ロールシャッハテストB

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六十話

(2005/07/31)
 ドゥ・キャット・イット・バット。ドゥ・キャット・イット・バット。

 頭の中でぐるぐると同じ言葉が回ってる。
 猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠は猫を食べるか。
 不思議の国のアリスにでてくる謎めいた詩の一説、ナンセンスなくりかえし。猫は蝙蝠を食べるか蝙蝠を食べるかの謎を解くのは簡単、英語に変換してみりゃいい。英語に直せばほらテンポよく韻を踏んでるのがわからずでしょ、病み付きになるリズムってやつ。ドゥ・キャット・イット・バット、ドゥ・キャット・イット・バット……
 連綿と続く意味不明な謎かけ、延々と続く終わりない問いかけ。最後が必ず「ト」で終わって座りがいいから、物心ついて最初に不思議の国のアリス読んだ時からこの謎かけが頭にこびりついて離れなかった。ママの膝の上にちょこんと腰掛けて、子守唄みたいに優しいママの声に陶然として、小さい頃の僕は心地よいまどろみの中でそれを聞いた。

 ねえママ教えてよ蝙蝠さんは猫さんを食べるの、どうして二匹は仲良くできないの?
 そうねリョウちゃん、種族が違っても仲良くできたらいいのにね。
 二匹一緒に遊んだほうが賑やかで楽しいのに。

 でも実際は違った。現実は甘くなかった。小さい僕の素朴な疑問に夢見がちなママは微笑んで共感してくれたけど、僕はそれから暫くして種族の違う動物の共存は無理だって痛感した。
 蝙蝠は猫を捕食する、猫は蝙蝠を捕食する。
 おたがい抜け駆けしあって食いあって共に自滅の道を辿るのが最後まで仲良くできない蝙蝠と猫の哀しい運命だった。
 おとぎばなしの皮肉な結末。可哀想な末路。
 猫は蝙蝠を食べなきゃ、蝙蝠は猫を食べなきゃ生きてけない。
 共存共栄なんておとぎばなしの幻影。食う心配せず裕福な親に依存してるガキの戯言で綺麗ごと。弱肉強食が幅を利かす過酷な世界じゃ狡猾な蝙蝠も媚び上手な猫も稼ぎの手段を選ぶような贅沢は許されず、ただただ必死にお互いを出しぬき合う。共存なんかはなからムリ。そんな甘っちょろいこと言ってたら命がいくつあっても足りない。猫はしっぽを逆立てて蝙蝠の喉笛に食らいつき、蝙蝠は漆黒の翼を広げて猫の目をくらます。ニャンニャンキーキーと激しく諍いあう両者の悲鳴が聞こえる。生き残るのはどちらか片方。おたがい手に手とりあって友達ごっこなんて無理だよママ。蝙蝠と猫は永遠に友達になれない。今ならわかる、蝙蝠と猫が互いを食い合うのは種族が違うからじゃない、極論すれば別の体に別の魂を宿す固体だから。
 猫には蝙蝠が理解できない。僕には人の気持ちが理解できない。何故なら、共感は危ういから。他人に共感して同情して「じゃあ僕と友達になろうよ」って手をさしだしたら、相手が途端に牙を剥くことを僕はよく知っている。
 僕は今まで他人を一切信用せずに生きてきた。
 いや、信用せずに生きてきたってのには語弊があるから言いなおそう。僕はこれまで一切他人を信頼せずに生きてきた。「信じて用いる」のと「信じて頼る」のじゃ全然意味が違う。僕は他人の有用性を見極める眼力に長けてたから世の中利口に渡ってこれた。他人は信じるものじゃなく利用するものだ。利用して利用して利用し尽くして利用価値がなくなったら未練なくポイッと捨てるもの。
 他人を信じたら裏切られるに決まってる。現に僕はこれまで裏切られ続けてきた。
 ママ、もう男の人連れてこないって言ったじゃん。
 ママの彼氏、言うこと聞けばぶたないって言ったじゃん。
 おじさん、フェラすれば一万くれるって言ったのにたったこれっぽっち?話が違うよ。
 あの売人、騙しやがって。なにが高純度のコカインだよ、舐めてみたら小麦粉じゃんか。
 猫と蝙蝠はおたがい食い合うけど、人間はもっとタチが悪い生き物だ。なにせ共食いするんだから。
 はは、とことん腐ってやがる。はらわたに蛆でも沸いてそうな腐臭が匂ってくる。人間て馬鹿で面白いね。

 けど、現在僕が巻きこまれてる状況は面白くもなんともない。
 
 『Pardon?』
 僕が不信感まるだしで聞き返した気持ちも汲んで欲しい。 
 目の前じゃ引き続き五十嵐がヨンイルに銃をつきつけている。蛍光灯が不規則に点滅する薄暗い通路のど真ん中で、裏切り者を処刑する映画のワンシーンみたく直立不動でヨンイルの胸に銃口を埋めてる。これが映画なら五十嵐は役にのめりこみすぎで完全にイッちゃってる。呼吸は100メートルを全力疾走みたいに荒くて、制服の下で胸が上下していた。眼球は異様に血走っていた。
 これは、明確に殺意を剥き出した復讐者の顔だ。
 「……っ、」
 戦慄でぞわりと二の腕が鳥肌立ち、唇を噛む。どうしてこんなことになっちゃったのか本当にわからない。僕には五十嵐の動機も行動もまったく理解できない。五十嵐の変貌がただただ恐ろしかった。奥さんのためと睡眠薬を貰いにきた五十嵐に当たり前に軽口叩いてた頃が懐かしい。今の五十嵐は殆ど別人だ。少なくとも以前の五十嵐と同一人物だとは覚えない、五十嵐を皮を被った怪物だと言われたほうが腑に落ちる。
 僕が知る五十嵐は東京プリズンいち親切な看守で、囚人に分け隔てなく優しく接してくれて、五十嵐に欲しい物言えば大抵都合つけてくれると評判で。
 頼もしい「お父さん」だった。
 囚人の人気も高く人望厚い五十嵐が何故こうも突然に豹変したのか、僕にはさっぱりわからない。だがこれだけは言える、五十嵐の変貌には西の道化ことヨンイルが間接的か直接的か関わっている。
 目を見れば一発でわかる。
 ヨンイルに向ける五十嵐の目には憎しみと殺意が濃縮されていた。  
 そして五十嵐はヨンイルに銃口をつきつけ、「服を脱げ」と命じたのだ。
 「ラッシー正気かよ?奥さんと夜の営みご無沙汰でついにヤキが回っちゃったってわけ。ここでヨンイルの服脱がしてどうするのさ、そのまま物陰に引っ張りこんで犯っちゃう気?あははそっか、聖人君子気取りの五十嵐さんも変態タジマの仲間入りってわけ、囚人脱がせて調教するアブノーマルな趣味に目覚めちゃったわけ!?」 
 壁に背中を付け、腹筋に力を入れて叫ぶ。挑発。命知らずな真似だとわかってるけど、とにもかくにも五十嵐に銃を下ろさせないことには話し合いも成立しない。
 その為にはまず、ヨンイルから注意を外さなけりゃ。
 これ以上一触即発の睨み合いが続いたんじゃこっちの心臓がもたないよと心の中でぼやきつつ、続ける。
 「ねえ聞いてんのラッシー、リカちゃんのパパ、囚人の人気者、東京プリズンの良心!おい無視すんな五十嵐、調子のってんじゃねーよ。はやくその物騒なモンおろせって言ってんの、流れ弾が壁か天井に跳ねかえってあんたの股間をズドンとやっちゃったらどうすんのさ。ぶっちゃけ銃なんかに頼らなくてもあんたの下半身にはご自慢のピストルがあるっしょ」
 蓮っ葉な口調で揶揄するが、五十嵐はてんで反応しない。五十嵐の目はただヨンイルだけを見ている。異常な情熱。ヨンイルは肩の位置に両手を挙げ、わずかに強張った顔で五十嵐を見上げている。
 降参のポーズ。
 「聞こえなかったのか韓国人。ハングル語で言ってほしいのか」
 口角を意地悪く吊り上げた五十嵐が鉄の銃口でヨンイルの胸を突く。ヨンイルが不安定によろめく。足裏で踏ん張ってなんとか持ちこたえたヨンイルがきっと五十嵐を睨み、緊張がはりつめる。
 「アホぬかせ変態。なんで俺がヌード披露せなあかんねん、こんな通路のど真ん中で……」
 「俺がおまえを憎む動機、知りたいんだろう」
 五十嵐の口調は平板だった。ぞっとした。が、空気の読めない西の道化はこの答えが不満だったらしく、いきのいい関西弁で猛然と五十嵐に食ってかかる。
 「それとこれとは話が別や、通路のど真ん中で腹踊りなんてアホな真似して風邪ひいたらたまらん。もし万一くしゃみして漫画のページに鼻水ひっかけたら大損害やないか」
 片手を胸においたヨンイルが物怖じしたふうもなく銃を構えた五十嵐に意見する。
 異様な光景だった。
 東京プリズンに来るまでどれだけ修羅場をくぐりぬけたんだか知らないが、ヨンイルの肝の据わり具合は半端じゃない。胸に銃口をつきつけられたくらいじゃさほど動揺してないようにも見える。
 絶体絶命の窮地で虚勢を張るには生半可でない度胸がいる。
 「もし俺の鼻水がピノコやラムちゃんの顔にひっついたらショックや、初恋の女の目の前で自慰するくらいショックやわ。ピノコやラムちゃんが鼻水ひっかむるくらいなら俺はここで撃ち殺され、」  
 刹那、五十嵐が腕を一閃。
 「「!」」
 五十嵐の片腕が残像を曳き、ゴーグルを放擲。鈍い音をたて壁にぶつかったゴーグルが床へと落下、衝撃で蛍光灯が揺れる。震撼する通路。蛍光灯が不規則に点滅し、五十嵐の顔が明と暗とに塗り分けられる。
 愕然と立ち竦むヨンイルの顔も同じく。
 「ごたごたぬかさず脱げよ。お前の裸が見たいんだよ、今すぐ」
 足元に落下したゴーグルを五十嵐が踏みにじる。ヨンイルに見せつけるように。ヨンイル自慢のゴーグルが次第に泥だらけに汚れてゆく。だが五十嵐は足をどけず、ヨンイルの目を十分に意識して執拗にゴーグルを踏みにじる。靴裏に体重がかかり、ゴーグルが不吉に軋む。
 「やめ、ろ」
 ヨンイルが呆然と呟く。
 心臓を鷲掴みにされた表情。
 「足をどけろどけんかい、おどれだれに断ってひとのゴーグル踏んどるんじゃいこのボケカス、ケツの穴に指つっこんで奥歯ガタガタいわすだけじゃすまさん、おどれの膝に漫画百冊乗せて骨へし折ったる!!」
 ヨンイルがゴーグルを取り返そうと無我夢中で手をのばすが、そのたび胸を銃口で押し返される。  
 五十嵐は無表情だった。何の感慨もない酷薄な目でヨンイルの狂乱を眺めていた。
 「脱げよ。俺はお前の裸が見たいんだ、上着もシャツも脱いで素っ裸になれよ。お前を脱がしたくて気が狂いそうなんだよ俺は、上着の裾強引に掴んで脱がしたくて脱がしたくてたまらないんだよ。お前の薄い体覆ってる布きれをひっぺがして胸板さらして腹筋さらして、納得ゆくまで眺めたいんだよ」
 ラッシー、正気?
 だってそんな、知らなかったよラッシーがそんなヨンイルの体に興味津々なんて。僕が積極的に迫ってもてんでなびかないからとことんノーマルな性的嗜好の持ち主だねと感心してたのに。 
 銃口でヨンイルの胸を小突き、再び五十嵐が命じる。ゴーグルを情け容赦なく踏みにじりながら。
 「さあ、脱げよ。上着とシャツを脱いで貧相な体をさらけだせ。通路のど真ん中でな」
 「………………っ、」
 苦渋に顔を歪め、舌打ち。反感をこめた目つきで五十嵐を睨みつけ、逡巡しつつも上着の裾に手をかける。決断を遅らせるように生唾を飲み込み、上着の裾に手をかけたまま、上目遣いに五十嵐の表情を盗み見る。タジマ以上に冷酷無比な看守の顔。
 ヨンイルは深呼吸で覚悟を決める。

 ―「我が生涯に一片の悔いなし!!」―

 上着とシャツを脱ぎ捨て、裸の上半身をさらして仁王立ちしたヨンイルの目には五十嵐に対する激しい怒りが燃え盛っていた。
 ヨンイルは思ったよりいい体をしてた。
 平らな胸板、引き締まった腹筋、適度に筋肉が付いた肢体からは健康的な汗の匂いが立ち上っていた。
 何より僕の目をひいたのは、ヨンイルの腕と胴体に絡みつく巨大な龍。 
 長大な蛇腹をくねらせ、螺旋を描くようにヨンイルの四肢に纏わりついた刺青の龍。暗緑色の鱗一枚一枚が毒々しく美しい魔性の光沢をおびて妖しく照り映えて、内側から瘴気が噴き出すような錯覚に襲われた。
 健康的に日焼けした肌の上を、蛇腹をのたうたせて万里の龍が這いずる倒錯的な光景。
 「お望みどおり脱いだで。はよ足どけろや」
 やぶれかぶれにヨンイルが吐き捨て、五十嵐が顎をしゃくり、重ねて促す。
 「下もだ」
 「足が先や」
 「ズボンをおろせ」
 「はよ汚い足どけろ」
 「トランクスをさげろ」
 「じっちゃんの形見なんやで」
 「剥くぞガキ」
 「犯る気か中年」
 ヨンイルの目つきが凄味をます。五十嵐が銃口に圧力をくわえる。僕は何もできず、指一本動かせず、壁にはりついて二人の駆け引きを見つめていた。逃げなきゃ。立ちあがらなきゃ。
 五十嵐の手元が狂って指が引き金引いて流れ弾がとんでくる前に、厄介ごとに巻きこまれる前にとっとと逃げなきゃ。ママ、助けてママ。腰が抜けちゃったよ。パンツが湿ってるのはちょっとおしっこ漏らしたからみたい。失禁。はは、恐怖でちびるのなんて子供の頃ふざけ半分の客にロシアンルーレットされて以来。
 ママ。
 ママ、なんで答えてくれないの。助けてくれないの。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 すぐ耳元で声がする。耳朶にかかる吐息さえ感じるような柔和な声。これは……ママの声だ。テディベアを抱いて嗚咽をこぼしてるママの後ろ姿が脳裏にありありとよみがえり、通路のど真ん中で対峙する五十嵐とヨンイルの姿がぼやけてゆく。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ここにいるよママ。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ねえ、こっち見てよ。
 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 ねえってば!!
 「ママ、」
 変なふうに喉が鳴る。なんで?なんで振り向いてもくれないの、こっちを見てもくれないの。僕のことなんかもうどうでもいいの、ママまで僕のこと見捨てるの。ぼろぼろのテディベアみたいに、ポイって。ママは僕に背中を向けたまま、膝にのせたテディベアをいじくってて振り返ってもくれない。僕の声なんか最初から届いてないみたい。
 違うママ話を聞いて、僕がいけないことしたのにはちゃんと理由があったんだ。だって僕が体売ってお小遣い稼がなきゃ、ママはすぐ家に新しい男連れこんでお金渡しちゃうから僕がママの代わりに稼がなきゃご飯食べられなかったんだよ。それにそう、覚せい剤も欲しかった。お砂糖と間違えて舐めてるうちに病み付きになって止まらなくなってもっと欲しくて欲しくてたまらなくてしょうがなかったんだ、だって僕知らない、知らなかったんだもん、男に体売るのだめだとか覚せい剤舐めるのはだめだとか誰も教えてくれなかったんだもん!!
 「いやだよ、捨てないでよ」
 見捨てないでママ。僕はぬいぐるみじゃない、おなかに入ってるのは綿じゃない。だからおなかが減るんだ、しかたないじゃんか、おなかが減ったら美味しいもの食べたいじゃん、だからお金が要ったんだよ。
 ママにも美味しいもの食べさせてあげたくて。
 ママは全然僕の話を聞いてくれない、僕の言い訳を無視して虚脱したように座りこんでるだけ。ふわりと肩にかかる赤毛は僕とお揃いの天然パーマ。覚えてるでしょママ、鏡台で髪を梳かしてあげたときのこと。
 
 ねえ。
 なんで僕のそばには誰もいないの?

 「なんで助けてくれないの呼んでも答えてくれないの五十嵐は変でヨンイルは裸で通路の蛍光灯は点滅して、僕はもう怖くて怖くて発狂寸前でまともに物考えられなくて、こうやって助けてってお願いしてるのに!ママ、ママ、ビバリー、助けてよ!僕のこと助けにとんできてよ、もうやだ怖いよ、銃なんていつ暴発するかわからないものキチガイにもたせとく物じゃない怖い助けて怖い血、撃たれる、やだ、また血がでてきた!?ねえママ舐めて、僕のこと抱っこしてよしよしして、ちっちゃい頃みたいに痛いのとんでけして!」
 恐怖が破裂した。限界だった。
 視界がぼんやり曇ってたのは涙のせいだと漸く自覚した。両手で耳を塞ぎ狂ったようにかぶりを振りながら泣き叫ぶ最中、僕は鍵屋崎のことを考えてた。
 親殺しのくせに、あいつには頼れる相棒がいる。助けてと声をあげれば真っ先にとんできてくれる相棒がいる。なんで?なんで鍵屋崎ばかり恵まれてるのずるいじゃん不公平じゃんあいつパパとママ殺したくせにそんなのってずるい、僕はママを殺さなかった、殺すなんてとんでもない、僕にはママしかいなかったのに!そうさ僕は鍵屋崎が大嫌いだった、友達いっぱいいる鍵屋崎が羨ましかったんだよ畜生!!
 さっき地下停留場で目撃した思い出したくもない光景を、脳が勝手に再生する。

 サムライを気遣う鍵屋崎。鍵屋崎を気遣うサムライ。
 いたわりあう二人。共食いなんかしないふたり。理想的な共存。
 
 鍵屋崎には相棒がいる、友達がいる、共食いする必要ない仲間が。
 僕はずっと鍵屋崎が妬ましかった、羨ましかったんだよ、僕だってあんな―……

 『リョウさん!』 
 ビバリー。

 「ちくしょう」
 畜生、なんでビバリーなんか思い出すんだよ。あんなやつ友達でもなんでもないのに、もう絶交しちゃったのに。今更悔やんでも遅い。ビバリーは謝ったところで許しちゃくれない。
 目尻からあふれた涙が頬を伝い、膝の上においたこぶしに滴り落ちる。
 額からの出血と涙と鼻水が混ざって顔がぐちゃぐちゃだ。頭もぐちゃぐちゃだ。
 僕このまま死んじゃうのかな?ビバリーと仲直りできず五十嵐にずどんとやられちゃうのかな? 
 猫と蝙蝠が仲良くすることなんて、やっぱりできないのかな。

 「そうだ、その刺青だ」
 はじかれたように顔を上げ、五十嵐に注視を浴びせる。片手に銃を預けた五十嵐が、上半身裸のヨンイルを舐めるように見まわす。ねっとりと肌に絡みつくようなタジマの視線とはまた違う、冷徹な観察者の目。 ヨンイルの全身を隅々まで見まわして刺青の出来を確認する表情。
 「その刺青こそがお前を憎む動機だよ、ヨンイル……尹 龍一。知ってるぜ、お前のことはなんでも。韓国で使ってた本名も、祖父ともどもKIAにいたことも、お前の遊び半分で作った爆弾で二千人が死んだことも」
 五十嵐の目に言い知れぬ感情が渦巻く。
 「お前は天才だった。鍵屋崎とはまた違った意味のな。お前の祖父は元在日で、半島統一をきっかけに韓国に帰化した。けど日本の習慣やら訛りが馴染んじまって、家族で半島に渡ったものの生活がうまくいかなくて、だいぶ苦労したそうじゃねえか」
 「まずまっさきにKIAに傾倒したのはお前の母親。
 惚れた男がKIAの一員で、若い恋人が唾をとばしてくっちゃべる革命の理想とやらを聞かされてるうちにすっかり夢中になっちまった。恋は盲目ってやつだ。で、お前の母親は若さゆえの情熱持て余して惚れた男を追っかけて、後先考えずKIAに入っちまった。お前の祖父は大事な娘が男追いかけて危ねえ組織に入ったって知って、娘を取り返したい一心で自分もまたKIAに入った。
 けど、その頃にはもう娘の腹の中にゃお前がいた」
 「これはあとでわかったことだけど、KIAのメンバーが娘に近付いたのは親父を組織に引きずり込む作戦のうちだったんだ。KIAの情報収集力ってのがまた大したもんで、半島に渡ったはいいもののハングルに馴染めず生活困窮してた中年男が、日本にいた頃は一流の腕をもつ花火師だって調べ上げてた。花火師なら当然火薬の扱いに慣れてるし、爆弾組み立てさせるのに都合がいい。だからまず最初に娘に近付いて孕ませて、親父の逃げ道断ったんだよ。
 うまい手だぜ。大事な娘を人質にとられちゃあ言うこと聞くしかねえもんな」 
 「ヨンイル、お前は刑務所で産まれたんだ。いや、政治犯収容所だっけか?……どっちもでいいや。どうにか娘を助けたいって親父の願いむなしく、娘は収容所にぶちこまれて、お前を産んですぐぽっくり逝っちまった。お前の親父も同時期に収容所送りになって、二年後に拷問……いや、謎の不審死を遂げてる」
 五十嵐は何かに取り憑かれたように饒舌にしゃべった。ヨンイルの過去を、ヨンイルが大量殺戮を犯す経緯を。ヨンイルはただ下唇を噛み、目ばかり獣じみて輝かせて五十嵐を睨みつけていた。
 「天涯孤独の身となった男のもとに残されたのは忘れ形見の赤ん坊だけ。
 そして哀れな男は、KIAに一生を捧げる羽目になった。
 政治犯として死んだ娘の忘れ形見を育てるにゃあKIAの庇護をうけるしかなかったんだろ」 
 「おおきに、俺の身の上話代わりに語ってくれて。拍手でもしたろか」
 ヨンイルが不敵に笑う。
 健康的に日焼けした四肢を締め上げた龍が、鱗の内側から瘴気を噴き上げ、蠢動したかに見えたのは錯覚だろうか。親の代どころか祖父の代まで遡って五十嵐に過去を言い当てられたというのに、ヨンイルは大して動じてない。
 いや。
 五十嵐に対する激しい怒りが内心の動揺を圧倒し、不敵に振る舞わせているのだろうか。
 至近距離で対峙する五十嵐とヨンイル。
 いつ崩れてもおかしくない危うい均衡。
 そしてついに、その時がきた。

 「!」

 五十嵐の胸ぐらが掴まれるのと、ヨンイルの額に銃口がめりこむのは同時だった。

 「……………痛っ、」
 ヨンイルの顔が苦痛に歪む。鈍い音をたて眉間にめりこんだ銃口に徐徐に圧力を加えながら、もう片方の手で制服の懐をまさぐり、黒革の免許証入れをとりだす五十嵐。
 「俺の自慢の娘を紹介するぜ、ヨンイル。可愛いだろう、カミさん似だ」
 哀切な微笑みを浮かべた五十嵐が奇妙に凪いだ声音で言い、免許証入れを上下に開き、ヨンイルの鼻先につきつける。黒革の免許証入れに挟まれていたのは、数年前に撮られたとおぼしき色褪せた写真。写真に写っているのは活発そうなショートヘアの女の子で、溌剌な子鹿みたいにくりっとした瞳が印象的だった。

 これがリカちゃん。
 五十嵐の自慢の娘。
 五十嵐が失った、大事なもの。

 ヨンイルの額に血がでるまで銃口をめりこませ、もう片方の手に免許証入れを掲げ、五十嵐は言った。
 限りない愛情に満ち溢れた、慈父の笑顔で。
 「五十嵐リカだ。韓国併合三十周年パレードで尹 龍一に殺された俺の娘だよ」
 衝撃的な告白だった。

【少年プリズン】
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六十一話

(2005/07/30)
 「悦べレイジ、奴隷の烙印をくれてやる」
 狂える皇帝サーシャが灼熱の腕をひと振り、残像の弧を曳いたナイフから微塵の火の粉が舞い飛ぶ。真っ赤に熱した焼き鏝と化したナイフから視線を逸らせない。目を離せない。あれはもう人の肌を裂く武器じゃない、奴隷に生涯癒えぬ烙印を押す拷問具の焼き鏝。
 サーシャは正気じゃない。完全に狂ってる。
 サーシャの絶技をもってすればレイジを苦しめず殺すこともできたはず、喉首かき切って即死させることもできたはずだ。
 なのにあえてそれをせず長く苦しめて殺す方法をとった。生かさず殺さず、できるだけ苦しみを長引かせる方法を選んだ。俺は今の今までずっとサーシャはレイジを殺すに違いないと思ってた。
 サーシャにとってレイジは殺しても殺したりない憎い男で、かつて自分の背中を鼻歌まじりに切り刻んで生涯癒えぬ烙印を残んだ前科がある。皇帝に無礼を働いた人間が五体満足で生還できるはずがない、衆人監視の処刑場でギロチンにかけられるに決まってる。
 黄色人種と白色人種の混血、薄汚い淫売の股から産まれ落ちた雑種の私生児の分際でサーシャをさしおき東京プリズン最強と呼ばわれていたレイジへの恨みは根深い。
 サーシャが東京プリズン最強になるには、名実ともに東京プリズンのトップとなるためにはレイジを排除せねばならない。
 邪魔なレイジさえいなくなればサーシャは王座に上れる、東京プリズンのトップになるという長年の野望を叶えることができる。
 サーシャがレイジを生かしておく理由はない。殺したほうが都合がいい。
 けど、違う。サーシャはすぐにレイジにとどめをささなかった、安全確実に息の根止めず蛇が獲物を絞め殺すようにじわじわ嬲りものにする方法を選んだ。
 サーシャはレイジを飼い殺しにするつもりだ。
 特注の首輪を嵌めて飼い殺しにするつもりだ、血で汚れたナイフを四つん這いのレイジに舐めさせて陰湿な優越感に酔うつもりだ。
 愛憎表裏一体の妄執。
 サーシャにとってレイジは憎んでも憎みたりない男、殺しても殺したりない男。ならばあっさり殺したりせず、できるだけ長く自分のそばで屈辱と苦痛を舐めさせるはず。それこそ気まぐれに駄犬を足蹴にする暴帝の奢り。
 サーシャにとって重要なのはレイジを殺すことではなくレイジを服従させること、従順な飼い犬のように絶対服従を誓わせ身も心も飼い馴らすこと。
 「!ロン、待てっ」
 鍵屋崎が背後で何か叫ぶが聞いちゃいない、それどころじゃない。
 俺にはもう会場の喧騒も鍵屋崎の制止も届かなくて、耳の裏側で喧しく鼓動が鳴り響いて異常に喉が乾いて全身が熱くなって、発作的に金網に足をかけ身軽によじのぼっていた。
 すばしっこいのが俺の唯一の取り柄だ。
 この程度の高さの金網その気になりゃいつでも越えられる、ひょいと金網を越えてレイジを助けにいける。もっとはやくこうすりゃよかったとやりきれない後悔が押し寄せる。サーシャにレイジを渡すもんか、サーシャなんかにレイジをやるものか。レイジは俺の相棒で俺の支えで俺の、

 『約束守れよ』
 『勝ったら抱かせてくれよ』

 「………っ、」
 別れ際の笑顔が瞼の裏側によみがえる。
 あまりに綺麗すぎて切ない笑顔、本当にこれが最後なんじゃないかと疑わせる儚い笑顔。照明を透かした茶髪が金色に輝いてたことを覚えてる。背後に降り注ぐ照明効果で顔の輪郭が淡く滲んで後光がさしてるみたいだった。
 あれが最後だなんて思いたくない認めたくない、俺はこれから先もずっとレイジと一緒にいてやると心に決めた、もう二度とレイジを寂しがらせないと決めた。
  いやそんなのは詭弁だ、本当は俺が、俺自身が独りぼっちになりたくないんだ。レイジと離れたくないんだ、相棒を失いたくないんだ。俺は東京プリズンに来て偶然レイジと出会うまでずっと独りきりで、残飯あさりの野良猫みたいに荒みきった生活をしてて、俺の人生にこれから先いいことなんか起こるはずねえと早々に諦めてた。
 でも違った。レイジと出会えた。
 最高の相棒ができた、自慢できる仲間ができた。
 見ろよお袋俺にもダチができたんだぞもうひとりぼっちなんて言わせねえ。 もし東京プリズンを出てメイファと顔あわす機会があったら刑務所でできたダチのこと話してやろうって、俺の初恋は実らなかったけど、今の俺ならメイファが言ったことが少しはわかるようになったって教えてやろうと思ってたのに。
 『ロンにもいつか大事なひとができるよ』 
 メイファが言ったことは本当だった。命以外に失う物なんか何もないと斜に構えて世間を見てた俺が、東京プリズンでレイジに会って、鍵屋崎とサムライと出会って、最高の仲間をもって、いつのまにか「失ったら怖いもの」がたくさんできていた。大事な人間。大事な仲間。自分でもくさいこと言ってると思う、畜生わかってるよそんなこと、でも俺にとってレイジがかけがえのない大切な人間なのは事実でだれもレイジの代わりになんかなれなくてレイジがいなくなったら俺は!!
 「ロン!」
 金網がうるさく鳴る。
 金網に手をかけ足をかけよじのぼろうとした俺の背後から手が回され、突然抱きとめられる。サムライだった。俺の腋の下に手をさしいれ後ろから抱擁する恰好でひしと抱きとめてる。つんと鼻腔をつく酸っぱい汗の匂い、サムライの匂い。胸に回された腕から伝わってくるサムライの熱。
 「くそはなせよ、はなしやがれサムライ、お前は鍵屋崎だけ守ってりゃいいだろ用心棒らしく!用心棒契約してねえ俺にまでかまうこたねえだろ、ほうっとけよ、行かせてくれよ!もう我慢できねえ冗談じゃねえこのままここでじっとしてるなんてこりごりだ、レイジがやりたい放題なぶられて血を流してうめいてるのに放っとけるかよ、お前ら見てわかんねえのか、あいつ痛がってるだろ今にも死にそうに青白い顔してんだろ!?」
 サムライの腕の中で滅茶苦茶に暴れる。
 サムライの腕を掻き毟り死に物狂いでもがき、サムライの脛を後ろ足でおもいきり蹴りあげる。
 鍵屋崎が何か言いたげに口を開きこっちに寄ってこようとしたのを目で制し、抱擁の腕力を強める。サムライの身長はレイジより高くて190cm以上あり、サムライに抱きとめられた俺はどれだけ足掻いたところで腕から抜け出すことができない。
 癇癪もちのガキが手足振り乱して駄々こねるのを余裕であやしてる大人みたいで、ますます腹が立って、懸命に手を伸ばせども金網に阻まれてレイジに届かないのが悔しくてたまらなくて視界がぼやける。
 「なんで止めるんだよ、レイジのとこに行かせてくれよ、俺がそばにいてやらなきゃ駄目なんだよあいつには俺がいなきゃ駄目なんだよ!俺はその為にビバリーに肩借りてぜえはあ息切らして医務室からやってきたんだ!」
 「しずまれ、怪我にさわる」
 耳の裏側で囁かれた落ち着いた声音が癪に障る。俺の怪我を本気で心配してることが伝わる真摯な声音。
 サムライはいい奴だ、レイジと喧嘩したときも親身に慰めてくれた。俺が前向きになれたのはサムライの助言あってこそで、レイジと仲直りできたのは鍵屋崎とサムライが俺の目の届かない場所で俺の知らないところで苦労してくれたおかげで。
 わかってるよそんなこと、いい仲間をもって幸せだよ俺は、もったいないくらいだよ。その気持ちは嘘じゃない、仲間を誇りに思う気持ちは嘘じゃない。
 鍵屋崎もサムライも大好きだ。
 でも今この瞬間だけは、俺を抱きとめるサムライが憎くて憎くてしょうがなかった。
 目の前が真っ赤に煮立つ憎悪。
 自分だって鍵屋崎を助けたい一心で試合にでたい一心でしゃしゃりでてきたくせに、長い道のりを肘で這いずって地下停留場にやってきたくせに、偉そうにお説教かよ?何様だよサムライ、この刀キチガイが!
 怒りが急沸騰し、金切り声で喚き散らし、サムライの腕の中で身をよじる。 サムライの腕におもいきり爪を立てひっかけば、長く伸びた爪が腕の肉を抉る激痛にサムライが顔をしかめる。
 前髪がざんばらにかかる額に脂汗を滲ませ、苦痛の縦皺を眉間に刻み、苦鳴を漏らさぬよう奥歯を食い縛り、それでもサムライは意地でも腕をはなさなかった。抱擁に見せかけた拘束。怒りでわけがわからなくなった。
 なんでサムライはわかってくれない、行かせてくれない?
 俺がリングに上ればレイジが即失格だってわかってる、さっき鍵屋崎が言ったとおりこれまでしたきたことが全部無駄になるってわかってるよ。

 けど。

 俺の視線の先じゃ興奮に息を喘がせたサーシャが片手にナイフをひっさげ、レイジの背中を踏んでいる。上着を断たれた背中はところどころ皮膚が裂けて薄く血が滲んでいた。失神寸前で辛うじて意識を保ってるレイジは、苦痛で朦朧と濁った虚ろな目でサーシャの掌中のナイフを見つめてる。

 はやくしなきゃ手遅れになっちまう。
 今度こそ本当に手遅れになっちまう、レイジがサーシャの物になっちまう。

 「離せよクソザムライ、刀キチガイの朴念仁、頑固で融通きかねえバカ野郎!不要阻碍、討厭!!お前だって鍵屋崎がおんなじ目に遭えば血相かえてとんでくくせに俺のことは止めるのか、行くなってのかよ、いい子でおとなしくレイジが帰ってくるの待ってろってのかよ!どいつもこいつもガキ扱いしやがって畜生、ああそうさ俺はガキだよいちばん年下だよ、だから何だよ、俺がレイジ思う気持ちがお前が鍵屋崎思う気持ちに負けてるってのか!?」
 涙腺が熱い。涙で視界が滲む。
 自分の無力が歯痒い。サムライの腕ひとつ自力じゃほどけず、ただ喚き散らすだけ。やつあたりだ、みっともねえ。相棒助けたい気持ちはおなじなのに、サムライは強いから実行できて俺は弱いから実行できなくて、ただ見てるだけで。折れた肋骨がずきずき疼く。はげしく身をよじり手足を振りまわせば激痛が全身を襲い悲鳴をあげそうになる。俺がもっと強ければサムライをひっぺがすことができた、今すぐ試合に乱入してレイジとサーシャをひっぺがすことができた。
 相棒が苦しんでるのに何もできないなんて。
 好きな奴が苦しんでるのに、何もできないなんて。
 「!!っ、」 
 かくなるうえはとサムライの腕に噛みつく。
 「サムライ!?ロンいい加減に、」
 「いいんだ」
 鍵屋崎が目の色変えて寄ってきて、俺とサムライのあいだに割り込もうとする。
 それを制したのは他ならぬサムライだった。激怒した鍵屋崎をしずかに制し、おもてを伏せ、腕の肉を噛まれる激痛に耐える。俺はまだサムライの腕に噛みついていた。もうこれしか手段が思いつかなかった。
 おもいきり噛みつけばさすがに痛みと驚きで手をはなすだろうと思ってたのに、サムライは抱擁をやめることなく、俺の前髪を掴んで無理矢理顔を上げさせることなく、恐るべき忍耐力と自制心とを持って腕の柔肉に尖った犬歯が食いこむ激痛に耐えている。
 「俺のことは気が済むまで罵ってもらってかまわない」
 その言葉に怯み、犬歯を引きぬく。ゆっくりと顔を上げ、首仰け反らせてサムライを仰ぐ。
 「……お前の言うとおりだ、ロン。俺は身勝手な人間だ。本来ベッドで寝てるはずの怪我人でありながら鍵屋崎を助けにきた俺が、お前に説教するのはおかしい。今リングにいるのが鍵屋崎でレイジとおなじ目に遭っていたら、俺は迷わず金網を飛び越えてサーシャを斬りにいくだろう」
 俺の体に腕を回し、俺の頭のてっぺんに顎を埋めたサムライが吶々と思いの丈を語る。誰のことを想起してるのか、自責の念にでも苛まれてるかのように苦渋に顔を歪め。
 「俺は昔も今も身勝手な人間だ。ちっとも変わっとらん。おのれにできないことを他人にしろという、ここは黙って耐えろと言う。卑劣な卑怯者だ。武士の風上にもおけん。俺の言動は矛盾している。
 怪我人の身でありながら試合にでたい一念でここまで這って来たのは鍵屋崎を守りたいからだ。お前とておなじだロン、肋骨が折れていても全身が痛くてもレイジを放っておけない気持ちはよくわかる。
 だがそれでも俺はお前を止めねばならない。今ここでお前を行かせれば、鍵屋崎は売春班に戻らざるえなくなる。俺は、」
 サムライの語尾がかすれる。
 俺の頭に顔を埋めてるせいで表情は読めないが、抱擁の腕に力がこめられ。
 「俺はもう、直を他に男に抱かせたくない」
 俺にだけ聞こえる声で、しかしはっきりとそう言った。
 「レイジとてそれはおなじだ、お前が売春班に戻るのを望んでいない。無理を承知で言う、耐えてくれロン。俺とて我慢ならない、今すぐにでもとびだしてレイジを助けにいきたい、サーシャに斬りかかりたい衝動を必死におさえこんでいるのだ。鍵屋崎もそうだ」
 俺を抱く腕に力をこめたサムライが、血を吐くように懇願する。
 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでくれと、無理を承知で申し入れる。どうか、このとおりだ」
 サムライの声は咳をしすぎたみたいに嗄れていた。
 俺をしっかり腕に抱いたまま、サムライが深々と頭を下げる。体に回された腕は熱く火照っていた。双眸は沸沸と滾っていた。
 サムライだってレイジがどうでもいいって思ってるわけじゃない、今すぐレイジを助けにいきたくて救いにいきたくて気が狂いそうなのだ。金網を颯爽と飛び越えリングに下り立ち、サーシャを成敗したくてたまらないのだ。
 サーシャに斬りかかりたい衝動を必死に抑制し、爛々と血走った双眸でリングを睨みつける形相には鬼気迫るものがあった。
 蝿みたいに金網にたかっていた野次馬連中が数人、サムライの全身から滲み出る殺気と迫力に気圧され、顔面蒼白でとびのく。鍵屋崎も言葉を失い慄然と立ち竦んでいた。サムライは頭を下げたままだった。誠心誠意をこめ、全身全霊でおのれの不実を詫びるかのように、深々と頭を垂れたまま一向に面を上げようとしなかった。
 「…………っ、」
 胸が苦しい。そんなふうに謝罪されたんじゃ、俺はもうサムライを罵れない。サムライも鍵屋崎も俺と気持ちは同じ、今すぐリングに踏みこんでレイジを助けたいのだ。それがわかってしまったからもう何も言えなかった、言ったらさらに虚しくみじめになるだけだと思い知った。
 サムライの腕の中で首をうなだれ、足元に目を落とす。
 さっきまでサムライの腕を振りほどこうと躍起になって暴れてたのに、今はこうして俺を支えてくれるサムライの腕が有り難かった。
 「すまん、ロン」
 俺の耳元でサムライが謝罪する。俺が倒れないよう体に腕を回してしっかり支え、自責の念に苛まれて。
 「俺を恨んでくれ」
 サムライを恨めるわけがない。サムライの腕をふりほどけない俺が悪いのだ。喉に魚の小骨がひっかかったように呼吸が苦しくなり、目尻にこみあげた涙をサムライの腕に顔を擦りつけ、拭う。鍵屋崎はサムライの傍らに立ち、ただじっと俺とサムライの抱擁を見守っていた。
 誰も何も言えなかった。
 歓声が盛り上がる。わずかに入り混じる悲鳴と怒号。
 「ああ、くそう、とうとう東棟の王様やられちまうのかよ!?」
 「こんなん見てられねえよ胸くそわりぃ、ただの公開拷問ショーじゃねえか!」
 「立てよレイジ立ちあがれよ王様、いつまでも寝てんじゃねえよ根性なし、100人抜きまであと一歩のとこまで来てんのにゴール直前でへばんなよ!!」
 「お前がやられちまったら俺たちまた売春班に逆戻りじゃんか、いやだぜもう男にケツ掘られるのは、痔が悪化しちまうよ!!」
 北の軍勢がサーシャに捧ぐ声援にかき消されて切れ切れにしか聞こえないが、このだだっ広い地下停留場にごくわずかだがレイジを応援する人間がいる。レイジの味方がいる。
 凱、売春班のガキども、一攫千金狙いでレイジの100人抜き達成に賭けた博打うち。
 全体比からすりゃ一割か二割に満たない少数だが、レイジに肩入れしてる物好きも確実に存在するのだ。
 金網を蹴り付け殴り付けよじのぼり、周囲の喧騒に負けじと盛大に唾を撒いてレイジに声援をとばしてるのは売春班の連中だ。レイジに救われた恩義を少なからず感じてるらしい売春班のガキどもが、最前列に殺到した野次馬に揉みくちゃにされながらも頑固に場所を譲らずレイジを応援してる。
 『加油大王!』
 『加油大王!』
 『弥是我的希望!』
 がんばれ王様。
 がんばれ王様。
 お前は俺たちの希望だ、と売春班の面々が叫ぶ。
 『弥是我的目標!』
 お前は俺の目標だ、と凱が叫ぶ。
 熱狂と興奮に湧き返る地下停留場を睥睨したサーシャが、満場の観衆を抱擁するかのごとく優雅な動作で腕を広げて恍惚と声援を浴びる。
 もう誰もサーシャを止められない、レイジを助けられない。
 手足の先に絶望が染みて体の芯が凍る。レイジ、と口を動かして名前を呼ぶ。レイジなあ起きろよおい、いつまで寝てんだよ、なんてザマだよ。サムライの腕に抱かれたまま、ポケットに手を入れて指先で牌をさぐる。
 どうか神様。プラスチックの安物でもお守り代わりの牌に願いをこめれば通じると、今この瞬間だけは嘘でも信じこませてくれ。指の骨も砕けよと牌ごとこぶしを握りこみレイジの無事を祈る俺の視線の先、金網を隔てた向こう側でサーシャがゆっくりと屈みこみ、片手でレイジの背中を押さえ付ける。
 レイジ、生きてるのか?起きてるのか?なら返事しろよ、気付けよ!
 畜生レイジの分際で俺を無視しやがって寝ぼけてるのかよ!
 焦燥に焼かれ、サムライの腕の中ではげしく身悶える俺の呼びかけもむなしく、真っ赤に焼けたナイフが徐徐に背中に接近……
 灼熱の刃の先端で火の粉が爆ぜ。
 『モーイ・サバーカ』

 絶叫。

 じゅっ、と音がした。よく熱した鉄板に水を一滴零したみたいな音、水分が瞬時に蒸発する音。レイジの背中、ちょうど右の肩甲骨のあたりに刃を寝かせる。真っ赤に熱された金属の焼き鏝が肩甲骨に接着、たんぱく質が融けて脂肪が溶けて、肉の焼ける甘い匂いが鼻腔の奥を刺激する。
 「ひっ、あっ、あああああっあああああっひ!!?」
 レイジが喉を仰け反らせ全身を波打たせて絶叫する。それまで意識が混濁してぐったりしてたのが、裸の背中に焼き鏝押し付けられた激痛で覚醒したらしい。爪がひび割れるまでコンクリ床を掻き毟り、肘で這うようにサーシャから逃れようとするも、傷が開いた片腕のせいで前進できない。
 肩甲骨が焼け爛れる絶後の苦しみに全身の毛穴が開いて汗が噴出、涙と涎を滂沱と垂れ流して悶絶するレイジを眺めつつ、サーシャがさらにナイフをおしあてる。
 耳を塞ぎたくなる悲鳴。肉が焼け焦げる独特の臭気。
 この匂いはいつか嗅いだことがある、あれはそう、ガキの頃お袋の客にタバコを押し付けられたとき。タバコを腹に押し付けられただけで死ぬほど熱く痛かったのに、火でじっくり炙った金属の刃を裸の背中に置かれるなんて……
 「う、ぐあ」
 胃袋が痙攣する。嘔吐の衝動。
 周囲のガキどものうち何人かがコンクリ床に跪いて胃の内容物をぶちまけてる。いくら喧嘩慣れしててもナイフといえば刺す道具で、こんな狂った使い方普通思いつかない。鍵屋崎も口を手で押さえ懸命に吐き気と戦っていが、目は挑むようにリングを見つめたまま、決して逸らそうとはしなかった。 
 「涙と涎と鼻水を滂沱と垂れ流し、絶頂に達した女のように背骨を撓らせ背中を仰け反らせ、今のお前はなんと淫らな姿をしてるんだ!!そうだ喚け叫べ喘げ、もっと淫らによがり狂え、爪が剥がれるまで床を掻きむしり苦悶にのたうちまわり、皇帝に屈するみじめさを痛感しろ!はははっ、雌犬を犯してる気分だ!」
 「ひっ、いっあ、ああああっ!?」
 レイジの喉から悲鳴がほとばしる。何度目かの絶叫。
 レイジの首の付け根に灼熱の刃を添えたサーシャが、じっくりと時間をかけ、火の粉爆ぜる焼き鏝を一直線におろしてゆく。
 サーシャは舌舐めずりせんばかりの満面の笑顔。レイジの背中を踏み付け踏み躙り床に這わせ、真っ赤に熱したナイフを緩慢に滑らせて、見るも無残な火傷の烙印を刻んでゆく。もう片方の手でレイジの後頭部を掴み、無理矢理顔を上げさせ、狂喜の哄笑をあげる。
 「王の処刑を待ち望んでいた檻の外の愚民どもによく見せてやれ、みっともなく口を開け発情期の犬のごとく息を喘がせ、涙とよだれとに溶け崩れた悲痛な面相を!どうした私の指が欲しいか、自分で悲鳴が殺せないなら代わりに私の指を咥えていたいか?浅ましい犬め、物欲しげに飢えた目をして!
 そうかそうかさっき含ませた麻薬がだいぶ効いてきたか、狂おしく燃える体が私を求めてやまないか!いっそここで犯してほしいか、満場の観衆が固唾を飲んで趨勢を見守る中で私の物になりたいか!?ならばいいだろう、宴の余興だ、烙印の施しが終われば思う存分に犯してやるぞ!!」
 「『また、ソドム・ゴモラおよび周囲の街々も彼らとおなじように好色にふけり不自然な肉欲を求めたので、永遠の火の刑罰を受けてみせしめにされています』」
 レイジの背中の上で反りかえり、狂喜の哄笑をあげるサーシャを眺めて鍵屋崎が言う。いつだったか渡り廊下でレイジが口走った聖書の文句。火の刑罰を受けてみせしめにされるなんて、これ以上なく今の状況にふさわしいじゃんか。泣き笑いしたい気分だ。
 もうどうしようもない。悔しいけど、手も足もでねえ。
 眼鏡越しにサーシャを眺め、沈着な口ぶりで鍵屋崎が呟く。
 言霊の力でサーシャの邪悪を払いレイジの魂を救おうとでもいうかのように切迫して。
 「『それなのにこの人たちもまたおなじように夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者を罵っています。御使いのかしらミカエルはモーセのからだについて悪魔と論じ言い争ったとき、あえて罵りさばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました』
 サーシャを戒めるものはない。
 十字を切って神様に頼んでも無駄だ。
 「『しかしこの人たちは自分には理解できないことをそしり、わきまえのない動物のように本能によって知るようなことのなかで滅びるのです。忌まわしいことです』」
 牌に願掛けしても無駄だ。肉の焼ける甘い匂いが周囲に充満する中、レイジの背中を縦断したナイフが位置をかえる。肩甲骨の下辺に添えられたナイフが、先の火傷と交差する形で背中を横切ってゆく。  
 「あ、あ、ああっあああっあっあ」
 レイジの目尻から大粒の涙がこぼれる。汗でぐっしょり濡れそぼった髪が額に被さり、憔悴した顔をおくれ毛が縁取る。首からたれた十字架の鎖がコンクリ床でうねる。焼き鏝に蝕まれた背中は赤黒く焼け爛れて外気に晒されていた。
 このままじゃ本当にレイジが死んじまう。
 「淫売の股から産まれた薄汚い私生児の分際で後生大事に十字架を下げているお前に、贖罪の十字架を背負わせてやる」
 「!」
 それで漸くわかった、サーシャはレイジの背中に十字架を描いてた。首の付け根から尾てい骨まで伸びる縦の筋と中央で交わる横の筋。
 真っ赤に焼け爛れた巨大な十字架がレイジの背中に出現する。
 焼き鏝で十字架を描く悪魔の所業。
 『俺、神様に嫌われてるから』
 耳の奥によみがえるレイジの声。少し寂しげな笑顔。
 『ロンが俺の救い主だよ』
 そうだ。神様が救ってくれないなら、俺がレイジを救うしかない。俺にしかレイジを救えないんだ。なに弱気になってんだ、諦めてたまるか。手も足もでなくても口はちゃんと動く、喉擦りきれて血を吐くまでレイジに呼びかけることができる。
 「レイジてめえもう浮気しねえって約束したよな、浮気したら絶交だって指きりげんまんしたよな!?」
 サムライに抱かれたまま、限界まで身を乗り出し、怒鳴る。
 「あれは嘘かよ、俺の目の前でサーシャにもてあそばれてんじゃねえよ、体好きにされてんじゃねえよ!親から貰った大事な体に傷付けてんじゃねえよ、お前俺を抱くんだろ、ちゃんと生きて帰って約束通り抱くんだろ!?起きろよレイジ、約束守ればちゃんとご褒美くれてやるから、抱かせてやるから!朝から晩まで足腰が立たなくなるまで付き合ってやるから……いいのかよこんなとこで終わっちまって、こんなとこで終わっちまってどうするんだよ!マリアに言いたいことあるんじゃねえのか、娑婆に残してる愛人どもが泣くぞ、レイジお前色男気取るなら女泣かせるんじゃねえよ、お前に惚れた馬鹿な女哀しませるんじゃねえよ、甲斐性見せろよ!!」
 レイジ。レイジ。頼む起きてくれ、目を開いてくれ、立ちあがってくれ。俺にまた元気な顔見せてくれ、こんなのなんでもねえよ、冗談だよ、ひょっとしてマジ心配した?ってお気楽に笑いかけてくれ。 
 お前が「ただいま」を言えば、俺は「おかえり」を言うから。
 牌ごと握りこんだこぶしを胸にあて、金網に顔をくっつけ、肺いっぱいに空気を吸い込み…

 ―「俺を抱いてくれよ!!」―

 鍵屋崎がぎょっとしたようにこっちを見る。サムライの腕の力が緩む。かまわねえ、レイジが大変なときにいちいち恥ずかしがってられるか。レイジを起こすためなら俺は何だってする、恥くらいいくらでもかいてやる。サムライの腕をふりほどき、鍵屋崎を突き飛ばし、がしゃんと音たてて金網を掴む。 
 片腕を突き上げ、照明に映えるよう白い光沢の牌を翳す。 
 『弥有護身符!!』
 お守りを持ってるだろ!!
 なめらかな表面で照明を弾いた牌の反射光が偶然レイジの目を射る。色素の薄い睫毛の先端がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開く。朦朧と薄目を開けたレイジが不思議そうに首を傾げ、正面の俺を見つけ、そして……

 銃声が鳴った。

 「え?」
 頭上に掲げた腕はそのままに肩越しに振り返る。鍵屋崎もサムライも周囲のガキどもも、地下停留場に居合わせた全員がほんの一瞬おなじ方向を注視する。サーシャでさえ例外ではない。突然の銃声に狂気に水をさされたかのごとく哄笑をやめ、足に敷いたレイジから顔を上げ、うろんげに虚空を凝視……
 刹那。
 他の連中より一瞬早く正面に顔を戻した俺が目撃したのは、膝を撓め床を蹴り、豹じみた脚力でナイフの落下地点へ急ぐレイジ。俺以外の全員の注意が自分から逸れた一瞬にあざやかに反撃に転じたレイジがナイフを奪取、サーシャの形相が一変、びりびり大気を震わす奇声を発して灼熱の刃を振り上げ………
 『мой победа!!』
 『I win!!』
 銀の軌跡と真紅の軌跡が交錯、ともにナイフを下向きに構えた白い腕と褐色の腕が動体視力の限界を超えて交差。俺は見た、レイジが下向きに構えた刃がサーシャの右の眼窩を深々と抉る瞬間を。サーシャの右目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる。
 そして、同時に。
 サーシャが下向きに構えたナイフがレイジの左の眼窩を深々と抉り、目が潰れ、血が飛び散り、顔の半面が鮮血に染まる瞬間を。

【少年プリズン】
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六十二話

(2005/07/29)
 「目があああああああああああああああああっあああああっ!!!」
 僕は見た、サーシャの右目が血飛沫を噴く瞬間を。
 レイジが右目を切り裂く刹那を。
 背中の足をどけて跳ね起き、生皮剥がれた獣が最期の力を振り絞るかのごとく猛然と疾駆、電光石火でナイフをすくいとる。
 鋭利に研ぎ澄まされた刃の鏡面が決死の覚悟を表したレイジの横顔を写し取る。脂汗に濡れた額に前髪を被せ、寝乱れたおくれ毛で顔を縁取り、憔悴の色を滲ませた横顔。
 背中には重度の火傷を負っていた。ライターの炎で炙った高熱の刃を裸の背中に押し付けられたのだ。焼き鏝で烙印を付すにも似た残虐な拷問。
 レイジがいまだに意識を保っているのが不思議だった、普通の人間なら途中で失神してもおかしくない激痛なのにレイジはしぶとく正気を保ち続けた。
 幼少期に施された過酷な訓練の成果、拷問の苦痛に慣れていることが裏目にでたのだ。レイジは痛みに強い。苦痛に耐性のある人間だ。万一暗殺に失敗して敵の捕虜となった場合、拷問で自白を強要されても屈しないよう、子供の頃からあらゆる苦痛に慣らされてきたといつだったか本人が笑いながら語った。
 生きながら背中を焼かれる地獄の責め苦を味わい、おのれの皮膚が焦げゆく悪臭を嗅いでも、レイジは気絶できなかった。目には朦朧と膜がかかり、半分意識を失いかけていたが、焼き鏝が背中に押し付けられて皮膚が赤黒く捲れるたびにこの世ならぬ絶叫をあげて上体を跳ねあげた。
 痙攣。焼傷のショック症状。
 レイジは危険な状態だった。化膿した片腕を抉られ踏みにじられ、覚せい剤をすりこまれ、焼き鏝と化したナイフで背中を十字に焼かれて、普通の人間ならとっくにショック死してもおかしくない重傷を負っているのだ。
 この場合痛覚が生きてることは不利にしか働かない、レイジは現在指一本動かすだけでも神経が焼き切れる焦燥に苛まれているはず。
 一糸纏わぬレイジの背中には十字架の烙印が刻まれている。暴帝の足元に四つん這いにひれ伏して焼き鏝を押されたあと、贖罪の十字架。神の祝福を受けた聖痕か忌まわしい烙印か、そのどちらともつかぬあまりに無残なしるし。背中に十字架を負ったレイジがナイフを構えて疾駆、それに気付いたサーシャが獣じみた奇声を発してナイフを振り上げる。
 脱皮した白蛇のように銀髪が逆立ち、掌中のナイフが剣呑に輝く。
 『мой победа!!』
 私が勝者だ!
 『I win!!』
 俺が勝者だ!
 光集めたナイフの切っ先に殺意を託して腕と腕が交錯、風切る唸りをあげて宙を斜めに、互い違いに振り下ろされる。銀に研ぎ澄まされた残像の弧を曳いて交錯、ナイフの片方が容赦なくサーシャの眼窩を抉る。右目が血飛沫を噴く。鋭利な刃物で切り裂かれた右目を反射的に押さえるサーシャ、その手のナイフは容赦なくレイジの左目を貫いていた。レイジは無防備にこれを受けた、自分の片目を犠牲にしてサーシャの隙を誘い致命傷を与えんとしたのだ。防御も何もなかった。レイジは起死回生の勝機を得るため、サーシャに逆襲するために自分の片目を捨てたのだ。
 光を捨てたのだ。惜しげもなく。
 自己犠牲。献身。神が天に両腕をかざして光あれと叫んでも無駄だ、もう光は戻らない。
 サーシャのナイフはレイジの左目を容赦なく切り裂いて大量の血を滴らせて完全に光を奪い去った。失明の危機。だが、サーシャとて無事ではすまない。レイジと刺し違えた片目の傷は深く、視界の半分が塞がっている状態だ。条件は互角。両者とも視界を半分奪われた状態で試合を続行せねばならない。
 「くそっ!」
 下品な悪態を吐き、金網を殴る。
 レイジが傷付くことは覚悟していた、命がけでロンを守ると誓ったレイジなら如何なる犠牲を払ってでもそれを成し遂げると予期していた。だがこれは、これは……酷いじゃないか、あまりにも。片腕の怪我は悪化、背中には重症の火傷、そして片目は失明。レイジは既に五体満足といえない。そればかりか、無事に生還できる見こみすらないのだ。
 レイジがサーシャに打ち克ち100人抜きを成し遂げたところで彼が死んでは何の意味もない、彼一人の犠牲を代償に僕らの安全が保証されたところで特典を甘受できるわけがない!
 僕ら四人が全員生還してこそ初めて100人抜きに意味がある、誰か一人欠けても無意味だ、勝利に犠牲が付き物など痴れ言だ、くそくらえだ!
 レイジは僕の仲間だ。いいだろう、おおいに癪だが認めてやろうじゃないか。あんなふざけた男でも僕の仲間だ。時には喧嘩をして時には激しく罵り合って時には背中を預けてペア戦をここまで勝ち抜いてきた仲間なのだ。
 もしもレイジが死ぬようなことがあれば、僕は。僕たちは。
 「犬め、サバーカめ、梅毒に感染した淫乱な雌犬め!またしてもまたしても飼い主に手をあげたな、私に噛み付いたな無礼者めが!!」
 「ああ噛みついてやったさ、それがどうしたよラストエンペラー!?どうしたんだよそんなうろたえて、そんなに片目なくしたのがショックかよ、物凄い悲鳴あげやがって!」
 眼窩からナイフを引き抜き、迅速に飛び退く。片目を押さえて悶絶するサーシャと五歩離れて対峙、全身に闘志を漲らせて嬉々と笑うレイジ。だが彼もまた、ナイフで貫かれた左目を五指で覆っていた。
 「はっははっはは!これで俺たちお揃いだな、右と左で世界を半分こだ!飼い犬とお揃いで嬉しいだろ皇帝サマ、飼い主冥利に尽きるだろ?俺とおなじ暗闇に堕ちた気分はどうだよサ―シャ、右の眼窩が地獄と通じた居心地は?」
 レイジが肩で息をしながらナイフを構え直す。手で押さえたままの片目からはしとどに五指を染めて鮮血が滴っている。
 「これ以上変態の悪趣味に付き合わされるのはうんざりなんだよ。公開SMショーでさんざん恥かかせやがって……お婿にいけなくなっちまうだろうが」
 「家畜に婚姻の自由を認めた覚えはないがな。それにお前とて私に踏みにじられ背中を焼かれて、はしたない鳴き声をはりあげてよがり狂っていたではないか。歓喜の涙まで流したくせによもや忘れたとは言わせん」
 殺戮の余韻に恍惚と酔い痴れ、狂気に濡れ光る隻眼を虚空に据えたサーシャに、レイジがうんざりため息をつく。
 「おいおい、あれが本当にそう見えたってのか。笑えるぜ皇帝。今ここでもう片方の瞳を抉りとってやろうか?禊の泉みたいに綺麗でも真実を歪めて映す瞳なんざ無いほうがマシだね」
 残る片目を眇め、涙が乾いた頬をひくつかせ、レイジが皮肉げに笑う。
 「あれはただたんに『痛すぎて』泣けたんだ。よすぎたからじゃねえ」
 レイジとサーシャのあいだで殺気が撓む。試合再開。乾いた銃声が鳴り響き、全員の注意が逸れた一瞬の隙にサーシャの支配から脱したレイジだが、体力はそろそろ底を尽きかけている。残る片目を半眼にしてサーシャを睨みつけてはいるが、外気に晒した背中がひどく痛むらしく、足で体重を支えきることができずに何度も膝から崩れかける。
 「もったいない。二人とも綺麗な瞳をしていたのに」
 「!」
 背後に気配を察して振り向けばホセがいた。サムライとの試合以降姿が見えないと思ったら人ごみに紛れて接近していたらしい。まったく、油断も隙もない。
 「何の用だ、南の敗者が。君の試合は終了したんだからもう地下停留場に用はないはずだろう。それとも、嫌味を言いにきたのか」
 「そう邪険にしないでくださいよ。弟子の様子が心配で観にきたです。ほら」
 ホセが顎で促したほうを見れば、ロンが金網にしがみつき、真っ赤に充血した目で食い入るようにリングを見つめていた。まるでそうしてないと永遠にレイジを失ってしまうと強迫観念にとらわれてるかのごとく、片時たりともレイジのそばを離れずレイジから目を逸らさず、金網に額を預けていた。
 「まるでロンくんのほうが死んでしまいそうな顔色じゃありませんか」
 ホセの言う通りだ。レイジと痛みを共有してるかのようにロンの顔色は酷い。いや、これは……僕にはまるで、ロンがレイジの痛みを分担してるように感じられた。本来レイジ独りで抱えこばねばらない激痛を、金網を挟んだロンが自らすすんで請け負ってるように感じられた。
 苦難の連続に耐えるように目を瞑り、悲痛に顔をしかめ、胸に片方のこぶしをあて、天に祈りを捧げるように頭をたれる。
 死ぬなレイジ。死なないでくれレイジ。
 勝敗など二の次に、ただそれだけを一心に祈り続ける孤独な後ろ姿。
 「ロンくんを哀しませないためにも、レイジくんには健闘してほしいですね」
 僕の隣に立ったホセが同情をこめ、その実、本心が読めない口調で言う。黒縁メガネの奥の目は深沈と謎めいている。本当にレイジの無事を祈ってるのかどうか人あたりよい微笑からは推し量れない。
 いついかなる時も社交的な笑顔を絶やさない南の隠者、ホセ。
 脳裏を一抹の疑問が過ぎる。いつだったか、ヨンイルとホセとが共同宣戦を布告した真相を知ったときからずっと脳の奥に巣食っていた疑問。
 ホセの本当の目的はなんだ? 
 僕に語ったほかに、隠された真の目的があるのではないか?
 僕の心を見抜いたようにホセが向き直り、微笑みかける。 
 「悔しいですが、吾輩たちにできることはもう何もありません。レイジくんが倒れるかサーシャくんが倒れるか……どのみち時間の問題な気もしますが、吾輩たちにできることはただこうして金網越しに試合を観続けるだけ。せめて神に祈ろうではありませんか、サーシャくんとレイジくんが無事こちら側に生還できるように」
 ホセが黒縁メガネの弦にふれる。
 「すべて神のみぞ知る、です」
 「それで綺麗にまとめたつもりか?ふざけた話だ。神が全知全能だと誰が決めた、そんな俗説僕は認めない。第一神が存在する根拠がない。僕は神の存在を信じない、すべて神のみぞ知るなどと詐称しておのれの選択に伴う結果まで他者に責任転嫁するのは我慢ならない」
 僕らの未来を、神などといういい加減なものに託してたまるか。
 僕らの運命を、現実にいもしない神などに決められてたまるか。  

 出会いが人を変えて、人が運命を変えるのだ。
 人が運命を動かすのだ。

 今の僕にはそれがわかる。サムライと出会えてかけがえのないものを得た僕なら。あらかじめ定められた運命と心中するくらいなら死ぬ気で抗ってやるとそう決めたのだ。もとより僕は運命論者ではないが、東京プリズンに来ておのれの頭脳をもってしてもどうにもならないことの数々に直面するうちに、いつのまにか「どうにもならない現実」を許容することに慣れてしまった。
 だが違う、そうじゃないんだ。諦めてはいけないんだ、抗い続けねばならないんだ。それを教えてくれたのはサムライだ。ロンだ。レイジだ。売春班の面々だ。僕が東京プリズンで出会った信頼のおける仲間たち、僕が得た仲間たちだ。
 失ってなるものか、絶対に。
 手放してなるものか、絶対に。
 「レイジ!!」
 激しい衝動に駆りたてられ、ロンの横に並び、金網を掴む。レイジは僕の仲間だ。いつもくだらない冗談をしてふざけて笑っている調子のいい男だが、僕はいつのまにか彼に心を開いて、彼のことを身近に感じていて。
 失いたくない。
 僕らのもとへ帰ってきてほしい。東棟へ凱旋してほしい。
 帰ってこい。王様。迎える準備はできているから。
 「レイジ、敗北したら承知しないぞ!準決勝では僕にさんざん手を焼かせた貴様が、背中の火傷と片目の失明と片腕の怪我くらいで膝を屈するものか!レイジ、貴様は王様だ!僕らを代表する東棟の王様、東京プリズン最強の男、ロンの相棒、僕が心を許した友達だ!」
 胸が熱くなる。周囲の人がいるのに、大勢の人間が見ているのに、こんなに取り乱してみっともない。だが、言わなければ。伝えなければ。手が届かないならせめて言葉を伝えなければ。レイジが死ぬのは嫌だ、レイジの死と引き換えに手にする勝利など無意味だ。僕とロンが売春班からぬけられてもロンの隣にレイジがいなければ何の意味もない、レイジの笑い声が聞こえなければ何の意味もない!
 「レイジ、また鼻歌聞かせてくれよ」
 ロンが呟く。切なる願いをこめるように胸にこぶしをあて、真っ赤に充血した目をしばたたき、涙を呑みこむ。声はかすれていた。語尾は震えていた。泣くのを必死に我慢して笑みを浮かべて、金網を揺すり、吶々とレイジに訴えかける。
 「俺、やだよ。お前の鼻歌が聞けねえなんてやだよ、あのへったくそな鼻歌がなけりゃぐっすり眠れないんだよ。ビリー・ホリディのストレンジ・フルーツ、だっけ。お前さ、笑っちまうくらい音痴だよな。ビバリーが口ずさんだのと全然違うじゃん。レイジ覚えてるか?前に言ったよな、俺がなんでも上手くこなせるお前のこと羨ましがって嫌味言ったら自分にもできないことあるって言ったよな?お前ド忘れしてるよ、できないことまだあるだろ笑顔のほかにも沢山さあ!?」
 ロンが肩をひくつかせて金網を殴る。痙攣する背中。奥歯を噛みしばり嗚咽を殺し、ロンは続ける。
 「ちゃんと練習して音痴直して、いつか、ほんとのストレンジ・フルーツ聞かせてくれよ。お前が好きな歌。俺まだほんとのストレンジ・フルーツ知らないんだ、お前がいつも唄ってるデタラメなやつしか知らないんだ。歌だけじゃない、俺まだお前のこと何にも知らないよ、一年半ずっと一緒にいたけどまだまだ沢山知らないことあるよ!!」
 「俺とてそうだ!」
 僕の隣でサムライが叫ぶ。片手に木刀を握り、激情に駆りたてられるがまま。
 「死ぬな、レイジ。直が売春班送りになったとき、どうすべきかと煩悶していた俺に喝を入れたのはお前だ。お前がいたから俺は今ここにいる、直の隣にいられる、信念をまっとうできるのだ!お前には言葉では言い尽くせぬほど感謝している、何度土下座してもたりないほどの恩義を感じている。レイジよ、俺が恩を返しきるまで死ぬなど許さんからな!彼岸に渡るなど言語道断だ!」
 ロンの歯型がついた手で、渾身の力をこめ木刀を握る。僕、ロン、サムライ。三人金網を掴み身を乗り出し、喉を絞り、声を嗄らしてレイジに呼びかける。僕らの声援がせめてレイジの支えになればいいと、レイジを後押しする動力になればいいと。
 「レイジ、勝てよ!サーシャごときに負けるなんざ東棟の大恥だ、リングでくたばったらてめえの死体に小便ひっかけてやるからな!」
 凱がこぶしを突き上げ、濁声で怒鳴る。売春班の面々も口々にレイジを応援する。それまでサーシャに注ぐ声援に圧倒されていたが、最前列で声を張り上げる僕らに感化されたものか、周囲にたむろっていた東棟の囚人が目配せを交わし、そして……
 「王様」
 最初は小声だった。周囲の喧騒に紛れて消えそうな泡沫の呟き。 
 「王様」
 熱狂は空気感染する。
 最前列にて声をはりあげる僕とロンとサムライと、金網によじのぼり、照明に近い位置で両手を振り回す凱と、肩を小突かれようが髪を毟られようが梃子でも動かずレイジを応援し続ける売春班の面々と。
 レイジの名を連呼する僕たちにあわせ、周囲の人ごみに埋没していた東棟の囚人がまたひとり、またひとりと歩み出る。狂騒の熱に浮かされ、夢遊病者めいた足取りで歩み出た囚人の中には見覚えある顔も混じっている。
 食堂でわざと僕に肘をぶつけた囚人。ロンに味噌汁をかけた囚人。
 普段レイジを嫌ってる囚人も、僕らを敬遠してる囚人も。
 自身が帰属する棟のトップ、東棟の王様絶体絶命の窮地に見栄も体裁もなげうち、一夜限りの協同戦線を組んで隙なくリングを取り囲む。照明の光線も届かぬ地下の暗がりにこれ程東棟の人間に埋もれてたのか、と驚く大群が怒涛をうってなだれこむ。
 「王様!!」
 誰かが腕を突き上げる。
 「王様!!」
 呼応するかのように腕が上がる。何本も何本も。
 「「王様!!」」
 「「王様!!」」
 「なにちんたらやってんだ、てめえそれでも東棟のトップか、俺達のてっぺんに立つ最強の王様かよ!」
 「北の皇帝ごとき鼻歌まじりに殺っちまえよ!」
 「王様は最強だ!」
 「東棟は最強だ!」
 「東棟が一番だ!」
 「王様万歳!」
 「「王様万歳!!」」
 鼓膜が痺れるほどに膨れ上がる声援。他棟の囚人を力づくで押しのけ蹴散らし、掴み合いの乱闘の末にリング周辺を占拠した東棟の囚人勢が床を踏み鳴らし野次をとばし盛大に騒ぎ立てる。全員が全員レイジを応援している。王様の勝利を信じている。
 我らが東棟のトップが他棟に膝を折るわけがないと熱狂的に確信してる。
 「『王様が死んだ、王様万歳』か」
 レイジが笑みを浮かべる。皮肉げな口調とは裏腹に、嬉しそうな笑顔。
 「はは、驚きだね。俺、自分で思ってたより人望あったみたいだ。見てみ、すごいだろサーシャ。お前の軍隊にだって負けてねえ」
 サーシャが面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
 「東の間抜けどもがいくら吠えたところで無駄だ。レイジよ、改めて自分を見ろ。その怪我で戦うつもりか、試合を続行するつもりか。腕と目と背中に重傷を負い立っているのはおろか意識を保っているのが奇跡に近い瀕死の状態で、身のほど知らずにも北の皇帝に仇なすつもりか!!?」
 怒り荒ぶる咆哮をあげ、片目から手をどけるサーシャ。抉れた傷痕が痛々しい片目を瞑り、顔の右半面を朱に染めた凄惨な形相でレイジを睨みつけ、頭を屈めた低姿勢で疾駆。体前にナイフを引き付け、鋭い呼気を吐く。レイジは即座にこれに応じる。片目から手をどけ、咄嗟にナイフを立て、サーシャの刃を受ける。
 刃が刃を研磨する軋り音。
 潰れた片目から血を垂れ流し、顔の半面を朱に染め、北の皇帝と東の王が宿命的に対峙する。
 「何故だレイジよ、何故そうまでして私に逆らう?私の犬になれば苦しまなくて済むというのに……度し難い愚か者め、駄犬め!ああ貴様が憎い、憎いぞレイジ!!私はいつも貴様が憎くて憎くてたまらなかった、卑しい雑種の分際で、混血の私生児の分際で、お前はいつもいつもそうやって私を見下す!!」
 サーシャの顔が屈辱に引き歪み、ナイフを押し進める腕に尋常ならざる力が篭もり、いびつな軋り音を奏でる。
 「サーシャ、ひとつ訂正だ」
 レイジの口調は落ち着いていた。刃に乗せて叩き付けられた殺意の波動を手首の調節で受け流し、右目に悪戯っぽい光を宿し、サーシャの耳元に顔を近付ける。
 「俺、犬科じゃなくて猫科なんだ。豹なんだよ。猫科を飼い馴らすのは無理だろ」
 サーシャの耳朶に吐息を吹きかけ、嫣然と微笑む。サーシャの隻眼に憎悪が炸裂、甲高い音をたてナイフが離れる。サーシャが奇声を発する。蛇が毒液を吐くにも似た鋭い呼気を発し、鞭のごとく柔軟に腕を撓らせ、肩口を脇腹をレイジの死角を急襲する。だが、レイジはこれを回避。刃に前髪を切り裂かれ毛髪が数本宙に散る、刃に頬を切り裂かれ血の筋が滲む。刃が触れた人体部位からじゅっと蒸気が噴きあがり焦げ臭い匂いがたちこめる。
 もし今心臓を切り裂かれたらどうなる、サーシャの刃で心臓を刺し貫かれたら?レイジの背中を焼いた高熱の刃が体内に侵入して心臓を貫通すれば……血液が蒸発、細胞が壊死。レイジは即死。今度こそ間違いなく死亡。ロンが泣いても叫んでも僕が肩を揺さぶり名前を呼んでもレイジは二度と目を開けず、二度とこちら側に戻ることはない。
 「………っ、」
 心臓の鼓動が速鳴る。胸が苦しい。周囲の酸素濃度が薄くなって息が苦しくなった錯覚さえ覚える。心臓を鷲掴みにするこの感情の正体は……恐怖。僕はレイジを失うのが怖い、レイジが死ぬことを恐れている。
 「大丈夫だ」
 肩を抱く力強い腕、抱擁のぬくもり。隣にはサムライがいた。僕を庇うように寄り添い、しっかりと僕の肩を抱いている。サムライの目はリングを見ていた。壮絶な死闘を演じるサーシャとレイジを追っていた。僕の方は見ず、肩を抱いた腕に力をこめ、強い眼光を宿してサムライが断言する。
 「俺たちがついている。王が敗けるわけがない」
 言霊というものがもしあるとすれば、僕はサムライの声の響きにこそそれを感じ取った。僕たちがついてる。レイジが敗けるわけがない。口の中でくりかえし、深く息を吸い、顔を上げる。
 その瞬間、僕の眼前の金網にレイジの背中が激突。
 「!?な、」
 サーシャに追い詰められたレイジが、金網に背中を付け、ナイフの柄を持ちなおしている。やはり無理があったのか、片腕と片目と背中に重傷を負って立ち続けるのはおろか意識を保ち続けるのもむずかしい状態で試合を続行するのは無茶だったのか?疲労困憊のレイジが金網に背中を預け、ずり落ち、尻餅つく寸前でどうにか膝を支える。
 「レイジっ!」
 見かねたロンが僕を押しのけて金網にとびつき、ひし形の網目に強引に腕をくぐらせ、レイジの肩に触れた……次の瞬間。

 レイジが振り向き、金網越しにロンの唇を奪った。

 唇が触れ合ったのは一瞬だった。瞬き一回にも満たないごくわずかな時間。だが、それだけで十分だった。金網を挟んでロンの唇を奪ったレイジが、憔悴の色濃い顔に虚勢の笑みを浮かべる。
 「サンキュ。元気でた。ロン分補給完了だ」
 そう言って金網越しに手を翳し、ロンと手のひらを合わせる。
 手と手が重なる。指と指が触れあう。互いのぬくもりを求めるように指と指を組み、握りしめる。
 「……ばかやろう、ちゃっかりひとの精気吸ってんじゃねえよ。あとで倍にして返してもらうからな」
 ロンの顔が泣き笑いに似た崩れ方をする。仕方ないな、と苦笑する温かみのある表情。レイジの顔もおなじ崩れ方をする。
 ひとつに重なった手と手から互いのぬくもりが流れこむ。
 「死んだら絶交だかんな。忘れんなよ」
 「忘れねえよ」
 「守れよ約束。俺を独りにするなよ。折角抱かれてやる気になったんだから、がっかりさせんなよ」
 「おおとも。土壇場で泣いても許してやんねーからケツ洗って待ってろよ」
 レイジが息を吸い、吐き、顔に垂れた前髪の隙間から爛々と光る隻眼を覗かせる。
 「もうすぐ終わるから」 
 「睦言を交わしてる場合か?」
 蔑笑を孕んだ嘲弄。ロンとのやりとりに水をさし、レイジの前にサーシャが立つ。抉れた傷痕も無残な片目を前髪で隠し、狂気渦巻くアイスブルーの隻眼を細める。右の眼窩から飛び散った血痕がサーシャの顔を斑に染め上げて悪趣味な化粧を施している。「「ウーラン!」」「「ウーラン!」」「「ツァー・ウーラン」」……皇帝を崇拝する北の囚人が喝采をあげる中、横薙ぎにナイフを一閃。演舞と見紛う優雅な動作で血糊を払い腰を落としてレイジと対峙、いつでもとびかかれるよう膝を撓める。
 「お前を私の物にするには腕と目を奪ったくらいでは足りないか、もう片方の腕と目も取り上げれば主人に逆らおうとなどという世迷言は思わぬはず。犬の腕を切り落としても寝台遊戯に支障はない、目が見えずとも困らない、私の目的は東京プリズンの皇帝になること、そしてお前を手に入れること!お前がもう決して私のもとから逃げられぬよう私の手に噛みつかぬよう四肢を切断して調教をやりなおす!」
 「こいよサ―シャ。調教してくれよ」
 金網に背中を凭せ掛け、挑発的にサーシャを手招きするレイジ。前髪にはべったり血が付着して顔の左半分が朱に染まっている。ナイフを左手に持ち、構え、蛇がいつとびかかってきてもいいように腰を落とす。
 ―「東京プリズンを掌握するのはこの私、王座に上がるのはこの私だ!!」―
 アイスブルーの隻眼で閃光が爆ぜる。
 颯爽と銀髪を靡かせ、頭を屈めた低姿勢で疾走するサーシャ。ナイフを構えた右腕が斜め上空から滑降、大気を切り裂く鋭い音。金網を背に、体前に構えたナイフで兇刃を受け止める。腕が痺れる衝撃にレイジが奥歯を噛みしばり足で体重を支える。
 火花散る刃軋り。
 刃と刃が擦れ、噛み合い、至近距離に迫った互いの顔を銀の鏡面に写し取る。
 僕は見た、ナイフの刃に映ったレイジの笑顔を。サーシャの攻撃を受け止めつつ、レイジが鼻歌を口ずさむ光景を。周囲の歓声にかき消されてはっきりとは聞こえないが確かに唇が動いている。
 歌を口ずさんでいる。
 「ストレンジ・フルーツだ」
 刃越しにレイジの唇の動きを読んだロンが生唾を嚥下する。
 「なんてこった。こんなときに歌ってやがる。さすが王様、肝が据わってる。正真正銘の馬鹿だ」
 あきれたような感心したような口ぶりで、中途半端な笑顔でロンが寸評する。レイジは気に入りの歌を口ずさみながら、左腕一本でナイフを巧みに操り、サーシャの攻撃をかわす。ひとり踊っているかのように軽快な足取りで後退、口元には夢見るような微笑を湛え、前髪のかかる隻眼に稚気を閃かせる。
 「さっき擦りこまれた覚せい剤が効いてきたかな。痛みも感じねえし、すっげえご機嫌な気分。一晩中でも踊れそう」
 「痴れ言を」
 サーシャが唇を歪めて吐き捨て加速、レイジとの距離を詰める。サーシャから距離をとろうと後退したレイジの肘が金網にぶつかり、背中が金網に激突。行き止まり。勝利を確信したサーシャが隻眼に喜色を浮かべ、レイジが結わえた髪を掴む。襟足で一本に結った髪を掴まれ、吊られ、頭皮から毛髪が剥がれる激痛にレイジがもがき苦しむ。
 「吊られた男ですね」
 「まだいたのか隠者!?」
 僕の背後、顎に手をあてたホセが訳知り顔で頷き、僕らを等分に見比べて講釈をたれる。
 「ご存知ですか、タロットカード『吊られた男』の解釈を」
 「タロットカードの意味などどうでもいい、第一僕は占いなど実証根拠に乏しい非科学的なものは信じない!時と場所を考えて講釈をたれろ、可及的速やかに視界から消え……」
 僕の抗議を無視し、顎に手をあてたホセが淡々と呟く。
 眼鏡越しの双眸は油断ならぬ鋭さを帯びて、サーシャに後ろ髪を吊られたレイジを観察している。
 「逆位置における『吊られた男』の定義。状況を変えたいが、自分では何もできない。問題や障害はますます大変になり気が滅入る。自分では何もできない状況に悲観的になる」
 「この……!!」
 頭に血が上った。不要な知識をひけらかして僕らの不安を増長させるようなことを言ったホセに怒りが沸騰、声を荒げて詰め寄れば片手で遮られる。
 「ここからが本題です。『吊られた男』正位置の定義とは」
 眼鏡の弦に指を触れ、胡散臭い笑顔を浮かべ、ホセが続ける。
 「努力。忍耐。困難。障害。奉仕。慈愛。救済。成果。良い結果。自己犠牲が報われ、それ相応の結果を手にする。今までの努力や苦労が報われ状況は光り輝く……」
 状況は光り輝く。
 何もかも見通したホセの笑顔に胸騒ぎを覚え、慌てて正面に向き直る。金網に背中を付けたレイジ、襟足で一本に結わえたその髪を片手で吊り上げ、もう片方の手で頚動脈を掻き切るべく刃を閃かせるサーシャ。
 「さらばだ、王よ。血の海で溺れ死ね」
 「レイジっっっ!!!!」
 ロンが絶叫する。サムライの顔が苦渋に歪む。レイジの敗北はもはや避けられない事態なのか、予定された未来なのか?絶望に打ちひしがれ、よろけた僕の耳に届いたのは…… 
 
 「かかった」
 この場でただひとり勝利を確信した王様の独白。

 会場中誰もが目を疑った。
 後ろ髪を掴まれ喉をさらし、頚動脈をかき切られるのを待つばかりと見えた王様が、ナイフの刃を跳ね上げる。襟足で一本に結わえた髪を根元から切断、毛髪が盛大に宙に散る。サーシャの手に残ったのはゴムで括られた一束の藁、否、毛髪だけ……
 「!!!このっっっ、」
 サーシャの足が縺れ、腰が泳ぎ、重心がぐらつく。レイジの毛髪を掴んで宙吊りにしていたのに、それを根元から切り落とされ、レイジの頚動脈めがけて急接近したナイフの軌道がぶれる。サーシャの手元が狂った瞬間を見逃さず、レイジが反撃を仕掛ける。コンクリ床に片膝ついた体勢から強靭な脚力で伸びあがり、逆手にしたナイフの柄でサーシャの右目を刺突。
 先刻、自らが切り裂いた右の眼窩を。
 「ああああああああぐううああああああああっあああああっ、あああっ、ああああ!!!」
 凄まじい絶叫が会場中に響き渡る。ナイフの柄の部分で右目の傷口をつかれ、業火に灼かれた蛇の断末魔のごとく苦悶に身をよじるサーシャ。だが、レイジは容赦ない。あまりの激痛にナイフを放り捨て両手で右目を覆い、血痕が染み広がる床に膝を屈したサーシャの首に刃を添える。
 「いっ、ひいっ、あ……目、目が、私の目があああああああああっああっ!?この、殺してやる、殺してやるぞ!!よくも私の目を、皇帝の目を、たかが雑種の分際で!!」
 両手で庇った右目からぼたぼたと血の雫が滴り落ちる。狂気じみた呪詛を吐き、血だまりに膝を浸けて悶絶するサーシャの首筋にナイフの刃をあてがい、薄く皮膚を切り裂く。冷たい刃が皮膚を裂き、体内へと侵入する戦慄にサーシャが硬直。両手で右目を押さえたまま、虚ろな隻眼で上方を仰ぎ……
 レイジがいた。
 頚動脈の位置に正確にナイフを擬して、サーシャの首筋に浮いた朱線を眺めていた。
 
 優しい微笑みを浮かべ、レイジが訊く。
 『Dead or Alive?』
 
 歌声にも似た響きの死刑宣告。四囲から注がれる脚光を浴びて、足元に跪いたサーシャの首筋にナイフを添えて、いつでも頚動脈を切り裂けると笑顔で暗示し。
 サーシャが凝然と目を見開く。先ほど放り捨てたナイフを取りに戻る時間はない、指一本でも動かせばその瞬間に頚動脈を切り裂かれる。誇り高く奢り高い皇帝の隻眼に葛藤が渦巻く。
 誰もが固唾を飲み、サーシャが口を開くのを待っている。
 生か死か究極の二者択一。
 プライドをとるか命をとるかの葛藤が恐怖に駆逐されるまでそう時間はかからなかった。レイジが首筋に添えた刃に圧力をくわえ、緩慢な動作で横に引いたのだ。血管が裂け、真紅の雫が零れる。一本の管のように開いた喉から呼吸音が漏れ、隻眼で光が揺らめき、そして……

 「『……Alive』。私の、敗けだ」
 
 糸が切れたように首をうなだれ、血だまりにひれ伏したサーシャが苦渋の決断を下す。降参表明。誇り高く奢り高い皇帝の最期。
 ゴングが鳴る。僕の耳にはまるで王の凱旋を祝う銅鑼の音に聞こえた。
 審判がリングに上がり、震える足を叱咤してレイジとサーシャのあいだに割りこみ、両者を引き離す。
 「勝者レイジ!!」
 100人抜き達成の瞬間だった。

【少年プリズン】
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六十三話

(2005/07/28)
 二つ折りの免許証入れをめくり、五十嵐が娘を紹介する。
 あくまで穏やかで優しい笑顔で、あたかも娘が生きてるかのように。
 「五十嵐リカだ。韓国併合三十周年パレードで尹 龍一に殺された俺の娘だよ」
 ヨンイルの眉間に免許証入れを翳し、頼りになる父親の顔でそう言った。

 伊龍一、それがヨンイルの本名。
 五十嵐リカ、それが五十嵐の娘の名。

 点が線になった。
 五十嵐本人の口からヨンイルを殺したいほど憎む真の動機が明かされた。
 壁際に力なくへたりこみ、五十嵐とヨンイルとをおっかなびっくり見比べていた僕の中で、五十嵐の衝撃告白が起爆剤となり猫をも殺す好奇心がまた騒ぎだす。
 五十嵐の娘の顔をよく見たい欲求に駆られ、腹の脇でこぶしを固めて身を乗り出した僕の視線の先、通路のど真ん中で一歩も譲らず対峙する五十嵐とヨンイル。
 蛍光灯が不規則に点滅する通路には、いつ引き金にかけた指が痙攣して銃が暴発してもおかしくないほどきなくさく濃密な殺気が漂っていた。
 壁に背中をくっつけて生唾を嚥下、慎重に体を動かす。
 耳障りな衣擦れの音。おしっこでびしょ濡れになったズボンが太股にぴっちりへばりついて気持ち悪い。
 ああ、パンツ洗わなきゃ。それにズボンも。おしっこちびるなんて何年ぶりだろうまったく、ママに叱られちゃうよ。現実逃避の思考の脱線。壁から背中を起こし、生唾を嚥下。五十嵐がヨンイルの眉間に翳した写真を盗み見る。
 目がぱっちりした可愛い女の子だった。
 色褪せた写真からでも快活な笑い声が聞こえてきそうな笑顔だった。ボーイッシュなショートヘアがよく似合う活発な印象の女の子……
 五十嵐と全然似てないな、とまず最初にどうでもいいことを思った。
 そういえば奥さん似だって言ってたっけ、自慢げに。
 娘の話をする五十嵐はいつも本当に嬉しそうだった。
 親ばかにのろけた笑顔といい照れくさげに頭を掻く仕草といい、僕たちが憧れてやまない普通の父親みたいだった。
 東京プリズンに来る囚人の殆どが治安極悪なスラムの崩壊家庭で生まれ育ったのは統計的な事実で、そいつらには片親しかいないのが普通で、両親揃ってるガキが逆に珍しいくらいだった。
 よくある話父親が他に女作って逃げちゃって、仮に父親がいたとしてもそいつは大抵ヤク中かアル中のどっちかで、妻子に殴る蹴るの暴行働いて社会から落伍した憂さを晴らす人間のクズだった。偉そうに父親ヅラされるよかいっそいないほうがマシな人間だった。物心ついた時分から最低の父親しか知らないガキどもは、ヤク中でもアル中でもない普通の父親が羨ましいのだ。

 でも、五十嵐は違う。五十嵐は本当にいい父親だったのだろう。

 家族思いで娘思いの父親、血反吐でるまで子供を蹴ったり殴ったりなんか絶対しない父親。生前の娘の写真を今も大切に持ち歩いてるのがその証。娘の思い出話をする愛情深い眼差しからは五十嵐がいかに良い父親だったかしみじみ伝わってきた。
 その五十嵐が、ヨンイルの胸に銃口をつきつけている。
 立て続けに衝撃的な出来事が起きて頭が混乱してる。お尻をずらし、背中を起こし、ヨンイルと五十嵐を見比べる。ヨンイルは五十嵐の娘の仇だった。
 情報通の僕は当然ヨンイルがなにして東京プリズンに放りこまれたか前科をばっちり把握してる。天才ハッカービバリーにお願いして個人情報データベースに忍びこみ、極秘管理されてるファイルを盗み読んだこともある。
 ヨンイルの個人データは極秘事項扱いで特に厳重に管理されていて、さしものビバリーもハッキングに手こずっていた。

 ヨンイル。伊龍一。

 祖父は韓国・朝鮮併合を機に半島に帰化した在日二世。
 半島の景気低迷を朝鮮併合による弊害として韓国独立を目指す過激テロ組織にかつては祖父ともども身をおいていた。十一歳で逮捕されるまでのあいだに総計二百個の爆弾を製造、KIAのテロ活動に関与して世間を震撼させた。
 ヨンイルがばらまいた爆弾の巻き添えくった犠牲者の数は二千人をくだらない。
 僕はヨンイルの前科を知ってる。僕だけじゃない、東京プリズンの囚人のあいだじゃ有名な話だ。ヨンイルは間違いなく東京プリズンでいちばん多く人を殺した前科持ちだ。レイジだってかなわないぶっちきりイチバン。
 だからそう、ヨンイルに身内を殺されたと私怨を抱く人間がいても不思議じゃないのだこれっぽっちも。
 けど、それはおとなり韓国の話。
 まさかこの刑務所で、天文学的極少確率の偶然で、娘を殺された父親と犯人とが出会ってしまうなんて。
 復讐が実現するなんて。
 「…………は?」
 ヨンイルはぽかんとしていた。
 口を半開きにした間抜けヅラ。五十嵐の口から真相を聞かされてもにわかに呑みこめないといった放心の表情。五十嵐の言葉が脳裏に浸透するにつれ、ヨンイルの顔に驚きの波紋が広がっていく。
 ヨンイルの表情の変化を苦笑まじりに観察しつつ、免許証入れを閉じ、懐に写真をしまう。
 「覚えてなくても無理ねえか。パレード中に爆弾爆発させたのはお前じゃねえ、お前はあの時テロ現場にいなかったんだから。でもな、リカはあの時あの場にいたんだ。修学旅行先で運悪く居合わせちまったんだ。修学旅行の日程がタイミングよく……いや、悪くか……韓国併合パレードの期日と被ってたんだ」
 五十嵐はあくまで淡々と語る。
 人間として大切な一部分が完全に欠落してしまった違和感ばりばりの口調。口元は薄く笑ってたが目は酷く醒めていた。
 ヨンイルは神妙な面持ちで五十嵐の語りに耳を澄ましていた。
 ヨンイルの胸に銃口を埋め、乾いた哄笑をあげ、五十嵐がヤケ気味に続ける。
 「リカは友達と一緒にパレードを見にいった。そして運悪くテロに巻き込まれた。運悪く、運悪く、運悪く……はは、聞き飽きたぜ。リカが死んでから五年、毎日毎晩考え続けた。俺の娘が死ななきゃならなかったわけを、たった11歳で将来棒にふらなきゃならなかった納得いく理由ってやつを。
 でも、どんだけ考えたってそんなもん見つからなかったよ。
 運悪く。
 まわりの連中だれもかれもが口を揃えてそう言った。リカちゃんは運が悪かったんだ、自分を責めるな五十嵐、お前はなにも悪くない。あのテロはだれも予想できなかったんだ、リカちゃんはたんに運が悪かったんだよ、あの時あそこにいなけりゃ……せめて爆発地点からあと5メートルか10メートル離れてりゃあ一命とりとめたかもしれねえのに。可哀想にリカちゃん」
 五十嵐の目に悲痛な光が宿る。
 銃口に圧力をくわえる。
 肋骨に銃口がめりこむ激痛にたまりかねてヨンイルがよろける。
 だが、五十嵐は動じない。ヨンイルの胸を銃口で小突き、畳みかける。
 「なあヨンイル、これってどういうことだ。リカは『運』なんて目に見えない、形のないものに殺されたってのかよ?そんはずあない。違うか?運に人は殺せない。人を殺すのは人だ。この五年間ずっとずっと考えてたんだよ、リカが死ななきゃならなかった理由を、俺がリカの死を割りきれるちゃんとした理由を。でも、駄目だった。どんだけ考えても埒が明かなかった。
 だってリカは、きちがいどもの馬鹿騒ぎに巻き込まれただけなんだから。リカ自身はなにも悪くないんだから。だれかになにかひどいことしたわけじゃねえ、だれかを騙したり傷付けたりしたわけじゃねえ。修学旅行にでかける前の夜もリカは洗濯物畳んでたんだ、具合悪くて寝こんでる母親の代わりにせっせと洗濯物畳んでたんだよ。そんなリカがなんだってあんな死に方しなきゃならねえ、面影なんかこれっぽっちも残らねえ肉片にならなきゃなんねえ?」
 グリップを破壊せんばかりに手に力がこもる。
 銃口で顎を押し上げ上向きに固定したヨンイルの顔を覗きこみ、自嘲の笑みを吐く。
 「ここでお前と会った時、柄にもなく運命を感じたよ。すっごい偶然だよな、考えてみりゃ。俺は看守でおまえは囚人。はるばる海越えた砂漠くんだりの刑務所で、憎い娘の仇とおなじ空気吸うはめになるなんて悪い冗談にもほどがあるぜ。ありえないよな実際、こんな偶然。運命って呼んでもいいよな。それか宿命か……まあ、どっちでもいいか」
 五十嵐が深呼吸する。
 「お前のデータ読むまで、俺はリカを殺した犯人についてなんにも知らなかった。当局にしつこく食い下がってもなんにも教えちゃくれなかった。日本と韓国のあいだでそういう取り決めがあったんだろうな……今となっちゃどうでもいいことだがよ。五年前、本当はすえながく記念すべきめでたい日になるはずだったパレード中に爆弾ばらまいた実行犯はもういない。あの時あの場にいた大勢の人間を巻き添えに自爆しちまった。でも、爆弾造った張本人はこのとおりぴんぴんしてやがる。毎日漫画読み放題で浮かれてやがる」
 ヨンイルの下顎を銃口で抉り、威圧的に顔を近付ける。
 引き金に指をかけて脅迫され、凄味の利いた目つきで睨まれても、ヨンイルは決して視線を逸らそうとしなかった。
 銃口ではなく、五十嵐の目をまっすぐ見つめ、じっと糾弾に耐えている。
 「ずるいよ、お前」 
 語尾がかすれる。
 アルコール依存症患者のように手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 五十嵐の顔が悲痛に歪み、双眸で光が揺れる。
 どれだけ憎んでも憎みたりない、どれだけ殺しても殺したりない娘の仇を前に、引き金を引きたい衝動に抗いながら切々と心情を吐露する。
 「リカはもう漫画が読めねえのに、あんなに好きだった手塚治虫読めねえのに、お前ときたら通路歩きながら漫画読んでけたけた笑い声あげやがって……俺はもう、お前に漫画読んでほしくないんだよ。手塚治虫にふれてほしくないんだよ。お前を最初に見た時もそうだった、お前漫画読んでたんたな、漫画読みながら笑ってたな?頭にかあっと血が上ったよ。くそったれの人殺しのくせに、爆弾で二千人殺した鬼畜外道のくせに、お前ときたらまるきり普通のガキみたく笑いやがって。リカが好きだった漫画をリカ殺した張本人が面白がるなんて認めねえ、リカとお前がおなじ手塚治虫好きだなんて許せねえ絶対に!」
 激昂した五十嵐が硬い銃口でヨンイルの脇腹をつく。
 「いいかよく聞け、ブラックジャックはリカのもんだ、お前のもんじゃねえ。人殺しが手塚治虫を読むな、語るな、横取りするな。さも自分こそイチバンのファンだってツラすんじゃねえ。お前も読んだんなら知ってるだろヨンイル、ブラックジャックは立派な医者だよな、最高にかっこいい無免許医だよな。リカが惚れる気持ちがよくわかるよ、お前が憧れる気持ちもわからなくねえよ。けどな、お前には、お前にだきゃあ手塚治虫を読む資格がないんだよ。リカはお前のせいで手塚治虫が読めなくなったんだから、あんなに好きだったブラックジャックが二度と読めなくなったんだから!」
 言ってること滅茶苦茶だ。支離滅裂だ。
 五十嵐はもうヨンイルの憎しみでまわりが見えなくなってる。
 唾とばしてヨンイルを口汚く罵りながらあちこち銃口で小突き回す。
 銃床が肩を殴打、ヨンイルが痛みに顔をしかめ前かがみの姿勢になる。
 銃口がへそを圧迫、ヨンイルが体を二つに折って激しく咳き込む。
 腹を抱えて咳き込むヨンイルの視線にあわせて屈みこんだ五十嵐が、手首に捻りを加えて乳首を押し潰す。
 「…………っ、あ」  
 「痛いだろ」
 いい気味だといわんばかりに五十嵐が嘲笑う。
 卑屈な顔。嗜虐の悦びに爛々と輝く目と低温の笑み。額に脂汗をかき、意志の光失わない反抗的な目つきで五十嵐を睨むヨンイル。その正面に屈みこみ、苦痛に息を荒げるヨンイルの表情を舌なめずりせんばかりに観察しつつ、ごりごりと銃口を回して乳首に重圧をかける。
 「資料に詳細に書いてあったよ。お前がかつていた組織……反政府テロ組織KIAに入るには避けて通れない儀式のことが。組織への絶対忠誠と服従を生涯誓わせるため、KIAじゃ正式メンバーの体に刺青彫るんだってな。
 老若男女関係なくKIAのメンバーの体にはどこかしらに龍の刺青が入ってて、その大きさは組織への貢献度によって異なる。KIAの実態は今だ謎に包まれてて当局も手を焼いてるそうだが、逮捕した連中を徹底的に取り調べてくうちに全員の体におなじ刺青見つけて、事の次第が発覚したんだそうだ」
 五十嵐が銃口をどける。ヨンイルの乳首は切れて血が滲んでいた。
 切れた乳首を一瞥、今度はじかにヨンイルの体に触れる。
 肉付きを確かめるように脇腹を揉み、まさぐる。胸板を撫でる。そうやってヨンイルの体に好き放題さわりつつ、熱に浮かされたように呟く。
 「お前の刺青もそうだ。KIA正式メンバーになる時に彫った龍の刺青……二千人を食い殺した龍だよ。その全身の刺青こそ、お前がだれよりKIAに貢献した消し去りがたい証だ。ヨンイル……日本名で龍一たあよく言ったもんだな、お前はたしかに人食い龍だよ、二千人の血肉を食らって成長した恐ろしい龍だよ!リカは飢えた龍に食い殺されたんだ、腹を空かせた龍の餌食にされちまったんだよ!」
 ヨンイルの体に刻まれた龍の刺青、その鱗を爪で掻き毟り剥がそうとする五十嵐。
 龍のあぎとをこじ開けて喉に手を突っ込んで娘を吐き出させようとでもするかのように必死な形相で、ヨンイルの腕に肩に脇腹に爪を立てる。
 五十嵐の爪で引っ掻かれた肌に赤い筋ができる。
 「吐き出せよ。お前がむかし食い殺した二千人今ここで吐き出せよ、まさか消化しちまったなんて言うなよ、まだたった五年しかたってないんだ、今ならまだ間に合うはずだ、龍の胃袋はでけえからリカは溶けきってないはずだ!なあ返せよ、返してくれよヨンイル、リカを、俺の娘を!」
 五十嵐が爪に力をこめ、龍の鱗を掻き毟る。
 娘を返してくれ、返してくれと馬鹿の一つ覚えみたいに訴えるさまはただ惨めで、救いがたく惨めで、僕は何度も顔を背けたくなった。
 その姿がまるで、殺したいほど憎いヨンイルになりふりかまわず縋りついてるようだったから。
 ヨンイルは同情めいた眼差しを五十嵐に投げかけぼんやり床にうずくまっていた。見るもの不安にさせる掴み所ない表情。体のあちこちを引っ掻かれ、爪で抉られた皮膚に赤い筋が浮いても、痛みを凌駕した驚きのために抗弁できずにいる。

 僕より誰よりヨンイルがいちばん驚いたのかもしれない。

 かつて自分が造った爆弾が五十嵐の娘を殺したと知り、予想だにしない衝撃の事実に打ちのめされ、さっきまでの威勢よさが嘘みたいに虚脱しきっていた。
 両手を腹に回して背中を丸め、額にびっしょりと脂汗をかき、体の鱗を剥がされる激痛に耐えるヨンイル。五十嵐の爪がヨンイルの二の腕に食い込み、痛々しい引っ掻き傷ができる。だが、五十嵐が意地になって鱗を剥がそうとしてもヨンイルの体に刻まれた刺青はかわらずそこにある。
 ただ、ヨンイルの体が傷付くだけ。
 「……はっ、……」
 ヨンイルの目尻が朱を刷き、うっすらと涙の膜が張る。
 なんで反抗しないのヨンイル、突き飛ばさないのさ?
 ヨンイルはまったくの無抵抗で、通路の真ん中に片膝ついて、五十嵐に刺青引っ掻かれるまま唇を噛んで耐えていた。ヨンイルは西の道化、五十嵐がヨンイルの刺青から目を離さずにいる今なら反撃の手段なんかいくらでもあるはず。五十嵐の股間を蹴り上げるか、手を蹴り上げて銃を落とすか……
 方法はなんだっていい、とにかくヨンイルなら五十嵐から銃を取り上げるのなんて簡単なはず。でもヨンイルはそれをしない、他に考えがあるのかどうか遠目に見てる僕にはちっともわからないが、ただ五十嵐にされるがまま通路のど真ん中にうずくまって全身に爪が食いこむ激痛に耐えている。
 首を仰け反らせ、首をうなだれ、ぎりっと音鳴るほどに奥歯を食い縛り。
 こめかみを一筋二筋汗が滴り、みみず腫れに似た赤い筋が全身に浮く。
 「言えよ。もう二度と手塚を読みませんて」
 ヨンイルの肩に手をおき、もう一方の手に銃を預け、そっと囁く。
 「手塚治虫はリカのもんだ。ブラックジャックはリカのもんだ。お前に漫画読む資格はねえ。俺はもう二度と、一生死ぬまで、お前に漫画を読んで笑ってなんか欲しくないんだよ。お前が殺した二千人のこと度忘れして楽しい思いなんかしてほしくねえんだよ」
 「いやじゃボケ」
 深呼吸で意を決したヨンイルが頑固に首を振る。強情な顔つき。
 即答したヨンイルを醒めた目で見下ろし、銃口を下ろす五十嵐。
 ヨンイルの胸板をつ、と滑らせ、へそを縦断した銃口をズボンの中に突っ込む。ズボンの股間に突っ込まれた銃口にヨンイルがぎょっとする。恐怖と驚愕に強張った顔。床に後ろ手ついてのけぞったヨンイルに跨るように前傾姿勢をとり、重ねて脅迫する。
 「言えよ。俺はもう二度と手塚治虫を読みません、語りませんて」
 銃の引き金に指をかけたまま、いつでも発砲できるぞと脅しをかけ、萎縮した股間をつつく。
 もし僕がヨンイルならおしっこちびるの確実。実際、壁にべったり背中付けて傍観してるだけでペニスが縮み上がった。 
 ヨンイルが首肯すればすべてはまるくおさまる。
 五十嵐は正気になって銃をしまうかもしれない、元通り話のわかる看守になって安田に銃を返しにいくかもしれない。
 ヨンイルなにもたもたしてんのさ、さっさと頷いちゃえよ!
 ヨンイルが「はい」って言えばすべてがまるくおさまるんだ、もう二度と手塚治虫読みませんて、漫画と縁切りますって誓えばそれで五十嵐は納得、一件落着の大団円なんだ!
 ああ、イライラする。焦燥で神経が焼ききれそうだ。
 腹を抱えて通路にうずくまったヨンイルは僕がこれまで見たこともない真剣な顔で葛藤してる、深刻な様子で苦悩してる。
 ちょっと待て、これってそんな悩むような二者択一?手塚をとるかイチモツをとるか……イチモツで即決だろ? 
 「………五十嵐。間抜けな話やけど、俺、あんたに恨まれてる理由今の今までこれっぽっちも知らんかった。俺があんたの娘殺した爆弾つくったなんて、想像もせんかった」

 ゆっくりと顔を上げ、ヨンイルが独白。
 未練と葛藤が綯い交ぜとなった目で五十嵐を凝視。

 「こっちきてから五年、俺もヤキ回ってもうた。自分がむかしやったことすっかり忘れて、漫画三昧の極楽ライフ送っとった。あんたが俺を殺したいほど憎むのは無理ない。俺、あんたに階段から突き落とされても自分に非があるなんて気付きもせんかった。あんたに恨まれる心当たりないなんて、神経逆撫ですること平気で言うとった。ホンマ、阿呆や。たった五年間ですっかり腑抜けになってもうた。あんたにはちゃんと俺を憎む理由あったんやな」
 ヨンイルが深く息を吸い、体ごと五十嵐に向き直る。
 だれになにを言われても信念を譲らない目。 
 「せやけど、それだけは断る。俺は手塚が大好きや、じっちゃんの次に手塚尊敬しとる!いくらあんたの頼みでもこのさき手塚を読めなくなるなんてお断りじゃ、手塚は俺のすべて、爆弾造りしか知らんかった俺が東京プリズンで見つけた生き甲斐なんじゃ!!俺には手塚のおらん人生なんか考えられん、このさき漫画読めなくなるくらいなら今ここでイチモツ吹っ飛ばされたほうがマシじゃ!!」

 道化のおおばかろう。
 手塚とイチモツはかりにかけて手塚選びやがった。

 威勢よくこぶしを振り上げ、片膝立ちで啖呵を切るヨンイルに開いた口が塞がらない。
 だって、そんな……アホな。
 五十嵐もぽかんとしてる。絶句。まさかズボンの股間に銃口突っ込まれて危機一髪、もとい危機イチモツの状態で啖呵を切り返すやつがいるとは夢にも思わなかったんだろう……ああ、くだらないこと言っちゃった。危機イチモツって最低のギャグだ。死んだほうがマシだ僕……
 いや、今のは言葉の綾。本当は死にたくない。殺さないでお願い。
 「お前、正気かよ。命と漫画はかりにかけて漫画選ぶのか?お前にとって漫画って、そんなに大事なもんなのかよ。人生に欠かせねえほど大事なもんなのかよ。他にもなにかあるだろうよ、人生に欠かせないもんが!?」
 五十嵐の手が震え、銃口がかちゃかちゃ鳴る。
 僕の位置と距離からでも五十嵐の顔が真っ赤に充血してるのがわかった。
 五十嵐は激怒していた。
 もう無理して平静を装う必要も殺意の衝動を抑制する余裕もなかった。
 ヨンイルへの憎しみを剥き出した醜悪な形相で五十嵐が叫べば、ヨンイルが凄まじい剣幕で反論する。
 「今の俺に漫画より大事なもんなんかあるかボケ、今の俺には漫画がすべてなんじゃ!!五年前まで俺の人生に欠かせんもんは爆弾やった、物心ついたときからじっちゃんの背中見て、じっちゃんに憧れて見よう見真似で爆弾造ってきたんや!じっちゃんみたいになりとうて、じっちゃんが造ったみたいな爆弾造りとうて、毎日毎日寝る間も惜しんで手ぇきなくさくなるまで火薬と銅線いじってきたんじゃ!!」
 衝動的に立ち上がったヨンイルが五十嵐と対峙、発達した犬歯を剥く。
 「せやけどじっちゃんはもうおらん、俺が爆弾造りにこだわる理由ものうなった、俺にはなんもなくなった!そん時見つけたんが漫画なんや、そんな時出会ったんが漫画の神様手塚治虫や!悪いか人殺しが漫画読んで漫画読んで声あげて笑ったら、しゃあないやんオモロイんやもん、最っ高にオモロイんやもん!俺がど腐れ外道の人殺しでも好きなもんは好きなんじゃ、読みたいもんは読みたいんじゃ!!」
 ヨンイルの剣幕に気圧された五十嵐が顔強張らせてあとじさり、ゴーグルから足がどく。その隙を逃さずスライディング、腹這いに床を滑ってゴーグルをひったくる。
 埃まみれでゴーグルを取り返したヨンイルが会心の笑顔になる。 
 犬歯があどけない笑顔。
 「!!!!くそがっ、」
 その笑顔で、なにかが切れた。
 怒髪天を衝く咆哮をあげた五十嵐が両手でグリップを支え、ヨンイルの眉間に銃口を定める。危ない!今度こそ五十嵐は本気だ、本気だヨンイルを殺すつもりだ!
 ゴーグルを腹に庇ったヨンイルがぎょっと目を剥く。
 駄目だ、間に合わない!五十嵐が引き金にかけた指を手前に……
 乾いた銃声が通路に響き渡る。
 「リョウさんっ!」
 「え?」
 懐かしいビバリーの声。ママより誰より今僕がいちばん会いたかった人の声。一瞬幻聴かと疑った。だってあんまりタイミングいいもんだから。
 耳から手をどかして顔を上げた僕の視線の先、五十嵐の腰にしがみついているのは……ビバリー。嘘、ええっ、なんで?!自分が見てる光景がにわかに信じられず試しに頬をつねってみたらちゃんと痛かった。夢じゃない。ビバリーがいる。どっから湧いて出たのか……いや、目を閉じる前にこっちに駆けてくる足音を聞いた。たどたどしく僕を呼ぶ声も……
 ひょっとして、助けにきてくれたの?絶交中の僕を?
 ビバリー、ほんといい奴。
 「なにボ―ッとしてるんすか、こいつ取り押さえるの手伝ってください!」
 前言撤回。
 「ちょ、それが腰抜かしてへたりこんでる赤毛の美少年に言うせりふ!?大丈夫っスかとかどこも怪我ないっスかとかさんざんおっかない思いさせてごめんやっぱり僕が悪かったっスとか他に、」
 ビバリーの顔見た途端、安堵で泣きたくなった。
 けど、再会の感動で泣きべそかくのも恥ずかしいから、壁に肘をついて体を起こしがてら毒舌を返す。五十嵐の腰にひしとしがみついたビバリーはいいように振りまわされて酔いはじめていた。たしかに銃声が聞こえた、銃口が硝煙を噴いてるし五十嵐が発砲したのは間違いないがヨンイルはぴんぴんしてる。
 弾はどこいったとあたりを見まわせば、天井に穴が開いて弾丸がめりこんでいた。間一髪、ビバリーが腰にしがみついた衝撃で銃口がブレたんだろう。
 よし。
 「手伝うよ、ビバリー!」
 生渇きのズボンを気にしてる暇はない。
 五十嵐の手から銃を取り上げなきゃビバリーが危ない。助走して五十嵐にとびかかり、両手で腕にぶらさがる。さっきまで腰が抜けてへたりこんでたのが嘘みたいに恐怖心は消し飛んだ。ビバリーの顔を一目途端に体の底から元気が湧いてきて、ビバリーが頑張ってるんだから僕も頑張らなきゃ相棒失格だと対抗心をかきたてられ、無我夢中で五十嵐にしがみつく。
 「どけ、リョウ!俺が殺したいのはヨンイルだけだ、巻き添えになりたくなきゃ引っ込んでろっ」
 「やだよ!ラッシーに銃預けたの僕じゃん、ラッシーがひと殺したら僕とビバリーが大目玉くらっちゃう!」
 五十嵐が舌打ち、僕とビバリーを振り落とそうと滅茶苦茶に暴れだす。腰を捻り、腕を振り、奇声を発して暴れる五十嵐に必死にしがみつく。
 銃床が額を強打、出血再開。
 かち割れた額から飛んだ血がビバリーの顔にかかる。
 「リョウさん、大丈夫っスか!?」
 「最初にそれ言ってよ!」
 あはは、変なの。こんな状況だってのに、おかしいや。脇腹くすぐられてるみたいに後から後から笑いがこみあげてくるのはどうして、頬が緩むのはどうして?ビバリーが心配してくれるのが嬉しい、僕に声かけてくれるのが嬉しい。無視せず話しかけてくれる、たったそれだけのことが凄く嬉しい。 
 ビバリーがそばにいるだけで体の底から元気が湧いてくる。
 「邪魔すんじゃねえ!!」
 怒り狂った五十嵐が大きく腕を振りかぶる。視界が反転、無重力の浮揚感。背中に衝撃。ああ、やっぱ二人がかりでも駄目か。ちびでやせっぽっちの僕とビバリーが本気をだした大人にかなうわけないのだ。床に転落した僕は、肘をついて上体を起こし、眩暈がおさまるのを待ち……
 「ああああああああっああああああっいいいいいっがらしいいいっ!!」
 招かれざる闖入者。
 「!!」
 ビバリーと同時に振り向く。
 通路の奥、今しも角を曲がって姿を現したのは、全身糞尿にまみれて凄まじい悪臭を放つ……タジマ。タジマ?え、ちょっと待って、なんでタジマがここにいるの?独居房に閉じ込められてるはずじゃあ……
 「だれかが独居房の鍵開けて逃がしたんスよ!」
 「だれだよ、人騒がせな!」
 「俺だよ」
 ビバリーと同時に五十嵐を見上げる。
 正面に顔を据え、卑屈な半笑いでタジマを迎える五十嵐。どんな迷走経路を辿ったんだか、副所長指揮下の看守の追跡を巻いて地下停留場へと繋がる通路へ姿を現したタジマが、酩酊した足取りでこっちにやってくる。
 「……なんでそんなこと?」
 「時間稼ぎだよ」
 にべもなく五十嵐が述べる。
 「タジマを独居房からだせば看守の注意は全員そっちにいく。タジマが暴れてくれればくれるほどこっちにとっちゃ好都合だ。だからタジマを逃がした。俺は動物園の餌やり係で鍵の管理を任されてる、その気になりゃいつでもタジマを逃がすことができたんだ」
 たった、それだけのために。
 時間稼ぎが目的で、タジマを檻からだしたっていうの?
 ぞっとする。五十嵐は正気じゃない。ヨンイルへの憎しみが暴走した挙句、破局にむかってまっしぐらに突き進んでる。
 タジマも正気じゃない。最初は普通の歩幅で、徐徐に大股になり、10メートル付近から全速力で駆け出す。
 タジマに銃口を向ける五十嵐。
 威嚇。
 射殺するつもりはない、銃口を向ければさすがにタジマも大人しくなるだろうと……
 「止まれタジマ」
 だが、タジマは止まらない。五十嵐の制止を無視して全速力でこちらに……
 「止まれ!!」
 五十嵐の顔に焦りが浮かぶ。タジマは止まらない。地鳴りめいた足音を轟かせ、肥満した腹を弾ませ、五十嵐を抱擁するかのように両腕を広げてこちらに駆け寄ってくる。
 白目を剥いた顔、弛緩した口元……
 「危ないっ!!」
 ビバリーが僕の上に覆い被さる。ビバリーの懐に抱かれて続けざまに横転、壁に衝突した脳裏で火花が爆ぜる。ビバリーの腕の中から僕は見た、タジマと五十嵐が衝突する瞬間を。タジマが五十嵐をはねとばす瞬間を。両腕広げて五十嵐押し倒したタジマが力づくで銃をひったくり、ぎらぎら輝く目で銃口を覗きこむ。
 「ごろじてやる」
 タジマの目は五十嵐を通り越してどこかを、だれかを見ていた。
 「あの若造、殺してやる。俺様に恥かかせたこと後悔させてやる。囚人どもが間抜けヅラ並べて見てる前で口に銃突っ込んで脳漿ぶちまけてやる、俺様を独居房にぶちこんでクサイ飯食わせたことたっぷり後悔させてやらあ!!」
 床に転倒した五十嵐が起きあがるのを待たずタジマが走り出す。片手に銃を持ち、地下停留場へと通じる出入り口めざして。僕にはわかった。タジマがだれを殺そうとしてるか、五十嵐から奪った銃でだれに復讐するか。
 安田。
 タジマに独居房行きを命じた東京プリズン副所長。
 「まずいよビバリーこのままじゃ、今のタジマが安田ひとり殺すだけでおさまるはずない、地下停留場で手当たり次第に発砲してまわりの連中巻きこむに決まってる!」 
 「わかってますよそんなこと、ああもう次から次へと!?」
 ビバリーが僕の手を掴んで助け起こし、きっぱり断言。
 「行きましょう、リョウさん。地下停留場が血の海になる前にタジマ食いとめなきゃっス!」
 「ちょっとビバリー、いつからそんな格好よくなったの?惚れそうだよ」
 ビバリーの手をしっかり握り返し、皮肉げに笑う。銃床で殴られた額はまだ疼くけど、かまやしない。
 迷子にならないようビバリーが手を握ってくれるなら。

【少年プリズン】
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六十四話

(2005/07/27)
 「勝者レイジ!!」
 審判役の看守がゴングを打ち鳴らし、レイジの腕をとり高く掲げる。
 最後までリングに立っていたのは東棟の王様レイジだった。
 レイジは最高に最強だった、俺が知ってるレイジだった。余裕綽々鼻歌まじりでとはいかなかったが、背中を焼かれても目を刺されてもサーシャに実力で劣ることなく劣勢ひっくりかえす逆転劇を演じてみせた。
 瞼の裏側には勝利の瞬間が焼き付いてる。
 流れるような一連の動作で襟足で束ねた髪を切断、サーシャの掌中に一束の毛髪だけ残して間合いから飛び退いたレイジの手に銀光閃く。
 サーシャの首筋にひやりと吸いつく銀の刃、切り裂かれる皮膚、一筋流れる血。
 そして皇帝は、王に膝を屈し降参を宣言した。
 だれの目にもあきらかなサーシャの完敗。サーシャは命惜しさに敗北を認めてレイジの足元にくずおれた。
 晒し者。
 コンクリ床に手をつき首をうなだれたサーシャには既に興味が失せたようにナイフを引っ込め、気持ち良さそうに目を細め、惜しみない喝采を浴びる王。
 「王様万歳!」
 「王様万歳!」
 「くそったれレイジがやりやがった、サーシャくだして東京プリズンのトップに立ちやがった!」
 「それでこそ俺たちの王様だ、東京プリズン最強を名乗る東棟の王様だ!」
 「調子いいの」
 リング周辺を占拠した東棟の囚人どもがてのひら返したように労いの言葉をかけるのを見まわし、レイジがまんざらでもなさげに苦笑。
 金網によじのぼったガキどもが口の横に手をあて快哉を叫び、できあがった酔っ払いみたいに肩を組んだガキどもがご機嫌に唄いだす。
 胸が熱くなる。瞼がじんわり熱をおびて目に涙が浮かぶ。
 くそ、人前で泣くなよ恥ずかしい。手の甲で乱暴に目をこすり、涙を拭く。 マジでレイジが死んじまうかと思った、もう二度と帰ってこないんじゃないかと不安になって途中何度も心臓が止まりそうになった。レイジが生きててよかった、とても五体満足とはいえない姿だけど元気に笑っててよかった。
 さあ、帰ってこいレイジ。
 お疲れさんて言ってやるから、おかえりなさいて言ってやるから。
 東棟の面目躍如で盛大に出迎えてやるから。
 金網越しにレイジと目が合う。俺を見つけてレイジが微笑む。
 やること全部やり終えてさっぱりした笑顔。悔いを残すことなくやること全部やり終えた……
 え?
 笑顔の残像も儚く、ぐらりとレイジの体が傾ぐ。
 あっと言うまもなかった。レイジの重心がぐらつき、均衡を失った体が二三歩よろめき、うつ伏せに転倒……鈍い音。振動。濛々と舞いあがる埃。
 「!?レイジっ、」
 力尽き倒れたレイジ。裸の背中は無残に焼け爛れて赤黒い肉を晒してる。まともな神経の持ち主なら正視に耐えない火傷のあと。
背中だけじゃない。
 血糊がべったり付着した前髪でふさがれた左目も、傷口を無理矢理こじ開けられた片腕も……
 大怪我だ。今まで二本足で立ってられたのが不思議なくらいの。
 「気絶したか」
 安堵の表情をかき消して鍵屋崎が呟く。リング中央でうつ伏せに倒れたレイジのもとへ担架を持った医療班が駆け付ける。気絶したのはレイジだけじゃない、ほぼ同時にサーシャも昏倒していた。無理もない、レイジほどじゃないとはいえ片目から大量出血してるのだ。
 担架に乗せられ運び出されたレイジのもとへ、一目散に走りだす。
 「おい大丈夫かよ、ちゃんと息してるのかよ!?」
 人ごみをかきわけおしのけ、邪魔なやつにはすね蹴りをくれ、レイジの安否を確かめたい一心で担架へいそぐ。リングから運び出された担架に仰向けに寝かされたレイジの顔が目にとびこみ、胸がぎゅっと絞め付けられる。
 苦しげな寝顔だ。
 悪夢にうなされてるみたいに脂汗をびっしょりかいてるのに顔色はひどく青ざめていた。
 ぞっとした。
 間近で見たレイジはそりゃ酷いありさまだった。
 血と汗でぐっしょり濡れそぼった前髪が左目に貼りついてるが、斜めに抉れた傷痕は惨たらしく、いくら俺が鈍感でもレイジが危険な状態だと一発でわかって。
 「目え開けろよ」
 嘘だ、こんなの。
 声が震える。足が竦む。
 約束したじゃんか。抱かれる俺の顔見るまで目をなくすわけにいかないって笑ってたんじゃんか。
 嘘だ。レイジの左目がもう開かないなんて嘘だ、どうか嘘だと言ってくれ。 担架の傍らに腰が抜けたようにへたりこみ、おそるおそるレイジの顔を覗きこむ。
 「また見えるようになるんだよな?」
 だれにともなく、一縷の希望に縋るように聞く。
 俺の右隣の鍵屋崎が深刻に黙りこむ。左隣のサムライが沈痛に顔を伏せる。なんだってそんなシケた顔するんだよ、しんきくさいツラするんだよ。担架の傍らに片膝ついて身をのりだし、体温が低下した手をとり温める。
 冷たい手。悪い予感。胸騒ぎ。
 「また見えるようになるんだよな。左目、ちゃんと治るんだよな。傷口縫えば元通りちゃんと物見えるようになるんだよな、瞼開くようになるんだよな、人の顔見分けられるようになるんだよな?なあ、なにか言えよ、どうして黙ってるんだよ。なんとか言ってくれよ鍵屋崎、お前医学書読んでいろいろ知ってるんだろ、俺よか何倍も何十倍も物知りなんだろ?いつも威張ってるじゃねえか、自分は天才だって、不可能を可能にする天才だって。じゃあ不可能を可能する天才の力でレイジの目を治してくれよ、また見えるようにしてくれよ。簡単だろ、お前なら」
 「ロン」
 鍵屋崎を庇うように木刀に手をかけてサムライが歩みでる。
 わかってる、無茶を言ってることは先刻承知だ。
 世の中にはだれがどんだけ頑張ってもどうにもならないことがある、諦めて受け容れるしかない現実がある。
 でも。
 胸裏で激情が沸騰する。喉元に悪態が殺到する。くそ、くそ、くそ……レイジの手を必死に擦る。脳裏に過ぎる凄惨な光景、レイジとサーシャが目を刺し違えた瞬間の映像。あの時俺は金網越しにレイジの左目が切り裂かれる瞬間を目撃して、レイジの顔面が鮮血に染まる瞬間を目撃して、それでも金網飛び越えて助けにいく踏んぎりがつかなくて、結局またレイジを見殺しにして。
 「治るんだろ。また見えるようになるんだろ」
 胸が痛い。痛くて苦しくて呼吸ができない。
 担架の傍らに膝をつき、意識不明のレイジの手をとり、執拗に擦り続ける俺に憐憫の眼差しを投げかけるサムライと鍵屋崎。担架を担いだ治療班も、わざわざ首を捻って俺を見下ろしてる。同情の眼差し。
 レイジの手に両掌を被せて額に導き、頭をたれる。
 額の火照りがレイジに伝わるようにと目を閉じた俺の姿は、手を介して生気を注ぎこむ儀式めいて連中の目に映ったことだろう。
 そばには医者がいた。東京プリズンの医務室でしじゅう居眠りしてるヤブ医者だ。老眼鏡を傾げ、気遣わしげにレイジを覗きこみ、血糊で塞がれた左目を調べる。
 「………」
 重たい沈黙が肩にのしかかる。
 医者は何も言わない。細心の手つきで傷の周辺部に触れて怪我の程度を確かめている。サムライと呑気に将棋やってた時とは人が違ったみたく厳しい顔。ひどく苦労して生唾を飲み込み、医師の診断を待つ。
 鍵屋崎とサムライも不安げな面持ちで医者を見つめていたが、二人の目の底には最悪の事態を予期した諦念がたゆたっていた。
 俺たちが見つめるまえで、レイジの顎に手を添えた医者が無念そうにかぶりを振る。
 「残念だが、手遅れじゃ」
 手遅れ?
 レイジの手を握ったまま、ぼんやりと医者を見上げる。周囲の喧騒がにわかに遠ざかり雑音が消滅する。担架に乗せられたレイジは呼吸してるかどうかも不確かな状態で意識の有無も判然としない。
 「手遅れ、って」
 「傷が深い。早急に処置したところで左目の失明は免れない。それに彼は大量の血液を失っている、はやく輸血しなければ命に……」
 「手遅れって、ふざけんなよ!?」
 やり場のない怒りに駆られて怒鳴る。
 手遅れ。それはつまりこの先一生レイジの目が見えなくなるってことで、顔に傷痕が残っちまうってことで……
 失明。頭が混乱する。

 『俺としたことが肝心なこと忘れてたぜ、そうだよ、そうだった、俺まだロンを抱いてないじゃん』
 そうだよ。抱いてないじゃん。
 『ここで目え抉られたらロンが感じてるとこ一生見れないじゃん、やばい、うっかりしてた』
 うっかりしすぎだぜ、王様。

 レイジの左目はもう一生見えない。もう一生開かない。
 硝子みたいに綺麗な瞳だったのに。俺の大好きな目だったのに。
 医師が下した非情な診断結果に衝撃冷めやらぬ俺は、放心状態でその場にうずくまり、レイジの前髪をすくいとる。
 小刻みに震える手で前髪をどける。
 外気にふれた左目には無残な傷痕ができていた。担架に寝かされたレイジを間近で覗きこみ、憔悴の色が滲んだ寝顔にほんの数時間前の面影を重ねようとするが、うまくいかない。
 ほんの数時間前まで俺の隣で元気に笑ってたレイジの面影が急激に薄れていって、掴み所なく漠然としたものへと変わってく。
 一年と半年かけて積み重ねた記憶が指をすりぬけていく。
 ほんの数時間前のことなのに、ほんの数時間前までレイジの目は両方ともちゃんと見えてたのに。
 両目ともちゃんと瞼を開けてたのに、両方の目に俺を映してたのに、俺はもう両目を開いたレイジの顔が明確に思い描けなくなってることに気付いて愕然とする。
 そんな馬鹿な。信じたくない。
 俺が一年と半年見慣れたレイジの輪郭がぼやけて違うものへとすりかわる。
 勝利の代償はあまりに大きすぎた、レイジは身体の一部を犠牲にして勝利を掴んだのだ。レイジの左目はもう二度と見えない、勝利の代償に永遠に光を失ってしまった。
 「医者なら治せよ」
 ひどく胸が疼いた。折れた肋骨のせいじゃない、俺自身の不甲斐なさのせいだ。なんで助けてやれなかった、レイジが目を切り裂かれる瞬間を指くわえて見てた?なんで体を張って止めてやれなかった、相棒のくせに。
 塩辛い涙と鼻水が一緒くたに鼻腔の奥をぬらす。
 泣いてたまるか。
 大勢が見てるのに、野次馬どもに取り囲まれてるのに、泣いてたまるか。
 奥歯を噛みしばり涙を嚥下、白衣の胸ぐら掴んで力任せに医者を揺さぶる。
 「あんた本当は名医なんだろ、なら治せよ、レイジの目がまた見えるようにしてくれよ!頼むこのとおりだ、一生のお願いだ!」
 「無茶だよ」
 「あんたこいつの目え見たことないのかよ、すっげえ綺麗な瞳えしてるんだよ、こんな試合で失っちまうにはもったいないくらいさ!じっと見てる吸いこまれそうで、おっかないくらい澄んだ目で、なにもかもすべてお見通しってかんじで……ああくそっ、なんでだよ、なんで肝心なときにうまい言葉がでてこないんだよ!?くそ……本当に、おっかないくらい綺麗な瞳なんだよ。最初はこいつの目が嫌いだった、俺が隠してる本音とか全部見通されてるみたいで落ち着かなくて」
 そうだ、最初の頃はレイジの目が嫌いだった。
 レイジの目にじっと見つめられるのが怖かった。レイジに怯えてることまで見ぬかれてるみたいで時々たまらなくなった。
 でも。いつからか俺は、レイジの目に映る俺の表情が柔らかくなってることに気付いて。
 俺を宿す目の色が日増しに柔らかくなってることに気付いて。
 レイジの目に見入られて、レイジの瞳に魅入られて。
 「今は大好きなんだよ、レイジの目も笑顔も俺になくちゃならない大事な物なんだよ!だから治せ、気合いと根性で治せ、さっさと手術して傷口縫合して……できるだろ、やれるだろ?ヤブ医者の汚名返上で本領発揮しやがれ耄碌ジジィ、医者なら手遅れなんて言い訳せずとことん悪足掻きして患者救えよ!」
 「ロン、いい加減にしろ」
 すぐ耳元で鍵屋崎が囁き、俺を羽交い絞めにして医者から引きはなす。
 それでもまだ気はおさまらない。白衣の胸を掴んで激しく揺さぶりをかけた医者が咳き込むのを睨み、滅茶苦茶に手足を振りまわす。
 「畜生、ブラックジャックならできたのに!ブラックジャックはどんな難しい手術だって成功させたのに、絶対助からないって言われてる患者だって救ったのに……怪我の具合見ただけで匙投げてんじゃねえよヤブ医者、助けてくれよ、助けてやってくれよ!レイジの目がもうだめなら俺の目くれてやるから、左右色違いの目になっちまうけどいいよな、見えなくなるよりマシ……」

 ―「ブラックジャックにもできないことはあるんだ!!」―

 鍵屋崎に一喝され、体の力が抜けた。