ロールシャッハテストB

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月別_2005年05月
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三話

(2005/05/31)
 「ロンが犯されるか自分が犯されるか、今ここで選びたまえ」
 兄弟揃って狂ってやがる。 
 自分が助かりたければ俺を見殺しにするしかない、俺を助けたければ自分が犠牲になるしかない。
レイジの顔が凍りつき、見開かれた目から感情が消失。レイジの前髪を纏めて掴んだ所長の顔には邪悪な喜び滴る笑み。
 俺を庇って自分が犯されるか、俺を見殺しにして自分が助かるか激しい葛藤に苛まれ苦悩に閉ざされたレイジの顔を至近距離で観察し嗜虐心を疼かせている。
 前髪を毟られる激痛にも増してレイジの顔を歪ませる過去の記憶、思い出すのもおぞましい出来事の記憶。
 現実にあった悪夢。ほんのガキの頃、レイジは組織から逃亡を企てた。母親と二人生きる道を探して無謀にも外へと飛び出した。
 ガキの浅知恵と笑いたきゃ笑えばいい、レイジはその頃必死だったのだ。
 ただ母親と二人平和に暮らしたくて、ささやかな幸せが欲しくて、「普通」の生活に憧れて、自分たち親子を束縛する組織の監視の目が届かない場所へ逃げようとした。レイジは必死だった。ガキの浅知恵と言っちまえばそれだまでだけど、ガキの頭で一生懸命に考えて、マリアの幸せを何より一番に祈って命がけの脱走計画を実行に移した。
 でも、それが裏目に出た。レイジの脱走は失敗した。
 レイジはお袋と二人とっ捕まった。
 そして罰を受けた、二度と組織を裏切ろうなんて気を起こさないように。レイジはかつて今と同じ状況で同じ選択を迫られた、眼前で母親を犯されるか自分が犯されるか選べと数人がかりで取り押さえられ強要された。
 レイジは信心深いフィリピン娘のマリアが兵士に強姦されて出来た子供、もとより祝福されない子供だった。
 マリアはレイジを虐待した。
 自分と似ても似つかぬ髪と瞳の子供を見るたび犯された時の恐怖がよみがえった。殴った、蹴った、髪を毟った、引っ掻いた、首を絞めた。俺がお袋から受けてきた虐待よりもっと凄まじい、もっと酷い、惨たらしい虐待。だけどレイジはマリアを愛し続けた、殴られても蹴られても髪を毟られてもぼろぼろになっても献身的にマリアを愛し尽くし続けた。
 レイジにはマリアしかいなかった。
 だからレイジは、自分が犯されるのを選んだ。
 マリアを見殺しにするくらいなら凶暴な男たちに犯されたほうがマシだと現実を受け容れた。マリアを見捨てて自分だけ生き延びても意味がない、マリアと一緒に幸福になれなければ意味がないのだ。レイジは多分、マリアに過去の悪夢を追体験させたくなかったのだ。
 今また男たちに犯されればマリアは自分を孕んだときの記憶を喚起せざるえない、村を焼かれ家族を殺され兵士たちに輪姦されたおぞましい出来事を反芻せざるえない。
 誰よりマリアを愛していたレイジが母親が再び犯される運命を許容するはずない、全力をもって拒否したはず。苦渋の決断。
 どれほど辛い選択だったか、心中は計り知れない。
 しかし、レイジの心は粉々に打ち砕かれた。
 レイジがどちらを選んでも組織の人間はその反対に行動する予定だったのだ。マリアはレイジの眼前で男たちに犯された。レイジは何もできず、母親が男たちに犯される現場を見ているしかなかった。
 無力感、敗北感、罪悪感……絶望。心臓を食い破り荒れ狂う激情。
 自分が選択を誤ったせいで最愛の人間が犯された、自分のせいでマリアが酷い目に遭わされた。
 レイジは今でも当時の出来事を覚えている。忘れられるわけがない。今でも夢に見るに決まってる、悪夢にうなされるに決まってる。
 言わなくてもわかる。
 十字架を撫でる手は許しを乞う手。レイジは今も十字架に触れ、かつて守れなかったマリアに謝罪し続けているのだ。
 愚直なまでに純粋に、哀切なまでに真摯に。
 但馬は、同じ選択をレイジに強いた。俺が犯されるか自分が犯されるか選べとレイジに要求した。
 許せねえ。
 「………くそったれが……」
 腹の底で汚泥が煮立つ。視界が真紅に染まるほどの憤怒。体の裏表を這いまわる手の不快さよりもうなじを湿らす吐息の熱さよりも俺を激昂させたのは、優越感に浸りきった所長のにやけ顔。
 殺意が沸騰する。怒りで体が震える。
 一体コイツはどれだけレイジを傷つければ気がすむ、トラウマを抉れば気がすむんだ?レイジはもう十分傷付いたってのに十分すぎるほど自分を責めてるってのにコイツはこのクソ野郎はまだレイジを苦しめる気でいやがる、まだまだまだまだまだ俺のレイジを苦しめる気でいやがる!!
 許せない絶対に。
 感情が爆発した。
 「タジマの兄貴の変態野郎今すぐレイジから離れろそのツラ犬の小便で洗って目え覚ませ、寝言ほざくのもいい加減にしやがれてめえ、なんだよそのイカレた選択はよ!?俺が犯されるかレイジが犯されるかどっちかしかねえなんて最悪だ、どっち選んだって待ち受けるのは地獄じゃねえか、俺はごめんだ、レイジが犯されるとこ指くわえて見るのなんざ冗談じゃねえ!いつまでレイジにさわってんだよ狂犬家、レイジの髪一本だってお前にさわる権利なんざねんだよ、髪の先から小指の爪に至るまでレイジの体は全部全部俺の物なんだよ!!」
 喉から絶叫が迸る。
 看守二人がかりで押さえ込まれたまま死に物狂いに身をよじり喉膨らませ怒鳴り散らす、レイジをこの手に取り返そうと滅茶苦茶に暴れて咆哮する。
 椅子に縛り付けられ床に倒れたレイジは、壊れた人形じみた動作で顔を上げ、凍り付いた瞳で俺の狂乱を見つめていた。硝子のように脆く硬質な瞳に激情の余波が走る。
 瞳が、砕け散ってしまいそうだ。俺はこんな悲痛な表情を見たことがない。レイジの顔は、一瞬で時間が逆行した錯覚を抱かせた。瞬き一回の内に時間が逆戻りして子供に戻っちまったような感じ。
 マリアが犯された時もきっと同じ表情をしてたんだろう、捨てられた子供みたいに孤独が焼き付いた表情。
 レイジにこんな顔、させたくなかった。
 こんな顔、見たくなかった。
 「レイジ、真に受けるんじゃねえ!どうせどっち選んだってコイツが約束守るはずねーんだ、どっち選んだって最悪のことが起きるに決まってるんだ!お前が全部背負いこむことねえよ、変態の戯言に付き合ってお前が苦しむ意味なんかどこにもねっ……あっ、ひ!!」
 勢い良く喉が仰け反り、語尾が跳ね上がる。
 俺の背中にぴたり汗ばんだ腹を密着させた看守が、唾液に濡れた指を肛門に入れてきた。くちゃり、と淫猥な音がした。肛門の窄まりを探り当てた指が直腸の襞を掻き分け奥へと忍び込み、気色悪さに肌が粟立つ。
 「敏感な体。男に飢えてる」
 「こっちも敏感だぜ。ちっちぇえ癖してびんびんに勃ってやがる」
 俺の股間をまさぐってたもう一人の看守が嘲弄する。俺のペニスは勃起していた。しつこく扱かれて先端に汁を滲ませていた。ケツの穴に潜り込んだ指が卑猥に蠢く、ペニスを握った手が上下する。前から後ろから同時に責め立てられて知らず腰が跳ね、声が漏れる。
 こんな姿レイジに見せるくらいなら舌噛み切って死んだほうがマシだ。
 恥辱で顔が火照り、快感で息が上がり始める。
 涙の膜が張った視界にレイジが映る。
 「やめろよ」 
 低い声でレイジが言う。祈るような縋るような調子の声。
 「ロンに、さわるな。ロンは関係ねえ、俺がやったことにこれっぽっちも関係ねえ、ロンはただ偶然俺と同房になっただけで俺がフィリピンでやったことなんか何も何も知らねえ、俺が殺した連中のことも俺が持ち逃げした物のことも何も知らないんだよこいつは、だからこいつ犯したって意味ないんだ、神様に、いや、マリアに誓って真実を話してるんだよ俺は!!」
 椅子ごと床に横倒しになったレイジの顔筋が痙攣、泣き笑いに似て表情が崩壊する。眼帯がずれ、片目の傷跡が外気に晒される。
 背凭れに回された手を擦り合わせ手錠を外そうと試みて、それが駄目なら椅子ごと移動しようとしきりに身をよじる。椅子ががたがた鳴る。少しでも俺に近付こうと必死に身をよじり続けるレイジを見下ろし、所長は憫笑する。
 「ロンは、そいつは俺のやったこととは何も関係ないんだ!俺とは何も関係ない赤の他人、たまたま監獄で一緒の房になっただけのうざったいガキで実際うんざりしてたんだ、喧嘩弱っちくせに口ばっか達者でマジむかついてたんだ!ああいい気味だ、せいせいするよ!そうやってめそめそ泣きべそかいてろよ子猫ちゃん、おうちでママのおっぱい吸ってるのがネンネにゃお似合いだ、今だから言うけどお前のことなんか大っ嫌いだ、虫唾が走んだよお前のツラ見ると、くたばっちまえよ甘ったれのマザーファッカー!!」 
 レイジが狂気渦巻く笑顔を湛えて俺に罵詈雑言を浴びせる。
 椅子をガタガタ鳴らして俺を罵倒しながらレイジが吐き捨てる。
 「上等だ、選んでやるよお望みどおりに!お前を庇って犯されるなんざお断りだ、そこまで面倒見切れねえよ、犯すんならロンを犯せよ!!」
 
 レイジが。
 俺を、裏切った?

 「…………!っ、」
 衝撃で言葉が出てこない。床に椅子ごと横倒しになったレイジは隻眼を爛々と光らせ俺を見つめている、口元には開き直った笑みが浮かんでいる。邪悪な顔。
 レイジは選択した。俺を見殺しにして自分が助かる道を選んだ。
 そんなまさか。レイジが俺を裏切るはずない。俺の為にペア戦に挑んでサーシャに片目を切り裂かれて、それでも戦い続けたレイジが俺を裏切るわけがない。
 衝撃に心が麻痺したまま、看守に二人して体の裏と表をまさぐられていた俺は、床に倒れ伏せたレイジの目に思い詰めた色が宿っているのに気付く。俺を裏切り保身を選んだはずなのに、俺を見殺しに自分だけ助かる道を選び取ったはずなのに、俺の分まで苦痛を抱え込む覚悟を決めたかのように……
 そして、気付いてしまった。
 「お前、わざと」
 レイジは俺を見殺しに自分だけ助かる道を選んだんじゃない、その反対だ。 
 床に倒れ伏せたレイジの表情が安堵に緩み、粉々に砕かれたプライドをかき集め、再び不敵な笑みを作る。俺が見慣れた無敵の笑顔。その瞬間、わかってしまった。レイジはどこまでも一途に俺を守ろうとしてる。かつてレイジは選択を誤った、組織の人間の邪悪な思惑を見抜けず間違った選択をしてマリアを汚された。
 だからレイジは。
 レイジは、
 「……お前、ばかだよ。へたな嘘つきやがって」
 邪悪な人間の裏の裏をかき、自ら憎まれ役を買って出た優しさが身にしみる。
 同じ間違いは犯さない。過ちは二度とくりかえさない。
 レイジはきっと、看守二人に押さえ込まれて裸に剥かれた俺の姿を母親と重ねて見ているのだ。
 「お前なんか大嫌いだ、ロン。犯られちまえ」
 きっかりと俺の目を見据えて嘘を塗り重ねるレイジ。俺は、唇を噛む。
 レイジの「大嫌い」が、俺には「愛してる」と聞こえる。
 「それが君の選択か?」
 冷酷な声音が割って入る。レイジの傍らに片膝付いた所長が興味深げな表情を覗かせる。縁無し眼鏡の奥、酷薄な双眸が瞬く。床に突っ伏したレイジと看守に押さえ込まれた俺とを等分に見比べ、思案げに唇をなぞる。
 「ならばよろしい、望み通りにしてやろう」
 「!!痛っ、あっあ」
 ぐい、と強引に膝を押し開かれ肛門が外気に晒される。恥ずかしい体勢をとらされた俺の背中にズボンの股間を寛げた看守がのしかかる。濡れた音をたて肛門から指が引き抜かれ、熱い塊をおしあてられる。
 赤黒く勃起した、醜悪な性器。
 欲情に息を荒げた看守が俺の腰を掴んで尻を上げさせる。どくどく脈打つ肉の塊が尻の狭間の窄まりに触れ、肛門が裂ける激痛を予期し、体が強張る。
 視界の端、床に倒れたレイジの目が極限まで見開かれる。
 わかってる。わかってる。お前が自分を責める必要なんかこれっぽっちもない。お前は最後まで必死に俺を守ろうとしてくれた、庇おうとしてくれた。それだけで十分だ。ガキの頃、お前はマリアを助けようとして献身を逆手にとられた。だから今度は「逆」を選んだ。わざと露悪的に振る舞って、俺を裏切ったふりをして、俺を助けようとした。
 わかってるから、安心しろ。お前を憎んだりしないから。
 だから、そんな顔しないでくれ。
 「違う」
 薄目を開けて視線を彷徨わす。視界の端、レイジが呆然と呟く。
 「なんでだ。なんで違うんだ。『あの時』は選択を間違えた、俺が逆を選べばマリアは犯されずにすんだんだ、傷付かずにすんだんだ。あの時と同じ状況で違う選択をして、なんで同じ結果になるんだよ?こんなのってなしだぜ、神様。俺、あんたのことちょっとは信じてたのに。柄にもなくあんたに祈ったのに、なんでまたくりかえすんだよ」
 詰問というにはあまりに静かな口調。祈っても祈っても願いを叶えられず絶望したレイジの胸では、傷だらけの十字架が輝いてる。
 首を項垂れたレイジの顔に前髪が被さり、表情を覆い隠す。両手が自由なら十字架を握りしめ折り砕いていたかもしれない。だがしかし、レイジの両手は椅子の背凭れに戒められて十字架に縋ることすらできない。
 いいんだ、レイジ。
 首を項垂れたレイジに心の中で呼びかける。もう十分だ。何もかもお前が抱え込む必要なんてない。現実は思い通りにいかない。お前がどんなに足掻いたって頑張ったってどうにもならないことはあるんだ。瞼を閉じ、暗闇に自我を没する。うなじで弾ける熱い吐息、裸の背中をさする手……せめて声をあげないよう唇を噛み締めて衝撃に備える俺の耳を、絶叫が貫く。
 
 「なんでそんなに俺を嫌うんだよ、神様!!」

 レイジの叫び。
 「くそったれくそったれイエス・キリストのくそったれ、たった一度、たった一度くらい俺を救ってくれたっていいじゃねえか、この先一生報われなくたって構わねえから今この瞬間だけ慈悲垂れてくれたっていいじゃんか!俺はもうとっくにあんたに期待するのやめたあんたに縋るのをやめたんだ、でもそれでも最後にもう一度だけ信じさせてほしかったのに、俺の大事な奴を助けてほしかったのに……」
 レイジが叫ぶ、血を吐くように。 
 『I hate you、I leave you、I kill you、I rage you!!!!』
 全身全霊で神への呪詛を放つ。
 現実は、いつだって救いがない。そんなこととっくにわかりきっていた。俺は今この瞬間も何もできずただ犯られるのを待つだけ、椅子に縛り付けられたレイジもまた俺に手を伸ばすことすらできない。
 「友人を助けたいか」
 絨毯に片膝付いた所長が耳朶で囁く。叫び疲れてぐったりしたレイジは、それでも一縷の希望に縋るように首肯する。所長が我が意を得たりとほくそ笑み、椅子の背後に回る。手錠の鎖が擦れ合う金属音に続き、レイジが椅子から転落。唐突な心変わりに驚愕した俺の眼前、椅子から分離されても相変わらず手錠はかけられたまま、両手の自由を封じられ両膝を屈したレイジに所長が顎をしゃくる。
 「ならば相応の誠意を示してもらおう」
 所長の足元にはハルがいる。イヌ科の特徴の異様に長い舌を出してはっはっと息を吐いている。
 ハルの頭を撫でながらレイジを見下ろした所長が、人間味の欠落した笑みをちらつかせる。

 「ハルのペニスをしゃぶれ」

 ………に、を言ってるんだ」
 問いかけたのは俺。冗談かと思ったが、所長の目は真剣だった。俺を押さえ付けた看守もさすがに息を呑み事の成り行きを見守っている。ハルのペニスをしゃぶれ?犬に、フェラチオしろってのか。俺が見てる前で犬に奉仕させようってのか、レイジに。衝撃に麻痺した頭に現実が浸透するにつれ、猛烈な吐き気が込み上げる。
 「やめろ、レイジ。そいつの言うことなんか聞くな、お前が、王様が、犬畜生のペニスなんかしゃぶる姿東棟の囚人どもが見たらどう思うよ?やめろよ、なあ。お願いだから、………」
 喉が異常に渇く。何度も唾を嚥下し途切れに途切れに訴えるが、レイジは反応しない。絨毯に膝を屈したまま、凄まじい葛藤を宿した目でハルを見つめている。所長に顎をしゃくられたハルが虚空に脚を掲げて絨毯に転がる。
 仰向けに寝転がり、無防備に腹を見せたハルへと膝でにじり寄るレイジ。
 褐色の喉仏が動き、前髪の隙間から覗いた隻眼が思い詰めた光を宿す。 
 「………コイツのペニスをしゃぶれば、ロンを放してくれるんだな。口だけでイかせりゃいいんだな」
 やめろ。
 やめてくれ。
 やめろやめてくれそこまですることない犬のチンコなんかしゃぶることないプライド捨てることない俺の為にそこまですることない王様、やめてくれレイジ!!お前のそんな姿見たくない俺は見たくないお前が犬のチンコしゃぶるとこなんか見たくない、頼む誰か、誰でもいいからやめさせてくれ鍵屋崎サムライヨンイルホセ安田、お願いだから今この瞬間レイジが所長の命令通り犬にフェラチオする前に殴りこんできてくれ!!!
 「ああああああああああっあああああああっあああっああああああっ!!!!」
 「暴れるんじゃねえ!」
 「手足押さえつけろ!!」
 誰も助けに来ない、誰もレイジを止めない。なら俺がやるしかねえ。俺は滅茶苦茶に暴れる、上着とズボンを奪い取られて素っ裸になりながら看守二人を弾き飛ばしてレイジに駆け寄ろうとするも、警棒で肩を殴られ床に這わされる。痛い。激痛に涙が滲む。意味不明な奇声を撒き散らし、床を蹴って身悶える俺を二人がかりで床に固定した看守の視線の先、レイジがゆっくりと頭を垂れて犬の股間に顔を埋めー…… 
 レイジが、犬のペニスを口に含む。
 「……はっ、あ……」
 両手が使えない為に、こまめに顎の角度を変えて犬に奉仕する。犬の股間に顔を被せ、尖ったペニスに舌を絡める。唾液を捏ねる音が淫猥に響く。所長は笑っていた。嗤っていた。絨毯に寝転がったハルの股間に上体を突っ伏し、尖ったペニスを唇で食み、丁寧に舌を這わせるレイジを見下ろしてご満悦だった。
 レイジは苦痛を堪えるような表情で徐徐に膨張しだした犬のペニスを舐め続ける。
 「ふっ、う………でかすぎて口に入んねえっつの……」
 犬のペニスが急激に体積を増し、口腔を圧迫する。首を伸び縮みさせ、顔を傾げ、発情した軟体動物めいた舌でペニスの筋を舐め上げる。倒錯的な光景。顔に被さった前髪の隙間から時折覗く目は朦朧と濁っている。口に入りきらない大きさに膨張したペニスに飢えたようにしゃぶりつき、上から下へ、下から上へと舌を這わせて唾液を塗りこんでいく。
 口の端から垂れた唾液が首筋を滴り、シャツに染み込む。
 ハルの息が加速度的に荒くなる。
 「っ、は、は、はぁ……はは、両手使えねえと不便だな。手が使えたらもっと早くイかせられるのに、口だけだと難易度高いぜ」
 「レイジ、やめてくれ」
 こんなレイジ見たくねえ。俺の心の叫びを無視、レイジは一方的な奉仕を続ける。俺に背中を向けてハルを気持ちよくさせるのに集中する。後ろ手に手錠かけられ、床に両膝付いた獣の体勢から犬の股間に顔を埋めてぺちゃぺちゃと濡れた音をたてる。
 首筋から流れ落ちた金鎖が鈍くきらめき、虚空にぶらさがった十字架が不安定に揺れる。
 長く優雅な睫毛を伏せ、時折挑発的な角度で顎を傾け、引き締まった首筋と鎖骨を晒す。
 ハルの息遣いと腰の動きが速くなる。
 ペニスに舌を絡めて唇で刺激するくりかえしに顎が疲れてきたらしく、弱々しくレイジが首を振る。それでもまだやめない。
 ハルの腰の運動が速くなり、レイジの口に含まれたペニスがさらに膨張―――

 絶頂が訪れた。

 「!!かはっ、」
 射精する寸前、口からペニスを抜いたレイジの顔面にねばっこい白濁が飛び散る。先端の孔から勢い良く弧を描いて迸った精液を顔にかけられたレイジが苦しげに咳き込む。褐色の肌に扇情的なまでに映える白濁……犬の、精液。両手を戒められてるため顔に付着した白濁を拭うこともできず、放心した表情で虚空を見据えるレイジをよそに所長がハルを呼び寄せる。
 「よしよし、いい子だ。性欲処理ができてよかったな、ハルよ。何、まだ足りないのか?ははっ、ハルは欲張りだな!いいだろうハルは交尾したい盛りの三歳の成犬、フェラチオだけで満足できぬなら穴に挿入して楽しめばいい!人間だろうが犬だろうが関係ない、種族の差異などささいな問題だ、ハルが続きをしたいなら飼い主の私が止める気など毛頭ない!!」
 生理的嫌悪を禁じえず、凄まじい吐き気と戦いながら俺と看守が凝視する中、力尽きて絨毯に寝転がったレイジの背中を踏み付けて所長が深呼吸する。
  
 「いいだろう、そうまでしてロンの身代わりになりたいというなら可愛いハルの相手を務めてもらおうではないか」

 極限まで目を見開いた俺の前、床を蹴り跳躍したハルが突出した口腔から涎を撒き散らしレイジに襲いかかる。
 よく訓練された動きでレイジの背にのしかかりズボンを剥ぎ取り、凶器のように勃起したペニスを―――――

 ―「レイジいいいいいいぃいいいいいいぃいいいいいいいいいいいっっ!!!」―

 ああ。
 レイジが、犬に犯される。
【少年プリズン】
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四話

(2005/05/30)
 ビバリーがいなくなっちゃった。
 食堂での乱闘騒ぎから三日経過、首謀者のロンと凱、とばっちりくらった不幸なビバリーが独居房送りなってから三日が経った。
 僕はその場にいた。乱闘騒ぎが起きたまさにその時現場に居た。
 悲鳴と罵声が交錯する階下の惨状に何事だと手すりから顔を出せばキレたロンがおっかない顔で椅子ぶん回してたところで、小柄な体に怒気を漲らせ、突っかかってくる囚人片っ端から殴り倒すロンの変貌におしっこちびりそうだった。
 椅子を盾に武器にレイジを馬鹿にした囚人を容赦なく攻撃するロン、頭上に高々振り上げた椅子で顔面を直撃、鼻っ柱をへし折られ脳天かち割られ顔面朱に染めた囚人が死屍累々と残飯にまみれ床に倒れ伏せた惨劇の現場を二階席からぼんやり眺め、僕は「あーあ、やっちゃった」と心の中で嘆いた。
 馬鹿だなロン、そんなことしたって意味ないのに。
 大事なお友達馬鹿にされて頭に来るのもわかるけど、そんなことしたってレイジは簡単に戻ってこないのにと醒め切った気持ちでロンの大暴れを見物してたら、箸を放り捨てたビバリーが手すりに足をかける。
 「リョウさんはここにいてください、ロンさん助けに行ってきます!」
 正義の味方よろしく義憤に燃えてロン救出に向かったビバリーを僕はただ見送るしかなかった。
 ビバリーが勢い良く手すりを蹴って宙に身を躍らせた時も、決死のダイブを試みたビバリーの背中に「じゃあね」と手を振り食事を再開した。
 ところがどっこい、ご飯を口に運ぼうとしたそばから手の震えが箸に伝わってぼろぼろ零しちゃう。口に入れるご飯より零す量のが多い悲惨な状況で、スープやらご飯やら僕が食べ散らかした残骸でテーブルは汚れてる。
 哀しいかな、ビバリーの介添えがなければ一人でご飯もできない。
 なんでこんなことになっちゃったのと運命を呪ってみても遅い。少なくとも数日前まで僕はこんなじゃなかった、ここまで酷くはなかった。親鳥に餌をねだる雛みたくビバリーに「あーん」しなくても一人でご飯食べれたしテーブル汚したりもしなかった。

 原因はわかってる。これも全部静流のせい。

 ちょうど前の晩、僕の房にホセがやってきた。
 就寝時刻を過ぎて他の囚人が寝静まった頃合にいきなり。
 僕とビバリーの房を見渡し、ホセは嘆かわしげにかぶりを振った。
 『幻滅です。君にはがっかりしました、リョウくん』
 開口一番ダメ出しを食らった。僕が正常な状態ならムッとしたはずだけど、生憎その時の僕はオクスリの効果で頭がポーっとしてて、笑いが止まらないハイテンション。
 失望の面持ちでホセに見られてもてんで構わず、ベッドの上で飛び跳ねてた。実際僕の房はひどい状態だった。
 毛布は捲れてマットレスは裂かれて綿がはみだして、天井高く埃が舞い上がっていた。床にはスザンナの死骸と手足がもげたテディベア、割れ砕けた注射器が転がっていた。
 まさしく足の踏み場もなく寝る場所もない危険地帯。
 『我輩の依頼をお忘れですか?君には以前、地下探索をお願いしたはずですが……突破口の報告もなし成果もなし、様子を見にはるばる来てみれば覚せい剤の乱用が祟って本人はハイになっている。ハッピークライシスでとても話が出来る状態ではない。やれやれ、どうやら我輩は出遅れたようだ。もっと早く、手遅れになる前に訪れるべきでしたね』
 『手遅れってなにさ、失礼だね。僕こんなに幸せなのに』
 ベッドの上で飛び跳ねながら大袈裟に両手を広げてみせる。
 僕の足元にはビバリーが突っ伏してる。
 一日中僕の大はしゃぎに付き合わされて疲労困憊、ぐーすか居眠りしてるビバリーに同情の一瞥をくれ、ホセがため息を吐く。
 『一体どうしたことですか、これは。少なくともつい先日まで君はこんな風ではなかった、情報屋として頼れる存在だった。覚せい剤中毒の症状がこんなに急激に悪化するのはおかしい。何かショックな出来事もあったんですか?我輩でよければ相談にのりますが』
 『余計なお世話。ショックなことなんてなにもなにもないってはは、僕今すっごい幸せなんだ、空でも飛べそうな気分なんだ!足の裏が無重力でお空をひとっ飛びでママに会いにいけそうなの、だからジャマしないで、今お月様にタッチする練習してるんだから』
 配管剥きだしの天井に手を伸ばす。
 勿論、お星様もお月様も見えやしない。だけどその時の僕は幸せで、無重力の浮遊感に包まれて、ホセとビバリーの存在をまるっきり無視してベッドの上で飛び跳ねていた。
 ベッドを撓ませて体を弾ます僕から距離をおき、黒縁メガネを押し上げるホセ。
 『……利用価値のない駒には興味がありません。では、我輩はこれにて失礼します。お大事に』 
 冷たくよそよそしい口調で別れを告げて、無関心に身を翻す。
 ホセの背中を追うつもりはこれっぽっちもなかった。ホセも二度と振り向かなかった。
 鉄扉を閉じる間際、ホセが小声で呟くのが聞こえた。
 『本来ならばヨンイルくんが花火を打ち上げた日に訪ねる予定だったのですが、道化の馬鹿騒ぎに巻き込まれて致命的な足止めを食らいました。まったく、我輩はツイてない。あの日に君を訪ねていれば今後の予定を変えずにすんだかもしれないのに』
 後半は愚痴だった。
 僅かに後悔の念を滲ませた口調で呟き、ホセはさっさと立ち去った。僕はもう用済みだと背中で告げて。
 大事な客を逃したのに僕は全然ショックを受けてない、残念にも思わなかった。
 結局ホセが立ち去ったあとも一晩中ベッドの上で跳び続けて明け方にはぐったり体力を消耗した。さようならホセ、お元気で。僕は僕の気持ちが赴くまま生きる。辛いこと嫌なことなんて何も思い出したくない、楽しいことだけ覚えていたい。だからこないだの事も忘れた、ヨンイルが花火を打ち上げた夜に僕の身に起きたことを無かったことにした。
 辛い記憶は封印するに限る。
 クスリの力を借りて忘れ去ってしまえばいい、それが僕の基本方針。
 僕はまたクスリ漬けの生活に戻った。
 クスリの使用量は前よりもっと増えた。そりゃもう格段に。
 ビバリーは口うるさく僕に言った、「このままじゃダメ人間になっちゃいますよリョウさん!」と必死にクスリをやめさせようとした。でも、僕は聞かなかった。
 ビバリーうざったい。
 ロンに壊された注射器の他にも当然というか勿論、予備の注射器を隠し持ってた僕は懲りずに堂々とクスリを打ちつづけた。ビバリーの前だろうが関係ない。僕がクスリを打つのを止める権利はビバリーにない。
 ビバリーは注射器取り上げようと必死に僕に掴みかかった挙句、顔面引っ掻かれ生傷だらけになった。
 『リョウさんクスリやめてください、やめるの無理ならせめて量減らしてください!リョウさん最近おかしいっス、こんなんじゃいつか頭がパーになっちゃいます!今はまだ時々素面に戻れるけどじきにあっちに行ったまま戻ってこれなくなる、僕の声も届かなくなる、嫌っスよそんなの、スザンナ失った挙句にリョウさん失うのご免被るっス!』
 『まったくどこまでお人よしなのさビバリーってば、スザンナ殺害したの僕だよ、僕がスザンナ殺したんだよ?見てたでしょ、君の目の前でスザンナ落っことしたの。なのにまだ僕のこと心配してるの、友達ヅラしてクスリやめさせようってムダな努力すんの?ばっかみたい。僕のことなんか放っとけよ、うざいんだよ二ガー、汚い手でさわんなよ!』
 ヒステリックに泣き叫ぶ僕に口汚く罵られ唾吐かれてもへこたれず、ビバリーは真剣に食い下がる。
 僕の肩を掴んで正面に顔を固定、悲痛に思い詰めた目で続ける。
 『スザンナも大事だけどリョウさんも大事だ、壊れたスザンナより生きてるリョウさん優先して何が悪いんスか!?』
 スザンナ命のビバリーらしくもない発言に、一瞬手を止める。
 今しも猫の威嚇音を発しビバリーの顔を引っ掻こうとしてた僕は、その目が涙で潤んでることに狼狽する。
 うるうる涙ぐみながら僕を叱責するビバリー、スザンナへの哀悼の念と僕への友情の間で引き裂かれた悲痛な顔。切迫した様子で説得を試みるビバリーを突き飛ばし、頭から毛布を被り、息を止める。
 うざいうざいうざい、ビバリーなんか消えちまえ。
 僕のことなんか放っとけよもう、心配なんかするなよ。
 頭がぐるぐるする。ビバリーに心配してもらう価値なんか僕にはない。ビバリーは僕には勿体ないくらいイイ奴で、イイ友達で、だからビバリーと一緒にいるのが辛い。ビバリーに優しくしてもらう資格がないことを始終痛感させられ居たたまれない。
 『何も知らないくせに』
 そうだ、何も知らないくせに。
 僕の身に起きたこと何も知らないくせに、友達ヅラすんなよ。
 毛布の中から吐き捨てれば、気配を消して枕元に近付いたビバリーが、しょげかえった様子で呟く。
 『話してくれなきゃなにもわかんないっスよ』
 気弱に萎んだ声。いつも能天気に笑ってるビバリーらしくもない声。僕は毛布の中で息を殺し、ビバリーが去るまで寝たふりを続けた。
 相談なんかできるわけない。
 あんなこと、言えるわけない。
 ビバリーに軽蔑されるのは嫌だ。毛布に包まった僕の枕元でビバリーが動く。床から何かを拾い上げて埃を払う気配。ビバリーが遠慮がちに毛布の端を捲り上げ、僕の横にそっと、それを忍ばせる。
 手足のもげたテディベア。ママからの贈り物。
 『………おやすみなさいリョウさん』
 寝つきの悪い子供をなだめるように毛布の上から背中をさすり、ビバリーが立ち上がる。
 裸電球が消え、房が暗闇に包まれる。
 ビバリーが隣のベッドに潜り込む気配、衣擦れの音。
 ビバリーが隣のベッドに横たわったのを確認、慎重に毛布から顔を出し暗闇に目を凝らす。

 僕に寄り添うように毛布に入ったテディベア。
 労わる手つきでぬいぐるみの埃を払ったビバリー。

 不意に泣きたい衝動に襲われた。目が潤んで視界に水の膜が張った。泣いちゃダメだと自分に言い聞かせ、毛布の中に潜り込み、ぎゅっとテディベアを抱きしめる。テディベアに顔を埋め、嗚咽を堪える。ビバリーに啜り泣きを聞かれるのが嫌でテディベアに噛み付く。
 クスリの副作用のせいか感情のブレが激しくなってる、喜怒哀楽の移り変わりが激しくてすぐに涙がでてくる。
 テディベアを噛んで嗚咽を堪える僕の耳に、毛布越しに声が届く。
 『僕、リョウさんの友達やめませんから。スザンナ殺したリョウさんのこと藁人形五寸釘で打ちたいくらい恨んでますけど、やっぱりリョウさんのこと……好きっスから』
 「その、健全な意味で」と決まり悪げに付け加えてビバリーが寝返りを打つ。こっちに背中を向けたビバリーを一瞥、ぬくもりを貪るようにテディベアを強く強く抱きしめる。
 わかってる。ビバリーが僕を心配してることは十分すぎるほどわかってる。だからこそ、言えないことがある。軽蔑されるのが怖くて内緒にするしかない出来事がある。
 静流の罠に嵌められたことは、絶対に言えない。
 ビバリーがショックを受けるから。
 僕と同じ側にひきずりこんでしまうから。
 僕がいる日陰をビバリーに歩ませたくない。だから僕はテディベアを抱いて口を閉ざす、生まれて初めて出来た友達みたいな存在に嫌われたくなくて嘘をつく、クスリで頭がパーになった演技をする。クスリでイカれた演技をし続けるかぎり僕と静流の秘密は守られる、永遠に。
 そして僕は、安っぽい演技力を総動員してビバリーを騙しぬくことを決めた。

 そのビバリーが消えた。
 食堂で勃発した乱闘騒ぎに巻き込まれて独居房送りになった。もともとビバリーは何も悪くない、ただ巻き込まれただけ、ロンを助けようとしただけなのだから。
 でも、そんなこと誰に説明したらいい?誰に訴えたらいいの?
 目撃者は大勢いる。あの時食堂に居た連中全員が証人だと言っても過言じゃない。ビバリーが手すりから飛び降りた決定的瞬間を目撃した連中は少なくとも五十人を下らない。
 ビバリーが捕まったのは運が悪かったとしか言いようがない。
 あの時どさくさまぎれに大暴れしてたのはビバリーだけじゃない、凱だけじゃない。騒ぎに便乗してストレス発散とばかり大暴れしてた連中は他にも大勢いる、いちいち捕まえてたらきりがない、独居房が定員オーバーになっちゃう。
 ぶっちゃけ僕もその一人。ビバリーがロンを救いに決死のダイブを試みてのち、二階で見物するのに飽いた僕は一階に移動、乱闘に加わった。手近な椅子を振り上げ振り下ろし長机に飛び乗ってダンスをした。
 ……ここだけの話、ちょっとはしゃぎすぎた自覚はある。
 でも、僕と同じ位派手に暴れた連中なら大勢いる。
 その中でロンとビバリーと凱の三人だけ独居房に送られたのは見せしめの意味が強い。暴れた連中片っ端から放り込んでたらきりがないから、代表者三人を罰して事態を収拾させたわけ。
 いかにも「上」が考えそうなことだ。

 いや、違う。
 僕は「見逃された」んだ。

 「ほんとは君もお仕置きされる予定だったんだけど、リョウくんは特別に見逃してあげたんだ」
 今日、ビニールハウスで会った曽根崎に直接そう言われた。ホースで水撒きしてた僕にいそいそ近寄ってきた曽根崎が、ご褒美を期待するワンコのみたいにはっはっと荒い息を吐く。
 「見逃してくれたって、どういうことさ曽根崎さん」
 「リョウくんはビニールハウスの仕事をよくするいい子だから、いつも頑張ってくれてるご褒美に上手く同僚をまるめこんで独居房送りを取り消させたんだ。本当は君も独居房送りになる予定だったんだよ?けど、独居房送りになった三人に君の分まで罪を被せてごまかしたってわけさ。彼らにはちょっと可哀想なことしたけど仕方ない、可愛いリョウくんを無傷で守る為だもの」
 悪びれたふうもなくしれっと言ってのける曽根崎の顔面に、気付けばホースを向けて水をぶちまけていた。
 「手が滑った」と適当言ってごまかした僕は、事件の真相を知って動揺してた。僕の分まで罪を被って独居房に送られたビバリー。ロンと凱はこの際どうでもいい、あいつらがどうなろうが知ったこっちゃない。でもビバリーは同房の相棒だ。僕の大事な友達だ。本人が知らないとはいえ、僕の分まで罪を着せられて独居房送りになったビバリーを見捨てちゃおけない。
 「お願い曽根崎さん、ビバリーを独居房から出して。ビバリー僕の同房なの、僕の友達なの。一週間もあんなとこいたら気がおかしくなっちゃうよ」
 「無茶だよリョウくん、彼ら三人は乱闘騒ぎの主犯なんだから……最低一週間は独居房から出れない決まりになってる。ということは、あと四日の辛抱だね」
 指折り数えて曽根崎がうそぶき、苛立ちが募る。
 あと四日?簡単に言うな。
 あと四日も独居房に閉じ込められてたら頭がおかしくなる。ビバリーは僕を庇って独居房に入れられたも同然。
 焦燥感に駆り立てられる僕を同情たっぷりに見下ろし、「ここだけの話」と曽根崎が耳打ちする。
 「初日に独居房に出された子がいたんだ。ほら、君よりほんの少しだけ背がおっきい、目つきは悪いけど可愛い顔した……」
 「ロン?」
 「そう、彼。所長命令で彼だけ先に独居房を出されたんだけど、また事件を起こして独居房に逆戻り。その事件ってのがなんと」
 思わせぶりに言葉を切った曽根崎が注意深くあたりを見回し、正面に向き直る。
 恐ろしく真剣な表情で、何かに怯えるように声を落とし、口を開く。
 「呼び出された所長室で、所長の頭を写真立ての角でガツンとやっちゃったんだ。その場にいたわけじゃないから実際見てないけど、看守の間じゃ有名な話。囚人の間に広まるのも時間の問題。所長は額に怪我をして、しばらくは囚人の前にでてこれない。乱闘騒ぎの事情聴取に呼び出された囚人がそんな事したもんだからほかの二人までとばっちり食って拘禁期間延びてるらしいよ」
 「マジ?」
 語尾が甲高く跳ね上がる。
 衝撃の事実を知らされた興奮に心臓の鼓動が高鳴る。ロンが所長を殴った?なんだってそんなことを?……決まってる、またレイジ絡みだ。乱闘騒ぎが起こる数分前にレイジが看守数人に連行された。折悪しく行き違ったロンは囚人の揶揄に逆上、椅子を振り上げた。レイジ絡みで乱闘起こしたロンが所長に手を出した理由といえばまたレイジ絡みしか考えられない。
 「一緒に捕まった子達は気の毒だけど、所長の怒りがしずまるまで出してもらえないんじゃないかなあ」
 間延びした口調で曽根崎が推測し、意味ありげな目つきで僕を見る。いやらしい目。何を意味してるかピンときた。
 「ところでリョウくん、庇ってあげたお礼に今日これから……」
 「ごめん曽根崎さん、僕それどころじゃない」
 曽根崎にフェラしてる場合じゃない。強制労働が終わったら即ビバリーに会いに行かなきゃ。独居房送りになってから今日で三日、ビバリーの体調が心配だ。そろそろ気が狂いだしてるかもしれない。
 ホースを握る手が震え、圧迫された口から垂れた水がちょろちょろ足元を濡らす。がっかりした曽根崎に背中を向けて水撒きを続けながら、物思いに耽る。
 ビバリーの為に僕が今できることってなんだろう。
 友達として、何ができるだろう。
 
 強制労働終了後。
 ビバリーのいない房に帰った僕は、夕食前にある人物を訪ねる一大決心をした。
 「僕が帰ってくるまでいい子にしてて」
 テディベアの額にキスし、毛布をかける。もげた手足は綿を詰め、不器用に縫い合わせた。とても元通りとはいかない不恰好な仕上がりだけどこれはこれで愛嬌がある、ということにしとく。
 この三日間で僕が学んだことといえば必死に止めてくれる人間がないとクスリも味気ないってこと。親身に心配してくれる人間がいないと注射器にも手が伸びない。
 ビバリーがいなくなってからというもの、一種の願掛けでクスリを断ってたおかげでだいぶ体調が回復した。僕がクスリをやらずにいい子にしてればビバリーが帰ってくると、「リョウさんただいまっス」と鉄扉を開けてくれるに違いないとむなしく期待して、注射器と覚せい剤を封印したのだ。
 けど、じっと待ってるだけじゃビバリーは帰ってこないと気付いた。
 そして僕は行動を起こすことにした。
 テディベアを寝かし付けて房を出る。
 勝手知ったる廊下を歩き、目指す人物の房へ向かう道すがら、囚人の噂話を小耳に挟む。
 「知ってっか?例の親殺しとサムライが喧嘩別れしたらしいぜ」
 「そうか、ついに来るべきときか来たか。もとからあの二人じゃ無理だと思ったぜ、理屈屋メガネとお堅いサムライじゃあ相性最悪だもんな。今までよくもったほうじゃねえか?サムライの忍耐力あっぱれあっぱれ」
 「いや、原因はサムライのほうにあるらしい。聞いたか?サムライが新しく来た奴と浮気したって」
 「まじ?サムライが?アイツそっちの気あったっけ」
 「先に誘ったのがどっちかわかんねえけど、メガネの房を出て新入りと一緒にいんのは事実らしいぜ」
 「モテるねえ。羨ましい」
 「親殺しの様子はどうだ?サムライにフラれてさすがにへこたれてるか」
 「見た感じいつもどおり、しれっと取り澄まして図書室で本選んでたけどな。気のせいかちょっと痩せたかも」
 「これ以上痩せてどうすんだよ。男にフラれたショックで拒食症なんてしょっぺえな」
 好き放題に噂話をがなりたてながら通り過ぎた囚人を見送り、廊下の真ん中に立ち竦む。サムライと鍵屋崎が喧嘩別れしたことは知ってたから今さら驚かない。僕の足を止めたのは、彼らの噂に出てきた名前。不快感に吐き気を催す名前。噂好きな囚人たちが賑やかに遠ざかったのを確認、激しい動悸を鎮めようと廊下の壁に凭れる。
 ばっかみたい。本人と行き違ったわけでもないのに、動揺してどうするっての?
 自分で自分を嗤おうとして失敗、顔が恐怖に引き攣る。廊下の奥、さっき通りすがった囚人たちが集団で歩いてきた方向から一人の少年がやってくる。さらさらと流れる黒髪、切れ長の目、赤い唇……白鷺のように優美な肢体、清楚な容貌の美少年、静流。
 「!………っ、」
 静流を見た瞬間、体が拒絶反応を起こす。全身に電流が駆け抜ける戦慄。
 壁に背を付けてあとじさった僕に気付き、静流がにっこり微笑む。   
 「ちょうどよかった、これから君の房に行こうとしてたんだ。手間が省けた」 
 気安い口調で言い、僕の前で立ち止まる。ズボンの尻ポケットに手を入れて取り出したのは、茶褐色の小瓶。
 僕の手を取り小瓶を握らせた静流が、耳朶に口を近付け、囁く。
 「このまえ君から借りたクロロフォルム、確かに返したよ。免疫がない相手には効果抜群だった。看守間でも有名なドラッグストアの異名は伊達じゃないね」
 ひんやりした手で僕の手を包み、上下にさする。逃げたくても逃げられない。静流に手を握られた瞬間体が硬直、慄然と立ち竦む僕の全身を冷や汗が流れる。心臓が爆発しそうに高鳴る。眼前の笑顔が記憶に重なる。あの日あの夜僕に手錠をかけて嗤いながら房を出て行った静流、入れ替わりやってきた看守たちに輪姦されて僕は――
 「しず、る。きみ、あのことは誰にも」
 誰にも言ってないよね、と念を押そうとして、唇に人さし指をおしあてられる。
 人さし指で唇を封じた静流が僕を安心させるように微笑み、流し目で周囲に人けがないのを確認。
 僕の唇からゆっくり人さし指を外した静流が、誰もが好感もたざる得ないはにかみ笑いを覗かせる。
 「勿論だれにも言ってない。これからも言うつもりがないから安心して。君が僕に従ってる限りは、ね」
 それは脅迫。
 自分に逆らえばすべてを暴露するという脅迫。
 僕の手に茶褐色の小瓶を預け、上機嫌に歩き出す。僕は小瓶を握ったまま、緊張に乾いた唇を舐めて静流にかける言葉をさがす。僕は静流が怖い。だが、恐怖と同じだけ好奇心を感じてもいる。静流は一体何を企んでいる、何が目的で東京プリズンに来た、クロロフォルムを誰に使用した?……わからないことだらけだ。
 好奇心猫を殺す。
 こないだの一件で身にしみたはずの教訓。
 わかっている、わかっている、好奇心は身を滅ぼすと。それでも僕は声をかけずにいられない、叫ばずにはいられない。内気な笑顔の裏に狂気渦巻く本性を隠し、今もこうして東京プリズンを闊歩する少年の真意を尋ねずにはいられない。 
 「静流、君、サムライに何するつもり?東京プリズンに来た本当の目的ってなんなの!?」
 サムライと鍵屋崎が喧嘩別れした原因もこいつにあると直感、廊下の真ん中に孤独に立ち竦み、遠ざかる背中に呼びかける。
 コンクリ壁に殷々と声が跳ね返る。片手に握った小瓶の中で、液体が揺れる。 
 靴音が止む。静流が立ち止まる。僕の延長線上で振り返った静流が赤い唇を綻ばせ、嘲弄の笑顔を作る。
 「そろそろ本当の目的を話してあげようか」
 清冽に流れる黒髪の奥、邪悪な光を宿した双眸が細まり、毒された本性を醸す。
 僕の目をまっすぐ見据え、漆黒に濡れた目に殺意爆ぜる激情をさざなみだて、おそらくは東京プリズンに来て初めて本心を口にする。
 東京プリズンに来て初めて、心からの願いを口にする。

 「僕が東京プリズンに来たのは帯刀貢を殺すためだ」
 
 僕が見てる前で初めて静流の笑みが消え、おそらくこれが本来の顔だろう虚無が曝け出された。
【少年プリズン】
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五話

(2005/05/29)
 「いつまで僕の房に居座る気だヨンイル。即刻退去しろ」
 僕は不機嫌だ。
 理由は単純明快、眼前にある。堂々房の床に胡坐をかいて漫画を読み耽る図々しい道化こそが頭痛の種。
 「またまたあ直ちゃん、ひとりは寂しいくせに意地張って。ホンマはオレにいてほしい思うとるやろ」
 「思ってない」
 「相棒と別れたばっかでひとりは心細いくせにつれへんこと言いな、俺と仲良く手塚話でもして憂さ晴らそうや」
 「僕の生活空間を侵害するな。貴様が視界に入ると不快指数が上昇する。大体西棟の人間が東棟に居座るな、不法入棟者め。強制送還されても文句は言えないぞ」
 「強制送還できるものならしてみろっちゅーねん。手塚仲間のピンチに駆け付けへんかったら図書室のヌシの名が廃る」
 堂々巡りの問答に徒労感が募る。
 不毛な議論に嫌気がさしてため息を吐き、本から顔を上げる。強制労働終了後、夕食開始までの自由時間を図書室から借りた本を読んで過ごす僕の足元でヨンイルが読み耽っているのは低俗な漫画。二十世紀に流行った漫画をこよなく愛するヨンイルの現在のお気に入りはドラゴンボールらしく、床一面に足の踏み場もなく単行本が散乱している。
 貴重な読書時間をヨンイルに邪魔された僕は、努めて彼の存在を意識せぬよう本に目を落とすが内容がちっとも頭に入ってこない。
 本に集中できないなんて前代未聞の異常事態だ。
 対岸のベッドがやけに遠く感じられる。
 壁際までの距離は変わってないのに、几帳面に整えられたベッドがやけに遠く感じられる。僕の留守中にサムライが帰った痕跡はない。
 サムライが出て行ったときのまま整えられたベッドが視界に入るたび情緒不安定になる。
 サムライと別れてから三日が経過。
 あれからサムライとは会ってない。食堂で姿を見かけることはあったが、常に静流がそばにいた。僕の接近を阻む閉塞的な雰囲気の二人を見かけても、話しかけることはできなかった。
 僕はサムライに気付かぬふりをした。サムライもまた僕に気付かぬふりをした。三日前サムライに突然別れを切り出されて以来、僕は強制労働を終えてサムライ不在の房に寝に帰る単調な日々を過ごしている。
 サムライがいないことを除けば以前と何ら変わりない生活。僕の身近に漂っていたサムライの残滓、大気中にほのかに漂う墨の匂いも三日経ちだいぶ薄れてしまった。
 日々サムライの残滓が消えていくのを実感する。
 サムライと距離が開くのを痛感する。三日前、サムライは突然僕に別れを切り出して静流と行ってしまった。現在は静流の房に身を寄せてるらしいが詳細はわからない、知りたくもない。一体何故こんなことになってしまったのか……僕が静流の嘘を真に受けたのが原因か、サムライに蟠りを残していたのが原因か?

 『貢くんが苗さんを犯したと聞いても彼の友人でいられるのかい』
 サムライが苗を犯したと静流は言った。
 真実か否かわからない、判断材料がない。
 否定も肯定もできない言葉。僕は結局、サムライを信じ切れなかった。苗の自殺の原因はサムライだと静流に吹き込まれて不信感が芽生えてしまった。
 内面の変化が態度に表れてサムライを追い詰めたのかもしれない、サムライは僕の本心を見抜いていたのかもしれない。
 だから僕たちは。
 『俺があの房にいる限りお前は帰ってこない。ならば俺が出る。房は好きに使って構わない』
 僕たちは。
 『俺がそばにいるとお前は辛くなる。俺たちはもう共にいるべきではない、互いを傷付けるだけの関係は不毛すぎる』
 最悪の選択は、最悪の結果に繋がる。 
 『レイジ、ロン、ヨンイル。お前には良き友がいる。これからは奴らを頼れ。必ずやお前の力になってくれるはずだ』
 何故僕はサムライを呼び止められなかった、早々と諦めてしまった?

 今更後悔しても遅い。僕はサムライを追うべきだった、僕が苗の代用品でないのと同じく君の代用品もないのだと告げるべきだったのだ。
 レイジがいてもロンがいてもヨンイルがいても、他の誰がいても肝心の君がいなければ意味がないと伝えるべきだったのだ。
 別れ際の寂しげな目が脳裏によみがえる。帯刀貢がサムライに戻った瞬間。僕はもっと足掻くべきだった、足掻き続けるべきだった。大事なものを完全に喪失する前に必死に抵抗すべきだったのだ。
 僕らの関係には終止符が打たれた。サムライへの恋愛感情ともいえぬ淡い想いを自覚するまもなく、僕とサムライの絆は断たれてしまった。もう手遅れだ。僕らの関係は終わってしまった。サムライは房を出た、僕に別れを告げて静流を選んだ。
 それが彼の選択なら真摯に受け容れるべきだ。
 サムライは静流を選んだ。
 その事実を重く受け止め、上の空でページをめくる。
 「……同情は不愉快だ。ヨンイル、僕は孤独に耐性がある。サムライが房から消えたことにも何らショックは受けていない、房の使用面積が増して喜んでるくらいだ。生活空間が拡張できてよかった。サムライがいないベッドは本の置き場所にする」
 「そんな幽霊みたいなカオしてなに言うてんのん」 
 ヨンイルが脱力する。幽霊みたいな顔?心外だ。
 ベッドに座った位置から振り返り、鏡に顔を映してみる。確かに顔色が悪いが、これは慢性的な疲労と不眠が原因でとくに体調が悪化したわけでもない。
 東京プリズンに来てからこっち僕の顔色が良くなった試しなどない。
 「心配せずとも僕の顔色は慢性的に悪い。気が済んだら西に帰れ、このままずっと居候し続ける気か?三日前は君が指揮した捜索隊に保護されたおかげで風邪をひかずにすんだが、理性を取り戻した今はあんな馬鹿な真似はしない。夢遊病者めいた足取りで廊下にさまよいだして行き倒れる可能性などない、絶対に。僕が半覚醒の状態で徘徊せぬよう、ベッドから起き上がったら枕元の本が落ちて正気にもどる仕掛けなのだ」
 「いや、そんな自信満々に目覚ましの仕掛け解説されても……やっぱズレとるで、直ちゃん。相当ショックやったんやな、彼氏にフラれたんが」
 ヨンイルがしたり顔で頷く。……不愉快だ。
 荒々しく本を閉じて立ち上がり、大股に歩き、鉄扉を開け放つ。
 「出て行け。これ以上僕を怒らせるなら手段を選ばず排斥する」
 ヨンイルは立ち上がる素振りさえ見せない。憤然と鉄扉を開け放った僕を無視、図々しく胡坐をかいている。
 もはや強硬手段に訴えるしかない。覚悟を決め、ヨンイルの周囲に散乱した漫画本を拾い集める。
 読みかけの漫画を奪い取られたヨンイルが「あ!?」と抗議の声を上げるのを無視、廊下に開放した鉄扉から外へと漫画を投げ捨てる。
 「なにすんねん直ちゃん、漫画への冒涜や!?」
 血相替えたヨンイルが這うように廊下に転げ出た瞬間、鉄扉を閉ざして錠をおろす。
 これでよし。邪魔者は追い払った、読書に集中できる。
 そのままベッドに帰り、膝の上で本を開く。
 鉄扉の向こう側でヨンイルが抗議するが、相手にしない。
 「ひどいあんまりや直ちゃん俺の友情足蹴にしよって、直ちゃんがポイ捨てした鳥山明に謝らんかい!!本を粗末にするなんてオタクの風上にもおけんやっちゃ、見損なったで!」
 「漫画は本のうちに入らない。付け加えるが僕はオタクじゃない、読書家だ」
 それでもまだ諦めきれず、鉄扉の前から立ち去りがたく唸っていたヨンイルだが、根負けして踵を返す。「直ちゃんのアホ、俺が集めたドラゴンボール見せたらんからなっ」などと現実と妄想の区別がつかぬ捨て台詞を吐いたヨンイルに嘆息、読書を再開する。
 ……駄目だ。今度は静かすぎて落ち着かない。
 焦燥感に駆り立てられ、殺風景な房を見渡す。サムライ不在の房にただ一人残されて居心地の悪さを感じる。三日前まではサムライがいた房。べッドに腰掛けて本を読む僕のそばで写経にいそしんでいた。
 般若心経の経典を紐解いて、硯を用意して、黙々と墨を擦って…… 
 写経に励む仏頂面を思い出す。
 声をかけにくい横顔、気難しげに寄った眉間の皺。
 いつのまにか馴染んでいた日常、僕が当たり前に溶け込んだ光景。
 「………」
 一抹の喪失感が胸を吹き抜ける。
 見慣れたものがそこにない、見慣れた人間がそこにいない。たったそれだけのことで何故こんなにも心をかき乱されるのか、不安になるのか……唇を噛み締め、俯く。僕はサムライに未練があるのか、さっきから空っぽのベッドにばかり視線がいってしまうのはそれでか。サムライと僕は終わったはず、終わったはずなのに。
 「サムライなど知らない。勝手にすればいい。好きなように生きて死ねばいい」
 帯刀貢の生き方に関与しない、生き様に関与しない。
 帯刀貢は静流の隣にいるべき人間、静流を庇護すべき人間なのだ。
 僕には関係ない男だ。
 関係ない他人だ。
 「……………」
 人さし指で唇に触れる。サムライの唇が触れた部位をなぞり、感触とぬくもりを反芻する。
 「寂しくなどない。哀しくなどない。僕は最初から一人だった。天才は凡人の理解を拒否する、共感を拒絶する。信頼など要らない。信じて頼る人間など要らない。僕には僕だけでいい、IQ180の頭脳さえあれば他人の助力などなくても生きていける。僕の味方は僕だけだ。他人を信頼しても失望させられるだけだと辛辣な教訓が得られてよかったじゃないか。おめでとう鍵屋崎直、知識量と半比例して人生経験の乏しい僕が僕が他人を信用するなと教訓を得れたのは東京プリズンに来たからだ、ここで人間関係の経験値を積んだからだ。まったくツイてるじゃないか、なんて幸運な人間だ僕は、僕にIQ180の知能という最大の味方をくれた運命に感謝する!!」
 コンクリ壁に絶叫が跳ね返る。
 気付けば僕は哄笑していた、狂ったように笑っていた。
 まったく、なんて間抜けなんだ僕は。
 他人を信頼した挙句に裏切られ、自己憐憫に溺れ、そんな自分を嘲笑うことでさらに傷口をほじくりかえす悪循環。
 自虐の醜態をさらす僕の耳に、一定の間隔でノックが響く。
 「!誰だ」
 反射的に立ち上がり、鋭く誰何する。鉄扉の向こう側に誰かがいる。誰だ?ヨンイルが帰ってきたのかと一瞬疑ったが、礼儀知らずの道化ならそもそもノックなどするはずない。
 「……僕。リョウ。入っていい?」
 リョウ?意外な人物名に戸惑う。何故リョウが僕の房を訪ねる?またよからぬことでも企んでいるのかと疑惑が過ぎるが、好奇心に従い
扉を開ける。錆びた軋り音を上げて開いた扉の向こう側、廊下にリョウが突っ立っていた。
 気まずげに顔を伏せ、上目遣いに僕の表情を探り、おどおどと口を開く。
 「……そんなおっかないカオしないでよ。いじめにきたわけじゃないんだから」
 「信用できない」
 鼻先で扉を閉ざそうかと思ったが、久しぶりに顔を見たリョウが意気消沈してたために逡巡する。しばらく見ない間に少し痩せたらしく、不健康に憔悴した面持ちに痛々しい笑みを貼り付かせている。
 「話したいことがあるんだ。いい?入って」
 本音を言えば即刻追い返したかったが、弱り果てたリョウを突き放すのに罪悪感を覚えしぶしぶ迎え入れる。僕にもロンのお人よしがうつったらしい。肝心の本人は食堂の乱闘騒ぎがもとで独居房に送られたまま、三日経っても出される気配がないが。
 バタンと鉄扉が閉じる。危なっかしい足取りで房に入ったリョウが僕の許可も仰がずベッドに腰掛ける。図々しい。不快感も露にメガネのブリッジを押し上げた僕を、濡れた上目遣いで見つめるリョウ。
 「何だ、話したいこととは」
 「こないだの乱闘の件。メガネくんも知ってるっしょ?ロンのとばっちり食らってビバリーまで独居房に入ってるの」
 「それが何か」
 「メガネくんロンの友達っしょ。なら責任とってビバリーを独居房から出す方法考えてよ、元はといえばロンを助けるために無関係のビバリーが独居房入ったんだから」
 「自己責任という言葉を知ってるか?知らなければ辞書を引いてみたまえ。ロンを庇ったのはビバリーがそうしたかったからだ。彼自身の判断が招いた結果に僕は一切関与しない、不名誉な言いがかりはやめてくれ」
 「……ちょっと冷たいんじゃないの、それ。メガネくんだって心配じゃないのロンのこと、友達なんでしょ。もう三日も独居房にいれられっぱなしなんだよ、まともな人間ならそろそろ頭イカレてる頃だよ。ロンが今どうしてるか心配じゃないの、助けに行きたくないの。助けに行きたいよね、なら考えてよ、ビバリーとついでにロンを独居房から逃がす方法をさ!いつもIQ180のオツムを自慢してるくせにできないなんて言わせないよ、メガネくんならできるはずだよ、看守に目ぇつけられずに二人を逃がすことだって不可能じゃないって!!」
 興奮したリョウが僕の胸ぐらに掴みかかる。
 リョウは必死だった、一杯に見開いた目には涙がたまっていた。
 怒りに頬を赤らめたリョウが震える手で僕に縋り付く。ビバリーのピンチに何も出来ない無力感に苛まれ嗚咽を堪えるリョウを見つめるうちに唇が歪み、皮肉な笑みが顔に浮かぶのを自覚する。
 「―なら、こうすればいい」    
 痩せ細った手首を掴み、シャツから引き剥がす。有益な助言が得られると錯覚し、リョウの顔が希望に輝く。
 折れそうに細い手首を掴み、リョウを強引に引き寄せる。
 リョウが顰めた顔に眼鏡の奥から冷たい眼差しを注ぎ、耳朶で囁く。
 「リョウ、今度は君が事件の主犯になれ。そうだな、こんなのはどうだ。君のポケットに入ってる注射器で通りすがりの囚人に毒物を注入するんだ。毒物を注入された囚人は死屍累々と廊下に倒れて東棟は惨状を極める、騒ぎを聞きつけた看守が君を逮捕、のち独居房に移送する。独居房の個数には限りがある、君が放り込まれるのと入れ違いに出される囚人がいる。ビバリーが心配なら君が救え、ビバリーの身代わりに独居房に入るんだ。これで問題解決だ」
 「!そん、な」
 リョウの顔が絶望に凍り付くのを嗜虐の愉悦に酔いながら眺め、口の端を吊り上げる。
 「どうした、できないのか。大事な友達のためならそれ位できるはずだろう。ビバリーは高尚な人格者だ、無関係のロンを捨て身で庇って独居房に送られた。それならばビバリーの友人が身代わりになるのも不可能じゃないはず。何を怯えているリョウ、僕に助けを乞うたのは君だろう?君はまさか自己犠牲の覚悟もなく友人を助け出そうとしたんじゃあるまいな、そんな都合よい解決策があると本気で期待してたのか、視野狭窄の愚か者め」
 残酷な衝動に歯止めがきかない。
 もうやめろと理性が叫ぶ、もっとやれと本能がけしかける。
 自分でもわかっている、これはただの八つ当たり、サムライの不在から来る怒りや哀しみをたまたま現われたリョウにぶつけて憂さを晴らしているだけだ。
 最低だ、僕は。ビバリーを助けたい一心で僕を頼ってきたリョウを抉りこむように攻撃する、辛辣な毒舌を吐いて徹底的に貶める僕こそ真に唾棄すべき卑劣な人間だ。
 わかっているが止まらない、攻撃衝動を抑制できない。
 リョウの傷付く顔で救われたい、サムライとの別れがもたらした喪失感を埋めたい。
 「そんな、のできない。他の手はないの?僕もビバリーも独居房に入らずにすむ方法考えてよ、きみ天才なんでしょ、なら皆が幸せになる方法考えてよ、誰も不幸にならずにすむ方法教えてよ!!」
 「友人の自己犠牲なくしてビバリーは救われない。ビバリーを救いたいなら君が事件を起こせばいい、ロンの乱闘騒ぎなど比較にならない騒ぎを起こして被害を広げれば囚人が独居房に移送され元いた古い囚人が放免される。単純な計算だ」
 痣になるほど手首を掴み、力任せにベッドに押し倒す。
 されるがままに仰向けに倒れたリョウの上に覆いかぶさり、至近距離で顔を覗きこむ。
 放心状態、空白の表情をさらすリョウに額を被せ、非情な宣告を突きつける。
 「友人を見捨てて生き残るか友人を助けて独居房に入るか。二者択一で選べ、リョウ」
 リョウの顔が悲痛に歪む。シャツの下、肋骨の浮いた薄い胸板が呼吸に合わせて上下する。
 リョウと体を重ね鼓動を感じ、自己嫌悪に襲われる。
 軽い体を突き放し、興味が失せたようにリョウに背中を向け、リョウの吐息で曇った眼鏡のレンズを上着の裾で拭う。
 「……最も、君のように利己的な人間が後者を選ぶとは思えないがな」
 痣になった手首を見下ろしリョウが黙り込む。重苦しい沈黙。
 唐突に跳ね起きたリョウが無言で僕の隣を駆け抜ける。
 鉄扉を開け放ち廊下を走り去る靴音をよそに、たった今リョウの手首が抜けた五指を見下ろす。
 虚空を掴むように五指を閉ざし、苦く吐き捨てる。
 「………最低だな、僕は」
 多分、その時に発見したのだ。
 サムライがいないだけで僕はとんでもなく残酷な人間になれると。
 自分でも驚くほどに。
【少年プリズン】
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六話

(2005/05/28)
 『参りなさい』
 咳のしすぎで掠れた声はともすると衣擦れに紛れて消えそうに細く、だが、内に凛たる強さを秘めていた。
 女の声は絶対だった。
 命令するのに慣れた口調はひどく落ち着いていた。
 己の死期を悟った目は、諦念ではなく覚悟を映していた。
 落ち窪んだ眼窩には燐光が青白く燃え、意志の強さを表すように引き結んだ口元には潔癖な性根が透けている。
 目の下には不吉な隈が浮いている。
 虚勢ではもはや塗り隠せない死相が射した顔に美貌の名残りを留めた母は、癌が全身に転移し、末期の苦しみにのたうちまわる闘病の日々に精根使い果たしてもなお気丈な女当主の威厳を失わず、美しく背筋を伸ばして寝床から半身を起こしている。
 覚悟の上の死に装束にも見える白い小袖の襟元に手をやり指を添え、鎖骨を隠す仕草に貞淑な気品が匂い立つ。
 痩せた首筋におくれ毛を纏わり付かせた母が、鬼火のように揺らめく目を虚空に据える。
 『できません』
 静流は漸くそれだけ言った。
 喘ぐように口を開閉し、迷いに迷った末に言葉を搾り出した。
 手のひらはじっとり汗をかいている。緊張で顔筋が収縮、表情が硬直する。
 母の視線を避けて俯き加減に畳の目を数えながら、揃えた膝の上で手のひらを握りしめる。手のひらの柔肉に爪が食い込む痛みで自分を取り戻そうとでもいうように、正気を維持しようとでもいうように。
 胸裏では嵐が吹き荒んでいた。苦悩に責め苛まれた眉間には皺が寄り、母とよく似た面差しにはひりつくような焦燥が滲んでいた。
 静流の眼前、畳の縁に平行に置かれたのは一振りの刃。
 鞘に仕舞われた真剣。
 ちょうど母の寝床と静流が正座した中間に据え置かれた刀は、黒光りする鞘に隠れながらも異様な存在感を放っている。
 悠に二十畳はあろうかという座敷は、全部の障子を締め切ってあるために昼でも薄暗い。
 紫陽花が一輪生けられた床の間を背に、敷かれた布団から半身を起こした母は、弱気を起こした息子に畳み掛ける。
 『いいえ、なりません。あなたはしなければなりません』
 主治医には余命二年と宣告された。
 早くに伴侶を亡くしてから女手一つで自分たち姉弟を育ててきた母は、最期の最後まで分家の女当主として恥じない振る舞いを貫き通す気だ。
 死を目前にした母は、不思議と穏やかな顔をしていた。
 己の運命を許容し、宿命に殉じる覚悟を決めた顔。
 俗世への執着から脱却した安息の表情。
 母はいつも息子に厳しく接した、分家の次期当主として恥ずかしくない男になれと言われ続けた。
 母はまた、女だてらに剣術の師範でもあった。人間国宝の祖父にも匹敵する剣の使い手と噂される本家の嫡男と常に比較され、「貴方の剣には覇気が足りない」と酷評されたこともある。
 だが、それでも血の繋がった母には違いない。
 どうして母を斬れるというのか。
 親殺しは修羅道に堕ちるとわかっていながら、刀を取れるというのか。
 『母さん、やはり僕にはできません。そのように血迷った真似は……』
 『この期に及んでまだそのようなことを言うのですか』
 母が幻滅する。静流は無言で首を項垂れる。
 打ち萎れて叱責に耐える静流を見つめ、頑是無い子供を相手にするように母は首を振る。その枕元には姉がいる。母とはまた違う感傷に囚われ、潤んだ目に悲哀の色を宿した姉が。
 母が小さく咳をする。咳は止まらない。
 徐徐に間隔が狭まり、激しさが増す。肩を上下させ咳き込む母の背を慣れた手つきで姉がさする。母子の情愛が通う一連の光景を距離をおいて眺め、静流は奥歯を噛み締める。

 母は狂っている。
 僕と姉さんもまた、狂気に侵されはじめている。

 血なまぐさい惨劇の余波は、帯刀の系譜に連なる者すべての上に狂気を開花させた。
 本家の長男が剣術の師範たる実父を含む門下生十三人を斬殺した醜聞により、帯刀家は凋落した。
 とくに影響を受けたのは本家当主の実妹であり、余命幾許もない病身でありながら分家の当主を務めた母だ。
 長きに渡る確執により本家当主の実兄と疎遠になっていた母までもが帯刀の人間が起こした惨劇により世間に白眼視されるようになった。
 帯刀の血を受け継ぐ者すべてが世間の荒波にさらされ非難の矢面に立たされた。一族から親殺しを出したことで元禄年間から続いた由緒正しき帯刀家の権威は失墜、「血に飢えた人斬りの家系」と中傷されるまでになった。
 母は、それが許せなかった。
 これまでの人生で自分が守ってきたもの、信じてきたものを全否定されたのだ。その無念はいかばかりか想像に難くない。
 母は帯刀の生まれに誇りを持っていた。
 分家の当主として最期まで立派に務め上げ、責務を全うし、自分亡き後は跡目を息子に譲り帯刀の名を後世に伝えるのが使命と肝に銘じていた。
 武家の末裔として誇り高く生きて死ぬのが母の夢だった。
 そのすべてが無に帰した。
 身内から親殺しを出した帯刀家は、もはや存続を許されない。母が生涯かけて守ろうとしたものはすべて失われてしまった。
 帯刀の家土地も、誇りも、名誉も。
 今、母が持っているのは残り僅かな寿命だけ。主治医には余命二年と宣告されたが、頬骨の尖った顔に死相が射して、もって半年かそこらの非情な現実を代弁している。事件の後始末を一手に引き受けた心労が祟り、死期が早まったのだろう。
 居住まいを正して静流に向き直り、母が言う。
 『帯刀分家当主として命じます。早く刀を抜きなさい。私をお斬りなさい。かつて私が教えた通りにやればいいのです、静流さん』
 『できません』
 『目を瞑っていてもできるでしょうに。静流さん、貴方は私から何を学んだのです?』 
 『母さんの命令といえど刀を抜くことはできません。そんな恐ろしいことできるわけがない。母さんは正気じゃない、あの事件がきっかけでおかしくなってしまった。どうして死に急ぐのです?どうして僕に刀を取らせようとするのです?母さんは、自殺する気だ。これが自殺じゃなくてなんだって言うんだ、帯刀家が滅んだらもう生きる意味がない、だから母さんは自暴自棄になって!!』
 感情の堰が決壊する。
 静流はいつのまにか立ち上がり叫んでいた。不条理な命令に反感が突き上げた。ただ哀しくて悔しかった、やりきれなかった。胸を内側から掻き毟られる思いだった。
 腹を痛めた我が子に糾弾されてもなお悟りきった居住まいを崩さず、母は虚空を見据えていた。双眸には静かな諦念がたゆたっていた。
 母の目は既に現実を見ておらず、己の内面を眺めていた。
 語気激しく母に正論をぶつけた静流は、賛同を乞おうと姉を仰ぎ、戦慄する。
 姉がこちらを見据えていた。悲痛な顔で。
 『………帯刀家はもうおしまいです』
 血を吐くように母が言い、重苦しい沈黙がのしかかる。
 『時代錯誤を承知で私が守ってきたもの、先祖代々守り抜いてきたものが失われてしまった。親殺しは武家の法度にふれる最大の禁忌。剣の天才と称される本家の跡継ぎが武士道を外れる禁忌を犯したことで、帯刀家の歴史は汚れてしまった。帯刀の血を継ぐ者たちはこの先ずっと人斬りの汚名を被り、生き恥をさらして寿命をまっとうせねばならない。一族の一人が罪を犯したところで世間の大多数はそう見ない、私たちにも同じ人斬りの血が流れている、帯刀家は極悪非道な人斬りの一族と後世まで蔑まれる』
 落ち窪んだ眼窩に鬼火が燃え上がる。
 『私は許せない。我が兄、帯刀莞爾の仇をとる為には手段を選ばない。たとえ武士道を外れる行いとわかっていても、帯刀の家名を貶めて一族に災厄を招いた甥に復讐せずにはいられない。私の寿命は残り僅か、もってあと半年。どうせ残り少ないこの命、甥への復讐の足がかりとなるなら地獄に落ちても悔いはない』
 母の決意は固かった。
 今更何を言っても決心は覆らないだろう。
 絶望を噛み締めて俯きながらも、最後の抗弁を試みる。
 『……母さんは伯父さんを憎んでいたじゃないか。本家と分家はずっと犬猿の仲で、最近は行き来も途絶えていたじゃないか』
 『不幸な行き違いがあっても血の繋がった兄妹には変わりありません。無念の死を遂げた兄の仇をとるのが妹のつとめ。我が兄莞爾は実の息子に斬り殺された。如何なる理由があろうと親殺しは許されざる非道な所業、帯刀家を破滅させた張本人が牢送りになったとてなまぬるい。本家当主の兄を斬殺し帯刀家を滅ぼした張本人、我が甥・貢はまだのうのうと生きているのです。恥知らずにも』
 吐き捨てるように口元を歪めた母の痩身に陽炎が揺らめく。
 母は怒っていた。残り少ない命の火を今この瞬間に燃やし尽くそうとでもいうように全身全霊で怒っていた。復讐の業火を双眸に宿した母の枕元、姉が顔を伏せる。姉は貢に想いを寄せている。
 長い間床で臥せっていた母は、姉の秘めたる恋情を知ってか知らずか続ける。
 『さあ、お斬りなさい。遠慮はいりません。親子の情など捨て去りなさい。最期に母の願いを叶えてください。腹を痛めた息子に憎き兄の仇と同じ道を歩ませてでも復讐を成し遂げようとする、愚かな母の屍をこえていきなさい』
 促されるがままに刀に手を伸ばし、鞘を掴んで引き寄せる。
 膝に乗せた刀を見下ろし、躊躇する。柄を握り締めた手が力の入れすぎで白く強張り、かちゃかちゃと鞘が鳴る。刀を掴んで何度も深呼吸し、意を決して前を向いた静流の顔が泣き笑いに似て滑稽に崩れる。
 『…………僕に狂えと言うんですか?親殺しの修羅になれと言うんですか、母さんは。それが親の言うことですか。僕は、僕はこんなことをするために剣を学んだんじゃない。僕はただ母さんや姉さんに褒めてもらいたくて、貢くんに負けたくなくて、貢くんと比較されるのが嫌で、母さんと姉さんに一人前と認められたくて必死に修行を積んできたんだ!!帯刀の名なんかどうでもいい、そんな物ちっとも欲しくはない、分家当主の座なんかちっとも惜しくはない!!僕はただ姉さんと一緒にいられればそれで、それだけで幸せだった!!』
 絶叫が喉を食い破る。
 母は無表情に静流を眺めていた。姉は下を向いていた。
 母と同様、美しく背筋を伸ばして正座した姉の手が膝の上でこぶしを結んでいた。激情を堪えるように膝の上でこぶしを結び、前髪の奥に表情を隠して項垂れていた。
 『狂いなさい』
 穏やかな微笑を湛え、母が言った。
 静流の葛藤を汲んでもなお意見を翻すことがない、復讐の狂気に呑まれた笑顔。
 『狂いなさい、血迷いなさい。静流さん、いえ、静流。貴方は帯刀家の末裔として身内の復讐を果たす義務がある。放っておいても私の命はじき尽きる。女の身の薫流では復讐を果たせない。もはや帯刀家には貴方しかいないのです、我が兄・莞爾の仇を討つべき人間が。法は無視なさい。法が私たちに何をしてくれました?何もしてはくれない。私たちが従うべきは法ではない、廃れて久しい武士道でもない』
 母の目に激情が爆ぜ、禍々しい笑みを湛えた顔に狂気の深淵が開く。
 『私は心の底から帯刀貢を憎みます。人が人を憎むのは本来自由、法で縛れず武士道に添わぬこの憎しみこそが復讐の動機。帯刀家は人斬り一族ではない、人斬りは帯刀貢だと病床の私が血を吐くほどに声張り上げても世間は誰一人とて耳を貸さなかった。私は憎い、帯刀家を貶めたあの男が憎い。あの男に復讐するにはもうこれしかないのです、貴方が修羅道に堕ちるしかないのです』
 『静流』
 姉が声をかける。
 緩やかに顔を上げた静流は、続く言葉に耳を疑う。
 『母さんの願いを叶えてあげて』
 いつのまにかこちらに向き直った姉が、寂しげに微笑む。
 『私も帯刀貢が憎い。できるならこの手で殺したいけど、私では無理。でも、貴方なら……』 
 『貴方にしかできないのです』 
 寝床から這い出た母が静流の膝に縋り付く。
 枯れ木のように痩せさらばえた腕。振り払うのは簡単だ。
 だができなかった、どうしても。
 母と姉の視線に呪縛され生唾を嚥下、再び刀を手に取る。
 黒光りする鞘から刀を抜く。
 鞘から覗いた刀身が白銀に輝く。清冽な殺気を纏わせた刀身に顔を映した静流は、母と姉の願いを叶えてやりたい半面、この手で肉親の命を奪う行為に極大の抵抗と嫌悪を示し、葛藤に揺れ動く自分をそこに見出す。
 母にはできない。姉にもできない。
 しかし、自分ならできる。
 帯刀貢を殺すことができる。
 甘美な誘惑が耳朶に纏わり付く。
 血を求める衝動を抑制できない。古来より数多の血を吸った刀には妖気が宿るという。静流が鞘から刀を抜いたのを確認、病床の母が瞼を下ろす。口元に仄かな微笑すら湛えたその顔は清濁併せ呑む慈母めいた雰囲気すら漂わせていた。
 己の死を覚悟して安息を得た母と対峙、片膝立って刀を構え、真剣の重量と手の震えを意識する。
 『……いざ、参ります』  
 母の願いを叶えてやりたい。
 幼い頃から厳しい母だった。だが、優しい母だった。剣の師範として息子をたゆまず鍛えてきた。「静流さんは気持ちが優しいから太刀筋が鈍ってしまうのね」とため息まじりに言われたことがある。しかし、嘆く言葉とは裏腹に顔は微笑んでいた。息子の気持ちの優しさを喜ぶ母性的な微笑みが瞼の裏によみがえり、涙腺が熱くなる。

 母の教え通り剣を持ち、構える。

 布団に起き上がった母は毅然と胸を張っている。
 命乞いもしない、泣き叫びもしない達観した居住まい。
 目を閉じて心を無にする。五感を閉ざして内向して初めて第六感が開眼する。
 明鏡止水の境地を体現するが如く。  
 呼吸を整え目を開いた時、手の震えは完全に止まっていた。
 
 鋭く呼気を吐き、刀を振り下ろす。
 血飛沫が顔に跳ねる。母が着ていた白い小袖が右肩から左脇腹にかけて裂けて、鮮血が飛び散った。

 肉を裂き骨を断つ手ごたえが確かにあった。
 白銀に輝く刃に血化粧が施された。血と脂に濡れ光る刀身と布団に倒れ伏せたまま微動だにしない母を見比べて静流は荒い息を吐く。
 即死だった。母はあっけなく死んだ。殆ど苦しまずに逝った。
 おくれ毛がしどけなく纏わり付いた死に顔は安らかだった。母の死に際しても静流は泣かなかった。泣けなかった。心が衝撃に麻痺して何も感じず、喜怒哀楽いかなる感情も湧き上がってはこなかった。
 『上出来よ、静流』
 姉が言った。
 姉の着物に真紅の花が咲いていた。至近距離で母の返り血を浴びても姉は一切取り乱さず、よくやったと弟を称賛した。
 畳に突き立てた刀に縋るように姿勢を起こした静流をまっすぐ見つめ、紅唇を開く。
 『次は私よ。なるべく苦しめず送って頂戴』 
 
 ああ。
 とうとう薫流姉さんまで狂ってしまった。

 姉は、薫流は笑っていた。
 何もかも受け容れ微笑んでいた。
 親子心中に付き合わされるのを予期した上でこの場に臨んだとその目が言っていた。しかし母と違い、真っ直ぐに静流を見据える目には正気の光が宿っていた。
 母の返り血を拭うのも忘れ、驚愕に目を見開き姉を凝視する。
 嘘だと否定したかった。
 いっそ嘘にしてしまいたかった、聞かぬふり知らぬふりで流したかった。母に続き姉までもが自分を殺せと言う、自分を殺して復讐の足がかりにしろと言う。
 できるわけが、ない。
 走馬灯の回想が脳裏を駆け巡る。
 幼い頃から勝気で意地悪な姉だった。お転婆で男勝りで口喧嘩では勝てた試しがなかった。静流は姉にやりこめられるたび強く頼もしい従兄の背に隠れていた、優しく面倒見がいい従姉の背に庇われていた。「まったく情けない子ね、しずるは。それでも分家の跡取りなの?」とませた口調でからかわれる度に静流は目に涙をためていた。
 『できないよ、姉さん』 
 最初は弱々しく、次第に激しく首を振り拒絶する。
 泣き笑いに似た情けない表情で翻意を求めるも姉は応じない。
 絶命した母の枕元に正座し、弟への愛情と未練を織り交ぜた顔つきで黙りこくっている。
 長い睫毛に沈んだ切れ長の双眸に憂いを秘め、口元を引き結び、首を項垂れている。姉の視線を追いかけて顔を上げた静流は、床の間の紫陽花を目にする。あの紫陽花は確か、先日姉が摘んできたものだ。病床の母の慰みになればと小雨が降る庭からわざわざ手折ってきたのだ。
 優しい姉だった。お転婆で男勝り、意地悪で口達者な姉に隠された優しい一面を常に彼女だけを見つめ続けた静流だけが知っていた。
 床の間の紫陽花が鮮やかに目に染みて、一年前、二人で本家を訪ねた日の記憶を喚起する。
 あの日、傘に隠れて道場を見つめ続けた姉の視線の先には似合いの少年と少女がいた。
 静流は直感した。
 姉が秘めたる恋情を、報われぬ想いを。
 何故なら帯刀貢の隣には、帯刀苗がいたから。
 『静流』
 『できない、いくら姉さんの頼みでもそれだけはできない。姉さんを斬り殺すなんてできるわけない、姉さんは知らないんだ、僕がどんなに貴女を大切に想ってるか、貴女に生きてて欲しいと想ってるか!たった二人の姉弟じゃないか、子供の頃からずっと一緒にいたじゃないか。僕は子供の頃からずっと、貢くんや苗さんと一緒に遊んでた頃からずっと姉さんのことを見てたんだ。からかわれてもいじめられても姉さんのあとを付いて回ったのは姉さんが好きだったから、鬱陶しい弟だ、あっちいけって邪険にされても付いて回るのをやめなかったのは姉さんを独占したかったからだ!!』
 言葉が堰を切り溢れ出す、激情の洪水に理性が押し流される。
 噴き上げる衝動のままに思いの丈を吐き出す静流を、薫流は慈愛の笑みで包んでいた。
 純白の足袋は畳に流れ出した血でしとどに染まっていた。
 薫流は美しく背筋を伸ばして正座したまま微動だにせず、揃えた膝に手をおいて、母の亡骸の傍らで慟哭する弟を優しく包み込むように見つめていた。
 姉には言葉が届かない。
 手を伸ばせば届く距離なのに、彼岸と此岸の断絶がある。
 畳に流れ出した鮮血が静流の膝も手も真紅に染め変える。
 血に滑る手で刀の柄を掴み、畳から引き抜き、正眼に構える。
 薫流の鼻先に刃を突きつけ翻意を迫ろうとでもいうように、命乞いを待とうとでもいうように。
 『母さんは斬れても姉さんは斬れない』
 思い詰めた色を目に宿し、静流が唸る。
 早く命乞いしてくれ、ここから逃げてくれと気も狂わんばかりに一心に念じながら。
 鼻先に刃を突きつけられた薫流はしかし脅しにも屈さず、表情ひとつ変えずにいる。
 すべてを諦めた姉を見るに耐えかね、刃の切っ先をかすかに震わせる。
 『姉さん、二人で逃げようよ。誰も知らないところでいちからやり直そう。帯刀の名を捨てて二人で生きていこう』
 口から零れたのは、哀願。姉が首肯してくれることだけを一心に念じ、一縷の希望をたぐりよせる。
 姉は答えない。切れ長の目を潤ませて漆黒の瞳に弟の顔を映している。
 水面に波紋が起きたように薫流の目の中の顔が歪み、崩れる。
 刃を引っ込めるきっかけを逸し、正眼の構えで姉と対峙し、陰惨な笑みを覗かせる。
 『もういいじゃないか。母さんみたいに帯刀の名に殉じて一生を棒に振ることなんてない。まさか帯刀貢への報われぬ恋に殉じるつもり?知ってるんだよ、姉さん。姉さんが貢くんに想いを寄せてたことくらい当然気付いてた。でも貢くんには苗さんがいた、貢くんは姉さんなんか見向きもしなかった。忍ぶ恋は苦しい。だから僕は、』
 だから僕は、汚い手口で帯刀貢を追い詰めた。
 帯刀苗を自殺に追い込んだ張本人はこの僕、帯刀静流だ。
 それも全部姉さんのため、姉さんに幸せになってほしかったから。姉さんさえ幸せになってくれるなら他の誰を傷つけても構わなかった、帯刀貢と苗の二人が不幸になっても構わなかった。あの二人自身すら知らない秘密を暴いて突きつけても良心は痛まなかった、薫流姉さんさえ幸せになってくれるならばそれで……
 姉さんが笑ってくれるならそれで、
 『僕は姉さんが!!!!!!!!!!』
  
 痛切な独白を遮ったのは、蓮の茎のように虚空に伸びた白い腕。
 薫が静流の手に重ねて柄を掴み、自らの胸へと深々切っ先を埋める。
 
 振り払う暇もなかった。
 白銀に輝く刃が薫流の胸に半ばまで沈んだ。薫流が血を吐いた。綺麗な赤い血だった。
 口から大量の血を吐いた薫流が刀を胸に埋めたまま上体を突っ伏す。畳に屑折れた薫流を断続的な痙攣が襲う。静流は極限まで目を見開いて、最愛の姉が死に至る過程を余さず網膜に焼き付けた。
 着物の胸にじわじわ血が滲み出す。胸の傷口から流れ出た血が緩やかに刃を伝い、静流の手まで禍々しく染めかえる。
 強張った指を意志の力でこじ開けて柄を離した時、うつ伏せに倒れた薫流はすでに瀕死の状態だった。
 『ねえ、さ』
 嘘。嘘だ嘘だ嘘だこんなの僕が姉さんを殺したなんて嘘悪い冗談だ。
 恐慌を来たした静流に抱き起こされ、膝に頭を寝かされた薫流の目には半透明の膜が下りていた。
 朦朧と濁った目がやがて弟の顔で焦点を結び、鮮血に濡れた唇から喘鳴が漏れる。薫流が何か言おうとしてる、死に際に余力を振り絞り何かを伝えようとしてる。
 以心伝心、素早く意を汲み口元に耳を近づけ、姉の最期の言葉に表情を失くす。
 そして、姉は事切れた。
 弛緩した四肢を無造作に投げ出した姉は、瞼を半ば下ろし、弟の膝に頭を預けている。 
 母と姉の亡骸が横たわる座敷にて、ただ一人生き残ってしまった静流の腕から力が抜け、薫流の頭がごとりと畳に落ちる。
 『かおる、ねえさん。卑怯だ』
 最期にそんなこと言うなんて、卑怯だ。
 姉さんは子供の頃から変わらず意地が悪い。最期にそんな、重大な秘密を明かしていくなんて。僕を共犯にするなんて。
 しばらく放心状態で座り込んでいたが、やがて操り人形めいた動作で立ち上がり、二人分の血が滴る刀を拾い上げる。手のひらにずっしりこたえる刀の重みは、母と姉の命と釣り合いなお余りある。
 母の遺志を継ぎ、姉の無念を汲み。
 僕にはしなければいけないことがある。果たさねばいけないことがある。
 二人分の返り血が跳ねた障子を開け放ち、刀をひっさげて板張りの廊下にさまよいでた静流の背後、床の間に飾られた紫陽花からひとひら花弁が落ち、血の海にひたる。
 耳の奥に呪いの言霊がこだまする。

 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀莞爾の仇を討つまで。

 『帯刀世司子と薫流の無念を晴らすためならこの身を修羅道に堕としても構わない。存分に血迷い狂い斬り捨ててやろうじゃないか。それが母さんと姉さんの望みなら、今この時より帯刀静流は人の生き血を啜る魍魎となる。帯刀貢を斬るために、帯刀一族を滅ぼした元凶を断つために、手段を選ばず罪を積み重ねる約束をしてやろうじゃないか』
 喉の奥で汚泥が煮立つような笑いをたて、血塗れた刃を携えて、不吉に軋む板張りの廊下を歩き出す。 
 現世への執着は吹っ切れた。未練は断った。この手で薫流にとどめをさした瞬間に一切合財を捨て去った。
 開け放たれた障子の向こう、母と姉の亡骸が横たわる座敷から鉄錆びた血臭が漂ってくる。
 床の間の紫陽花にいつか見た光景を重ね、全身返り血に塗れた静流は心の中で反芻する。 


 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 僕と姉さんの人生を滅茶苦茶にした帯刀貢を地獄に送るまで――――――― 


 ―「あっ、あぁああああああああっああぁあああああああっぁあ!!!?」―
 そこで目が覚めた。
 生々しい悪夢から覚醒した直後、全身にびっしょり汗をかいてることに気付く。
 「はあっ、はあっ、はっ……」
 ベッドに跳ね起き、薄い胸板を喘がせる。心臓の動悸が跳ね回る。大量の寝汗を吸ったシーツにはどす黒い染みができていた。濡れそぼった前髪をかきあげ鉄扉を一瞥、侵入の形跡がないのを確認してのち隣に視線を移す。
 隣では、貢が上半身裸で寝ていた。
 上着を脱いで熟睡する貢の寝顔を観察、疲れ切った顔に自嘲の笑みを浮かべ、毛布から抜け出る静流。サムライが房に来て三日が経つ。三日間ずっと同じベッドで寝ている従兄の上にのしかかった静流の耳に邪悪な囁きが忍び込む。
 『血迷え。狂え。斬り捨てろ』
 『血前よ。狂え。斬り捨てろ』
 「帯刀貢を殺すまで……わかってるよ、姉さん母さん」
 帯刀貢の首に手をかけ、蜘蛛の脚が這うように指を絡め、徐徐に握力を強めていく。気道を圧迫される寝苦しさに眉間に皺が寄るもまだ起きる気配はない。いっそこのまま殺してしまおうかという誘惑が脳裏を掠める。苦痛の皺を眉間に刻んだ寝顔を見下ろすうちに心の奥底でどす黒い殺意が蠢き、指に力がこもる。
 「まだ殺さないよ」
 帯刀貢が苦しむさまを眺め、静流は恍惚と微笑む。極楽浄土にいるような微笑み。
 「もっともっともっと苦しめて殺してやる。畜生道に落ちるべきは僕じゃない、君だ」
 帯刀貢の耳朶に口を近付け、そっと囁く、
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……姉さんの遺言、確かに伝えたよ。あの時姉さんは僕に膝枕されてこう言ったんだ。僕たちは同じ穴の狢だ、僕と姉さん、君と苗さんは――……」
 「………静流?」
 唐突に帯刀貢が目を開けた。
 反射的に首から手を放す。 
 「おはよう、貢くん」
 最前まで首を絞めていたことなど感じさせないにこやかさで挨拶、その時にはもう帯刀貢の腰から下りて隣に座っていた。瞬き二回、完全に覚醒した帯刀貢が首の違和感をいぶかしむように喉をさするのに目を細め、静流は声をかける。
 「貢くん疲れてる?」
 「いいや」
 「ならちょうどいいや、久しぶりに稽古に付き合ってよ」
 ベッドから腰を上げ、スニーカーを履く。ベッドの下に手を突っ込んで取り出したのはレッドワークの廃棄物、荒削りな鉄パイプが二本。片方の鉄パイプを困惑する貢に握らせ、静流は笑みを深める。
 「修行熱心な貢くんのことだ、今日もどうせ剣の稽古するんでしょ?般若心経の読経と写経と同じ日課だものね。せっかくだから僕に付き合ってよ。場所は……そうだな、展望台がいい。たまには外で体を動かすのも悪くない。貢くんだっていつも同じ型をなぞるだけじゃ飽きるでしょ?久しぶりに討ち合いしようよ」 
 「いや、俺は……」
 「いいでしょ?貢くんの太刀筋を見たいんだ。それとも刑務所に来て以来、修行怠けてたせいで腕が鈍ったとか?」
 揶揄する口調で挑発すれば、静流に気圧されて鉄パイプを受け取った貢の顔がプライドを刺激されたらしく引き締まる。
 狙い通りの展開にほくそ笑み、静流は先に立って歩き出す。 
 鉄扉を開け放って廊下に出た静流は、既視感を刺激されて振り返る。
 「どうした」
 開け放たれた鉄扉の向こう側、殺風景な房にサムライがひとり佇んでいる。
 「……なんでもない。ここに来る前、これとそっくり同じことがあったなって思ってさ。ちょっと懐かしくなったんだ」

 あの時。
 開け放たれた障子の向こうにあったのは、畳一面の血の海に横たわる二人の亡骸。
 血に濡れた手に握り締めていたのは鈍器の鉄パイプではなく、正真正銘の刀。

 感慨深げに房を見渡し、無意識に姉の面影を探していた静流は、不審げにこちらを見返すサムライに気付いて照れ笑いをする。
 殺風景な房のどこにもあの日の紫陽花は見当たらない。
 だから僕は、本心を隠してこう言える。
 「行こう貢くん。言っとくけど、手加減しないよ」
 討ち合い中の事故に見せかけて帯刀貢を殺すことはできないかと、頭の中で策を巡らしながら。
【少年プリズン】
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七話

(2005/05/27)
 「指一本でもレイジにふれたら殺すぞ」
 俺の喉がこんな低い声出せるなんて知らなかった。
 行動を起こしたのは次の瞬間、俺を両脇から押さえ付けた看守二人がレイジのフェラチオに気を取られてる間に反撃に転じた。
 欲情と嫌悪の狭間で看守二人は興奮していた。
 喉仏がごくり起伏して生唾を嚥下する。
 飼い主に命じられるがまま仰向けに寝転がり、無防備に腹を見せた犬の股間に顔を埋めてペニスを吸うレイジ。
 赤黒く尖った醜悪なペニスに舌を絡めて唾液を捏ねる音が粘着質に響き、レイジの顎が涎に濡れ光る。
 萎えた手を振りほどくのは簡単だった。
 激しい首振りで肩に乗った手を揺り落とし、看守の怒号に背中を向け、体の奥底から突き上げる憤怒の衝動に駆られて跳躍。靴裏で床を蹴り、今しも事をおっぱじめようとしてるレイジと犬の間に体当たりで割り込む。ズボンを脱がされたレイジの背中にのしかかった犬に肩から激突、虚空に吹っ飛んだ犬が哀れっぽい鳴き声を上げる。
 「おおハル、可哀想なハルよ!?貴様私のハルになんてことを、動物虐待で訴えるぞ!!」
 「その台詞そっくり返すぜ狂犬家!」
 ハルを庇い起こした所長に非難を浴びせられても動じない。後ろ手に手錠かけられたまま床に片膝付き、所長に向き直る。
 床に倒れ伏せたレイジは小さく呻いている。
 「大丈夫かレイジ、しっかりしろ」
 「痛って……ロンに貞操守られるなんて落ちぶれたな、俺も」
 「言ってる場合かよ」
 虚勢まじりに苦笑するレイジに泣きたくなる。こんな時でも俺を心配させないよう笑ったふりをする、不器用な優しさに胸が痛む。
 ぐったりうつ伏せたまま、後ろ手を拘束されているために床に手を付き上体を支えることもできず、腰を上擦らせるレイジを所長から庇うように移動する。
 所長は怒り心頭に発していた。世に言う逆ギレだ。
 瀟洒な縁なし眼鏡の奥、憎悪にぎらつく目を極限まで見開き、神経質に顔面を痙攣させる。体重こそ違えどタジマそっくりの小便ちびりそうに恐ろしい形相だった。
 「ハルよ、襲え!!」
 怒りで満面を充血させた所長が命令を飛ばし、ハルが咆哮する。
 まずい、食い殺される。レイジは床に突っ伏したまま、起き上がろうにもバランスがとれず緩慢な動作で頭を揺らしている。
 俺が守ってやれなきゃ他に誰がレイジを守ってやれる?
 神頼みはやめだ。
 レイジの胸で輝く十字架が何をしてくれた?
 傷だらけの十字架を掴んでみじめったらしく天に慈悲を乞うのはやめだ、気まぐれで冷酷な神様が信者の献身に報いずコイツを見捨てるつもりなら俺がレイジを助ける、天に唾吐いてやる。
 覚悟を決め己を奮い立たせ、ハルが助走から跳躍に至るまでの三秒間で反撃に移る。机上にずらり並んだ写真立てが目に飛び込んだ瞬間に奇策が閃き、床を蹴る。机に思い切り体をぶつけた衝撃で写真立てが雪崩落ち、ハルの鼻面を奇襲する。
 写真立てに鼻面をぶつけたハルが怯んだ隙に跳ね起き、怒号する。
 「くたばれ変態野郎!!」
 鋭い呼気を吐き、足元の写真立てを蹴り上げる。
 スニーカーのつま先に蹴り上げられた写真立ては思惑通りに宙を舞い、あっぱれ見事に所長の額に突き刺さった。
 写真立ての角が額に突き刺さった所長が女々しい悲鳴を上げる。
 まさかここまで上手くいくなんて思わなかった、笑い出したいくらい愉快な気持ちになった。
 笑いの発作に襲われた俺の眼前、額から血を垂れ流した所長が「ひあ、ああああああっぁあああっ、あ!血が、血がこんなに……はやく医務室で輸血をしなければ早くああこんなにも血が、死、死んでしまう!!」と悶絶、大袈裟な痛がりようが滑稽味を醸し出す。
 他人をいたぶるのは大好きでも自分が痛いのは苦手ってか?
 徹底して自己本位な態度にタジマとの血の繋がりを痛感、不快感で口の中が苦くなる。
 「いいかレイジは俺の物だ、俺はレイジが犬にヤられるとこ黙って見てるほどびびりでもなけりゃ腰抜けでもねえ、相棒が犬に犯されるとこ指咥えて見てるくらいだったら舌噛み切って死んだほうがマシだ!!いいか、コイツに手をだすな。これはお前らに言ってるんだ、額押さえて大袈裟にのたうちまわってる獣姦マニアの変態野郎とその忠実なる下僕のバカ犬に言ってるんだ」
 息継ぎもせず言い切り、凝縮した怒気を全身から放散。
 頭を垂らしたハルとその上に覆いかぶさった所長を牽制する。
 「お前らがレイジ犯すなら、今度は俺がお前らを犯す。犬のケツにペニスぶちこんで痔になるまでカマ掘ってやる。わんころだけじゃねえ、てめえも同じだ所長。兄弟血は争えねえって本当だな、タジマそっくりのゲス野郎だてめえは。ゲスはゲスらしく這いつくばって俺の吐いた唾舐めるのがお似合いだよ」
 「き、さま、誰に口をきいてる!?」
 激痛より怒りが勝った所長の目に火花が炸裂、血に汚れた顔面をひくつかせる。
 「あんただよタジマ兄。人間の女や男に相手にされねえから仕方なく犬に慰めてもらってる性的不能者」
 俺の口から出る声が、俺の声じゃないみたいに聞こえる。
 所長の口元が屈辱にわななくのを痛快に眺め、懐にとびこむ。
 鎖をかちゃかちゃ鳴らして手錠と格闘してるらしいレイジが背後で何か言うが無視する。
 所長の額にぱっくり傷口が開いてる。
 ちょうどその傷口の上、秀でた額にガツンと頭突きを見舞う。
 額と額が衝突する鈍い音、頭蓋骨に響く衝撃。至近で接触、密着した所長にさらに額をごり押しして傷口を抉る。
 「いいか、今度俺のレイジに手えだしてみろ。お前を裸にして四つん這いにして全身に犬の糞ぬりつけてやる、顔に小便ひっかけて犬の糞食わせてやる。獣姦マニアの変態野郎はスカトロだってイケんだろ?レイジ虐めに飽きたら俺が相手してやるよ。エリートのプライドなんざ捨てちまえ、くだんねえ。あんたがどんだけ悪あがきしたところで東京プリズン出れる見込みなんざねーよ」
 傷口を抉られた所長が悲鳴をあげる。構うもんか。
 容赦なく額をごり押して削りながら顔一杯に笑みを広げる。
 「わ、たしに出世の見込みがないと?鞭に怯える家畜の分際で飼い主を侮辱する気か!?」
 所長がヒステリックに叫ぶ。囚人に侮辱されて自尊心がひどく傷付いたらしい。知るか。何度も何度も眉間に額をぶつける、眉間の突き刺さった傷口が開いて血の飛沫がしぶく。
 傷口から飛び散った血が顔にかかり、頬に赤い斑点が跳ねる。
 恐怖と屈辱と憤怒と苦痛をごった煮した世にも醜悪な顔にタジマの面影が重なる。
 俺と鍵屋崎をさんざん虐めて天誅くだって東京プリズンを去ったタジマの顔。
 いや、違う。天誅を下したのは神様じゃない、レイジだ。
 レイジはいつだって俺を助けてくれた、どん底から救い上げてくれた。 
 今度は俺が助ける番だ。
 借りを返す番だ。
 「殺してやる」
 低く、宣告する。所長の顔が強張る。さあ今だ今殺せもう二度とレイジに近付けないように手を出せないように。
 「どうせ俺は人殺しだ、今更前科が一つ増えるくらい大したことねえ。あんた殺して殺されるなら本望だ」
 「やめ、たまえ君。私を殺したら上の人間が黙ってないぞ」
 ぜいぜい耳障りな喘鳴を漏らしながら反駁する諦め悪い態度を鼻で笑い飛ばす。
 「へえ、そんなに上から大事にされてる人間がこんな砂漠くんだりまで飛ばされてくるなんざ妙な話もあったもんだ。いい加減認めちまえよ所長、あんたは左遷されたんだ。上にとっちゃどうでもいい存在なんだ。クビにすんのも世間体悪いから囚人どもの反感煽りに煽って殺されてくれるように東京プリズンに送られたわけだ。実質上の死刑だな。なら俺が今ここであんた殺すのは上の思惑通りじゃねえか、いいさ上の思惑とやらに乗ってやるよ、あんた殺されたって聞いて上の人間が万歳三唱するとこ目に浮かぶぜ!!」
 そうだ殺せ、殺してしまえ。息の根を止めてしまえ。床に這いつくばった所長めがけ足を振り上げる。手が使えなくても人は殺せる。
 「看守に命じる!ただちにこの家畜を拘束、半永久的に独居房に閉じ込めておけ!」
 所長が居丈高に命令、金縛りが解けた看守が背後から俺にのしかかり押し倒す。看守二人がかりで来られちゃ身も蓋もねえ。
 背中に一人がのしかかりもう一人が俺の肩を押さえ込む、倒れたはずみに下顎が床に激突して垂直に衝撃が突き抜ける。
 喧嘩で顎を殴られるのは致命的、脳みそに直接ダメージが来る。
 頭蓋骨の中で脳みそを揺らされ、視界がぐにゃりと歪む。四肢がだらりと垂れ下がる。
 顎を強打し眩暈に襲われ、そのまま体の均衡を失って床に倒れ伏した俺の頭上で息を呑む気配がする。
 看守に押さえ付けられた姿勢から上目遣いに見れば、レイジが呆然としていた。
 「なんだよ、その顔……」
 「ははははははははははっははははははははっはははっ!!」
 哄笑が爆発する。不自由な体勢から顔をねじり向き直れば、勝ち誇ったように所長が笑っていた。
 洒落た縁なし眼鏡の奥、極限まで見開かれた目には狂気が渦巻いている。喜悦に口元を緩めた所長が不意に立ち上がり接近、上体を突っ伏した俺の後ろ襟をぐいと掴んで引き下ろす。弛んだ襟刳りが肩甲骨が覗くまで引き下げられ、うなじが外気に晒される。
 「これを見ろレイジ。君を助けに来た彼は、この礼儀知らずで身の程知らずな家畜は首の後ろにいやらしい痣を作っているぞ!」
 「!?な、」
 俺の後ろ襟を限界ぎりぎりまで引き下げ、声高に快哉を叫ぶ所長。馬鹿な、看守はこんなトコにキスしなかった。この痣はいつ……
 そこまで考えてハッとする。
 今朝、いや、正確には昨日の夜。
 「あいつ……!」
 犯人はホセしかいない。朝起きた時も奇妙に思ったのだ、俺は風邪っぴきなのに上半身裸で寝かされていた。間違いない、うなじにキスマークつけた犯人はホセだ。顔から血の気を失った俺とレイジを見比べて所長が嘲る。
 「今この瞬間にはっきりした。君は友人が捕まったと聞いて早急に助けに来たらしいが、それならうなじの痣の説明がつかない。昨晩レイジがひとり身悶えていた頃君はどこで何をしていた。レイジの淫らな姿態に欲情をかきたてられ一夜の慰みに気心の知れた囚人を訪ねたのではないかね?つまり君はレイジがひとり苦しんでいた頃他の囚人と情事に耽っていたのだ!!」
 「ちがっ、これは………」
 「弁解は通じない。君がレイジ以外の男と体を通じたのは事実、でなければ何故うなじに痣ができる?レイジを助けに来たのもポーズに違いない。レイジを裏切り他の囚人と寝た罪の意識を相殺せんと食堂で椅子を振り回す極端な行動にでた、違うか」
 「でたらめだ!」
 心臓が爆発しそうに高鳴る。どうしてこんなことになった?ホセへの呪詛と所長への罵倒が脳裏に渦巻く。所長は満足げに笑ってる。醜態さらす俺のうなじに指を添えて痣をさすり、レイジを振り返る。
 「ははっ、無様だなレイジ!ハルのペニスを咥えてまで守ろうとした友人に手酷く裏切られた気持ちはどうだ。うなじに淫らな痣まで作っておきながら他の囚人に抱かれた素振りなどかけらも見せず、献身の演技で自己陶酔に酔った彼をどう思うか是非とも感想を聞きたいね」
 信じるなレイジ。
 看守に押さえ込まれたまま、縋るような眼差しでレイジを仰ぐ。
 俺は他の男に抱かれてなんかいない、お前を裏切ったりなんかしてない、見捨ててなんかない!レイジは虚無に呑まれた瞳でこっちを見つめていた。前髪の奥でぼんやり見開かれた目にはあらゆる感情が窺えない。俺の首筋の痣。身の潔白を訴える俺と糾弾する所長。
 それらを順番に見比べて、漸く口を開く。
 「ロン。お前、俺を裏切ったのか?」
 抑揚のない声だった。怒りも憎しみもそこにはない、ただ事実を確認するだけの感情が欠落した声音。俺は、言葉を失った。レイジの顔にはまだ犬の精液が飛び散って意地汚くミルクを啜ったようなありさま。
 硝子めいた透明度の瞳に俺の顔が映る。
 裏切り者と決め付けられたショックに強張った顔。
 「昨日どこに行ってたんだ。誰の所にいたんだ」
 「俺を疑ってんのか?」
 情けなく声が震えた。
 詰問というにはあまりに優しい口調でレイジは言ったが、目はちっとも笑ってない。唇に微笑を上塗り、出来すぎなほど整った顔に希薄な笑みを浮かべているが、前髪に隠れた瞳だけが無表情に虚空を見据えている。怖かった。圧倒的な恐怖を感じた。レイジの目は俺を見てない、内向して自閉して自分の内側の虚無を映している。
 「違う、これは……これは勝手につけられたんだ、俺の知らない間に、俺が寝てる間に!俺は誰にも抱かれてなんかない、お前以外の男に抱かれたいとも思わない、おい聞いてんのかよ、信じろよレイジっ!!」 
 看守の手を振り落とし片膝立ち、今にも駆け出しそうに前のめりになるも、レイジは沈黙したままだ。衝動的に飛び出しかけた俺の肩に看守が手をかけ引き戻す。「連れて行け」と所長が命令、看守が二人がかりで俺を引きずっていく。レイジと距離が空く。
 嫌だ、離せ、独居房になんか行きたくねえ!
 俺は滅茶苦茶に暴れる、首を振り肩を揺すり足を蹴り上げ抵抗するも看守二人に挟まれちゃたちうちできない。レイジは微動だにせず、看守に挟まれて遠ざかる俺を見送ってる。
 レイジのそばに所長が寄り、白濁した精液に汚れたその顔に指で触れる。
 半開きの唇をなぞり、ねっとりした白濁をすくい、人さし指を口に含む。
 「何とか言えよレイジ、俺は他の男になんか抱かれてねえ、お前以外の男に抱かれたりするもんか!!なんだよその腑抜けた面は、王様の名が泣くぜ!!どうして何も言わないんだよ、そうだよなロンお前は浮気なんかしねえよなって笑い飛ばしてくれねえんだよ、俺の貞操守るために犬のペニスまで咥えた肝心のお前がどうして信じてくれないんだよっ!!?」
 口の中で指を転がしながら所長がほくそ笑み、もう片方の手でレイジの頭をなでる。レイジはされるがまま首を項垂れていた。俺の方を見ようともしない、名前を呼ぼうともしない。なんだこれ。マジかよ。何もかもすっかり説明して誤解を解こうにも俺は後ろ手に拘束されて両脇を看守に挟まれて連行される途中で、今しも扉が開かれ廊下に引きずり出されて―……
 『不可以信任!!』
 所長を信じるな!!
 眼前で扉が閉ざされ、二人が消える。
 所長室から連れ出される寸前に見た光景は、放心状態のレイジの頭を抱き、髪の毛を梳く所長の姿だった。

 あれから三日が経った。
 俺はずっと独居房の暗闇を這いずりまわってる。鼻は死んだ。糞尿と吐寫物、床一面の汚物に塗れて横たわってると時間の感覚が狂ってくる。一日二回、鉄扉下部から出し入れされるメシだけが時間を教えてくれる。食器を出し入れする時しか鉄扉は開かない。俺の餌やりはおしゃべりな曽根崎が担当してる。曽根崎は俺を手懐けようと必死だが、今んとこてんで効果がなくてしょげかえってるようだ。
 「じゃあ、明日また来るよ。何か欲しいものあったら遠慮なく言って、都合するから」
 「鼻栓が欲しい」
 「わかった」
 冗談だよ。わかれよ。
 自信満々請け負い、曽根崎が食器を回収する。ワゴンの車輪がごろごろと床を転がる。独居房に入れられて三日、初めて俺が頼ってくれたんで上機嫌、鼻歌まじりに去っていく曽根崎の足音が廊下の奥に消えるのを待ち、毒づく。
 「俺までお稚児さんにする気かよ、ぺド野郎」  
 激しく咳をする。喉が痛い。まだ風邪が治らない。当たり前だ、こんな最悪の環境じゃ治るもんも治らない。独居房は汚物溜めだ。いつここから出られるかはっきりとは知らされてない。所長の額を写真立ての角で殴打したのだ、最低一週間は入れられっぱなしだろう。ひょっとしたら一生出られないかもしれない、と弱気になる。
 物思いを打ち破ったのは、乱暴に壁を蹴り付ける音。
 「やけに大人しいじゃんか、半々」 
 分厚いコンクリ壁で隔てられた隣の房から声がする。野太い濁声で吠えたのは、俺と同じ日に独居房に放り込まれて以来日の光を浴びてない凱だ。初日に一回房を出されてシャワー浴びてる俺はまだマシだが、あれ以来一回も外に出てない凱は頭のてっぺんからつま先まで糞まみれ、ひどい状態になってるだろうなと想像する。
 「あたりまえだ。三日間も独居房くらいこんでみろ、くそったれた人生について哲学的に考えたくもなるってもんさ」
 境の壁に身を摺り寄せ、喉の奥から声を搾り出す。
 実際凱は元気だ。三日経っても弱った素振りなんざ微塵も見せない。たとえ虚勢でも俺に発破かけられるんだから大したもの。認めたくはないが東棟最大の中国系派閥、血気さかんな三百人を締め上げるボスは肝の据わり方が違うなと感心する。
 「お前はどうだ、凱。そろそろ反省したくなったか?看守の足元に土下座して涙ながらに訴えたら出してくれるかもしれねえぜ。『後生だから後生だから』って手え合わせて哀願したらどうだ、もともと巻き込まれただけなんだし」
 「おい、今なんっつた半々?」
 凱が気色ばむ。
 「誰が『巻き込まれた』ってんだ?ふざけたことぬかしてっと青竜刀で脳天から股間まで真っ二つにするぞ。いいか、ありゃあ俺が好きでやったんだ。お前に巻き込まれたなんてとんでもねえ、ただ俺が気に入らなかっただけだ。調子づいた子分に拳骨くれんのがカシラの役目だ、実力じゃレイジにかなわねえくせに本人いないところで威勢よく吠えやがる連中が大っ嫌いなんだよ俺は!!」
 「レイジがいてもいなくても吠えてるもんな、お前」
 壁の向こうで凱が鼻白む気配。やり、一本取った。
 三日間独居房に閉じ込められても狂わずにいられるのは、隣合った房の凱とビバリーがさかんに話しかけてくるからだ。鼻が麻痺した闇の底、金属の輪に擦れた手首がじくじく膿みだしても辛うじて正気を保っていられるのはビバリーと凱が話し相手になってくれるおかげだ。
 俺ひとりだったらとっくに発狂してた。
 ビバリーはともかく凱に感謝すんのは癪だが、コイツもたまには役に立つ。
 「ロンさん、生きてます?」 
 反対側の壁向こうから死にぞこないの声がとどく。ビバリーだ。
 「何とか。お前は……死んでねーなら生きてるか」
 「僕もう駄目っス。僕のまわりで祝福のラッパ吹き鳴らす天使の幻覚が見えるんス。ああ、翼の生えたスザンナが迎えに……」
 「正気かよ?あとちょっとの辛抱だから頑張れ」
 壁を蹴ってビバリーを励ます。
 俺ら三人の中でいちばん重症なのは事によるとビバリーかもしれない、幻覚が見え出したら人間終わりだ。
 「リョウさん、僕がついてなくて大丈夫でしょうか。ちゃんとご飯食べてるでしょうか。ご飯に覚せい剤ふりかけてないでしょうか」
 「お前、こんなになってもまだアイツのこと心配してんのかよ。お人よしが過ぎるぞ」
 「ロンさんにだけは言われたくないッス」
 凱が爆笑する。うるせえ。
 まあ、ビバリーが独居房に入れられたのも元はと言えば俺のせいだ。俺のとばっちりで独居房入りくらったんだから二・三日もたちゃ出されるだろうと楽観してるが、それまで正気がもつかどうか疑わしい。
 「ビバリー、気をしっかりもて。お前の頭がパーになったら誰がリョウの介護してやるんだ?スザンナの弔いだってちゃんとしてやらなきゃ化けて出るぞ。心霊現象で裸電球が点いたり消えたり砕け散ったりでおちおち寝てられなくなるぞ」
 「ロンさん僕はもう駄目っス、あと頼みます……」
 「遺言は聞かねえぞ。お前が独居房で死んだら巻き込んだ俺のせいだ、意地でも生き残れ」
 壁越しにビバリーを励ます俺のもとへ規則的な靴音が近付いてくる。誰だ?曽根崎か?さっき来たばかりなのにとうんざりする。鉄扉の前で靴音が止む。金属の鍵が触れ合う音に続いてノブが回り、房の暗闇に光が射しこむ。  
 「ロン、出ろ。年季明けだ」
 「はあ!?」
 喜びより驚きが先に立った。
 鉄扉を開けた看守が鼻に皺を寄せ、俺の肘を掴んで無理矢理引きずり出す。突然の展開に頭が追いつかない。左右の房を交互に見比べてみるがビバリーと凱が出された形跡はない。
 なんで俺だけ?乱闘騒ぎの主犯は俺なのに。
 看守に肘を掴まれて立たされた俺は、釈然としない面持ちで食ってかかる。
 「ちょっと待てよ、なんで俺だけ釈放なんだ?ビバリーと凱は、」
 「こいつらについては何も聞いてない。まだ当分は独居房だ」
 「おかしいだろそんなの!!」 
 勿論釈放されたのは嬉しい、嬉しくないわけがない。このままあそこにいたら頭がおかしくなってた。でも、納得できない。乱闘騒ぎの主犯の俺が真っ先に釈放されて、俺のとばっちりくらっただけのビバリーと凱が独居房に居残りなんて理不尽な仕打ち納得できるわけがねえ。
 「俺を出すんなら二人も出せよ、凱はともかくビバリーはとばっちりくらっただけ、本当ならもっと早く出れるはずだったんだ!ビバリーは俺を助けようとして乱闘に加わったんだ、ただ二階の手すりからダイブしただけだ、俺みたいに椅子ぶん回して囚人の頭かち割ったわけでもねえのに……」
 「ロンさん、お元気で」
 「え?」
 悟りきった声に向き直る。
 「僕のことなら気にしないでくださいっス。僕だって凱さんと同じっス。ロンさんに命令されたわけじゃない、誰に言われたわけでもない、僕自身がピンチのロンさん放っておけなくて紐なしバンジーやったんスから……ロンさんが負い目感じる必要なんかこれっぽっちもないっス。さあ、大手振ってレイジさんとこに帰ってください」
 「ビバリーの言う通りだ、半々。てめえに心配されるなんざ胸糞悪い、とっとと行っちまえ。壁一枚隔てて同じ肥溜めに顔突っ込んでた半々とお別れできてせいせいすらあ」
 「凱……、」
 壁に穿たれた鉄扉の向こう、置き去りにされる二人の行く末を考えてやりきれなさが胸を締め付ける。躊躇する俺の肘を掴み、看守が大股に歩き出す。
 看守に引きずられるがままふらつく足取りで歩き、手錠を外されてシャワー室に放り込まれる。
 シャワーを浴びて人心地つき、看守の背に従って廊下を歩く。
 「なあ、なんで俺だけ先に出されたんだ。所長はなに企んでんだ」
 「恩知らずなガキだな。素直に喜べよ」
 引率役の看守がせせら笑うが、不安感は拭えない。一歩足を踏み出すごとに嫌な予感が現実に変わりゆく確信。所長の額に写真立ての角を突き刺して怪我負わせた俺がこんなに早く釈放されるなんて絶対おかしい、裏で何か企んでるに決まってる。
 いや、それだけじゃない。
 俺の足を鈍らせるのは所長への疑惑だけじゃない。俺の足を鈍らせる最大の原因は……
 『俺を裏切ったのか、ロン』
 『昨日どこに行ってたんだ。誰のところにいたんだ』
 「…………っ!」
 強く唇を噛む。体の脇で握りこぶしを作る。
 三日前、レイジは言った。俺のうなじに咲いた薄紅の痣を見て、裏切られたと誤解した。釈明する時間さえ貰えなかった。これはホセにつけられた痣だ、俺自身あの時初めて気付いたんだと弁解する暇もなく所長室から引きずり出された俺の目に焼き付いたのは、レイジの空白の表情。
 レイジと会うのが怖い。
 どんな顔してアイツに会えばいいかわからねえ。
 次第に房が近付いてくる。俺とレイジに割り当てられた房。
 洗いたての上着の胸を掴み、高鳴る心臓をどやしつける。
 レイジは俺が他の男に抱かれたと誤解した。俺の浮気を疑ってる。
 キレたら手がつけられない暴君と化すレイジにどうやって真実を訴えればいい?いや、そもそも俺がホセの房に泊まったのは事実、ぐっすり熟睡してる間に上着を脱がされてあちこちさわられたのは事実なのだ。馬鹿正直に真相をバラしたところでレイジを逆上させる結果になりかねない。
 廊下の先に鉄扉が見えてくる。あの中にレイジがいる。
 不意に音痴な鼻歌が流れてくる。お決まりのストレンジ・フルーツ。
 久しぶりに耳にするレイジの歌声に胸が騒ぐ。靴裏が廊下に貼り付く。看守はどんどん先に行く。棒立ちになった俺がちゃんとついてきてるか確認もせず、前だけ見てずんずん突き進む。仕方なく歩行を再開、看守の背中に追いつく。
 鉄扉の前で看守が立ち止まり、ノブに手をかける。
 「レイジ、いるか。相棒のご帰還だ。せいぜい祝ってやれ」
 唐突に鼻歌が途切れる。
 看守がノブを捻り、耳障りに軋みながら鉄扉が開く。天井の真ん中に吊られた裸電球の光が一条漏れて足元を照らす。
 呆然と看守の背後に立ち竦む。どうしても一歩を踏み出す決心がつかなかった。いつまでも廊下でぐずぐずしてる俺をあやしむように看守が振り返り、腕を掴んで引っ張り込む。
 「たった三日離れてただけでよそよそしい態度とるなよ、王様の飼い猫が。それとも何か、恩知らずな猫はたった三日で飼い主の顔忘れちまったか」
 「黙れよ。用が済んだらとっとと出てけ」
 看守が肩を竦めて廊下に出る。物々しく鉄扉が閉じ、残響が大気を震わす。房に取り残された俺は緊張の面持ちで生唾を嚥下、じっとり湿った手のひらをズボンになすりつけ汗を拭い、深呼吸で顔を上げる。いた。レイジがいた。ベッドの端に腰掛けて聖書を読んでいた。
 申し分なく長い足を優雅に組み、退屈そうな顔でぱらぱらページをめくってる。
 俺が入ってきたことには当然気付いてるはずなのに、こっちを見ようともしない。
 「レイ、」
 「おかえり、ロン」
 語尾を遮るようにレイジが口を開き、ぱたんと聖書を閉じて顔を上げる。ぞっとした。レイジはこの上なく穏やかな笑みを浮かべているが、レイジの笑顔を見慣れた俺は「これは偽物だ」と直感する。不安定かつ不均衡な笑顔。口元は笑っていても目は全然笑ってない、顔の上と下で温度差が凄まじい笑顔。膝から聖書をどけたレイジがこっちに来るようぞんざいに顎をしゃくる。
 三日ぶりに会ったんだ。いつものレイジなら俺にとびついて髪をぐしゃぐしゃにかき回すはずなのに、ベッドから立とうともしない。わざわざベッドから腰を上げる価値もないというように、指一本動かす労力すら惜しむようにベッドの王座に腰掛けている。
 「三日も独居房入り食らったわりにゃ元気そうだな。さっすがスラム育ちの野良猫はしぶとい」
 口の端を皮肉げに吊り上げるレイジに気圧されながらも、のろのろ足を進めて前に出る。
 「俺にさわってもらえなくて三日間寂しかった?」
 「……冗談。お前に寝込み襲われずにすんでホッとしてた」
 レイジの目がスッと細まり、獰猛な眼光を放つ。やっぱり変だ。今日のレイジは様子はおかしい。なんだって俺はレイジに尋問されてるんだ、何もやましいことなんかねえのに……だんだん腹が立ってきた。レイジはまさか俺が他の男に抱かれたと本気で疑ってんのか?所長の言う通りレイジを裏切ったと?
 「この際だからちゃんと言っとくけどレイジ、三日前のあれは」
 続く言葉は、レイジに腕を引かれて遮られた。突然ベッドから腰を浮かしたレイジが俺の腕を掴み自分の方へと引き寄せる。背中に衝撃、スプリングが軋む音。ベッドに投げ出された俺の上にレイジがのしかかり、囁く。
 「三日間会えなくて寂しかったよ」
 前髪がぱらりと落ちかかり、硝子めいて透明な瞳が現れる。
 「だから、お前と俺とお揃いにしようと思うんだ。三日間離れててもお前が俺のこと忘れたりしねえように、他の男に抱かれる時もお前は俺の物だって思い知らせてやろうって」
 喉から間抜けな呼吸が漏れる。俺をベッドに組み敷いたレイジがじゃれるようにキスをする。額に、頬に、首筋に。唇だけを避けて。
 俺の額に手をやり前髪をかきあげたレイジが、もう片方の手でズボンのポケットから何かを取り出す。レイジの指先で光る物に目を凝らす。裸電球の光に濡れて鋭利に輝くそれは……切っ先が尖った安全ピン。
 反射的に思い出す。
 いつだったかボイラー室に引きずりこまれて、タジマに耳朶を破かれそうになった時のことを。
 「俺に黙って浮気したいけない子にお仕置きだ」
 裸電球の光を弾く安全ピンを眉間に翳し、耳朶の柔らかさを指に馴染ませるように揉み解しながらレイジが微笑む。
 その瞬間、俺は理解した。
 今俺の目の前にいるのは気さくな王様じゃない、嫉妬に狂った暴君だと。
【少年プリズン】
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八話

(2005/05/26)
 展望台で異常事態が発生した。
 「サムライが立ち稽古だとよ」
 「へえ、珍しい。目立つの嫌いなサムライが表で立ち稽古なんざどういう風の吹き回しだ」
 「相手は誰だ」
 「こないだ来たシズルとかいう名前の新入り」
 「あの女男か。なんでもサムライの従弟だって噂じゃねえか」
 「従兄弟!?似ってねー」
 読書を中断された腹立たしさも相俟って神経がささくれだち、ベッドから鉄扉まで大股に歩く。
 勢い良く鉄扉を開け放ち、「廊下を走るな」と注意しようとして意外な人物の名に立ち竦む。十数人から成る囚人の集団が興奮に浮き足立って展望台の方角へと駆けて行くのを見届け、感傷のため息を吐く。
 立ち稽古、か。相変わらず仲がいいことだな。
 しかし僕には関係ない、サムライは僕にとって過去の人間だ。
 房に引っ込んで読書を再開するもページをめくる手に動揺がでる。サムライの事を意識から閉め出そうと試みるもうまくいかない、僕がこうして読書してる間もサムライは静流と一緒にいる、展望台で立ち稽古をしているのだ。だからどうした?放っておけばいいじゃないか。
 三日前、僕はサムライにはっきりと別れを告げられた。
 サムライは僕の元から立ち去った。僕はサムライに捨てられた。かつて僕の友人だったサムライはもうこの世に存在しないのだ、と繰り返し自分に言い聞かせるも視線が文字を上滑りするもどかしい感覚に辟易、荒々しく本を閉じて腰を上げる。
 発作的に僕は走り出した。
 鉄扉を開け放ち、廊下にとびだす。最初は小走りに、廊下の途中からは肘振りの全