ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「ロンが犯されるか自分が犯されるか、今ここで選びたまえ」
 兄弟揃って狂ってやがる。 
 自分が助かりたければ俺を見殺しにするしかない、俺を助けたければ自分が犠牲になるしかない。
レイジの顔が凍りつき、見開かれた目から感情が消失。レイジの前髪を纏めて掴んだ所長の顔には邪悪な喜び滴る笑み。
 俺を庇って自分が犯されるか、俺を見殺しにして自分が助かるか激しい葛藤に苛まれ苦悩に閉ざされたレイジの顔を至近距離で観察し嗜虐心を疼かせている。
 前髪を毟られる激痛にも増してレイジの顔を歪ませる過去の記憶、思い出すのもおぞましい出来事の記憶。
 現実にあった悪夢。ほんのガキの頃、レイジは組織から逃亡を企てた。母親と二人生きる道を探して無謀にも外へと飛び出した。
 ガキの浅知恵と笑いたきゃ笑えばいい、レイジはその頃必死だったのだ。
 ただ母親と二人平和に暮らしたくて、ささやかな幸せが欲しくて、「普通」の生活に憧れて、自分たち親子を束縛する組織の監視の目が届かない場所へ逃げようとした。レイジは必死だった。ガキの浅知恵と言っちまえばそれだまでだけど、ガキの頭で一生懸命に考えて、マリアの幸せを何より一番に祈って命がけの脱走計画を実行に移した。
 でも、それが裏目に出た。レイジの脱走は失敗した。
 レイジはお袋と二人とっ捕まった。
 そして罰を受けた、二度と組織を裏切ろうなんて気を起こさないように。レイジはかつて今と同じ状況で同じ選択を迫られた、眼前で母親を犯されるか自分が犯されるか選べと数人がかりで取り押さえられ強要された。
 レイジは信心深いフィリピン娘のマリアが兵士に強姦されて出来た子供、もとより祝福されない子供だった。
 マリアはレイジを虐待した。
 自分と似ても似つかぬ髪と瞳の子供を見るたび犯された時の恐怖がよみがえった。殴った、蹴った、髪を毟った、引っ掻いた、首を絞めた。俺がお袋から受けてきた虐待よりもっと凄まじい、もっと酷い、惨たらしい虐待。だけどレイジはマリアを愛し続けた、殴られても蹴られても髪を毟られてもぼろぼろになっても献身的にマリアを愛し尽くし続けた。
 レイジにはマリアしかいなかった。
 だからレイジは、自分が犯されるのを選んだ。
 マリアを見殺しにするくらいなら凶暴な男たちに犯されたほうがマシだと現実を受け容れた。マリアを見捨てて自分だけ生き延びても意味がない、マリアと一緒に幸福になれなければ意味がないのだ。レイジは多分、マリアに過去の悪夢を追体験させたくなかったのだ。
 今また男たちに犯されればマリアは自分を孕んだときの記憶を喚起せざるえない、村を焼かれ家族を殺され兵士たちに輪姦されたおぞましい出来事を反芻せざるえない。
 誰よりマリアを愛していたレイジが母親が再び犯される運命を許容するはずない、全力をもって拒否したはず。苦渋の決断。
 どれほど辛い選択だったか、心中は計り知れない。
 しかし、レイジの心は粉々に打ち砕かれた。
 レイジがどちらを選んでも組織の人間はその反対に行動する予定だったのだ。マリアはレイジの眼前で男たちに犯された。レイジは何もできず、母親が男たちに犯される現場を見ているしかなかった。
 無力感、敗北感、罪悪感……絶望。心臓を食い破り荒れ狂う激情。
 自分が選択を誤ったせいで最愛の人間が犯された、自分のせいでマリアが酷い目に遭わされた。
 レイジは今でも当時の出来事を覚えている。忘れられるわけがない。今でも夢に見るに決まってる、悪夢にうなされるに決まってる。
 言わなくてもわかる。
 十字架を撫でる手は許しを乞う手。レイジは今も十字架に触れ、かつて守れなかったマリアに謝罪し続けているのだ。
 愚直なまでに純粋に、哀切なまでに真摯に。
 但馬は、同じ選択をレイジに強いた。俺が犯されるか自分が犯されるか選べとレイジに要求した。
 許せねえ。
 「………くそったれが……」
 腹の底で汚泥が煮立つ。視界が真紅に染まるほどの憤怒。体の裏表を這いまわる手の不快さよりもうなじを湿らす吐息の熱さよりも俺を激昂させたのは、優越感に浸りきった所長のにやけ顔。
 殺意が沸騰する。怒りで体が震える。
 一体コイツはどれだけレイジを傷つければ気がすむ、トラウマを抉れば気がすむんだ?レイジはもう十分傷付いたってのに十分すぎるほど自分を責めてるってのにコイツはこのクソ野郎はまだレイジを苦しめる気でいやがる、まだまだまだまだまだ俺のレイジを苦しめる気でいやがる!!
 許せない絶対に。
 感情が爆発した。
 「タジマの兄貴の変態野郎今すぐレイジから離れろそのツラ犬の小便で洗って目え覚ませ、寝言ほざくのもいい加減にしやがれてめえ、なんだよそのイカレた選択はよ!?俺が犯されるかレイジが犯されるかどっちかしかねえなんて最悪だ、どっち選んだって待ち受けるのは地獄じゃねえか、俺はごめんだ、レイジが犯されるとこ指くわえて見るのなんざ冗談じゃねえ!いつまでレイジにさわってんだよ狂犬家、レイジの髪一本だってお前にさわる権利なんざねんだよ、髪の先から小指の爪に至るまでレイジの体は全部全部俺の物なんだよ!!」
 喉から絶叫が迸る。
 看守二人がかりで押さえ込まれたまま死に物狂いに身をよじり喉膨らませ怒鳴り散らす、レイジをこの手に取り返そうと滅茶苦茶に暴れて咆哮する。
 椅子に縛り付けられ床に倒れたレイジは、壊れた人形じみた動作で顔を上げ、凍り付いた瞳で俺の狂乱を見つめていた。硝子のように脆く硬質な瞳に激情の余波が走る。
 瞳が、砕け散ってしまいそうだ。俺はこんな悲痛な表情を見たことがない。レイジの顔は、一瞬で時間が逆行した錯覚を抱かせた。瞬き一回の内に時間が逆戻りして子供に戻っちまったような感じ。
 マリアが犯された時もきっと同じ表情をしてたんだろう、捨てられた子供みたいに孤独が焼き付いた表情。
 レイジにこんな顔、させたくなかった。
 こんな顔、見たくなかった。
 「レイジ、真に受けるんじゃねえ!どうせどっち選んだってコイツが約束守るはずねーんだ、どっち選んだって最悪のことが起きるに決まってるんだ!お前が全部背負いこむことねえよ、変態の戯言に付き合ってお前が苦しむ意味なんかどこにもねっ……あっ、ひ!!」
 勢い良く喉が仰け反り、語尾が跳ね上がる。
 俺の背中にぴたり汗ばんだ腹を密着させた看守が、唾液に濡れた指を肛門に入れてきた。くちゃり、と淫猥な音がした。肛門の窄まりを探り当てた指が直腸の襞を掻き分け奥へと忍び込み、気色悪さに肌が粟立つ。
 「敏感な体。男に飢えてる」
 「こっちも敏感だぜ。ちっちぇえ癖してびんびんに勃ってやがる」
 俺の股間をまさぐってたもう一人の看守が嘲弄する。俺のペニスは勃起していた。しつこく扱かれて先端に汁を滲ませていた。ケツの穴に潜り込んだ指が卑猥に蠢く、ペニスを握った手が上下する。前から後ろから同時に責め立てられて知らず腰が跳ね、声が漏れる。
 こんな姿レイジに見せるくらいなら舌噛み切って死んだほうがマシだ。
 恥辱で顔が火照り、快感で息が上がり始める。
 涙の膜が張った視界にレイジが映る。
 「やめろよ」 
 低い声でレイジが言う。祈るような縋るような調子の声。
 「ロンに、さわるな。ロンは関係ねえ、俺がやったことにこれっぽっちも関係ねえ、ロンはただ偶然俺と同房になっただけで俺がフィリピンでやったことなんか何も何も知らねえ、俺が殺した連中のことも俺が持ち逃げした物のことも何も知らないんだよこいつは、だからこいつ犯したって意味ないんだ、神様に、いや、マリアに誓って真実を話してるんだよ俺は!!」
 椅子ごと床に横倒しになったレイジの顔筋が痙攣、泣き笑いに似て表情が崩壊する。眼帯がずれ、片目の傷跡が外気に晒される。
 背凭れに回された手を擦り合わせ手錠を外そうと試みて、それが駄目なら椅子ごと移動しようとしきりに身をよじる。椅子ががたがた鳴る。少しでも俺に近付こうと必死に身をよじり続けるレイジを見下ろし、所長は憫笑する。
 「ロンは、そいつは俺のやったこととは何も関係ないんだ!俺とは何も関係ない赤の他人、たまたま監獄で一緒の房になっただけのうざったいガキで実際うんざりしてたんだ、喧嘩弱っちくせに口ばっか達者でマジむかついてたんだ!ああいい気味だ、せいせいするよ!そうやってめそめそ泣きべそかいてろよ子猫ちゃん、おうちでママのおっぱい吸ってるのがネンネにゃお似合いだ、今だから言うけどお前のことなんか大っ嫌いだ、虫唾が走んだよお前のツラ見ると、くたばっちまえよ甘ったれのマザーファッカー!!」 
 レイジが狂気渦巻く笑顔を湛えて俺に罵詈雑言を浴びせる。
 椅子をガタガタ鳴らして俺を罵倒しながらレイジが吐き捨てる。
 「上等だ、選んでやるよお望みどおりに!お前を庇って犯されるなんざお断りだ、そこまで面倒見切れねえよ、犯すんならロンを犯せよ!!」
 
 レイジが。
 俺を、裏切った?

 「…………!っ、」
 衝撃で言葉が出てこない。床に椅子ごと横倒しになったレイジは隻眼を爛々と光らせ俺を見つめている、口元には開き直った笑みが浮かんでいる。邪悪な顔。
 レイジは選択した。俺を見殺しにして自分が助かる道を選んだ。
 そんなまさか。レイジが俺を裏切るはずない。俺の為にペア戦に挑んでサーシャに片目を切り裂かれて、それでも戦い続けたレイジが俺を裏切るわけがない。
 衝撃に心が麻痺したまま、看守に二人して体の裏と表をまさぐられていた俺は、床に倒れ伏せたレイジの目に思い詰めた色が宿っているのに気付く。俺を裏切り保身を選んだはずなのに、俺を見殺しに自分だけ助かる道を選び取ったはずなのに、俺の分まで苦痛を抱え込む覚悟を決めたかのように……
 そして、気付いてしまった。
 「お前、わざと」
 レイジは俺を見殺しに自分だけ助かる道を選んだんじゃない、その反対だ。 
 床に倒れ伏せたレイジの表情が安堵に緩み、粉々に砕かれたプライドをかき集め、再び不敵な笑みを作る。俺が見慣れた無敵の笑顔。その瞬間、わかってしまった。レイジはどこまでも一途に俺を守ろうとしてる。かつてレイジは選択を誤った、組織の人間の邪悪な思惑を見抜けず間違った選択をしてマリアを汚された。
 だからレイジは。
 レイジは、
 「……お前、ばかだよ。へたな嘘つきやがって」
 邪悪な人間の裏の裏をかき、自ら憎まれ役を買って出た優しさが身にしみる。
 同じ間違いは犯さない。過ちは二度とくりかえさない。
 レイジはきっと、看守二人に押さえ込まれて裸に剥かれた俺の姿を母親と重ねて見ているのだ。
 「お前なんか大嫌いだ、ロン。犯られちまえ」
 きっかりと俺の目を見据えて嘘を塗り重ねるレイジ。俺は、唇を噛む。
 レイジの「大嫌い」が、俺には「愛してる」と聞こえる。
 「それが君の選択か?」
 冷酷な声音が割って入る。レイジの傍らに片膝付いた所長が興味深げな表情を覗かせる。縁無し眼鏡の奥、酷薄な双眸が瞬く。床に突っ伏したレイジと看守に押さえ込まれた俺とを等分に見比べ、思案げに唇をなぞる。
 「ならばよろしい、望み通りにしてやろう」
 「!!痛っ、あっあ」
 ぐい、と強引に膝を押し開かれ肛門が外気に晒される。恥ずかしい体勢をとらされた俺の背中にズボンの股間を寛げた看守がのしかかる。濡れた音をたて肛門から指が引き抜かれ、熱い塊をおしあてられる。
 赤黒く勃起した、醜悪な性器。
 欲情に息を荒げた看守が俺の腰を掴んで尻を上げさせる。どくどく脈打つ肉の塊が尻の狭間の窄まりに触れ、肛門が裂ける激痛を予期し、体が強張る。
 視界の端、床に倒れたレイジの目が極限まで見開かれる。
 わかってる。わかってる。お前が自分を責める必要なんかこれっぽっちもない。お前は最後まで必死に俺を守ろうとしてくれた、庇おうとしてくれた。それだけで十分だ。ガキの頃、お前はマリアを助けようとして献身を逆手にとられた。だから今度は「逆」を選んだ。わざと露悪的に振る舞って、俺を裏切ったふりをして、俺を助けようとした。
 わかってるから、安心しろ。お前を憎んだりしないから。
 だから、そんな顔しないでくれ。
 「違う」
 薄目を開けて視線を彷徨わす。視界の端、レイジが呆然と呟く。
 「なんでだ。なんで違うんだ。『あの時』は選択を間違えた、俺が逆を選べばマリアは犯されずにすんだんだ、傷付かずにすんだんだ。あの時と同じ状況で違う選択をして、なんで同じ結果になるんだよ?こんなのってなしだぜ、神様。俺、あんたのことちょっとは信じてたのに。柄にもなくあんたに祈ったのに、なんでまたくりかえすんだよ」
 詰問というにはあまりに静かな口調。祈っても祈っても願いを叶えられず絶望したレイジの胸では、傷だらけの十字架が輝いてる。
 首を項垂れたレイジの顔に前髪が被さり、表情を覆い隠す。両手が自由なら十字架を握りしめ折り砕いていたかもしれない。だがしかし、レイジの両手は椅子の背凭れに戒められて十字架に縋ることすらできない。
 いいんだ、レイジ。
 首を項垂れたレイジに心の中で呼びかける。もう十分だ。何もかもお前が抱え込む必要なんてない。現実は思い通りにいかない。お前がどんなに足掻いたって頑張ったってどうにもならないことはあるんだ。瞼を閉じ、暗闇に自我を没する。うなじで弾ける熱い吐息、裸の背中をさする手……せめて声をあげないよう唇を噛み締めて衝撃に備える俺の耳を、絶叫が貫く。
 
 「なんでそんなに俺を嫌うんだよ、神様!!」

 レイジの叫び。
 「くそったれくそったれイエス・キリストのくそったれ、たった一度、たった一度くらい俺を救ってくれたっていいじゃねえか、この先一生報われなくたって構わねえから今この瞬間だけ慈悲垂れてくれたっていいじゃんか!俺はもうとっくにあんたに期待するのやめたあんたに縋るのをやめたんだ、でもそれでも最後にもう一度だけ信じさせてほしかったのに、俺の大事な奴を助けてほしかったのに……」
 レイジが叫ぶ、血を吐くように。 
 『I hate you、I leave you、I kill you、I rage you!!!!』
 全身全霊で神への呪詛を放つ。
 現実は、いつだって救いがない。そんなこととっくにわかりきっていた。俺は今この瞬間も何もできずただ犯られるのを待つだけ、椅子に縛り付けられたレイジもまた俺に手を伸ばすことすらできない。
 「友人を助けたいか」
 絨毯に片膝付いた所長が耳朶で囁く。叫び疲れてぐったりしたレイジは、それでも一縷の希望に縋るように首肯する。所長が我が意を得たりとほくそ笑み、椅子の背後に回る。手錠の鎖が擦れ合う金属音に続き、レイジが椅子から転落。唐突な心変わりに驚愕した俺の眼前、椅子から分離されても相変わらず手錠はかけられたまま、両手の自由を封じられ両膝を屈したレイジに所長が顎をしゃくる。
 「ならば相応の誠意を示してもらおう」
 所長の足元にはハルがいる。イヌ科の特徴の異様に長い舌を出してはっはっと息を吐いている。
 ハルの頭を撫でながらレイジを見下ろした所長が、人間味の欠落した笑みをちらつかせる。

 「ハルのペニスをしゃぶれ」

 ………に、を言ってるんだ」
 問いかけたのは俺。冗談かと思ったが、所長の目は真剣だった。俺を押さえ付けた看守もさすがに息を呑み事の成り行きを見守っている。ハルのペニスをしゃぶれ?犬に、フェラチオしろってのか。俺が見てる前で犬に奉仕させようってのか、レイジに。衝撃に麻痺した頭に現実が浸透するにつれ、猛烈な吐き気が込み上げる。
 「やめろ、レイジ。そいつの言うことなんか聞くな、お前が、王様が、犬畜生のペニスなんかしゃぶる姿東棟の囚人どもが見たらどう思うよ?やめろよ、なあ。お願いだから、………」
 喉が異常に渇く。何度も唾を嚥下し途切れに途切れに訴えるが、レイジは反応しない。絨毯に膝を屈したまま、凄まじい葛藤を宿した目でハルを見つめている。所長に顎をしゃくられたハルが虚空に脚を掲げて絨毯に転がる。
 仰向けに寝転がり、無防備に腹を見せたハルへと膝でにじり寄るレイジ。
 褐色の喉仏が動き、前髪の隙間から覗いた隻眼が思い詰めた光を宿す。 
 「………コイツのペニスをしゃぶれば、ロンを放してくれるんだな。口だけでイかせりゃいいんだな」
 やめろ。
 やめてくれ。
 やめろやめてくれそこまですることない犬のチンコなんかしゃぶることないプライド捨てることない俺の為にそこまですることない王様、やめてくれレイジ!!お前のそんな姿見たくない俺は見たくないお前が犬のチンコしゃぶるとこなんか見たくない、頼む誰か、誰でもいいからやめさせてくれ鍵屋崎サムライヨンイルホセ安田、お願いだから今この瞬間レイジが所長の命令通り犬にフェラチオする前に殴りこんできてくれ!!!
 「ああああああああああっあああああああっあああっああああああっ!!!!」
 「暴れるんじゃねえ!」
 「手足押さえつけろ!!」
 誰も助けに来ない、誰もレイジを止めない。なら俺がやるしかねえ。俺は滅茶苦茶に暴れる、上着とズボンを奪い取られて素っ裸になりながら看守二人を弾き飛ばしてレイジに駆け寄ろうとするも、警棒で肩を殴られ床に這わされる。痛い。激痛に涙が滲む。意味不明な奇声を撒き散らし、床を蹴って身悶える俺を二人がかりで床に固定した看守の視線の先、レイジがゆっくりと頭を垂れて犬の股間に顔を埋めー…… 
 レイジが、犬のペニスを口に含む。
 「……はっ、あ……」
 両手が使えない為に、こまめに顎の角度を変えて犬に奉仕する。犬の股間に顔を被せ、尖ったペニスに舌を絡める。唾液を捏ねる音が淫猥に響く。所長は笑っていた。嗤っていた。絨毯に寝転がったハルの股間に上体を突っ伏し、尖ったペニスを唇で食み、丁寧に舌を這わせるレイジを見下ろしてご満悦だった。
 レイジは苦痛を堪えるような表情で徐徐に膨張しだした犬のペニスを舐め続ける。
 「ふっ、う………でかすぎて口に入んねえっつの……」
 犬のペニスが急激に体積を増し、口腔を圧迫する。首を伸び縮みさせ、顔を傾げ、発情した軟体動物めいた舌でペニスの筋を舐め上げる。倒錯的な光景。顔に被さった前髪の隙間から時折覗く目は朦朧と濁っている。口に入りきらない大きさに膨張したペニスに飢えたようにしゃぶりつき、上から下へ、下から上へと舌を這わせて唾液を塗りこんでいく。
 口の端から垂れた唾液が首筋を滴り、シャツに染み込む。
 ハルの息が加速度的に荒くなる。
 「っ、は、は、はぁ……はは、両手使えねえと不便だな。手が使えたらもっと早くイかせられるのに、口だけだと難易度高いぜ」
 「レイジ、やめてくれ」
 こんなレイジ見たくねえ。俺の心の叫びを無視、レイジは一方的な奉仕を続ける。俺に背中を向けてハルを気持ちよくさせるのに集中する。後ろ手に手錠かけられ、床に両膝付いた獣の体勢から犬の股間に顔を埋めてぺちゃぺちゃと濡れた音をたてる。
 首筋から流れ落ちた金鎖が鈍くきらめき、虚空にぶらさがった十字架が不安定に揺れる。
 長く優雅な睫毛を伏せ、時折挑発的な角度で顎を傾け、引き締まった首筋と鎖骨を晒す。
 ハルの息遣いと腰の動きが速くなる。
 ペニスに舌を絡めて唇で刺激するくりかえしに顎が疲れてきたらしく、弱々しくレイジが首を振る。それでもまだやめない。
 ハルの腰の運動が速くなり、レイジの口に含まれたペニスがさらに膨張―――

 絶頂が訪れた。

 「!!かはっ、」
 射精する寸前、口からペニスを抜いたレイジの顔面にねばっこい白濁が飛び散る。先端の孔から勢い良く弧を描いて迸った精液を顔にかけられたレイジが苦しげに咳き込む。褐色の肌に扇情的なまでに映える白濁……犬の、精液。両手を戒められてるため顔に付着した白濁を拭うこともできず、放心した表情で虚空を見据えるレイジをよそに所長がハルを呼び寄せる。
 「よしよし、いい子だ。性欲処理ができてよかったな、ハルよ。何、まだ足りないのか?ははっ、ハルは欲張りだな!いいだろうハルは交尾したい盛りの三歳の成犬、フェラチオだけで満足できぬなら穴に挿入して楽しめばいい!人間だろうが犬だろうが関係ない、種族の差異などささいな問題だ、ハルが続きをしたいなら飼い主の私が止める気など毛頭ない!!」
 生理的嫌悪を禁じえず、凄まじい吐き気と戦いながら俺と看守が凝視する中、力尽きて絨毯に寝転がったレイジの背中を踏み付けて所長が深呼吸する。
  
 「いいだろう、そうまでしてロンの身代わりになりたいというなら可愛いハルの相手を務めてもらおうではないか」

 極限まで目を見開いた俺の前、床を蹴り跳躍したハルが突出した口腔から涎を撒き散らしレイジに襲いかかる。
 よく訓練された動きでレイジの背にのしかかりズボンを剥ぎ取り、凶器のように勃起したペニスを―――――

 ―「レイジいいいいいいぃいいいいいいぃいいいいいいいいいいいっっ!!!」―

 ああ。
 レイジが、犬に犯される。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050531155519 | 編集

 ビバリーがいなくなっちゃった。
 食堂での乱闘騒ぎから三日経過、首謀者のロンと凱、とばっちりくらった不幸なビバリーが独居房送りなってから三日が経った。
 僕はその場にいた。乱闘騒ぎが起きたまさにその時現場に居た。
 悲鳴と罵声が交錯する階下の惨状に何事だと手すりから顔を出せばキレたロンがおっかない顔で椅子ぶん回してたところで、小柄な体に怒気を漲らせ、突っかかってくる囚人片っ端から殴り倒すロンの変貌におしっこちびりそうだった。
 椅子を盾に武器にレイジを馬鹿にした囚人を容赦なく攻撃するロン、頭上に高々振り上げた椅子で顔面を直撃、鼻っ柱をへし折られ脳天かち割られ顔面朱に染めた囚人が死屍累々と残飯にまみれ床に倒れ伏せた惨劇の現場を二階席からぼんやり眺め、僕は「あーあ、やっちゃった」と心の中で嘆いた。
 馬鹿だなロン、そんなことしたって意味ないのに。
 大事なお友達馬鹿にされて頭に来るのもわかるけど、そんなことしたってレイジは簡単に戻ってこないのにと醒め切った気持ちでロンの大暴れを見物してたら、箸を放り捨てたビバリーが手すりに足をかける。
 「リョウさんはここにいてください、ロンさん助けに行ってきます!」
 正義の味方よろしく義憤に燃えてロン救出に向かったビバリーを僕はただ見送るしかなかった。
 ビバリーが勢い良く手すりを蹴って宙に身を躍らせた時も、決死のダイブを試みたビバリーの背中に「じゃあね」と手を振り食事を再開した。
 ところがどっこい、ご飯を口に運ぼうとしたそばから手の震えが箸に伝わってぼろぼろ零しちゃう。口に入れるご飯より零す量のが多い悲惨な状況で、スープやらご飯やら僕が食べ散らかした残骸でテーブルは汚れてる。
 哀しいかな、ビバリーの介添えがなければ一人でご飯もできない。
 なんでこんなことになっちゃったのと運命を呪ってみても遅い。少なくとも数日前まで僕はこんなじゃなかった、ここまで酷くはなかった。親鳥に餌をねだる雛みたくビバリーに「あーん」しなくても一人でご飯食べれたしテーブル汚したりもしなかった。

 原因はわかってる。これも全部静流のせい。

 ちょうど前の晩、僕の房にホセがやってきた。
 就寝時刻を過ぎて他の囚人が寝静まった頃合にいきなり。
 僕とビバリーの房を見渡し、ホセは嘆かわしげにかぶりを振った。
 『幻滅です。君にはがっかりしました、リョウくん』
 開口一番ダメ出しを食らった。僕が正常な状態ならムッとしたはずだけど、生憎その時の僕はオクスリの効果で頭がポーっとしてて、笑いが止まらないハイテンション。
 失望の面持ちでホセに見られてもてんで構わず、ベッドの上で飛び跳ねてた。実際僕の房はひどい状態だった。
 毛布は捲れてマットレスは裂かれて綿がはみだして、天井高く埃が舞い上がっていた。床にはスザンナの死骸と手足がもげたテディベア、割れ砕けた注射器が転がっていた。
 まさしく足の踏み場もなく寝る場所もない危険地帯。
 『我輩の依頼をお忘れですか?君には以前、地下探索をお願いしたはずですが……突破口の報告もなし成果もなし、様子を見にはるばる来てみれば覚せい剤の乱用が祟って本人はハイになっている。ハッピークライシスでとても話が出来る状態ではない。やれやれ、どうやら我輩は出遅れたようだ。もっと早く、手遅れになる前に訪れるべきでしたね』
 『手遅れってなにさ、失礼だね。僕こんなに幸せなのに』
 ベッドの上で飛び跳ねながら大袈裟に両手を広げてみせる。
 僕の足元にはビバリーが突っ伏してる。
 一日中僕の大はしゃぎに付き合わされて疲労困憊、ぐーすか居眠りしてるビバリーに同情の一瞥をくれ、ホセがため息を吐く。
 『一体どうしたことですか、これは。少なくともつい先日まで君はこんな風ではなかった、情報屋として頼れる存在だった。覚せい剤中毒の症状がこんなに急激に悪化するのはおかしい。何かショックな出来事もあったんですか?我輩でよければ相談にのりますが』
 『余計なお世話。ショックなことなんてなにもなにもないってはは、僕今すっごい幸せなんだ、空でも飛べそうな気分なんだ!足の裏が無重力でお空をひとっ飛びでママに会いにいけそうなの、だからジャマしないで、今お月様にタッチする練習してるんだから』
 配管剥きだしの天井に手を伸ばす。
 勿論、お星様もお月様も見えやしない。だけどその時の僕は幸せで、無重力の浮遊感に包まれて、ホセとビバリーの存在をまるっきり無視してベッドの上で飛び跳ねていた。
 ベッドを撓ませて体を弾ます僕から距離をおき、黒縁メガネを押し上げるホセ。
 『……利用価値のない駒には興味がありません。では、我輩はこれにて失礼します。お大事に』 
 冷たくよそよそしい口調で別れを告げて、無関心に身を翻す。
 ホセの背中を追うつもりはこれっぽっちもなかった。ホセも二度と振り向かなかった。
 鉄扉を閉じる間際、ホセが小声で呟くのが聞こえた。
 『本来ならばヨンイルくんが花火を打ち上げた日に訪ねる予定だったのですが、道化の馬鹿騒ぎに巻き込まれて致命的な足止めを食らいました。まったく、我輩はツイてない。あの日に君を訪ねていれば今後の予定を変えずにすんだかもしれないのに』
 後半は愚痴だった。
 僅かに後悔の念を滲ませた口調で呟き、ホセはさっさと立ち去った。僕はもう用済みだと背中で告げて。
 大事な客を逃したのに僕は全然ショックを受けてない、残念にも思わなかった。
 結局ホセが立ち去ったあとも一晩中ベッドの上で跳び続けて明け方にはぐったり体力を消耗した。さようならホセ、お元気で。僕は僕の気持ちが赴くまま生きる。辛いこと嫌なことなんて何も思い出したくない、楽しいことだけ覚えていたい。だからこないだの事も忘れた、ヨンイルが花火を打ち上げた夜に僕の身に起きたことを無かったことにした。
 辛い記憶は封印するに限る。
 クスリの力を借りて忘れ去ってしまえばいい、それが僕の基本方針。
 僕はまたクスリ漬けの生活に戻った。
 クスリの使用量は前よりもっと増えた。そりゃもう格段に。
 ビバリーは口うるさく僕に言った、「このままじゃダメ人間になっちゃいますよリョウさん!」と必死にクスリをやめさせようとした。でも、僕は聞かなかった。
 ビバリーうざったい。
 ロンに壊された注射器の他にも当然というか勿論、予備の注射器を隠し持ってた僕は懲りずに堂々とクスリを打ちつづけた。ビバリーの前だろうが関係ない。僕がクスリを打つのを止める権利はビバリーにない。
 ビバリーは注射器取り上げようと必死に僕に掴みかかった挙句、顔面引っ掻かれ生傷だらけになった。
 『リョウさんクスリやめてください、やめるの無理ならせめて量減らしてください!リョウさん最近おかしいっス、こんなんじゃいつか頭がパーになっちゃいます!今はまだ時々素面に戻れるけどじきにあっちに行ったまま戻ってこれなくなる、僕の声も届かなくなる、嫌っスよそんなの、スザンナ失った挙句にリョウさん失うのご免被るっス!』
 『まったくどこまでお人よしなのさビバリーってば、スザンナ殺害したの僕だよ、僕がスザンナ殺したんだよ?見てたでしょ、君の目の前でスザンナ落っことしたの。なのにまだ僕のこと心配してるの、友達ヅラしてクスリやめさせようってムダな努力すんの?ばっかみたい。僕のことなんか放っとけよ、うざいんだよ二ガー、汚い手でさわんなよ!』
 ヒステリックに泣き叫ぶ僕に口汚く罵られ唾吐かれてもへこたれず、ビバリーは真剣に食い下がる。
 僕の肩を掴んで正面に顔を固定、悲痛に思い詰めた目で続ける。
 『スザンナも大事だけどリョウさんも大事だ、壊れたスザンナより生きてるリョウさん優先して何が悪いんスか!?』
 スザンナ命のビバリーらしくもない発言に、一瞬手を止める。
 今しも猫の威嚇音を発しビバリーの顔を引っ掻こうとしてた僕は、その目が涙で潤んでることに狼狽する。
 うるうる涙ぐみながら僕を叱責するビバリー、スザンナへの哀悼の念と僕への友情の間で引き裂かれた悲痛な顔。切迫した様子で説得を試みるビバリーを突き飛ばし、頭から毛布を被り、息を止める。
 うざいうざいうざい、ビバリーなんか消えちまえ。
 僕のことなんか放っとけよもう、心配なんかするなよ。
 頭がぐるぐるする。ビバリーに心配してもらう価値なんか僕にはない。ビバリーは僕には勿体ないくらいイイ奴で、イイ友達で、だからビバリーと一緒にいるのが辛い。ビバリーに優しくしてもらう資格がないことを始終痛感させられ居たたまれない。
 『何も知らないくせに』
 そうだ、何も知らないくせに。
 僕の身に起きたこと何も知らないくせに、友達ヅラすんなよ。
 毛布の中から吐き捨てれば、気配を消して枕元に近付いたビバリーが、しょげかえった様子で呟く。
 『話してくれなきゃなにもわかんないっスよ』
 気弱に萎んだ声。いつも能天気に笑ってるビバリーらしくもない声。僕は毛布の中で息を殺し、ビバリーが去るまで寝たふりを続けた。
 相談なんかできるわけない。
 あんなこと、言えるわけない。
 ビバリーに軽蔑されるのは嫌だ。毛布に包まった僕の枕元でビバリーが動く。床から何かを拾い上げて埃を払う気配。ビバリーが遠慮がちに毛布の端を捲り上げ、僕の横にそっと、それを忍ばせる。
 手足のもげたテディベア。ママからの贈り物。
 『………おやすみなさいリョウさん』
 寝つきの悪い子供をなだめるように毛布の上から背中をさすり、ビバリーが立ち上がる。
 裸電球が消え、房が暗闇に包まれる。
 ビバリーが隣のベッドに潜り込む気配、衣擦れの音。
 ビバリーが隣のベッドに横たわったのを確認、慎重に毛布から顔を出し暗闇に目を凝らす。

 僕に寄り添うように毛布に入ったテディベア。
 労わる手つきでぬいぐるみの埃を払ったビバリー。

 不意に泣きたい衝動に襲われた。目が潤んで視界に水の膜が張った。泣いちゃダメだと自分に言い聞かせ、毛布の中に潜り込み、ぎゅっとテディベアを抱きしめる。テディベアに顔を埋め、嗚咽を堪える。ビバリーに啜り泣きを聞かれるのが嫌でテディベアに噛み付く。
 クスリの副作用のせいか感情のブレが激しくなってる、喜怒哀楽の移り変わりが激しくてすぐに涙がでてくる。
 テディベアを噛んで嗚咽を堪える僕の耳に、毛布越しに声が届く。
 『僕、リョウさんの友達やめませんから。スザンナ殺したリョウさんのこと藁人形五寸釘で打ちたいくらい恨んでますけど、やっぱりリョウさんのこと……好きっスから』
 「その、健全な意味で」と決まり悪げに付け加えてビバリーが寝返りを打つ。こっちに背中を向けたビバリーを一瞥、ぬくもりを貪るようにテディベアを強く強く抱きしめる。
 わかってる。ビバリーが僕を心配してることは十分すぎるほどわかってる。だからこそ、言えないことがある。軽蔑されるのが怖くて内緒にするしかない出来事がある。
 静流の罠に嵌められたことは、絶対に言えない。
 ビバリーがショックを受けるから。
 僕と同じ側にひきずりこんでしまうから。
 僕がいる日陰をビバリーに歩ませたくない。だから僕はテディベアを抱いて口を閉ざす、生まれて初めて出来た友達みたいな存在に嫌われたくなくて嘘をつく、クスリで頭がパーになった演技をする。クスリでイカれた演技をし続けるかぎり僕と静流の秘密は守られる、永遠に。
 そして僕は、安っぽい演技力を総動員してビバリーを騙しぬくことを決めた。

 そのビバリーが消えた。
 食堂で勃発した乱闘騒ぎに巻き込まれて独居房送りになった。もともとビバリーは何も悪くない、ただ巻き込まれただけ、ロンを助けようとしただけなのだから。
 でも、そんなこと誰に説明したらいい?誰に訴えたらいいの?
 目撃者は大勢いる。あの時食堂に居た連中全員が証人だと言っても過言じゃない。ビバリーが手すりから飛び降りた決定的瞬間を目撃した連中は少なくとも五十人を下らない。
 ビバリーが捕まったのは運が悪かったとしか言いようがない。
 あの時どさくさまぎれに大暴れしてたのはビバリーだけじゃない、凱だけじゃない。騒ぎに便乗してストレス発散とばかり大暴れしてた連中は他にも大勢いる、いちいち捕まえてたらきりがない、独居房が定員オーバーになっちゃう。
 ぶっちゃけ僕もその一人。ビバリーがロンを救いに決死のダイブを試みてのち、二階で見物するのに飽いた僕は一階に移動、乱闘に加わった。手近な椅子を振り上げ振り下ろし長机に飛び乗ってダンスをした。
 ……ここだけの話、ちょっとはしゃぎすぎた自覚はある。
 でも、僕と同じ位派手に暴れた連中なら大勢いる。
 その中でロンとビバリーと凱の三人だけ独居房に送られたのは見せしめの意味が強い。暴れた連中片っ端から放り込んでたらきりがないから、代表者三人を罰して事態を収拾させたわけ。
 いかにも「上」が考えそうなことだ。

 いや、違う。
 僕は「見逃された」んだ。

 「ほんとは君もお仕置きされる予定だったんだけど、リョウくんは特別に見逃してあげたんだ」
 今日、ビニールハウスで会った曽根崎に直接そう言われた。ホースで水撒きしてた僕にいそいそ近寄ってきた曽根崎が、ご褒美を期待するワンコのみたいにはっはっと荒い息を吐く。
 「見逃してくれたって、どういうことさ曽根崎さん」
 「リョウくんはビニールハウスの仕事をよくするいい子だから、いつも頑張ってくれてるご褒美に上手く同僚をまるめこんで独居房送りを取り消させたんだ。本当は君も独居房送りになる予定だったんだよ?けど、独居房送りになった三人に君の分まで罪を被せてごまかしたってわけさ。彼らにはちょっと可哀想なことしたけど仕方ない、可愛いリョウくんを無傷で守る為だもの」
 悪びれたふうもなくしれっと言ってのける曽根崎の顔面に、気付けばホースを向けて水をぶちまけていた。
 「手が滑った」と適当言ってごまかした僕は、事件の真相を知って動揺してた。僕の分まで罪を被って独居房に送られたビバリー。ロンと凱はこの際どうでもいい、あいつらがどうなろうが知ったこっちゃない。でもビバリーは同房の相棒だ。僕の大事な友達だ。本人が知らないとはいえ、僕の分まで罪を着せられて独居房送りになったビバリーを見捨てちゃおけない。
 「お願い曽根崎さん、ビバリーを独居房から出して。ビバリー僕の同房なの、僕の友達なの。一週間もあんなとこいたら気がおかしくなっちゃうよ」
 「無茶だよリョウくん、彼ら三人は乱闘騒ぎの主犯なんだから……最低一週間は独居房から出れない決まりになってる。ということは、あと四日の辛抱だね」
 指折り数えて曽根崎がうそぶき、苛立ちが募る。
 あと四日?簡単に言うな。
 あと四日も独居房に閉じ込められてたら頭がおかしくなる。ビバリーは僕を庇って独居房に入れられたも同然。
 焦燥感に駆り立てられる僕を同情たっぷりに見下ろし、「ここだけの話」と曽根崎が耳打ちする。
 「初日に独居房に出された子がいたんだ。ほら、君よりほんの少しだけ背がおっきい、目つきは悪いけど可愛い顔した……」
 「ロン?」
 「そう、彼。所長命令で彼だけ先に独居房を出されたんだけど、また事件を起こして独居房に逆戻り。その事件ってのがなんと」
 思わせぶりに言葉を切った曽根崎が注意深くあたりを見回し、正面に向き直る。
 恐ろしく真剣な表情で、何かに怯えるように声を落とし、口を開く。
 「呼び出された所長室で、所長の頭を写真立ての角でガツンとやっちゃったんだ。その場にいたわけじゃないから実際見てないけど、看守の間じゃ有名な話。囚人の間に広まるのも時間の問題。所長は額に怪我をして、しばらくは囚人の前にでてこれない。乱闘騒ぎの事情聴取に呼び出された囚人がそんな事したもんだからほかの二人までとばっちり食って拘禁期間延びてるらしいよ」
 「マジ?」
 語尾が甲高く跳ね上がる。
 衝撃の事実を知らされた興奮に心臓の鼓動が高鳴る。ロンが所長を殴った?なんだってそんなことを?……決まってる、またレイジ絡みだ。乱闘騒ぎが起こる数分前にレイジが看守数人に連行された。折悪しく行き違ったロンは囚人の揶揄に逆上、椅子を振り上げた。レイジ絡みで乱闘起こしたロンが所長に手を出した理由といえばまたレイジ絡みしか考えられない。
 「一緒に捕まった子達は気の毒だけど、所長の怒りがしずまるまで出してもらえないんじゃないかなあ」
 間延びした口調で曽根崎が推測し、意味ありげな目つきで僕を見る。いやらしい目。何を意味してるかピンときた。
 「ところでリョウくん、庇ってあげたお礼に今日これから……」
 「ごめん曽根崎さん、僕それどころじゃない」
 曽根崎にフェラしてる場合じゃない。強制労働が終わったら即ビバリーに会いに行かなきゃ。独居房送りになってから今日で三日、ビバリーの体調が心配だ。そろそろ気が狂いだしてるかもしれない。
 ホースを握る手が震え、圧迫された口から垂れた水がちょろちょろ足元を濡らす。がっかりした曽根崎に背中を向けて水撒きを続けながら、物思いに耽る。
 ビバリーの為に僕が今できることってなんだろう。
 友達として、何ができるだろう。
 
 強制労働終了後。
 ビバリーのいない房に帰った僕は、夕食前にある人物を訪ねる一大決心をした。
 「僕が帰ってくるまでいい子にしてて」
 テディベアの額にキスし、毛布をかける。もげた手足は綿を詰め、不器用に縫い合わせた。とても元通りとはいかない不恰好な仕上がりだけどこれはこれで愛嬌がある、ということにしとく。
 この三日間で僕が学んだことといえば必死に止めてくれる人間がないとクスリも味気ないってこと。親身に心配してくれる人間がいないと注射器にも手が伸びない。
 ビバリーがいなくなってからというもの、一種の願掛けでクスリを断ってたおかげでだいぶ体調が回復した。僕がクスリをやらずにいい子にしてればビバリーが帰ってくると、「リョウさんただいまっス」と鉄扉を開けてくれるに違いないとむなしく期待して、注射器と覚せい剤を封印したのだ。
 けど、じっと待ってるだけじゃビバリーは帰ってこないと気付いた。
 そして僕は行動を起こすことにした。
 テディベアを寝かし付けて房を出る。
 勝手知ったる廊下を歩き、目指す人物の房へ向かう道すがら、囚人の噂話を小耳に挟む。
 「知ってっか?例の親殺しとサムライが喧嘩別れしたらしいぜ」
 「そうか、ついに来るべきときか来たか。もとからあの二人じゃ無理だと思ったぜ、理屈屋メガネとお堅いサムライじゃあ相性最悪だもんな。今までよくもったほうじゃねえか?サムライの忍耐力あっぱれあっぱれ」
 「いや、原因はサムライのほうにあるらしい。聞いたか?サムライが新しく来た奴と浮気したって」
 「まじ?サムライが?アイツそっちの気あったっけ」
 「先に誘ったのがどっちかわかんねえけど、メガネの房を出て新入りと一緒にいんのは事実らしいぜ」
 「モテるねえ。羨ましい」
 「親殺しの様子はどうだ?サムライにフラれてさすがにへこたれてるか」
 「見た感じいつもどおり、しれっと取り澄まして図書室で本選んでたけどな。気のせいかちょっと痩せたかも」
 「これ以上痩せてどうすんだよ。男にフラれたショックで拒食症なんてしょっぺえな」
 好き放題に噂話をがなりたてながら通り過ぎた囚人を見送り、廊下の真ん中に立ち竦む。サムライと鍵屋崎が喧嘩別れしたことは知ってたから今さら驚かない。僕の足を止めたのは、彼らの噂に出てきた名前。不快感に吐き気を催す名前。噂好きな囚人たちが賑やかに遠ざかったのを確認、激しい動悸を鎮めようと廊下の壁に凭れる。
 ばっかみたい。本人と行き違ったわけでもないのに、動揺してどうするっての?
 自分で自分を嗤おうとして失敗、顔が恐怖に引き攣る。廊下の奥、さっき通りすがった囚人たちが集団で歩いてきた方向から一人の少年がやってくる。さらさらと流れる黒髪、切れ長の目、赤い唇……白鷺のように優美な肢体、清楚な容貌の美少年、静流。
 「!………っ、」
 静流を見た瞬間、体が拒絶反応を起こす。全身に電流が駆け抜ける戦慄。
 壁に背を付けてあとじさった僕に気付き、静流がにっこり微笑む。   
 「ちょうどよかった、これから君の房に行こうとしてたんだ。手間が省けた」 
 気安い口調で言い、僕の前で立ち止まる。ズボンの尻ポケットに手を入れて取り出したのは、茶褐色の小瓶。
 僕の手を取り小瓶を握らせた静流が、耳朶に口を近付け、囁く。
 「このまえ君から借りたクロロフォルム、確かに返したよ。免疫がない相手には効果抜群だった。看守間でも有名なドラッグストアの異名は伊達じゃないね」
 ひんやりした手で僕の手を包み、上下にさする。逃げたくても逃げられない。静流に手を握られた瞬間体が硬直、慄然と立ち竦む僕の全身を冷や汗が流れる。心臓が爆発しそうに高鳴る。眼前の笑顔が記憶に重なる。あの日あの夜僕に手錠をかけて嗤いながら房を出て行った静流、入れ替わりやってきた看守たちに輪姦されて僕は――
 「しず、る。きみ、あのことは誰にも」
 誰にも言ってないよね、と念を押そうとして、唇に人さし指をおしあてられる。
 人さし指で唇を封じた静流が僕を安心させるように微笑み、流し目で周囲に人けがないのを確認。
 僕の唇からゆっくり人さし指を外した静流が、誰もが好感もたざる得ないはにかみ笑いを覗かせる。
 「勿論だれにも言ってない。これからも言うつもりがないから安心して。君が僕に従ってる限りは、ね」
 それは脅迫。
 自分に逆らえばすべてを暴露するという脅迫。
 僕の手に茶褐色の小瓶を預け、上機嫌に歩き出す。僕は小瓶を握ったまま、緊張に乾いた唇を舐めて静流にかける言葉をさがす。僕は静流が怖い。だが、恐怖と同じだけ好奇心を感じてもいる。静流は一体何を企んでいる、何が目的で東京プリズンに来た、クロロフォルムを誰に使用した?……わからないことだらけだ。
 好奇心猫を殺す。
 こないだの一件で身にしみたはずの教訓。
 わかっている、わかっている、好奇心は身を滅ぼすと。それでも僕は声をかけずにいられない、叫ばずにはいられない。内気な笑顔の裏に狂気渦巻く本性を隠し、今もこうして東京プリズンを闊歩する少年の真意を尋ねずにはいられない。 
 「静流、君、サムライに何するつもり?東京プリズンに来た本当の目的ってなんなの!?」
 サムライと鍵屋崎が喧嘩別れした原因もこいつにあると直感、廊下の真ん中に孤独に立ち竦み、遠ざかる背中に呼びかける。
 コンクリ壁に殷々と声が跳ね返る。片手に握った小瓶の中で、液体が揺れる。 
 靴音が止む。静流が立ち止まる。僕の延長線上で振り返った静流が赤い唇を綻ばせ、嘲弄の笑顔を作る。
 「そろそろ本当の目的を話してあげようか」
 清冽に流れる黒髪の奥、邪悪な光を宿した双眸が細まり、毒された本性を醸す。
 僕の目をまっすぐ見据え、漆黒に濡れた目に殺意爆ぜる激情をさざなみだて、おそらくは東京プリズンに来て初めて本心を口にする。
 東京プリズンに来て初めて、心からの願いを口にする。

 「僕が東京プリズンに来たのは帯刀貢を殺すためだ」
 
 僕が見てる前で初めて静流の笑みが消え、おそらくこれが本来の顔だろう虚無が曝け出された。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050530211446 | 編集

 「いつまで僕の房に居座る気だヨンイル。即刻退去しろ」
 僕は不機嫌だ。
 理由は単純明快、眼前にある。堂々房の床に胡坐をかいて漫画を読み耽る図々しい道化こそが頭痛の種。
 「またまたあ直ちゃん、ひとりは寂しいくせに意地張って。ホンマはオレにいてほしい思うとるやろ」
 「思ってない」
 「相棒と別れたばっかでひとりは心細いくせにつれへんこと言いな、俺と仲良く手塚話でもして憂さ晴らそうや」
 「僕の生活空間を侵害するな。貴様が視界に入ると不快指数が上昇する。大体西棟の人間が東棟に居座るな、不法入棟者め。強制送還されても文句は言えないぞ」
 「強制送還できるものならしてみろっちゅーねん。手塚仲間のピンチに駆け付けへんかったら図書室のヌシの名が廃る」
 堂々巡りの問答に徒労感が募る。
 不毛な議論に嫌気がさしてため息を吐き、本から顔を上げる。強制労働終了後、夕食開始までの自由時間を図書室から借りた本を読んで過ごす僕の足元でヨンイルが読み耽っているのは低俗な漫画。二十世紀に流行った漫画をこよなく愛するヨンイルの現在のお気に入りはドラゴンボールらしく、床一面に足の踏み場もなく単行本が散乱している。
 貴重な読書時間をヨンイルに邪魔された僕は、努めて彼の存在を意識せぬよう本に目を落とすが内容がちっとも頭に入ってこない。
 本に集中できないなんて前代未聞の異常事態だ。
 対岸のベッドがやけに遠く感じられる。
 壁際までの距離は変わってないのに、几帳面に整えられたベッドがやけに遠く感じられる。僕の留守中にサムライが帰った痕跡はない。
 サムライが出て行ったときのまま整えられたベッドが視界に入るたび情緒不安定になる。
 サムライと別れてから三日が経過。
 あれからサムライとは会ってない。食堂で姿を見かけることはあったが、常に静流がそばにいた。僕の接近を阻む閉塞的な雰囲気の二人を見かけても、話しかけることはできなかった。
 僕はサムライに気付かぬふりをした。サムライもまた僕に気付かぬふりをした。三日前サムライに突然別れを切り出されて以来、僕は強制労働を終えてサムライ不在の房に寝に帰る単調な日々を過ごしている。
 サムライがいないことを除けば以前と何ら変わりない生活。僕の身近に漂っていたサムライの残滓、大気中にほのかに漂う墨の匂いも三日経ちだいぶ薄れてしまった。
 日々サムライの残滓が消えていくのを実感する。
 サムライと距離が開くのを痛感する。三日前、サムライは突然僕に別れを切り出して静流と行ってしまった。現在は静流の房に身を寄せてるらしいが詳細はわからない、知りたくもない。一体何故こんなことになってしまったのか……僕が静流の嘘を真に受けたのが原因か、サムライに蟠りを残していたのが原因か?

 『貢くんが苗さんを犯したと聞いても彼の友人でいられるのかい』
 サムライが苗を犯したと静流は言った。
 真実か否かわからない、判断材料がない。
 否定も肯定もできない言葉。僕は結局、サムライを信じ切れなかった。苗の自殺の原因はサムライだと静流に吹き込まれて不信感が芽生えてしまった。
 内面の変化が態度に表れてサムライを追い詰めたのかもしれない、サムライは僕の本心を見抜いていたのかもしれない。
 だから僕たちは。
 『俺があの房にいる限りお前は帰ってこない。ならば俺が出る。房は好きに使って構わない』
 僕たちは。
 『俺がそばにいるとお前は辛くなる。俺たちはもう共にいるべきではない、互いを傷付けるだけの関係は不毛すぎる』
 最悪の選択は、最悪の結果に繋がる。 
 『レイジ、ロン、ヨンイル。お前には良き友がいる。これからは奴らを頼れ。必ずやお前の力になってくれるはずだ』
 何故僕はサムライを呼び止められなかった、早々と諦めてしまった?

 今更後悔しても遅い。僕はサムライを追うべきだった、僕が苗の代用品でないのと同じく君の代用品もないのだと告げるべきだったのだ。
 レイジがいてもロンがいてもヨンイルがいても、他の誰がいても肝心の君がいなければ意味がないと伝えるべきだったのだ。
 別れ際の寂しげな目が脳裏によみがえる。帯刀貢がサムライに戻った瞬間。僕はもっと足掻くべきだった、足掻き続けるべきだった。大事なものを完全に喪失する前に必死に抵抗すべきだったのだ。
 僕らの関係には終止符が打たれた。サムライへの恋愛感情ともいえぬ淡い想いを自覚するまもなく、僕とサムライの絆は断たれてしまった。もう手遅れだ。僕らの関係は終わってしまった。サムライは房を出た、僕に別れを告げて静流を選んだ。
 それが彼の選択なら真摯に受け容れるべきだ。
 サムライは静流を選んだ。
 その事実を重く受け止め、上の空でページをめくる。
 「……同情は不愉快だ。ヨンイル、僕は孤独に耐性がある。サムライが房から消えたことにも何らショックは受けていない、房の使用面積が増して喜んでるくらいだ。生活空間が拡張できてよかった。サムライがいないベッドは本の置き場所にする」
 「そんな幽霊みたいなカオしてなに言うてんのん」 
 ヨンイルが脱力する。幽霊みたいな顔?心外だ。
 ベッドに座った位置から振り返り、鏡に顔を映してみる。確かに顔色が悪いが、これは慢性的な疲労と不眠が原因でとくに体調が悪化したわけでもない。
 東京プリズンに来てからこっち僕の顔色が良くなった試しなどない。
 「心配せずとも僕の顔色は慢性的に悪い。気が済んだら西に帰れ、このままずっと居候し続ける気か?三日前は君が指揮した捜索隊に保護されたおかげで風邪をひかずにすんだが、理性を取り戻した今はあんな馬鹿な真似はしない。夢遊病者めいた足取りで廊下にさまよいだして行き倒れる可能性などない、絶対に。僕が半覚醒の状態で徘徊せぬよう、ベッドから起き上がったら枕元の本が落ちて正気にもどる仕掛けなのだ」
 「いや、そんな自信満々に目覚ましの仕掛け解説されても……やっぱズレとるで、直ちゃん。相当ショックやったんやな、彼氏にフラれたんが」
 ヨンイルがしたり顔で頷く。……不愉快だ。
 荒々しく本を閉じて立ち上がり、大股に歩き、鉄扉を開け放つ。
 「出て行け。これ以上僕を怒らせるなら手段を選ばず排斥する」
 ヨンイルは立ち上がる素振りさえ見せない。憤然と鉄扉を開け放った僕を無視、図々しく胡坐をかいている。
 もはや強硬手段に訴えるしかない。覚悟を決め、ヨンイルの周囲に散乱した漫画本を拾い集める。
 読みかけの漫画を奪い取られたヨンイルが「あ!?」と抗議の声を上げるのを無視、廊下に開放した鉄扉から外へと漫画を投げ捨てる。
 「なにすんねん直ちゃん、漫画への冒涜や!?」
 血相替えたヨンイルが這うように廊下に転げ出た瞬間、鉄扉を閉ざして錠をおろす。
 これでよし。邪魔者は追い払った、読書に集中できる。
 そのままベッドに帰り、膝の上で本を開く。
 鉄扉の向こう側でヨンイルが抗議するが、相手にしない。
 「ひどいあんまりや直ちゃん俺の友情足蹴にしよって、直ちゃんがポイ捨てした鳥山明に謝らんかい!!本を粗末にするなんてオタクの風上にもおけんやっちゃ、見損なったで!」
 「漫画は本のうちに入らない。付け加えるが僕はオタクじゃない、読書家だ」
 それでもまだ諦めきれず、鉄扉の前から立ち去りがたく唸っていたヨンイルだが、根負けして踵を返す。「直ちゃんのアホ、俺が集めたドラゴンボール見せたらんからなっ」などと現実と妄想の区別がつかぬ捨て台詞を吐いたヨンイルに嘆息、読書を再開する。
 ……駄目だ。今度は静かすぎて落ち着かない。
 焦燥感に駆り立てられ、殺風景な房を見渡す。サムライ不在の房にただ一人残されて居心地の悪さを感じる。三日前まではサムライがいた房。べッドに腰掛けて本を読む僕のそばで写経にいそしんでいた。
 般若心経の経典を紐解いて、硯を用意して、黙々と墨を擦って…… 
 写経に励む仏頂面を思い出す。
 声をかけにくい横顔、気難しげに寄った眉間の皺。
 いつのまにか馴染んでいた日常、僕が当たり前に溶け込んだ光景。
 「………」
 一抹の喪失感が胸を吹き抜ける。
 見慣れたものがそこにない、見慣れた人間がそこにいない。たったそれだけのことで何故こんなにも心をかき乱されるのか、不安になるのか……唇を噛み締め、俯く。僕はサムライに未練があるのか、さっきから空っぽのベッドにばかり視線がいってしまうのはそれでか。サムライと僕は終わったはず、終わったはずなのに。
 「サムライなど知らない。勝手にすればいい。好きなように生きて死ねばいい」
 帯刀貢の生き方に関与しない、生き様に関与しない。
 帯刀貢は静流の隣にいるべき人間、静流を庇護すべき人間なのだ。
 僕には関係ない男だ。
 関係ない他人だ。
 「……………」
 人さし指で唇に触れる。サムライの唇が触れた部位をなぞり、感触とぬくもりを反芻する。
 「寂しくなどない。哀しくなどない。僕は最初から一人だった。天才は凡人の理解を拒否する、共感を拒絶する。信頼など要らない。信じて頼る人間など要らない。僕には僕だけでいい、IQ180の頭脳さえあれば他人の助力などなくても生きていける。僕の味方は僕だけだ。他人を信頼しても失望させられるだけだと辛辣な教訓が得られてよかったじゃないか。おめでとう鍵屋崎直、知識量と半比例して人生経験の乏しい僕が僕が他人を信用するなと教訓を得れたのは東京プリズンに来たからだ、ここで人間関係の経験値を積んだからだ。まったくツイてるじゃないか、なんて幸運な人間だ僕は、僕にIQ180の知能という最大の味方をくれた運命に感謝する!!」
 コンクリ壁に絶叫が跳ね返る。
 気付けば僕は哄笑していた、狂ったように笑っていた。
 まったく、なんて間抜けなんだ僕は。
 他人を信頼した挙句に裏切られ、自己憐憫に溺れ、そんな自分を嘲笑うことでさらに傷口をほじくりかえす悪循環。
 自虐の醜態をさらす僕の耳に、一定の間隔でノックが響く。
 「!誰だ」
 反射的に立ち上がり、鋭く誰何する。鉄扉の向こう側に誰かがいる。誰だ?ヨンイルが帰ってきたのかと一瞬疑ったが、礼儀知らずの道化ならそもそもノックなどするはずない。
 「……僕。リョウ。入っていい?」
 リョウ?意外な人物名に戸惑う。何故リョウが僕の房を訪ねる?またよからぬことでも企んでいるのかと疑惑が過ぎるが、好奇心に従い
扉を開ける。錆びた軋り音を上げて開いた扉の向こう側、廊下にリョウが突っ立っていた。
 気まずげに顔を伏せ、上目遣いに僕の表情を探り、おどおどと口を開く。
 「……そんなおっかないカオしないでよ。いじめにきたわけじゃないんだから」
 「信用できない」
 鼻先で扉を閉ざそうかと思ったが、久しぶりに顔を見たリョウが意気消沈してたために逡巡する。しばらく見ない間に少し痩せたらしく、不健康に憔悴した面持ちに痛々しい笑みを貼り付かせている。
 「話したいことがあるんだ。いい?入って」
 本音を言えば即刻追い返したかったが、弱り果てたリョウを突き放すのに罪悪感を覚えしぶしぶ迎え入れる。僕にもロンのお人よしがうつったらしい。肝心の本人は食堂の乱闘騒ぎがもとで独居房に送られたまま、三日経っても出される気配がないが。
 バタンと鉄扉が閉じる。危なっかしい足取りで房に入ったリョウが僕の許可も仰がずベッドに腰掛ける。図々しい。不快感も露にメガネのブリッジを押し上げた僕を、濡れた上目遣いで見つめるリョウ。
 「何だ、話したいこととは」
 「こないだの乱闘の件。メガネくんも知ってるっしょ?ロンのとばっちり食らってビバリーまで独居房に入ってるの」
 「それが何か」
 「メガネくんロンの友達っしょ。なら責任とってビバリーを独居房から出す方法考えてよ、元はといえばロンを助けるために無関係のビバリーが独居房入ったんだから」
 「自己責任という言葉を知ってるか?知らなければ辞書を引いてみたまえ。ロンを庇ったのはビバリーがそうしたかったからだ。彼自身の判断が招いた結果に僕は一切関与しない、不名誉な言いがかりはやめてくれ」
 「……ちょっと冷たいんじゃないの、それ。メガネくんだって心配じゃないのロンのこと、友達なんでしょ。もう三日も独居房にいれられっぱなしなんだよ、まともな人間ならそろそろ頭イカレてる頃だよ。ロンが今どうしてるか心配じゃないの、助けに行きたくないの。助けに行きたいよね、なら考えてよ、ビバリーとついでにロンを独居房から逃がす方法をさ!いつもIQ180のオツムを自慢してるくせにできないなんて言わせないよ、メガネくんならできるはずだよ、看守に目ぇつけられずに二人を逃がすことだって不可能じゃないって!!」
 興奮したリョウが僕の胸ぐらに掴みかかる。
 リョウは必死だった、一杯に見開いた目には涙がたまっていた。
 怒りに頬を赤らめたリョウが震える手で僕に縋り付く。ビバリーのピンチに何も出来ない無力感に苛まれ嗚咽を堪えるリョウを見つめるうちに唇が歪み、皮肉な笑みが顔に浮かぶのを自覚する。
 「―なら、こうすればいい」    
 痩せ細った手首を掴み、シャツから引き剥がす。有益な助言が得られると錯覚し、リョウの顔が希望に輝く。
 折れそうに細い手首を掴み、リョウを強引に引き寄せる。
 リョウが顰めた顔に眼鏡の奥から冷たい眼差しを注ぎ、耳朶で囁く。
 「リョウ、今度は君が事件の主犯になれ。そうだな、こんなのはどうだ。君のポケットに入ってる注射器で通りすがりの囚人に毒物を注入するんだ。毒物を注入された囚人は死屍累々と廊下に倒れて東棟は惨状を極める、騒ぎを聞きつけた看守が君を逮捕、のち独居房に移送する。独居房の個数には限りがある、君が放り込まれるのと入れ違いに出される囚人がいる。ビバリーが心配なら君が救え、ビバリーの身代わりに独居房に入るんだ。これで問題解決だ」
 「!そん、な」
 リョウの顔が絶望に凍り付くのを嗜虐の愉悦に酔いながら眺め、口の端を吊り上げる。
 「どうした、できないのか。大事な友達のためならそれ位できるはずだろう。ビバリーは高尚な人格者だ、無関係のロンを捨て身で庇って独居房に送られた。それならばビバリーの友人が身代わりになるのも不可能じゃないはず。何を怯えているリョウ、僕に助けを乞うたのは君だろう?君はまさか自己犠牲の覚悟もなく友人を助け出そうとしたんじゃあるまいな、そんな都合よい解決策があると本気で期待してたのか、視野狭窄の愚か者め」
 残酷な衝動に歯止めがきかない。
 もうやめろと理性が叫ぶ、もっとやれと本能がけしかける。
 自分でもわかっている、これはただの八つ当たり、サムライの不在から来る怒りや哀しみをたまたま現われたリョウにぶつけて憂さを晴らしているだけだ。
 最低だ、僕は。ビバリーを助けたい一心で僕を頼ってきたリョウを抉りこむように攻撃する、辛辣な毒舌を吐いて徹底的に貶める僕こそ真に唾棄すべき卑劣な人間だ。
 わかっているが止まらない、攻撃衝動を抑制できない。
 リョウの傷付く顔で救われたい、サムライとの別れがもたらした喪失感を埋めたい。
 「そんな、のできない。他の手はないの?僕もビバリーも独居房に入らずにすむ方法考えてよ、きみ天才なんでしょ、なら皆が幸せになる方法考えてよ、誰も不幸にならずにすむ方法教えてよ!!」
 「友人の自己犠牲なくしてビバリーは救われない。ビバリーを救いたいなら君が事件を起こせばいい、ロンの乱闘騒ぎなど比較にならない騒ぎを起こして被害を広げれば囚人が独居房に移送され元いた古い囚人が放免される。単純な計算だ」
 痣になるほど手首を掴み、力任せにベッドに押し倒す。
 されるがままに仰向けに倒れたリョウの上に覆いかぶさり、至近距離で顔を覗きこむ。
 放心状態、空白の表情をさらすリョウに額を被せ、非情な宣告を突きつける。
 「友人を見捨てて生き残るか友人を助けて独居房に入るか。二者択一で選べ、リョウ」
 リョウの顔が悲痛に歪む。シャツの下、肋骨の浮いた薄い胸板が呼吸に合わせて上下する。
 リョウと体を重ね鼓動を感じ、自己嫌悪に襲われる。
 軽い体を突き放し、興味が失せたようにリョウに背中を向け、リョウの吐息で曇った眼鏡のレンズを上着の裾で拭う。
 「……最も、君のように利己的な人間が後者を選ぶとは思えないがな」
 痣になった手首を見下ろしリョウが黙り込む。重苦しい沈黙。
 唐突に跳ね起きたリョウが無言で僕の隣を駆け抜ける。
 鉄扉を開け放ち廊下を走り去る靴音をよそに、たった今リョウの手首が抜けた五指を見下ろす。
 虚空を掴むように五指を閉ざし、苦く吐き捨てる。
 「………最低だな、僕は」
 多分、その時に発見したのだ。
 サムライがいないだけで僕はとんでもなく残酷な人間になれると。
 自分でも驚くほどに。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050529031503 | 編集

 『参りなさい』
 咳のしすぎで掠れた声はともすると衣擦れに紛れて消えそうに細く、だが、内に凛たる強さを秘めていた。
 女の声は絶対だった。
 命令するのに慣れた口調はひどく落ち着いていた。
 己の死期を悟った目は、諦念ではなく覚悟を映していた。
 落ち窪んだ眼窩には燐光が青白く燃え、意志の強さを表すように引き結んだ口元には潔癖な性根が透けている。
 目の下には不吉な隈が浮いている。
 虚勢ではもはや塗り隠せない死相が射した顔に美貌の名残りを留めた母は、癌が全身に転移し、末期の苦しみにのたうちまわる闘病の日々に精根使い果たしてもなお気丈な女当主の威厳を失わず、美しく背筋を伸ばして寝床から半身を起こしている。
 覚悟の上の死に装束にも見える白い小袖の襟元に手をやり指を添え、鎖骨を隠す仕草に貞淑な気品が匂い立つ。
 痩せた首筋におくれ毛を纏わり付かせた母が、鬼火のように揺らめく目を虚空に据える。
 『できません』
 静流は漸くそれだけ言った。
 喘ぐように口を開閉し、迷いに迷った末に言葉を搾り出した。
 手のひらはじっとり汗をかいている。緊張で顔筋が収縮、表情が硬直する。
 母の視線を避けて俯き加減に畳の目を数えながら、揃えた膝の上で手のひらを握りしめる。手のひらの柔肉に爪が食い込む痛みで自分を取り戻そうとでもいうように、正気を維持しようとでもいうように。
 胸裏では嵐が吹き荒んでいた。苦悩に責め苛まれた眉間には皺が寄り、母とよく似た面差しにはひりつくような焦燥が滲んでいた。
 静流の眼前、畳の縁に平行に置かれたのは一振りの刃。
 鞘に仕舞われた真剣。
 ちょうど母の寝床と静流が正座した中間に据え置かれた刀は、黒光りする鞘に隠れながらも異様な存在感を放っている。
 悠に二十畳はあろうかという座敷は、全部の障子を締め切ってあるために昼でも薄暗い。
 紫陽花が一輪生けられた床の間を背に、敷かれた布団から半身を起こした母は、弱気を起こした息子に畳み掛ける。
 『いいえ、なりません。あなたはしなければなりません』
 主治医には余命二年と宣告された。
 早くに伴侶を亡くしてから女手一つで自分たち姉弟を育ててきた母は、最期の最後まで分家の女当主として恥じない振る舞いを貫き通す気だ。
 死を目前にした母は、不思議と穏やかな顔をしていた。
 己の運命を許容し、宿命に殉じる覚悟を決めた顔。
 俗世への執着から脱却した安息の表情。
 母はいつも息子に厳しく接した、分家の次期当主として恥ずかしくない男になれと言われ続けた。
 母はまた、女だてらに剣術の師範でもあった。人間国宝の祖父にも匹敵する剣の使い手と噂される本家の嫡男と常に比較され、「貴方の剣には覇気が足りない」と酷評されたこともある。
 だが、それでも血の繋がった母には違いない。
 どうして母を斬れるというのか。
 親殺しは修羅道に堕ちるとわかっていながら、刀を取れるというのか。
 『母さん、やはり僕にはできません。そのように血迷った真似は……』
 『この期に及んでまだそのようなことを言うのですか』
 母が幻滅する。静流は無言で首を項垂れる。
 打ち萎れて叱責に耐える静流を見つめ、頑是無い子供を相手にするように母は首を振る。その枕元には姉がいる。母とはまた違う感傷に囚われ、潤んだ目に悲哀の色を宿した姉が。
 母が小さく咳をする。咳は止まらない。
 徐徐に間隔が狭まり、激しさが増す。肩を上下させ咳き込む母の背を慣れた手つきで姉がさする。母子の情愛が通う一連の光景を距離をおいて眺め、静流は奥歯を噛み締める。

 母は狂っている。
 僕と姉さんもまた、狂気に侵されはじめている。

 血なまぐさい惨劇の余波は、帯刀の系譜に連なる者すべての上に狂気を開花させた。
 本家の長男が剣術の師範たる実父を含む門下生十三人を斬殺した醜聞により、帯刀家は凋落した。
 とくに影響を受けたのは本家当主の実妹であり、余命幾許もない病身でありながら分家の当主を務めた母だ。
 長きに渡る確執により本家当主の実兄と疎遠になっていた母までもが帯刀の人間が起こした惨劇により世間に白眼視されるようになった。
 帯刀の血を受け継ぐ者すべてが世間の荒波にさらされ非難の矢面に立たされた。一族から親殺しを出したことで元禄年間から続いた由緒正しき帯刀家の権威は失墜、「血に飢えた人斬りの家系」と中傷されるまでになった。
 母は、それが許せなかった。
 これまでの人生で自分が守ってきたもの、信じてきたものを全否定されたのだ。その無念はいかばかりか想像に難くない。
 母は帯刀の生まれに誇りを持っていた。
 分家の当主として最期まで立派に務め上げ、責務を全うし、自分亡き後は跡目を息子に譲り帯刀の名を後世に伝えるのが使命と肝に銘じていた。
 武家の末裔として誇り高く生きて死ぬのが母の夢だった。
 そのすべてが無に帰した。
 身内から親殺しを出した帯刀家は、もはや存続を許されない。母が生涯かけて守ろうとしたものはすべて失われてしまった。
 帯刀の家土地も、誇りも、名誉も。
 今、母が持っているのは残り僅かな寿命だけ。主治医には余命二年と宣告されたが、頬骨の尖った顔に死相が射して、もって半年かそこらの非情な現実を代弁している。事件の後始末を一手に引き受けた心労が祟り、死期が早まったのだろう。
 居住まいを正して静流に向き直り、母が言う。
 『帯刀分家当主として命じます。早く刀を抜きなさい。私をお斬りなさい。かつて私が教えた通りにやればいいのです、静流さん』
 『できません』
 『目を瞑っていてもできるでしょうに。静流さん、貴方は私から何を学んだのです?』 
 『母さんの命令といえど刀を抜くことはできません。そんな恐ろしいことできるわけがない。母さんは正気じゃない、あの事件がきっかけでおかしくなってしまった。どうして死に急ぐのです?どうして僕に刀を取らせようとするのです?母さんは、自殺する気だ。これが自殺じゃなくてなんだって言うんだ、帯刀家が滅んだらもう生きる意味がない、だから母さんは自暴自棄になって!!』
 感情の堰が決壊する。
 静流はいつのまにか立ち上がり叫んでいた。不条理な命令に反感が突き上げた。ただ哀しくて悔しかった、やりきれなかった。胸を内側から掻き毟られる思いだった。
 腹を痛めた我が子に糾弾されてもなお悟りきった居住まいを崩さず、母は虚空を見据えていた。双眸には静かな諦念がたゆたっていた。
 母の目は既に現実を見ておらず、己の内面を眺めていた。
 語気激しく母に正論をぶつけた静流は、賛同を乞おうと姉を仰ぎ、戦慄する。
 姉がこちらを見据えていた。悲痛な顔で。
 『………帯刀家はもうおしまいです』
 血を吐くように母が言い、重苦しい沈黙がのしかかる。
 『時代錯誤を承知で私が守ってきたもの、先祖代々守り抜いてきたものが失われてしまった。親殺しは武家の法度にふれる最大の禁忌。剣の天才と称される本家の跡継ぎが武士道を外れる禁忌を犯したことで、帯刀家の歴史は汚れてしまった。帯刀の血を継ぐ者たちはこの先ずっと人斬りの汚名を被り、生き恥をさらして寿命をまっとうせねばならない。一族の一人が罪を犯したところで世間の大多数はそう見ない、私たちにも同じ人斬りの血が流れている、帯刀家は極悪非道な人斬りの一族と後世まで蔑まれる』
 落ち窪んだ眼窩に鬼火が燃え上がる。
 『私は許せない。我が兄、帯刀莞爾の仇をとる為には手段を選ばない。たとえ武士道を外れる行いとわかっていても、帯刀の家名を貶めて一族に災厄を招いた甥に復讐せずにはいられない。私の寿命は残り僅か、もってあと半年。どうせ残り少ないこの命、甥への復讐の足がかりとなるなら地獄に落ちても悔いはない』
 母の決意は固かった。
 今更何を言っても決心は覆らないだろう。
 絶望を噛み締めて俯きながらも、最後の抗弁を試みる。
 『……母さんは伯父さんを憎んでいたじゃないか。本家と分家はずっと犬猿の仲で、最近は行き来も途絶えていたじゃないか』
 『不幸な行き違いがあっても血の繋がった兄妹には変わりありません。無念の死を遂げた兄の仇をとるのが妹のつとめ。我が兄莞爾は実の息子に斬り殺された。如何なる理由があろうと親殺しは許されざる非道な所業、帯刀家を破滅させた張本人が牢送りになったとてなまぬるい。本家当主の兄を斬殺し帯刀家を滅ぼした張本人、我が甥・貢はまだのうのうと生きているのです。恥知らずにも』
 吐き捨てるように口元を歪めた母の痩身に陽炎が揺らめく。
 母は怒っていた。残り少ない命の火を今この瞬間に燃やし尽くそうとでもいうように全身全霊で怒っていた。復讐の業火を双眸に宿した母の枕元、姉が顔を伏せる。姉は貢に想いを寄せている。
 長い間床で臥せっていた母は、姉の秘めたる恋情を知ってか知らずか続ける。
 『さあ、お斬りなさい。遠慮はいりません。親子の情など捨て去りなさい。最期に母の願いを叶えてください。腹を痛めた息子に憎き兄の仇と同じ道を歩ませてでも復讐を成し遂げようとする、愚かな母の屍をこえていきなさい』
 促されるがままに刀に手を伸ばし、鞘を掴んで引き寄せる。
 膝に乗せた刀を見下ろし、躊躇する。柄を握り締めた手が力の入れすぎで白く強張り、かちゃかちゃと鞘が鳴る。刀を掴んで何度も深呼吸し、意を決して前を向いた静流の顔が泣き笑いに似て滑稽に崩れる。
 『…………僕に狂えと言うんですか?親殺しの修羅になれと言うんですか、母さんは。それが親の言うことですか。僕は、僕はこんなことをするために剣を学んだんじゃない。僕はただ母さんや姉さんに褒めてもらいたくて、貢くんに負けたくなくて、貢くんと比較されるのが嫌で、母さんと姉さんに一人前と認められたくて必死に修行を積んできたんだ!!帯刀の名なんかどうでもいい、そんな物ちっとも欲しくはない、分家当主の座なんかちっとも惜しくはない!!僕はただ姉さんと一緒にいられればそれで、それだけで幸せだった!!』
 絶叫が喉を食い破る。
 母は無表情に静流を眺めていた。姉は下を向いていた。
 母と同様、美しく背筋を伸ばして正座した姉の手が膝の上でこぶしを結んでいた。激情を堪えるように膝の上でこぶしを結び、前髪の奥に表情を隠して項垂れていた。
 『狂いなさい』
 穏やかな微笑を湛え、母が言った。
 静流の葛藤を汲んでもなお意見を翻すことがない、復讐の狂気に呑まれた笑顔。
 『狂いなさい、血迷いなさい。静流さん、いえ、静流。貴方は帯刀家の末裔として身内の復讐を果たす義務がある。放っておいても私の命はじき尽きる。女の身の薫流では復讐を果たせない。もはや帯刀家には貴方しかいないのです、我が兄・莞爾の仇を討つべき人間が。法は無視なさい。法が私たちに何をしてくれました?何もしてはくれない。私たちが従うべきは法ではない、廃れて久しい武士道でもない』
 母の目に激情が爆ぜ、禍々しい笑みを湛えた顔に狂気の深淵が開く。
 『私は心の底から帯刀貢を憎みます。人が人を憎むのは本来自由、法で縛れず武士道に添わぬこの憎しみこそが復讐の動機。帯刀家は人斬り一族ではない、人斬りは帯刀貢だと病床の私が血を吐くほどに声張り上げても世間は誰一人とて耳を貸さなかった。私は憎い、帯刀家を貶めたあの男が憎い。あの男に復讐するにはもうこれしかないのです、貴方が修羅道に堕ちるしかないのです』
 『静流』
 姉が声をかける。
 緩やかに顔を上げた静流は、続く言葉に耳を疑う。
 『母さんの願いを叶えてあげて』
 いつのまにかこちらに向き直った姉が、寂しげに微笑む。
 『私も帯刀貢が憎い。できるならこの手で殺したいけど、私では無理。でも、貴方なら……』 
 『貴方にしかできないのです』 
 寝床から這い出た母が静流の膝に縋り付く。
 枯れ木のように痩せさらばえた腕。振り払うのは簡単だ。
 だができなかった、どうしても。
 母と姉の視線に呪縛され生唾を嚥下、再び刀を手に取る。
 黒光りする鞘から刀を抜く。
 鞘から覗いた刀身が白銀に輝く。清冽な殺気を纏わせた刀身に顔を映した静流は、母と姉の願いを叶えてやりたい半面、この手で肉親の命を奪う行為に極大の抵抗と嫌悪を示し、葛藤に揺れ動く自分をそこに見出す。
 母にはできない。姉にもできない。
 しかし、自分ならできる。
 帯刀貢を殺すことができる。
 甘美な誘惑が耳朶に纏わり付く。
 血を求める衝動を抑制できない。古来より数多の血を吸った刀には妖気が宿るという。静流が鞘から刀を抜いたのを確認、病床の母が瞼を下ろす。口元に仄かな微笑すら湛えたその顔は清濁併せ呑む慈母めいた雰囲気すら漂わせていた。
 己の死を覚悟して安息を得た母と対峙、片膝立って刀を構え、真剣の重量と手の震えを意識する。
 『……いざ、参ります』  
 母の願いを叶えてやりたい。
 幼い頃から厳しい母だった。だが、優しい母だった。剣の師範として息子をたゆまず鍛えてきた。「静流さんは気持ちが優しいから太刀筋が鈍ってしまうのね」とため息まじりに言われたことがある。しかし、嘆く言葉とは裏腹に顔は微笑んでいた。息子の気持ちの優しさを喜ぶ母性的な微笑みが瞼の裏によみがえり、涙腺が熱くなる。

 母の教え通り剣を持ち、構える。

 布団に起き上がった母は毅然と胸を張っている。
 命乞いもしない、泣き叫びもしない達観した居住まい。
 目を閉じて心を無にする。五感を閉ざして内向して初めて第六感が開眼する。
 明鏡止水の境地を体現するが如く。  
 呼吸を整え目を開いた時、手の震えは完全に止まっていた。
 
 鋭く呼気を吐き、刀を振り下ろす。
 血飛沫が顔に跳ねる。母が着ていた白い小袖が右肩から左脇腹にかけて裂けて、鮮血が飛び散った。

 肉を裂き骨を断つ手ごたえが確かにあった。
 白銀に輝く刃に血化粧が施された。血と脂に濡れ光る刀身と布団に倒れ伏せたまま微動だにしない母を見比べて静流は荒い息を吐く。
 即死だった。母はあっけなく死んだ。殆ど苦しまずに逝った。
 おくれ毛がしどけなく纏わり付いた死に顔は安らかだった。母の死に際しても静流は泣かなかった。泣けなかった。心が衝撃に麻痺して何も感じず、喜怒哀楽いかなる感情も湧き上がってはこなかった。
 『上出来よ、静流』
 姉が言った。
 姉の着物に真紅の花が咲いていた。至近距離で母の返り血を浴びても姉は一切取り乱さず、よくやったと弟を称賛した。
 畳に突き立てた刀に縋るように姿勢を起こした静流をまっすぐ見つめ、紅唇を開く。
 『次は私よ。なるべく苦しめず送って頂戴』 
 
 ああ。
 とうとう薫流姉さんまで狂ってしまった。

 姉は、薫流は笑っていた。
 何もかも受け容れ微笑んでいた。
 親子心中に付き合わされるのを予期した上でこの場に臨んだとその目が言っていた。しかし母と違い、真っ直ぐに静流を見据える目には正気の光が宿っていた。
 母の返り血を拭うのも忘れ、驚愕に目を見開き姉を凝視する。
 嘘だと否定したかった。
 いっそ嘘にしてしまいたかった、聞かぬふり知らぬふりで流したかった。母に続き姉までもが自分を殺せと言う、自分を殺して復讐の足がかりにしろと言う。
 できるわけが、ない。
 走馬灯の回想が脳裏を駆け巡る。
 幼い頃から勝気で意地悪な姉だった。お転婆で男勝りで口喧嘩では勝てた試しがなかった。静流は姉にやりこめられるたび強く頼もしい従兄の背に隠れていた、優しく面倒見がいい従姉の背に庇われていた。「まったく情けない子ね、しずるは。それでも分家の跡取りなの?」とませた口調でからかわれる度に静流は目に涙をためていた。
 『できないよ、姉さん』 
 最初は弱々しく、次第に激しく首を振り拒絶する。
 泣き笑いに似た情けない表情で翻意を求めるも姉は応じない。
 絶命した母の枕元に正座し、弟への愛情と未練を織り交ぜた顔つきで黙りこくっている。
 長い睫毛に沈んだ切れ長の双眸に憂いを秘め、口元を引き結び、首を項垂れている。姉の視線を追いかけて顔を上げた静流は、床の間の紫陽花を目にする。あの紫陽花は確か、先日姉が摘んできたものだ。病床の母の慰みになればと小雨が降る庭からわざわざ手折ってきたのだ。
 優しい姉だった。お転婆で男勝り、意地悪で口達者な姉に隠された優しい一面を常に彼女だけを見つめ続けた静流だけが知っていた。
 床の間の紫陽花が鮮やかに目に染みて、一年前、二人で本家を訪ねた日の記憶を喚起する。
 あの日、傘に隠れて道場を見つめ続けた姉の視線の先には似合いの少年と少女がいた。
 静流は直感した。
 姉が秘めたる恋情を、報われぬ想いを。
 何故なら帯刀貢の隣には、帯刀苗がいたから。
 『静流』
 『できない、いくら姉さんの頼みでもそれだけはできない。姉さんを斬り殺すなんてできるわけない、姉さんは知らないんだ、僕がどんなに貴女を大切に想ってるか、貴女に生きてて欲しいと想ってるか!たった二人の姉弟じゃないか、子供の頃からずっと一緒にいたじゃないか。僕は子供の頃からずっと、貢くんや苗さんと一緒に遊んでた頃からずっと姉さんのことを見てたんだ。からかわれてもいじめられても姉さんのあとを付いて回ったのは姉さんが好きだったから、鬱陶しい弟だ、あっちいけって邪険にされても付いて回るのをやめなかったのは姉さんを独占したかったからだ!!』
 言葉が堰を切り溢れ出す、激情の洪水に理性が押し流される。
 噴き上げる衝動のままに思いの丈を吐き出す静流を、薫流は慈愛の笑みで包んでいた。
 純白の足袋は畳に流れ出した血でしとどに染まっていた。
 薫流は美しく背筋を伸ばして正座したまま微動だにせず、揃えた膝に手をおいて、母の亡骸の傍らで慟哭する弟を優しく包み込むように見つめていた。
 姉には言葉が届かない。
 手を伸ばせば届く距離なのに、彼岸と此岸の断絶がある。
 畳に流れ出した鮮血が静流の膝も手も真紅に染め変える。
 血に滑る手で刀の柄を掴み、畳から引き抜き、正眼に構える。
 薫流の鼻先に刃を突きつけ翻意を迫ろうとでもいうように、命乞いを待とうとでもいうように。
 『母さんは斬れても姉さんは斬れない』
 思い詰めた色を目に宿し、静流が唸る。
 早く命乞いしてくれ、ここから逃げてくれと気も狂わんばかりに一心に念じながら。
 鼻先に刃を突きつけられた薫流はしかし脅しにも屈さず、表情ひとつ変えずにいる。
 すべてを諦めた姉を見るに耐えかね、刃の切っ先をかすかに震わせる。
 『姉さん、二人で逃げようよ。誰も知らないところでいちからやり直そう。帯刀の名を捨てて二人で生きていこう』
 口から零れたのは、哀願。姉が首肯してくれることだけを一心に念じ、一縷の希望をたぐりよせる。
 姉は答えない。切れ長の目を潤ませて漆黒の瞳に弟の顔を映している。
 水面に波紋が起きたように薫流の目の中の顔が歪み、崩れる。
 刃を引っ込めるきっかけを逸し、正眼の構えで姉と対峙し、陰惨な笑みを覗かせる。
 『もういいじゃないか。母さんみたいに帯刀の名に殉じて一生を棒に振ることなんてない。まさか帯刀貢への報われぬ恋に殉じるつもり?知ってるんだよ、姉さん。姉さんが貢くんに想いを寄せてたことくらい当然気付いてた。でも貢くんには苗さんがいた、貢くんは姉さんなんか見向きもしなかった。忍ぶ恋は苦しい。だから僕は、』
 だから僕は、汚い手口で帯刀貢を追い詰めた。
 帯刀苗を自殺に追い込んだ張本人はこの僕、帯刀静流だ。
 それも全部姉さんのため、姉さんに幸せになってほしかったから。姉さんさえ幸せになってくれるなら他の誰を傷つけても構わなかった、帯刀貢と苗の二人が不幸になっても構わなかった。あの二人自身すら知らない秘密を暴いて突きつけても良心は痛まなかった、薫流姉さんさえ幸せになってくれるならばそれで……
 姉さんが笑ってくれるならそれで、
 『僕は姉さんが!!!!!!!!!!』
  
 痛切な独白を遮ったのは、蓮の茎のように虚空に伸びた白い腕。
 薫が静流の手に重ねて柄を掴み、自らの胸へと深々切っ先を埋める。
 
 振り払う暇もなかった。
 白銀に輝く刃が薫流の胸に半ばまで沈んだ。薫流が血を吐いた。綺麗な赤い血だった。
 口から大量の血を吐いた薫流が刀を胸に埋めたまま上体を突っ伏す。畳に屑折れた薫流を断続的な痙攣が襲う。静流は極限まで目を見開いて、最愛の姉が死に至る過程を余さず網膜に焼き付けた。
 着物の胸にじわじわ血が滲み出す。胸の傷口から流れ出た血が緩やかに刃を伝い、静流の手まで禍々しく染めかえる。
 強張った指を意志の力でこじ開けて柄を離した時、うつ伏せに倒れた薫流はすでに瀕死の状態だった。
 『ねえ、さ』
 嘘。嘘だ嘘だ嘘だこんなの僕が姉さんを殺したなんて嘘悪い冗談だ。
 恐慌を来たした静流に抱き起こされ、膝に頭を寝かされた薫流の目には半透明の膜が下りていた。
 朦朧と濁った目がやがて弟の顔で焦点を結び、鮮血に濡れた唇から喘鳴が漏れる。薫流が何か言おうとしてる、死に際に余力を振り絞り何かを伝えようとしてる。
 以心伝心、素早く意を汲み口元に耳を近づけ、姉の最期の言葉に表情を失くす。
 そして、姉は事切れた。
 弛緩した四肢を無造作に投げ出した姉は、瞼を半ば下ろし、弟の膝に頭を預けている。 
 母と姉の亡骸が横たわる座敷にて、ただ一人生き残ってしまった静流の腕から力が抜け、薫流の頭がごとりと畳に落ちる。
 『かおる、ねえさん。卑怯だ』
 最期にそんなこと言うなんて、卑怯だ。
 姉さんは子供の頃から変わらず意地が悪い。最期にそんな、重大な秘密を明かしていくなんて。僕を共犯にするなんて。
 しばらく放心状態で座り込んでいたが、やがて操り人形めいた動作で立ち上がり、二人分の血が滴る刀を拾い上げる。手のひらにずっしりこたえる刀の重みは、母と姉の命と釣り合いなお余りある。
 母の遺志を継ぎ、姉の無念を汲み。
 僕にはしなければいけないことがある。果たさねばいけないことがある。
 二人分の返り血が跳ねた障子を開け放ち、刀をひっさげて板張りの廊下にさまよいでた静流の背後、床の間に飾られた紫陽花からひとひら花弁が落ち、血の海にひたる。
 耳の奥に呪いの言霊がこだまする。

 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀莞爾の仇を討つまで。

 『帯刀世司子と薫流の無念を晴らすためならこの身を修羅道に堕としても構わない。存分に血迷い狂い斬り捨ててやろうじゃないか。それが母さんと姉さんの望みなら、今この時より帯刀静流は人の生き血を啜る魍魎となる。帯刀貢を斬るために、帯刀一族を滅ぼした元凶を断つために、手段を選ばず罪を積み重ねる約束をしてやろうじゃないか』
 喉の奥で汚泥が煮立つような笑いをたて、血塗れた刃を携えて、不吉に軋む板張りの廊下を歩き出す。 
 現世への執着は吹っ切れた。未練は断った。この手で薫流にとどめをさした瞬間に一切合財を捨て去った。
 開け放たれた障子の向こう、母と姉の亡骸が横たわる座敷から鉄錆びた血臭が漂ってくる。
 床の間の紫陽花にいつか見た光景を重ね、全身返り血に塗れた静流は心の中で反芻する。 


 血迷え。狂え。斬り捨てろ。帯刀貢を殺すまで
 僕と姉さんの人生を滅茶苦茶にした帯刀貢を地獄に送るまで――――――― 


 ―「あっ、あぁああああああああっああぁあああああああっぁあ!!!?」―
 そこで目が覚めた。
 生々しい悪夢から覚醒した直後、全身にびっしょり汗をかいてることに気付く。
 「はあっ、はあっ、はっ……」
 ベッドに跳ね起き、薄い胸板を喘がせる。心臓の動悸が跳ね回る。大量の寝汗を吸ったシーツにはどす黒い染みができていた。濡れそぼった前髪をかきあげ鉄扉を一瞥、侵入の形跡がないのを確認してのち隣に視線を移す。
 隣では、貢が上半身裸で寝ていた。
 上着を脱いで熟睡する貢の寝顔を観察、疲れ切った顔に自嘲の笑みを浮かべ、毛布から抜け出る静流。サムライが房に来て三日が経つ。三日間ずっと同じベッドで寝ている従兄の上にのしかかった静流の耳に邪悪な囁きが忍び込む。
 『血迷え。狂え。斬り捨てろ』
 『血前よ。狂え。斬り捨てろ』
 「帯刀貢を殺すまで……わかってるよ、姉さん母さん」
 帯刀貢の首に手をかけ、蜘蛛の脚が這うように指を絡め、徐徐に握力を強めていく。気道を圧迫される寝苦しさに眉間に皺が寄るもまだ起きる気配はない。いっそこのまま殺してしまおうかという誘惑が脳裏を掠める。苦痛の皺を眉間に刻んだ寝顔を見下ろすうちに心の奥底でどす黒い殺意が蠢き、指に力がこもる。
 「まだ殺さないよ」
 帯刀貢が苦しむさまを眺め、静流は恍惚と微笑む。極楽浄土にいるような微笑み。
 「もっともっともっと苦しめて殺してやる。畜生道に落ちるべきは僕じゃない、君だ」
 帯刀貢の耳朶に口を近付け、そっと囁く、
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……姉さんの遺言、確かに伝えたよ。あの時姉さんは僕に膝枕されてこう言ったんだ。僕たちは同じ穴の狢だ、僕と姉さん、君と苗さんは――……」
 「………静流?」
 唐突に帯刀貢が目を開けた。
 反射的に首から手を放す。 
 「おはよう、貢くん」
 最前まで首を絞めていたことなど感じさせないにこやかさで挨拶、その時にはもう帯刀貢の腰から下りて隣に座っていた。瞬き二回、完全に覚醒した帯刀貢が首の違和感をいぶかしむように喉をさするのに目を細め、静流は声をかける。
 「貢くん疲れてる?」
 「いいや」
 「ならちょうどいいや、久しぶりに稽古に付き合ってよ」
 ベッドから腰を上げ、スニーカーを履く。ベッドの下に手を突っ込んで取り出したのはレッドワークの廃棄物、荒削りな鉄パイプが二本。片方の鉄パイプを困惑する貢に握らせ、静流は笑みを深める。
 「修行熱心な貢くんのことだ、今日もどうせ剣の稽古するんでしょ?般若心経の読経と写経と同じ日課だものね。せっかくだから僕に付き合ってよ。場所は……そうだな、展望台がいい。たまには外で体を動かすのも悪くない。貢くんだっていつも同じ型をなぞるだけじゃ飽きるでしょ?久しぶりに討ち合いしようよ」 
 「いや、俺は……」
 「いいでしょ?貢くんの太刀筋を見たいんだ。それとも刑務所に来て以来、修行怠けてたせいで腕が鈍ったとか?」
 揶揄する口調で挑発すれば、静流に気圧されて鉄パイプを受け取った貢の顔がプライドを刺激されたらしく引き締まる。
 狙い通りの展開にほくそ笑み、静流は先に立って歩き出す。 
 鉄扉を開け放って廊下に出た静流は、既視感を刺激されて振り返る。
 「どうした」
 開け放たれた鉄扉の向こう側、殺風景な房にサムライがひとり佇んでいる。
 「……なんでもない。ここに来る前、これとそっくり同じことがあったなって思ってさ。ちょっと懐かしくなったんだ」

 あの時。
 開け放たれた障子の向こうにあったのは、畳一面の血の海に横たわる二人の亡骸。
 血に濡れた手に握り締めていたのは鈍器の鉄パイプではなく、正真正銘の刀。

 感慨深げに房を見渡し、無意識に姉の面影を探していた静流は、不審げにこちらを見返すサムライに気付いて照れ笑いをする。
 殺風景な房のどこにもあの日の紫陽花は見当たらない。
 だから僕は、本心を隠してこう言える。
 「行こう貢くん。言っとくけど、手加減しないよ」
 討ち合い中の事故に見せかけて帯刀貢を殺すことはできないかと、頭の中で策を巡らしながら。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050528022224 | 編集

 「指一本でもレイジにふれたら殺すぞ」
 俺の喉がこんな低い声出せるなんて知らなかった。
 行動を起こしたのは次の瞬間、俺を両脇から押さえ付けた看守二人がレイジのフェラチオに気を取られてる間に反撃に転じた。
 欲情と嫌悪の狭間で看守二人は興奮していた。
 喉仏がごくり起伏して生唾を嚥下する。
 飼い主に命じられるがまま仰向けに寝転がり、無防備に腹を見せた犬の股間に顔を埋めてペニスを吸うレイジ。
 赤黒く尖った醜悪なペニスに舌を絡めて唾液を捏ねる音が粘着質に響き、レイジの顎が涎に濡れ光る。
 萎えた手を振りほどくのは簡単だった。
 激しい首振りで肩に乗った手を揺り落とし、看守の怒号に背中を向け、体の奥底から突き上げる憤怒の衝動に駆られて跳躍。靴裏で床を蹴り、今しも事をおっぱじめようとしてるレイジと犬の間に体当たりで割り込む。ズボンを脱がされたレイジの背中にのしかかった犬に肩から激突、虚空に吹っ飛んだ犬が哀れっぽい鳴き声を上げる。
 「おおハル、可哀想なハルよ!?貴様私のハルになんてことを、動物虐待で訴えるぞ!!」
 「その台詞そっくり返すぜ狂犬家!」
 ハルを庇い起こした所長に非難を浴びせられても動じない。後ろ手に手錠かけられたまま床に片膝付き、所長に向き直る。
 床に倒れ伏せたレイジは小さく呻いている。
 「大丈夫かレイジ、しっかりしろ」
 「痛って……ロンに貞操守られるなんて落ちぶれたな、俺も」
 「言ってる場合かよ」
 虚勢まじりに苦笑するレイジに泣きたくなる。こんな時でも俺を心配させないよう笑ったふりをする、不器用な優しさに胸が痛む。
 ぐったりうつ伏せたまま、後ろ手を拘束されているために床に手を付き上体を支えることもできず、腰を上擦らせるレイジを所長から庇うように移動する。
 所長は怒り心頭に発していた。世に言う逆ギレだ。
 瀟洒な縁なし眼鏡の奥、憎悪にぎらつく目を極限まで見開き、神経質に顔面を痙攣させる。体重こそ違えどタジマそっくりの小便ちびりそうに恐ろしい形相だった。
 「ハルよ、襲え!!」
 怒りで満面を充血させた所長が命令を飛ばし、ハルが咆哮する。
 まずい、食い殺される。レイジは床に突っ伏したまま、起き上がろうにもバランスがとれず緩慢な動作で頭を揺らしている。
 俺が守ってやれなきゃ他に誰がレイジを守ってやれる?
 神頼みはやめだ。
 レイジの胸で輝く十字架が何をしてくれた?
 傷だらけの十字架を掴んでみじめったらしく天に慈悲を乞うのはやめだ、気まぐれで冷酷な神様が信者の献身に報いずコイツを見捨てるつもりなら俺がレイジを助ける、天に唾吐いてやる。
 覚悟を決め己を奮い立たせ、ハルが助走から跳躍に至るまでの三秒間で反撃に移る。机上にずらり並んだ写真立てが目に飛び込んだ瞬間に奇策が閃き、床を蹴る。机に思い切り体をぶつけた衝撃で写真立てが雪崩落ち、ハルの鼻面を奇襲する。
 写真立てに鼻面をぶつけたハルが怯んだ隙に跳ね起き、怒号する。
 「くたばれ変態野郎!!」
 鋭い呼気を吐き、足元の写真立てを蹴り上げる。
 スニーカーのつま先に蹴り上げられた写真立ては思惑通りに宙を舞い、あっぱれ見事に所長の額に突き刺さった。
 写真立ての角が額に突き刺さった所長が女々しい悲鳴を上げる。
 まさかここまで上手くいくなんて思わなかった、笑い出したいくらい愉快な気持ちになった。
 笑いの発作に襲われた俺の眼前、額から血を垂れ流した所長が「ひあ、ああああああっぁあああっ、あ!血が、血がこんなに……はやく医務室で輸血をしなければ早くああこんなにも血が、死、死んでしまう!!」と悶絶、大袈裟な痛がりようが滑稽味を醸し出す。
 他人をいたぶるのは大好きでも自分が痛いのは苦手ってか?
 徹底して自己本位な態度にタジマとの血の繋がりを痛感、不快感で口の中が苦くなる。
 「いいかレイジは俺の物だ、俺はレイジが犬にヤられるとこ黙って見てるほどびびりでもなけりゃ腰抜けでもねえ、相棒が犬に犯されるとこ指咥えて見てるくらいだったら舌噛み切って死んだほうがマシだ!!いいか、コイツに手をだすな。これはお前らに言ってるんだ、額押さえて大袈裟にのたうちまわってる獣姦マニアの変態野郎とその忠実なる下僕のバカ犬に言ってるんだ」
 息継ぎもせず言い切り、凝縮した怒気を全身から放散。
 頭を垂らしたハルとその上に覆いかぶさった所長を牽制する。
 「お前らがレイジ犯すなら、今度は俺がお前らを犯す。犬のケツにペニスぶちこんで痔になるまでカマ掘ってやる。わんころだけじゃねえ、てめえも同じだ所長。兄弟血は争えねえって本当だな、タジマそっくりのゲス野郎だてめえは。ゲスはゲスらしく這いつくばって俺の吐いた唾舐めるのがお似合いだよ」
 「き、さま、誰に口をきいてる!?」
 激痛より怒りが勝った所長の目に火花が炸裂、血に汚れた顔面をひくつかせる。
 「あんただよタジマ兄。人間の女や男に相手にされねえから仕方なく犬に慰めてもらってる性的不能者」
 俺の口から出る声が、俺の声じゃないみたいに聞こえる。
 所長の口元が屈辱にわななくのを痛快に眺め、懐にとびこむ。
 鎖をかちゃかちゃ鳴らして手錠と格闘してるらしいレイジが背後で何か言うが無視する。
 所長の額にぱっくり傷口が開いてる。
 ちょうどその傷口の上、秀でた額にガツンと頭突きを見舞う。
 額と額が衝突する鈍い音、頭蓋骨に響く衝撃。至近で接触、密着した所長にさらに額をごり押しして傷口を抉る。
 「いいか、今度俺のレイジに手えだしてみろ。お前を裸にして四つん這いにして全身に犬の糞ぬりつけてやる、顔に小便ひっかけて犬の糞食わせてやる。獣姦マニアの変態野郎はスカトロだってイケんだろ?レイジ虐めに飽きたら俺が相手してやるよ。エリートのプライドなんざ捨てちまえ、くだんねえ。あんたがどんだけ悪あがきしたところで東京プリズン出れる見込みなんざねーよ」
 傷口を抉られた所長が悲鳴をあげる。構うもんか。
 容赦なく額をごり押して削りながら顔一杯に笑みを広げる。
 「わ、たしに出世の見込みがないと?鞭に怯える家畜の分際で飼い主を侮辱する気か!?」
 所長がヒステリックに叫ぶ。囚人に侮辱されて自尊心がひどく傷付いたらしい。知るか。何度も何度も眉間に額をぶつける、眉間の突き刺さった傷口が開いて血の飛沫がしぶく。
 傷口から飛び散った血が顔にかかり、頬に赤い斑点が跳ねる。
 恐怖と屈辱と憤怒と苦痛をごった煮した世にも醜悪な顔にタジマの面影が重なる。
 俺と鍵屋崎をさんざん虐めて天誅くだって東京プリズンを去ったタジマの顔。
 いや、違う。天誅を下したのは神様じゃない、レイジだ。
 レイジはいつだって俺を助けてくれた、どん底から救い上げてくれた。 
 今度は俺が助ける番だ。
 借りを返す番だ。
 「殺してやる」
 低く、宣告する。所長の顔が強張る。さあ今だ今殺せもう二度とレイジに近付けないように手を出せないように。
 「どうせ俺は人殺しだ、今更前科が一つ増えるくらい大したことねえ。あんた殺して殺されるなら本望だ」
 「やめ、たまえ君。私を殺したら上の人間が黙ってないぞ」
 ぜいぜい耳障りな喘鳴を漏らしながら反駁する諦め悪い態度を鼻で笑い飛ばす。
 「へえ、そんなに上から大事にされてる人間がこんな砂漠くんだりまで飛ばされてくるなんざ妙な話もあったもんだ。いい加減認めちまえよ所長、あんたは左遷されたんだ。上にとっちゃどうでもいい存在なんだ。クビにすんのも世間体悪いから囚人どもの反感煽りに煽って殺されてくれるように東京プリズンに送られたわけだ。実質上の死刑だな。なら俺が今ここであんた殺すのは上の思惑通りじゃねえか、いいさ上の思惑とやらに乗ってやるよ、あんた殺されたって聞いて上の人間が万歳三唱するとこ目に浮かぶぜ!!」
 そうだ殺せ、殺してしまえ。息の根を止めてしまえ。床に這いつくばった所長めがけ足を振り上げる。手が使えなくても人は殺せる。
 「看守に命じる!ただちにこの家畜を拘束、半永久的に独居房に閉じ込めておけ!」
 所長が居丈高に命令、金縛りが解けた看守が背後から俺にのしかかり押し倒す。看守二人がかりで来られちゃ身も蓋もねえ。
 背中に一人がのしかかりもう一人が俺の肩を押さえ込む、倒れたはずみに下顎が床に激突して垂直に衝撃が突き抜ける。
 喧嘩で顎を殴られるのは致命的、脳みそに直接ダメージが来る。
 頭蓋骨の中で脳みそを揺らされ、視界がぐにゃりと歪む。四肢がだらりと垂れ下がる。
 顎を強打し眩暈に襲われ、そのまま体の均衡を失って床に倒れ伏した俺の頭上で息を呑む気配がする。
 看守に押さえ付けられた姿勢から上目遣いに見れば、レイジが呆然としていた。
 「なんだよ、その顔……」
 「ははははははははははっははははははははっはははっ!!」
 哄笑が爆発する。不自由な体勢から顔をねじり向き直れば、勝ち誇ったように所長が笑っていた。
 洒落た縁なし眼鏡の奥、極限まで見開かれた目には狂気が渦巻いている。喜悦に口元を緩めた所長が不意に立ち上がり接近、上体を突っ伏した俺の後ろ襟をぐいと掴んで引き下ろす。弛んだ襟刳りが肩甲骨が覗くまで引き下げられ、うなじが外気に晒される。
 「これを見ろレイジ。君を助けに来た彼は、この礼儀知らずで身の程知らずな家畜は首の後ろにいやらしい痣を作っているぞ!」
 「!?な、」
 俺の後ろ襟を限界ぎりぎりまで引き下げ、声高に快哉を叫ぶ所長。馬鹿な、看守はこんなトコにキスしなかった。この痣はいつ……
 そこまで考えてハッとする。
 今朝、いや、正確には昨日の夜。
 「あいつ……!」
 犯人はホセしかいない。朝起きた時も奇妙に思ったのだ、俺は風邪っぴきなのに上半身裸で寝かされていた。間違いない、うなじにキスマークつけた犯人はホセだ。顔から血の気を失った俺とレイジを見比べて所長が嘲る。
 「今この瞬間にはっきりした。君は友人が捕まったと聞いて早急に助けに来たらしいが、それならうなじの痣の説明がつかない。昨晩レイジがひとり身悶えていた頃君はどこで何をしていた。レイジの淫らな姿態に欲情をかきたてられ一夜の慰みに気心の知れた囚人を訪ねたのではないかね?つまり君はレイジがひとり苦しんでいた頃他の囚人と情事に耽っていたのだ!!」
 「ちがっ、これは………」
 「弁解は通じない。君がレイジ以外の男と体を通じたのは事実、でなければ何故うなじに痣ができる?レイジを助けに来たのもポーズに違いない。レイジを裏切り他の囚人と寝た罪の意識を相殺せんと食堂で椅子を振り回す極端な行動にでた、違うか」
 「でたらめだ!」
 心臓が爆発しそうに高鳴る。どうしてこんなことになった?ホセへの呪詛と所長への罵倒が脳裏に渦巻く。所長は満足げに笑ってる。醜態さらす俺のうなじに指を添えて痣をさすり、レイジを振り返る。
 「ははっ、無様だなレイジ!ハルのペニスを咥えてまで守ろうとした友人に手酷く裏切られた気持ちはどうだ。うなじに淫らな痣まで作っておきながら他の囚人に抱かれた素振りなどかけらも見せず、献身の演技で自己陶酔に酔った彼をどう思うか是非とも感想を聞きたいね」
 信じるなレイジ。
 看守に押さえ込まれたまま、縋るような眼差しでレイジを仰ぐ。
 俺は他の男に抱かれてなんかいない、お前を裏切ったりなんかしてない、見捨ててなんかない!レイジは虚無に呑まれた瞳でこっちを見つめていた。前髪の奥でぼんやり見開かれた目にはあらゆる感情が窺えない。俺の首筋の痣。身の潔白を訴える俺と糾弾する所長。
 それらを順番に見比べて、漸く口を開く。
 「ロン。お前、俺を裏切ったのか?」
 抑揚のない声だった。怒りも憎しみもそこにはない、ただ事実を確認するだけの感情が欠落した声音。俺は、言葉を失った。レイジの顔にはまだ犬の精液が飛び散って意地汚くミルクを啜ったようなありさま。
 硝子めいた透明度の瞳に俺の顔が映る。
 裏切り者と決め付けられたショックに強張った顔。
 「昨日どこに行ってたんだ。誰の所にいたんだ」
 「俺を疑ってんのか?」
 情けなく声が震えた。
 詰問というにはあまりに優しい口調でレイジは言ったが、目はちっとも笑ってない。唇に微笑を上塗り、出来すぎなほど整った顔に希薄な笑みを浮かべているが、前髪に隠れた瞳だけが無表情に虚空を見据えている。怖かった。圧倒的な恐怖を感じた。レイジの目は俺を見てない、内向して自閉して自分の内側の虚無を映している。
 「違う、これは……これは勝手につけられたんだ、俺の知らない間に、俺が寝てる間に!俺は誰にも抱かれてなんかない、お前以外の男に抱かれたいとも思わない、おい聞いてんのかよ、信じろよレイジっ!!」 
 看守の手を振り落とし片膝立ち、今にも駆け出しそうに前のめりになるも、レイジは沈黙したままだ。衝動的に飛び出しかけた俺の肩に看守が手をかけ引き戻す。「連れて行け」と所長が命令、看守が二人がかりで俺を引きずっていく。レイジと距離が空く。
 嫌だ、離せ、独居房になんか行きたくねえ!
 俺は滅茶苦茶に暴れる、首を振り肩を揺すり足を蹴り上げ抵抗するも看守二人に挟まれちゃたちうちできない。レイジは微動だにせず、看守に挟まれて遠ざかる俺を見送ってる。
 レイジのそばに所長が寄り、白濁した精液に汚れたその顔に指で触れる。
 半開きの唇をなぞり、ねっとりした白濁をすくい、人さし指を口に含む。
 「何とか言えよレイジ、俺は他の男になんか抱かれてねえ、お前以外の男に抱かれたりするもんか!!なんだよその腑抜けた面は、王様の名が泣くぜ!!どうして何も言わないんだよ、そうだよなロンお前は浮気なんかしねえよなって笑い飛ばしてくれねえんだよ、俺の貞操守るために犬のペニスまで咥えた肝心のお前がどうして信じてくれないんだよっ!!?」
 口の中で指を転がしながら所長がほくそ笑み、もう片方の手でレイジの頭をなでる。レイジはされるがまま首を項垂れていた。俺の方を見ようともしない、名前を呼ぼうともしない。なんだこれ。マジかよ。何もかもすっかり説明して誤解を解こうにも俺は後ろ手に拘束されて両脇を看守に挟まれて連行される途中で、今しも扉が開かれ廊下に引きずり出されて―……
 『不可以信任!!』
 所長を信じるな!!
 眼前で扉が閉ざされ、二人が消える。
 所長室から連れ出される寸前に見た光景は、放心状態のレイジの頭を抱き、髪の毛を梳く所長の姿だった。

 あれから三日が経った。
 俺はずっと独居房の暗闇を這いずりまわってる。鼻は死んだ。糞尿と吐寫物、床一面の汚物に塗れて横たわってると時間の感覚が狂ってくる。一日二回、鉄扉下部から出し入れされるメシだけが時間を教えてくれる。食器を出し入れする時しか鉄扉は開かない。俺の餌やりはおしゃべりな曽根崎が担当してる。曽根崎は俺を手懐けようと必死だが、今んとこてんで効果がなくてしょげかえってるようだ。
 「じゃあ、明日また来るよ。何か欲しいものあったら遠慮なく言って、都合するから」
 「鼻栓が欲しい」
 「わかった」
 冗談だよ。わかれよ。
 自信満々請け負い、曽根崎が食器を回収する。ワゴンの車輪がごろごろと床を転がる。独居房に入れられて三日、初めて俺が頼ってくれたんで上機嫌、鼻歌まじりに去っていく曽根崎の足音が廊下の奥に消えるのを待ち、毒づく。
 「俺までお稚児さんにする気かよ、ぺド野郎」  
 激しく咳をする。喉が痛い。まだ風邪が治らない。当たり前だ、こんな最悪の環境じゃ治るもんも治らない。独居房は汚物溜めだ。いつここから出られるかはっきりとは知らされてない。所長の額を写真立ての角で殴打したのだ、最低一週間は入れられっぱなしだろう。ひょっとしたら一生出られないかもしれない、と弱気になる。
 物思いを打ち破ったのは、乱暴に壁を蹴り付ける音。
 「やけに大人しいじゃんか、半々」 
 分厚いコンクリ壁で隔てられた隣の房から声がする。野太い濁声で吠えたのは、俺と同じ日に独居房に放り込まれて以来日の光を浴びてない凱だ。初日に一回房を出されてシャワー浴びてる俺はまだマシだが、あれ以来一回も外に出てない凱は頭のてっぺんからつま先まで糞まみれ、ひどい状態になってるだろうなと想像する。
 「あたりまえだ。三日間も独居房くらいこんでみろ、くそったれた人生について哲学的に考えたくもなるってもんさ」
 境の壁に身を摺り寄せ、喉の奥から声を搾り出す。
 実際凱は元気だ。三日経っても弱った素振りなんざ微塵も見せない。たとえ虚勢でも俺に発破かけられるんだから大したもの。認めたくはないが東棟最大の中国系派閥、血気さかんな三百人を締め上げるボスは肝の据わり方が違うなと感心する。
 「お前はどうだ、凱。そろそろ反省したくなったか?看守の足元に土下座して涙ながらに訴えたら出してくれるかもしれねえぜ。『後生だから後生だから』って手え合わせて哀願したらどうだ、もともと巻き込まれただけなんだし」
 「おい、今なんっつた半々?」
 凱が気色ばむ。
 「誰が『巻き込まれた』ってんだ?ふざけたことぬかしてっと青竜刀で脳天から股間まで真っ二つにするぞ。いいか、ありゃあ俺が好きでやったんだ。お前に巻き込まれたなんてとんでもねえ、ただ俺が気に入らなかっただけだ。調子づいた子分に拳骨くれんのがカシラの役目だ、実力じゃレイジにかなわねえくせに本人いないところで威勢よく吠えやがる連中が大っ嫌いなんだよ俺は!!」
 「レイジがいてもいなくても吠えてるもんな、お前」
 壁の向こうで凱が鼻白む気配。やり、一本取った。
 三日間独居房に閉じ込められても狂わずにいられるのは、隣合った房の凱とビバリーがさかんに話しかけてくるからだ。鼻が麻痺した闇の底、金属の輪に擦れた手首がじくじく膿みだしても辛うじて正気を保っていられるのはビバリーと凱が話し相手になってくれるおかげだ。
 俺ひとりだったらとっくに発狂してた。
 ビバリーはともかく凱に感謝すんのは癪だが、コイツもたまには役に立つ。
 「ロンさん、生きてます?」 
 反対側の壁向こうから死にぞこないの声がとどく。ビバリーだ。
 「何とか。お前は……死んでねーなら生きてるか」
 「僕もう駄目っス。僕のまわりで祝福のラッパ吹き鳴らす天使の幻覚が見えるんス。ああ、翼の生えたスザンナが迎えに……」
 「正気かよ?あとちょっとの辛抱だから頑張れ」
 壁を蹴ってビバリーを励ます。
 俺ら三人の中でいちばん重症なのは事によるとビバリーかもしれない、幻覚が見え出したら人間終わりだ。
 「リョウさん、僕がついてなくて大丈夫でしょうか。ちゃんとご飯食べてるでしょうか。ご飯に覚せい剤ふりかけてないでしょうか」
 「お前、こんなになってもまだアイツのこと心配してんのかよ。お人よしが過ぎるぞ」
 「ロンさんにだけは言われたくないッス」
 凱が爆笑する。うるせえ。
 まあ、ビバリーが独居房に入れられたのも元はと言えば俺のせいだ。俺のとばっちりで独居房入りくらったんだから二・三日もたちゃ出されるだろうと楽観してるが、それまで正気がもつかどうか疑わしい。
 「ビバリー、気をしっかりもて。お前の頭がパーになったら誰がリョウの介護してやるんだ?スザンナの弔いだってちゃんとしてやらなきゃ化けて出るぞ。心霊現象で裸電球が点いたり消えたり砕け散ったりでおちおち寝てられなくなるぞ」
 「ロンさん僕はもう駄目っス、あと頼みます……」
 「遺言は聞かねえぞ。お前が独居房で死んだら巻き込んだ俺のせいだ、意地でも生き残れ」
 壁越しにビバリーを励ます俺のもとへ規則的な靴音が近付いてくる。誰だ?曽根崎か?さっき来たばかりなのにとうんざりする。鉄扉の前で靴音が止む。金属の鍵が触れ合う音に続いてノブが回り、房の暗闇に光が射しこむ。  
 「ロン、出ろ。年季明けだ」
 「はあ!?」
 喜びより驚きが先に立った。
 鉄扉を開けた看守が鼻に皺を寄せ、俺の肘を掴んで無理矢理引きずり出す。突然の展開に頭が追いつかない。左右の房を交互に見比べてみるがビバリーと凱が出された形跡はない。
 なんで俺だけ?乱闘騒ぎの主犯は俺なのに。
 看守に肘を掴まれて立たされた俺は、釈然としない面持ちで食ってかかる。
 「ちょっと待てよ、なんで俺だけ釈放なんだ?ビバリーと凱は、」
 「こいつらについては何も聞いてない。まだ当分は独居房だ」
 「おかしいだろそんなの!!」 
 勿論釈放されたのは嬉しい、嬉しくないわけがない。このままあそこにいたら頭がおかしくなってた。でも、納得できない。乱闘騒ぎの主犯の俺が真っ先に釈放されて、俺のとばっちりくらっただけのビバリーと凱が独居房に居残りなんて理不尽な仕打ち納得できるわけがねえ。
 「俺を出すんなら二人も出せよ、凱はともかくビバリーはとばっちりくらっただけ、本当ならもっと早く出れるはずだったんだ!ビバリーは俺を助けようとして乱闘に加わったんだ、ただ二階の手すりからダイブしただけだ、俺みたいに椅子ぶん回して囚人の頭かち割ったわけでもねえのに……」
 「ロンさん、お元気で」
 「え?」
 悟りきった声に向き直る。
 「僕のことなら気にしないでくださいっス。僕だって凱さんと同じっス。ロンさんに命令されたわけじゃない、誰に言われたわけでもない、僕自身がピンチのロンさん放っておけなくて紐なしバンジーやったんスから……ロンさんが負い目感じる必要なんかこれっぽっちもないっス。さあ、大手振ってレイジさんとこに帰ってください」
 「ビバリーの言う通りだ、半々。てめえに心配されるなんざ胸糞悪い、とっとと行っちまえ。壁一枚隔てて同じ肥溜めに顔突っ込んでた半々とお別れできてせいせいすらあ」
 「凱……、」
 壁に穿たれた鉄扉の向こう、置き去りにされる二人の行く末を考えてやりきれなさが胸を締め付ける。躊躇する俺の肘を掴み、看守が大股に歩き出す。
 看守に引きずられるがままふらつく足取りで歩き、手錠を外されてシャワー室に放り込まれる。
 シャワーを浴びて人心地つき、看守の背に従って廊下を歩く。
 「なあ、なんで俺だけ先に出されたんだ。所長はなに企んでんだ」
 「恩知らずなガキだな。素直に喜べよ」
 引率役の看守がせせら笑うが、不安感は拭えない。一歩足を踏み出すごとに嫌な予感が現実に変わりゆく確信。所長の額に写真立ての角を突き刺して怪我負わせた俺がこんなに早く釈放されるなんて絶対おかしい、裏で何か企んでるに決まってる。
 いや、それだけじゃない。
 俺の足を鈍らせるのは所長への疑惑だけじゃない。俺の足を鈍らせる最大の原因は……
 『俺を裏切ったのか、ロン』
 『昨日どこに行ってたんだ。誰のところにいたんだ』
 「…………っ!」
 強く唇を噛む。体の脇で握りこぶしを作る。
 三日前、レイジは言った。俺のうなじに咲いた薄紅の痣を見て、裏切られたと誤解した。釈明する時間さえ貰えなかった。これはホセにつけられた痣だ、俺自身あの時初めて気付いたんだと弁解する暇もなく所長室から引きずり出された俺の目に焼き付いたのは、レイジの空白の表情。
 レイジと会うのが怖い。
 どんな顔してアイツに会えばいいかわからねえ。
 次第に房が近付いてくる。俺とレイジに割り当てられた房。
 洗いたての上着の胸を掴み、高鳴る心臓をどやしつける。
 レイジは俺が他の男に抱かれたと誤解した。俺の浮気を疑ってる。
 キレたら手がつけられない暴君と化すレイジにどうやって真実を訴えればいい?いや、そもそも俺がホセの房に泊まったのは事実、ぐっすり熟睡してる間に上着を脱がされてあちこちさわられたのは事実なのだ。馬鹿正直に真相をバラしたところでレイジを逆上させる結果になりかねない。
 廊下の先に鉄扉が見えてくる。あの中にレイジがいる。
 不意に音痴な鼻歌が流れてくる。お決まりのストレンジ・フルーツ。
 久しぶりに耳にするレイジの歌声に胸が騒ぐ。靴裏が廊下に貼り付く。看守はどんどん先に行く。棒立ちになった俺がちゃんとついてきてるか確認もせず、前だけ見てずんずん突き進む。仕方なく歩行を再開、看守の背中に追いつく。
 鉄扉の前で看守が立ち止まり、ノブに手をかける。
 「レイジ、いるか。相棒のご帰還だ。せいぜい祝ってやれ」
 唐突に鼻歌が途切れる。
 看守がノブを捻り、耳障りに軋みながら鉄扉が開く。天井の真ん中に吊られた裸電球の光が一条漏れて足元を照らす。
 呆然と看守の背後に立ち竦む。どうしても一歩を踏み出す決心がつかなかった。いつまでも廊下でぐずぐずしてる俺をあやしむように看守が振り返り、腕を掴んで引っ張り込む。
 「たった三日離れてただけでよそよそしい態度とるなよ、王様の飼い猫が。それとも何か、恩知らずな猫はたった三日で飼い主の顔忘れちまったか」
 「黙れよ。用が済んだらとっとと出てけ」
 看守が肩を竦めて廊下に出る。物々しく鉄扉が閉じ、残響が大気を震わす。房に取り残された俺は緊張の面持ちで生唾を嚥下、じっとり湿った手のひらをズボンになすりつけ汗を拭い、深呼吸で顔を上げる。いた。レイジがいた。ベッドの端に腰掛けて聖書を読んでいた。
 申し分なく長い足を優雅に組み、退屈そうな顔でぱらぱらページをめくってる。
 俺が入ってきたことには当然気付いてるはずなのに、こっちを見ようともしない。
 「レイ、」
 「おかえり、ロン」
 語尾を遮るようにレイジが口を開き、ぱたんと聖書を閉じて顔を上げる。ぞっとした。レイジはこの上なく穏やかな笑みを浮かべているが、レイジの笑顔を見慣れた俺は「これは偽物だ」と直感する。不安定かつ不均衡な笑顔。口元は笑っていても目は全然笑ってない、顔の上と下で温度差が凄まじい笑顔。膝から聖書をどけたレイジがこっちに来るようぞんざいに顎をしゃくる。
 三日ぶりに会ったんだ。いつものレイジなら俺にとびついて髪をぐしゃぐしゃにかき回すはずなのに、ベッドから立とうともしない。わざわざベッドから腰を上げる価値もないというように、指一本動かす労力すら惜しむようにベッドの王座に腰掛けている。
 「三日も独居房入り食らったわりにゃ元気そうだな。さっすがスラム育ちの野良猫はしぶとい」
 口の端を皮肉げに吊り上げるレイジに気圧されながらも、のろのろ足を進めて前に出る。
 「俺にさわってもらえなくて三日間寂しかった?」
 「……冗談。お前に寝込み襲われずにすんでホッとしてた」
 レイジの目がスッと細まり、獰猛な眼光を放つ。やっぱり変だ。今日のレイジは様子はおかしい。なんだって俺はレイジに尋問されてるんだ、何もやましいことなんかねえのに……だんだん腹が立ってきた。レイジはまさか俺が他の男に抱かれたと本気で疑ってんのか?所長の言う通りレイジを裏切ったと?
 「この際だからちゃんと言っとくけどレイジ、三日前のあれは」
 続く言葉は、レイジに腕を引かれて遮られた。突然ベッドから腰を浮かしたレイジが俺の腕を掴み自分の方へと引き寄せる。背中に衝撃、スプリングが軋む音。ベッドに投げ出された俺の上にレイジがのしかかり、囁く。
 「三日間会えなくて寂しかったよ」
 前髪がぱらりと落ちかかり、硝子めいて透明な瞳が現れる。
 「だから、お前と俺とお揃いにしようと思うんだ。三日間離れててもお前が俺のこと忘れたりしねえように、他の男に抱かれる時もお前は俺の物だって思い知らせてやろうって」
 喉から間抜けな呼吸が漏れる。俺をベッドに組み敷いたレイジがじゃれるようにキスをする。額に、頬に、首筋に。唇だけを避けて。
 俺の額に手をやり前髪をかきあげたレイジが、もう片方の手でズボンのポケットから何かを取り出す。レイジの指先で光る物に目を凝らす。裸電球の光に濡れて鋭利に輝くそれは……切っ先が尖った安全ピン。
 反射的に思い出す。
 いつだったかボイラー室に引きずりこまれて、タジマに耳朶を破かれそうになった時のことを。
 「俺に黙って浮気したいけない子にお仕置きだ」
 裸電球の光を弾く安全ピンを眉間に翳し、耳朶の柔らかさを指に馴染ませるように揉み解しながらレイジが微笑む。
 その瞬間、俺は理解した。
 今俺の目の前にいるのは気さくな王様じゃない、嫉妬に狂った暴君だと。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050527122739 | 編集

 展望台で異常事態が発生した。
 「サムライが立ち稽古だとよ」
 「へえ、珍しい。目立つの嫌いなサムライが表で立ち稽古なんざどういう風の吹き回しだ」
 「相手は誰だ」
 「こないだ来たシズルとかいう名前の新入り」
 「あの女男か。なんでもサムライの従弟だって噂じゃねえか」
 「従兄弟!?似ってねー」
 読書を中断された腹立たしさも相俟って神経がささくれだち、ベッドから鉄扉まで大股に歩く。
 勢い良く鉄扉を開け放ち、「廊下を走るな」と注意しようとして意外な人物の名に立ち竦む。十数人から成る囚人の集団が興奮に浮き足立って展望台の方角へと駆けて行くのを見届け、感傷のため息を吐く。
 立ち稽古、か。相変わらず仲がいいことだな。
 しかし僕には関係ない、サムライは僕にとって過去の人間だ。
 房に引っ込んで読書を再開するもページをめくる手に動揺がでる。サムライの事を意識から閉め出そうと試みるもうまくいかない、僕がこうして読書してる間もサムライは静流と一緒にいる、展望台で立ち稽古をしているのだ。だからどうした?放っておけばいいじゃないか。
 三日前、僕はサムライにはっきりと別れを告げられた。
 サムライは僕の元から立ち去った。僕はサムライに捨てられた。かつて僕の友人だったサムライはもうこの世に存在しないのだ、と繰り返し自分に言い聞かせるも視線が文字を上滑りするもどかしい感覚に辟易、荒々しく本を閉じて腰を上げる。
 発作的に僕は走り出した。
 鉄扉を開け放ち、廊下にとびだす。最初は小走りに、廊下の途中からは肘振りの全力疾走で角を曲がり階段を駆け下り目的地に到着。
 踊り場の壁に穿たれた窓を通り抜け、展望台を踏む。
 展望台にはすでに人だかりができていた。
 黄昏に暮れなずむ空の下、展望台中央にて対峙するのは……
 サムライと静流。
 「………くそ、こんなはずじゃなかったのに。何をしてるんだ僕は」
 自分の行動に説明がつかない。
 僕はこれまで意図的にサムライを避けてきた。食堂で遠くから見かけることはあったが決して彼のそばに寄らなかった。それなのに今日に限って展望台にやってきてしまった。矛盾してる。自己嫌悪に苛まれつつ先着した野次馬の間を縫いサムライに接近。サムライの位置からは最前列の人垣が障壁となって僕の姿は見えないはず。
 「手加減なしだよ、貢くん。僕だって随分強くなったんだから」
 悪戯っぽい声に振り向く。
 静流がいた。
 瞑想で集中力を高めるサムライとは対照的に余裕の笑みを浮かべている。長袖に包まれた細腕で危うげなく鉄パイプを弄ぶ様は、物心ついた頃から刀を持たされてきた者特有の慣れを感じさせた。
 掌中の得物に目が吸い寄せられる。
 色白の綺麗な手。
 白魚の指には真珠の光沢の爪が並んでいる。無骨な鉄パイプを持つよりは扇子を握る方が余程似つかわしい手。
 鉄パイプの表面をさする手を眺めるうちに違和感が膨らむ。
 たかが立ち稽古、ほどほどに手加減すれば重傷を負う心配はない。せいぜいかすり傷程度で済むはず。
 ましてや死亡する危険性などない、はずだ。
 なのに何故、こんなに不安なんだ。
 静流の手を凝視、激しい不安に苛まれ生唾を嚥下。
 一体何が不安を掻き立てるんだと手を観察、違和感の原因を突き止める。
 静流の手に異常な力が込められている。
 鉄パイプが軋むほど握力を込めてるせいで蝋細工の如く五指が強張っているのだ、これでは指の方が砕けてしまうと危惧するくらいに。
 顔にははにかむような笑みを浮かべ、得物を握る手には血を絞る力を込め。
 西空に沈みゆく夕日の照り返しを受け、溶鉱炉で溶かしたような朱銀に輝く鉄パイプを緩慢な動作で構える。
 「懐かしい。貢くんと立ち稽古なんて何年ぶりかな」
 「子供の頃以来だ」
 サムライがそっけなく答え、鉄パイプを振り上げた静流に応じて正眼の構えをとる。隙のない構え。
 「どちらが勝っても負けても恨みっこなしだ」
 静流が悪戯っぽく付け加え、鉄パイプの根元から切っ先まで手を滑らして殺気を通わす。僕は見た、何の変哲もない鉄パイプが凶器に変わる瞬間を。無機物に命が通う奇跡の一刹那を。
 「姉さん、母さん。しかと僕の戦いを見てください。帯刀分家が嫡男、帯刀静流が参ります」
 鋭い呼気を吐き、地を蹴る。  
 癖のない前髪が額を流れる。先攻は静流。
 颯爽と展望台を駆け、流れる動作で鉄パイプを振り上げる。
 綺麗な弧を描いて得物が打ち下ろされるも最前までそこにいたサムライの姿が消失、愚風を纏った凶器が残像を断ち割る。
 瞬時に横に移動、鉄パイプの軌道上から逸れたサムライの目に感嘆の色が浮かぶ。実際昔と比べて格段に技量が向上しているのだろう静流は初撃をかわされてもたじろぐことなく切っ先を引く。
 「逃げないでよ」
 静流が上段の構えから得物を振り下ろす。
 サムライは両手で支えた鉄パイプを水平に翳して難なくこれを防ぐ。
 鉄パイプと鉄パイプが激突、甲高い金属音が夕空に抜ける。
 両腕の膂力に利して鉄パイプを押し込む静流、体重を乗せて打ち込まれた得物を眉間に平行に翳した鉄パイプで防御したサムライが唇を噛み締める。
 力と力が十字に拮抗、鉄と鉄が擦れ合う耳障りな金属音が大気を引き裂く。
 「戦ってよ貢くん。昔みたいに」
 静流の手に力がこもる。サムライのこめかみを汗が滴る。
 両者、膠着状態に陥る。
 緊迫の均衡を破ったのは、苦渋の独白。
 「……太刀筋が変わったな、静流」
 静流の狼狽を見逃さず反撃に転じる。
 膝を屈伸させ腕の間接を撓めて一気に鉄パイプを押し返した反動で静流がよろめく。
 「かつてのお前の剣は静かに流れる水の如く穏やかだった。光のどけき春の日に舞い散る桜の如く優雅だった。しかし今のお前の太刀は……激しく、鋭く、荒々しく。触れるもの皆無慈悲に斬り捨てる殺気に満ち満ちている」
 「時がたてば人は変わる、太刀筋も変わる。僕も君も昔のままではいられないんだ」
 静流の目を一抹の感傷が過ぎる。
 あるいは残照が見せた錯覚かもしれない。
 サムライが無念そうに目を閉じる。
 他ならぬ己にこそ静流を変えてしまった責任があるとでもいうふうに項垂れたサムライめがけ風切る唸りをあげて一手が打ち込まれる。
 サムライが目を見開く。
 苛烈な眼光を宿した双眸が静流を捉えた次の瞬間、腰が沈む。
 地を這うような低姿勢をとったサムライの頭上を鉄パイプが通過、静流の顔に焦りが生じる。
 電光石火、サムライが鉄パイプを抜き放つ。
 「っ……!」
 衝撃。サムライの太刀を受けた静流の顔が苦悶に歪む。
 間一髪、得物を体前に立てて斬撃を止めたものの鉄パイプが震動する威力に腕が痺れたらしい。静流とサムライでは骨格の造りが違う、体格が違う。華奢な静流と鍛え抜かれた痩身のサムライでは必然前者が劣勢にならざるえない。奥歯を食いしばり鉄パイプを押し返そうと苦闘する静流の額に玉の汗が浮かぶ。 
 「静流、お前に聞きたいことがある」
 静流の正面に立ち、サムライが口を開く。
 「お前が東京プリズンに来た真の目的は俺に関係しているのか。叔母上と薫流に関係しているのか」
 静流の双眸に激情が炸裂、全身に殺気が迸る。
 「俺は真実が知りたい。父上を殺した俺が帯刀の姓を名乗るのはおこがましい、しかし俺の中に流れる血を否定することはできない。俺は腐っても帯刀の人間だとお前と再会して自覚した。血の呪縛を断ち切ることができないならいっそ俺とお前、苗と薫流、父上と叔母上を狂わせた骨肉相食む争いの連鎖を食い止めたいのだ」
 「優しいね、貢くんは」
 薄っすらと唇に笑みを塗り、呪詛を吐く。
 「生きながら修羅道に堕ちた僕を救ってくれるの?僕に犯されてもまだ救済を諦めないのは苗さんを見殺しにした罪の意識を拭いたいから?僕は苗さんの身代わりじゃない。僕を助けたからって苗さんは救われない。知ってるんだよ、僕は……」
 なにを知ってるというんだ?
 意味深に言葉を切った静流の方へと身を乗り出す。
 静流は微笑んでいた。残照に染まる朱塗りの笑み。
 生きながら修羅道に堕ち、全身血に染まった壮絶な姿に誰もが息を呑む。奈落の笑みに引きずり込まれる危惧からあとじさったサムライへと歩み寄り、静流が何事かを囁く。
 サムライの目が驚愕に見開かれる。
 硬直したサムライから跳び退き、無邪気な笑い声をたてる。
 「実の姉弟で情を通じるなんて汚らわしい、犬畜生にも劣る行いだ」
 姉弟で情を通じる?静流は何を言ってるんだ?
 周囲の囚人が不審げに顔を見合わせる。
 サムライは唇を噛んで黙したまま、生きながら身を裂かれる自責の念と戦っている。
 西空に夕日が沈む。
 残照に染め抜かれた展望台の中央、身軽に跳躍した静流が最前とは比較にならない苛烈さで斬撃を打ち込む。
 サムライが追い詰められる。
 人垣が崩れ、道が拓く。
 美しき修羅が朱銀の凶刃を振るう。
 サムライはそれでもまだ静流に手を上げることに気後れしているのか、防御を崩さない。
 「知っているんだよ、僕は。苗さんは君に殺されたも同然だ」
 残酷に追い討ちをかけ、防御一辺倒のサムライの間合いに踏み込む。
 「帯刀家では古くから近親婚の風習があった、いとこ同士が婚姻するのも珍しいことじゃない。だけど君と苗さんの場合は違う。君たちはあまりに血が近すぎた、濃すぎた。君たちの恋は誰にも祝福されない禁忌だった」
 静かに流れる水の如く。
 否、岩をも砕く激流の如く。
 「血と血が惹かれあうって本当だね。莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから。使用人と次期当主?ははっ、まさか!その程度なら大した問題じゃない、身分の差なんか簡単に克服できる。使用人と次期当主の身分差なんて屋敷の塀の中でだけ取り沙汰される問題、手に手を取り合って駆け落ちしちゃえば解決じゃないか」
 いたぶるように目を細め、囁く。
 「莞爾さんが君と苗さんの関係を禁じたのは、たかが使用人と本家跡継ぎの身分差を重んじたからじゃない」
 「やめろ」
 陰湿な光に双眸を濡らし、臆さず間合いを侵す。
 名前を体現するが如く静かに流れる動きで懐に滑り込み、妖艶に赤い唇を開く。
 「莞爾さんが君と苗さんの仲を裂いたのはー……」 
 「やめろ」
 「君たちが実の、」
 「やめろ!!!」
 怒気の激発に感応し、大気が震える。
 双眸に憤怒を滾らせたサムライが鉄パイプを構える、ただ静流にそれ以上言わせたくない一心で鉄パイプを振り上げたサムライはその瞬間足場が消失したことにも気付かない。
 サムライは展望台の際に追い詰められていた。
 「危ない!!!」
 サムライの背後に絶壁が迫っている。
 垂直に切り立った展望台の向こうには黄昏の空が広がっている。
 下はコンクリートの地面、展望台から転落したら良くて瀕死の重傷、打ち所が悪ければ即死だ。僕は人垣の最前列に躍り出て叫んでいた。
 「!」
 僕の声で我に返ったサムライが足裏で地を掴み、展望台の際で急停止。
 刹那。
 静流が鉄パイプを一閃。
 サムライの手より弾かれた鉄パイプが燦然と夕日を照り返す。
 展望台の外へと長大な弧を描いた鉄パイプが中庭のコンクリートに激突、高く高く跳ねる。カランカランと涼やかな音をたて中庭を転がる鉄パイプから展望台の際、間一髪踏み止まったサムライに視線を転じ、静流がにこやかに宣言する。
 「勝負あったね」
 サムライは肩で息をしていた。立ち稽古で消耗したわけではない、静流の言葉に心乱されて自制を失っているのだ。
 「莞爾さんに言われなかったかい?敵に何を言われようと平常心を保つのが武士の心得だって」
 溶鉱炉の夕焼けに染まり、賢しげに教訓を垂れる。サムライは展望台の際に片膝付いたまま、従弟に敗北した屈辱に五指を握りこんでいる。
 「東京プリズンに来て腕が鈍ったみたいだね。今の貢くんじゃ僕にかなわないよ」
 捨て台詞を吐いて歩き出した静流の存在感に圧倒され、囚人が道を空ける。
 僕はサムライに歩み寄ろうとして、思い止まる。
 サムライに何て声をかければいいかわからなかった。ペア戦でも敗北したことがないサムライに、恐らくは東京プリズンに来てから初めて敗北を味わったサムライに何て言葉をかければいいかわからなかった。
 落ちぶれ果てたサムライを見かね、試合終了を潮に散開しはじめた人垣の綻びを縫い展望台を抜け出す。
 
 『血と血が惹かれあうって本当だね』
 『莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから』

 脳裏で静流の言葉を反芻、ある推測を組み立てる。
 そんな馬鹿なと理性が否定しにかかるが、恐怖に強張ったサムライの顔が瞼の裏に浮かび心が揺れ動く。
 僕の推理が正しければ、帯刀貢と帯刀苗はー……
 「直くん」
 「!?」
 突然声をかけられ、立ち竦む。
 静流がいた。展望台からの帰り道、物陰で僕を待ち伏せていたのだ。
 「脅かすな、変質者かと思っただろう!?」
 「ひどい言い草。ちょっと傷付いたよ」
 何がそんなにおかしいのか、喉の奥で愉快げな笑い声をたてた静流がふと真顔になる。
 「直くん、展望台にいたでしょう。僕と貢くんの立ち稽古を見に来たんだ。違う?」
 「違う。僕は明日の気象予測に行ったんだ。イエローワークの進捗状況は天候に左右されるからな、展望台に赴いて明日の天気を確かめたんだ。西空が晴れていたから明日の天気は晴れの確率が80%、湿度は……」
 「『危ない!』って叫んだよね。あの一言がなければ貢くんを落とすことができたのに」
 何?
 「君はまさか、故意にサムライを落とそうとしたのか?転落事故を装って殺そうと展望台の際に誘導したのか?」
 静流は答えずに笑っている。その笑顔こそ肯定の証。
 展望台から危うく転落しかけたサムライの姿を思い出し、発作的に胸ぐらを掴み、背中を壁に叩きつける。
 一歩間違えばサムライは本当に死んでいた。冗談では済まない。悪ふざけにも限度がある。僕は大事な友人を失っていた……
 大事な友人?
 その言葉に狼狽する。
 僕は今大事な友人と言ったのか?馬鹿な。あの男はもう僕の友人でもなんでもない、僕の知らない男、帯刀静流の庇護者の帯刀貢だ。帯刀貢が死のうがどうなろうが僕には関係ないと自己暗示をかけようとするも、彼が転落しかけた瞬間体が勝手に動いたのは事実で混乱する。
 僕はまだ帯刀貢の中にサムライを見ているのか、帯刀貢の中にサムライの面影を求めているのか?
 「みじめだね」
 静流がはっきりと憫笑を浮かべる。
 「過去に君を守ってくれたサムライはもういないのに未練たらしく展望台まで見に来たのはどうして?僕にはその理由がわかる。君はまだ貢くんを忘れられない、いや、かつて君を守ってくれた『サムライ』への狂おしい執着を断ち切れない。可哀想に。貢くんは僕の物なのに、僕と体を繋げてしまったのに、君はまだ貢くんが振り向いてくれないかと追いすがっている。後生だからこっちを向いてとお願いしてる」
 「黙れ低脳。偉そうに精神分析するな」
 怒りで語尾が震えて迫力に欠ける。
 憐憫を込めた目で僕を眺め、静流が問いかける。
 「……本当の事が知りたいかい?」
 「貴様の言葉など信用しない。サムライが苗を犯したなど根も葉もない妄言をたとえ一瞬たりとも信じた僕が馬鹿だった」
 「そうだ、そのとおり。君は馬鹿だ。貢くんが苗さんを犯したりするはずない。貢くんはてんで意気地なしだからね、想いを寄せた女性を力づくで犯すなんてイチかバチかの危険な賭けにでるわけない。貢くんと苗さんの身に起きたのはもっと残酷な出来事だ」
 一呼吸おき、試すように僕を見る。
 深泉のように澄み切った目に、魔性の誘惑に抗う僕の顔が映る。
 「真相を知れば帯刀貢が嫌いになる。帯刀貢への執着をさっぱり断ち切ることができる。帯刀貢がどんなにか犬畜生にも劣る卑劣で卑俗な人間か痛感し、彼と結んだ友情を後悔し、彼に寄せた恋情を嫌悪し、綺麗さっぱり未練を捨て去ることができる」 
 耳朶に吐息を吹かれ、展望台を立ち去り際に見た光景が脳裏に立ち上がる。
 展望台の際に脱力して膝を屈したサムライ。
 悄然と肩を落として残照の滝に打たれる落ちぶれた姿。
 「…………否」
 僕の呟きを聞き咎め、静流が眉をひそめる。
 当惑した静流をまっすぐ見据え、僕は言う。
 これまで僕を守ってきた男、サムライ。今は静流の隣にいる帯刀貢。
 その二人が同一人物だと自覚し、サムライもまた帯刀貢の一部である現実を受け入れる。
 「僕はこれまでサムライを憎む努力をしてきた。だがどうしても彼を憎めなかった。彼が僕のもとを去っても憎めなかった。それが何故だかこの三日間がずっと考えていた、考えに考え続けて今この瞬間漸く理解した」
 「何故?」
 口元に不敵な笑みが浮かぶ。
 「サムライが去って失ったものより、これまでサムライから貰ったもののほうがずっと多いからだ。僕は東京プリズンに来るまで友人がいなかった、妹以外の人間に心を許すことがなかった。だが、サムライと会って僕は変わった。サムライは僕に感情をくれた。体温の心地よさを教えてくれた。僕を守ってくれた」
 僕はサムライを憎めない。
 憎みたくない。
 「静流、僕と君は違う人間だ。たとえ君がサムライを憎んでいても、僕までそうなる確証はない。僕は」
 そこで言葉を切り、目を閉じ、呼吸を整える。
 一拍のためらいのあと、嘘偽らざる本音を吐露する。
 「僕は、サムライを愛しく思う。彼を愛しいと思う気持ちが彼を憎いと思う気持ちに呑まれるとは思えない。真実を知ればきっと僕もサムライを嫌悪する、だけど憎悪ではない、僕はサムライを憎めない。帯刀貢もサムライの一部だと気付いたから」
 帯刀貢はサムライの一部、サムライは帯刀貢の一部。
 帯刀貢がかつてこうありたいと志した理想の体現がサムライなら、帯刀貢はサムライの人間的な弱さを代わる分身。どちらか一方だけでは成立しないのだ。僕、鍵屋崎ナオにとっての鍵屋崎スグルがそうであるように。
 突然、静流が笑い出す。
 撃ち抜くように喉を仰け反らせ弓なりに背中を撓らせ、狂った哄笑をあげる。

 「愛しい、か。そうか、君も苗さんと同じ事言うんだね。『あの時』の苗さんとそっくり同じこと言うんだね。いいさ、教えてあげる、帯刀貢の本性とやらをあとでたっぷり教えてあげるよ!後悔しても知らないよ、元の木阿弥だ、悲劇は再びくりかえすんだ!!
 『愛しい』?帯刀貢にこれほど似つかわしくない言葉はないのに君も苗さんもどうかしてる、愛しいもんかあの男が、僕と姉さんを狂わせて帯刀家を滅ぼしたあの男が!!僕はずっとずっと帯刀貢を憎んでいた、いつからなんてわからない、ずっと昔から憎んでいたよ!
 本家の嫡男は天才で分家の嫡男は努力の人、僕が生涯かけて到達できるか出来ないかの剣の極みに貢くんはたった十年、いや五年で到達できる!同じ帯刀の姓を持つのに何故こうも違うんだ、こんな不公平が許されるんだ?本家の長男の上だけに才能が発芽して開花して、日陰育ちの分家は本家の引き立て役で一生を終えなきゃいけないなんて姉さんと母さんが哀しむ不公平は認めない!!」

 拳で壁を殴る。鈍い音が鳴る。
 壁から天井に震動が駆け抜け、蛍光灯が揺れる。
 肩で息をする静流の目が爛々と光る。
 「君に帯刀貢の本性を教えてあげる。帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる。帯刀貢の過去を知ってそれでもまだ彼が『愛しい』なんて戯言がほざけるなら大したものだ、苗さんといい勝負のお人よしの馬鹿者だ!!」
 「お人よしの馬鹿者で結構だ、サムライを憎む天才よりサムライを好きな馬鹿でいたほうがマシだ!!」
 感情的に口走ってからこれではまるで僕自身が馬鹿だと認めてしまったようだと後悔、忸怩たるものを感じる。
 「……その、今のは言葉の綾だ。断っておくが僕は馬鹿じゃないぞ、天才だ」
 まずい、このフォローではますます馬鹿っぽく聞こえる。どうしたんだ鍵屋崎直、しっかりしろ。この場の空気に流されるな。
 内心動揺する僕を廊下に残し、何事もなかったように静流が歩き出す。
 鉄パイプの先端を廊下にひきずって歩きながら、唄うように言葉を紡ぐ。 
 「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……苗さんはそうしたんだ。重すぎる秘密を守るのが苦しくて自ら命を絶ったんだ」
 澄んだ声音で諳んじて、最後に付け加える。
 「姉さんも、ね」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050526232442 | 編集

 「悪い子にはおしおきしなきゃな」
 レイジが邪悪に笑ってる。
 顔にかかる前髪の奥、純白の眼帯に覆われた片目は傷に塞がれている。俺は知ってる、あの眼帯の下にはサーシャと刺し違えて出来た無残な傷跡がある。サーシャのナイフに切り裂かれて片目を失明したレイジは、硝子めいた透明度の隻眼に狂気の光をちらつかせている。
 片目を犠牲にしてまでも勝利の栄光を掴んだレイジ。
 体の一部を捨ててまでもリングに上がり続けたのは俺を守る為だ。
 レイジはいつだって自分の身を犠牲にして俺を庇ってくれた、俺が傷付くくらいなら自分がぼろぼろになったほうがマシだと片目が光を失ってもなお最後の最後まで戦い続けた。
 そのレイジが今、俺を押し倒している。
 俺の上にのしかかって眉間に安全ピンを翳している。
 安全ピンの先端に目が吸い寄せられる。
 裸電球の光を集めて鋭く輝く切っ先が耳朶を刺し貫くところを想像、恐怖を感じる。思い出すのはタジマに無理矢理ボイラー室に引きずりこまれた時の事、安全ピンの先端で耳朶の柔肉を突かれる鋭い痛み。
 俺の耳朶をちぎるとるように掴んだタジマの下卑た笑顔、黄ばんだ歯のぬめり、口臭くさい息までもが生々しく蘇る。
 タジマがちょいと指先に力を込めれば鋭い針が耳朶を貫通、向こう側に抜ける。
 情けない話、俺はびびっていた。
 四囲を密閉されたボイラー室は暑苦しく蒸れていて、何もしなくても大量の汗をかいた。コンクリ壁を這い回るボイラー管からは間欠的に蒸気が噴出、大気を白く曇らせた。サウナに閉じ込められてるみたいだった。ピアスを開けるくらいどうってことない、一瞬で済む、大して痛いわけないと自分に言い聞かせて恐怖をやわらげようと挑戦したが無駄だった。
 迫り来る安全ピンとタジマの哄笑の二重攻撃で虚勢が吹っ飛んだ。
 勿論、東京プリズンにだってピアスを開けてる奴は大勢いる。レイジみたいに両耳にずらりと銀環を並べている奴もいる。
 だが、自分で開けるのと他人に開けられるのは全く別物だ。
 俺はピアスなんか開けたくない。男がそんなちゃらちゃらしたもんつけられっか。軽薄が服着て歩いてるレイジを見りゃわかる通りピアスは軟派の象徴だ。俺は今日までずっと硬派に生きてきた、大の男がちゃらちゃらしたアクセサリーを身に付けるなんざ冗談じゃねえと意固地な信念を貫いてきた。第一喧嘩の邪魔だ。耳朶のピアスはともかくペンダントやら指輪やら余計な重しをじゃらじゃら付けてたんじゃ、いざって時反射的に体が動かねえじゃんか。
 裸電球の光を背に、レイジの顔には濃淡くっきりとした陰影が刻まれている。
 俺をベッドに押し倒してのしかかったレイジの目が爛々と光っている。凶暴な光。狂気に理性を明け渡して本来の獰猛さを剥き出した危険極まりない雰囲気が漂っている。嫉妬に狂える暴君にもはや言葉は通じない、説得も釈明も弁解も一切無駄だと絶望する。
 正邪と清濁が混沌とまざりあった笑顔が暗黒に染まるのも時間の問題。現に俺が身動きできず眺めてる前でレイジの笑顔は刻々と変化してる。
 優雅に長い睫毛に飾られた目には脆く硬質な色硝子の瞳が嵌めこまれている。光の加減で猫科の肉食獣を彷彿とさせる黄金にも変わる神秘的な瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
 魔力が宿る硝子の瞳、視線の呪縛。
 怖い。
 レイジが怖い。
 「冗談、やめろよレイジ。らしくねえよ、こんなの」
 震えそうな語尾を叱咤、虚勢を張って言い返す。レイジの表情は変わらない。眉一筋動かない、完璧な無表情に近い完璧な笑顔。
 こんなに綺麗に笑える奴には生まれて初めて会った。
 レイジは俺がこれまで出会った人間の中でも断トツ極上の容姿の持ち主だが、出来すぎな程整ったツラは人に忌避される要因にもなりうる。
 人は「完璧なもの」に慣れてない。
 もともと不完全な人間は潜在的に「完全」や「完璧」な存在を恐れているのだと前に鍵屋崎が言っていた。だからいざ完璧なものや完全なものが眼前に現れると嫌悪を隠せない。出来すぎなほど容姿が整った者はもはや同じ人間とは思えず、悪魔か天使に近い存在である錯覚に襲われる。
 あの時鍵屋崎が捏ねた理屈が今腑に落ちた。
 ガキっぽく怒ったりあけっぴろげに笑ったり、いつも表情を崩してるレイジがこんな風に微笑すると背筋が凍り付く戦慄を覚える。
 口元だけに薄っすら笑みを刷いた恐ろしく邪悪な表情は悪魔に近い。
 俺の眉間に安全ピンを翳したまま微動だにしないレイジに焦燥が募る。
 まさかレイジは本気で俺の浮気を疑ってるのか、所長に吹き込まれたデマを頭でっかちに信じこんでるのか?
 確かにうなじのキスマークは動かしがたい浮気の証拠と言えなくもないがすべては誤解、ホセの悪ふざけの延長なんだと身の潔白を訴えたいが、下手に動けば眼球にピンが刺さる恐怖から、肘であとじさるように仰向けにレイジを仰ぐ。

 「どうかしてるよ、お前。まさか所長の言うこと信じてんのか?俺が他の男に抱かれたって、それでキスマーク付けられたって本気で思ってんのかよ。ふざけんな、俺は男と乳繰り合う趣味なんかねーよ、男が男とヤるのが当たり前の日常になった東京プリズンでもずっと処女守ってきたのはいつか懲役終えて娑婆出て女抱く日心待ちにしてたからだ!!お前とはそりゃその場のノリっつか勢いっつか男の約束で仕方なくヤっちまったけど俺が自分から他の男に抱かれに行くわきゃねえだろが、俺は今でも女が好きなんだよ、一人でヤるときもむらむら妄想してんのはメイファの裸とか好みの女の裸とか開脚とか胸隠しとか……畜生なに言わせんだ、なんで俺が自慰のオカズ公開してまで無実訴えなきゃいけねーんだよ!?」

 やばい、テンパってとんでもねえことまで暴露しちまった。
 レイジの誤解を解きたい一心で恥ずかしい秘密を口走り、羞恥で顔が熱くなる。穴があったら入りてえ。激しい恥辱と後悔に苛まれて唇を噛んだ俺の上を衣擦れの音たて影が移動、レイジが前のめりになる。
 「とにかくあれは、あの痣は誤解なんだ。最初から話すからまず俺の上からどけよ、こんな体勢じゃ落ち着いて話もできね……」
 「うなじにキスマークつくっといて何が誤解だって?いい加減諦めろよ、ロン。聞き分けない子は嫌いになるぜ」
 レイジが唄うように揶揄する。
 「俺がケツにローター突っ込まれて一晩中よがり狂ってた時、房から追い出されたお前は上半身裸でどこほっつき歩いてたんだ?上半身ヌードで一晩中廊下ほっつき歩いてたら最悪凍死の可能性もある、ところがお前はピンピンしてた。ま、ちょっと風邪もらっちまったみたいだけどな」
 俺の風邪なんか病気のうちに入らないと鼻で笑い飛ばし、続ける。
 「やっぱ野良は駄目だな。飼い主がいなけりゃすぐ他の人間に擦り寄る恩知らずだ。白状しちまえよ、ロン。お前、餌くれるなら誰でもいいんだろ?人肌にぬくもった寝床と体をどろどろに溶かす快楽さえくれりゃ相手は誰でもいいんだろが。構ってくれ拾ってくれって甘い声で鳴いてお持ち帰りされたんだろ。首に痣まで作っといて言い逃れはナシだぜ。さて、どうするかな。他の奴に拾われねえように一発でわかる印つけなきゃな。お前の髪の毛一本から足の小指の爪に至るまで全部王様の持ち物だって、キレたら怖い暴君の財産だって身の程知らずな連中に思い知らせてやるには……」
 嫉妬深い暴君がしつこく俺の耳朶をいじり、恐怖を煽る。
 人体の先端でも一際敏感な耳朶を刺激され、危うく声が漏れそうになる。
 下唇を噛んで声を堪えるも、むずがゆい快感に頬が赤らむ。
 華奢な指先に摘まれた安全ピンが冷たい銀色に光る。
 ピンの先端から目を離さず生唾を嚥下、じっとり汗ばんだ手のひらをシーツになすりつける。
 だんだん腹が立ってきた。レイジは頭から俺の浮気を決めてかかってる、自分の知らないところで他の奴に抱かれたと思い込んで弁解のチャンスも与えてくれない。あんまりじゃんか。いつもくどいくらい「愛してる」を言うくせに、俺が好きだとか信じてるとか俺がいなきゃ生きてけないとか安っぽい台詞を連発するくせに肝心な時にこれっぽっちも信用されないなんてとプライドが傷付く。
 失望が怒りに変換され、頭に血が上る。
 レイジが信じられないなら仕方ない、腹を括るっきゃない。
 目を閉じて深呼吸、心の中でゆっくり十数えて平常心を取り戻し、決心を固める。
 「……いいぜ。やれよ」
 レイジが鼻白む気配が伝わってきた。俺は目を閉じたままやけっぱちに続ける。
 「お前が俺のこと信じらねえなら仕方ねえ、煮るなり焼くなり耳に針通すなり好きにしやがれ。どうせ俺が『ごめんなさい、実は他の男にケツ貸しました』って泣き叫んだところで容赦なく針通すんだろ?お生憎さまだな、暴君の思い通りになんかなってやるもんか。俺は誓って他の男にケツ貸したりなんかしてねえ、お前以外の男に抱かれるのなんざごめんだ、反吐がでる。だけどレイジ、どうしてもお前が信用できねえってんなら首に鈴でも耳にピアスでも何でもいいから王様の印をくれよ。俺がお前の物だって印をつけろよ。やきもち焼きの王様はそれで満足なんだろ、俺が目に涙浮かべて痛がる顔見てスカッとしたいんだろ。頼むもうやめてくれ、俺が悪かった許してくれってがくがく腰振って縋り付いてほしいんだろ。ガキっぽい仕返し。精神年齢いくつだよ」
 嘲るように喉を鳴らし、口の端を吊り上げる。
 薄目を開けた視界に無表情のレイジが映る。
 俺の挑発が核心に触れて、笑みを浮かべる余裕すら失った顔。
 「来いよ暴君。悪い猫を調教してくれよ」
 安全ピンなんか怖くない。耳朶にピアス開けるのがなんだってんだ、笑って受け止めてやろうじゃんか。ペア戦決勝戦、サーシャに嬲られるレイジを金網越しに見てるしかなかった呪縛の恐怖と比べたら全然マシだ。
 肘を立て上体を起こし、きっかりとレイジを見据える。
 レイジは俺にのしかかったまま指先の安全ピンの存在も忘れて硬直していたが、やがて完全に俺の上からどく。
 「―座れよ」
 王者の威厳と暴君の威圧を兼ね備えた命令に逆らえるはずない。
 レイジの表情を探りながら慎重に起き上がり、床に足を垂らす。
 俺の隣に腰掛けたレイジが無造作に身を乗り出し、至近に顔を寄せてくる。裸電球の光を透かし、優雅に長い睫毛がきらめく。
 物憂げに煙った隻眼が冷酷な印象を与える。
 西洋の血を感じさせる彫り深く端正な顔だちに、不覚にも見惚れる。
 多分、現時逃避だ。一年と半年見慣れたレイジの容貌を詳細に観察するのは、睫毛一本一本が数えられるほど顔が近付いた緊張をごまかすためだけじゃない。
 指先の安全ピンから目を逸らし、跳ね上がる動悸と呼吸を整えるのに集中する。
 耳朶に針を通される痛みを想像、腋の下にじわりと汗がにじむ。いくら痛みに慣れていても怖いものは怖い、なかなか心の準備ができない。
 「怖いか」
 レイジが悪戯っぽく囁く。性悪な顔。
 「怖くねえ」
 手のひらに滲んだ汗を隠し、きっと睨み返す。
 「無駄口叩いてる暇あんならさっさとやれ。そうやってじりじり長引かせてびびらすつもりか?王様の癖に姑息な手使うなよ、がっかりだぜ」
 「言ってろ。じきに泣いて縋り付いてくるんだから」
 んなワケあるかと反発が込み上げる。
 レイジがにやにや笑いながらそっと俺の耳朶に触れる。
 だが笑ってるのは口元だけで目はちっとも笑ってない。顔の上と下で表情を使い分けるなんて器用な奴だと感心する。
 何か、何か違うこと考えろ。
 何でもいい、何か他のこと、気が紛れることを。ホセ。あいつ殺してやる。あいつの悪ふざけのせいでレイジがキレちまったんだ。
 俺もとことん間抜けだ、うなじにキスマークつけられたのにも気付かず寝過ごしちまったなんて訴えたところでさっぱり説得力ない。
 さすがに気付くだろ、うなじを吸われたら。でも待て、俺はホセに腹を殴られて朝までずっと気を失ってて……まさかホセ、最初からそれが狙いで?俺にキスマークつけるのが目的で腹に一発くれたってのか?
 まさか。だがそう考えれば筋が通る。
 ホセは最初から俺の体を狙って……
 何の為に?
 「!!?っ、あ、ひっ……」 
 耳朶への刺激で思考が散らされる。
 安全ピンの先端が軽く耳朶を突く。
 「やらしい声だすなよ、ちょっと感度確かめただけだろ。それとも……物足りないのか」
 「馬鹿、言え……はや、くしろ」
 怖い。畜生怖い。感情に抑制が利かない。
 ベッドに腰掛けた姿勢でぎゅっと膝を握り締め、無意識に体を固くする。レイジを突き飛ばして逃げ出したい衝動と必死に戦いつつ、来るべき時、鋭い痛みを覚悟して絶対に悲鳴をあげないよう下唇を噛み締める。ともすれば奥歯ががちがち鳴りそうだ。これ以上焦らされたら気が狂ってしまいそうだ。もう一度催促しようとレイジに向き直った瞬間、
 「!?っあ、れっ………!!」
 突然、耳朶を口に含まれた。
 不意打ちだった。熱い唇に耳朶を食まれ、舌で転がされる。
 耳元で唾液を捏ねる音が響く。
 レイジの舌を感じる。俺のいいところ感じるところ、性感帯を全て知り尽くした舌が器用に引っ込められまた突き出され耳朶に唾液を塗りこめる。耳の穴まで舌が潜りこんで来てくすぐったい。
 唾液でべとべとになった耳朶を飽き足らず舐め回すレイジを何とかどかそうとして、体の前に無意味に手を掲げる。
 「ふ、くっ………レイジやめ、耳朶なんか舐めても美味くねえだろっ……」
 「消毒だよ」
 あっけらかんと言うレイジに呆れる。消毒?口実だろそりゃ。
 「鍵屋崎が言ってたぜ、こけた時膝に唾ぬりこむのは砂利とか黴菌洗い流すためで唾自体に殺菌効果はな……ふあっ」
 軽く前歯を立てられ、声が弾む。やばい。これじゃ俺が感じてるみたいじゃんか。男に耳朶舐められて喘ぎ声なんかあげたら変態だ。
 レイジの肩に手をかけ力づくでどかそうとしたが、レイジは俺の耳朶を舌でねぶるのに夢中で一向に引き下がらない。
 背筋をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
 熱い唇とそこから覗いた舌が耳朶をなぞる。変な感じ、だ。体の先端がめちゃくちゃ敏感になってる。
 風邪が悪化したらしく、気だるい微熱を感じる。レイジの肩に手をかけ寄りかかり、微熱に赤らむ顔を伏せ、懸命に声を抑える。
 透明な唾液の糸を引いて唇が離れる。
 耳朶の消毒とやらを終えて満足したらしいレイジが、扇情的に上唇を舐め上げる。
 「耳朶舐められただけでイっちまったのか?本番はこれからだってのに」 
 「イってねえ、風邪気味で熱があるんだよ……」
 言い返した声にも張りがない。疲弊した俺を無視し、レイジが安全ピンの留め金を外す。
 冷たい銀色に光る安全ピンが緩慢な動作で迫り来る。鋭利な先端が耳朶に触れ、ひやりとする。
 金属の冷たさ、硬い感触。
 「……………っ!」
 「声我慢できねえなら俺の服掴んでろ」
 レイジが俺の手首を掴み、しっかりと上着の胸を掴ませる。はからずもレイジの胸に縋り付く格好になった俺は、刻々と迫り来る貫通の瞬間に備え、ぎゅっと目を閉じる。耳朶の感触を確かめるように二・三度軽く突いてから、レイジがうっとり呟く。
 「美味そうな耳。食いちぎりたい」
 おそるおそる薄目を開ける。
 レイジが自分の耳朶に手をやり指を触れ、難なくピアスを外す。ピアスを外す瞬間少し顔を顰め、色っぽく眉を寄せる。レイジの手のひらに乗ったピアスを一瞥、これが俺の耳に栓をするモノだと理解する。
 サイズはそれ程大きくない、シンプルな銀のピアス。
 「王様の慈悲だ。片方だけで許してやるから右か左か選べ」
 「右」
 殆ど即答していた。右でも左でもどっちでも変わらねえと自棄になっていた。
 レイジが軽く首肯、耳朶にあてがった安全ピンに圧力をかける。
 「!!ひっあ………」
 痛い。唇をきつく噛み締めて苦鳴を濁らす。
 鋭利な針がゆっくりと確実に耳朶の柔肉に沈みこんでいく。
 瞼が涙に濡れる。
 耳朶を刺し貫く鋭い痛みは、俺には刺激が強すぎる。
 レイジの服を掴んだ五指を閉じこみ、忍耐力を振り絞って必死に痛みを堪える。 
 「れいじ、通る、破けるっ……じらすな、はやくっ……」
 「焦らさなきゃ面白くねえだろ。いい子だから我慢しろよ、ロン。ほら、見てみろ。冷たい針がお前の耳朶をゆっくりゆっくり通ってくところ、処女膜が限界まで張り詰めて破けるところを」
 「お前といいタジマといいただピアス開けるだけの行為をどんだけ卑猥にするんだよ!?」
 タジマと並べられたレイジがさも心外そうな顔をする。
 だが、レイジの表情を観察する余裕があったのはそこまでだ。
 それから先は殆ど覚えてない。
 耳朶に浅く埋め込まれた針がさらに容赦なく進み、柔肉を貫通する痛みが電流の刺激に変わる。全身の毛穴が開いて汗が噴出、レイジの胸に埋めた顔が引き攣り、下唇が切れて口の中に鉄錆びた血の味が広がる。早くはやく終わってくれとそれだけを一心に念じて苦痛な時間に耐えるもレイジは俺を焦らすようにいたぶるようにひどく緩慢に針を進める。耳朶に痛覚が通ってるのを今この時ほど恨んだことはない。
 レイジの胸にしがみついた俺はじんわり熱をもった瞼の奥で眼球が潤むのを感じ
 「目え瞑るなよ。こっちからあっちへ針がコンニチワするところをちゃんと見てろ。トンネル開通万歳だ」
 痛い熱い耳が熱い痒い
 レイジの嘲笑をどこか遠くで聞く。
 耳朶が痛痒く疼く。
 息を吸い、止める。レイジはわざとゆっくり針を進める、俺が痛がる顔をたっぷり堪能して支配欲征服欲を満たしてやがる。
 目の端で捉えた優越感に酔った笑顔が癪に障る。
 俺はレイジがこんなに残酷になれることに驚いていた、レイジが他ならぬ俺自身に対してこんな暴虐に及ぶなんてとショックを受けていた。
 「あ、あ、あああっああ、ひぐっあ……!!」
 「もうすぐ全部通る。一本に繋がる。お前の処女膜が破ける」
 ぷつん、と皮が弾ける音がした。耳朶の裏側に薄皮のテントが張り、それが破けて針が突出、完全に耳朶を刺し貫く。
 瞬間、全身が脱力してレイジにしなだれかかる。耳朶に穴が開いた。なんだかすうすうする……変な感じだ。耳朶はまだじんわり痺れて鈍い疼痛を訴えている。じくじく疼く耳朶をレイジが掴み、慣れた手つきでピアスを嵌める。
 俺の耳朶に銀のピアスが留められる。
 「お利口さん。処女喪失おめでとう」
 「!このっ、」
 ふざけた口調でまぜっかえすレイジに怒りが沸騰、激情に駆られて拳を振り上げる。
 その瞬間。
 レイジが俺の腕を掴みぐいと引く。
 突然腕を引かれてレイジの胸に倒れこんだ俺の唇が強引にこじ開けられて舌が潜り込む。抵抗しようとした。口腔に侵入した舌を噛もうとしたがレイジの方がうわてだった。
 たちどころに舌を絡め取られて頬の内側の粘膜を探られ貪られる、唾液が喉に逆流して息苦しさに噎せ返る。
 突然の展開に頭が真っ白になる。
 「んっ、ふ、ぐ……」
 四肢がぐったり弛緩する。
 プライドも意地も何もかも全部投げ捨てレイジに身を委ねたい誘惑に駆られる。レイジは俺の肘を掴んだまま決して手を緩めず放さない、熱い舌が俺の口腔を貪欲にまさぐって歯列の裏側をなぞって未知の性感帯を刺激してー……
 「!!?」
 口移しで何かを飲まされた。
 レイジの口から俺の口へ、舌を介して送り込まれた異物を反射的に吐き出そうとしたができなかった。レイジが俺の口をしっかり塞いで嚥下を強要したからだ。
 レイジに口を塞がれ窒息しかけ真っ白な頭で必死に暴れる、激しく首を振り手足を振り乱して抵抗するもレイジは許してくれない。
 酸素を欲して暴れる俺の口を塞いだまま器用に舌を使って何かの錠剤と思しき異物を喉の奥へと送り込みー
 喉仏が動く。
 一本の管となった喉を、謎の錠剤が滑り落ちる。
 「かはっ、ごほっ」
 目的を達し、漸く唇が離れる。激しく咳き込み肺一杯に酸素を取り入れる俺を見下ろし、レイジが謎めいた笑みを浮かべる。
 裸電球を背に不気味な陰影に隈取られた笑顔には、暗黒が渦巻いている。
 「レイジおま、どういうつもりだ!?今何飲ませたんだよ!!」
 脳裏でけたたましい警鐘が鳴り響く。今更吐き出そうにもムリだ、正体不明の錠剤は喉を滑り落ちて胃袋に吸収されちまった。
 片手で喉を支えてレイジを見上げた俺は、ぞくりとする。
 「頑張ったご褒美。風邪薬だよ。お前熱あるんだろ?それ飲んで大人しくしてろ」
 「マジ、なのか」
 疑い深い目でレイジの表情を探り見る。
 不安定に揺れる裸電球の翳りが真意を読めなくする。俺は立ち上がろうとして、体に力が入らずそのままベッドに倒れこむ。
 体が変だ。おかしい。ぞくぞくと悪寒が駆け抜ける。寒いのか熱いのかよくわからず頭が朦朧とする。
 皮膚の上を毛虫が這ってるようなむずがゆさが体の異変を物語る。
 「ただの風邪薬ならなんであんなまぎらわしい飲ませ方すんだよ、あんな無理矢理……お前何隠してるんだ、俺に何飲ませたんだよ、事と次第によっちゃただじゃ!」
 「逃がさねーから」
 ぎしりとベッドが軋む。レイジがベッドに片膝乗せて俺にのしかかる。
 天井で裸電球が揺れる。催眠術をかける振り子のように。
 「めでたいなお前。これで、この程度でおしおきが済むとマジで思ってたのか?耳朶にピアス開けた程度で?ははっ、まさかな!いくらなんでもそんなにおめでたくねえよな。ロン、お前もいい加減わかったろ。俺の名前はレイジ、英語の憎しみ。キレたら怖い王様、嫉妬深い暴君。そんな俺がお前の耳に針通したくらいで許し与えるわけねえだろ。もっともっとこらしめてやんなきゃ」
 レイジが俺の前髪をかきあげ、額にキスをする。
 唇の温度が額に伝わる。俺は仰向けに倒れたまま、上に覆いかぶさるレイジとその背後の天井を見つめる。 
 配管むきだしの殺風景な天井を背に俺に覆い被さったレイジが、俺の動揺を面白がるようにすっと目を細める。
 恐ろしく邪悪な表情。
 嫉妬に狂える暴君が、甘い蜜を含んだこの上なく優しい声音で言い聞かせる。
 「知ってるか、ロン。風邪薬の成分の何十分の一かは媚薬なんだぜ」
 それ自体媚薬のような声が滴り落ちた瞬間、俺はひきずりこまれるように眠りに落ちた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050525003131 | 編集

 『君に帯刀貢の本性を教えてあげる』
 静流が妖艶に微笑む。
 『帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる』
 色の良い唇を禍々しい笑みが縁取る。
 生きながら修羅道に堕ちた静流、生きながら修羅と化した静流。
 何が彼をそうさせたのかは僕にはわからない。
 静流の変貌にはサムライが、否、帯刀貢が関わっているのだろうか。帯刀貢が起こした血腥い惨劇が一族を破滅に追い込んだのなら、静流もまた余波を被って不幸な目に遭ったのかもしれない。犯罪加害者と犯罪被害者を共に身内にもつ帯刀家が世間の好奇の目に晒され誹謗中傷され、事件と直接関係ない親類縁者までも害を被ったのは事実。
 静流はサムライを恨んでいるのか?憎んでいるのか?
 サムライを許すふりをしながら、心の底では少しも許さず憎み続けているのか?
 静流の怨恨は根深い。静流は骨の髄まで帯刀貢を憎んでいる。
 本家の嫡男として生を受け将来を期待された貢。
 分家の嫡男として生を受け常に貢と比較されてきた静流。
 二人の間に何があった?苗は何故死んだ?苗の死がサムライの動機に関連してるのか?静流は苗の死に関わっているのか?
 疑問があとからあとから脳裏に浮かぶ。静流は僕に帯刀貢の過去を暴露すると言った。はたして僕には帯刀貢の過去の全貌を受け止める覚悟があるのか、帯刀貢の本性を知ってなお彼を受け容れる覚悟があるのか?
 静流との口論では怒り任せて偉そうなことを言ったが僕自身まだ迷いを捨てきれない。えてして真実は残酷なものだ。サムライが師範の実父含む門下生十二人を斬殺した動機について僕は何も知らない、だが静流は知っている。

 静流はもうすぐここに来る。
 運命の刻が来る。

 静流が来るまでに心の準備をしておかねばとベッドに腰掛けて深呼吸するも、心の表面がさざなみだち、両手に額を預けて項垂る。
 本当にこれでいいのか、僕の選択は間違ってないのか?
 瞼裏の暗闇に答えを探すも見つからず、僕はまた選択を誤ろうとしているのではないかと不安が膨らむ。
 静流の口から帯刀貢の過去を聞くことに対しても抵抗を感じている。これまでサムライが頑なに口を閉ざしてきた過去を、静流の口から聞き出そうとしている自身への嫌悪感を抑えきれない。
 サムライから話してくれるまで待つべきではないか?
 こんな卑怯な形で他人の口から聞きだすなんて……僕は最低だ。最低の卑怯者だ。彼の過去を受け止める自信と覚悟もない癖に、静流への反感と嫉妬から帯刀貢に理解を示す包容力ある人間のふりをしてしまった。
 だが、後戻りはできない。
 廊下の向こうから足音が近付いてくる。
 カツン、カツン……周囲の閑寂を際立たせる優雅な靴音。一定の歩幅でやってくる人物の正体は、鉄扉を開ける前から予想が付いていた。来客を迎えに腰を上げた僕は、片手でノブを掴んで深呼吸する。
 とうとうこの時が来てしまった。
 はたして僕はサムライの過去を知ってなお、彼を嫌悪せずにいられるだろうか。それでもまだサムライを好きだと言えるだろうか。
 靴音が途絶える。鉄扉の向こうに人の気配。格子窓を覗いて顔を判別するまでもなく、不吉な報せを運んできた客の正体はわかっている。
 緊張に汗ばむ手でノブを握り、鉄扉を押し開く。
 錆びた軋み音をあげながら鉄扉が開き、少年が現れる。
 帯刀静流。
 「お出迎えご苦労さま」
 僕と目が合い、艶やかに微笑む。
 「出迎えたわけではない、派手なノックなどされて近隣の房の囚人に注目されるのを避けたいだけだ。……早く入れ」
 「お言葉に甘えてお邪魔するよ」
 鉄扉を押さえてそっけなく促せば、客人が優雅な動作で足を繰り出し、房に踏み込む。音をたてぬよう慎重に鉄扉を閉じて振り返れば、房の中央に佇んだ静流が形良く尖った顎を傾げ、感慨深げにあたりを見回していた。
 配管剥き出しの殺風景な天井、寒々しい灰色を晒した四囲のコンクリ壁、左右の壁際に配置された粗末なパイプベッド、奥の洗面台と隣の便器。
 天井から吊り下がった裸電球が心許ない光を投げかける。
 裸電球の光量はあまりに乏しく房の全貌を照らすに至らない。
 房の四隅には荒廃した闇が蟠っている。裸電球のささやかな光を一身に浴び、心もち顎を傾げ、透き通るように薄い瞼を閉ざす。僕はしずかに静流に歩み寄る。裸電球の下、瞑想の面持ちで瞼を閉ざした静流は当然僕の接近に気付いているはずだが反応ひとつ示さない。
 「貢くんの残り香がする」
 不意に静流が呟き、薄目を開ける。
 柔和な光を宿した双眸が向けられたのはからっぽのベッド……三日前までサムライが寝ていたベッドだ。サムライの不在を痛感するのが嫌で几帳面に整えられたベッドを意識的に無視してきた僕は、静流の視線を追い、後悔する。
 壁際でひっそり存在を主張するベッドを目の当たりにし、喪失感が胸を締め付ける。
 「サムライが出て行ってからまだ三日だ。たった三日しか経過してないのだから墨の匂いが漂っていても何の不思議もない」
 「もう三日だよ」
 務めて冷静に指摘すれば、あっさりと静流が切り返す。
 「貢くんが君と別れてからもう三日も経つ。この三日間貢くんがどこでどうしてたか知りたいかい?」
 「知りたくない」
 喉元に苦汁が込み上げる。この三日間、サムライがどこで何をしてたかなどわざわざ説明されなくても大体想像はつく。
 静流と一緒にいたに決まっている。
 先日食堂で見かけたサムライは静流と一緒だった、二人はいつも一緒だった、排他的な雰囲気を漂わせるほど親密に寄り添い通路を練り歩き空席を捜していた。静流はとても幸せそうだった。サムライはいつもと同じ仏頂面だったが、やや頬がこけて憔悴していた。
 サムライを独占した優越感からか、静流が意地悪く肩を竦める。
 「嘘つき。知りたいって顔に書いてあるよ。君、この三日間ろくに寝てないでしょう。貢くんの身を心配するあまりろくに眠れず目の下に隈作って本当に健気だよ、そんなところまで苗さんそっくりだ。
 苗さんは尽くす女だった。貢くんが莞爾さんのシゴキで打ち身を作った時も付きっきりで看病してた。二人が結婚すればさぞかし仲の良い夫婦になったと思うよ。苗さんは本当に貢くんを愛していた、貢くんも本当に苗さんを愛していた。剣しか取り得がない朴念仁の貢くんが苗さんの前でだけ表情豊かになった、まれに笑顔すら見せた。
 苗さんは貢くんの『特別』だった、帯刀貢の生涯の伴侶となるべき女性だった。貢くんも口にこそ出さなかったけど、身分の垣根をこえて苗さんを娶る決心を固めていたよ。この世で苗さんだけに注ぐ愛情深い眼差しが何より饒舌に本心を語っていたからね」
 揶揄するような口ぶりで言い、僕に向き直る。
 「最初に君と会ったとき、びっくりしたよ。溶鉱炉の夕焼けに染まる展望台で貢くんと並んだ君を見て、まさかと目を疑った」
 一呼吸おき、断言。
 「帯刀貢の眼差しに、かつて苗さんに向けたのと同じものを見出したから」 
 清冽に澄んだ水鏡の目は僕の感情をそのまま反射する。裸電球の薄明かりの下、衣擦れの音すら淫靡にしなやかな動作で僕に擦り寄り、耳朶で囁く。
 「この三日間、僕と帯刀貢は夜毎肌を重ねて互いの体を貪りあった。帯刀貢は最愛の伴侶をなくした哀しみと君との別離がもたらした喪失感を埋めるために、僕もまた最愛の人をなくした哀しみを癒すために、同じ帯刀の血を引くもの同士で淫蕩に睦みあったんだ」
 生温かい吐息が耳朶を湿らす。人の生き血を啜ったように紅い唇が綻ぶ。しどけなく凭れかかった体を押し返そうとするも、華奢な体のどこにこんな力を秘めているのか疑うほど微動だにしない。
 「嘘をつくな」
 「嫉妬?」
 サムライと静流が夜毎肌を重ねたなど信じたくない、あのサムライが男色行為に溺れるはずがない。
 理性が軋んで悲鳴をあげる。サムライの潔白を信じたいが、静流の言葉を否定する根拠がない。現実に情事の現場を目撃してしまった僕は、静流とサムライが関係を持ってないと言い切ることができない。動揺に乱れた呼吸を整えるのに集中、固く目を閉じて平常心を取り戻す。
 再び目を開けた時、僕はサムライへの信頼を回復していた。
 「僕はサムライを信じる」
 静流がかすかに狼狽する。怪訝な色を宿した目で僕を窺い見る表情が、裸電球の光加減で朧に揺らめく。
 不審げに眉をひそめた静流と対峙、腕に力を込め突き放す。押し返された静流の頭上、黄色く煙った裸電球が揺れ、光の弧を描く。
 淡く滲んだ光の弧が虚空を行き来する。
 眼鏡のブリッジを押し上げて位置を直し、真っ直ぐに静流を見据える。
 「事実と真実は別物だ。確かに僕はサムライの情事の現場を目撃した、君とサムライが性交渉を持ったのは現実であり事実であり僕という証人もいる、動かしがたい証拠がある。サムライが君を抱いたのは事実、それは三日前僕がこの目で確かめた。しかし僕が知っているのは経緯を省略した表層の事実のみ、深層の真実は今もってわからない。僕はサムライの身の潔白を信じ続ける、サムライが君を抱いたのは彼自身の意志ではないと無実を信じ続ける。何故ならサムライは僕の、」
 静かに言葉を切り、目を閉じる。
 胸に複雑な感情が去来、様々な想いが交錯する。僕は無力だ。あまりに無力な人間だ。サムライなしではきっと東京プリズンで生き抜くことさえできなかった。サムライは僕を助けてくれた、守ってくれた、庇ってくれた。売春班で流した涙の温かさ、僕を抱きしめる腕のぬくもりをまだしっかりと覚えている。時折見せるはにかむような笑顔や不器用な優しさがどれだけ僕を支えてくれたかわからない。

 『お前が愛しい。直』
 僕もだ、サムライ。心の底から君を愛しく思う。
 だから、君を信じる。僕に愛しいと言った君を信じる。献身的に僕を守り支えてくれた一途な愛情を信じ続ける。
 生まれて初めて他人から愛情を貰えた。
 生まれて初めて「愛しい」と言われた。
 恵以外の人間から愛情を貰えるなんて期待はおろか望んでもいなかった僕に、愛しさの意味を教えてくれた君を信じ続ける。

 しっかりと目を見開き、体の脇で指を握り込み、静流を睨み付ける。

 「サムライは僕の友人以上の存在だ。彼の存在はもはや僕の生きる意味と直結してる、彼の存在無しでは生きる価値さえ見出せない。僕は東京プリズンでサムライと出会って漸く自分が好きになれた、サムライに『愛しい』と言われて初めて自分を好きになることができたんだ!!
 サムライはきっと僕がIQ180の天才でなくても同じ言葉をくれた、他の誰でもない世界にただ一人の鍵屋崎直として僕を好きになってくれた。『IQ180の天才』でも『恵の模範となる完璧な兄』でもない、こんなふうにみっともなく泣き叫び怒鳴り飛ばし子供っぽく感情をあらわにする僕が好きだと言ってくれたんだ!!
 だから僕はどんなに落ちぶれても彼を信じ続ける、もはやかつてのように潔癖な武士ではなく現実逃避の快楽に身を委ね優柔不断な態度をとり続けても世界で僕だけは彼を信じ続けると決めたんだ、それが事実ではなく真実を選び取った鍵屋崎直の答えだ!!」

 突然、哄笑があがる。
 静流がへし折れそうに背中を仰け反らせ高らかに高らかに哄笑する。 いっそ無邪気にも聞こえる甲高い哄笑が四囲のコンクリ壁に跳ね返り、静寂の水面に波紋を起こし、殷々と反響する。
 鼓膜に沁みる笑い声。
 喉仏の突起すら美しい首を仰け反らせ、爆ぜるように笑い声をあげた静流がそのままよろめいてサムライのベッドに倒れこむ。
 サムライの枕を掻き毟り、喘息めいて荒い呼吸を吐きながら上体を起こした静流が、しっとり涙の膜が張った目に僕を映す。
 「ああ、可笑しい。笑い死ぬかと思ったじゃないか。君、本当に貢くんが好きなんだねえ。とんでもない惚気じゃないか」
 笑いの発作が終息、余韻で口端を痙攣させる静流の前で慄然と立ち竦む。
 静流はおかしい、狂っている。
 あれは頭がまともな人間の笑い方ではなかった。
 サムライのベッドに腰掛け、人さし指で目尻を拭い、続ける。
 「……ねえ、直くん。苗さんの失明の原因知ってる?」
 「なにを言い出すかと思えば……苗は生まれつき目が見えないんじゃなかったのか?サムライからそう聞いたが」
 まさか。
 不吉な予感が過ぎる。僕の表情を読んで動揺を汲み取った静流が、もったいぶった仕草で両手を組み、その上に顎を載せる。
 裸電球が淡い光を投げかける薄暗い房にて、ベッドに腰掛けた静流の前に立ち、続く言葉に耳を澄ます。
 「莞爾さんは鬼だった」
 静寂の水面に落ちた一滴の呟き。
 裸電球の光が届かない壁際のベッドにて、組んだ両手の上に顎を置き、遠くを見るような目を虚空に据える。
 「本家と絶縁する前も母さんと伯父さんの関係は決して良好とは言えなかった。莞爾さん……貢くんの父親はとても自己中な人で、自分が気に入らないことがあるとすぐに大声を張り上げて悪し様に人を罵った。どうかすると手を上げることさえあった。
 母さんはいつも言ってた。莞爾さんはとても本家当主の器じゃない、あんな品性下劣な人間を当主の座に就かせておくのは帯刀家の恥だって……僕も同感だ。僕だけじゃない、帯刀莞爾の人となりを知るものなら誰だって一も二もなく頷くだろうさ。故人を悪く言うのは気が引けるけど、莞爾さんはとても傲慢な男だった。冴さん……死んだ貢くんのお母さんも随分泣かされたみたいだから、冴さんと仲が良かった母さんが莞爾さんを恨むようになるのも道理だ」 
 「前置きが長い。君の話はどうにも合理性に欠けるな」
 耐え切れず口を挟めば、静流が苦笑する。
 「苗さんの失明の原因を作ったのは莞爾さんなんだ」
 「…………どういうことだ?」
 緊張で喉が渇く。静流は一体何を言おうとしている?
 「莞爾さんは本家跡取りの貢くんにひとかたならぬ期待をかけ、物心つくかつかないかの頃から厳しい稽古を課した。剣だけじゃない、正座や箸の持ち方に至るまでの礼儀作法を徹底的に仕込んだんだ。明らかに行き過ぎだと本家の誰もが思っていたが口には出せなかった、みんな現当主の逆鱗にふれるのが怖かったんだ。莞爾さんの折檻から貢くんを庇ってくれる人は誰もいなかった……ただ一人、苗さんを除いて」
 静流が緩慢な動作で首を振り、前髪が額を流れる。
 「当時苗さんは本家に引き取られてきたばかり、貢くんと大して年の変わらないほんの子供だった。だけど苗さんは莞爾さんの横暴に苦しむ貢くんを放っておけず、ある日障子を開け放ち座敷に躍りこんだ。座敷ではちょうど莞爾さんが癇癪を起こして貢くんを打擲していた。苗さんは畳に身を投げ出し貢くんに覆い被さった、それを見た莞爾さんは激昂ー……」
 静流が何かを投擲する動作をする。
 「たまたま近くにあった硯を苗さんに投げつけた」
 驚きに言葉を失う。静流の言葉では当時の苗はまだほんの子供だったという。つまりサムライの父は、長じてサムライに斬殺された帯刀莞爾は、たった四歳か五歳の幼い女の子めがけて大人の力で硯を投げつけたというのか?帯刀莞爾のあまりに非道な振る舞いに絶句する僕を横目で窺い、務めて平静に静流が続ける。
 「苗さんは強く頭を打った。恐らくそれが失明の原因だ。打ち所が悪かったんだろうね、きっと。苗さんが高熱をだして寝込んでも莞爾さんは医者に診せようとすらしなかった、使用人風情にそこまですることないと無関心に放置した。早期の段階で医者に診せてたら失明は防げたのかもしれないのに……まあ、今となっては過ぎた事だけど」
 「……胸糞悪い話だ。だがしかし、サムライは苗は生まれつき盲目だと」
 「当時貢くんは三歳かそこらのおさなご、はたして当時の出来事を正確に記憶している思う?実際貢くんが物心ついた頃には苗さんの目は殆ど見えなくなっていた、何も知らされなかった貢くんが苗さんは生まれつき盲目だと勘違いしても無理はない」 
 サムライが育った環境は、僕の想像以上に苛酷だった。
 サムライの実父である帯刀莞爾は、僕の義父である鍵屋崎優を超える非道な人間だった。
 「帯刀貢と帯刀苗はほんの子供の頃から二人で支えあってきた。二人で支えあい生き抜いてきたと言っても過言じゃない。二人が愛し合うようになるまでそう時間はかからなかった」
 「だが帯刀莞爾は反対した、莞爾にサムライとの仲を引き裂かれた苗はショックで首を吊りー……」
 静流の語尾を奪って推論を述べれば、静流が淡々と訂正する。
 「使用人と次期当主の身分差はただの口実。莞爾さんが二人の間柄に強硬に反対したのは別の理由がある。そしてそれこそが帯刀家最大の汚点、帯刀貢が刀を取った真の動機、帯刀苗の自殺の原因………」
 静流が今腰掛けているベッドの下には、苗の形見の手紙を納めた小箱がある。
 静流はそれを知らない。自分が苗の形見を尻に敷いてるとは思いもせず帯刀家の古く澱んだ血が起こした悲劇を笑顔で語り、とうとう静流は言った。
 言ってしまった。

 「帯刀貢と帯刀苗は姉弟だった。二人はそうと知らず腹違いの姉弟で愛し合ったんだ」
 
 漠然と予想していた。覚悟もしていた。
 サムライが犯した禁忌が近親相姦であると僕自身心のどこかで勘付いてはいたのだ。以前苗とサムライの関係を「姉弟みたいだ」と評した時、彼が激昂した理由がこれでわかった。
 手のひらに痛みを感じた。
 手のひらの柔肉に爪が食い込んでいた。
 真相を明かされたところで嫌悪も憎悪も感じなかった。
 ただ、胸が痛かった。
 僕は苗を知らない。サムライがかつて愛した女性を知らない。だが、苗の思い出話をするサムライが痛みを堪えるような顔をする度に嫉妬をかきたてられた。
 サムライはまだ苗を忘れてない。
 サムライの中では今もまだ苗が生きている。
 それも無理はない。
 生前苗に流れていた帯刀の血が、今もサムライの中に流れているのなら。
 「………やはりそうだったのか。帯刀苗はサムライの……帯刀貢の異母姉だったのか」
 「さすがに気付いてたみたいだね。そうだよその通り、苗さんは貢くんの異母姉、莞爾さんが外で作った子供さ。でもそれだけじゃない、苗さんには四分の一外人の血が流れていたんだ」
 「何?」
 僕の動揺を手に取りもてあそぶように舌なめずり、笑みを含んだ双眸に裸電球の光を映す。
 「苗さんの母親はロシア人との混血だった。そのせいかわからないけど苗さんはとても色が白かった、それこそ日本人離れしてね。見た目は絵に描いたような大和撫子だけど確かに苗さんには四分の一外人の血が流れていた。苗さんが帯刀家に引き取られた理由に関しては僕もよく知らない。とにかく苗さんは莞爾さんの気まぐれか同情だかで本家に引き取られ、出自を隠して育てられることになった。ところが莞爾さんの身勝手も極まったもので、苗さんと貢くんの関係が明らかになるや二人を裂くのに躍起になった。近親相姦がまずいのは勿論だけど外人の血が流れる娘と次期当主が恋仲になるなど言語道断、帯刀家に穢れた血を混ぜるわけにはいかないってね」
 胸に苦い感情が湧き上がる。
 顔を伏せて表情を隠し、吐き捨てる。
 「苗は帯刀莞爾に殺されたようなものだな」
 「それは違う。苗さんを殺したのは僕だ」
 え?
 虚を衝かれた僕の前で立ち上がり、虚空に腕を伸ばす。
 「もう一度言うおうか。帯刀苗を追い詰めたのはこの僕、帯刀静流だ」
 ひんやりした指先が首に触れる。
 華奢な手が首にかかり、徐徐に圧力がかかる。咄嗟のことで対応が遅れた。我に返った僕は静流の手首を掴みもぎ放そうとするも、華奢な体には似合わぬ力で首を締め上げられて頭に酸素が回らなくなる。
 馬鹿な。こんな細いからだをしてるくせに、華奢な手足をしてるくせに何故引き剥がせない?
 渾身の力を振り絞り酸素を求め暴れるも、静流は口元に薄っすら笑みを塗ったまま、僕が足掻けば足掻くほど暗い愉悦に浸り、爛々と目を輝かせる。
 「僕は貢くんを苦しめるために苗さんを罠にかけた。ただそれだけのために苗さんを地獄に落とした」
 「手を放せこの低脳、気道を圧迫するんじゃない、刑務所内でまた殺人を犯す気か!?」
 「帯刀貢の苦しみは僕の喜び、帯刀貢の絶望こそ帯刀薫流と世司子への供物。僕が東京プリズンに来た理由は帯刀貢に地獄を見せるため、母さんと姉さんの願い通り苦しめて苦しめて帯刀貢を殺すためだ」
 気道が圧迫され、空気の通り道を妨げられる。
 酸素を欲して喘ぐ僕にのしかかるように首を絞めながら静流は薄っすらと微笑んでいる。駄目だ。苦しい。縊死。絞殺。扼殺。扼死とは手または前腕で頚部を圧迫して死に至ること、被害者は年少者や女性・老人など弱者が多い。死体所見には手、指、爪による強圧部にその大きさ以下の皮下出血である扼痕や鋭い三日月型の加害者の爪あとなどの特徴があり、死体の顔面は鬱血ー……

 苗と同じ死に方。
 静流の目的は僕に苗と同じ死に方をさせ、サムライを追い詰めること?

 「!!っ、」
 ここで死ぬわけにはいかない、静流の思い通りになるわけにはいかない。
 薄れかけた意識を繋ぎとめ、首に巻き付いた手を思い切り引っ掻く。手の甲に紅い線が走り皮膚が捲れ肉が抉れる、苦痛に顔を顰めた静流が握力を緩めた瞬間に彼を突き飛ばし、首を押さえて鉄扉に駆け寄る。
 早く早く逃げなければ、サムライに会いに行かなければ!
 「サムライの誤解を解くまで殺されるわけにはいかない、彼に『愛しい』と伝えるまで死ぬわけにいかないんだ!!」
 肩から鉄扉に激突、そのまま砕けそうになる膝を支え、汗でぬめる手でノブと格闘する。くそっ、開け、開くんだ!気ばかり焦って苛立ちが募ってなかなかノブが掴めない、静流はすぐ後ろに忍び寄っているというのに、うなじに息遣いを感じる距離にいるというのに―
 「開いた!!」
 歓声をあげ、鉄扉を開け放つ。蛍光灯の光満ちる廊下に飛び出そうとした僕の口が、湿った布で塞がれる。扉の横で待機していた人物が僕の口に布きれを当てたのだ。誰だ?目だけ動かして顔を確認、驚愕。
 以前売春班に僕を買いに来た柿沼という看守だった。
 「ありがとう柿沼さん、彼を捕まえてくれて」
 「お安い御用だぜ。手え怪我してるみてえだけど大丈夫か?」
 「大した怪我じゃない。掠り傷さ」
 鼻腔の奥を刺激臭が突く。この匂いは以前嗅いだことがある……クロロフォルムだ。まずい。柿沼の腕の中から逃げ出そうともがくも四肢に力が入らない、ぐったり弛緩した体がやがてバランスを失ってー……
 廊下に倒れ伏せた僕の頭上、痛々しく腫れた引っ掻き傷を舌で舐めた静流がもう片方の手を無造作に差し出し、柿沼から何かを受け取る。
 急激に押し寄せる睡魔と闘いながら柿沼から静流に手渡された物に目を凝らす。
 紅い襦袢だった。
 「約束通り僕の用が済んだら遊ばせてあげる。他の看守も呼んで皆で楽しもう」
 スニーカーのつま先で無造作に僕の顎を持ち上げ、静流が言う。 
 霞む目で静流の笑顔を捉える。禍々しい笑顔。帯刀貢を地獄に落とすためなら手段を選ばないと宣言する邪悪な笑顔。
 「さあ直くん、おうちに帰ろう。僕の用はまだ済んでない。夜はまだこれからだ。君には姉さんの代わりを務めて貰わなきゃいけないんだから……」
 静流がスッと屈み込み、僕の鼻先に襦袢を突き出す。
 香でも焚き染められているのだろうか、静流が腕に抱いた襦袢から極楽の芳香が匂い立ち、瞼の裏で悪夢めいた色彩が渦巻く。
 静流の囁きが耳朶にふれる。
 華奢な指が僕の上着の胸元へと忍び込み、鎖骨を這う。
 「君は色白だから紅い襦袢が映えそうだ」 
 不吉な予言を最後に意識が溶暗した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050524000256 | 編集

 頭痛がする。
 頭が重い。思考が働かない。
 体がだるい。風邪がまた悪化したのかもしれない。
 頭が朦朧とするのは熱が上がったせいだか得体の知れない薬のせいだかどちらとも判断付かない。
 ぼんやり霞がかった頭を動かし、慎重に薄目を開ける。
 暗闇。視界が暗闇に覆われている。
 おかしい。変だ。目を開けたのに何故暗い。
 毛細血管の赤が仄かに透けて見える瞼の裏の暗闇じゃない、本物の暗闇が眼前に広がっている。黒い布きれで目隠しされているのだと気付いたのはその時だ。
 一瞬パニックを起こしかける。
 誰が目隠しをした?何の為に?気を失う前の出来事を回想、最悪の結論を導き出す。俺に目隠しをしたのはレイジ、あいつしかいない。
 『知ってるか?風邪薬の成分の何十分の一かは媚薬なんだぜ』
 気を失う寸前、勝ち誇った囁きが耳朶にふれた。
 猛烈な睡魔に襲われてベッドに倒れこんだ俺の上にのしかかり、優しく前髪を梳きながら微笑むレイジ。ぼやけた視界に蠱惑的な微笑を捉えたのを最後に意識が溶暗、泥のような眠りに落ちた。
 あれから何時間経ったんだろう。
 視覚を闇に閉ざされた俺は、残る聴覚を研ぎ澄まして周囲の様子を探る。廊下の物音は絶えている。近隣の房が静まり返った状況から察するに時間帯は深夜、就寝時刻はとっくに過ぎている。鉄扉の向こう側に人気がないのを確認後、房の物音に耳をそばだてる。レイジはどこだ?寝ているのか?薬を飲ませた俺をベッドに放置してぐっすり眠ってやがるのか?
 「レイジ、どこにいるんだよ」
 目隠しが邪魔だ。視界をすっぽり覆い隠す布きれが邪魔だ。
 目隠しを剥ぎ取ろうと顔に手を持っていきかけ、両手を縛られていることに気付く。手錠じゃない、縄だ。目で見なくてもささくれだった感触でわかる、粗末な麻縄が俺の両手首に二重に巻き付いてかっちり動きを封じてる。
 「なんだこりゃ」
 気が動転、頭が混乱する。自分が置かれた状況がまったく把握できず右も左もわからず途方に暮れる。畜生レイジの奴、目隠しの上に縛りなんざ長い付き合いの相棒を随分と丁重に扱ってくれるじゃねえか。居場所がわかり次第問答無用で殴りたいが、手首を縛られてるんじゃ無理だと悟り自分の馬鹿さ加減にあきれる。
 「SM趣味はねーんだよ、くそっ」
 唾と一緒に呪詛を吐き捨て、何とか上体を起こす。
 レイジはどこだ?俺に目隠しして手首縛り上げて無造作に転がしといた犯人はどこにいやがる?
 「レイジ、いるのかよ。いるなら返事しろ。タチの悪い冗談やめろよ、いい加減キレるぞ。とっとと縄ほどかねえと承知しねーぞ」
 金切り声で叫ぶが返事はない。
 裸電球も消えているらしい。まさか、俺に変な薬飲ませて目隠しして手首縛り上げるのがアイツの言ってたお仕置きとやらか?確かにこんな格好じゃ寝返りも打てねえ、両手縛られてたんじゃマスもかけねえし便所もいけねえし滅茶苦茶不便だが、もったいぶって「お仕置き」と言った割にゃなまぬるい気がする。
 ぶっちゃけ拍子抜けだ。
 「これがお前の言ってたお仕置きとやらか?笑わせんなよ王様。確かに手え縛られてたんじゃ小便するとき不便だよ、アレをちゃんと持てねえんじゃそこらじゅうに小便まきちらして便器汚しちまうもんな。いや、その前にこのカッコじゃ便器まで歩いてくのも無理か。目隠しされてたんじゃとんでもねえとこでやっちまうかもな、たとえばお前の顔の上とか。ジャーッて小便ひっかけられておったまげるとこ見モノだぜ。なんてな、目隠しされてたんじゃどのみち小便くせぇ間抜けヅラ見れねーけど……」
 声が暗闇に吸いこまれる。返事はない。
 おかしい、レイジはいないのか?両目を覆う布きれがまどろっこいしい。今すぐ目隠しを剥ぎ取りたい衝動に駆られるが、両手を縛られてたんじゃ悔しさに歯噛みするしかない。
 両目を覆った薄地の布が顔の皮膚に擦れて無性にかゆくなる。
 最悪だ。いるのかレイジ、いるなら何か言えよ、知らんぷりするなよ。俺は起きた時からレイジがいると根拠のない確信を得ていた。
 証拠はない、ただの勘だ。けど、俺の勘は動物並に冴えてる。レイジは房のどこかにいる、たとえ返事がなくても反応がなくても絶対いると本能が疼く。
 「だんまり決め込んでんじゃねえよ。ちゃんと説明しろよ」
 どこだレイジ、どこにいる?不安と恐怖と混乱とで発狂しそうになる。目が見えない、ただそれだけで人間は動物に退行する。頼れるのは視覚を除く全感覚、聴覚と嗅覚と触覚と味覚、そして第六感。
 聴覚を鋭く研ぎ澄ます。
 房に俺以外の誰かがいるなら何か物音がするはずだ、どんなかすかな物音だっていい、絶対聞き逃すものかと生唾を嚥下するのも我慢し全方位に聴覚を開く。

 やっぱりいる。
 誰かがいる。

 衣擦れの音、押し殺した息遣い、唾を嚥下する音……
 俺の勘は当たっていた。ここには俺以外の人間がいる、爛々と目を光らせ気配を殺し獲物に飛び掛るタイミングを計っている。そいつは暗闇に潜んで獲物を狙っている。
 獲物は多分、俺だ。俺しかいない。
 距離はそれほど離れてない。俺のベッドから5メートル位……隣のベッドだ。普段レイジが使ってるベッドの上に誰かがいる。喉が緊張で干上がる。レイジじゃない。違う人間だ。
 今、俺を熱っぽく見つめてるのはレイジじゃない。
 「誰だお前」
 どういうことだ?なんでレイジのベッドに違う男が座ってる?
 何が何だかわからない。目隠しの向こう側、ベッドに腰掛けたそいつは下品に笑っている。下卑た笑い声が房にこだまする。
 ぎょっとする。
 一人だけじゃない。二人、三人……三人。三重奏の笑い声が響き渡る中、息を呑んであとじさる。なんだこいつら。一体なにがどうなってやがる、レイジはどこへ消えた?畜生、目隠しさえなけりゃ声と顔がぴったり一致するはずなのに……
 「お目覚めか、ロン。ぐっすり眠ってたみてえだな」
 「もう真夜中だぜ。助けを呼んだって誰も来ねえよ」
 「頼りの王様だってほら、この通り」
 「レイジもそこにいるのか!?」
 声が跳ね上がる。
 暗闇の向こうで失笑の気配、ベッド周辺にたむろった男たち三人が目配せを交わすのが砕けた雰囲気が伝わってくる。
 ぎしりとベッドが軋む。
 俺のベッドじゃない、隣のベッドだ。
 一人がベッドに座りなおし、もう一人が億劫そうに腰を上げ、残る一人を伴いこっちにやってくる。コンクリ床を叩く尖った靴音が次第に近く大きくなる。
 電撃に打たれたように勘が冴える。
 「……暇人の看守どもが、俺の房に何の用だ?」
 看守の靴音と囚人の靴音は違う、一発で聞き分けることができる。
 看守は革靴を履いている。囚人はスニーカーを履いている。
 薄っぺらく磨り減ったゴム底がコンクリ床を叩く音と固い靴裏がコンクリ床を穿つ音ではまるで響きが異なる。威圧的で支配的、コンクリ壁に殷々とこだまする硬質な響きは看守の靴音の特徴だ。
 正面に立ち塞がった看守が全身から威圧感を発する。
 ごくりと生唾を飲み込む。緊張が最高潮に達する。
 看守がにやにや笑ってる。口元を弛緩させ黄ばんだ歯を剥いて醜悪な笑みを顔一杯に浮かべてるのが目は見えなくてもまざまざ想像できる。
 どうやって俺を料理しようか、楽しい妄想と一緒に股間を膨らませてるに違いない。
 突然、頭に手が触れる。
 くしゃりと髪をかきまぜられる。
 必要以上に親しげな、反吐がでるほどなれなれしい手つき。
 「可哀想になあロン。お前は『売られた』んだよ」
 「は?」
 手が使えない代わりに激しく首を振り、看守の手から逃れる。
 俺が売られた?誰に?
 俺は売り物になった覚えはない。 
 「売られたって誰にだよ。なああんた、目ん玉かっぽじってよく見ろよ。俺の首から値札が吊り下げられてるか?ロン一匹五百元って書いてあるか?ないだろ馬鹿。断っとくが俺は体も心もプライドも安売りした覚えはない、お前らみてーなゲスどもに金に困ってるから買ってくれって揉み手でご機嫌とりした覚えもねえ。わかったか?わかったらとっとと房から出てけ、ついでに俺の目隠しとって縄ほどいて……っ!?」
 ひゅっと喉が鳴る。
 看守の手が上着の胸元に滑り込んできたのだ。
 激しく身を捩って執拗な追跡から逃れようとしたが、手首を縛られ動きを制限されたせいでバランスを崩し、肩口からベッドに倒れこむ。
 ベッドが耳障りに軋む。
 やばい。
 すぐさま起き上がろうとしたが、すかさず看守が覆い被さってくる。手が使えないなら足だ。看守の腹に蹴りくれようと必死に暴れるが効果なし。相手は二人だ、俺にのしかかった奴の他にもう一人が見張り役に就いて俺の足を押さえこむ。
 「まだ暴れる元気があったのか。感心だな、たっぷり眠って全身に薬が回った頃なのによ」
 「薬ってさっきレイジが俺に飲まさせたアレかよ、なんなんだよアレ!?」
 「知りたいか」
 顔に生臭い吐息がかかる。
 はちきれんばかりに膨らんだ股間が内腿を擦る。
 俺の内腿にいきりたった股間を押し付け、はだけた裾から手を潜らせる。
 体が熱い。風邪が酷くなったせいだ。
 熱く湿った吐息が口から漏れる。
 風邪?馬鹿な。
 不快に汗ばんだ手の感触。
 気持ち悪いはずなのに気色悪いはずなのに何だこの感じ、上着の内側に潜り込んだ手に素肌をまさぐられてちりちり火種が燻って快感を誘発する。体が変だ。こんなのいつもの俺じゃない、レイジ以外の男にさわられて感じるなんざ俺じゃない。
 本当に熱のせいだけか、熱のせいだけで体がこんな過敏になるのか?
 全身の皮膚が性感帯に造りかえられる。
 目隠しされたせいで相手の顔が見えず、次にどこを触られるか抓られるか揉まれるか全く予想つかず恐怖が膨らむ。
 「ひっあ、あっ、っふ、く……さわ、んな……」
 心の準備が出来ず、喘ぎ声を押し殺す余裕すら与えられない。
 レイジは?
 暗闇で必死にレイジを捜す、レイジが俺を見捨てるなんてありえないと反駁する。唾で湿した指が乳首を潰して捏ねくりまわす。針で刺し貫かれるような快感に喉が仰け反り、「ひあっ」と悲鳴が漏れる。
 恐い。俺が俺じゃなくなる。こんなの嘘だ、悪い冗談だ、何かの間違いだ。レイジ以外の男の愛撫で感じるわけない、よがるわけない。そう自分に言い聞かせて快感の波に抗うも、尖りきった乳首を爪で引っ掻かれて背中が撓る。
 「痛っあ………!!」
 体の表面が熱い。体の中が熱い。
 悪寒と快感が交互に押し寄せて気が狂いそうだ。
 体の細胞がどろどろに溶けてく。
 全身の皮膚が性感帯となり、指での愛撫はおろか上着が素肌に擦れる感触やシーツと擦れる感触さえもじれったい快感に変換する。
 酸素を欲して喘ぐ俺の顔を覗き込み、看守が哄笑をあげる。
 「薬の正体はお前の体が知ってる。はは、レイジは何も言わなかったのかよ可哀想に!大方風邪薬だってだまくらかしてお前に飲ませたんだろうが『アレ』を、まったくとんでもねえ大嘘つきだ、言葉通りの裸の王様だ!いいかロン、お前が飲まされたのは風邪薬なんかじゃねーぞ。何倍何十倍にも感度を高める媚薬、一錠飲めば一晩中どころか二晩ぶっつづけでイきっぱなしの催淫剤だ!」

 『知ってるかロン。風邪薬の成分の何十分の一かは媚薬なんだぜ』
 暗闇の中でレイジが笑う。とても邪悪に、楽しそうに。

 「でたらめ言うな、レイジが俺にクスリなんか使うわけねえ……」
 いくら俺の浮気を疑ってるからって、そんなことあってたまるか。
 「でたらめなもんか。お前の体が証拠だ。どうだ辛いだろロン、俺に乳首こねられてどうしようもねえくらい感じまくってんだろ。乳首責められただけで軽くイッちまいそうだろ。ははっ、これがホントの敏感肌ってか?いいかよく聞けロン、レイジはもうお前に愛想尽きたんだとさ。恩師らずで浮気性、可愛がってやった恩も忘れてやらしい痣こさえて帰って来るような猫はいらねえから俺たちにくれてやるとさ」
 「嘘だ」

 レイジが俺を、看守に売り渡した?
 俺が滅茶苦茶にされるのを承知で?

 『逃がさねーから』
 暗闇の中でレイジが微笑む。戦慄に背筋が凍る。
 『めでたいなお前。これで、この程度でおしおきが済むとマジで思ってたのか?耳朶にピアス開けた程度で?ははっ、まさかな!いくらなんでもそんなにおめでたくねえよな。ロン、お前もいい加減わかったろ。俺の名前はレイジ、英語の憎しみ。キレたら怖い王様、嫉妬深い暴君。そんな俺がお前の耳に針通したくらいで許し与えるわけねえだろ。もっともっとこらしめてやんなきゃ』
 もっともっとこらしめてやんなきゃ。
 耳朶に針通すだけなんざなまぬるい、もっともっとこらしめてやんなきゃ。
 これがレイジのやり方、暴君のお仕置き?
 俺の耳朶針通すだけじゃ飽き足らず、淫催剤飲ませて目隠しして手首縛り上げて看守に輪姦させるのが暴君の復讐?
 レイジの嫉妬深さは異常だ。執念深さも異常だ。
 レイジは本気で俺の浮気を信じてるのか…… 

 「どうしてだよ?」
 愛してるって言ったじゃねえか。
 信じてるって言ったじゃねえか。
 俺を愛してるくせに信じてるくせにこんな目に遭わせるのか輪姦させるのかクスリで自由奪って看守に売り渡すのか、レイジ何とか言えよどこにいるんだよお前「愛してる」って言ったじゃねえかあれ嘘か、愛してる奴が他の男にヤられてもそれでいいのかよ、「恨むなよ。お前が悪いんだからな、ロン」とかへらへら笑いながら吐き捨てるつもりかよ?

 やりきれなさが込み上げて口の中が苦くなる。
 レイジにとって俺はその程度の存在だったのか?
 惜しげもなく他の男に払い下げれる程度の存在?ペア戦のアレはなんだったんだ、俺を売春班に戻すのが嫌でリングに上がって戦い抜いて勝利の代償に片目を失った男がたった一度の浮気に怒り狂って俺を看守に売り渡したなんて……
 誤解なのに。

 俺が好きなのはレイジなのに。
 俺が抱かれたいのはこの世でたった一人レイジだけなのに―――

 感情が爆発、喉から咆哮が迸る。
 「いいのかよレイジ、俺がこいつらにヤられちまってもいいのかよ本当にそれでいいのかお前は満足なのか、看守三人にかわるがわる犯されてボロ雑巾になった俺が『これに懲りて二度と浮気はしません』て泣いて縋り付きゃ許すのか、クスリと目隠しと縄なんて姑息な手使いやがって畜生、見損なったぜ王様!!お前にとって俺はそれっぽっちの存在だったのか、処女はいただいたからあとはお好きにどうぞって看守に分け前くれてやれる程度の娑婆に出て女食い漁るまでのつなぎの恋人だったのかよ!!?」
 「うるせえよ」
 横っ面を殴られた。怒号が止んだすきにズボンごと下着を引き摺り下ろす、下半身を脱がされ両足を抱え上げる恥ずかしい格好をとらされる。開脚。看守の肩に両足が乗せられる。口笛。
 裸の股間に手が触れる。
 「いっぐ、ひ……!」 
 看守がペニスをいじる。
 唾に塗れた指がねちゃねちゃと淫靡な音をたてる。
 先端に血が集まる。薬で敏感になった体が即座に反応を示す。先端に血が上り詰める、ペニスが固くなる。
 反射的に足を閉じようとしたが、看守の手で強引に押し開かれる。
 片手で俺のペニスをいじくりながらもう片方の手で太股をなでさする。爪で内腿を逆撫でされ、羽毛で刷かれるような快感が走る。
 手が、手の縄さえほどけりゃこんな奴ぶん殴ってやるのに!自力で縄がほどけないかと手首を擦り合わせるが無駄、ささくれだった縄が手首と擦れて皮膚に血が滲んだだけだった。
 「ふ、あ、あっ……やめろよ変態、男が男のアレいじくって何が楽しいんだよ、正気疑うぜ……っくあ!」
 「こないだはいいとこで邪魔が入ってお預け食ったからな。今夜は最後までヤり抜くぜ。俺のブツは看守仲間の内じゃいちばんでっけえって評判なんだ、お前のケツの穴がきちぃきちぃって悲鳴上げるところが目に浮かぶぜ。たっぷり潤滑油しぼりだしておかなきゃな」
 「あ、ああっ、あっあっふあ……やめ、そこ、そこはっ……」
 「感じてるのか?可愛い声だしやがって……ほら、腰が上擦ってきた。可愛いペニスが上澄み滲ませてるぜ」
 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。いっそ舌を噛み切って死んだほうがマシだ。くちゃくちゃいやらしい音。看守の手で扱かれてペニスが勃起する。
 悪寒と快感が混ざり合った慄きが下肢を襲う。
 目隠しの布きれが湿る。瞼がじんわり熱くなる。
 乳首が勃ってる、ペニスが勃ってる。
 「はっはっはっはっ……ははっ、たまんねえなこりゃ!絶品のオカズだ」
 「同僚に自慢できるぜ」
 生臭い匂いが鼻腔を突く。
 ザーメンの匂い。
 甘い喘ぎ声を上げる俺の痴態をズリネタに看守が自慰してる。
 今この時だけは目隠しに感謝した。まともに目撃したら胃袋ごと戻す勢いで吐いていた。看守の手が加速、腰から下が溶ける。理性が剥奪される。尿道がむずがゆくなる。
 そして……
 「うあっああああああ……!!」
 瞼の裏で閃光が爆ぜる。頭が真っ白になる。
 粘つく精液が股間と内腿、下腹に付着する。俺が射精すると同時に、粘ついた液体が顔にぶちまけられる。
 苦いザーメン。
 俺のペニスをいじくる傍ら片手で分身をしごいてた看守が、顔面めがけて白濁をぶちまけたのだ。
 「げほっかほっ!」
 「よっしゃ、当たった。ガキの頃から射的は得意だったんだよ」
 「惜しいな、もうちょっと右にずれてりゃど真ん中だったのに」
 「わざとだよ、口狙って飲ませようとしたんだよ」
 激しく咳き込む俺の頭上で哄笑が渦巻く。悪夢。悪い夢なら今すぐ覚めてくれ。
 唾と一緒にザーメンを吐き捨てる。
 俺の目から染み出した液体と外側に付着したザーメンとで目隠しの布きれが濡れそぼり顔に吸い付き皮膚と一体化する。
 「潤滑油はたっぷり出たけどお前がイっちまったんじゃ意味ねえじゃんか」
 「気合で勃たせるよ」
 「年考えろよ。精力ぎらつく二十代じゃねーんだからすぐに勃つもんか。バッターアウト、ファウルボールで選手交替だ」
 枕元の看守が同僚を押しのけ、入れ替わり俺の上にのしかかる。
 俺の股間に手をやり、白濁をすくいとる。俺の内腿を伝って尻の方まで濡らした白濁を指で伸ばすのが、くちゃくちゃと濡れた音でわかる。
 尻の柔肉を乱暴に割り開く。
 肛門の窄まりにひやりと外気がふれる。
 「!っ、痛あう……いっで……」
 人さし指が肛門に刺し込まれる。痛い。気持ち、悪い。
 人さし指が腸の内壁をひっかく。看守の忍び笑いが漏れる。指が二本に増える。きつい。肛門がぎゅっと収縮、食いちぎりそうに指を締め付けるのがわかる。
 「どうせ毎晩王様と楽しんでるんだろ。たまにゃ俺たちとも遊んでくれよ」
 「毎晩王様のモン受け容れてるわりにゃ綺麗なケツだな、色も形も悪くねえ」
 「締まりも良好だ。もっと緩んでるかと思ったが」
 「赤く充血して物欲しげに襞ひくつかせて男誘ってやがる。いやらしいケツマンコだ」
 頭上で卑語が飛び交う。頭が朦朧とする。
 抵抗する気力を削ぎ取られた俺は、足を開いてされるがまま肛門を嬲られる恥辱に耐える。肛門に突っ込まれた指が卑猥にのたくる。
 体の奥で何かがもぞりと蠢く感覚。信じたくないが、体が勝手に反応しはじめてる。クスリのせいだ。全部レイジに飲まされたクスリのせいだ俺は感じたくなんかないのにレイジ以外の男に抱かれて感じたくねえのにくそ、くそ、くそっ…………

 レイジ。
 出て来いレイジ。こんな変態どもにまわされるくらいならいっそ……
 「お前らにヤられるくらいならレイジにヤられたほうがマシだ!!」

 「呼んだか?」
 落ち着いた声が割り込んできた。
 哄笑が止む。肛門からあっけなく指が引き抜かれる。
 俺の叫びに答えたのは……甘く掠れた独特の響きの声。
 一度聞いたら忘れられない声。
 コンクリ床を叩く靴音……誰かが優雅な歩幅でこっちにやってくる。今の今まで隣のベッドに腰掛けて俺の痴態を鑑賞してたらしいそいつが、偉そうに看守に顎をしゃくる映像が目に浮かぶ。
 腰に手をあてた尊大なポーズが様になる男の名は。
 「レイジ、お前………」
 『憎しみ』。
 「来るのが遅いんだよ馬鹿、焦らすのも大概にしやがれ、もう少しでヤられちまうとこだったろうがっ……」
 目隠しされててもわかる、レイジの気配を間違えるはずない。
 今の今まで衣擦れの音ひとつたてず空気に溶け込んでいたから気付かなかっただけでレイジはずっとそこにいたのだ、退屈そうに俺の痴態を眺めてやがったのだ、人が悪いにも程がある。
 職業柄気配を消すのに慣れたレイジなら造作ないことだ。
 安堵のあまり泣きたくなった。
 やっと、やっと許してくれる気になったのか。
 俺の話を聞いてくれる気になったのか。
 気まぐれな王様を心の中で罵倒、それでも助けに来てくれた嬉しさを抑えきれず、泣き笑いに似た表情が込み上げて……
 ベッドが不吉に軋む。
 「……え?」
 誰かが俺に覆い被さった看守をどかし、場所を入れ替わる。
 澄んだ旋律が耳朶をくすぐる。
 金鎖が涼やかに流れ落ちる音……褐色の首筋を鈍くきらめきながら金鎖が流れ落ちる妙なる旋律。
 俺の上にいるのはレイジだ。
 「悪ふざけはやめろよ。暴君の気まぐれに付き合わされるのはうんざりだ」
 「言ったろ?こらしめてやるって」
 額が熱い。体が熱い。全身の細胞が発火する。
 レイジの囁きに全身の細胞が歓喜する。
 俺の腰に跨り、いつかと同じように優しく前髪をかきあげ、汗ばむ額にキスをする。 
 「コイツらにヤられるくらいなら俺にヤられたほうがマシだって、さっきそう言ったよな」
 耳の奥に鼓動を感じる。動悸が激しくなる。俺の髪に指を絡めて遊ぶレイジを布越しに仰ぎ、皮肉げに口角を吊り上げる。
 「嫌だ。どけよ。人が見てるだろ。人前でヤる趣味はねえんだよ。露出狂に成り下がるつもりはねえ」 
 「関係ねーよ。ヤりたい時にヤる、抱きたい時に抱く」
 「無茶苦茶な理屈。マトモじゃねえよお前、どうかしてるよ。俺の耳朶にピアス開けた次はこれかよ、クスリ飲ませて手首縛り上げて目隠しかよ」
 「ノーマルなセックスに飽きたんだ。手加減して抱いてると無性に刺激が欲しくなる」
 「お前に本気で抱かれたら死ぬよ。お前、俺を殺したいのかよ?」
 冗談のつもりだった、俺は。
 返されたのは沈黙。腹の上でレイジは押し黙ってる。
 不意に恐怖を覚える。体の芯から凍り付くような恐怖。
 俺の腹の上にいるのが暴君か王様かわからない。
 生唾を嚥下する音がした。多分、俺のベッドを取り囲んだ看守の一人。これから眼前で繰り広げられる行為に期待を高めてるのか、暴君の沈黙に不安定な揺らぎを感じ逃げ出したい衝動と戦っているのかどちらかは分からない。
 殺伐とした空気が漂う中、唐突に歌声が流れる。
 『王のくちびるには神の宣告がある。さばくときにその口に誤りがない』
 唄うような節回しの託宣を下し、俺の顔を両手で抱き起こす。強引に上を向けられた鼻先に吐息がかかる。
 レイジがすぐ近く、唇が触れ合う距離にいる。
 神の宣告が宿るくちびる。
 『愚かな者には愚かさが懲らしめとなる。悪を行う者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける』
 額に、瞼に、耳朶に、頬に、顎に、首に、鎖骨に。
 唇以外の場所にキスを落とし、囁く。
 『そむきの罪を覆う者は愛を追い求める者。悟りのある者を一度責めることは愚かな者を百度むち打つよりもききめがある』
 目隠しの向こうで優しく残酷に微笑む気配。 
 見えるはずのない光景が網膜で像を結ぶ。
 愛しさと憎しみとを矛盾なく隻眼に映したレイジが、どこまで残酷になれるか自分を試練に投げ込み試すように俺の唇をついばむ。
 『Which are you?』
 お前はどっちだ?
 優しい微笑みをかき消し、王様の面影を捨て去った暴君に押し倒されたのは次の瞬間だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050523232751 | 編集

 頭痛がした。
 半覚醒の意識の中、笑い声が響く。
 「姉さん、お早う」
 鈴を振るように無邪気な笑い声。何がそんなに可笑しいのかその人物は僕の腋の下に手を入れ抱き起こす、自律運動できない人形を甲斐甲斐しく世話するように。
 反射的に手を叩き落とそうとして体が動かない事に気付く、四肢はだらりと垂れ下がったまま意志に離反してる。頭が痛い。さっき嗅がされたクロロフォルムの副作用だ。体がぐったり弛緩してるのもクロロフォルムのせいに違いない。
 鉛のように重たい瞼をこじ開ける。
 霞んだ視界に捉えたのは、禍々しい笑みを刻む赤い唇。
 「しずる……」
 舌が痺れて発声がうまくできない。たどたどしく不明瞭な発音で名を呼べば、僕の上に覆い被さった少年がにこりと微笑む。
 眼前に静流がいた。ベッドパイプに背中を立て掛け上体を起こした僕は、素肌を流れる薄地の布の感触にハッとする。
 「なんだ、これは」
 呂律が回らない。意識を失っている間に僕は着替えさせられていた。 全裸に紅い襦袢を羽織った僕にしどけなく凭れかかり、官能に湿った吐息の合間に囁く。
 「姉さんの形見さ」
 「貴様、僕にこんな馬鹿げた格好をさせて何を企んでいる?女装は性倒錯の典型症例だぞ」
 改めて自分の格好を見下ろし、激しい羞恥に苛まれる。
 遊郭の紅格子の向こうでしかお目にかかれないような真紅の襦袢はしどけなく着崩れて肩が露出している。炎天下での強制労働で服から露出した部位は多少焼けたが、長袖長ズボンに隠れた手足は折れそうに貧弱なまま、もともと筋肉が付きにくい体質なのに付け加え、食が細いせいで体重が減りこそすれ増えはしない華奢な体は襦袢の中で泳いで痛々しいほどだ。
 首から下の部分、紫外線に晒したことなど一度もない病的に生白い肌に紅色がどぎつく映える。 
 「綺麗だよ、直くん」
 僕の着付けを手伝い、静流がうっとりと呟く。
 熱病にかかったように虚ろな目。
 馬鹿な。どうかしている。
 意識を失っている間に服と下着を脱がされ、真紅の襦袢を着せられていた僕は、繊細で滑らかな肌触りの薄布が手足を流れる感触にこの上なく淫靡なものを感じ動揺する。
 僕が今いる場所は房の壁際、粗末なパイプベッドの上。唯一の出入り口の鉄扉までかなりの距離がある。
 クロロフォルムの副作用が抜けきらない体で逃げ出すのは絶望的、ほぼ不可能だ。いや、それ以前に静流を甘く見るのは危険だとひりつく首が訴えていた。
 美しく微笑み僕の首を締め上げる静流、恐るべき五指の握力。鏡に映してみなければわからないが、僕の首にはおそらく痣ができている。
 静流に殺されかけた名残りだ。静流もまたサムライと同じく幼い頃から剣をとってきたのだ、可憐な少女と見まがう清楚な風貌に騙されてはいけない、その気になりさえすれば簡単に僕を殺すことができると先ほど証明したばかりじゃないか。
 「僕をどうする気だ」
 「駄目だよ、そんな怖い顔しちゃ」
 静流が笑いながら懐から取り出したのは……細い筆と口紅。
 細い筆を掴み、口紅をすくいとり、続ける。
 「言ったでしょ?姉さんにはそんな怖い顔似合わないって。姉さんは笑顔が一番だ」
 「僕は君の姉じゃない、鍵屋崎直だ」
 恐怖で発狂しそうになりながら抗弁するも、静流は心ここにあらずの空虚な微笑みを浮かべたまま、一人納得して頷いている。
 形良い唇から漏れる呟きに耳を澄ませば、「だいたい姉さんは厚化粧なんだ。もともと目鼻立ちが整ってるんだから化粧は薄くていいのにね」「怒らないでよ、姉さん。本当のことじゃないか。姉さんはもともと華やかな顔だちなんだから化粧を厚塗りして造作を埋没させるのは勿体ない。口紅は唇の形に沿ってゆっくり丁寧に塗るんだ、厚すぎず濃すぎず、人形に魂を込めるように繊細な筆遣いで……」と滔滔たる独白を紡いでいた。
 「正気に戻れ、静流」
 「口を閉じて。紅が塗れないじゃないか」
 華奢な手が顎を掴む。
 半開きの唇に筆先を感じる。
 紅を含ませた筆先が唇の輪郭をなぞる。上唇の中央にあてられた筆先が非牡丹の花弁を一片、先端の膨らみに添える。
 唇は敏感だ。唇を筆で刷かれるだけで背徳的な行為をしている錯覚に襲われて後ろめたさを感じる。
 「よく似合うよ」
 「似合わなくていいから行為を中断しろ、僕は男だ、生殖行為を目的に性的魅力をアピールする化粧の必要性は全くない!」
 静流を突き飛ばそうにも腕に力が入らない、上がらない。
 呂律の回らない舌で抗議するも引き下がる気配はない。僕の下半身に跨り、対座する姿勢をとる。
 静流は巧みに筆を操り僕の唇に紅を塗っていく。
 「んっ、ふ………」
 筆が唇をくすぐる感触が官能の熾火を掻き立てる。
 人体の先端は敏感にできている。唇はその最たるものだ。緻密な毛が唇の膨らみをなでるたびに微妙なくすぐったさを覚え、やがてそれが官能の疼きとなる。唇への愛撫が快感に昇華され、恥辱に苛まれて身を捩る僕の下半身に跨り、静流が口を開く。
 「いやらしい顔。はしたない声。そうやって貢くんを誘ったの?」
 「誤解するな、僕とサムライは肉体関係など持ってない、僕も彼も同性愛者じゃ……っあ、ひ!」
 襦袢の裾をはだけ、蛇のように滑り込んだ手が内腿をなでさする。
 突然内腿をなでられ甘い声を漏らす僕の前で、静流が上着とズボンを脱ぎ、一糸纏わぬ裸身をさらす。
 静流が襦袢の裾を腹まで捲り上げて大胆に下半身を露出させる。唯一身に纏っていた襦袢を捲り上げられ、裸の下半身をさらす屈辱的な格好をとらされた羞恥から激しくかぶりを振って抵抗するも、薬に自由を奪われた体では限度がある。
 僕の下半身を心ゆくまで眺め、性感帯が発達した内腿を執拗にさすり、じれったい刺激を送り続ける。
 「教えてよ、どうやって貢くんを誘惑したか。貢くんが君に惚れたのは何故?苗さんに首を吊られてからというもの孤高を通してきた貢くんが君を寄り付かせるようになったきっかけは?夜毎貢くんの寝床に潜り込んで奉仕してあげたの、魔羅を咥えてあげたの、一生懸命手で扱いてあげたの?帯刀貢の魔羅の感想を聞かせてよ。大きかった?満足した?僕?物足りなかったよ。薬で朦朧とした人間相手じゃ自分が動かなきゃ楽しめないもの。不公平だ」
 薬。
 「貴様、やはり薬を使ったのか……無理矢理だったのか……」
 三日前、鉄扉を開けた瞬間の光景が鮮明に甦る。
 ベッドに仰向けになったサムライに騎乗位で跨る静流。
 裸電球が消えた薄暗がりで淫らにくねる白い裸身。
 やはりサムライは潔白だった、合意ではなかった、卑劣な策略に嵌まって既成事実を作らされたのだ。
 サムライの潔白が証明された安堵に浸る間もなく、冷たい手が内腿を這いのぼり、股間に達する。
 内腿をまさぐられて息が上がり始めた僕に、酷薄に目を細める。
 「感じやすい体。貢くんに仕込まれたの?」
 「僕とサムライは肉体関係を持ってないと何度同じことを言わせる低脳め、僕は男とあれば誰とでも寝る君と違って最低限の倫理観を持ち合わせてるつもりだが」
 「口が達者だね。そういう気丈なところも苗さんを思い出すよ」
 尻の柔肉の狭間、固く縫い閉じられた中心にひやりとした指がふれる。反射的に体が強張る。肛門の周縁で円を描きながら挿入の瞬間を窺う指を意識、生唾を嚥下。売春班で何回何十回と体験したが、肛門に異物を挿入される不快感はいまだに薄れない。
 指に圧力がかかる。
 「ひぐぁっ、ひ!」
 情けない声が漏れた。肛門に指がめりこむ感覚。
 直腸に潜りこんだ指が襞を掻き分け掻き分け奥へと侵入する。
 「『中』は随分使い込んでるみたいじゃないか。これでもまだシラを切り通すの」
 「僕は真実を語った、君が信じようと信じまいとそんなことはどうでもいいし興味もない!僕とサムライが肉体関係を持ってないのは事実だ、本当だ、サムライは一度たりとも僕を抱こうとしなかった、僕から誘っても拒まれた、彼の中ではまだ苗が生き続けているんだ!」
 「ははっ、まだそんなこと言ってるんだ!愚図な男だね貢くんは。人に誇れるのは剣技と魔羅の大きさだけ、色恋沙汰に関しては昔と何も変わらずウブで奥手なままってわけか。昔の女の面影を今でも未練たらたら追い続けてるなんて情けない男だよ本当に、そんなに後悔するならいっそ苗さんと心中してしまえばよかったのに!」
 「情けないのはどちらだ帯刀静流。帯刀貢への劣等感に凝り固まって彼を追い詰め追い落とそうとあらゆる汚い手を使った君にサムライを非難する資格はない、本性を隠して卑劣な策略を練り続ける限り君は一生サムライを越えられない帯刀家の面汚しのままだ!!」
 サムライが静流に劣るものか、負けるものか。
 サムライを侮辱された反発から声を荒げた僕の肛門からあっけなく指が抜かれる。まさかこれで終わるはずがないと硬直した体を裏返し、尻を向けさせる。
 「『帯刀家の面汚し』?」
 笑いを堪えるように奇妙に歪んだ表情が不安を煽る。
 次の瞬間、危うく悲鳴をあげそうになった。たった今指が抜かれたばかりの肛門に熱く濡れた舌がもぐりこんだのだ。
 「!あっ、ひ、あっあぐ……」
 辛うじて悲鳴は噛み殺したが、喘ぎ声は抑えきれない。
 発情した軟体動物めいて卑猥に蠢く舌が肛門をほじくり返す、充血した襞を掻き分けて内壁の粘膜に唾液を塗りこめる。
 熱い舌が肛門に侵入する度、意志に反して体が跳ねる。
 不規則な痙攣に襲われつつ必死に快感に抗う僕の顔と反応を見比べ、静流の眼光が狂気を宿す。

 「君も莞爾さんと同じことを言うのか。貢くんは本家の大事な跡取りで僕は分家の引き立て役、血を滲むほど修練を重ねても本家の長男にかなわない帯刀家の面汚しだと非難するのか。君にはわからないだろう、僕の苦悩なんて。生まれながらに引き立て役の宿命を背負った僕の葛藤なんて。誰もが僕を帯刀の面汚しという、帯刀貢の引き立て役として生まれてきたのだとあざ笑う。
 違う、僕は帯刀貢の引き立て役じゃない、立ち稽古で完膚なきまでに叩きのめされるならまだ諦めもつく、だけど帯刀貢はそれもしない、分家の長男として蔑まれる僕に半端な同情をくれて手加減して勝負に挑んだ。そして僕はこう言われる、『分家の長男相手に本気を出すまでもないと侮られたのだ』『帯刀貢は弱者に寛容な人格者だ』『貢が本家を継ぐなら一族は安泰だ』『女親に甘やかされた分家の長男とは比べ物にならない』……
 僕だけでなく姉さんや母さんまで蔑まれるんだ、僕の大事な人間まで容赦なく貶められるんだ、帯刀貢が正しく強く頼もしいただそれだけで本家の影を背負わされた分家が汚い物のように扱われるんだ!!」

 「静流、やめろ……排泄器官を舐めるんじゃない、衛生面から見ても感心できな……ふあっ、く!」
 ぴちゃぴちゃと淫猥な音がする。
 濡れた舌が肛門に唾液を塗りつける音。唾液に濡れそぼった肛門が舌と指で拡張され、次第に緩んでいく。
 指と舌とで交互に襞をかきわけ揉みほぐし、ほくそえむ静流。
 「ご覧よ姉さん。帯刀貢の想い人が苦しんでいる。『あの時』のように」
 「あの時とはどの時だ静流、苗の自殺に関係しているのか、君は苗に何をしたんだ!?」
 恐怖と嫌悪と焦燥と憤怒が入り混ざった衝動に駆られ、何より真実を知りたくて血を吐くように叫ぶ。僕の肛門から舌を抜き、涎に濡れた顎を手の甲で拭い、緩慢な動作で起き上がる。
 僕は見た。見てしまった、静流の股間を。
 赤黒く勃起した性器が透明な上澄みを滲ませている。
 たおやかで女々しい容姿を裏切るが如く男性性を象徴する皮の剥けたペニスを僕の肛門にあてがい、続ける。
 「帯刀貢に反感を持っていたのは僕だけじゃない」
 「ひあっぐ……!!?」
 喉が仰け反る。熱く脈打つペニスが中へと押し入ってくる。
 苦しい。痛い。きつい。内臓が締め上げられる。
 シーツを掻き毟って激痛に身悶える僕の上にのしかかり、両手でさらに大きく足を開かせる。生理的な涙が目尻に滲んで視界がぼやける。鼻梁にずり落ちた眼鏡の向こう側で少年が笑っている。
 苦しげに顔を顰め、情け容赦なく腰を突き入れてくる静流から逃れようにも局部が繋がっていては身動きとれない。
 「あっ、ああっあああああああああっあっひあ!!」
 「才能ある者は人に多く憎まれる。同期の門下生にも帯刀貢を快く思わない者は大勢いた。君ならわかるでしょ、直くん。天才はえてして凡人の嫉妬を煽るもの。ただそこに存在するだけですべての言動が憎悪の対象になる。家柄と実力を兼ね備えた帯刀貢を心底憎んでいても哀しいかなその他大勢の凡人たちは返り討ちを恐れて手が出せない」
 喉から絶叫が迸る。激痛が下肢を引き裂く。
 僕の奥へと性器を突き入れ、直腸の粘膜を通して熱を感じ、静流の頬が上気する。
 「だから言ってやったんだ、帯刀貢に手を出すのが怖いならその恋人を狙えばいいと唆した。本家跡継ぎと使用人の娘が恋仲になってるのは有名だったからね……莞爾さんは二人の仲を苦々しく思い、分家の長男たる僕に汚れ役になれと言った。手段は問わずに二人の仲を引き裂けと命じた。僕は莞爾さんの言いつけを守るふりで真の目的を果たした、幼い頃から劣等感を抱き続けた帯刀貢への復讐を!
 苗さんは綺麗な人だった、その上目が見えなかった。苗さんを襲うのは簡単だった。盲目の娘なら襲った人間が特定されないと踏んで、門下生十一人で輪姦したんだ」
 「ひあ、ぐあ、あ……あふっ………く……」
 満足に呼吸ができない。
 酸欠の魚のように唇を開閉、激痛に朦朧とした僕の脳裏にその言葉が届くまで時間がかかった。苗を、輪姦した?下肢の痛みとはまた違う衝撃に襲われた僕と体を繋げ、律動的に腰を振り、静流が言う。 
 「僕は母さんから苗さんと貢くんが腹違いの姉弟だと聞いていた。輪姦された苗さんに最初に声をかけたのは僕だ。僕は放心状態の苗さんをさらに追い詰めるためにとっておきの切り札を使った。苗さんの背後に忍び寄り、肩に手をかけ……」

 『帯刀貢は君の弟だ』
 『君たちは実の姉弟なんだ』

 「この、外道、め」
 痛みすら圧倒する怒りが体の奥底から突き上げる。
 漸くわかった、サムライの大量殺戮の動機が。サムライが実父含む門下生十二人を斬殺した動機が。サムライは苗の仇をとったのだ。おのれの手が血で汚れるのも厭わず、苗を犯した人間に復讐したのだ。
 サムライは苗の名誉を守りたいがため黙秘を通した。
 恋人の敵討ちだと自白すれば罪が軽減されるのはわかっていたが、苗の名誉を守る沈黙を選んだ。
 ああ。
 サムライは本当に、苗を愛していたのだ。
 本当に、不器用な男だ。不器用にしか生きられない男だ。どうりで僕が惹かれるわけだ。
 彼の一途さ愚直さを、誇りに思う。
 愛する者の名誉を守る為に、真実を葬る決断を下した愚直さを愛しく思う。 
 僕が好きになったのはそういう男だ。
 僕のサムライはそういう男だ。
 どうりで好きにならずにいられなかったわけだ。
 サムライを好きになった僕は、間違ってなかった。 
 「真相を知った気分はどうだい。帯刀貢は恋人の自殺を止められなかった、今度もまた間に合わない。一度目は門下生に二度目は僕に愛する人を犯され汚されてまったくどうしようもない男だよ彼は、いつも肝心な時に間に合わない。さあ直くん思いっきり泣き叫びなよ、顔をくしゃくしゃにして涙を流して助けを乞え、どうして僕を見捨てたんだサムライと末代まで続く呪詛を吐くがいい!」
 「哀れだな」
 「何?」
 静流が一瞬動きを止め、物問いたげに僕を見る。
 「貴様が哀れ、だと言った、んだ……あっ……帯刀貢の愛する者をことごとく死なせてから彼を殺す心算だったんだろうが、見くびってもらっては困る。僕、は、鍵屋崎直だ。この十ヶ月間数え切れないほど地獄を見てきた僕を強姦輪姦程度で自殺に追い込めると思ったら大間違いだ。生憎僕は苗みたいに綺麗じゃない、僕はすでに落ちるところまで落ちて体も心も汚れきっているんだ、今さら汚れたところでそれがどうした、絶望して自殺するとでも思ったか!?舐められたものだな天才も、僕はどれだけ陵辱されようが強姦されようが自殺を選ばない、僕のプライドが命じる限りサムライの望む限りしぶとく生き抜いてやると宣言する!!」
 静流の動きが完全に止まる。
 表情を失った静流の背後、鉄扉の向こう側で騒ぎが起こる。
 激しく争う物音に続き、聞こえてきたのはー……
 「直、今行く!」
 サムライの、声。
 「サムライ……」
 戻ってきたのか。
 来てくれたのか。
 瞬間、腕に力が戻った。
 僕にのしかかったまま放心する静流を突き飛ばし、ベッドを転げ落ちる。内腿を白濁が伝う。よろめき、襦袢の裾をひきずり歩き出し、鉄扉に辿り着く。震える手で鉄扉を押し開く―
 「サムライ、僕はここだ!ここにいる!ずっと君が来るのを待っていたぞ!!」
 体の奥が熱い。一歩進むごとに襦袢が着崩れて肌の露出面積が広がる。襦袢の裾から素足を覗かせ、覚束ない足取りで廊下を突き進む僕の眼前、柿沼と格闘していた男が驚愕に目を見張る。
 「直!!」 
 柿沼の肩越しに手がさしのべられる。僕を渇望する手。
 房からさまよいでた僕を目にした瞬間、理性と自制をかなぐり捨て看守の肩越しに手を伸ばした男が、悲痛に顔を歪め……
 叫ぶ。

 「愛している!!」
 心からの想いを込めて。

 「愛している!お前を!お前を傷付けたくないから別れるなどあんなのは綺麗ごとだ、本当はお前を傷付けてもいいから共にいたい、たとえ容赦なく傷付けあうことになろうとも二人で共に地獄を生き抜きたいのだ!俺は今漸く言えた、己を律する武士の建前ではない、お前を愛する帯刀貢の本音が言えたのだ!!」
 「僕もだ、僕も愛している!」
 襦袢の裾を踏み付け走り出し、虚空に手を伸ばす。
 漸くサムライと会えた。
 サムライの本音を聞けた。
 静流に犯された痛みも恥辱もサムライとの再会で吹き飛び、襦袢の裾を翻して走り出した僕の脇腹を、灼熱感が貫く。
 廊下の真ん中で硬直、緩慢な動作で体を見下ろし、脇腹にじわりと滲み出た染みを確認する。
 「逃がさないよ」
 最初真紅の襦袢に紛れて目立たなかったその染みは、徐徐に範囲を広げつつある。
 僕の手の下で徐徐に範囲を広げつつある染み……鮮やかな血の染み。
 「……これは……?」
 脇腹を手で覆ったまま、床に膝を付く。脇腹を刺し貫いた灼熱感はすぐ激痛に変じた。何者かに背後から刺されたのだと気付いたのは、固い床に倒れ伏せた時。
 自分の体が崩れ落ちる鈍い音を聞いて視線を上げれば、刃先から血が滴るナイフを下げて全裸の少年が立ち尽くしていた。
 「君は死ぬんだ。彼より先に死んで帯刀貢の枷になるんだ。帯刀苗の死で足りないならもう二度と人を愛そうなんて気の迷いを起こさない位の絶望を味あわせればいいんだ」
 熱い。痛い。熱い痛い痛い熱い熱い熱い熱熱……
 意識を保つのが難しくなってきた。遠く、サムライの声を聞いた。狂ったように僕を呼ぶ声。力尽きて瞼を下ろした僕は、力強い腕に抱き上げられ、安心感を覚える。意識が溶暗する。
 そして僕はー……

 「死ぬな、直!愛した者に先立たれるのは一度で十分だ、俺はまだお前を抱いてない、お前に許しを得ていない、お前の毒舌を聞いてない!直、直、直………愛してるんだ、お前を。逝かないでくれ……」

 熱い液体が一滴、頬に落ちる。
 毒舌を聞きたいと要望するなんて君はマゾヒストかと舌が動くものなら罵ってやりたかったが、どうやらそれも無理らしい。
 力強く逞しいサムライの腕の中、愛する人間の腕の中で死ねる安心感に包まれ、彼と同じ位愛する妹に謝罪する。
 
 恵。
 迎にいけなくて、ごめん。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050522032031 | 編集

 直が死んだ。
 俺の腕の中で事切れた。

 「直、直、直……しっかりしろ目を開けてくれ!」
 返事はない。反応はない。
 全裸に真紅の襦袢一枚きりを羽織った直は、抜けるように白い瞼を閉ざしたままサムライに抱かれている。
 こうしている間も直の体から体温が失われていくのがわかる。
 脇腹にはじわじわと赤い染みが広がっている。
 血。
 絶望と焦燥とに苛まれた面相が悲愴に歪む。
 脇腹の傷口を一瞥、直の頭を膝に寝かせて突然上着を脱ぎ出す。
 垢染みた上着を脱ぎ、贅肉など一切ない鍛え抜かれた胸板と六つに割れた腹筋をあらわす。
 細身だが儚さとは一切無縁、徹底的に贅肉を削ぎ落として絞り上げた頑健な肉体を外気に曝すや直の襦袢を脱がして全裸にする。
 直の腹に上着を巻きつけ、即席の止血帯を作る。
 上着で傷口を圧迫、流血を止めようと躍起になって治療にあたるも直の顔色は一向に良くならない。
 生死の境を彷徨う直を此岸に引き戻そうとサムライは必死に訴える。
 普段の冷静沈着な物腰や武士の威厳をかなぐり捨て、喜怒哀楽の激しい等身大の人間となって、感情を爆発させる。
 「逝かないでくれ。返事をしてくれ」
 情けなく語尾が震えた。
 今の今までいつ何時も忘れたことない父の言いつけ、常に武士の模範を示す人間たれとの訓示を守り感情を表に出さぬよう厳しく己を律してきたが、瀕死の直を目の当たりにして自制が利かなくなった。
 自分はなんて愚かな男だ。
 一度ならず二度までも愛する人間を助けられなかった。
 もっと早く決断していれば、もっと早く窮地に駆けつけていれば直をこんな目に遭わさずにすんだものを……
 喉元に苦汁が込み上げる。
 激しい悔恨に襲われたサムライは、頼りなく弛緩しきった直の体をしっかりと抱きしめる。こうしている間も直の体から失われゆく体温をかき集めるように直の体にしっかり腕を回し、自分の人肌でもって暖めようとする。
 直の心臓の鼓動が伝わる。弱々しい鼓動。消えゆく命の音。
 「……こんな結末は認めん」
 血が滲むほど噛み締めた唇から吐き捨てる。
 またしても最愛の人間を救えなかったという苦い悔恨が、生きる気力を根こそぎ奪う絶望に変わるのに時間はかからない。何故俺はもっと早く駆けつけなかった。もっと早く直と、己と向き合わなかった?
 過去の罪業から脱却できず、苗への哀惜と直への愛情のはざまで揺れていた己に殺意さえ覚える。
 直のそばから離れるべきではなかった。
 決して。
 「俺はかつてこの腕にお前を抱いて必ず守ると誓った。お前を傷つけるすべてから守ると誓った。なのにこのザマはなんだ、俺はお前に何もしてやれなかった、むざむざお前を死なせてしまった。お前は俺をずっと待っていたのに、『愛してる』と答えてくれたのに」
 線の細い体を抱きしめ、裸の上半身で包んで暖める。直の背中に腕を回したサムライは、もう一度奇跡が起こり再び目が開かないかと一心に念じ、ますます強く愛情込めて直を抱擁する。鉄錆びた血臭が鼻腔を突く。直の脇腹に巻いた止血帯には不吉な染みが滲んでいる。
 止血帯を禍々しく染め替える血の染みから顔を背け、寝顔か死に顔か判別付かぬ直の表情を凝視。
 力尽き閉じた瞼、長い睫毛、肉の薄い怜悧な鼻梁、そして……
 色のない唇。
 「目を覚ましてくれ、直。お前がいなくては生きていけない、お前は俺のすべてなのだ。俺が生きる意味、俺が俺である誇り、俺を生かす信念そのものだ」
 直の顔からは完全に血の気が引いていた。脇腹の止血帯に滲み出た血は徐徐にその範囲を広げていく。直が息を吹き返す気配はない。生きているのか死んでいるのか判別しがたい。力強い腕に抱かれた安堵感からか、寝顔に苦痛の色は見当たらない。
 それが不吉な予兆に感じられ、直がすでに痛みのない世界に旅立った証に思え、サムライは動揺する。
 直をこちら側に呼び戻したい一心で声を荒げる。
 「逝かないでくれ。見捨てないでくれ。お前がいなければ俺は駄目だ、お前を失うのが何より怖い……」
 お前を失いたくない。お前がいない世界など耐えられない。
 涙を流すなど武士にあるまじき行為だとわかっていながら、頬を伝う熱い雫をとめられない。
 苗に先立たれた時は泣けなかった。
 涙を流したのは苗の遺書を読んだとき、ただ一度きりだ。苗の遺書に記されていたのは残酷な内容……苗と自分が実の姉弟であるという事実。苗の死の真相を知った自分は、ともに道場で剣術を学んだ門下生十一人と彼らに強姦教唆した父に復讐を誓った。
 しかし心の底ではわかっていた。
 苗を追い詰めた原因は自分にこそあるとわかっていた。 
 たとえ腹違いといえど、血の繋がった姉弟で肌を重ねたのは事実。
 許されざる禁忌を犯した罪の意識に耐えかね、苗は首を吊った。
 「すまん、苗」
 かつての恋人に頭を垂れて謝罪する。
 苗の面影は今もまだはっきりと瞼の裏に残っている。
 帯刀貢の中で苗は生きている。だがそれでも、死者の上では永遠に止まった時間が生者の上に流れる。直と出会い、俺は変わった。再び人を愛せるようになった。苗の面影に縛られて一生を贖罪に費やすはずだったのに、直と出会い、直と共に生きたいと望んでしまったのだ。
 かつての恋人が瞼裏で寂しげに微笑む。
 しかたないわね、と言うふうに。恋人の心変わりを許すように。 
 かつて何より愛しく思った恋人の笑顔が、優しい姉のそれに見えて。
 サムライは、衝動的に直の唇を奪った。
 直の唇は冷たかった。死の味がする接吻。血の気の失せた唇を塞ぎ、胸郭を膨らませ、酸素を注ぎ込む。直の唇に血の気を取り戻したい一心で深く深く口付けたサムライへと、嘲弄が投げかけられる。
 「へえ、見せ付けてくれるじゃないか。瀕死の恋人に断りなく唇奪うなんて奥手の貢くんらしくもない思い切った行動だ」
 背筋を悪寒が駆け抜ける。戦慄。弾かれたように顔を上げたサムライの双眸に映ったのは、現実離れして凄絶な光景。
 一糸纏わぬ裸身の少年が廊下に立ち尽くしている。
 片手には血が滴るナイフ。
 背後から直を刺したナイフ。
 静流だった。羞恥心など持ち合わせぬが如く、後ろめたいことなど何ら存在せぬかのように堂々と立ちはだかった裸身には、情事の痕跡を示す薄赤い痣が無数に散らばっていた。首筋にも肩にも胸にも腹にも太股にも内腿にも淫靡な痣があった。白く清冽な裸身を斑に染め上げた罪の烙印は、男とあれば誰とでも見境なく寝る本性を物語る。
 「静流……」
 「貢くんは相変わらずお人よしだ。僕は最初から嘘を付いてたのに、それすら見抜けなかった」
 静流が全裸のまま突き進む。

 「覚えてる?深夜廊下を歩いてた君とたまたま行きあった時のこと。突然僕に抱きつかれて動揺する君に言った、『入所当日に看守に犯されたショックが癒えないんだ、ひとりが怖いから一緒にいてくれ』と……ははっ、あんなの嘘に決まってるじゃないか!冷静に考えればすぐわかったはずだ、あの時点で入所三日経ってた僕の体にあんなにくっきり痣が残ってるはずないじゃないか!どう考えたってあの痣は君とばったり出くわす少し前に付けられた物だ。
 苗さんとしか寝た経験のない君が一発で見抜けなくても無理ないじゃないけどそれにしたって間抜けじゃないか、君ときたら苗さん抱くときもおっかなびっくり体に触れてろくに接吻も愛撫もしなかったんでしょう、だからわからなかったんだ痣が消える日数が!ははっ、奥手が仇になったね貢くん。もっと女や男を抱くなり抱かれるなりしてれば僕の嘘なんかすぐ見抜けたはずなのに、」

 「承知していた」
 「何?」
 狂った哄笑がやむ。
 怪訝そうに目を細めて静流が立ち止まる。空気が緊迫する。
 重苦しい静寂を破ったのは、サムライの低い声。
 「俺はお前の嘘を見抜いていた。お前が何故嘘を付くのかわからなかったが、多分俺への複雑な想いがそうさせるのだと罪悪感を抱いていた。静流、俺は長く東京プリズンにいる。長く東京プリズンにいれば嘘を見分ける能力が磨かれる。弱肉強食の非情の掟がまかり通る東京プリズンで生き抜くには真偽を見分ける能力を磨くことこそ重要なのだ……それに」
 ゆっくり目を閉じ、また開く。
 再び瞼を上げた時、切れ長の双眸には悲痛な光が宿っていた。
 直の前髪を愛しげにかき上げ、額の脂汗を拭い、独白する。
 「かつて直が売春班にいた時、今お前の体にある痣と同じ物をさんざん見せ付けられた。痣が癒える期間についてはおぼろげながら察している。お前に初めて痣を見せられた時も怪訝に思ったが、敢えて問い詰めようとはしなかった。俺は帯刀家を滅ぼした男だ。分家の嫡男であるお前が俺を憎むのは当然だ。だからこそ俺が力づくで苗を犯したなど、ありもしないでたらめを直に吹き込んだのだと勘違いした。叔母上の死因はもともと病弱だったのに付け加え事件の後始末で心労が嵩んだためだ。そうだろう静流?ならばお前には俺を憎む動機と道理がある。直に面と向かって問い詰められた時も俺は敢えて否定しなかった……実際、俺が苗を殺したようなものだからな」
 深く息を吸い、直を軽々抱いて立ち上がる。 
 「俺は苗の苦悩に気付いてやれなかった、あの世に持っていこうとした秘密に気付いてやれなかった。畜生と蔑みたければ蔑め。師範代の父を殺したことより共に道場で学んだ門下生十一人を殺したことより苗を救えなかったことを悔やんだ、苗をむざむざ死なせてしまった己の無力に怒りを覚えた。俺は所詮器の小さい人間だ。人間国宝の祖父の再来など過ぎた期待だったのだ。俺はただ愛する者を守りたかった、かつて苗が俺を庇ってくれたように生涯かけて愛する者を守り通したかったのだ!!」
 なんて薄い体だ。なんて頼りない体だ。
 憤怒に駆られて立ち上がるサムライの腕の中、仰向けに抱かれた直はぐったりしてる。皮下脂肪の薄い脇腹をナイフが突き抜けて脾臓から大量の血が流れ出ている。意識不明の直を見下ろし、腕に力を込める。誰にも指一本触れさせまいと守護の決意を固め、弛緩しきった薄い体を抱きしめる。 
 「武士の信念に賭けて。否、帯刀貢の名に賭けて」
 決して直を死なせない。
 死力を尽くして救ってみせる。
 「静流、俺はお前も大事だ。お前も救ってやりたいと思っていた。だが、それこそ俺の傲慢だった。俺の力には限界がある。一つの体で二人を救うのが無理なら非情を覚悟で決断せねばならないと漸く気付いた」
 「答えを聞こうじゃないか」
 皮肉に口角を吊り上げ、犬歯を鋭く閃かせる。
 蛍光灯が青白く照らす廊下の中央、血の滴るナイフを片手に下げた静流が無防備に間合いを詰めてくる。
 「僕と彼とどちらを選ぶんだい?」
 否、無防備ではない。
 しなやかな動作で足を繰り出す全身から冷え冷えした殺気が漂っている。血塗れたナイフを握り直し、薫流とよく似た顔で静流が微笑む。
 一瞬、薫流の亡霊が取り憑いているのかと疑うほど生前の姉に似通った微笑み。
 ナイフを握りなおした静流と廊下で対峙、意識不明の直を両腕に抱えたサムライが、迷いを振り捨て正面を向く。 
 毅然と顔を上げたサムライの目には、誇り高く孤高を貫く意志の光が戻っていた。
 「直だ。俺は直を選ぶ」
 「屍姦の趣味でもあるの?彼、もう息絶えているじゃないか。脇腹から沢山の血を流して……」
 「かっ、てに殺すな」
 血泡に紛れた声がした。
 「!直、」
 反射的に腕の中を見下ろす。
 サムライが見守る前で震える瞼が持ち上がる。
 直が無意識な動作でサムライに縋り付く。
 「生きているのか、直!!」
 「あたり、まえだ。少し、気を失っていただけだ……失血が、多くてな。貴様らがうるさくて目が覚めたんだ……安眠、妨害だ。否、むしろ永眠妨害と言うべきか」
 「面白くもない冗談を言うな!」
 自嘲的に笑う直を一喝、脇腹の止血帯を絞め直し失血を防ぐ努力をする。
 「ナイフはどうやら、脾臓を貫通、したらしい……大動脈を逸れていたのがせめてもの救いか。応急処置が早かったから一命をとりとめたらしい。この点は君の判断に感謝すべきか?はっ……僕の皮下脂肪がもう少し厚ければ、貫通、しなかったのに……。君のように腹筋を鍛えていればナイフを弾けたかもしれないのに……っあ、くぅ……」
 「しゃべるな直、今医務室に連れて行く!すぐ手術すれば大事には至らない!」
 「僕の腹筋も六つに割れてればよかったのに……」
 「縁起でもないことを言うな!」
 薄れゆく意識を繋ぎとめるため、大量の脂汗をかき、苦痛と戦いながら怪我の程度を分析する直を叱責する。
 直が死んでないとわかった安堵で表情が緩みそうになるのを自制するも込み上げる喜びを隠しきれず、はやる口調で命じる。
 「何をしている、一足先に医務室に行ってこれから怪我人を運ぶと医者に伝えて来い、手術の準備をさせろ!」
 「は、なっ……お前誰に命令、」
 「早くせんと斬るぞ!!囚人間の刃傷沙汰を看過したとあっては処分は免れない、減棒されていもいいのか!?」
 それまで放心状態で床に座り込んでいた柿沼がサムライの気迫に圧倒され、操り人形めいてぎくしゃくと立ち上がる。殺気走ったサムライに追い立てられ医務室に向かおうとした柿沼が、慄然と立ち竦む。
 「どこ行くの柿沼さん。ここ離れていいなんて許可してないよ」
 柿沼の進路を遮るように立ち塞がる静流。サムライの腕の中で顔面蒼白、荒い息を零す直と焦燥に揉まれるサムライとを見比べ、柿沼へと視線を戻す。一瞥で魂を抜かれたように立ち竦んだ柿沼へと纏わりつき、耳朶で囁く。
 「僕の命令聞いてくれなきゃ嫌いになるよ。いいの?二度と僕を抱けなくても……」
 「いい加減にしろ静流、直の命がかかっているのに……!」
 「命なんてどうでもいいよ、くだらない。姉さんも母さんも僕が好きだった人はもうこの世にいないんだ、僕の興味ない命がどうなろうが知ったことじゃない」
 絶句するサムライの眼前で優雅に身を躍らせ、ナイフの刃を光らす。
 「直くんを助けたいなら僕を倒していきなよ。力づくで」
 「馬鹿な……」
 「ちょうどいい機会だ、分家と本家の因縁に決着をつけようじゃないか。どうせ僕の本性はバレちゃったんだ、これ以上猫被ってもしょうがない。僕にとっては姉さんと母さんの弔い合戦、君にとっては苗さんの弔い合戦。さあ、来なよ貢くん。どうしたの?なんで躊躇してるのさ、人間国宝の祖父をも凌駕する剣の使い手だってかつてあれだけ持て囃された君が!駄目だよ貢くんそんな顔しちゃ、地獄で莞爾さんが怒ってるよ、けしからんって。帯刀本家の跡継ぎたる者いつだって堂々立派に振る舞わなきゃまた莞爾さんに木刀で殴られて額が割れちゃうよ!」
 蛍光灯の青白い光に裸身をさらし、少年が踊る。
 血の滴るナイフを妖しくぎらつかせ、発情した白蛇の如く裸身をくねらせ、甲高い笑い声をあげて。
 「……サムライ……」
 直が心配そうに問いかける。表情の変化を敏感に察し、腕に加わった力を訝しみ。
 「得物がないなら貸してあげる。柿沼さん、腰の物を貢くんに」
 静流が高飛車に命じる。
 「いいのかよ。相手は東棟実力№2のサムライ、天才的な剣の使い手だってのに……お前の柔肌に傷が付いたらどうするんだ?」
 「早く。愚図は嫌いになるよ」
 柿沼は一瞬たじろぐも、言われるがまま腰の警棒をサムライに手渡す。床に横たえた直に襦袢を着せてから静流に向き直り、立ち上がる。
 わずか5メートルを隔てて対峙する静流とサムライ。
 天井の蛍光灯が点滅する。
 「どうあってもそこをどく気はないか」
 蛍光灯が消えた一刹那、闇に沈んだ双眸が剣呑な光を放つ。
 「無駄話してる暇あるの?そうやって君が躊躇してる間にほら、直くんはどんどん弱っていく。直くんを医務室に連れていきたいなら力づくで僕をどかすしかない、僕を斬り伏せるしかない。怖いの?まさか。剣の天才と称された帯刀貢が分家の嫡男ごときに怯える理由が見つからない。僕を怒らせるのは得策じゃない。展望台の時みたいに手加減したらどうなるか……」
 蛍光灯が消えた一刹那、闇に沈んだ双眸が狂気の光を孕む。
 静流が無造作に顎をしゃくる。
 静流の意を汲んだ柿沼が、床に倒れ伏せた直の後ろ襟を掴み、乱暴に顔を起こさせる。くぐもった苦鳴が聞こえ、サムライが怒りもあらわに殺気立つ。
 再び蛍光灯が点き、廊下に光が満ちる。
 殺伐とした空気漂う牢獄の廊下にて、永きに渡る因縁で結ばれた本家と分家の長男が邂逅する。
 かたやナイフ、かたや警棒。
 手に取る得物は違えど、再び剣を交える時がきた。
 「……―いざ参ります。母上、姉上」
 優雅な動作で腕を掲げ、宣言。静流の奥底に渦巻く狂気が腕を介してナイフの切っ先へと流れ込み、禍々しくも美しい凶刃の輝きを放つ。静流の全身から放たれる殺気が気孔を通して体奥に収束、時が満ちる。
 サムライもまた警棒を構える。
 警棒でナイフと互角に戦えるか心許ないが、逃げるわけにはいかない。今この場に直を見捨てて逃げるくらいなら切腹したほうがマシだ。視界の隅、床に倒れ伏せた直が不安に揺れる眼差しでこちらを見つめている。
 俺は、お前を守る。
 静かに目を閉じ呼吸を整える。
 心の刃を研ぎ澄ます。
 一切の邪念雑念を吹き散らし、ただ眼前の敵を倒すことだけに集中し、覚悟も新たに薄目を開ける。ゆっくりと瞼が持ち上がり、流血沙汰を厭わない悲壮な覚悟を映した双眸があらわになる。
 修羅を倒すには修羅になるしかない。
 その真理を体現すべく我が身を修羅道に堕とし、利き手に預けた警棒を上段に構える。
 「直への想いが尽きせぬ限り修羅堕ちの夜叉が相手でも負けはせん」
 「ほざけ痴れ者がっ、魔羅節でも唄っていろ!!」
 静流が怒号する。
 静流が一気に間合いを詰める、その腕が目にもとまらぬ速さで振られて風切る唸りをあげて鋭利なナイフが飛来する。
 狂気は狂喜に通じる。静流は満面に笑顔を湛えていた。
 見る者すべてを引きずり込む奈落の笑顔。
 爛々と目を輝かせ満面を笑みに歪ませ、夜叉の化身がナイフを振るう。脇腹や肩口を狙い来るナイフを漏れなく警棒で弾いて防御するも、鞭のように腕を撓らせ巧みに軌道を変化させる手腕と凄まじい気迫に圧倒されて反撃の糸口が掴めない。
 刃渡りの長いナイフを小振りの日本刀の如く扱い、苛烈な剣捌きでサムライを追い詰めていく。
 警棒でナイフを食い止めるたび表面が削れて木片が飛び散る。縦横斜め無数の線が刻まれた警棒でナイフを受け流し間合いをとり、鋭く呼気を吐く。
 「―っ!?」
 手首に衝撃。
 警棒に深々切れ込んだナイフを引き抜こうと体勢を崩した一瞬の隙に反撃にでる。手首に捻りを利かせて刃が噛んだ警棒を引き戻し、静流の懐にとびこみ、容赦なく手首を打ち据える。
 渾身の打撃。
 静流が濁った苦鳴を漏らし、よろけるようにあとじさる。
 「大丈夫、まだ戦える、まだ僕は戦える。手首が折れたくらいで刀を捨てたりしないんだ、帯刀の男子は」
 余裕を演出する笑みを浮かべすぐさまナイフを持ちかえる。
 静流もまた帯刀の人間、片手を怪我しても戦いを続行できるようにと幼い頃両利きに矯正された。
 手首を捻挫した激痛を堪え、大量の脂汗でしとどに顔面を濡らし、それでも静流は立ち続ける。
 「静流、そうまでして何にこだわる?俺が死ねば満足なのか、叔母上の復讐を果たしたと清清しく笑ってここを出ていけるのか」
 サムライの双眸に純粋な疑問が浮かぶ。
 右腕をだらりと垂れ下げ、ナイフを左手に持ち替え、静流が静かに問いかける。
 「……ここを出てどこへ行けと?娑婆も牢獄も変わりない、姉さんがいなければどこであろうと地獄なのに」
 黒髪の奥に表情を隠し、卑屈に喉を鳴らす。
 濁った笑い声が奔騰、細い体が仰け反る。発作に襲われたように不規則に体を痙攣させ、静流が再びナイフを握り締める。頭を低めた前傾姿勢で突進、甲高い奇声を発して間合いに踏み込み刺突をくりだす。
 紙一重で脇腹を掠め去る銀の軌跡にも増してサムライを戦慄させたのは、爛々と燃える眼光。
 「君はここで死ぬんだ帯刀貢、苗さんと莞爾さんの後を追って地獄に落ちなければいけないんだ!本家と分家の因縁を断つのは僕だ、母さんと姉さんに託された復讐を成し遂げて分家の汚辱をすすぐのが僕の使命だ!君を殺さなければ僕は姉さんと母さんに顔向けできない、帯刀家の人間として認められないんだ!!」
 「帯刀家などどうでもいい、お前はただお前として生きればいい!」
 「僕だってできるものならそうしたかった、だけど僕一人で生きたって意味がない、姉さんが一緒でなければ意味がないんだ!」
 獣じみた雄叫びを上げ、サムライの心臓めがけ一直線に刺突をくりだす。サムライは咄嗟に膝を屈めしゃがみこむ、その姿勢から警棒で脛を殴れば悲鳴があがる。脛を強打された静流が前のめりになった隙に跳ね起き、電光石火ナイフを弾き飛ばす。
 頭上を飛び越えたナイフが澄んだ音をたて背後の床に落下する。
 放物線を描いて背後の床に落下したナイフを一瞥、床に跪いた静流を冷ややかに見下ろす。
 「勝負あった。行かせてもらうぞ」
 敗北の味を噛み締める静流を捨て置き、瀕死の直を抱き上げる。
 「大丈夫か静流、しっかりしろ!こりゃひでえ手首腫れてる、今すぐ医務室に連れてっやるから辛抱しろ!」
 床に座り込んだまま、俯き加減に押し黙る静流に柿沼がとびつく。サムライは大股に歩き出す。一刻も早く直を医務室へ運ばねばならない、手術をしなければ命にー……
 「へ?」
 背後で間抜けな声。思わず振り返ったサムライは、驚愕に目を見開く。
 柿沼の腹からナイフの柄が生えていた。
 ナイフは根元まで腹部に埋まっている。
 紺色の制服にどす黒い血が滲み出す。直とは比べ物にならない大量の血。醜悪な半笑いのまま表情を凝固させ、体の均衡を失って突っ伏した柿沼の傍ら、膝を崩してしどけなく座り込んだ静流は、血の海でもがき苦しむ柿沼を無表情に見つめている。
 「な、んだ、これ……わる、い冗談、だよな。なんで俺を刺すんだよ静流。入所当初からずっとよろしくやってたんじゃんか、お前にはいろいろよくしてやったじゃねえか。忘れたのか、お前が一人がいいって言うから房をかえてやってお前が看守呼んで来いって言うから同僚連れてきて乱交パーティーではっちゃけて、そうだ襦袢、あの襦袢と扇子だって中に持ち込むの見逃してやったのになんで……」
 柿沼の喉がごぼりと鳴り、血泡が零れる。吐血。
 腹部を両腕で庇い、瀕死の芋虫のようにのたうちまわる柿沼を見下す静流の目はどこまでも無慈悲で無関心だ。
 「なんで?決まってるじゃないか」
 凄まじい苦痛に悶絶、助けを乞うように膝に縋り付く柿沼を鬱陶しげに見下ろす。
 「口紅の塗り方が下手だから」
 紅など塗らなくとも十分に赤い唇が艶めかしく動く。
 柿沼の瞳孔が開ききる。絶望か失望か、断末魔の恐怖か苦しみか。そのいずれとも付かぬ表情で固まったまま、あっけなく柿沼は死んだ。自分の膝の上で絶命した柿沼を愛想なく払い落とせば、ごとりと音をたて床に頭が転がる。
 脂でぱさついた柿沼の髪に手櫛を通し、問わず語りに呟く。
 「がさつな人間に化粧を任せちゃだめだ、唇の輪郭から紅がはみだしてみっともないったらありゃしない」
 柿沼の髪から指を抜き、返り血で朱に染まった顔で緩慢に向き直る。
 直を抱いたサムライの眼前、死体から流れ出た血で剥き出しの太股を赤く染め、口を開く。
 「貢くんも同感でしょう」 
 その瞬間だった。
 静寂を打ち破る大音量で火災警報装置が鳴り響いたのは。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050521232245 | 編集

 『Which are you?』
 悪い夢なら覚めてくれ。
 「精一杯抵抗しろよ、ロン。じゃなきゃ面白くねーからな。涎たらさんばかりにギャラリーがお待ちかねだぜ」
 願いは報われなかった。
 ハッと目を開く。暗闇。目隠しの向こう側でレイジが動き、手に力を入れて俺の足をぐっと押し開く。
 何されるかわかった。背筋を駆け抜ける戦慄。
 「!やめっ……、」
 肛門に熱い舌が触れた。レイジの舌。
 目が見えなくても体が覚えている、レイジの舌の熱さと感触をばっちり記憶してる。目隠しの向こう側で起きてることを想像したくなくてぎゅっと目を閉じるも、レイジが俺のケツの穴を舐める光景が瞼裏に勝手に浮かび上がってくる。
 ぴちゃぴちゃと下品な音。泥水を啜る音。
 レイジはわざと音たてて俺のケツの穴を舐めてる、俺がクソをひねりだす場所を何ら抵抗なく、むしろ嬉しげに舐め腐ってる。
 ぴちゃぴちゃくちゃ。執拗に唾液を捏ねる音が羞恥心を煽り立てる。
 「はっ、ふっ、レイ、ジ、やめ……そんな汚いとこ舐めんなよ、クソひねりだす場所だぜ、よく口つけられんなお前……」
 俺の憎まれ口で萎えればいい、犯る気をなくせばいいと嫌味を言うがレイジは取り合わない。俺の考えてることなんかはなからお見通しだとあざ笑ってケツに舌をつける。
 「あっ、ひっ、ふぁ………」
 「ケツ舐められて感じてんのか、台湾の雌猫の落とし子が」
 「うっすら頬赤らめて丸めたつま先でシーツ蹴り付けてたまんねえ、さっきイッたばかりなのにもう勃ってきた」
 「また顔にぶっかけてやれば?レイジが掘ってる間に無理矢理口開けさせて飲ますのもいいな」
 目隠しの向こうで空気が不快に揺らぐ。
 失笑の気配。喉の奥で濁った笑い声を泡立てる看守たち。
 体がカッと熱くなる。嫌だ。百歩譲ってレイジに犯られるのは許すとしても人前でヤられるのは絶対嫌だ、それだけはごめんだ。
 欲求不満の看守どもの野次と罵声とザーメン浴びながら股おっぴろげてケツ振りたくって痴態をさらすなんざお断りだ。
 「ひとに、見られるのは、いやだ……っあふ……人前でヤる趣味、なんか、ねえよ……なんで俺が、コイツらの前で股おっぴろげて声聞かせてオカズ提供しなきゃいけねえんだよ……レイジお前、本当にどうかしちまったのかよ……俺がコイツらにイくとこ見せて、笑って許せるのかよっ……」
 充血した襞をかきわけ舌が潜り込む。
 発情した軟体動物めいて卑猥に蠢く舌が、さんざん指で馴らされ唾液を塗りこまれて女のアソコみたいに潤った直腸を執拗にほじくりかえす。
 恥ずかしい。悔しい。
 枕元で俺を品評する看守のやりとりが聞こえる。
 「処女のアソコみてーに綺麗なケツマンコ」
 「ケツマンコは下品だ、アナルヴァギナって言えよ」
 「どう違うんだそれ、英語にしただけじゃねーか」
 ……全員殺してやりたい。八つ裂きじゃ足りない、手榴弾で微塵にしてやる。殺してやる殺してやる殺してやる。体の中で殺意が暴走する。全身の血管がどくどく脈打って脂っこい汗が噴きだす。
 火照った体に視線が突き刺さる。
 俺に注がれる熱っぽい視線……欲情に濡れた視線。 
 「暴君が許す。イくとこ見せてやれよ」
 「ひあ、熱、ひっ……」
 レイジの、声。違う、これは……俺が知ってるレイジの声じゃない。 冷酷な暴君の声。
 肛門の奥に潜りこんだ舌が抜かれ、俺の膝裏に手をいれてぐいと尻を上げさせる。ぷっくり充血した肛門が外気に晒される。
 暴かれた襞、内臓の粘膜。
 肛門の縁は湿り気を帯びて赤く染まり、レイジの指でかき乱されるたび更なる刺激を求めていやらしくひくつく。勿論俺の目には映らない。だけどわかる、俺が今どんな恥ずかしい格好をとらされてるか想像したくなくても勝手に浮かび上がってくる。
 「もっといやらしく鳴けよ。声を聞かせてやれ」
 上気した肌を這いまわる無遠慮な視線……看守の視線。
 生唾を嚥下する音、衣擦れの音。
 かすかに鼻腔を突くこの匂いは……青臭くて生臭いザーメンの匂い。視覚を奪われた俺は、異常に研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚と触覚で今自分の身に起きてることをくっきり鮮明に感じ取る。
 どうせなら視覚だけでなく聴覚で嗅覚と触覚も奪ってくれたらよかったのに。俺の耳がなければレイジのこんな声聞かずにすんだ、俺の鼻がなければこんな匂い嗅がずにすんだ。俺に皮膚がなければこんな……
 『………我不対。想和好』
 襞が暴かれた肛門に熱く脈打つ塊が押し当てられる。
 レイジのペニス。俺のそれとは比べ物にならないくらいでかくて、性器というより凶器に近い長さと太さを兼ね備えたペニス。
 こんなもんで貫かれたら死ぬんじゃないか?
 怖い。滅茶苦茶怖い。嫌だもう嫌だ助けてくれ勘弁してくれレイジ許してくれ、初めてじゃない、レイジとはもう二回ヤった、でもまだ三回目だ、三回目がこんな形なんて嫌だ、看守が笑いながら見てる前で暴君化したレイジに犯されるなんて嫌だ!
 浮気は誤解なのに俺はレイジ以外の誰とも寝てねえのに何でこんな目に遭わなきゃいけないか誰か教えてくれ鍵屋崎教えてくれお前は賢いからわかるはずだ、納得いく説明をしてくれるはずだ!

 畜生。
 ちくしょう。なんで俺の話を聞いてくれないんだよ。

 「なんて言ったんだ?台湾語わかんねーよ、英語でしゃべれ」
 レイジに気持ちが伝わらないのがもどかしい。
 一方的に怒りをぶつけるだけのレイジに腹立たしさが募る。俺は目隠しの内側で目を閉じ呼吸を整える、激情の濁流に押し流されて大事なことを見失わないように今いちばんレイジに伝えたい言葉を模索する。
 「だんまり決め込むなら訳してやる。『Fuck me』だ、そうだろ。『Hurry up』かもな」
 暗闇の向こうで相棒が笑う。この上なく楽しそうに笑う。
 いつになったら悪夢から抜け出せるんだろう。
 次に目を開けたら全てが何もかも元通りになってるといい。
 これは悪い夢だ。明日になれば何もかもまた元通り、食堂でレイジとふざけあって箸が目に刺さりそうになって鍵屋崎に注意されてサムライはその隣でぶすっと黙り込んで、そんな毎日にまた戻りたい。戻れたらいい。大好きな仲間と過ごす日常を取り戻せるならそれでいい、他には何も望まない。神様、願いを叶えてくれ。
 俺のレイジを、返してくれ。
 「俺が悪かった。仲直りしてくれ」
 笑い声が唐突にやむ。空気が硬化する。
 馬鹿みたいだ。
 こんなガキっぽい言葉しか見つからないなんてと自分の学のなさが哀しくなる。鍵屋崎ならきっとこの場に相応しい言葉を見つけられたのに、この場に相応しい謝罪の文句を引っ張り出せたはずなのに……
 でも。
 俺はあいつと違って馬鹿だから、こんなふうにしか言えない。
 『弥是我的好朋友。我愛弥、不想分別……』
 お前は俺の相棒だ。大好きだ。別れたくない。
 瞼が熱くなる。涙腺が緩む。泣きたくなんかないのに勝手に涙がでてくる。鼻水も一緒だ。涙と鼻水が一緒くたに鼻腔の奥を流れ落ちる。塩辛い。俺はレイジの相棒だ。レイジが好きだ。別れたくない。今でもそう思ってる、これからもそう思っていたい。
 だから、

 熱い塊が中に押し入ってきた。

 「同情引こうってのか?」
 「あっあああああああああああああっ、あっ、ひあああぎ………!!?」
 言葉は続けさせてもらえなかった。
 レイジが俺の膝裏を押し広げて強引に中に入ってきた。
 激痛なんてなまやさしいもんじゃない。いくら舌と指で馴らされていてもペニスを突っ込まれる衝撃は火箸で内臓をかきまぜる苦悶をもたらす。背骨がへし折れるほど体が仰け反り、喉から絶叫が迸る。
 内臓が、内臓が出る。
 鼻の穴と眼窩から内臓が出る。
 苦しい助け熱い溺れ息ができないお袋、母さん、ごめんなさい許してこれから言うこと聞くから逆らわないから今俺の体にぎちぎちに入ってるコレを抜いてくれお願い頼む抜いてくれ!!
 内臓を串刺しにされる苦悶にのたうちまわる俺の頭上で笑い声が炸裂、唾だかザーメンだかわからない汁が顔にとびちる。
 「さすがにレイジのモンはきついか。よく馴らしたから血はでてねえけどそれにしちゃ大袈裟な痛がりようだな。まさか処女だなんてオチはねーだろな」
 「見ろよ、根元までずっぽり入っちまった」
 「腹ん中ぎちぎちだな。苦しくて呼吸できねーか。ペニスが喉まで突き抜けちまいそうってか」
 「うあ、ひあぐ、あ……」
 体がばらばらに引き裂かれる。苦しい、息ができない。レイジの背中に爪を立てる。爪が肉を抉る。思考が纏まらない。レイジが俺の中に入ってる。ベッドのまわりで看守が笑ってる。俺がレイジに犯されるとこ眺めてげらげら笑ってやがる。
 「はっ………ふあっ、あ………」
 意識が朦朧とする。濡れた前髪が額に被さる。
 俺の上でレイジが動く。俺の内腿をさぐり性感帯を刺激し快感を高めペニスを出し入れする。最初は痛いだけだった。でも、レイジに太股をなでられて気を散らされて甘い声を上げる自分に気付いた。
 「一回目より二回目、二回目より三回目。だんだん感度が良くなってくるな。人に見られて興奮してんのか?すごいぜロン、お前のペニスもう先っぽから滴ってる。さっきイったばっかなのに恥ずかしくねーのかよ。見られて勃つなんざお前もタジマと同じ変態だな」
 「違っ……タジマと、一緒に、すんな……ひぅぐ!!?」
 腰の動きが激しくなる。
 「黙れよ淫売。淫売は淫売らしく俺に組み敷かれて喘いでりゃいいんだ、人間サマの言葉話そうとすんな」
 ペニスに指が絡む。ケツに突っ込む傍ら俺のペニスをしごきだすレイジに抵抗する術はない。快感が二倍になる。もう殆ど痛みは感じない。火箸でかきまぜられた内臓がどろりと溶けて体奥で沸騰、ペニスが奥を突くたび襞をかきむしるたび体の奥で何か得体の知れない生き物が蠢いて……
 「レ、イジ、はっ………熱っう……体、きつ……」
 怖い。俺が俺じゃなくなる。俺の中に別の生き物がいる。
 俺が俺じゃなくなるのが怖くてレイジの背中に爪を立てる。そうやって何かに縋り付いてないと下半身で渦巻く濁流に押し流されて返って来れなくなりそうで俺は必死だった。
 なんでこんなことになったんだ。
 俺は浮気なんかしてない。レイジはなんで信じてくれない。俺をあざ笑う看守への殺意とホセへの殺意、看守の目の前で股おっぴろげる屈辱と恥辱、レイジに裏切られた憤怒、絶望……体の奥底にどす黒いうねりを感じる。憎しみ。俺は、レイジが憎い。俺は今までレイジに騙されてたのか、レイジの本性を知ったかぶったしっぺがえしをされたのか?本当はレイジのことなんか何ひとつわからないくせにわかったふりして、当たり前に相棒ヅラして、だから……
 「………!っあ、」
 え?
 目隠しの向こうで声がした。レイジの、声。妙に艶っぽい喘ぎ声。
 「お前、どうし……」
 口に手が被さる。
 「………なんでもねえ。黙ってろ。お前の締め付けが良いから、ちょっと興奮しちまっただけだ」
 どこか無理した声に違和感が募る。相変わらず視界は暗い。
 目隠しに遮られてレイジの顔は見えないが、余裕ない声から多分、苦痛に顔を歪めてるだろうと想像できた。ぎしりとベッドが軋む。律動的な腰振りで俺の中に灼熱の杭を打ち込みながら、レイジが切れ切れに声を漏らす。
 「はっ………っ、あくぅ……」
 背筋がぞくりとする、それだけでイッちまいそうに壮絶に色っぽい声。痛みを堪えてるのか快楽に抗っているのかどちらとも付かない声。蜜の滴るような艶を含んだ喘ぎ声が噛み締めた唇から漏れ、レイジの動きが急激に失速する。なんだ?俺の見えない場所で何が起きてる?
 とてつもなく不吉な予感。
 レイジは俺の内臓を杭で貫いたまま完全に動きを止めてる。
 獣じみて荒い息遣い、時折漏れる喘ぎ声。
 「どうした?続けろよ」
 ぎしぎしとベッドが揺れる。錆びたスプリングが耳障りに軋む音。待て、おかしい。レイジは俺の腹の上で停止してる、なのになんでベッドが揺れてるんだ?今にも壊れそうに軋むベッドの上、俺とレイジ以外の誰かがレイジの背後に回っているのに気付いたのはその瞬間。
 レイジの首に通した手が、誰かにぶつかる。
 そいつはレイジの背中にぴたり腹を密着させて乱暴に腰を動かしてる。誰かはすぐにわかった。俺とレイジ以外に今この房にいる奴ときたら決まってる……看守だ。服を脱いでレイジの背中に覆い被さったそいつが何してるか、獣の交尾に似た不自然な体勢とぐちゃぐちゃ濡れた音でわかってしまった。 
 看守が後背位でレイジを犯してる。
 「………………っ……………!」
 これは。さっきから続いてるこの音は、レイジが俺に杭を打ち込む音じゃない。レイジの後ろの粘膜を犯す音だった。俺と看守に挟まれて無理な体勢をとらされたレイジは、それでも言われた通り行為を続けようとして、肘が砕けて上体を突っ伏す。
 そうか。
 レイジはずっと、最初から、俺を犯しながら看守に犯されていたのか。
 それがバレないように演技していたのか。
 「レイジ、お前……なに、やってんだ」
 喉元で吐き気が膨れ上がる。その間も音は続く。ぎしぎしとベッドが軋む音、噛み殺すような喘ぎ声、粘膜と粘膜が絡み合う淫猥な水音……そして俺は激しく暴れたせいで目隠しが下にずれてきているのに気付き、ちぎれんばかりに首を振る。
 あともうちょっと、もうちょっとで今何が起きてるのかわかる。やめろ、と誰かが叫んだ。無視。激しく首を振り続けた努力の甲斐あって目隠しが鼻梁にずりおち、視界に被さった闇が払われる。
 目隠しの向こうにあったのは。
 あったのは………。
 『Do not look…you close your eyes』
 首筋で光る黄金の玉。シーツの上で輝く十字架。俺の腹の上にのしかかる体……広い肩幅と、胸板と、腹筋と。彫刻めいて均整が取れた黄金率の体。しっとり汗ばんだ褐色肌。明るい藁色の髪はぐしゃぐしゃに乱れて頭の上で跳ね回ってる。無造作に寝乱れた藁色の髪の下、顰めた眉間、半分ずれた眼帯、固く閉ざされた隻眼……血が滲むほど噛み締めた唇から僅かに覗く真珠色の犬歯、艶めかしい舌。
 そして、褐色の肌に映える白濁。
 レイジの髪にも背中にも肩にも腕にも腹にも太股にも大量に浴びせ掛けられた白濁。精液。膠のように額にへばりつく前髪。飲み干しきれなかった精液が口の端から喉へと滴っている。眼帯にも精液が付着してる。どこもかしこも男が出した白濁に塗れたレイジ、俺が目覚めるまでに何回陵辱され何人に犯されたか見当もつかない。
 「王様の言うことは素直に聞いとけよ。悪い子はキライになるぜ」
 レイジが力なく笑う。 
 「お前、嘘、そんな……なんでこんなことになってんだよ、おかしいよ絶対、お前その顔の白くてねばっこいのはなんだよ誰にぶっかけられたんだよ!!?お前らかお前らがレイジを犯ったのか、俺が気を失ってから目が覚める間のレイジを犯りまくったのはお前らなのかって聞いてんだ、答えろ所長の犬ども、俺のレイジに汚ねえザーメンぶっかけて犯りまくったのはお前らなのかよ!?」
 嘘だ。嘘だ嘘だレイジがこんな、
 「大当たりだ。何も知らなかったのはお前だけだぜロン」
 嘘だ。
 「バレちまったんならもういいや、見せつけてやれ。おい、お前らも来い。王様の体で一緒に楽しもうぜ」
 やめろやめろやめろやめてくれ俺の前でそんな、
 「そんじゃお言葉に甘えて」
 「お前はそっち回れよ、乳首をいじってやれ。ねちっこくな」
 「すげえピアス。コイツの耳朶金属の味がする」
 「ケツはどうだ。さんざん犯りまくってぐちゃぐちゃのがばがばになった頃合か」
 「まだ全然イケる。前を嵌めてるのがいい刺激になってケツも締まってる。二本挿しもイケそうだ。試してみるか」
 一人、二人、三人。三人の看守が無抵抗のレイジに手を伸ばし組み伏せる。体の裏表を無遠慮に執拗に這い回る手、手、手……
 俺が呆然と見てる前で看守三人がレイジに絡みつく、一人が背中にのしかかってペニスを突き入れてもう一人が乳首をいじくってもう一人がちょうど俺の顔を跨ぐ形でベッドに立ち塞がってレイジの前髪を掴んで顔を起こさせペニスをしゃぶらせる。
 「っ、ぐ………またフェラかよ……よく飽きねーな」 
 「減らず口叩いてる暇あんなら奉仕しやがれ」
 顎が外れそうなほど大口開き、喉の奥までペニスを咥えこむ。ベッドに寝転がった俺の位置からは、赤黒く勃起した看守のペニスとそれをしゃぶるレイジがよく見えた。
 俺の腹の上に豹がいる。
 綺麗に筋肉が付いた肢体をくねらせ、滑らかな褐色肌に汗を光らせ、苦痛に耐える表情も艶めかしく上の口と下の口に男を受け容れている。背後の看守が激しく腰を振れば、それに連動して顔が揺さぶられ口腔のペニスを刺激する。三人目の看守はゆるやかにレイジの太股をなでている。
 「っあ、は、ふ………さすがに疲れてきた。俺も若くないね」
 息継ぎ、レイジが自嘲的に呟く。
 「レイジから離れろよ畜生!!お前らだれに断って俺のレイジにしゃぶりついてんだよやめろよそんなことしてただで済むと思ってんのかよ、相手は東京プリズン最強無敵の王様だ、そんなことしたら倍返しで仕返しされるってお前らわかってんのかよ!?レイジお前もなんとか言えよ抵抗しろよ黙ったままされてんじゃねえよ、全然らしくねえよ王様!!」
 俺のレイジから離れろくそったれども殺してやる絶対殺してやるクソ所長のクソ犬ともども殺してやる!!手首さえ縛られてなけりゃレイジを弄ぶ看守を殴ってやったのに、レイジにフェラチオさせて犬みたいにはっはっはっはっ言ってる変態やレイジに突っ込んでる変態やレイジの太股をなで勃起してる変態を殴ってやったのに!!
 何だよ何だよついてけねえよ、なんでレイジが犯されてるんだよ輪姦されてるんだよ。誰か説明してくれ。
 「………!っぐ、」
 看守がレイジの口の中で射精する。レイジはそれを飲み込む。喉仏がごくりと動く。ザーメンを飲み終えて薄っすら目を開ける。硝子めいた薄茶の目が虚空をさまよう。弛緩した唇から一筋白濁が滴る。
 「ちゃんとやれよ。ロンが退屈してるだろうが」
 レイジを貫く看守があざ笑う。
 「お前が続けないなら俺が代わるぜ。中途半端で放置しちゃ可哀想だ、可愛いロンをイかしてやるよ」
 「馬鹿、言えよ。ちょっと休んでただけだ。不死身の王様だってぶっ続けでヤってりゃ息切れするんだよ。いいか?この世でロンをイかせられるのは俺だけだ、他の誰にもロンを渡してたまるか、ロンを天国にイかせるのはロンのいちばんいいとこ知ってる俺じゃなきゃだめなんだよ」
 喘ぎ声を噛み殺して言い切り、再び俺にのしかかり、動きを再開する。
 「ひあっい………!!」
 レイジが手荒く俺を揺さぶる。体奥の粘膜とペニスが擦れて激烈な快感が駆け抜ける。俺はめちゃくちゃに腰を振りながらレイジにしがみつく。ベッドが壊れる。俺も壊れる。
 「あっあっあっあっああああああああっあああっああっあ……ひあっあっ!!」
 「イけよ。天国の門を叩いて神様に挨拶してこい。fly high,sky highだ」
 全身汗と白濁にまみれ、虚ろな表情でレイジが耳元で囁く。レイジの背中に被さった看守が低い呻き声を漏らして果て、レイジの中に生温かいザーメンをぶちまける。
 「あっああっ……」
 体奥に広がる生温かい粘液が刺激となり、絶頂を迎える。
 絶えず蜜を滴らせていたペニスの先端から白濁が放たれる。肩で息をするレイジ、その表情に魅せられる。
 長い睫毛が震え、見開かれた目が潤う。射精に伴う生理的な涙、絶頂に達したしるし。うっすら涙ぐむレイジの下、俺の下半身でうねっていた熱が捌け口を求めてペニスの先端に集まる。
 「あああああああああああっあああああああっ……!!!」
 頭が真っ白になる。背骨がへし折れそうに体が仰け反る。
 股間に粘ついた感触……俺が出した物が内腿に滴り落ちる。
 「相棒と一緒にイくたあ仲いいな、コンビの呼吸ぴったしってか!」
 「気持ちよかったかロン。感謝しろよ、王様に。お前だって内心喜んでるんだろ、フェロモン垂れ流しで無意識に男誘ってる王様が俺たちに犯られてイくとこ見れてペニスから涙流すほど喜んでるんだろ?」
 違う。喜んでなんかない。興奮するわけない。
 俺が泣いてるのは違う、レイジに犯されたのが悔しいからじゃない、目の前でレイジが犯されてるのに何もできなかったのが悔しくて悔しくてたまらないからだ。レイジが犯されてる最中に何もできなかった俺自身に視界が真っ赤に煮える憤怒と殺意を覚えたからだ。
 寒々しい房に三重奏の笑い声がこだまする。
 俺の腹の上でレイジはぐったりしてる。俺は手首を縛られてベッドに転がされたまま涙と鼻水とザーメンを一緒くたに垂れ流すばかり。
 股間と内腿が気持ち悪い。最低にみじめな気分。
 「恨むなよレイジ。『約束』だもんな」
 ズボンを履きながら看守が言う。
 「俺たちは所長の言う通り約束を守ったまでだ。最初からそういう約束だったもんな。ロンを俺たちに輪姦させるか自分がロンを強姦するか二つに一つ、究極の選択だ」
 え?
 「俺たちゃ別にロンを美味しくいただいたって一向に構わなかったんだが、お前が後者選んで内心ガッツポーズきめたよ。口だけ達者な子猫ちゃんはいつでも犯せるけど、東棟をシメる無敵の王様を味わえるチャンスなんかそうそう巡ってこねえからな」
 「ツラだけじゃなく体の奥の奥まで絶品だったよ、お前は」
 「ロンを強姦しながら俺たちに犯される、それが所長のお望みだってんなら上司思いの俺たちゃ是が非でもねえ。しっかしレイジ、お前相当コイツにイカれてんな。天下無敵の王様がたった一年と半年で骨抜きにされちまったってんだから笑えるぜ。そうまでして俺たちに奪われたくなったのかよ、ロンを。独占欲強え王様だな」
 看守が言いたい放題言いながら制服を身に付ける中、ベッドに突っ伏したレイジは死んだように動かない。
 「俺を、守るために?最初から、俺を庇って?」
 レイジは答えない。返事ひとつしない。酷くされて気を失ってるのかもしれない。
 ベッドに倒れ伏せたレイジにおそるおそる近寄り、肩を揺する。
 肋骨の檻の中で心臓が暴れ、どす黒く煮え滾る血液を全身に送り出す。看守の言ってることが本当かどうか頭が麻痺して思考が先に進まない、冷静な判断ができない。じゃあ最初からレイジは嘘で、嫉妬に狂った暴君を演じていて、それ全部俺を守るために……
 
 『暴君が許す。イくとこ見せてやれよ』
 目隠ししてたらわからなかった。
 『同情引こうってのか?』
 あの目隠しは、表情を読まれて本心がバレるのを避けるための措置で。
 『見るな……』
 レイジは俺のせいで――――――――――――

 手の下で肩が跳ねる。
 精液が絡んだ前髪を額に纏わり付かせ、緩慢な動作で起き上がったレイジが傍らに座り込む俺に気付き、笑顔で向き直る。
 何かが吹っ切れた笑顔。
 「こん位たいしたことねえよ。俺、余興で軍用犬とヤらされたこともあるんだぜ。だから別に所長のクソ犬にヤられても良かったんだ、お前が余計な口出し手出しさえしなきゃ全部丸くおさまってたのによ……」
 あまりに自然体で、恐ろしい笑顔。
 俺の喉の奥で何かが膨張破裂していつのまにか喉から絶叫が迸って俺は俺はレイジの笑顔が怖くてたまらなくて、ああコイツは本当に狂ってる狂ってるんだと肌でびりびり感じて 

 「ああああああああぁあっあああああああああああぁああああああぁっあっあっ!!」

 同時に。
 俺の絶叫をかき消す大音量で火災警報装置が鳴り響いた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050521052807 | 編集

 火をつけたのは僕だ。
 罪悪感?ないねそんなもの。良心?クスリ買う金欲しさにとっくに売っぱらっちゃったよ。だから僕はあっけらかんと放火を告白する。なんら悪びれずむしろ自慢げに、この僕こそがあの恐怖と騒乱の一夜を演出した黒幕だと言ってやる。
 改めて宣言。
 今を遡ること一週間前、東棟に大恐慌をもたらしたボヤ騒ぎの首謀者は僕だ。もちろん現場に証拠を残すようなへまはしない。目撃者もいない。就寝時刻を過ぎて夜が深まった頃合にこっそり抜け出してこっそり火をつけてこっそり戻ってきたんだから。

 『友人の自己犠牲なくしてビバリーは救われない。ビバリーを救いたいなら君が事件を起こせばいい、ロンの乱闘騒ぎなど比較にならない騒ぎを起こして被害を広げれば多くの囚人が独居房に移送され元いた囚人が放免される。単純な計算だ』
 ビバリー救出の知恵を借りに行った自称天才が助言をくれた。
 僕はただ鍵屋崎の言ったことを実行したまでだ。

 くどい言い回しを訳せば「ビバリーを助けたいなら自分でやれ、他人をあてにするなばぁか」。はいまったくおっしゃるとおりで、お前を頼った僕が馬鹿でしたよとひねくれちゃえばそれまでだけど悔しいかな鍵屋崎の言い分は正しい。
 勘違いしないでほしい、僕は鍵屋崎が嫌いだ。大嫌いだ。
 裕福な両親にぬくぬく愛されて育ったくせに何が不満だったのかパパとママを刺し殺して東京プリズンにやってきたエリート崩れの日本人、まずその経歴が鼻につく。
 鍵屋崎の存在が気に食わない奴は僕の他にもごまんといる。
 わかりやすく東棟の内分けを発表。
 食堂で鍵屋崎を見かけるたびわざと肘をぶつけたり足を踏んづけたり味噌汁ぶっかけるのが八割、無視が一割、気軽に話しかけるのが一割。当然レイジロンサムライは最後の一割に含まれる。悪意むき出しが八割、無視が一割、同情が一割の偏向した環境で世間知らずの天才が生き抜くのはめちゃくちゃむずかしい。
 レイジやサムライと仲良くしてなきゃ入所後早い段階でリンチの生贄になってた。
 鍵屋崎が十ヶ月生き延びてこれた理由は「友人に恵まれたから」の一点に尽きる。
 でも、鍵屋崎は頭が良い。どんなにむかついても気に食わなくても素晴らしく頭がよい鍵屋崎は正論しか言わないのだ。
 薄汚い毛布にくるまってじっくり考えてみた、鍵屋崎の言葉を。
 『友人を見捨てて生き残るか友人を助けて独居房に入るか。二者択一で選べ、リョウ』
 どっちもごめんだ。
 僕はビバリーと一緒に生き延びる道しか選びたくない。
 僕はお世辞にも頭がイイとはいえないけど鍵屋崎よりずっと世間を知ってる、だからきっと鍵屋崎が見落とした何かを掴める筈。考えろ、考えるんだ。方法は絶対あるはず。
 眠れぬ夜を過ごしながら鍵屋崎の言葉の中にヒントをさがす。ビバリーを助けたきゃ僕が独居房に入るしかない。できるだけ大人数を巻き込む事件を起こしてできるだけ大人数を送り込めば定員オーバーで先住者は釈放される。
 けど、身代わりに独居房に放り込まれるのは嫌だ。
 分厚い壁と鉄扉に阻まれた狭苦しい暗闇で糞尿まみれになる惨めな末路はお断りだ。待て、僕じゃなくてもいいのか。要は大量の囚人を送り込めばいいんだ、大量の……
 名案が閃いたのは、考え事に疲れて寝返りを打ったとき。
 床に転がったスザンナがたまたま目に入った。僕が破壊したパソコンの残骸。
 スザンナを叩き壊した瞬間を思い出す。
 真っ青な顔で駆けつけるビバリー、虚空に精一杯伸ばした手、ビバリーの眼前でスザンナを床に叩きつける僕。パソコンが潰れる鈍い音、バチリと爆ぜる火花、舞い上がる埃と白煙……
 火花。
 それだ。
 思考回路に電流が通った。そうだ、それだ、その手があった!僕は興奮した。夜中じゃなかったらきっと歓声上げて万歳してた。ベッドの上で飛び跳ねたいのをじっと我慢、はやる心を抑えて毛布から抜け出し、マットレスの下を探る。あった。マットレスの下、看守の目を盗んで物を隠しとく場所から取り出したのは……マッチの小箱。
 ビバリーを救いたきゃ事件を起こせばいい。
 ごくりと生唾を嚥下、掌中の小箱を見下ろす。緊張で手が震える。僕の心は決まっていた。やるしかない。
 ビバリーを救い出すにはこれっきゃないと即決断、迅速に実行に移る。

 その夜、東棟でボヤ騒ぎが起きた。 

 火事場では暴動が起きる。
 炎は人を興奮させる。それでなくても東京プリズンの囚人は血気さかんな奴が多い。
 火事発生の報を聞きつけて廊下に溢れ出した囚人の中にはパニクって避難するのと野次馬根性丸出しで現場に特攻するのと二種類いてコイツらが正面衝突、殴るわ蹴るわ頭突くわ消火器ぶん回すわの大乱闘になった。
 勘のイイ人はもうオチがわかったと思う。その夜起きたボヤ騒ぎは看守一同の活躍で無事消し止められたけど火事が引き金となった囚人同士の争いまで消し止めるのは不可能。結果独居房には団体様ご案内、ビバリーは繰り上げ釈放された。
 めでたしめでたし。

 そして一週間後。
 僕は今、医務室にいる。
 「これでよし」
 医者が頷き、僕の手に巻かれた包帯をとる。包帯がほどかれた下から現れたのは火傷がすっかり完治した綺麗な手。
 「ありがとうおじいちゃん先生。さっすが名医、火傷のあとなんかどこにも残ってない」
 医務室の蛍光灯に手を翳し、皮膚を照らす。
 一週間前、看守に見咎められることなく証拠も残さず火を放った僕も無傷というわけにはいかなかった。火事発生現場から逃げる時に炎に舐められて火傷したのだ。
 ま、大した怪我じゃなくて良かったけど。手に火傷負ってるから放火犯と見破られる心配もない、何故なら他にも火傷した囚人が大勢いてこの一週間ひっきりなしに医務室を訪れてるからだ。現に今も衝立に遮られた僕の背後には順番待ちの列ができて、こないだの火事で火傷した可哀想な囚人がしゃべくりあってる。
 「もともと大した怪我ではない、包帯を巻くほどでもなかった。それより君、気をつけたまえよ。好奇心猫を殺すと言うだろう。野次馬根性で火事を見に行って炎に巻かれても自業自得同情の余地なし。感心できないね」
 「はあーい。以後気をつけまーす」
 おどけて首を竦めた僕の態度を反省の色なしと取ったか、医者が疲れたふうにかぶりを振る。
 「あと二十人に説教しなきゃいかんと思うと気が滅入るよ。行ってよろしい。ああ、それと」
 椅子から腰を浮かし続きを待つ。万年筆の芯を出してカルテに何やら書き付けはじめた医者がのんびり付け足す。
 「君と同房の彼、数日間におよぶ独居房生活でやつれてはいたが検査入院ではこれといって異常はなかったから安心したまえ。よほど神経が図太い……精神的に健康なんだろうね。三つ向こうのベッドに寝ているから顔を見せてやったらどうだい?君のことをひどく気にかけていたよ」
 大きなお世話で余計なお節介。言われなくてもビバリーに顔を見せるつもりだった。
 いや。僕こそ顔を見たかったのだ。
 「おじいちゃん先生優しいね。職場が東京プリズンじゃなきゃ今頃院長になれたかもしれないのに、運が悪かった」
 「私が選んだ職場だよ。後悔はない。早く行きたまえ、あとがつかえてるんだ」
 しっしっと追い払われ三つ隣のベッドに歩いていく。衝立の前で立ち止まり、大きく深呼吸する。ビバリーと会うのに緊張するなんてらしくない。自分でも笑っちゃう。
 胸の高鳴りを覚え、カーテンの端を掴んで開け放つ。
 開け放たれたカーテンの向こう、清潔なシーツが敷かれたベッドに横たわっていたのは……
 「リョウさん!」
 「ビバリー!」
 友達の顔を見た瞬間、自制心が吹っ飛んだ。
 身軽に床を蹴り跳躍、ベッドパイプに背中を立て掛けたビバリーに抱きつく。
 「な、ちょ、リョウさんいきなりっ……やめてくださいっス人が見てるっス、せめてせめてカーテン閉めてからー!」
 「ビバリーの馬鹿っ、心配したんだからあ!ビバリーがいないあいだ僕ずっとひとりぼっちで体張って止めてくれる奴がいないからクスリ打つ気もしなくて、このままビバリー帰ってこないんじゃってからっぽのベッド見るたび怖くなって……」
 瞼が急に熱くなる。喉が詰まって言葉が続けられない。腕の中にビバリーがいる。たったそれだけのことがすごく幸せに感じるのはどうして?堪えに堪えていた涙が目からあふれ出る。塩辛い鼻水も一緒だ。
 ビバリーの服で鼻を噛んで顔を上げる。
 良かった、予想外に元気そう。少し頬がこけたものの生命力と好奇心溢れる目の輝きは失われてない。
 「顔色黒いけど大丈夫?」
 「地顔っス」
 つっこみも快調。
 気が動転した僕をしっかり抱きしめる。
 「僕も寂しかったっス、リョウさんと会えなくて」
 「心配した?」
 「心配したっス」
 「僕とスザンナどっちが大事?」
 「スザンナっス」
 ……即答かよ。やっぱ変わってない、ビバリーはビバリーだ。
 独居房の暗闇も絶望もビバリーを変えることができなかった事実を再確認、安堵の息を吐く。
 「でもでも良かったこともあったじゃないスか、僕がいない間クスリ断ちできたんなら更正まであと一歩っスよ!リョウさんやればできるじゃないっスか、僕クスリ漬けになったリョウさんが片足上げてそこらじゅうにおしっこしてるとこ想像してたんすよ!ひとりで食事できるかなーぽろぽろ食べこぼさないかなー椅子から落ちないかなーお箸握れるかなーって」
 「赤ちゃん扱いしないでよ、ひとりでできるもん」
 怒ってビバリーを突き飛ばす。照れ隠しも入ってたけど。ビバリーはよくできましたとしつこく僕の頭をなでている。子供扱いされて腹立つけどビバリーによしよしされるのは久しぶりだから放っておいた。
 僕の自慢、ママ譲りの赤毛をかきまぜビバリーが微笑む。
 「スザンナも大事だけどリョウさんも大事っス。助けてくれてありがとっス」
 「!」
 背筋に電流が走る。反射的に顔を上げる。ビバリーが白い歯を光らせ親指を立てる。
 「知ってたの?」
 囚人が順番待ちの列を成して医者の治療を受けているのを横目に問いただせばビバリーが秘密めかして耳打ちする。
 「ボヤ騒ぎでピンときたんス、いかにもリョウさんがやりそうな思い切った行動じゃないっスか。最初はクスリでラリったリョウさんが火をつけたんじゃないかと疑ったんスが、火が付けられた時間と場所に計画性を感じたんス。頭がパーのヤク中が人目構わず手当たり次第に火をつけて回ってる感じじゃない、夜がふけるのを待ってこっそり火をつけたのは犯人のオツムがまともな証拠っス。そこまで考えてハッとしたんス、僕を助けるためにリョウさんが火事を起こしたんじゃないかって……」
 ビバリーが周囲を窺い声を低める。
 カーテンを掴み、閉める。カーテンに閉ざされたベッドで膝を突き合わせた僕らの周囲でざわめきが増す。怪我人で混雑した医務室の片隅、カーテンが引かれた薄暗がりに息を潜め、上目遣いにビバリーの表情を探る。真剣な顔。いつもお気楽に笑ってるビバリーらしくもない、冗談や言い逃れを許さないシビアな顔。
 「つまりリョウさんは僕が独居房に入る前からラリったふりをしていた。ラリったふりで僕をだまさなきゃいけない必要があった」
 「考えすぎだよ」
 笑い飛ばそうとして、真実を指摘された動揺で顔が強張る。
 ビバリーはまっすぐ僕を見つめている。
 僕の考えてることなんか全部お見通しとばかり、嘘も演技もお見通しとばかりに。
 ビバリーは僕の隠し事を全部暴く気じゃないかと疑いがもたげて全身からどっと汗が噴きだす。
 「一体何を隠してるんスか、リョウさん」 
 詰問とは程遠い穏やかさで、けれど有無を言わせぬ口調で聞かれ、必死に忘れようとしていた記憶がよみがえる。

 静流を尾行して目撃した光景、倒錯した情事、紅襦袢をしどけなく着崩した静流仰け反る喉甲高い笑い声格子越しに絡む視線……
 柿沼がこっちにやってくる、やばい逃げなきゃ、遅い捕まった。手首でカチリと金属音手錠が噛む音。
 助けて助けて誰かいやだ行かないで静流!!

 ………あ、ああっ、あ!!いやだ行かないで閉めないで開けておいて、ごめんなさい僕が悪かっただから行かないでひとりにしないで、ママ、ママあああぁああああ!!」
 「リョウさん大丈夫っスか、しっかりしてください!」
 両手で耳を塞ぎ激しくかぶりを振りベッドに突っ伏す。
 脳裏によみがえるあの夜の情景、柿沼が連れてきた看守にフェラチオを強制され犯されてボロ雑巾になって手錠につながれたまま全裸で放置されて……野太い笑い声を残して立ち去る看守、錆びた軋み音をあげて閉まりゆく扉、鉄扉が閉じる鈍い響き。
 寒かった。ひもじかった。みじめで最低な気分。
 暗闇にひとり捨てられた僕はもう永遠にビバリーに会えずママにも会えずこのまま死んでいく不安にしゃくりあげた。
 「嫌だ。思い出したく、ない」
 やっとそれだけ、搾り出すように言う。
 あの夜のことは思い出したくもない。お化けに怯える子供のようにビバリーに縋り付き嫌々する。ビバリーは僕の背中を撫でつつ何事か一心に考え耽っていたが、意を決して話しだす。
 「……リョウさんが豹変する前の晩のことじっくり思い返してみたんス、独居房で。リョウさんが豹変したきっかけが掴めるんじゃないかって。あの日リョウさんは僕と食堂の二階席で食事とってる時に突然立ち上がってこう言った」
 『どこ行くんスかリョウさん!?』
 『ストーカーのストーキング。トレイ返しといてね、ビバリー』
 「リョウさんはあいつを追いかけた。追いかけた先で何かがあったんだ、多分リョウさんが思い出したくもないひどいことが……」
 「やめろ」
 その先は言うな。腕に指が食い込む。だけどビバリーは動じない、痛みに顔を顰めながらも確信を強めて言い募る。
 「リョウさん、あいつと何があったんスか?あいつに酷いことされたんスか?もしそうならはっきり言って欲しいっス、僕はリョウさんを守……」
 「違う違う違う違う!あの夜は何もなかった、僕は確かに静流を追いかけたけど途中で巻かれて何も起きなかったんだ!!」
 耳の奥に狂った哄笑が湧き起こる。静流の笑い声。
 暗闇の中、柿沼に抱かれて淫らにくねる白い肢体。
 僕のことを本気で心配してるビバリーに静流のさしがねで看守に犯されてパシリに成り下がったなんて言えるわけない。
 一週間前、柿沼が死んだ。
 静流に刺し殺された。
 柿沼を刺し殺した静流は独居房に送られて一週間出てきてない。
 柿沼を殺した動機は不明。けど僕にはわかる、柿沼が殺されたのは単に利用価値がなくなったから。役立たずに冷酷な静流はしつこく付き纏う看守に嫌気がさして虫でも叩き殺す執着心のなさであっさり切り捨てた。僕は静流が怖い。物凄く怖い。裏切ったことがバレれば僕もきっと殺される……
 体の震えを止めようとビバリーを抱きしめる。僕の様子がおかしいのを悟ったビバリーはさらなる追及を諦め僕の背中に手を回す。人肌の体温が心地よく心強い。規則正しく鼓動を打つ心臓が僕のそれに寄り添い動悸が次第におさまっていく。
 ビバリーに打ち明けようか。
 誘惑に心が揺らぐ。
 ビバリーに真実を打ち明けたい衝動に駆られて口を開いた僕は、
 「直」
 そのまま硬直する。
 直……たしか鍵屋崎の下の名前だ。めったに呼ぶことがないから忘れていた。隣から聞こえた呟きにビバリーと顔を見合わす。代表してビバリーが靴を履き、ベッドを下り、カーテンを開く。
 隣のベッドもまたカーテンで覆われていた。ビバリーが遠慮がちに端をめくりあげる。
 鍵屋崎がいた。酸素マスクを付けてベッドに横たわっている。毛布の上に出た腕には管が刺さり、点滴で栄養が注入されている。 
 「……生きてるんスかね」
 「さあね。一週間ずっと意識不明らしいけど」
 「親殺しも災難っスね。柿沼のとばっちりで刺されたんスよね、たしか。マジ狂ってますよアイツ」
 嫌悪の表情で吐き捨てるビバリーの隣、カーテンの隙間から中を覗いた僕は、そばのパイプ椅子に大人が腰掛けてるのに気付く。
 死んだようにベッドに横たわる鍵屋崎、酸素マスクを付けた寝顔をじっと見つめているのは……
 ここ一週間で体が薄くなった安田。
 そりゃ一週間ろくに眠らず意識不明の鍵屋崎に付き添い続けりゃ無理もない。俗に言う看病疲れだ。
 「やっぱできてるんすかね。じゃなきゃ副所長が一週間べったりな理由がわかりません。聞きましたリョウさん、サムライさんを追い返した話。一週間前ここに鍵屋崎運び込んだサムライさんとばったり行きあって『君がついていながらこのザマはなんだ!』と一喝、追い返したらしいっスよ。医者が止めに入らなきゃ殺しそうな勢いで……それ以来ああやって親殺しのそばを片時も離れず目を光らせて、サムライさんが訪ねてきても寄り付かせず……」
 ビバリーの語尾が消える。息を止めて見入る僕らの前、目の下に憔悴の隈を作った安田が毛布の上に伸びた鍵屋崎の手をそっと握る。
 その手を額に持っていき、頭を垂れる。
 「………目を、覚ましてくれ」
 眉間に苦悩の翳りがさす。知性を感じさせる銀縁眼鏡の奥、自責の念に耐えて固く閉じられた瞼が再び開かれた時、その目には哀切な光が宿っていた。
 「ホントの親子みたい」
 「重態の息子に付き添う心配性のパパっすね」
 ビバリーも頷く。僕らの視線の先、安田が続ける。
 「私は無能だ。君が酷い目に遭っている時に何もできなかった。一体何度同じ過ちをくりかえせば気がすむ?それとも……これは罰なのか?ここで君と会ったとき私は運命を感じた。あれから十五年だ。十五年……」
 手に縋り、懺悔する。
 「十五年前の実験以来、私は人と距離をおいて生きてきた。生涯家族をもつつもりはない。結婚もしない。それが私なりの戒めだ。私はずっと罪悪感に苦しんできた。君のことが常に心の片隅にひっかかっていた。鍵屋崎夫妻は優れた研究者だが人格者ではない。君は鍵屋崎夫妻のもとでどんな十五年を過ごした?結果的に両親を殺さねばならないほど辛く苦しい十五年だったのか?……私は偽善者だ。君は鍵屋崎夫妻に愛されて幸せに暮らしてるに違いないと思い込もうとした。君のためよりむしろ私自身のためにそうあってほしいと願った。
 十五年前の実験は成功した。
 しかし私は疑問だった、十五年前の実験が本当に正しかったのか。あれは、あの実験は本当は間違っていたのではないか?受精卵の段階で遺伝子操作を施せば後遺症が発現する可能性がある。これは推測だが、君の視力が極端に低いのも遺伝子操作の後遺症だ。君がよく貧血を起こすのは東京少年刑務所の食事事情だけが原因ではない、おそらくそれも後遺症だ。直、君の体は君が思ってるよりずっと脆弱で壊れやすいんだ………」
 失われゆく体温を取り戻そうと手を包み、過ぎゆく時間に無言で耐え、睡魔と焦燥と疲労とに苛まれた酷い顔で安田が声を搾り出す。
 「君があとどれだけ生きられるかわからないが、少なくとも今、ここで死ぬべきではない。こんな所で死んでいいはずがない」
 昏々と眠り続ける鍵屋崎の傍ら、一週間ろくに眠らず看病を続け、少しでも反応があればと手を握り、内心を吐露する。
 「………死なないでくれ」
 懇願だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050520053817 | 編集

 レイジが怖い。
 『こん位たいしたことねえよ。俺、余興で軍用犬とヤらされたこともあるんだぜ。だから別に所長のクソ犬にヤられても良かったんだ、お前が余計な口出し手出しさえしなきゃ全部丸くおさまってたのによ……』
 あの夜もレイジは笑っていた。
 ザーメンに濡れた茶髪は膠のように頭皮にはりつき、口の端から溢れた白濁が艶めかしく喉へと滴り落ちて、褐色肌のそこかしこにいまだ癒えない鞭の跡と蹂躙の痣が炙り出ていた。
 なんで気付かなかった。
 気付いてやれなかった、相棒のくせに。
 レイジはまた俺を庇って一身に責め苦を受けてずたぼろになって、俺より何倍も何十倍もしんどいくせにすべてが終わった後に普通に笑ってみせた。無理して普通に笑ってみせた。「無理して普通に」って表現が矛盾するのはわかってる、けどあの時レイジの笑顔に感じた印象はそれが一番近い。体の痛みも間接の軋みも心の疼きも地獄の責め苦を全部ひっくるめて受け止める微笑み、「これくらいたいしたことねえよ」とうそぶいた言葉通りにあっけらかんとした笑顔。
 場違いな、空気を読まない、ただ俺を安心させるために作られた微笑み。
 レイジはきっと無理すること耐えることがすっかり身に馴染んじまって、死ぬほどしんどい時も普通に笑えるようになったのだ。
 怖かった。俺を守るためなら犠牲を厭わず一身に責め苦を負うレイジが怖かった。このままじゃいつかレイジは壊れちまう、俺を庇って死んじまう。俺の分の痛みや苦しみまで全部ひとりで抱え込んで自滅しちまう。
 一週間前のあの夜、そう痛感した。
 俺がそばにいるかぎりレイジは懲りずに無茶をし続ける、足手まといの俺を庇って守っていつの日か破綻を来たして死んじまう。
 俺さえ無事なら自分がどれだけ傷付いても構わないと刹那的に生きるレイジ。
 別にヤケになってるわけじゃない、自暴自棄になってるわけじゃない。レイジにとっちゃそれが「普通」なんだ。誰かを守るために自分が傷付くのは当たり前のこと。
 レイジは代償を求めない、褒美も期待しない。
 存在自体が原罪、生き方は贖罪そのもの。
 強姦されて出来た子供、「憎しみ」の烙印を押された者。
 生まれながらに十字架を負ったアイツはもとから救いなんか求めちゃいない、みじめったらしく神様に縋って許しを乞うたりせず鼻歌まじりに地獄を突き進んでいくんだ。
 俺と出会う前も、出会った後も。
 これまでもこれからもレイジがそんな破滅的で刹那的な生き方しかできないなら、俺はどうしたらいいんだ?
 俺が隣にいるとレイジは傷付く。
 俺を、俺なんかを守るために看守に犯されてずたぼろになってへらへら笑ってたのが良い証拠だ。レイジのあんな笑顔見たくなかった。いっそ罵ってもらったほうがマシだ。
 「俺がこんな目に遭ったのは全部お前のせいだ、足手まといめ、お前の尻拭いはもううんざりだ」……その通りだ。レイジが散々な目に遭ったのは俺はせいだ。俺は足手まといだ。俺はレイジに尻拭いばかりさせている。だけどレイジは俺を口汚く罵ることさえせずあろうことか笑いかけた、ちょっとだけ悪びれて冗談めかして「こん位大したことねえよ。そんな死にそうなツラすんなよ」と元気づけた。
 なんだよそれ。立場逆じゃねえか。死にそうなのは、お前じゃねえか。
 レイジは何を言っても変わらないし何を言っても変わろうとしない、俺がどんだけレイジに傷付いて欲しくないと思っていても肝心のレイジが自分なんかどうでもいいと考えてる限りくそったれた現状は変わらない。俺がそばにいるとレイジが傷つく。俺がそばにいるだけでずたぼろになる。
 俺は逃げた。
 レイジの所には一週間帰ってない。
 俺はずっとサムライの房に居候してる。サムライの房に匿われてることにレイジが勘付いてるかどうかはわからないが、この一週間何も言ってこないってことは気付いてても知らないふりをしてるんだろう。
 レイジは底抜けの馬鹿だからきっと勘違いしてる。俺が逃げ出したのは強姦されたショックからだと受け止めてアイツなりにしゅんとしてるかもしれない。
 違う。レイジに強姦されたのは確かにショックだった、でもそれよりずっと許せなかったのはレイジを傷つけることに鈍感になっていた俺自身だ。いつ頃からか俺はレイジに守られるのが当たり前だと思って無意識に甘えていた、飼い猫の特権に安住していた。
 なんでもっと早く気付かなかった、こうしなかった?
 レイジを傷付けるのが嫌ならもっと早くこうすべきだった、アイツのもとを離れるべきだった。

 あれから一週間経った。
 俺はずっとサムライの房にいる。サムライは前にも増して無口になって俺と一緒でも滅多に口を利かなくなった。無理もない。ちょうど俺が犯されてたのと同時刻、鍵屋崎の身にも大変な事が起きていたのだ。
 鍵屋崎が静流に刺されたのだ。
 鍵屋崎は脾臓貫通・出血多量の重傷で医務室に運ばれて緊急手術が行われた。手術は成功した。昼行灯のヤブ医者は噂に違わぬ名医だった。一時危ない状態だった鍵屋崎も術後何とか持ち直して峠を越したが、経過は安定してるにも関わらず一向に目覚めないのが不安の種。
 医者の診断によると鍵屋崎が昏睡状態にあるのには脾臓貫通の重傷に加えて精神的ショックも影響してるらしい。
 要するに何か目覚めたくないくらいショックな出来事があって昏々と眠り続けてるらしい。
 「心理学では嗜眠症というんだよ」と説明された。
 どうでもいい無駄知識がひとつ増えた。それでなくても鍵屋崎の体は極度のストレスやら栄養失調やら慢性的な不眠やらでぼろぼろで、今回の出来事でそれらが一気に噴き出しちまったらしい。
 一週間におよぶ昏睡はその反動だ。
 一週間前鍵屋崎の身に起きたか、正確にはわからない。
 何度サムライに問いただしても本人は固く口を閉ざしたきり。
 眉間に縦皺を刻み、口元を一文字に引き結び、膝の上にこぶしを結んでじっと自責の念に耐えている。謹厳な面持ちで椅子に腰掛けるサムライの隣、俺は今だ目覚めぬ鍵屋崎を思い、不安に襲われた。
 ひょっとしたらこのまま永遠に鍵屋崎が目覚めないんじゃという不安。
 サムライはこの一週間欠かさず医務室に足を運んだ。
 暇さえありゃ医務室に顔を出して鍵屋崎の経過を医者に訊ねた。医者の答えはいつも同じ、「峠は越えたから安心していい」という気休め。だけどサムライは一度だって鍵屋崎に会わせてもらえなかった。
 この一週間、付きっきりで鍵屋崎を看病してる安田が拒んだのだ。
 『直に会わせてくれ!』
 他の患者の迷惑になるからと医務室前の廊下に追い出されてもなおしつこく食い下がり、一目鍵屋崎に会いたいと直訴するサムライに医者は困惑顔だった。
 俺も同じだった。サムライの気持ちは痛いほどわかる。けど、どんなに頑張っても駄目なこともある。峠を越えて術後経過が安定してても鍵屋崎が気の抜けない状態にあるのは変わりない。医者が駄目と言うならそりゃ駄目だ、諦めて帰るしかない。
 医者はうんざりと言った。
 『気持ちはわかるけどね、君。君がついていてもどうにもならないんだよ。幸い術後経過は良好、脾臓貫通の大怪我も処置が早かったために大事には至らなかった。彼のことは心配せずともいい、じきに起き上がれるようになるだろう。その時にまた改めて会いに来ればいい。何もそんなに焦ることは……』
 『ある。俺には時間がないのだ』
 え?
 医師と顔を見合わせる。
 今、時間がないと言ったか?
 サムライの横顔を盗み見る。
 廊下に所在なく立ち尽くすサムライ、俯き加減の横顔には悲愴な決意が漂っている。切れ長の目の奥に渦巻く様々な感情。哀惜、未練、憧憬……別離の予感。
 サムライは深々伏せた顔に苦渋の色を湛え、根が張ったようにその場を動かず医師と対峙する。
 目を瞑り、息を吸い、吐く。
 ゆっくりと瞼を開く。
 猛禽めいた切れ長の目に宿っていたのは、どこまでも一途な光。
 『一目直に会いたい。直の無事を確かめたい。触れられなくとも構いはしない。……恐らくは直も、それを望んでいる』
 静かな気迫に圧されて医師があとじさる。サムライが一歩詰める。
 『俺は直のそばにいたい。俺はここにいると呼びかけて安心させてやりたい。……身勝手だと思う。さんざん直を傷付けておきながら今更こんな事を言うのは卑怯だと己を唾棄する。だがあの時、俺の腕の中で意識を失う寸前に直が呼び求めたのは他の誰でもなくこの俺なのだ。直が目を瞑る時にそばにいたから、直が目覚める時もともにありたいと願う。あいつが目を開けて最初に見るのは俺以外の男であってはならないと心が叫ぶのだ』
 発狂一歩手前の焦燥に焼かれて踏み止まるサムライに、医者は静かに首を振る。
 『駄目だ。帰りたまえ。東京プリズンで特例は認められない。友人が心配なのはわかるが、君だけ特別に面会を許可しては他の囚人に示しがつかんじゃないか。せめて目が覚めてからきたまえ。どうせ今会っても本人は意識がなく話もできな、』
 ため息まじりに説得する医師の眼前、サムライは思いがけぬ行動をとる。
 『!?サムライお前っ、』 
 土下座したのだ。何ら葛藤なく医務室前の廊下に額を擦り付ける誠意を見せたのだ。俺はぎょっとした。慌てて助け起こそうとしたが邪険に手を振り払われた。上着の袖を引っ張る俺など眼中になく床に額を付けて、サムライは嘆願する。
 『頼む。この通りだ。会わせてくれ』
 医師が狼狽する。医務室前の廊下を行き交う囚人が好奇の目を向けてくる。ざわめき。サムライは一向に顔を上げない。
 鍵屋崎に会いたい欲求に駆られて恥も外聞もかなぐり捨て、背中に刺さる嘲笑や罵倒も取り合わずひたすら土下座を続ける。
 惨めだった。無様だった。もうやめろという言葉が喉元まで出かけた。こんなサムライ見たくなかった。
 『サムライ、やめろよ。お前がそこまですることねえよ』
 サムライの肩に手をかけ、揺さぶる。
 胸が痛かった。やりきれなかった。
 俺はサムライがどんだけ頑固なヤツかよく知ってる。これでもサムライとは鍵屋崎が来る前からの長い付き合いだ。その頑固で意地っ張りのサムライが今の自分が人の目にどう映るかなんててんで気にせず、冷たい床に這いつくばって無理を承知で医者に頼み込んでいる。
 一目鍵屋崎に会えるなら他に何もいらない、サムライをサムライたらしめる武士の誇りすら失っても構わない、床を舐める屈辱も他人に嗤われる羞恥も甘んじて受け止めてみせる。己を卑下するわけでも同情を引こうとしてるわけでもなく、生まれついての不器用さ故こうするしかなく、医者が面会を許可するまで梃子でも動かず土下座を続けるさまは潔いを通り越して滑稽だ。
 『直に会いたいんだ。そばにいたいんだ』
 床に手を付き深々顔を伏せ、低く声を漏らす。
 生きながら身を裂かれるような悲痛な声。
 『一目でいい、会わせてくれ。他には何もいらない。俺は一晩中でもここにいる。少しでも直のそばにいたい、直を感じていたい。これが、この程度のことが償いになるとは到底思えん。だからこれは俺の我侭だ。我侭を承知で頼む』
 毅然と顔を上げ、医者を仰ぐ。
 『俺から直を奪わないでくれ』
 医務室の扉が乱暴に開け放たれたのはその瞬間。
 医務室の扉を開け放って靴音高く廊下に歩みだしたスーツ姿の男が、サムライの胸ぐらを掴んで強引に立たせるや、風切る唸りを上げて手首を撓らせる。
 甲高く乾いた音が鳴り響く。サムライが勢い良く仰け反る。
 手加減なくサムライの頬を張ったのは、銀縁眼鏡の奥から冷酷な眼差しを注ぐ男……安田。医者を押しのけて前に出た安田は怒りを抑圧した表情でサムライと対峙、平板に命じる。
 『君には失望した。直を、鍵屋崎をあんな目に遭わせておきながらまだ友人のつもりでいる図々しさには呆れる。私が理性を保っている間に即刻立ち去りたまえ』
 『なにすんだよ安田っ、お前がしゃしゃりでてくる幕じゃねえだろ!?』
 さすがに俺もキレた。
 いきなり出てきてサムライ殴って意味不明なことぬかしやがってと睨み付けるが、安田は俺など完全無視でサムライだけを見詰めている。安田に張り飛ばされた衝撃で口の中が切れたらしく、唇を血で染めて床に片膝付いたサムライが、情け容赦なく核心を抉られた衝撃に凍り付く。
 医務室の扉を背に立ち塞がった安田は、銀縁眼鏡の奥の目に侮蔑を覗かせ、冷徹に研ぎ澄まされた言葉の刃をぶつける。

 『鍵屋崎を殺しかけたくせによくそんなことが言えるな。もう一度言う、君には鍵屋崎に会う資格がない。君を信頼して鍵屋崎を預けた私が間違いだった。ここに鍵屋崎が運ばれてきたときのことを私はよく覚えている。鍵屋崎は全裸に襦袢一枚きりの寒々しい格好で脇腹から大量の血を流して、意志の通わぬ四肢はぐったり弛緩して、私の呼びかけに反応せず天井を仰いだ寝顔は蝋のように白かった。虚空に垂れた足は不規則に揺れていた。太股からは一筋白濁が滴っていた。何があったか一目瞭然だった。鍵屋崎は柿沼看守を刺殺した犯人、君の従弟たる帯刀静流に犯されて刺されて医務室に運び込まれたんだ!鍵屋崎が犯されてる間君はどこで何をしていた、鍵屋崎を守りもせず刺された頃に呑気に駆けつけておきながら今もまだ友人を名乗る資格があると思っているのか、見損なったぞ帯刀貢!!』

 安田の迫力に圧倒され、言葉を失う。
 いつも冷静沈着で感情を表に出さない副所長がここまで怒り狂ったところを見たことがなかった。激しく罵倒されたサムライは首を項垂れて立ち尽くすばかりで言葉を返そうともしない。
 『……鍵屋崎には私がついている。君の役目は終わりだ。帰りたまえ』
 一方的に話を断ち切り、安田が背中を見せる。
 絶対鍵屋崎に会わせないと背中が言っていた。銀縁眼鏡の奥の目は氷結し、切れ味抜群の剃刀めいた眼光を放っていた。
 拒絶の響きを残して扉が閉じる。
 それでもサムライはそこを動かなかった。安田に殴られた頬は赤く腫れていた。唇には痛々しく血が滲んでいた。
 扉を見据える目に激情が燃え上がる。
 何かを堪えるようにぐっと指を握り込む。
 『……すまない、直。俺は今、お前のそばにすらいられない』
 医務室の奥、昏睡状態に陥った鍵屋崎と少しでも距離を縮めようと扉に額を預けて凭れかかる。孤独が人の形を取ったようなその姿。
 少しでも鍵屋崎の気配を感じようと扉の表面に手のひらをあて、切なる祈りを込めて目を閉じる。
 『生きていてくれ………』
 ただそれだけが、サムライの望みだった。

 ドアの前にサムライを残し、俺は逃げるようにその場を後にした。
 その足で展望台にやってきた。
 強制労働終了後、西日に照らされた展望台には珍しく人けがない。好都合だ。俺は展望台の真ん中に歩み出て全身に風を浴びた。
 もうすぐ約束の時間だ。
 別に約束を守る義務はないが、あいつはきっとここにやってくる。俺に呼び出された理由を知りたくて境界線を越えて東の展望台にやってくるはず。いや、そもそも約束でも何でもない。俺が一方的に今日ここに来いと告げただけでアイツが従う理由も義務もない。
 でも。
 「俺相手に逃げたりしたら南の隠者の名が泣くもんな」
 口角を吊り上げ皮肉に嗤う。空が茜色に暮れていく。
 展望台には俺しかいない。乾いた風に髪をなぶらせ黄昏の空を仰ぐ。前にもこうして展望台で夕焼けを見た。あの時はレイジが一緒だった、鍵屋崎もいた、サムライもいた。
 今は誰もいない……俺だけだ。
 「そして誰もいなくなった、か」
 無人の展望台を見渡し、かつての面影を探す。
 俺たち四人が元気で一緒にいた頃、毎日馬鹿やって笑い合ってられた頃の面影を重ねる。レイジがいた。鍵屋崎がいた。サムライがいた。俺たち四人いつも一緒にいた。展望台の突端に腰掛けて無表情に本を開く鍵屋崎の隣、俺にちょっかいかけるレイジ、レイジに髪をかきまぜられてキレる俺、そんな俺たちに苦笑するサムライ。
 涼しい風が吹く黄昏の空の下、かつて俺たちは同じ夕日を見た。
 「お呼びですか、ロンくん」
 うそ寒い敬語が聞こえた。待ち人来たれり。俺は夕空を見上げたまま、靴音が背後に来るまでさりげない風で待ち続ける。
 「我輩に御用があるそうですが、わざわざ展望台に呼び出すとはロンくんらしくもない回りくどいやり方ですね。では早速ご用件をうかがいましょうか。我輩も暇じゃないのでね……遠く離れたワイフに愛情満載の手紙を書かなきゃいけないのです」
 「手紙は諦めろ」
 「どういう意味ですか」
 背後で温和に微笑む気配、穏やかな問いかけ。
 俺は目を閉じ深呼吸して振り返るタイミングを数える。
 夕空高く靴音が響く。そいつは一定の歩幅で展望台を突っ切ってくる。怖いもの知らずの歩み。見なくてもわかる、そいつが今どんな顔をしてるか。きっちり七三に分けた黒髪の下、聡明な印象の秀でた額。センスを度外視した黒縁メガネの奥では糸のような細目が柔和に笑ってる。
 体の脇で指を握り込み、こぶしを作る。 
 「一本残らず指をへし折ってやるからさ」
 靴音が背後で止む。今だ。
 振り返りざま鋭い呼気を吐き、腋を絞めて腕を振る。
 背後に立ったホセは微笑を絶やさず、顔面めがけて迫り来る拳を最小限の動きで避けた。俺はすぐ次の攻撃に移る、間合いに踏み込み靴裏で砂塵を巻き上げ蹴りを放つ。ホセはこれも余裕でかわす、蹴りの軌道上から一歩飛びのいておどけたように首を竦める。
 「ホセ、お前死ねよ」
 胸の奥が沸騰する。
 こいつが、こいつさえ余計なことしなけりゃレイジに浮気を疑われることもピアス穴開けられることもなかったんだ、俺が寝てる間に人の体があちこちいじくりまわして首の後ろにキスマークまでつけやがってくそったれが!!
 こめかみの血管がどくどく脈打つ。沸騰した心臓が全身に血を送り出す。俺は連続で蹴りを放ちこぶしを繰り出す。池袋最悪の武闘派グループにいた頃は血で血を洗う抗争に日々身を投じていたのだ、今だって勘は鈍っちゃない。
 「『お前死ねよ』とはおだやかではない、我輩何かロンくんの気に障るようなことをしましたか」
 「とぼけんなよ」
 声がひび割れる。
 ホセの顎を砕こうと続けざまに撃ち込むも残像を穿ち舌打ち、地に片手を付き右足を軸に半弧を描く。ホセを転ばそうと地を這う姿勢から足を薙ぐも阿吽の呼吸で飛び越される。

 「お前、俺を泊めた夜に何した。俺の腹に一発くれて気絶させたあと何やったかで吐けよ。俺がぐっすり眠ってるのいいことに人の体好き放題いじくりまわして首にキスマークまで付けやがって何が『ワイフ一筋』だよ笑わせる、ワイフと離れ離れでタマってんなら一人でヌくか南の囚人とヤれよ、なんでわざわざ俺拉致って紛らわしい真似すんだよ!!?
 お前が紛らわしいことしたせいでレイジがキレて針持って……お前が余計なことさえしなけりゃ俺が痛い思いすることもレイジが狂うこともなかったんだ、俺たちはずっと相棒でいられたんだ!!全部お前のせいだよクソ隠者、お前のせいで何もかも台無しだおしまいだ、お前さえいなけりゃっ!!!」

 殺してやる。
 レイジが暴君化したのはコイツのせいだ、俺がレイジのもとから逃げ出さなきゃいけないはめになったのも元を正せば全部コイツのせいだと腹の底から怒号する。
 感情の爆発。
 最小限の動きで的確に攻撃をかわすホセを執拗に追い回し、全力で拳と蹴りを放つ。ホセの顔面めがけ右拳と左拳を交互に繰り出すも一度もあたらず掠りもせず、鼻骨粉砕の威力を込めた拳は残像を穿つにとどまる。
 なんで、どうしてあたらない?
 次第に息が切れ始める。顎先を汗が伝う。全身の毛穴から水分が蒸発していく。しとどに汗を吸った上着が四肢に重たく纏わり付いて動きを制限する。 
 苦しい、滅茶苦茶苦しい。心臓が破裂する。これ以上動けない、走れない。走れない?んなわけあるか、まだやれる、まだまだやれる。これしきでへばるわけない。
 膝に手を付き呼吸を整え、ひりつく喉で絶叫する。
 「くたばれラテン眼鏡!!」
 展望台が赤く燃える。西空が真紅に染まる。地平線に夕日が沈んでいく。展望台の真ん中、息一つ乱さずあきれた表情を浮かべたホセが理解不能といったふうに首を振る。
 「おやおや、君には失望しましたロンくん。先ほどの発言から察するに君はまだレイジくんに我輩のことを話してないのですか?我輩の房に泊まったことを話してないのですか?」
 なんてことだ、とため息を吐く。
 「それでは意味がない。何故素直に話してしまわないのですか、我輩の房に泊まったと。君の首筋にキスマークを付けた犯人はこの我輩ホセだと白状してしまえば事は簡単に済んだのに、君がつまらない意地を張り続けたおかげでややこしくなったじゃないですか」
 ?どういうことだ。
 顔に疑問符を浮かべた俺の前、きざったらしくメガネを外す。
 メガネの弦を畳んでポケットに入れ、七三分けに手櫛を入れて無造作にかきまぜる。ウェーブがかった髪を風に嬲らせ、八方美人のセールスマンから軽薄な色男に変貌したホセがにっこり微笑む。
 「我輩、少し怒りました」
 鉄壁の笑顔。顔の皮膚が硬化したような……
 背筋がぞくりとする。
 獰猛な光を双眸に宿したホセが音もなく俺に肉薄、肉眼では捉えられぬ速度で腕を撓めて解き放つ。かわすのは物理的に不可能だった。
 衝撃。地震。
 本当に地震が来たと思った。鳩尾にめりこんだ拳の威力は凄まじく、内蔵が被ったダメージは深刻だった。
 体の内側をかきまぜられる不快感。俺は今この瞬間身をもって人間がただの皮袋に過ぎない事実を思い知らされた。ただの肉と骨と血が詰まった皮袋、到底吸収しきれない程の衝撃を受けたら皮が破けて内蔵ぶちまける。幸いにして腹の皮が破けなかったのはホセがほんのちょっと手加減したからだ。
 「!!がっ………、」
 膝から砕けるようにしゃがみこみ、両手で腹を抱えて体を折り曲げる。胃袋が痙攣を起こす。俺は吐いた。胃液しかでてこなかった。下腹がじんじん痺れた。腹を庇って転がった拍子に上着の裾がめくれて腹があらわになった。拳大の内出血、赤黒い痣……
 鍵屋崎とどっちが痛いだろう、なんて馬鹿なこと考えたのはきっと少しでも激痛から逃れたかったからだ。答えは一秒ででた。鍵屋崎に決まってる。脇腹刺された鍵屋崎と比べるのもおこがましい、けどマジ痛てえ、洒落になんねえ……鍵屋崎には及ばないにしろ鍵屋崎が味わった激痛の十分の一、いや五分の一、ひょっとして三分の一は嫌ってほど思い知らされた。
 「ひぎぃ、ひあっ、ひぐ……あぐぅっ……」
 「漸く話ができますね」
 頭上にホセの声が降ってくる。
 涙でぼやけた目を凝らし、取り澄ました笑顔を捉える。俺の傍らにしがみこんだホセがこっちに手を伸ばす。とどめをさされる恐怖で反射的に体が強張る。芋虫みたいに這って逃げようとしたら片腕掴んで引き戻される。
 ホセが上着を掴み、涙と涎でぐちゃぐちゃになった俺の顔を優しく丁寧に拭う。
 「失礼。ほどほどに手加減したつもりが少しばかり余計な力が入ってしまったみたいです。我輩もまだまだ未熟者、怒りに我を忘れて力のセーブを怠るなどお恥ずかしい限りです。さあロンくん顔を上げて、そろそろ泣き止んでください」
 じっと息を殺していたら下腹部の激痛も少しはマシになった。
 腹に回した腕をそろそろ緩め、顔に纏わりつくホセの手を邪険に打ち払い、ひどくゆっくりと時間をかけて自力で起き上がる。
 体を支えようと腹筋に力を入れる度に激痛が走り、下唇を噛み締めた。死ぬほど悔しかった。惨めで恥ずかしくてやりきれなかった。
 俺は結局ホセに一発も入れられず前回の二の舞で、まんまと同じ手を食わされちまった。こんなんじゃレイジの相棒なんか名乗れるわけない。俺はレイジのそばにいる資格がない。相棒失格の烙印を押されるべきはサムライじゃなくてこの俺だ。なのに何で誰も俺を責めないんだ、笑って許そうとするんだ?

 笑うなよ。
 笑うなよレイジ。

 展望台が煌煌と燃え上がる。
 西空に没しゆく夕日の残光で展望台は朱に染まっていた。俺とホセの影が展望台に長々と穿たれる。コンクリ床に影を曳いて立ち尽くしたホセは、慈父めいた微笑みで俺を見下ろしている。
 俺にはもう、どこにも行く場所がない。
 レイジを傷付けたくない、サムライの負担になりたくない。
 展望台の真ん中、途方に暮れて座り込んだ俺の肩に手がおかれる。反射的に顔を上げる。目の前にホセがいた。優しい笑顔で俺を覗き込んでいる。
 「悩み事があるならご相談にのりますよ」
 「…………」
 本当はわかっていた、ただの八つ当たりだって。
 ホセがキスマークを付けようが付けまいが結果は変わらなかった、所長に二者択一を突きつけられたレイジがとる行動は予め決まっていた。レイジはどこまでも献身的に俺を守ろうとする。自分の身を犠牲にしてまでも俺を庇って守ってそれで死ぬなら本望だとお気楽に笑ってる。ふざけんな。馬鹿にすんな。お前がお前のことどうでもよくても俺はそうじゃない、俺を守るのを最優先してお前が自分を粗末にするってんなら……
 「キスマークの責任とれ」
 ホセの上着を掴み、ぎこちなく体を摺り寄せる。
 西空に夕日が沈み、残照の最後の一滴が滴り落ちる。
 薄墨を垂らした夜気の中、ホセの背中に腕を回して体温を貪り食う。
 「俺を抱いてくれ」
 レイジが俺のことなんか大事にしなくなりゃいい。
 俺の事を嫌いになっても構わない。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050519233725 | 編集

 一面の白、はてしない虚無の世界。
 僕はそこにいた。どこからともなく忽然と現れた。
 奇妙な場所だった。
 見渡す限り何もなく誰もいない荒野、永遠が存在する場所。
 僕の他には動く物とて見当たらず無限の白が広がっている。
 面積は把握しづらい。視界のはてに地平線が存在しない。
 病院の無菌室を思わせる無機質な白がただ漠然と広がるだけの殺風景な空間に忽然と出現した僕は、ここに来る前の記憶も自分が誰であるかもあやふやなまま、虚無に包まれて自我が消滅する不安に駆られてあてどもなく歩きだす。
 僕が感じるのは恐怖と不安。
 存在根源を脅かす恐怖、漠然たる不安。
 漂白された世界の片隅に突如として生み落とされた僕は内心の困惑を隠せず、落ち着きなくあたりを見回す。
 全方位を包む白、何も存在せず遮る物とてない虚空。
 時間が停滞した場所。
 どうやら生あり動く者は僕以外にいないらしいと結論付ける。
 一歩踏み出すごとに違和感が膨れ上がる。
 ここは本来僕がいるべき場所じゃないという根本的な違和感、本来立ち入ってはいけない場所を侵している後ろめたさ、禁忌を犯す罪悪感。 僕こそが不慮の事故でこの世界に迷い込んだ排除されるべき異物、異端視される闖入者という自覚が次第に強くなる。

 ここは何処だ?

 違和感が確信に変わる。
 ここは僕のいるべき場所じゃない、明らかに違う世界だ。
 無菌室めいて漂白された世界のただ中で歩みを止め、深呼吸で落ち着きを取り戻し、回想に没入する。
 ここに来る前どこで何をしていた?
 疑問を出発点に記憶を遡る。
 最初に蘇ったのは懐かしい顔と声。
 こちらを心配げに見詰める男の顔。見覚えある顔だ。
 どれ位洗髪してないのか、脂でぱさついた長髪を無造作に結ったむさ苦しい男が、猛禽めいた切れ長の目に真摯な光を宿し、焦燥に焼かれた表情でこちらを一心に覗き込み何かを叫んでいる。
 なお、なお……どうやらそれが僕の名前らしい。
 血を吐くように必死な声音で僕に呼びかける男。
 頬骨が尖った精悍な顔だち。顎に散った無精ひげがただでさえ頬が削げ落ちた禁欲的な顔を老けさせているが、よくよく見れば僕とそう変わらない年齢の少年だ。 
 なお、なお……しっかりしろ、目を覚ませ、直。
 何故だかひどく懐かしかった。
 僕を呼ぶ声に、僕を見詰める眼差しに愛しさをかきたてられた。
 悲痛な呼びかけ、思い詰めた眼差し。ああ、確かに僕は彼を知っている。理屈じゃない、彼の顔を見た瞬間胸に込み上げた温かい感情が証拠だ。全身の細胞が彼の手のぬくもりを覚えている。
 僕は彼を知っている。
 彼は僕を知っている。
 彼は僕の大事な人だ、大事な友人だ。
 確信が核心に至り、鮮明に記憶が蘇る。
 サムライ。彼の名前はサムライ、生まれて初めて出来たかけがえのない友人だ。十ヶ月前東京プリズンで出会って以来常にそばにいて僕を守り支えてくれた心強い友人、僕が愛する男。漸く思い出した。
 彼のことを忘れるなんてどうかしている、今更ながら自分の正気を疑う。たとえ記憶喪失になったとしても彼のことだけは忘れない自信があったのに、と悔しくなる。
 だけどサムライ、君は何故そんな酷い顔をしている?
 今にも死にそうな顔色で、今にも張り裂けそうに悲痛な表情でこちらを見詰めているんだ?
 「………痛っ……」
 脳の奥が鈍く疼く。
 脇腹に手をやり、見下ろす。
 僕は囚人服を着ていた。囚人服の脇腹に手を当てた僕は、意識を失う直前の出来事をぼんやり思い出す。廊下でサムライと出会った。看守と揉み合っていた。サムライが歓喜に顔輝かせ僕へと手を伸ばす。
 喜び勇んで駆け出す僕、真紅の襦袢の裾を翻し白濁が伝う素足を覗かせ一直線に……
 脇腹を刺し貫く灼熱感、激痛。
 真紅の襦袢に染み出す大量の血。サムライの絶叫。体の均衡を失って倒れ伏せた僕を抱き寄せる優しく力強い腕、頬に滴り落ちる熱い涙……最後に見た光景は、血の滴るナイフを携えて嫣然と微笑する静流。
 「そうか。刺されたのか」
 最後のピースを獲得、カチリと音たてて記憶の欠落が埋まる。
 恐らくは心因性ショックだろう、一時的な記憶喪失から回復した僕は慎重に脇腹をさする。
 痛みはない。血の染みもない。
 脾臓貫通の重傷を負ったのにと不思議に思いもしなかった。これは夢だ。夢ではどんな不条理も許される。それに痛覚が麻痺してるなら幸いだ。生憎僕はマゾヒストじゃない、好き好んで痛い思いはしたくない。
 改めてあたりを見回す。
 恐らくここは深層意識下の世界、抽象的な無の世界。
 最初に断っておくが、僕は死後の世界など信じない。そんな物は人間の妄想だ。人に限らず動物は死ねばタンパク質の塊になるだけ、霊魂などという非科学的な概念は絶対に認めない。よって僕がすでに死んでいる可能性は却下、全否定。ここが死後の世界であるはずがない。
 天国?まさか。こんな無味乾燥な天国あってたまるか。地獄?同様の理由でありえない。ダンテの絢爛な想像力と旺盛な好奇心によって描き出された「神曲」の天国地獄とはどちらにせよ凄まじい違いだ。
 これは夢だ、僕が見ている夢の中。
 「全く僕らしい退屈な夢じゃないか。フロイトの夢判断的に自分以外の人間が存在しない夢とはどうなんだ、破滅願望の表れか?とは言え僕は現在危ない状態にあるらしい、脾臓貫通の重傷を負ったのだから当たり前だ。重篤の状態が続いて脳波が低調だからこそ背景を省略した手抜きの夢しか見れないのか?」
 僕はひどく落ち着いていた。
 このまま目覚めないかもしれないとわかっていても無痛の夢の中にいると現実感が乏しかった。ただ、サムライのことを考えると胸が疼いた。彼に会いたかった。このままでは終わりたくない、彼を残して死ぬのは嫌だと体の奥底から衝動が突き上げる。
 会いたい。サムライに会いたい。
 激しい願望に駆り立てられ、出口を求めて走り出す。
 どこかにあるはずだ、夢の出口が。捜せ、捜すんだ。僕はただひたすら駆ける。夢の中でも息が切れる脆弱な体が恨めしい。
 周囲には白い闇が広がっている。北欧地方の白夜を彷彿とさせる光景の中をあてどもなく駆け続けるうちに、遥か前方に人影を発見する。
 「!」
 人だ。僕以外の人間がいた。
 警戒しつつ背後に歩み寄る。こちらに背中を向けて佇む若い男。恐ろしく姿勢が良く、背中が真っ直ぐ伸びている。凛とした雰囲気を漂わせる男の背後で立ち止まった僕は、衝撃に息を呑む。
 「サムライ」
 サムライだ。見間違えるはずない。
 再会の喜びに胸が高鳴る。僕を迎に来てくれたのか?全身から喜びが溢れ出る。今すぐサムライに駆け寄りたいのを自制し、ゆっくりと慎重に、衣擦れの音に気付いたサムライが振り向くのを恐れるように歩み寄る。手を伸ばせば届く距離にサムライがいる。僕に背中を向けている。 会いたかった、本当に。
 彫像の如く微動だにしない背中に指先を伸ばす。
 もう少しで震える指先が肩に触れるー……
 その瞬間。
 「恵を裏切るの、お兄ちゃん」
 「!」
 背後で声がした。
 弾かれるように振り返った僕は、ここにいるはずもない人間と対面する。僕の背後、虚無の世界に忽然と現れた幼い少女。小動物めいて愛くるしく庇護欲をくすぐる目、子供らしく柔らかな頬、ふくよかな唇、三つ編み。病院の患者が着るような純白のワンピースの少女が、無表情にこちらを凝視している。
 「恵……、」
 恵。最愛の妹。
 僕が両親を殺す現場を目撃し、心神喪失状態に陥った妹。
 僕の前に突如として現れた恵は記憶の中そのままにあどけない顔で、しかし無表情にこちらを見詰めている。
 黒目がちに潤んだ瞳が驚愕した僕を映しだす。
 愕然と立ち竦む僕と対峙、平板な声で糾弾の言葉を紡ぐ。
 「恵を捨ててその人を選ぶの、その人と一緒に行っちゃうの?恵はおにいちゃんのせいで心を滅茶苦茶に壊されたのに、おにいちゃんは新しく出来たお友達と一緒に恵のことなんか忘れて毎日楽しく暮らしてる」
 「違う!恵のことを忘れた日など一日もない、僕は恵を裏切ってなど……!」
 「嘘つき。裏切り者。卑怯者」
 黒い目に憎悪が迸り、幼い顔が醜悪に歪む。
 喉を反らして吐き捨て、軽蔑の表情で僕を見下す。
 「お兄ちゃんはどちらを選ぶの。恵とその人とどちらを選ぶの」
 ハッと正面に向き直れば、いつのまにかサムライが歩き出し僕の手の届かない所へ遠ざかっていた。
 慌ててサムライを追おうとして、硬直。
 振り返る。恵がいた。無言で僕を見詰めている。妹を捨てて友人を選ぶのかと糾弾している。悲哀と憎悪が渦巻く目、白く強張った頬、固く引き結ばれた唇……傷付いた顔。
 ああ、そうだ。恵はいつもこんな顔をしていた。望まれず生まれてきたことを謝罪するかの如く所在なく縮こまって、申し訳なさそうに俯いて、それでも僕だけは自分を捨てない裏切らないとひたむきに……
 「どちらを選ぶの」
 サムライが行ってしまう。離れていってしまう。
 葛藤に心が分裂する。サムライを追いたい、彼の肩を掴んで振り向かせたい。しかし恵が許さない、僕だけ幸せになるのを許してくれない。僕は恵を捨てられない。
 行くなサムライ!
 声振り絞り呼び止めようとした。
 だが声が出なかった、喉から発したはずの叫びは虚空に吸い込まれて消えてしまった。喉を掻き毟り蹲る僕の前、憐憫か嘲弄かどちらとも付かぬ表情を浮かべた恵が淡々と言う。
 「お兄ちゃんはいつもそう。いつも大事な人を選べない。いつもいつも選択を間違い続けてきた。今だってそう。足手まといの妹よりお友達を選んだほうが幸せになれるとわかっていても恵を捨てる罪悪感に縛られて行動できない。ほら、お友達が行っちゃう、見えなくなっちゃう。本当にいいのお兄ちゃん、追わなくて後悔しないの?」
 「あ…………、」
 嫌だ。行かないでくれサムライ。
 君と離れるのは嫌だ君を失うのは嫌だ耐えられない独りは耐えられない、からっぽのベッドに背中を向けて眠れぬ夜を過ごすのも話し相手のない食堂で食事をとるのも静流が仲良く寄り添うさまを見せ付けられるのも耐えられない!
 脳裏で理性が弾け飛ぶ。
 気付けばサムライを追い駆け出していた。だが一向に距離は縮まらない、走れども走れども息が切れるばかりで追いつくことは不可能だ。背中に視線を感じる。恵がじっとこちらを見詰めている、サムライに追いつこうと見苦しくもがく僕を眺めている。
 胸が痛い。最愛の妹をひとり残して友人に追いすがり、叫ぶ。

 「恵許してくれ、今だけは行かせてくれ!彼は僕のサムライなんだ、漸く僕のもとに戻ってきたんだ、漸く気持ちを伝い合えることができたんだ!生まれて初めて出来た友人なんだ、妹以外に初めて心を開けた人間なんだ、僕は彼のことが大好きなんだ!!IQ180の知能がなければ両親さえ僕の存在を認めなかった、僕に関心を示してくれなかった、しかし彼はこのままの僕が好きだと言ってくれたんだ、異常にプライド高く毒舌で頭脳以外に取り得のない僕を愛してると言った世界にただ一人の男なんだ!」

 サムライが急速に遠ざかり、やがて見えなくなる。
 僕はそれでもまだ諦めきれずサムライの消えた方向に走り続ける、喉も裂けよと声張り上げて呼びかける。喪失。嫌だ、行かないでくれ、見捨てないでくれ。こんな寂しい場所に僕ひとり残して行かないでくれ。膝から力が抜ける。
 崩れ落ちるようにその場に座り込み、白く平坦な地面に手を付き、彼のいない世界を呪う。
 「お願いだから捨てないでくれ、一人はいやだ、いやなんだ、寂しいんだ……」
 戻ってきてくれ。抱きしめてくれ。名前を呼んでくれ。
 僕の中で孤独が吹き荒れ、絶望が理性を蝕む。
 彼のいない世界など壊れてしまえばいい、砕け散ってしまえばいい。見渡す限り白が支配する虚無の世界の中心で慟哭する。
 「愛してるんだっ……………」
 愛してるんだ、サムライ。
 君がいない世界に、希望はない。

 ………………単調な音がする。
 スー、コー、スー、コー……一定の間隔で規則的に響く音。
 それが僕自身の呼吸音だと気付いたのは数秒後。
 最初に目に入ったのは白く清潔な天井。
 不潔な染みが浮き出た房の天井ではない……空調が整えられた医務室の天井だ。
 天井から視線を下ろし、現在自分がおかれた状況を確認。殺菌消毒されたカーテンに囲まれたベッドに寝かされているらしい。
 ベッドを取り巻くカーテンの厳重さから、恐らく医務室の奥に隔離されてるのだろうと見当を付ける。先ほどから耳に響く単調な音は、酸素吸入器の内側を白く曇らす僕の呼吸音だった。
 透明な酸素マスクで口元を覆われた僕は、毛布の上に出た腕に点滴が繋がれて、輸血が行われてるのに気付く。
 自分の意志で体が動かせないのに気付いたのはその数秒後。目覚めた直後で意識が運動神経が麻痺してるらしい。
 どうやら僕は入院してるらしい。
 あたりは異様な静けさに包まれている。まさか僕の安眠に配慮したわけでもあるまい、東京プリズンの医者と患者と見舞い客に他人の眠りに遠慮する繊細さがあるとは思えない。時折漏れ聞こえる話し声と靴音、ごくささやかな衣擦れの他は至って静かなものだった。
 「………………」
 枕元のパイプ椅子に腰掛け、頭を抱え込むような姿勢でまどろんでいる。
 「サムライ………」
 そう信じて疑わなかった。
 反応は迅速だった。
 たった今までうとうとまどろんでいた人影が、ばっと顔を上げた。
 瞬間、後悔に襲われた。
 「……僕としたことがすまない、とんでもない間違いを犯してしまった。お兄ちゃんが悪かった、許してくれ恵。意識のない僕をずっと心配して付き添ってくれた世界一健気で愛らしい自慢の妹をあんなむさ苦しく不潔な男と間違えるとは記憶を司る視床下部に腫瘍ができた疑いがある。即刻レントゲンを撮って手術を行わねば、」
 「……しっかりしろ鍵屋崎。私は安田だ」
 「安田?」
 誰だそれは。
 「…………副所長の安田だ」
 「!ああ」
 思い出した。心なし意気消沈した様子で訂正した人物の顔に目を凝らし、短く声を漏らす。
 「……その、勘違いするなよ。勿論覚えている。今のは意識が回復したばかりで一時的に記憶が混濁してて普段ならあり得ない初歩的なミスを犯してしまったのだ。
 言うなれば記憶の齟齬だな。単純なトリックだ。
 そうだ、こんな実験を知っているか?二十世紀にアメリカで行われた実験だ。地下鉄の中で一人の乗客が暴漢に襲われた、暴漢は次の駅で降りた。その間わずか三十秒。同日同時刻同車両に乗り合わせた目撃者に後日数人の男を映した写真を見せてこの中に犯人がいると言った、目撃者の大半は黒人を指さしたが実際の犯人は白人だった。人の記憶がいかにあてにならないかの典型だ。よって長時間の昏睡状態から回復したばかりの僕が個人識別を誤ったのも何ら異常なことではない、そうだろう」
 「息継ぎせずしゃべるな。傷が開く」
 安田が気遣わしげに言い、椅子から腰を浮かして僕を寝かしつける。子供扱いするなと反発するも、脇腹の激痛に閉口する。
 「……何故貴様がここにいる?責任ある立場の人間が職務放棄とは感心しない」
 激痛がおさまるのを待ち、口を開く。安田はばつ悪げな表情で俯く。
 「……君が心配だったんだ。脾臓貫通、出血多量の予断を許さぬ状態で一週間昏睡状態にあったんだ。一時は命が危なかった」
 「一週間!?」
 声が跳ね上がるのをおさえきれない。
 体のだるさから相当寝てたのだろうと予想は付いたが一週間も意識不明だったとは素直に驚いた、せいぜい二・三日だと思っていたのに。
 呆然とする僕の肩に手をおき、安堵の息を吐く安田の顔にも疲労の色が濃い。
 「医師の話によるとこれまで無理してた分のストレスが一気に噴き出したらしい。慢性的な不眠、栄養失調、過度のストレス……身体検査の結果、君の体はぼろぼろだった。君自身は気付いてないかもしれないが体は正直だ、君は長期の休養を必要としていたのだ。どうだ?一週間たっぷり寝て体はラクになったか、頭はすっきりしたか?」
 「………腹が痛い」
 「当たり前だ。手術が成功したとはいえ脾臓を刺されたのだ、一歩間違えば死ぬところだった」
 安田の顔に苦渋が滲む。大人しく安田に従いベッドに身を横たえる。安田は複雑な表情で僕を見詰めていた。僕の回復を喜ぶ反面、まだ楽観できないと自らを戒める表情。
 安堵と憂慮を織り交ぜた面持ちで僕を見詰め、不意に呟く。
 「………生きててくれてよかった」
 え?
 聞き返す暇もなく安田が僕の手を取り包み込む。
 温かい。神経質に骨ばった指がぎゅっと僕の手を抱擁する。そのまま僕の手を引き寄せる。懺悔。前髪が顔に落ちかかるのも構わず僕の手に額を預け、疲れたふうにかぶりを振る。
 「心配した。もう二度と起きないかと思った。君の寝顔があまりに安らかで最悪の想像ばかり浮かんできた」
 「大袈裟だな。ただ眠っていただけだ。それより一週間も職務放棄するほうが問題だ。目に余る怠慢だぞ、副所長」
 「その毒舌が聞きたかった」
 「脳腫瘍ができたのか?ちょうどいい、レントゲンを撮ってもらえ」
 ……どうかしている。副所長らしからぬ弱音に調子が狂う。ばつ悪く黙り込んだ僕の手を名残惜しげに解放、席を立つ。
 「医者を呼んでくる。君はここにいろ。くれぐれも無茶はするなよ」
 「この状況でよくそんなことが言えるな。心配せずとも手術痕から腸を露出させるような真似はしない」
 安田がかすかに苦笑する。僕の毒舌を聞けてよかったというのは本心らしい。……本当にどうかしている。カーテンを開けて出て行こうとした安田が不意に立ち止まり、物言いたげに振り返る。安田と目が合う。眼鏡の奥の目を感情の波が過ぎる。
 ベッドに寝たまま、当惑して安田を見返す。
 カーテンの端を掴んで捲り上げた安田が、毅然と宣言する。
 「君の体には私の血が流れている」
 「……?それはそうだろう。何をわざわざ改まって確認する必要がある、おかしな男だな」  
 その瞬間の安田の表情を何と言えばいいだろう?
 驚愕、狼狽、不審。
 普段の無表情はどこへやら、面白いくらい動揺をあらわにした安田に向き直り、視線を下ろす。僕の視線につられて自分の腕を見た安田が息を呑む。背広を脱いでシャツとスラックスの簡素な上下になった安田は、シャツの右袖を肘まで捲り上げて腕を露出させていた。
 腕の一点にガーゼが貼られている。
 「血を提供してくれたことは感謝するがわざわざそんなもったいぶった言い方をすることはないだろう。不条理な男だ」
 枕元には輸血パックがぶらさがり、今も管を通して僕の体へと血が注入されていた。僕はAB型だからすべての血液型から輸血可能だが、安田の右腕に血を採取した痕があるならすなわち、彼が血液提供者になってくれたのだろう。
 安田がもどかしげに唇を噛む。
 「―そうだ、私が血液を提供した。手術に際して血が足りなかったから医師の要請に従ったまでだ」
 「命の恩人に対する感謝が足りないと僕を非難するなら見当違いだ、意識不明の僕には貴方の血液を拒む権利もなかったんだから」
 どこか不機嫌な様子でカーテンに手をかけた安田にあきれる。
 安田の言動はまったくもって理解不能だ。エリートぶった大人のくせに意外に子供っぽところがあるから始末が悪い。
 今度こそ出て行こうとして、ふと思い出したように口を開く。
 「鍵屋崎、君にひとつ知らせがある。なお先に言っておくが、副所長命令につき拒否権はない」
 「なんだ」
 眼鏡のブリッジに触れて位置を直し、眼光鋭く僕を一瞥。
 「君の怪我が完治し退院が決まり次第西棟に移ってもらう。新たな同房者はヨンイルだ。問題を起こさず仲良くやれ」
 は?
 「なに、を、言っ、てるんだ」
 衝撃で思考が空転、舌が縺れる。怪我が治り次第西棟に移れ?ヨンイルが新たな同房者?発作的にベッドに跳ね起きれば、脇腹を激痛が襲う。傷が開く痛みに悶絶、体を折り曲げて脇腹を押さえる。
 額に脂汗を滲ませ、正面を睨み付ける。
 カーテンを捲り上げた安田が、東京プリズンの秩序を守る副所長にふさわしい冷徹な表情でこちらを見据える。
 「言ったとおりだ。君は西棟に移れ。サムライは君の同房者ではなくなる。今回の事件のあらましは彼から聞いた……君は帯刀静流と貢の確執に巻き込まれて脾臓貫通の重傷を負った。この上帯刀貢と同房に配属しておいては問題が複雑化する、君は一度サムライから離れて体を休めるべきだ。幸いヨンイルも快諾した、君を受け容れる準備は万全……」
 「認めないぞ!!」
 一方的な宣告に逆上、憤怒に駆られて怒号する。
 僕が西棟に移る?サムライと引きはなされて?サムライは、サムライはそれでいいと言ったのか?僕と引き離されるのを承知したのか?混乱して安田を仰げば、副所長は冷たく言い放つ。
 「勿論サムライの承諾もとってある。君に拒否権はない。これは既に決定事項だ。君の私物は全部ヨンイルの房に移しおえた、あとは回復を待つだけだ」
 「ふざけるな、僕は認めないぞ!漸く気持ちが通じ合えたのに『愛してる』と言えたのにまた彼と僕を引き離すつもりか、勝手なことをするな副所長の分際で、囚人のプライバシーにまで口を出すんじゃない……待て安田話は終わってない、最後まで抗議を聞き反省のち撤回しろ!嫌だ僕は絶対に認めないこれからずっとサムライと一緒にいるんだ、サムライとロンとレイジと食堂で食事をとって展望台で馬鹿話をして夜はサムライの読経を聞きながら読書するのが僕が東京プリズンで手に入れた幸せなのに……!!」
 カーテンの向こうに安田が消える。
 毛布を掛けた膝を殴り、痛みが再発した脇腹を押さえ込む。
 「畜生……………っ!!」
 今。
 僕は心の底から安田を憎む。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050518021216 | 編集

 『ちぎれても知りませんよ』
 低く脅しつけられ、答える代わりにホセに縋り付く。鉄板でも仕込んだみたいな胸板、呼吸に合わせて収縮する腹筋のうねり、俺を抱きすくめる腕の力強さ、その全てに身を委ねる。
 相手は誰でもよかった。
 俺を滅茶苦茶にしてくれるなら誰でも。
 『!………あっ、』
 『随分レイジくんに仕込まれたみたいですね。先端の感度がいい』
 耳の裏側に唇がふれる。唇で食まれて口に含まれた耳朶がじんわり熱をもつ。ホセの指が背筋を這い上れば快感の微電流が駆け抜ける。背骨に沿って緩やかに滑る指がもたらす快感は快楽に飼い慣らされた体にはもどかしく、もっと強い刺激が欲しいとホセを仰ぐ。
 『悪い子だ』
 ホセが酷薄に笑う。黒い肌に映える白い歯。ベッドに腰掛けたホセが俺の体を軽々持ち上げて膝に座らせる。赤ん坊みたいに膝に座らせた俺の体を上下に揺すりながら、耳元で囁く。
 『本当に後悔しませんね』
 『……しねーよ』
 後悔なんかするもんか。
 そう自分に言い聞かせて吹っ切ろうとするも固く閉じた瞼の裏側にレイジの顔がちらついて決心が揺らぐ。これでいいんだ、これで。こうするのが一番なんだ。俺がホセと寝たと知ればレイジは幻滅する、俺なんか守る価値も意味もないと思い知る。これからは自分を一番大事にしてくれる。
 尻の下にゴツい膨らみを感じる。ズボン越しでもはっきりとわかる、体積を増したペニス。でかい。レイジよりさらにでかい。性器というより凶器に近い鉄串が俺の尻を押し上げる。
 こんな物入れられたらケツの穴が裂けちまう。
 レイジのペニスだって受け容れるの大変だった、何回も深呼吸して体の力を抜いて大臀筋を緩めなきゃ収めきれなかったってのにこんな物無理矢理入れられたら死んじまう、肛門どころか直腸が裂けちまう。
 怖い。体の奥底に蓋して押し込めた恐怖が一挙に溢れ出す。
 こんな物ケツに入るわきゃねえ、ケツってのはクソひねりだすところであってペニス入れる場所じゃねえ、もともと用途が違う場所にこんな固くて太くて長い物突っ込むなんて無茶だ。ホセの膝から飛び下り逃げ出したい衝動を押し殺し、そろそろと腰を浮かせる。尻の下に固い物があたる。下着ごとズボンを引き下げ下半身を露出する。下肢を開いた恥ずかしいポーズのままぺニスの根元に手を添え挿入角度を調整、ゆっくりと腰を沈めていく…
 『怯えることはありません。君は何も間違っていない。レイジくんを守るためにあえて裏切り者の汚名を被るとは素晴らしい』
 うるせえ。
 『ワイフ一筋の我輩としては良心の呵責を感じないでもありませんが可愛い弟子たっての頼みとあれば仕方ない。ロンくんの言い分はご最も、体で責任はとらねば隠者の名が廃ります。さあ、もっと足を開いて、そう……上手いですね。物欲しげな顔だ』
 ホセの誘導に従い、ペニスの根元に手をあてがったまま慎重に慎重に腰を沈めていく。俺の手の中でずくんとペニスが脈打ちひと回り大きくなる。固く目を閉じる。瞼の裏側の暗闇にレイジの顔が浮かぶ。俺の身代わりで輪姦されたレイジ、髪にも顔にも全身至る所にザーメンぶっかけられてそれでも笑っていた。レイジにあんな顔させたくない。俺がそばにいるとレイジは傷付く。 
 レイジが俺のこと嫌いになりゃいい。
 『あっ、ひあふっ………』
 尻の柔肉を割り開き肛門が暴かれる。ペニスの先端が肛門に触れる。熱い。きつい。激痛と息苦しさを我慢してペニスを受け容れる姿勢をとれば、背後に腰掛けたホセが物騒に呟く。
 『君を犯して殺せば思惑通りに動いてくれるでしょうか、東の王は』
 ?どういう意味だ。
 真意を問いただす暇もなく、下肢を激痛が襲った。 
 
 夕暮れの展望台に風が吹く。 
 ホセに付き添われて展望台に赴いた俺は、西空を染め抜く残照の眩さに手庇を作り、目を細める。
 この世の終焉みたいな壮絶な夕焼け。空は不吉な血の色に染まっている。溶鉱炉の空に溶け込むように展望台の真ん中に突っ立っているのは、均整取れた長身の人影。こちらに背中を向け、リラックスしたポーズでポケットに両手を突っ込んでる。ただ突っ立ってるだけだってのにしなやかで隙がない身ごなしが空気に緊張を強いる。
 一目見た瞬間に誰だかわかった。
 アイツを見間違えるわけがない。
 たった一週間やそこら離れてたくらいで忘れるわきゃない。上着の胸を掴んで棒立ちになった俺の視線の先、そいつが緩慢に振り返る。涼しい風に前髪を遊ばせて振り向いたのは……
 夕映えに顔の半面を染めたレイジ。
 「お帰り、ロン」
 奇妙に優しい声音で、その実温かみなんか欠片もない口調で俺を出迎える。怒ってる。当たり前だ。一週間何の音沙汰もなく房を留守した薄情者が今さらひょっこり戻ってきたからって歓迎されるわきゃない。
 深呼吸で覚悟を決め、慎重に一歩を踏み出す。
 靴音がやけに大きく響く。砂利を蹴散らして歩み寄り、僅か3メートルを残した正面で立ち止まる。心臓の音がうるさくてまともにレイジの顔が見れない。たった一週間離れてただけでこのザマだ。レイジに何も告げず房を出た後ろめたさや再会の照れや気持ちを上手く言葉にできないもどかしさがごっちゃになって胸が苦しくなる。
 気まずく俯く俺を一瞥、レイジが大袈裟にため息を吐く。
 「……心配かけやがって。一週間どこ行ってたんだよ?」
 「………わかってるくせに、聞くなよ」
 「ああ、わかってるよ。サムライの房にいたんだろ。王様の耳はロバの耳、東棟の噂は何でも入ってくる。俺もサムライなら安心してお前預けられると思って放っといたんだ。サムライなら俺のロンに手ぇ出す心配ねーし、アイツ鍵屋崎がいなくて寂しがってるから話し相手ができりゃ気分も紛れるかなって大目に見てやったんだ」
 レイジがおどけて肩を竦める。
 「ところが王様の心下僕知らず、お前はいつまでたっても帰ってきやがらねーし昨日はとうとう食堂にも現れなかった。いい加減迎えに行こうかどうしようか悩んでた所に南から使いが来た。たまげたぜ、マジ。お前とホセが一緒にいるなんて。何がどうしてそうなったのか俺にもわかるように説明して欲しくて展望台に呼び出したんだけどさ」
 レイジが鋭い目つきでホセを一瞥、唇をねじ曲げる。
 「南に迷い込んだ猫を保護してくれたことにゃ感謝するけど、どうせならもっと早く知らせて欲しかったよ」
 「別に保護したわけではありません。ロンくんの方から『泊めてくれ』と頼ってきたのです」
 黒縁眼鏡のブリッジに気障ったらしく触れてホセが訂正する。
 レイジが虚を衝かれる。
 俺に向き直った顔には不審の色が浮かんでる。
 「……ホセの言う通りだ」
 レイジの視線を避けて唇を噛む。
 『Fuck』
 露骨な舌打ち、苛立たしげに地面を蹴りつける。乱暴に髪をかき回すさまに焦燥が滲む。自分の思い通りにならない事に癇癪を起こし、ガキっぽく地面を蹴って喉反らし天を仰ぐ。
 「あーもうわけわかんねー、意味不明絶不調!なんだよそりゃ、なんでお前がホセんとこにいるんだよ。そりゃ俺と顔合わせたくない気持ちもわかるし頭が冷えるまでサムライに匿ってもらうのもお前が決めたことなら諦めつくよ。けどさ、まるで俺のこと避けるみてーに南に逃げてホセの懐に潜りこむのはちょっとばかしずるくね?王様の面目丸つぶれだっつの。
 なあロン、この一週間俺がどんだけ心配したかそこんとこちゃんとわかってんのかよ。本音言えば今すぐお前連れ戻したくてうずうずしてて、食堂でサムライと一緒にメシ食ってるお前見かける度に抱きついて髪わしゃわしゃしたくて、お持ち帰りの欲求と戦うのにすっげエネルギー使ったんだぜ?けどそんな事したらうざったがれるだけだし、お前はますますヘソ曲げて家出期間長引くし、いつかは絶対帰ってくるはずだって信じて待ってたのに……」
 激しくかぶりを振って嘆くレイジを醒めきった目で眺めるホセ、二人に挟まれて居心地悪くなる。
 不意に訪れた重苦しい沈黙。
 眉間を顰めた不機嫌ヅラから叱られた子供のように拗ねた表情へと変化、レイジがぽつり呟く。
 「………一週間前のこと、怒ってんのか?」
 ふてくされた態度に反し、目は暗く翳っていた。
 俺は言葉をなくす。レイジの言葉が何を意味してるかすぐにわかった。一週間前の記憶は鮮明に残っている……忘れようったって忘れられないおぞましい記憶。看守に裸に剥かれた夜の事を思い出し、無意識に二の腕を抱く。
 にわかに青ざめた俺へと手を伸ばし、虚空で引っ込める。
 レイジが、俺にさわるのをためらった。
 「仕方ねーか、怖がられても。ひどいことしたもんな」
 違う、と心の中で叫ぶ。
 俺が怖がってるのはお前じゃない、お前に犯されたからびびって逃げ出したんじゃない。俺が怖いのはお前を傷付けること、足手まといの俺を守り通してぼろぼろになってお前が死んでいくことだ。
 一週間前の夜、確信した。
 俺がこのまま一緒いたらレイジは駄目になる、どこまでも自分を粗末にする。俺はレイジを傷つけることに鈍感になってた自分を激しく憎悪して、いつしかレイジに守られる事を当たり前と受け止めていた自分を激しく呪って衝動的に房をとびだした。
 レイジは淡々と続ける。
 「正直こうなるんじゃねーかなって予想してた。お前は東京プリズンじゃ珍しくマトモなヤツだから、看守の前で俺に犯されるなんて我慢できねーだろうなって……そうなったら俺に愛想尽かして出てくかもなって半分諦めてた。だけどやっぱ嫌だったんだよ、他の男にヤられるのは。王様のわがままだ。他の誰にもお前を渡したくなかった。それならいっそ俺がヤられるほうがマシだった。俺は別によかったんだ、全然構わなかった。獣姦も輪姦も初体験じゃねーし、犬や犬にも劣る看守どもにお前がヤられるとこ見せ付けられるくらいならいっそ俺がこの手で押し倒したほうがマシだって」
 「黙れ」
 別によかった?構わなかった?
 レイジが虚を衝かれたように振り向く。
 胸を上下させ息を吸い込み、きっぱり言い放つ。
 「お前うざいんだよ」
 レイジの顔から表情が消失、隻眼が虚無に呑まれる。
 俺はレイジを真っ直ぐ見据えたまま、隣に突っ立ったホセへと寄りかかり、腕を絡める。
 「聞こえなかったか?お前うざいんだよ、レイジ。俺を守る為に自分から喜んで看守にヤられてやったとか恩着せがましく言われて感謝すると思ったか。迷惑なんだよ、ひとりよがりの思い込み。重いんだよ、そーゆーの。正直お前にはうんざりだ、お前と一緒にいると息が詰まるんだよ、お前は俺のことしか見えてなくて俺を守るためなら自分がどうなろうがお構いなしでそんな風にべったり尽くされるほうはたまったもんじゃねーよ!!」
 愕然と立ち竦むレイジの眼前、ホセの顔を両手で挟む。
 「お前よかホセのが百万倍マシだ」
 眼鏡のレンズに顔を映し、媚びるように笑う。
 お袋そっくりの笑顔に吐き気がする。我慢だ。喉元に込み上げる吐き気を堪え、生理的嫌悪に耐え、爪先立って首を伸ばす。固く固く目を閉じ喉を仰け反らせる。唇に柔らかい感触。気持ち悪いのを堪えて舌を這わし唇の隙間から口腔に潜りこませる。唇をこじ開けて潜らせた舌で頬の内側の粘膜をつつき、歯を舐める。
 「ん、ぐ…………っ」
 もういいだろ、放せ。もどかしく身悶える。
 だがホセは放さない。俺の体を抱きしめて口腔を貪り続ける。舌と舌が絡まり、口の端から溢れた唾液がしとどに顎を濡らす。やりすぎだ。口腔で舌が暴れるせいで呼吸ができず頭が真っ白になる。
 「んんっ、うぐぅ……んっ、んっ」
 横顔に視線を感じる。目だけ動かしてそちらを見る。
 レイジがいた。微動だにせず硬直していた。全身がカッとなる。何もここまでするこたない、ただキスするだけで十分だった、ホセといちゃつくさまを見せ付けるだけで十分だった。ディープキスの世界記録に挑戦したいなんて打ち合わせた覚えはない。
 予定外の展開にうろたえる俺の口腔から唾液の糸引き舌が抜かれ、ホセが誇らしげに宣言する。
 「ご覧に入れたとおりです。ロンくんは自ら望んで我輩のもとにやってきた、我輩に体を開いて庇護を求めた。早い話君は用済み、君はロンくんに捨てられたのです。その様子ではまだわかりでない?よろしい、ならば説明しましょう。君が今日ここに呼び出されたのは別れ話を切り出すため、今日この日よりロンくんは身も心も我輩の物となりました。異存はないですね」
 「大ありだよ」
 物柔らかな声音に返されたのは物騒な異議申し立て。
 口腔が蕩けてふやけた俺の腰にホセが腕を回す。腕の支えがなけりゃたちまち腰砕けに座り込んでじまいそうだった。
 薄っすら頬を染め、涙で湿った目を虚空に泳がす。
 レイジは笑っていた。邪悪に邪悪に笑っていた。前髪のかかる隻眼に憤怒が表出、全身から好戦的なオーラが漂い出る。
 「冗談は七三分けだけにしろ。王様の許しなくロンの唇奪ったら万死に値するぞ」
 凄みを含んだ声で宣告。憤怒に燃える目でホセを睨み付け、申し分なく長い足を優雅に繰り出す。
 レイジがゆっくりと着実にこちらにやってくる。
 暴君の怒りに感応し、夕映えに染まった空気が不穏にさざなみだつ。
 レイジ……呪われた名が示す通り不吉な気配を漂わせてやってくる暴君と対峙、ホセが不敵に微笑む。
 「たかだか唇を奪った程度で万死に値するならば、それ以上の禁忌を犯せばどうなるか」
 独白に似せた挑発。
 俺を後ろから抱きしめ、上着の裾を捲る。
 「!ホセやりすぎだ、こんなの聞いてねっ……」
 手足をばたつかせる俺を押さえ込み、上着の裾を捲り上げて裸を晒す。展望台に射した夕日が裸身に朱線を引く。妙に扇情的な光景。ホセにまさぐられて蠢く腰がやましさを引き立てる。恥ずかしいのに、嫌なのに、レイジに見られてるだけでどうしようもなく体が疼いて膝が砕けそうになる。
 「『たかだか』だと?」
 「ふあっ……」
 首の後ろに唇が落ちる。体の前に回った手が乳首をつねる。
 唇を噛んで堪えても巧みな愛撫に熱を煽られ快感を汲み上げられ、しまいには声が出る。赤裸な衣擦れの音、興奮した息遣い、唾液を捏ねる音……外気に晒された上半身がしっとり汗ばんでいく。
 夕日に照らされ赤く染まる裸身をよじり、必死に訴える。
 「レイジ見るな、こっち見んな……」
 「顔をお上げなさい。駄々をこねる子には痛くしますよ」
 ホセが俺の顎を掴み、強引に顔を上げさせる。
 レイジが来る。
 ひどく緩慢な足運びでこっちにやってくる。
 靴裏が砂利を擦る耳障りな音、風の音……レイジの表情は逆光に塗り潰されてよく見えない、暗闇に沈んだ顔がどんな表情を浮かべてるか想像したくもない。これは、俺が決めた事だ。後悔はない。
 そのはずなのになんでどうして胸が痛む、ホセの腕を振りほどいてレイジに縋り付こうとする?わかってる、こうするのが一番いいって頭じゃわかってる。俺は馬鹿だから他の手が思いつかなかった。
 だからわざとホセといちゃついてるところを見せてショックを与えて、レイジが俺を憎むよう仕向けた。
 レイジが俺のこと嫌いになりゃいい。
 俺を憎めばいい。
 「……………っ、」
 ぎこちなくホセの股間に腰を擦り付ける。
 「もっと、激しくしてくれ。最後までヤってくれ。中途半端はツライんだ。滅茶苦茶にしてくれよ、ホセ」
 俺は今ちゃんと笑えてるだろうか。ちゃんと嘘をつけてるだろうか。誘うように浅ましく腰を上下させ、ホセの股間を刺激する。腰の動きを止めずに前を向けばレイジがいた。
 レイジから目を放さず、卑屈に笑う。
 「正直言ってレイジ、お前の体に飽きたんだ。ホセのがデカいしタフだし俺のこと楽しませてくれる。ホセのペニスはお前とは比べ物にならねーくらい太くて硬くて長いんだ。俺はお袋譲りの淫売だからそりゃアソコがデカいほうがイイに決まってる。ホセとは体の相性も抜群、お前が割り込む隙なんかこれっぽっちもねーよ」
 おっかなびっくり、笑っちまうくらい不器用な手つきでホセの股間をまさぐる。なでる。揉む。
 徐徐に大胆さを増し、ホセの内腿に手を滑らして性感を煽る。
 俺は半笑いのまま地面に膝を付き、ホセのズボンを掴み、下着と一緒に下げおろす。従順な奉仕。ホセは指一本動かさず俺を見下している。 生理的嫌悪に顔が強張る。
 ごくりと生唾を嚥下、震える手で一気にズボンを下げおろせば天衝くように屹立した赤黒い肉塊が目に入る。下着を取り去った股間に聳える巨大なペニス……目にするのはこれが初めてじゃないが、何度見ても本能的な恐怖を覚える。戦慄。俺とは比べ物にならない、レイジと比べてもまだでかい、醜悪な……子供の腕位の大きさがある、それ。
 「ほら、な。見てみろよレイジ、ホセご自慢のムスコを。羨ましいだろ?お前と比べてもまだでっけえ。こんだけ大きけりゃどんな女だって満足する、どんな女だってホセを選ぶ。俺だってそうだ。俺は男だけどケツに淫売の穴が付いてるんだ、淫売の穴がコイツを欲しがってるんだ、俺をいちばん気持ちよくさせてくれるヤツ選んで何が悪いよ!?」
 喉の奥で吐き気が膨らむ。
 ホセのペニスから眼をそらしたい、顔を背けたい衝動を必死に押さえ込む。ペニスの根元に手を添え、顔を近づけ、口を開く。とても入りきらない。顎が外れんばかりに大口開ける。フェラチオ。さすがにここまですりゃ諦めてくれるだろう。
 俺はホセをしゃぶる、フェラをレイジに見せ付ける。
 そうすりゃ俺が本気だってわかるはず、レイジの物だって咥えたことない俺が無我夢中でホセにむしゃぶりついてるさまを目の当たりにすりゃいくら強情な王様だって……
  
 『Nothing doing』

 一陣の暴風が吹き荒れる。
 四肢を撓めた豹の如く跳躍、俺の頭上を軽々跳び越して上段から蹴りを放つ。
 風圧で上着の裾が膨らみ、鞭の痕に舐められた肢体が覗く。
 風切る唸りを上げて弧を描いた足がホセの側頭部に炸裂、鈍い音が響く。下半身素っ裸のホセが蹴りの衝撃に吹っ飛び5メートル向こうの地面に激突、展望台が揺れる。
 ホセの頭に蹴りをくれたレイジが鮮やかに着地を決める。
 「俺のロンにディープキスしただけじゃ飽き足らず背後から抱きすくめてあちこちまさぐってフェラさせるなんざ調子乗りすぎだぜ、たかだか南のトップの分際で。お前今日から『愚者』に改名しろ。王様に反逆するヤツあ直接相手してやる。俺はどっかの皇帝と違って心優しい王様だからちょっとやそっとのことじゃ怒らねえ、俺のこと陰で所長の性奴隷だ飼い犬二号だなんだとぬかしてるマザーファッカーどもも笑って見逃してやる。けどな」
 風に吹き流された前髪の奥、隻眼が異様に輝く。
 爛々と光る隻眼で地面に倒れたホセを射止め、無造作に足を踏み出す。俺はその場に腰を抜かし、ぱくぱくと口を開け閉めしていた。レイジがキレた。激怒した。
 ホセが殺される。止めなきゃ。
 金縛りにあった俺の眼前、レイジがこの上なく楽しげに笑みを広げる。
 「ロンに手え出したら百万回億万回殺されても文句言えないだろ」
 折りから吹いた風が髪を舞い上げ、狂気渦巻く隻眼を暴き出す。
 「東の王が宣告を下す。今この時よりここは処刑台、王の怒りに触れた愚者を罪人と定める」
 容赦なく砂利を踏み砕き蹴散らし迷いない足取りで展望台を突き進む。ホセがこめかみに手を添えてゆっくり起き上がる。
 ホセのこめかみはぱっくり裂けて大量の血が流れ出てた。ホセの顔半分を朱に染めて地面に滴り落ちる血が傷の深さを物語るも、暴君は動じない。 
 西空に夕日が沈む。
 熱のない業火に炙られ、展望台に煉獄が出現する。
 「跪けひれ伏せ頭を垂れよ。王の怒りを思い知れ。全力で地上から取り除く」
 「やはりこうなりますか」
 ホセが深いため息を吐き、こめかみを押さえて立ち上がる。
 下着と一緒にズボンを引き上げ、顔半分を血の朱に染めた壮絶な姿で暴君を迎え撃つ。こめかみに怪我をしてもホセは余裕だった。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
 なんで笑ってるんだ?殺されるが怖くないのかよ。
 イカれてる。レイジもホセもイカれてる。この場でまともなのは俺だけだ。止めなきゃ。 
 「レイジやめろ、やめてくれ!違うこれは違うんだ、ホセはただ俺の頼みを聞いて協力してくれただけ、芝居に付き合ってくれただけなんだ!悪いのはホセじゃなくて俺だ、卑怯な手使ってお前と別れようとした俺なんだ、怒る相手間違えてんじゃねーよ!!」
 レイジの背中に食い下がり訴えるも完全に無視される。怒りのあまり正気を失ったレイジに俺の言葉は届かない。
 地面にへたりこんだ俺が成す術なく見守る前で着実に距離が縮まり、夕闇迫る展望台でホセとレイジが対峙する。
 ひどく穏やかにレイジが言う。
 「ホセ。お前、ロンを抱いたのか」
 ひどく穏やかにホセが返す。
 「ようこそ穴兄弟」
 肉眼では捉えきれない速度でレイジが動く。
 レイジがかき消えたと思ったのは目の錯覚、地に這いつくばった姿勢から低空の蹴りを放つ。まともに食らえば足の骨がへし折れてたかもしれない蹴りを半歩退いて難なく避けるホセ、間合いから脱する暇を与えず次なる攻撃に移る。足腰のバネを利かせて跳ね起き、瞬時にホセの懐に潜り込んで鳩尾に一発くれる。
 「筋肉は鎧。肉体そのものが防具にして武器」
 ホセが腹筋を矯める。
 鍛えに鍛え抜いた鋼鉄の腹筋に拳を弾かれ、レイジが狼狽する。
 「――っ!」
 「東の王ともあろう者が飼い猫にフラれたくらいで短気を起こすものではありません。悲観することはない、東京プリズンに君臨する東の王ともなれば一人に固執せずとも愛人はよりどりみどりでハーレムを満喫できる。去るもの追わず来るもの拒まず、それこそ王者の賢さです。ロンくんのことは忘れなさい。一年半の間愛情注いだ猫を手放せない気持ちはわかりますが所詮野良は薄情なもの、次から次へと男を渡り歩くのが習性……」
 「るっせえ!」
 空気がびりびり震える。
 腹筋への攻撃が無力化されたと知るや、筋肉で防御されてない人体の急所めがけて必殺の拳と蹴りを放つ。膝裏、股間、顎、頭……まともに当たれば一発で沈む威力を秘めた蹴りと拳をホセは全て回避する。
 無敵無敗のブラックワーク覇者と名高い王様でも、一対一の肉弾戦では分が悪い。何せ相手はホセ、地下ボクシングの元チャンプとして何十人もの挑戦者を撲殺した伝説の持ち主で肉弾戦のプロだ。オールマイティに戦闘力が優れたレイジじゃ肉弾戦に特化したホセにかなわない。
 「諦めなさい東の王よ。君は捨てられたのです」
 口元だけで微笑み、おもむろに腕を振り上げる。
 ガツッ。鈍い音。指の骨と頬がぶつかる音。レイジの頬に凄まじい威力の拳が炸裂、勢い良く体が仰け反る。ホセに殴り飛ばされたレイジがそのまま5メートルもんどり打って転がる。
 尖った砂利で服を裂かれてあちこち素肌を覗かせたレイジのもとへホセが接近、打撲と擦り傷でぼろぼろになった王様を見下す。
 「その目で見たはず、その耳で聞いたはず。先ほどロンくんは何て言いました?君の愛情が重荷だとはっきり言った、君に付き纏われるのがうざくてたまらないと憎憎しげに吐き捨てた。いい加減真実と向き合いなさい、受け容れなさい。ロンくんを束縛から解放なさい。君はなるほど東京プリズンを支配する東の王だ、しかし独占欲をもって人の心を支配するのは不可能だった。結果として君の愛情は報われず、東京プリズンに君臨する孤独な王は誰をも愛さず誰からも愛されない……」
 違う、違う。俺はレイジを愛してる、大好きだ、今だってレイジに駆け寄りたいのを必死に抑えてるんだ。
 だけど今俺が駆け寄ったら何もかも振り出しだ、レイジはまた俺を庇って守ってボロボロになって無茶しすぎで死んじまう。
 だから耐えろ、耐えるんだ。こうするのがいちばんいいんだ、これが正しいんだ。
 ホセがレイジの前髪を掴んで乱暴に顔を上げさせる。レイジは無抵抗に従う。ホセに殴られた衝撃で唇が切れて血が滲んでいた。もんどり打って転がった際に砂利であちこり引っかかれて四肢に無数の擦り傷が生じていた。情けない。格好悪い。格好悪い王様。
 もういいよ、やめろよ。
 俺のことなんか諦めろ。お前がそこまでする価値ないよ、俺に。
 「降参なさい」
 前髪を掴む手を緩め、隠者が哀れみ深く促す。
 レイジは首を項垂れたまま、無心に唇を動かして何か呟いている。
 かすかな呟きに耳を澄ます。
 『主よ。私はあなたを憎むものたちを憎まないでしょうか』
 折から風が吹く。レイジが自分の耳朶に手をやる。
 『私はあなたに立ち向かう者を忌み嫌わないでしょうか』
 レイジが顔を上げ、耳朶に這わした指でピアスの留め金を外す。やばい。俺は直感した。理屈じゃなくやばいと感じた。ホセはまだ気付いてない。今度こそ俺は駆け出した、縺れる足を叱咤して一散にレイジに駆け寄った。
 「レイジ、やめろ、殺すな!!!」
 「―『否』」
 暗唱の続きか、独白か。
 どちらとも付かぬ言葉を吐き、レイジが行動にでる。レイジの指の狭間、残照を集めたピアスが眩く輝く。ピアスの反射光に目が眩んだ一瞬で肉薄、俺が割り込むより早くホセにとびかかって押し倒し、鋭く尖ったピアスの切っ先で喉を掻き切るー……

 レイジは笑っていた。
 その瞬間も笑っていた。
 『私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました』

 「やめろっ!!!!!」
 俺が背中にぶつかり手元が狂い、ホセの首に薄く血が滲むも致命傷には至らない。間一髪、俺が背中に激突した衝撃でホセの上から転げ落ちたレイジの胸ぐらを掴む。カチン、と澄んだ音が響く。レイジの指の隙間からピアスが零れ、地面で跳ねる。俺の手は震えていた。俺が止めなきゃレイジはマジでホセを殺していた、ホセの喉笛切り裂いて全身に返り血を浴びていた。俺の、せいだ。俺がくだらない芝居したから、卑怯な手を使って別れようとしたからこんなことになった。
 直接気持ちをぶつけず、逃げてたから。
 全力でホセを殺しにかかったレイジを目の当たりにして自分の愚かさを思い知った。

 俺がいたら駄目になる。
 俺がいなけりゃもっと駄目になる。
 どのみちこいつは破滅する。

 「違う、そうじゃない、違う、違うんだよっ………」
 最初は激しく、次第に力なくレイジを揺さぶる。隻眼に困惑めいた色が浮かぶ。
 「ホセに抱かれたなんて、うそだ。確かに抱いてくれって頼んだ、頼んだよ。けど入らなかったんだ、無理だったんだ。俺はホセに抱かれてなんかない。今でもお前以外の男に抱かれたくない、そう思ってる。けどこうでもしなきゃお前はこの先ずっと俺を守り続ける、自分なんかどうなっても構わねえって俺を守り続けていつか無茶しすぎて死んじまう。だからレイジ、俺のこと嫌いになれ。頼むからお願いだから俺のこと嫌いになってくれ。嫌なんだよもう、耐えられないんだよ、自分を粗末にするお前が哀しくて悔しくてどうすりゃいいかわかんねーんだよ………」
 「…………じゃあ、浮気は嘘?」
 間抜けな声でレイジが確認。
 「嘘に決まってるだろ馬鹿」
 レイジの胸にコツンと額を預ける。
 よかった、ちゃんと心臓が動いてる。鼓動を感じる。
 俺の頭に手を置き、深く深くため息を吐くレイジ。
 「………あ―――、よかった。そっか、嘘か。嘘か!脅かすなよ、フェラまでするから本気にしちまったじゃんか」
 お気楽な笑い声。暴君が王様に戻った。
 安心したように肩の力を抜き、俺に凭れかかるレイジの腕の中で呟く。
 「……よくねえよ。何も解決してねえよ。レイジ、お前いつか所長に殺される。変態所長の暇つぶしで嬲り殺される。お前の弱味は俺だ。俺を人質にとられたらお前は逆らえない。俺が殺されるか自分が殺されるかどっちか選べって言われたらお前は迷わず自分が殺されるほう選ぶ、だけど俺は嫌だ、お前が殺されるなんて冗談じゃねえ、これからもずっとずっとお前と一緒に生き延びたいのに肝心のお前が東京プリズンから消えちまったらどうすりゃいいんだよ!!レイジ聞けよ笑うなよ、自分を粗末にすんのやめろよ、お前が好きなんだよ、好きで好きでどうしようもねえくらい好きなんだよ、だから……っ」
 深呼吸で心をしずめ、挑むようにレイジを見据える。
 「死ぬな。死ぬな。俺を守り通して庇って死ぬな、そんなかっこいい死に方ぜってえ許さねえ。いいか、最後まで足掻け。足掻いて足掻いて足掻きまくれ。往生際悪く。最高に格好悪く。格好良く死ぬよか格好悪く生き延びたほうがずっとマシだ。心中はお断りだ。片方生き残るのは最悪だ。俺はお前と一緒に生き延びる道しか行きたくねえ」
 西空に夕日が沈む。残照が展望台を燃やす。
 夕焼けに溶け込むように輪郭をぼかしたレイジにしがみつき、誓う。
 「俺、強くなる。早くお前に追いつけるよう頑張る。だから簡単に諦めるな、簡単に命を捨てるな。『生きたい』って言ってくれ。『生きたい』って足掻いてくれ。多分お前は俺に出会った頃から、いや、多分それより前から生きることを諦めてて、だからどんな酷い場所でもしぶとく生き延びてこれたんだと思う。でもさ、俺と出会えたんだから変わってくれよ。変わろうとしてくれよ。もうちょっと自分を大事にしてくれよ」
 レイジのぬくもりに抱かれて目を閉じる。 
 「もうちょっと自分を好きになってもバチはあたらねーぜ」

 やっぱりレイジと一緒にいたい、こいつのそばを離れたくない。
 レイジは俺が守る。
 誰にもこいつを渡さない。

 「お熱いですね。ワイフと引き離された単身赴任者の嫉妬を煽るつもりですか」
 声がした方を仰ぐ。喉をさすりながら起き上がったホセが、あきれた表情でこっちを眺めている。
 ホセの指摘に恥ずかしさが込み上げてそっぽを向いた俺をよそに、レイジが中指を突きたてる。
 「ロンの唇奪った上にあちこちまさぐった借りは高くつくぜ。延長戦やるか?」
 「遠慮しておきます。少々油断したとはいえ王の実力衰えずと痛感したので……それよりも」
 レンズに付着した砂利を払い、眼鏡をかける。
 分厚い眼鏡の奥で柔和に目を細め、そこはかとなく謎めく笑顔を浮かべる。
 「我輩折り入ってレイジ君にご相談があるのですか、よろしいでしょうか」
 「フェラチオの続きなら却下。上の口も下の口も俺の物だ」
 「そんな下世話な事ではありません。本日君をここに呼び出したのも別れ話が本題ではない。それは表向きの用件、我輩の目的は別にある。まあロン君の反応が面白くてついうっかり調子に乗りすぎたのは認めるし反省もしますが、我輩の思惑通りに事が進んだのは結構結構。ロン君絡みで揉め事を起こさねば王の本気を引き出せず実力をかいま見る機会もなくレイジ君を手駒……もとい協力者にするか否か、計画の要となる判断が付きかねたので」
 計画?手駒?
 不穏な単語に眉をひそめる。
 「ホセ、お前何企んでるんだ?」  
 声を低めて問いかける俺を無視、律儀に腰を折ってレイジに手を差し伸べ、微笑む。
 分厚い眼鏡が残照を照り返す。
 完全に夕日が沈む間際、どす黒い陰影に隈取られた笑みが酷く禍々しく邪悪なものへと変貌する。
 「殺しのプロたる東の王に所長の暗殺を依頼します」 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050517230125 | 編集

 僕は全治二ヶ月の重傷だった。
 「………味がない」
 入院食の粥を啜り、呟く。
 不味い、美味いの問題ではない。そもそも味がないのだからそう評価するしかなく従って食欲も進まない。
 ベッドに上体を起こし、毛布を掛けた膝の上に乗せたトレイを見下ろす。アルミの深皿によそられた白粥はまだ三分の一しか減ってない。顔を顰め匙で一すくい、無理矢理飲み下す……やはり味がない。
 東京プリズンの食事が不味いのは今に始まったことではないし囚人に贅沢が言えないのは承知の上だが、せめてもう一摘み塩を足す配慮はないのか。味付けの濃い刺激物は胃によくないとは言え、水っぽい粥を啜るだけの食事はひどく哀しい。
 僕はもともと食事にこだわらないほうだ。もとより食事に関心がなく美味い不味いもどうでもいい、運動量に適する栄養が補給できればそれでいいと考えていたのだがしかし限度がある。
 粗食に対する不満を顔に出した僕の手から、匙と深皿が消失。
 「!?何するんだっ」
 思わず声が尖る。
 僕の手から匙と深皿を掠め取った犯人はパイプ椅子に跨ったヨンイルだ。この暇人はどういうわけか入院二週間を経過した現在も毎日医務室にやってきて一方的にくだらない話を捲し立てて帰っていく。いい迷惑だ。食事を妨害され憤慨する僕を愉快げに見やり、ヨンイルが大口開ける。
 「直ちゃん、あーん」
 「あーんだと?」
 大口開けて匙を突き出すヨンイルに顔が引き攣る。
 何の真似だ道化の分際でと怒鳴りたいのをぐっと自制する。
 「いや、食事手伝ったろ思て。ひとりで食うの味気ないやろ?ただでさえ消毒液くさい医務室でひもじく粥なんぞ啜ってしんきくさい、俺が食べさしたるからいいコでお口あーんと」
 「僕は離乳食を食べる乳児か?」
 迫り来る手を邪険に払いのける。
 ヨンイルが情けない顔で匙を引っ込める。親切心かただの悪ふざけか判別しがたいが、どちらにせよ不機嫌の絶頂の僕はヨンイルの手から匙と深皿を奪い返し、味がない粥を口に運ぶ。
 「そや、直ちゃんに差し入れ持ってきたんや。粥だけじゃ味けない思て俺が漬けたキムチを……」
 ヨンイルがいそいそとタッパーの蓋を引き剥がす。
 「とっとと蓋を閉めろ、キムチの悪臭は耐え難い。目と傷に染みる」
 「つれへんこと言わんと食べてえな、西のやつらにも評判ええんやで」
 「ヨンイル、何故僕が粥を食べていると思っている。手術後日が浅く胃腸が弱っているからだ。今の僕は固形物を咀嚼するのも命がけなんだ。君は命がけでキムチを食えと強制するのか、君が漬けたキムチに命と引き換える価値があるのか」
 ヨンイルがしぶしぶタッパーの蓋を閉める。
 キムチをけなされて不満げなヨンイルを無視、匙で汁をすくって粥をたいらげる。空になった深皿をトレイに戻してヨンイルに向き直れば、枕元のパイプ椅子に後ろ向きに跨り、背凭れに顎をのせてしょげかえっている。
 ……少し言い過ぎた。
 ありがた迷惑には違いないが、僕を心配してるのは言動の端々から伝わってくる。こうして医務室にやってくるのも少しでも僕の気晴らしになればという好意からだ。
 僕がヨンイルに対し素直になれない原因は、安田だ。
 安田は僕の意志など取り合わず一方的に西棟に移す決定を下した。
 初めてその決定を聞かされてから一週間が経つが、いまだに心の準備ができないし整理もつかない。僕はサムライとずっと一緒にいたい、そばを離れたくない。僕の同房者はサムライ以外に考えられない。しかし僕一人が反対してもどうにもならない。東京プリズンを実質動かしてるのは安田であり、副所長の一存で房割りから強制労働配属先までが決まってしまうのだ。

 どうすればいい?

 入院から二週間、目覚めてから一週間一度もサムライと会ってない。
 サムライに会いたい。
 サムライは僕と引き離されることを納得したのか、今回の事件に責任を感じ僕から身を引くと承諾したのか?
 「どうして来ないんだ、サムライ」
 会いたい。会って話したい。彼に触れたい。
 知らず毛布の内側で膝を抱え、背中を丸める。そうやって自分自身を抱きしめてないと心細くてたまらなかった。漸く気持ちが通じ合ったと思ったのに、また振り出しなのか?まだすれ違いが続くのか?
 「もうたくさんだ」
 膝を抱いて弱音を吐く。もうたくさんだ、本当に。僕も彼も十分傷付いた。早くサムライに会いたい。
 「直ちゃん………」
 ヨンイルが途方に暮れたように呟き、椅子から腰を上げる気配。
 僕の肩に手をかけ、顔を覗き込む。
 緩慢な動作で顔をもたげ、ヨンイルを仰ぐ。
 思い詰めた目をしたヨンイルが畳み掛ける。
 「俺じゃ駄目か」
 「駄目だ」
 いきなり何を言い出すんだ、今の僕はヨンイルの冗談に付き合う気分じゃないというのに。あっさり即答した僕にもめげず、ヨンイルがずけずけ言い募る。
 「いや、もちっと考えてや!せめて五分くらい考えたってや、0.5秒の反応速度で却下せんでもええやん!?うわー俺めっちゃ傷付いたわ、傷心やわ。今の結構本気やったのにこんなむごい仕打ちってありか?男ヨンイル腹を括って二次元コンプレックス克服に挑んだっちゅーに現実の壁は厚い……」
 「二次元で充足してるなら克服せずともいいだろう」
 「せやかて直ちゃん、サムライにフラれたショックで俺の上に跨って一人でイったのは自分やんけ」
 さも心外なと大声をはりあげるヨンイルの頭を殴る。
 「痛ったあー」と大袈裟に嘆いて頭を抱え込むヨンイルの腕を掴んで引き寄せ、カーテンの向こうの物音に気を配る……
 良かった、僕のベッドの前を通りかかった患者だか医者だかが歩調を落とす気配はない。隣り合ったベッドの患者に聞かれぬようヨンイルの耳を掴んで囁く。
 「大きな声を出すな、僕の人間性が疑われる。確かに僕が騎乗位で射精したのは否定の余地ない事実だが、あれはその、魔が差したんだ。図書室の出来事に端を発する心因性ショックからつい行きずりの道化に身を委ねてしまったのだ。しかしすぐ正気に戻った、挿入前に覚醒した。僕たちの間には何もなかった。しいて言えば僕が射精する現場を目撃しただけ、僕が自慰するところをマグロのように仰臥して観察していただけだ」
 「マグロってあんた……、」
 ヨンイルが絶句するが、訂正しない。
 口の軽いヨンイルが僕と肉体関係を持ったと言いふらしたら、それがサムライの耳に入ったらと考えただけで冷や汗が出る。
 あの時ヨンイルと寝ていたら取り返しがつかなかった。
 たとえサムライが許しても僕自身が許せない。
 「ヨンイル、感謝する。君が真性オタクでよかった」
 「どういたしましてて……びみょ―――――」
 椅子をがたつかせてヨンイルが拗ねる。
 「ま、直ちゃんがええならええか。サムライに一発きっついのかました甲斐あったわ」
 「サムライに暴行したのか!?」
 口元に人さし指を立てたヨンイルが「しーっしーっ」と自重を促す。膝立ちになったはずみに脇腹に激痛、呻きを漏らして体を折り曲げた僕に慌てる。
 「いわんこっちゃない。サムライ絡むと直ちゃん怪我人の自覚なくすから手に負えへん」
 ヨンイルが甲斐甲斐しく毛布をかけ直す。 
 「一発かましたっちゅーかかまされたっちゅーか……結果オーライ、俺のはっぱがきいて駆け出したんやけど」
 どういうことだ?
 含みを持たせた言葉に困惑する。
 ヨンイルがニッと笑い、椅子から身を乗り出す。
 「二週間前の夜、直ちゃんのことで話があるゆーてサムライを呼び出して言うてやったんや」
 「なんて?」
 「直を抱いた。先越されて悔しいかあほんだら、お前があっちへこっちへ二股かけとるからあかんのやむっつりスケベ侍」
 ……………………………………………眩暈がした。
 「な、な、な、な……」
 恐れていたことが現実になった。
 この男は、ヨンイルは、二週間も前にサムライを呼び出して僕を抱いたと告げたと言うのか。いや待て僕はそもそも抱かれてないしあれは未遂だし証拠はないしヨンイルが勝手に言ってるだけでサムライが本気にするはず、
 「マジやった」
 ヨンイルが厳かに告げ、痛そうに頬をさする。
 その仕草が意味するところに思い至り、息を呑む。
 ヨンイルが顎の間接外れんばかりに大口開ける。つりこまれるように口腔を覗き込み、奥歯に隙間を発見。ヨンイルが不敵にほくそ笑み、拳を作った手を僕の方へとさしのべる。促されるがまま手のひらをさしだす。
 ヨンイルの五指がほどけ、カルシウムの塊が落ちる。
 歯。
 「ガツンと一発殴り飛ばされてもた。ホンマ効いたで、アレ。愛は偉大やな」
 ヨンイルが笑う。いや、笑い事ではない。
 ヨンイルは天井に目を馳せて二週間前の出来事を回想する。
 「さすがに見てられんかったんや、サムライと直ちゃんのすれ違い。俺一応直ちゃんのダチやし、直ちゃんがよわって荒んでくの放っといたらオタクが廃る。せやからサムライと直接話し合うことにした。ま、俺かてばっちり浮気現場見てもうたし直ちゃんと危なく一線こえかけたしまるきり部外者てわけでもないやろ」
 ヨンイルが感心したふうに首肯する。
 「サムライは逃げへんかった。ちゃんと時間通りにやってきた。敵ながらあっぱれな態度やった。漢と書いておとこと読む、みたいな」
 「話を続けろ」
 指で字を書くヨンイルに苛立ち、話の先を急かす。
 「男同士腹を割って話すには酒に頼るにかぎる。あ、これじっちゃんの教え。俺のじっちゃん大酒呑みでガキの頃からよおけ晩酌に付き合わされたんや。韓国酒マッコイを茶呑みに注いでぐいって」
 「祖父との心温まる思い出話はいいから本題に入れ」
 ヨンイルの話は脱線が多くていけない。
 焦燥に駆られて軌道修正、毛布を剥いで乗り出す僕を「どうどう」と宥め、ヨンイルが続ける。
 「サムライああ見えて案外酒弱いみたいで、一杯呷っただけでもう顔赤うしてたわ。で、酔いが回った頃合見計らって言うたったんや。直ちゃんは俺の物や、お前がぐずぐずしとるすきに直ちゃん美味しく頂いたって」
 あっけらかんと言い放つヨンイルに怒り爆発、傷が開く勢いで糾弾する。
 「虚言症め、大ホラ吹きめ、妄想と現実を混同する二次元オタクめ!一体いつ誰が君と寝た肌を重ねた性交渉を持った肉体関係を持った、確かに僕は君を誘った、のみならず君の上で下半身裸になって射精した!しかし君は勃起しなかったじゃないか。生身の人間には性欲を感じないとあれだけ言い張ったくせに……」
 「おっしゃるとおり俺はさらっぴんの童貞、直ちゃんは俺の上でいやらしく腰振って勃起して汁とばしたけどただそれだけ。色っぽく目え潤ませて頬赤らめて半開きの口から涎たらしてあんあん気持ちよさそうに喘いどったけど、ぶっちゃけ俺は何もしてない」
 ヨンイルが降参とばかりに両手を挙げるも、顔には反省の色なく薄ら笑いを浮かべてる。懲りない男だと怒りが再燃、ヨンイルの前で晒した痴態の数々を後悔する。
 激しい自己嫌悪に苛まれて頭を抱え込む僕の気も知らず、道化が軽薄な笑い声をたてる。
 「せやけどサムライは真に受けた。酒が入ってキレっぽくなっとったのもあるけど、俺の嘘見抜けんかったんはヤキモチが原因。あん時のサムライほんま怖かった、ほんま殺される思うた、ちびったもん。歯あ一本ですんでラッキーマンはガモウひろし。西の連中が止めに入らな片手でくびり殺されとった」
 僕の手からひょいと歯をつまみ上げ、ためつすがめつする。
 「俺、サムライに話したで。あの夜のこと」
 「あの夜」が何を意味するか直感する。
 真実を知ったサムライがどんな反応を示すか思いあぐねて膝を抱える。
 軽はずみな行動を軽蔑するだろうか。
 僕を嫌いになるだろうか。
 悲嘆する僕を見やり、ヨンイルが淡々と言う。
 「サムライの仕打ちにへこんだ直ちゃんが行きずりの道化に身を委ねかけたこと、サムライの浮気現場ばっちり目撃した直ちゃんがどんだけ沈んどったか、おどれがいなくなってからどんだけ辛い思いしとったか……」 
 人情味溢れる声音で語り、僕の肩に手をかける。あたたかい手。肩を包み込む人肌のぬくもりに励まされ、顔を上げる。
 いつのまにかヨンイルの顔から笑みが消えていた。
 ベッドに片膝乗せ、肩を掴む手に力を込め、傷にさわらぬよう慎重に押し倒す。
 思いやり深く僕を押し倒し、上にのしかかる。
 何故だか逆らえなかった。
 いつになく真剣な表情、真摯な眼光に気圧されたせいもある。
 肩から流れこむ手のぬくもりに抵抗力をなくしたせいもある。
 僕の肩を抱く手に縋るような力を込め、精悍につりあがった双眸に強い意志を宿し、誇らしげに宣言。
 「おどれがそんなんやったら、俺が直ちゃん奪う。俺が直ちゃん幸せにする、守ったる」 
 「ヨンイル…………、」
 心臓の鼓動が高鳴る。
 僕に覆い被さったヨンイルが低い声で続ける。
 「……そう言うたんや、サムライに。おどれがこれ以上直ちゃん不幸にするなら放っておけん、どんな手使っても直ちゃんかっさらう。惚れた奴を不幸にする男は最低や、とことん惚れて惚れ抜いた奴を最後まで守りきれんで偉そうなこと言うなや。俺なら絶対直ちゃん泣かせたりせえへん、直ちゃんが目から流すのは嬉し涙以外認めん」
 双眸に激情が爆ぜる。
 僕の肩にかけた手から歪んだ顔から、葛藤に苦しむ内面が痛いほど伝わってくる。ヨンイルは本当に僕を心配している。心配してくれている。その事実が重く胸にのしかかる。
 「西の龍が守ったる」
 「ヨンイル、よせっ……」
 心臓が跳ねる。我に返りヨンイルをどかそうとするも、肩を押さえ込む膂力は予想外に強く抗えない。へたに暴れたら傷にさわる、傷口が開いて腸が露出する。ベッドに身を横たえた僕の上、ヨンイルが無造作に上着を脱ぐ。
 「俺ん中の龍が直ちゃん欲しいて暴れとるんや」
 健康的に日焼けした肌、適量の筋肉を纏わせた引き締まった肉体があらわになる。オタクの癖になんでこんなにいい体をしてるんだと素朴な疑問を抱くがそれどころじゃない、身動きできない僕の眼前では上着を脱ぎ捨てたヨンイルが恐ろしく真剣な目をしている。
 精悍な肢体に巻き付く大蛇の刺青が、胸郭の上下と腹筋のうねりによって妖しく蠢動する。呼吸に合わせて収縮する腹筋で蛇腹がくねるのが妙に艶めかしい。
 「龍に抱かれて眠り」
 「ヨンイル、冗談もほどほどに!」
 柔らかく熱い感触。ヨンイルの唇の味。 
 「んっ………!?」
 一瞬のことだった。
 素早く唇を離したヨンイルが、自分自身混乱したように目を見開く。
 「こ、の…………!」
 勢い良く腕を振り、ヨンイルを床に突き落とす。背中から床に激突したヨンイルの上に衝撃で衝立が倒れこむ。
 ヨンイルがぐいと唇を拭う。
 「何をするんだヨンイル、君は二次元にしか欲情しないんじゃないのか、生身は対象外じゃないのか!?」

 頭が真っ白だ。
 ヨンイルは今何をした?
 僕の唇を奪った……キスしたのか?

 手で唇を押さえ、羞恥に火照った顔をヨンイルに向ける。
 サムライ以外の男と唇を重ねた不快感がどす黒く胸を蝕んでいく。
 ヨンイルがズボンの尻を払って立ち上がる。
 「たはは。またフラれてもた。やっぱダメや、ひょっとしたら勃たんかなー思てイチかバチか試してみたけどオタクの性がぬけきらん」
 「下半身が実用に耐えるか重患で実験するな!」
 「元気な重患やな。長生きすんで」
 上着に袖を通したヨンイルがぬけぬけと笑う。
 「唇は『お代』や。直ちゃんと相方の仲直りに貢献したお代や思えば安いくらいやろ?俺かて男の子やもん、キスのひとつくらい体験してみたいわ。ほんの出来心や、笑って許してや」
 片手で拝み倒すヨンイルに怒りが萎む。……まあ、ヨンイルの言い分も一理ある。道化にはサムライとの仲を取り持ってもらったのだ、キスが報酬になるならくれてやる。
 どうせロンともキスをしたのだ、と開き直る。
 「そうそう。直ちゃんお待ちかねのサムライやけどな、安田はんが睨み利かしとるせいで医務室に寄りつけんらしいで。医務室前の廊下を行ったり来たりしとるの何べんも見かけたわ。なんちゅーか、犬?待て、お預け、チョビ!そんな感じ」 
 「サムライがいるのか?」
 期待に胸が膨らむ。今すぐ廊下に駆け出そうとした僕をすかさず押し止め、ヨンイルが首を振る。
 「せやから無茶すんなて、今出てったかて会えんて。廊下には見張り役がおる」
 「見張り役など知るか、今すぐにでもサムライに会いたいんだ!」
 大声を出すと傷が痛む。服の上から脇腹を押さえた僕の懇願に、ヨンイルが呆れ顔で提出する。
 「言うと思った。代わりにこれ」
 「これは……?」
 「サムライから預こうた手紙」
 ヨンイルが枕の下に手紙を隠す。
 「ほなら直ちゃん、はよ元気になってな。今度来るときは動物のお医者さん全巻持ってくるさかい、チョビの可愛さにめろめろになってな」
 ヨンイルが何食わぬ顔で医務室を出ていく。
 「…………理解不能だ」
 手の甲で唇を拭う。
 僕にキスしたのはただの悪ふざけかそれとも……馬鹿な。ただの悪ふざけに決まってる。それ以外に何がある。ヨンイルのキスに不覚にも動揺してしまった自身が恨めしい。

 僕を押し倒す力強い腕。
 真剣な眼差し。
 僕を抱く龍の刺青……

 ヨンイルの事など忘れろ、忘れるんだ。
 ヨンイルに唇を奪われたことなど忘れてしまえ、他人の唇の感触を覚えたままサムライの手紙を読むのは裏切り行為だと自らを戒める。
 固く目を閉じ呼吸を整え、ヨンイルの唇の感触を意識から閉め出す。
 瞼の裏側にサムライを思い浮かべ、サムライの唇の感触をなぞる。
 両手に握り締めた便箋に顔を埋め、口を付ける。
 便箋の表面に触れるだけのキスをして唇を離す。注意深く周囲を見回し誰も見てないと再確認、安堵の息を吐く。
 「僕にはサムライだけだ」
 漸く気持ちが通じ合ったんだ。
 もう二度と放してなるものか、離れてなるものか。
 サムライの面影を重ねて便箋を胸に抱き、呟く。
 「…………愛している」 

 君を愛しく想う。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050516034140 | 編集

 『くそっ、よくも柿沼を……おいしっかりしろ柿沼、柿沼!駄目だ死んでやがる、ああなんだってこんなことに……』
 『さんざんよくしてやった恩忘れてとち狂いやがって静流、看守に逆らったらどうなるか思い知らせてやる!一生死ぬまで独居房にぶち込んで飼い殺してやる、喉にクソ詰めて発狂したほうがマシな思いさせてやるっ!手足切り落として目ん玉抉り出して歯あ一本残らず引っこ抜いて糞まみれの独居房に閉じ込めてやる!』
 看守を殺害した囚人に東京プリズンで生き残る術はない。
 独居房に収監されてから何日何週間経ったのか判然としない。
 頑丈な鉄扉で外界と遮断された闇の中、静流は生ける屍と化した。ただその目だけが妄執に取り憑かれて爛々と輝いていた。頬が削げ落ちて眼窩が落ち窪んで人相が変わった。それでも目の異様な輝きだけは失われず、毒蛇の吐息の如く全身から瘴気が噴き上がる。
 かつての静流を知るもの、たとえば柿沼が今の自分を見たら愕然としただろう。
 かつての穏やかな少年は今やどこにもいない。
 ひび割れた唇から漏れるのは呪詛を煮詰めた呟き。
 「まだだよ、姉さん。まだ終わらない」
 そうだ、まだ復讐は終わらない。この手で帯刀貢との因縁を断ち切るまで復讐は終わらない、この手で復讐を成し遂げねば意味がない。自分が東京プリズンに来た唯一にして至上の目的、それは帯刀貢の殺害。帯刀家に災いを招き滅びに至らしめた男への復讐。母と姉に託された想いを無駄にしてはならない、絶対に。母と姉は無念のうちに死んでいった。帯刀分家の当主として気高く誇り高く生きた母、美しく優しい姉の末路を慟哭の内に目に焼き付け、刀を引っさげて修羅へと身を堕とした帯刀分家の嫡男は、凍て付いた暗闇で目を閉じる。

 思い出す。
 暗く冥い闇の底で。

 『助けて、誰か!』
 『当主と薫流さんが死んでいる、斬り殺されている!』
 『皆逃げろ、屋敷を出ろ、ぐずぐずしていたら殺されるぞ!』
 女の悲鳴が聞こえる。男の断末魔が聞こえる。
 屋敷中を老若男女の使用人が逃げ惑う。母と姉を斬殺したその足で薄暗い廊下を歩く。一歩踏み出す毎に朽ちた軋み音をあげる板張りの廊下を優雅な足捌きで歩く。
 切っ先を下げた刀から鮮血が滴り、廊下に斑を作る。
 静流はゆっくりと余裕ある物腰で廊下を突き進み、逃げ遅れた女中の背中に日本刀を振り上げた。まだ若い女中だった。雇われて日も浅く、殆ど言葉を交わしたことがない。しかし一度だけ肌を重ねたことがあった。誘ったのは自分だ。
 実姉への恋情を断ち切るために屋敷の使用人と老若男女問わず片端から関係を持っていた静流は、それでも躊躇なくかつて肌を合わせた女に刀を振り上げた。
 女中が振り向いた。驚愕に強張った顔、絶望に凍り付いた目。
 廊下の真ん中に腰砕けにへたりこみ、尻であとじさり、呟く。
 『静流さんどうし、』
 最後まで言わせず袈裟懸けに斬り捨てた。女中が血を吐いた。あっけない最期だった。静流は何も感じなかった。憐憫も悲哀も、何も。

 そんな物感じてはいけない。
 いやしくも帯刀分家の嫡男として生を受け、幼少のみぎりより厳しい修行を課されてきたのだから。
 それは多分、心を殺す訓練。
 己を飼い慣らす訓練。
 生きながら修羅となる訓練。

 今の自分に怖い物はない、失う物など何もない。
 自分にはもう何もない。たった今、この手で母と姉を殺してきた。病み衰えた母の体を貫いて誰より愛しく美しい姉の胸を刺してきたのだ。
 手にはまだ姉を刺し貫いた感触が残っている。
 刀の切っ先が胸に沈む感触、刃が骨を断ち肉を穿つ独特の手ごたえ。
 ああ、姉さん。
 『帯刀家嫡男、帯刀静流が参る』 
 姉さんを殺した僕なら、きっと世界中の人間を殺せる。大した意味も理由もなく殺せる。だって僕には姉さんしか必要じゃなかったんだから、姉さんしか大事じゃなかったんだから、姉さんがいないこの世でどれだけ多くの罪もない人間たちを屠ろうが構いやしない。何故ならこれから僕が殺すのは姉さんじゃないから、僕に斬られて苦痛を味わうのは姉さんじゃないからだ。
 母さんも帯刀家も、本当はどうでもよかった。
 否、どうでも良くはない。母さんも帯刀家も大事ではあった。けれども姉さんに比べればどうでも良い瑣末事だった。僕はただ姉さんの幸せだけを望んでいた、姉さんを幸せにするためならどんな手段も厭わなかった。
 だけど、姉さんはもういない。
 『これより僕の行く手に立ち憚る者には、帯刀貢に漕ぎ着ける人柱となってもらう』 
 女中の体が屑折れる。女中は極限まで目を剥き絶命していた。三人目の人柱。まだ足りない、まだまだ足りない。帯刀貢に辿り着くにはまだまだ足りない、まだまだ屍を積み上げて修羅の道を征かなくては帯刀貢に邂逅できない。
 この国の法律は『ぬるい』。
 今や数少なくなった生粋の日本人にとても甘い。一人二人殺したところで法律に守られて最高二十年の懲役刑にしかならない。それでは駄目だ。帯刀貢は師範の実父含む道場の門下生十二人を斬殺して悪名高い刑務所に送られた、東の砂漠の真ん中に建つと言われる鉄壁の牢獄だ。

 『一人二人で足りないならば、三人四人と殺せばいい。
 三人四人で足りないならば、五人六人と殺せばいい』
 奇妙な節を付けた唄を口ずさみ、床板を軋ませ廊下を歩く。

 『狂っている……!』
 『静流さんが狂ってしまった、おかしくなってしまった!』
 使用人の悲鳴が飛び交う中、静流だけが不思議と冷めた心地でいた。心は凪のように穏やかだった。あるいは麻痺しているのかもしれない。
 姉を殺した時から何かが狂ってしまった。
 『母さんと姉さんが望んだのは、帯刀家を滅ぼした男への復讐だ』 
 ならば必ず成し遂げてみせる、自分にはもうそれしか残されていない。宿命?運命?違う。これは決意。僕自身の選択。
 帯刀貢への復讐を成し遂げるためなら他の全てを犠牲にしてみせる。 人を殺せ。できるだけ沢山の人を、目に付いた人間を片端から。
 逃げ遅れた人間は運が悪い、要領が悪い。
 足縺れさせ逃げ惑う使用人、その背後に衣擦れの音もなく忍び寄り刀を振り下ろす。ざくりと肉が爆ぜ、血飛沫が飛び散る。
 手当たり次第に使用人を斬り付ける、老若男女問わず逃げ遅れた使用人に一太刀浴びせて盛大に血を噴かせる。
 年配の使用人が尻餅を付き、全身返り血で朱に染まった静流からあとじさる。
 皺深い顔を恐怖に歪め、一杯に見開いた目に涙を湛え、必死に懇願する。

 『静流さん見逃してください、頼むからっ……あんたが小さい頃から帯刀家に仕えてきたってのにこの仕打ちはあんまりだ、恩を仇で返すようなもんじゃないか!ほら、思い出してください!あんたが小さい頃ご当主に叱られて泣いて時、おぶってあやしてあげたのはこの俺だ!あんただって俺に懐いてたじゃないか、あんたたち姉弟とよく一緒に遊んでやったじゃないか!だから俺は俺だけは見逃してくれ、殺すなら他の連中にしてくれ!ほら、あっちの婆なんかどうだ?口うるせえ古株で屋敷の人間から嫌われていた、どうせ老い先短い身だ、一太刀でラクに殺してもらえるなら願ったり叶ったり……』
 迫り来る死の恐怖から今しも廊下の先で転んだ老婆を指さし、ここぞと唾を飛ばす。
 生き汚く命乞いする男の正面に立ち止まり、微笑む。
 誰もが目を奪われずにはいられない、澄み切った微笑。
 『人柱に年は関係ない。冥府を下見してきてよ』

 男の顔が引き歪み、崩れ、口腔が開く。

 いちかばちか男が身を翻す。
 鋭く呼気を吐き刀を構え直す。
 凶刃一閃、無防備に晒した背中を斬り裂かれた男が野太い断末魔を上げる。血の飛沫が梁にかかる。背中をざっくり抉られた男がうつ伏せに倒れる。その亡骸を無関心に一瞥、口元に薄っすら笑みを浮かべる。
 むせ返るような血の匂いに酔い痴れ歩く、貫禄ある梁に支えられた薄暗い廊下を恐れるものなく突き進む。
 母と姉と使用人の亡骸を踏み越えて、血飛沫と一緒に殺戮を撒き散らす顔には空虚な笑みが浮かんでいる。
 肉を穿ち骨を断つ手ごたえが日本刀に伝わる。
 混乱を来たした使用人は乱心した静流に怯えるばかりで冷静な判断ができなくなっている。
 血と脂でぎらつく刃を飛燕の如く閃かせ、片端から使用人を屠り、返り血で化粧を施した凄艶な姿に誰もが圧倒される。
 恐怖。戦慄。
 大勢で飛びかかり取り押さえる発想などはなからない。
 屋敷の使用人は静流の剣の腕前を熟知している。本家嫡男と比べらて軽んじられることも多かった静流も決して剣技が劣っているわけではなく、むしろその腕前は十分すぎるほど脅威に値する。
 一度刀を抜いた静流を止めることは不可能。
 屋敷の使用人はそれをよく知っている。
 だから皆必死に逃げる、はしたなく着物の裾を翻し足袋で床を蹴りこけつまろびつ必死に逃げる。狂っている、狂っている……使用人が叫ぶ、滂沱の涙を流しながら。それでも静流の笑みは消えない。限りなく無表情に近い笑み。
 屍を積み上げて、罪業を積み上げて。
 そうして憎き帯刀貢のもとに辿り着けるなら、本望だ。
 それが姉さんの望みなら………

 『最期に本当の事を言うわ。
    を  してる』

 自分の腕の中で息絶えた薫流。
 静流は姉の最期を見届けた。自らの手で殺した姉の最期を瞬き一つせず見届けた。薫流は真実を言った。どうしても言わずにいられなかった言葉を、長らく胸に秘め続けた真実を血泡と一緒に吐き出した。
 そして、静流は壊れた。
 あまりに残酷な薫流の遺言が、静流を正気の瀬戸際から突き落とした。
 薫流の秘めたる想いを知り、決して報われぬ恋情を知った。
 あの梅雨の日。
 紫陽花が咲く本家の庭で落ち合った薫流は、道場の隅にて寄り添う貢と苗をじっと見詰めていた。
 だから勘違いした、薫流の心の内を。
 薫流の胸に燻る火の正体を。
 『最期に本当の事を言うわ』
 本当の事。静流が遂に気付かなかった本当の事、薫流の想い人の正体。
 それは―――……

 『お辛そうですね、静流さんは』 
 懐かしい声が呼び水となり、記憶が蘇る。
 丹精された庭に女が一人佇んでいる。
 紫陽花の葉陰に膝を揃えてしゃがみこみ、優しげな笑みを浮かべた女は……苗。帯刀貢の恋人で静流の幼馴染、帯刀家の遠縁にあたる心優しき盲目の女。
 『僕が辛そうだって?どうして?』 
 あれはいつだったか、母と姉を屋敷に置いて本家に出かけたことがある。その頃静流は母と姉の目を盗み度々本家に通っていた。
 理由は莞爾に呼び出されたから。莞爾が居丈高に静流を呼び付ける用向きは唯一つ、貢と苗の仲を裂くのに分家の嫡男を利用するため。貢と苗の古くからの顔見知りであり数少ない同年代の友人でもあった静流は、貢と苗を引き裂く良い知恵はないかと莞爾に相談されていた。
 苗と会ったのはその帰り。
 莞爾との息詰まる会話を終えた静流は、あてもなく本家の庭を散策していた。
 そして苗と出会った。
 目が見えない苗は、しかし一瞬で静流の心の内を悟った。
 『なんとなくですけど……なんだか空気が重いから気になって。悩み事でもあるんですか。また薫流さんと喧嘩したの?』
 幼い頃一緒に遊んだ苗は、美しく成長した今でも面倒見良く静流に接する。
 『薫流姉さんは相変わらずさ。姉さんは我侭でしたたかで意地悪で、小さい頃から何も変わってないよ』
 『良かった、薫流さんがお元気そうで』   
 苗が微笑む。後ろで一つに結った黒髪が背中で揺れる。
 『薫流さんと静流さんはいつまでも仲が良くて羨ましい。恋人同士みたいなご姉弟ね』
 『本当の恋人同士になれたらどんなにいいか』
 『え?』
 小さな呟きを聞きとがめ、苗が顔を上げる。不思議そうな苗を見詰めるうちに意地悪をしたくなる。
 紫陽花の茂みに寄りかかり、皮肉に口角を吊り上げる。
 『苗さんと貢くんが羨ましい。お互い大事にしあってることがよくわかる理想の恋人同士だ。ね、貢くんとはもう寝たの?』
 苗が紅潮する。伏目がちの目が潤み、襟を合わせた着物の胸元から清冽な色香が匂い立つ。羞恥に頬を染めて俯く苗、その初々しくも艶めかしい仕草が全てを物語る。
 直截な問いかけに狼狽する苗の隣、静流の目の温度が冷えていく。
 紫陽花に手を伸ばし、茎を手折る。
 ぱきん、小気味良く乾いた音が鳴る。
 『静流さん?』
 物思いから醒めた苗が不安げに目を彷徨わせる。
 静流は無視して紫陽花を手折り、惜しげもなく捨てる。足元に捨てた紫陽花を踏みにじる。胸の内をどす黒い感情が蝕んでいく。
 苗と貢は結ばれた。苗と貢は幸福だ。
 汚らわしい。なんて汚らわしいんだ、実の姉弟のくせに。血の繋がった姉弟で睦み合うなんて犬畜生にも劣る行いじゃないか。たとえ本人たちが知らないとはいえ許されざる行いじゃない、帯刀貢と苗はそうと知らず禁忌を犯していずれは伴侶として結ばれる将来を夢見ている。
 暗い炎が胸の内に揺らめく。嫉妬。何故貢ばかりが恵まれているのか、幸せになることを許されるのか。
 同じ姉弟でありながら片方は互いに想い合い、片方は決して報われぬ想いを胸に秘めて。
 『不公平だ』 
 そうだ、不公平だ。帯刀貢だけ幸せになるなど許さない。同じ帯刀家の末裔なのにこんなに何もかも違っていいはずがない。
 追い詰めてやる。引き裂いてやる。僕と同じ絶望を味あわせてやる。
 『苗さんは一途な人だ。本当に心の底から貢くんが好きなんだね。あんな面白みのない男のどこにそんなに惚れているのか僕には全くわからない。帯刀貢はつまらない男だ。剣以外に取り得がなく女を悦ばせる術もろくに知らない、無愛想でとっつきにくくて同じ師範の下で学ぶ門下生にも嫌われている。そうだ、さっき道場の前を通りかかった際に偶然耳に入ったんだけど』
 帯刀貢を不幸にする近道は、苗を不幸にすることだ。
 沸々と込み上げる笑みを抑えきれず、親切ごかして不安を煽り立てる。
 『道場の門下生が貢くんを襲う計画を立ててるらしい。手足の一本や二本折ってしまおう、いや、二度と剣が握れないよう酷く痛めつけてやろうって息巻いてたよ。よっぽど貢くんの態度が腹に据えかねたみたい。気持ちはわかる。貢くんはなかなか周囲に打ち解けないからお高くとまってるように見えるんだ、剣の腕が劣る連中を見下してると誤解されるんだ。自業自得さ。せめてもう少し愛想良くしてれば』
 『本当ですか!?』
 口元を両手で覆い立ち上がり、顔面蒼白の苗が叫ぶ。
 一杯に見開いた目に恐怖が凝る。愛する人が二度と剣を握れなくなるかもしれない、酷く痛めつけられるかもしれない、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 唇をわななかせて自分に縋り付いた苗にスッと目を細め、言葉を続ける。
 『本当だとも。嘘だと思うなら道場に行ってみればいい、門下生が居残ってるはずだから。どうする苗さん?早くしないと手遅れになるよ。貢くんが二度と剣を握れなくなったら莞爾さんはさぞかし嘆き哀しむだろうね、いや、誰より貢くん本人がいちばん哀しむだろうね。絶望のあまり切腹しちゃうかもしれない。ははっ、見ものだね』
 苗はすでに静流の言葉など聞いていない。青ざめた顔に決意の表情を浮かべ、口元を引き結ぶ。
 『……私、行きます。門下生の方々を止めてきます。きちんと話せばわかってくださるわ』
 一呼吸おき、真っ直ぐに静流の目を覗き込む。
 刹那、静流は苗の目に魅入られた。
 視力を失った目が何故これほどまでに澄んでいるのか、不思議に思わずにはいられない漆黒の瞳。
 小揺るぎもしない瞳でひたと静流を見据え、微笑む。
 『だって貢さんは、本当は優しい人ですもの』
 言うなり苗は駆け出した。着物の裾をしどけなく翻し、道場の方へと一散に駆けていく。背中で一つに結った黒髪が揺れ、仄かに色香匂い立つうなじが覗く。着物の裾が風を孕んで舞い上がり、目に痛い程白いふくらはぎがあらわとなる。
 苗は善良な女だ。相手がどんな人間でも真剣に話し合えばわかりあえると信じて疑わない。人が良いと言ってしまえばそれまでだが、結局はそのひたむきさが命取りとなった。

 『はっ、ははははははっははははははっははっははっ!!』

 いい気味だ。ざまを見ろ。
 苗が走り去った庭に一人、誰憚ることなく勝ち誇った哄笑をあげる。
 もう見えなくなった苗の背中に向け、口汚く罵詈雑言を吐く。
 『いい気味だよ帯刀苗、あんたは本当に優しく愚かな女だ、自分がどんな目に遭わされるかも知らないで恋人を救うために敵地のど真ん中に飛び込んでいく救いがたいお人よしめ!いいさ、門下生にかわるがわる犯されて汚されて滅茶苦茶になるがいい!愛する男を庇って汚れるなら本望でしょう苗さん、腹違いの姉弟で睦み合った汚らわしい畜生どもにはお似合いの末路さ、二人揃って不幸になればいい!』
 いつのまにか笑みは消え、醜く引き歪んだ表情が顔一杯に貼り付いた。もういない苗を罵倒し侮辱しそれでもまだ気が済まず紫陽花の茂みを力一杯薙ぎ払う、いつか姉と一緒に見た紫陽花の株に腕を叩き付けて茎をへし折り泥にまみれさせる。
 『は、はは………』   
 閉じた瞼の裏に苗の背中が浮かぶ。姉の笑顔が浮かぶ。
 どうして帯刀貢ばかりが愛される?どうして僕は望んだ愛情を貰えない?
 ひどく、虚しい。
 膝が萎え、地べたに両手を付いて崩れ落ちる。
 豊かな前髪が表情を隠す。肩で息をしながら考える、何故帯刀貢ばかりが人を惹き付けるのかその理由を。彼は天才で、僕は努力の人。彼は優しく正しく、僕は酷く邪だ。僕が捻くれたのは誰のせいだ?
 物心ついた頃からずっと本家の長男と比べられ貶められてきた、人格を否定され続けた。僕は絶対に帯刀貢にかなわない。分家は本家の引き立て役、生涯日陰の存在だ。
 けれども僕は帯刀貢に追いつきたかった。
 帯刀貢の才能を羨み、血の滲むような努力を重ねた。

 母さんに認められたい一心で。
 姉さんを喜ばせたい一心で。

 『姉さん…………』
 地面を掻き毟り、五指に土を掴む。喉の奥で嗚咽が泡立つ。前髪の垂れた目から水滴が零れ落ちる。土に涙が沁みていく。
 『畜生でいい。僕は姉さんを、薫流を』
 姉ではなく。
 弟ではなく。
 血のしがらみにとらわれず互いの為だけに生きれたら、どれだけ素晴らしいだろう。  
 貢と苗のように自分たちが姉弟であることを知らず無垢に愛し合えるなら、喜んで帯刀の名を捨てるのに。

 ………………長い長い回想から目覚め、凍て付いた暗闇の底で密やかに息を吹き返す。
 独居房に入れられてから何日何週間経ったのか判然としない。
 一日二回、鉄扉の下部に設けられた搬入口から残飯が出し入れされるのを除けば光が射すこともない房の中、頭の先からつま先まで自身の糞尿と吐寫物にまみれ、浅いまどろみと覚醒を繰り返し朦朧と日々を過ごす。
 生きているのか死んでいるのか自分でも時々怪しくなる。
 とりあえず呼吸はしている、心臓の鼓動も感じる。手足の感覚は殆どない。後ろ手に掛けられた手錠が手首に食い込んで痛い。この姿勢では寝返りも打てない。まるで芋虫だ、と静流は自らを嘲笑する。
 「………まだ終わらない。僕は生きている。彼も生きている」
 そう、僕と彼が生きている限り復讐は終わらない。
 どちらか一方が死なない限り復讐は終わらない。帯刀の血を継ぐ者が二人、家が絶えてもしぶとく生き続ける限り呪縛はとけない。悪臭立ち込める独居房にて、汚物まみれの床に腹這いになり、日ごと膨らむ帯刀貢への妄執に取り憑かれ落ち窪んだ眼窩を光らせる。
 静流にはわかる。体に流れる帯刀の血が教える。
 いずれこの鉄扉が開き、帯刀貢と剣を交える時が訪れる。
 決着をつける時が来る。
 「………………来た」
 掠れ声で呟き、顎を持ち上げる。
 分厚い鉄扉の向こう、廊下に響く靴音。
 誰かがこちらにやってくる、静流が閉じ込められた独居房めざして歩いてくる。誰だか察しはついた。静流は笑みを湛えて待ち人の到着を待つ。鉄扉の前で靴音が止み、透明な静寂が被さる。
 一枚の鉄扉を隔て、宿敵と対峙する。
 「ようこそ貢くん。会いにきてくれて嬉しいよ」
 「………………」
 返されたのは重い沈黙。
 鉄扉の向こうに凝然と立ち竦んだ男の顔を思い浮かべ、脇腹をくすぐられてるかのような笑いの発作に襲われる。
 鉄扉の向こう側、苦渋の面持ちで俯いてるに違いない男へと笑いを噛み殺して声をかける。
 「直くん死んだ?」
 「生きている」
 怒りを押し殺した声が空気を伝わる。
 静流は「へえ」と感心してみせる。
 「凄い生命力。頼りない見た目してるくせに案外しぶといんだ、彼。見直したよ。随分深く脇腹を刺したのに死に損なうなんて、運がいいんだか悪いんだかわからないね。こんな所で長生きしたっていいことなんか何もないのにそこまで生に執着する意味がわからない。残念だよ。一突きでらくに殺してあげようと思ったのに、かえって苦しませちゃったみたいで」
 「…………」
 「今度は仕損じない。確実にあの世に送る。苗と直で名前も似てることだし話し相手になってあげればいいさ」
 「させん」
 毒に満ちた嘲笑を遮り、貢が力強く断言。
 「直は俺が守る。お前には指一本触れさせん。苗と同じ過ちはくりかえさん」
 鉄扉が溶岩の如く熱をもち溶け崩れる錯覚に襲われる。鉄扉を隔てていても、意志に研ぎ澄まされた視線の強さを感じる。
 居住まいを正して宣言した貢をよそに、静流は策略を練る。どうやれば帯刀貢を傷つけ追い詰めることができるのか、彼の心を揺り動かすことができるのかを考えて口を開く。
 「いいことを教えてあげる。苗さんが犯された時の様子だ」
 鉄扉の向こう側で空気が変化、憤怒の形相に豹変。貢の全身から迸った怒気に空気が熱膨張、凄まじい圧迫感が押し寄せる。
 静流は物怖じせずに続ける。
 嬉々とした笑みを満面に広げ、嗜虐の光を双眸に宿し。
 「君は知らないだろうね、貢くん。門下生十一人にかわるがわる犯され汚された苗さんがどれだけ淫らに喘いだか、男に股を開いて腰を振って悲痛に泣き叫んだか」
 「やめろ」
 「貢さん助けてください貢さんってずっと君の名前を呼んでいたよ。男の物を口に含んで股を開かされて、着物を殆ど剥ぎ取られたあられもない格好でね。凄かったよ、苗さん。いつもはお淑やかな苗さんが雌犬みたいにがくがく腰振って男を誘ったんだ。最後の方は嗚咽が喘ぎ声に変わっていた。はだけた着物から零れ落ちた乳房を男の手に揉みしだかれて、何人もの男を受け入れた股からどろり白濁を垂れ流して、涙と涎とそれ以外の液体とで綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてあんあん甲高い喘ぎを上げていた」
 「……やめろ」
 「ぐちゃぐちゃのどろどろだった。股から垂れた白濁が内腿をゆるぅく伝わっていた。奥手な貢くんはおっかなびっくり苗さんを抱いただけ、どうせ口での奉仕も試してないんでしょ。もったいないことしたね。なかなか上手かったよ、苗さん。あの上品な口で一生懸命男の物を咥えてしゃぶって吐き気を堪えて喉の奥まで、じゃぷじゃぷ大胆な音させながらさ」
 「静流」
 鉄扉の向こう側、極大の怒りを込めた声が響く。
 静流はますます調子に乗って続ける、帯刀貢を傷付けるただそれだけを目的に実際には見てもいない苗が輪姦された時の様子を事細かに描写する。
 さも自分も輪姦一味に加わり苗を犯したと言わんばかりの様子で唾飛ばし捲くし立て、
 「貢さん、助けて貢さん、怖い痛い嫌いやあ、どうして助けに来てくれないのねえどうして、私は目が見えないのに暗闇に包まれてるのにどうして手をさしのべてくれないの呼んでも来てくれないの、苗さんはそう呪いながら腰を振っていたよ。ぐちゃぐちゃぐちゅぐちゅ繋がった場所から下品な音させて最高に気持ちよさそうによがり狂、」

 轟音。
 鉄扉を拳で殴り付ける重く鈍い音。

 鉄扉が震撼する。空気が震動する。
 拳が割れる勢いで鉄扉を殴り付けた男が、獣じみて荒い息遣いの狭間から声を搾り出す。  
 「……………殺してやる」
 冥府の底から湧き上がるような、生きながら業火に炙られるような声。 
 鈍い衝突音が連続、鉄扉が震動。 
 鉄扉の表面に額を打ち付ける音。
 凍えた暗闇の中に響き渡る音が不意に途絶え、深遠な静寂が降り積もる。 
 くりかえしくりかえし鉄扉に額を激突させ出血した男が、身の内で燃え狂う激情を抑制して呪詛を吐き出す。
 「次にまみえる時はお前を殺すときだ。俺は直を守る。お前を殺さなければ直を守れないというなら、一片の躊躇なく未練なく容赦なく血の繋がった従弟も斬り捨ててみせる。覚悟は決まった。俺もお前も後戻りできん、鏡映しに地獄の際を歩いているようなものだ」
 「次にまみえる時はどちらかが死ぬ。生き残るはどちらか一方、帯刀の名を継ぐにふさわしい者のみ」
 静流が平板に復唱する。その顔はもう笑っておらず、一切の感情が抜け落ちた無表情を晒している。
 貢がゆっくりと上体を起こし、昂然と身を翻す。

 靴音高く廊下を歩き去る間際、静かな気迫を孕んだ声が余韻を残す。
 「帯刀の姓が欲しくばくれてやる。俺が欲しいのは直だけだ」
 どこまでも真っ直ぐに、ただ前だけを見据える苛烈な眼差し。
 
 靴音が完全に消え去る頃、分厚い鉄扉の奥から篭もった笑声が漏れてくる。
 おかしくておかしくてたまらないといった笑声が這うように流れる中、独居房の奥に蠢く何者かが独白。
 「奇遇だね。なるほど僕らは似たもの同士、帯刀の姓を憎んで道ならぬ恋に身を投じた畜生同士だ」
 今の君となら存分に殺し合える。
 暗闇と悪臭に閉ざされた牢獄に繋がれて、漸く帯刀貢と対等になれた喜びに酔い痴れ、静流は喉裂けるまで笑い続けた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050515005002 | 編集

 鍵屋崎入院から三週間経った。
 「邪魔するぜ」
 シャッとカーテンを開け放ち、ぎょっとする。
 本、本、本。
 ベッドまわりの床に足の踏み場もなく本が散らばってる。
 際どいバランスを維持する斜塔を迂回して慎重にベッドに接近、枕元のパイプ椅子を取り上げる。震度一か二の微震で崩落しそうな均衡を保つ本の斜塔を横目に、ベッドに起き上がった鍵屋崎をしげしげ眺める。
 思ったより元気そうだ。
 三週間前、静流に脇腹を刺された鍵屋崎は手術で一命を取りとめたものの一週間昏睡状態が続いてサムライをはじめとする身近な人間にさんざん気を揉ませた。
 俺も例外じゃない。
 三週間前、カーテンの隙間からちらりと覗いた寝顔を思い出す。
 スーコースーコー……一定の間隔で続く機械的な音。酸素マスクの補助を得てか細く呼吸する寝顔。
 正直駄目かもしれないと思った。
 俺もサムライも悲観的になっていた。なんたって脾臓貫通の重傷に付け加え一週間も意識不明の状態が続いたのだ、誰だって不安になるに決まってる、不安を突き詰めて「もしも」に至るに決まってる。もしも鍵屋崎が死んだら、このまま目覚めなかったら?
 最悪の想像ばかりが浮かんでは消えた。
 あれから三週間、鍵屋崎は大分元気になった。
 「邪魔な自覚があるなら失せろ、集中力が散る」
 「見舞いに来てやったんだよ」
 「頼んでない。恩を売る気なら買わないぞ」
 ………毒舌は健在。
 ベッドパイプに背中を立て掛けた鍵屋崎に何か言いかけて口を噤んだのは、相手が一応重患だと思い出したからだ。口喧嘩中に傷が開いてべろり腸がはみ出したらと思うとさすがに続ける気になれない。
 渋々黙り込んだ俺の視線の先、鍵屋崎は毛布を掛けた膝の上に分厚い本を広げてる。
 何読んでるんだと覗き込んでみたら眩暈の拒絶反応が出た。
 鍵屋崎は人を撲殺できそうな厚さの難解な哲学書をすいすい読んでいく、ページをめくる手が滞ることもなく「なるほど」「斬新な見解だ」「飛躍的な解釈だ」と時々感心したふうに頷く。言うまでもなく俺は完全無視、まるっきり空気扱い。あんまりだ。折角見舞いに来てやったってのに本に夢中でこっち一瞥もしねーなんて……
 「鍵屋崎。おい、鍵屋崎」
 口の横に手をあて呼びかける。んなことしなくても30センチと離れてないのだから当然聞こえるはずだが、鍵屋崎は無反応。銀縁眼鏡の奥、怜悧な印象を与える切れ長の目に知性の光を宿らせて単調にページを繰る。
 「ものがあるとはどういうことなのか?理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く彼自身も含めた世界内の存在との根源的な関係を意味する。人は知ありて生くる者、前提とする知性がなければ世界と関わりを持てずただ在るだけに甘んじて自己認識が薄れる。在ることを知ることから全てが始まる。存在の耐えられない軽さ。人間の行為は何らかの対象や目的を目指す限りにおいて志向性をもっている。読書という行為は最善の理解を志向しているからこそ尊いもの、志向性がない人間はただ無気力に……」
 「鍵屋崎おい、戻って来い」
 「今いいところなんだ、邪魔するな」
 「どこらへんが?」
 マジで聞き返す。鍵屋崎が鼻白む。
 うわ、あからさまに馬鹿にしてやがる。ちょっと傷付く。観念の世界から現実に呼び戻された鍵屋崎がうざったそうにこっちを見る。読書を邪魔されてご機嫌斜め。
 点滴された腕で苛立たしげに本を閉じ、眼鏡の奥の目を細める。
 「ロン、君は何故ここに存在している?貴重な読書時間を搾取して僕に不快感を与える自分の存在に疑問を感じないか。レイジはどうした、一緒じゃないのか」
 「レイジはホセんとこ行ってる。二人で話し合いだとさ。俺には聞かれたくねー話なんだろ、大方」
 なげやりに吐き捨てれば、鍵屋崎の顔に疑問が浮かぶ。
 やばい。あの事はまだ鍵屋崎に知られちゃいけない。鍵屋崎だけじゃなく他の人間に口外するなと脅迫されてるのだ。慌てて口を閉じた俺の様子を観察、鍵屋崎が得心したふうに頷く。
 「………なるほど。仲間はずれか」
 「あん?」
 なんだって?
 「行動原理が単純明快だ。三人寄れば公界の諺が示す通り社会の最小単位は三人だ。つまり君はレイジとホセの話し合いに混ぜてもらえずに暇を持て余して僕に構ってもらいにきたのだろう、違うか?まあ君が信用されなくても無理はない、そもそも南の隠者ホセと東棟の王様との話し合いにただの友人に過ぎない君が同席する方が不自然だ。察するに二人の話に加えてもらえず疎外感を味わっているらしいが、僕が君の暇つぶしに付き合う義務は……」
 「ちげーよ!!」
 椅子を蹴立てて立ち上がる。
 もう少しで鍵屋崎に掴みかかりそうになるのをぐっと堪える。
 体の脇で拳を握り込み鍵屋崎を張り倒したい衝動を自制、パイプ椅子に腰を下ろす。鍵屋崎ときたら人をイラつかせる天才だ。しかも何割かは当たってる。と言うか図星だ。俺が鍵屋崎のところに来たのは「大事な話があるから」とレイジがホセに連れてかれて一向に帰って来なくて身の処し方に困ったからだ。
 『殺しのプロたる東の王に所長の暗殺を依頼します』
 ホセの落ち着き払った声。
 冗談を言ってる感じじゃなかった。
 煉獄の展望台で王と隠者が死闘を演じてから数日、ホセの爆弾発言に心乱された俺は寝ても覚めてもその事ばかり考えて悶々としてる。
 所長の暗殺?本気か?なんでホセが所長を暗殺を企てるんだ、理由は何だと本人をとっちめたくても生憎ホセは南棟に引っ込んだまま姿を見せないし肝心のレイジはホセと一緒に南棟に消えたままだ。

 『どういうことだよホセ、ちゃんと説明しろよ!?俺に断りなくレイジ連れてくなんて承知しねーぞ!!』
 血相替えて追いすがる俺をちらり振り返り、ホセが意味深に微笑む。
 『我輩も胸が痛みますがここから先はレイジ君のみに話します、東京プリズンで平穏に暮らしたいならロン君は踏み込まない方が身の為かと』
 『もうとっくに踏みこんでるよ、さんざ思わせ振りな言動で釣っといて肝心なトコだけお預けなんてなしだぜ!?レイジお前も何とか言えよ、勝手に決められていいのかよ、所長の暗殺なんてそんないきなしっ……』
 『ロン』
 緩やかに振り向くレイジ、その口元は薄っすら笑っている。
 謎めいた笑み。ここから先は俺が立ち入るべきじゃないと問答無用に告げる微笑。
 『当分房空ける。東棟留守にする。ホセと大事な話があるんだ。俺がいないあいだ浮気せずいいコにしてろよ?』 
 『………っ!!』
 俺の中で何かが弾けた。
 レイジを行かせるのは危険だと本能が疼いた。発作的にレイジを追ったが間に合わなかった、ホセと一緒に展望台を去ったレイジは俺が追いつくより先に渡り廊下を渡って南棟に移っちまった。
 息を切らして渡り廊下に滑り込んだ俺は悔しさに歯噛みして境界線の向こうに行ったレイジの背中を睨み付けた。
 最後に見たレイジは、やけに深刻な様子でホセと話しこんでいた。
 緊迫した空気の中、小声で交わす会話の断片が耳に届く。
 「所長」「暗殺」「計画」「遂行」……
 何だ?ホセの奴レイジに何させる気だ?
 よっぽど足を踏み出そうとした、走り出そうとした。だが出来なかった。戦慄に足が竦んで一歩も踏み出せなかった。
 ホセは本気か。本気で所長を殺すつもりなのか。所長暗殺の汚れ仕事をレイジに押し付けて自分は高みの見物と洒落込むつもりか、本当にそこまで腐ってやがるのか。レイジは引き受けるのか、ホセの手駒に使われるのを承知で所長を殺すつもりか?
 頭が混乱する。不信感が膨れ上がる。
 勿論俺だって所長が死んでくれるのは単純に嬉しい、物凄く嬉しい、諸手を上げて喜んでやる。
 だがレイジが直接手を下すとなりゃ話は別だ。万一レイジが所長を殺した事がバレたらどうなるか想像しただけで動悸が激しくなる。
 所長を殺す。東京プリズンの最高権力者を抹殺する。
 そんな事になりゃ東京プリズンがひっくり返る、レイジは東京プリズンそのものを敵に回すことになる。
 いくらレイジが戦闘に優れた暗殺のプロでも所長を殺す事自体は可能でも問題はその後、殺害が成功した後だ。
 所長を殺したことがバレたらどうなる?
 刑務所内で殺人を犯した囚人を待ち受ける処罰……『死』。
 いや、死よりももっと恐ろしい……

 「ロン?」
 鍵屋崎の不審げな声で我に返る。ハッと顔を上げる。
 鍵屋崎が怪訝そうにこっちを見詰めている。激しくかぶりを振って不吉な想像を追い払う。
 ぐちゃぐちゃ悩んだって仕方ない、答えは出ない。レイジはホセに連れてかれたまま音沙汰ない。南棟に引きこもったレイジとホセが何を話し合ってるんだとしても俺は口出しできない。認めるのは癪だが鍵屋崎の言い分は正しい。南のトップと東のトップの話し合いにトップでも何でもねえ俺が介入できるわきゃない。俺に出来ることといったらお利口さんにレイジの帰りを待つだけだ。 
 「…………畜生」
 せっかく仲直りできたと思ったのに、わだかまりが解けたと思ったのに、喜んだ先からまた離れ離れになっちまった。
 展望台を去り際振り向いたレイジの笑顔が得体の知れない不安を掻き立てる。ホセの依頼を受けるか蹴るかはアイツ次第だが、どっちにしろ平穏は続かない予感がする。
 畜生、なんだってこう次から次へと揉め事が起こるんだ?
 俺はただレイジと鍵屋崎とサムライと一緒に食堂で馬鹿騒ぎする日常に戻りたいだけなのに神様はそれさえ許しちゃくれねえのかよ。
 「……レイジに冷たくされて相当こたえてるらしいな」
 一日中ベッドで寝てるだけのくせに、優れた洞察力をもって痛い所を突く鍵屋崎に反発する。
 「そういうお前こそサムライと会えなくてへこんでるんじゃねーか。副所長の過保護にも困ったもんだな」 
 鍵屋崎が顔を顰める。
 この上なく不機嫌な様子で眼鏡のブリッジに触れ、ため息を吐く。
 「……こちらは迷惑だ。副所長の言動は理解できない。静流は現在独居房に拘禁されている、僕を刺した本人が監禁されているならサムライが僕のそばに来ても何ら問題ないはずだ。なのに何故ヨンイルの房に移そうとする、サムライを遠ざけようとする?不条理だ。理不尽だ。のみならず無意味で無理解で非合理だ。僕は絶対に従わない、たとえ副所長命令だろうが自身が納得できない事は天才の威信を賭けて却下する。僕をヨンイルの房に移したいならベッドごと運ばせるしかない、自発歩行でヨンイルのもとに行く気は毛頭ない」
 「今の安田ならやりかねねーな」
 ほんの少し鍵屋崎に同情。
 確かに安田は極端すぎる。
 切れ者エリートの副所長とひねくれ者の天才がいつのまに親子と見紛うほど親しくなっていたのか今いち釈然としないが眼鏡と眼鏡、もとい、頭イイ奴同士気が合うんだろう。
 実際安田と鍵屋崎にはどこか似た所がある、共通の雰囲気がある。
 知的な風貌と潔癖な言動エリート故の傲慢さとプライドの高さなどなど、内と外に共通点が多々ある副所長が自分とよく似た鍵屋崎に肩入れしても不思議じゃない。
 「父親でもない癖に束縛するな。不愉快だ」
 伏せた双眸が苦悩を映す。
 神経質に眼鏡に触れる仕草が苛立ちを匂わす。
 双眸を暗く翳らせた鍵屋崎が、ぽつり呟く。
 「僕にはサムライが必要だ。サムライにも僕が必要だ。……離れたくないんだ」
 固い横顔に絶句。のろけてる自覚もないんだろう、ご馳走さま。ふと視線を下ろした拍子に枕の下からちょこっとはみ出た手紙を発見、好奇心から手を伸ばす。
 鍵屋崎が「あっ」と叫ぶも遅い、狼狽した鍵屋崎が点滴の刺さった手をこっちに伸ばして奪回しようとするのをパイプ椅子を後ろに仰け反らせて回避、わざとがさつかせて便箋を開く。
 「返せ!人の手紙を盗み読むなどプライバシーの侵害だデリカシーの欠落だ社会性の欠如だ人格の欠陥だ!わかったなら手紙を返せ、サムライから来た手紙に汚い手で触れるんじゃない、最低三十回で石鹸で洗って来い!」
 「なんだこりゃ」
 興味津々、便箋に目を落とす。
 便箋にはたった四文字、達筆な字でこう書かれていた。
 「『回復祈願』………」
 便箋を上下逆にする。ひっくり返す。横にする縦にする斜めにする。
 角度と見方を変えてためつすがめつするも「回復祈願」の四字がでかでか書かれてるだけ、他には何もない。味もそっけもない恋文……いや、そもそも恋文なのかこれ。もっと他になかったのかよ、サムライ。
 とことん不器用なヤツ。
 脱力して便箋を放り出す。
 俺が虚空に放り出した便箋を慌ててキャッチ、鍵屋崎が頬を染める。
 「……サムライらしい手紙だな。真心こもってるっつか、」
 「フォローはいい」
 「さいですか」
 「サムライのことだ。入院中の僕になんて書けばいいか迷った末に極端に無駄を省き四字熟語に要約したのだ、そうに違いない」
 「苦しい言い訳。ん?」
 封筒の中に何か入ってる。ひっくり返す。
 ぱさりと音をたて手のひらに落ちたのは、紐で括られた髪の束が一房。髪?なんでこんな物が封筒に入ってたんだと訝しみ、指先に摘んだ髪の束を顔に近づけて離す。
 「サムライの髪だ」
 鍵屋崎が俺から髪を取り返す。
 細心の手つきで髪を撫で、握り締める。
 「自分がそばにいられないからせめて代わりにと預けてくれた」
 鍵屋崎が安らかな顔になる。
 サムライが想いを託した髪を握り締めるさまに温かいものが滲む。束の間の安息。安田の妨害で引き離されてもなお鍵屋崎とサムライの絆は健在、それどころか会えない日々が絆を深めていっそう距離を近付ける。
 妨害工作が裏目にでたってわけか。
 「髪の毛だけじゃ足りない。サムライに触れたい。誰にも邪魔されずサムライと触れ合いたい」
 一房の髪を握りしめ、鍵屋崎が切実に呟く。
 伏せた双眸を複雑な感情が過ぎり、横顔に葛藤が投影される。
 サムライに欲望を感じてるわけじゃない。
 どこまでも純粋にサムライと触れ合いたい、サムライを身近に感じたいという願望。
 解釈によっちゃ愛の告白に等しい過激な発言だが、口にした本人に自覚がないのがすごい。
 「そういやサムライだけど、額に怪我してたぜ」
 「額に怪我だと!?」
 語尾が跳ね上がる。鍵屋崎が思い詰めた眼差しで向き直る。
 サムライの話になると途端に食いつきよくなるなと内心呆れた俺の肩に興奮のあまり掴みかかり、点滴外れんばかりの勢いで揺さぶりつつ声を荒げる。
 「転倒か、壁に衝突したのか、喧嘩か?サムライは平和主義者だから最後の可能性は低い、となると転倒事故か衝突事故の二択だがサムライに限ってそんな失態を犯すとも思えない。それでサムライは無事なのか、頭蓋骨陥没・脳挫傷の疑いがあれば手遅れになる前に医者に診てもらい手術を受けるべき」
 「ここんとこにガーゼ貼ってた。大した怪我じゃねえよ。怪我した理由については言いたがらなかったから知らねーけど」
 「よかった。手術の必要はなしか」
 鍵屋崎が深々嘆息、サムライが無事だとわかった安堵で表情を緩める。心配性の鍵屋崎が俺の肩から手を放してベッドに座りなおすのを見守り、ここに来る前の出来事を回想する。
 サムライは額にガーゼを貼っていた。
 どうしたのか聞いても本人は憮然と押し黙ったまま、怖い顔で睨まれちまった。
 不機嫌なサムライと不機嫌な鍵屋崎を見かねてお節介の虫が騒ぎ出す。
 「鍵屋崎、」
 お互いがお互いに会いたくてたまらないのに安田に邪魔されてストレス蓄積してる鍵屋崎とサムライの為に俺ができることを考える。
 せめて伝言を届けてやろうと口を開きかけたところで、賑やかな声が割り込んでくる。
 「元気しとったか直ちゃん、こないだの約束どおり動物のお医者さん全巻持ってきてやったでー。ってロンロンもおるんかい!」
 ハイテンションな乗りツッコミ。振り向くまでもなく見舞い客の正体を察してうんざりする。
 両手に漫画を抱えたヨンイルがベッドの端っこに腰掛ける。
 「ちょうど良かった、皆で動物のお医者さんに貪り読もうや。傷が塞がるまで暇やろ直ちゃん、二ヶ月も入院期間あるなら動物のお医者さんどころかガラスの仮面読破も不可能ちゃうわ。あ、せやけど傷開いて腸がどばーっと溢れたらヤバイからできるだけ笑い堪えてや!とくに漆原教授は出てきただけで笑えるから手のひらか紙で隠して……」
 「消えろ道化。僕はハイデッカーを読んでるんだ」
 「はいでっかーさいでっかー。絵のない本なんて読んでおもろいんか?人生無駄にしとるよーにしか思えん。さあ直ちゃん気分変えて漫画読もう、チョビの可愛さとミケのふてぶてしさを満喫しよ!」
 えらくご機嫌なヨンイルに鍵屋崎は不満顔。
 付き合ってらんねえ。
 そろそろ潮時だと腰を上げてパイプ椅子をヨンイルに譲る。
 「じゃあな」
 「ああ……、」
 「そんでな直ちゃん、チョビはこないおっかない般若顔やけど実はメスなんやでー純情な女の子なんやでー。犬は見かけによらんもんやなあ」
 鍵屋崎が物言いたげに口を開閉するも、伝言を託そうとしたそばからヨンイルがじゃれつく。
 ヨンイルと漫才繰り広げる鍵屋崎に肩を竦めて歩き出す。
 医務室を出る。廊下に看守が立ってる。安田から見張り役を仰せつかった若い看守……いつだったか、レイジに肩を貸して房に連れてきたヤツだ。
 「あんたが見張りか。大変だな」
 壁に凭れて立っている看守に声をかける。
 「副所長の命令だし……それに僕、どうせ暇だから。これ位しか仕事ないから」
 言い訳がましく付け加え、たははと笑う。ぺーぺーの新入りで大した仕事を任されてないって意味か。
 「いい加減子離れしろって言っとけ。ま、言ったらクビになるかもしれないけど」
 「ぞっとしないね」
 見るからに頼りない新入りが相手だと自然砕けた口調になる。
 気軽に冗談を飛ばせば看守が無難に苦笑する。
 「大丈夫かい」とレイジを気遣ってる所からも察したが、腐った看守ばかりの東京プリズンじゃ珍しく好感のもてるヤツだ。
 そういやあんた名前はと聞こうとして背後に気配を感じる。
 振り返る。サムライが走ってくる。
 「直は?」
 「相変わらず口と顔色が悪い。怪我はだいぶよくなった」
 「そうか」
 「大丈夫かサムライ、お前の方が病気みたいだぞ」
 サムライが重苦しく黙り込む。陰鬱な雰囲気。鍵屋崎の事が心配でころくに眠ってないせいで目の下にどす黒い隈ができている。強制労働中にぶっ倒れないのが不思議だ。鍵屋崎に会えない日が続いて心身ともに限界に来てるらしく、手入れを怠った顎に無精ひげが生え始め、垢染みた全身に荒んだ気配が漂っている。
 「………目え真っ赤だ。泣いてんのか」
 「馬鹿な。武士が泣くものか」
 サムライが断固否定、口元を真一文字に引き結ぶ。
 片手には木刀を握っている。体の脇に木刀を引き付けて廊下を行ったり来たり、廊下の端から端を往復するサムライは自分の奇行が注目を浴びてることにも気付かない。
 一挙手一投足が殺気立っている。白目がぎらぎらと血走る。
 この三週間というもの毎日医務室前を行ったり来たりひと時も休まず相棒の無事を祈ってるのだ、精神が削れて当たり前だ。
 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
 鍵屋崎の回復を祈願し、口中で般若心経を唱えるサムライを一瞥、呟く。
 「意地っ張りめ」
 サムライの額にはガーゼが貼られている。
 本人がだんまり決め込んでるせいで怪我の理由もわからないが、鍵屋崎と会わせてもらえないストレスが祟ってそこらの壁に頭突きしたのかも知れねえなと不謹慎な想像を巡らす。
 思い詰めたら何しでかすかわからないのは鍵屋崎と同じだ。
 「はあ……」
 サムライと鍵屋崎は会えねえし俺とレイジは離れ離れだし、どーしてこううまくいかねえんだろ。

 レイジ、早く帰って来い。
 お前がいないと生活に張り合いがない。
 どうせならレイジとサムライと三人一緒に見舞いに行きたい、その方がきっと鍵屋崎も喜ぶ。

 東棟に戻る前に、中央と南棟を繋ぐ渡り廊下へ向かう。
 数日前、ホセとレイジが消えたきりの渡り廊下。東棟の王様が鼻歌まじりに踏み越えた境界線をひょいと跨ぐ度胸がないのは俺がただの囚人だからだ。
 この前はホセと一緒だから南棟に行けた。
 一人で行くのは無理だ。自殺行為だ。
 北棟ほど敷居が高くなくても他棟へ行くのは抵抗を感じる。
 ホセの保護を失った俺が無事に帰って来れる保証はない。
 渡り廊下の始点に立ち、不吉な闇が凝った廊下の奥を凝視。
 あの闇の向こうにレイジがいる。ホセと二人きり東京プリズンの今後について話し合ってる。
 所長暗殺計画が本格始動したらレイジはどうなる?
 手のひらがじっとり汗ばむ。胸の鼓動が高鳴る。
 依頼を受けるのか、蹴るのか?そりゃ所長が死ぬのは願ってもない。所長がおっ死にさえすりゃレイジは俺の所に戻ってくる。
 けど、代償はあまりに大きい。

 『いい子にしてろよ』

 別れ際の台詞を想起して胸が苦しくなる。
 言われた通りいい子にしてた、してたよ。
 お前はいつ帰ってくるんだレイジ。
 「…………」
 ごくりと生唾を嚥下、さんざんためらった末に一歩を踏み出す。また一歩。このまま廊下を歩いて南棟に行き、力づくでレイジを奪いたい欲求に駆られる。
 三歩、四歩、五歩……停止。
 金縛りにあったように体が硬直、これ以上進むのは危険だと本能が知らせる。渡り廊下の空気が微妙に変容、侵入者を追い返す為なら手段を選ばず流血も辞さない空気が流れる。
 肌にちりちりと感じる殺気、産毛が逆立ち燻る感覚。
 廊下の奥から殺到する殺意と敵意、威嚇と威圧、牽制の眼光。
 廊下の奥に潜んだ南棟の門番が緩慢に動き出す。
 右側の囚人が壁に立て掛けた鉄パイプを取り直す、左側の囚人が堂に入った動作でトンファーを構える。
 廊下の奥から凄まじい殺気が吹き付けてくる。
 「お前ら、南の門番だな。ホセに言われて見張ってんのか」
 返事はない。続ける。
 「レイジはどうしてるんだ。こないだホセに連れてかれたきり帰ってこねーけどお前らなら知ってんだろ、答えろよ」
 「知ってても言いたかねーな」
 「お前に教える義理ねーよ」
 鉄パイプを肩に担いだ囚人が歯を剥いてせせら笑い、トンファーを構えた囚人が野卑に唇を捲る。
 南の門番と対峙、突き指しないよう親指を内側に拳を握りこむ。俺の武器は喧嘩慣れした拳だ。門番の動向を鋭く探り、実力の差を冷静に見極める。
 イケるか?……二人同時は無理、一人なら何とかイケる。
 南の門番を叩きのめしてレイジの居所を吐かせるのが一番手っ取り早い。 
 空気が帯電する。首の後ろがささくれるような緊迫感。廊下の始まりと終わりで二人組の門番と対峙、肩幅に踏み構えて重心を落とす。
 「とっとと帰りなビチクソガキ。そっから先は南の領域、隠者の許しなく足を踏み入れたら骨の三本四本へし折られるぜ」
 「人の相棒拉致ったヤツの許しなんかいるか。くそくらえだ」 
 頭に血が上る。全身の血が沸騰する。
 そろそろ我慢の限界だ。いつだって俺だけ蚊帳の外で重要な話に混ぜてもらえねえ、全部終わってからこれこれこうでしたと種明かしされんのはうんざりだ。俺は今レイジの身に起きてることが知りたい、拉致同然の形で南に連れ去られたレイジが無事でいるか元気でやってるか確認したくて心配で夜も眠れず気が狂いそうなのだ。
 「脇役は引っ込んでろ。レイジは俺が連れ帰る」
 門番にボコられるのを覚悟で強行突破を決意、身軽に床を蹴る。
 頭を屈めた姿勢で一気呵成に廊下を走りぬける。門番二人組がそれぞれ鉄パイプを振り上げトンファーを跳ね上げ、
 「おー。ロン、迎えにきてくれたのか」
 へ?
 靴裏の摩擦でゴムが磨り減る。急ブレーキを掛けて失速する俺の眼前、臨戦態勢の門番の肩をポンと叩いて出てきたのは……
 やけにご機嫌なレイジ。
 「迎えに来てくれたのじゃねーよ、お前今までどうしっ……」
 「長らくお引きとめて申し訳ない。少々話が長引いてしまいました」
 ご機嫌麗しいレイジの背後に控えたホセが如才なくフォローする。「それではレイジ君、例の件はくれぐれも慎重に」「わかってるよ、任せとけって」と笑顔でやりとりする二人に唖然とする。例の件……所長の暗殺。任せとけ……承諾。つまりレイジは暗殺依頼を受けたってのか、ホセの手駒に使われるつもりなのか?
 頭が混乱する。危うくパニックを起こしかける。前進も後退もできず廊下の真ん中に立ち竦む俺のもとへレイジが無防備に歩いてくる。
 「会えなくて寂しかったぜ、ダーリン。内緒話終わったら速攻帰るつもりだったんけどホセがなかなか放してくれなくて予想外に時間食っちまった。さ、スイートホームこと東棟に帰ろ。そういやオシオキもまだだったよな?俺がヨダレ垂らして見てる前でホセとディープキスあーんどフェラチオしたお仕置きだ、房に帰ったらたっぷりと……」
 隻眼が物騒に細まる。
 危険な光を宿した隻眼が射抜く方角を返り見て、冷水を浴びせ掛けられたような戦慄を覚える。

 大股に突き進むレイジの先、俺の背後から威風堂々行進してくる痩せぎすの男。
 肩で切り揃えた綺麗な銀髪。
 無慈悲に氷結したアイスブルーの目。
 片方の目は凝った装飾を施された黒革の眼帯で覆われている。

 豪華な装飾の眼帯で片目を覆った男は、落ち窪んだ眼窩で目を爛々と光らせて、乾いてひび割れた唇で何かを呟きながらこっちにやってくる。一目で重度の薬物依存症だとわかる異常な痩せ方と灰色がかって不健康な皮膚、髑髏めいた死相がちらつく不吉な顔貌。
 最後に見かけたのは俺たちの命運を決めるペア戦最終戦、あの時と比べて更に体重が落ちて肌の色がくすんで髪が傷んでいる。
 もう長くはない。
 一陣の冷風を吹雪かせて颯爽と突き進む男の手には、銀光閃くナイフが握られていた。
 「私は認めん」
 世にも美しいアイスブルーの隻眼に憎悪が迸る。 
 「何故私ではないのだ隠者、暗殺の手腕ならばこの私とて其処の雑種に劣らんと言うのに何故私を指名しない?暗愚な選択が片腹痛い。それともペア戦で其処の卑しき雑種に屈した私の手腕を軽んじているのか、薬に侵されて手の震えが止まらぬ私では暗殺を成し遂げられないと軽んじているのか。笑わせるな隠者風情が!私の暗殺技術は今だ衰えてない、ナイフの冴えは鈍ってないぞ」

 憎悪に顔歪ませて、狂気を身に纏わせて、銀髪の男がやってくる。

 「久しぶりだな。その後どうしてた?ペア戦で負け犬姿晒した手前今まで通り威張り散らしてられるはずもねえ、下克上で王座引きずりおろされて北の連中にマワされてんじゃねーかって心配してたんだぜ。お前の恐怖政治にゃ北の連中びびって小便漏らしてたからな、威信が地に墜ちたら寄ってたかって復讐されんのが世の習いだ。今度はそっちが調教される番じゃね?」
 レイジが口角を吊り上げて歩みを進める。
 次第に距離が縮まり威圧感が増す。
 銀髪の男は歩みを止めない歩調を緩めない、レイジと距離が近付けば近付くほどに全身に異様な気迫を漲らせてナイフを振り翳す。

 「今ここで優劣を決めようではないか、真の王者を決めようではないか。ペア戦のあれはわざと手加減してやったのだ、哀れな犬に慈悲を垂れてやったのだ。皇帝に敗北はありえん。皇帝の威信が地に墜ちるなどあってはならないことだ」
 「いい加減認めろよ、お前は負けたんだよ。今度から負け犬に改名しろ。『皇帝』なんざお前にゃ過ぎた名だ、北じゃどうせお前を皇帝サマと仰ぐ囚人いないんだろ。メッキが禿げたんだよ。今のお前はただの薄汚れたジャンキーだ、我こそは偉大なるロシア皇帝だって誇大妄想に取り憑かれた気違いだ」

 銀髪の男が禍々しく笑う。
 薄青に透き通る瞳にレイジが映る。
 冷酷な眼光を発する男に物怖じせず歩み寄るレイジ、その顔はこの上なく愉快げな笑みを浮かべている。遊び相手を見つけたガキみたいな無邪気で残酷な笑顔。 
 俺と門番が固唾を呑んで見守る渡り廊下で、北の廃帝と東の王が邂逅する。
 「東京プリズン最強の暗殺者はこの私だ」
 銀髪の男が憎憎しげに吐き捨て、鞭のように腕撓らせて行く手を薙ぎ払う。
 「なら俺は東京プリズン最高にして最悪の暗殺者だ」 
 レイジが挑発するように両手を広げる。
 銀髪の男が凄まじい奇声を発して廊下を疾駆、生あるもののように銀髪が舞い上がり後方に流れる。自分めがけて突っ走るサーシャを歓迎すべく両手を広げ、レイジが皮肉っぽく独りごちる。
 「殺し合いの第二幕か。好きだぜ、こういうのも」 
 北の皇帝改め北の廃帝サーシャと東の王が激突する。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050514001342 | 編集

 北の廃帝と東の王が激突する。
 「灰も残さず焼き滅ぼしてやる」
 一陣の冷風を吹雪かせて肉薄、激しい勢いで突き込まれたナイフが肋骨の隙間を抉り心臓を貫く。
 レイジが身をかわすのが半瞬遅れていたらそうなるはずだった。
 「相変わらずイカレてイカしてるぜ」
 レイジが皮肉げに微笑む。
 肋骨の隙間を的確に抉り心臓を貫通するはずだったナイフの軌道上からレイジが消失、右に瞬間移動。ナイフと胸板が平行になるよう右に体を捌いたレイジの顔は笑っている。笑っている。
 医療用眼帯で覆われた目の隣、薄茶の目に轟々と狂気が渦巻く。
 「久しぶりだな東の王よ、正統ロマノフの末裔たる気高き皇帝の足元にも及ばん出自卑しき雑種の王よ」
 乾いてひび割れた唇が捲れ上がり、鋭く尖った犬歯が覗く。
 「私は心よりこの日を待っていた、狂おしく待ち望んでいた。再びお前と見えて真なる王者を決する日を待ちわびていた、ただそれだけを望みに唾吐かれ罵倒され夜毎下僕の慰み者となる屈辱の日々に耐えてきた。地獄だったぞ、まさに!お前に想像できるか永きに渡る私の苦しみが、かつては忠実な家臣として従順な下僕として私の足元にひれ伏した者どもに嬲られる恥辱が!!」
 肩に流した銀髪が瘴気を孕んで膨らむ。
 いくら鈍い俺でもすぐにわかった。サーシャの目的は復讐だ。皇帝の座を追われてから雌伏数ヶ月、過去の栄光に齧りつき復讐の刻を窺いつづけた廃帝の恨みはいかばかりか……
 「タイミング悪ぃ!」
 思わず舌打ちが出る。
 いきなりでてくんなよサーシャ、心臓に悪いだろうがと心の中で罵倒するも現実の俺は廊下に立ち竦んだまま動けやしない。レイジとサーシャの殺し合いに巻き添え食っちゃたまらないと隅っこに退避、壁にぴたり背中を付けて呼吸を整える。
 どうする?どうしたらいい?
 俺はじっと見てるだけか、レイジとサーシャの殺し合いをぼけっと見物してるだけか?
 「ホセ、何とかしろよ!南のトップだろ!」
 「サーシャくんとレイジくんの殺し合いは東京プリズン名物の年中行事、お二方の邪魔はできません」
 ホセはどことなく楽しげだ。分厚い眼鏡の奥の目を細めて壮絶な殺し合いを眺めている。
 離れたところでガキの喧嘩を見守る大人の目線だ。
 レイジとサーシャのやんちゃっぷりを微笑ましげに眺めるホセに頭に血が上る、南のトップなら責任もって止めろよと怒鳴りかけてぐっと言葉を飲み込む。トップに良識を求めるほうがどうかしてる。
 ホセの説得を諦めて得物を手にぼさっと突っ立ってる門番を見比べる、南の門番二人組は突如目の前で始まった殺し合いについてけずぼけっとしてる。
 完全な思考停止状態。
 「お前ら門番だろ、得物持ってんだろ!手遅れになる前に止めに入れ、サーシャもレイジも頭に血が上ってる、このまま放っとけば渡り廊下崩壊……」
 「冗談じゃねえ、王様と皇帝の一騎打ちに割って入る命知らずの馬鹿がどこにいる!?」
 「とばっちり食って殺されるのはごめんだ、そんなに心配ならてめえが何とかしろ!」
 我に返った門番が口々に反論、唾と一緒に罵声を飛ばす。
 ぐっと押し黙る。
 そうだ、その通り。他力本願はよせ。キレたレイジを止められるのは俺だけだと自分を叱咤、恐怖に竦んだ足を引きずるように歩き出す。
 「刃の錆にしてくれるわっ!」
 「おもしれーじゃんか廃帝、鈍らナイフで頚動脈切り裂けるもんなら切り裂いてみろよ!お前とダンスすんのも久しぶりだ、足が棒になるまで踊ってくれよ!」
 レイジは素手、サーシャはナイフ。しかしレイジはハンデを物ともせずサーシャを軽くいなしてる。
 実力ではレイジが上。
 怒り狂ったサーシャが獲物にとびかかる蛇の俊敏さで腕を跳ね上げる、間接が無いかの如く腕を柔軟に振り回してナイフを突き入れる。
 レイジは軽快なステップで悉くを回避、脇腹を掠めたナイフが上着の切れ端を攫っていっても気にせず後方へ跳躍し間合いをとる。サーシャが奇声を発する。頭を屈めた姿勢で疾駆、レイジの間合いを侵して横ざまにナイフを振り上げる。
 白銀の残光を曳いたナイフが、レイジの右肩から左脇腹へと抜ける。
 「東京プリズンの支配者は私一人で十分、毛色の珍しい雑種は血抜きして剥製にしてくれる!」
 「レイジっ!?」
 サーシャの死刑宣告に俺の悲鳴が重なる。
 ビリッ、と音がする。布が裂ける甲高い音。ナイフの刃が布を噛んで断ち切る音。間一髪、半歩だけ後退したレイジの右肩から脇腹にかけて袈裟懸けに裂けて素肌が覗く。
 布切れが宙を舞う。
 服を斬らせて身を守る高等な回避術、あと半瞬反応が遅ければナイフの刃が肉を裂き盛大に血が噴き出していた。
 上着の裂け目から褐色肌を覗かせレイジが舌打ち、きょろきょろとあたりを見回す。
 「素手はちょっときついな」
 手頃な得物を捜してると直感、弾かれたように走り出す。
 「!?おま、なにすっ」
 ぼけっと突っ立ってる門番二人組に走り寄り、激しい揉み合いの末に鉄パイプを奪う。
 「レイジ、受け取れ!」
 腕を大きく振りかぶり鉄パイプを投擲、天井すれすれの放物線を描いた鉄パイプが狙い通りレイジの手におさまる。
 「サンキュ、ロン!」
 虚空で旋回した鉄パイプを難なくキャッチ、俺を振り返る余裕を見せたレイジの正面に影が揺らぐ。
 「よそ見すんな馬鹿っ、」 
 甲高い金属音が鼓膜を突き抜ける。
 体前に翳した鉄パイプに刃が食い込む。金属が金属と噛み合う耳障りな音……力と力が拮抗する軋り音。レイジが両腕を突っ張り体前に押し出した鉄パイプは火花を散らして刃を受け止めた、鉄パイプの表面に刃をめり込ませたナイフはそこで停止し両者に膠着状態が訪れる。
 いつ崩れてもおかしくない危うい均衡の中、前傾姿勢をとってレイジにのしかかったサーシャが口を開く。
 「暗殺の技量でお前に劣るなど絶対認めん」
 肘まで袖が捲れた腕に静脈が浮かぶ。
 ナイフの柄が砕ける程力を込めているのが五指の強張りでわかる。
 骨と皮ばかりの体のどこに鉄パイプを刻む力を秘めているのか、今この時も鉄パイプを噛んだ刃は不吉な軋り音を上げて金属を削っている。
 空気が緊迫する。アイスブルーの目に炎が燃え上がる。
 「生まれつきの暗殺者は自分だけだと思っていたのか。奢るなよレイジ」
 「どういう、ことだよ」
 鉄パイプを体前に構えて斬撃を防いだレイジが顔を顰める。
 サーシャがクッと喉を鳴らす。
 ひょっとしたら、笑ったのかもしれない。
 「暗殺を生業とするのはお前だけではない。私とてモスクワのサーカスで訓練をした、一発で標的を仕留めるべくナイフ投げに励んだ。爪が剥がれても手の皮が剥けてもナイフを投げ続けた。そうして私は私になった、皇帝サーシャとなったのだ!その私がお前に劣るなどあってはならん、ペア戦では不本意な敗北を喫したが暗殺者としての技量まで劣るとは到底思えん。何故ならお前は卑しき雑種、私の足裏を舐めるのが似合いの卑しい犬だからだ!レイジよ今ここで決めようではないが、どちらが暗殺者として上かはっきりさせようではないか!ちょうどあそこに隠者もいる、私には暗殺を任せられんとお前を選んだ憎き男があそこにいる!」
 「どういうことだ、ホセ」
 ホセはにこやかに俺を見る。
 野暮ったい黒縁眼鏡の奥で糸目が柔和に笑ってる。
 嫌な予感が徐々に形を取り始める。
 「お前まさか、二股かけたのか。サーシャにも『あの事』頼んだのか!?」
 「保険ですよ」
 ホセがしれっと嘯く。 
 「彼もまたナイフ使いの暗殺者として裏社会で名を馳せた身、どちらがより我輩の意中に沿って動いてくれるか秤にかけた上でお二方に声をかけるのが礼儀でしょう」
 「おま、サーシャがレイジライバル視してんの承知でっ……」
 ホセの顔を覗き込む。細めた目に酷薄な光が宿る。限りなく無表情に近い淡白な笑顔は完璧に感情を抑制する理性の働きによるもの。ホセにしてみりゃ今この瞬間起きてる出来事も計算どおり、二人を競わせて実力を測るショーなのだ。どちらがより手駒にふさわしいか暗殺者として上か、それを知る為にあえてサーシャに声をかけて南棟帰りのレイジにぶつけたのだ。

 レイジもサーシャも操られてるにすぎない。
 渡り廊下で突如行われた殺し合いの黒幕は、ホセだ。

 「…………くそったれ!」
 「お褒めに預かり光栄です」
 ホセがおどけて肩を竦める。ホセはあくまで傍観者に徹するつもりだ、レイジが死のうがサーシャが死のうが指一本動かす気はないとしれっと取り澄ました表情が言っていた。
 くそったれ。
 もう一回口の中で呟き、頼りにならないホセを放っぽって体当たりでレイジを止める覚悟を決める。ペア戦の二の舞はごめんだ、相棒のピンチをただ眺めてるのはこりごりだ。
 「……なるほど、ホセらしいや」
 レイジが薄く微笑む。地獄耳のレイジにはホセと俺の会話がばっちり聞こえてたんだろうが、とくに取り乱す様子もない。俺よりホセと付き合いが長くホセの本性をばっちり知ってるのだ、隠者の謀を鼻で笑い飛ばせるくらい王様はどっしり構えてる。
 不意に腕の力を抜き、サーシャが前のめりによろめくと同時に鉄パイプを跳ね上げナイフを弾き返す。
 圧力の消えた鉄パイプを片手に下げ、レイジがため息を吐く。
 「サーシャ、お前そんなに所長殺したいのか」
 「……愚問だな」 
 赤い舌が扇情的にナイフを舐め上げる。
 横に寝かしたナイフに頬ずり、狂気に濡れた隻眼を細める。
 恍惚とした表情でナイフに接吻、そこはかとなく淫靡な湿りけを漂わせてナイフの表面に舌を這わす。
 「私からお前を奪った男が憎くないはずないではないか」
 「北でも噂になってんのかよ?」
 レイジが世にも情けない顔をする。
 サーシャがいやらしくナイフを愛撫する。
 平行に寝かせたナイフにこれ見よがしに頬ずり、卑猥に蠢く舌で金属の表面に唾液を塗り付ける。
 横に斜めに翻るナイフの表裏を這い回る舌。唾液を捏ねる音もいやらしく、フェラチオを思わせる淫らな舌遣いでナイフの切っ先から根元まで貪り尽くす。
 頬が悩ましく上気する。
 艶めかしく目が潤む。
 刃で切れた舌から唾液に溶けた血が滴り落ちる。
 舌の先端から粘着の糸引く血が垂れる。
 ナイフに奉仕する傍ら、完全にイッちまった表情でレイジを仰ぐ。
 「所長の奴隷に成り果てるとは東の王も落ちぶれたものだ」
 サーシャが傲慢に言い放つ。隻眼には侮蔑の色。
 「まんまと下克上されるたあ北の皇帝サマも落ちぶれたもんだな。さんざ威張り散らした下僕どもにマワされた感想が聞きたいね」
 レイジが傲慢に言い放つ。隻眼には嘲笑の色。
 「お前は私の犬だ、皇帝が愛する犬だ。突如降って湧いた変態に横から掻っ攫われる謂れはない。必ずや所長を殺しお前を取り戻す、そして今度こそ首輪を嵌め鎖に繋ぎ皇帝の下で飼い殺しにするのだ、光栄に思え!」
 略奪者への嫉妬がサーシャを突き動かす。
 肩に流した銀髪をさざめかせて急接近、殺意で研いだ刃が心臓に……
 「勝手なこと言ってんじゃねえ、レイジは俺の物だ!!」
 体が自然に動く。
 南の門番からトンファーをひったくり走り出す。心臓を抉らんとしたナイフが鉄パイプで弾かれてサーシャが大きく体勢を崩す、前のめりにたたらを踏んだサーシャに隙ができる。今だ。
 小柄な体とすばしっこさを生かしてサーシャの懐に潜り込む。
 「!?ぎあっ、」
 トンファーで思い切り脛を強打、たまらずサーシャが膝を屈する。
 脛をしたたかに打ち据えられた激痛に悶絶するサーシャ、その眼前でトンファーを構える。
 「お前にも所長にもレイジを渡すもんか、レイジは俺の相棒なんだよ!」
 「かっこいー。惚れちまいそ」
 レイジが軽薄に口笛を吹く。野郎、人の気も知らねえで!
 レイジを背に庇うように立ち塞がった俺の足元、脛の激痛に呻きながらサーシャがガンをとばす。
 「下がれ、猫め。王と皇帝の聖戦を邪魔するな」
 「下がらねえ」
 何も無いよりマシだと思い、見よう見真似でトンファーを構える。
 心臓が爆発しそうに高鳴る。渡り廊下のど真ん中、レイジを背に庇った俺の正面にゆらり瘴気を漂わせてサーシャが立ちはだかる。
 幽鬼めいて緩慢な動き。
 「ならば、もろともに滅ぼすまでだ」
 「ロン、下がってろ!」
 凄まじい殺気が吹き付ける。
 蛇のように玄妙な動きで腕を泳がすサーシャに釣り込まれ、ふわりと前に出る。まずい。我に返るより早く頬に痛みを感じる、ナイフが頬を裂いたのだ。
 咄嗟にレイジが俺を抱いて横ざまに身を投げ出してなけりゃ危なかった、口が耳まで裂けていた。
 レイジに押さえ込まれた姿勢から無理を承知で翻意を求める。
 「サーシャ、話を聞け!こんな所で殺しあっても意味ねえよ、冷静になれ!全部ホセが企んだ事なんだ、レイジと殺しあうよかホセとっちめるほうが先だろうが、順番間違えてんじゃねーよ!」 
 鼻先にナイフが突き立つ。
 俺の鼻を削ぎ落とそうと腕を振り下ろしたサーシャが忌々しげに舌打ちする。レイジに後ろ襟を引っ張られて間一髪首を引っ込めたのが幸いした。レイジが俺を乱暴に突き飛ばす、俺はそのままゴロゴロ廊下を転がる。視界が反転、天井と床が忙しく入れ替わる。勢いを殺せず背中から壁に激突、内臓に打撃を受けて激しく咳き込む。
 「がほっごほっ……」
 「死にたくなけりゃ引っ込んでろ、ジャンキーに言葉は通じねーぜ!?」
 バネ仕掛けの瞬発力で跳ね起きたレイジがスニーカーのつま先で俺が落としたトンファーを蹴り上げる。
 宙に舞ったトンファーが蛍光灯を直撃、反射的に頭を抱え込む。蛍光灯の破片が鋭くきらめき降り注ぐ中、光の乱反射で目を潰されたサーシャがナイフを振り回す狂乱を演じる。
 「卑怯だぞ東の王め、正々堂々勝負し……」
 軽快な靴音が駆けてくる。
 「おもろいことやっとんなー。俺も混ぜてや」
 次の瞬間、サーシャがもんどり打って吹っ飛ぶ。
 体の側面に飛び蹴りが炸裂したのだ。
 サーシャに飛び蹴り食らわせたついでに逆上がりの反動で一回転、天井に靴裏掠らせてすたんと降り立ちトレードマークのゴーグルをぐいと押し上げる。
 「あら、おらへん。さっちゃんどこ行ってもうたん」
 素人離れした身ごなしの闖入者はヨンイルだった。
 「ナイスヨンイル、助かったぜ」
 ヨンイルに蹴り飛ばされたサーシャを警戒、起き上がってきた時に備えて身構える。濛々と舞い上がる埃の向こう、床に突っ伏したサーシャは気を失ってるのかぴくりとも動かない。
 終わった、のか?
 あっけない幕切れに脱力。
 埃が晴れるのを待ちサーシャに接近したレイジがつま先で腕をつつくも反応はない。うつ伏せに倒れたきりうんともすんとも言わないサーシャのそばにヨンイルが寄ってくる。
 「なんやむかつくなー……俺抜かしたトップが渡り廊下に集まって楽しい事しとったみたいやんけ。すぐそこの医務室におるんやから声かけてくれはったらええのに、俺だけ仲間はずれにしくさって感じ悪いわー」
 「遊んでたんじゃねーよ、殺しあってたんだよ」
 ぶすっとむくれたヨンイルに惰性でつっこむ。
 唐突な拍手。
 全員揃って顔を上げる。
 「いやはや愉快な見世物でした。重度の覚せい剤中毒者といえどサーシャ君のナイフの切れは鈍ってない。ロン君を庇いながらサーシャ君と互角に渡り合ったレイジくんもさすがといいますか、お二人の殺し合いに恐れ入った次第です」
 「お前が仕組んだんだろ」
 「なんのことやら」
 ホセがそらっとぼける。
 「二股かけられるなんざ舐められたもんだな、俺も」
 拍手しながら歩いてくるホセに鉄パイプを投げ返し、レイジが不敵に微笑む。
 「俺とサーシャ両方に唾つけて駒にするつもりだったんだろ。生憎ここは東京プリズン、いつ何が起きて誰が死んでもおかしくねえ砂漠の真ん中の監獄だ、俺に不幸があった場合はサーシャに暗殺任せるつもりだった。逆もまたしかり。サーシャが怒り狂うのも当然だ、俺とアイツのどっちが暗殺者として優れてるか秤にかけられたんだから。隠者は全部最初からお見通しってわけか、ファッキン」
 「お気に障ったんなら失礼。ですがこれも確実に所長を消すため、人選には慎重を期さねば……」   
 「『こんな男は地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない』」
 ひどく醒め切った目でホセを見下し、静かに宣言。
 弁解を続けるホセにあっさり身を翻し歩き出すレイジ、慌ててその後を追う。
 「気分が変わった。例の話はなしだ。サーシャと二股かけるよーなヤツ信用できるか。二股かけるのは好きでもかけられんのは大っ嫌いなんだよ、俺は。所長殺したけりゃ他当たれ。それこそ床で伸びてる元皇帝サマにでも頼みゃいいだろ」
 うつ伏せに倒れたサーシャに顎をしゃくる。
 靴音響かせて廊下を歩くレイジ、その背を声が追ってくる。
 「本当にいいのですか、東の王。今いちばん所長に苦しめられてる君だからこそ話を持ちかけたのですが」
 レイジが立ち止まる。
 靴音の残響が虚空に吸い込まれ、静寂が深まる。
 激しい不安に駆られてレイジの背を見守る。
 思慮深く黙り込むレイジの背中を見詰め、ホセが淡々と続ける。
 「北でも南でも西でも噂になっています、東の王が所長の性奴隷に成り果ていいように弄ばれていると。所長の束縛から逃れられるなら悪い話ではない、復讐のチャンスが巡ってきたと喜びこそすれ断る理由が見つからない。それこそ我輩は不思議でしょうがない。東京プリズン最強の男、無敵無敗のブラックワーク覇者たる王がなにゆえ理不尽な仕打ちに抗しないのです。弱味を握られている?被虐趣味に目覚めた?それとも……」
 異変を察してレイジを凝視。
 不規則に肩が痙攣、クッと声が漏れる。
 笑い声が爆発したのは次の瞬間だ。
 そこれそホセの挑発が引火したが如く発作に襲われた体が意思に関係なく仰け反り跳ねて藁色の髪が盛大に散らばる。
 全身で笑いを表現するレイジに呆然とする。
 酸欠になる一歩手前、深呼吸で笑い納めたレイジが緩やかに振り向く。
 晴れやかな笑顔。
 「人に命令されるのは性に合わねえ。俺が殺したいヤツくらい俺が決めるよ。さらに言うなら」
 視線と視線が衝突する。
 穏やかに笑うホセと晴れやかに笑うレイジ、その目だけが限りなく無表情に近い。
 「お前の思い通りになるのが凄まじく不愉快だからだよ」
 空気が極限まで張り詰める。
 一触即発、いつ爆発してもおかしくない緊迫した空気の中でレイジが歩みを再開。
 大股に遠ざかるレイジに何とか追いつき、おそるおそる横顔を窺う。
 笑みは消えていた。 
 「レイジ……、」
 「心配すんな、ロン。俺はどこにも行かねーよ」
 おそるおそる声をかけた俺に向き直り、包み込むように微笑む。
 レイジに笑顔を向けられても安心するどころか不安がいや増す。
 近くにいるレイジを遠く感じる。レイジとの距離を縮めたい一心で足を速めて褐色の手に指を滑り込ませる。
 レイジの手をぎゅっと握れば、強い力で握り返してくる。
 俺の手を握り締め、前だけ見て独りごちる。
 「殺るのは簡単だ。問題は殺ったあとだ」
 『お前と離れ離れになりたくない』
 レイジが二度と放さないと決意を込めて俺の手を握る、どこか縋り付くように必死に。
 俺もさらに力を込めて握り返す、縋り付くように必死に。 
 「逃げるのか、東の王よ」
 心臓が止まる。息を呑んで振り返る。
 縺れた銀髪を振り乱し、サーシャが床を這いずる。
 コンクリ床に爪を立て動かぬ体をひきずり、執念深くレイジを追ってくる。
 顔に被さった前髪の奥、アイスブルーの目に激情が奔騰する。
 「殺し合いを放棄するか、猫を連れて去るか、臆病者め。そうやって逃げる気か、私から隠者から所長からも逃げて逃げて逃げ続けて安住の地を探す気か。笑わせるな愚か者め、お前に安住の地などあるはずがない!!地獄はいつもいつまでも付いて回るぞ。お前がお前である限り魂の安息など訪れはしない。お前だって本当はわかっているだろう。お前が最も生き生きするのは殺し合いに身を投じる時、お前と私は同じ生まれついての暗殺者、そうだ、お前は生まれついての……」
 
 サーシャが絶叫する。
 あまりの忌まわしさに誰もが目を背ける真実を暴き立てるように。  
 「暴君だ!!」

 渡り廊下に絶叫の余韻がたゆたう。
 血を吐くように叫んだ直後、サーシャが激しく咳き込む。覚せい剤でボロボロの体で声を振り絞ったせいで内蔵が痛んだらしい。咳は止まらない。ヨンイルがサーシャの肩を掴み「大丈夫か?」と覗き込む。
 ヨンイルが差し伸べた手を拒み、いっそう激しく噎せたサーシャが本物の血を吐く。
 赤い血。鮮血。
 コンクリ床に散った赤い血痕にヨンイルがぎょっとする。
 「サーシャ、おどれ……」
 レイジの手がすり抜ける。
 無造作な足取りでサーシャのもとへと戻り、正面に片膝付く。
 咳のし過ぎで喉が切れたか内蔵が傷んでいるのか、唇に血糊を塗ったサーシャが顔を上げる。
 朦朧と焦点彷徨う目で仰がれ、レイジが聖母の微笑みで応える。 
 「いつでも来いよ。相手してやるよ」
 乱れた銀髪を優しく撫でる。
 レイジがもう一方の手で自らの眼帯を外し、遠くに放り投げる。一抹の未練なく投げ捨てられた眼帯がふわりと宙を滑り、床に落ちる。
 現れたのは無残な傷跡、サーシャにナイフで切り裂かれたあと。
 もはや咳を抑えるだけで精一杯、手を振り払う気力もないサーシャの眼帯を剥ぎ取り、器用に紐を引っ掛けて顔に垂らす。  
 黒革の眼帯を掛けたレイジがサーシャの顔を手挟み、ゆっくりと起こす。
 「それまでコレは預かっといてやる。審判の喇叭が吹かれる前に取り返しに来い」
 誰もが目を奪われる魅力的な微笑みを浮かべ、祝福を授けるように唇の端にキスをする。力尽きて瞼が下り、サーシャが完全に意識を失う。顔を手挟まれたまま失神したサーシャをヨンイルに預け、レイジがあっさり立ち上がる。
 「お待たせ。行くか」
 戦利品の眼帯を掛けた王様が飄々と歩いてくる。
 圧倒的な自信。
 圧倒的な余裕。
 威厳を感じさせる黒革の眼帯は王様によく似合っている。  

 俺にはそれが片目に施された封印に見えて。
 次に暴君が目覚めるのは眼帯が外れた時だと思った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050513152327 | 編集

 「静かだと読書がはかどっていいな」
 時刻は夜、皆が寝静まった頃。
 見舞いの客の絶えた深夜、風邪をこじらせて肺炎を併発した者や強制労働中の事故またはリンチで骨折した者、いずれも立って歩けない重患ばかりを収容した医務室では話し声もしない。
 自分の意志で動けない重患は本を読む以外にすることもないが、知的好奇心旺盛な僕を除いて低脳揃いの囚人が自発的に本を読むはずもなく、従って長い夜を持て余した彼らは早々と眠りに就く。
 素晴らしく健康的な習慣だが、もともと読書好きで就寝時刻が過ぎても本に齧りついていた僕には関係ない。
 今夜もまた熱心に本を読み耽ってふと気付けば就寝時刻を大幅に過ぎていた。
 まずい。
 きりの良い所で本を閉じ、枕元に置く。
 医務室は煌煌と明るい。タジマの襲撃事件をきっかけに一晩中電気を点灯しておくようになったのだそうだ。おかげで読書に集中できた。久しぶりに読書に没頭できた満足感にため息を吐き、そろそろ就寝しようと眼鏡の弦に手をかける。
 眼鏡の弦に指をふれ、そのまま考え込む。
 「……サムライはちゃんと眠れているだろうか。睡眠不足になってはいないだろうか」
 サムライは今どうしているだろう。
 元気でやっているのだろうか、体調を崩したないだろうか。
 ちゃんと食べているのだろうか、無精ひげの手入れはしているのだろうか、僕がいない房で毎日何をして過ごしているのだろうか。
 会いたい。サムライに会いたい。
 静かに目を閉じて瞼の裏にサムライの面影を想起、おそるおそる体に触れる無骨な手の感触と力強い抱擁を反芻する。
 突然胸の発作に襲われる。
 心臓がきりりと痛むような感覚。サムライの手、指。愛しげに僕の髪を摘み、愛で、鋏を入れる。シャキンと涼やかな音、冷えた金属音。手際よく僕の後ろ髪を断ち切るサムライ、その真剣な表情と一途な眼光を懐かしく思い出す。
 またサムライに触れたい。
 触れて欲しい。
 触れ合いたい。
 心と体がサムライを求めている、全身の細胞が狂おしく疼いてサムライを求めている。
 「…………っ、」
 寂しい。
 唐突にそれを痛感する。
 サムライが隣にいなくて寂しい、彼に触れてもらえなくて寂しいと感じている事を受け容れる。
 物思いから醒めて、サムライがいない現実に立ち返る。
 思わず肩を抱きあたりを見回す。
 ベッドの周囲は純白のカーテンに閉ざされている。衝立に遮られた向こうにはここと同じ個別空間がいくつも存在する。
 医務室はとても静かだ。
 かすかな、本当にかすかな空調音の他にはごくささやかな衣擦れの音と不明瞭な寝言と規則正しい寝息しか聞こえない。今手を伸ばしてカーテンを開けたら何もないのではないか、一面の無が広がっているのではないかと錯覚に襲われる。
 まさか。そんな不条理あるわけがないと自嘲しようとして失敗、半笑いで固まる。
 僕と世界を隔てるのは薄いカーテン一枚きり、この向こうに今までどおり世界があると言いきれるか?
 カーテンを開けたらは何もないんじゃないか、ただ空白が広がっているだけではないかという疑問がにわかに現実味を帯び始め不安を増幅する。
 虚空に手を伸ばし、カーテンに触れようとして、ためらう。
 「…………」
 指を引っ込める。
 「……馬鹿な、僕は孤独を感じているのか?一人で眠れない子供じゃあるまいし、情けない」
 動悸が激しくなる。
 目をしっかり閉じて落ち着こうと努める。
 夜は長い。まだ始まったばかりだ。はたして永遠に等しく長い夜に耐えられるだろうか、虚無に呑み込まれはしないだろうか。
 昏睡状態の時の夢のように……

 その時だ。
 「!!」

 物音が、した。
 医務室の扉が開く音、続く靴音。誰かが医務室に入ってきた。
 誰だ?
 侵入者の正体がわからぬまま片膝立って警戒する。足音が近付いてくる。一定の歩幅で歩いてるらしい靴音……耳がひどく敏感になっている。聴覚を研ぎ澄まし侵入者の気配を探る。
 医者は何をしている、無断で入ってきた者を咎めないのか?
 全く頼りないなと舌打ち、カーテンを掴む。
 「誰だ、そこにいるのは。安眠妨害の不法侵入者はすみやかに退去、」
 「直か」
 心臓が跳ねた。カーテンを掴んだ手が強張る。
 正面のカーテンに影が映る。影だけでわかった。深夜こっそりと医務室を訪ねてきたのは僕が会いたくて会いたくてたまらなかった男……
 サムライだ。
 しかし何故サムライが?見張りはどうした?
 「サムライ、見張りはどうした。斬ったのか」
 「木刀で人が斬れるわけがない。生憎俺の腕はそこまで達してない」
 「そう、だな。物理的に不可能なことを言ったな、僕は。今の発言は忘れてくれ」
 片手で頭を支えて俯く。僕自身混乱している、動揺している。
 会いたくて会いたくてたまらなかった男が突然現れてどう対処していいか思い悩んでいる。夢じゃないのか、サムライを求めるあまり幻覚を見ているのではと次々と疑問が浮かぶ。
 「サムライか。本当にサムライなのか」
 「ああ、俺だとも」 
 くどいほどに念を押せば、僕の動揺を汲み上げるように落ち着いた声が返ってくる。
 サムライだと直感する。
 サムライの声を忘れるはずない、聞き間違えるはずがない。会いたくて会いたくて会いたくてたまらなかった男が今ここにいる、カーテンの向こうに所在なく立ち竦んでいる。
 胸が熱くなる。様々な感情が一挙に込み上げてくる。
 物狂おしい衝動に駆られて毛布をどかしてベッドを這い進み、サムライの吐息でかすかに波打つカーテンに顔を近付ける。  
 大きく深呼吸する。

 「この低脳、今更来ても遅い!!何故今頃になってやってくるんだ、わかっているのか、三週間だぞ三週間!僕が手術を終えて入院してから既に三週間が経過する、この三週間君は所在なく廊下をうろうろしていただけ、すぐそこに僕がいるのに扉を蹴破ってとびこんでこなかったのは何故だ、扉を蹴破る労力を払うほどには僕に会いたくなかったとでも言うのか、医務室の扉と比べて僕はとるにたらない足らない存在だと言うのか、IQ180の頭脳の天才鍵屋崎直が無機物に敗北したとでも!?確かに医務室の扉はシンプルでありながら洗練されたデザインで機能的に優れているし清潔な白塗りの外観は美しいと評せなくもないし頑丈な造りで安全性も」

 「落ち着け直、医者が起きる」
 「この期に及んでごまかすとは卑怯だぞサムライ、僕が無機物の扉にも劣る存在なのかどうかはっきりしろ!」
 馬鹿な、これじゃまるで扉に嫉妬してるみたいじゃないか。
 無機物に嫉妬するほど僕は落ちぶれてないぞ、そんな次元の低い嫉妬ありえない。否、嫉妬に次元の低いも高いもないか。
 待て、そういう問題じゃない。
 僕はサムライに怒っているんだ、激怒しているんだ。三週間も僕を待たせた挙句に今頃になってひょっこりやってきて「直か」だと、僕がこの三週間どんな気持ちでいたと思っている、朝起きて昼読んで夜寝て夢の中でも君を待ち望んでいたと思っている!?
 胸が苦しい。
 サムライに会えたら胸の痛みが無くなると思った、胸のしこりが溶けると思った、サムライの面影を抱いて煩悶する夜から抜け出せると思った。しかし実際彼の声を聞いてカーテンに映った姿を見たら瞬時に理性が蒸発、僕は激情をぶちまけていた。
 縋るようにカーテンを掴み、激しく揺さぶる。
 「思い上がるなよサムライ。君などいなくても平気だった、僕の日常は変わらなかった」
 カーテンの向こうでじっと耳を澄ます気配。
 サムライは微動だにせず僕の咆哮に耳を傾けている、弁解ひとつせず非難を浴びている。
 僕には容易に想像できる。
 体の脇でこぶしを握りこみ悄然とうなだれて、しかしなお口元を一文字に引き結んだ頑固な顔つきで忍耐強く罵倒を受け止める男の様子が。
 「君如きの不在で僕が変わるはずがない、僕がどうかするはずがない。いつもどおり朝起きて食事をし本を読みロンやヨンイルと他愛ない話をしてこの三週間そうやって過ぎていった、君がいなくても僕は何も不自由しなかった、君がいなくても!!」
 「俺は」
 僕の言葉を遮るようにサムライが口を挟む。
 カーテンに縋り付いたまま、沈黙の重みに耐えて顔を伏せる。
 機械的な空調音がかすかに流れる中、男が淡々と続ける。
 「俺はただ、寂しかった。とても寂しかった。言葉では言い尽くせぬほどに」
 苦悩が滲んだ声音だった。
 カーテンを開けなくとも目の下に隈を作った顔がまざまざと想像できた。憔悴した面差しのサムライを脳裏に思い浮かべ、何か言いかけて口を開き、また閉じる。
 不用意に口を開けたら嗚咽が零れてしまいそうだ。
 だから僕はぐっと奥歯を噛み締める、しっかりと唇を噛んで体の奥底から噴き上げる激情を抑圧する。
 「夜毎お前の毛布をなでた。少しでも近くにお前を感じたくて、お前の感触を思い出したくて、お前のベッドに寄り添っていた。寝ても覚めてもお前のことばかり考えた。元気にやっているか、怪我は治ったか、苦しんではないか、食事が喉を通るようになったか……いつ頃帰ってくるのか」
 カーテンが空気を孕んで膨らみ、手の形が浮き出る。
 サムライがカーテン越しに手を伸ばしてきたのだ。カーテンを纏った手が、そっと頭におかれる。カーテンに遮られていても手の熱を感じる、骨ばった指の感触を感じる。
 「……元気そうでよかった。毒舌も健在だ。俺が知る、俺の直だ」
 「そうだ。君の直だ」
 嗚咽を堪えてそれだけ返す。
 サムライが慎重な手つきで頭を撫でる。胸に蟠っていた何かが急速に溶けていく。サムライが会いに来ない不満や寂しさや怒り、それら負の感情が瞬く間に浄化されて体の内側を涼風が吹き抜ける。
 最初はおずおずと、徐徐に大胆さを増して僕の頭を撫で続けるサムライ。僕の髪の感触をいとおしむように触れていた手がやがて顔へと折り、頬を包む。
 「愛しい直だ」
 緩く目を閉じてサムライの手に身を預ける。
 頬を包む手が心地よく安心感を与えてくれる。サムライがゆっくり手を動かし、僕の頬をさする。頬とカーテンが擦れて少しくすぐったい。
 「……手紙、読んだぞ。何だあれは?朴念仁にも程がある」
 小声で文句を言えば、サムライが憮然と黙り込む。 
 「……仕方なかろう。病床の友に何を書けば良いやら判断がつきかねたのだ」
 「封筒に入ってた髪はちゃんと洗ったのか」
 「無論だ」
 「ならいい」
 サムライの愛撫に身を委ねる。
 ゆるやかに頬をさする手から甘美な感覚が生み出される。
 繊細さがかけらもない無骨な手なのに、僕の頬を包んでさする仕草はとても愛情深く、どことなく淫靡でさえある。
 猫が喉を撫でられたらこんな気分なのかもしれない。
 サムライは僕の気持ちいい所を熟知している、僕が最もして欲しい事を汲み取ってくれる。
 心が奥底で繋がっている。頬を包む手から感情が流れ込む。
 「…………すまなかった」
 真摯な謝罪に薄目を開ける。カーテンに映る人影が深々うなだれる。 僕の頬から手を引いたサムライが、苦しげに続ける。
 「危険な目に遭わせてすまなかった。すべて俺の責任だ、俺がお前を手放しさえせねばこんな事にはならなかった……何も知らぬお前を帯刀の因縁に巻き込んでしまった」
 「サムライ………」
 「俺がもっとしっかりしていれば、お前を守りぬく覚悟があればこんな事にはならなかった。お前は血を流さずにすんだのだ。俺の手は血塗れている。静流の手も血塗れている。帯刀家は血塗れた一族、所詮は殺し合いの中でしか生きれぬのだ」
 「サムライ、それは違う。宿命も運命も僕は信じない。人生を左右するのは選択で決定するのは意志だ、それ以外にありえない。確かに君が人を殺したのは事実だ、しかしそれには理由があった、許されはしなくても共感されるべき理由が……」
 「知っているのか」
 周囲の温度が一二度下がった気がした。
 失言に気付いて口を閉ざした時には遅く、あたりは重苦しい沈黙に支配されていた。カーテンの向こう、手を伸ばせば届く距離のサムライが何故か遠く感じられる。
 凍り付いた時間の中、生唾を嚥下して話しだす。
 「……静流から聞いた。君が実父含む門下生十二人を殺した理由を」
 息を呑む気配が伝わる。
 顔に浮かぶのは驚愕の相か悲哀の相か、僕には判断が付かない。
 カーテンを握り締めて顔を上げ、萎えそうな舌を叱咤して必死に続ける。
 「もしも僕が同じ立場でも同じことをする、世界で一番大事な人間がそんな目に遭わされたら同じ事をする。五十嵐の時と同じだ。僕はあの時ヨンイルに銃口を向けた五十嵐を止めたが自分がしたことが正しいなんて思い上がった事は一度もない、ただ僕はヨンイルを助けたかった、漫画の素晴らしさを教えてくれた大事な友人を失いたくなかったんだ。僕はヨンイルが好きだから」
 思い出す。
 亡き娘の為に人殺しとなる葛藤に苦しみヨンイルに銃口を向ける五十嵐、その銃口を掴み自らへと引き寄せるヨンイルの達観した表情……吹っ切れた笑顔。
 ヨンイルは死を受け容れていた、自分の死に納得していた。本来なら僕が口を出すべきではないとわかっていた、無関係の立場の人間が知ったかぶって止めに入るべきではなかった。
 しかしあの時は、そうせずにはいられなかった。

 『元気な重患やな。長生きすんで』
 生きる意欲を分け与える明るい笑い声。
 『ちょうど良かった、皆で動物のお医者さんに貪り読もうや。傷が塞がるまで暇やろ直ちゃん、二ヶ月も入院期間あるなら動物のお医者さんどころかガラスの仮面読破も不可能ちゃうわ。あ、せやけど傷開いて腸がどばーっと溢れたらヤバイからできるだけ笑い堪えてや!とくに漆原教授は出てきただけで笑えるから手のひらか紙で隠して……』 
 陽気に励ますヨンイル。
 僕はこれまでヨンイルに救われてきた、ヨンイルの明るさに支えられてきた。ヨンイルは友人だ。サムライとはまた違った意味合いの友人だ。僕はヨンイルを大事に想う、彼にはいつまでも笑っていて欲しいと願っている。
 西の道化にはいつも笑っていて欲しい。

 「……僕は正しくない。鍵屋崎優と由香利を殺したことが正しいなんて言えない、僕が両親を殺したせいで恵はひとりぼっちになってしまったのだから」
 もう随分昔の事の気がする。
 目を閉じて追憶に耽る。僕と全然似てない両親、鍵屋崎優の傲慢な顔と鍵屋崎由香利の辛辣な顔が交互に去来する。
 僕は両親を憎んでいた、恵が求める愛情を与えず子供を顧みず研究に没頭する両親を憎んでいた。
 しかし、二人を殺したのが正しい事のはずがない。
 カーテンがかすかに動き、悔恨の滲んだ声が漏れてくる。
 「…俺は俺自身が許せない。剣の師範たる父を殺して共に学んだ門下生を殺した罪は一生消えない。一生かけても償うことなど無理だ」
 自責と慙愧の念に苛まれて眉間に皺を刻んだサムライが、血を吐くように心情を吐露する。
 「しかし、もっと許せない者がいる」
 カーテンレールの金具が耳障りな音をたてる。
 サムライが何かに耐えるようにカーテンを掴み、肩を震わす。
 噴き上げる憤怒を堪えるように、込み上げる哀感を堪えるように、全身を強張らせる。カーテンの金具がうるさく鳴る。
 カーテンの向こうから押し殺した息遣いが聞こえてくる。
 布に顔を埋めるようにして、低く、ひび割れた声を搾り出す。

 「……俺は今でも奴らが憎い。苗に取り返しのつかない事をして死に追いやった連中が憎い。何も告げなかった父が憎い。俺はずるい人間だ。卑怯な男だ。苗は俺に殺されたも同然なのに今でも苗を慰み者にした連中が憎いのだ、奴らこそが苗を殺したのだと憎んで憎んで憎みぬいているのだ。多分奴らが生き返っても同じ事をする、俺はまた刀をとり連中を一人残らず斬り殺す。苗の弔い?馬鹿な、心優しい苗がそんな事望むはずもない。弔いと称してあの世に送りつけた下衆どもに喜ぶはずがない。俺はそれでも殺さずにはいられなかった、そうせずにはいられなかったのだ。苗を犯した連中がそれを知っていながら放置した父がどこまでも憎くて憎くて斬り殺さずにはいられないのだ!!」

 語尾が激情に掠れる。
 荒い息遣いが聞こえる。
 僕は呆然とカーテンを見上げていた。
 カーテンの向こう、いつもの鉄面皮をかなぐり捨てて激しい本性を曝け出すサムライに圧倒された。
 静謐が降り積もる。
 世界が消えたようだ。否、違う。世界は消えてなどいない。それが証拠にカーテンが揺れている、何者かが外側からカーテンを掴んでいる。
 その何者かが憎しみに濁った呪詛を吐く。
 己に流れる血に苦悩して。
 人斬りの血を呪い。
 「………何遍般若心経を唱えても心休まらぬ。罪は償えぬ。俺は人殺しだ。のみならず親殺しだ、苗を見殺しにした男だ。それでもまた奴らが生き返れば同じ事をする、躊躇なく刀を振るいヤツらを根絶やしにする!俺は………」
 拳がカーテンを打つ。
 カーテンが風を孕んで膨らむ。手ごたえがないのを承知で何度も何度も拳を振り下ろす、何も砕けないのを承知で虚しくカーテンを穿ち己を責め立てる。本当に砕きたいのは自分だ、しかし自分を砕いたら駄目だ、自分を砕けばもう僕は守れない。
 だからサムライは、
 「俺は、人斬りだ。武士ではない、侍ではない、ただの血に飢えた人斬りだ!!」
 悲痛な咆哮が胸を抉る。
 瞬間、体が動いた。
 カーテンが風を孕んで膨らんだ隙に胴に腕を回す。
 サムライの熱を、体温を感じる。胸の内に温かい感情が流れ込む。瞼が火照る。眼球が潤む。サムライの胴に腕を回し抱きしめる、縋り付くように抱擁する。カーテンが大きく捲れ、一瞬だけサムライの全身があらわになる。
 驚愕に目を見開いた顔。
 その顔を見た瞬間、僕の中で何かが爆発した。
 「君はサムライ以外の何者でもない、僕が愛した男が人斬りであってたまるか!!」
 サムライが力強く僕を抱きとめる。逞しい腕が肩を包み込む。 
 垢染みた囚人服の胸に顔を埋める。速い鼓動を感じる。サムライが今確かに生きている証だ。

 ああ。
 僕は彼が愛しい。
 かつて犯した罪ゆえに武士ではなく人斬りだと自分を責め続ける気高さが愛しい。 
 心の底から愛した女性を失った怒りに任せて刀を取り、父親と門下生十二人を斬り殺した。 
 恐ろしい男だ。
 しかし誰より彼を恐れているのは彼自身、サムライ自身だ。己に流れる帯刀の血を誇りに思うのと同じ位忌み嫌い、しかし逃れられず、人斬りと武士の狭間で苦しみ続けている彼自身なのだ。
 哀しい男だ。
 哀しいくらい真摯で、高潔で。
 優しくて。

 「………君が自身の罪を許せないなら、僕が許す。この世の誰も君自身ですら許せない罪でも僕なら許せる、許すことができる」
 僕への優しさは、己への厳しさの裏返しだ。
 渾身の力でサムライを抱きしめる。
 「君自身が許せなくても僕は受け容れる。僕らは同じ人殺しだ、親殺しだ。君に流れる血はどこも特別じゃない。血がどうしたというんだ、全身の細胞に栄養分を運搬する媒体となる体液、それ以上でも以下でもないじゃないか。そんな物にこだわって一生を無駄にするんじゃない、そんな物に『因縁』だとか『宿命』だとか大層な名前を付けて縛られるんじゃない。君は帯刀貢、本物のサムライだ。重要なのは血じゃない、そんな物じゃない、重要なのは……」
 サムライの胸に手をあてる。
 手のひらに規則正しい鼓動を感じる。
 「ここだ。ここに宿る物だ。君が『信念』と呼ぶもの、僕を包み込むものだ」

 サムライが己を憎んでも、許せなくても。
 彼を愛しく想う気持ちに変わりない。  
 君を愛しく想う気持ちに変わりない。

 「君はサムライだ。サムライ以外の何だというんだ」
 「…………直」
 サムライが僕を抱きしめる。強く、強く、強く。砕けそうなほどに。もう二度と失いたくない、奪われたくないと切実な決意を込めて。
 サムライのぬくもりに包まれて顔を上げる。
 双眸に優しい光を宿し、サムライが微笑む。
 「しばし、抱かせてくれ」
 「抱くだけで満足なのか」
 サムライが虚を衝かれる。不意に恥ずかしくなり、サムライの腕をすり抜けてカーテンの内側に隠れる。何だ、今の発言は。どうかしているぞ、僕は。二の腕をさすりサムライの抱擁を反芻、カーテンの外側の彼を見上げる。
 足音を殺し息遣いを潜めてカーテンに忍び寄る。
 カーテンに起伏ができている。サムライの顔の膨らみだ。
 カーテンの起伏に近付き顔のあたりを凝視、唇の位置を確かめる。
 「………………」
 目を閉じる。カーテンがそよぐ音が耳朶をくすぐる。
 そっとカーテンに寄り添い、布一枚隔ててサムライに顔を被せ、唇を重ねる。
 薄い布が頬をくすぐる。滑らかな布が唇にふれる。
 カーテンの向こう、僕にキスされたのに気付いているのかいないのか無言で佇むサムライから素早く身を翻す。
 淡い感触が残る唇に触れ、虚脱してベッドに座り込む。
 「全治二ヶ月だ。今はこれで我慢してくれ」
 急速に顔が上気する。カーテンの向こうから動揺の気配が伝わり恥ずかしさが倍増する。
 わざとらしい咳払いに一方的な言葉が続く。
 「また来る。達者でな」
 呼び止める暇もなく身を翻しサムライが出て行く。バタンとドアが閉じ、医務室に静寂が舞い戻る。
 「~~~~~っ!」
 顔が熱い。頭から毛布を被りベッドに突っ伏した僕のもとへ足音が近付いてくる。はっとして顔を上げれば、無造作にカーテンを捲って医者が顔を出す。
 「ふわあ、よく寝た……ワシが居眠りしてた間にお客が来たようだが、何を話していたんだね」
 医者が意味ありげに目配せする。
 居眠りしたふりでサムライを見逃した医者を鋭く睨み付け、最高に不機嫌な顔で言った。
 「血液の成分の話だ」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050512110239 | 編集

 房に帰るなり押し倒された。
 「!いきなりなにすっ、」
 「お仕置きだよ」
 殴りつける手は掴まれた、蹴り上げる足は押さえ込まれた、口は唇でふさがれた。
 乱暴なキスに前歯がぶつかり痛みを感じる。
 口腔を貪られ歯列の裏側をほじくられ危うく酸欠に陥りかける。
 十分に酸素が行き届かず頭が真っ白になる。
 いや違う、頭が空白になったのは思考が働かないのは今起きてる出来事についてけないせいだ。
 足掻けば足掻くほど深みに嵌まりぶざまを晒すとわかっていても、激しくかぶりを振り手足をばたつかせ暴れずにはいられない。
 抵抗を止めたら最後やすやす組み伏せられてヤられるのがオチだ。
 何でいきなりこんな事に?動転した頭で振り返る。
 渡り廊下を歩いてる時は普通だった、あるいは普通を装っていた。俺の手を握る指に次第に力が込められてくるのがわかった伝わってきた、迷子が縋り付くみたいに一縷な手の繋ぎ方だった。
 レイジが豹変したのは房に入った瞬間だった。
 背後で鉄扉が閉じる。周囲の壁に震動が走り残響の余韻がたゆたう。 軋みを上げて閉じた鉄扉を背にレイジと対峙、口を開きかけた俺を遮るように手が伸びてきた。まず最初に口を塞がれた、そのままベッドに押し倒された俺のシャツを捲り上げた。
 性急にはだけたシャツの下、素肌が外気にさらされる。
 シャツの下から暴かれた裸身をじっくり眺め、不敵に微笑む。
 「よーし、いい子だ。俺がいない間他のヤツにさわらせてなかったな」
 「わざわざひん剥いて確かめることかよ!?」
 理性が吹っ飛んだ。
 怒りもあらわに罵声を飛ばすがレイジは懲りた様子もなく俺の上から下りようとしない、俺の胴に跨ったまま素肌に手を滑らせて感度を確かめる。きめ細かく滑らかな褐色の手が巧みに肌をまさぐり腋の下をくすぐる、ベッドに横たわった俺はレイジに操られるがまま人形のように腕を上げ下げする。
 すぐにわかった、レイジが何をしてるのか。
 俺の上着を剥いで体に痣がないか検分してるのだ。
 レイジに抱かれた時もそうだった。
 俺の体にはレイジの唇に食まれたあとが無数に散り咲いてしばらくのあいだは人前で服を脱ぐのに抵抗を感じた。脹脛に内腿に下腹部に胸に首筋、到底人に言えない場所も含めて全身至る所に散り咲いた情事の烙印が癒えるまではゆっくりシャワーもできなかった。
 「服はなせよ、引っ張るなよ、伸びちまうだろ!お前いない間誰ともヤってねえって納得したら手え放せよ!どうしたんだよお前、渡り廊下の殺し合いの興奮ひきずってんのかよ、血の匂いに欲情してんのかよ、物欲しそうな顔で頬の傷狙いやがって……」
 突如渡り廊下で始まった殺し合いを回想する。
 廃帝サーシャが猛々しい奇声を発してナイフを振り回す、レイジは鉄パイプでこれに応戦する。
 久しぶりに会ったサーシャは前にも増して顔色が悪く痩せこけてアイスブルーの目ばかりぎらぎらと輝いていた。
 凍り付いた炎の目、狂気にぎらつく瞳。
 レイジめがけて吹き付ける凄まじき殺意の波動。骨と皮ばかりの痩身に忌まわしいまでに精力滾り立つ瘴気を纏わせて、幽鬼じみた形相に死相を隈取らせて、廃帝サーシャは東の王を屠らんとした。
 渡り廊下の死闘を思い出し、背中を悪寒が駆ける。
 俺はただレイジを守りたい一心でトンファー構えて飛び出していったが結局何の役にも立たなかった、サーシャの脛にトンファーぶつけて動きを止めたのだけが唯一の功績だった。
 クスリで廃人化してもサーシャは強いが暴君化したレイジの比じゃないと今度もまた思い知らされた。
 「レイジ、ごまかすな!お前に聞きてえこと山ほどあんだよ、一週間近く留守してホセんとこ泊り込んで何話してたんだ、さんざん心配かけやがって………何があったかちゃんと話せよ、最初から説明しろよ!」
 ホセとレイジの間で何が話し合われたのかが最大の焦点だ。
 依頼を蹴るも受けるもレイジの自由だが一週間近くホセんとこに泊り込んでたのはさすがに不自然だ、よっぽど深刻な話に違いないのだ。
 レイジが重大な隠し事してるんじゃないかという疑いがもたげて声を荒げるも本人はてんで取り合わず、耳殻の裏の薄い皮膚を指でくすぐる。
 「あっ………」
 人にさわられることなど無い場所を不意にくすぐられて、堪え切れずに声が漏れる。
 「偉い。俺の言いつけ守ったんだな」
 『勝手に外すなよ』……レイジの囁きを思い出す。
 耳朶に針を通す痛みが新鮮に蘇る。
 レイジは飽きずに俺の耳朶を捏ねている、指で挟んで伸ばして引っ張って丸めてと愛撫を繰り返している。
 レイジはしつこくピアスを撫でる。
 「怖くて外せねーよ、膿んだら大変じゃんか……」
 よわよわしく抗弁する。レイジがスッと目を細める。
 驚異的に長い睫毛が震え、物憂い色を湛えた隻眼が気だるく瞬く。
 「これ見てもホセはびびらなかったんだな」
 声の調子が豹変する。
 ひどく冷え込んだ声音で独りごちるレイジを仰げば、手慰みに俺の耳朶を揉みながら物思いに耽っている。
 レイジから発散される負のオーラが空気を澱ませて房の底部に渦を巻く。
 不穏な気配に怯えつつまともにレイジの顔を見返す。
 左目の傷跡を隠す黒眼帯に野蛮さと威厳を感じる。
 レイジは真意の読めない目でじっと俺の耳朶を見詰めている、否、正しくは俺の耳朶で輝く銀のピアスに見入っている。
 「…………馬鹿にしやがって」
 露骨な舌打ちとともに吐き捨て、俺の腹の上で中腰の姿勢になる。
 混乱したままレイジの動向を探る。俺の腹の上で上体を起こしたレイジがおもむろにズボンと下着をずり下ろす。危うく叫びそうになった。レイジが上に跨ってさえいなきゃ肘を使ってあとじさってた。
 「何、の真似だよ。見苦しいモン鼻先につきつけて、」
 急激に喉が渇く。ごくりと生唾を嚥下すれば喉にささくれが引っかかるような違和感を感じる。
 俺はすっかり怯えきっていたが、虚勢を張って言い返す。
 だがレイジは動じない、俺の視線を跳ね飛ばす威風堂々たる態度で顔の方にずりあがって腰を前に突き出し、ペニスの先端を唇になすりつける。
 「!?っぐ、」
 固い芯を中心に秘めた赤黒い肉の塊が唇を圧迫、喉の奥で呻く。
 独特の生臭い匂いが鼻腔を突いて吐き気が込み上げる。不自然な体勢で仰け反ったまま、顔面に突きつけられるペニスを見下ろす。
 皮が剥けて赤黒く成熟したペニス、俺とは子供と大人の差がある雄雄しい性器がてらてらと透明な雫に濡れ光っている。
 でかい。ホセのペニスに比べたら小さいほうだがそれでもでかい。
 ガキの頃から使い込んで立派に反り返ったペニスは怪物めいた迫力がある。
 俺の前髪を掴み、レイジが有無を言わさず言う。
 「しゃぶれ」
 「…………んんっ!?」
 口を引き結んだまま呻きを漏らす。
 冗談じゃねえ、こんな物しゃぶれるか。
 激しくかぶりを振って拒否すれば逆上したレイジが前髪を強く掴んで揺さぶる、がくがく顎が上下して脳味噌が攪拌される。
 「いい子で口開けよ。あーんて口開けてフェラしろよ、涎でべちゃべちゃにして最高に美味そうに。ホセにはやったくせに俺にはできねーなんて理不尽ありか、承知しねーぞ。覚えてるだろ、ロン。こないだ展望台でやったこと。俺がぼけっと見てる前でホセとやりたい放題いちゃついてディープキスの次は地面に膝付いてフェラチオまでして、随分とまあサービス精神旺盛じゃねえか」
 レイジが憤懣やるかたなく毒づき口に指を突っ込む。
 ちょっと油断して噛み合わせを緩めりゃたちどころに指が侵入してくる、口腔を犯される。
 「フェラなんて俺にもやってくれた事なかったくせに、ホセばっかいい思いしやがって」
 「ひっひょかよ」
 指で前歯を擦られながら吐息に紛れて悪態つく。
 歯のぬめりをこそぎ取るように執拗に指で擦り続け歯茎をいたぶる。呼吸ができなくて苦しい。頬の内側の粘膜と歯茎のあいだに指が挟まれる。
 俺の強情さにレイジが辟易する。
 「口開けろ」
 断固として首を振る。
 レイジがむんずと鼻をつまむ。当然息はできない。
 鼻の穴を塞がれたせいで酸素を取り込めず顔がみるみる充血していく。死ぬ。俺は必死に暴れる、激しく手足をばたつかせのたうちまわり酸欠の苦しみを訴えて気道の解放を要求する。
 レイジはにたにた笑ってる。悪戯に味をしめた悪ガキの顔。
 レイジの思惑通りになるのは癪だ、けどもう保ちそうにねえ、苦しい……駄目だ、限界だ。
 「がはっ、げほっ、ごほっ!!」
 大口開け深々息を吸い込み激しく咳き込む。
 息ができずに死ぬかと思った。生理的な涙が目尻から零れてこめかみを伝う。
 無邪気な笑い声が弾ける。
 ベッドに仰け反った俺の鼻からパッと指を放し、レイジが笑い転げる。
 「やりー、俺の勝ち。あはははははははっははは、変な顔!馬鹿だなあロンは、強情張んなきゃすぐラクになれたのによ」
 「おまっ、殺す気か!?一歩間違えりゃ死ぬとこだったぞ、俺にフェラさせるためなら手段選ばねえってこの人でなしめ!大体人の話最初から最後まで聞けよ、ホセにフェラなんかしてねっつの、ただホセの前に屈んでズボン下ろして股間に顔近づけただけだ、いざフェラしようってあんぐり口開けた瞬間にお前が飛び蹴り食らわしたんだろうがっ」
 「はあ?」
 レイジがすっとんきょうな声を上げる……やっぱり気付いてなかったかと一気に脱力、徒労を感じる。今度はこっちがため息を吐く番だ。
 大袈裟に驚くレイジを睨み付け、軽く咳き込みつつ勘違いを正す。
 「全部お前の勘違いだよ。お前の位置からじゃ俺がフェラしてるように見えて無理ないけど実際は寸止め、ホセの物なんか咥えてねーから安心しろ。あんなでっかい物咥えたら顎が外れちまうよ。だいたいお前のモンしゃぶるのもお断りだって意地貫いてた俺が寒風吹き荒ぶ展望台でフェラなんてすっかよ、見損なうな」
 胸に人さし指突きつけて啖呵を切れば、レイジの顔がふにゃり溶け崩れる。
 「あー良かった、なんだ勘違いかよ、驚かすなよもう!てっきり寒風吹き荒ぶ展望台でホセにご奉仕したのかと思い込んでやきもち焼いちまったじゃねーか。そんならそーと早く言えよ、焦らし上手め」
 「お前が言わせてくれなかったんだろ!?」
 怒髪天を衝く罵倒にも動じずレイジはご機嫌に笑ってる、俺を抱きしめて頬ずりする様子に毒気をぬかれてうんざり言う。
 「……もういいだろ?放せよ。ホセとのあいだにゃ何もなかったんだから」
 「『何も』?そいつは嘘だ、ホセとディープキスしたくせに」
 「あれは……不可抗力だよ。ホセが悪乗りしたんだよ。舌突っ込まれるなんてこっちも思ってなくて仰天して」
 「ディープキスは浮気に入る。不実を償え」
 レイジがきっぱり言い切り俺を放す。嫌な予感に胸がざわつく。
 続く言葉に不安を掻き立てられて固唾を呑む俺の眼前、レイジが意地悪くほくそ笑む。目配せにこめた意図を悟りぶんぶんと首を振る。
 勢いを増して首を振る俺にのしかかり、低く命令。
 「舐めろ」
 「ぜってーいやだ」
 「俺だって舐めてやったろ?聞き分けねーこと言うと嫌いになるぜ、ロン」
 「頼んでねーよ。お前が勝手にやったんだろ」
 「気持ちよかったろ?」
 「よかねーよ」
 男の物しゃぶるなんて冗談じゃねえ、想像だけで吐き気がする。
 信念を譲らず首を振り続ける俺を睨み、恨みがましく愚痴る。
 「……ホセには自分からディープキスとフェラしたくせに」
 「キスは無理矢理でフェラは真似事だって言ってんだろ、ホセとの間にゃ何もやましいことなんてなかったんだよ!」
 延々と続く押し問答に業を煮やして怒鳴りつける。
 勢いに任せて怒鳴ってから何もやましいことなかったわけじゃないと後悔、気まずく黙り込む。少なくとも下半身裸で跨って入れようとしたのは本当なわけで、結果的に入らなかったにしろ過程だけ抜き出せば浮気と言えなくもない。
 表情の変化に敏感なレイジが眼光鋭く俺を睨む。
 「……俺のこと嫌いか」
 「はあ?」
 「やっぱホセのがいいんだろ。悔しいけどペニスの大きさじゃアイツが上だしアイツの方が体力ありそーだし、ホセに滅茶苦茶に抱かれて俺じゃ満足できねーカラダにされて戻ってきたんだろ。ならそう言えよ。俺よりホセのがいいんだろ、好きなんだろ?ホセの第二夫人、スペアワイフになりてーんだろ」 
 「ふざけんな、一夫多妻制反対派なんだよ俺は!俺がほんとに好きなのはっ……」
 「じゃあ何でホセにはできたことが俺にできねーんだよ。愛情の差以外に納得できっか」
 レイジの表情が険悪になる。
 言い逃れは通用しない。俺が一夜の気の迷いでホセに身を委ねたのは事実なのだ。フェラチオも本当にやろうとした、俺がホセのペニス咥えずにすんだのは直前に邪魔が入ったからだ。もしレイジが止めに入らなきゃ俺はあのままペニスをしゃぶっていた。
 レイジが唇の端を捲り上げて嘲笑する。
 「ホセのモンはでかかったか、ケツに入れて満足したか。可愛いお口で一生懸命しゃぶってやったんだろうが、喉の奥まで咥えこんで咽そうになりながらよだれでべちゃべちゃにしてイかせてやったんだろうが。ロンはきっと俺のペニスじゃ物足りねーんだな、ホセのペニスが恋しいんだな。だからお口チャックしてぶんぶん首振って『ダメ、絶対』って拒否ってんだろ?そんなにホセのペニスが恋しいならアイツの愛人になっちま」
 「~~~~畜生わかったよ、やりゃあいいんだろやりゃあ!!お前の言う通りフェラすりゃ満足なんだろ!?」
 ヤケになって吠える。
 ねちねちねちねち嫌味ったらしいレイジに自制心が振り切れた。
 レイジが瞬き一回、食えない笑みを上らせる。
 「できるもんならやってみろ」
 「吹かしてろよ。五分以内にイかしてやるよ」
 不敵に微笑むレイジに中指突きたてる。
 売り言葉に買い言葉は俺の悪い癖だ。レイジが雄雄しくそそりたったペニスを突き出して唇に先端を当てる。
 固く目を閉じて心の準備を整え、口を開く。
 すかさず唇の隙間に先端が割り込んで前歯に当たる。
 猛烈な吐き気と戦いつつ、さんざん躊躇した末に噛み合わせを緩めてペニスを含む。
 「!あぅぐ…………、」
 拒絶反応が起きた。
 胃袋がぎゅっと縮こまり喉元に苦い胃液が込み上げる。
 口腔に溜まった唾がペニスに絡み付きぐちゃぐちゃと卑猥な音をたてる。割り箸に水飴を絡めてくみたいだ。気持ち悪い。何とも表現しがたい生臭い味がする。仄かに塩辛い汗の味とほろ苦い上澄みの味が唾と一緒くたに口腔で溶け合う。
 「ん、ふ、ううぅぐ」
 俺はただ必死にペニスを頬張る。
 レイジのペニスは大きすぎて三分の一しか口に入らない。生理的嫌悪が膨れ上がり嘔吐の衝動が激しくなるもきつく目を閉じ行為に没入ひたすら耐える、耐え続ける。
 「飴でもしゃぶってんのか」
 涙の膜が張った目をうっすら開く。
 レイジが顔前に立ち塞がる。根元に手を添えてペニスの俺の口腔に導き入れて、腰を前後に揺さぶって快感を高めている。レイジには笑みを見せる余裕さえある、俺の舌遣いが飴しゃぶりみたいだと皮肉って性格の悪さを見せ付ける。
 負けてられっか。
 胃袋を締め上げる不快感を圧して対抗心が燃え上がる。
 懸命に舌を動かしペニスに這わすその傍ら、ペニスの根元に手を添えてゆっくりとしごく。 
 「んっ………」
 レイジがほんのかすかに良さそうな顔をする。
 そうか、フェラチオの時は手と舌を一緒に動かすのか。
 そういえばお袋も口を窄めて膨らませる呼吸に合わせて忙しく手を使っていた。記憶の中のお袋を真似て、緩急付けて手を動かす。竿を両手のひらで包み込み、体液を刷り込むように丁寧に摩擦する。
 だんだん要領が掴めてきた。吐き気も次第におさまってきた。
 俺はただ口一杯にペニスを突っ込まれてじゃぶじゃぶ抜き差しされる苦しさに喘ぐばかりで、一秒でも早くレイジをイかせてラクになりたいとそればっかりで雑念に囚われる余裕がなかったのだ。
 「………初めての割にゃ結構上手いな。やっぱホセとヤってたんじゃねーか」
 「ちが、うよ。お袋とお前手本にしてんだよ……」
 男の名誉にかけて反論すれば、納得したんだか疑ってるんだかどっちとも付かない憎らしい表情でレイジが笑い飛ばす。
 それからすぐ「集中しろよ」と俺の前髪を掴んで乱暴に揺する。口の中でペニスが膨張する。レイジの息が少し上がり始め目尻が色っぽく上気する。
 「気持ちいいか?」
 片手でペニスを支え、フェラチオの合間に聞く。
 「………手抜きすんなよ」
 「不覚にも俺の舌遣いで感じちまって悔しいんだろ」
 レイジが不快げに押し黙る。その顔は図星。
 なんだか愉快になってきた。奉仕を強制されてると思うからむかっ腹立つわけで、考えようによっちゃ俺がレイジを追い上げてるのだ。
 レイジの首が仰け反り、撓る。
 助けを請うように悩ましい表情。 
 「……………!んっ、」
 下半身がずくんと脈打ち、熱いうねりが生じる。
 気持ち良さそうなレイジを上目遣いに見てるうちに勃っちまった。
 「もっと音たてろ。喉の奥まで咥え込んでぐちゃぐちゃしゃぶれ。子猫みてーに舐めてるだけじゃいつまでたっても終わんねーぞ」
 「んは、ふくぅっ………あぐぅ」
 俺の顎はヨダレでべとべとだ。顎が外れんばかりに大口開けて一回り膨張したペニスを咥え込む、亀頭の割れ目にちろちろ舌先を踊らせる。唾液に濡れそぼった竿を緩急付けて手のひらでしごく。そろそろ息がもたない、酸欠で頭がくらくらする。
 疲労に霞む目を凝らしてレイジを仰ぐ。
 「イきたいか?」
 扇情的な姿態を見せるレイジに意地悪く質問する。
 「イくもんか」
 レイジが無理を強いて笑う。我慢比べ。俺が酸欠で音を上げるのが先か顎が外れるのが先か、王様がイくのが先かの持久戦。
 不敵な受け答えに反感がもたげて前にも増して激しくペニスにむしゃぶりつく、ミルクを搾り取ろうと夢中で舌を絡めて吸引する。唾液を捏ねる音が淫猥に響く。レイジの膝が萎えて崩れ落ちそうになる。
 「っは、ロン、ちょっ待っ……腹ぺこ猫みてーにがっつくなよ……」
 待つもんか。息も絶え絶えの制止を振り切りラストスパートに入る。あんぐりと口を開け唾液に塗れたペニスを頬張る、竿に手を添えて律動的に出し入れする。それが絶妙な刺激となってペニスがまた膨らんで不規則に痙攣し、そしてー……
 「!?んぐぅう、ん!」
 慌てて出そうとしたが、遅い。
 先端の孔から放たれた白濁がまともに顔にかかる。口ん中にも少し入った。青臭く生臭い匂いがあたりに立ち込める。独特な精液の匂い。
 顔を濡らした白濁を手の甲で拭き取り呼吸を整えて、ベッドで粗相した王様を不敵に見上げる。
 「………ほら見ろ、俺の勝ちだ。思い知ったか、自信過剰の王様め」
 挑発的に中指立てる。俺の顔に精液ぶちまけたレイジが悔しげに歯軋り。
 「………制限時間オーバーだ」
 「五分でも六分でも大した違いねーだろ、往生際悪いヤツだな。自分が負けたって素直に認めろよ。『ごめんなさい、参りました』はどうした?俺にイかされてぶさまを晒した手前土下座するのが礼儀じゃねーか?さんざんホセとの浮気疑って言いたい放題ケチつけやがった癖になんもなしで済ますつもりかよ、調子いいな」
 「この野郎……」
 レイジの目つきが凶暴さを孕む。
 喉の奥で威嚇の唸りを発するレイジ、その表情から瞬時に怒りが消し飛ぶ。急すぎる表情の変化に当惑、目を瞬く俺の方にレイジがずいと寄ってくる。ベッドに手足を付いてにじり寄ってくるレイジ、その迫力に圧されてあとじさる。
 「図星さされて怒ったのかよ?なんだよ、本当のことじゃねーか。俺はホセに抱かれてもねーしフェラしてもねーのにそっちがさんざんケチつけたんじゃねえか、あげくフェラまでさせられてザーメンに顔にぶっかけられて気分最低だ。責任とって土下座……」
 声が尻すぼみに萎える。
 後退を続ける背中がベッドパイプに衝突、鈍い衝撃を感じる。レイジが俺にのしかかりおもむろに手を伸ばす。
 ぶたれる。そう錯覚して目を閉じるが、予期した衝撃がいつまでたっても訪れず、おそるおそる目を開く。
 褐色の手が頬を包んでいる。
 「………悪ィ。怪我させちまって」
 「怪我?」
 レイジの一言で頬の擦り傷に思い至る。
 ついさっきサーシャに切り裂かれた痕。頬の薄皮を切り裂かれただけで大事には及ばない、唾つけときゃ治る掠り傷だ。フェラ強制した時の傲慢な表情から一転、薄く血を滲ませた頬を慰撫する手つきは限りなく優しい。
 「………大した怪我じゃねえよ。ほうっときゃ治る。もう殆ど痛くねえし」
 「ちょっとは痛いだろ」
 「うざってえなあ。こんな掠り傷ぐじぐじ気にすんなよ、それにまあ痕残ったって俺ならどうってことねーよ。お前くらい綺麗な顔してたらもったいねーかもしれねえけど俺なら返ってハクがつく、凱の子分どもに馬鹿にされることもなくなるし頬傷さまさまだ」
 レイジの疑念を吹き飛ばすようにできるだけ軽い口調で冗談を飛ばす。レイジは無言で俺の頬をなでている。
 辛気くさい雰囲気に嫌気がさす。
 俺が怪我したのはレイジの責任じゃない、勝手に殺し合いにとびこんでった俺自身のせいだ。
 展望台で活入れたのにコイツ全然変わってないじゃんかと内心辟易、改めて説教しようと顔を上げる。
 「レ、」
 レイジが俺の顔を手挟み、ぐいと正面を向かせる。
 まともに目を覗き込まれる。心臓が強く鼓動を打つ。
 頬を包む手の温かさが心地よい。
 レイジの唇がそっと頬に触れ、舌が傷口をなぞる。
 頬に走った傷跡を上から下へ丹念に舐め上げて、最後に舌先を巻き上げて血の玉をすくいとる。
 白濁した精液と赤い血が混ざり合い、舌の上で薄赤く滲む。
 「やめろよ、くすぐってえ……」
 じれったく身をよじる。
 レイジはやめない。
 俺の顔をしっかり手挟んだまま、母猫が子猫の毛づくろいをするように顔じゅう余さず舐める。子猫の目脂を掃除するみたいに瞼に貼り付く粘着物を舐め取り軽やかに睫毛をついばみ、涙袋の膨らみに舌を這わし、頬に散った白濁を一滴残さず啜り上げる。
 くすぐったい。
 レイジに促されるがまま顔を傾げて後始末に付き合えば、不穏な呟きが落ちる。
 「………誰にも渡すもんか」
 顔の白濁を綺麗に舐め取り、レイジが囁く。
 「ホセにも誰にも渡すもんか。お前にフェラさせていいのは世界に一人俺だけだ、お前を抱いていいのは世界に一人俺だけだ。お前と一緒にいるためなら手段を選ばない、変態所長に鞭打たれ束縛されてもお前と離れ離れになるよか遥かにマシだ、お前を失って独りぼっちで生きてくよかずっとマシだ」
 その声があんまり切羽詰ってて不安になる。
 ぎこちなく背中に手を回しレイジを抱擁する。
 レイジを落ち着かせようと一心に背中をさする間も独白は続く。
 「俺は痛みには慣れてるからサーシャに片目抉られても所長に鞭打たれても大した事ねえやって笑い飛ばせる、けどお前がいなくなったら笑えない、絶対笑えない。だから殺せない。所長を殺したらまず間違いなくお前と引き離される、おしまいになる」
 レイジが俺を抱きしめる。呆然とベッドに座り込んだ俺は、悄然とうなだれたレイジの耳元で断言。
 「おしまいになんか、させねーよ」
 おしまいになんかさせるもんか。
 力強くレイジを抱きしめる、今この瞬間だけは世界中の誰にもコイツを傷つけさせないと決意を込めて。
 所長からサーシャから世界中の敵からコイツを守る、不可能でも守る。身も心も守るのが不可能ならせめて心だけは守り抜く。
 レイジの心を守れるのは世界にひとり俺しかいない。
 「…………サンキュ」
 レイジが体重をかけて凭れかかってくる。正直、重い。いつまで甘えてんだ、いい加減離れろと突き飛ばそうとした……
 瞬間。
 「そんじゃ続きすっか」
 「!?」
 こめかみを冷や汗が流れる。
 視界が反転、押し倒された背中がベッドで跳ねる。 
 「ホセに聞いたぜ。『ホセとは何もなかった』なんてよっく言うぜ、下半身裸でホセの膝に跨っていやらしく腰振ったくせに。ホセが背面座位なら俺は対面座位だ、お前が泣こうが喚こうが膝に抱っこして下から貫いてやるよ」
 「泣き落としで騙すなんざ卑怯だぞ、おもわずほだされちまったじゃねーか!!」
 「対面座位の前に正常位のおさらいだ、ベッドでも戦場でも基本を踏まえるのが肝心肝心っと。こちとら一週間お預け食らって溜まってんだよ、満腹になるまで付き合えよ。展望台で乳繰り合い見せ付けられて一週間むらむらしてたんだ、俺を欲情させた責任とれ」
 「お前が勝手にさかってるんだろうが、万年発情期のけだものめ!」
 手足をばたつかせる俺をやすやす押さえ込み、上着の裾をはだけて手を入れる。
 こうなったらもうおしまいだ、絶対的な体格差はいかんともしがたい。俺にはまだまだ聞きたいことがたくさんある。一週間ものあいだホセと何話してたのか何してたのか、ホセの依頼を蹴って本当にいいのか……でも結局それらを問いただす前にレイジに口付けされて頭がぼうっとして全部うやむやになる。
 ああまた流されてるなと忸怩たるものを感じつつも体の表裏をまさぐる手や唇がもたらす熱が思考を塞き止めて理性を散らして、もっと気持ちよくなりたいと浅ましく快楽を求めだして
 「愛してるぜ、ロン。だれを抱くときより抱かれるときよりお前を抱くときが最高だ」 
 欲望に火が付いたレイジが、噛み付くようなキスをした。  

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050511165519 | 編集

 太陽に炙られた舗道の彼方に極小の点がある。
 針で突いたような点は次第に大きく鮮明になる。
 周囲は見渡す限り草一本もない不毛の砂漠、砂塵を含む乾燥した風が吹き荒ぶ。
 大自然の脅威を感じさせる光景の中、砂漠の中心を貫く舗道を疾駆する一台のジープ。車高が高く無骨なジープは質実剛健な威容を兼ねて、四輪のタイヤでアスファルトを削る。
 膨大な量の砂塵が視界を煙らせる。
 平坦な舗道がエンジンの振動を伝えてくる。
 アスファルトを噛んでジープが停止する。
 砂埃が晴れるのを待ち、運転手が降り立つ。
 若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた三十路半ばの男だ。
 聡明に秀でた額の下、知性を加味する銀縁眼鏡の奥には涼やかな切れ長の双眸がある。一筋の反乱も許さず整えたオールバックが端正な風貌に似合い、地味な灰色のスーツに糊の利いたワイシャツが映える。
 運転席から降りてジープを迂回、後部座席の脇で直立不動の体勢をとる。
 後部座席の扉が開く。
 段差を降り立ったのは神経質な雰囲気を漂わす痩せぎすな男。
 縁なし眼鏡の奥の瞬きの少ない目は、低体温の爬虫類をおもわす陰湿な光に濡れている。
 身に着けているスーツは最高級の物で、先に下りた男より遥かに金がかかっていると一目で知れる。最高級のスーツに身を包んだ男は、しかし人を不快にせずにおかない険のある空気を発散していた。
 露骨に顔を顰めてあたりを見回す。
 背広の胸ポケットから気障ったらしくハンカチを抜き取り、口元を覆う。
 「相変わらずひどい砂だ。ここはひどい場所だ」
 女性的な仕草で口元を押さえ、嘆かわしげにかぶりを振る。
 大気に混ざる砂塵を吸い込まないよう口元をハンカチで庇い、所長は尊大な物腰で歩き出す。
 後部座席から犬の吠え声がする。
 所長が喜色満面振り返り、両手を広げる。
 「さあ来いハルよ、私の胸に飛び込んでこい!」
 後部座席から跳躍、弾丸のように宙に身を躍らせたのは一頭のドーベルマン。
 黒い毛並みも艶やかに、筋肉のうねりも美しく鍛え抜かれた体躯が強靭さを感じさせる犬だ。
 所長は高笑いして犬を抱きとめる。
 犬が歓喜の声を上げて飼い主の顔面を舐めまわす、犬科特有の異様に長い舌で顔じゅう余さず舐め回されてしとどに涎にまみれても怒るどころか上機嫌で犬を抱擁する。
 「ははははははっははは、まったく愛いヤツだなあ私のハルは!飼い主の粋なはからいに全身で感謝し奉仕するとはお利口さんだ。コンクリートで固められた殺風景な中庭が日々の散歩コースではお前も飽きるというものだ、たまには気分転換の遠出も必要だろう。存分に砂漠を走り回り日頃の運動不足を解消してくれ」
 無邪気に犬に頬ずりする所長のそばで、安田は伏し目がちに沈黙を守っていた。
 その顔には何の感情も浮かばず眼鏡の奥の怜悧な双眸に犬とじゃれあう所長を映している。
 所長が安田に向き直る。
 所長の腕から解き放たれた犬が喜び勇んで砂丘の向こうに駆けていく。悲鳴が連鎖する。
 「可愛い犬だ。あんなにも無邪気にはしゃいでいる」
 所長が満足げに微笑み、同意を求めるように安田を見る。
 所長が先に立って歩き出す。安田も後に続く。
 砂の上に二対の靴跡が刻印される。
 所長の靴跡に沿って歩く間も安田は伏し目がちに別の事を考えていた。
 今安田の心を占めているのは前方を行く所長でも砂丘の向こうで囚人にまつわりくハルでもなく、医務室で静養中の息子……

 直のことだ。

 事件は三週間前に遡る。
 その日、安田は医務室にいた。
 睡眠薬を貰いにきたついでに他愛ない世間話をしていたのだ。そこに駆け込んできたのが血まみれの直を抱いたサムライだった。直は脾臓貫通の重傷で一目で危ない状態とわかった。
 何故か全裸に紅襦袢一枚を羽織ったあられもない格好で、宙にだらりと垂れた片足を艶めかしく白濁が伝っていた。
 それを見た瞬間、理性が蒸発した。 
 『直を返せ!』 
 「渡せ」ではなく「返せ」と叫んでいた、無意識に。
 安田は激怒してサムライの腕から直を奪い取った、物言いたげなサムライに弁解する暇を与えず語気激しく詰り、直を守りきれず大怪我させた不甲斐なさを一方的に責め立てた。
 サムライは口元を引き結び叱責に耐えた、我を失った安田が口汚く罵声を浴びせて医務室から追い出しても弁解ひとつしなかった。
 手術は成功したが、昏睡状態が一週間も続いた。 
 その間安田はずっと直に付き添っていた。
 辛いことだらけの現実から逃避するが如く昏々と眠り続ける直の傍らに寄り添い、ひたすら手を組み無事を祈り続けた。
 直が目を覚ましてくれるなら他に何もいらないと心の底から思った。公私混同の自覚はあったが、それでも毎日欠かさず医務室を訪れて時間が許すかぎり枕元で寝顔を見守り続けた。

 あどけない寝顔だった。
 口元を覆う酸素マスクが痛々しかった。
 何度も直の手を握った。冷たい手だった。

 眠りが深まるほどに死に近付く危惧に襲われ、無防備に投げ出した腕と指から生命が漏れ出しているような不安に駆られて、ひたすら直の手を包み温めずにはいられなかった。
 直の指に体温と感覚が戻るまで一週間もかかった。
 それから間もなく安田は苦渋の決断を下した。直を西棟に移す決断だ。直が刺されたのはサムライとその従弟の争いに巻き込まれたからだ、帯刀家の確執に巻き込まれたからだ。
 柿沼を殺し直を刺した犯人は独居房に無期限拘束されているが、サムライのそばにいる限り安全とは程遠い。直の身柄を保護して安全を保障するために、安田は早急に手を打った。
 「私のしたことは間違っていない」
 直に恨まれても決定は取り消さない。
 これがいちばんいい方法なのだ、理想的な解決なのだ。
 ヨンイルと直は仲が良い。帯刀家と物理的な距離を隔てた上で西の道化の庇護を得れば金輪際危害が及ぶこともない、直が傷付くことはないのだと自らに言い聞かせて平常心を保つ。
 ヨンイルならば信頼できる、直とも良い友人になってくれるはずだ。
 そうだ。これが正しいのだ。
 東京プリズンの秩序を守る副所長として、あまりに繊細な息子を持つ一人の父親として、これこそ最善の選択なのだ。

 『ふざけるな、僕は認めないぞ!』
 悲痛な叫びが耳の奥に蘇る。

 一週間の昏睡から目覚めた直が、必死な形相で安田に縋り付く。
 『漸く気持ちが通じ合えたのに「愛してる」と言えたのにまた彼と僕を引き離すつもりか、勝手なことをするな副所長の分際で、囚人のプライバシーにまで口を出すんじゃない……待て安田話は終わってない、最後まで抗議を聞き反省のち撤回しろ!嫌だ僕は絶対に認めないこれからずっとサムライと一緒にいるんだ、サムライとロンとレイジと食堂で食事をとって展望台で馬鹿話をして夜はサムライの読経を聞きながら読書するのが僕が東京プリズンで手に入れた幸せなのに……!!』

 幸せ。
 私は直が漸く手に入れた幸せを奪おうとしているのか、息子の友人に嫉妬して冷静な判断ができなくなっているのか?

 「馬鹿な」
 想像の飛躍を自嘲する。
 直が幸せになってくれるならこれほど喜ばしいことはない、それは誓って真実だ。しかし父親として直がぼろぼろになるのを見過ごすわけにはいかない。
 脇腹を刺されて血まみれで運び込まれた直を見た時の戦慄、直の死を意識した瞬間の全身の血が凍り付く感覚を忘れられない。
 恐怖。圧倒的な恐怖。
 直を失うのは嫌だ、直に死なれるのは嫌だ。東京プリズンの副所長なら公私の別を付けろと理性が命じても本能が逆らう、血を分けた息子を失う恐怖で発狂しそうになる。

 血を分けた息子。
 生物学上の、遺伝学上の、息子。

 割り切っていたつもりだった。
 頭脳の優秀さで選ばれて精子提供者となった時に父性を封印したつもりだった。
 十五年の時を経て息子と再会するとは夢にも思わなかった。
 それもまさかこんな形で、刑務所の副所長と囚人として再会するとは……
 なんという皮肉な巡り合わせ。
 「副所長、聞いているのかね」
 「なんでしょうか」
 ハッと顔を上げる。
 物思いから醒めた安田の前で立ち止まり、所長がこちらを見る。
 「一体どうしたのだ副所長。随分と体力気力を消耗しているようだが、連日の医務室通いが原因か」
 「何故それを……」
 「私が知らないとでも?事情聴取に熱心なのは結構だが職務放棄は感心しない、下の看守に示しがつかんだろう」
 「申し訳ありません」
 安田は素直に頭を下げる。
 「それで?鍵屋崎の殺害動機は聞き出せたのか。私のデスクには報告が上がってないが……」 
 所長が婉曲に探りを入れてくる。
 縁なしの眼鏡の奥の目が酷薄に細まり、油断できない眼光を放つ。
 安田はひとつひとつ言葉を選び、慎重に答える。
 「……調査は難航しています。鍵屋崎は全治二ヶ月の重患です。長時間の事情聴取は体に負担をかける」
 「くだらない。家畜の体調など気にすることはない」
 不快げに吐き捨てた所長に反感が込み上げる。
 息子を家畜呼ばわりされた怒りが、安田にいつになく反抗的な態度をとらせる。
 「……上が欲しいのはIQ180の頭脳だけですか?それなら頭蓋骨を切開して脳を摘出すればいい。だが違う、政府が欲しているのは鍵屋崎直という一人の人間だ。脳に栄養を送り思考活動を促す『容れ物』をなくして望みは達成されない、よって『容れ物』を粗末に扱うのは控えるべきだ」
 敬語を失念していたのに気付いたのは、所長が憤然と砂を蹴散らしこちらに近付いてきた時。   
 痩せぎすの体から放たれる抑制されたオーラが暴力の気配を連れてくる。
 砂を踏む音も耳障りに急接近、安田の手前で立ち止まる。
 「私に意見する気か」
 「私はただ、」
 平手打ちにされた。
 頬に衝撃が走り眼鏡が弾けとぶ。
 容赦ない打撃によろめく安田のネクタイをすかさず手に巻きつけ乱暴に引き寄せる。
 「何様の分際だ、貴様は。身の程をわきまえろ、エリート崩れが」
 「………申し訳、ありません」
 殴られた際に口の中が切れたらしく口腔に鉄錆びた味が広がる。
 吐きそうだ。
 ネクタイで首を絞められる苦しさに顔を顰める安田を至近距離で観察、嗜虐の悦びに爛々と目を輝かせ唇を舐め上げる。
 プライドを傷付けられた恨みと部下に反抗された怒りが相俟って、エリート然と取り澄ました表情が無残に裂けて粗暴な本性を剥き出す。
 謝罪する安田を許さず、さらなる屈辱的な仕打ちを強いる。
 「拾いたまえ」
 横柄に顎をしゃくり足元を示す。
 安田の顔から弾け飛んだ眼鏡が砂上に転がる。
 安田が膝を折り曲げ中腰の姿勢をとり、砂まみれの眼鏡に手を伸ばすのを制す。
 「砂に手足を付いて四つん這いになりたまえ」
 面倒くさげな口調で過ちを訂正、陰険な企みを秘めた眼光で先を促す。安田の顔が屈辱に歪む一瞬を見逃さず優越感を満たす。
 愉悦の笑みを口端に浮かべ、視線に圧力をかけて屈従を強いる。
 顔を伏せて表情を隠し、ゆっくりと跪く。
 ズボンの膝が砂に汚れる。
 砂に膝を屈した安田の姿にシャベルや鍬を手にした囚人がどよめく。
 囚人がこちらを指差し声高に叫ぶ。
 所長の足元に跪く副所長の構図に興味をそそられたか、ある者はシャベルを放り出しある者は鍬を引きずりこぞってこちらにやってくる。
 興奮の気配を孕んだざわめきが周囲に広がる。
 作業放棄して群れ集まる野次馬を所長は咎めもせず、愉快なショーの見物客として歓迎した。ハルに追い散らされた囚人が泣きべそをかいて砂丘を転がり落ちてくる。
 囚人の尻に噛み付きズボンの生地を破り取ったハルが、発達した四肢で砂を蹴り弾丸のように跳ねてくる。ズボンの生地を咥えて戻ってきたハルが戦利品を示してご褒美をねだる。
 「よしよしハルよ、お前も砂丘を越えてはるばる愉快なショーを見物にきたか。見たまえ、先ほど私に逆らった愚か者が砂に手足を付き頭を垂れて謝罪を乞うみじめなさまを!この男きたら全くなんと愚かだ、上司への敬語を忘れて自己中心的な意見を述べたりなどするから足元にひれ伏す羽目になったのだ」
 所長が得々と語る。
 安田は唇を噛み面を伏せて眼鏡に手を伸ばす。
 「なっさけねえな、安田。これがホントにあの副所長かよ」
 「前はこんなんじゃなかったんだけど新しい所長が来てからすっかり変わっちまった」
 「調教済みってわけか、ハル二号め」
 「こんなヤツの顔色窺ってにびくびくしてた自分が笑えてくるぜ」
 背中に嘲笑が突き刺さる。
 安田を取り囲んだ野次馬が口汚い罵倒を浴びせる。
 野次馬の垣根は二重三重と膨れ上がる。
 厳しい労働の合間の息抜きに副所長のみじめな姿を見物しようと集まった囚人は誰も彼も侮蔑の表情を浮かべている。
 ここにいる囚人は皆以前の安田を知っている。
 無能な所長に成り代わり東京プリズンの秩序を守る副所長を誰もが恐れ怯えていた。
 今や安田の権威は地に落ちた。 
 かつての凛々しい面影はどこへやら消え失せて、今では所長の気まぐれで虐待される哀れな犬へと成り果てた。
 輪の最前列の囚人が安田が拾おうとした眼鏡を蹴り飛ばす。
 「おっと悪ィ、足癖悪いんだよな俺。勘弁してくれよふくしょちょー」
 周囲が爆笑の渦に呑み込まれる。
 「なあ安田さん、あんた所長の命令でハルとヤらされるって本当か。獣姦の愉しみに目覚めて毎日一生懸命腰振ってるってマジか?東京プリズンですごい噂になってんだけど」
 大股開きで屈み込んだ囚人が皮肉に口角を吊り上げる。安田は取り合わず視線を彷徨わせて眼鏡をさがす。
 あった。
 1メートル前方に眼鏡が埋もれている。
 蹴り飛ばされた衝撃で弦がねじれたらしい。
 「ザマあねえな。かつてのエリート副所長もこうなっちまったらおしめえだ。囚人に砂蹴り掛けられて唾吐かれてもじっと我慢のコで無視決め込むわけか。なまっちろい日本人の割にゃ根性あるなって見直したよ。ああそうだ、せっかくだから今ここでズボン脱いでケツ見せてくれよ。あんた肌白いからケツも粉はたいたみてーにまっちろなんだろ?」
 「何か言えよリーベンレン。所長の飼い犬がお高くとまってんじゃねーよ」
 調子に乗った囚人が唾を吐き、顔面に砂を蹴りかける。
 目に砂が染みる痛みに動きが止まり、生理的な涙が瞼を濡らす。
 野次馬が一斉に囃し立て、仕立ての良いスーツに大量の砂を蹴りかけ汚していく。
 獲物が弱味を見せたことで悪乗りする野次馬を一瞥、所長が背広の内側から何かを取り出す。
 鞭。
 度重なる妨害にもめげずに四つん這いで前進、全身砂まみれになりつつ落下地点に辿り着いた安田が、弦の曲がった眼鏡に手を伸ばす。
 「!―っ、」
 空気を裂く音も高らかに、手の甲に鋭い痛みが走る。
 冷水を浴びせ掛けられたように野次馬が沈黙、一同に怯えが走る。
 鞭で打擲された肌に赤い痕が盛り上がる。
 裂けた手を庇い身を丸める安田、その額を脂汗が濡らす。
 噛み締めた唇から苦鳴が漏れる。容赦なく部下を鞭打ち痛みを与えた所長はそれでもまだ飽き足らず、二度三度と興に乗り鞭を振るう。
 勢い良く鞭が撓り、風切る唸りが連続する。
 肩を、腿を、全身至る所を打擲される痛みに安田はただ目を閉じて耐える。鞭が頬を掠めて肉が爆ぜる、滴り落ちた血が砂を固める。
 最前列の囚人が顔を背ける。
 中にはこそこそと逃げ出す者がいる。
 「本当に、君は、使えない、犬だな!可愛いハルとは、大違い、だ!」
 荒い息の狭間に罵倒し、体力尽きて気が済むまで鞭を振るい続ける。 あと少しで眼鏡に手が届くところを鞭に妨げられて、伏せた顔が苦渋に歪む。
 巻き添えを恐れたか所長の狂気にあてられたか、鞭が振り上げ振り下ろされる度に人垣から離脱者がでる。
 「いかれてるぜ、マジ」
 「所長と副所長のSMにゃ付き合いきれねーっつの」
 捨て台詞を残し、遂に最後の一人がいなくなる。
 漸く鞭が力を失いだらりと垂れ下がる。
 所長は肩で息をしながらぐったりと突っ伏す安田を見下ろす。
 スーツのあちこちが切れて赤く腫れた素肌が覗く。
 片手に鞭を預け、舌なめずりせんばかりに安田の素肌を鑑賞する。
 安田が酷い顔色で眼鏡を拾い上げる。
 レンズには分厚く砂がこびりついてる。
 丁寧な仕草で眼鏡の砂をこそぎ落とし、神経質にレンズを拭い、顔にかける。弦が曲がった眼鏡は鼻梁の上に乗らず大幅に位置がずれる。
 「………お気が済みましたか、所長」
 膝の汚れを払い、素早く立ち上がる。
 鞭打たれた全身が熱をもち痛んでいるはずだがおくびにもださず、冷静に告げる。 
 「嬲り甲斐のない男だ。プライドを売り渡して許しを乞うより声を殺して耐え忍ぶのを良しとするか」
 喉の奥で不快な笑いを泡立てた所長が、不意に真顔になる。  
 芝居がかった身振りでぐるりを見回す。
 だらりと体の脇に垂れた腕を庇い、安田もつられて視線を追う。
 無限に連なる砂丘の斜面、手に手にシャベルや鍬を掴んだ囚人たちが穴掘りに精を出す。水を汲んだバケツを両手に提げて貯水池を往復する囚人がいる、シャベルを立て掛けて談笑する囚人がいる、サボリを見咎められて逃げ出す囚人がいる。
 用水路は八割がた完成している。用水路の斜面に土嚢を積んで補強する囚人たち、その声が風に吹き流されて聞こえてくる。
 見渡す限り果てなく広がる大砂漠に穿たれた無数の穴、その合間で働く囚人たち、それを監督する看守たち……
 
 「東京プリズンに原子力発電所を建てる」

 「なん、だって」
 乾燥した風が頬を嬲り、前髪を乱す。
 所長は安田に背を向け淡々と続ける。
 「何も驚くことはない。原子力発電所の建設が忌避されるのは一重に放射能事故のせいだ。人は万が一の事を考えて際限なく不安を膨らます生き物だ、自分たちの生活圏内に原子力発電所が建つとあらば住民は猛烈に反対するだろう。東京プリズンはその点非常に都合がいい。都民の生活圏から十分に離れている、周囲には見渡す限り広大な砂漠がある。仮に事故が起きたとしても放射能が蔓延するのは砂漠の一定圏内に限られる。それに……」
 思わせ振りに言葉を切り、安田を見る。
 「囚人ならば、死んでもいいということですか」
 口にしたそばから凄まじい嫌悪感が湧き上がる。
 狂ったように鞭打たれた時でも表情を変えず平静を保っていた安田がこの時ばかりは激情に駆られて所長に詰め寄る。
 「仮に事故が起きて放射能が蔓延しても砂漠で働く囚人ならばいくらでも死んでいいとそういうことですか、どうせ政府に遺棄された犯罪者なのだから放射能に毒されて緩慢に死にゆくのもリンチで殺されるのも同じだと?入れ替わりが激しい東京プリズンでは先の囚人が死んだそばから新しい囚人が来る、いくらでも補充が利くし労働力に不足はない、だから……っ!!」
 「たかが家畜じゃないか。ガス室で虐殺されるのも砂漠で照り殺されるのも同じ事だよ。それに……」
 ハルの頭に手をおき、愛情深く撫でる。
 ハルが嬉しそうに尻尾を振る。
 ハルの頭を執拗に撫で回し、微笑む。
 「事故に見せかけて愚鈍な家畜どもを一掃できるならこれ程素晴らしいことはない」
 「……………」
 「万一放射能が砂漠の外に漏れだしても心配することはない。砂漠の周縁には無国籍スラムがある。台湾・中国から流れ込んできた戦争難民や韓国・ロシア・東南アジア出身者やその二世三世がドブ鼠のように繁殖して住み着いているのだ。東京プリズンの家畜どもと一緒に彼らを始末できるならこれ程喜ばしいことはない」
 「『上』はこの事を知っているのですか」

 底が抜けたような哄笑が轟く。

 ハルの前脚を取ってダンスを踊り、上機嫌に言う。
 「ははははははははっ勿論だとも、勿論ご存知に決まっているじゃないか!私はもともとその為にこの地に遣わされたのだ、東京プリズンに原子力発電所を建てる計画を推進するために政府から送り込まれたのだよ。政府とてこの無駄な土地を持て余しているのだ、原子力発電所の一つ二つ三つ建てたところで放射能汚染されるのは周縁スラムの住民と犯罪者だけ、不潔な外人どもを一掃できるなら上も万々歳だ、生まれつき血の汚れた家畜は放射能で朽ちゆくが似合いだ!!」
 哄笑が空虚に響く中、安田は固く目を閉じ直の顔を思い浮かべていた。

 直。
 二ヶ月経ったら強制労働に復帰せねばならない。
 砂漠に原子力発電所が建てば真っ先にその影響を受けるのがイエローワークの囚人。

 「……………っ」
 心臓の動悸が激しくなる。嫌な汗が全身から噴き出す。
 何とかしなければ。この男を止めなければやがて最悪の事態が起きる。砂漠が放射能に汚染されて東京プリズンの囚人が全滅、のみならず周縁スラムの住民までもが被害を受ける。
 この男は、東京を滅ぼす。 
 唇を噛んで押し黙った安田を呼び戻したのは、所長の声。
 「東京プリズンに異分子が紛れ込んでいる」
 「………どういうことですか」
 ハルの前脚を放して立ち上がり、縁なし眼鏡の奥から鋭い視線を送る。
 「政府筋からの情報だ。信憑性は高い。東京プリズンの囚人三万二千四百二人、その中に異分子が紛れ込んでいるのだ」
 「レイジ、ですか?」
 慎重に確認すれば、嘲りの笑みを返される。
 「Rаge、か。あれは確かに異端児だが東京プリズンの秩序を乱す『異分子』ではない。いいかね、安田君。異分子とは東京プリズンの秩序破壊者、本来東京プリズンにいてはいけない人間だ。ここにいるはずのない人間だ」
 不吉な予兆のように雲に遮られた空の下、不気味な陰影が所長の顔を隈取る。
 所長が両手を開く。
 視界一杯に広がる砂漠を抱き込むように腕を広げ、説明を続ける。
 「その男は本来ここに移送されるはずの囚人に成り代わり東京プリズンに潜入した。前任者のデータ管理が杜撰だったせいで未だ個人の特定はできないが、その異分子がどこから来たのかは調べがついている」
 安田が息を呑む。
 所長の顔にいかづちめいて憎悪が迸り、眼鏡の奥の双眸を極限まで見開く。
 眼窩から迫り出した眼球が血走り、ぬらりと異様な輝きを放つ。
 そして、吐き捨てる。
 忌まわしき、その名を。 
 「世界的武器密輸組織『ダンカイロ』工作員、コードネーム『ドン・ホセ』……!」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050510133835 | 編集

 容赦なく鞭が飛ぶ。
 『軸がぶれているぞサーシャ、このサバーカめがっ!』
 団長の激が飛ぶ。酒焼けした濁声で年端もいかない少年を罵倒する。
 天幕の内側は凍えるように寒い。
 少年が身に着けているのは粗末な衣服だ。
 氷点下に近い気温の中、防寒の用を足さないボロを纏った少年は腕が攣るまで際限なくナイフの投擲を繰り返す。
 傍らには酒焼けした顔の団長が尊大に腕を組み、少年がサボらないかミスしないか見張っている。底意地の悪い目つきをした中年男で、恰幅の良い体躯を毛皮のコートに包み、鞣革の鞭を持っている。
 吐く息が白く昇天する。
 皮膚に霜柱が立ちそうなほど寒い。
 ナイフを取る指がかじかみ感覚が失せる。
 息を吸い込むたび氷針が肺を刺す。
 それでも少年は弱音一つ吐かず愚痴一つ零さず、遥か前方の的だけを揺るぎ無く見据える。
 襟足が見えるまで刈り込んだ銀髪が清涼に流れる。
 栄養状態が悪く痩せて骨ばったうなじが痛々しい。
 年の頃は十歳位だが、同年代の少年と比べて手足が長く筋肉が発達し均整が取れている。
 体の線をくっきり浮き立たせるタイトな衣装に身を包み、天を仰いで深呼吸する。空気を取り込んだ胸郭が膨らみ、肺に酸素が満ちる。
 緩く閉ざした瞼は銀の睫毛に縁取られている。
 極上の絹糸を一本一本植毛しような睫毛は、それ自体が至高の飾りとなり切れ長の眦を際立たせる。
 瞑想から目覚め、ゆっくりと瞼を上げる。
 銀色の睫毛が震え、うっすらと瞼が開く。
 瞼の奥から現れたのは神秘的なアイスブルーの瞳、孤高を貫く氷雪の青。
 『いいかサーシャ、的の中心にあてるんだ。ど真ん中を狙うんだ。俺を失望させたら承知しねえぞ、この愚図めが。何のために今日まで無駄飯食いのガキを養ってやったと思ってる?お情けじゃねえ、道楽じゃねえ、愚図でどうしようもねえお前を立派に鍛え上げてたんまりおひねり巻き上げるためだよ。今度失敗したら足腰立たなくなるまで鞭でしごいてやっから覚悟しやがれ』
 品良く整った目鼻立ちが高貴さを感じさせる少年は、団長の叱責にも怯える事なく新たなナイフを手に取り、真剣な面持ちでためつすがめつする。
 刃を照明に翳して反射させる。
 白銀の閃光が目を射る。
 鋭利で滑らかな刃に指を這わせ、固い芯を秘めた金属板の感触を確かめる。眉間に翳した刃を手際よく翻し表裏を照明に舐めさせる。
 恍惚と目を細める少年の手の中で、ナイフが光り輝く。
 『ぼうっとするんじゃねえ!』
 団長が鞭で足元を叩いてどやしつける。
 まるで家畜に対する扱いだ。
 事実この冷酷無比な男は、早くに母を亡くし父には捨てられた幸薄い少年に対し家畜に等しい境遇を強いてきた。気に入らないことがあれば激しく折檻して鉄の檻に閉じ込めた。飯を抜くなど日常茶飯事だった。少年は幼い頃より生傷の耐えない生活を送ってきた。 
 続けざまに鞭が唸り、地面を穿つ。
 鞭で打ち砕かれた土塊が宙に舞う中、癇性を爆発させた団長が口汚く悪態を吐く。
 『いいかサーシャ、お前に教えてやる。お前はな、「捨てられた」んだ』
 嗜虐の悦びに目を濡れ光らせて、分厚い唇を涎に照り光らせて、団長が邪悪に微笑む。
 折檻の恐怖を煽るように鞭をしごき背後に接近、しゃっくりを上げる。

 『てめえのお袋は空中ブランコ乗りのスタア、アナスタシア。親父はさるロシアンマフィアの大物幹部。ある日サーカスに寄った折にアナスタシアを見初めてお持ち帰りと相成った。だけども一度手に入れたらあっけないもんで、腹ボテのアナスタシアがサーカスに出戻ってきた頃にゃ空中ブランコ乗りのスタアは代替わりしていた。だあれもアナスタシアの事なんざ覚えてなかった。
 ああ、可哀想なアナスタシア不憫なアナスタシア!ロシアンマフィアの幹部なんぞに見初められたばっかりに不幸街道一直線、お前を産んでっからすっかり体が弱くなって挙句にガキ遺してぽっくり逝っちまった。おお可哀想なアナスタシア不憫なアナスタシア、空中ブランコ乗りのスタアとして輝かしい将来が約束されていたのにお前とお前の親父のせいで全部台無しだ!』

 芝居がかった身振りで悲嘆に暮れる団長を一顧だにせず、ナイフを手に集中力を高める。
 的は十メートル離れている。
 少年の手は既に血まみれで十メートル先の的には数十本ものナイフが刺さっている。
 矢立ての様相を呈した的にはしかし、中心に空きがある。
 ナイフはどれも的の中心を逸れて刺さっている。
 少年の手はもう傷だらけだ。何時間も休みなくナイフを投げ続けたせいでひどく体力を消耗している。二本足で立っているだけで奇跡に近い体調なのだ。額には汗が浮かんでいる。唇は青ざめている。
 それでも少年は前方の的を見詰め続ける。
 的の中心を貫くまでは決して引き下がらないと目標を己に課して、投擲のポーズをとる。
 団長の呪詛は連綿と続く。
 集中力を乱して失敗を招こうというのか、熱狂的に腕を上げ下げして慨嘆する。
 『お前の親父ときたら全くどうしようもねえ人間の屑だ!そうは思わねーかサーシャ。お前だって心ん底じゃあ自分とお袋を捨てた親父を恨んでるんだろう、憎んでるんだろう?お前は親父に見捨てられたも同然だ、その証拠にお前の親父ときたら忘れ形見の息子をサーカスに預けっぱなしで一度も訪ねてきやしねえ。ああそうか、正妻がいるんだもんな。跡継ぎもちゃんといるんだもんな。昔捨てた愛人が産んだガキなんざとっくに忘却の彼方だよなあ!』
 団長が嘆かわしげにかぶりを振り、見苦しく頬肉を弾ませ盛大ににたつく。
 少年は一直線に的と対峙する。
 襟足で刈り込んだ銀髪がざわめく。
 刃の根元を指に挟み上げ下げし、慎重に目測を割り出す。
 音が消える。色が消える。
 的と自分、二つの点のみが世界に存在する。点と点が不可視の糸で繋がる。線になる。空気の流れを皮膚に感じる。
 自分が起点で的が終点、その間を繋ぐナイフの放物線を幻視する。
 高貴に整った顔の中、怜悧に薄い唇が吊り上がる。
 『黙れ、愚民』
 『なん、だと?』 
 吠え声が止む。天幕の内側に静寂が立ち込める。
 腹に力を矯め、鋭く呼気を吐く。アイスブルーの双眸が燃え上がる。全身に闘気が漲る。心地よい緊張感が充溢して筋肉が躍動する。
 世界から音と色が消える。
 五感が異常に研ぎ澄まされ刺激が飽和し無に近くなる。
 時が停滞する。時間の流れが鈍くなる。水の中にいるように一挙手一投足を緩慢に感じる。
 ナイフを投擲する。鞭のように腕が撓る。 
 刃の表面が照明を反射、長大な放物線を描いて的に至る。
 軽やかな音をたて、的の中心にナイフが突き立つ。
 『…………』
 団長が絶句する。
 少年は大股に的に近付き、無造作にナイフを抜き取る。
 片手に握ったナイフを惚れ惚れと見詰め、薄っすらと微笑む。
 この上なく幸せそうな、しかし見るものを不安にさせずにおかない狂気を孕んだ微笑。
 『僕の末はロシア皇帝だ。じきにお前のような卑しき民草とは口を利くこともなくなる。やがて皇帝の馬車が迎えに来て僕をロマノフの宮殿に連れて行く。お前に鞭打たれ檻に入れられ飯を抜かれる日々も大きくなるまでの辛抱だ』
 この上なく愉快そうに笑い声を立て、少年がダンスを踊る。
 優美なステップを踏み回転する。人を惹き付ける華麗な身ごなしは稀代のブランコ乗りと喝采を浴びた母から受け継いだものだ。
 少年は踊る。
 吐く息も凍る天幕の内側、誰もいない客席を見上げ、現実には聞こえない喝采を一身に浴びて。
 ナイフをきらびやかに閃かせ。
 『僕の母さんは皇女アナスタシアだ、皇女の産んだ子が皇帝になるのは当然だ。そうなったらお前なんかギロチンにかけて処刑してやる、これまで僕が味わった屈辱を倍返しにしてギロチンにかけてやる。ざまをみろ愚民めが、愚民どもめが!お前ら全員僕のナイフで血祭りに上げてやる、僕が不遇の年月に耐えてロシア皇帝に即位した暁にはこんなくそったれたサーカス一声で潰してやる!!』
 甲高い哄笑が爆ぜる。
 背骨がへし折れんばかりに仰け反り哄笑する少年のもとへ憤然と団長が歩み寄り、おもむろに鞭を振り上げる。
 鋭利な唸りを上げて鞭が肉を打擲する。
 『!?っあう、』
 背中を打たれた衝撃によろめき、力なく膝を屈する少年に続けざまに鞭が振り下ろされる。
 『誰が愚民だ、このクソガキが!お前がロシア皇帝たあ笑わせるぜ、お前はただの捨て子のクソガキだ、ナイフ投げっきゃ取り得のねえサーカスの荷物のクソガキだよ!わかったかサーシャ、わかったなら返事しろ、申し訳ありません団長もう逆らいませんごめんなさいて泣いて謝れ!』
 少年が腕を掲げて顔を庇う。
 服が破れて肌が裂けて血が飛び散る。
 頭を抱え込んで突っ伏す少年に怒りに任せて鞭を振るう。少年の手から零れ落ちたナイフが澄んだ音を立て地面に転がる。ナイフを追って顔を上げる、その頬を鞭が掠めて肉が爆ぜる。
 地に腹這いになりナイフを拾おうとぎりぎりまで腕を伸ばす、その背中に息を荒げて圧し掛かる。
 既にボロ屑同然となった服を破り取り、裸に剥く。
 布切れの下から暴かれたのは鞭打たれた傷跡が刻まれた白い背中だ。
 『ナイフ投げの他にお前に何ができるってんだよ、サーシャ』
 醜く肥えた指が傷だらけの背中をまさぐる。脇腹をまさぐられる不快さに少年の肌が粟立ち、喉から悲鳴が漏れる。必死に身をよじり己を組み敷く男の支配から脱しようと足掻く少年、その無駄な抵抗を嘲笑しつつ後ろ髪を鷲掴む。
 鈍い音が耳底にこびりつく。
 少年の後ろ髪を掴んだまま、固い地面に顔を打ち付ける。
 『こうして俺様の慰み者になる以外お前にどんな使い道があるってんだ、ええっ?お前がロシア皇帝たあ笑わせるぜ、そんなら俺はロシア皇帝をたぶらかす怪僧ラスプーチンだ、お前のケツの穴に精液ぶちまけて背徳の愉しみを教え込む淫蕩な坊さんだよ!』
 背中に跨った男が哄笑する、少年の頭を何度も何度も地面に強打して勝利の哄笑をあげる。男が漸く飽きて少年の後ろ髪を引っ張る。何度も何度も地面に減り込んだ額は割れて鼻梁を血が伝っている。
 額と鼻の穴から血を垂れ流した少年がぐったり地に横たわる。
 芋虫めいた指が少年のズボンを剥ぎ取り、幼い尻を晒す。
 団長が生唾を嚥下する。
 『股を開け、腰を振れ。ふっくら可愛いケツを俺のナイフで貫いてやる。団長の命令は絶対だ、天幕の内側で俺に逆らう身の程知らずぁぶち殺されたって文句言えねーんだ。サーシャ、サーカスを出て行くあてあるのか?ないだろうそんなもん、路頭に迷ってのたれ死ぬのがオチだぜ』
 血と泥に汚れた顔が屈辱に歪む。
 アイスブルーの目が怒りに漣立つ。
 憎しみに燃える目で振り返った少年を鼻で笑い飛ばし、はちきれんばかりにいきり立った股間を少年の内腿に擦らせ、唾液を捏ねる音も卑猥に耳朶をしゃぶる。
 『С ума сошёл 』
 灼熱の杭が打ち込まれる激痛に理性が蒸発、悲痛な絶叫が天幕を突き抜けた。

 悪夢の沼から意識が浮上する。
 「……………ここは、どこだ……」
 こめかみを疼痛が刺し貫く。
 覚醒と同時に酷い頭痛に襲われてサーシャは顔を顰める。
 身動きせず頭痛がおさまるのを待ち、再び目を開ける。
 配管剥き出しの天井、殺風景な灰色の壁とコンクリート打ち放しの床……
 見慣れた房の光景にどこか違和感を覚える。
 体を起こして違和感の原因を突き止めようとして、自分の意志で体が動かせないのに愕然とする。
 「何だ、これは。どうしたことだ」
 サーシャはパイプベッドに寝かされていた。
 ペンキの剥げたパイプベッドに仰向けになり、四肢は鎖で二重に拘束されてベッドの脚に繋がれていた。緊縛。寝ている間に自分の身に起きた異常を悟り、顔から音たてて血の気が引く。
 「お目覚めですか、サーシャくん。随分うなされていたようですが、どんな夢を見てたんですか」
 穏やかな声に目を向ける。
 ベッドの端に男が座っている。
 几帳面な七三分けの下、野暮ったい黒縁眼鏡の奥には慈愛に満ちた垂れ目がある。サーシャは敵愾心もあらわに男を睨み付ける。 
 「………貴様、南の隠者か。何故私がこんな無様なナリで拘束されているのか、納得いく説明を乞いたいものだ」 
 「お忘れですか?渡り廊下でレイジ君に戦いを挑んだ事を。君はヨンイルくんに蹴り飛ばされて失神したんです」 
 朦朧と記憶が蘇る。
 そうだ、私は渡り廊下でレイジに殺し合いを挑んだ。
 今度こそ決着を付けようとペア戦の雪辱を晴らそうと、南の隠者立ち会いのもとで出自卑しき東の王に聖戦を挑んだのだ。
 瞼の裏に浮上するレイジの顔、狂気を孕んだ眼光と不敵な笑み。
 胸の内に憎悪が煮え滾る。
 「そうだ、私は殺し合いを挑んだ。今度こそペア戦の雪辱を晴らし北のトップに返り咲く為に殺し合いを挑んだ。ところがだ、私とレイジの聖なる殺し合いは西の道化の乱入より妨げられた!道化の靴裏を舐める屈辱を味わいあっけなく失神したのだ私は、全てあの道化のせいだ、不快な道化さえいなければナイフは今頃レイジの血を吸って…!!」
 全身の血管に怒りが循環する。
 サーシャは我を忘れ起き上がろうとした、今すぐ起き上がり房を出ようとした。
 しかし出来ない。
 四肢には鎖が巻かれている。
 サーシャは半狂乱で身を捩る、肩の長さに切り揃えた銀髪を振り乱し焦燥を滲ませ渾身の力で鎖を引きちぎりにかかる。
 「放せ、放せホセ!気高き皇帝に対し無礼な振る舞いにも程がある、私を誰だと心得る、恐れ多くも正統ロマノフの末裔たる偉大なるロシア皇帝サーシャだ!黒き肌持つ卑しき民の分際で皇帝に鎖を掛けるとは言語道断、ギロチンで処刑を命じる!否ギロチンで処刑などと生ぬるい、私とレイジの邂逅をはばむ不届き者はナイフで生皮剥いでくれるぞ!!」
 レイジに会いたい。
 会いたくて会いたくて気が狂いそうだ。
 あの目を抉りたい、肌を切り刻みたい、レイジの全てを私の物にしたい。片目だけでは足りない、レイジの全部が欲しいと魂が渇望する。薄汚れた褐色肌も硝子めいた瞳も魔性の微笑みも全部私の物だ他の誰にも渡さん渡してなるものか、レイジの血の一滴たりとも私の許しなく流させるものか!!
 サーシャは咆哮する。
 皮膚が破れる程に鎖を軋らせ狂おしく身を捩る、故郷の言葉であるロシア語でホセを罵倒する。自分をベッドに縛りつけるホセに団長の面影が重なる。幼き頃より自分を虐げ続けた団長の面影を打ち砕かんと激しくかぶりを振るサーシャ、その喉が濁った音を立てる。
 「ごぼっ……」
 喉から血が迸る。
 上着の胸元が朱に染まる。
 激しく噎せ返るサーシャの上にホセが圧し掛かる。 
 「無理は禁物ですよ、サーシャ君。渡り廊下で血を吐いたのを覚えてますか」
 前髪に指を絡め、吐息のかかる距離で囁く。
 「クスリのやり過ぎです。君はそろそろ覚せい剤を断つべきだ。放っておけば内臓に障害がでる」
 「お、前の指図は受けん……汚らわしい手で触れるな……」
 「そう言うと思って強硬手段をとらせていただきました。手足を縛り付けてしまえば注射が打てないでしょう」
 生温かい吐息が睫毛を湿らす。ホセが前髪をかき上げる。
 黒縁眼鏡の奥の目は深沈と凪いで本音を語らない。
 続けて何か言おうとして、サーシャは豁然と目を見開く。
 「………っ、あああああああああぐうぁあああああぅぐ!!?」
 「おや、禁断症状が来ましたね」
 呑気に嘯くホセをよそにサーシャは見苦しく苦悶する。
 毛細血管の浮いた眼球が眼窩から迫り出す、顎間接が外れる限界まで開けた口から声にならぬ絶叫が迸り空気を震わす、背骨がへし折れそうに体が仰け反り手足が不規則に跳ねる。
 鎖で縛られていなければベッドから転げ落ち頭を割っていた。

 「く、クスリはどこ、だ。私のクスリはどこだ私のクスリあれがなければ私は理性を保てない私は私でいられない私が崩壊する、あああああああっ、クスリ、クスリが欲しい欲しい誰か私の静脈にクスリを打ってくれ快楽を注ぎ込んでくれええええええええええぇえええええええぇえええええっ!!!」

 憎い憎いレイジが憎い殺す殺したいあの情熱の肌を裂き血を啜り臓物に頬ずり至福恍惚甘い臓物ナイフが皮膚の下を通る素敵なナイフ私の僕の    
 「ナイフはどこだ?私の大事なナイフはどこだ私の半身に等しいナイフはどこだあれがなければ」

 氷のように冷たいナイフ銀に光るナイフ血潮に濡れて団長の怒声振り上げる鞭振り下ろされて肉が爆ぜて血飛沫

 醜悪な顔
 裸の背中に圧し掛かり尻を犯す男
 弛んだ腹が背中に密着
 尻肉と腰がぶつかる乾いた音が連続する

 『景気良くケツ振れや雌犬が、薄汚いサバーカめが!はははははっもっと高く鳴け高く高く、声変わり前の声でひぁんひぁん喘げよクソガキめが!!母親に死なれて父親に捨てられた哀れな捨て子のサーカスの足手まとい、お前の居場所なんざどこにもねえ宮殿にもサーカスにも!!』 

 内臓に灼熱の杭を打ち込まれる激痛 裂けた肛門からゆるり垂れた血が内腿を伝う生温かい感触 
 違う、あの男はもういない、いないのだ。悪夢の中にしかいないのだと自分に言い聞かせ平静を保とうとするも現実と妄想が混沌とまざり合い男の手が肌を這い肉を貪り 熱い肉塊が肛門の中で鼓動に合わせて脈打ち 前が滴をたらし……

 「レイジいいいいいいいいいいいイいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!!」

 鎖と接する皮膚が破けて血が滴る。
 サーシャは絶叫する、声帯擦り切れて喉から血を吐いてもなおレイジを求めるのをやめず絶叫する。
 その様をホセはにこやかに見守る。
 銀髪をぐちゃぐちゃに乱し目を極限まで見開き半開きの口から涎を垂らし股間は勃起し、地獄の苦しみに悶えるサーシャを冷徹に観察する。
 「クスリがぬけたらレイジくんに会わせてあげます」
 サーシャの胸板に手を置き、官能的になでる。
 「君にはやって貰いたいことがある。裏社会で悪名馳せたナイフ使いたる君を手駒にできれば心強い、また一歩野望の実現に近付く」
 ホセの笑みが深まるのに反比例し薬物中毒の醜態は極まる。
 失神寸前、口から泡を噴いて不規則に痙攣しながらも目だけ動かしてホセを見据え、たどたどしく言葉を紡ぐ。
 「わ、たしに、なにをしろ、と」
 眼鏡の奥の目を悪戯っぽく細め、唇の前に人さし指を立てる。
 「我輩の『カルメン』になってほしいのです」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050509192822 | 編集

 静流ご乱心から一ヶ月が経った。
 鍵屋崎が痴情のもつれで刺し殺されて泥沼三角関係が悲劇的な終局を迎えてから今日で一ヶ月……冗談。残念ながら鍵屋崎は死んでない、憎たらしいことに今もぴんぴんしてる。脾臓貫通の重傷なんだから素直にポックリおっ死んだっていいものをどっこいなかなかしぶとい。
 静流はこの一ヶ月ずっと独居房に拘禁されてる。
 看守一名を殺して囚人一名に重傷負わせたんだから当たり前だ。
 冷たい穴倉に転がってる静流を想像するとちょっと溜飲が下がる。
 ヤツにさんざん苦しめられて脅迫されて輪姦で口封じされて、静流が大手振って表歩いてる間はびくびくしっぱなしで心休まる暇なんか片時たりともなかった僕もさすがに一ヶ月が経った今じゃ気力が持ち直した。
 静流にふられたあげくあっさり殺された柿沼に同情はしない。
 自業自得だ。
 柿沼は少しどころじゃなく頭が悪かった、静流にぞっこん惚れてたせいでアイツの本性が見抜けなかったのだ。
 カッキーのおばかさん。
 とはいえ僕も一歩間違えれば同じ運命を辿っていた、静流に脅迫され共犯に仕立て上げられたあげく全ての罪を被せられてあっさり葬られていた。
 んで、現在の僕。
 「リョウさんーやめましょうよー。覗き見なんて悪趣味っスよ」
 上着の袖を引っ張ってビバリーがしぶる。
 口では嫌がってても本気で抵抗してるわけじゃない証拠に目は好奇心に輝いてる。
 「だいじょうぶだいじょうぶ」とビバリーをあしらって壁からそっと顔を出す。
 「ビバリーだってホントは気になってるくせに、三角関係の渦中にあるサムライと西の総大将ヨンイルの内緒話。サムライも医務室前うろうろしてるとこ僕に見つかったのが運の尽き、あんまりそわそわしてるんでこりゃ変だなって物陰に隠れて見張ってたら……ビンゴ!」
 軽快に指を弾く。
 物陰の向こう、廊下の片隅で深刻に話し合ってるヨンイルとサムライにバレなきゃ口笛でも吹きたい気分。
 「ま、僕だって否定はしません。カーギーさん命の用心棒サムライさんと西の道化ヨンイルさん、どうにも妙な取り合わせっスね。二人してこそこそ何話してるんでしょうか……親殺しの居ぬ間にデート?逢引?」
 「まっさかあ!」
 小ばかにしきって鼻を鳴らせばビバリーがむっとする。
 憮然とするビバリーにくるり向き直り、人さし指を突きつける。
 「考えられないね、あの二人に限って。いい?サムライが鍵屋崎を裏切るなんてありえない、ヨンイルも以下同文。鍵屋崎のどこにそんな無限のセックスアピールがあるのか全く理解に苦しむけどサムライがヤツに首ったけなのは一目瞭然、鍵屋崎の良き友人を装ってるヨンイルだってまんざらじゃあない。さもなきゃ泣く子も黙る西のトップが毎日山ほど本抱えて医務室と図書室往復するわけないよ、寝たきりの鍵屋崎のこと考えて配達サービスしてやってるにしても多かれ少なかれ下心があるに決まってる」
 「リョウさんの言う事も一理ありっス。ヨンイルが鍵屋崎に懐いてるのは西でも東でも有名な話、道化ファンクラブの連中もやきもきしてるみたいっス」
 ビバリーが神妙に頷く。
 道化ファンクラブ別名ヨンイルの貞操を守り隊は西棟に存在するらしいその名の通りの集団だ。
 どこかの王様と違って人望厚い任侠体質のヨンイルは五百名から成る集団に「兄貴」と仰がれてるらしい。暑苦しいね。
 壁に隠れた僕らの視線の先には難しい顔をしたサムライとヨンイルがいる。もっとも深刻な面持ちはサムライだけ、腕を組んで壁に凭れたヨンイルはさっぱりした顔でいる。
 ビバリーと目配せし、適切な距離と障壁を隔てて二人の会話に耳を澄ます。
 「……んで、俺に渡すもんがあるやろ」
 ヨンイルが無造作に片手を突き出し、顎をしゃくって催促する。
 何もかもお見通しだと食えない笑みを浮かべて。
 サムライは無言で手を見下ろす。
 事情を知らない人間が通りかかればゆすりたかり無心の類にしか見えない光景だ。サムライは暫し躊躇した末、囚人服の懐を探って一通の封筒を取り出し、ヨンイルに握らせる。 
 「………頼む」
 慇懃に頭を下げる。サムライから受け取った封筒を一瞥、素早くポケットに隠したヨンイルがにっこりする。
 「確かに受け取ったで。そっこー直ちゃんに届けたるさかい安心せぇや。あ、もちろん盗み読みなんぞ悪趣味な真似せんから」
 とってつけたように言い、顔の前で慌しく手を振る。
 オーバーリアクションの道化を見詰めるサムライの顔には苦悩と疲労が滲んでいる。寄らば斬るぞとささくれだった空気を漂わせたサムライは食堂でもどこでも浮いている。静流の暴挙と鍵屋崎の入院がもたらした心痛は予想以上に大きかったらしい。
 とくに鍵屋崎の怪我に多大な責任を感じてるらしく、目にはどこか後ろめたい色がある。
 「……直は元気か」 
 暗い目を伏せる。
 ヨンイルは肩を竦める。
 「そりゃもう。最近じゃ自分でベッドに起き上がれるようになって『入院食がまずい、原料は粟とひえか』て毎日ゴネとる。直ちゃんが快適な入院生活送れるよう俺もあんじょう努力しとる、お前がいのうても不自由せんから安心しィ」
 「…………そうか」
 『お前がいのうても』を強調され、サムライが複雑な表情を浮かべる。残念なような、当てが外れたような、そう思ってしまう自分を戒めるような。
 ほんの一瞬サムライの面を覆った幻滅の色は、陽気な笑い声に吹き飛ばされる。
 「直ちゃんに必要にされへんでがっかりした?」
 「何?」
 サムライが気色ばむ。すっと目を細めたサムライから不穏な気配が立ち上る。
 「これじゃどっちがぞっこん惚れとるんだかわからん。サムライ、あんた実は嫉妬深いやろ。四六時中直ちゃんにべったりひっついて悪い虫つかんよう見張ってへんと不安なんやろ。ベッドで寝たきりの直ちゃんに誰かが悪させえへんかって毎晩気ィ揉んどるんやろ。そのカオは図星やな?」
 意地悪い笑みを浮かべてぐっと身を乗り出し、サムライの顔を間近で覗き込む。
 サムライは反論しない、否定しない。
 武士に二言はないと体現するが如く仄かに頬を上気させている。
 あきれた。
 初恋に悩む中学生かよ?ウブで奥手にもほどがある。
 「直ちゃんのことなら心配すな。お前がそばにいられん分は道化がちゃあんと守ったる。西のトップが睨み利かせてれば貞操安泰や」
 ヨンイルが頭の後ろで手を組み、サムライからすっと離れる。
 「惚れた弱味、か」
 不安か葛藤か、もしくはその両方をごまかすための無意識にゴーグルをさすりつつ、苦味の勝った笑みを上らせる。
 「損な役回りやなあ、俺。逢瀬もままならぬロミオとジュリエットのために伝書鳩ならぬ伝書ヨンイル買って出て、ホンマ物好き。自分でもほとほとあきれてまう」
 「かたじけない」
 サムライが頭を下げる。
 不器用なサムライはこれしか感謝を表す術を思いつかなかったらしい。
 「このあいだのことといい、お前には口では言い表せんくらい感謝している。この恩はきっと返す」
 こないだのこと?ビバリーと顔を見合わせる。
 こないだの事が何を指すかわからず困惑する僕らをよそにサムライはいつになく饒舌に、ヨンイルに対し最大限の感謝と礼を伝えようと切羽詰った口調で続ける。
 「お前が見張りを引き付けてくれねば医務室に忍び込むなど不可能だった。お前が陽動してくれたおかげで俺は上手く医務室に忍び込むことができた。幸い医師にはばれなかった、あの老爺はぐっすり眠りこけていたからな」
 ぐうすか鼾をかく医者でも思い出したのか、サムライの顔が和む。
 「すべてお前の助力あってこそだ、ヨンイル。お前の助力がなくば夢にまで見た直との逢瀬は叶わなかった。いや、逢瀬の件だけではない。直に会うのを禁じられている俺から文を預かり毎度届けてくれる、直と俺の絆を繋いでくれる……」

 サムライが毅然と顔を上げ、真っ直ぐヨンイルを見詰める。
 嘘偽りのない、澄み切った目。

 「お前は恩人だ、ヨンイル。俺と直の、俺たち二人の恩人だ」
 一振りの刃の如く曇りなく澄み切った切れ味を誇る、サムライはそんな男だ。
 サムライの言葉と心はいつも真っ直ぐで、あまりにも真っ直ぐで、それ故自覚なく人を傷つけることがままある。今この時もそうだ。僕にはわかった。見逃さなかった、ヨンイルの顔に浮かんだ一瞬の苦悩を。おそらくヨンイル自身すら気付いてない、サムライに対する嫉妬を。
 「くっさい台詞。時代遅れもええとこや」
 ヨンイルがぐっとゴーグルを押し下げて目を隠し、笑いで表情をごまかす。ゴーグルで目を覆ったのは表情を見られたくないから、本音を知られたくないから。
 おどけた仕草で肩を竦め、どこか空々しく響く底抜けに明るい声でヨンイルが主張する。
 「俺はただ直ちゃんの手塚トモダチとして出来るだけのことやっとるだけや、お前が恩に着ることない。あ、さっきのは嘘。直ちゃんが別にお前に会いたがってないなんて大嘘や、メシ食いながら本読みながらぼうっとしとるけどアレ多分お前んこと考えとるんやろな、次はいつお前が会いにきてくれるか手紙が来るかてそればっか考えてお手手が留守になっとんのや。魂ごとどっか持ってかれたみたいに」
 「俺とて同じだ。心は常に直で占められている」
 ヨンイルが滑稽に口笛を吹く。
 サムライがますます赤くなる。
 口にしたそばから後悔するサムライ、その肩にぽんと手を置いてヨンイルが苦笑する。
 「妬けるなあ、ホンマ」 
 僕は見た、ヨンイルの手に力が込められるのを。サムライの肩を掴んだ指が強張り、口元の笑みが薄まる。
 苦痛に呻くサムライの耳元に顔を運び、顔を斜めに傾げ、囁く。
 「……直を不幸にしたら許さん」
 背筋が寒くなる真剣な表情だった。
 張り詰めた空気が廊下を包む。
 壁の向こう、一直線に伸びた廊下で対峙したサムライとヨンイルはお互い一歩も引かずに目の奥の表情を探り合っている。
 先に声を発したのは、サムライだった。
 「心得ている」
 ヨンイルの手を肩から引き剥がし、重々しく頷く。
 ヨンイルはしばらく疑わしげにサムライを探り見ていたが、やがて納得したように頷き、打って変わって調子よく手をひらひらさせる。
 「さよか。ならええわ、俺が手出し口出しすることちゃうしお前に全部任せよやないか。直ちゃんはお前にぞっこんべた惚れて他の男がちょっかいかけてもなびかんし、お前はお前で直ちゃん以外は見えへん恋は盲目病にかかっとる。お似合いや」
 ヨンイルに茶化されたサムライが何か言いかけ口を開き、また閉じる。
 話は済んだ。ヨンイルがこっちにやってくる。
 やばい!
 ビバリーと一緒に奥に逃げ込む。隅っこで頭を抱え込んだ僕らの背後を軽快な靴音が通り過ぎていく……
 「そこの赤毛とちびくろサンボ」
 「ちびくろ!?」
 ビバリーがバッと顔を上げる。
 「!ばかっ、」
 慌ててビバリーを止めたが時遅く、ヨンイルが寄ってくる。
 「今の話ナイショやで。安田が放った見張りにバレたら面倒くさいことになるさかい、な」
 「それだけ?」
 バレちゃったらしょうがないと開き直る。
 解せない風情のヨンイルに両手を広げてみせる。
 「サムライにやきもち焼いてるなんて西のヤツらにバレたら道化の面目丸つぶれだもんね」
 「リョウさん!」
 ビバリーが僕の口を塞ぐのとヨンイルが爆笑するのは同時だった。
 縺れ合って床に伏せた僕とビバリーの鼻先、ヨンイルが腹を抱えて哄笑している。
 「ははははははっはははは、あかん、俺にもレイジの笑い上戸が伝染ってもうたみたいやわ!あははははっ、お前妄想激しいな!俺がサムライにやきもち?アホ言いな、二次元でしか勃たんて評判のオタクがサムライにやきもち焼いてどないすんねん気っ色わるい!俺はただ大事な手塚トモダチ失いたくないだけや、ブラックジャックの実年齢とかピノコとメルモの共通点とかサファイアは亜麻色の乙女派かリボンの騎士派か言い争える相手を失いたくないだけや!俺を暇させんためにも直ちゃんには一日もはよぅ元気になってもらわなあかんねん」
 わざわざゴーグルを押し上げて目尻の涙を拭い、きっぱりと言い切る。
 「ゲスな勘ぐりすなよ。俺は一生童貞貫き通すてあの世のじっちゃんに誓っとんのじゃ、いまさら初恋に目覚めてたまるか」 
 言うだけ言ってくるり踵を返し、医務室の方角へ去っていく。
 ビバリーはぽかんと口を開けた。
 僕もぽかんと口を開けた。自覚がない初恋って恐ろしい。視線の先でくるり角を曲がったヨンイルが「直ちゃーん、見舞いにきたでー」と大声を上げる。ビバリーはどちらともなく顔を見合わせ肩を竦める。
 「強敵出現か。三角関係が四角関係になるとはね」
 「複雑っス」
 いつのまにかサムライは消えていた。全く神出鬼没だ。
 ……何となく面白くない。どいつもこいつも見る目がない、なんだってあの可愛げない親殺しばっかちやほやされるのか理解に苦しむ。
 「あーっ、むかつく!サムライもヨンイルも趣味悪いよ、相手は極悪非道の親殺しだよ、人を見下した物言いの自称天才だよ?あんなヤツのどこが……」
 その時だ。
 「た、大変だ!静流が脱走した!」
 全身の血が凍り付く。
 廊下を全速力で走ってきた囚人が、すれ違うヤツを片っ端から掴まえて喚き散らす。
 「静流?だれだよそれ」
 「ばかっ、もう忘れたのかよ!?一ヶ月前に柿沼殺して親殺しをぶすりとヤったサムライのいとこだよ、アイツが独居房脱走したんだよ!ほら、なんだっけ……イエローワークの温室担当の看守がいたろ?身長140センチ台のガキにしか興味ねえ変態の」
 「曽根崎?」
 「そう、そねちー!アイツが独居房の餌やり係だったんだけど、独居房に配膳に行ってから帰ってこねえんで同僚が心配になって見に来たら……ああ、思い出しただけで気分悪いぜ畜生!俺もたった今野次馬にまざって事件現場見に行ったんだけど、静流がいた独居房はもぬけの殻でイチモツ出しっぱなしにした曽根崎が口から泡噴いて倒れてて……そのイチモツが……」
 大袈裟な身振り手振りを交えてふれまわる囚人、そのまわりに瞬く間に人垣ができる。 
 大口開けてガリっと歯を噛み合わせる囚人、それが意味するところを悟った野次馬たちがどよめく。
 「やっちまったのか」
 「悲惨だなー。そりゃもう使いもんになんねーだろ」
 「で、静流は捕まったのか?」
 「行方不明だってよ。看守総出で捜してるけどなにぶん隠れる場所多いから……」
 「リョウさん、大丈夫っスか?」
 ビバリーの心配げな声を聞く。足元がふらつき、よろめく。
 ビバリーが僕を支える。ビバリーに縋って何とか体を起こした僕の頭の中に独居房の惨状がありあり浮かぶ。
 もぬけの殻の独居房、糞尿まみれの床に全裸で倒れた曽根崎、眼球がぐるり裏返って口角からぶくぶく泡を噴いて手足が不規則に痙攣して……無残に噛み千切られたペニス、床に吐き捨てられた赤黒い肉塊……

 僕がしゃぶったぺニス。

 「おえっ、」
 我慢できない。
 喉元に猛烈な吐き気が込み上げて、気付けばビバリーの上着に今朝食べた物をぶちまけていた。
 ビバリーがぎょっとする。
 無意識にあとじさるビバリーの服を両手で掴み、口の端から胃液の糸引き激しく咳き込む。 
 「リョウさん大丈夫っスか、気分悪いならすぐそこの医務室行きましょうよ!あ、でもこの格好で中に入るのまずいかも……どどどどうしましょ、医者は綺麗好きだって言うしせめて上着だけでも洗っといたほうがいいっスかね、あれ蛇口、蛇口は……」
 取り乱したビバリーの背後から看守が押し寄せる。
 静流脱走の知らせを受けて捜索に駆り出された看守が「そこのけそこのけ囚人ども、看守さまのお通りだ」と警棒を打ち振るい通路に散らばった囚人を片っ端から叩きのめす。
 「どけ黒んぼ、道を塞ぐな!」
 「ビバリー!」
 むなしく手を伸ばした僕の先、先頭の看守に突き飛ばされたビバリーが壁に衝突、後頭部を強打してずり落ちる。
 正体なくして壁に凭れたビバリーに駆け寄ろうとして、鼻息荒く突進してきた看守の集団に跳ね飛ばされる。
 衝撃で床に転げる。
 天井と床がめまぐるしく入れ替わる。
 床に打ち付けた全身に鈍い痛みを感じる。吐いた直後に床を転げたせいで気分は最悪、眩暈ですぐさま立ち上がれない。
 ぐんにゃり床に伸びた僕の体を、誰かがひきずる。
 ビバリーだ。それ以外考えられない。
 僕が跳ね飛ばされたのを目撃して助けに来てくれたんだ。

 「さんきゅ、ビバリー……」
 「どういたしまして、共犯者」

 唐突に視界が翳る。
 裏通路に引きずり込まれたのだと思った時には既に遅く、口に手が被さる。
 この声、聞き覚えがある。
 人に命令するのに慣れた声、人に傅かれるのに慣れた声……
 静流の、声。
 「~~~~~~~~~~~!!」
 声にならない絶叫を放ち、狂ったように身を捩るも背後から僕を抱きしめる腕の力は強く、びくともしない。
 振り返らなくてもわかる、確信がある。
 僕の背後、裏通路の暗がりに潜んでいるのは……
 一ヶ月前に柿沼を殺して鍵屋崎に重傷を追わせた犯人、帯刀静流。
 押し殺した息遣いを耳の裏側に感じる。
 背中に密着した体から性急な鼓動が伝わる。
 「振り向かないで」
 鋭い囁きが耳朶を射る。直後、恥じらうような風情を孕んだ声音が耳朶をくすぐる。
 「僕、困ってるんだ。こんな格好で出歩いたら目立ってしまう。だから、ね……」
 静流がゆっくりと僕の体をまさぐる。
 慣れた手つきで上着の裾をめくり、下腹を揉みしぼる。
 その手の感触が静流に犯された夜の忌まわしい記憶を喚起看守が覆い被さりマワされて上の口も下の口も犯されて体液でべとべとに汚れて髪がへばりついて暗闇にひとりぼっち
 いやだもうあんなのはいやだ暗闇怖いひとりは怖い助けてビバリー助けて助けて
 「君の服、頂戴」
 耳朶を食み、歯を立てる。
 愛撫の手が激しくなる。
 僕はそれどころじゃないあの夜の記憶がまざまざ蘇って恐怖で硬直理性が蒸発、ああまた静流に捕まっちゃった今度こそおしまいだ僕も柿沼の二の舞になる始末される殺されるママに会う前にママ
 「あげ、るから。ころさない、で」
 縺れた舌を叱咤、たどたどしく言葉を紡ぐ。
 思考の洪水が脳裏に殺到、心臓の鼓動が高鳴り全身の血管が脈動し虚空に据えた目から勝手に涙が溢れる。
 ああ、殺される。間違いなく殺される。
 静流はためらいなく人を殺す、僕さえ比べ物にならない非情さで利用価値のなくなった人間に見切りをつける。こんな所で死ぬなんていやだ、生きてここを出てママに会うって約束したのにこんな所でこんなヤツに殺されちゃうなんて僕の人生って一体……
 「もうひとつお願いがあるんだ」
 「え?」
 だから、静流のこの言葉は意外だった。
 虚を衝かれた僕の体をまさぐり、乳首をいじり、多情の白蛇めいた淫猥さでズボンの内側へと手を這わせる。
 「欲しい物があるんだ。君なら簡単に用意できる」
 「はっあ……ふく、」
 下着の中に冷たい手が滑り込む。華奢な五指がペニスに纏わり付いてゆるゆると撫で出す。腰から下が快感に蕩ける。
 床に膝を付いた僕の体を貪り尽くして精気を搾り上げ、勝ち誇る。
 「お願い聞いてくれるね」
 拒否権はなかった。

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 ここは蛇の穴。
 僕の体の上をのたくりくねり這いずりまわる発情した蛇、体中の穴という穴に入り込み蠢く淫乱な蛇。
 闇から生まれた蛇の正体は、僕の肌を舐める貪欲な舌と愛撫の手。
 生臭く湿った吐息が不快だ。
 赤裸な衣擦れの音が耳障りだ。
 饐えた暗闇の中で何が行われているのか肉眼で捉えるのは不可能でも異常に研ぎ澄まされた嗅覚と触覚は視覚を補って余りある。
 戒められた手首に鈍い痛みを感じる。後ろ手に拘束された手首の皮膚が破けて血が滲む。
 「僕の好みからすると君は少し育ちすぎだ」
 声が聞こえる。興奮に掠れたあさましい囁き。
 呟くあいだも愛撫の手は休めずさらに激しさを増して僕を責め苛む。 隣の房の囚人は異変に気付いているのかいないのか……鉄扉を開錠して看守が入った事には気付いても、暗闇で行われている情事にかんしては気付いてない可能性が大きい。
 否、それ自体が杞憂だ。
 かりに湿り気を帯びた物音やはしたない嬌声が壁向こうに聞こえても独房に拘禁された囚人はすでに正気を失っており、証言能力がない。
 余程精神力が強い人間でなければこんな劣悪な環境には耐えられない。閉塞感を与える暗闇が押し迫る中、後ろ手を拘束されて満足に寝返りも打てず、意志ある肉塊と化して汚物まみれの床に腹這いになる幽閉の日々に耐えられるはずもない。
 ここは蛇の穴だ。
 邪悪な蛇の巣穴だ。
 吐寫物と糞尿の悪臭が凝縮された暗闇に朦朧と寝転がっていると闇から分裂した幾万匹もの蛇がうじゃうじゃと四肢に絡んで体中の穴という穴に潜り込んでくる。
 「僕の好みからすると育ちすぎだけど、ただでヤらせてくれるんだから文句は言えないね」
 僕の体を夢中でまさぐる手、首筋を這い回る熱い舌。
 曽根崎を篭絡するのは簡単だった。
 最初は手だけだった。
 鉄扉の最下部に設けられた鉄蓋を開けて投げ込まれるアルミ皿、一日二回それを出し入れする手だけが曽根崎の印象だった。
 外から射し込む僅かな光を頼りに、おそるおそるアルミ皿をさしだす手に目を凝らす。
 曽根崎が怯えているのはすぐにわかった。
 当然だ。同僚の柿沼が僕に殺された事は記憶に新しい。
 他の囚人はともかく僕には十分気をつけてあたらねば柿沼の二の舞になるぞと脅されているのだ。
 僕は待った。
 ただただ気配を消して息を潜めて曽根崎の警戒が緩むのを待った、寡黙に徹して曽根崎の油断を誘った。
 やがて曽根崎は僕に興味を示し始めた。
 一日二回、決まった時間に曽根崎はやってくる。
 次第に廊下を近付いてくる靴音、ワゴンの車輪が床を削る音、ワゴンに積載された食器が奏でる金属音……
 鉄蓋が開きまた閉じる単調な音の連続。
 奥の独房から残飯を配り終えた曽根崎がこちらに近付いてくる。
 鉄扉の向こうに気配を感じる。 
 意を決したように片膝付き、ワゴンの下段からトレイを取り上げる様子さえ瞼裏に思い浮かべることができる。
 曽根崎が扉下部の鉄蓋を持ち上げ攻撃の意志がないと確認、危険がないと悟ってから漸く食器を入れる。
 「ありがとう」
 曽根崎がびくりとする。
 即座に手を引っ込めようとした曽根崎、その指を舐める。
 鉄扉の向こうから息を呑む気配が伝わる。
 硬直、弛緩。恍惚と吐息を漏らす曽根崎、快感に上気した顔が目に見えるようだ。
 僕は丹念に曽根崎の指をしゃぶった。
 口腔に含み舌を絡めてたっぷりと唾液を吸わせる。
 指がふやけて白くなるまで名残惜しく口腔で転がして塩辛い後味をたのしんだ。近隣の囚人は何も知らない、何故僕の前でだけ配膳係の滞在時間が長くなるのかその理由に気付く様子もない。
 周囲の房からは絶えず意味不明な奇声が聞こえてくる、人間の声帯が発してるとは到底思えない濁った苦鳴や罵声や悲鳴や絶叫が陰陰滅滅と流れてくる。
 奇怪な呻き声が四囲から押し寄せる中、曽根崎だけが別種の声を漏らしていた。
 「いつもご飯をもってきてくれるお礼さ」 
 あくる日もあくる日も指を舐めた。
 扉下部からおそるおそる差し伸べられる手、指。
 それらを丹念に口に含み舌を絡める、繊細な舌遣いで指の股を洗ってくすぐったがらせる、手のひらに舌を這わせて唾液をのばす。
 扉の向こうから歓喜の呻きが聞こえてくる。
 僕に手を舐めさせる傍らもう一方の手で男根をしごいているらしく、栗の花の濃厚な匂いが鼻先に漂ってくる。

 日をおかず鉄蓋の下から「別の物」がさしこまれるようになった。
 日をおかず曽根崎自ら独房に入ってくるようになった。

 曽根崎が僕の頭を抱え込む。
 ズボンの前を寛げて股間を露出して男根を吸わせる。
 「はあっ、あう、ひぃっ……いいよすごくいいよ、もっと、もっとぐちゃぐちゃにしてぇ」
 曽根崎ががくがく腰を振る。
 僕は言われた通りにする。
 わざとらしく舌を使い唾液を捏ねる音を響かせる。
 僕は曽根崎に抱かれた。
 何度も何度も何度も、数え切れないほどに。
 後ろ手に手錠をかけられたままある時は腰を起こされある時は膝に座らされある時は肩に両足掲げられ無理な体勢をとらされ何度も何度も菊座に大量の精を注がれた。
 僕は浅ましく腰を振りたくった。
 曽根崎に貫かれて最高に気持ち良いと、もっと乱暴に抱いてほしいと物欲しげにねだってみせた。どんな無理な体勢をとらされ関節を痛めても、だらしなく弛緩しきった菊座から絶えず血と精液と糞便を垂れ流すみじめな思いをしても唯一つの目的を遂げるためなら肉奴隷の汚辱を厭わなかった。
 そうだ。僕は他ならぬ自分自身を取り引きの道具に使ったのだ。
 僕は待った。ただひたすらに待ち続けた。
 曽根崎が完全に油断するのを、快楽の虜となるのを。
 そして遂にその時が来た。
 『この手が使えればもっと気持ちよくしてあげられるのに』
 奉仕を中断し、顔を伏せる。
 曽根崎は快感に息を荒げ、続きを促すように僕を見下ろす。
 僕は内心ほくそ笑み、最前まで口に含んでいた男根の先端、亀頭の突起に舌先を踊らす。  
 「あっあああああっあふっ……意地悪しないで、イかせてっ……」
 「イかせてあげたくても手が使えないんじゃしょうがない」
 おどけて肩を竦める。曽根崎の顔を躊躇が掠める。もう一息。
 「曽根崎さん、お願いがあるんだ。僕の手錠外してくれないかな。曽根崎さんなら鍵持ってるでしょう」
 「だめだよ、規則違は……あうっ!」
 曽根崎に続きを言わせず、この上なく張り詰めた男根に軽く歯を立てる。醜い腫れ物めいた亀頭を舌先でつつき、すぐまた引っ込めて焦らしに焦らす。あと少しの刺激で射精できる、射精したくてしたくてたまらないといった風情で切なく喘ぐ曽根崎に追い討ちをかける。
 「ここには誰もいない、誰も見ていない。僕と曽根崎さん二人だけだ。周囲の房の連中はとうに気が狂ってる、分厚い壁を隔てたこっちで何が起ころうが興味を示したりしない。少しの間でいいんだ。僕はただ曽根崎さんを気持ちよくさせてあげたいだけだ。両手が使えなきゃ曽根崎さんの魔羅をいい子いい子することもできない、優しく包んで宥めてあげることもできやしない。口での奉仕だけじゃ寂しい。曽根崎さんだって本当はそう思ってるんでしょう」
 曽根崎がごくり生唾を飲み込む。
 「ほ、ほかの人にはナイショだよ。ぼ、ぼくときみだけのひひ、ヒミツだ」
 腰の鍵束を片手さぐり、一本を掴む。
 曽根崎が僕の背後に回り、屈みこむ。
 勃起した男根がズボンの尻にあたる。浅ましい息遣いがうなじで弾ける。曽根崎が僕の背中に覆い被さり、僕を後ろ手に戒めた手錠に鍵をさしこむ。カチリと軽い音。鍵穴に鍵が嵌まり、手錠が跳ね上がる。
 手錠が床に落下、両手が自由になる。
 両手を前に回して指を開閉、ちゃんと動くのを確かめる。
 「さあ、続きをしようか」
 待ちきれぬ期待感を込めて促す曽根崎に向き直り、床に片膝付き、股間に顔を埋める。
 男根に両手を添えて口腔へ導き入れ、唾液の溜まりに浸し、そして……
 
 凄まじい絶叫が轟く。

 音なのか感触なのか、下顎と上顎を噛み合わせた瞬間にガリッと衝撃を感じた。前歯が男根を穿ち奥歯が食いちぎり口腔に鉄錆びた血の味と精液特有の青臭い苦味が満ちる、硬く勃起した男根が歯で断ち切られた瞬間に芯がふやけて萎縮し血痰と見まがう萎びた肉塊になりはてそれを吐き出す。
 「まずい魔羅。煮ても焼いても食えないね」
 曽根崎の悲鳴は止まない。
 嗚呼うるさい。
 僕は無造作に手の甲を拭い唾液を吐く、口の中にはまだ生臭い肉の味と血の味が満ち満ちている。
 今のぼくは生き血を啜ったようなありさまで口元にも上着にも鮮血の朱が散っている、こんな格好で出歩いたら目だってしょうがない、それでなくても脳天からつま先まで糞尿まみれの格好で出歩くわけにはいかない。
 名案が閃く。
 涙と鼻汁と脂汗を体中の穴という穴から垂れ流してのたうちまわる曽根崎の傍らに跪き、看守の制服を手際よく剥ぎ取る。
 上着を脱がしズボンを脱がし下着を剥いで全裸にし、今まで着ていた垢染みた囚人服を惜しげもなく脱ぎ捨て、蛇が脱皮するが如く剥きたての裸身をさらす。
 「ひぎゃあ、ひぐぅあ、ぼ、ぼぐのちんちんがあっ……しぼ、しぼんじゃって………」
 股間を押さえて悶絶する曽根崎に構わず、看守服のボタンをきちんと留め、制帽を目深に被る。
 曽根崎の腰をまさぐり、鍵束を取り上げる。
 何本か試したのちに独房の鍵を発見、鍵穴にさしこむ。カチャリと手ごたえがあり、錆びた軋み音を上げて鉄扉が外側に開く。
 久しぶりに光溢れる外界に出て、あまりの眩さに目が潰れる。
 胸を張り両手を広げ、新鮮な空気を肺一杯吸い込む。
 蛍光灯の光に照らされた細長い廊下を見渡し、呟く。
 「今会いに行くよ、貢くん」
 「た、たひゅけて……」  
 哀れっぽい声に目を向ける。
 無関心に振り向いた僕の視線の先、汚物まみれの床を這いずる奇形の芋虫……否、曽根崎。男根を食いちぎられたショックと激痛に溶け崩れた顔に救い難い悲哀を浮かべ、こちらに虚しく手を伸ばす。
 「たひゅけて……医者、医者をよんで……だって血がこんなにでてるこのままじゃ死んじゃう僕ぼく嫌だこんなところでこんな死に方いやだ助けて助けてお願い見捨てないで」
 曽根崎の顔面に影がさす。ゆっくりと閉まりゆく鉄扉の影。
 絶望に凍り付く曽根崎の顔、その表情の変化をたのしみ声をかける。
 「さようなら、曽根崎さん。短い間だけど楽しかったよ」
 ただひとり暗闇に取り残される恐怖に脆い自我は耐え切れず理性が崩壊した曽根崎が狂ったように僕に手を伸ばし縋り付こうとして鉄扉に阻まれて絶叫、何かが鉄扉に激突する音を最後に完全に気配が絶える。
 おそらく失神したのだろう。
 鉄扉に施錠する。
 これで時間稼ぎができる。
 曽根崎が出血多量で死んでも構うものかショック症状を起こして血の海ではてても構うものかと嘲り捨て、蛍光灯の光が照らす廊下を歩き出す。漸く蛇の穴から脱け出すことができた。
 体の裏表を這いまわる蛇がもたらすおぞましい感触が淫蕩な熱に変じてゆくあの狂気に耐えられたのは僕がすでに狂っていたから、最初からどうしようもなく狂っていたからに他ならない。
 「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい 玉の緒よ たえねばたえねながらえば 忍ぶることのよわりもぞする……」
 廊下に靴音が木霊する。
 僕はこれから、僕の運命を狂わせた男を殺しにいく。
 
              +



 『前略直
 元気でいるか。俺は元気だ。逢いに行けずにすまん。医務室前の見張りが厳しくて逢いたい気持ちは募れども叶わぬのだ。
 この前はヨンイルの助力あってこそ一夜の逢瀬に漕ぎつけられたのだ。ヨンイルはお前をひどく心配している。直、お前は良い友人を持って幸せ者だ。
 今日はヨンイルに呼び出された夜のことを語りたい。
 直。お前に別れを告げて数日余りが経った頃、俺はヨンイルに話があると呼び出された。
 唐突な申し出を訝しく思いながらも西棟に赴いた俺を、ヨンイルはしたたかに酔っ払って出迎えた。
 ますます不審に思いながらもヨンイルのすすめに従い酒を飲み交わした。  
 ヨンイルはしばらく他愛もない話をしていた。お前が好きな……手塚治虫という漫画家の話だ。
 めるもとぴのこ、どちらの幼女が好みかと聞かれたが俺にはそのめるもとぴのこが誰をさすか皆目見当がつかず答えようがなかった。
 己の不勉強を恥じた。
 しばらくヨンイルはひとりで話し続けた。
 己が好きな話題を饒舌に語り続けてから不意に口を噤み、真顔で俺を見据えた。
 そして、こう言ったのだ。直を抱いた、と。
 その瞬間の事はよく覚えてない。頭にカッと血が上り、勝手に体が動いた。憤怒で我を忘れた。ヨンイルに抱かれたお前を想像するなり完全に自制を忘れた、理性の箍が外れた。俺以外の男が俺より先にお前を抱いた、お前を貪った。その男が今目の前にいる、ふてぶてしくも目の前で取り澄ましている。気が付けばヨンイルを殴っていた。ヨンイルの顔は血まみれだった。床には一本歯が転がっていた。
 とんでもないことをした、と思った。
 武士たる者いつでも止水の心を保たねばならぬというのに、一時の怒りに身を任せて道化を殴り付けた。俺はまだまだ未熟者だ。
 しかし到底我慢できなかった。怒りを鎮めることができなかった。
 そして唐突に理解した。
 俺はヨンイルに嫉妬していると、ヨンイルにお前を奪われて嫉妬に狂っているのだと。
 「サムライ、お前まだ気付かんのか。はよ認めてまえ、直ちゃんに惚れとるて」
 痛そうに顔を顰め、ヨンイルが指摘する。
 「惚れた男を別の男にとられてカッときた。別に隠すことない、武士かて男なら嫉妬もありえるやろ。せやけどなサムライ、言わせてもらうわ。直ちゃんが俺によろめいたんはお前のせいやろ、お前が直ちゃんしっかり守ったらんかったから直ちゃんが俺にふらふら付いてきてもうたんや。あんたらの痴話喧嘩に巻き込まれてこっちはええとばっちりや、お互い好き合うとるくせに変な意地張ってこじれにこじれて身を引いて意味わからんわ、ホンマ」
 ヨンイルの喝で目が覚めた。 
 今まで深刻に悩んでいたのが途端に馬鹿らしくなった。直、お前を帯刀の因縁に巻き込みたくないばかりにやせ我慢をしていた。俺がそばにいればお前は傷付く、帯刀の因縁に巻き込まれて心と体に消えない傷を負う。だがもし俺がいないあいだにお前がだれか他の男に抱かれたらと考えたら目の前が真紅に染まり咆哮したくなり、耐え難い苦悩に苛まれて夜も眠れぬ己に気付いた。
 噛んで含めるようにヨンイルは言った。
 「これ以上ぐずぐずしとったら俺が直ちゃんかっさらってまうで。覚悟せぇよ、侍」
 俺はその足でお前に逢いにいった。
 お前に会いたい一心で、これまでの事を謝罪したい一心で。 
 しかし間に合わなかった。お前は静流に刺されて重傷をおってしまった。
 なんて不甲斐ない男だと己を呪った。惚れた相手ひとり守りぬけぬ己の至らなさを恥じた。
 だが、もう逃げない。
 お前からも静流からも、己の罪からも決して逃げぬ。
 直、お前が一命をとりとめてくれて本当によかった。無事でいてくれてよかった。俺は常にお前のそばにいる。体が離れていても心はともにある。今宵もまたお前のぬくもりが失せた寝床をなでて安否を願う、一日も早い治癒を祈る。お前の帰りを心待ちにしている。
 手紙でしか想いを伝えられぬのが歯がゆい。
 一日も早くこの腕にお前を抱きたい、お前の髪に顔を埋めたい。
 直。
 お前が恋しい。
 あと一ヶ月の辛抱と己に言い聞かせて独り寝を耐える』  
   

 ……以上がサムライの手紙の内容だ。
 端正な筆跡に目を凝らし、末尾でため息を吐く。少し顔が熱い。
 手紙を丁寧に折り畳み、枕の下に隠す。枕元にめがねをおき、ベッドに横たわり、胸元に毛布を引き上げる。
 「………僕も恋しい」
 ヨンイルを仲介役にやりとりを続けた手紙は既に五通たまっている。入院から一ヶ月、サムライとの密会はただ一度の例外を除いて実現に至らず寂しさばかりが募る。
 怪我は快癒した。体を起こす時に少し痛みが走る程度で、激しい運動を伴わない日常生活にはほぼ支障がないところまできている。
 はやくサムライに会いたい。
 房に帰りたい。
 安田の命令など知るか、従う義務もない。房にベッドがなくとも構うものか、床で寝ればすむことだと最近では開き直っている。
 安田も嫌われている自覚があるのか最近では滅多に顔を出さなくなった。 
 「嫌味な顔を見ずにすんでせいせいする」
 声にだして言ってみるも、胸が少し痛む。僕を西棟に強制移住させるという命令には強い反感を覚えこそすれ、安田が僕にいろいろ良くしてくれたのは事実なため複雑な心境だ。
 ………考えても仕方がない。寝よう。
 思考を放棄、目を閉じる。就寝時刻を過ぎた医務室には規則正しい寝息が満ちている。目を閉じるとすぐに睡魔が訪れて心地よいまどろみに引きずり込まれる……
 鈍い音が、した。
 「………?」
 どれ位時間が経った頃合か判然としないが、まどろみから覚めて目を開けた時にすぐさま異変を感じた。
 電気が消えている。
 患者全員が寝入ったと思い、医者が消したのだろうか。そうだ、そうに違いない。何も不自然なことはないと自己暗示をかけて睡魔の訪れを待つも奇妙な胸騒ぎがする、ベッドに横たわったまままんじりともせず虚空を見据える僕のもとへ何者かが近付いてくる……
 床を叩く硬い靴音。
 「看守だ」
 囚人の靴音と異なる硬質な音は、看守の革靴が奏でる音だ。
 威圧的な靴音を響かせて近付いてくる侵入者に疑惑が膨らみ、上体を起こす。仕切りのカーテンが揺れる。看守はすぐそこまで来ている。
 「誰だ!?安眠妨害だぞ」
 尖った声で誰何する。ベッドを飛び下りて逃げ出そうにも激しい運動は禁物、治りかけた傷口が開いてしまう。
 カーテンがあやしく揺れる。
 誰かがカーテンの向こうにいる。息を潜めて気配を殺し、闇に溶け込むようにこちらの様子を窺っている……
 おもむろにカーテンが開き、侵入者がベッドの傍らに立つ。
 思ったとおり看守だ。だが、見覚えはない。雰囲気からするとかなり若く体格も華奢、どちらかといえば優男然とした風貌の看守だが制帽を目深に被ってるせいで目鼻立ちはよくわからない。
 いや、待て。
 看守じゃ、ない。
 「!医者っ……、」
 悲鳴をあげようとした口にすかさず手が被さる。
 肉の薄い繊細な手……いつかもこうして口を塞がれたことがある、体を触られたことがある。忘れもしないあの手の感触、あの夜の忌まわしい記憶がまざまざとよみがえる。
 看守に変装した侵入者が僕に馬乗りになりたやすく押さえ込む、僕は暴れる、胴に跨った男を振り落とそうと激しく首をふり身をよじり抵抗するも相手の方が一枚も二枚も上手、自在に体重を移動させ僕を乗りこなす。
 「医者?死んだよ」
 耳朶に吐息がかかる。
 耳元で囁かれた言葉を理解するのに二秒かかる。
 医者が、死んだ?その事実を裏付けるように僕に馬乗りになった男が頚動脈に突き付けたのは鋭いナイフ、赤い血に濡れた刃。
 僕以外の誰かの血に濡れたナイフが示すものは最悪の事態、医者、医者はどこだ?そういえばさっきから声が聞こえない気配がないどこにいるどこにいるんだ無事なのか、無事ならなぜ声がしない物音がしない?
 死。
 まさか本当に、
 「医者だけじゃない。外の見張りも、ね」
 この声、聞き覚えがある。鈴を振るように澄んだ声音……無邪気な笑い声。
 全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出す脳内麻薬が多量分泌され血に溶けて全身の血管を駆け巡る、僕は眼前の人物が誰かわかっているけどわかりたくないまさかそんな馬鹿なことあってたまるか彼は今独房にいる独房で……だが現実に僕にのしかかっているのは僕の頚動脈に冷たい刃をあてがっているのは
 「枕の下に何か入ってるね」
 「!やめろ、」
 叫んだが、遅い。
 枕の下をまさぐり手紙を引っ張り出し勝手に読む、そしてすぐさま興味を失ったように僕の鼻先に便箋をひらつかせ、破る。
 便箋が破れる。
 僕が大事に保管していた手紙を全部散り散りに破り捨てる、あまりの事態に硬直して声も出せない僕の眼前を無数の紙片が舞う。
 「貴様っ、なんてことを……貴様が今汚い手で破り捨てたのはサムライの手紙だ、サムライが一字一字真心込めて綴った手紙だぞ!言霊信仰を知らないのかこのっ……」
 脇腹を衝撃が襲う。激痛で視界が真紅に染まる。
 僕に乗った人物が脇腹に膝をめりこませたのだ。
 「あ、がっ……」
 薄れ行く意識の彼方で朗らかな笑い声を聞く。
 誰かが僕の首筋にナイフを当てて笑っている。
 脇腹を膝蹴りしたはずみに手元が狂って薄皮を裂いたらしく首筋を血が伝うなまぬるい感触が気色悪い。
 無意識に両手をさしのべ、僕に乗った人物の肩を掴む。
 「貴様、冥府に帰ったんじゃなかったのか……!」
 人影が微笑む。
 世にも美しく儚げに、魔性の翳りさえ帯びた微笑み。
 「憎い仇を道連れにしたくて地獄の底からよみがえったんだ」
 静流はさも美味そうに首筋の血を啜った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050507171725 | 編集

 医者が刺し殺された。
 鍵屋崎が拉致られた。
 「マジかよそれっ……冗談だろビバリー、なんで医者が死ぬんだよ、鍵屋崎が拉致られるんだよ!?だれが一体そんなこと」
 「サムライのいとこのシズルっスよ、流行に疎いっスよロンさん。知らないんスか昨日シズルが独居房脱走したの、餌係の看守のアレをがぶり食いちぎって阿鼻叫喚のどさまぎで脱走したんスよまんまと!当然独居房は血の海で発見された曽根崎は完璧キてて意味不明なこと口走って、ああ可哀想にありゃもう一生使いもんになんねっスよ、思い出すだにタマが縮み上がるっス」
 「てめえのタマが縮もうが萎びようがどうだっていいんだよ。んでシズルはそれからどうした?」
 「曽根崎の制服かっぱいで看守に化けて……深夜の医務室襲ったんスよ。どこからか入手したナイフで見張りと医者に大怪我させて、んで今朝になったらカーギーさんが寝てたベッドがもぬけのからで、髪の毛、髪の毛が……」
 ビバリーの言うことは支離滅裂で筋が通らない。野次馬に便乗して朝イチで行って帰ってきたビバリーはひどく興奮してる。
 髪の毛がどうしてたって?鍵屋崎の身に何が起きたんだと問い詰めたくてもそもそも問答が成立しない、ビバリーの取り乱しっぷりは尋常じゃない。話に興がのり身振り手振りが激しくなるにつれ、もともとまん丸い目がみるみるせり出して毛細血管が浮いて破裂しちまうんじゃないかとひやひやした。
 ビバリーはもともとデリケートなやつだ。
 池袋随一の武闘派チームに所属して日々喧嘩に明け暮れた俺のまわりじゃ尖った鉄パイプがふくらはぎ貫通したりメリケンサックで鼻ひしゃげたり派手な流血伴う暴力沙汰が日常茶飯事だった。
 死と隣り合わせの環境でしぶとくしたたかに生き抜いてきた俺は、いつのまにやら親指切って血が出たくらいは怪我のうちにも入らねえと笑い飛ばす図太い神経を身に付けた。
 ビバリーの説明に関しても流血耐性がない貧弱な坊やが大袈裟に言ってるんじゃねーかと勘ぐってるが、それを差し引いてもわだかまりが残る。
 ついさっき食堂で行き会ったビバリーは、最初気付かず俺の鼻先を通り過ぎようとした。慌てて肩を掴み、腕づくで振り向かせてぎょっとした。
 ビバリーは顔面蒼白、殆ど朝飯に箸を付けずトレイを返却するところだった。体調不良食欲不振の原因を本人の口から聞き出したら医務室でとんでもないことが起こったという、とんんでもないことってなんだよと畳み掛けて返されたのが冒頭の台詞だ。
 「畜生、お前じゃ話になんねえ。実際行って見てきたほうが早ぇ」
 舌打ちしてビバリーを突き放す。ビバリーが頼りなくよろめく。こいつは相当重症だ。足元あやしいビバリーの腕を掴んで支え起こし、トレイを返却する囚人の頭越しにレイジを見る。
 「ファッキンジャップ!」
 下品な悪態が聞こえた。レイジだ。
 人ごみの向こうに目を凝らす。
 俺らがいつも飯を食うテーブルに着席したレイジは、焼き魚の骨を取り除く業にめちゃくちゃ手こずっていた。鍵屋崎なら「焼き魚を分解する作業、もしくは焼き魚を解剖する作業」と言い直すかもしれない。
 さくらんぼの茎を舌で結べるくらい器用なくせして変な所で不器用な王様は、ぱりぱりに焼けたアジの身を箸でほじくりかえして骨から剥がす作業に最高にイラだってる。
 「フィリピン人に焼き魚だすなんざいやがらせだ、何だよこの面倒くさい料理はよ、日本人は毎日こんな面倒くさいもん食ってんのかよ!?おまけになんだこの細長い棒は?こんな細長い棒で小骨取り除けたあバカも休み休み言いやがれ、ナイフとフォークかむひあー!アジのくせして開いてんじゃねえっつの、王様が認める魚料理はティラピアとフィッシュ&チップスだけなんだよ」
 見た目ガイジンなレイジはご多分にもれず箸の扱いが苦手らしい。
 汚らしく焼き魚の身をほじくりかえすレイジの対面席に視線をやる。
 サムライはいない。
 今朝は何故か食堂に現れなかったのだ。
 食事作法のなっちゃない王様が焼き魚に箸を突き刺す光景を遠目に眺め、足早に通路を歩く。
 いまだ焼き魚に苦戦中のレイジのもとに駆け付け、肩を掴む。
 「レイジ、大変だ!」
 「そうとも、大変だ。ロン、焼き魚から綺麗に骨取り除く知恵かして」
 「頭からまるかじりしろ。んなことより大変なんだ、鍵屋崎がシズルに拉致られたんだ、医務室から消えたんだ」
 レイジの手が止まり、顔がこっちを向く。
 虚を衝かれたような空白の表情。ぽかんと口を開けた間抜けヅラをぶん殴りたい衝動を辛うじて抑え、肩を揺すって急き立てる。  
 「のんきに朝飯食ってる場合じゃねーよレイジ、シズルはマジで狂ってる、曽根崎と見張りと医者でもう三人も殺して行方不明になってるんだぜ?早く見つけなきゃ鍵屋崎だって手遅れに、いや、もう手遅れかも……」
 レイジが箸をおいて立ち上がる。
 俺を安心させるように肩を掴み、耳元で囁く。
 「行ってみようぜ」
 一も二もなく頷く。
 鍵屋崎の一大事に仲間が駆け付けなきゃ大嘘だ。
 たとえ鍵屋崎本人が否定しようが承知しなかろうが俺はアイツのダチのつもりだし、重態で入院中のダチが医務室から忽然と消えたと聞かされてふんぞりかえってられるほど神経が図太くない。
 速攻トレイを返却、食堂の人ごみを突破して廊下を駆け抜ける。
 途中俺らと同じ方向をめざす囚人と合流して中央棟に渡り終える頃にゃ人数が倍の倍に膨れ上がった。
 東棟だけじゃない。
 医者が刺し殺されて患者が一名拉致られた大事件の噂は東西南北全棟にあまねく及んでいるらしく、漸く駆けつけた医務室の前には八十人近い人だかりができていた。
 不吉な予感に胸が高鳴る。
 「くそっ、遅かった。これじゃ全然見えねーよ」
 押し合い圧し合い罵り合い、競い合って首を伸ばす囚人たちの顔には猟奇的な好奇心が浮かんでいる。
 一ヶ月前柿沼を刺し殺した犯人が独房から脱走したその足で医務室に潜入、医者を殺害した挙句に患者を一名さらったのだ。不味い飯と単調な強制労働に飽き飽きしていた囚人たちにとっちゃ日々の退屈を紛らわす格好のネタ、突如降って沸いた大事件は熱狂的に歓迎されるならわしだ。
 「刺されたの誰だ?医者か?」
 「東棟の親殺しが連れ去られたんだとよ。連れ去ってどうするつもりだ、殺っちまう気か?」
 「誰にも邪魔されないところでゆっくりじっくり嬲り殺す気だろうよ、大方。犯人は柿沼を刺し殺して曽根崎のイチモツがぶり食いちぎった真性の異常者だ、狂人だ、サディストだ。医者と見張り刺しただけじゃ飽きたらず手頃な患者さらって拷問するつもりだったのさ」
 「おっそろしー」
 他人事だと思って勝手なことくっちゃべりやがる。
 おどけて首を竦める囚人、下世話な憶測をさも真実めかして吹聴する囚人、消息不明の鍵屋崎が既に殺されてると決めてかかり「いい気味だぜ」と吐き捨てる囚人……
 反応はさまざまだが、顔にはいずれも微量の嫌悪と好奇心が表出している。
 面白半分に事件を茶化す囚人どもに猛烈な反感がもたげる。
 「!?ロン、ちょ待て」
 レイジの制止を無視、憤然と人ごみに割り込む。
 最後列じゃ意味がない、現場の状況が皆目わからない。
 野次馬の人垣に無理矢理割り込んだ俺は前もって覚悟していたとおり鉄拳制裁を受ける、顔面に肘鉄砲が降ってくる、したたかに脛を蹴られて激痛に痺れる、ただでさえ寝癖で跳ねてた髪が揉みくちゃにされてぐちゃぐちゃになる。
 圧死寸前、懸命に手を伸ばし人ごみを掻き分け歯を食いしばり前進する。諦め悪い俺に業を煮やした顔見知りの囚人が、邪悪な笑みを広げて拳を固める。
 「ひっこんでろよ半々、目障りだ」
 鼻をへし折られる。
 まわりは隙なく囚人で塞がれて逃げ場がない。
 俺は踏ん張り利かせて仁王立ち、鼻を折られて顔面が血に染まろうが絶対引かねえ覚悟で相手を睨み付ける。
 俺の眼光に気圧された囚人が一瞬たじろぎ、次の瞬間には俺にびびった事に腹を立て、憎たらしいせせら笑いから憤怒の形相に変貌する。
 「鼻をすりつぶしてやる」
 獰猛な唸り声を発して腕を振りかぶる。顔面を襲う衝撃を予期して固く目を閉じる、風圧で前髪が舞い上がりー……
 「………?」
 予期した衝撃がいつまでたっても訪れず、不審に思って薄目を開ける。
 鼻先で拳が静止している。
 静止したこぶしの向こうじゃ今まさに俺を殴り飛ばそうとした囚人が慄然と立ち竦んでいる。恐怖に鷲掴みにされた囚人、その視線を追って振り向く。
 人ごみが真っ二つに割れていた。
 右岸と左岸に割れた囚人が息を呑んで見守る中、悠揚たる足取りで歩いてきたのは……
 レイジ。東棟の王様。
 「ご苦労諸君。皆の王様のお通りだ、口笛で凱歌を奏でてくれよ」
 気軽な言葉に反して誰も口笛を吹かない。
 王様の行進に際して茶々を入れる命知らずなんか、いない。
 レイジの影響力はいまだ絶大だ。所長の飼い犬だの性奴隷だの陰口叩こうが今だに誰ひとり面と向かって罵倒できないのがいい証拠だ。
 今ここに群れ集った野次馬の多くはペア戦決勝戦のレイジを鮮明に覚えている、暴君を暴君たらしめる強さが鮮烈に目に焼き付いてるのだ。
 「行けよ、ロン」
 ここは俺が食い止めてるから。
 言外にそう匂わせて軽くウィンクする。
 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたレイジに顎を引いて感謝、俺に殴りかかろうとした囚人の股下を頭を屈めてくぐりぬける。人垣の最前列にて床に手を付き跳ね起きて、事件現場の惨状と直面する。
 息を呑む。
 床一面に血の跡がある。
 椅子が倒れてカルテが床に散らばっている。
 医者の姿は見当たらない。当然だ、刺されたのが昨日なら死体は処理班に回収されたはず……待て、じゃあ本当に医者は死んだのか。あのヤブ医者が死んじまったってのか?
 信じ難い面持ちで呆然とあたりを見回す。
 衝撃に麻痺した頭で事情を呑み込もうとするも思考は空転するばかり、そのうち膝ががくがく笑い出して体ごと崩れ落ちたくなる誘惑に気力をかき集めて必死に抗う。
 床に倒れた椅子はこれまで医者が使ってたもの、いつも医者がふんぞり返って患者を診察したりカルテを書くのに使ってたものだがその背凭れにはべったり血が付着して脂でぎとついてる。
 床一面にばらまかれたカルテは医者の体から流れ出た血を吸って赤黒く変色している、俺の足元には万年筆が転がっている、医者が愛用していた時代遅れの万年筆……
 医者の形見。
 「嘘、だろ」
 吐き気か嗚咽か、そのどちらとも付かない熱い塊が喉元に込み上げる。医者が殺されたなんて嘘だとここに来るまでは思っていた、いや、そう思い込みたかった。
 だけど現実にこの場に立って、床一面の血の海にばらまかれたカルテとインクの零れた万年筆と倒れた椅子を目撃して、昨日ここで何が起きたかが生々しい現実感と鮮明な映像を伴って身に迫ってくる。
 医務室の扉が静かに開く。医者は気付かない。眠気と戦いながらカルテを書いている。
 机上のカルテにペン先を走らす。
 侵入者が静かに扉を閉める。
 耄碌ジジィはまだ気付かない、すぐ背後に迫った脅威をよそにカルテに所見を書き込んでいる。
 侵入者の手でナイフが輝く。
 医者がふと顔を上げる。万年筆を走らす手を止めて怪訝な表情で振り向く医者、その顔が驚愕に強張るのを待たず侵入者が行動にでる。
 誰何の声をかけようと椅子から腰を上げた医者の体にナイフが吸い込まれるー……
 「なん、でだよ。医者を殺すことないだろうよ。あんなヤブ医者でも東京プリズンにはいなくちゃならない大事な存在なのに、俺にとっちゃ大事な………」
 医者の死を実感したショックと静流への怒りが綯い交ぜになり、やり場のない衝動が噴き上げる。
 医者。ヤブ医者。
 レイジが入院した時、責任感じてしょげかえった俺をさりげなく慰めてくれた。いつも居眠りばっかしてて診察も適当だけど意外と腕がよくて、最後の最後まで名医なんだかヤブなんだかわからねえジジィだった。

 もう会えないなんて。
 さんざん世話になったのに礼の一つも言えなくて。

 「帰って来いよ、ヤブ医者………」
 そうだ、鍵屋崎は?
 ヤブ医者の死のショックを引きずりつつ、重たい体を起こしてベッドに向かう。静流がめざしたベッドがどれかは、床に点々と滴った血痕ですぐにわかった。
 血痕の道しるべを頼りに片隅のベッドに到着、カーテンを押し開く。
 ベッドはもぬけのからだった。鍵屋崎はいなかった。
 点滴は外されていた。チューブの弁が開いて輸液が垂れ流されていた。抵抗のあとを物語るように毛布がはだけていた。
 ベッドの足元に誰かが立っている。
 いつからそこにいたのか、起床してすぐか鍵屋崎が拉致られた直後からだろうか?ベッドの足元に立ち竦んでいたのはサムライだった。
 体の脇で手を握り込み、血の気が失せた顔を固く強張らせ、放心の体でからっぽのベッドを見詰めている。
 ベッドの傍らに突っ立った俺は、あまりに異常な状況に絶句する。
 毛布が捲れたシーツの上に、髪の毛と紙くずが無残に散らばっていた。
 そして、血痕。
 「俺がよこした文だ」
 サムライが不意に呟き、無造作に手を伸ばして紙くずを鷲掴む。
 指の隙間からはらはらと紙片が零れ落ちる。
 手紙の残骸をひと掴み握り締め、サムライが断言する。
 「間違いなく静流はここに来た。見張りと医者を刺して直を攫ったのだ」
 伏せた双眸に激情が漣立つ。
 「静流の目的は俺だ。静流は俺への復讐を成すために直を攫ったのだ。直は俺の、唯一の弱味だ」
 「ゴタクは聞き飽きたわ」
 背後から声がかかる。反射的に振り向く。
 開け放たれたカーテンの向こうにいたのは西の道化、ヨンイル。ベッドの足元に佇み、自責の念に打たれるサムライにおおらかな笑みを向けている。
 「サムライ、お前言うたよな。直を不幸にせん、金輪際直を傷付けん、武士の一念にかけて直を守り抜くて……その挙句がコレや。お前の言うこと鵜呑みにして直ちゃん任せたらベッドはからっぽで血痕点々、あとには髪の毛と紙くずがちらばっとる」
 「おいヨンイルやめとけって、サムライ責めたってはじまらね……」
 「おどれはひっこんどれ。俺はコイツに話しとんのじゃ」
 仲裁に入った俺をヨンイルが見もせず突き飛ばす。ヨンイルに突き飛ばされた俺を頼もしい腕が抱きとめる。
 レイジだった。
 ヨンイルがサムライに詰め寄る。
 ふたりの距離が縮まるにつれあたりに殺気が充満する。
 ヨンイルの身の内に巣食う龍が宿主の昂ぶりに乗じて気炎を吐き出す。全身から闘気を放散してサムライに歩み寄り、ヨンイルが凄む。
 「直がさらわれたときどこで何しとったんや。房で寝とったんか」
 サムライは答えない。紙くずを掴んだまま項垂れている。
 ヨンイルがサムライの胸ぐらを掴み、無理矢理顔を上げさせる。
 「俺に奪われとうないなら死ぬ気で直ちゃん守れて言うたの忘れたんか?お前あん時なんて言うた。武士の一念に賭して直を守りぬくて真っ直ぐ俺の目ぇ見て言い切ったろ。せやから俺は直ちゃん任せたんや、お互いぞっこん惚れとるおどれらを見て道化が出る幕ないなてすごすご引っ込んだんや。直ちゃんが惚れとるのはおどれやから、道化はせいぜい笑かし役に徹して直ちゃんの気ィまぎらわしたろて……」
 ヨンイルの顔が悲痛に歪み、泣くのを堪えて笑う道化じみて滑稽な表情が浮かぶ。
 「おどれ、今の今まで何しとったんや。直ちゃんさらわれてから駆け付けても遅いで」
 言いたいことを全部飲み込んでサムライが頭を下げる。
 「……すまん」
 ヨンイルがぶちぎれた。
 俺が止めに入る暇もなくヨンイルの鉄拳がサムライの頬に炸裂、衝撃でサムライが吹っ飛びベッドに激突、衝立のポールが倒れて騒音を奏でる。
 ベッドに激突したサムライにすかさずヨンイルがのしかかり続けざまに拳を振るう。いつもお気楽極楽に笑ってる道化とは別人としか思えない凄まじい剣幕でサムライを殴り倒し、語気激しくなじる。
 「すまんですむこととすまへんことがあるんじゃボケっ、万一直ちゃんが死んでもうたらどないする、おどれのイトコに嬲り殺されてもうたらどないすんねや!?取り返しつかへんやろがもう、こんなことになるんやったらお前に直ちゃん任せるんやなかった、ええ格好しィで身い引くんやなかったわ!直ちゃん大事なのはお前だけか?ちゃうやろ。俺かてお前と同じ位直ちゃんが大事なんや、直ちゃんのことが大っ好きなんや!!」
 無抵抗のサムライをヨンイルは容赦なく殴りつける。
 爆発的な暴力衝動に駆り立てられたヨンイルのまわりで混沌と大気が渦巻き、闘気が縒り合わさって一筋の流れとなり、四肢に絡み付く龍を幻視する。
 道化の双眸が剣呑にぎらつき、ゴーグルに返り血がかかる。
 右に左に上に下にサムライの顔が跳ねて粘っこい血がとびちる。
 やばい、そろそろ止めなきゃマジでやばい。
 「やめろよヨンイル、サムライ死んじまうよ!こんなことしてる場合じゃねーだろ、一秒でも早くシズルとっつかまえて鍵屋崎見つけ出すのが先決だろっ」
 暴走に歯止めが利かなくなったヨンイルに背後から抱きつき羽交い絞めにする、ヨンイルはそんな俺に構わず腕振りかぶり颶風に守られた昇龍の勢いで殴り続ける。ヨンイルの顔にぴちゃり返り血が跳ね、怒りに荒んだ凄惨な形相をさらに引き立てる。
 「放せロンロン、コイツは惚れた男ひとり守り抜けん約束破りの腰抜けザムライや!何が武士や笑わせる、おどれなんぞ色ボケザムライで十分じゃ、口ばっかでさっぱり頼りにならん男に惚れてもて直ちゃん阿呆ー……」
 その瞬間、ヨンイルが大きく仰け反った。
 やられる一方だったサムライの拳がヨンイルの顔面に炸裂したのだ。
 「直への侮辱は許さん」
 サムライがゆらり起き上がる。
 鼻血で顔面を染めたサムライの双眸にちりちりと火種が燻る。
 必殺の一撃を食らって尻餅付いたヨンイル、その目が完全に据わる。
 「……ええ度胸や、腰抜けザムライ。かかってこんかい」
 ヨンイルが俊敏に床を蹴りサムライにとびかかる。サムライとヨンイルが床で上下逆転しながら激しく揉み合う、互いの顔に何発何十発とパンチを入れて血みどろになりながらも揉み合うのをやめず医務室の備品を次々破壊して乱闘はエスカレートする。
 「おどれになんぞ直は渡さん、直は俺の物や!」
 ヨンイルがサムライの顔面に拳を入れる。
 「道化に直を渡すか、直は俺が生まれて初めて得たかけがえのない友だ、かけがえのない相棒だ!」
 サムライの拳がヨンイルの顎に炸裂する。
 下から顎を突き上げられた反動でヨンイルがふらりよろめく、しかしすぐさま唇を噛み正気を取り戻し闘いを続行する。
 「いいぞ、やれ、もっとやれ!」
 「サムライVS西の道化か、意外な組み合わせだな」
 「医務室から拉致られた親殺しを巡って痴情のもつれ勃発か、こいつぁ朝から昼メロだ!」
 医務室に押しかけた野次馬がてんで好き勝手に野次をとばしてけしかける中、サムライとヨンイルの喧嘩に刺激された囚人が乱闘おっぱじめてとうとう収拾がつかなくなる。
 「レイジ止めろよ、このまま放っといたらふたりとも死んじまうよ!」
 レイジの腕を揺すって催促するが、王様は「んー?」と気のない返事をするのみ。
 「レイジお前鍵屋崎のこと心配じゃねーのかよ、お前王様だろ、東棟どころか東京プリズンでいちばん偉い王様なんだろ?だったら王様の一声で捜索隊組織して鍵屋崎見つけ出してくれよ、手遅れになる前に…」
 必死にせがむ俺を見下ろし、レイジがあきれたふうに首を振る。
 「ロン、俺に人望ないのはお前がいちばんよく知ってんだろ」
 聞くんじゃなかった。
 達観した風情で見物を決め込む王様に舌打ち、最大限の勇気を振り絞ってヨンイルとサムライの間に割りこむ。
 「ヨンイル、サムライ、いい加減にしろっ。医者が死んだばっかだってのに医務室荒らしまくって、これじゃヤブ医者も成仏できね…」
 視界が反転する。ヨンイルに突き飛ばされた衝撃でベッドにひっくり返った俺の手が何かにぶつかる。
 ベッドにぶつかったはずみに枕が裏返ったのだ。
 「!これ……サムライっ」
 ヨンイルとサムライがぴたり喧嘩をやめる。サムライが大股に寄ってくる。
 枕の下に隠された半紙に血文字で記された文面を読み上げ、サムライが歯軋りする。
 「『炉にて待つ』……」
 片手で鼻を覆ったヨンイルと高飛車に腕を組んだレイジの視線の先、犯人が遺したメッセージをくりかえし咀嚼したサムライの手に力が篭もる。
 「………静流っっっ!!」
 衝動に任せて便箋を破り捨てる。縦に横に斜めに散り散りに、もはや原形留めぬ紙片にまで分割して虚空にばらまく。
 サムライを中心に螺旋を描いて紙吹雪が吹き荒ぶ。
 ベッドに両手を付いたサムライが、連綿と呪詛を紡ぐ。
 「そんなにまで俺が憎いか。ならばよかろう、望み通りに相手をしてやる。地獄の炉の縁で思う存分斬り結ぼうではないか」
 全身から凄まじい怒りの波動が放たれる。
 鍵屋崎の消えたベッドに顔を埋め、石鹸の残り香を吸い込むように胸郭を膨らます。
 「今助けに行くぞ、直」 
 サムライは決断した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050506145804 | 編集

 静流を手引きしたのは僕だ。
 「お願い聞いてくれるね」
 頷くしか、なかった。命が惜しければ従うしかなかった。
 柿沼や曽根崎の二の舞はごめんだ、用済みになった道具は捨てられるだけだと二人の末路に痛感した。身のこなしはたおやかに、僕を抱きすくめた静流の腕が妖しく動く。
 首もちぎれんばかりに頷けば、静流が満足げに微笑む気配を感じる。 物分りの良さを褒めるように僕のうなじに唇を這わせ、囁く。
 「貢くんを足止めしてほしい」
 「え?」
 「鍵屋崎直に用があるんだ。二人きりで話がしたい。貢くんに医務室前をうろうろされると邪魔だ。だから君、彼をどこかに連れていってよ。適当に言いくるめてさ。得意でしょ、そういうの」
 静流が思わせ振りに含み笑う。
 揶揄の響きを込めた笑声に言葉を返すより早く、背中に体重がかかる。僕の首筋に顔を埋めた静流が、熱い吐息に紛れて独白する。
 「待っててよ、姉さん。もうすぐ終わるから」
 姉さん?姉さんて静流の?脳裏に疑問が浮かぶ。
 静流は僕の背中に凭れたまま、安らかな表情で追憶に浸っている。
 愛しい人の面影を重ねているらしく体に回した腕の締め付けが強くなり、痛みと胸苦しさとを覚える。
 腕が体を圧迫する。
 もう二度と失うものか、腕の中から逃すものかと悲愴な決意を込めて僕を抱きしめる静流が濁った嗚咽を漏らす。
 奥歯で磨り潰された嗚咽が前歯の隙間からか細い吐息となって漏れて、うなじの産毛を熱く湿らす。
 華奢な細腕のどこにこんな力が秘められているのか、僕を抱きしめる腕の力は増すばかりで一向に衰える気配がなく、体を締め上げられる苦痛に汗が滲む。
 「貴女のいる処に伴侶を送ります。祝言は挙げなかったにしろは家が決めた婚約者同士なんだから当然そうするべきだ。だけど貴女と彼だけじゃ寂しいから付添い人を送ります、祝いの盃に酒を注ぐお小姓を…」
 呪縛が解けたように抱擁の力が緩み、敢えなく腕が垂れ下がる。脱力した腕から身を捩り抜け出した僕、その背後で衣擦れの音がする。
 怨霊めいて陰惨な気配を纏って背中に覆い被さった静流が、耳朶に毒息を吹きかける。
 「二・三、用意してほしいものがある」
 静流の顔は直視できないまま、蛇が這いずる音にも似た衣擦れの音と淫靡な吐息、背後から吹き寄せてくる圧倒的な気配に戦慄する。
 振り向くな、振り向いたらおしまいだと自分に言い聞かせて狂おしく疼く好奇心を抑え付ける。
 今振り向いたらきっと後悔する、一生後悔する、とんでもなく恐ろしいものを見て夜毎夢にうなされる。
 緊張に喉が渇く。口の中がひりひりする。
 口を開けっ放しにしてぜえはあぜえはあ喘息めいた呼吸をしていたせいで口腔の粘膜が渇ききってる。僕のまわりだけ酸素が急激に薄くなったみたいだ。恐怖に侵された息遣いを続けながら目だけ動かして後ろを探る、僕の背中にぴったりくっついて逃げ道を断った静流がそっと腕に触れてくる。
 「何を用意すればいいの?何をすれば僕を解放してくれるの、許してくれるの」
 発狂しそうな恐怖と戦いながら叫ぶ、涙で目を潤ませて哀願する。
 僕はいい加減自由になりたかった、静流の呪縛から解き放たれて日常に戻りたかった。
 看守に輪姦されたショックが漸く癒え始めた頃だってのになんてタイミングが悪いと自分の不運を呪ってもはじまらない、僕が今すべき事は静流に従うこと、静流の命令を素直に聞き入れて利用価値を示すことだ。
 利用価値のない道具は捨てられる。
 柿沼みたいに、曽根崎みたいに……
 嫌だ、あいつらの二の舞にはなりたくない。
 実際には見てもいない柿沼の最期がどぎつい色彩をもって脳裏に立ち上がる。静流に腹を刺されて絶命した柿沼、何故自分が殺されるのか最期の最後までわからなかったに違いない死に顔には驚愕と恐怖と衝撃がへばりついている。 
 亡骸の傍らに佇む静流。
 自分に尽くした男を殺した事実に関して何ら胸を痛めず、無関心で無慈悲な瞳で物言わぬ亡骸を見下ろしている。静流は今もそんな目をしているのか、そんな目で僕を観察しているのか?
 僕が抵抗したら即座に命を断つつもりで首筋を見詰めて頚動脈の位置を探っているのか、仕損じないよう熱心に……
 「教えてよシズル。僕はなにをすればいいの、君のためになにを用意すればいいの?君の言うこと聞けば見逃してくれるんでしょ、無事にビバリーんとこに帰してくれるんでしょ?こんなとこで死ぬのいやだよぅ、こんな薄汚い薄暗い路地裏で野垂れ死ぬのは誰にも気付かれずひとりぼっちで死ぬのは嫌だよ寂しいよ、僕は生きてここを出てママに会うって約束したんだ、だからその日まで絶対に死ぬわけにいかないんだ、たとえ他のヤツの足引っ張っても自分さえ助かればそれで……」
 「飲み込みがいいね。話が早くて助かる。愚図で臆病な曽根崎は独房に招じ入れるのに手間がかかったよ」
 背後で苦笑する気配。
 僕の背中にぴったり寄り添い、誘うように淫らな仕草で腰を擦り付けて官能を探り、囁く。
 「麻縄と刃物」
 ごくりと喉が動く。
 生唾を飲み込んだ僕の耳朶を甘噛み、ちろちろと舌で炙って熱を煽る。
 魔性に身を堕とした静流が邪まな本性をあらわに快楽を貪るのに抗い、恐怖に掠れた声を搾り出す。
 「絞め殺すの、刺し殺すの?」 
 好奇心を抑え切れずおそるおそる聞き返す。
 「教えてあげない」
 答えを与える代わりに耳の穴に舌が潜り込んできた。

 その夜、僕は重たい気分で中央棟に渡った。
 正直気が進まなかった。静流に言われた通りロープとナイフを調達し、渡した。
 小道具の入手自体は簡単だった。
 東京プリズンの囚人は大抵護身用だか脅迫用だかのナイフを持ってるしお望みとあらば首吊り用のロープだって売り買いできる。
 ビバリーは何も言わなかった。言えなかった。
 就寝時刻を過ぎて夜も更けた頃、ビバリーがぐっすり寝入ったのを確認後こっそり房を抜け出した。
 ビバリーの眠りを妨げないよう最大限の注意を払って鉄扉に接近、ノブに手をかけてためらった。
 いっそ何もかもビバリーにぶちまけてしまおうかという誘惑に心が揺れる。静流に脅されて共犯にされている、僕は今夜静流を手引きしてサムライを足止めしなきゃいけない、ねえどうしたらいいビバリー、ビバリーならこんな時どうする?
 相棒に教えを乞いたい欲求に抗しきれず、ノブを掴んだ手がじっとり汗ばむ。
 「ろ、ろざんなぁあーーーーー」
 「!?っ、」
 体に電流が走った。
 ノブに手をかけたまま硬直、反射的に振り返った僕が見たものは寝相悪く毛布をはだけたビバリー。悪夢を見ているらしく、身振り手振りも激しくうなされている。毛布を蹴りどけて寝返りを打つビバリーに脱力、安堵のため息を吐く。
 「脅かすなよ、ばか」
 思わず恨み言をこぼす。
 あーあ、毛布はだけたまま寝たら風邪ひいちゃう。しかたないなあもう。ぷりぷり怒りながらベッドに引き返し、毛布をたくし上げる。
 「ろ、ろざんなあ……ゲイツを選ぶなんてひどいっすよ、平均二時間睡眠でスペック増やしてあげたの誰だと思ってるんスか?最高にクールでチャーミングにカスタムして磨き上げた僕のロザンナが僕を捨てて他の男に走ろうとしてる、よりにもよってゲイツになんか、あんな鼻メガネの白人に………くそう、ロザンナがミセス・ゲイツになるくらいならいっそ僕の手で引導を渡してやるっス!」
 「擬人化ロザンナの夢?変な趣味」
 つかゲイツってだれさ。
 僕のツッコミを無視してぶつぶつ呟いてたビバリーも悪夢の波が去ってじき大人しくなる。
 間抜けな寝顔に別れを告げ、忍び足で歩を再開―
 「行っちゃだめっす、リョウさあん……」
 寝言。
 意味のない寝言には違いないけど、あんまりタイミングが良くて。
 ぎょっとした僕の視線の先、片手をさしあげたビバリーが見えない糸を手繰って僕を引き戻そうとするかのように奇妙な動作をくりかえす。 引っ張り、引き寄せ、引き戻す。
 手を出しては引っ込める単純な動作の繰り返しが二・三回続き、やがて完全に停止。
 「いーとーまきまきいーとまーきまき まーいてまーいて とんとんとん……か」
 夢の中でも僕を心配してるなんて笑っちゃう。
 お人よしすぎだよ、本当に。
 泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちでビバリーの寝顔を見詰める。気持ちに合わせて顔も泣き笑いになる。
 ベッドの脇に屈みこみ、にやけた寝顔を覗きこむ。
 ロザンナが元気だった頃の夢でも見ているのか、幸福そうなビバリーのおでこに軽くキスをする。
 「いってきます」
 必ず戻ってくるから、待ってて。
 心の中でそう告げて、房をとびだした。

 あれから数十分が経過した。
 僕はわざとゆっくり時間をかけて渡り廊下を歩いている。もうすぐ終点、中央棟に着いてしまう。
 中央棟に到着。
 廊下を進み、医務室に向かう。
 途中すれ違う囚人もなく、中央棟全体がひっそりと静まり返っている。柿沼を殺して鍵屋崎を刺して曽根崎のブツを噛み千切った凶悪犯がまだこの辺をうろついてるせいで、臆病風吹かせた囚人が深夜徘徊を控えているのだ。僕だって本当はそうしたいのだ。
 等間隔に並んだ蛍光灯がコンクリ壁と通路を照らす。
 廃墟めいて陰鬱な空気を醸す廊下をのろのろと歩き、医務室に到る。
 サムライは、いた。
 医務室の扉を正面に臨む位置に凭れている。
 パッと見立ったまま仮眠しているのかと思ったけどそうじゃない、目を閉じて物思いに沈んでいるだけだった。扉の隣にはまだ若い看守がいた。安田に医務室の見張りを命じられた新人くんだ。
 サムライが薄っすら目を開ける。
 不審者の気配を察したか、切れ長の眦から鋭い眼光を放ってあたりを見回す。
 「サムライ、大変だ!」
 深呼吸し、叫ぶ。予定通りの台詞を。
 サムライがこちらに向き直るが早いか看守が「ほへっ、な、へ!?」と寝ぼけ顔でずっこけるが早いか、廊下を全力疾走してサムライのもとに駆け付けた僕は、派手な振り付けでせいぜい必死なふりをして報告する。
 「今そこで静流を見たんだ!」
 「静流を?」
 何故こんな時間にここにいるのか、詰問しようと口を開きかけたサムライが瞬時に気色ばむ。
 内心ほくそ笑みつつ、芝居を続ける。
 「あのね、僕の房のトイレが壊れちゃって、それで外のトイレ使おうって廊下歩いてたら通路をふらふら歩いてる静流を見て……渡り廊下渡ってこっちに来るとこまでは追ってたんだけど、途中で見失っちゃって!でも多分この近くにいるはず、見失ってから何分も経ってないからまだこの辺に潜んでるはずだ。サムライいいの放っておいて、君のイトコでしょ。アイツ独居房出たばっかで頭イカレてるから何しでかすかわかんないよ、廊下ほっつき歩いてる囚人や見回りの看守がまたガブリやられないとも限らないし……」
 「がぶり!?」
 看守が股間を押さえ込む。
 サムライは険しい顔で話を聞いて尊大に顎を引き、すっと目を細める。
 「……それはまことか」 
 「まことに決まってるっしょ、なんで僕が嘘つかなきゃいけないのさ!?」
 内心冷や汗をかきながらさも心外そうに反論、サムライの腕を掴んで引っ張る。 
 「こっちだよ、サムライ!さあ早く……早くしないと逃げちゃうよシズルが」
 「僕応援呼んで来ます!」
 それまで股間を押さえてぼけっと突っ立ってた看守が、僕とサムライのやりとりを眺めて本来の職務に立ち返ったのか、慌てて走り出そうとする。
 まずい。
 「ちょっとちょっとどこ行くの看守さん、ちゃんと見張ってなきゃ駄目じゃないか!副所長に言われたこと忘れたの?」
 看守の行く手に回りこみ、両手を広げて通せんぼする。
 「しかし脱走犯が近辺を徘徊してるなら応援を呼んだほうが……僕一人じゃ手に余るし、その」
 僕はもったいぶって言う。
 「忘れたの?静流の目的は親殺しだよ。一ヶ月前、静流が独居房に入れられるきっかけになった事件を思い出してごらんよ。静流の本当の狙いは柿沼じゃない、曽根崎じゃない、その他大勢の雑魚看守なんかじゃない。脇腹刺されて入院中の鍵屋崎ただ一人さ。全治二ヶ月の重態で入院中の鍵屋崎が襲われたらひとたまりもない、もしサムライと僕がこの場を離れてるときに静流がやってきたらどうするのさ、おにーさんが応援呼びにいってるあいだに鍵屋崎が殺されたら……」
 声音を落として脅迫すれば、たちどころに看守の顔が青ざめる。
 「大丈夫だよ、中にはお医者もいるんだし何かあったら呼べばいい。おにーさんはここにいてよ。静流は僕とサムライが捜しにいってくるから、ね?」
 余程気弱なタチらしく「もしも」の可能性をほのめかしただけで顔面蒼白になった看守に安心させるよう言い含め、サムライを仰ぐ。
 「行こう、サムライ!」
 サムライが躊躇する。
 新人看守ひとりを残して離れるのが不安らしい。
 もし自分がいあないあいだに鍵屋崎が襲われたら、それこそ悔やんでも悔やみきれない気持ちは想像つく。
 決断しかねて看守と僕を見比べ、焦燥に苛まれた面持ちで言葉を搾り出す。
 「俺は、直のそばにいたい。もう決して直のそばを離れると約束したのだ。武士の面目にかけても約束を反故にするわけにはいかん。この場を離れたあいだに直の身にもしもの事があったら、俺は切腹するしかない」
 サムライが断固と首を振る。
 「切腹?冗談言ってる暇あるなら一緒に来てよ、君しか静流を捕まえられるヤツいないんだから!わかってるっしょサムライだって、シズルがとんでもなく強いこと。並の看守や囚人じゃ歯が立たない、シズルの暴走を止められない。今のシズルは完璧頭がイカれてる、それこそすれ違ったヤツを片っ端から斬り捨てかねない状態なんだ、そんなヤツを野放しにして本当にいいの、これ以上犠牲者を出していいわけ!?」
 「俺は直を守る」
 「身内の喧嘩に他人を巻き込むなよっ!!」
 鍵屋崎を守りたい気持ちと静流を追いたい気持ちの葛藤に苦しみ、サムライが面を伏せる。
 片手に握り締めた木刀が持ち主の心を反映してわなわな震える。サムライの腕に縋り付き必死に説得するも本人は決して首を縦に振ろうとせず、苦悩を映した目で虚空を見据えている。
 「いいよ、わかったよ、サムライの役立たず!サムライがこないなら僕一人でいくもんっ」
 パッと腕を放し、後ろを振り返らず廊下を駆け出す。
 背後でサムライが何か叫ぶも無視を決め込む。
 僕はひたすら廊下を走った。
 走って走って廊下の先の角を曲がってサムライの視界から脱する。
 曲がり角の壁に背中を預け乱れた呼吸を整え、ゆっくり数を数える。
 カウントダウン。
 「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう……」
 よし。
 深呼吸で腹腔に息をため、天井を仰ぎ、絶叫する。
 空気が震える。僕の喉から迸った甲高い悲鳴が空気を媒介に鼓膜を叩く。外気に晒した皮膚にびりびり音の波動を感じる。
 「リョウ!?」
 遠くでサムライが叫ぶ。近付いてくる靴音。
 コンクリート壁と天井に反響した悲鳴は最悪の事態に繋がり、僕の一大事を予期したサムライが発作的に駆け出す。
 正義の味方見参。
 どんなに鍵屋崎が大事でそばを離れたくないと思っていても近くで悲鳴が聞こえたら体が勝手に動く、それが人間て生き物だ。サムライは半端に勇気があるのは仇になった。
 なまじあの看守みたいなびびり屋なら悲鳴を聞いただけで金縛りにあって動けなくなるのに、数多の修羅場をくぐり抜けたサムライには金縛りを断ち切る強靭な意志力があった。
 サムライが近付いてくる。
 一散に廊下を駆け抜けて角を曲がりそして、
 危うく僕と衝突しかける。
 「………どうしたというのだ。先刻の悲鳴は何事だ」
 僕の役割はサムライの足止め。
 静流が目的を達するまで、サムライを引き付けること。
 「今、あ、あそこの角に静流が消えて……」
 壁に背中を凭せたままずり落ち、十メートル先の曲がり角を指さす。
 「―ちっ!」
 サムライが邪険に舌打ち、焦りもあらわに木刀を構え十メートル先の角を曲がる。
 「リョウ、お前はここにいろ。俺が戻ってくるまで絶対にここを動くな。よいな」 
 そう、これでいい。何もかも僕の、いや、静流の思惑通りに運んでいる。曲がり角を曲がって見えなくなったサムライ、一本ずつ袋小路を改めるには時間と手間がかかる。
 サムライがいなくなり、緊張がほぐれる。
 壁に背中を付けたまま、上着の胸をひしと掴んで心臓の動悸がおさまるのを待つ。
 遠くかすかに物音がする。静流が遂に行動を起こしたのだ。
 激しく言い争う声、悲鳴、何かが転倒する鈍い音……
 耳も目も潰れてしまえばいい。僕は硬く目を閉じ耳を塞ぎ知らんぷりをする、どうか神様静流が早くやりたいことやりとげて消えてくれますようにとそればかりを一心に念じながら発狂せんばかりに念じながらコンクリ壁と同化する。
 それから何分、何十分経ったろう。
 耳を押さえた指は痺れて感覚がなくなり、閉ざし続けた瞼の裏では赤い輪が回っている。
 誰かがこちらに近付いてくる。
 静流じゃない。別方向からだ。
 サムライだ。
 「シズル、いた?」
 「……いなかった」
 憮然と吐き捨てる。
 角を曲がった現れたサムライの顔には一抹の疑念が浮かんでいる。
 「リョウ、シズルは本当にここに……」
 不自然に言葉が途切れる。ごくささいな表情の変化ー……それとも空気の変化だろうか?唐突に会話を打ち切って天を仰ぐサムライ、その目が豁然と見開かれる。
 「―不覚!!」
 鞭打たれたように走り出すサムライ、慌ててそのあとを追う。駄目、行っちゃ駄目!
 「サムライ待って、そっちに行っちゃだめだ、鍵屋崎のことはもう諦めるんだ!」
 僕の制止など聞かずに廊下を走り抜けたサムライが医務室前で停止、声にならない唸りを発する。
 よろよろとサムライに追いすがるさなか、靴の裏側が変に粘ついてるのを不快に思い、スニーカーの靴裏に視線を落とす。
 血痕だった。
 「ひっ……」
 壁に凭れるように座り込んだ看守、その腹に血が滲んでいる。
 静流に刺されたのだ。息があるのかないのかパッと見にはわからない……死んでる?殺しちゃったの、まさか?そんな……僕のせいじゃない僕は知らなかったんだずっと目と耳をふさいで知らんぷりで
 「直!!」
 サムライが扉を開け放ち、息を呑む。
 僕も見た、見てしまった。
 開け放たれた扉の向こう、転倒した椅子、床一面の血の海にばらまかれたカルテと万年筆……白衣を朱に染めた医者。
 悲痛に顔を歪めながらもすぐさま一隅のベッドに走り寄り、サムライが呼びかける。
 「直、無事か、どこにも怪我は………」 
 言葉が切れ、重苦しい沈黙が被さる。
 血溜まりを避け、床を這うようにしてサムライのもとに辿り着いた僕が目にしたのは……
 空気を孕んで捲れ上がったカーテンの内、からっぽのベッドに散らばった無数の紙片と髪の毛。
 シーツを点々と染めた血痕。
 鍵屋崎の姿はどこにもなかった。
 静流に連れ去られたあとだった。
 サムライはまたしても間に合わず、静流にしてやられたのだ。
 「……………っ………………」
 ベッドの足元に立ち竦むサムライ、その双眸から理性の光が消失、半開きの唇が自責の言葉を紡ぐ。
 「………俺はまたしても間に合わなかった。愛する者の求めに応じられなかった。直、俺は我が身を賭してお前を守りぬくと約束した。心より惚れたお前を是が非でも守り抜くと誓った。しかし……」
 指がほどけ、木刀が落下。
 床に落ちた木刀が甲高い音を奏でる。
 握力が緩んで木刀がすり抜けたことにも気付かず、からっぽのベッドを見詰め続ける。  
 「……………俺は武士ではない。断じて武士などではない。惚れた男ひとり守り抜けぬ腑抜けが武士などであるものか」
 放心の体で立ち竦むサムライ、その背にかける言葉を失う。
 命の次に大事な木刀を拾い上げることもせず、ただその場に時を忘れて立ち尽くし、髪の毛がばらまかれた寝床を見つめ……
 骨ばった喉が膨らみ、この世を呪う絶叫を放つ。 
 「俺はただの、名も無き屑だ!!」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050505221850 | 編集

 体が焼ける。
 タンパク質の焦げる匂いが鼻腔をつく。
 「っ…………」
 ちりちりと火の粉が燻る。鼻腔を刺激するのは髪の毛が焦げる異臭だ。体が熱い。知覚未満の痛みは熱でしかない。僕の時もそうだった。背後から脇腹を刺された時最初に感じたのは痛みではなく熱、衝撃ではなく違和感だった。
 体の中でどろりと熱塊が蠢く、とてつもなく不快な感覚。
 無意識に腹に手をやる。
 手のひらに湿りけを感じ、薄目を開ける。
 視界がぼやけている。
 吐き気と眩暈と頭痛とに同時に襲われる。
 体が熱い……痛い。脇腹が酷く疼く。
 おそるおそる手をどけて脇腹を見下ろす。
 上着の脇腹が血に染まっている。どうやら傷口が開いたらしい。
 昨夜蹴られたせいか移動中に乱暴に扱われたかそのどちらかだ。
 静流ときたら全く手加減がない。僕は重患だぞ、少しは慎重に丁重に扱ったらどうだと抗議したくとも舌が回らない。
 なけなしの気力と体力を振り絞っても、鉛の如く重たく垂れ下がる瞼を開き続けるだけで精一杯なのだ。
 完全に瞼を閉じてしまいたい誘惑に抗い、奥歯を食い縛り激痛を堪える。額に脂汗が滲む。ここはどこだ?覚醒時から脳裏にあった疑問を確かめるべく、疲労と激痛に霞む目を凝らしてあたりを見回す。
 ふと視線を下ろし、息を呑む。
 金網を隔てた下で轟々と炎が燃えている。
 僕が前後不覚で座り込んでいた場所は鉄骨の骨組みの上、より詳しく言うなら横幅5メートル全長30メートルほどの高架上だった。
 下から上へと視線を移動、また驚愕。
 何本何十本という足場が縦横無尽に交差して上へと続いている。
 頂は闇に没している。
 重層的な構造が作り出す幾何学的な眺めに言葉を失う。
 下は休むことなく炎を吐き続ける巨大な炉、上は要所要所で接続と連結と分岐を繰り返し無限に派生していく通路。
 漸くわかった、視界が歪み続けているわけが。
 巨大な炉が稼動しているせいで空気が高温となり陽炎が発生、よって周囲の光景が湾曲して見えるのだ。
 呼吸を整え心を落ち着け、今一度現状を顧みる。
 僕が意識を失い倒れ込んでいた通路は立体交差の中層に位置するらしく、底部の炉までは30メートル程距離がある。
 炉がどれ位の深さかはわからない。こうして見ている限り底など存在しない錯覚に囚われる。
 赤熱の光沢を帯びて液体化した金属が沸騰している。
 核爆発にも似た閃光を放つ炉には、じっと見ているうちに体が傾いで吸い込まれてしまいそうな磁力がある。
 炉に廃棄された鉄屑が溶解していく過程は炎に阻まれてよく見えない。炎の勢いは衰えるどころか激しくなるばかりで僕まで焼け尽くされてしまうのではと不安になる。
 ここから突き落とされたらひとたまりもない。
 炉で溶けて骨すら残らないー……

 足音。

 接近の気配に振り向こうとして、不意に眩暈に襲われバランスを崩す。
 金網に手を付いた僕のもとへ何者かが近付いてくる。
 顔を上げる前から誰だか察しは付いていた、重態の僕を医務室から拉致した張本人だ。
 カシャン、カシャン。金網が鳴る。
 足裏に体重を分散させた優婉な足運びにはまるで威圧感がなく、舞踊でも嗜んでいるかの如く生来の優雅さがある。
 火影に照らされて泰然自若と歩み寄る人影はおよそ現実とかけ離れ、霞を食べて生きているような幽玄な印象を抱かせる。
 すでに彼岸に渡ってしまったような。
 現実に生きる人間ではないような、そんな矛盾した印象。
 越えてはいけない一線を越えて、人の身でありながら修羅に堕ちた姿。
 不安定な足取りに刹那的で危うい雰囲気を漂わせてやってきた少年が、清楚に微笑む。
 「やあ、お早う。すごい汗だ。びっしょりだよ」
 呑気な挨拶に怒りが込み上げる。
 「……こんな場所に放置されれば誰だって汗を分泌する。君は随分涼しげな顔をしているが、自分で体温調節ができる特異体質の持ち主かそうでなくば一段階上に進化した新たな人類なのか?ついでに面白いことを聞かせてやる。哺乳類の中でもイヌやオオカミは汗腺を持ってないために温度調節ができず、そのため汗腺の代わりに長い舌を垂らして激しい呼吸を行い、それによって舌に付着したよだれを蒸発させる事で体温調整を行っているんだ。悪趣味な所長の犬が常に舌を垂らしてるわけがわかったろう、低脳め」
 「相変わらず威勢がいい。好ましいよ、腹が破けても憎まれ口をやめない根性」
 台詞に巧妙に棘を混ぜ、唇を綻ばす。
 足音が止む。
 手前で立ち止まった人物を火の粉が艶やかに彩る。
 闇に爆ぜる火の粉に彩られて鮮烈に浮かび上がったのは、白鷺の生まれ変わりとおぼしき美しい少年。濡れた様に長い睫毛、憂いと潤いを含んだ目は澄んだ漆黒。線が細く肉が薄い鼻梁と華奢な顎が絶妙な均衡を保ち、薄命で儚い美貌を作り出す。
 闇に映える火影が顔に化粧を施す。
 しとやかな挙措とたおやかな容姿を裏切るが如く、唇だけが妖艶に赤い。
 「ようこそ、レッドワークの巨大溶鉱炉へ」
 静流だった。
 「レッド、ワーク、だと……」
 レッドワーク。
 都会から運ばれてきた危険物を加熱処理する仕事、サムライと静流の仕事場。当然それくらいの知識はある。
 とすると、ここがかの有名なレッドワークの巨大溶鉱炉?
 レッドワーク担当の囚人とは地下停留場で乗り込むバスが別で、地下停留場を出たバスがどこへ向かうかも僕は知らない。僕が知っているのは広い砂漠のどこかに危険物を加熱処理する溶鉱炉があり、レッドワークの囚人が働いているという端的な事実のみ。
 待て、静流の話はおかしい。矛盾だらけだ。
 「待て。ここがレッドワークの溶鉱炉だとするなら、どうやって僕を連れてきた?」
 頭が酷くずきずきする。
 脳裏が朦朧と霞みがかって記憶がはっきりしない。
 固く目を閉じて昨夜の顛末を思い出す。
 医務室で就寝中に看守に化けた静流に襲われた、首をナイフで切り付けられた、それきり気を失って……
 口の中に苦味を感じる。
 唾液が苦い。
 なんだこれは?いくつかの断片がフラッシュする。
 僕に圧し掛かり無理矢理口をこじ開ける静流、口に突っ込まれる指、口腔に放り込まれた錠剤が溶け出し独特の苦味が広がり喉を通り……
 あのクスリは何だったんだ?
 静流が持っていたのだからどうせろくなクスリじゃないだろう。クスリを飲んだあとの記憶がないのもおかしい。
 記憶の欠落とクスリが関係している?
 頭がくらくらする。
 気分の悪さと戦いつつ、片手で頭を押さえて口を開く。
 「レッドワークの溶鉱炉にくるにはバスを利用するしかないが囚人との相乗りは避けられない。静流、君はどうやってこの難題をクリアした?他の囚人にバレる危険を犯してまで失神中の僕を連れてバスに乗り込んだのか、いや、そんなことは絶対に不可能だ!地下停留場のバス停に並んだ時点でつかまるに決まってる、君は柿沼を殺し医師を殺し独居房を脱走した凶悪犯だ、東京プリズン中の看守が君の行方を追ってるんだぞ!」
 悪戯っぽく目を細め、内緒だといわんばかりに唇に人さし指をおしあてる。
 「君に飲ませたあの錠剤、ね。人を操り人形にするクスリなんだ」
 謎めいた示唆に不安が増大する。
 「な、に?」
 人を操り人形にする?どういうことだ?
 あのクスリによって意志を奪われて静流の思うがままに行動したということか?
 まさか。そんなクスリ聞いた事もない。衝撃を受けた僕にしなやかにくねりより、自分の唇にあてた指をそっと僕の唇へと移す。
 間接的な接吻。
 僕の唇に触れたまま、淡々と説明する。
 「自白剤の一種。リョウ君から貰ったんだ、暗示にかかりやすくするクスリを。君には予想以上に効き目があったらしいね、クスリを呑ませた途端に目がとろんとして僕に言われた通り行動するようになった。あれを呑んだ人間は一時期的な催眠状態になって命令を遂行する。直君、君は自分から僕についてきたんだ。僕には絶対逆らうな、何でも言われたとおりにしろって暗示をかけたせいでね。全治二ヶ月といっても半分は経ってるんだ、歩いて歩けないわけじゃない。よろめいた時は腕を掴んであげたし」
 「心の中で三秒数えてから馬鹿を言え。IQ180の天才たるこの僕がそんな初歩的な暗示にかかって下僕と化すはずなかろう」
 プライドにかけて反論するも腹に力が入らず声から空気が抜ける。
 ぼんやりと記憶がよみがえる。
 バス停の列に並んで夢遊病者めいた足取りでステップを踏みバスへと乗り込み、目立たないよう顔を伏せて、静流の誘導で隅の席へ押し込まれて…… 
 「仮に、仮に貴様の荒唐無稽支離滅裂倫理破綻の戯言が真実だとしよう。だがそれでもまだ疑問が残る、何故バス停に並んでいた時に怪しまれなかったのだ?レッドワークには東棟の人間もいる、東棟の人間が君と僕に気付かないはずない」
 「そうかな。それこそ先入観じゃない?」
 静流が苦笑する。
 「思い出してもごらんよ、昨日の東棟は大騒ぎだった。僕が曽根崎の魔羅を噛み千切って独房をでたせいでね。さて、看守はどこを捜す?最初に捜すのは当然東棟だ。なんたって僕は東棟の人間だし知り合いに匿われているとも限らない。看守は東棟の囚人を追い出して片っ端から房をひっくり返して僕がいないか改めた。無粋なガサ入れは夜遅くまで続き、可哀想に東の囚人たちは極端に眠りを削られるはめになった」
 嫌な予感が徐々に現実の形を取り始める。
 静流の言わんとしていることがおぼろげに察しが付き、そんなまさかという衝動的な反駁が喉元まで出かけるのをぐっと堪える。
 腕を回して腹を庇い、全身に敵意を漲らせ静流を睨み付ける。
 静流の種明かしは続く。得意げに。
 「東の囚人は寝坊する。昨日ろくに寝させてもらえなかったんだから当たり前だ。東棟の囚人は始発バスに乗り遅れる。別に始発バスを逃したところで問題はない、レッドワーク行きのバスは他に出てるんだから」
 「他棟の囚人は僕たちを知らない、顔を見られても問題はない。看守にしても脱走者が強制労働に出るわけないと思い込み、バス停付近はノーマークだった。盲点だな」
 「『問題ない』?東京プリズンに来たての僕ならそう言えなくもないけど君は違う、それはちょっと謙遜がすぎるってものさ」
 静流がおどけて肩を竦め、正面に片膝付く。
 僕の顔を両手で手挟み、真っ直ぐ目を覗き込む。
 「噂によるとペア戦に出たこともあるんだって?仲間思いで結構な事だ。もちろん他棟の人間で君を覚えてるヤツもいる、ペア戦の舞台に上がった人間を今だに記憶してるヤツがいる。だからね、ほら」 
 違和感を感じる。静流の顔がぼやける。
 こんな至近距離にいるにもかかわらず……
 そこで初めて気付く。
 怪我の痛みで頭が朦朧としてなかったらもっと早く気付いたはずだった。
 「貴様、恵とサムライの次に大事なメガネをどこにやった!?」
 我が意を得たりと静流が微笑み、もったいぶった仕草で懐からメガネを覗かせる。
 「先入観を逆手にとったのさ。人の記憶なんて所詮曖昧なもの、髪形を変えただけで誰だか分からなくなることもざらにある。メガネをとっただけで誰だか分からなく事もね。メガネをかけてる人間自体が少ない東京プリズンでメガネをかけてる囚人、鍵屋崎直とメガネを抱き合わせで覚えてる囚人は予想以上に多い。鍵屋崎直といえばメガネ、メガネといえば鍵屋崎直。そんな君からメガネをとったら……どうなる?」
 メガネを上下左右に振っておちょくる静流に激怒、叫び返す。
 「メガネのない僕などただの天才だ!」
 「ただの無個性な囚人だ。ずっと俯き加減でいれば顔もわからない」
 片腕で腹を庇った不自由な体勢でメガネを取り返そうとするも手は虚しく空を切るばかり、動きが素早くてつかまえられない。
 重患をおちょくるとは本当に性格が悪い。サムライと血が繋がってるのが信じられない。
 「くそっ、メガネを返せ!メガネがなければ何も見えない、サムライの顔だって見えないんだぞ!」
 屈辱と惨めさを噛み締め、静流の手からメガネを奪い返そうと躍起になる。
 鼻先に吊られたメガネを取り返そうと膝立ちになれば、脇腹に激痛が走る。体を動かしたせいで傷口がまた開いたらしい。激しい運動は傷にさわるとわかっていながらも挑発に乗せられてしまうのが悔しい。
 深々と体を折り曲げ、苦鳴を発して悶絶する。全身の毛穴が開いて脂汗が噴き出る。たまらず前のめりに倒れた僕の顎先をスニーカーのつま先で起こし、静流が目を光らす。
 「他棟の囚人や看守に見つかる危険を犯してまで君をここに運んだのは、ここがいちばん復讐の舞台にふさわしいと思ったからさ」
 スニーカーのつま先で顎を起こされ、憤りを感じる。
 静流の足元に這いつくばったみじめな体勢から起き上がろうとするもうまくいかない。
 眩暈と激痛に唇を噛み締め抗い、気力と体力を振り絞ってゆっくり慎重に体を起こすも、あえなく肘が滑り突っ伏してしまう。
 僕の努力をあざ笑うごとく、予言めいて達観した声が響き渡る。
 「もうすぐ貢くんはここに来る。今なら強制労働が終わったあとで邪魔者はいない、地獄の炉の縁で存分に斬り結べる。君は強制労働が終わるまでずっと資材の中に隠しといた。足場を組む為の資材の鉄骨がちょうどいい隠れ蓑になってくれた。彼は必ずやってくる、危険を承知で死を覚悟で僕が待つここへとやってくる。由緒正しき帯刀本家の跡取りが命欲しさに逃げるわけない、君一人おいて逃げるわけがない。ねえ直くん、君もそう思うでしょ。十ヶ月もの間貢くんのそばで貢くんを見詰め続けた君なら帯刀貢がどんな人間かよくわかるでしょう」
 「勇敢な、男だ」
 優しい、男だ。
 「そのとおり」
 僕の答えがお気に召したのか、静流が満足げに首肯する。
 僕の顎先から薄汚いスニーカーをどけ、またしても僕の顔を手挟み、噛んで含めるように言い聞かす。
 静流の目に吸い込まれる。
 どこまでも純粋で、危うい光を孕んだ双眸。
 「今度こそ彼はここに来なくちゃならない、間に合わなくちゃならない。一度目は間に合わなかった、苗さんの死に際には間に合わなかった。好いた女ひとり見殺しにしておきながらのうのう生き延びて恥をさらしたんだ、帯刀貢は。それだけじゃない。彼は君のときだって間に合わなかった、君が僕に犯されて刺される前に駆け付けることができなかった。二度だ。性懲りもなく二度過ちをくりかえした、二度も大事な人の窮地に間に合わず救い出すことができなかった武士の魂が試される、それが今この刻だ!三度目の正直はあるかな、今度こそ貢くんは間に合うかな?大事な人を殺してばかりの帯刀貢、いつも遅れてくる男、肝心な時に間に合わない男!ああ可笑しいね可笑しいね、どうして貢くんはこんなに間が悪いんだろう、身内の情だの従弟への愛着だのくだらない感情に拘泥していちばん大事な人を守れないんだろう!?」
 静流が身を仰け反らせ哄笑する。
 癇性な笑い声に呼応するかのように次々と火の粉が爆ぜる。連鎖的に爆ぜる火の粉に腕を差し伸べ踊り狂い、空虚に笑い続ける。
 静流は異常だ。明らかに狂っている。
 来るな、サムライ。
 「……サムライは、どうしようもなく弱い男だ」
 来るな。来るべきじゃない。僕など見捨ててかまわない。
 医師を殺し僕を拉致し、そうまでしてサムライをおびきだそうという静流の行動は完全に常軌を逸している。いかに技量が上といえど、理性の枷を解き放たれて本能のままに刀を振るう修羅を相手に無事ですむはずない。
 苦戦を強いられるのは確実。
 最悪、死亡する可能性もある。
 息を吸い、吐く。
 呼吸を一定に激痛がひくのを待ち、断言する。
 「サムライは愚かだ。貴様のうそ臭い芝居を見抜けなかったのは目が節穴だからだ、身内の情に流されて貴様の本質を見誤りありもしない希望に縋っていた。薄々本性に勘付きながらも敢えて目を逸らし続けたのは愚の骨頂だ、よりにもよって僕ではなく貴様を選んだのは最大の失策、最大の誤算だ。ああ、貴様の言う通りだ!サムライは愚かで弱い男だ、物心ついた頃からともに遊んだ従弟と再会してできる限り力になってやろうとした、貴様のことを親身に気にかけて人生を狂わせた償いをしようとした、鈍い頭を懸命に働かせて不器用な手先を懸命に働かせて一生かかっても成し得ない『償い』の『購い』をしようと必死になっていたんだ!!!」
 脂汗が目に流れ込む。
 一言一言吐き出すたびに脇腹に激痛が走る。
 文字通り身を引き裂かれる痛み、脇腹に楔を打つ痛みだ。
 片手を拳に固めて金網をぶつ。金網が撓み、体に振動が伝わる。
 『窮地に間に合わなかった』?それがなんだ。表面だけ見て物を言うな、決め付けるな、僕と彼のあいだにあるものを断ち切るな。
 サムライはちゃんと、ちゃんと間に合った。
 僕が呼べば必ず来た。
 犯されても刺されても手遅れじゃない。本当に手遅れなのは僕が彼を嫌いになった時、彼の顔など見たくない声など聞きたくない触れたくない触れられたくないと存在そのものを否定した時だ。

 僕が手遅れだと思ったときが、本当に手遅れなんだ
 手遅れかそうじゃないかを決めるのは僕自身だ。
 他の人間であっていいはずがない、絶対に。

 それ以外は手遅れじゃない。サムライはいつだってちゃんと間に合った。僕が呼べば必ず来た、顔を見せてほしいときに見せてくれて声を聞かしてほしいときに聞かせてくれて触れてほしいときに触れてくれた。
 手遅れであるものか。
 でも、今度だけは。

 「サムライに、苗を追ってほしくない!!」
 手遅れで、あってほしい。

 『償い』の『購い』ならもう十分じゃないか、十分すぎるほどよくやったじゃないか。もういい、許してやれ。自分を許してやれ。頼むから自分を責めるなサムライ、苗を救えなかったことで僕を怪我させたことで自分を責めて思い詰めるな。
 死にに来るな。
 生きてくれ。
 「たかが血縁の分際で思い上がるなよ、静流。ヒトの血液量は体重のおよそ 13分の1だ。13分の1の鉄棒の味がする水に人生を狂わされただの操られてるだの迷信も大概にしろ。不幸を血のせいにするな。人の不幸が血によるなら残り13分の12は自分のせいだ、トラウマを脱却できず現実と折り合いがつけられず妄想に逃げ込む惰弱な精神のせいだ、貴様とサムライの繋がりなどたった13分の1に過ぎないんだ!!!」
 腹の奥底から突き上げる激情に駆られて咆哮する。
 腹が痛い。脇腹の刺し傷が激痛を訴える。けれども叫ばずにはいられない、帯刀家の呪縛からサムライを解き放ちもう自分を責めずともいいと諭したいのだ。
 絶叫の余韻が業火の唸りにかき消される。
 静流は感情の消失した目でこちらを見詰めている。
 「たった13分の1、か」
 静寂の水面に呟きが落ちる。
 静寂の水面に不吉な波紋を広げた呟きの主は、静流。腹を庇って倒れた僕を見下ろし、抑揚なく続ける。
 「……そうか。そんなものだったのか。その程度のものにこだわっていたのか、姉さんは。僕は。苗さんは」
 伏せた双眸に一抹の悲哀が宿る。
 「本当に………帯刀の人間は、救いがたい馬鹿ばかりだ」
 静流が緩やかに懐に手を忍ばせる。
 再び懐から出た手には、縄が握られていた。
 「縛るのか?服装倒錯に続いて緊縛趣味とは、変態の末期症状だな」
 口では強がってみたものの、脇腹の痛みのせいで声に力が入らず虚勢にしかならない。静流が少し哀しげに微笑む。いつだったか、夕焼けに染まる展望で見たのと同じ微笑だ。
 展望台と場所こそ違えど、ここもまた紅蓮に燃える煉獄には違いない。
 煉獄とは、天国に入る前に炎によりて罪業を浄化する場所だ。
 「………………っ、」
 腹を押さえたままあとじさる。ロープを手に垂れ下げて、静流がゆっくりとこちらにやってくる。
 「わざわざ縛らなくても逃げたりしない!」
 いつロープで首を絞められるか気が気じゃない。
 ロープで絞殺されるのを恐れて首を振れば、僕の傍らに屈みこんだ静流が、奇妙な節回しで口ずさむ。
 「苗さんは首を吊って死んだ。折角だからあの時と同じ舞台を整えて迎えてあげようじゃないか」 
 静流が僕の背に片膝乗せて圧し掛かる。激痛で視界が真紅に染まる。ちょうど脾臓の上あたりを膝で圧迫され抉られ穿たれ痛い痛い痛いなんてもんじゃない死ぬあああああああああああ痛い痛い呼吸ができない!!!
 手足をばたつかせ抵抗するも怪我のせいで力が出ない。
 両手が纏めて頭上に持ってこられてロープが巻かれる、手首を戒められ腕が開けず完全に抵抗を封じられる。両手をきつく縛り上げられたせいで脇腹を庇うことすらできなくなる。
 「やめ、ろ、しず、るっ……あくしゅ、み、だぞ」
 「緊縛は得意なんだ」
 「重患を緊縛するなと言ってるんだ……」
 それ以上言葉を発することができず首を項垂れた僕を引きずり、腋の下に手をさしいれて抱き起こす。
 意識朦朧としたまま、体が手摺を乗り越えるのを感じる。
 静流が僕の体を手摺の向こうへと押し上げる。
 火の粉が服を炙り、上着とズボンが焦げる。
 「炉に落とす気か」
 足の下に炉がある。
 「太陽の中心は密度が1.56×105kg/m3で、熱核融合反応によって水素がヘリウムに変換されている。1秒当たりでは約3.6×1038個の陽子すなわち水素原子核がヘリウム原子核に変化しており、これによって1秒間に430万トンの質量が3.8×1026Jのエネルギーに変換される。……待て、溶鉱炉とは製鉄所の主要な設備で鉄鉱石から銑鉄を取り出すための炉だ。ならば溶鉱炉という名称は不適切で焼却炉と呼ぶべきか、しかし焼却炉はあくまで可燃物を燃やす施設であり不燃物まで燃やしているなら焼却炉は正しくない」
 どうでもいいことを唱えて平静を保とうとするも今にも生身で溶鉱炉に落とされそうなこの状況下で平常心を保てるはずない精神崩壊を起こしそうだ。
 僕の体の下では溶鉱炉とも焼却炉ともつかない巨大な炉が世界を焦がす勢いで凄まじい熱量を放射している。
 落ちたらひとたまりもない。
 「地獄を下見してきて」
 「―――――――――――――っああ!!」
 静流が耳元で囁くと同時に縄がすべり体が急降下。
 炎の坩堝に呑み込まれた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050504055303 | 編集

 鍵屋崎が消えた。
 サムライの従弟に拉致られた。
 「こんな時に強制労働行だと!?なに考えてんだよサムライはっ」
 怒りに任せて壁を殴る。衝撃で拳が痺れる。
 房に帰ってきてからこっちイラつきどおしだ。手当たり次第に壁を殴り付けて鬱憤ぶちまけるも手を痛めるだけで何も解決しない。
 それはそうだが、壁でも殴らなきゃやってらんねえ。
 独房を脱走したシズルが医務室を襲撃、見張りの看守と医者を刺して鍵屋崎を拉致った事件で東棟は持ちきりだ。

 鍵屋崎にはさんざん世話になった。
 こっぱずかしくて言えないが、兄貴みたいな存在だ。

 その鍵屋崎が看守二名と医者を殺した凶悪犯と一緒にいる。
 脇腹刺されて全治二ヶ月の重傷でベッドから動けない体なのに、無理が祟って傷口が開いちまったら大変だ。時間が経つにつれ苛立ちと腹立ちは募る一方、壁を殴るだけでは気がすまずに足がでる。
 「落ち着けよ、ロン。お前が壁破壊したってキーストアはもどってこねーぞ」
 「余裕ぶっこいてんじゃねーよレイジ、お前鍵屋崎が心配じゃねえのかよ!?」
 ベッドに腰掛けて優雅に足を組んだ王様に憤懣をぶつける。
 レイジは退屈そうに胸元の十字架をまさぐっている。
 色硝子に似て醒め切った目を過ぎるのは、しみったれた感傷とは程遠い酷薄な色だ。
 「心配だよ、もちろん」
 「だったら王座から腰を上げろよ、鍵屋崎をさがせよ!お前に人望ないのは俺だってわかってるよ、それでも王様の命令は無視できねえだろ、王様の影響力は絶大だろ!?東棟の奴らにひと睨みで言う事聞かせるのもできなくないはずだ、お前がその気になりゃシズルとっつかまえて鍵屋崎見つけだすのもわけねーのに……聞いてんのかレイジ、耳垢ほじくってんじゃねえよ!!」
 「単純だな」
 耳に人さし指を突っ込んでねじり、あきれたふうに首を振る。
 無神経な一言に怒りが沸点を突破、憤然たる大股でレイジに歩み寄る。レイジはベッドに座ったまま、絶対的優位を誇示して俺を待ち構える。人さし指に付着した耳垢をふっとひと吹き、左目に悪戯っぽい光を閃かせる。
 「喧嘩売ってんのかよ。買い叩いてやるよ」
 精一杯ドスを利かせた声音で威圧する。
 俺はめちゃくちゃ気が立っていた。
 鍵屋崎は見つからないシズルはどこにいるかわからない肝心のサムライは強制労働先から帰ってこない八方塞がり状況だ。
 俺も本来なら房にシケこんで壁に八つ当たりしてる場合じゃない、いますぐ房をとびだして鍵屋崎の捜索に加わって東京プリズン中を駆けずりまわるべきなのだ。そうだ、俺だって本当はそうしたい。鉄扉をぶち破って廊下をひた走って鍵屋崎の居場所を突きとめたい衝動を塞き止めるのに自制心を使い果たしてるのだ。
 それもこれも、レイジが余計なことを言うからだ。
 「……レイジ、いい加減説明しろよ。なんだって俺が房を出ちゃいけないんだ、鍵屋崎をさがしにいっちゃいけないんだよ」
 「迷子になるからさ」
 「殺すぞ」
 「おー怖」とレイジが首を竦めるも冗談に乗ってやる気分じゃない。 心配事が多すぎて軽口を叩く余裕がないのだ。
 不機嫌な俺の視線の先、しれっと取り澄ましたレイジに沸々と怒りが込み上げる。体の脇で拳を握り込み思い切りぶん殴ってやりたい衝動を自制する。レイジもサムライもあんまり薄情だ。鍵屋崎がシズルに拉致られたってのに頼りの王様は再三急かしても腰を上げねーし、サムライに至っちゃレッドワークの鉄火場から帰ってきやがらねえ。
 レイジは勿論腹が立つが、許せねえのはサムライだ。
 サムライの行動は理解不能だ。
 鍵屋崎が拉致られて酷くショック受けたのはわかるし同情もする、だからっていつも通りに強制労働に出るこたないだろうが。一日くらい強制労働をすっぽかして鍵屋崎の捜索に当てりゃあいいのに……
 「わけわかんねーよ、畜生。お前もサムライも最低だ」 
 口元をひん曲げて吐き捨てる。
 「鍵屋崎は、仲間じゃねーのかよ」
 クサイこと言ってる台詞はある。
 だからってやめたりしない、糾弾の舌鋒を引っ込めたりはしない。
 少なくとも俺は鍵屋崎のダチのつもり、仲間のつもりだ。鍵屋崎本人がどう思ってるかは知らないけど……多分「迷惑だ」と露骨に顔を顰めて一蹴するだろうが、それでも俺は鍵屋崎をダチとして信頼して心配してる。レイジとの仲を取り持ってくれた事に感謝している。 
 瞼を閉じて回想する。
 売春班廃止をかけて臨んだペア戦にて鍵屋崎はピンチヒッターとして名乗りを上げた。肋骨へし折られた俺の代わりに体を張ってレイジの暴走を止めてくれた。
 挑むようにレイジを見据え、焦燥に駆り立てられ激情をぶちまける。
 「お前鍵屋崎のこと何とも思ってねーのかよ、骨へし折られて顔潰されて歯を引っこ抜かれても構やしねえって思ってんのかよ?なあそうなのかレイジ、お前が大事なのは世界に俺一人で他はどうでもよくて、東京プリズンで出会った他の連中もお前にとっちゃどうでもよくて、一緒に戦ったサムライや鍵屋崎が死にかけようがどうしようが俺さえ無事ならそれでいいって涼しいツラしてんのかよ!?」

 なんだよそれ。
 そんな愛されかた、ぜんぜん嬉しかねーよ。

 無意識に手が伸びて上着の胸ぐらを掴む。
 レイジはされるがまま無抵抗に俺を見上げている。
 酷く醒めた目だ。
 どんなに誠意を尽くして説得しようとも熱烈に翻意を求めようとも、興味がないことには指一本動かさないといったあっぱれな開き直りっぷりだ。
 涼しげなツラが癪に障り、乱暴に胸ぐら掴み上げる。
 「見損なったぜ、レイジ。お前だけじゃねえ、サムライもだ」
 レイジの胸ぐらを両手で握り締め、俯く。
 怒りに紅潮した顔と興奮に潤んだ目を見せたくなかったのだ。
 何故だかひどく哀しかった。
 娑婆に友達がいなかった俺は、東京プリズンにレイジに出会ってダチができた。鍵屋崎とサムライに出会って初めて仲間ができた。食堂でレイジとじゃれあって鍵屋崎に行儀が悪いと注意されてサムライに一瞥されて、そんな当たり前のくだらない日常が、平和に馬鹿騒ぎできる日常が俺には最高の喜びだったのだ。
 泥沼で憎しみ合う台湾人と中国人の混血、男癖の悪い娼婦をお袋にもつ半々と物心ついた頃からずっと世間に後ろ指さされてきて、東京プリズンでレイジと鍵屋崎とサムライに出会って生まれて初めて居場所ができた。

 ダチができたんだ。
 大事なダチが。

 レイジはそうじゃないのか、俺と同じ気持ちじゃないのか?
 俺以外は本当にどうでもいいのか、鍵屋崎がどうなろうが知ったこっちゃないと高をくくって「ふーん」で済ましちまうのか、一貫して無関心な態度であしらうつもりなのか。
 鍵屋崎はレイジにとってもダチじゃないのか、体を張って自暴自棄を諌めてくれた恩人じゃないのかよ?
 「俺は、鍵屋崎が好きだ」
 口から零れたのは素直な言葉、鍵屋崎に対する正直な気持ち。
 変な意味じゃない。俺は鍵屋崎が好きだ、鍵屋崎のそばで安らぎを感じる。鍵屋崎は口は悪いし愛想はないけど実は仲間思いのイイヤツで、俺はそんな鍵屋崎が好きで、ある意味レイジよかよっぽど頼りになるヤツだと思っているのだ。
 「お前はどうなんだよレイジ、鍵屋崎が好きじゃないのかよ。俺と同じ好きじゃなくてもちょっとは好きだろ、仲間思いのイイヤツだなって思ってるだろ」
 「からかい甲斐のあるヤツだとは思うよ」
 レイジがそっけなく頷き、宥めるように俺の手をさする。
 「落ち着けよ、ロン。ヨンイルが西の連中かりだしてキーストアさがしまわってる。遅くとも今日中には見つかるだろうさ。西の道化はアレで頼りになるヤツだ、俺なんかよりよっぽど人望あってダチ想いで……」
 瞼の裏で閃光が爆ぜる。
 「ヨンイルなんかどうでもいいよ、俺が聞いてんのはお前の気持ちだよ、お前鍵屋崎が好きじゃねーのかよ!?」  
 「好きだよ!!」
 レイジを殴り飛ばそうと振りかぶったこぶしが空を切り、前のめりに体勢を崩す。突如レイジが立ち上がり逆に胸ぐらを掴み返す、上背のあるレイジに胸ぐら掴まれて宙吊りにされ、首が絞まる息苦しさに喘ぐ。勢い余って俺を宙吊りにしたレイジの目をまともに覗き込み、言葉を失う。
 「俺だってキーストアが心配だよ。アイツにはさんざんケツ拭いしてもらったんだ、死ぬほど感謝してるよ!アイツがいなきゃロン、お前とだって喧嘩別れしたままだった。鍵屋崎がガツンと喝入れてくれなきゃ俺はずっと腹ん中吐き出せずに笑顔で自分偽り続けて、これから先もずっとお前を騙してくしかなかった。そうだよ、俺の世界はとことんお前中心に回ってるよ、ロン!」
 一息に宣言したレイジが、静かに俺を下におろす。
 「……けどな、その中心に近いところに鍵屋崎とサムライがいるんだよ。王様の愉快な下僕たち、もとい……愉快なダチがな」
 「ダチ」を少し照れくさく言い、決まり悪げに黙り込む。
 やっと、やっと気付いた。
 レイジの手元に注目して、ふてぶてしく余裕を演出する王様の本心を悟った。
 レイジは鍵屋崎がいなくなった時からずっと、鍵屋崎の身に異常が起きたと聞いて医務室に直行した時からずっと胸元の十字架をまさぐり続けていた。華奢な金鎖を二重三重に指に絡めて手に巻き付けて、ともすると逆の手順でまたほどいて、内心の苛立ちと不安をごまかそうと傷だらけの十字架を弄り続けていたのだ。
 「……食堂のテーブルに肘付いて、鍵屋崎に叱られたことあったっけ」
 レイジが懐かしそうに目を細める。
 伏し目がちに微笑むレイジにつられて苦笑、十字架に手を重ねる。  「口うるさいよな、アイツ。小姑みてえ」 
 十字架ごとレイジの手を包む。
 指に絡んだ鎖が澄んだ旋律を奏でる。
 十字架はしっとり汗ばんでぬくもっていた。レイジの体温が移ったのだ。
 うっすら汗をかいた十字架をなで、目を閉じる。
 「……でも、いないと寂しいな」
 レイジと手を合わせているだけでささくれだった心が癒されていく。
 夕闇の迫る房にふたりきり、言葉もなく立ち竦む。
 奇妙な静けさがあたりを包む。
 東棟の囚人はシズルさがしに出払っていて近隣の房はからっぽ、格子窓の向こうもひっそり静まり返っている。
 「……鍵屋崎、どこにいんだろ」
 「教えてやろうか?」
 「え?」
 思いも寄らぬ言葉に鞭打たれて顔を上げる。
 驚いた俺の眼前、レイジがおもわせぶりな微笑を浮かべる。
 世界の終末を予言するような、背筋が寒くなる笑顔。
 「レッドワークの巨大溶鉱炉。鍵屋崎はそこにいる」
 世界を掌握する全能感を宿した声が、思いがけない真実を告げる。  口を半開きにしたまま、腑抜けた顔で立ち尽くす俺を面白そうに眺め、レイジが笑みを深める。
 「なん、で、わかるんだよ?」
 「置手紙に書いてあったろ、『炉にて待つ』って。東京プリズンで炉といったら真っ先にどこを思いつく?レッドワークの溶鉱炉だろ」
 危うく叫びそうになった。
 俺は馬鹿だ。漸くわかった、「炉」の意味が。あの時のサムライの表情の変化、憤怒の形相のわけも。
 「サムライも一発でわかったんだろうな、真相が」
 「待てよ、じゃあなんで俺たちに言わないんだよ?まさかアイツひとりで助けに行くつもりかよ、無茶だよ、何考えてんだよサムライ!?ちょっと待て、じゃあ今の時間になってもサムライが帰ってこないのはレッドワークの溶鉱炉でシズルと対決するつもりで……こうしちゃいられねえ、ヨンイルに知らせにいかなきゃ!」
 鍵屋崎の居場所がわかったんなら助けにいかなきゃ……
 泡を食って駆け出した俺の肘をレイジが掴んで引き戻す。
 「止めんなよレイジ、はなせ、はなせよ!はやくしねーと手遅れになっちまう、鍵屋崎が溶鉱炉におとされてどろどろに溶かされちまうよ!くそっ、サムライの奴こんな大事な時にまだ従弟との果し合いだの武士の意地だのつまんねーことにこだわってんのかよ、シズルとの対決邪魔されんのがイヤで手紙破いて証拠隠滅したんだろ、ふざけんなよアイツ、鍵屋崎の身をいちばんに考えるんならつまんねえ意地張らずにまわりの連中頼るべきだろ、ヨンイルに応援頼んで子分総出で溶鉱炉に向かえば……」

 「ジ・エンド」

 はっと振り返る。
 背後から俺を押さえ込み行かせないようにしたレイジが、耳元で囁く。 
 「サムライの判断は正しかった。サムライは鍵屋崎の安全をいちばんに考えて行動したんだ。だからこそ真っ先に手紙を破った、自分以外の人間にシズルの居所がバレないよう証拠を消したんだ。冷静になれよ、ロン。シズルは完璧にイカれてる。ためらいなく、むしろ嬉々として人を殺す。鍵屋崎の命なんざサムライをおびきだす美味しい餌か便利な道具くらいにしか思ってないあいつが唯一こだわってんのがサムライへの復讐だ。俺だって詳しい事情は知んねーけど、シズルが心の底からサムライを憎んで憎んで憎み抜いてんのは最初に会った時からわかってたよ」
 心臓が凍る。
 レイジは初対面の時からシズルの本性を見抜いてたのか?
 シズルの本性を見抜いてちょっかいかけたってのか。
 信じ難い心地でレイジを振り仰ぎ、固唾を呑んで次の言葉を待つ。
 「なんでわかるかって?俺が『憎しみ』だからさ」
 俺の体に腕を回し、緩やかに手を組み合わせ抱擁する。
 女を腰砕けにする甘い美声がスローテンポで流れる。
 「シズルはサムライをおびきだすためにキーストアを拉致った。シズルの目的はサムライを呼び出して決着をつけること、邪魔者はおよびじゃない。サムライがぞろぞろ仲間を引き連れて溶鉱炉に乗り込んだらシズルは笑顔のままキーストアを炎ん中にぶちこむだろうさ、約束を破っただの真剣勝負をおとしめただの僕を馬鹿にしてるだの勝手な理屈を捏ねてな。サムライはそれを恐れた。シズルはサムライの昔なじみだ、シズルの性格は誰より身近なサムライがいちばん知り抜いてる。大体ヨンイルが頭数揃えて救出に向かったところで、シズルんとこに行くまでにキーストアを炉に叩き込まれちゃ話になんねーだろ」
 生殺与奪の権はあくまでシズルが握っている。
 今現在、いちばん鍵屋崎の近くにいるのはシズルだ。
 シズルの思惑に反して大人数で救出にいくのは人質を殺してくれと言っているようなものだ。シズルは一対一の対決を熱望している。
 サムライとの勝負を中断する目障りな他人がぞろぞろ現れたら……
 鍵屋崎の命運は尽きる。
 「…………!っ」
 固く閉じた瞼の裏側に浮上する光景……轟々と燃え滾る溶鉱炉へ真っ逆さまに落ちていく鍵屋崎。
 激しくかぶりを振って最悪の想像を追い払おうとするも後から後から不吉な連想が過ぎり知らずレイジに縋り付く。
 俺の腹にしっかり腕を回して抱擁するレイジ。
 俺がついているから大丈夫だと言い聞かせるように密着、子守唄のリズムで体を揺らす。
 「サムライを信じろ。鍵屋崎は帰ってくる」
 逞しい腕に身を委ねる。首の後ろに吐息を感じる。
 腕の中で俺を守り、首の後ろに顔を埋め、汗の匂いを嗅ぐように鼻の頭を擦りつける。
 「お前と俺のダチがそう簡単に死ぬわきゃねーだろ、ロン」
 「……あったりまえだ。野良猫並にしぶてえ俺のダチが炉で炙られた位でおっ死ぬもんかよ。サムライも鍵屋崎もけろりとして帰ってくるに決まってる」
 レイジの腕を掴んで虚勢を張る。背中に心地よい体温を感じる。
 二つの鼓動が一つに重なり溶け合っていくー……
 慌しい靴音が廊下を駆けてくる。
 「バスジャックだ、西の道化がバスジャックを起こしたぞ!」
 「!?なっ、」
 驚きの余り肘が跳ね上がり、レイジの顎を強打する。
 顎を押さえて悶絶する王様をよそに鉄扉を開け放てば、今しも息を荒げて廊下を走ってきた囚人が大袈裟に騒ぎ立てる。
 「西の道化がご乱心だ、『金田一ばりの名推理で直ちゃんの居所解き明かしたで、ほなら殴りこみや!』と息巻いてバスジャック、ハンドル回して砂漠に出ちまった!」
 「マジかよそれ」
 「バスジャックたあ派手だな」
 「てか運転できたのかよ、アイツ」
 「免許もってんのか」
 「どうせ漫画のうけうりだろ、カペタとかレツゴーとかさあ……」
 全身の毛穴が開いて大量の汗が噴き出す。
 廊下のど真ん中で口角泡飛ばして捲くし立てる囚人のまわりに、シズル捜索を打ち切って房に引き上げた野次馬が群がり始める。
 えらいことになった。
 「今の聞いたかレイジ、ヨンイルがバスのっとって砂漠に出ちまったって……畜生、どうしてこう次から次へと問題起こるんだよ!?ヨンイルの奴じっとしとけよ、鍵屋崎が心配なのはわかるけどバスジャックなんざやりすぎだ、バス一台ぶんどって勝手に砂漠に出たことがばれたら懲罰房送り……いや、その前に運転できんのかよ!?事故ったらシャレになんねーぞ!!」
 恨みがましい涙目でこっちを睨むレイジの腕を引っ張り、無理矢理廊下に連れだす。 
 「俺たちも地下停留場に行くぞ!ヨンイルが行動起こしたってのにじっとしてられっかよ、俺だってホントは鍵屋崎助けたいんだよ、アイツらの力になりてーんだよ!!」
 俺にもできることがあると証明する。
 鍵屋崎のダチとしてサムライのダチとして、レイジの相棒として恥ずかしくない働きをするんだ。
 俺とレイジが揉み合ってる今この瞬間も鍵屋崎は炉の上に吊るされてサムライはシズルとの対決でぼろぼろになってヨンイルがぶんどったバスは砂漠で転覆してるかもしれない、イヤだ、俺はイヤだ、大事な仲間が危険な目にあってるってのに無力にあぐらをかいてあがきもせずにいるのはごめんだ、ダチの為に何もできなくても何もしようとしない最低の人間になるのだけはごめんだ!!
 奥歯で嗚咽を噛み殺し、真っ赤に腫れた目でレイジを睨み据える。
 レイジは顎をさすりながら黙っていたが、ふいに表情が和む。
 降参のほほえみ。
 レイジが無造作に片手を掲げる。
 「シェ―ラザードを助けにいくぜ」
 漸く意図が飲み込めた。安堵とこっぱずかしさと喜びとが一緒に湧き上がり、温かい感情が胸を満たす。
 どうする、今ならまだ引き返せるぞと言いたげに唇ひん曲げた嘲弄の表情で俺を見下し、レイジが覚悟を試す。

 『Do we go to hell?』
 地獄に行くか?

 答えは決まってる。
 返事の代わりに音高く手のひらを打ち合わせる。
 コンクリ剥き出しの通路に痛快な音が響く。

 『我想去地獄!!』
 地獄に行くぞ。

 最高のダチと相棒をもって、俺は幸せ者だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050503022729 | 編集
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