ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集

 『これからたっぷりと飼い殺してやる』
 安田のネクタイを掴んで所長は脅迫した。
 顔を密着させ、威圧的に声を低めて、お前は私の所有物だと言外に暗喩を込めて安田のネクタイを掌握した。安田は従順に返事をした。所長の命令に唯々諾々と従って、後部座席に乗り込む際は慇懃に頭を垂れて扉まで支えた。
 安田は自分に厳しく他人に厳しい潔癖なエリートから主人の命令に絶対服従の卑屈な犬へと成り下がった。
 飴と鞭を巧みに使い分けて隷属を強いる調教の成果。
 僕の知る安田はもういない、僕がかつて憧れを抱いて信頼を寄せた高潔な人格者たる副所長はもういない。
 但馬と安田の間に何があったのか正確にはわからない。
 だが、仮説を組みたてることはできる。
 今を遡ること二週間前ペア戦最終日の事件で安田が銃を紛失した事実が発覚、地下停留場に居合わせた囚人看守に広く知れ渡った。今だかつてない不祥事を「上」は重く見て一時は副所長の退任が要求されたらしい。
 無理もない、刑務所内で銃の盗難事件が発生したなど世間に漏洩したら一大事の醜聞だ。それだけではない。安田がなくした銃はタジマの暴走を引き起こす要因となり、ヨンイルに対する五十嵐の殺意を顕在化させる要因になった。
 安田の責任は重大だ。
 副所長の退任もしくは辞任は避けられないだろう、と僕とて覚悟を決めていた。銃をなくした責任を追及された安田が副所長の地位を返上して東京プリズンを去るのはもはや避けられない事態に思われた。しかしそうはならなかった。不祥事の責任をとらされ現実に東京プリズンを去ったのは無能な前所長で、副所長の安田はその有能さを惜しまれ残された。
 多分、これが真相だろう。
 結論。たかだか一回の不祥事ごときで辞めさせるには安田はあまりに惜しい人材だった。それが「上」の下した判定だ。
 しかし、いかに有能な人材であっても僕は安田を軽蔑する。
 所長の犬に成り下がって権力にプライドを売り渡した男を軽蔑する。
 『……口を慎め鍵屋崎。所長の前だ』
 瞼裏に苦りきった安田の顔が浮かぶ。
 激しい葛藤に引き裂かれて苦悩するエリートの表情、プライドと保身の狭間で揺れ動く自意識。
 安田が僕に手を上げたのはあれが初めてだった。
 東京プリズンでは看守の暴力が日常化して凄惨なリンチが横行してるが、いついかなる時も冷静沈着な物腰の安田が囚人に暴力を振るう場面を見たことは一度もない。
 その安田が手を上げた。僕の頬をぶった。
 義父にもぶたれたことがないのに。
 所長と副所長を乗せたジープが嵐のように去ったのちも、砂漠に取り残された囚人たちは鍬やシャベルを手に労働に励んだ。
 期限は三日。三日後までに用水路を完成させねば連帯責任で処罰されるのだ、必死にもなろうというものだ。
 鍬やシャベルを振るって用水路を掘り進めながら、囚人たちが共通して頭に思い描いてる光景は、レイジの十字架を犬の餌食にしてほくそ笑む但馬の姿だった。レイジの十字架を残忍に踏み躙り、傷だらけにし、無造作に蹴り飛ばした但馬の姿は脳髄に強い印象を刻み込んだ。
 但馬は容赦がない。ある意味弟よりもずっと邪悪な性格をしている。但馬の命令に逆らえばどうなるか今朝の出来事で皆十分に理解した。

 但馬に逆らえば、心を殺される。
 廃人にされる。レイジのように。

 ペア戦を制した王様でさえ手も足もでない男に囚人がかなうはずもない。但馬のパフォーマンス効果は絶大だった。東京プリズン最強の呼び声高いレイジを徹底して痛めつけることでその他大勢の反抗心を根こそぎ奪い去ってしまった。
 「群れを支配したくばボスを倒せ、か。愛犬家らしい考えだ」
 あれで済めばいいが、と祈るように心の中で反駁する。
 十字架を犬に食わせて涎まみれにして踏みにじりながら但馬は狂喜していた。
 看守に後ろ手を戒められたレイジが虚心で凝視する中、靴裏に体重をかけて十字架を擦りながら、嗜虐の悦びに爛々と目を光らせて……鳥肌立つのを禁じえない異様な光景だった。舌なめずりせんばかりにレイジを眺めて十字架を踏みにじる但馬の姿は、手負いの豹を嬲る快感に目覚めた調教師を彷彿させた。
 残虐な快感に酔い痴れて十字架を踏みつける但馬の残像を首振りで散らし、中庭に足を向ける。
 強制労働を終えて中庭に来てみれば既にレイジはいなかった。あれから半日以上経ったのだから当たり前といえば当たり前だ。中庭を見渡してレイジの不在を確認、安堵と不安とを等分に抱く。レイジは今どこにいるのだろう?房に帰っているのだろうか。今朝の様子から考えて、鼻歌まじりに出歩く元気はさすがになさそうだ。
 いないなら、かえって好都合だ。
 「………このへんだな」 
 呟き、足を進める。今朝レイジと所長が対峙したあたりで立ち止まり、片膝付いて周囲の状況を検分。二人が争った痕跡は既に消えていた。地面を濡らした犬の小便も蒸発して、僅かに変色した染みを残すのみだ。犬の小便が乾いたあとを一瞥、ため息を吐いて腰を上げる。この辺はあらかたレイジが拾ってしまったようだが見落としがないとも限らない。地面に膝を付いた体勢から周囲に顔を巡らし……
 「奇遇だね」
 爽やかな声がした。
 「!」
 咄嗟に顔を上げれば、深紅の夕日を背に見覚えある少年が佇んでいた。さらさらと清涼に流れる癖のない黒髪、色白の肌、囚人服の中で泳ぐほっそりした肢体。黒目がちに潤んだ瞳には人懐こい笑みを浮かべている。可憐な少女と見紛う清楚な容姿の美少年……静流。
 「こんなところで何してるんだい。ゴミ拾い?」
 親しげに声をかけてくる静流に不快感を覚え、鋭い目つきで睨む。
 「君こそ何故こんなところにいる。強制労働は終了したんだろう?なら房に帰って仮眠をとるなり読書に励むなり夕食まで効率的に過ごすのを推奨する」
 「散歩にきたんだよ。中庭はまだ見て回ってなかったら好奇心が疼いてね。それにほら、夕日が綺麗だし風も凪いでるし散歩にはもってこいだろう」
 そう言って僕の傍らに屈み込む。
 「蟻の観察?」
 「……愚弄するなよ低脳の分際で、蟻の生態観察など小学生の自由研究じゃないか。第一いまさら蟻の観察などせずとも僕は蟻の生態に関して博識を誇っている。知りたいか?いいだろう教えてやる、心して聞けよ。蟻は昆虫綱・ハチ目・スズメバチ上科・アリ科に属する体長1mm-3cmほどの小型昆虫をさす名称だ。熱帯から冷帯まで砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布、繁殖行動を行う雄アリと雌アリには翅がある。なお毒をもつ種類もいてヤマアリ亜科の毒を蟻酸と称す……」
 「蟻に興味ないからいいよ」
 ……不愉快だ、非常に。貴重な時間を割いて蟻の生態に関する博識を披露してやったとうのに「興味がない」だと?たかが凡人の分際で天才の好意を無にする気かと反発がもたげる。
 「そういえばさ、やっぱり砂漠には蟻がいるの?蟻地獄っていうくらいだし」
 「僕の説明を全然聞いてないな。つい二秒前に蟻は砂漠・草原・森林など陸上のあらゆる地域に分布すると言ったはずだが?東京プリズンの砂漠とて例外ではない、事実スニーカーの内側によく潜り込んできて辟易する。蟻は嫌いだ、蟻に限らず虫全般が嫌いだ。理屈で説明できない生理的嫌悪を覚える。特に我慢できないのは頭部に触覚を生やして翅をもち、暗くてじめじめした場所を好む茶褐色の……」
 「ゴ」
 「その先を言うな!噂をすれば何とやらだ、ヤツらは神出鬼没だからな」
 慌てて静流の言葉を遮り、腰を上げる。面倒くさい奴につかまってしまった。なるべく人に知られずに済ませたかったのに、と内心舌打ちして足早に移動。静流から遠ざかりたい一心で憤然と歩くが、嫌われてる自覚がない無神経な静流はのらりくらりついてくる。 
 西空が残照に照り輝く。
 コンクリートで固められた中庭に長く影が伸びる。バスケットボールを追って走りまわる囚人たちから離れた場所を歩きながら、慎重に足元に目を凝らす。おそらくこの辺に落ちているはずだ。鎖が千切れた時、確かにこちらの方へ転がってきたから……
 「あ」
 あった。
 最初の一粒を発見し、思わず歓声を上げて屈みこむ。僕の足元に転がっていたのは一粒の玉。但馬の手に引っ張られ、千切れ、ばらまかれた無数の玉のひとつ。レイジ一人で全部は拾い切れなかったはずだから、この辺に落ちているだろうなと推測を立てていたのだ。
 指先で慎重に玉をつまみあげ、目の位置に持ってくる。
 なにげなく頭上に翳せば、残照を浴びて美しく輝く。
 「そうか。そういうことか」
 背後で感心したふうな声がする。玉をてのひらに握りこんで振り向けば、静流が微笑を湛えていた。
 「直くんは友達思いで優しい子だね」
 「意味不明な発言は慎め。僕は空き時間に散歩にきただけだ」
 「千切れた鎖を拾いにきてあげたんでしょう」
 何もかもお見通しとばかり達観した口調で静流が言ってのけ、ぎくりとする。てのひらの玉を素早くポケットに入れ、静流に背中を向ける。足元に視線を落として緩慢に歩き出せば静流も自然についてくる。 
 夕日に染まる空は、血を流したように赤い。
 唐突に足を止め、地面に手を伸ばす。二個目、三個目と続けて発見。
 なにかの道しるべのように点々と落ちた玉を拾いながら、恵が好きだった童話の一場面を思い出す。森の奥深くに迷い込んだ幼い兄妹が道しるべに千切り捨てたパン屑は小鳥の餌となり、二人は帰路を見失ってしまった。今の状況はあの童話によく似ている。夢見がちに目を潤ませ、僕が読み聞かせる童話に熱心に耳を傾ける恵を思い出し、胸が絞め付けられる。

 恵は今どうしてるだろう。
 病院の窓から同じ夕日を見ているだろうか。

 ……らしくもない感傷に浸ってしまった。静流の存在も忘れ、無防備な横顔を見せて物思いに耽っていたことを恥じて玉の採取に没頭する。玉は1メートルほど間隔をおいてあちこちに散らばっていて、視界に入った玉を手元に集めるだけでかなりの時間がかかった。
 明朝、筋肉痛で悲鳴を上げることになるのはわかっていたがどうしても腰をあげられなかった。僕の目には孤独に玉を拾い集めるレイジの背中が焼き付いていた。犬に放尿された十字架を胸に抱きしめて項垂れたレイジを忘れられなかった。看守に口汚く罵声を浴びせるロンや無念そうに目を閉じたサムライの顔も。
 僕にできることは、これくらいしかない。
 ならば、僕にできることを全力でやるまでだ。
 決意を新たに顔を引き締め、手前の玉へと指を伸ばした僕の耳朶に、衣擦れの音がふれる。
 「手伝うよ」
 スッと指が伸びて、今しも僕が拾おうとした玉を掠めとる。隣を向けば静流がいた。笑っていた。柔和に微笑みながら僕の隣に屈みこみ、洗練された動作で腕を伸ばしてすいすい玉を回収する。
 「余計なことをするな、物好きめ」
 どういう気まぐれだと警戒しつつ皮肉を言い、競争心を煽られて手の動きを速める。静流に負けてなるものかとつまらない意地を張り目についた玉を片っ端から拾い集める。お互い会話もなく熱中。
 「あいつら何やってんの」「さあ」「地面掘って金塊でもさがしてんじゃねえか」「バカ、コンクリート掘ったら爪割れて悲惨だぜ」「言えてら」……言いたい奴には言わせておけ。バスケを中断した囚人が遠巻きに僕らを眺めて嘲笑する。構うものか。
 爪に砂利が入り、手が汚れる。
 真っ黒に汚れた手を見下ろし、房に帰り次第洗わなければと考える。
 その流れで静流の手に目をやり、驚く。
 静流の手に、サムライと同じ火傷があった。
 「静流、その手は?」
 考えるより先に舌が動いて問いを発していた。僕の言葉に促されて手を一瞥、「ああ、これ?」と恥ずかしげに歯を見せる静流の笑顔に秘密めいたものを感じて胸がざわつく。なんだ、この感情は。サムライと火傷を共有する静流に、この僕が、鍵屋崎直が嫉妬している―?
 「溶鉱炉にゴミを入れるときに火の粉が飛んできたんだ。レッドワークにまだ慣れてなくて」
 「レッドワークなのか」
 サムライとおなじレッドワーク。ならば当然サムライと顔を合わす機会があって口を利く機会があって、僕がサムライと一緒にいられるのは強制労働が終了してから朝までで、静流がサムライと共有する時間に比べれば……
 馬鹿な、何を考えてるんだ僕は。サムライと過ごす時間を比較して何の意味があるというんだ。いいじゃないか別に、静流とサムライはいとこなんだ、数年ぶりに再会を果たした親戚同士積もる話もあるだろう。彼らが僕の知らないところで仲睦まじく話し込んで二人が親密さを増そうが全然……
 「その、強制労働中サムライと話す機会はあるのか。彼の仕事態度はどうだ。サムライは決して手を抜かないだろう?人より無理をして体を壊すんじゃないかとあきれてるんだ。レッドワークの巨大溶鉱炉はかなりの高温で火傷する者が後を絶たないと聞くが」
 「班が違うからあまり話すことはないね。ときどきすれ違うけど、頑張ってるみたいだよ。レッドワークは都会から運ばれてきた危険物を溶鉱炉でどろどろに溶かすのが仕事だから、ちょっとよそ見しただけでも大惨事になりかねない。その点貢くんなら心配ない、真剣な顔で溶鉱炉見張ってるから。
 僕も何回か手伝ってもらったよ。小さい頃から剣を持たされてきたから腕力は並以上あるけど、リヤカー一杯に運ばれてきた鉄屑を溶鉱炉に放り込むのはなかなか力がいってね……僕が困ってると、さりげなく貢くんが手伝ってくれるんだ。ひょいってリヤカーを持ち上げてね。かなわないよ」
 「そう、か。サムライはああ見えて親切だからな、誰であろうが困ってる人間は放っておけない物好きなんだ。別に君に限ったことではない、レッドワークの同僚がおなじように困っていればおなじように手を貸してこそ武士の美徳だ。渡る世間は鬼ばかり情けは人のためならずだ」
 動揺のあまり指が滑り、せっかく拾い上げた玉を落としてしまう。
 動揺?おかしいじゃないか、何故この僕が動揺しなければならないんだと憤慨する。静流はそんな僕を見てくすくす笑っている。男のくせにやけに艶っぽい笑い声だ。 
 そして。
 不意に静流が接近、肩と肩がふれあう。
 僕の手に手を重ね、耳元で囁く。
 「君、貢くんのことをよく知ってるね。貢くんも君には心を許してるみたいだし……」
 静流の吐息が耳朶をくすぐる。
 「妬けるよ」
 「半径1メートル以内に接近するな」
 静流の囁きに肌が粟立ち、本能的な危機感から肩を押しのける。否、押しのけようとして逆に手を取られて引き寄せられる。痛い。華奢な五指で締め上げられた手首に、万力を嵌められた如く激痛が走る。この細腕のどこにこんな力がと驚いた僕の目をまっすぐ見据え、静流が言う。
 嘘偽りを許さない真摯な声音が胸の奥深く響く。
 「君、貢くんとどういう関係なの」
 「何?」
 静かな迫力を込めた問いが虚を衝く。西空から降り注ぐ残照が静流を燃え立たせる。手首を掴む握力が増し、骨が軋む。激痛に顔を顰めた僕の正面で、静流はゆっくりと瞬きした。
 睫毛に沈んだ双眸に、激情の波紋が過ぎる。
 「サムライは、僕の友人だ」
 「それだけ?」
 「大事な友人だ」
 手首の激痛に耐えて毅然と言い返す。静流は腑に落ちない表情で思考を巡らしていたが、やがて僕を見据えて、皮肉げに口元を歪める。
 秀麗な顔に不似合いに邪悪な表情を浮かべ、滝のように残照に洗われた静流が吐き捨てる。
 「くだらない。君は帯刀貢の本性を知らないからそんなことが言えるんだ」
 「サムライの本性だと?」
 語尾が跳ねあがるのを抑えきれない。
 静流は一体何を言いたいんだ、いくらサムライの知り合いでも彼を侮辱するのは許さないと乱暴に手を振りほどく。
 静流が憐れみとも嘲りともつかぬ表情で僕を見る。
 同情めいた眼差しを注がれ感情が沸騰、憎悪に滾った視界が真紅に燃え上がる。眼球の毛細血管の色。
 一体この少年は何の権利があってサムライを侮辱するんだ、僕の大事な友人を侮辱するんだ?静流への怒りが爆発、衝動的に胸ぐらを掴んで引き寄せる。
 目と鼻の先に接した顔を睨みつけ、激情に駆られて怒鳴る。
 「回りくどいことを言うな、小出しにするな!帯刀静流、君の言動はまったくもって矛盾だらけで理解しがたい。昨夜は帯刀貢を取り返しにきたといい今日は帯刀貢の本性を知っているのは自分だけだと匂わせて挑発する、君は支離滅裂な言動で僕を翻弄して楽しむ性格破綻者か!?確かに君は幼年期からサムライと行き来があって親しい仲で苗のことも知っていた、悔しいがそれは認めようじゃないか、認めてやろうじゃないか!だからなんだ?自分のほうがサムライと付き合いが長いからと自慢してるのか、帯刀貢の人生に十ヶ月しか関与してないくせに思いあがるなと僕を牽制してるのか!?貴様になにが、」
 
 「帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?」
 
 指から力が抜ける。喉から呼気が漏れる。  
 衝撃に立ち竦む僕をきっかりと見据え、静流は嘲りの笑みを浮かべた。
 最初、耳から入った言葉を脳が拒絶した。しかし、徐徐に浸透してきた。
 帯刀貢が、苗を犯した。
 静流はそう言ったのか。僕の知るサムライが、あの寡黙なサムライが、優しい男が……力づくで苗を犯したと?間髪入れず否定しようとしたが、舌が縺れて反論できなかった。サムライを擁護しようと焦れば焦るほどに舌が縺れて、一言も発することなく口を開閉する醜態をさらした。

 サムライ。

 僕が読み聞かせる手紙の内容に黙って耳傾けてくれた。下水道で土下座をした。売春班に助けにきた。僕の為に涙を流してくれた。僕のせいで足を捻挫して試合に支障がでても一言だって責めなかった。タジマに襲われた夜は僕の震えが止むまで一晩中抱いて寝てくれた。サーシャのナイフから僕を庇い大動脈を掠る大怪我をした。最終決戦のリング上で僕を抱きしめた。
 『お前は俺の友だ』
 『俺の直だ』
 何度も何度も助けられた。何度も何度も抱きしめられた。
 しかしそれは、サムライだ。
 僕はサムライになる前の帯刀貢を知らない。帯刀貢がどんな男だったか知らない。サムライは過去について多くを語らないから苗の自殺の原因や帯刀貢が実父含む十三人を殺した動機は依然謎に包まれたままで、
 『俺が苗を殺したんだ』
 『苗を追い詰めて首を吊らせたんだ』
 いつか聞いた台詞が甦る。激しい自責の念に苛まれて吐き捨てるように言ったサムライ。

 あれが真実だとしたら?
 そのままの意味だとしたら? 

 頭は真っ白で、思考が働かなくて、萎えた腕が静流の胸ぐらから滑り落ちて弧を描いた。地面が沈み込むような虚脱感に襲われた僕の肩にすれいちがいざま静流が手をおく。
 赤い唇が綻び、蜘蛛の糸のように耳朶に吐息が絡む。 
 「本当のことを教えてあげるよ。帯刀貢は苗を犯したことが発覚して後継ぎにふさわしくないと絶縁状を叩き付けられた。勘当を言い渡されて逆上した貢は神棚の刀を手にとり、実の父親を含む門下生十三人を斬り殺したんだ。莞爾さんはともかく、残り十二人はとばっちりもいいところさ」
 魔性の笑みを湛えた静流が、揺蕩うように淫靡な手つきで肩を撫でる。
 「せいぜい気をつけなよ。『あれ』はけだものだから」
 体の脇に腕が垂れ、こぶしが緩み、五指がほどける。掌で温められた玉が滝のように流れ落ちて地面を滑っていく。潮騒の音色を奏でて地面に散らばった玉を一瞥、静流が「あーあ」と嘆く。
 手近の玉を幾つか拾い上げ、放心状態から脱しきれない僕の手をとる。 
 僕の手に手を被せた静流が、されるがままの五指を折り曲げ、こぶしを作らせる。
 優しく僕の手を包み込み、一つ一つに祈りを込めた玉を握らせて静流は言った。
 「苗さんの二の舞にならないよう祈ってるよ」
 残照を吸い込んで真紅に冴えた水鏡の目には、絶望に暮れた僕の顔が映っていた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050630191938 | 編集

 「かはっ!」
 胸ぐら掴んで投げ飛ばされて壁に激突、背骨がへし折れるような衝撃が襲う。壁に背中を凭せてずり落ち、腹を抱えて咳き込む俺の前にはおっかない顔の看守が五人いる。五人の看守に順番にガンつけて咳がおさまるのをじっと待つ、腹筋の激痛にただひたすら耐える。
 体を二つに折って咳き込んでるうちに生理的な涙が目に滲んで視界が白濁。口の端から垂れた涎を拭い、呼吸を整えるのに集中する。
 
 レイジ。

 看守に羽交い絞めにされたレイジの顔を思い出す。
 東京プリズン最強の男が、ペア戦を制した無敵の王様がタジマの兄を名乗る新所長には手も足もでなかった。屈強な看守に数人がかりで取り押さえられて、胸から取り上げられた十字架が犬の餌食になるさまを愕然と見守るしかなかった。
 犬の涎でべちゃべちゃになった十字架。
 獣くさい息を吐かれて小便ひっかけられて貶められた十字架。
 レイジがガキの頃お袋から貰った大事な宝物、レイジが肌身離さず身に付けてことあるごとにキスしてたお守りが汚れてくさまを俺はただ見てるしかなかった。始まりから終わりまでの一部始終を看守にとっつかまってただ見てるしかなかったのだ。
 所長の足で蹴り転がされた十字架には無数の傷が付いていた。
 壊れた人形みたく首を項垂れたレイジの横を所長が通りすぎた時、俺の中で何かがぶちぎれた。
 『あのバカ犬殺してやる、舌引っこ抜いて金玉毟りとって食わしてやる!!よくもレイジの十字架を、お袋から貰った大事な宝物を……タジマの兄貴のくそったれ、ぜってえ許さねえ、ぶち殺してやる!!』
 看守の脛を思いきり蹴り上げて魂切る悲鳴をあげさせて、バカ犬連れて遠ざかる所長の背中に罵詈雑言浴びせた。スラングの語彙を総ざらいして口汚い呪詛を吐いて所長を振り向かせようと試みたが、既に所長は俺の絶叫さえ届かない距離に遠ざかっていて歩みを止めることさえかなわなかった。
 犬の涎にしとどに濡れて、砂利にまみれて地面に転がった十字架を目にした瞬間に頭の血管が二三本音たててぶち切れて理性が一片残らず蒸発した。
 犬をけしかけて十字架噛ませた所長も、俺とレイジを後ろ手に締め上げた看守も、レイジの十字架が犬の餌食になるさまをぼけっと見てた囚人も全員を殴り飛ばしたかった。
 十字架が踏みにじられるさまを、指くわえて放置してた奴ら全員を殴り飛ばしたかった。
 俺はレイジがどんなに十字架を大事にしてたか知ってる。
 無意識の癖で十字架握りしめて安息を得てたか知ってる。
 お袋から貰った唯一つの宝物、目に見える形で残されたマリアとの絆。
 それが文字通り土足で踏みにじられた。
 我慢できなかった。
 俺はまた何もできなかった、レイジの十字架が犬に食われて所長に踏みにじられるさまを見過ごした?手を伸ばせば届く距離に十字架があったのに掬い上げることもできなくて、十字架が汚れてくさまを、レイジの心が壊れてくさまをすぐそばで見ていながら、唾飛ばして叫ぶ以外には何ひとつできなかった。
 憤激に駆られた俺に手こずった看守が応援を請うて、数人がかりで俺を拉致ったとこまで覚えてる。中庭を離れる間際に見たのは地面に片膝付いてのろのろ玉をかき集めるレイジの背中だった。
 俺の声はレイジに届かなかった。名前を呼んでも届かなかった、顔すら上げなかった。レイジが俺の声にも反応しないなんて前代未聞だ。前髪の隙間から覗いた虚ろな目は、地面に散らばった無数の玉しか映してなかった。悪魔に魂を売り渡したように虚ろな動作に、一気にレイジが遠ざかったような不安に襲われた。
 首振りで回想を断ち切り、あたりを見まわして今現在自分がおかれた状況を再確認。
 ここは、どこかの通路らしい。薄暗くじめじめとした陰気な場所だ。
 こういう場所ではリンチやレイプが行われるお約束だ。
 「さっきはよくも、囚人の分際で看守に恥かかせてくれたな」
 正面の看守がドスの利いた声で凄み、合点がいく。察するに、新所長の前で恥かかされた腹いせに俺にヤキ入れるつもりらしい。
 尻に嫌な感触。床に溜まった汚水が、じわじわとズボンの尻に染み込んでるのだ。蝿の死骸が浮いた水溜まりにへたりこんだ俺の鼓膜を野太い声がどやしつける。
 「今日だきゃあ俺たちもボロでねえよう大人しくしてようって決めてたのに、お前らのせいでケナゲな努力がパアだぜ。お前ら囚人がどこでカマ掘り合おうが興味ねえが、俺たちに迷惑かかるとなりゃ話は別だ。囚人のしつけなってねえって新所長殿にお叱り受けるのは現場の俺たちなんだよ」
 顔に吐息がかかる。看守の手が上着の胸ぐらを掴んで軽々と引き上げる。
 首が絞まる苦痛に顔を顰め、宙吊りの体勢で通路の出入り口を振り仰ぐ。
 この通路は引っ込んだところにあって、奥でリンチが行われてても気付かれにくい。最悪俺が殺されたところで三日が経過して腐敗臭が漂い出すまで誰も気付かない。
 俺は自暴自棄になっていた。どうせ看守五人が相手じゃ勝ち目はない、煮るなり焼くなり好きにしろと腹を括る。
 「知るかよ。汚い手えはなせゲス野郎」
 反抗的な目つきで睨み返せば看守の顔が不快げに歪む。くる。奥歯を食い縛り衝撃に備える暇もなく横っ面を張り飛ばされ、目の奥で火花が爆ぜた。口の中が切れてぬるりとした。足元に唾を吐けば血が溶けて薄赤く滲んでいた。
 「懲りねえ奴だな。相棒があんだけ虐められても口のきき方直らねえか」
 看守があきれたふうに言い一転ゲスな笑顔に変じる。
 胸ぐらを掴む手に握力を込め、俺を背中から壁に叩き付ける。
 「俺たちのモン一本ずつしゃぶらせて口のきき方矯正してやろうか?」
 狭苦しい通路で哄笑が弾ける。看守が腹を抱えて笑ってる。
 くそ、東京プリズンの看守はろくな奴がいねえ。
 手の甲で顎を拭いながら俺は五十嵐を思った。とぼとぼ足ひきずって歩いてたとこに声かけて麻雀牌を恵んでくれた五十嵐、東京プリズンでいちばん親切な看守。俺は今さらながら、五十嵐がいなくなることを哀しんでる自分に気付いた。五十嵐が辞めれば東京プリズンにゃマトモな看守が一人もいなくなるのだ、お先真っ暗で気分も滅入るってもんだ。 
 「耳の垢かっぽじってよく聞けよ」
 哄笑が止む。額で鈍い音が鳴る。看守が俺の額に額をぶつけたのだ。
 「俺たちゃ他の刑務所でおいたが過ぎてここに流されてきた言うなりゃ左遷された身の上だ。もうここより他に行くとこねんだよ、せいぜい上の顔色窺ってご機嫌損ねえようにしなきゃな」
 「上にへこへこしたストレスは下にぶつけて発散する、それが処世術ってもんさ」
 「新所長殿はご立派なエリートさまさまで俺たち低学歴の看守なんか鼻にもかけねえ、同じ人間だって思ってねえんだよ。くそむかつくぜ。政府から直々に派遣されたとか大上段の演説ぶちかましたけど、要は体のいい左遷だろ。じゃなきゃこんな砂漠くんだりに飛ばされてくるはずねえ」
 「くそっ、このさき締め付け厳しくなると考えると鬱だぜ。聞いたかよ?新所長殿、マジで綱紀粛正の目標掲げてるらしいぜ。看守の勤務態度改めて軍隊並に矯正するんだと。そのうち中庭で行進させられるんじゃねえか?どうせならこの趣味わりィ看守服のデザイン変えてほしいぜ、ナチスの軍服みたいによ!」
 「東京プリズンが炭焼き死体積み上げた強制収容所になるのか。洒落になんねえな、それ」
 頭突きを食わされた額が焼けるように疼き、涙が込み上げる。
 てんで勝手なことを口々に喚く看守たちを見まわしてるうちに脳裏に所長の顔が浮かぶ。嬉々として十字架踏みにじった残忍な眼光の男……タジマの血を分けた兄貴。あいつはなんで東京プリズンに来たんだ?看守の言う通り不祥事やらかして左遷されてきたのか。

 あいつが来なけりゃ東京プリズンは平和だったのに。
 レイジは苦しまなくて済んだのに。

 「なん、で。なんであいつ、東京プリズンに来たんだよ」
 我知らず口を開き、反駁する。看守が示し合せたように俺を見る。気付けば俺は激情に駆られるがまま看守の胸ぐらを逆に掴み返していた。
 脳裏に過ぎる先刻の光景。陰険な眼光と酷薄な笑みを湛えた口元。
 舐めるようにレイジを見る目つき。
 レイジの胸に輝く十字架を奪い取り、犬に食わせて、蹴り飛ばして。
 あれはまだ序の口だと胸が騒ぎ、不吉な予感が根ざす。今日のあれで完全にレイジは目をつけられた。陰険陰湿極まりない但馬所長が身代わりの十字架を傷だらけにしただけで事足りるはずがない。かつてタジマが病的なしつこさで俺や鍵屋崎に付き纏ったように、レイジに異常な執着心をもつに違いない。
 どうなっちまうんだよ、レイジは?
 俺のレイジをどうする気だよ?

 「タジマの兄貴なんだろあいつ、どうしてだよ、どうしてせっかくタジマがいなくなってみんな安心してたのにあいつがやってくんだよ!?タジマと関わり合いになるのはもうこりごりなんだよ、弟だろうが兄だろうが関係ねえよ、タジマと名のつくやつが東京プリズンにいるだけで迷惑なんだよ!!
 弟の復讐に乗り込んできたのか、弟怪我させた真犯人突き止めるためか?突き止めてどうすんだよ、『上』に突き出すのか、私刑くわえんのか?
 どうなっちまうんだよレイジは、タジマ怪我させた真犯人だってわかる前から目えつけられて、この上真相バレたらあいつ、あいつ……くそっ、どうにかしろよ!?お前ら看守だろ、東京プリズンを取り締まる立場だろ?ならあいつなんとかしろよ、リコールとかできねえのかよ!デモでもなんでもしてあいつ追い返してくれよ、追っ払ってくれよ、嫌なんだよもうタジマに怯えて眠れねえ夜過ごすのは!」

 怒髪天の剣幕に気圧されて看守がたじろぐ。俺は我忘れて看守につっかかっる、看守の胸ぐらを逆に掴んで盛大に唾飛ばして罵倒する。
 看守の目に映った顔は焦燥に焼かれて歪んでいた。
 必死に取り縋る俺の肩を力づくで引き剥がし、言い訳がましく看守が吠える。
 「俺たちだって詳しく知らねえよ、前所長の退任だって直前まで知らされてなかったんだよ!新しく所長がくるってのもつい二日前に教えられたばっかで……」
 「新所長殿が言うには重大な使命を帯びてるらしいがな」
 「重大な使命?」
 鸚鵡返しに呟いた俺の足裏が汚水で滑り、バランスを崩して転倒。待て、と手を伸ばした時には既に遅く看守は背を向けていた。真実を知りたい欲求に促されてこけつまろびつ追いすがれば看守がそっけなく手を振る。
 これにて終了、打ち止めの合図。
 「ま、そのうち明らかになるだろうさ。但馬所長殿がなに企んでるんだかわかんねえが、相手は腐ってもエリート様だ。所長に睨まれてクビにされちゃたまんねえ。今度俺たちに恥かかせたらその時はマジで殺すからな、覚えとけ」
 「二度と無駄口聞けねえようにペニス突っ込んで鼻からザーメン吹かせてやるよ」
 最後に下卑た揶揄を投げて、爆笑しながら通路を遠ざかっていく看守をむなしく見送る。野太い哄笑がコンクリ壁に跳ね返り殷殷と鼓膜に沁みる。看守を追おうと発作的に飛び出してみたものの、途中まで走って急速に膝が萎える。口の中が苦い。
 他の囚人は食堂に行ってるせいか、周囲に人けはない。
 食堂に行かなきゃ、と弛緩した頭で考えて踵を返す。何があっても強制労働は休めないのが東京プリズンの掟だ。食欲は湧かないが無理でも食っとかなきゃ強制労働中にぶっ倒れて生き埋めにされる。
 鉛のように重たい足を引きずって食堂に向かいながら、中庭に寄ろうかどうか迷って、やめた。
 レイジの玉拾いを手伝ってやりたいのが本音だったが、中庭にひとりしゃがみこんだ王様を目のあたりにして、平静さを保ってられる自信がなかったから。あいつが麻痺した分まで泣いて取り乱してもっと惨めにしちまうとわかっていたから。
 レイジもきっと、俺に見られるのは嫌だろう。いつも大胆不敵で自信と余裕に満ち溢れた王様が、だれもいない中庭にひとりしゃがみこんで玉を拾い集めてる光景を想像し、口の中の苦味が増す。
 自己嫌悪の味だ。  

 強制労働中もレイジのことばかり考えていた。
 今日は鍵屋崎と会わなかった。いや、俺の方から顔を合わすのを避けていたのだ。鍵屋崎も当然、中庭を埋めた群集に紛れて今朝の光景を目撃したはずだ。地面に這いつくばったレイジがひとり黙々と玉を拾い集める光景を見たはずだ。俺は鍵屋崎と顔合わせて、なに話せばいいかわからなかった。あれからレイジがどうしたか聞かれるのが怖くてあいつを避け続けた。
 鍵屋崎とはもともと違う班だし、汗水たらして労働に専念すればそうしょっちゅう顔を合わせるわけもない。手に豆作ってシャベルを上げ下げしてるうちに太陽が中天にかかり、容赦ない直射日光が頭皮を炙る。脱水症状を呈して囚人が何人かぶっ倒れて、そのうち何人かが砂かけられる途中で好運にも息吹き返して、からくも生き埋めの運命を免れた。

 手の豆が潰れて皮が剥ける頃に、ようやく強制労働が終了した。

 すし詰め状態のバスに揺られて監獄に帰り、疲れた足をひきずり房へと戻る。行きも帰りも鍵屋崎と顔を合わさなくて密かに安堵した。正直、今の俺は人と口をきくのもしんどい精神状態だった。それがたとえ心を許した奴でも頼りになる奴でも、口を開くと同時にあとからあとから自責の言葉が飛び出してきそうで、ますますもって気分が滅入りそうだった。
 憂鬱に塞ぎこんだ気分でとぼとぼ通路を歩き、賑やかに談笑する囚人とすれ違い、房に辿り着く。
 ノブに手をかけ回そうとして、思い止まる。
 レイジはもう房に帰ってるだろうか。中庭に姿がなかったから房にいるはずだ。レイジと顔合わせてなんて声をかけよう、なんて励まそう?ノブに手をおいたまま逡巡する。
 扉を開ける決心がつくまで十秒を要した。深呼吸で覚悟を決め、緊張に汗ばむ手でノブを捻る。できるだけさりげなく、いつもどおりを心がけて扉を開け放つ。蝶番が軋り、後引く悲鳴をあげる。
 房に足を踏み入れようとして、止まる。
 「レイジ、いるのか」
 房の中が暗い。裸電球も点いてない。違和感を感じて声をかけるが、反応はない。音をたてないよう慎重に扉を閉めて、生唾を嚥下して足を踏み出す。一歩、また一歩と注意深く中へ進むうちに暗闇に目が慣れて奥の洗面台に屈み込んだレイジを発見する。
 レイジは洗面台に手を突っ込んで、蛇口を捻り、無心に十字架を洗っていた。
 小便と砂利にまみれた十字架の汚れを水で洗い流して、両手でくりかえし擦って磨いて、俺が声かけたのにも気付かず集中していた。薄暗いの房の奥、洗面台と向き合い必死に十字架を洗うレイジの横顔にはいつもの調子で声をかけるのを阻む何かがあって、背後に佇んだ俺は気後れした。
 唇を舐めて湿らし、おそるおそる名前を呼ぶ。
 「レイジ」
 「あ。おかえり、ロン」
 遠慮がちに声をかければ、拍子抜けするほどあっけなくレイジが振り向く。
 能天気を装った、明るい笑顔。
 「そーっと入ってくんなよ、びっくりすんじゃねえか。帰ってきたんなら『ただいま』くらい言えよ」
 「言ったよ」
 「そっか。聞こえなかった」
 「お前大丈夫かよ」
 「ロンってば優しいな、俺のこと心配してくれたの?全然大丈夫だよ、いつも通りだっつの。あれしきのことで落ち込むはずねえじゃん。玉拾い集めるのに苦労したし小便の匂いおちねえのには閉口したけど、何回も洗ってるうちにほら、輝き戻ってきたろ。匂いもしなくなったし、ぴかぴかの新品同然……ってわけにゃいかねえか。細かい傷いっぱいついちまったし。まあいいさ、こうして無事手元に戻ってきたんだし」
 レイジの言葉はどこか上の空。心ここにあらずといった感じに上滑りしてて、急激に不安が増す。
 「無理すんなよ。今日のお前ヘンだよ」
 「俺はいつもヘンだよ。よく考えてみろ、俺がマトモでいた試しなんかねえだろ。いちばん身近のお前がいちばんよく知ってるだろ。俺はいつだってこんな調子、無敵に素敵にマイペースな王様で絶賛売り出し中なんだよ。なんなら唄ってみせようか」
 「はあ?」
 俺が答えるより早く、十字架を洗う手を止めずにレイジが唄い出す。黄昏の暗闇に侵された房に甘く掠れた独特の響きの声が流れる。レイジ十八番のストレンジ・フルーツ。リンチで殺された黒人がポプラの木に吊るされてる、それはまるで奇妙な果実のよう……歌詞は陰惨だがメロディーは哀切で甘ったるい。
 俺はただ黙ってレイジの背中を見つめていた。ストレンジ・フルーツが低く流れる房に慄然と立ち竦み、奇妙な胸騒ぎを覚えながら暗闇に身を浸していた。格子窓の向こうの喧騒が別世界の出来事のようにまるで現実感を伴わない。
 この房だけが廊下の喧騒から隔離されたような静寂に支配されて、いつまでも耳に残る甘い歌声だけが暗闇に響いているのだ。
 ふいに歌声が途切れ、重苦しい静寂が鼓膜に覆い被さる。蛇口から水が流れる音が量感をもって響く。
 「な?いつもどおり音痴だろ」
 察するに、俺を安心させるために即興で唄ったらしい。いつも通り音痴な歌声を披露して自分は平気だとアピールするつもりだったらしいが王様の目論みは裏目にでた。レイジは意外と虚勢を張るのが下手なのだ。
 「大丈夫じゃねーだろ。いつも以上に音程外れまくってるよ」
 とても聞いちゃられない。いつも以上に音程狂いまくり外れまくりの酷い歌声だった。大股にレイジに歩み寄り、手元を覗きこむ。何分何時間洗ってたのか十字架の汚れはすっかり落ちてもう匂いもしなかった。ただ、表面に付いた無数の傷だけはどれだけ洗ったところで落ちない。
 レイジの十字架は、もう決して元通りにならない。
 「もうやめろよ、手がふやけちまうよ」
 顔も上げずに十字架を洗い続けるレイジが無性にやりきれなくなり、無造作に手を伸ばして蛇口を締める。水が止まり、蛇口から点々と水滴がしたたる。レイジは伸びた前髪の隙間から不思議そうに俺を見返した。光のない虚ろな目、物問いたげな表情。なんで邪魔をするのかと純粋な疑問を抱いた表情。
 見ちゃられない。こんなレイジ、らしくない。
 相棒の痛々しい姿から顔を背け、早口で言い募る。
 「その十字架、そんなに大事なもんだったのかよ。ならどっか適当な場所に隠しとけよ、壁の穴でも洗面台の鏡の裏でもマットレスの裂け目でもいいから。首から下げてシャツの内側に隠しるだけじゃすぐ見つかっちまうよ、はい取り上げてくださいって宣伝してるようなもんだろが。バカかお前、そんくらいわかれよ。いくらお袋から貰ったお守りだからって、いや、だったらなおさらー……」
 「ガキの頃さ」
 語尾を遮るように口を開いたレイジの横顔を注視。  
 レイジは俯き、蛇口に手を伸ばして栓を緩める。今度は水を小出しにし、透明な糸のように蛇口から落ちる水に十字架を翳す。十字架の表面を水が流れ落ちるさまを眺め、レイジは淡々と呟いた。
 俺の知らない過去を。マリアに十字架貰ったときの話を。

 「ガキの頃、逃げようとしたことがあったんだ。毎日毎日人殺しの訓練ばっかでうんざりで、銃で的撃ったりナイフで実践したりそんなんばっか飽き飽きで、マリアと二人でどっか行って普通に……幸せに暮らしたくて。人殺ししか知らない俺に他になにができるかわかんないけど、少なくともそん時はなんでもやるつもりだった。軍人相手にコーラ売ったり絵葉書売ったり……靴磨きもイケるかな。ドブさらいでもよかった。とにかくなんでもやって金稼いで外で生きてくつもりだった。外に出たらまず教会頼って、教会がダメならマニラのスモ―キーマウンテン行ってバラック建ててとか、ガキの浅知恵で真面目に考えてたんだよ。あのままあそこにいたんじゃ俺にもマリアにも将来ねーし、組織見切って逃げる準備してたんだ」

 レイジが自分から過去を話すなんて珍しい。医務室を訪ねた夜以来だ。
 俺は息するのも忘れてレイジの過去語りに耳を傾けていた。
 レイジは愛情こめた手つきで水に濡れた十字架を撫で、親指で水滴を弾き、伏し目がちに独白する。
 「でも、あっさりつかまっちまった。甘かったんだよ俺が」    
 前髪に遮られた隻眼に歳月を経た悲哀が宿る。
 「……それで、どうなったんだ?」
 聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが激しくせめぎあうも、好奇心を抑えきれず先を促す。逃げようとして捕まって、それでただで済むはずがない。組織を裏切って「外」に逃げようとしたレイジが無事で済むはずがないと心のどこかで予感していた。この先にはきっと最悪の展開が待ちうけてる、最悪の結末が待ちうけてると予感しながらそれでも俺はレイジの過去に踏み込まずにはいられなかった。
 「罰を与えるからどっちか選べって言われた」
 一呼吸おいて十字架を握りしめ、胸に抱き、目を瞑る。
 目に見えぬ神に慈悲を乞うように胸に十字架をあて、レイジはおぞましい、恐るべきことを口にした。
   
 「マリアの目の前で犯されるかマリアが目の前で犯されるか」

 俺の想像を絶する地獄があった。
 両手で耳を塞ぎたかった。聞いたことを後悔した。でも、逃げられなかった。十字架を胸にあてて首項垂れて、救い難く悲惨な過去を回想するレイジを置き去りに逃げられなかった。暗闇に包まれた房に立ち竦んだレイジの姿は酷く儚げで、大気に溶けて消えちまいそうな輪郭を掴む為に声をあげる。
 「どっちを、選んだんだ」
 やめろ聞きたくない聞くんじゃないと心が軋んで悲鳴をあげても口が勝手に動いた。心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。全身の血が逆流する感覚に襲われて酷い耳鳴りがして平衡感覚が揺れ動く。
 レイジは十字架を掴んで放心していた。
 首を項垂れて十字架を抱いた姿には、一縷に信仰に縋ることで狂気紙一重の正気を保ってるようなアンバランスな危なっかしさが付き纏った。
 「どっちも選びたくなかったのが本音。でもダメだった、どっちか絶対に選ばなきゃいけなかった。拒めば殺されるだけ。俺とマリアが生き延びるためには選択を許容するしかなかった。しかたないから選んだよ。マリアの泣き顔は見たくなかった、マリアが犯されるくらいなら俺が犯されるほうがマシだった」
 「じゃあ」
 「ロンってば単純。すぐ騙されるのな」
 レイジがちらりと笑顔を見せる。どんなに頑張っても泣けないから仕方なく笑ってるような顔。
 「俺がどっち選んでも逆になる予定だったんだよ。前者を選べば後者、後者を選べば後者って具合に。そっちのほうがより効くだろ、懲りるだろ。効果覿面の痛みを伴う罰になるだろ。俺バカだから裏が読めなくて、考えて考えて自分がマシだって思う方選んで、だから」
 「言うな」
 「マリアは犯された。俺のせいで」
 『不一様!!』
 台湾語で「違う」と叫ぶが、レイジは頑固に首を振り、指が軋むほどに十字架を握りしめる。
 五指に十字架が食い込み、前髪が顔にかかり、表情を隠す。
 「俺のせいなんだよ」
 暗闇の房に鈍い音が響く。 
 力任せに壁を殴り付けたが、怒りに翻弄されてるせいか痛みは感じない。
 「お前のせいじゃねえよ、悪いのは二つに一つのどっち選んでも逃げ道与えなかった性根の腐りきったゲリラどもだろ!!?そんな最悪な、最低な……ちきしょう、ありかよそんなのって!お前が逃げたくなって当たり前だ、どっち選んだって地獄じゃねえか、あがいてもあがいても地獄から抜けだせねえじゃんか!」
 逃げ道なんて用意されてなかったんだ、最初から。レイジが組織から逃げられずに嫌々人殺しをしてたのはマリアを人質にとられてたからで、自分が逃走企てたせいでマリアが犯された重い十字架背負い続けてきたからでそんなことがあったらだれだって壊れちまう。
 狂気と正気の境目がなくなる。
 激情に翻弄される俺をよそにレイジは穏やかに笑っていた。
 過去を振り返っても心が麻痺してもはや痛みは感じず、暗闇と境を曖昧にする空虚な笑みを浮かべて。
 「この十字架はマリアがくれたんだ。全部終わって、悪魔みたいな男どもがいなくなって、あとには服引き裂かれたマリアと俺が残されて……マリアが犯されたのは俺のせいだ、俺が逃げようとしたからこんなことになったんだってめそめそ自分責めてたら、マリアが膝でこっちに寄ってきた。また殴られるんだと思った。殴られてもいいと思った。でも違った。俺が目を閉じたら、そっとコレかけてくれたんだ。自分の首にかけてた十字架を外して、俺にくれたんだ」
 瞼裏にありありとその光景が浮かぶ。 
 膝を抱え込んで嗚咽をあげるレイジに膝で這い寄り、乳房の合間に輝いていた十字架を外して、そっと首にかけてやるマリア……聖母と同じ名前のレイジを産んだ女。
 マリアの肌でぬくもった十字架が、レイジの首にかかり、胸にぶらさがる。
 そうしてレイジは許された。
 「あなたを許す」と「愛してる」は、レイジの中で多分、同じ重さをもつ言葉なのだ。
 レイジとマリアを繋ぐ絆であり許しの証でもある十字架は、今、傷だらけでレイジの手におさまってる。
 「俺の首に十字架をかけて、頭を撫でて抱きしめて、『神のご加護があるように』って……『幸せになって』って言ったんだよ」
 一息に言い終えたレイジが深呼吸する。
 「最低だな、俺。またマリアのこと見殺しにしちまった」
 俺はようやく理解した。何故レイジがこんなに落ち込んでるのか、こんなに参っちまったのか、その本当のワケを。
 但馬に十字架を踏みにじられた時、レイジはガキの頃を思い出したのだ。
 看守数人がかりで押さえ込まれて十字架を陵辱される光景が、男たちに押さえ込まれて母親が強姦される地獄に重なったのだ。
 「……………っ、」
 瞼がじんわり熱を帯びる。喉がつかえてうまく呼吸できない。但馬に抱いた憎悪が激烈な殺意に昇華、傷だらけの十字架を未練がましく握りしめるレイジをどうにかしたくて衝動的に押し倒す。
 視界が反転、上下が逆転。床に仰向けに寝転んだレイジの腰に跨り、胸ぐらを掴んで顔を起こす。 
 転倒の際に背中を打ったのか、苦痛に顔を顰めたレイジを睨みつけ、命令する。
 「お前、俺を抱け」
 「はあ!?」
 レイジが脳天から声を発する。俺の正気を疑ってるみたいな反応だが、構うもんかと開き直る。これ以外に慰め方思いつかないんだから仕方ねえ。俺はただレイジに元気を取り戻してほしかった、今日は無理でも明日にはいつも通りのレイジでいてほしかった。
 無茶言ってる自覚がある、目の前で十字架無茶苦茶にされて傷だらけにされてショック受けてるのもわかってる。でももうこれ以上しょげたレイジを見るのは耐えられない、こんな痛々しい笑顔に耐えられそうにない。レイジが元通り笑ってくれるなら、くだらない冗談言って笑ってくれるならなんでもする。
 だから。
 「いいから抱けよ、好きにしていいよ。だからそんな痛い笑顔すんなよ、無理して笑うなよ」
 「無理なんかしてねえよ、これが地顔なんだよ」
 「嘘つけ。全部吐き出しちまえよ、溜め込むなよ。俺を捌け口にしろよ。俺のこと抱きたいんだろ?なら抱けよ、好きなだけ。正直ケツ痛えけど我慢するよ、してやるよ。お前がシケたツラしてると調子狂うんだよ、張り合いねえんだよ。十字架がちょっと傷ついたくらいでこの世の終わりみてえな顔すんなよ。十字架がぼろぼろになったって思い出は残るんだ。マリアがお前に言ったことは絶対傷付かない真実で、お前が忘れねえ限り十字架が朽ちて塵に帰ろうが永遠に真実であり続けるんだよ!!」
 前髪の向こうに隠れた隻眼に光が戻り、徐々に生気が甦る。
 レイジの胸ぐらを掴み、力尽きたように首を垂れ、額を預ける。
 こつんと軽い音が鳴る。俺の額とレイジの額がふれあう音。
 「十字架がぼろぼろになっても、俺が覚えててやる。マリアがお前に愛してるって言ったって保証してやる。だから元気だせよ。らしくねえよ、王様。今にも泣きそうな顔して笑ってんじゃねえよ。いつもの余裕はどこにやった?俺の腰抱いてつまんねえ冗談とばすくらいの余裕見せてみろよ」
 格子窓の向こうの喧騒が遠のき、房に静寂が満ちる。
 黄昏の暗闇が淀んだ房で、互いの鼓動が聞こえる距離に接して茶色の虹彩を捉える。
 「いいのかよ、俺の尻に敷かれたまんまで。このままヤッちまうぜ?」 
 口角を吊り上げて挑発すれば、つられたようにレイジが笑う。さっきまでのどこか無理した痛々しい笑顔じゃない。いつもよりちょっと元気ないけど、見慣れた王様の笑顔だ。
 「色気ねえ誘惑。俺のこと誘ってんなら大人のキスのひとつもしてくれよ」
 白い歯を見せて笑ったレイジに泣きたくなるような安堵を覚え、胸ぐらの手を緩め、格子窓の向こうを窺う。今なら大丈夫、誰も気付いてない。よし。
 「いつまでも上でいられると思うなよ、王様」
 素早く唇を重ねる。唇の隙間からおずおずと舌を潜らせ、歯をなぞる。自分から舌を入れるのは初めてだなとどうでもいいこと考えながら舌先で口腔を探っていたら、突然レイジが跳ね起きて、肩に手をかけられ押し倒される。
 「ん、ぐ!?」
 なにしやがる、舌噛むとこだったじゃねえかと抗議する代わりにこぶしを振り上げれば、手首を掴まれ床に固定される。キスの途中でちゃっかり体位を入れ替えて俺に馬乗りになったレイジが目だけで笑う。
 「んっ、ふっぐ、ふ……」
 レイジの手が上着の裾に滑りこみ、体をまさぐる。舌を抜きたくても抜けない。最初は俺がリードしてたのにいつのまにか形勢逆転、レイジに舌を貪られて唾液に溺れる。飲み干しきれない唾液が溢れて首筋をしたたる。よわよわしく首を振り呼吸できない苦しみを訴えれば、透明な糸を引いて唇が離れる。間一髪息を吹き返した俺は、快感に頬を上気させて格子窓の向こうを見る。
 さすがに先を続けるのはやばい。声が漏れたらと考えると顔から火がでそうだ。
 「ちょ、ちょっと待て!お前元気になったんだろ、そうかそりゃよかった、じゃあ今日はこれでおしまいだ!ほら、もうすぐ夕飯だし早くいかねーと席なくなっちまうし続きはまた……」
 「慰めてくれるんだろ?」
 レイジが悪戯っぽく笑い、俺のズボンに手を入れようとして何かに気付き、一瞬動きを止める。
 なんだと訝しんだ俺の前で素早く十字架を手に取り、キスをする。その仕草があんまり自然だったもんであっけにとられたが、我に返った俺はあれこれ考えるより先にレイジの手首を掴んで引き寄せて、レイジがキスした中心に唇を押しあてた。
 レイジの唇がふれたばかりのせいか、金属の十字架はほのかに温かかった。
 十字架から顔をあげ、不敵な笑みを添えて俺は言った。
 「匂いしねーな」
 十字架の向こうでレイジが笑った。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050629011004 | 編集

 サムライに抱かれた。
 『お前が欲しい。直』
 ベッドで背中が跳ね、衝撃で眼鏡がずれる。
 鼻梁にずり落ちた眼鏡越しに周囲を見渡す。
 ここは、僕の房だ。息苦しく狭苦しい四角形の空間は僕が日常寝起きする見慣れた房で、僕が押し倒されたのは日常使用しているパイプベッドだ。
 殺風景なコンクリ壁に四囲を塞がれた房の隅、壁に寄せたパイプベッドの上に寝転んだ僕はサムライの行動に当惑する。
 『なにを考えているんだサムライ、即刻僕の上からどけ!悪ふざけに付き合ってる暇はっ……』
 スプリングが鋸を轢くような軋り音をあげる。
 僕はサムライをはねのけようと必死に暴れた、なりふり構わず腕を振り身を捩り足を蹴り上げ拒絶の意志を訴えた。だがサムライは応じない。再三「どけ」と促しても無視し、僕の腰の上で微動だにせず沈黙を守っている。
 上腕がぞわりと粟立つ。
 サムライは酷く思い詰めた面差しをしていた。一途に切迫した表情には焦燥が滲んでいた。目に苦渋の色を宿して僕の両手首を掴み、一本に纏め上げて固定する。
 『これ以上我慢できない』
 切羽詰った心情を吐露し、上着の裾から手を潜らせる。
 やめろ、と抗議しようとした。が、声が出ない。上着の隙間からひやりとした外気が忍び込んで肌が粟立った。僕よりひとまわり大きく痩せて骨張った手が上着の裾から潜り込み、下腹部をなでさする。
 『やめろ、服から手を抜け……っ、はあ』
 恥辱で頬が上気して声が漏れる。喘ぎなのかうめきなのか、自分でも判別しがたい熱い吐息に紛れた声。
 何故こんなことになったんだ?
 おかしい。こんなの間違っている。サムライは誰より頼りになる僕の友人、自分の身を犠牲にしてまでも献身的に僕に尽くしてくれる僕がこれまでの人生で得たただひとりの友人だった。そのサムライが何故こんな……僕を、強姦しようとしている?僕の意志を無視して、僕の叫びを無視して、僕の上着をはだけて興奮に息を荒げて肌を貪っている?
 乱暴な愛撫に痛みを感じ、顔を顰める。
 痩せた腹筋を揉みしだかれて、薄い胸板をまさぐられる。
 蹂躙される。
 陵辱される。
 赤裸な衣擦れの音にも増して羞恥心を焚きつけるのは、鼻梁にずり落ちた眼鏡越しに僕の目に映る光景。上着の裾を掴み、一気に胸まで捲り上げて僕の上半身を露出させたサムライが下腹部に顔を埋めている。淫猥に唾液を捏ねる音に理性が蒸発、瞼がじんわりと熱を帯びて目尻に涙がにじむ。
 サムライが僕の腹を舐めている。
 飢えた犬のように腹に顔を埋めて塩辛い汗を舐めている。
 何故こんな卑猥な行為を?
 恥辱で頭が沸騰、手も足も出ない己の不甲斐なさを眼前のサムライに転じて激烈な憎悪を抱く。房の隅に位置するパイプベッド、両手首を頭上で拘束された仰向けの寝姿でサムライを仰いだ僕は、性行為の強制に対する強い嫌悪感を剥き出して弾劾する。
 『き、みは、僕の友人だろう!?友人の癖に、僕に欲情するのか!!』
 サムライの目に悲痛な色が過ぎる。
 だがそれはすぐに能面めいた無表情にかき消されて、前よりもっと激しさを増した愛撫が再開される。
 赤い舌が唾液の筋をひき、下腹から胸へと緩慢に這いのぼる。
 奥歯を噛みしばり抗うも、生温かい舌が性感帯を刺激して、不規則に体が跳ねるのをおさえきれない。
 『ふあっ……』 
 口を塞ぎたくても頭上で両手を戒められてるためにそれすらできない。
 頼む、やめてくれ、解放してくれと目を閉じ一心に念じる。プライドをかなぐり捨て懇願する。
 しかしサムライはやめない。友人だろうと重ねて問われても否定も肯定もせず、卑怯な沈黙を守り、脇目もふらず僕の体を貪っている。
 甦るのは売春班の記憶、タジマの策略で売春班に落とされてから来る日も来る日も男たちに犯されたおぞましい記憶。
 極限の苦痛を舐めた一週間を何とか生き延びたというのに他でもない、僕を売春班から救出した男が現在進行形で僕を犯そうとしている。僕を抱きに来た数多の客と同じように、僕の両手を戒めて乱暴に扱って自分の物にしようとしている。これは何の冗談だ?否、冗談であってほしい。僕が持ち得たかけがえのない友人が、僕の信頼を裏切ってこんな……こんな卑猥なことをしてるなんて。僕の上着をはだけて下腹部をまさぐって鎖骨を唇で辿ってるなんて嘘だと思いたい。嘘であってほしい。

 サムライが僕に欲情してるなんて、嘘だ。
 あってはならないことだ。

 『ぼ、くは、君の性欲処理の道具にされたくない!性欲を処理したくば自慰でもなんでも勝手にやればいいだろう、僕を巻き込むんじゃない!せっかく売春班から抜け出せたのに男に犯されるのは懲り懲りだ、それが君ならなおさらだ!何故だサムライ答えろ、僕にわかるように説明しろ、僕たちは友人じゃなかったのか!?君には苗がいるだろう、恋人がいるだろう、なのにこんな……』
 苗を裏切る気か?
 僕を裏切っただけでは飽き足らず、苗まで裏切る気か?
 サムライが獣じみた振るまいに走った理由がわからないまま、やるせない怒りを込めて罵倒する。
 苗の名前をだせば、サムライの顔が苦渋に歪み、一瞬手が止まる。
 古傷を抉られて躊躇した隙に勢い良くシーツを蹴り上げて腰から振り落とそうとするが駄目だった、サムライは僕の考えなどすべて見通していた。
 『っ、あ!?』
 乳首を噛まれた。
 痛い……涙腺が緩み生理的な涙がこみあげる。しかし、意に添わぬ快楽に馴らされた体が苦痛までも貪欲に吸収し快感へと昇華させる。薄く血の滲んだ乳首の疼きが恍惚を伴う性感へと変化するのにさほど時間はかからなかった。
 一体いつのまにこんなに淫乱になったんだ?
 答えはすぐにでた、売春班の一週間だ。囚人看守ともに性欲の捌け口を担う売春夫として強制的に客をとらされ続けた一週間で僕の体は劇的な変化を成し遂げた。
 僕は不感症だった。
 否、それは強烈な自己暗示の産物に過ぎず実際はそうではなかった。
 それが証拠に今も、僕の体は反応している。
 僕自身がうろたえるほど過激な反応を示し始めている。
 乳首を噛まれて鋭い性感が芽生えた。
 口では反抗しつつも僕は快楽に溺れている、貪欲に快楽を求め始めている。嘘だ。こんなのは嘘だ認めない、僕はこんな淫乱な人間じゃなかった、性行為には不快感さえ抱いていたのに!
 激しい自己嫌悪に苛まれ、意味不明の奇声を撒き散らしたくなるのを堪え、下唇を噛む。
 咆哮したい。発狂したい。
 理性と本能の狭間で絶え間なく揺れ動く自意識、自制と衝動の葛藤。サムライにさわられて感じてるなんて嘘だ股間が反応してるなんて嘘だ勃起してるなんて嘘だ、こんなのは全部全部嘘なんだ!!
 『直。お前が愛しい』
 耳朶を湿らす吐息……興奮に掠れた囁き。
 胸板を撫でる指から伝わってくる欲情の火照り。僕の乳首を口に含み、唾液を捏ねる音も粘着質に舌を絡めながら、サムライが呟く。
 乳首を強弱つけて吸われる快感に息が上がり始める。
 『あっ……あ、あ、あっ』 
 数日前の夜、図書室で突如僕に襲いかかり唇を奪ったサムライ。
 熱く柔らかい唇、前歯がぶつかるほど性急なキス……馬鹿な。こんな時にそんなこと思い出すなど自分を叱責するが、熱に溺れた頭が朦朧と想起するのはあの夜の唇の感触と僕を抱きしめる力強い腕、サムライの苦悩の表情のみだ。
 サムライがキスしたのは、単純に僕が欲しかったからか?
 こうして僕を抱きたかったからか。
 サムライはいつから僕を欲しがってたんだ。ずっと友人のふりをして、優しく接して献身的に尽くして信頼を勝ち得て、ずっとこの機を狙っていたのか?疑問が疑惑にすりかわる。今までサムライのことを友人だと思っていたのは僕だけで、サムライはそうは見てなかったのか。僕を欲望の対象にしていたのか?
 疑心暗鬼に苛まれた僕をよそに、サムライの手が下肢に移動してズボンにかかる。待て、と遮る暇さえ与えずにズボンの内側に手が滑り込む。
 無骨に骨張った指が、じかに太股をさわる。
 『!くっ、ん……』
 サムライの指を直接感じ、内股が震える。
 『……サムライ、やめろ。これ以上は……ふ、あ』
 なんとか虚勢を張り、強い語気で命令しようとしたが、ズボンに侵入した手の動きで決心が萎えて声に哀願の響きが混じる。僕の反応を探りながら、次第にゆっくりと手を移動させ下着の内側へ―…
 『性器にさわるな!』
 純粋な恐怖を感じた。
 売春班の記憶が鮮烈によみがえり、身が竦む戦慄を覚えた。
 下卑た笑みを満面に湛えたタジマが勝ち誇って僕のペニスを掌握し、見せつけるようにゆっくり扱く。僕の股間に顔を埋めて、頬膨らませてペニスを含み、唾液を捏ねる音も卑猥に舌を絡める。売春班を抜けてからは人にふれさせることもなかった場所にサムライの手が直接届く。
 探る。触れる。掴む。
 『そこ、は、排泄器官だ……腎臓で漉された尿を体外に排出する場所だ、よくそんな不潔な器官にさわれるな、良識を疑う……は、うっく』
 サムライの手がゆっくり動く。ペニスの先端に血液が溜まる。まただ。意志を裏切り、体が反応している。サムライの手に擦れられたペニスが充血して勃起してズボンの布を押し上げる。手の動きが激しくなるにつれ急激に射精の欲求が高まる。うそだ。サムライの手で勃つなど嘘だと首振りでよわよわしく否定し、涙の膜が張った目でとり縋る。
 嘘だと言ってくれサムライ。
 『僕を、犯すのか』
 苗のように犯すのか?
 そうして、追い詰めて殺すのか。静流の言った通りに。
 瞬きも忘れて問えば、サムライが押し殺した口調で告白する。
 『そうだ。俺はかつて苗を犯した。苗の体も心も手に入れるために力づくで抱いた。どうせ父に許されぬ仲ならと自暴自棄になって、俺を一途に慕ってくれた苗を、ひたむきに信じてくれた女の体を畜生道に堕ちたように貪り食らった』
 それが、サムライが敢えて語るのを避けてきた苗の死の真相なのか。やはり静流の言ったことは真実だったのか。苗を犯して首を吊らせて、それが発覚して父に勘当を言い渡され、そして…… 
 サムライは酷く真剣な面持ちをしていた。絶望の淵を覗きこんだ暗澹たる目には、物欲しげに口を開けて快感に喘ぐ僕の顔だけが映り込んでいた。
 かつて苗を犯して殺したように、僕もまた犯して殺すのか。
 沈着冷静な無表情の裏に、絶えず身を灼く激情を秘めていると気付いたのはいつ頃だろう。
 帯刀貢はいつか情念の炎に焼き滅ぼされてしまうのではないかと、それ故の鉄面皮で感情を抑えこんでいるのではと僕はずっと疑っていた。
 地獄の劫火を身の内に巣食わせたサムライからは、凄まじい熱気が放たれていた。
 『はっ、あっ、あっあっあっ……!』
 手の動きが加速する。快感が急激に高まる。情欲に猛る雄の本性を剥き出したサムライが、欲望に目をぎらつかせて僕を一方的に責め立てる。
 性急に扱かれてペニスに血液が集中して腰が勝手に浮きはじめる。
 声を抑えるのは不可能だ。
 僕の意志を裏切り愛撫に悦ぶ体が恨めしい。
 なんとか射精を遅らせようと太股を突っ張って抵抗したが、尿道を蚕食する掻痒感でもう何秒も保たないことがわかった。
 だらしなく弛緩した口元から糸引く涎が垂れる。呼吸が浅く速くなり声が弾み腰が跳ねる。
 加速する手に導かれて射精する間際、サムライの顔が急接近。
 狂気に憑かれた目が、爛々と輝いて。
 『お前が欲しい。お前を俺の物にするには、こうするしかない』
 乱れた前髪の隙間から覗いたのは、あまりに荒荒しく獣じみた眼光。
 憔悴した面差しに凄艶な色気すら滲ませて、股間の手は休めぬままに僕の唇を奪う。舌が入ってきた。唇の隙間をこじ開けて侵入した異物が前歯をなぞり口腔をむさぼる。朦朧とした頭でサムライの舌に応じる。
 舌に舌を絡め、口移しで唾液を飲み交わす。
 射精の瞬間が迫っている。
 『んっ、ふ……』
 口を口で塞がれ、息ができずに苦しい。
 よわよわしくかぶりを振って酸欠の苦しみを訴えれば、漸く唇を放したサムライが僕が見たこともない酷薄な笑みを浮かべる。
 『わかったか、帯刀貢の本性が。俺は本来こういう男だ』
 僕がこれまで信じてきたもの、縋ってきたものが粉々に打ち砕かれた。
 『あっ、あああああああっああああっあ……』
 力を込めて断言したサムライに反論する暇もなく絶頂が訪れた。脳裏で閃光が爆ぜて瞼の裏側が真っ白になる。先端の孔から迸った白濁が下腹部に散り、シーツに散り、サムライの手を濡らす。
 精液に塗れた指を口へと運び、舌を這わし、雄の色気匂い立つ笑みを深め…… 
 
 「!!!」
 唐突に目が覚めた。
 寝汗に濡れそぼった前髪が額にはりつく。跳ね起き、枕元を手探りして眼鏡を掴んで顔にかけ、暗闇に目が慣れるのをじっと待つ。
 気が狂いそうな焦燥に焼かれて闇にうずくまった僕は、現実と混同するほど生々しく五感に訴えてきた悪夢を反芻し、無意識に二の腕を抱く。
 そして、下半身の異状に気付く。
 毛布を跳ねのけズボンに手をかけ下着の状態を確認。予感が的中した。覚醒時の違和感は粘りけある精液に濡れた股間と汚れた下着が原因だった。
 「夢精か……」
 口にした途端に壮絶な屈辱感を味わった。サムライに強姦される夢を見て夢精したということは、僕は興奮していたのか。サムライの手で上着をはだけられ肌をまさぐられ唇で吸われて股間を揉まれて性的に興奮してたのか。最低だ。最悪だ。今の僕の姿を恵が見たらどう思うだろう。
 軽蔑されるに決まってる。最低の兄だと罵られるに決まってる。
 「くそっ!」
 荒く舌打ちし、激しい自己嫌悪に苛まれて頭を抱え込む。びっしょり寝汗をかいたせいで透けたシャツが肌に吸いついて気持ち悪い。気持ちが悪いのは股間も同じだ。早く下着を脱いで洗わなければと気は急くが、四肢はぐったりと萎えたままなかなか虚脱状態から立ち直れない。
 悪夢を見たのは連日の強制労働で疲れてるせいか?
 東京プリズン新所長として赴任した但馬の兄に三日以内に用水路を作れと命令を下され、僕らイエローワークの囚人は通常の二倍も三倍も働かなければいけないことになった。
 明日も強制労働がある。十分に睡眠を摂らなければ作業が遅れるというのに、つまらない夢に起こされてしまった。
 これも全部静流のせいだ。静流があんなことを言うからだ。
 瞼の裏側に浮上する妖しい笑顔。
 妖艶に赤い唇と好対照を成す清楚に白い肌、流れる黒髪の美少年……
 静流。
 サムライの過去を知る唯一の人物……
 東京プリズンで最も帯刀貢に近しい人物。
 『帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?』
 「やめろ」
 『本当のことを教えてあげるよ。帯刀貢は苗を犯したことが発覚して後継ぎにふさわしくないと絶縁状を叩き付けられた。勘当を言い渡されて逆上した貢は神棚の刀を手にとり、実の父親を含む門下生十三人を斬り殺したんだ。莞爾さんはともかく、残り十二人はとばっちりもいいところさ』
 「違う、サムライはそんなことしない。僕を陥れようと妄言を吐いても決して騙されない。貴様ごとき低脳の思惑に気付かない天才だと思うか?侮られたものだな。サムライは僕の友人だ、唯一僕が心を許して絶対的な信頼を寄せる友人だ。下水道で土下座をして売春班に助けにきて僕の為に剣を振るい、そして―……」
 『せいぜい気をつけなよ。「あれ」はけだものだから』
 「でたらめを言うな!!」
 耳を塞ぎ絶叫するも頭の中で響く声からは逃れられない。
 静流の妄言に惑わされてたまるかと激昂する一方で、サムライを信じきれない自分に気付いて狼狽する。最前見た、夢と決めつけるにはあまりに生々しい出来事の記憶が何から何まで鮮明によみがえる。

 体を這いまわる骨張った指、乳首を吸う唇、荒い息遣い……
 売春班に僕を抱きに来た男たちと同じ、淫蕩に堕落したサムライ。 

 「サムライは違う、絶対に僕を犯したりなどしない彼は違う売春班の客とは違う僕を犯しにきた奴らとは違うんだ!!静流の言うことは全部嘘だ、彼は無実だ、苗を犯したりなどしてない!サムライは苗を愛していた、苗といた日々を回想するときは目が和んで優しい笑みを浮かべて、生涯ひとりしか持ち得ない本当に大切な人のことを話すように語るんだ!!あんな優しい顔で苗を思い出す男が彼女を犯したりするはずがない、もしサムライが実際に苗を犯したとしたら彼は!!」
 
 僕を犯した男たちと、一緒じゃないか。
 何も変わらないじゃないか。

 頭を抱え込み項垂れて、どのくらいそうしていただろう。
 「………」
 ……下着を洗おう。今やるべきことに優先順位をつけ、のろのろとスニーカーを履く。サムライを起こさぬよう慎重に夢遊病めいた足取りで歩き出す。暗闇に沈んだ房を見渡せば、悪夢の延長のように同じ光景があった。
 それとも、まだ夢が覚めてないのだろうか。
 これは夢の続きなのか。
 ふらつきながら房を横切ろうとして、サムライのベッドの前で足を止める。
 ベッドの傍らに佇み、無言で見下ろす。
 サムライはぐっすり寝入っていた。行儀よくベッドに仰臥して規則正しい寝息をたてている。
 耳の奥に涼しげな声がよみがえる。
 『帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?』
 僕の足は自然、サムライが横たわるベッドへと吸い寄せられた。
 洗面台に向かえと頭が下した命令に心が反発して、暗闇の中で方向転換。ベッドの傍らに片膝つき、サムライの寝顔を覗きこむ。
 悪夢を見てる様子がなくて安堵したのも束の間、耳鳴りに似た反響を伴い、深淵から夢魔の声が湧いてくる。
 『せいぜい気をつけなよ。『あれ』はけだものだから』
 「本当のことを教えてくれ、サムライ。僕を騙していたのか」
 枕元に肘をつき、両方の指を組み、額を預ける。
 静流の口から真相を告げられるのは耐えられない。プライドの危機だ。それくらいならいっそ、サムライの口から真実を聞きたい。
 それがどれほど過酷な真実でも、君の口から明かされるなら一抹の救いはある。
 「………っ!」
 指を強く強く握りしめ、深々と頭を垂れる。
 僕は、最低だ。あれだけしつこく友人だと主張しておきながら、静流の言葉に心乱されてサムライを信じきれない現実に幻滅する。サムライに陵辱される夢を見て射精した自分に絶望する。
 あんな夢を見たということは、僕は内心、サムライに抱かれたがっていたのか?深層心理の奥底で彼に抱かれることを欲していたのか?
 普通同性の友人に抱かれたいなど思うはずがない。ならばあれは、あの夢は、一体何だったんだ。僕はサムライをどう思っているんだ。サムライは僕をどう思っているんだ。
 わからない。
 考えれば考えるほど深みに嵌まる悪循環から抜け出せなくなる。 
 「僕が知る君は偽りなのか。君は常に衝動と戦っているのか。僕を犯したい衝動を抑圧して誠実な友人のふりをしているのか?そうやって僕の信頼を繋ぎ止めて、いつか苗のように……」
 僕を裏切っていたのか、サムライ。
 サムライの首へと手を伸ばす。起きる気配はない。
 音たてて生唾を嚥下し、慎重に首に手を回す。
 許せないと思った。もしサムライが苗にしたことが真実なら、静流の言うことが事実なら、僕は決して彼を許さないだろう。
 売春班に助けにきた夜に見せた涙は嘘か?
 僕を抱きしめた腕のぬくもりも?
 そんなに僕を抱きたければあの夜に抱けばよかったんだ、犯せばよかったんだ。僕が完全に心を開く前に、僕が君なしではいられなくなる前に―……
 そうしてくれたほうがどれだけ救われたかしれない。
 「君は苗を犯したのか?僕のことも犯したいと思っているのか」
 サムライの首に手を巻き付け、徐徐に力を込める。寝顔の眉間に縦皺が寄る。だが、起きる気配はない。このまま殺してしまえという誘惑が頭を掠め、気道を圧迫する指に力を加える。
 「僕に欲情しているのか、帯刀貢」
 眉間に苦痛の皺を刻み、サムライが仰け反る。
 サムライの首に手をかけた僕の中で、その瞬間何かが切れた。

 顔に顔を被せ、唇を奪う。
 
 サムライが目を開けたのは次の瞬間だった。何が起こってるか瞬時にわからず、目に当惑の色を浮かべたサムライの意識がやがて覚醒、発作的に僕を突き飛ばす。
 「な、に!?」
 軽く咳き込み、手の甲で顎を拭いつつ、驚愕の相で叫ぶ。
 「どうした、これが望みだったんだろう。人の夢に不法侵入してまで目的を遂げようとしたんだ、ならば天才自ら要望に応えてやろうじゃないか」
 露悪的な笑顔でサムライを挑発、親指で見せつけるように唇をなぞる。
 ベッドに跳ね起きたサムライを間近で覗きこみ、彼の目をまっすぐ見つめたまま上着の裾に手をかける。
 腹部で腕を交差させ、サムライの視線を意識しつつ、緩慢な動作で裾をたくし上げる。
 ひやりとした外気が上着の隙間から忍び込んで肌が粟立つが、顔では平静を装い、上へ上へと服をめくる。まずは痩せた腹部をあらわし、薄い胸板をさらし、華奢な鎖骨が覗くまで上着を引き上げて頭を振って一気に脱ぎ捨てる。
 肉の薄い貧弱な肢体をさらけだし、体前に垂らした腕に上着をひっかけたままサムライと対峙。
 そして。
 「命令だ。僕と性行為に及べ」
 サムライの本性を試す賭けにでた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050628133011 | 編集

 顔に砂が跳ねる。
 シャベルの先端が地を穿った衝撃で、顔にまで砂がかかる。
 体重かけた靴裏で金属の刃を押し込んで砂を掘る、延々とそのくりかえしが続く単調な作業だが体力の消耗は激しい。何度手の甲で額を拭っても発汗のスピードに追いつけない。ただでさえ体力に自信がない僕は強制労働中にもよく貧血を起こすが、今日は奇跡的に朝から一度も倒れずシャベルに縋り付くように働いている。
 最も、そうする他ないのだ。
 まわりの囚人も似たり寄ったりの状況で、中天の太陽が容赦なく直射日光を浴びせて頭皮を焼いても、汗を拭う暇すら惜しんで鍬を振るっている。私語もろくに交わさず、手の豆が潰れても放置し、用水路を整地する囚人たちを見まわせばすぐにわかるがいつもとは気合いの入れようが違う。新入りも先住者も、イエローワーク配属の囚人すべてが脇目もふらず仕事に精を出している。
 但馬所長が視察にきてから三日後、用水路を完成させる期限の日。
 今日中に用水路を完成させねば僕ら現場の囚人が罰を受ける。連帯責任で処罰されるなど冗談じゃないと奮起した囚人たちは、今だかつて見たこともない集中力を発揮してそれぞれの作業に没頭しているがとても今日中には終わりそうにない。不可能だ。
 もともと無茶な要求だったのだ、三日以内に用水路を完成させろなんて。
 この三日間で新所長の命令を愚直に実現しようと体力の限界に挑んだ囚人が何人、何十人倒れたことか。現在進行で働いてる囚人は皆とっくに一日に可能な労働量の限界を超えて、いつ倒れてもおかしくない疲労困憊の様子で集中力の持続がむずかしくなっている。暇さえあれば持ち場を抜け出して僕を挑発にくる班の連中を三日間見てないのは、彼らもまた期限に追われてるからだ。
 完全に余裕を失った囚人たちが、汗が絞れるほどぐっしょり服を濡らして鍬を振るう中、僕だけは手を動かしながらも先日の出来事に心を飛ばしていた。

 『命令だ。僕と性行為に及べ』
 夜、サムライを誘惑した。
 否、誘惑というより挑発と言ったほうがいいだろう。僕は媚の売り方も艶の売り方も知らない、直接的な表現しかできない。だから単刀直入に言ったのだ、一切の伏線とそこに至る経緯を省略してサムライの本性を暴こうとしたのだ。腹部で交差させ、見せつけるようにゆっくりと上着を脱いだ。
 徐徐に裾をたくし上げ痩せた腹部をさらし、薄い胸板をさらし、鎖骨をさらした。
 緩慢な動作で上着をたくし上げて頭から抜き、上半裸で対峙。体前に垂らした腕に上着をひっかけた無防備な姿で暗闇にたたずんだ僕は、まっすぐ挑むようにサムライを見据えた。サムライは狼狽していた。やがてその狼狽が困惑へと取ってかわり、視界の利かない暗闇の中でサムライの顔が苦渋に歪んだ。
 『寝ぼけているのか?はやく服を着ろ、風邪をひく』 
 『寝ぼけてなどいない。意識は覚醒している』
 不機嫌な声音で促されても僕は平静な顔を装ったまま、ベッドに戻ろうとしなかった。サムライは眉をひそめ、うろんげに僕を見た。
 探るような視線。
 舐めるような視線が剥き出しの二の腕を辿り、華奢な鎖骨を辿り、体の輪郭を辿る。
 熱心な凝視に肌が粟立つ。
 上半身裸で寒いのは勿論だが、それ以上にサムライの視線を意識して体の表面がひどく敏感になっていた。快楽に馴らされた体は肌を舐める視線を貪欲に吸収して、身を苛む羞恥の火照りを甘い疼きを伴う快感へとすりかえた。
 見る者と見られる者の間には、支配と被支配の共犯関係が成立する。
 夢の中の行為の余熱を帯びて、体が淫蕩に火照っている。
 濡れた下着が気持ち悪い。最前僕はサムライに犯される夢を見て射精した。あれだけ性行為に対して嫌悪感を持っていたのに、無意識の願望が表出する夢の中でサムライに抱かれて悦んでいた。
 ならば現実にサムライに抱かれたら、どうなるのだろう。
 夢の中でさえ快楽があった。夢精に至る強烈な快感があった。ならば現実にサムライと性行為に及べばどうなってしまうのか純粋な興味もあった。夢と現実のどちらがより強烈な快感を得られるのか試してみたい欲求があった。このまま静流の言葉に心乱されてサムライへの不信感を抱えたまま、彼と友人のふりをし続けるくらいならいっそのこと僕自身が関係に終止符を打ちたい。
 サムライが僕を犯しに来た男たちの同類だとわかれば、もう悩まずに済む。
 重苦しく黙り込んだサムライをひややかに眺め、嘲笑する。
 『どうした。僕と性行為に及ぶ度胸もないのか』
 『……意味がわからん。夜更けに起こされたと思えば、突然何を言い出す。俺に男色の趣味はないと、』
 『何故キスをした』
 サムライがばつ悪げに口を閉ざす。痛いところをつかれた、という表情。数日前の気の迷いを蒸し返されて渋面を作ったサムライに近付き、腕から袖を抜く。サムライの許可もとらず、彼が起き伏したベッドに腰掛ければ二人分の体重でぎしりとスプリングが鳴る。夢の中で聞いたのと同じ、鋸を轢くように耳障りな軋り音。裸電球も点けない暗闇の中、互いの息遣いが聞こえる距離に接近。緊張に喉の乾きを覚え、動悸のはやりを感じつつ、サムライの膝へと手を移動させる。
 『本当は君も、僕が欲しかったんじゃないのか。売春班に僕を抱きに来た数多くの男たちと同じ欲望の目で見てたんじゃないのか。僕を組み敷いて陵辱して泣かせて喘がせたくてしかたなかったんじゃないのか』
 毛布に覆われた膝に手をおき、さする。以前の僕なら考えられない不可解な行動だ。しかし、今ではさほど抵抗も感じない。売春班では剥き出しの膝を撫でるよりもっと直接的で卑猥なことも命令された、強制された。今更膝を撫でるくらいなんだ?僕はもう堕ちるところまで堕ちてしまったというのに、今もって潔癖症を気取るのは滑稽だ。
 耳の奥に鼓動を感じる。鼓動は次第に大きくなる。
 暗闇の中のサムライは動かない。ベッドの背格子にも寄りかからず、膝を毛布に隠して上体を起こしている。
 こんな時でも惚れ惚れするくらい姿勢がいい。
 暗闇の中、端正な居住まいで座したサムライに猫のようにすりより、耳元で囁く。
 『性欲は食欲、睡眠欲と並ぶ三大欲求のひとつで種族保存の欲求に直結する欲求だ。男性と女性の間、あるいはそれ以外の関係も含めて人間間における肉体的な欲望だ。何も恥じることはない、君が性欲を感じるのは当然なんだ。性欲を過度に抑圧するのはかえって不自然なことだ。君も十代の健康な少年なら自慰のひとつもしたことがあるだろう。夢精だって』
 『よせ』
 サムライが頑なにかぶりを振って拒絶する。自慰の経験を指摘され、屈辱の面持ちを伏せたサムライをひややかに観察。毛布越しに膝を撫でれば下半身が硬直する。正直な反応だ。
 『売春班も利用しない、自慰すらしない。そろそろ忍耐の限界じゃないか?禁欲も過ぎると苦痛でしかない。生憎ここは刑務所だ、身のまわりには同性しかいない。ならば同性を対象に性欲処理するしかない』
 『どうかしている……』
 サムライが下唇を噛む。暗闇に目を凝らせば、頬がかすかに紅潮していた。僕に限らず人からの誘惑に慣れてないのだろうか。夢の中ではあんなに積極的だったくせに、とこっそり失笑を漏らす。
 僕は情緒不安定になっていた。夢精に付き物の屈辱感と自己嫌悪が綯い交ぜとなった最低の気分から這いあがる為には、夢精を促した他者を残酷に攻撃するしかない強迫観念に駆られていた。
 僕は、サムライに抱かれて夢精した自身が許せなかった。怒りすら感じていた。売春班で強制された数々の性行為の記憶は根深いトラウマとなり僕を苦しめ続けているのに、事もあろうに夢の中の僕は、自分からその行為を欲したかのようにサムライに抱かれて喘いでいた。口の端から糸引く涎をたらし恍惚と目を曇らせ快楽に溺れていた。
 ありえない。あってはならないことだ、絶対に。
 受動態で快楽に溺れるくらいならいっそ、能動態でありたい。
 それが僕のプライドだ。
 『遠慮することはない。僕は売春夫だ。騎乗位でも後背位でも君の要望に応じようじゃないか。まさか男と性行為に及んだ経験がないから作法がわからないなどと言うんじゃないだろうな。簡単だ。肛門にペニスを挿入して律動的に腰を揺すればいいだけだ。それだけで君は容易に快感を得られる、射精に至ることができるんだ』
 『正気か?』
 額に手をあて項垂れたサムライが、こめかみに汗を浮かべる。
 『直、お前は売春夫ではない。あえて自分を痛め付ける必要はない。こんな真似、お前らしくない』
 吶々と反論したサムライの膝から手をどけ、毛布の下へと潜り込ませ、腿におく。耳の奥では静流の声が反響してる。銀鈴の旋律の無邪気な笑い声……

 帯刀貢ガ苗ヲ犯シタト聞イテモ 彼ノ友人デイラレルノカイ?

 『僕が相手では不満か』
 瞼の裏に静流の笑顔が浮かび、自然声が低まる。
 『こんな貧相な体は抱きたくないか。痩せた腹も薄い胸も細い首も不健康に生白い肌も』
 『やめろ』 
 サムライが厳然と言う。これ以上は本当にやめてくれと一心に念じるように目を瞑り、眉間に懊悩の皺を刻んで。だが、やめない。ベッドの端に腰掛け、サムライの方へと体を傾げる。
 『確かに、抱く楽しみのない薄い体だ。線が細く骨が脆い貧弱な体だ。苗とは比較にならないつまらない体で物足りない気持ちはわかる』
 『なに?』
 苗の名をだした途端にサムライが気色ばむ。額から手をはなし、凝然と目を見開く。
 その目にありありと表出したのは……恐怖。過去の罪悪を暴かれて破滅を予感する戦慄の表情。
 こめかみに汗を浮かべたサムライが放心の体で僕を見る。言うなら今しかない。
 真実を見極めようと瞬きすら忘れてサムライの目の奥を覗きこむ。
 暗闇の中におぼろに浮かび上がるサムライの顔には、僕が知らない男の面影が去来していた。
 そして直感した。今この瞬間僕が対峙しているこの男こそが、サムライがかつて訣別したもう一人の自分……帯刀貢であると。
 『苗を犯したのか』
 サムライの目が極限まで見開かれた。
 僕はサムライに弁解の余地を与えず反論の隙を与えず畳みかけた、釈明の機会すら与えなかった。釈明と言い訳の区別もつかない錯乱状態でサムライの声を聞けばますます取り乱してしまう、逆上して手がつけられなくなると予測できた。
 だから僕は言った。
 縋り付くようにサムライの肩を掴み、彼を信じたい気持ちと信じられない気持ちと相反する感情が衝突する中で、激情に揉まれ流されつつ。

 『苗を独占したいあまりに、彼女の体と心を手に入れたいあまりに犯したのか!やはりそれが真実か、情欲に狂ったけだものの本性を隠し持っていたのか帯刀貢は!!IQ180の天才が気付かないとでも思ったか、洞察力と観察力に優れたこの僕が嘘に気付かないとでも思ったか!甘く見るなよ低脳め、苗について語る時いつも核心を避けてることくらいとっくに気付いていた!
 一体君と苗の間になにがあったんだ、帯刀家の秘密とはなんだ、苗は何故首を吊った!?君は苗の死の原因を知ってるはずだ、知ってて隠しているんだ、嘘をついているんだ!
 父親に仲を反対されたのを苦に自殺しただと?
 サムライ、いや帯刀貢。君は西暦何年の生まれだ、何時代の話をしてるんだ。家族に反対されれば駆け落ちするなり捨て身で説得するなりいくらでも方法があったはずだ、父親に交際を反対されたから首を吊るなど短絡的すぎる!君が語る苗の聡明さとその短絡的行為とがどうしても合致しない……不自然なんだ君が苗について語ることすべてが!!』

 何を隠してるんだサムライ。やはり静流の言うことが真実なのか。
 苗を犯して自殺させたことが当主の父親に発覚して、勘当を言い渡されて、逆上して斬り殺した。
 それが、事件の真相なのか。

 『……静流がそう言ったのか』
 『ずっと、騙していたのか』 
 胸が、痛い。サムライと生き抜いた十ヶ月間が脳裏を駆け巡る。展望台の突端に立ち、両手をさしのべて夕空に灰を撒いた。下水道で土下座をした。濁流の波涛と轟音渦巻く下水道からの脱出時に、僕の手を掴んで引き上げてくれた。売春班に僕を助けに来た。足首を捻挫したサムライを支えて医務室の行き帰りに辿った道、目にしみる蛍光灯の輝き、僕を庇って大動脈を掠る大怪我をしたときに手を濡らした血のぬるさ……
 サムライと共に過ごした十ヶ月間の蓄積が堰を切ったように雪崩れ出して回想の濁流に呑みこまれた僕は、肩を掴む手に力を込める。
 今にも壊れ砕けそうな心を繋ぎとめる為に。
 サムライの腕の中に崩れ落ちて、身を委ねてしまいたい衝動と戦う為に。
 『ずっと、信じていたのに』
 信じさせてほしかったのに。
 『誠実な友人のふりで、僕を騙したのか。過去に苗を蹂躙した手で、僕に触れていたのか。覚えてるかサムライ?売春班に僕を助けにきた夜に君は言った、僕は汚れてなどいない、守れなくてすまないと……よくそんな偽善が語れたな、過去に苗を犯して汚したくせに。「守れなくてすまない」は本来僕にかけるべき言葉じゃない、苗にするべき謝罪だったんだ。ははっ、笑えるじゃないか!僕は自分ではそうと知らず、謝罪まで苗の身代わりに引き受けてたんだ』
 『違う、そうじゃない!』
 『苗の代わりに僕を抱け』
 爪が肩を破くほどに指を食い込ませ、皮肉に口元を歪める。
 あるいはそれは、自嘲の笑み。
 眼鏡を外し、素顔でサムライに迫る。眼鏡をしてないせいで視界が曇ってサムライの表情がぼやけたが、この際好都合だ。そうしたほうが決心が鈍らずにすむ。
 スプリングをぎしりと軋ませ、サムライの肩に凭れかかる。
 ふれあった肩にぬくもりを感じる。そのぬくもりに流されてしまわないよう自らを律しつつ、夜目にも生白く浮かび上がる首筋を無防備を装いちらつかせ、欲情を誘う。
 『苗の体と僕の体と、どちらがより君を酔わせるか実験してみたらどうだ』
 静流を意識してしたたかに微笑んだ、瞬間だった。
 サムライに突き飛ばされたのは。
 重心がぐらつき、体が傾ぎ、悲鳴をあげる暇もなく背中から転落。コンクリ床でしたたかに背中を打ち、圧縮された空気が肺から押し出される。肘を立て上体を起こそうとすれば、耳朶にふれる衣擦れの音。 
 頭上にサムライがいた。
 無造作に毛布をはだけ、裸足で床を踏み、床に倒れ伏した僕をひややかに見下している。突き飛ばされて転落した衝撃で眼鏡が落ちた。床に手を這わして眼鏡を探りあて、慌てて顔にかけ、焦点が定まるのを無防備に待つ。それが致命的な遅れとなった。唐突にサムライの手が伸び、僕の二の腕を掴む。
 獲物を捕捉する鷹めいて強靭な五指が腕に食い込み、骨が軋む激痛を感じた。
 『やめろっ、眼鏡をまた落とすじゃないか!!割れたら弁償、』
 言いかけて言葉を失った僕の眼前で、夢の中とまったく同じ光景が展開される。場所がベッドじゃないだけで何から何まで同じだ。サムライが僕に馬乗りになり、両手首を掴んで頭上で一本に纏め上げる。
 恐怖で身が竦む。
 一方的にサムライを誘惑していたときは不条理な怒りが勝って、羞恥心も恐怖心も麻痺していたからこそ平静を保つことができた。だが今は状況が違う。
 固い床を背にした僕は、目に恐怖の色を宿して頭上を仰ぐ。
 暗闇に沈んだ天井を背に僕に覆い被さったサムライが、吐き捨てるように言う。
 『そんなに俺に抱かれたいか。飢えているのはどちらだ』
 腕を掴んだ指からは熱い血の滾りが伝わってきた。これが、帯刀貢の本性か。サムライが訣別したもう一人の自分か。情欲に狂った雄の本性を剥き出したサムライが、ぎりぎりと容赦なく僕の腕を締め上げる。腕を絞られる激痛に耐えかね苦鳴を漏らし、目には生理的な涙の膜を張り暴れるも、腕力ではるかにまさるサムライをどかすことはできない。
 必死に暴れる僕へとのしかかり、顔を寄せる。
 唇と唇が触れ合う距離にサムライの顔が来て、吐息の湿り気が顔を撫でる。
 『いいか?お前に接吻したのは一夜の気の迷いだ』
 『っあ……、』
 酷薄に双眸を細め、僕が知らない男の顔で宣告する。
 強く締め上げられ、腕の血流が滞る。
 むなしく宙を蹴り暴れながら、僕は訴えた。
 『気の迷いだと?そんな説明で納得すると思うか。僕はまだはっきりと君の唇の感触を覚えている、何度も下唇の膨らみを指でなぞり反芻したというのに!!』
 目の前にいるのは思慮深い寡黙さと不器用な優しさを併せ持つサムライじゃない、顔が同じ別人だ。僕の腕を締め上げる容赦なさや苛烈に暴れ狂う激情を押し殺した鉄面皮は、あの優しかったサムライとは別人としか思えない。
 サムライの顔をした獰猛な男が、鋭い双眸が僕を射竦める。
 そして、断言。
 『俺はお前を抱かない。絶対に』
 不意に腕の力が緩む。
 興味が尽きたように僕を突き放して背中を翻し、大股に暗闇を歩みながらサムライが吐き捨てる。
 『さかるのは勝手だが、相手は選べ』

 それが、僕とサムライの間に起きた一部始終だ。
 「………友人を試した罰があたったな」
 シャベルを振るう手を止め、ため息まじりに独りごちる。あれからサムライとは口を利いてない。一言もだ。あれから僕らの間には埋めがたい溝ができて、房に二人きりでいる時はもとより、廊下を歩く時も食堂でも微妙な距離が空いてしまった。
 あの晩の僕はおかしかった。正気じゃなかった。夢の余韻と余熱をひきずったまま、現実と妄想の区別もつかないまま一種の夢遊状態でサムライに誘いをかけて、普段の僕なら絶対あり得ない口にするのも憚られる行為に及んでしまった。すべて僕がサムライを信じきれなかったのが原因なのだ。サムライが苗を犯すはずがないと、どうしてあの日静流に反論できなかったのだろう。もちろん静流が嘘をついてる可能性も考慮したが、全肯定するかわりに全否定する根拠もない現状では結論を保留するしかない。
 なにせ静流は僕より遥かにサムライとの付き合いが長く、僕の知らない彼を知っているのだ。
 サムライが隠し通している過去を。
 昨夜のことを思い出せば、二の腕が鳥肌立つのをおさえきれない。僕を床に押し倒したサムライは、まるで別人だった。あれが本来のサムライ即ち帯刀貢だとしたら、僕の友人のサムライはどこにいってしまったんだ?そんな人物、最初からいなかったのか。嘘偽りだったのか。
 『いいか?お前に接吻したのは一夜の気の迷いだ』
 『俺はお前を抱かない。絶対に』
 サムライに拒絶された痛みが酷く胸を絞め付ける。 
 「なら、僕の夢に無断で侵入するんじゃない。深層心理にまで影響を及ぼすんじゃない。僕が夢精したのは君が原因、夢の中で君と性行為に及んだのが直接的な原因で間接的な要因だとはっきりしてるんだ。言い逃れは卑怯だ、武士らしく覚悟を決めて僕を夢精させた責任をとれ」
 サムライへの怒りを転化して勢い良くシャベルを振り下ろせば、盛大に砂が飛ぶ。
 遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。さかんに吠え立てる犬の声も。
 「!!」
 現場の囚人が作業の手を止めて一斉に振り向く。嫌な予感は的中した。数多の視線の先でジープが停まり、犬を連れたタジマが悠然と下りてくる。ドーベルマンのリードを引いて歩く但馬に反発をおぼえ、足元に唾吐く囚人がいる。鍬を地に突き立て、反感込めた目つきで但馬を睨みつける囚人がいる。
 「精がでるようで感心だな。今日で時間切れだが、作業の進み具合はどうかね」
 嫌味な口調で但馬が言い、目が合った囚人から順に下を向く。気まずい沈黙。但馬の背後には安田が控えて、不安げに成り行きを見守っていた。
 「おや、これはどうしたことだ。三分の一も進んでないではないか」
 「無茶言うな、たった三日で用水路完成させろなんざ不可能だ!」
 「手の豆潰れて血まみれになって、足の爪がひび割れて肉に食い込んで、痛みに耐えてどんだけ必死に頑張ったところで無茶なもんは無茶なんだよ!最低一週間はくれなきゃ用水路なんか作れねえよ、あんたは簡単に言うが砂漠で用水路作るのがどれだけ重労働かわかってんのかよ!?」
 「鍬で砂掘って溝作って土嚢積んで側壁補強して平らに馴らして、それだけで軽く一週間かかるんだよ!おまけにこの暑さだ、脱水症状でぶっ倒れる奴があと絶たなくて」
 犬が吠えた。
 斜面を駆け上がり但馬に殴りかかる構えを見せた囚人三人が、途端に逃げ腰になる。リードを限界まで引っ張ったドーベルマンに吠えかかられて、惨めに尻餅ついた囚人を見下し、但馬が笑う。 
 「連帯責任で罰を与えよう」
 「所長、それはあまりにも……」
 「役立たずの家畜を庇うとは慈悲深いな、安田君」
 安田に返されたのは侮蔑の笑み。
 「用水路を完成させられなかったのは彼らの怠慢が原因だ。彼らが手を抜いたせいで作業ははかどらず三日経っても用水路はできあがらなかった。見よ、この惨状を!未完成の用水路に放置された土嚢を、崩れかけの斜面を、三分の一も整地されてない現状を!諸君ら無能な家畜どもが怠けたせいで三日で作れるものが出来上がらなかった、この責任は重大だ。利口なハルよ、お前もそう思うだろう」
 同感だというようにハルが吠え、但馬が満足げに犬の頭を撫でる。
 犬の頭に手をおいたまま、未完成の用水路を見渡して所長が命じる。
 「看守に告ぐ。用水路建設にあたった囚人を私の前に集めて並ばせろ。愉快なショウを始める」
 用水路に散った囚人が不安げに顔を見合わせる中、但馬の肩越しに安田と視線を絡ませた僕は、彼の目の奥に紛れもない嫌悪と畏怖を見てとった。
 まっすぐ僕を見据えて唇を動かし、懸命に何かを伝えようとする安田。
 『逃げろ、鍵屋崎』
 声にださずに言う緊迫した様子で直感した。

 但馬が何をする気かわからないが、間違いなく死人がでると。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050627232003 | 編集

 ケツが痛え。
 「くそっ、レイジの奴容赦ねえ」
 怒りに任せて腕を振り上げるも腰に力が入らず、鍬の自重に振りまわされてたたらを踏む。地面に鍬を突き立て舌打ち、背中に手をあて腰をさする。
 ケツが痛いのはレイジに抱かれたからだ。
 夕飯どきで廊下がうるさかったのが幸いした。ちょっとくらい声が漏れても気付かれないからだ。廊下にごったかえした囚人どもは今日一日の愚痴やら不満やら鬱憤やらをぶちまけるのに手一杯で、闇に沈んだ格子窓の向こうで何が行われてるかなんて気にもしなかった。
 勿論、声が漏れないよう自制心を振り絞った。
 俺は上着の裾を噛んでぎりぎりまで声を殺した。おかげで上着の裾に歯形が付いて、犬歯が突き破った個所に穴が開いちまった。
 実際よく我慢したと思う。
 初夜がバレて自慰がバレて乳繰り合いがバレたあとに房の中でひっついてるのがバレたらさすがに立ち直れない。金輪際表歩けなくなる、東棟で生きてけなくなると言い聞かせて根性入れて噛み殺したのだ。レイジはにやにや笑いながら、上着の裾を噛んで快感に耐える俺のこめかみに何度もキスをした。
 野郎、絶対わざとだ。
 よっぽどぶん殴ってやろうかと思った。
 だが、こぶしを振り上げたそばから避けられてとんでもないことを揉まれたり扱かれたりするもんだからすぐさま気力が萎えた。
 『感じてるお前すっげかわいい。たまんねえ』『食っちまいたい』と熱い吐息に紛れて耳元で囁かれた。憎らしいことに、レイジときたら行為の真っ最中でも笑顔を絶やさず殺し文句吐く余裕すらあったのだ。
 まあ、レイジのテクは健在だったとだけ言っとく。あいつの名誉と言うよりむしろ俺の名誉の為に。あいつの下で涎たらして腰振って喘いだのは、俺が淫乱だからじゃなくてレイジが上手すぎるからだ。
 一回目より良かったような気がするが、よくは覚えてない。ヤってる最中は頭が真っ白で他に気を散らす余裕もなかった。自分でも無茶したもんだとあきれる。こないだ処女くれてやったばっかりなのに日を空けずに抱かれて体にガタがきたのは当然といや当然の成り行きだ。
 自業自得。
 俺を抱き終えたあと、ちゃっかり『三回目も期待してるぜ。抱くたび感度よくなるもんな、お前』と付け加えたレイジをぶん殴ったことを回想し、低く笑いを漏らす。
 「ゲンキンな奴」
 ま、ちょっとは元気になったみたいでよかった。王様にシケたツラは似合わねえ。レイジにはいつも大胆不敵に笑っててほしい。黄昏の闇に包まれた房の奥、洗面台に屈み込んで憑かれたように十字架洗い続けるレイジを見た時の戦慄が甦り、中途半端に笑いが途切れる。
 暗闇に溶けた背中を見たとき、コイツに笑顔が戻るならいくらでも抱かれてやると決意した。いくらでも体をくれてやると決意した。
 傷だらけの十字架を掌に抱いて、途方に暮れたように項垂れるレイジは、自分の足元も見えない暗闇に立ち竦む捨て子みたいだった。一縷に信仰に縋って愛を乞い求める姿が痛々しくて、俺はレイジを失ってしまう予感に怯えた。

 レイジを失う?

 まさか。
 くだらない連想を笑い飛ばそうとして失敗、首を振る。レイジが俺のそばからいなくなるわけない。レイジはずっと俺のそばにいると約束した。予感なんてあてにならない、気に病み過ぎだ。そう自己暗示をかけて不安をごまかすが、鍬を握る手に動揺がでる。思い切りよく振り上げ振り下ろした鍬の自重に引っ張りまわされ、重心がぐらつき、足が縺れる。
 しまったと思った時には視界が反転、鍬を放り出してひっくり返る。
 「~~っでええええええっええ!?」
 砂に尻餅付いた衝撃で腰に激痛が走った。
 よそ見してたせいで目測が狂った。注意力散漫は怪我のもとだ。
 砂に尻を埋めて激痛がおさまるのを待ち、腰の後ろを手で支えて慎重に立ち上がる。
 「痛え~~~~~くそ、尻が三つになっちまったかと焦ったぜ……」
 肛門の裂傷は完治してない。わがまま許されるなら激しい運動は遠慮したいところだが、そういうわけにもいかないのが囚人の辛い所だ。
 背中に手をあて腰を浮かし、年寄り臭いポーズでざっとあたりを見まわす。 イエローワークの囚人どもは無駄口も叩かず必死こいて働いてる。目下、俺の担当するエリアでは用水路建設が急がれてる。砂漠に用水路を引いて畑を耕そうって計画だが、現場監督を担う看守の指揮下で土嚢を積んだりリヤカー引いたり牛馬のように酷使される囚人の身になりゃ、労働量が以前に比して倍増して迷惑の極みだ。
 それに加えて、三日前にジープ乗り付けた所長がとんでもないことぬかしやがった。
 『休みが欲しいなら働け。過酷な強制労働を続ければやがては体を壊して使い物にならなくなる。諸君らは休みを渇望している、一日中ベッドに寝転んでいられるならそれに越したことはないと思っている。ならば要望を受け入れよう。ただしその代わりに三日後までに用水路を完成させるんだ。もし一日でも完成が遅れた場合は今ここにいる者全員を連帯責任で処分する』
 一語一句はっきり覚えてる。あんまり自己中な物言いに現場の囚人全員腰を抜かした。三日前に視察に訪れた但馬の兄貴、レイジの十字架をぼろぼろにしたくそったれの所長殿は、汗みずくで砂掘りに勤しむ囚人を見下して一方的に宣告したのだ。
 三日で用水路完成させるなんざ不可能だ。
 人体の限界を超えてる。
 どんなに急ピッチで作業進めても最低一週間は費やさなきゃ実用に耐える設備なんて造れるわきゃない。
 砂漠の地盤は崩れやすい。足元はさらさらと流動する砂だ。掘っても掘っても崩れてくる砂を土嚢で塞き止めて用水路を拡張する工事は、賽の河原で小石を積んだり蟻地獄から這いあがるのと同じ類の不毛な悪循環だ。
 進行状況は芳しくない。直射日光に焼かれてぶっ倒れる囚人が後を絶たず、現場は慢性的な人手不足で作業は遅遅として進まない。
 一向にはかどらない工事に苛立ちを募らせた看守が罵声を飛ばして囚人を蹴り倒す。現場のイライラは頂点に達してる。
 いつ不満が爆発してもおかしくない一触即発の空気。
 うんざりとため息をつき、足をひきずるように歩いて鍬を拾い上げる。
 どいつもこいつもぴりぴり殺気立って現場の雰囲気は最悪だ。但馬が来てから現場の雰囲気は変わっちまった。いや、これは何もイエローワークに限ったことじゃない、東京プリズン全体に言えることだ。
 但馬の兄貴が所長に就任してからというもの、看守は以前にも増して囚人に厳しくあたるようになり、虐げられる側の囚人のあいだには不満が燻りはじめた。そのうち一揆が起きるんじゃないかと俺は内心ひやひやしてる。
 俺たちの手にある鍬やシャベルが翻って凶器になって看守を撲殺する日が近く訪れるんじゃないかと、そんな気がしてならないのだ。
 「あ」
 15メートル遠方に鍵屋崎を発見。用水路の地ならしをしてるようだ。
 顎先から汗をたらし、シャベルに縋り付くように呼吸を整えて作業再開。今にもぶっ倒れそうに疲労困憊の様子で、五回に一回の割合でシャベルに寄りかかって喘息持ちの患者みたいにぜいぜい言ってて、見てるこっちが心配になってくる。
 苦しげに呼吸を整える鍵屋崎を遠目に確認、さっとあたりを見まわす。
 班の連中はそれぞれ作業に没頭してて、俺の存在なんか完璧に意識から閉め出してるから、二・三分離れたところで気付かれる恐れはない。パッと行ってパッと戻ってくりゃ大丈夫だろうと鍬を放り出す。
 「鍵屋崎、無理すんなよ。お前が倒れたらサムライが、」
 俺の言葉を遮ったのは、膨大な砂煙とジープのエンジン音。
 「精がでるようで感心だな。今日で時間切れだが、作業の進み具合はどうかね」
 ざくざく砂を踏んで律動的に歩いていたのは、スーツ姿の但馬所長だ。
 眼鏡のブリッジを神経質に押し上げて、爬虫類の冷光を宿した双眸で現場の囚人をねめつける。
 但馬の後ろには影のように安田が控えていた。眉間に皺を刻んだ苦渋の面持ちには、エリートの矜持を捻じ曲げてでも上司に従わざるを得ない屈辱感が表れていた。中間管理職の悲哀ってやつか。詳しい事情は知らねえけど、副所長も大変だ。 
 同情的な眼差しを安田に送った俺の耳に、予想外の言葉がとびこんでくる。
 「看守に告ぐ。用水路建設にあたった囚人を私の前に集めて並ばせろ。愉快なショウを始める」
 「ショウだって?」
 脳天からすっとんきょうな声を発した。他の奴らも似たり寄ったりだ。ショウってなんだよ一体、連帯責任で処罰するんじゃなかったのよ?
 「愚図愚図すんじゃねえっ、新所長さまがお怒りになるだろうが!」
 「さあ行った行った、新所長さまの命令に従え!」
 「お前ら囚人がちんたらやってるせいで俺たち看守までとばっちり食うのなんざごめんだ!」
 用水路に飛び下りた看守が腰の警棒を抜き、容赦なく囚人の背を殴打。
 背中を殴られ肩を小突かれケツを蹴飛ばされた囚人たちが這う這うの体で斜面をよじのぼり、砂に足をとられながら所長の前に並ぶ。踏んだり蹴ったりさんざんな目に遭って所長の前に整列した囚人たちはその時点で全員ボロボロだった。もちろん俺も例外じゃない。
 「そこのチビ、とっとと列にならばねえとケツの穴に警棒突っ込むぞ」
 「もう開通してるっつの」
 看守の怒声に首を竦めて駆け足、砂を蹴散らして列に加わる。
 たまたま隣に鍵屋崎がいた。やった。幸運に感謝して声をかけようしたら、どうも様子がおかしい。
 「鍵屋崎、どうし」
 「黙っていろ」
 ……なんだよ、せっかく心配してやったのに。
 不貞腐れて黙り込んだ俺のちょうど正面に但馬がいる。
 開口一番、但馬は断罪した。
 「諸君らは重大な罪を犯した」
 「大袈裟な。用水路の完成が間に合わなかっただけじゃねえかよ、なあ」
 「口を慎め」
 鍵屋崎に同意を求めたら叱られた。聞こえたわけじゃないだろうが但馬の目つきがいっそう鋭くなる。
 「君たちが全力を尽くせば三日以内に用水路が完成したはず、しかし現に用水路は未完成のまま放置されている。嘆かわしい惨状だ。諸君らはやればできる子だと思っていたのに、私の期待を裏切った罪は重いぞ。なあハルよ」
 犬がわんと吠える。

 「無能な家畜にはどんな罰が適切か考えた。そして名案が閃いた。ハルは知能の高い犬でね、主の命令は何であろうと忠実に遂行する。愚鈍な家畜は屠られても文句は言えない。労働の役に立たない家畜に生存権はない。しかしただ殺すだけでは芸がない、見せしめにならない。
 私は諸君らを末永く飼い殺したい、生かさず殺さず手綱を緩めて馬車馬のように酷使して最大限の利益を上げたい。諸君らが過労死したところで知ったことではない、いくらでも人員補充は利くのだ。
 現在日本では一年百万件近い犯罪が発生してる。暴行・傷害・強姦・誘拐・強盗・殺人……その多くが義務教育すらろくに受けず戸籍すら持たないスラム育ちの青少年、淫売と酒乱の落とし子、品性卑しく語彙に乏しく無知無教養な家畜ども……すなわち諸君らだ。
 しかし私は寛大だ。諸君ら愚鈍な家畜を労働の喜びに目覚めさせ更正に導くのが使命と自負してる……が、労働意欲が根本的に欠落した家畜も中にはいる。怠惰な家畜は群れを腐らす、周囲に悪影響を与えるだけだ。ならば早急に狩り出す必要があろう。劣等種は排除せねばな」

 演説を中断した但馬が俺の足元に目をとめる。
 「靴を脱げ」
 「は?」
 「聞こえなかったか?裸足になれと言ったんだ」
 企み顔でほくそ笑む但馬とまともに視線がぶつかる。口元を歪めた皮肉な笑みは東京プリズンを去ったタジマと酷似していた。俺はタジマにされた数々の出来事を思い出した。警棒で殴られた、医務室で自慰を強制された、扉をぶち破って犯しに来た、そして……数え上げたらきりがない。
 不審顔を見合わせながらも唯々諾々と靴を脱ぎ、囚人が裸足になる。
 所長に逆らうのは得策じゃないとだれもが肝に銘じていたのだ。
 所長にたてついたら独居房送りじゃすまない、もっと陰湿で陰惨な罰が待ち受けてる。イエローワークの囚人はひとり残らずあの時あの場にいた。無敵の王様が地べたに這いつくばって、小便くさい十字架を拾い上げるさまを一部始終目に焼き付けたのだ。
 犬のように卑屈に但馬の顔色を窺いながら、スニーカーを脱ぎ捨て、裸足になる。
 「!っ、」
 裸足で砂を踏み、顔を顰める。熱い。太陽の熱で温められた砂を踏めば、踝までずぶずぶ沈み込んでく。足裏が火傷しそうだ。灼熱の砂を踏んだ囚人が次々に情けない悲鳴をあげる、膝を抱いてとびあがる奴や足裏に吐息を吹きかける奴もいる。
 足裏の皮膚がじりじり焼けていく。
 「あっちー」「見ろよ、赤くなってる。火傷しちまった」「焼けた砂の上でダンスでも踊らす気かよ」……周囲から不満の声が聞こえてくる。俺は体の脇でてのひらを握りこみ、一分一秒でも早く靴を履けと所長が命令してくれるよう念じた。
 けど、罰にしちゃ少しなまぬるい気がする。焼けた砂の上に裸足にして立たせるだけじゃねえか。最もこれが長時間に及んだらたまらない。足裏の皮膚がべろりと剥けて赤黒い肉が露出して俺たちは激痛に身悶えるはめになる。待てよ、それが狙いか?三時間でも四時間でも五時間でも最悪半日でも俺たちを灼熱地獄に立ちっぱなしにして、上から直射日光で、下から砂で、じりじり炙ってくつもりなのか? 
 だが、予想は悪い意味で裏切られた。
 裸足で立ち尽くした囚人たちを見まわし、但馬は言った。
 「では、獣姦ショウをはじめる」 
 耳を疑った。囚人も看守もあ然とした。獣姦?意味がわからぬまま但馬の隣の犬を見る。一目で血統証つきだとわかる漆黒の毛艶のドーベルマン、筋肉の躍動を感じさせるしなやかに引き締まった体躯。
 獣姦。まさか。
 「ハルは鼻がいい。群れの中から無能な家畜を狩り出すのがお前の使命だ」
 ズボンの膝が汚れるのも構わず砂に膝をつき、口腔から滝のように涎を垂れ流すドーベルマンを抱きすくめ、頬擦り。興奮に息を荒げたドーベルマンが長い舌で但馬の顔を舐める。但馬は前にも増して激しく犬の頭をなでまわす。
 「お待ち下さい、所長!それはあまりに非人道的です、犬に人間を襲わせるなど!」
 口腔から零れた涎がぼたぼた砂に染みを作る。間違いなく、犬は発情していた。今すぐにでもとびかかりたいが飼い主の合図があるまでジッと我慢、飢えに爛々と目をぎらつかせて指示を仰いでる。たまらず割って入った安田が看守に押さえ込まれる。看守二人がかりで押さえ込まれた安田が顔面から砂に突っ伏し、衝撃で乱れた髪が憔悴した顔を縁取る。
 狩猟本能を剥き出して威嚇の唸りをあげるドーベルマン。
 尖った犬歯を剥いて獰猛な唸り声をあげた犬が、前脚を屈めて跳躍の姿勢をとる。
 「逃げろ!!」
 均衡が破れた。緊張の持続に耐えかねた囚人が両手のスニーカーを投げ捨てる、恐慌をきたした囚人が続々と後に続く。意味不明な奇声を撒き散らして我先にと逃げ出す人ごみに揉みくちゃにされながら、鍵屋崎にむかって必死に手を伸ばす。
 「鍵屋崎!」
 「ロン、逃げろ!」
 「所長!」
 俺と鍵屋崎と安田と、砂煙に巻かれて逃げ惑う囚人の悲鳴が交錯する。目に染みる砂煙に抗い、鍵屋崎の手を掴もうと煙幕の向こうに腕を伸ばした―
 瞬間だった。砂色の煙幕を突き破り、一匹の犬が踊りかかってきたのは。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050626200419 | 編集

 「!?っあ、」
 裂けた口腔から大量の涎を撒き散らして、ぎりぎりまで撓めた前脚で地を蹴り、高々と跳躍。白熱の太陽を背に踊り上がった犬が、突出した口腔から鋭く尖った犬歯を覗かせる。獲物の肉を噛み裂き臓物をあさる為に発達した牙は、人間の頚動脈を容易に噛み千切り鮮血の噴水を撒くだろう。
 冗談じゃねえ。
 回れ右で逃げようとした。
 動揺に足を縺れさせ走りだそうとして、無防備な背中をさらしたのが運の尽き。盛大に砂を蹴立てて背後に着地した犬は、喉の奥で威嚇の唸り声を発しつつ、獲物の匂いを追跡するように地面すれすれに頭を伏せる。
 待ての姿勢。
 背中がぞくりと総毛だった。なんですぐ襲いかかってこないんだという疑問は、砂に踝まで埋めてもがきつつ振り返った時に氷解した。但馬が言ったとおり、ハルは賢い。くさっても血統証付きで知能が高い。さっきだって但馬の言うことを理解して相槌打つように吠えてご機嫌とってたじゃないか。
 但馬は言った。ただ殺すだけじゃ見せしめにならないと。
 意訳すると、ただ殺すだけじゃつまらないということだ。
 但馬はとことんくさってやがる。獲物をとことん追い詰めて追い詰めて嬲り殺す気だ。
 とにかく逃げなきゃ、ハルの牙が届かないところへ、追いつかれないようできるだけ遠くへ……
 犬が吠えた。
 「きやがった!!」
 やばい、間に合わねえ!咄嗟に砂から足を抜こうとしたが、焦れば焦るほどにずぶずぶ沈んでいく。鉛のように重たい砂が足首に纏わりついて動きを奪う。砂の足枷だ、まるで。舌打ちしたい気分でまわりを見まわすが、生憎シャベルも鍬も転がってない。手近に鍬やシャベルがありゃ武器にすることができたのに、鼻面殴り付けて撃退できたのに……
 くそっ、ついてねえ。
 「ロン!!」
 鍵屋崎の声がした。わかってるよ畜生、俺だってどうにかしてえよ!
 ヤキが回った頭で叫び返そうとして、背後に野獣の気配を感じる。興奮に息を荒げて砂地に涎を垂らして今にも……
 背中に衝撃。
 黒い塊が背中に突進して視界が反転、顔面から砂に埋まる。目に口に鼻にシャツの内側に大量の砂が流れ込む。口腔がざらつく。激しく噎せた俺は、目に入った砂を涙で洗い流して上体を起こそうとして、背中に何か重い物が乗っかってるのに気付く。はっはっはっ……荒く浅い呼吸が耳の裏側にかかる。獣くさい吐息が首の後ろを撫でる。
 背中に何か、暑苦しい生き物が乗っかってる。
 振り向かなくてもわかる。ハルだ。
 「どけよ、いぬっころ!」
 肘で這いずるようにあり地獄から抜け出そうとするが、遅遅として進まない。懸命に背中にのしかかる犬を振り落とそうとするが、全身砂に沈んで動きがとれない。
 付け加えて、腰が激痛を訴えた。
 うなじがぬるりとした。
 「ふあっ……!?」
 ヘンな声がでた。とろりとした唾液がうなじに流れ落ちて、首筋を伝ってシャツの内側に侵入。気持ちが、悪い。ハルは俺のうなじに顔を埋めて匂いを嗅いでる。時折べちゃべちゃと下品な音が響く。
 塩辛い汗の味がお気に召して俺のうなじを舐める音。
 味見。四肢に組み敷いた獲物を貪り食う下準備。喉笛の肉がごっそり持ってかれる映像が不吉な手触りで脳裏にちらついて心臓の鼓動が跳ね上がる。生きながら臓物食い散らかされるなんざお断りだ。
 このままじゃ俺はハルの胃袋におさまっちまう、骨噛み砕かれて臓物貪られて肋骨バラけた無残な死体になっちまう。
 嫌だ嫌だ、犬に食われるなんざ嫌だそんな死に方ごめんだ俺は生きてここを出るんだレイジのとこに帰るんだ!!
 レイジの笑顔が脳裏で像を結んだ瞬間、理性が爆ぜた。
 「とっととおりねえと承知しねえぞ、どっかの凱に似た万年発情期のバカ犬!!大体俺なんか食っても美味くねえよ、所長の飼い犬なら俺たち囚人よかよっぽど贅沢なモン食ってるだろ、べちゃべちゃ涎たらして人肉食らうなんざ意地汚え!!」
 前にもこんなことがあった。十ヶ月前、鍵屋崎が来たばかりの頃にイエローワークの砂漠で凱の子分どもに襲われた。こうやって背中にのしかかられてケツ剥かれてギャラリーがやんやと喝采飛ばす中で犯られそうになった。
 あの時だって機転と度胸で何とか切りぬけられた、危機一髪生きぬくことができたんだ。
 俺は必死にもがいた。物分りよく諦めて犬に食われるのを待つのなんざごめんだ、とことん足掻いて足掻いて足掻ききってやる。
 砂を蹴散らし、反転。腰を捻った際に骨盤がずれたかと錯覚する激痛に襲われた。痛え。レイジの奴覚えてろただじゃおかねえぞと心に誓い、上に被さった犬をどかそうと試みる。 ぎゃんぎゃんと犬が吠える。
 「くそ重え、どけよ、どけっつの!しまいにゃ犬鍋にして食っちまうぞ!!」
 抵抗むなしく、ハルが俺にのしかかる。
 布の裂ける音とともに腹部に鋭い痛みが走った。シャツが裂けて肌に血が滲んだ。興奮したハルが俺のシャツを揉みくちゃにする、前脚で押さえて引っ掻いてシャツのあちこちを無残に破く。
 シャツの繊維が千切れた下から薄く血を滲ませた肌が覗く。
 格闘の激しさを物語るように体のあちこちに引っ掻き傷が生じる。
 俺のシャツはズタズタに引き裂かれて肌を隠す役にも立たないボロ布と化して四肢に纏わりついた、手足を振って暴れるたびボロ布が四肢に絡まって繊維が断たれて裂け目が広がった。
 裸の上半身には真新しい引っ掻き傷の他にほの赤い痣が散らばっていた。
 犬をどけようと格闘しながら、俺は羞恥心とも戦っていた。
 服を破かれて、二回目に抱かれたときレイジに付けられたキスマークが外気にさらされた。鎖骨にも胸板にも腹筋にも臍の下にもさらにその下の人には言えない場所にも、色素が沈殿した無数のキスマークが散らばっていた。自分の命が危険にさらされてるこんな時だってのに、上半身に散った痣が目にとびこんできて、レイジの唇の感触がやけに生々しくよみがえる。
 俺の上着をはだけて手を潜らせながら、レイジは何度もキスをした。熱い唇で食んで印を付けた。
 こんな形でキスマークがバレるなんて、最悪だ。
 「っ、う……」
 腕が疲れてきた。さかんに吠えたてて喉笛狙い来るハルの頭を掴み、できるだけ遠ざけようと腕を突っ張ってるのだが、そろそろ痺れて感覚がなくなってきた。力比べで押されるなんて……けど、相手が犬だからって舐めちゃいけない。
 ハルは、でかい。体長は五歳児並だ。
 その上全身が鋼のように鍛えぬかれて、素晴らしい跳躍を見せる四肢の筋肉は発達して、猟犬とはかくあるべしという理想を体現してるのだ。ハルは愛玩犬じゃない、生粋の猟犬だ。飼い主には絶対服従だが、それ以外の人間には血に飢えた猟犬の本性を剥き出して襲いかかる獰猛な犬だ。
 今だって強靭なバネに恵まれた四肢で俺を押さえ付けて、飢えにぎらついた目でどこがいちばん美味そうか探ってる。首筋、胸、腹筋、太股、脹脛……
 筋金の筋肉に鎧われた体が獲物を仕留めた歓喜に震える。
 ハルが、牙を剥く。
 「!!いっ、」
 喉が仰け反る。悲鳴が迸る。ハルが……前脚で、俺のズボンを引きずり下ろそうとしてる。脱がそうとしてる?なん、なにしてるんだこのバカ犬!?
 目の当たりにした光景に仰天した俺は、両手でズボンを掴んで抵抗する。
 「このっ……お前、俺のズボン狙ってたのか!?なんでズボンなんか狙うんだよ、こんなボロっちいズボン……ちょ、やめろ、足はなせよ、下着も脱げちま……ひ!?」
 喉が引き攣った。ハルがズボンの股間に埋めてべちゃべちゃ涎を飛ばして舐め出したのだ。目と鼻の先で繰り広げられるのは極大の生理的嫌悪をかきたてる異常な光景。でっかい犬が俺の股間に顔埋めてる。ズボンの股間に涎が染みて黒く変色する。犬の涎に濡れた股間はトランクスの柄が浮いて小便漏らしたみたいな有り様だった。
 犬に、舐められてる。しゃぶられてる。
 嫌悪感と不快感が綯い交ぜになって喉の奥で膨張、猛烈な吐き気を覚える。獣くさい吐息が顔を撫でる。はっはっはっ……小刻みな呼吸が犬の興奮を伝えてくる。俺はズボンの裾を両手で引っ張ったまま瞬きも忘れて硬直した、若く健康な犬が人間のオス相手にさかってる倒錯的な光景から目が放せなかった。
 「やめ、ひっ、あ……ふあっ、ああっ、ああ!」
 拒絶の意志に反して声が上擦る。信じ難いことに、股間が昂ぶり始めてる。レイジに抱かれて感度が良くなった体が、相手が犬だろうがお構いなしに反応を示し始めているのだ。信じたくなかった。これじゃまるで、俺が興奮してるみたいだ。犬相手にさかってるみたいだ。
 獣姦。
 性倒錯の最たるものだろうおぞましい言葉が、俄かに現実味を帯びて身に迫ってくる。
 「い、あ、ふ……っ、ううっ」
 ハルはしつこく股間を狙ってくる。前足で俺のズボンを引き摺り下ろしながら、涎の染みができた股間を貪欲に舐める。ズボンの股間はびしょ濡れだった。犬相手に勃ったらおしまいだと自分に言い聞かせてぎりぎり耐えるも、熱い吐息がかかって、異様に長い舌が布の上からペニスにしゃぶりついて、射精の欲求が活発化する。
 このまま、犬に犯られちまうのか。
 大勢の囚人や看守や、安田や鍵屋崎が呆然と見てる前で、犬に犯られちまうのか?
 絶望的な予感。ズボンの裾を掴むだけで精一杯で、視界に覆い被さる黒く巨大な塊を押しのけることもできない俺の耳に哄笑が響く。
 「そいつが気に召したのか、ハルよ。お前の鼻が選んだということは間違いない、その囚人こそ群れを腐らす癌、群れの士気をさげて用水路の工事を遅らせた元凶だな。おや、よく見れば……君は先日、チョコレートを隠し持っていた咎で罰された少年の友人ではないかね」
 但馬がいた。いつのまにかすぐ近くにきていた。軍人めいて律動的な歩調で俺に歩み寄った但馬が薄く笑みを浮かべる。
 「類は友を呼ぶというが、やはり劣等種は劣等種と呼び合うのだな」 
 縁なし眼鏡の奥、爬虫類の冷光を宿した双眸が陰湿に細まる。勢い良く足を振り下ろし、俺の顔面にわざと砂をかける。
 「どうやらハルは交尾の相手に君を選んだようだ。光栄に思いたまえよ。犬のペニスは直腸内で膨張して林檎大の大きさになる、その為一度挿入したらなかなか抜けないそうだ。処女なら地獄の苦しみを味わうことになろうが、まさかそれはあるまい。先日私の前に呼び出された混血の少年と交尾に及んでいるのなら」
 「な、んで知っ……」
 「やはりな。汚らわしい」
 但馬が勝ち誇ったように口角を吊り上げる。眼鏡の奥の目には狂気が渦巻いていた。この目はあの目だ。レイジの十字架を踏み付けていた時の……不意に但馬の手が伸びて、俺の前髪を無造作に掴む。そのまま無理矢理起こされて顔を顰めた俺の耳元で、但馬が囁く。
 「見たまえ」
 意味ありげに促されて、俺は見た。前髪を掴まれ顔を起こされ、無理矢理見せ付けられた。但馬の視線が注がれる方向にはハルがいた。
 腰を、振っていた。
 俺のズボンを膝まで引き摺り下ろして、狂ったように腰を前後に振っていた。そして、その股間には……ペニスがあった。勃起していた。臓物の表面のように赤黒く光る、尖りきった肉棒……
 それが何を意味するのか、わかった。交尾に臨む準備は万端。今すぐにでも挿入できるという意思表示。喉の奥で悲鳴が絡む。砂を蹴ってあとじさった太股にハルが噛みつく。絶叫。太股から脳髄へと駆け抜けた激痛で瞼の裏側が真っ赤に燃える。
 「さあハルよ、心おきなく交尾に挑め。勃起したペニスを直腸に挿入して精を吐け、お前の種を植え付けてやれ。人のオスでは二度と満足できなくなるよう存分に犯してやれ」
 犯される。犬にヤられる。
 意味不明な悲鳴が喉から迸りでた。近付くんじゃねえ犬ころと声にならない声で叫ぶ俺をよそに、腰振りの間隔が縮まり、スピードが次第に速くなる。ハルが腰を振りながら近付いてくる。俺のズボンを引き摺り下ろして後ろ向かせて、メス犬の代わりを務めさせるつもりだ。
 「近付く、な。俺はメス犬じゃねえ、交尾の相手なんかできねえよ!俺のケツにその醜悪なモンぶちこんでみろ、てめえのツラに蹴り入れて自慢の鼻をへこましてやる!犬鍋にして煮込んでやる、毛皮剥いで売ってやる、あとは……あとは……お前のドッグフード食ってやる!」
 「いい加減諦めたまえ」
 但馬が嘆かわしげに首を振る。いつのまにか俺のまわりには人だかりができて極大の嫌悪が表出した顔をぐるりに並べていた。同じ班の連中がいた。見覚えある奴がいた。恥も外聞もかなぐり捨てて同情乞うて、そいつらの足元に「助けてくれ」と縋り付きたかった。俺は、マジで犯されるのか?運良く難を逃れたイエローワークの囚人が好奇の眼差しを注ぐ中で、犬にヤられちまうのか?
 心臓が爆発しそうに高鳴る。全身の血が燃える。喉がからからに干上がる。どうやら腰が抜けたらしく、肘で這いずってあとじさる俺の方へ犬がやってきて覆い被さる。犬が俺の足の間に顔突っ込んで、俺の体を転がして後ろ向きにする。
 犬にケツ向けた四つん這いの体勢で、両手に砂を握り締めて奥歯を食い縛る。終わりだ。おしまいだ。東京プリズンに来てからいろいろ最悪なことが起きてくそったれな災難に見舞われたけどこれが極め付けだ。
 犬にヤられたと知ったらレイジはどうするだろう。俺なんかもう抱きたくなくなるだろうか、犬が入れた場所になんか入れたくないって言うだろうか。
 ケツが三分の一露出するまでずりおちたトランクスがもっと下に移動、肛門の窄まりに犬のペニスが…

 ―「ズボンを脱げ、ロン!!」―

 俺の背中に前足付いた犬に、誰かが体当たりでぶつかり、弾き飛ばす。鍵屋崎だった。野次馬の足の間をかいくぐり、猛然と突っ走ってきた鍵屋崎が、いざ交尾にいどまんと後ろ足で立ち上がったハルを捨て身で突き飛ばしたのだ。濛々と舞い上がる砂煙の向こう側、激しく咳き込む囚人たち。ぎゃひんと鳴いて砂に身を投げ出した犬に、「なんてことだ、動物虐待だ!!」と駆け寄る但馬。
 全てが一度に動き出した混乱の中、犬と立ち替わりに俺を押し倒した鍵屋崎が、真剣に叫ぶ。
 「聞こえなかったか、命が惜しければ可及的速やかにズボンを脱げと命令したんだ!」
 「とち狂ったのか鍵屋崎、ズボン脱がせてなにする気だよ!?」
 「助ける気だ!」
 今までズボン脱がせないよう頑張ってきた俺の努力が水の泡だ。両手でズボン掴んでケツを死守する俺に苛立ち、鍵屋崎が凄まじい剣幕で掴みかかる。激しい揉み合いの末に勝利したのはなんと鍵屋崎で聞き分けない俺の手をふりほどき、強引にズボン脱がす。
 俺の足首に絡んだズボンを抜き取った鍵屋崎が、大きく腕を振りかぶり、できるだけ遠くにズボンを投げる。青空に放物線を描いたズボンを目で追いかけ、鍵屋崎が頷く。
 「よし」
 「よしじゃねえよ、ひとの下半身剥いといて!わかるように説明しろよ、お前も発情期だってオチはなしだぜ!」 
 こんな時だってのに鼻梁にずり落ちた眼鏡のブリッジを押し上げるのを忘れず、鍵屋崎が口を開き…
 同時に、犬が吠えた。 
 怒り狂った吠え声を耳にして、俺はさっき、鍵屋崎が犬を跳ね飛ばした光景を想起する。
 次に狙われるのは、鍵屋崎だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050625223616 | 編集

 「何する気だ!」
 「助ける気だ!」
 説明は後回しだ、時間がない。
 喋ってる暇があれば手を動かせと優先順位を付け、ズボンを掴んで必死の抵抗を続けるロンと力比べをする。あくまで貞操を死守するロンに苛立ちをこらえてゴムが完全に伸びきるまでズボンを引っ張る。
 限界まで引っ張たせいでゴムが弛んでトランクスが垣間見える。
 ロンの股間は濡れていた。さっきまで勃起していた股間も萎えてトランクスの中央に涎染みを残すのみだ。尿漏れに似た涎染みが目に飛び込んで恥辱が再燃したか、ロンの頬が鮮やかに上気して目が潤む。
 最前の光景がまざまざと甦る。
 巨大な黒い塊に飛びかかられて押し倒されたロン。狂ったように手足を振りまわして声を限りに抗議するも、ロンにのしかかった犬は一向にどこうとせず、下品な水音をたてて彼の股間を舐め始めた。
 犬科特有の異様に長い舌がべちゃべちゃ音たててズボンの股間を舐め回す。
 涎に濡れそぼった股間には濃厚な染みができて、ズボンを押し上げる膨らみで生理的反応を示し始めてるのがわかった。
 非常に倒錯的かつ扇情的な光景だった。
 上腕が鳥肌立つ異常さ。喉の奥で閉塞した嫌悪感は嘔吐の衝動へと膨張した。誰もが目を逸らしたくても逸らせない葛藤と戦いつつ、好奇心と欲情と嫌悪とが綯い交ぜとなった表情を貼り付けて、ロンが犬に犯される光景を凝視していた。ロンが金切り声で叫べば叫ぶほど、目に懇願の色を浮かべて周囲に助けを乞えば乞うほどに犬は興奮した。放尿せんばかりに狂喜していた。
犬は、ロンに欲情している。交尾の相手にロンを選んで今まさに挿入しようとしている。
 瞬間、僕は動いた。
 黒い塊が急激に近付いてくる。違う、近付いてるのは僕だ、僕が距離を詰めているからそう錯覚するのだ。
 次第に大きさを増す黒い塊へと砂を蹴散らし猛然と疾駆、全速力で走りに走って跳躍。助走の勢いのままに飛翔、衝突の威力を増して犬に激突。衝撃。きゃひん、きゃひんという哀れっぽい鳴き声を聞いた。
 「なんてことだ、動物虐待だ!」と所長が激怒して砂に倒れ伏せた犬に駆け寄るところが見えた。衝突の衝撃で跳ね飛ばされたのは犬だけではない、僕もまたバランス感覚を失いロンに覆い被さるように倒れた。 
 ぐずぐずしてる暇はない。
 眩暈が回復するのを待たずに顔を起こし、ロンのズボンに手をかけ下げおろそうとすればしぶとい抵抗に遭う。ロンが赤い顔で何か喚いているが、今は彼と議論する時間も惜しい。とにかく一刻も早くズボンを脱がさねばならない。現在の状況では何よりロンのズボンを脱がしてできるだけ遠くに放ることを優先するのだ。
 「脱げた!」
 ロンの手をふりほどき、一気にズボンを脱がす。
 ロンの顔にしまったという表情が浮かぶが、遅い。トランクスの股間に恥ずかしい染みを作ったロンの下半身からズボンを強奪した僕は、うるさく吠えるロンに背を向け、大きく腕を振りかぶる。
 「よし」
 ズボンの飛距離と落下地点に満足した僕に、ロンがすさまじい剣幕で食ってかかる。
 「よしじゃねえ、次はお前の番だぞ!?お前が俺のズボンひん剥いてるあいだにほら……っ、」
 憎悪に濁った唸り声が、低く、地を這うように流れる。
 「きやがったぜ、バター要らずが!」
 僕の肩を掴んだ手が強張る。ロンの表情が恐怖に凍りつく。唸り声は背後から聞こえた。最悪の想像が徐徐に形をとり始めたのを意識しつつ慎重に振り返れば、そこに犬がいた。最前、僕が体当たりではねとばした犬だ。
 裂けた口腔から真珠の光沢の犬歯を覗かせ、無駄なく引き締まった四肢に殺気を漲らせて僕らを威圧する。獲物を仕留め損ねた屈辱か交尾を中断された憤怒か、猟犬から狂犬へと変貌した漆黒の犬が姿勢を低くして獲物に狙い定める―……
 「鍵屋崎逃げろ、今度こそ食われる!冗談じゃねえ、食うならまだしも犬に食われるなんざごめんだ!俺は半分は中国人だ、俺の半分にはろくでなしの親父の血が流れてるからだから犬鍋だって食えるさ!!知ってるか赤い犬が美味いんだとさ、いちばん脂のって身がしまってるんだとさ!凱の子分の中国人が食堂でしゃべってたの前に聞いたことが、」
 恐怖と混乱のあまりロンが意味不明なことを口走る。どうでもいいがうるさい、耳のそばで喚かないでほしい、僕の鼓膜は君と違って繊細にできているんだからと顔を顰める。
 倒れた際に目に砂が入ったのか、不安定によろめきながら徐徐に犬が近付いてくる。
 「たかが囚人の分際で可愛いハルに手をあげるとは言語道断だ!ハルよ、遠慮はいらない。その少年を裸に剥いて犯してしまえ、公衆の面前で交尾して人生最大の屈辱を味あわせろ!」
 「鍵屋崎、逃げろ!そのままそこにいれば君は酷い目に遭う、ロンを連れて早く逃げるんだ!」
 但馬所長が熱弁する。看守に拘束された安田が必死な形相で促す。
 「畜生腰が立たねえよ、逃げられねえよっ!」
 ロンの顔が焦燥に歪む。何度も立とうとしては失敗して砂に埋まる不毛なくりかえし。砂を掻いて掻いて膝を叱咤して何とか立とうとしても、腰を上げるなり膝が砕けて尻餅をつく。
 「鍵屋崎お前だけでも逃げろ、できるだけ遠くへ行け!できんだろそんくらい、俺助けに走ってきたときスピードならバカ犬が来る前に余裕で距離稼げるよ!だから」
 「ロン、心外な発言は慎んでくれないか。ホモサピエンスの最高傑作にして最終進化形、IQ180の天才たるこの僕が食肉目イヌ科イヌ属の四足動物に頭脳で負けるはずないじゃないか」
 僕の計算が正しければ、僕らは指一本動かすことなくこの窮地を切りぬけられる。いくら犬が賢くても人とは比較にならない、霊長類の知恵に勝りはしない。動揺するロンを片手で制し、犬と対峙。
 眼鏡越しに鋭利な視線を向ければ、犬の唸り声がますます険悪になる。 
 「いけ、ハルよ!!」
 それが合図だった。飼い主の命令に忠実にハルは走り出した。砂煙を巻き起こして猛然と疾駆するハルを睨みつけた僕は、ロンをこれ以上動揺させないよう、努めて平静な表情で数を数える。いち、に、さん…
 白熱の太陽を背に、ハルが跳ぶ。
 「!?」 
 そして、だれもが予想しない出来事が起きた。きたるべき衝撃を予期し、固く目を瞑り僕の懐に顔を埋めたロンが、空気の変質を察しておそるおそる瞼を開ける。
 こみあげる勝利の笑みを抑え、呟く。
 「犬の嗅覚はヒトの数千から数万倍に達する。これは匂いを感受する嗅細胞がある部位―嗅上皮というが―が、ヒトの場合3-4平方センチなのに対し18-150平方センチあるからだ」
 僕らの手前で方向転換した犬は、脇目もふらずに別方向へと走り去っていった。怒りも目的も忘れ、ただ本能が赴くままに犬が走り去った場所にはズボンが落ちていた。
 激しくしっぽを振りながらズボンにとびかかり、鼻腔でポケットを探り当て、匂いを嗅ぎ出す。
 ズボンの尻ポケットに鼻を突っ込み、執拗に匂いを嗅ぎ出した犬を遠目に眺めて付け足す。
 「チョコレート中毒を知ってるか?人間が好む食べ物でも犬にとっては猛毒になる場合がある。犬にとってはチョコレートがそれで体重1kgあたりの致死量は250~500mgで、仮に食した場合は嘔吐・下痢・多尿・興奮・発熱・運動失調・けいれん・腹痛・血尿・脱水などの症状を呈する。人体に作用する麻薬にたとえればわかりやすいか?犬にとってのチョコレートとはつまり、猛毒であると同時に興奮剤でもあるのだ」
 三日前の演説時から但馬の犬を観察していてわかった、チョコレート中毒になっていると。どこか様子がおかしいのもそのせいだ。飼い主の顔のチョコレートにむしゃぶりついたのが証拠だ。
 「思い出せ、ロン。リードから解き放たれた犬が真っ先に君に襲いかかったのは君に一目ぼれしたからじゃない、『匂い』を辿ってきたからだ。君のズボンには茶色い染みがあってかすかに甘い匂いした」
 「あ」
 漸くロンが理解する。眼鏡のブリッジを押さえながら説明を続ける。
 「チョコレートの匂いだ。あの犬はチョコレートの匂いを辿って君に襲いかかったんだ。ならばズボンを脱いでできるだけ遠くに投げればいい、実に単純明解で合理的な帰結だ。最後に付け加えるならば、犬には血の匂いに興奮する習性もある。今朝見た時からそうやってずっと腰をおさえてるところから推測するが、君はまたレイジに抱かれたんだろう?あの犬は肛門からの出血を嗅ぎつけ」
 「ズボン脱がした理由はよーくわかった、だからその先は言うな!」
 ロンに口を塞がれる。説明を中断された僕の視線の先では但馬が怒りに震えてうなだれていた。そのさらに向こうではちぎれんばかりにしっぽを振って犬がズボンと戯れていた。
 唐突に但馬が歩き出す。
 軍人めいて律動的な歩調で砂漠を踏み越えて犬に接近、柔和な口調で話しかける。
 「ハルよ、ズボンなど食べても美味くなかろう。動かない獲物など退屈だろう」
 熱に浮かされたように呟きながら背広の内側に手をやり何かを取り出す。その「何か」に目を凝らす。鞭。但馬の手に握られていたのは、細い鞭だ。
 奇妙に不均衡な笑みを浮かべて犬に歩み寄った但馬が、風切る唸りをあげて鞭を振り下ろす。
 「!」
 鋭い音が響き、ギャラリーが反射的に目を瞑る。
 「ハルよ、まだ囚人狩りの途中だ。私が科した義務を放棄すれば折檻するぞ。可愛いお前を鞭打つのは胸が痛むが仕方ない、家畜どもの手前示しがつかんからな。大丈夫だ、傷は舐めて癒してやる。とにかく今は囚人狩りに全力投球して私を楽しませてくれ。くれぐれも私の威厳と威信を損ねるような軽率な行動はとらないでくれ。ハルよ、お前の使命は囚人狩りだ。群れを腐らす元凶たる無能な家畜を狩り出すのがお前の使命だ。さあ、ショウを続けろ。私の前で囚人を犯して殺して食い荒らして楽しませてくれ。役立たずの家畜を何匹殺したところで罪にはならいからな」
 続けざまに鞭が振り下ろされ、犬が鳴く。地面すれすれに頭を垂れた絶対服従の姿勢。但馬はギャラリーの存在を意識しつつ狂ったように鞭を振るった。
 冷淡な無表情のままに眼光だけを爛々と輝かせ、降参の姿勢をとったドーベルマンに容赦なく鞭打つ所長の姿に、看守も囚人も戦慄する。現場に居合せた誰もが弟をも上回る但馬の狂気に圧倒されていた。
 僕は我知らずロンを抱く手に力を込めた。一度去った危機が再び訪れる予感。僕の腕の中でロンが愕然と目を見開く。
 犬が、ゆらりと立ちあがる。
 さんざん鞭打たれ傷付いた悲惨な姿で脚を踏ん張り、喉の奥で威嚇の唸り声を泡立てている。漸く溜飲をさげて鞭を下げた但馬が、促すようにハルの頭に手を置く。
 「お前が仕留めるべき獲物は、あそこだ」
 但馬の片腕がゆるやかに弧を描き、鞭の切っ先が僕とロンをさす。口腔に生唾が湧く。ロンに肩を貸して立ち上がろうとしたが、砂に足を取られて動けない。仮に自由に動けたとしても僕らが逃走を図った瞬間にハルが襲いかかるだろうと理解した。
 「仕切り直しだ。今度は上手くやれ。お前なら必ずや愚鈍な家畜を仕留めることができる。私が見込んだ優秀なお前なら必ずや交尾を成功させ後世に子孫を残すことができる。血統書付きの子を孕めるんだ、彼らも光栄だろう」
 「獣姦で孕むわけがない以前に僕らは男だ!」
 冗談じゃない。ロンの腰に手を回し、立ちあがりしなに但馬が合図をだす。刹那、周囲の看守が一斉にとびかかり僕とロンを引き離す。
 「はなせっ、さわんじゃねえ、鍵屋崎!」
 「所長やめてください、こんなバカなこと……これは躾ではなく虐待だ、これ以上は放置できない!」
 「可愛い囚人が犯されるところを地に這いつくばって見ていたまえ副所長」
 ロン、安田、但馬、三人の声が上空で交錯する。看守に腕を掴まれたロンが僕へと手を伸ばし何かを叫び、地に這わされた安田が普段の冷静さをかなぐり捨て僕を呼ぶ。僕はその場にへたりこみ、こちらに寄ってくる。ドーベルマンが加速、黒い残影と化して急接近。凶暴な咆哮が耳に―
 「!?っ、」
 逃げようとした。踵を返し足を縺れさせ、すぐまたバランスを持ち直し走りだそうとして、背中に衝撃。遅かった。何とか身を捩り仰向けになれば、上にドーベルマンが乗っていた。
 裂けた口腔から滝のように涎を垂れ流した犬が、僕の首筋に顔を埋める。 
 「イヌ科のくせに下克上とは生意気だ、イヌ科はイヌ科らしく鎖に繋がれていろ!」
 何とか犬を押しのけようと奮闘するも、発情した犬相手ではむずかしい。びりびりと布の裂ける音が響き、引き裂かれたシャツの下から素肌が覗く。 
 犬が僕のシャツに噛み付いたのだ。鋭く尖った犬歯が肉に埋まる光景を想像し、ぞっと鳥肌が立つ。犬の頭を押さえるのに必死でシャツの裂け目から露出した肌を隠す余裕もない。かぶりを振って暴れるたびに残りの布が裂けて貧弱で肉の薄い肢体があらわになる。
 犬にのしかかられ、半裸同然で暴れる僕を囲んで囚人が口笛を吹く。
 「おもしれえ見世物だ。ヤッちまえ犬っころ、生意気な親殺しにケダモノの精を注いでやれ!」
 「犬のモンはでけえってゆーから売春班上がりでも満足できるだろうさ」
 「獣姦なんて新鮮だねえ」
 「俺もガキの頃ニワトリとヤッてたぜ。卵がぽろぽろでてくる穴に入れられねえ道理はねえだろ」
 「羽がむしれて後片付け大変そうだな」
 「ヤッたあとは絞め殺して食うんだよ」
 「リサイクルだな」
 かまびすしい野次が乱れ飛ぶ中、僕は必死の抵抗を続けていた。犬に犯されるなど冗談じゃない。僕はもうこれ以上汚れてサムライに嫌われたくない、彼の誤解をとくためにも何としても無事に生き延びねばならないんだ!
 「ひっあ……」
 喉が仰け反る。熱い涎が首筋をしたたり、胸板に筋をひく。獣臭い息から顔を背ければ、破けたシャツを羽織った薄い体と、僕に跨って腰を振る犬の姿がとびこんでくる。犬は勃起していた。挿入の準備は万端だ。あんな、あんな醜悪な性器を中に入れられるのか?どんな病気をもってるかも知れないのに。
 「せめて狂犬予防の注射をうってこい、ジステンパーやパルボウイルス感染症や犬パラインフルエンザや犬コロナにかかっているかもしれないじゃないか!犬に病気を伝染されるのはお断りだ、そんな死に方はっ……ふ、あ」 
 腕の力が徐々に弱まってくる。上にのしかかる犬の重みが増す。だめだ、限界だ。腕が次第にさがってくる。異様に長い舌が僕の体をしつこく舐め回す。涎を塗られた肌が透明に濡れ光る。熱い吐息がかかるたびに腰が疼いて理性が蒸発していく。大勢が見てる前で犬に犯されるなど冗談じゃないと頭は拒んでいるが、抵抗に疲れた体は屈辱を受け入れようとしている。
 ここまでか。
 腕が、砂の上に落ちた。
 僕一人の力で犬をどかすのは無理だ。諦念して目を閉じた脳裏にサムライの顔が浮かぶ。今朝別れてきた時のままの仏頂面……犬と交わった僕をサムライは軽蔑するだろうか……
 その時だ。

 「すぐるに手をだすな!!」
 十ヶ月ぶりに、本名を呼ばれた。

 あんまり久しぶりだったから自分でも本名を忘れかけていて、呼ばれた瞬間に夢から覚めた心地がした。犬に跨られた僕の視界に飛び込んできたのは、安田の姿。看守の拘束をふりほどき、背広の裾を翻し、自分の身もかえりみずに駆けて来る姿―……
 衝撃。何が起こったのかわからなかった。体が後ろへふっと飛ばされたのだと気付いた時には、もう格闘が始まっていた。安田が体当たりで犬にぶつかり僕の上から突き落とし、そのまま一人と一匹がめまぐるしく縺れ合う。
 交尾を中断されて凶暴化した犬は鋭い犬歯を剥いて喉を狙う、何度となく喉めがけて襲い来る口腔をすれすれで避けながら叫ぶ。
 「囚人を守るのが副所長の義務だ、こんなふざけたお遊戯私は認めん、断固拒否する!たとえあなたが所長の地位にあろうが物には限度がある、これ以上鍵屋崎に危害を加えるというなら」
 「どうするというんだね」
 「私が相手になる!!」
 仕立ての良い背広を砂まみれにし、オールバックをぐちゃぐちゃに乱し、眼鏡のレンズに犬を映した安田が戦線布告。飼い犬と部下とが傷だらけで死闘を演じるさまを見下ろし、所長が哄笑をあげる。
 「面白いではないか安田くん、ならば相手になってもらおう、ハルの性欲処理係に君を任命しよう!」
 安田の顔が絶望に歪んだ瞬間を見逃さず、ハルが襲いかかる。安田が殺される。跳ね起きた僕は、尻ポケットに手を突っ込み、レイジに渡しそびれていた黄金の玉を掴む。
 「安田から離れろ!!」
 全力の投擲。勢い良く腕を振りかぶり、犬の鼻面にひと掴みの玉を投げ付ける。鼻面に玉の直撃を食らった犬がきゃひんと一声鳴いて安田から離れる。
 砂の上に無数の玉が散らばり、陽光を弾く。
 静流と別れたあとは放心状態でレイジの房に寄るのを忘れていて、それから何となく返しそびれていたのが役に立った。
 犬と入れ違いに安田に駆け寄り助け起こし、背広の砂を払ってやる。
 「自己犠牲精神に酔うのは結構だが実力が伴わねば無謀だ、僕を救出したところであなたが危機に陥ったらプラスマイナスゼロで事態が進展しないだろう、そんなこともわからないのか手のかかる大人だな!」
 「うっ……」
 安田が小さくうめいて起き上がろうとして、僕の肩越しに何かを目撃した目が見開かれる。背後に忍び寄る獣の気配。くそ、しつこい!安田を抱き起こしたまま振り向いた僕は……
 「ぎゃあああああああああああああっああああああああっ!!?」
 言葉を、失う。
 さっきまで死に物狂いで安田を襲っていた犬が、手近な囚人に標的を転じて、その股間に食いついたのだ。思いきり。怒りに我を忘れて無差別攻撃に走ったものらしい。犬を股間にぶらさげたまま悶絶する囚人には見覚えがある。売春班に僕を訪ねた最初の客、毎日のようにいやがらせをしてくる少年だ。
 ズボンの股間に真っ赤な染みが広がっていく。
 凶暴に唸りながらズボンの股間に食いついた犬はまだ離れない、我に返った看守たちが「こら、離れろ!」「離れろよバカ犬!」と罵っても言うことを聞かない。僕と安田は互いに寄りかかって無残な光景を見つめていた。看守に押さえ込まれたロンの顔は恐怖に引き攣っていた。
 「やめたまえ、その囚人から離れろ!」
 副所長の矜持を取り戻した安田が力づくで犬を引き剥がそうと腰を上げる。だが、安田の到着を待たずに看守数人がかりで犬は引き離された。
 いまだ興奮冷め遣らず唸り続ける犬の口腔から、赤い涎がぼたぼた零れる。
 この世のものならぬ絶叫が轟き渡る。
 「睾丸、食いちぎりやがった……!!」
 囚人が数人、手で口を押さえて蹲る。
 血の匂いに酔って嘔吐する者がいる。
 片方の睾丸を食いちぎられた少年は、口から白濁の泡を噴き、白目を剥き、ショック症状の痙攣を起こしていた。
 早く処置せねば命に関わる。
 「安田、ジープを運転しろ!定時にならねばバスはこない、いま怪我人を運べるのはあなたが乗って来たジープだけだ!後部座席に彼を収容して車をだすんだ、はやく!」
 この場で医学の知識を持っているのは僕だけだ。深呼吸で気を落ちつかせ、囚人と看守の狂乱の中を歩いて怪我人の傍らに膝をつき、応急処置をする。ちょうど服が裂けていたのが役だった。即席の包帯を作って血の流れを塞き止めつつ安田を促せば、嫌味ったらしい口調で但馬が割ってはいる。
 「まさか『あれ』を車に乗せるのかね。座席が血で汚れてしまうではないか。しかも後部座席とは……運転手の君はともかく、私とハルはどこへ座ればいい?」
 飼い犬が囚人の睾丸を食いちぎったというのに、罪悪感などひとかけらなど感じてない晴れやかな顔だった。いや、そればかりか……愉悦に酔ってさえいた。最初に狙いを付けた獲物とは違うが、飼い犬が見事家畜を仕留めるところを見て機嫌をよくしたらしい。
 今にも所長に殴りかかりそうに安田のこぶしがわななく。眼鏡越しの目で憎悪が爆ぜる。
 「……責任はとります」
 「たのしみだね」
 苦汁を呑んで決断した安田に所長が薄く笑みを浮かべる。それきり所長のほうは見ずジープに飛び乗り、看守に的確な指示をだして少年を後部座席に横たえる。 
 「間に合ってくれよ」
 切迫した横顔で安田が言い、ハンドルを握る。低いエンジン音とともに盛大に砂煙が舞い上がり視界を覆う。怪我人の血で手を汚した僕は、呆然とその場に立ち竦み、彼方に去っていくジープを見送る。
 「やれやれ、彼が帰ってくるまで我々は待ちぼうけか」
 怪我人を乗せたジープを見送り、犬の頭を撫でながら所長がつぶやく。
 返り血にまみれたドーベルマンが飼い主を仰いで吠える。
 何度も。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。
 「よーしよし、ハルはお利口さんだあ。群れの中から無能な家畜を見つけ出し去勢までしてくれるとは、お前ほどよく出来た犬は世界中さがしても他にいない。忠犬ハルとはお前のことだ。さっきは鞭でぶって悪かったな、痛かったろう?」
 但馬がハルを舐める。犬の頭を抱え込み、鞭打たれて血が滲んだ傷痕に何の抵抗もなく舌をつける。
 「なんて素晴らしい犬だ、世界最高の犬だ、私が心を許したただ一匹の友であり伴侶であり奴隷であり息子であり弟の身代わりだ。そうさ、だから弟の名をとってハルと名付けたんだ。お前はあの愚弟とは比較にならない利口な犬だが虐げられて許しを乞う時の目つきは瓜二つだ!!ああ、お前らときたらなんて愛らしい生き物なんだ!!」
 狂った哄笑が響き渡る中、嫌悪の表情でロンが吐き捨てる。
 「犬に弟の名前つけるなんざ正気じゃねえ。完璧イカレてやがる」
 「同感だ」
 血で汚れた手を見つめ、僕は深く頷いた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050624002415 | 編集

 犬の金玉食いちぎり事件別名ワンコがチンコ食っちゃった事件は波紋を呼んだ。
 事件が起きたのは今日の昼で、僕はずっと砂漠と隔離されたビニールハウスにいたから気付かなかったけど流血の惨事の現場は大騒ぎだったらしい。
 そういえば、ホースで水撒きしてるときに遠くから喧騒が聞こえてきた。
 声が無駄にでかい囚人がうるさいのはいつものことで、どうせまた乱闘でも勃発したんだろうって気にもとめなかったけど、思い返してみれば様子がおかしかった。
 甲高い悲鳴、野太い罵声、破れ鐘の怒声……
 それらが混沌と渦巻いて事件現場の恐慌を伝えてきた。異常事態が発生してるってピンときた。でも素知らぬふりで水撒きを続けた。
 砂漠で乱闘が起きるのは珍しいことじゃない。
 物好きな野次馬なら目の色変えてとびつくだろうけど、ビニールハウスでラクな仕事に就いてる僕はよっぽどのことじゃないと食指が動かない。
 外は暑い。砂漠は暑い。空調設備が万全に整ったビニールハウスを出て炎天下の砂漠を駆けてくなんて馬鹿らしい。愚の骨頂だ。だから僕は快適なビニールハウスでいちごに水やりを続けた。
 事件のあらましを知ったのは帰りのバスでだ。
 ワンコがチンコ食っちゃった惨劇をばっちり目撃した囚人の顔は恐怖に青ざめていた。無意識に股間を押さえる奴もいた。内股になりがちに事件の詳細を伝える囚人の囁き声で、バスの中は蜂の巣つついた騒ぎだった。
 そして、夕食。
 食堂はワンコがチンコ食っちゃった事件でもちきりだった。
 レイジがトップになってからというもの抗争や紛争が絶えなくて殺伐とした空気が充満したけど、それはそれこれはこれ。実際、日々激化する抗争とは関わりなしにのんびり過ごしてる囚人も多い。レイジのトップ就任を認めず暴動起こした好戦的グループと接点さえなければ、今まで通りにぬる―い日常を送ることができる。
 東京プリズンにも日和見主義の平和主義者は大勢いて、自分の身を危険にさらすのに積極的でない連中は、退屈を紛らわす娯楽として他の誰かの身に起きた悲惨な事件を求めてやまないのだ。早い話、デンジャラスはお呼びじゃないがスリルは欲しい連中ね。
 そんな連中にとって、ワンコがチンコ食っちゃった事件は格好の餌だった。
 本日食堂で祭られたのは、キンタマ喪失という男にとって最大の悲劇に見舞われたイエローワークの名無しくん。平均5・6人のグループごとにテーブルに散らばった連中は、箸や食器を片手に「しっかしやることえげつねーなー、新所長殿は。さすが史上最低最悪の鬼看守タジマの兄貴」「獣姦ショウなんて普通思いつかねーだろ。どんな頭してんだか」「囚人狩りスタート」「金玉食い千切られた奴カワイソー」と、さも恐ろしげに話している。
 もっとも、怖がってるのはうわべだけ。タジマの兄を名乗る新所長就任からこっち退屈ふっとばす事件が次々起きて腹の中では喜んでるのが現状だ。
 「あーあ、こんなことなら僕も行けばよかったよ。チンコがワンコ食っちゃったとこ生で見たかった」
 「逆っスリョウさん、ワンコがチンコ食っちゃったっス!チンコがワンコ食っちゃったってキラーコンドームっスか、それ」
 あきれ顔のビバリーのツッコミを無視、上唇に箸を乗っけてバランスをとる。箸を落とさないよう上唇と鼻の間に挟めば自然顔の部品が真ん中に寄る。
 へんてこ顔で不満を訴える僕を見上げ、ビバリーが嘆く。
 「だいたいリョウさんも他の人たちも不謹慎っスよ。金玉食い千切られるなんて男にとって最大の悲劇、想像しただけで金玉竦みます。ま、かたっぽだけだってのがせめてもの救いっスねえ。かたっぽ残ってれば生殖可能でしょうし子孫だって残せます」
 「いっそ両方とも食われちゃえばよかったのに。そしたらコンドーム要らず」
 「リョウさん」
 「ムスコが無事なら息子残せるってね」
 おっかない目で睨まれおどけて首を竦める。カタいんだからビバリーってば。冗談通じない。他のテーブルを見まわせば、話に熱中するあまり食事を疎かにした囚人が下品に唾飛ばして「犬予防に鉄のパンツ穿くってのはどうだ?」「ばあか、どうやって脱ぐんだよ」「どうやって小便するんだよ」と真剣に論争してる。くだらない。上唇の箸をとり、おかずをつつく。
 今日は洋食。まずいマッシュポテトとコンソメスープと温野菜のサラダとベーコン二切れの貧相な食卓だ。
 行儀悪く頬杖つき、茹でたブロッコリーを箸で転がしながらため息を連発。
 「リョウさんこの頃元気ないっスねえ。どうかしたんスか」
 ビバリーが心配げに声をかけてくる。いつものほほんとしてる癖に妙なところで鋭いんだからと舌打ち、ブロッコリーにぐさりと箸を刺す。
 「んー。秘密のダンジョンの入り口捜しが難航しててねえ」 
 穴の開いたブロッコリーを箸で転がしながら、ここ数日間の悪戦苦闘をうんざり思い返す。
 医務室でホセと会って胡散臭い地図を渡されたのが三日前。南の隠者の依頼は、地図に印を付けた場所のどこかに地下への入り口があるはずだからそれを見つけて来いってちんぷんかんぷんな内容。

 『地下への入り口?なにそれ、東京プリズンの地下にダンジョンが広がってるっての?ドラゴンとかゾンビとかうろついて古代の宝が眠ってるとかRPGぽい展開になるわけ、これから』
 『鋭い。君の言うこともあながち間違いではありません』
 ホセは謎めいた微笑を深めるだけで、それ以上僕に説明するつもりも疑問を解消する手助けをするつもりもないようだ。イケズな隠者だよと心の中で愚痴りつつ、ホセから借りた地図を四つ折りにし、ポケットにしまう。
 『イエローワークの囚人なら毎日砂漠に出かけても不自然ではない。徒歩で砂漠に向かえば半日かかりますが、イエローワークの送迎バスを利用すれば時間が短縮できる。リョウくん、君はイエローワークの人間です。仕事にいそしむフリで砂漠をうろついててもなんら不自然ではなく、そこらじゅうに掘られた穴をひとつひとつ検分して地下への入り口を捜すのも可能なはず』
 『へんなの。それじゃまるで、君が言う地下への入り口を見つける為に僕らに穴掘らせてるように聞こえるじゃん』
 口にしてから、それが真実じゃないかという疑惑が頭を掠めた。イエローワーク名物、水が湧くまでひたすら穴を掘り続ける不毛な肉体労働。地下水脈に当たって井戸が湧き出す可能性が小数点以下の確率でも、白熱の太陽の下、鍬やシャベルを手に汗水たらして穴掘りを続ける囚人たち……
 しかし、別の目的があるとしたら?
 イエローワークの穴掘りには別の隠された意味、真の目的があるのだとしたら?
 第一、畑を耕すには井戸が必要だからと囚人を動員するのはおかしい。労力と実益が釣り合わない。井戸を掘るならもっと他のやり方があるはずだ。
 外から地質学者を招いて水脈の場所を予測して、ブルドーザーとかショベルカーとか大がかりな重機を用いて一挙に掘り返した方がはるかに効率が良く成果も上がる。時代遅れの肉体労働にこそ価値があるって?まさか。ぶっ倒れるまで囚人こきつかっても肝心の水脈掘り当てなきゃ意味がない。
 『そうです。それこそまさに東京プリズンの秘密の一端、無意味な穴掘りには意味があるのです』 
 『この地図はなに?イエローワークの砂漠の地図だってのはわかったけど、この印は?教えてよホセ、東京プリズンの地下には一体なにがあるの』
 『君はただ吾輩の命令を忠実に遂行すればいいんです。報酬は弾みます』
 話が噛み合わない。質問に答える気はさらさらないようだ。医務室のベッドに腰掛けたホセは、手を組み合わせて祈りのポーズをとり、黒縁メガネの奥の目を冷酷に光らす。
 『あまり深入りすると命の保証はできませんので、あしからず』

 「とんでもない依頼ひきうけちゃったなあ。ああもー!」
 カーテンで仕切られた薄暗がり、組んだ手の上に顎を乗せ、威圧的な声音で僕を脅迫した隠者を思い出せば二の腕がぞわりと粟立つ。
 報酬に目がくらんで二つ返事で引き受けたのが運の尽き。
 ここ三日間というもの看守のご機嫌とってビニールハウス抜け出しては、地図のしるしを頼りにあっちへ行ったりこっちへ行ったり砂漠をさまよってみたけど一向に成果がない。クレーターみたいに地面にボコボコ開いてる穴を片っ端からを覗きこんでとび下りて仔細に調べてみたけど異状は見られない。
 クレーターは数限りなく砂漠に散らばってる。ひとりで捜すのは体力気力の限界。本当に正解なんてあるのか、ひょっとしてホセに騙されてるんじゃないかと日が経つにつれ懐疑的になってくる。 
 「がんばってくださいリョウさん。商売は信用第一、約束したんなら守らないと」 
 「じゃあビバリー手伝ってよぉ~~~あとでフェラしてあげるからあ」
 「まっぴらごめんっス」
 そっこー拒否られた。使えない相棒に舌を出し、ズボンから地図をとりだし、ひっくりかえす。上下逆にして角度を変えてためつすがめつしても新しい発見はない。食べかけのトレイをどけてテーブルに寝そべった僕を「お行儀悪いっスリョウさん、ママにお尻ぺんぺんされちゃいますよ」とビバリーがたしなめるのに「ママはそんなことしないもん」と生返事……
 「あれっ」
 「?どうしたのビバリー」
 ビバリーが脳天から声を発して、僕の手の中の地図を奪い取る。
 そして、真面目くさった顔つきで調べ始める。
 「この地図、見覚えあります」
 「マジ!?」
 おもわず叫んじゃった。ビバリーは僕の声も届かないのか、恐るべき集中力を発揮して念入りに地図を調べている。期待と興奮を込めてビバリーを見守る僕の耳に、調子っ外れの声がとびこんできたのは次の瞬間だった。
 「ところでロン、重要な話なんだけど……帰りのバスで痴漢被害に遭わなかったか?」
 振り向かなくてもわかる。声の主はレイジだ。けど、一応振り向いてみたのは好奇心に負けたからだ。手すりから身を乗り出し、人でごったがえした一階に視線を飛ばす。僕とビバリーの指定席は二階の手摺側で、前にも説明したけどここからは一階の混雑がよく見渡せる。
 東棟の王様もとい東京プリズンの王様と愉快な仲間たちは、中央やや左寄りのテーブルの一角を占めていた。レイジの隣には仏頂面のロンが座ってて、箸を動かす手を止めずに吐き捨てる。
 「レイジ、殺していいか」
 「いやだ。だってマジ心配したんだぜ、房に帰ってきたらズタズタのボロボロで擦り傷だらけで狂犬と格闘してきたみてえな有り様で、何があったんだって目を疑ったよ。あんな破廉恥なカッコで帰りのバスに揺られてたのかと思うと、ロンの色気にあてられたケダモノどもがおいた働かなかったか心配で心配で!」
 「ケツ揉もうとしたヤツはおもいきり手え抓ってやったよ。余計な心配すんな、うぜえ」
 「あ、そ?じゃあそいつ殺しにいかなくていいか。最低ロンのケツさわるだけなら許せてもケツの穴に指突っ込んだヤツは本の角でガツンと」
 「飯食ってるときに汚ねえこと言うな、食欲なくなんだろ!替えの囚人服貸してくれたことは感謝してっけどお前の無神経には毎度ホント腹立つよ、こちとらただでさえ犬が金玉食いちぎるとこ見せられて胃袋縮んでんのに!!」
 キレたロンが箸を投げ捨てレイジに掴みかかる、毎度おなじみの痴話喧嘩の光景だ。へらへら笑いながらロンをあしらうレイジの胸では黄金の十字架が輝いてる。三日前、所長に引き千切られてあちこちに散らばった玉が綺麗に繋げられていた。口先だけでなく手先も器用な王様にあきれるやら感心するやら。
 騒々しくじゃれあうロンとレイジの向かいにはサムライと鍵屋崎がいたが、対照的にこちらの空気は暗く沈んでいる。お互い一言も言葉を交わさず目も合わせない陰鬱な雰囲気。
 「また喧嘩したのかなあ、親殺しとサムライ」
 怠惰な猫みたいに背中を伸ばし、手摺によりかかる。そういえば、ワンコがチンコ食っちゃった事件のインパクトが強くて忘れ去られてるけど、鍵屋崎とロンも犬に襲われてやばいとこまでイッたらしい。つくづく受難が似合う二人だと失笑する。
 倦怠期の夫婦みたいに気まずく食事をとる二人を観察してるうちに、ふと気付く。
 「ビバリー見て。三角関係の予兆」
 ビバリーの脇腹をつつき、顎をしゃくる。僕の視線を辿ったビバリーが「ありゃ」と目を丸くする。王様と愉快な仲間たちが居るテーブルから少し離れた場所にひっそり立った囚人が、じっとサムライを見つめているのだ。確かシズルとかいったヘンな名前の囚人で、東棟じゃ最近ちょっとした有名人になってる。新参者のシズルがサムライに言い寄って古女房の鍵屋崎がむくれてるってのが大半の囚人の見解だ。
 「うひ、どろどろ泥沼愛憎劇だ。正妻VS愛人の熾烈な戦い。旦那の心を射止めるのはどっち?」
 「不謹慎っスよリョウさん。それにシズルさんって、なんでもサムライさんのイトコだって話じゃないすか。他に知り合いのない刑務所でイトコと再会したらそりゃ頼りにするのが人情ってもんっしょ」
 「わかってないなあビバリーは。あれがただのイトコに向ける視線?ただのイトコを見る目つき?」
 勘が鋭いヤツが見れば一発でわかる。シズルはサムライに異常な執着を見せている。現に今だってトレイ抱えたまま、周囲の喧騒にも惑わされず通路の真ん中に立ち尽くし、ジッとサムライを見つめ続けてるじゃないか。
 シズルの目の奥に混沌と渦巻く得体の知れない感情。
 静かなる狂気にも似て抑圧された愛憎。
 「僕の推理聞きたい?あいつはきっとサムライを追いかけてきたんだ。サムライに会いたくて東京プリズンに来たんだよ、それしか考えられない。手強いライバル登場で鍵屋崎も相当参ってるんじゃないかな。相手はサムライ目当てに刑務所に押しかけてきた筋金入りのストーカーだもん。今度ばかりは親殺しも勝ち目ないんじゃないかなあ」
 我知らず笑みが零れる。愉快で愉快でたまらない。親殺しと侍の関係に亀裂が入ったのはあきらかで、その亀裂をこれからますます広げていくのがシズルの存在だと直感する。
 シズル、要注意人物だね。
 不意に、僕の視線の先でシズルが背中を翻す。通路の真ん中を歩いてカウンターにトレイを返却、掃き溜めに吹く涼風のごとき颯爽たる足取りで食堂を後にする。知らず、残りのご飯をかっこんで僕も立ち上がる。
 「どこ行くんスかリョウさん!?」
 「ストーカーのストーキング。トレイ返しといてね、ビバリー」
 不審顔のビバリーににやりと笑みかけ、トレイを放り出して階段を駆け下りる。半ば強引にトレイ返却を任されたビバリーが抗議の声をあげるが、気にしちゃいけない。事件の匂いや騒動の予感にずば抜けて敏感なアンテナが静流を追っかけろと電波な命令を発したのだ。
 トラブル感知アンテナに催促され、慌しく階段を駆け下りる。途中段を踏み外しそうになって肝を冷やしたけど、何とか無事階下に到着。安堵の息を吐くのもそこそこに人ごみに紛れて静流に急接近、付かず離れず絶妙の距離で尾行を開始する。
 自慢じゃないが、経験上尾行には慣れてる。メシのタネの情報収集はお手の物。抜き足差し足忍び足、周囲に目を配りながら慎重に通路を歩く。食堂を出た静流はどんどん人けのない方向へ向かってく。房に帰るのかな?シズルの房はずいぶん人けのない寂しい場所にあるんだなと、蛍光灯の電池が切れた通路を見まわしてどうでもいいことを考える。
 シズルが角を曲がる。
 「!」
 角から顔を覗かせた僕は、危うく声をあげそうになる。壁に穿たれた鉄扉を背に、看守がひとり突っ立ってる。待ち伏せ。親密な、かつそこはかとなく淫靡な空気で密談する看守と静流を眺めるうちに胸が騒ぎだす。何を話してるのか、二人とも声をひそめてるせいでよくわからないけど、切れ切れに聞こえてくる断片を繋ぎ合わせれば―……「レッドワーク」「配属」「ありがとう」「助かった」「接近できた」「おかげで」「彼と」……心臓の鼓動が速鳴り、興奮で喉が乾く。看守の頬をひたりと手で包み、艶やかに微笑むシズル。まんざらでもなさそうに笑う看守。何、コレ。この、異質な空気。
 清楚な少女めいた容姿の白皙の美少年が、スッと虚空に手をさしのべ、看守の頬を包む。
 妖艶に赤い唇がほころび、魔性の微笑みが浮かぶ。
 癖のない黒髪の隙間から漆黒に濡れ輝く目を覗かせ、囁く。
 「お礼に、あげるよ」
 我慢できず看守の手がシズルに伸びて上着の裾から潜り込む。看守の腕の中で体を貪られながらシズルはくつくつと笑っていた。愉快で愉快でたまらないといった邪気のない笑い声がいっそ不気味だ。看守の腕にされるがままに身を委ねつつ、後ろ手でノブを探り、扉を開ける。
 房の暗闇に吸い込まれたシズルの上着がはだけ、白くなめらかな下腹の素肌があらわになる。
 そして、そこには。
 指で圧された手形と、仄赤い痣と。
 赤裸々な情事の痕跡が、無数に散らばって。
 
 鉄扉が閉ざされたあとにもまだ、シズルの笑いの余韻がたゆたっているかのようだった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050623154457 | 編集

 今見たものが信じられず呆然と立ち尽くす。
 電池が切れた蛍光灯の下、コンクリ剥き出しの殺風景な通路に立ち尽くし、排他的に閉ざされた鉄扉を見つめる。
 あれは、シズルの房。
 最前僕が見たものは現実だろうか、目を開けたまま夢でも見てたんじゃないかという疑惑が脳の奥で膨らんで足元がぐらつく。
 鉄扉の前で待ち伏せしていた看守に無防備に歩み寄るシズル。緩慢に縮まる距離、二人を結びつける親密な空気。シズルは親愛の笑顔を見せ看守に歩み寄り頬に触れた。シズルは看守の頬を両手で挟み優しく自分の方へと誘った。
 看守の腕の中でシズルの体が妖しくくねり、蠢き、のたうつ。
 口紅なんて塗ってないのに赤い唇とは対照的に、奔放に仰け反る首の白さ。華奢な腕を看守の背中に回しきつく抱きしめ、股間に柳腰を摺り寄せ、享楽の笑みをちらつかせる。
 正常な人間が浮かべちゃいけない類の笑み。
 前戯とはいえない荒荒しさと激しさでシズルの体を貪りながら、看守は意味不明なうわ言を呟く。
 衣擦れにかき消えそうにかすかな声で、「す、すべすべだあ。女みてえだ」と呻き、鉄扉に押し付けたシズルにのしかかるように前傾姿勢をとる。長い舌がシズルの首筋に唾液の筋を付けて鎖骨の起伏をなぞる。
 シズルは例のくすくす笑いを漏らしながら貪欲な愛撫を受けていた。
 切れ長の双眸に悪戯っぽい光を宿し、唇を綻ばせ、淫蕩な妖婦さながらに自分に溺れゆく男を憐れんでいた。
 無垢な少女めいて清純な美少年が自ら進んで男に身を委ねて快楽に溺れている。筋骨隆々とした逞しい腕に抱擁され全身を愛撫されシズルは笑みを絶やさず虚空を見ていた。
 虚無に通じる空洞の瞳。
 物憂げな影を作る睫毛の下、艶々と濡れ輝く漆黒の瞳。
 後ろ手にノブを捻り、看守を伴い矩形の暗闇に呑まれたシズルの残影が目に焼き付いて離れない。大気中にはまだシズルの笑いの余韻と赤裸々な前戯が醸した放熱の残滓が漂って、僕はふらふらと鉄扉に吸い寄せられた。
 シズルのことはよく知らない。東京プリズンに来たばかりの新入りで、サムライのイトコだってくらいしか情報は掴んでないが、あんな綺麗な顔して看守を体でたらしこんでるなんて……
 それに、シズルと一緒にいた看守。
 あれ、僕のお客さんじゃないか。ちょっと前まで僕をよく買いにきてた腐れ看守の柿沼さんだ。ふうん、シズルに乗り換えたってわけ?気に入らないね。涼しい顔して人の客横取りなんていい根性してるんじゃんとシズルに対する怒りと反感がむくむくもたげてきて、知らず知らずのうちに歩幅が大股になり、鉄扉が急接近。
 そんなにシズルがいいわけ?僕だってテクには自信がある。六歳で男知ってから必死に経験積んで今じゃ一端の娼夫になったってのに、昨日今日きたばっかの素人に負けるかと対抗心に火がつき、それならこの目で確かめてやろうじゃんと決意。そうっと爪先立ち、息を殺して格子窓を覗きこむ。
 等間隔に並んだ鉄格子の奥には不気味な闇が淀んでいた。
 耳の奥に鼓動を感じながら暗闇に目を凝らし、シズルを捜す。いた。房の壁際のパイプベッドにシズルがいる。仰向けに寝転がったシズルの上に覆い被さり、性急な動作でシャツをはだけているのは……例の看守。柿沼。
 「柿沼さんには感謝しているんだ。本当に」
 柿沼の手に熱を煽られ、頬をうっすら上気させたシズルが謙虚に礼を述べる。柿沼の後頭部に手を回し、脂で固まった髪の感触を愛でるように指を絡める。
 「僕が貢くんと同じ部署になれたのは柿沼さんが裏で手を回してくれたおかげ。本当に感謝してるよ。入所時の身体検査の担当が柿沼さんでよかった。東京プリズンに来ていちばん初めに出会った看守が柿沼さんじゃなければ、今頃どうなっていたことか……」
 心細げに目を伏せ、絶妙の呼吸で言葉を切り、間をもたせる。
 男心をくすぐる秀逸な演技。男をその気にさせることにかけちゃ天才的だと感心すると同時に、邪悪で狡猾な本性を目の当たりにした戦慄を禁じえない。気付けば指先が震えていた。
 脳裏で警鐘が鳴り響く。シズルは危険だと本能が疼く。
 嗅ぎ取ったのは同類の匂い。でも、シズルのが断然タチ悪い。
 完璧に計算し尽くされた媚と演技で男を誑かして思い通りに動かす、天性の魔性の才能。
 「お前の頼みならなんだってしてやるさ。あの時、お前と目が合った時に電流が走ったんだよ。お前の目に射ぬかれて微笑みに魅入られて色香に狂わされたんだ、俺は。なあシズル、お前は俺の物だ。お前の為なら所長だって殺してやる、安田だって殺してやる。だから」
 「わかってる」
 シズルが寛容に両手を広げ柿沼を迎え入れる。柿沼がシズルの上着を脱がそうと悪戦苦闘する。胸板までたくし上げられた上着が首につかえ、頭が抜けるのに少し時間がかかった。 
 「僕は逃げない。僕は柿沼さんの物」
 唄うようにシズルが言う。囚人服の上着とシャツとズボンが無造作に床に投げ捨てられ、その上に重なるように紺のズボンが落ちる。トランクス一丁になった柿沼が一糸纏わぬ上半身をさらけだしたシズルに襲いかかる。
 上着を奪われてあられもない姿にされたシズルは、羞恥と喜悦とが半ばする恍惚の表情で快楽に溺れていた。放埓な肢体が闇に踊る。赤裸な衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 『三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい』
 清澄な歌声が暗闇に流れる。シズルの、声。その声に促されるように柿沼の動きが速まり、律動が激しくなる。華奢な膝を掴んで広げ、シズルのズボンを脱がして自分の分身を押し入れる。ぐちゃり、ぐちゃりと淫猥な水音が響く。
 「っ、はあ……ふっ………あ、ああっあ」
 仰向けにひっくり返った姿勢で手荒く揺すられながら、切なく喘ぐ。しっとり汗ばんだ前髪がざんばらに乱れて額にかかり、精を注がれる快感に濁り始めた目を隠す。柿沼の背中に爪を立て、容赦なく理性を追い立てる快楽の洪水に浮きつ沈みつしながら、シズルが目を閉じる。
 「お前には特別に配慮してやった。他の囚人と暮らすのは嫌だと言えば、ひとりで使える房を与えてやった。俺と逢引するにはそっちのが都合がいいからって説得されて、上に無理言って融通してやったんだ」
 恩着せがましく言いながらさらに奥深く突き入れ一方的に責め立てる。ぐちゃり、ぐちゃり。挿入に伴い響く水音が行為の卑猥さを引き立てる。
 「あっ、あっ、あああああっあああっふああっ……あっ、すごい、柿沼さん……こんなの初めて…っ!」
 シズルの顔に紛れもない歓喜の表情が浮かぶ。柿沼の分身を進んで迎え入れようと腰を振るたび、しっとり汗ばんだ額に濡れた前髪が散らばる。喘ぎ声が次第に甲高くなる。柿沼に抱き付いたシズルが口の端から一筋涎を垂らし前髪を散らし、理性をなげうち快楽に溺れきった恍惚の表情で、へし折れんばかりに背骨撓らせ絶叫。
 シズルが、達した。同時に柿沼も射精した。肛門から溢れた白濁の残滓が下肢を伝い落ちるさまが僕の位置から辛うじて見てとれた。浅く肩を上下させ呼吸を整えつつ、柿沼の肩に凭れかかる。
 薄ぼんやりと虚空をさまよう放心した目、怠惰に弛緩しきった表情、閉ざすのを忘れた唇……
 「………っ、」
 体に異変が起きる。勃起。シズルと柿沼の絡みを見て分身が勝手に興奮しちゃったらしい。だって、こんな……こんなの見せられたら、だれだってこうなっちゃう。
 シズルの姿態に欲情したのが悔しくて、下唇を噛んで俯いた僕をよそに、衣擦れの音が再開。
 「!」
 息を呑み、格子窓の向こうに再び目を凝らす。暗闇に沈んだ房の片隅のベッドで柿沼が何かごそごそやってる。何?マットレスの下から柿沼が引っ張り出したのは……女性用の、着物。真紅の襦袢と、それに付随する白絹の帯。
 「なに、あれ。なんでシズルのベッドにあんな、綺麗な着物が……」 
 胸騒ぎがする。ここから先は見ちゃいけない、第三者が踏み入っちゃいけない領域だと良識が退去勧告を発する。でも、足が竦んで動かない。動けない。怖い物見たさの好奇心には抗えない。鉄扉の前に立ち竦んだ僕の視線の先、暗闇に沈んだベッド上で柿沼が思いがけぬ行動をとる。
 シズルに顎をしゃくり全裸で正座させ、剥き出しの肩にそっと着物をかける。炎で染め抜いたような真紅の襦袢で剥き出しの肩を覆い隠してから、緩く衿をかけ合わせる。薄地の着物が奏でるしゃらしゃらと雅やかな衣擦れの音。
 全裸のシズルに襦袢を羽織らせ帯をとり、結わえる。 
 出来あがったのは、見目麗しい和装の少女。
 遊女の科を作り、真紅の襦袢をしどけなく着崩して白い帯を結わえた少女。
 慣れた様子で襦袢を羽織りたおやかな少女へと変身したシズルが、柿沼の膝に手をかけ、囁く。
 「いつものようにして」
 シズルの目が嗜虐的に細まる。柿沼がごくりと生唾を飲み再び動き出す。床に手を伸ばし、看守服を拾い上げ、胸ポケットから何かを取り出す。
 黒い光沢の柄の筆と、口紅。柄が細い特殊な筆は、女性の唇をなぞり、口紅をはみ出ず塗るための化粧道具。
 「目を閉じろ」
 柿沼が低く命令する。気のせいか声が震えていた。
 柿沼に促されるがまま、顎はやや上向き加減に、余裕の笑みさえ浮かべて瞼を閉じる。
 口紅に筆をひたし、そろそろとシズルに近付く。上唇の先端に筆先が触れる。上唇のほぼ真ん中に置かれた筆が慎重に動きだす。
 唇の膨らみに沿って筆が動き、丁寧に紅を刷く。
 暗闇に沈んで色彩が区別できないにも関わらず、僕にはそれが、似合う人を選ぶ深紅だとわかった。
 「よく似合うぞ、シズル。綺麗だ」
 唇の膨らみをなぞりながら、熱に浮かされたように囁く。
 「姉さんに似てるかな」
 瞼を下ろしたシズルの顔に寂しげな影が過ぎる。が、それはすぐ微笑に呑まれて消え去り、気丈な様子で続ける。
 「柿沼さんには本当に感謝しているんだ。東京プリズンに柿沼さんがいてくれてよかった。もし身体検査の段階で柿沼さんに当たらなきゃ、姉さんの形見の扇子は容赦なく取り上げられてた。僕は身を守る術を何ひとつ持たず地獄に乗り込まなきゃいけなかった」
 沈痛に目を伏せる。長い睫毛が震える。
 「姉さんの残り香がする扇子を取り上げられるなんて、僕には耐え切れないよ」
 シズルにお姉さんいたんだ。でも、形見って?死んじゃったワケ?
 当惑した僕をよそに、シズルが虚空に腕をさしのべ柿沼を招き寄せる。たっぷりとした袖が揺れ、炎が燃え広がるごとく柿沼の背中を包み込む。
 紅のひと塗りで遊女に変貌した女装の少年が、しゃらしゃらと衣擦れの音も淫靡に、愛情に見せかけて男を抱擁する。
 頭がくらくらした。僕が今見てる光景はとても現実の物と思えない。あまりに時代錯誤で浮世離れした光景……
 もう辛抱できないと着物の衿をはだけて柿沼の手がすべりこみ、処女雪の白さの胸板が暴かれる。
 仄赤い痣、指で圧された手形。密やかに積み重ねた行為の痕跡が大胆に暴かれて―……
 
 その瞬間。
 シズルと、目が合った。

 柿沼の肩越しに僕の視線を絡めとり微笑を深める。いつから気付いてたんだろう、僕がここにいることに。
 やばい。逃げなきゃ。このままここにいたらやばい。
 全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。シズルが柿沼の耳元に顔を寄せ何かを囁く。多分、僕の存在を教えているのだ。妖艶な流し目でこっちを一瞥、柿沼の耳朶に吐息を吹きかけて促すシズル。唐突に柿沼が振り向き、鉄格子の向こうに立ち竦む僕を発見するなり憤怒の形相に豹変。
 「この野郎っ!!!!!!」
 「あ、あう、あっ」
 激怒した柿沼に背を向け、脱兎の如く逃げ出す。
 背後で鉄扉が開け放たれ怒涛の足音が急接近、野太い怒号が鼓膜を叩いて憤激の波動が押し寄せる。やばい、捕まっちゃう、助けてビバリー!囚人と看守のエッチ覗いてるのがバレたんだ、ただで済むはずない。それでなくても柿沼は短気で有名な女装マニアの変態で、ポストタジマを名乗れるくらい悪評付いて回る注意人物なのに。
 「!ひっ、」
 遅かった。僕がのろくさしてるうちに柿沼の手が伸びて後ろ首を掴む。僕の後ろ首摘んで房に引きずり込んだ柿沼が乱暴に鉄扉を閉め、残響で大気が震える。恐怖で歯の根ががちがち震えだす。殴られる?蹴られる?殺される?最悪の想像ばかりが連鎖的に浮かんで絶望が深まる。せめてもうちょっと僕の足が速ければ逃げ切ることができたのにと後悔してもはじまらない。
 ビュッ。風切る唸りが耳朶を掠め、ベッドに放り出される。
 背中からベッドに墜落した衝撃で肺から空気が押し出され激しく咳き込む。
 「この野郎、リョウ、てめえどっから見てたんだ!?俺とシズルが房に入るとこずっとタダ見してたのか、ずっと聞いてたのか!舐めし腐った真似しやがって……上等だ男娼、今見たことよそに漏らさねえように裸にして死ぬほどぶん殴って歯あ全部ひっこ抜いてやらあ!」
 「ご、ごめんなさい、ごめんなさ」
 最後まで言わせてもらえず頬を張り飛ばされた。思い切り。衝撃で口の中が切れて鉄錆びた味が満ちる。腕の一振りで薙ぎ飛ばされた体をベッドパイプが受け止める。また衝撃。ベッドパイプに激突して眩暈に襲われた僕の胸ぐらを掴み、柿沼が警棒を振り上げる。
 「言われた通り口を開けろ、今見たこと口外できねえようお前の歯あ全部砕いてやる!」
 「いや、だ。許してよ柿沼さん、ほんの出来心なんだよ、たまたまそこ通りかかったら声が聞こえてきてそれでつい……ほんとほんとだよ、嘘じゃないよ!ねえお願いだから信じてよ、僕たち長い付き合いじゃん、柿沼さん僕のフェラ上手だっていいこいいこしてくれたじゃん!?僕柿沼さんなら生でいいかなって特別に許可してあげたっしょ、清楚好みの柿沼さんたっての要望で白いワンピース着てあげたっしょ……」
 哀願の嘘泣きじゃなく、本物の涙が込み上げてくる。
 僕よりシズルのほうがいいっての、ただ仰向けに寝転がってイイ、イイって喘ぎ声あげてるだけのド素人のがいいっての?シズルに客を取られた悔しさで涙が止まらない。平手で張り飛ばされた頬は熱を持ち腫れ上がり内側の粘膜は炎症を起こしてる。娼夫のプライドをズタズタにされた悔し涙で頬を濡らす僕へと柿沼が警棒を振り下ろす―
 ああ、殺される。
 「待って」
 救世主は身近にいた。髪を舞い上げる風圧に反射的に目を閉じたが、いつまでたっても予期した衝撃は訪れない。おそるおそる薄目を開ければ、意外な光景が飛び込んでくる。
 シズルが柿沼の手を制してじろじろと僕の顔を眺めている。
 敗者に対する愉悦と弱者に対する憐憫とを複雑に織り込んだ目の色が、ますますもって惨めさをかきたてる。
 慈悲深いと形容してもいい菩薩の顔―
 不意に、シズルを滅茶苦茶にしたい衝動が湧き上がる。
 「見世物じゃねえよ、カマ野郎」
 狂おしく身を捩りシズルの顔に唾を吐く。ぴちゃりと音がしてシズルの頬に唾が跳ね、怒りのあまり咆哮した柿沼が警棒で僕の肩口を殴る。激痛に背中が仰け反る。パイプベッドに寄りかかり、肩を庇って呼吸する僕の上にのしかかる……シズル。帯が半ばほどけて、真紅の襦袢の衿がはだけたあられもない格好で僕に迫りながらシズルが横に手をさしだす。
 「手錠貸して」
 手錠?そんなものどうする気さ。肩を押さえてへたり込んだ僕の眼前、柿沼の手からシズルの手へと手錠が渡される。カチリと金属音が鳴り輪が外れる。僕の手を後ろに回し金属の輪をひっかけ施錠、シズルが満足げに微笑。
 「まずいところを見られちゃったね」
 「い、言わない!絶対ひとに言わないからビバリーのとこに帰してよ!」
 「どうかな。君は口が軽いらしいから……ねえ、情報屋のリョウくん」
 「な、んで知ってるんだよ、新入りのくせに……」
 「柿沼さんに教えてもらったんだ。彼は貴重な情報源だから」
 共犯者の結束を確かめるように柿沼と密やかに笑み交わし、僕へと向き直る。格子窓から射した僅かな光が、深紅が映える口元を仄かに照らしだす。 
 「君のことはよく知ってる。尻軽でおしゃべりで大勢の看守に特別扱いされる男娼のリョウ。僕らのことも話すつもり?噂話で広めるつもり?それはちょっと困るな。まだ目的を達してないんだから」
 「目的って……」
 「東京プリズンに来た目的」
 紅の唇が綻び、磨き抜かれた真珠のように小粒の歯が零れる。シズルが僕の頬に手を伸ばす。首振りで逃れようとしたが、見かけに反して強引なシズルは僕の頬をひたりと包みこむ。
 癖のない黒髪の隙間から、闇より深い漆黒の目が覗く。
 「可哀想だけど、口封じしなきゃ駄目みたいだ」
 不吉な宣告に総毛立ち、手首を擦り合わせて手錠を外そうと必死の抵抗を試みる。金属の輪が擦れて軋んで耳障りな音をたてる。けど、外れない。手首の薄皮が剥けて傷付くだけで手錠自体はびくともしない。くそっ、外れろ、外れろよ!!鎖が許す限界まで引っ張り腕を開こうとするが、ガチガチと鎖が軋るだけで胸に巣食う絶望感が膨らむ。
 発狂寸前の恐慌に駆られた僕の正面、紅の襦袢を羽織った少年が淡々と命じる。
 「知り合いの看守、何人か連れてきて。できるだけ口が固い人を」
 え?
 思わず暴れるのを止め、恐怖に凝り固まった表情で暗闇に溶けたシズルを仰ぐ。柿沼に命じて仲間の看守を呼びに行かせたシズルが鉄扉が閉まるのを音で確認、申し訳なさそうに付け足す。
 「ごめん。でも、仲間に入りたかったんでしょう」
 一転、嗜虐の喜びを目に宿したシズルの手が頬からすべりおち、ズボンの股間に置かれる。下肢が鳥肌が立った。衣擦れの音も淫靡に僕に摺り寄り、股間を揉む。
 「ふっ、あ……ひっ!?」
 頭が破裂しそうだ。必死に身を捩り嫌々と首を振りシズルから逃れようとしても背後はベッドパイプで右側は壁で、左側は何もない虚空だけど得体の知れない暗闇が蟠り足元も見えない。
 怖い。助けてビバリー、助けてママ!!
 懇願むなしくシズルがのしかかる。後ろ手に手錠をかけられた僕はされるがままシズルに押し倒される、ベッドで背中が弾んで天井が遠ざかりシズルの顔が急速に近付き―
 「仲間に入れてあげる」
 熱い吐息が顔にかかる。
 シズルの手が上着の裾からもぐりこみ、器用に乳首を捏ねる。 
 「いっ……たすけ、ママ、ビバリーっ……!」
 「叫んでも無駄だよ。ここは地獄だから」
 抓られ、捏ねられ、弄くられ。
 乳首をしつこく愛撫されてたまらず声をあげれば、喉の奥で沸沸と笑いを泡立て、シズルが独白。
 「そうさ。他の全てを捨てて帯刀貢を追いかけて、地獄の涯てまでやってきたんだ。今さら逃げ帰れるわけがない。逃げ帰る処もない。縋れないよう頼れないよう、一切合財を斬り捨ててきたんだから」
 乱暴に扉が開け放たれ圧倒的な光が射し込む。
 だが、それも一瞬のこと。再び扉が閉まり、狭苦しい房を暗闇が支配する。暗闇の中を足音が殺到。格子窓から射した光に入れ違いに照らされる顔……
柿沼を含めた看守が五人、舌なめずりせんばかりに僕とシズルを見比べる。
 悲鳴をあげようとした。手で口を塞がれた。シズルじゃない、シズルと交替に僕にのしかかった看守の手で……それから。宙を蹴り上げた僕のズボンを下着と一緒に脱がして下半身を裸にして、それから。

 それから。
 「口封じだよ」
 
 地獄を見た。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050622030826 | 編集

 「いいもん見せてやるよ」
 「はあ?」
 食堂からの帰り道、レイジが突然言った。俺はまじまじとレイジを見つめた。俺より頭二つぶん高い場所にあるレイジの顔はにやにやと笑ってる。愉快な企みを内に秘めた性悪な笑顔。気色悪ィ。今度はなに企んでるんだコイツと警戒しつつ逃げ腰で距離をとれば、レイジが胸に手をあて大仰に嘆息する。
 「露骨に疑い深い目つきすんなよ、傷つくじゃねえか」
 「お前が思わせぶりなこと言い出すとろくなことねーってこれまでの経験でわかってんだよ」
 「いいから行こうぜ、すぐそこだから。ここんとこ災難続きで参ってるお前を元気づけてやる」
 「災難続きはどっちだよ」
 あきれ顔で呟き、レイジの胸で存在を主張する十字架を一瞥。レイジの胸で眩しく輝く黄金の十字架には無数の傷が穿たれている。神の栄光と悲惨とが烙印された十字架は惨たらしい傷を残したままにそれ自体燦然と光を放っている。あの傷は、犬に付けられたものだ。服ならいくらでも替えがあるか、レイジの十字架はこの世に一個っきりしかないマリアとの絆の象徴だ。
 俺が負った傷より自分が負った傷のがずっとずっと深いくせに、レイジは気負わず笑ってる。
 犬に襲われたことはレイジに話してない。そのうち王様の耳にも届くだろうが、なら尚更俺の口から話すことじゃない。そんなことバラせばレイジは激怒して所長んとこ殴り込んでまた話がややこしくなる。服がズタズタになった原因については「乱闘に巻き込まれた」と最もらしい嘘でっちあげた。野次馬が乱闘に巻き込まれて当事者より重傷負うのは東京プリズンじゃよくあることだ。レイジは釈然としない顔つきで傷だらけの俺を観察していたが、納得したのか否か、「ふうん」と頷くにとどめた。何か言いたそうな顔つきだったが、敢えて無視。これ以上面倒はごめんだと知らぬ存ぜぬを通した。 
 「キーストアも誘うか。あいつまたサムライと痴話喧嘩してしょげてるみてーだし」
 物思いにふける俺をよそにレイジは勝手に話を進める。強引というか何というか、人の話を聞かない王様だ。レイジが「おーいキーストア!」とばかでかい声を張り上げて人ごみに埋もれた鍵屋崎を呼ぶ。食堂からの帰り道、サムライと別れて一人しょぼくれて房へと向かっていた鍵屋崎が振り向く。
 虚ろな表情の鍵屋崎に小走りに駆け寄り、レイジが肩を竦める。
 「どうしたんだよ、一人でふらふらふらついて。用心棒のサムライはどこ行ったんだ?」
 「契約は解約した。彼はもう僕の用心棒ではない」
 とりつくしまもない返答にレイジと顔を見合わせる。鍵屋崎は頑固だ。絶対自分の非を認めない。この分じゃサムライとの喧嘩もまだまだ長引きそうだとため息をつく。
 「彼の行き先には感知しない。どこへなりとも行けばいい。彼の行動範囲になど興味もない、僕の生活を煩わさないでいてくれるならいい。用はそれだけか?これから図書室に本を返しを行くんだ、進路妨害するならこちらにも考えがある」
 見るからに難解そうな本を小脇に抱えた鍵屋崎が、苛立ちを抑圧した無表情で冷ややかにレイジを睨む。ぴりぴり殺気立った鍵屋崎に気圧された俺とは対照的に、レイジは生来の無神経が成せる技かなれなれしく鍵屋崎の肩を抱く。
 「お勉強熱心で感心だねキーストアは。でもたまには息抜きが必要だぜ。コンクリートの塀の中に一日じゅう閉じ込められてたら精神的に参っちまう、気分転換に外の空気吸いに行こうぜ」
 「どこへ連れていく気だ?」
 レイジに肩を抱かれた鍵屋崎が迷惑そうに顔を顰める。
 レイジは意味ありげな笑みを浮かべて目的地を明かす。
 「天国にいちばん近い場所」

 「展望台かよ」
 拍子抜けだ。
 たしかに東京プリズンじゃいちばん見晴らし良い場所だが、天国にいちばん近い場所って大袈裟すぎだろ。
 もったいぶって言うから何処かと勘繰ったのに、レイジが鼻歌まじりに俺たち先導したのはひょいと窓枠乗り越えたところにある殺風景な展望台だった。 周囲には闇の帳が落ちて肌寒い夜気がたゆたっている。
 こんなところに何の用だよとレイジを睨むが、本人は口笛でも吹きかねないご機嫌な様子で展望台を見まわしている。レイジに無理矢理連れてこられた鍵屋崎は対照的に不機嫌の絶頂で、「何てことだ、こんな暗闇では本も読めないじゃないか」と愚痴ってる。本のページを広げて目を凝らす鍵屋崎をよそにポケットに手を突っ込んだレイジがぶらぶら歩き出す。俺も慌てて後を追う。
 「おいレイジいったい何のつもりだよ。いいもの見せてやるって、こんなとこに何あんだよ」
 「まあ見てろって」
 レイジは思わせぶりなセリフで煙に巻くだけで説明もしてくれない。レイジの態度に不満を感じて押し黙った俺は、仕方なくきょろきょろと展望台を見まわす。不気味な静けさと濃厚な闇とが立ち込めたコンクリートの堤防、俗に「展望台」と言われるここは砂漠に沈みゆく夕日が見られる有名なスポットで、黄昏時ともなれば燃えおちる夕日を眺めて感傷に浸りたい向きのロマンチックな囚人どもが大勢押しかける。だが、今は夜。黄昏時には物好きな囚人で賑わった展望台も閑散として俺たち以外に人影はない……
 いや。
 「ん?」
 展望台の中央に誰かが蹲ってる。暗闇に目を凝らす。そいつは俺たちに背を向けて忙しく両手を動かし作業に没頭していた。その後ろ姿からは手と頭と心が三位一体となり活動する精力有り余った熱気が放たれていた。不用意に近付いたら火傷しそうだ。ごくりと生唾呑んで立ち竦んだ俺をその場に残し、レイジがそいつに声をかける。
 「はかどってるか、道化」
 ゴーグルをかけた顔が振り向く。
 「ああ。あと十分で完璧に準備が整うとこや」
 ゴーグルを額に引き上げてやんちゃに笑ったのは西の道化、ヨンイル。風邪をこじらせて二週間入院してたが、今じゃすっかり体が回復し、特徴的な八重歯が覗く笑顔でレイジを迎える。
 「準備って……まさかまた、爆弾の?」
 ヨンイルに小走りに駆け寄り、おっかなびっくり問う。ヨンイルは爆弾作りのプロだ。ペア戦でも時限爆弾を仕掛けて地下停留場を混乱に陥れた前科がある。まさかペア戦のリベンジでまた爆弾を破裂させる気なのかと疑惑の眼差しを注げば、西の道化が「ちゃうちゃう」と手を振る。
 「言うなれば、そやな……『送り花火』や」
 ヨンイルの謎めいた台詞に困惑、答えを求めるようにレイジを仰ぐが、レイジは口元に薄く微笑を湛えるだけで一切説明してくれない。不親切な相棒。何でもお見通しの癖にわざとタネを明かさず、困惑する俺を眺めて楽しんでる性悪レイジに嫌気がさし、和気藹々と談笑する道化と王様から離れて展望台の突端に座る。展望台の突端から足をたらして果てなく続く夜空の向こう、地平線の彼方に沈んだ廃墟のビル群を見つめる。
 「まったく、迷惑な男だ。僕は静かに本を読みたいのに屋外に強制連行して……風邪をひいて肺炎を併発したらどうしてくれる」
 ぶつくさ不満を漏らしつつ鍵屋崎が隣に腰掛ける。
 「なら帰れよ」
 「………」
 「サムライがいる房にゃ帰りたくないってか」
 意地っ張りめと失笑する。鍵屋崎はこの上ない不機嫌な顔で膝に広げた本のページをめくるが、どんなに目を凝らしても暗闇では字が読めず、諦めて顔を上げる。ちらりと振りかえればヨンイルはまだ作業していた。展望台の中央に小型の大砲みたいな奇妙な物体を設置して、真剣に角度を調整している。ヨンイルの奇行を傍らで眺めながらレイジは「これ、どっから調達したんだよ」と質問、大砲から手を放せないヨンイルが「西棟のガキどもに造らせたんや。レッドワークから鉄屑拾うてきてイチから組み立てて、試行錯誤の末に何とか形にすることできた」と得意げにうそぶく。
 「君の服は、サイズが合ってないな」
 おもむろに指摘され、俺の顔はますます渋くなる。鍵屋崎に言われなくてもわかってる。昼間犬に引き裂かれてボロボロになって服は捨てるしかなくて、俺が今着てる服はレイジの借り物で、生地が余り過ぎだ。 「しょうがねえだろ、これしかなかったんだから。お前だってサイズ違うじゃねえか」 
 びろんと膝まで覆う上着の裾を居心地悪く引っ張りながら反論すれば、鍵屋崎がムッとする。鍵屋崎が今着てる服もレイジからの借り物で、俺ほどじゃないにしろサイズはあきらかにでかい。鍵屋崎の服も犬に引き裂かれて薄汚いボロ屑と化して、最終的に廃棄するしかなかったのだ。
 帰りのバスじゃ俺たち二人して注目の的でいたたまれない思いを味わった。
 「ったく、今日は酷い目にあったぜ。タジマの兄貴だけあって完璧イカレてるなあの所長、獣姦ショウなんて普通思いつかねーだろ、思いついても実行しねーだろ。間一髪犬にカマ掘られなくて済んだけどお前が助けに入るの遅れてたら……」
 「僕とて同様だ。安田が助けに入らなければ確実に犬に犯されていた」
 「副所長に感謝しなきゃな」
 小さく呟き、探るように鍵屋崎の横顔を見る。冷ややかに取り澄ました無表情。銀縁メガネがよく似合う理知的な面立ちは安田と共通してる。あの時、鍵屋崎の一大事に我を忘れて駆け付けた安田の必死な形相を思い出す。エリートの威厳も矜持もかなぐり捨て、鍵屋崎を庇って狂犬と取っ組み合い背広をズタズタに引き裂かれた安田の泥まみれの顔……
 「鍵屋崎。お前と安田って、ホントにただの囚人と副所長なのか」
 「どういう意味だ?」
 鍵屋崎がうろんげに目を細める。ぶらぶらと虚空を蹴り時間を稼ぎ考えを纏める。身の危険もかえりみずに鍵屋崎を助けに駆け付けた安田、怒り狂った犬と上下逆転して取っ組み合いながら「すぐる!」と叫んだ必死な顔。すぐる?だれだそれ。鍵屋崎の下の名前は「なお」だ。すぐるなんて知らない。だが安田は確かにそう呼んだ、犬に襲われた衝撃冷め遣らずへたりこんだ鍵屋崎に向かい「すぐる!」と叫んだのだ。
 鍵屋崎は、何かを隠している。
 鍵屋崎と安田の関係についても鍵屋崎が東京プリズンに来た事情についてもわからないことだらけだ。
 「昼間犬に襲われた時、お前助けに血相替えてとんできた安田見て思ったんだよ。絶対おかしいって、普通の囚人と副所長の関係じゃねえって」
 「僕と安田に肉体関係があると疑ってるのか?次元が低い発想だ」
 鍵屋崎が憎たらしく嘲笑する。カッとして、思わず身を乗り出す。
 「たしかに安田はデキた人間だよ、優秀なエリートだよ!でもな、そんなエリート様がたかが囚人のために身の危険もかえりみず狂犬と格闘するなんて俺にはどうしても思えねえ。お前だってわかってんだろ鍵屋崎、東京プリズンの看守にとっちゃ囚人なんてストレス発散の道具に過ぎないって。けど、安田は違う。安田はお前のこと本気で心配してる、心底大事に思ってる。なんでだ?なんで囚人一匹の為にそこまでするんだよ、おかしいじゃねえか。お前と安田って一体」
 「僕が知りたい」
 ため息まじりの返答に毒気をぬかれる。とぼけてんのかと一瞬疑ったが、鍵屋崎の横顔は苦悩に閉ざされて、眼鏡越しの双眸には自己と葛藤する複雑な感情が渦巻いていた。鍵屋崎がおもむろに眼鏡を外し、レンズを下方に翳して闇を透かす。 
 「この眼鏡は安田が修理した」
 眼鏡を手にしたまま振り返り、レイジと話してるヨンイルを鋭く一瞥。鍵屋崎の視線に気付いたヨンイルが片手に挙げるのを無視、再び眼鏡に向き直り述懐を続ける。
 「ペア戦でヨンイルに蹴られて亀裂が入った眼鏡を直させてくれないかと安田が申し出たんだ。三日後、眼鏡は無事返ってきた。その頃安田は上の人間に呼び出されて視察にくる暇もなかったが、修理が済んだ眼鏡を看守に預けて僕へと返して……」
 「……めちゃくちゃ親切だな」
 間の抜けた相槌をうつ。鍵屋崎が黙り込む。安田の特別扱いに対して一抹の疑問と落ち着かなさを感じてるらしく、その顔は浮かない。
 レンズが取り替えられた眼鏡を透かし見て結論する。
 「君の言う通りだ。安田が僕に接する態度はおかしいと認めざる得ない。以前から安田とは接触の機会が多かったが考えてみればこれもおかしい、いくら副所長が職務に忠実で責任感が強いからといって視察で赴いたイエローワークでああも頻繁に僕と会うはずがない。あれは故意だ。安田は僕に会いにイエローワークの砂漠に来てるんだ。僕の様子が心配で、わざわざ顔を見に来てるとしか思えない」
 「まさか。考えすぎじゃねーか」
 天才ならではの想像の飛躍に笑うしかない。そりゃ確かに安田は鍵屋崎のピンチに「たまたま」居合せる機会が多くて、鍵屋崎は何度も安田に危機を助けられてるがだからって……そう否定しようとしたが、否定するだけの根拠がないことに気付いて愕然とする。 
 「わからない。理解不能だ。何故安田はあんなにも僕に関わってくる?明らかに職務越権だ」
 鍵屋崎の横顔に苦渋の色が浮かぶ。俺はなにも言えない。鍵屋崎と安田の関係について何も知らない俺には何も言う権利がない。苦悩の色を濃くした鍵屋崎が力なくかぶりを振り、眼鏡を再びかけ直す。
 虚空の闇に目を馳せた鍵屋崎が、自己の内面に潜りつつ、言う。
 「ひょっとしたら安田は、僕の知らない僕を知っているんじゃないか」
 謎かけのように不可思議な台詞がいつまでも耳に残る。俺は鍵屋崎が心配になった。鍵屋崎にはなんでもかんでも一人で抱えこんではそれを全部解決できず自己嫌悪に縛られる悪い癖がある。なまじ頭がいいぶんわからないことをわからないまま放置できずとことんまで思い詰めてたった一つの真実を追い求めて、真理の光が射さない思索の袋小路に迷い込んじまうのだ。
 こんな時サムライがいれば。
 鍵屋崎の隣、物寂しく夜風が吹きぬける空間を一瞥して舌打ちしたくなる。もし今サムライが隣にいえば、鍵屋崎の苦悩を癒すことはできなくても、鍵屋崎を疑問を解決に導くことはできなくても、鍵屋崎の気持ちを軽くしてやることぐらいできたろうに。自覚はないだろうが、サムライと口喧嘩してるときの鍵屋崎がいちばん生き生きして楽しそうなのだ。いや、口喧嘩という表現は正しくない。鍵屋崎がいつも一方的に小難しい理屈を並べ立てて論破に挑んで、サムライは「うむ」とか「ふむ」とか爺むさい合いの手入れながらそれを聞き流してるだけだ。
 なんでここにいないんだよ、サムライ。
 俺じゃ鍵屋崎の相談役務まらねえよ。
 「今度はなんでサムライと喧嘩したんだよ」
 聞いていいものかどうかさんざん迷ったが、妙な遠慮は俺に似合わないと開き直り、ずばり核心を突いた。鍵屋崎が一瞬うろたえて、すぐに平静を装いブリッジに指をやる。動揺をごまかすしぐさでブリッジに触れた鍵屋崎はそのまましばらく視線をさまよわせて逡巡していたが、ヤケになったように吐き捨てる。
 「原因は強姦未遂だ」
 「!ごーかっ、」
 顎が外れそうになった。どうフォローしていいものやら頭が混乱して、酸欠の金魚みたくパクパク口を開閉するしかなかった。強姦?サムライが鍵屋崎を!?あの堅物がケダモノ化して鍵屋崎の寝込みを襲ったってのか、鍵屋崎に強姦を働こうとしたのか?
 「そりゃあ怒って当然だよ、サムライのヤツ色事にはてんで興味ねえってスカしたツラしやがってとんだむっつりスケベじゃねえか!レイジが俺の寝込み襲うのは悪い冗談みてーだけどサムライは洒落になんねーだろ!ああでもサムライが自慰してるとこなんて想像できねえし売春班利用したって噂も聞かねえしそうなるとやっぱ限界ギリギリまで溜めこんでたのか、無駄に性欲持て余してたってことになるのか!?それでムラムラきて手近なお前を襲っちまったと」
 「勘違いするな、被害者はサムライだ。強姦未遂を働いたのはこの僕だ」
 「!!おまっ、」
 二重の衝撃に目が眩む。鍵屋崎が、サムライを襲った?んなまさかと耳を疑ったが冗談言ってる様子はないし前言撤回する気配はないしマジ、マジなのか?鍵屋崎の衝撃的告白に腰を抜かした俺は、ことの真偽を確かめようと意気込んで身を乗り出して……
 「!危ないっ」
 ぐらりと体が揺れて夜空が遠ざかった。
 均衡を崩して体が前傾、展望台の向こう側へと転落しかけた俺の腕を掴んで鍵屋崎が引き戻す。あ、あぶねえ。小便ちびりそうだった。一歩間違えた地面にまっさかさまで転落死してた。間一髪命拾いした俺は、鍵屋崎に礼を言うのも忘れて胸ぐらに掴みかかる。
 「強姦未遂って、お前、そんなに欲求不満だったのかよ!?」 
 「誤解しないでくれたまえ、僕はサムライの寝姿に欲情したわけじゃない。性欲が昂じたあまりに睡眠中で抵抗できないサムライに襲いかかったわけじゃない。そもそも人間が性欲を感じる原理は脳と深く関係していて、人の生存に関わる食欲と性欲は約1400Gの脳の中心にある5Gの視床下部から生じるもので…」
 「ごたくはいい、俺が聞きてえのはお前がサムライの寝込み襲った理由だ!」
 どうかしちまったのか鍵屋崎は。売春班の傷もまだ癒えてねえってのにサムライ誘惑するような真似して、んなことすりゃお互い傷深めるに決まってるじゃないか。お互い傷抉るに決まってるじゃんか。俺は自暴自棄ともいえる鍵屋崎の振るまいに純粋に怒っていた。鍵屋崎とサムライが喧嘩しようが突き詰めれば二人の問題で知ったこっちゃないと前述したがそれはそれこれはこれ、鍵屋崎が自分を粗末にして投げ出すようにサムライに身を任せたんだとすれば絶対許せねえ。
 売春班であれだけ辛い目に遭ったのにまだ自分を傷付けるのか、気が済まないのかと自虐に対する怒りに震えながら胸ぐら掴む手に力をこめれば、鍵屋崎が目を伏せる。
 「サムライの、いや、帯刀貢の本性が知りたかったんだ」
 「わけわかんねーこと言ってごまかすな!」
 「サムライが僕を抱いても関係性が変わらなければ、彼とずっと友人でいられると思ったんだ!!」
 は、あ?
 思わぬ返しが気勢を削ぐ。手の指が緩み、すっぽり上着が抜ける。皺くちゃの胸ぐらを手の平で撫で付け俺とは目を合わせず鍵屋崎が付け足す。
 「本末転倒かつ支離滅裂なことを言ってる自覚はある。ただあの時は本気でそう思い込んでいた。あの夜の僕は直前に見た悪夢のせいで冷静さを欠いていた、錯乱状態にあった。僕は帯刀貢の本性が知りたかったんだ、静流の言ったことが真実か否か確かめたかったんだ。サムライが僕を抱いて、それでも僕らの関係性が変化しなければ僕らはずっとこのまま友人でいられると思い詰めていたんだ」
 「つまりお前は、ずーっとサムライとダチでいたくて、サムライに抱かれようとしたってのか?」
 「……笑いたければ笑え。サムライに抱かれたところで体は減らない。僕はすでに汚れた身だ、男に抱かれることにも抵抗はない。サムライと性交渉を持って、それでも彼との関係性が変わらなければ、僕は帯刀貢の過去にも敢えて目を瞑り知らないふりをしようと決めたんだ」
 議論を打ちきり鍵屋崎がそっぽを向く。眼鏡の奥の目に悲痛な光が宿る。痛々しく傷付いた子供みたいに無防備な横顔に胸がざわつく。まったく、不器用な天才だ。極端から極端に走りがちな鍵屋崎にあきれる一方で苦労が報われないサムライに同情する。  
 「お前さあ、もうちょっとサムライ信用してやれよ。可哀想だぜ」
 「………」
 「サムライがお前抱くはずないじゃん。あんなに大事にしてるのに」
 「随分余裕じゃないか。レイジに抱かれて勝ったつもりか」
 「勝ち負けの問題じゃねーだろ。どうしたんだよ、ガキみたいなやっかみお前らしくもねえ」
 レンズ奥の目に激情が炸裂、鍵屋崎が何かを言いかけたのを遮り足音が近付いてくる。不意に肩に体重がかかる。背後にやってきたレイジが俺と鍵屋崎の肩をなれなれしく抱いて人懐こい豹みたいに頬擦りよせてきたのだ。
 「喧嘩すんなら俺も混ぜろよ、イケズ」
 「イケズって死語だろ死語。お前はあっち行ってヨンイルと遊んでろ」
 「つれなくすんなよ、お互いからだの隅々まで知り尽くした仲じゃんか」
 俺と鍵屋崎の間にちゃっかり割って入って突端から足を投げ出す。鍵屋崎は渋面を作り、肩にかかった手をどかそうと体を揺するが払っても払ってもきりがないのでやがて諦めたようだ。
 「落ち込んでんなら相談に乗ってやるよ」
 「最前君の相棒に相談に乗ってもらったが、壁と議論するほうがまだしも暇潰しになった」
 だがレイジは聞いちゃいない。鍵屋崎につれなくされてもへこたれずに口説き上手な色男の本領発揮、鍵屋崎に摺り寄るように体を移動させ耳朶に吐息を吹きかける。
 「慰めてやろうか?」
 野郎、すーぐこれだ。鍵屋崎の肩に摺り寄り、陰のある笑みをちらつかせて誘惑するレイジに反発。無造作に手を伸ばしてニヤけた頬っぺを思いきりつねりあげれば、レイジが比喩でも何でもなく跳び上がる。
 「いででででっででででっ、冗談、冗談だってロン!マジで怒るなよ痛い痛っ、顔はやめて商売道具だから、やるならボディーにして!?」
 「わかった。ボディーな」
 心優しい俺はパッと手を放して今度は脇腹の肉をつまみ、前よりさらに力を込めてぎゅっとつねりあげる。レイジが声にならない声あげて悶絶、ひっくり返って後頭部を強打せんばかりに大きく仰け反る。
 「か、可愛いなあロンは!目の前で浮気されて怒ったんだろ、キーストアにちょっかいかけたからヤキモチ焼いたんだろ!?なら素直にそう言えよ、素直になって俺の胸に飛び込んでこいよ全身八十箇所にキスマーク付けて記録更新してやるからっ」
 「キスマークなんかギネス申請すんじゃねえ、お前があちこち食い散らかしてくれたおかげでこちとら大恥かいたじゃねえか!犬に服破かれただけでさんざんなのにキスマークまでバレて顔から火がでるほど恥ずかしかったんだぜ、しかもあれから帰りのバスでボロボロの服のまま乗って、まわりの囚人にゃあ大声でキスマーク数えられて……ああああっ、思い出したら死ぬほどむかついてきた!」
 帰りのバスの中じゃ大恥かいた。スケベな囚人どもが俺のまわりに寄ってたかって体の裏表至るところのキスマークを数え上げて、吊り革掴まって下向いてる間も顔真っ赤だった。これも全部レイジのせいだと怒りが沸騰、一発殴ったくれえじゃ足りねえとこぶしを振り上げ―
 「できた」
 ヨンイルの歓声が夜空に響く。
 「!」
 揃って振り向いた俺たちは、空へと向いた大砲を満足げに見下ろすヨンイルの手に、黒い玉が握られてるのを発見。レイジをぶん殴ろうとした姿勢のまま固まった俺は、まじまじとその謎の物体を見つめる。大砲の、玉?あれを大砲に詰めて夜空に向かってぶっ放すつもりだ?そんなことして何に……
 「喜べヨンイル。タイミングよくゲストのご到着だ」
 レイジがやんわりと胸ぐら掴んだ俺の手を外し、暗闇に包まれた中庭を見下ろす。レイジの視線を追って中庭を見下ろしたが、何もない、誰もいない。コンクリート敷きの中庭には無骨な塔が聳えて、夜間絶やされることないサーチライトの光が機械的に首振りつつ、煌煌と夜空を照らす―……
 いた。
 静寂と闇が支配する中庭を人影が歩いてくる。最初に聞こえてきたのは、コンクリートを叩く規則的な靴音。静寂の水面をかすかにかき乱してやってきた人物の顔は、暗闇に閉ざされて目鼻立ちも定かではない。 監視塔のサーチライトが緩慢に動き、白い帯がたなびき、闇を切り裂くように鮮烈に一条の光が射し込む。サーチライトから放たれた冷光の延長線上に立っていたのは、くたびれた中年男。
 闇を駆逐する光の眩さにわずかに顔を顰め、手庇を作って展望台を仰ぎ見ている。 
 俺は、息を飲む。サーチライトに暴かれた中年男の顔に見覚えがあったから。鍵屋崎も驚く。その男が、本来東京プリズンにいるはずのない人物だから。とっくに東京プリズンを去ったはずと思い込んでいた人物だから。レイジだけがいつも通り余裕の表情で、中庭に立ち竦む男に歓迎の意を表して手を振る。
 「ようこそ。俺らの愛すべき看守の五十嵐さん」
 「レイジ、こいつあ何の真似だ?同僚からの言伝で来てみりゃあ……」
 不審顔の五十嵐に感じ良く微笑みかけ、唄うように言う。  
 「知ってるんだぜ。あんた、明日には東京プリズン発つんだろ。ジープに乗って出てくんだろ、有刺鉄線の向こう側へ。羨ましいぜ、正直。俺はたぶん、ずっと一生死ぬまでここ出れねえから」
 「レイジ……」
 痛みを堪えるような顔で五十嵐に名を呼ばれ、一抹の寂しさを漂わせてレイジが苦笑する。
 「違う、そうじゃないんだ。別にあんたを責めてるんじゃないんだ。他の連中のようにあんたに裏切られたとも思わねーよ。あんたの親切が嘘だったとも思わない。覚えてるか五十嵐?あんた、前にロンに麻雀牌くれたことあったよな。あの時ホント喜んでたんだぜ、ロン。俺も嬉しかった。ロンが俺以外の誰かに優しくされることってあんまりないから、お前がホントの親父みたいにロンに接してくれてちょっと嬉しかったんだよ」
 「ま、ヤキモチ焼いたのも事実だけどさ」と冗談めかして付け加えてレイジが笑い声をあげる。泣き笑いに似て表情が崩れた五十嵐の悲哀に胸が締め付けられる。五十嵐は明日、東京プリズンを発つ。東京プリズンから永遠にいなくなっちまう。俺はまだ五十嵐に牌を手渡された時のぬくもりを覚えているのに、五十嵐に頭なでられた時の照れ臭い気持ちを覚えているのに、明日になりゃ本当にいなくなっちまうんだ。
 そっと尻ポケットに手をやり、すべすべした牌の感触を確かめる。
 五十嵐の顔がまともに見られず俯いた俺の肩を励ますように抱き、レイジが顔を上げる。
 「ロンの……いや、囚人どもの親父代わりがいなくなるのは残念だけど、あんたが納得した上での決断なら俺が口出すことじゃない。あんたを今日ここに呼び出したのは責める為じゃない、東京プリズンを去る前にどうしても見せたいものがあるからだ」
 サーチライトから延びた光が闇を切り裂きレイジの横顔を暴く。胸の十字架がサーチライトの光を反射、微塵に砕いた黄金の粒子を纏ったように神聖に輝く。展望台の上と下とで対峙する王様と平看守の間に緊張の糸が張り詰める。俺と鍵屋崎は言葉もなく高低差を隔てて対峙する二人を見比べていた。 
 おもむろにレイジが立ち上がる。
 展望台の突端に立ったレイジが後ろを振り向き、ヨンイルを見る。不恰好な大砲の隣に片膝ついたヨンイルが緊張の面持ちで頷き、懐から矩形の箱をとりだす。古めかしいマッチ箱。箱から一本取り出してあざやかな手つきでマッチを擦れば、闇を一点食い破り、橙色の炎がともる。
 マッチの炎に赤々と照らされるヨンイルの顔には、俺がこれまで見たこともない真剣な表情が浮かんでいる。額にかけたゴーグルにマッチの炎が映りこみ、真紅に染まる。
 赤々と炎に照り映えるゴーグルの下、同じく炎を宿した目に切実な懇願を浮かべ、大砲の尻からとぐろを巻いて延びた導火線に揺らめく炎を近づける…… 
 「花火師としての初仕事。神様手塚様じっちゃん、あんたらんとこまで届くどでかい花火を打ち上げたるさかい、剋目せい」
 導火線に火が移る。赤い光点は瞬く間に導火線を焦がして大砲の尻へと収束し、そして……
 夜空に向かい高々と片腕を突き上げ、絶好調でレイジが飛び跳ねる。

 『Let's begin a party, Guys appear!!』

 地鳴りめいた轟音が展望台を揺るがしたのは、その瞬間だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050621164353 | 編集

 サムライは黙々と廊下を歩く。
 彼を追い立てるのは焦燥と自己嫌悪。普段から景気の悪い仏頂面をさらに渋くして大股に歩く姿には近寄りがたく剣呑な殺気が漂っている。
 
 行くあてはない。
 房にまっすぐ帰るのも気が進まない。 
 房に帰れば直と顔を合わせてしまう。

 薄暗い房で顔突き合わせ直と二人きりで何を話せばいいかわからない沈黙を思えば気分は塞ぎ、房から足が遠のく一方。
 こうして特にあてもなく通路を彷徨しているのは直と顔を合わすのを避ける為だと自分でもわかっている。わかっているが、どうしようもない。
 サムライは苦悩していた。
 脳裏にちらつくのは一昨日の夜の直。
 深刻に思い詰めた表情は自虐の翳りに閉ざされて、囚人服が痛々しいほどに華奢な体はかすかに震えていた。
 抱きしめるのを躊躇うほどに華奢な体。
 指で触れれば砕けそうなほどに脆く張り詰めた横顔。
 『サムライ、僕と性行為に及べ』
 感情が欠落した命令調に耳を疑った。一瞬で眠気は払拭された。
 あれは悪い夢だったのではないかとくりかえし自問する度に、否、あれは現実だと心の奥底から声がする。
 昨夜の直は様子がおかしかった。明らかに異常だった。
 再三におよぶ説得にも耳を貸さず積極的に迫ってきた、スプリングを軋ませ隣に腰掛け淫靡な手つきで彼の太股を撫でた。直の手の平が触れた場所がぞくりと鳥肌立った。悪寒、寒気、それ以外のもの……ふわりと熱を孕み毛穴が開くような、未知なる官能の感覚。体毛が帯電したかのような戦慄。
 あれは一体何だったのだ。ただ、触れられただけだ。それなのに。
 「…………」
 眉間に皺を寄せ物思いに耽る。
 憂いに閉ざされた横顔にはひんやりと人を拒む冷気が漂っている。
 一昨日の記憶を振り払うように歩調を速めるが、そんな彼を責めるように切羽詰った声が追いかけてくる。
 『寝ぼけてなどいない。意識は覚醒している』
 断言。
 『どうした。僕と性行為に及ぶ度胸もないのか』
 挑発。
 『こんな貧相な体は抱きたくないか。痩せた腹も薄い胸も細い首も不健康に生白い肌も』
 自嘲。
 あんな直は知らない。あんな偽悪的で露悪的な直は知らない。毛布に手を潜らせ彼の太股をなでさすりしたたかに微笑んだ、彼が見慣れた潔癖な少年の顔ではなく淫らな娼婦の顔で耳朶に熱い吐息を吹きかけた。誘惑。
 サムライは混乱した。
 何故こんなことをするんだと直を憎んだ。
 売春班では来る日も来る日も男に犯され体も心も酷く傷付けられて死の一歩手前まで行ったではないか。なのに何故今また自分を粗末にする、自虐の衝動に任せて男に身を委ねようとする?
 サムライは直に殴りかかりたい衝動を必死に堪えて誘惑に抗った、肩に凭れかかる直の体温に理性が蒸発するのを感じながら努めて平静に言った、今晩のお前は正気じゃないと、正気じゃないお前を抱くわけにはいかないと頑固に拒んだ。
 そして直は、禁忌を犯した。
 『苗の体と僕の体と、どちらがより君を酔わせるか実験してみたらどうだ』
 直は笑いながらそう言った。苗と自分とどちらの体がよりいいか比較してみろと過去の傷を抉り煽ったのだ。
 瞬間、サムライは我を忘れた。相手が直だというのに手加減を忘れて突き飛ばし押し倒していた。仰向けに倒れた直が悲鳴をもらしてもその目に恐怖の色が浮かんでも、一度飛散した理性をかき集めるには至らなかった。
 表面温度と半比例し体の芯に憎悪が凝り冷えていくのがわかった。
 床に仰向けに寝た直にのしかかり、その胸ぐらを掴み、鋭い眼光で射竦める。
 これまで敵以外に向けたことのない猛禽の眼光。
 『そんなに俺に抱かれたいか。飢えているのはどちらだ』
 『さかるのは勝手だが、相手は選べ』
 サムライは冷淡に直を拒絶して背を向けた。あれ以来直とは言葉を交わしていない。彼らの一日は沈黙で始まり沈黙で終わる。直もまたあれ以来サムライを避けて房で二人きりになるのを極力避けている。
 食堂で隣り合った席に座っても食事に集中するふりでお互い目も見ず会話もせず倦怠を共有するのみだ。 
 いつまでこんな日々が続くのかと考えると気が滅入る。
 失言は認める。多少言いすぎたと思わないではない。
 しかし、直にも非がある。
 「……あんなはしたない真似をして、けしからん」
 粛々たる大股で歩きながら激しく唾棄するサムライは、いつのまにか自分が房を遠く離れた別の区画に来ていることにも気付かなかった。武士にあるまじき失態、一生の不覚。電池切れかけの蛍光灯が短い間隔で点滅する荒廃した区画に迷い込んだサムライは、いい加減引き返そうと踵を返し……
 「散歩?貢くん」 
 「!」
 振り返る。
 電池の切れた蛍光灯が瞬きをくりかえす通路、一際濃く闇が蟠った一角に少年がいた。壁に背中を凭せて、謎めく笑みを浮かべてこちらを見つめている。流れる黒髪の下には物憂げに煙る双眸、スッと通った鼻筋と薄く整った口元に含羞の風情が漂う少年だ。容姿は全く違えど、どこかサムライと似通った印象を与えるのは両者に流れる血の宿業だろうか。
 「静流」
 驚き名を呼べば、少年が微笑む。
 人の心を虜にする魅惑の微笑。
 壁から背中を起こした静流がゆっくりとこちらに歩いてくる。サムライは微動だにせず静流の接近を待った。
 逃げも隠れもせず堂々と通路の真ん中に立ち塞がるサムライの手前で静止、対峙。 
 「こんなところにいたのか。得物もなく出歩くのは物騒だ。いつ不埒な輩に襲われるともわからん、即刻房に帰れ」
 「相変わらず心配性だな貢くんは。その性格変わってないね、昔から」
 喉の奥で愉快そうに笑い声をたて静流が目を細める。
 サムライもつられて目を細める。
 眼前の笑顔が子供時代の面影に重なり、当時の記憶が鮮やかに甦る。 とうに葬り去ったはずの過去の情景が瞼の裏で像を結ぶ。
 四季折々の花が爛漫と咲き誇る風情ある庭で、無邪気に戯れる子供達。
 地を刷く振袖をたくし上げて桜の枝に手を伸ばすのは、幼き日の静流。
 かつてあった平和な日々に思いを馳せ、束の間感傷に耽ったサムライを現実に呼び戻したのは静流の声。
 「僕のことなら心配しないでも大丈夫。こう見えても帯刀分家の嫡男、自分を身を守る術くらい仕込まれてるよ。貢くんも覚えているでしょう、分家に生まれた者の宿命を。万一本家の跡取りが急逝した場合の保険として、僕は物心つく前から徹底して剣を習わされた。万一君に何かあった時は本家の跡取りが務まるようにって、帯刀の姓を名乗るに恥ずかしくない教育を施された」
 「……ああ。そうだった」
 「でも、結局は凡人どまり。僕も精一杯努力してみたけど、君にはかなわなかった。打ち合いの稽古でも一度として勝てなかった。容赦ないんだもの、貢くん」
 「手加減は相手への無礼にあたる。そんな卑劣な真似できるものか」
 「ふふ。堅苦しいところも相変わらずか。嬉しいよ、君が変わってなくて」
 幸福そうに静流が笑う。
 何故そんなふうに笑えるのか理解できない。
 静流とは疎遠になって久しい。父と叔母が仲違いして分家との行き来が絶えてから既に何年も経つというのに、数年ぶりに再会した美しいいとこは、サムライに屈託なく声をかける。
 サムライは戸惑うばかりだ。
 「本当によかった。安心したよ、僕が思い描いた通りの君でいてくれて」
 二度くりかえし、静流が意味ありげにサムライを見る。
 漆黒に濡れた目でまっすぐ見据えられ落ち着かなくなる。
 こうしてここで会えたのも縁だと割り切り、咳払いをする。
 「静流。お前に聞きたいことがある」
 「なに?」
 静流が首を傾げる。サムライの双眸が鋭くなる。
 凄味を帯びた双眸で静流を睨み、慎重に口を開く。
 「直に苗のことを話したのは、お前だな」
 静寂に支配された廊下にその声は予想以上に大きく響く。
 低く威圧的な声音がコンクリ壁に反響し、殷殷と鼓膜に沁みる。
 声の残響が大気に呑まれて消滅するまで、静流は一言も発さずただそこに佇んでいた。
 緊迫。サムライの双眸がさらに鋭くなる。苛烈な白刃に似た切れ味の眼光……
 「あたり。もうバレちゃったか。そのぶんだと彼、相当思い詰めてたみたいだね」
 翻した手で口を覆い、しとやかに笑う静流を油断なく見据えたままサムライが一歩を詰める。
 「苗のことを知っているのはお前しかいない。ならば直に吹き込んだのはお前しかおらん。静流、お前はやはり」
 そこで言葉を切り、苦しげに顔を歪める。
 「やはり、俺を憎んでいるのか?」
 次第に二人の距離が縮まる。サムライの足が速まる。激情に駆られるがまま静流に歩み寄ったサムライはしかし、体の脇でこぶしを握り固め、抑制した声音で吐き捨てる。
 「俺のせいで帯刀家は没落した。累はお前や薫、伯母上にまで及んだ。帯刀家はおしまいだ。お前が俺を憎むのは当然だ。お前は幼い頃から必死に剣の修行を積んだ、やがては伯母上の期待に応えて立派な後継ぎになる為に励んできた。しかし俺が撒いた醜聞により帯刀家は一族郎党を巻き添えに終焉を迎えた。分家の跡取りたるお前の無念はいかばかりか察するにあまりある。お前が俺を憎むのは当然だ、俺はそれだけのことをしたのだから……帯刀の恥さらしなのだから」
 感情を抑制した無表情で、淡々と言う。
 自責の念に苦しみ葛藤するサムライを静流はただ醒めた目で眺めていた。深々と項垂れたサムライはそれに気付かない。
 体の脇でこぶしを結んだままおのれの罪と向き合いその重さを抱え込み、深呼吸してやっと顔を上げる。
 「俺を許せないならそれでいい。しかし、直を傷付けるのはよせ。直は関係ない、あいつは!」
 「真実を知られるのが怖いの?」
 静流が、動く。衣擦れの音も涼やかにサムライに摺り寄り、その頬へと手を伸ばす。咄嗟のことで払いのける暇もなかった。
 「本当に彼のことが大事なんだね。初めて見た時にわかったよ、ああ、彼が苗さんの代わりなんだって」
 「違う」
 サムライが反駁する。
 直は苗の代わりなどではないと心が叫ぶが、口には出せない。そんなサムライに憫笑を捧げて静流が続ける。
 「展望台で君に寄りそう彼を見てびっくりした。彼、苗さんにそっくりじゃないか。似てるのは顔じゃない、雰囲気さ。君にすべて任せて頼りきって、庇護に甘んじて依存に安らいで、全面的に信頼して。ほら、苗さんにそっくりじゃないか。苗さんも君のことを盲目的に信頼してたものね。ああ、これは悪い冗談だ。僕としたことが無神経だったね、謝るよ。気を悪くしないでね。苗さんは盲目的もなにも実際目が見えなかったんだから」
 「やめろ」
 「光のない世界に生きる苗さんにとって君だけが唯一心を許せる存在だった。苗さんは君のことを心底慕って幸福に結ばれる将来を夢見ていた。一途な女性だったね、苗さんは。苗さんは君のよき理解者であり君は苗さんのよき庇護者だった。そういうのなんて言うか知ってる?共依存って言うんだよ。お互いに縋って溺れて傷を舐め合う優しい関係のこと。ここだけの話、僕、貢くんに嫉妬してたんだよ。苗さんと仲睦まじく寄りそう姿を見て、なんて似合いの二人なんだろうって……」
 「静流、やめろ」
 静流はやめない。
 サムライの傷を抉る行為に残酷な快楽を見出し、嬉々と続ける。
 「君は今も昔も変わってない。よい意味でも悪い意味でも。真実から目を背ける君の卑劣さが苗さんを追い詰め首を吊らせたんだ。君がもっと早く真実に気付いていれば誰をも不幸にする結果にはならなかった。莞爾さんは君のことを心配していた。だから苗さんとの仲を引き裂こうとした、手遅れになる前に。でも、駄目だった。君は何も知らなかった。苗さんの苦悩も、莞爾さんの焦燥も、そして……」
 「やめろ!!」
 恐慌に駆りたてられたサムライが肩に掴みかかるのにも動じず、儚く微笑する。
 薫の面影を宿した笑顔。
 
 「僕と姉さんの恋情も」

 壁が振動し、蛍光灯が揺れる。
 蛍光灯に降り積もった埃がぱらぱら舞いちる。
 白い綿埃が舞う中、静流に引かれるように通路の暗がりへと誘い込まれたサムライの唇が塞がれる。
 柔らかく熱い何か……静流の唇。
 「!ぐっ、」
 壁に背中を押し付けたサムライにのしかかり強引に唇を奪う。
 唇にねっとりと舌を這わせ、愛撫し、唇の隙間から舌を潜らせて歯を舐める。口腔に侵入した異物の不快感に顔を顰めたサムライは、反射的に直の唇の感触を思い出す。
 図書室の鉄扉に押し付け直の唇を奪った夜の記憶が、熱く柔らかい感触に重なりまざまざと甦る。
 あの夜、直の唇を奪ったのには理由がある。夢を、見たからだ。おそろしく不吉な夢。おそろしく生々しい夢。いつも見る悪夢にでてくるのは苗だった。しかし、あの夜は違った。夢に出てきたのは直だった。
 そして。

 『サムライ!』  

 直が、呼ぶ。
 声を限りに助けを求める。しかし間に合わない。必死に走り手を伸ばしてもぎりぎりで間に合わず、直の体はゆっくりと、滑るように奈落へ落ちていく。彼のほうに手を伸ばしたまま、眼鏡越しの目に静かな諦念を宿して、絶望に凍り付いた顔で……
 真紅の劫火が燃え盛る地獄へと堕ちていくのだ。
 夢だと思いたかった。夢であってほしかった。目覚めた時は心の底から安堵した。房を出て人に会いに行くと言い出した直についていったのは、不吉な夢を見た直後だったからだ。直の唇を奪ったのは、直が今確かにここにいると己に言い聞かせて安心したかったからだ。
 夢の中ではいつも苗だった。
 疾駆が間に合わず劫火に呑まれるのは苗だった。
 再び大事な人を失う予感に怯えて、気付けば眼前の直の唇を奪っていた。
 ただそれだけのことなのだ。
 「んっ、は……しず、る!いい加減にしろ!!」
 華奢な細身に反して静流の力は強い。
 引き剥がすだけで腕が疲れた。
 漸く静流を引き剥がしたサムライは、手の甲で唇を拭い、肩を浅く上下させつつ言い放つ。
 「俺に男色の趣味はない、接吻など言語道断……」
 そこまで言いかけ、絶句。
 静流がおもむろに服を脱ぎ出したからだ。
 上着の裾に手をかけ艶めかしく身をくねらせ脱いでいく静流に驚愕する。
 「静流、何の真似だ!?」
 静流の手を掴み制止する。服を脱ぐ手を止めた静流が虚ろな目でこちらを仰ぐ。
 説教を続けようとして、サムライは見た。
 しどけなく裾が捲れた下腹部に乱れ咲く無数の痣。
 指でおされた手形、口唇で吸われた痣……よくよく見ればかつて直の体にあったのと同じ淫らな烙印が全身至るところに散り咲いている。
 「これ、は」
 「強姦されたんだ。だれに、とは聞かないで。答えられないから」
 人肌恋しくサムライの肩に顔を伏せ、静流が気弱に呟く。
 「東京プリズンに来たばかりで囚人の名前と顔が一致しないんだ。相手は複数いた、抵抗できなかった。泣いて叫んで許しを乞うても無駄だった。助けを呼べば殴られた。耐えるしかなかった」
 静流がサムライに抱きつく。
 「君の大事な友達に嘘を教えた前の日だよ。嘘を教えて、彼には悪いことをしたと思ってる。あの日の僕はどうかしていた。自分がされたことを誰かに返したくて、とんでもなく残酷な気持ちで、犠牲者をさがしてあてもなく歩いてるさなかに偶然彼を見つけたんだ」
 「もういい、静流。無理に話さずともいい」
 サムライが苦しげに言い、ぎこちなく静流を抱擁する。
 いい匂いがした。むかし薫がつけていた香水と同じ匂い……静流を抱きしめるのは初めてではない。幼い頃の静流は臆病で、蜘蛛の巣にひっかかったと言っては泣きじゃくり、姉にいじめられたと言っては彼に頼った。
 なかなか泣き止まない静流をこうして抱きしめてやった日のことを思い出し、優しく背中を撫でてやる。
 脳裏に直の顔が過ぎる。
 直を抱いて寝た夜のことを思い出す。
 首筋から匂い立つ清潔な石鹸の香り、直のぬくもり―……
 あれは、直の匂いだ。静流の匂いとは違う。
 直からはこんな甘い匂いはしない……
 「……お前がここに来たわけは、今は聞かん。落ち着いてからでいい。最前俺にあんな振るまいをしたのも、辛い目に遭い錯乱していたからだ」
 静流には聞きたいことが山ほどだった。何故東京プリズンにきたのか、どんな罪を犯したのか、叔母と薫は今どうしているのか……それら全てを一度に聞きたい欲求を押さえ込み、今は静流をなだめることだけに専念する。静流の肩を抱く手に力を込める。
 幼い日、姉にいじめられたと泣くいとこにそうしたように。
 性欲はない。あろうはずがない。疚しい気持ちなどもとよりありはしない。
 ただただ傷付きうちひしがれた者を癒したい一心で、その体を抱きしめる。
 「辛かったな、静流。だがもう大丈夫だ。俺がついている」
 腕の中でかすかに震える静流の体温を感じ、目を閉じ、断言。
 「下郎どもに手だしはさせん」
 サムライの腕の中で顔を伏せ、肩を震わせ静流は泣いていた。

 否。
 笑っていた。
 邪悪に、邪悪に。とんだ茶番もあったものだと、肩を震わせ声を殺し笑っていた。

 肩の震えを嗚咽と勘違いしたサムライはますます強く静流を抱きしめる。
 そうして静流を抱きながら、あの夜抱いた直は静流よりさらにかぼそく震えていたなと思い出した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050620014737 | 編集

 「なにごとだ、体感震度マグニチュード6.2の自然災害か!?」
 展望台が激しく揺れる。
 地震と錯覚するほどの衝撃に翻弄されてレイジの方へと倒れこむ、レイジが僕とロンの肩をしっかり抱いて庇うように上体を伏せる。至近距離で発生した轟音の波動で聴覚が飽和、大音響に痺れた鼓膜が回復して正常な聴覚を取り戻すまでの数秒間が完全な静寂に支配される。
 無音の静寂と濃密な闇に閉ざされた視界の彼方、天衝く大砲から放たれた砲丸が白煙の尾をたなびかせて空の高みに上っていく。
 どこまでもどこまでも遮る物ない夜空へと長大な楕円軌道に乗じて上り詰めた砲丸を見送り展望台の中央に立ち尽くすヨンイル。上着の胸を掴み、空の一点を凝視する顔は緊張に強張っている。
 真剣な表情を浮かべたヨンイルが祈るように仰ぎ見る中、遂に天心に達した砲丸が眩いばかりの閃光を放つ。
 光球が膨張する。
 周囲に鮮烈な光を撒き散らし膨張した砲丸がやがて炸裂、夜空で光が爆ぜる。
 「『はじまりに光あれと神は言った』
 天地創造の一節をしたり顔で口にするレイジの腕の中で僕はその光景を目撃した。夜空を明るく染め抜く光の饗宴。光に照らされ濃紺に明るんだ闇を内包する精緻な細工の蜘蛛の巣。
 極彩色に光り輝く糸で織られた大輪の花火が夜空に出現。放射線状に火花を散りばめて収束する花火は僕らが呆けて見ている前で赤からピンクへ、ピンクからオレンジへと濃淡が移り変わり見る者を飽きさせない。
 闇が濃ければ濃いほど光は映える。
 絢爛な花火は多彩な変化を見せて、極彩色の残光で闇を照らしだす。
 「すっげえ」
 花火に心奪われたロンが感嘆の声を発する。花火を見るのは生まれて初めてなのだろうか、興奮で頬が紅潮してる。そんなロンを微笑ましげに見やりながらレイジもまた称賛の口笛を吹く。僕は夜空から目が離せなかった。花火が青白く燻り燃え尽きて随分経ってもまだ衝撃冷め遣らず、放心状態で突端に座り込んでいた。
 だが、この場で最も驚いたのは五十嵐だ。
 「レイジ、こりゃあ何の真似だ!?」
 声に反応して眼下に目をやれば五十嵐が驚愕の面持ちで天を仰いでいた。首を痛めそうなほどに仰け反り、薄ぼんやりと白煙漂う夜空を仰ぎ見る五十嵐に笑いを噛み殺してレイジが説明する。
 「お別れパーティー。粋な仕掛けだろ?」
 「お前が発案者か?」
 「いんや」
 「俺や」
 レイジの隣にヨンイルが立つ。二週間ぶりの邂逅。
 ヨンイルを見た瞬間に五十嵐の顔が強張るが、ヨンイルは敢えてそれを無視して、堂々と胸を張り展望台の突端に仁王立つ。
 自分がたった今成し遂げた仕事に誇りを持ち充実感を覚えた職人の顔。弾痕が穿たれたゴーグルに手をやったヨンイルは口を開かず、ひどく大人びた顔で静かに五十嵐を見つめる。見つめ続ける。
 怨恨も憎悪もそこにはない、未練すらない。
 あるのはただ一抹の感傷だけ。ヨンイルの横顔にたゆたっているのは人知れず逝く者に対する追悼の念、東京プリズンを去る決意をした五十嵐に対する憧憬の念。
 いつもの腕白な笑顔からは想像できないほどに達観した表情のヨンイルが、火薬の匂いが大気に溶け混ざり漂う展望台に佇み、五十嵐を見つめる。
 この距離と暗さでも五十嵐の動揺が手に取るようにわかった。
 喉仏が動いて生唾を嚥下するさまさえ見えるようだった。
 物言わぬヨンイルの迫力に気圧されあとじさった五十嵐がそのまま身を翻し逃げ出そうとする。
 ヨンイルの凝視に耐えかねて背中を向けた五十嵐が、そのまま中庭を突っ切ろうと―……
 「逃げるな、五十嵐」
 凛とした声が響く。鞭打たれたように五十嵐が硬直する。
 展望台の突端に立ったヨンイルは、たった一言で完全に五十嵐の動きを封じ場の主導権を握った。僕は見知らぬ他人を見るような新鮮な思いでヨンイルの様子を窺った。レイジに肩を抱かれたロンも同様だ。
 ゴーグルを跳ね除けた下、吊り目がちの精悍な双眸から放たれる容赦ない眼差しに射竦められ、五十嵐の背中がわななく。
 数秒が過ぎた。僕とロンが固唾を飲んで両者を見比べる中、五十嵐がゆっくりと振り向く。
 「俺に用があんのはお前か。いまさら、仕返しするつもりか?」
 唇を捲り、皮肉げに笑う五十嵐に胸が痛む。
 五十嵐には似合わない露悪的で偽悪的な笑顔は、わざと作ってると誰にでもわかるぶざまな出来映えだった。
 「俺は明日東京プリズンからいなくなる。荷物纏めて宿舎をでて永遠にいなくなるんだ。リカの復讐は失敗した。いったんここから出ちまえばお前には二度と手が出せねえ。だから安心しろ、ヨンイル。お前は今までどおり暇な一日漫画三昧の気ままなムショライフに戻ればいい。だれにも気兼ねなく好きな漫画読んで遊び暮らしてここで一生終えるんだ。望み通り本に埋もれて大往生できるんだ。なあ、満足だろヨンイル。これがお前の望んだ結果だろ?」
 ヨンイルは否定も肯定もせず五十嵐の糾弾に身をさらしている。
 五十嵐の悲痛な表情からは、否定してほしいのか肯定してほしいのか自分でもわからず混乱してる様子が痛いほど伝わってきた。 
 「……お前にしたことが決して誉められたことじゃねえってのはわかってるよ。仮にも殺人未遂だ。追放処分だけで済んだのが奇跡みたいなもんだ。言い訳はしねえ。仕返ししたいならしろ。俺だってリカを殺された仕返しにお前を狙ったんだ。今度はおまえの番だよ、ヨンイル。憎しみってのはそうやって延々と連鎖してくんだ。俺もお前も逃げ切れねえ。俺は一生リカを助けられなかった後悔に縛られて生きいていく。お前は一生二千人を殺した罪の重さに縛られて生きてく。好きな手塚読んでるときもマスかいてるときもクソひるときもお前が二千人殺したって事実はいつでも付いて回るんだ」
 「ああ」
 「その中に、リカがいる」
 「ああ」
 「二千人の中にリカがいる」
 「ああ」
 「……俺、やっぱりお前嫌いだよ」
 五十嵐がひどく苦労して笑顔を作る。苦笑。ヨンイルはどんな顔をすればいいのかわからず困惑した様子。そして、笑うことにした。五十嵐につられて笑ったわけじゃない、自分で決めて笑ったのだ。
 「それで、東京プリズン発つ日に俺呼び出してどうするつもりか?仕返しするなら今だぜ。生憎俺は素手だ。警棒だって持ってきちゃねえ。俺めがけて大砲ぶっぱなせ。後腐れなく蹴りつける気ならそれもいい。お前を階段から突き落として捻挫させて全裸にさせて引っ掻いて銃で撃って、その借り全部まとめてズドンと返しちまえ」
 「五十嵐、ヤケになんなよ!」
 虚空に身を乗り出したロンが怒りもあわらに叫ぶが、五十嵐は取り合わない。
 「俺がおまえら囚人の信頼裏切ってひどくがっかりさせたのは事実だ。娘の復讐成功させる為に親切なフリで囚人に取り入った最低野郎だって、そう思われてもしかたねえ。こうやって東京プリズン発つ前夜に呼び出されて、心のどっかで覚悟してたんだよ。お礼参りって呼び方は古いかな」
 「なに悟ったふりしてんだよ中年、諦めよすぎだろ!東京プリズンにいられなくなったくらいで人生捨ててんじゃねえよ、あんた全部なくしたわけじゃねえだろ、まだ守るモンがあるだろ!」
 「カミさんならフィリピン帰ってやり直すさ。どのみち俺たちはもうおしまいだ。いや……とっくに終わってたんだよ、リカが死んだ時点で」
 五十嵐が静かな諦念を宿した目でひたとヨンイルを見据え、野太い声で宣言。
 「殺るなら殺れよ、ヨンイル。俺が成し得なかった復讐を、代わりに成し遂げてくれ」  
 「アホらし」
 ヨンイルが不敵に笑う。五十嵐が気色ばむ。空気が帯電したように場が緊迫してきな臭い火薬の匂いが大気に溶けて充満する。火薬の匂いが不吉に漂い殺伐とした空気が満ちる中、腰に手をあてふんぞり返ったヨンイルが大袈裟に首を振る。
 「あんた、俺をだれやと思うとる?寝転がって漫画のページめくる以外は便所のちり紙破く労力も厭うて
評判の図書室のヌシ、もとい西の道化ヨンイル様やで。復讐?んな面倒くさいことするかい。あんたか知っとるやろ、復讐成功さすのにどんだけ布石が必要か。わかりやすく漫画にたとえて言うなら伏線あるからこそ盛り上がるクライマックス、伏線も回収せんといきなり大砲でズドンやなんて美学のない殺し方ゴルゴ13が見とったら逆に撃ち殺されてまう」
 「いや、わかんねーからそのたとえ」
 ロンのツッコミをさらりと流してヨンイルが深呼吸、意味ありげな笑みを湛える。
 「お前をここに呼んだんは復讐なんてつまらんことする為とちゃう」
 「まさか本当に、ただ花火を見せるためだけに呼んだってのか?」
 信じ難いといった面持ちで叫び返す五十嵐にさらに何か言いかけたヨンイルを遮り靴音の大群が殺到、展望台にたゆたう白煙の帳を突き破り踊り込んできたのは今この場にいるはずのない顔ぶれ。
 「ヨンイルさん!!」
 「ワンフー!?何故君が、ここは東棟だぞ!」
 展望台に大挙してなだれこんできたのはワンフーを先頭にした西棟の囚人たち。ペア戦でヨンイルを熱狂的に応援していた囚人たちが二十名以上、我も我もと先を競い身軽に窓枠飛び越えて展望台の床を踏む。
 展望台に殺到した西棟の囚人たちはいずれも全身擦り傷だらけで囚人服はボロボロの状態、中には鼻血を流したり片方の瞼が青黒く腫れ上がった者、足首を捻挫したのかお互い肩を支え合ってる二人組もいて、無傷の者は一人もいない。 
 驚いてるのは僕たちだけじゃない。
 何を隠そう、他ならぬヨンイル自身がいちばん動揺してる。
 「おどれらなんでここに……ここ東棟やで、ちゃんとわかっとんかい!?渡り廊下越えなんて無茶しよってからに体がいくつあっても足りひんでホンマ、その分だとここ来るまでさんざんな目に遭うたろ、東棟の連中は容赦ないから……ああっ、パクお前鼻がヘンな方向曲がっとる!?リボンの騎士のプラスチック卿みたいな鼻になっとる!!」
 「ヨンイルさん一世一代の晴れ舞台だってのに西の囚人が知らんぷりできますか!」
 「花火師としての初仕事ぜったい成功させたるって医務室に見舞いにきた奴に片っ端から語ってたくせに今更なに言ってんスか、水くさい!俺らヨンイルさんの為にレッドワークで鉄屑集めまでしたんスよ、花火打ち上げる大砲まで一致団結して造ったんですよ!お呼びじゃないて言われても押しかけるに決まってるじゃないスか!!」
 「ヨンイルさんはくさっても西のトップ、命の恩人です!命の恩人が人生ここイチバンでどでかい花火打ち上げようってときにヨンイルさんの右腕を自負する俺が駆け付けなくてどうすんスか!」
 「ばかやろうっ、ヨンイルさんの右腕はおれだ!」
 「ふざけんなおまえなんか右足の小指で十分だ、ヨンイルさんの右腕の地位は渡さねえ!」
 西の囚人たちが怒涛の如く展望台に溢れ出してヨンイルに群がる。今や西の囚人の数は三十名以上に膨れ上がったが、展望台に入りきれず廊下に待機した人数を合わせれば最低五十人以上はいるだろう。
 展望台にいる僕らには実際見えなくても、窓向こうで飛び交う罵声と怒声が殺気立った喧騒を伝えてくる。
 「人気者だなあ」
 「他人事みてーに言うなよ。今のトップお前だろ」
 「いや、俺はロンにだけモテれば十分だから。それ以上を望むのは贅沢ってなもんさ」
 羨ましそうに言うレイジの脇腹をロンが小突けば、まんざらでもなさそうに王様が微笑む。のろける二人はさておき展望台を見渡せば、西の囚人たちの中に何名か東棟の囚人が混ざっていた。
 展望台の騒ぎを聞きつけて興味本位に潜り込んだのだ野次馬のひとりが、くるりと振り向く。 
 「カーギーさん!」
 ビバリーだった。
 「は?」
 おもわず自分の顔を指さす。カーギー……鍵屋崎だからカーギーが愛称か?ばかな。あまりにも短絡的なネーミングに絶句した僕のもとへとビバリーが小走りに駆けてくる。
 「ちょっと待て、なんだその珍妙な愛称は。以前レイジに付けられたキーストアという姓直訳の愛称も驚くべき短絡さであきれたが、君もそれに匹敵するぞ。第一あだ名で呼ぶのを許可した覚えはない、貴様だれに断って僕をカーギーなどという中途半端に省略した上に音を伸ばした珍妙な呼称で」
 「いえ、東京プリズンに来て十ヶ月以上たちましたしいつまでも『親殺し』呼ばわりじゃそっけないかなって僕なりに気をつかったんスけど……そんなことより、今晩は何のパーティーっスか?」
 「そんなこと?僕の呼称が『そんなこと』だと、僕は特別親しくもない他人にカーギーなどというカーネギーの略称みたいな人種はおろか国籍すら判別しがたい呼称を用いられたくは」
 「グッドタイミングビバリー。パーティーはこっからが本番だ」
 僕の抗議を遮りレイジが口を出す。ロンを抱いたのとは逆の手でビバリーを招いて夜空を見上げる。
 『Look at a flower blooming in desert.』
 砂漠に咲く花を見せてやる。
 「なんだってんだよ一体全体!?」
 恐慌をきたした五十嵐がむなしく叫ぶ。展望台は今や西の囚人と東の囚人で混沌とごったがえし、呼吸すら満足にできない過密状態で端に追い詰められた人間があわや転落しかける始末。西の囚人たちに掻き分け泳ぎ前進し、服を皺くちゃにされつつ大砲のもとに辿り着いたヨンイルの顔は生き生きしている。
 初めて漫画以外の生き甲斐を見つけて、いっそ無邪気なまでに純粋な喜びに満ち溢れた表情。
 「五十嵐はん、あんたに見せたいもんはコレや!これが俺の『けじめ』や!!」  
 弾痕も無残な祖父の形見のゴーグルの下、活発に目を輝かせて大砲を空に向ける。
 「じっちゃんの口癖。ひとを不幸にする爆弾よりひとを幸せにする花火のがずっとええて、俺が作りたいのは花火やて言うとったん思い出したんや!俺、ずっと勘違いしとったんや。俺が知っとるじっちゃんはいっつも爆弾作っとったから、俺も爆弾の作り方しか知らへんで、じっちゃん継いでイッパシの職人気取りで毎日毎日爆弾作っとった。でもな、じっちゃんが作りたかったのは、ホンマに打ち上げたかったんは花火なんや。爆弾よりずっと綺麗で、ずっとみんなに喜んでもらえるタダの花火やったんや!」
 火薬に煤けた手で大砲を動かして傾斜角を固定、空の一点に狙いを定める。ロンが息を呑む。レイジが十字架を握る。ビバリーが両手を組む。僕はただその場に立ち尽くし、成功を祈る。
 五十嵐の顔が悲痛に歪む。彼にもわかったのだ、ヨンイルがやろうとしていることが。
 懐から二個目の取り出し大砲に詰め、マッチを擦り、点火。
 大砲との必死の格闘を物語るように上着の裾がはだけて龍の刺青が覗いても構わず、ヨンイルが絶叫。
 
 「花火師ヨンイルの初仕事にして最高傑作、とくと見さらせこらあああっ!!」

 轟音。 
 大砲から放たれた砲丸が長大な放物線を描いて夜空に吸い込まれる。展望台に押しかけた野次馬が揃って同じ方向を見る。
 高く高く、どこまでも高く。
 それはまるで刺青の龍が肉体の呪縛から解き放たれ、上昇気流に乗じて空の高みに還っていくかのよう―……

 光が爆ぜた。

 極彩色の光が夜空を染め抜く。囚人たちの鼻先へと火の粉が舞い落ちる。ロンの横顔に花火が照り映える。レイジの胸にかかる十字架が花火の輝きを受けてきらめく。僕は言葉をなくし、砂漠の夜空を彩る花火の美しさに見惚れた。
 「……メイファとお袋にも見せてやりたかったな」
 燃え落ちる花火を目に映したまま、ロンがぽつりと呟く。
 「マリアに見せたかった。ついでにマイケルにも」
 つられたようにレイジが呟く。僕も同じことを考えていた。恵に花火を見せてやりたい。赤や橙の火花を散りばめて砂漠の夜空を彩る大輪の花火。輪郭すら掴めない儚い一瞬、鮮やかな残像を瞼の裏に焼き付けて燃え落ちる花火を恵に見せてやりたいと強く思った。
 展望台に居合せた誰もが魅入られたように夜空を仰ぎ、遠く離れた大事な人に花火を見せたりたいと思った。そして僕は、隣にサムライがいないのを残念に思った。彼と一緒に花火を見たかったと素直に思った。
 「五十嵐。あんたの言う通り、俺はたしかに過去ニ千人を殺した凶悪な爆弾魔で最低の人殺しや」
 夜風に吹かれて火の粉が舞い上がる中、大砲から離れて再び突端に歩み出たヨンイルが胸に手をあてる。
 黒く煤けた手。
 火薬を詰め、砲丸を取り、最高傑作の自賛に恥じない素晴らしい花火を打ち上げた手。
 血に汚れた爆弾魔の手ではなく、火薬に煤けた花火職人の手。
 「俺が人殺しなのは変わらん。あんたの娘は戻ってきいひん。せやけど俺の手は、爆弾生み出す為だけにあるんとちゃう。東京プリズンからいなくなる前にあんたを呼び出したんはこれを見せたかったからや。俺はたしかに凶悪な爆弾魔で最低の人殺しやけど、あんたがこの花火を見てちょっとでも綺麗やなって思うてくれたならちょっとはマシな人間になれた気がする。じっちゃんに近づけた気がする」
 胸から手をどけたヨンイルが真摯に答えを待つ。全身で五十嵐の感想を聞こうとしている。展望台を緊張感が包む。これだけの人数が集まっているにも拘わらず、ごくささやかな衣擦れの音と息遣いの他には火の粉が燻る音しか聞こえない。何故か今日に限っては中庭中央の監視塔も沈黙を守り、サーチライトが巡回する他に見張りの看守の気配もない。
 異常な静けさに支配された中庭にただひとり佇んだ五十嵐の鼻先に、風に吹き流された火の粉が舞い落ちる。
 緩慢な動作で五十嵐が手の平を返し、火の粉を受ける。
 無意識な動作で火の粉を握り潰し、五十嵐が言う。
 「悔しいけど、綺麗だったよ」
 乾いた目でヨンイルを見上げ、無理を強いて微笑む。
 不器用で優しい父親の笑顔。
 「リカとカミさんにも、見せてやりたかった」
 ゆっくりと五指を開く。最前、しっかり掴んだはずの火の粉は跡形もなく消えていた。僕には五十嵐が笑いながら泣いてるように見えた。笑顔も声も乾いているのに、失った物と掴めなかった物の重みを噛み締めて泣いているように見えたのだ。
 ロンの目は真っ赤だった。込み上げる涙を必死に堪えて、瞬き一つせずに五十嵐の姿を焼きつけていた。レイジはそんなロンにさりげなく寄り添い、片手を十字架に添え、片手でロンの手を握っていた。ワンフーは泣いていた。他にも何人が嗚咽を漏らしてる囚人がいた。
 ヨンイルは、泣かなかった。
 笑っていた。誇らしげに、照れ臭げに。
 その言葉が欲しかったのだと返すように。
 「爆弾作りなんかやめて花火一本に絞れよ。お前、才能あるよ。悔しいけど」
 今度こそ五十嵐が背を向け歩き出す。
 別れの挨拶はない。ただ無言で歩き去る五十嵐を展望台の囚人が見送る。
 「待てよ、いくなよ五十嵐!」
 ロンが衝動的に身を乗り出し展望台から落ちかけてレイジに止められる。それでもまだ追いすがろうとするロンに刺激されて何人かが「五十嵐!」と声をあげる。だが五十嵐は振り向かない。歩みを止めずにサーチライトの光も届かない暗闇へと溶けて―
 「行くな、五十嵐」
 知らず知らずのうちに僕も呟いていた。東京プリズンに来て十ヶ月間、五十嵐と出会った最初の日から今夜に至る回想が脳裏を席巻する。銜え煙草でジープを運転していた横顔。中庭での再会。親切に気を利かせて恵の担当医からの手紙を僕に届けてくれた。
 僕は五十嵐の中に理想の父親を見ていた。
 いつしか五十嵐に憧憬めいたものを覚えてさえいた。
 「戻ってこい五十嵐、お前がいなくなっちまうなんておかしいよ!タジマは自業自得だけどお前は何もしてねえじゃんか、そりゃ安田の銃盗んでヨンイル殺そうとしたのは事実だけど現にヨンイルはこうしてぴんぴんしてるじゃんか、前よりもっと元気に生き生きしてるじゃんかよ!!
 大丈夫だよコイツ殺しても死なねえレイジの同類だから、だから戻ってこいよ五十嵐、お前がいなくなったら寂しいよ!!畜生こんなクサイ台詞言わせんなよ、でも嫌だ、お前がいなくなるのは嫌だ!覚えてるだろ五十嵐俺に牌くれたときのこと、凱の子分どもにどつかれてしょげてた俺に牌を恵んでくれたことあったろ?アレで俺すっげえ励まされたのにっ……」
 ロンの声が詰まる。続けられず、下唇を噛んで俯く。
 しかし五十嵐は振り向かず次第に遠ざかる。
 孤独な靴音が闇に反響する…… 
 「せや、大事なこと忘れとった。ちょい待ち五十嵐!」
 ヨンイルが手足をばたつかせ待ったをかけたのはその瞬間だった。
 勢い余ってつんのめったロンが危うく転落しかけ、「ギリギリセーフ!」とレイジに抱きとめられる。靴音が止む。うろんげに振り向いた五十嵐をよそにマイペースに懐を漁ったヨンイルが取り出したのは一冊の本……
 否、漫画。
 「あんたに文句言いたことあったんや。俺が風邪ひいて入院してるときそっと枕もとにおいてくれた『ガムガムパンチ』やけど」
 よく見えるよう漫画を掲げて一気にページを開く。
 気が違ったとしか思えない奇行をだれもがあ然と見守る中、西の道化……もとい図書室のヌシは接着剤でぴたりと封印された最終ページを示して地団駄踏む。
 「最終ページ糊付けなんて陰湿な嫌がらせしくさりよって、図書室へのヌシへの挑戦と受けとってええんか!?だいいち糊付けなんて漫画への冒涜、漫画の神様手塚治虫への侮辱や!!俺はええ、しかし手塚に謝れ、土下座して謝れ!!『ガムガムパンチ』のラストを楽しみにしとった全国の読者に謝れ!!ほらお前らも何か言うたったれ、五十嵐はどうせ明日には東京プリズンからいぬるんや、これまでためこんだ鬱憤晴らしたれ!」
 「んないきなり言われたってヨンイルさん!?」
 ワンフーがうろたえる。野次馬がざわつく。
 やがて中の一人がヨンイルに触発され前に出る。他の囚人を押しのけて前に出たその人物を見て仰天する。いつのまに紛れ込んでいたのか、残虐兄弟を左右に従えた凱だったからだ。
 「五十嵐この野郎、よくも騙しやがって!親切なふりで俺たち腑抜けにして腹ん中じゃずっとヨンイルに復讐たくらんでたんだろ、見上げた黒さだなオイ、囚人みんなのよきお父さんの五十嵐さんよぉ」
 「俺たちの純情もてあそんでヨンイルに近付くダシにしやがったゲス野郎が、てめえにゃ地獄がお似合いだ。道化に見逃してもらったからってイイ気になんじゃねえぞ、俺が出所したら真っ先に殺しに行ってやっからな。なああんちゃん?」
 「おおとも弟よ」
 威勢よく五十嵐を罵り倒す凱たちに触発されてあちこちで怒号が上がる。「屑が」「ゲスが」「所詮五十嵐も東京プリズンの看守だったってことだな」「バスケの審判なんか頼むんじゃなかったぜ」「そういやこないだの試合、トラベリングで注意されたけどアレも相手方から賄賂貰ってわざとやったんじゃねえだろな」「金汚ねえゴキブリ野郎が」「お前だって売春班のガキども買ってたんだろ、五十嵐さんよお」
 根拠無根な中傷が飛び交う中、五十嵐は黙って耐えていた。囚人を裏切った自分には反論する資格がないと体の脇にこぶしを垂らして屈辱に耐える五十嵐めがけ、喧々囂々非難が浴びせられる。
 以前は実の父親のように五十嵐を慕っていた囚人たちが手の平返したように五十嵐を責め立てる。
 「てめえらこのやろう、さんざん五十嵐に世話になった恩忘れやがってデタラメばっか言いやがって!!てめえ凱、お前だって五十嵐によくしてもらったろ!?鉄パイプで殴られて前歯折ったときに医務室に運んでくれたの誰だよ、前歯接着剤でつけてくれたの誰だか思い出せよ親不孝もんが!!」
 堪忍袋の緒が切れたロンが凱に殴りかかろうとするが人ごみに押し返され近付けない、ビバリーは「やばいっスよおこれ」とただおろおろしてる。
 展望台は大混乱に陥った。ヨンイルは何のつもりであんなことを言ったんだと当惑した僕の視線の先を人影が大股に横切り、そして……
 悲鳴があがる。
 「ええと、君、凱くんでしたっけ?駄目ですよ、年長者に対してそんな口の利き方は」
 人ごみの渦中から颯爽と踊り出て凱の首を締め上げたのは、意外な人物……南の隠者、ホセ。待て、何故ホセがここに?展望台に押しかけた野次馬が思いがけぬ人物の登場に呆然とする。
 黒ぶち眼鏡の奥の目をうろんげに細めたホセが、威圧的な声音で囁く。
 「年功序列の概念はご存知ですか?なに、ご存知ではない?なら説明してあげましょう。年上の人間には常に敬意を払い接するようにという最低限の常識ですよ。トップがトップだけに東棟の囚人はマナーがなってないですねえ」
 「く、ぐるじ、ぐるじっ……」
 腕で首を圧迫された凱が泡を噴いてもがくが、隠者は容赦しない。
 獰猛な肉食獣をおもわせる双眸を剣呑に細め、口元をにやつかせ、凱の背中にぴたり腹を密着させる。もう少し力を込めれば凱を絞め落とせるだろうにそれをせず、敢えて苦しみを長引かせる
 「君たちだって他に言うべきことがあるでしょうに。自分の胸に手をあて聞いてみなさい。五十嵐さんと会えるのは今宵が最後なのですよ?いいんですか、こんな別れ方で。罵詈雑言で終わらせてしまって。君たちの怒りもいやはやごもっとも、大事な人に裏切られた痛み哀しみは吾輩このホセも十分承知しています。ですが」
 スッと目を伏せ、腕を緩める。漸く気道を解放された凱が激しく咳き込みくずおれ、残虐兄弟が「しっかり、ボス!」「人工呼吸だ、弟よ!」と左右から支える。残虐兄弟に助け起こされた凱にはすでに興味を失ったように人だかりに向き直り、眼鏡のブリッジに触れる。
 「くりかえしますが、今宵が最後。今宵を最後に彼は東京プリズンを去り永久に戻っては来ない。なのにいいんですが、つまらない意地を張って。君たちだって本当は引き止めたいくせに仲間の顔色を窺い罵って、それで本当に後悔しませんか。君たちが五十嵐さんに騙されたのも事実なら優しくされたのもまた事実。何故前者の真実しか見ようとしないのか不可解でなりません」
 「いいこというじゃんホセ。見なおした」
 レイジが茶化す。ホセは大人の余裕で微笑み返す。
 「ホセの言うとおり。お前らだって五十嵐に懐いてただろ?そこのお前はたしかズリネタのエロ本調達してもらったよな。Fカップの金髪美女がモデルの洋モノ。そっちのお前は看守にタコ殴りにされて足骨折したときに医務室まで運んでもらった。そっちのお前は五十嵐に煙草を……」
 「「なんで知ってんだよ!?」」
 「王様はなんでもお見通し」
 レイジが肩を竦める。展望台のざわめきがやがて収束、殺気が沈静化して微妙な沈黙が落ちる。
 ホセとレイジとヨンイルとが一定の距離をおき均衡を保った成果。
 数秒おいて靴音が再開、囚人の罵声がやんだのを潮に五十嵐が歩み去る。悄然と肩を落として立ち去る五十嵐を見送り、レイジが深呼吸。「しゃあねえなあ、最初か」と愚痴り、十字架の鎖に指を絡める。
 「元気でな、五十嵐。あんたちょっとマイケルに似てたよ」
 五十嵐が立ち止まる。
 レイジは笑っていた。
 五十嵐の背中に大切な人物を重ねるように懐かしげに目を細め、口元に微笑を滲ませ、幸福な思い出に浸る。
 「マイケルって俺の親父代わりだけど、不器用なとことか苦みばしった笑い方とかドキッとするくらい似てた。だからあんたのこと、嫌いじゃなかったぜ。あんたがいなくなるの残念だよ。俺のコーチはマイケルだけど、ここの囚人にバスケ教えてやったのはあんただ。ここの連中はバスケのボールも買えねえスラムの貧乏家庭育ちが大半だから、あんたから初めてバスケ習った奴きっと多いぜ。なあ?」
 「そう、だよ。あんたから初めてバスケ習ったんだよ、俺は」
 震える声でそう言ったのは、さっき、五十嵐の不正を疑った囚人。過去にトラベリングを注意されたその囚人は、水っぽく潤んだ目で五十嵐を睨み、ひきつけを起こしたようにしゃくりあげる。
 「俺んちは貧乏で、親父は最初からいなくて、お袋には十歳で捨てられて……東京プリズンに来てあんたに出会って、初めてバスケを知った。トラベリングを知った。ボール持ったまま歩くのが反則だってそんな基礎的なことも知らなくて最初はまごついたけど、あんたが根気良く練習に付き合ってくれたおかげじゃ今じゃ五人抜きできるようになったんだ。こないだの試合じゃスリーポイントシュートだってきめたんだ。だから」
 浅い呼吸に合わせて激しく肩が上下、堰が決壊したかのように絶叫。
 「ほめてくれよ、親父!!」
 それが引き金となった。  
 「行くな、五十嵐」
 気弱な声音でだれかが言った。置き去りにされる子供のように心細げに、必死に、縋るように。
 「行くな」
 「行くなよ」
 「行かないでくれ」
 「俺だってやだったんだ、本当は」
 「五十嵐がいなくなっちまうなんて嫌だって腹ン中じゃずっとそう思ってたんだ」
 「あんたに裏切られたって知っても頭じゃわかってても心が納得しなくて」 「あんたがくれた煙草最後の一本吸わずに残してあるのに」
 「あんたがくれたエロ本かぴかぴになってもまだ大事にとってあるのに」「俺が他の看守にぼこぼこにやられたとき、大丈夫かって心配してくれた。あんただけが心配してくれたんだ」
 「医務室まで付き添ってくれた」
 「見捨てなかった」
 「本当の親父みたいに」
 「見捨てないでくれた」……
 叫びが連鎖する。囚人が競って身を乗り出し五十嵐に追いすがる。虚空に手を伸ばし掻き毟りそれでも届かず地に膝付いて絶叫する、行かないでくれ、捨てないでくれと五十嵐にすがりつく。
 花火を打ち上げた時と同じかそれ以上の大音響が展望台を揺さぶる、夜気を震わせて鼓膜をびりびりと痺れさせる。
 展望台の突端から半ば以上身を乗り出した囚人がいる。
 五十嵐を追って虚空に身を踊らそうとして仲間に引きずり戻された囚人がいる。
 「行くなよ、寂しいよ!!」
 「あんたがいなくなったらだれがバスケの審判やんだよ、あんた以外の審判なんか認めねえ絶対!」
 「捨てないでくれよ父さん、俺もうケンカしねえから、悪さしねえから……」
 「このままずっと俺たちの親父でいてくれよ」 
 「東京プリズンにいてくれよ!!」
 五十嵐の肩が不規則に震える。歩みが再開、中庭を横切り闇に溶け込む五十嵐の背中を見届けて囚人が泣き崩れる。涙と鼻水を滂沱と垂れ流し、こぶしでコンクリの地面を殴りつけ、首を振る。ロンが乱暴に目を擦り涙をごまかす。凱と残虐兄弟までが地にくずおれて嗚咽を堪えている。
 ヨンイルとレイジとホセは三者三様の表情で五十嵐を見送った。

 僕は。
 僕は、

 「!!っ、」 
 気付けば駆け出していた。展望台の突端から身を乗りだし五十嵐が消えた方向の暗闇に目を凝らす。
 まだそこに五十嵐の残滓が漂っているかのように必死に目を凝らし、胸を苛む熱を吐き出すように喉振り絞り、今の感情をあまりに愚直すぎる言葉にして闇の向こうに伝える。

 「待っているから、帰ってこい!!父親が子供を捨てても、子供は父親を捨てられないんだ!!」

 僕の言葉が届いたかどうかはわからない。
 ただ、見間違いではないなら。
 サーチライトの光が気まぐれに照らし出した一瞬に暴かれた五十嵐は、片手をこぶしにして空へと突き上げた。
 もう僕らを裏切りはしないと。
 必ずまたここへ帰ってくると、誓うように。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050619014459 | 編集

 「すっげえ。ちっちぇえお口で奥までずっぽりくわえやがる」
 「さっすが男娼、フェラは十八番ってか」
 「俺のペロペロキャンディの味はどうだ?美味だろ」
 「はやく交代しろよ、はちきれちまいそうだよ」
 「あせんなって、まだまだ先はなげえんだから」
 力を込めて前髪を掴まれ頭皮から毛髪が毟れる。あまりの激痛に生理的な涙が滲むがそれでも舌の動きはとめられない。口を窄ませ頬を膨らませ唾液を潤滑油にペニスに舌を絡める。
 奉仕を中断したら恐ろしい折檻が待ってる。
 荒い息の狭間で交わされる情欲に掠れた囁き、野卑な口笛と嘲笑。
 早く順番を代われと僕にペニスを含ませてお楽しみ真っ最中の看守を同僚がせっつく。脇腹をつつかれた看守が乱暴にその手を振り払う。邪魔者扱いされた看守がぺっと唾を吐く。僕はただただ呼吸ができなくて苦しかった、口一杯にペニスが詰まってるせいで唾液も嚥下できない。 
 苦しい。気持ち悪い。吐きたい。
 胃袋が縮かんで喉もとに嘔吐の衝動がせりあがるのを必死に堪えて奉仕に励む。
 口をもごもごさせて必死にペニスをしゃぶる僕の頭を抱えこみ、興奮に息を荒げる看守。
 だらしなく弛緩した顔、恍惚とさまよう目、口からはみ出た舌……
 助けてビバリー。助けてママ。
 「はっ、ふっ、けふっ……」
 顎がこった。少し、休みたい。一分なんて贅沢は言わないから十秒だけ呼吸を整える時間が欲しいと潤んだ目で請えば更に喉の奥深くへと突っ込まれた。絶対わざと。頬は涎でべとべと。いったい何人に奉仕させられたのか入れ替わり立ち代りひっきりなしで記憶が判然としない。何本のペニスを咥えたかわからない。静流が僕を見捨てて房を出てから何分、いや何時間経ったのかもわからない。
 静流が戻ってくる気配はない。鉄扉が開く気配はない。
 「さぼんなよ。ちゃんと舌動かせよ」
 毛髪を毟られた頭皮が焼け付くように痛む。柿沼はとくにサディスティックな看守ばかりをそろえてきたみたいで、漸く自分の順番が来て狂喜した看守は僕の前髪を掴んで揺さぶって刺激を強める。前後に頭を揺さぶられるたび意識が断ち切れて目が回る。歪む視界に悪酔いしながら、それでも丁寧にペニスを舌を這わす。
 熱く潤んだ粘膜に包まれたペニスが硬さ大きさを増して急激に膨張、絶頂が近付く。
 「ひあっ……!」
 口の中でペニスが爆ぜる。全部は飲み干せずに口の端からたらりと白濁がたれる。青臭くて生臭いザーメンの味……独特の苦味。
 吐き出したいのを我慢して呑み込んで、性急に訴える。
 「ねえ、もういいでしょ、許してよ。約束どおり最高に気持ちよくさせてあげたっしょ、僕ちゃんといい子にして約束守ってしょ?イッたならもううちに帰してよ、ビバリーんとこに帰してよ!もうやだ、助けてママ、ママあ……」
 ママに会いたい。ビバリーんとこに戻りたい。
僕だって伊達に修羅場を体験してない。外にいた頃は渋谷の売春組織をシメてた前科もあるし大物代議士パトロンにつかまえて成り上がるまではさんざん辛酸舐めてきた。
 六歳からずっと小遣い稼ぎに体を売っていた。
 危ない目に遭ったこともある。ぺドでサドの客にあたったときは悲惨だった。内腿にじゅっと煙草を押し付けられたり目隠しされたりクスリ使われたり浣腸されたり、三人に輪姦されたこともある。あの時も体の震えがとまらなかった。一人目が口に突っ込んで二人目が貫いて三人目にはペニス悪戯されて、三人がヤるだけヤって満足して札束投げてホテルの部屋出たあとも長いこと起きあがれなかった。
 でも、今度はさらに多い。
 体がもつはずない。全部が終わったあと、きっと僕は壊れてしまう。以前の僕じゃいられなくなる。もう二度とビバリーに会えない予感がする。生きてママに会えない予感がする。
 「ママ、ママあ……おうちかえりたいよ、ママあ」
 ママに会いたい。僕にそっくりの赤毛のママ。若くて美人なママ。涎でべとべとの頬に滂沱の涙を流して哀願する、はやくおうちに帰してと懇願する。
 そんな僕を眺めてベッドを囲んだ看守たちは笑っていた。
 卑屈で邪悪な笑い。直接肌を刺す悪意の波動。
 「ぴーぴー泣いても最愛のママは助けにこねえぜ。諦めろ。お前のママは今頃若い男の下で節操なく腰振ってるよ。あんあんひんひんはしたない喘ぎ声張り上げて股ぐらびしょびしょに濡らしてるよ!」
 看守のひとりが僕の顎を掴んで高笑い。
 「雌犬の胎から生まれたガキは雌犬、娼婦の胎から生まれたガキは淫売。世の中ってもんはうまいこと循環してんな」
 看守のひとりが頬をぺちぺち叩いて知ったかぶる。
 「いいか?お前は売られたんだよ、静流に。見捨てられたんだよ、ママに。頼りのダチだって助けにきやしねえじゃんか。お前が声からして叫んだところで全部無駄、お前みてえに生意気なガキの為に危険を承知で地獄のどん底にとびこんでくる物好き世界中捜したっているわきゃねえだろが」
 「もちろん東京プリズンにだっていやしねえよ」
 看守のひとりが肩を突き飛ばす。
 圧迫感を与える低い天井に嘲りの哄笑が渦巻く。看守の顔には露骨な侮蔑が浮かんでいる。逃げられない。逃げ出せない。眉間が痛くなるまで奇跡を念じ助けを呼んだところで救いは来ない。
 絶望。
 ママの面影が薄れて底抜けに明るいビバリーの笑顔に取って代わる。ビバリー今どこで何やってんの、なんで僕のピンチに助けに来てくれないのさ役立たずと心の中で罵ってもビバリーはただお気楽に笑ってるだけ。「そりゃないっスよリョウさん、僕いま手が放せないんスから」とたわごとほざきながら目にも止まらぬ早業でキーを打ってる姿を想像、自暴自棄の衝動が込み上げて笑いたくなる。そっか、ビバリーは僕よりロザンナが大事なんだ。ロザンナを選ぶんだ。役たたずめ。友達甲斐のない奴。
 怖い。
 「許して、ください」
 怖い。
 だれも助けにきてくれない暗闇で看守に囲まれて僕はどうしたら、嫌だ助けてママ怖いここから出して酷いことしないで痛いことしないでおうちに帰して!!理性が蒸発して思考の洪水が殺到、心臓が爆発しそうに高鳴り全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。
 好奇心猫を殺す。
 僕がこれまでほぼ無傷でピンチを切り抜けてこれたのは単に悪運が強かったからで、僕は今回だって何の根拠も確証もなくただ「これまでだって大丈夫だからこれからだって大丈夫」という口笛吹きたくなるくらい楽観的な見通しと無邪気な好奇心に突き動かされて静流を尾行した。 好奇心猫を殺す。
 静流をつけたりするんじゃなかったんだ。
 放置しておけばよかった。
 静流は災厄だ。静かなる災厄に関わったらおしまいだ。一条の光も射さないどん底から這い上がるにはどうすればいい?教えてだれか、ママ、ビバリー……静流。戻ってきてよしずる、助けてよ!こいつら君が命令すれば言うこと聞くんでしょう解放してくれるんでしょうならそうしてよ、君が柿沼と関係してたことは誰にも言わないから黙ってるからごまかしとおすからだから!
 「許して、ごめん、ごめんなさい!僕が悪かった謝るよ静流をつけたりしてごめん覗き見てごめん、ねえ謝ったんだからいい加減許して手錠はずしてよ、これ以上酷いことしないでよ!ねえなんで笑ってるの、僕すっごい真剣なのに……柿沼さんっ」
 戦慄の表情で柿沼を仰ぎ見る。
 柿沼はにやにや笑っていた。囚人を虐めるのが病みつきになったゲスの笑顔。嘆願も説得も一切通じない絶望の笑顔。致命的な断絶を痛感し、喉が引きつる。房の暗闇に溶け込むようにベッド脇に佇んだ柿沼はすでに僕の知る柿沼じゃない。僕を買いに来た柿沼じゃない……静流の奴隷の柿沼だ。
 こんなのって、ない。
 柿沼にはさんざんよくしてやったのに恩を仇で返すような真似しやがってと怒りが沸騰、鎖が許すぎりぎりまで身を乗り出して罵詈雑言浴びせる。
 「畜生こんなのってアリかよ、柿沼さんちょっと前まで僕のこと贔屓にしてたじゃん、フェラよくできたご褒美にキャラメルとか一口チョコとか恵んでくれたじゃんか!!僕にエプロンドレス着せて不思議の国のアリスのコスプレさせたくせに、僕を膝に抱っこして下から貫いてさんざんいやらしいこと囁いたくせに、僕のペニスいじくって「食べちゃいたいくらい可愛いピンク色だな」とか「生まれたての小魚みたいにピンピン元気よく跳ねてる」とか恥ずかしいこと」
 「悪いがリョウ、お前のカラダには飽きたんだ」
 怒りが沸点を突破、脳細胞が一片残らず蒸発しそうになる。
 理性の堰が決壊し自制の箍が外れる。脳天突き抜けるように甲高い奇声を発し柿沼を引っ掻こうと前傾。ああ、発情期の猫みたいにうるさい鳴き声。真っ赤に充血した目に臨界の憎悪を漲らせ、手錠の鎖を限界まで引っ張って捨て身で反撃する僕を指差し看守陣が爆笑。
 至近で嗤われて顔に唾がかかる。
 「可哀想になリョウ、お前はもう用済みだとさ」
 「お古のオモチャにゃ興味ねえとさ」
 「柿沼にフられちまったなあ」
 うるさい。黙れ。この野郎。
 腹の底で呪詛が渦巻く。喉の奥で威嚇の声を泡立てる。柿沼は僕を払い下げた。獰猛な同僚に。肉欲の奴隷と成り果てた看守に。
 僕は、
 「おねがいだから、酷いことしないで」
 懇願する。ただただ必死に懇願する。
 恐怖に掠れた声で、目に一杯涙をためて、演技ではなく素で許しを乞う。体の震えがとまらない。毛髪が毟れた頭皮が塩をすりこまれたみたいに疼く。口腔に沈殿する精液の後味、ザーメンの苦味……
 ああ、しまいに指先まで震えだした。
 ひょっとして、クスリの禁断症状?
 反射的にズボンを探ろうとし、ガキンと響いた金属音と鎖の抵抗で手錠に繋がれてることを思い出す。クスリが欲しい。欲しい欲しい欲しい頂戴くれ、クスリがあればヤなこと全部忘れられるクスリは僕の味方砂糖みたいに甘くないけど僕をいつだって幸福にしてくれる真っ白な……
 「お願い。注射器とってよ。僕のポケットに入ってるから……」
 目尻から大粒の涙が零れる。
 「ごめんなさい、もうわがまま言わないから、ちゃんと言うこと聞くからだからクスリだけ打たせて。ほんの十秒いや五秒でいい、五秒だけ手錠はずしてくれれば僕もみんなも今この場にいる全員が最高にハッピーになれるんだ!僕はクスリ打ってヤなこと全部忘れて頭真っ白で柿沼さんたちの相手したげる、ねっだから五秒だけ時間ちょうだい、クスリ打つ時間ちょうだいよ!」
 「おい、頭大丈夫か」
 「禁断症状じゃねえか?これ」
 「年季入ったヤク中だからなコイツ。いつも注射器持ち歩いてるって有名じゃんか」
 看守が僕の頭の上でのんびり会話を交わす。
 僕がこんなに焦ってるのに、苦しくて気持ち悪くて体の内側から毒素に蝕まれてるのに、柿沼たち看守はだらしなく間延びした顔で緊迫感に欠ける会話に興じてる。
 ひりつくような焦燥が猛烈な渇きに変じて喉を焼く。
 体が不規則に痙攣する。
 嘔吐の衝動が胃を締め上げる。
 指先の震えが鎖を介して伝わり手錠がカチャカチャ鳴る。
 クスリ、クスリのことしか考えられない!はやく外してよねえこれ外して……脳裏で続けざまに閃光が爆ぜる。脳髄を穿孔するフラッシュバック。
 鍵屋崎がいる。ざまあみろと笑ってる。
 銀縁メガネの奥の涼しげな切れ長の目で、苦悶に身をよじり、みじめに這いずりまわる僕を見下している。本当にイヤなやつ。お高く澄ましたツラに唾吐いてやりたい。
 サムライがいる。いつもと同じ仏頂面、人を寄せ付けない眉間の皺。
 レイジがいる。ロンがいる。
 最後はママ。
 虫に食われて穴だらけの顔のママ。
 うじゃうじゃ沢山の蛆虫が、肉が溶け崩れて骨の断面が覗いた穴を出たり入ったり。
 トンネル遊び、楽しそう。ママのお顔の穴を出たり入ったりひょっこり通り抜けて、額の真ん中の穴をくぐった蛆虫が頬の右側の穴からぴょこんと這い出して。丸々肥え太った蛆虫がママの顔を食い破り黒点が重なり拡大し骸骨に……

 リョウちゃんなんでそんな悪い子になっちゃったの?
 リョウチャンガイイコジャナイカラ ママコンナ姿二ナッチャッタ

 「ママ、ごめんなさい」 
 蛆虫がのろくさ大群で這いずって僕の足の指から上へ上へとよじのぼり……やだ、あっち行け!ばっちい!ちぎれんばかりに首を振り身をよじり半狂乱で蛆虫を払い落とす。しかし、大群の侵攻は止まない。
 コイツら存外しぶとい。
 腹ぺこ蛆虫さんがえっちらおっちら僕の足の指を這いのぼる。あはは、くすぐったい。笑いながら見下ろせば、足の先端が蛆虫に齧られて損なわれていた。やばい。はやくコイツら追い払わなきゃ焼き払わなきゃ蛆虫に食べられ骸骨にされちゃう、ええと、蛆虫撃退するにはどうすればいいんだっけ?ナメクジは塩で溶ける。塩がないから砂糖で代用で、白い粉を撒けばナメクジの仲間の蛆虫も溶けて消える……
 やっぱクスリが必要だ。
 「甘くない砂糖撒けば蛆虫だって溶けて消える、ねえだれか僕のポケットからワンパッケ覚せい剤とってベッドのまわりに撒いて、そうすれば蛆虫近寄れないから!ほら、ナメクジだって塩で溶けるっしょ?蛆虫だっておなじだよナメクジの親戚なんだもん白い粉は魔法の粉だから蛆虫だって消せちゃうよ!畜生もっとはやく気付いてればママ助けられたのに、ごめんね僕のせいで綺麗な顔台無し」
 肥大した自己嫌悪と恐怖心と劣等感が喉を塞いで息苦しい。
 手錠に繋がれて延々フェラチオ強制されてから最低二時間以上経過、こんなに覚せい剤断ったら禁断症状でるに決まってる。自殺行為。自滅行為。本格的にやばい。幻覚が作り出した妄想だってわかっていても手足の先を齧られる掻痒や蛆虫が這い回る感覚は現実以上にリアルだ。  
 現実が幻覚に浸食される。
 現実と妄想がごっちゃになり、しまいに区別がつかなくなる。
 「きたねえ、コイツ泡噴いてやがる」
 「長くはもたねえなあ」
 「いいから早く突っ込んじまえ、ケツ持ち上げて」
 「覚せい剤打たなくていいのか?」 
 「俺たちゃ看守で医者でも売人でもねえ、注射器の打ち方なんか知らねえよ。それに万一針さしてショック死でもされたら俺らの責任じゃんか、イヤだぜ、そんなくだらない理由でクビになんの」
 「そうだな。遅かれ早かれコイツ死ぬしな」
 「東京プリズンで長生きなんざクソ食らえだ」
 下卑た哄笑が弾ける。頭が朦朧とする。両側の看守が僕の肩を押さえ付ける、ズボンを膝まで引き摺り下ろしベッドに飛び乗った看守が僕の膝を割って軽々持ち上げる。僕の膝を抱えてひっくり返し、お尻丸見えの恥ずかしい体勢をとらせて舌なめずり。
 尻の柔肉を鷲掴み、股間で赤黒く勃起したペニスをー
 「あっ、あああああああっあああああああああっああ!!」
 いだ、い。
 背骨もへし折れんばかりに背中を仰け反らせ絶叫、嫌々とかぶりを振り行為の中断を訴えても完全無視でますます奥へと挿入される。異物を排泄しようとする直腸の弾力に逆らいペニスが穿孔する背徳的な感覚が凄まじい激痛を伴い引き延ばされる。
 いくら僕が趣味と実益を兼ねた男娼だからってこんな扱いってない。手首が、痛い。金属の輪で手首が削れて赤い溝が二重三重に走る。
 脳裏にまた鍵屋崎の顔が浮かぶ。いつもと同じ無表情。眼鏡の奥の目は醒め切って、無慈悲に無関心に僕を眺めている。
 自業自得だ。
 鍵屋崎の幻覚が吐き捨てる。これまでさんざんいたぶられた仕返しに、看守たちに嬲り者にされる僕を見て溜飲をさげる。涼しいツラをぶん殴りたい。五指を閉じてこぶしに固めた瞬間、鍵屋崎の幻覚はかき消えてビバリーが出現。

 ビバリー!!

 五指をほどき、無駄だとわかっていながら手錠を抜こうとする。
 手を伸ばすのが無理ならせめて大口開けてビバリーを呼ぼうと深呼吸した次の瞬間、ペニスが喉につかえて声がくぐもる。僕を下から貫いてるやつとは別の看守が上の口にペニスを押し込んできたのだ。
 「歯あ立てたら殺すぞ」
 凄みを帯びた低音で脅迫した相手に目を凝らせば柿沼だった。柿沼にフェラチオを強制された僕は、別の看守に突き上げられて不規則に跳ねつつ丁寧にペニスを舐める。しゃぶる。ねぶる。

 それから僕は、どん底の定義を身をもって味わった。
 思い知らされた。

 五人に輪姦されても奇跡的に最後の最後まで意識を保っていられた。 途中何度も意識が薄れて理性が飛んだけど、行為が終わって看守が上からどいた時の記憶は比較的鮮明だ。
 ヤるだけヤって満足した看守がさっぱりした顔つきでジッパーを上げて房を出て行く。
 騒々しい足音、砕けた雰囲気。
 「ケツの穴ゆるみきった男娼のわりにゃ意外と使えたな」
 「フェラは抜群だった」 
 「それっきゃ取り柄ねえからな」
 「言えてら」
 おぼろげな意識の彼方で遠ざかる話し声と足音を知覚。鈍い残響とともに鉄扉が閉じて廊下の明かりが遮断される。再び暗闇。
 起きなきゃ。服を着なきゃ。
 気だるい動作で床に手を伸ばし、囚人服を拾い上げようとして初めて手錠が外されてないことに気付く。これじゃ手が届かない。柿沼たちは手錠も外さず、精液まみれの僕を全裸で放置して行ってしまった。
 残されたのは僕ひとり。暗闇にただひとり。
 「……ひっうぐぅ、」
 寒い。暗い。怖い。寂しい。
 泡沫のように脳裏に散発するつたない単語、思考未満の散文的な感覚と感情。痛い。下肢が痺れて感覚がない。いつになったら鉄扉が開くのかわからない。もう一生開かないかもしれないという疑惑が脳裏を掠めて激しい不安に苛まれる。
 まだ柿沼たちがいた時のほうがマシだった。 
 ベッドパイプに手錠で繋がれたまま全裸で放置されて、格子窓からわずかに光射す暗闇に閉じ込められたまま鉄扉が開かなければ遅かれ早かれ餓死か凍死という最悪の未来に直面する。
 イヤだ。僕はママに会うまで絶対死なないって決めたんだ、生きてここを出るって誓ったんだ。
 でも。
 「ママあ、ひっ、ママ……」
 みじめたらしくしゃくりあげる。格子窓から射すわずかな光は周囲の暗闇を尚更濃く見せる逆効果。格子窓から射した光により濃厚に深まった暗闇が足元にひたひた押し寄せて体を包み芯から冷やしていく。
 喉がかれるまで呼んでも誰も来てくれない。
 見捨てられた、完全に。
 「自業自得」。
 さっき鍵屋崎が言ったとおりだ。今までさんざん酷いことばかりしてたからバチが当たったんだ。
 孤独が僕の核、暗闇が僕の皮膚。
 だれも来てくれなかった。僕が殴られても輪姦されてもだれも助けに来てくれなかった。売春班に落とされた鍵屋崎もこんな気持ちだったの、世界の底が抜けて奈落に吸い込まれてく絶望を味わったの?胎児のように胸に膝を引き付けまん丸く縮こまり、ぶつぶつ呟く。
 それからさらに気の遠くなる時間が経過。
 ゆっくりと思わせぶりに鉄扉が開き、暗闇に慣れた目には強烈すぎる蛍光灯の光が逆流。
 蛍光灯の逆光で黒く塗りつぶされた細身の人影に目を凝らす。
 「ただいま」
 静流がにこやかに挨拶して房に足を踏み入れる。優雅な歩調でベッドに近づく静流から無意識にあとじさり距離をとる。背中がベッドパイプにぶつかる。冷え冷えと硬い金属の棒が背中にめりこむ感触。
 今の僕にはもう、静流が得体の知れない化け物にしか見えなかった。なんでこんな風に挨拶できるの、僕を柿沼に売り渡して輪姦させておきながら一点の曇りもない笑顔を浮かべられるの?良心の呵責とは無縁な笑顔が恐ろしく不気味だ。
 静流に対する恐怖心は恐ろしく澄み切った深淵を覗き込んだ感覚と共通。
 双眸の深淵には清澄な水が湛えられ、底が見えず。
 底が、無い。
 
 絶叫。

 最初、それが僕の声だとわからなかった。
 僕の喉が発しているものだと信じられなかった。
 喉も裂けよとばかりに高音域の獣じみた咆哮。金属を擦り合わせた響きの甲高い悲鳴。

 「化けもの、あっち行け化け物!!なんなんだよ、なんなんだよお前……おかしいよ狂ってるよ、東京プリズンの囚人はみんな狂ってるけどお前最初から狂ってる、ここに来る前から狂ってる!だって絶対おかしい、普通の人間が東京プリズンの環境に適応できるわけない、東京プリズンに来てたった数日で順応できるわけない!東京プリズンは地獄だもの、野郎が野郎のカマ掘る地獄だもの、毎日五十人もリンチで囚人死んで砂漠に埋葬される世界でいちばん極楽に近い地獄だもの!お前みたいに苦労知らずの日本人がたった二日か三日かそこらで地獄にどっぷり染まれるはずない、お前は最初からイカレてたんだよ救いようないくらい!!」

 つま先でシーツを蹴りあとじさり全身で拒むも静流は歩みを止めない。余裕ありげな足取りで距離を詰めてベッドの傍らに立ち止まり、そして……
 「酷くされて可哀想に」
 思いやり深い口調で呟き、僕の頬にさわる。ひんやりと冷たい手に体温を奪われ全身に鳥肌が復活、脳天から奇声を発して首を振る。 
 「嘘、だ。こんなの変だよ、嘘だよ……だって僕ツイてるもん。今まで数え切れないくらい危ない目に遭ったけど無事切り抜けてきたもん、下水道で洪水に見舞われた時も五十嵐に銃口突き付けられた時も間一髪ビバリーが助けに来てくれて」
 ビバリー。
 頼りになる相棒、気のいい友達。お人よしなお調子者。
 「いつもいつだって助けに来てくれたんだ、必ず。僕が呼べば必ず」
 「じゃあ何で今回は来なかったのかな」
 無邪気に小首を傾げる静流を虚ろに見返す。
 そうだ。なんで今回は来なかったの、ビバリー。あんなに呼んだのに。何回も何十回も口に出して心で呼んだのに。口一杯に醜悪なペニス突っ込まれて苦しくて生理的な涙が滲んで、必死に嘔吐を堪えて舌を絡めて、心の中で呼んだのに。ママだってそうだ。ママはいつだって僕を置き去りにする、僕が苦しんでるの見て見ぬふりする。
 酷いママ。最低の女。あんたなんか母親じゃないと心の中で罵倒すれば、涙と鼻水が一緒くたに込み上げてくる。
 「可哀想に。捨てられたんだ」
 「違う!」
 「違わないよ。君は捨てられたんだ。だから誰もきみを助けに来なかった、酷い目に遭っていい気味だって放置したんだ」
 そうなの?僕、捨てられたの?
 ママの面影が薄れてビバリーの面影が消えて遂に何もなくなる。頭はからっぽ。心は麻痺したように何も感じない。捨てられてなんかないと否定したくてもビバリーが助けに来なかったのは後戻りできない現実。僕は暗闇にひとりぼっち。誰も助けに来なかった。内腿には血が流れたあと。シーツには精液のシミ。何もかもが手遅れ。
 ビバリーは間に合わず、僕は輪姦され、静流は笑っている。
 「でも、安心して。僕は君を捨てたりしない。こうして帰ってきたのが証拠だ」
 指一本動かす気力も喪失して廃人化した僕の右耳から左耳へ、空虚に声が通り抜ける。静流が僕の頬に手を添え振り向かせる。
 不意に静流が取り出したのは一本の鍵。僕の後ろに手を回して手錠の鍵穴にそれを挿し込めば、カチャリと小気味いい音がして輪が外れる。

 いまさら両手が自由になっても意味がない。

 ぼんやりベッドに座り込んだ僕の正面に回りこんだ静流が、ポケットからはみ出た注射器に目をとめ、何気なく手に取る。僕は静流のしたいようにさせた。
 打ちたきゃ打てばいい、勝手に。
 気まぐれ起こしてクスリを試してみたいならそうすりゃいいと投げやりな気持ちで眺めていたら、静流が僕の腕を取りひっくりかえし注射針を静脈に擬す。
 「今日見たことは他の皆に黙っていてくれるかな。交換条件といったらあれだけど、君の身に起きたことは口外しないでおくから」
 取り引きか。なかなかやるね。
 口元にうっすら自棄の笑みを吐く。
 知らず知らず引き込まれるように、こっくりと頷く。なんだかとっても愉快で滑稽な気分。腹の底から哄笑の衝動が込み上げて喉元でおさえるのに苦労する。僕もきっと、壊れちゃったんだ。
 内腿を見下ろす。生渇きの血の筋が蛇行して流れている。
 趣味と実益を兼ねた男娼の癖にいまさら何言ってんだって嗤われるかもしれないけど、最悪の形で処女を喪失した錯覚に襲われる。
 絶望のどん底にへたりこんだまま立ち直れない僕に微笑みかけ、ゆっくりと慎重に注射器のポンプを押し込む静流。
 静脈に注入された覚せい剤が血流に乗じて全身に巡りだし、さっきでの暗澹とした気分が嘘みたいに晴れていく。
 「っは……あ、ふ」
 涙で曇った視界に静流の微笑みが映る。
 僕の腕を優しくさすり、注射針のあとを指圧しながら、嫣然と囁く。
 「極楽浄土に逝けたかい」
 紅を落とし忘れた唇は禍々しく赤く。 
 僕の腕から指を放した静流がおもむろに服を脱ぐ。慣れた動作で上着を首から抜いて淫靡な痣が散らばった上半身をさらけだし、ズボンをずらして僕の上に大胆に跨る。全身にクスリが廻りはじめて恍惚とまどろんでいた僕は、静流に跨られても払いのけるのが面倒くさくて、そのまましたいようにさせることにした。
 ごくささやかな衣擦れの音。
 ベッドに仰臥した僕の腰に馬乗りになり、色白の裸身を薄紅の痣で引き立てた静流が吐息に乗せて誘惑。
 「今夜のことを全部覚せい剤が見せた夢にしてしまうなら、最後に僕を楽しませてよ」
 静流の本性は、とんでもない淫乱だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050618032224 | 編集

 恵と手を繋いで花火を見た。
 『綺麗だね、おにいちゃん』
 恵は生まれて初めて見る花火に心奪われていた。初々しく紅潮した頬におくれ毛が貼り付いたことに気付き、頬に手を伸ばして髪の毛を払ってやる。感謝を期待する行為ではない、兄としてただそうすることに喜びを感じたから。事実恵は僕が髪の毛を払ったことにも気付かず、夢中で空を仰ぎ続けていた。そんなに熱心に見上げていたら首を痛めると注意しようかと思ったが、恵の集中力を削ぐのが嫌で口を閉ざす。
 恵の邪魔はしたくない。恵さえ幸福ならそれでいい、それ以外は望まない。
 恵の笑顔がかげるのは何としても阻止せねばと兄としての使命感もあらたに、子供特有のふっくらした手を握りしめる。すべすべときめ細かい恵の手、清潔に爪を切りそろえた華奢な指。ピアノの鍵盤の上ではあんなに生き生きと跳ね回っていた五本の指が、今、それしか縋るものがないかのように必死に僕の手を握り返す。安心しきって僕に手を預けた恵の横顔を盗み見て、ささやかな幸せを噛み締める。
 空には花火が上がる。極彩色の光が織り成す絢爛な芸術。唇を半開きにして夜空を凝視する恵の頬に花火が照り映える。
 赤からピンクへ、黄色からオレンジへ。
 無心に夜空を仰ぐ恵の頬を鮮烈に彩る花火の残光。
 僕は幸せだった。確かに安らぎを感じていた。恵の手を握り体温を感じ、ただそれだけで深い安堵に包まれていた。そっと恵の表情を観察する。驚きに見開かれた大きな目、半開きに放心した唇。生まれて初めて見る花火に感動してるらしい素直な反応に自然と頬がほころぶ。
 可愛い妹。最愛の妹。僕の恵。
 『綺麗だね』
 いたく感じ入ったように恵がくりかえす。
 感嘆の吐息に溺れる恵を微笑ましく見つめ、今のありのままの気持ちを口にする。
 『恵のほうが綺麗だ』
 それは単純な事実、僕にとっての真実。あどけない頬を赤からピンクへと移り変わる花火に染めて、放心した表情で夜空を振り仰ぐ恵の姿はあまりに無防備で庇護欲を刺激する。
 黒々と濡れた瞳に花火が写り込む。
 恵の瞳で次々と花火がはじける。
 瞬き一回で消える儚い一瞬、盛大に花開き絢爛に朽ちていく極彩色の泡沫。夜空を華美に装飾する刹那の輝き。細いうなじで産毛がそよぎ、甘酸っぱい汗の匂いが立ちのぼる。徐徐に手に力を込める。二度とこの手を放さないと意志を込めて恵の手を強く握りしめる。
 五指から流れ込む恵のぬくもりで手のひらがじんわり温まる。
 この手を守る為なら何でもするとあの時下した決断に後悔はない。
 恵の手が血で汚れるなど僕には耐えられない。ならば僕が罪を被ったほうがいい、僕には恵を守る責任があるのだ。
 鍵屋崎優と由香利、血の繋がった実の両親の前で恵はいつも萎縮していた。生まれてきて申し訳ないと全身で謝罪するように目を潤ませ下を向いていた。
 鍵屋崎夫妻は実子の恵に対しても酷く冷淡で恵の存在は家でほぼ無視されていた。多忙な両親に放任されて育った恵は、孤独を紛らわすため一生懸命ピアノを練習した。両親を振り向かせたい一心で考案した一手段だったのかもしれない。恵の健気な想いはしかし、一度として報われることがなかった。
 鍵屋崎夫妻が自発的に練習風景を見に来ることは一度もなく、日々上達しつつある演奏に賞賛の拍手を送ることもなく、壁に防音処理が施された簡素な部屋にはピアノの音だけが寂しく響いた。
 恵は僕がいなければ駄目だ。僕に天才以外の付加価値があるならそれは恵の兄という一点のみ。僕は恵がいなければ駄目だ。恵は精神的に僕に依存しているが、僕もまた恵に依存している。
 とても正常とはいえない相互依存の兄妹関係。
 しかし、それでもいい。異常だっていいじゃないか。何か問題があるのか。僕はもともと異常な生まれ方をした人工の天才だ、もとから異常な人間が血の繋がりのない妹に異常な愛情を注いだところで倫理破綻はない。凡人の共感を拒むからこその天才だ。
 僕が奥底に抱えた秘密は僕の死とともに永遠に葬り去られる。
 鍵屋崎夫妻殺害の真相は永久に封印される。
 恵の将来のためにもそれがいちばんいいのだ。
 散発的に花火が上がる。乾いた炸裂音とともに夜空で花火が爆ぜる。閃光に明るんだ藍色の闇を背景に放射線状の軌跡を描く花火を見上げ、ふと違和感を覚え隣を振り向く。
 誰もいない。
 恵は僕の左側にいる、右隣には誰もおらず虚空があるのみ。
 本来、ここいにるべきはずの人間がいない。
 僕の隣にいるべきはずの男がいない。
 『どうしたの、おにいちゃん』
 恵が不思議そうに小首を傾げる。僕は恵に言葉を返さず、衝かれたように右側の虚空を凝視する。
 胸を吹き抜ける空虚な風の正体は何だ?
 胸にぽっかり穿たれた喪失感は?
 僕は恵と一緒に花火を見たかった。ヨンイルの最高傑作、素晴らしい花火。東京プリズンを去る五十嵐の前途を祝して空高く打ち上げられた送り花火。しかし、物足りない。恵が隣にいさえすればそれだけで十分のはずなのに、もう一人大事な人間を忘れているような気がするのは何故だ。  
 恵より大事な人間なんてこの世に存在しないはずなのに。

 僕の心は、「彼」を呼んでいる。
 ここにいない彼を求めて激しく疼きだす。

 彼。東京プリズンで出会った同房の男、初めて出来た友人。全幅の信頼を寄せる頼りになる相棒。いつも眉間に不機嫌な縦皺を刻み、本人にその気がなくとも人を威圧する仏頂面で、意志の強さと生来の頑固さを表明するように口を引き結んだ胡散臭い男。僕が辛い時には励ましてくれた。いつもそばにいてくれた。
 その彼が、いない。
 僕の視界から消えて手の届かないところへ行ってしまった。
 彼はどこにいる?周囲に視線を飛ばして探すが見つからない、恵と手を繋いだことも一瞬忘れて足を踏み出し周囲を見回すが花火が煌煌と照らす光と影の世界に彼はいない。
 『どこにいるんだ?』
 胸が激しく疼く。息を吸うたび肋骨の隙間に虚無が沁みる。おにいちゃん痛い、と恵が抗議の声を発するのを無視して花火に照らされた周囲を見回す。ここに彼がいなければ意味がない。僕は彼と一緒に花火を見たかった。あの夜展望台で二人並んで夜空を見上げ、ヨンイルが最高傑作と自賛する花火に陶酔する濃密な時間を共有したかった。
 『どこにいる、サムライ!僕を独りにしないと約束したろう!?』
 光に切り裂かれた闇の中に、虚しく声が響く。
 サムライはどこに行った、何故あの時あそこにいなかったという疑問が脳の奥で膨らみ暗澹と不安が渦巻く。同時に、荒削りに乾燥した唇の感触を反芻し頬が熱くなる。興奮か怒りか、自分でもわからない激情に翻弄されるがまま恵の手を引いて走り出す。
 恵が甲高い悲鳴をあげる。
 地上の狂乱に呼応するがごとく次々と花火が炸裂する。
 息を弾ませ疾走し必死にサムライを捜し求める。切迫した呼び声に闇は応じず沈黙する。闇に手を伸ばして掴むのは虚空だけ、サムライの面影すら掴めず何度も裏切られる。
 ぶざまだな鍵屋崎直。耳の裏側で嘲りの声がする。みっともない天才だともう一人の僕が嘲笑する。たかが友人一人のために大事な妹を引きずり回して、お前には恵さえいれば十分ではなかったのか?それ以上は望まないと言ったくせにあれは嘘かと僕を責める。
 そうだ。
 過去の僕には恵さえいれば十分だった、他には何もいらなかった。
 しかし、今は。
 『どこにいるんだサムライ、友人の自覚があるなら許可なく僕をひとりにするな!売春班に僕を助けに来たとき言った台詞は嘘か、タジマに襲われた夜に僕を抱いて言った台詞は嘘か!?僕は君のぬくもりを覚えている、ささくれた唇の感触を覚えている!恵以外の人間に接して不快じゃないと感じたのは君が生まれて初めてだ、君が初めての男なんだ!!』
 僕にはサムライがいなければ駄目だ。サムライがいなければ不足だ。サムライがいないと不安でたまらない。僕を独りにするな、サムライ。僕はすでに君なしではいられない体なんだ、体も心も君に依存しているんだ。花火の閃光が闇を切り裂く中をサムライを求めて走る。サムライを呼ぶ声は花火の炸裂音にかき消されて虚空に吸い込まれる。
 気付けば恵の姿は消えて僕は一人だった。喉嗄れるまで叫び、極彩色の光に彩られた明るい闇を掻き分けサムライを請い求める。

 どこにいるんだサムライ。
 僕を独りにしないでくれ。

 発狂しそうな焦燥に駆り立てられ、動揺に足を縺れさせ、走る。
 今の僕には君しかいないのに、君まで失ったら僕は本当に独りきりになってしまう。頼むから僕を拒絶しないでくれ、軽蔑しないでくれと必死に懇願する。心臓の動悸が速まる。耳の奥に鼓動を感じる。いつのまにか花火は消えてきな臭い残り香があたりに立ち込める。圧倒的な質量の闇が押し寄せて幾重にも僕の体を包み込む。暗黒の触手に四肢を絡めとられ身動きを封じられ、もがき苦しみながら僕は叫ぶ。
 『僕には君がいなければ駄目なんだ、孤独で窒息してしまうんだ!!』
 苦しい。助けてくれ。
 圧倒的な質量の暗闇が僕に覆いかぶさり押し潰そうとする、足元には闇より暗い暗黒を湛えた深淵が裂けて僕を呑み込もうとする。
 何故だ?
 サムライに拒絶された恥辱がまざまざと蘇る。不快感が喉を塞ぐ。
 静流の言葉を真に受けてサムライを試すような真似をした罰だ。もはやサムライの心は完全に離れてしまった。僕はまた選択を誤り大事な人間を失ってしまった。後悔しても遅い。取り返しがつかない。
 サムライは僕を軽蔑した、僕の本性に衝撃を受けて不快感を禁じえず激しく唾棄した。
 『許してくれサムライ、もう二度と触れないから、あんなことはしないから!一方的に触れて不快にさせたりしないと約束する、君の過去に触れないと約束する!だからっ』 
 だから。
 どうか、友人でいさせてくれ―……

 …………はっ、はっ、はあっ」  
 呼吸が荒い。心臓の音がうるさい。跳ね起きた時にはびっしょり寝汗をかいていた。濡れた前髪が額に被さって気持ちが悪い。
 悪夢から醒めると同時に背骨を抜かれるような安堵を覚えた。
 夢でよかった。隣のベッドを見ればもぬけのからだった。一瞬、呼べど捜せど姿の見えないサムライを求めて暗闇を彷徨する悪夢と地続きの現実に還ってきたかと心臓が止まったが杞憂だった。
 サムライは先に起きて洗面台に向かっていた。
 顎先を滴る汗を拭い、起き上がる。昨夜、五十嵐は東京プリズンを去った。展望台には囚人が集合し五十嵐を見送った。
 僕もあの場で五十嵐を見送った。
 サーチライトの光に暴かれた五十嵐の背中には父親の威厳が回復し、囚人たちの声援を受けて大股に去っていった。見送りにでた子供たちに情けない姿はさらないとでもいうふうに。
 「……大丈夫か?ひどくうなされていたようだが」
 「!」
 はじかれたように顔を上げる。
 蛇口を締めて振り向いたサムライが、表情に乏しい平板な顔をかすかに曇らせている。
 「無視はやめたのか。どんな気分の変化だ」
 脊髄反射で嫌味が口をつく。サムライは「皮肉を言う元気があれば大丈夫だな」と独りごち、首にかけた手拭いで顔を拭く。
 ベッドに腰掛けた僕は、夢の余韻から回復するまでの数秒間を放心状態で過ごす。目が腫れぼったい。ヨンイルの打ち上げ花火に付き合わされたせいで寝不足だ。今日も強制労働があるというのに、貧血を起こさないか不安だ。
 とにかく、顔を洗おう。
 ベッドから腰を上げ、洗面台に向かう。サムライはそんな僕を黙って見ていた。不意に眩暈に襲われ、足が無様に縺れる。バランスを崩して倒れ込んだ僕を咄嗟にサムライが支え起こす。
 鼻先に木綿の手拭いが垂れさがる。
 「寝惚けているのか?お前らしくもない」
 苦笑の滲んだ声は心なし温かい。逞しい腕に縋り上体を起こした僕は、洗顔を中断して駆け付けたサムライの顔を至近に見て、驚く。
 「唇を怪我したのか?」
 「何」
 「血がついてるぞ」
 自分の唇に触れて指摘する。間近に迫ったサムライの唇には一点、鮮やかな朱が塗られていた。唇が切れて出血しているのだ。僕の指摘につられて唇に触れたサムライが動揺をあらわにする。
 様子が変だ。
 サムライの態度に違和感を覚えた僕は、不審顔で畳み掛ける。
 「そういえば昨夜姿が見えなかったが、どこに行ってたんだ?唇を怪我したということは、誰かに顔を殴られたのか。平和主義の君に限ってあり得ないとは思うが最近は東京プリズンも物騒だ、各地で乱闘が勃発して多数の死傷者がでている。君もまさか乱闘に巻き込まれて……」
 だから、展望台に来れなかったのか?あれだけ騒ぎになれば離れた場所にいてもわかるはずなのにと言外に匂わせて詰問すれば、サムライが視線を揺らして狼狽。肩にかけた手拭いを掴み、きっぱりと首を振る。
 「妙な勘繰りをするな。俺が昨日展望台に行かなかったのはと軽々しく口外できん事情があったからだ。乱闘になど関わっておらん、心配には及ばん」
 「しかし現実に怪我をしてるじゃないか、唇が出血してるじゃないか。いいから見せてみろ、傷口から黴菌が入って腫れでもしたら大変だ。軽症だからと素人判断で放置せず医務室で消毒してもらうべきだ」
 「余計なことをするな」
 頑なに拒まれてむきになり、サムライの手を払いのけ、怪我の程度を診断しようと顔を近づける。サムライの抗議を聞き流して唇を観察した僕は、彼の唇を鮮やかに染めたそれが出血ではないと確認、驚きに目を見張る。
 上唇の先端に付着していたのは、真紅の口紅。
 無精ひげが顎に散り始めた厳つい顔には似つかわしくないことこの上ない口紅……
 「サムライ、君は女装趣味があるのか?展望台に来れなかった特殊な事情とは女装で徘徊してたからか」
 「違う」
 不機嫌極まりない顔で断言、手拭いで口紅を拭い去る。はらりと首からたれた手拭いには紅で模られた口唇の模様がある。赤い口紅。色白の肌を引き立てる鮮やかな真紅……
 『帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?』 
 紅など塗らなくても妖艶に赤い唇をほころばせ、静流が微笑む。
 静流にはきっと、赤い口紅がよく似合う。形良い唇に映える真紅は色白の肌を引き立て、女性的な容姿の美少年をさらに魅力的に見せる。
 胸が不吉に騒ぐ。何故サムライの唇を染めた紅から静流を連想したのかわからない。意味はない、根拠はない、これっぽっちも。何故サムライの唇に口紅が付着していたのかもわからない……
 考えられる可能性は。
 昨夜、サムライはだれかと唇を重ねた。
 僕がいない場所で密やかに唇を重ねて口紅を移されたのだ。
 
 僕が展望台でサムライのことを考えている間、サムライはその誰かと一緒にいた。
 唇を重ね、口紅を貰い、抱擁し……

 「直?」
 サムライの不審げな声を無視、衝動的に鉄扉を開け放ち廊下にとびだす。乱暴に鉄扉を開け放った僕を、一足先に食堂へと向かっていた囚人たちがぎょっと振り返る。鉄扉に背中を凭せて呼吸を整え動悸を鎮め、自嘲の笑いを吐く。
 「そうか。そういうことか。サムライには他に唇を交わす相手がいるのか。ならば僕に誘惑されても迷惑なだけだ、寝込みを襲われて抵抗するのは当然だ。僕へのキスにも特別な意味はない、彼の言うとおり一夜の気の迷いに過ぎない。僕が深く考えすぎていたんだ。まったく、想像力豊かなのも考え物だな。凡人が考え付かない可能性を次々と考慮して深刻に思い詰めて、馬鹿みたいじゃないか」
 深呼吸し、低い天井を見上げる。
 「無様だな、僕は」
 サムライにキスされて、ひとりで思い上がって。
 あんな行為には、何の意味もなかったのに。
 苛立ちを込めて吐き捨て、サムライを待たずに食堂に向かう。背後で鉄扉が開きサムライが駆け出してくるが無視して歩調を速める。
 体の脇でこぶしを握り、前だけ見て突き進む僕の脳裏には静流の微笑とサムライの狼狽した顔が重なり像を結ぶ。 
  
 『帯刀貢を返してもらいに来たのさ』

 耳の奥で殷々とこだまする静流の声。
 嵐の前兆。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050617114620 | 編集

 食堂は混雑していた。
 食堂の定員に比して人口過剰な為に、東棟では毎朝激しい競争が繰り広げられる。席の確保に勝利した囚人が朝食をがっつく横で後ろ襟を引かれ椅子を蹴倒された囚人がトレイをぶちまけひっくり返る。頭から味噌汁を被りワカメの切れ端を顔に貼り付けた囚人が席を奪還しようと再戦を挑み、周囲のテーブルの囚人も巻き込んで乱闘に発展する。
 混雑を避け、トレイを抱えて通路を歩く。
 東京プリズンに来て十ヶ月、僕をひっかけようと突き出される足を跨ぐのも慣れた。トレイを持ったまま眼前に突き出された足を造作なく跨ぎ越せば「親殺しの癖に生意気だ」と舌打ちが聞こえる。
 低脳の嫌がらせにいちいちかまっていたらきりがない。
 朝食に遅れを取るのは致命的だ。食堂では席の争奪戦が行われる。出遅れたら椅子に座るのは不可能、騒々しい喧騒の中に突っ立ったまま食事をとる羽目になる。僕はトレイを抱えたまま食堂に視線を巡らして空席を捜す。
 既に席は八割方埋まっている。
 食堂中央、凱が大股開きに上座に陣取ったテーブルから少し離れた場所に明るい藁色の頭髪が覗いてる。
 「なあロン、犬鍋食ったことある?」
 レイジとロンがいた。凱一党が陣取ったテーブルから無難な距離の席に腰を落ち着けて食事を取っている。姦しい話し声の中で聴覚が捉えたのは物騒な問いかけ。だらしない姿勢で頬杖つき、右手のフォークで温野菜のサラダをつつくレイジの隣でロンがぎょっとする。
 「……ねえよ。なんだよいきなり」
 「だって中国人犬食うんだろ。有名だぜ」
 「どっから出た噂だよ」
 返答次第では手にしたフォークで襲いかかる構えを見せてロンが凄む。レイジが気のない素振りで顎をしゃくった方角では、東棟最大勢力のボスとして尊大にふんぞり返った凱が大口開けて笑っていた。
 仲間が気の利いた冗談でも言ったのか、下品に唾を飛ばして爆笑する凱からレイジに視線を転じたロンが憮然とする。
 「凱を基準に考えるな。そりゃ俺だって中華は好きだし東京プリズンの献立に中華が加わって嬉しいけど普通犬なんか食わねえよ。煮込めば美味いらしいけど外でも食ったことねえし、大体中国人みたいに台湾人は意地汚くねえ。一緒くたにされちゃたまんねーよ」
 「どっちも同じだろ?お前ハーフだし」
 「お前が言うなよ」
 ロンがますます不機嫌になる。彼らの方に歩み寄りながらロンの言動が先日と矛盾してると呆れる。ロンは記憶力が悪いから自分の発言すら覚えてないかもしれないが、先日犬に襲われた時は「犬鍋にして食っちまうぞ!」と吼えたではないか。
 さすが中国人、犬を食材と見るとは斬新な発想だと感心したのが今更悔やまれる。
 ロンはその場のノリで啖呵を切っただけで実際に犬を食べたことはないらしい、さも心外そうに茹でたブロッコリーにフォークを突き刺してレイジに食って掛かる。
 「そりゃ俺の半分は平気で犬食う中国人だけど毎日食卓に犬料理でてくるわけじゃねえ、俺がいたスラムにゃ野良犬や野良猫がうじゃうじゃいたけど昨日見かけた犬が突然消えて肉屋に売られたとか煮込まれて屋台で売られたとか噂立つほど台湾人は飢えてねえっつの!まあ食って食えないことはねーんだろうけど好んで食おうって気にゃなんねーな。だって犬だし、万一肉食って狂犬病にでもなっちまったら大変だ」
 「狂犬病ってお前……『可哀想』とかじゃなくて?」
 「んなこと言ったら鶏も豚も牛も食えねえ。食材に情けかけるなんざアホだ。スラムにいた犬はがりがりに痩せこけた野良ばっかですすんで食おうって気にゃならなかった。腹壊しそうだし。ああ、でもマジで飢えてたら食ったかも」
 論点がずれている。レイジは「なるほど」と頷きロンの主張を聞き流し、フォークの先端に刺したブロッコリーをくるくる回している。
 なんなんだ一体?中国人が犬を食うか否かがそんなに重要な議題なのか、朝一番の食卓で話し合うほどの?
 フォークの回転を止め、レイジが気軽に言った。
 「犬鍋ご馳走してやろうか。ロン」
 「!」
 足が硬直する。レイジとロンがいるテーブルまで5メートルの距離を残して慄然と立ち竦んだ僕の視線の先、王様は陽気に笑っている。ロンはぽかんとしている。当然だ。いきなり犬鍋をご馳走すると言われて驚かないのはよほど神経が図太いか食い意地が張った人間だ。その条件には合致してるが、犬鍋をおごると言われて当惑する程度の一般常識もとい良識を持ち合わせたロンがうろんげな目つきになる。
 「犬鍋ってまさか……お前レイジ、十字架のこと根に持って所長の飼い犬捌こうとしてんのか。あの犬でけーからナイフで捌くの大変だぞ。それに凶暴だし」
 「大丈夫、俺ナイフの扱いに自信あるし骨と肉分断すんの得意だし一時間もかかんないって。ま、筋張っててあんま美味くなさそうだけど何事も経験のうちってな。一回食ってみたかったんだよなーワンコ。凱の受け売りだけど結構脂のってて美味いらしいし、東京プリズンのシケた食事にも飽きてきた頃合いだから豪華なディナーになるぜ」
 「これがホントのドッグフード、ってちょっと待てお前!!」
 乱暴にフォークを置いてロンが立ち上がりレイジの胸ぐらを掴む。
 何の騒ぎだと周囲の囚人が注目する。
 「冷静になれレイジ、お前の気持ちはよっくわかる。あのバカ犬が十字架ぼろぼろにしたこと考えりゃ犬鍋にしてぐつぐつ煮込みたくもなる。俺も鍋物なんて久しぶりだし、てか外でも滅多に食えなかったしこの際食材が犬でもいいかって想像して涎がでたけどさすがにそれはやべえ、所長の飼い犬に手えだしたらお前今度こそ本気でやばいぞ。ただでさえこないだの一件で目ぇつけられてんのに!」」
 「大丈夫、お前も共犯だ。どうせならキーストアとサムライも誘うか、みんなで楽しくドッキリドッグーパーティーを」
 「断る。君の共犯になるのは願い下げだ」
 ロンが弾かれたように振り向く。怒り心頭で僕の接近に気付いてなかったらしい。
 「なんだよつれねーなあ、みんなで楽しく鍋囲もうぜ。大丈夫、バレないって」
 「東京プリズンで鍋なんかやったらバレるだろがおもいっきりよ!湯気はどこに逃がすんだよ、通気口から逃がすのか?んなことしたら近所の房にまで匂い出回って意地汚ぇ連中が分け前目当てに殺到するよ!」
 「なら展望台で食わね?鍋っつったらやっぱアウトドアだよな、砂漠の太陽にじりじり焼かれながらはふはふ肉食うのがサバイバルの醍醐味」
 レイジはロンに再三叱責されても懲りずに笑っている。犬鍋を譲る気はないようだ。食い意地の張った王様だと呆れつつ椅子を引き着席、トレイを置く。
 サムライの姿はない。
 今頃はカウンターで朝食を受け取ってるはず。長蛇の行列を成したカウンター前で立ち往生するサムライを待たずに着席、伏し目がちにフォークを取った僕は、ふとレイジの本音に思い至る。
 ロンは昨日、犬に太股を噛まれた。
 イエローワークの砂漠に視察に来た但馬が犬をけしかけ囚人狩りを決行し一名重傷者を出した。
 片方の睾丸を噛み千切られて瀕死の重傷を負った囚人の悲劇に隠れてあまり話題になってないが、僕とロンも犬に襲われて怪我をした。僕の怪我は大したことないがロンは深々と太股を噛まれ、帰りのバスに乗るときは痛そうに顔を顰めびっこを引いていた。
 東棟の王様、いや、今や東京プリズンの王様となったレイジの耳にそれが届かないはずはない。
 「復讐か」
 コンソメスープを啜りながら呟けば、ロンが怪訝な顔をする。鈍感め。レイジは「バレちまったか」と笑っている。察するにレイジは十字架をぼろぼろにされたことよりもロンが噛まれたことに激怒し犬鍋を決行しようとしたらしい。極端というか大胆というか、どちらにしろ非常識な発想だ。  
 「腹もふくれて一石二鳥の復讐だろ?イケてると思ったんだけど、自称天才にダメ出し食らっちまった」
 「自称じゃない、僕の頭脳が優秀なことはこの刑務所の囚人のみならず世間に広く認知された事実だ。第一犬鍋など復讐にしても野蛮すぎる。原始人か貴様は?氷河漬けのマンモスを見たら太古の神秘に感動するより先に食欲を感じて涎をたらす即物的人間か」
 「失礼な。俺が涎たらすのは最高にイイ女の腰つきと最高に可愛いロンの寝顔見たときだけ」
 「さりげなくのろけるな、耳がくさる」
 噛み合わない会話に苛立ちが募る。レイジは人をイラつかせる天才だ。ただでさえ今朝の一件で不快感を覚えているのに……背後に足音。底の磨り減ったスニーカーを履いたサムライが歩いてくるが、無視して食事を続ける。サムライは当然の如く僕の隣に腰掛ける……
 いや、違う。ちょうど僕のまた隣が空いたのを機に、無言無表情でそちらに席を移す。
 ………なんだ?僕に対するあてつけか?なんて大人げない男だ、見損なった。どうやら僕はサムライの人間性を過大評価していたようだ。
 「お前らまだ喧嘩続けてんの?よく飽きねえな」
 フォークを咥えたロンがあきれ顔で僕とサムライを見比べる。君にだけは言われたくないと抗議しようとして、背後に接近する靴音に気付く。
 「!静流」
 サムライが即座に反応する。つられて振り向けば静流がいた。トレイを抱えて愛想よく微笑んでいる。僕の目は静流の唇に吸い寄せられた。女性のようにふっくらと丸みを帯びた唇……放心した僕の隣で椅子を蹴立てサムライが立ち上がる。
 「座れ」
 そして顎をしゃくったのは、僕の隣の席。
 待て、僕に拒否権はないのか?静流はサムライににこり微笑みかけ、「じゃあお言葉に甘えて」と僕の隣に着席する。
 サムライもまた席に着く。
 胸の内にもやもやと不快感が広がる。サムライが静流を呼んだのは空席をさがして食堂を彷徨するいとこを放っておけなかっただけだと自己暗示をかけ平静を装い、ぎこちなく食事を再開。
 僕の隣に腰掛けた静流が、サムライの手元を見てくすくす笑う。
 「へえ、貢くんもフォーク使うんだ。なんか意外」
 「おかしいか?」
 「うん変。箸使ってるイメージしかないもの。貢くんがフォークにブロッコリー突き刺してるなんて面白い絵面を笑い上戸の姉さんが見たらどんなにか喜んだことか……なんだか、独り占めして申し訳ない気分」
 静流がちらりと僕に流し目をくれる。後半の台詞は僕に向けた挑発にも思えたが、自意識過剰な思い込みか?
 努めて平静を装い静流とサムライの会話を無視、沈黙の殻に閉じこもり食事に集中するふりをする。しかし、手元に視線を落としていても声は聞こえてくる。
 「ここの生活には慣れたか?その、外とは大分勝手が違って戸惑っているとは思うが」
 サムライが気遣わしげに訊く。なんだ今のは。僕が来たときはそんな優しい台詞かけてくれなかったじゃないかと反発が込み上げる。コンソメスープの深皿に口をつけつつさりげなくサムライの表情を窺えば、柔和な目で静流を眺めている。
 二人の間に親密な空気が流れる。
 僕が入り込めない雰囲気。
 「まだいろいろと戸惑うことが多いよ。体を二日に一度しか洗えないのは辛いね」
 「困ったことはないか?」
 「たまに帰り道を忘れて迷子になるくらい」
 「そういう時は目印を覚えておくんだ。壁の落書きや傷、端から三番目の蛍光灯が電池切れかけで点滅している。目印を覚えておけば道に迷ってもいずれ必ず房に辿り着ける。焦ることはない、徐徐に慣れていけばいい。俺も助太刀する」
 「何時代の人間だ貴様は。徳川幕府はとうに倒れたぞ。付け加えるが、廃刀令が施行されたのは西暦1870年だ」
 反射的に嫌味がでたが、静流の笑顔は片時も崩れない。
 余裕さえ漂わせてサムライの仏頂面と僕の不機嫌な横顔とを比較するその目は、微笑ましい光景でも見るかのように和んでいる。
 気に入らない。馬鹿にしているのか?
 気色ばんだ僕からサムライへと向き直り、静流が安堵の息をつく。
 「貢くんと会えて良かった。心強い。地獄に仏って諺は本当だ」
 「……身内として当然のことをしたまでだ。感謝されるいわれはない」
 サムライが謙虚に咳払いする。
 「貢くんはいつもそうだ。外にいた頃から変わってない。自分がどんな立派な行いをしても気付かないっていうか、感謝されるに値しないって謙虚な態度を貫いて、だからみんな君を褒める。君こそ帯刀本家の跡継ぎにふさわしい人物だって」
 「……俺はもう帯刀家の人間ではない」
 「違う。君の中には僕と同じ帯刀の血が脈々と流れてる。僕たちは帯刀家の人間だ。一生帯刀家から離れられない」
 静流が伏し目がちに言い、サムライが困惑する。
 「貢くんは今でも僕が憧れる帯刀本家の人間さ。こうしてここで会えたのも運命、帯刀の血の巡り合わせだよ。正直最初は不安だった。知り合いがひとりもいない刑務所でやってけるかなって……でも、こうして貢くんと会えた。貢くんがそばにいてくれるなら少しも怖くない。子供の頃、姉さんに虐められるたびに庇ってくれた貢くんがそばにいるなら」
 「静流」
 恥ずかしげに俯いた静流の方へ身を乗り出したサムライが、静流の肩に手をかけ断言する。
 「安心しろ。お前は俺が守る。必ず生かしてここから帰す。そうせねば他界した叔母上に顔がたたん」
 ……なんだこの時代錯誤な会話は。時代劇か?
 いい加減にしろと怒鳴りたくなるのを堪え、早々と食事を済ませて席を立つ。向かいではレイジとロンが言い争っている。「食わず嫌いしてっと大きくなれねーぞロン、犬鍋はタンパク質満点の豪華ディナーだ。一回チャレンジしてみて損はねえ」「ゲテモノ食いは黙ってろ。犬は犬でもあんな犬食いたくねえ。あの犬ぜってー狂犬病だよ、ヒトのオス相手にさかって腰振って!」……くだらない。
 乱暴に椅子を引き立ち上がった拍子に静流の腕に肘がぶつかる。断っておくがわざとではない。事故だ。偶然だ。僕がそんな低次元の嫌がらせをするはずないじゃないか、見損なわないでくれたまえ。
 「あ」
 静流が小さく声をあげる。肘が触れた拍子に箸を落としたらしい。静流につられ反射的に身を屈め、箸を拾おうと床に手を伸ばす。わざとではないが、僕の不注意が原因で箸を落としたのだから責任は僕にある。不承不承屈みこみ箸を拾い上げー
 「!」
 見た。
 見てしまった。
 手中に拾い上げた箸の先端にごく薄く口紅が付着している。口紅。サムライの唇に付いてたのと同じ。
 弾かれたように静流を仰ぎ、唇に目を凝らす。椅子から腰を浮かしテーブル下を覗き込んだ静流の唇にも一点、真紅が残っている。瞬間、確信した。サムライが昨夜キスした相手は静流だ。サムライは昨夜静流にキスをして口紅を移され、そしてー
 そして?
 「ありがとう」
 硬直した僕へと手をさしのべ、嫣然と微笑する静流。生唾を呑み、その手に慎重に箸を乗せる。
 「静流、君は」
 静流の手に手を重ね、掠れた声で訊く。
 「君は、サムライと関係を持っているのか?」
 耳の奥で鼓動が高鳴る。腋の下が不快に汗ばむ。緊張に強張った顔で静流を仰ぎ、全身で答えを待つ。静流は笑いながら僕に顔を寄せ、そしてー 
 激痛。
 「!?っあっぐう、」
 口から押し殺した悲鳴が漏れる。手の甲を踏みにじられる激痛に視界が歪む。何が起きたのか一瞬わからなかった。額に脂汗を浮かべて眼下に目を凝らした僕は、真新しいスニーカーの靴底で手を踏み躙られてることに気付く。静流が嬉々として僕の手を踏み躙っている。
 靴裏をねじり皮膚を巻き込み僕を痛め付ける快感に酔い、静流は邪悪に目を細める。
 「ひ、ぎ………」
 「そうだよ。貢くんは僕の物。君の出る幕はない……そう言えば満足?」
 はなせ、と声を荒げる前にふっと足がどく。
 床にへたりこんで息を荒げる僕を面白そうに見下ろし、追い討ちをかける。
 「貢くんは昨夜僕と一緒にいた。僕と唇を重ね力強く抱きしめて『守る』と誓った」
 「嘘、だ」
 嘘だ。力なく反駁した僕にちらり憫笑を投げ与え、衣擦れの音も涼やかに静流が腰を上げる。
 「なら本人に確かめてごらん。貢くんは真実を話してくれる。武士に二言はないものね」 
 立ち上がりしな優雅な動作で手を伸ばし、ほんの一瞬僕の頬に触れる。
 「彼はもう君のサムライじゃない」
 ぞくりと肌があわ立った。
 僕の頬を妖しく撫でた静流が眼光鋭く牽制、薄く紅を引いた唇を吊り上げる。
 「僕と姉さんの帯刀貢だ」
 思ったとおり。
 静流には、真紅の口紅がよく似合っていた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050616134135 | 編集

 痴話喧嘩は犬も食わないが、鍵屋崎は犬に食われそうになった。
 だからさっさと仲直りしちまえと思う、とっとと謝っちまえと思う。鍵屋崎もサムライも頑固で、どっちかが腹括って折れない限り永遠に平行線で仲直りの兆しが見えない。
 数日前から鍵屋崎の様子がおかしいのは気付いていた。普段冷静沈着ぶってる鍵屋崎はすぐ動揺が顔にでる単純な奴なのだ。
 デリケートと言えば聞こえはいいが、逆境に打たれ弱い繊細な神経の持ち主は東京プリズンの環境に耐え切れず首を吊るか胃を壊しちまうのがオチ。鍵屋崎は後者。異常にプライドが高く自殺を逃避の一手段と嫌悪する鍵屋崎が首括る可能性は低いが、何でもかんでも独りで抱え込んで深刻に思い詰める気性が災いしてそのうち神経性胃炎になっちまいそう。
 今朝食堂で会った時も様子がおかしかった。鍵屋崎が配膳待ちのサムライを放っぽって席取りに来るなんて、見かけに寄らず律儀なあいつらしからぬ振る舞い。鍵屋崎だけじゃない、サムライも挙動不審だった。わざわざ鍵屋崎から席一つ空けて座って、食事中もろくに目を離さず会話もせず黙々と飯をがっついてた。
 倦怠期の夫婦かよお前らと余程つっこんでやろうかと思った。
 沈黙の食卓。
 なお雰囲気を悪化させたのは鍵屋崎とサムライの間に挟まる静流の存在。なよなよした見かけに反してよっぽど神経図太いのか空気を読まないタチなのか、あからさまに不機嫌な鍵屋崎を無視して人懐こくサムライに話しかけてた。サムライもまんざらではなく受け答えして、二人の間にはほのぼの親密な空気が漂っていた。鍵屋崎はその間ずっと疎外されて、一人ぼっちでしんみり飯食ってた。
 ちょっと可哀想。
 まあ、夫婦喧嘩は犬も食わないのが真理だし余計なお節介はさしでがましい。だから俺もずっと遠慮して、首突っ込みたくなる好奇心を抑えて、ここ数日間じっと様子を静観してた。けど、事態はよくなるどころかますます悪化する一方。
 レイジに相談しても為になるアドバイスが返ってくるとは思えない。
 「放っとけよ。泥沼三角関係なんておもしれーじゃん、愛人と正妻の仁義なき戦いは高みの見物決め込もうぜ」とか何とか面白半分に適当言われるだけだ。あてにならない王様め。

 そして、強制労働開始。

 シャベルを掴み、穴掘りに精を出す。
 手は動かしながら、鍵屋崎とサムライのことをうだうだ考えてた。レイジは放っとけとぬかすが、やっぱ心配だ。シャベルを振るって砂を掻き出しながら、上目遣いに視線を巡らして鍵屋崎をさがす。いた。未完成の用水路へと側壁補強用の土嚢を担いで運んでる途中だ。
 俺に背中を向け、肩に土嚢を担ぎ、ふらふらよろよろ危なっかしく蛇行する鍵屋崎にはらはらする。いつ貧血起こしてぶっ倒れてもおかしくねーぞあいつ。サムライとの喧嘩が鍵屋崎の体調に悪影響及ぼしてるのかも。あいつよく眠れてないみたいだし、目の下にはべっとり不健康な隈貼り付いてるし、眼鏡の奥の目も淀んでる。
 「~~~あーもう、しゃきっとしろよしゃきっと!」
 活を入れてやりたい。死んだ魚みてーな目えしやがって、情けねえ。サムライと何があったか知らないがぐだぐだ悩んで胃を壊すくらいならとっとと謝っちまえ、我の強い天才め。まあ、鍵屋崎が俺の説教聞くとは思えない。俺みたく凡人の意見に耳傾ける謙虚さがあるなら自分のことを「天才」なんて吹聴しないはずだ。やれやれ。やっぱ時が解決するに任せるっきゃないか?いつになるかわかんねーけど。
 砂に突き刺したシャベルに凭れかかり、憂慮のため息に暮れる。
 「サムライのいとこかあ……いくらサムライでも、身内は切り捨てられねーもんなあ」
 今朝サムライの隣に座ったのは、いとこの静流。
 東京プリズンで再会した肉親にサムライが複雑な感情抱いてるのは傍からでもわかる。サムライだって女の股から産まれた人の子、一途に慕ってくる身内に冷たくできるはずがない。サムライはああ見えて優しいから余計に憧憬を裏切れない。
 最も、自分が腹痛めて産んだガキに一片の愛情も恵まない薄情な女もいる。たとえば、俺の母親。もうずいぶん会ってないお袋。今頃どこでどうしてるんだから音沙汰ないからわからないが、ろくでもねえ男にひっかかってろくでもねえ生活してるんだろうと漠然と察しは付く。
 俺がいまだにお袋を切り捨てられないように、サムライだって静流を切り捨てられない。
 過去があるから今の自分がいる。
 過去を切り捨てたら、今の自分は成立しない。
 それが直感的にわかるから、サムライは静流を庇おうとする。献身的なまでに静流の力になろうとする。サムライは間違ってない。気持ちはよくわかる。名前を捨てたところで過去と決別するのは難しい。
 親から貰った名前を捨てたところで、厄介な過去は一生付いて回る。
 けど、鍵屋崎が悩んでるのも事実。
 なんとかしてやりたいのが本音なわけで。
 「だいたいサムライがはっきりすりゃいいんだよな、武士らしく。静流と鍵屋崎のあいだふらふら行ったりきたりしないでどちらか一人に決めりゃいいんだ、二股なんて最低だよ、切腹モンだよ。武士の恥だよ。だんまり決め込んでカッコつけてないんで、鍵屋崎にちゃんと言いたこと言やいいんだ。ケンジョーの美徳なんてしゃらくせえ」
 「おい!」
 「あん?」
 顔を上げる。顔見知りの囚人が足早にこっちにやってくる。何だ一体?俺に用か。うろんげな面で出迎えた俺の前で立ち止まり、同じ班のそいつが連絡を伝える。
 「ビニールハウスの看守から伝言だ。お前に用があるから至急来いとさ」
 「ビニールハウス?」
 目を丸くする。俺たち囚人が汗水垂らして働くイエローワークの作業現場から二つほど砂丘越えたとこにあるビニールハウスは、飴玉しゃぶりと引き換えに贔屓されてる特定の囚人専用のラクな仕事場。もちろん、遠目に見かけたことがあるだけで足を踏み入れたことはない。
 日に焼けた顔の同僚は砂丘の向こう側に顎をしゃくり続ける。
 「ほら、あいつ……えーと、名前なんだっけ?忘れちまった。赤毛の男娼にぞっこんベタ惚れの地味なツラの看守がいたろ?あいつがお前に用があるんだとさ、個人的に」
 ……嫌な予感。「個人的に」って部分をわざと強調してにやつく囚人を睨み付ける。
 「赤毛の男娼……ウチの棟のリョウか。あいつが当たり構わず媚売ってパトロン拵えてんのは有名だ。大方そいつもリョウの手のひらで転がされてるおつむの軽い看守の一人だろうが、なんで俺が呼び出し食ったんだ?わけわかんねー」
 「文句は後回しで速攻行ったほうがいいぜ。大分テンパってたからな、あいつ。遅刻一分につき警棒一発プレゼントだ」
 しっしっと追い払われ、仕方なく歩き出す。
 シャベルをそこらへんに放り出し、気乗りしない足取りで砂丘を越える。砂丘の頂から眼下を望めば、穴ぼこのだらけの地面に働き蟻みたいに囚人が散らばっていた。
 無理矢理前に向き直り、砂を蹴散らし走り出す。
 靴裏で斜面を滑って目的地に到着。
 砂漠のまっただなかに忽然と出現したビニールハウスが、透明な外壁で直射日光を跳ね返し燦然と輝いてる。小綺麗なビニールハウスに歩み寄り、扉を開ける。
 「おおっ」
 思わず歓声がこぼれる。
 ビニールハウスに入るのは初めてだ。イチゴが生ってる光景を見るのも。ごく一部の囚人が配属されるビニールハウスではイチゴや西瓜やミニトマトが栽培されてると噂で聞いたが、実際見るまで半信半疑だった。
 「すげー。一個ぐらいつまみ食いしてもバレねえかも」
 誘惑に心が揺れる。ビニールハウスの中には整然と苗が植えられて葉影に赤く熟したイチゴが生っていた。口内に生唾が湧く。美味そう。前に一回、リョウが見舞いで持ってきてくれたことがあったなとふいに思い出す。
 ところが、そのリョウが見当たらない。ビニールハウスの中にゃ鼻歌まじりにホースで水撒いてる囚人やちまちまイチゴを摘んでる囚人がいたが、特徴的な赤毛はどこにも見当たらない。欠勤?そういや、行きのバスでも姿を見かけなかった。風邪でもひいたんだろうかと少し気になる……まあ、それはそれこれはこれで。
 「………だれも見てねーな?」
 自分で自分に確認、挙動不審な態度を見せないよう努めてさりげない風を装いしゃがみこむ。苗の葉っぱに害虫見つけたから駆除してやる、とでもいわんばかり堂々と。わざわざビニールハウスまでお呼ばれしたんだ。喉渇いてるし、一個ぐらい摘み食いしてもバチあたらねえよな?甘酸っぱいイチゴの味を反芻、口の中に唾液が溢れる。そして俺はイチゴに手を伸ばし……
 「えーと、リョウくんのお友達っていう子はどこに?」
 「!!」
 心臓が縮んだ。のんびりした声に振り向けば、背後には細い目の看守。バレた?見られたか??やべえ。
 「虫、虫がいたんだ。このビニールハウス外側は立派だけどぜんぜん手入れなってねえな、葉っぱが虫食いだらけじゃんか!ほら見ろよこの葉っぱの裏っ革、虫がいたんだぜ。マジで。嘘じゃねえよ見てみろよ、俺が気付くの遅れてたら大事なイチゴが大変なことにっ」
 「君か、リョウくんのお友達は」
 ……話聞いてねえ。とりあえず、イチゴの摘み食い未遂はバレなかったようで安堵する。こっそり胸なでおろし正面の看守を見つめる。これといって特徴のないのっぺりした顔だち。こいつがリョウのパトロンか。何て言うか、リョウの男の趣味もわからない。いや、別にわかりたくねーけど全然。複雑な胸中の俺をじろじろ眺めてそいつは言う。
 「へえ、思ったより可愛い顔してるじゃないか。リョウくん友達選んでるんだ」 
 「ああん?寝ぼけてんのか。その糸目かっぴろげてよーく見やがれ、俺のどこがあのど腐れ男娼の同類だってんだ」
 嫌な目つきだ。値踏みする視線に辟易、露骨に顔を顰めて啖呵を切るも相手は笑顔を絶やさず自己紹介する。
 「僕は曽根崎。イエローワークB地区第二ビニールハウス担当の看守だ」
 「俺を呼び出した用件ってのは?たわわに実ったイチゴでもご馳走してくれんなら嬉しいね」
 ぶっきらぼうに聞く。正直、こいつの名前なんてどうでもいい。俺ははやく砂漠に帰りたかった。作業を途中放棄したのがバレたらまた看守にどやされる。警棒食らうのはこりごりだ。
 と、曽根崎がこっちに歩み寄り俺の真ん前で立ち止まる。
 先刻の笑顔を引っ込め、やけに深刻な顔つきで口を開く。
 「君、リョウくんの友達なら無断欠勤の理由知らないかい?ビニールハウスに来てないんで風邪でもひいたんじゃないか、いや、怪我でもしたんじゃないかってすごく心配してるんだけど」
 「来てないの?リョウ」
 俺も驚く。あいつがサボるなんて意外。ビニールハウスでイチゴ摘みなんてラクで美味しい仕事放棄するなんて勿体ねえ。きょとんとした俺を見下ろし、曽根崎はさも心配げな口ぶりで勝手に続ける。
 「無断欠勤は今日が初めてなんだ。リョウくんはまじめでとっても良い子だから今まで仕事サボったことなんてないのに、今日には朝から姿見えなくて、どうしたんだろうってずっと気を揉んでたんだ。けど、このビニールハウスにはリョウくん以外に東棟の子がいないし何があったかわからない。そこで砂漠の子を呼んだんだ。君、リョウくんとなかよしなんだろ?前にバス停でおしゃべりしてるの見たよ」
 「なかよし?気色わりぃ誤解すんな。確かに帰りのバス待ってるとき暇つぶしで話したことあったけど、話した内容っていや『お前警棒で何回殴られた?俺三回。やりィ、勝ち!』とかだぜ」
 「仲よしじゃないか」
 「どこがだよ」
 さっきから会話が空回ってる。俺は曽根崎とのやりとりに居心地悪さを感じていた。ねっとりべたついた口調、俺を見る目つき……リョウのこと本気で心配してるんなら俺の顔眺めてにたにたすんな、変態め。舌なめずりすんな。体の脇でこぶしを結んで不快感に耐える。
 曽根崎は俺の顔を重点的に眺めてる。腹ん中じゃおそらく、リョウと俺どっちがフェラ上手いか比べてみたいと思ってるんだ。
 「そこでお願いなんだけど、君、リョウくんの様子見てきてくれないか?」
 「俺が!?」
 脳天から抗議の声をあげる。冗談じゃねえ、なんで俺がそんなこと。サボりたい奴にゃ勝手にサボりゃせりゃいい、それでリョウがクビになったところで知るか、自業自得だ。憤懣やるかたない顔つきで曽根崎を睨めば、奴は肩を竦める。
 「僕も困ってるんだよ。ほら、僕って一応ビニールハウスの監視役じゃないか?無断欠勤とか勝手な真似されると他の囚人に示しがつかないっていうか、看守の威厳に関わるっていうか。ほんとは直接リョウくんの様子見に行きたいんだけど今日は他に用事があって、仕方なくリョウくんの友達に偵察頼んだとこういう次第で。
 それだけじゃない、看守の僕が直接聞くより同じ棟の人間で気心知れてる君が事情聞いたほうがリョウくんも素直になるだろ。僕とリョウくんはとっても仲良しだけど、看守と囚人の壁乗り越えるのは難しいもんねえ」
 「愛は障害あったほうが燃えんだろ」
 「引き受けてくれるかい?」
 「面倒くせえなあ」
 だいたいなんだってリョウの為にそこまでしなきゃならない?俺の腕にぶすっと注射針さした奴のためによ。リョウに覚せい剤強制注射された記憶も薄れてないのに房訪ねるのは気乗りしない。どうしたもんかなと思案顔で下を向けば、艶々と輝くイチゴが目に入る。
 『ロン、イチゴ食べる?』 
 入院中の俺んとこに訪ねてきたリョウ。ポケット一杯にイチゴ蓄えて、恥ずかしげに俯いて。
 「…………しかたねえなあ。わかったよ、引き受けるよ!同じ棟のよしみだ。男娼の同類にされるのはたまったもんじゃねーけど、イチゴの恩返しだって言い聞かせて特別出血大サービスだ。感謝しやがれ」
 ヤケ気味に地面を蹴りつける俺を見て、曽根崎が相好を崩す。「引き受けてくれると思ったよ」といけしゃあしゃあ言いながらそこらに屈み込み手早くイチゴをもぎ取り、半ば強引に俺の手に握らせる。
 何の真似だと当惑した俺を覗き込み、曽根崎が不気味に微笑む。
 「心ばかりのお礼だよ。僕好きだなあ、素直に言うこと聞いてくれる君みたいな良い子。うん、実に好きだ」  
 背筋にぞくりと悪寒が走る。
 俺にイチゴを握らせた曽根崎が卑猥に指を蠢かせ俺の手を揉む。
 「君メロン好きかい?特大のがあるんだけど、リョウくんみたいに素直に言うこと聞いてくれたらそっちもプレゼントしたげる」
 徐徐に開き始めた糸目の奥で精力的に瞳が輝く。
 曽根崎の息遣いが次第に浅く荒くなり、俺の手を揉みこむ動きが性急になる。汗ばんだ手が気持ち悪い。
 曽根崎から逃げようとあとじさったが、奴もついてくる。
 やばい。初対面の時から嫌な予感はしてたんだ。
 ビニールハウスを見回して誰かこっちに気付いてる奴はいないかと希望を持つが、イチゴ摘みに精出してる連中は目があったそばから知らんぷり。
 絶体絶命。曽根崎が一方的に体を密着させ積極的に股間を擦り付けてくる。
 「離れろ変態、メロンに頭突きして死ね」
 胃袋が縮んで酸っぱい胃液がこみあげる。俺の指に指を絡めいやらしくさすりながら、曽根崎が耳朶で囁く。
 「君にとっても悪くない話じゃないか?どうせそのちっちゃいお口にタジマさんの咥えてご機嫌とってきたんだろ?タジマさんがいなくなったあとは僕に乗り換えたらいいんだ、決して悪いようにはしないから……」
 タジマの名前をだされ、頭の血管がぶちぎれた。
 「ぎゃあああああああっ!?」
 曽根崎を大袈裟な悲鳴をあげてひっくり返る。
 俺がぶん投げたイチゴが目ん玉を直撃、足を滑らしたのだ。イチゴの目潰しで形成逆転、曽根崎を軽々飛び越えて中指突き立てる。
 「メロンで買収されるほど安くねえんだよ俺はっ、言うこと聞かせてねえならドラゴンフルーツ持ってきな!!」
 おっと、忘れるところだったと急ブレーキ。
 大慌ててで取って返し目を押さえて転げまわる曽根崎の傍らに屈みこみイチゴを回収、再び走り出す。だって勿体ねえし、食い物粗末にしたらバチあたる。
 断っとくが、イチゴに買収されたわけじゃないからな。
 ビニールハウスの囚人どもがぽかんと見守る中をまっしぐらに駆け抜け、ビニールハウスを飛び出す。
 砂に足を取られながら砂丘を越えて持ち場に帰り着き、憎憎しげに吐き捨てる。
 「リョウの奴、相変わらずだな。看守のモンしゃぶる見返りにメロンやらイチゴやら貰ってんのかよ。ずるしやがって、ちきしょー」
 まあ、一度引き受けちまったもんはしょうがねえ。イチゴも貰っちまったし。
 東棟に帰ったらリョウの様子見に行こうと心に決め、シャベルを手に取り作業に戻りがてら、イチゴを一粒口に含む。
 奥歯で噛み潰せば甘酸っぱく新鮮な味が口腔に広がり、じゅわりと喉を潤す。 
 「おい半々、ビニールハウスにご招待されたんだと?」
 「第二ビニールハウスの曽根崎はちいちゃいナリのガキが大好きな変態って有名だ。ケツの穴にキュウリ突っ込まれたりしなかったか」
 同じ班の連中が嘲笑まじりに野次をとばす。シャベルに凭れた俺は不敵な笑みを浮かべ、ビニールハウスの方角に顎をしゃくる。
 「その逆。目ん玉に突っ込んできてやった」

 強制労働終了後。
 東棟に帰り着いた俺は、やなことはとっとと済ませようと一路リョウの房をめざす。足をくり出すたびズボンの尻ポケットでイチゴが弾む。ひとりで食うのは勿体ねえし、あとでレイジにも分けてやろう。
 ぼんやりそんなこと考えながら廊下歩いてる途中、数人の囚人グループとすれ違う。
 「聞いたか?安田のこと」
 「おお、聞いた聞いた。天下の副所長殿が犬の散歩係に降格なんて可哀想に。あんまり不憫で涙ちょちょぎれちまう」
 「嘘つけ、笑ってるじゃんか」
 「こないだ所長に逆らったのが裏目にでたんだろ?囚人狩りに反対して怒り買って、朝夕二回犬の散歩係に任命されて」
 「そんだけで済んで恩の字だ、クビにされねーだけ儲けもんだ」
 「今頃犬に犯られてるかもしれねえぜ。所長のドーベルマンはヒトのオス相手にさかる変態犬だ」
 「犬に犯られてあんあん啼く安田かあ。笑えるな、それ」
 囚人グループが爆笑する。廊下の真ん中に立ち止まり、そいつらを見送る。所長主導の囚人狩りを邪魔した安田は、罰としてハルの散歩係を言いつかったらしい。どうりで今日は視察に来なかったはずだ。ハルのお相手で忙しかったんだろうと副所長に同情、所長の陰湿なやり口に怒りを覚える。さすがタジマの兄貴、血は争えない。
 そっと無意識に、ズボンの上から太股を撫でる。
 なんだかここ最近気が滅入ることばっかりだ。
 タジマの兄貴が新所長として赴任して、鍵屋崎とサムライは痴話喧嘩延長戦。
 レイジも明るく振る舞ってるが、どんなに頑張っても十字架の傷跡は消せない。
 嬉々としてレイジの十字架踏み躙る但馬の姿を思い出してぞっとする。但馬は狂ってる。レイジをいたぶって楽しんでいる。もしタジマがまたレイジに手を出せば―……
 その時だ。目先の房から奇声が漏れてきたのは。

 「ぎゃあああああああああっああああああっあ!!」 

 甲高い金切り声が鉄扉の向こう側が漏れてくる。何の騒ぎだ?好奇心に負けて駆け付けた俺は、音源がリョウの房だと確認してさらに驚く。中で何が起きてるんだ?ビバリーは、リョウは?
 「いるのかリョウ、ビバリー!火事か?地震か?雷か?タジマ……はいねえよな、もう。蛇口壊れて水浸しにでもなったのかっ」
 激しい不安に苛まれてめちゃくちゃに鉄扉を殴り付け蹴り付ける。鉄扉の内側からはひっきりなしに騒音が聞こえてくる。格子窓の隙間に目をくっつけて中を覗き込んだ俺の額に、次の瞬間激痛が炸裂。
 「!?痛っでえええええええええっええっ」
 「取り込み中っス、用件ならあとにしてください!」
 額をおさえて悶絶する俺の耳をビバリーの悲鳴じみた声がつんざく。いよいよもってただことじゃない。ビバリーが前ぶれなく扉を開け放ったせいで額を強打、じんわり疼く額を片手で押さえ、片手で鉄扉をこじ開けにかかる。
 「リョウに用あってわざわざ来てやったんだ、追い返すにしてもツラくらい見せんのが最低限の礼儀だろうが!!」
 「だから今それどころじゃないんス、ぶっちゃけロンさんのお相手してる暇ないんス、リョウさんが大変なことにっ……」
 鉄扉の隙間に見え隠れするビバリーの顔からは完全に血の気がひいてる。胸騒ぎが活発になる。いつも能天気に笑ってるビバリーがこんな情けないツラするなんて、一体中で何が起きてるんだ?リョウはどうしちまったんだ?緊張に汗ばむ手で鉄扉を引き隙間に足を挟み固定、そこから腕に力を込め一気に―
 「うわあっ!?」
 ビバリーがすっ転ぶ。手前のビバリーを押し倒して房の中に転がり込んだ俺の尻の下、イチゴが無残に潰れる感触。ズボンにじわじわ赤がシミが広がる。ちくしょう、今日の夜食にって大事にとっといたのに!腹立ち紛れにビバリーを突き飛ばし跳ね起きー……
 「よるなくるなこっちこないで、ママ、助けてママあああああああっ!!」
 見た。見ちまった。壁際のベッド、頭から毛布にくるまってがたがた震えるリョウ。虐待された小動物のように怯えきって隅っこに縮まったリョウの足元じゃ、はらわた暴かれたテディベアがぽつんと転がってる。
 「なんだ、よ、これ」
 常軌を逸した光景に直面、思考が停止。
 無残に解剖されたテディベア。四肢はちぎれて真綿の内臓がはみ出し、容赦ない陵辱の過程をありあり物語っている。おまけに目ん玉は一個取れちまってる。リョウは胎児の姿勢で毛布にくるまって震えてる。時折甲高い奇声を発して手足振り乱して暴れ狂うさまは癇癪持ちのガキそのまんま、一気に幼児退行しちまったみたいだ。
 「ママ、どうして?どうして僕いい子で待ってたのに来てくれなかったの、酷いよママ、ママなんか嫌いだ死んじゃえ梅毒にかかって死んじゃえ売女!」
 「どうちしまったんだリョウ、ヤクの禁断症状かよ!ビバリーこいつ一体、」
 隣のビバリーに向き直り、硬直。
 痛そうに顔を顰めたビバリー、肘まで捲り上げた袖の下には歯型。リョウに噛まれたあとだと直感。それだけじゃない。よくよく見ればあちこち生傷だらけ。おもいきり引っ張られた髪はぐちゃぐちゃに乱れ、顔には目立つ青痣ができていた。
 「わかんないっス、僕が近寄ろうとするとヒトが変わったみたいに暴れるんス!何があったか知りたいのは僕の方っス、今朝からずっとこの調子で暴れまわって房めちゃくちゃにして手に負えませんっス!」
 ビバリーも混乱していた。開け放たれた鉄扉の向こう側には人だかりができはじめている。「ついにリョウがキレたって?」「いつかこうなると思ったんだよな」「クスリやめるか人間やめるかどっちかだ」……無責任な詮索と中傷が飛び交う中、意を決してリョウに歩み寄る。土足でベッドに飛び乗り急接近、毛布を引っ剥がしにかかればリョウが死に物狂いで抵抗する。
 「あっちいけクソやろう、なにさ僕がさんざん呼んでもこなかったくせに今更トモダチ面したって遅いよ、お前の本性なんか全部お見通しなんだよ!!さっさと僕の房から出てけ、ロザンナ抱っこしてさあ!!」
 「俺だよ、ロンだよ!」
 激しい格闘の末に力づくで毛布を引っぺがしリョウの鼻先に顔を突き出す。リョウが極限まで目を剥く。
 恐怖に凝り固まった顔、戦慄の表情。
 「しっかりしろよ。なんだよ、このありさまは。俺、曽根崎に言われて来たんだよ。知ってるよな、曽根崎。ビニールハウス担当の看守。無断欠勤したお前心配して、様子見て来てくれって頼まれて、そんで……」
 震える手でリョウの肩を掴み、正気に戻そうと揺さぶる。俺に揺さぶられるがまま焦点の合わない目で虚空を凝視するリョウに不吉な予感がいや増す。弛緩した唇には唾液の泡が付着して、ぼんやり見開かれた目は現実を映してなくて、放心状態で座り込んだリョウは俺に揺さぶられるがまま、壊れた人形めいて機械的な動作で首を前後に傾げて……
 唐突に、言う。
 「ロン。注射うって」
 「は?」
 ひどく落ち着いた声だった。感情がすっぽり欠落した声音。俺の顔に焦点を結んだリョウの目が凶暴にぎらつきだした次の瞬間、衝撃。
 腹に頭突き食らってリョウに押し倒された俺の鼻先に、銀の針が突きつけられる。
 「ぼくにクスリうって気持ちよくさせて。なにもかも忘れさせて。ねえお願い、僕忘れたいの。嫌なこと全部忘れてなかったことにしちゃいたいの。それにはクスリに頼るのがイチバンだってヤク中の経験で知ってるの」
 開腹されたテディベアに手を突っ込み、中から無造作に注射器を取り出したリョウが無邪気に微笑む。
 完全にイッちまった笑顔。
 固唾を呑み、鼻先の注射針を見つめる。リョウは本気だ。本気で俺に覚せい剤うたせる気だ。いつかと立場が逆になった。咄嗟にリョウを突き飛ばそうとしたが、ちびでやせっぽちの癖して強情なリョウはてこでも俺の上からどかずぺたんと尻餅ついたまま、甘えるように体をすりよせてくる。
 「気持ちよくさせてくれたら、お礼に抱かれてあげる。僕の中で出していいよ。ロンも抱かれてばっかじゃ飽きるでしょ、たまには抱く側に回りたいっしょ?ねえ、いいよ。僕のこと女の子だと思ってヤッちゃっていいよ。ロンが相手ならサービスしたげるから……」
 「リョウ、正気に戻れ!俺には突っ込む趣味も突っ込まれる趣味もねえって何回言わせる気だ、お前にクスリ打つのもお断りだ、そんなに打ちたきゃ自分で打てよ!」  
 「駄目だよ。ほら」
 リョウが冷たい指で俺の頬に触れる。
 かすかに震えが伝わってくる。
 「手が震えちゃって、ちゃんと打てそうにないんだ。お願いロン、可哀想な僕を助けると思って……」
 俺の上で尻を移動させ上体を倒し、至近距離に顔を寄せる。チョコレートの匂いがする甘ったるい吐息が顔にかかる。俺は昔、お袋の客にヤク中がいたことを思い出した。そいつに同じ事を頼まれた。ヤクの禁断症状で手が震えて駄目だから代わりに打ってくれと大の大人に泣きつかれて、言われた通りおそるおそる静脈に注射した。そいつの顔を今でもはっきり覚えてる。注射器のポンプを押し込むにつれ、現実から乖離して自分の世界に埋没してく。眼球が裏返り、半透明の膜が目に被さったように自分の内側に閉じていくー
 「甘えるんじゃねえ、男娼!!」
 リョウの腹に蹴りを入れた。おもいきり。かちゃんと軽い音をたて、リョウが取りこぼした注射器が床で跳ねる。リョウを蹴り飛ばして跳ね起きた俺は、肩で息をしながらベッドを飛び降り即座に注射器を取り上げる。腹を抱えて咳き込むリョウが「クスリ、僕のおくすりぃ」と未練たらしくすすり泣くのに背を向け注射器を壁に投げ付ける。
 注射器が割れ砕ける。
 「あああああああああああああああああああああっあああああああああ!!!?」
 「人間やめっかクスリやめっかどっちか選べ、いつまでもクスリ頼って現実逃避すんじゃねえ!こんなもん長く続けてたら骨がすかすかになって死んじまうぞ、お前そんなに早くおっ死にたいのかよ、外に会いたい人間いるんじゃねえのかよ!?生きてここ出て会いたい人間いるんだろ、やりてえこといっぱいあるんだろ!だったら」
 「クスリやめるくらいだったら人間やめたほうがマシだ!」
 天井に毛布が舞う。
 バネ仕掛けの人形みたいにベッドに跳ね起きたリョウが身軽に飛び降り、ビバリーのベッドの下からでかいパソコンを引きずり出す。何する気だ?両足踏ん張り腰だめにパソコン抱えたリョウが「こんなもの、」と激しく唾棄。
 怒りに血走った凄まじい形相でパソコンを睨み付けたかと思いきや、顎の筋肉が盛り上がるほど奥歯を食いしばり、渾身の力を込めー
 「お前のせいだ!!」
 『Stop,Please do not kill her!!』
 リョウの怒号とビバリー悲鳴が交錯、房のコンクリ壁に跳ね返る。
 恋人の救出に向かうナイトさながら我が身をかえりみず駆け付けたビバリーの鼻先にパソコンが落下、床に激突した衝撃で液晶画面に亀裂が生じて内蔵回線が焼ききれ煙が噴き上がる。
 そして、完全に沈黙。
 ご臨終。破損した液晶画面に虚脱の表情を映し、腰砕けにへたりこんだビバリーを前に勝ち誇る哄笑をあげるリョウ。
 ざまあみろと言わんばかりに痛快な様子で爆笑するリョウを、廊下に集まった野次馬が遠巻きに見つめる。
 リョウの足元で細く煙を噴き上げるパソコンの残骸。元ロザンナだったもの。
 「ああ、あ……こんな、こんな……僕のロザンナがこんな無残な姿に……」
 わななく手でロザンナの部品をかき集め、ビバリーが俯く。嗚咽を堪えた肩が震える。それでもリョウの哄笑はやまない。「ざまあみろっ、やってやった、ロザンナを殺してやった!」と狂喜してパソコンの残骸を蹴り付ける。「やめてください、ロザンナをいじめないでっ」とパソコンにとびついたビバリーの背中にも容赦ない蹴りが降り注ぐ。
 狭苦しい房に狂気の哄笑が渦巻く。
 頭のネジが二・三本弾けとんだリョウの壊れっぷりにすっかり圧倒された俺は、逃げるようにその場を後にする。
 野次馬の喧騒に背を向けて廊下によろめき出て、そばの壁に手をつき、そのまましゃがみこむ。
 「リョウが壊れちまった……」
 全身に嫌な汗をかいていた。昨日までは元気だったのに、今日になって突然豹変したリョウ。あれがクスリのせいだとしたら一生クスリをやらないと誓う。曽根崎にはなんて報告しよう?クスリのヤリ過ぎでイッちまったとありのままを話せばいいだろうか……
 「!」
 足元に影がさす。弾かれたように顔を上げた俺は、驚き、顔が強張るのを感じる。
 「すごい騒ぎ。何があったんだい」
 目の前に静流がいた。リョウの房に顎をしゃくり、興味深げな様子で訊ねる静流を前に、萎えた膝を支えて腰を上げる。
 「お前こそ、どうしたんだよ。男娼の房に用事か?リョウを買いに来たんなら後にしろ、今取り込み中だ」 
 「お見舞いだよ」
 「見舞い?」
 どういうことだ?それじゃまるで静流は、リョウがおかしくなったのを知ってたみたいじゃないか。
 「お前、リョウとどういう関係だ。リョウがおかしくなった原因知ってるのか」
 「覚せい剤の禁断症状だって聞いたけどね。そんなおっかない顔しないでよ。彼……リョウくんとはこの前偶然知り合ったんだ。僕が道に迷ってた時に親切に声をかけてくれたんだ。突然発狂したって聞いて様子を見に来たんだけど、残念ながらお呼びじゃなさそう」
 開け放たれた鉄扉の向こうに流し目くれて静流が微笑む。鉄扉の内側からはリョウの笑い声とビバリーの嗚咽、ついでに壁を殴り付ける音、パソコンの部品を踏み潰す騒々しい破壊音が漏れてくる。
 次第に人だかりが増えはじめた廊下で、一歩も譲らず静流と対峙する。
 静流がこっちに歩いてくる。
 笑みは絶やさぬまま、優雅な動作で足を繰り出し俺の手前で立ち止まった静流が懐から取り出したのは、一羽の折鶴。
 「お見舞い。本当は千羽鶴がよかったんだけど、時間がなくて」
 静流に促されて反射的に手のひらを突き出す。静流が虚空で指を放し、ふわりと折鶴が舞い落ちる。
 重さの無い鶴を手のひらで受けた俺とすれちがいざま、耳朶で囁く。
 「君にあげる」
 淫靡に赤い唇がほんの一瞬耳朶にふれる。妖艶な笑みに魅了される。
 俺の手に折鶴を落とし、リョウの房を通してそのまま歩き去る静流の背中には、得体の知れない妖気が漂っていた。
 廊下の向こうから朗々と声が響く。
 甲高い奇声と不協和音を奏でる清涼な歌声…… 
 『すみの江の岸による浪よるさへや 夢のかよひぢ人目よくらむ』
 ……いや、意味不明だから。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050615214237 | 編集

 「トランクス一丁でなにやってんの?ロン」
 「うるさい。黙れ。死ね」
 背中で不機嫌に返事する。
 叱責され、ベッドに腰掛けたレイジが首を竦める気配。
 洗面台に向き合い蛇口を捻る。蛇口から勢い良く迸り出た水に手を突っ込み、ちびた石鹸を泡立て、じゃぶじゃぶズボンを洗う。
 夕飯前、リョウの房を訊ねた時の事を思い出す。
 房の扉ぶち破ったはずみにすっ転んで後生大事に隠し持ってたイチゴがは潰れ、ズボンの尻に赤い果汁が染み出た。ツイてねえ畜生。食後のデザートにとっといたのに台無し。貰ったその場で全部食っちまえば良かった。
 よくよく考えればレイジはチョコレートでもキャラメルでも缶詰のキャビアでも何でもござれ、欲しい物なら即貰える贅沢し放題の王様で、俺がいちご分けてやる必要なんて全然これっぽっちもなかったんだ。馬鹿らしい。
 イチゴの染みはなかなか落ちない。
 水を含んで重くなったズボンをむきになって擦る。尻一面の果汁の染みからほのかに甘酸っぱい匂いが漂ってくる。口内に唾が湧く。一粒なんてせこい真似せず喉詰まらすの上等で全部飲み込んじまうんだった。つくづく自分の貧乏人根性が嫌になる。
 このまま放っといたら染みが乾いて落ちなくなる。ズボンの尻に赤い染みくっつけて歩いてたら通りすがりの囚人どもに「どうした半々、生理か」「タンポン突っ込んでやろうか」「オムツあてとけよ」とからかわれる。それくらいならまだしも「処女喪失は何度目だ?」とか下ネタ飛ばされたら頭の血管ブチ切れる。
 ごしごしズボンを洗い続けて十分以上経つ。
 そろそろ腕が疲れてきた。
 ズボンの染みも完全には落ちてないが大分目立たなくなった。ここらで一息入れようと蛇口を締めて水滴したたるズボンを洗面台の端にかける。イチゴに未練があるが済んじまったもんはしかたないと気を取り直してベッドに引き返す。
 「……でもやっぱもったいねえ、結局一粒しか食えなかったし!くそ、リョウの房なんか寄らずにまっすぐ帰ってくるんだった。そうすりゃ尻餅ついてイチゴ潰すことなく全部ありつけたのに、とんだとばっちりだ」
 「食い意地汚ねえ。さすが野良」
 「野良じゃねえ」
 向かいに腰掛けたレイジめがけて枕を投げれば、ひょいと首を倒されかわされた。むかつく。行動全部お見通しってか?
 余裕の表情で枕をかわしたレイジが目の位置に摘み上げたのは一羽の折鶴。リョウの房の前で偶然会った静流から手渡された折り紙の鶴。
 リョウへの手土産の折鶴を俺なんかにくれていいのかよと戸惑ったが捨てるのも忍びなく房に持って帰った。ズボンを洗う段になってポケットに入れっ放しにしてたのに気付いてレイジにくれてやった。
 「土産だ。ありがたく受け取れ」と恩着せがましく手渡したら、折鶴見るのは初めてなのか興味津々「すっげ、紙で作った鶴?器用だなー」と驚いていた。
 折鶴をためつすがめつ、感嘆しきりのレイジを向かいで頬杖をつく。
 「……リョウさ、治んのかな」
 返答を期待しない独り言。夕飯前、曽根崎の言伝で房に寄った俺が見たのは毛布にくるまって怯えるリョウ。四肢をもがれ真綿の内臓がはみ出た、変わり果てたテディベア。
 躁鬱のはざまを揺れ動き、浮かれウサギみたいに房じゅう跳ね回るリョウを思い出し、二の腕が鳥肌立つ。
 お袋の客にヤク中がいたから覚せい剤の怖さは十分知ってる。
 クスリが切れた途端に殴る蹴るされるのも恐ろしかったが、それよりびびったのは「皮膚の下を虫が這い回って痒くて痒くてたまらない」と叫び、全身掻き毟り身悶える姿。
 ヤク中には自分の血管の中でうじゃうじゃ虫が蠢く幻が見えるんだそうだ。蚯蚓がのたうちまわったような引っかき傷を作り、かゆいかゆいと顔くしゃくしゃにして泣き叫ぶさまに怖気をふるい、クスリだけは絶対やらねえと子供心に誓った。
 けど。
 リョウの場合、あんまり突然すぎる。
 「ヤクがキレたにしてもあんまり突然すぎだ。普通ヤク中ってのは一日一日かけておかしくなってくもんだろ?お袋の客もそうだった、最初と最後じゃ別人みたいなありさまだった。最初の頃は自分で覚せい剤うてたのに最後らへんはガキの俺に泣き付いてた。でもリョウは昨日までぴんぴんしてた、普通に食堂で飯食ってビバリーとくっちゃべってた。それがなんで突然、」
 「心配?」
 「まさか。変だって言ってるだけだ」
 たった一日でこんな急激に症状が進行するはずない。何かきっかけがあるはずだ、リョウが壊れたきっかけが。リョウは年季入ったヤク中だ。症状が悪化しないよう一回のクスリの量を抑制してたのに、ここに来て急激に症状が進んだのは妙だ。
 何がリョウの背中を押した?
 別にリョウを心配してるわけじゃない。リョウにはさんざん酷い目にあわされた、監視塔に拉致られおとりにされて覚せい剤をうたれた。あいつがどうなろうが知ったこっちゃねえ、自業自得だ、ざまあみろ。胸中でそう吐き捨てるが、気分は晴れない。
 「なんかショックなことでもあったのかな」
 「ママに新しい男ができた」
 「そりゃショック。マザコンにゃ一大事だ」
 「ひとのふり見て我がふりなおせ」
 「……喧嘩売ってんなら相手になるぜ。立てよ」
 だれがマザコンだ?
 リョウと一緒にされちゃたまらねえと目を据わらせれば、レイジがおどけて肩を竦める。
 「自覚がないってのは幸せだよな。ともかく、そんなにリョウが心配なら様子見に行ってやったらどうだ?お前ダチいねえから相手弱ってるときに優しくしときゃ友情芽生えるかも」
 「悪かったなダチいなくてよ。別に欲しかねえよ」
 声が不機嫌になる。
 リョウのオトモダチなんざこっちから願い下げだ。男娼の仲間入りなんかしたくねえ。結論、レイジに相談しても為になるアドバイスは得られない。そもそもレイジに意見を仰ぐこと自体間違ってた。
 ベッドに後ろ手つき、ため息まじりに足を投げ出す。
 トランクス一丁で寛ぐ俺の視線の先では、レイジが折鶴で遊んでる。
 鼻の上に折鶴乗っけてバランスとってる姿がガキっぽくて笑える。
 「これ、あの美人に貰ったんだって?どうりでいい匂いするわけだ」
 「男を美人って言うな気色わりぃ。リョウの房の前でばったり会ったんだよ。見舞いに来たらしいんだけど、野次馬いっぱいいたから直接房には寄らずに折鶴ポイって放って行っちまった。なにしにきたんだか」
 「へえ」
 吐息で折鶴を吹き上げながらレイジがほくそえむ。
 「東京プリズンに来て一週間もたってねえのに友達できたのか。サムライと違って社交的」
 「俺はあんま好きじゃない」 
 レイジの吐息で膨らんだ折鶴を眺める。俺の手に折鶴を渡して背中を向けた静流、リョウの悲鳴にも無関心に悠然と歩き去る後姿……
 静流は一体何者だ?なにをしでかして東京プリズンに来たんだ?
 脳裏で疑問が増殖する。静流の正体が掴めず不安になる。
 レイジの唇で羽を休める純白の折鶴を視線で射止め、独りごちる。
 「あいつ、白いカラスみたいだ」
 「その心は?」
 「外ヅラ白くても本性は黒い」
 白鷺に擬態したカラス。それが静流の印象だ。みな綺麗な見た目に騙されて本性に気付かない。廊下で静流と対峙した時の得体の知れぬ緊張がまざまざ蘇る。

 掴み所ない水鏡の目、妖しい微笑み。

 口ではリョウが心配だとうそぶきつつも、リョウの房の前を一抹の未練なく通過した。静流は一体なにしに来たんだ?本当にリョウを見舞いに来たのかと疑問が募る。
 頬杖ついて思案に暮れる俺を現実に引き戻したのは、能天気な声。
 「ははーん。嫉妬だな」
 「ああん?」
 頬杖を崩して顔を上げる。
 向かいのベッドに腰掛けたレイジがひとり頷く。
 折鶴を交互の手に投げ渡し遊びながら、不敵に微笑む。
 「俺があいつの肩もつからヤキモチ焼いてんだろ?素直に白状しちまえ、我慢は体に悪い。俺を独り占めしたいならそう言えよ」
 「……耳の穴から脳みそ溶け出してるぞ。鼻から啜り上げて戻さなくていいのか」
 どこをどうすりゃそんな結論になるんだ?鍵屋崎に解説を頼みたい。いや、かえってこんがらがりそうだからやめとく。怒りを通り越してあきれかえった俺をよそにレイジはご機嫌に笑ってる。
 「だーいじょうぶ、浮気なんかしねえから安心しろ。そりゃ確かにあいつ美人だし色っぽいし一発ヤれたら儲けもんだけど、生憎今の俺はロン一筋で他の男は目に入らねえラブジェネレーション一直線。お前のカラダに飽きるまでとーぶん浮気しねえよ。なにせまだ二回っきゃヤってね、どわっ!?」
 ベッドを立ち突っ走りレイジに回し蹴りを食らわすまで二秒とかからなかった。俺の回し蹴りは見事レイジに炸裂、奴をベッドから叩き落して埃を舞わせた。
 折鶴で遊ぶのに夢中で、もとい、俺のカラダに飽きるまでとりあえず浮気しない宣言かまして余裕ぶっこいてたレイジはろくに受身もとれずもんどりうって床に転がる。
 埃を吸い込んで咳き込むレイジの胸ぐら掴み、目から火花とびちる勢いで額をぶつける。
 「~~いろいろ突っ込みどころ満載でどこから突っ込んでいいか俺としても迷うが、今の発言でお前の本性ってもんがよーっくわかったよ。美人とみりゃ男でも女でもホイホイついてく尻軽が、俺のカラダに飽きるまでとーぶん浮気しねえってなんだそりゃ、とーぶんって何ヶ月何週間何日だよおい!?しかもお前これからまだまだ俺を抱く気なのか?
 調子にのんのも大概にしろ、こちとら性懲りなく羞恥プレイまがいの真似されて連日大恥かいてんだ!
 一回目は男と男の約束だしお前頑張ったんだし仕方ねえかなって納得して、二回目はどん底まで落ち込んだお前の為に文字通りひと肌脱いでやって……でも三回目はありえねえから、野郎に抱かれるなんざありえねえから!痛いのも気持ちわりぃのもこりごりだっ」 
 「うわっひどっまたしかたねえとか言った!?俺デリケートだからすげえ傷ついた、ブロークンハートだ。ロン痛いの嫌なら次から大丈夫、三回目ともなりゃ体慣れてくるから、俺のカタチ覚えて具合よくなる頃だから。どうだ、経験者のアドバイスは説得力あんだろ」
 「ねえよ!さっぱりねえよ!」
 怒りに任せて胸ぐら締め上げてもレイジはさっぱり懲りない。
 余裕ありげなツラが癪に障り、レイジを絞め殺したい衝動を抑えるのに苦労しながら奴の胸ぐら掴んで咆哮する。
 「理由もなく男に抱かれてたまっか!」
 「抱くのにいちいち必要なのかよ理由とやらが!?」
 「抱きたいなら納得させろ!」
 「『愛してる』が理由じゃ駄目か?」
 唾飛ばして怒鳴り散らす俺をまっすぐ見つめ、レイジが真顔で言った。たじろぎ、胸ぐらから指を放す。レイジが緩慢に起き上がり、ふてくされた顔で胡坐をかく。憮然と唇を尖らした顔に拗ねた子供みたいな表情を浮かべ、皺の寄った胸ぐらを撫で付ける。
 「俺がお前抱きてえ理由はオンリーワン&ナンバーワン、ただ『愛してるから』だよ。好きだからだよ。好きな奴ヤりたくて悪いかよ、好きな奴抱きたくて悪いかよ。ああもう畜生、大好きなんだよお前が!お前の体に負担かけるって頭でわかってても理性飛んで押し倒しちまいたいくらい滅茶苦茶ヤりたくてヤりたくてたまらないんだよ、ぶっちゃけお前の体に夢中なんだよ!」
 「でけえ声だすな、外に聞こえんだろ!?」
 ヤケ気味にぶちまけるレイジの口を慌てて塞ぎにかかるがさっきのお返しとばかり片手で軽々頭を押さえ込まれる。
 頑張ってもどうにもならねえ身長差と体格差が恨めしい。
 レイジの膝に顔面突っ伏した体勢から片手の圧力に逆らい頭をもたげるも、あっけなく肘が砕けてずり落ちるくりかえし。
 「ロン、俺を惚れさせた責任とれ。俺もおまえ惚れさせた責任とるから」
 「惚れてねえよ、掘られたんだよ!」
 頬が羞恥に染まる。
 悔しいかな、レイジにやすやす押さえ込まれて奴の膝に顔を埋める屈辱を舐めた俺の目に褐色の首筋をうねって流れる金鎖がとびこんでくる。
 シャープに引き締まった首筋に沿い、鎖骨の起伏を緩やかに経てシャツの内側へと吸い込まれる鎖を目で辿り、体の力を抜く。
 王様相手にむきになんのが馬鹿らしい。
 降参のため息を吐いた俺の耳朶を、不意に囁きがくすぐる。
 「ー噛まれたのか?」
 図星をさされて体が強張る。腹に顔を埋めた俺の背中に手を回し、ちゃっかり抱き寄せたレイジが剥き出しの太股を見つめている。
 トランクスから突き出た太股にはくっきり歯型が残ってる。あのバカ犬に噛まれたあと。やべ、バレた。傷跡のこと忘れてうっかりズボン脱いだのが裏目にでた。慌ててズボンを取りに戻ろうと跳ね起きたが、肘を掴まれ引き戻される。

 「!―っ、」

 そっと太股に手がふれる。
 しなやかな手のひらが太股を覆う。
 太股の歯型に指をふれ深さを確かめ、レイジが物騒に目を細める。
 「……決定。明日の夕飯は犬鍋だ」
 目つきがマジだった。正直びびった。たしかにあのバカ犬にゃ腹を立てたが、犬鍋はやりすぎだろ?
 「レイジ、落ち着け。深呼吸だ。犬鍋は喉に通らねえ。せめて具材は伏せとけ、食欲失せる」
 違う、そうじゃねえだろと自分につっこむ。
 冷や汗かきながら説得を試みるも、レイジは俺の肘を掴んで抱き寄せたまま、間接と長さのバランスが絶妙な指で太股の歯型を撫でている。指が太股の敏感な所に触れるたび、性感帯に微電流が走り、鼻から吐息が抜ける。
 馬鹿な。
 ただ太股撫でられてるだけなのに何でこんな感じてるんだ、ぞくぞくするんだ?レイジの指の感触と温度を太股が吸い上げて、悪寒と紙一重の快感が背筋を駆け抜ける。野郎、わかっててわざとやってる。
 意地悪い微笑を覗かせぴたり体を密着させ、歯型を慰撫していた指を太股沿いにツと滑らす。
 褐色の手が内股に潜りこみ、五指を独立して動かし、ひどく敏感な場所を探り当てる。
 「っあ、そこっ、さわん、な……」
 とうとう変な声が漏れた。緩慢な愛撫に焦らされ、太股の産毛が逆立つ。ただ手だけで何でこんな感じるんだ?おかしい。俺よりひとまわり大きく骨ばった男の手が太股を迂回、レイジの指から伝わる熱がちりちりと産毛を炙る。
 「ロンを食べていいのは俺だけだ。だろ?」
 「お前よくそんな恥ずかしいこと言えるよな……」
 咄嗟に減らず口を返した次の瞬間、レイジが予想外の行動にでる。俺の肘を掴んで支え起こしたかと思いきや、事もあろうに俺の太股に顔を埋めたのだ。
 「!?ひっ、あ」
 太股に深々穿たれた歯型に唾液が沁みる。まずは唇で軽く触れ、それから舌を出し、歯型のへこみを丁寧に舐める。熱い唇が剥き出しの太股に触れる。熱く柔らかい舌が太股に唾液を塗る。
 気持ち良いのか悪いのかわからない微妙な感覚。
 唾液に濡れた太股が淫猥に輝く。太股に垂れた唾液が透明な筋を作り流れ落ちる。くすぐったい感覚が次第に何か別のものへと変容する。
 熱い舌が唾液を刷り込むたび感度が良くなり、なまぬるい快感が太股を逆なでする。
 手のひらに爪が食い込む痛みで自制心を呼び起こしひたすら我慢するも、ちろちろ蠢く舌に刺激されて太股の柔肉が震え、俺の意志とは裏腹にトランクスの股間が勝手に勃ち上がる。
 「男にヤられても気持ちよくねえ?よっく言うぜ、手と舌だけで勃つくせに」
 ひややかに嘲笑され恥辱で頭が熱くなる。反射的にトランクスの股間を手で隠そうとしたが、俺の行動を予期したレイジがすかさず払いのける。やめてくれ、と口の中で呟く。意固地に首を振り拒絶するもやめず、レイジの手が太股をよじりトランクスの端にかかる。
 「レイジ、やめろ!」
 「大丈夫、いれないから。舐めるだけ。消毒消毒、ワンコに舐められた場所を消毒っと」
 「てきとー言うな、犬より飢えてるよお前!」
 冗談じゃねえ。トランクスを引っ張り必死に抵抗、レイジの腹に足蹴を食らわして方向転換。レイジが「げふっ」と苦鳴を上げて床に倒れたのを幸い、股間の昂ぶりを手で庇い洗面台に急ぎ、生渇きのズボンに足を通す。ったく、油断も隙もねえ。
 手の甲で汗を拭い嘆息。どっと疲労を感じて下を向けば、純白の折鶴が転がっている。
 「ん?なんだこりゃ」
 折鶴の羽に目を凝らす。電球の光を透かして淡く浮かび上がる……字?綺麗に折り畳まれた羽の内側に字が書かれている?
 好奇心から折鶴を摘み上げ、不器用な手つきで一枚に広げ、頭上に掲げて裸電球の光に透かす。
 「どうしたロン?」
 「謎のメッセージ」
 大袈裟に咳き込みつつ、好奇心に負けて首突っ込んできたレイジに顎をしゃくる。俺の肩に寄りかかるように手元を覗き込み、レイジが顔を顰める。裸電球の光に照らされた折り紙の裏には、惚れ惚れするほど流麗な筆跡でこう書かれていた。
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする』……こりゃ暗号だ」
 「だろ?わけわかんねえ。リョウに渡す折鶴に書かれてたってことは奴に宛てた伝言なんだろうけど、それにしちゃぞんざいに投げてよこしたし」
 「キーストアなら知ってるんじゃね?メガネだし」
 「明日会ったときにでも聞いてみるか。それからリョウに返しても遅くねーだろ」
 元通り鶴を折ろうとして失敗、しかたなく四つ折りにした紙をポケットに忍ばせる。博識な鍵屋崎なら暗号解読の期待がもてる。それはそうとレイジの奴、いつまでひっついてやがるんだ?用が済んだらとっとと離れろとドテっ腹に肘鉄お見舞いしようとした、瞬間。
 威圧的な靴音が廊下に響き渡り、格子窓の向こうに不穏な空気が充満する。
 「なんだ?」
 レイジと顔を見合わせ鉄扉に駆け付け、格子窓から外の様子を窺う。 廊下にごった返した囚人が好奇心もあらわに見つめる方向に一瞥くれ、顔から血の気が引く。看守だ。こないだ俺を取り押さえた看守が四人、ずらずらと群れなして廊下をのし歩いてくる。
 「こりゃまた随分態度のでけえバックパッカーだ」
 口笛吹くレイジの横で俺は気が気じゃない。まさか、こないだの一件で目を付けられたのか?矩形の窓に嵌まった鉄格子を掴み、硬直した俺の方へと奴らはまっすぐ歩いてくる。先頭の看守と目が合う。
 こないだ俺の横っ面を殴り飛ばした看守が流れる動作で警棒を抜き放ち、もう片方の手でノブを捻りー
 「お礼参りか!?」
 心臓が凍える。集団でお礼参りなんて卑怯だ、はなから勝ち目がねえ。看守に喧嘩売るなんざ俺も馬鹿なことしたと後悔しつつ鉄扉からとびのき、あとじさりに距離をとる。壁を背にした俺の眼前、扉が乱暴に開け放たれ荒々しい靴音が殺到。手に手に警棒を構え、大挙して踏み込んだ看守がさかんに叫びかわす。
 「逃がすな!」
 「包囲しろ!」
 「所長じきじきに連れてこいとのご命令だ、抵抗するようなら足一本折ってやれ!」

 え?所長の命令?

 どうも様子がおかしい。奥の壁に背を付け、いつ警棒でぶん殴られるかとびくびくする俺をよそに、看守たちが取り囲んだのは……レイジ?なんだってあいつが?
 頭が混乱、胸騒ぎが沸騰。
 警棒振り上げて威圧する看守四人に寄ってたかって壁際に追い詰められたレイジも何が何だかわからないといった困惑の様子。
 「ストップ!ひとの房訪ねるときはノックしろってママに教わらなかったか?俺が人気者なのは知ってるけどサイン攻めは後にしてくれ、さっきの続きしようってトランクスの中も準備万端だったのにとんだ邪魔が入って興ざめ」
 自分のズボンを掴んで非難するレイジに触発され、包囲網が狭まる。 格子窓の向こうには人だかりができはじめている。
 「なんだ?」
 「王様が接待されてるとよ」
 「レイジまた何かしたのか?」
 押し合いへし合い、もっとよく見ようと格子窓に顔をくっつける奴らを意識の外に閉め出してレイジと看守を見比べる。
 壁を背に突っ立ったレイジは看守四人と対峙しても余裕の表情と不敵な物腰を崩さず、闘うまでもなくどちらが『上』かを空気で知らせている。
 一歩、レイジの方へ踏み出した看守がいる。
 牽制の意を込めて警棒を構えた看守は、顎の付け根の筋肉が盛り上がるほど奥歯を食いしばり、凶暴に唸る。
 「レイジ、所長がお呼びだ。所長室までじきじきにお越しくださいとさ」
 所長から直接呼び出し?格子窓の外がどよめく。東京プリズン全囚人のトップが所長じきじきに呼び出しを受けた。ただことじゃない。
 「なんで?」
 レイジは至極冷静に、微笑を絶やさず聞き返す。
 首筋の鎖をいじりながら問うたレイジと距離を詰め、レイジを警戒して武器を握る手に力を込め、吐き捨てる。
 「さあな。俺らはただ連れてこいと命令されただけだ、理由なんか知らねえよ。所長に直接聞けよ」
 「おとなしくついてきたほうが身の為だぜレイジ、いくらお前でも看守四人相手に暴れまわるのはしんどいだろ。ギャラリーの前で足折られてプライドずたずたにされんのは嫌だろ」
 「100人抜きの偉業成し遂げた王様に敬意を表したVIP待遇だ。感謝しろ」
 「俺らはさしずめSPだ。くそったれ刑務所の王様を送り迎えする役目をおおせつかったんだ」
 「レイジ!」
 喉が異常に渇く。心臓の鼓動が高鳴る。
 俺の目の前でレイジが看守四人に囲まれている。壁を背に追い詰められたレイジは色素の薄い隻眼に困惑の色を浮かべている。
 嫌な予感がする。俺が今まで恐れていたことが現実になったような、今まさに現実になりつつある予感が。
 格子窓の外の野次馬が膨れ上がる。今や廊下の先の先まで房から湧き出した囚人で埋まっていることだろう。
 レイジが連れて行かれる。連れて行かれたまま戻ってこなくなる。
 行かせてたまるか。
 衝動に突き動かされるがまま、頭から看守に突っ込んでいく。
 がむしゃらに看守の腰にしがみつき必死に食い下がる俺の頭に肩に背中に容赦なく警棒が振り下ろされ激痛が襲う。しかし手は放さず、他の看守が俺の奥襟掴んで引き離そうとするのに踏ん張り利かせて抗い、めちゃくちゃに叫ぶ。
 「お前らレイジをどこに連れてく気だよ、所長が呼んでるってなんだよそれ、相棒の俺が納得いくようちゃんと説明しろよ!あのクソ所長こないだレイジの十字架ふみにじっただけじゃ飽き足らずまだいちゃもんつける気か、なら俺も連れてけよ、俺も一緒に!」
 「邪魔すんじゃねえ、レイジ庇うならお望みどおり道連れにしてやる!!」 
 逆上した看守が憤怒の形相で警棒を振り上げる。風圧で前髪が浮く。殺される。
 裸電球の光に黒く塗り潰された警棒が残像の弧を描き、脳天に振り下ろされるー
 
 裸電流が粉々に砕けた。
 微塵に砕けた電球の欠片が虚空に舞い、床一面に散らばる。
 
 「ぎゃああああああああああああああっあああああああああっあ!?」
 だみ声の絶叫がびりびり鼓膜を震わす。
 壁から背中を起こした姿勢を低めて疾走、レイジが看守の股下を前転でくぐり抜けて現われ出でて、俺の頭蓋骨を粉砕しようとした看守の手に蹴りを入れたのだ。その衝撃で手から跳ね飛んだ警棒が裸電球を直撃、看守四人の頭上に粉々に割れ砕けた破片が降り注ぐ。
 裸電球が消える直前に目撃したのは虚空に泳いだ十字架の輝き、看守の手首に蹴りくれたレイジの隻眼の輝き。
 腕を交差させ裸電球の欠片から頭を庇った俺の耳元で、誰かが優しく囁く。
 「心配すんな。すぐ戻る」
 待て、行くな!暗闇に手を伸ばし引き止めようとした俺の唇にほんの一瞬、熱い感触が触れる。刹那のキス。
 「レイジこの野郎、優しくエスコートしてやりゃ付け上がりやがって!」
 「くそっ、こんなことになるんなりゃ檻でも持ってくるんだった!」
 「面倒くせえ、とっとと手錠かけちまえ!ちんたらやってたら減棒されちまう!」
 暗闇で怒号が交錯、足音が殺到。何かを殴り付ける鈍い音、手錠を嵌める金属音、格子窓から射し込む僅かな光が闇を掃き清めるー

 レイジが振り返る。
 後ろ手に手錠かけられた不自由な体勢から肩越しに振り向き、俺の不安も心配も吹っ飛ばすように微笑む。

 「グッバイロン、しばしのお別れだ。いい子で待ってたらさっきの続きしてやるよ」
 格子窓から射した光に明るい藁色の髪が透ける。
 長い睫毛も光に透けて揺らめく影を落とす。
 不敵な笑みを刻んだレイジが看守に背中を突き飛ばされ、「とっとっと」と飛び跳ねる。廊下に連れ出されたレイジを追おうとした矢先に無情にも鉄扉が閉まる。
 まずい。
 慌ててノブを掴み押したり引いたりをくりかえすも遅い、廊下に溢れ出した野次馬が鉄扉を塞いでノブはびくともしない。
 「畜生!レイジ、行くな、行くなって!お前余裕かましてんじゃねえよ、十字架ぼろぼろにされた時だってあんなにへこんでたのに今度はあれよりもっとひでえことされっかもしれねえんだぞ、俺庇ってカッコつけたつもりかよ、おまけに裸電球まで割りやがってどうすんだよ、お前のいない間ずっと真っ暗闇で過ごせってのかよ!?」
 さかんに鉄格子を揺さぶり声を限りにレイジに呼びかける。鉄格子に縋りつま先立ち、人ごみの遥か向こうを看守に強制連行されるレイジは俺の声が届いてるはずなのにもう振り返らない。
 いつかと同じく後ろ手に手錠かけられ看守に前後左右を固められ、今まさに人ごみに閉ざされ視界から消え去ろうとするレイジを振り向かせたい一心で鉄格子を殴り付ける。 
 「このっ………マザコン!!」
 じん、と手が痺れた。
 「~~~~~~~~~~~~~~っ!!!!」
 痛い。半端じゃなく痛い。声にならない悲鳴をあげてしゃがみこんだ俺の頭上、威圧的な靴音が遠ざかる。指がへし折れたかと思う程の激痛で目に生理的な涙がみなぎり視界がぼやける。
 唇を噛み締め鉄格子を覗けば、レイジの後ろ姿はすでに視界から消え、廊下には興奮冷め遣らぬ野次馬がうろつくのみ。
 一気に膝の力が抜け、鉄扉に額を預けてずり落ちる。
 鉄扉に額を預けて膝を折った俺は、真っ赤に腫れた指を唇に持っていき、激痛が薄れるのをじっと待つ。
 レイジと引き離される寸前。
 暗闇の中でほんの一瞬、唇が触れた。「心配すんな、すぐ戻る」とレイジがお気楽に言った。
 「………本当かよ。リョウが突然壊れて、お前も突然いなくなって、もう二度とこっち側に帰ってこないんじゃねえか」 
 廊下のどよめきが次第に薄れはじめる。
 三々五々房に引っ込み始めた野次馬をよそに、裸電球の欠片が散らばった暗闇にひとり膝をつき、胸を苛む不安をしずめる為に何度も何度もレイジの笑顔を反芻する。何度も何度もレイジの言葉を噛み締める。
 けど、不安はますます大きくなるばかり動悸は高鳴るばかりで全然効果がない。
 暗闇に押し潰される錯覚に襲われて鉄扉に寄りかかった俺は、レイジが所長に呼び出された原因を考えに考え、一つの答えに辿り着く。
 「原因は犬鍋か……?」 
 犬鍋が原因で相棒と引き裂かれるなんて、洒落にならねえ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050614224701 | 編集

 赴任後最初にしたことは部屋の模様替えだった。
 毛足の長い絨毯が敷きつめられた広い部屋。右手の壁には蔵書の詰まった書架、左手には華美な装飾を凝らした棚が設えられている。
 高価な調度品で飾られた執務室の奥、重厚な存在感のデスクにふんぞり返っているのは恰幅の良い中年男……ではない。
 洗練された三つ揃いを完璧に着こなした痩身の中年男は、前任者とは似ても似つかぬ神経質な風貌をしている。
 無能で怠慢、東京プリズン内部で何が起ころうが無関心に放置した前任者に代わり所長の椅子に座った男は、配下の看守に指示して部屋の模様替えを行った。
 毛足の長い絨毯が敷かれた執務室には来客用のソファーが運び込まれ中央にどっしり鎮座した。
 洋酒は撤去した。新所長は酒が飲めないのだ。代わりに棚の上段から下段へと並べられたのは洒落た意匠の写真立て。その写真立て全てに構図や背景こそ違えど同じ人物が映っている。
 左から右へ行くに従い被写体の変遷を物語るように人物の顔が変化していく。写真に写っているのは「人」だけではない。犬がいた。棚にずらり並んだ写真には左から順に子犬から成犬へと次第に体格がたくましくなっていく過程が克明に切り取られている。
 しかし、棚だけではない。
 重厚な執務机を囲むように配置された写真立てに飾られているのは、犬を舐める男の写真。犬を抱擁する男の写真。犬に舐められ舐め返し蕩けるように笑み崩れた写真からはどれも異常な溺愛ぶりが伝わってくる。
 愛犬の成育過程を記録した写真を周辺に並べ、所長は悦に入る。
 鼻から吐息を漏らして背凭れに身を沈める。
 机上で五指を組み、尖塔を作り、神経質に尖った顎を載せる。
 机を包囲する写真を眺める間は眼鏡の奥の酷薄な眼光も心なし和んでいる。
 「ハルと私の愛の巣完成だ」
 前任者の痕跡は消した。漸く落ち着ける空間になった。
 ハルと私の思い出、ハルと私の歴史が記録された写真をどの位置どの角度からでも必ず目に入るよう細心の注意を払い棚と机に配置した。
 これから執務室に足を踏み入れた者はまず机上に並んだ写真立てに目が行き、ハルと抱擁する私を確認する。そこから視線を巡らせば棚にぶつかるが、その棚にも上段から下段にかけてびっしり隙間なく写真立てが並びハルと私の愛の営みを高らかに唄い上げる。
 所長は上機嫌な様子で執務室を見渡す。
 応接用に持ち込ませた豪華なソファーが中央で存在を主張する。
 飴色の光沢の床には塵ひとつ落ちてない。
 檻は最初から持ち込まなかった。窮屈な檻にハルを閉じ込めるなどとんでもない。ハルには自由を謳歌させるつもりだ。鎖に繋がず室内を歩き回らせ、刑務所の敷地内をいつでも好きなときに好きなだけ徘徊させるつもりだ。私はつまらない独占欲を発揮して愛犬の行動を制限する狭量な人間ではない、ハルには本能の赴くまま好きなときに好きなところへ行く自由を認めた寛容な精神の持ち主なのだ。

 最も、私には職務がある。
 「上」の期待に応えて改革を断行する使命がある。

 ハルと別れるのは断腸の思いだが、愛犬の散歩は部下に任せて職務を全うせねばならない。
 ああ、離れ離れのハルはどうしているだろうか。寂しがって鳴いてはいないだろうか。ハルは甘えん坊だから私の姿が見えずに不安がっているかもしれない。
 ああ、可哀想なハルよ。
 愛犬の心境を考え俯いた所長は、机上のファイルに目をとめる。
 極秘事項に指定された分厚いファイルを手に取り、興味深げに眺める。
 『囚人№10192についての報告書』 
 表紙をめくる。
 報告書には十三・四歳の少年の写真が添付されていた。報告書の内容に目を通す。東京少年刑務所における最重要機密として保管されていた報告書を提出させた所長は、添付された数点の写真と内容とをそっけなく、次第に熱を入れて見比べる。暇つぶしで読み始めたが、ページをめくるにつれ驚きが広がり興奮が湧く。
 報告書に添付された写真はここではないかどこか、日本を遠く離れた東南アジアの風景が映っている。
 ぎらぎら照り付ける太陽、黄土色の砂埃、未舗装の地面に轍をきざむ軍用ジープの車輪……上空から俯瞰で基地を写した写真がある。野戦服の米兵を写した写真がある。逮捕された市民や捕虜となったゲリラの写真がある。
 「なるほど。これはすごい」
 囚人番号10192は実に面白い経歴の持ち主だ。
 どうりでフィリピン政府が「彼」にこだわるはずだと納得する。
 嬉々として報告書をめくっていた所長を現実に引き戻したのは、控えめなノック。
 「入りたまえ」
 「失礼します」
 ドアが開き、犬を連れた男が入室。
 瞬間、報告書の内容は頭から吹き飛んだ。
 「おお、愛しのハルよ!」
 席を立ち、一目散に愛犬のもとへ駆け付け首を抱く。ハルが歓喜の声を上げ自分の顔を舐めまわす。
 愛い奴め。
 「寂しかったかハル?私はとてもとても寂しかったぞ、お前と引き裂かれるのは半身を失うにも等しい地獄の苦しみだった!そうかお前も寂しかったか、やはり私たちは一心同体以心伝心離れられない運命なのだ!よーしよし」
 「散歩、終了しました」
 「見てわかることを言わなくてよろしい」
 ハルを抱き上げ頬ずりしながら副所長を一瞥、辛辣に吐き捨てる。
 端正な顔だちに銀縁メガネがよく似合う副所長が、肩で息をしながらそこに立っていた。
 ハルにあちこち引っ張りまわされて疲労困憊の様子だ。
 それ以上副所長を労うことなく机に戻り、椅子に座る。
 「ハルの様子はどうかね」
 「……どうか、と言いますと」
 「元気だったかね?」
 「普通ですが」
 「面白くない男だな君は」
 当惑する副所長を針の眼光で一瞥、そっけなく続ける。
 「ハルは三歳の成犬だ。今が盛りのオス犬だ。私は犬にも繁殖の権利を認めている、性交を楽しむ権利を認めている。犬の意見も聞かず強制的に去勢手術を行うなどハルへの冒涜、犬も人間と同じく本能に従い繁殖に励み子孫を残してなにが悪い?だから私は敢えてハルの去勢手術をしなかった、人間の良き友であり生涯の伴侶でもある犬にそんな野蛮な真似できるはずがない。ハルには好きなときに好きなだけさかる権利がある。違うか?」
 「……ですが、人のオスを襲うのは問題ありかと」
 「ハルの好みの問題だ。私は口出ししない。人間にも異性愛者がいれば同性愛者がいる、特定の条件に合致する異性ないし同性にしか欲情しない異常性愛者がいる。それはおのおの個性の問題だ、ハルが人のオスに欲情するのもまた特異な個性なのだ。個性を否定したら多様性は生まれない、多様性のない社会は健全とはいえない。異論はあるか?」
 「………犬に襲われる囚人の立場は、」
 「自分の身くらい自分で守りたまえよ。ここでは弱肉強食の掟がまかり通っているのだろう?犬は自分より劣る者しか襲わない。ハルに狙われた者即ちハルに舐められたということだ。ハルにさえ舐めてかかられた弱者がこの先過酷な環境で生き残れるとは思えない」
 どのみち死ぬのだから、娯楽でハルに狩られてもかまわないと言わんばかりの口調だった。
 「なんだその目は。何か文句があるのか」
 忍耐強く黙り込んだ副所長を視線で舐め回し、背凭れから背中を起こす。
 「君こそ、自分の立場がよくわかってないみたいだ。何故君が今こうしてここにいられると思っている、銃紛失という前代未聞の不祥事を犯しておきながら以前と同じく副所長でいられる思っていられる?すべて私の配慮あってこそだ」
 「感謝しています」
 副所長が頭を下げる。感情を押し殺し、努めて無表情に頭を下げた副所長の足元にハルが纏わりつく。
 おもむろに席を立ち副所長に近付く。所長の接近を嗅ぎつけたハルがちぎれんばかりにしっぽを振って跳ね回る。
 犬の吼え声がうるさく響き渡る中、毛足の長い絨毯を踏みしめて副所長に歩み寄る。
 爬虫類めいて冷血な双眸を細め、癇の強そうな薄い口元を不機嫌に引き結び、高圧的にねめつける。
 「不祥事の責任を問われて『上』に証人喚問されたとき、庇ってやったのはだれだ」
 「……あなたです、但馬所長」
 「『上』に退任を要求された君が今もこうして東京少年刑務所にいるのは、私が君の能力を高く買い、秘書に指名したからだ。本来君は不祥事の責任をとり辞任しているはずだった。東京少年刑務所の杜撰な管理が表沙汰になれば政府が非難される、マスコミどもが騒ぎだす。
 『上』の人間は穏便に事件を処理したかった。君をマスコミの人身御供にさしだし事態の沈静化をはかる解決法もあったが、前任者を引退させ君の残留を『上』に申告したのは、昔の私を彷彿とさせる若きエリートの将来に期待しているからだ」
 恩着せがましく言って肩に手をおく。
 副所長の肩がかすかに跳ねる。無意識の拒絶反応。
 それを見抜いた所長は口元に嗜虐の笑みすら浮かべ、わざとねっとりと肩を揉む。
 生理的嫌悪を煽り立てる手の動きにひたすら顔を伏せて耐える副所長だが、体の脇で結んだこぶしは力の入れすぎで震えている。     
 犬にじゃれつかれたオールバックは乱れ、聡明に秀でた額に一房二房と前髪が垂れている。洗練されたスーツもあちこち汚れてひどいありさまだ。
 屈辱に頬強張らせ、表情を覗かれるのを避けて項垂れた副所長をたっぷり眺め、大股に机に戻る。
 「わかればよろしい。さあ、仕事を続けたまえ」
 「仕事、ですか」
 「見てわからんのか?愚鈍な部下だ」
 革張りの背凭れに背中を沈め、優雅に足を組む。傲慢なまでに自信に満ち溢れた支配者のポーズ。机を隔てて上司と対峙した若き副所長は眼鏡の奥の目に困惑の表情を浮かべている。
 飲み込みが悪い。
 交差した膝の上で五指を組み、尖った顎先をしゃくり、高飛車に命じる。 
 「ハルは散歩を終えて喉が渇いている、すぐに水を呑ませたまえ」
 「しかし私には他の仕事が、」
 「他の仕事だと?まだ自分の立場がわからないのかね。君はハルの世話係に降格したんだ。ハルの世話は君の義務だ。義務を怠ればいくら君とて処罰は免れないが、覚悟はできているのかね」
 辛辣に畳み掛ければ、副所長が不毛な議論に終止符を打つように一礼して踵を返す。
 律動的な歩調で絨毯を渡りノブに手をかけた副所長の背中に、「待て」と声をかける。ノブに手を置き、怪訝そうに振り向いた副所長の視線を捉えたまま、机上のファイルを掲げてゆっくりページを繰る。
 「囚人№10192を知っているか?」
 机の前に引き返した副所長がファイルに添付された写真を観察、表情の薄い顔に驚きの波紋を広げる。
 ファイルに添付された写真は右、左、正面と向きを変えて一人の少年を撮影したものだ。
 正面の写真。
 明るい藁色の髪を後ろ襟で無造作に束ねた少年が微笑んでいる。
 黒いТシャツの上からでも綺麗に筋肉が付いてることがわかるしなやかな体躯、健康的な褐色肌。長めの前髪の隙間から挑発の眼差しを放つ双眸には淡い硝子色の瞳が輝いている。野性味と甘さとが絶妙に溶け合った顔だちに僅かにあどけなさを残した少年を見つめ、副所長が慎重に訊く。
 「……レイジですか」
 「Rage、か。英語の怒り憎しみ。呪われた名だな。さしずめ母は憎悪、父が憤怒か」
 何がそんなにおかしいのか、喉の奥で卑屈な笑いを泡立て写真を掬い上げる。
 スッと、細い指を写真に滑らす。少年の顔を撫でる。
 不敵な微笑を浮かべた少年をなまぬるい目つきで甚振り、顔の輪郭に沿って指を滑らせる。
 「憎悪を母に、憤怒を父に生まれた子供は一体なんだろうね?人か悪魔か、それとも……」
 「囚人です」
 「ふん」
 どうやらこの返答はお気に召さなかったとみえ、途端に興味を失ったように机上に写真を放る。
 無造作に写真を投げ捨て、再び椅子にふんぞり返って足を組み、傍らに招き寄せたハルを撫でる。
 「この顔には見覚えがある。先日、私の就任演説を妨害した囚人だな。なるほど彼がフィリピン政府ご執心の『Rage』か。フィリピン政府が再三強制送還を要求してる犯罪者か。経歴を読ませてもらったが、フィリピン政府が彼に目を付けたのも道理だな。検査の結果、知力・体力ともにすばぬけている。彼を思うさま飼いならすことができればどれほど便利か……」
 犬の息遣いの他は衣擦れの音とてなく、不穏な静寂が立ち込めた執務室で、二人の人間が対峙する。
 不安げな副所長をよそに犬と戯れていた所長が、眼光鋭く写真を一瞥、断言。
 「―私が『上』に戻る鍵は、彼だ」  
 名残惜しげに犬の首から手を放し机に向き直り、写真を手に取る。
 「手ぬるい尋問に終始してはいつまでたっても真相が暴けない。私がここに来た目的は『彼』だ。愚鈍な家畜の群れを率いる毛色の珍しい豹を調教する為だ。彼を屈従させることができれば私の株も上がる、出世の道が拓ける。君、私はまた『上』に戻りたいのだよ。こんな所で終わりたくはないのだよ。砂漠に骨を埋めるなど冗談ではない。不肖の弟はここでの職務に生き甲斐を見出していたようだがね」
 口元に薄く笑みを浮かべる。憫笑とも嘲笑とも判別つかぬ醒め切った笑み。肉親のことを語っているにもかかわらず、口調は恐ろしく冷たい。
 実弟と同じ名を付けた愛犬の頭をさする。
 血統書付きのドーベルマンが裂けた口腔から長い舌を覗かせ夢中で手を舐める。異様に長い舌から涎を垂れ流し、手の指一本一本にむしゃぶりつくドーベルマンを見下し、飼い主に絶対服従の従順さに目を細める。
 犬は賢い。賢い生き物は好きだ。
 犬に指を舐めさせながら、暗い野心を秘めて片手の写真を眺める。
 「弟の復讐だと?そんなものは二の次だ。『あれ』が犯した不祥事がもとでこんな砂漠くんだりに飛ばされてきたのだ、出来損ないの弟の為に何故私が復讐など効率に見合わぬ真似をせねばならない?私の目的は『彼』だ。呪われた瞳と髪をもつ憎悪と憤怒の合いの子、混血の豹だ。いいか、よく聞け。私は必ずや前任者が果たせなかったことを成し遂げてみせる、前任者が早々に投げ出した彼の余罪追及を成し遂げて『上』に戻る!」
 ヒステリックな剣幕に怯え、後ろ脚の間にしっぽを丸めてあとじさる犬。
 所長は憑かれたようにページをめくる。
 高速でめくれるページに付された写真を血走った目で飛ばし見る。
 苛烈に照り付ける灼熱の太陽、軍用ジープの重厚な車体に凭れた野戦服の米兵、マニラ基地に搬入される大量の物資、逮捕された市民と捕虜にされたゲリラ、そして……
 写真に切り取られたのは日本を遠く離れた東南アジアの風景、米軍占領下のフィリピンの日常。
 その中に混じる数点の写真。右、左、正面と向きを変えて撮影された少年の顔写真。フィリピンの日常風景を映した写真の中に忽然と紛れ込んだ人物写真には、どれも同じ少年が映っている。明るい藁色の髪を後ろ襟で無造作に束ねた、野生の豹を彷彿とさせる眼光の少年……
 「その為に、彼には犠牲になってもらう」
 音吐朗々と宣言し、邪悪に舌なめずり。
 片手に預けた写真の中では茶髪の少年が不敵に笑っている。
 生意気な顔だ。
 自分は何者にも犯されない、犯せるものなら犯してみろと大胆不敵に挑発するかのようだ。
 手の中で不敵なオーラを発する写真を覗きこむうちに嗜虐心が疼き、支配欲を煽られる。
 こいつを屈服させたい、屈従させたい、プライドをへし折りたい。
 ゆっくりと首を項垂れ、写真に顔を埋める。
 薄い唇が割れ、蛇めいて赤い舌が覗く。
 舌の先端が写真に触れて透明な筋をひく。慄然と立ち竦む副所長の眼前で、少年の顔を重点的に舐める。
 発情した軟体動物のように卑猥に蠢く舌が写真を這い回り少年の顔にたっぷり唾液を塗る。舌が這ったあとに唾液の筋が透明に濡れ光る。舌が、少年を犯す。唾液の雫が点々と垂れる。頬も首筋もいまや舌に陵辱され唾液にまみれ、てらてら淫猥に濡れ光る。
 「ハルよ、お前も舐めてみるか」
 犬の鼻面にさしだせば、喜んで写真を舐めまわす。
 唾液でふやけて少年の顔が歪むまで隅々まで舌で舐め尽くす犬を見下ろし、満足げに微笑む。
 「どんな味だ?そうか、美味いか。安心しろ、お前にも分け前をくれてやる。私とお前は一心同体、美味な肉は二人で分け合わねばな」
 興奮しきった犬が写真にとびかかり所長の手から奪い取る。
 もはや舐めるだけでは物足りず、前脚で写真を押さえ付け、口腔で噛み裂く。尖った犬歯を剥き出し、写真を噛み裂きにかかる犬をひと撫でして顔を上げた所長は、もう一冊机上に重ね置かれたファイルを取り上げる。
 「そうだ、忘れていた。もう一人問題児がいたのだ」
 ファイルには「囚人№12321についての報告書」と素っ気なくタイプされていた。表紙に印字された囚人番号を見た瞬間、安田の顔色が変わる。それには気付かずページをめくり、一枚の写真をさらす。
 写真に写っていたのは、銀縁眼鏡がよく似合う聡明な少年。
 レンズの奥の切れ長の目は怜悧な知性と冷徹な理性を帯びて、賢さを強調する。
 「囚人№12321、堕ちた天才だ」
 無感情に言い、文章に目を通す。机の前に立ち竦んだ副所長は、努めて感情を出さず無表情を装っているが、完全に動揺を隠し切れない証拠にレンズ奥の目が葛藤に揺れている。
 レンズ奥の目に苦悩を封じ込めた安田には構わず、皮肉げな口調で報告書を読み上げる。

 「鍵屋崎直15歳。遺伝子工学の世界的権威と名高い鍵屋崎優・由香利夫妻の長男として生を受け、夫妻の後継者となるべく幼少時から徹底した英才教育を施された。三歳時の知能検査でIQ180という驚異的な数値を記録。優秀な頭脳を誇り、両親の研究助手として広範に活動し遺伝子工学の発展に貢献した。
 しかし15歳の6月に突如両親を殺害。目撃者は当時10歳の妹のみで、その妹も事件のショックから心神喪失状態となり事情聴取不可能な為に事件発生時の詳しい状況などは今もって不明。
 本人も動機については完全黙秘を通した為に懲役八十年の判決を受け東京少年刑務所送致が決定する」

 「鍵屋崎がどうかしましたか。彼はとくに素行に問題ないはずですが」 
 堪えきれず副所長が意見する。
 椅子にふんぞり返った所長はしばし無言で写真を見つめ、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
 「何を考えているのかまったくもって理解不能だ。IQ180という世界最高峰の頭脳に恵まれながら両親殺害の禁忌を犯して将来を棒に振るなど気が狂ったとしか思えない。動機は思春期にありがちなアイデンティティーの葛藤か?自分が何者か思い悩み世の無常を悟ったつもりになり、突発的に両親殺害に及んだか」
 「……彼には重大な問題だったんです。自分が何者であるかが」
 副所長の顔が苦渋に歪む。
 自分の部下が囚人に理解を示したのが気に食わないのか、椅子の背凭れに凭れた所長が尊大に続ける。
 「彼はまだ黙秘を続けているのか」
 「はい」
 「もう十ヶ月にもなるというのに」
 「……はい」
 「何をしているんだ君は?十ヶ月もあれば両親の殺害動機を聞き出すなどたやすいだろうに」
 わざとらしく嘆息、ファイルを投げ捨てて机上に頬杖をつく。副所長の視線は机上のファイルに吸い寄せられる。
 銀縁眼鏡をかけた少年が無表情にこちらを見返す。
 写真の中から送られる視線を避けて俯いた副所長の反応をどう取ったか、所長は溜飲をさげる。
 「……が、かえって都合がいい。彼はまだ両親の殺害動機について一言も口を割ってないのだね?それならば私が個人的に面談し、彼が十ヶ月間隠し通した真の動機を解明しようではないか。
 『上』も彼の動向を気にかけている。なにせIQ180の危険分子、彼が両親殺害に至った経緯を解き明かすことができれば心理的にコントロールして政府の管理下におくのも不可能ではない。両親殺害という事件を起こした手前表には出せないだろうが、密かに生かして国の利益となる極秘の研究にたずさわせることも……」
 「ご心配には及びません。それは私の役目です」
 滔滔たる語尾を遮り、毅然と前を向いた副所長の顔は緊張に強張っていた。
 所長の方へと一歩踏み出し、性急に畳み掛ける。 
 「私にお任せください、所長。鍵屋崎と私は親しい関係にあります。私は彼から一定の信頼を勝ち得ている自負がある。鍵屋崎から両親殺害の動機を聞き出すのは私の役目、私の義務だ。他の誰にも譲れない。だから所長、鍵屋崎を個人的に呼び出すのはやめてください。鍵屋崎に関する事はすべて私に任せてください。お願いします」
 頭を下げ続ける副所長とファイルの写真とを見比べ、思案げに顎を引く。
 「君は随分とこの囚人にこだわっているが、一体どういう関係なんだ?副所長が特定の囚人を贔屓するのは問題だが、まさか性交渉を持っているわけではあるまいな」
 「!そのようなことは、」
 怒りか屈辱かその両方か、頬に血を上らせた副所長が身を乗り出すのを醒めた目で見つめ、口の端を嫌味に吊り上げる。
 「ならば血縁者か?」
 背中に体重をかければ耳障りに椅子が軋む。ファイルに挟まれた写真の囚人と眼前の男には共通の雰囲気がある。容姿も似ている。
 他人の空似だろうが、それにしては面白い偶然だと意地悪くほくそ笑んだ所長を前に、机に手を付いた姿勢で副所長が固まる。
 空気が緊迫する。
 静寂の密度が高まる。
 張り詰めた横顔を見せて押し黙る副所長の足元に犬がじゃれつく。スーツのズボンを前脚でしごき、背広の裾に噛み付く。
 犬の吼え声だけが聞こえる静寂の中、机に手を付き上体を支えた副所長が、苦渋に満ちた声音を搾り出す。
 「彼は私の、」
 オールバックに固めた前髪が垂れ、額に被さる。
 副所長の手の下には一枚の写真がある。銀縁眼鏡をかけた、自分とよく似た少年の写真。他人の空似にしては少々出来すぎなほど自分と似通った少年の写真。右手に敷いた写真を酷く思い詰めた目で見つめ、呼吸を整えるように大きく肩を上下させ顎を引く。
 苦悩と葛藤を理性の力でねじ伏せ抑え込み、今この瞬間だけは大人の矜持を引き立てる達観の表情で所長と対峙。
 絶対に譲れないものを内に秘めた気高い眼差しで宣言する。
 「―彼は、私が作っていたかもしれない家族のかたちなんです。彼が背負っているものは、私が背負っているものなんです」
 静謐な迫力に満ち満ちた眼差しと重みのある言葉にも所長は狼狽せず、爬虫類めいて酷薄な笑みを覗かせるのみ。
 「ならば、彼の件は君に一任しよう。私も囚人№10192の尋問に専念する。囚人二人を相手に一人で尋問を行うのはさすがに骨が折れる。それぞれから有益な情報を聞き出すには君と分担したほうが効率が良いだろう」
 「ありがとうございます」
 「だが、囚人№12321の口から両親殺害の動機を聞き出せない場合はどうなるか……わかっているだろうね」
 縁なし眼鏡の奥の双眸が鋭くなる。陰険な光を目に湛えた所長が椅子を軋ませおもむろに立ち上がり、副所長の頬を片手で包む。
 突然の接触に狼狽した副所長だが、足元では犬が唸り声を上げているため後退することもできず、所長に頬をなでられるがまま口元を引き結んで耐え忍ぶ。
 「『上』は囚人№10192と12321に非常な興味を持ち早急な報告を望んでいる。君が無能な故に両親殺害の動機を聞き出せなければ処分を検討せねばならない。君もハルの世話係で一生を終わりたくないだろう?くれぐれも囚人に同情などせぬことだ。家畜に鞭を惜しめば付け上がるのが自然の法則だ。主人の期待を裏切ればどうなるか……わかっているか?」
 繊細な顎に手をかけ、強引に上を向かせる。
 無理矢理顔を上げさせられた副所長が苦しげに呻き、プライドを蹂躙される痛みに顔を引き攣らせ、何か言いたげに口を開閉する。
 哀願か謝罪か、そのどちらか聞き分けようと机に身を乗り出し副所長の口元に耳を寄せた所長が大きく目を見開く。
 よわよわしく瞼を伏せた表情に許容と諦念を去来させ、副所長が言う。
 「その時は、私を調教してください。無能な私を罰してください」
 「良い心がけだ。聞き分けの良い犬は好きだ」
 副所長の顎をそっけなく突き放し、椅子に腰を落ち着けた所長の腕へと机を飛び越え犬がとびこむ。腕にとびこんできた犬を抱きとめ、椅子を回転させながら狂える哄笑をあげる。
 椅子が回転するスピードで犬を振り回せば、その余波で机上の写真が飛び散り、ひらひらと虚空に舞う。
 副所長の足元に眼鏡の少年の写真が落ちる。
 報告書のページが風圧にめくれて他の写真も飛び散る。
 「私は決して終わらない、必ずや『上』に返り咲いてみせる、精神異常と決め付け左遷した連中を見返してみせる!見てろよ愚鈍な家畜ども、この私が東京少年刑務所のトップになったからには今までのように囚人の好きにはさせない。手はじめにまず野生の豹を飼いならしてやろうじゃないか、容赦なく鞭をくれて檻に閉じ込めていたぶりぬいてやろうじゃないか!!ハルよお前も楽しみだろう、豹を檻に入れた暁には番犬を任せるから存分に遊んでやれ、足腰立たなくなるまでな!!」
 執務室に狂気の哄笑が響き渡る。呼応して犬が吼える。
 椅子を回転させた余波で机上から飛んだ書類と写真が床に散乱する。
 中腰の姿勢で写真を拾い上げ、眼鏡の奥の目に悲哀を宿し、謝罪する。
 「………すまない、直」
 自分の無力を呪い、副所長は唇を噛んだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050613223951 | 編集

 その晩レイジは帰ってこなかった。
 レイジ拉致事件は東棟で話題となった。レイジが連れ去られた廊下には物見高い野次馬が群れて僕をはじめとする無関係な通行人の進路を妨害した。図書室帰りに廊下を歩いていた僕はわけもわからぬまま、レイジを見送る野次馬の群れに揉まれてひどい目に遭った。
 囚人間にはさまざまな憶測が乱れ飛んだ。
 就任演説を妨害した一件がもとで目をつけられて呼び出されたのだと主張する者もいれば、ヨンイルの花火打ち上げに関わった容疑で事情聴取されているのだと推理する者もいた。
 が、真相は不明。
 どんな誠しやかな噂も憶測の域をでず真偽は判然としない。
 レイジ不在の房で不安な一夜を過ごしたロンの憔悴は激しく、強制労働中は集中力を欠いて些細なミスを連発した。
 心ここにあらずで強制労働を終えたロンは夕食中も塞ぎこみ、僕の問いかけにも生返事を返すばかり。僕が「ロン、味噌汁をこぼしてるぞ」と口うるさく指摘しても「ああ、こぼれてるな」鈍い反応を返すのみで、片手に預けた椀を持ち直そうともしない。
 今の彼にふさわしい言葉はこれに尽きる。
 腑抜け。
 僕も決して多弁ではないが、いつもうるさいレイジが消えてツッコミを入れる相手をなくしたロンの意気消沈ぶりたるや凄まじいもので、惰性で夕飯を咀嚼する間は陰鬱に黙り込み卓上には食器が触れ合う音のみが響いた。
 ロンの隣には空席がある。レイジの指定席。
 ロンの隣にちゃっかり座を占めたレイジはいつもだらしなく頬杖つき、気まぐれにフォークを振り回して夕飯をつついていたが、今日は姿が見えない。
 周囲の喧騒から取り残された空席を一瞥、ロンがため息をつく。
 さっきからずっとこの調子で食事も進まない。サムライはといえば、ロンの異変には気付いているが不用意な発言で彼を刺激してはいけないと自重している。
 使えない男だ。
 「……馳走さん」
 ロンが上の空で手を合わせる。カウンターに食器を返却しようと歩き出したロンを追い、立ち上がる。
 「待て、ロン!」
 味噌汁の残りを啜り、小走りに駆け寄る。
 食堂の雑踏に埋もれたロンに途中で追いつく。トレイを抱えて振り向いたロンは、僕を認めても特に反応を示さず、「……ああ。お前か」とぼんやり呟くのみ。
 発作的にロンを呼び止めたはいいものの、言葉が続かず狼狽する。
 このままロンを房に帰してはいけないと理性が叫び、本能が追わせたのだが、たった一晩で激しく憔悴したロンをいざ目の前にすると動揺を隠せない。
 「……レイジはまだ帰ってこないのか?」
 「音沙汰ねえよ。昨日連れてかれたきりだ」
 ロンがぶっきらぼうに吐き捨てる。
 こうして向き合えば瞼が腫れているのがわかる。レイジの無事を祈り続けて転々と寝返り打ち眠れぬ夜を過ごしたせいだ。寒々しい房で一晩中、いつ帰ってくるかわからないレイジを待ち続けて独り毛布に包まっていたのだろう。
 カウンターに接近、トレイを返却。
 ロンに向き直り、尊大に腕を組む。
 「僕が口に出す件でもないが、心配には及ばない。レイジは以前から素行不良の問題として『上』に目を付けられていた。連戦連勝無敵無敗のブラックワーク覇者、恐れる者ない東棟の王様として自由気ままに振る舞っていたじゃないか。新任の所長がレイジを呼び出したのは東京プリズン最大の危険人物と目される彼の人となりを把握しておきたかったからだ。僕の推理は正しいと自信をもって断言する」
 半信半疑の様子で押し黙ったロンと対峙、一息にまくしたてる。
 「天才の推理が信用できないのか、この優秀なる頭脳が導き出した論理的帰結が間違っているとでも?低脳の分際で天才を否定するとは不愉快な人間だな君は、何様のつもりだ。王様の飼い猫様か。
 まあいい、じきに真実がわかる時がする。レイジの帰還はもうすぐだ。レイジが呼び出されたのは失笑を禁じえないくだらない理由だ。レイジは初日の就任演説を妨害した一件でブラックリストに載せられたんだ、性格異常の人格破綻者たる但馬の兄に目を付けられたんだ……いや待てよ。そうか、そちらが正しいか」
 「そっちってどっちの方向だ。あさってか」
 漸く顔を上げたロンがうろんげに問う。いい兆候だ。
 微妙にずれているが今日初めてまともな反応が返ってきたことに内心安堵、眼鏡の位置を直して畳み掛ける。
 「先日レイジはヨンイルの花火打ち上げに協力した。彼が所長室に喚問されたのは花火打ち上げを決行した容疑者だからだ。あれほど騒ぎになったんだ、所長のもとに連絡が行かないほうがどうかしている。くそ、もっと早く気付くべきだった。たんぱく質不足で頭の回転が鈍ってきている」
 早い話、レイジはヨンイルの共犯と目されて所長室に呼ばれたのだ。今頃はヨンイルも所長に呼び出されてるに違いないと確信、断言する僕をロンが疑わしげに見つめる。
 なんだその目は?これ以上明解な推理はないだろうに。
 「……なら、看守四人で殴りこんでくる必要ないだろ。こんこんて扉ノックして『花火の件で聞きたいことある』とか一言言えばいいだけじゃんか、そしたら俺だって余計な心配しなくてすんだんだ。第一おかしいよ、花火打ち上げの件で説教食らってるにしても長すぎだ、レイジは昨日一晩帰ってこなかったんだぜ!?」
 ロンが唾を飛ばして食って掛かる。
 僕もその点に関しては説明できず、顔の前に手を立てロンの唾を避けるにとどめた。
 確かにロンの言い分にも一理ある。
 花火打ち上げに関わった件でヨンイルと共に呼び出されたにしても、今日になってもまだ帰ってこないのはおかしい。レイジの身に何か不吉なことが起きたのは確実、僕やロンの知らないところで異常事態が進行しつつあるのが現実。
 しかし、だからと言ってどうすることもできない。
 「ロン、忘れてないか?僕らはただの囚人だ」
 僕の胸ぐらに掴みかからんばかりに身を乗り出したロンを醒めた目で一瞥、唾の飛んだ眼鏡を上着の裾で拭う。
 食堂の喧騒に取り巻かれ、人込みの渦中に取り残された僕とロンの間に静寂が張り詰める。
 悔しげに歯噛みしたロンの表情に目を細め、眼鏡をかける。
 「レイジの身が心配なら直接所長室に殴りこむか?そして彼を救出するか?無駄だ。不可能だ。看守に妨害されて負傷するのが関の山だ。君にできることはただレイジの帰りを待つことだけだ。焦燥に焼かれ不安に苛まれ眠れぬ夜に耐えることだけだ。いいか、もう一度言う。僕らはただの囚人だ。看守に逆らうのも命賭け、いつ看守の気まぐれで嬲り殺されても仕方のない東京プリズンにおける弱者だ」
 「わかってるよ、そんなの。胸糞わりぃ」
 「ならば大人しくレイジの帰りを待て。主不在のベッドを君の体温で暖めておけ」
 そっけなく言い捨てれば、ロンの顔が悲痛に歪む。
 ロンも精一杯自制しているのだ、今すぐにでも所長室に殴りこみたい衝動を抑制しているのだ。
 「……あの馬鹿、ひとを心配させやがって。帰ってきたらはったおしてやる」
 憤然たる大股で雑踏を突っ切り、食堂を出ようとしたロンの背中を見送り、彼をこのまま独りにしていいものかと思案する。
 レイジがいない房に塞ぎこんでいてはますます思い詰めてしまう。ロンは思い込んだら一直線の非常に厄介な性格をしている、現在の情緒不安定な彼を放っておくのは危険だ。
 ひとり帰路を辿ろうとしていたロンの背後に立ち止まり、息を整え声をかける。

 「そうだ、図書室に行こう」
 「はあ?」

 脳天から奇声を発してロンが振り向く。
 「なんだこいつ」と露骨に顔を顰めたロンと向き合い、眼鏡のブリッジに触れる。
 「君もたまには活字にふれて知識を吸収するべきだ。幸い東京プリズンは豊富な蔵書量を誇る知識の宝庫、純文学から哲学書に至るまで先人の遺した貴重な文献が山と積まれた象牙の塔。思い込んだら一直線で周囲が見えない傍迷惑な性格を改善するには様々なジャンルの本にふれて視野を広げるべきだ」
 「いやだよ。本読むと頭痛すんだよ」
 「病気だな。前頭葉が萎縮して思考回路が硬直してるんだ。特効薬は活字だ。君は本を読みなれてないから苦手意識が強いだけだ、免疫ができれば長時間の読書も苦じゃなくなる。さあそうと決まれば話は早い、早速図書室に行こう。ちなみに僕の推薦図書はドエトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』だ」
 「変な名前の兄弟。何人だ」
 「ロシア人だ」
 渋るロンを半ば強引に押し切り、食堂の外へと足を向ける。
 気乗りしない足取りで歩き出したロンの隣で振り向き、雑踏に埋もれた食堂に視線を巡らせて、ついさっきまで僕がいたテーブルをさがす。
 いた。
 サムライがこちらに背を向けて食事をとっている。
 「………」
 声をかけようか、迷う。
 ここ最近彼とはまともに会話をしてない。だが、いつまでも互いを無視する平行線を辿り続けるのも大人げない。
 サムライは確かに鈍感で無神経な男でその点に関しては異存がないが、今もって僕の大事な友人に変わりはない。
 たとえ彼が僕の知らないところで静流とキスをしていたのだとしてもそれこそ個人の自由で僕が口を出す問題ではない、同性しかいない東京プリズンでも本来恋愛は自由なのだ。
 サムライが静流と恋愛関係にあるならそれでいいじゃないか、僕と彼とはただの友人でそれ以上でも以下でもないのだから。
 静流に嫉妬などするわけない。僕はそんな狭量な人間じゃない。
 ここはひとつ、天才ならではの寛容さを示してサムライを許すべきじゃないか。
 僕とロンが消えたテーブルにひとり着席、黙々と箸を動かし食事をとるサムライを遠目に眺める。
 「どうした?」
 不審げに見上げてくるロンを無視。深呼吸し口を開き、決心が鈍りまた閉じる。それを二度ばかり繰り返し、勇気を振り絞り前方を見据える。
 サムライはひとりほそぼそと食事をとっている。
 眉間に縦皺を刻み、黙々と顎を動かし、仏頂面で咀嚼する。
 周囲に流されず孤高の背中を見せたサムライの方へ一歩踏み出す。
 「サムラ、」
 「貢くん」
 澄んだ声が語尾を遮る。箸を止め、サムライが顔を上げる。 
 静流がいた。
 静流が何かを囁く。
 喧騒に紛れて聞き取れない親密な会話。
 静流が笑う。心なしサムライの顔も和む。
 静流が笑顔で促せばサムライが即座に席を立つ。トレイを片手に持ったサムライが静流と何かを話す。静流が嬉しげに首肯する。サムライが口元を綻ばせる。
 あのサムライが、笑った。僕以外の人間に微笑みかけた。
 急激に空気の密度が膨張して鼓膜を圧迫する。
 心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、喉が干上がる。
 僕は何故こんなに衝撃を受けている、ショックを受けているんだ?自分でもわからない。ついさっきサムライの恋愛には口出ししないと言ったばかりなのに、実際にサムライと静流が親密に寄り添う現場を目撃し、戦慄に打たれる。
 静流に促されて席を立ったサムライが、執拗に背に注がれる僕の視線に気付き、振り向く。
 僕を認めた目が見開かれ、ほんの一瞬後ろめたげな表情が過ぎる。だがそれはすぐに鉄面皮の下に隠され、無愛想に口元を引き結び、そっぽを向く。
 静流もまた僕に気付き、わざとらしくサムライの肩に手をやる。
 蜘蛛が這うように肩に五指がかかる。
 サムライの肩に触れた静流が妖艶な流し目をくれる。
 帯刀貢は自分の物だと暗に匂わすように、サムライを独占するように。
 「鍵屋崎、大丈夫かよ。真っ青だぜ」
 「!」
 はっとする。悪夢から醒めた心地で隣を見れば、ロンが心配げに僕の脇腹をつついていた。
 「―なんでもない。行くぞ」
 サムライなどどうなろうが知ったことか。せいぜい静流と仲良くすればいい、僕は所詮邪魔者に過ぎないのだから。
 互いを支え合うように寄り添うサムライと静流の姿には、容易に他者が入り込めぬ強い絆が感じられた。
 二人の周囲には他者を弾く結界が張られていた。これ以上サムライと静流を見続けるに耐えかねた僕は、ロンをその場に残し、逃げるように立ち去る。
 「待てよ、鍵屋崎!」
 ロンが小走りに追いかけてくる。食堂の喧騒が遠ざかる。
 じっと背中に注がれている視線はサムライのものか静流のものか判然としない。

 通路に虚しく靴音がこだまする。

 足早に歩きつつ、最前目撃した光景を意識の外に閉め出そうと自己暗示をかける。
 食堂で目撃した光景、サムライに親しげに声をかけ寄り添う静流、サムライの笑顔……かつて僕が独占していた笑顔。
 僕はもうサムライに必要な人間ではなくなったのか?
 サムライを誘惑したあの夜、友人の資格を失ってしまったのか?
 胸の奥で膨張した自己嫌悪が喉を塞いで呼吸が苦しくなる。
 無意識に上着の胸を掴み、俯き、足元を見つめる。
 性急に足を前後させ廊下を歩きながらも、脳裏に焼き付いた映像は振り払えず、食堂から距離が離れる程にますます鮮明さを増して僕を追い詰める。
 『彼はもう君のサムライじゃない』
 『僕と姉さんの帯刀貢だ』
 「どういう意味だ、静流」
 声が震える。胸ぐらを掴む指に力がこもる。
 彼はすでに僕のサムライじゃないというのか、心も体も静流の物になってしまったのか?嫌だ。認めたくない。サムライがサムライでなくなったなど断じて認めたくはない。僕はまだ彼の唇の感触をなまなましく覚えている、胸のぬくもりと腕の力強さを覚えている。
 それなのに。
 「サムライがサムライでなくなったなど、嘘だ。帯刀貢に戻ってしまったなんて嘘だ」
 声に出して自分に言い聞かせるも不安は大きくなるばかりで一向に効果がない。
 瞼の裏によみがえる静流の微笑み、真紅の唇……
 「どこ行くんだよ鍵屋崎、図書室過ぎちまったよ!」
 ロンに腕を引かれ、物思いから急浮上。
 慌てて立ち止まれば、すでに図書室を行き過ぎていた。
 僕ともあろう者が迂闊だった、まったく気付かなかった。
 「目え開けながら寝てたのか?器用だな」
 ロンの揶揄を聞き捨て鉄扉を押しながら、あの夜、この扉に押し付けられた瞬間の衝撃をぼんやり思い起こす。
 背中に感じた鉄扉の冷たさ、唇に触れた熱。
 そのどちらもを鮮やかに思い出せるというのに、あの夜から僕らの心は離れてしまった。
 だからきっと、あのキスは無意味だったのだ。サムライの唇の感触をいまだに未練たらしく反芻する僕と同じ位に。
 「無様だな。彼には一夜の気の迷いで、僕には一生の不覚だ」
 鉄扉に手をかけ、僕は嗤った。 
  
 結論から言えば、ロンを図書室に連れてきたのは失敗だった。
 「十三回目だ」
 「あん?」
 本を閉じて指摘すれば、ロンが首を傾げる。
 元の場所に本を返し、苛立ちを隠してブリッジに触れる。
 「君のため息の回数だ。自覚がないとは重症だな」
 ズボンのポケットに手を突っ込み暇そうに書架に凭れたロンが、珍妙な生物でも見るようにまじまじと僕を眺める。
 「お前、ひとのため息数えるくらいっきゃ楽しいことねえの?本読めよ」
 「ため息に集中力を散らされて読めない。いっそ口を縫ったらどうだ」
 「お前が連れてきたんだろ」
 「ならば本を読め。折角図書室に連れてきたのにその態度はなんだ、不愉快だ。図書室で本を読む以外のことをして本に失礼だとは思わないのか?今すぐ本に謝れ。ニーチェに謝れデカルトに謝れフロイトに謝れマルクスに謝れドエトエフスキーに土下座しろ。読書は気分転換に最適だというのに、君ときたら退屈そうに書架に凭れているだけでさっきから一冊も本を読んでないどころか表紙を開こうともしないじゃないか」
 「図書室に来て三十分もたってねえのに本が読みきれるか、大体ここ哲学書コーナーじゃんか!!こんなとこに人引っ張り込んで何読めってんだ、俺はヨンイル仕込みの漫画しか読まねえ主義で哲学書なんかちんぷんかんぷんなのによ!」
 「読んでみなければわからないだろう」
 書架から適当な本を抜き取り、問答無用で突き出す。
 渋々本を手に取ったロンが上目遣いに僕の表情を窺い、ぱらぱらとページをめくる。次第にその顔が顰められ、大袈裟な表情を作る。

 三秒後、ロンは驚くべき行動をとった。

 「やめた。ちんぷんかんぷん」
 ポイと本を投げ捨てる。ゴミのように。
 あまりの暴挙に目を疑う。虚空に放り出された本を慌てて受け止めた僕は、書架に背中を凭せて欠伸をするロンに猛烈に抗議する。
 「貴様、無抵抗の書物に対してなんて卑劣な真似を!?この図書室にある本はすべて人類の叡智が結集した知的財産だというのに、事もあろうに本を投げるとは……ニーチェに謝れデカルトに謝れフロイトに謝れマルクスに謝れドエトエフスキーに土下座しろ、しかるのちに可及的速やかに図書室から出て行け!」
 「お前が連れ込んだんじゃないかよ!」
 堂々巡りの議論に疲労が募る。
 徒労のため息を吐いて手元を見下ろせば、僕がロンに渡した本はソクラテスの「対話編」だった。
 ……確かに理解不能だろう。ロンの読解力に応じた本を選ぶべきだったと少し反省する。あくまでほんの少しだが。

 「対話編」を書架に戻し、あたりを見回す。

 分厚い哲学書ばかりが整然と並ぶ図書室も奥まった一角には僕たち以外に人気もなく、埃臭い静寂が沈殿してる。
 十重二十重に連なる書架の向こうからかすかに届く笑い声の他は、僕がページをめくる音とロンのため息、二人の衣擦れの音しか聞こえない。
 気分転換にとロンを図書室に連れてきた僕の試みは、どうやら失敗に終わったらしい。
 「……まったく救いようない低能だな。念のため聞くが、僕の好意を無駄にして良心は痛まないのか?世の無常と人生の意味について苦悩する少年に敬虔な示唆を与えようと哲学書コーナーに案内したのに、君ときたらため息を十三回欠伸を十回、さっきからちっとも本に手を伸ばそうとしないじゃないか」
 「人生の意味なんてどうでもいいっつの。俺に気分転換させたきゃ漫画コーナーに案内しろよ」
 「漫画ばかり読むと馬鹿になるぞ」
 「じゃあお前に聞くけど、ソクラテスとブラックジャックとどっちが面白い?」
 何をわかりきったことを聞くんだ、この低脳は。
 「後者に決まっているじゃないか」
 「ほらな」
 ロンが勝ち誇る。憎たらしい。第一ソクラテスと手塚治虫ではジャンルが違うから本来比較にならないし、そもそも今の問いはソクラテスの『対話編』を完読してからすべきであって、後者しか読んでない癖にさも知ったかぶったふりをするとは手塚治虫にもソクラテスにも失礼じゃないか?
 「上行って来る。漫画読んでくる、暇だから」
 怒涛の勢いで抗議しようとした僕の眼前でロンがあっさり身を翻す。ひらひら手を振って踵を返したロンに「待て、せめて哲学書初心者でもわかりやすいパスカル『パンセ』を借りていけ」と追いすがるも、ロンは聞く耳持たずに通路を抜けて階段を上がっていってしまう。
 これではまるで道化じゃないか。
 息を切らして書架と書架の間に佇んだ僕は、階段を駆け上がるロンの背中を睨み付け、憤然と踵を返す。
 ロンなど知るか、勝手にしろ。僕は僕で新たな本を借りる予定がある、ロンにばかり構っていられない。
 十重二十重に連なる書架の間をくぐりぬけ、本を物色。
 なかなか気に入る本に出会えず書架と書架の間を彷徨するうちに、さっきまでいた哲学書コーナーにさしかかる。
 巨大な書架が天井を圧して左右に並び立つせいで視界が暗く、最初、人がいるのに気付かなかった。
 「!」
 反射的に書架の影に隠れる。
 別に隠れる必要もないのだが、条件反射だ。人は二人いた。さっきまで僕たちがいた図書室も奥まった一角、分厚い哲学書が隙間なく書架を埋めた場所に看守と囚人がいる。
 こんな所で何をやっているのだと不審に思う。
 自慢ではないが、哲学書コーナーに頻繁に出入りする知識欲旺盛な囚人は東京プリズンには僕しかいないはず。僕自身哲学書コーナーに出入りする囚人を他に見かけたことがない。
 滅多に人が立ち入らない哲学書コーナーに今日に限って来客がある。
 この事実が意味するのは……
 「逢引か」
 途端に興味を失う。
 図書室の奥、滅多に人が来ない薄暗がりは看守と囚人がいかがわしい行為に及ぶのに最適の場所だ。
 予想通り、僕に背中を向けた看守の首には白い腕が絡み付いている。
 書架に背中を凭せた囚人の上に看守がのしかかっているのだ。
 僕は即座に回れ右しようとした。看守と囚人の密会現場に遭遇したら、関わり合いを避けて即刻立ち去るのが賢い。
 だが、何かが僕を引きとめる。
 脳の奥で膨らむ違和感。最前目撃した光景が瞼の裏によみがえる。書架に背中を凭せた囚人の上にのしかかる看守、静寂をかき乱す赤裸な衣擦れの音と荒い息遣い、看守の首に絡み付く白い腕。看守の下に見え隠れする、裾がはだけて外気に晒された下腹部。
 男にしておくのが惜しいほど白くきめ細かい肌、快楽に溺れて看守を抱き寄せる華奢な腕。

 腕。
 サムライの肩におかれた手………

 「!!―っ、」
 戦慄。
 驚愕に目を見開き、書架に手をかけ、立ち竦む。
 見間違いかと思った。彼がここにいるはずない。今もサムライと一緒にいるはずだと思い込んでいたのに、何故?衝撃を受けた僕の視線の先、看守に体をまさぐられて無邪気な笑い声をたてているのは……

 静流。

 上着の裾をはだけられ、下腹部を貪られ、胸板をなでられ。
 体の表裏を這い回る手に乱され、貪欲な愛撫に身悶え、おのれを犯す看守に抱き付き嬌声をあげる。
 「ああ、すごくいい。すごくいいよ、柿沼さん」
 書架が聳える薄暗がりに獣じみた息遣いと衣擦れの音が流れる。込み上げる吐き気に耐え、眼を逸らしたい衝動と戦い、看守の手に暴かれた白絹の裸身をしっかり目に焼き付ける。
 静流は恍惚と笑っていた。
 撃ち抜くように喉を仰け反らせ、局部が繋がった看守に揺さぶられるたび甲高い嬌声をあげていた。足首にズボンを絡ませ下半身を露出した静流が、もっと結合を深くし快楽を貪ろうとでもいうふうに相手に腰を摺り寄せる。
 喘ぎ声が高くなる。
 静流は激しくされればされるほど感じるようで、上気した顔に至福の笑みを湛え、もっともっととねだるように看守の下肢に足を絡め縛り付ける。
 「う………、」
 気持ちが悪い。吐きそうだ。嘔吐の衝動を堪え、書架に肩を凭せてずり落ちる。看守と静流が繋がった場所から淫猥な水音が聞こえてくる。体液と体液が交じり合う湿った音。静流は全身で歓喜していた。自らすすんで行為を受け入れ背徳の快楽に溺れていた。
 看守に腰を突き上げられる度はしたない喘ぎ声を上げ、首を前後に打ち振る。
 「あっ、ぁあっ、あああああああああっふあっ、そこ、そこおっ……」
 静流の背中が仰け反り、甲高い絶叫とともに絶頂へと駆け上がる。剥き出しの太股を艶めかしく白濁が伝う。朦朧と弛緩した表情で天を仰ぎ、書架を背にずり落ちた静流の上から看守がどく。
 「じゃあな、静流。明日は房に行くからな、たのしみにしてろよ」
 ズボンを引き上げベルトを嵌めた看守が卑猥な笑みを浮かべ、虚脱状態の静流の頬に触れる。
 疲れた顔に笑みを浮かべ、息も絶え絶えに静流が呟く。
 「たのしみにしてるよ。僕の帯を締めるのはやっぱり柿沼さんじゃなきゃダメだ。他の看守は皆不器用だもの」
 どういう、ことだ?
 静流は、他の看守とも関係を持っているのか?犯されたのではなく、自らすすんで関係をもったのか。
 何故?何の為に?
 確かに東京プリズンで生き残るには看守を味方につけたほうが都合がいい、それもできるだけ多くの看守を……
 しかし、サムライの前で楚々と振る舞う静流と看守に抱かれて淫蕩に乱れる静流とはあまりにかけ離れている。
 二重人格。
 何の為に?何故サムライに自分を偽る必要がある?
 後始末を終えた看守が静流を残して意気揚々とこちらに歩いてくる。まずい、このままでは見つかってしまう。
 書架に手をかけ、足を引きずるように移動する。
 看守から死角となる書架の影に逃げ込み、息を殺して靴音が遠ざかるのを待つ。看守が立ち去ったのを耳で確認、安堵のあまり書架に背中を預けてへたりこむ。
 とにかく、一刻も早くこの場を去らねば。

 「見つけた」

 「!」
 弾かれたように顔を上げれば、いつのまにか書架を迂回し、静流が僕の前にやってきていた。
 反射的に立ち上がろうとするも、書架に手を付き前傾姿勢をとった静流が頭上に覆いかぶさり、腰を半端に浮かせた状態で停止。
 「覗き見は悪趣味だよ、直くん。僕と柿沼さんがしてるとこ見て興奮したの?」 
 「馬鹿、な。誤解だ!」
 「本当に?」
 静流が妖しく微笑み、僕の顔の横に手を付いたまま、もう片方の手を股間に伸ばしてくる。避ける暇もなかった。静流の手がズボンの上から股間に触れ、下着越しに性器を愛撫する。
 やめろ、と叫びたかった。しかし声がでなかった。
 静流をどかそうと必死に腕を突っ張ってみたものの、華奢な細身に反して力が強い彼を押し返すのは到底不可能で、されるがままに性器をもてあそばれる屈辱に唇を噛んで耐える。
 「嘘つき。勃っているじゃないか」
 「これは違、」
 「僕でよければお相手してあげようか」
 手に執拗に撫でられ、抵抗の意志を裏切り体が反応しだす。性器に血液が集中、静流の手を押し返すようにズボンの股間が膨らむ。
 間違っても喘ぎ声など漏らさないよう必死に唇を噛み締める僕をあざ笑い、手の動きを速める。
 蛇のようにのたくりながら下着の中に忍び込んだ手が、勃ちあがりかけた性器をゆるりと撫でる。
 「………はっ………、」
 「彼のものは僕のもの。僕のものは彼のもの。ねえ、そうでしょ姉さん?僕らは何でも分け合わなきゃいけない宿命なんだ、三つ巴で共食いしなけりゃならない宿命なんだ」 
 「即刻下着から手を抜け最低1メートル以上距離をとれ、僕に触れるんじゃない淫乱め!」
 怖い。
 眼前の静流が純粋な恐怖を煽る。
 静流の発言は意味不明だ、静流の行動は理解不能だ。なんとかして静流の手から逃れようと書架に背中をぶつけてあとじされば、その衝撃で頭上に本が降ってくる。 
 「静流!」
 騒々しい音をたて、数冊の本が床になだれおちる。
 僕の視界を遮り降り注いだ本の向こう、書架の角から現われたのは……驚愕の相のサムライ。僕の上にのしかかる静流を見て何と思ったか、不審げに眉をひそめる。
 「……直?」
 僕の下着から手を抜き振り返り、笑顔でサムライを出迎える静流。
 書架を背に佇む静流と僕とを慎重に見比べ、サムライが問う。
 「これは、どういうことだ?」
 サムライの顔を見た瞬間に安堵で腰が砕けた僕は、書架に手を付き体を支えー

 僕がサムライの名を呼ぶより早く、黒髪を靡かせ駆け出す静流。 
 上着の裾を翻し颯爽と通路を駆けた静流が、サムライの胸にとびこむ。
 全幅の信頼を預けた人間に対してそうするようにサムライの腕に身を委ね、嗚咽を堪えて静流は言った。 

 「怖かった。でも、必ず来てくれるって信じてた。貢くんはいつもいつだって僕を助けにきてくれるから」
 サムライの胸に顔を埋め、啜り泣く静流に呆然とする。
 サムライは嗚咽を堪える静流の背中を思いやり深い手つきでさすってやった。
 何度も、何度も。僕が見ている前で。
 そして、囁く。
 無骨な顔に包容力溢れる微笑を浮かべ、しゃくりあげる静流の背中に手をおき。
 「大丈夫だ、静流。俺が来たからには恐れることは何もない。俺が捨てた帯刀の矜持が息づいているのなら涙を拭い胸を張れ。
 ……お前に泣き顔は似合わない」
 いたぶりぬかれた弱者を無条件に包み込む優しい笑顔で、帯刀貢は言った。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050612051114 | 編集

 目の前でサムライと静流が抱き合っている。
 「…………っ、」
 胸が引き裂かれる。 
 何か叫びたい。何か言いたい。しかし、声が出ない。舌が硬直して喉を塞ぐ。耳の奥に鼓動を感じる。
 眼前の光景に衝撃を受け、心が麻痺する。
 書架の陰から現われたサムライを見た瞬間、安堵のあまり腰が砕けた。頭の片隅ではこんな都合良い偶然あり得ないとわかっていた。
 サムライを誘惑したあの夜、僕は彼の隣にいる資格を失った。
 だからなおさら書架の陰からとびだしたサムライを見た時は嬉しかった、僕を助けに来たと勘違いして温かい感情が胸を満たした。
 漸く彼に謝罪する機会が巡ってきた、また元の友人に戻れる、サムライを取り戻せる。
 だが、僕がサムライに呼びかける前に静流は走り出した。
 そして、サムライの胸にとびこんだ。
 僕は何も、何もできなかった。無力に床にへたりこんだまま、サムライと静流の抱擁を呆然と眺めていた。サムライは気遣わしげに静流の背中を撫でている。口元に儚い笑みすら浮かべて静流の顔を覗き込んでいる。
 何故だ?
 何故こんなことになった。
 「落ち着いたか?何があったか話してくれるな、静流」
 サムライが慎重に口を開く。静流が漸く顔を起こす。泣き濡れた顔。涙で潤んだ双眸で上目遣いにサムライを仰ぎ、言う。
 「君と別れて図書室をぶらついてたら、看守に捕まって……ここに、人気のない場所に連れ込まれて、無理矢理」
 言葉が途切れ、嗚咽に紛れる。かすかにしゃくりあげる肩を無骨な手が包む。サムライの手。
 「怖かった。無理矢理犯されそうになって、死ぬ気で抵抗したけれど、あんまり騒ぐと外に聞こえるぞって脅されて……言う事聞くしかなかった。だって、貢くんに知られるのは嫌だから。あんな、あんなところを貢くんに見られて軽蔑されたら生きてけない!」
 静流が激しくかぶりを振りサムライに取りすがる。サムライは静流を落ち着かせようと不器用ながら必死にその背中を撫でる、千切れんばかりに首を振る静流に辛抱強く言い聞かせる。
 「大丈夫だ、お前を見捨てたりせん。怖かったな、静流。だがもう大丈夫だ」
 「でも、寸でのところで助かった。折りよく彼が通りかかったおかげで、看守は慌てて逃げていった」
 不意に静流が振り返り、僕を見据える。
 嘘だ、と叫びたかった。それは違うサムライ、静流は自分から誘ったんだと暴露したかった。しかしサムライと目が合い、喉元にまでせりあがった言葉を飲み下す。
 サムライに凭れかかったまま、身を捩るように振り向いた静流が微笑む。
 「ありがとう、直くん。君は恩人だ」
 騙されるな、サムライ。彼は嘘をついている。
 書架に手を付き体を支え、自力で起き上がる。重心がぐらつき、よろめく。動悸が激しくなる。視界が真紅に染まる憤怒。半分書架に寄りかかるように上体を起こし、上着の胸を掴んで呼吸を整える。片膝が砕ける。サムライの腕の中で恥じらうように微笑んだ静流を見た瞬間理性が蒸発、突き上げる衝動に駆られるがまま余力を振り絞り立ち上がる。
 「嘘だ。でたらめだ」
 低く、唸るように言う。
 サムライが胡乱に目を細める。
 こぶしで書架を殴り付ければその衝撃で新たに本が落下、足元の床に激突。静流はサムライの腕の中でこちらを見返している。余裕の表情。僕の言葉に全く心当たりないと目に当惑の色さえ宿している。
 「騙されるなサムライ、静流の言うことは全部でたらめだ。彼は看守に襲われたんじゃない、自分から誘ったんだ。この目で一部始終を見た、間違いない。静流は看守に犯され嬉しそうに嬌声を上げていた、狂ったように腰を振っていた」
 瞼の裏に最前の光景が蘇る。
 看守に貫かれさも嬉しそうにはしゃぐ静流、艶っぽい嬌声。
 静流と看守が繋がった場所から響いてきた赤裸な衣擦れの音、体液と体液が交じり合う淫猥な水音、尻の肉がぶつかる乾いた音。
 僕は書架の影から一部始終を目撃した。
 静流は看守に犯され悦んでいた。口の端から一筋涎を垂らして恍惚と弛緩した表情で虚空を仰いで、もっともっとと快楽をねだるように看守の腰に下肢を摺り寄せていた。
 断じて幻覚などではない、錯覚でもない。
 僕はこの目で見た、音を聞いた。ズボンを脱がせば太股には一筋白濁が伝ったあとが残っているはず、指で掻き出しきれなかった精液が肛門から溢れているはず。
 「静流は自分から看守を誘ったんだ、合意で行為に及んだんだ!一方的に強姦されたわけじゃない、自分から快楽を求めて行為に及んだんだ、看守に貫かれてはしたない嬌声をあげてたのが証拠じゃないか!何故嘘をつく静流、そうやって同情を乞おうとでもしてるのか、そうまでしてサムライを独占したいのか!?」
 言葉の洪水が止まらない。
 自制心を総動員して喉元で塞き止めた言葉があとからあとから堰を切ったようにあふれ出す。
 無様だ、僕は。
 だが、自己嫌悪を感じる余裕もない。僕はただただ必死だった、サムライに静流の本性をわからせたい一心で語気激しく糾弾を続けた。
 全身に怒りを漲らせ激情を吐露する僕を、静流は不審げに眺めていた。全く心当たりないどころか僕の言葉すべてが酷い誤解だとでもいう風に上品に眉をひそめていたが、その表情は非難よりもむしろ哀れみに近い。
 哀れみ?僕を、哀れんでいる?
 敵愾心を剥き出しにプライドをかなぐり捨て、サムライを振り向かせようと必死の形相で、サムライ以外の何者も何物も目に入らない愚直に思い詰めた眼差しで罵詈雑言を吐く僕を哀れんでいる?
 「どうして嘘をつくんだい」
 耳を疑った。
 口汚く罵倒された静流が純粋に問いかける。偽りの無垢。
 絶句した僕をよそに、儚げな風情漂う伏し目がちに続ける。
 「直くんに嫌われてるのは薄々感付いていたけど、そんな酷い嘘をつかれるとさすがに傷つく。僕と貢くんが仲良くしているのが気に入らないならはっきり言えばいいじゃないか」
 「馬鹿、な。僕は嘘などついてない、ありのままの真実を述べているだけだ!」
 「僕から看守を誘ったなんてあるわけないじゃないか。そんな帯刀家の誇りを汚す行い、死んだ母さんが許すわけない」
 漆黒の目に悲哀が宿る。可憐な面差しが憂いに沈む。うちひしがれたように首を項垂れる静流の肩にサムライがそっと手を添える。
 静流を庇うのか?ここまで言ってもまだ静流を信じるのか?
 喉元に吐き気が込み上げる。
 視界が暗く翳るほどの絶望。
 静流はまっすぐに僕を見る。
 「僕が襲われてるところに偶然通りかかってくれて感謝する。君が通りかかってくれなきゃ僕はあのまま犯されていた。でも、妄言を弄して帯刀家を侮辱するのはやめてほしい。僕から看守を誘ったなんて真っ赤な嘘だ。僕は腐っても帯刀の人間、看守に体を売って見返りを要求するなど不埒な振る舞いは矜持が許さない」
 断崖絶壁の如く書架が聳える狭苦しい通路に立ち塞がり、女々しい容姿に似合わぬ堂々たる態度で静流が言い放つ。
 「君はどちらを信じるんだ?」
 静流に寄り添うサムライは無言。僕らの意見に翻弄されてる様子が視線の揺らぎから伝わってくる。
 煮え切らない態度に怒りが沸騰、感情的に声を荒げる。
 「看守だけじゃない、こともあろうに僕まで誘惑したんだ!僕の下着の中に手を入れて性器をまさぐって良ければ相手をしてやると挑発したんだ、いい加減目を覚ませサムライ、静流の本性に気付け!幼少期の静流がどんな心優しい人間だったか知らないが歳月はどうしようもなく人を変える、現在の静流は君の記憶の中の静流とは別人だ!君の目は節穴か、静流が僕の上にのしかかり下着に手を入れたところを見なかったとでも」
 「上に落ちてきた本から庇ってあげたんじゃないか」
 あっけらかんとした指摘に狼狽する。
 そうか、角からとびだしたサムライの位置からは静流の背中が邪魔で僕の下着に手を入れるところが見えなかったのだ。
 サムライは何が起きてるかわからなかった。
 僕が書架に激突した弾みに大量の本が降り注ぎ、静流が屈みこんだところまでしか見えなかったのだ。
 そこまで推理し、恐ろしい可能性に思い至る。サムライの位置からは本の落下から僕を庇ったように見えても不自然ではないどころか、事情を知らない人間はそう考えるのが当然だ。
 僕の下着に手を入れ性器をまさぐってると邪推する人間こそ少数派だろう。

 サムライは、僕を疑っているのか?
 静流を信じるのか?

 「…………………っ!!」
 瞼裏で閃光が爆ぜる。
 血が滲むほど唇を噛み本を蹴散らし走り出す、サムライと寄り添う静流を引き離し彼の上着の裾をたくしあげる。
 僕の手に暴かれた下腹部には仄赤い痣が散っている、看守の指のあとが捺されてる。裸身を揉みしだかれた名残り。よわよわしく抵抗する静流には構わず上着の裾を力任せに引っ張り、上気した痣が散った下腹部をサムライに見せ付ける。
 「よく見ろサムライこれが証拠だ、静流が今さっき淫らな行為に及んだ動かしがたい証拠だ!これでわかったろう静流に騙されてると、静流は書架を背に高く足を掲げて看守を受け入れていた、看守に深く貫かれ喉仰け反らせ悦んでいた!静流の本性はとんでもない淫乱、度し難いニンフォマニア、良識など鼻で笑い飛ばしひたすら貪欲に快楽を追い求める堕落した人間だ!!」
 「やめろ!貢くんには見せたくない、見られたくない!」
 狂乱した静流が金切り声の悲鳴をあげる。耳障りだ。
 上着の裾を引っ張り下腹部を覆い隠そうとする手を邪険に払いのけ、サムライにもよく見えるよう大胆に下腹部を晒してやる。
 仄赤く上気した痣が無数に散らばった下腹部。
 暗い喜びが体の底から湧き上がる。
 今の僕はきっと、ひどく邪悪な顔をしてるだろう。上着を取り返そうと虚しくもがく手を叩き落し、憎悪を剥き出しに静流を睨みつける。
 「いい加減へたな演技はやめろ同情を引く芝居はやめろ、君の本性はすでにわかっているんだ!看守だけでは飽き足らず僕まで誘惑したくせにサムライの前では偽りの演技を続ける気か、一体何を企んでるんだ!」
 「直、落ち着け!」
 喉を焼いて迸る絶叫。
 僕の手を振り払おうと必死に身をよじる静流の姿がさらなる反発を煽り、これでもまだ納得しないならとズボンに手をかけ引きずり下ろそうとする。
 「ズボンを脱げ静流、サムライの前でズボンを脱いで余すところなくありのままの君を見せてやれ!知ってるんだぞ、君の太股にはまだ白濁が伝ったあとが生渇きの状態で残っている、男を受け入れた肛門はだらしなく弛緩してる!!」
 僕は完全に冷静さを欠いていた、悲鳴が嗚咽に変わったのにも気付かない程に。僕の手から逃れようと力なく首を振る静流の頬を一筋涙が伝う。それでも手加減せずズボンを掴み膝まで一気に引き摺り下ろそうとする、太股を外気に晒して証拠を見せようとする僕の腕をサムライがねじり上げる。
 激痛。
 力づくで静流から引き剥がされた僕は、執念深く虚空を掻き毟りつつやり場のない怒りをぶちまける。
 「軽蔑するぞ帯刀静流、帯刀家の恥さらしめ!」

 ―「いい加減にしろ!!」―

 サムライが。
 僕を、殴ろうとした。

 目を瞑るも間に合わない。風圧が前髪を舞い上げる。だが、いつまでたっても予期した衝撃が訪れるおそるおそる薄目を開ける。
 サムライが手を振り上げた姿勢のまま硬直していた。
 「僕を殴るのか」
 放心して、問う。
 サムライは答えない。憤怒と悲哀と苦渋とが綯い交ぜとなった表情で、虚空に片手を振り翳した姿勢のまま固まっている。
 「僕に暴力をふるうのか」
 売春班の客と同じように。僕を犯した男たちと同じように。
 四肢から力が抜ける。後ろによろめいた拍子に書架に衝突、背中に鈍い衝撃。そのまま書架に背中を預け半ばずり落ち、卑屈に笑う。
 「どうした?殴ればいいじゃないか。僕の言うことが気に入らないなら力づくで黙らせればいいじゃないか」
 眼鏡が鼻梁にずり落ちる。視界が歪む。虚脱した四肢を無造作に投げ出し、一面本が散乱する床に座り込む。サムライが僕を殴ろうと手を振り上げた瞬間その姿が売春班の客と重なり、恐怖で体の芯が凍り付いた。サムライが僕に暴力をふるおうとした。
 かつて僕を抱きしめたその手で、僕を殴ろううとした。
 書架に背中を凭せて崩れ落ち、口元に虚無の笑みを吐く。
 心が分裂し、粉々に砕け、塵になる。
 書架に背中を凭せることで何とか体を起こす僕と対峙。怒りに震える五指を握り込み、サムライが顔を背ける。
 「……あんな振る舞い、お前らしくもない。売春班にいたお前なら静流の辛さがわかるはずだ」
 そして、続ける。かすかに顔を傾げ、悲哀を宿した目に僕を映し。
 「お前はもっと優しい奴だと思っていたのに、残念だ」
 そうか。君は僕ではなく静流を選ぶのか。静流を信じるのか。 
 もう胸の痛みは感じない。心が麻痺して何も感じない。足元に深淵が裂けて呑み込まれていく感覚。背中にあたる書架の硬さだけが拠り所。緩慢な動作で顔を起こし、サムライを見上げる。
 漂白された表情の僕がサムライの目の中にいる。
 「は、ははっ」
 急に何もかもがどうでもよくなり、自虐を突き詰めた笑いの発作に襲われる。
 不快な笑い声は次第に大きくなり振幅が激しくなり、気付けば僕はへし折れそうなほど背中を仰け反らせ狂気の哄笑をあげていた。
 肩が不規則に痙攣し喉が膨らむ、胸郭が大きく上下し自分の意志に反して背中が仰け反る。
 「直」 
 「笑える、笑えるじゃないか。知ってるかサムライ、人間とは相反する矛盾を抱え込んだ生き物だ。かつて僕を抱いた手で僕を殴ろうとした男が今更何を言う?
 どうやら僕は思い上がっていたようだ。僕は君の友人だが、君の中における優先順位では格段に静流に劣る。当たり前だ、僕にしても恵がいちばん大事だ。僕より君より誰よりいちばん恵が大事だ、恵以外の人間など絶滅しようがどうなろうが知ったことか!君が静流を選ぶのは当たり前だ、血の繋がりを重視するのは人の本能だ、だから君が静流を選んだのは上なく正しいことだ、君は君自身の選択に誇りをもち胸を張ればいい!」
 苦しい。笑いすぎて息が続かない。
 笑い過ぎて過呼吸に陥りかけ、書架に寄りかかるように立ち上がり、おもむろにサムライを突き飛ばし走り出す。
 背後から追いかけてくるサムライの声を無視、書架と書架の間の通路を全速力で走り抜けて開放的な空間に転げ出る。
 書架の狭間から飛び出した僕に猥談を中断、机に陣取った囚人たちが何の騒ぎだと注意を向ける。

 早く、早くここを出たい。
 ここから離れたい。

 四囲から注がれる強迫的な視線に耐えかね、再び走り出した僕の肩を誰かが掴み、振り向かせる。
 「人の話を最後まで聞け!」
 サムライがいた。
 僕の肩を容赦なく揺さぶり檄を飛ばすサムライに視線が集中、周囲のざわめきが大きくなる。
 「お前の言い分が嘘だと決め付けたわけではない!だが俺は静流を信じたい、幼い頃から一途に慕ってくれた静流を信じたいのだ!俺は帯刀の面汚し、一族郎党を破滅させた元凶だ。その罪はどれだけ悔いても拭いきれん、一生涯背負わなければならん」
 伏せた顔に苦渋が滲み、手に力がこもる。
 「静流がここに来たのは俺のせいだ。俺が父上はじめ門下生を殺したせいで静流や叔母上、それに薫流にまで累が及んだ。身内から人斬りをだした家が存続を許されるわけがない。静流がここに来た理由は知らぬが、俺が殺人さえ犯さねば静流が自暴自棄な振る舞いにおよぶこともなかったのだ!」
 「だから責任を感じて静流を庇うのか、それが君の償いか!?」
 「償いではない、贖いだ!」
 二階の手すりに人だかりができる。激しく口論する僕らの周囲に野次馬が集まりだす。サムライの手から逃れようと必死に身をよじるも五指は肩に食い込んだまま、苛烈な気迫を込めた双眸で追いすがるサムライに感情が爆発。

 「僕と静流どちらが大事なんだ!?」
 「お前も静流も大事だ!!」

 反射的に手首が撓る。
 甲高く乾いた音が響く。

 「…………汚い手でさわるな。不潔だ」
 やりきれない想いを吐き出し、五指を握りこむ。サムライの頬が赤く腫れる。僕に殴られ顔を背けた姿勢のまま立ち竦むサムライのもとへ静流が小走りに駆けて来る。「大丈夫、貢くん?」サムライを気遣う声に背を向け、未練を断ち切り走り出す。 
 「待て、直!」
 サムライの声が追ってくる。だが、足音は追ってこない。
 サムライを殴った手がじんと痺れる。
 喉の奥で自己嫌悪が膨れ上がる。
 野次馬の嘲笑を浴びながら図書室を駆け抜けて鉄扉に手をかけ大きく深呼吸、痛みを堪えて笑みを拵える。
 鉄扉に手をかけ、振り向く。
 カウンター前にて静流と寄り添うサムライをひややかに睨み付け、口角を吊り上げる。
 「僕の誘惑を拒んだのは静流と関係を持っていたからか。そんなに静流の体がいいか?感度なら僕が上だ。売春班で来る日も来る日も犯され不感症を嬌正させられたからな。僕も今や立派な男娼、静流と抱き比べてどちらが相性いいか試せばよかったんだ」
 もっと彼を追い詰めたい、痛め付けたい、傷ついた顔が見たい。
 苦渋に満ちた顔つきで押し黙るサムライを眺め、嬉々とする胸中とは裏腹に感情を抑圧した口調で続ける。
 「肛門の締りのよさを比較したくはないか?勃起の角度を比較したくないか?分泌される精液の量を比較したくはないか?どちらが感度がいいか交互に抱いて試したくはないか」
 「やめろ」
 鉄扉にもたれて腕を組む。挑発のポーズ。
 二階と一階の野次馬の視線を意識しつつ、上着の裾をつまみ、わざとらしく下腹部を見せる。上着の裾を直すふりで摘みあげ、中心の窪みを覗かせる。
 二階の野次馬が手すりから転落しそうなほど身を乗り出す。
 滑稽だ。いっそ愉快だ。
 生唾を呑んでこちらを見つめる野次馬の表情と固く強張ったサムライの表情とを見比べつつ、上着の中に手を探り入れる。
 衣擦れの音で劣情をそそり、上着の内側で腕を交差させ、緩慢な動作で肩を抱く。
 体の火照りを持て余すように肩を抱き、しどけなく捲れた上着の裾から肉付きに乏しい腹を覗かせ、確信犯の笑顔を作る。
 顔の皮膚の下で沸々滾る憎悪が発露した邪悪な笑み。
 「覚えていろ、帯刀貢。あの夜僕を抱かなかったことを後悔させてやる」
 宣戦布告した僕を盗み見て、静流は愉快げにほくそ笑む。
 僕には絶対に帯刀貢を渡さないというふうに。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050611211400 | 編集

 「待てよ鍵屋崎!」
 二階の手すりから身を乗り出し、叫ぶ。
 「よく言った親殺し!」
 「本妻と愛人の争い勃発か?」
 「そんなに男に飢えてんなら今晩は俺が相手してやるよ」
 「サムライ不甲斐ねえ」
 うるせえ。
 やんやと喝采に沸く野次馬どもの渦中でサムライは立ち尽くす。鍵屋崎を呼び止めようにも野次馬に邪魔され、ぴたり寄り添う静流を邪険に振りきってまで鍵屋崎を追いかける踏ん切りがつかず遠ざかる背中を見送るのみ。
 苦悩するサムライの肩に蜘蛛が這うように五指をかけ、「大丈夫?」と静流が訊く。見ちゃいられねえ。
 颯爽と階段を駆け下り、一息入れる暇もなく野次馬でごった返す一階を突っ切る。
 いつもお高く澄ました鍵屋崎が、衆人環視の図書室で見せた過激なパフォーマンス。自ら上着をはだけて裸身を露出し、男を誘うような流し目をくれ、宣言。
 『あの夜僕を抱かなかったことを後悔させてやる、帯刀貢』
 憎悪にひび割れた声、怒りに滾った凶悪な笑顔。
 あんなの全然らしくねえ。どうしちまったんだ鍵屋崎、俺が二階行ってる間に何があったんだ?
 図書室の鉄扉に凭れ、上着の中に手を探り入れ緩慢な動作で肩を抱く。上着の内側で腕を交差、ギャラリーの視線を過剰に意識し、体の火照りを持て余すように自らを抱擁するポーズをとる。
 赤裸な衣擦れの音とともに上着の裾が捲れて痩せた腹筋が覗き、直射日光など浴びたことない生白い素肌が曝け出される。
 たまらなく刺激的で扇情的な光景。
 取り得ときたらオツムの良さとプライドの高さしかねえ鍵屋崎が、飢えたけだものどもが生唾ごっくん見てる前で自分を貶める行為に走るなんて絶対おかしい。俺が離れてた三十分足らずの間に何かとんでもないことが起きたんだ。
 鍵屋崎を止めきゃ。
 静流とひっついてるサムライはこの際放っとこう。鍵屋崎のパフォーマンスに沸く図書室をとびだし、廊下をひた走る。だが、鍵屋崎はいない。あいつどこ行ったんだ?俺が駆け下りるまでの間にそう遠くまで行けるはずないのに図書室近辺に姿が見当たらない。
 「鍵屋崎、どこに行ったんだよ!?」
 あいつと離れるんじゃなかった。
 いまさら悔やんでも遅い。隣からレイジが消えて、この上鍵屋崎まで消えたら洒落にならねえ。レイジは一晩たってもまだ帰ってこない。どこでなにしてるのか不明だ。看守に連れ去れたきり音沙汰ない。鍵屋崎は「ヨンイルの花火打ち上げに協力した件で呼び出されたんだ」としたり顔で説明したがそれにしたって腑に落ちないことだらけで時間の経過とともに不安が膨れ上がる。
 ヨンイルの共犯と目されて呼び出し食ったのが事実でも一晩中帰ってこないのは変だ、レイジの身に何かあったんだと不吉に胸が騒ぐ。
 レイジの身に何か、とてつもなく悪いことが起きたんだ。
 ついさっき。
 いつもヨンイルが根城にしてる図書室二階、漫画がぎっしり収納された書架の前でばったりワンフーと出くわした。
 ヨンイルの所在を聞いた俺に、ワンフーはしょんぼり答えた。
 『ヨンイルさん、看守に無断で花火打ち上げたことがバレて所長室に呼び出されたきり帰ってこないんだ』
 『ヨンイルも!?』
 元西のトップ、現図書室のヌシの不在を憂えた西の連中が書架の前にたむろっていた。
 図書室のヌシの帰りを今か今かと待ちわびながら上の空で漫画を読みふける連中を見回し、どこかの王様とは天と地ほど人望に差があるなと感心した。まあそんなことはどうでもいい。
 とにかく、レイジとヨンイルが一緒だと知って安堵した。レイジ単独で呼び出されたんだとしたら俺にはもう最悪の想像しかできない。 
 でも、事態が良い方向に転がったわけじゃない。
 王様と道化は依然帰ってこない。いつ帰ってくるかもわからない。この上鍵屋崎までふらふらどっか行っちまったらと、ひとり取り残される不安が胸を締め付ける。
 「鍵屋崎どこだよっ、返事しろよ!ひとんこと無視すんじゃねえ、自称天才が!」
 コンクリ剥き出しの通路に殷々と声がこだまする。鍵屋崎の返事はない。あいつ、本当にどこへ行った?
 ふらり図書室を出て行方知れずになった鍵屋崎を捜し求めるのに疲れ、壁に背中を預けてずり落ちる。馬鹿らしい、なんで俺こんな必死に駆けずり回ってるんだ?本来サムライの役目だろ。
 「……こんなことになんなら素直に本読むフリしときゃよかった」
 あくまでフリだが。
 壁に手を付き体を支え、ゆっくりと上体を起こす。今の鍵屋崎をひとりにするのは危険だと本能が叫ぶ。今の鍵屋崎は何しでかすかわからない不安定な状態で、だれかがそばについててやらなきゃダメな危なっかしさが漂ってる。鍵屋崎には前にさんざん世話になった。今だって世話になってる。サムライが頼りにならねえなら仕方ない、俺がそばにいてやらなきゃ。

 違う。そうじゃない。
 俺もひとりになるのが怖い。だれかにそばにいてほしい。

 鍵屋崎が構ってくれた間は多少なりともレイジ不在の不安が紛れた、寂しさが癒えた。鍵屋崎はああ見えて優しいから、レイジ連れ去られてがっくり落ち込んでる俺を放っとけず親身に世話を焼いてくれた。人に優しくされるのは慣れてねえからこそばゆいけど、やっぱ嬉しい。人に心配されんのは心地よく心強い。
 俺は鍵屋崎に甘えてた。鍵屋崎の負担になってた。
 本当にガキだ、俺。
 いつだって鍵屋崎に頼りきりで、情けねえ。
 「……寄りかかってばっかじゃ、胸張ってダチなんて言えねえよな」
 この前レイジと交わした会話を思い出し、こっそり自嘲する。 
 「なーに黄昏とんのや、ロンロン」
 「!」
 能天気な声に顔を上げる。
 ヨンイルがいた。壁に手を付き荒い息を吐く俺を見つけ、飄々と片手を挙げてご挨拶。今の今まで所長に呼び出し食らってたのが信じられないあっけらかんとした様子に目を疑う。
 廊下の奥から大股に歩いてきたらしいヨンイルはきょろきょろとあたりを見回し、「廊下で駆けっこ禁止てガッコで習わんかったんか?あ、そか、お前もとから行ってへんかーごめんなー。ちゅーか俺もまともに行ってへんけど。しっかし廊下で駆けっこはやっぱロマンやな。びゅーって廊下駆け抜けた風圧でマチコ先生のスカートめくれて『いやーん まいっちんぐ!』は男子のドリーム、ボーイズ・ビー・アンビシャスや」としきりに頷いてる。
 「だれだよマチコって。俺にわかる言葉で話せよ」
 「気にすんな、俺が惚れとる二次元の住人や」
 相変わらず会話が噛み合わねえ。これだから西の道化は苦手だと心の中で舌打ち、ハッと顔を上げる。
 「お前がここにいるってことはレイジはどうしたんだよ、一緒に呼ばれたんだろ!?ならなんで一緒に帰ってこねえんだ、お前ひとりだけ大手振って帰ってくんじゃねえ!」
 「レイジ?あいつどうかしたんか」
 唾飛ばして叱り飛ばせばヨンイルが目をしばたたく。
 俺はたじろぐ。
 「だってお前ら、昨日一晩中一緒にいたんだろ?こないだの花火の件で所長に絞られてたんだろ。違うのか」
 「確かに所長室にお呼ばれしとったけどレイジとは会わへんかったで。第一俺が所長室におったんは二時間程度、一晩中所長の爬虫類顔見てたら吐き気頭痛眩暈その他症状に悩まされてぶっ倒れてまうわ」
 どういうことだ?レイジとヨンイルは一緒にいたんじゃないのか?
 「……じゃあ、レイジはどこだよ。なんで昨日一晩帰ってこなかったんだよ」
 絶望で視界が暗くなる。ヨンイルの胸ぐらを掴んだ手が遠くなる。
 眩暈を覚えてあとじされば、肩が壁にぶつかる鈍い衝撃。ヨンイルが不審げに俺を眺める。壁に手を付き、足元を見下ろし、必死に頭を働かせる。瞼の裏を過ぎる昨夜の光景。房に殴りこんだ看守に取り押さえられ連行されてくレイジの姿。
 「必ず帰ってくる」って俺の唇をー…… 
 「ヨンイル、教えてくれ」
 壁に凭れることで何とかバランスをとり、今にも挫けそうな膝を支え、持ちこたえる。ぎゅっと目を瞑り、瞼裏の暗闇にレイジを呼び起こそうとする。たった一晩離れただけでレイジの笑顔がうまく思い描けなくなり愕然とする。
 心臓の動悸が速まる。腋の下に嫌な汗が滲む。
 ヨンイルの肩に手をかけ、指の力を強める。
 「レイジは無事なのか、ちゃんと帰ってくるのか?怪我なんかしてねえよな、あいつめちゃくちゃ強いから大丈夫だと思うけ所長には向かって酷い目遭わされたりしてねえよな。看守に乱暴されて手足一本や二本折られたりは」
 「落ち着けロンロン」
 「落ち着いてられるかよっ!!」
 感情が爆発する。
 今まで堪えに堪えてたもの、抑えに抑えてた何かが一気に噴き出す。
 レイジの安否を知りたい一心で恥も外聞もかなぐり捨てヨンイルに食ってかかる、ヨンイルの肩を掴み乱暴に揺さぶる。
 俺に迫られたヨンイルがあとじさり壁に衝突、壁に伝わった衝撃が天井に抜けて蛍光灯が激しく揺れる。頭上に埃が舞い落ちる。
 蛍光灯が点滅する中、短い間隔で明暗が切り替わる廊下の隅にヨンイルを追い詰め、胸の内で沸々と煮えたぎる激情を吐露する。
 「ちきしょうあのクソ所長兄弟揃って陰険だ、レイジの奴どこに連れてったんだよ!?花火の件でとっちめられてるなら何で張本人のお前よか帰り遅いんだよ、説明しろよ!レイジはただお前の打ち上げ手伝っただけじゃんか、何も悪ィことしてねえじゃんか!
 そりゃ夜中にどでかい音させて近所迷惑だったけど五十嵐の門出の祝いなんだからそんくらい大目に見たってバチあたらねえだろが、『上』の連中は何考えてんだ、そんなにレイジいたぶるのが楽しいってのかよ!レイジはああ見えて寂しがり屋なんだ、寂しがり屋の王様なんだ、レイジには俺がついてなきゃ駄目なんだよ、引き離されたらだめなんだよ!」

 引き離されたら生きてけないんだよ。
 俺も、あいつも。

 不審顔のヨンイルを無視、叫び疲れてその肩に顔を埋める。
 蛍光灯が完全に沈黙、廊下が暗闇に包まれる。
 呼吸に合わせて肩を上下させ、ヨンイルに凭れかかる。
 「……レイジに会いてえよ」
 レイジの笑顔がどんどん薄れていく。消えていく。消滅。
 瞼の裏側に漂う笑顔の残滓が完全に消えた時、俺はどうなっちまうんだろう。レイジが隣にいないのが辛い。ひとりぼっちが辛い。昨日一晩ろくに眠れなかったせいで目が腫れてる。
 レイジ不在の房、からっぽのベッド。相方がいない房でひとりベッドに横たわり寝返り打って、俺はずっと、ずっとレイジの帰りを待っていた。毛布の中でぎゅっと手足を縮めて待ち侘びていた。
 けど。
 とうとうレイジは帰ってこなくて、俺は結局一睡もできなくて。
 房に帰るのが、怖い。
 レイジがいない房に帰るのが怖い。鉄扉を開けて真っ先にベッドを見てレイジの不在を確認するのが怖い、からっぽのベッドを見下ろして絶望を味わうのが怖い。帰りたくない。いつだってレイジが笑って迎えてくれるからこそ鉄扉を開けることができたのに、裸電球の破片が床一面に散らばる暗闇に単身飛び込んでく度胸は今の俺にはない。
 こぶしで力なくヨンイルの肩を殴り、誰にともなく訴える。
 「レイジに会わせてくれよっ……」
 レイジが心配だ。本音を言えば、今すぐ所長室に乗り込みたい。レイジを取り返しに行きたい。でも、所長室に殴りこんだところで看守に叩き返されるのがオチだとわかりきってる。どうすればいいかわからない。房の暗闇で膝抱え込んでレイジの帰りを待つしかできないのか?
 相棒失格だ、俺は。
 なんで看守を止められなかった、レイジを引き止められなかった?
 自責の念が胸を引き裂く。 
 「大丈夫や、ロンロン。安心しぃ」
 背中に温かい手がふれる。ヨンイルの手。
 人肌のぬくもりに包まれて顔を上げれば、ヨンイルが微笑む。
 「あいつのこっちゃ、そのうちけろりと帰ってくる。東の王様はお前にベタ惚れや、お前遺していなくなったりせえへん。絶対に」
 「……でたらめ言うな」
 「でたらめちゃう。ダチが言うんやから間違いない」
 ヨンイルがきっぱり断言、癇癪もちのガキをあやすみたいに俺の背中をさする。急速に頭が冷えて正気を取り戻した俺は、ヨンイルの前で取り乱したことが恥ずかしくなり奴をひっぺがす。
 顔を赤くしてそっぽを向いた俺を微笑ましげに見やり、ヨンイルがしっしっと手を振る。
 「お前、俺とレイジが何年ダチやっとる思うてんのや?レイジは必ず戻ってくる。王様のダチが言うんやから間違いない。アイツはタフやから一晩中説教食らったくらいでへこたりせん。今頃もう房に戻っとるんちゃうか?はよ帰ってとびっきりの笑顔で迎えたれ。俺もこれから西の連中に顔見せにいかなアカンのや、心配性のファンが図書室で待ちわびとるさかい」
 心の澱を吐き出したせいか、足取りも軽くなった。
 ヨンイルの言う通り房に帰ればレイジがいるかもしれないと前向きな気分になり、渡り廊下へと足を向け、鍵屋崎のことを思い出す。
 「ヨンイル、お前鍵屋崎見なかったか?こっちに駆けて来たはずなんだけど途中で見失っちまって」
 「直ちゃん?さあ、見いひんかったで。迷子になる年ちゃうし今頃房に戻っとるんちゃうか」
 「お前も心配性の仲間やな」と笑い飛ばされ、ばつが悪くなる。
 ヨンイルの言い分も最もだ。鍵屋崎は俺より年上だ。迷子になる年齢でもなし就寝時間も迫ってるし図書室でた足で房に寝に帰ったと考えるのが普通なのに最悪の想像に繋がって追いかけてきたのが馬鹿みたいだ。結論、お人よしは病気。
 「レイジ帰ってたらたまには図書室来い言うとき。この頃お前にべったりで顔見いひんから寂しい想いしとったんや」
 「うるせえ。好きでひっつかれてんじゃねえ」
 「『レイジと離れたら駄目なんやー』って俺の胸の中で泣いてたくせに」
 振り返りざま中指突き立てる。背後で笑い声があがる。ヨンイルの発破のおかげで少しだけ元気がでた。渡り廊下を全力疾走で東棟に戻り、房をめざして一路ひた走る。次第に腕振りのスピードが上がる。
 房が近付くにつれ期待が高揚、再会の予感が強まる。
 俺がいなきゃレイジは駄目だ。
 レイジがいなきゃ俺は駄目だ。
 床を蹴り加速し一直線に廊下を走る。すれちがいざま通行人がぎょっとする。構うもんか。コンクリ剥き出しの壁に穿たれた無個性な鉄扉の列が残像をひいて後方に飛び去る。走りっぱなしで息が切れる。体が茹だって毛穴が汗を噴いて酸欠の頭がくらくらする。
 房が見えてきた。
 レイジは帰っているだろうか?鉄扉を開けたら笑顔で迎えてくれるだろうか。「どうしたんだよ、汗だくじゃんか。体拭いてやっから服脱げよ」とかずかずか歩いてくるだろうか。上等だ、そしたら殴り飛ばしてやる。さんざ心配かけやがって馬鹿野郎と張り倒してやっから覚悟しろ。手のひらに爪が食い込むほど指を握りこみ、前傾姿勢でラストスパートをかける。
 いた。
 「!」
 房の前に人が二人いる。片方は見慣れない若い看守、その肩に担がれてるのは……レイジ。ぐったり看守の肩に凭れかかったレイジを見た瞬間に理性が吹っ飛び、大声をあげる。
 「レイジ、どうしたんだよ!?」
 驚いたように看守がこっちを向く。気弱そうな顔をした看守におぶわれたレイジは俺の呼びかけにも無反応、顔を上げようともしない。
 「てめえっ、レイジになにしたんだ!?事と次第によっちゃただじゃおかねえぞ!!」
 「ご、誤解だよ!僕はただ彼をこの房に送るようにって命令されただけで……」
 おどおど弁解する看守の胸ぐらを掴んで罵れば、深々と顔を伏せたレイジが低く呻き声を漏らす。看守の胸ぐらを突き放し、素早く前に回りこみ、レイジの顔を覗き込む。
 がっくり首を項垂れたレイジの肩に手をやる。
 「大丈夫かレイジ、どこも痛くねえか?医務室行くか?まだこの時間なら開いてるよな、間に合うよな。パッと行ってパッと戻ってくりゃ看守に見つからねえし……」
 不意に、俺の手がぎゅっと握られる。無意識だろうか、レイジが俺の手を握り返したのだ。
 最初は弱く、次第に強く。
 俺の手を握り締めたレイジが虚勢の笑みを拵える。
 「……心配かけてワリィ。帰り遅くなっちまった。そんな大袈裟に騒ぐなよ、ロン。この通りぴんぴんしてるから」
 「どこがだよ!」
 不吉な予感が当たった。たった一晩でこんな憔悴するなんてレイジの身に何があったんだ?動転する俺とレイジを見比べて看守が後ろめたげに顔を伏せる。俺の手を掴み、無理矢理肩からもぎ放したレイジが覚束ない足取りで鉄扉に接近、乾いた笑い声をあげてノブを捻ろうとする。飄々とした態度に怒りが沸騰、俺に背中を向けたレイジの肩を掴んで強引に振り向かせようとする。
 「レイジてめえさんざん人に心配かけたくせにその態度はなんだ、昨日一晩どこで何してたかわかるように話っ……」

 語尾が宙に浮いた。
 振り返り際、前髪の隙間から覗いたのは憎悪が滾った隻眼。
 余裕のない表情で振り返ったレイジが獰猛な眼光で俺を射竦め、手を振り上げる。

 「―!っ、」
 手首に衝撃。
 レイジにぶたれた手首を庇い片膝付いた俺を「君、大丈夫かい!?」と看守が助け起こす。俺の手を邪険に叩き落としたレイジは、ただ二本足で立っているのも辛い体調らしくだらしなく鉄扉に凭れかかる。
 そして、吐き捨てる。
 
 『Dont touch me』 
 俺にさわるな。

 「…………は?」
 驚きのあまり半笑いで硬直した俺の眼前、片腕を抱くような姿勢で鉄扉に寄りかかったレイジは苦痛に顔を歪めている。汗ばんだ額に前髪がかかり隻眼の眼光を遮る。囚人服から露出した部位、顔や手の甲に外傷を負ってる様子はないが苦しみようが尋常じゃない。
 前髪に半ば表情を隠したレイジが俺から逃げるように房の中に消える。靴裏で踏まれ、裸電球の破片が割れる音が暗闇に響く。
 そのままベッドに力尽き倒れこんだレイジに反射的に駆け寄るー……
 「寄るんじゃねえ!!」
 鼓膜がびりびり震える。
 レイジが容赦なく俺を叱り付ける。傷ついた豹が接近を拒むように。
 暗闇に怒号が跳ね返り、近隣の房の囚人が何の騒ぎだと格子窓に貼り付く。ベッドに臥せったレイジは肩を浅く上下させ荒い息を吐くばかり。前髪はびっしょり濡れて目に被さってる。
 枕に顔を埋め腰を浮かし、四つん這いの姿勢を維持するレイジの手前で慄然と立ち竦んだ俺の耳朶に、地を這うように低い唸り声がふれる。
 瀕死の獣じみた咆哮。
 喉の奥で牽制の唸り声を発するレイジに狼狽する。
 くりかえし生唾を嚥下し物欲しげに喉を鳴らし、俺と別れた時の笑顔など見る影なく憔悴した顔を極限の苦痛に歪め、シーツで爪を研ぐ。
 首から垂れた金鎖がシーツでうねり、廊下から射した光を反射。傷だらけの十字架が燦然と輝く。
 両手でシーツを掴み、しなやかな肢体を仰け反らせ、ベッドの上で狂おしく身悶えて。
 「……寄るな、ロン。一歩でも近寄ったら食い殺すぞ」
 おくれ毛を横顔に纏わり付かせ、レイジは邪悪に笑った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050610212432 | 編集

 暗闇の中、瀕死の獣じみた咆哮が低く響く。
 地を這うような唸り声が陰々滅々と流れる中、頭から毛布を被り、暗闇に潜んだ猛獣から身を守るように気配を殺して縮こまる。
 暗闇の中に飢えた獣がいる。
 気配を悟られたらおしまいだ、鋭利な牙で噛み裂かれ食い殺される。
 「うっ、あ………あ、あああああっ」
 声がする。苦痛に引き裂かれた唸り声。
 隣のベッドでレイジが激しく身悶えている。
 シーツで爪を研ぎ、毛布を蹴飛ばし、悩ましく身を捩るレイジの姿は目を瞑っていてもまざまざと想像できる。
 だが、俺は見ないふりをする。聞こえないふりをする。
 毛布の中で身を縮こめて両手で耳を塞いで、相棒の苦しみに知らんぷりする。さっき房の前でレイジと遭遇した。一日ぶりの再会。昨日連れてかれたきり音沙汰なくてさんざん俺に心配かけたレイジは、とくに目立った外傷もなくぴんぴんして帰ってきた……ように見えた。
 けど、何かが違う。何かが確実におかしい。
 囚人服から突き出た部位は綺麗なもので怪我の痕跡こそないが、痛がりよう苦しみようが尋常じゃない。
 看守に肩を抱かれて足を引きずるように歩くレイジ。
 たった一晩で見違えるように憔悴した面差しに虚勢の笑みを拵え、
 そして。
 「………」
 レイジの唸り声に背を向けて潜り込んだ毛布の中、体の前にもってきた右五指をぎゅっと閉じる。
 『おい、どうしたんだよ!?』
 耳の奥に蘇る必死な声。レイジの変化に不吉な予感を煽られ肩に手をかけた俺は、体の芯から恐怖に凍りつく。
 振り返り際、俺に手を上げるレイジ。
 前髪の隙間から放たれる苛烈な眼光、野性に返った獰猛な眼差し。
 自分に触れるものは誰だろうが許さないと宣言するかのように容赦なく俺の手を叩き落とし、レイジはあっさりと俺に背を向けた。
 何が起きたかわからなかった。
 レイジが俺に手を上げるなんて信じられなかった、嘘だと思いたかった。思い出すのはペア戦中盤、後ろ髪引っ張られてキレたレイジが俺の腹に蹴りを見舞ったとき。あれ以来レイジはふざけてじゃれあう以外俺に手も足もあげてない。そのレイジが、肩を掴まれた位で目の色変えて反撃にでた。振り返り際、真っ直ぐ俺の目の奥を貫いた苛烈な眼光を思い出し、体がかすかに震えだす。
 自分に触れるものすべてを敵と決め付け即座に反撃に出る、闘争心に凝り固まった野生の獣。
 レイジは恐ろしくぴりぴりしていた。人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。レイジと対峙して恐怖を覚えた。野生の獣と対峙したような根源的な恐怖。あれは、俺の知るレイジじゃない。いつもへらへら調子よく笑ってる呑気で陽気な王様じゃない。
 わけわからねえ。たった一晩で、どうしてあんなに変わっちまった?
 たった一晩でレイジの身に何があった。
 「………っ」
 詳細を聞くのが怖い。レイジ豹変の理由を知りたいのは勿論だが、真実を知って但馬への憎しみを抑え付けられなくなるのが怖い。
 頭が混乱する。動悸が激しくなる。毛布の中に潜り込んで両手で耳に蓋をし、じわじわと込み上げる不安を押し殺す。
 裸電球のない房は真っ暗。もうとっくに就寝時刻を過ぎて近隣の房の住人は寝静まり、時折聞こえてくる寝言と鼾と壁を蹴り付ける音も静寂に呑み込まれる。

 唸り声はやまない。
 俺が背中を向けたベッドでレイジが激しく身悶えている。

 「はっ………あっ、ふくっ………うぅ……」
 絶え間ない激痛に苛まれているかの如く、喉の奥から低くくぐもった呻き声を漏らす。レイジが体を撓らす度に粗末なベッドが軋み、スプリングが悲鳴を上げる。
 ギシ、ギシ。
 重たく耳障りな金属音が耳朶にこびりつく。錆びたスプリングが上げる絶叫が鼓膜をひっかく。振り返り、レイジの姿を確認する決心がつかない。俺が覚えているのは力尽きベッドに倒れ込んだ瞬間のレイジだけ。
 胸の下に片方のこぶしをあてがい、顔をベッドに埋めて腰を上げた四つん這いの姿勢で凄絶な笑みを剥き出す。
 『一歩でも近寄ったら食い殺すぞ。ロン』
 牽制の笑み。
 俺は、レイジに近付くのが怖い。一晩たって漸く帰ってきたレイジにどう接したらいいかわからない。あんなにレイジのことが心配だったのに、いざ帰ってきたらかける言葉が見つからない。レイジが俺に手を上げた。「近付くな」と脅した。
 今夜のレイジは普通じゃない。
 無防備に近寄ればマジで食い殺されちまう。
 こうして毛布にくるまっていても、手負いの獣がそばにいるみたいにぴりぴり殺気立った気配が伝わってくる。今夜のレイジは怖い。全身で接触を拒み、全身で接近を拒み、房の片隅のベッドに身を横たえて威嚇の唸り声を発し続けている。
 いっそレイジのことなんか放って寝ちまえと思っても、暗闇に流れる唸り声が耳に付いて一向に睡魔が訪れない。うるさいわけじゃない、むしろその反対だ。時折耐えかねて語尾が跳ね上がるにしても、自制心を総動員して奥歯で磨り潰した苦鳴はひどく聞き取りにくくくぐもっている。
 ひっきりなしに喉を駆け上がる咆哮を噛み殺して苦鳴に変えて、必死に弱みを隠して、隣で眠る俺に悟られないよう孤独に痛みに耐え続けるレイジ。
 そんなに俺にバレるのが嫌なのか、弱みをさらけ出すのが嫌なのか? 胸の内に反発が湧く。
 暗闇に連綿と流れる唸り声がレイジに対する反感を煽り、やり場のない怒りが込み上げる。
 所長にどんなえぐいことされたか知らねえけど、体が辛いんならひとりで我慢せず俺を頼ればいいじゃんか。くだらねえプライドなんか捨てちまえ、王様。腹立ち紛れに毛布を蹴り飛ばすも怒りはおさまらない。ぎしぎしベッドが鳴る音が耳障りだ。
 「―くそっ!」
 上等だ。食い殺せるもんなら食い殺してみろ。
 毛布をひっぺがし、ベッドから飛びおりる。踵の潰れたスニーカーをつっかけて房を突っ切れば、靴裏で裸電球の破片が割れ砕ける。
 床一面に散乱した裸電球の破片を蹴散らして隣のベッドに駆け付け、上体を突っ伏したレイジに説教する。
 「なにが『近寄るな』だ、こんな時まで格好つけんじゃねえよ!辛いんなら辛いってはっきり言えよ、どっか痛いんならちゃんと言えよ!さっきからはあはあ唸り声上げて耳障りなんだよ、畜生明日も強制労働あるってのに寝不足でぶっ倒れたらお前のせいだかんなレイジ、責任とれよっ」
 「……近付くな、って言ったろ……飼い主の言うこと聞けねえ悪いコは嫌いになる、ぜ……」
 レイジが途切れ途切れに言い返すが、声に覇気がない。その声に不安をかきたてられ至近距離に顔を近づけ、ぎょっとする。
 レイジは大量の汗をかいていた。試しにベッドに手を置き、ぐっしょり湿った感触に狼狽する。囚人服の上下もしとどに汗を吸って四肢に重たく纏わり付いてる。
 「すごい汗。熱あんのか?」
 「ねえよ……」
 一呼吸おいて力なく首を振るレイジを無視、額に垂れた前髪をかき上げる。手前の床に膝つき、コツンと軽い音をたて額をくっつける。……すごい熱だ。舌打ち、こんなことならレイジの脅しにびびらずもっと早く駆け付けるべきだったとぐずぐずしてた自分を呪う。
 どうする、医務室に連れてくか?
 就寝時刻を過ぎて出歩いてるところを看守に見つかれば厄介なことになる。それ以前に俺とレイジの体格差じゃコイツを医務室までおぶってくのはきつい、途中で共倒れなんてオチになったら笑えねえ。
 「……ったく、年上のくせに世話かけんなよ」
 とりあえず、一晩様子を見よう。明日になったら熱もさがってるかもしれねえしと前向きに考え、腰を上げる。
 手近にタオルはないかと房を見回してみたが生憎そんな物はどこにも見当たらない。
 「缶切りやらライターやらどうでもいいもんは持ってるくせに肝心な時に使えねえ王様だな!」
 苛立ちを込めて吐き捨て、こうなりゃ仕方ねえと決心して上着に手をかける。ベッドに身を横たえたレイジが「何する気だ」とぎょっと目を見開く。不器用に上着をたくし上げて首から引っこ抜き、脱ぎ捨てる。裾が捲れた隙間からひやりと外気が忍び込み、鳥肌立つ。
 無造作に上着を脱ぎ捨て上半身裸になり、速攻洗面台に駆け寄り蛇口を捻る。
 全開にした蛇口から勢い良く水が迸る。
 洗面台に手を突っ込み、じゃぶとじゃぶと上着を濡らす。
 冷たい水滴が顔に跳ねる。
 他に冷やすものがねえんだから仕方ねえ。背に腹は変えられねえ。
 上着にたっぷり水を含ませ、きつく絞る。雑巾絞りした上着から大量の水が垂れ落ちる。絞りが足りないと顔がびしょ濡れになるからとくに念入りに。
 手の皮が擦りむける勢いで上着を絞りつつ、お袋が風邪ひいたときのことを思い出す。お袋が風邪で臥せったときもこうやって付きっきりで看病してやった。慣れない手つきでタオルを絞って粥を炊いてやった。 全然感謝されなかったけど。
 俺の身のまわりにいる人間は手のかかる奴ばっかだ。
 上着を絞り終え、ベッドに戻る。
 レイジは相変わらずベッドに臥せって苦しんでる。
 「お前、とりあえず服脱げ。服が汗でびしょ濡れじゃますます熱あがっちまうよ。特別に拭いてやっから感謝しろ」
 「絶対いやだ……」
 「わがまま言うな」
 ため息を吐き、傍らにしゃがみこむ。うんざりしつつ上着を脱がせようとしたら、即座に手を振り払われる。
 硬直した俺に向き直り、おくれ毛を横顔に纏わり付かせたレイジが息も絶え絶えに言う。
 「さっき言ったろ、さわったら殺すって。目障りだ、消え失せろ」  
 「……な、んだよそれ」
 こめかみの血管が膨張する。聞き分けのない相棒に激怒した俺は、土足でベッドに飛び乗りレイジの胸ぐらを掴む。
 「俺に服脱がされるの嫌だって駄々こねてなんだそりゃ、お前は処女か!?それとも自分は脱がすの専門だって言いてえのかよ!?
 言ってる場合か馬鹿、お前今の自分の状況わかってんのかよ、汗でびしょ濡れの服のまんまじゃますます熱上がっちまうだろうがよ!?俺だってお前の裸なんかこれっぽっちも見たくねえよ、お前が自力で体拭けるんならとっとと寝に帰るよ、けどお前その体調じゃ絶対無理だよ、だから嫌々仕方なく脱がして拭いてやろうとしてんのに人の親切足蹴にしやがって!!」
 「お前に脱がされんのなんかごめんだ、脱がされるより脱がすほうが好きなんだよ俺は、そういうポリシーなんだよ……ポリシー変えたら俺が俺じゃなくなる、っあ……」
 「言ってろ。お前が嫌でも無理矢理脱がすからな」
 レイジの胸ぐらを乱暴に突き放し、手っ取り早く服を剥ぎにかかる。レイジが往生際悪く抵抗するも、熱で意識が朦朧としてるせいかいつもと同じ力がでない。高熱のせいで四肢に力が入らず、俺をどかそうと精一杯腕を突っ張るレイジを鼻で笑い、上着の裾をたくし上げるー

 「…………………………な、」
 言葉を失った。

 胸まで大胆に捲り上げた上着の下から露出したのは、よく引き締まった腹筋。綺麗に筋肉が付いた肢体。その体に、無残な傷跡がある。熱をもち縦横に走るみみず腫れ。胸板にも腹にも下肢にも夥しく刻まれた凄惨な傷跡……滅茶苦茶に鞭打たれたあと。
 しなやかに引き締まった肢体を縛り上げるかのように無数に交差したそれは、つけられてからあまり時間が経過してないと見えて薄く血を滲ませている。
 「……な、んだよこれ」
 上着をはだけて裸身を露出したレイジは苦悶にのたうっている。
 形良く尖った顎先を汗が滴る。
 顎先から落ちた汗がシーツに染みを作る。意識朦朧と高熱に浮かされ、溺れるものが藁をも掴むように必死にシーツを引っ掻くレイジの裸身を凝視、呆然と呟く。俺自身の手で暴いたレイジの裸身には過酷な調教の過程を物語るように鞭打たれた傷跡が刻まれて、腫れた皮膚に痛々しく血を滲ませている。 
 痛い、はずだ。
 長袖の上着に隠れて見えなかった手首にも二の腕にも肩にも鞭の傷跡は及んでいる。真新しい傷跡はいまだに熱をもち膨らんで、皮膚とシャツが擦れる度に疼痛をもたらしたはず。
 肩に手をおいた瞬間の過激な反応が、やっと腑に落ちる。
 レイジが俺の手を振り払ったのは、単純に痛かったからだ。おもいきり肩を掴まれて筆舌尽くしがたい激痛に苛まれたからだ。
 だからレイジは俺の手を握り締めもぎ放した。それでも鈍感な俺は何も気付かず、背中を向けられカッときて再び肩を掴んだ。今度は前よりもさらに強く。
 頭で考えるより先に手を上げたのも、無理ない。
 憎悪の眼差しを向けるのも、当たり前だ。
 「だれにやられたんだよ、これ」
 声が怒りに震える。手のひらに爪が食い込み鮮明な痛みをもたらす。レイジは答えない。答える余裕もない。寝汗を吸ってびっしょり濡れたベッドに突っ伏したまま、浅く肩を上下させ荒い息を吐いている。
 高熱の原因はこれだ、この傷跡だ。
 酷く鞭打たれた後にろくな手当てもされず放置されて、体が限界を訴えたのだ。ぐっしょり濡れそぼった前髪に表情を隠し、苦しげに呼吸するレイジの肩にそっと手をかける。
 傷にさわらないよう注意して、慎重に。
 「但馬か。犬とカマ掘りあってる筋金入りの変態所長か」
 脳裏に但馬の顔が浮かぶ。
 イエローワークの仕事場に犬連れで視察に赴いて囚人狩りを決行した陰湿極まる爬虫類顔。縁なし眼鏡の奥で冷酷に輝く目。自分の命令に背いたものには溺愛する飼い犬だろうと容赦なく鞭を振り上げてー……
 所長に鞭打たれて哀れっぽい鳴き声をあげるハルの姿が瞼の裏によみがえる。ぴしり、ぴしり。甲高く乾いた音が連続で鼓膜を叩く。家畜を躾けるには鞭を惜しまないと豪語する但馬の顔ー……

 あいつ、レイジにも鞭をくれたのか。
 嬉々として鞭をくれたのか?

 「―――――っ!!!!!」
 殺してやる。
 脳裏で殺意が爆ぜる。憎悪で視界が赤熱する。前歯が唇を噛み裂き、口中に鉄錆びた血の味が広がる。
 あの変態野郎絶対殺してやる今すぐ殺してやる八つ裂きにしてやる手榴弾で細切れの肉片にしてやる!!遠く高笑いが聞こえる。暗闇に渦巻く狂気の哄笑……レイジを鞭打ち嬲りながら、嗜虐の快感に酔い痴れ唾飛ばして哄笑をあげる但馬の姿が瞼の裏で像を結ぶ。

 一体レイジがなにしたってんだ?
 レイジの十字架をぼろぼろにしただけじゃ飽き足らずに本人を呼び出してこんな酷い目に遭わせて、野郎、ぜってえ許さねえ!

 「畜生……あいつら兄弟揃って狂ってる、完璧狂ってやがる!こないだ囚人全員の目の前でお前いたぶっただけじゃ飽き足らずわざわざ呼び出してこんな真似してイカレてやがる!だいたい花火の件で呼び出されたんなら張本人のヨンイルが真っ先に放免されんのおかしいって、花火の件はただの口実、お前呼び出して思う存分いたぶるためのでっちあげだったんだよ!!」
 絶叫が喉を焼く。
 やり場のない怒りに駆られてこぶしでベッドを殴り付ける。何度も、何度も。マットレスにこぶしが沈み込み、ベッドが揺れる。
 レイジは半ば瞼を下ろし、焦点のぼやけた目で俺の狂乱を眺めている。だるそうに横たわるレイジを目の当たりにし、自制心を総動員してこぶしを引っ込める。こんなことしてる場合じゃねえ。怒りをぶちまけるのは後回し、激情を吐露するのは後回しだ。
 とにかく今は一刻も早くレイジの体を拭かなきゃ……
 「レイジ、ちょっと痛えかもしれねーけど我慢しろよ。今拭いてやっから……」
 「来るな……」
 荒い息の狭間から弱々しく訴え、レイジがあとじさる。
 なんで俺を避ける?
 鞭打たれた体見せて心配かけたくなかったんならもういいじゃんか。ベッドパイプに縋って何とか上体を起こしたレイジが、引き攣った顔で俺を睨み付ける。ベッドパイプに体を凭せ掛けてやっと起き上がってるくせに強情はるんじゃねえ、と一喝したくなるのをぐっと堪えて膝でにじり寄る。
 膝に体重をかけてレイジに接近すれば、耳障りにベッドが軋む。
 ベッドパイプに背中を預けて上体を起こしたレイジは、下腹部を庇うような格好で体に腕を回し、不自然な前屈みのポーズをとってる。
 前髪の隙間から覗いた隻眼が憔悴しきった眼光を宿す。
 猫背の姿勢で腹に腕を回したレイジが、何かを堪えるように悲痛に顔を歪める。

 『Do not touch me. Do not talk to me. Do not see my eyes. Do not come near me.』
 『別歎心』

 無理を強いて笑みを作り、台湾語で声をかける。
 心配すんな。俺に任せとけ。だが、レイジを安心させるつもりでできるだけ優しく声をかけた俺の気持ちはまんまと裏切られる。前髪に隠れた隻眼に憎悪が炸裂、喉の奥で咆哮が煮立つ。全身に敵愾心を漲らせ、獰猛に犬歯を剥いて俺を威嚇するレイジに動揺が大きくなる。
 猫背に身を丸めて殺気を放ち、レイジが口汚く吐き捨てる。
 「俺のことなんか放っとけよ、うざいんだよ!」
 「放っとけるか、相棒なのに!!」
 我を忘れてレイジにとびかかる。最後まで抗うつもりなら行動あるのみと、ベッドパイプを背にしたレイジに捨て身で突撃して汗でぐしょ濡れのズボンを剥ぎ取りにかかる。
 レイジが必死に抵抗する、片腕を腹に回したままもう片方の腕で俺の頭を掴んで押し返そうとするのに首振りで逆らい、ズボンに手をかけるー
 「大人しく全部脱げ、ガキじゃあるめーし世話焼かせんな!濡れた服のまんまでいたら肺炎になっちまうだろ!」
 「頼むからさわんなロン、今の俺にっ……」
 熱っぽく潤んだ目でレイジが俺を見る。
 上着が胸まではだけ、素肌を夥しく這い回るみみず腫れが曝け出される。倒錯的な色香が匂い立つ姿態。汗で濡れそぼった前髪が額に貼り付き、苦痛に細めた隻眼にうっすらと涙の膜が張る。ひりつくような焦燥の気配。抗議の声に構わずズボンを引き摺り下ろそうとして、手が滑り、股間をさわってしまう。
 「ー、っあ!!」
 「あっ、……」
 咄嗟に手をどけようとして、様子がおかしいのに気付く。ベッドパイプに背中がめり込むほど仰け反ったレイジが、布裂くほど深々とシーツに爪を立て、声なき絶叫をあげて空気を震わす。
 びくりびくりと下肢が痙攣、内側に丸めたつま先がシーツを蹴り付ける。全身が硬直、のち弛緩。ベッドパイプに背中を預けてぐったり四肢を投げ出したレイジは、喉奥の空洞が覗けるほど口を開け、貪欲に酸素を欲して喘ぐ。
 「おまえ、どうし……」
 ベッドに座り込んだレイジの顔を覗き込んだ瞬間、手に違和感。
 ズボンの股間においた手に湿った感触。反射的に目を落とし、絶句。ズボンの股間にじわじわと広がる染み。一瞬小便かと疑ったが、違う。ズボンの股間をまさぐる手に粘りつくような感触と濃厚な匂いは……
 ひどく苦労して生唾を嚥下、おそるおそる手を引っ込める。
 放心状態で手のひらを見下ろし、濡れた股間と見比べて匂いを嗅ぐ。
 パイプに背中を預けて浅く呼吸するレイジ、ズボンの股間に広がりつつある恥ずかしいシミ。
 「………お前、俺にさわられただけでイッちまったのか?」
 緩慢な動作で顔を上げ、レイジが俺を見る。
 漸くわかった、レイジが下腹部を庇ってたわけが。腹に腕を回した前屈みの姿勢をとってたわけが。レイジは勃起していた。ズボンの内側でペニスが勃ち上がって、ちょっとした刺激で達しちまいそうにぎりぎりの状態に追い上げられてたのだ。
 ひょっとして、さっきからずっとベッドで身悶えていたのは少しでも射精を引き延ばそうと抗ってたのか?
 ベッドに座り込んだ俺の近くに蝿が飛んでる。 
 耳朶に纏わり付く蝿の羽音が、違うものだと理解したのは数秒後だ。
 「なんだ。この音」
 さっきからずっと音がする。かすかな、本当にかすかな音。蝿の羽音に似て奇妙な、それでいて機械的な音。
 暗闇に流れる音の正体を確かめようと聴覚を研ぎ澄ました俺は、やがてその音が、レイジの体内から漏れてると確信する。
 さっきからずっとレイジは俺の目を見ない。
 「お前、『中』になに入れてるんだ?」
 違う。「入れられた」んだ。
 暗闇に低く低く流れる電動音の正体はレイジの中に仕込まれた機械……ローターとかバイブとかその類の玩具だ。
 「いつ、からだ」
 喉の奥で嘔吐感が膨れ上がる。胃袋を締め付ける嫌悪感。
 「廊下で俺と会ったときからずっと具合悪そうで、看守に肩借りなきゃ立てない状態で、あれからずっと……」
 出さなきゃ。出してやらなきゃ。
 今すぐ今すぐに出してやらねえとレイジが死んじまう、ただでさえ熱があるのにこんな最悪の体調でずっと、ずっと悪趣味な玩具なんか咥え込まされてたら普通に死んじまう!!
 くそ、だれだ、だれがやったんだ?決まってるひとりしかいねえ、但馬だ、あいつがやったんだ、くそったれタジマの兄貴の変態所長がやったんだ!!レイジを一晩かけて鞭打っただけじゃ物足りずに悪趣味な玩具ケツに突っ込んだまま帰しやがって、自然に電池切れるまで待ってたらレイジが死んじまう頭がおかしくなっちまう!
 「うあ……」
 気色わりぃ。俺だって娼婦の子供だ、セックスん時に使う玩具があるってことくらい知ってる。お袋の客が使ってるのを何回か見たことある。グロテスクな突起が付いた、男のペニスを模した……スイッチを入れるとぐねぐね卑猥に蠢く悪趣味な道具。客に玩具使われた時はお袋の喘ぎ声が派手になるからすぐわかった。
 レイジの中に入ってるのがどんな形状のどんな玩具か実際見なきゃわからねえけど、こんな物入れっ放しにしたままずっと耐えてたんじゃ辛いはずだ。
 「大丈夫、今すぐ抜いてやっから!指入れて掻き出してやっから、そしたらラクになるから、寝れるから……だからもうちょっとの辛抱だレイジ、我慢しろっ!」
 瞼が火照る。眼球が熱くなる。
 相棒のくせになんでもっと早く気付いてやれなかった?自責の念が胸を引き裂く。看守の肩借りて帰ってきたコイツを最初に見た時気付くべきだった。
 だらしなくパイプに寄りかかったレイジの肩を揺り起こし、薄れかけた意識を繋ぎとめようと懸命に叱咤するー
 「無駄、だよ」
 レイジが卑屈に笑う。今まで見たことない絶望的な表情。
 無様な姿を俺の前に曝け出したことでプライドがへし折れて、自暴自棄に吐き捨てる。
 「ずっと奥まで入ってる、から、お前の指、じゃ、掻き出せねっ……あぅぐ……俺も、自分じゃ、出すの、無理……」
 快感か悪寒かその両方か。苦痛と快感の境界線が溶け出してあやふやになったらしく、瘧にかかったようにレイジが震える。
 ついさっきまで瀕死の苦しみにのたうつ手負いの豹に重なったその姿が、倒錯的な色香を発して体の火照りを飼い殺す発情期の雌豹に変貌を遂げる。シーツには人型の染みができている。
 体内で振動を続ける機械が前立腺を絶えず刺激するせいで休まる暇がなく、さっき達したばかりの股間がまた力を取り戻す。
 肘で這い進むレイジの首から、涼やかな音たてて金鎖が流れ落ちる。
 体内の振動が強くなるたび血が滲むほど唇を噛み締め、下着と性器が擦れる感触さえ快感に昇華する敏感な体を憎み、シーツに爪を突き立てる。
 前髪がしどけなく乱れ、恍惚と濁った隻眼が覗く。
 彫刻めいて高い鼻梁から完璧に尖った顎にかけて汗が伝い落ちる。体が弓なりに撓り、喉が仰け反る。体がびくびくと痙攣する。
 腹に片腕回して俺の目からズボンの膨らみを隠すレイジに耐え切れなくなり、喉も裂けよと怒鳴り散らす。
 「そんな物ケツに入れたまんまじゃクソもできねえだろ!?できるかできねえかやってみなきゃわかんねーじゃんか、往生際悪く足掻くのやめて大人しくズボンと下着脱がせろ、俺が奥まで指突っ込んで掻き出してやっから安心……」
 「お前に見られたくないんだよ!!」
 腹の底から振り絞るように絶叫、レイジが俺を突き飛ばす。
 背中に鈍い衝撃。
 ベッドパイプに衝突した俺の視線の先、四つん這いの姿勢をとったレイジが乾いた笑い声をあげる。
 「………は、はははははっ。さんざん訓練受けて苦痛には慣れてるつもりでも快感には弱いんだよな、俺。どうしようもねえ淫乱だからさ。でも、一晩くれえどうにかなる。根性で持ちこたえてやる。明日になりゃ外してくれるって言ってたしさ」
 肘が砕け、上体ががくりと沈む。
 深々と頭を垂れたレイジが、近寄りがたく獰猛な殺気を放つ。ぐっしょり濡れた上着が肢体に貼り付き、鞭打ちの洗礼を受けた素肌が透けて見える。今にも屑折れそうな体を気力を振り絞り持ち上げて、呼吸に合わせて肩を上下させる。
 「……正直、さっきから何回何十回イッたんだか頭がぼんやりして覚えてねえけど大丈夫。お前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえ……ぅあっ……くっ」
 電動音が大きくなる。
 どうやらランダムに強弱が入れ替わる仕組みらしい。
 「……っは……、今ズボン脱いだらひでえことになってるから、見せたくな、いんだよっ……」
 腰がいやらしく上擦る。男を誘うように腰を浮かしたレイジが、欲情に掠れた声で切々と訴える。縋る物を求めて虚空に手を伸ばし、パイプの一本を掴む。パイプにしがみついたレイジが「んっ、あくっ……」と切ない声を漏らす。甘く濡れた喘ぎ声。
 脊髄から脳天へぞくりと快感が駆け抜ける。
 暗闇の中、次第に高くなる喘ぎ声に比例して俺の股間が熱くなる。
 最低だ、俺。
 レイジの声に興奮して、勃っちまった。
 反射的に股間を手で覆い、絶望に固まった顔で四つん這いのレイジを仰ぐ。
 「あっ、ああああああああっあ!!」
 パイプを掴んだ手に力が篭もり、指が強張る。体内の振動が最高潮に達し、中から直接前立腺を刺激されたレイジの体が意志とは無関係に痙攣する。俺には見えない位置でレイジが精を放ち、下着の中に白濁をぶちまける。無意識な動作で手を股間にもっていき、尿道がひりつくように痛み出したペニスを庇い、よわよわしく笑う。 
 「……ランダムに切り替わるから、油断も隙もねえ……ローターは電池切れるまで萎えねえから、勃ちっぱなしで、つれえ…………」
 連続で射精したせいで、酷使した尿道が錐を刺しこまれるように疼いてるはず。
 「笑うなよ」
 笑うなよ、こんなときに。どこもおかしかねえよ。
 笑い出した膝を叱咤し、レイジのそばに這い寄る。額に手をあてる。熱は全然下がってない。当たり前だ、体内で絶え間なく機械が暴れてるのだ。体内を玩具に犯されて体を休めることもできず、このまま一睡もできなければいずれ消耗しきって死んじまう。
 俺は、どうしたらいい?
 少しでもラクになるようにと額の汗を拭ってやりながら自問自答し、決断を下す。
 「俺がヌいてやるよ」
 放心した顔つきで俺を仰ぐレイジを見返し、胸が痛む。だってこのままじゃレイジが死んじまう、頭がおかしくなっちまう。
 少しでもコイツがラクになるならなんだってする、痛み苦しみが薄れるなら何だってする。
 ぎこちない手つきでレイジの太股にふれ、ズボンの股間をめざして手を滑らす。
 「勃ちっぱなしが辛いなら速攻ヌイてやるよ。お前だってこないだ俺のモンしゃぶったろ?やり方はわかってるから」
 そうだ、レイジがやった通りにすればいい。ただ咥えりゃいいだけだ。
 最初にレイジに抱かれた夜のことを思い出し、羞恥で頬が染まる。
 男のモンを咥えるなんて冗談じゃないと今でも思うが、背に腹は変えられない。目の前でレイジが苦しんでるのに放っとけねえ。所長への殺意を胸の内に畳み、今はレイジを射精に導くことだけに集中する。
 おっかなびっくり、不器用な手つきでズボンの股間を撫であげる。
 「………!っ……やめ、ろ」
 レイジが極限まで目を見開く。驚愕に強張った顔。
 シーツを蹴ってあとじさったレイジが、突如前屈みになる。ベッドに上体を突っ伏したレイジを断続的に痙攣が襲う。
 体内の振動がまた強くなったらしい。
 「無理すんなよ。ほんとはイきたいんだろ。イかしてやるよ。こないだお前がやってくれたの思い出してやってみるよ」
 「お前がフェラしてくれるのは嬉しいけど、こんな状況でんなことされても素直に喜べねえよ!」
 ベッドに突っ伏したレイジに掴みかかり、力づくでズボンを引き摺り下ろす。下着の中からペニスが跳ね上がる。
 一体何回射精したのか、下着の中には大量の白濁がこびりつき濃厚な匂いに蒸れている。出すもの出しきってもう透明な雫しか出なくなって、それでも勃ち上がるペニスに口を近づける。
 「イきてえならイかせてやるって言ってんだよ、いまさら恥ずかしがんな、くだんねえプライドなんか捨てちまえよ!お前だって俺を抱きながらさんざん恥ずかしいことしたじゃねえか、俺のペニスいじくって突っ込んで腰振らせて淫売顔負けの喘ぎ声あげさせてたじゃねえか!今度は俺の番だ、俺が気持ちよくさせる番だ、所長なんか目じゃねえって体に思い知らせてやっ……」
 
 咥える寸前、先端の孔から白濁が迸り、まともに顔にかかる。 
 顔に飛び散った白濁が目に染みて、視界が曇る。バランスを崩した体がベッドから転落、床で背中を強打。
 腕に突き刺さった裸電球の破片が鋭い痛みをもたらし、正気に戻る。

 「くそっ、目が見えねえ……」
 手の甲でごしごし目を擦る。まともに精液を浴びた顔がべとついて気持ち悪い。手の指にべったり白濁が付着する。
 白濁の糸で繋がった五指をぼんやり見下ろす俺の耳朶を、冷淡な声が打つ。

 『Fuck you』

 ローターの電動音が低く流れる中、震える二の腕を抱いてベッドに蹲ったレイジが、俺の方は見ずに吐き捨てる。
 「……頼むから……はっ、……これ以上、俺に構う、な……お前にさわられると、体が熱くなって……なおさら、辛くなる……」
 前髪の隙間から虚ろな目が覗く。体の中からドロドロに溶かされて、扇情的に肌を上気させたレイジが喉を鳴らす。
 俺は、のろのろと立ち上がる。
 裸電球の破片が突き刺さった腕から一筋血が流れる。血が流れるままに腕を体の脇に垂らし、レイジに背中を向ける。心臓を食い破りそうに動悸が激しくなる。早く、早く房を出なきゃ。レイジから離れなきゃ。俺がこれ以上ここにいてもどうしようもねえ、レイジを苦しめるだけだと痛感して足をひきずるように暗闇を歩く。
 裸電球の破片が靴裏で踏み砕かれ、甲高い音が鳴る。
 レイジの唸り声が追いかけてくるが、振り向かない。俺が振り向くのを、きっとレイジは望んでない。
 「……悪い、ロン。別れ際の続き、今日はできそうもねえ」
 鉄扉の前で足を止める。一瞬何言ってるんだかと訝しんだが、昨日、別れ際にキスして「この続きは帰った時に」と告げたことに思い至る。さんざ痛め付けられても口の減らねえ王様だと苦笑しようとして失敗、みっともなく顔が崩れる。
 「気にすんな。お前の続きなんてハナから期待しちゃいねえから」
 嗚咽を堪えて声を搾り出し、ノブに手をかける。震える手でノブを捻り、暗闇から逃げるように廊下にでる。
 乱暴に鉄扉を閉ざし、表面に背中を凭せてくりかえし深呼吸するも動悸はおさまらない。
 鉄扉の向こう側ではかすかに唸り声がする。
 ひとりベッドに突っ伏したレイジが凶悪な玩具に体の中を犯されて、激しすぎる快感に苛まれ、何度も何度もくりかえし絶頂に追い上げられる。
 「うあっ………」 
 『殺』
 殺してやる。
 「あ、あっあああっあああああ!!」
 『殺』
 殺してやる殺してやる殺してやる!!
 奔騰した殺意が体の中を駆け巡る。
 鉄扉の向こう側の暗闇で玩具に犯され続けるレイジを残し、一散に廊下を駆け出す。めざすは所長室。廊下を全力疾走し一路所長室をめざす俺の脳裏に褐色の裸身が浮かぶ。鞭打ちの傷跡が刻まれたしなやかな肢体を仰け反らせ、苦痛と快感とが綯い交ぜとなった恍惚の表情で官能的な声をあげるレイジの姿が脳裏に纏わり付いて離れない。
 「殺す、絶対に殺す、殺してやる!!!!!」
 これまでタジマにさえ抱いたことない強烈な殺意が俺を鞭打ち駆り立てる。但馬だけは許せない絶対に、俺のレイジをあんな目に遭わせて許せない殺してやる細切れの肉片にして犬に食わせてやる地獄に送ってやるレイジにしたこと後悔させてやる!!
 あんなレイジは見たくなかった見たくなかった、レイジだってあんな姿俺に俺だけには見られたくなかったはずなのに!
 「はあ、はっ………」
 俺は、馬鹿だ。
 「ははっ、ははははははっ」
 廊下の途中で立ち止まり、乾いた笑い声をあげる。
 蛍光灯が白々と輝く廊下に虚しく声がこだまする。
 「殺す殺すって簡単に言うけど、じゃあどうやって殺すんだよ?どうやったら殺せるんだよ、東京プリズンのトップをさ。無理だろ実際。相手は東京プリズン一のお偉いさんだぜ?ただの囚人がどうやってお近づきになりゃいいんだ、それこそレイジやヨンイルみたく直接呼び出されなきゃ顔合わすこともできねえじゃんか。いつも東京プリズンほっつき歩いてた暇人の弟たあ身分が違うんだぜ。なあ、どうやって殺すんだよ?教えてくれよだれか、あいつ殺す方法を!あいつを東京プリズンから消す方法を!!」
 寒々しいコンクリ壁に怒号が跳ね返る。怒りに任せて壁を殴り付ける。何度も、何度も。しまいには手の甲が擦りむける。
 「……なんでだよ」
 壁を殴るのやめ、額を預ける。体の脇にぶらさげたこぶしは傷だらけだ。けどこんなの、レイジが味わった苦痛に比べれば大したことない。冷え冷えと硬質なコンクリ壁に額を付けて呼吸を整え、自嘲的に吐き捨てる。
 「なんで俺、あいつの相棒なんかやってるんだ?あいつのこと全然助けてやれねえのに、偉そうに」
 房には帰れない。隣のベッドでレイジが唸ってる間は絶対に。
 俺がそばにいたらレイジはいっそう辛くなる、プライドがずたずたに傷つく。俺には今夜、帰る場所がない。
 居場所を失った絶望感から壁に片手を付いて何とか体を支え、ふらつく足取りで歩き出す。本音を言えば今すぐ房に駆け込みたい。レイジのそばについててやりたい、助けてやりたい。
 でも、俺が体に触れるのをレイジは嫌がる。牙を剥いて拒絶する。
 「……どうしたらいいかわかんねえよ。もう」

 せめて、体を冷やしてやるんだった。
 汗を拭いてやるんだった。

 そうやって何分、何時間彷徨い歩いたことだろう。
 いつのまにか道を外れて入り組んだ通路の奥へと誘われた俺は、サムライと鍵屋崎の房がある通りに出ていた。
 随分遠くまできちまったなと弛緩した頭でぼんやり考えつつ、見るともなく壁に並んだ鉄扉を見ていたら、不意にそのうちの一つが開け放たれる。中から顔を出したのはサムライだ。そして、廊下に突っ立っているのは……
 静流?
 鉄扉を開け放ったサムライと静流が何か言葉を交わすが、俺の位置からじゃ聞き取れない。親しげに言葉を交わすサムライと静流の様子を遠目に眺め、腋の下が不快に汗ばむ。鍵屋崎は寝てるのか?どうして出てこない?眼前の光景に強い違和感を覚えて立ち竦んだ俺をよそに、おもむろに静流が動き、房の中へと足を踏み入れる。
 そしてサムライは。
 鉄扉を大きく開け放ち、静流を迎え入れた。そうするのがさも当たり前のように。
 「なっ……!?」
 静流が完全に房に吸い込まれ、静かに鉄扉が閉じる。中からは何の物音も聞こえない。
 無意識にズボンの尻ポケットに手をやり、昨日静流に託された折り紙の感触を確かめ、最前の光景を反芻する。

 どういうことだ。
 サムライが静流を房に入れた。
 鉄扉が閉じる直線に目撃したのは、二人仲良く寄り添った静流とサムライの後ろ姿だった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050609000400 | 編集

 『僕と静流どちらが大事なんだ!?』
 『お前も静流も大事だ!!』
 
 記憶の中の声から逃げるように足を速める。
 図書室の喧騒を抜けてひたすらコンクリ剥き出しの陰気な通路を歩く。一歩踏み出すのも今の僕には億劫な重労働だ。上着の脇腹に手をやり、吐き気を堪えて口元を引き結ぶ。
 通路をさまよい歩きながら思い出すのは先刻の光景。
 僕の訴えを嘘と決め付け静流を背に庇うサムライ。
 『お前はもっと優しい奴だと思っていたのに、残念だ』
 何が残念だ?勝手に軽蔑するな、勝手に買いかぶって見損なうな。
 僕は優しくなんかない。
 少なくとも、サムライが言うようには。
 否、「彼の信頼に足る人間ではなかった」と過去形で語るべきか?僕の友人だった男はすでにいない。生まれて初めて信頼した他人、恵以外に初めてかけがえのない存在と痛感したただ一人の男はどこかへ消えてしまった。
 まるで、最初から存在しなかったみたいに。
 かつてサムライと名乗り僕の為に剣を取り死闘に挑んだ男はもういない。さっき図書室で静流と抱き合っていたのは僕の知らないもう一人のサムライ、否、サムライの真実の姿……帯刀貢。
 サムライにも僕と同じく捨てた名前があった。
 東京プリズン入所に際し敢えて戸籍とは違う名を自称した。
 その選択が正しいか誤りか判断できなくともそうせずにはいられなかった。戸籍上の父親たる鍵屋崎優がつけた名前を憎み、仮の名前ナオを名乗り続ける僕。誇り高き帯刀の家名を捨てただのサムライとして生きる彼。名を変えた理由こそ違えど過去と決別したかったのは同じだ。
 だが、再び「過去」は現われた。サムライと幼少期を過ごした親戚の少年の姿を借りて。
 数年の歳月を経て再び立ち現われた過去は、一瞬のうちにサムライを帯刀貢へと引き戻した。いかに強靭な意志と高潔な精神の持ち主とて過去の亡霊には抗えない。思い出は美化される。過去は永遠だ。サムライは優しい男だ。
 静流を振り切れるわけがなかったのだ、最初から。
 「……………!っ、」
 衝動に駆られて壁を殴り付け、きつく唇を噛み締める。
 閉じた瞼の裏側に浮上する光景……図書室の最奥、巨大な書架に塞がれた薄暗がりで抱擁する二人。
 嗚咽を堪える静流を背に庇い僕に手を上げるサムライ、赤く染まった憤怒の形相、苛烈な眼光。僕はまだはっきりと覚えている、僕を殴ろうとサムライが手を振り上げた瞬間のことを。
 サムライは本気だった。本気で僕を殴ろうとした、殴って黙らせようとした、静流への侮辱をやめさせようとした。風圧で前髪が舞い上がり反射的に目を閉じたが、予期した衝撃はいつまでたっても訪れず、慎重に瞼を開ければ手を振り上げた姿勢のまま硬直していた。

 その時の顔を何と形容したらいいだろう。
 幻滅、失望、落胆……
 それらの感情が綯い交ぜとなった、正視に耐えない悲痛な表情。

 哀しげに僕を見下ろす目はためらいがちに揺れていた。固く引き結んだ唇は血の気が失せていた。
 サムライの顔に亀裂が走る瞬間を見た、サムライの心が裂ける音を聞いた、僕たちの間にあった何かが断ち切れる音を聞いた。
 最初に感じたのは屈辱でも怒りでもなく衝撃と絶望だった。

 かつて僕を抱いた手で、僕を殴ろうとした。
 売春班の客と同じように。

 僕に手を上げたサムライと売春班の客を重ねて見ていると自覚した時、自分自身に絶望した。自分自身を軽蔑した。たった一回サムライが手を上げただけで、かつてさんざん僕を苦しめた売春班の客と大事な友人とを同類認識してしまう思考回路に吐き気を覚えた。

 本当に逃げ出したかった相手はサムライじゃない。
 サムライを憎んでしまった僕自身だ。

 「………滑稽だな」
 図書室には戻れない。サムライが待つ房には帰れない。彼と会うのが怖い、静流と一緒にいるところを見るのは耐えられない。
 静流。
 図書室の鉄扉に凭れた僕をほくそ笑み眺める静流。
 サムライの肩に手をかけ、さりげなく身を摺り寄せ、優越感に満ちた笑みを湛え……
 『どうして嘘をつくんだい?』
 「鍵屋崎、どこだよ!いるなら返事しろよ!」
 「!」
 僕を現実に引き戻したのは聞き慣れた声……ロンの呼び声。
 コンクリ壁に跳ね返る生きのいい呼び声は次第に近付いてくる。
 お人よしなロンが図書室から逃げた僕を心配して捜しにきたのだろうと直感、どこか隠れる場所はないかとあたりを見回す。
 今図書室に連れ戻されるわけにはいかない。僕の焦りとは裏腹に足音は急速に近付いてくる。
 「……くそっ、お節介しか取り得がないのかあの低能は!?」
 口汚く毒づく。
 僕のことなど放っておけばいいのに、わざわざ捜しにくる必要性などこれっぽっちもないのにと心の中で愚痴りながら手近な通路にとびこむ。
 「鍵屋崎どこ行ったんだよ?図書室出て速攻迷子になるなんて方向音痴にしても器用すぎだぜ」
 心外だな、故意に身を隠してるというのに。
 通路の薄暗がりに潜み、ロンの気配が去るまで息を殺してひたすら待つ。靴音が大きくなる。
 ロンの呼び声も大きくなり、比例して心臓の鼓動が高鳴る。
 ロンは二階の手すりから僕らのやりとりを目撃したはず、今彼と顔を合わすのはどうしても避けたい。コンクリ壁に背中を付けてロンが通過するのを待っている間に、反対側から別の靴音が近付いてくる。
 僕が隠れている通路と接続した廊下の反対側から歩いてきた人物が、素っ頓狂な声をあげる。
 「なーに黄昏とんのや、ロンロン」
 なれなれしく声をかけられ、すぐそこまで来ていたロンが立ち竦む気配。顔を見なくてもわかった、声の主はヨンイルだ。そのまま立ち話が始まる。……まずいことになった。ヨンイルとロンが立ち話している為出るに出られず、手狭な通路に身を隠したまま二人の会話を盗み聞く羽目になり居心地の悪さを覚える。
 「だれだよマチコって。俺にわかる言葉で話せよ」
 「気にすんな、俺が惚れとる二次元の住人や」
 ロンの不満げな訴えをのらりくらりと道化がかわす。
 「お前がここにいるってことはレイジはどうしたんだよ、一緒に呼ばれたんだろ!?ならなんで一緒に帰ってこねえんだ、お前ひとりだけ大手振って帰ってくんじゃねえ!」
 「レイジ?あいつどうかしたんか」
 「だってお前ら、昨日一晩中一緒にいたんだろ?こないだの花火の件で所長に絞られてたんだろ。違うのか」
 「確かに所長室にお呼ばれしとったけどレイジとは会わへんかったで。第一俺が所長室におったんは二時間程度、一晩中所長の爬虫類顔見てたら吐き気頭痛眩暈その他症状に悩まされてぶっ倒れてまうわ」
 どういうことだ?レイジとヨンイルは一緒にいたんじゃないのか?
 「……じゃあ、レイジはどこだよ。なんで昨日一晩帰ってこなかったんだよ」
 ロンの思い詰めた顔が目に浮かぶ。
 僕の予想ではヨンイルもレイジと一緒に所長室に呼ばれたはずだが、ヨンイルだけ先に帰されたということは……レイジは現在どこにいる?花火打ち上げの件で呼び出されたのなら主犯のヨンイルこそ事情聴取が長引いてしかるべしなのにと疑問を抱く。
 ロンも同じ心境らしく、語気を荒げてヨンイルを問い詰める。
 不穏な気配。
 通路から慎重に顔を出して様子を窺えば、壁を背にしたヨンイルにロンが食ってかかっていた。
 「ヨンイル、教えてくれ。レイジは無事なのか、ちゃんと帰ってくるのか?怪我なんかしてねえよな、あいつめちゃくちゃ強いから大丈夫だと思うけ所長には向かって酷い目遭わされたりしてねえよな。看守に乱暴されて手足一本や二本折られたりは」
 「落ち着けロンロン」
 「落ち着いてられるかよっ!!」
 ロンが激発する。
 癇癪を起こしたように怒鳴り、ヨンイルの胸ぐらを掴む。
 おもわず飛び出しかけた僕を制したのは、それに続く長い独白。
 「ちきしょうあのクソ所長兄弟揃って陰険だ、レイジの奴どこに連れてったんだよ!?花火の件でとっちめられてるなら何で張本人のお前よか帰り遅いんだよ、説明しろよ!レイジはただお前の打ち上げ手伝っただけじゃんか、何も悪ィことしてねえじゃんか!
 そりゃ夜中にどでかい音させて近所迷惑だったけど五十嵐の門出の祝いなんだからそんくらい大目に見たってバチあたらねえだろが、『上』の連中は何考えてんだ、そんなにレイジいたぶるのが楽しいってのかよ!レイジはああ見えて寂しがり屋なんだ、寂しがり屋の王様なんだ、レイジには俺がついてなきゃ駄目なんだよ、引き離されたらだめなんだよ!」
 ロンがヨンイルの胸ぐらに縋り付き、力なく首を項垂れる。
 「……レイジに会いてえよ。レイジに会わせてくれよっ」
 胸も張り裂けそうに悲痛な叫びが殷々とこだまする。
 「大丈夫や、ロンロン。安心しぃ。あいつのこっちゃ、そのうちけろりと帰ってくる。東の王様はお前にベタ惚れや、お前遺していなくなったりせえへん。絶対に」
 「……でたらめ言うな」
 「でたらめちゃう。ダチが言うんやから間違いない」
 赤ん坊をあやすみたいにロンの背中を撫で、道化が力強く断言。 
 「お前、俺とレイジが何年ダチやっとる思うてんのや?レイジは必ず戻ってくる。王様のダチが言うんやから間違いない。アイツはタフやから一晩中説教食らったくらいでへこたりせん。今頃もう房に戻っとるんちゃうか?はよ帰ってとびっきりの笑顔で迎えたれ。俺もこれから西の連中に顔見せにいかなアカンのや、心配性のファンが図書室で待ちわびとるさかい」
 そう言って底抜けに明るく笑うヨンイルに魅せられる。
 彼に人望が集まる理由が少しわかった気がした。ヨンイルはきっと、落胆した人間が今いちばん欲しいと切望する言葉をかけられる人間なのだ。なんら気負いなく、ごく自然に。
 「……なるほど。西のトップに選ばれたのには相応のワケがあるか」
 小声で独りごち、感心したふうにヨンイルを眺める。道化に対する評価を改めた僕の視線の先、ロンが元気になったのを確認してなぜか安堵する。
 それから二言三言交わし、ロンが突然走り出す。まずい。咄嗟に首を引っ込めた僕を無視、というより最初から気付かず全速力で行き過ぎたロンが10メートル向こうで急停止、ハッと振り返る。
 「ヨンイル、お前鍵屋崎見なかったか?こっちに駆けて来たはずなんだけど途中で見失っちまって」
 「直ちゃん?さあ、見いひんかったで。迷子になる年ちゃうし今頃房に戻っとるんちゃうか」
 ヨンイルが肩を竦めて付け加える。
 「お前も心配性の仲間やな」
 快活に笑い飛ばされ、ロンがばつ悪げな顔になる。
 再び走り出したロンに手を振り、ヨンイルがずかずか大股にこちらにやってくる。

 「ロンロンは行ったで。座敷女みたいに隠れとらんでええ加減でてこんかい、直ちゃん」

 心臓が跳ね上がる。いつから気付いていたんだ、僕が潜んでいることに?
 無造作な足取りで接近するヨンイルにしぶしぶ降参、物陰をでる。
 「性格が悪い男だな君は、気付いているなら気付いているでそう言えばいいじゃないか。僕を庇って恩を売ったつもりなら生憎だが、君の偽善的行為に対してはなんら感謝を抱いてないぞ」 
 「直ちゃんに恩を売るなんてそんな滅相もない、利子が何十倍にも膨れ上がりそうでおっかない。安心しぃ、あんた庇ったんはたんなる気まぐれや」
 気楽なヨンイルに毒気をぬかれる。
 正直、今は道化と歓談する気分じゃない。情緒不安定なせいかヨンイルの笑い声が癪にさわってしかたない。そのまま礼も言わず背中を向ければ、片方の肘を掴まれる。
 「漫画のインクで汚れた不潔な手でなれなれしくさわるな、非常に不愉快だ」
 「どこ行くんや直ちゃん、そんな酷い顔色で」
 「君に指摘されるまでもなく常時顔色が悪い自覚はある。邪推するな、僕は常日頃から貧血状態なんだ。僕にとってはこれが普通の状態なんだ。たとえ病人と間違われるほど顔色が悪く肌が青白くても日常生活には支障ない」
 「いや、しょっちゅう貧血起こしまくっとったら支障ありまくりやろ?意味わからんで」
 「同じ次元で話してないから理解不能で当然だ。君が住まう二次元宇宙と僕がいる三次元では本来意思疎通は不可能だ。……いい加減放してくれないか?肘を掴まれてたらどこにも行けないじゃないか」
 「行くあてあるんか?」
 「え?」
 唐突な問いに虚を衝かれ、眼鏡越しにヨンイルを見つめる。
 ヨンイルはいつになくまじめな顔で僕を見返していた。
 「なにがあったか知らんけど今の直ちゃんおかしいて。絶対おかしいて」
 「おかしくない」
 「なら医務室行くか?俺が途中まで送ったるから東棟に帰る?」
 「帰りたくない」
 まずい。
 ついヨンイルのペースに巻き込まれて本音を吐露してしまった。
 眼鏡のブリッジを押さえて俯けば横顔に視線を感じる。人の顔をじろじろ見るな不愉快だという非難が喉元まで込み上げるが発声には至らない。……居心地が悪い。一刻も早く立ち去りたいが、ヨンイルに挙動不審を指摘された以上逃げるように背を向けるのはプライドが許さない。
 「ホンマどないしたんや。また相棒と喧嘩か」
 「関係ないだろう。興味本位の詮索はプライバシー侵害だ、恥を知れ」
 「図星か」
 ヨンイルがこれ見よがしにため息を吐き、反感が頂点に達する。
 乱暴にヨンイルの手を振りほどき、服に肘を擦り付ける。
 厄介な男につかまったと内心不運を呪う。神経質に眼鏡のブリッジに触れる僕を眺め、ヨンイルは壁に寄りかかる。
 「相変わらずしんどい生き方しとるな直ちゃん。ある意味感心するでホンマ。自分気付いてへんかもしれへんけど、今にもぶっ倒れそうな顔色でふらふらほっつき歩いて危なっかしくて見てられへんわ。こっから東棟まで一人で帰れる?いや、そもそも帰る気あるんか?相棒と顔合わすの気まずぅて一晩中ほっつき歩いとるつもり?アホ。直ちゃんみたいな生っ白くて細っこいのが丑三つ時にほっつき歩いとったらおっかないオオカミさんが群れてやってくるで。暇人どもに強姦されるのがいやなら就寝時刻来る前に大人しくおうちに帰り」
 「帰る家などない」
 「『房』にお帰り」
 「僕を必要としない人間のもとになど帰りたくない!」
 脳裏に蘇る先刻の光景、静流と仲良く寄り添うサムライの姿。第三者が立ち入れない親密な空気。サムライが僕を必要としない、その事実を認識するのが苦痛だ。今房に帰ればきっと後悔する、サムライを激しく憎んでしまう。ならば一晩中歩き通して時間をつぶしたほうがマシだ、遥かにマシだ。たとえ性欲を持て余した囚人に強姦されたとしても、サムライを失った現実を受け止めるよりマシだ。
 感情的に叫び返した僕にヨンイルが目を丸くする。だが、一度堰を切った激情はとまらない。
 屈辱に震えるこぶしを体の脇にたらし、本来サムライにぶつけるはずの怒りを凝縮してヨンイルに転化。
 抑圧に抑圧を重ねた感情を解き放つ。
 「サムライの隣には静流がいる、彼はもう僕を必要としない、彼の隣に居場所がないのに今更どの面下げて房に帰ればいい!?恵を失ってから僕にはサムライだけだった、サムライだけが拠り所だった、ああいいだろう認めようじゃないか僕は彼に生きる意味すら依存していたんだ!!以前の僕は生きる意味すら他者に依存する人間を軽蔑していた、生きる意味すら他者に依存せねばならない惰弱さを憎んでいた!しかしいつのまにか僕自身がそうなってしまった、IQ180の頭脳の持ち主たるこの僕自身がサムライに依存することでどうにか生き延びていた、彼のそばにいたいが為にただそれだけの理由で一日一日を生き延びてきたんだ!!」
 そうだ。
 僕がこれまで生き延びてこれたのは、サムライのそばにいたいという動機があったから。
 サムライと一緒にいたいから、ただそれだけが今日まで僕を生かしてきたというのに。
 「……ここを出て恵に再会するという目標に成り代わり、サムライとただ一緒にいたいという単純な理由が、そんな馬鹿げた動機が、いつのまにか僕の生きる意味になってしまった。鍵屋崎直が生きる意味になってしまったんだ。おかしいだろう?おかしければ笑えヨンイル、存分に嘲笑しろ、サムライに縋らねば生きてけない僕の惰弱さを容赦なく嗤ってくれ!何故だ?僕は天才なのに、他者に縋らなくても自立して生きてけるだけの能力を備えていたのにどうして」

 どうしてサムライがいなければ駄目なんだ?
 サムライがいないだけでこんなにも不安なんだ?
 どうして。
 どうして。
 
 僕を抱きしめる腕の感触を忘れられない。
 優しい眼差しを忘れられない。
 僕を愛しいと言った、あの言葉を信じたいと思ってしまう。 
 今でも静流より愛しく思っているはずだと、ありもしない希望に縋ってしまう。

 「どうしてこんなにも、あんな男を求めてしまうんだ……」
 語尾は萎えて、声は掠れて消えた。自分の体がバランスを失ったのにも気付かなかった。視界がぐらりと揺れる。転倒。
 ヨンイルが素早く手をさしのべてよろけた僕を抱きとめる。ヨンイルの腕に支えられ、のろのろと顔を上げる。胸に凝る熱を吐き出そうと声を荒げてみたが、激情を吐露したところで喪失感が深まるだけ。サムライがいる房には帰れない、顔を見るのが辛い。
 「…………房には帰りたくない。僕が僕でいられなくなる」
 ヨンイルの腕に身を委ねる。冷静さを失った僕とサムライが一緒にいれば互いを傷付けあうだけとわかりきっているのに、今更房に戻れない。ヨンイルの腕の中で顔を伏せ、張り裂けそうな胸の痛みに耐える僕の耳朶に優しい声がふれる。
 「なら、俺の房に来んか」
 弾かれたように顔を上げれば、ヨンイルが照れくさげに笑っていた。僕を抱きとめた際に上着の袖が捲れ手首が露出していた。健康的に日焼けした手首に巻き付く蛇腹の刺青、蛍光灯の光に鮮烈に照り映える緑の鱗に目を落とす。
 四肢から力を抜いた僕の肩を軽く揺すり、ヨンイルが八重歯を覗かせる。
 「行くとこないなら俺んとこにこい。一晩くらい泊めたる。遠慮はいらん、同じ手塚ファンのよしみじゃ。手塚治虫の良さについて朝まで語り明かそ」  
 豪気に笑うヨンイルに引き込まれ、知らず知らずのうちに頷いていた。否、ヨンイルに肩を揺さぶられたはずみにがくんと頭が垂れたのかもしれない……どちらでもいい。
 ヨンイルに手を借りて立ち上がった僕は、袖口から覗く刺青を目で追う。
 「ヨンイル」
 先に立って歩き出したヨンイルが振り返る。所在なく廊下に立ち尽くした僕は、鼻梁にずり落ちた眼鏡を直す気力もなく項垂れていたが、やがてサムライへの反感とも反発ともつかぬ感情に駆り立てられて顔を上げる。

 結局、サムライは僕を捜しにこなかった。
 僕は完全に見捨てられた。
 それが答えなら、もういいじゃないか。

 下腹部で腕を交差させ、自分を抱きすくめる。
 徐徐に腕の位置を上げ、肩を抱く。
 蛍光灯が青白く冷え冷えと輝く廊下にてヨンイルと対峙。服の上から胸を庇う挑発的なポーズをとり、力無く自嘲の笑みを吐く。
 「ひとつ聞くが、僕を房に連れ帰るのは不純な動機からか。僕を抱きたいからか」
 口の端が引き攣り、笑みが強張る。ヨンイルは当惑。構わず腕に力を込める、そうやって自分を抱くことで体の奥底から突き上げる衝動を抑圧するように。もう何もかも忘れてしまいたい、サムライのことなど忘れてしまいたい、頭から完全に追い出してしまいたい。
 苦痛でも快楽でもいい。彼のことを忘れさせてくれるならどちらでもいい、強い刺激が欲しい。
 現時逃避の刺激を求める惨めな気持ちをひた隠し、媚びるような微笑を浮かべる。
 「抱いていいぞ」
 「はあ!?」
 ヨンイルの顔が驚愕に強張るのをいっそ笑い出したいほど愉快な気分で眺め、口の端をさらに吊り上げる。肩に回した腕から力を抜き、だらりと体の脇に垂らし、大股にヨンイルに歩み寄る。一歩踏み出すごとに道化が近付いてくる。僕はひどく冷静だった。心はひどく醒め切っていたが、刺激に飢えた体が疼いていた。
 静まり返った廊下に靴音が反響する。
 天井高く靴音を響かせてヨンイルに接近、売春班にいた時「最もそそる」と言われた仕草を意識的にしてみせる。
 わずかに首を傾げ、囚人服の襟刳りから鎖骨を覗かせる。
 華奢な首筋から鎖骨にかけて、日頃積極的に人目に晒すことない生白い肌を強調する。
 「なにも後ろめたいことはない、僕と君とは共犯だ。需要と供給が成立するならそれに越したことはない。健全な肉体の持ち主なら性欲が存在して当たり前だ。君も自慰ばかりでは飽きるだろう?売春班上がりのテクニックに通じたこの僕が相手をしてやるから光栄に思えと言ってるんだ」
 「ちょ、直ちゃんいきなりどないしたん?『ふたりエッチ』でも読んでむらむらきたん、」
 狼狽しきったヨンイルの正面で立ち止まり、その胸ぐらを掴む。
 「………こう言えばわかりやすいか?体が疼いて疼いて仕方ない、今夜は眠れそうにない。僕は今夜だれかに滅茶苦茶に抱かれたい気分なんだ。快楽でも苦痛でもいい、脳内麻薬が大量分泌される刺激が欲しい。はっ、タジマの言う通り僕は淫乱だ!不愉快だが認めようじゃないか、僕はもはや男なしでは生きられない体になってしまったんだ。ならばそういう風に生きて何が悪い、何も悪くはないだろう。どうせここではそうやって生きるしかない、僕がだれに抱かれようが哀しむ人間はいない、そんな物好きはいやしない絶対に!!」
 眼前にヨンイルがいる。戸惑いがちに僕を見つめている。
 同情の眼差しに胸がざわめく。そんな目で僕を見るなと罵倒するかわりに胸ぐらを締め上げる。
 「命令だ。僕を抱け、龍一」
 そこで一呼吸おき、露悪的な笑顔を見せる。
 本気だとわからせるためにヨンイルの首筋に顔を埋め、龍の刺青を舐める。塩辛い汗の味。唾を吐きたくなるのをこらえ、熱を煽り立てようと舌を使い、唾液を捏ねる音で劣情をそそる。
 「最初に断っておくが僕はとんでもない淫乱だ。退屈させるなよ、童貞」
 
 そして僕は。 
 絶望を忘れる為に欲望に身を委ねた。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050608164528 | 編集

 初めて西棟に足を踏み入れた。
 内観は僕が日常暮らす東棟とさほど変わらない。コンクリ剥き出しの殺風景な壁が延々と続く監獄の廊下には陰気な空気が漂っている。
 細長い天井には等間隔に蛍光灯が設置され青白い光を投げかける。
 左右の壁に並ぶ鉄扉の向こうでは囚人が寝静まっている気配がする。規則正しい寝息に衣擦れの音、寝相の悪い囚人がベッドから転げ落ちて床に激突する音に続く悲鳴。大半の囚人は明日の強制労働に備えて熟睡しているが、中には夜更かしの囚人もいるらしく暗闇が淀んだ格子窓の奥から時折密やかな話し声が漏れてくる。 
 「昼間やったらもっと活気あったんやけど、さすがに就寝時刻過ぎると静かになるな」
 ヨンイルが苦笑する。西の囚人で猥雑に賑わう廊下を彼と一緒に歩くのは僕としても望むところではない。ヨンイルと一緒にいるところを見られれば興味本位の詮索と誤解を招く。
 西の囚人に注目されるのは鬱陶しい。
 人がいなくてかえって好都合だ。
 「東棟とあまり変わらないな」
 当たり前の感想を口にしたことを恥じ、ごまかすようにあたりを見回す。無関心に冷たいコンクリ壁がざらざらと硬質な表面を見せて平行に続く廊下、足元の床には茶褐色の汚水が筋を作っている。
 通り過ぎざま壁の落書きに目をやる。壁一面に描き殴られた幼稚な絵に既視感を覚えて立ち止まれば、先行するヨンイルが「なんやなんや」と戻ってくる。
 「実に前衛的な芸術作品だが、主題は何だ?」
 壁に顎をしゃくり、嫌味っぽく聞く。
 僕が相対した壁一面を埋めているのはどこか見覚えのある人物の絵。三頭身の幼女らしきちんまり寸詰まりの物体。その隣にはこれもやはり見覚えのある、下半身に黒いパンツ一枚の特徴的な髪型の少年。額に絆創膏を貼った少年もいる。孔雀に似た黄金の鳥もいる。
 よく注意して見れば殺風景なんてとんでもない、壁の至る所に色とりどりの落書きが出現しさながら画廊に迷いこんだような錯覚を抱かせる。
 「ちっちっちっ!手塚ファン気取っとってもまだまだ初心者やな直ちゃんは。見て一発でわからんか。これがピノコ、これがアトム、こっちが写楽や」
 「君が描いたのか?」
 「ちゃう、西の囚人ども使て描かせたんや。灰色の壁だけがのっぺり続くんじゃ気分塞いでしゃあないなから絵が上手い奴に手塚キャラ描かせたんや。どや、似てるやろ」
 あちらこちらを指差すヨンイルの顔はひどく満足げだ。
 嬉々と弾んだ口調で壁一面を埋めた手塚キャラがどの作品に登場する誰かを解説しつつ房へと向かうヨンイルに黙ってついていく。
 西棟の廊下では手塚治虫博覧会が催されていた。画廊と化した廊下をひたすら歩き続けること数分、遂にヨンイルの房が見えてきた。
 「いとしこいしの我が家や」
 ヨンイルが歩調を落とし、緊張が高まる。他の房と何ら変哲のない無個性な鉄扉。灰色の壁に穿たれた鋼鉄の扉。
 ノブに手をかけたヨンイルが僕の決心を確認するように振り返る。
 額にかけたゴーグルの下、スッと双眸を細めたヨンイルを無表情に見返す。
 「ほんまにええんか直ちゃん。東に逃げ帰るなら今やで」
 鉄扉の向こう側に一歩足を踏み入れたら僕に拒否権はないと暗喩する口調だった。
 ノブに手をかけ、挑発するようにほくそえむヨンイルに反発が湧く。ここまで来て怖気づいたとでも思っているのか、回れ右で東棟に逃げ帰ると思っているのか?馬鹿にするなよ道化風情が。
 眼鏡のブリッジに触れ、動揺をごまかす。
 眼鏡の位置を直すふりで俯き、続ける。
 「ここまで来て帰れだと?冗談じゃない、僕を誰だと思ってる。今ここで逃げ帰るなどプライドが許さない。僕にはもう帰る場所などない、東棟に居場所がない。たとえこの鉄扉の向こう側で何が起ころうが絶対に逃げたりしない。僕を泊める見返りに体を要求したいならすればいい、こちらも望むところだ」
 「さよか」
 ヨンイルが頷き、ノブを捻り、鉄扉を大きく開け放つ。
 「道化の房にようこそ。東の人間で足踏み入れたんはレイジに続いて二人目の快挙や」
 錆びた軋り音をあげて鉄扉が開く。ヨンイルに続いて房に入ろうとした僕は、裸電球に照らされた光景に愕然と立ち竦む。
 鉄扉の向こう側、ヨンイルの住処は目を覆わんばかりの惨状を呈していた。床一面に足の踏み場もなく散乱した漫画本が進路を阻んでベッドに近付くことさえできない。
 毛布がだらしなく捲れて枕の位置がずれたベッドは道化のずぼらさを象徴する。
 床だけではない、ベッドの中にも大量の漫画本が持ち込まれているのは明らか。ベッドは殆ど漫画に埋もれた状態で寝る場所もない。
 「人間起きて半畳寝て一畳というが、平常どんな体勢で寝ているんだ?関節の無い動物ではあるまいし。それとも君は無脊椎動物の仲間、軟体動物の親戚か?生物学的進化を誤った生き物か?」
 「寝るときはどかしたらええ」
 ヨンイルはあっさり言う。房に溢れ返る漫画の量などたいして気にしてないらしい。対する僕は房に足を踏み入れるのをためらい、出入り口に立ち竦む。頭上には蝿が飛んでいる。
 裸電球に衝突する蝿から視線を引き剥がし、足元を見る。不用意に足を踏みいたら最後、あちらこちらに積み上げられた漫画の塔が崩落して僕まで埋まってしまう。それだけではない、この吐き気を催す異臭はなんだ?たまらず鼻と口を覆い、こもった声でヨンイルを非難する。
 「ヨンイル、房に立ち込める異臭の正体は何だ?呼吸器系に作用する毒ガスか」
 「ずいぶんないいぐさやな韓国の名産にむかって。キムチやキムチ、俺の大好物のキムチ。あとで直ちゃんにもご馳走したる」
 「貴様正気か、密閉された房にキムチを持ち込むなど……少しは来訪者のことを考えろ、誰もが嗅覚麻痺してるわけではないんだぞ!」
 食欲どころか性欲すら減退する眺めだ。韓国人は皆こうなのかという疑問が脳裏に浮かぶが、多分ヨンイルだけだろうと結論に至る。
 早速ヨンイルの房に身を寄せたことを後悔しはじめた。潔癖症の僕には耐え難い不潔さだ。ヨンイルはそんな僕には構わず、豪快に漫画の山を掻き分けずかずかベッドに歩み寄る。
 いつまでこうしてても始まらないと勇気を奮い起こし、おそるおそる慎重に房に足を踏み入れる。
 裸電球に蝿がぶつかる音が耳障りだ。こんな汚い場所に泊まるなどとんでもない、まともな神経の持ち主なら一夜とて耐え難い。
 だが、僕にはヨンイルしか頼る人物がいない。
 東棟には帰れない。帰ればきっと後悔する、サムライを激しく憎んでしまう。
 レイジとロン、二人の顔を脳裏に呼び起こす。彼らの房を訪ねる選択肢もないではないが……そこまで考え、ロンの心配げな顔が思い浮かぶ。僕が夜分遅く鉄扉を叩けば真っ先にロンがとびだしてきて、どうした何があったといつもの調子で問い詰めるだろう。
 彼に余計な心配をかけたくない。同情されたくない。
 僕はもともと同情を受け付けない体質だ。たとえロンが善意で引き止めても宿泊拒否する。ただでさえレイジ不在で精神的に不安定な状態にあるロンに僕個人の苦悩まで分かち合わせたくない。
 そうなると僕にはヨンイルしかいなかった、頼れる人間が彼しかいなかった。ヨンイルならばきっと僕の身の上に起きたことを根掘り葉掘り探り出したりしない、放っておいてくれるはず。
 彼に抱かれるならそれもいい。そういう関係になるのもいい。
 ただ、こんな汚い場所で性行為に及ぶのはごめんだ。

 「こんな汚い場所で息を吸える神経を疑う。よほど呼吸器が丈夫なんだな、羨ましい。喘息もちなら三秒で死んでいる。第一床に本をおくなど人類の叡智に対する冒涜、君には漫画を読む資格がない!仮にも図書室のヌシを自負する人間がこんなふうに本を粗末に扱っていいと思っているのか嘆かわしい、本を何十冊も積み上げたりしたら下層のページが撓んで変わり果てた姿になってしまうじゃないか!
 無学な君にはまず重力の法則を教えるべきか、ニュートンの法則から解説すべきか?よろしい、心して聞けよ。ニュートン力学では万有引力の作用は万有引力の法則こと逆2乗の法則に従い、瞬時すなわち無限大の速度で伝わるとされた。2つの物体の間には互いに逆方向の引力が働き、その力の大きさは次の式で与えられ……」

 話してるうちに興奮してきた。
 僕にはヨンイルの無神経さが我慢ならない、本を粗末に扱う人間には怒りすら覚える。床一面に散らばった本を重ねて持ち抱え、房の隅に運ぶ。それを往復何回もくりかえし、本を片付ける。
 てきぱき立ち働く僕を眺め、ベッドに座ったヨンイルが感心する。
 「おお、瞬く間に片付いてく。メイドがおると便利やなあ。直ちゃんどうせなら俺の房に住み込みで働かん?キムチの漬け方教えたるさかい」
 「キムチなど漬けたら手が汚れるし匂いが我慢ならない、却下だ。見ているだけじゃなく手伝え、本来君の房だろう!?」
 「いや、直ちゃんが好きでやってるなら放っとこて」
 「好きでやってるわけがないだろう、何故IQ180の優秀なる頭脳を誇る天才が家政夫の真似事をしなければならない!」
 再三の非難にも関わらずヨンイルは指一本動かす気がないようだ。それならそれでいい、邪魔さえしなければそれでいい。
 憤懣やるかたない面持ちで本を重ねて持ち抱え房の隅へと運び、きちんと整頓する。あらかた本を片付け終えた時にはぐったり疲れきり、そのまま座り込んでしまった。
 「わーこらまた随分とさっぱりしたなあ、見違えるようやで」
 呑気な声に殺意が芽生える。手庇を作り房を見渡したヨンイルが「さて」と腰を上げる。
 「床に空きができたことやし俺こっちで寝るさかい、直ちゃんはベッド使うてや。俺は丈夫やからええけど直ちゃんひよわやから、じかに床で寝たら筋肉痛ばっきばきで明日しんどいで」
 僕にベッドを使えと顎をしゃくり、裸電球を消し、ごろり肘枕で床に寝転がるヨンイル。毛布もかけずに寝るつもりかと驚く。
 いくら馬鹿は風邪をひかないといっても無茶だ。砂漠の夜は寒い、凍死の危険性もあるというのに……
 しばらくのち、わざとらしい鼾が聞こえてくる。
 「……寝たのか?」
 遠慮がちに声をかけるも無言。床に寝転がったヨンイルに接近、顔を覗き込む。間抜けな寝顔、豪快な鼾。
 僕はため息を吐き、靴を脱いでベッドに潜りこむ。
 ヨンイルの匂いがするベッドに身を横たえ、枕元に眼鏡を置き、毛布をたくし上げる。
 いつのまにか裸電球に蝿がぶつかる音もやんでいた。暗闇に降り積もる静寂。俗に枕が替わると眠れないというが、僕の場合もそうらしい。否、僕は慢性的に睡眠不足で体調が優れないのだが今日はいつにも増して目が冴えてしまっている。房の主のヨンイルは僕を残しあっさり寝入ってしまい拍子抜けの感が否めない。
 毛布の中で寝返りを打ち、睡魔の訪れを待つ。
 固く瞼を閉じて暗闇に自我を没する。
 『どうして嘘をつくんだい』
 耳の奥で静流の声がする。責めるでも咎めるでもない静かな口調で、ただただ純粋な疑問をつむぐ。
 『お前はもっと優しい奴だと思っていたのに、残念だ』
 針の眼光で僕を一瞥、激しく唾棄するサムライ。違う、そうじゃない、嘘などついてない。だれが静流をおとしいれるために嘘などつくものか、僕はそこまで落ちぶれてない見損なわないでくれ。双眸に冷光を宿したサムライの顔に侮蔑が浮かぶ。お前がどんな人間か知っているぞと言わんばかりの表情。サムライは僕を見捨てたのか、裏切ったのか、静流の言葉を信じるのか?
 サムライの背に庇われた静流。親密に寄り添う二人。
 「優しくなんかない」
 声に出して呟く。僕は優しくなどない、優しくなれるはずがない。ただひとりの友人、かけがえのない大事な存在が今まさに奪われようとしてるのに寛容になれるはずがない。僕は卑屈な人間だ。身内を大切にするサムライを許せないのがその証拠。友人と身内なら後者を選ぶのは当たり前なのにそれでも僕はサムライを独占したいと思ってしまう、サムライが静流に優しくするのを許せないと思ってしまう。
 サムライは僕の物じゃない。
 もう、僕の物ではない。
 『彼は君のサムライじゃない、僕と姉さんの帯刀貢さ』 
 「―っ、」
 胸が鋭く痛む。反射的に耳を塞ぐ。僕のサムライはもういない、静流との邂逅が僕らの関係をも変えてしまったのだ。僕が知るサムライはもういない、どこにもいない。その事実が重く胸にのしかかる。
 静流、サムライを返してくれ。
 喉元まで悲鳴が込み上げるも、唇を噛み締めこらえる。誰がみっともなく哀願などするものか、みじめに嘆願などするものか。サムライなど貴様にくれてやる静流、あんな男には未練がない。
 強く強く目を閉じて脳裏からサムライを追い出そうと努める、静流を追い出そうと努めるもうまくいかない。

 『帯刀貢を返してもらいにきたのさ』 
 「違う、あれはサムライだ」
 僕の、サムライだ。帯刀貢じゃない。
 『本当にそう?君がただそう思い込みたいだけじゃないの。本当はサムライなんてどこにもいないのに、君の友人のサムライなんて最初から存在しなかったのに。ここにいるのは帯刀貢という名のただの親殺し、誇り高い武士でも何でもない薄汚い人殺し以外の何者でもないのに、君が思い込みで美化していただけじゃないの?いい加減認めてしまえばいいのに、帯刀貢に騙されたって』
 「騙す?」
 『そうだよ。君はずっと騙されていたんだ、貢くんに。貢くんが真実どんな人間か知れば、君だって嫌悪を隠し切れず彼を遠ざけるに決まってる。だから貢くんは何も話さなかった、ずっと「君のサムライ」でいてくれた。美化された幻影でいてくれた。君がこれまで見ていたのは帯刀貢の虚像に過ぎない現実には存在しない人間なのさ』
 「嘘だ。サムライが現実には存在しなかったなんて認めない絶対認めない。僕は彼に触れたんだ、何度も何度も手を触れて熱を確かめたんだ。売春班に助けに来た夜のことを今でもはっきり覚えている、僕を抱きしめて必ず守ると誓った言葉を覚えている。あのぬくもりが嘘だなんて現実にはありえなかったなんて認めない!!」
 『せいぜいそうやって足掻きなよ。どのみち貢くんは僕の物、苗さんの代用品はいらなくなったんだから』
 「僕は鍵屋崎直、サムライの直だ。苗の代用品なんかじゃない意志と感情をもった一人の人間だ!!」
 両手で耳を塞いで身を縮めても静流の声からは逃げ切れない。声はどこまでもどこまでも追ってくる。
 『君が人間なものか、たかがモルモットのくせに調子に乗るなよ。試験管で生まれた君が僕らと同じ人間に分類されるとでも思ってるの。君の感情がどこまで自分の物か、君の意志がどこまで自分の物か断言できるかい?受精卵の段階で手を加えられ遺伝子を弄くられた後遺症が思考を左右してないと断言できる?君は人間になりそこねた可哀想なモルモット、試験管で生まれた人工の天才、極めつけが苗さんの代用品……』

 ―「うるさい!!!!!」―

 何かが破裂した。
 ベッドに跳ね起きた僕は暗闇にむかい怒鳴る、暗闇に潜む何者かを追い払おうと必死に手を振り回す。
 「僕はたしかに実験に使われたモルモットで試験管生まれの天才だが苗の代用品じゃない、サムライの友人だ!帯刀貢なんて知らない、そんな人間こそ存在しない!サムライは東京プリズンに来て過去を捨てた、今はサムライ以外の名を持たない僕の友人だ、僕の自慢の友人なんだ!何故今頃やってくる静流、僕がサムライなしでは生きられなくなった今頃になって彼を連れ戻そうとする?来るならもっと早くくればよかった、僕がサムライに心を許す前にくればよかった!!」
 「直ちゃん、どないした。悪い夢でも見たんか」
 いつのまにか起き出したヨンイルが気遣わしげに声をかけるのを無視、頭を抱え込む。
 動悸が激しくなる。呼吸が荒くなる。瞼の裏側が赤く燃え上がる。
 異常を察したヨンイルがベッドに飛び乗り、僕を助け起こそうとする―
 「!?っ、」
 その瞬間、ヨンイルにとびかかる。僕に押し倒されたヨンイルがベッドに手足を投げ出す。ヨンイルが起き上がるより早く腰に馬乗りになり服を剥ぎにかかる。
 「ヨンイル、僕を抱け」
 「はあ!?まだそんなん、」
 「抱かないなら僕が抱くぞ」
 脅しではない。性急な手つきで上着をはだければ引き締まった腹筋が覗き、精悍な肢体に絡んだ刺青が外気に晒される。動転したヨンイルの上着を胸までたくし上げて刺青を露出させ、今度は僕が服を脱ぐ。
 暗闇に衣擦れの音が響く。
 ヨンイルの上で腰を捻り身を捩り上着を脱ぐ、長袖から腕を引き抜き上半身裸になる。貧弱な腹筋と腺病質に薄い胸板、不健康に生白い肌が劣等感を呼び起こす。
 肌寒い外気にふれて身が竦む。鳥肌立った肌を庇うように体に腕を回し、ヨンイルを見下ろす。眼鏡がないせいで顔がよく見えないのがかえって好都合だ。
 仰向けに倒れたヨンイルにのしかかり、耳朶で囁く。
 「童貞だからやり方がわからないとでも?ならば教えてやる、感謝しろ」
 瞼を閉じて売春班の記憶を喚起。騎乗位も何回か体験した、この体勢でも問題はない。ヨンイルの股間に手をおき、睾丸をさぐりあて、優しく揉む。ズボンの上から性器をさわることに殆ど抵抗はなかった。
 ヨンイルの足の間に片手を潜らせ愛撫を続ければ、やがてヨンイルの呼吸が荒くなり、性器が固くなりはじめる。
 「なおちゃん、ちょ、やめっ……」
 「やめていいのか?感じているじゃないか」
 卑屈な笑い声を漏らしヨンイルの股間を揉むかたわら、自分自身のズボン、下着の中に片手を潜らせる。
 「!んっ………」
 ひやりとした感触。直接性器に手を触れ、指の冷たさを感じる。そして、ゆっくり動かしだす。萎縮したペニスを手のひらに握り込み緩急つけて摩擦する。
 手のひらと擦れたペニスが次第に熱をもちはじめ、快感の喘ぎが漏れる。ヨンイルがぎょっとする気配。無理もない、自分の上で突然自慰をはじめられたのだから。驚愕するヨンイルを無視、下着の中で指をくねらせペニスを強く刺激する。
 「んっ、は、はあっ……」
 体が熱く火照りだす。ペニスに血が集中する。片手でペニスをしごきつつ、もう片方の手でヨンイルの股間を貪欲にまさぐる。
 ヨンイルがごくり生唾を呑む。
 彼も興奮している。ズボンの上から股間をまさぐられ睾丸を揉まれ体が勝手に反応している。
 「は、あっ、ああっあっあ……」
 サムライのことを忘れたい、静流のことを忘れたい、その一心で自慰にふける。くちゃくちゃ粘着質な音が鳴る。ペニスの先端に透明な雫が先走り、しっとり指を濡らしているのがわかる。手に全神経が集中する、ペニスに熱が集中する。充血したペニスに五本の指を絡めて繊細な刺激を与えれば、腰がとろけるような快感に背中が仰け反る。
 「!あああああっあああっあ………」
 脊髄から脳髄へと鋭い快感が駆け抜ける。
 下着の中に白濁が爆ぜ、五本の指を濡らす。
 ぐったり弛緩した体をヨンイルに委ねて呼吸を整え、露悪的に笑う。
 「……僕が射精するところを見て性的に興奮したか?勃起してるぞ」
 事実、ヨンイルのズボンは膨らんでいた。
 動揺のあまり言葉もないヨンイルが何も行動を起こさないと悟るや、彼の首筋に顔を埋め、舌で舐めだす。首筋は人体における性感帯だ。
 舌の先端でつつくように愛撫をくりかえし、また舌の表面でたっぷり唾液を塗りつける。
 「三次元のキャラクターとは空想上でしか交われない。だが、生身の肉体をもつ僕なら君のペニスを受け容れることができる」
 サムライのことを忘れたい。静流のことを忘れたい。
 今だけでいいから忘れさせてほしい。
 発狂せんばかりの焦燥に追い立てられ、懸命に舌を使う。下着の中で糸引く指をくねらせ、白濁を捏ねる。ヨンイルが何もしないなら僕がする。体の火照りを持て余した僕はヨンイルのズボンに手をかけー……
 「!っあ、」 
 視界が反転、背中に衝撃。
 一瞬何が起きたかわからなかった。ヨンイルが突如跳ね起き僕を押し倒したのだと気付いた時には、すでに上下が逆転していた。
 僕の顔の横に手をついたヨンイルが、獰猛な眼光を向けてくる。
 「ホンマにええんか直ちゃん。後悔しても知らんで」
 背筋がぞくりとする低い声で囁き、ヨンイルが上着を脱ぎ捨てる。僕の眼前で上半身裸になったヨンイルがいつになく真剣な顔で見つめてくる。僕はヨンイルの裸身に眼を吸い寄せられる。
 首筋、胸板、腹部。
 龍の刺青に舐められた頑健な肉体。
 互いの顔も見えない暗闇でヨンイルに抱かれるところを想像し、激しい不安に襲われる。  
 「後悔などしない。早く抱け」
 僕の催促をきっかけにヨンイルが動き出す。
 ヨンイルが乱暴に僕の上着をはだけ鎖骨に口を付ける。性急であらあらしい愛撫に体が反応、おもわず声をあげそうになる。
 熱い舌が唾液の筋をひき腹筋をすべりおちる。
 ヘソのくぼみを舌で抉られ、喉が仰け反る。
 「ひっ……!」
 「初めてやから加減できひんかもしれんで。女とヤッたこともないんやから」
 「自慢、することか」
 怯惰を押し隠して虚勢の笑顔を作れば、ヨンイルもまた笑みを返す。歪む表情を見られるのが嫌でヨンイルに手を差し伸べ、抱きつき、肩口に顔を埋める。もっと、もっと刺激が欲しい。もっと快楽が欲しい。快楽に溺れて何もかも忘れ去ってしまえばラクになれる。
 「激しくしてくれ」
 小声でヨンイルに頼む。ヨンイルが僕のズボンに手をかけ、下着と一緒に脱がせる。ヨンイルが僕の足を持ち上げ、左右に開く。無様な姿勢をとらされた自分を見たくなくて目を閉じれば、瞼の裏にサムライの顔が過ぎる。
 何故そんな目で見るサムライ?
 そんな顔をする?
 そんな目で僕を見るのはやめろ。
 やめてくれ。
 静流を信じたくせに静流を選んだくせに僕を捜しにこなかったくせに僕を責めるのはやめろ、ヨンイルに抱かれる僕を軽蔑するのはよせ、よしてくれ。
 「っ……」
 来るべき衝撃に備え、固く目を瞑り、両手でシーツを掴む。脳裏にサムライの哀しげな目が浮かび、自己嫌悪が胸を苛む。ヨンイルに抱かれながらサムライを思うなど最低だ。消えろサムライ、いや帯刀貢、これ以上僕に付き纏うな!心の中で口汚く罵倒するもサムライの面影は薄まらず鮮明さを増すばかりでサムライを裏切る自責の念に耐えかね今すぐ発狂したくなる。僕とヨンイルが寝たことを知ったら彼はどう思うだろう。怒るだろうか、哀しむだろうか、汚いものでも見るように蔑むだろうか……
 『お前が愛しい』
 あの台詞はきっと、二度と聞けない。
 『お前は俺の友人だ』
 そんなふうにはきっと、言ってくれなくなる。
 胸が苦しい。苦しくて苦しくて呼吸ができない。瞼がじんわり熱くなる。どうした、何をしている、はやくしろヨンイル。はやく快楽をくれ、はやくサムライのことを忘れさせてくれ、滅茶苦茶にしてくれ!だが、いつまでたっても何も起こらない。
 不審に思い瞼を開けた僕の目に映ったのは、
 こめかみにふれる人さし指。
 「泣いとるんか」
 泣いてる?僕が?
 ヨンイルの声に促され、緩慢な動作で顔を傾げる。こめかみに一筋涙の跡ができている。目尻から零れた涙がこめかみを垂直に滴り落ちた名残り。こめかみの涙を指で拭ったヨンイルがあっさり僕の上から身を引く。どうしてやめるんだと跳ね起きた僕の顔面を囚人服が覆う。ヨンイルが床から拾い投げ付けた僕の上着だ。
 「やめや、アホらしゅうて付き合いきれん。なんで他の男にフラれてヤケになっとる奴に童貞ささげなあかんねん。俺の童貞はそない安くないで」
 「僕は自棄になってなどない、君に抱かれたいと本気で思っている!」
 「嘘つきは七色いんこのはじまり」
 ヨンイルがせせら笑い素早く服を身に付ける。上着の裾を引き下ろしてへそを隠したヨンイルが不意にまじめな顔になる。
 「俺やっぱ二次元やないと興奮せんねん、勃たんねん。生身には萌えんのがオタクの哀しいさがや。それに直ちゃん、フラれた腹いせに自分粗末にするんは感心せんで。フッた相手への仕返しで俺に抱かれるつもりならとばっちりもええとこや。俺に抱かれとる間じゅうそいつのこと考えてめそめそ泣かれたんじゃこっちも萎えるわ」
 「僕は、違う。僕はサムライへの復讐のつもりで君に抱かれるわけじゃない、僕はただ彼のことを忘れたくてそれで!」
 「ええ加減にせえ!!」
 威勢いい一喝が鼓膜を貫く。空気がびりびり震える。
 ベッドに半身を起こして硬直した僕へと大股に歩み寄り、ヨンイルが両手で顔を挟み、正面に固定する。
 ヨンイルに顔を挟まれた僕が驚愕に目を見開けば、ヨンイルが唾飛ばしてまくしたてる。
 「さっきから黙ってされるがままになっとったらぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ繰言ぬかしおって、自分フッた相手のこと忘れたいから俺利用するてあんまりやろそれは!だいいち直ちゃん俺のこと好きなんか、俺とヤりたいて本気で思っとるんか、俺に抱かれて後悔せんて断言できるんか?できんやろ、無理やろ。自暴自棄で抱かれたらのちのち後悔するに決まっとる、吐き気するほど自分が嫌いになって死にたくなるに決まっとる!」
 「吐き気ならもうしてる、吐き気がするほど自分が嫌いになってる!」
 「せやけどまだ生きてる、生きとるなら自分を粗末にすな、ホンマに好いた男以外に抱かれようとすんな!!」
 「じゃあどうすればいい、僕が抱かれたい人間は今頃別の人間を抱いている、僕以外の人間を抱いているのに僕はどこへ行けばっ…」
 その瞬間。
 ヨンイルが優しく力強く僕を抱擁する。
 「……今晩はこれで許してや。直ちゃんがしんどいのはようわかったけど、俺やっぱ、直ちゃんとそういう関係になれん。直ちゃんとはこれからもダチでいたい、手塚仲間でいたいねん。それに直ちゃん、別に好きな男おる奴抱いてもむなしいだけや。好きな男の身代わりにされて喜ぶほど西の道化はおちぶれてへんねん、生憎と」
 ヨンイルが笑う。こんなことしかできなくてすまないと謝罪するように僕の目を見て、笑う。  
 僕はもう何も言えなかった。体を包み込むヨンイルの腕のぬくもりにいつかのサムライを思い出し、手足の力が抜ける。
 「しんどかったらまわりの奴頼ればええねん。レイジもロンも俺も力貸したるさかい、ダチやと思ってくれたらいい。皆直ちゃんのこと心配しとるんや。直ちゃんがぽきんて折れそうになったらこうして支えたるから、いつもみたく毒舌返してくれたらええ」
 優しい声が鼓膜に沁みる。ヨンイルの胸に顔を埋め、人肌のぬくもりに安堵を覚える。
 「こんなくそったれた監獄で出会うたのも何かの縁や。なあなあで寄りかかって生きてこうや。何も恥ずかしいことやない。俺も東京プリズン来るまでようわからんかったけど、ダチってそういうもんやろ。互いに寄りかかって何とか支え合うとる奴のことやろ」
 言葉通りヨンイルに寄りかかる僕に、ヨンイルもまた寄りかかる。
 「ひとりで立てへんときは寄りかかってええんやで。泣いてええんやで」
 温かい手が背中をさする。大きく深呼吸した僕は、しっかりした口ぶりで言い返す。
 「………泣くものか。IQ180の天才のプライドに賭けて泣くものか」
 「さよか」
 「さっきはキムチの匂いが涙腺に沁みたんだ。生理現象の涙だ。邪推するな」
 「さいでっか」
 ヨンイルが柔らかく苦笑する気配が伝わる。
 片手で床を手探り、無造作に放り出したゴーグルを掴んだヨンイルがおもむろにそれを僕の顔にかけ、目の位置にずり下ろす。
 突然視界が暗くなり当惑した僕は、ヨンイルが優しく諭す声を聞く。
 「俺が東京プリズンに来たばっかの頃。まだほんのガキで、まわりの奴に泣かされてばっかで、頼れる人間なんかひとりもおらんかった時、じっちゃんからもろたゴーグルがごっつええ感じに役立ったんや。ゴーグルしとけば泣き顔バレへんやろ?かっこ悪い自分見せずにすむやろ?せやからな、ゴーグルしとったら安心して泣けるんや。じっちゃんのこと思い出しておもいっきり泣けるんや」
 ゴーグルに覆われた視界にヨンイルを映す。
 ヨンイルは少し照れくさげに鼻の下を擦っていた。やんちゃな悪ガキといった風情の憎めない笑顔。ベッドに腰掛けた僕はそのまま首を項垂れ、足元に呟きを落とす。
 「こんな物役に立たない」
 そっとゴーグルに触れる僕を、傍らにたたずむヨンイルが無言で見守る。僕は深々と首を項垂れる。胸の痛みが激しくなる。張り裂けそうな胸の痛みに耐えて顔を伏せ、震える声で吐き捨てる。
 「こんな物……」 
 語尾は嗚咽に紛れて消えた。かすかに嗚咽を零す僕の肩を抱き、ヨンイルが言う。
 「明日、房に帰ろうな。東棟まで送ったる」
 力なく首を振り帰りたくないと主張するも、ヨンイルは却下する。
 「ロンロンやレイジが待っとる。直ちゃんの大事な人が心配しとる。せやから帰ろうな」
 重ねて促され、駄々をこねるように左右に振りかけた首が垂直に落ちた。ロン、レイジ、サムライの顔が続けざまに浮かぶ。東棟にはもう居場所がないと思っていたが、ヨンイルはそうじゃないと断言する。僕は東棟に帰られなければいけないと言う。
 ならば、そうするしかないではないか。
 サムライが迎えてくれると信じて、東棟に帰るより他ないではないか。
 「……ヨンイル、ひとつ聞かせてくれ」
 「なんや」
 説得された悔し紛れに、嗚咽の隙間から不明瞭な声を搾り出す。
 ゴーグルの内側で涙を零しながら、ひどく無理して強気な笑みを浮かべる。
 「君こそ、僕を抱かなくて後悔はないか?」
 ことによると一生に一度かもしれない童貞を捨てる良い機会だったのにと皮肉れば、ヨンイルが笑いながら首を竦める。
 「そりゃお前、ガムガムパンチの最後のページが接着剤で糊付けされて無理矢理ひっぺがそうとしたらページびりっと破けてもうたああああああ!!!!くらいに後悔しとるけどな」 
 ……わかりにくいたとえだが、どうやら相当後悔してるらしい。

 翌朝。
 まだ暗いうちにヨンイルに付き添われ東棟に戻る。起床時刻より少し早い為に囚人は寝静まり、廊下には静寂が立ち込めている。
 「ほなら直ちゃん、元気でな。相棒とまた喧嘩せんようにな」
 「『また』は余計だ。用が済んだら西に帰れ道化、二人でいるところを目撃されたら僕の立場がまずくなる」
 「それが一晩泊めたった恩人への仕打ち?相変わらずつれへんなあ、昨日はあんなに情熱的やったのに」
 「……昨夜のことは忘れろ。僕はどうかしてた。人生最大の失態にして失策、一生の不覚だ」
 冗談めかしたヨンイルの台詞に自己嫌悪がぶり返す。昨夜の僕は錯乱状態にあり、自分からヨンイルを誘惑するという平常考えられない行動にでてしまった。魔が差したというしかない。いかにサムライの態度にショックを受けたからといってあれはない。しかも相手はヨンイルだ。ありえない。
 「簡単に忘れられへんて、俺の上で背中仰け反らせてイってもうたくせに。結構色っぽかったで?こう、ぐっときた」
 「フォローになってないばかりか二次元にしか欲情しない道化が言っても説得力皆無だ」
 こぶしを振り上げて力説するヨンイルにうんざりする。二人で会話しながら廊下を歩むうちに房が見えてきた。僕とサムライの房。
 鉄扉の前に佇み、緊張する。昨日一晩帰らなかった僕が鉄扉を叩けば質問攻めにされるに決まってる。
 「叱られるのがおっかないなら俺がノックしたろか」
 「問題を複雑化させる要因は極力排除したい」
 ずうずうしくしゃしゃりでてきたヨンイルを押しのけ、覚悟を決めてこぶしを掲げ、控えめにノックする。応答はない。サムライはまだ寝ているのだろうか?無理もない、まだ夜も明けきらぬ時間帯だ。諦め悪くノブを捻った僕は、錠が下りてないことに気付き愕然とする。
 「開けっ放しで寝たんかい?無用心やなー」
 ヨンイルが眉をひそめる。
 薄く開いた鉄扉の向こう側に目を凝らせば胸騒ぎが強まる。 
 鼓動の高鳴りを意識しつつ鉄扉を押し開け、中に踏み込もうとして硬直。
 房の片隅のベッドにサムライが寝ている。
 その上にだれかが跨っている。囚人服のズボンを下ろし、裸の下半身を晒し、こちらに背中を向けて。
 サムライの股間に腰を埋めていた少年が振り返り、僕らを認めて嫣然と微笑む。

 静流、だった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050607142951 | 編集

 直が帰ってこない。
 『あの夜僕を抱かなかったことを後悔させてやるぞ、帯刀貢』
 図書室の鉄扉にしどけなく凭れかかり、上着をはだけた直の姿態が脳裏に浮かぶ。上着の中に手を探り入れて肩を抱き、生白い素肌を露出させた直の笑顔を何度となく反芻する。
 貪欲、狡猾、邪悪、その種類の笑顔。
 直らしくもない露悪的な笑顔。
 図書室で宣戦布告した直を彼は引き止めることができなかった、逃げるように背を向け走り出した直を追いかけることができなかった。
 何故なら隣に静流がいたから、隣で静流が見張っていたからだ。
 本当ならすぐさま直を追いかけたかった、みっともなく声を荒げて直を呼びたかった。
 否、何をおいてもそうすべきだったのだ。
 直にあんな自虐的な行動をとらせたのは自分だ、直を追い詰めて自暴自棄な振る舞いをさせたのは自分だ、すべて自分の無神経と鈍感が頑強だと重々承知している。
 静流の上着を掴み、裸に剥こうとした直に発作的に手を上げた件を回想する。
 あの時はああするより仕方なかった、興奮状態の直を静流から引き離すには暴力で威嚇するしかなかった。
 平常心を失った直は静流に対する憎悪に駆られて何をしでかすかわからない不穏当な状態だった、静流を傷付ける可能性すらあった。
 奇声を発して静流に掴みかかる直を正気に戻すには手を上げるしかなかった。
 本気で殴るつもりはなかった。
 しかしあの瞬間、聞き分けのない直に激昂して手を上げた事実は消せない。
 そして彼は決定的な間違いを犯してしまった。
 『僕を、殴るのか?』
 恐怖に強張った顔でこちらを仰ぐ直。書架に背中を凭せ掛けへたりこんだ直の目は裏切りに酷く傷ついていた。
 その目が訴えていた。
 サムライは売春班の客と同じだと、売春班の客の同類だと無言で責め立てていた。
 まずい、と思った。
 しかし後悔したときには遅く、直は一目散に走り出していた。静流と並ぶサムライなど見たくないと孤独な背中が語っていた。サムライは慌てて彼を追った。たとえ本気で殴るつもりはなくても手を上げたのは事実、「殴ろうとした」のは事実なのだと今頃噛み締めても遅い。手遅れだ。直のトラウマを無神経に抉ったおのれの愚かさを痛感しつつ後を追えば、謝罪を述べるより先に口汚く罵倒された。

 『僕と静流どちらが大事なんだ!?』

 悲痛な叫びが耳を貫く。
 直はそれでも期待していた、心のどこかで一縷の希望に縋っていた。サムライが身内の静流ではなく他人の自分を選ぶわずかな可能性に賭けていた。眼鏡越しの目は極端に思い詰めて一途にサムライを見上げていた。
 嘘でもいいから今この瞬間だけは自分を選んでくれと懇願する痛々しい眼差しだった。
 衆人環視の中プライドをかなぐり捨て、ただひとりの友人を繋ぎとめるために愚かな自分を曝け出すにはどれだけの勇気が要ったことだろう。いつも冷静沈着、辛辣な毒舌で他者を攻撃する直が周囲の目も気にせず絶叫したのだ。
 サムライは、咄嗟に本音を口にした。
 武士に二言はない。それ以前に直に嘘は付けない。
 嘘は卑劣な行いだと厳格な父に幼少期から叩き込まれてきた。ましてこれほど真剣な相手に偽りを語るのは不公平だ。自分が優柔不断で不実なことはわかっている、それ故直を苦しめている自覚もある。
 だがそれでも今目の前にいる男が友人のサムライか帯刀貢という名の他人か見極めようと真っ直ぐな視線を向けてくる直に対し、口あたりのいい嘘はつけなかった。
 嘘をついても、見抜かれてしまう。
 『お前も静流も大事だ!!』
 嘘はつきたくなかった、つけなかった。
 何故ならそれは二重に直を裏切る行為だから。
 血を吐くように本音を叫んだ次の瞬間、頬に衝撃を感じた。直に頬を叩かれたのだ。怒りは湧かなかった。
 ただ、驚いた。
 腫れた頬を庇いもせず呆然と立ち尽くすサムライの正面、両手を脇に垂らして首を項垂れた直が、ぞっとするほど暗い声をだす。
 『…………汚い手でさわるな。不潔だ』
 緩慢な動作で顔を上げた直を正視し、言葉を失った。
 酷い、顔だった。眼鏡の奥の目は乾いていた。完璧な無表情。
 怒ったり泣いたりごくまれに笑ったり、サムライの隣で表情豊かに過ごしていた直とは別人としか思えない変貌ぶり。
 殴られた頬より、自責の念が刺し貫く胸の痛みのほうがずっとこたえた。
 直は図書室をとびだした。サムライは咄嗟に直を追いかけようとした。野次馬の人ごみを掻き分け喧騒を抜け直に追いつこうとした。待て、行くな、直!情緒不安定な直を独りにするのは不安だった、図書室で挑発的な言動をとった直が他の囚人に襲われないか気がかりだった。 直についててやらねばと駆け出しかけたサムライを制したのは、いとこの声だった。
 『大丈夫?貢くん』
 心配げな表情で覗き込んでくる静流と廊下を遠ざかる背中を見比べ、束の間逡巡する。直を独りにするのも不安だが、静流を独りにするのもまた不安だった。図書室には数人看守がいる。
 先刻静流を犯そうとした看守も混ざっているかもしれない。自分がいなくなれば静流の体を狙う看守がまた手を出してこないとも限らない。
 だが。
 サムライの視線の先、直が急速に遠ざかる。
 全速力で廊下を走り去る直の背中を凝視、心を決める。
 『……悪いが静流、俺は直を追う。今のあいつを独りにするのは不安だ。お前とはここで別れる。俺と別れたあとは寄り道せず房に戻りきちんと施錠しろ。看守が訪ねてきても絶対開けるんじゃないぞ。良いな』
 固い声音で言い聞かせ、肩の手をどける。
 『貢くん、さっき食堂で言ったじゃないか。来たばかりで道がよくわからない僕の為に東京プリズン案内してくれるって。約束破るの?図書室に来てすぐはぐれちゃったから二人一緒にいた時間なんて少ししかないのに』
 静流が少し恨めしげな目つきで不満を訴える。そうだ。図書室に到着後すぐ静流とはぐれた。「はやく東京プリズンに馴染みたいから案内してよ」と食堂で話しかけてきたのは静流はしかし、図書室に来た直後に人ごみに紛れ込み書架の間に……
 『………』
 何かがひっかかる。何故静流は図書室ではぐれた?あれだけ口うるさく「そばを離れるな」と言い聞かせたにも関わらず……
 まるで、自分から危険に飛び込んでいったみたいに。得体の知れないものに呼び寄せらるように。
 『どうしたの?』
 『―とにかく俺は直を追う、あいつが心配だ』
 無垢に問いかける静流からよそよそしく目を逸らし、断固言い放つ。直の背中はすでに見えなくなっている。ひとりでどこへ行くつもりだ?まっすぐ房に帰ってればいいが……躊躇いをかなぐり捨て、一歩踏み出しかけた背中に人肌のぬくもりが覆いかぶさる。
 『行かないで』
 背後から静流が抱きついてきた。サムライの腹部に腕を回して五指を組み、肩甲骨の間に顔を埋め、気弱に呟く。
 『図書室にはまだ僕を犯そうとした看守がいる。ひとりきりになるのが怖いんだ。貢くん、一緒にいて』
 切実な懇願。後ろから抱きすくめられたサムライは、訥々と思いの丈を吐き出す。
 『……俺は直を傷付けた、直を裏切った。あいつに謝らねば。かつて守ると誓ったくせに武士の役目を果たせず信念に唾を吐き、今の俺は最低の……』
 『最低なんかじゃない。貢くんはいつだって僕の憧れ、帯刀家最強の剣の使い手だったじゃないか。君が気に病むことなんて何もない。直くんは今ちょっと拗ねてるだけ、僕たちの関係に嫉妬してるのさ。でもそのうちきっとわかってくれる、僕と直くんは仲良くなれる』
 静流が優しく囁く。直の背中はすでに見えない、サムライの手の届かぬ場所に行ってしまった。
 図書室の喧騒の中、愕然と立ち竦むサムライの背中に身を摺り寄せ、獲物を絡めとる蜘蛛のごとく疑心暗鬼の巣を張り、囁く。
 『行かないで、貢くん。僕を捨てたら苗さんの二の舞だよ』
 苗。
 サムライが、否、在りし日の帯刀貢が守りたくて守りきれなかった女。
 苗の名を出された途端に心の奥に封じた記憶が次々と蘇り、直を追いかけようという気持ちが霧散する。静流を苗の二の舞にさせてなるものか、絶対に。もう二度とあんな形で大事な人間を失うは耐えられない、身内を失うのは耐えられない。
 『―っ!』
 直への未練を捨て去りがたく、きつく目を閉じたサムライの体に細腕が巻き付く。強く、強く、徐徐に強く。
 サムライを抱擁しながら静流は邪悪に笑っていた。

 それから数時間が経過、就寝時刻は過ぎたが直はまだ帰ってこない。
 明日も強制労働が控えているのにどこをうろついているのだと心配が募る。強制労働を控えた身であるのはサムライも同じ、そろそろ床に就かねば寝不足になってしまう。
 しかし、直を残して寝るわけにもいかない。般若心境で気を紛らわせようとしたが、百回くりかえし唱えても鉄扉が開く気配はない。
 「……門限を破るとはけしからん。どこに居るんだ、直は」
 静寂に耐えかね、愚痴を零す。睡魔は一向に訪れない。直の身を案じる心労が嵩み眠りを遠ざけているのだ。
 ベッドに腰掛けたサムライの視線の先には枕が正しく配置されたからっぽのベッドがある。普段直が使っている粗末なパイプベッドだが、今宵は毛布が捲れた形跡も見当たらない。
 直不在の房はいつもより広々と殺風景に感じられる。すでに日課の写経と読経を済ませ、筆と硯を片付け終えて手持ち無沙汰になったサムライはこうして飽きもせずからっぽのベッドを眺め続けている。
 「……遅い」
 遅い、遅すぎる。いくらなんでも遅すぎる。
 夜分遅くまで帰ってこない直の身を案じるあまり不吉な想像が過ぎる。ひょっとして直の身に何かよからぬことが起きたのではないか、帰りたくても帰ってこれないのではないかと危惧を抱き、居ても立ってもいられず房の中を何往復も徘徊する。
 じきに帰ってくるだろうと寝ずに待っていたが、就寝時刻を大幅に過ぎても帰ってこないのはさすがにおかしい。
 房の中を忙しなく歩き回りながら、図書室の出来事を回想する。
 『僕を抱かなかったことを後悔させてやる、帯刀貢』
 そう言って自ら上着をはだけ、男を誘惑する直。
 下腹部を露出した直を囲み、熱狂した囚人が生唾を呑む。
 直後に直を見失ったが、もしや今頃、図書室の出来事を真に受けた囚人たちが直に乱暴を働いているのではと胸に疑念が芽生える。
 やはり後を追うべきだった。後から悔やんでも遅いとわかっているが、静流に抱きすくめられて硬直したおのれを不甲斐なく思う。
 あの時すぐに追っていれば見失うこともなかった、言葉を尽くして説明すれば誤解も解けた。
 「つくづく不器用だな、俺は」
 房の真ん中で立ち止まり、失笑する。だが笑い慣れてない顔の筋肉はすぐに萎縮し、仏頂面で鉄扉をかえりみる。
 捜しに行くか。
 先刻から何度もその選択肢を考えた。はたして直が自分が迎えに行って喜ぶだろうかという疑問はあるが、そろそろ直の不在に耐え難い苦痛を感じはじめていもいた。
 直が心配だ。
 もし他の囚人に酷い目に遭わされていたらと考えると気が狂いそうになる。すぐさま捜しにいかなかったのは拒絶されるのが怖かったからだ。図書室で最悪の別れ方をしてのち直と自分の心は完全にすれ違ってしまった。少なくとも直はそう思っている、思い込んでいる。
 はたして自分が捜しに行ったところで直が喜ぶかどうか、またもむきになり逃げ出してしまうのではと疑惑が疑惑が呼び行こうか行くまいか苦悩が深まる。

 どうすれば直を傷付けずにすむかわからない。
 直を傷付けるのが、怖い。

 「………やむをえん」
 ついに決心、大股に鉄扉に歩み寄る。
 直を傷付けるのが怖いだと?馬鹿を言え。自分がぐずぐずしてる間に直に危害が及ぶ、そちらのほうが余程恐ろしい。直がどこにいるかはわからないが、たとえ本人が嫌がっても力づくで連れ戻す。売春班に迎えにいった夜、この腕に直を抱いて必ず守ると誓った言葉は嘘ではない。
 静流も直もどちらも大事だ。
 だが。
 「………『守ってやりたい』と『守りたい』は違うんだ」  
 ひんやりしたノブを握り、暗い目で独りごちる。
 静流のことは守ってやりたいと思う。幼い頃から心優しい泣き虫だった静流、姉に虐められては自分に助けを求めた静流には庇護欲を感じている。守ってやらなければ、と思う。守ってやるのが義務だと思う。しかし直のことは積極的に守りたいと思う。他の人間には任せておけない、自分自身が守りたいと強く思う。
 口下手な自分はその違いをうまく説明できず、結果直を怒らせてしまったが……
 その時だ。
 「!」
 軽く鉄扉が鳴る。だれかが鉄扉をノックしている。
 こんな時間にだれだと疑問を挟むより先に直が帰ってきたと早とちりし、安堵に表情を緩めて扉を開け放つ。
 「直、どこへ行ってたんだ!?門限は守れと」
 「今晩は」
 ノブを握ったまま絶句する。
 内心直が帰ってきたと喜んで扉を開けたのに、眼前にいるのは心細げな笑みをちらつかせる静流だった。
 「夜遅くに何用だ。就寝時刻を過ぎて出歩いてるのを看守に見つかればまずいことになる」
 「どうしても貢くんに会いたくて」
 静流が人懐こく微笑む。相対した人間の警戒心を霧散させる笑顔。
 夜更けにサムライの房を訪ねた静流は、サムライを押しのけるように房の中を覗き込み、「へえ、僕の房と殆どおんなじだ」と無邪気な感想を述べる。
 サムライは困惑していた。静流は数日前看守に襲われたと言っていた。数日前看守に襲われたばかりの人間がこんなにも無防備に外を出歩けるものだろうか?
 恐怖心が麻痺しているとしか思えない。
 「わざわざ俺に会うために房を訪ねてきたのか。静流、お前には警戒心が足りん。数日前、いや、ほんの数時間前にあんなことがあったばかりだというのに単身房を抜け出して、万一のことがあったらどうする気だ?」
 「房にひとりでいるほうが怖い」
 不意に口調を改め、真剣な顔で言う。
 「房にひとりでいるといつまた看守が訪ねてくるか不安で不安でしょうがなくて眠れない」
 「きちんと施錠すれば大丈夫だ」
 「看守は合鍵を持ってる。その気になればいつでも僕の房に入ってこれる。ぐっすり寝入ったところを襲うことだって」
 「考えすぎだ」
 「貢くんは強いから僕の気持ちなんてわからないだろうけど」
 静流が卑屈に笑い、潤んだ目でこちらを見上げる。
 「お願い、貢くん。今日一晩でいいから泊めてくれないかな。あんなことがあったばかりで怖くて怖くてしかたないんだ。いつまた扉が勝手に開けられて看守が乗り込んでくるか不安で一睡もできない。貢くんと一緒なら不安な夜にも耐えられる、僕の身に起きた忌まわしい出来事を忘れられる」
 「静流、俺はこれから直を捜しにいく。図書室で喧嘩別れして以来直は戻ってこない、また厄介事に巻き込まれたのではないかと案じているのだ。俺が帰るまで房は勝手に使って構わない、寝床は自由に使ってくれ。くれぐれも施錠は忘れるな。俺はこれから直を連れ戻しに……」
 「直くんならついさっき見かけたよ」
 蛍光灯の光に青白く照らされた廊下に佇み、能面めいて不気味な笑顔で静流が続ける。
 「ほら、僕がここに来た初日に食堂で喋ってた男の子がいたでしょう。目つきが悪い」
 「……ロンか?」
 「そう、彼の房にいたよ。僕の房からここに来る途中に偶然見かけたんだ、友達の房に吸い込まれるところを。あの様子から察するに今夜は帰るつもりないんじゃないかな?貢くんと言い争ってだいぶ腹を立ててたみたいだから」
 ロンの房にいる?本当か?
 プライドの高い直がロンを頼るとは考えにくいが、自分と喧嘩したあとまっすぐ房に帰るのも屈辱的だろう。
 どちらがよりあり得ぬ事か判断つかずに黙り込んだサムライと対峙、静流が口の端を歪める。
 「僕の言葉を疑うの?」
 「そうではない。ただ、直らしくないなと思っただけだ」
 静流の哀しげな顔に気付き、失言を悔やむ。思い返せば静流が嘘をつくはずがない、嘘をつく理由がない。直がロンの房にいると嘘をついたところで静流には何の利益もないのだと考え直し、決然と顔を上げる。
 「やはり直を迎えに行く。ロンの房を訪ねて直を呼び出す。今日の一件は俺に落ち度があった、俺の失言が直を追い詰めたのだ」
 「今から?就寝時刻を過ぎて出歩いてるところを見つかれば看守にこっぴどく叱られるってさっき貢くんが言ったばかりじゃないか。それに直くんだってもう寝てるよ。ただでさえ慢性的睡眠不足で目の下に隈作ってるのに夜分遅くに叩き起こしちゃ可哀想。友達のロンくんだって迷惑する」
 静流が非難がましく正論をぶつけ、サムライはしぶしぶ引き下がる。
 ロンの房にいるなら心配することもないだろうと無理矢理納得したサムライに二の腕を擦りながら畳み掛ける静流。
 「寒い。このまま廊下にいたら風邪ひきそうだ。中に入れてくれないかな」
 「………」
 今すぐ直を連れ戻したい衝動を抑圧し、鉄扉を大きく開いて静流を迎え入れる。静流の言い分が正論だと頭ではわかっていたが心が応じない。
 直がロンの房にいると聞いても完全には不安を打ち消せず、釈然としない面持ちで鉄扉を閉じたサムライをよそに、静流はからっぽのベッドに歩み寄る。
 「待て!」
 振り向き、おもわず声をかける。
 靴を脱いでベッドに膝をかけた静流が物問いたげにこちらを見る。
 「……それは、直の寝床だ」
 「だから?」
 おのれの口をついて出た言葉に狼狽するサムライを悪戯っぽく見返し、静流は毛布にもぐりこむ。
 「今夜はいないんだからいいじゃないか。それとも貢くん、僕に床で寝ろっていうの?小さい頃みたいに同じ布団で寝てくれるんなら嬉しいけど」
 「馬鹿を言え、何年前の話をしている」
 憤然と踵を返し自分のベッドに戻るサムライを、静流は笑顔で見送る。戻りがてら頭上に手を伸ばし裸電球を消し、ベッドに潜り込む。暗闇に衣擦れの音が響く。静流が毛布の中で動いてるらしい。
 「懐かしいね。こうして二人きりでいると昔を思い出す。母さんと伯父さんが疎遠になる前、分家と本家の行き来があった頃を」
 壁を隔てて聞こえてくる規則正しい寝息、衣擦れの音。
 静寂に支配された闇の中、わずかな距離を隔てたベッドから静流が声をかけてくる。
 「覚えてる、貢くん?僕たちがまだ小さかった頃、裏庭の桜の木に登って遊んだことがあったでしょう」
 「……ああ」
 「姉さんはお転婆だから着物の袖をからげて、上までひょいひょいと登っていった。けど僕は臆病だから下で見てるだけ。姉さんにはさんざん馬鹿にされたっけ、分家の跡取りのくせに情けない、本当に男の子なの、ちょっとは貢くんを見習えって……」
 静流の昔語りが呼び水となり子供の頃の記憶が蘇る。 
 赤や紫の華やかな着物を身に纏い蝶のように気まぐれに弟を翻弄する薫流、いつも穏やかに微笑んでいた苗。意地悪な姉のあとを一生懸命追いかけ回す小さい静流を思い出し、自然と口元がほころぶ。
 「薫流は昔から口達者だった。口喧嘩では負け知らずで俺も随分とやり込められた」
 「薫流姉さんと貢くんと喧嘩になると決まって苗さんが仲裁に入った。僕は二人のまわりでおろおろしてるだけ」
 「苗は昔から気配り上手だった」
 苗の名を口にした途端、哀惜に胸が痛む。男勝りな薫流は気に入らないことがあるとすぐまわりを攻撃した。
 木登りの際枝にひっかけて袖を破ったことに怒り、「なんですぐ教えてくれなかったの、気が利かないひとね。あなたと所帯をもつひとは絶対苦労するわね」と怒鳴られた時はさすがに腹を立て、あわや掴み合いの喧嘩になりかけた。苗が居てくれなければどうなってことかと当時を思い出すたび苦笑が零れる。
 「俺と所帯をもつ女は苦労すると薫流に言われたことがある」
 「へえ、いつ?」
 静流が興味深げに聞き返す。
 「七歳の時だ」
 「………恐ろしい姉さん」
 「使用人の話を盗み聞きして難しい言い回しを覚えたのだろう。薫流はませていたから」
 「楽しかったね」
 「ああ」
 「本家の庭は広くて遊び場には事欠かなかった。鯉に餌をやったり木登りしたり、かくれんぼは石灯籠の陰がお気に入りの場所だった。僕の遊び相手といえば物心ついた時から姉さんだけだったから、苗さんや貢くんが遊び仲間に加わってすごく楽しかった。母さんは厳格な人で近所の子供たちと交わるのにいい顔しなかったから、同年代の男の子の友達は貢くんひとりだけだった」
 静流もまた帯刀分家の跡取りとして世俗と隔離され育てられた少年だった。
 時代錯誤な秘密主義が帯刀家の特徴。
 高い塀の内側では何百年も変わらぬ生活が営まれている。
 サムライもまた幼い頃より父の厳格な指導のもと剣一筋に生きてきた。
 幼い頃より剣の才能を発揮し、末は人間国宝の祖父をも凌ぐ剣の使い手と期待され、帯刀家の跡取りとなるべく育てられたのだ。
 「昔に戻りたい」
 静流がぽつりと呟く。
 「姉さんと苗さんと貢くん、皆で一緒に遊んだ頃に戻りたい。おもえばあの頃がいちばん無邪気で幸せだった。毎日姉さんにいじめられてたけど、苗さんと貢くんが庇ってくれた。姉さんもたまに優しくしてくれた。母さんも健康で美しかった。貢くんは晩年の母さんを知らないだろうけど、そりゃあ酷いものだったよ。自力で床から起き上がることもできないくらい病み衰えて、姉さんそっくりの美しい顔がげっそりやつれて、とても直視できなかった」
 「……叔母上を見舞えなくてすまん」
 「いいさ、どうせ莞爾さんに禁止されてたんでしょう。あの人のやりそうなことだ」
 くっくっくっとさもおかしげに喉を鳴らす静流の様子を訝しんだサムライへと、軽い声が投げかけられる。
 「貢くん、知ってた?姉さんは貢くんのことが好きだったんだ。ずっと昔から」
 「…………は?」
 鈍い反応が笑い上戸に拍車をかけたのか、甲高い哄笑があがる。
 「片思いしてたんだよ、ずっと。そのぶんじゃ全然気付かなかったみたいだね。姉さん意地っ張りだったから自分から告白するなんて柄じゃないし貢くんの前じゃつんけんした態度とり続けてたし、気付かなくても無理はないけどさ」

 不意に笑い声が途絶え、水面のような静寂が立ち込める。

 「『玉の緒よ 絶えねば絶えねながらえば 忍ぶることのよわりもぞする』」
 衣擦れの音にかき消えそうにかすかな囁きが耳朶をくすぐる。
 「どのみち叶わぬ恋、報われぬ想いだった。貢くんのそばにはいつも苗さんがいた。姉さんが入りこむ隙なんて最初からなかったんだ」
 背後で衣擦れの音がする。静流が寝返りを打ったらしい。 
 薫流が自分に恋慕していたと知り動揺を隠しきれず、サムライは毛布をたくしあげる。閉じた瞼の裏側に薫流の面影を呼び起こそうと試してみるも、サムライが覚えているのは幼い頃の薫流のみ。当時から目鼻立ちの整った華やかな顔だちをしていたが、おっとりした苗とは対照的な性格の薫流をサムライは……否、貢はひそかに苦手に思っていた。
 成長してからは数回しか会った記憶がなく、じっくり話し合った機会は皆無。薫流がこんなつまらない男のどこに惚れたのか皆目見当がつかず押し黙ったサムライを現実に戻したのは淡々とした問いかけ。
 「今でも苗さんのことが好きなの。ひとりの男として苗さんを愛しているの」
 「…………」
 サムライは答えない。なんて答えたらいいかわからない。
 苗を忘れたといえば嘘になる。かつて愛した女のことは一生かかっても忘れられないだろうと思う。薫流の面影を想起するのはむずかしくても苗の面影ならたちどころに蘇らせることができる。
 苗の面影は数年の歳月を経た今も胸に巣食い、力及ばず愛した女を守り抜けなかった帯刀貢を責め続ける。
 静流が質問を変える。
 「貢くんも昔に戻りたい?苗さんが生きていた頃に戻りたいかい?」
 戻りたい、と答えかけて口を噤んだのは、苗の面影に取って代わり瞼の裏に去来した顔のせい。
 暗闇の底から浮かび上がってきたのは見慣れた顔。銀縁眼鏡をかけた無表情な少年が悲哀を宿した目でこちらを見つめている。  
 責めるでも詰るでもなく、ただ哀しげに。
 「否」
 自分でも驚くほどしっかりした声音でサムライは否定した。
 きっぱりした返答に予想を裏切られたらしく、静流が眉をひそめる気配がする。
 「過去に戻りたいとは思わん」
 「どうして」
 本当に不思議がっているかのように問いを重ねる静流に背を向けたまま、胸裏をさらい答えをさがす。脳裏に浮かぶ直の顔。今いちばん守りたい人間の顔。売春班に迎えに行った夜、この腕に直を抱いて必ず守ると誓った。腕に縋り付く直を愛しいと思った。
 直の為ならいくら自分が傷ついても惜しくはなかった、誰より何より直を守りたいとただそれだけを思い十ヶ月を生きてきた。

 直と共にいた十ヶ月を、嘘にしたくない。
 直と生き抜いた十ヶ月を否定したくない。

 今を否定して過去を選べばすなわち直を裏切ることになる、直と出会ってからの十ヶ月を否定することになる。それだけはできない、絶対に。過去に戻りたいとは思わない。何故なら、過去に戻ることは現実に不可能だから。苗はもう戻らない、苗を助けられなかった事実は変えられない。

 だが。
 直は今を生きている。
 俺の手の届くところで生きている。
 生きててくれる。

 「俺は苗を守りたかった。しかし今は、直を守りたいと思う」
 過去形で語るしかないかつて愛した女性と、現在形で語れる愛しい友人。かつて守りたかった女性がすでにいない事実を割り切れるようになったのは、今、守りたい人間がいるからだ。
 直がいてくれるからだ。
 「俺は直を愛しく思う」
 口が勝手に動く。静流が寝ているのか起きているのかもわからぬまま名伏しがたい衝動に突き動かされ、切迫した独白を続ける。
 「あいつを守りたいと強く思う。あいつのそばにいてやりたいと思う。いや、違う、いさせてほしいと願っている。俺が直を支えているんじゃない、俺が直に支えられているのだ!もしあいつと出会えなければ俺はいまだ過去の呪縛に囚われたまま、苗を守りきれなかった後悔と無念でやがて狂い死にしてたもしれん。武士の信念と矜持を捨て去り獄中で死に果てていたかもしれん。直は俺にとってかけがえのない大事な人間、生ける屍だった俺に再び剣を取る気力を与えてくれた恩人なのだ!!」

 直に会いたい。
 今すぐこの腕に抱きたい。

 毛布をどけて跳ね起きたサムライは、自分に覆いかぶさる影にぎょっとする。弾かれたように対岸のベッドを見ればもぬけのからだった。
 いつのまに忍び寄ってたのか全然わからなかった。
 暗闇に溶け込み立ち尽くし、静流が嫣然と微笑む。
 「行かせない」
 サムライの行動を見通したように宣告、突如静流が襲いかかってくる。何が起きたかわからず混乱する。突然、柔らかい布で口を塞がれる。尻ポケットから出した布きれでサムライの口を覆った静流が微笑、靴を脱いで腰に跨る。
 「ぐっ………!?」
 くらりと眩暈に襲われる。鼻と口を塞がれたせいで息ができない。鼻腔の奥を突くこの匂いは……
 「クロロフォルムさ。少量だから体に害はない。意識がぼんやり覚醒したまま金縛りにあったような状態が続くだけ」
 静流が耳朶で囁き、布きれをポケットにおさめる。
 静流を押しのけようと突っ張った腕からたちどころに力が抜ける。油断、していた。静流がまさかこんな暴挙にでるとは夢にも思わなかった。
 「何故、こんな……」
 舌が痺れて言葉が続かない。呂律怪しく問いかけるサムライを無視、手際よく上着をはだけていく。
 赤裸な衣擦れの音が耳朶にふれる。
 何が何だかわからない。自分の身の上に起きてることがわからない。一体全体何故静流が上着をはだけている?クロロフォルムを染み込ませた布で顔面を覆って自由を奪った?
 クロロフォルムを嗅がされたせいで指一本自分の意志では動かせないサムライの脳裏に、直の顔が過ぎる。

 『僕より静流を選ぶのか、サムライ!』
 『僕が嘘をついているというのか!』

 静流が自分から看守を誘ったなどにわかに信じられなかった。
 静流を背に庇うサムライと対峙、直は酷く傷ついた顔をした。 
 はたして直の言い分が真実だったのか?
 直の言う通り、静流が手のつけられない淫乱だとしたら?
 「な、お………」
 すまない。信じてやれなくてすまない。
 掠れた声で直を呼ぶサムライの上着を大胆にはだけた静流はしばしその引き締まった体に見惚れる。幼少期から過酷な修行に耐え抜いた上半身の至る所に無残な古傷が穿たれて、帯刀貢の上に流れた凄惨な年月を物語っていた。
 「……可哀想に、傷だらけだ」
 裸に剥いたサムライの上半身を舐めるように見て、恍惚と呟く。
 逞しい胸板、筋金の筋肉が付いた腹筋、男性的な肉体……
 それらをたっぷり眺めてから胸板に顔を埋め、乳首を口に含む。
 「!っ、く………」 
 熱い舌で乳首を転がされる。唾液を捏ねる音が淫猥に響く。薬の効用で四肢に力が入らないサムライは静流にされるがまま、自分の身に起きることを黙って見ているしかない。静流の舌使いはおそろしく巧みだった。
 乳首にたっぷりと唾液を塗りつけ、軽く前歯を立て、指先でいじくる。
 「気持ちいいでしょう。苗さんはこんなことしてくれなかったでしょう」
 静流が意地悪く微笑む。白い歯が闇に浮かぶ。ベッドに仰臥したサムライは執拗に乳首をなぶられる屈辱に耐えていた。
 「しず、るっ……正気にもど、れ……くっ、あ」
 鋭い痛みが走る。静流が乳首を噛んだのだ。乳首に薄っすら血を滲ませたサムライを見下ろし、静流が口を開く。
 「貢くん、病気にかかったことないから薬が効きやすいんだ。風邪ひいたら気合で治してたクチでしょう」
 暗闇に沈んだ天井を背に、静流がゆっくりと腰をずらしていく。
 腰を浮かして移動しながらズボンに手をかけ、下着と一緒に足首まで下げる。自分がズボンを脱いだ後はサムライのズボンに手をかけ、これもまた下着と一緒に下げおろす。
 「あた、りまえだ。薬に頼るなど武士にあるまじき惰弱な行い、日頃から心身を鍛えていれば病になどかかるはずもない……!」
 「莞爾さんの受け売り?」
 目に軽蔑を覗かせて失笑、サムライのズボンを下着ごと下ろして下半身を裸にする。何をする気だ?ぼんやり霞む意識の彼方、サムライの股間に何ら抵抗なく顔を埋めた静流が萎えた男根をまさぐり、舌をつける。
 「!!ふっ…………、」
 声が、でそうになった。ぴちゃぴちゃと汁を啜る音がする。違う、これは……唾液を捏ねる音。ベッドに寝たサムライの位置からでは静流が何をしてるかまでは見えないが、見えなともわかる。わかってしまう。やめろと絶叫したかった。体が言うことを聞くなら即座に突き飛ばしたかった。だが、できない。薬に免疫のないサムライはベッドに寝転がったまま、一方的な奉仕が終わるまで快感に耐えるしかない。
 「僕が東京プリズンに来るまでどうしてたの?ひとりでやってたの?禁欲は体に悪いよ。ほら、こんなに敏感になって……」
 「やめ、ろ」
 霞んだ目に映る光景に吐き気を催す。静流が、あの心優しく大人しい静流が、幼い頃からいつも姉に泣かされ自分のあとを付いて回っていたいとこが……こんな、おぞましい行為を?何故だ?何故なんだ静流。静流の真意を問い詰めたい衝動が膨れ上がるが、薬が体に回るにしたがい口を利くのすら困難になり、一方的に注ぎ込まれる快感にただひたすら耐えるしかない苦痛な時間が続く。
 「俺たちは、いとこ、だ。いとこ同士で、こんな……汚らわ、しい……」 
 ぴちゃぴちゃと音が響く。わざと下品な音をたて男根をしゃぶりながら、こもった声で静流が言う。
 「僕が東京プリズンに来た目的教えてあげようか」
 ひどく落ち着いた声だった。
 次第に下半身に熱が集まり、男根が勃ち上がったのを意識して羞恥に苛まれるサムライを見下ろし、静流は言う。

 「今は亡き姉さんの想いを遂げに来たのさ」

 どういうことだ、と叫ぼうとした。
 しかし声は出なかった。舌は完全に痺れて用を足さなかった。
 男根を勃起させた静流が誘うように腰を上擦らせ、背後に手を持っていく。唾で湿した指を肛門に潜らせ、くちゅくちゅと濡れた音をたて馴らしていく。ただそれだけで感じているのか、「あっ、あっ」といやらしい声が漏れる。
 おぞましい悪夢。
 「帯刀貢は僕の物だ」
 肛門に指を探り入れてサムライを迎え入れる準備を整えながら、恍惚と呟く。
 静流の目はこの世を見ておらず、姉が彼岸で手招きするあの世を幻視していた。 
 朦朧と濁った目を虚空に馳せた静流が、焦らすように緩慢な動作でサムライの股間に腰を埋めていく。
 「よ、せ」
 荒い息遣い、衣擦れの音。
 肛門から指を引き抜き、サムライの男根に手をあてがい自らの内側へと導き、静流は狂喜する。 
 「帯刀貢は僕たちの物だよ、姉さん」
 
 そして、その夜。
 帯刀貢は犯された。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050606004343 | 編集

 どこをどう歩いたか覚えてない。
 蛍光灯に照らされた廊下をただひたすら歩く。一歩一歩足をひきずるように、肩で壁を擦りながら歩く。頭はまだ混乱してる。今さっき見た光景が信じられず心は衝撃に麻痺してる。
 今さっき通りかかったサムライの房の前、廊下に佇む静流。
 俺には聞こえない距離で会話する二人。
 そしてサムライは静流を迎え入れた。
 どういう、ことだ?
 こんな夜遅くに、鍵屋崎もいる房に静流を迎え入れるなんて非常識な振る舞いサムライらしくもない。遠目に察するに静流に押し切られる形で招き入れたようにも見えたがそもそも合意が成立してなきゃ鉄扉を開け放ったりしないはず。
 就寝時刻をとっくに過ぎて大半の囚人が寝静まった時間帯、静流が単身サムライの房を訪ねた動機はなんだ?内緒の話でもあるのか?
 数年ぶりに再会したいとこ同士積もる話があるのもわかるが何もこんな時間帯に房を訪ねなくてもいいだろうと真っ当な疑問が浮かぶ。
 第一看守に見咎められたらどうする?夜間の無断外出は規則違反、看守にバレたら洒落にならない。
 叱責だけで済めばいいが最悪独居房送りの可能性もある。
 わざわざそんな危険を犯してまで夜更けにサムライを訪ねたのには相応のワケがあるはず。
 親しげに語り合う様子を思い出し、胸がざわめく。
 サムライと鍵屋崎の間に何が起きてる?二人が喧嘩中なのは知ってる、図書室で騒ぎを起こしたことだって……
 図書室の鉄扉に凭れた鍵屋崎が上着の中に手を探り入れ、衆人環視の中、生白い素肌を覗かせる。大胆かつ挑発的なポーズ。潔癖症の鍵屋崎らしくもない自暴自棄な振る舞い。
 サムライの無神経が鍵屋崎を追い詰めたのだとすれば、あいつの許可もとらず静流を招き入れるのはまずいんじゃないかと疑念が膨れ上がる。
 図書室の一件でサムライと鍵屋崎の心は完全にすれ違っちまった、第三者の手のつけようがないくらいに。もっと早く行動にでるべきだったと悔やんでも遅い、あとの祭りだ。
 思えば鍵屋崎は酷く思い詰めていた。
 見てるこっちが痛々しくなるくらい自虐的に苦悩していた。
 なんでもかんでも独りで抱え込んで深刻に思い詰めちまうのは鍵屋崎の悪い癖だと承知していながら、俺はまた何もできなかった。
 自縄自縛で身動きできなくなる前に相談に乗ってやればよかった、鬱憤の捌け口になってやればよかったと後悔しても遅い。
 気付いた時には手遅れだ。
 こじれにこじれた鍵屋崎とサムライの関係が元に戻るかどうかわからない。最悪、戻らないかもしれない。図書室の件を契機に二人の断絶は深まり心は離れてしまった。
 鍵屋崎はサムライを拒絶してサムライは鍵屋崎を敬遠する反発作用で、二人の心は近付くことなく、静流を間に挟んで隔てられていくばかり。
 鍵屋崎は大丈夫だろうか。
 今、どうしているんだろう。
 「…………はっ。また人の心配かよ、ばっからしい」
 足元に唾を吐く。鍵屋崎とサムライがいつになったら仲直りできるかとかぐだぐだ悩んでる場合かよ、どうだっていいじゃんかそんなの、もともと俺には関係ない。あいつらがどうなろうが知ったことか。
 俺は今それどころじゃないんだ。いい加減現実から目を背けるのはやめろ、と頭の片隅で声がする。いい加減現実を見ろ。人の心配ばっかすんのも現実逃避の延長だ。
 今の俺には他に心配しなきゃならないことがあるのに、どうしてもそれと向き合うのが嫌で、あいつらの痴話喧嘩の行く末をぐるぐる考えちまう。

 俺が他に考えなきゃいけないこと、
 『見るなロン』 
 考えなきゃいけないこと。
 『お前に見られたくないんだよ!!』
 「―――!!っ、」
 脳裏に立ち現われた光景に吐き気を催す。

 嫌だ、思い出したくねえ、あそこに戻りたくねえ。
 コンクリ壁をこぶしで殴り、首を項垂れる。蛍光灯に照らされた廊下は静寂に支配されている。左右の壁に等間隔に並んだ鉄扉の向こうからかすかな寝息が漏れてくる。
 格子窓の奥には濃い闇が凝っている。
 格子窓の奥の闇に得体の知れない怪物が潜む錯覚に囚われ、根拠のない妄想が恐怖を煽り立てる。
 格子窓の奥に誰かが、否、何がかいる。じっと息を潜め気配を殺して俺の一挙手一投足を見張ってる……監視してる。
 格子窓の奥から注がれる無数の視線を感じて異様に緊張感が高まる。勘違いかもしれない。そうであってほしい、と気も狂わんばかりの焦燥に駆り立てられて一心に祈る。
 激しい不安に苛まれて動悸が速くなる。左右の壁に並んだ鉄扉の上部、錆びた鉄格子が嵌まった矩形の窓の向こうには濃い闇が立ち込めている。格子窓の奥から悪意の波動を叩きつけられ肌が粟立つ。
 ……自意識過剰だ。大半の囚人はもう寝てる。
 看守の目を盗んで夜更かししてる囚人はいるだろうが、そいつらが全員こっちに注目してるなんてことあるか。気のせいだ。
 そう自分に言い聞かせ、壁に片手を付き、のろのろと歩き出す。
 行くあてはない。帰る場所もない。今の俺には居場所がない。
 房には帰れない……帰りたくない。帰る資格が、ない。
 レイジを見捨てて逃げ出した俺がいまさらどの面下げて出戻ればいい?たとえレイジが許しても俺自身が許せない。

 俺は、卑怯だ。
 最低の卑怯者で臆病者だ。

 苦しみ悶えるダチを見捨ててさっさと逃げ出した。
 あいつがいちばん苦しいときについててやれなかった自分が情けない。情けなくて情けなくてやりきれねえ。胸が苦しい。罪悪感で心臓が張り裂けそうだ。
 俺がそばにいてもレイジを苦しめるだけだとわかってる、だから逃げてきたのは正解なんだ、正しいんだと懸命に自分を説得し納得させようとしても心が反発する。違う、お前はただの卑怯者だ、ダチを見捨てて逃げてきた奴が正論ふりかざすなと非難する。
 俺が行くあてなくほっつき歩いてる間もレイジは苦しんでる。
 体の奥に玩具突っ込まれて、絶え間ない振動に責め立てられ、幾度となく絶頂に追い上げられて……
 俺はただ、あいつをラクにしてやりたかった。
 イきたくてもイけない勃ちっぱなしの状態から解放してやりたかった。指で掻き出すのが無理ならせめて口でイかせてやろうと恥もプライドもかなぐり捨て股間にむしゃぶりついた。
 レイジはぎょっとした。
 前髪の隙間から俺を仰いだ目には剥き出しの嫌悪の色があった。
 レイジの目に映った俺は飢えに狂った必死な形相で、あいつの下着に手をかけずり下ろし、母猫の乳首にしゃぶりつく子猫みたいにペニスを含もうとしていた。

 『お前に見られたくないんだよ!!』

 血を吐くような絶叫が耳の奥によみがえる。
 レイジは咄嗟に俺を突き飛ばした。視界が反転して体がバランスを失った。床に突き落とされた。鈍い衝撃、二の腕に鋭い痛み。裸電球の破片で腕を切り、一筋血が流れた。腕を垂らして起き上がった俺の眼前、ベッドに突っ伏したレイジが苦しげに訴える。
 『……頼むから……はっ、……これ以上、俺に構う、な……お前にさわられると、体が熱くなって……なおさら、辛くなる……』
 果てた獣じみて掠れた息遣い。苦鳴とも喘ぎともつかぬ呻き声を時折混ぜて、漸くそれだけ言ったレイジをぼんやり見下ろし、今の俺にできることは何もないと諦念に至った。
 俺がいるとレイジがもっと辛くなる。
 俺はここにいちゃいけない、今すぐレイジの視界から消えるべきだ。そして俺は房を出た。自分の意志で房を出た。野生化した豹が爪を研ぐさまを一晩中見せ付けられたら俺の方こそ気が狂っちまう。
 レイジのあんな、あんな欲情を掻き立てる姿を一晩中見せ付けられたら俺の方こそ気が狂っちまう。
 俺は、最低だ。玩具に責め立てられ絶頂に追い上げられ精を放つレイジを見て、下半身が勝手に興奮しちまった。勃っちまった。最悪だ。
 苦しんでるレイジに勃起するなんざ最低の変態、早い話但馬の同類じゃんか。
 「ちきしょう」
 房には帰れない。
 かくなるうえは一晩中廊下をほっつき歩いて時間を潰すしかないが、寒さが身に凍みる。考え無しに上半身裸で飛び出してきたことを後悔するが、服を取りに戻る気には到底なれない。
 最悪凍え死ぬかもなと見通し暗くなってしゃがみこむ。
 「はは。俺、全っ然変わってねえや。今も昔も」
 ガキの頃、着のみ着のまま追い出されたことがよくあった。
 お袋に客が来た時、ガキがいると気が散ると理不尽な理由で叩き出されてあてどもなく彷徨った。あの時と同じだ。全く同じ状況だ。お袋の情事を覗き見して叩き出されたガキの頃から俺はどこも変わってない、一個も成長してない。やっぱり今度も快楽に溺れゆくレイジのそばにいるのに耐えかねて、蛍光灯に照らされた廊下をほっつき歩いてる。

 たまらなく惨めだった。

 本当なら今すぐ所長室に殴りこむべきなのに、但馬を殺してやりたいのに、一握り残った理性が待ったをかける。
 看守に返り討ちされるだけだから馬鹿なことはやめとけ、独居房送りは嫌だろうと逸る心を諌める。
 結局俺は自分が大事で、自分の身が可愛くて、相棒を酷い目に遭わせた但馬を今すぐぶち殺してやりたくてもその代償に腕の一本や二本払わなきゃいけないとなると途端に言い訳に逃げる卑怯者だ。
 レイジは俺の為に片目を犠牲にしたのに。
 『…………全身無力』
 だるい。もう一歩も動けない。
 レイジは今どうしてるだろうか。体の中からどろどろに溶かされて快楽に狂わされている頃だろうか。
 房に戻りたい気持ちと戻りたくない気持ちが葛藤する。
 今すぐ房に帰ってレイジの無事を確かめたい、指で掻き出してやりたい、元凶を取り除いてやりたい。でも、レイジはきっと嫌がる。全身で俺を拒んで遠ざける。
 どうすりゃいいんだよ?
 コンクリ壁のざらついた表面に背中を預け、力なくへたりこむ。
 寒い。上半身が鳥肌立つ。手がかじかんで感覚が麻痺する。房に戻りたい、ベッドに潜り込んで毛布にくるまりぐっすり眠りたい。壁際に座り込んだ俺のもとへ二重の靴音が近付いてくる。
 顔を上げるのが面倒くさい。
 膝の間に首を項垂れた俺の方へ騒がしい声が近付いてくる。
 「ほらあんちゃん、言ったとおりだろう」
 「そうだ、その通りだ。疑ってすまない弟よ、あんちゃんを許してくれ」
 「わかればいいさあんちゃん、この世にたった二人きりの兄弟じゃんか。小便に起きたとき格子窓の外をスッと過ぎった人影に目を凝らしゃ半々だった。こんな夜更けに上半身裸でうろついて、強姦してくださいって宣伝して回ってるようなもんだろ?」
 「俺らに犯られたがってる奴を無傷で帰しちゃ可哀想だな」
 てんで勝手な理屈をほざきながら歩いてくるのは……残虐兄弟。頭の悪いやりとりで薄々感付いていたが、正面に来るまで顔を上げなかったのは単純に面倒くさかったからだ。
 格子窓の奥から感じた視線の正体が判明して拍子抜けした。
 「起きてんのか、半々。レイジと喧嘩して追い出されたか」
 あながち的外れでもない指摘に自嘲の笑みをこぼす。
 「行くとこねえなら俺らの房に泊めてやろうか。朝までたっぷり可愛がってやる」
 兄貴の方が恩着せがましく言い、弟が同調する。
 「上半身裸で追い出されたってことはコトの真っ最中だったんだろ?王様としっぽり楽しんでたんだろ?ちんぽに歯あ立てたか背中に爪立てたかで怒り買って追い出されてきたんなら、俺らの房で続きしようや。たまにゃ3Pもいいだろ」
 「失せろ。殺すぞ」
 残虐兄弟の相手をしてやる気分じゃない。
 精一杯ドスを利かせた声で威圧するも、残虐兄弟が立ち去る気配はない。俺の啖呵がさもおかしいとばかり肩を揺すって失笑する。
 「そんなナリで出歩いてたもんだから乳首が縮み上がってるぞ」
 「鳥肌もすげーよあんちゃん」
 「早速あたためてやんなきゃな。お前だって廊下で凍え死ぬのは嫌だろ?俺らの房に来りゃ毛布もあるぜ。お前を挟んで川の字になるのも悪くねえ案だ、残虐兄弟の肉襦袢であたためてやるよ」
 「肉襦袢って卑猥な響きだね、あんちゃん」
 廊下に哄笑がこだまする。
 のろのろと顔を上げ、残虐兄弟を交互に見比べる。
 格子窓の外をたまたま通りかかった俺を追いかけてきた残虐兄弟が、物欲しげな顔を並べてる。頷こうが断ろうが待ち受ける運命は同じだと匂わす態度に嫌気がさし、唇の端を吊り上げる。
 「夜が退屈なら兄弟でケツ掘り合ってろよ。あーんあん、いいようあんちゃーんってな」
 残虐兄弟の笑みがかき消えるのを醒めた目で確認、これから俺の身に起きることを漠然と想像する。
 不思議なほど恐怖は感じなかった。
 レイジを見捨てた俺自身に愛想が尽きた。
 上半身裸で出歩けば性欲持て余した連中にこれ幸いと犯られるのは目に見えてる。
 だから?
 すごすご房に逃げ帰るか?それができたら苦労しねえ。
 無表情になった残虐兄弟を見上げ、自ら逃げ道を断つように言い放つ。
 「犯りたいなら犯れよ。巷で噂の強姦魔の実力とやらを拝ませてくれよ。どうせ口だけだろ、お前ら。兄弟で強姦なんかしてんのも自分ひとりで女イかせる自信ないからだ。違うか?残虐兄弟なんて名前倒れに決まってら。兄貴にべったりひっついてるブラコンの弟と出来の悪い弟を猫可愛がりしてる気色悪ィ兄貴をひっくるめて呼ぶならバカ兄弟で十分だ。
 ところでバカ兄弟に質問だけど、お前ら兄弟ってどっちが『いいモン』持ってるんだ?今ここでズボン脱いで教えてくれよ、チンポの長さ大きさ比べっこしろよ。1ミリでもでかいモン持ってる方に先にくれてやっからさ。ああ、顔そっくりで見分けつかねえバカ兄弟はチンポもそっくり同じで見分けつかねえなんて期待外れのオチはなしだぜ?」
 くく、と喉の奥で卑屈に笑う。
 酷く愉快痛快な気分。挑発するように歯を見せれば、残虐兄弟の顔が怒りに紅潮する。先に行動を起こしたのは左側の、多分兄貴の方だ。
 俺の前髪を掴んでぐいと顔を起こし、唾を飛ばす。
 「王様もいねえくせにでかい口叩くじゃねえか、薄汚れた半々の分際で」
 「女に相手されねえから夜道で襲うっきゃねえタマ無し強姦魔の分際ででかい口叩くじゃねえか。上等だ」
 「タマならあるさ、お前より数段立派な金玉がな。見るか?しゃぶるか?」
 「いいね見せてくれよ、しなしなと萎んだ金玉を。そんなご立派な金玉もってるヤツが強姦なんかに走るもんか。下半身で女満足させる自信ねえから強姦なんてするんだろうが。威張んなよたかが強姦魔が。お前らだってレイジみたいにお綺麗な顔に生まれついてりゃ女にちやほやされただろうに、平々凡々クソ面白くねえツラでペニスも並以下ときちゃ強姦に走りたくなる気持ちもわか、ぐっ!!?」
 激痛。
 靴裏で股間を踏まれ喉から悲鳴が迸る。
 俺の前髪を掴んだ兄貴が陰湿な笑みを顔一杯に広げる。
 嗜虐の悦びに目を細めた胸糞悪いツラ。
 汚れた靴裏で俺の股間を踏み躙り、けたけた狂った哄笑をあげる残虐兄弟を睨み付ければ、反抗的な目つきが気に食わないらしくますます靴裏に体重がかかる。
 「ッ痛うっ、あああぁああづあ!?」
 脊髄から脳髄へ駆け抜ける激痛に悶絶、喉を仰け反らせて悲鳴を撒き散らす俺の様子がツボに入ったらしく残虐兄弟が笑い転げる。
 「股間踏まれてよがるなんて変態だあ」「カエルの子はカエル、淫売の子は淫売だあ」……好き勝手言いやがって。しきりに身をよじり靴をどかそうとするが、残虐兄弟が二人してのしかかってるために壁際に押さえ込まれたら手も足も出ない。
 額に脂汗が滲む。視界が赤く染まる。
 唇を噛んで激痛を堪える俺の至近距離に兄貴と区別つかない弟の顔が迫る。 
 「あんちゃん、こいつキスマークがある!」
 甲高い叫びに視線を落とす。弟の方が俺の鎖骨のあたりを指させば、下劣な笑みを滴らせて兄貴がうそぶく。
 「やっぱりレイジとお楽しみ中だったんじゃねえか」
 「妬けるねえ」
 「ケツで王様咥え込んだ気分はどうだ?」
 「いっそこのまま踏み潰してやろうか?俺らが使いたいのは後ろの『穴』だけ、こっちは要らねえしな」
 頭上で下品な笑声が飛び交う。レイジとのことをからかわれて頭に血が上る。体の脇で結んだこぶしが恥辱にわななく。
 残虐兄弟に殴りかかりたいが、へたに動いたら股間を捉えた靴裏に圧力がかかって激痛を生み出すせいで我慢するしかない。
 わざわざ首を伸ばして俺の鎖骨をじろじろ眺め、キスマークが本物かどうか擦って確かめる。
 指で擦られても薄赤い痣は消えない。
 乱暴に擦られた鎖骨がひりひりする。
 「おい、凱さん呼んでこい。せっかく捕まえた獲物だ、みんなで輪姦して楽しまなきゃな」
 「残虐兄弟のお手柄ふれまわらなきゃな」
 「凱さんもきっと喜んでくれるだろうさ、食堂じゃ涎垂らして半々のケツ追っかけてたからな」
 兄貴に顎をしゃくられた弟が「お手柄お手柄」と有頂天にはしゃぎ、足取り軽く走り出す。凱と不快な仲間たちを呼びにいく気か?冗談じゃねえ。兄貴がよそ見した隙に俺は逆襲にでる。
 無防備な顎を殴り付け、兄貴と入れ替わり身を翻す。
 「あ、あんちゃん!大丈夫かよあんちゃん!」
 「大事ない弟よ、あんちゃんの心配よか半々を追え!強姦魔のツラに手え上げるなんざ百回犯られても文句言えねえぞ!」
 どんな理屈だそりゃと腹の中でつっこむも振り向く余裕はない。
 残虐兄弟の罵声が追いかけてくるのを無視して走り出そうにもひりひり股間が疼いて腰が立たない。
 これじゃ追いつかれるのも時間の問題だ。
 壁に片手を付いて呼吸を整えれば靴音が急接近、ほらおこしなすったとお決まりの展開に頬を緩めたそばから肩を掴んで押し倒される。
 「!?ぐっ、」
 背中に衝撃、床で強打した後頭部に激痛。
 一瞬意識が飛ぶ。床に仰向けに寝転がった俺に覆いかぶさるのは兄か弟か……ああ、どっちでも大した違いはねえか。
 俺の腰に跨った残虐兄弟の片割れが陰惨な笑みをちらつかせる。
 犯られる、と確信。
 マウントポジションとられちゃおしまいだ。相手はまがりなりにもプロ、さっきみたいく油断してたんならともかく一度捕らえた獲物をおいそれと逃すはずない。
 裸の背中にひんやりと固い床があたる。
 蛍光灯の光が目に染みて視界が白熱する。
 俺の上に覆いかぶさった残虐兄弟の兄か弟かそのどっちかが、極悪非道の強姦魔にしちゃヤケに白い歯を覗かせ、心底愉快そうに笑う。おかしくておかしくてたまらないと発狂しそうに笑う。
 精一杯腕を突っ張ってどかそうとするも、いつのまにか俺の頭の方に回ってた片割れががっちり両手を固定され抵抗を封じられる。
 「いけいけあんちゃん、ぶちこんでやれ!巷を震撼させた極悪非道の婦女強姦魔、悪名高い残虐兄弟の実力見せてやれ!」
 「俺が先でいいのか弟よ」
 「いいさいいさ、これも一種の兄弟愛さ。あんちゃんにはいつでも攻めでいてほしい弟心わかってくれよ。生意気な半々に残虐兄弟の恐ろしさ思い知らせるにはあんちゃんがアレやるっきゃないよ、ほら、アレアレ!腹を殴りながら犯るアレ!穴ん中にこぶしねじこんでじゃんけんぽんしてぐーちょきぱーか当てさせるアレ、ハズレ一回につき歯あ一本がっちりもってくアレさ!」
 「よーし見てろよ弟よ、俺が済んだら譲ってやっからちゃんと押さえてろよ!」
 残虐兄弟は犯る気満々だ。物騒な会話から俺にのしかかってるのが兄貴の方だと知る。
 だから?
 このまま大人しく犯られちまうのは癪だが、じたばた暴れて助けを呼んだところで都合よくヒーローが現われるはずもない。
 突き詰めりゃ自分で何とかするっきゃないが、連続婦女強姦魔の兄弟は小柄な相手を組み敷くのに恐ろしく手馴れていて、死に物狂いに足掻いたところでいっかな抜け出せる予感がしない。
 蛍光灯に照らされた廊下にけたたましい笑い声がこだまする。兄貴の手がズボンにかかる。
 俺は目を動かし周囲を見回した。左右の壁に穿たれた鉄扉の向こう、格子窓の奥には闇が立ち込めてる。
 廊下の騒ぎに気付いてないはずないが、厄介ごとに巻き込まれるのが嫌で無視と無関心を決め込む連中を恨む気にはなれない。賢いやつならだれだってそうする。
 俺が房から逃げ出してみたいに、レイジを見捨てて逃げ出したみたいに……
 自業自得だ。
 俺がこうなるのは自業自得だ。犯られちまっても自業自得だ。レイジを助けてやれなかった、あいつを見捨てて逃げてきた。たった一人の相棒が苦しみ抜いてる時に何もしてやれなかった報いを受けると思えば、これから俺の身に起きることも許容できる。
 どうせ処女じゃない。ろくに馴らされもせず強引に突っ込まれりゃそりゃ痛いだろうが、ちょっとの間の辛抱だ。
 ……擦れてるな、俺。
 心は醒め切っている。喜怒哀楽の感情がごっそり欠落したみたいに、今まさに残虐兄弟に犯られるって危機一髪の状況でも「犯りたきゃ犯れよ」と諦念まじりの皮肉しか思い浮かばない。
 「犯りたきゃ犯れよ。ただ、俺をイかせられると思うなよ」
 残虐兄弟が怪訝な顔をする。
 「俺をイかせられるのはレイジだけだ。巷で悪名高い強姦魔だか何だか知らねえが犯る前にひとつご忠告だ、レイジに抱かれた俺をイかせたいならテク磨いて出直して来いよ。体力だけで女が悦ぶと思ってんならめでてえにも程があるぜ」
 レイジにテクで劣ると言われた兄貴の顔が怒りに充血、双眸で激情が爆ぜる。いい気味だ。俺は笑った。たかが強姦魔が調子乗りやがって、お前らなんかレイジの足元にも及ばねえよ。出直して来いよ。喉膨らませ笑い続けていたら平手で頬をはたかれた。

 ズボンと下着が膝まで引きずり下ろされる。 
 一糸纏わぬ下肢が外気に晒される。

 「勘違いすんなよ半々。お前がイくかイかねえはどうでもいい、肝心なのは俺がイくかイかねえかだ。突っ込む穴が前だろうが後ろだろうが関係ねえ、締め付けが良けりゃどっちだってかまわねえ。処女ならなお良かったんだがこの際贅沢は言わねえ、王様の食い残しで我慢してやる」
 「ひとを残飯みたく言うな」
 「「残飯は黙ってろ」」
 兄弟が呼吸ぴったりに唱和。
 哀しいかな残飯には発言権もないらしい。素肌をまさぐる手の不快さに目を閉じれば、瞼の裏にレイジの顔が浮かぶ。そろそろ肛門から出血してるんじゃないかとマジで心配になってきた。やっぱ本人が駄々こねても医務室に連れてくべきだった、医者ならきっとケツの奥まで突っ込まれた玩具を取り除いてくれる。看守におぶわれて帰還したレイジを見た瞬間そうすべきだったのに……

 「愛なき営みは感心しません。合意なきセックスはケダモノの振る舞いです」

 場違いに落ち着き払った声が介入する。
 「!?」
 残虐兄弟がぎょっとする。俺もおったまげた。
 やけに聞き覚えのある声に視線を巡らせば、俺たちのすぐそばに長身の人影が佇んでいた。七三分けに黒縁メガネ、やたら顔が濃いラテン系の囚人……ホセだ。
 待て、なんでホセがここに?東棟だろ、ここ。
 南棟の人間が越境してくる理由がないと訝しむ俺をよそに、お楽しみを邪魔された残虐兄弟が吠える。
 「みっ、南の隠者が何の用だ!?ここは東棟だぞ、東の囚人がやることに南の人間が口出しすんじゃねえ!」
 「南へ帰れ薄らボケ!!」
 口でこそ威張っちゃいるが、虚勢がバレバレ。元ブラックワーク上位、南棟のトップが相手じゃびびっても無理はない。
 ホセは残虐兄弟を無視してじっと俺を見つめていた。
 床に寝転がったまま、上半身裸に下着を引き摺り下ろされたカッコでホセの視線に晒された俺は羞恥に苛まれて目を伏せる。死ぬほど恥ずかしい。何されてるか一発でわかるカッコだ。何より恥ずかしかったのは、ホセの目には俺が諦めよく無抵抗に残虐兄弟に組み敷かれてるように映ってること。最後までしぶとく抵抗しねえ俺なんて俺じゃない、ブラックワークの試合で凱に突っかかってった俺じゃない。

 レイジの好きな俺じゃない。

 『厚瞼皮』
 「は?」
 「あつかましいって言ったんだよ!!」
 兄貴の顔面に頭突きを見舞う。
 俺の上から転落した兄貴に「あんちゃん!?」と弟が駆け寄る。
 今だ!
 片手でズボンを引き上げ、片手を壁に付いてよろよろと歩き出す。
 足首に爪が食い込む痛み。鼻面を手で覆った兄貴が、もう片方の手で俺の足首をがっちり掴んでる。
 「いがせるが半々!!」
 足首を掴まれ引きずり倒されそうになり、がくりと膝が折れる。
 滅茶苦茶に足首を捉える手を蹴り付けるが相手はしぶとく食らいつき、顔面に何発蹴りを食らっても俺を離そうとしない。
 凄まじい執念に舌を巻く。
 「今だおどうどよ!!」
 「任しとけあんちゃん!」
 心酔する兄貴にけしかけられた弟がこぶしを固めて殴りかかる。
 やばい、避けきれない!床に倒れた兄貴に足首を固定された俺は、烈風を纏いて迫り来るこぶしを見据えて硬直するより他ない。
 まともに入ったら鼻が曲がる。顔が潰れる衝撃を覚悟して固く目を瞑れば、聞いただけで十年は寿命が縮む絶叫が廊下を震撼させる。
 「ぎゃああああああああああっあああああああ!!!?」
 みしり、と不吉な音がした。万力で締め上げられたが如く手の甲が軋み、骨がひしゃげる音。おそるおそる目を開けてみれば、俺の前にホセが立ち塞がっていた。自ら盾になり俺を背に庇ったホセが弟の拳を片手で受け止め、五指に力を加えて締め上げたのだ。 
 「ロンくんは我輩の弟子。可愛い弟子のピンチを捨ててはおけません」
 「いでえいでえ骨が骨が鳴ってる、手の指があり得ない方向に曲がってる人体の神秘いいいいっ!?」
 激しくかぶりを振って泣き叫ぶ弟にも容赦なくますます指に力を加えれば、深更の静寂を引き裂いて身の毛もよだつ悲鳴が駆け抜ける。
 「右手の指を一本一本へし折ってさしあげましょうか?自慰ができなくなりますよ。手の甲を粉砕してさしあげましょうか。君は知らないでしょうが骨が折れる音は部位によって微妙に異なるんですよ。ゴリッ、ボキッ、パキッ。骨とは素晴らしい管楽器です」
 ホセの声が威圧的に低まる。
 「君の肋骨をノックして良心の在り処を問い詰めてあげましょうか。力加減を誤れば軽く三本はイきますが気合で治してください」
 俺に背中を向けたホセがどんな顔してるか簡単に想像できた。ホセは今黒縁メガネの奥の目を柔和に細め、白い歯を見せているはず。穏やかすぎるほど穏やかな笑顔を浮かべて手の甲を圧搾してるはず。
 「わ、悪かった悪かった俺たちが悪かったって!こいつにはもう手え出さないから今夜は見逃してくれよ、頼むよ隠者あっ」
 「よろしい。聞き分けのいい子は好きです」 
 ホセがパッと手を放す。弟が兄貴に縋り付いて啜り泣く。
 ホセに見送られそそくさ退散しながら、双眸に復讐心を燃やして俺を睨み付けるのを忘れない。
 残虐兄弟が角を曲がり見えなくなるまで廊下の真ん中に佇んでいたホセが、「さて」と振り返る。
 「奇遇ですねロンくん。夜のお散歩ですか」
 「お前こそどうして東に……」
 「知人のお見舞いです。だが今は我輩のことなどどうでもよろしい」
 ホセがわざとらしくかぶりを振り、あきれ返って俺を眺める。
 「夜更けに出歩けば強姦してくださいと言っているようなもの、自殺行為に等しい軽率な振る舞いです。しかも上半身裸とは東棟で流行りの健康法ですか?風邪をひいたところで強制労働は休めません。捨て猫みたいにしょげてないで房にお帰りなさい。レイジくんも待ってるはず……」
 「帰りたくねえ」
 「頑固ですね」
 「帰りたくねえ」
 「レイジくんと喧嘩したんですか」
 ホセが困ったように微笑む。
 壁際にしゃがみこみ、膝の間に頭を垂れる。房には帰れない。たとえ自分の身を危険に晒すことになっても一晩中出歩いてたほうがマシだ。
 ざらついた壁に裸の背中を付け、弱音を吐く。
 「……どこに行けばいいかわかんねえよ、俺」
 重苦しい沈黙。膝の間に頭を垂れた俺は、早く夜が明けてくれないかとそればかりを一心に祈る。さっきからずっと悪寒がする、体がぞくぞくする。風邪をひいたかもしれない。額に手をやれば微熱があった。
 「!っくしゅ、」
 人さし指で鼻の下をこする。
 全身に悪寒が駆け巡り上半身が鳥肌立つ。寒い。体に腕を回して暖をとる俺の前、考え深げに黙りこんだホセが予想外の行動にでる。
 あっけにとられた俺をよそに惜しげもなく上着を脱いで逆三角形の肉体美を晒す、男性的に厚い胸板と屹立した脇腹、六つに割れた腹筋が呼吸に合わせて収縮するさまに見とれる。
 「露出狂か?」
 熱のせいか頓珍漢な質問をした俺の顔面を布地が覆う。俺の方に上着を放ってよこしたホセが付け加える。
 「着てください。日頃から鍛えてる我輩と違ってひ弱っこのロンくんは風邪をひいてしまいます」
 「鍵屋崎と一緒にすんな。俺は野良だ、路上生活長いからこれしき………ぐしゅん!!」 
 これしき平気と続けようとして語尾はくしゃみにかき消えた。意地張ってる場合じゃねえと風邪ひきかけで痛感、大人しく袖を通す。思ったとおりぶかぶかだ。裾の余りが膝まで下りてくる。だらり垂れ下がった袖を二重に捲りながら、ぶっきらぼうに「謝謝」と呟く。
 ホセは微笑ましげに俺が袖を捲る動作を眺めていた。
 「今夜は我輩と寝ませんか」
 「は?」
 「行くところがないなら我輩の房においでなさい。ベッドは一つしかありませんがなかなか快適な場所ですよ」
 ホセと寝る?ベッドは一つっきゃない?それって……いや、まさか。ホセは親切心で申し出たんだ、下心なんかあるわきゃない。今夜一晩くらいホセの房に身を寄せてもバチあたらねえだろ。廊下で寝るよか遥かにマシだ。レイジの房に戻るよかマシだ。
 ベッド恋しさに頷こうとして、眼鏡の奥で危険な光を孕んだ双眸に気付き、思いとどまる。
 「どうされましたロンくん」
 「ホセ、お前……」
 背筋にぞくりと悪寒が走る。熱のせいだろうか、予断を許さないホセの目つきのせいだろうか?ホセは意味深に微笑んでいる。頷こうが断ろうが待ち受ける運命は同じだと暗喩するように、断れば実力行使も辞さないとでもいうふうに強大な威圧感をこめて。
 ホセを信頼していいのか?
 信頼できるのか?
 「………」
 心臓の動悸が激しくなる。
 至近距離にホセがいる。蛍光灯を背に逆光に塗り潰された表情は読めず、不気味に暗闇に沈んでる。ホセの指先が二の腕に触れる。
 裸電球の破片が刺さった傷口を探り、生渇きの血をこそぎとる。
 「怪我をしていますね。黴菌が入ったら一大事、早く手当てをしなければ」
 奇妙な棒読み口調が不安を掻き立てる。腕の傷口から破片を摘出、手のひらで輝くそれを握りつぶす。破片が粉々に砕ける音がする。ホセの指の間から微塵に砕けた欠片が零れ落ち、俺の膝に降り注ぐ。
 奇行を演じる隠者に本能的な恐怖を感じてあとじされば、俺の顔の横に手を付いたホセが低い声をだす。
 「ロンくん、我輩は今夜少々機嫌を損ねているのです。個人的に哀しい事件が起こりまして、傷心故に東棟を歩いていたのです」
 「娑婆のワイフから離婚届けが来たか?」
 悪い冗談だと反省する暇もなく激烈な反応が返ってきた。
 顔の横のコンクリ壁にびしりと亀裂が走り、粉塵が舞う。
 指に力を込めただけで手の形に壁がへこんだ。粘土みたいに柔軟に。
 「いけませんよロンくん。いかに寛容な我輩でもワイフ絡みの冗談を笑って許せるほど人間できてはおりませんのであしからず」
 「哀しい事件ってなんだよ。お前が見舞いに来たヤツと関係あんのか」
 「好奇心旺盛なのは結構ですがただでさえ不機嫌な我輩を苛立たせるのは無謀というもの……今宵我輩を不愉快にさせた責任をとる覚悟がおありですか」
 ホセが全身に殺気を纏う。凄まじい威圧感。
 黒縁メガネをとり、七三分けをかき乱し、前髪を額に垂らしたホセが不敵にほくそえむ。
 「不安要素は多々ありますがこの際ロンくんでも構わない。野望の片棒を担いでもらいましょうか」  
 謎めいた台詞を最後に意識が途切れる。
 ホセの鉄拳が腹にめりこんだのだ。  
 床に崩れ落ちた俺の頭を撫で、本性を現した隠者が独りごちる。
 「手駒は多いに越したことがない」
 と。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050605215514 | 編集

 誰かがうなじをくすぐってる。
 「ん……」
 くすぐったい、むず痒い、けどそれだけじゃない説明するのが難しい微妙な感覚。
 他人の手に触れられても不快じゃないのは俺のうなじを撫でてるヤツに心当たりがあるから。朝っぱらからこんなことするヤツは一人っきゃいない。レイジだ。
 お袋は敬虔なキリスト教徒のくせに父方の血が濃いのか愛情表現過激、スキンシップ過剰な相棒には毎度うんざりさせられる。
 額にキスされたり腋の下くすぐられる位ならまだしも時々服の中に手え突っ込んでくるから油断も隙もない。
 ここだけの話人には言えない場所をまさぐられて飛び起きるのも日常茶飯事、特に体を許してからはスキンシップがより過激に過剰になった、気がする。
 図体でかいくせして俺の寝床に潜りこんで来るのはやめろ押し出されるだろうがと一喝しても本人はてんで聞く耳持たず、「だって俺フィリピン生まれの冷え性だしロンの人肌ぬくいしちょうどいい抱き枕なんだよ」とか意味不明な反論される。
 断っとくがレイジの人間抱き枕になった覚えはない。全然これっぽっちもない。何が哀しくてむさ苦しい男と一つベッドで寝なきゃいけないんだと自分の境遇が呪わしくもなる。 
 誰かがしつこくうなじをくすぐってる。
 「!ふっ、あ……やめろ、くすぐってえよレイジ。しまいにゃ怒るぞ」
 寝ぼけ声で抗議、レイジの手から逃れようと寝返りを打つ。
 不覚にも感じちまったじゃんか、畜生。レイジに抱かれてからというもの体のあちこちが神経過敏になってる。特に人体の先端が刺激は弱く、おちおちうなじを晒して寝ることもできない。
 自慢じゃないが俺は寝相が悪く、夜のうちに毛布蹴飛ばして上着はだけちまうのが常だがそうすると貞操が危うい。無意識に腹も掻けやしねえ。
 レイジの隣でべろりと上着捲ってヘソさらけだそうものなら、朝起きたら下着脱がされてたなんて最悪の目覚めを迎える事になりかねない。
 だが、指はしつこく追ってくる。俺の急所を狙って後ろ襟の内側に潜り込んだ指が蠢き、くすぐったい快感を伝えてくる。
 俺が猫だったら喉をゴロゴロ鳴らしてたに違いない。猫じゃなくて良かった。刷毛みたいで擦るみたいにうなじを擦られ、悪寒と紙一重の快感がぞくりと背筋を駆け抜ける。
 「ふっ、く………あっ、あ」
 口から変な声が漏れる。体が勝手に反応する。レイジの愛撫で感じてたまるかと反発しても生理現象には逆らえない。レイジに抱かれた夜以来、自分でも持て余すくらいに体が敏感になってると認めざる得ない。
 ちょっと首の後ろを擦られただけでコレだ。
 しっかりしろ、俺。情けねえ。これ以上レイジを調子づかせるのは癪だ。
 うなじをねちっこく攻めていた指が、首沿いに滑り落ちる。
 指の火照りが肌に伝わり、おぼろげな快感が淫蕩な熱へと変わる。
 首筋を下りた指が鎖骨の上で踊る。
 鎖骨の窪みを辿るように弧を描く指………レイジの奴、調子乗りすぎだ。俺が寝ぼけてると思っていい気になりやがって。俺の素肌を撫でてた手が、下腹部をめざして淫猥に這い下りていく。
 貧相に薄い胸板、痩せた腹、そして……
 「う、あっく……っ」
 体が熱い。息が上がる。
 股間をめざして這い下りた手が、ズボンの内側に侵入する寸前で停止。
 『不要這様……熱……色鬼……』
 涙に潤んだ目で俺に覆い被る男を見上げる。
 意識は覚醒してるが、体がだるくて言うことを聞かない。変だ。喉の奥が焼けてるみたいだ。火の粉を吸い込んだみたいな違和感が喉の奥で膨れ上がり、涙目で咳をする。
 体がぞくぞくするのは風邪をひいたせいか?そこまで考え、熟睡してる間に自分の身に起きた異状を察する。薄い胸板を手で探ってみて、上半身に何も身につけてないことを再確認。
 急速に意識が覚醒、毛布を蹴飛ばして跳ね起きる。
 「おはようございます、ロンくん」
 上半身裸で跳ね起きた俺を迎えたのは、ホセ。
 きっちり七三に分けた髪の下には秀でた額、凛々しい眉、ラテンの血が濃い彫り深い目鼻だち。
 爽やかに挨拶したホセと自分のカッコとを見比べ、全身から血の気が引く。
 俺にのしかかったホセは非常識にも黒いビキニパンツ一枚っきゃ穿いてなくて、ぴっちり股間を覆った布地の下ではレイジのそれよかご立派なブツが存在を主張してる。
 これ突っ込まれたら痛いだろうな、と下世話な方向に傾きかけた思考を軌道修正、一糸纏わぬ上半身を探って凍り付く。
 「おま、えっ、何、なんだよこれホセお前俺が寝てる間になにしたんだ、上着、俺の上着はどこやったんだよ裸に剥きやがって!?ひとが正体なく眠りこけてる間に上着脱がして何する気だったんだこの変態、お前も残虐兄弟のお仲間じゃねえか!?」
 強姦された女みたいに二の腕を抱いてあとじさりがてら、下半身を見下ろして心底安堵。
 良かった、穿いてる。
 ズボンと下着まで奪われてたら卒倒するとこだった。て、待てよ。ここにホセがいるってことはここはホセの房でさっきまで俺のうなじ弄くってた犯人は……
 ホセ?!
 「見損なったぜラテン七三メガネ!愛妻家ってのは世を忍ぶ仮の姿で本性はラテンのリズムで女を口説く色事師かよ、永遠の愛誓ったワイフ裏切って心痛まねえのか、そもそも娑婆で帰りを待つワイフってのも嘘っぱちで実は独身なんてオチじゃねえだろうな!?ああもう絶望した、絶望した!お前にゃがっかりだホセ、まがりなりにも俺に特訓つけてくれたコーチだって信頼してたのにっ……」
 「落ち着いてくださいロンくん」
 「言い訳すんな!」
 「上着は最初から着てませんでしたよ」
 え?
 ホセの指摘に記憶が蘇る。
 そうだ、俺は最初から上着を着てなかった。上半身裸で房を飛び出てきたんだ。そして上半身裸でほっつき歩いてるところを残虐兄弟に襲われて……
 押し倒された床の冷たさ、顔にかかる吐息、瓜二つの残虐兄弟。
 あの時もしホセが通りかからなきゃ俺は犯られてた。
 ホセは命の恩人だと認識を改めたそばから感謝の念を打ち消すように意識が途切れる寸前の出来事がよみがえり、下腹部に違和感を感じる。こぶしで殴られた衝撃で腹がひりひりする。ホセの拳は人体の急所を的確に捉えた。俺は一発で気を失って、そして……
 それからどうした?
 「そんな目で見ないでください。レイジくんと勘違いされてたようで、反応が面白くて、つい……すいません」
 ベッドパイプに背中を凭せ掛け、毛布を膝まで引き上げあたりを見回す。内観は何の変哲もない房だ。閉塞感を与える低い天井、灰色のコンクリ壁、壁際のパイプベッド。俺の房とどこも変わらない……いや、違う。壁の至る所にべたべた貼ってある写真が違和感の源だ。手近の壁に貼ってある写真に目を凝らした俺は被写体が若い女だと確認、情熱的な美貌に目を見張る。お袋といい勝負の美人。
 「紹介します。我輩ホセの最愛のワイフ、カルメンです」
 ホセが頬を染める。
 「……実在したのか」
 「どういう意味ですかそれは」
 壁のあちこちに同じ人物の写真を貼ったさまは壮観だった。四面の壁を埋め尽くす写真を眺め、呆然と口を開けた俺の反応をどう解釈したか、大仰な身振り手振りを交えてホセが主張する。
 「ふふ、ウブなロンくんはワイフの美貌に卒倒せんばかりですね。しかし寂しい夜のおともにワイフの写真を所望されても応じかねますので悪しからず。たとえ写真といえど最愛のワイフを売り渡すなど悪魔に魂を売るにひとしく許されざる行い、ワイフの微笑みは永遠に我輩の物、他の男には指一本触れさせるものですか!!あ、半径1メートル以上近付かないください。指紋つけたら殴り殺します」
 慌てて手を引っ込める。
 四面の壁を埋め尽くす写真から目を逸らし、ベッドの端っこで膝を抱え込む。
 「つまりここは南棟のお前の房ってわけか」
 昨日ホセに殴られた腹を無意識に庇い、顔を顰める。
 「で、俺の腹殴る理由がどこにあんだよ」
 「我輩が殴った?」
 「とぼけんな」
 「とぼけてなどおりません。我輩は廊下で倒れたロンくんをここまで運んできただけ、断じて殴ってなどおりませんが」
 心底困り果てた顔で俺を見つめるホセに狼狽する。まさか。俺は昨日ホセに殴られた。腹に一発食らって気を失った。ホセに殴られた腹はまだひりひりするのに、当の本人があっぱれな態度ですっとぼけやがる。
 「嘘つけよ!俺の腹サンドバックみてえに殴ったくせにすっとぼけてんじゃねえ、ボクサーの拳は凶器だって知らねえのか!?」
 「どうやら記憶が混乱してるようですね。無理もない、昨夜倒れたときは熱で意識が朦朧としてましたから……強姦未遂を働いた二人組がしたことと我輩がしたことがごっちゃになっているのでしょう」
 ホセがしれっとうそぶく。こいつ、あくまでとぼける気か?シラを切り通すホセに激怒、真正面から殴りかかるも拳がすかっと空を切る。視界が霞み、対象と手元の距離感が狂う。体が言うことを聞かない。ホセの顔面を殴ろうとした拳がへろへろと頼りない軌道を描いてシーツに不時着、腕を振りかぶった反動でバランスを崩した俺はそのままベッドに突っ伏す。
 「くそ、力が入らねえ……」
 「朝一で医務室に行くのをお勧めします。我輩の見立てによると熱は三十七度以上、今日一日は安静にしてないと肺炎を併発します」
 「風邪で強制労働サボれりゃ苦労しねえよ。ここをどこだと思ってるんだ、悪名高い東京プリズンだぜ」
 「我輩を誰だとお思いで?レイジくんに南のトップを追われたとはいえ隠者の権勢はいまだ衰えず、イエローワークの看守に掛け合って一日休みを貰ってあげます」
 ベッドに倒れ込んだ姿勢から上目遣いにホセの表情を窺う。善良そうな顔。昨日ホセが俺を殴ったのは何かの間違いじゃないか、という疑惑が脳裏をかすめる。ホセの言う通り、残虐兄弟がやったこととごっちゃになってる可能性が否定できない。
 そうだ。きっとそうだ。
 行くあてない俺を一泊めてくれた上に看守に掛け合って休みを貰ってくれると宣言したホセが、どてっ腹に一発くれる理由が見当たらない。俺はきっと熱で意識朦朧としてたせいで勘違いしたのだ。ブラックワーク参戦した時は血も涙もねえ鬼コーチと呪ったこともあったけど、医務室じゃ親身に俺の相談に乗ってくれたホセが、レイジとすれ違って意気消沈してた俺を叱咤してくれたホセがボディーブローなんてかますはずない。
 そう言い聞かせて疑念を打ち消そうと努めるも、昨夜見た邪悪な笑みを忘れられず、慎重に問う。
 「……ホセ、本当だよな。嘘じゃねえよな」
 「勿論ですとも」
 生唾を飲み込み、ホセを見つめる。黒縁メガネの奥の目は知性を感じさせる。
 『手駒は多いに越したことない』
 意味深長な独白が耳の奥にこだまする。昨日の『あれ』は高熱が見せた幻覚だったのか?意識を失う寸前の記憶は朦朧として嘘かまことか判別つかない。軽くウェーブした前髪を額に垂らしたホセが情熱的なラテン男に変貌、俺を「手駒」と呼んだのも……
 「ワイフに誓えるか?」
 ホセが一瞬押し黙り、すぐまた笑顔になる。
 「誓えますとも」
 壁の写真を一瞥、厳粛に頷いたホセに安堵する。ワイフに誓って真実だというならもう信じるっきゃない。愛妻家に乾杯。とはいえ若干腑に落ちないものは残る。ホセの笑顔を額面どおり受け取れず、善意と悪意の境目が微妙な言動に付き合うのに疲れた俺は、東棟に帰ることにする。
 「……俺、東棟に帰る。今から帰りゃ朝飯に間に合う」
 「今日一日は安静にしてなきゃ駄目ですよ?」
 「気安くさわんな」
 額におかれた手を邪険に払いのけ、スニーカーをつっかけて房を突っ切る。背中に視線を感じる。房の中央に佇み、俺を見送るホセの視線。ノブに手をかけ押そうとして、もう一つの疑問に行き当たる。
 「ホセ。お前昨日、服貸してくれたよな」
 「はい、お貸ししましたが」
 「それじゃ何で俺、今朝起きたとき上着着てなかったんだ?」
 おかしい。やっぱりおかしい。矛盾だらけの言動に不審感を煽られノブを握り締めて振り向けば、ホセがおどけたように首を竦めてみせる。
 「我輩実は冷え性なのですよ。昨夜は少々カッコつけてロンくんに上着をお貸ししましたがじきに耐え切れなくなり、君が眠ってる間に返してもらいました。ああ、心配はいりません。ロン君のことは一晩中我輩がつきっきりであたためてあげましたから」
 一晩中、つきっきりで?
 不穏な単語に顔が強張る。得意げに胸を張るホセにそれ以上は突っ込めず、逃げるように房を出る。
 乱暴に鉄扉を閉じて凭れかかれば、夜明けの冷気が足元から忍び寄ってきて身震いする。
 ホセの前じゃ懸命に堪えていたがとうとう我慢しきれず、豪快にくしゃみをする。
 貧乏くさく鼻水を啜り上げて歩き出し、心の中で恨み言を吐く。
 風邪をひいたらホセのせいだ。

 結局医務室には寄らなかった。
 ホセの言葉を鵜呑みにしていいかどうか迷ったが、あいつが俺を騙す理由もないだろうと当面は信用する、ことにする。
 東棟の廊下にはちらほら早起きの囚人が沸いてて、上半身裸の俺に向けられる視線が痛かった。
 まさかこのカッコで食堂に行くわけにもいかず、覚悟を決めて房の鉄扉を開けたがレイジはいなかった。
 先に食堂に行ったのか?
 玩具入れたままで?
 レイジと会わずにすんで安堵したのと落胆したのと半々の気持ちだ。昨夜脱ぎ捨てた状態のまま床に落ちた上着を手に取り、袖を通す。
 これで良し。ボロボロに汚れた囚人服でも素肌を覆えるだけ有難い。
 囚人服の上下を身につけ、早速食堂に向かう。
 ちょうど起床時刻が来て廊下には囚人が溢れ返っていた。雑踏に揉まれて食堂に辿り着いた俺は、熱をもちはじめた喉に手をやり、軽く咳をする。喉がいがらっぽい。扁桃腺が腫れてるのかもしれない。
 喉に来る風邪は厄介だなと顔を顰め、食堂を見渡す。
 風邪のせいで食欲がないのに食堂にやってきたのはレイジの無事を確認したいから。鍵屋崎とサムライの様子を確認しておきたかったから。食堂に来れば会えるはずだと漠然と予感して足を運んできたものの、俺たちがいつも座ってるテーブルには先客いなくてこれ幸いと違う奴らが陣取ってる。
 レイジは?鍵屋崎は?サムライは?
 三人とも姿が見えず当惑する。誰かレイジを見なかったかと通りすがりの囚人に聞きたかったが、半々と忌み嫌われる俺が追いすがったところで邪険にされるのがオチ。
 食堂の真ん中に途方で暮れて佇む俺のもとへ、軽快な足音が近付いてくる。
 「おはよう」
 爽やかな挨拶に振り向けばトレイを抱えた静流がいた。
 「酷い顔色。具合が悪そうだけど、房で寝てなくていいのかい?」
 「お前、レイジ見なかったか?」
 「レイジ……ああ、いつも君と一緒にいる茶髪の彼か。さっき食堂で見かけたよ」
 「本当か!?」
 思わず声が跳ね上がる。
 発作的に肩を掴んで詰め寄れば、手からトレイに振動が伝わって味噌汁が零れ、静流が「ああ、もったいない」と嘆く。優美に眉をひそめて咎め立てる静流には構わず、乱暴に肩を揺さぶる。
 「あいつどうしてた?食堂にいたってことは房からここまでちゃんと歩けたんだな、一人でやって来れたんだな?レイジ見かけたってそりゃ何分前の話だ、五分前なら行き違ってたかも……」
 「テーブルに突っ伏してぐったりしてたよ。居眠りでもしてたんじゃないかな?朝餉にもろくに箸をつけてなかったし、遠目には具合が悪そうだったけど……ひょっとして彼から風邪を伝染されたの?夜長の退屈しのぎに肌を重ねるのはいいけど、口移し体移しで風邪を貰ったんじゃいい迷惑だね」
 「―――!!っ、」
 肩に爪が食い込む。レイジのことを何も知らねえくせに勝手なこと言うな、一晩中どんなにか苦しんだか知らねえくせに!静流は冷笑とも憫笑ともつかぬ笑みを浮かべて俺を眺めている。
 上品な仕草で肩にかかった手を払い、美しく背筋が伸びた姿勢で歩き出した静流に声を荒げて食い下がる。
 「待てよ、レイジは今どこにいるんだよ!?」
 「今さっき看守に連れてかれたよ。どこに行ったかまでは知らない。そのうち戻ってくるんじゃないかな」
 「鍵屋崎とサムライは……、」
 静流が立ち止まる。
 食堂の喧騒からそこだけ切り離されたような静寂に包み込まれて静流の背中と対峙した俺は、不吉な胸騒ぎに襲われる。
 「直くんは知らない。今朝方帰って来たと思ったらすぐまた走り去ってそれきり行方知れず。貢くんは……」
 くすり、と奥ゆかしい笑いを漏らす。
 「昨日は一晩中僕の下で喘いでいたから、千々に乱れた寝床で情事の余韻に浸っているんじゃないかな」
 振り返り際静流と目が合い、戦慄する。
 静流は驕慢に笑っていた。細めた双眸に覗くのは侮蔑の色、自分の本性をとうとう見抜けなかったサムライを憐れむ色。
 しなやかに身を翻した静流が遠ざかっていくのを間抜けに突っ立って見送り、弾かれたように食堂を見回す。レイジがいない、鍵屋崎がいない、サムライがいない。だだっぴろい食堂に俺以外誰もいない。
 俺の中で何かが切れた。
 名伏しがたい衝動に駆り立てられ、トレイを運ぶ囚人に肩をぶつけて走り出す。無尽に張り巡らされた通路から通路へと駆けてレイジと鍵屋崎とサムライを捜す、残飯が散らかった通路を忙しなく行ったり来たり何往復もして仲間を呼び求める。
 「どこにいんだよ、レイジ、鍵屋崎、サムライっ!!」
 返事はない。俺の叫びは喧騒に紛れて消えていく。
 それでも諦めれきれずレイジと鍵屋崎とサムライの名をくりかえし呼ぶ、喉擦り切れるまで呼び続ける。声が掠れ、喉が腫れる。喉を酷使したせいで風邪が悪化、咳の間隔が短くなる。テーブルに片手を付いて激しく咳き込む俺を一瞥、そばの囚人が露骨に舌打ちする。
 「こっち来んな半々、風邪が伝染るだろうが」
 「しっしっ」
 「唾とばすなよきったねえな」
 「首にネギでも巻いて寝てろよ」
 ひりつく喉を庇い、足をひきずり歩き出す。レイジがいないことはわかった、看守に連れてかれたのは事実だろう。
 でもじゃあ鍵屋崎とサムライがいないのは何故だ?おかしいじゃんか、こんなのって。テーブルに縋って立ち上がり、俺たちがいつも座ってるテーブルに接近。俺たちがいつも座ってるテーブルに陣取ってたのは凱のグループの末端、中国系の囚人。
 バカ話に興じながら飯を食ってるそいつらの正面に立ち塞がり、ガンを飛ばす。
 「お前ら、そこは『俺たち』の席だぞ。誰に断り入れて座ってんだ」
 唐突に笑い声が止む。俺たちの席に座ってた囚人が不快感もあらわにこっちを見る。
 「お前らがそこにでけえケツ据えてたら、鍵屋崎が座れないだろ。サムライが床で飯食う羽目になるだろ」
 「文句あんのか半々。あんなら力づくでどかしてみろよ」
 レイジの席に大股開いて座った体格の良い囚人が黄ばんだ歯を剥いてせせら笑い、仲間が追従して笑う。
 俺たちがいつも座ってるテーブルを占領したそいつらは、わざと見せ付けるように足を開いて椅子を挟み、調子に乗って続ける。
 「いいじゃんか別に、レイジがいねえんだから」
 「いや、ついさっきまで居たか。ぐったりテーブルに突っ伏してたところを看守に拉致られて所長室に強制連行だと。何やらかしたんだろうな、王様は」
 「お前知らねえのか?」
 「知らねえって何を」
 「新しく来た所長が王様にご執心だって噂。一昨日無理矢理連れてかれたのも所長直々に調べたいからだそうだ。今頃は体の裏も表も調べられて剥製にされて所長室に飾られてる頃だろうさ」 
 「ケツの穴の中まで調べられてるんだとよ」
 「マジかよ!?」
 「お前レイジの喘ぎ声聞かなかったのか?近所の奴は一晩中眠れなかったとよ。房に帰されてからずっと悲鳴だか喘ぎ声だか上げ続けて、看守から聞いた話じゃ……」
 「やめろ」
 低い声で制止する。やめろ、その先は言うな。
 祈るように呟いた俺を無視、味噌汁を一気飲みした囚人が手の甲で顎を拭う。
 「所長室の外で見張ってた看守の話じゃ随分ごさかんだったみたいだぜ。レイジを裸にして鞭打った挙句にケツにローター突っ込んで帰したってもっぱらの噂だ。ああ畜生っ、レイジの隣の房の奴が羨ましいぜ!一晩中艶っぽい喘ぎ声聞けて射精しまくりなんて羨ましい、いやいっそ同房なら良かったのか、ええっ、どうだ半々一晩中レイジがイくとこ見てヌいた感想は?一体どんなエロいカッコしてたんだレイジは、上の口からも下の口からも涎垂らしてひィひィよがり狂ってたんじゃねえのかよ?あひゃひゃひゃひゃ、想像だけで勃ちまったぜ!
よう半々、お前実はケツにローター突っ込まれてよがり狂うレイジ見て興奮したクチだろう?びんびんに勃起しちまったクチだろう?」
 机を平手で叩いて哄笑する囚人に刺激され、周囲のテーブルの囚人までもが笑い転げる。
 「レイジを犯った感想はどうだ半々」
 「ローターでこなれたケツはさぞ使い勝手良かったろうな、羨ましい」
 「今度レイジがローター入れて帰って来たときは右隣の俺も呼んでくれよ。一緒に楽しもうじゃんか」
 うるさいうるさいうるさいうるさいうるせえ。
 笑いすぎた囚人が腹を抱えて床に転落、けたたましい音をたて椅子が倒れる。
 「お前のチンポじゃ王様だって物足りねえだろ。なあ、持つべきものはご近所さんだ。今度レイジが帰ってきたら仲良く3Pしようじゃんか。一晩中喘ぎ声聞かされちゃこっちの身がもたねえよ。すっげえ声だったぜ、アレ。よっぽどタマってたんだろうなあ、勃ちっぱなしイきっぱなしで『あっ、あっ、ああああぁあっ』って切ねえ声が壁の向こうから」
 
 殺してやる。

 手近な椅子を掴んで振り上げ、囚人の後頭部をぶん殴る。
 腕を突き上げる衝撃……脳天がかち割れる衝撃。
 一晩中レイジの喘ぎ声を聞いてたと鼻の穴を膨らませ自慢する囚人の後頭部を椅子で打ちのめした俺の瞼と頬に生ぬるい液体が付着する。
 血だ。
 瞼に飛んだ血が目に流れ込み、視界が赤く霞む。
 両手が椅子で塞がってるために返り血を拭うこともできず、瞬きで目から絞り出した血の涙が頬を滴る。
 「レイジの喘ぎ声聞いた奴は俺の前に出て来い、一人残らず殺してやる、てめえら一人残らずぶち殺して無かったことにしてやる、椅子で脳天かちわって食堂の床一面に脳漿ぶちまけて味噌汁みたいに啜らせてやっからそこに這いつくばれよ!!」
 椅子で頭を殴られた囚人が床にうつ伏せに倒れ、白濁した唾液の泡を噴き、瀕死の痙攣をする。白目を剥いて失神した囚人の後頭部がへこみ、傷口が開き、血が流れる。同じテーブルの囚人が悲鳴をあげ椅子から転げ落ち、腰砕けにへたりこむ。
 狂乱。
 「てめえ半々、なにとち狂ったことしてやがる!?」
 「椅子、椅子を取り上げろ!椅子さえ取り上げちまえばこっちのもんだ、煮るなり焼くなり好きに料理してやらあ!!」
 俺たちの席を占めていた囚人が椅子を蹴倒し、獰悪な形相でとびかかってくる。テーブルの上に立った野次馬が喧々囂々罵声を浴びせる中、俺は滅茶苦茶に椅子を振り回し、右から左から正面からとびかかってくる奴を片っ端から薙ぎ倒す。
 顔面を椅子で一撃、鼻っ柱をへし折る感触が腕に伝わる。
 盛大に鼻血を噴いて倒れた囚人を飛び越えて踊りかかってきた奴が椅子を奪い取る前に鳩尾に蹴りを入れ、腹を庇ってよろめいた隙に椅子で顎を吹っ飛ばす。
 返り血が飛ぶ。視界が赤く煙る。生ぬるい液体が顔を濡らす。
 顔に何か白く固い物が当たる。足元に転がった固形物を見下ろせば歯だった。俺がぶん殴った囚人の口から抜けた歯が顔にぶつかったのだ。
 俺にとびかかってくる連中を手当たり次第に椅子でぶちのめし鼻っ柱をへし下り顎を砕き悶絶させ、憤怒に駆られて喚き散らす。
 「レイジは俺の物だ畜生、俺のレイジを笑った奴は全員頭かっ飛ばして脳漿ぶちまけてやる、お前らの脳漿味噌汁の具にしてやるよ!!てめえら何も知らねえくせに好き勝手なこと言いやがって、レイジがどんなにか苦しんだかも知らねえでふざけたことぬかしやがって、俺はレイジを守れなかったのに助けられなかったのに、レイジは死ぬほど苦しんで俺は死ぬほど悔しくてどうしようもなかったのにお前らはっっっ!!!!!!」
 張り裂けそうな喉の痛み。
 張り裂けそうな胸の痛み。
 力任せに椅子を振り回して俺に襲いかかってきた連中を薙ぎ倒してるうちに、ずるりと足が滑る。床にこぼれた味噌汁で足を滑らした俺の手から勢い余って椅子が飛んでいく。俺が腕振りに任せてぶん投げた椅子はテーブルのど真ん中に落下、トレイが盛大にひっくり返り味噌汁を垂れ流し食いかけの飯をぶちまける。
 「この野郎、俺の朝飯だいなしにしやがって!!」
 「ワカメを鼻から噴いたろうが!!」
 朝飯を台無しにされた囚人がテーブル飛び越えて乱闘に加わる。
 得物をなくした俺は通路の果て、壁を背にした行き止まりに追い詰められる。俺の敵はいつのまにか倍の倍、五十人近い数に膨れ上がっていた。はでに暴れて被害を拡散したのが仇になったらしい。
 突然目の前に落下した椅子にトレイを覆され飯をぶちまけた囚人が、鼻っ柱へし折られて顔面朱に染めた囚人が、殺気だった集団の先頭で足並み揃えて猛進してくる。

 返り血に染まった腕を見下ろした俺は、ショック症状で手足を伸び縮みさせる囚人に一瞥くれ、自分がしでかした事の重大さに衝撃を受ける。
 そして、悟る。
 
 ああ、殺される。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050604093442 | 編集

 出口のない暗闇に一人立ち尽くす。
 封鎖された通路に人けはなく荒廃した闇が蟠っている。コンクリ壁に等間隔に穿たれた鉄扉、治安の悪さを示すように破砕された蛍光灯。床一面に散らばっているのは鋭利な切っ先を見せる蛍光灯の破片だ。
 寒々しいコンクリ壁と低い天井が息苦しい閉塞感を与える空間には僕以外の人間が存在せず時間が停滞している。
 禁域、廃墟。
 そういう呼び名こそふさわしい人の訪れを拒否する場所は、一人静かに自分と向き合うには雑音に阻害されず余計な邪魔が入らぬ最適の場所だ。
 立ち入り禁止のテープを踏み越え、酔狂な囚人がペンチなどの道具を用いて強引に突破したらしき痕跡を鉄条網に発見、その穴をくぐる。
 部外者の立ち入りが禁止されて久しい区域だが、それでも囚人が出入りした痕跡がそこかしこに見受けられる。看守の管理と監視が杜撰なためだろう。僕も容易に不法侵入することができた。
 暗闇に目が慣れるのに多少時間を要したが、幸いにも朝まだ早い時間帯ということもあり僕以外の人間はいないらしいと確認。
 埃と静寂が沈殿した通路に靴跡を刷りながら目指す地点に到着、鉄扉に背中を預け座り込む。
 僕は臆病者だ。
 その事実を自らに確認、衝撃に乱れた思考を纏めようとする。
 僕は臆病者だ。現実に目を瞑り、サムライ本人に真相を問いただすこともせず即座に逃げてきた。服越しの背中に骨まで染みとおる鉄扉の冷たさを痛感、動悸を抑えようと深々息を吸い込むも喉にひっかかってしまう。頭が、脳が、現実の受け入れを拒否している。今さっき目撃した光景が現実のものだと認めたくないと絶叫している。
 今さっき目撃した光景……思い出すのも忌まわしくおぞましい衝撃的な光景を回想し、心の表面が不穏にさざなみだつ。
 サムライの上に跨る下半身裸の静流。
 僕らを振り返り、勝ち誇ったように微笑んで。
 勝利の愉悦に酔い痴れた口元には驕慢な風情。
 情事の現場を目撃されても一切動揺も弁解もせず堂々たる態度でサムライに乗り続けた、見せ付けようとでもするかのように。『見せ付ける』?誰に?決まっている、静流が情事を見せつけようと目論んだ相手は僕しかいない。ヨンイルがあの場に居合わせたのは計算外だったにしても、サムライと同房の僕は遅かれ早かれいずれはあそこに戻らざる得なかった。静流はそれを見抜いていた、僕が朝方房に帰ることを予測してズボンと下着を脱ぎサムライにのしかかったのだ。
 僕は、逃げ出した。あの場に居るのに耐えられなかった。
 慄然と立ち竦んでいた時間は三秒もなかった。静流に背を向けヨンイルに背を向け逃げ出した。背後から追いかけてきたヨンイルの呼び声も無視した。どこをどう走ったのか記憶はあいまいだ。
 ただ逃避の衝動に駆られるがまま直線の通路を走り角を曲がり、気付けばこの場所に立っていた。
 理解できない。
 「……理解できない。何故僕はこんなにショックを受けているんだ?」 
 口に出して疑問点を指摘する。
 昨日の時点でサムライが静流を選んだのは明白、図書室での一件がサムライの心変わりを証明してる。
 そうだ、サムライが、違う、帯刀貢が静流を選んだのは既にわかりきったこと、既知の事実だった。なのに何故僕は静流とサムライの情事を目撃したこんなにも動揺している、こんなにも混乱している?
 自分で自分がわからない。意味不明支離滅裂だ。
 「帯刀貢が静流に欲情したことにショックを受ける理由がない。帯刀貢は静流とごく親しい関係にあった。血縁者という点を除いても静流が盲目的に貢を慕い貢が献身的に静流を庇っていたのは事実、もとより結びつきの強い二人の間に恋愛だか性愛だかの感情が芽生えても不思議はない。帯刀貢と静流の関係はそれ自体閉塞的に完結している、他者の媒介を必要としない閉じた円環の中にある一種の相互依存といえる。帯刀貢と静流が肉体関係を持つのは十分予測の範囲内だった、いまさら何を驚くことがある?ないだろう何も」
 早口に論理をつむぎ、自分を納得させようとする。
 昨日の時点でサムライが静流を選んだのは明白だった。僕は完全にサムライに見捨てられた、拒絶されたというのに……これほどまでにショックを受けるということは、僕自身でさえ気付かぬ彼に対する希望を捨て切れなかったのか?温情を期待していたのか?
 口の端を歪め、無様な自分を嗤う。
 無意識にサムライに縋ってしまう自分を嘲笑する。
 僕が心を許したサムライはもうこの世に存在しないというのに。
 これからどうすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう、という根源的な疑問が脳裏に浮上する。房には帰れない。サムライと顔を合わすのだけは絶対に避けたい。
 正直、他人と会いたくない。外界との交流を絶ち、こうしていつまでも己の殻に閉じこもっていたい。ヨンイルは今も懸命に僕を捜しているはず。遠く、僕を呼ぶ声がする。ヨンイルの声。発作的に逃げ出した僕を捜して駆けずり回っているのだろうと麻痺した心で同情する。
 懐に抱え込んだ膝に額を預け、目を閉じる。
 瞼の裏の暗闇が視界に覆い被さる。
 「……恵に会いたい」
 瞼の裏に最愛の妹の面影が浮かぶ。
 おさげに結った髪を肩に垂らしたあどけない顔。恵は今どうしているだろう?恵に会いたい、ただそれだけが僕の望みだ。サムライを失った僕にはもう恵しかいない。やはり他人など信じるべきではなかった、恵以外の人間に心を許すべきではなかったのだ。
 これは罰だ。
 恵以外の人間に心を許した罰。たとえ一瞬でも恵よりサムライを重んじた罰。
 「恵に会いたい。会って許しを乞いたい、謝罪したい。こんな僕ですまなかったと、こんな兄ですまなかったと謝りたい」
 暗闇に声が吸い込まれる。当然答える者はない。
 「駄目な兄だと僕を罵ってもらいたい。いっそ人間失格の烙印を押してもらいたい。天才の矜持も人間の尊厳も蹂躙してほしい」
 恵が僕を殺したいというなら殺せばいい。それで恵が救われるというなら構わない。僕が死んだところで哀しむ人間など誰もいないが、僕が死んで安堵する人間は多い。僕も僕自身の命に価値が見出せない。
 所詮人工の命、量産可能な命にもとより価値などあるのだろうか?
 僕はIQ180の頭脳に誇りを持っているが、頭脳以外の価値がない人間はもはや人間ではないという醒めた認識も同時に持ち合わせている。頭脳以外に誇る箇所がないのは人間ではなく精密な生体機械だ。

 僕がいなくなったほうが恵は幸せになれる。
 サムライも幸せになれる。静流と一緒に。

 「最大の誤算はサムライと出会ってしまったことか」
 口の端を吊り上げ、皮肉に嗤う。サムライと出会いさえしなければ僕が他人に心を許すこともなく、また他人に依存することもなく、永遠に恵だけを思い続けていられた。
 サムライと出会ってしまったのがそもそもの間違いなのだ。僕と出会いさえしなければサムライと静流が結ばれるのに何の障害もなかったのだ、僕には無縁の血の絆で結ばれたサムライと静流は苗の死を乗り越え幸福になれたのだ。
 そのまま鉄扉に凭れ、世界を呪う。
 僕を生み出した世界を呪い、皮肉なめぐりあわせを呪う。
 僕を現実に引き戻したのは、靴裏が蛍光灯の破片を踏み砕く音。静寂をかき乱す侵入者の気配。
 「!誰だ」
 声音鋭く暗闇に誰何の声を投げかける。応答はない。鉄扉を背に上体を起こし、いつでも逃げ出せるよう身構え、侵入者の出現を待つ。
 暗闇の向こうから現われた人間と対峙、驚愕に目を剥く。
 そこにいたのは安田だった。
 「所長の犬が何の用だ」
 「『上』でヨンイルと会った。行方知れずの君を捜しているらしい。朝早くから西の囚人を捜索隊に駆り出して大騒ぎだ」 
 安田が指で指し示した方角を一瞥、渋面を作る。階上の喧騒は先ほどより大きくなっている。「こっちにはいませんでしたヨンイルさん!」「くそっ、なおちゃんどこ行きよった?通りぬけフープでも使うたか」と舌打ちまじりにやりとりする声がする。
 「君こそ何故ここにいる。売春班は数ヶ月前に廃止された。この区域も閉鎖されたはずだが」
 安田に事務的に問われ、口を噤む。僕が今いる場所は中央棟地下一階、かつての売春通り。僕が強制的に売春させられていた場所。僕が凭れかかっている鉄扉の向こうは、僕がかつて何人もの客に犯されたシャワー付きの房だ。
 「ここなら誰にも邪魔されず思索に耽れると思ったからだ」 
 半分嘘で半分真実だ。
 僕がここに来たのは半ば無意識だった。
 サムライと静流の情事を目撃した直後、足が勝手にここに向いていた。本来近寄るのも嫌で忌避していた場所だというのに、いざとなればここしか行く場所が思い当たらなかったのだ。
 安田は何も言わず、痛ましげな顔で僕を見つめていた。不躾な凝視に気分を害す。そんなに酷い顔色をしているのだろうか、僕は?鏡に映して確認したくてもここでは無理だ。
 と、安田が不意に動き、僕の隣の壁に背中を凭せかける。
 「ここは禁煙だ」
 背広の内側に潜らせた手を止め、安田が疑惑の眼差しを向けてくる
 「そんな規則は存在しないが」
 「僕が今決めた」
 不安定な沈黙が落ちる。背広から手を抜いた安田が諦めたように嘆息、虚空に顔を向ける。 
 眼鏡の奥の目が細まり、冷徹な眼光を宿す。
 「鍵屋崎、君に聞きたいことがある。君がいまだに黙秘を続けている両親殺害の動機だ」
 突然だった。一瞬心臓が止まった。
 安田の横顔を仰ぎ、慎重に本心を探る。
 安田は正面を向いたまま、表情の洗われた横顔を晒している。
 「僕が両親を殺害した動機を知りたいか?高潔な人格者を気取りたがる副所長も俗世への関心を断ち切るのは不可能、下世話な好奇心を封じこめるのは無理か。僕が鍵屋崎優と由香利を刺殺した動機が知りたいなら調書を読めばいい。東京少年刑務所への身柄送致に伴い届いた書類に精神鑑定の判定結果が載っているはずだからそれを参考に適当に予想してくれ。愛情の薄い両親に顧みられなかった反動で突発的反行に及んだとでも事件背景を捏造しろ」
 「君の口から直接聞きたい」
 「無関心な両親に愛情を求めて得られなかった反動で殺した。これで満足か?」
 片足を無造作に投げ出し、なげやりに吐き捨てる。
 どんな意図があり今更こんな質問をするのか、安田の真意が読めず不信感が強まる。安田は何かを隠している、重大な何かを。
 眼鏡のブリッジを中指で押さえて安田を見上げれば、副所長が暗澹と呟く。
 「……鍵屋崎、馬鹿にするのはよせ。虚偽と真実を見分けられないほど私は落ちぶれてない」
 「僕はありのままの真実を語っている。法廷に立ったときと同じく」
 「君の裁判記録を閲覧した。法廷で反抗的な態度をとった為に陪審員の心証は最悪、過半数が極刑を決めたそうだな」
 「反抗的な態度?心外だな、裁判官・検事・弁護士の質問には誠実な態度で答えたのに」
 「検事が過去に起きた子供による両親殺害の事例を挙げた際、検事以上に正確にその事例を述べたのはやりすぎではないか」
 「あの検事は勉強不足だ。予習を怠ったせいか本人の不注意かは知らないが、平成32年12月8日に千葉で起きた12歳男子による両親および妹殺害事件を『平成31年発生』と言い間違えた。年号の誤りを指摘するついでに事件の詳細を語ったまでだ、何が悪い?」
 僕は間違ってないと強固な信念のもと安田を睨み付ける。法廷に立った僕は挑戦的な態度で裁判に臨んで陪審員の反感を買ったが、それがどうしたというんだ?低脳どもの理解など得られなくても構わない、情状酌量の余地など無くても構わないと最初から覚悟の上だったのだから。
 安田が背広の内側に手を潜らせ、煙草を抜き取る。
 僕が注意するより早くライターで添加、橙色の光点を点した煙草を口に銜える。煙草の先端から漂い出た紫煙が仄白く暗闇に流れる。
 手馴れた様子で紫煙を燻らしながら、安田は唐突に口を開く。
 「鍵屋崎、君は何を隠している」
 「!」
 心臓が跳ね上がる。
 淡々とした口調で核心を突いた安田は、敢えて僕の方は見ず続ける。
 「鍵屋崎夫妻殺害の動機について君は徹底的に黙秘を通した。警察の取調べにも沈黙を貫き精神科医すらも欺いた。無関心な両親に愛想が尽きたから殺した?私がそんな短絡的な動機を鵜呑みにすると思うか。IQ180の頭脳に恵まれた君ともあろう人間がそんな不合理な理由で殺人を犯すのか」
 「買いかぶりすぎだ。いかに知能指数が高いとはいえ当時僕は15歳、情緒不安定な思春期の少年だった。些細なことが引き金で殺人に走っても不思議ではない」
 「君は嘘をついている」
 安田が煙草を吸う。
 「鍵屋崎夫妻とは仲が悪かったのか?」
 安田は鍵屋崎優と由佳利をまとめて「鍵屋崎夫妻」と呼ぶ、「両親」ではなく「夫妻」と。ただそれだけの違いが重大なことのように感じられ、腋の下に緊張の汗をかく。顔の前に流れてきた紫煙を手で払い、努めて無表情に言う。
 「良くも悪くもない、お互いに興味がなかっただけだ。両親にとって僕は将来的に研究を継がせる後継者、現段階では頭脳明晰な研究助手でしかなかった。彼らとそれ以上の関わりはない。僕もまた彼らに肉親の情は感じていなかった」
 「君は最初から諦めていた」
 「何を?」
 「愛されることを」
 「はっ」
 安田らしくない感傷的な物言いに失笑する。
 「愛されることを諦めていた」?今更だ。僕は両親に愛情など期待してなかった。最初から求めもしなかったものが得られなかったからとて逆上するのは不条理だ。
 卑屈に喉を鳴らした僕を一瞥、安田が紫煙を吐く。
 「鍵屋崎、どうか私にだけは真実を話してくれないか」
 「僕の殺害動機を上に報告して出世の材料にする気か」
 「個人的な関心もある。何故君が両親殺害に至ったのか明確な理由が知りたい。話を聞いた限りでは君は鍵屋崎夫妻に対し常に距離をおいていた。夫妻と君の間には常に距離があった。夫妻に対し何も期待してなかった君が理性と分別を備えた十五歳時点で凶行に及んだのは『きっかけ』があったからだ」
 「邪推だ」
 「愛情の反対は何か知っているか?」
 「憎しみ」
 そっけなく即答すれば、安田が正面を向いたまま答える。
 「違う。『無関心』だ。だが、人を殺すには『憎悪』と『衝動』が必要だ」
 安田の言わんとしていることを口の中で咀嚼する。
 安田の解釈も確かに一理ある。人を憎めるということは感情が死んでない証拠、対象に興味をもっている証拠だ。鍵屋崎夫妻に対し積極的な関心を持ち得なかった僕が二人を殺すのは矛盾する。
 僕が鍵屋崎優と由佳利を殺した動機。
 脳裏に恵の顔が過ぎる。自分の手を汚してでも守りたかった最愛の妹の顔。
 「鍵屋崎、君はだれかを庇っているんじゃないか」
 「何を根拠に、」
 「君は一度心を許した人間に献身的に尽くす傾向がある、自分の身を犠牲にしても好意を抱く人間を守ろうとする。鍵屋崎夫妻を殺害した動機が単純に自分を愛さなかったから、それだけであるはずがない。鍵屋崎夫妻は君の大事な人間に何か、ひどいことをしたんじゃないか?」
 何故わかる。何故見抜く。僕が必死に隠し通してきたことを。
 「知らなかった、副所長に妄想癖があるなんて。精神分裂病の兆候だから職を辞して入院したらどうだ?」
 辛辣な嫌味も取り合わず、僕に向き直った安田が断固たる口調で続ける。 
 「確かに証拠はない、私の勝手な想像だ。どう受け取るも君の自由だ。だからこれから先話すことも自由に解釈してくれ。今から話すのは私の秘密だ」
 「え?」
 間抜けな声をあげ、安田を見上げる。
 苦りきった顔で押し黙った安田が、眼鏡の奥の目に葛藤を映す。
 「私の若い頃の話だ。若い頃、大学生だった私が参加したある実験の話だ。その実験では優秀な男女の精子と卵子を必要としていた、私はある縁故からその実験に精子を提供することになった……」
 「待て、何の話だそれは?」
 喉の奥で空気が抜ける。安田の語尾を遮るように立ち上がると同時に階上に靴音が殺到、悲鳴と罵声が交錯する。『上』で何か異常事態が起きたらしい。それに気付いた安田が話を中断、不審げな顔になる。
 「副所長!こんなところにいたんですか、さがしましたよ!」
 突如地下一階に通じる階段から通路に駆け込んできたのは、体格の良い看守。呑気に煙草を吸っている副所長に駆け寄り、大仰な身振り手振りで報告する。
 「何の騒ぎだ?」
 「東棟の食堂で五十人規模の乱闘が勃発、被害は今も膨れ上がる一方です!重傷者五人軽傷十五人、へたしたら東棟全体規模の暴動に発展しかねませんよ!なお乱闘の主犯格は台湾と中国の混血児、ほら、レイジと同房の……」
 「ロンか!?」
 声を荒げたのは僕だ。声を発したことにより今初めて僕の存在に気付いたとばかり驚愕した看守を、表情を引き締めた安田が詰問する。
 「他に乱闘に加わってるのは?」
 「主犯格で加わってるのは凱とリョウ、ビバリーです!とくにリョウは薬で頭がパーになってるらしくえらいはしゃぎっぷりで手のつけようがありません!とにかく手が空いてる看守全員で鎮圧に向かってますが死人がでる前に間に合うかどうか……、」
 安田の命令は至極簡潔だった。
 「主犯格の囚人を拘束、独居房に隔離しろ」
 煙草を投げ捨て、靴裏で吸殻を踏み潰す。
 ネクタイの結び目に指をひっかけ襟元を緩め、看守を従え歩き出す。背広の裾を颯爽と翻し階段に足をかけた安田、その背中を呆然と見つめているうちに「拘束」「独居房」「隔離」の単語とロンの顔が結びつく。
 「待て安田、ロンを独居房に入れるのか!?乱闘の原因を追及するのが先じゃないか!!」
 「主犯格を隔離しないことには乱闘はおさまらない。話は後で聞く」
 安田は僕の抗議を受け付けず、規則的な靴音を響かせ階段をのぼっていってしまった。地下に残された僕は、片手で頭を支えて状況を整理しようとする。
 ロンが食堂で暴れている?何故?原因は?……決まっている、ロンが暴発したとしたらレイジ絡みとしか考えられない。またレイジの身に何かがあったのだ、とんでもなく不吉な出来事が。
 僕も、僕も食堂に行かなければ。
 興奮状態のロンが僕の説得に応じるかわからないが、このまま放っておけば独居房送り確実だ。
 「くそっ、僕には感傷に浸る暇もないのか!」
 安田を追って階段を駆け上がろうとした僕は、こちらに降りてくる人影に気付き、全身に電気が走ったように硬直する。
 衣擦れの音もなく階段を下りてくるのは、虚ろな目をした長身痩躯の男。
 幽鬼めいた足取りで階段を下りた男は、慄然と立ち竦む僕の正面で止まり、表情の読めない眼差しを向けてくる。
 「……一晩中静流と楽しんでいたくせに腰が抜けてないとは、日頃の鍛錬の成果だな」
 喉が異常に乾き、声はみっともなく掠れた。荒廃した闇が淀んだ薄暗い通路にて僕と対峙したサムライは、伸びた前髪の奥、切れ長の双眸に苦悩の色を宿す。
 「直、」
 「騎乗位の感想を聞きたい」
 「俺は」
 「言い訳はいい。昨日僕がいない間君は、貴様は静流と一緒にいた。静流と肉体関係を結んでいた。はっ、普段あれだけ強硬に同性愛者ではないと主張していたくせにいとこと関係をもつとはな!見下げはてた男だ、汚らわしい。唾棄するぞ帯刀貢。貴様が志す侍とは穢れた欲望に突き動かされ同性とも関係をもつ者なのか、それが貴様の目指していた侍か!?」
 喉から絶叫が迸る。心が悲鳴をあげる。
 思い出すのも忌まわしい光景が脳裏にフラッシュバックする、下半身剥き出しの静流がサムライに馬乗りになった光景……否定できるものならしたかった。錯覚だと思い込みたかった。
 だが違う、あれは現実だった、現実だった。
 「貴様にサムライを名乗る資格はない、貴様に武士を志す資格はない。かつて僕の友人だったサムライはもういない、もはや完全に跡形もなく消えてしまった、今ここにいるのは静流の守り手の帯刀貢だ。僕とは一切関係のない男だ。僕は帯刀貢を憎悪する、嫌悪する、僕の全存在に賭けて貴様の存在を否定する!何故今頃になって帰って来た帯刀貢、僕がサムライを友人と認め心を許した今頃になって帰って来た、貴様が帰って来たせいで僕のサムライは消えてしまった、どんなに足掻いても永遠に僕の手の届かぬ場所に去ってしまった!!」
 「直」
 サムライが、否、帯刀貢が虚空に伸ばした手を握り締め、顔を伏せる。
 周囲のコンクリ壁にむなしく絶叫がこだまする。 
 「サムライを返してくれ。僕のサムライを返してくれ」
 「俺はここにいる」
 「違う、ここにいるのは帯刀貢だ。僕の友人ではない」
 「どちらも同じ俺だ」
 「外面が同じ別人だ!!」
 僕のサムライはもういない、いないのだ。憤怒に駆られて帯刀貢を睨み付ければ、帯刀貢が大股にこちらにやってくる。
 咄嗟に逃げようとした。
 だが、帯刀貢が僕の腕を掴むほうが早かった。
 僕の腕を掴んで引き寄せた帯刀貢が、血を吐くように言う。
 「俺は本当にお前と静流を大事に思っていたのだ、お前も静流も守りたかったのだ!たとえ卑怯者と謗られようとも俺にはそうする義務があった、帯刀家を滅ぼした俺には静流を庇護する義務があった!だがお前のことは家も義務も関係もなく、ただ純粋にお前だから守りたいと思ったのだ!お前のことが愛しくて他の男に触れさせたくないと思ったのは真実だ、愛しいお前だから守りたいと思ったのだ!!」
 「『愛しい』?よく言う、僕と寝るのを拒否したくせに!僕のことが好きならあの時抱けば良かったんだ、静流がいる前で抱けばよかったんだ!もう手遅れだ帯刀貢静流と寝た貴様の言うことなど信用しない、僕は君が!!」
 「大嫌いだ」、と続けようとした。だが出来なかった。
 振り返り際帯刀貢に口を塞がれた。熱い唇が覆い被さり、続く言葉を封じた。 
 「―!?んっ、」
 やめろ、離せ。帯刀貢の腕の中で死に物狂いに身をよじり抵抗する、帯刀貢を突き飛ばそうと半狂乱で暴れるが僕の力ではとても無理だ。帯刀貢は僕をしっかりと抱きすくめ唇を吸い続ける。
 背中が壁に衝突、蛍光灯が揺れる。それでも唇は離れない。悔しくて腹立たしくて、僕は何度となくこぶしを振り上げ帯刀貢の肩を殴打する。静流と合わせた唇で僕に触れるなと力を込めて殴り続ける。
 体の奥底から激情が噴き上げる。
 静流と寝ておきながら僕の唇を奪う帯刀貢がわからない、理解できない。気持ちが悪い。咄嗟に唇を噛み千切る。苦痛に顔を顰めた帯刀貢が漸く僕から離れる。
 唇から血が滴るままに立ち尽くしたサムライを憎悪に燃えて睨み付け、叫ぶ。
 「何故こんなことをする!?」
 「好きだからだ!!」
 抑えに抑え続けた感情が爆発したようにサムライが叫び、壁を殴り付ける。
 「……手遅れだとわかっている。今の俺がどんなにか惨めで無様でみっともないか十分に承知している。言い訳はしない。だが、俺は今でもお前を愛しく思っている。友として、いや、それ以上の存在だと自覚している。直、俺はお前に救われた。お前と出会え生涯の友を得た、お前がいてくれたおかげで俺は……」
 サムライが諦念めいた表情を宿して目を閉じる。
 「不本意とはいえ静流と体を繋げたことは事実、軽蔑してくれて構わない。俺は今日限りで房を出る」
 「………な、」
 「俺があの房にいる限りお前は帰ってこない。ならば俺が出る。房は好きに使って構わない」
 どこへ行く気だ?
 疑問を発しようとしたが、喉が渇いて声が出てこなかった。僕の視線の先、話は済んだと身を翻した帯刀貢が付け加える。
 「俺がそばにいるとお前は辛くなる。俺たちはもう共にいるべきではない、互いを傷付けるだけの関係は不毛すぎる」
 階段を上りながら続ける。
 「レイジ、ロン、ヨンイル。お前には良き友がいる。これからは奴らを頼れ。必ずやお前の力になってくれるはずだ」 
 薄暗い通路に取り残された僕は、ただ呆然と帯刀貢の背中を仰ぐより他なかった。追うことも逃げることもできなかった。階段を上りきったサムライが振り返り、静かな諦念を宿した目で僕を見下ろす。その目を見た瞬間、自制心が吹き飛んだ。
 サムライを追いかけようと階段に足をかけた僕は、帯刀貢に寄り添う影を目撃する。
 それまで階上で待機していたらしき少年が帯刀貢のそばに来て、勝ち誇った微笑を湛える。
 静流だった。
 「さらばだ、直」
 待て、行くな、行かないでくれ!
 限界まで虚空に手を伸ばした僕の眼前、静流を伴ったサムライが背中を向ける。次第に遠ざかる靴音。漸く階上に辿り着いた時にはすでに二人の姿はなく、かすかに靴音が響くだけ。
 最前まで二人がいた場所に手を付いた僕は、少しでも帯刀貢のぬくもりを感じようと床に身を横たえる。
 そして、目を閉じる。
 帯刀貢は僕に別れを告げ、静流と行ってしまった。僕のサムライはもう永遠に戻ってこない。房に帰ってもサムライはいない。 
 冷たい床に寝転がり、片腕で腹を庇い、胎児の姿勢で身を竦める。
 『さらばだ、直』
 それがサムライの答えなら、こう返すしかないではないか。
 「さようなら、サムライ」
 口の中で呟いた僕はその時になり初めて、サムライに友情以上の感情を抱いていたと自覚した。 
 気付いた時にはすべてが手遅れだった。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050603013158 | 編集

 俺は死ななかった。
 「殺してやるぜ、半々」
 「俺様の鼻っ柱へし折った代償は高くつくぜ」
 「匙で目ん玉ほじくりだして美味しくしゃぶってやらあ」
 「目ん玉ほじくりだした眼窩に俺のモン突っ込んで脳みそに小便ひっかけてやる」
 俺の手は血に染まっていた。顔には返り血が跳ねていた。薄汚れたシャツの下で胸郭が浅く上下していた。手がまだ感触を覚えている、力任せに椅子を振り下ろして脳天かち割ったのを覚えている。ちょっと見回せば頭から血を垂れ流した囚人が床に昏倒してる、鼻が変な方向に曲がった囚人が悲鳴を上げてる。
 これは、俺がやった。俺がやったんだ。
 レイジを揶揄された怒りに任せて椅子を手に取り振り上げて、目の色変えてとびかかってくる囚人を片っ端から殴り倒した。
 そして俺は今、食堂の隅っこに追い詰められてる。
 怒り狂った囚人どもが、愚かな生贄を血祭りに上げようと目を殺意にぎらつかせ間合いを詰めてくる。
 「―っ、……」
 背後は壁、逃げ場はどこにもない。鼻血で顔面朱に染めた囚人が、ワカメの切れ端を顔に貼り付けた囚人が、狂気に憑かれた憤怒の形相でこっちにやってくる。
 殺気が膨張する。空気が帯電したかのような緊迫感。
 ああ、殺される。
 間違いなく殺される、よってたかって嬲り殺される。集団リンチの餌食になる。恐怖で足が竦む。こめかみがどくどく脈打つ。畜生どうすりゃいい、どうすりゃこのピンチを切り抜けられる?嫌だ、こんなところで終わりたくない、こんなところで死んだらレイジに会えねえじゃんか。レイジに会うまで死ねない、あいつの元気な顔見るまで絶対死ねない。
 けど、どうすりゃいい?
 食堂の隅っこに追い詰められた俺に何が出来るってんだ。鍵屋崎みたいにおつむがよけりゃ起死回生の秘策を閃いたかもしれない、サムライみたいに箸一本で敵に立ち向かうことができりゃこんな風にびびらずにすんだかもしれない。だが鍵屋崎もサムライもいない、助けを期待できない状況下で生き残るにはどうすりゃ…
 「アイキャンフラーイ!!」
 「はあ!?」
 脳天から間抜けな声を発して頭上を仰げば、破壊力抜群の光景が眼底を撃ち抜く。
 二階の手すりを蹴って宙に身を躍らせたのは……ビバリー!?
 「飛び降り自殺か!?」
 「危ねえ、潰されるぞ!」
 手足をばたつかせ落ちてくるビバリーの下敷きになっちゃたまらないと、全員一斉にてんでばらばらな方向に逃げ出す囚人ども。
 あちこちで衝突が起こり囚人がドミノ倒しになり、濛々と舞い上がった埃が視界を閉ざす。足元の床を伝わる振動。埃が晴れた視界に映ったのは、累々と折り重なった囚人どもの上に尻餅ついたビバリー。
 「今のうちに逃げてください、ロンさん!」
 ほぼ無傷の状態で囚人どもの上に不時着したビバリーがこっち向いて叫ぶ。そうか、俺を助ける為に決死のダイブに挑んだのかと合点が行く。ビバリーに礼を言う暇もなく踵を返した俺の行く手に散開した囚人どもが立ち塞がる。
 「逃がしゃしねえぞ!」
 「殺っちまえ!」
 「殺られてたまるか!」
 舌打ち、手のひらに唾を吐いて強行突破の構えを見せた俺の背後から風切る唸りを上げて何かが飛んでくる。反射的に身を屈めてやり過ごした俺の正面、今しも殴りかかってこようと腕を振り上げた囚人の顔面を椅子が直撃、折れそうに首が仰け反る。
 誰だ?
 椅子をぶん投げた奴を確かめようと振り向いた俺は、愕然とする。
 「とっとと行っちまえ、半々!ぱぱっとレイジ連れ戻してこい!」
 凱がいた。頭上に高々と椅子を掲げ鼻息荒く仁王立ち、筋骨隆々たる体躯に怒気を漲らせている。なんで凱が?そもそも凱が俺を助ける理由が見当たらない、そもそもレイジをけなしまくった連中は凱の仲間だったはず。同じ疑問を抱いたらしい凱の子分どもがボスの正気を疑って「凱さん!?」と叫ぶ。
 「凱さん何とち狂ってるんすか、相手は憎き半々、台湾人の血を引く薄汚れた野良っすよ!」
 「ちょうどいい機会だ、レイジに猫可愛がりされてる目障りな半々をここで潰しちおうって俺ら」
 「勝手な真似するんじゃねえ!!」
 大喝一声、凄まじい剣幕で咆哮した凱が渾身の力で椅子を投擲。風切る唸りを上げて宙を飛んだ椅子が床に激突、俺めがけて殴りかかろうとした凱傘下の囚人どもがとばっちりを恐れて机の下に逃げ込む。
 残飯を蹴散らし椅子を蹴飛ばし、気炎を吐いて歩み寄った凱が机の下に無造作に手を突っ込み、頭を抱え込んだ子分を引きずり出す。
 「お前、さっきなんつった?」
 「え、えっ?」
 人間離れした怪力、恐るべき膂力を発揮、片腕一本で囚人を宙に吊り上げる。胸ぐら掴んで宙に吊り上げられた囚人に頭突きを食らわせ、額から血をしぶかせた凱が、爛々と目を光らせる。

 「とぼけんじゃねえ、俺が知らないとでも思ったか。最初から最後までばっちり聞いたぞ。レイジがいないのいいことにアイツのことさんざん馬鹿にしやがって……お前何様のつもりだ?俺の子分の分際で出過ぎた真似しやがって、認めるのは悔しいがレイジは俺を負かして東棟のトップになった男、ペア戦100人抜き成し遂げた最強の王様だ。いいかよく聞け阿呆が、東棟でレイジを悪く言っていいのは俺だけなんだよ、俺以外の誰もレイジを嗤っちゃいけねえんだよ。仮にも俺様を負かした男、俺様が認めた男だ。そいつを馬鹿にするってたこたあ俺を馬鹿にするも同罪なんだぜ、物分りの悪いおちびちゃんよう」

 返り血に濡れた凄惨な形相で啖呵を切る凱に、周囲の連中が息を呑む。
 おちびちゃん呼ばわりされた囚人の顔が恐怖に引き攣るのを冷たい目で確認、大きく腕を振りかぶれば冗談みたいに囚人が吹っ飛び机の上を転がる。頭のてっぺんからつま先まで残飯まみれになって机を転がった囚人が床に転落、完全に沈黙。
 水を打ったように静まり返った食堂を見渡した凱が、ドスを利かせた低い声で命じる。
 「レイジに言いたいことある奴あ俺ん前に出ろ。相手になってやる」
 「凱、お前……」
 まさか凱に助けられるとは思わなかった。俺を一瞥した凱がそっけなく鼻を鳴らし、周囲を威圧するように拳を鳴らした瞬間ー……
 「副所長命令だ、乱闘首謀者を拘束のち独居房に移送!!」
 十数人の看守が食堂に殴りこんできた。食堂に乱入した看守が手近な囚人にとびかかり警棒で打ちのめして取り押さえる、逃げ惑う囚人どもを片っ端から警棒で叩きのめして歯向かう奴と格闘し、あっという間に食堂を制圧した看守が俺のもとへと走り寄る。
 正面に迫った看守が警棒を振り上げ、俺の肩口を殴る。
 「!痛っで、なにすんだ!?」
 「乱闘首謀者はお前だなロン、後で詳しい事情を聞くから独居房で頭を冷やしとけ!」
 首謀者?独居房?肩を庇ってうずくまった俺に看守が覆い被さり床に這わす、背中に回された両手に手錠がかかる。
 視界の端で凱も同じように床に這わされ手錠を嵌められていたが、こっちは看守三人がかりでも手に負えない暴れっぷりだった。凱だけじゃない、俺を助けようとして巻き添え食ったビバリーまでも看守に取り押さえられる。
 「待てよ、ビバリーは関係ねえよ!二階から降ってきただけだ!」
 「安心しろ、お前ら三人とも独居房のお隣さんだ。だれがいちばん最初に発狂するか賭けでもしとけ」
 カッとするが、後ろ手に拘束されたんじゃ殴りかかることもできやしねえ。
 床一面に残飯と食器が散らかりトレイが裏返った食堂では、看守と囚人、囚人と囚人が壮絶な取っ組み合いを演じてる。殴る蹴る噛む頭突くして看守に抵抗する囚人に嵐のように警棒が降り注ぐ、頭といわず肩といわず腹といわず腰といわず警棒に殴打された囚人が豚の鳴き声をあげるー……
 
 俺は、死ななかった。
 そして、独居房に放り込まれた。

 長い長い廊下を引きずられて奥まった区画に連れてこられて、灰色の壁に並ぶ鉄扉の一つに看守が鍵をさしこみ(やめろ)鉄扉が開け放たれて矩形の暗闇が口を開けて(やめてくれ)どん、と背中を突き飛ばされた俺は暗闇の中に(いやだ)……乱暴に閉じた鉄扉、遠ざかる靴音と話し声(行かないでくれ)出してくれ出してくれ……
 「ちゃんと反省したら出してやるよ」
 「一週間後にな」
 最後に聞いたのは看守の笑い声。
 俺は、死ななかった。
 独居房に放り込まれてもまだ生きていた、発狂寸前で踏みとどまっていた。生まれて初めて放り込まれた独居房は想像以上に酷い場所だった。反吐と糞尿が入り混じり発酵した汚物の匂いが立ち込めた暗闇、低い天井と左右に迫り出した壁が閉塞感を与える矩形の空間。寝返りを打つのも困難な窮屈な場所。
 発狂したい。
 今すぐ発狂したい発狂したい何も感じたくなりたい飢えも寒さも孤独も何も感じたくなりたい麻痺したい。
 噂に聞いてた独居房は、噂以上に酷い場所だった。
 こんな所で一週間も耐えられるわけない。身じろぎするたび金属の手錠と手首の皮膚が擦れて痛い。
 「開け、ろ」
 芋虫みたいに体を伸縮させ、床を這いずる。ズボンの膝が茶褐色に汚れる。真っ暗だ。何も見えない。瞼を開けても閉じても同じ絶望的な暗闇、レイジも体験した暗闇。
 レイジはほんのガキの頃、同じ体験をした。一条の光も射さない暗闇に閉じ込められて差し入れの缶詰だけで飢えを凌ぎ生きながらえた。だが、俺は無理だ。まだたった半日かそこらだってのにここから逃げ出したくて必死で出たくて必死でそれ以外のことなんか何も何も考えられなくて発狂一歩手前のとこまで来てる。
 「開け、ろ。反省した、から……」
 軽く咳をする。喉が痛い。風邪が悪化したらしい。嗄れた声で訴えかけるも応答はない。膝這いで扉に近付き、手が使えないから額で小突いてノックする。返事はない。廊下に人の気配はない……誰も居ない。その事実を受け入れるのに時間がかかる。
 一体いつになりゃ出してもらえる、あと何時間経てば出してくれるんだ?このままここにいたら鼻が死ぬ、尿意で膀胱が破裂する。
 凍えた暗闇の底、糞尿と反吐に塗れてひたすら孤独に耐えるうちに時間の感覚が狂いだす。今が朝なのか昼なのか夜なのかもわからない。
 嫌だ、こんなの本当におかしくなる、狂っちまう。
 ガキの頃お袋にクローゼットに閉じ込められた時と同じ、いや、それ以上の恐怖。再び扉が開く確証はない、助けが来る保証はない。最悪このまま放っとかれて死んじまうかもしれない。
 レイジ。
 「どこにいるんだよ」
 会いたい。
 畜生、なんでこんなにことになったんだよ。レイジと引き離されて独居房に放り込まれてアイツを助けに行くこともできなくて、このまま凍え死にしちまうのか?
 嫌だ、レイジに会わずに死ねるか、アイツの無事確認せずに死ねるか。体の奥底から突き上げる衝動のままに鉄扉に体当たりする、固く閉ざされた鉄扉をぶち破ろうと虚しい努力を積み重ねる。
 こんなとこで時間食ってる暇はない。俺はレイジの相棒だ、アイツを助けにいかなきゃならないんだ。
 ガン、ガン。鉄扉が鳴る。
 「開けろよ。だれか、だれかいるんだろ?だれもいないのかよ。なあ看守、だれでもいいからここ開けてくれよ、レイジのとこ行かせてくれよ。あいつ俺がいなきゃ駄目だから、俺がついててやらなきゃ駄目だから、俺が……」
 肩口から鉄扉にぶつかる。ガン、ガン。廊下に人の気配はなく、喉から搾り出した声がむなしく吹き抜ける。
 今頃どうしてるんだ、レイジ。
 力尽き鉄扉に凭れ、瞼の裏側にレイジの面影を呼び起こす。
 能天気に笑うレイジ、胸に輝く十字架……
 全身を悪寒が駆け抜ける。
 体がぞくぞくする。背中に氷柱を突っ込まれたみたいだ。
 レイジに会いたい。あたためてほしい。
 「…………っ………!」
 鉄扉に額を預けてずり落ちる。レイジをひとりにするんじゃなかった、房を出るんじゃなかったと今更後悔が押し寄せる。
 俺はまた、何もできなかった。
 俺がいない間にレイジはまた所長に呼びだされて連れてかれちまった。なんでついててやらなかったんだよ、相棒の癖に。
 血が滲むほど唇を噛み締め、自分の無力を呪う。レイジ頼むから無事でいてくれ、俺が行くまで無事にいてくれと目を閉じ一心に祈る。
 二重の暗闇に包まれた視界に浮かび上がるレイジの笑顔。
 絶対ここを出なけりゃ、ここを出て助けに行かなきゃ。
 糞尿垂れ流しの暗闇で嘆いててもはじまらない、めそめそ泣き言言っててもしょうがない。弱気な自分を叱咤して顔を上げた俺は、廊下を歩いてくる靴音に気付く。誰かがこっちにやってくる。
 誰だ?看守か?期待と不安に動悸が速まる、耳の奥に鼓動を感じる。
 苦しい体勢から首を伸ばして鉄扉を仰ぐ俺の正面で靴音が止み、下部に設けられた鉄蓋があがる。 
 「喜んで。『君の餌』を持ってきたよ」
 どこかで聞いたことのある声だ。鉄蓋を持ち上げて突っ込まれた食器にはリンゴの皮が盛られていた。これが餌、か。冗談きついぜ。
 「元気だして。いい子にしてればそのうち出してもらえる、それまでは僕が世話してあげるから……」
 「お前、曽根崎か」
 ねちっこい口調にピンときた。ビニールハウスで会った看守の顔を脳裏に思い浮かべて声をかければ、扉越しの相手が感激する。
 「僕のこと覚えててくれたのかい?嬉しいな、そうだよそのとおり、僕はビニールハウス担当の曽根崎だ。僕も君の事はよく覚えてるよロンくん、リョウくんのお友達。実は君が独居房に入れられてるって聞いて自分から動物園の餌係買って出たんだ。ほら、どんな凶暴な動物だって自分に餌くれる人間には懐くって言うでしょう?それで……」
 調子に乗って話し続ける曽根崎を無視、短く言う。
 「ここを開けろ」
 「駄目」
 あっさり断られた。憮然と黙り込んだ俺の機嫌をとろうとでもいうのか、気色悪い猫撫で声で曽根崎が畳みかける。
 「出してあげたいのはやまやまだけどそんなことしたら減棒されちゃう。可哀想だけどあとちょっとの辛抱だ、大人しくしてたらすぐに出してもらえる」
 カチャンと金属音がして再び鉄蓋が開き、一条の光が射しこむ。
 曽根崎が食器を出し入れする口から片手を突っ込み、俺の髪をかきまぜる。
 気色悪い手つきで髪に指を絡められ、ぞっとする。
 激しくかぶりを振って曽根崎の手を払い、必死に食い下がる。
 「レイジが、俺の相棒が連れてかれたんだ。今頃酷い目に遭わされてるんだ。俺がここ出る頃にはアイツ壊されてるかもしれない、手遅れになってるかもしれねえ。だから頼む曽根崎、ここから出してくれ!レイジに一目会わせてくれ!売春班の時もペア戦の時も俺はいっつもあいつに助けられてばっかで何ひとつ返せなくて、あいつが看守に連れてかれた時も何もできなくて……畜生、こんな相棒いらねえよ、ただの足手まといじゃんかよ!!わかってるよ俺が役に立たないことくらいレイジの足引っ張ってることくらい、でもそれでもここ出たいんだ、アイツを助けに行きたいんだ!アイツのことが心配でいてもたってもいられないんだ、アイツに会いたくて会いたくて気が狂っちまいそうなんだよ!!」
 俺は役立たずの足手まといだ。レイジに迷惑ばっかかけてる。
 でもそれでもどうしようもなく、俺はレイジが心配だ。
 扉の向こうから戸惑いの気配が伝わってくる。もう一息だ。深呼吸し、切り札をだす。
 「……ここから出してくれるなら何でも言うこと聞く。しゃぶれって言うならしゃぶる。だから、」
 曽根崎が息を呑む。口の中に苦いものが広がる。
 俺は、最低だ。独居房から出るには手段を選んでられないと自分に言い聞かせて男のプライドを売り渡した。お前のモンしゃぶってやるから慈悲を垂れてくれと懇願した自分に吐き気がする。
 鉄扉の向こう側で曽根崎が逡巡する。
 扉を開けようか開けまいか迷ってるらしい。
 俺の口は、勝手に言葉をつむぐ。
 「鍵穴に鍵さしこんでちょいとノブ捻るだけでいいんだ、そしたら天国にイけるんだ、悪い話じゃないだろ。リョウと俺、どっちがフェラ上手いか比べてみろよ。知ってるか曽根崎さん、俺のお袋池袋有名な娼婦なんだぜ。俺は生まれついての淫売の息子ってワケ。男悦ばす手管ならリョウに負けねえ、喜びいさんであんたのペニスしゃぶってやるよ。口ん中でイチゴ転がすみたいに、な」
 曽根崎に見えないのを承知で口から舌を出し、挑発する。曽根崎が決意し、腰の鍵束を探る。鍵束から一本を選別、鍵穴にさしこむ…
 「餌やりは終わったか、曽根崎」
 「「!!」」
 じゃらり、と音がした。曽根崎の手が滑り、鍵束が触れ合う音。扉の向こう、後からやってきた看守が不審げに曽根崎の手元を覗きこむ映像が脳裏に浮かぶ。
 「おおおおおおおお終わったとも。それが何か?」
 「乱闘の事情聴取したいから独居房から出せとのお達しだ。けっ、運がいいぜ。本当なら一週間は入れときたかったんだがな」
 耳を疑った。曽根崎のモンをしゃぶらなくても出られることに歓喜、期待に胸高鳴らせて扉が開くのを待つ。
 扉が開き、暗闇に慣れた目を廊下の光が射る。眩しい。廊下に突っ立った二人の看守のうち遅れて来た右側の看守が悪臭に顔を顰める。
 胸郭を膨らませ、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。悪臭に麻痺した嗅覚が正常に戻る。独居房に踏み入った看守が乱暴に俺の腕を掴み、引きずり出す。
 背後で鉄扉が閉まる。
 俺の腕を掴んで立ち上がらせ、看守が耳朶で囁く。 
 「所長直々にお呼びだ。たっぷり絞ってもらえよ」
 「所長が?」
 「本当は副所長がやるはずだったんだが、直接お前に面会したいと言い出してな。急遽所長室で事情聴取が行われる羽目になった。食堂で乱闘起こした危険分子のツラをとくと拝みたいんじゃねえか?『上』の考えるこたあよくわからねえがな」
 看守が自嘲的に笑う。曽根崎はそわそわする。俺に口八丁で乗せられて鍵を開けようとしたことがバレないか心配してるらしい。……小心者め。
 いやな、予感がする。なんで俺が直接呼ばれたのか腑に落ちず暗澹とする。その一方所長室にはレイジもいるはずと僅かな希望が芽生え、再会の期待が高まる。
 今度こそレイジに会える、この目で安否を確かめられる。
 相棒に会える喜びを噛み締める俺の腕を引っ張り、看守が大股に歩き出す。
 「その前にシャワー室だ。そんななりで所長室に行かせるわけにゃいかねえからな」
 頭のてっぺんからつま先まで糞尿と反吐にまみれた俺から顔を背け、看守は苦々しく吐き捨てた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050602134229 | 編集

 所長室では尋問が行われていた。
 神経質なまでに整理整頓が行き届いた執務机は鏡のような光沢を放っている。
 黒革の椅子に身を沈めた但馬の足元には一匹の犬がいる。
 荒い息を吐くドーベルマンの頭を気まぐれに撫でながら、机を隔てて対峙する少年をねめつける。机のちょうど正面に用意された椅子に座らされているのは、明るい藁色の茶髪の少年。
 俯き加減でいるため前髪に隠れた表情は定かではないが、完璧な造作の目鼻立ちから稀に見る美形であることが窺い知れる。
 粗末な囚人服を纏った少年はしかし、椅子に腰掛けた体勢から顔を上げようともせず、意識があるのかどうかも疑問な様子で沈黙している。
 所長はしばし嬲るような目つきで少年を眺め、声をかける。
 「寝ているのかね?私の前で眠るのを許可した覚えはないが」
 少年がごくかすかに反応する。形良く尖った顎が上がり、両目の位置に被さった前髪が散らばる。緩慢な動作で顔をもたげた少年が、焦点の合わない目で虚空を見る。
 色素の薄い睫毛が震え、隻眼が薄く開く。
 しかし片方の目は開かず、眼帯に覆われている。硝子めいた透明度の瞳が虚空を彷徨いやがて所長の顔を凝視、嘲りの色を浮かべる。

 「Good morning.ご機嫌いかが?」

 からかうような調子の声を投げかけられ、所長は鼻を鳴らす。
 椅子に束縛されたレイジの消耗は激しく、虚勢の笑みを作った顔には憔悴の色が透けている。
 疲労困憊、椅子の背凭れにぐったり背中を預けたレイジはしかし、誰にも物怖じせぬ揺るぎない瞳で真っ直ぐに所長を射止める。
 「だいぶ疲れている様子だが、体の調子はどうだね」
 答えを承知で尋ねれば、少年が喉を鳴らす。喉の奥で笑ったのだ。
 「最高だね。すこぶる調子いいよ。一晩中中体の奥を掻き回されたせいで火照って火照ってしょうがねえ」
 「快楽に貪欲だな。そんなにこの玩具がお気に召したのか」
 所長が皮肉に笑い、机上に転がる無機質な卵を摘み上げる。
 最前まで少年の体の奥で緩い振動を続けていた機械の卵、コードレスのローター。
 「私としては内臓が出血するまで入れておきたかったのだが、快楽に狂われ話ができなくなっても困る。直腸の奥まで挿入したせいで抜くのに手間がかかったな」
 手のひらで卵をもてあそびながら意味ありげにレイジを見る。
 「君に質問だが、昨日は合計何回射精したんだ?」
 「あててみろよ」
 羞恥にたじろぐでもなく、大胆不敵に切り返すレイジに笑みを深める。
 「ずっと独りで耐えていたのか、自慰で抜いたのか?頼むから抜いてくれと同房の人間に泣きついたか?まさかな。君はプライドが高いから一晩中一人で耐えていたはず、同房の人間に恥ずかしい秘密を知られるのを避けてずっとベッドに突っ伏していたはずだ。違うか」
 「黙れよ」
 「同房の人間に説明を避ける気持ちは理解できる。まさか肛門の奥にローターを入れられたなんてそんな恥ずかしいこと言えるわけがない。肛門の奥にローターを入れられ絶えず前立腺を刺激され感じていたなんて、勃起が持続し射精が連続し快楽に溺れていたなんて話せるわけがない」
 手のひらでローターをもてあそび、所長が言う。
 「奴隷を作る秘訣は快楽と苦痛を交互に与えること。私はそれを実践したまでだ」
 優越感に浸りつつ、昨晩の出来事を回想する。
 目の前の少年に命令し裸にさせ四つん這いにし、肛門を指で馴らし、奥までローターを挿入した。
 排泄器官に異物を挿入される不快感に少年の顔が歪むのを目の端で眺め、嗜虐の愉悦に酔い痴れ、体の奥で振動を続けるローターのせいで自力で立ち上がることすらできなくなったレイジをそのまま房に帰した。
 本能で生きる動物は快楽に忠実、ならばそれを逆手にとって躾けてやろうではないか。
 「さあ、昨日の続きをしようではないか。君も一晩経って気が変わったのではないか?そろそろ素直になりたまえよ」
 厳かに尋問再開を告げ、椅子の背凭れに凭れかかる。
 レイジは欠伸を噛み殺す表情で不満を訴えていたが、やがてうっそりと口を開く。
 「あーあ、死ぬほど退屈。早く房に帰りてえ。あんたとおしゃべりするのは飽きたんだよ、所長さん。悪趣味な玩具ケツに突っ込まれたせいで昨日はろくに寝てないんだ、さっさと房に帰ってベッドに倒れこみたいんだよこっちは。わかってる?わかったんなら帰してくれないかな。はっきり言って俺、あんたタイプじゃないんだよ。タイプじゃねえ男と長時間ツラ突き合わすの拷問だよな。退屈で退屈で尻がむずがゆくなってくる。ずばり言ってやろうか所長さん?俺、反吐でるほどあんたが嫌いみたいなんだ。今こうやって座ってる間も暇つぶしにあんたを殺す方法考えてるくらい」
 誰をも魅了する笑顔であっさり暴露したレイジを、所長もまた余裕の笑みで迎えうつ。
 相手の出方を窺う沈黙が落ちる。
 「私が知りたいのは、君が持ち逃げした物の行方だ」
 机上に肘を付いた所長ががらりと口調を変えて本題を切り出す。
 手近な書類をめくり、文面に目を走らす。
 そこに記されているのは眼前の少年がフィリピン政府から身柄を引き渡され、東京少年刑務所に収監されることになった経緯。かつてレイジが犯した事件の詳細。

 「レイジ、君は非常に面白い経歴の持ち主だ。英語の憤怒、憎悪。呪われた名を授けられし悪魔の落とし子。かつて君が所属した反政府組織は徹底抗戦をくりひろげ軍に多大な被害を及ぼした。君は組織では主に軍関係者の暗殺を請け負っていた。ふむ、なかなか目のつけどころがいい。女子供を暗殺に使うのは標的の油断を誘う常套手段とはいえ、君の暗殺成功率は群を抜いている。現在判明している限りでも二十五人の軍関係者が君に殺されている。まさしく殺しのプロたる鮮やかな手口、殺害方法はナイフによる刺殺・銃による射殺・ベルトによる絞殺まで多岐にわたるが殆ど証拠を残さぬ手口は見事と言うほかない」

 「お褒めにあずかり光栄。溶けた鉛を耳の穴に流し込んだことは書いてないか」
 人を食った戯言を無視、続ける。
 「だが、遂に悪運尽きて悪魔の所業が明るみに出た。要人暗殺に失敗した君は組織から切り捨てられ囚われの身となった。本来ならすぐに殺されるはずだった君がこれまで命を永らえてきたのは、君が逮捕される原因となった事件で消えたある物の行方をフィリピン政府が追っているからだ」
 「ある物って?」
 「君がいちばんよく知っているはずだろう」
 所長が口の端を吊り上げ嘲弄する。
 「四年と半年前、君がフィリピンで逮捕されるきっかけとなった事件。マニラの米軍基地に視察に来た日本の政治家が殺され、事件現場から『ある物』が消えた。フィリピン政府は今も総力を挙げてその行方を追っているが、杳として知れない。君も当時苛烈な尋問を受けたが、とうとう在り処を吐かなかった」
 一呼吸おき、威圧的に声を低める。
 「……『あれ』をどこにやった?素直に吐けば減刑を検討する、生きてここを出ることも不可能ではない」
 「あれとかそれとか抽象的なこと言われてもわかんねっつの。イエロージャップとの会話は疲れる」
 堂々としらばっくれるレイジの前で席を立つ。
 銀縁眼鏡の奥、爬虫類めいて冷血な双眸が酷薄な光を宿して細まる。椅子に座ったレイジは口元を不敵に歪めて威圧感をはねつけていたが、両手を挙げて降参の意を示し、おどけたように首を竦めてみせる。
 「はいはい、わかりました。俺の負け。あんたが喉から手が出るほど欲しがってる『あれ』はポケットの中に」
 皆まで言わせず所長が行動にでる。
 レイジのズボンを掴み、ポケットに手を突っ込み、中をまさぐる。野心にとりつかれ目を血走らせ、ズボンの尻ポケットを掻き回した所長が快哉を叫ぶ。
 「あった、あったぞ!フィリピン政府が捜していた『あれ』を遂にわが手に……」
 勝ち誇り、頭上高く手を掲げた所長の眼下で笑い声が爆発する。
 椅子から転げ落ちんばかりに背を仰け反らせ爆笑するレイジをあっけにとられたふうに見下ろした所長は、自分の手が掴んだそれに視線を移し、一杯食わされたと悟る。
 所長がレイジのポケットから取り上げたのは、箱入りコンドームだった。
 「はははははははっははははははっ、嘘、嘘に決まってんじゃん!そんな簡単に見つかったら苦労しねえよ、あっというまに問題解決であんたは昇進だ!おめでたいね所長、さすがはタジマの兄貴だ。兄弟揃って大間抜けもいいとこだ、さっきのあんたときたら傑作だったぜ、全世界に自慢するようにコンドームの箱突き上げちゃってさ!何それ天然、天然ボケの一発ギャグってやつ!?」
 コンドームの箱を掴んだ所長の顔が恥辱に染まり、全身に怒気が迸り、雰囲気が悪化する。笑い上戸の少年が狂ったように手足をばたつかせる様を眺め深呼吸、コンドームの箱をぐしゃりと握りつぶし腕の一振りで投げ捨てる。
 放物線を描いた箱が壁に跳ね返り、絨毯の上に落ちる。 
 「……そうか、あくまで私に反抗する気か、躾けの必要があるか」
 憎悪に濁った声で吐き捨て、扉を一瞥。
 廊下を近付いてくる靴音。余裕ある足取りで机にもどり椅子に腰掛けた所長が、わざとらしく話題を変える。
 「ところでレイジ。さっき連絡が入ったが、君の同房者が食堂で騒ぎを起こしたらしいぞ」
 「は?」 
 レイジが即座に笑い止む。放心した表情でこちらを仰ぐレイジの反応に気をよくして付け加える。 
 「食堂で椅子を振り回し暴れて多数の負傷者をだしたらしい。一度独居房に送られたそうだが、詳細に事情を聞きたいから直接ここに呼ぶことにした。そろそろ到着するはずだ……どうした、顔色が悪いぞ。同房者との再会だ、もっと喜んだらどうだ?」
 机上で五指を組み、その上に顎を載せる。
 「彼をここに呼んだのは君と同房だと聞いたからだ。なんでも君はこれからここに来る囚人に特別感情移入してるらしい、君たちは特別親しい間柄らしい。俗に言う『親友』とやらか?ふん、家畜の分際で生意気な。ならば親友と一緒に尋問を行おうではないか。私の配慮に感謝したまえよ、君」
 「ロンが、ここに来る?」
 信じられないといった面持ちでレイジがくりかえす。嘘だと思いたい、嘘であってほしいと祈るような口調で。所長は笑顔で首肯する。
 少年の表情が半笑いで硬直、何か言おうと口を開くと同時に扉が開き、看守に挟まれた小柄な少年が入室する。
 生意気そうな顔をした癖の強い黒髪の少年だった。意志の強さを表す眉の下、敵愾心剥き出しの三白眼が爛々と輝いている。
 癇の強そうな薄い口元を引き結んだ強情な様子からは、相手が所長だろうが一歩も引かない気迫が感じられた。
 「食堂で発生した乱闘の首謀者、ロンを連れてきました」
 「ご苦労」  
 渦中の少年を連行した看守を鷹揚にねぎらい、視線を正面に戻す。
 レイジは衝撃を受けた様子で入り口付近に立ち尽くすロンを見つめていた。看守に挟まれて入室したロンは、机の前、椅子に座らされたレイジに気付くが早く駆け出そうとしたが、「勝手な真似をするな!」と肩を掴んで引き戻される。
 ロンは後ろ手に手錠をかけられたまま、レイジの背に手を伸ばしたくても伸ばせない悔しさを噛み締めているようだ。
 「……待てよ、なんでロンを呼ぶんだよ。聞いてないぜ、こんな展開」
 顔の皮膚の下に焦燥が透けて見える。
 笑い出したくなる衝動を自制し、落ち着き払って追い討ちをかける。
 「……書類を読んで知ってはいたが、君は幼少時より拷問の訓練を受けたせいで苦痛に耐性があるようだ。君を痛めつけたところで利益はない。だが、『彼』ならどうだ?今更隠しても無駄だレイジ、入室時の反応ですべてが判明した。ロンが入室した時、君の表情は劇的に変化した。最前まで私を笑っていた顔から一切の余裕が消し飛んだ」
 淡々と事実を指摘すれば、レイジの顔が悲痛に歪む。
 ぎりっと音が鳴るほどに唇を噛み、眼帯に覆われてない方の目に凶暴な光を宿し、殺意を凝縮した眼差しを叩きつける。
 愉快だ。愉快で愉快でたまらない。
 必死に笑いを噛み殺し、椅子から動けないレイジを見返す。レイジは現在、椅子の背凭れに両手を回され手錠をかけられている。
 両手が自由なら即座に殴りかかるか素手での殺害を試みても不思議ではない状況下だが、同房者を人質にとられた状況下でそんな暴挙にでるほど彼は愚かではない。
 所長は事前調査でレイジの人となりを把握していた、同房者のロンに彼が特別感情移入してることも二人が特別親しい間柄にあることも当然承知していた。だからこそ、所長室にロンを召喚したのだ。ロン自ら問題を起こしてくれたのは好都合だった、彼を所長室に呼び出しレイジを脅迫する口実ができた。この機を利用しない手はない。
 飼い主の興奮が伝染したようにハルが鳴き、膝に前脚をかけて甘えてくる。
 ハルの頭を愛しげに撫でながら看守に目配せ、ロンをレイジの隣に並ばせる。看守に小突かれてレイジの隣に立たされたロンは、不安と怯えを隠せない表情でこちらを探っている。
 「レイジ、君の母親は反政府組織の人間だった。母親を人質にとられた君はどんな非道な命令にも従わざるを得ず、組織に飼い殺しにされる運命だった」
 「それがなんだってんだよ」
 薄茶の瞳に激情がさざなみだつ。
 殺気立った少年を宥めるように微笑し、続ける。
 「悲劇と過ちはくりかえす。大事な人間を人質にとられたら、君はまた同じことをするのではないかね?」
 椅子に座ったまま顎をしゃくれば心得たと看守が頷き、ロンの頭を押さえ込む。看守二人がかりで床に這わされたロンが「やめろっ、離せよ!」と抗議の声を発するも完全に無視される。
 レイジの顔が引き攣る。
 自分を痛めつけられるのには耐えられても大事な人間を傷付けられるのには耐えられない、それがレイジの致命的な弱点であり人間的な脆さ。
 所長は邪悪な喜び滴る笑みを満面に広げ、非情な命令を下す。

 「命令だ。今この場でロンを犯せ」

 「!?………っ、何言ってんだこの変態!!」
 ロンが叫ぶ。看守もさすがに狼狽する。だが、この場で最も動揺したのはレイジだ。一瞬表情が固まり、ぎこちない動作でロンに向き直る。ロンの視線とレイジの視線が虚空で衝突、絡み合う。
 手を伸ばせば届く距離にいるのに決して触れ合えない二人を憐れむように蔑むように所長が目を細める。
 「聞こえなかったのか?ロンの服を剥いで犯せと命令したのだ。何を躊躇う、家畜風情に。この私が看守の実態を知らないとでも思ったか、囚人を脅して関係を持っている看守がいることくらい当たり前に知っている。さあ私が見ている前で犯せ、レイジが見ている前で強姦しろ」
 「黙れよブラザーファッカー、ロンに手え出したら殺すぞ!!」
 レイジが犬歯を剥いて食い下がる。ずたずたに傷付けられた野性の豹がそれでも最期の力を振り絞り何かを守ろうとするように、耳障りに手錠を鳴らして椅子から身を乗り出し牽制する。
 だが、所長は動じない。
 レイジが必死になればなるほど笑いが止まらないとでもいうふうに邪悪な笑みを深めて、当惑する看守に重ねて促す。
 「どうした、犯さないのか。所長の命令に逆らう気か。私に逆らうなら処分するが、それでもいいのか。君たちも内心では喜んでいるはずだ、所長公認で性欲処理ができて狂喜しているはずだ。ロンの体に目をつけてる看守は他にもいるはずだ。どうしても命令を拒否するというなら彼らを呼ぶまでだが」
 「犯していいんですね?本当にいいんですね?」
 「所長に許可貰えるならそりゃ喜んで犯りますが……」
 ロンを押さえ込んだ看守の目が欲望にぎらつきだす。体を這いまわる手がやがて服の中に潜り込み、性急な愛撫が肌を擦る。所長の許可を得た看守二人がごくり生唾を飲み込み、ロンの服の内側に手を入れて夢中で肉を貪りだす。薄い胸板をまさぐり痩せた腹を揉みしだきズボンの内側のペニスを手に取る。
 「やめろはなせ、はなせよ変態!俺にさわるな畜生、離れろよくそっ……レイジの前で他の男に犯られるなんざ冗談じゃねえ、男に犯られて感じてたまるか、今すぐ命令取り消せタジマの兄貴の変態やろっ……あ、はっ……」
 腰が萎え、姿勢が崩れる。
 ズボンの内側に潜り込んだ手がペニスを扱き上げて股間が固くなる。ロンの背中に汗ばんだ腹をぴたり密着させ覆い被さった看守が、シャツの背中に手を探り入れ、尻の柔肉を揉みほぐす。ロンの正面の看守が体の表面をまさぐり、ズボンの股間に手を入れて自慰を手伝う。体の裏も表も看守に蹂躙されたロンが甘い泣き声を漏らす。
 発情した猫の鳴き声。
 「やめろ」
 極限まで目を見開き、レイジが呟く。看守はやめない。上着がはだけて裸身を露出、ズボンごとトランクスを引き下げられたロンの姿態に欲情を掻き立てられ、ますます手を加速させる。ロンが激しくかぶりを振り肩を揺らす、そうやって看守の手を払いのけ逃れようとするも体格の良い大人に二人がかりで来られてはどうにもならない。
 「やめ、さわんなっ……は、あ、あっあっああっ……!」
 ロンが涙ぐむ。レイジの顔が焦燥に歪み、感情が爆発する。両手は手錠で拘束されたままにレイジが身を捩り暴れる、椅子のスプリングをぎしぎし軋ませロンから離れろと全身で訴える。
 「お前ら、俺のロンに何勝手な真似してんだよ!!いいかよく聞けアスホールのマザーファッカーども、ロンにさわっていいのはこの世で俺だけだ、ロンを抱いていいのはこの世に俺ひとりなんだ!ロンは俺の物だ俺の相棒だ、俺の物に手え出す奴は地獄に落とされても文句言えねえぞ、ロンにさわった指十本全部切り落としてケツの穴に突っ込んでやる!!」
 「ロンを助けたいか」
 醜態を晒すレイジをひややかに見下し、所長が含み笑う。死に物狂いに暴れた反動で椅子が横倒しになり、レイジもまた床に倒れる。床に激突した衝撃で眩暈に襲われたレイジの上に屈み込み、その前髪を掴んで無理矢理顔を起こし、誘惑を吹きこむ。
 「レイジ、君に選択の権利を与える」
 耳朶に囁かれたレイジがよわよわしく瞼を開く。レイジの眼前では今しもロンが犯されつつある。上着とズボンを脱がされ裸に剥かれ、背中に覆い被さった看守に尻の柔肉を割られ、前方の看守に股間をまさぐられ勃起し、激しい恥辱に苛まれ頬を染めている。
 「ひっ、あっ、あふっ……あ、レイ、ジ、見る、なっ……」
 看守の手で目隠しされたロンが嫌々と首を振る。背中に覆い被さった看守が肛門の窄まりを探り当て、指を入れる。ロンの背