」
 「よく、ねえって言ってんだろ自信家。その性格治さ、ねえと、女もダチもなくす、ぜ」
 目尻に涙が滲む。体が熱い。全身の細胞がドロドロに溶解してく感覚。イきたい。一分一秒でも早くイきたい出したいイきたくて気が狂いそうだおかしくなりそうだ。気付けば俺はレイジの後頭部に手をやって、物欲しげに股間に押し付けていた。もっともっと快楽を得たくて快感が欲しくて、腰が上擦り始める。
 「言ってることとやってることが違うじゃねえか」
 レイジが鼻で笑う。嫌味な顔。恥辱で顔が赤らんで視界に涙の膜が張る。涙で撓んだ視界にぼんやり映りこむレイジの顔、コンクリ打ち放しの房の暗闇、配管剥き出しの殺風景な天井……それら周囲の景色が混沌と渦巻いて眩暈がする。
 熱を放出したくてたまらないのに、射精したくてしたくてそれしか考えられないってのに、俺が達しそうになるのを見計らってレイジが手の速度を緩めるから……
 イきたい。東京プリズンに来てからもレイジがいない間に自慰したことはある……が、他人の手で擦られるのと自分の手でやるのじゃまるで違う。
 股間に顔を埋めたレイジを見下ろす。
 唇の隙間から抜き差しされるペニスは生き物みたいに脈打っていた。根元に手を添えて、片手で竿を扱いて、笛を吹くみたいに咥える。強弱つけて唇で吸い、舌を絡める。
 奉仕する側とされる側が逆転したような奇妙な、それでいてとても淫らな光景。
 俺は固く目を閉じてレイジの手が加速してくれるのを祈った。レイジの頭後頭を手で押さえて、裸の背中でコンクリ壁を這い上るように腰を浮かせる。吐息が乱れる。呼吸が荒くなる。次第に余裕がなくなる。口から声が漏れる。淫売みたいに濡れた喘ぎ声……嗚咽とうめきが入り混じったくぐもり声。
 声に弾みがつく。腰に弾みがつく。知らず知らず足を大胆に開き、腰を前に突き出し、自らレイジを迎え入れる体勢をとる。素っ裸の股間を無防備に外気に晒して、痣と擦り傷だらけの太股にレイジの頭を挟んで締め付ける。 
 「イきたい?」
 「……イ、きたくね……」
 なけなしの自制心を振り絞り、強情に首を振る。
 レイジに弱みを見せるのは嫌だ、調子づかせるのは癪だ。心と体が分裂する。体が貪欲に快感を求め始める、快楽を貪り始める。こんな……こんなの嘘だ。俺が自分からレイジにねだってるみたいな、積極的に奉仕に応じてるような、奉仕を手伝うように股をおっぴろげてるなんて嘘だ。相手はレイジなのに、男なのに、徐徐に抵抗が薄れ始めてるのか?すべての輪郭を曖昧にする暗闇で、粘着質に唾液を捏ねる音が行為の淫らさと疚しさ引き立てる。
 腰が溶けそうだ。蕩けそうだ。
 「我慢は体に悪いぜ。素直に『イきたい』って言やイかしてやってもいいんだけど」
 野郎、主導権握ってるからって調子のりやがって。
 「だ、れがお前のテクでイくか、よ。ここに来るまで何人何百人女や男抱いてきたんだか知らねえが自信持ちすぎだ、フェラチオなら俺のお袋のがよっぽど上手いしキスならメイファのほうが……、っひい!?」
 語尾は悲鳴にかき消された。
 レイジが突然、俺のペニスを握ったのだ。
 ぎりぎりで塞き止められて、限界まで張り詰めて、先端に透明な汁を滲ませていたそれを。無造作に。手加減なく。握り潰そうとしたのだ。
 欲張りなガキが、玩具を独占するみたいに。
 「痛あ、ああっああああっ、いっ……馬鹿、手え放せ、いてえよ!!」
 しきりに身をよじり激痛を訴えるがレイジは放してくれない。片手でペニスを包んで力を込めれば、尿道を圧迫される激痛に腰が浮き沈みをくりかえす。ペニスが充血、膨張する。きつく栓を締められたペニスは俺の腹に付きそうなほど急角度にそそり立ってうっすら汗をかいている。
 「レイジ、マジでやめっ……」
 「イきたい?」
 「ふざけるな、そこ男の急所だぞ!蹴られたらいちばん痛え場所だぞ、そんな風に掴んだらっ……」
 「小便漏らす?」
 「わかってんなら言わせるなよ、血尿でそうだよ!」
 首を仰け反らせ、うなだれ、両手でシーツを掻きむしる。全身の毛穴が開いてしとどに脂汗が噴き出す。レイジの手をはねのけようと必死に暴れてみるも、スプリングが軋む音が虚しく響くだけで効果がない。
 「いたっ……レイジ、手……」
 「どうしてほしいんだ」
 「どけ、ろ」
 「本当にどけていいの。物足りなくね?」
 刺激が欲しい。はやくイきたい、ラクになりたい。
 擦って扱いてほしい、途中でやめないで一気に……
 「………そこ掴まれると、イけね……」
 耳朶にふれる衣擦れの音。格子窓から射した光がピアスに反射、レイジの横顔を暴き出す。勝ち誇った顔。壁に背中を凭せ掛けて、欲情に目を潤ませて、だらしなく弛緩した口元から一筋涎を垂れ流した俺を隻眼で見上げてレイジは口元を緩める。
 口から垂れた唾液が顎を伝い、喉へと滑り落ちる。粘り気ある液体が喉沿いに緩慢に滑り落ちる感覚……生温かく粘り気ある感触。
 錆びた軋り音が上がる。レイジが膝立ちになり、スプリングに体重がかかる。膝這いに俺へとにじり寄ったレイジが、肩に顎をのせ、耳朶に口を寄せる。
 「ロン。今のお前、めちゃくちゃいやらしい」
 熱い吐息が耳朶を湿らす。体の表面がひどく敏感になってるせいか、耳朶に吐息を吹きかけられただけでぞくりと快感が走った。涼やかに鎖が流れる音……レイジの首にぶら下がった十字架が揺れて、玲瓏の旋律を奏でる。
 俺は十字架に目をやった。
 格子窓から射す僅かな光を吸いこんで、神秘的にきらめく黄金の十字架。
 催眠術の振り子のように一定の間隔で左右に振れて、ブレて、俺を眩惑する黄金の光の弧。
 レイジの声がすぐそば、吐息が睫毛を震わす距離で聞こえる。耳朶をくすぐる距離から響いてくる。
 「半開きの口から涎たらして、その涎が喉を伝って、へその窪みへと滑りおちる」
 「!あっ、」
 耳朶を噛まれる。
 「色っぽく眉しかめて、熱っぽく目を潤ませて、喉を仰け反らせて、もうたまんねえって顔してる。熱を煽られて余裕がなくなって、今にも理性が吹っ飛んじまいそうな、そんな顔。酸欠の魚みたいにみっともなく喘ぐなよ。どうした?腰が上擦ってるぜ。手をどけてほしいんじゃないのかよ。お前のペニスと来たら物欲しげにひくついて、イきたくてイきたくてしょうがねえって具合にびんびんに勃ってるぜ」
 「口縫い合わせるぞ」
 股おっぴろげて凄んでも効果はなかった。涙目の脅迫じゃ虚勢を張ってるとバレバレだ。痛いんだか気持ちいいんだか頭が朦朧として次第にわけがわからなくなる。体の皮膚が全部性感帯に造り返られたみたいにじれったく疼いて、射精に至る刺激に飢えて、太股が不規則に痙攣する。
 太股に震えがくる。ペニスに血が集中する。快感に溺れる。
 「はっ……あっ、あっ、あっ」
 「本当はイきたいんだろ。素直になりゃご褒美にイかせてやってもいいぜ。どうして欲しいか言えよ」
 栓を、外してくれ。手で擦ってくれ、扱いてくれ。 
 プライドをかなぐり捨ててそう泣きつきたかった。レイジが舌を出して目尻の涙を舐め取る。舌が、顔を舐める。顔じゅうしつこく舐めまわして唾液まみれにする。親猫が子猫の目脂を舐め取ってやってるみたいな無邪気さ。
 「男誘うみたいに腰揺すってるくせに。あんまり良すぎて涙ぐんでるくせに」
 「な、んで俺の表情がわかんだよ……暗闇で」
 「わかるよ。視力いいから」
 電気消しても意味ねえじゃん。だまされた。
 「そろそろ限界だろ。どうして欲しいんだ」
 「………っ、」
 言いたくねえ。絶対言いたくねえ。ちぎれんばかりに首を振り、レイジの誘いを拒絶する。
 熱い舌が耳の穴に捻じ込まれる。手が動く。俺のペニスはレイジに掌握されてる。このとんでもなく意地の悪い、我侭な王様に掴まれてる。
 握り潰すもイかせるも王様の気分次第ってわけだ。
 理性が蒸発する。尿道の疼きが最高潮に達する。
 激しい葛藤に苛まれる。プライドを選ぶか、快楽を選ぶか。レイジはもう口を使ってない、ただ竿の部分を握ってるだけだ。先端の孔を指で封じて射精を塞き止めて、にやにや笑いながら俺の様子を探ってる。
 腰が上擦る。粗くざらついたコンクリ壁が裸の背中を擦る。駄目だ。イきたいイきたいイきてえイきて……イきてえ!!
 レイジの手の中の竿が俺の鼓動に合わせてドクドク脈打ってる。
 「イ、かせろ……」
 俯き、吐き捨てる。頬に血が上る。頭を掻きむしり転げまわり喉裂けるまで絶叫したい衝動に駆り立てられるが、懸命に耐える。暗闇に白い歯を零して、レイジが冷笑する。
 「具体的にどうして欲しいか言ってくれなきゃわかんねーよ」
 そんな恥ずかしいこと口が裂けても言えねえ。奥歯を噛み縛り、腹の脇でこぶしを握りこんで急沸騰する怒りを押さえ込む。 
 「!!ひ、あっ……」
 片手で睾丸を揉みこみ、片手をゆっくり動かす。俺が達しないよう慎重に指を滑らして熱を追い上げる。指でちょっと擦られただけで腰全体が快感にとろける。
 「このままやめていいのか。そうか、ロンはお預け食うのが好きなのか?最後までイかずに中途半端でやめて苦しい思いするのが好きなのか。じゃあこのままやめてもいいよな、退屈なフェラチオはこれにて終了で次のステップに……」
 「やめ、るな!」 
 「だっていやなんだろ。気持ちよくないんだろ」
 首を振り、はっきりと否定する。俺はもうヤケになってた、どうにでもなれと開き直った。
 透明な汁が先走ったペニスは、腹につくほど屹立してドクドク脈打っていた。
 「イ、かせ、ろ………」
 嗚咽をこらえてレイジにしがみつく。レイジの肩のあたりを掴み、窒息してもかまうものかと胸板に顔を伏せ、駄々をこねるように首を振る。
 「擦って、扱いて……口で咥えて、気持ち良くしてくれ。イかせてくれ。もっとはやく手を動かして激しくしてくれ、俺が何も考えられなくなるくらいにめちゃくちゃによくしてくれ!!!」
 とうとう言っちまった。一息に願望をぶちまけた虚脱感でぐったりと肩が落ちる。真っ赤な顔を見られたくなくてレイジの胸板に顔を埋める。
 「お利口さん。よくできました」
 耳元で甘い囁き。レイジが俺の頭を気安く叩く。なんだか無性に泣きたくなった。怒りと悔しさと情けなさと惨めさがごっちゃになった最低な気分だった。かっこ悪い、俺。最悪だ。レイジの肩に杭打つように爪を立て、胸板に顔を擦りつける。レイジがひどくご満悦の笑顔で奉仕を再開、俺の膝に手をかけてこじ開ける。股間に顔を埋める。唇の隙間から覗いた舌が淫猥に蠢く。
 ペニスが口腔に吸いこまれる。
 「ふあっ、あっ、あああっああっああああっ……」
 しつこく唾液を捏ねる音が恥辱を煽りたてる。レイジの口はまるごと吸盤みたいで、舌は肉厚の触手みたいで、手の摩擦とそれらが連動して一滴残らず精気を搾り取ろうとする。背中が仰け反る。太股が突っ張る。ぞくりと体に震えがくる快感……一気に加速する快感。次第に強まる排尿感、体全体がひとつの心臓になったような鼓動の波紋。
 レイジの口の中でペニスが硬さを増して急激に膨張する。こんなもん口一杯に頬張ってレイジは苦しくないのだろうかと心配になる。吐き気は大丈夫だろうか、窒息は……不安げにレイジの様子を探れば、奴ときたら無心に、いっそ無邪気ともいえる表情でペニスを舐めていた。ぴちゃぴちゃ美味そうにしゃぶっていた。
 心配して損した畜生。
 「あっ、あっ、あっあっあっあっ」
 腰が弾む。声が弾む。舌の動きが激しくなり、手の摩擦が速まる。
 「レイジ、もういい……だから口から抜いてくれ放してくれじゃないと口の中に出しちまう!」
 レイジに縋り付き、必死に訴える。だが、レイジはやめない。そんなことはなからお見通しだといわんばかりに俺の顔面を片手で覆って奉仕を続ける。
 「いいから出せよ。呑むから」
 「!?」
 喉が引き攣る。
 呑むってまさかザーメンを?だってそんなもん呑んだってうまくねえのに、苦いだけなのに……嫌だ、レイジの口の中でイってたまるか!俺は無茶苦茶に暴れだす。両こぶしで肩を殴り付けて甲高い奇声を発してありとあらゆる罵詈雑言を浴びせてレイジを非難する。スプリングが律動的に弾んでベッドが上下に揺れる。レイジの肩を掴む。嫌だ、イきたくねえ。イきたいけどイきたくねえイきたくねえ、口の中に出したくねえ!外に、外に出させてくれ!
 「だって汚ね……」
 「汚くない。呑ませてよ」
 「お前、嫌いだ。大嫌いだ。これ終わったらぜってえ殺してやる……」
 「サンキュ」
 レイジの返答はひどくくぐもって聞き取りにくかった。口一杯にペニスを頬張っていたからだ。
 「あっあっあっあっあっひあっ………ああああああっあああっあっ!!!」
 イく。出す。レイジの喉の奥へ突っ込むように腰を仰け反らせて、そして―……
 射精の瞬間。頭が真っ白になった。今までこらえにこらえていたものが、限界まで張り詰めていたものががぷちんと弾け飛んで意識が拡散する。
壁に背中を預けてそのままずり落ちる。
 ひどくあっけなかった。この先進めも戻れもしない、自分の意志じゃどうにもならない瀬戸際に追い詰められて体の制御が利かなかった。
 レイジの口腔で爆ぜた事実に打ちのめされて、ベッドに四肢をつき、首をうなだれる。唾液と精液が入り混じった白濁の糸を引いたペニスが口から抜ける。手の甲で無造作に顎を拭き、レイジが喉を鳴らす。
 呑んじまった。
 レイジの口の端からは呑みきれなかった精液が一筋たれていた。レイジは何の抵抗も躊躇もなく俺の精液を嚥下した、飲み干した。唇の端にあてた親指で零れたぶんを拭き取り、おそろしく淫らに微笑む。
 「どうした?フェラチオだけで疲れ切った顔して……一回イっただけで満足するなよ。夜はまだ長いんだからこれからいくらでもできるだろ。二回でも三回でも四回でも五回でもイってみろよ、出してみろよ」
 肩で息をしながら、どんより濁った目でレイジを見上げる。フェラチオだけで俺は精神的にも肉体的にも消耗しきっていた。この上連続で射精したらからからに干からびちまいそうだ。
 が、恨めしげな目つきで見られたレイジはといえばちっとも悪びれたふうなく飄々としてる。
 壁に背中を預けた俺は、浅く弾む呼吸の狭間から懇願する。
 「『疲労的……全身無力、想我休息』」
 疲れた。休みたい。うわごとめいた台湾語でたどたどしく訴えかける俺をよそに、レイジが再び動き出す。今度は何だ?半ば落ちかけた瞼を開き、虚ろな目でレイジの行動を観察する。
 視界が回る。体が反転、瞬く間に裏返しにされる。
 「!なっ……、」
 仰向けに寝転んだ俺の背後にレイジが回りこみ、両足の間に手をさしいれて強引に開く。レイジに裸の尻を向けた格好になった俺の胸裏で不吉な予感が膨らむ。
 「気持ちよくさせてやったお礼に俺も気持ちよくさせてくれよ」
 レイジが密やかに笑い声をたてる。俺はこれから自分の身に起こることを想像して頭が爆発しそうな恐慌に駆られた。前戯の次は本番。わかってる、そうなるだろうなと薄々感づいてた。けど、やっぱり怖い。そりゃレイジとの約束は守りたい、レイジの頑張りに報いたい気持ちは本物だけど……
 土壇場で決心が揺らぐ。 
 ケツに入れるなんておかしい、ケツに入れられてよがる奴の気持ちなんて俺には永遠にわからない、理解したくない。
 内股をあやしく撫でるレイジの手。くすぐったさと紙一重の快感がレイジの手に触れられた場所から湧き起こる。レイジの指がふれたそばから体の皮膚が性感帯に造りかえられてくみたいに、太股がじんわり熱を帯びて敏感になっていく。さっき達したばかりの先端がまた持ち上がり始めてる。
 「レイジ、やめ……やっぱよそうぜこんなの、おかしいよ。ケツに入れるなんて想像できねえ、出血したら後始末面倒だし第一めちゃくちゃ痛いに決まってる。痔は勘弁だ」
 「雰囲気ぶち壊すこと言うなよ」
 「当たり前だ、わざと萎えること言ってんだから」
 怖い。叫びたい。逃げたい。かすかに体が震える。四つん這いでシーツを張って逃げようとして、レイジに足を掴まれ引き戻される。レイジの手を蹴り飛ばそうとしたが、遅かった。レイジは今や完全に俺の足の間に割り込んで、背中に体重かけてのしかかって俺を押さえ付けてる。
 「怖くない。大丈夫だから」
 「嘘だ」
 「できるだけ痛くないようにするからさ。信じろって、処女には優しいのが取り柄なんだから」
 口元に笑みを含んで俺をなだめるレイジ。こめかみに唇を落とし、俺の緊張をほぐそうと優しく愛情こめた手つきで背中を撫でる。長さと間接のバランスが絶妙なレイジの手……醜く節くれだち、汗でべとついたタジマの手とは全然違う。別物だと頭じゃわかってる、だが心が納得しない。タジマに襲われた時の記憶が脳裏にまざまざとよみがえる。鮮明な悪夢。俺のズボンひん剥いてケツを裸にして満面に下劣な笑みを湛えたタジマ。ヤニくさく黄ばんだ歯を剥いて高笑い、肥満腹を揺すって俺の背中にのしかかって……
 「怖いんだよ」
 今まで心の奥底に秘めてた本音が口を突いて出た。
 シーツに顔を埋め、嗚咽を噛み殺す。俺は今だにタジマが怖い、東京プリズンを去ったタジマの存在に恐怖と脅威を感じてる。またいつタジマが現れるかわからない、俺に襲いかかるかもわからない。タジマに自慰を強制された。俺がぎこちない手つきでペニスを扱き上げるのを眺めてタジマは笑っていた、丈夫な革靴でペニスを踏みにじって射精を促した。売春班の仕事場では目隠しされて煙草で焼かれた、両手を固定されて首筋をねちっこく舐められた。タジマはさかりのついた豚みたいだった。医務室に入院してた頃だって、皆が寝静まった夜中に性懲りなく強姦しにやってきた。
 怖い。俺にのしかかるすべての男がタジマとだぶって見えて、体が鳥肌立てて拒絶反応を起こす。
 「タジマはいなくなった、お前に照明落とされて病院に運ばれた。もう二度と戻ってこねえって何百回も自分に言い聞かせて安心させて、でも駄目なんだ、肝心なときに尻ごみしちまうんだ!ひょっとしたらタジマがいるんじゃねえか、今も近くにタジマがいるんじゃねえかって悪い想像ばっか膨らんで、心臓止まりそうにおっかない夢ばっか見て……
 お前もタジマとおんなじだ、前から俺のケツ狙ってたんだろ、俺が泣こうが喚こうがお構いなしに問答無用でぶちこんで念願はたす気なんだろ!?
 お前もタジマと一緒のゲス野郎だ、俺の意志なんか関係なく自分のやりたいようにやるんだ、なら鳩尾にガツンと一発入れて気絶させてくれよ、俺が気絶してるうちに全部終わらせてくれよ!!」
 やり場のない怒りが込み上げてくる。
 名伏しがたい衝動が体の奥底から突き上げて咆哮をあげる。俺はタジマに逆らえなかった、タジマのことが大嫌いなのに、生理的嫌悪で吐き気に襲われるくらいなのに、煙草で焼くぞと脅されて言うなりになった。
 昔、お袋の身代わりに俺を犯そうとした男の記憶が頭の奥から涌き出る。 
 顔はよく覚えてない。
 目鼻立ちはあやふやで、顔はそこだけ霧がかったように曖昧な印象だった。
 そいつは大股に廊下をのし歩き、俺の腕を引っ張る。腕が引っこ抜けそうな激痛に死に物狂いで暴れて抵抗、踏ん張りを利かせて廊下に踏み止まろうとするが大人と子供じゃ勝負にならない。
 腕一本で引きずられる。ドアが近付いてくる。お袋の仕事場。あそこにはベッドがある。男と女が二人寝れば一杯になる狭苦しいベッドが鎮座してる。そして俺は背中からベッドに倒れこんで……
 みんな、みんな無理矢理俺を犯そうとする。何度も何度も嫌だって叫んだのに、決死の覚悟で暴れたのに。俺が痛くてもお構いなしに、気持ち悪くてもお構いなしに、下半身の欲望を満たそうとする。
 「お前も一緒だ、結局男なんかみんな一緒じゃねえか!俺も男だけどお前らみたいにだけはならないって決めてたのに、メイファのこと幸せにしてやりたいって本気で思ってたのに……わかってるよガキっぽい願望だって、世間舐めた甘い考えだってわかってるよ!わかってるけど、メイファ幸せにすることができりゃ俺も男として一人前になれるって、自信もてるって、俺のケツ狙った奴らとは違うんだって証明できるってあの時はマジで信じてたんだよ!!」
 俺が甘かったのだ、どうしようもなく。
 12歳のガキに一体何ができるってんだ。女と将来約束して、二人分の人生背負って、それでちゃんとやってけるのかよ。仕事は?生活費は?メイファは俺の甘さを見ぬいてた、だから俺についてこなかった。メイファは悪くない。メイファは賢い。俺は知ってる、女はいつだって賢くて男はいつだって単純馬鹿だ。後者は下半身でしか物を考えないのだ。 
 シーツを握り潰して本音を叫ぶ。
 今まで抑圧してきた感情が堰を切ったように溢れ出して、言葉の洪水が溢れ出して止まらなかった。 
 「これじゃ結局俺は男にヤられるのが似合いのヤツで、ただのガキで、誰一人も幸せにできねえ役立たずだって言ってるみたいなもんじゃねえか!ヤれよレイジ、俺の足広げてケツにぶちこめよ中だししろよ!タジマが羨ましがるぜ、売春班でヤれなかったの俺だけ……っ!?」
 前髪を乱暴に毟られる。
 背後から伸びた手が無造作に前髪を掴んで、俺を強引に振り向かせる。
 髪の毛が頭皮から剥がれる激痛に苦鳴を漏らしつつ振り向いた俺は、愕然とする。
 「あんまり聞き分けねーと怒るぞ」 
 レイジの声は静かだった。口元は微笑んですらいた。が、目は微塵も笑ってなかった。
 おそろしく獰猛なものを孕んだ、危険極まる眼光。
 「もう一度言ってみろよロン。だれがタジマの同類だ?タジマとおんなじでケツにぶちこめば満足するって?舐めるなよ。俺がケツにぶちこみさえすりゃそれで満足するって本気で思ってんのかよ」
 レイジの手に握力がこもる。髪の毛を掴む力が増す。
 焼き鏝を押し付けられたみたいに頭皮がひりひり疼く。俺はレイジから目を逸らせなかった。レイジはまっすぐに俺の目を覗きこんでいた。
 隻眼を剣呑に細めて、鋭利な眼光を放って、至近距離に顔を近付ける。
 「大間違いだ。性欲のはけ口ならお前にこだわらず他捜すさ、どっかそのへんのヤツに適当にあたるさ。タジマと一緒?どこが一緒だよ。勘違いすんなよロン。俺がお前とヤりたいのはたんなる憂さ晴らしでも暇つぶしでもない」
 口元の笑みが薄れ、レイジが完全に真顔になる。
 「お前のことが好きだからさ。好きで好きで頭がおかしくなりそうだからさ。心も体もひとつになりたくて、お前のことがもっと知りたくて、俺のことをもっと知ってほしくて、それにはセックスがいちばん手っ取り早いからさ。好きなやつと寝たいと思うのがそんなにおかしいか?」
 「…………」
 レイジの胸元では十字架が輝いてる。永遠に色褪せない真実の輝き。
 レイジの眼光と同じ輝き。 
 前髪から手を放し、唇が触れ合う距離に迫る。
 「お前のこと無理矢理犯そうとした連中と一緒にされちゃたまんねえよ。そんな奴ら俺が殺してやる、ロンは俺の物だ、お前を傷付ける奴はみんな殺してやる。八つ裂きにしてやる。ナイフで喉かっさばいてたらふく鉛弾食わせてやる。本領発揮で鏖殺してやる。お前に付き纏う悪夢なんか鼻歌まじりに蹴散らしてやる、地獄に追い払ってやる」
 レイジの目に魅入られる。
 この上なく愛しいものを見るような、聖母みたいな目。
 唇に柔らかい感触。俺の唇に押し付けられたレイジの唇の感触。
 「逃げるな、拒むな、怯えるな。ちゃんと目を開けて俺の顔を見ろ、ロン。俺はタジマか?」
 よわよわしく首を振る。
 「ガキの頃、お前を無理矢理犯そうとした男か」
 今度はきっぱりと首を振る。泣きたくなるのを堪え、次第に速度を上げて、そうじゃないと否定する。
 『Who am I?』
 レイジが訊ねる。深呼吸で勇気をかき集め振り絞り、毅然と顔を上げる。
 レイジの目をまっすぐ見つめる。
 今度は逃げなかった。レイジに怯える必要がないとわかったからだ。レイジはタジマじゃない、昔俺を襲った男じゃない。レイジはレイジだ。俺の大事な相棒だ。
 誰よりも頼りになる、誰よりも心を許せる、俺の自慢の……
 「お前は、レイジだ」
 「そうだよ」
 「英語の『憎しみ』。いつもへらへら笑ってるむかつく奴。本気と冗談の区別がつかねえ紛らわしい奴。サーシャと浮気した尻軽。図書室で借りた聖書で敵を薙ぎ倒すばちあたり」
 「そのとおり」
 「俺の為に、全身ぼろぼろになりながら戦ってくれた。俺の為に何度も死にかけて、今ここにいる」
 レイジに対する恐怖が氷解して、胸の内が温かい感情で満たされた。
 レイジがもう一度、今度は前にも増して優しく俺の唇に触れ、目を閉じて感触を味わう。俺も目を閉じて応える。ぎこちないキス。レイジの唇は温かかった。ちゃんと生きてる証拠、血が通ってる証拠だ。人肌のぬくもりが嬉しくて、俺は自分からレイジの腕にとびこんでいく。
 レイジが今ここにいてくれて、よかった。
 生きててくれてよかった。
 「おかえり」が言えてよかった。また元気な顔が見れてよかった。
 笑ってくれてよかった。
 レイジの胸に倒れこんだ俺は、衣擦れの音に紛れて消えそうな小声で呟く。
 「………いいぜ」
 レイジの胸から顔を起こし、上体を立てなおす。ベッドに座りこみ、大きく二度深呼吸する。暗闇に目を凝らしてレイジの表情を観察すれば、柄にもなく緊張してるらしく顔が強張っていた。
 真摯な光を湛えた隻眼を覗きこみ、俺は言った。
 レイジを受け容れる覚悟を決めて。
 「俺を抱いてくれ」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050713200341 | 編集

 「レイジ、俺を抱いてくれ」
 レイジにできる限りのことをしてやりたい。
 全身ぼろぼろに傷付いたレイジを癒してやりたい。
 その気持ちに嘘はない、誓って真実だ。レイジは約束通り100人抜きを達成して俺のとこに帰って来た、ぼろぼろのふらふらになりながら帰巣本能を発揮して俺のとこに帰って来た。
 レイジの頑張りに応えてやりたい。
 献身に報いてやりたい。
 背中を焼かれて片目を抉られて生涯癒えない傷を烙印されて、それでも最後まで戦い通したレイジに最高のご褒美をくれてやりたい。俺を抱いてレイジが満足するってんなら、それが何物にもかえがたいイチバンのご褒美だってんなら、ちょっと痛いくらい我慢してレイジに抱かれてやれよ。煙草であちこち焼かれるよりずっとマシじゃんか、と自己暗示をかけて恐怖を閉めだそうとする……が、うまくいかない。
 怖いものは怖い。レイジが経験豊富だってのはさっきのアレで十分わかった、指遣いも舌遣いも文句の付けようがない。
 俺は五分ももたずフェラチオでイかされちまった、気持ちが良すぎてわけわからなくなって口の中で爆ぜちまった。俺は最初から最後までレイジの思惑通りレイジにされるがまま操縦されて扱かれて勃たされてイかされちまった、あっというまに。
 正直、メイファとは比べ物にならない上手さだった。
 メイファは終始俺に気を遣いながら、口を利く程度の余裕を与えてくれながら丁寧に舌を使った。レイジは逆だった、余裕なんか全然くれなかった、どこまでもどこまでも快感が加速して一気に絶頂に上り詰めるのを憎たらしい薄笑い浮かべて観察してただけだ。
 テクは超一流、処女を快楽に導くのはお手のもの。
 レイジは上手い。めちゃくちゃ上手い。
 腹立たしいけど認めてやろうじゃんか畜生。けど、レイジが超絶上手かろうが関係なく怖いもんは怖い。やっぱり怖い。男同士でヤるのは生まれて初めて、基本的な知識はあるけどいざ事をおっぱじめるとなると緊張と混乱で指一本動かせなくなる。俺自身極力避けてきたのだ、そういうことは。性欲溜まれば自分でヌいて、売春班じゃベッドで扉塞いでだんまり決め込んで、何度タジマにヤられそうになっても危ないところで切りぬけてきた。男に抱かれるのなんかいやだくそくらえと罵詈雑言を浴びせて毛を逆立てた猫みたくタジマの顔引っ掻いて間一髪切りぬけてきたのだ。
 それも今晩までだ。
 俺は今夜、レイジに抱かれる覚悟を決めた。
 恐怖で身が竦み、喉が異常に乾く。全身の毛穴から水分が蒸発して体の内側からからからに干上がっていく。腹の脇で握りこんだ手のひらがびっしょり汗をかく。心臓がばくばく鳴る。
 レイジの気持ちに応えてやりたい、レイジの願いを叶えてやりたい。俺はレイジに感謝してる、言葉じゃとても表せないくらい猛烈に感謝してる。
 レイジが帰って来てくれてよかったと心からそう思う、レイジの生還を心底喜んでる。だから、レイジの望みを叶える。ちゃんと約束を守る。もう決めたんだ、今さら取り消すわけにいかない、一度口にしたことを撤回するなんて卑怯な真似俺自身が許さない。
 尊大に顎を引き、挑むようにレイジを見据える。
 「いいんだな?」
 レイジが肩を掴む。熱い手だ。血が燃えてるみたいだった。至近距離にレイジの顔がある。左目に純白の眼帯をかけて、右目に獰猛な光を湛えている。
 「途中で泣いてもやめらんねーぞ」 
 頷く。裏切り者呼ばわりも嘘つき呼ばわりもごめんだ。俺にだって意地がある。いい加減な口約束でレイジを釣ったと邪推されちゃあ引っ込めない。
 守ってやろうじゃんか、約束。お望み通り抱かれてやろうじゃんか。
 レイジが眼光鋭く俺を一瞥、念を押す。
 「加減できねーぞ」
 「処女には優しいのが取り柄じゃないのかよ」
 仰向けに倒れこんだ背中が弾む。
 固くしけった寝心地の悪いマットレス。汗と糞尿の匂いが染み付いた不潔なシーツ。暗闇に漂う異臭は何かが腐ってる匂い。ツンと鼻腔を刺激するこれは豊潤なアルコールの匂い。レイジがベッド下に隠してる蒸留酒が匂いの源だろうか。芯が弛緩した頭でそんなどうでもいいことを考える。
 無抵抗で押し倒された俺は、レイジにされるがまま無防備に体を開く。
 男女の場合も男同士の場合も体位はそんなに変わらない、男同士の場合はケツを使うから後ろ向き四つん這いのが適してるんだろうが……
 成り行きというか何というか、レイジの手で仰向けにされちまった。
 真っ向からレイジと顔を合わせる体勢だ。
 基本も基本、抱く側と抱かれる側がばっちり目を合わせる正常位。
 レイジは無造作に俺の腰に跨った。
 澄んだ旋律が耳朶をくすぐる。胸元の鎖が流れて十字架が揺れる。
 格子窓から射した僅かな光を反射して十字架が黄金に輝く。強い光。レイジが腰をずらして俺の上に被さる。衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 レイジが顔の横に手をつき、耳元で囁く。

 「お前の体に夢中になりすぎて、加減できないかもってことだよ」

 熱い吐息が耳朶で跳ねる。
 耳朶が弱くなってるのか、それだけでぞくりと快感が走った。
 レイジが俺の上で動く。裾のあたりで腕を交差させて無造作に上着を脱ぐ。俺は驚きに目を見開いてレイジの裸を凝視した。贅肉なんてどこにもない、しなやかに引き締まった肢体。過剰でも不足でもない理想的な筋肉の付き方。天性の配分で素晴らしく均整のとれた四肢……
 男も女も夢中にさせる黄金率の体。
 惜しみなく肌をさらしたレイジが次にズボンに手をかける。息を呑む。
 「下も脱ぐのかよ!?」
 「だって、お前だけ素っ裸になるのフェアじゃないじゃん」
 「そりゃ俺だけ素っ裸は恥ずかしいけどそんなあっさり惜しげもなく……ちょっとくらい惜しみやがれ、ただで裸見せるのもったいねえって素振りで!?」
 ああ何言ってるんだ俺、頭が動転して意味不明なこと口走ってる。羞恥心ないのかこいつ、倫理観とか道徳観念とかは?レイジは実にあっさり上着を脱ぎやがった、一抹の未練もなく上着を脱ぎ捨てて上半身裸になりやがった。俺のほうが恥ずかしいじゃねえか!赤面した俺の抗議を無視してズボンに手をかけ、そして……
 「いっ………」
 喉が詰まった。トランクスごとズボンを脱いだレイジの股間をばっちり目撃した。絶句。なんだコレ。コレを今から俺のケツに入れるって、マジ?マジで言ってんのかよそれ。
 俺の想像通り、というか想像以上にレイジのモンはご立派だった。
 俺のモンと大きさ比べて軽く落ち込んだほどだ。俺にはレイジの小便じろじろ眺める悪趣味ないし、レイジがシャワー浴びる時もついてったりしねえから、その、こいつの下半身目にするのは実質これが初めても同然なんだが……同じ男でもこんなに違うのか。
 衝撃に打ちのめされ、目のやり場に困り、恥辱に頬染めて自身の股間を見下ろす。
 全然違う。大人と子供だ。大きさ・色・形・反りかえり方……
 どれをとってもレイジが上だ。
 負けた。完敗だ。
 「それ、ケツに入れんのか」
 半信半疑で聞く。
 目に警戒心と怯えを宿して、肘を使い、無意識にあとじさりながら。
 「無理だ。入るわけねえ。ケツの穴が裂けるに決まってる。もうちょっと縮めろ、具体的に3センチくらい」
 「無茶言うなよ!?」
 「気合いで縮めろ馬鹿!!」
 「発情してっからムリだよ!!」
 くだらない。くだらなすぎ。口喧嘩してる場合じゃねえだろ。俺は早くもさっきの発言を後悔しはじめていた、時を遡り「抱かせてやる」なんて安請け合いした自分を呪い始めていた。当時の俺をぶん殴りたい。後先考えずその場の勢いで物事決めるのは俺の悪い癖だ。畜生……
 「抱いて欲しいんだろ」
 レイジが性悪に微笑む。やめろと叫ぶ暇もなく尻の肉を手掴みで割られて、肛門にひやりと外気がふれる。悪寒。普段人目にふれない、俺自身も見れない場所にレイジの視線を感じる。
 片腕で両目を覆い、顔を隠す。顔の火照りを悟られないためだ。
 「!?んっ、」
 突然だった。
 信じられないことが起きた。
 肛門にぬめった感触……レイジがケツの穴を舐めはじめたのだ。
 「レイジお前なにとち狂ったことしてんだ、そんなとこ口つけて正気じゃねえ、汚ねえっ……あっ!」
 「汚くない。ちゃんとシャワー浴びたろ」
 「そういう問題じゃねっ……あっ、あっ、あっ」
 ケツの穴なんか舐めて何が楽しいんだ?レイジの行動がまるで理解できねえ。熱い舌がぬるりと肛門にすべりこむ。肛門の縁に唾液を塗り込んで揉みほぐして滑りをよくする。
 気持ち、悪い。
 胃袋がでんぐりがえるような吐き気に襲われて下肢が痙攣する。こんなことタジマには勿論メイファにだってされたことない、こんな卑猥なこと……レイジときたら何ら抵抗なく俺のケツに口をつけて、きつく窄まった肛門を舌でねぶりはじめた。
 気持ちいいわけ、ない。気持ち悪い。気持ちが悪くてたまらない。
 唾液にまみれた舌が肛門をべとべとに濡らしてく。
 「はっ………」
 体がじんわり熱をおびて意識が薄れ始める。変だ。ケツ舐められて感じるわけないのに何だか変だ。体が妙に浮ついて、勝手に息が上がって、レイジの舌が動く度に体の最奥で何かが蠢く違和感が膨らむ。
 快と不快の境界線がぼやけだして徐徐に区別がつかなくなる。
 ケツの穴に突っ込まれてよがる奴の気持ちが理解できねえ、理解したくねえと突っぱねてたのに、現に俺はレイジにケツの穴舐められて喘いでいる。おかしい。ケツは出すところであって入れるところじゃない、クソひねり出す排泄器官であって本来セックスに用いる器官じゃない。
 ならなんで、レイジの舌が肛門をほじくって幾重もの襞をかきわけてたっぷり唾液を練り込むのが気持ちいいんだ?
 相手がレイジだからか?
 この位置からじゃレイジの顔は見えない。俺の肛門に顔を埋めて舌でねぶってるレイジが今どんな表情をしてるか確認することさえできない。唾液を捏ねる音が執拗に響く。俺には見えない位置でレイジが何かやってる。
 ケツの穴に舌が出し入れされる。
 肛門の周縁を指で揉みほぐして、肛門に舌を突っ込んで中をぐちゃぐちゃにかきまぜて、下半身から徐徐に俺の体をとろかせていく。
 「レイジ、もっ……やめ、ろ。体が変……熱いっ……」
 レイジはやめない。俺の抗議など取り合わず舌を律動的に抜き差しする。
 快感が違和感を呑み込んで巨大なうねりとなる。頭の芯がじんと痺れて思考がまともに働かない。シーツが汗でぐっしょり濡れる。汗で濡れそぼった前髪が額に貼り付いて視界を遮る。体の芯が疼く。体の最奥で何かが蠢く。体の中で蛭でも飼ってるみたいな、体の最奥に得体の知れない何かが潜んでるみたいな感覚。
 「ケツ舐められてよがるなよ」
 レイジが嘲笑する。咄嗟に言い返そうとして、舌の動きが激しさを増して再開して何も言えなくなる。声を漏らせばまたレイジのからかいのネタになると我慢して必死に唇を噛む。
 「こんな、の、変……はやく突っ込めよ、ぴちゃぴちゃ音たてて舐めんなよっ……舌、抜けよ……」
 芋虫みたいに身をよじり、途切れがちに訴える。気を抜くと声が漏れそうだ。声……はしたない喘ぎ声。絶対人に聞かせたくない声。体の奥でどろりと熱塊が蠢く。今まで体験したことない未知の感覚。
 俺の体の奥に一筋溶岩流が流れてる。 
 耐え切れずシーツを掻き毟り、握り潰す。もう片方の腕は顔に置いて表情を隠したまま、訴える。
 「……レイ、ジ……このままじゃ頭が変に、な……あっ!?」
 レイジが俺の股間をまさぐり、ペニスを掴む。
 「さっきイったばかりなのにもう勃ってる。元気だな」
 レイジの手がペニスを包み込み、緩やかに動き出す。勃起したペニスを上下に擦る。手のひらの摩擦でペニスが硬さを増して膨張する。最初は緩慢に、徐徐に速度を上げて乱暴にペニスをやすりがけする。手のひらの摩擦が生み出して熱でペニスが温められて射精の欲求とともに強烈な快感が込み上げてくる。
 「うあっ、あっ、あああああっあああっあっ!?」
 さっきイったばかりなのに、俺は今またレイジの手でイかされようとしてる。他方ではレイジの指が肛門を穿ち抉って、直腸の襞を襞を掻き分けている。前と後ろ両方から同時に強烈すぎる刺激と快感を与えられて、俺はもうこらえきれず喘ぎ声をはりあげる。
 「いっ、ひっ、レ……ああああああっあああっ、あ!」
 「唾液だけじゃ足りねーな。出せよ、もう一度」
 レイジにきつく握られた途端、俺は爆ぜた。頭が真っ白になった。先端の孔から勢い良く迸り出た白濁がシーツを汚してレイジの顔に跳ねた。顔に一滴跳ねた白濁をそのままにレイジは笑った。レイジの手は大量の精液にまみれていた。指の間で精液をこねくり回して粘度を高めて、レイジが呟く。
 「たくさん出たな。いい子だ、これでやりやすくなる」
 裸の胸が浅く上下していた。一度目の射精から間をおかずに果てて俺は消耗しきっていた。口を利くのも億劫で無気力にベッドに寝転んだ俺の足をレイジが高々と抱え上げる。
 「!ひっ、」
 喉が引き攣った。
 ザーメンまみれの指が一本、周縁で円を描き、肛門を突き刺す。
 予想に反して痛みは殆ど感じなかった。それまでにさんざん唾液に濡れた指でほぐされていたのだ。人さし指一本なら余裕で挿入できた。
 生理的な不快感がぶり返して胃袋が収縮する。喉の奥に吐き気が込み上げる。酸っぱい胃液が口腔に満ちる。嘔吐の衝動を堪えて強く唇を噛む。
 「すげえ締め付けてくる」
 レイジが興味津々口笛を吹く。俺は売春班にタジマが乗り込んできた時のことを思い出した。タジマに押し倒されてズボンの上からケツに指を突っ込まれた、無理矢理。あの時と同じ圧迫感が胃袋を締め付ける。
 「!!!ひっあ、ああああああああっ」
 指が、二本に増えた。人さし指と中指。先に突っ込まれた人さし指だけで一杯だったのに、さらに中指が捻じ込まれた。無理矢理。タジマみたいに無理矢理。吐き気を伴う気持ち悪さが今度は強烈な痛みに変わる。さすがに二本はきつい、きつすぎる。ケツが裂けて出血しちまったんじゃとかなり本気で恐れた。
 「いたっ……マジで痛え、畜生、いてえよ。さっさと指抜けよ、裂けちまうよ!!」
 「ちょっとくらい我慢しろよ。俺のペニスは指二本分よりでかいぜ、今馴らしとかねーと後で死ぬ」
 無茶苦茶言いやがって。今だって十分、十分すぎるほど痛え。あんまり痛すぎて目に涙が滲む。唾液と精液を潤滑油に、滑りをよくして肛門に挿入された指が複雑に蠢く。
 「ひ、ぎ……あ、あ……あ……」
 喉が仰け反り、瀕死の魚みたいに不規則に体が跳ねる。なんでこんな痛い思いしてまでレイジの言うこと聞かなきゃいけないんだかだんだんわけがわからなくなってきた。指がまた増えた。今度は三本。人さし指と中指と薬指。たった二本でもナイフで抉られてるみたいにきつかったのに今度は三本だ。
 指が三本とも喉を突き破って飛び出してくるんじゃないか、と思った。目尻から涙が零れた。うまく呼吸できずに喉がひゅうひゅう鳴った。酸素が急激に薄くなったみたいだ。
 「よく頑張ったな」
 レイジがなれなれしく俺の頭を撫でるが、何の慰めにもならなかった。
 「指、抜けよ……内臓でちまうよ……」
 口を利くのが辛かった。間に何度も深呼吸を挟んで漸くそれだけ言えば、レイジが当惑する。
 「辛い?」
 ただ頷く。 
 「喉乾いた?」
 前より力を込めて二度頷く。レイジがしばし逡巡の末に俺のこめかみに顔を近付ける。何する気だとこっちがびっくりした。虚ろな目で顔のすぐ横を見れば、レイジが俺のこめかみに接吻して涙を啜っていた。
 こめかみを滴る涙の雫を舌先で舐め取り、俺の口へと運ぶ。
 唇を塞がれ、口移しで涙を飲まされる。
 レイジと唇を重ねたまま、喉を鳴らして涙を嚥下。
 たった一滴の塩辛い水が、甘露のように喉を潤す。
 「ちょっとはマシになったろ」
 「……ばか。俺から出たもん呑ませてどうするんだよ、意味ねえじゃん」
 本当に、ばかだ。レイジが苦笑する。誘われたように俺も苦笑する。レイジの首に腕を回し、しっかりと抱きつく。もうどうにでもなれと俺はヤケになっていた。こうなったらとことんレイジに付き合ってやる、満足いくまで抱かれてやる。 
 だから。
 「……早く、次いけよ」
 さっき飲まされたアレは、本当に涙だったのか?俺の涙腺から分泌されたただの塩辛い水だったのか?そのはずだった。けど、俺の涙とレイジの唾液が混ざり合って変化が起こったんだ。俺の涙はレイジの唾液と溶け混じって強烈な媚薬になった。激痛を和らげて快感を増幅する薬になった。あんまりケツに指入れられてる時間が長いから痛覚が麻痺して徐徐に違和感が薄れはじめてもいた。

 体が物足りなさを覚えはじめていた。
 レイジを求めはじめていた。

 レイジが指を抜く。唾液と精液にぬめった指が、粘着質の糸を引いて肛門から抜ける。
 「!んっ……」
 ぞくりとした。悪寒と紙一重の快感。
 「物足りね?」
 レイジが悪戯っぽく笑い、俺の腹に指をなすりつけて白濁のぬめりを拭き取る。熱があるみたいに体がぞくぞくして肌が粟立った。もっと刺激が欲しかった、何も考えられなくなるくらい気持ち良くなりたかった。レイジが再び俺にのしかかり、膝を掴んで足を押し開く。ベッドに仰臥したまま視線を下げた俺はぎょっとする。レイジの股間は勃起していた。殆ど垂直に屹立して反りかえっていた。
 あれを、入れるのか?
 入るのか?
 「……」
 音たてて生唾を呑み込む。金縛りにあったように手足が硬直して体が動かない。レイジが俺の膝を掴んで尻を持ち上げ、ペニスの先端を肛門に添える。
 「体の力抜けよ」
 よわよわしくかぶりを振る。助けを求めるようにレイジを仰ぐ。助けて。許してくれ。怖い。腰が萎える。膝が笑い出す。俺は多分半泣きにも半笑いにも似た情けない顔をしてるはずだ。俺はタジマに襲われた時の恐怖を克服できない、タジマの醜悪なペニスが目に焼き付いて……
 『いい子にしろよ半々、ケツの穴に黒くて太くて硬いモンぶち込んで躾てやる』
 『逃げるなよ。聞き分けねえガキだな、土壇場で怖気づきやがって。そうやってべそかけばレイジが助けにきてくれると思ってんのか、レイジがとんできてくれると思ってんのか。けっ、めでたい奴だな』
 『いいかよく聞け、お前は俺のもんだロン。東京プリズンに来た時からこうなるって決まってたんだよお前の運命は、俺の下で腰振る運命だって決まってたんだよ。どうだ、俺のペニスは。遠慮せず触ってみろよ。黒くて硬くて立派なもんだろう。どうした、いやがるなよ。こぶしに握るなよ、手え開けよ。五本の指で上下に扱いてみろよ。
 初めてだって関係ねえ、淫売の血が流れるなら上手くできるはずだろが』
 「あ…………、」
 肘を使い、ベッドを這いずり、できるだけレイジから距離をとる。もう東京プリズンにいないタジマの気配が俺に寄り添って悪夢を見せる。暗示をかける。違う。俺はお袋じゃない、お袋みたいな淫売じゃない、出来ないことは出来ない、無理なことは無理だ。心が悲鳴をあげる。酷い耳鳴りがする。悪夢と現実の境が溶けて混じり合って、耳元にタジマの息遣いを感じる。ベッドについた手に、股間の膨らみを感じる。
 ズボンの股間でテントを張ったペニス……硬く勃起したペニス。
 見るもおぞましい醜悪な性器。
 違う。目の前にいるのはレイジだ。タジマじゃない、別人だ。俺のよく知る相棒だ。怖がる必要なんてどこにもない。砕けろ、幻。消えろ、悪夢。タジマの幻覚を打ち消したくて、レイジの背中に腕を回して必死に縋りつく。
 「教えてくれレイジ。どうすれば悪夢を追っ払えるんだ?お前さっき言ったろ、俺が見てる悪夢なんか鼻歌まじりに追っ払ってくれるって。じゃあそうしてくれよ。今もすぐそこにタジマがいるんだ、タジマが笑ってるんだ、汚いイチモツぶら下げて……」
 両手で俺の顔を挟み、レイジが目を覗きこむ。
 真実を見抜く、強い光を湛えた隻眼。
 「タジマはいねえよ」
 「いるんだよ」
 「いない」
 「いるんだって、ほらそこに、枕もとに……ベッドパイプに肘かけてヤニ臭い歯を剥いてこっち覗きこんでやがる、へらへら笑いながら俺のこと見下してやがる!また何かろくでもねえこと企んでるに決まってる、畜生、やっぱりあの時殺しとくんだった、医務室で首絞めて!!」
 「ロン」
 レイジが静かに俺の名を呼ぶ。俺は、答えられない。やっぱりタジマを殺しとくべきだった。包帯で首絞めて息の根とめときゃよかった。この手できっちり落とし前つけときゃ……いや、待てよ。俺は、タジマを殺したのか?俺がタジマを殺したから今もタジマの亡霊が枕もとに立ち続けてるのか、東京プリズンの地縛霊になってしつこく俺に付き纏ってるのか?記憶がすりかわる。ありもしないことが捏造される。
 頭が混乱する。いる、いない、いる、いない……どっちだ?どっちが本当なんだ、事実なんだ現実なんだ真実なんだ。一体何を信じれば……
 「愛してるよ」
 不意に、レイジに抱きしめられた。
 「愛してる」
 レイジが強く、強く俺を抱く。レイジの腕の中で目を見開けばタジマの亡霊は跡形もなく消えていた。まるで最初からいなかったみたいに……いなかったのか。そうか。俺はまたレイジに救われた。守られた。レイジは約束通り地獄の最果てに悪夢を追っ払ってくれた。レイジはそうだ、いつだって約束を守ってくれる。レイジは絶対に俺を裏切らない。 
 俺が、好きだから。
 俺が。
 俺は?
 「愛してる。マリアより誰よりお前が大事だ。俺に当たり前のこと教えてくれたお前が、暗闇の中で膝抱えてた俺に手をさしのべてくれたお前が、こんなどうしようもない俺のこと見捨てないでいてくれたお前が……お前が欲しい。お前を抱きたい。お前が痛い思いして泣き叫んでもお前を抱く。これしか方法ねーから、これしか思いつかねーから……お前のこと愛してるって証明する方法が」
 レイジの顔が悲痛に歪む。一瞬泣き崩れるかと思ったが、笑顔になる。
 ガキの頃からセックス隠れ蓑に人を殺してきて、だからそれしか思いつかなくて、気持ちを伝える方法を思いつけなくて。
 そんな自分を憐れむような笑顔だった。
 「俺を見ろよ。ロン」
 レイジを見る。左目に眼帯をかけて、右の隻眼を沈痛に伏せた顔を。
 「頼むから、今この瞬間だけは嘘でもいいから愛してよ。俺のこと愛してるって言ってくれよ。そんなに沢山はいらない、一回だけでいいんだ。俺がお前を好きで、お前も俺を好きで、体も心もちゃんと繋がってるって……そう思いたいんだ」
 レイジは不器用だ。「愛してよ」と懇願することでしか愛情を得られないと諦めている。無償の愛なんかこの世にないと、愛情には必ず代価が伴うと諦めてる。だから今も、くりかえし懇願する。嘘でもいいから愛してくれと痛切に乞い願う。
 レイジの愛情は、痛い。レイジの愛情は自己犠牲と同義だ。
 本当に、不器用な奴。
 「頼むなよ」
 そんなふうに必死に頼まなくても、縋るような目をしなくても、俺は……
 レイジの頬に手をあて、そっと包み込む。
 レイジの目に怯えが浮かぶ。人に優しくされるのに慣れてない手負いの獣みたいに警戒の色が混ざる。「愛してくれ」と言っておきながら、こうやって愛情を返されると戸惑うしかない脆さが、俺は好きだ。
 レイジの強さも弱さも。
 俺に似てないところも、似たところも。
 「『頼むから』なんて言うなよ。頼んだりしなくても、お前が好きだよ。頼まれなくても好きになったよ。俺の為に100人抜き成し遂げたからじゃなくて、俺の為に背中焼かれたからでも片目になったからでもなくて……それより前から、好きだったよ。いつから好きになり始めたかなんて覚えてない。お前は生まれて初めてできたダチで、凄く大事な存在で、いつのまにか隣にいるのが当たり前になって……」
 俺は今までずっとレイジに支えられてきた。
 レイジがいてくれたから東京プリズンで生き残ることができた。
 レイジの頬に手をおき、優しく撫でる。   
 『謝謝。我認識弥眞好。永遠不曾忘記弥』
 ありがとう。お前に会えてよかった。絶対に忘れない。
 心を込めて言う。本当に伝えたいことを伝える時には台湾語がでるのが俺の癖だ。
 頬に被せた手に手が重なる。頬の上から俺の手を取ったレイジが、今度は台湾語で言う。
 長い睫毛に縁取られた右目を閉じて、誓いを立てる。
 『我愛弥』
 愛してる。
 『我也一様』
 俺も愛してる。
 レイジの手のぬくもりに身を委ねながら微笑む。
 レイジが俺の手を右目に持っていき、深々と顔を伏せる。指に雫が染みた。ちょうどレイジの右目を塞いでる指だ。指を濡らした水の正体を確かめる間もなく、レイジが乾いた声で笑った。
 「はは。片目だとうまく泣けねえな」
 それで漸く俺は理解した。
 レイジが欲しかったのは俺の体じゃない。全身ぼろぼろになって背中を焼かれて片目をなくして、そうまでして手に入れようとしたのは俺の体じゃない。
 「愛してるよ」の一言だったのだ。
 今まで誰からも貰えなくて、欲しくて欲しくてたまらなかった一言だった。
 俺の手を顔からどけた時、レイジの右目はもうすっかり乾いていた。けど、涙を吸った指は確かに濡れていた。それだけが唯一レイジが涙を流した痕跡だった。
 俺の顔を両手で挟み、正面に向ける。
 額と額がぶつかり、コツンと軽い音が鳴る。レイジの首からぶらさがった十字架が顎にふれる。
 「ロン。天国を見てこいよ」
 レイジが微笑み、唇を奪う。格子窓から射した光を弾いて十字架が清冽に輝く。俺の唇を荒荒しく貪りながら両手で足を抱え上げて、息継ぎの合間に囁く。
 「俺が連れてってやるから、さ」
 ……自信過剰な王様め。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050712040922 | 編集

 ずっと誰かのいちばんになりたかった。
 自分以外の誰かにとって絶対不可欠な、必要な存在になりたかった。
 それが分不相応な望みだとわかっていても、贅沢な願いだとわかっていてもどうしても諦めきれなかった。お袋のいちばんは常にその時付き合ってる男で、メイファのいちばんは酒乱の恋人で、俺はどんだけ足掻いたところで二人のいちばんにはなれなかった。
 足掻いても足掻いても無味乾燥なあり地獄の底深く落ち込むばかりだった。
 お袋もメイファも俺のことなんかどうでもよかった。
 お袋にとってもメイファにとっても俺は別に必要な存在じゃなくて、お袋に関して言えばいないほうがマシな邪魔者扱いで、だから俺はずっと、物心ついた時からずっと、誰かのいちばん大事な存在になりたかったのだ。

 俺のいちばん大事な奴が、俺のことをいちばん大事にしてくれる。

 ただそれだけのことが俺にはとんでもなく実現の望みが薄く思われた。
 俺の好きな人間が俺のことを好きになってくれる。そうなったらどんなにいいだろう幸せだろうと膝を抱えて空想してたガキの頃から俺は全然成長してない。
 本当言うと自分でも無理だと諦めていた。
 俺はどこへ行っても疎まれて嫌われて薄汚れた野良猫みたいに唾吐かれて足蹴にされる運命で、気まぐれで優しくしてくれる人間はいても心の底から俺を愛してくれる物好きなんてどこにもいるわけないと世を拗ねていた。
 でも、レイジに出会った。
 東京プリズンでレイジに出会った。
 俺のことを愛してると、俺の国の言葉で愛してると言ってくれた人間がいた。俺が他の誰より大事だと抱きしめてくれる人間に出会えた。
 レイジはお袋もメイファもくれなかった言葉をくれた、お袋からもメイファからも貰えなかった物をくれた。漸く願いが叶った。胸が熱くなった。視界が曇ってるのは涙のせいだろうか。おかげでレイジの顔がよく見えない。
 「ちょっと痛いけど我慢しろよ」
 俺の視線をどう取ったのか、レイジが気遣わしげに声をかける。
 レイジの首に腕をかけて頷く。
 正直、怖かった。これから待ち受ける行為に対する恐怖が先立って、膨大な不安が喉もとに込み上げて、俺は口数が少なくなっていた。痛いってどれくらいだ、なんて間抜けな質問はしなかった。しても意味がない。
 その代わり、レイジの背中に腕を回して強く抱きしめる。
 服を着てる時は華奢に見えたが、裸になると適度に肩幅があって精悍さが増した。肩甲骨が腕にあたる。呼吸に合わせて上下する肩甲骨の起伏、筋肉の躍動が腕に伝わる。レイジも俺と同じくらい緊張してるんだ、と思うとおかしくなって緊張がほぐれた。 
 こいつと初めて会った時はまさかこんなことになるなんて夢にも思わなかった。
 初対面の印象は最悪だった。右も左もわからないまま看守に背中押されて房に放り込まれた俺を一瞥、無関心にベッドに寝転がったままあくびを連発するレイジ。失礼な奴だなと憤慨した。次に胡散臭い奴だと怪しんだ。
 『なんて名前』
 そうだ。最初に名前を聞かれたんだ。
 『なんで笑わねーの。笑えば可愛いのにもったいねえ』
 『楽しくもないのに笑えねえよ』
 たしかそれがいちばん最初の、初めてレイジと交わした会話らしい会話だった。俺はただ当たり前のことを言ったんだ、楽しくもないのにへらへら笑ってる奴の気が知らねえと、へらへら笑ってるレイジの神経を逆撫でするのを承知で辛辣な皮肉を吐いたんだ。
 ところが予想に反してレイジは怒らなかった、それどころか唐突に笑い出した。ぎょっとした。こいつ頭がおかしいんじゃないかと真剣に疑ったのは自然な成り行きだった。レイジは俺の存在を無視して腹を抱えて笑い転げた、おかしくておかしくてたまらないといった具合に、なんでそんな簡単なことに気付かなかったんだと自分の馬鹿さ加減を笑いのめした。
 『そうだな。その通りだよな。俺、そうなりたかったんだよな』
 あれが、最初だった。始まりだった。あれから一年と半年が経った。今ではもう、レイジがいる生活が当たり前になって、レイジが隣で笑ってるのが東京プリズンの日常で、レイジの存在なしには俺の日常は成り立たなくて……
 俺はこれからずっとレイジと一緒にいたい。
 レイジが隣にいるなら東京プリズンのくそったれた毎日もそう悪くねえなって思える。
 だから、俺は。
 俺は。
 「……………っ」
 「力むとケツの穴締まるだろ。そうじゃない、力を抜くんだよ。全部俺に任せるんだ」
 レイジが耳元で囁く。
 熱い吐息を吹きかけられて耳朶が痺れる。頭がぼうっとする。
 体がおかしくなっている。レイジの唾液を刷り込まれた体が、快楽に馴らされた体が悩ましく疼きはじめる。俺は刺激に飢えていた。
 レイジの指が肛門から引きぬかれた時は物足りなさを覚えた。それまで三本の指がぎっちり埋まっていた肛門はだらしなく弛緩して充血した肉を覗かせたまま、ペニスを呑み込む準備は整ってる。
 硬く勃起したペニスの先端が肛門にあたる。
 ペニスが脈打つ。
 「……………」
 衝撃に備え、体の脇でシーツを握りしめる。
 怖い。恐怖で頭がどうかしちまいそうだ。呼吸が不規則に跳ねる。裸の胸が浅く上下する。暗闇に沈んだ天井を背景にレイジがゆっくりと慎重に動き出す。荒い息遣い、衣擦れの音、細長い指が肛門を捏ねくりまわす水音……
 「いくぞ」
 動悸が速まる。吐息が細切れになる。両手でシーツを握りしめる。強く強く、もっと強く。目を閉じてもレイジの気配を感じる。
 暗闇で活性化した感覚が、嗅覚が聴覚が触覚がレイジの気配を捉える。
 暗闇にほのかに漂うアルコールの匂い安物のウィスキーの匂い、レイジの荒い息遣い、獣じみて興奮した息遣い。首筋を滴り落ちる汗………
 「!!!ひ、あっ」
 体が弓なりに仰け反る。肛門を抉る灼熱感……先端が入ってきた。指三本とは比べ物にならない熱量と大きさの物体が肛門の入り口を押し広げて奥へ奥へと進んでく。
 「あ、ああああああああっああっ、ひあっ、いっ!!!?」
 陸揚げされた魚みたく体が勝手に跳ねる。凄まじい激痛が下肢を引き裂く。縫い綴じられた中心をこじ開けて押し広げて腹の奥を目指す塊の存在を感じる。生きながら内臓を攪拌される激痛に極限まで剥いた目からとめどなく涙が零れる。
 きつい、これ以上無理だやめてくれレイジ抜いてくれ死ぬ死んじまうこんなの本当に無理、喉が詰まって息ができない。
 肺に水が溜まってるみたいで、たっぷり水を吸って膨張した海綿が喉もとを塞いでるみたいに呼吸が苦しくて、ああ駄目だこんなの体が骨が軋んで悲鳴をあげる腹が熱い内臓がどろどろに溶けて体内を満たして………
 勢いよく踵を上げて空を蹴る、蹴る、何度も虚しく虚空を蹴り上げて意味不明支離滅裂な奇声を発して涙を散らして激しくかぶりを振る。
 「レ、イジっ、……不要太用力、こんなの全部入、んね、腹ん中あつっ……ひあぐ、あああっああっ!」
 痛い痛すぎて物を考えられない助けて誰か助けてくれ俺の腹ん中にぎっちり詰まってるコレを抜いてくれ死ぬ死んじまう腹の中から焼き殺されちまう内臓どろどろに溶かされて煮殺されちまう!!
 半狂乱で首を振る、尖った爪でシーツを掻き毟り喉仰け反らせ首うなだれて手足を振り乱して滅茶苦茶に暴れる、安っぽいプライドをなげうって全身全霊で許しを乞い助けを求める。ケツの穴にじゅうじゅう水蒸気を噴き上げる焼き鏝突っ込まれて内臓を掻き混ぜられてるみたいだった。
 本能全開の絶叫を撒き散らすしかない拷問の苦しみに、心底痛覚の存在を呪った。
 絶えず喉を焼いて迸る絶叫がコンクリ壁に反響して殷殷と鼓膜に沁みてめくるめく眩暈を喚起する。
 千切れる。引き千切れる。
 生温かい血のぬめりが太股を伝い落ちてシーツを斑に染める。
 ケツの穴が裂けた。処女膜が破れる時ってきっとこんな感じだ。
 「あ、ひ、あ………痛い、痛あ………」
 無我夢中でレイジにしがみつく。そうやって何かに縋ってないと体がばらばらに千切れてしまいそうだった。腹が熱い。レイジが容赦なく俺の中に入ってくる。ペニスの先端が直腸の襞を掻き分けて、いっそう硬さ太さを増した肉棒が血を潤滑油に、奥へ奥へと押し入ってくる。内蔵が圧迫圧縮される。嘔吐の衝動に襲われる。下肢の感覚はすでにない。激痛に麻痺した足にはもう空を蹴り上げる力も残ってない。
 「はっ、はっ、はっ………はっ……ふ………」
 「体の力抜けよ」
 「無茶、言うな、よ……これが限界、だよ……」
 「あと三分の一だ」
 こんなに苦しいのにまだ三分の二しか入ってねえのかよ。
 絶望的な気分で力なく首を振り、息も絶え絶えに訴える。
 「ぜんぜん、気持ちよくね……こんなの、痛いだけ、だ………」
 股間のモノはすっかり萎えていた。泣きたかった。肩を震わせて涙と鼻水を滂沱と垂れ流して幼稚にしゃくりあげたかった。太股を濡らす血のぬめりが気持ち悪かった。
 脳裏に像を結ぶ鍵屋崎の顔。
 売春班の隣部屋から聞こえてきた悲鳴、絶叫、嗚咽……ひっきりなしに通気口から漏れてきた声が殷殷と耳の奥によみがえる。あの鍵屋崎が、いつも冷静沈着に落ち着き払って他人を見下して奢り高ぶっていた鍵屋崎があんな惨めでみっともない声だすなんて俺には最初信じられなかった。タジマに何言われても何されても侮蔑的な態度であしらっていた鍵屋崎があんな、あんな悲鳴をあげるなんてと耳を疑った。

 辛かったんだな、あいつ。
 痛かったんだな。

 今、漸くわかった。本当の意味でわかった。
 鍵屋崎や他の連中がどれだけ辛かったか、あの一週間でどれほど深い地獄を見たか、生涯忘れられない苦しみを味わったか……俺は卑怯者だ。鍵屋崎が客に犯されてるとき何をしていた、ただじっと耳を塞いで部屋の隅で縮こまってただけだ。鍵屋崎が俺を恨むのは当たり前だ、俺は鍵屋崎に恨まれても仕方ない人間だ。なのに鍵屋崎は恨み言なんかひとつも漏らさず、それどころか、俺を庇ってくれて……
 『不好意思』
 ごめん。
 謝って済むことじゃないけど、謝りたい。俺が今味わってる痛みなんか鍵屋崎に比べれば生ぬるい、売春班の連中が味わった痛みに比べれば遥かにマシだ。俺は、仲間に恵まれてる。恵まれすぎてて気付かなかった、気付くのに遅れた。レイジだけじゃない。鍵屋崎もサムライも売春班の連中も、あいつらが俺のこと支えてくれたから、助けてくれたから、俺は今ここにこうしていられる。
 レイジと一緒にいられる。
 みんな、あいつらのおかげだ。
 「だれに謝ってんだ」
 レイジが不思議そうな顔をする。
 「内緒だよ」
 大丈夫、まだイケると少し休憩を挟んで呼吸を整える。レイジの背中に腕を回し、抱き寄せる。俺の腹とレイジの腹がぴたりと密着して二人の汗がまじりあう。
 贅なく引き締まった腹筋のうねり、呼吸に合わせて上下する胸郭の動きを感じる。
 「全部いれてくれ」
 「大丈夫か?」
 レイジが俺の前髪をかきあげて労わるように額の汗を拭う。頭のてっぺんからつま先まで汗でぐっしょり濡れそぼり、無気力にベッドに横たわった俺の体調を心配してるらしい。余計なお世話だ。レイジに心配されるほどおちぶれてねえ。倦怠の底から反発心がもたげ、レイジの目をまっすぐ見据える。
 「お前を全部、中に入れたいんだよ」
 慎重に体をずらし、ラクな姿勢をとる。少し動いただけで中に入ってるモンが擦れて激痛が走って瞼の裏側で火花が爆ぜた。今度こそ下肢が焼き切れたかと思った。苦鳴を漏らして上体を突っ伏した俺の肩にレイジが手をかける。
 そのまま、レイジの手に肩を支えられて激痛が薄れるのをひたすら待つ。
 「お前が欲しいんだ。レイジ」
 口を利く余裕を取り戻してから、真っ先に言った。
 俺は、レイジが欲しい。レイジと繋がりたい、もっとレイジを感じていたい。俺がタジマに犯されず東京プリズンで生き残れてこれたのは鍵屋崎や売春班の連中のおかげであって、こういう言い方は嫌だけど、虫唾が走るけど、あいつらが俺の身代わりになってくれたからで、だから俺は、処女捨てる相手がタジマじゃなくてレイジであることに感謝しなきゃいけないんだ。
 レイジに体を凭せ掛け、腕に身を委ね、決心を固めて瞼を下ろす。 
 大丈夫、まだイケる、まだ耐えられる。
 体をばらばらに引き裂かれる激痛にも耐えてみせる、耐えきってみせる、最後まで。
 不敵な笑みを拵えてレイジを促す。
 レイジも決断したらしく、今度は一気に押し入ってくる。
 「ひぎっ………あっ、あああああっああああっああああ!!!」
 肛門の出血が再開、生温かい血の雫が内腿を濡らして点々とシーツに落ちる。つま先が突っ張って臀部の筋肉が強張って異物の侵入に抵抗する。
 容赦なく筋肉を裂断する激痛に瞼の裏側が真っ赤に染まる。
 熱く脈打つペニスが血のぬめりを潤滑油に奥まで入ってくる。
 雄と雌の交わりみたいに、獣の交尾めいた荒荒しい腰つきでペニスが挿入される。喉が破裂するかと危ぶむほど甲高い悲鳴をあげて嫌々とかぶりを振って、潮にさらわれる砂浜に杭打つように尖った爪でシーツを引っ掻く。
 脳天に鉤を刺されて上へ上へと引っ張られる感覚。喉が引き攣る。肺から押し出された空気の塊が喉につかえて危なく窒息しかける。
 長かった。実際は五分もかからなかったが体感時間は五時間に等しかった。レイジのモンが根元まで全部おさまりきるまで俺は地獄を見た、麻酔もなしで下肢を真っ二つに引き裂かれて体を縦裂きにされる激痛に身悶えた。
 頭が朦朧とする。許容量を超す刺激に痛覚が麻痺したのか、脊髄を抜けて脳天を貫く激痛は次第に薄れ始めて、今は肛門に異物が埋まってる違和感と鈍痛を感じるのみだった。
 「あ………がっ………」
 「全部入った。よく入ったな、苦しかったろ?」
 レイジが愛情こめた手つきで俺の前髪をかきあげて誉めてくれた。苦しいなんてもんじゃなかった、途中何度も死んだほうがマシだと痛感した。
 閉塞した随道を拡張して容赦なく穿孔したペニスが俺の奥でどくどく脈打ってる、倍に膨張してる。レイジも相当きついんだろう、気丈に笑みを浮かべた顔にしとどに汗をかいてる。
 俺を気遣わせないためか、虚勢を張って余裕を演出していても体が辛いらしく息が上がっていた。顰めた眉が色っぽい。扇情的で官能的、たまらなく劣情を刺激する苦痛の表情に魅入られる。
 苦痛が快感に昇華する間際で刹那の恍惚の表情。
 「はっ………きつっ……お前のモン、奥にあたってる……」
 前髪の先端から滴った汗が目尻に流れ込んで視界がぼやける。俺もきっとレイジと似たような表情をしてるんだろう。苦痛か快楽か、痛いのか気持ちいいのかパッと見わからない恍惚の表情。白痴じみて宙をさまよう虚ろな目と酸素を欲してわななく半開きの唇、焦点を失った涎まみれの顔……
 ただ入れただけでこんなに痛いのに、この状態で動かれたらどうなっちまうんだろう。
 俺の心を見ぬいたようにレイジが宣言する。
 「動くぞ」
 「!まっ、」
 「待たない。最初に念押したろ、加減できねーって」
 レイジが意地悪く微笑み、俺の腰を掴んで動き出す。衝撃。激痛。腰で抉り込むように打ち込まれるペニスが襞をやすりがけて、体の奥、ちょうど前立腺の真下を刺激する。激痛に激しく身悶えていたのは最初だけで、ケツがこなれてペニスの出し入れの速度が上がるにつれて体に変化が起きる。
 「あっ、あっ、あっ、ひっ!?」
 痛いだけじゃない。それどころか、俺は感じ始めてる。唾液で潤されて指で馴らされた襞が物欲しげにひくついて、レイジのモンをぐいぐい締め付けてるのがわかる。それだけじゃない。激痛で萎えた股間がまた勃ち上がりはじめて、頭をもたげた先端に上澄みの雫を滲ませてる。
 怖い。俺の体が俺の体じゃないみたいだ。自分でも制御が利かなくて、声を抑えたくても無理で、レイジに腰を掴んで揺さぶられる度に体が弓なりに仰け反る。
 「あっあっあっあっあっ、あああっ、ふあっ……!!」
 怖い。俺が俺じゃなくなる。途中何度も理性が吹っ飛んで意識を手放しかける。理性が散り散りになるのが怖い、俺が俺じゃなくなるのが怖い、心と体が千々に引き裂かれるのが怖い。体から分裂しかけた心を現実に繋ぎとめるために必死にレイジに抱きつく、レイジの背中に爪を立てて肩甲骨のあたりを抉る。怖いこんなの初めてだ体験したことがない感覚怖い助けて壊れる死ぬ砕ける弾ける爆ぜる!!
 気持ちいいのか悪いのかわからない、今俺の口から迸ってるのが喘ぎ声か苦鳴か自分でも判然としない。ただ、体が熱くて熱くてたまらない。助けてほしい、掬い上げてほしい。溺れる者が藁をも掴む必死さでレイジにしがみつく、両手を背中に回して腹に腹を擦りつける。俺にのしかかるレイジ、何かを耐えるように眉を顰めてきつく口を引き結んで律動的に腰を突き入れる。
 濡れた音。淫猥な水音。
 俺の肛門に溜まった唾液と精液と血液がペニスに絡みついて、飛沫が跳ねる音。ぐちゃぐちゃと下品な音が鳴る。
 ケツにペニスを突っ込んで内臓を捏ねくりまわす音、大量に分泌された体液と体液が混ざり合う音。
 「はっ……すっげえきつい、ぐいぐい締め付けてくる」
 レイジが悪乗りして片頬笑む。野郎、人の気も知らねえで。仕返しとばかりレイジの肩甲骨に爪を食い込ませ、掠れた声で吐き捨てる。 
 「こっ、ちの台詞だよ……ケツ、に突っ込まれたモンが喉から出、ちまいそうだ!あっ、やめ、動くな、そこ、そこっ……」
 「感じてんのか嫌がってんのかわかんねーよ、どっちかにしろよ。物欲しげな顔しやがって」
 どんな顔だよ、知らねえよと心の中で突っ込むが口に出す余裕はない。今の俺は喘ぐだけでいっぱいいっぱい、酸欠の魚みたいくぱくぱく口を開閉するだけで精一杯なのだ。
 畜生レイジの奴なんだってこんな余裕なんだ、経験値の差かよ憎たらしい。
 俺だってもっと経験積んでればレイジに翻弄されっぱなしの醜態晒すことなく余裕に振る舞えたのにと内心歯噛みする。ああ、こんなことならもっと女と寝とくんだった抱いとくんだった。レイジの体は筋肉質で直線的で固くて艶美な曲線で構成されたメイファの体とは全然違う。メイファの柔肌、乳房の感触を反芻して自分に確認する。
 俺はやっぱり女がいい、女のほうが断然イイ……
 「ひあっあっく!?」
 突然、レイジの動きが激しさを増す。
 「ヤってる最中に他のこと考えるのは相手に失礼だろ?お仕置き」
 「!?なん、でわかっ……あっあっあっあああっ」
 「わかるよ、一年と半年お前を見てりゃ」
 動きが激しさを増すのに比例して快感が猛烈に加速、声が一音階高くなる。 喉が膨らむ。レイジは器用に腰を使う。緩急つけて挿入をくりかえして、俺も知らなかった未知の性感帯を掘り下げて、前立腺の真下を律動的に刺激する。
 脳髄を直接揺さぶられるような、あまりにも激しすぎる快感に本能的な恐怖を覚えて抗うもたちどころに押さえ込まれる。獲物の喉笛に噛みつく豹の獰猛さで、肉に飢えた本能と獣性を剥き出して、精力絶倫に腰を突き入れながらレイジが聞く。
 「今、天国の階段何段目?」
 鋭利な光が過ぎる隻眼を悪戯っぽく細めて、荒い吐息の狭間で囁く。夜目にも鮮烈に輝く茶色の虹彩が綺麗だった。相変わらず自信過剰な王様だ、少しは懲りろよと反感を煽られて唇を皮肉げに歪める。
 「……五段目。もうちょっと頑張れよ、王様」
 レイジが鼻白む。ざまあみろ。と、レイジが不意に体勢を変えて俺の腰を両手で掴んで前よりさらに深く奥へと突き入れる。一切遠慮がない腰の動きにたまらず悲鳴をあげて伸縮自在の芋虫みたいに身をよじる。
 「ひあっあっあっああああああっああ!!?」
 前とは比較にならない速度と激しさで間をおかず貫かれて脳裏で閃光が爆ぜる。ああ、余計なこと言うんじゃなかった俺の馬鹿レイジ挑発した結果がこれだ自業自得正真正銘の馬鹿だ!ぐちゃぐちゃ響く水音が行為の淫らさを引きたてる。血と精液と唾液が混ざり合った液体が直腸を満たしてペニスの滑りをよくする。痛みは既に感じない、俺はただ怖かった、気持ちがよすぎて頭が変になりそうでそんな自分が怖かった。だから必死にレイジにしがみついた、渾身の力で抱擁した。
 「気持ちいいか」
 「がっつくなよ、みっともね……あっ!」
 言葉が続かない。レイジが忍び笑いを漏らす。
 「今の自分の格好見ろよロン。憎まれ口叩いてても自分から腰振ってるじゃねえか」
 「ちが……」
 「違わねえよ。後ろ突かれただけでびんびんに勃ってるじゃねえか、前の方さわってねえのにさ。思ったとおり感度がいいな、お前。耳朶も乳首も太股もあちこち敏感すぎ」
 「ふあああっ……」
 レイジの指が体の上で踊り、乳首を抓る。たったそれだけの刺激で鋭い性感が生じて喉が仰け反る。乳首は固くしこっていた。充血して尖りきった乳首を指の腹でこねくりまわされて、同時進行で前立腺を突かれて頭の芯がじんと痺れる。今や俺のペニスは腹につきそうなほど反りかえって、透明な汁が孔から零れてる。
 イきたくてイきたくて頭がおかしくなりそうだ。
 射精の欲求に抗いかねて、射精に至る刺激が欲しくて、レイジに抱きつく腕の力をますます強める。鉄錆びた血の味が舌で溶けて喉を焼く。唇は切れて血が滲んでいた。限界まで喘ぎ声を噛み殺した証拠だ。もう駄目だ、これ以上は保たない、はやくラクになりたい。
 「イきたい?」
 頷きたくなるのをプライドが邪魔する。レイジに弱みを見せるのは癪だった。イきたくてイきたくて気が狂いそうなのに、腕はしっかりとレイジを抱きしめて腰は上擦って自分から進んで結合の度合いを深めてるのに、それでもまだ抵抗があった。素直に頷けばラクになれると、ラクにしてもらえるとわかっていても最後の最後の瞬間まで虚勢を張るのをやめられない。
 つまらない意地。安っぽいプライド。
 「あっあっああああああっああああああっあ!!」
 腰が弾む。尻が跳ねる。レイジが軽々と俺を抱き上げて手荒く揺さぶる、奥深く貫く、串刺しにする。目尻からとめどなく涙が零れて頬を濡らす、俺が跳ねるたび涙が虚空に飛散する。ベッドの脚がコンクリ床に擦れる音とスプリングの軋り音とが甲高い不協和音を奏でて鼓膜をひっかく。
 塩辛い涙が顔じゅうの孔という孔に逆流して、むせかえる。
 「レイジ、無理、もたねえよ……っあ、ふっく……」
 「イかせてくださいってお願いしろよ」
 強情に首を振る。俺も限界だけどレイジだってそろそろ限界だ。余裕ぶっこいてられんのも今のうちだ。
 「だ、れが頼むか、よ……ひっ…そんな恥ずかしい台詞吐くくれえなら、舌噛んだほうがマシ……だっ」
 「頑固者。ま、そういうところも含めて好きなんだけどな」
 「惚れた弱みだよな」とため息まじりにぼやきつつレイジが俺の股間に手を潜らせる。何する気だとぎょっとする。レイジが俺の股間をまさぐり、勃起したペニスを手に取り、見せ付けるように緩慢な動きで扱きだす。
 「手伝ってやるからイけよ」
 「結構だよ、下半身の介添えなんかいるかよ!?」
 血相変えてレイジの手を払おうとした時には既に遅く、俺の分身は完全にレイジに掌握されていた。
 レイジの手と腰が再び同時に動き出す。緩急自在に握力を調整してペニスを扱き上げて、硬く勃起したペニスで俺の体の奥まで貫いて……体の内部から直接前立腺を刺激されて、同時に性器を摩擦されて、快感が二倍に膨れ上がり血の巡りが加速する。イく。出る。尿道が酷く疼いて射精の欲求が急激に込み上げて体が制御できなくなる、怖い、どうなっちまうんだ俺……レイジ、レイジはどこだ?!
 「どこだ!?」 
 「ここだよ」
 癇癪起こした赤ん坊をあやすようにレイジが背中をさする。がむしゃらにレイジに抱きつく、沈没船から放り出された遭難者が嵐の海で板きれにしがみつくように必死に、わけわからないままレイジを抱擁する。レイジはいる。確かにここにいる。レイジの体温を、呼吸を、はっきり感じとる。
 「ああっ、あっ、ひっあっあっあっああっあっ……」
 「怖くない、大丈夫だから。俺も一緒にいくよ。お前を天国に連れてってやる」
 耳朶に吐息がかかる。背中を撫でる指に欲情の火照りを感じる。色々な光景が光に眩む脳裏に去来する。
 レイジと初めて会った時のこと。吸い込まれそうに透明な、造り物めいて精巧な、色素の薄い硝子の瞳。あの目は今、ひとつしかない。片方はサーシャに潰された。もはや永遠に開かない。
 豪快に扉を蹴破って売春班の仕事場に颯爽と乗り込んで速攻タジマを追い払った。好物の肉粽で俺を餌付けた。決死の脱出劇、痛快な救出劇。ペア戦開幕。破竹の快進撃、無敵の活躍。ペア戦中盤、レイジと仲違いをした。俺の不用意な一言がレイジを酷く傷付けて遠ざけた。ペア戦終盤、レイジは最後まで俺の為に戦った。全身ぼろぼろになって大量の血を流して、片腕の傷口を踏み躙られて背中を焼かれて左目を深々抉られて、いつ倒れてもおかしくない満身創痍の状態で、意識を失う限界までリングに立ち続けた。
 この一年と半年、本当に色々なことがあった。
 レイジと出会ってからの一年半で俺は変わった。独りぼっちじゃなくなった。最高の相棒と仲間を得た、くそったれた人生に生き甲斐を見出した。よかった。レイジに出会えて本当によかった、鍵屋崎やサムライや売春班の連中と出会えて本当によかった。俺は今最高に幸せだとレイジの腕の中でぬくもりに抱かれて確信する。
 俺はもう独りじゃない。
 抱きしめたら、抱きしめ返してくれる奴がいる。
 「レイジ。俺のこと、絶対に放すなよ。放したら承知しねえからな」
 レイジを失いたくない、奪われたくない。レイジの身も心も独占したい一心で強く強く抱きしめる、こいつは俺の物だと確かめるように腕に力を込めて背中を締め上げる。レイジが荒荒しく俺の唇を吸う。痛みを伴う程激しいキス、舌を絡め取り唾液を飲み干す濃厚なキス。無我夢中でレイジの唇を貪り、ぎこちなく舌を絡めて精一杯キスに応じる。口移しで俺に唾液を呑ませたレイジが名残惜しげに唇を放して言う。  
 「放すもんか絶対に。神様に説教されても悪魔に誘惑されてもお前を抱いたまま放さない。天国でも地獄でもお前と行けるとこならどこへでも行ってやるさ、この世の果てを見てきてやるさ。言ったろ?お前は俺の救世主だって。お前が俺を許してくれるなら、背中の十字架だって重くない。片目でも暗くない。お前が一緒に歩いてくれるなら、鼻歌まじりでゴルゴダの丘を乗り越えられる」
 レイジがへたな鼻歌をなぞる。ストレンジ・フルーツ。リンチで殺された黒人がポプラの木に吊るされてる、それはまるで奇妙な果実のよう……甘い歌声に哀切な詞を乗せた唄が暗闇に流れる。
 「そこに俺を吊るすためのポプラの木が立っていても、俺を磔にする為の十字架が立っていても怖くはない。俺にはお前がいる、ロンがいる。それだけで幸せだから、生まれて来て良かったって実感できるから」 
 「レイジ、イく、イくっ……!!」
 「愛してる。ロン」
 レイジが真心を込めて囁き、力強く俺を抱く。俺もレイジを抱く。二人してしっかり抱き合う。ああ限界だ、イく。レイジの腰の動きが速くなる、俺の腰が浮く。出口を求めて体内で暴れ回る快感―……

 ―「あああああああああっあああああっああ!!!」―

 脳裏で閃光が爆発する。瞼の裏側が漂白されて一時的な失明状態におちいる。射精の瞬間。ペニスがびくびくと痙攣して先端の孔から白濁が迸り出る。宙に弧を描いた白濁がレイジの下腹に飛び散り、胸や顔にも付着する。恍惚、脱力、弛緩、倦怠。絶頂に達した俺は、汗で一面ぐっしょり濡れそぼったシーツの上に身を横たえて、気だるく鈍重な動作でレイジを仰ぐ。
 レイジは微笑んでいた。愛しげに俺の前髪をかきあげ、手櫛を入れて髪を梳いていた。
 無意識に片腕を宙に差し伸べ、空を掻く。
 「レイ、ジ……」
 何を言おうとしたのか自分でもよくわからない。ただ、どうしてもレイジに伝えたいことがあって、でもそれが何かわからなくて、すごく大事なことなんだけどその核心が掴めなくて、もどかしさに歯噛みする。
 レイジの顔が焦点を失い、急速にぼやけて遠ざかる。疲労で目が霞み、遠近感が狂い、目標を見失った五指がむなしく宙を掻く。
 そして、俺の意識は途切れた。

 鉄扉が開閉する音で目が覚めた。
 といっても俺の房じゃない、隣の隣の房だ。
 騒々しい足音に覚醒を促されて瞼を押し上げる。
 誰かが大急ぎで廊下を走っていく。誰だ朝っぱらから、近所迷惑だっつの……寝ぼけた頭で呪詛を吐く。 
 待てよ、朝?
 手の甲で瞼を擦り、二三回目をしばたたき、あたりを見まわす。房に立ち込めた闇は藍色に明るんで朝の訪れを告げていた。夜明け。廊下の奥から今さっき走り去ったガキの声が遠く聞こえてくる。
 「なんだよ朝っぱらから、寝ぼけて徘徊してんなら洗面台に顔つけるぞ」
 夜明けの空気を震わせてかすかに廊下を伝わってきたのは、声量を絞った話し声。
 「ちげーよ馬鹿、寝ぼけてんのはどっちだよ。ほら、今日は例の日だろ。看守の言ったこともう忘れたのかよ、めでてえ頭だな」
 「ああ?……ああそうか、例の日ね。くそ、すっかり忘れてたぜ!こちとら余裕ぶっこいて寝てたってのによ。囚人こき使うのいい加減にしてほしいぜ、タジマのアレで少しは懲りたかと思ったのに」
 「人手不足なんだろ。ほら、五十嵐とタジマがいなくなったからさ」
 「二人ぽっちいなくなったくらいで人手不足かよ……まあ、五十嵐は真面目に働いてたからな。他の看守がさぼってるときでも、さぼってる奴らの分までマメに働いてた」
 「五十嵐いなくなるの、寂しいな」
 「うん」
 格子窓を挟んで会話してた片方がしんみりと呟き、もう一方が同意する。 
 俺も同感だ。
 「それはともかく、愚図愚図してっとまた看守に大目玉だぜ。昼には新人が大挙してやってくるから、それまでに視聴覚ホールに行ってスクリーン下ろしとかなきゃ」
 「くそっ、面倒だなあ。右も左もわからねえ新人のお守りなんて損な役回りだぜ」
 「ブラックワークの連中よりマシだろ。プラスに考えろ、プラスに」
 集中力を高めて耳傾けてるうちに内容が呑みこめてきた。察するに、看守に雑用を命じられた囚人が二人愚痴を言い合ってるのだ。鉄扉の蝶番が軋り、格子窓越しに会話してた囚人が不承不承廊下に出てくる。眠い目を擦りながら廊下に出た囚人が相棒と連れ立って歩き出す姿がまざまざと脳裏に浮かぶ。
 二重の靴音が遠ざかり、再び廊下が無人になる。
 静寂が鼓膜に沁みる。俺はまだ半分寝ぼけていて、毎朝の習慣でとにかく顔を洗おうと毛布をどけて上体を起こした途端、身も世もなく悲鳴をあげる羽目になった。
 「っ、い…………!!?」
 下半身を激痛が襲った。なんだ、これ。おそるおそる尻をさする。そこで漸く頭の芯に纏わりついていた眠気の靄が晴れて昨夜の記憶が甦った、鮮明に。反射的に毛布を剥ぎ取り下半身を確かめる。
 裸じゃなかった。ちゃんとズボンを穿いていた。一瞬夢かと思ったが、腰に蟠る倦怠感と尻の激痛が現実なら、俺が意識を失った後にレイジが後始末してくれたことになる。
 ふとあることに思い至り、シーツに隅々に目を凝らす。あった。昨夜のあれが夢じゃない証拠に、シーツのあちこちに乾いた血痕がこびりついていた。ズボンに手をかけて太股を覗き込めば、内腿にも血を拭き取ったあとがあった。
 ……そうだ。俺はあの後気絶して、それから……それから?覚えてない全然。記憶がない。いや待て、ほんの少しだけ覚えてる。
 眉間に意識を集中、夢か現実か区別がつかないがおぼろげながら覚えている断片を繋ぎ合わせて記憶を再構成する。あの後再びレイジがのしかかって俺の膝を掴んで広げて突き入れて、っておい、じゃあ何か俺はまたあれから一回か二回か三回かイッたことになるのか、ぶっ続けで抱かれたことになるのか?どうりでケツが痛いわけだ。レイジの奴、無茶しやがって。
 ひりひり疼くケツをさすりながら、起き上がるのは無理っぽいから慎重にベッドに身を横たえる。
 そして、びびる。目の前にレイジの寝顔があった。
 「!?」
 一瞬心臓が止まった。すぐ隣に寝てたのに全然気付かなかった、寝起きとはいえ俺も間が抜けてる。発作的に跳ね上がった動悸がおさまるのを待ち、しげしげとレイジの寝顔を見つめる。
 レイジは全裸で大事なところだけ毛布をひっかけていた。素っ裸で寝て風邪ひかないのかコイツと呆れたが、寝る前に俺に服を着せてくれたんだなと有り難く思う。俺は寝相悪いから服着せるのにひどく手こずったんだろうと想像するとおかしくなる。ただでさえ意識のない人間に服を着せるのは至難の技だ。俺の体をひっくりかえして手取り足取り苦労しつつ袖に腕通してズボンを穿かせてと、こいつも頑張ったんだろう。
 くすぐったい気持ちでレイジの寝顔を眺める。
 「幸せそうなツラしやがって。ちょっとは人のこと考えろっての、今日も強制労働なのに……シャベル上げ下げするたびケツが裂ける激痛味わうなんてぞっとしねえよ。おい。聞いてるのか王様」
 熟睡中の奴に文句を言っても始まらない。腹が立って、レイジの鼻をつまむ。面白い顔。美形が台無し。
 「…………夢の中、か。にやけやがって、憎たらしい」
 どうせスケベな夢だろ。世界中の美女侍らして絢爛豪華にハーレム気取ってんだろ。レイジの鼻から指を放してしばらく寝顔を眺める。眼帯が少しずれて左目の傷痕が覗いていた。それさえ除けば本当にあどけない、安らかな寝顔だった。こんなに無防備でいいのかよとこっちが心配になってくる。
 
 左目の傷痕を眺める。
 完璧に整った顔の中で、たった一箇所、そこだけ無残な傷痕が穿たれた左目を。
 
 ベッドに肘をつき、レイジを起こさぬよう用心深く上体を倒し、間近で顔を覗きこむ。起きる気配はない。ぐっすり眠ったレイジにおそるおそる顔を近付ける。衣擦れの音がかすかに耳朶にふれる。
 心臓の鼓動が高鳴る。緊張で手のひらが汗ばむ。
 俺の吐息で睫毛が震えて、レイジの頬に物憂げな影がさす。
 眼帯の上からそっと左目に接吻する。
 直接傷に触れたら痛いかもしれないから、眼帯の上に唇を落とす。
 
 『お前が俺を許してくれるなら、背中の十字架だって重くない。片目でも暗くない』

 俺は、レイジの光になれるだろうか。
 レイジが失った目の代わりになれるだろうか。
 
 レイジの左目と右目を見比べ、瞼を下ろした右目の上に手を翳して、真剣に呟く。
 「お前の右目は、何があっても守るからな」
 「期待してる。右目が潰れたらお前の顔が見れなくなるもんな」   
 レイジがうっすらと瞼を開け、くすぐったそうな笑顔を覗かせる。人肌にぬくもった寝床でまどろみながら幸せを噛み締めてる、無邪気なはにかみ笑いだった。
 レイジが俺の頭に手を伸ばし、自分の胸に抱きそこねて空振りする。片目になって日が浅いせいで遠近感が上手く掴めないらしい。顔の横であっさり空を切った腕を一瞥、わざとらしくため息をつく。
 「格好つけるからだよ。空気抱いて寝てろ、王様」
 「ちげーよ、今のはフェイントだよ。バスケの基本。お前ってば単純だからすぐ騙されるのな。つまりだ、俺が言いたいのは……」
 ベッドに起き上がったレイジが右目を指さし、最高のジョークを思いついたとばかりにご機嫌に笑う。 
 「これがホントの『一目ぼれ』ってな」 
 ……いや、笑えねーからそれ。全然。 
 一夜明けて早々にこいつに処女くれてやったことを後悔した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050711154514 | 編集

 昨夜はよく眠れなかった。
 明け方少しまどろんだだけで十分な睡眠は摂れなかった。瞼が腫れぼったい。目は充血してる。いつも明晰に冴えた頭がぼんやりしてるのはきっと睡眠が足りないせいだ。
 考え事に気を取られてシャベルを持つ手に力が入らない。
 労働に身が入らない。
 由々しき事態だ。雑念に囚われて労働に支障をきたすなど天才のプライドが許さない、深刻に考慮せねば、早急に対処せねば……駄目だ、集中力が散る。思考が分散する。これも全部サムライのせいだと責任転嫁してシャベルを振るえば、先端が地を穿った拍子に砂が飛散。
 大量の砂を顔に被ってうんざりする。
 「くそっ」
 口汚く毒づき、手の甲で顔面の汗と砂を拭う。
 今日は朝からさんざんだ。サムライとは結局一言も口を利かなかった。僕は意図的に会話を避けていた、サムライもまた意図的に接触を避けていた。サムライはあれから一度も僕の目を見なかった。
 朝の気まずい雰囲気を思い出せば気分が重く滅入る。
 洗顔時もそうだ、早起きのサムライは僕が起きた頃にはとっくに身支度を済ませて毎朝の日課である木刀の素振りに勤しんでいた。決して僕の目を見ないことを除けばいつも通りだった。僕はサムライの視線を過剰に意識しつつ顔を洗ったというのに、鏡に映ったサムライの顔は憎たらしいほど涼しげだった。
 上段の構え、正眼の構え、下段の構え。
 若竹のように背筋凛々しく、端正な姿勢で木刀を振るい、虚空を撫で斬る。
 見慣れた朝の光景。サムライは毎朝自主的に稽古をしてる、誰に命じられたわけでもなく毎朝律儀に基本の型を踏襲してる。武士たる者日々精進を怠らない姿勢は立派だと感心しなくもないが、昨夜のことなどまるで覚えてないというふうな態度が癪にさわって仕方がない。
 まるで、何もなかったみたいに……
 『何もなかった』?とんでもない、人にあんなことをしておいて。
 サムライの態度に憤慨した僕は朝から一言も口を利かず無視を決め込んだ。僕に無視されても戸惑う様子もなく、サムライはいつも通り、僕と一緒に食堂に行き僕の隣で朝食を食べた。無神経ここに極まれりだ。彼がしたことを踏まえれば然るべき謝罪があって当然だが、それもない。説明もない。一切ない。おかげで何故彼があんなことをしたのか、あんな振るまいに及んだのか僕はわからないままサムライと別れて今ここにいる。イエローワークの砂漠で用水路建設にあたってる。

 僕がイエローワークに復帰して二週間が経つ。

 イエローワークに復帰した僕を誰もが歓迎したかというとそうでもなく、「なんで戻ってきたんだ」と露骨に顔を顰める同僚が多かった。自分が嫌われてることくらい知ってる、今更傷付くはずもない。売春班上がりだと軽蔑されても心は痛まない。低脳を相手にするのは時間の無駄、低脳と議論するのは類人猿に因数分解を教えるに等しい愚だ。彼らの嫌味をいちいち取り合ってるほど僕は暇じゃない。
 僕はイエローワークに戻れたことを感謝する。売春班の一週間と比べればイエローワークの過酷な労働も苦にならない。たまに炎天下で眩暈を覚えて穴に落ちたりもするが、二週間を経て体力が回復するにつれ貧血の頻度も減った……気がする。あくまで気がするだけかもしれないが。
 僕がいない間に砂漠に変化が起きていた。
 以前僕とロンが共同で掘り当てたオアシスから方々に水路が引かれて畑ができていたのだ。畑では品種改良されたジャガイモを代表に砂漠の環境にも適応した作物が栽培されてる。終わりの見えない不毛な穴掘りは情け容赦なく囚人の気力体力を奪いさるが、栽培収穫の目的ができてから飛躍的に労働意欲が向上したらしく、イエローワークの砂漠で働く囚人の顔は生き生きしてる。
 用水路建設もまた新たに増えた労働の一環だ。
 オアシスから新たに用水路を引いて畑予定地を耕す下準備を割り当てられた数十人が、各々手分けして側壁に土嚢を積んだりシャベルで溝を掘ったり作業にあたってる。
 顎先を汗が滴る。
 灼熱の太陽が頭上で輝く。
 太陽の高度に比例して気温は上昇する一方だ。炎天下での労働は熾烈を極め、熱射病に倒れる者や脱水症状を起こす者が続出する。砂漠で倒れたらそのまま埋められるだけだ。都合がいいことに、イエローワークの砂漠には人一人埋めるのにちょうどいい深さ大きさの穴が無数に点在している。
 僕らは働き蟻のように穴を掘る、仲間を埋める墓穴を、いつか自分が埋まる墓穴を。
 シャベルに寄りかかり、手の甲で汗を拭いて周囲の囚人を眺める。小休止。周囲には無数の囚人が散らばって看守の監視のもと働いている。リヤカーで砂を運んだり鍬やシャベルで砂を掘り返したりブリキのバケツをぶら下げてオアシスに水を汲みに行ったりと忙しない。両手にバケツをぶら下げてオアシスと持ち場を往復する囚人を見送る僕の頭上に、スッと影が射す。
 「汗水流して精だしてるみてえじゃんか、親殺し」
 頭の悪い声がした。目で確認する前に誰だかわかった、顔を上げるのも億劫だった。休憩終了、シャベルを両手に持ち仕事を再開。声の主を無視してシャベルを振るい、
 「!」
 突然、後ろ襟を掴まれ引き倒された。喉を絞められて息が詰まった。
 僕の後ろ襟を思いきり引っ張ったその人物がスニーカーの靴裏で盛大に砂を跳ね散らかして斜面を滑降、用水路の底に着地する。一人じゃない。二人、三人……三人いた。皆見覚えある顔、僕と同じ班の連中だ。僕を敵視してる者ばかりだ。
 売春班にとばされる前から彼らには日常的にいやがらせを受けてきた、わざと足を引っ掛けられたりシャベルを脛にぶつけられたりリヤカーで轢かれかけたり数え上げればきりがない。単なる「いやがらせ」では済まない、命に関わる事故に発展しかねない危険性もあるのに彼らは一向に反省も加減もしない。 懲りない連中だとあきれる。
 最も、万一僕が死んだ場合は作業中の事故として処理されるだけで彼らには何のお咎めもないのだから、いやがらせがエスカレートするのは自明の理だ。
 「何か用か」
 面倒くさい連中に捕まった。
 迷惑げに眉をひそめて聞けば、中のひとりが肩を竦める。
 「同じ班の先輩として、ひ弱な日本人がへばってねえか見に来たんだよ」
 「日本人はすぐサボるからな」
 「信用できねえもんな」
 「貴様らこそ自分たちの持ち場に戻ったらどうだ。現場監督の看守に見つからないうちに」
 僕を取り囲んだ連中は優越感を隠しもせずにやにや笑ってる。大勢で群れて獲物をいたぶる行為に陰湿な快感を見出したゲスの笑顔。辟易。内心舌打ちして、正面の囚人を睨む。
 見覚えある顔……売春班初日に僕を犯しにきた同僚が野卑に笑っていた。
 「イエローワークに復帰して二週間、真面目にやってるみてえじゃんか。感心感心。でも、そろそろ売春班が恋しくなってきたんじゃねえか。お前ら売春夫はみんな男なしじゃ生きられねえ淫乱揃いだからな、セックス浸けの日々が懐かしくてケツが疼いてる頃だろ?なんなら俺たち全員で相手してやろうか」
 「なあに、そんなに時間はかからねえさ。五分ありゃ上等だ、そこの物置小屋に引っ込んでケツまくって……」
 「おっかねえ顔すんなよ。同僚なんだ、仲良くしようぜ」
 「こいつから話聞いてるぜ、お前買った時のこと。立ったままやったんだろう?こうやって洗面台に寄りかからせてケツまくって後ろから突っ込んだんだろう。可哀想に、痛かったろ。処女相手にも容赦ねえからな、こいつ」
 「安心しろ、俺たちゃ優しくしてやるよ。お前の穴という穴に舌突っ込んで一粒残らず砂ほじくりだしてやるよ」
 僕を犯した少年を小突きながら仲間が哄笑する。中央の少年は腰に手をあて尊大にふんぞり返っている。陰険に目を細め、唇をしつこく舐め上げて、期待と興奮を込めて僕を眺めている。
 物欲しげな顔だった。
 彼が得意になって僕を犯した時の状況を吹聴してたと知っても、何の感慨も持たなかった。ただ、軽蔑しただけだ。
 「身のほど知らずにも、僕に交渉を持ちかけているのか」
 眼鏡のブリッジに指を添えて嘆息する。笑い声が止み、同僚が気色ばむ。剣呑な雰囲気。険悪な形相に豹変した同僚三人を観察、シャベルを放り捨てて中央の少年に歩み寄る。
 ざくざくと砂を踏むごとに売春班初日の悪夢が鮮明に甦る。
 僕を洗面台に押さえ付けてズボンを剥いで背中にのしかかって『顔上げろよ』汗まみれの素肌を密着させ『ちゃんと感じてる顔見ろよ』『鏡に映ったいやらしい顔を』立たせたまま後ろから犯した……忌まわしい記憶。陵辱の記憶。僕と対峙した同僚三人が顔強張らせてあとじさる。
 僕の気迫に押されたのか眼光の強さに怖じたのか、目には怯えと当惑が浮かんでいた。加害者と被害者の立場が逆転したかのような、嬲られる一方の獲物が突如反撃に転じたかのような色濃い戸惑いを覚えてるのは明白。
 中央の少年の前で立ち止まる。
 「なん、だよ」
 少年が寄り目で凄み、僕の胸ぐらを掴もうとする。その手を素早く払い、無造作に手を伸ばし、逆に少年の胸ぐらを掴む。左右の同僚が何か言いかけるの視線で制して正面に顔を戻す。
 「僕を抱きたいか?」
 吐息のかかる距離に顔を寄せ、訊く。耳朶で囁かれた少年が驚きに目を見開く。意外げな表情がいっそ愉快だ。同僚の胸ぐらを掴んだまま、挑戦的に微笑む。
 「言っておくが、僕は高いぞ。君らごときが足掻いても手も届かないほどに」
 自信を込めて断言すれば、同僚が絶句する。まさか、こう返されるとは思ってもみなかったのだろう。意表をつかれて言葉を失った同僚たちの間抜け面を眺め、失笑を噛み殺す。少年の胸を軽く突き放し、余裕ある足取りで元の場所に戻り、自然な素振りでシャベルを持ち直す。
 「……はっ!元売春夫がでけえ口叩きやがって、何様のつもりだお前。体に触れる客を選ぶ権利が売春夫ごときにあるってのか、笑わせるぜ」
 虚勢を張って吠えたてる同僚を一瞥、嘆かわしくかぶりを振る。まったく頭が悪い、理解力の乏しい連中だ。こんなにわかりやすく説明してやっというのにまだ不満なのかと疲労を感じつつ続ける。
 「そうだ。僕に触れる人間は僕が決める、君たちはその選から漏れた、それだけの話だ。実に単純明解だろう。用が済んだなら可及的速やかに消えてくれないか、仕事の邪魔だ。視界に汚物が入るのは精神衛生上悪い。最低15メートル離れてくれ、君たちの下品で猥褻な声が聞こえると労働意欲が削がれる」
 「おっ……俺の下で喘いでたくせに!!」
 憤怒で顔を染めた少年がこぶしを振り上げる。とんでもない誤解だ、ありもしないことを捏造されては困る。シャベルを砂に突き刺し、眼鏡の弦に触れて下を向く。
 再び顔を上げた時、口元にはこらえきれず笑みが浮かんでいた。
 低脳どもの神経を逆撫でする、不敵な笑みが。
 「勘違いするな。君が僕の上で喘いでたんだろう」
 「こおおおおォおおおおおの野郎!!!!」 
 怒り爆発した同僚が一斉に襲いかかってくる。多勢に無勢、僕に逃げ場はない。面倒なことになったなと醒めた気持ちで同僚を待ち受ける最中、頭上にまたも影がさす。用水路の縁に人影が佇んでこちらを覗きこんでる。逆光に塗り潰された人影は肩にシャベルを担いでおり、そのシャベルが勢い良く振るわれ、そして……
 「ぶわっ!?」
 「この野郎、なにしやがっ……」
 砂で目くらましした直後に足元に置いたバケツを抱え上げて中身をぶちまける。全身びしょ濡れで転倒した同僚たちが砂に顔面を埋めてもがき苦しむ。その上にさらにざくざく掘った砂をかける。
 「水の次は砂、この順番でぶっかけりゃあ身動きとれねえ。びしょ濡れの肌に砂がこびりついて、体じゅうの穴という穴塞がれて呼吸できなくなるだろ」
 得意げな声とともに頭上から降ってきたのは小柄な影……からのバケツを両手にぶら下げたロンだった。スニーカーの靴裏で斜面を滑降、僕の隣へと着地したロンを睨む。
 「なんて荒っぽいことをするんだ、僕の顔にも水が飛んだじゃないか」
 「それが命の恩人に対する言い草かよ」
 「君が不要な介入をしなくても事態を収拾することはできた、僕の計算が正しければあと二秒で…」
 「お前ら、ここで何をやってる!!さっさと持ち場に戻れ!!」
 「やべっ、看守だ!」
 「警棒食らう前に逃げろ!」
 僕の予想は的中した。用水路の異状を察して駆け付けてきた看守が警棒をさかんに振り回して三人組を追い立てる。看守に叱責を浴びせられた三人が舌打ち、這う這うの体で斜面をよじのぼり持ち場へ駆け戻っていく。
 最後尾、売春班初日に僕を犯した少年が振り返り際に中指を立てる。
 「覚えてろ親殺し、いつか満足いくまで犯してやるからな!班の連中全員でお前のケツ回してやる、二度とそんなでかい口叩けねえよう躾てやる!タジマがいなくなったからって調子のってっと痛い目見るぞ!」
 「ピンチの時のタジマ頼みか。とっとと消えろゲス野郎」
 砂煙に紛れて消えた同僚の背にロンが吐き捨てる。同僚たちが走り去ったのを確認後に警棒を振りながら看守も立ち去り、あとには僕とロンが取り残された。
 「それで?いいのか、捨ててしまって。バケツに水を汲みに行くのが君の仕事だったんじゃないか」
 からのバケツを一瞥、あきれた声で指摘すればロンがこの上ない渋面を作る。
 「仕方ないだろ、お前が囲まれてるの見えて慌ててすっとんできたんだから。ああまた性懲りもなく絡まれてるドン臭いヤツだなって呆れたぜ。力でかなわねーくせに挑発するのやめろよ」
 「挑発などしてない。ただありのままの事実を述べただけだ。僕の体に触れる人間は僕が決める、彼らには僕に触れる資格も権利もない。爪垢が溜まった手で体をまさぐられるのは不快の極みだ、接触感染する病気がうつらないとも限らない。彼らときたら疫病を媒介するネズミやゴキブリよりタチが悪い、半径1メートル内に近付かれると殺虫剤を噴射したくなる」
 「お前にさわれるのはサムライだけってか」
 ロンが鼻先で笑い捨てる。反論しようとして、続く言葉を飲み込む。確かに、ロンの言い分は正しい。サムライになら触られても不快じゃない、どころか僕は心地よささえ感じている。
 昨夜だって。
 「………」
 昨夜、サムライは僕の唇を奪った。理由はわからない。
 人さし指を唇に滑らせ、物思いに耽る。 
 昨夜、深夜の図書室にホセを呼び出して真相究明した。僕の優秀な推理力が導き出した仮説はホセが黒幕だと示していた。本来僕一人で行く予定だったがサムライが強引についてきた。僕はホセを糾弾したが相手はさすが隠者、のらりくらりと核心をはぐらかされて僕より一枚も二枚も上手だと痛感するに至った。結局僕はホセの本心を暴くことができなかった。この僕ともあろう者が、IQ180を誇る天才鍵屋崎直ともあろう者が頭脳戦に破れたのだ。内心忸怩たるものがある。
 だがそれより僕を動揺させたのは、昨夜のサムライの行動。
 突然僕に襲いかかり、唇を奪ったサムライの行動。
 片手に預けたシャベルの存在も忘れ、首をうなだれ立ち尽くし、人さし指で唇をなぞる。唇にはまだキスの感触が残っている。サムライの唇は熱かった。血潮の火照りが感じられた。性急で拙いキスには切迫した一念が感じられた。何故こんなことをしたのかと理路整然と問いただすことはできなかった、僕自身動揺していたのだ。自分の身に起きたことを分析するのを頭が拒絶して、僕はサムライに背中を向けて逃げるようにその場を去った。
 サムライの唇の感触を反芻するように、指で撫でる。
 サムライは何故僕にあんな真似を?わけがわからない。理由が知りたい、動機を究明したい。だが同時に、強制労働を終えて房に帰り、彼と顔を合わせるのが気鬱でもある。
 僕にはサムライの目を見る自信がない。今朝から、いや昨夜から僕はサムライを過剰に意識してる。彼の視線や息遣いを意識するばかり普段なら絶対しないはずのミスを連発してる。洗面台の蛇口を捻りすぎて顔に逆噴射したり食事中に箸を落としたり……
 おかしい、こんなの僕らしくない。
 たかがキスじゃないか、あの程度のことで何故こんなに動揺してるんだと自分に当惑する。しっかりしろ鍵屋崎直、冷静になれ。たかがキスじゃないか、口唇接触じゃないか。舌を挿入されたわけでもない、ただ唇と唇が触れ合っただけの幼稚なキスで妄想を逞しくしすぎだ。
 きっと何か理由があるはずだ、僕の唇を奪った理由が。
 でなければサムライがあんな振るまいに及ぶはずがないと結論付ければ、脳裏に推測が閃く。
 「熱病の一種か」
 「あん?」
 妙な声をだしたロンを振り向き、人さし指を立てる。
 「僕の推測によるとあれは熱病の一種に違いない、東京プリズンの衛生状態は最悪だから悪性の疫病や熱病が流行する可能性は多いにあり得る。眩暈吐き気の他に幻覚症状を伴う熱病に罹患したのかもしれない、サムライは。そうだ、きっとそれが正しい、サムライはあの時一種の夢遊病状態だったんだ!だからたまたま近くにいた僕に……こうしてはいられない、強制労働を終えたら図書室に直行して医学書を調べねば。僕の知らない病気があったなんて不覚だ、職務をさぼって将棋に打ちこむヤブ医者は信用できない、天才の威信に賭けてこの僕が熱病の真相を究明せねば……」
 考えてみれば単純なことだ。サムライはきっと新種の熱病にかかったんだ、ゴキブリやネズミが媒介する病気に感染して昨夜あんな……あんな、サムライにはふさわしくない真似を。なんてことだ、早期に手を打たなければ。一人ぶつぶつと呟く僕をシャベルに凭れたロンが薄気味悪そうに眺めている。
 「おい鍵屋崎、頭大丈夫か。暑さでイカレちまったのか」
 痺れを切らしたロンが不審げに眉をひそめ、僕の顔の前で手を振る。
 「失礼なことを言うな、僕はサムライと違って心身ともに健康だ、寝不足気味かつ貧血気味なことを除けば体に異常はない。憂慮すべきはサムライだ、熱病の兆候に気付きもしない低脳どもだ。早期に対策を練らねば大変なことになるぞ、熱病患者が東京プリズンに溢れて手当たり次第に……ああ、僕としたことが迂闊だった!危険視すべきはネズミやゴキブリだけじゃない、蝿や蚊が病原菌を媒介することも十分あり得るじゃないか、くそ!病原菌を媒介する害虫を一掃しない限り東京プリズンに未来はない、ちょうどいい機会だ、日夜僕の平穏を脅かす昆虫綱ゴキブリ目ゴキブリを絶滅させる方法を本格的に考えねば!!」
 サムライが罹患した熱病の正体究明から害虫駆除へと目的が移行しつつあるが、まあいい。大体東京プリズンの衛生管理が杜撰だからゴキブリやネズミが繁殖して謎の熱病が蔓延するんだ、東京プリズンの体質を根本から変えない限り悪循環は断ち切れない。ロンは僕の隣で呆然としてる。僕の頭の回転の速さに完全に置いてかれて口を挟めないらしい。
 それでも顔を引き締め、何か言いかけたロンの背後をシャベルを抱えた囚人が通り過ぎる。
 「処女喪失おめっとさん!」
 は?
 ぱん、と乾いた音が鳴る。すれ違いざま囚人がロンの尻を叩いたのだ。続けざまに二・三人が通りすぎ、連続でロンの尻を叩き、揶揄とも祝福ともつかぬ卑語を浴びせる。
 「遂に男になったな、いや、女になったが正しいか?」
 「昨日はずいぶんお楽しみだったみてえじゃんか、羨ましい。隣近所に筒抜けの喘ぎ声響かせてよ」
 「後で初夜の感想聞かせてくれよ。レイジのモンのサイズとかな」
 「おかげでこちとら寝不足だぜ、壁の向こうっ側からひんひんあんあん喘ぎ声聞こえてきて毛布の中で勃ちっぱなし。強制労働控えて早めにベッドに入ったってのに目がギンギンに冴えちまったよ」
 「手がイカくせえぞ。半々の喘ぎ声に興奮して朝までヌきまくったんだろ。何回イったんだ、おい」
 「うるせえ」
 「おい半々、何ラウンド行ったんだ?レイジは精力絶倫だから一回や二回じゃ満足しねえだろ」
 「晴れてレイジの女に昇格だ。東京プリズンの女王サマ名乗れるぜ。喜べよ」
 シャベルや鍬を抱えた囚人がロンの尻を叩き、足早に去っていく。最後尾の囚人が立ち去ると同時にロンがシャベルに凭れてその場にしゃがみこむ。悶絶。首をうなだれまた仰け反らせ、激しく身をよじるロンを遠方で指さして囚人たちが爆笑する。
 「~~~~~~~~~~~~~~~いいっでええええええええっ!!!あいつらわざとケツ叩きやがったな、くそったれ!!」
 涙目で毒づくロンのもとへと歩み寄り、腕を組む。
 昨日と今日とで外見的な変化はないかと仔細に観察してみたが、いつも通りのロンだった。特に肌艶が良くなってるわけでもない。ロンは片手で尻を押さえて、片手でシャベルの柄を掴んで、きつく唇を噛みしめていた。肛門の裂傷がひどく痛むらしく、シャベルに縋って立ち上がろうと試みては、情けない悲鳴をあげて激痛に膝を屈する。
 「レイジと性交渉を持ったのか」 
 「!!なっ………」
 ロンが赤面する。どうやら図星だったようだ、わかりやすい人間だなとあきれる。囚人に軽く尻を叩かれた位で激痛にしゃがみこむなど普段のロンには絶対あり得ない。その程度のいやがらせは日常的に行われてるのだ。それが今日に限って悲鳴をあげてしゃがみこむなど処女を喪失したとしか考えられない。
 「涼しい顔して性交渉とか言うなよ恥ずかしい!」
 「自分がした恥ずかしいことは棚に上げて他人を非難するとは自省が足りないぞ。ところで僕は祝福すべきか同情すべきか、どちらだ?」
 「同情してくれ……」
 やはりな。わざとらしくため息をつく。レイジのことだ、処女喪失の激痛を和らげようと十分気を配ったのだろうが、それでも昨日の今日で強制労働にでるのは無茶だ。無謀だ。実際ロンは二足歩行はおろか二本の足で立つのも辛い状態で、シャベルに凭れてへたりこんだまま、どうしても腰を上げられない。
 尻を押さえてうずくまったロンをあきれ顔で見下ろし、言う。
 「どうする?残り八時間、強制労働を続行するか。その状態で働くのは危険だ、肛門の裂傷が悪化するぞ。僕の経験から言えば、排泄時には地獄を見るな。今日くらい大人しくベッドで寝ていればいいものを…」
 「囚人にそんな自由あるか。風邪だろうが肺炎だろうが強制労働サボったらお仕置きだ。独居房送りだきゃごめんだ」
 ロンの言い分は最もだ。たとえ風邪だろうが肺炎だろうが囚人は強制労働を休めない。シャベルに凭れて呼吸を整え、再び立ち上がろうと腰に力をいれたロンが、バランスを崩して派手に尻餅をつく。
 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!!?」
 シャベルを放り出して悶え苦しむロンを見かねて手を貸す。周囲の囚人がこちらを指さして爆笑する。
 「……あとで医務室に行って診てもらえ。薬を塗っておけば少しはマシになるだろう」
 「ご忠告どうも。くそ、赤っ恥だ!どいつもこいつも人のこと指さして笑いやがって、むしゃくしゃするぜ。なんで昨日のことがもうイエローワークの砂漠中に広まってんだよ、早すぎだよ。会うやつ会うやつ片っ端から人のケツ叩いておめでとう言いやがって!!」
 「君の喘ぎ声が大きかったからじゃないか」
 「お前も聞いたのか!?」
 ロンが顔面蒼白になる。
 「階が違うせいで聞こえなかった」
 安堵に胸撫で下ろすロンに肩を貸して、からのバケツを拾い上げ、ゆっくりと慎重に歩き出す。向かうはオアシス。ロンはオアシスに水を汲みに行った帰りだった。一歩ごとに激痛に引き裂かれる下肢をくりだして、バケツ一杯の水を両手にぶら下げて往復するのは荷が重いだろうから今日だけは特別に手伝ってやる。
 僕に担がれたロンはまだぶつぶつと呟いてる。
 「ほんっと災難だぜ。俺がケツ庇って歩き方変なのわかってて水汲み言いつけた班の連中もむかつくけど、いちばんむかつくのはなんたってレイジだよ!あいつ、ちょっとは人のこと考えろっての。医務室で一日中寝てりゃいいあいつと違って俺は強制労働あるんだぜ、サボれないんだぜ。なのに人が気を失ってからも一回二回三回……初めてなんだからもう少し手加減してくれたっていいじゃんかよ」
 「君の体に夢中でまわりが見えなかったんだろう。一年と半年我慢したんだ、大目に見てやれ」
 「体に夢中って……だからそーさらっと恥ずかしいこと言うなっての!」
 「事実だろう」
 「知らねえよ。途中で気絶したから覚えてねえっつの」
 ロンの頬は赤く染まっていた。少し熱があるらしく息が荒かった。相当激しく抱かれたんだろうと同情する。足を引きずりながら歩くロンを支えてオアシスに到着、適当な場所に座らせてバケツを持ち上げる。
 「君は休憩してろ。水を汲んでくる」
 「いいのかよ、仕事ほっぽりだして……俺に構ってる暇ねえんじゃねえの?」
 「タジマが去ってからイエローワークの看守も随分と寛容になった。さっき僕に絡んできた低脳どものように、100メートル以上持ち場を離れて行動しなければ見逃してくれるだろう。誤解するな、別に君の為じゃないぞ。万一君が倒れでもしたらそばにいる僕が迷惑を被る。まだ息がある人間を生き埋めにするのはぞっとしないからな」  
 「担架呼ぶより埋めるほうが手っ取り早いもんな」
 ロンが足を崩してその場に座り込む。地面に接した尻が痛んだらしく顔を顰め、腰を浮かせる。からのバケツを両手に下げてオアシスの斜面を下りれば「謝謝」と声が追いかけてきた。
 オアシスは人で賑わっていた。
 仕事をさぼって涼みにきた囚人がなだらかな斜面に腰を下ろし、裸足を水面に浸けて談笑してる。囚人たちに混ざり、何人か看守の姿もあった。同じく斜面に腰を下ろしてタバコを吹かしている。
 オアシスに来る度、中世の昔より井戸端が社交場だった事実を思い出す。
 大昔より井戸端が庶民の社交場として機能していたように、砂漠に生まれたオアシスもまた、看守と囚人の垣根を取り払った憩いの場として親しまれていた。
 日焼けした上半身を晒した囚人が上着を手洗いしてるのがなおさらその印象を強める。中にはジャガイモを洗ってる囚人もいる、オアシスに飛び込んではしゃいでる囚人もいるが看守は特に注意しない。
 懇々と水を湛えたオアシスは砂漠に潤いをもたらす特別な場所、砂漠の命脈なのだ。
 オアシスにいると心身ともに癒されて寛容な気分になるらしく、囚人が少々羽目を外して騒いだところで声を荒げる看守はいない。
 なだらかな斜面を滑り降りて、バケツに水を汲む。水は茶褐色に濁っていたが、喉が干上がった囚人は平気で口をつけてる。
 両方のバケツに水を汲んで顔を上げ、ふと違和感を覚える。
 何かがおかしい。いつもと違う。
 バケツを脇に置き、注意深く周囲に視線を巡らした僕は違和感の原因を悟る。わかった、昨日より囚人が多いんだ。増えてるんだ。オアシスで休憩する囚人の中にちらほらと僕の知らない顔が混ざっている。
 不審に思いながら斜面をよじのぼり、ロンの隣へ戻る。
 「早かったな」
 僕が突き出したバケツを受け取り、ロンが労う。
 「ロン、気付いていたか」
 「?」
 「囚人が増えてる」
 「ああ」
 そのことかとロンがあっさり頷く。足の間にバケツを抱え込んだロンの隣に座り、眼下のオアシスを一望する。やはり多い。オアシスで憩う囚人の中に僕の知らない顔が何人か……否、何人も混ざっている。
 オアシスの方角に顎をしゃくり、ロンが言う。
 「『新入り』だよ。昨日か一昨日か東京プリズンにやってきた新入りの強制労働が始まったんだ。お前だって覚えてるだろ、強制労働始まった時のこと。視聴覚ホールで部署発表あって、配属先が決まって……」
 「なるほど。彼らは十ヶ月前の僕か」
 「そゆこと」
 足の間に挟んだバケツに手を浸けてロンが頷く。今一度、感慨深げにオアシスに散らばる囚人たちを見下ろす。彼らは十ヶ月前の僕だ。東京プリズンに来たばかりで右も左もわからぬまま過酷な強制労働に投げ込まれて、一日一日を生き抜くだけで精一杯で、それ以外のことを省みる余裕がなかった僕だ。
 「あれから十ヶ月が経つんだな」
 「もうすぐ一年だ。頑張ったよ、お前」
 本当に、色々なことがあった。東京プリズンも僕も変わるはずだ。ロンと並んでオアシスの窪地を眺めていたら、耳に騒音が届く。
 「?」
 なんだ?
 水を汲んだバケツを置いて立ち上がり、振り向く。
 音に誘われて砂丘の頂に登れば、眼下に道があった。アスファルトで舗装された平坦な道が砂漠の中央を貫いて延々と伸びている。僕らが強制労働の行き帰りに乗り込むバスがひた走る道、安田がジープでやってくる道で前景にはバス停の標識が立っている。
 乾燥した青空の下に無限に広がる砂漠、その中央を一直線に貫くアスファルトの道。
 アスファルトの車道に目を凝らす。道路の彼方から空気を震わせてかすかに音が聞こえてくる……エンジンの稼動音。やがて、針で突いたような極小の黒点が道路の彼方に出現する。点は次第に大きくなり、車の形をとる。
 洗練されたデザインの黒塗りの高級車だ。乾いた風が吹きすさぶ砂漠にはあまりに場違いな車だ。
 車が急接近する。
 胸騒ぎが増す。腋の下が不快に汗ばみ、動悸が速まる。なんだ、この感じは。この感覚は。嫌な予感。砂漠を貫く一本道の彼方から黒い脅威が近付いてくる、とてつもなく不吉な何かがやってくる。砂丘の頂に慄然と立ち竦んだ僕は、体の脇でこぶしを握りこみ、固唾を飲んで車を凝視する。
 砂漠には場違いな、東京プリズンには場違いな異質な存在……
 黒い光沢の高級車。
 茫漠と砂煙を舞い上げて走行してきた車が僕の目の前を過ぎる刹那、後部座席の車窓に映ったのは。

 タジマ。
 何故、タジマがここに?

 「ばか、な。タジマがいるはずない、タジマが帰ってくるはずない。脊髄と頚椎を損傷する重傷でヘリを緊急要請して病院に運ばれたのに、こんな短期間で舞い戻ってくるはずがない!」
 発狂しそうだ。わけがわからない。タジマがここにいるわけない、東京プリズンに帰ってくるはずがない。だが、そうすると僕が目撃したものの説明がつかない。一瞬だけ後部座席の車窓に映ったのはタジマだった、陰険な光を湛えた双眸も嗜虐の愉悦に酔った口元もタジマ瓜二つ、タジマそのものだ!
 悪夢の再現、脅威の再来。
 眩暈を覚えてよろめく。砂に足を取られてその場に倒れこむ。砂丘の頂に手足をついた僕の眼下をタジマを乗せた高級車が颯爽と走り去る。
 濛々と砂埃を舞い上げて、威圧的なエンジン音を唸らせて、砂漠の中心に聳える巨大な監獄の方角へと―……
 背後で衣擦れの音。弾かれたように振り向いた僕を、ロンが心配げに見返している。
 砂丘の頂で独り言を喚く僕に異常を感じて斜面を這って来たらしい。
 「どうしたんだよ鍵屋崎、顔真っ青だぜ。タジマの生霊でも見たのかよ」
 「鋭いじゃないか」
 ロンの手を邪険に払い、無理を強いて立ち上がり、輝きを増す太陽に目を細める。
 車は既になく、砂煙だけが舞っていた。
 東京プリズンの方角へと一路走り去った車を砂丘の頂に立ち尽くしたまま見送った僕は、乾いた空気を肺一杯吸い込み、快晴の青空と人工物の道路を見比べる。
 そして、言う。
 瞼裏に焼き付いたタジマの顔を反芻しつつ、諦念とともに目を閉じて。
 「ロン、悪い報せだ。タジマが帰ってきたぞ」
 平穏な日々には、たった二週間で終止符が打たれた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050710214211 | 編集

 あれは幻だったのだろうか。
 タジマを乗せた車が去ってからの記憶は曖昧で、ところどころが欠落している。白昼夢の中を漂っているような非現実感。
 僕の異常を察したロンが一生懸命声をかけていた。
 僕の肩をしきりと揺さぶって、必死の形相で詰問した。
 『タジマが帰ってきたってどういうことだよ、あいつは東京プリズンからいなくなったんじゃないのかよ!?だって重傷だって聞いたぜ、この先一生車椅子生活だって、看守として復帰する見込みは絶望的……なあおい鍵屋崎聞いてんのかよ、どういうことだよタジマを見たって、お前寝ぼけてんじゃねえのかよなんでタジマがここにいんだよあのタジマが……嘘だって言えよ、なんかの間違いだって言ってくれよ!?』
 ロンの目には紛れもない恐怖が浮かんでいた。
 漸くタジマの苛めから解放されたのに、たった二週間でタジマがまた舞い戻ってきた。ロンは冷静さを失って全力で僕の言葉を否定しにかかった、前言撤回を求めて手加減なく僕の肩を揺さぶった。
 だが僕は放心状態で、その場凌ぎの嘘でロンを宥めることもできなかった。
 いつのまにか強制労働は終わっていた。
 僕は足をひきずるように自分の房に戻りベッドに腰掛けた。サムライはいなかった。時間が経つにつれあれは何かの間違い、見間違いじゃないかとの疑惑が強まる。

 あれは本当にタジマだったのか?

 ベッドに腰掛け、片手を額にあてがい、試しに自分の熱を測ってみる。
 そういえば少し額が火照ってる……気がする。熱があるのかもしれない。
 僕は熱のせいで幻覚を見たんじゃないか?
 そう考えれば納得がいく。あの時は後部座席の人物をタジマと見間違えて錯乱したが、現実的に考えてタジマが今ここにいるはずがないのだ。
 ならばあれは別人ということになる。
 「そうだ。タジマがここにいるはずない。彼は東京プリズンを去ったんだ、二度と僕の前に姿を現す心配はない。彼はもはや永久に東京プリズンを追及された過去の人間、現在の僕に影響を及ぼすはずがない」
 口に出して自分に確認、大きく深呼吸して平常心を取り戻す。
 僕ともあろう者が、妄想と現実の区別もつかなくなっていた。タジマはいない。もういない。金輪際タジマに怯える必要はない、タジマに付き纏われる恐れもない。僕は目を開けながら寝ていたんだ、砂漠で白昼夢を見ていたんだ。今日は睡眠不足で脳が覚醒してるとは言いがたい状態だったからその可能性は多いにあり得る。
 口元に自然と笑みが浮かぶ。苦味の勝った自嘲の笑み。
 「無様だな、鍵屋崎直。亡霊に怯えるなど、僕らしくもない」
 まったく、ロンの前でみっともなく騒いで取り乱して大恥をかいてしまった。房に帰り着いて冷静さを取り戻してから、その事が悔やまれる。
 単なる見間違いを大袈裟に騒ぎ立ててロンを不安にさせた。
 食堂で会った時にでも訂正しておかねば……
 「……待て、何故僕が訂正しなければならない?おかしいじゃないか。元を正せば僕が白昼夢を見たのもサムライのせい、昨夜サムライがあんな事をしたからだ。全ての責任は彼にある。僕はサムライのせいで寝不足になったんだ、彼の存在を意識するあまり神経が張り詰めて十分な睡眠が摂れなかったんだ。謝罪すべきは僕じゃない、サムライだ。これは根拠無根な責任転嫁ではなくありのままの事実だ。サムライが昨夜あんな……」

 無意識に唇をさわる。
 撫でる。
 サムライの唇が触れた場所に、微熱を感じる。

 「…………」
 一口には説明しがたい不思議な気分だ。当惑、混乱、そして……動揺?
 僕はサムライにキスされて動揺してるのか。まさか。売春班ではキス以上のことを日常的にされたのに、今さらキスひとつくらいで動揺する理由がない。相手がサムライだから?
 僕が友人と認識してる特別な男だから、だからこんなにも動揺してるのか。胸がざわめいているのか。僕はサムライを信頼している。僕には決して危害を加えないと油断して無防備な面を見せていたことは否定しがたいが……だからって、僕の無防備に付け込むような真似をするのはいつもの彼らしくない。
 「何故、キスをしたんだ」
 人さし指で唇をなぞり、小声で呟く。
 僕以外に誰もいないからこそ声に出すことができた。物問いたげに対岸のベッドを見つめる。サムライはまだ帰ってない。レッドワークの残業が長引いてるらしい。そろそろ夕食の時刻だというのに……慣れない仕事に苦労してるのだろうか。
 たかがキスだ。あの程度のことでサムライを過剰に意識しすぎだ。欧米では恋人同士に限らず友人間家族間で当たり前に交わされる親愛表現だ。だが待て、サムライは日本人だ。それも三代遡って純血の……おかしい。やはりおかしい。しかも、僕は男だ。僕は同性愛者じゃない、異性にも同性にも恋愛感情を抱いたことはないと断言する。サムライだってそうだ。
 少なくとも、僕は今までそう思っていた。
 サムライには過去恋人がいた。幼馴染であり使用人であり、世話好きな姉のような存在だった……苗。
 サムライが唯一心を許した、心優しい盲目の女性。
 サムライは今でも、苗が忘れられないんじゃないのか。
 苗のことを、愛しているんじゃないのか?
 苛立ちまぎれに頭を掻き毟り、吐き捨てる。
 「……わけがわからない。支離滅裂意味不明だ。動機が不明瞭でイライラする。サムライは同性愛者なのか?僕に欲情したのか?まさか。昨夜のあれはいくらなんでも唐突過ぎる、必然の過程を踏まえてない。やはり熱病か?高熱を発して脳に異常が起きて発情を促す脳内麻薬が過剰分泌されたのか。レイジは常に脳内麻薬が過剰分泌されていて一年中さかっているが、サムライは一年中禁欲生活をしてるから昨夜その反動がきたのかもしれない。そういえば僕はサムライが自慰してるところを見たことがない、見た目は老けているが彼も一応十代の少年だというのにどうやって性欲処理をしてるんだ?」
 疑問だ。サムライには性欲が無いのだろうか。僕はもともと性欲が薄いからタジマに強制された以外では自慰の経験もないが……論点がずれてきた。
 考えても答えは出ない。サムライが僕にキスした動機は不明だ。
 彼が何を思ってあんな行動にでたのか知りたければ本人に問い詰めるしかないが、サムライと顔を合わすのは気が重い。
 だが、これは自分でも意外なのだが……

 サムライにキスされても、嫌じゃなかった。

 扉が開いた。
 「!」
 反射的にベッドから腰を浮かし、開け放たれた扉を注視する。
 サムライがいた。強制労働から帰ってきたらしい。
 「あ……」
 何か言わなければと強迫観念に駆られて、目下最大の関心事を率直に聞く。
 「君の、自慰の経験の有無が知りたい」
 まずい、率直すぎた。
 何を聞いてるんだ僕はなんて下世話な質問だいや違うこれは生理学的な好奇心に端を発した質問であって疚しい意味は微塵もないこれは真面目な質問なんだ僕はただ禁欲的なサムライが日頃どうやって性欲を処理してるのか気になってそれで!!
 激しい自己嫌悪に苛まれて頭を抱え込む。
 廊下に立ったサムライは不審げに僕を眺めていた。
 「そんなことを聞いてどうする?」
 「今の質問は忘れてくれ、なかったことにしてくれ!!」
 頬に血が上る。大体、サムライの自慰の経験の有無を知ってどうするんだ。答えを聞いたところで僕はどう対応したらいいんだ。
 大袈裟に咳払いし、何事もなかったように姿勢を正して顔を上げる。サムライの背後で鉄扉が閉じて鈍い残響が壁にこだまする。対岸のベッドに腰掛けたサムライは胡散臭げに眉をひそめて僕の表情を探っている。
 不躾な観察に気分を害した僕は発作的に立ち上がり、憤然とサムライに歩み寄る。
 いい機会だ。
 サムライに直接聞こうじゃないか、僕にキスした理由とやらを。
 房には現在、僕とサムライ二人きりだ。
 格子窓の外から猥雑な話し声が漏れ聞こえてくるが、構わない。 
 背筋を伸ばしてベッドに腰掛けたサムライと一対一で向き合い、慎重に口を開く。 
 「サムライ、君に聞きたいことがある」
 「なんだ」
 「昨夜……、」
 突然、サムライが腰を上げる。心臓が跳ね上がる。待て、逃げる気か卑怯者めと心の中で罵倒してその背に足早に追いすがる。
 僕の質問を遮ってサムライが向かう先は洗面台。
 サムライが無造作に蛇口を捻り、水を出す。ズボンに挟んでいた手拭を蛇口の下に置いて水を含ませて、鮮やかな手際で絞る。サムライの背後で立ち止まった僕は、質問を続けようか否か迷い、虚しく口を開閉する。これはひょっとして、誤魔化されているのか。最後まで言わせまいという無言の意思表示かと邪推した僕に体ごと向き直り、サムライが言う。
 「眼鏡をとるぞ」
 「なっ」
 拒否する暇もなくサムライの手が伸びて眼鏡を外されて、視界が曇る。何をする気だ貴様、安田に直してもらった大事な眼鏡を……
 声を荒げて抗議する僕を無視、サムライが思いがけぬ行動にでる。
 サムライの顔が接近する。
 「!」
 鈍い音。背中が壁に衝突して逃げ場を失った僕は、サムライの手から眼鏡を取り返そうと試みるも、視界が曇ってるせいで遠近感が掴めないせいで上手くいかない。まさかこの展開を予期して前もって眼鏡を取り上げたのかと疑惑が深まる。昨夜の光景が脳裏にフラッシュバックする。
 図書室の扉を背に追い詰められた僕にのしかかるサムライ、熱い吐息が睫毛にふれて、唇が触れて―……
 再び、キスされるのか?
 恐怖と緊張に体が強張る。反射的に目を閉じる。暗闇。サムライの顔は見えないが、手に取るように息遣いを感じる。瞼の向こう側にサムライがいる。僕の顔を凝視する。
 そして……
 「!?いっ、あ?」
 ひやりとした感触。
 冷たく柔らかい布で瞼の上を覆われた。顔面に手をやり、僕の両目を塞いだ布をおそるおそるまさぐれば、サムライが今さっき蛇口で濡らした手拭いだった。何の真似だといぶかしんでサムライを見上げれば、当の本人があっさり言う。
 「目が腫れている。酷い顔だ。手拭いで冷やしておけば少しはマシになるだろう」
 「!!ちょっと待て、僕の目が腫れてるのは誰のせいだと……元はと言えば君が寝不足の原因、」
 「俺が?」
 サムライが不審げに眉をひそめる。
 鈍感もすぎると無神経だ。サムライと議論するのに疲れて脱力、壁に背中を凭せて素直に手拭いを受け取り、目の位置にあてがう。水の冷たさが瞼に沁みて気持ちがいい。なんだか急に眠たくなり、手拭いを押さえる腕の力が抜ける。顔から剥がれた手拭いを瞬時に拾い上げて、再び僕の瞼に押しあてたのはサムライだ。
 「……まったく。君の行動は何から何まで紛らわしすぎる」
 僕の目が腫れてるのを心配して、わざわざ手拭いを冷やしてくれた。細心の気配り、不器用な思いやり。手拭いの冷たさが火照った顔に心地いい。だが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。壁から背中を起こし、「もういい」とサムライの手をどけようとして、手拭いを顔から外した僕は初めて気付く。
 「サムライ、手に怪我をしてるじゃないか!?」
 「大したことはない」
 「大したことはないって、剣を握る大事な手じゃないか!」
 手拭いを乱暴に払い落とし、サムライの右手を掴んで引き寄せ、指を開かせる。サムライは手に火傷を負っていた。範囲はそう広くないが、皮膚が赤く焼け爛れて痛そうだった。
 薬を塗って包帯を巻いておいたほうがよさそうな怪我だ。
 「医務室で診てもらえ。夕食にはまだ時間がある」
 「その必要はない。この程度の怪我、放っておけば治る」
 「痕が残ったら大変じゃないか。そうじゃなくても君は傷だらけだ、少しは自分を大事にしろ。こないだの太股の怪我だって相当酷かったじゃないか、これ以上君の体に傷を増やしたくない」
 「俺は男だ。体にひとつふたつ傷が増えたからとて問題は」
 「そう言うなら今ここで服を脱いで全裸になれ、君の体にある傷を全部数えてやる。言っておくがひとつふたつどころじゃ済まないからな、僕を庇って負った傷は!!」
 サムライの腕を引っ張り、鉄扉を開け放つ。当然、火傷を負ってないほうの手だ。サムライは不承不承僕のあとについてくる。なんだその不満げな顔はと憤慨する。僕はこれ以上つまらない罪悪感に苦しみたくない、サムライを怪我させた責任を感じたくない。
 元はといえばサムライがレッドワークに落ちたのも僕のせいだ。
 胸の痛みを覚えながら、サムライを医務室に連れて行き治療を受けさせる。サムライは憮然としていた。この程度の怪我で医者にかかるなど情けないと自分の不甲斐なさを恥じてるのは明白だった。構うものか。
 サムライは人体の自然治癒力を過信しすぎだ。
 火傷を放っておいて、黴菌が入って悪化したらどうするんだ。
 「……包帯は邪魔だ。すぐにほどける」
 治療を終えて医務室を出てからもサムライは不機嫌だった。
 手に巻いた包帯を憮然と見下ろし、五指を開け閉めする。
 「二三日剣の稽古を休んだらどうだ」
 「できん。たとえ一日でも剣の修行を休むめば腕がなまる」
 「強情な男だな。君はそう言うが、怪我が悪化したら意味がないじゃないか」
 「俺は強くならねば」
 どこか思い詰めた口調と眼差しでサムライが呟く。僕は困惑する。
 「今だって十分強いじゃないか。まだ上を望むのか?見かけによらず強欲だな」
 大股に先を歩むサムライの背中に皮肉をなげる。だが、サムライは立ち止まらない。どこか思い詰めた横顔で無心に廊下を歩く。そのまま真っ直ぐ房に帰るかと思えば、途中で角を曲がる。
 サムライの後ろ姿はどこか、僕を不安にさせた。
 昨夜からサムライは変だ。己が内にとてつもない秘密を抱え込んだ故の不安定さがサムライの背中に表れている。歩き方に余裕が感じられない。背中はぴんと張り詰めて、痛々しいほどに研ぎ澄まされて、人を寄せ付けない硬質な空気を放っている。 
 一体どうしてしまったんだ。
 サムライと距離を埋めようと必死に足を速めるが、どうしても追いつけない。人を寄せ付けない孤高の背中。僕を冷淡に突き放す背中。
 息を切らしてサムライを追う。
 サムライが向かう先は展望台だった。
 窓ガラスが除去された矩形の出入り口が壁に穿たれた向こう側は、囚人が自由に出入りできる憩いの場だ。サムライが僕を待たずに窓枠を乗り越えて展望台に出り、さらに歩く。サムライに遅れること数秒、窓枠を跨いで展望台にでれば生ぬるい風が頬をなぶる。
 西空は朱に染まっていた。凄まじい夕焼けだ。溶鉱炉に呑まれたみたいな空だった。展望台には数人囚人が散らばっていた。その誰もが呆けたように口を開けて残照を眺めていた。
 神々しいばかりの夕日の美しさに心奪われて腑抜けに成り下がった顔。
 サムライはどこだと視線を巡らした僕の目にとびこんできたのは、若竹のようにまっすぐな背筋。
 サムライは展望台の中央に立ち尽くしていた。黄昏の残照を浴びて足元に長く影を伸ばしたその姿は不思議と絵になっていた。
 目の位置に手を翳して赤光を遮りつつ、サムライの背後に歩み寄る。サムライは振り向きもしなかった。
 どこまでも孤独に孤高に、砂漠の彼方に沈みゆく夕日と対峙していた。
 朱に照り映える横顔の眩さに目を細めて、控えめに声をかける。
 「サムライ」 
 サムライは微動だにせず立ち竦んでいた。いつか、これと同じ夕日を見た。あれは数ヶ月前、まだ僕がサムライを友人と認めていなかった頃。タジマに燃やされた手紙の灰をかき集めて、展望台に運び、風に飛ばした。あの時のサムライの姿が現在のサムライと二重写しになり、胸が詰まる。

 風に吹き散らされた微塵の灰。 
 展望台の突端に佇み、夕空へと手を差し伸べた残影。

 言葉にできない想いが込み上げて胸を締め付ける。
 口を開き、また閉じ、遂に決心して息を吸う。
 今を逃したら、二度と聞けない。
 「何故、僕にキスをしたんだ?」
 サムライが緩慢に振り向き、真っ直ぐに僕を見る。なんとも形容しがたい、深い眼差しだった。複雑な色を湛えた双眸だった。そう見えたのはサムライの双眸が夕日を照り返して朱を帯びていたからだろうか。
 地平線に沈みゆく夕日に身をさらしたサムライが、噛み締めるように呟く。
 「夢を見た」
 「夢?」
 僕からふいと視線を外し、再び夕日に向き直り、双眸を細める。
 「業火に呑まれる夢だ」
 大気が朱に染まる。空が燃え上がる。長短さまざまの人影が展望台の床に黒々と穿たれる。サムライはそれ以上語らなかった。僕もそれ以上聞けなかった。業火に呑まれる夢が何を暗示するのか僕にはわからない。だが、サムライが今ここでそれを口にしたのには理由があるはずだと直感で悟った。
 残照に染め抜かれた横顔には耐えがたい苦渋が滲んでいた。内面の激しい葛藤が窺える苦悩の表情。細めた双眸には悲哀と自責が相半ばして宿っていた。まるで、生きながら業火に灼かれて地獄の責め苦を味わっているような―……
 
 その刹那。
 サムライの目が、驚愕に見開かれた。
 
 僕が今だかつて見たことがない激情の発露……戦慄の表情。
 サムライの視線を追って正面を見た僕は、まともに残照を浴びて顔を顰める。
 瞼の裏側が朱に染まる。目が眩さに慣れてくると同時に、展望台の突端に佇んだ人影が残照に輪郭を彫り込まれて鮮明に浮かび上がる。
 その少年はこちらに背を向けて夕日を眺めていた。
 すらりと伸びやかに均整の取れた、優美な肢体の少年だった。
 周囲には他にも囚人がいたが、その少年だけが異質な……若しくは異端な存在感を放っていた。少年を包む空気からして清冽に浄められていた。
 コンクリート造りの殺風景な展望台に音もなく翼を畳み、見目麗しい一羽の白鷺が舞い降りたようだった。
 紅に暮れる世界と対峙していた少年が、緩慢にこちらを向く。
 癖のない黒髪が風に揺れて、色白の肌が残照に怪しく照り映えて、切れの長い眦が覗く。淫靡な微笑を含んだ唇だけが艶やかに赤い。
 清楚な少女と見紛うほどに端麗な容姿の少年だった。
 夕日が煌煌と燃え尽きる。
 「静流?」  
 サムライの唇がわななき、掠れた声を漏らす。己の正気を疑っているような、実際目にしてるものが信じられないといった当惑の声。
 展望台の突端に立った少年は風に吹き流れる前髪を手で押さえ、久しぶりの再会を恥じらうようにはにかむ。
 誰もが好感をもたざる得ない心の琴線をかき鳴らす笑顔だった。
 「久しぶりだね。貢くん」
 容姿に似合いの涼しげな声で、夕日に溶けた少年は挨拶した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050709162155 | 編集

 今日の献立は中華だ。
 東京プリズンの献立に中華が加わって二週間が経つ。
 中国系が最多数を占める東京プリズンでは以前から献立に中華を加えて欲しいという根強い要望があったが、上にはすげなく却下された。
 それでなくても洋食と和食の二種類のみの日替わり、ワカメの切れ端が浮かぶ味の薄い味噌汁と小骨が喉に刺さる焼き魚に炊飯、不味いマッシュポテトに脂が白く凝り固まったベーコン、黄身の潰れた目玉焼きなど味だけでなく見目も悪い料理が供給されるのだ。上の人間に献立改善の意志などあろうはずもない。
 だが、味も見た目も悪くても一日二食の貴重な栄養源であることに変わりない。
 働かずざる者食うべからずの諺を例に出すまでもない。囚人に選り好みする権利はない、好き嫌いを唱える資格もない。食べなければ飢えるのみ、贅沢を言って食事に手をつけなければ食い意地の張った同輩に横取りされるのみだ。
 連日の強制労働で空腹の極みに達した囚人は、不味い食事でも文句を言わず飯粒ひとつ残さずたいらげている。愚図愚図していたら食器を横取りされる、のろのろしていたら椅子を蹴倒されてトレイごと奪われる。
 東京プリズンにおける食事は一分一秒を競う熾烈な戦いだ、とにかく口に詰め込んで咀嚼して嚥下して消化するそのくり返しで胃袋を満たすのが肝心だ。飢え死にしたくなければ殴られ蹴られてもトレイを死守して食器を抱え込んでがっつくしかない。それが東京プリズンでまかり通る弱肉強食の掟だ。
 ところが二週間前に方針転換があり、東京プリズンの献立に待望の中華が加わった。中国系の囚人は狂喜した。中国系だけではない、食事のバラエティーが増えるのはマンネリ化した献立に飽き飽きしていたその他囚人にとっても朗報だった。
 僕が安田に交渉したのが効いたのだろうか?
 まあいい。何にせよ献立のバラエティーが増えたのは喜ばしい。
 「すごい人出だな」
 食堂の熱気にあてられて、凡庸な感想を口にする。
 食堂は混雑していた。
 油汚れが目立つ床には無数の靴跡が刷り込まれて不衛生な惨状を呈してる。
 ここの囚人は行儀が悪い。最悪だ。最下等だ。彼らの辞書にはきっと「食事作法」が載ってないのだろうと思わせる飢えた豚の如き下品極まる食べ方には思い余って目を覆いたくなる。箸を鷲掴みにして飯をかきこんでいる囚人はまだマシなほうで、中には椀に直接口をつけて無作法な音をたてて汁を啜り、口のまわりを食べ滓だらけにして手掴みで貪り食っている者もいる。
 東京プリズンの食事風景を表す言葉はこれに尽きる。
 『餓鬼地獄』。
 「俺の酢豚返しやがれ箸で目玉ほじくりかえすぞ!」
 「目玉ほじくり返されたって酢豚は返すか馬鹿やろう、もう唾つけちまったんだから俺のモンだ、この酢豚は巻きじっぽでぶひぶひ言ってた頃から俺の胃袋に入る運命が決定してたんだ、往生際良く諦めろ!」
 「適当言ってんじゃねえそりゃあ俺の酢豚だ端っこに齧ったあとあるだろ、歯型ついてんだろ!?汚ねえ唾とばすんじゃねえ、そっちがその気にならその麻婆豆腐もらうぜ!」
 「ああっ卑怯者、俺の麻婆豆腐を三分の一も啜りやがって……」
 「上等だ、火ィ吹く勢いで全部飲み干してやらあ!!」
 酢豚の奪い合いから取っ組み合いの喧嘩に発展した囚人二人が、めまぐるしく上下逆転しながら卓上を転げり、はてに床に転落。後頭部を強打してなお互いの胸ぐらを掴んで罵り合いを止めず、周囲の顰蹙を買っている。
 食べ物の恨みは根深い。派手に食器をひっくり返し、酢豚と麻婆豆腐を床一面に撒き散らして殴り合いを続ける囚人のそばを通り過ぎる。
 「あんちゃんひでえや、それ俺の湯(タン)!!」 
 「こまかいことを気にするな弟よ、この世にたった二人きりの兄弟の仲じゃねえか。血を分け合った実の兄弟、一杯の椀から湯を分け合うのも肉親の情あってこそ……いでっ、箸で刺すんじゃない、股間を狙うんじゃない弟よそこは男の急所で強姦魔の大事な場所だ!?」
 「あんちゃんの馬鹿馬鹿もう絶縁だ、あんちゃんはいっつもそうだ、小さい頃からずっとずっと俺のおかず横取りして私腹を肥やして……旧正月のお祭りの時だって俺がなけなしの小遣いで買った肉包を横からガブッて!!俺がハリボテの龍に見惚れてる隙にガブッて!!」
 「弟よ刺すんじゃない箸を凶器にするんじゃない強姦魔の凶器は下半身だ!!」
 向こうのテーブルでは残虐兄弟が口論してる。涙に目を潤ませた弟が妙に舌ったらずな口調で兄を非難、兄がしどろもどろに反論しつつ振り上げ振り下ろされる箸をかわす。反射神経がいいなと感心する。
 くりかえすが、食べ物の恨みは根深い。
 「僕としたことが不覚だった、せめてあと三分早く来るべきだった。すでに席がないじゃないか」
 食堂を見まわして舌打ち、食器を載せたトレイを抱えて立ち往生する。
 席争奪戦に出遅れたのが致命的だった。途中展望台に寄ったりせず真っ直ぐ食堂に来ればこんなことにはならなかった、と悔やんでも遅い。
 席はあらかた埋まっている。
 このままでは立ちっぱなしで食事をとることになる。
 「キーストア!」
 混雑した食堂を見渡して途方に暮れた僕を誰かが呼ぶ。聞き覚えある声に振り向けばレイジが軽薄に手を振っていた。既視感。以前にもこんなことがあったなと思いながらサムライを連れて通路を歩く。
 喧騒の渦と猥雑な通路を抜けて、一階中央やや左寄りのテーブルに到着。
 レイジがいた。隣には仏頂面のロンもいた。
 「何故君がここにいるんだ。入院中じゃないのか」
 「退院したんだよ。一分一秒でも長くロンと一緒にいたいって無茶言って、ちょーっだけ早めにな」
 レイジはこの上なく幸せそうににやけていた。馴れ馴れしくロンの肩に腕を回して抱き寄せて、向かい席を顎でしゃくる。
 「座れよ」
 レイジの向かい席には先客がいたが、その一声でトレイを抱えて立ち去ってしまった。職権乱用、もとい権力乱用だ。東棟の王様から晴れて東京プリズンの王へと昇格したレイジの命令には誰も表立っては逆らえない。
 それまで椅子を温めていた囚人と入れ替わり着席、ため息をつく。
 「王様は不死身か。左目を失明して背中に火傷を負った割には随分元気そうだが、まさか仮病を使って医務室のベッドを独占していたのか。東京プリズンの王様に出世して以降やりたい放題じゃないか」
 勿論イヤミだ。レイジが機嫌な理由はわざわざ聞かなくても見当がついた。愛情こめてロンの肩を抱く仕草で一目瞭然だ。野生の豹は舐めて傷を治す。ペア戦から二週間が経ち、レイジは脅威的な回復力を見せたがまだ体調は万全とは言えない。ナイフで焼かれた背中の火傷が痛むらしく、時折顔を顰めてるのがその証拠だ。
 「キーストアってば相変わらず毒舌な。久しぶりに顔合わせたんだ、退院おめでとうとか俺がいなくて寂しかったとかお祝いにキスしたげるとか温かい言葉かけてくれもバチあたらねーと思うけど?」
 「どうせならその口も縫合してもらえばよかったのに。僕なら舌も切除するがな」
 箸を手に持ちあきれる。同情をこめた眼差しをレイジの腕の中のロンに向ければ、本人は憮然として、箸で摘んで口に放り込んだ酢豚を咀嚼していた。レイジの腕を肩にかけたままでいるのは怪我人に遠慮してるからか、自分の体が辛いからかと邪推する。
 まだ尻が痛むのだろうか?……痛むに決まっている。
 あの後医務室で診てもらったか確認したかったが、食事中にだす話題ではないと自重して酢豚を咀嚼するのに集中する。
 レイジの隣のロンから、隣のサムライへと視線を移す。
 サムライは黙々と箸を使っていた。
 いつものことだが、思わず見惚れてしまうほど姿勢がいい。
 「………」
 サムライに聞きたいことがある。
 『静流?』
 耳の奥に殷殷と声が甦る。
 黄昏の展望台でサムライと対峙した少年の姿が脳裏で像を結ぶ。最涯ての夕日を背景に振り返る囚人……黄昏の涼風に舞う黒髪、睫毛の影に沈んだ物憂げな双眸、艶やかに赤い唇。一瞬性別を見誤った。全体的に線が細く骨格が華奢で、白鷺の化身めいて優美な肢体が残照に映えていた。
 美しい少年だった。
 東京プリズンには不似合いな、場違いな、異端の存在。
 東京プリズンにいること自体が間違いではないかと思わせる特異な存在感の持ち主。
 風に吹き流れる前髪を手で押さえ、少年はかすかに微笑んだ。一陣の涼風が胸を通り抜けるような清冽な微笑みだった。
 『久しぶりだね。貢くん』
 少年は親しげにサムライの名を呼んだ。サムライが過去に捨てた名を呼んだ。幾許かの恥じらいと溢れんばかりの親愛の情をこめ、みつぐ、と。

 サムライと少年は知り合いだった。
 恐らく外にいた頃の……僕がまだサムライと出会う前の。

 その場はそれで終わった。
 サムライは迅速に背中を翻して展望台を去った。静流と呼ばれた少年の視線に追いたてられるように、逃げるように。二人の間に会話はなかった。サムライの態度はどこかよそよそしかった。僕はあれからずっと静流と名乗る少年との関係を問いただしたかったが、サムライの横顔がそれを拒絶していた。
 一体「静流」とは誰だ、何者だ、どういう関係なんだ?何故東京プリズンにいるんだ。静流は僕たちと揃いの囚人服を着ていた。ということは何らかの犯罪を犯して、囚人として東京プリズンに収監されたということだ。
 そこまで考えて困惑する。展望台で会った静流の印象と犯罪とがどうしても結びつかない。東京プリズンに収監されたということは即ち、社会に危険視される重犯罪者の烙印を押されたということ。
 僕は両親を殺害して東京プリズン収監が決定した、サムライもまた実父を含む道場の門下生十三人を斬殺して東京プリズンに送られた。ロンもレイジも殺人の前科がある。
 静流は?
 静流は一体、何をしたんだ。
 「………腑に落ちない」
 静流との関係が気になるあまり食がはかどらない。
 やはり直接サムライに聞いてみよう。箸を揃えて置き、サムライに向き直る。サムライは音をたてずに椀の汁を啜っている。
 よし、今だ。
 「サ」
 「聞いたぜ半々、ご開通おめでとうってか!?」
 口を開くと同時に邪魔が入った。
 話を遮られた不快感も露わに正面を向けば、子分を五・六人引き連れた凱がロンの背後に立ち塞がっていた。
 ロンが腰掛ける椅子の背凭れに寄りかかり、凱が野太い哄笑をあげる。
 「昨日はずいぶんとごさかんだったみてえじゃんか。レイジに突かれて喘いでケツ振って気ィ失うまで玩ばれたんだろ、可哀想に。おや、ズボンの尻に赤い染みができてるぜ。生理かよ」
 レイジが隣にいてもお構いなしにつっかかる凱に眉をひそめる。ロンをおちょくる絶好のネタができたと嬉々としてやってきたらしくまわりの状況が見えてない。愚かな裸の王様だ。 
 「消えろよ凱。飯どきにちょっかいかけてくんな」
 ロンは露骨に顔を顰めて凱の腕を振り払いにかかるが、凱はしぶとい。ロンの処女喪失という美味しいネタを逃す手はないと満面に下劣な笑みを湛えて、嫌がるロンの手を乱暴に叩き落として無遠慮に体をまさぐりだす。
 上着の裾から手を潜らせて腹を揉みしだき、さらに調子に乗ってズボンに手をかける。 
 「どれ、この俺サマ直々にお前のケツの具合確かめてやるよ。マジで処女膜破れてるかどうか指突っ込んで確かめてやる」
 「!ちょっ、どこさわって……いい加減にしろメシ時に、っあ」
 箸を鷲掴んでロンが身悶える。激しく身を捩れば肛門の裂傷が痛むらしく、腰の動きを制限されては凱の手を振り解くこともできない。箸をへし折らんばかりに力を込めてこぶしを握りこみ、恥辱に頬染めるロンを楽しげに眺めながら凱がズボンを引き下げて……
 「ぎゃああああああああああああああああっ!!!」
 凄まじい絶叫が駆け抜ける。
 「凱さん!?」
 「凱さん大丈夫っスか、しっかり!!」
 床で七転八倒する凱に血相変えて子分が駆け寄る。
 テーブルに上体を突っ伏して荒い息を吐くロンの隣、体ごと凱に向き直ったレイジが微笑む。
 怒りの波動が大気を震わせてこちらにまで伝わってくる笑顔。
 ぎりりと音が鳴るほど肉を挟み、凱の手の甲を思いきり抓り上げたレイジがその場にしゃがみこみ、床に伏せった凱の顔を覗きこむ。
 周囲の囚人が箸を止めて息を呑み、床にしゃがみこんだレイジと凱を注視する。
 喋り声はおろか食器の触れ合う音すら完全に途絶えた静寂の中、絶対的優位を誇示するごとく凱の頭に手を置き、宣言。
 「俺の女に手をだすな」
 そそくさと着衣の乱れを整えたロンが顎も外れんばかりに口を開ける。
 近隣テーブルの囚人があ然と箸を取りこぼす。
 間の抜けた沈黙がたゆたう中、レイジは言いたいこと言って満足したといわんばかりに椅子に戻って腕を組む。優雅に腕を組み、尊大にふんぞり返ったその姿には一種の風格さえ漂っていた。  
 野生のフェロモンで雌をたぶらかして、ハーレムを築いた肉食獣の風格が。
 ……察するにあれが決め台詞だったのだろう。あきれかえって二の句を継げない僕の視線の先でみるみるロンの顔が紅潮する。
 「~~~~~お前の女になった覚えはねええええええっ!!!」
 「いでっ、でででででででえっ痛いロンほっぺは痛てえ!?」
 「わざと痛いようにやってんだから大いに痛がって反省しやがれ、誰がいつお前の女になったんだよ一回ヤッたぐらいであることないこと言ってんじゃねえこの色鬼!!」
 「色鬼……スーグイ、台湾語でスケベという意味だ」
 「解説いらねえから助けろキーストア!?俺一応怪我人怪我人、ギブ、ギブだって!!」
 「あれは約束だから仕方なく抱かれてやったんだよ、お前がどうしても俺抱きたいって夜這いかけてきたからムゲに追い返すのもアレだしって情ほだされて扉を開けてやったんだよ!そしたらいきなり押し倒して舌突っ込んできやがって……なんだよあの強姦魔みてえなキスは、よっぽど噛み千切ってやろうかと思ったぜ!」
 「過ぎたこと今さらぐじぐじ蒸し返してケツの穴のちっせえ男だな!あ、ちなみにこれマジだから、そのまんまの意味だから。お前だってまんざらじゃなかったくせに俺だけ悪者扱いかよ、昨日はあんなに可愛かったのに、俺に組み敷かれてもう無理これ以上無理あっああっイく、イくーうってよがり狂ってたのはどこの誰だよ!!俺にしがみついてがくがく首振って涙目で喘いでたのは、俺のモンが奥まであたってるって頬赤らめて甘い喘ぎ声あげてねだるように腰擦りつけてきたのは」
 「……………なっ、そっ、いっ…………」
 ロンの顔色が赤を通り越して青くなる。満員御礼の食堂で、大勢の野次馬が聞き耳を立てる中で赤裸々な痴態を暴露されたのだ。レイジを呪い殺したくもなるだろう。
 レイジの頬をぎりぎり抓り上げていた指を外してうろたえるロンにさかんに野次が飛ぶ。ついでに食器も舞い飛ぶ。
 「今の聞いたか?くそっ、レイジが羨ましいぜ」
 「昨日の半々はさぞかし素直で可愛かったんだろうなあ。レイジのモンが欲しい欲しいって一生懸命腰擦りつけてきたんだろ、にゃーにゃー甘い鳴き声あげてレイジのモンねだったんだろ。想像しただけで勃っちまった」
 「俺、軽くイッちまった」
 「溜まってんなあお前」
 「おーい半々、ここで服脱いでレイジにつけられたキスマーク見せてくれよー」
 「俺たちが数えてやるからさあ」
 ロンの呼吸が浅く荒くなり、目が真っ赤に充血する。危険な兆候。さすがにやりすぎたとレイジが気付いた時には遅く、テーブルを平手で叩き、トレイを盛大にひっくり返して席を立ったロンが唾をとばして罵倒する。
 『暇正経!!!』
 鈍い音をたて椅子が転倒、台湾語で罵られたレイジが目をしばたたく。
 そのままこぶしを振り上げ殴ろうとして思い止まったのは、一応相手が怪我人だと自制心が働いたからか。怒りに震えるこぶしを押さえ込み、血走った目でレイジを睨みつけ、ロンが颯爽とその場を走り去る……訂正。五メートルも行かずに転倒、周囲の野次馬から情け容赦ない嘲笑を浴びる。
 片手で尻を押さえ、片手でテーブルの縁を掴んで立ち上がったロンが手近の食器をすくい力任せにこちらに投げる。
 レイジの足元で食器が跳ねて、甲高い金属音を奏でる。
 「やべ、怒らせた」
 「冷却期間を持て。間をおかずに追うのは逆効果、さらに怒らせるぞ」
 喧しい野次を背中に浴びて、足をひきずりながら食堂を去るロンにため息をつく。
 「ロン、さっきなんて言ったんだ」
 「説明したくない。空気で察しろ」
 実際、あまりに頭の悪い言葉だから僕の口から説明したくなかった。ロンの背中を見送って椅子に腰を下ろしたレイジがしょげかえる。
 まったく、性交渉を持っても進歩のない連中だとあきれる。レイジとロンが性懲りなく痴話喧嘩してる最中もサムライは冷静沈着に箸を運んでいた。
 レイジの隣に空席ができた。
 「……あー、おれ馬鹿だ」
 「自覚症状があるのは結構なことだ」
 サムライを見習って箸の動きを再開、酢豚を摘みながら言う。レイジはロンを傷付いたことに対して激しい自己嫌悪に苛まれてるらしく頭を抱え込んだまま身動きしない。レイジが落ち込むとは珍しいこともあるものだと箸を動かしがてら興味を持って眺める。
 「率直に言って、何故ロンが君に抱かれたのか理解に苦しむ。今世紀最大の謎だ。どのような思考過程を踏んで君との性交渉に至ったのか生理学的な興味すら覚える」
 「同感だ」
 サムライが頷き、レイジの首の角度が急傾斜する。ロンは啖呵を切って走り去ったまま戻ってくる気配がない。強制労働に疲れ果てて空腹だろうに、夕食を半分以上残したままだ。今頃どこでどうしてるだろうとロンの行方に思い馳せつつ惰性で箸を口に運ぶ僕の正面、頭を掻き毟って悲嘆に暮れていたレイジが突然顔を上げる。
 「?」
 レイジの視線を追って背後を振り向き、硬直。
 レイジの視線が射止めていたのはトレイを抱えて通路をさまよう一人の少年……さっき、展望台で会ったばかりの少年だ。空席をさがして通路を歩いているが見渡す限り全部先客で埋まっているらしく、途方に暮れた様子だ。
 「わお、別嬪だ」
 レイジが口笛を吹き、僕が見てる前で席を立ち、大仰に手を振る。
 「おーい新入り、ここ空いてるぜー。カモンベイベー」
 危なく手を滑らして食器を落とすところだった。
 「何で呼ぶんだ!?」 
 「なんでって、困ってたからさ」
 胸ぐらに掴みかからんばかりに語気荒く追及してもレイジは動じずに飄々としてる。ロンと喧嘩別れしたばかりだというのにその態度はなんだ、反省の色なしだ。レイジに手を振られた少年がこちらに視線を向け、自分に背中を向けたサムライに気付く。
 そして、微笑む。
 育ちの良い物腰と上品な所作が溶け合わさった優雅な歩みで少年がこちらにやってくる。少年が通りすぎたそばから近隣テーブルの囚人が口笛を吹き、熱っぽいざわめきが伝播する。
 食堂中から好奇の眼差しを浴びても少年は動じず歩みを止めない。通路の人ごみを貫いて威風堂々と歩くその姿に誰もが魅了され、目を奪われる。
 「ここ、いいかい」
 ちょうど僕とサムライの中間の位置で立ち止まり、少年が控えめに聞く。
 僕らの背後に立っているが、視線はレイジに向けている。箸を口に咥えて椅子を揺らしながらレイジは「どうぞどうぞ」と頷いた。尻軽め。
 声に反応して、サムライが顔を上げる。
 箸を持つ手が止まり、サムライの双眸が鋭くなる。
 「貢くんの友達か」
 僕とレイジを見比べていた視線が、やがて僕でとまる。トレイを卓上に置いた少年が体ごと僕に向き直り、片手をさしだす。僕に握手を求めてるらしい……が、応じる義務はない。潔癖症がある程度改善された今でも僕はできるだけ他人との接触を避ける傾向にある、初対面の人間と握手するなどとんでもない、どんな黴菌を持ってるかしれないじゃないか。
 「その手をどけろ。どんな黴菌を持ってるかわからない他人と無差別に握手する趣味はない、僕と握手したければ最低三十回手を洗浄したのち殺菌消毒……」
 そこまで言いかけて、続きを呑みこむ。
 少年がまじまじと僕の顔を眺めているのに不審を覚えたからだ。
 なんだ、人を珍しいものでも見るみたいに……不愉快だ。そんなに僕の顔が面白いか?レイジのように特別綺麗なわけでもない、サムライのように異様に眼光鋭いわけでもない、この平凡な顔が。
 確か、名前は静流と言ったか。
 眼鏡のブリッジと人さし指で押さえ、冷ややかな目つきで静流を睨みつける。静流は依然物言いたげな表情で僕の顔を隅々まで凝視している……観察している。 
 何だ、この感じは。
 何とも形容しがたい不思議な感覚だった。静流との会話は水鏡と対峙するのに似ていた。明鏡止水の四字熟語をそのまま体現したような、静かな流れという名がそのまま人の形をとったような、この場にいるのにこの場にいないかのような奇妙な掴み所なさ……

 水のような目だ。
 静かな流れ。静流。 

 そして、静流は言った。
 相対した者の心をそのまま映し出す水のように静謐な目で僕を見据えて、思いがけないことを。
 僕がいちばん言われたくないことを。
 「君、苗さんに似ているね」
 宣戦布告ともとれる第一声だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050708030407 | 編集

 『君、苗さんに似ているね』
 「な、……」
 口を開き、また閉じる。
 静流が礼儀正しく会釈してレイジの隣に腰掛けてからもなお僕の衝撃は冷め遣らず、思考停止状態から脱しきれてなかった。
 僕と苗が似ている?どういう意味だ、それは。単純に容姿のことを指して言っているのか。静流は苗のことを知っているのか、苗とも知り合いなのか?苗は帯刀家の使用人でかつてサムライの恋人だった、その苗とも面識があるということはすなわち静流は帯刀家の関係者であって……
 頭が混乱する。気が動転する。
 僕が苗に似ている。もしそれが事実だとしたら、僕が東京プリズンに来た当初からサムライが世話を焼いていた理由が判明する。自殺した恋人によく似た人間が突如目の前に現れたら誰だって平常心を保つのは難しい。たとえ性別が違っても顔が似ているなら、死んだ恋人の面影を重ね合わせて彼女に出来なかった分も構いたくもなるだろう。
 そうだったのか。
 サムライが東京プリズンに来たばかりで右も左もわからない僕を気にしてたのはただそれだけの理由か。僕はやっぱり、どうしようもなく、苗の身代わりだったのだ。最初から。
 スッと体の内側の温度が下がった。
 箸を握る手の感覚が消失、食欲が減退。自分がいる場所がどこかわからなくなる、前後左右の空間把握ができなくなる……現実感の喪失。僕一人虚空に放り出されたかのような孤独感……心許なさ。
 静流を問い詰めたい。サムライを問い詰めたい。
 はたして僕は本当に苗に似ているのか。
 初対面の静流に指摘されるほどに苗の面影を宿していたのか?
 だからサムライは同房になった当初から現在に至るまで無力な僕を献身的に庇ってくれた、自分の身を犠牲にしてまでも守り抜いてくれたのか?
 僕の中に苗の面影を見出して、かつて死なせてしまった恋人の身代わりに今度こそはと……

 僕は結局、苗の身代わりにすぎなくて。
 僕が苗に似ていたから、サムライは。

 サムライの横顔に視線を転じる。
 サムライは何も答えない。向かいに座った静流の姿が目に入らないはずないのに敢えて無視して今まで通り食事に没頭してる。器用に箸を操って酢豚を摘んで咀嚼、嚥下、そのくり返し。サムライの横顔からは何の感情も汲み取れなかった。いつにも増して硬い能面めいた無表情は、静流の呼びかけはおろか僕の問いかけをも拒んでいるかに見えた。
 様子が変だ。
 静流はサムライを「貢」と呼んだ。親愛の情を込めた呼び方だった。
 しかし呼びかけられたサムライの態度はそっけない。展望台では挨拶も交わさず背を翻して、今また食堂で一緒になっても静流の目さえまともに見ない。
 サムライは静流を避けてる。
 一体、二人の間に何があったんだ。
 「………」
 奇妙な沈黙が流れる。サムライは黙々と食事にいそしむ。僕は手にした箸の存在も忘れて静流の挙動を観察する。僕の視線に気付いてるのか、はたまた気付かないふりをしてるのか、スッと椀を持ち上げて汁を啜る静流。
 そんな静流を不躾に眺め、テーブルにだらしなく頬杖ついたレイジが呟く。
 「別嬪だなあ。ところで、サムライの知り合い?」
 静流が椀を置き、意味ありげな笑みを深めてサムライを一瞥。
 静流が何か言いかけたのを遮り、サムライが仏頂面で答える。
 「いとこだ」
 「いとこだと?」
 反駁したのは僕だ。意外だった。帯刀家の関係者だろうと漠然と察してはいたが、いとことは驚きだ。血の繋がりがあるにしては容姿に類似点がない。
 箸を持ったまま静流とサムライを見比べた僕は、素朴な感想を述べる。
 「いとこの割には似てないな」
 「僕の母が莞爾さん……貢くんのお父さんの妹なんだ」
 静流が補足する。なるほど、いとこか。親戚だったのか。いとこならば幼少期から行き来があるだろうし苗のことを知っていてもおかしくないと納得する。そこで初めてサムライが顔を上げ、まともに静流を見た。
 思わぬ場所で再会を果たしたいとこに対して、今だにどんな態度をとるべきか決めかねてる複雑な顔。 
 「叔母上は健やかにしているか」
 「死んだよ」
 静流はさらりと答えた。サムライの顔に初めて表情らしきものが浮かぶ。驚愕、そして悲哀。静流の言葉にひとかたならぬ衝撃を受けたサムライは、いっそう厳しい顔つきで黙り込む。
 食事を中断、トレイに揃えて箸を置く。
 己の膝を掴んで首を項垂れ、吐息をつく。
 「……俺のせいか」
 「おかしなことを言うね。なぜ貢くんのせいなんだい」
 静流が悪戯っぽく笑う。
 「俺は、帯刀の家名に泥を塗った。あの一件のせいで帯刀は家名断絶、累は一族郎党に及んだと風聞で知った。叔母上とて世間に非難されたはずだ。叔母上は帯刀の生まれに誇りを持っていた、武家の女の矜持に支えられて生きてきた。それを……」
 「寿命だったんだよ、母さんは。貢くんだって知ってたろう、母さんが癌を患っていたことを。ここ何年かはずっと臥せっていて、本家に出向くこともなかった。事件が起きても起きなくても遠からず寿命を迎えていた。貢くんが死期を早めたわけじゃない、自分を責める必要なんてどこにもない」
 「しかし、」
 「母さんのことだけ?」
 またあの目だ。吸い込まれそうに深く清冽な水鏡の目、相対した者の心を反射する止水の目。
 丁重に箸を置き、サムライを見つめる静流。
 「薫流姉さんのことは気にならないの」
 「薫流」の名にサムライが示した反応はごくかすかなもので、記憶の襞をさぐるように双眸を細めただけだった。
 「薫流か。懐かしいな。今はどうしている」
 サムライの問いに静流は答えず、ただ笑っている。
 笑いながら箸を取り、食事を再開。片手に椀を抱えて上品に汁を啜りながら続ける。
 「貢くん、覚えてるかい。ずっと昔、まだ本家と分家の行き来があった頃……僕と姉さんが本家に遊びに来てた頃、苗さんもまじえて隠れんぼしたことがあったでしょう」
 「ああ」 
 「貢くんが鬼で、僕らが隠れる側。本家の庭はとにかく広くて、沢山木があって、隠れる場所には事欠かなかった。僕は夢中で逃げた。貢くんが百数え終える前に必死で隠れる場所を捜した。そして見つけたんだ、ちょうどいい場所を。屋敷の裏手に生えてる桜の老木の洞……子供ひとり隠れるのにちょうどいい奥行きがあって、立派な枝ぶりが邪魔して外からはちょっと見えにくい位置にあった。僕は下駄を鳴らして洞に隠れて、暗闇で膝を抱えて、貢くんがやってくるのを待った。ここなら絶対見つからないって安心して……そうしたら」
 当時のことを思い出し、静流が愉快げな笑いを漏らす。
 鈴を転がすように無邪気な笑い声。
 「背中が変にもぞもぞして、あれなんだろうっておそるおそる手探りしてみたら毛虫が這ってて……あの時は本当にびっくりした。隠れんぼしてることも忘れて無我夢中で飛び出して、貢くんに泣きついた。みっちゃんお願いだからこれ取ってって大騒ぎして、一体何事だって苗さんと姉さんまで出てきて、かくれんぼどころじゃなくなって……」
 「そんなこともあったな」
 サムライが苦笑する。幼少期の思い出に触れて緊張がほぐれたか、顔から硬さがとれて、目には追憶の光が宿っていた。
 「貢くんは眉ひとつ動かさず毛虫を払ってくれた。姉さんには叱られたよ、こっぴどく。見た目だけじゃなく中身もまるで女の子ね、毛虫一匹で騒いで情けない、帯刀の男子の風上にもおけない臆病者だって……少しは貢くんを見習えって。慰めてくれたのは苗さんだけだった。あの頃は苗さんが本当の姉さんならよかったのにって思ってたよ。薫流姉さんは子供の頃からそりゃあ意地が悪くて常日頃から僕を玩具にしてたから…あとからわかったんだけど、あの時、木の洞に潜りこんだ僕の背後にこっそり忍び寄って毛虫を投げ込んだのも薫流姉さんだった。さもあらん、さ」
 「薫流はお転婆だったな」
 「ひどい姉さんだった」
 受難の幼少時代を回想する静流の顔には、言葉とは裏腹に幸福そうな笑みが浮かんでいた。   
 「鯉を獲って来いと池に突き落とされたこともあった。姉さん、鯉料理が食べたかったんだ」
 ……ひどい姉だ。
 思い出話に華を咲かせるサムライと静流を横目にほそぼそと夕飯を食べる。
 さっきまで静流を無視していたのに、避けていたのに、共有の思い出を懐かしむサムライの顔には柔和な表情がたゆたっている。静流に対する警戒心を解いて幼い頃の思い出話に興じるサムライの横でまずい酢豚をかじる。食が進まない。食欲がない。過酷な強制労働で疲れきって空腹なのに、味覚が麻痺したように味けなくて酢豚に伸ばした箸先が鈍る。
 「イッツア・スモールワールド。二人の世界だ」
 「!」
 はっと顔を上げる。
 テーブルに身を乗り出したレイジがにやにや笑いながら僕の顔を覗き込んでいる。不愉快だ。元はといえば君が静流を呼んだのが原因だろうと文句をつけたくなるが大人げないと自粛、食事に集中するふりをする。
 そんな僕に顔を寄せ、レイジが耳打ち。
 「仲間はずれで寂しい?」
 意地悪くほくそ笑むレイジに反発心がもたげる。
 「馬鹿な。何故僕が疎外感を覚えなければいけない。久しぶりに顔を合わせた身内同士積もる話もあるだろう、僕の存在など念頭から忘却して思う存分気が済むまで思い出話に没頭すればいい、彼らの話に介入するきっかけが掴めないからといって所在なく酢豚をつついてるわけじゃないぞ。空気を読んで発言を自重してるんだ」
 「嘘つけ、ホントは羨ましいくせに」
 「君こそ、ロンと喧嘩した直後に浮気心をだすとはいい度胸だな。反省機能が備わってない欠陥人間め」
 「ビジンに親切にすんのは浮気のうちに入んねーよ」
 レイジがおどけて首を竦める。サムライと静流は童心に返って思い出話に耽っていて僕が介入する隙はない。サムライと静流の話し声を聞きながら居心地悪く俯く。サムライと静流の間に流れるのは幼少期を共有した者同士の親密な空気、他人が割り込む隙はない。
 僕は除け者でよそ者で邪魔者だ。
 箸を咥えて独りごちる僕の脳裏で静流の声が再生される。
 『君、苗さんに似ているね』
 あれは、どういう意味だ?
 胸が不吉にざわめく。徐徐に平静を保てなくなる。箸を握る手に力がこもる。僕が苗に似ているから何だというんだ、それがどうしたというんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。
 静流に対する反発心が急沸騰、喉元に苦汁が込み上げる。
 「弟の口から言うのもなんだけど、薫流姉さんは美人になったよ」
 静流が言う。
 「貢くんは随分会ってないから知らないだろうけど会えば驚く……」
 「恵のほうが可愛い」
 考えるより先に口が動いた。
 言葉を遮られた静流が、今初めて僕がそこにいることを思い出したとでもいうふうに目を丸くする。サムライが胡乱げに僕を見る。一同の注視を浴びた僕は「しまった」と焦るが、もう遅い。
 今さら後戻りできないと覚悟を決めて饒舌に続ける。
 「君の姉がどれだけ美人かは実際に見てないから評価は差し控えるが、僕の妹には到底かなわない。恵は客観的に評価して十分可愛い。小動物めいて庇護欲をくすぐる黒目がちの瞳と小さな鼻、丸みを帯びた唇、小造りの顔……容姿だけじゃない、性格もいい。少し人見知りするきらいはあるがとても善良で心優しい自慢の妹だ、あと十年経てば君の姉―たしか薫流といったか―とは比較にならない素晴らしい女性になること確実だ。十年間誰より近くで恵の成長を見守ってきた天才が断言するんだ、間違いない」
 誰より愛しく愛らしい恵の笑顔を思い浮かべながら断固主張、ここに写真があれば実証できるのにと悔しさに歯噛みする。
 静流は目をしばたいてる。サムライはあ然としてる。レイジは爆笑する。
 三者三様の反応を見比べて、どうだ思い知ったかと腕を組む。
 静流の姉より恵の方が容姿が優れてるに決まってる。静流が姉を自慢するなら僕は恵を自慢する。大体僕の恵が静流の姉に負けるわけないじゃないか。
 恵の可愛さは偉大、よって恵は無敵だ。
 静流も実姉を慕ってるらしいが、妹を溺愛する度合いに関しては僕の右に出る者はない確信と自信がある。
 「世紀のシスコン対決だ。おもしろくなってきた」
 レイジが口笛吹いて茶化す。まさか僕と正面対決させるのが目的で静流を呼んだのではあるまいなと疑惑が芽生える。呑気に頬杖ついて見物を決め込むレイジを睨みつけ、椅子の背凭れに寄りかかり静流と向き合う。
 「確か静流と言ったか?君の実姉には全くもって何の興味もない、実の弟の口から美人だと聞いても信用に足る根拠がない、偽証の可能性も否定できないからな。第一『しずる』の姉が『かおる』だなんてあまりにも単純率直なネーミングじゃないか。韻を踏んで語感をよくしたつもりだろうが、春の次に夏が秋の次に冬がくるような単調さだ。もう少し独創性が……」
 「直」
 サムライが僕の肩を掴む。その手を邪険に払い落として挑戦的に静流を睨みつける。一触即発の緊迫感が卓上に立ち込める。前言撤回するつもりは毛頭ない、謝罪するつもりもない。僕が言ったことはすべて真実だ。
 さあ、言い返せるものなら言い返してみろと静流の返答を待つ。
 不意に、静流が身を乗り出す。
 ごくかすかな衣擦れの音が耳朶をくすぐり、静流の吐息が顔にかかる。身を引く暇もなかった。決して素早い動きでないにも関わらず、一挙手一投足に隙がない。卓上に手をついて、睫毛が触れる距離で僕の顔を覗き込み、静流が小首を傾げる。
 「名前をまだ聞いてなかったね」
 「言う義務がない」
 「知りたいんだ。教えてくれないかな」
 あくまで穏やかな物腰で静流が申し出て、毒気をぬかれた僕は淡々と自己紹介する。
 「鍵屋崎 直。サムライの同房者だ」
 「カギヤザキ ナオ……名前まで苗さんに似てる。偶然にしては出来すぎだ」
 眼鏡のブリッジに中指を押し当てた僕の正面で、さもおかしそうに静流が笑う。癇にさわる笑い声だ。何か言い返そうと口を開いた僕の肩に静流がそっと手を添える。握力自体は決して強くなかったが、有無を言わせず相手を従わせる威圧感があった。
 僕の肩に手を添えて押し止めた静流が、耳朶に口を寄せ、囁く。
 僕にしか聞こえない声で。
 「そうか。苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは」
 『苗が死んで、僕に乗り換えた』。
 甲高い音が鳴る。僕の手から滑り落ちた箸が床で跳ねる音。
 「貢くん、あとでここを案内してくれないかな。僕、来たばかりで地理がわからなくて……迷子になってしまいそうで心許ないんだ。貢くんの都合が悪ければ君でもいいけど」
 サムライと僕を交互に見比べて静流が聞く。 
 「冗談じゃない、何故この誇り高い天才自ら案内役を努めなければいけないんだ。君など東京プリズンの地下迷宮で遭難……」
 「キーストアがいやなら俺が案内してやろうか?」
 難色を示した僕を押しのけるようにレイジがしゃしゃりでれば、静流は首を振る。
 「君はさっき食堂をとびだしてった子に謝りに行ったほうがいい。あの子、相当怒ってたみたいだから」
 「ちぇ、つれねーの」
 レイジがしぶしぶ引き下がる。口元に微笑を湛えた静流が謎めいた目で僕を誘う。
 『君、苗さんに似ているね』
 『苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは』
 前述の言葉の真意が知りたければついて来いと挑発する、艶かしい流し目。
 眼鏡のブリッジに指を添えて逡巡する。静流の誘いを断るのは癪だ。僕が静流に怯える必要などない、静流に引け目を感じる必要などどこにもないのだ。僕はただ真実が知りたい、僕と苗が似ていると言った静流の真意を確認したいのだ。
 深々とため息をつき、ブリッジから指をおろす。
 「……わかった、僕が行く。図書室に本を借りに行くがてら特別に案内してやろうじゃないか。天才の気まぐれに感謝しろ、低脳め」
 「なら俺も」
 「君は来なくていい」
 椅子を引いて席を立とうとしたサムライを制し、手早く食器を片付けてトレイを抱え上げる。
 「僕が用があるのは帯刀静流だ。朴念仁の帯刀貢は房に引っ込んで墨でも擦っていろ」
 トレイを持ち、先に立って歩き出した僕の背後に静流が続く。視界の端にサムライの肩を叩いて慰めてるレイジの姿が飛び込んできたが、無視する。
 僕の背後に続いた静流はくすくす笑っている。
 「貢くん、亭主関白ぽいけど惚れた相手に頭が上がらないのは相変わらずだなあ」
 おそらく幻聴だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050707231104 | 編集

 レイジなんか大嫌いだ。
 あんなヤツに処女をくれてやるんじゃなかった。
 ひりひり痛むケツを押さえてどこをどう歩いたか、房に真っ直ぐ帰るのは嫌で、足は自然と医務室に向いていた。
 房に直帰すりゃあと何十分後かにはレイジと顔突き合わせることになる。
 今の状態でレイジと顔合わせりゃ手当たり次第に物ぶん投げて罵り倒して追い出しちまう、怪我人だってことも忘れて踏んだり蹴ったりあたっちまう。
 そんなわけで、短気で喧嘩っ早い性格を自覚してる俺は適当に寄り道して頭を冷やすことにした。
 食堂じゃ寸手で自制心が働いてこぶしを引っ込めた、レイジをぶん殴りたい衝動を抑えて回れ右した。顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 いや、そんな表現はなまぬるい。死ぬほど恥ずかしかった、本当に。
 一分一秒でも早くあの場を立ち去りたかったのが本音だ。
 レイジの無神経ときたら俺がどんなふうに喘いだか乱れたか昨晩の痴態を事細かに描写しやがって、俺は周囲の連中が下品な野次とばして笑い転げる中うしろも振り返らず逃げてきた。駆け足で逃げたくても裂けた肛門が痛んでへっぴり腰になったのが格好悪かった。
 廊下を歩きながら八当たりで壁を殴りまくったら手首がじんじん痺れた。
 レイジなんか大嫌いだ。クソくらえ。 
 あいつに処女くれてやったのは間違いだった。ケツも痛いし最悪だ。今晩は寝返りも打てないだろう。なにも食堂中の囚人が興味津々聞き耳立ててる中でバラすことねえじゃんかと今思い出しても全身の血が逆流する感覚に襲われる。
 もう表歩けねえ、俺。
 明日からどんな顔して食堂行けばいいんだよ、強制労働に出りゃいいんだよ?
 心の中で愚痴りつつ医務室のドアを蹴り開ける。
 「医者いるか」
 返事がない。いないみたいだ……と思って視線を巡らしたら入ってすぐそこの机に上体を突っ伏して鼾をかいていた。
 居眠り中か。不用心だなとため息まじりにドアを閉める。ま、かえって好都合だ。医者が居眠り中ならあれこれ詮索されずに済む。俺が医務室を訪ねたのは灯台下暮らし、医者に無茶言って退院したてのレイジがここに来ることはないだろうと踏んだからだ。
 白く清潔な通路を歩いてレイジ不在のベッドをめざす。
 からっぽのベッドがあった。昨日レイジが抜け出したままのベッドに腰掛け、踵の潰れたスニーカーを荒っぽく脱ぎ捨てる。ベッドに大の字に寝転がり、天井を仰ぐ。
 片腕を額に置き、目を閉じる。
 「体だりぃ………」
 額が熱い。ひょっとしたら熱があるのかもしれない。昨晩気を失ってからもレイジに二回三回激しく抱かれた無理が祟って熱を出したのかもしれない。処女相手に容赦ねえなあいつ。ちょっとは加減しろっつの。
 片腕で目を覆い、シーツを蹴り上げる。
 体がむずむずする。熱のせいだろうか。昨日レイジに吐き出された熱が体内に沈殿してるのか?レイジに抱かれた時の感触と感覚がまざまざと甦る。体の表裏をまさぐるなめらかな手、ケツの穴を唾液で潤してほじくる指、前に回ってペニスをいじくる手……耳朶を湿らす熱い吐息。
 『愛してるぜ。ロン』
 「嘘つけ。愛してんなら俺の嫌がることすんなよ」
 『マリアより誰より愛してるよ』
 「俺を抱いたらもういいんだろ、それで満足しちまったんだろ。飽きちまったんだろ」
 だからあんな無神経なことが言えたんだ、満員御礼の食堂で周囲の連中に聞こえる大声で、俺が昨晩どんなふうに喘いだかよがったか俺の気持ちも考えずバラすことができたんだろ。明日からどんなツラして表歩いたらいいんだよ畜生、もう東京プリズンで生きてけねえよ。
 責任とれよレイジ。
 「っ、ん………」
 吐息が乱れる。呼吸が浅く荒くなる。レイジの無神経に怒りを覚える半面、行為の余熱が燻った体が意志に反して疼きだす。レイジが俺の中に吐き出した熱が隅々まで行き渡って、細胞一つ一つに至るまで沁み込んで全身の皮膚を性感帯に造り替えたのか、前とは比較にならないくらい感度が良くなってる。
 おかしい。俺は、こんな淫乱じゃなかった。こんな淫乱な体じゃなかった。なのに一晩ぶっ通しでレイジに抱かれて快楽に馴らされて、一晩経ってもまだ熱が冷めなくて、シャツの内側の肌がレイジの指を求めてじれったく疼きだす。レイジに触れて欲しくてたまらないとシャツに擦れた肌が訴える。
 おかしい。俺はレイジに怒ってるのに、食堂で昨日のことバラして一回ヤッたぐらいで俺のこと自分の女扱いするレイジの暴君ぶりに腹を立ててるのに、体の火照りと疼きを解消したくて自然と下半身に手が伸びる。
 昨日は物凄く痛かったのに、こんなの死んだほうがマシだって何度も気を失いかけたのに……
 でも。
 途中から頭がじんと痺れて、わけわからなくなって、はでに喘ぎ声あげてたのも事実で。
 最初こそ痛みが勝ってたけど、今だかつて味わったことない強烈な快感もあって。
 『全部入った。よく入ったな、苦しかったろ?』
 俺の頭を撫でる大きな手、耳朶にふれる優しい囁き。
 「…………」
 股間に手を潜らせる。信じられないことに、前が勃っていた。ペニスが勃起してズボンを押し上げていた。昨夜のことを思い出して、レイジに抱かれた記憶を貪欲に反芻して、体が勝手に興奮してる。
 レイジなんか大嫌いだ。いつもいつも俺のことおちょくりやがって、満員の食堂で恥ずかしげもなく「俺の女」宣言しやがって、ちょっとはひとの気持ち考えやがれってんだ。
 心の中で毒づきつつ、股間に手を導き、揉む。
 なまぬるい愛撫。
 『感じてんのか嫌がってんのかわかんねーよ、どっちかにしろよ。物欲しげな顔しやがって』
 「んっ…………はっ」
 鼻から吐息が抜ける。手の動きが激しくなる。
 何やってんだ、俺。ついさっきまでレイジが寝てたベッドに横たわって、股間に手を持ってって……こんなとこ誰かに見られたらどうすんだよ?医者が今にも起きだしそうで気が気じゃない。声が漏れそうになるのを枕に顔を埋めて押さえればかすかにレイジの残り香がして欲情をかきたてる。レイジなんか大嫌いだ畜生と呪詛を吐くが一旦加速した手の動きは止まらない。せめて喘ぎ声が漏れるのを防ごうと枕に強く強く顔を押しつける。
 『怖くない、大丈夫だから。俺も一緒にいくよ。お前を天国に連れてってやる』
 ズボンの上から股間を揉んでいた手を徐徐に移動させ、音たてて生唾を飲み込み、ズボンの中に潜り込ませる。下着の中をまさぐり、頭をもたげたペニスを直に掴み、性急に扱き上げる。体はまだ行為の余熱を帯びて火照っていて、俺がレイジの態度にキレててもお構いなしに下半身は独立して疼いて、ペニスの先端は上澄みの雫を滲ませている。
 何さかってんだよ、興奮してんだよ?
 今までレイジのこと考えながら自慰したことなんてなかったのに、自慰する時思い浮かべてたのは大抵メイファや空想上の女のあられもない姿で、レイジの顔思い浮かべて股間に手え持ってったことなんて今までなかったのに……
 耳朶に吐息の湿り気を感じる。レイジの囁き声で脳髄が甘く痺れる。
 『愛してる。ロン』
 「あっ………」
 嘘つけ、調子のいいことばっか言ってんじゃねえと反発しつつも一旦加速した手は止まらない。下着の内側に突っ込んだ手で乱暴に股間を揉みしだく。緩急つけてペニスを扱けば瞬く間に腫れ上がって掌中で体積を増して射精の欲求が強まる。
 カーテンはきっちり閉め切ってるし枕に顔面押しつけてるし声が漏れる心配はない、大丈夫だと自分に言い聞かせる俺自身、自分がやってることが信じられなかった。
 レイジの無神経にブチギレて、あいつとはもう絶交だって心に誓って、けどいざ医務室にやってきてレイジが寝てたベッドに横臥したら意志を裏切って手が股間に伸びちまった。わけわかんねえ。快楽に馴らされて快感に目覚めて勝手に興奮する体が恨めしい。昨日一晩かけて性感帯を開発されちまったのか火照りを持て余した体が疼いて疼いて仕方ない。
 体の火照りを持て余してベッドに寝転がり、股間を揉む。激しさと浅ましさを増す腰の動き、耳障りな衣擦れの音。ヤッてる最中レイジは何度も俺にキスして「愛してる」と囁いた。残り一つになった目に慈愛の光を湛えて、極上の微笑を浮かべて……俺も「愛してる」と返した、「愛してる」とレイジに返してあいつを強く抱いた。もう二度とレイジを手放したくない、離れたくない一心であいつを思いきり抱きしめた。
 自分の手にレイジの手を重ねてさらに激しく性急にペニスを扱き上げる。
 「んっ、くう………っ」
 できるだけ声は押さえてるが、妙に甘ったるい喘ぎが鼻から漏れるのは如何ともしがたい。鼻にかかった喘ぎ声……俺の声じゃないみたいだ。片手でシーツを掴み、枕に顔を擦りつける。腰が浮く。脳裏に浮かぶのはレイジの顔、左目に眼帯かけて右目を細めた笑顔……
 この世でただ一人俺だけに向ける極上の笑顔。
 俺が独占する笑顔。
 「あっ、」
 駄目だ。イく。掌中のペニスが硬くなる。俺は夢中でペニスを摩擦しながらさらに腰を上げてそして…
 「やっほーヨンイル起っきしてるー?皆に愛される人気者、フェラ十八番の便利屋リョウくんがとっときの情報もってきてあげたよー。感謝し……」
 シャッ、と勢い良くカーテンが開け放たれて赤毛で童顔のガキがひょっこり顔を出した。プライバシー侵害もいいところの派手で騒々しい登場の仕方に手の動きが止まり、体が硬直する。自慰も佳境に入って手の動きがますます加速してた俺は、枕に顔を埋めて腰を上げたみっともない姿勢のままリョウと直面する。
 「…………あはははははははっはははっはは!?」
 気まずい沈黙を破ったのはリョウの盛大な笑い声。
 リョウときたら事もあろうにベッドに突っ伏した俺を指さして笑い転げた、ズボンに手を突っ込んで枕に顔突っ伏して尻を掲げた俺を容赦なく嘲笑った。だけじゃ済まず、近所迷惑な大声張り上げて周囲のベッドにふれまわりやがった!
 「ちょっとご近所の皆さんこっち見てご覧よ、東棟の王様もとい東京プリズンの王様の飼い猫がご主人サマ不在のベッドでおいたしてるよ、粗相してるよー?わあ愉快な眺め、ロンてばこんなとこでナニやってんの、愛しのご主人様の匂い辿ってベッドに潜りこんで……自慰?オナニー?一人エッチ?」
 「ばばばばばかっ、でっかい声だすんじゃねえ!?」
 興味津々俺の顔を覗きこんで満面に小悪魔の笑みを湛えたリョウにとびつき、そのよく動く口を塞ごうと両手をばたつかせるもリョウのほうが一枚二枚上手で俺の反撃を身軽にかわして続ける。
 「ロンてば、昨日レイジと結ばれたばっかなのにまだ足りないの?さっきなんか食堂ではでに痴話喧嘩やらかした癖に、レイジが寝てたベッドに潜り込んでレイジの匂い嗅ぎながら一人エッチなんて健気な飼い猫じゃん。どうしたのねえ、里心ついちゃったの?昨日一晩かけて躾られて王様なしじゃいられない淫乱な体にされちゃったの!?」
 「違っ……勝手に話作んじゃねえ、勘違いだ勘違い、デタラメだ!」
 甲高い笑い声が周囲の壁に跳ねかえり天井高く響き渡る。爆笑するリョウを前に、ズボンから手を引っこ抜いてベッドに立ち上がった俺は怒髪天で喚き散らす。ああもう最悪だ畜生、今日は何から何までツイていねえ!
 よりにもよってレイジのベッドで自慰してるとこを見つかっちまうなんてと自分の不運を嘆きつつ、リョウを適当に言いくるめる説得力ある反論はないかと頭を働かせる。
 「なにが勘違いなわけ。ロンがオナニーしてたのは事実じゃん、僕この目でばっちり目撃しちゃったもんね、レイジの残り香嗅ぎながら下着に手え突っ込んでさーいやらしい」
 「消毒液の匂いに興奮したんだよ!!」
 苦しい言い訳。苦しすぎる。
 激しい自己嫌悪と羞恥心やらなにやらに苛まれて頭を抱え込みたくなった。リョウに自慰の現場見つかりゃ今日中か明日中には言いふらされるに決まってる、レイジとヤッた件に関してはまあ合意の上だし隣近所に聞こえてたろうし半ば諦めてたけど、レイジが退院したベッドであいつの名前口走りながら自慰に耽ってたとかあることないこと脚色加えて言いふらされたんじゃ本当におしまいだ。東京プリズンで生きてけねえ。
 ああ、死ぬほど恥ずかしい。
 わけわからずむらむらして自慰なんかするんじゃなかったと今更悔やんで手遅れだ。人生最大の後悔に襲われてベッドに手足をつき項垂れた俺をよそに、リョウは元気一杯医務室中をとびまわって黄色い声で騒いでる。
 「ねえおじいちゃん先生、ロンてばおじいちゃん先生の居眠り中に医務室にこっそり忍び込んだだけじゃ飽き足らずにベッドで自慰してたんだけどこの件に関してどう思う?風紀が乱れると思わない?」
 「ふむ。健康な証拠じゃないかね」
 リョウに揺り起こされた医者が寝ぼけ声で反駁する。あの野郎医者にまでチクりやがった信じられねえと心の中で罵倒、リョウを医者からひっぺがそうとスニーカーをつっかけて走り出す。
 「東京プリズンの風紀乱してる男娼がどの口でぬかす!?大体お前医務室に何の用だ、コンドームなしでヤりまくって性病にでも感染したのかよ!」
 「うわひどっ、人格攻撃?自分が恥ずかしいとこ見られたからってそりゃないっしょー」
 リョウがおどけて首を竦める。
 「僕が今日ここに来たのは商売の一環で道化に用があるからさ。ねえヨンイル?」
 リョウが跳ねるように軽快な足取りで方向転換、カーテンを開け放つ。道化はばっちり目を覚ましていた。静かだから寝てると思って安心してたのにとまた舌打ちしたくなる。
 「気に病むなロンロン。俺かて和登さんのセーラー服姿やふしぎのメルモ変身シーンをズリネタにヌく」
 「そんな微妙な慰めいらねえ。てかメルモでヌくのかよ、ロリコン」
 「アホぬかせ。俺はロリコンちゃう、骨の随までオタクなだけや」
 「いばることかよ」
 むきになるのが馬鹿らしくなった。
 急激に脱力感を覚え、深々ため息ついてベッドに腰掛ける。がっくり項垂れた俺の肩をリョウが叩いて慰める。
 「安心してよロンロン、このコトは特別に内緒にしといてあげるから。僕だって悪魔じゃない、思春期の男の子の気持ちはよーっくわかってるつもりだよ?見て、この純真な目。お星サマきらきらしてるっしょ」
 「お前の言うことなんか信用できるか」
 邪険に手を振り払い、ヨンイルに向き直る。過ぎたことくよくよ悩んでも仕方ねえ、忘れよう、いっそなかったことにしちまえ……よし、忘れた。医務室に入ってからリョウにバレるまでの記憶を封印、さりげなく話題を変える。
 「で、ヨンイルに用ってなんだよ」
 「気になるあの人の消息さ」
 リョウがひょいと俺の隣に腰掛けて人さし指を立てる。あの人?胡乱げにリョウとヨンイルを見比べる。ベッドに上体を起こしたヨンイルはリョウの説明に聞き耳立てながら手元で作業してる。ふと興味をそそられてヨンイルの手元を覗きこんだ俺は、鼻腔を刺激する火薬の匂いに眉をひそめる。
 毛布を剥いだベッドの上に並んでるのは薄紙に包まれて選り分けられた火薬と黒い球体。
 花火師の仕事場めいた様相を呈したベッドの上で、額にゴーグルかけたヨンイルはひどく真剣な面持ちで火薬の分量を測っていた。紙から紙へと火薬を移し変えて目の位置に持っていき、肉眼で数量を見極めたのち僅かな重さの違いを手の平で確認する。
 傍から見てるだけで気が遠くなるような細かい作業をヨンイルは手際よくこなしていた。
 「気になるあの人ってまさか……」
 「ラッシーさ」
 リョウが頬杖ついてほくそ笑む。
 「あいつ、まだ東京プリズンにいたのかよ!?」
 声が跳ね上がる。ここ最近姿を見ないからとっくに東京プリズンを去ったものと思ってたのに……予想通りの反応に溜飲を下げたリョウが、フェラチオと引き換えに仕入れて来た情報を得意になって披露する。
 「ロンってほんと馬鹿だねえ。いや、ロンに限ったことじゃなく東京プリズンの囚人みんな頭悪いけどさ……あ、親殺しは例外ね。あいつも別の意味で馬鹿だけどさ。ほら、ラッシー寮住まいっしょ?東京プリズン辞めるって言ってもそんな簡単にいくはずない、部屋の整理とか掃除とか残務処理とか色々やること残ってるんだ。おまけに東京プリズン出る許可とるのがややこしくてね……囚人だけじゃない、看守がここ出るにも面倒なチェックが要るんだよ。変な病気持ってないかとか体に寄生虫飼ってないかとか」
 「じゃ、五十嵐はまだここにいるんだな」
 「もちろん……と言っても、三日後には晴れてバイバイだけどね」
 リョウがふざけて手を振ってみせる。見た目はただのガキだがリョウは囚人看守双方に顔が利く。男娼の人脈を生かした情報収集はお手の物だろう。
 「さよか。おおきに、リョウ。五十嵐が去る期限わかっただけで十分や」 
 「どういたしまして」
 リョウがにっこり微笑んで突き出した手を一瞥、囚人服のズボンに突っ込んだ紙幣をろくに数えもせずに渡して再び作業に没頭するヨンイルに、好奇心に負けて質問する。
 「ヨンイル。お前、リョウ使って五十嵐がここ去る日掴んでなにやらかすつもりだよ」 
 作業の手はかたときも休めず、今日初めて俺の方を向いたヨンイルが挑戦的に微笑む。尖った犬歯を覗かせたやんちゃな笑顔。
 「ドーンとどでかい花火打ち上げるんや。お礼は見てのお帰りってな」 
 自信満々に言い放ったヨンイルがこぶしに固めた手を頭上に持っていき、ぱっと五指を開く。花火が炸裂するジェスチャーにリョウともども首を傾げる。困惑する俺の耳にドアが開く音が届く。新たな訪問者。そいつは迷うことなく一直線にこっちにやってきてヨンイルに声をかける。
 「元気そうですね、ヨンイルくん」
 光沢ある黒髪を七三に分けた伊達メガネの男……南の隠者ことホセが、にこにこ笑いながらヨンイルに挨拶して、隣のベッドに腰掛けてる俺とリョウに気付く。
 「これは奇遇な。君たちもヨンイルくんのお見舞いに?」
 「ちゃうちゃう、ロンロンはこっそり医務室のベッドに潜りこんでオナニーしとったんや。俺が珍しく静かにしとるから寝とると思い込んで油断したんやろな」
 「バラすなよ!?」
 最悪だ。デリカシーのかけらもねえ。ヨンイルも俺が来たこと気付いてたんなら最初に声かけろよ、俺はヨンイルが何も言ってこねえから安心しきって股間に手え入れたのに!慌ててヨンイルの口を塞ぐが遅い、一度出た言葉は引っ込まない。道化に続いて隠者にまで暴露されていっそ死にたくなった。医務室になんか来るんじゃなかった、まっすぐ房に戻ってりゃよかったと落ち込んだ俺に笑いをかみ殺してリョウが付け足す。
 「さっきなんか処女喪失した時の状況バラされて顔真っ赤にして怒ってたくせに、レイジのぬくもり恋しさにベッドに潜り込んでオナニーなんてロンロンも可愛いとこあるじゃんー」
 「おや、そんなことをしたんですか彼は。可哀想にロンくん、さぞかし恥ずかしかったでしょうね」 
 ホセが同情たっぷりに俺を見る。いたたまれない。時間が戻せるなら五分前の自分を絞め殺したい。いっそ全速力で逃げ出そうかとも思ったがケツが痛くて動けない。へっぴり腰になって失笑を買うのはプライドが許さない。つまらない意地と見栄にしがみついて、針のむしろから逃げ出すこともできず立ち竦む俺のもとへホセが歩み寄る。
 肩に置かれた手のぬくもりを感じて、顔を上げる。
 俺の正面に立ったホセが分厚い眼鏡の向こうで目を細めている。
 「レイジくんが嫌になったらいつでもコーチを頼ってください。誠心誠意相談にのらせていただきます」
 俺の肩を掴んで耳元に口を近づけたホセが、妙に力を込めて断言する。
 「千夜一夜ワイフと愛の営みに耽った吾輩にかかれば夜の悩みもすっきり一発解決です。吾輩ホセならきっとロンくんのお力になれますよ。なに、弟子の下半身を鍛えるのもコーチの務めです」
 肩を掴む手に力がこもる。ホセは白い歯光らせて爽やかに笑ってるが、笑顔の裏側にどす黒い感情のうねりを感じるのは気のせいだろうか。本能的な危機感からあとじさった俺と内にどす黒いものを秘めたホセの笑顔とを見比べ、ベッドから足をぶらぶらさせたリョウがつっこむ。
 「それセクハラじゃない?」
 俺が言いたいことをリョウがさらりと代弁してくれた。
 ごくたまにいいこと言う男娼に感謝。 


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050706105059 | 編集

 「東京プリズンの内部構造は複雑怪奇だ」
 コンクリ打ち放しの通路を靴音高く歩きながら説明する。
 「二十世紀香港に存在して2700平方メートルの敷地に3万3千人を収容したという高層スラム『九龍城』を例にとればわかりやすいだろうか。鉄筋コンクリート製の建造物が地上地下何階層にも渡り複合して摩天楼の如く聳えている。袋小路が複雑に入り組んでるせいで地理に不慣れな新入りは間違いなく道に迷う、方向音痴な囚人は確実に遭難する。実際年に十名前後の囚人が消息を絶ってるらしい。行方不明者リストに追加されたくなければ君も十分注意すべきだな」
 蛍光灯が不規則に瞬き、足元が翳る。
 壁の上部に設置された通気口からは鼠の鳴き声の他にカサコソと不気味な音が漏れてくる。ひび割れた壁に書き殴られているのは英語中国語その他外国語の卑猥なスラングと稚拙な落書きだ。下水の異臭が漂う中、床にしみでた汚水を迂回して歩いてると廃墟を探索してる気分になる。
 「他に何か質問はあるか」
 「図書室はないのかい」
 「いい質問だ。東京プリズンの唯一の長所は蔵書が豊富な点だ。これから図書室に案内しよう」
 内心妙なことになったぞと戸惑いつつ、表面上は平静を装って案内を続ける。静流の要望を聞き入れて図書室へと向かいながら食堂での出来事を回想する。先刻、食堂で静流に囁かれた言葉が脳裏を巡っている。
 『君、苗さんに似ているね』 
 『苗さんが死んで君に乗り換えたんだね、貢くんは』
 僕の耳元に口を近付け、僕にしか聞こえない声で囁いた静流。
 自分の言葉が与えた衝撃を推し量るように怪しく目を細めて僕の反応を探り、僕の顔に予想通りの表情を確認して悦に入った笑顔。
 静流はサムライのいとこで幼少期から行き来があった、苗とも面識があった。その静流が初対面の僕に「苗に似ている」と告げた。牽制?苗が死んで僕に乗り換えたとはどういう意味だ。静流はなにを、どこまで知ってるんだ?
 僕が静流の挑発に乗って案内役を引き受けたのは、二人きりになって直接真意を問い質したかったからだ。サムライは邪魔だ。彼がいると話がややこしくなる。僕は静流と二人きりになりたかった、彼と二人きりで話す必要性を感じたのだ。胸に蟠る不安感を解消したい、先刻の発言の真意を知りたい。
 静流が背後についてくるのを確認しつつ、中央棟へ至る渡り廊下を歩く。
 「東京プリズンの図書室は蔵書が充実してる。まさしく汗牛充棟、天井が高く広く快適な空間は読書にもってこいだ。僕も頻繁に図書室を利用してる。娯楽が限られる東京プリズンでは本を読み漁り知識を高める以外に楽しみもないからな、特に古今東西の哲学書の充実ぶりには目を見張るものがある。僕が推薦する一冊はニーチェ『道徳の系譜』で……」
 「君、直くんだっけ」
 唐突に話を遮られて不機嫌になる。IQ180の天才自ら推薦図書を教えてやろうというのに何だその態度は。不快感を隠しもせず露骨に顔を顰めて振り向けば、静流はにこにこと笑っていた。
 「それがどうかしたか。IQ180の天才自ら貴様のような凡人にもわかりやすく為になる哲学書を教えてやろうとしたのに、貴重な話を遮ってまで確認することか?」
 「貢くんとはどれくらいの付き合いになるの」
 静流がやんわりと聞く。
 「僕がここに来てからだから十ヶ月にもなるが」
 「十ヶ月。あと二ヶ月で一年か」
 心得たと静流が頷く。知ったかぶった態度が気に食わない。貴様に僕とサムライの何がわかるんだと詰問したくなるのをぐっと抑えて歩行を再開、歩調を速めて図書室に急ぐ。静流は洗練された身振りで歩きながら物珍しげにあたりを見まわしている。短い間隔で蛍光灯が点滅して視界の明暗が切り替わる。蝿や鼠の死骸、煙草の吸殻や使用済みコンドームが散乱して荒廃を極めた通路を眺めながら静流が口を開く。
 「聞いていいかい」
 「なんだ」
 「あの避妊具だけど」
 静流が指差した通路の隅には使用済みコンドームが捨てられていた。 
 「ここは刑務所だ。対象となる異性がいない環境で性欲を持て余した囚人がとる行動は限られる」
 「知ってるよ。男同士でもちゃんとコンドーム使うんだなって不思議に思っただけさ」
 静流が砕けた言い方で肩を竦める。
 「東京プリズンには性病が蔓延してるからな。念には念を入れて予防してるんだろう」
 「強姦する時にも避妊具を使うのかい。変な話だ」
 「囚人の大半はコンドームなど使用しない。コンドームを装着するのは主に看守だ。察するにあのコンドームは看守が性病予防に使ったものだろう。東京プリズンでは囚人と看守が性交渉を持つのも決して珍しいことではない、合意にしろ非合意にしろな……くだらないことを説明して口が汚れた。先を急ぐぞ」 
 汚水に浸かってふやけた吸殻と萎んだコンドームを一瞥、足早に歩き出す僕のあとを静流がついてくる。肩越しに振り返り、さりげなく静流の表情を観察する。静流は目に映るものすべてが新鮮とばかりに生き生きとした表情をしていた。
 東京プリズンに収監されたということは更正不可能、社会復帰不可能の決定を下されたに等しいのに静流は全くもって悲観してない、絶望してない。
 違和感の源はこれか、と僕は思う。
 こうして歩いてる途中も何人か新入りとおぼしき少年とすれ違ったが、彼らは一様に暗く沈んだ顔をして、俯き加減に足をひきずっていた。
 東京プリズンに送られたということはつまりそういうことだ。
 東京プリズンは砂漠の涯てにあるこの世の地獄、日本の法律に見捨てられた最果ての監獄なのだ。
 静流は何故平気でいられるのだろう。何故こんなに余裕があるのだろう。その他大勢の新入りをよそに飄々と振る舞う静流は食堂でも通路でも異彩を放っていた。
 東京プリズンの実態を目の当たりにしても涼しげな微笑みを絶やさず、物怖じせずに振る舞う静流の存在自体が集団の中の異端だった。
 掃き溜めに舞い降りた一羽の白鷺。
 「へえ、図書室は別棟にあるんだ。いちいち渡り廊下通らなきゃいけないなんて結構面倒くさいね」
 静流が気さくに声をかけてくる。静流の言葉を無視して黙々と歩く。中央棟に渡り終え、一路図書室へと足を向けた僕の背後から靴音が遠のく。振り向けば、いつのまにか静流が遠ざかっていた。
 「どこへ行く気だ、まず最初に図書室に!」
 自分から図書室を見たいと言い出した癖に土壇場で方向転換とは自己中極まると憤慨しつつ、足取り軽く廊下を歩く静流を小走りに追いかける。僕の視線の先で静流が立ち止まる。静流に追いついた僕は、彼の視線を追い、慄然と立ち竦む。
 静流の足元には暗闇に沈んだ階段が続いていた。
 地下への階段。
 「この階段はどこへ続いてるんだい」
 「………この階段の先は閉鎖されてる、囚人は立ち入り禁止だ」
 静流は立ち去りがたげな様子で階段の奥底を覗き込んでいる。静流の隣に立ち竦んだ僕は、忌まわしい物から目を逸らしたい衝動と戦いつつ埃っぽい闇が淀んだ階下を覗き込む。この階段の先は悪夢と地続きに繋がっている。
 僕がかつて売春を強いられていた場所……中央棟地下一売春通り。
 売春班廃止が決定されてのち、階段の先は完全封鎖されてバリケードが築かれてるはずだが…… 
 「立ち入り禁止か。冒険心をくすぐるね」
 静流が悪戯っぽくほくそ笑み、階段へと足を踏み出す。
 制止する暇もなかった。先に立って階段を下りていく静流の背にむなしく手を伸ばし、彼を追おうか否か逡巡する。階段の先には地獄がある。僕はもう二度とあの場所に戻りたくない。蛍光灯の破片が床一面に散乱した薄暗い地下、客の怒声と罵声、売春夫の嗚咽と悲鳴が殷殷とこだまするあの場所に……
 背中にびっしょりと冷や汗をかき、叫ぶ。
 「待て帯刀静流、僕を無視して勝手な振る舞いをするな!そこから先は立ち入り禁止だと言ったろう、入所早々規則を破ったことがバレれば看守に目をつけられるぞ。天才の忠告は聞いたほうが身の為だ、大人しく戻って来い!」
 「なにを怖がってるの。暗闇に怯えるなんて子供みたいだ」
 階段を下りた静流が不思議そうに僕を仰ぐ。 
 「誰も来ないなら内緒話に最適だ。そう思わないかい」
 続く静流の言葉に虚を衝かれる。
 静流は僕を誘ってる……挑発してる。二人きりで話をしたいならついてこいと背中で促している。僕はどうする?逃げるのか。まさか。僕はIQ180の天才、誰より誇り高く奢り高い鍵屋崎直だ。暗闇など恐るるに足りない、過去の恐怖も克服してやる。生唾を飲み込み、決心して一歩を踏み出す。
 暗闇に没した静流の背中を追い、足元に気を付けながら階段を下りる。
 静流は既に地下一階に到着していた。
 手摺に掴まり階段を下り、静流と対峙する。僕の到着を待って静流は再び歩き出す。パリンとかすかな音がする。先に立って歩き出した静流が蛍光灯の破片を踏み砕いたのだろう。 
 話を切り出すなら、今しかない。
 暗闇が淀んだ通路に目を凝らして静流の背中に追いすがる。
 静流は廊下に立っていた。かつて売春班の仕事場だった地下一階の通りには有刺鉄線を張り巡らしたバリケードが築かれて囚人の立ち入りを禁じていた。 バリケードの向こう側に垣間見える鉄扉はすべて閉め切られて蛍光灯の電気も消されていた。
 周囲には先の見えない闇と荒んだ空気が立ち込めていた。
 「さっき食堂で言ったことを確認したい」
 体の脇でこぶしを握り込み、静流を睨みつける。
 「僕と苗が似てるとはどういう意味だ。サムライが僕に乗り換えたとは、どういう意味だ?」
 僕の声は知らず非難の響きを帯びて大気を震わせた。
 「それだけじゃない、他にも聞きたいことが山ほどある。一体君はどうして東京プリズンに来た、外でなにをしでかしたんだ。東京プリズンに送られるのは凶悪犯罪を起こした少年ばかり、日本の法律で許容できない事件を犯して更正不可能の烙印を押された少年に限定される。僕は両親を殺害してここに送られた、サムライは実父含む道場の門下生十三名を斬殺してここに来た。君は?僕やサムライと同じく純血の日本人でありながら東京プリズンに送り込まれた君は、一体どんな事件を起こしたんだ」
 性急に質問攻めにされた静流が苦笑して壁に凭れる。
 「君とサムライは、どういう関係なんだ」
 「貢くんは僕の好敵手だった」
 ここではないどこかを見るように遠い目で静流が述懐する。
 「貢くんは本家の後継ぎ、僕は分家の長男。小さい頃は行き来があったけど母さんと莞爾さんが仲違いしてから徐徐に疎遠になっていった。でも、噂は聞いていた。貢くんは小さい頃から祖父の再来の呼び声高い剣の天才、対する僕は努力の人。母さんの期待に応えたくて頑張ったけど、血の滲むような努力を重ねても貢くんにはかなわなくて悔しい思いをしたよ」
 闇に身を浸した静流が苦く表情を歪め、吐き捨てる。
 初めて静流の本音を聞いた気がした、静流の本性を垣間見た気がした。
 食堂ではサムライに気さくに接していたが、本家の長男に対して屈折した思いを抱えているらしく、目には葛藤の波紋が広がっていた。
 「貢くんとは物心ついたときからの付き合いさ。小さい頃は本家の庭でよく遊んだ。苗さんと姉さんも一緒にね。貢くんは当時から笑わない子供だった、口数も少なくて何を考えてるかわからなくてちょっと怖かったな。でも、本当はすごく優しいんだ。僕が転んで膝を擦りむいた時はおぶって運んでくれた。下駄の鼻緒が切れて泣いてたら器用に接いでくれた。無口で思いやりがあって剣の腕が滅法立って、本家の後継ぎにふさわしい資質を有していたよ。莞爾さんの息子とは思えないくらい」
 そこで言葉を切り、ため息を吐く。
 「僕は貢くんに憧れていた。帯刀の家名を背負って立つにふさわしい素質と人格に恵まれて、誰からも実力を認められた彼が羨ましかった。帯刀家といえば地元で有名な家柄、元禄年間から続く由緒正しい家系で人間国宝に指定される剣の使い手を明治初期から五人輩出してる。帯刀の跡取りに生まれるとはそれだけで名誉なことなんだ」
 「前置きはいい。僕は単純率直に君の真意が知りたいんだ」
 苛立ちをこらえて先を促せば、貢が緩慢な動作で顔をもたげ、闇を透かして僕を見る。
 またあの目だ。
 相対した者の心を反射する透徹した目、明鏡止水の深淵の目。
 「僕がここに来たのは帯刀貢に会う為さ」
 どういう、ことだ?
 答えになってないじゃないかと気色ばんだ僕は、静流の目が僕を越えて背後に向けられてることに気付き、反射的に振り返る。そして、硬直する。僕の背後、闇に紛れて蠢く集団の人影……間抜けなことに、静流の話に全神経を集中していて外敵の接近に全然気付かなかった。
 「!逃げろ静流、」
 「遅いよ」
 後ろ手に締め上げられた腕に激痛が走り、耳朶に生温かい吐息がふれる。
 僕を後ろ手に束縛した人物の声には聞き覚えがある。
 今日砂漠で聞いたばかりの……イエローワークの同僚の声。
 「貴様、何故ここに!?」
 「こっちの台詞だ親殺し。売春班潰れてから溜まって溜まってしょうがなくて、安田の気まぐれで営業再開してねえかって覗いてみりゃ偶然ばったりお前と再会だ。これも運命ってやつだ、そう思うだろみんな」
 「その通りだ、俺たちゃ運命の赤い糸で結ばれてんだ。諦めろ親殺し」
 「昼間犯り損ねた借りをたっぷり払ってもらうぜ、そっちのかわい子ちゃんも一緒にな」
 昼間絡んできたイエローワークの同僚にまた取り囲まれて逃げ場をなくす。舌打ち。なお悪いことに今は静流が一緒にいる、僕一人なら隙をついて逃げられるかもしれないが静流を残していくわけにはいかない。
 腋の下にいやな汗が滲みだす。二週間前に閉鎖された売春通りには僕たち以外いない、助けを呼んだところで誰も通りかからないのでは意味がない。
 暗闇に慣れた目で同僚の顔を確認、絶望的な気分になる。
 「また犯してやるよ」
 すぐ耳元で声がする。興奮に息を荒げた同僚が僕の体をまさぐり上着の裾をはだけて手を潜らせる。気色悪い。吐きそうだ。痩せた脇腹を揉みしだき薄い胸板を撫でさすり胸の突起をつねる、あまりに性急な愛撫に痛みしか感じない。不快さに顔を顰めた僕の反応をどうとったか、今度はズボンの内側に手を潜らせる。
 「!っ、あ」
 乾いた手で太股をまさぐられて肌が粟立つ。
 小さく声をあげた僕の耳朶にねっとり舌を絡めて同僚が囁く。 
 「お前の体を味わうのは何ヶ月ぶりだ?売春班に配属された初日にヤって以来だ。相変わらず薄っぺらい、太股なんか棒きれみてえに細くて……まあ、感度は抜群だな。売春班で来る日も来る日も男に抱かれて開発されたんだろう、太股撫でられただけでビクンビクンて震えがくるのがいい証拠だ」
 「はっ、ちがっ……これは生理的嫌悪からくる拒絶反応、あっ!?」
 耳朶が唾液にまみれる。耳の穴に潜り込んだ舌が淫猥に蠢いて性感帯を開発する。乾いた手が太股をまさぐり後ろに回り、僕の尻を割って肛門を突き刺す。激痛。
 「壁に手えつけよ。立ったままヤられるのが好きなんだろ、お前。最初の時みたくしてやるから、いい声だして鳴いてくれよ」
 肛門に突き立てられた指が鉤字に曲がる。やめろ抜いてくれ痛い気持ち悪い、嘔吐の衝動が喉元まで込み上げて目に生理的な涙が浮かぶ。嫌だ思い出したくない忘れたい売春班初日に犯された記憶が封印を破って甦る再生される、洗面台に手をつかされてズボンを剥ぎ取られて後ろから貫かれて……
 「ゲスだね」
 場違いに涼やかな声が流れた。
 「……なん、だと?」
 壁に背中を凭せた静流が冷ややかにこちらを眺めてる。イエローワークの同僚が一斉に気色ばみ、中のひとりが静流に急接近。静流は動じない。指一本動かさず、冷静沈着に敵の接近を待っている。
 「お嬢ちゃん、今なんつった?」
 筋肉質の体躯の少年がドスを利かせた声で脅迫、片手で静流の顎を掴み、強引に上を向かせる。顔面を生臭い吐息で撫でられて、静流が品よく眉をひそめる。その表情に劣情を刺激されたか、少年がごくりと生唾を嚥下して静流にのしかかる。静流の上着を無造作にはだけて胸元までたくし上げ、片手を怪しく蠢かせる。
 男にしておくには惜しいほど白くきめ細かい肌が闇に浮かび、華奢な肢体が捩れる。 
 「俺たちがゲス野郎ってそう言ったのか?」
 「言ったよ」
 「見かけねえ顔だが、新入りか?なら教えてやるよ、東京プリズンの掟を。ここじゃゲス野郎は最高の誉め言葉だ。東京プリズンで生き残りたきゃゲスを極めるっきゃねえんだよ。ここじゃ殺ったもん勝ち犯ったもん勝ちだ、お前らみてえに見目いいガキは骨の随まで美味しくしゃぶられるのがオチだ。とっとと諦めちまえよ、そっちのほうがラクだぜ。綺麗な顔にキズつけられるのはヤだろ?」
 赤裸な衣擦れの音。筋肉質の少年が鼻息荒く静流を押さえこんで肢体を蹂躙する。上着の内側に手を潜らせて痩せた腹筋を揉みしだいて、薄い胸板を撫でる。扇情的な光景。静流の首が仰け反り、前髪が散らばる。
 妖艶に赤い唇がほころび、官能の吐息を零し、胸に顔を埋めた少年の後頭部へと腕が回り……
 
 その刹那。

 「ぎゃああああああああああっあああああああっあ!!!?」
 静流が思いがけぬ行動をとる。少年の頭を抱いたのとは逆の手をズボンの後ろに潜らせ素早く抜き放つ。乾いた音が鳴る。電光石火で虚空を切った静流の手の先端の物が少年の眉間を打擲、額から流血した少年が絶叫をあげる。
 イエローワークの同僚に抱きすくめられた僕は、暗闇に目を凝らし、息を呑む。
 壁からゆるりと背を起こした静流が、舞踊のように優雅な動作で腕を泳がせ、手にした物を一閃する。
 静流が手に取った物は、白い和紙を貼られた扇子。
 能で用いられる扇には、一種呪術的な力が備わるという。
 そんな迷信を彷彿とさせるほどに扇を構えた静流の様子は豹変していた。
 暗闇に没した静流の周囲に不可視の気が渦巻いて形を成す。
 清冽に研ぎ澄まされた殺気が扇の一振りごとに鬼気の域にまで高まって、静かに流れる如く優艶な舞に凄味を与える。
 能の舞の特徴は極端な摺り足と独特の身体の構え、そして円運動のうちにある。
 静流の一挙手一投足は完璧に能の段取りに則ったものだった。
 衣擦れの音すら殆どたてない静的な足運び、膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢はサムライが剣を構える時にも共通する。
 上段に扇を構えた静流の姿と、上段に剣を構えたサムライの姿が重なる。
 静流の体に脈々と流れる帯刀の血が覚醒する。
 切れの長い双眸に凛冽たる眼光を宿した静流が、能面めいて整った顔の中でそこだけ紅を引いたように赤い唇を開き、不思議な抑揚の声で余韻嫋嫋と唄い出す。

 「『筒井つの井筒にかけしまろがたけ すぎにけらしな妹見ざるまに』」

 闇と一体化した静流が水面を滑るような足捌きで二人目に肉薄、相手に逃げる暇も与えず流麗な動作で腕を一振り、扇の先端で目を突く。 
 「ああああああああっ、目、目が潰れたああああああああっ!?なんだこいつ、わけわかんねえこと言いやがって、正気の沙汰じゃねえっ……」
 「伊勢物語だ」
 片目を押さえて尻餅ついた囚人を見下ろして説明する。
 「『筒井筒』は伊勢物語に収録されてる挿話のひとつだ。互いに惹かれていた幼馴染の男女が結婚する内容で『筒井つの井筒にかけしまろがたけ すぎにけらしな妹見ざるまに』を現代語訳すると『貴女を見ない間に井戸の縁の高さにも足りなかった自分の背丈が伸びて縁をこしたようだ』となる、」
 「お前ら二人とも頭おかしいってことがよーっくわかったよ!!」
 僕の背中をどんと突き飛ばして最後の一人が逃走を企てる。突かれた衝撃でバランスを崩して床に膝を付いた僕のそばを姿勢正しく静流が通り過ぎる。
 足音すら殆どたてず、衣擦れの音すらたてず、容姿端麗な幻影めいて通路を抜けた静流がごく緩慢に腕を振り上げて虚空で扇子を開く。 
 静流の姿がほんの一刹那、完全に静止。
 影を射止められたように囚人の死角をとって微動だにせず立ち竦んだ静流の唇が官能的に震え、周囲の壁に殷殷と共鳴する声が流れる。

 「『くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき』」
 長さを比べてきた振り分け髪も肩を過ぎた あなたでなくて誰が髪上げしようか。
 否、いない。

 静流が音吐朗々と唄い上げ、裂帛の気合いを込めて扇を打ち下ろす。拝み伏すような動作で腕を振り下ろした先には扇があり、今しも階段を駆け上がろうと無防備に背を晒した囚人を打擲する。後頭部を打たれた囚人が逆上、奇声を発して静流に襲いかかる。
 「こんのっ……なよっちい女男が、しゃなりしゃなり扇子振りまわして調子乗ってんじゃねえ、色白カマ野郎は大人しく掘られて喘ぎ声あげてりゃいいんだ!!」
 胸ぐら掴まれた静流は余裕の微笑を含んだまま腕を一閃、舞の延長の優雅さで喉仏の上を刺突、自分に襲いかかった囚人を完全に沈黙させる。
 「ぐあっ………ちぐぞっ、このカマ野郎っ……!!」
 苦悶に喉かきむしりつつ崩れ落ちる囚人を醒めた目で見下ろし、静流は扇子を畳む。たった一瞬だった。静流が囚人三人を撃退するのにものの五分もかからなかった。暗闇に沈んだ通路には静流の舞に翻弄された囚人三人が累々と倒れていた。壁に片手をついて上体を起こした僕は、壁に倒れ伏した囚人と静流とを見比べて得体の知れぬ不安を掻き立てられる。
 静流は強い。
 静かに流れる如き体捌き、流れる水の如き掴み所ない動きを強みに転じて、伝統の舞を踏むように優雅な挙措で瞬く間に三人を屠ってしまった。
 僕に背中を向けて佇んだ静流が、閉じた扇子を懐に仕舞い、呟く。
 「剣の素質では貢くんに勝てなかったけど舞の才能では僕が上だ。静流さんの舞は綺麗ねって姉さんに誉められたことがあったっけ」
 「静流。君は何故東京プリズンにやってきた」
 シャツの胸を掴み、不吉な胸騒ぎを抑えて問いを重ねる。瞼の裏側には鮮やかに扇子を操って敵を倒す白拍子の艶姿が焼きついている。
 能の基本動作を踏まえてさらに発展させた独特の体捌きはこの上なく優雅でありながらどこにも付け入る隙がなく、一挙手一投足に凄艶な凄味さえ帯びていた。
 静流は僕に背中を向けて天井を仰いでいたが、やがて肩越しに振り向き、謎めいた微笑を唇に乗せる。
 そして、答える。
 「帯刀貢を返してもらいに来たのさ」
 僕にはそれが、帯刀貢を奪いに来たと聞こえた。  

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050705200105 | 編集

 「いつまでもぶーたれてないで機嫌直してよロンロンー」
 ロンは不貞腐れたまま僕と目を合わせようともしない。
 思春期の男の子の心理は僕だって十分わかってるつもりだ。ロンは擦れた見かけによらず純情だから自慰見られたショックから立ち直るには時間がかかるだろう。
 でも逆恨みされちゃたまんない。
 僕は私用で医務室にやってきて、ヨンイルが寝てるベッドと間違えてカーテン開けたら偶然ロンがいたんだ。枕に顔突っ伏して尻を上げた破廉恥なポーズで、ズボンの股間に手え突っ込んで、ナニやってるか一目瞭然の光景だった。無防備にカーテン開けてびっくり仰天、おったまげた。ついさっき食堂とびだしたロンがこんなトコでこんなコトやってるなんて……レイジのベッドに寝転がって枕に顔埋めて匂い嗅ぎながら自慰に耽ってるなんて思いもしなかった。
 喉元に込み上げる笑いを噛み殺すのに苦労する。
 ロンは迂闊だ。きっちりカーテン閉めきってるからって安心して自慰をおっぱじめたんだろうけど、よりにもよって僕に目撃されるなんて運が悪い。悪すぎ。ロンは僕の隣で膨れっ面してる。レイジと喧嘩別れした直後にオナニーバレたんだ、そりゃ居心地悪いだろう。
 泣きっ面にハチ、踏んだり蹴ったり。
 ま、発情期の猫がいつどこでさかろうが僕には関係ない。愉快な見世物だった、位のお気楽な感想しか抱かない。
 僕がカーテン開けた時のロンの顔ときたら傑作だった。股間に手え突っ込んだ恥ずかしいポーズで、男誘うように尻上げて、こっち向いた顔は真っ赤だった。畜生カメラ持ってくりゃよかったと心の中で舌打ちしたのは言うまでもない。カメラ持ってたら盗撮してバラまいてやったのに……
 レイジの枕に顔埋めて物欲しげに息荒げてるロン、なかなか色っぽかったのに。
 写真撮っときゃ高く売れたのに、と惜しくなる。一枚千円にはなったよ?
 そんな本心はおくびにもださず、甘ったるい猫なで声で機嫌をとる。
 「ロンロンだって思春期の男の子だもん、そりゃ下半身がむらむらむずむずして下着の中に手え伸びることだってあるよ。わかるよ、僕だって男の子だもん。一人エッチくらいしたことあるさ」
 「お前趣味と実益兼ねて体売っててまだ足りないのかよ」
 「それとコレとは別。男で得られる快感と右手で得られる快感は別物だし」
 わかってないなあと失笑、冴えないツッコミを鼻であしらい右手を振る。
 「自慰見つかったくらいで激しく落ち込まないでよ、そんなこの世の終わりみたいな顔で……プラスに考えようよプラスに。見つけたのが僕でよかったじゃん、これが凱だったら一大事だよ。昨晩レイジに抱かれただけじゃまだ足りずにさかってるトコ見られたらよーし俺が慰めてやるってズボン脱ぎかねないもん、あの短絡バカ。凱は下半身でしか物考えないからさ」
 「どーせ言いふらすくせに、音速で」
 「言いふらさないって。信用ないなあ」
 笑顔でロンを欺いて、言いふらすに決まってるじゃんと心の中で舌を出す。こんな面白いネタ広めなくてどうするの、僕だけ独り占めなんてもったいない。肩を竦めた僕の態度が軽薄に映ったのか、ロンがますますむきになって食い下がる。
 「言っとくけど俺がここに来たのはレイジと顔合わせたくなかったからで、レイジの匂い辿ってベッドに潜り込んだわけじゃないぜ。房にまっすぐ帰りゃじき飯終えたレイジと顔合わしちまうし、また喧嘩になる前に頭冷やしてこうって寄り道して……」
 「はいはいはい」
 言い訳は結構。ロンは口では意地張っててもレイジのことが大好きで、体の火照り冷ますためにベッドに身を横たえてたら悶々として股間に手が伸びたとつまりそういうわけだ。悩めるお年頃だね。したり顔で頷けばロンの表情が険悪になる。
 「レイジのこと想像しながらヌいてたわけじゃねえからな、あいつは関係ねーから、昔抱いた女が股おっぴろげてるとこ想像したらたまらなくなって!」
 「ロンおなかすかない?」
 男の名誉に賭けて反論するロンを醒めた目で一瞥、ポケットに手をやる。
 ズボンの尻ポケットに突っ込んでたのは銀紙に包まれた食べかけの板チョコ。クスリ漬けで砂糖漬け、血管にガムシロップが流れてるんじゃないかって甘党の僕はいつでもどこに行くにもお菓子を持ち歩いてる。レトロな箱入りのキャメルだったり可愛くラッピングされた飴だったり日によってさまざまだけど、今日はチョコ。
 僕のこと贔屓にしてる看守からフェラチオのご褒美に貰ったハーシーのチョコレート。
 ポケットに手を突っ込んでまさぐれば、銀紙が擦れる音がする。
 隣に座った僕がこれ見よがしにポケット探り出したのにも気付かない鈍感なロンは、夕飯中断して食堂飛び出してこなきゃいけなかった怒りがぶりかえしたのか、こぶしで膝を殴る。
 「腹ぺこだよ!レイジの阿呆が飯の最中にとんでもねえこと暴露してくれたおかげで好物の古老肉も麻婆豆腐も残してきちまった!ああくそもったいねーことした、飯残すなってガキの頃からお袋に口酸っぱくして言われてたのに!」
 食い物の恨み恐るべし。膝にこぶしを置き、激しい後悔に苛まれて歯噛みするロンへと銀紙剥いだ板チョコを咥えて近付ければ、本人がぎょっとする。
 「何の真似だよ?」
 「おすそわへ」
 チョコを咥えてるせいで発音が不明瞭になった。ひょいと身軽にベッドに飛び乗って膝を揃えた僕は、顔を前に突き出した挑発的なポーズで誘惑する。
 「夕飯残してきたからおなかすいてるっしょ。特別にコレあげるよ。僕が夜食がわりに大事にとっておいたハーシーのチョコレート。すごいっしょ、贅沢品。チョコレートなんて食べるの外にいた頃以来じゃないの?」
 ロンが物欲しげに喉を鳴らす。どうやら図星だったみたい。東京プリズンじゃチョコなんて滅多に手に入らない垂涎の舶来品だ。空腹のロンは喉から手がでるほどチョコレートが欲しい癖に、生唾呑み込んで平静な顔を装ってる。
 「そっちから少しずつ齧ってってよ。僕とちゅってキスしたら終わりね」
 「悪ふざけはやめろ。ただでさえ空腹でイラついてんのに、お前の赤毛一本残らず毟りたくなる」
 僕の魂胆を見ぬいたロンが不機嫌極まりない顔と声で唸る。ちぇ、のり悪い。ほんのお茶目じゃないかと口を尖らせてチョコレートを手に取る。仕方ない、房に持って帰ってビバリーと半分こしよ……と見せかけて。
 「どわっ!?」
 両手でロンの顔を掴んで引き寄せる。
 「やせ我慢は体に悪いよ、ほんとは欲しいんでしょ食べたいんでしょチョコ。いいよ分けたげる、ふたりで美味しく半分こしよう。はい、あーん」
 「あーんじゃねえっ、やめろ顔近付けんな気色わりィ!?」
 ロンがじたばた暴れる。往生際悪いヤツ。ま、だからこそからかい甲斐あるんだけどとにんまり微笑みつつ腕に渾身の力を込める。ロンの顔をむんずと掴んで急接近、力づくで顎をこじ開けてチョコレートを食わせようと試みる。ロンは本気で嫌がって全力で抵抗する、手足を振りまわして僕の顔に唾かけて押しのける。
 「ひとの親切無駄にする気?腹ぺこ野良猫のロンにチョコお裾分けしてあげるんだからもっと喜んでよ、いい子だからお口開けて、あーん」
 「あーんじゃねえっての、だったら普通に分けろよわざわざ口に咥えて食わせる意味どこにあんだよ!?お前絶対俺おちょくって楽しんでんだろリョウ、ハーシーのチョコみたいに安手の男娼が調子のりやがって!」
 「あったりまえじゃん。ロンてウブで奥手だからおちょくり甲斐あって面白いんだよねー。あ、でもそれだけじゃないよ。ロン今手え汚いじゃん、人には言えない場所揉み揉みしてたから。だから特別に口移しで……」
 「ちゃんとズボンで拭いたっつの!!それにまだ出てなかった、って何言わせるんだよ!?」
 ハーシーのチョコみたいに安手の男娼?上等じゃん。必死の形相で奮闘するロンの腰に馬乗り、顔を近付ける。後ろ向きにベッドに倒れたロンを見下ろして勝利を確信、可哀想なロンの顔を両手で挟んで固定して口をこじ開けて……
 「がんばれロンロンー」
 「応援いらねえから助けろ道化!」
 ベッドに胡座をかいたヨンイルはざらざら音鳴らして丸薬を玉に流し込む作業に没頭しててこっちに目も向けない。マウントポジションとられて劣勢のロンが怒鳴ったところで顔を上げようともしない。我関せずの淡白な態度に激怒したロンが罵詈雑言を浴びせ……
 「その辺にしときなさい」
 「!」
 いいところで邪魔が入った。
 突然体が浮いた。誰かが僕の首の後ろをひょいと摘んで軽々吊り上げたのだ。ベッドに肘ついて上体起こしたロンがあ然と見守る前で宙に吊られた僕は、恨めしげに後ろを振り返る。
 「ロンくんが嫌がってるでしょう。いかに善意からでた行為とはいえ無理強いは感心しませんね」 
 背後にいたのはホセだ。片腕一本でらくらくと僕を吊り下げて片手を腰にあてたお説教のポーズが妙にキマってる。黒ぶち眼鏡の奥の目を柔和に細めて、口元には笑みを浮かべてるのにこのどす黒い威圧感はなんだ?僕がいくら体重軽いからって最低35キロはあるのにひょいと片手で摘み上げた怪力にあっけにとられる。おいたした猫の子じゃあるまいし。
 「わかりましたか。お返事は?」
 「はーい。反省しまーす」
 ホセが相手じゃ形無しだ。隠者の怒りにふれて人間サンドバックにされるのは慎んで辞退したい。
 ホセが「よろしい」と満足げに頷いて僕を解放、スニーカーの靴裏が床に着地。
 安堵に胸撫で下ろした僕からロンへと視線を転じ、ホセがやんわり宥める。
 「ロンくん、レイジくんの無神経も今回ばかりは許してあげてはどうでしょう。彼とて悪気はなかったはず、今頃はきっと後悔してるでしょう。せめて土下座するチャンスくらいは与えてやってくれませんか」
 「土下座したって許してやんねーよ。ちょっとは懲りりゃいいんだ、あの尻軽」
 ベッドに胡座をかいたロンがむくれる。「そこをなんとか」とホセが根気強く説得、微妙な沈黙を挟んで渋々頷く。誠心誠意ひとに頼まれるとムゲにできないのがロンの長所で弱点だ。ホセはロンの扱い方をよく心得てるなと感心する。ロンが仏頂面のままベッドから腰を上げて僕の前を無言で通りすぎる、医務室に長居してたら面倒ごとに巻き込まれると野生の勘に基づいて賢明な判断を下したんだろう。
 大股に歩くロンを見送り、何もかもお見通しのホセが苦笑する。
 「くれぐれもお手柔らかに。レイジくんは君にぞっこんべた惚れですから、冷たくされれば拗ねてしまいますよ。あれでナイーブな年頃なんですから」
 「俺に同情してくれよ」
 ロンが重く深く嘆息、疲れ切った横顔を見せる。王様に飼われるもとい好かれるのも大変そうだ。背中に哀愁漂わせてノブを掴んだロンへと小走りに駆け寄り、さりげなく声をかける。
 「ロン、これあげる」
 ノブを掴んで振り向いたロンの鼻先にチョコを突き出す。銀紙に包まれた板チョコ。怪訝な顔のロンににっこり微笑みかけ尻ポケットにチョコを突っ込む。
 「おなか減ってるでしょ?あとで食べなよ。レイジに見つからないようこっそりね」
 「なに企んでんだよ」
 「心外だね。僕だってたまには人に親切にすることもあるさ。夕飯だってちゃんと食べてないんだからその分チョコ食べてカロリー摂んなきゃね」 
 憮然と黙り込んだロンの腹がタイミングよく鳴る。顔を赤くしたロンが手の平をズボンになすりつけ、ポケットから半分覗いたチョコの銀紙を不器用に巻き直す。
 『謝謝』
 かすかに頬を染めてぶっきらぼうに礼を言い、ロンが医務室を出る。
 「ちゃんと手を洗ってから食べるんだよー」
 ドアが閉じる音がやけに大きく響く。扉ごしに靴音が遠ざかるのを待ち、スキップで引き返す。これで部外者は消えた。心おきなく商談に入れる。
 チョコ一枚で邪魔者追っ払えるなら安いもんだ。
 上機嫌に口笛吹きつつ元の場所に取って返してベッドに腰掛ける。
 ヨンイルはひとり黙々と花火作りの全工程をこなしていた。手先に全神経を集中して丸薬を摘んで眉を顰めシケてないか確認後に右から左へ移動。こんもり小山を築いた丸薬をざくりと掬い取り、膝に抱いた玉の上面をぱかり外し、三等分された仕切りの内側に漏斗を傾げてざらざら流し込む。
 細心の神経と豪快な手腕とが同居する玄人の仕事。
 えらく根気の要る作業に熱中するヨンイルの額には汗が滲んで、おそらく祖父譲りだろう職人気質の生真面目さが顔に表れていた。妥協と兼ね合わない頑固一徹のこだわりで花火作りに情熱傾ける姿には、とぐろを巻いた龍の如き不動の存在感があった。
 「あかん、足りひんわ」
 そう言って、万歳のポーズでひっくり返る。
 ヨンイルがベッドに寝転がった衝撃で枕元に積み上げられた漫画が崩壊、崩落。騒々しい音とともに床へ雪崩落ちる。頭の後ろで手を組んで天井を仰いだヨンイルが消耗のため息を吐く。
 「やっぱ刑務所で手に入る材料は限度があるな、あれこれツテ頼って必要な材料かき集めてみたけど……考えれば俺本格的な花火作るの初めてやん。じっちゃんが前に作ったの見たきりでおぼろげな記憶頼に手ぇ動かしてみたけど……あー、やっぱ足りん。どーしても足りんっ。火薬の量足りひんとシケた仕上がりになってまうのに、参ったなあ」
 やかましい独り言。ゴーグルを引き下げて目を覆った横顔には刻々と迫り来る期限に追われる焦燥が滲んでいた。何の期限かって?五十嵐が東京プリズンを去る期限さ。
 ヨンイルのベッドには薄紙を敷いた上に小山を成したケシ粒大の丸薬や封入の前段階で細密に選り分けられた火薬の粉末、鈍い光沢の銅線が散らかって花火師の工房めいた熱気を漂わせていた。
 完全にベッドの私物化。医者が何も注意しないのは賄賂を貰ってるからだろうかと邪推する。
 「火薬足りないの?」
 「そや。あと0.5ミリグラムほどな」
 「それ弾丸一個分で足りる?」
 「足りる足りる、余裕で足りる」
 「じゃああげる」
 「ん?」
 聞き間違いかと振り向いたヨンイルの鼻先にこぶしを突き出し、五指をほどく。
 手の平に転がってるのは銀色の弾丸。
 蛍光灯の光を浴びて艶々と輝く弾丸を指で摘み上げ、小首を傾げる。
 「火薬、入り用なんでしょ」
 「お前それ……」
 ゴーグルを引き上げて跳ね起きたヨンイルが、僕の手の中の物体を指さし、顎も外れんばかりに仰天。
 「お前やったんかい、安田の銃から弾抜いたん!?」
 「おっしゃる通り犯人は僕だ。動機?ほんの出来心だよ。それだけじゃ不満?じゃあ付け足そう。僕が安田の銃を手に取るチャンスは一度だけあった。あの時、ビバリーの上着の内側からゴトリと音たてて銃が落下した時。僕はビバリーの眉間に銃を向けた。恐怖のロシアンルーレット。あの時さ、弾を抜いたのは。白状しちゃえば、あらかじめ弾を抜くために命と運を秤にかける悪趣味なお遊びを仕掛けたわけ。僕が最後の一個の弾丸抜いて返したことに鈍感なビバリーは気付かなかった。ま、一個くらいならバレないだろうってなめてたの否定しないけど」
 「わけわからん、なんでそんな真似を」
 「勿論お金になるからさ」
 困惑するヨンイルに笑いかけて掌中の弾丸を放り上げる。
 「ヨンイル知らない?南のガンスミスの噂。大の銃マニアで外じゃ古今東西の銃と弾丸を集めまくってたヤツ。そいつにコレ売ろうと思ったの。僕から見りゃ何の変哲もないただの弾丸だけど、ガンスミスの鑑定眼に叶えば高く売れると思わない?」
 虚空に手を出して弾丸を掴み、溜飲を下げる。
 僕は男娼だ。東西南北どの棟にも常連客がいて色んな情報が集まってくる。南棟に酔狂なガンマニアがいるらしいって噂はだいぶ前から知っていたからビバリーの上着の裾からゴトリと音たてて銃が滑り落ちた瞬間「これだ」と閃いた。
 「ま、五十嵐が君に銃ぷっぱなすのは誤算だったけどね。感謝してよヨンイル、僕が最後の一個抜いといたから君の命助かったんだよ?これはつまり道化の命を救った弾丸だ。道化の命を奪うはずが数奇な偶然でそうなり損ねた奇跡の弾丸。なら君の手に返すのが道理じゃないかって考え直してね」
 「阿呆ぬかしい。商談パアになったから適当言って俺に売りつける魂胆やろ」
 「あり?バレてた?」
 その通りだ。ヨンイルは意外に鋭い。残念ながら、僕の手の中の何の変哲もない四十五口径の弾丸は南のガンスミスの鑑定眼に叶わず突っ返されてしまった。ちょっと形が扁平なのが気に食わないんだそうだ。マニアの好みはうるさい。商談決裂、となればこの弾丸は用済み。安田の銃から抜いた最後の一個の弾丸を持て余した僕は、五十嵐の消息を伝えがてら生涯最高の花火製作中のヨンイルに取引きを持ちかけたのだ。
 「で、どうするのこの弾丸。要るの、要らないの?」
 「貰うとくわ」
 しばし思案の末ヨンイルが決断、無造作に手を突き出す。やった、商談成立。嬉々としてヨンイルの手に弾丸を乗せる。刹那、ヨンイルの目に複雑な色が過ぎる。奇しくも自分の命を救った弾丸の重みを手で確かめて敬意やら畏怖やらその手の感慨を抱いてるらしい。自分の命と弾丸の重さを比べて世の無常を感じてるのかもしれない。
 慎重に指を開け閉めしてから手を引っ込めて、指に摘んだ弾丸を頭上に翳し、また手前に引いてためつすがめつする。
 ヨンイルの手の中で弾丸が光を放つ。 
 おのれの手の中で輝く弾丸を見つめ、ヨンイルは殊勝に頭を下げる。
 「おおきになあ」
 どうせなら僕にお礼を言ってもらいたいんだけどねと心の中で愚痴りつつ、弾丸に礼を述べたヨンイルを眺め、腰を上げる。房でビバリーが待ってる、はやく帰らなきゃ……
 「ちょっと君」
 足取り軽く立ち去りかけた僕の肩にぽんと手がおかれる。
 「なあに?」
 振り向けばホセがいた。黒ぶち眼鏡の奥の目に温和な光を湛えて微笑んでる。僕に何の用だと訝しみつつベッドに腰を下ろす。ホセが素早く周囲に視線を走らせて仕切りのカーテンを閉める。
 「さすが、東棟イチの情報屋の異名は伊達ではない。男娼の人脈を生かした情報収集はお手の物ですか」
 ホセの纏う空気が一変したような錯覚に囚われた。
 妙な胸騒ぎを覚えてホセを見上げれば、眼鏡の弦を人さし指で叩きながら、先刻とは別人のように鋭さを増した双眸で僕の表情を探っていた。
 僕が信用できる人間か否か眼力で見極めるかの如き凝視……。
 違う。
 ホセが測っているのは利用価値だ。
 僕が有能なスパイ足り得るか否か、それだけがホセの関心事。
 ホセが重視するただ一点。 
 ホセは先刻から僕とロンのやりとりを眺めて僕とヨンイルのやりとりを傾聴していた。発言を自粛して存在感を消して僕らのやりとりを仔細に観察していた。壁に凭れて腕組みして、眼鏡の奥の目だけを油断なく光らせて……
 胸の鼓動が高鳴り、緊張で喉が乾く。ホセと対峙して過度の緊張を強いられた僕は、なにげなく手をおいたシーツがびっしょり湿ってることに気付く。僕の汗。いつのまにか僕は全身に冷や汗をかいていた。四囲のカーテンを閉め切った密室で、ホセと一対一で向き合って、これから密談に臨もうという緊迫した状況下で大量の汗が噴き出したのだ。
 「ヨンイルくんとのやりとり聞かせていただきました。いやはや、噂はかねがね窺っていたのですが……北と東を又にかける赤毛のスパイとは君にことですか、リョウくん。かつてはサーシャくんの懐に取り入り、ロンくんを人質にとってレイジくんを監視塔におびきだし、今またヨンイルくんとも交渉を成立させて……聞きしに勝る商売上手ですね。吾輩感服しました」
 「それはどうも。隠者にお誉めあずかり光栄だ」
 おどけて首を竦めたけど、ホセの表情は一切動かない。眼光の鋭さも衰えない。なんだよ一体、と気味悪くなった僕の横にホセが腰掛ける。スプリングが軋んでベッドが弾む。
 「さて、ここからが本題だ。かつて北のスパイとして水面下で暗躍してた君に頼みたいことがあるのですがね」
 「へえ、隠者自ら僕に依頼?」
 我が意を得たりとホセが首肯、気障なしぐさで眼鏡を外して弦を折り畳む。分厚い瓶底眼鏡を外すと精気漲る素顔があらわになる。静から動へ、守りから攻めへと一瞬で切り替わった素顔に直面し、戦々恐々身構えた僕にホセが丁寧に申し入れる。
 「調べて欲しいことがあります」
 そして、上着の懐に手を潜らせる。ホセが懐から取り出したのは一枚の地図。だいぶ古い地図らしく色褪せてボロボロで、おっかなびっくり手を触れた途端に塵に帰してしまいそうだった。
 視線を右下に滑らせて発行された年代を確認、驚愕。
 「西暦2000年の地図……80年以上前!?骨董品じゃん、よく現物残ってたね」 
 地図の右下には平成12年発行と印刷されていた。おそるおそる地図に顔を近付けると黴とインクが混じった独特の匂いが鼻腔をつく。ホセは慎重な手つきで地図の皺を伸ばしつつ、紙上に点在する幾つかの点を目で追っている。
 何かの目印とおぼしき赤い点。
 「で、僕に調べてほしいことってなにさ。報酬次第で引き受けるけど」
 おおいに乗り気で急かす。サーシャがペア戦に敗北して最大のパトロンを失った僕は、一人でも多く各棟の実力者を味方に引き入れて足場を強固にする必要に迫られた。サムライに試合で敗れたりとはいえホセは元南のトップでいまだに絶大な影響力を誇る男、恩売っといてのちのち損はない。
 興奮を抑えきれず積極的に身を乗り出した僕を一瞥、ホセが畳みかける。
 「では、地下に潜ってください」 
 ………………………………はい?
 地図を挟んで対峙した南の隠者が断言する。
 理性的な笑顔の裏側に途方もない野望と陰謀を飼い殺して。  
 「聞こえませんでしたか。地獄の最下層を探索してきてくださいと言ったのです」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050704122126 | 編集

 邂逅の日。東京プリズンは朝から異様な空気に包まれていた。
 挙動不審な行動が目立ったのは主に看守で囚人は平常通りだった、東京プリズンの厳密な規則に定められた通り早朝五時に起床して点呼をとった。
 ここまではいい、いつも通りだ。
 しかしその後囚人に下されたのは甚だ不可解な命令だった。
 「今日は朝食前に重大な報せがある。点呼終了次第各自中庭に移動、待機を命じる。いいな、わかったな。三分だろうが一分だろうが遅刻した者は独居房送りだ」
 東京プリズンにおける看守の命令は絶対だ。
 囚人たちは寝不足で充血した目を擦りつつ、無秩序に通路に広がって中庭へと移動する。朝早くに叩き起こされた挙句に一日始めの栄養源となる朝食を摂る暇も与えらず、わけもわからぬまま警棒に追い立てられて移動を開始した囚人たちに混ざり、僕とサムライもまた歩き出す。
 サムライは怪訝な顔をしていた。定時に起床して食堂で一斉に食事をとり、半日を過酷な強制労働で潰したのちに帰還する。それが一年三百六十五日変わることない東京プリズンの日常で営みだ。平凡で単調で退屈な毎日。なのに今日に限って何故囚人が一堂に集められるのかと訝しんでいるのだ。
 僕はサムライの横顔を眺めながら全く別のことを考えていた。
 昨日のこと……中央棟地下一階の薄暗い通路で僕が目撃した光景、静流と交わした会話。
 『帯刀貢を返してもらいに来たのさ』
 静流は怪しく微笑みながら東京プリズン来訪の目的を明かした。
 静流が東京プリズンに来た目的は帯刀貢を取り返すことだった。
 サムライを取り返すとはどういうことだ、静流は一体何を企んでるんだ?
 疑問ばかりが深まり困惑が増す。
 瞼の裏には扇子を翻して闇に舞う白拍子の艶姿が焼き付いてる。足音すらたてぬ静的な足運び、しなやかでゆるやかな挙措、女形のようにたおやかな一挙手一投足。僕は朧に闇に浮かび上がる静流の舞に眩惑された、魅了された。と同時に底知れぬ恐怖を覚えた。静流の核を成すおそろしく物騒なもの、汚泥が沸騰するごとき負の感情の吹き溜まりを幻視したのだ。
 静流の目的は何だ。
 サムライを返してもらいに来たとはどういう意味だ。
 胸に不安が募る。サムライは何も知らずただ前だけを見て僕の隣を歩いている。食堂で話してるサムライと静流を見た時に感じた焦燥がまざまざと甦る。静流は異分子だ、夾雑物だ。過酸化水素水から酸素を発生させる実験で用いられる無機触媒の二酸化マンガンだ。過酸化水素水に二酸化マンガンを投入すれば必ず化学反応が発生する。
 静流は僕とサムライの関係に化学反応を起こす触媒だ。
 「どうかしたか。ジッと俺の顔を見て」
 「!」
 サムライの声で我に返る。思考を断ち切り顔を上げる。隣を歩くサムライが不審げに眉をひそめて僕を覗きこんでいる。自覚はないが、また独り言を呟いていたのだろうか?急に気恥ずかしくなった僕は、顔の赤さを隠して眼鏡のブリッジを押さえる。
 「サムライ、無精髭の手入れはこまめにしたほうがいいぞ。不潔かつ不衛生だ」
 「……今朝は時間がなかったんだ」
 サムライがばつ悪げに顎を撫でる。 
 「君は外にいた頃もそんなに無精していたのか。身だしなみもろくに整えないなんて恥ずかしい」
 「無論外にいた頃は身だしなみにも気を遣っていた。着衣の乱れは心の乱れだ」
 「さぞかし苗に口うるさく注意されたんだろうな」
 苗。サムライの恋人。サムライが今でも心寄せる盲目の女性。僕は実際に苗に会ったことがないが、静流は幼少時から故人と面識があったらしく苗の人となりを回想する口ぶりには郷愁が滲んでいた。かつてサムライが恋した苗とはどんな女性だったのだろう。静流の言う通り僕は苗と似ているのだろうか?だからサムライは僕に接近した、東京プリズン入所以来十ヶ月も献身的に尽くしてくれたのか。
 僕は所詮苗に顔が似てるだけの身代わりに過ぎなくて。
 サムライがあの夜僕にキスしたのは、苗を思い出したからで。
 「………」
 無意識に唇に触れる。下唇の膨らみをなぞり、物憂く目を伏せる。僕の物ではない唇の感触を反芻しようとして、既に彼のぬくもりが失せたことに気付く。サムライと唇を重ねた時に感じたのは無精髭が皮膚を擦る荒削りな感触で、あのキスはきっと、苗にしたものとは感触が異なるのだと追認する。
 「キスする時は髭を剃るのが常識だろう」
 苛立ちを込めて吐き捨てる。当然サムライには聞こえない声で。サムライだって髭を剃れば十分若く見えるのに、脂じみた長髪をざんばらに伸ばして無精髭を散らした容姿はお世辞にも垢抜けてるとはいえない。有り体に言えば野暮ったい。まるで素浪人か世捨て人だ。君は何世紀の人間だと問いたい。
 やがて、その他大勢の囚人とともに中庭にでる。
 「なんだこれは!?」
 時刻は夜明け前。砂漠の気温は零下に近く、中庭には藍色の闇が立ち込めている。白い息を吐きながら中庭を見渡した僕は、愕然と立ち竦む。
 人、人、人。
 中庭は全包囲見渡す限り人で溢れて猥雑な賑わいを見せていた。召集をかけられたのは東棟の囚人だけではない、東西南北全棟の囚人が朝早くに呼び出されたのだ。中庭に集合した囚人の数は肉眼では把握できない、東京プリズンのほぼ全ての囚人が集合してるのは間違いない。
 二週間前のペア戦では地下停留場もこれと同じ賑わいを見せたが、中庭のほうが面積が狭いため反比例して人口密度が高くなる。
 人口過密状態の中庭を見渡してあ然とした僕の肘をサムライが引っ張る。何をするんだと抗議しかけ、口を閉ざす。たった今まで僕が突っ立っていた場所を囚人の大群が通過したのだ、怒涛の如く。
 「余計なことをするな。接近には二秒前から気付いていた、引率されずとも場所を空けるつもりだった」
 サムライの手を邪険に振りほどき、意を決して中庭に歩み出り、雑踏に身を投じる。人ごみに翻弄されながら見知った顔を捜して視線を巡らせば、周囲から頭一つ抜けた長身が目にとまる。明るい藁色の髪を冠した頭だ。
 「よ、キーストア」
 レイジがこちらに気付いて軽薄に手を振る。隣にはロンがいた。昨日食堂を飛び出して行って以来だがあの様子だとまだ仲直りしてないと見える。
 サムライと顔を見合してレイジに接近、背後に並ぶ。
 「一体この騒ぎはなんだ、早朝から。火事か浸水か異常事態が発生したのか。避難訓練の一環か」
 「さあ?知らね。俺もわけわからず叩き起こされて、看守にケツひっぱたかれて中庭に来たんだよ。なんか面白いショーでも始まるんじゃねえの?たのしみ」
 「楽天家だな。上の人間がそんな愉快な催しを仕掛けるわけがないだろう」
 「わかんねーぜ、たまには囚人にサービスしてくれたってバチあたらねーと思うけど……なあロン」
 レイジがなれなれしくロンに声をかける。が、ロンは応じない。憮然とそっぽを向いてポケットに手を突っ込んでいる。わかりやすく不貞腐れた態度にもへこたれずレイジが機関銃の舌鋒で畳みかける。
 「また無視かよ、つれねーなあ。昨日からさんざん謝ってるのにまだ許してくれないわけ?ねえ、何語で謝ったらいい?ソーリー・謝謝・パルドン・ミスクーズィ……」
 「上から英語中国語フランス語イタリア語。言葉を変えても誠意がこもってないなら意味がない。おまけに謝謝は『ありがとう』だ、謝罪の言葉じゃない。中国語で謝罪するなら『対不起』だ」
 レイジの言い間違いを淡々と訂正すれば本人が非常にいやな顔をする。無知で無教養な人間に疎まれても一向に僕のプライドは傷付かない、よって不快ではない。
 レイジはだらしなくロンに寄りかかり、両手を合わせて拝み倒す。
 「俺が悪かったって、反省してるよマジで。な、このとーり!」
 「嘘だろ」
 不信感に凝り固まったロンがぶっきらぼうに呟く。今日初めてロンから反応があったらしいレイジはそれだけで狂喜して笑み崩れる。何というか、単純な男だ。
 「嘘じゃねーって。昨日のアレは俺が無神経だったよ、処女喪失したばっかで不安定なお前の気持ちも考えず恥ずかしい思いさせちまったって反省してるよ。俺の腕の中で喘いでたお前があんまり可愛かったからまわりの連中に自慢したかったんだよ」
 「調子いいこと言ってんじゃねえ、俺の身になれ俺の身に!東棟のヤツらでごったがえした食堂でどんなふうに喘いだかよがり狂ったか全部バラされて大恥かいたんだぞ、もう東京プリズンで生きてけねえって深刻に悩んだんだぞ!?どうしてくれんだよ色鬼、俺が大手振って表歩けなくなったらお前のせいだからな、責任とれよ!!」
 怒り爆発したロンがレイジの胸ぐらを掴んで食って掛かる。
 「お前ときたらいっつもそうだ、俺はお前と違ってまともな神経の持ち主なんだよ、食堂であんなことバラされて笑って済ませるはずねーだろが!お前に抱かれてやったのは人生最大の間違いだった、もう絶対お前になんか抱かれてやんねーから、指一本だってさわらせてやんねーから!俺最初っから普通に女好きだしお前に抱かれた時だって痛いだけで全然気持ちよくなかったし」
 「嘘つけ。俺のテクでメロメロになったくせに」
 「吹かしてんじゃねえ